「ロシアの日」の解説
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%97%A5-1700498
『ロシアの日
デジタル大辞泉プラス 「ロシアの日」の解説
ロシアの日
ロシアの祝日。6月12日。1990年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国家主権の宣言が採択された日、また1991年、初の大統領選挙が行われた日であることから。』





『CPUの処理性能向上の歴史は、物理的な限界や熱との戦い、すなわち巨額の投資と天才たちのアイデアによる「苦闘の…
※ なるほど、自治体の長が「独善的になる要因」は、3つもあるわけだ…。 1、選出方法が、住民による「直接の」…
『内閣総理大臣(首相)と地方自治体の長(知事・市町村長)の選出方法や位置づけには、日本の政治制度における「議院…
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『日本国憲法「第八章 地方自治」(第92条〜第95条)の条文は以下の通りです。 [1] (/goto?url=…
『日本の地方自治体の首長(知事や市町村長)によるハラスメント行為が後を絶たない背景には、個人の資質の問題だけで…
「ロシアの日」の解説
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%97%A5-1700498
『ロシアの日
デジタル大辞泉プラス 「ロシアの日」の解説
ロシアの日
ロシアの祝日。6月12日。1990年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国家主権の宣言が採択された日、また1991年、初の大統領選挙が行われた日であることから。』
金正恩氏「ロシア人民を全面支持」プーチン大統領に祝電
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM120A10S3A610C2000000/
『【ソウル=甲原潤之介】北朝鮮の朝鮮中央通信は12日、金正恩(キム・ジョンウン)総書記がロシアの祝日「ロシアの日」にあわせて同国のプーチン大統領に祝電を送ったと報じた。「貴国の人民に全面的な支持を送る」などとする祝電の内容を伝えた。ロシアとの戦略的協力をさらに緊密にすると表明した。
祝電で金正恩氏は「敵対勢力の脅威と挑戦を打ち砕くためのロシア人民の闘争が、新しい転換的局面を迎えている」と指摘し「正義は必ず勝利する」と強調した。ロシアの侵攻を受けるウクライナが領土奪還に向けた反攻を始めたことを念頭にプーチン氏を鼓舞した。
「両国の親善は大切な戦略的資産であり、新たな時代の要求にあわせて協力関係を絶えず発展させるというのが政府の確固たる立場だ」と記述し、ロシアとの関係強化への意欲をにじませた。』
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リンダ・L・フェイガン
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リンダ・L・フェイガン
Linda L. Fagan
Admiral Linda L. Fagan, Coast Guard Vice Commandant.jpg
第27代アメリカ沿岸警備隊総司令官
現職
就任
2022年6月1日
大統領 ジョー・バイデン
代理官 スティーブン・D・プーリン
前任者 カール・L・シュルツ
第32代アメリカ沿岸警備隊副司令官
任期
2021年6月18日 – 2022年5月31日
大統領 ジョー・バイデン
総司令官 カール・L・シュルツ
前任者 チャールズ・レイ
後任者 スティーブン・D・プーリン
個人情報
生誕 リンダ・リー・キーン
(Linda Lee Keene)
1963年7月1日(59歳)
コロンバス(アメリカ合衆国オハイオ州)
教育 アメリカ沿岸警備隊士官学校 (学士(理学))
ワシントン大学 (修士(理学))
国防大学校 (修士(理学))
兵役経験
所属国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ
所属組織 Flag of the United States Coast Guard.svgアメリカ沿岸警備隊
軍歴 1985年–現役
最終階級 大将
指揮 総司令官
アメリカ沿岸警備隊副司令官
沿岸警備隊太平洋管区
沿岸警備隊第1管区
沿岸警備隊ニューヨーク地区
受賞 沿岸警備隊功労勲章
防衛上級貢献勲章
勲功章 (3)
リンダ・L・フェイガン(Linda L. Fagan、1963年7月1日 – )[1][2]は、アメリカ沿岸警備隊の軍人。階級は沿岸警備隊大将で、2022年6月1日より第27代アメリカ沿岸警備隊総司令官を務めている。前職は第32代アメリカ沿岸警備隊副司令官である。沿岸警備隊では女性として初の大将であり、沿岸警備隊副司令官就任であった[3]。その他に沿岸警備隊太平洋管区司令官、沿岸警備隊総司令官代理(作戦、政策、能力担当)、沿岸警備隊第1管区司令官、沿岸警備隊ニューヨーク地区司令官(ニューヨーク州)などを歴任している。また彼女は沿岸警備隊において海洋保安業務の最長勤務記録を持つ士官であり、その分野に精通している証であるゴールド・エンシェント・トライデント(Gold Ancient Trident)を授与された最初の軍人でもある。
2021年4月にアレハンドロ・マヨルカス国土安全保障長官からチャールズ・W・レイ大将の後任の沿岸警備隊副司令官として指名を受けたと発表された[4][5][6][7]。その後、2021年6月17日に大統領の認証を受けて、6月18日に就任した[8]。
2022年4月、カール・L・シュルツ大将の後任の沿岸警備隊総司令官に就任することが発表された。アメリカ軍を率いる地位(統合参謀本部議長、同副議長、陸軍参謀総長、海兵隊総司令官、海軍作戦部長、空軍参謀総長、宇宙軍作戦部長、沿岸警備隊総司令官、州兵総局長)に女性が就くのは史上初である[9][10]。彼女の指名案は、2022年4月7日に上院に送付され、5月11日に、全会一致の同意をもって承認された[11][12]。そして6月1日に就任した[13]。
幼少期と学歴
2021年6月18日に沿岸警備隊本部の式典で中将から大将に昇進するフェイガン
2021年、国防総省で行われたアメリカ同時多発テロ事件20周年追悼式典で海軍作戦部長のマイケル・M・ギルデイ大将と会話するフェイガン(写真左)
