ネパールhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
ネパールのカースト制の形成についての一考察 飯 島 正https://core.ac.uk/download/72778858.pdf
『はじめに
ネパールに滞在していると、インドの場合と同様に、人々の生活の各般にわたってカースト制に深く根ざして いると考えられる生活慣行に直面することが多い。上層カーストの者は特定のカーストに属する者からの水を飲 まないとか、カーストの優劣を主張して特定カーストの者との食事共同を拒否するということも、各階層にわた ってよく起ることであると聞く。何回かのネパール訪問で、各地を歩き、各層の人々に接する機会を得、カース 卜制に由来すると思われる多くの事態に直面し、それに関する見聞を広めることができた。しかし、その時点で はネパールのカースト制形成の歴史をたどるという研究に着手することは考えていなかった。筆者がネパールの カースト制の問題に取り組む直接の契機となったのは、亜細亜大学アジア研究所の「ネパールの近代化に関す総 —53—— 合的研究」をテーマとする研究プロジェクトチームの発足であった。同チームは主題に対して人文、社会、自然 の諸科学にわたる各領域からの学際的協力体制でアプローチすることを意図したもので、ー九七六年三—四月に 行われた第一回の現地研究の成果の一部を、共同研究者と共に「ネパールの土地制度と土地改革」と題して、同 研究所紀要第三号(ー九七六年)に報告した。
これはネパールの諸王朝を経て歴史的に形成された伝統的な土地制 度と、ー九五一年のいわゆる「王政復古」後に実施された土地改革に関して論述したものであった。
ネパールの 土地制度は一四世紀のマツラ王朝時代に導入されたカースト制度と密接不可分に関連して形成されたものと考え られるので、この小論ではネパールにおけるカースト制に視点を集約し,て、その形成の過程を明らかにしようと •試みたものである、
しかし、ネパールのカースト制も導入の歴史をたどると、インド五千年の歴史とバラモン教、 ヒンズー教の発展の過程にまで関連し、先学の造詣に学びつつ論を進めたが、その成果は甚だ心もとないものと なった。大方諸賢の御叱声を賜りたくあえて公表した次第である。
ネパ|ルの自然環境と人種的構成
インドとチベットとの間に位置し、東西に細長いー四万平方キロメートルの国土に、約ー二00万の人々が住 むネパールは、地形的、気候的な自然環境がきわめて複雑であり、長い歴史の過程でこの国土に移り住んだ人々 の人種的、言語的、宗教的な構成もまた多様である。
地形的にはネパールの国土はインドと国境を接する標高ー〇〇メートル前後のffi地から八〇〇〇>!トルをこ ——54— 不パールのカースト制の形成についての一考察 すヒマラヤ山脈までの標高差があり、この標高差と夏のインド方面からの南西モンス—ンと冬のチベット方面か らの二つのモンスーンとにより、気候区分も亜熱帯から温帯、亜寒帯、寒帯へと多様な変化を示している。
この ような自然環境に対応して人々が生活する地域は、一般に南から北にほぼ垂直的に、タライ、山地、高山地の三 っに区分される。 タライ地域はインドとの国境のガンジス平原から平均標高一五〇〇メートルのシワリーク(SIWALIK) 丘陵南 側までの間に約二〇—四五キロメートルの幅で東西にのびているタライ(TARAI)と、シワリーク丘陵と標高三 000 メートル前後のマハバーラト(MAHABHRAT)山脈との間の盆地である内部タライ(INNER T ARAI)とから なる。
タライの平均標高は二〇〇メートル前後であり、内部タライの標高六〇〇>!トル以下の地域がこれに含 まれる。年間降水量はタライ一四〇〇ミリ、内部タライ一七〇〇—二四〇〇ミリ前後で、ともに亜熱帯性気候で ある。
国土面積の二三%、総人口の三七•六%を占め、インド型の水田稲作を中心とする農業地域である。
山地地域はマハバーラト山脈からヒマラヤ山脈に接するネパールの中央部で、これには標高の高い内部タライ の一部も含み、平均標高は六〇〇—ニ〇〇〇メートル前後で、国土の四四・一 %、人口の五二•五%を占めてい る。
地形的には多くの丘陵、盆地、渓谷が複雑に入り組んでおり、気候的には標高差による変化があり、ーーー〇 〇メートル以下は亜熱帯、ニ〇〇〇メートルまでが暖温帯である。
夏の南西モンスーンによる雨量も多く、亜熱 帯ではネパール型の水田稲作、暖温帯では水田稲作とトウモロコシなどを主作とする農業地域である。
この地域 は地味も豊かで農耕に適しており、人間の生活の場としても他地域より快適であり、ネパール人の生活の主要な 場となってきた。古くから政治、経済、文化の中心となったカトマンズ盆地やポカラ盆地もこの地域に含まれる。
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高山地地域は山地地域の北側からヒマラヤ山脈、チベット高原の南縁をなす地域までを含んでいる。ヒマラヤ 山脈の北側には内部ヒマラヤ(inner Himalayas)と呼ばれる二四五〇〇〇メートルの谷間があるが、東 部ネパールではヒマラヤ山脈の分水嶺と国境が大体一致している。
しかし西部ではネパールの領土がヒマラヤの 主嶺をこえてチベット高原の一部にまで及んでいる。ヒマラヤの南側は南西モンスーンによる降水量は多いが、 気候的には標高差により大体二000 —二五〇〇メートルが温帯、ニ五〇〇|三〇〇〇メートルが冷温帯、三〇 〇〇—五五〇〇メートルが亜寒帯で、それ以上が雪線で寒帯となる。
したがって農業の形態も標高が上るにつれ て耕種型から牧畜型に移行する。
温帯ではトウモロコシ、シコクビエ、ソバ、室、大麦などの雑穀を、冷温帯 では小麦、大麦、ソバ、バレイショなどを栽培し、それに高度が二〇〇〇・メートルをこえると水牛に代ってヤク と、ヒマラヤ牛とヤクとの交配種であるゾー (DS)が農耕、乳用および物資運搬用に飼育され、さらに三二〇〇 メートル位までには山羊が多く、それ以上の高度で羊が多く飼育される。
内部ヒマラヤおよび三〇〇〇 —五〇〇〇>!トルのチベット高原では南西モンスーンによる雨量が少ない乾燥 地帯であり、夏が短かく冷涼なので大麦、小麦、ソバ(ダッタンソバ)、バレイショなどが栽培されるが、ヤク、 羊、山羊、ゾーなどのチベット的な牧畜に重点がおかれている。
高山地地域は万年雪をいただく高山があり、農業および牧畜のための自然的条件も厳しいので、国土の三二・ 九%の面積を占めているが、人口は九•九%にすぎない。
このような地理的な位置と自然的条件により、ネパールの人種的、言語的、宗教的な構成には、隣接のインド およびチベットからの影響が色濃く反映されており、これら二つの文化圏からネパールに住みついた人々は異つ -56— ネパールのカースト制の形成についての一考察 た生活様式をもっており、しかもネパールの交通不便な自然条件に制約されて、かなり地域別、高度別ないしは 山系、河系別に孤立的な生活圏を維持してきた傾向が強い。
例えばインド系とみられるネパール人の生活圏の上 限は稲作の上限である標高二〇〇〇メートルまでの暖温帯とほぼー致し、それ以上の高度になるとチベット系と みられる諸部族のチベット高原的な牧畜型を主体とする農業に重点が移行する。
また、これら両圏系および原住 民とみられる諸部族が、複雑に入り組んだ生活圏をもっている山地地域では、ヒマラヤ前山山脈の山系、河系別 に分布し、さらに傾斜面別に異った部族が分布していることがある。
それゆえ、次にこれらの諸部族の地理的分 布状況をみることにしよう。
インドと国境を接するタライ地域には、隣接するインドのビハール(Bihar)州やウッタル•プラデシュC TTAR ・PRADESH)州と同様の生活様式、言語をもった多<.のインド系ネパIル人が住んでおり、ヒンズー教カ —スト社会を形成している。
ネパールの総人口のーニ%がマイティリ語(MAITHFIJ、六・ー %がボジプリ語 (BHOJPURI)、四・八%がアワド語(AWADHI)を話すが、そのうち東部タライの人口の五ー %がマイティり語、二六
一%がボジプリ語、四・一%がアワド語を話し、中・西部タライの人口の九〇%と極西部タライの人口の三一 2) •八%がアワド語を話すと報告されている。
タライ平原にはこの他にインド系ネパール人でもなく山地民でもな いネパールの原住民とみられるタルー (THARU)族が、極西部タライを中心にタライ全地域に分布し、農業、狩 猟などに従事している。
モンゴロイド系で、独自の生活様式をもち他の部族との接触の少ないタルー族は、ネパ —ルの諸部族の中で皮膚の色が最も黒いということもあり、ネパールのカースト社会からは低くみられている。
ネパールでタルー語を話すものは四・三%であり、そのうちの六二・八%が極西部タライ、五•九%が中・西部 -57— (3) タライ、四・〇%が東部タライに住んでおり、タルー族の人口は五〇万人前後と推定されている。
タライ地域、とりわけタルー族の生活圏のような森林地帯はマラリヤ、フィラリヤなどのような悪疫が猛威を ふるい、容易に人々をよせつけなかったが、ー九五〇年代に国連WHOおよびアメリカの援助でマラリヤ撲滅対 策を講じて以来、山地民のタライ地域への入植者が増加している。
特に「山からタライへ」のスローガンのもと に政府が入植事業を推進したこともあり、政府の援助で計画的に入植したところでは道路、学校、病院なども整 備され、ネパールで初めての協同組合が設立され、同国では珍しいカースト制度をのりこえた社会.をつくってい (4) るといわれる。
山地地域には多くの部族が分布している。この地域に住む人々はネパール語でパハリヤ(PAHARIYA)と総称さ れ、パハリヤ・グループのもっとも大きな民族集団がネパール的ヒンズー教徒であり、人種的には多くの部族を 包摂し、カースト社会を形成している。
ネパールのヒンズー教徒の力}ストはインドのカーストに比較すると中 間カーストが少なく、山地地域の村落でも、上層カーストとアウトカースト的な下層カーストからなっている。
上層カーストはブラーマンのネパール口語訛といわれるバウン(BAHUN)、クシャトリヤと同じチェトリ(CHHE TRI)、クシャトリャ格のタクール(Thakur)などであり山地地域では主に農耕に従事している。現王家はタク —ルのシハヤ(SHAH)氏族出身である。下層カーストを構成するのはカミ(Kami—鍛冶職)、ダマイ(DAMAII仕 立職)、サルキ(SARKI—皮革、木工職)などの職人カーストである。
このヒンズー教徒カースト集団は山地地域を 中心に全国的に分布している。国教であるヒンズー教徒はネパールの人口の八九•四%とされており、ヒンズー 教徒社会の言語を母体とするネパール語(Nepali)を使用するものは、ー九七一年人口センサスの母語別人口で -58— ネパールのカースト制の形成についての一考察 は全人口の五二・五%の六〇六万人であった。
ヒンズ}教徒カーストを構成するものがネパール最大の民族集団 である。
山地地域にはこの他に、東から西にリンブー族(L1MBU)、ライ族(RAI)、スンワル族(SUNWAR)、マガール族 (MAGAR)、ネワtル族(NEWAR)、タマン族(TAMANG)、グルンK(GURUNG)、タカリI族、THAKALI)、などのネ パール土着民とみられる山地諸部族が、一般にネパール的ヒンズー教徒よりも標高の高いところに分布している。
ネパール東部のアルン(Arun)川の東、タムール(TAMOR)川流域の山地にリンブー族、その西側アルン川以 西、ドウード・コシ(DUDH—KOSI)川流域にかけてライ族、その西のタンバ・コシ(TAMBAIKOSI)川流域にス (5) ンワル族が分布している。
ネパ–ルの神話、伝説やインドの「マヌの法典」(第十章、四五)にもキラータ(Kira, TA)という部族が登場するが、それがネパールのどの部族にあたるかは不明である。しかしネパールで現在キラ ンティ(KIRANTI)と呼ばれるものにリンブー族、ライ族が含まれている。ライ族もリンブ族もキパット(KIPAT) と呼ばれる共同体的土地所有の形態をとり、それがシャハ王朝による全国統一の際も土地制度として容認されて きた。
