東証大引け 3日続伸、上げ幅は今年最大 33年ぶり3万2000円台回復

東証大引け 3日続伸、上げ幅は今年最大 33年ぶり3万2000円台回復
https://www.nikkei.com/article/DGXZASS0ISS16_V00C23A6000000/

 ※ 今日は、こんな所で…。

『5日の東京株式市場で日経平均株価は3日続伸し、前週末比693円21銭(2.20%)高の3万2217円43銭で終えた。上げ幅は今年最大。3万2000円台を回復するのは1990年7月以来およそ33年ぶりで、連日でバブル経済崩壊後の高値を付けた。前週末の米株急伸を受けて投資家のリスク選好が強まり、幅広い銘柄に買いが入った。

米債務上限問題を巡る懸念の払拭などを支援材料に、東京市場では海外勢とみられる株価指数先物への買いが朝方から断続的に入り、現物株にも波及した。日経平均は大引けにかけて上げ幅を拡大し、この日の高値で引けた。外国為替市場では1ドル=140円台まで円安・ドル高が進み、輸出採算が改善するとの見方から自動車や機械株などに買いが目立った。

ファストリなどの主力株が大きく上昇し、相場を押し上げた。東エレクやアドテストは朝方は売りが優勢だったが、相場の上昇とともに次第に下げ渋り、上げに転じた。

東証株価指数(TOPIX)は3日続伸し、終値は前週末比37.09ポイント(1.70%)高の2219.79だった。1990年8月以来、約33年ぶりの高値となる。

東証プライムの売買代金は概算で3兆8712億円。売買高は14億7600万株だった。東証プライムの値上がり銘柄数は1625と、全体の9割近くを占めた。値下がりは164銘柄、変わらずは45銘柄だった。

ファナックや信越化、安川電が上昇した。エーザイやアステラスも買われた。半面、楽天グループや東電HD、中部電が下落した。

〔日経QUICKニュース(NQN)〕』

米国とロシア:露・ウクライナ戦争における競争する代理戦略 (thestrategybridge.org)

米国とロシア:露・ウクライナ戦争における競争する代理戦略 (thestrategybridge.org)
https://milterm.com/archives/3245

『MILTERMでは、ウクライナの戦争が代理戦争(Proxy War)の要素を見出すことが出来るとの論稿(代理戦の一般理論の追求(Amos C. Fox)、ウクライナと代理戦争:軍事的思考における存在論的欠点の改善(Amos C. Fox) ナラティブ戦(Nika Aleksejeva))を紹介してきたところである。

ここで紹介するのは、The Strategy Bridgeに掲載されたAmos C. Fox氏の論稿である。

冒頭に「この論文の最終的な到達目標は、ロシアと米国の代理戦略(proxy strategies)が、消耗の戦争(war of attrition)の燃料として互いに影響し合っていることを、できる限り客観的に説明すること」とあるように、現状を理解する一助となる論文と考える。(軍治)』

『 米国とロシア:露・ウクライナ戦争における競争する代理戦略

The U.S. and Russia: Competing Proxy Strategies in the Russo-Ukrainian War

Amos C. Fox

June 1, 2023

thestrategybridge.org

エイモス・フォックス(Amos Fox)はレディング大学の博士候補生で、Wavell Roomのアソシエイト・エディター、Irregular Warfare Initiativeの開発担当副ディレクターである。記載された見解は筆者個人のものであり、米陸軍、国防総省、米国政府の見解を反映するものではない。

はじめに:INTRODUCTION

戦場からのほぼリアルタイムの報告、オープン・ソースの情報、そして戦争研究所(Institute for the Study of War)の報告書やマイケル・コフマン(Michael Kofman)とマーク・ガレオッティ(Mark Galeotti)の評価など多くの優れた分析のおかげで、露・ウクライナ戦争は、競争する代理戦争戦略を比較する貴重で情報量の多い機会を提供している。

代理戦略(proxy strategies)を検討する際に重要なことは、代理者とは、主体者(行為主体A)が自らの政治的・軍事的利益を増進するために、代理者として依拠する行為主体(行為主体B)のことである、ということである。

ウクライナでは、ロシアの代理戦略(proxy strategy)が一方に、米国の代理戦略(proxy strategy)がもう一方に存在する。

ウクライナが国家主権と領土保全のために闘っている一方で、米国はロシアを倒すためにウクライナの軍事作戦に依存している。

ロシアの敗北は、ウクライナが主権国家であり続けることを支援するだけでなく、米国の複数の利益に資するものである。

NATOとEUの存在意義と重要性を高めること、勢力均衡政治(balance-of-power politics)と一党独裁の権威主義を犠牲にして西欧の理想主義と民主主義を広め続けること、国際システムにおけるロシアの地位を戦略的に弱めることなどがその例である。

戦争につきものの悲しい皮肉だが、両戦略は互いに糧となり、紛争を消耗の戦争(war of attrition)へと変貌させた[1]。

この点は、ロシアの稚拙な戦術を非難したり、米国がウクライナ軍に機動中心の戦術(maneuver-centric tactics)を採用するよう煽ったりする中で見失われがちであるため、重要である[2]。

現実には、ロシアと米国の代理戦略(proxy strategies)が競争し、循環する論理を生み出している。代理者が行為主体に変わる者(in-lieu-of actor)であることを理解すれば、代理戦略(proxy strategy)の提供者は、自分たちのニーズ、目標、リソース、リスクの考慮、利用できる代理者のタイプ(またはその組み合わせ)に合わせて戦略を成形することができる。

したがって、米国の火力中心の代理戦略(firepower-centric proxy strategy)は、ロシアの人海戦術代理戦略(human wave proxy strategy)に寄与し、ロシアの人海戦術戦略(human wave strategy)は、米国の火力中心、技術拡散代理戦略(technology diffusion proxy strategy)に寄与し、それが長期的に循環することで、ウクライナ東部で展開されている破壊的な消耗の戦争(war of attrition)が生まれる。

このエッセイの到達目標は、どちらの戦略がより優れているか、より倫理的であるかについて、一方的に投票することではない。

さらに、この論文の到達目標は、感情や美徳のシグナルを注入することでもない。

この論文の目的は、代理戦略(proxy strategies)の客観的な比較を提供することであり、関係者のどちらかを擁護したり、反対したりすることではない。

この論文の最終的な到達目標は、ロシアと米国の代理戦略(proxy strategies)が、消耗の戦争(war of attrition)の燃料として互いに影響し合っていることを、できる限り客観的に説明することである。

ロシアの代理戦略:RUSSIAN PROXY STRATEGY

ロシア・ウクライナ戦争開戦時のロシアの代理戦略(proxy strategy)は、スピードと難解さに頼って、2014年2月にクリミアを支配下に置くという既成事実を作った[3]。

エフゲニー・プリゴジン(Yevgeny Prigozhin)のワグネル・グループとその他の契約代理者は、無名のロシア正規軍と一緒にクリミアを占領したのである[4]。

3月中旬には、露骨なロシアの代理者であるクリミアの新政府がウクライナからの独立を問う住民投票を実施し、ロシアから見てクリミア共和国となり、その後ロシア連邦に吸収された[5]。

2011年、外国の学者やジャーナリストとの夕食会で、ウラジーミル・プーチンと一緒にいるエフゲニー・プリゴジン(Yevgeny Prigozhin)(左)。(Misha Japaridze/Reuters)

2014年4月、クレムリンは同様の代理戦略(proxy strategy)に基づき、ウクライナのドネツク州とルハンスク州の大部分を非公式に併合した。

その到達目標は、ウクライナや国際社会が状況を理解する前に、ドネツクとルハンスクを支配下に置くことだった。クレムリンは、キーウが対抗できるよりも早く動き、緩慢な国際社会が対応する前に領土獲得に向けた軍備を固めようとしたのである[6]。

ドンバス戦役(campaign)の初期段階において、ドネツク人民軍(DPA)とルハンスク人民軍(LPA)は、搾取された代理者という定義に当てはまる。つまり、本来ならロシアの軍隊が果たすべき戦闘任務(combat duty)を、ロシア軍によって作られた複合部隊である[7]。さらに、クレムリンの代理戦略(proxy strategy)は、戦役(campaign)開始当初、ロシア軍を影に潜ませることを目指した。

しかし、欧米の友人、党派的なインターネット・ユーザー、心配性の地元市民などは、ソーシャル・メディア、携帯電話の信号鑑識(cell phone signal forensics)、戦域のインテリジェンス、監視、偵察、オープン・ソース情報などを駆使して、ロシアの隠れた手の正体を暴いた[8]。

確かに、2014年8月にロシアがルハンスク空港とイロヴァイスクに軍隊を派遣して間もなく、この紛争が単にウクライナ東部の分離主義者の一団がキーウに陰謀を企てた結果ではないことが明らかになった。

むしろ、この紛争は、キーウを弱体化させ、ウクライナの主権領土を奪おうとするロシアの外交政策的な策略であることは明白だった。

ロシアの代理戦略(proxy strategy)は、難解な介入を重視するものから、代理者を補助的に使用することで、戦闘による損失を軽減し、政策立案者に戦略的柔軟性(strategic flexibility)を提供するものへと発展した。

2014年8月以降、ロシアは紛争への関与をほとんど隠すことなく行った[9]。

その代わり、クレムリンはドネツク人民軍、ルハンスク人民軍、ワグネルを石臼として使い、自国の軍隊を保持力として使い、場合によってはとどめを刺す(coup de grace)ために使った[10]。

ドネツク人民軍、ルハンスク人民軍、ワグネルを、ガレオッティ(Galeotti)が言うところの「アウトソーシング・ファイター」(外注戦闘員)として使うことで、ロシアは用兵(warfighting)に伴うリスクの多くを捨てて、軍事的・政治的時間を作り出す[11]。

代理者が1人死傷するごとに、ロシアの正規兵の死傷者が1人減ることになる。このような交流のダイナミズムは、軍隊を維持しながらも、積極的で目標達成に向けた外交政策を推進するのに役立っている。

同時に、ドネツク・ルハンスク人民軍は、搾取される代理者から文化的代理者へと進化を遂げた。

文化的代理者とは、主体者(principal)との間に文化的な結びつきがあるため、エージェンシー・コストが少なく、自律性が高く、より困難な作戦を任せられる代理者である[12]。

2014年にドネツク空港、ルハンスク空港、イロヴァイスクで独自に闘いながら、惜しくも敗れたものの、クレムリンはドネツク・ルハンスク人民軍をウクライナのロシア軍にとって不動の都合の良い存在と見なすようになったと考えるのは無理もないだろう。

ドネツク人民軍とルハンスク人民軍が搾取される側から文化的な代理者へと進化したのは、完全に兄弟愛を認めたからではない。

この進化は、ドネツク人民軍とルハンスク人民軍を将来のウクライナ侵攻における罪深いパートナーとして位置づけるという、クレムリンの計算された動きを反映している[13]。
代理軍(proxy army)をロシア化することで、ドネツク州とルハンスク州の住民の将来の併合に向けた動きを加速させることができる。

さらに、ウクライナを非国民化する大規模な作戦が行われる際には、陸上戦力が重視されるため、ドネツク人民軍とルハンスク人民軍は独立して作戦できるよう信頼されなければならない。

2022年2月にロシアがウクライナへの侵攻を拡大した際、ワグネルとドネツク、ルハンスク両人民軍はそれぞれ別の役割を担った。

ワグネルはクレムリンとの契約上の結びつきから信頼できる代理者と見なされ、ロシア軍から独立して作戦する大きな自由が与えられていたが、それでもロシアの国防管理センター(National Defense Management Center :NToSU)の下にあった[14]。

ロシア参謀本部の統一野戦司令部は、グループの戦術的運用の承認権限を持つプリゴジン(Prigozhin)にワグネルの支援を要請しなければならない[15]。

このことが、ウクライナにおけるロシア軍の取り組みを悩ませる指揮統制、兵站支援、諸兵科連合(combined arms)の問題の多くに寄与している[16]。

さらに、ワグネルは民間企業であったため、ロシア軍とは異なる人材を採用する機会があった。

ワグネルは、既存の軍事作戦を強化し、あるいは補強するために、契約者を迅速に雇用し、迅速に前線に送り込んだ。

2022年の夏、ワグネルは、ロシア軍が年2回の徴兵制に依存している間に、主にロシアの刑務所から集められた4万人の契約社員を素早く引き抜いた[17]。

ワグネルは、戦いにおける消耗の有用性(attrition’s utility in warfare)についてのロシアの伝統的な見解に合致する。

ロシアの軍事戦略家アレクサンドル・スヴェーチン(Alexander Svechin)は、迅速かつ決定的な攻撃が不可能な場合、「地理的目標と二次作戦(geographical objectives and secondary operations)」が戦略上の必須事項になると書いている[18]。

より具体的には、次のように主張する:

敵の心臓を狙った短い破壊的な攻撃よりもはるかに大きな資源を費やすことになる消耗の戦略(strategy of attrition)の疲れる道は、一般に、戦争が一撃で終わらせられない場合にのみ選択されるものである。

消耗の戦略の作戦(operations of strategy of attrition)は、最終目標の達成に向けた直接的な段階というよりも、最終的に敵から抵抗の手段を奪う物質的優越(material superiority)の展開の段階である[19]。

2022年2月、ウクライナの分離主義者が支配する都市ドネツクの軍事動員地点の外に立つ、自称ドネツク人民共和国の過激派たち。(ロイター)

2022年2月下旬にロシアがキーウを迅速に陥落させ、ハリコフを制圧できなかったという文脈で考えると、マリウポリやバフムートといった場所でのワグネルの使用はより理にかなっている。

ロシアはキーウへの迅速かつ決定的な攻撃で紛争に勝つことができなかったため、クレムリンはウクライナに勝つための最善の戦略は、ウクライナを凌駕し、その人的資源を使い果たすことにあると考えたのだろう。

ワグネルはこのような戦略の転換を促し、ロシア軍がキーウやハリコフで初期に失敗した後、その重要性を高めたと思われる。

2022年2月までに、ドネツク人民軍とルハンスク人民軍はロシアにとって信頼できる文化的代理者(trusted cultural proxies)となり、ワグネルと同様の一連のタスクを与えられていた[20]。

ロシアは、ドンバスの大規模な消耗的な事件(attritional affairs)でキーウの人員と装備を消費することに主眼を置き、彼らを噛ませ役(bite-and-hold force)として利用した[21]。

ワグネルとドネツク・ルハンスク人民軍を消耗的な乱打撃(attritional battering rams)と作戦上の気晴らし(operational distractions)に使うことで、クレムリンはロシア軍がアゾフ海沿いの領土を獲得し、クリミアへの悲願の陸橋を作るための戦略的柔軟性を得た。

さらに、スヴェーチン(Svechin)の「消耗の仮定(postulate on attrition)」に従って、モスクワの代理者は、ロシアがアゾフ海沿岸の地位をさらに高めるための援軍を提供する。

同時に、モスクワの代理者は、キーウの軍隊との間で、人員と装備を消耗させるための噛みつき合戦(bite-and-hold battles)を闘う[22]。

さらに、高機動砲兵ロケット・システム(HIMARS)やその他の精密弾薬のような高性能の兵器(high-end weaponry)は高価で、数量も限られており、産業戦(industrial warfare)の要件にふさわしい方法で生産されているわけでもない[23]。

スヴェーチン(Svechin)の消耗に関する考え方(thoughts on attrition)を念頭に置くと、ロシアの軍事戦略は、ウクライナが米国や他の西側パートナーからの高性能の兵器(high-end weapons)に依存することで、備蓄を使い切るために、意図的にゆっくりとした戦闘を組み合わせたと主張しても過言ではない。

つまり、クレムリンの戦略は、多くの報道が示唆するほど無計画なものではなさそうなのだ[24]。

ウクライナは紛争開始以来、ワグネル・グループに3万人(うち戦死者9000人)もの死傷者を出している[25]。ワグネル・グループの最盛期は約5万人だったと推定されることを考えると、その損失は、途轍もないものである[26]。

ドネツク人民軍とルハンスク人民軍の損失に関する報告は、ワグネルのそれほど明確ではない。

オープン・ソースの情報では、全体像を把握することはできないし、必ずしも信頼できるものでもない。とはいえ、報告によると、ドネツク人民軍はおよそ2万人の兵士で紛争を開始した[27]。2022年11月までに、戦闘作戦(combat operations)によって19,540人の死傷者を出している[28]。

ロシアの代理軍(proxy army)がこれらの犠牲者を吸収している間、ロシアの正規軍(regular forces)はクリミアへの陸橋沿いの領地を固め、これらの領地に対する地元の挑戦をかわすことに重点を置く傾向があった[29]。

事実上、ロシアの代理戦略(proxy strategy)は、正規軍をある程度保護しつつ、代理軍を相殺するメカニズムとして利用する意図があるように思われる。

米国の代理戦略:U.S. PROXY STRATEGY

ウクライナの防衛は畏敬の念を抱かせるものであったが、その裏には米国の補完的な代理戦略(proxy strategy)がある。

この戦略の原動力は搾取ではないことに注意することが重要である。むしろ、米国のアプローチは、ウクライナを政治地図から排除しようとするロシアの不運な決断に対する現実的な戦略的対応である。

米国が追求する代理戦略(proxy strategy)は、米国とウクライナの間の技術拡散であり、取引型の代理者関係という考え方に立脚しているものである[30]。

国家が他国を代理者として頼るというのは、決して新しい発想ではない。例えば、学者のゲライント・ヒューズ(Geraint Hughes)は、米国が中東における米国の利益を支援するために、長い間イスラエルを利用してきたことなどを指摘している[31]。

学者であるデビッド・レイク(David Lake)は、国家間の代理作戦(state-to-state proxy operations)に関しても同様の主張をしている。

レイク(Lake)は、イラン・イラク戦争において、地域覇権を狙うイランと戦闘するために、米国がサダム・フセインとイラクを「行為主体に代わる者(in-lieu-o’ actor)」として信頼したことを強調し、この主張を支持している[32]。

イラクの場合、米国は間接的な統制によって、その関与を国民から隠蔽した[33]。

一方、ウクライナでは、米国は自らの関与を隠すためにほとんど何もしていない。

傍目には皮肉に見えるかもしれないが、国家主体(state actor)であれ非国家主体(non-state actor)であれ、あからさまな代理者雇用は従来の代理戦略(proxy strategy)に合致する。

ヒューズ(Hughes)は、「…特定のケースでは、スポンサー国家が必ずしも代理部隊(proxy forces)への援助を隠そうとしないことに留意すべきである」と指摘している[34]。
前述のように、国家間の主体者・代理者相互作用における関係は、一般に取引的なものである。

取引的な関係では、行為主体Aは後方支援的な役割を担い、自国の武力行使を通じて紛争に参加することはない[35]。

その代わり、行為主体Aは、行為主体Bと情報を共有し、行為主体Bの軍隊に装備と訓練を施し、行為主体Bの政府に財政支援を提供することで参加する[36]。

しかし、連合や同盟とは異なり、代理関係では、行為主体Aは戦争の物質的コストを含む戦術的リスクの大半を行為主体Bに移転する[37]。

ミンスクII交渉中のウラジーミル・プーチン、フランソワ・オランド、アンゲラ・メルケル、ペトロ・ポロシェンコ(AFP=時事)

ミンスクⅡ合意から2022年2月までの間、米国とその西側パートナーはウクライナで代理戦略(proxy strategy)を利用しなかった。

その代わりに、抑止力に重点を置き、安全保障支援と治安部隊の支援を行った。

ロシアがウクライナに侵攻したとき、米国の政策は抑止力から、ウクライナ軍が戦死した(fighting and dying)とはいえ、戦場でロシアを打ち負かすことに発展した[38]。

大統領令によるドローダウン権限※とは、緊急事態に対処するため、米国大統領が他国や国際機関に対して軍事的・財政的支援をリアルタイムで提供できるようにするためのツールである[39]。

当初、この権限は主に財政的な支援を行うために使用されたが、少数の意味のある軍備を伴うものであった[40]。

※ 対外援助法(FAA)第506条(a)(1)に基づき、軍事援助を行うために大統領権限でドローダウンを指示することは、危機的状況における米国の外交政策の貴重な手段である。

不測の事態に対応するため、国防総省が保有する防衛用品やサービスを外国や国際機関に迅速に提供することができる。

このような支援は、承認から数日、あるいは数時間以内に到着し始めることができる。(引用:https://www.state.gov/use-of-presidential-drawdown-authority-for-military-assistance-for-ukraine/#ftn1)

2022年3月中旬までに、大統領府のドローダウン権限は多くのインパクトのある兵器システムを搭載し、ウクライナとロシアの間の紛争を平定へと向かわせた。

このパッケージには、600基のスティンガー対空ミサイル・システム、2600基のジャベリン対戦車ロケット・システム、4000万発の小火器弾薬、100万発の砲弾、手榴弾、迫撃砲が含まれていた[41]。

紛争が進むにつれ、米国は致死性のある支援パッケージに拡大し、最終的には高機動砲兵ロケット・システム(HIMARS)、高対放射線ミサイル(HARM)アベンジャー防空システム、その他多数の高性能兵器を提供することになった[42]。

2022年夏には、ウクライナ軍がロシア軍に与えた壊滅的な数の死傷者が示すように、これらの援助パッケージはキーウがモスクワに逆転するのを助けることになった[43]。

調査結果:FINDINGS

2022年の初夏までに、ウクライナ軍はロシア軍に8万人以上の死傷者を出したが、これは6ヶ月間の戦闘(combat)としては枯れた数字である[44]。

その結果、ロシアは米国の技術拡散代理戦略(technology diffusion proxy strategy)を考慮し、一般的な戦略、特に代理戦略(proxy strategy)を適応させたと思われる。

ロシアの代理戦略(proxy strategy)は、ウクライナの火力の優位性を質量で相殺すること、つまり、米国や西側の軍需品の備蓄が長期的に耐えられる以上の兵士を問題に投入することにシフトしたようだ。

ワグネル・グループがロシアの刑務所から人材を採用することを承認したことは、代理戦略(proxy strategy)に関するクレムリンの変化を示す最も顕著な例であろう[45]。

ロシアの電撃戦(blitzkrieg)が失敗したことで、ロシア軍はウクライナとの人口と物資の非対称性を受け入れ、ウクライナの資源、政治的・国内的な闘う意志(will to fight)、そして米国をはじめとする西側諸国がキーウに兵器、訓練、資金の提供を継続する能力と意志を疲弊させることを志向する消耗の戦略(strategy of attrition)に移行しているのである[46]。

ワグネルの1万人の契約戦闘員を補強するために、エフゲニー・プリゴジン(Yevgeny Prigozhin)が約4万人の囚人を入隊させたことで、ロシア軍は約4個師団分の使い捨ての代理者兵力を追加することができた[47]。

このマンパワーの注入により、ロシアは、技術拡散という米国の代理戦略(proxy strategy)とウクライナ軍によるその活発な実行によって、ロシア軍と代理部隊(proxy forces)に与えた大きな犠牲を補うことができた。

結論:CONCLUSION

ロシアと米国の代理戦略(proxy strategies)の使用は、消耗の戦争(war of attrition)に拍車をかけるために互いに補完し合っている。

高価で制限のある米国の火力に対するロシアの人海戦術(human wave)の反応は、おそらくかなり皮肉で運命論的であるにもかかわらず、不合理ではない。

ロシアの人海戦術代理戦略(human wave proxy strategy)は、戦闘(combat)を使い捨ての代理者に振り向けることでロシア軍の通常兵力を保護すると同時に、通常兵力を解放してアゾフ海沿岸の領土と政治的利益を強化するものである[48]。

同時に、米国の代理戦略(proxy strategy)は、過小評価され、劣勢に立たされたウクライナ軍に対する論理的な対応である。

ウクライナ軍が米国の野戦砲、ミサイル、ロケット弾で遠距離から闘い、都市部の地形を利用してロシアの戦力を相殺することは、完全に理にかなっている。

しかし、この2つの代理戦略(proxy strategies)は、それぞれ論理的であるが、相互作用により、壊滅的な消耗の戦争(war of attrition)を引き起こし、兵器の備蓄を枯渇させ、多数の死傷者を生み出している。

ノート

[1] Seth Jones, Riley McCabe, and Alexander Palmer, ‘Ukrainian Innovation in a War of Attrition,’ Center for Strategic and International Studies, 27 February 2023, accessed 30 March 2023, available at: https://www.csis.org/analysis/ukrainian-innovation-war-attrition.

