台風11号 勢力維持し沖縄本島に接近 暴風や高波に厳重警戒

台風11号 勢力維持し沖縄本島に接近 暴風や高波に厳重警戒
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220829/k10013793561000.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 秋雨前線がかかっているから、前線に向かって台風からの「湿った空気」が吹きつけて、大雨・洪水になる危険性が高い…。

 ※ 厳重注意だ…。

『猛烈な台風11号は勢力を維持したままこのあと沖縄本島地方に接近する見込みで、9月1日にかけて暴風や高波に厳重に警戒してください。

台風は沖縄の南で停滞したあと北上して再び沖縄県に近づくおそれがあり、最新の情報に十分注意してください。

大東島地方 暴風域から抜けるも強風や高波に警戒を

気象庁によりますと、猛烈な台風11号は、午後5時には、那覇市の南東140キロの海上を1時間に25キロの速さで西南西へ進んでいるとみられます。

中心の気圧は920ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は55メートル、最大瞬間風速は75メートルで中心の半径95キロ以内では風速25メートル以上の暴風が吹いています。

雨や風など 今の状況

沖縄地方は長期間 影響のおそれ

台風は、このあとも発達しながら沖縄の南へ進み、中心気圧は9月1日には915ヘクトパスカルに達すると予想され、沖縄本島地方や先島諸島でもこれから1日にかけて風が強まる見通しです。

9月1日にかけての最大風速は
▽沖縄本島地方で25メートル
▽大東島地方で23メートル
▽先島諸島、奄美地方で20メートル

最大瞬間風速は
25メートルから35メートルに達すると予想されています。

大東島地方では猛烈なしけとなっていて、沖縄本島地方と奄美地方では昼すぎから、先島諸島でも9月1日には大しけとなる見込みです。

台風は、2日は沖縄の南で動きが遅くなったあとその後、北上して再び沖縄県に近づくおそれがあり、風や波などの影響が長期間続くおそれがあります。

台風が近づく地域では風が急激に強まるおそれがあります。

暴風や高波に厳重に警戒し、自治体などからの避難の情報に十分注意してください。

台風の今後の進路予想など

西日本や東海 東北などで局地的に雨雲が発達

一方、本州でも大気の状態が不安定になっています。

前線が本州付近にかかり、台風や高気圧のふちを回るように南から暖かく湿った空気が流れ込んでいるためで、西日本や東海、東北などで局地的に雨雲が発達しています。

特に、前線上の低気圧が近づく北海道の太平洋側や東北北部では雨が続き、総雨量が多くなるおそれがあります。

気象庁は、土砂災害や低い土地の浸水、川の増水に十分注意するよう呼びかけています。
最大瞬間風速 70mに達するおそれ 新幹線の速度に匹敵

台風11号は31日、中心付近の最大瞬間風速が75メートルになると予想され、接近する沖縄県の大東島地方では最大瞬間風速が70メートルに達するおそれがあります。

専門家で作る日本風工学会によりますと、最大瞬間風速70メートルは時速に換算するとおよそ250キロと、新幹線の速度に匹敵するということです。

屋外の行動は極めて危険で、住宅の一部は倒壊し、鉄骨の建物でも変形するおそれがあるほか、電柱やブロック塀が倒れたり、走行中のトラックが横転したりすることがあるということです。

2003年の台風14号では、沖縄の宮古島で74.1メートルの最大瞬間風速を観測し、割れた窓ガラスで屋内にいた女性1人が死亡したほか、風力発電用の風車の倒壊が相次ぎました。

2015年の台風15号では、沖縄の石垣島で71メートルの最大瞬間風速を観測し、車が飛ばされたり電柱が倒れたりする被害が相次ぎ、沖縄県で11人がけがをしたほか、最大で2万戸余りが停電しました。

大東島地方の南大東島で観測史上最も強い最大瞬間風速は1961年10月2日の65.4メートルで、70メートルの風が吹くと、このときを超えるような記録的な暴風となります。

風が強まる前に頑丈な建物に移動して外出を控え、屋内では窓から離れるようにしてください。

台風11号なぜ急速に発達したのか?

短時間で急速に発達し、31日には猛烈な勢力になると予想される台風11号。

その原因と考えられるのが「高い海面水温」と「台風が比較的コンパクトなこと」です。
台風11号は、28日午後3時に発生した当初は中心の気圧が1004ヘクトパスカルでしたが、30日午後3時には935ヘクトパスカルと非常に強い勢力となり、わずか2日で70近くも急激に低下しました。

【原因1「海面水温の高さ」】

なぜ、ここまで急速に発達したのか。

気象庁によりますと、考えられる原因の1つが「海面水温の高さ」です。

台風11号が通過する日本の南の海域には海面水温が30度以上と温度が高い領域が広がり、平年と比べても1度から2度ほど高くなっています。

こうした海域を通過することで、台風に大量の水蒸気が供給され、発達につながったとみられます。

【原因2 台風の大きさも影響か】

さらに、台風が比較的コンパクトな点も影響したといいます。

台風は強風域の半径が500キロ以上だと「大型」となりますが、台風11号は午後3時の時点で165キロから220キロほどです。

こうした台風は比較的少ない水蒸気の量でも雲が中心に向かってまとまりやすく発達しやすいということで、急速な発達の原因になっているのではないかとしています。

政府が情報連絡室を設置

台風11号の接近に伴い、政府は30日、夜9時半に総理大臣官邸の危機管理センターに情報連絡室を設置して、情報収集と警戒に当たっています。 』

【速報】台風11号 大東島で猛烈な風 動きも遅く長期間影響のおそれ

【速報】台風11号 大東島で猛烈な風 動きも遅く長期間影響のおそれ
https://www.nippon.com/ja/news/fnn20220831410442/

『台風11号は31日朝、沖縄の大東島地方に接近し、猛烈な風が吹き荒れた。

今後も台風は動きが遅くなるため、長引く影響に注意が必要。

沖縄・北大東村の31日午前7時ごろの様子。
サトウキビ畑などが、激しい風にあおられている。

台風による影響で、沖縄・北大東空港では、最大瞬間風速48.4メートルと猛烈な風が吹いた。

また沖縄では、那覇市と周辺離島へと結ぶ船が全便欠航となり、防護ネットを張るなど、台風への備えが進められている。

大東島地方は31日午前、台風の暴風域から抜けたが、このあと台風は南寄りに進み、9月2日以降は、沖縄の南で動きが遅くなる予想。

このため長時間、台風の影響を受けるおそれがある。

9月1日にかけての予想最大瞬間風速は、沖縄本島地方で35メートルとなっていて、台風の進路にあたる地域では警戒が必要。

また、フィリピンの東にある熱帯低気圧が、早ければ31日にも台風に発達する見通しで、「ダブル台風」への警戒も必要。

(FNNプライムオンライン8月31日掲載。元記事はこちら)

https://www.fnn.jp/

[© Fuji News Network, Inc. All rights reserved.] 』

日中国交回復50年:田中角栄に訪中を決断させた「極秘文書」

日中国交回復50年:田中角栄に訪中を決断させた「極秘文書」
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02190/

『田中角栄は、首相就任わずか85日で日中国交回復という偉業をなし遂げた。その裏に、田中に訪中を決断させた「極秘文書」の存在があったことは、一般にはあまり知られていない。日中国交正常化50年を機に、あらためて当時の外交交渉の舞台裏を振り返ってみたい。 』

『束になった52枚のコピー

コクヨ製の27行の罫線の入った用紙に、びっしりと文字が書き込まれている。全部で52枚。1972年7月27日から29日にかけて、北京の人民大会堂で行われた周恩来首相(当時)と公明党の竹入義勝委員長(同)との会談記録だった。それは長い間、極秘文書として外務省に眠っていた。情報公開されたのは国交回復から30年後のことである。

今の習近平の中国は、世界第2位の経済力と強大な軍事力を背景に、外交交渉では強硬路線を貫き、互いに歩み寄ろうという姿勢はない。50年前はどうであったか。

1972年9月29日、北京を訪問した田中角栄首相(当時)は、日中共同声明に調印。中華人民共和国との間に国交正常化を実現させた。それまで、中国は台湾寄りの佐藤栄作政権を軍国主義と猛烈に批判していた。そもそも首相に就任して間もない田中に、国交回復の道筋は見えていたのだろうか。

私がその極秘文書を入手したのは、2002年のことである。私は束になったその文書のコピーを携えて、当時、神戸製鋼特別顧問だった橋本恕(ひろし)(1926~2014)を訪ねた。同氏は、東大法学部を卒業後、1953年外務省に入省。アジア局長、駐シンガポール大使を経て駐中国大使を最後に1993年に外務省を退官していた。

橋本は、佐藤栄作政権の末期から外務省アジア局中国課長を務め、田中政権になってからも都合、6年間その任にあった。当時の日中交渉の舞台裏を最も良く知る人物である。

橋本は、開口一番、こう語った。
「大臣室に呼ばれた私は、この文書を大平正芳外務大臣(当時)から『検討してみてくれ』と直接渡されました。分厚い資料で、なかなか達筆な字で書かれていた。一読して、私は、これなら国交回復はできると確信したのです」

厳格な人柄を思わせる橋本の話ぶりには、よどみがなかった。かつて心血を注いだ交渉時の記憶は鮮明だった。
「でも、当時は大平さんから『事務次官にも言うな』と秘密主義を徹底されていましたから、私はこの書類が何かの間違いで流出したり、その中身が記者に漏れでもしたら大変だと思い、すぐにキャビネットにしまい込み、厳重にカギをかけて保管したことを覚えています。それぐらい、この文書が持つ意味は大きかったということです」

当時の自民党の国会議員は、元首相の岸信介を代表に親台湾派が多数を占めていた。外務省の親玉、事務次官の法眼晋作も親台湾派だったのだから、大平外相も橋本に口止めするわけである。1972年7月、佐藤栄作の後継を福田赳夫と争った田中は、大平正芳、三木武夫と3派連合を形成し、総裁選を勝ち抜くが、3者で「日中国交回復を行う」という政策協定を結んでいたものの、まだその機は熟していなかった。

ところが急転直下、日中交渉が動き出す。結論から言えば、この極秘文書は、田中が訪中の決意を固める上で決定的な拠り所になったのである。では、この文書は、どうやって政府首脳にもたらされたのか。そして、田中や大平、橋本を唸らせたその内容とは、いかなるものだったのか。
「内閣なんか吹っ飛んじまうよ」

私がこの極秘文書の存在を知ったのは、当の竹入元委員長からであった。日中国交回復30年の節目にむけて、ある雑誌で特別読物を執筆するに際し、竹入に相談したところ、この文書のコピーを手渡されたのだ。それより以前から、私はたびたび氏の私邸を訪ね、懇意にしてもらっていた。竹入は、田中訪中に至る経緯を詳細に説明してくれた。

国交回復より2カ月前の7月23日夜、竹入は密かに目白の田中角栄邸を訪れた。ふたりは個人的にも親しい関係だった。少し解説しておけば、竹入は戦後、国鉄職員から東京都議を経て、公明党が国政に進出した1967年の衆議院総選挙で初当選。結党以来、党の要職を占め、代議士になると同時に委員長に就任した。叩き上げの苦労人であり、自説を曲げない武骨な政治家である。田中角栄の経歴は周知の通りだが、苦労人同士、互いに気脈の通じるところがあったのであろう。

その田中邸訪問の1週間ほど前、竹入は中国から北京訪問を打診されていた。前年6月にも訪中し、首相だった周恩来と会談していたが、「今度の訪中は、国交正常化交渉の話になるだろう」と竹入は踏んでいた。

田中邸の応接室に通された竹入は、早々に要件を切り出した。
「今度、北京へ行くことになった。ついては、竹入という男を私も信用している旨、一筆書いてくれないか」
竹入にしてみれば、国交回復の話をする以上、特使的な意味合いで、総理のお墨付きがほしかった。だが、田中は即座に断った。

「行くなら、行ってこい。だけど紹介状は書けないよ」
竹入は憮然(ぶぜん)として言った。
「お前さん、本気で中国をやる気があるのか?」
「中国をやる気は全然ないよ。おれは総理になったばかりだ。今、中国なんかやってみろ。内閣なんか吹っ飛んじまうよ。紹介状なんかとんでもない」
密談は決裂した。
3回にわたる周恩来・竹入会談

その2日後の7月25日、竹入と大久保直彦副書記長、正木良明政審会長ら公明党代表団は北京に飛び立った。このとき田中角栄は54歳の史上最年少総理。竹入も46歳の若さであった。

今回の訪中に際して、竹入らは国交回復の条件として10数項目の要望を中国側に伝えるつもりで草案を用意していた。竹入にしてみれば、正式な特使ではないから相手が蹴るのであればそれもよし。とりあえず日本政府が主張するであろう条件を先方に伝えさえすればよいというほどの腹積りであった。日本がどうしても譲れないのは、日米安保条約は破棄できない、台湾との関係はいきなり断交するわけにはいかない、の2点だった。

27日午後4時から、第1回目の周恩来・竹入会談が開かれた。
いきなりの周恩来の発言に、一行は驚かされた。
「毛沢東主席は、賠償請求権を放棄すると言っています」
日本側は息を呑んでその言葉に聞きいった。竹入らが事前に用意していた草案では、賠償請求については触れなかった。当然、中国側は戦時賠償を要求してくると思い込んでいたのである。

「中国は、相当日本に譲歩してくるぞ」それが竹入の抱いた感触だった。初日、2日目の会談で、中国側の反応は日本の要望を聞き入れようとするものだった。中国が一番こだわっていたのは、「中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府」と日本が認めることだった。最終日となった29日、晩餐会後の午後7時半から始まった会談冒頭で、周恩来はこう話し始めた。
「これから話す中国の考え方は、毛沢東主席の批准を受けたものです」
続けて周恩来は、田中に9月中の訪中を促し、8項目にわたる日中共同声明の草案を示した。それは、竹入らが考えていた草案をほぼ受け入れた内容だった。周恩来は、日中共同声明では日米安保条約や日華平和条約には触れないと明言したのである。

日本側は一字一句、間違いのないように中国側の通訳に確認を取りながら周恩来の言葉を書き留めた。これが後に、日中共同声明の原案となる有名な「竹入メモ」である。最後に周恩来はこう言って、竹入との会談を締めくくった。
「なお、3回にわたる会談の内容は、すべて重要でありますので、田中首相、大平外相以外は、完全に秘密を守ってください。私たちの方も秘密を守ります。すべて竹入先生を信頼して申し上げたことです」

竹入らは帰りに立ち寄った香港のホテルで、2日間かけて周恩来との会談記録と草案メモを清書した。達筆な文字で筆を取ったのは政審会長の正木良明だったという。周恩来は竹入にメッセージを託した。田中と竹入の個人的な信頼関係に目をつけてのことであっただろう。
「おれは北京に行くぞ!」

竹入は、帰国した翌日の8月4日に首相官邸を訪れ、田中と大平に会談記録と共同声明の草案メモを手渡した。5日午後、ホテルニューオータニの一室で、田中と竹入は2人きりで向き合った。そのときの様子はこうだ。

「あれ、これから読ませてもらうよ」
田中は52枚におよぶ会談記録を取り出すと、ゆっくりページをめくり始めた。田中は2度読んだ。そして開口一番にこう言った。
「おまえ、日本人だな?」
竹入が中国に騙されていないか疑ったのである。
「何ふざけたこと言ってんだ」
「ここに書いてあることは間違いないか」
草案を記した「竹入メモ」を示して再度念を押す。
「中国側とも一字一句確認した。絶対に間違いない」
田中はしばらく考え込んだ後、こう言った。
「おれは北京へ行くぞ!」
まさに、田中が訪中の決意を固めた瞬間だった。

竹入は周恩来との間で、ある合図を決めていた。田中が訪中を承諾した場合には、「秋に予定されている廖承志(中日友好協会会長)の大型訪日団は延期になった」と公表すること。国会の記者クラブに駆け込んだ竹入は、その通りに記者発表したのだった。
周恩来からの密使

中国課長の橋本は、大平から「竹入メモ」と会談記録を受け取った。それより先、橋本には日中交渉が進む予感があった。周恩来は密使を日本に送り込んでいたのだ。田中内閣発足の3日後、孫平化(当時中日友好協会副秘書長)を団長とする上海舞劇団が来日した。その数日後、橋本は情報源の一人から、「孫を大平外相に会わせてほしい。打ち合わせしたいことがある」と打診されたという。

孫の意向を確かめる必要がある。橋本は、中国側が指定したホテルニューオータニの一室を密かに訪ねた。待ち受けていたのは孫ではなく、舞劇団にまぎれて中国共産党から派遣された唐家璇(のちの外相)ら2名だった。唐は言った。

「周総理の極秘のメッセージを持ってきています。是非とも大平外相にお伝えしたい。その段取りをつけていただけないか」

橋本から伝え聞いた大平は了承した。問題は密会場所である。大臣スケジュールは事前に記者クラブに張り出すことになっていた。記者の目をごまかすために、大平行きつけのホテルニューオータニにある床屋に行く予定を入れた。当日、大平と橋本は怪しまれないようにひとまず床屋に入った。周囲の様子をうかがい、別々にエレベーターに乗り込むと、目指すスイートルームへと急いだ。

部屋には孫平化が一人で待っていた。日本語が堪能な孫は、周恩来のメッセージを口頭で伝えた。
「周総理は、田中角栄氏が首相になられたこと、田中内閣の成立を心から喜んでおります。また、田中総理の日中国交正常化の姿勢も評価しており、よき隣人として、善隣友好関係を築き上げるために、できるだけ早く中国をご訪問くださいと申しております」