リンブー族、ライ族、スンワル族はともにチベット・ビルマ語系のリンブー語、ライ諸語、スンワル語を 使用し、その母語別人口はリンブー語、一七万人、ライ諸語、二三万人、スンワル語、二万人であった。
宗教的に はリンブー族もライ族もそれぞれ固有の土着信仰をもっているが、仏教、ヒンズー教0影響も強く受けている。
スンワル族はラマ教とヒンズー教の双方の影響を受けており、後者が増加しているといわれる。
ネパール中部のカトマンズ盆地を中心にネワール族、その周辺から北方山地にかけてタマン族、その西からア ンナプルナ(Annapurna) 連峰にかけてグルン族、アンナプルヂとダウラギリ(DHAULAGIRI)両峰の谷間である ——59一 タコ}ラ(THAKOLA)地方にタカリー族、さらに力リ•ガンダキ(KAL1—GANDAKI)川流域から西部ネパールに かけてマガール族およびその他の少数部族が分布している。
ネワール族はネパールの歴史の過程において常に政治、経済、文化の中心であったカトマンズ盆地とその周辺 に住み、諸王朝の変遷、チベット、インドの両文化の影響を受けつつも独自の文化を維持してきた。
ネワール族 の母語はチベット•ビルマ語系のネワールZEMRI)語であるが、その文字はデヴァナガリ(ネパール語、サンス クリットと同じ)で、それを話すものは全人口の四%、約三八万人と推定されている。
宗教は仏教徒とヒンズー教徒 とに分けられるが、両宗教はかなり融合して共存している。
ネワール族はかってネワ}ル文化を開花させ、現在 のカトマンズ、バドガオン、パタンにみられる寺院、宮殿などの建設の担い手となり、国外にも工芸技術で進出 した歴史をもっているので農業のほかに工芸、商業その他の各方面に進出しており、ネワール社会にはブラーマ ンから清掃夫(HALHLU)にいたる二六のカーストがあるといわれるが、カースト間の蕾も或る程度認められて (6) いる。
タマン族、グルン族、タカリ・・族、マガール族の母語であるタマン語、グルン語、タカリ・・語、マガール語も 共にチベット・ビルマ語系の語群に属し、人種的にはモンゴロイド的特徴をもっている。 そのうえ、各部族はそ れぞれ独自の、しかも山地地域の諸部族に共通するシャーマニズム的な土着信仰とラマ教、ヒンズ}教などと重 層信仰をしており、これらの諸部族の起源はかなり近縁の関係にあるものと考えられている。
これらの部族のう ち人口五六万のタマン族、一七万のグルン族、二九万のマガール族が主として農業に従事しているのに対して、 人口わずかに数千のタカリー族は農耕牧畜も営むが商業活動で知られる部族である。
かつてはインドとチベット —60— ネパールのカースト制の形成についての一考察 との中間点にあって商業に従事し、チベットとの貿易を掌握して、チベット側から牧畜生産物、岩塩などを輸入 し、ネパール側から穀類、油、紙、布、食器などを輸出していた。
タカリー族の商法はネワール族の「小商人的」 ■ (7) な方式と対比して、「問屋商人的」であり、欧米の近代資本主義的なセンスに通ずるものがあったといわれる。
し かしチベットとの貿易が閉鎖され、タカリー族の商業活動も大きな転換を余儀なくされている。
高山地地域に住むのはネパールでボティ(BHOTE)またはボティヤ(BHOTIYA)と呼ばれるチベット系ネパール 人が中心となる。高山地地域でも標高二〇〇〇—二五00 メ|トルの温帯までは、前記のようなネパール土着の諸 部族が定着しているが、それより標高の高い冷温帯以上の地域はいわゆるボティ族と呼ばれる人々の生活圏となる。
ヒマラヤ登山の補助者として有名なシェルパ族(SHmRPA) •は東部ネパールのドウード•コシ川の上流、エベレ スト山麓付近の高山地地域を中心に生活圏をもっているチベット系の部族である。シェルパ族の生活圏の下限は 標高二五〇〇>1トル前後でライ族、タマン族などと接している。シェルパということの意味がチベツト語のS, HARVA (東方の人)すなわち首都であったラサ(L HASA)より東に住む人々ということに由来し、最初に定着し たソル•クンブー (SOLU—KHUMBU)もSHAR—KHUMBUに由来するといわれるように、シェルパ族は言語、 (8) 3 文化、宗教などの各方面でチベット的な生活様式をとどめている。
その使用するシェルパ語(SHERPALI)もチベ ットの一方言であり、シェルパ族のほとんどはラマ教徒である。
また、シェルパ族のほかにヒマラヤ山脈の北側やチベット高原のネパール領でヤク、ゾー、羊などの遊牧ない しは放牧的な飼育をし、短い夏を利用して大麦、小麦、ダッタンソバ、バレイショなどの農耕に従事するチベッ 卜人がいる。シェルパ族をふくめてチベット語を話すボテ族の人口は約八万人である。 —61—
このようにみてくるとネパールでは、標高の低いタライ地域にインド系ネパール人、ついで山地地域ではネパ —ル的ヒンズー教徒グループ、それより高標高地にネパール土着の諸部族が東西に分布し、冷温帯以上にボティ族 というように、かなり截然と部族的に垂直的な分布をして、それぞれの生活圏を形成している。
とはいえ、これ らの諸部族がすべて孤立的な生活圏を形成しているわけではなく、諸部族の混住は各地に存在する。
ヒンズー教 がネパールに伝えられ、ヒンズー教徒のカースト社会が形成されるにつれて、これとのかかわりをもつ部族も多 くなってきた。
とりわけイスラム勢力のインド侵入により、難をのがれてラージプート系の貴族、武士階層とい われるもの達がネパールに入って定着し、やがて諸部族を従えて西部ネパールから中部ネパールにかけて多くの 土侯国をつくる。
これらの土侯の中で全国を統一したのがゴルカ土侯であった現シャハ王朝である。シふ八王朝 の成立と同時にヒンズー教が国教と定められた。全国統一後は家臣、土侯などに封土が行われ、十九世紀 中葉から約一世紀のラナ・(一 Rana)将軍家による治世下では、その一族に連なる者などに荘園的なビルタMIR, \ (9) TA)の交付が盛んに行われた。
このような過程でヒンズー教徒はさらに各地の諸部族の生活圏に入り、農業を生 業とするバウン、チェトリ、タク–ルは各村落段階で地主ないしは富農となり、下層の職人カーストとともにヒン ズー教徒のカースト社会を形成し、本来カースト社会の枠外にある諸部族の構成員も、ヒンズー教徒カーストと の関連で、上層カーストと下層職人カーストとの中間的な存在として位置づけられるようになったものと考えら れる。
現在、ネパールの多くの地域で、少数の上層カーストと職人カーストおよび諸部族との混成で村落を構成してい いるケースがみられるのは、このような経過をたどったものであろう。 —62— ネパールのカースト制の形成についての一考察
では次に、ネパールのカースト制度の形成に大きな影響を与えたと考えられるインドにおけるカースト制の形 成の過程をたどることにしよう。
インドにおけるカ|スト制の形成
インドにおけるカースト制は、インド亜大陸へのアーリア人の侵入、その先住民のドラヴィダ系諸種族の征服、 定着、統治の長い歴史の過程で形成された社会構造と、その社会生活に深く根ざしていたバラモン教、ヒンズ— 教の体系化と密接に関連して形成されたものであろう。
中央アジアで牧畜生活をしていた種族あるいは西アジアの狩猟民族であったともいわれるアーリア人が、イン ド亜大陸へ最初に移動を開始したのは紀元前二000年頃といわれる。この時点でモヘンジョ・ダー ロ (MOHE, NoDARO)やハラッパー (HARAPPA)その他の遺跡が示すようにインダス河流域とその周辺の広範な地域に、整 然とした都市計画による舗装道路、排水施設、食糧倉庫や強固な城壁を持つ都市国家を建設し、諸都市間を結ぶ 商業、交通網をもったインダス文明がすでに開花していたと考えられている。
インダス文明はモヘンジョ・ダー 口やハラッパーなどの遺跡、出土品からその年代は紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇年前後と推定されている。し かし、インダス文明についてはいまだに解明されていない部分が多く、この文明の担い手となったのはどの種族 であり、どのような要因で崩壊したかについても不明な点が多いが、その後この地域に侵入したアーリア人に よる最古の文献であるリグ・ヴェーダ (RGVEDA) の記述により、先住民がドラヴィダ語系種族とムンダー語 —63 一 を使用するコール族などであり、またアーリア人の先住民との戦記に多くの都市城塞、堡塁を攻撃した記述が あるので「インド•アーリアン人の侵入がインダス文明を滅亡に導いた直接の原因であったことを暗示するかと (10) 考えられる」とされている。
紀元前二〇〇〇年頃から、いくたびかにわたってインド亜大陸に侵入したアーリア人が、先住民族と戦い征服 しつつ版図を拡大し、紀元前一五〇〇年頃にはパンジャーブ地方に定着して農耕牧畜の生活を確立し、さらに紀 元前一〇〇〇年頃にはガンジス河流域に進出して、やがてアヨーディヤー、ラージャグリハ、シュラーヴァステ イー、ヴァイシャーリーなどに都市国家を建設していった。
或る時は異民族と戦い、また或る時はアーリア人が 互に覇を競い、王が王を従えて「諸王の王」すなわち帝国の統治者となった。
紀元前六世紀頃になるとガンジス 河流域を中心に「一六王国」があったといわれるが、これらの王国はマガダ国(王都はラージャグリハからパータ リプトラに)、コーサラ国(アヨーディヤ—J アヴァンティ国(ウッジャイン)、ヴァツァ国(コ”・サンビー)の四国 に統合される。
これらの四大国のなかでもマガダ国が強大になる。その間、紀元前六世紀から五世紀にかけてペル シアのアケメネス朝の軍がインダス河流域に侵入し、ガンダーラ地方も支配下にいれ、さらに紀元前四世紀には マケド・ニアのアレキサンドロス王もアケメネス帝国の征服を目的にインドに遠征 箭三二七—三二五年)するなど 外部勢力のインド亜大陸への侵入があった。
しかし、マガダ国マウリヤ朝の開祖チャンドラグプタ王(CANDRA, GUPTA)(前三ニー年即位)は西北インドからギリシャの勢力を一掃して、王国の版図をヒマラヤ山脈からベンガ ル地方にまで拡大し、さらに、その孫アショカ(aoo’oka)王(前二六八年即位)は東南インドのカリンガ国(現在 のオリッサ地方)を征服して、北インドから南インドにおよぶ古代インドの一大帝国が形成された。 ——64—— ネパールのカースト制の形成についての一考察
このような歴史のプロセスでアーリア人を中心とする古代インドの社会Bgや人々の生活を律するバラモン教 の諸聖典の体系化が行われた。
アーリア人がインドに定着するようになったときに、すでに自らの司祭、予言者を持ち、種々の祭式と神学的 (n) な神聖な伝承をもっていたといわれる。
それがインドにおけるアーリア人の歴史の進展とともに累積され、®大 な文献に集大成された。これがヴェーダ(VEDA)である。
「知る」を意味するヴィツド(VID)を語根とするヴェー ダは知識、 とりわけ宗教的な神聖なる知識を意味し、 その知識を集成した聖典の総称となった。
したがってヴェ —ダ文献は神々の讃歌から歌詠、祭式儀礼、叙事詩、叙情詩などにおよぶ広範な内容をもっており、最古の文献 といわれるリグ・ヴェーダは、そこに記述されている事柄からみて紀元前一五〇〇年—ニー〇〇年頃にパンジャ (2) —ブで作られたものと推定されている。
このような広範な内容をもつヴェーダ文献は、基本的には宗教文献であり、祭式に関連して発展してきたもの であるから、祭式儀礼を分担する祭官の職分により、㈠リグ・ヴェーダ (KGVADA)は讃歌の集成で、神々を祭 場に招き、讃誦する祭官ホートリ(HOTR)に属し、㈡サーマ・ヴェーダ (SAMAVEDA) はリグ•ヴェーダの詩 節を旋律にのせて歌詠をするウドガートリ(UDGATR)祭官に、㈢ヤジュル・ヴェーダ (YACRVEDA)は祭祀実 務を担当し、供物を神に捧げる祭官アドヴァリウ(ADHVARYU)に、さらに、後に第四ヴェーダの地位を得た除 災、招福などの呪法に関する、㈣アタルヴァ•ヴェーダ (ATHARVAVEDA) は祭式儀礼全般を統轄するブラフ マン(brahman)祭官に属するもの、という四種に分類される。
これらの各ヴェーダを構成する要素は、次の四部門に分けられる。 —65—