[2] Peter Dickinson, ‘2022 Review: Why Has Vladimir Putin’s Ukraine Invasion Gone Badly Wrong?”, Atlantic Council, 19 December 2022, accessed 29 March 2023, available at: https://www.atlanticcouncil.org/blogs/ukrainealert/2022-review-why-has-vladimir-putins-ukraine-invasion-gone-so-badly-wrong/ ; Natasha Bertrand, Alex Marquardt, and Katie Bo Lillis, ‘The US and Its Allies Want Ukraine to Change its Battlefield Tactics in the Spring,’ CNN, 24 January 2023, accessed 29 March 2023, available at: https://www.cnn.com/2023/01/24/politics/ukraine-shift-tactics-bakhmut/index.html.

[3] Orlando Figes, The Story of Russia (New York: Metropolitan Books, 2022), 290-291.

[4] Candace Rondeaux, ‘Decoding the Wagner Group: Analyzing the Role of Private Military Security Contractors in Russian Proxy Warfare,’ New America, 5 November 2019, accessed 18 April 2023, available at: http://www.newamerica.org/international-security/reports/decoding-wagner-group-analyzing-role-private-military-securitycontractors-russian-proxy-warfare/.

[5] Figes, The Story of Russia, 291-292.

[6] Altman, ‘By Fait Accompli, Not Coercion,’ 884.

[7] Amos Fox, “On Proxy War: A Multipurpose Tool for a Multipolar World,” Journal of Military Studies, Forthcoming: 10.

[8] Sean Case, ‘Putin’s Undeclared War: Summer 2014 ? Russian Artillery Strikes Against Ukraine,’ Bellingcat, 21 December 2016, accessed 20 March 2023, available at: https://www.bellingcat.com/news/uk-and-europe/2016/12/21/russian-artillery-strikes-against-ukraine/.

[9] Victoria Butenko, Laura Smith-Spark, and Diana Magnay, ‘US Official Says 1,000 Russian Troops Have Entered Ukraine,’ CNN, 29 August 2014, accessed 30 March 2023, available at: https://www.cnn.com/2014/08/28/world/europe/ukraine-crisis/index.html

[10] Mark Galeotti, Putin’s Wars: From Chechnya to Ukraine (New York: Osprey Publishing, 2022), 316-318.

[11] Galeotti, Putin’s Wars, 316;Hughes, ‘Syria and the Perils of Proxy War,’ 523.

[12] Amos Fox, “On Proxy War,” Journal of Military Studies, (Forthcoming): 13-14.

[13] DPR is the Donetsk People’s Republic, which is the name given to the Russian controlled portion of Donetsk Oblast. LPR is the Luhansk People’s Republic, which is the name given to the Russian controlled portion of Luhansk oblast.

[14] Mark Galeotti, Pavel Baev, and Graeme Herd, ‘Militaries, Mercenaries, Militias, Morale, and the Ukraine War,’ George C. Marshall Center for Security Studies, November 2022, accessed 18 March 2023, available at: https://www.marshallcenter.org/en/publications/clock-tower-security-series/strategic-competition-seminar-series-fy23/militaries-mercenaries-militias-morale-and-ukraine-war.

[15] Galeotti, Baev, and Herd ‘Militaries, Mercenaries, Mercenaries, and Morale and the Ukraine War’.

[16] Galeotti, Baev, and Herd, ‘Militaries, Mercenaries, Militias, Morale, and the Ukraine War.’

[17] Mike Eckel, ‘Russia Proposes Major Military Reorganization, Conscription Changes, Increases Troop Numbers,’ Radio Free Europe/Radio Liberty, 23 December 2022, accessed 30 March 2023, https://www.rferl.org/a/russia-military-reorganization-expansion/32190811.html.

[18] Alexander Svechin, Strategy (Minneapolis, MN. East View Information Services, 1991), 246.

[19] Svechin, Strategy, 247.

[20] Kateryna Stepanenko and Karolina Hird, Russian Offensive Campaign Assessment, May 18, (Washington, DC: Institute for the Study of War, 2022).

[21] Thomas Gibbons-Neff, Marc Santora, and Natalia Yermak, ‘Tens of Thousands of Civilians Are Now Largely Stranded in the Middle of One of the War’s Deadliest Battles,’ New York Times, 16 June 2022, accessed 30 March 2023, available at: https://www.nytimes.com/2022/06/16/world/europe/sievierodonetsk-ukraine-civilians-stranded.html.

[22] Andrew Meldrum, ‘Battle Rages in Ukraine Town; Russia Shakes Up its Military,’ Associated Press, 12 January 2023, accessed 20 March 2023, available at: https://apnews.com/article/russia-ukraine-war-donetsk-9cc363adc31419311cadb3c5ed8e0601 ; Paul Niland, ‘Putin’s Mariupol Massacre is One of the 21st Century’s Worst Crimes,’ Atlantic Council, 24 May 2022, accessed 20 March 2023, https://www.atlanticcouncil.org/blogs/ukrainealert/putins-mariupol-massacre-is-one-the-worst-war-crimes-of-the-21st-century/.

[23] Alex Vershinin, ‘The Return of Industrial Warfare,’ RUSI, 17 June 2022, accessed 20 March 2023, available at: https://www.rusi.org/explore-our-research/publications/commentary/return-industrial-warfare.

[24] Peter Dickinson, ‘2022 Review: Why Has Vladimir Putin’s Ukraine Invasion Gone So Badly Wrong?,’ Atlantic Council, 19 December 2022, accessed 17 April 2023, available at: https://www.atlanticcouncil.org/blogs/ukrainealert/2022-review-why-has-vladimir-putins-ukraine-invasion-gone-so-badly-wrong/.

[25] John Kirby, ‘Press Briefing by Press Secretary Karine Jean-Pierre and NSC Coordinator for Strategic Communications John Kirby,’ White Press Briefing, 16 February 2023, accessed 19 April 2023, https://www.whitehouse.gov/briefing-room/press-briefings/2023/02/17/press-briefing-by-press-secretary-karine-jean-pierre-and-nsc-coordinator-for-strategic-communications-john-kirby-9/.

[26] Andrew Kramer and Antoly Kurmanaev, ‘Ukraine Claims Bahkmut Battle is Wagner’s ‘Last Stand’,’ New York Times, 7 March 2023, accessed 19 April 2023, available at: https://www.nytimes.com/2023/03/07/world/europe/bakhmut-ukraine-russia-wagner.html.

[27] David Axe, ‘The Donetsk Separatist Army Went to War in Ukraine with 20,000 Men. Statistically, Almost Every Single One of Them Was Killed or Wounded,’ Forbes, 18 November 2022, accessed 19 April 2023, https://www.forbes.com/sites/davidaxe/2022/11/18/the-donetsk-separatist-army-went-to-war-in-ukraine-with-20000-men-statistically-almost-every-single-one-was-killed-or-wounded/?sh=497acf411c09.

[28] Axe, ‘The Donetsk Separatist Army Went to War in Ukraine,’.

[29] Max Seddon and Christopher Miller, ‘Crimean Bridge Explosion Leaves Russian Supply Lines Exposed,’ Financial Times, 9 October 2022, accessed 19 April 2023, available at: https://www.ft.com/content/453d8aff-b8f2-42a3-919b-10a327475dfb.

[30] Amos Fox, ‘Ukraine and Proxy War: Improving Ontological Shortcomings in Military Thinking,’ Association of the United States Army, Landpower Paper 148 (August 2022): 3-4.

[31] Geraint Hughes, My Enemy’s Enemy: Proxy Warfare in International Politics (Brighton, England: Sussex University Press, 2014), 13-14.

[32] David Lake, ‘Iraq, 2003-2011: Principal Failure,’ in Eli Berman and David Lake, ed., Proxy Wars: Suppressing Violence Through Local Agents (Ithaca, NY: Cornell University Press, 2019), 240.

[33] Lake, ‘Iraq, 2003-2011,’ in Berman and Lake, ed., Proxy Wars, 240.

[34] Hughes, My Enemy’s Enemy, 5.

[35] Fox, “On Proxy War,” 11.

[36] Fox, “Ukraine and Proxy War,” 11.

[37] Fox, “On Proxy War,” 3-4.

[38] ‘Fact Sheet, US Security Cooperation with Ukraine,’ US Department of State, 4 April 2023, accessed 19 April 2023, available at: https://www.state.gov/u-s-security-cooperation-with-ukraine/.

[39] ‘Fact Sheet, US Security Cooperation with Ukraine,’ US Department of State.

[40] Fact Sheet on US Security Assistance to Ukraine as of 21 April 2022,’ US Defense Department, 22 April 2022, accessed 20 March 2023, available at: https://www.defense.gov/News/Releases/Release/Article/3007664/fact-sheet-on-us-security-assistance-for-ukraine-roll-up-as-of-april-21-2022/.

[41] ‘Fact Sheet on US Security Assistance to Ukraine.’

[42] ‘Fact Sheet, US Security Cooperation with Ukraine.’

[43] Arabia, Bowen, and Welt, ‘US Security Assistance to Ukraine.’

[44] Ellen Mitchell, ‘Russian has Seen 70,000 to 80,000 Casualties in Attack on Ukraine, Pentagon Says,’ The Hill, 8 August 2022, accessed 20 March 2023, available at: https://thehill.com/policy/defense/3593041-russia-has-seen-70000-to-80000-casualties-in-attack-on-ukraine-pentagon-says/ ; Jim Garamone, ‘Russian Efforts to Raise Numbers of Troops ‘Unlikely to Succeed,’ US Official Says,’ DoD News, 29 August 2022, accessed 19 April 2023, available at: https://www.defense.gov/News/News-Stories/Article/Article/3143381/russian-efforts-to-raise-numbers-of-troops-unlikely-to-succeed-us-official-says/.

[45] ‘Russian Federation: UN Experts Alarmed by Recruitment of Prisoners by “Wagner Group”,’ United Nations Human Rights Office of the High Commissioner, 10 March 2023, accessed 20 March 2023, available at: https://www.ohchr.org/en/press-releases/2023/03/russian-federation-un-experts-alarmed-recruitment-prisoners-wagner-group

[46] Eugene Rumer, ‘Putin’s War Against Ukraine: The End of the Beginning,’ Carnegie Endowment for International Peace, 17 February 2023, accessed 19 April 2023, available at: https://carnegieendowment.org/2023/02/17/putin-s-war-against-ukraine-end-of-beginning-pub-89071.

[47] ‘Brutality of Russia’s Wagner Gives it a Lead in Ukraine War,’ Associated Press, 27 January 2023, accessed 30 March 2023, available at: https://apnews.com/article/russia-ukraine-wagner-group-yevgeny-prigozhin-803da2e3ceda5dace7622cac611087fc

[48] Olivia Yanchik, ‘Human Wave Tactics are Demoralizing the Russian Army in Ukraine,’ Atlantic Council, 8 April 2023, accessed 19 April 2023, available at: https://www.atlanticcouncil.org/blogs/ukrainealert/human-wave-tactics-are-demoralizing-the-russian-army-in-ukraine/.

カテゴリー
国際情勢、用兵思想 』

ロシア海軍太平洋艦隊は2023年6月5日~20日まで日本海とオホーツク海で大規模演習を実施する

ロシア海軍太平洋艦隊は2023年6月5日~20日まで日本海とオホーツク海で大規模演習を実施する | ロシア海軍情報供給部
http://rybachii.blog84.fc2.com/blog-entry-8217.html

『ロシア海軍太平洋艦隊は2023年6月5日~20日まで日本海とオホーツク海で大規模演習を実施する

2023/06/05 12:42.05 カテゴリ:ロシア太平洋艦隊(2021年-) 

『インテルファクス軍事ニュース出張所』より
2023年6月5日配信

【太平洋艦隊は日本海とオホーツク海で大規模演習を開始した】
モスクワ、6月5日、インテルファクス

太平洋艦隊の60隻以上の艦船、1万1000人以上の軍人は、6月5日から20日まで日本海及びオホーツク海で実際のミサイル及び砲射撃を伴う演習を行なう。
艦隊広報サービスは月曜日に発表した。

「太平洋艦隊のグループ戦力演習には、60隻以上の戦闘艦と艦隊の支援船、約35機の海上航空隊の飛行装置(航空機・ヘリコプター)、沿岸部隊、1万1000人以上の軍人が関与します」
声明では、こう述べられた。

「現在、艦隊の部隊は指定海域へ展開しており、演習計画の下で任務への実際の取り組みへ着手しています」
艦隊広報サービスは述べた。

太平洋艦隊によると、演習中、軍は仮想敵潜水艦を捜索・追跡し、実際のミサイル及び砲射撃による水上及び空中の目標に対する戦闘訓練演習を行なう。

更に、演習中、戦術艦グループは海上航空隊と連携し「艦船支隊の組織的な対空防衛、そして更に海上での組織的な物資-装備供給の問題へ取り組みます」と伝えられた。

広報サービスによると、太平洋艦隊は2023年の計画に沿って、6月5日から6月20日まで、艦隊司令官ヴィクトール・リーナ大将の指揮下で日本海及びオホーツク海での大規模演習を開始した。

2023年5月末、ロシア太平洋艦隊の主力水上艦がウラジオストクから出航しました。
[ロシア海軍太平洋艦隊の主力水上艦はアジア太平洋地域で演習を実施する]
これらの艦も今回の演習へ参加するようです。
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米首都上空の制限区域に軽飛行機侵入 戦闘機が緊急発進

米首都上空の制限区域に軽飛行機侵入 戦闘機が緊急発進
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB051BZ0V00C23A6000000/?type=my#AAAUAgAAMA

『【ワシントン=共同】米国とカナダの防衛組織、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)は4日、首都ワシントン上空の飛行制限区域に軽飛行機が侵入したため、F16戦闘機を緊急発進(スクランブル)させた。軽飛行機は南部バージニア州の山岳地帯に墜落した。ニューヨーク・タイムズ紙電子版が報じた。当局が首都上空の飛行理由や墜落の経緯を調べている。

軽飛行機の所有会社の経営者は同紙の取材に、経営者の娘や孫、操縦士ら計4人が搭乗していたと明らかにした。飛行中に交信を絶っており、機内の気圧調整ができなくなって搭乗者全員が意識を失った可能性もあるとの見方を示した。

当局は軽飛行機が墜落するまで連絡を取ろうと試みたが、応答はなかったという。戦闘機は撃墜などの措置を取らなかった。

軽飛行機は南部テネシー州の空港を出発し、東部ニューヨーク州に向かっていたが、Uターンしてバージニア州方向に飛行した。戦闘機が出動した際、音速を超えた機体から出る大音響が首都周辺に響いた。』

中国国防相、台湾統一「武力行使の放棄は約束しない」

中国国防相、台湾統一「武力行使の放棄は約束しない」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM023N70S3A600C2000000/

『【北京=田島如生、シンガポール=中村亮】中国の李尚福国務委員兼国防相は4日、シンガポールでのアジア安全保障会議(シャングリラ会合)で演説した。台湾について「平和的統一のため最大の努力をするが、武力行使の放棄は約束しない」と述べた。

「台湾は核心的利益だ。中国は必ず統一しなければならない」と強調した。「中国から分裂させようとする者が出てくれば中国軍は少しもちゅうちょせず、いかなる相手も恐れず、どん…

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『「中国から分裂させようとする者が出てくれば中国軍は少しもちゅうちょせず、いかなる相手も恐れず、どんな代償を払ってでも国の主権と領土の一体性を守り抜く」と語った。

米国を念頭に「外部勢力が台湾を利用して中国をけん制し、内政に干渉している。これが台湾海峡の緊張の根本的な原因だ」とも話した。

米中両国については「激しい衝突や対立に発展すれば世界にとって耐えがたい苦痛になる」と警告したうえで、米国との対話に関し「中国はオープンだが、相互の尊重に基づくべきだ」と強調した。

同会合で米国が打診してきた米中国防相会談は中国が拒否した。米国は李氏を2018年から制裁対象に指定しており、中国側は会談の条件として制裁解除を求めてきた。李氏の発言は改めて解除を促す狙いもあったとみられる。

李氏は「中国の新しい安保イニシアチブ」をテーマに演説した。アジア地域を不安定にする要因として米国のインド太平洋戦略や北大西洋条約機構(NATO)のアジアへの関与強化を挙げた。中国が国際秩序づくりを主導することに意欲を示す場面もあった。

米国との対立は鮮明だ。オースティン米国防長官は3日の演説で「全世界が台湾海峡の平和と安定の維持に利害を持つ」と明言した。台湾有事は「壊滅的だ」と指摘。「いま(米国の)抑止力は強固であり、そのような状況を維持することが我々の役割だ」と述べ、米軍の能力向上で中国への抑止力を高める立場を明確にした。

米中の国防当局は対話が細ったままだが、外交ルートで関係改善を探る。米国務省は3日、クリテンブリンク国務次官補(東アジア・太平洋担当)が4?10日に中国とニュージーランドを訪問すると発表した。

中国の首都・北京には米国家安全保障会議(NSC)のベラン中国・台湾担当上級部長も同行し、意思疎通を維持するため中国当局者と協議する。2月に延期したブリンケン国務長官の訪中を調整する可能性がある。

【関連記事】

・米中国防相会談見送り 中国が拒否、衝突リスク拭えず
・米軍「中国艦船が140メートルまで接近」 台湾海峡で
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台湾海峡で軍艦接近 中国「アメリカとカナダが挑発」

台湾海峡で軍艦接近 中国「アメリカとカナダが挑発」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b463c4f6965839fb0f88c41db54b837f811383f7

『台湾海峡を通過していたアメリカの軍艦に中国の軍艦が接近したとされる問題で、中国側は「アメリカとカナダが公然と挑発した」と反論しました。

アメリカのインド太平洋軍は3日、中国の軍艦がアメリカ海軍のミサイル駆逐艦「チャンフーン」におよそ140メートルの距離まで接近したと発表しました。

「チャンフーン」がカナダ海軍のフリゲート艦とともに台湾海峡を通過していたところ、船首の前を中国の軍艦が2回横切ったとし、「国際水域で安全に航行するという海上のルールに違反している」と中国を批判しました。

これに対し、カナダにある中国大使館の報道官はカナダ・メディアに向けた声明で「アメリカとカナダの軍艦が公然と挑発した」と反論。「中国の海軍と空軍が合法的にアメリカとカナダの軍艦を追跡し、警戒した」と主張しました。

4日まで開かれているアジア安全保障会議で台湾問題が焦点のひとつとなる中、台湾海峡で米中の緊張が続いています。』

米中軍艦が接近した映像を放映 後続のカナダ軍艦から撮影

米中軍艦が接近した映像を放映 後続のカナダ軍艦から撮影
https://news.yahoo.co.jp/articles/13c7afc0c23c0d6ae48afc67d2e945f04a05af6a

1『【ワシントン共同】カナダのテレビ局「グローバルニュース」は4日までに、台湾海峡を通過していた米海軍のミサイル駆逐艦チャンフーンに中国軍艦が接近した時の映像を放映した。チャンフーンの後ろを航行していたカナダ海軍のフリゲート艦モントリオールから、乗船していた記者が撮影した。

ロシアが核攻撃に踏み切ったらアメリカはどこに報復するか? 米政権内で行われていた机上演習の衝撃的な中身

 映像は、チャンフーンの前方を左から右に横切る中国軍艦の姿を捉えていた。同テレビによると、チャンフーンは衝突を避けるため速度を落とし、進行方向をわずかに変えていたという。

 米インド太平洋軍によると、チャンフーンが現地時間3日、台湾海峡を南から北に通過していた際、中国軍艦が約140mの距離まで接近した。』

ロシア、ウクライナの大規模攻撃を阻止 兵士250人殺害=国防省

ロシア、ウクライナの大規模攻撃を阻止 兵士250人殺害=国防省
https://news.yahoo.co.jp/articles/e330b942f07996808a37d11a980c4539ae27f28c

『[モスクワ 5日 ロイター] – ロシア国防省は5日未明、ウクライナのドネツク州で同国による大規模な攻撃を阻止し、数百人の親ウクライナ部隊を殺害したと発表した。
同省はウクライナが4日に6つの機械化部隊と2つの戦車部隊で攻勢を開始したと指摘。「敵は4日朝、南ドネツク方面の前線5カ所で大規模な攻撃を開始した」と述べた。

ロイターは発表の真偽を確認できていない。現時点でウクライナ側はコメントしていない。

この攻撃がウクライナによる領土奪還に向けた大規模な反転攻勢の開始を意味するかどうかは不明。

ロシア国防省は「敵は前線で最も脆弱と判断した区域でわれわれの防衛突破を目指したが、任務を果たせず成功しなかった」と述べた。

ウクライナ軍250人を殺害したほか、16両の戦車や歩兵戦闘車、21両の装甲戦闘車を破壊したとしている。

攻撃を受けた地域にウクライナ侵攻の総司令官を務めるゲラシモフ参謀総長がいたことも明らかにした。

ロシア軍が通信アプリ「テレグラム」に投稿した動画では、複数の軍事車両が空から攻撃を受ける様子が確認できる。

ウクライナのレズニコフ国防相は4日のツイッターへの投稿で英国のロックバンド「デペッシュ・モード」の1990年の曲「エンジョイ・ザ・サイレンス」の歌詞を引用して「言葉は極めて不必要。害を及ぼすだけ」と投稿したが、真意は明らかではない。

ウクライナのゼレンスキー大統領は3日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)とのインタビューで反転攻勢を開始する準備が整ったと述べていた。

ウクライナの反攻計画は詳細が謎に包まれている。ロシアの首都モスクワでは先月、大規模なドローン(無人機)攻撃があり、ロシア側はウクライナによるテロ攻撃と主張。ウクライナと国境を接するロシア西部ベルゴロド州でも親ウクライナの戦闘員による越境攻撃が繰り返し行われている。

ロシア軍は一方、5月初旬以降、首都キーウ(キエフ)をはじめとするウクライナ国内の標的に対するドローンやミサイルの攻撃を激化させている。』

ロシア、ウクライナの大規模攻撃を阻止 兵士250人殺害=国防省

ロシア、ウクライナの大規模攻撃を阻止 兵士250人殺害=国防省
https://news.yahoo.co.jp/articles/e330b942f07996808a37d11a980c4539ae27f28c

『[モスクワ 5日 ロイター] – ロシア国防省は5日未明、ウクライナのドネツク州で同国による大規模な攻撃を阻止し、数百人の親ウクライナ部隊を殺害したと発表した。
同省はウクライナが4日に6つの機械化部隊と2つの戦車部隊で攻勢を開始したと指摘。「敵は4日朝、南ドネツク方面の前線5カ所で大規模な攻撃を開始した」と述べた。

ロイターは発表の真偽を確認できていない。現時点でウクライナ側はコメントしていない。

この攻撃がウクライナによる領土奪還に向けた大規模な反転攻勢の開始を意味するかどうかは不明。

ロシア国防省は「敵は前線で最も脆弱と判断した区域でわれわれの防衛突破を目指したが、任務を果たせず成功しなかった」と述べた。

ウクライナ軍250人を殺害したほか、16両の戦車や歩兵戦闘車、21両の装甲戦闘車を破壊したとしている。

攻撃を受けた地域にウクライナ侵攻の総司令官を務めるゲラシモフ参謀総長がいたことも明らかにした。

ロシア軍が通信アプリ「テレグラム」に投稿した動画では、複数の軍事車両が空から攻撃を受ける様子が確認できる。

ウクライナのレズニコフ国防相は4日のツイッターへの投稿で英国のロックバンド「デペッシュ・モード」の1990年の曲「エンジョイ・ザ・サイレンス」の歌詞を引用して「言葉は極めて不必要。害を及ぼすだけ」と投稿したが、真意は明らかではない。