リンダ・L・フェイガンはオハイオ州コロンバスで生まれ、1985年にアメリカ沿岸警備隊士官学校を卒業した。この時、海洋科学の理学士号を取得している。その後、2000年にワシントン大学で海洋問題に関する修士号を、2008年に国防大学校のドワイト・D・アイゼンハワー国家安全保障・資源戦略学校(当時は国防産業大学校(Industrial College of the Armed Forces (ICAF)))で国家安全保障戦略に関する修士号を取得している[5]。
徽章
Marine Safety Insignia.png
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Operational Distinguishing Device.png1 golden star.svg Operational Distinguishing Device.png1 golden star.svg Operational Distinguishing Device.png
DHS Outstanding Unit Award Updated.jpg
Operational Distinguishing Device.png1 golden star.svg 1 golden star.svg1 golden star.svg1 golden star.svg1 golden star.svg
Bronze star
Coast Guard Arctic Service ribbon.svg
USCGCASHRE.jpg
Joint Chiefs of Staff seal (2).svg
USCG – Commandant’s Staff Badge.png
バッヂ 海洋保安徽章
1列目 沿岸警備隊功労勲章
2列目 防衛上級貢献勲章 勲功章 (3回受章) 従軍功労勲章
3列目 沿岸警備隊表彰勲章 (Oデバイス付、2回受章) 沿岸警備隊成果勲章 (Oデバイス付、2回受章) 総司令官表彰徽章 (Oデバイス付)
4列目 沿岸警備隊大統領感状 (ハリケーンシンボル付) 国土安全保障省功労部隊徽章 統合功労徽章
5列目 運輸長官優秀部隊徽章 沿岸警備隊功労部隊徽章 (Oデバイス付、2回受章) 功労部隊徽章 (5回受章)
6列目 沿岸警備隊200周年記念部隊徽章 国防従軍勲章 (2回受章) 南極従軍勲章
7列目 沿岸警備隊北極従軍勲章 対テロ戦争従軍勲章 人道支援勲章
8列目 徽章沿岸警備隊海上勤務徽章 沿岸警備隊海外勤務徽章 沿岸警備隊上級ピストル射手徽章
バッヂ 沿岸警備隊陸上司令部徽章
バッヂ 統合参謀本部識別章
バッヂ 沿岸警備隊本部徽章
Oデバイスは、特に沿岸警備隊の運用上、実践的な任務に従事中に勲章が贈られた場合に装着するデバイスである。
私生活と家族
リンダ・L・フェイガンは、父ジョン・ハーレー・キーンと母ロアン・キャロル(モリス)・キーンの間に生まれた[14]。娘のアイリーンもアメリカ沿岸警備隊士官学校を卒業している[15]。』
米沿岸警備隊、インド太平洋に巡視船追加配備へ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN07CYK0X00C23A6000000/
『【ワシントン=中村亮】米沿岸警備隊のリンダ・フェーガン司令官が日本経済新聞の書面取材に応じ、年内にインド太平洋地域へ巡視船を追加配備する方針を示した。アジア各国の海上警備や違法漁業監視の能力向上を支援する狙いで、民間漁船や海警局の船舶を使って海洋進出を図る中国の「グレーゾーン戦略」に対抗する。
フェーガン氏は4日にシンガポールで閉幕したアジア安全保障会議(シャングリラ会合)に2年連続で出席した。…
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『フェーガン氏は4日にシンガポールで閉幕したアジア安全保障会議(シャングリラ会合)に2年連続で出席した。陸海空、海兵隊、宇宙軍を含めて、制服組トップに女性として初めて就き、沿岸警備隊を率いている。
フェーガン氏は「さらなる巡視船の監視活動や特別部隊を含めてインド太平洋における長年の活動を続けていく」と言及した。12月に米南部バージニア州ポーツマスを母港とする巡視船ハリエット・レーンをインド太平洋地域へ配置すると説明した。
沿岸警備隊は2021年、米領グアムに3隻の即応巡視船を新たに配備していた。24会計年度(23年10月から24年9月)の大統領予算教書にインド太平洋向けの即応巡視船4隻の取得に向けた予算が盛り込まれず、予算権限を持つ議会に復活を要請した。
沿岸警備隊は国土安全保障省に属し、漁船の違法操業や密貿易を監視したり、船舶内で起きた犯罪を捜査したりするための法執行機関だ。港湾のテロ対策や移民の取り締まりにも関与する。
フェーガン氏は「一国や一つの行政機関だけでインド太平洋が直面する課題に対処できない」と触れた。東南アジアで日本、太平洋島しょ国でオーストラリアと連携し、各国の沿岸警備隊の能力向上を支援する。日本との2国間協力についても、日本の海上保安庁や海上自衛隊との交流拡大を通じ「相互運用性を高められる」と訴えた。
中国が「グレーゾーン戦略」 漁船や海警局の船を駆使
米国が日豪と組んでインド太平洋地域に力を入れるのは、中国のグレーゾーン戦略に対応するためだ。中国は東南アジア諸国と領有権を争う南シナ海で海上民兵や漁船、海警局の船舶を駆使し、軍事衝突を招かない範囲で時間をかけて実効支配を強めてきた。
米軍が艦船を派遣して対応すれば、地域の緊張を高めるリスクがある。仮に中国漁船が異常接近してきても米軍は軍事力行使のハードルが極めて高く、法執行を担う沿岸警備隊の対応が望ましいとの見方が広がってきた。
米国と南シナ海で共同監視活動を計画するフィリピンのホセ・マヌエル・ロムアルデス駐米大使は5月、日本経済新聞の取材で両国の海軍ではなく、沿岸警備隊が監視活動を実施する可能性に触れた。「時間がくれば米国は(巡視船の)配備を増やすと想定している」と話していた。
中国の関与が頻繁に指摘される違法漁業の摘発はアジア各国が問題視している。フィジーのティコンドゥアンドゥア内務・移民相はシャングリラ会合の演説で、米中競争よりも差し迫った太平洋島しょ国の課題の一つに「違法かつ報告がなく無制限に行われる漁業」をあげた。
ブリティッシュ・コロンビア大のラシダ・スマイラ教授らは20年に公表したリポートで、世界の違法漁業は最大で年間172億ドル(2兆4000億円)にのぼると推計。アジアとオセアニア地域が計45%を占めた。海に囲まれた太平洋島しょ国は漁業への依存度が高いケースが目立つ。
フェーガン氏は違法漁業への対処などを念頭に「訓練担当チームは各国が排他的経済水域(EEZ)などを保護できる能力を身につけられるように海上の法執行やその他の特別訓練の提供に向けたしっかりとした配備日程を組んでいる」と強調した。』
