https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN26DZ40W1A220C2000000/
『【ワシントン=共同】1968年に北朝鮮が米海軍の情報収集船を拿捕したプエブロ号事件を巡り、米首都ワシントンの連邦地裁は25日までに、激しい拷問により多くの乗組員が身体的被害を受けたなどとして、北朝鮮に23億ドル(約2440億円)の支払いを命じる判決を言い渡した。米政府系メディア、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)などが伝えた。
プエブロ号は68年1月、北朝鮮東海岸の元山沖で拿捕され、乗組員82人が拘束された。同年12月に板門店を通じて釈放、拿捕時に死亡した1人の遺体も引き渡されたが、船は返還されないまま北朝鮮で係留されている。
連邦地裁の判決は今月16日付。北朝鮮の「残虐行為」で大半の乗組員が心的外傷後ストレス障害(PTSD)や記憶障害、フラッシュバックなどに苦しめられ、家庭生活や仕事がうまくいかず、中には自殺を考えた人もいると指摘。元乗組員や遺族ら原告約170人に対する損害賠償や懲罰的賠償の必要性を認めた。
米政府はブッシュ(子)政権下の2008年、北朝鮮の「テロ支援国家」指定を解除したが、トランプ前大統領が17年11月に再指定した。これを受けて、元乗組員や家族らが18年2月に提訴に踏み切った。
VOAは「連邦地裁が認めた賠償金の総額は、国家が支援したテロ事件では最高額」と伝えたが、北朝鮮が支払いに応じる可能性は極めて低いとみられている。
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プエブロ号事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%AD%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
『概要
報告によるプエブロ号の位置
朝鮮人民軍のゲリラ部隊が大韓民国の朴正煕大統領殺害を企てた青瓦台襲撃未遂事件から2日後の1968年1月23日、北朝鮮東岸の元山沖の洋上でアメリカ国家安全保障局NSAの通信傍受作戦に就いていたプエブロ号が、領海侵犯を理由に北朝鮮の駆潜艇などから攻撃を受け、乗員1名が死亡、残る乗員82名が身柄を拘束され、北朝鮮当局の取り調べを受けた[1]。ただし、実際に領海侵犯が行なわれたかどうかについては、現在もアメリカと北朝鮮で主張が食い違っている。
このプエブロ号拿捕事件を受けて、当時ベトナム戦争の北爆任務前の休養のため日本に初めての原子力空母として寄港していたエンタープライズは北爆任務を中断して佐世保港から緊急出港(佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争)。日本海へと向かった。朴正煕暗殺未遂に続いて起こった出来事に、朝鮮半島情勢は緊張。第2次朝鮮戦争の危機を感じさせる事件であった。
アメリカは外交的解決として、板門店での会談で北朝鮮の用意したスパイ活動を認める謝罪文書に調印することとなった。乗員は11か月の拘束の後の同年12月に解放された。プエブロ号の船体は返還されず、現在も北朝鮮の管理下に置かれて首都平壌市内の大同江で一般向けに観光公開されており、同国の反米宣伝に利用されている。
この事件は、アメリカ人を人質に捕ることで、朴正煕政権の北進を断念させる狙いがあったともいえる。一方、戦争の危険を顧みずにアメリカに挑戦し、ぎりぎりの外交戦術で相手の譲歩を勝ち取る瀬戸際外交の始まりであったと見るものもいる[2]。』
『事件の詳細
拿捕
プエブロ(1967年10月)
プエブロ号はアメリカ国家安全保障局NSAの諜報活動の一環で在日アメリカ海軍の日常的な通信傍受作戦に参加していた[1]。プエブロ号は長波長の低出力交信を傍受するため、日本海をソ連周辺まで接近して南下する計画を実行することになった[1]。
プエブロ号は横須賀港出港後、佐世保港で機器を追加で搭載し、1968年1月10日、作戦のために出動した[1]。
