自由、犠牲払うに値する

自由、犠牲払うに値する
ロシア念頭、米大統領
https://nordot.app/904177489128554496?c=39546741839462401

※ 今日は、こんなところで…。

『【ワシントン共同】バイデン米大統領は戦没将兵記念日(メモリアルデー)の30日、南部バージニア州アーリントン国立墓地で演説した。

ロシアのウクライナ侵攻を念頭に「民主主義と専制主義の戦い」が世界で起きていると指摘。「自由は犠牲に値する。民主主義は完璧ではないが、必要なら死をもってしても戦う価値がある」と述べた。

 バイデン氏は、対英独立戦争から今世紀のアフガニスタンやイラクでの戦闘で犠牲となった米兵士らを「英雄」とたたえ「自由と民主主義を守るために、ウクライナの兵士や市民が最前線で戦っている」と強調した。』

ジョージア (国)

ジョージア (国)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2_(%E5%9B%BD)

 ※ 途中までは、読んだ…。

 ※ あまりに長いので、止めておく…。

 ※ 時間がある時に、また読もう…。

 ※ ただ、「タマル」は、civ6に出てくる…。「女王ではなく、王なのです。」とか言っていた…。

『ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartveloサカルトヴェロ[3], 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。首都はトビリシである。

東ヨーロッパ[4][5][6]、もしくは西アジアに区分される[6][7]。

北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。

サカルトヴェロ民主共和国が1921年にソ連に占領され、ソ連構成国のグルジア社会主義共和国(正称:サカルトベロ・ソビエト社会主義共和国)とされたが、1991年4月に共和国として独立回復した[8]。

日本では、2008年にロシアと国交断絶したジョージア側の要請を受け、2015年4月までの国名呼称グルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)からジョージアへ変更した。[9] 』

『概要

ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。

古来から数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながらキリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。

一方で、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られている。

ジョージアは、嘗てソ連の構成国のひとつであったが、1991年に独立を果たした。

南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは、旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地でもある。

一方でロシア帝国とその後に成立したソ連の支配が長く続いたことから、独立後は様々な方面でロシアとの対立路線を取ることが多い。

1997年にはウクライナの呼びかけに応じてアゼルバイジャンやモルドバとともにGUAMを結成し、2005年にはウクライナと共に民主的選択共同体(英語版、ウクライナ語版)(CDC)を発足して加盟、2009年には独立国家共同体(CIS)を脱退した。

1999年から欧州評議会のメンバーである。

なお、本項目では2015年4月以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」など、すでに完全に定着したものについては「グルジア」を使用することとする。

国名

「ジョージアの国名」も参照

ジョージアにおける自称(エンドニム)は、サカルトヴェロ(Sakartvelo.ogg საქართველო[ヘルプ/ファイル] [sakʰartʰvɛlɔ]、ラテン文字転写:Sakartvelo)であり、「カルトヴェリ人の地」を意味する。

カルトヴェリ人の由来となった「カルトリ」は、ジョージア最古の文学作品『聖シュシャニクの殉教』(5世紀)にもみられる、ジョージア中心地域の古称である[10][11]。

この「サカルトヴェロ」系統の国名を使用しているのは、カルトヴェリ語族の諸語とエスペラントの「カルトヴェリーオ(Kartvelio)」または「カルトヴェルーヨ(Kartvelujo)」など少数である。

日本では、ロシア帝国の被支配下にあった19世紀から当地について知られるようになり、ロシア語名の “Грузия”ˈɡruzʲɪjə グルージヤ)を音韻転写した「グルジヤ」と英語名の”Georgia”(ˈdʒɔrdʒə ジョージャ)を音韻転写した「ジョルジア」の2系統の外名(エクソニム)が使われていた。

大正から昭和初期にかけては「ジョルジア」の方が主流を占めていたが[12][13][14]、1956年の日ソ共同宣言に前後して共産圏の報道に強みを持つラヂオプレスが「グルジア」を採用していたことなどから、徐々に「ジョルジア」に対して優位を占めるようになった。
このロシア語名は一説に、英語名のGeorgiaと同じく中世にペルシャ語で使われていた「グルジュ」もしくは「グルジャーン」という呼称がアラビア語などを経由して十字軍時代にヨーロッパへ紹介されたのが由来とされる[11]。

スラヴ語圏でも13世紀ごろからこのグルジュに由来する呼称が見られるようになり、その後、キリスト教国であるジョージアの守護聖人・聖ゲオルギオスの名に結びつけられていった[11]。

国家としてのジョージアは、アメリカのジョージア州とラテン文字綴り字および発音も同一[注釈 1]ながら、地名の由来[注釈 2]のみならず歴史的にも何の関連性もない。

しかしながら、首都のトビリシはジョージア州の州都でもあるアトランタと1987年に姉妹都市関係を締結しており[15]、1994年にはジョージア国家警備隊とジョージア州兵(英語版)組織の間で相互協力協定(en:Georgia–Georgia National Guard Partnership)が締結されている。

1995年の憲法採択以降は国名に「共和国」などの政体名を含まないのが正式名称だが、英語圏ではアメリカのジョージア州との混同を避けるため、国家を “Country of Georgia”、アメリカの州を “State of Georgia” と呼び分ける慣例がある[16][17]。

日本語でも同様に「ジョージア国」(ジョージアこく)と「国」を付加した呼称が使用される場合がある[18][19]。

また、ビートルズの楽曲『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』では、互いに無関係ながら英語では同一の名称で呼ばれる2つの地名に引っかけたジョークが歌詞に含まれていることで知られる。

1992年に日本と国交を樹立して以降、ロシアの首都モスクワを経由せずに現地の情報が直接入るようになったことから、特に主要民族たるカルトヴェリ人の間で根強い反露感情について日本でも広く知られるようになった。

2000年代半ばには特許分野や一部のワイン輸入業者が「グルジア」の使用を取りやめて自主的に英語名の「ジョージア」を使用するようになった[20][21]。

しかし、2008年に勃発した南オセチア紛争を機に、ロシアとの敵対関係が決定的なものとなったことも後押しし[22][23]、この時期から日本を含めて「グルジア」系統の外名を使用している各国に対して、個別に「グルジア」の使用取りやめと英語名の「ジョージア」採用が要請されるようになった。

韓国では2010年にこの要請を受け入れて「그루지야(グルジヤ)」から「조지아(ジョージア)」へ外名を変更しているが[24]、北朝鮮では現在も「그루지야(グルジヤ)」を使用している。

かつてのソビエト連邦構成国では、リトアニアが2018年からリトアニア語の外名を “Gruzia” から “Sakartvelo” へ変更することを国会議長が表明している[25][26][27]。

日本政府に対しては、2014年10月の首脳会談で正式に「グルジア」の使用を取りやめて「ジョージア」へ外名を変更するよう要請が行われ[28][29]、2015年に日本政府が使用する外名の根拠法となる在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(在外公館設置法)別表の改正案が、国会で衆参両院の全会一致による可決を経て、4月22日付けで公布・施行され[30][31]、同日には外務省のサイトで外名変更の告知が行われた[32]。

日本政府が(政体等の変革を理由とする場合を別にして)外国政府から個別に外名の変更を要請されて受諾したのは、1986年(在外公館設置法の別表改正は2003年)にコートジボワールの外名変更要請(それ以前はフランス語名を意訳した「象牙海岸」を使用していた)を受け入れて以来2例目となる[注釈 3]。

漢字表記には「グルジア」に由来する「具琉耳」と「ジョージア」に由来する「喬治亜」の2通りがある。台湾(中華民国)では「喬治亞」を採用しているが[33]、中華人民共和国では格鲁吉亚(簡体字)[34]、香港では格魯吉亞(繁体字)と[35]、いずれも「グルジア」系統の外名が現在も使用されている。

歴史

詳細は「ジョージアの歴史」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

原始・古代

近年、ジョージア国内では南東部のドマニシの洞窟から180万〜160万年前ごろの原人タイプの化石人骨が発見されている[36]。出土人骨のデータから、従来東アジアで発見されていた原人よりも原始的な特徴をもち、ユーラシア大陸で最古の年代が想定される[36]。

この原人は「ホモ・ゲオルギクス」と命名され、遺跡からはいわゆる「礫器」に属するオルドヴァイ型石器群や動物化石なども多量に発見された[36]。

ほかに、前期旧石器時代に属し、対称形の礫器が特徴的なアシュール文化や、中期旧石器時代に属し、剥片石器を多数ともなうムスティエ文化期の遺構・遺物がジョージア各地の洞窟や遺跡から発見されている。

コルキス盆地やフラミ渓谷、南オセチアなどでは、新石器時代の遺跡が発見されており、紀元前6000年から紀元前5000年にかけて以降、刃先に磨製石器を利用した鍬やつるはし、石製の鎌、製粉用の摩臼、貯蔵用の土器などがともなう本格的な定住生活と穀物栽培が始まったと考えられる[37]。

コムギやライムギについては、当地方はもっとも重要な種の発祥地と考えられている[38]。石器の石材には主として地元産のフリントや黒曜石が用いられ、牛や豚などの牧畜を行い、ブドウを含む果樹の栽培も行われた[37]。

グルジア(ジョージア)を含むカフカス地域は、先史時代にあっては金属精錬の発祥地のひとつとされる[37]。

紀元前3700年ごろから紀元前2500年ごろにかけてのマイコープ文化や、紀元前3400年ごろから紀元前2000年ごろにかけてのクラ=アラクセス文化(英語版)の青銅器時代の遺跡からは、おびただしい数の金属器が発見されている[39]。

B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州)で調査した遺跡によれば、内陸部では紀元前2000年紀には遊牧を生業とする諸部族が生活し、部族の指導者とみられる人物の墳墓からは美麗に彫琢された金銀製の容器が副葬されるなど、当時の社会が首長に富と権力を集中させていた様相が確認されている[37]。

グルジア人(ジョージア人)の祖先となる民族は、黒海の東岸に広範囲に分布してのちにコルキス王国をつくるコルキス人の源流をなすクルハ族と、のちに南西グルジアのタオ地方に定住するタオホイ族の源流をなすディアウヒ(英語版)族であり、両民族を母体として形成されたと考えられる[37]。

なお、コルキス人の富裕さについては、早くからギリシャ人たちの知るところであり、ギリシア神話におけるコルキス王女メーデイアと金羊毛(翼を持つ金色の羊の毛皮)の物語に端的に示されている[37]。

西のコルキス王国と東のイベリア王国

紀元前6世紀以降、黒海に面する西グルジアの地にコルキス王国(コルヒダ王国)が成立し、黒海東岸のギリシャ植民市の影響のもとで発展を遂げた[40][41][42]。

黒海とカスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路が通り、地中海とペルシア地域を結ぶ貿易が盛んに行われていた。

コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエントを統一したアケメネス朝ペルシア、続いてセレウコス朝の一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国(カルトリ王国)が成立した[41][42]。

その領域は今日の中部グルジアのカルトリ、東部グルジアのカヘティ、西南グルジアのサムツヘとその周辺であり、ここにはギリシャ文明の影響が直接及ばなかった[37]。

住民は西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人々と土着民との融合によって形成されたと考えられる[37]。首都のムツヘタはクラ川とアラグヴィ川(英語版)の合流点近くに立地している。

紀元前2世紀、コルキス王国は黒海東南海岸にあったポントス王国のミトリダテスによって制圧され、紀元前65年にはそのポントスが共和政ローマのポンペイウス軍に敗れたことでコルキス(西グルジア)はローマの属領となった[37]。

同じころ、東グルジアのイベリア王国もローマの保護下に置かれた[37]。

1世紀に入り、キリスト教が創始されると、グルジアでは十二使徒による福音伝道が行われたと伝えられている。

特にローマ帝国の支配が揺らいだ3世紀から4世紀にかけては大幅に信者が増加した[43]。
これは、カッパドキア出身の聖ニノ(グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている[37]。

ローマ帝国が衰退に転じた4世紀、西グルジアの旧コルキス王国の一部(現在のアブハジア地域)にはラジカ王国(英語版)が成立し、古代コルキスを併合した[41][42]。

ラジカ王国は首都をアルケオポリス(現、ナカラケヴィ(英語版))に置き、東ローマ帝国との結びつきを強めた[37][44]。

この王国は523年にキリスト教を受容し、562年には東ローマに併合された[44]。

イベリア王国では、330年代にキリスト教に深く帰依したミリアン3世(英語版)によってキリスト教が国教として採用された[41][42]。

世界でも301年のアルメニア王国に続いて2番目に古いキリスト教国教化の例であり、キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後の文化の形成に大きな影響を及ぼした[40][43]。

グルジアの教会は当初、シリアのアンティオキア総主教の管轄下に置かれたが466年には独立教会となり、カトリコス(総主教)の座はムツヘタに置かれた[45]。

グルジア文字(カルトリ文字)は4世紀から5世紀ごろにかけての時期に考案された、グルジア語を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字と同じ原理の文字体系をなしている[46][47]。

イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシの都市的発展が始まった[48]。

6世紀初頭、ヴァフタング1世の子のダチ(英語版)王が父の遺言に基づきムツヘタからトビリシへ遷都した[48]。

カフカス地域のアルメニア、グルジア(ジョージア)、アルバニア(バルカン半島のアルバニアとは無関係)の3教会は、431年のエフェソス公会議(第3回全地公会)での、イエス・キリストは神そのものだとしてその神性のみを認める「単性論」の採用に賛成した[43]。

ところが、451年のカルケドン公会議(第4回全地公会)では単性論が否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」として、キリストの神性と人性との両性共立とともに位格的一致を説く、いわゆる「両性論」が正統とされた[43]。

506年、3教会の代表者はアルメニアのドヴィン(英語版)に集まってカルケドン派に反対する旨の決議を行ったが、以前から両性説に傾いていたグルジア正教会は7世紀初頭には明瞭にカルケドン信条を告白する立場に立った[43]。

「合性論」(両性論派からは単性論の一種と見なされた)を採るアルメニア使徒教会は、これに対し「非カルケドン派正教会」にとどまった[43]。

「ジョージアのキリスト教」も参照

中世・近世

ペルシアを支配したサーサーン朝はゾロアスター教を国教としており、その勢力がカフカスに及ぶとキリスト教・ゾロアスター教の両勢力は互いに抗争を繰り返した[49]。

ラジカ王国がキリスト教を国教化すると、サーサーン朝は軍を派遣して527年から533年まで続くラジカ戦争(英語版)となった[49]。

ラジカ王国は最終的に東ローマ帝国、東のイベリア王国はサーサーン朝にそれぞれ併合され、ホスロー1世はイベリアの王政を廃止した[41]。

7世紀初頭、自立の動きを見せたイベリアに対し、東ローマ皇帝ヘラクレイオスは北方のハザールと同盟して遠征を行った[49]。

627年から629年にかけてはサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥・東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦が起こり、トビリシは一時占領された[50]。

ニハーヴァンドの戦い以降はサーサーン朝の影響力が後退し、7世紀後半からは新興のイスラームを奉ずるアラブ人の影響が拡大した[41]。

トビリシは736年から738年にかけて「ムスリムの征服(英語版)」を受け、これによってトビリシ首長国(英語版)が成立した。

カフカス地方にもイスラムの教義がもたらされたが、広い山岳地帯を抱えるグルジアへの流入は限定的なものにとどまり、キリスト教信仰が守られた。

750年、グルジア正教会は自治教会となり、9世紀から10世紀にかけてはカフカス地域の布教の中心を担った[43]。

かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝の直臣となったアブハズ人(アブハジア人)が次第に強勢となり、8世紀末にはアンチャバヅェ家のアブハジア公レオン1世(英語版)が皇帝から王号を許可された[50]。