橋本は、中国が国交正常化に前向きである感触はつかんだ。しかしなお、中国は国交回復の前提としてどんな難題を突き付けてくるのかはわからなかった。そうした懸念を一掃したのが、「竹入メモ」と52枚の会談記録だったのである。

橋本はこう語った。
「この文章の最大のポイントは、『日米安保条約を認める』『中国は賠償を求めない』と中国側が言明していることです。はっきり言って予想外でした。中国が建国されてから当時まで23年間、周恩来をはじめ要人には会ったことがなく、中国に行くという大方針は変わらないものの、行ったところでどうなるか全く未知数でした。しかし、このメモを見た時に、安心感を持つと同時に、これなら話し合いができる、ひょっとするとうまくいくかもしれないという気持ちになったのです」
「2人が日中双方のトップにいたという偶然も・・・」

田中角栄はどうして国交回復を成し遂げることができたのか。それは当時の国際情勢の後押しがあったからである。中国は1969年中ソ国境でソ連と軍事衝突し、中ソ対立は抜き差しならない危機的状況になっていた。国内に目を向ければ、中国共産党は権力闘争に明け暮れ、その影響で経済は破綻していた。

他方、アメリカはベトナム戦争の泥濘に足を取られている。いまや中国にとって最大の脅威はソ連となった。ここに米中接近の余地があった。1971年7月、キッシンジャー大統領補佐官の極秘訪中によって、ニクソン大統領の訪中が発表された。世にいう「ニクソンショック」である。

アメリカが中国と接近するならば、対米追随の日本も国交回復が可能である。中国にとっても、国内経済を再建するためには日本の経済力は魅力であった。事実、国交回復後、日本は積極的に経済支援を行った。しかし、このときの首相が田中角栄であったからこそ、国交回復が早期に実現したのであろう。

当時、外務省から出向し、田中の総理秘書官として訪中に同行した木内昭胤(元駐フランス特命全権大使)はこう語っていた。
「田中さん本人は、中国そのものをよく知っていたわけではありません。向こうに乗り込んで、周恩来と会って、そこで初めて『この人となら、うまくやれる』という感触を抱いたのだと思います。周恩来と田中さんは、すっかり意気投合しました。これは30年経った今だから言えることですが、この2人が日中双方のトップにいたという偶然も日本にとって幸いしたのです」

いまや米中は再び激しく対立する関係になっている。そして日本も米国に追随する。日中国交正常化から50年。当時の蜜月関係と比べて、習近平と日本の政治指導者との距離はあまりにも遠くなってしまったといえるだろう。(文中敬称略)

バナー写真:1972年9月29日、北京の人民大会堂で日中共同声明に調印、中国首相の周恩来(右)と文書を交換する首相田中角栄(共同)

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滝野 雄作Takino Yuusaku経歴・執筆一覧を見る

書評家。大阪府出身。慶應義塾大学法学部卒業後、大手出版社に籍を置き、雑誌編集に30年携わる。雑誌連載小説で、松本清張、渡辺淳一、伊集院静、藤田宜永、佐々木譲、楡周平、林真理子などを担当。編集記事で、主に政治外交事件関連の特集記事を長く執筆していた。取材活動を通じて各方面に人脈があり、情報収集のよりよい方策を模索するうち、情報スパイ小説、ノンフィクションに関心が深くなった。』

中露貿易の加速化 対露制裁は有効なのか?

中露貿易の加速化 対露制裁は有効なのか?
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220830-00312639

『8月25日、中国商務部は記者会見で中露貿易が勢いを見せていると発言し、事実、データによればロシアからの輸入は前年度比49.2%増となっている。インドの場合は244.35%増だ。これでは対露制裁は無実化しないか?

 中露印の連携は軍事面でも強化され、ヴォストーク軍事演習も共同で行う。

◆商務部記者会見:中露貿易を加速化

 8月25日、中国政府の商務部は定例記者会見を行った。記者会見では香港南華早報(サウスチャイナ・モーニング・ポスト)の記者が質問し、商務部の束報道官が回答する場面があった。

 香港サウスチャイナ・モーニング・ポスト記者:中露経済貿易協力小委員会第25回会議で、ロシア側は今年の中露両国貿易額は、おそらく1650億ドルから1700億ドルという歴史上最高額に達するだろうと言い、同時に中国側がさらに一歩進んで運輸を円滑化するように希望していると言っています。そこで商務部にお聞きしたいのですが、今年の中露貿易の成長見通しをどのように見ておられますか?またどのようにして中露貿易の次のステップを推進しようとしているか、どのような領域に重点を置いているか、さらに中露辺境貿易をさらに円滑にさせるには、どういう措置を取ろうとしているのか教えてください。

 束報道官:今年の年初以来、中露貿易は勢いを増しています。われわれはロシアと協力して両国の正常な経済貿易の往来を促進しようと思っていますし、産業チェーンやサプライチェーンを引き続き安定化させようと思っています。領域としてはデジタル経済やグリーン開発、生物医薬などの新しい成長点を育成し、中露経済貿易の規模と質を「ダブル上昇」させようと思っています。中露辺境港湾運輸に関して、双方ともコロナ防疫を保障する安全な措置を通関地で実行し、両国国境における貨物の正常な秩序を保障します。今年6月に、黒河公路橋が開通し、両国の相互接続の新たなルートが生まれました。今後は、感染対策と安全確保を基礎として、通関と物流輸送がさらに円滑にいくことを目指します。(引用以上)

 束報道官が述べた黒河公路は、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』のp.53~p.59で詳述した黒竜江省黒河市とロシアのブラゴヴェシチェンスクを結ぶ道路橋で、まさに中朝国境を結ぶ「友誼橋」のような役割を果たしている。

◆中国の、ロシアからの今年1-7月の輸入は前年同期比で49.2%増

 8月18日に発表された税関総署のデータによれば、今年1-7月の輸出入は6336億人民元で29.2%増、うち輸出は5.3%増、輸入は49.2%増となっている。

 それをアメリカや日本と比較して「2022年1-7月における中国の対ロシア・アメリカ・日本の貿易量に関する前年同期比」を人民元建てで作図してみたところ、以下のようになった。

税関総署のデータを基に筆者作成

 アメリカからの輸入増は非常に小さく、日本にいたっては前年同期比でマイナスに転じている中、ロシアからの輸入が大きく伸びていることが見て取れる。輸入が際立つのは、石油などエネルギー資源に起因する。

 中国だけではなく、ロシアに対して制裁を行っている国は非常に少なく、拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』第六章の複数個所で述べているように、対露制裁をしていない国は、対露制裁をしている国よりも圧倒的に多く、現時点で145ヵ国に上るので、ロシアに対する制裁効果は大きくはない。

 今年3月、対露制裁の効果は大きく、ロシアのGDPは16%減になるだろうという見方が多かったが、今年7月、IMFは、ロシアのGDPは2022年に6%減になるだけだと修正している。対露制裁の効果が、期待したより小さいということだ。

◆インドの輸入増は244.35%

インド政府の輸出入統計によれば、「2022年1-6月 インドからロシアの貿易額」は「輸出:14.8464億ドルから11.4748億ドルで-22.71%減少」となっており、「輸入:36.4653億ドルから125.567億ドルで244.35%増加」となっている。輸出入額は合計で167%増となる。
 この輸入増「244.35%」は、もちろん石油で、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』第六章に書いたように、プーチン大統領とモディ首相は個人的に非常に仲が良く、アメリカがドルでの取引を禁止するのなら、両国は自国の貨幣で取引をしようと、ルーブルとルピーで取引をするため、エネルギー資源輸出国であるロシアは少しも困ってない様子だ。

 逆にロシアから天然ガスを購入してはならないとするアメリカのバイデン大統領の指示に渋々応じているヨーロッパでは、ロシア依存が高かった分だけ、対露制裁が非常に厳しい形で跳ね返ってきてエネルギー資源の高騰を招き、自国の国民を苦しめるという皮肉な結果を招き、政権運営にも影響を来たしている。

 ロシアではヨーロッパへの輸出量こそ減ったが、今のところ収益においてはウクライナ戦争前よりも増えている始末だ。逆に「これ以上制裁を続けたら、ガスを止めるぞ」という威嚇めいたことさえしており、立場が逆転している。

◆中露印を含めた軍事演習

 その点、対露制裁をしていない国は、全世界的にコロナによる影響はあるものの、ウクライナ戦争によって受けるダメージは大きくなく、中露印などは軍事面においても連携を強くしている。

 中国の国防部は8月17日、ロシアが主催する「東方-2022」軍事演習(ヴォストーク、Vostok 2022 military exercises) に、中国だけでなく「インド、ベラルーシュ、タジキスタン、蒙古」などが参加すると発表した。

 ロシアは4年に一度のサイクルで、「西部、南部(コーカサス)、中央、東部」の4つの軍管区で順番に軍事演習を行っているが、ここ5年間の演習を列挙すると以下のようになる。

     2018年:ヴォストーク(東方、Vostok) 

     2019年:ツェントル(中央、Tsentr)  

     2020年:コーカサス(南部、Kavkaz)  

     2021年:ザパド(西方、Zapad)     

     2022年:ヴォストーク(東方、Vostok)

 ロシア軍の軍事演習に中国が参加し始めたのは2018年頃からで、インドは2019年辺りからだ。インドのメディアもインド軍は75名の兵士を派遣して軍事演習に参加すると報道している。人数は少ないものの、「インドが参加する」ということが重要なのであって、日米豪印「クワッド」という「対中包囲網」に熱心な日本は、特にこの事実に注目しなければならないだろう。

 拙著『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』の第六章で特に「露印軍事関係の緊密さ」を強調したが、このように「インドや蒙古が参加する」ことによって、「中露印と蒙古」が大陸を縦に結び、経済的にはもちろんのこと、軍事的にまで結束していく事実は、西側諸国にとっては大きな脅威となる。

 ちなみに、8月末に予定されていた軍事演習は、9月1~7日に変更されたようだ。

 いずれにせよ、6月19日のコラム<ロシアが「新世界G8」を提唱_日本人には見えてない世界>や6月26日のコラム<習近平が発したシグナル 「BRICS陣営かG7陣営か」>で言及したように、日本は対露制裁をする側の陣営であり、米英を中心とした西側諸国が発する情報しか報道しないので、全人類の85%に相当する「BRICS陣営」で進行している現実を知らない人が多い。というか、見ようとしていない。しかし、世界は、日本が見ている全人類の15%の意向によってのみ動いているわけではないので、中国から見た時の「景色」にも留意が必要だろう。

 アメリカの君臨が許されている「制裁戦略」はアクションーリアクション(作用・反作用)の世界であり、それは人類全体に不幸をもたらしながら、実は対露制裁に踏み切らない145ヵ国の頂点に立つ中国にとっては、有利に働いている。日本人はその事実から目を逸らしてはならない。

遠藤誉

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。』

ジャクソンホール会議で見せたパウエル議長の決意

ジャクソンホール会議で見せたパウエル議長の決意 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29530618.html

『26日(現地時間)、アメリカの景勝地であるジャクソンホールで、世界主要国の金融関係者が集結する会議が行われました。通称ジャクソンホール会議です。参加するのは、各国の金融政策担当者、中央銀行総裁、経済学者など、金融界の政策決定権を持つオールスターチームです。

あくまでも、シンポジウムであり、ここで何か政策が決まるわけではないのですが、何しろ各国で実権を持つ金融政策担当者が集い、世界中のマスコミが集結するので、過去に胸の中にしまっておいた事を、講演している時に、ポロッと言ってしまう事が起きています。

一度、このブログでも言及した事のある1970年代にFRB議長を努めていたポール・ボルカー氏が、当時、今のアメリカ以上のインフレ14%越えを退治する為に、20%の政策金利引き上げで、ガチ対決して、強制的に終了させた事があります。実は、ジャクソンホール会議が、開催場所を、ここに定めた理由の一つとして、強気のインフレ対策を提唱していたポール・ボルカー氏を、会議に招聘する為に、渓流釣りの名所として知られていたジャクソンホールで開催する事にしたという実話があります。基軸通貨の政策金利決定権を持っている彼の参加なしに、会議を開いても実のあるものにならないのは明白だったからです。ボルカー氏の趣味が渓流釣りだったんですね。

その時のポールボルカー氏の言葉ですが、「インフレは自己増殖している。より安定した生産的な経済に戻すには、インフレ期待の支配を、ほどかねばならない」という、どちらかと言うと、将軍が敵国を叩くような力強い言葉で、インフレ退治を宣言しています。この言葉の言い回しは、少し迂遠なんですが、簡単に言うと、「皆がインフレが長期化しそうと考えると、実際にそうなってしまう。短期で徹底的にインフレの芽を潰す対策が重要だ。インフレは、経済に係わる全ての人々から共通して冨を奪う」という事です。

実際、この会議中で起きた事は、世界経済に大きな影響を過去に与えています。2010年の会議では、当時のFRB議長であったバーナンキ氏が、アメリカ経済立て直しの為に、金融市場に大量のドルを供給する金融緩和をやる事を示唆しました。この時、日本は円高に苦しんでいたので、会議に参加していた白河日銀総裁が、予定を早めて急遽帰国し、追加の金融緩和を指示して、円高阻止に動きました。しかし、努力のかいなく、会議後に5円も円高ドル安になっています。

2014年の会議では、当時のヨーロッパ中央銀行総裁のドラギ氏が、一段の金融緩和を示唆。実際に、会議の翌月の理事会で政策金利の引き下げを決定しました。というように、故意にしろ、うっかりにしろ、ジャクソンホール会議で話す言葉は、爆弾級に世界経済を動かします。

今年は、どうだったかと言うと、現在のFRB議長のパウエル氏が、インフレを抑え込むまで、金融引き締めの手を緩めないという決意を語った為、タカ派的発言と解釈されて、ニューヨークダウは、1000ドル越えの暴落、ドル円の為替レートは、再び円安ドル高の基調に復帰し、先日つけた139円/ドルを越えて、140円を目指す動きを見せています。つまり、「経済を犠牲にしてでも、インフレは退治するべき最優先事項である」と宣言したようなものだからです。相変わらず「9月の会議では、7月、8月の各種経済指標を慎重に検討しながら」という予防線は張りましたけどね。

そもそも、今年に入ってからのアメリカのインフレは、現FRB議長のパウエル氏の読み間違えに大きな要因があるという批判があるので、会議開催前から、少なくてもインフレに対して、強い発言があるだろうという予想は出ていました。どこまで、踏み込んだ表現をするかが問題だったのですが、少なくても最近の経済指標で、高止まりしているものの、予想よりインフレが弱くなったという傾向が、金融引き締めに、大して影響しない事は、十分に感じられる内容でした。つまり、インフレ退治が最優先という事です。まあ、ボルカー氏ほど明確ではありませんが、パウエル氏の言葉の中に、金融引き締めを緩めるという傾向を見つけるのは難しいです。

このブログで何度も言っているように、経済は生き物なので、予想は困難です。現時点での判断でありますが、一時期的に反発していたアメリカの株価は、再び下落トレンドに入り、ドル安は再び進行する可能性が高いです。安易に「底打ちした」とか判断していた方は、傷が浅いうちに対策をうったほうが良いでしょう。実際にインフレが起きている社会に住めば、それが深刻な問題である事は、肌身で感じます。「経済を犠牲にしてでも、インフレを退治する」は、単なるリップサービスでも、なんでもなく、その通りの意味です。それだけ、その国の経済にとって癌だという事です。』

アルジェリア人質事件

アルジェリア人質事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E8%B3%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: “アルジェリア人質事件” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年1月)』

『アルジェリア人質事件(アルジェリアひとじちじけん)(※ イナメナス事件)は、モフタール・ベルモフタールに率いられたイスラーム系武装集団が、アルジェリアのイナメナス付近の天然ガス精製プラントにおいて2013年1月16日に引き起こした人質拘束事件[2]。この事件は2002年から続くイスラーム過激派によるマグリブ反乱(英語版)の一部である。』

『事件の背景

多くの民族が存在するマグリブ地域では様々な紛争が起こってきた。アルジェリアでは独立後続いてきた社会主義体制が終わり複数政党制となった1992年に行われた選挙でイスラム原理主義政党である「イスラム救国戦線」(FIS)が勝利したものの、軍部がクーデターを起こし選挙結果を無効としてしまったため、反発したイスラム救国戦線の一部であった「武装イスラム集団」(GIA)によるテロが頻発するようになっていった。その後、FISは政府と和解しGIAも弱体化したが、GIAの人や組織はアルカイダ系の「イスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構」(AQIM)に受け継がれ、北アフリカはアルカイダの後方基地としての役割を果たすようになっていった。

また、アルジェリアやその南にあるマリ、ニジェールなどでは独立を目指すトゥアレグ族(ベルベル系の遊牧民)の反乱が起きていた。もともと戦闘力に定評のある彼らはリビア内戦に傭兵として参加したことにより、革命に伴って流出した大量の兵器や戦闘経験といった軍事力を蓄えた[3]。彼らはマリで軍によるクーデターが発生したのを機にイスラム国家の建設を目指して2012年にアンサール・アッ=ディーン、西アフリカのタウヒードと聖戦運動(英語版)(MOJWA)、AQIMといったイスラム過激派組織とも協力して反乱を起こし、マリ軍を追放して彼らの暮らすマリ北部(アザワド地域)の独立を宣言した。しかしまもなくトゥアレグ族組織(MNLA)と過激派が反発し戦闘が勃発、過激派がトゥアレグ族組織を打倒した。これにより、アザワド地域は事実上イスラム過激派の手に落ちる事態となった。