イラン最高指導者、核兵器保有「西側は止められず」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB120KN0S3A610C2000000/
『【イスタンブール=時事】イランの最高指導者ハメネイ師は11日、同国の核兵器保有について、西側諸国に「止めることはできない」と述べた。一方で、「宗教上の信念から(保有を)求めていない」とも語った。ロイター通信がイラン国営メディアを引用する形で伝えた。
イランは最近、濃縮ウランの保有量を大幅に増やしているとされる。発言はイランを脅威とみなすイスラエルなどを一段と刺激しそうだ。
ただ、ハメネイ師は、米欧との核合意再建交渉について「われわれの核関連産業の基盤に悪影響を及ぼすのでなければ、問題はない」と指摘。協議継続の意思を示した。また、国際原子力機関(IAEA)の査察への協力も一定の範囲内で続けるべきだという考えを示した。
【関連記事】
・イラン、在サウジ大使館を6日再開 外交正常化で
・イラン最高指導者、エジプトとの関係修復「歓迎」
・サウジ・イラン、同床異夢の接近 』
ウクライナ、東部州の集落奪還 反攻開始の成果公表
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR1202Z0S3A610C2000000/
『【ブリュッセル=辻隆史】ウクライナ軍は11日、ロシアに占領されていた東部ドネツク州南部にあるブラホダトネ集落を奪還したと発表した。ロイター通信などが報じた。軍報道官は「反転攻勢の最初の成果とみている」と述べた。
ウクライナのゼレンスキー大統領は10日、反攻が始まったことを明らかにしていた。
同氏は11日、ウクライナ南部…
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『同氏は11日、ウクライナ南部ヘルソン州のカホフカ水力発電所のダム決壊をめぐり、国際刑事裁判所(ICC)の代表者が現場入りしたとも明かした。
ツイッターでのビデオ演説で「調査は始まっている。国際司法の代表者が自らの目でロシアのテロ行為を見たことは非常に重要だ」と強調した。避難現場ではロシアによる砲撃が続いているとして、改めて同国を非難した。
【関連記事】
・ウクライナ「ロシアは反攻防御へダム爆破」と非難
・ウクライナ軍 「ロシア軍が東部でもダム爆破」 地元報道
・ウクライナ反攻開始、成否分ける機動性 3つのポイント
多様な観点からニュースを考える
※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。
広瀬陽子のアバター
広瀬陽子
慶応義塾大学総合政策学部 教授
コメントメニュー
ひとこと解説 ウクライナの反転攻勢は、当初、ロシア側のフェイクニュースを含む派手な情報攻勢により、ウクライナ側の劣勢を感じさせる部分もあったが、ウクライナ側が小さいながらも集落を奪還できたことは、流れを変える契機になりうる。
ウクライナ側がまだ戦線で用いていない西側から供与された兵器を温存しているという説もあり、本格的な反転攻勢はこれからだろう。
現在、ウクライナ側は4地点からの攻撃を展開しているが、複数地点での戦いでロシアの兵力を分散させ、揺さぶりをかけながら、決定打を繰り出すのに良い場所・時期を模索していると思われる。
他方、戦時下でのカホフカダム決壊の被害者の保護が極めて困難であることが懸念される。
2023年6月12日 9:37 』
クルスクの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84








『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クルスクの戦い
Schlacht bei Kursk
Курская битва
Battle of Kursk
Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-35, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg
ティーガーI戦車を伴った『ダス・ライヒ』装甲擲弾兵師団の兵士
戦争:第二次世界大戦、東部戦線(独ソ戦)
年月日:1943年7月4日 – 8月27日
場所:クルスク、ソビエト連邦
結果:ソ連軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指導者・指揮官
アドルフ・ヒトラー
総統
ギュンター・フォン・クルーゲ
中央軍集団司令官
ヴァルター・モーデル
第9軍司令官
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
南方軍集団司令官
ヘルマン・ホト
第4装甲軍司令官
ウェルナー・ケンプフ
ケンプフ軍支隊司令官
ゲオルギー・ジューコフ
最高総司令部代理
アレクサンドル・ヴァシレフスキー
赤軍参謀総長
コンスタンチン・ロコソフスキー
中央方面軍司令官
ニコライ・ヴァトゥーチン
ヴォロネジ方面軍司令官
イワン・コーネフ
ステップ方面軍司令官
ワシーリー・ソコロフスキー
西部方面軍司令官
戦力
歩兵(擲弾兵)開戦時780,900
戦車 2,928
航空機 2,110[1]迫撃砲、大砲等9,966
赤軍の反撃時912,460
戦車3,253
迫撃砲、大砲9,467 航空機2,110
歩兵(狙撃兵) 1,910,361
戦車 5,128
航空機 2,792~3549[2]
迫撃砲、大砲等25,013
赤軍反撃時 2,500,000人 戦車7360 迫撃砲、大砲47,416 航空機2,792~3,549
損害
初戦54,182
戦車323
赤軍反撃時 戦死・戦傷・捕虜 364,000
戦車 600~2900
航空機 618
初戦177,847 戦車、大砲1614~1956
航空機459~1,000
合計戦死・戦傷・捕虜 863,000
戦車 6,064
航空機 1626~1961
迫撃砲、大砲5,244
独ソ戦
バルバロッサ作戦ミンスクウーマニスモレンスクIキエフ Iオデッサ黒海レニングラードハリコフ Iクリミア Iモスクワロストフデミャンスクハリコフ IIブラウ作戦スターリングラードフーベルトゥス作戦ウラヌス作戦冬の嵐作戦ルジェフ IIイスクラ作戦ハリコフ IIIクルスクプロホロフカスモレンスク IIドニエプル川ナルヴァコルスンカメネツ=ポドリスキーバグラチオン作戦クールラントクリミア IIワルシャワ蜂起リヴォフ=サンドミールバルト海ヤッシー・キシナウヴィスワ・オーデルブダペストオーバーシュレージエン東プロイセンケーニヒスベルク春の目覚め作戦ウィーンベルリンプラハ