レオン1世は母がハザール王女、妻がカルトリ大公の娘であったことから両者とも友好関係を築きつつ勢威を振るった[50]。

グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家(英語版)が台頭し、9世紀初頭には、この家からイベリア大公アショト1世(英語版)が現れた[37]。

アルメニアでは、バグラトゥニ家(英語版)のアルメニア大公アショト1世(英語版)(イベリア大公アショト1世とは別人)が、イスラム帝国であるアッバース朝によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公」の位を許され、885年にはアルメニアの諸侯によってアルメニア王に推戴された[50]。

こうして、カリフと皇帝の双方の承認のもと、アッバース朝版図のアルメニア王国が再興された[50]。

東ローマとイスラムの抗争は拡大されたアルメニア王国の中でも繰り広げられ、最終的には小国分立状態がもたらされた[50]。

こうしたなか、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアのタオ(英語版)に本拠を遷して、東ローマ皇帝からクロバラテス、すなわち「宮殿の守護者」の称号を獲得するのに成功した[37]。

10世紀後半、アッバース朝の繁栄にも陰りが見えるようになり、グルジアではイベリア大公グルゲン(英語版)が現れ、アブハジア王女のグランドゥフトと結婚。

イベリアとアブハジアの領域は2人の息子バグラト3世(英語版)に継承された[50]。

バグラド3世は、アルメニア王アショトの養子となって将来の地位を自ら保障し、975年にはカルトリ地方の宗主権をも獲得、976年にバグラト朝(英語版)のグルジア王国(グルジア連合王国)を建てた[42]。

1001年には義父アショトからアルメニアと南西グルジア、1008年には実父グルゲンから南西グルジア残部を継承してカヘティ地方を除く全グルジアの諸公国を統一して、クタイシを首都とする中世グルジア王国の隆盛が始まった[37][41]。

バグラト3世はクタイシに大聖堂(バグラティ大聖堂)を創建し、1010年にはカヘティ地方をも支配下に収めた。

王国成立期にはグルジア正教会がバグラティオニ家の王朝を支えた。聖人として知られるイベリアのヨアネが活躍し、レオンティ・ムロヴェリ(英語版)によって『グルジア年代記(英語版)』が書かれたのもこの頃のことである。

10世紀から13世紀にかけてのグルジア王家は東ローマ帝国、キエフ大公国、アラニア(北オセチア)などの王侯貴族との間で盛んに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ各地域との精神的結びつきを強めた[43]。

バグラト3世の子ギオルギ1世(英語版)はムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復を行い、ギオルギ1世の子のバグラト4世(英語版)は1045年、アルメニアの首都アニ(現トルコ共和国)を制圧した。

1057年にシリアのアンティオキアで開かれた地方教会会議では、グルジア正教会が自治教会資格を有することが公認されている[43]。11世紀後半にはトルコ人勢力が中央アジアやペルシアの大部分を含む地域に広大な遊牧帝国セルジューク朝を建設した。グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下の1063年には南西グルジアが、1068年には東グルジアがセルジューク朝によって制圧された。

「建設王」と呼ばれたダヴィド4世が即位したのは1089年のことであった。

ダヴィド4世は、北カフカスのキプチャク人を移住させて親衛隊を組織し、軍制改革を行ってグルジアを強固な国家に改造し、セルジューク朝に勝利。

1096年にはセルジューク朝に対する貢納の支払いを停止し、12世紀に入ってからはクタイシ郊外のイメレティア丘陵にゲラティ修道院と付属の王立学校(アカデミー)を創立した[51]。

この王立学校はグルジアを代表する科学者、神学者、哲学者を擁し、トビリシ遷都後も17世紀に至るまでグルジアの文教の中心として栄えた[51]。

1122年、ダヴィドはムスリム勢力に支配されていた要衝トビリシを奪還して、ここに都を遷した[37]。

グルジアの黄金時代を築いたタマル(左)と父王ギオルギ3世(右)

12世紀後半のギオルギ3世(英語版)も1156年にセルジューク朝を攻撃してこれに勝利し、1161年から1162年にはアルメニアにも侵攻してアニとドヴィンを占領するなど強勢を誇った。

ギオルギ3世の王女で1184年に正式に王として即位したタマル女王の時代、バグラト朝グルジア王国はザカフカス全域を支配する強国に発展し、黄金時代をむかえた[37][41]。

1194年から1204年にかけてはセルジューク朝に勝利してアルメニア南部を保護領としたほか、1195年には現アゼルバイジャンのシャムコルの戦いに勝利して同地を支配した。

1201年から1203年にかけてはアルメニアのアニとドヴィンを再併合し、さらに現在のトルコ北部を占領した[37]。

1204年、イタリアのヴェネツィア商人の策謀によって第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が没落した際には、その亡命政権トレビゾンド帝国の建国を援助している[37]。

タマルの時代は、文化・学術の面でもグルジア王国の最盛期であり、多くの修道院が寄進され、とくに文学分野の充実と教会建築の発展が顕著であった[41]。

『グルジア年代記』が編まれ、また、特にタマル女王に仕えた官吏で詩人のショタ・ルスタヴェリの活動がよく知られている[52]。

タマル女王死後のグルジアはホラズム・シャー朝の軍による侵入を受けた。

1220年にはチンギス・カンの命を受けたスブタイとジェベはホラズムのムハンマド2世(アラーウッディーン・ムハンマド)を追撃している途上でカフカス地方を通過し、遭遇したグルジア軍はモンゴル軍に打ち負かされた[53]。

翌1221年、スベタイ・ジェベ軍2万がグルジア王国を再び攻撃。

タマルの子ギオルギ4世(英語版)は第5回十字軍への支援を取りやめ、国を挙げて抵抗したものの敗北した[50][53]。

1222年の戦いでも敗北し、これらは、キリスト教文明に属する地域がモンゴル軍からの猛攻を受けた最初であった[50]。

ギオルギ4世はモンゴル戦の負傷がもとで1222年に死去し、妹のルスダンが王位を継承した。

ルスダン治下の1225年、ホラズムの支配者ジャラールッディーン・メングベルディーがグルジアに侵入し、1226年、首都トビリシが占領されて略奪を受けた[50]。

さらに、1236年にはチョルマグン率いるモンゴル軍が再びグルジアに侵攻し、ルスダン女王はクタイシへの避難を余儀なくされた。

女王はローマ教皇グレゴリウス9世に支援を求めたが失敗し、1243年、モンゴル軍3万が常駐するなか、グルジアはモンゴル帝国に併合され、その属領となった[50]。

モンゴルは「グルジスタン州」を置き、そこにグルジアと南カフカス全域を管掌させ、グルジアの領主たちを通じて間接統治を行った。

モンゴル帝国のグユク・カンは1247年、グルジア王国を東半部と西半部に分け、ギオルギ4世の子のダヴィド7世(英語版)には東部のカルトリを、ルスダンの子のダヴィド6世(英語版)には西部のイメレティをそれぞれ与え、2人を共同王として公認した[54]。

1259年から1260年にかけて、ダヴィド6世に率いられたグルジア貴族たちがモンゴル勢力に叛旗を翻し、西部グルジアにイメレティ王国(英語版)の独立を勝ち取った。しかし、東部グルジアは引き続きモンゴル支配を余儀なくされた[37][41]。

遊牧国家であるイルハン朝では税務行政上の首都と重要地点とを結ぶ駅逓制度が整備され、東部グルジアの中心トビリシも「シャーフ・ラーフ(王の道)」と称する交通網のひとつの終点として重要な役割を担った[55]。

モンゴル支配下では貢納は厳しかったものの一定の自治は与えられた。

またモンゴル人たちは概して宗教に寛容で、イスラムやキリスト教ネストリウス派、ルーシ・グルジアの東方正教会はむしろ民衆統治に役立てられた。

交通上の変革としては、1260年以降、ジェノヴァ共和国と東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとの条約によって黒海にジェノヴァ商船隊が乗り入れが実現した[55]。

クリミア半島のフェオドシヤやアブハジアのスフィミは港湾として発展し、黒海沿岸には40ものジェノヴァ商館が設けられたという[55]。

モンゴルの支配は長く続いたが、「光輝王」と呼ばれたギオルギ5世(英語版)が現れて東西に分裂していたグルジアを再統一し、ようやく1335年にモンゴル勢力を放逐して、事実上の独立を果たした[37][41][42]。

ただし、その翌年の1336年にはトビリシでペスト(黒死病)が大流行し、大きな痛手を受けている。再統一後もグルジアはジャライル朝とチョバン朝の影響下にあった[56]

1380年、西チャガタイハン国から自立したティムールが侵入、トビリシを占領して王と王妃は捕虜となった[50]。

以後、グルジアはティムール朝の侵入に苦しめられることになり。特に1386年から1403年にかけて計8度におよぶ猛襲は、経済的にも文化・生活の面でも回復困難な打撃をグルジア社会に与えた[37][41][42]。

グルジアはこののち一時黒羊朝の支配にも服した。

1444年にはトビリシがペルシア軍によって侵略を受け、1460年代にはカヘティ王国(英語版)が独立、分権化が進行して1466年、グルジア王国はついに崩壊、一種の無政府状態に陥った。

1490年におけるグルジアの3王国5公国

グルジア王国は東部のカルトリ王国とカヘティ王国、西部のイメレティ王国というバグラティオニ家の王統を戴く3つの王国に分裂した。

1490年、この3王国が相互に承認しあうことでようやく無政府状態を脱することができた。

3王国のほかには、13世紀以来の西南グルジアの有力豪族ジャケリ家(英語版)が公式に支配したアタバク領サムツヘ国(英語版)があり、さらに黒海沿岸にグリア公国(英語版)、サメグレロ公国、アブハジア公国(英語版)、内陸部にスヴァネティ公国(英語版)が独立した君公国としてふるまい、事実上5つの公国が分立した[52]。

16世紀初頭から18世紀前半にかけてのグルジアは、イラン高原に建国された東のサファヴィー朝、新首都イスタンブールを本拠として周囲に勢力を拡大する西のオスマン帝国の圧力を受け、しばしば両者の係争の地となった[41]。

カルトリ王国とカヘティ王国はサファヴィー朝、イメレティ王国はオスマン帝国の支配をそれぞれ受け、両者の抗争はイスラームにおけるスンナ派とシーア派の宗教戦争の性格も内包していた[41]。

この時代、特にグルジア東部にあっては度重なる戦乱と住民の強制移住によって人口が減り、経済活動も停滞を余儀なくされた[44]。

イメレティ王国は頻繁に王位が交替し、混乱が続いた[55]。

サメグレロ公国のダディアニ家(英語版)は17世紀のレヴァン2世(英語版)の時に最盛期を迎えたが、17世紀後半には衰え、公国支配者の血統が交替した[55]。

サムツヘのジャケリ家はグルジア王家との婚姻によって独自の立場を築いたが、のちにオスマン帝国の直接支配下に入り、パシャの称号を獲得し、その領域(現在のアジャリア自治共和国など)ではイスラーム化が進行した[55]。

カヘティ王国では、16世紀前半に英明な君主レヴァン(英語版)が現れ、国王の権力を強化して絹の交易などで王国を繁栄に導いた[57]。一方のカルトリ王国では16世紀中葉にシモン1世らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝の宗主権を認めた[57]。

1555年、トルコとペルシアは長年の抗争の結果アマスィヤの講和を結んで平和を実現する一方カフカスにおける相互の勢力範囲を定め、これはその後グルジア社会を大きく規定することとなった[52]。

1578年、小康状態は破られ、オスマン帝国の勢力がカフカス全土を蹂躙してトビリシを制圧したのに対し、サファヴィー朝第5代シャーのアッバース1世はこれに反撃。トルコ人勢力を撤退させたが、アッバース1世はまたカヘティに対して略奪遠征を行ったため、その富は失われてしまった[37][57]。

サファヴィー朝の政治的影響下にあったカルトリとカヘティでは、イスラーム改宗を条件にバグティオニの家系の王子から選ばれ、政治経済的ないし軍事的には衰退し、文化面でもペルシア文化の影響を強く受けた[52][57]。

しかし、一方ではアルメニア人やチェルケス人などとともに「グラーム(王の奴隷)」と呼ばれる軍人・官吏としてサファヴィー朝を支え、イラン人やトルコ人と並んで枢要な国政ポストについてエリートの一画を占めるグルジア人も現れた[52][58]。

サファヴィー朝の帝都エスファハーンの長官職は半ばグルジアの王子による世襲の職となっており、現在のイラク国境に近いシューシュタルの町は、グルジアの大貴族出身者の家系が約100年にわたって支配し続けた[58]。

グルジア独自の伝統文化もペルシア支配下で復興を遂げ、12世紀初頭の「黄金時代」に対比し「銀の時代」と呼ばれるほどである[52]。

その中で、カヘティ王のティムラズ1世(英語版)、カヘティとイメレティの両方の王位を経験したアルチル(英語版)の2人は詩人王として知られている[52]。

また、サファヴィー朝の官吏であったパルサダン・ゴルギジャニゼ(英語版)は17世紀末に『グルジア年代記』を著している。

18世紀に入ると、カルトリ王国にヴァフタング6世が現れた。彼は傑出した立法家であったが、一方では1709年にグルジアに印刷術を持ち込み、グルジア語印刷を始め、自国史の追究に関心の強い文化人でもあった[37][52]。

ゴルギジャニゼの著したグルジア年代記の続編を編纂する目的で学者・有識者を集め、グルジア国内の写本・古文書の精査を命じ、その成果を14世紀から17世紀までの公的年代記として刊行した[52]。

1722年、パシュトゥーン人がエスファハーンを陥落させサファヴィー朝が崩壊すると、グルジアはオスマン帝国の新たな侵入を招いた[37]。

ペルシアでは征服者ナーディル・シャーが現れ、ロシア帝国との間に反オスマン同盟を結び、アフシャール朝を創始してオスマン帝国に奪われた失地を回復。カルトリ王位をカヘティ王だったティムラズ2世(英語版)に与えた[37][52]。

ロシア帝国時代

18世紀後半、東グルジアのカヘティ王国にエレクレ2世(英語版)が現れ、サファヴィー朝後に興起したアフシャール朝を撃退し、父のカルトリ王ティムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国を建てた[37][41]。

エレクレはアルメニア商人たちと提携して王国の殖産興業に尽力したため、その経済は大いに発展した[40][57]。

1768年に始まった露土戦争ではエレクレはロシア側で戦った。クタイシを首都とする西部のイメレティ王国もこの戦争ではロシア側に立ち、ソロモン1世(英語版)治世下の1779年にはオスマン支配から脱却することに成功した[37]。

エレクレ2世は、北カフカスからのレズギン人の襲来やペルシア・トルコの両勢力から自国を守るため、同じ正教を奉ずる北の大国ロシア帝国との同盟を目指し、1783年には女帝エカチェリーナ2世との間にギオルギエフスク条約(英語版)を結んでロシアの保護国となることを認めた[37]。

しかし、ロシアはこの条約を守らず、エレクレ2世は結局、新興のガージャール朝からの猛攻を単独で受けざるを得なくなった。

1795年、グルジアは大敗北を喫してトビリシは略奪を受け、経済成長の成果は無に帰した[37][57]。

エレクレの病弱な後継者ギオルギ12世(英語版)は無条件で自国をロシアの保護に委ねることを決し、1800年12月に死去した[37]。

1801年1月、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ・カヘティ王国を廃して東グルジアの併合を宣言し、同年9月、新帝アレクサンドル1世によって併合が実行に移された[37]。