ウクライナのゼレンスキー大統領は3日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)とのインタビューで反転攻勢を開始する準備が整ったと述べていた。

ウクライナの反攻計画は詳細が謎に包まれている。ロシアの首都モスクワでは先月、大規模なドローン(無人機)攻撃があり、ロシア側はウクライナによるテロ攻撃と主張。ウクライナと国境を接するロシア西部ベルゴロド州でも親ウクライナの戦闘員による越境攻撃が繰り返し行われている。

ロシア軍は一方、5月初旬以降、首都キーウ(キエフ)をはじめとするウクライナ国内の標的に対するドローンやミサイルの攻撃を激化させている。』

“ウクライナ軍が大規模攻撃も撃退” ロシア国防省 未明に発表

“ウクライナ軍が大規模攻撃も撃退” ロシア国防省 未明に発表
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230605/k10014090021000.html

『2023年6月5日 12時22分

ロシア国防省は、ウクライナ軍が、ロシアの支配地域に向かって大規模な攻撃を仕掛けたものの撃退したと主張しました。ウクライナ側は、これに反応しておらず、今後の大規模な反転攻勢に向けたウクライナ軍の動向が引き続き焦点となっています。

ロシア国防省は5日未明、「敵は4日の朝、南ドネツク方面の戦線で大規模な攻撃を開始した。その目的は前線の最もぜい弱な区域で、われわれの守りを突破することだったが成功しなかった」と発表しました。

未明の発表は異例で、国防省の報道官は、多くのウクライナ軍兵士を殺害し、戦闘車両を破壊したと主張したほか、軍事侵攻の指揮を執る総司令官を務めるゲラシモフ参謀総長が当時前線の司令部にいたとしています。

発表に対して、これまでのところ、ウクライナ側から反応は出ていません。

ウクライナのゼレンスキー大統領は、近く始めるとしている大規模な反転攻勢について、「準備はできている」と述べていますが、具体的な時期などは明言していません。

ロシアでは、ウクライナとの国境地域で砲撃などが相次ぎ、民間の軍事会社ワグネルの代表が、ゲラシモフ参謀総長への批判を繰り返すなど統制の乱れも指摘されています。

こうした中で、今後の大規模な反転攻勢に向けたウクライナ軍の動向が引き続き焦点となっています。』

習近平政権の歴史政策

JIA
公益財団法人日本国際問題研究所
The Japan Institute of International Affairs
注記:本論考は日本国際問題研究所領土・歴史センター歴史系検討会(国際政治史検討会/東アジア史検討会)
委員の見解であり、日本国際問題研究所の見解を代表するものではありません。

習近平政権の歴史政策
https://www.jiia.or.jp/JIC/pdf/2-1.pdf

馬工程と四史
川島真
(東京大学)

2021年7月1日、中国共産党成立百周年を記念して習近平総書記が演説を行った1。この演説は習近平政
権が進めてきた「四史」の歴史政策の一つの結果であった。四史とは、中国共産党史、新中国史、改革開放
史、社会主義発展史を指している。

習近平政権は、これらの歴史を国家史よりもむしろ強調し、共産党こそ
が中国を統治でき、社会主義こそが中国統治にふさわしい理念であることを歴史的に正当化しようとし、教
育現場にもこの四史を位置付けようとしている。

また、この四史には清朝や中華民国、また国民党の事績な
どは多く示されず、自ずから抗日戦争などにおいても共産党が主導者として描かれている。

これは台湾に対
する統一戦線において国民党が主たる協力相手ではなくなったこととも呼応している。

また、このような歴史政策を進めた一つの主体についても考察を加える。

このような政策は一面で習近平
個人の資質に由来する2。習近平は福建省、浙江省、上海市などのトップを務めたが、その時代から歴史へ
の関心を示し、少なくとも浙江省の時代には党史政策を進めるようになっている。他面で、胡錦濤期から中
国共産党宣伝部内部でも、党史が国家史に対して劣勢となってきていることは意識されており、党史の称揚
がすでに課題として認識されていた。それは、馬工程などとして具体化されていた。

この馬工程は、習近平
の時代になって、四史政策を進める一つの主体となった。本稿では、この馬工程についても考察を加える。

本稿では、習近平政権が進めている歴史政策について、特に四史をめぐる政策、およびその意図について
考察し、7月1日の中国共産党百周年演説の意義を再考するものである3。

このことは、今後の中国の採用
する日本への歴史政策にも影響することになろう。

1.四史の集大成としての習近平百周年演説

2021年7月1日、中国共産党の習近平総書記は中国共産党百周年演説を行った。習近平は国家目標とし
て「二つの百年」を標榜していたが、その一つがこの中国共産党の百周年であった。ここでは、「全面小康
社会」の実現が目標とされていた。実際、習近平はこの目標が達成されたことを演説内でも強調している。
この目標は、昨今進められている共同富裕政策の前提となっており、中国の国家目標としては重要なもので
あった。内外のメディアでは、人事関連、また政治的に敏感な内容が避けられたとしてこの演説を重要視し
ない風潮があったが、筆者はある点においてこの演説が習近平政権にとって重要なものであったと理解して
いる。
その重要な点は、この演説の大部分が歴史の叙述に割かれていることに現れている。つまり、この演説こ
そが中国共産党の、また習近平政権の新たな歴史政策を示すものであり、その演説に新たな歴史観が示され
ている、ということである。その新たな歴史観は、習近平政権が唱えてきた「四史」とされるものであり、
それは中国共産党史、新中国史、改革開放史、社会主義発展史を指す。このうち最も重要な位置付けを与え
られているのは中国共産党史であり、それは1921年に始まる。新中国史は1949年に始まる中華人民共和国
の歴史のことであり、改革開放史は1978年の第十一期三中全会に始まる。そして、社会主義発展史は、卜
マスモア(Thomas More:1478 -1535)の『ユートピア(Utopia))の刊行年である1516年に始まるとさ
1
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集

習近平政権の歴史政策
れている4。これら四史は、それぞれが過去のものというよりも、過去から現在、そして未来へと続くもの
として想定されている。例えば改革開放も、習近平政権下で継続されている、という理解の下に歴史が描か
れているのである。

この四史をめぐる政策を推進した背景には、習近平の進めた「党の領導の強化」という政策があろう。


限を国家から中国共産党に集め、あらゆる分野、領域で党の指導性を徹底、強化するというのがその政策だ。

この政策と四史との関わりは、二点ある。

第一に、歴史叙述において、とりわけ、特に近現代史において、
国家史よりも共産党史を主軸として歴史叙述を再構成することになる。これは後述するように、大学の歴史
教育などにも影響している。

第二に、これら四史により、共産党しか中国を統治できないこと、社会主義が
中国に最もふさわしい統治理念であることを説明するということにある。つまり、この四史自体が習近平政
権の進める「党の領導」強化の正当性を与えるものになっているということだ。

それでは、具体的にどのような内容であったのか。

第一に、冒頭で五千年以上にわたるとされる中華民族
の過去に言及し、その後1840年のアヘン戦争に言及する。それにより、中国が半封建半植民地社会に陥っ
たとする。

これは伝統的革命史観を継承したものだと言える。

その後、太平天国運動、戊戌変法、義和団運動、
辛亥革命などが挙げられ、「各種の救国方案が順番に提起されたがいずれも失敗に終わった」などとされる。

そのために、「中国は国家の滅亡を救う運動を牽引する新しい思想や、革命の力量を凝集していく新たな組
織が、とりわけ必要とされ」、その必要性もあって1921年に中国共産党が登場したということになっている。

だが、この中国共産党の成立は、マルクス・レーニン主義との関係性、すなわちマルクス・レーニン主義と
「中国人民と中華民族の偉大なる覚醒」との結合によって導かれたのであり、「中国共産党が生まれたことは
天地開闘とも言える事態」などとその意義が強調されている。

ここでは、かつての共産党の歴史叙述で現代
史の起点とされた五四運動への言及はない。

また、辛亥革命前後の清王朝や中華民国による改革などには言
及が見られない。あくまでも中国共産党が歴史の主体とされている。

第二に、1921年の中国共産党の成立以後は、共産党が新民主主義革命を成し遂げ相次ぐ戦争を行ってい
く過程として描かれている。

それは、北伐戦争、土地革命戦争、抗日戦争、解放戦争などが相次いだとされ、
抗日戦争はその一部だとされている。

この一連の戦争の過程で、中国共産党が人民を率い、帝国主義、封建
主義、官僚資本主義を打破し、中国の半封建半植民地状態を終わらせるという大きな成果をあげたと言う。

その結果、数千年続いた封建制度が崩れ、また帝国主義にも勝利したのであり、それこそ中華民族の有史以
来最も広範で重大な社会変革だとし、それを成し遂げたのが中国共産党だと強調している。

また、ここで中
国共産党が勝利して中華人民共和国が成立したことの意義も強調している。

特に、中国共産党の勝利が、貧
しく立ち遅れ、人口が極めて多い東方の大国が社会主義社会へと飛躍していく大きな一歩であること、また
中華民族が偉大なる復興を遂げる上での根本的な政治的前提、基礎となったと、その意義を強調している。

これらの歴史叙述は、社会主義でなければ中国を救うことはできず、また社会主義でなければ中国を発展さ
せられず、そして中国共産党でなければ中国を導くことはできない、という論理がそこには見られる。

これ
ら一連の「戦争」の過程における国民党との協力には言及されず、外国との不平等条約や中国における条約
特権の撤廃についても共産党の功績だとされている。

第三に、改革開放の部分は重要である。改革開放については、「我々は新中国成立以来、党の歴史におい
て最も深遠な意義のある偉大なる転換を行」ったと位置付けられる。そして、それは「豊かさ」の実現とい
うよりも、「党が社会主義の初級段階にあるという基本路線を確立し、改革開放を強い意志の下に推進」し
たとするのである。

政策内容としては、「高度で集中的な計画経済体制から、活力に満ちた社会主義市場経
済体制へと、また閉鎖的、半閉鎖的な状態から全方位的で開放的な状態へという歴史的な転換を遂げ」たと
いうように、あくまでも社会主義の枠の中での改革であることが強調される。

無論、GDPが世界第二位になっ
たとか、中国社会を「総体的な小康」へと導いたことも成果としてあげられているが、それはあくまでも結
2
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集
習近平政権の歴史政策
果としてに過ぎない。

なお、習近平の四史における改革開放は、鄭小平時代という過去の一時期を意味する
ものではなく、習近平時代にも継続しているものとして描かれている。

習近平時代におけるそれは、五位一
体、四つの全面などを踏まえた上で5、「高質量の発展を推進し、科学技術の自立自強を推進」する時代だと
されている。

第四に、習近平自身の事績に関する部分である。ここでは、五位一体、四つの全面のほか、習近平が掲げ
た一連のスローガンが掲げられる。そこには、「四つの意識」、「四つの自信」、「二つの維護」などが含まれ
ていた。

これらは習近平が総書記として掲げてきた政策のエッセンスであり、「党の領導」を推進し、また
習近平が「党の核心」として位置付けられていることを強調するものであった6。

このように、中国共産党百周年演説の前段は、時系列に沿って、四史の内容を踏まえて中国共産党を中心
とする歴史が述べられていた。この部分はまさに四史政策の集大成とも言える部分であった。

この内容は、
例えば2021年10月9日の習近平による辛亥革命百十周年演説においても、また2021年11月12日の習近
平による歴史決議においても踏襲、補完されることになったのであった。

2.百周年演説と現在・将来の政策について

中国共産党百周年演説の前段は、時系列に沿って、四史の内容を踏まえて中国共産党を中心とする歴史が
述べられていた。

その後段には、この中国共産党百周年演説には、これから中国共産党が進めていくべき政
策についても述べられていた。それはこの百周年演説の主題でもあり、同時に四史を推進する歴史政策の持
つ意義でもある。

まず述べるべきは、中国共産党と国家、そして社会、あるいは中華民族全体が一致して、「偉大なる復興の夢」
を求めていこうとする姿勢である。

それは、「この百年来、我々がえてきた一切の成就は、中国共産党の人々、
中国人民、中華民族が団結して奮闘した結果である」というように歴史の叙述にも表れていた。

また、中国
共産党こそが中国を統治できるという点である。

これは、「中国事情をよく処理するに際しては中国共産党
が鍵となる。中華民族の近代以来180年以上の歴史、中国共産党成立以来の百年の歴史、中華人民共和国成
立以来の70年以上の歴史において、中国共産党がなければ新中国はなく、中華民族の偉大なる復興もなかっ
た」などとする部分にそれが表れている。

そして、中国共産党の領導、そして中国の特色ある社会主義こそ
が中国統治に適しており、その中国共産党の核心が習近平だとされる。

では、その中国共産党は何を代表する政党なのか。「中国共産党は、最も広大な人民の根本利益を始終代
表し、人民と喜怒哀楽を共にし、また生死を共にする存在だ」という。

これは中国共産党と人民とが一致し
ていることを強調するものだ。

そして、「中国共産党には全く自らの特殊な利益はなく、あらゆる利益団体
や権力団体、また特権階級の利益を代表するものではない」ともいう。

中国共産党が特権階級層となってい
るとの批判に対抗するように、「中国共産党と中国人民とを分割しようとする、また対立させようとするあ
らゆる企図は、全て決してその企みを達成できないだろう」とも述べられている。

これは中国共産党が人民
の代表としての性格を維持することをいかに重視しているかをうかがわせる点であり、またこの共産党百周
年を記念した習近平の言葉が、中国共産党が人民と一致していることを主張することを一つの目標としてい
ることを示していよう。

現在、および今後の政策の具体的な内容について述べた部分では、経済よりも政治、外交、軍事、そして香港・
マカオ、台湾問題などに記述が割かれている。

政治についてはすでに述べたが、外交についてはどのように
述べられたのだろうか。簡単に述べれば、これまでの基本方針を繰り返し述べているが、やはりそれでも述
べられていないことがある、ということだ。

例えば、「人類運命共同体の構築の推進を不断に進めなければ
ならない」であるとか、「和平、発展、協力、ウインウィンといった旗を掲げ、独立自主の外交政策を遂行
3
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集
習近平政権の歴史政策
し、和平発展の道を堅持し、新型国際関係の建設を遂行し、人類運命共同体の構築を推し進め、『一帯一路』
にて質の高い発展を共にうちたて、そうすることで中国の新たな発展を世界の新たなチャンスとして提供し
ていく」といったことが述べられている。

これらは習近平政権の対外政策の基本線である。

外交について極めて興味深いのは、従来、習近平政権が唱えていた新型大国関係については述べられてい
ない点だ7。

習近平政権は、バイデン政権に対して、オバマ政権期には存在していたと中国が認識している
新型大国関係の復活を求めた。

バイデン政権はそれに対して限定的にしか対応していないが、中国としては
もはや新型大国関係を特に大きく掲げようとはしていないようだ。

このほか外交の面では、国際社会から中国への批判への対応と思われる箇所が多々見られる。

「中華民族
の血液には他人を侵略したり、王や覇を唱えたりするような遺伝子はない」とか、「中国人民は他国の人民
を欺いたり、圧迫したり、奴隷にしたことはない。過去も、現在も、そしてこれからも」といったことだ。

これは、アメリカを念頭に「覇権主義や強権政治に反対」などとする部分にも見られる。
興味深いのは、「我々
は一切の有益で建設的で善意のある批評を受け入れる」としながらも、「教師節のような上から目線の説教
は決して受け入れない」とする点だ。これもアメリカや先進国を念頭に置いたものだと思われる。

次に香港、台湾問題について見ておこう。

まず、香港についてだが、中国は目下、国家全体を「偉大なる復興」
という一つの方向に向けるべく、一国二制度や自治区制度を変革して中国全体を一元化させようとしている。

つまり省市のある地域と特別行政区、民族自治区との段差、相違を埋めたり、小さくしたりする政策が推進
されていると言っていい。

だが、中国としては、一国二制度は堅持しているつもりでいる。このような姿勢は、
この百周年演説にも如実に現れ、「中央は香港、膜門特別行政区に対する全面的な管(理統)治権を実質化し、
また特別行政区の国家安全を維護する法律制度や執行メカニズムを実質化」するなどとしている。

中央政府
による「強権的」な政策は、「国家の安全」の名の下に正当化されているのである。

これは、新疆ウィグル
自治区においても同様だ。

台湾については、コロナ禍において中国人民解放軍の活動が活発になり、「台湾有事」の可能性が議論さ
れている。

だが、言葉の面での動向は異なる。

2019年1月に習近平が台湾統一に際しての武力行使の可能
性を示唆し、それまで落ち込んでいた蔡英文の支持率が上昇に転じて以降、習近平は言葉のトーンを穏当に
している。

それは2021年になっても変わらない。中国共産党百周年演説においても、統一に向けての一つ
の中国原則や92年コンセンサスなど一連の政策基礎について確認している。

92年コンセンサスに一つの中
国原則が含まれているはずであるが、昨今ではこの両者を並列する傾向が強い。

また、和平統一プロセス
を進める上で、「両岸の同胞を含むあらゆる中華の子女が、ともに和して助けあい、団結して前に向か」い、
台湾独立の野望を打ち破り、民族復興の美しい未来をともに創出する、ともしている。

これらは目新しい言
葉ではないが、改めて中華民族の偉大なる復興の夢、すなわち2049年にはアメリカに追いつき、台湾をも
解放するという時には、台湾人を含む中華民族がそれをともに実現し、ともに祝うことが想定されていると
いうことである。

だからこそ、中国としては台湾の人々へのハイブリッドな浸透政策を進め、台湾社会の側から中国との統一を望むように促すという政策が言葉の上では述べられることになろう。
台湾社会の対中感
情から見れば、このような浸透工作は容易ではない。

だが、長期的に見れば、こうした工作が一定の成果を
あげる可能性もあるし、逆にこの政策に効果が見られなければ、中国がより強硬な台湾政策を採用する可能
性もあろう8。

以上のように、中国共産党百周年演説には歴史を述べた部分と、習近平政権の現在の政策、またこれから
の政策目標などを述べた部分がある。

後者については、政策を正当化し、これからの政策の意義について説
明する格好となっている。これらが習近平の言葉で語られ、記録された以上、党の大きな方針として位置づ
けられていくことになろうし、逆に修正、変更されれば、習近平政権にとってはダメージになっていく可能
性もある。

4
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集
習近平政権の歴史政策

3.「四史」政策の形成と軌跡一馬工程の役割とその周辺ー

以上、中国共産党百周年演説の内容について検討したが、特に歴史部分について、それが習近平政権の進
めてきた四史政策の集大成であったということはすでに指摘した。

ここでは、その四史の政策がどのように
展開されてきたのかということについて考察してみたい。

まず触れておくべきことは、習近平がその経歴において特に歴史に関心を示してきた政治家だということ
だ。

ここではその経緯を一瞥しておきたい9。

習近平は、1988年に福建省寧徳地区の党委員会の書記となっ
たが、ここで天安門事件を耳にし、思想政策として実施したのが、この地区での革命記念館の開設、また党
史・地方史研究の推進であった。

1990年、習近平は福州市党委員会の書記となり、6年間在任するが、この
期間に習近平の歴史政策は積極化した。革命歴史記念館を建設し、また林則徐や厳復に関心を示し、さらに
船政学堂を称賛したりもしたが、この時点では党史ではなく、まだ国家史に関心の重点があった。

1990年
代後半、習近平は福建省党委員会の副書記、省長へと出世するが、この時期にも習近平は海のシルクロード
や鄭和、鄭成功など、国家史に関心を見せている。

だが、2002年4月に福建省龍岩市(上杭県:当時)の
古田会議記念館を訪れていることは注目に値する。

ここは、1929年に開催された古田会議(中国共産党紅
軍第四軍第九次代表大会)の場所であった。

この会議は、陳毅が主宰し、毛沢東が政治報告を行ったことで
知られ、中国共産党史上、重要な場所である。

習近平の党史との関わりは、福建省時代にすでに見られ始め
ていた。

その後、習近平は浙江省、上海市で要職を歴任するが、浙江省では浙江省嘉興県(当時)の南湖を訪れている。

1921年の中国共産党第一回党大会において、その南湖の湖上の紅船で党の成立を宣言したとされる。

習近
平は復元された紅船を見学し、「紅船」精神の発揚を求めたという10。

上海に赴任した習近平は、1921年の
中国共産党第一回党大会および翌年に実施された第二回党大会跡、保存建築物兼歴史記念館などを訪れてい
る。これは、党史重視の姿勢を示すものと言えるだろう。

2007年秋、習近平は25年ぶりに中央政界に戻っ
たが、その後も共産党史への関心を継続的に示していた。

2010年の全国党史工作会議では、「実事求是を堅
持することはすなわち党の歴史を研究し、宣伝することだ」などと党史工作担当者に伝えている11〇

2012年に中国共産党総書記となってからも、習近平は引き続き党史を重視した。2014年には古田で全軍
政治工作会議を開催し、また2017年秋には政治局常務委員を連れて、上海の第一回党大会記念館、浙江省
の南湖革命記念館を訪問した。そこでは共産党の初心に立ち戻ることなどを提起した12。
この「初心」は歴
史をめぐる様々な発言で利用されることになる。

習近平の党史重視の姿勢は、単に政治的なパフォーマンスだけでなく、宣伝や教育の場において制度とし
て導入されていくことになった。そこでは中国共産党宣伝部理論局が一定の役割を果たしたことが想定され
る。

2016年12月7日、全国高校(大学、高校)政治思想工作会議が開催されたが13、そこでは社会主義核
心価値観を高等教育において教育内容として位置付けることが提起された。それは愛国主義を核心とする民
族精神と、改革刷新を核心とする時代精神、そして社会主義核心価値観を用いて党史教育を導き、教育道徳
建設を導き、また中華の優秀な伝統文化と革命文化、社会主義先進文化教育を強化する、ということを目指
したものだった。

そこで、「党史、国史、改革開放史、社会主義発展史教育を強化し、国家意識、法治意識、
社会責任意識、および民族団結進歩教育、国家安全教育、科学精神教育を強化する」ことが企図された。


こではすでに明確に四史の原型が現れているのである。

だが、四史の中心には「党史」があることには留意
を要する。歴史叙述としては、とりわけ中国近現代史について党史を中心に描くということであり、また中
華人民共和国史を党史のリズムで描きなおし、そして改革開放史のナラティブを鄭小平の手から習近平へと
移し、さらに社会主義の発展と党史をからめ、中国型の社会主義の形成史を描こうとするものであった14。

2019年11月3日には、上海を訪問した習近平が再び第一回党大会記念館を訪れ、「上海はこれらの豊富
5
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集
習近平政権の歴史政策
な“紅色資源”を主題とする教育を生きた教材とし、多くの党員、幹部たちを導いて、党史、新中国史、改
革開放史を深く学ばせ、供産党の)初心を後世に伝え、使命を担っていくべきだ」と述べた。

四史は、党
内教育の教材としても重視されるようになっていった。

2020年になると、教育部が「四史」を大学の必修政治科目の教材に組み込むための「専門(専題)会議」
を開催し、その教材が人民出版社から出版され、2021年春から全面的に使用されることになった15。

この
教材は、欧陽㈱ 李捷、曹普、顧海良らが作成することになっていた。彼らは、マルクス主義教育の徹底を
その任務とする「馬工程」のメンバーである16。

この馬工程は略称で、正式には「マルクス主義理論研究と
建設工程(馬克思主義理論研究和建設工程)」という17。

これは胡錦濤時代の2004年に発足したもので、マ
ルクス主義のイデオロギーに関する理論面での刷新を担うプロジェクトとして、多くの高等教育における教
材を作成してきた18。

そうした意味では、マルクス主義教育の普及、徹底は習近平政権になって始められた
というわけでもない。

胡錦濤政権の下では格差問題などが重視され、改革開放政策が推進されつつも、再び
社会主義の「保守」的な傾向が復活する状況もあった。それがこの馬工程を生み出したとも言えるが、習近
平もまた2005年という比較的早い時期に革命や社会主義、すなわち「保守」的な傾向を強調した政治家であっ
たとも言える。