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クルスクの戦い(クルスクのたたかい、ドイツ語: Schlacht bei Kursk(シュラハト・バイ・クルスク)、ロシア語: Курская битва(クールスカヤ・ビートヴァ))は、第二次世界大戦中の1943年、東部戦線(独ソ戦)ソビエト連邦(以下ソ連)の都市であるクルスク周辺をめぐり、ナチス・ドイツ(以下ドイツ)軍とソ連軍(赤軍)との間で行われた戦闘の名称である。ドイツ軍の正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」(ドイツ語: Unternehmen Zitadelle 英語:Operation Citadel)。ドイツ側約2,800輌、ソ連側約3,000輌の合計約6,000輌[3]の戦車が戦闘に参加し、「史上最大の戦車戦」として知られている。クルスク戦車戦、クルスク会戦とも呼称される。
背景
第三次ハリコフ攻防戦
詳細は「第三次ハリコフ攻防戦」を参照
1943年2月から8月にかけての東部戦線の状況 2月19日から3月18日にかけてはクルスク南方で前線が北東方向に大きく移動(橙色)したが、クルスクの戦いが始まって1ヶ月が経過した8月1日には前線が膠着していた(緑色)。
1943年上半期の第三次ハリコフ攻防戦の結果、独ソ戦の戦線はクルスクを中心にソ連側の突出部が生じた。
ドイツ軍は消耗が激しく、もはや広大な戦線で大攻勢をかける力がなかったため、局地的な攻勢を行って東部戦線を安定させ、予想される西側連合国の大陸反攻に備えて必要な予備兵力を確保することが計画された。
1943年3月18日、マンシュタイン元帥は陸軍総参謀長クルト・ツァイツラーに電話会談でクルスク攻撃案を伝えたが、当初ヒトラーら上層部はスターリングラード攻防戦の敗戦を重く見て、年内の戦略攻勢は諦め、むしろ戦術次元の攻勢によって持久戦に持ち込む事を考えていた。
3月21日にクルスク攻撃作戦の中止とハリコフ南東、チュガーエフおよびイジュームへの攻撃準備命令が下され、翌22日マンシュタインはヒトラーへ説得を試みたが徒労に終わった。
一時は凍結されるかに見えたクルスク攻勢案は前線の将軍たちの間で賛同者が増え、ツァイツラー参謀総長、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥、第9軍司令官ヴァルター・モーデル上級大将らが賛成派に回った。
これを見たヒトラーも計画に同意し、4月15日に陸軍総司令部から作戦命令第6号を発令。作戦名は“ツィタデレ”(城塞)と命名され、クルスクの突出部へ先制攻撃をかけることが決定された。
作戦計画
“ツィタデレ(城塞)”作戦発動は1943年5月3日と予定されたが、これには保留条項があり[注釈 1]、結果的には行われず、逆にヒトラーは、5月3日にミュンヘンに軍の高級幹部を集めて会議を開き、前日にヴァルター・モーデル元帥から敵陣地の対戦車防御組織が非常に強化されているとの話を受けて、さらに装甲兵力(戦車)を増強することが必要だと考え、6月10日まで作戦を延期することを主張した。
しかし、この会議に参加した中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥と南方軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、延期すればソ連軍はドイツ軍以上に戦力を増強して態勢を整えるとして延期に反対し、さらにマンシュタインは、ドイツの北アフリカ前線は破綻しており、北アフリカが陥落して、その後、西側連合軍がヨーロッパに上陸したら、作戦自体が成立しなくなると主張した。
また、ハインツ・グデーリアン上級大将は、作戦放棄論を主張し、その中で、投入される新型のパンター戦車には多くの初期欠陥があり、攻撃予定日までに改善できないと発言し、アルベルト・シュペーア軍需大臣もこれに同調した。
しかし、ヒトラーは、北アフリカ戦線はチュニスへの増援が可能であり、西側連合軍のヨーロッパ上陸も、6-8週間はかかるだろうと考えており、6月中は北アフリカのことは考える必要は無いと判断して、自分の意見は変えなかった。
その後、この会議では何も決まらず散会となったが、5月11日には6月中旬まで作戦延期が決定された。
その2日後の5月13日には、チュニスで、北アフリカのドイツ・イタリア軍は降伏してしまい、ヨーロッパ南岸への連合軍の上陸作戦はより現実味を帯びることになった。
しかし、延期されていた6月中旬になっても、作戦は発動されず、7月1日にヒトラーは、東プロイセンの総統大本営に全軍の司令官と軍団長を招集して、作戦開始を7月5日と最終的に決めた。ヒトラーもまた不利を察し、「クルスクのことを考えると、気分が悪くなってくる」という内心を吐露している。
作戦準備
ドイツ軍
ドイツ軍の装甲部隊は、過去二年の東部戦線の激戦で消耗し切っていたが、1943年3月にその生みの親であるハインツ・グデーリアン上級大将が装甲兵総監に就任し、装甲部隊の再建にあたることとなった。
これまでドイツ軍はソ連のT-34中戦車やKV-1重戦車に苦戦を強いられてきたが、1942年下半期にティーガーI重戦車が投入されたのを皮切りに、ツィタデレ作戦のためにⅤ号戦車パンターD型、フェルディナント重駆逐戦車、フンメルなどの新兵器が配備され、既存の戦車にも改良が加えられて、装甲部隊は自信を取り戻していた。
ドイツ軍はこの作戦に東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員し、最終的な参加兵力は兵員90万人、戦車及び自走砲2,700両、航空機1,800機に及んだが、予備兵力は皆無だった。
ソ連軍
一方赤軍は、4月11日にソ連大本営において、ドイツ軍が突出部を攻撃した場合は、強固な防御でこの攻撃を退けてドイツ軍の戦力を破壊した後、攻勢に転じてドイツ軍を撃破する、戦略守勢で後に攻撃転移という方針を暫定として決めたが、その後にヴォロネーシ方面軍司令官ニコライ・ヴァトゥーチンがベルゴロドとハリコフ方面から先制攻撃する意見具申をした。
アレクサンドル・ヴァシレフスキー、ゲオルギー・ジューコフ、アレクセイ・アントーノフなどの軍の主要幕僚は反対したが、スターリン自身は、先制攻撃は魅力的だと考え迷っていたため、何度か討議が重ねられていたが、5月中旬には戦略守勢で後に攻撃転移という方針を最終的に決定した。