カフカス総督府(英語版)をトビリシに設け、グルジアはロシアの軍政長官の支配下に置かれた[48][59]。

このとき、カルトリ・カヘティ各地では人民の叛乱が起こった[37][48]。

カフカス総督は、帝政ロシアの他の植民地総督以上の権限を有し、グルジアには内地同様、県(グベールニヤ)を置いて県知事などには現地の有力者を充てた[59]。

ロシア帝国は19世紀初頭、ザカフカス(南カフカス)の強固な支配とペルシアの背後にあるイギリスへの対抗のため、グルジア軍道を建設した[60](英露の抗争は「グレート・ゲーム」を参照)。

ロシアは1810年には西グルジアのイメレティをも併合し、グルジア主要部は総じて簡単にロシアの一部になってしまった[61]。

ロシアはまた、1828年にはアルメニアを併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、アゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年にはグルジアのグリアを併合した[37][61]。
グリアではロシア政府によるジャガイモの強制栽培に端を発した1841年グリア反乱(英語版)が起こっている。さらに、ミングレア(旧サメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年、1858年、1867年に完全にロシアの版図となった[37]。

ロシア側からみれば、南カフカスよりも北カフカスのチェチェン人、レズギン人などのイスラーム系山岳民族の方が強敵であった[61][62]。

結局ロシアは、北カフカスを戦場とするコーカサス戦争(カフカス戦争)に1816年から1861年まで、45年の歳月を費やしている[61]。

この戦争に対し、グルジアの軍隊と人々はロシア側で参加した[63]。

これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと共通の信仰(キリスト教)を持っていたばかりでなく、彼らがロシア統治に積極面を感じていたという指摘がある[63]。すなわち、ロシアへの併合はムスリムの諸勢力の攻勢から自身を守り、自らロシア政府の主導するカフカスの再キリスト教化に参与できたのである[43]。

一方、グルジア正教会は1811年、ロシア正教会に吸収され、その組織的独立を失った[43][45]。

グルジア教会のカトリコス(総主教)は廃され、代わりにロシアの宗務院に属する大主教が置かれた[45]。

これは、ロシア教会とグルジア教会の間には教義上の差異がないとみなされたためであったが、後者には長い歴史を持つグルジア語の文語と独特の典礼があり、その聖職者・信者にとってグルジア語の禁止とロシア語の強制は大きな苦痛であった[43]。

1856年のコーカサス

グルジア貴族の中にはロシアの帝都サンクトペテルブルクに留学する者が増え、ロシア経由でロマン主義文学の影響を強く受ける者も現れた[64]。

また、開明的なミハイル・セミョノヴィチ・ヴォロンツォフ総督時代の1845年から1854年にかけては、グルジアの商業と貿易が急速に発展し、トビリシには劇場なども整備され、都市文化が開花した[37][64]。

1861年にロシア皇帝アレクサンドル2世の発した農奴解放令はグルジアにもおよび、1864年以降、農奴制の元にいた農民たちは自由の身となり、従来の家父長制的な慣行は近代教育の普及とヨーロッパからもたらされた諸思想によって急速に消え去っていった[37]。

19世紀後半には、国民的作家として知られるイリア・チャヴチャヴァゼ、アカキ・ツェレテリ、ヴァジャ・プシャヴェラという、現代でも親しまれる三大文豪が活躍した[64]。

1860年代、トビリシには織物工場が設けられ、1872年、トビリシとポティの間の鉄道が開通した[37][60]。

さらに、バトゥミ、トビリシとアゼルバイジャンのバクーを結ぶ鉄道も敷設された[48]。
黒海とカスピ海の沿岸が結ばれたことなどにより、鉱山・工場・農場経営などの諸産業が発展した。

しかし、資本の多くはロシア人、アルメニア人、西欧諸国の人々の掌握するところとなり、グルジア人には恩恵が少なく、多数の農民と都市化・工業化によって新たに形成された労働者階級の多くはこれに不満を抱いた[37]。

1883年、トビリシにザカフカス鉄道本部が置かれ、グルジアはザカフカス地方全体の鉄道輸送の要地となった[60]。

19世紀末葉にはアゼルバイジャンのバクーで油田開発が進み、黒海に面したグルジアにはパイプラインが造られた[60]。

農奴は解放されたものの私有地の約3分の2が地主の所有であり、教会領も多かったため、農民の多くは貧窮していた[60]。

また、皇帝アレクサンドル2世の暗殺後は反ツァーリ運動に対する締めつけが強くなり、1881年に即位したアレクサンドル3世は計画的なロシア化政策を打ち出して少数民族の同化政策を強制的に推し進めた[37][59]。

これに抗して、さまざまな農民運動や民族主義運動が興起した[37][59]。

民族再興運動は、当初は文学と社会運動を基本とするグループが力を持っていたが、やがて社会民主主義を奉ずるグループが優勢となり、ノエ・ジョルダニアやニコライ・チヘイゼらのメンシェヴィキがその受け皿になっていった[37][41]。

彼らの活動は、やがて1902年春のグリアでの農民運動「種まきストライキ」へとつながった[65]。

また、1902年のバトゥミでのストライキは社会民主党の指導によるものであった[66]。

1903年、トビリシでロシア社会民主労働党カフカス連盟が組織され、カフカス諸都市の労働運動は組織化を一層強めた[65]。

1903年7月にバクーとオデッサで始まったゼネラル・ストライキはトビリシやバトゥミにも波及した[65]。

1904年8月から9月にかけての日露戦争の遼陽会戦でロシア陸軍が日本陸軍に敗北したことは、ロシア帝国内の労働運動・農民運動にも大きな影響を与えた。

1904年末、グルジアではバクーやバトゥミの労働運動と結びついて農民委員会が結成され、広範な騒擾事件とゲリラ戦が展開された[37]。

特にグリア地方の農民蜂起は、ツァーリ政府から地域権力を奪い、地主の所有する農地を占拠し、さらに武装集団を組織するに至ったというもので、その様態は「グリア共和国」と呼ばれるほどであった[37][65]。

「マルクス主義者が指導した世界初の農民反乱」と評されるこの動きは全グルジアに広がり、これにはかつてのグルジア貴族も参加した[65]。

この年の一連の反政府行動はロシア第一革命(1905年革命)と呼ばれており、1905年前半期を通じて暴動や反乱が帝国全土に広がった[67]。

トビリシやポティ、クタイシではストライキが起こり、トビリシとカルスでは軍部の反乱さえ起こっている[67]。

1905年はまた「自由主義者の春」という状況が生まれ、9月にはロシア帝国内の革命派によってフランスのパリで反政府党・革命党会議をひらかれた[68]。

そこにはグルジア革命的社会主義者連邦派党も参加している[68]。

1906年以降、革命運動は退潮していくが、グルジアにあってはメンシェヴィキが一層広範な支持を獲得していった[65]。

ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代

首都トビリシでパレードする赤軍(1921年)

ロシア革命後の1918年5月26日にグルジア民主共和国はロシアからの独立を宣言するが、1921年に赤軍のグルジア侵攻(英語版)によって首都を制圧され、崩壊した。

1922年、グルジア問題では、フィリップ・マハラゼとブドゥ・ムディヴァニらグルジアの穏健派共産主義政権が失脚し、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。

1936年には直接のソ連邦構成共和国(グルジア・ソビエト社会主義共和国)に昇格した。
第二次世界大戦に一環である独ソ戦では、ナチス・ドイツ軍がグルジアに近い黒海北岸や北コーカサスまで一時侵攻した。

詳細は「コーカサスの戦い(英語版)」、「黒海の戦い (第二次世界大戦)」、および「ブラウ作戦」を参照

戦後、ソ連はアメリカ合衆国など西側諸国との冷戦に入り、ソビエト連邦の崩壊直前まで民族問題が取り上げられることはなかった。またヨシフ・スターリンの故郷という側面もあり、かつては共産党員の割合がもっとも高かった。

ソ連崩壊後

1989年、東西冷戦が終結しソ連のペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、ソ連地上軍が反ソ運動を弾圧したトビリシ事件(英語版)を大きな転機として、ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。

1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出。

これは同年12月25日付でのソ連邦解体により実効性を持ったものの、独立後も多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず治安も悪化し内戦状態に至った。

その後、アブハジア(アブハジア紛争、アブハジア戦争(英語版))や南オセチア(南オセチア紛争 (2008年))やアジャリア自治共和国 (en:2004 Adjara crisis) で分離独立運動が起き、現在は南オセチアとアブハジアが事実上の独立状態となっている(アジャリア自治共和国は2004年にジョージア中央政府の支配下に置かれて自治権剥奪)。

シェワルナゼ政権

1991年11月22日、グルジア国家警備隊がクーデターを起こし、政府軍と交戦[69]。

1992年1月6日、ズヴィアド・ガムサフルディア大統領は首都トビリシを脱出し[69]、代わって軍事評議会がグルジアを統治した。

その後、軍事評議会の招きによりエドゥアルド・シェワルナゼ元ソ連外相が帰国し、同年3月10日に国家評議会が創設されると、シェワルナゼが議長に選出された[69]。

同年10月11日、最高会議議長の直接選挙が実施され、シェワルナゼが96%の得票により当選[70]。10月17日、国家評議会は自主解散し、統治機能は最高会議に引き継がれることとなった[71]。

1992年7月31日、国際連合に加盟した。その後は2003年まで、シェワルナゼが最高権力者であった。

バラ革命

2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカが非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。
これに対し、反対派の議員はボイコットした。

議会前には2万5,000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。

シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。

代わって、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。

詳細は「バラ革命」を参照

サアカシュヴィリ政権

旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党国民運動のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。

しかし、労働党のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、伝統主義者連盟が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシア連邦を後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はサアカシュヴィリの圧勝に終わった。これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受け入れ、アバシゼ議長は反対し続けたが、5月には最終的にロシアへ亡命し一連の混乱も収拾した。

3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアでもっとも自由な選挙のうちのひとつだったと考えられる。

2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置づけるものとなった。
ロシア-グルジア戦争
南オセチア紛争 (2008年)

2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発した。
詳細は「南オセチア紛争 (2008年)」を参照
「#2008年の南オセチア紛争(ロシア-グルジア戦争)」も参照

この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され、のちに紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。

2009年4月9日、首都トビリシで、サアカシュヴィリ大統領に辞任を要求する大規模な反政府集会が議会前広場で主要野党(民主運動・統一グルジアなど)によって開かれた。その集会には、6万人に上る市民が集結した。要求の背景は、大統領の権力集中への批判とロシアとの軍事衝突を回避できなかった責任の追及などが挙げられている。なお、グルジアが求めていた北大西洋条約機構(NATO)加盟は現在棚上げされている。

2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。
サアカシュヴィリ政権の終焉とマルグヴェラシヴィリ政権

2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「グルジアの夢–民主主義グルジア」が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、「グルジアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のダヴィト・バクラゼ候補は惨敗した[72]。

これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、欧州連合(EU)加盟を目指す方向性は変わっておらず、2014年6月27日、EUと連合協定を締結し[73][74][75]、2016年7月1日、正式に連合協定を発効した[76]。

マルグヴェラシヴィリ大統領やミヘイル・ジャネリゼ外務大臣は、NATO加盟を引き続き模索していることをたびたび表明している[77][78]。
年譜

4世紀 - キリスト教を国教化。
6世紀 - 10世紀 サーサーン朝ペルシア帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国(アラブ人)の支配下となる。
11世紀 - バグラト朝(英語版)成立。
13世紀 - 14世紀 タタール、ティムールによる侵攻。
16世紀 - 18世紀 西部がオスマン帝国、東部はサファヴィー朝ペルシアの支配下となる。
1783年 - ギオルギエフスク条約(英語版)によりグルジア東部はロシア帝国の保護領となる。
1801年 - ロシア帝国、グルジア東部を併合。ロシアはその後、併合を繰り返していく。
1878年 - 露土戦争の結果、アジャリアがロシア帝国に併合。現在のグルジアにあたる領域がすべてロシア帝国の版図に入る。
1918年5月 - 前年のロシア革命を受けグルジア独立宣言(グルジア民主共和国)。
1922年 - アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を形成、ソビエト連邦に加盟。
1936年 - スターリン憲法により、独立した連邦構成共和国となる。
1989年8月 - 南オセチア紛争始まる。
1990年8月 - アブハジア紛争始まる。
1991年4月9日 - 独立宣言[79]。ソビエト連邦の崩壊により12月に独立。
1992年
    1月 - ズヴィアド・ガムサフルディア大統領が失脚。
    3月 - エドゥアルド・シェワルナゼが国家評議会議長に就任。
    10月 - エドゥアルド・シェワルナゼが最高会議議長に就任。
1995年11月 - エドゥアルド・シェワルナゼが大統領に就任。
2000年4月 - エドゥアルド・シェワルナゼ大統領再選。
2002年8月 - チェチェン共和国武装勢力に加わっていた日本人義勇兵(元自衛隊員)がグルジア領内で拘束されたとの報道。
2003年11月23日 - バラ革命、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領が辞任、ニノ・ブルジャナゼ暫定政権発足。
2004年
    1月4日 - 大統領選挙を実施、ミヘイル・サアカシュヴィリが圧勝。
    1月25日 - ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就任。
2006年
    3月27日 - ロシア政府、グルジア産ワインの輸入禁止を表明、親欧米色を強めるグルジア政府に対する圧力ともいわれる。
    5月23日 - ウクライナの首都キエフにおいてGUAMの設立が宣言され、グルジアも加盟を表明。
    7月13日 - ロシアを通過せずに旧ソ連圏産の石油を輸出することが可能で、グルジア領内も通過するBTCパイプライン開通。
    7月25日 - グルジア軍が、独立を主張しているアブハジアに軍事攻撃を仕掛ける。アブハジア側とグルジア側にまたがるコドリ渓谷での26日までの戦闘で、現地を支配していたアブハジア系民兵を追い出した。グルジア側は、この戦闘で攻撃ヘリ数機、兵員輸送トラック34台、戦闘用車両18台を投入した。この戦闘で民間人1人が死亡、数人が負傷、民兵25人が捕虜となった。
    9月27日 - グルジア治安当局が、スパイ行為を行ったとしてロシア軍将校ら十数人を拘束。ロシア外務省は28日、抗議のため駐グルジア大使を召還。
    10月13日 - 国連安保理、アブハジアに対する「グルジア政府の挑発的行動」を非難する決議1716[1]を採択。
2007年
    8月7日 - グルジア北部で国籍不明の軍用機がミサイルを投下。グルジア政府は「ロシアの恫喝」と非難するが、「自作自演」ともいわれる。以前にも「グルジア領内への空爆」を自作自演した疑惑[2]が存在する。
    9月27日 - 以前からタカ派として国民からの人気が高かったイラクリ・オクルアシヴィリ元国防相が拘束される。大統領から反政府的とされるビジネスマンの殺害を命じられたと「告白」したことが原因とみられている。28日には元国防相の身柄拘束に反対するデモがトビリシで行われる。この件以降、グルジア各地での反政府デモが活発化。
    11月1日 - サアカシュヴィリ大統領の辞任や議会選挙の前倒しなどを求めるデモがトビリシなどで行われる。7日に武力鎮圧されるまで、グルジア各地で断続的にデモが発生。
    11月7日 - サアカシュヴィリ大統領、非常事態宣言発令。当初は2週間ほど継続される予定だったが、16日に解除。
    11月14日 - グルジア政府が、反政府的報道を行ったとして野党系テレビ局「Imedi」の放送免許を停止。同局は11月7日、グルジア政府特殊部隊の強襲を受け、スタジオ・放送機材などを破壊されていた。免許停止自体は12月5日に解除されるが、放送再開には時間がかかるとの見方もある。
    11月25日 - サアカシュヴィリ大統領が、野党側が求めていた議会選の前倒しを拒否。代わりに大統領選の前倒しを行うことを表明し、立候補のため大統領職を辞任。大統領選は1月5日と決まるも、同日国会前では数万人が参加するデモが発生。11月7日の衝突以降、初の大規模デモとなる。
    11月27日 - 事実上の国外追放処分を受けドイツに滞在していたオクルアシヴィリ元国防相が、ドイツ検察当局に拘束される。
2008年
    8月8日 - 事実上の独立状態にあった南オセチアに侵攻。平和維持軍として駐留していたロシア軍に攻撃を加え、ロシアと戦闘状態に入る(南オセチア紛争 (2008年)も参照)。
    8月10日 - 南オセチアから軍が退却。
    8月12日 - 独立国家共同体(CIS)より脱退を発表。
    8月29日 - ロシアと断交。