㈠はサンヒタ} (SAM HIT A)と呼ばれる各ヴェーダの基本部分で、マントラ(MANTRA) —讃歌、歌詠、祭詞、 呪法の集録であり、a常、ヴェーダという場合、このサンヒター(本集)を指す。
㈡はブラIフマナ(BRAHMANA)で、第一部門に付随する文献であり、祭式に関する規定のヴィディ(VIDHI) と、祭式の神学的解釈を主とするアルダ・ヴァーダ(ARTHAVADA)とに区分される。
㈢のアーラニアカ(ARANYAKA)は秘密の祭式や教義を説くもので、人里を避け、森林の中で伝授されるべきも のとされる文献である。
㈣のウパニシャッド(UPAN栃AD)は宇宙万有にわたる哲学的文献であり、ヴェーダの最後の部分を形成する ので、別名をヴェーダーンタ(Vedanta)と呼ばれる。
またこれらの文献がシュルティ 希RUTI)、すなわち天啓の書—リシ仙)が神秘的霊感によって、感 得した天の啓示の聖典であるのに対して聖賢の叙述であるスムリティ(SMRTI)と呼ばれる文献がある。六種の ヴェーダの補助文献や、インドの二大叙事詩マハーバーラタ(MAHABARTA)とラーマーヤナ(.RAMAYA-ZA)、マ r2) ヌの法典 (manu,smkti)、ヤージュニヤヴァルキアの法典(yajnavalkyfsmfti)などがある。
インド亜大陸でのアーリア人の定着生活が進むにつれてアーリア人の社会での職能上の分業も進み、リグ・ヴ エーダ末期の讃歌には四階級の分化についての表現がでてくる。プルシャ(原人)の歌(一〇・九〇)の「ーー、 プルシャを切り分かちたるとき、いくばくの部分に分割したりしや。その口は何に、その両腕は何になれるや。 その両腿は何と呼ばるるや。」、「ーニ、そのロはブラーフマナ(バラモン・祭官階級)となりき。その両腕はラー ジャーー ア (王侯 ・武人階級) となされたり、 その両腿はすなわちヴァイシア (庶民階級)、両足よりシュードラ (奴 —66— 不パールのカースト制の形成についての一考察
(4) 婢階級)を生じたり。」とある。 ヴェーダ讃歌の叙述がそのまま史実に照応するものと考えることはできないとしても、アーリア人の内部に政 治を司り軍隊を統卒する王侯貴族、祭祀、祭式を執行する祭官、農業牧畜、工芸などに従事する庶民という社会 的な分業が進み、さらに、これらに仕える被征服者やこれと通婚した者などによる奴婢という社会的な区分が進 み、それに血統、家系の保持という目的とあいまって、リグ・ヴェーダ末期には、すでにブラーフマナ、ラージ ャ-ーア(後のクシャトリア)、ヴァイシア、シュードラという階級の分化がかなり進んでいたとみることができよ う。
インド古代社会において階級に相当する名称は「色」を意味するヴァルナ(VARNA)であり、「皮膚の色」の白 いインド・アーリア人と、アーリア人と戦った黒色低鼻でリグ・ヴェーダでダーサ(DASA|悪魔、野蛮人、後に奴 »を意味する言葉となる)と呼ばれた先住民とを区別し、それゆえブラーフマナ、ラージャニア、ヴァイシアの三 (15) 階級とシュードラ階級とは当初から一線を画する階級観念から出発したものと考えられている。
他方、前記の四 階級は明らかに職能的な類別でもあるので、古代インド社会における社会構成の階級的類型を示すヴァルナ制は、 征服者、被征服者という人種的な要因あるいは種姓の区別が根底にある職能的階級区分により形成されたものと いえよう。
その後、インド・アーリア人の定着生活が進み生活領域が一層拡大されるにつれて、アーリア人と先住民との 混血や、四ヴァルナ間の雑婚が増加するようになると種姓をあらわすヴァルナとは別に、本来「出生」を意味し、 バラモン教の諸聖典では正当でない結婚による出生を意味するジャーティ(JATI)が雑種カーストを表わす言葉 ——67— として使用されるようになり、このヴァルナといわれる部分とジャーティといわれる部分との複合によってイン (6) ドのカースト制が成立したものと考えられている。
このようにインドのカースト制は征服、被征服によるヴァルナの区別とヴァルナ相互の雑婚によるジャーティ という血統的区別の上に、宗教的な貴賤、浄、不浄、禁忌や職業的な区別とその世襲化などの諸要因と、社会経 済の発展にともなう職業の分化によるカーストの細分化が進み、その後三〇〇〇にもおよぶ副カーストが存在す るといわれるようになったものと考えられる。
それゆえにインドのカースト制の著しい特色は族内婚を厳守する という原則である。
前述のようにヴァルナ制もジャーティ制も血統、家系の保持という目的から出発したもので あり、いかなる者も同一のカースト内で配偶者を選択しなければなちない。
その場合、同じゴートラOOTRA— 共同家族)内とサピンダ(SAP-ZPA—父系では七代、母系では五代以内の親族)間では結婚できないので配偶者の選 択の範囲はさらに限定される。
このような同一カーストでの族内婚のうえに、各カーストの職業を世襲する義務 があり、また、カースト間の交際や食事などに関する多くの禁忌を成立させている。
しかしながら、古代インド社会ではカ・-スト制も後に完成されたような厳格なものではなく、カースト間の雑 婚も多く、職業の世襲制もゆるやかなものであったと考えられる。
前述のように、紀元前四世紀に古代インドの一大帝国を形成したマウリア王朝時代の社会構成について、中村 元氏は「人間の共同行動の諸様式についてみるに、当時の人々はカーストによる結合形式を示していない。イン ドの社会は古来バラモン・クシャトリャ・ヴァイシア・シュードラという四つの階級の区別が確立していると従 来一般に信ぜられている。
しかしそれは現在残っているバラモン教の文献にもとづいて、そのように考えるので -68— ネパールのカースト制の形成についての一考察 あって、アショカ王詔勅をはじめマウリヤ王朝時代の、年代のほヾ判明した諸碑文によってみると、四姓制® (7) の片鱗さえも認められない。
故に四姓の制度はマウリヤ王朝時代には公には行われていなかった。」とされている。
さらに当時の文献「カウティリヤ実利論」(ARTHA或STRA)とギリシャ人メガステネース(MEGASTHENES)の 「インド見聞記」における職業、階級についての記述を比較検討される。
「カウティリヤ実利論」はマウリヤ朝の 開祖チャンドラグプタ王の宰相であったチャーナキヤ(CANAKYA別名をカウティリャKAUTFYA)の著作である とされる政治、経済に関する書であり、メガステネースはギリシャの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派 遣され、王都パ}タリプトラ(現パトナ)に滞在した。
その体験から記された「インド見聞記—インド誌」の断片 がギリシャ、ローマの他の著作に引用された資料として残されている。
メガステネースの伝えるインドの階級は 哲人、農夫、牧人、職人と小売商、戦士、監察官、顧問官(高級官吏)の七種類であり、各職業間に厳重な区別、 疎隔がありカーストの観念に近いものであることを述べ、しかもインド人はすべて自由人であり奴Bなるものは 存在しないとしており、バラモン教一般で認める四姓(種姓)と一致しない。
第一の哲人はバラモン(brahma, •ZA)、シャモン(SRAMANA)に相当するが、第二の農夫、第三の牧人、第四の職人と小売商人階級についてはバ ラモン教文献の中の一つの階級に比定することはできない。
「実利論」ではヴァイシアの職業として農耕(KRSI)牧 畜(PASUPALYA)と商業(VANIJA)があげられ、シュードラの職業に実業(VARTTA)と手工業(KARU)と遊芸 (KUりLAVAKARMAN)とがあり、実業は耕作、牧畜、商業にはヴァイシアもシュードラとも従事しているのである から、メガステネースの一つの階級をヴァイシアやシュードラに、さらに第五の戦士、第六の監察官、第七の顧問 官の階級もバラモン教の一つのカーストに比定することはできない。
メガステネ}スの記述に対応して七種類を —69— まとめているインドの文献は見当らないとし、それに近いものとして、メガステネース以前、したがってマウリ ヤ王朝以前の社会的事実を反映していると考えられる佛典スッタ二パータ(SUTTAMPATA)にある次の職業をあ げておられる。農夫(KASSAKA)、職人(SIPPIKA)、商人)、傭人(PESSIKA)、盗賊(CORA)、武 士 (YO, dhahva)、祭官(YZAKA)、王(RAJAN)である。中村氏はこれとメガステネースの区分を比較し、スッターーパー タの農夫は農夫と牧人に、職人と商人は職人と小売商に、武士は戦士、祭官は哲人にそれぞれ対応し、傭人は統 一国家の特殊任務をもった傭人であり、盗賊を職業の如くみるのは奇異であるが、マウリヤ王朝成立以前の社会 的混乱を反映しており、それまで支配階級であった王族が同王朝成立後、高級官吏に転化したものとみている。
しかし、パータリプトラに駐在してバラモンとも交り、その教説を聞いていたのは疑いない事実と考えられる メガステネースが、バラモンの伝統的な四姓説を述べないで、前述のような全く別種の階級区分を記し、再生族 とシュードラの区別、アーリア人と«民の区別にも言及していない。
それらのことから「マウリヤ王朝時代には 四姓の制度は公(国家的)には認められていなかった。:•ただし、バラモンは依然として四姓制度の観念を固守 していたと思われる。だからマウリヤ王朝の統一的官僚国家が崩壊して、徐々に世襲的階位を重んずる国家が成 18″) 立するにつれて、バラモン教の四姓の観念も次第に社会的に復活するに至った。」との見解を示されている。
他方、バラモン教、ヒンズー教の聖典ではその後、カーストの観念とその規制はますます強化されてくる。
紀 元前二〇〇年—紀元後二〇〇年頃に作られ、ジャスティティ・マッラ王がネパールにカースト制を導入する際に 依拠した、とされる「マヌの法典」ではそれが極めて厳格に規定されている。
インドで法典という場合のダルマ (dharma)すなわち法というのは今日の法律という観念よりも広義であり、それには宗教、道徳、習慣をも包含 -70- 不パールのカースト制の形成についての一考察 するものであった。全篇ニー章、ーー六八四条からなる「マヌの法典」も宇宙万物の創造から、アーリア人がー 生を通じて行うべき種々の儀式(ーニ浄法)、民法、刑法的規定、種姓の義務や讀罪などにおよび、最後に輪廻、 業界、解脱に至るという広範な内容をもったサンスクリット語韻文で書かれた法典である。
人類の始祖マヌの託 宣に基づいて聖賢が叙述したという形式をとる同法典では、四種姓の義務および職業を次のように定めている。
「バラモン、クシャトリャ、ヴァイシャ、シュードラに、各々業(義務)を定めたり、バラモンには(ヴェーダの) 教授と学習、自己又は他人のための行祭、布施を興え、又受くることを定めたり、クシャトリャには、人民の保 護、施與、供犠、(ヴェ—ダの)学習、及び感覚的対象に対する無執着を指定せり。ヴァイシャには牧畜、施與、 供犠’ヴェーダの)学習、商業、金銭の貸與、及び土地の耕作を指定せり。されど主宰神は、これらの(他の)三 (9) 種姓に甘んじて奉仕すべき唯一の職能を、シュードラに命じたり。」(第一章、八七—九一)。
しかも上位の三階級は 再生族 (DVIJA)すなわちバラモンについて入法し、ヴェーダを学んで第二の誕生をするのに対して、第四のシュ —ドラは一生のものであり、第五の種姓はない、と規定している(第十章四)。
一生のものであるシュードラ階級 はヴェーダの学習も、読誦をぬすみ聞くことも許されない。「シュードラに教訓を與うること勿れ。或は残食を、 或は神に供えられたる(食物の残余)を與うる勿れ。(かかる者に)法を説く勿れ。誓戒を課す勿れ。なんとなれば (シュードラに)法を説き、或は誓戒を命じたる者はそのシュードラと共にアサンヴリタと呼ばるる地獄に堕つ (M) ればなり。」(第四章、ハ〇—八ー)と規定している。
このように同法典は四階級の区分を明確にし、結婚、職業を はじめ人生全般にわたって、前述のようにアーリア人がその生涯を通じて遵守すべき義務や諸行為に関する法体 系として集大成された。 -71-