これらの事態を重く見た欧米、アルジェリアを含むアフリカ諸国はトランス・サハラにおける不朽の自由作戦、欧州連合マリ訓練ミッション、アフリカ主導マリ国際支援ミッションなどによって間接的にマリ軍を支援してきた。そんな中、マリ大統領の要請に応えてフランス軍が軍事介入し、2013年1月11日にアザワド地域に攻撃を開始した(セルヴァル作戦)。この攻撃に反発した過激派が起こしたのが今回の事件とみられている。

事件の経緯

マリ北部(アザワド)の地図上の位置
施設周辺の図。左側の「Tigantourine gas complex」が天然ガス施設と居住区、右側の「In Amenas」がイナメナス市街地。

2013年1月16日の早朝未明(CET、UTC+1) 、アルカイダ系の武装勢力「イスラム聖戦士血盟団」が、アルジェリア東部、リビア国境から60kmほど西にあるイナメナスから西南およそ40kmの位置にある天然ガス精製プラントを襲撃しはじめた。

襲撃された施設はアルジェリアの国営企業であるソナトラック、イギリスのBP、ノルウェーのスタトイルなどによる合弁企業によって経営されており[4]、建設には化学プラントの建造に実績のある日本の日揮も参加していた。年間生産量は90億立方メートルあり、アルジェリア国内でのガス生産の10%以上を生産するものであった[4]。

警備を行っていたアルジェリア軍の兵士が応戦したものの、イギリス人1人とアルジェリア人1人の計2人が死亡し、アルジェリア人150人とアメリカ人7人、日本人10人、フランス人2人、イギリス人2人、アイルランド人1人、ノルウェー人13人[4] などを含む外国人41人[5] が人質として拘束された。犯行グループはフランス軍によるセルヴァル作戦の停止、政府に逮捕されたイスラム過激派メンバーの釈放などを要求した[6]。アルジェリア人の人質の一部は後に解放された[5]。

アルジェリア軍は事件を受けてすぐに現場付近に展開、施設を包囲し[6]、人質の出身地である諸国も特殊部隊を現地に派遣し、要請があれば救出に動くべく準備を整えていた[7]。 17日、アルジェリア軍が作戦行動を開始[7]。ヘリコプターで空爆するなどの攻撃を行った[8]。21日、アルジェリア軍の特殊部隊が現場に突入、制圧して作戦は終了した[9]。この行動について、アルジェリアのサイード情報相は、過激派が人質を連れてマリ北部に逃げ込む事を防ぐためのやむを得ない行動であったとしている[8]。

アルジェリア政府によると、この戦闘で685人のアルジェリア人労働者、107人の外国人が解放された一方、少なくとも23人の人質と、29人の武装勢力が死亡したとしている。 また、武装勢力の残りの3人は、アルジェリア当局に拘束された模様[10] 。

21日深夜に日本国政府が7人の日本人の死亡を確認した。アルジェリア政府は、8か国の合わせて37人が死亡したと発表している[11]。24日、日本人10人の死亡を確認した。

犠牲になった日本人は全員が日揮関係の幹部・協力会社・派遣社員であった。日揮は1969年からアルジェリアでプラント建設を行っており、アルジェリアで数々のプロジェクトを成功させてきた。また工事を行う際には現地のエンジニアを雇い、教育していたため現地での信頼は厚かったという[12]。

日揮本社がある、クイーンズタワーAの1階にあるエントランスには、アルジェリア人質事件の犠牲者を弔う数多くの花束が置かれた。

日揮本社の歩道側にあるポールには、アルジェリア人質事件の犠牲者に弔意を表す為、半旗が掲げられた。

アルジェリア軍が作戦行動に用いたのと同型の戦闘ヘリコプター(ロシア製Mi-24)

犯行グループ

犯行グループの「血盟団」[13] は、アルジェリア出身のモフタール・ベルモフタール[14] によって結成された。リーダーのモフタールは、アルジェリア北部のガルダイア出身、1991年から1993年までアフガニスタン内戦に参加し、内戦終了後にアルカイダ系組織「説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団」(GSPC、「イスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構」AQIMの前身)の立ち上げに携わり、自身も武器の密輸やテロ活動に関与し「密輸将軍」「拘束不可能な男」と呼ばれた[15]。2012年12月、AQIMから分派して血盟団を立ち上げた。現在の構成員の数は200から300人とみられている[16]。

チュニジア10人、エジプト9人、アルジェリア4人、カナダ、マリ、モーリタニア各2人、ニジェール1人が確認された[17]。

各国政府の対応

日本の旗 日本

ハノイを訪れていた安倍晋三内閣総理大臣は菅義偉内閣官房長官に対し、政府対策本部の設置を指示。安倍首相は「断じて許すことはできない」と犯行グループを非難した[18]。カート・キャンベルアメリカ合衆国国務次官補と会食中だった河相周夫外務事務次官も急遽戻り[19] 菅長官に現地情勢の報告などを行い[20]、菅長官は記者会見で「政府としてあらためて人命救出優先で対応したい」とした上で、「とにかく全員の救出に向けて全力をあげる」と語った[21]。これらを受け川田司・駐アルジェリア特命全権大使がアルジェリア政府要人に対し、人質の生命を尊重した救出活動を行うように要請を行ったが[22]、天木直人元駐レバノン大使からは、大使が一度も前面に現れていないなどとの批判を受けた[23]。人質の死亡確認後、安倍首相は「企業戦士として世界で戦っていた人が命を落とし、痛恨の極みだ」と述べ[24]、神奈川県警察などが、殺人・監禁事件として検視や関係者の事情聴取、現地での裏付け捜査などを行った[25] ほか、警察庁警備局国際テロリズム対策課から「国際テロリズム緊急展開班」が現地に展開し、情報収集を開始している[25]。

当初政府は日揮の要請を受け被害者遺族のプライバシー保護を理由に実名公表を拒否した。朝日新聞による一部被害者の実名報道[26] によってマスコミ各社が追随して報道し被害者氏名などの情報公表を要求[27] する中でも拒否し続けていたが、アメリカ政府が被害者名簿を公表したのを受けて[要出典]、1月25日に生存者と死亡者が帰国した後に「政府の責任」において死亡者のみ公表に踏み切った。

アルジェリアの旗 アルジェリア

ダフ・ウルド・カブリア(フランス語版)[28] 内相は16日、「テロリストとの交渉はしない」として武装勢力の要求を拒否した[29]。

フランスの旗 フランス

アルジェリアの旧宗主国であるフランスはフランス人1人が殺害されたことを確認。フランスはアルジェリアの危機管理を擁護した[30]。またフランス軍がマリ北部騒乱に介入したことが事件を誘発したことに関しては「国連決議に基づいて行ったことである」(駐日本フランス大使)とフランスだけの責任を否定している[31]。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ

レオン・パネッタ国防長官は、邦人が外国の脅威にさらされていて深刻な事態であるとし、米政府に要請があれば、「必要かつ適切なあらゆる措置を取る」とイタリアから声明を発表した。ヌーランド国務省報道官は記者会見で、「何名かのアメリカ市民が武装勢力の手の中にあるものと認識している」と発言[29]。

アイルランドの旗 アイルランド

イーモン・ギルモア(英語版)[32] 副総理[33] はメディアに対して「ベルファスト出身のアイルランド人が人質に含まれている」と語った。その上で「政府はアイルランド人が出来るだけ早期に解放されるよう、我々が利用できるすべての資源を利用する用意がある」と語った[34]。

イギリスの旗 イギリス

ウィリアム・ヘイグ外務大臣はイギリス人が殺害されたことを確認したとした。また、へイグ外務大臣はフランスのマリへの軍事行動と今回の事件とのつながりを「冷酷な殺人の言い訳に過ぎない」として否定している[35]。

実名報道

日本

朝日新聞

朝日新聞は2013年1月22日付の朝刊で、この事件での日本国籍保有者である被害者の実名を発表した。これに対してある被害者の遺族の一人は、この報道は特別な許可は得てないとしている[36]。この遺族は、2013年1月25日付で朝日新聞への抗議を行ったとしている[37][38]。遺族は抗議文で、取材にあたり、記事にする際には遺族の許可を得ることなどの約束をしたが、朝日新聞社はそれを破ったと主張。ただし、取材自体は受けたという[38][39]。一方、今回の事件で別に実名報道を許可した遺族もおり、遺族間でも意見に相違がみられた。その遺族は新聞社から新たに情報が入ることを期待する一方、日揮が情報を寄せないことにいらだっていたという[40]。

同社は遺族の声にも耳を傾けて「報道と人権委員会」の定例会では、被害者側に配慮すべき点が多くあり、遺族のみならず死者の尊厳も重要視していたことを明らかにしている。また今回の件では法的問題クリアしたうえ、メディアスクラムも防げたという。またその責任も報道機関にあるとした[41]。

毎日新聞

毎日新聞は2013年1月25日付のネット配信記事で、自社の2013年1月22日付の取材において、あるこの事件の被害者の遺族の一人が実名報道を許可していることを記述した[40]。合わせて、毎日新聞は同記事で、事件被害者の実名報道についてその重要性を訴える別の事件における被害者遺族の意見を紹介した[40]。

また、2013年1月25日付の別のネット配信記事で、東京のマスコミ19社のそれぞれの社会部長達による会議の中で、この会議の出席者達が複数の新聞社が遺族に過剰で執拗な取材を行い、遺族を疲弊させていることを反省し、この事件に関する節度ある取材を申し合わせたことを記述した[42]。

その他

この事件では、ソマリア沖海賊の対策部隊としてジブチに派遣されている陸上自衛隊のレンジャー部隊をアルジェリアに展開する作戦案も出たが、法的な問題から防衛省は不可能と判断、実現しなかった。この事件は、2013年の自衛隊法で在外邦人保護の陸上輸送を可能とする改正に繋がることとなった[43][44]。

関連項目

イラク日本人人質事件
イラク日本人青年殺害事件
ISILによる日本人拘束事件
たびレジ - アルジェリア人質事件を教訓に開発され、運用されているシステム
特定秘密保護法 - この事件がきっかけで制定された[要出典]。』

フランス・マクロン大統領 旧植民地のアルジェリア訪問

フランス・マクロン大統領 旧植民地のアルジェリア訪問 歴史問題の難しさ ガス調達では成果? – 孤帆の遠影碧空に尽き
https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/2bf7a802873efa74be2d14aa9c668853

『【サルコジ元大統領 一般論として植民地制度の不正を認めつつも、自国のアルジェリアに対しての行為は「謝罪」はしない】
日本を含めて、どこの国も自国の過去に、特にその過去が負の歴史の側面がある場合、その過去に向き合あうことは非常に困難です。

その一例が欧州列強と旧アフリカ植民地の関係。
ベルギーとコンゴについて、6月23日ブログ“ベルギーとコンゴ 植民支配の重い歴史”で取り上げましたが、今回はフランスとアルジェリアの関係。

フランスのサルコジ元大統領時代の話について、2007年12月8日“フランス なお残る植民地問題と移民問題”で取り上げたことがあります。

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サルコジ大統領は(2007年12月)5日、3日間にわたる旧植民地のアルジェリア公式訪問を終えた。両国は核エネルギーの平和利用協力を含む総額73億ドル(約8000億円)以上の投資・協力協定を締結した。

サルコジ大統領は滞在中、一般的な植民地制度を「不正だ」と非難したが、アルジェリアが要請していた仏植民地時代(1830~1962年)に関する直接の謝罪はしなかった。【2007年12月6日 産経】
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一般論として植民地制度の不正を認めつつも、自国のアルジェリアに対しての行為は「謝罪」はしないという対応。
「(植民地当時)入植したフランス人はアルジェリアを支配しようとしたのではない。アルジェリアのためになることをしよう思っていた・・・」そうした趣旨の発言も。

2004年頃、“海外においてフランスの存在が果たした植民地支配のポジティブな面”“を教育カリキュラムに盛り込む法案を成立させたのが、当時の国民運動連合(UMP)党首のサルコジ氏でした。

【マクロン大統領 個々の案件では踏み込んだ言動も】
一方、マクロン大統領はこれまでアルジェリアに対するフランスの責任に踏み込む言動も見せてきました。

****マクロン仏大統領、アルジェリア戦争時の拷問を認め、謝罪****
(2018年)9月13日、マクロン仏大統領は、1957年にアルジェでフランス軍に拘束され行方不明となったモーリス・オダン(Maurice Audin)の死について、軍の責任を認め、未亡人に謝罪した。

数学者でアルジェ大学教授であったオダンは、共産主義者でアルジェリアの独立を支持し、FLN(アルジェリア民族解放戦線)とも繋がりがあった。

マクロンは、Audinがフランス軍に拘束されたうえで拷問を受け、それによって死亡した、もしくはその後処刑されたとして、共和国の名において責任を認め、87歳の未亡人に面会し謝罪した。
 
今回の謝罪が実現するには長い時間がかかっている。2007年に未亡人がサルコジ大統領に手紙を書いたとき、返答はいっさいなかった。

一方、フランソワ・オランド前大統領は、2014年6月18日、オダンは公に言われているように失踪したのではなく、拘禁中に死亡したと発言した。

今回の謝罪の手紙と面会は、その延長線上にある。マクロンは、共和国議会の投票によって導入された「特別権力」のため、「逮捕・拘禁」システムが出来上がり、それがこの悲劇を招いたと説明した。軍の責任を認めつつも、軍だけでなく議会の決定で導入されたシステムの問題だと述べたわけである。
 
今回の措置により、フランスがアルジェリアの独立を阻止するため、拷問を含めた非人道的な措置を広範に用いていたことがはっきりした。

14日のルモンド紙の社説では、マクロンが決定的な一歩を踏み出したとして、アルジェリア戦争の過去を明らかにすることは、フランス・アルジェリア両国の和解にとって不可欠だし、アルジェリアにも同様の行動を促すことになるとして評価した。

アルジェリア側は公式には目立った反応をしていないものの、総じてマクロンの行為を評価する声が目立つ。一方、極右政党の国民戦線は、国民を分断させる行為だとして大統領を強く批判した。
 
自国の暗い過去を明らかにすることは、簡単ではない。それは指導者の決断がなければできないことである。しかし、ルモンド紙が指摘するように、これはフランス・アルジェリア間の真の和解を達成するには不可欠の行為と言えるだろう。

マクロンは就任前から、植民地主義を人道に反する罪だと述べるなど、植民地統治の関わる問題について積極的に発言してきた。この勇気ある行動が、フランスとアルジェリアの相互理解と過去の克服に繋がることを願う。【2018年9月18日 現代アフリカ地域研究センター】
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****60年前のデモ弾圧「犯罪」 アルジェリア巡り仏大統領****
フランスのマクロン大統領は16日、1961年10月に植民地アルジェリアの独立を求めるアルジェリア人らのデモをパリの警察が弾圧し、多数が死亡した惨事の追悼式典に出席した。発生から17日で60年となるが、追悼式典への大統領の参加は初めて。マクロン氏は声明でデモ弾圧を「国にとり許せない犯罪だ」と批判した。

歴代大統領では前任のオランド氏が「流血の弾圧」と指摘しており、さらに踏み込んだ形。マクロン氏はアルジェリア独立戦争(1954~62年)に絡む自国の負の歴史と向き合う取り組みを進めているが、複雑な仏アルジェリア関係の改善にはつながっていない。

大統領府の声明によると61年10月17日夜、アルジェリア系住民だけに適用された夜間外出禁止令に抗議し、約2万5千人がパリへ郊外から向かうと、モーリス・パポン警視総監(当時)指揮下のパリ警察が激しく弾圧。数十人が死亡し、遺体はセーヌ川に投げ捨てられたほか、約1万2千人が逮捕された。

追悼式典はデモ参加者が渡ったパリ西郊の橋のたもとで行われ、マクロン氏は献花、黙とうした。地元メディアによると、関係者からはパポン警視総監の関与を強調し、国や当局の責任を十分認めていないと批判の声も上がった。

マクロン氏は9月、アルジェリア独立戦争をフランス側で戦った「ハルキ」と呼ばれるアルジェリア人兵士や家族らに対し、非人道的処遇で戦後、多くの犠牲や苦難が生じたとして謝罪した。【2021年10月17日 日経】
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【「謝罪」には至らず  “未来志向”で歴史学者による合同委員会やサッカー対戦】
個々の案件ではこれまでにないフランスの責任を認める言動をとっているマクロン大統領ですが、ただアルジェリア側の歴史認識(歴史書き換え)には批判も。

****アルジェリア、駐仏大使を召還 マクロン氏発言報道に反発****
アルジェリア政府は(2021年10月)2日、フランスの「許し難い内政干渉」を批判し、駐仏大使を召還したことを明らかにした。

仏紙ルモンドは、マクロン仏大統領が9月30日、アルジェリア関連の会合で、アルジェリアでは歴史が「事実に基づかず、フランスを憎む論文に基づいて書き換えられている」と発言したと報じていた。

ルモンドによると、マクロン氏はこの際、アルジェリア政治は「軍政」と指摘。テブン現大統領も「この強力なシステムに絡め取られている」と述べた。【2021年10月03日 時事】
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そのマクロン大統領は今月25日にアルジェリアを訪問し、テブン大統領と会談し。会談後の共同記者会見で、フランスの植民地支配をめぐり、両国の歴史学者による合同委員会を設置すると発表しました。

****仏大統領、アルジェリア訪問 植民地支配の歴史で共同委員会設置 エネルギー協力促す****
フランスのマクロン大統領は25日、旧植民地アルジェリアを訪問し、テブン大統領と会談した。会談後の共同記者会見で、フランスの植民地支配をめぐり、両国の歴史学者による合同委員会を設置すると発表した。ロシアのウクライナ侵攻にも触れ、資源大国のアルジェリアにエネルギー危機への対応で協力を促した。