政治
ズラビシュヴィリ大統領
ガリバシヴィリ首相
詳細は「ジョージア国の政治(英語版)」を参照

ジョージアは共和制国家であるが、1995年12月8日から2004年2月17日までの間、首相の規定はなく大統領が政府を組織していた。ただし、首相職に相当するものとして国務大臣が設置されていた。
「ジョージア憲法」も参照
行政

国家元首は大統領で、任期は5年となっている。大統領は首相その他の大臣の任命・指名に関して議会の同意を得る必要がある。

2010年に憲法改正が行われ、2013年10月より大統領ではなく首相が権限を握る議院内閣制に移行した。
立法

ジョージア議会は一院制で、任期4年(定数235名)。その内、150議席が比例代表制で、85議席が小選挙区制である。なお、議会は行政官庁が集中する首都トビリシではなく、西部の古都クタイシに置かれている。

州知事と大都市の市長は、大統領による任命制である。
政党

複数政党制であり、独立後から多くの政党の存在が認められている。
「ジョージアの政党一覧」も参照
司法

同国には最高裁判所と憲法裁判所があり、憲法裁判所には大統領の推薦に基づき議会によって選出された裁判官が存在する。
国際関係
詳細は「ジョージアの国際関係(英語版)」を参照
「ジョージアの在外公館の一覧」および「駐ジョージア外国公館の一覧」も参照
ロシアとの対立

独立およびソ連解体以降、ジョージアは一貫して隣国ロシアと距離を置き、欧米との関係強化を打ち出してきた。この路線は2004年に成立したサアカシュヴィリ政権下で一層に高まり、軍事的には2008年の北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)への加盟推進、ロシア語からグルジア語への言語変更の推進と英語教育の義務化、ソ連時代のみならずロシア帝国時代にまで遡っての「抗露運動の歴史」を教える記念館の建設、同じ路線をとるウクライナ、ポーランド、バルト三国との連携など、強硬な反露と親米・親欧・親イスラエル路線、そして民族主義を高揚させる路線を歩んできている。また対露強硬派で知られるアメリカのネオコンとの協力も深めているとされる。実際、ネオコンに近いとされるアメリカ人ランディ・シェーネマン(Randy Scheunemann)は、サアカシュヴィリの外交顧問を務めていた。またサアカシュヴィリ政権は、ロシア軍に対抗するべく、それまでのロシア製兵器から欧米製兵器への更新による近代化、アメリカ軍やイスラエル国防軍との共同軍事訓練を行うなど、大幅な軍拡を進めていたが、軍事評論家の江畑謙介は、予算に無理のある計画だと評している[80]。

一方、ロシアにとってジョージアはカスピ海産原油パイプラインの存在など、中央アジアの原油を確保するうえで密接な関わりがあり、南の玄関口である黒海へ連なる要衝に位置する重要な国家と位置づけている。またチェチェンとの対立を抱えるロシアにとって、チェチェンの周辺国の一角を成すジョージアと手を結ぶことは、ロシア南部における安全保障の観点からも非常に有効と見ていた。
民族問題

こうした流れに加えて、ジョージア国内の民族問題も両国の対立に拍車をかけている。コーカサス地方は古くから多数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したにすぎないジョージア人という民族意識はいまだ不安定で、ジョージア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。最大勢力であるジョージア人(カルトヴェリ人)の中でもミングレリア人(ミングレリア)、スヴァン人(スヴァネティ)、ラズ人やアジャリア人(アジャリア)は民族意識が強くあり、ジョージア人とは区別する場合もある。

また、カルトヴェリ人とはまったく異なる北西コーカサス語族系のアブハズ人(アブハジア)、イラン系民族のオセット人(南オセチア)、アルメニア人(ジャワヘティア)、アゼルバイジャン人、チェチェン人など多数の非ジョージア民族を国内に抱えている[81]。ジョージア政府の反露政策はカルトヴェリ人民族主義と密接に結びついており[82]、これらの地方民族への弾圧が強まっている[83]。これらの国の中には、言語の保護など多民族共生の向きが強いロシアの庇護を受けることで自民族の文化を守ろうとする動きがあり、ロシアもジョージアへの牽制から積極的に支援する立場にある。とりわけ南オセチアでは、北オセチアを統治するロシアへの併合を求める運動が活発化している(ただしロシア政府は国家承認はしつつも、併合は望まないとしている)。対するジョージアは自民族中心主義(エスノセントリズム)・反ロシア路線の双方から一連の動きに激しく反発した。

2006年9月27日・28日には、ジョージア国内に駐在していたロシア軍将校6名が、ジョージア軍によりスパイ容疑で拘束された。ロシア政府が抗議としてジョージアに対するビザ発給停止や国境線の封鎖などの報復をとる事態が発生している。さらに2008年には、ジョージア軍が南オセチアに展開するロシア軍主体の停戦監視部隊に攻撃を仕掛け、兵器を強奪する行為を起こした。ジョージア政府は「ロシア軍の停戦部隊は独立派を支援しており公平ではなく、EU部隊との交代を行うべき」と発言しているが、ロシア軍駐留に関しては当のEU側も賛同する意向を示している。
南オセチア紛争
詳細は「南オセチア紛争 (2008年)」を参照

2008年8月7日、ジョージア政府は南オセチア自治政府に対して、自治権を剥奪するとともに軍部隊を南オセチアとアブハジアに侵攻させ、同時にオセット人を虐殺した。しかし、南オセチアとアブハジア側に立って参戦したロシア軍の前に、ジョージア軍は一方的な敗北を喫し、8月15日に停戦が決定した。

停戦後、ロシアはジョージア国内に駐屯しつつ、議会でアブハジアと南オセチアの独立を承認する決議案を採択、メドヴェージェフ大統領がこれを正式に了承した。ジョージア側はこれに抗議する形で8月28日、議会にてロシアとの外交関係を断絶するよう求める決議を全会一致で採択した。8月29日、バシャゼ外務次官はロシアのアブハジア自治共和国と南オセチア自治州の独立承認に対し、ロシアとの外交関係を断絶すると発表した。
日本との関係
詳細は「日本とジョージアの関係」を参照
軍事
詳細は「ジョージア軍」を参照

現在、同国軍は陸軍と特殊作戦軍(英語版)、国家警備隊で構成されている。

以前は海軍及び空軍も存在していたが、上述の紛争によって壊滅した事から国境警察ならび沿岸警備隊と陸軍へ編入される形で統合している為、どちらも現存しない。
地理
ジョージア全土の地図
詳細は「ジョージア国の地理(英語版)」を参照

東ヨーロッパ[4][5]、もしくは西アジアに区分される[84]。独立当初から一貫して欧州連合(EU)への加盟を志向しているのをはじめ、ヨーロッパオリンピック委員会(EOC)に加盟するなど、政治やスポーツ関連の国際組織では東ヨーロッパに区分されることが多い。こうした事情はトルコやアルメニア、キプロス、イスラエルなどに近いものと言える。

アジアに区分される事例としては、tz databaseで”Asia/Tbilisi”としてタイムゾーン(UTC+4)が設定されているジョージア時間が挙げられる。また、アジア開発銀行には「地域内メンバー」として加盟している[85]。
地理概況・地勢

東経40 – 47度、北緯41 – 44度に位置するジョージアは、コーカサス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山(標高5,201メートル)。200キロ離れたカズベギ山(標高5,074メートル)が第2の高山で、唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。コーカサス山脈に沿ってロシア連邦と723キロの国境を接し、クラスノダール地方、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためジョージアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国、南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある(下表参照)。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷は、チェチェン人ゲリラの巣窟となり中央政府の統治が行き届かない時期も存在した[86]。

ジョージアは中部のリヒ山脈によって東西に分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川(ムトゥクヴァリ)などの主要な河川がある。クラ川の源流域やチョロフ川の流れる一帯が歴史的な西南ジョージア(メスヘティ)であり、統一王朝発祥の地として知られる。クラ河岸に古都ムツヘタ、現首都トビリシなど、東ジョージアの諸都市が発展した。

アブハジアにあるボロニア洞窟は世界でもっとも深く、深度2,140メートルに達する。
気候
スヴァネティはジョージア北西部に位置する歴史的な地域名である

山岳地帯が多いため、国土面積のわりに気候は多様である。標高5,000メートルを超えるコーカサス山脈がロシアからの寒気団を遮断する役割を担っているため、国土の大半は比較的温暖で、ケッペンの気候区分の温暖湿潤気候に属する(かつてのソ連邦構成国の中では唯一、柑橘類を収穫できた)。黒海沿岸部はもっとも温暖で、その気候を生かしたグルジアワインの生産地として有名である。山岳地帯は多雨地帯で、降水量は4,000ミリ以上、冬場の積雪は2メートルに達する。首都トビリシなどが位置する東部はより大陸性気候に近くなり、年間降水量は400 – 1,600ミリ程度と、西部に比べると比較的乾燥していて、冬の寒さはより厳しくなる。
各州・各共和国の概況

アブハジアと南オセチアについては、内戦の結果、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月時点で4か国(ロシア連邦、ベネズエラ、ニカラグア、ナウル)によってそれぞれ、主権国家「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている[42]。
政府名 首都 面積 人口 民族 宗教 2016年現況
Flag of Georgia.svg
ジョージア トビリシ 7.0万km2 430.5万人

ジョージア人(グルジア人) 83.8%
アゼルバイジャン人 6.5%
アルメニア人 5.7%
ロシア人 1.5%
オセット人
クルド人



キリスト教
    グルジア/ジョージア正教 83.9%
    アルメニア使徒教会 3.9%
    カトリック教会 0.8%
イスラーム 9.9%

 —

Flag of Adjara.svg
アジャリア自治共和国 バトゥミ 2,900km2 39.3万人

ジョージア人(グルジア人) 93.4%
(大部分がイスラームを
信仰するアジャール人)
ロシア人 2.4%
アルメニア人2.3%

イスラーム   ジョージアの直轄統治

アブハジアの旗
アブハジア自治共和国 スフミ 8,665km2 24.0万人

アブハズ人 50.7%
アルメニア人 19.2%
ジョージア人(グルジア人) 17.4%
ロシア人 9.1%

キリスト教、スンナ派イスラーム     事実上ジョージアより独立

(4カ国が国家承認)
南オセチアの旗
南オセチア自治州 ツヒンヴァリ 3,900km2 5.1万人

オセット人 64.3%
ジョージア人(グルジア人) 25.0%
ロシア人 2.8%
アルメニア人 1.2%

オセット人はキリスト教(正教)主体   事実上ジョージアより独立

(4カ国が国家承認)
環境
「ジョージア国の環境問題(英語版)」も参照

同国は環境汚染等の深刻な汚染問題を抱えている一面がある。ジョージア国は他の旧ソ連構成国と同様、環境への影響をほとんど考慮せずに実施された重工業を強調する経済政策が元で、ソビエト時代よりも深刻な環境悪化に見舞われている[87]。

1990年代後半から2000年代初頭にかけて、生産量と経済発展が低かったことから産業廃棄物は大幅に減少していたが現在、産業廃棄物処理施設が整えられていない為に、発生した廃棄物は適切な処理をせず自然環境下へその侭で廃棄されている。

また、1980年代にソ連構成国として機能していた当時のジョージア国では年間最大30,000トンの農薬が使用されてきた為、過剰なまでの農薬と肥料の使用は土壌の毒性を強めてしまう結果となった。

さらに土地の侵食により、かなりの量の農地が失われた他、管理が不十分な埋め立て地へ都市ごみが処分されたり 同国の山地に2.5トン以上の有害化学物質が今も埋められた侭となっているなど環境保全における姿勢が整っていない点から、国内各地からは「早く対策を立てて実施しなければ土壌の悪化がますます酷くなる」旨の意見ならび危険性を指摘する声が多数上がっている。

大気汚染は主要都市に見受けられ、特に巨大な製鉄所が存在しその他の金属加工ならび化学薬品の生産を進めているルスタヴィで問題となっている。交通も、大気汚染の大きな要因と一つとなっている他、クラ川と黒海は産業廃棄物でひどく汚染されている現状が続く。

加えて水質汚染と水処理不足が元で、ジョージア国においては消化器疾患の発生率が高いことが指摘されている。

なお、ジョージア国環境天然資源保護省(英語版)は、同国における農地の35%が劣化していると発表している。
地方行政区分
詳細は「ジョージア国の行政区画」を参照
首都トビリシ
中央政府の支配が及んでいない「アブハジア共和国」(緑色)と「南オセチア共和国」(紫色)

行政区画は、2つの自治共和国(アブハジア、アチャラ)を含む11の地方(レギオニ)からなり、さらに66の地域(ライオニ)に分かれる[88]。国内には、北西部にアブハジア(首都:スフミ)、南西部にアジャリア(首都:バトゥミ)の2つの自治共和国があるが、アブハジアはジョージア政府の統制は及んでおらず、事実上、独立した状態となっている。

また、シダカルトリ地区とその周辺は歴史的に南オセチアといわれるオセット人多住地域である。ソビエト連邦に属したグルジア・ソビエト社会主義共和国時代にはシダカルトリ地区北半とその周辺を領域とする「南オセチア自治州」が置かれていたが、ソ連邦解体による独立後は消滅。1992年のオセチア紛争以降、オセット人が自治権を要求して中央政府非公認で再び「南オセチア自治州」を樹立した。同自治州が独立の意向を明確にした後は「南オセチア共和国」(首都:ツヒンヴァリ)と名乗っており、アブハジアと同様に一部の地域を除きジョージア政府の統制は及んでいない。
主要都市
詳細は「ジョージアの都市の一覧」を参照

トビリシ - 首都
クタイシ
スフミ - 港湾都市
バトゥミ - 港湾都市
ムツヘタ
ボルジョミ
テラヴィ
ポティ - 港湾都市(貿易港、軍港)
ガグラ - 観光都市

経済
詳細は「ジョージア国の経済」を参照

IMFの統計によると、2013年のジョージアのGDPは161億ドルである。一人当たりのGDPは3,597ドルで、世界平均の約40%未満の水準にある。

ジョージア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類、茶やブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインやコニャック製造などの食品加工業。マンガンや銅の採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。
BTCパイプラインと南コーカサスガスパイプライン

独立前後からの内戦などの混乱により経済は壊滅的な打撃を受け、国内総生産(GDP)は1994年には1991年の34.9%にまで低下したが、IMFと世界銀行の支援の元で市場経済の導入が進められ、1995年以来GDPは増加に転じ、一方でインフレを抑制し本質的な経済収益を得た。しかしジョージア経済は、徴税の失敗により大幅な財政赤字を経験し続けた。さらにエネルギー不足に苦しんだため、1998年に配電事業を民営化し、これによりエネルギー事情は確実な改善が見られた。政府は長期的な経済回復に対する望みを、ポティとバトゥミなどの重要な港湾を通る国際的な輸送回廊の開発にかけている。膨らむ貿易赤字、腐敗の問題や不安定な政治状況は、経済情勢を短期的に不透明にさせている。しかしながら、復活した投資は、2000年に、経済成長におそらく6%以内の拍車をかけたと思われる。