このようなバラモン教の諸文献にみられるヴァルナ(種姓)を中心とするカーストの観念に、さらに出生に由 来するジャーティの要素に職業的区別をも加えたカースト制が、広くインド社会の各層各般に定着するようにな るのは、その後のヒンズー教の拾頭とヒンズー諸王朝の登場によるものであろう。
前述のようにアーリア人がインドに定着するようになったとき、司祭者をもち、数々の祭式や神学的な伝承を もっていたといわれる。
その宗教観は自然界の構成要素、現象、その背後にあると想定される支配力を神格化し て崇拝の対象としたものであったが、神話の発達とともに、自然現象で想定された神々が擬人化され、リグ•ヴェー (幻) ダに登場、天、空、海の三界に配分された神々の数は三十三とも三千三百三十九ともされている。
これらの神々 の讃歌と祭式を主体に発展してきたのがバラモン教である。その後、アーリア人の定着、先住民との接触が拡 大し、両者間の雑婚による人口が増加するにつれて、アーリア的文化と先住民のドラヴィダ的文化との混合 (SYNCRETISM)が進み、この混合の過程では、インドの歴史家コーサンビーが述べているように「スカンダやガ ネーシャがシヴァの息子となったように、神々の複雑な家が形成され:::神と神の結婚の背後には異なった神々 を信仰する人々の間の結婚の制度がおこなわれていたし、それ以前に、別々でそのうえ対立していた崇拝者たち が社会的に融合することがなければ、神々の結婚は不可能であったろうし、そして新しいジャーティ•カースト は結合した社会における経済的地位とほぼ一致する身分が与えられた。」といわれる相互の文化的、社会的変容を もたらすことになった。
アーリア的文化の要素が先住民の信仰、風俗習慣と混合し、融合する長い歴史の過程 で、バラモン教は「およそ一般に宗教的といわれる一切のものを包容して、深遠な哲理を説く体系から最も原始 (3) 的とみなされる素朴な庶物崇拝までのあらゆる相を」包摂するヒンズー教へと発展した。 —12— 不パールのカースト制の形成についての一考察
ヒンズー教の聖典プラーナ(PURANA)の最も古いものは西暦二七五年頃であるといわれるが、その後、十三世 紀の初頭にイスラム王朝が誕生し、次々にインドを席捲する以前に、インド各地に成立したヒンズー王国の身分 制度と密接不可分に結びついて、カースト制がより一層複雑に固定されたと考えられる。 以上のような形成のプロセスをたどったインドのカースト制が、どのような経路でネパールに導入されたかは 明らかでない。
恐らくヒンズー教のネパールへのかなり緩慢な伝播でカトマンズ盆地に勢力を伸長し、次いでイ スラム勢力のインド侵入に難を逃れてヒンズー教徒がネパール各地に入り、諸部族を支配下におさめて王侯とな り、現在の版図に全国を統一してヒンズー王国を成立させるという歴史の過程で形成されたものであろう。
ネパールへのカースト制の導入とその形成
釈迦牟尼生誕の地(LUMBINI)として世に知られるネパールには、インドのアショカ王が建立したといわれる 石柱>SOKA PFLAR- LUMB2)や仏舎利塔 (ASOKA STUPAS-PATAN)その他数多くの遺跡や古い寺院が各 地にのこされており、古い文化をしのばせる。
カトマンズ盆地はヒマラヤ連峰南側の前山山脈にかこまれ、標高ニニ〇〇メートル前後の高度に位置し、土地 肥沃で古くから栄え、多くの王朝が盛衰の歴史をかさねたと伝えられている。十四世紀の末以降に書かれたとい われるネパールの王統年代記であるバムサバリ(VAMgAVALI)は数種類あり、これらの資料をもとに書かれたネ パール史にはゴパル (GOPAL)、グプタ(Gupta)、アヒール(AHS1)、キラータ(KIRATA)などの諸王朝の名があ -73— げられ、ネパールという名がこれに由来するといわれるネ・ム二(NE MUNI) 開祖のグプタ王朝時代やインド平 (25) 原から来たアヒール王朝の支配、さらに東から来てこれを征服したキラータ王朝時代の王統が記されている。
その後に続くものとして釈迦の在世の頃、北インドで覇を競っていたリッチャヴィ(LICHHVI)族やマッラ(M, ALLA)族と同名の王朝が登場する。しかし史実によって実証.される最古の王朝はリッチャヴィ王朝以降である。
ガンジス川流域の中流左岸のヴァイシャリー(VAIgALLVESALI)に国都をおいたリッチャヴィ族は、インドの文 献では常にクシ・ヤトリヤ族と見なされ、バラモン教には好意的ではなく、反バラモン教的立場をとる仏教やジャ (26) イナ教を保護したといわれる。釈迦も国都ヴァイシャリーを訪れている。結局、ヴァイシャリーはマガダ国に征 (7) 服されることになる。
しかしリツチャヴィ族は存続し、紀元四世紀に至っても非常な尊敬を博していたという。こ のリッチャヴィの一族がネパールに入って興した王家がネパールのリッチャヴィ王朝とされるが、その関連は明 らかでない。
バムサバリではリッチャヴィ王朝第二ー代の王とされ、四六四—五〇五年頃王位にあったマーナ・デーバ(M>1 NA deva)王の治世下でネパール最初の銅貨が鋳造され、同王の名を記した碑文も存在している。同王はヒンズ (8) —教徒であったが、仏教にも深い敬意を示したといわれる。
また、六世紀後半から七世紀初頭にかけて在位し、教育の普及、文芸の興降に力を注いだといわれるアムシュ •バルマン(AMSHU VARMAN)王についても、七世紀に同地を訪れた唐僧玄奘は「大唐西域記」の中で「尼波羅 国は周囲四千余里で、雪山の山中にある。•:•:貨幣は赤銅銭を使用している。•••:•邪教正法を兼ねて信じ、加藍 と天祠とは垣根を接し軒隈を連ねている。僧徒は二千余人、大小の二乗を兼ねて学習している。外道の異学をす -74— ネパールのカースト制の形成についての一考察 るものは、その数が分からない。王は刹帝利で栗|¢姿種である。
その志学は清らかに高く、もっぱら仏法を信じ ¢ ( 9 ) ている。近い代に窟輸伐摩と号する王があった。」(第七巻第五節)と記されている。
このアムシュ•バルマン王は 王女ブリクティ(BHRIKUTI)を、当時チベットで強大な勢力をもっていたソン・ツァン・ガンポHSRONGレA, NGGAMPO)王に嫁がせている。その後ガンポ王には中国の玄宗皇帝の文成公王(WEN CHENG)王女が第二王 (9 妃となった。
この二人の王妃がチベットに仏教を広めるのに力となった。
リッチャヴィ王朝の崩壊後、カトマンズ盆地の覇権を競う諸勢力を平定してニーー世紀から一八世紀中葉まで強力 な王国を建設し、ネパール文代史上に輝かしいネワール(NEWAR)文化を開花させたのはマッラ王朝であった。
マッラ王朝歴代の王の中で、政治、経済、社会、文化の各分野で後世に大きな影響を与えることになる諸改革を行 ったのは、ニ二ハ-年からニニ九四年頃まで王位にあった同王朝第七代のジャスティティ・マッラdAYASHTrn, MALLA)王であった。
同王は諸制度の改革にあたって北インドおよび南インドなどから、それぞれ専門分野の異 なる五人の学者を招いて意見を聴取して、カースト制の導入、刑法の改正、課税、販売、抵当基準としての田畑、 (1) 家屋の等級決定などに着手した。
リッチャヴィ王朝支配後の混沌としたカトマンズ盆地を平定したマッラ王朝の当時は、この盆地には部族、宗教 の異なる様々な人が住み、それにインドから入ってきたカースト制が混在し、ネパールは社会的にも、宗教的に も不安定な状態であった。このような状況を背景にジャスティティ・マッラ王は種々の階層と職業の人々の地位 (2) と機能を明確にするため、学者の意見をいれ、マヌの法典に依拠して国民を六四の階層に分けたといわれる。
この六四階層の区分についてイギリスのD ・ライトへDaniel Wright) は、サンスクリットとネワール語の ——75— 混合したパルバティヤ(PARBATIYA)による文献からの翻訳などをもとに、一八七七年に公刊した「ネパール史」 (3) でこれを記述している。
またイタリアのL •ペテチ(Luciano PETECH)もー九五八年刊行の「ネパール中世史」 (4) でこの区分について記述している。
両者の資料を比較したのが第一表である。後者による階層と英訳の配列は、 前者の逆であるがほぼ重複しているので階層区分の項目は一本化し、両者による英訳は原文のまま掲載した。
ライトの文献ではこの六四の階層区分について、ブラーマンはパンチャガウダ (PANCHAGAUDA ••・北インドから の)とパンチャドラヴィダ(PANCHADRAVIDA:・南インドからの)二つに分けられ、それぞれが多くの分枝階層をも つ五つの副カーストをもっていると述べ、これらのカーストについては、ネパールで現在知られていないと注釈 をつけている。
ネワール族の婦人とブラーマンの混血であるジャイシイ・ブラーマン(JAISI BRAMAN)すなわち アーチャーリー (ACHARYA)、バイダ (BAIDA)、シレスタ(SRESHTHA)、ダイバギアOAIVAGYA) の四つの階層 は、アーチャーリーが三階層に、バイダが四階層に、シレスタはアーチャーリーの三階層とダイバギアの四階層 に許されたと同様に、ブラーマン的衣服をまとうことを許された十の階層を含む多くの階層に分けられた。
ここ に述べられているジャイシー ・ブラーマンは、純粋なブラーマンとブラーマンより低いカーストの婦人との間に 生れたブラーマンの意味で用いられたものと考えられる。
ネワール族のカーストでアーチャーリー、バイダ、シ レスタ、ダイバギアはヴァイシャである。シュードラ(SUDRA)は三二階層に分けられたジャプー (JYAPU)と四 階層に分けられたクマール (KUMHAL) の三六の階層であった。
この場合のジャプーは農村社会又はカトマンズ のネワールの副カーストであり、クマールは陶器製作所に雇われているネワールの副カーストであろう。最後に 前記のシュードラの三六階層とは別にポージャー ・カースト(PODHYA CASTE)は四階層であったと述べている -76— ネパールのカースト制の形成についての一考察 が、これはカトマンズにおけるネワール族の最低の副カーストであり、清掃夫、糞尿運搬夫、葬式場夫、死刑執 行夫である。
これを最後に別にあげているのは、アウトカースト的な賤民階層とみなしたものであろう。
六四の階層をこのように説明したうえで、ライト文献では、上位の四つの階層の者はポージャ}やチャルマカ 1ラのような低位階層の者の手からの水を飲むことを禁じられ、また上位階/■の婦人が低位階aの男子と結ばれ 『5) た場合、その婦人は男子の階層に格下げされたと述べている。
第一表に見られるようにライトの場合は各階層について英訳された部分が少なかったが、ペテチによって、か (6) なりその空白が埋められている。
それでもなお不明な部分がある。このような空白はD •R •レグミが指摘する ように、原文にカースト名についての文字のスペリングの誤りがあって判別できないのに加えて、多くのカース 卜が当時のままには継承されていないので、オリジナリティの失なわれたカ}スト名に該当する文字の探求を困 難にしている。
このような部分があるにしても、その階層区分の内容を示す貴重な葺である。
ジャスティティ・マッラ王は、その顧問であった学者の進言により、インドの法典に依拠して、六四の階層区分を 実施したとされているが、その内容はインド的なヴァルナ制とジャーティ制の観念を基本とする階層区分といえ よう。
すでに述べたように、リッチャヴィ、マッラの両王朝はともにインドから入ったアーリア系の王朝で、そ の支配領域は現在のネパールの版図ではなく、カトマンズ盆地とその周辺であり、この地域の先住民は主にネワ —ル族であった。ネワール族の起源を南インドとする説、ヒマラヤの北からとするもの、キランティとリッチャヴ イの結合した種族とする説などがあるが、ネワール族の多くは歴史時代以前にカトマンズ盆地に入ってきたと考 えられているネパール土着といえる種族である。
ネワール族はカトマンズ盆地での長い歴史の過程で形成された 一Z7— 階層社会をもっていたと考えられる。カトマンズ盆地にはインドからの仏教、ヒンズー教が入り、リッチャヴィ王 朝時代の初期には仏教徒が多く、その後次第にヒンズー教の影響が強くなってきたが両宗教は共存し、社会秩序 も安定していた。