マクロン氏は「われわれは複雑で、つらい過去を共有している」と発言。合同委員会が両国の公文書を検証することで、未来志向の関係作りに期待を示した。(中略)

今年はアルジェリア独立から60年にあたり、マクロン氏の訪問は、緊張が続く両国関係の修復が最大の目的。

特に、歴史問題は大きなしこりとなっており、マクロン氏が昨年、アルジェリアは「フランスへの憎悪」を培い、歴史の記憶を政治利用していると発言したのに対し、テブン氏が「フランスは過去の罪を認めよ」と反論して駐仏大使を一時呼び戻す騒ぎとなった。

マクロン氏は2017年、大統領就任の直前に「植民地支配は、人道に対する罪にあたる」と発言したが、就任後は謝罪問題には踏み込んでいない。

マクロン氏の訪問は27日まで。財務、外交、国防閣僚など主要閣僚のほか、エネルギー企業トップなど約90人が同行した。

欧州連合(EU)ではロシア産天然ガス依存からの脱却が課題となる中、ドイツからフランス、スペイン経由でアルジェリアを結ぶガスパイプラインの敷設構想が浮上している。国際エネルギー機関(IEA)によると、アルジェリアは天然ガス生産で世界10位。【8月26日 産経】
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大統領就任の直前に「植民地支配は、人道に対する罪にあたる」と発言したが、就任後は謝罪問題には踏み込んでいない・・・・基本的にはサルコジ大統領当時と大枠では変わっていないということでしょうか。

両国の歴史学者による合同委員会とのことですが、日本と韓国の間でも日韓歴史共同研究がありましたが、あまり成果を出したようには見えません。どういう姿勢で臨むかによりますが・・・。

責任や「謝罪」云々で揉めるより、手っ取り早くスポーツで和解をアピールしたいという思惑も。

****過去克服へサッカー対戦も 仏大統領、アルジェリアと****
フランスのマクロン大統領は26日、フランスの植民地支配の歴史によるアルジェリアとの複雑な関係を巡り、両国によるサッカーの親善試合開催は「過去を払いのける良い機会になるだろう」と述べた。訪問先のアルジェリアの首都アルジェで記者団の質問に答えた。

両国のサッカー親善試合は、1962年のアルジェリア独立後、2001年に初めて行われたが、試合の後半にアルジェリアのサポーターがグラウンドに乱入し、打ち切りとなった。

マクロン氏は「スポーツは和解をもたらすものだと思う」と述べ、アルジェリア側と話し合う考えを示した。【8月26日 共同】
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しかし、日韓のサッカー等のスポーツ対戦を見ると、「スポーツは和解をもたらす」というより、対立・憎悪を煽る側面が強いようにも思えますが・・・。

【「新時代を開く」・・・はともかく、天然ガス調達に尽力】
「謝罪」問題はともかく、2007年のサルコジ元大統領がアルジェリアへの原発売り込みに精を出したように、マクロン大統領が注力したのは、現在価格高騰で問題になっている天然ガスの調達でした。

****仏アルジェリアが「新時代」宣言 独立60年、ガス供給増か****
フランスのマクロン大統領は27日、アルジェリアの首都アルジェでテブン大統領と両国の新たな協力関係を定めた「アルジェ宣言」に署名し、3日間の同国訪問を終えた。アルジェリアがフランスから独立して今年で60年。複雑な関係が続いているが、宣言は「新時代を開く」とうたった。

フランスの民放ラジオ、ヨーロッパ1は28日、ロシアのウクライナ侵攻で欧州諸国の重要課題となっている天然ガス調達を巡り、アルジェリアがフランスへの供給を約50%増やすことを検討していると伝えた。マクロン氏に同行したエネルギー大手エンジーのトップがアルジェリア側と協議した。【8月28日 共同】
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政治家がよく口にする“未来志向で・・・”ということでしょうか。
まあ、それもよいですが、やはり過去の清算もしておかないと、事あるごとに不満が噴き出します。』

コロナとはいったいなんだったのか、反省会をやってみた。

コロナとはいったいなんだったのか、反省会をやってみた。
https://blog.tinect.jp/?p=77814

『新型コロナウイルスも3年目に突入した。

パンデミック当初はコロナの詳細も未知数であったが故にマジでみんなが恐れていたこのウイルスだけど、昨今は意識はしつつも徐々に社会の中に受けいれていく他ないのではないかというムードになりつつある。

全ての問題が終わった後ではないのだが、そろそろ私達はコロナウイルス反省会をやるべき段階に来つつあるように思う。

今回は自分なりに論点を整理して、コロナとはいったいなんだったのかを書いてゆきたい。

コロナウイルスが生んだ3つの社会の分断

コロナは難しい分断を社会に引き起こしたが、大雑把にわければ以下の3のスタンスに集約される。

自由こそが人から最も奪われてはならぬけ権利であると主張するノーガード派

全てを強権によりコントロールし、ゼロを目論むゼロコロナ派

マスクやワクチン、感染防御といった防具をある程度みにつけた上でのウイズコロナ派

私達はこれらの3つの意見をほどよくブレンドしつつ、自分の選択として取り入れて、社会生活を今までなんとかこなしている。

これら3つの対処法は、どれもが正しい部分を有し、またどれもが間違いを有している。
最善は何かと聞かれても「人それぞれのスタンスでしょう」としか言いようがない。

これはどういう事なのか。それを一言で言い表すとこうなる。

”明確な正解なんて、もう求められない”である。

先行きが不安なとき、人は明瞭な指針を魅力に感じる

コロナ問題は未だに渦中ではあるが、恐らくだけど世界が転覆するような破茶滅茶な結論はもう起きない確率の方が高い。

コロナ問題が勃発した当初は違った。世界は本当に恐怖のどん底に突き落とされており、誰もがコロナを恐れ、世界秩序の崩壊すらを憂いた。

このような状況で求められるのは力強い正解だ。

僕も理解できる範疇でコロナウイルスに対する現状をこの媒体で記述し、それはとても広く読まれた。

医者の僕でも、コロナウイルスをナメていたが、間違っていた。 | Books&Apps

この正解を発揮する段階においては、専門家はとても強い。

一般人と比較して知識量は豊富であり、物事を分析できる分量が桁違いに多い。

そうして専門家は求められて正解を発信するようになる。

311の時もそうだったが、新型コロナウイルス問題が勃発した際に、インターネット上では実に多くのインフルエンサーが現れた。

人々は歓喜した。状況が未知なときに正解の持つ力はとても力強い。

こうして先の3指針ごとにコロナ問題を取り扱うインフルエンサーがタケノコのようにポンポンと産まれた。

状況が既知となったいまは、間違いを内包できる器が求められるようになる

そうして3年の月日が流れた。

3年間の間、私達は本当に毎日コロナウイルスの事を考え続けた。朝起きたらコロナコロナ、夜寝る前にコロナコロナ。

そうしてコロナの事を日々思い続けたし、そうしてコロナが社会にどういう影響をもたらすのかを2つ眼でよーくよーくみた。

そうして…私達の中から未知は消失した。

今では専門家も一般人も、誰もがコロナウイルスと共に生活する事の上級者となった。

既に上級者となったいま、情報なんてもう十分だ。

だから私達は既に専門家の強い意見は必要とはしない。もちろんある程度は耳にする事だろうが、それでも実際に一番大切なのはコロナ云々よりも自分の人生である。

自分の人生をどのように豊かにするか。これが私達が最も大切にする人生の指針である。

311やコロナ当初のように、社会が破綻するかもしれないという強い恐怖にさいなまれる状況ならまだしも、恐怖が既にない状況にあっては、人は”科学的な正しさ”よりも自分の心地よさを”正しさ”として優先する。

この自分の心地よさは、大抵の場合において”科学的な正しさ”とは折り合いが悪い。

例えば食習慣ならば、野菜中心で一日一食、腹八分目の食生活は間違いなく”正しい”が、そんな生活は味気なさすぎて絶対に嫌だという人の方がむしろ多いだろう。

そういう時に「お前は間違っている。悔い改めろ」だとか「勉強が足りないから、そんな間違った考えを持つんだ。もっと勉強しろ」というのはメチャクチャである。

この考えがヤバいのは誰もが理解できると思うのだけど、実は社会においてはこれと同じような事をやってのけて、かつそれが未だに継続している人たちが一定数いる。

それはリベラルだ。彼らの行き着いた結末から私達が学ぶべる事は実に多い。

かつてリベラル派は魅力的な人たちの集まりだった

かつてリベラルは魅力にあふれていた。

古臭い保守をぶっ叩き、新しいライフスタイルをとなえる彼らの言葉は本当に光り輝いていた。

誰もがその光り輝く人たちをみて「昭和のオッサンより絶対にこっち。家長制度なんて絶対に嫌だ」と勉強に励み、価値観をアップデートさせた。

LGBTQへの理解を深め、男女同権を推進させ、女性に優しくなろうとフェミニズムを学んだ。

そうして”正しさ”を身に着け始めていた当初は良かった。

たしかに保守的なシステムには多数の”間違い”や”不快さ”があった。それらは自分たちがリベラルになる事と共に部分的に改善する事が可能であり、リベラル化した現代はかつてとは比較にならないぐらい生きやすくなった。

こうしてリベラル化を推進させると共に、逆にリベラルの悪い面をみえるようになった。

個人の自由を徹底して共同体を破壊することは強い個人にはメリットが多かったのだけど、逆に弱い個人はその自由が重い。

無縁社会に未婚社会と、もう耳にタコだろう。

この段に至ってリベラルが反省できていればまた未来は違ったのだろうが、現実は残酷だ。

リベラルがアイデンティティになってしまった人たちにとって、反省は自己否定にも等しい。

結果、価値観は先鋭化し、その先鋭化した価値観についてこれない大衆を馬鹿と罵るような人たちすら現れるようになった。

正解は状況を打開した後に環境を落ち着ける効果は薄い

人は反省がとても苦手な生き物である。自分自身の正しさを疑い、自分自身の過ちを認める事はとても難しい。

また、他人の過ちを認める事も困難を極める。多様性というのが「みんな違ってみんないい」なら極論すれば他人なんて過ちの塊にすらなりえる。

だけど、現実問題として私達はそんな多様性は多様性として認められない。

それは「右翼であり左翼。つまりダブルウイング!」みたいな存在しない何かにしかならない。

このように正解は状況を打開するという段階においては強い威力を発揮するのだけど、状況を打開した後に環境を落ち着ける効果は薄い。

物語の中から出られなくなる

実は311の時もそうだった。原発がモクモクと煙を出しているとき、私達はマジで心細さの塊であった。

そんな状況で必要なのが希望だった。私達はインフルエンサーにすがりつき、彼らの紡ぐ言葉に光をみた。

そうして数年の歳月がたった。そして不安は世の中から消え、みんなが普通の日常に回帰して、原発に飽きた。

この段階に至ってまで正義を貫き続ける人間は完全に狂人であるのは言うまでもなかろう。

しかし振り上げた拳を降ろせないからのか、未だに狂気の中から出れない人たちがいる。
彼らの中には別の物語へと軸足を移し、正義を唱え続けるものもいる。

原発を批判したのと同じ口でアベ政治を批判し、ロシア・ウクライナ問題を批判し、統一教会を批判する。

言うまでもなく、彼らに必要なのは改革ではなく落ち着く事だ。

状況が改善したのなら腰を据えて、じっくりと人生を丁寧にやる事が次には大切なのだけど、彼らは頑なに状況が改善したという事を認めない。

だから物語を渡り歩き、誰かを正義の名のもとに叩き続ける。そうして戻れない終わりの無い旅にでかけてしまう。

科学的な正しさは、正義にはならない

これが物凄く馬鹿げた現象だっていうのは、誰もが理解できることだろう。

しかし改めて私達はどうだろう?医療従業者は特にだが、ひょっとして私達は科学的な正しさを”正義”として心の中に飼ってはいないだろうか?

そしてその正義でもって、誰かを言葉汚く罵っていたりしないだろうか?「あいつは馬鹿」「勉強が足りてない。価値観をアップデートさせれば同じ意見になるはずだ」と思い込んではいないだろうか?

みなが大きな器を持てるようにならねばならない

もうそろそろ、状況は落ち着いたのだとゆっくりとでいいから受け入れて、腰を据えて人生をゆっくりとやるべき段階に来つつあるのだと僕は思う。

正義を主張しすぎた医療従業者は一般人としての感覚も取り入れて、自分のプロ意識に反するような事ですら社会においては多様性の大切な一部なのだと取り入れて、一社会人として社会を共に営んでゆく覚悟を示す事も必要だ。

正義は仕事においては重要なものだが、私生活でなら求められていないのなら特に口うるさく誰かに押し付けないのが他人と共同生活をうまくやるマナーである。

誰かに意見として求められたのなら提示してもいいけれど。

私達は誰もが自分の人生の主役である。

そこには万人が満足する正解は無く、ただただ真面目にコツコツと淡々とやっていかなくてはいけない現実が目の前にあるだけだ。

私達は誰もが不完全であり誰もが間違っている。それでいいしそれがいい。

いま必要なのは正解でも希望でもなく器だ。みんなで一緒にやっていくという器のデカさなのだ。』

人心掌握から武力統一へ 中国の台湾政策の変化

人心掌握から武力統一へ 中国の台湾政策の変化
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/27725

『ワシントン・ポスト紙(WP)コラムニストのジョシュ・ロウギンが8月11日のWPに「ペロシの台湾訪問への中国の過剰反応はわれわれに何を教えているのか」との論説を書いている。
ronniechua / Tanaonte / iStock / Getty Images Plus

 ペロシ下院議長の訪問後の台湾に対する過剰反応と報復措置は、平和統一ではなく、武力によって台湾をとることに北京が焦点を合わせていることを示している。習近平の戦略は台湾の人心を掌握することから、台湾に恐怖と憎悪を起こさせることに変わった。

 中国の激烈な反応は危険な新しい時代の始まりを示している。中国は米国に対し、軍間の対話をやめ、気候変動と麻薬対策に至る諸問題での2国間協力計画を停止した。

 中国の行動の大部分は台湾の政府、経済、人々に向けられたものであった。中国は初めて台湾の都市を超えてミサイルを撃った。台湾周辺での前例のない軍事演習は封鎖または侵攻の予行演習でありうる。

 経済的には中国は100の台湾商品の輸入を制限した。8月3日、中国当局は中国のビジネスマンを「台湾独立論者」として拘束したが、中国でビジネスをしている台湾の会社への明確な脅しである。

 台湾での中国の過剰反応と、新しい危険な現状を作ろうとする努力は世界にとっての警鐘である。台湾支援を増やし、中国が侵攻は成功しないと考えるようにするための時間はなくなってきているが、そうすることが紛争を避ける最善で多分最後の手段であろう。


 この論説は説得力がある論説である。

 習近平は中華民族の復権を唱え、強国路線を突き進んでおり、台湾政策においても、平和的な両岸間の話し合いを通じた再統一路線は投げ捨ててしまった感がある。』

『鄧小平は香港について「一国二制度」を提唱し、香港の中国返還を成し遂げ、台湾に対しても同様のことを考えていたと思われるが、習近平は香港の「一国二制度」を英中共同声明に反して期限前に壊し、中国の愛国者による統治を実現した。西側民主主義諸国は、香港問題について、中国に対してもっと強硬に対応すべきであったが、そうしなかったので、習近平にとって香港の体制転換は成功体験になっているのではないかと考えられる。
 そして、これが台湾問題についての対応にも反映されている気がする。台湾に対する強硬政策で、台湾独立分子を孤立させることが可能であると考えている怖れがある。
必要となる日本と米国の覚悟

 台湾有事の発生を防ぐ為には、米国も日本も相当覚悟を決めてかかる必要がある。脅威は意図と能力の掛け算で決まるが、こちら側も軍事能力で抑止する必要がある。日本は防衛力を強化する必要があるし、米国も台湾支援を強化すべきであろう。

 ここ2年は中国の台湾侵攻はないとの予想や、2026年、27年までに中国は台湾攻撃の準備はできないとの推定で安心するわけにはいかない。これらの期限はすぐにくる期限である。

 日米が協力して中国に対し抑止力を備えること、そのためには何が必要かを具体的に図上演習もして、はっきりさせていくことが必要ではないか。ロウギンが言うように残された時間は少ない。また、日本としては、中国の考え方に影響を与えるために、台湾をめぐり紛争になることは許容できないことをこれまでも表明してきたが、これからも対中外交の中でさらに強調すべきことであろう。』

中ソロモン協定「闇の中」

中ソロモン協定「闇の中」 米批判、諸島側と協議
2022/4/22 08:29
https://www.sankei.com/article/20220422-BGPOHBBGM5PBXAH2O5Y4AQ3WCA/

『プライス米国務省報道官は21日の記者会見で、中国と南太平洋の島国ソロモン諸島の安全保障協定について「周辺地域と相談しておらず、闇に包まれた、はっきりしない合意だ」と批判した。バイデン政権は中国が協定を通じて南太平洋の軍事拠点化を図ると警戒を強めている。

プライス氏によると、米国のキャンベル国家安保会議(NSC)インド太平洋調整官と、クリテンブリンク国務次官補(東アジア・太平洋担当)が米東部時間21日にソロモン諸島に到着。協定への米側の懸念を伝達するとみられる。

プライス氏は安保協定について「ソロモン諸島の首相は協定の詳細を明らかにするとしているが、安保について透明性を持たせるかどうかは中国次第だ。地域に懸念をもたらしている」と指摘。周辺国も協定内容について知りたがっているとし、地域の不安を解消することが必要だと訴えた。