1月23日正午頃、プエブロは北朝鮮海軍の追跡を受け、上瀬谷通信隊に電報を発信したが、在日アメリカ海軍は嫌がらせを受けているだけと判断し特に対応をとらなかった[1]。しかし北朝鮮側からMiG-21戦闘機2機と駆潜艇1隻、魚雷艇3隻が応援に急行[1]。北朝鮮の駆潜艇は国際信号旗“SN”を用いて停船を要求した。
プエブロ号は追跡を回避しようとしたが包囲され、午後1時半後から発砲警告、さらに銃砲撃を受けて停船した[1]。プエブロ号は米国務省にワシントン時間午後11時45分にSOSを発した[1]。プエブロ号側は機関銃のカバーをかけたままで反撃しなかったが、攻撃により8名が負傷、うち3名が重傷を負い重症者のうち1人が死亡した[1](2回目の砲撃で負傷した見習い機関兵デューン・ホッジスが死亡した)。
駆潜艇から北朝鮮兵士が乗り移って白兵戦に発展。アメリカ兵を縛り上げた後目隠しをし、銃床で殴ったりして捕らえた。
プエブロ号は北朝鮮海軍に拿捕され元山港へ入港した[1]。
収容
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出典検索?: “プエブロ号事件” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月)
北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌に係留されているプエブロ(2009年)。現在は反米プロパガンダのための観光資源となっている。
拿捕後プエブロは元山港に入港させられ、乗組員は2回に渡って捕虜収容所を移動させられた。乗組員の証言によると、この間に乗組員は拷問を受け、プロパガンダ用の写真を撮影しようとした北朝鮮兵に向かって乗組員がファックサインをした際に最も激しい拷問がなされたという。
艦長のロイド・M・ブッチャー中佐も拷問され、スパイ行為を行ったと自白させるため「部下を目の前で処刑する」と脅されたという。そのため、ブッチャーは自白を承諾した。北朝鮮側は彼自身の言葉で自白させたが、この時ブッチャーはささやかな抵抗として、「私は北朝鮮と、偉大な指導者金日成に感謝する」と発言した際、「感謝する」を意味する「paean」を、「小便する」という意味の「pee on」と発音した。しかし、英語に詳しい者のいなかった北朝鮮側は誰ひとりとして気付かなかった。
コンバット・フォックス作戦
この事件はアメリカ東部時間の深夜に発生したが、翌日の大統領昼食会で対応が検討され、それから連日にわたって国家安全保障会議が開催された[1]。国防長官ロバート・マクナマラは空軍の増派と政府の態勢強化を主張し、ベトナム戦争の最中であったが、本国とベトナムから最終的に戦術機400機以上が朝鮮半島周辺に展開された[1]。また、B-52戦略爆撃機24機が嘉手納基地とグアムに前進配備され、給油機10機が嘉手納基地に駐屯した[1]。海軍では6個の空母群を集結するとともに、海空軍予備役の動員も行なわれた[1]。
外交交渉
アメリカ合衆国政府は乗組員の解放を要求したが、北朝鮮はこれを撥ね付け、逆に領海侵犯を謝罪するよう求めた。
アメリカ側では元山港の機雷封鎖や航空基地の爆撃も検討された[1]。しかし、乗組員が人質となっており、第二次朝鮮戦争につながればベトナム戦争と並行して戦争を遂行しなければならなくなることから、徐々にソ連を通じた外交交渉により乗組員と船体の引渡しを要求する意見が大勢を占めるようになった[1]。さらにベトナム戦争では1968年1月30日からテト攻勢が始まりアメリカ政府の関心は再びベトナムに移った[1]。
事件発生当時、北朝鮮は領海12海里、アメリカは領海3海里を主張していた[1]。事件発生時にアメリカ側は12海里以上離れて航行していたと主張したが、1968年12月には12海里以内だったことを認めることで乗組員解放交渉が妥結した[1]。
その後
2014年1月、機密指定解除で公開された公文書により、事件を受けてのアメリカ太平洋軍による対北有事行動計画「フレッシュ・ストーム」「フリーダム・ドロップ」がまとめられていた事が明らかになった。このうち後者では、核兵器の使用すら検討されていたという[3]。』