また、反独組織ルーシー(英語版)[注釈 2]により、ドイツ軍の作戦を早期に察知して、クルスク周辺一帯に大規模な塹壕、地下壕、鉄条網、地雷地帯、砲兵陣地、機関銃陣地、パックフロント(対戦車陣地)を組合わせた防衛陣地帯を8つ構築して、ここに兵員133万人、戦車及び自走砲3,300両、火砲2万門、航空機2,650機に及ぶ大兵力を配置して要塞化した。
さらに兵員130万、戦車及び自走砲6,000両、火砲2万5,000門、航空機4,000機を超える予備兵力をその後方に待機させた。
両軍の編制
ドイツ軍の編制
戦闘に直接参加しなかった部隊は括弧で記した。
中央軍集団 – ギュンター・フォン・クルーゲ元帥(北部よりクルスク突出部を攻撃)
第9軍 – ヴァルター・モーデル上級大将
(第20軍団)
第23軍団 – ヨハネス・フリースナー歩兵大将
第78突撃師団(実質歩兵師団、1月1日より改称)- ハンス・トラウト中将
ソ連軍の部隊編制
中央方面軍(クルスク突出部の北部に配置)
第1線(前線配置)
第48軍 第307狙撃兵師団・第129戦車旅団:(T-34-76中戦車1942年型装備)
第13軍 第375狙撃兵師団・第96戦車旅団:(T-34-76中戦車1943年型装備)
第70軍 KV-1重戦車1941年型装備
第65軍 SU-122自走砲 37mm1-K、45mm19-K、45mm53-K、45mmM-42装備
第60軍 SU-152自走砲装備
第2線(後方配置)
第2戦車軍 バレンタインMk.Ⅸ歩兵戦車Mk.Ⅲ、T-70M軽戦車装備
作戦支援
第16航空軍
方面軍予備
1個騎兵軍団 F-22、F-22USV、ZiS-3装備
第9戦車軍 チャーチルMk.Ⅳ歩兵戦車装備
第19戦車軍 第193独立戦車連隊:M3リー中戦車装備
ヴォロネーシ方面軍(クルスク突出部の南部に配置)
第1線(前線配置)
第6親衛軍 KV-1重戦車1941年型F-32装備
第7親衛軍 KV-1S重戦車装備
第38軍 SU-76M自走砲装備
第40軍 122mm榴弾砲M-30装備
第69軍 BM-8装備
第2線(後方配置)
第1戦車軍
作戦支援
第2航空軍 La-5、Yak-1/7/9、Il-2装備
方面軍予備
第35親衛狙撃軍団
第2親衛戦車軍団
第5親衛戦車軍団
ステップ方面軍(後方の予備兵力)
第5親衛軍
第5親衛戦車軍
第27軍
第47軍
第53軍
第1機械化軍団
第4親衛戦車軍団
第10戦車軍団
3個親衛騎兵軍団
第5航空軍
戦闘の経過
本記事では便宜上、ドイツ中央軍集団の担当戦区を「北部戦線」、南部軍集団の担当戦区を「南部戦線」と呼称する。
クルクス突出部におけるドイツ軍及びソ連軍の部隊配置と作戦前と作戦後の前線。黒文字の部隊がドイツ軍、赤文字の部隊がソ連軍、黒の太線が作戦前の前線、黒の破線が作戦後の前線。
作戦発動日前日の7月4日、南部では午後から第LII軍団、第48装甲軍団が、深夜から第2SS装甲軍団が観測所を確保するため小規模な攻撃を開始した。
5日未明、捕虜の情報からドイツ軍の攻撃を午前2時と知った赤軍は1時20分から30分間ドイツ軍の準備地域に大規模な破砕射撃を行った。
しかし実際の攻撃開始時刻は午前3時半で、ドイツ軍は殆ど陣地に居らず、若干の損耗と北部で2時間、南部で3時間程度作戦開始が遅れただけであった。
北部戦線
北部を担当していたヴァルター・モーデル上級大将率いる中央軍集団の第9軍は、攻撃対象のロコソフスキーの中央方面軍に加えて北側面のマルキアン・ポポフ大将のブリャンスク正面軍を警戒する必要があり、機甲部隊主力(エーゼベック軍支隊)を機動防御に転用可能な第二陣に拘置。
まずは第20装甲師団だけを投入し、突撃砲に支援された歩兵師団主体による攻撃を開始した。
5回の攻撃を繰り返したものの、ソ連側陣地の防御は固く、7,200名の損耗を出しながらもオリホヴァートカ方面で3-6km前進したのみで1日目を終えた。
6日には赤軍も第2戦車軍に第19戦車軍団ら増援を加えて反撃し、大規模な戦車戦が勃発。
ティーガー戦車の威力は絶大で赤軍先鋒の第107戦車旅団はわずか数分で戦車50両中46両を喪い後退した。
7日からは攻撃の主軸を鉄道線上のポヌイリ市に変更して攻撃を再開、第18装甲師団の支援を受けた2個歩兵師団が「第二のヴェルダン」と呼ばれる激戦を繰り広げ、8日夜には市の大半を占領した。
同8日にクルスク市を見下ろすオリホヴァートカ高地を巡っても激戦が続いたが、ソ連側陣地を突破することができず、赤軍第16、19戦車軍団の到着を受けて翌9日に攻撃を中止した。
7月10日、赤軍は最後の予備兵力である第9戦車軍団を投入、モーデルも切り札の第12装甲師団を最右翼に配置し、12日から南西を重点にオリホヴァートカの迂回攻撃を試みた。
しかし11日から赤軍の“クトゥーゾフ”攻勢の予備攻撃(12日より本攻勢)が開始、補給地点オリョールを守る第2装甲軍を救援するためモーデルは攻勢を中止した。
南部戦線
一方南部では、5日にエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる南方軍集団の第4装甲軍の第48装甲軍団とSS第2装甲軍団が攻撃を開始。
最初の攻撃は撃退されたものの、午後からはティーガーI戦車を装備した装甲部隊を主戦力とする戦法「パンツァーカイル[注釈 4]」を導入して攻撃正面の赤軍防御線の外周部分を突破し、10km前進(損耗6,000名)した。
7日未明には、攻撃の主軸をオボヤンとプロホロフカ方面に指向したため、ソ連軍は、その方面の前線を受け持つ第6親衛軍と第1戦車軍に、待機させていた方面軍予備兵力の投入を開始した。
8日には、この方面で激しい攻撃を開始、第1防御線を突破して第2防衛線まで突破する勢いだったため、ソ連軍は、その突破口に方面軍予備兵力の第2・第5親衛戦車軍団、歩兵数個師団、砲兵部隊を急遽送り込み対処した。
10日からは、プロホロフカ方面に戦力を結集させて再び攻撃を開始、第48装甲軍団と第2SS装甲軍団の攻撃により、第6親衛軍と第1戦車軍は大きな損害を受けてしまい、第6親衛軍の陣地は2箇所で大きな突破口を開けられてしまった。
一方、これより南東方面の前線では、ケンプ軍支隊が、ソ連軍第7親衛軍の陣地を攻撃して突破したものの、陣地の防御はより強固だったため、前進が遅れてしまい、ソ連軍の東方からの増援を阻止する任務を十分に果たすことができずにいた。
それとは対照的に、プロホロフカ方面の第48装甲軍団の進撃は、高い犠牲を払いつつも比較的順調であり、10日午後には攻撃開始線から25km北にあるプセール川南岸の高地まで前進した。この川は、クルスクへの最後の天然の要害と考えられていたため、突破されればドイツ軍にクルスクへの進撃を許してしまうのと同時にヴォロネーシ方面軍の防御にも穴が開いてしまう危機に直面した。
ソ連大本営は、これに対処するため、後方の予備兵力であるステップ方面軍の第5親衛軍と第5親衛戦車軍を救援部隊としてヴォロネーシ方面軍に向かわせた。