中国外務省の汪文斌副報道局長は20日の記者会見で、協定に米国などが懸念を示したことに対し「太平洋の島国は米国や米同盟国としか安保協力をしてはならないのか」と反発し、協定内容を公開するかどうかは明言を避けた。(共同)』

中国共産党が台湾を侵攻しないという約束を破棄

憂慮すべき軍事演習が続く中、中国共産党が台湾を侵攻しないという約束を破棄
https://www.epochtimes.jp/2022/08/116040.html

『すでに台湾海峡で地域を不安定化させる軍事訓練を展開していることで広く非難を浴びている中国共産党が、中国政府が自治領台湾を併合するという長年の目標を達成しても台湾を占領下に置くことはない、という約束を反故にしたとメディアが報じている。

香港、チベット、新疆ウイグル自治区など、何百万人もの人々が民主主義取締り、恣意的な拘束、強制的な文化的同化、国家による監視を受けている地域で中国共産党が自治に関する約束を破っていることを考えると、新白書で明らかにされた方針転換は何ら驚きに値しない。

2022年8月中旬に「ザ・ストレイツ・タイムズ」紙が報じたところによると、台湾に関する中国共産党の白書は「軍隊を島に送らないという言及を削除するなど、文言の変化を見せている一方、言い回しの口調やスタイルはより攻撃的なスタンスを示唆している。 「これは、20年以上前にこうした文書が最後に発表されて以来、中国政府の自信と主張の変化を反映している」という。

中国共産党は台湾を自国領土であると主張し、これまで中国の領土であったことのない台湾島を支配下に置くために武力を行使すると脅している。 20世紀前半、中国の民族主義者らが共産主義者との内戦の後、台湾に亡命した。 1949年に中国共産党が一党国家として中華人民共和国を建国、一方、台湾は民主国家となった。

中国政府は白書の中で、「平和的な」解決策を好むと主張しているほか、統一が「台湾が外国に侵略され、占領されるリスクを回避する唯一の方法」であると主張することで領有権の主張を正当化しようとしていると、2022年8月に「ザ・ディプロマット」誌は報じている。

中国関連の政策を監督する台湾の大陸委員会は、この白書が「希望的観測の嘘に満ちており、事実を無視している」と述べた。

同委員会は8月10日の声明で、「このような無謀で賢明さを欠く政治的作戦は、中国共産党の好戦的な考え方と、武力を行使して中国台湾間の平和を破壊しようという悪質な計画のさらなる証拠だ」とした上で、 「台湾の2,300万人の人々だけが台湾の将来を決定する権利を有しており、独裁政権が決定した結果を受け入れることは絶対にありえない」と述べた。

白書が発表された頃、中国人民解放軍(PLA)が台湾海峡で史上最大規模の演習を行い、台湾周辺で複数の弾道ミサイルを発射し、そのうちのいくつかのロケットが日本の排他的経済水域内に着水している。 報道によると、中国の航空機、無人機、船舶が台湾と中国の間の幅160キロメートルの水路の中間線を繰り返し横断しており、中国人民解放軍は最近、台湾に最も近い空軍基地で大規模なアップグレードを完了した。

中国政府はまた、米国議員団による短時間の台湾訪問に激しく反発し、その一環としてサイバー攻撃や偽情報キャンペーンを含むハイブリッド戦を台湾に対して行っていると非難されている。

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インド太平洋地域、ヨーロッパなどの多国間組織は、解放軍の実射訓練が壊滅的な誤算のリスクを高め、地域の安定性を損ない、世界的な海運ルートを混乱させていると批判している。

ロイター通信によると、1993年と2000年に発表した白書で、中国共産党は「再統一」の場合、台湾に軍隊や行政要員を駐留させないと主張し、同島が中国の特別行政区として自治権を持つ可能性をちらつかせた。

しかし、1997年に中国が旧英国植民地だった香港の支配権を獲得した際に同様の条件が与えられていたはずの香港が辿ってきた運命は、中国共産党の宣言が口先だけであるという認識を改めてもたらすものだ。「一国二制度」の原則の下で、香港は少なくとも2047年まで内政における自治権と世界的な金融の中心地としての地位を維持することになっていた。

しかし、2020年半ばに中国政府が反対意見を抑え込み、民主化運動を粉砕することを目的とした国家安全法を施行したことで、香港に対して中国政府が行っていた保証は消失した。 これがきっかけとなり、現在中国政府に忠実な形式だけの議会によって統治されている香港から、住民や企業の継続的な脱出が始まった。

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過去2年間で、中国共産党による台湾への圧力も上昇している。中国人民解放軍の航空機が台湾の防空識別圏への侵入を繰り返しており、アナリストによると、これは台湾の防衛力を消耗させ、抑え込むための試みであるという。

観測筋によると、台湾を中国政府の支配下に置くことは、中国の習近平共産党委員会総書記が掲げる中国ナショナリズムのビジョンの中核だ。 ロイター通信によると、2022年後半に3期目となる5年間の任期を確保する見通しの習主席は最近、中国統一を党の「揺るぎない歴史的任務」のひとつと称した。

台湾は、兵器システムの国内開発などを通じて、潜在的な侵略に対する防御を強化している。

AP通信が報じたところによると、台湾の蔡英文総統は2022年8月中旬に、台湾政府が地域の現状を守るべく米国や他のインド太平洋の提携国と協力していると述べた。

「今年初めのロシアのウクライナ侵攻は、独裁国家が世界の秩序を脅かしていることを示している」と蔡総統は述べた。

Indo-Pacific Defence Forum 』

下落止まらぬ人民元相場 金融危機へ発展?

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:下落止まらぬ人民元相場 金融危機へ発展?
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5367498.html

『中国の通貨、人民元の対ドル相場下落(人民元安)が止まらない。中国の人民元が対ドルで2年ぶりの安値に沈み、中国人民銀行(中央銀行)は経済減速と住宅市場の低迷を受けて下支えに乗り出しており、元は今後も一段安となる公算が大きい。 直接の原因は外国の投資家の中国債券売りと資本逃避であり、金融危機を招きかねない。元安では、一般的に輸入品が割高になり物価高を招く一方、輸出には有利になるとされるが、中国の最大輸出先の米国は、トランプ政権以降の保護主義政策で、中国製品の輸入関税を引き上げる方向にある。

グラフは昨年12月以降の外国投資家の中国債券保有残高のドル換算額と、人民元の対ドル相場の推移である。左側の目盛りで表示される中国債券は不動産開発企業などが発行する社債や地方政府債が大半を占める。多くは元建てである。右側の目盛りの人民元レートは下方が元安、上方が元高である。中国債券と元相場のトレンドは今年2月以降、同時並行して下がり続けている。6月の外国の中国債券保有残高は1月に比べ、約1200億ドル( 約16兆4,518億円)減った。参照記事 参照記事 

中国については、長引く米中対立から意図的に米国債保有を減らし、金融分野の米国依存を低下させているという指摘もある(「日本経済新聞」電子版7月19日:米国債保有額では、中国は日本に次いで世界2位 PDF)また、長いドル高の中で、中国経済の減速を示す指標が相次いでいることも売り材料となっていて、7月の製造業、投資、個人消費、若者の雇用に関するデータなどが景気後退を示している事も原因とされる。参照記事 参照記事』

「秋雨+ダブル台風」 豪雨リスク、最大級の警戒を

「秋雨+ダブル台風」 豪雨リスク、最大級の警戒を
編集委員・気象予報士 安藤淳
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK282RH0Y2A820C2000000/ 

『■ウェザープラス 日本列島は活発な秋雨前線と台風の影響で、来週初めにかけて大荒れになる可能性が高い。台風11号は日本の南をゆっくり動く見通しだ。勢力はさらに強まり、「スーパー台風」級に発達する恐れがある。加えて台風12号も発生し、「ダブル台風」が前線を活発化させる。西日本や北日本を中心に全国的に大雨が降りやすく、記録的な降水量になるところも出てきそうだ。災害の起きやすい気圧配置の典型と言え、最大級の警戒が必要になる。

夏の太平洋高気圧は日本の東海上で強く、その周囲を時計回りに吹く風によって、日本付近には南から暖かく湿った空気が入りやすい。大陸の秋の空気との間に秋雨前線が発生し、北日本にかかっている。台風11号や12号は南からの空気の流れを強め、前線を刺激する。台風11号は比較的ゆっくりと移動しており、前線は数日間、活発な状態で同じようなところに停滞する可能性がある。

東西の温度コントラストがあるため、前線は緯線に対してやや北に傾いているのが特徴だ。台風が本州から離れていても、前線に近い北日本などには雨雲がかかりやすい。東海や西日本なども湿った空気の影響で大気が不安定となり、雲が急発達する恐れがある。

一方、関東甲信は晴れ間が出るタイミングもありそうだ。曇りや雨の間は気温が低めだが、熱帯の空気が勢いを増すため、いったん日差しが出れば気温が上昇して蒸し暑く、熱中症を起こしやすい天気になる。

台風11号の雲はよくまとまっており、30日夜に中心付近の最大風速が55メートルに達して「猛烈な」台風となった。周辺海域の海面水温は30度以上あり平年より高い。27度以上が台風の発達に適しているとされ、それを大きく上回る。さらに発達し、中心気圧は1日には915ヘクトパスカルまで下がると気象庁は予想する。

米軍の合同台風警報センターも30日時点の予想で、最大風速が135ノット(約70メートル)程度に達すると見込む。風速の単位の違いなどから、そのまま気象庁の数値と比較できないが、最強の「カテゴリー5」もしくはすぐ下の「同4」となり、130ノット以上というスーパー台風の条件に近づきそうだ。

日米両機関とも、31日には南海上に台風12号が発生する可能性があると予想する。12号も強まるのか、発達しないまま弱まるのか、まだはっきりしない。2つの台風が近くにあると、互いに影響を及ぼし合う「藤原の効果」が起きることがあり、動きは複雑化して予想は難しくなる。

台風は上空の偏西風に乗って動くが、現状では偏西風はかなり北を流れているため、11号や12号の動きは遅い見通し。11号は南西に進んだ後、来週初めごろにはゆっくり北上するとみられる。上空の気圧の谷の影響もあって前線はますます活発になり、北日本や西日本を中心に雨量が増えることも考えられる。

その後、進路次第では台風11号本体の雨雲が西日本や東日本にかかるかもしれない。最悪の場合、勢力をあまり弱めないまま上陸することもあり得る。既に土壌中の水分は多くなっている。河川の氾濫や土砂災害が起きやすいので、いつでも避難できるよう準備し、最新の情報に注意する必要がある。

台風が日本の南海上で発達し西寄りに進むと、上昇気流によって上空に達した空気が降りてくる付近で高気圧を強める場合がある。条件がそろえば太平洋高気圧の発達につながる。悪天候が一段落した後、来週後半には高気圧が西日本から東日本にかけて広い範囲を覆い、再び夏空が広がる可能性がある。

気象庁はもともと、今年は秋口でも残暑が厳しくなる公算が大きいと予想していた。熱帯太平洋のラニーニャ現象の影響も考えると、このまま涼しくなり秋を迎えるよりも、暑さがぶり返すとみるのが自然だ。9月とはいえ、まだ暖気の勢いは強い。日射によって気温が上昇し、最高気温が30度以上の真夏日が再び各地で観測されるかもしれない。

▼秋雨前線

秋空をもたらす大陸の比較的冷たい空気と、夏の太平洋高気圧の勢力圏との境目にできる前線。梅雨前線に似ているが、季節の移ろいとともに南下し涼しくなっていく点が異なる。台風シーズンとも重なるため、大量の水蒸気が供給され大雨をもたらすことがある。関東甲信や東海で9月の雨量が最多なのはこのためだ。

安藤淳(あんどう・きよし) 1987年日本経済新聞社入社。科学技術部、産業部を経て98~2002年ワシントン駐在。03~07年パリ支局長。現在、
編集委員兼論説委員。環境・エネルギー、先端医療などを取材。気象予報士609号

ニューズレター https://regist.nikkei.com/ds/setup/briefing.do?n_cid=DSREA_newslettertop 』

ロシアがイラン製無人機入手

ロシアがイラン製無人機入手 米国務省「多数の不具合」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN30E630Q2A830C2000000/

『【ワシントン=芦塚智子】米国務省のパテル副報道官は30日の記者会見で、ロシアがウクライナでの戦闘に使用するためイランから無人機の提供を受けたとの米政府の見解を明らかにした。ロシアによる数百機の輸入計画の一環である可能性が高いと説明。ロシアが入手した無人機に多数の不具合が出ていることを示す情報があるとも指摘した。

パテル氏によると、ロシアの輸送機が今月、数日にわたってイランの飛行場で無人機を積み込み、ロシアに移送した。ロシアの操縦士はイランで無人機の運用訓練を継続しているという。

パテル氏は「ロシアは制裁や輸出規制などの影響によりウクライナで深刻な軍事物資不足に直面しており、イランのような信頼性の低い国に供給を頼らざるを得なくなっている」と指摘。引き続き制裁の執行を強化していくと述べた。

またパテル氏は、ロシアがウクライナの占領地域で近く偽の住民投票の実施を画策しているとの見方を示した。住民がロシアへの併合を望んでいると嘘の主張をするため、ロシアが結果を操作することが予想されると説明。世論調査は、自由な住民投票が実施されればウクライナの住民はロシアへの併合を選ばないことを示していると語った。

https://regist.nikkei.com/ds/setup/briefing.do?n_cid=DSREA_newslettertop 』

中国経済救える次期首相、「団派」傍流の汪洋氏も候補に

中国経済救える次期首相、「団派」傍流の汪洋氏も候補に
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK281OM0Y2A820C2000000/

『中国の成長を支えてきた若年労働層の失業率(16~24歳)がほぼ20%という歴史的な高水準に達し、公務員の収入が地方中心に前の年より最大3割強も下がる。尋常ではない中国経済を苦境から救える次期首相はいったい誰か。中国の経済界などから全国政治協商会議主席の汪洋(ワン・ヤン、67)を推す声が上がっている。

全国政治協商会議で発言する汪洋・全国政治協商会議主席(18年3月)=三村幸作撮影

汪洋とはどんな人物なのか。現在、7人いる最高指導部(共産党政治局常務委員)メンバーで、序列4位の実力者だ。だが、この5年の動きは地味だった。いや、あえて爪を隠して目立たぬように振る舞ってきた感すらある。国家主席の習近平(シー・ジンピン、69)に忠誠を尽くす発言も多い。

鄧小平による「一本釣り」

汪洋は、共産党幹部への登竜門である共産主義青年団が形づくる派閥(団派)の有力者といわれてきた。だが、実際には1980年代前半、出身地の安徽省で共青団地方幹部の経験があるだけだ。

前国家主席の胡錦濤(フー・ジンタオ、79)、首相の李克強(リー・クォーチャン、67)、そして副首相の胡春華(フー・チュンホア、59)のように共青団の中央組織で育ったエリートではない。共青団トップである第1書記の経験者でもない。7300万人強を擁するエリート集団出身としては傍流なのだ。

広東省深圳に立つ改革・開放の立役者、鄧小平の像(国営中央テレビの映像)

汪洋抜てきのキーマンは、かつての最高実力者、鄧小平だった。貧しい家庭出身の汪洋は、中学卒業後、食品工場で働く。30代半ばの若さで就いた安徽省銅陵市長として行政、公営企業の改革を進め、地元紙に載せた「目覚めよ 銅陵!」という文章が中央で注目される。

折しも鄧は、1989年の天安門事件で萎縮した「改革・開放」を再び加速させるため、92年1月、南方を視察する「南巡講話」の旅に出る。その後、安徽省に立ち寄り、改革・開放の旗を振る若き汪洋にも会ったとされる。

ここから汪は出世の階段を上り始めた。いわば鄧のお墨付きを得た「一本釣り」人事だ。安徽省副省長、国家発展計画委員会の副主任、国務院副秘書長、重慶市と広東省のトップ、そして副首相から全国政協トップ……。地方から中央まで申し分のない多彩な経歴だ。
「改革・開放」旗振りはまず李克強氏

8月中旬までのいわゆる「北戴河会議」後、習は、共産党機関紙、人民日報の1面を全て自身の遼寧省視察の関連記事で埋めるなど、10月16日からの開催が発表された共産党大会でトップとして3選を狙う方向性に変化がないことをうかがわせた。

一方、経済運営を巡っては注目すべき動きがあった。北戴河会議の後、首相の李克強が、習よりも早く国営中央テレビの夜のメインニュースに動画で登場。その視察場所は「改革・開放」政策を象徴する広東省の深圳だった。

深圳で鄧小平像に献花する李克強首相(国営中央テレビの映像)

深圳は、先に紹介した鄧による「南巡講話」の中心都市だ。李は深圳の公園にある有名な鄧小平の像にも献花した。党大会前の北戴河会議直後、習ではなく李が深圳入りし、鄧の像に献花するのは意味深である。

この10年、習は政治、経済、外交・安全保障のあらゆる面で「鄧小平ルール」をひっくり返すことで、鄧の業績を超えて、党トップとして異例の3期目にレールを敷く戦略を進めてきた。

だが、今回の李の深圳行きは、現役指導部と長老らが意見交換した北戴河会議の雰囲気を反映していると考えられる。減速著しい中国経済の先行きを心配する声が目立ったのは当然だろう。

そこで鄧の改革・開放路線を揺らぎなく進める実務上の重責を李に担わせた。これを内外に示したのが、李の深圳行きである。こう考えれば、一連の北戴河後の動きを解釈できる。