中国共産党百周年の記念行事が2021年7月1日に迫る中、「四史」政策は具体的な社会運動として強く推
進されることになった。

2021年5月末、中共中央弁公庁「党史、新中国史、改革開放史、社会主義発展史
の宣伝教育を全社会において展開することに関する通知(関於在全社会開展党史、新中国史、改革開放史、
社会主義発展史宣伝教育的通知)」が発せられた19。

ここでは、「党史の知識を普及させ、党史学習を推進す
ることによって、群衆の中に深く入り、基層に深く入り、また人心に深く入ることで、広汎な人民群衆が中
国共産党の国家と民族に対する偉大なる貢献を、深く認識するのを引導し、また中国共産党が始終人民の初
心に沿う姿勢を変えないという宗旨を深く感じるように引導する」などとされた。

また、「広範な人民群衆、
特に青少年」を対象とする宣伝工作が進められることになった。

具体的には、読書活動、巡回宣伝活動、体
験学習、紅色旅行などといった様な活動案が提示されている。そこには革命先烈やその家族を顕彰したり、
国防教育活動を実施したりすること、さらには民衆同士で歌を歌うこと、なども含まれている。

すなわち、中国では2021年6月の間、四史の学習会が各地、各レベルで進み、2021年7月1日の習近平
の中国共産党百周年演説を聞くための「予習」が進められていたのである。

興味深いのは、この活動は7月
1日を過ぎても継続されたことである。例えば、大学でも「馬工程」が具体化する過程で、「青年」による
馬工程、すなわち「青馬工程」などが推進されている。

これは四史学習を大学の中で徹底していくプロジェ
クトである。四史政策は、次第に末端にまで、少なくとも制度的には浸透しつつあるのである。

おわりに

本稿は、習近平政権が進めている歴史政策について、特に四史をめぐる政策、およびその意図について考
察し、7月1日の中国共産党百周年演説の意義を再考しようとした。

繰り返しもあるが、この課題に対する
本稿の検討を経た、暫定的な結論は以下の通りである。

第一に、2021年7月1日の中国共産党百周年を記念する習近平の演説は、四史の集大成とでも言えるも
のであった。歴史叙述を通じて、中国共産党が中国を統治し、また社会主義が統治理念として相応しいこと
を強調するとともに、習近平がその中国共産党の核心であることを主張していた。四史の叙述は、中国にお
ける新たな「正史」を創出する試みでもあり、習近平演説はその披露の場ともなった。

第二に、この演説は歴史部分だけでなく、現在の習近平政権の政策、これから中国共産党の政策について
も述べている部分があった。現政権の政策を肯定し、正当性を付与することを目指したためであろうが、逆
6
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集
習近平政権の歴史政策
にこれらは今後の政府の政策を規定してしまう面もある。特に、この演説からも、党と国家、そして中華民
族などの「夢」を一元化しようとする方向性が顕著にみられる。これは中国共産党が、国家、社会、そして
個人をもいわば同じ価値観の下に「領導」していこうとする姿勢とも符合している。

また、台湾人や海外の
華人を含む中華民族をもその「夢」を共有する主体としていることも重要だ。「偉大なる中華民族の復興」
が実現し、台湾が統一される時、台湾の人々もそれを祝うことが中国のプロジェクトの前提となっている。
こうした政策の実現可能性は未知数だが、こうした言葉は習近平政権の今後の政策を一定程度規定していく
ことになろう。

第三に、この四史に代表される党史を中心とした歴史政策は、胡錦濤政権期に習近平が地方の領袖であっ
た時代やその後中央に戻ってからその基礎が形成されたが、習近平政権第一期のうちの2016年にはすでに
その原型が形成されていた。他方で、胡錦濤政権以来の馬工程に代表される中国共産党理論局系のプロジェ
クトもまた、党史の教材作成や教育への浸透工作を推進していた。四史はその馬工程プロジェクトの一環に
位置付けられ、大学教材などが作成された。2021年5月、7月1日の中国共産党百周年に向け、四史の宣
伝工作が一層強化され、教育機関始め社会で様々な運動が展開されたが、7月以降も、馬工程の四史浸透エ
作は継続し、大学などでも「青年」による馬工程として「青馬工程」が推進されることになった。

最後に、このような歴史政策が中国の対日政策に与える影響について述べておきたい。

第一に、他の国際
関係史もそうであろうが、日中関係史も党史との関連で描かれることになる。

それだけに習近平の来日時に
はそうした中国共産党との関連を意識したりする場所に訪問することを求められることになろう。

第二に、
歴史認識問題という面から見ても、中国共産党との関わりが問題視されることになろう。八路軍や新四軍と
日本との戦闘、解放区への日本軍の攻撃など、そういったことが重視され、また文中で紹介した中国共産党
の対日宣戦のように、共産党が中華民国という国家とは別に行っていた対日政策が重視された叙述が今後な
されていくことも考慮しておいていいだろう。

日中それぞれの描く日中戦争史が今後大きく異なるものに
なっていくことになる可能性を視野に入れた対策が求められよう。

1 “Xi Jinping’s Important Celebrating Speech at the 100 years anniversary of CCP(在慶祝中国共産党成立100 周年大会上
的講話)”,CCP website, July 1 2021. http://cpc.people.com.cn/n1/2021/0708Zc437911-32152777.html

2習近平の地方時代の歴史政策については、鈴木隆「習近平とはどのようなリーダーか?地方指導者時代の著作にみる政
治認識、リーダーシップ、政治家像」(経団連21世紀政策研究所『中国の政策動向とその持続可能性一中国をめぐる3つの
視点-』[経団連21世紀政策研究所研究プロジェクト報告書:研究主幹 川島真]、経団連21世紀政策研究所、2020年所収)
に基づく。

3中国共産党百周年における習近平の演説が四史をめぐる政策の総括であったことについては、以下で既に述べた。本
稿は以下の諸稿を大幅に加筆修正したものである。川島真「中国共産党100年と習近平政権の課題」(2021年8月13日
NIPP0N.C0M、HTTPS://WWW.NIPP0N.C0M/JA/IN-DEPTH/D00745/)、川島真「夢はひとつか 中国共産党の百周年
習近平演説を読む」(『UP』587号、2021年9月、21-27頁)、川島真「中国共産党百周年•習近平演説をどう読むかー「(新)
四史」と台湾ー」(『交流』966号、2021年9月、1-7頁)など。

4中共中央宣伝部理論局編『世界社会主義五百年「党員幹部読本)』「学習出版社、党建出版社、2014年)。

5五位一体は、「経済建設、政治建設、文化建設、社会建設、生態文明建設」の総合的な政策を推進し、調整を行うことを指す。
習近平政権は、それを行いながら四つの全面、すなわち、社会主義現代化国家の全面的な建設、全面的な改革の深化、全面的
な法に基づく治国、全面的な厳格な党の統治、という戦略政策を推進するとしている。

6 「四つの意識」は、「政治意識、対局意識、核心意識、他者に倣う意識」、「四つの自信」は、「中国的特色のある社会主義の
路程に対する自信、理論に対する自信、制度に対する自信、文化に対する自信」、そして「二つの維護」は「習近平の党中央
の核心、全党の核心的地位の維護、党中央の権威と集中的で、統一的な領導の維護」を指す。

7新型大国関係は、大国間で諸問題について利害を調整し、お互いの核心的利益は尊重し合うという考え方。現在では、主
に中露関係について用いられている。

8なお、周辺国にとっては、中国が本当に平和裡に台湾を統一した場合に、それを容認するのか、あるいはそれを阻止する
ように働きかけるのかということは考えねばならないだろう。目下のところ、日本にせよ、アメリカにせよ、中国が平和裡に
台湾を統一した場合にはそれを容認しなければならないことになっている。

7
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集
習近平政権の歴史政策

9習近平の福建省時代の歴史政策については、鈴木隆前掲「習近平とはどのようなリーダーか?地方指導者時代の著作に
みる政治認識、リーダーシップ、政治家像」参照。

10習近平「弘揚”紅船精神”走在時代前列」(『光明日報』2005年6月21日)。

11「習近平:堅持実事求是研究和宣伝中共歴史」(中国新聞網、2010年7月21日、http://www.chinanews.com.cn/gn/2010/
07-21/2417251.shtml

12 「習近平在^仰中共一大会:tt時強調銘記党的奮闘歴歴程時刻不忘初心担当党的崇高使命矢志永遠奮闘」(新華網、2017年10 月 31日、http://www.xinhuanet.com//politics/2017-10/31/c_1121886319.htm)

13この会議の内容は、中共中央党史和文献研究院編、習近平著『論堅持党対一切工作的領導』(中央文献出版社、2019年)
にも採録されており、重要政策と位置付けられている。

14四史の出現は、中国近現代史のナラティブに大きな調整を迫るものであった。例えば、抗日戦争においても、従来の八年
抗戦ではなく、1931年から1945年までを戦争期間とする十四年説が習近平政権により採用された。そして、中央党校(国家
行政学院)党史教研部教授で博士指導教員でもある盧毅の講演「為什磨説中国共産党在抗戦中発揮了中流砥柱作用」(中国共
産党ウェブサイト、2020 年9月3日、http://dangshi.people.com.cn/n1/2020/0903/c85037-31848367.html)にあるように、満
洲事変後の国民党の政策を対日妥協だと批判し、「中国共産党こそが最初に日本に宣戦したのだ。中国共産党は、日本に対し
て宣戦しただけでなく、積極的にそれを実践に移し、東北抗日聯軍を領導して抗戦を領導した」とするような歴史観が現れた。
このような国民党への批判は、台湾への統一戦線工作における国民党の地位低下とも軌を一にしていたと考えられる。なお、
この中国共産党対日宣戦は、1932年初頭に日本が錦州を占領したことに反発して同年4月になされたとされるものである(『紅
色中華』1932年4月21日)。

15 「教育部啓動編写“四史”大学生読本」(『人民日報』2020年10月13日)

16 「教育部啓動編写“四史”大学生読本」(中国教育新聞網、2020年10月20日、https://baijiahao.baidu.com/s?id=16810647
07020058765&wfr=spider&for=pc) 〇

17馬工程成立の経緯などについては、「馬克思主義理論研究和建設工程簡介」(中国文明網、2009年8月6日、http://www.
wenming.cn/ll_pd/mgczt/jj/201108/t20110808_275560.shtml)参照。

18この馬工程が製作してきた教科書のリストは、教育部のウェブサイトに公開されている。「已出版教育部馬工程重点教材目
録」(教育部ウェブサイト、2021年10 月 20 日、http://www.moe.gov.cn/jyb_xxgk/xxgk/neirong/fenlei/kcjc/kcjc_gl/jcgl_
mgcj/202007/t20200723_474492.html)。

19 「中^印発«関於在全社会開展党史、新中国史、改革開放史、社会主義発展史宣伝教育的通知»(中華人民共和国中央人民
政府ウェブサイト、2021年5月 25 日 http://www.gov.cn/xinwen/2021-05/25/content_5612097.htm) 〇
8
日本国際問題研究所/歴史系検討会論文集

アラン・ケイ

アラン・ケイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曖昧さ回避 この項目では、コンピュータ科学者について説明しています。日本の女優については「安蘭けい」をご覧ください。

Alan Curtis Kay
アラン・カーティス・ケイ
Alan Kay (3097597186) (cropped).jpg
2008年
生誕 1940年5月17日(83歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州スプリングフィールド
市民権 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 計算機科学
研究機関 パロアルト研究所
スタンフォード大学
アタリ
Apple ATG
ディズニー Imagineering
UCLA
京都大学
MIT
en:Viewpoints Research Institute
ヒューレット・パッカード
出身校 コロラド大学ボルダー校
ユタ大学

主な業績 ダイナブック
オブジェクト指向プログラミング
Smalltalk
GUIとウィンドウ

主な受賞歴 ACM チューリング賞(2002)
京都賞先端技術部門(2004)
チャールズ・スターク・ドレイパー賞(2004)
配偶者 Bonnie MacBird
プロジェクト:人物伝
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アラン・カーティス・ケイ(Alan Curtis Kay, 1940年5月17日 – )は、アメリカ合衆国の計算機科学者、教育者、ジャズ演奏家。パーソナルコンピュータの父、と言われることもある。主に、オブジェクト指向プログラミングとユーザインタフェース設計に関する初期の功績で知られている。「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」という言葉でも知られている。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で計算機科学の准教授、ビューポインツ・リサーチ・インスティテュート(Viewpoints Research Institute)の経営者、TTI/Vanguard の諮問委員。2005年中ごろまで、HP研究所のシニアフェロー、京都大学の客員教授、マサチューセッツ工科大学の准教授を務めていた。

マイクロコンピュータ以前の時代に、個人の活動を支援する「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱した。

つまり1960年代当時、高価で大きく、複数人で“共有”するのが当たり前だったコンピュータに“個人向け”という利用状況を想定し、それに相応しいコンピュータ環境がどうあるべきかを考えた人物。

自らがそう名付けた「ダイナブック構想」の提唱者。「コンピュータ・リテラシー」という言葉も彼が造った。

パロアルト研究所時代まで

マサチューセッツ州のスプリングフィールド生まれ。3歳で文章を流暢に読み、早くから才能を見せていた。アメリカでの教育についてのインタビューで、「私は幸か不幸か、3歳のときに流暢に読めるようになっていた。だから1年生のころにはたぶん150冊ぐらいの本を読んでいた。そして、私はすでに先生が嘘を言っていることを知っていた」と述べている[1]。

コロラド大学で数学と分子生物学の学士号を取得。同じ頃、彼はプロのジャズギタリストとしても活動している。コロラド大学に入る前、彼は士官候補生として空軍に入隊しており、自分にコンピュータ・プログラミングの才覚があることを知る[2]。

1966年ユタ大学大学院工学部に進学し、修士号と博士号を取得している。

そこでアイバン・サザランドの下で Sketchpad を含む先駆的グラフィックスアプリケーションを開発した。この経験がケイのオブジェクトとプログラミングについての観点を発展させることになった。ARPAの研究が忙しくなったため、プロのミュージシャンとしての経歴は途絶えた。

1968年シーモア・パパートと出会い、LISPを教育向けに最適化した方言であるLOGOプログラミング言語について学んだ。

そこから発展して、ジャン・ピアジェ、ジェローム・ブルーナー、レフ・ヴィゴツキーらの業績や構成主義についても学び、それらからも強い影響を受けた。

1970年、ケイはゼロックス社のパロアルト研究所の設立に参加した。

パロアルト研究所には1970年代を通じて在籍し、自ら提唱する理想端末「ダイナブック」を、当時利用可能な技術で具現化した暫定的ハードウエアである「Alto」と、エンドユーザーが自在にプログラミング可能で、それを全方面からサポートする機能を有する暫定的環境「Smalltalk」の開発において指導的立場をとった。

このSmalltalk環境の動作するAlto(暫定ダイナブック)を見学する機会を得たスティーブ・ジョブズが、そのアイデアを大いに取り入れてLisa、続くMacintoshを開発した、というのは有名な話である。

ケイとパロアルト研究所の同僚は、オブジェクト指向プログラミングというアイデアの生みの親でもある(すでに言語機能としての「クラス」と「オブジェクト」を備えたノルウェーのオルヨハン・ダールとクリステン・ニガードのSimula 67があったが、これらの言語機能と自らのアイデアである「メッセージング」と組み合わせて「オブジェクト指向」と称したのはアラン・ケイが最初。

なお「オブジェクト指向」は後にビャーン・ストラウストラップにより「カプセル化・継承・ポリモーフィズム」として再定義される)。

彼の提唱した「ダイナブック構想」は、持ち運び可能な小型パーソナルコンピュータ(ノートパソコン、タブレット、電子書籍)の原型であり、ウィンドウ型グラフィカルユーザインターフェース(GUI)のさきがけとも言われている[3]。

ケイは、真上を向いていたマウスポインタを斜め45°でデザインし直した。

ダイナブックは教育用プラットフォームとみなすこともできるため、ケイはMラーニングの初期の研究者の1人とされることがある。

実際、ダイナブック構想の多くの特徴がケイも積極的に関与した教育用プラットフォーム One Laptop Per Child (OLPC) の設計に採用されている。

パロアルト研究所で10年すごした後、ケイは3年間アタリの主任科学者を務めた。

その後の経歴

1984年から、ケイはApple Computerのフェローとなった(1997年に、スティーブ・ジョブズが研究部門Advanced Technology Groupを解散するまで[4]。なお、ジョブスにピクサー買収を強く勧めたのも、彼である)。

その後 Walt Disney Imagineering でフェローを務めた(ディズニーがフェロー制度をやめるまで)。

2001年、子どもの教育と関連するソフトウェア開発を目的とする非営利組織 Viewpoints Research Institute を創設。

その後、Applied Minds(Walt Disney Imagineering の退職者が設立した会社)で働いた後、ヒューレット・パッカードにシニアフェローとして迎えられたが、2005年6月20日に Advanced Software Research Team が解散になると同時に退職した。

現在は、Viewpoints Research Institute を主宰。 また2002年〜2005年、IPA未踏ソフトウェア創造事業のプロジェクトマネージャ。

2011年秋、ニューヨーク大学 Interactive Telecommunications Program (ITP) でITPの研究員である Nancy Hechinger と共に “Powerful Ideas: Useful Tools to Understand the World” と題したクラスを教えた。

このクラスの目標は、伝統的な丸暗記的教育を廃し根本的かつ強力な概念に基づいた教育/学習の新形態を考案することだった[5]。

Squeak と Croquet の開発

1995年12月、Apple Computerに所属していたケイは、多数の協力者と共に Squeak をオープンソースプロジェクトとして立ち上げ、その後も継続して関わっている。

Squeak は、Smalltalkを拡張し、当時非公開で限られた人間しか参加できなかった「ダイナブックプロジェクト」を、広く世界に人材を求める“開かれた”プロジェクトとして再開されたものだと考えることもできる。

Squeak及びその上に実現された非開発者向けビジュアルスクリプティング環境「Squeak eToys (SqueakToys)」、次世代3D-GUIを模索する仮想コンピュータ環境「Croquet」の開発指導にあたる。

Tweak

2001年、SqueakのeToysアーキテクチャにおいてインタフェース基盤の限界が見えてきた。ケイのHPでのグループで働いていた Andreas Raab は “script process” の定義を提案し、いくつかの一般的課題に対処するデフォルトのスケジューリング機構を考案した[6]。

その結果、Squeak のユーザインタフェースをさらに進化させた新たなユーザインタフェースが Tweak が誕生した。その基盤となるオブジェクトシステムはクラスベースだが、ユーザーがプログラミングする際にはプロトタイプベースのように動作する。

OLPC

2005年11月に開催された世界情報社会サミットで、MITはアラン・ケイも開発に関与した新たな OLPC XO-1 を発表した(発表時は100ドルノートPCとして有名になった)。

ケイのダイナブック構想に基づき、ケイの友人であるニコラス・ネグロポンテがプロジェクトを推進した。ケイもそのコンピュータの開発に関わり、主に Squeak と eToys を教育ソフトウェアとして搭載することに注力した。

プログラミングの再発明

ケイはしばしば、コンピュータ革命は非常に新しく、よいアイデアが全て一般に実装されているわけではないということを論じている。

OOPSLA 1997 での講演やチューリング賞受賞記念講演(タイトルは “The Computer Revolution Hasn’t Happened Yet”)では、Sketchpad、Simula、Smalltalk での自身の経験や商用ソフトウェアの肥大化したコードについて論じている。

2006年8月31日、アメリカ国立科学財団 (NSF) への提案書が採用され、Viewpoints Research Institute に数年間資金が提供された。

提案書のタイトルは “Steps Toward the Reinvention of Programming: A compact and Practical Model of Personal Computing as a Self-exploratorium”(プログラミング再発明へのステップ: Self-exploratorium としてのパーソナルコンピューティングのコンパクトで実用的なモデル)である[7]。

ケイがやろうとしていることの意味は、バークレーにあるインテルの研究所で行ったセミナーの要約からうかがい知ることができる。

今日では、商用ソフトウェアや多くのオープンソースのソフトウェアは数億行のソースコードの固まりでできている。その機能をカバーできる理解可能な最小の設計なら、どれだけのコード量にできるだろうか? 100万行? 20万行? 10万行? 2万行?」[8]

受賞歴

1999年 - コンピュータ歴史博物館フェロー[9]
2001年 - C&C賞
2003年 - チューリング賞。オブジェクト指向プログラミングに関する貢献に対して。
2004年 - 京都賞先端技術部門。
2004年 - チャールズ・スターク・ドレイパー賞(全米技術アカデミーの与える賞)。バトラー・ランプソン、ロバート・テイラー、チャック・サッカーと共同受賞。[10]
2008年 - Association for Computing Machinery (ACM) フェロー[11]
2011年 - Hasso-Plattner-Institut フェロー[12]

名誉博士号

2002年 - スウェーデン王立工科大学[13]
2005年 - ジョージア工科大学[14]
2005年 - Columbia College Chicago[15]
2007年 - ピサ大学
2009年 - ウォータールー大学[16]
2009年 - 京都大学[17]
2010年 - ムルシア大学[18]

アラン・ケイやダイナブックにまつわる誤解

史上初の本格的GUIを備えたとして知られるAltoだが、特に“Alto OS”と呼ばれる専用のGUI OSがあったわけではない。

PARC内外ではAlto向けに、互いに見た目や操作の異なる多数のGUI環境・GUIアプリが開発されていた。

その中で特に先行し、後続に多岐に渡る影響を及ぼしたのがケイらの暫定ダイナブック、すなわちSmalltalk環境で、実際、MacintoshやWindows、そしてUNIXのGUI環境の起源に関する記述でAltoが引き合いに出された場合、それは当時のSmalltalk環境を意味していることが多い。

言及者がSmalltalkを単なるプログラミング言語として狭く捉えていたり、その誕生の歴史的経緯(コンセプトとしての「ダイナブック」、暫定環境としての「Smalltalk」、暫定ハードとしての「Alto」の相互関係)をよく調べずに書いたあいまいな記述が世に氾濫しているため、さも“Alto OS”のようなものが存在するかのような誤ったイメージが定着してしまった。

ケイはプログラミングもするが、主だってはアイデアパーソンである。

Altoの製作にはチャック・サッカーという天才エンジニアの、Smalltalk開発にはダン・インガルス、アデル・ゴールドバーグを筆頭とした天才プログラマらの関与が不可欠であり、ケイがすべてを(短期間で)実現したかのような記述は原則として誤り。

短期間であることがことさらに強調されることが多いのは、Alto初号機の製作期間が仲間うちの“賭け”の対象となっていて、実際それが約3か月強で成し遂げられたこと、あるいはケイの「オブジェクトへのメッセージ送信」というアイデアをダン・インガルスがわずか数日で実装してみせたこと(これが、Smalltalkのプロトタイプとなった。ちなみに、この時に使われたのはBASIC)を混同しているものと思われる。

名言集

最も有名な言葉

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」

1971年、パロアルト研究所の研究内容の将来予測を再三に渡って求めるゼロックス本社に対する回答(経営陣と開発陣の軋轢や見解の相違を端的に表している)[19]

元々は物理学者ガーボル・デーネシュの言葉から[20]

それについて本人が別の機会に補足した言葉

「未来はただそこにあるのではない。未来は我々が決めるものであり、宇宙の既知の法則に違反しない範囲で望んだ方向に向かわせることができる」1984年 [21]

コンピュータ革命について

「わくわくするようなことが進行中だが、コンピュータ革命はまだ始まっていない。不完全なアイデアに基づいた貧弱な実装によるできの悪いデファクトスタンダードによって素朴な顧客から大量の金を巻き上げている連中に惑わされないように」[22]

1980年代終盤の香港での記者会見での言葉

「テクノロジーというのはあなたが生まれたときに存在しなかった全てのものだ」

C++について

「オブジェクト指向(Object-Oriented)という言葉は私が作った。そのとき、C++ を想定していなかったことは確かだ」[23]

LISPについて

「これまでに設計された最も偉大なプログラミング言語」[24]

ソフトウェアとハードウェアについて
「People who are really serious about software should make their own hardware.」
「ソフトウェアに対して本当に真剣な人は、独自のハードウェアを作るべきだ。」[25] 』