一方ドイツ軍の第4装甲軍司令官ヘルマン・ホト上級大将は、ソ連軍の第1戦車軍と数個の戦車軍団がクルスクに向かう攻撃を阻止するため、部隊の進撃方向の正面に展開しており、また第5親衛戦車軍がステップ方面軍に所属していることを事前に承知しており、ソ連軍の東方からの増援を阻止するケンプ軍支隊の前進も遅れていたため、もし第5親衛戦車軍が進出する場合には、クルスク南部の小都市プロホロフカを通過すると考えたため、プロホロフカ奪取を第2SS装甲軍団に下命し、第48装甲軍団は東に進路を変えて、第2SS装甲軍団を援助することになった。7月11日には、プロホロフカを守備していた、ヴォロネーシ方面軍の第1戦車軍と第6親衛軍が、第2SS装甲軍団の攻撃で撃退されたため、9日の夕方にプロホロフカに到着していた第5親衛戦車軍が反撃することになり、翌12日にはプロホロフカ周辺で「史上最大の戦車戦」とされるプロホロフカ戦車戦が起きた。
プロホロフカ戦車戦
詳細は「プロホロフカの戦い」を参照
プロホロフカにはクルスクとベルゴロドを結ぶ鉄道路線があり、さらに北西部にプショール川が流れ地形も広大な草原であった。このプショール川と鉄道に阻まれた狭い地域で、7月12日、プロホロフカ占領を目指す第2SS装甲軍団のLSSAH師団[注釈 5]と、第2SS装甲軍団を撃破し第48装甲軍団の後方遮断を意図する第5親衛戦車軍とで戦車戦が開始された。
12日早朝、252.2高地から前進するLSSAH戦車戦闘団とソ連第53機械化旅団とが遭遇、戦車戦が始まった。これを皮切りに、次々とLSSAH師団の前線に戦車部隊の飽和攻撃を繰り返し、LSSAH師団は前進を中止し防御戦闘への移行を余儀なくされた。当時の戦闘記録によると、タンクデサントを満載したT-34の集団が自ら築いた対戦車壕を前に進攻が停止し、これを飛び越えようとして転落して行動不能になる戦車部隊も中にはあった。LSSAHの防御線を突破した赤軍部隊も全て撃退された。「我々より10倍もの敵戦車部隊との戦闘は、これまで経験が無かった。」(第7戦車中隊長ティーマンSS大尉)[4]と言う程の激戦だった。
13日のLSSAH師団報告によると、ソ連軍戦車192輌を撃破した。こうしたソ連側の被害は、第5親衛戦車軍司令官パーヴェル・ロトミストロフがティーガー対策に近接戦闘を指示したため、砲塔に増加装甲を装備したIV号戦車をティーガーと誤認して接近し、逆にドイツ軍の75mm砲が有効な距離で撃破されていった結果でもあった。
LSSAH師団の損害は24輌(全損車はIV号戦車:4輌、ティーガー:1輌[注釈 6])。
14日には稼動88輌に回復した[注釈 7]。第IISS装甲軍団全体の損害もLSSAH師団24輌、DR師団16輌、T師団20輌、計60輌(全損5輌、修理可能な損傷車輌55輌)と、過去[いつ?]言われていたデータとは比較にならないほど小さかった。第5親衛戦車軍は「16日までにT-34:222輌、T-70:89輌、チャーチル:12輌、SU:11輌全損」と報告した[注釈 8]。ちなみにソ連の戦史ではティーガー撃破とよく出てくるが、この時稼動していた本物のティーガーは、LSSAH戦車連隊第13中隊の僅か4輌にすぎない[注釈 9]。
これまで[いつ?]この戦闘に参加した戦車数はドイツ軍600両、赤軍900両にも及び両軍の損害合わせると700両に及ぶ損耗戦だったと言われてきた。
これは1981年までSSの記録が機密扱いだったため、両軍の参加した車両や構成、損害数などは資料によって、またはドイツ・ソ連から公開される不完全な資料で食い違いがあった。さらに崩壊前のソ連はプロパガンダとしてこの戦いを劇的に脚色して発表していたため、正確な情報が曖昧な状態になっている。
赤軍の反攻
赤軍はドイツ軍の攻勢が停止した後に行うことになっていた大規模反攻を7月12日にクルスク突出部の北側で開始し、ドイツ軍に占領されていたオリョールの解放を目指して攻勢にでた(クツゥーゾフ作戦)。
この攻勢により、オリョールは8月5日に解放された。8月3日にはクルスク突出部の南側でも反攻(ルミャンツェフ作戦)を開始し、ドイツ軍に占領されていたハリコフは8月23日に解放された。
クルスクの戦いの始まりはドイツ軍がツィタデレ作戦を開始した7月5日で明確であるが、赤軍の大規模な反攻は継続したため終わりは明確でなく、ハリコフの解放までをクルスクの戦いとする見方が多い[5]。
その後も、赤軍の攻勢は続き、ヒトラーはドイツ軍をドニエプル川の西岸まで撤退させることを承認(9月15日)せざるを得ない状況となる。しかし、赤軍の追撃は急でドニエプル川に向けてドイツ軍と赤軍の競走が行われた。この競走の結果、赤軍はドニエプル川の西岸に小さいながらもいくつかの橋頭保を確保することに成功し、これが11月のキエフの解放に重要な役割を果たすことにる[6]。
結果
十分な防御体制を整えて待ち受け、ドイツ側に損害を与えた赤軍ではあったが、ドイツ軍を上回る損害[注釈 10]を受け、特に南部ではドイツ軍の突出を許し、プロホロフカで消耗したステップ方面軍は危機を迎えていた。
しかし、赤軍が北部で逆攻勢『クトゥーゾフ作戦』を開始し、また米英軍も7月10日に南ヨーロッパでシチリア島に上陸を開始。既述の通り内心では作戦に消極的だったヒトラーはこれにイタリアの枢軸離脱、地中海戦線の崩壊の危機を感じ、作戦はわずか一週間で中止されてしまう。
しかし、マンシュタインは南部での攻勢をヒトラーに承諾させて作戦の続行を試みたが、7月17日にイジュームとミウスの防御線に対して赤軍の攻勢が行われ、これに対応する部隊の派遣のためについに中止した。
ドイツ軍は終始戦術的な優勢を保っていたにのも関わらずソ連軍の反撃で攻勢を中止せざるを得なかった。
これは単一作戦でしかない“ツィタデレ”作戦に対して、クルスクでのドイツ軍誘引からクトゥーゾフ攻勢、ルミャンツェフ作戦以下一連の連続攻勢を行ったソ連軍伝統の「作戦術」がドイツ軍を戦略的に上回った結果であるといえよう。
ドイツ軍は最終的にはプロホロフカを占領することもクルスク突出部を殲滅することもできず、戦略的な目的を達成することはできなかった。
後衛戦闘を行いつつ撤退したドイツ軍に対し、赤軍は予備兵力をまとめて反撃を開始した。
これにより、前線で修理中のドイツの損傷車輌で後送の間に合わないものは自爆処分され、最終的な全損車輌の台数が増加することになった。
例えば南方軍集団の戦車の全損数は7月末までに283輌であったが、その後の修理可能だった車輌の自爆処理によって、約400輌に増加している。(別記録では独軍は戦車と自走砲合わせて2900両の損失となっている[注釈 11])
一方、戦場に留まったソ連軍は逆に損傷車両を極力回収して修理・再生し、戦力を回復した[注釈 12]。