ただ、李自身が3月に語ったように23年春での首相退任は確実だ。とすれば李に代わる新たな改革・開放の旗振り役が必要になる。この時、重要なのが、極端に走りがちな習を説得し、歯止めをかけられる老練な政治的手腕だ。なおかつ習と良好な関係を保たなければいけない。難しい役回りである。

李克強首相が政府活動報告をするなか、汪洋全国政協主席㊧と言葉を交わす習近平国家主席(19年3月、北京の人民大会堂)=横沢太郎撮影

写真は19年3月の全国人民代表大会だが、李が演説するなか、壇上では習が汪洋と親しげに言葉を交わしている。関係が微妙な習と李の間ではめったにみられない風景だ。衆人環視の会話には「あえて皆に見せ、人間関係の濃淡を推測させる」という狙いがある。会話内容は、唇から読まれているかもしれず、重要ではない。

習は、党の中央財経委員会などの強化で、国務院(政府)を仕切る李から実質的な権限を奪ってきた。李と壇上で親しげに話す機会が極端に少ないのは、トップとナンバー2の格の違いを印象付ける意味がある。序列4位で共青団中央エリートでもない汪洋の場合、そこまで意識する必要はない。

21年夏、習が共同富裕(共に豊かに)というスローガンを打ち出した後、住宅・建設・不動産不況、「ゼロコロナ」政策もあって景気が落ち込んだ。共同富裕に触れる機会も大幅に減ったが、北戴河明けの遼寧省視察では習が再び共同富裕を2回ほど強調している。

共同富裕からの完全な路線転換は、習の求心力低下を招く。習のメンツは立てなければならない。とはいえ再び暴走するのは困る。だからこそ鄧小平路線の継承者の顔を持つ「市場メカニズム重視派」である汪洋への期待が高まるのだ。

副首相経験者から選ぶ鉄則

首相選びでもう一つ、重要な点がある。首相は、副首相の経験者から選ぶという鉄のおきてを今回も守るのかだ。建国の父、毛沢東の忠実な伴走者で首相だった周恩来が1976年に亡くなって以来、首相のポストは例外なく副首相経験者が継承してきた。

上海市トップの李強氏

中央の経済財政運営の実務に精通した人材でなければ首相職は務まらない。そう考えられてきたのだ。汪洋の場合、2013~18年まで副首相を務め、対外経済の担当者でもあった。

例えば、習側近で首相候補とされた上海市トップの李強(63)は、まだ中央での実務経験がない。早々に上海から北京に異動し副首相に就けば、23年春の首相抜てきもあり得る。だが、先の上海都市封鎖の混乱で、経歴に大きな傷が付いてしまった。

副首相経験者という点では、筆頭副首相の韓正(ハン・ジョン)も有資格者だが、68歳になれば新たなポストに就かず引退するという内規に抵触する。首相に就くには、習と同様、首相職もこの内規の例外とする必要がある。

韓正副首相

ほかには副首相の胡春華も首相候補になり得る。だが、こちらは団派の正統な継承者で、歳も習より10歳若い。長期政権を狙う習としては警戒せざるをえない。「ポスト習」の芽を育てず、世代交代の雰囲気を醸し出さないのが、政権を長持ちさせる秘訣である。

こんな裏の目的もあって、力ある共青団に「貴族化」「娯楽化」というレッテルを貼りながら、執拗に改革を求めてきた。17年に胡春華と同世代の重慶市トップ、孫政才(58)を失脚に追い込んだのも当時、「ポスト習」の最右翼とみなされたからである。

団派では傍流にすぎないことが、汪洋に幸いするかもしれない。既に大ベテランの汪なら自らの地位を脅かすことはありえず、よいコンビを組めるかもしれない。習はそう考える可能性がある。

「ある地域の2人の公務員から聞いた。彼らは昨年末から給与が下がり、今年全年では(昨年に比べ)3分の1近く減る見込みだ」。誰もが知る中国の著名ブロガーで元環球時報編集長の胡錫進が8月中旬、こう投稿した。

浙江省などでは昨年末、公務員本人とみられる人物が25%ほどの給与カットを明かしたが、その投稿はあっという間に削除された。8カ月が過ぎ、地方経済の極端な悪化という一連の事実がようやく公になりつつある。

「これからの5年間は、改革・開放から40年余りで最も困難な時期になる」。中国の経済学者がこう予想するほど情勢は厳しい。困難な経済運営と改革の司令塔役を担える人材はそう多くない。かつて行政改革や公営企業の改革にナタを振るった汪洋への期待はその辺りにある。

1994年2月25日、日本記者クラブで記者会見する当時の朱鎔基・中国副首相(東京・内幸町)

難点は、67歳という年齢から考えて1期5年しか首相職を担えないとみられる点だ。それでも1998年から5年限りの首相任期中に行政改革、国有企業改革を進めた朱鎔基の例がある。

中国の世界貿易機関(WTO)加盟に道を開いた朱鎔基は99年、安徽省にいた汪洋を中央の国家発展計画委副主任に引き上げた師匠筋でもある。ちなみに朱鎔基が首相に就いた年齢は69歳だった。 つまり、汪洋を選んだ場合、5年後に再び首相の人選が必要になる。

もうひとつは、いくら首相本人に能力があっても、それを発揮できる権限、環境が整っていなければ、過去10年と同じ間違いを繰り返すことになる。汪洋首相説はあくまで一部の期待にすぎないが、「現実離れ」した案でもない。結局、全ては習の考え方にかかっている。(敬称略)

中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。

習近平帝国の暗号 2035

著者 : 中澤 克二
出版 : 日本経済新聞出版
価格 : 1,980円(税込み)

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青山瑠妙
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 教授
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ひとこと解説

中国共産党第20回党大会に対する注目度は非常に高い。しかしながら、そのほとんどは習近平国家主席が引き続き3期目へと続投するか、あるいは誰がこれからのトップ7になるかに関するものばかりだ。こうした問題ももちろん重要ながら、本記事が取り上げているテーマ、誰が中国経済の指揮をとるかという問題はこれまでほとんど注目されていない。中国の経済発展、政権の安定、世界経済との関わりなど様々な意味で、李克強首相と劉鶴副首相の後任人事から目が離せない。
2022年8月31日 12:01』

ソ連最後の指導者ゴルバチョフ氏死去

ソ連最後の指導者ゴルバチョフ氏死去 東西冷戦に終止符
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR3103K0R30C22A8000000/

『【この記事のポイント】

・旧ソ連最後の指導者として東西冷戦を終結させた
・ベルリンの壁崩壊を導き、東西ドイツ統合に道開く
・1990年にノーベル平和賞を受賞した

旧ソ連最後の最高指導者で初代ソ連大統領となったミハイル・ゴルバチョフ氏が30日、死去した。タス通信などロシアの複数の通信社が、モスクワの中央クリニック病院の話として伝えた。91歳だった。東西冷戦を終結させ、ベルリンの壁を1989年に崩壊に導き、その後の東西ドイツ統合を実現した最大の立役者。90年にノーベル平和賞を受賞した。

タス通信によると、中央クリニック病院は「重い長期の病気の後、ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ氏が今晩、死去した」と述べた。死因など詳しいことは明らかにしていない。

タス通信は関係者の話として、ゴルバチョフ氏は新型コロナウイルスの感染が拡大した2020年に同病院に入り、療養を続けていたと報じた。ただ、死因は新型コロナではないという。

モスクワのノボデビッチ墓地に、先に死去したライサ夫人の隣に埋葬されることになるとの見方も伝えた。

1987年12月、ホワイトハウスで中距離核戦力条約に署名するレーガン米大統領(右)とゴルバチョフ・ソ連書記長(いずれも当時)=ロイター

【ゴルバチョフ氏死去 写真特集】

1931年3月ソ連ロシア共和国南部のスタボロポリ地方生まれ。55年モスクワ大法学部卒業後、故郷に戻り共産党での活動を本格化した。85年にチェルネンコ氏の死去を受けて54歳の若さで最高指導者である共産党書記長に就任した。

立て直しと情報公開を意味するペレストロイカ、グラスノスチを提唱し、経済的に閉塞感が漂い、秘密主義が横行していたソ連の政治・経済体制の改革を断行した。

書記長就任前から英国のサッチャー首相(当時)が「彼となら仕事ができる」と述べるなど、従来のソ連の指導者のイメージを一新した。西側では「ゴルビー」の愛称で人気を集めた。

新思考外交を掲げ、イデオロギー色が強い外交政策を転換した。米国のレーガン大統領(同)とは87年に中距離核戦力(INF)廃棄条約に調印するなど核軍縮の流れを決定づけ、89年12月にはマルタで米国のブッシュ大統領(同)とともに東西冷戦終結を宣言した。中国との関係改善やアフガニスタンからの軍撤退も実現した。

90年には一党独裁の放棄や大統領制の導入などを決め、自ら初代大統領に選出された。しかし、91年8月のクーデター未遂を契機に権力はロシア共和国の大統領となっていたエリツィン氏に移った。同年12月に独立国家共同体(CIS)創設に伴うソ連崩壊で大統領を辞任した。

辞任後はシンクタンク、ゴルバチョフ財団を創設し、海外での講演や環境保護運動などを中心に活動、日本にも頻繁に訪れた。ただ、国内ではソ連崩壊とその後の混乱を招いたとして人気は低く、96年の大統領選では得票率が0.5%にとどまった。

2006年11月、ドイツで頸(けい)動脈の手術を受けるなど健康不安が出ていた。アルツハイマー病も発症しており、近年は活発な活動は控えていた。

ロシアのウクライナ侵攻を巡っては、ゴルバチョフ財団が2月26日、一刻も早い戦闘停止と和平交渉開始を呼びかける声明を出した。平和の実現を祈る情報発信を続けていた。

【関連記事】

・ゴルバチョフ氏死去 ペレストロイカで世界に新風
・ゴルバチョフ氏死去 岸田首相「果断な実行力」
・ゴルバチョフ氏死去 バイデン米大統領「希代の指導者」
・国連総長「歴史変えた」 ゴルバチョフ氏悼む声相次ぐ

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村上芽
日本総合研究所創発戦略センター シニアスペシャリスト
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ゴルバチョフ、ペレストロイカ、グラスノスチ。冷戦終結に至る呪文のような言葉のうち、改めて意味が大きいと感じるのはグラスノスチ(情報公開)です。トップが自分に都合の悪い情報を隠し、それを部下に強要することの醜さ、それは国でも企業でも同じでしょう。今のロシアで、尊敬された状態で「お別れの会」が開かれてほしいものです。
2022年8月31日 8:29

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滝田洋一
日本経済新聞社 特任編集委員
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ひとこと解説

①ソ連邦の解体。プーチン氏はそれを「悲劇」「歴史的惨事」と受け止め、大ロシアの復活に突き進んでいます。それはゴルバチョフ路線に対する逆コースであり、ゴルバチョフ氏が幕を引いた冷戦の復活でもあります。
②ゴルバチョフ氏にソ連体制の行き詰まりを実感させ、改革路線への転換を促したのはレーガン政権でした。軍事面ではSDI(スターウォーズ)計画に、ソ連の経済・技術力ではとても追いつけないと悟ることに。
③経済面で見逃せないのは、1985年に米国がドル安(プラザ合意)と並んで、原油安(逆オイルショック)を仕掛けたこと。原油収入に頼るソ連が音を上げることに。プーチン氏に直面する今との違いを痛感します。
2022年8月31日 9:47

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柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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ひとこと解説

20世紀、世界がもっとも忘れてはならない一人はゴルバチョフ。冷戦を終結させたのはなによりも功績である。長寿されてなによりのこと。ロシア人の平均寿命は60歳ぐらいといわれている。ゴルバチョフはきっと天国にいっている
2022年8月31日 7:46』

どうやらショイグ国防相は、ウクライナ戦争の作戦指揮系統からは外されたようである

どうやらショイグ国防相は、ウクライナ戦争の作戦指揮系統からは外されたようである
https://st2019.site/?p=20193

『Aleksandra Klitina 記者による2022-8-29記事「Putin Removes Shoigu from Russian Army Command ? British intelligence」。

 どうやらショイグ国防相は、ウクライナ戦争の作戦指揮系統からは外されたようである。29日以降、プーチンが直接に、将軍複数に対するブリーフィングをやっていると。

 ショイグは67歳である。軍歴が無いために部下の少壮プロ軍人からは蔑まれている。

 ※ザポリッジア原発の、使用済み燃料棒貯蔵プールの破壊命令を、さりげなくサボタージュしたからか?』

脅威を無視する共和党員

脅威を無視する共和党員
解説
ABストッダード2022 年 8 月 19 日
https://www.realclearpolitics.com/articles/2022/08/19/republicans_ignoring_threats_at_their_peril__148073.html

 ※ ここのサイトで、紹介されていた。
  滑らかな翻訳は、こちらで。

【米国:全文翻訳解説】脅威を無視する共和党の危険性
https://www.newshonyaku.com/23759/

『By Mariko Kabashima

こちらの記事は、リアルポリティクスという米国の中道右派の政治ニュースサイトおよび世論調査データ収集サイトに掲載されたAB Stoddard氏の解説です。

「脅威を無視する共和党の危険性」というタイトルのこの記事は、現在の共和党の状態が非常に生々しいです。

同氏は、州議会ニュースサービスや、ザ・ヒル、 ABC News の上院プロデューサーとして、米国議会を取材し、2010 年と 2011 年に、同氏のコラムでは、ワシントン支部のプロフェッショナル ジャーナリスト協会で 1 位を獲得した実績の持ち主です。

日本では、共和党の現状をあまり見かけないので興味深いです。
ぜひご覧ください。』

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

先週、ドナルド・トランプのフロリダの住居が法的令状で家宅捜索された後、彼の支持者はFBIと司法省に対して「前例のない」暴力的な脅迫を繰り広げており、共和党員はいくつかの例外を除いて、意図的に目を背けている.

FBI捜査官協会は指導者たちに脅迫を非難するよう呼びかけ、「これは党派的または政治的な問題ではありません。それは公共の安全と基本的な品位の問題です」 – しかし、かつて「法と秩序」を擁護した政党からの沈黙に直面しています.

汚い爆弾、暗殺、内戦の呼びかけ – これらは、右翼メディアの声に加わり、マーラゴ捜索を「専制政治」、「腐敗」、「権力の乱用」と表現する共和党員を悩ませているようには見えません。 」、ゲシュタポに似て、そして何度も。

先週、オハイオ州の FBI 事務所で男が発砲し、誰かに危害を加える前に法執行機関によって殺害されたとき、共和党員は何も言わなかった. ペンシルベニア州の男が、彼が「警察国家のクズ」と呼んだ FBI 捜査官を「虐殺」するという脅迫を投稿した後、逮捕されたが、共和党員は何も言わなかった。ブライトバートは、おそらくトランプまたは彼の同盟国によるリークの受信者であり、捜索に関与した職員の名前を含む完全な捜索令状を公開したとき、ブライトバートがそれらの男性と女性とその家族を危険にさらしたことを非難するためにステップアップした共和党員は一人もいなかった. .

これに直面して、2021 年 1 月 6 日の米国議会議事堂への攻撃で暴動の標的となった前副大統領のマイク・ペンスは、声を上げた唯一の著名な共和党員です。

「私たちの党は、連邦、州、および地方レベルで細い青い線に立っている男性と女性を支持しており、FBIに対するこれらの攻撃を止めなければなりません. 「FBIへの弁済を要求することは、警察への弁済を要求することと同じくらい間違っています。」

ペンスは、暴動の間、荷積みドックに隠れていたのと同じくらい孤立していて孤独であるように見えます。ペンス氏が演説した数時間後、元首席戦略官のスティーブ・バノン氏はペンス氏を「嫌な臆病者」と呼び、FBI は「警察国家」であるため、FBI への資金提供を停止しなければならないと主張した。

アーカンソー州のアサ・ハッチンソン知事とペンシルバニア州のブライアン・フィッツパトリック下院議員は、FBIを擁護する数少ない共和党議員の2人です。元FBI捜査官のフィッツパトリックは、同僚に「あなたの言葉の重みを理解し、何があっても法執行を支持する」よう促した。フィッツパトリックは CBS の日曜日に、「最近、私自身の命がこれらの同じ人々の何人かによって危険にさらされたと局から通知された」と語った.

脅威に直接対処した共和党員は他にわずかしかいません。マルコ・ルビオ上院議員は、Mar-a-Lago を捜索する令状に署名した裁判官を中傷し、その後、彼自身の構成員の 1 人であるその裁判官が反ユダヤ主義の攻撃と脅迫を受け、彼の寺院がいくつかのサービスとイベントをキャンセルするようになったときに辞退しました。 . ルビオはついに、暴力を振るう人々は逮捕されるべきだとツイートするように促されました。

リンジー・グラハム上院議員、ロドニー・デイビス下院議員、ルイス・ゴーマート下院議員は全員暴力を否認し、マイク・ターナー下院議員はマージョリー・テイラー・グリーン下院議員の「FBIを弁護せよ」の帽子と、逆さまに飾られた商品を販売する彼女の新しいサイドハッスルから距離を置こうと努力しました。 「国家の敵」と書かれたアメリカ国旗。木曜日の CNN のインタビューで迫られたとき、ターナーは「あらゆる暴力を非難する」とだけ言った。

これは、危険な脅威を押し返すための努力ではありません。また、トランプの奇妙な試みは、それほどの怒りをかきたてるために責任を転嫁しようとするものでもありません。トランプ氏自身、メリック・ガーランド司法長官への仲介者を通じたメッセージや、フォックス・ニュース・デジタルとのインタビューで、脅迫的な環境について何度か言及しています。ガーランドへの彼のメッセージは、彼の住居が捜索されたために人々が怒っているというものでした. 伝えられるところによると、トランプ氏は「国は燃えている」と述べ、「熱を下げるために何ができるか」と尋ねた。ほとんどの人は、これ自体が暗黙の脅威であると想定していました。

トランプ氏はフォックス・ニュースに対し、司法省からの連絡はないと述べ、「私たちにできることがあれば、私と私の国民は喜んでそうするだろう」と付け加えた。しかし、インタビューを通して、彼は自分がどのように不当な扱いを受けたか、なぜ人々がそんなに怒っているのか、そして再びFBIを攻撃した.