マッラ王朝時代になって北インドから多くのブラーマン、クシャトリヤ、シュードラが入って きてヒンズー教の影響力が一層強くなってきた。
国内的には新王朝の成立もあり社会的にも宗教的にも不安定で あり、対外的にはイスラムのインド支配がネパールのヒンズー社会に強い衝撃を与えた。 このような背景から強 力な社会秩序を維持するための諸改革がジャスティティ•マッラ王によって実施されたが、その政策原理はマヌの法 典に依拠したといわれることが示すように、ヒンズー教徒中心のものであったと考えられる。
同王による階層区 分の実施にあたつ.ては、前述のような国内的、対外的背景があるので、ネパールの現実に適合しない古典的四カ (7) —スト制は強調しないで、インドで副カーストと呼ばれるものを単に区分して羅列したものとする見解もある。
事実この区分は職業別の配分が主体であり、上位階層についても本来はカーストではない(59)サチーブ、(60)マント ウリー、(62)レーカック、(63)ブッパ、(64)ドウウィジのような官職名もカーストとして区分されているような混乱も 見られる。
しかし、最上位にあるアーリア系のブラーマン・カーストと、ブラーマンと低位階層の婦人との混血 であるジャイシイ・ブラーマンとを厳然と区別しているように、基本的にはアーリア系のヴァルナ制を主体とす るヒンズー教中心のカースト制であることには変りはない。
人口で圧倒的多数のネワール族をこのカースト制の 枠内に再編しようとした当時の政治的、社会的状況がこのような階層区分を生むことになったものと考えられる。
またこの階層区分の背景には、職業を固定化するために国民が従事している職業、あるいは従事すべき職業を •階層別に区分したものであり、国王は国民の社会における義務と、もしもあるカーストがその伝統的な職業をお -78— ネパールのカースト制の形成についての一考察 (8) ろそかにした場合は刑罰に処するということを強調するために創り出したものとする見解もある。
ジャスティティ・マッラ王による前記のようなカースト制の導入の内容については、さらに十八世紀のはじめ に書かれたジャティヤマーラー (JAT1YAMALA)にも記されており、それによると階層はライトの文献の場合より (9) も増加し、ハーーに区分されている。増加した主なものはアーチャリー、バイダ、シレスタなどの副カーストであ •(〇) り、これらは,ライト文献における六四カーストの計上の際には省略されたものであるとみなされている。
ジャスティティ・マッラ王の孫ヤクシャ•マッラ(YAKSHYA MALr 1428 — 1482 )王の死後、王国は分裂し、 バドガオン&HADGAUN 又はBHAKTAPURE)、カトマンズ 、KATHMANDU 又はKANTIPURE)、パタン (PATAN又はL, ALITPURE)に王都をおいて分離独立した。カトマンズとバドガオンの距離はー〇キロメートル程であり、カト マンズとパタンは数キロメートルである。それ以来十八世紀中頃までカトマンズ盆地にはマッラ王朝の三王国が 併存することになった。
マッラ王朝の支配力はカトマンズ盆地を中心とするものであり、地方には多くの土侯国があった。当時ネパー (41) ルにはチョービシ・ラジャ(CHAUBIS1 RAJA)、バイシ・ラジャ(BA1SI RAJA)と呼ばれる四六の土侯国に分割さ れており、また、タライその他の地域にも土侯国があった。
これらの土侯の多くはイスラムのインド支配から逃 れてヒマラヤ地域に移住してきたヒンズー教徒の武士階級であり、それぞれの地域の先住民を従えて土侯となっ たもので、それらの土侯の中で最も大きな勢力となったのがゴルカ(GORKHA) 土侯であり、インドのラージプー 卜(Rajput)族の出身であったとされる現シャ八王朝の祖先である。
ラージプート族はカニャークブジャ(KANYAKUBJA別名カナウジ KANAUJ)に王都をおいたハルシャ(HARSA)王 -79— の帝国が崩壊後、七世紀中葉から十二世紀にイスラム勢が北インドを支配するまで、インド各地に王国を樹立し、 ラージプート時代を築いた種族である。
しかし、この種族の起源は必ずしも明らかではなく、五世紀頃インドに 入った中央アジア系のグルジャラOURJARA)族、エフタル(EPHTALIJE)族などの系統であるとか、インド先住 民族の系統とかの諸説があるが、武力にすぐれ、自らをラージ・プトラ(王の子の意味)と称し、強力な武力で領 域を拡大して王国を建設し、次第にインドの社会で武士階級すなわちクシャトリヤとみなされるようになったも のとみられている。
このラージプート族の王国はイスラム軍との戦に敗れ、このうち難を逃れてネパールに入り、 西部地域に勢力を拡大し、さらに中部山岳の諸部族を支配下におさめ、マッラ王朝の本拠であるカトマンズ盆地 に攻め入るようになったといわれている。
一七六八年、カトマンズ盆地のカトマンズ、バドガオン、パタンの三王都を攻め、マッラ王朝を倒し、翌六九 年、王都をカトマンズに移し、現シャハ王朝の開祖となったプリティビ・ナラヤン・シャハ(PRITHW NARAY, AN shah)王により、ヒンズー教が国教と定められ、ネパールは文字通りのヒンズー王国となり、国王は「シバ 神の化身」とされるようになった。
カトマンズ盆地平定後、同王朝は和戦両様の構えで国土の統一をはかり、東 部のライ、リンブー族などの支配地域を平定し、西部の各土侯を支配下におさめ、さらに、一八一四年にはネパ —ルからインドに進出して各地を占領してイギリX勢と衝突しネパ.-ル•イギリス戦争(NEPAL-BRmsH war) いわゆるゴルカ戦争となった。ー八一六年に停戦し、セゴーリ条約(SUGAULI treaty)により今日のネパール の版図が決定した。
現シャハ王朝成立後、今日まで約二世紀の統治のうち、一八四六年から一九五一年までの約一世紀は、日本の -80- ネパールのカースト制の形成についての一考察 徳川将軍家と似た世襲制の首相マハラジャ(maharaja)が支配していた。
ー九世紀初頭からシャハ王朝の宮廷 内で首相の地位をめぐって政争が続き、ついに一八四六年、王宮内の国王謁見の場である「コート」に集った 要人五五名がジ・ン・バハドウル•ラナ(Jang Bahadur Rana)の兵によって殺される「コートの大虐殺」 (THE K〇TE massacre)事件となった。
対抗者を粛清したジャン•バハドウルは国王を王宮に軟禁して首相に 就任し、以後一九五一年のいわゆる「王政復古」まで政治の実権はラナー族が掌握する専制政治となった。
このような経過をたどったシャハ王朝のもとで、ネパールのカ.-スト制が、マッラ王朝以降どのようになった かは極めて注目されるところとなった。
ネパールのカースト制についての研究は、一八一六年の「セゴ}リ条約」締結直後、外国人として初めてネパ —ルに駐在したイギリスの外交官ホジソン(Brian Houghton Hodgson)をはじめ、D ・ライト、s・レヴィ(S, ylvain LEVI)、フユ}ラ・ハイメンドレフ 、CHRISTOPH <oz furer,haimendorf)、l ・ペテチ(Luciano PE, TECH)などネパールの歴史や社会、さらにはネワール族や諸種族の言語、宗教などを研究した外国人の研究成果 により次第に明らかになってきた。
このような成果をもとにネパールの歴史家D・R •レミグは、時の経過、使 用される用語の変遷などを整理し、ネパールのカーストおよび副カーストの伝統的職業および諸カーストの宗教 (2) 的行事を担当する僧職をヒンズー教のブラーマンと仏教のグーバ(GUVA)に区分した詳細な一覧表にまとめてい る。
またこの一覧表にも関連する資料であるが、ペテチはネパールのカースト制についてはヒンズー教徒と仏教 徒を区別してみることも重要であり、特にそれは上位階層のヒンズー教徒集団と低位階層の仏教徒集団と低位階 層の仏教徒に二分されるとし、さらに古典的な四種姓によるカーストの区分はネパールの現実には必ずしも妥当 -81- するものではないとしながらも、理論的に同国の諸カーストが古典的な区分のどれに該当するかという分類をし て、第二表のような階層区分を試みている。
ペテチも十四世紀にジャスティティ・マッラ王によってネパールに導入されたカースト制が、その後現代まで どのように継承されたかについてふれ、それは時代の経過により今日では現実的に認められていないものもある けれども、その一般的な枠組と内部精神は今日も同じである。
職業とカーストの関係も今日の状況の下で徐々変 化してきているが、一つのカーストの伝統的な職業は依然として大部分がそのカースト構成員によって占められ (43) ていると述べている。
このような詳細なカーストの区分があるが、今日のネパールのカースト制は、カトマンズ盆地における主とし てネワール族の副カーストを除くと、基本的にはブラーマン階層であるバウンと、クシャトリャ階層のチェトリ および本来はクシャトリヤ階層であり、クシャトリャ格とみなされるタク—、ルなどの上層カーストと、シュ~・ドラ 階層であるカミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストによって構成され、その中間にネワールなどの諸部族 が位置づけされているといえよう。
またネワール族のカーストに関しては、C -αツサー(COLIN Rosser)が、第三表に示したようなブラーマ (4) ンから清掃夫に至るまでの階層区分を発表している。
これによるとカトマンズ盆地に住むネワール族三万七三一 五戸(ニニ万五七九八人)のうち、四二%が農民階層であるジャプーで占められ、陶工のクマ以下の職人などの 一・ハ階層は全戸数の約ーー〇%であり、シレスタとウレイが約二六%、最上層の僧職にあるものがー ー%という構 成になっている。 —82—
以上のようなカースト制に関連して、ネパールでは異カースト間の通婚や飲料水などをも含む社会的接触につ (45) いての差別が依然として厳格であることをL •ペテチも指摘しており、D • R •レグミも前記の一覧表の中で、 洗濯夫であるドービヤア(DHUBYA)以下の階層は不可触賤民ではないが、彼等の触れた水は穢れており、上層カ }ストのものは彼等の手になる水を飲めないし、彼等は上層力–ストの家の一階以上にあがることができない。 (46)
ポーまたはポレ(PPPORE)以下は不可触賤民であるとしている。
ネパールのカースト制に関する数多くの実証的研究の成果が報告されているが、東京農業大学ネパール農業調 察査隊(隊長 栗田匡一、隊員、島田輝男、島田淳子)も、ー九六四年、約七ヶ月にわたってマンダン地区の農業調 『 査をした際に、同地区内のマハデウ・スターン•パンチャヤート(MAHADEW STHAN PANCHAYAT)のカースト構 “成と、それに関連する生活慣行についての調査結果を「ネパール国マンダン地区農業調査報告」(海外技術協力事業団、 つ 昭和四十年)に収録している。 頒 同調査の対象となったマンダン地区はカトマンズの北東約四〇キロメートル、スンコシ(SUN KOSI)の上流で 形 IJOあるチャッ・コーラ(CHHA KHOrA)の流域にある山村である。同地区のほぼ中央をチャッ・コーラが西北高地 $ W から東南へ貫流し、これにアシ・コーラ>SHI KHOLA)とボクシ・コーラ(BOKUSI KHOLA)が西より東流して *-チャッ・コーラに合流しており、カトマンズ盆地とは峠を境に河系を異にしている。
マンダン地区の北と東には 。 ラムサレ・テユムキイ山rAMSAR thomki LEKH)とマンダン山(MANDAN LEKH)がチャコ・ーラに併行し、西 心 と南にはチャンプール山(CHAINPUR LEKH)、ドディ二丘陵(DHODINIBESI、海抜九九〇メートル)とコテン山(KOT, ネ ENG LEKH、海抜ー、ー〇〇メートル)が横たわっており、マンダン地区内のマンダン山は海抜ー、ー 00メートル ——83—— (マンダン山の最高峰は一五九八メートル)である。これらの諸丘陵にかこまれてチャッ・コーラ流域に海抜七五 五メートルの盆地がある。