自国内で供給できるエネルギーはほとんどが水力発電のみで、天然ガスや石油を含むエネルギーの大部分はアゼルバイジャンから輸入する。

ジョージアはアゼルバイジャンにとって原油と天然ガスの重要な輸出ルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)および並走するサウス・コーカサスパイプラインを通って大量の原油がトルコ地中海沿岸に達し欧州へ輸出される。また、ジョージアへの原油供給パイプラインには、ほかにバクー・スプサパイプラインがあり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海から輸出する基地がある。

ジョージア政府は外国からの観光客誘致に力を入れている。2017年に同国を訪れた旅行者は約600万人と、10年間で6倍に増えた。キリスト教会堂など歴史的建築物の修復、94か国・地域を対象とした入国ビザ免除などが奏功している[89]。
交通
詳細は「ジョージア国の交通(英語版)」を参照
道路
詳細は「ジョージアの道路(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
鉄道
詳細は「ジョージアの鉄道」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
航空
詳細は「ジョージア国の空港の一覧」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
国民
詳細は「ジョージア国の人口統計(英語版)」を参照
民族構成(ジョージア)

ジョージア人(グルジア人)

86.8%
アゼルバイジャン人

6.3%
アルメニア人

4.5%
ロシア人

0.7%
その他

1.7%
民族
ジョージア国周辺の言語・民族分布図。
カルトヴェリ語族の話者分布図。

同国は多民族国家である。住民の多くはカルトヴェリ人(ジョージア人、正教徒)(86.8%)となっている[90]。その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセット人、アブハズ人、ギリシャ人、ユダヤ人などがいる。

ギリシャ人には、もともとアナトリア半島の黒海沿岸地域に居住し、20世紀初頭のトルコ革命に伴う混乱時に隣国グルジアへ避難してきたポントス人などが含まれる。また、アジャリア自治共和国のアジャール人(英語版)など、イスラム教を信仰しているジョージア人も存在する。「グルジーム」と称される世界最古のユダヤ人は1970年代には10万人を数えたが、大半がイスラエルに移住し、現在では1 – 2万人程度まで減少している。
言語

言語は公用語はカルトヴェリ語族のグルジア語(71%)で、次いでロシア語(9%)、アルメニア語(7%)、アゼルバイジャン語(6%)となっている。その他、アブハズ語、オセット語、グルジン語なども使われている。また、統計上では同じカルトヴェリ語族としてグルジア語話者に含まれることも多いスヴァン語、メグレル語、ラズ語も使われているなど、多言語国家となっている。

反露感情が強い国民とされるが、実際にはソ連時代に普及したロシア語は広範に使われており、独立以降のグルジア語統制への反発などから一部地域では異民族間の共通語として機能している。
宗教
詳細は「ジョージア国の宗教(英語版)」を参照

宗教比率は、キリスト教グルジア(ジョージア)正教会に所属する正教徒が75%、イスラム教徒(ほとんどがスンナ派)が11%。
「ジョージア国における信教の自由(英語版)」も参照
婚姻

婚姻は、改姓しない夫婦別姓、どちらかの配偶者の姓に統一する(夫婦同姓)、複合姓を用いる、のいずれの選択も可能である[91]。
[icon]
この節の加筆が望まれています。
教育
詳細は「ジョージア国の教育(英語版、ロシア語版)」を参照

教育制度は3-6-3制で、旧ソ連の10年制から12年制に移行した[92]。6歳から17〜18歳までは義務教育となっている。12学年のうち、1~3学年が初等教育、4~9学年が前期中等教育、10学年以降が後期中等教育にあたる[92]。高等教育を受けるためには10~12学年の修学が必要である[92]。1年生から第一外国語として英語の授業が行われ、5年生からは第二外国語の学習が始まる[92]。

なお、同国の教育は憲法に基づき無料であることを義務付けられている。
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「ジョージア国の大学一覧(英語版)」も参照
保健
詳細は「ジョージア国の保健」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「ジョージア国公衆衛生局(英語版)」も参照
医療
「ジョージア国の医療(英語版)」も参照
治安

ジョージアは、アメリカの情報誌である『グローバル・ファイナンス(英語版)』が発表した「最も治安の良い国ランキング」によると、91位となっている[93]。

しかし、上述の南オセチア・アブハジア及びその周辺地域における領域問題の事情から同地域エリアではジョージア政府の統治が及んでおらず、不測の事態が発生する恐れが指摘されている。

最近では観光客を狙った犯罪が多発し易くなっており、物乞いする子供による窃盗[94]や声掛けによる強盗事件が発生している[95]ことからジョージアを訪れる外国人へ注意が呼び掛けられている。
[icon]
この節の加筆が望まれています。
人権

2005年に欧州民族的少数者保護枠組条約(英語版)(FCPNM)を批准している。これに対しNGOの公差国際財団(英語版)は、2008年に「FCPNMのいくつかの条項がジョージア国議会による完全な実施から免除されている」と指摘しており、具体的には「文化・教育・行政上の問題におけるマイノリティの言語での完全な表現に関する規定が侵害された」と主張している[96]。
「ジョージア国における人権(英語版)」も参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
メディア
詳細は「ジョージア国のメディア(英語版)」および「ジョージア国の新聞一覧」を参照

テレビ、雑誌、新聞は国営をはじめとする公企業と私企業の双方によって展開されている。憲法は言論の自由を保障している。ジョージアのメディアは市場経済圏への移行にともなう変化が進行している。主要紙は「レゾナンシ」や「ジョージアン・タイムズ」などであり、放送局は国営テレビ・ラジオや民営の「ルスタビ2」などがある[97]。通信社としてはインタープレスがある[97]。

長期にわたる政治問題と対立があるにもかかわらず、ジョージアのメディアには自由が残されており、南コーカサスの中でもっとも多様性がある[98]。一部では、国営放送への支配からの自由を求める闘争が継続的に行われている[99]。

国民の世帯の大部分はテレビを所有しており、多くは最低1つはラジオを持っている。多くのメディア企業は首都トビリシに本社を置いている。
「ジョージアにおける電気通信(英語版)」も参照
文化
詳細は「ジョージア国の文化(英語版)」を参照
食文化
詳細は「ジョージア料理」を参照
ワイン
詳細は「グルジアワイン」を参照
ジョージアのワイン工場

葡萄の産地で、ワイン発祥の地の一つとされる[100]。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ(Khvanchkara)が有名である。スパークリングワインは、ツクリアラ(Cqriala)と呼ばれる。フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高い。

キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュの中でも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がジョージアに存在する。2006年以来、ロシア連邦はジョージアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止していた(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)が、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立にともない解除された。
文学
詳細は「グルジア文学(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
音楽
詳細は「ジョージア国の音楽(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「グルジア舞踊(英語版)」も参照
芸術
詳細は「ジョージア国の芸術(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「ジョージア国の美術館の一覧(英語版)」も参照
映画
詳細は「ジョージア国の映画(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
「ジョージア国の映画一覧(英語版)」も参照
建築
詳細は「ジョージア国の建築(英語版)」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
世界遺産
詳細は「ジョージアの世界遺産」を参照

ジョージア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。

ムツヘタの歴史的建造物群 -(1994年)
ゲラティ修道院 -(1994年、2017年縮減)
    2017年まではバグラティ大聖堂も構成資産だった。
上スヴァネティ -(1996年)

祝祭日
詳細は「ジョージアの祝日」を参照
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月7日 クリスマス グルジア(ジョージア)正教会のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。
3月3日 母性の日
3月8日 国際女性デー
4月9日 国民団結の日 1989年トビリシで反ソ暴動が発生した日
5月9日 戦勝記念日 独ソ戦でのドイツ降伏を記念。
5月12日 聖アンドレイの日 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にジョージアに伝えたとされる。
5月26日 独立記念日 1918年に独立宣言をした日
8月28日 生神女就寝祭 ユリウス暦8月15日
10月14日 スヴェティツホヴェリ教会の日
11月23日 聖ゲオルギオスの日 「啓蒙者」ゲオルギオスはジョージアの守護聖人。
スポーツ
ジョージア対ルーマニア(ラグビーワールドカップ)
詳細は「ジョージア国のスポーツ」を参照

ジョージア国内ではサッカー、バスケットボール、ラグビーユニオン、レスリング、柔道、重量挙げが最も人気のあるスポーツ競技である。ジョージアの身体教育は歴史的で有名であり、古代イベリアのトレーニング技法を見たローマ人たちがジョージア人の肉体的素質に強く関心を惹かれたことが知られている[101]。

19世紀時代に有名であったほかのスポーツとしては、馬を用いた球技ポロや、ジョージアの伝統的球技レロ(グルジア語版)があった。これらの競技者は、次第にラグビーユニオン競技へと移行していった。
サッカー
ジョージアの英雄、カハ・カラーゼ
詳細は「ジョージアにおけるサッカー」および「サッカージョージア代表」を参照

サッカー人気は世界標準であり、FIFAワールドカップの時期には老若男女がサッカー談義に花を咲かせ、何もなくても子どもたちは街角でサッカーに興じる光景をよく見かける。ソヴィエト連邦時代もジョージアを含むコーカサス地域はサッカーの盛んな土地柄として知られており、首都・トビリシに所在するFCディナモ・トビリシは実績、名声ともにジョージアを代表する伝統的なサッカーのクラブチームである。

2001年から約10年間セリエAのACミランで活躍したサッカー選手のカハ・カラーゼは、2012年に引退したが長らくジョージアの若者たちの憧れの的であった。カラーゼは引退後に政治家へと転身している。
「ジョージアサッカー連盟」および「ウマグレシ・リーガ」も参照
レスリング

レスリングは、ジョージアにおいて歴史的に重要なスポーツの地位にあり続けている。歴史家の中には、グレコローマン・レスリング(グルジア語版)には多くのジョージア的要素が組み込まれていると考える人もいる[102]。ジョージアでは、多くのレスリング・スタイルが普及しており、もっとも普及したスタイルのひとつとしてはカヘティ・スタイルが挙げられる。今日ではあまり行われていないスタイルも、過去には数多く存在していた。たとえばジョージア北東部のヘヴスレティ(グルジア語版)地方には、異なる3種類のレスリング・スタイルが存在している。
モータースポーツ

コーカサス地方で最初かつ唯一のサーキット競技は、ジョージアにて行われており、ルスタヴィ国際レース場(グルジア語版)は1978年に竣工した。その後、2,000万ドルの費用をかけて改築し[103]、2012年に再オープンしている。サーキットはFIA分類でグレード2の要件を満たし、現在はレジェンド・カー・レーシング(英語版)シリーズと、フォーミュラ・アルファ(英語版)大会を開催している[104]。
バスケットボール

バスケットボールもまた、ジョージアにおいて著名なスポーツのひとつであった。オタル・コルキア(ロシア語版)、ミハイル・コルキア(ロシア語版)、ズラブ・サカンデリゼ(ロシア語版)、レヴァン・モセシュヴィリ(ロシア語版)といった旧ソビエト連邦代表(ロシア語版)の著名な選手らがジョージアに所属した。ジョージアのBCディナモ・トビリシ(ロシア語版)は、1962年にヨーロッパ最高峰リーグFIBA欧州チャンピオンズカップで優勝した。

これまでに5人のNBA選手を輩出しており、ウラジミール・ステパニア(英語版)、ジェイク・サカリディス、ニコロス・ツキティシュビリ、トルニケ・シェンゲリア(グルジア語版)、そしてゴールデンステート・ウォリアーズ所属のザザ・パチュリア。その他の著名なバスケットボール選手としては、ユーロリーグで2度の優勝を果たしたギオルギ・シェルマディニ(グルジア語版)や、ユーロリーグ所属のマヌチャル・マルコイシュヴィリ(グルジア語版)、ヴィクトル・サニキゼがいる。また、バスケットボール男子代表は2011年以降、3大会連続で欧州選手権の予選を突破している。
著名な出身者
詳細は「ジョージア人の一覧」を参照 』

ロシア編入の住民投票中止南オセチア

ロシア編入の住民投票中止
南オセチア
https://nordot.app/904179134601641984?c=39546741839462401

『タス通信は30日、旧ソ連のジョージア(グルジア)からの独立を宣言している南オセチアのトップ、ガグロエフ氏が、ロシアへの編入の是非を問う住民投票を今年7月17日に行うとした前政権の政令を取り消したと伝えた。

 政令は5月13日、当時のトップで、ロシアへの編入に前向きだったビビロフ氏が退任直前に発出。ビビロフ氏は同8日に行われた南オセチアのトップを選ぶ「大統領選」決選投票でガグロエフ氏に敗れていた。

 24日に就任したガグロエフ氏は、ロシアとの協議が完全に整うまでは一方的に住民投票を強行すべきではないとの立場を取っている。(共同)』

首相直轄、感染症の司令塔爆発的拡大に対処、概要判明

首相直轄、感染症の司令塔
爆発的拡大に対処、概要判明
https://nordot.app/904113096178057216?c=39546741839462401

『政府が感染症の拡大防止や社会機能の維持など、幅広い施策を迅速に進めるための司令塔として設置を検討している「健康危機管理庁(仮称)」の概要が30日、分かった。

独立した省庁ではなく、首相を補佐する内閣官房の中で官房副長官クラスをトップとし、首相直轄の機関と位置付ける。爆発的な感染拡大などの緊急時には関係省庁から職員を招集、増員する。複数の政府関係者が明らかにした。

 このほか医療研究の拠点として国立感染症研究所など2機関を統合し、米疾病対策センター(CDC)をモデルとした「日本版CDC」創設も検討する。』

ウクライナ穀物輸出、トルコが協力意向 ロシアとも協議

ウクライナ穀物輸出、トルコが協力意向 ロシアとも協議
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR30CNM0Q2A530C2000000/

『【イスタンブール=木寺もも子】トルコのエルドアン大統領は30日、ウクライナのゼレンスキー大統領と電話協議し、ロシアが封鎖する黒海からウクライナの穀物を輸出するのに協力する意欲を伝えた。同日、エルドアン氏と電話協議したロシアのプーチン大統領も海上輸送でトルコと協力する用意があると表明した。

世界5位の小麦輸出国であるウクライナ産の穀物は、ロシアによる黒海、アゾフ海の封鎖で外国船籍の船も足止めされるなどして輸出に困難が生じている。価格上昇が起き、アフリカなど購買力の低い国が食糧危機に陥る可能性が指摘されている。

トルコの声明によると、エルドアン氏はゼレンスキー氏に対し、黒海で安全な航行ルートを確保して食糧を輸出することが重要だとの考えを伝えた。輸送のため、ウクライナとロシアに加えトルコと国連が参加する「センター」を黒海から地中海へのルート上にあるイスタンブールに設ける案が議論された。

ロシア側の発表によると、同日のプーチン氏とエルドアン氏の電話協議でも穀物輸出の問題が話し合われ、プーチン氏はトルコと協調することで海上輸送を妨げずに行う用意があると述べた。

トルコはロシア、ウクライナ両国と友好関係を維持しており、英国のウォレス国防相もトルコなど第三国が輸送船を先導する案に期待を示していた。ただ、ロシアはウクライナ産を含む黒海からの穀物輸出再開にあたり、米欧による制裁の解除を求めてきた。実現するかは不透明な面もある。