Alto

Alto
https://ja.wikipedia.org/wiki/Alto#:~:text=Alto%20%EF%BC%88%20%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%20%EF%BC%89%E3%81%AF%E3%80%81%E5%BE%8C%E3%81%AB%20%E3%83%87%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%20%E3%82%92%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%97%E3%80%81%20%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B9%20%28GUI%29,%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%20%28OS%29%20%E3%82%92%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E8%A8%AD%E8%A8%88%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%20%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%20%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%20%E3%80%82%20%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%81%AF1973%E5%B9%B43%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%81%AB%E5%8B%95%E3%81%8D%E5%A7%8B%E3%82%81%E3%81%9F%20%E3%80%82

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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出典検索?: “Alto” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月)
曖昧さ回避 この項目では、コンピュータについて説明しています。その他のアルトについては「アルト (曖昧さ回避)」をご覧ください。

Alto
Xerox Alto mit Rechner.JPG
縦型ディスプレイ、キーボードとマウスを備えたXerox Alto
開発元 Xerox PARC
製造元 Xerox PARC
発売日 1973年3月1日 (50年前)
標準価格 US$32,000 in 1979 (2020年時点の$110,467と同等)[1][2]
出荷台数 Alto I: 120
Alto II: 2,000[3]
対応メディア 2.5 MB hard disk that used a removable 2.5 MB single-platter cartridgeter[4]
OS Alto Executive (Exec)
CPU TTL-based, with the ALU built around four 74181 MSI chips. It has user programmable microcode, uses big-endian format and a CPU clock of 5.88 MHz[5][4]
メモリ 96[6]-512 kB (128 kB for 4000 USD)[4]
ディスプレイ 606×808 pixels[4]
入力機器 Keyboard, 3-button mouse, 5-key chorded keyboard
外部接続 Ethernet
関連商品 Xerox Star; Apple Lisa, Macintosh

Alto(アルト)は、後にデスクトップ・メタファーを使用し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) をベースにしたオペレーティングシステム (OS) をサポートするように設計された最初のコンピュータである[7][8]。

最初のマシンは1973年3月1日に動き始めた[9]。

Appleが大規模市場向けGUI搭載パソコン「Macintosh」を発表する10年以上前のことである。

Altoは比較的小さなキャビネットに収められ、複数の小規模・中規模集積回路から作られたカスタム中央処理装置 (CPU) を使用している。

10年 – 15年後の「パーソナルコンピュータ」の一般的な性能を想定して設計されたため、マシン1台当たりのコストは高級車の販売価格に達した。

当初は少数しか製造されなかったが、1970年代後半までに、ゼロックスの様々な研究所で約1,000台、いくつかの大学では約500台が使用されていた。

製品化計画もあったが、社内での駆け引きに敗れ一旦は破棄された。

しかし1977年11月の社内向けカンファレンス「フューチャーズ・デイ」での成功をうけてゼロックス本社上層部の興味を引き、1970年代終盤にはホワイトハウスなど限られた顧客にも販売されるなどして[10]、総生産台数は試作機としては異例の約2,000台に達した。

Altoはシリコンバレーでよく知られるようになり、そのGUIはコンピューティングの未来とみなされるようになった。

1979年、スティーブ・ジョブズ (Steve Jobs) はパロアルト研究所 (PARC) への訪問を手配し、Apple Computer(現:Apple)の従業員がゼロックスの技術のデモンストレーションを受ける代わりに、ゼロックスがAppleのストックオプションを購入できるようにした[11]。

2回に渡ってAltoを見学した後、Appleの技術者たちは、そのコンセプトを利用して、Apple LisaやMacintoshシステムを開発・発表した。

ゼロックスは最終的に、Altoで培われたハードウエア技術を転用し、PARCとは別の部署で秘密裏に開発を進めていたOSを搭載したGUI搭載ワークステーション「Xerox Star」を商品化し、1981年に最初に販売した。

完全なオフィスシステムは、数台のワークステーション、ストレージ、レーザープリンターを含み10万ドルもしたため、同じく高価格路線で商業的に失敗したApple ComputerのLisaと同様に、Starは市場に直接的な影響を与えることはほとんどなかった。

歴史

Alto 3ボタンマウス

下面から見たAltoのボール型マウス

オプションの5キー・コードキーボード

Altoは、SRIインターナショナル (SRI) のダグラス・エンゲルバート (Douglas Engelbart) とダスティン・リンドバーグ (Dustin Lindberg) によって開発された oN-Line System (NLS) に触発されて、1972年にバトラー・ランプソン (Butler Lampson) が書いたメモの中で考案された。

設計は主にチャールズ・P・サッカー (Charles P. Thacker) が担当した。

工業デザインと製造はゼロックスに委託され、そのスペシャルプログラムグループのチームには、プログラムマネージャーとしてダグ・スチュワート (Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン・オペレーションズ (Abbey Silverstone Operations)、工業デザイナーのボブ・ニシムラ (Bob Nishimura) が含まれていた。最初の30台はゼロックスエルセグンド(スペシャルプログラムグループ)によって製造され、PARCのジョン・エレンビー (John Ellenby)、エルセグンドのダグ・スチュワート(Doug Stewart)、アビー・シルバーストーン (Abbey Silverstone) とともに、Altoのエレクトロニクスの再設計を担当した。

パイロット運転の成功により、チームはその後10年間で約2,000台を生産した[12]。

Xerox Altoのシャーシは現在、カリフォルニア州マウンテンビューのコンピュータ歴史博物館に数台、ジョージア州ロズウェルのコンピュータ博物館に1台が展示されており、個人の手に渡ったものもある。

ランニングシステムは、ワシントン州シアトルのリビングコンピュータ博物館 (英語版) に展示されている。

Charles P. Thacker は、Alto の先駆的な設計と実現により、2010年3月9日に Association for Computing Machinery の 2009 チューリング賞 を受賞した[13]。

2004年のチャールズ・スターク・ドレイパー賞は、Altoに関する研究に対してThacker、アラン・ケイ (Alan C. Kay)、Butler Lampson、ロバート・テイラー (Robert W. Taylor) に授与された[14]。

2014年10月21日、Xerox Altoのソースコードやその他のリソースがコンピュータ歴史博物館から公開された[15]。

アーキテクチャ

以下の記述は、主にゼロックスPARCの1976年8月発行のAlto Hardware Manual[16]に基づいている。

Altoはマイクロコード化されたデザインを使用しているが、多くのコンピュータとは異なり、層状化デザイン上でマイクロコードエンジンはプログラマから隠蔽されなかった。

ピンボールなどのアプリケーションは、これを利用してパフォーマンスを高速化している。

Altoは、Texas Instruments 74181チップをベースにしたビットスライス算術演算論理ユニット (ALU) を搭載し、書き込み可能なコントロールストア拡張機能を備えたROMコントロールストアを備え、16ビットワードで構成された128 kB (512 kBに拡張可能) のメインメモリで構成されている。

大容量記憶装置は、IBM 2310で使用されていたものと同様の着脱可能な2.5MBのワンプラッタカートリッジ(後にゼロックスが買収したDiablo Systems社)を使用したハードディスクドライブを使用している。

ベースマシンとディスクドライブ1台は、小型冷蔵庫ほどの大きさのキャビネットに収められ、デイジーチェーンを介してもう1台のディスクドライブを追加することができる。

Altoは機能要素間の線引きを曖昧にしたり、無視したりしていた。

ストレージや周辺機器への電気的インタフェース(システムバスなど)が明確に定義されている個別の中央処理ユニットではなく、Alto ALUはメモリや周辺機器へのハードウェアインタフェースと直接相互作用し、コントロールストアから出力されるマイクロ命令によって駆動される。

マイクロコードマシンは、固定の優先度を持つ最大16の協調タスクをサポートする。

エミュレータタスクは、ほとんどのアプリケーションが書かれた通常の命令セットを実行するが、その命令セットはData General Nova[17]の命令セットと似ているものの同じではない。

その他のタスクは、ディスプレイ、メモリリフレッシュ、ディスク、ネットワーク、その他のI/O機能を実行する。

例として、ビットマップ表示コントローラは16ビットのシフトレジスタに過ぎず、マイクロコードは、表示リフレッシュデータをメインメモリからそのシフトレジスタに移動し、メモリデータの1と0に対応する表示画素にシリアル化する。

イーサネットも同様に、最小限のハードウェアでサポートされており、出力ワードのシリアル化と入力ワードのデシリアル化を双方向に行うシフトレジスタを備えている。

その速度が3Mビット/秒に設計された理由は、マイクロコードエンジンはこれ以上高速化することができず、ビデオ表示、ディスクアクティビティ、メモリリフレッシュをサポートし続けるためである。

当時のほとんどのミニコンピュータとは異なり、Altoはユーザインタフェース用のシリアルターミナルをサポートしていない。

イーサネット接続を除けば、Altoの唯一の共通出力デバイスは、傾斜&回転の台座を備えた2値 (白黒) ブラウン管 (CRT) ディスプレイで、一般的な「横向き」ではなく「縦向き」に取り付けられた。

入力デバイスは、カスタムの着脱式キーボード、3ボタンマウス、オプションの5キー・コードキーボード (英語版) (コードキーセット)である。

この2つはSRIのOn-Line Systemで導入されたもので、マウスはAltoユーザーの間で瞬く間に成功したが、コードキーセットは人気が出なかった。

初期のマウスでは、ボタンは3本の細い棒状で、左右ではなく上下に配置されて、ドキュメント内での色にちなんで命名された。

動きは、互いに直角に配置された2つの車輪で感知されていた。

これらはすぐに、ロナルド・E・ライダーが発明してビル・イングリッシュが開発したボールタイプのマウスに取って代わられた。

これらは、フォトメカニカルマウスで、最初は白色光で、次に赤外線 (IR) を使用して、マウス内の車輪の回転をカウントした。

このキーボードは、各キーが一連のメモリロケーションにおいて個別のビットとして表わされる点で興味深いものがある。

その結果、複数のキーを同時に読み取ることができる。

この特性を利用して、ディスク上のどこからAltoを起動するかを変更できる。

キーボードの値は、起動するディスク上のセクタアドレスとして使用され、特定のキーを押しながら起動ボタンを押すと、異なるマイクロコードやオペレーティングシステムをロードすることができる。

これは「ノーズブート」(nose boot) という表現を生み出し、テストOSリリースの起動で必要なキーにが、思いつくよりも多くの指が必要であった。ノーズブートは、指定されたキー配列を使用できるようにディスク上のファイルをシフトする move2keys プログラムによって廃止された。

テレビカメラ、Hy-Type デイジーホイールプリンター、パラレルポートなど、他にもいくつかのI/OデバイスがAlto用に開発されたが、これらは非常に稀であった。

Altoはまた、ファイルサーバとして動作するように外部ディスクドライブを制御することができた。これはマシンの一般的なアプリケーションである。

ソフトウェア

Altoの初期のソフトウェアはプログラミング言語BCPLで記述され、後にMesa[18]で記述された。

この言語はPARCの外では広く使われていなかったが、Modulaのような後のいくつかの言語に影響を与えた。

Altoは初期バージョンのASCIIコードを使用していたが、これはアンダースコア文字を欠き、代わりにALGOL 60や多くの派生で使用されている左矢印文字を代入演算子に使用した。

この特殊性が、複合識別子のキャメルケーススタイルのソースであった可能性がある。また、Altoはユーザーがマイクロコードでプログラムすることも可能であった[16]。

Altoは、テキストやグラフィックを含むすべての出力でラスターグラフィックモデルの使用を普及させるのに貢献した。

また、ディスプレイへの基本的なプログラミングインタフェースとして、ビットブロック転送操作(ビットブリット、BitBLT)の概念を導入した。その小さなメモリサイズにもかかわらず、以下のような多くの革新的なプログラムがAltoのために書かれた。

文書作成支援システム

最初のWYSIWYG文書作成システム、BravoとGypsy

コミュニケーション

Laurel 電子メールツール[19]とその後継機、Hardy[20][21]

Chat

グラフィクス

Sil ベクトルグラフィックエディタ。主に論理回路、プリント基板、その他の技術的図面に使用される。

Markup ビットマップエディタ (初期のペイントプログラム)

ライン&スプラインを使ったDrawグラフィカルエディタ

Lynn Conway, Carver Mead, Mead & Conway革命の研究に基づいた最初のWYSIWYG集積回路エディタ。

プログラミング

BCPL, Mesa, Cedar
Interlisp, Alto Lisp
Smalltalk環境の初期のバージョン(Smalltalk-72、-76、-80)[22]

ネットワーキング

PARC Universal Packet

ファイリング

Interim File System (IFS)
File Transfer Program (FTP)

プリンティング

Orbit

ファイル管理

Executive, NetExec
Neptune
CopyDisk

ゲーム
最初のネットワークベースの複数人用ビデオゲーム (ジーン・ボール(英語版)によるAlto Trek(英語版))。

Maze War

表計算ソフトやデータベースソフトウェアはなかった。そのようなソフトはメインフレームなどには存在したが、個人が専有して使用するコンピュータ向けに販売された最初の表計算ソフトであるVisiCalcが登場したのは1979年のことである。

暫定ダイナブック

AltoやNoteTakerで動作したアラン・ケイ達の暫定Dynabook環境(Smalltalk-76、同-78の頃)

詳細は「暫定ダイナブック」を参照

アラン・ケイらによってAlto上で開発された世界初のGUIベースのオペレーティングシステム (OS) 的存在であるSmalltalkは、パーソナルコンピューティングの方向性をエンドユーザーに示すだけでなく、オブジェクト指向の概念を本格的に取り入れた設計で開発者にもアピールし、このときのオブジェクト指向によるOS(APIやフレームワーク)設計は、現在最先端と言われるOSにも今なお色濃い影響を与え続けている。

1970年代半ばにはすでに、ウインドウシステム、メニュー操作、アイコン付きパレット、WYSIWYGエディタなど、現在のパソコンに匹敵する特徴も備えていた。

出資受容の条件に要求してこれを見た、Apple Computerのスティーブ・ジョブズに大きな影響を与え、LisaやMacintoshを開発させるきっかけとなったとともに、PARCからAppleへの転職が相次いだ。

普及と進化

技術的には、Altoは小型のミニコンピュータであったが、当時のメインフレームコンピュータや他のミニコンピュータとは対照的に、一人で机に座って使用するという意味では、パーソナルコンピュータと見なすことができた。

それは間違いなく「最初のパーソナルコンピュータ」であったが、このタイトルについては他の人々の議論がなされている。

より重要なことは(おそらく議論の余地は少ないが)、Unixオペレーティングシステムに基づくApolloや、開発環境としてLispをネイティブに実行するように設計されたSymbolicsのシステムのようなシングルユーザーマシンのスタイルの最初のワークステーションシステムの1つであると考えられている[23]。

1976年から1977年にかけて、スイスのコンピュータのパイオニアであるニクラウス・ヴィルト (Niklaus Wirth) はPARCでサバティカルを過ごし、Altoに興奮していた。

Altoシステムをヨーロッパに持ち帰ることができなかったヴィルトは、ゼロから新しいシステムを作ることを決意し、彼のグループと一緒にLilithを設計した[24]。

Lilithは1980年頃に完成したが、これはApple LisaやApple Macintoshが発売されるかなり前のことである。1985年頃、Wirthは「Project Oberon」という名前でLilithの全面的な再設計を開始した。

1978年、ゼロックスは50台のAltosをマサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学、カーネギーメロン大学[18]、ロチェスター大学[25]に寄贈した。

メリーランド州ゲイザースバーグにある国立標準局コンピュータ科学研究所 (現在のNIST) には、1978年後半に1台のAltoが、Xerox Interim File System (IFS) ファイルサーバーとDoverレーザープリンターとともに寄贈された。

これらのマシンは、ETH Zürich LilithやThree Rivers CompanyのPERQワークステーション、そして最終的にスピンオフ企業であるサン・マイクロシステムズによって販売されたStanford University Network (SUN) ワークステーションにインスピレーションを与えた。Apollo/Domainワークステーションは、Altoの影響を強く受けた。

Altoの取得後、ホワイトハウスの情報システム部門は、連邦政府のコンピュータ・サプライヤーをその方向に導こうとした。

米国大統領府 (EOP) は、IBM互換のメインフレームに接続されたAltoのようなワークステーションを使用して、老朽化した行政管理予算局 (OMB) の予算システムに代わるコンピュータシステムの提案を要請した。そのような構成を提供できるメインフレームメーカーがなかったため、この要請は最終的に取り下げられた。

1979年12月、Apple Computerの共同創設者であるスティーブ・ジョブズ (Steve Jobs) はPARCを訪れ、Smalltalk-76オブジェクト指向プログラミング環境、ネットワーク、そしてもっとも重要なのはAltoが提供するマウス駆動のGUIであるWYSIWYGを見せられた。

当時、彼は最初の2つの重要性を認識していなかったが、最後の1つには興奮し、すぐにそれをAppleの製品(最初はLisa、次にMacintosh)に統合し、彼の会社で働くために何人かの重要な研究者を引きつけた。

1980年から1981年にかけて、PARCやXerox System Development Departmentの技術者たちは、Xerox Altoを使ってXerox Starワークステーションを設計した。

ゼロックスとAlto

ゼロックスはPARCで開発された技術の価値に気づくのが遅れていた[26]。

1960年代後半にゼロックスがScientific Data Systems(SDS、後のXDS)を買収しても、PARCには何の関心を持たなかった。

PARCはDigital Equipment Corporation (DEC) のPDP-10を独自にエミュレーションしてMAXCと名付けた[27]。MAXCはARPANETへのゲートウェイマシンであった。同社は商業的にテストされていない設計でコンピュータ事業に再び参入することに消極的であったが、その哲学の多くは後の製品に搭載されることになる。

Byte誌は1981年に次のように述べている[18]。

コンピュータサイエンスの研究コミュニティ以外の人がAltoを買うことはまずないであろう。これらは商業販売を目的としたものではなく、ゼロックスの開発ツールとしてのものであり、大量生産されることはない。

彼らに言及する価値があるのは、明日のパーソナルコンピュータの多くがAltoの開発から得られた知識で設計されるという事実である。

Altoの後、PARCは、非公式には「Dマシン」と呼ばれている、より強力なワークステーションを開発した(いずれもプロジェクトとして意図されたものではない[要説明])。Dandelion(最も強力ではないが、唯一製品化された)、Dolphin、Dorado(最も強力で、エミッタ結合型ロジック (ECL) マシン)、そしてDandel-Irisなどのハイブリッド機である。

1977年のApple IIや 1981年のIBM Personal Computer (IBM PC) などのパーソナルコンピュータが登場するまでは、コンピュータ市場は、中央コンピュータの処理時間をタイムシェアするダム端末を搭載した高価なメインフレームと、ミニコンピュータに支配されていた。

1970年代を通じて、ゼロックスはPARCの研究に興味を示さなかった。ゼロックスが「Xerox 820」でPC市場に参入したとき、彼らはAltoのデザインを大幅に否定し、代わりに当時の標準であった80×24文字のみのモニタとマウスを持たないCP/Mベースの非常にオーソドックスな機種を選択した。

その後、PARCの研究者の助けを借りて、ゼロックスは最終的にDandelionワークステーションをベースとする「Xerox Star」を開発し、その後、コストを抑えた「Star」であるDaybreakワークステーションをベースにしたオフィスシステム「6085」を開発した。

これらのマシンは、バトラー・ランプソン(Butler Lampson)の論文で説明されている「Wildflower」(ワイルドフラワー)アーキテクチャに基づいており、アイコン、ウィンドウ、フォルダーからなるGUI、イーサネットベースのローカルネットワーキング、ネットワークベースのレーザープリンタサービスなど、Altoの革新的な機能のほとんどが組み込まれていた。

ゼロックスが自分たちの間違いに気付いたのは、1980年代初頭、Apple ComputerのMacintoshがビットマップディスプレイとマウス中心のインタフェースによってPC市場に革命を起こした後のことである。

これらはいずれも「Alto」からコピーされたものである[26]。

Xerox Starシリーズは商業的には比較的成功を収めたが、遅すぎた。高価なゼロックスのワークステーションは、初代Macintoshの後に登場した安価なGUIベースのワークステーションに対抗することができず、ゼロックスはワークステーション市場から完全に撤退してしまった。

参照項目
NLS
マウスパッド
アラン・ケイ
アデル・ゴールドバーグ
Apple Lisa 』

パソコン生んだ名門研究所、ゼロックス「寄贈」の理由

パソコン生んだ名門研究所、ゼロックス「寄贈」の理由
シリコンバレー支局 奥平和行
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN313S90R30C23A5000000/

 ※ 「アルト」とか、「GUI」とか、もはや死語になってしまっているな…。

 ※ 知ってる人も、少なくなったろう…。

 ※ オレなんかも、歴史の流れに埋もれかけて、「生き証人」になりつつあるな…。

 ※ と言っても、末端の一ユーザーとして、MS-DOS3.3c~6使ったり、NECのPC-98使ったり、Windows95、98、98SE、2000使ったり、漢字talk7、8使ったり、MAC-OS9使ったりしただけの話しなんだが…。

 ※ ああ、PMプリンタ(OKIのMICROLINE)とか、SCSIとかも使ったな…。

 ※ Windows98以降は、もっぱら「自作機(パーツ購入して、組み立て)」だ…。

 ※ 最初は、Celeron333だったな…。

 ※ OCしまくって、遊んでた…。

 ※ せいぜい、「生ける屍(しかばね)」にならないように、頑張ろう…。

『米シリコンバレーのコンピューター歴史博物館が「伝説のアルトと最先端の研究」と題した講演会を催したのは4月26日のことだ。パーソナルコンピューターの生みの親として知られるアラン・ケイ氏らが登壇し、かつて所属したパロアルト研究所の思い出話に花を咲かせた。

パロアルト研は1970年に米ゼロックスがシリコンバレーで設立し、世界初のパソコンと呼ばれたアルトを73年に開発した。米アップルのスティーブ・ジョブ…

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『米アップルのスティーブ・ジョブズ氏がアルトを目にしてマッキントッシュの開発に生かしたという挿話はあまりにも有名だ。

パソコンなどを接続するためのイーサネット、情報機器の直感的な操作を可能にしたグラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)、自然言語処理……。パロアルト研はIT(情報技術)史を彩る技術を相次いで生み出したが、ゼロックスが有効活用した形跡は乏しい。

講演会の2日前、ゼロックスはパロアルト研を米スタンフォード大学を母体とする研究機関に「寄贈」すると発表している。同社のスティーブ・バンドローザック最高経営責任者(CEO)は「研究開発費を抑え、当社は印刷など(の主力事業)にイノベーションの努力を集中させることができる」と説明した。

なぜ、ゼロックスはパロアルト研のきら星のような研究成果をものにできなかったのか。「複写機の利益率があまりにも高く、新規事業に本腰を入れることができなかった」。こう指摘するのは長年にわたりゼロックスと提携関係にあった富士フイルムの元幹部だ。

ゼロックスの元最高技術責任者(CTO)で、CEOや会長として2010年代にパロアルト研のかじ取りを担ったスティーブ・フーバー氏にも聞いてみた。ゼロックスはパロアルト研が開発したレーザープリンターなどを商用化し、成果が乏しかったとの見方は否定するが、「基礎研究から多くの価値を生み出すことが課題だった」と認める。

課題解決の妨げになっているとみたのが本拠地である東部ニューヨーク州とシリコンバレーの間の距離だ。両拠点は約5000キロメートル離れている。パロアルト研が日常業務に左右されずに中長期の課題に取り組みやすい環境をつくり出す一方、事業化に不可欠な量産や顧客対応などを担う本社部門との結びつきは弱かったという。

ジョブズ氏がアルトに着想を得てマッキントッシュを開発したエピソードには先がある。ゼロックスはアルトを企業向けの製品として実用化することを考えたが、ジョブズ氏は個人に照準を当てた。使い勝手を改善し、価格も抑えた。消費者の視点を持ち込み成功をたぐり寄せたわけだ。