いつも被害者であるトランプは、司法省の誰かが彼の支持者を落ち着かせるべきだと考えているようだ。トランプは、彼の支持者からの脅迫や暴力的な勧めを決して批判しませんでした。彼は「気温を下げなければならない」と述べたが、平和を訴えることはしなかった。また、彼は明示的に暴力を否定しませんでした。私たちは最近、先月の1月6日の公聴会での暴露から、残忍な詳細で、トランプが彼のために戦う人々を激怒させることを楽しんでいることを知りました.

共和党員は、これがどれだけ先に進み、どれだけ危険になる可能性があるかを知っているため、FBI に対する脅威をまとめて非難することを拒否しただけでなく、倍加している者もいます。

下院共和党院内総務のケビン・マッカーシーは、FBI と DOJ に対する共和党の攻撃に対するいかなる暴力的な反応についても責任を負わないと述べた。「何もない」と彼は言い、「(シンシナティの)あの人が(FBIのオフィスに)行った理由がわからない。その人があらゆる形や形で行くのは間違っていました。」

彼のナンバー 2 である共和党の鞭は、フォックス ニュースで FBI 捜査官を実際に攻撃し、彼らを「ならず者」と呼びました。政治的動機による銃撃で命を落としそうになったスティーブ・スカリス議員は、フォックス&フレンズのホストであるスティーブ・ドゥーシーを驚かせました。

「スティーブ、悪党になったのは誰?彼らは捜索令状に従っていました!」Doocy 氏は、Scalise 氏がこれに応えて次のように述べています。私たちはそれを見つけたいと思っています。」

McCarthy と Scalise は、暴力の可能性に対する懸念よりも、FBI に対する軽蔑に多くを注いでいます。モーニングコールの時間は過ぎ去りました。RNC の元スポークスマンであり、議会でも働いていた Doug Heye 氏は、「私たちはこれを何年も悪化させてきましたが、トランプ大統領の下で、そして 1 月 6 日以降、過熱状態になりました。「あまりにも多くの人が、それから恩恵を受けているか、それがすぐに起こらないことを願ってスヌーズ ボタンを押したいと思っています。」

共和党員はもはや法の支配や法執行の擁護者ではありません。彼らは反射的にトランプを擁護しているに過ぎない。責任ある人々が共和党に残っているとしても、トランプはその一人ではありませんが、今後数週間または数か月で政府のいずれかの部門がトランプに責任を負わせた結果として生じる怪我や死亡における彼らの役割を考慮する必要があります. 彼が引き起こした問題は解決していません。フィッツパトリックと現在 FBI に勤務している人々は、その代償を払う必要はありません。

AB Stoddard は、RealClearPolitics の副編集者であり、コラムニストです。 』

ベネズエラ

ベネズエラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%82%A8%E3%83%A9

 ※ 今日は、こんなところで…。

『ベネズエラ・ボリバル共和国[3](ベネズエラ・ボリバルきょうわこく、スペイン語: República Bolivariana de Venezuela)、通称ベネズエラは、南アメリカ大陸北部に位置する連邦共和制国家。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面する。首都はカラカスである。

コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界の一員であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、オランダ王国のABC諸島(キュラソー島など)、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が存在する。ガイアナとは、現在ガイアナ領のグアヤナ・エセキバを巡って、19世紀から領土問題を抱えている。南アメリカ大陸でも指折りの自然の宝庫として知られている。原油埋蔵量は3008億バレルと推測され世界最大と言われているが、近年は2006年から始まった米国の制裁により、原油生産は低落している[4]。加えて石油輸出収入に依存して、他産業育成など構造改革や石油産業自体への投資を長年怠ってきた「資源の呪い」により、2010年代以降は経済危機と政治の混乱が続いている[5]。 』

『国名

詳細は「ベネズエラの語源」および「es:Etimología de Venezuela」を参照
アメリゴ・ヴェスプッチ。

正式名称は、República Bolivariana de Venezuela。通称 Venezuela [beneˈswela](ベネスエラ)。

公式の英語表記は Bolivarian Republic of Venezuela。通称 Venezuela [ˌvɛnəˈzweɪlə] (ヴェネズエイラ)。

日本語の表記は、ベネズエラ・ボリバル共和国[3]。スペイン語を音写すると、レプブリカ・ボリバリアーナ・デ・ベネスエラとなる。通称、ベネズエラ。英語発音のヴェネズエラ、スペイン語発音のベネスエラという表記もある。漢字表記では委内瑞拉, 花尼日羅, 部根重良, 分額兌拉と記される。

ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れた探検者、アロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」(”Venezuola”)と命名した事によるとされている。

もう一つは、ヴェスプッチとオヘダの水夫だったマルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ(スペイン語版、英語版)が著作の”Summa de Geografía”で、彼等が出会った当地に居住していたインディヘナが当地を”Veneciuela”と呼んでいると言及しており、そこから派生して”Venezuela”になったとする説であり[6]、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉に由来することになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として人々に信じられている説は前者である。

国名中の「ボリバル」とは、ラテンアメリカの解放者・シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも表記する)のことである[3]。 』

『歴史
詳細は「ベネズエラの歴史」を参照
先コロンブス期

ヨーロッパ人がこの地を訪れる前、この地にはアラワク人とカリブ人と狩猟と農耕を行うインディヘナが居住していた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばなかったが、コロンビアのムイスカ人の影響を受けていた。この地から多くの人間がカリブ海諸島に航海していった。
スペイン植民地時代
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペインによるベネズエラの征服(スペイン語版)」、および「マラカパナの戦い(スペイン語版)」も参照
スペイン人に立ち向かったインディオの首長、グアイカイプーロの像。ウゴ・チャベス政権によって大々的に再評価がなされた。

ヨーロッパ人が今のベネズエラと接触するのは1498年のクリストファー・コロンブスによる第3回航海が初めてである。翌1499年にはスペイン人のアロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検している。その後スペイン人によって1526年にクマナが建設され、先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中の1567年にディエゴ・デ・ロサーダ(スペイン語版、英語版)によってサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスが建設された。植民地化当初はヌエバ・エスパーニャ副王領の一部として、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴのアウディエンシアに所属していたが、1739年にはヌエバ・グラナダ副王領の一部となり、1777年にはベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)に昇格した。植民地時代のベネズエラ経済はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クリオーリョ支配層は更なる自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺境だったために独立に有利な状況が整い、やがて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。
独立戦争
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
最初の独立指導者フランシスコ・デ・ミランダ。
「解放者」「迷宮の将軍」シモン・ボリバル、スペインから南アメリカの五共和国を独立に導いた軍人、政治家、思想家、革命家。

1789年のフランス革命によりヨーロッパの政局が混乱し、19世紀にナポレオン戦争がスペインに波及するとインディアス植民地は大きく影響受けた。インディアス植民地各地のクリオーリョ達は独立を企図し、ベネズエラでも1806年にはフランシスコ・デ・ミランダによる反乱が起きた。この反乱は鎮圧されたが、1808年ホセ1世がスペイン王に即位すると、それに対する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発、インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立の気運は抑えがたいものになって行った。1810年にはカラカス市参事会がベネズエラ総督を追放。翌年1811年にはシモン・ボリバルとミランダらがベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 – 1812年)を樹立した。しかし、王党派の介入とカラカス地震によってベネズエラは混乱し、共和国は崩壊した。この時の大地震によってカラカス市の2/3が崩壊した[7]。

ボリバルは不屈の意志で独立闘争を展開し、1816年には亡命先のジャマイカから『ジャマイカ書簡』を著した。何度かのベネズエラ潜入失敗の後、ヌエバ・グラナダ人の独立指導者フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルらの協力を得てヌエバ・グラナダのサンタフェ・デ・ボゴタを解放すると、1819年にはベネズエラとヌエバ・グラナダからなる大コロンビア(Gran Colombia)を結成した。その後解放軍は1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)でスペイン軍を破り、ここでベネズエラの最終的な独立が確定した。ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に向かい、1824年にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍の率いる解放軍がアヤクーチョの戦い(英語版)に勝利して全インディアス植民地の最終的独立を勝ち取り、ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となった。しかし、留守を預かっていたコロンビアの大統領サンタンデルとの関係が悪化し、コロンビアに帰国し、帰国した後もコロンビアの政局は安定せず、1830年には「エクアドル」(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)とともにカウディーリョ、ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の指導するベネズエラはコロンビアから脱退し、完全に独立した。翌1831年にコロンビアの独裁者、ラファエル・ウルダネータが失脚するとコロンビアは崩壊し、以降この地域を統一しようとする動きはなくなった。

内戦と軍事独裁の時代

アントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)将軍。

独立後、旧ボリバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、3月革命(スペイン語版)が勃発し、連邦戦争(スペイン語版)(内戦:1859年 – 1863年)に発展した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のアントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)が政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚した。

グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心だったフアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続いた。ゴメス治下の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネズエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになった。

1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。

1945年10月18日には青年将校と民主行動党(英語版)による軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1945年)(英語版))が起こり、軍政は崩壊し、民主行動党と青年将校が協力するエル・トリエニオ・アデコ体制(英語版)が確立した。19日には民主行動党の創設者であるロムロ・ベタンクール(英語版)が大統領に就任した。

1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者のロムロ・ガジェーゴス(英語版)政権が誕生するが、ガジェーゴス政権もそれまで民主行動党に協力していた青年将校によって軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1948年)(英語版))で打倒された。その後、1952年から青年将校の一人だったマルコス・ペレス・ヒメネス(英語版)将軍による独裁下ではベネズエラは原油高によって西半球で経済的には最も繁栄する国にまでなるも、ヒメネスは1958年にバブル経済の崩壊に伴う債務危機で失脚することになった[8]。

ベネデモクラシア

「民主化の父」ロムロ・ベタンクール(英語版)。2度大統領になり、民主体制を確立したが、1945年のエル・トリエニオ・アデコ体制はその後の軍事クーデター、1958年に確立されたプント・フィホ体制も後の政治的不安定化の要因となった。

ヒメネス失脚後、民主行動党とキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)、民主共和国ユニオン(英語版)の間でプント・フィホ協定(英語版)と呼ばれる密約が成立し、左翼勢力の排除と政府ポストの各党への割り当てが確約され、この協定は新たな民主体制の基礎となった[9]。

1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党のロムロ・ベタンクールが再び大統領に就任した。ベタンクールは、1930年代にコスタリカ共産党の指導者だった経歴を持つが[10]反共主義者に転向しており、米州機構から非民主的な国家を排除するベタンクール・ドクトリンを打ち出してドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ政権や、キューバのフィデル・カストロ政権と敵対した。これに反発した左翼ゲリラ(キューバ革命に影響を受けており、キューバに直接支援されていた)が山岳部で蜂起した。一方で農地改革やサウジアラビアとともに石油輸出国機構(OPEC)の結成なども行った。ベタンクールは、左翼ゲリラと戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初めて民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。

1969年にはゲリラへの恩赦を公約にキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)のラファエル・カルデラ(英語版)政権が発足した。反乱は治まり、キューバを初めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立した。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほど大いに潤う[11]。ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めてラテンアメリカ経済機構の設立にも尽力した。

カラカソ (Caracazo)

ところが、1980年代を通して豊富な原油や天然資源により莫大な貿易利益がありながら貧富の格差、累積債務が増大しプント・フィホ体制の腐敗が明らかになっていった。1989年2月27日には低所得者層によりカラカス暴動(英語版)(カラカソ)が発生した[12]。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続いた。1992年には空挺部隊のウゴ・チャベス中佐が政治改革を求めてクーデター未遂事件を起こした。翌1993年には不正蓄財によりペレスが辞任し、キリスト教社会党(コペイ党)からカルデラが再び大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。

チャベス政権

1999年に「第五共和国運動」から1992年のクーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任した[12]。1958年代に成立したプント・フィホ体制から排除された貧困層から支持を受け、反米・ボリバル主義とポプリスモを掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称された。

チャベスは、国名変更、石油資源国有化、キューバとの交流など反米路線を掲げた。これにより、2002年にはアメリカの中央情報局(CIA)の援助・支援の下に軍部親米派のクーデターでいったん失脚したが、全国的な国民のデモの激化[12]、ラテンアメリカ諸国の抗議によって再び政権に復帰し、わずか3日間でクーデターは失敗に終わった。米国は諦めず、ブッシュ政権は2006年にベネズエラに対して武器輸出の禁止措置をとった[13]。さらに、麻薬取引を理由に個人制裁も発動し、2005年以降少なくとも22人のベネズエラ人と27企業を制裁対象とした。

こうした経緯もあり、チャベス大統領は反米的なキューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、中華人民共和国、ロシア、イランと関係を強化し、友好的な関係を維持している。また、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体や南米諸国連合、米州ボリバル同盟、南米銀行の設立を主導して中南米の結束を図った。

一方で、隣国である親米国のコロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結してベネズエラ軍の軍備増強を発表し、両国間の緊張が高まっている(アンデス危機)。2010年7月22日にはコロンビアとの国交を断絶し、国境に「全面的非常態勢」を敷くよう軍への命令が出され[14]、3週間後の8月11日には国交回復で合意した[15] が、依然として不安定な状況が続いている[16]。

ベネズエラにおいては、富裕層の所有メディアにより反チャベス的な内容のものが報道されることが多かった[17]。チャベス政権成立以降、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。これは失敗に終わった2002年のクーデターを支持した放送局のオーナーたちに対する報復だとの見方もある[18]。なお、チャベス派からのメディア発信も行われており、『こんにちは大統領』のようなテレビ番組も放送されていた[17]。チャベスはワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げていた。しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。

マドゥロ政権時代

詳細は「ベネズエラ危機」を参照

チャベス体制を引き継いだ大統領ニコラス・マドゥロ

チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレーションは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党と激しく対立した。

2015年12月6日、総選挙において野党・民主統一会議を中心とした右派連合[19] が勝利を収め、過半数の議席を獲得した。ただし大統領の任期は2019年まで続き、仮に弾劾などが行われたとしても第一副大統領が昇格するためベネズエラ統一社会党が引き続き政権与党となる[19]。

反マドゥロ政権の野党が三分の二(167議席中112議席)を占めたことで以降国民議会を使った立法行為が不可能となったマドゥロ政権は、自身の影響下にある最高裁判所(スペイン語版)を使って国民議会の立法権を制限する様々な手段を打つようになった。例えば国民議会が可決させた法律を大統領が「違憲判断のため」として最高裁に送り、最高裁に違憲判断を出させて立法を無効化する方法である。2016年1月から4月に国民議会が可決させた5つの法案は全て最高裁に送られ、そのうち4つが「違憲」として無効化されている[20]。また最高裁はアマソナス州選出の3人の野党議員に「不正選挙があった」として公務就任権を認めず、2016年7月にこの3人が国民議会で宣誓すると最高裁は「最高裁の決定を尊重しない限り国民議会は法的有効性をもたない」と宣言。以降マドゥロ政権はこの「3人問題」を理由に国民議会を無視して最高裁に立法権を代行させるようになった。予算案も国民議会ではなく最高裁に提出して承認させている[20]。

2016年4月、大統領の任期が後半に入った事を踏まえ、野党は憲法に規定されている任期途中での大統領罷免を求める国民投票の実施を宣言、10月に国民投票の第一条件となる1%の有権者の署名が与野党共同運営の選挙管理委員会に提出された。この署名に死亡者や有権者登録されていない人物の署名が含まれていた事が与党側から問題視され[19]、選挙委員会と野党は再発防止を約束して手続きを再開したが、10月20日に7州の裁判所は「身分証明書の窃盗事件と関連がある」として手続き停止を命令した[19]。一連の騒動で与党と野党に続き、司法と議会の対立も鮮明となった。

2017年3月29日、最高裁判所は「不正選挙に基いた議会」「侮辱罪にあたる状態が続く議会の手続きは無効である」との司法判断を下し、立法権も最高裁判所に付与する異例の事態となった[21]。この決定を与党側は歓迎したが[21]、野党や南米諸国をはじめとする米州機構のみならず[22]、最高検察庁のルイサ・オルテガ・ディアス(英語版)検事総長など政府要人からも懸念や批判が相次いだ[23]。マドゥロは国家安全保障委員会の決定として最高裁に再考を促し、最高裁の判断は撤回された[22]。

2017年4月以降、反政府デモとそれに対する鎮圧が頻発しており、非政府組織「ベネズエラ社会紛争観測所」の集計で死者は80人を超えている[24]。デモは継続的に続けられており、7月8日で100日間連続となった[25]。政府支持派の暴動も発生し、群集が国会に突入して反政府派の議員らを議会に閉じ込める事件も起きている[26]。政府側と野党側デモの衝突は激化の一途を辿り、4月27日に民主統一会議議長で正義第一党の党首エンリケ・カプリレス・ラドンスキーは早期選挙の実施を要求した[27]。

制憲議会成立

マドゥロは野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した[28]。しかし制憲プロセスが憲法違反である疑いがある上、制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こした。このような選挙に立候補することは恣意的な選挙制度を有効と認めることになるため、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした[20]。