マンダン地区の住民は以前はこれらの丘陵の山頂稜線にのみ住み、低地のべシーには全く部落がなかった。ネ パールでは河川、峡谷に沿って亜熱帯的気候が入り込んでおり、海抜一 〇〇〇メートル前後までの河川沿い低地 はマラリヤの発生地であり、それを避けて住民は山頂稜線地帯に住居を構えていたからである。
同地区内でも村 落によっては山頂付近に居住し、肥沃な耕地と牧草のある低地には家畜管理舎を意味するガート(GHOT)を建て、 早朝、家畜を追ってガートに下り、夕方山頂に帰るという生活形態をとっていたところもあり、ガートでは脱穀 調整などの作業も行っていた。
それが第二次大戦後、マラリヤなどの疫病撲滅が進むにつれてガートを本居とし、 本居をガートとするケースがみられ、部落をあげて移動するところもあり、低地に居住移動する戸数も増加してお (47) り、ベシーにある部落は極めて新しく、ー九六四年の調査時点では、まだ移動期であると報告されている。
このような自然環境に位置するマンダン地区はカトマンズとヒマラヤ山脈とのほぼ中間にあり、地理的にも文 化的にもカトマンズ盆地と山岳地域との接点をなす地域といえる。
しかも、中国の援助によるカトマンズとチベ ット国境を結ぶ道路がー九六六年に完成し、同地区内を通過している。
この道路の開»がこの地区の人々の生活 形態に多くの点で変化をもたらしていると想定されるので、その意味からも一九六四年の調査記録は貴重である。
第四表は同調査の報告書第五表から抜^して作成したものである。マハデウ・スターン•パンチャヤートには各村 落から選出された九名の委員がおり、パンチャヤートの資料は各委員から提出されたものであり、各委員が担当し ている諸村落を一括して、その委員の氏名をとって管区と仮称している。各委員の同調査に対する協力関係に差 一 84— ネパールのカースト制の形成について•の一考察 があり、ー、二の委員は中途で調査に異議を唱えるなどの事態もあり、若干不明な点があることが指摘されてい る。
各村落の戸数、人口、カーストについては同調査隊が各戸調査に等しい調査をした数字であるが、村落境界 がパンチャヤート委員や村落民によって異なる場合があり、不鮮明であったこと、居住移動により居住村落の決定 が村落民でも確認できないことなどがあり、そのうえ祭日、農繁期などにあたり調査できなかった村落のあった ことが付記されている。
そのためパンチャヤート提出数字と調査隊の調査した数字に相違があることを注意する必 要がある。このように調査できなくて不明な村落があるとはいえ、山また山の山頂や谷間に五九の村落が点在す る同パンチャヤートの地形ときびしい気象条件を考えると、その労苦は想像を絶するものがある。
パンチャヤート提出の数字によると同パンチャヤートは六三二戸、人口三二四七人であり、五九の村落からな っている。
同パンチャヤートの社会構成はネパールの上層カーストを占めるバウン、チェトリ、タクールとアウト・カー スト的な下層カー ストとみられるカミ (鍛冶職)、 サルキ(皮革加工職)、ダマイ(仕立職)とカトマンズ盆地に住 民の多いネワールや山岳部族のタマン、マガール、ダヌワールなどの諸部族からなっている。
前述したようにマ ハデウ・スターン•パンチャヤートのあるマンダン地区は地理的にも文化的にもカトマンズ盆地とヒマラヤ地域と の接点をなす位置にあり、同パンチャヤートの社会構成もネパールのヒンズー教徒の上層カーストであるバウン、 チェトリ、タクールと下層の職業カーストと、その中間的な地位を占めるとみなされているネワール族や言語の 系列ではネワール語と同じくチベット・ビルマ語系に属する山地民であるタマン族、マガール族、ダヌワール族 など・の混成で村落を構成しており、大きな村落で単一構成なのはジュディ・ガウン(GUD1 GAUN)とコテン(KOT, -85— ENG)の両村落だけであり、それは共にタマン族である。
この他に、表中にあるマハール (MAHAR) シババクタ I (SIBABAKUTI)はネワール族の副カーストであり、ハ マール・ジョギ} (HOMMOLOGI)は自からブラーマンと 称するヨーガ僧である。サニャシ (SANNYASL SANYESHI)はバウン、チェトリのカ1ストから離脱した階層と みられる。ネパールではバウン、チェトリで出家し、鮮黄色の僧衣をまとって托鉢僧(SADHU MENDICANTS)と なり修業中の者が結婚した場合、その子孫は父母の去ったカースト社会に復帰することが認められなくてサニャ (48) シと呼ばれ、ギリ(G1RI)、プリ(PURI)、バハラティ(BHARATI)などの家名を付けたといわれる。
ここでのサニ ヤシとギリはそれに該当するものと考えられる。また同パンチャヤート提出の資料にボティ(BHOTE)とあるが、 これはチベット人を意味するネパール語であり、タマン族、マガール族などのチベット系山地民にも用いられ、 さらに時にはこれらの山地民に対する蔑称として用いられることもある。
しかし、第四表中、⑴のラリバハドウ ル・タマン管区では、タマン族出身の同氏がボティ四六戸と報告しているのは、それがタマン族であることが明ら かであり、また同委員によるバウン、チェトリ、タクールの区分が明確ではない。
同パンチャヤート管内ではバウン、チェトリ、タクールもその他の諸族も農耕に従事しており、その土地利用 状況を示したのが第五表である。
水田には稲作と裏作に小麦、畑には陸稲、トウモロコシ’シコクビエ(KODO) 甘^CKHU)、小麦、ソバ、大豆、落花生などが栽培される。
家畜はヒンズーカーストの慣行からバウンは牛(雌、・去勢牡)、水牛(雌)、山羊(雌、去勢牡)のみを飼育し、 チェトリ、タクールはそれに加えて鶏を飼育する。タマン、マガール、ネワールなどはチェトリ、タクールの飼 育家畜に加えて去勢水牛も飼育する。カミ、ダマイ、サルキは豚も飼育するが、豚については洋種はバウン以外の -86— ネパールのカースト制の形成についての一考察 他の階層でも飼育し、去勢牛は農耕のみに利用し、去勢水牛と山羊は犠牲に供せられる肉用であるといわれる。
このような純然たる農耕社会においてカミ、ダマイ、サルキなどの職人カーストの果す役割と生活条件につい て、同調査報告は次のような事実を明らかにしている。
鍛冶職であるカミは鉄製農具の製作と修理をする。各農家がどのカミと契約するかは自由であり、契約期間は 一年である。製造、修理に必要な鉄材は需要者の負担で、報酬は穀物で支払われる。報酬額は、製造、修理の農具 数によって決まるのではなくて、契約農家の家族数によって決定する方法である。
同報告の事例によると、男女 老幼五名の一農家と契約したカミは、向う一年間当該農家の農具の製造、修理を必要に応じて行なう。その代償 として稲(もみ)、トウモロコシ、シコクビエの何れかで一人当り、ーパティ(ーパティPATH一は約四•三六リッ トル)、合計五パティを収穫後に支払われる仕組である。
どの穀物で支払うかについては慣行があり、稲、トウモ ロコシ、シコクビエの順序である。すなわち稲を栽培している農家は必ず稲もみで、トウモロコシ、シコクビエ しか栽培していない場合はトウモロコシを、シコクビエのみ栽培の場合はシコクビエでということになる。
ダマイの仕事は衣服の仕立と修理であり、契約の内容、支払方法はカミの場合と全く同様である。ダマイと契 約した家では衣服がどんなに破れても、綻びても決して各自の家の者が手を加えることをしない。実際には新調 が中心で修理をすることは殆んどないようである。仕事はダマイが手動ミシンを持参して各家を訪問して庭先で ^9る0 皮革の加工をするサルキの場合は前二者と異なり現物納制のようなー定の規準がなく、をれぞれのケースに応 じて報酬額を決定するといわれる。 -87—
理髪、剃髪は下層職人カーストの仕事ではなくてネワール族がこれに従事しており、一年契約の現物納制をとつ ている。しかし、女子は理髪師にかからないので家族数は男子だけで計算する。理髪師がネワ}ル族であるため、 カミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストに属する者は契約することができないので、各自が相互にしなけ ればならない。
マハデウ・スターン•パンチャヤートでも下層職人カーストは不可触賤民的な地位におかれていた わけである。
しかし、このような状況におかれたマハデウ・スターン•パンチャヤート管内でも、カトマンズとチベット国境 とを結ぶ道路の開通後、カトマンズと同管内の人的、物的交流が容易になり、数多い事例ではないが農業収入と 出稼による農外収入とにより自分の耕作している小作地を地主であるバウンから買取って自作化しつつあるタマ ン族の事例もある。このような同パンチャヤート管内のその後の変化については別の機会に報告したい。
おわりに
以上でネパールにおけるカースト制の形成の過程をみてきたが、ネパールのカースト制はその導入の歴史が示 すように、インドのカースト制がネパール的土壌の中で変容したものであり、さらに導入後の歴史的、社会的諸 条件の推移により変容しつつ現在のような内容になったものと考えられる。
このようにして形成されたカースト制が、ネパールの村落共同体の構造、とりわけ土地所有、耕作関係などの 土地制度にどのようなかかわりがあるかを解明することが今後の課題となる。今後多くの研究者の研究成果と実 証的研究の積みかさねによりこれを明らかにしたいと考えている。
—88— ネパールのカースト制の形成についての一考察 第一表 ジャヤスティティ・マッラ(JAYASTHITI MALLA)王 による階層区分 区 分 DANIEL WRIGHTの英訳 LUCIANO PETECHの英訳 (1)チャルマカール CHARMAKARA WORKERS IN LEATHER ¢2)マーターンギー MATANGI WORKERS IN LEAT- HER ELEPHANT DRIVER (3)ニオギー NIYOGI SERVANT ( ?) (4)ラジャク RAJ AKA DYER AND CLEANER (5)ドビー DHOBI WASHERMEN LAUNDRYMAN (6)クシャトウラカール KSHATRIKARA ? ¢7) ローハーカール LOHAKARA BLACKSMITH (8)クンダカール KUNDAKARA IVORY CARVER (9)ナディーチェーデー NADICHHEDI CUTTER OF UMBILICAL CORD ( ?) (10)タンデュカール TANDUKARA WEAVER (11)ダーンヤマーリ— PHANYAMARI ? ¢12)バディー BADI ? (13)キラータ KIRATA HUNTER ¢14)マーンサビクリー MANSABIKRI BUTCHERS BUTCHER (15)マーリー MALI GARDENERS GARDENER (16)ビヤンジャナカール BYANJ ANAKARA COOKS ( ?) SAUCE-MAKER PROBABLY THE SAME (17)マンデューラ MANDHURA AS THE MODERN MA- NANDHAR, OIL PRESSER ¢18)ナティジブ NATIJI VA ACTOR WHO LIVES BY PROSTITUTING HIS WIFE (19)スラービジア SURABIJA ? (20)チトウラカール CHITRAKARA PAINTERS PAINTER (21)ガイネ GAYANA MUSICIANS AND SI- NGERS SINGER (22)バタオーニ BATHAHOM ? —89— ¢23)ナーテヤワラダー NATEBARUDA (24) スルパカール SURPPAKARA (25) ビマリー BIMARI (26) タンカダーリー TANKADHARI ¢27)タヨルタ TAYORUTA ¢28)カンジカール KANJIKARA (29) バラヤチャンチュ BHAYALACHANCHU (30) ゴーパク GOPAKA (31iタームラカール TAMRAKARA (32Iスバルナカール SUVARNAKARA (33)カーンサヤカール KANSYAKARA ¢34)カールニック KARNIKA (35) トウラーダッル TULADHARA (36) クンバッカール KUMBHAKARA (37) クシェトウラカール