フーバー氏は現在、3次元(3D)プリンターを開発するスタートアップ企業のCEOとして「異なるバックグラウンドの社員が一体となって働く企業文化」の醸成に心を砕く。研究部門に「外部の目」を入れることの重要さが肌身にしみているからだ。イノベーションにより成長力を取り戻すことが急務になっている日本企業にも当てはまる教訓といえる。

【関連記事】ゼロックス、パロアルト研究所を寄贈 Appleなどに影響 』

カースト

カースト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スペイン植民地におけるカーストを描いた図。この語がインドのヴァルナとジャーティにも使われるようになった
差別
形態
属性
社会的
宗教的(英語版)
人種/国籍(英語版)
表現
政策
対抗措置
関連項目

表話編歴

インド哲学 – インド発祥の宗教
ヒンドゥー教
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基本教義
神々
聖典
法典・律法経
学派
宗派
人物
修行・礼拝
関連用語
一覧

ポータルポータル

表話編歴

カースト(英語: Caste[注釈 1])とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ、ヴァルナ・ジャーティ制)を指すポルトガル語・英語だが[1]、インドでは、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ[2]。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる[3][4]。ヒエラルキー。

紀元前13世紀頃に、インド亜大陸を征服したアーリア人が、先住民を肌の色で差別したことからバラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン(僧侶)・クシャトリヤ(軍人)・ヴァイシャ(商人)・シュードラ(隷属民)の4つの身分に大きく分けられるヴァルナとして定着した。さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団であるジャーティへと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、前世の業の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している[5]。

法的規定

インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条により、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、公式にスケジュールド・カースト(指定カースト)と呼ぶ。留保制度により、公共機関や施設が一定割合(平均15 – 18%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている[2]。

なお、インドの憲法が禁止しているのは、あくまでカーストを理由にした「差別行為」であり、カーストそのものは禁止対象ではない。このため、現在でもカーストは制度として、人々の間で受け継がれている[6]。

「カースト」名称の形成

語源

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源を持つ[1]。

植民地主義における呼称

第2階級クシャトリヤの子孫であるラージプート戦士集団(1876年)

15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ[2]。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[7]。インドの植民地化については「イギリス領インド帝国」を参照。

植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[7]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[7]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[7]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[7]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[7]。

ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆる類の共通の出自を指し示しうるものと指摘している[7]。

カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。

ヴァルナ・ジャーティ制

日本国内において、カースト制を、インド在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制が既にそれ自体としての意味を持ってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[1]。

インドにおけるカースト:ヴァルナ

ヒンドゥー社会の原理

「ヴァルナ (種姓)」を参照
ヒンドゥー教の儀式であるヤジナ。炎の中に供物が投げ入れられている(南インド)
バラモン(インドネシア、バリ島)

カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ – varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。カーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる[2]。

一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある[8]。

ヴァルナの枠組み

ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)
    神聖な職に就けたり、儀式を行える。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。

クシャトリヤ
    王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「戦士」とも翻訳される。

ヴァイシャ
    製造業などに就ける。「市民」とも翻訳される。

シュードラ(スードラ)
    古代では、一般的に人が忌避する職業にしか就けなかったが、時代の変遷とともに中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは売買を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「労働者」とも翻訳される。

ヴァルナを持たない人びと

    ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおり、アチュートという。「不可触民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとして、インド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」 (Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年ではダリットの人権を求める動きが顕著となっている。

歴史

発祥
「ヴァルナ (種姓)」を参照

アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由は既にかなり研究されている。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1 – 2階層程度に分けたため、全体で3 – 4の階層を設定した[9]。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している[10]。

他宗教とのかかわり

仏教

紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタ(釈迦)は、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことができたが、5世紀以後に勢力を失っていったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけていき、イスラム教の勃興などから13世紀にはインドから仏教がほぼ姿を消し[5]、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。

インドの仏教は、衰退していく過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやってきた」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれていったと言われる。それは、彼らがヒンドゥーの庇護の下に生活をすることを避けられなかったためである。

インド独立後の1956年より、インド仏教復興運動によって50万人の不可触民らが仏教へと改宗し、仏教徒はインドにおいて一定の社会的勢力として復活している[5]。

キリスト教

イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らは、それぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。

イスラム教

ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し、自由になるのが目的でもあった。

大英帝国の植民地支配時代

大英帝国の植民地以前のインドは、伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていたが、イギリスの植民地支配によって、インド社会のカースト化が進行した。

イギリス領インド帝国の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、国勢調査報告者や地誌はジャーティの序列にしばしば言及し、また、司法は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押し広げていく要因の一つには植民地支配があった[1]。

しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、1919年のインド統治法では不可触民にも議席が与えられた[11]。

イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。

カースト差別撤廃運動

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動が生まれた。

アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティーから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した[12]。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した[12]。

こうした運動はキリスト教の影響下にてカースト差別撤廃を謳ったが、それが唯一の目的というわけでもなかったため、一過性に終わったが、今日のカーストの排除及び廃絶につながっていった。

現代の状況

都市部では、カーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧めたりする人々や運動もある。[要出典]

職業とカースト

武人階級クシャトリアの肖像画
(1835年)

火葬場で働くアンタッチャブルの少年(2015年、ネパール・パシュパティナートにて)
庶民階級ヴァイシャ(1873年)

農業は全てのジャーティに開かれており、したがって、様々なジャーティが様々な形で農業に参加する。種や会社では「カースト」関連の詳細を書類上、欄でさえなくなっていて、法律上も禁止されている。また1970年代以降の都市化、近代化、産業化の急速な進展は職業選択の自由の拡大をもたらし、近代的な工場は様々なジャーティによって担われる。 ここでは世襲的職業の継承というジャーティの機能の一つは、すでに成り立たなくなってきている。

カーストや指定部族を対象とした留保制度・「リザベーション・システム」は、インド憲法にも明確に規定され、インドの行政機関が指定したカーストと指定部族を対象として、教育機関への入学の優先枠が設けられている。国営企業職員の優先就職枠、議会の議席、公務員と、1950年では20%だったものが、93年には49.5%にまで引き上げられた。優遇の対象外の人は、これは逆差別だと反対している。

インド陸軍は、兵士をカーストや信仰する宗教、出身地域別に27以上の連隊として編成している。これは、それぞれの社会集団で団結させ、連隊間の競争意識を高める目的がある[13]。

一方、民間ではタタ財閥やリライアンス財閥等が、インド・ダリット商工会議所 (DICCI) を支援している。

近代産業における新たな差別問題

近代工業における職業選択の自由権は、特に情報技術(IT)産業においてめざましい。電気とパソコンさえあれば誰でもチャンスを得られるため、カーストを問わず門戸を開いている[14]。1970年代には既にアメリカ・シリコンバレーにてインド人ソフトウェア技術者が活躍し、1980年代にはインド本土においてもアメリカ企業の下請け業を安価で引き受け始め、1990年代初頭には、インドが自由主義経済を解放したことにより、それは著しく飛躍を遂げた[15]。

しかし、アメリカにて活躍するインド人IT技術者の間においては、現地にて従事するインド人労働者のおよそ3人に2人がカースト差別を受けていることが2018年、アメリカを拠点とするダリット組織「エクティラボ」の調査にて判明されている[16]。また2020年には、ネットワーク機器大手シスコシステムズにて、上位カースト出身者2名の上司により下位カースト出身のエンジニアが昇進を阻まれたとの訴訟問題へと発展している[17]。これを受けて大手テクノロジー企業Appleは、業界に先んじてカースト差別禁止を就業規則に明示した。またアメリカでは、教育機関においてもカリフォルニア州立大学イーストベイにてカースト差別が問題視されたことにより、同大学およびハーバード大学等複数教育機関が、カースト差別を禁止とした。さらに2023年3月には、カリフォルニア州においてカーストに基づく差別を禁止とする最初の州にするための法案「SB 403」が提出された[16]。

インド本国においても、2000年代半ばに行われた、ベンガルール市にて従事するソフトウェア技術者へのヒアリング調査によると、調査対象者132人のうち、実に48%がバラモン出身者であり、再生族と呼ばれる上位カーストにあたるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャを包括すると、その割合は71%に上ることが判明されている。また対象者の親の学歴は、父親の80%、母親の56%が大卒以上であり、技術者の36%がインド5大都市にあたるデリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、ベンガルール出身とされ、29%がマイスールやプネーなど2級地の出身[注釈 2]であり、農村出身者はわずか5%であることがわかった[16]。

研究者の指摘では、技術者らが留保制度に強く反発しているという事実から[注釈 3]IT産業内部にて出身カーストを問うことを嫌悪する風潮が根強く、正確なデータはほとんど掌握されていない[15]。

しかし、インド人創業者による有名IT企業の多くが、バラモンなどのカースト上位創業者である実情もあり[15]、「IT産業は等しく能力主義で、下剋上ができる」という世間のイメージ通りであるとは言い難い。
選挙とカースト

保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインド経済発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。

児童とカースト

児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子供は、寺院売春を強制されていると国際連合人権委員会では報告されている[18]。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は、下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。

子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が、下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半、インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。

結婚とカースト

インド憲法上、異カースト同士の結婚も認められているが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、見合い結婚が多い。逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとはいえ、現在も一部の大都市でしか見ることができない。

ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として、花婿側へ支払われる金銭を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある[19]。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている[19]。
自殺とカースト

元々カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がるしかなく、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。

だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の自殺者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、というジレンマが発生しているわけだが、信教の自由や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置くことができない、という事実を示唆しているとも言える。

カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっている、というインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は、後手に回っているのが実情である。[要出典]

改宗問題

改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし他の宗教から改宗した場合は、最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力により、ヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。

ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによって、カースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナークシプラム村で不可触民が、抗議の意味も含めてイスラム教に改宗した[12]。また、ジャイナ教やシク教やゾロアスター教では、現実的な影響力や力により、その社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない富裕層に支持されている。

しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件も起こるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した[12]。

こうしたことを背景に、タミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラム教に改宗することを禁止する強制改宗禁止法を制定した[12]。

その後、2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)が、タミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された[12]。

また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる[12]。

なおインドでは、ヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいるので、ヒンドゥー教徒でない事が、必ずしもカースト否定を意味するわけではない[3][4]。

その他の世界のカースト
「en:Caste」も参照

ミャンマー

カレン族(ヤンゴン)

ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている[20]。

ネパール

ネパール・パシュパティナート火葬場で働く隠亡の男性(隠亡はカーストではアンタッチャブルに分類される)

ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは現地の民族の生活と深く結びついている為に複雑であり、2015年のネパール大地震では、上位カーストの家や邸宅は真っ先に建て替えられ、下位カーストの家が後回しにされたという報告もある[注釈 4][21]。

ネパールでは、1854年のムルキー・アイン法によってカースト制度が導入された[22]。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある[22]。

ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は、山岳地帯のマトワリといわれる[22]。

ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている[23]。

バリ島

詳細は「バリ・ヒンドゥー」を参照

マジャパヒト王国の領域

インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。

バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった[24]。

ヤジディ教

中東のクルド人の一部で信じられているヤジディ教は、改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制を持っている宗教である。ヤジディ教のルーツは、数千年前のインドに遡るとする見解がある[25]。

国連人権委員会とカースト差別問題

2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった[18]。

2002年の国際連合人種差別撤廃委員会における会合で、一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別[26]』に関する特別報告を行い、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された[27]。

2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している[28]。 』

ネパールのカースト制の形成についての一考察

ネパール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

ネパールのカースト制の形成についての一考察
飯 島 正
https://core.ac.uk/download/72778858.pdf

『はじめに

ネパールに滞在していると、インドの場合と同様に、人々の生活の各般にわたってカースト制に深く根ざして
いると考えられる生活慣行に直面することが多い。上層カーストの者は特定のカーストに属する者からの水を飲
まないとか、カーストの優劣を主張して特定カーストの者との食事共同を拒否するということも、各階層にわた
ってよく起ることであると聞く。何回かのネパール訪問で、各地を歩き、各層の人々に接する機会を得、カース
卜制に由来すると思われる多くの事態に直面し、それに関する見聞を広めることができた。しかし、その時点で
はネパールのカースト制形成の歴史をたどるという研究に着手することは考えていなかった。筆者がネパールの
カースト制の問題に取り組む直接の契機となったのは、亜細亜大学アジア研究所の「ネパールの近代化に関す総
—53——
合的研究」をテーマとする研究プロジェクトチームの発足であった。同チームは主題に対して人文、社会、自然
の諸科学にわたる各領域からの学際的協力体制でアプローチすることを意図したもので、ー九七六年三—四月に
行われた第一回の現地研究の成果の一部を、共同研究者と共に「ネパールの土地制度と土地改革」と題して、同
研究所紀要第三号(ー九七六年)に報告した。

これはネパールの諸王朝を経て歴史的に形成された伝統的な土地制
度と、ー九五一年のいわゆる「王政復古」後に実施された土地改革に関して論述したものであった。

ネパールの
土地制度は一四世紀のマツラ王朝時代に導入されたカースト制度と密接不可分に関連して形成されたものと考え
られるので、この小論ではネパールにおけるカースト制に視点を集約し,て、その形成の過程を明らかにしようと
•試みたものである、

しかし、ネパールのカースト制も導入の歴史をたどると、インド五千年の歴史とバラモン教、
ヒンズー教の発展の過程にまで関連し、先学の造詣に学びつつ論を進めたが、その成果は甚だ心もとないものと
なった。大方諸賢の御叱声を賜りたくあえて公表した次第である。

ネパ|ルの自然環境と人種的構成

インドとチベットとの間に位置し、東西に細長いー四万平方キロメートルの国土に、約ー二00万の人々が住
むネパールは、地形的、気候的な自然環境がきわめて複雑であり、長い歴史の過程でこの国土に移り住んだ人々
の人種的、言語的、宗教的な構成もまた多様である。

地形的にはネパールの国土はインドと国境を接する標高ー〇〇メートル前後のffi地から八〇〇〇>!トルをこ
——54—
不パールのカースト制の形成についての一考察
すヒマラヤ山脈までの標高差があり、この標高差と夏のインド方面からの南西モンス—ンと冬のチベット方面か
らの二つのモンスーンとにより、気候区分も亜熱帯から温帯、亜寒帯、寒帯へと多様な変化を示している。

この
ような自然環境に対応して人々が生活する地域は、一般に南から北にほぼ垂直的に、タライ、山地、高山地の三
っに区分される。
タライ地域はインドとの国境のガンジス平原から平均標高一五〇〇メートルのシワリーク(SIWALIK) 丘陵南
側までの間に約二〇—四五キロメートルの幅で東西にのびているタライ(TARAI)と、シワリーク丘陵と標高三
000 メートル前後のマハバーラト(MAHABHRAT)山脈との間の盆地である内部タライ(INNER T ARAI)とから
なる。

タライの平均標高は二〇〇メートル前後であり、内部タライの標高六〇〇>!トル以下の地域がこれに含
まれる。年間降水量はタライ一四〇〇ミリ、内部タライ一七〇〇—二四〇〇ミリ前後で、ともに亜熱帯性気候で
ある。

国土面積の二三%、総人口の三七•六%を占め、インド型の水田稲作を中心とする農業地域である。

山地地域はマハバーラト山脈からヒマラヤ山脈に接するネパールの中央部で、これには標高の高い内部タライ
の一部も含み、平均標高は六〇〇—ニ〇〇〇メートル前後で、国土の四四・一 %、人口の五二•五%を占めてい
る。

地形的には多くの丘陵、盆地、渓谷が複雑に入り組んでおり、気候的には標高差による変化があり、ーーー〇
〇メートル以下は亜熱帯、ニ〇〇〇メートルまでが暖温帯である。

夏の南西モンスーンによる雨量も多く、亜熱
帯ではネパール型の水田稲作、暖温帯では水田稲作とトウモロコシなどを主作とする農業地域である。

この地域
は地味も豊かで農耕に適しており、人間の生活の場としても他地域より快適であり、ネパール人の生活の主要な
場となってきた。古くから政治、経済、文化の中心となったカトマンズ盆地やポカラ盆地もこの地域に含まれる。

—55—

高山地地域は山地地域の北側からヒマラヤ山脈、チベット高原の南縁をなす地域までを含んでいる。ヒマラヤ
山脈の北側には内部ヒマラヤ(inner Himalayas)と呼ばれる二四五〇〇〇メートルの谷間があるが、東
部ネパールではヒマラヤ山脈の分水嶺と国境が大体一致している。

しかし西部ではネパールの領土がヒマラヤの
主嶺をこえてチベット高原の一部にまで及んでいる。ヒマラヤの南側は南西モンスーンによる降水量は多いが、
気候的には標高差により大体二000 —二五〇〇メートルが温帯、ニ五〇〇|三〇〇〇メートルが冷温帯、三〇
〇〇—五五〇〇メートルが亜寒帯で、それ以上が雪線で寒帯となる。

したがって農業の形態も標高が上るにつれ
て耕種型から牧畜型に移行する。

温帯ではトウモロコシ、シコクビエ、ソバ、室、大麦などの雑穀を、冷温帯
では小麦、大麦、ソバ、バレイショなどを栽培し、それに高度が二〇〇〇・メートルをこえると水牛に代ってヤク
と、ヒマラヤ牛とヤクとの交配種であるゾー (DS)が農耕、乳用および物資運搬用に飼育され、さらに三二〇〇
メートル位までには山羊が多く、それ以上の高度で羊が多く飼育される。

内部ヒマラヤおよび三〇〇〇 —五〇〇〇>!トルのチベット高原では南西モンスーンによる雨量が少ない乾燥
地帯であり、夏が短かく冷涼なので大麦、小麦、ソバ(ダッタンソバ)、バレイショなどが栽培されるが、ヤク、
羊、山羊、ゾーなどのチベット的な牧畜に重点がおかれている。

高山地地域は万年雪をいただく高山があり、農業および牧畜のための自然的条件も厳しいので、国土の三二・
九%の面積を占めているが、人口は九•九%にすぎない。

このような地理的な位置と自然的条件により、ネパールの人種的、言語的、宗教的な構成には、隣接のインド
およびチベットからの影響が色濃く反映されており、これら二つの文化圏からネパールに住みついた人々は異つ
-56—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
た生活様式をもっており、しかもネパールの交通不便な自然条件に制約されて、かなり地域別、高度別ないしは
山系、河系別に孤立的な生活圏を維持してきた傾向が強い。

例えばインド系とみられるネパール人の生活圏の上
限は稲作の上限である標高二〇〇〇メートルまでの暖温帯とほぼー致し、それ以上の高度になるとチベット系と
みられる諸部族のチベット高原的な牧畜型を主体とする農業に重点が移行する。

また、これら両圏系および原住
民とみられる諸部族が、複雑に入り組んだ生活圏をもっている山地地域では、ヒマラヤ前山山脈の山系、河系別
に分布し、さらに傾斜面別に異った部族が分布していることがある。

それゆえ、次にこれらの諸部族の地理的分
布状況をみることにしよう。

インドと国境を接するタライ地域には、隣接するインドのビハール(Bihar)州やウッタル•プラデシュC
TTAR ・PRADESH)州と同様の生活様式、言語をもった多<.のインド系ネパIル人が住んでおり、ヒンズー教カ
—スト社会を形成している。

ネパールの総人口のーニ%がマイティリ語(MAITHFIJ、六・ー %がボジプリ語
(BHOJPURI)、四・八%がアワド語(AWADHI)を話すが、そのうち東部タライの人口の五ー %がマイティり語、二六

  • 一%がボジプリ語、四・一%がアワド語を話し、中・西部タライの人口の九〇%と極西部タライの人口の三一
    2)
    •八%がアワド語を話すと報告されている。

タライ平原にはこの他にインド系ネパール人でもなく山地民でもな
いネパールの原住民とみられるタルー (THARU)族が、極西部タライを中心にタライ全地域に分布し、農業、狩
猟などに従事している。

モンゴロイド系で、独自の生活様式をもち他の部族との接触の少ないタルー族は、ネパ
—ルの諸部族の中で皮膚の色が最も黒いということもあり、ネパールのカースト社会からは低くみられている。

ネパールでタルー語を話すものは四・三%であり、そのうちの六二・八%が極西部タライ、五•九%が中・西部
-57—
(3)
タライ、四・〇%が東部タライに住んでおり、タルー族の人口は五〇万人前後と推定されている。

タライ地域、とりわけタルー族の生活圏のような森林地帯はマラリヤ、フィラリヤなどのような悪疫が猛威を
ふるい、容易に人々をよせつけなかったが、ー九五〇年代に国連WHOおよびアメリカの援助でマラリヤ撲滅対
策を講じて以来、山地民のタライ地域への入植者が増加している。

特に「山からタライへ」のスローガンのもと
に政府が入植事業を推進したこともあり、政府の援助で計画的に入植したところでは道路、学校、病院なども整
備され、ネパールで初めての協同組合が設立され、同国では珍しいカースト制度をのりこえた社会.をつくってい
(4)
るといわれる。

山地地域には多くの部族が分布している。この地域に住む人々はネパール語でパハリヤ(PAHARIYA)と総称さ
れ、パハリヤ・グループのもっとも大きな民族集団がネパール的ヒンズー教徒であり、人種的には多くの部族を
包摂し、カースト社会を形成している。

ネパールのヒンズー教徒の力}ストはインドのカーストに比較すると中
間カーストが少なく、山地地域の村落でも、上層カーストとアウトカースト的な下層カーストからなっている。

上層カーストはブラーマンのネパール口語訛といわれるバウン(BAHUN)、クシャトリヤと同じチェトリ(CHHE
TRI)、クシャトリャ格のタクール(Thakur)などであり山地地域では主に農耕に従事している。現王家はタク
—ルのシハヤ(SHAH)氏族出身である。下層カーストを構成するのはカミ(Kami—鍛冶職)、ダマイ(DAMAII仕
立職)、サルキ(SARKI—皮革、木工職)などの職人カーストである。

このヒンズー教徒カースト集団は山地地域を
中心に全国的に分布している。国教であるヒンズー教徒はネパールの人口の八九•四%とされており、ヒンズー
教徒社会の言語を母体とするネパール語(Nepali)を使用するものは、ー九七一年人口センサスの母語別人口で
-58—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
は全人口の五二・五%の六〇六万人であった。

ヒンズ}教徒カーストを構成するものがネパール最大の民族集団
である。

山地地域にはこの他に、東から西にリンブー族(L1MBU)、ライ族(RAI)、スンワル族(SUNWAR)、マガール族
(MAGAR)、ネワtル族(NEWAR)、タマン族(TAMANG)、グルンK(GURUNG)、タカリI族、THAKALI)、などのネ
パール土着民とみられる山地諸部族が、一般にネパール的ヒンズー教徒よりも標高の高いところに分布している。

ネパール東部のアルン(Arun)川の東、タムール(TAMOR)川流域の山地にリンブー族、その西側アルン川以
西、ドウード・コシ(DUDH—KOSI)川流域にかけてライ族、その西のタンバ・コシ(TAMBAIKOSI)川流域にス
(5)
ンワル族が分布している。

ネパ–ルの神話、伝説やインドの「マヌの法典」(第十章、四五)にもキラータ(Kira,
TA)という部族が登場するが、それがネパールのどの部族にあたるかは不明である。しかしネパールで現在キラ
ンティ(KIRANTI)と呼ばれるものにリンブー族、ライ族が含まれている。ライ族もリンブ族もキパット(KIPAT)
と呼ばれる共同体的土地所有の形態をとり、それがシャハ王朝による全国統一の際も土地制度として容認されて
きた。

リンブー族、ライ族、スンワル族はともにチベット・ビルマ語系のリンブー語、ライ諸語、スンワル語を
使用し、その母語別人口はリンブー語、一七万人、ライ諸語、二三万人、スンワル語、二万人であった。