ドイツ軍は秩序立った後退と兵力温存には成功するが、天然の要害ドニエプル川の渡河を許してしまい、クルスク進撃どころか要衝キエフまで奪回された。
クルスクの戦いは独ソ戦でドイツ軍が攻勢に回った最後の大規模な戦闘であり、赤軍が夏期においても勝利した最初の大規模な戦闘であった。これ以降、独ソ戦の主導権は完全に赤軍のものとなり、そして翌1944年のバグラチオン作戦によって事実上勝敗は決した。
ギャラリー
戦闘中のティーガーI戦車。』
『注釈
[脚注の使い方]
^ 「攻撃開始は陸軍総司令部からの命令受領後、第6日に実行させられるべく、その日時はもっとも早い時期で5月3日とする」とされた。
^ en:Rudolf Roessler、赤いオーケストラを参照
^ SSにおいて大将に値する階級は”SS-Obergruppenführer”(親衛隊上級集団指導者)となるが、武装SSに所属するSS高官は、陸軍と同様の称号を用いたので正式には『親衛隊上級集団指導者および武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS)』となる
^ ティーガーI戦車を群として先頭に配置し、その両側後方にパンター戦車と4号戦車と突撃砲が展開して、その後方に歩兵搭乗の重火器と迫撃砲を搭載した装甲輸送車を配置する戦法で、歩兵は必要に応じて戦車に接近する敵の歩兵を撃破して、装甲輸送車は戦車群に続行して適時に戦闘(対歩兵戦闘と陣地占領等)に参加する。また、空軍の急降下爆撃機と砲兵部隊により、敵陣地や反撃してくる敵の攻撃も行う。
^ トーテンコプ師団はプショール川北岸に、ダスライヒ師団はLSSAH師団の右側面に展開し、プロホロフカ攻撃はLSSAH師団のみ。
^ 記録ではIV号戦車のみだが重戦車大隊記録集(2)SS編ではティーガー1輌全損になっている。
^ 『月刊グランドパワー』2000年9月号(デルタ出版)、『タミヤニュース』1997年10月号(Vol.339)〜1998年5月号(Vol.347)、『クルスクの戦い 戦場写真集南部戦区』(大日本絵画)。データは当時のLSSAH師団の戦闘記録などを根拠とする(月刊グランドパワーは、現在ガリレオ出版より刊行)。但しIV号戦車は11日の47輌から32輌に落ちている。
^ コロミーエツによれば、第5親衛戦車軍は7月11~14日で353輌の損耗。
^ なおツィタデレ作戦中のティーガーで全損になったものは全6個大隊の所属車輌中、10ないし11輌が記録されるのみで、他の損傷車輌は回収され修理・再生されている。
^ 戦車の全損数はドイツ軍の278輌に対してソ連軍は1614輌。
^ 「 The Eastern front, February-September 1943 // Britannica」より。
^ 南部戦区のソ連第1戦車軍は、7月後半から8月にかけて、敵味方の遺棄戦車1200輌を回収・修復し、自軍の戦力に組み込んでいる。』
ウクライナ反攻開始、成否分ける機動性 3つのポイント
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR103WL0Q3A610C2000000/
『ロシアの侵攻を受けるウクライナが、領土奪回に向けた本格的な反攻を始めた。第2次大戦後、最大級の陸戦になる見通しで、同国は米欧が供与した兵器をテコにロシアの防衛線を突破し、早期に大きな戦果をあげたい考え。ロシア側は戦線を膠着状態に持ち込んでウクライナ軍を消耗させる戦略だ。今後の戦況のポイントをまとめた。
・南部防衛線の突破
・東部のバフムト奪還
・求められるスピード
南部防衛線の突破
当面の焦点は、ウク…
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『当面の焦点は、ウクライナ軍がザポロジエ州など南部地域を奪回できるかだ。8日から本格化した反攻では同州の主要都市メリトポリや港湾都市ベルジャンシク、隣のドネツク州のマリウポリの方面へ進軍を始めた。
ウクライナ側はアゾフ海に面する地域まで南進し、ロシアの占領地域を東西に分断。2014年から占領下にあるクリミア半島への補給線も絶ち、それぞれ孤立した地域を包囲、奪回する戦略を描く。
ロシア側はウクライナ側の攻撃に備え、昨夏から塹壕(ざんごう)や地雷埋設などで一帯の要塞化を進めてきた。英国防省はロシア軍がザポロジエ州で120キロメートルにわたる3層構造の防御陣地を構築したと分析する。
ただ、幅10キロメートルにわたるとされる陣地がどれだけ機能するかは未知数な面もある。米戦略国際問題研究所(CSIS)は9日の報告書で「塹壕の掘削に当たる業者の多くは軍事工学の経験が欠けていた可能性が高い」と指摘。戦車の進軍を防ぐ防御物も「品質のばらつきは顕著だ」と述べた。
防衛線の維持には10キロメートルあたり1万人程度の練度の高い部隊が必要になる。ただ「新兵が多い今のロシア軍では精鋭を配置できるのは20キロメートル程度」(西側の軍事関係者)との見方もある。ウクライナ側はロシア軍の守りが手薄な前線を早々に探り当て、戦車などの機甲部隊で突破しようと模索する。
東部のバフムト奪還
ウクライナ軍が同時に攻勢をかけているのは、東部ドネツク州の最激戦地バフムト方面だ。10日にはバフムト周辺の前線で1400メートル前進できたと発表した。
バフムト周辺ではロシア軍が1年に及んだ戦闘で多大な犠牲を出しながら徐々に支配地を広げ、5月に町の制圧を宣言した経緯がある。しかし同月には多くの戦闘を担った民間軍事会社ワグネルの部隊が撤退。守りが弱くなっているとの見方も出ていた。
バフムト周辺はプーチン政権が威信をかけて攻め取っただけに、一帯を奪回できたらウクライナにとって大きな戦果になる。ウクライナ軍にはバフムトへの攻勢でロシア軍の戦力を東部防衛に回させ、南部の戦いを優位に進める狙いも透ける。
求められるスピード
反転攻勢に出たウクライナ側は、早期に何らかの目覚ましい戦果を出す必要がある。苦戦を強いられ膠着状態に陥った場合、莫大な軍事援助を続けてきた西側諸国で同国の継戦能力への疑念が広がり、支援の手が緩む懸念があるからだ。西側から早期停戦に向けた譲歩を求める圧力がかかる可能性もある。
CSISは「戦争の次の段階は、ウクライナ軍が消耗戦から機動戦に移行して領土を奪還する能力にかかっている」と指摘する。昨秋の北東部ハリコフ州の戦いでウクライナ軍は南部にロシア軍をおびき寄せた上で手薄になった同州を不意打ちし、広大な領土を奪回した。
ウクライナ軍は戦線の早期打開に向け、同様のサプライズ攻撃を繰り出す可能性もある。ロシア側もウクライナの奇策を警戒しており、双方で相手の裏をかこうとする工作が激しくなることも予想される。