KSHETRAKARA (38Iスリンカリ SRINKHARI ¢39)タクシャク TAKSHAKA (40) ダ-‘ルカール DARUKARA ¢41)リーピーク LEPIKA 幽ナーピック NAPIKA (43) バーリック BHARIKA (44) シイピカール SILPIKARA ¢45)マリカー-ル MARTKARA (46) チッチャック CHICHHAKA (47) スーピック SUPIKA COOKS ¢ ?) COWHERDS COPPERSMITHS GOLDSMITHS BELLMAKERS WEIGHERS POTTERS LAND-MEASURERS ? ? ? WORKERS AT THE MINT ? ? ? COWMEN BRONZESMITHS GOLDSMITHS ALLOYS FOUNDER AND BELL CASTERS WEAVER WEIGHER POTTER LAND SURVEYORS ? CARPENTERS WOOD CARVERS WORKER IN STUCCO BARBERS BEARERS CRAFTSMEN CONFECTIONER ? COOKS —90— ネパールのカースト制の形成についての一考察 (48) サージカール SAJAKARA (49) スリチャンテー SRICHANTE ¢50)アーラム alama ¢51)ダイバギア DAIVAGYA (52>ガニック GANIKA (53)ジョーティシャ JYOTISHA S4)グラハチンタク GRAHACHINTAKA (55)アーチャーリー AchArya (56Iデーバチンタ DEVA-CHINTA (57) プージタ PUJITA (58) アマーテヤ AMATYA (59) サチーブ SACHIVA (60) マントウリー MANTRI ¢61)カーヤスタッ KAYASTHA ¢63 レーカック LEKHAKA (63}ブッパ、ラージヾ、ナレンドラ、 チェトリー BHUPA. RAJA. NARENDRA、 CHHETRI (64)ドウウィジ、ビプラ、ブラーマン DWIJA、BIPRA、BRAHMANA DIFFERENT KINDS OF ASTROLOGERS STATE OFFICIALS IN OLDEN TIMES WRITERS TAILORS ? ? ASTROLOGERS PRIEST,TEACHER AND SACRIFICATOR OF THE HINDU NEWARS SPECIALITY UNKNOWN THE OFFICIATING PRI ESTS IN THE SAIVA TEMPLES MINISTERS PRIVY COUNCILLORS STATE OFFICIALS SCRIBES SCRIBES ROYAL FAMILY, ARISTO -CRACY AND MILITAR- Y CLASS (出典)(DDANIEL WRIGHT, HISTORY OF NEPAL, 1877, REP. 1972, KATHMANDU, PP.185-186〇 (2)LUCIANO PETECH, MEDIAEVAL HISTORY OF NEPAL, 1958, ROME, PP.181-183〇 —91— き 5 N IIクラス ー MAHAJU (AMATYA)o 旧王朝時代の大臣名である。 PRADHANAUGA. 届聽齢号精辱驚議’磨した容命”球 PRADHAN• 以前はNOBLEMENの一般的称号であった。 MULA OR MURMI. 旧時代の官職名。 RAJBHANDARI OR BHANNI \ 〇切!吟嗚聘界^^£あ MASKE (MAKHI) )つ甘か、コル力王朝下では協められなか Iクラス 一部分はOLD ROYAL FA- THAKURI MILYの子孫である〇 ヴァイシャ(VAlSYA)階級 ネパールでこの名称は使用されI ない。 ! クシャトリャ(KSATRIYA)階級 理論的には、次のヒンズーカース 卜はクシャトリヤとすべきであ る。1768年おでROYAL FAM- ILY のみTHAKUR!のカースト 名でクシャトリヤとして認めら れていた。現在は純粋なTHA・ KURIは存在しないので、ネパ ールにはクシャトリヤなたい。 1 DEVA BRAHMAN (FAMILY PRIEST) この三つは社会的には同格で 2 BHATTA BRAHMAN あるが、相互間で通婚するこ (TEMPLE PRIEST) とはない。 3 JHA OR TIRAHUTIYA BRAHAMAN (TEMPLE PRIEST) W (MVWHVHH)人ヘー J 畢 鄭 (OQNIH) 1 HIクラス BAGAとSESYAの間の混合カーストである。 MTYFD C A SESYA又はSESY°はネワールのヒンズー教徒の上 M1A也Uしい13.位カーストであり、ブラーマンとより低位カ一ストとの 間の子孫であり、BAGA又はBAGHAはSESYAの父とより低位カーストの婦人との間の 『孫で共{こ母班涼に入ったもので、この混合のカーストはSRESTHAとの通婚はできない。 11 ^rAtua 理論的には上位 bKEblHA-母のカーストに KAYASTHA, WRITERS. NIKH,PAINTERS OF RELIGIOUS IMAGES. LAKHAY,PERSON AL ATTENDANTS. 1 VAJRACRYA OR LEARNED MONKS. (FAMILY GUBBAJU. PRIESTS) 2 SAKYABHIKSU OR SIMPLE MONKS•この多く は金 1 BANRE 銀細工師である。・ 仏教徒集団(BUDDHIST) 1 £。 VHIS3HS | WLg コ1 諭 ®u»27w (LUCIANO PETECH)^・バ蜀尤メニーW㊀Aー利ア謹 —92— ネパールのカースト制の形成についての一考察 ヾ‘ ij 1 Iクラス UDAY OR URAY これには通婚しない7グループがある。 1 KASAR,WORKERS IN METAL. 2 LOHANKARMI STONECUTTERS. 3 SIKARMI CARPENTERS. 4 THAMBAI, WORKERS IN COPPER, BRONZE AND ZINC. 5 AWAL, TILERS. 6 MADDIKARMI, BAKERS. 7 TULADHAR, WEIGHT-MAKERS. IIクラス JYAPU, CULTIVATORS. HIクラス このグループは社会的には同一レベルとみ ]SALMI OR MANAN-られているか相互に通婚しないし、また dh/r,or?ginally uday, JYAPU とも通婚しない。 OIL-PRESSERS,ENGINEERS AND MERCHANTS- 2 NAU, BARBERS. 3 KAU, BLACKSMITHS. 4 CHIPA DYERS. /時には彼等は自身をtandukArと呼ぶ(マ R VTJJTC A DAT AMIT17I7M ツラ王の区分 55 )、また、KHUSA の SUB-C- 1 5 KHUSA, PALANKEEN ASTEのーっであるMUSAは現在ではバドカ’ -BEARERS. !オンの2 – 3家族である。 6 PUM OR CITRAKAR, PAINTERS. 7 GATUH OR MALI, GARDENERS. 田刀-つ 乙のSUB-SECTIONの一つにBALAMI. ・ドクフス CARRIERSがある。 1 1 PUTUVAR.DALI, CARRIERS. 2 TEPAY,CULTIVATORS OF VEGETABLE GARDENS | AND CHIEFLY OF THE PALUNG GRASS. —93 一 (圧海)LUCIANO PETECH-MEDIAEVAL HISTORY OF NEPAL- ROM-1958- PP ・186| 189 不可触暢 (INTOUCHABLES)階級・ !1 NAY, BUTCHERS. 2 KUSLE OR JOGI, このSUB — SECTIDNの一つに TAILORS AND TEMPLE DHOM か> あるが、KUSLE は彼 MUSICIANS. 等を下位のもとと考えている。 3 P〇, FISHERMEN AND ネワール語では時にはDEQLA PRIESTS IN THE とも呼ばれる。 TEMPLES ON THE BANKS OF THE RIVERS. 4 had Ahhrit (これについてのL^PETECHの説明 4 hakahuku, はないが、d.R.REGMIは最低の階層 よりもなお低位とみられる道路などの 清掃夫であるとしている。なおREGMI は POJC は poria,chyAmkhala HArAHURU の三つをUNTOUCHA BLE CASTESとして分類している’ 本文参照) 5 CAMKHALA,SWEEPERS•遂翳光・皿山は同格と わ/よミ4し[い&>〇 6 KULU,LEATHER WORKERS• ネノヾールのDRUM作りで、 靴は作らない。 1 3 DUIN,ORIGINALLY THEY 現在ではBALAMI とは全く 別個 BELONGED TO THE BALAMI•である。 1 4 PULPUL OR FULU, HEARSE-BEARERS. I 5 TATTI,VENDORS OF NECESSARIES 1 FOR FUNERAL CEREMONIES. 6 SAGAN, LAUNDRYMEN.缶&?む、高讀誤£;/ 1 ンの数家族に限られて・いる。 —94— ネパールのカースト制の形成についての一考察 第三表 ネワール族のカースト(NEWAR CASTES) カー ス ト 伝 統 的 職 業 戸 数 比率(%) デオブラーマン 1 DEO BRAHMAN FAMILY PRIESTS 165 0.5 バッタ ブラーマン 2 BHATTA BRAHMAN TEMPLE PRIESTS 50 0.1 ジァブラーマン 3 JHA BRAMAN 150 0.4 グバジュ バレ 4 GUBHAJU, BARE FAMILY PRIESTS, GOLD AN- 3,700 10.0 シレスタ セシャ 5 SHRESTHA(SHESHYA) D SILVER SMITHS MERCHANTS 8,100 21.4 ウレイ(ウダス) 6 URAY (UDHAS) MERCHANTS AND CRAFTS- 1,700 5.0 ジャプー 7 JYAPU MEN FARMERS 15,800 42.0 クマ 8 KUMA POTTERS 1,150 3.1 シャイ?•— 9 SAYMI OILPRESSERS 1,370 3.6 クシャ 10 KHUSA PALANQIN BEARERS 300 0.8 11 NAU BARBERS 410 1.1 カウ 12 KAU BLACKSMITHS 300 0.8 バア 13 BHA FUNERAL DUTIES 150 0.4 ガテユ 14 GATHU GARDENERS 470 1.3 テペ 15 TEPE CULTIVATORS 150 0.4 プンム 16 PUM PAINTERS 170 0.5 7・ユヒム 17 DUHIM CARRIERS 130 0.4 バラミ 18 BALAMI FIELDWORKERS 50 0.1 プル 19 PULU FUNERAL TORCH BEARERS 100 0.3 チャパ 20 CIPA DYERS 430 1.2 ジオギ 21 JOG1 MUSICIANS AND TAILORS 550 1.5 ナーイ 22 NAY BUTCHERS AND MUSICIANS 1,050 2.8 クル 23 KULU DRUM-MAKERS 70 0.2 ポレ 24 PORE FISHERMEN AND SWEEPERS 500 1.3 チャミ 25 CHAMI SWEEPERS 250 0.7 ハルル 26 HALAHULU SWEEPERS 50 0.1 ネワール族の総人口、225,798人 計37,315 100 (出典)COLIN ROSSER, SOCIAL MOBILITY IN THE NEWAR CASTE SYSTEM, IN CHRISTOPH VON FURER-HAIMENDORF, ED. , CASTE AND KIN IN NEPAL, INDIA AND CEYLON, LONDON, 1966. PP. 85-86. —95一 第四表、マハデウ・スターン・‘パンチャヤー 卜のカースト構成 村 落 名 戸数 人口 カースト(JATI) ¢1) LALBAHADUR TAMAN管区 58 187 ボティ¢6)、カミ⑹、タクール(6) 1 ティン・ピプレ TIN PIPURE 26 109 バウン(2)、タマン¢22)、カミ(2) 2 バラ BARA 8 29 バウン⑵、タマン⑹ 3 タディ・カミン TADI KAMIG. 