宗教的に
はリンブー族もライ族もそれぞれ固有の土着信仰をもっているが、仏教、ヒンズー教0影響も強く受けている。

スンワル族はラマ教とヒンズー教の双方の影響を受けており、後者が増加しているといわれる。

ネパール中部のカトマンズ盆地を中心にネワール族、その周辺から北方山地にかけてタマン族、その西からア
ンナプルナ(Annapurna) 連峰にかけてグルン族、アンナプルヂとダウラギリ(DHAULAGIRI)両峰の谷間である
——59一
タコ}ラ(THAKOLA)地方にタカリー族、さらに力リ•ガンダキ(KAL1—GANDAKI)川流域から西部ネパールに
かけてマガール族およびその他の少数部族が分布している。

ネワール族はネパールの歴史の過程において常に政治、経済、文化の中心であったカトマンズ盆地とその周辺
に住み、諸王朝の変遷、チベット、インドの両文化の影響を受けつつも独自の文化を維持してきた。

ネワール族
の母語はチベット•ビルマ語系のネワールZEMRI)語であるが、その文字はデヴァナガリ(ネパール語、サンス
クリットと同じ)で、それを話すものは全人口の四%、約三八万人と推定されている。

宗教は仏教徒とヒンズー教徒
とに分けられるが、両宗教はかなり融合して共存している。

ネワール族はかってネワ}ル文化を開花させ、現在
のカトマンズ、バドガオン、パタンにみられる寺院、宮殿などの建設の担い手となり、国外にも工芸技術で進出
した歴史をもっているので農業のほかに工芸、商業その他の各方面に進出しており、ネワール社会にはブラーマ
ンから清掃夫(HALHLU)にいたる二六のカーストがあるといわれるが、カースト間の蕾も或る程度認められて
(6)
いる。

タマン族、グルン族、タカリ・・族、マガール族の母語であるタマン語、グルン語、タカリ・・語、マガール語も
共にチベット・ビルマ語系の語群に属し、人種的にはモンゴロイド的特徴をもっている。
そのうえ、各部族はそ
れぞれ独自の、しかも山地地域の諸部族に共通するシャーマニズム的な土着信仰とラマ教、ヒンズ}教などと重
層信仰をしており、これらの諸部族の起源はかなり近縁の関係にあるものと考えられている。

これらの部族のう
ち人口五六万のタマン族、一七万のグルン族、二九万のマガール族が主として農業に従事しているのに対して、
人口わずかに数千のタカリー族は農耕牧畜も営むが商業活動で知られる部族である。

かつてはインドとチベット
—60—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
との中間点にあって商業に従事し、チベットとの貿易を掌握して、チベット側から牧畜生産物、岩塩などを輸入
し、ネパール側から穀類、油、紙、布、食器などを輸出していた。

タカリー族の商法はネワール族の「小商人的」
■ (7)
な方式と対比して、「問屋商人的」であり、欧米の近代資本主義的なセンスに通ずるものがあったといわれる。


かしチベットとの貿易が閉鎖され、タカリー族の商業活動も大きな転換を余儀なくされている。

高山地地域に住むのはネパールでボティ(BHOTE)またはボティヤ(BHOTIYA)と呼ばれるチベット系ネパール
人が中心となる。高山地地域でも標高二〇〇〇—二五00 メ|トルの温帯までは、前記のようなネパール土着の諸
部族が定着しているが、それより標高の高い冷温帯以上の地域はいわゆるボティ族と呼ばれる人々の生活圏となる。

ヒマラヤ登山の補助者として有名なシェルパ族(SHmRPA) •は東部ネパールのドウード•コシ川の上流、エベレ
スト山麓付近の高山地地域を中心に生活圏をもっているチベット系の部族である。シェルパ族の生活圏の下限は
標高二五〇〇>1トル前後でライ族、タマン族などと接している。シェルパということの意味がチベツト語のS,
HARVA (東方の人)すなわち首都であったラサ(L HASA)より東に住む人々ということに由来し、最初に定着し
たソル•クンブー (SOLU—KHUMBU)もSHAR—KHUMBUに由来するといわれるように、シェルパ族は言語、
(8) 3
文化、宗教などの各方面でチベット的な生活様式をとどめている。

その使用するシェルパ語(SHERPALI)もチベ
ットの一方言であり、シェルパ族のほとんどはラマ教徒である。

また、シェルパ族のほかにヒマラヤ山脈の北側やチベット高原のネパール領でヤク、ゾー、羊などの遊牧ない
しは放牧的な飼育をし、短い夏を利用して大麦、小麦、ダッタンソバ、バレイショなどの農耕に従事するチベッ
卜人がいる。シェルパ族をふくめてチベット語を話すボテ族の人口は約八万人である。
—61—

このようにみてくるとネパールでは、標高の低いタライ地域にインド系ネパール人、ついで山地地域ではネパ
—ル的ヒンズー教徒グループ、それより高標高地にネパール土着の諸部族が東西に分布し、冷温帯以上にボティ族
というように、かなり截然と部族的に垂直的な分布をして、それぞれの生活圏を形成している。

とはいえ、これ
らの諸部族がすべて孤立的な生活圏を形成しているわけではなく、諸部族の混住は各地に存在する。

ヒンズー教
がネパールに伝えられ、ヒンズー教徒のカースト社会が形成されるにつれて、これとのかかわりをもつ部族も多
くなってきた。

とりわけイスラム勢力のインド侵入により、難をのがれてラージプート系の貴族、武士階層とい
われるもの達がネパールに入って定着し、やがて諸部族を従えて西部ネパールから中部ネパールにかけて多くの
土侯国をつくる。

これらの土侯の中で全国を統一したのがゴルカ土侯であった現シャハ王朝である。シふ八王朝
の成立と同時にヒンズー教が国教と定められた。全国統一後は家臣、土侯などに封土が行われ、十九世紀
中葉から約一世紀のラナ・(一 Rana)将軍家による治世下では、その一族に連なる者などに荘園的なビルタMIR,
\ (9)
TA)の交付が盛んに行われた。

このような過程でヒンズー教徒はさらに各地の諸部族の生活圏に入り、農業を生
業とするバウン、チェトリ、タク–ルは各村落段階で地主ないしは富農となり、下層の職人カーストとともにヒン
ズー教徒のカースト社会を形成し、本来カースト社会の枠外にある諸部族の構成員も、ヒンズー教徒カーストと
の関連で、上層カーストと下層職人カーストとの中間的な存在として位置づけられるようになったものと考えら
れる。

現在、ネパールの多くの地域で、少数の上層カーストと職人カーストおよび諸部族との混成で村落を構成してい
いるケースがみられるのは、このような経過をたどったものであろう。
—62—
ネパールのカースト制の形成についての一考察

では次に、ネパールのカースト制度の形成に大きな影響を与えたと考えられるインドにおけるカースト制の形
成の過程をたどることにしよう。

インドにおけるカ|スト制の形成

インドにおけるカースト制は、インド亜大陸へのアーリア人の侵入、その先住民のドラヴィダ系諸種族の征服、
定着、統治の長い歴史の過程で形成された社会構造と、その社会生活に深く根ざしていたバラモン教、ヒンズ—
教の体系化と密接に関連して形成されたものであろう。

中央アジアで牧畜生活をしていた種族あるいは西アジアの狩猟民族であったともいわれるアーリア人が、イン
ド亜大陸へ最初に移動を開始したのは紀元前二000年頃といわれる。この時点でモヘンジョ・ダー ロ (MOHE,
NoDARO)やハラッパー (HARAPPA)その他の遺跡が示すようにインダス河流域とその周辺の広範な地域に、整
然とした都市計画による舗装道路、排水施設、食糧倉庫や強固な城壁を持つ都市国家を建設し、諸都市間を結ぶ
商業、交通網をもったインダス文明がすでに開花していたと考えられている。

インダス文明はモヘンジョ・ダー
口やハラッパーなどの遺跡、出土品からその年代は紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇年前後と推定されている。し
かし、インダス文明についてはいまだに解明されていない部分が多く、この文明の担い手となったのはどの種族
であり、どのような要因で崩壊したかについても不明な点が多いが、その後この地域に侵入したアーリア人に
よる最古の文献であるリグ・ヴェーダ (RGVEDA) の記述により、先住民がドラヴィダ語系種族とムンダー語
—63 一
を使用するコール族などであり、またアーリア人の先住民との戦記に多くの都市城塞、堡塁を攻撃した記述が
あるので「インド•アーリアン人の侵入がインダス文明を滅亡に導いた直接の原因であったことを暗示するかと
(10)
考えられる」とされている。

紀元前二〇〇〇年頃から、いくたびかにわたってインド亜大陸に侵入したアーリア人が、先住民族と戦い征服
しつつ版図を拡大し、紀元前一五〇〇年頃にはパンジャーブ地方に定着して農耕牧畜の生活を確立し、さらに紀
元前一〇〇〇年頃にはガンジス河流域に進出して、やがてアヨーディヤー、ラージャグリハ、シュラーヴァステ
イー、ヴァイシャーリーなどに都市国家を建設していった。

或る時は異民族と戦い、また或る時はアーリア人が
互に覇を競い、王が王を従えて「諸王の王」すなわち帝国の統治者となった。

紀元前六世紀頃になるとガンジス
河流域を中心に「一六王国」があったといわれるが、これらの王国はマガダ国(王都はラージャグリハからパータ
リプトラに)、コーサラ国(アヨーディヤ—J アヴァンティ国(ウッジャイン)、ヴァツァ国(コ”・サンビー)の四国
に統合される。

これらの四大国のなかでもマガダ国が強大になる。その間、紀元前六世紀から五世紀にかけてペル
シアのアケメネス朝の軍がインダス河流域に侵入し、ガンダーラ地方も支配下にいれ、さらに紀元前四世紀には
マケド・ニアのアレキサンドロス王もアケメネス帝国の征服を目的にインドに遠征 箭三二七—三二五年)するなど
外部勢力のインド亜大陸への侵入があった。

しかし、マガダ国マウリヤ朝の開祖チャンドラグプタ王(CANDRA,
GUPTA)(前三ニー年即位)は西北インドからギリシャの勢力を一掃して、王国の版図をヒマラヤ山脈からベンガ
ル地方にまで拡大し、さらに、その孫アショカ(aoo’oka)王(前二六八年即位)は東南インドのカリンガ国(現在
のオリッサ地方)を征服して、北インドから南インドにおよぶ古代インドの一大帝国が形成された。
——64——
ネパールのカースト制の形成についての一考察

このような歴史のプロセスでアーリア人を中心とする古代インドの社会Bgや人々の生活を律するバラモン教
の諸聖典の体系化が行われた。

アーリア人がインドに定着するようになったときに、すでに自らの司祭、予言者を持ち、種々の祭式と神学的
(n)
な神聖な伝承をもっていたといわれる。

それがインドにおけるアーリア人の歴史の進展とともに累積され、®大
な文献に集大成された。これがヴェーダ(VEDA)である。

「知る」を意味するヴィツド(VID)を語根とするヴェー
ダは知識、 とりわけ宗教的な神聖なる知識を意味し、 その知識を集成した聖典の総称となった。

したがってヴェ
—ダ文献は神々の讃歌から歌詠、祭式儀礼、叙事詩、叙情詩などにおよぶ広範な内容をもっており、最古の文献
といわれるリグ・ヴェーダは、そこに記述されている事柄からみて紀元前一五〇〇年—ニー〇〇年頃にパンジャ
(2)
—ブで作られたものと推定されている。

このような広範な内容をもつヴェーダ文献は、基本的には宗教文献であり、祭式に関連して発展してきたもの
であるから、祭式儀礼を分担する祭官の職分により、㈠リグ・ヴェーダ (KGVADA)は讃歌の集成で、神々を祭
場に招き、讃誦する祭官ホートリ(HOTR)に属し、㈡サーマ・ヴェーダ (SAMAVEDA) はリグ•ヴェーダの詩
節を旋律にのせて歌詠をするウドガートリ(UDGATR)祭官に、㈢ヤジュル・ヴェーダ (YACRVEDA)は祭祀実
務を担当し、供物を神に捧げる祭官アドヴァリウ(ADHVARYU)に、さらに、後に第四ヴェーダの地位を得た除
災、招福などの呪法に関する、㈣アタルヴァ•ヴェーダ (ATHARVAVEDA) は祭式儀礼全般を統轄するブラフ
マン(brahman)祭官に属するもの、という四種に分類される。

これらの各ヴェーダを構成する要素は、次の四部門に分けられる。
—65—

㈠はサンヒタ} (SAM HIT A)と呼ばれる各ヴェーダの基本部分で、マントラ(MANTRA) —讃歌、歌詠、祭詞、
呪法の集録であり、a常、ヴェーダという場合、このサンヒター(本集)を指す。

㈡はブラIフマナ(BRAHMANA)で、第一部門に付随する文献であり、祭式に関する規定のヴィディ(VIDHI)
と、祭式の神学的解釈を主とするアルダ・ヴァーダ(ARTHAVADA)とに区分される。

㈢のアーラニアカ(ARANYAKA)は秘密の祭式や教義を説くもので、人里を避け、森林の中で伝授されるべきも
のとされる文献である。

㈣のウパニシャッド(UPAN栃AD)は宇宙万有にわたる哲学的文献であり、ヴェーダの最後の部分を形成する
ので、別名をヴェーダーンタ(Vedanta)と呼ばれる。

またこれらの文献がシュルティ 希RUTI)、すなわち天啓の書—リシ仙)が神秘的霊感によって、感
得した天の啓示の聖典であるのに対して聖賢の叙述であるスムリティ(SMRTI)と呼ばれる文献がある。六種の
ヴェーダの補助文献や、インドの二大叙事詩マハーバーラタ(MAHABARTA)とラーマーヤナ(.RAMAYA-ZA)、マ
r2)
ヌの法典 (manu,smkti)、ヤージュニヤヴァルキアの法典(yajnavalkyfsmfti)などがある。

インド亜大陸でのアーリア人の定着生活が進むにつれてアーリア人の社会での職能上の分業も進み、リグ・ヴ
エーダ末期の讃歌には四階級の分化についての表現がでてくる。プルシャ(原人)の歌(一〇・九〇)の「ーー、
プルシャを切り分かちたるとき、いくばくの部分に分割したりしや。その口は何に、その両腕は何になれるや。
その両腿は何と呼ばるるや。」、「ーニ、そのロはブラーフマナ(バラモン・祭官階級)となりき。その両腕はラー
ジャーー ア (王侯 ・武人階級) となされたり、 その両腿はすなわちヴァイシア (庶民階級)、両足よりシュードラ (奴
—66—
不パールのカースト制の形成についての一考察

(4)
婢階級)を生じたり。」とある。
ヴェーダ讃歌の叙述がそのまま史実に照応するものと考えることはできないとしても、アーリア人の内部に政
治を司り軍隊を統卒する王侯貴族、祭祀、祭式を執行する祭官、農業牧畜、工芸などに従事する庶民という社会
的な分業が進み、さらに、これらに仕える被征服者やこれと通婚した者などによる奴婢という社会的な区分が進
み、それに血統、家系の保持という目的とあいまって、リグ・ヴェーダ末期には、すでにブラーフマナ、ラージ
ャ-ーア(後のクシャトリア)、ヴァイシア、シュードラという階級の分化がかなり進んでいたとみることができよ
う。

インド古代社会において階級に相当する名称は「色」を意味するヴァルナ(VARNA)であり、「皮膚の色」の白
いインド・アーリア人と、アーリア人と戦った黒色低鼻でリグ・ヴェーダでダーサ(DASA|悪魔、野蛮人、後に奴
»を意味する言葉となる)と呼ばれた先住民とを区別し、それゆえブラーフマナ、ラージャニア、ヴァイシアの三
(15)
階級とシュードラ階級とは当初から一線を画する階級観念から出発したものと考えられている。

他方、前記の四
階級は明らかに職能的な類別でもあるので、古代インド社会における社会構成の階級的類型を示すヴァルナ制は、
征服者、被征服者という人種的な要因あるいは種姓の区別が根底にある職能的階級区分により形成されたものと
いえよう。

その後、インド・アーリア人の定着生活が進み生活領域が一層拡大されるにつれて、アーリア人と先住民との
混血や、四ヴァルナ間の雑婚が増加するようになると種姓をあらわすヴァルナとは別に、本来「出生」を意味し、
バラモン教の諸聖典では正当でない結婚による出生を意味するジャーティ(JATI)が雑種カーストを表わす言葉
——67—
として使用されるようになり、このヴァルナといわれる部分とジャーティといわれる部分との複合によってイン
(6)
ドのカースト制が成立したものと考えられている。

このようにインドのカースト制は征服、被征服によるヴァルナの区別とヴァルナ相互の雑婚によるジャーティ
という血統的区別の上に、宗教的な貴賤、浄、不浄、禁忌や職業的な区別とその世襲化などの諸要因と、社会経
済の発展にともなう職業の分化によるカーストの細分化が進み、その後三〇〇〇にもおよぶ副カーストが存在す
るといわれるようになったものと考えられる。

それゆえにインドのカースト制の著しい特色は族内婚を厳守する
という原則である。

前述のようにヴァルナ制もジャーティ制も血統、家系の保持という目的から出発したもので
あり、いかなる者も同一のカースト内で配偶者を選択しなければなちない。

その場合、同じゴートラOOTRA—
共同家族)内とサピンダ(SAP-ZPA—父系では七代、母系では五代以内の親族)間では結婚できないので配偶者の選
択の範囲はさらに限定される。

このような同一カーストでの族内婚のうえに、各カーストの職業を世襲する義務
があり、また、カースト間の交際や食事などに関する多くの禁忌を成立させている。

しかしながら、古代インド社会ではカ・-スト制も後に完成されたような厳格なものではなく、カースト間の雑
婚も多く、職業の世襲制もゆるやかなものであったと考えられる。

前述のように、紀元前四世紀に古代インドの一大帝国を形成したマウリア王朝時代の社会構成について、中村
元氏は「人間の共同行動の諸様式についてみるに、当時の人々はカーストによる結合形式を示していない。イン
ドの社会は古来バラモン・クシャトリャ・ヴァイシア・シュードラという四つの階級の区別が確立していると従
来一般に信ぜられている。

しかしそれは現在残っているバラモン教の文献にもとづいて、そのように考えるので
-68—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
あって、アショカ王詔勅をはじめマウリヤ王朝時代の、年代のほヾ判明した諸碑文によってみると、四姓制®
(7)
の片鱗さえも認められない。

故に四姓の制度はマウリヤ王朝時代には公には行われていなかった。」とされている。

さらに当時の文献「カウティリヤ実利論」(ARTHA或STRA)とギリシャ人メガステネース(MEGASTHENES)の
「インド見聞記」における職業、階級についての記述を比較検討される。

「カウティリヤ実利論」はマウリヤ朝の
開祖チャンドラグプタ王の宰相であったチャーナキヤ(CANAKYA別名をカウティリャKAUTFYA)の著作である
とされる政治、経済に関する書であり、メガステネースはギリシャの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派
遣され、王都パ}タリプトラ(現パトナ)に滞在した。

その体験から記された「インド見聞記—インド誌」の断片
がギリシャ、ローマの他の著作に引用された資料として残されている。

メガステネースの伝えるインドの階級は
哲人、農夫、牧人、職人と小売商、戦士、監察官、顧問官(高級官吏)の七種類であり、各職業間に厳重な区別、
疎隔がありカーストの観念に近いものであることを述べ、しかもインド人はすべて自由人であり奴Bなるものは
存在しないとしており、バラモン教一般で認める四姓(種姓)と一致しない。

第一の哲人はバラモン(brahma,
•ZA)、シャモン(SRAMANA)に相当するが、第二の農夫、第三の牧人、第四の職人と小売商人階級についてはバ
ラモン教文献の中の一つの階級に比定することはできない。

「実利論」ではヴァイシアの職業として農耕(KRSI)牧
畜(PASUPALYA)と商業(VANIJA)があげられ、シュードラの職業に実業(VARTTA)と手工業(KARU)と遊芸
(KUりLAVAKARMAN)とがあり、実業は耕作、牧畜、商業にはヴァイシアもシュードラとも従事しているのである
から、メガステネースの一つの階級をヴァイシアやシュードラに、さらに第五の戦士、第六の監察官、第七の顧問
官の階級もバラモン教の一つのカーストに比定することはできない。

メガステネ}スの記述に対応して七種類を
—69—
まとめているインドの文献は見当らないとし、それに近いものとして、メガステネース以前、したがってマウリ
ヤ王朝以前の社会的事実を反映していると考えられる佛典スッタ二パータ(SUTTAMPATA)にある次の職業をあ
げておられる。農夫(KASSAKA)、職人(SIPPIKA)、商人)、傭人(PESSIKA)、盗賊(CORA)、武 士 (YO,
dhahva)、祭官(YZAKA)、王(RAJAN)である。中村氏はこれとメガステネースの区分を比較し、スッターーパー
タの農夫は農夫と牧人に、職人と商人は職人と小売商に、武士は戦士、祭官は哲人にそれぞれ対応し、傭人は統
一国家の特殊任務をもった傭人であり、盗賊を職業の如くみるのは奇異であるが、マウリヤ王朝成立以前の社会
的混乱を反映しており、それまで支配階級であった王族が同王朝成立後、高級官吏に転化したものとみている。

しかし、パータリプトラに駐在してバラモンとも交り、その教説を聞いていたのは疑いない事実と考えられる
メガステネースが、バラモンの伝統的な四姓説を述べないで、前述のような全く別種の階級区分を記し、再生族
とシュードラの区別、アーリア人と«民の区別にも言及していない。

それらのことから「マウリヤ王朝時代には
四姓の制度は公(国家的)には認められていなかった。:•ただし、バラモンは依然として四姓制度の観念を固守
していたと思われる。だからマウリヤ王朝の統一的官僚国家が崩壊して、徐々に世襲的階位を重んずる国家が成
18″)
立するにつれて、バラモン教の四姓の観念も次第に社会的に復活するに至った。」との見解を示されている。

他方、バラモン教、ヒンズー教の聖典ではその後、カーストの観念とその規制はますます強化されてくる。


元前二〇〇年—紀元後二〇〇年頃に作られ、ジャスティティ・マッラ王がネパールにカースト制を導入する際に
依拠した、とされる「マヌの法典」ではそれが極めて厳格に規定されている。

インドで法典という場合のダルマ
(dharma)すなわち法というのは今日の法律という観念よりも広義であり、それには宗教、道徳、習慣をも包含
-70-
不パールのカースト制の形成についての一考察
するものであった。全篇ニー章、ーー六八四条からなる「マヌの法典」も宇宙万物の創造から、アーリア人がー
生を通じて行うべき種々の儀式(ーニ浄法)、民法、刑法的規定、種姓の義務や讀罪などにおよび、最後に輪廻、
業界、解脱に至るという広範な内容をもったサンスクリット語韻文で書かれた法典である。

人類の始祖マヌの託
宣に基づいて聖賢が叙述したという形式をとる同法典では、四種姓の義務および職業を次のように定めている。

「バラモン、クシャトリャ、ヴァイシャ、シュードラに、各々業(義務)を定めたり、バラモンには(ヴェーダの)
教授と学習、自己又は他人のための行祭、布施を興え、又受くることを定めたり、クシャトリャには、人民の保
護、施與、供犠、(ヴェ—ダの)学習、及び感覚的対象に対する無執着を指定せり。ヴァイシャには牧畜、施與、
供犠’ヴェーダの)学習、商業、金銭の貸與、及び土地の耕作を指定せり。されど主宰神は、これらの(他の)三
(9)
種姓に甘んじて奉仕すべき唯一の職能を、シュードラに命じたり。」(第一章、八七—九一)。

しかも上位の三階級は
再生族 (DVIJA)すなわちバラモンについて入法し、ヴェーダを学んで第二の誕生をするのに対して、第四のシュ
—ドラは一生のものであり、第五の種姓はない、と規定している(第十章四)。

一生のものであるシュードラ階級
はヴェーダの学習も、読誦をぬすみ聞くことも許されない。「シュードラに教訓を與うること勿れ。或は残食を、
或は神に供えられたる(食物の残余)を與うる勿れ。(かかる者に)法を説く勿れ。誓戒を課す勿れ。なんとなれば
(シュードラに)法を説き、或は誓戒を命じたる者はそのシュードラと共にアサンヴリタと呼ばるる地獄に堕つ
(M)
ればなり。」(第四章、ハ〇—八ー)と規定している。