(ウィーン=田中孝幸)
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多様な観点からニュースを考える
※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。
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上野泰也
みずほ証券 チーフマーケットエコノミスト
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ひとこと解説 ウクライナ軍の反攻開始を、10日の記者会見でゼレンスキー大統領が認めた。同軍は前進しているようだが、ロシア軍が一部で攻勢を撃退したようだとの見方も出ている。民主主義陣営に属する者としては正義に勝ってほしいのはむろんだが、ウクライナ軍が意外に苦戦するのではという不安もぬぐえない。対戦車濠、「竜の歯」と呼ばれる戦車などの進軍を阻む障害物、そして最終防衛線である塹壕と、3層構造になっているところに正面から突っ込むのは、戦術的には良策ではない。第2次世界大戦中にドイツ軍が旧ソ連軍に敗北したクルスク大戦車戦に似たような面もある。新型戦車の威力を過信して周到に準備された防衛陣に突っ込み、失敗したのである。
2023年6月12日 7:33 』
ホンジュラスの地理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%B9






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ホンジュラス共和国
República de Honduras
ホンジュラスの国旗 ホンジュラスの国章
(国旗) (国章)
国の標語:Libre, Soberana, Independiente
(スペイン語: 自由、主権、独立)
国歌:Himno Nacional de Honduras(スペイン語)
ホンジュラスの国歌
2:47
ホンジュラスの位置
公用語 スペイン語
首都 テグシガルパ 注1
最大の都市 テグシガルパ
政府
大統領 シオマラ・カストロ
副大統領(英語版) サルバドール・ナスララ(スペイン語版)
面積
総計 112,090km2(100位)
水面積率 0.2%
人口
総計(2022年) 9,459,440人(95位)[1]
人口密度 84.4人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2019年) 6149億1800万[2]レンピラ (L)
GDP(MER)
合計(2019年) 250億9000万[2]ドル(102位)
1人あたり 2,567.967[2]ドル
GDP(PPP)
合計(2019年) 582億6500万[2]ドル(107位)
1人あたり 5,963.447[2]ドル
独立[4]
スペインより 1821年9月15日[3]
中米連邦に加入 1824年11月22日
連邦から独立宣言 1838年10月26日
連邦が独立を承認 1838年11月15日
通貨 レンピラ (L)(HNL)
時間帯 UTC-6 (DST:なし)
ISO 3166-1 HN / HND
ccTLD .hn
国際電話番号 504
注1:憲法第5条では「テグシガルパとコマヤグエラ(スペイン語版)が共同でホンジュラスの首都を構成する」と定めている。また第295条では「両自治体は合併し中央地区(スペイン語版)を形成する」としている[5]。しかしテグシガルパ地区にすべての政府機関が所在していることから、一般的にテグシガルパが首都として認知されている[3]。
ホンジュラス共和国(ホンジュラスきょうわこく、スペイン語: República de Honduras)、通称ホンジュラスは、中央アメリカ中部にある共和制国家。西はグアテマラ、南西はエルサルバドル、南東はニカラグアと接しており、北と東はカリブ海、南はフォンセカ湾を経て太平洋に面している。
国境は、グアテマラとは1933年にアメリカ合衆国の仲裁により、エルサルバドルとは1992年、ニカラグアとは2007年の国際司法裁判所の裁定により確定した[6]。
大陸部のほかに、カリブ海岸にスワン諸島、バイーア諸島を領有している。首都はテグシガルパ[7]。 』
『地理
ホンジュラスの地理
ホンジュラスの標高図
詳細は「ホンジュラスの地理」を参照
基本的に熱帯であり、大雑把に言えば、ホンジュラスの国土は、南には太平洋に沿って北西から南東に向かって走る山岳地帯が、そして北のカリブ海側には平地が広がっている。南の山岳地帯では年間に雨季(6月から11月まで)と乾季(12月から5月まで)があり、標高が上がれば気温は低くなる。カリブ海側の平地地帯では1年を通して雨が多い[31]。国土の80%弱を占める山岳地帯、特に国土主要部の標高1,000メートルから1,500メートルの高原地域では常春に近い気候になる。
もっとも高い山はセラケ山であり、標高は2,850メートル。地震による被害は少ないが、ハリケーンによる被害はほかの中米・カリブ海諸国と共通である。たとえば、1998年10月にハリケーン・ミッチが襲い、テグシカルパが属するフランシスコ・モラサン県だけで、1,000人以上の犠牲者が出た[32]。
南西部カリブ海岸のニカラグアにまで続くモスキート海岸の一部であるモスキータ地方には未開の熱帯雨林が広がり、プラタノ川流域は世界遺産となっている。そのほか、カリブ海に浮かぶバイーア諸島は、観光によって人々の生活が成り立っている。西からウティラ島、ロアタン島、グアナハ島の3つの島を中心とする周囲は、グレート・バリア・リーフ(オーストラリア)に次ぐ世界で2番目に大きいサンゴ礁であり、国立公園の指定を受け、ビーチリゾートとして発展している。また、地域的特色を持つ場所として太平洋のフォンセカ湾などが存在する[33]。 』
中国にホンジュラス大使館 開設式典に両外相出席
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB111GE0R10C23A6000000/

『【北京=共同】中国・北京で11日、中米ホンジュラス大使館が開設され、記念式典にレイナ外相と中国の秦剛国務委員兼外相が出席した。ホンジュラスは3月に台湾と断交して中国と国交を樹立していた。中国国営中央テレビが報じた。
ホンジュラスのカストロ大統領は14日までの日程で中国を公式訪問中。ホンジュラスは国交樹立以降、中国側の協力を得て大使館設置に向けた作業を進めていた。
【関連記事】
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