【関連記事】プーチン氏「制裁解除で穀物輸出も」 独仏首脳に

多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

竹内薫のアバター
竹内薫
サイエンスライター
コメントメニュー

別の視点

「世界5位の小麦輸出国であるウクライナ産の穀物は、ロシアによる黒海、アゾフ海の封鎖で外国船籍の船も足止めされるなどして輸出に困難が生じている」。

戦争は決して対岸の火事ではなく、食糧価格の高騰、地域によっては飢餓に至る恐れもあります。

トルコはいわゆる「欧米」ではないため、今回は仲介役になることができており、その立ち位置は貴重だと思います。

2022年5月31日 9:32

伊藤さゆりのアバター
伊藤さゆり
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
コメントメニュー

別の視点

ロシアの黒海封鎖で輸出できなくなっているウクライナ産農産物の輸出ルートの確立は開催中のEU首脳会議の議題の1つでもある。

プーチン大統領が、独仏首脳に突きつけた黒海を通じた「穀物輸送回廊」確保の条件は「制裁解除」だが、EUから見れば食料供給を武器とし、西側の結束を乱そうとするロシアが合意を確実に履行する保証もなく、受け入れられない。

EUの輸出ルート確立のための「連帯レーン」戦略は、鉄道や道路を通じたウクライナからEU圏内への輸送能力拡充、国境検問手続き円滑化など。黒海封鎖による迂回で生じた渋滞緩和は期待できるが、ウクライナの農産物の9割を占める黒海ルートを代替できるものではない。

2022年5月31日 8:21

渡部恒雄のアバター
渡部恒雄
笹川平和財団 上席研究員
コメントメニュー

ひとこと解説

ウクライナとロシアからの穀物の輸出停滞は、穀物価格の上昇と購買力の低い国での食糧危機を引き起こす可能性が懸念されており、深刻なリスクです。

そもそもアフリカ、中東、中南米では、ロシアへの制裁に参加しない国家がほとんどですが、欧米の制裁が自国に苦境をもたらすという認識が広がれば、ますます欧米の制裁への賛同は弱くなるという悪循環を引き起こすと思われますので、穀物の輸出停滞の解決は人道上も国際政治上も重要な課題だと思います。

2022年5月31日 8:17 』

ロシア前大統領「賢明だ」 米の長射程砲供与否定に

ロシア前大統領「賢明だ」 米の長射程砲供与否定に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB313T00R30C22A5000000/

『ロシアのメドベージェフ安全保障会議副議長(前大統領)は30日、自らの交流サイト(SNS)のアカウントで、バイデン米大統領が長射程の多連装ロケットシステムのウクライナへの供与を否定したことを「賢明だ」と評価した。

メドベージェフ氏は「ロシアの都市が攻撃された場合には、軍はその決定をした中核を攻撃する」と主張。その攻撃目標には「(ウクライナ首都)キエフ(キーウ)ではないものもある」と、強くけん制した。(共同)』

中国、太平洋諸国との安保合意見送り 対米関係配慮か

中国、太平洋諸国との安保合意見送り 対米関係配慮か
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM3016E0Q2A530C2000000/

『【シドニー=松本史、北京=羽田野主】南太平洋の島しょ国、フィジーを訪問中の中国の王毅(ワン・イー)国務委員兼外相は30日、地域10カ国の外相らとオンラインで「中国・太平洋島国外相会合」を開いた。中国が目指していた10カ国全体との安全保障協力の強化に向けた協定案は土壇場で合意が見送られた。秋の共産党大会を前に、米国を刺激して対米関係を悪化させるのを避けたとの観測も出ている。

中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は30日、同外相会合に書面でメッセージを寄せた。「国際情勢がどのように変わろうと中国はずっと太平洋の島国の良き友人だ」と強調。「中国と太平洋の島国の運命共同体を構築していきたい」と結んだ。

外相会合には中国と国交を持つ太平洋島しょ国の外相らが参加した。今回は2021年10月に続き2回目だ。

中国が目指した安保協力強化の合意に対しては、米国と安保上の関係が深いミクロネシア連邦が事前に書簡で「地域の安定を脅かす」と反対を表明していた。豪公共放送ABCは外相会合後、関係者の話をもとに「中国はいったん、提案について棚上げする」と伝えた。中国側は提案について今後も地域と交渉を続ける方針を示したとしている。

外交上のメンツをことさら重視する中国が自らの提案を棚上げするのは異例だ。緊張が高まる米中関係と共産党内の権力闘争が影響しているとの見方もでている。

党内では米国との対決も辞さない強硬派と、融和を探る穏健派が混在している。とくに今年の秋は習氏が3期目を目指す5年に1度の党大会があり、対米外交は大きな争点になり得る。バイデン米政権は米中首脳協議の開催を探っているとの観測がでており、太平洋で米国をこれ以上刺激しないように、いったん提案を棚上げした可能性がある。

実際に中国メディアはここのところ対米批判を抑制気味だ。中国共産党の機関紙、人民日報は28日付の重要コラム「鐘声」で「中国は米国と競争するつもりはなく、相互尊重を基礎に中米関係の発展に努めている」と主張した。首脳協議に向けて環境整備を進めているとみられる。

会合後に王氏と共に記者会見したフィジーのバイニマラマ首相は「中国は(外相会合に)参加した10カ国にとって重要なパートナーだ」と述べた。そのうえで「新たな地域協定に関する議論では、我々は常に(参加国の)意見の一致を優先する」との立場を説明した。
王氏は26日に訪問したソロモン諸島を皮切りに、キリバス、サモアを経てフィジー入りした。中国は4月に安保協定を結んだソロモンと病院建設に関する書面を交わし、キリバスではインフラ開発や医療品支援など10の文書に署名した。サモアとは外交関係強化に向け経済・技術面での協力で合意したほか、警察学校の建設に関する書面も交換した。

太平洋島しょ国と歴史的に関係が深いオーストラリアと米国はこうした中国の動きに警戒を強めている。23日に豪新首相に就任したアルバニージー氏は外相のウォン氏を26日からフィジーに派遣。ウォン氏は27日にバイニマラマ氏と会談した。

米国も26日、フィジーが米国主導の新経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」に参加すると発表している。秋の共産党大会終了後、地域を巡る米豪と中国の勢力争いは一気に激しさを増す可能性がある。

【関連記事】
・中国、太平洋の10カ国と安保協力模索 30日に会合
・気候変動対策、中国に期待 太平洋諸島協力機構トップ
・中国、南太平洋要衝で滑走路調査 米豪と対抗姿勢にじむ 』

中国軍機30機、台湾防空識別圏に侵入 1月以来の規模

中国軍機30機、台湾防空識別圏に侵入 1月以来の規模
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM30BNV0Q2A530C2000000/

『【台北=龍元秀明】台湾の国防部(国防省)は30日、戦闘機など中国軍の航空機が30機、防空識別圏(ADIZ)に侵入したと発表した。39機が侵入した1月23日以来の規模となる。5月23日の日米首脳会談や、日米豪印の4カ国の枠組みである「クアッド」の24日の首脳会議などに反発した可能性がある。

侵入したのは、中国の戦闘機「殲11」8機や「殲16」6機など。台湾の空軍機も緊急発進(スクランブル)して対応した。』

中国主導のアジア投資銀行、総会のロシア主催を変更

中国主導のアジア投資銀行、総会のロシア主催を変更
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM310T20R30C22A5000000/
 
 ※ ロシアは、出資比率:6.5% 議決権:5.9% ということだ…。

『【北京=川手伊織】中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)が、今秋に開く年次総会の主催をロシアから中国・北京市にあるAIIB本部に変更したことが31日分かった。オンライン形式で開く。ロシアのウクライナ侵攻に対する米欧の経済制裁など国際世論に配慮したとみられる。

7回目となる年次総会は10月26~27日に開催する予定だ。2021年10月の前回総会で、2022年はロシア主催で開くことを決めていたが、このほど変更した。

AIIBはすでにロシア向け投融資案件を止めている。ウクライナに侵攻した直後の3月初旬、ロシアとその協力国のベラルーシに関連する全ての活動を保留していると発表した。

総会のオンライン開催は、新型コロナウイルスの感染が広がってから3年連続となる。ウイルスを徹底して封じ込めようとする中国政府の「ゼロコロナ」政策が影響している可能性がある。

AIIBは16年1月に開業した。中国が最大の3割を出資し、増資など重要案件で拒否権を握る。今の加盟国・地域は105に上る。加盟国の半分が南米やアフリカなど域外で、欧州の主要国も参加している。日本や米国は参加していない。5月27日までに承認した投融資の件数は178件で、累計金額は350億ドル(約4兆5000億円)にのぼる。』

アジアインフラ投資銀行(AIIB)の概要
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9578214_po_0888.pdf?contentNo=1

米下院議長の夫逮捕 飲酒運転容疑、既に保釈

米下院議長の夫逮捕 飲酒運転容疑、既に保釈
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN30B120Q2A530C2000000/

※ 不祥事だ…。

※ 民主党には、痛手なのか…。

『【ワシントン=共同】複数の米メディアは29日、ペロシ下院議長の夫ポール容疑者(82)が西部カリフォルニア州で28日に飲酒運転をした疑いで地元警察に逮捕されたと報じた。保釈金5千ドル(約64万円)を納めて29日に保釈されたという。

ペロシ氏は当時、別行動しており、東海岸に滞在していたという。』

スペースX、衛星ネットでフィリピン参入へ 東南アで初

スペースX、衛星ネットでフィリピン参入へ 東南アで初
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM308WK0Q2A530C2000000/

 ※ 『有線のインフラ整備に時間とコストを要する島しょ国にあって、衛星の強みを生かして各地の通信手段の確保にもつながる見通しだ。』…。

 ※ フィリピンだけの話しじゃ無いな…。

『【マニラ=志賀優一】米起業家イーロン・マスク氏率いる宇宙企業スペースXが衛星インターネットサービス「スターリンク」でフィリピンに参入する。同国の国家電気通信委員会が27日、サービスの提供・運営を許可したと発表した。スターリンクの東南アジア展開は初めて。フィリピンを皮切りに従来の欧米などから事業エリアを広げる。

事業の認可を取得したのはスターリンク・インターネット・サービシズ・フィリピン。マスク氏も「スターリンクがフィリピンで承認された」とツイッターに投稿した。

フィリピン当局はサービスの提供開始時期について「数カ月」の内だとしている。スターリンクはほかの東南アジア諸国でも2023年ごろにサービスを開始するとみられる。

スターリンクは衛星通信を活用して高速・低遅延のネットサービスを提供。ロシアの侵攻を受けたウクライナの通信の一翼を担ったことでも知られる。マスク氏は今回、フィリピンのほか、アフリカのナイジェリアとモザンビークでも事業の申請が承認されたと明らかにした。

フィリピンは国民の1日あたりのネット利用時間が10時間を超え、東南アジアで最も長いとの調査がある一方、データ通信速度の遅さが課題となっている。有線のインフラ整備に時間とコストを要する島しょ国にあって、衛星の強みを生かして各地の通信手段の確保にもつながる見通しだ。』

Q. 短期復旧の新阿蘇大橋、強風でクレーンが使えず資材運搬をどうした?

Q. 短期復旧の新阿蘇大橋、強風でクレーンが使えず資材運搬をどうした?
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00647/052700057/

『震度7の前震と本震で熊本県を震撼(しんかん)させた熊本地震から5年。阿蘇大橋の崩落や斜面崩壊のあった同県南阿蘇村では復旧・復興が進み、新しい阿蘇大橋(以下、新阿蘇大橋)は着工からわずか4年の2021年3月に開通しました。

 新阿蘇大橋の渡河部の橋長は345m。深い谷底に3つの橋脚を建てる必要がありました。

当初設計では斜面上に仮設する「段差桟橋」の上で、クレーンを用いた掘削土砂の搬出や資機材の運搬を想定していました。
当初の段差桟橋のイメージ。渓谷が深いため、急斜面の上下に桟橋を設置する想定だった
(資料:大成建設)
[画像のクリックで拡大表示]

 ところが、架橋地点は阿蘇外輪山の切れ目に位置するため、年間を通じて強風が吹き込みます。「クレーン等安全規則」によると、10分間の平均風速が毎秒10m以上でクレーン作業を中止しなければなりません。この規則に基づき、実際の現場では安全側に運用して平均風速が毎秒7mで規制をかけるのが一般的です。

 この現場では1週間に3日ぐらいの頻度で、毎秒7m級の風が吹いていました。深礎工で発生する土砂や資機材を安定して運搬するために、どのような方法を採用したのでしょうか。

1、森林工事などで用いる工事用モノレールを設置した
2、斜面のレール上を台車が昇降するインクラインを設置した
3、クレーンの周囲に風よけとなる壁を設置した 』

『正解はこちら

2.斜面のレール上を台車が昇降するインクラインを設置した

写真左手に見える黄色の台車がレール上を動く。トレーラーやダンプトラックなどを2台まで積める(写真:大成建設)
[画像のクリックで拡大表示]

 新阿蘇大橋の渡河部の上下部工事を担当した大成建設・IHIインフラ・八方建設地域維持型建設共同企業体(JV)で、現場代理人を務めた大成建設本社土木技術部橋梁設計・技術室の長尾賢二課長は、こう話します。「橋梁工事では実績がなかったインクラインを採用した。60tの積載能力を有する国内最大級の規模だ」。

 インクラインとは、斜面に敷いたレールの上を動く台車で物を運ぶ装置です。新阿蘇大橋で使った台車のサイズは14m×9m。2台の大型車両を載せられます。移動に必要な時間は片道で6分ほど。「作業の中断なく資機材の運搬を進められ、工期短縮に大きな効果があった」。大成建設JVで監理技術者を務めた同社関西支店土木部土木技術部技術室の藤本大輔課長は、こう話します。

 崩落した阿蘇大橋の長さは約206m。渡河部が鋼トラスド逆ランガーの構造形式でした。被災直後は近くの斜面崩壊の土砂が、橋をのみ込んだと推測されていました。しかし、その後の土木学会の調査によると、右岸側を走る推定活断層が動いて、地盤が橋を圧縮させる方向にずれて崩落した可能性が高いことが分かりました。

阿蘇大橋と新阿蘇大橋の位置。布田川断層の位置は国土地理院の活断層図を基にした(資料:日経コンストラクション)
[画像のクリックで拡大表示]

新阿蘇大橋の耐震設計の工夫点。橋の縦断勾配の表現は省略した。国土交通省の資料に日経コンストラクションが追記
[画像のクリックで拡大表示]

 新阿蘇大橋の計画・設計では、熊本地震と同規模の地震が起こっても甚大な被害を避けられるよう工夫を施しました。

例えば、推定活断層による変位の影響を少しでも抑えるために架橋位置を下流側にずらして、橋の線形を断層とできるだけ直交するように設定。さらに、落橋しにくいプレストレスト・コンクリート(PC)ラーメン構造形式を採用しました。他にも、断層がずれたときに落橋を防ぐため、まず支承を壊すように設計されています。』

『超大型移動作業車で桁架設

 黒川の渓谷に建設する3つの橋脚の高さは、左岸側から49.5m、97m、75m。いずれも巨大な構造物となります。在来工法による施工では足場や型枠の組み立てに時間を要するため、「ACSセルフクライミングシステム工法」を採用しました。既設部から反力を取り、一体となった作業足場と型枠を油圧ジャッキでレールに沿って上げていく仕組みです。

 片持ちの張り出し架設工法で施工していく橋桁には、一般的な移動作業車の3倍の容量を持つ超大型の移動作業車を使用しました。ブロックの大型化を可能にして施工数を減らし、施工日数を短縮しました。
「ACSセルフクライミングシステム工法」による橋脚の施工状況(写真:大成建設)
[画像のクリックで拡大表示]
PR2から桁を張り出している様子。桁の先端に超大型の移動作業車が見える(写真:大成建設)
[画像のクリックで拡大表示]