2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ[29]、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥っている[29]。軍や警察は政府側を支持して行動しており、民間人と警官・兵士の側の双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した[30]。宣言において国民議会の廃止を行う意向も示しており[31]、制憲議会のロドリゲス議長も右派連合は「裁きを受けるだろう」として旧議会の廃止を示唆、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行しつつある[32]。

2017年8月2日、レオポルド・ロペス、アントニオ・レデスマ(スペイン語版)ら野党連合の主要政治家が軍に連行された[33][34]。8月3日、反政府派に転じているオルテガ・ディアス検事総長は検察庁に不正選挙に関する捜査命令を出したが[35]、これに対して軍が検察庁を包囲下に置いた[36]。8月5日、ベネズエラ最高裁判所(英語版)はオルテガを検事総長から解任する決定を下し[36]、制憲議会もオルテガが深刻な職権乱用により起訴された事を発表した[37]。8月18日、制憲議会は国民議会から立法権などの権限を剥奪したと宣言した[38]。

反発の激化

ニコラス・マドゥロとフアン・グアイド
ベネズエラ
中立宣言した国
発言がない国
グアイドを承認した国
国民議会支持を表明した国
マドゥロを承認した国
詳細は「2019年の大統領騒乱(英語版)」を参照

2018年5月21日の大統領選挙(スペイン語版)は、選挙前に有力野党政治家の選挙権がはく奪されたうえで行われたため、マドゥロ再選の「出来レース」状態となり、主要野党はそれに反発して選挙をボイコットした。マドゥロ政権は国際選挙監視団の査察を拒否して国民の投票を監視し、マドゥロに投票しなかった者は食糧配給を止めるなど、なりふり構わぬ選挙戦を展開した[39]。西側諸国やブラジルなどはこの選挙を批判し、欧米や日本などは2019年1月10日の大統領就任式の出席を拒否した[40]、選挙の正当性を否定される形となった。その後もインフレーションなど経済的な混乱は加速した。

2019年1月10日にマドゥロは2期目の大統領就任式を行ったが、首都カラカス市内でもデモが活発に行われるようになり死者も発生[41]。1月23日には国民議会議長フアン・グアイドが昨年の大統領選挙は憲法違反で無効と主張し、1月10日をもってベネズエラは大統領が不在となったので、憲法233条に従って国民議会議長である自分が暫定大統領になったことを宣言した[39]。

体制転覆を目指す米国のドナルド・トランプ大統領は、「マドゥロの政権は正統ではない。ベネズエラにおいて唯一正統なのは国会である」として、グアイドの暫定大統領就任を直ちに承認した。これに対抗して1月24日にマドゥロ政権は「アメリカ合衆国と国交断絶する」と発表したが、アメリカ合衆国連邦政府は「グアイド政権を通じて、ベネズエラとの外交関係を維持する」としている[42]。

その後、アメリカに続く形で西側諸国が続々とグアイド暫定大統領就任を支持表明した。日本国政府はしばらくの間グアイドの承認を保留してきたが、2019年2月19日に「ベネズエラ政府に対して大統領選挙の早期実施を求めてきたにもかかわらず、いまだに行われていない」として「グアイド暫定大統領を明確に支持する」との意向を表明した[43]。

反発がありながらも、実際のところベネズエラでは引き続きマドゥロが軍部の支持を確保して実効支配している。またロシア、中国、北朝鮮、イラン、キューバ、トルコ、シリア、パレスチナ、ボリビアなど反米主義的な国家群からは、2期目就任の承認を受けている[44][45]。二つの政権が対立する形となった[44][46]。

2019年2月2日には、マドゥロの退陣を求める大規模デモ活動がベネズエラ全土で執り行われ、この中で、グアイドが「デモ参加者に発砲するのをやめてほしい。それだけでなく、ベネズエラの再建にかかわってほしい」として、ベネズエラ軍に対する呼びかけを行った[47]。一方のマドゥロ側でも政権支持を目的とした集会が行われ「立法府が再び合法化されることに同意する」と訴えた上で、2020年に行われることになっている国会議員の選挙を前倒しすることを提案した[47]。

2019年2月20日、マドゥロ政権は、オランダ王国に属するアルバ、キュラソーとの海路を遮断したと発表。翌21日には「ベネズエラに人道危機は存在しない」「領土侵害を防ぐ」と称してブラジルとの国境を封鎖すると表明した[48]。コロンビアとの国境封鎖の指示も行われていたが、2月23日にはグアイド側はこれを無視して国境沿いで人道支援の受け入れ式典を開催。この時点で50か国から暫定大統領として承認を受けたグアイドに対し、コロンビア、チリ、パラグアイの各大統領も受け入れ式典へ参加して支援を表明した[49]。

4月30日にグアイドが離反兵士らに自宅軟禁から救出されたレオポルド・ロペスとともにビデオメッセージを出し、軍に決起を呼び掛けた。これにより反マドゥロ派の軍人たちが催涙ガスなどで鎮圧にあたるマドゥロ政権側と衝突した[50]。その後ベネズエラ各地で衝突が発生した[51]。マドゥロ政権側はこれを「クーデター」と非難し[50]、「クーデターは失敗に終わった」と主張している[51]。一方、アメリカ政府は「アメリカはグアイド氏を暫定大統領だと考えており、明らかにクーデターではない。グアイド氏側による勇敢な行動だ」としてグアイドの行動を支持表明した[52](2019年ベネズエラ蜂起未遂(英語版))。

2020年5月2日、アメリカの民間軍事会社「シルバーコープUSA」および反体制派の志願兵によるマドゥロ政権転覆計画が実行されたが、事前に察知したベネズエラ当局によって早期に鎮圧された[53][54]。マドゥロ政権はシルバーコープUSAがグアイドと支援協力関係にあったとして批判したが、グアイドはこれを否定している[55](ギデオン作戦 (2020年)(英語版))。

2020年6月、最高裁判所が全国選挙評議会メンバーを決定し、野党人事に介入した。12月、主要野党はボイコットを表明中で国会の選挙(英語版)が実施され、マドゥロ派が圧勝し、新たな国会議長としてホルヘ・ロドリゲス(英語版)が選出された[56]。欧州連合、アメリカはこの選挙結果を認めていないが、欧州連合はグアイドが議長・議員職を失ったことを理由に「暫定大統領」の承認を取り下げた。一方でアメリカのトランプ政権は、引き続きグアイドを暫定大統領と認めることを表明[57]。2021年1月に米国大統領に就任したジョー・バイデンも、グアイドを暫定大統領として引き続き認めるとしている[58][59]。

ここまで、米国など西側諸国が中心となってベネズエラに強力な経済制裁を科して体制転覆を目指しているが、実現はしていない。狙い通り、経済基盤である原油生産・輸出は激減したが、ベネズエラ政府は違法な採掘から麻薬密売までのさまざまな違法ビジネスに手を出したり、政権側の富豪に経済の一部を開放したりして、国内支持基盤を固めた。さらに、米国の金融システムに依存していないイランや中国、ロシアといった国々とも連携することで、制裁を出し抜いた[60][13]。市民の生活難は続いているが、マドゥロの支持率は一定を保ち、逆に反政府の諸外国が推すグアイドと野党の支持率は汚職問題などで低下してきている[61][62]。

2022年、欧米によるロシアへの経済制裁と世界的インフレーションにより原油価格が高騰すると、米国はベネズエラ産原油の禁輸措置緩和の可能性を示した[63]。
ベネズエラ難民問題
ベネズエラ難民と抱き合う暫定大統領フアン・グアイドとアメリカのマイク・ペンス副大統領(2019年2月25日コロンビア・ボゴタ)

長らく反米左翼政権が続いたベネズエラでは、2015年に政治的迫害などを理由に、アメリカ合衆国へ亡命申請したベネズエラ人は5,605人である。2016年には14,700人を超え、2017年にはさらに更新することが確実視されている[64]。

さらに経済危機で、ベネズエラ難民の数は急増していった。国際連合によれば、2018年11月までに国外へ逃れたベネズエラ難民は300万人を超え、この数はベネズエラ国民の1割に相当する[65]。

2018年9月4日、エクアドルの首都キトで中南米諸国がベネズエラ難民対策の国際会合を開いた。有効な対策はまとめられなかったものの、「キト宣言」を発表し、ベネズエラ難民を「十分に受け入れる」と明記した[66]。

最も受け入れている国は、隣国のコロンビアであり、2019年2月現在110万人を超えるベネズエラ難民を受け入れている[67]。しかし北部の町ククタでは施設に収容しきれないベネズエラ人が路上にあふれており、ベネズエラ人による犯罪が社会問題になっている[66]。

ほかにもペルーに50万6000人、チリに28万8000人、エクアドルに22万1000人、アルゼンチンに13万人、ブラジルに9万6000人のベネズエラ難民が流出している(いずれも2019年2月時)[67]。ブラジルでは、ベネズエラ難民のテントを襲撃する運動が発生しており、治安悪化の原因になっている[66][68]。2019年6月7日に国連難民高等弁務官事務所が発表した難民と国外移住者数は約400万人としており、過去7カ月間で100万人増加する驚異的なペースとなった[69]。

ベネズエラ政府は、難民の存在自体を認めておらず、頭を抱える南米諸国になんら協力しない状態が続いている[66]。』

『地理
詳細は「ベネズエラの地理」および「en:Geography of Venezuela」を参照
ベネズエラの地形図
世界で最も高い滝、サルト・アンヘル。
ラ・グラン・サバナのパノラマ。

北にカリブ海に面し、コロンビア、ブラジル、ガイアナに接する。中央部のジャングルをコロンビアからオリノコ川が流れている。北西部には南米最大の湖、マラカイボ湖が存在する。コロンビアから続くオリノコ川流域の平原部をリャノと呼び、国土の主要部はコロンビアのオリエンタル山脈を通してアンデス山脈が延びてきており、国内最高峰はメリダ山脈に位置する海抜4978mのボリバル山である。なお、南米大陸に位置してはいるが、国土は全て赤道以北、すなわち北半球に位置している。

国土はマラカイボ湖を囲むマラカイボ低地、西部から北部に広がるベネズエラ高原、オリノコ川流域平原のリャノ(スペイン語で平野を意味する)、そしてギアナ高地の四つの主要地域に分けられ、ベネズエラ高原はさらに中央高地、北東高地、セゴビア高原、メリダ山脈の四つの地域に分かれる。国土北部の海岸沿いをラ・コスタ山脈が東西に連なり、東部にはアラヤ半島、パリア半島が存在し、アラヤ半島沖にマルガリータ島が存在する。国土の80%がオリノコ川の流域であり、平らな大草原が広がっている。この草原地帯のリャノが国土の35%(380,000平方kmで、ほぼ日本の国土と同じ)、グアヤナ高地が国土の45%を占めるものの、人口の圧倒的な部分は北方の海岸線沿いのマラカイボ低地とベネズエラ高原に集中し、ベネズエラの多くの都市や村落は標高800m-1300mの人間が住むのに適した気候の谷間に存在する。

熱帯のため、雨季と乾季の区分がはっきりし、12月から4月が夏(ベラーノ)と呼ばれ、5月から11月が冬(インビエルノ)となり、6月から7月にかけて「サン・フアンの夏」と呼ばれる中だるみの季節が存在し、夏は乾季に、冬は雨季に相当する。カリブ海側は乾燥しており、カラカスの外港ラ・グアイラでは年間降水量が280mmしかない。リャノはサバナ (地理)が広がっており、サバナ気候であるゆえに乾季は完全に乾燥し、雨季は洪水となるため牧畜ぐらいの生産活動しかできず、こうした気候が屈強なリャネーロや、ホローポなどの文化を生み出した。

現在のベネズエラ政府は、ベネズエラの国土を海域、島嶼部、西北沿岸部、中北沿岸部、東北沿岸部、アンデス地方、リャノ地方、オリノコ川デルタ地方、アマゾン地方、グアヤナ地方という10の地理区分に分けて扱っている。

ヌエバ・エスパルタ州、マルガリータ島のビーチ 』

『国民
詳細は「ベネズエラ人」を参照
民族
ベネズエラの民族構成[122]
Demografia de Venezuela.jpg
メスティーソ 49.9%
クリオーリョ 42.2%
ムラート 3.5%
インディヘナ 2.7%
黒人 1%
アジア系 0.9%
高地オリノコに住むインディヘナの部族、ヤノマミ人の子どもたち。

ベネズエラ人は多くの人種と民族が合流して生まれており、現在も移民が流入し続けている。先住民はインディヘナのカリブ人、アラワク人などが住んでいたが、現在先住民の社会を維持しているのはアマゾンの密林の中に住む少数である。白人は植民地時代のスペイン人が主で、当時は植民地社会の上層部にあった。独立後は他のヨーロッパ諸国からの移民も増え、近年では中南米諸国、特に隣国コロンビアからの、難民に近いような移民が多い。最近は政治的な理由により富裕層や中間層が国外へ流出している。また、不況や社会不安、就職難により、大学などで高度な教育を受けた移民2世以降が移民1世の母国に多く流出している。

アフリカ系ベネズエラ人は植民地時代に奴隷としてつれてこられた人々の子孫である。アジア系は他より少ないが、独立後に移民した華僑(中国系)がおり、小商店主として成功した者が多い。しかし、南米の国の中で日本からの移民はかなり少ない方であり、日系ベネズエラ人の人口は現在では800人程とウルグアイの日系人の倍程度である。

世代を重ねて混血が進んだため、人種集団をはっきり区分することはできない。人種別統計は長くとられておらず、そうした調査も実施されていない。しかし、北米、日本、欧州では各国の研究者が独自に調査した構成比が出回っている。それによれば、メスティーソ67%、ヨーロッパ系21%、アフリカ系10%、インド系2%とされる。ベネズエラ人の主流の意識は自らをメスティーソとし、ベネズエラをメスティーソの国とするものである。

そして現実社会では他のラテンアメリカ諸国と同じように上流階級が白人で占められている。当然のことだが白人が他人種より上にあるという関係が個人間でなりたつわけではなく、下層の白人も中流の黒人もいる。インディヘナはスリア州やオリノコ川南部に多く居住している。
移民

主な移民の出身地としては、イタリア、スペイン、ドイツ、ポルトガル、シリア、レバノン、インド、パキスタン、中国、日本、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、エクアドルなど。1940年代から1950年代にかけてヨーロッパからの移民ブームがあり、1950年から1958年までの間に、ポルトガル人を中心に実に45万人の移民が流入した。特に有名なドイツ系の入植地としてコロニア・トバール(英語版)が挙げられる。
人口

独立直後の1830年にはおよそ80万人ほどだったベネズエラの人口は、20世紀に入ってからも余り増加せずに1920年には推定で200万人ほどだった。しかし、第二次世界大戦後に急速に人口が増加し、1967年には推定900万人、1983年の調査では1639万人となっており、2007年には2600万人を越えた。人口の都市化率は85%であり、73%は北部のカリブ海沿岸100km以内に住んでいる。ただし、国土の約半分を占めるオリノコ川以南には人口の5%しか居住していない。

なお、2010年代のハイパーインフレによる経済的混乱から、2018年の時点で300万人以上が南米各国へ流出したと推測されており、混乱が収まらない限り今後も増加する見込み[123]。
言語
詳細は「ベネズエラの言語」および「en:Languages of Venezuela」を参照

言語はスペイン語(ベネズエラ・スペイン語)が公用語であり、かつ日常生活で最も使われている。31のインディヘナの言葉があり、政府は先住民の言語を通用させる努力を規定しているが、話す人は限られている。その他にも移民によってドイツ語、ポルトガル語、ガリシア語、イタリア語などが話されている。
宗教
詳細は「ベネズエラの宗教」を参照
Monumento a la Chinita.jpg

宗教はローマ・カトリックが76%、プロテスタントが2%、その他が2%である。その他の宗教としてはイスラム教、ユダヤ教など。
教育
詳細は「ベネズエラの教育」および「en:Education in Venezuela」を参照
カラカスの大学都市。

2001年のセンサスによると、ベネズエラの15歳以上の国民の識字率は93.0%であり[124]、ラテンアメリカ域内では中程度の部類に入る。6歳から15歳までの国民を対象に義務教育が行われており、初等教育と前期中等教育は無償である。主な高等教育機関としてはベネズエラ中央大学(1721年)、ロス・アンデス大学(1785年)、カラボボ大学、スリア大学(1891年)、シモン・ボリバル大学(1967年)などが挙げられる。

チャベス政権が推進していた社会政策の一つに「第二次ロビンソン計画」がある。初等教育(6年)の未終了者を対象とし、受講期間は二年。第一回終了式が、2006年8月、首都カラカスで行われ、32万5000人が修了証書を受け取る。修了者は、「リバス計画」(中等教育)や「見つめ直そう計画」などに進むことが出来る。これらの計画の受講中は、奨学金が給付される。

さらに、ベネズエラの教育で特色あるものとしてエル・システマというメソッドで行われる音楽教育が挙げられる。ホセ・アントニオ・アブレウが1975年に始めたもので、主に貧困層の児童を対象に無償で施されるクラシック音楽の教育は、ストリートチルドレンの救済や非行少年の更生に大きな成果を上げてきた。35年以上にわたり歴代の政権も支援をしており、35万人がこの教育を受けている。現在ではボリーバル音楽基金によってシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ、児童オーケストラなど200以上もの楽団が運営されており世界的にも高い評価を得ている。また、このシステムで学び指揮者となったグスターボ・ドゥダメルのように国際的に活躍する音楽家も輩出している。 』

(※ その他は、省略)