7 32 カミ(7) 4 ガイリ GAIRI 5 コテン KOTENG 32 187 タクール(8)、タマン(24) 6 ボッテ・ガウン BHOTE GAUN 7 ターロー •コテン TARO KOTENG 5 19 タクー ノレ(3)、チェトリ(2) ⑵ JANBAHADUR DANUWAR管区 47 318 パウン⑴、タクール(3)、チェ トリ{2)、 ダヌ!? ール<3切、 カミ(2) 8 ドッディ二 D H 0 D IN I 8 50 パウン(1)、タクーノレ(5)、チェトリ(2) 9 カルカ ・ KAR KA 1 6 チェトリ⑴ 10 サトウパテタール SATPATETAR 5 25 バウン⑴、チェトリ(2)、ネワール(2) 11 ラプタンタール LAPTANTAR 2 26 バウン⑴、ネワール(1) 12 マスロ・ジュディ・ガウン MASLO JUDI G AUN 12 73 ダヌワール(12) 13 アプタール・ジュディ・ガウン APT AL JUDI GAUN 32 162 ダヌワール(32) 14 パダ ガウン PADA GAUN 11 56 ダヌワール(9)、カミ(2) ¢3) HARIGOPAL SHRESTA 管区 78 424 バウン、チェトリ、ネワール、ギリ、 サヌヤシ、ダヌワール、ダマイ 15 ランサ~ル・トウムカ LAMS AR THUMKA 22 142 バウン(19)、チェトリ(3) 16 ジャガールプール JAGARPUR il 72 ダヌワール(1D 17 ボッティ・ノレムティ BHOTE RUMTI 4 20 ダヌワール(4) 18 バヌガール BANUGAR 2 13 ダヌワール(2) 19 ヒウンヮ・パティ HIUWA PATI 16 47 ネワール(15)、チェトリ(1) 20 マハデウ ・スターン MAHADEW STHAN 19 113 サヌヤシ(3)、ダヌワール(16) 21 マノ、デウ ・ペディ MAHADEW PEDI 12 84 バウン(2)、ネワール(7)、ダマイ(3) 22 カルティケチイダール KARTEKECHDAR 2 7 バウン(1)、ネワール(1) —96— ネパールのカースト制の形成についての一考察 (4) NANDA PRASAD PAULER管区 114 561 バウン、タクール、チェトリ、ネワ ール、ボティ、カミ、ダマイ、サルキ 23 ダルマタール DARMATAR 6 26 バウン(3)、チェトリ(2)、タマン(1) 24 25 グラインタール GRAINTAR トウムキ THUMKI 7 29 バウン(4)、タクール(1)、ネワール(2) 26 カメレ KAMELE 1 4 タクール(1) 27 28 29 ラクレ LAKURE バトウムニ•サブコタ BATMUNI SABKOTA ダイタール•パウレル DHAITAR PAULER 1 7 タクール(1) 30 ダイタール•サブコタ DHAITAR SABKOTA 7 22 バウン(7) 31 32 カメレコット KAMEREKOT カタルパカ KATALPAKA 3 21 タマン⑴、カミ⑵ 33 34 35 ドウディ DUDE アプガリ APUGARI ラエレ RAELE 2 15 タマン(2) 36 37 クンタ・ベーシー KUNTA BESI トウムキー・ガウン THUMKI GAUN 10 56 バウン(9)、チェトリ(1) 38 ジダリ・ポカリ JIDARI POKARI 7 32 バウン(7) ⑸ 39 40 41 42 43 44 GANANATH UPADHYA 管区 ガッシ GHASI デウラリ DEURARI サルキー・ガウン SARKI GAUN ダリンチャウル DARINCHOUR チャウル CHOUR デアリ・ガウン DEALI GAUN 86 7 415 25 バウン(51)、チxトリ(3)、サルキ(32) C6) 45 PURUNABAHADUR BISI CHETRI管区 ガイリ 54 286 バウン⑹、チェトリ(10)、ダマイ⑴ カミ⑴、ボティ(36) —97— 46 47 ガハテ GAHATE ボッテ・ガウン BHOTE GAUN ⑺ 48 49 KASINATH SHRESTA 管区 パウワ PAUWA パウワ・ガイリ PAUWA GAIRI 48 308 50 ダマイ・ガウン DAMAI GAUN 11 75 ダマイ(11) (8) 51 52 KEDARNATH SABKOTA 管区 マイダン MAIDAN ジャミールコット 70 372 バウン(35)、タクール(4)、チxトリ(20) ネワール(35)、カミ(8)、ダマイ(1)、 サルキ(3)、ボティ(40) これは(9)のJ. SHRESTA管区と 合併した数である。 53 JAMIRKOT ウパラディ・ランタール UPALADI RANITAR 5 27 ハマールジョギ(3)、シババクター ⑴、チェトリ⑴ 54 ランタール RANITAR 27 133 バウン(18)、チェトリ(1)、ネワール⑻ 55 シウリニタール SIURINITAR 13 63 バウン(1)、タクール(3)、チェトリ⑼ ⑼ 56 57 58 JEEWBHAKT SHRESTA 管区 ジャミールコット・ガイリ JAMIRKOT GAIRI サノ •マイダン SANO MAIDAN ディスワールタール DESWALTAR 76 376 上記¢8)参照 チェトリ(9)、タクール(1)、マガール (8)、カミ(11)、ダマイ(1)、サルキ(3) 59 アプタール APUTAR 1 3 ネワール(1) PANCHAYAT提出資料 合 計 632 3,247 男子1,689名、女子(1,558名) (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年 18-25ページの第5表から作成。 —98— ネパールのカースト制の形成についての一考察 第五表 マハデウ・スターン•パンチャヤートの土地利用状況 区 分 面 積(ヘクタール) 水 田 400 畑 地 800 草 地 800 森 林 1,200 荒 蕪 地 400 そ の 他 200 合 計 3,800 (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年、 28ページから。 —99— 注 1) ネパールの農業形態および地域区分については、島田輝男「ネパールの農業構造についての一考察」「アジア研究 所紀要」第二号、亜細亜大学アジア研究所、ー九七五年を参照。 (2) Frederich h・ gaige-Regionalism and National Unity in Nepal・ University of Cal FORNIA PRESS-1975- R IP TABLE 3・ MAJOR LANGUAGES SPOKEN IN THE TARAL (3) IBID;R16. (4) 島田輝男、前掲書、二三八頁。 (5) 田辺繁子訳「マヌの法典」、岩波文庫、昭和二八年、三一五頁。 (6) Dor Bahadur bist>people of Nepal” Kathmandu-1967- pp・18—23・ (7) 飯島茂「ネパールの農業と土地制度」、アジア経済研究所、ー九六一年、二〇—ニー頁。 (8) Dor Bahadur Bist>or cn\ p・160・ (9) ビルタの交付とビルタ制の形成については、拙稿「ネパールの土地制度と土地改革」「アジア研究所紀要』第三号、 亜細亜大学アジア研究所、一九七六年を参照。 (10) 岩本裕「インド史」、修道社、昭和四六年、四二頁。 (11) 前掲書、四三頁。 (12) D・ u- Kosambl The culture and civilization of ancient India in historical outline” londoz1965・(コンサンビー著、山崎利男訳「インド古代史』、岩波書店、昭和四一年、ー〇六— ー 〇七頁。) (13) ヴェーダに関する諸文献については辻直四郎著「インド文明の曙—ヴェーダとウバーーシャッドー」、岩波新書、ー 九六七年を参照。 (14) 前掲書、九七頁。 (15) 前掲書、一四— 一五頁。 -100- ネパールのカースト制の形成についての一考察 (16) 岩本裕、前掲書、二八—二九頁。 (17) 中村元「インド古代史」上、中村元選集、第五巻、昭和三八年、五六三—五六四頁、五七〇頁。 (18) 前掲書、五七七頁。 (19) 田辺繁子、前掲訳書、三六—三七頁。 (20) 前掲書、ニニ頁。 (21) 中村元「インド思想史」、岩波全書、ー九七七年、七—九頁。 (22) コーサンビー、前掲書、二六〇頁。 (23) 岩本裕、前掲書、四八頁。 (24) 中村元、前掲「インド思想史」、一六七— 一六八頁。 (25) Daniel WRIGHT-History of Nepal-1972 (FIRST E9 1877)-KATHMANDU\972- pp・107— 109・ (26) 中村元 前掲「インド古代史」上、二五五—二五六頁。 (27) 前掲書、二七三頁。 (28) Rishkesh shah>h eroes and bufders of Nepal- Oxforo University press- 1970-p・ 35. (29) 玄奘「大唐西域記」、水谷直成訳、中国古典文学大系ニ二、平凡社、昭和四六年版、二四〇頁。 (30) RlSHlKESH shah>OR err・ PR 39I4P (31) LR Arian and T.RDHUNGYAL-A New History of Nepal-Kathmandu- 1975-r 50. (32) IBID: R 51・ (33) Daniel wrighhor cit・ pr 1851186・ (34) Luciano P etech-Mediaeval History of NEPArROME-1958 – pp・1811183・ (35) Daniel Wright・ op・ cm pr 1861187・ (36) D・ RRmGML Medieval NEPArpart l 1965″ Kathmandu- r 643・ (37) Luciano petech- op・ cm P181・ -101- (38) DMRegml or cm p, 642・ () 55: PR 647 —650• (如)S5: p. 64 () Mahesh Candra Regml Astudy in Nepali Economic HistorhNew Delhl 197LPP2— () d,rregml op. Cm pp・ 666—677・ () Luciano PETECH- op cm p 189, () Colin Rosser Social Mobility in the Newar Caste systemn Christoph von fure, Haimendorf\ Ed・ Caste and KN in NEPArINDIA and Ceylon London” 196pp 85r8G () Luciano petech\ or cm p 18 () dorregml op・ cm pp 676—67 () 東京農業大学ネパール農業調査隊「ネパール国マンダン地区農業調査報告」、海外技術協力事業団、昭和四十年、 二七頁 、 () Dor Bahadur BisTa” op cm p -102—