 「橋梁工事でインクラインを使った経験はなかったが、ダムの現場などで十分な実績がある。ACSセルフクライミングシステム工法や超大型の移動作業車は、他のゼネコンやメーカーが工事で取り入れている。信頼性の高い既往の技術を軸にして工期を短縮した」と長尾課長は話します。

 発注者が新阿蘇大橋の入札当初から希望していたのは、「新阿蘇大橋の20年度内の開通」でした。一時は新阿蘇大橋での設計変更や他の土工事などの影響で20年度内の開通が危ぶまれましたが、結果的に大成建設JVが技術提案した1年4カ月の工期短縮案が生きて悲願を達成できました。』

出木場久征(いでこば ひさゆき)

出木場久征(いでこば ひさゆき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%9C%A8%E5%A0%B4%E4%B9%85%E5%BE%81

『出木場 久征(いでこば ひさゆき、1975年〈昭和50年〉4月22日 – )は、日本の実業家。株式会社リクルートホールディングス代表取締役社長兼CEO。』

『経歴

鹿児島県出身。早稲田大学商学部卒業後、1999年にリクルート(現・リクルートホールディングス)に入社。

旅行領域や美容領域をはじめ、数々の情報誌のネットメディア化、オンライン予約一般化等、デジタルシフトを牽引した。

2012年に執行役員就任後、同年自身が買収を推進したIndeedのチェアマンに就任。

同社のCEOとプレジデントを経て、2016年よりリクルートホールディングス常務執行役員、2018年より専務執行役員としてHRテクノロジー事業を急速育て、グループのグローバル化を強力に推進した。

2019年に取締役就任、2020年より副社長執行役員を兼任し、ファイナンス本部、事業本部(COO)を担当。2021年より代表取締役社長兼CEO。

略歴

1999年3月 早稲田大学商学部卒業
1999年4月 株式会社リクルート(現・リクルートホールディングス)入社
2012年4月 株式会社リクルート(現・リクルートホールディングス)執行役員 R&D、グローバル本部・アジアジョブボード担当
2012年9月 Indeed, Inc. チェアマン
2013年10月 Indeed, Inc. CEO兼チェアマン
2015年10月 Indeed, Inc. CEO
2016年4月 株式会社リクルートホールディングス常務執行役員 グローバルオンラインHR SBU(現 HRテクノロジーSBU)担当
2018年1月 株式会社リクルートホールディングス専務執行役員 事業本部(COO)担当、RGF OHR USA, Inc. CEO and Director(現任)、RGF Staffing B.V.(2019年11月にRecruit Global Staffing B.V.から社名変更)Chairman and Director(現任)
2018年4月 株式会社リクルート取締役(現任)
2019年4月 株式会社リクルートホールディングス専務執行役員 経営企画本部(CSO)、管理本部(CRO)、事業本部(COO)担当、Indeed, Inc. Director(現任)
2019年6月 株式会社リクルートホールディングス取締役 兼 専務執行役員 経営企画本部(CSO)、管理本部(CRO)、事業本部(COO)担当
2020年4月 株式会社リクルートホールディングス取締役 兼 副社長執行役員 ファイナンス本部、事業本部(COO)担当
2021年4月 株式会社リクルートホールディングス代表取締役社長 兼 CEO(現任)[1]

現職

株式会社リクルートホールディングス代表取締役社長 兼 CEO
Indeed, Inc. Director
RGF OHR USA, Inc. CEO and Director
RGF Staffing B.V. Chairman and Director 』

リクルート社長、最高益も反省 求人サイト改革急ぐ

リクルート社長、最高益も反省 求人サイト改革急ぐ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC274CZ0X20C22A5000000/

『リクルートホールディングス(HD)は2022年3月期連結の売り上げ、利益いずれも過去最高となった。だが、出木場久征社長兼最高経営責任者(CEO)は決算説明会で反省の弁を語った。新型コロナウイルス禍を受けてテクノロジー人材の採用を抑えていたが、続けるべきだったと話す。

「今後の多くのイノベーションのチャンスを考えると、一定規模のテクノロジー人材の採用は、長期目線をもって継続しておくべきだった」。出木場氏は5月16日、22年3月期決算の説明会でこう話した。

リクルートHDはコロナ禍の中で、12年に買収した米求人検索サイト会社、インディードなどHRテクノロジー事業の採用を抑制してきた。コロナ流行初期の20年度は4~6月期の新規採用をストップ。その後、採用を再開したものの例年より少なくなった。
「テクノロジー人材の採用は、長期目線をもって継続しておくべきだった」と語った出木場久征社長兼最高経営責任者(CEO)

多くの企業が、世界経済の展望が見えない状況の中、目の前で必要というわけではない人材の採用には慎重になった。企業として合理的な判断ともいえる。

それでも出木場氏が人材確保を続けておくべきだったと語る理由の一つに、コロナ禍で経済のオンライン化が進み、IT(情報技術)人材の争奪が一段と激しくなっていることが挙げられる。

ある証券アナリストは「米アマゾン・ドット・コムや米マイクロソフトなど大手とすでにエンジニアの奪い合いとなっており、今後さらに優秀な人材を採用することが難しくなると予想される。そうしたことを考えると、もっと積極的に取っておけばよかったという気持ちがあるのでは」と話す。


追い風はいつまでも続かない

リクルートHDの22年3月期連結業績は、売上高にあたる売り上げ収益が前の期比26.5%増の2兆8717億円、純利益は2.3倍の2968億円と、いずれも過去最高となった。

背景にあるのはHRテクノロジー事業の成長だ。同事業の調整後EBITDA(利払い・税引き・償却前利益)は4.4倍の2931億円で、リクルートHD全体の6割以上を占める。CLSA証券の加藤純アナリストは「想定以上の伸びだった」と振り返る。

HRテクノロジー事業の売り上げが75%以上を占める米国では、経済が活性化する中で採用ニーズが増加するなど労働市場の需給がひっ迫し、業績を押し上げた。

23年3月期連結の売上予想は15%増の3兆3000億円で、HRテクノロジー事業は10~20%の増収を見込む。

ただ、リクルートHDは追い風がいつまでも続くとは見ていない。

決算資料では「労働市場の需給の乖離(かいり)は23年3月期を通じて次第に縮小していくことを想定している」と明記。UBS証券の福山健司アナリストも「22年度後半には落ち着いてくるのではないか」と指摘する。

だからこそ重要になるのが、中長期で掲げるインディードのビジネスモデルの変革だ。出木場氏が人材確保を続けておくべきだったと語る戦略上の事情がここにある。
リクルートHDはHRテクノロジー事業の従業員数を大幅に増やす予定だ

現在のインディードの事業は、求職者が企業の求人情報を閲覧するたびに料金を得る「クリック課金」型のモデル。求人情報をクリックすれば、採用につながらなくても収益を得られる。これを改め、優秀な人材が面接に至ったり採用されたりといった実績に応じて見返りを得る「成功報酬」型に近いかたちへシフトするビジョンを示す。

出木場氏は「1採用当たりでいうと給料の1%も課金できていない。何とかしてこれを2%、3%としていく」と収益拡大を狙う。現在は採用、不採用にかかわらず一定の金額を得ているが、採用された場合などに一段と高い金額を得られる仕組みを整え、収益を増やす。

この変革はインディードを利用する企業にとってもメリットとなり得る。クリック課金型での支払いに企業からの不満がないわけではなく、「今後は成果が出ないサービスには課金してくれなくなる可能性もある」(アナリストの福山氏)。リクルートHDはそうした流れも読んで、事業の舵(かじ)を切ろうとしている。

「瞬時にマッチング」が理想

リクルートHDが新たな事業モデルで収益を出すには、求職者と企業とのマッチングの成功率を向上させる仕組みが欠かせない。人工知能(AI)の活用などで、「より短期間に」「最適な相手と結び付ける」必要がある。そこには同社が以前から掲げる「ボタンひとつで就職できる世界」という理想がある。そうした道筋のためにテクノロジー人材が必要なのだ。

HRテクノロジー事業の22年3月時点の従業員数は約1万3000人。23年3月期には新たに4000人規模で採用していく予定だといい、広告宣伝費も含め約1000億円の費用増加を見込む。
会見で反省の弁を語った出木場氏。インディードの再加速に向けた強い意志が読み取れる。

(日経ビジネス 藤中潤)

[日経ビジネス電子版 2022年5月27日の記事を再構成]』

「習近平失脚」というデマの正体と真相

「習近平失脚」というデマの正体と真相
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220530-00298521

『なにやら習近平が失墜し李克強が格上げされているというデマが横行している。そもそも中国の政治体制を知らない人たちの願望でしかないが、いかにして中共中央総書記が選出されるかを解説したい。

◆習近平失脚への願望

 なにやらアメリカ発の習近平失脚願望がデマを流し、日本の一部の「中国研究者」がそれに飛びついた。

 今回のデマの出元は海外在住の「老灯(Lao-deng)」という中国人で、彼はツイッターでさまざまな反中反共情報を流している。特に5月5日に流した「習下李上(習近平が下馬し、李克強が上位に立つ」は一部のネットユーザーを喜ばせて、「習下李上」という言葉がもてはやされている。

 少し前まで、この役割を果たして人気を得ていたのがアメリカに逃亡した郭文貴という中国人で、彼は偽情報を創りあげては「これは中国の国家安全関係者から得た情報だ」と宣伝し、「金づる」を求めていた。

 そこに飛びついたのがトランプ政権時代初期に主席戦略官を務めたことがあるスティーヴン・バノンで(7ヶ月間で解任)、筆者はバノン氏から何度か取材を受けたりした関係から、バノン氏には「郭文貴とつながるのは危険だ」と伝えたが、二人とも別々の理由で逮捕されたりして、郭文貴は消えた。

 すると、次の郭文貴になりたいという海外(特にアメリカ)在住の華人華僑が現れる。自分は中国政府のインサイダー情報を持っているとして、大衆が喜びそうなデマを流して金を稼ぐのである。

◆李克強は習近平以上にガチガチの中国共産党員

 そういった情報に飛びついて「尾ひれ」を付けたがるのが、日本の一部の「中国研究者」であり、日本メディアだ。これは「中国庶民の不満の表れだ」とか「背後には反習近平勢力」とか「権力闘争」だとか、言いたい放題だ。

 しかし、勘違いしてはいけない。

 李克強はれっきとした「中国共産党員」で、しかも「ガチガチ」である。「がり勉さん」なので、融通が利かない。

 習近平が下馬すれば、中国大陸の八大民主党派の「中国国民党革命委員会」とか「台湾民主自治同盟」などの党首が、習近平に取って代わるわけではない。中国は中国共産党が統治する一党支配体制であることに変わりはないので、何も喜ばしいことはないのである。

 日本人は李克強がまるで個人の意思で何か発言していると勘違いして「習近平が失墜して李克強の人気が上昇している」とか「李克強が習近平をガン無視」といった類のことを書いては喜んでいるが、李克強はあくまでもチャイナ・セブン(中共中央政治局常務委員会委員7名)の合意の結果の一つを発表する役割をしているだけで、そこには寸分たりとも「個人の意思」はない!

 「個人の言葉」は皆無なのである。

 「分工」と言って、チャイナ・セブンの中で決めたことを、誰がどのような形で発表し実行していくかという「職掌」に沿って動いているだけである。

 おまけに李克強はすでに今年の全人代閉幕後の記者会見で「これが最後となる」と、自ら「退官」の意思を表明した。

 これも、そのようなことを公表して良いか否かは、事前にチャイナ・セブンで決めてから意思表明しているのだ。

 加えて、李克強は軍事委員会において、現在はいかなる職位も持っていない。

 したがって、あらゆる側面から見て、習近平に代わって李克強が今年秋に開催される党大会で「中国共産党中央委員会(中共中央)総書記」に選ばれる可能性はゼロである。

◆中共中央総書記は如何にして選ばれるのか?

 中国では特殊な政治制度の下で中国共産党による一党支配制度が実施されており、西側諸国のような普通選挙が行われているのではない。

 したがって、日本でよく「ゼロコロナに失敗したら、習近平の三期目に影響するので習近平は党大会が終わるまでは変えることができない」といった種類のことを大手メディアまでが言っているが、これは西側諸国の感覚が生む「幻想」に近い勘違いだ。

 誰を中共中央総書記に選ぶのかに関しては、14億の中国人の内、「約200名」の中共中央委員会委員にしか投票資格がないのである。

 このことを知らないために、「中国人民」が「中共中央総書記の選挙結果」に影響を与えるような「大きな錯覚」を持ち、大手メディアまでが「習近平三期目に大きな影響を与えるので・・・」といった類の解説をするのは罪作りなことである。

 では、どのようにして、「中共中央総書記」が選ばれるのか、その基本的プロセスをご説明する。

 中国には14億の人民がいるが、そのうち約1億人(正確には2021年6月5日の統計で9514.8万人)の中国共産党員がいる。

 この内の「約3000人」が全国代表として全国津々浦々の行政区分地区から選ばれた「全国代表」として、5年に一回開催される党大会に参加する。

 この3000人の中から「中共中央委員会委員約200人」を選ぶのだが、その選び方は基本的に党大会の全国代表を選ぶ選出母体が、割り当てられた「候補者」をノミネートする。

 ノミネートされた者が適切であるか否かは、現任の総書記をトップとした「中央組織」が再審査監督をするので、結局は、現在で言うならば、「習近平・中共中央総書記」が最終判断をすることになる。

 かくして厳選された「中共中央委員会委員候補者リスト」が党大会で配布され、一人一人に対して「賛成」、「反対」、「棄権」の3つのボタンの内のどれか一つを押して「投票」をする。

 候補者リストは「差額選挙」と称して、もし委員200人を選ぶとすると、110%ほどの名前をノミネートするので、10%の人は落選することになっている。差額の数値は、その時々で違ってくるが、10%前後の超過人数分をノミネートするのが通例だ。これを以て「党内民主」と称し、「民主的な選挙」が行われていると中国共産党は胸を張っている。

 党大会が閉幕すると同時に一中全会(中共中央委員会第一次全体会議)を開催して、そこで中央委員会委員が投票して中共中央総書記を決める。

 翌年の3月に開催される全人代(全国人民代表大会)で国家主席に選出され全過程が終わる。

 忠腰痛王委員会委員の任期や選出方法に関して、たとえば「中国共産党中央委員会工作条例(2020年9月28日、中共中央政治局会議批准、2020年9月30日中共中央発布)のようなものがあり、党規約にも書いてあるが、筆者が本コラムで書いたような具体的な選出方法は明らかにしていない。

 ここで重要なのは、今年秋の党大会で「次期中共中央総書記」に関して投票する資格を持っているのは、習近平の「指導」の下で選ばれた中共中央委員会委員候補者で、その中から選ばれた中共中央委員会委員であることを考えると、習近平が継続して総書記になることに反対する者が、その候補者リストの中に入っているということはほぼ「あり得ない」ということである。

◆習近平の「紅いDNA」には誰も及ばない

 中華人民共和国誕生に当たって、習近平の父親・習仲勲が果たした役割は、実際上、毛沢東を越えると言っても過言ではないほど大きい。習近平は革命第一世代のほぼ唯一の、現在も活躍している直系の生き残りだ。彼以上に「紅いDNA」を持った男は、いま中国にはいないと言っていいだろう。

 1934年から36年にかけて毛沢東が蒋介石率いる国民党軍に追われて北西方向に逃げていったとき(すなわち、長征のとき)、全中国に設立していた革命根拠地は延安がある陝甘革命根拠地(のちの西北革命根拠地)しか残っていなかった。それを建設したのは習仲勲たちである。あの西北革命根拠地がなかったら、共産党軍(紅軍)は完全に国民党軍に殲滅され、毛沢東は生き残っていなかっただろう。

 ということは、中華人民共和国が建国されることもなかったということになる。

 だから毛沢東はこの上なく習仲勲を大切にし、後継者の一人に考えていた。

 そのことに激しい嫉妬と不安を抱いて警戒したのが鄧小平だ。

 鄧小平は、さまざまな陰謀をめぐらして習仲勲を1962年に冤罪で失脚させてしまう。16年間に及ぶ監獄・軟禁生活を終えて、華国鋒と葉剣英の力を得て1978年に広東省に派遣され習仲勲が対外開放路線を実施したところ、その功績は全て鄧小平が自分の功労として持っていき、1990年に再び習仲勲を失脚させた。

 この事実を正視することなく、習近平がなぜ第三期目を狙っているかを理解することは不可能であると断言できる(詳細は拙著『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』)。
 なお、朱鎔基が習近平三期目就任に反対するという声明(朱九条)をネットで公開したという情報が流れたが、これは捏造である可能性が大きい。朱鎔基と江沢民の仲がどれだけ悪かったかを知っている人なら、ここに江沢民の大番頭である曽慶紅の名前が(高く評価すべき人物として)出てくること自体が荒唐無稽であり、習近平を江沢民に推薦したのは、ほかならぬ曽慶紅である。他の内容から見ても、史実を知らない最近の若者が捏造したものとしか思えない。

遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略 世界はどう変わるのか』(4月16日出版、PHP)、『裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史  習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『卡子 中国建国の残火』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。』

楽園実験という恐ろしい試み 机上空間

楽園実験という恐ろしい試み 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28812757.html

『 人間が環境実験を行う場合、マウスを使う事が定番です。人工的に、一定の条件の環境を整えて、それが動物にどういう影響を与えるのか、擬似的に観察するわけですね。過去に、様々な実験が行なわれましたが、1960年代にアメリカで行われた実験に、ユニバース25という楽園実験があります。

実験のテーマは、生存に最適な環境(楽園)に、マウスを住まわせると、どのような社会が形成されるのか観察するというものです。さて、実験である以上、楽園を定義しなければいけません。この場合、楽園の定義は、以下のように定められました。

・住居の確保
・食料不足の解消
・生存に適した天候の保証
・病気の発生しにくい衛生状態の維持
・捕食者の排除

具体的には、256の居住区と、16の巣穴からなる、最大3000匹以上のマウスが収容可能な実験場を作り、食料と水は無制限に与えて、病気が発生しない衛生的な環境を維持し、最適な気温に保たれ、天敵が侵入しない環境を整えました。

この広大な施設に、オス・メス4組の計8匹のマウスを放ちます。マウスの寿命は、平均で800日で、人間の寿命に換算すると80歳になります。つまり、10日で一年という事ですね。実験開始から、104日後に最初の子供が誕生し、55日毎に個体数が倍増していきます。そのまま、ネズミ算式に個体数が増えるわけですね。

ここまで、個体数が増えると、ネズミの群れに社会が構成されます。実験場は、十分な広さがありますが、特定のエリアに集まるグループが構成され、同じ食料源から餌を食べるようになります。そして、分かれたグループ間で、格差が発生します。群れの人数は、100匹単位から、十数匹まで、様々で、大きい群れでは、密集状態からストレスが発生し、群内での権力争いが発生し、群れ同士の縄張り争いも生じます。

群れの中には、行動によってピラミッド構造の階級が構成されます。トップにいるのは、リーダー・タイプで、行動は保守的、地位が盤石で、好戦的な行動は、しません。次の階級が、士官タイプ。地位の上下を巡って、他の士官タイプのマウスと常に交戦し、地位が安定しません。ここまでが、支配階級です。

次の多いのが、派閥に属せず、相手構わず交渉を持つ穏便なタイプ。支配階級に攻撃されても、反撃する事は殆どなく、穏やかな性格をしています。次に多いのが、ストーカー・タイプ。大人しいのは、同様なのですが、繁殖に対する執着が強く、常に誰かを追い回して交渉をしようとします。そして、ピラミッドの最下層階級で、最も数が多いのが、引きこもりタイプです。性格は周りに対して、無関心で、行動は孤立しています。単体で過ごす時間が長く、他のマウスが眠っている間に、飲み食いに動き回ったりします。

通常、自然界では、生存を巡って闘争するのが普通であり、支配階級以外の従属階級は、生きていく事ができません。しかし、実験場は楽園環境なので、闘争をしなくても、生きていけます。また、闘争したくなければ、別の場所に移動するだけです。しかし、楽園から出る事もできないので、イレギュラーな存在として、生存し続ける事になります。

やがて、群れは停滞期を迎えます。個体の倍増スピードが、55日から145日に鈍化します。そして、支配階級とツガッたメスは、子育てが上手で、子マウスの生存率が50%だったのに比べ、従属階級のメスは、子育てが下手で、育児放棄も起こり、子マウスの生存率は10%まで低下しました。

さらに、無気力な従属階級では、オスが闘争しない為、メスのオス化が進み、攻撃的な行動が見られるようになります。この攻撃は、自分の子供にも及び、早い段階で巣離れせざるを得なくなり、生きる手本のいない子マウスは、引きこもりになったり、他のマウスに食われたりします。

そして、とうとう、実験開始から560日後、死亡率が出生率に並び、個体数の増加が完全に停止します。この時の、マウスの総数は2200匹です。実験開始から600日後、とうとう新生児の死亡率が、100%に達します。そして、920日後には、群れ全体の高齢化が進み、妊娠するマウスがいなくなります。

実験開始から、1330日後、楽園の生存者の平均年齢は、776日(人間換算で76歳)に達し、超高齢化社会になります。そして、1780日後に、最後のオスが死亡し、楽園のマウスは全滅します。

楽園の群れに異変が起きた原因は、格差と階級が生まれた事でしたから、個体数が減少すれば、また群れが再生するような気もしますが、実際には、二度と復活しませんでした。その原因は、個体数の増加が止まった頃には、殆どの新生児マウスが、従属階級の引きこもりマウスに育っていて、そもそも生殖に関心が無く、社会的に去勢された状態になっていました。

この社会実験のユニバース25は、その名前の通り、25回繰り返されました。その中で、違う結果になった事は、一度もなく、全ての実験で、最終的に群れは全滅しました。生存が保証された、楽園という世界が誕生しても、生物は生存する事に興味を失ってしまい、最終的には絶滅する事がマウスの実験で証明されました。

この実験から何を感じるかは、人それぞれでしょうが、とても恐ろしい話だと思います 。』

リチウム最大埋蔵地は物騒なコンゴの山奥だった

『~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)5月31日(火曜日)
        通巻第7353号  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 リチウム最大埋蔵地は物騒なコンゴの山奥だった
   南東部マノノ鉱山で4億トンのリチウム=世界最大の埋蔵量
****************************************

 EVブーム。さらに補助金がつくので軽EVは180万円台。東京都からの補助金を加えると、130万円台で、軽EVを買える。おりからガソリン高騰、EV懐疑論をよそに売れ行きが伸びているそうな。

 しかしEVの死命を制するのはリチウム・イオン電池とコバルトである。電池の質そのものは大きなイノベーションが相次いで、位置も車底におかれてスペース問題は解決した。
またEVスタンドも増えている。乾電池業界ではかなり以前からリチウム・イオン電池は、マンガン電池の十倍のパワーがあるとして重宝されてきた。

 これまでは南米とジンバブエなど南半球で鉱山開発がすすみ、カナダの企業が南米産の採掘、運送、精製、販売を手がけてきた。豪は原石のまま、中国へ輸出し、精製をまかせてきた。
鉱石から精製されるのは6%でしかなく、残りは産業廃棄物だ。なぜ、こういう非効率的なプロセスなのかと言えば、西側がとりつかれた「脱炭素」である。
地球温暖化は嘘とわかっているのにカーボンゼロ実現などと、異様な構造を生み出した。ちなみに佐渡金山は廃れたが、日本でも鹿児島に菱刈金山があって、住友金属鉱業は金を含有する鉱石をトラックで港に鹿子木まで運び、そこで精製している。

 四億トンのリチウム埋蔵が確認されたのはコンゴ南東部マノノ。タンガニーカ県に属し、最近は近くに空港も出来た。地理的には内陸部だが、ルクシ川を利用する船の水運が開けている。
問題は部族が乱闘、戦闘をくりかえすので、治安の悪さが鉱山開発を妨げていることである。

 近くのコバルト鉱山では中国人の鉱山技師や現場監督の誘拐、殺害事件が後を絶たず、治安部隊は信用がなく、まして現地は部族同士の争いが絶えない。採掘利権をめぐって部族同士が戦闘を繰り返してきた。

コンゴ民主共和国が嘗て「ザイール」を国名としていたときの独裁者はモブツ・セセ・セコ(大統領在任は1965~1997)、世界最大のコバルト産出を誇り、利権獲得の腐敗がはびこった。コバルトはハイテク材料に欠かせない戦略的鉱物資源とはわかっていたが、今日ほどの需要はなかった。
1990年代にITブームが来て、レアアースに焦点が移行した時期もあった。

 ちなみにレアアースは80%を中国が生産するが、埋蔵世界一はアメリカだ。脱炭素、クリーンエネルギーとかで、石炭まで制限されている西側ゆえに、アメリカにおけるレアアース鉱山の開発は手がつけられないままである。
だから脱炭素は中国とロシアが裨益する。とくに石炭火力発言を増やし公害をまきちらして、平然と環境破壊、重労働を気にもしないで生産できる中国は、西側のアキレス腱を握っていることになる。
 
 コバルト埋蔵はコンゴのほかにはカナダで生産されている。日本ではエンジンの触媒や高速切断に使われた。EVブームがきて、リチウム・イオン電池のスペックが替わり、むしろリチウム需要が天文学的となった。

 コンゴの奥地、マノノはダイヤモンド鉱床に付帯して露天掘りというが、はたして内陸部からゲリラを戦いながら長距離を運ぶわけだから、西側において末端価格は暴騰するに決まっている。

 さて国際政治における問題は何かと言えば、レアアースとレアメタルの供給が中国に握られていること。アルミとニッケルはロシア企業が強いことである。
 そして皮肉なことにリチウム・イオン電池メーカーは日本勢が圧倒的につよくパナソニック、TDK、村田製作所、昭和電工、エクセルなどが競う。近年は中国のCATL、韓国のLG化学などの猛追が顕著になってきた。

     □◎○☆み○◎☆○や○☆△○ざ☆○◎◎き◎△☆□   』

中国水力発電「三峡集団」、蓄電事業に参入の思惑

中国水力発電「三峡集団」、蓄電事業に参入の思惑
https://toyokeizai.net/articles/-/591502

『中国の国有発電大手の中国長江三峡集団(三峡集団)が、主力事業の大規模水力発電所(の建設・運営)以外の成長機会を模索している。その有力候補の1つが(リチウムイオン電池を用いた)蓄電事業の展開だ。

三峡集団の子会社の三峡水利電力は5月12日、リチウム大手の贛鋒鋰業(ガンフォンリチウム)、水力発電大手の中国長江電力、投資ファンドの長江緑色発展基金と共同で総額20億元(約380億円)を出資し、蓄電事業と電池リサイクルを手がける新会社を設立すると発表した。

出資者のうち贛鋒鋰業を除く3社は、いずれも三峡集団の傘下企業だ。出資額は贛鋒鋰業が6億元(約114億円)、残る3社が合計14億元(約266億円)。将来的には資本金を50億元(約949億7000万円)に引き上げることも検討している。
大規模水力発電所の新設難しく

現時点では、蓄電事業で利益を上げることはまだ難しい。蓄電システムの導入コストが非常に高いことに加え、市場メカニズムが有効に機能するビジネスモデルが確立していないためだ。三峡集団による今回の新会社設立は、将来を見据えた先行投資と言える。

「中国国内では、発電設備容量1000万キロワット級の水力発電所の建設候補地が枯渇に近づいている。今後の開発はますます難しくなり、コストも上昇するだろう」

三峡集団の雷鳴山董事長(会長に相当)は、2021年6月にメディアの取材に対してそう語り、今後の経営戦略について次のように述べた。

「わが社の総力を挙げて再生可能エネルギー事業を発展させ、主力事業(の1つ)に育てたい」
本記事は「財新」の提供記事です

しかし、再生可能エネルギーは(天候などに左右されて)出力の変動が大きいという弱点がある。それを補完し、(需要に応じた)フレキシブルな電力供給を実現する切り札として期待されているのが、大規模な蓄電設備なのである。

言い換えれば、電力供給企業は再生可能エネルギーと蓄電設備を組み合わせることで初めて、需要家の様々な要望に対応した高効率のサービスを提供できる。三峡集団の長期的な狙いはそこにあると言えそうだ。

(財新記者:蘆羽桐、陳雪婉)
※原文の配信は5月14日 』

この大都市で兵隊を募るようになったら、いよいよ露軍はマンパワーが尽きかかっている。

この大都市で兵隊を募るようになったら、いよいよ露軍はマンパワーが尽きかかっている。
https://st2019.site/?p=19686

『 Kamil Galeev 記者による2022-5-29記事。
   サンクトペテルスブルグの宮殿広場で、通行人相手に、軍が入隊勧誘のキャンペーンをしている。
 この大都市で兵隊を募るようになったら、いよいよ露軍はマンパワーが尽きかかっている。

 宮殿広場は、「冬宮」と、参謀本部司令部の中間に位置している。

 プーチンは5-9に総動員令を発令しなかった。ロシア各地の徴兵拠点に反戦的な二等兵ばかり何十万人も溜まるようになったら、ロシア革命のときと同じ反政府暴発が起きるからである。

 そのかわり、地方で集めた新兵を連隊所在地などに滞留させることなく、すぐさま最前線へ送ってしまうという、目立たない動員をかけている。

 今次戦争前の地方人の収入は、ブリヤートのような超田舎では、こんな感じだった。
 電設工の月給が、1万5000から2万ルーブル。教師の月給が7000ルーブル。それに対して、二等兵になると4万から5万ルーブルである。
 超田舎では、軍隊の方が、稼げるのだ。家族を養えるということでもある。

 現在は戦時であるから、志願兵は、諸手当てコミで20万から30万ルーブルを毎月貰えている。

 ロシアはカネで兵隊を集めている。国内には戦争熱気はない。ダゲスタンでは誰も志願しないので、路上で通行人を拉致して強制的に入隊させている(これを英語でプレスギャングという。帆船時代の英海軍の水兵はこのようにして集められていた)。ただしおおっぴらではない。報道されるのは困るからだ。

 ダゲスタンは、プーチンにとっては昔から、兵隊集めの一大基地であった。そこが厭戦的になっているのは、見逃せない兆候だ。

 記者のみるところ、ロシアで最も徴兵に抵抗する集団は、中央アジアの住民だろう。

 ロシア警察は伝統的に、迷宮入りしそうな事件があると、中央アジア人をとっつかまえて、自白を強要して犯人に仕立てるというダーティな仕事をしてきた。迷宮入り事件の存在は、幹部の出世に響くからだ。

 こんな政府を中央アジア人が1ミリでも信用するはずがどうしてあろうか。

 モスクワ市民はどうか。彼らは志願もしないし徴兵にも応じない。やはり政府をまったく信用しなくなっているのである。

 政府が信用されなくなってしまったら、どうして総力戦ができようか。月に30万ルーブルをくれるといっても、モスクワっ子は誰も軍隊なんかに入らない。政府は嘘しかつかないと予見しているのだ。』