このように同法典は四階級の区分を明確にし、結婚、職業を
はじめ人生全般にわたって、前述のようにアーリア人がその生涯を通じて遵守すべき義務や諸行為に関する法体
系として集大成された。
-71-

このようなバラモン教の諸文献にみられるヴァルナ(種姓)を中心とするカーストの観念に、さらに出生に由
来するジャーティの要素に職業的区別をも加えたカースト制が、広くインド社会の各層各般に定着するようにな
るのは、その後のヒンズー教の拾頭とヒンズー諸王朝の登場によるものであろう。

前述のようにアーリア人がインドに定着するようになったとき、司祭者をもち、数々の祭式や神学的な伝承を
もっていたといわれる。

その宗教観は自然界の構成要素、現象、その背後にあると想定される支配力を神格化し
て崇拝の対象としたものであったが、神話の発達とともに、自然現象で想定された神々が擬人化され、リグ•ヴェー
(幻)
ダに登場、天、空、海の三界に配分された神々の数は三十三とも三千三百三十九ともされている。

これらの神々
の讃歌と祭式を主体に発展してきたのがバラモン教である。その後、アーリア人の定着、先住民との接触が拡
大し、両者間の雑婚による人口が増加するにつれて、アーリア的文化と先住民のドラヴィダ的文化との混合
(SYNCRETISM)が進み、この混合の過程では、インドの歴史家コーサンビーが述べているように「スカンダやガ
ネーシャがシヴァの息子となったように、神々の複雑な家が形成され:::神と神の結婚の背後には異なった神々
を信仰する人々の間の結婚の制度がおこなわれていたし、それ以前に、別々でそのうえ対立していた崇拝者たち
が社会的に融合することがなければ、神々の結婚は不可能であったろうし、そして新しいジャーティ•カースト
は結合した社会における経済的地位とほぼ一致する身分が与えられた。」といわれる相互の文化的、社会的変容を
もたらすことになった。

アーリア的文化の要素が先住民の信仰、風俗習慣と混合し、融合する長い歴史の過程
で、バラモン教は「およそ一般に宗教的といわれる一切のものを包容して、深遠な哲理を説く体系から最も原始
(3)
的とみなされる素朴な庶物崇拝までのあらゆる相を」包摂するヒンズー教へと発展した。
—12—
不パールのカースト制の形成についての一考察

ヒンズー教の聖典プラーナ(PURANA)の最も古いものは西暦二七五年頃であるといわれるが、その後、十三世
紀の初頭にイスラム王朝が誕生し、次々にインドを席捲する以前に、インド各地に成立したヒンズー王国の身分
制度と密接不可分に結びついて、カースト制がより一層複雑に固定されたと考えられる。
以上のような形成のプロセスをたどったインドのカースト制が、どのような経路でネパールに導入されたかは
明らかでない。

恐らくヒンズー教のネパールへのかなり緩慢な伝播でカトマンズ盆地に勢力を伸長し、次いでイ
スラム勢力のインド侵入に難を逃れてヒンズー教徒がネパール各地に入り、諸部族を支配下におさめて王侯とな
り、現在の版図に全国を統一してヒンズー王国を成立させるという歴史の過程で形成されたものであろう。

ネパールへのカースト制の導入とその形成

釈迦牟尼生誕の地(LUMBINI)として世に知られるネパールには、インドのアショカ王が建立したといわれる
石柱>SOKA PFLAR- LUMB2)や仏舎利塔 (ASOKA STUPAS-PATAN)その他数多くの遺跡や古い寺院が各
地にのこされており、古い文化をしのばせる。

カトマンズ盆地はヒマラヤ連峰南側の前山山脈にかこまれ、標高ニニ〇〇メートル前後の高度に位置し、土地
肥沃で古くから栄え、多くの王朝が盛衰の歴史をかさねたと伝えられている。十四世紀の末以降に書かれたとい
われるネパールの王統年代記であるバムサバリ(VAMgAVALI)は数種類あり、これらの資料をもとに書かれたネ
パール史にはゴパル (GOPAL)、グプタ(Gupta)、アヒール(AHS1)、キラータ(KIRATA)などの諸王朝の名があ
-73—
げられ、ネパールという名がこれに由来するといわれるネ・ム二(NE MUNI) 開祖のグプタ王朝時代やインド平
(25)
原から来たアヒール王朝の支配、さらに東から来てこれを征服したキラータ王朝時代の王統が記されている。

その後に続くものとして釈迦の在世の頃、北インドで覇を競っていたリッチャヴィ(LICHHVI)族やマッラ(M,
ALLA)族と同名の王朝が登場する。しかし史実によって実証.される最古の王朝はリッチャヴィ王朝以降である。

ガンジス川流域の中流左岸のヴァイシャリー(VAIgALLVESALI)に国都をおいたリッチャヴィ族は、インドの文
献では常にクシ・ヤトリヤ族と見なされ、バラモン教には好意的ではなく、反バラモン教的立場をとる仏教やジャ
(26)
イナ教を保護したといわれる。釈迦も国都ヴァイシャリーを訪れている。結局、ヴァイシャリーはマガダ国に征
(7)
服されることになる。

しかしリツチャヴィ族は存続し、紀元四世紀に至っても非常な尊敬を博していたという。こ
のリッチャヴィの一族がネパールに入って興した王家がネパールのリッチャヴィ王朝とされるが、その関連は明
らかでない。

バムサバリではリッチャヴィ王朝第二ー代の王とされ、四六四—五〇五年頃王位にあったマーナ・デーバ(M>1
NA deva)王の治世下でネパール最初の銅貨が鋳造され、同王の名を記した碑文も存在している。同王はヒンズ
(8)
—教徒であったが、仏教にも深い敬意を示したといわれる。

また、六世紀後半から七世紀初頭にかけて在位し、教育の普及、文芸の興降に力を注いだといわれるアムシュ
•バルマン(AMSHU VARMAN)王についても、七世紀に同地を訪れた唐僧玄奘は「大唐西域記」の中で「尼波羅
国は周囲四千余里で、雪山の山中にある。•:•:貨幣は赤銅銭を使用している。•••:•邪教正法を兼ねて信じ、加藍
と天祠とは垣根を接し軒隈を連ねている。僧徒は二千余人、大小の二乗を兼ねて学習している。外道の異学をす
-74—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
るものは、その数が分からない。王は刹帝利で栗|¢姿種である。

その志学は清らかに高く、もっぱら仏法を信じ
¢ ( 9 )
ている。近い代に窟輸伐摩と号する王があった。」(第七巻第五節)と記されている。

このアムシュ•バルマン王は
王女ブリクティ(BHRIKUTI)を、当時チベットで強大な勢力をもっていたソン・ツァン・ガンポHSRONGレA,
NGGAMPO)王に嫁がせている。その後ガンポ王には中国の玄宗皇帝の文成公王(WEN CHENG)王女が第二王
(9
妃となった。

この二人の王妃がチベットに仏教を広めるのに力となった。

リッチャヴィ王朝の崩壊後、カトマンズ盆地の覇権を競う諸勢力を平定してニーー世紀から一八世紀中葉まで強力
な王国を建設し、ネパール文代史上に輝かしいネワール(NEWAR)文化を開花させたのはマッラ王朝であった。

マッラ王朝歴代の王の中で、政治、経済、社会、文化の各分野で後世に大きな影響を与えることになる諸改革を行
ったのは、ニ二ハ-年からニニ九四年頃まで王位にあった同王朝第七代のジャスティティ・マッラdAYASHTrn,
MALLA)王であった。

同王は諸制度の改革にあたって北インドおよび南インドなどから、それぞれ専門分野の異
なる五人の学者を招いて意見を聴取して、カースト制の導入、刑法の改正、課税、販売、抵当基準としての田畑、
(1)
家屋の等級決定などに着手した。

リッチャヴィ王朝支配後の混沌としたカトマンズ盆地を平定したマッラ王朝の当時は、この盆地には部族、宗教
の異なる様々な人が住み、それにインドから入ってきたカースト制が混在し、ネパールは社会的にも、宗教的に
も不安定な状態であった。このような状況を背景にジャスティティ・マッラ王は種々の階層と職業の人々の地位
(2)
と機能を明確にするため、学者の意見をいれ、マヌの法典に依拠して国民を六四の階層に分けたといわれる。

この六四階層の区分についてイギリスのD ・ライトへDaniel Wright) は、サンスクリットとネワール語の
——75—
混合したパルバティヤ(PARBATIYA)による文献からの翻訳などをもとに、一八七七年に公刊した「ネパール史」
(3)
でこれを記述している。

またイタリアのL •ペテチ(Luciano PETECH)もー九五八年刊行の「ネパール中世史」
(4)
でこの区分について記述している。

両者の資料を比較したのが第一表である。後者による階層と英訳の配列は、
前者の逆であるがほぼ重複しているので階層区分の項目は一本化し、両者による英訳は原文のまま掲載した。

ライトの文献ではこの六四の階層区分について、ブラーマンはパンチャガウダ (PANCHAGAUDA ••・北インドから
の)とパンチャドラヴィダ(PANCHADRAVIDA:・南インドからの)二つに分けられ、それぞれが多くの分枝階層をも
つ五つの副カーストをもっていると述べ、これらのカーストについては、ネパールで現在知られていないと注釈
をつけている。

ネワール族の婦人とブラーマンの混血であるジャイシイ・ブラーマン(JAISI BRAMAN)すなわち
アーチャーリー (ACHARYA)、バイダ (BAIDA)、シレスタ(SRESHTHA)、ダイバギアOAIVAGYA) の四つの階層
は、アーチャーリーが三階層に、バイダが四階層に、シレスタはアーチャーリーの三階層とダイバギアの四階層
に許されたと同様に、ブラーマン的衣服をまとうことを許された十の階層を含む多くの階層に分けられた。

ここ
に述べられているジャイシー ・ブラーマンは、純粋なブラーマンとブラーマンより低いカーストの婦人との間に
生れたブラーマンの意味で用いられたものと考えられる。

ネワール族のカーストでアーチャーリー、バイダ、シ
レスタ、ダイバギアはヴァイシャである。シュードラ(SUDRA)は三二階層に分けられたジャプー (JYAPU)と四
階層に分けられたクマール (KUMHAL) の三六の階層であった。

この場合のジャプーは農村社会又はカトマンズ
のネワールの副カーストであり、クマールは陶器製作所に雇われているネワールの副カーストであろう。最後に
前記のシュードラの三六階層とは別にポージャー ・カースト(PODHYA CASTE)は四階層であったと述べている
-76—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
が、これはカトマンズにおけるネワール族の最低の副カーストであり、清掃夫、糞尿運搬夫、葬式場夫、死刑執
行夫である。

これを最後に別にあげているのは、アウトカースト的な賤民階層とみなしたものであろう。

六四の階層をこのように説明したうえで、ライト文献では、上位の四つの階層の者はポージャ}やチャルマカ
1ラのような低位階層の者の手からの水を飲むことを禁じられ、また上位階/■の婦人が低位階aの男子と結ばれ
『5)
た場合、その婦人は男子の階層に格下げされたと述べている。

第一表に見られるようにライトの場合は各階層について英訳された部分が少なかったが、ペテチによって、か
(6)
なりその空白が埋められている。

それでもなお不明な部分がある。このような空白はD •R •レグミが指摘する
ように、原文にカースト名についての文字のスペリングの誤りがあって判別できないのに加えて、多くのカース
卜が当時のままには継承されていないので、オリジナリティの失なわれたカ}スト名に該当する文字の探求を困
難にしている。

このような部分があるにしても、その階層区分の内容を示す貴重な葺である。

ジャスティティ・マッラ王は、その顧問であった学者の進言により、インドの法典に依拠して、六四の階層区分を
実施したとされているが、その内容はインド的なヴァルナ制とジャーティ制の観念を基本とする階層区分といえ
よう。

すでに述べたように、リッチャヴィ、マッラの両王朝はともにインドから入ったアーリア系の王朝で、そ
の支配領域は現在のネパールの版図ではなく、カトマンズ盆地とその周辺であり、この地域の先住民は主にネワ
—ル族であった。ネワール族の起源を南インドとする説、ヒマラヤの北からとするもの、キランティとリッチャヴ
イの結合した種族とする説などがあるが、ネワール族の多くは歴史時代以前にカトマンズ盆地に入ってきたと考
えられているネパール土着といえる種族である。

ネワール族はカトマンズ盆地での長い歴史の過程で形成された
一Z7—
階層社会をもっていたと考えられる。カトマンズ盆地にはインドからの仏教、ヒンズー教が入り、リッチャヴィ王
朝時代の初期には仏教徒が多く、その後次第にヒンズー教の影響が強くなってきたが両宗教は共存し、社会秩序
も安定していた。

マッラ王朝時代になって北インドから多くのブラーマン、クシャトリヤ、シュードラが入って
きてヒンズー教の影響力が一層強くなってきた。

国内的には新王朝の成立もあり社会的にも宗教的にも不安定で
あり、対外的にはイスラムのインド支配がネパールのヒンズー社会に強い衝撃を与えた。
このような背景から強
力な社会秩序を維持するための諸改革がジャスティティ•マッラ王によって実施されたが、その政策原理はマヌの法
典に依拠したといわれることが示すように、ヒンズー教徒中心のものであったと考えられる。

同王による階層区
分の実施にあたつ.ては、前述のような国内的、対外的背景があるので、ネパールの現実に適合しない古典的四カ
(7)
—スト制は強調しないで、インドで副カーストと呼ばれるものを単に区分して羅列したものとする見解もある。

事実この区分は職業別の配分が主体であり、上位階層についても本来はカーストではない(59)サチーブ、(60)マント
ウリー、(62)レーカック、(63)ブッパ、(64)ドウウィジのような官職名もカーストとして区分されているような混乱も
見られる。

しかし、最上位にあるアーリア系のブラーマン・カーストと、ブラーマンと低位階層の婦人との混血
であるジャイシイ・ブラーマンとを厳然と区別しているように、基本的にはアーリア系のヴァルナ制を主体とす
るヒンズー教中心のカースト制であることには変りはない。

人口で圧倒的多数のネワール族をこのカースト制の
枠内に再編しようとした当時の政治的、社会的状況がこのような階層区分を生むことになったものと考えられる。

またこの階層区分の背景には、職業を固定化するために国民が従事している職業、あるいは従事すべき職業を
•階層別に区分したものであり、国王は国民の社会における義務と、もしもあるカーストがその伝統的な職業をお
-78—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(8)
ろそかにした場合は刑罰に処するということを強調するために創り出したものとする見解もある。

ジャスティティ・マッラ王による前記のようなカースト制の導入の内容については、さらに十八世紀のはじめ
に書かれたジャティヤマーラー (JAT1YAMALA)にも記されており、それによると階層はライトの文献の場合より
(9)
も増加し、ハーーに区分されている。増加した主なものはアーチャリー、バイダ、シレスタなどの副カーストであ
•(〇)
り、これらは,ライト文献における六四カーストの計上の際には省略されたものであるとみなされている。

ジャスティティ・マッラ王の孫ヤクシャ•マッラ(YAKSHYA MALr 1428 — 1482 )王の死後、王国は分裂し、
バドガオン&HADGAUN 又はBHAKTAPURE)、カトマンズ 、KATHMANDU 又はKANTIPURE)、パタン (PATAN又はL,
ALITPURE)に王都をおいて分離独立した。カトマンズとバドガオンの距離はー〇キロメートル程であり、カト
マンズとパタンは数キロメートルである。それ以来十八世紀中頃までカトマンズ盆地にはマッラ王朝の三王国が
併存することになった。

マッラ王朝の支配力はカトマンズ盆地を中心とするものであり、地方には多くの土侯国があった。当時ネパー
(41)
ルにはチョービシ・ラジャ(CHAUBIS1 RAJA)、バイシ・ラジャ(BA1SI RAJA)と呼ばれる四六の土侯国に分割さ
れており、また、タライその他の地域にも土侯国があった。

これらの土侯の多くはイスラムのインド支配から逃
れてヒマラヤ地域に移住してきたヒンズー教徒の武士階級であり、それぞれの地域の先住民を従えて土侯となっ
たもので、それらの土侯の中で最も大きな勢力となったのがゴルカ(GORKHA) 土侯であり、インドのラージプー
卜(Rajput)族の出身であったとされる現シャ八王朝の祖先である。

ラージプート族はカニャークブジャ(KANYAKUBJA別名カナウジ KANAUJ)に王都をおいたハルシャ(HARSA)王
-79—
の帝国が崩壊後、七世紀中葉から十二世紀にイスラム勢が北インドを支配するまで、インド各地に王国を樹立し、
ラージプート時代を築いた種族である。

しかし、この種族の起源は必ずしも明らかではなく、五世紀頃インドに
入った中央アジア系のグルジャラOURJARA)族、エフタル(EPHTALIJE)族などの系統であるとか、インド先住
民族の系統とかの諸説があるが、武力にすぐれ、自らをラージ・プトラ(王の子の意味)と称し、強力な武力で領
域を拡大して王国を建設し、次第にインドの社会で武士階級すなわちクシャトリヤとみなされるようになったも
のとみられている。

このラージプート族の王国はイスラム軍との戦に敗れ、このうち難を逃れてネパールに入り、
西部地域に勢力を拡大し、さらに中部山岳の諸部族を支配下におさめ、マッラ王朝の本拠であるカトマンズ盆地
に攻め入るようになったといわれている。

一七六八年、カトマンズ盆地のカトマンズ、バドガオン、パタンの三王都を攻め、マッラ王朝を倒し、翌六九
年、王都をカトマンズに移し、現シャハ王朝の開祖となったプリティビ・ナラヤン・シャハ(PRITHW NARAY,
AN shah)王により、ヒンズー教が国教と定められ、ネパールは文字通りのヒンズー王国となり、国王は「シバ
神の化身」とされるようになった。

カトマンズ盆地平定後、同王朝は和戦両様の構えで国土の統一をはかり、東
部のライ、リンブー族などの支配地域を平定し、西部の各土侯を支配下におさめ、さらに、一八一四年にはネパ
—ルからインドに進出して各地を占領してイギリX勢と衝突しネパ.-ル•イギリス戦争(NEPAL-BRmsH war)
いわゆるゴルカ戦争となった。ー八一六年に停戦し、セゴーリ条約(SUGAULI treaty)により今日のネパール
の版図が決定した。

現シャハ王朝成立後、今日まで約二世紀の統治のうち、一八四六年から一九五一年までの約一世紀は、日本の
-80-
ネパールのカースト制の形成についての一考察
徳川将軍家と似た世襲制の首相マハラジャ(maharaja)が支配していた。

ー九世紀初頭からシャハ王朝の宮廷
内で首相の地位をめぐって政争が続き、ついに一八四六年、王宮内の国王謁見の場である「コート」に集った
要人五五名がジ・ン・バハドウル•ラナ(Jang Bahadur Rana)の兵によって殺される「コートの大虐殺」
(THE K〇TE massacre)事件となった。

対抗者を粛清したジャン•バハドウルは国王を王宮に軟禁して首相に
就任し、以後一九五一年のいわゆる「王政復古」まで政治の実権はラナー族が掌握する専制政治となった。

このような経過をたどったシャハ王朝のもとで、ネパールのカ.-スト制が、マッラ王朝以降どのようになった
かは極めて注目されるところとなった。

ネパールのカースト制についての研究は、一八一六年の「セゴ}リ条約」締結直後、外国人として初めてネパ
—ルに駐在したイギリスの外交官ホジソン(Brian Houghton Hodgson)をはじめ、D ・ライト、s・レヴィ(S,
ylvain LEVI)、フユ}ラ・ハイメンドレフ 、CHRISTOPH <oz furer,haimendorf)、l ・ペテチ(Luciano PE,
TECH)などネパールの歴史や社会、さらにはネワール族や諸種族の言語、宗教などを研究した外国人の研究成果
により次第に明らかになってきた。

このような成果をもとにネパールの歴史家D・R •レミグは、時の経過、使
用される用語の変遷などを整理し、ネパールのカーストおよび副カーストの伝統的職業および諸カーストの宗教
(2)
的行事を担当する僧職をヒンズー教のブラーマンと仏教のグーバ(GUVA)に区分した詳細な一覧表にまとめてい
る。

またこの一覧表にも関連する資料であるが、ペテチはネパールのカースト制についてはヒンズー教徒と仏教
徒を区別してみることも重要であり、特にそれは上位階層のヒンズー教徒集団と低位階層の仏教徒集団と低位階
層の仏教徒に二分されるとし、さらに古典的な四種姓によるカーストの区分はネパールの現実には必ずしも妥当
-81-
するものではないとしながらも、理論的に同国の諸カーストが古典的な区分のどれに該当するかという分類をし
て、第二表のような階層区分を試みている。

ペテチも十四世紀にジャスティティ・マッラ王によってネパールに導入されたカースト制が、その後現代まで
どのように継承されたかについてふれ、それは時代の経過により今日では現実的に認められていないものもある
けれども、その一般的な枠組と内部精神は今日も同じである。

職業とカーストの関係も今日の状況の下で徐々変
化してきているが、一つのカーストの伝統的な職業は依然として大部分がそのカースト構成員によって占められ
(43)
ていると述べている。

このような詳細なカーストの区分があるが、今日のネパールのカースト制は、カトマンズ盆地における主とし
てネワール族の副カーストを除くと、基本的にはブラーマン階層であるバウンと、クシャトリャ階層のチェトリ
および本来はクシャトリヤ階層であり、クシャトリャ格とみなされるタク—、ルなどの上層カーストと、シュ~・ドラ
階層であるカミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストによって構成され、その中間にネワールなどの諸部族
が位置づけされているといえよう。

またネワール族のカーストに関しては、C -αツサー(COLIN Rosser)が、第三表に示したようなブラーマ
(4)
ンから清掃夫に至るまでの階層区分を発表している。

これによるとカトマンズ盆地に住むネワール族三万七三一
五戸(ニニ万五七九八人)のうち、四二%が農民階層であるジャプーで占められ、陶工のクマ以下の職人などの
一・ハ階層は全戸数の約ーー〇%であり、シレスタとウレイが約二六%、最上層の僧職にあるものがー ー%という構
成になっている。
—82—

以上のようなカースト制に関連して、ネパールでは異カースト間の通婚や飲料水などをも含む社会的接触につ
(45)
いての差別が依然として厳格であることをL •ペテチも指摘しており、D • R •レグミも前記の一覧表の中で、
洗濯夫であるドービヤア(DHUBYA)以下の階層は不可触賤民ではないが、彼等の触れた水は穢れており、上層カ
}ストのものは彼等の手になる水を飲めないし、彼等は上層力–ストの家の一階以上にあがることができない。
(46)

ポーまたはポレ(PPPORE)以下は不可触賤民であるとしている。

ネパールのカースト制に関する数多くの実証的研究の成果が報告されているが、東京農業大学ネパール農業調
察査隊(隊長 栗田匡一、隊員、島田輝男、島田淳子)も、ー九六四年、約七ヶ月にわたってマンダン地区の農業調
『 査をした際に、同地区内のマハデウ・スターン•パンチャヤート(MAHADEW STHAN PANCHAYAT)のカースト構
“成と、それに関連する生活慣行についての調査結果を「ネパール国マンダン地区農業調査報告」(海外技術協力事業団、
つ 昭和四十年)に収録している。
頒 同調査の対象となったマンダン地区はカトマンズの北東約四〇キロメートル、スンコシ(SUN KOSI)の上流で

IJOあるチャッ・コーラ(CHHA KHOrA)の流域にある山村である。同地区のほぼ中央をチャッ・コーラが西北高地
$
W から東南へ貫流し、これにアシ・コーラ>SHI KHOLA)とボクシ・コーラ(BOKUSI KHOLA)が西より東流して
*-チャッ・コーラに合流しており、カトマンズ盆地とは峠を境に河系を異にしている。

マンダン地区の北と東には
。 ラムサレ・テユムキイ山rAMSAR thomki LEKH)とマンダン山(MANDAN LEKH)がチャコ・ーラに併行し、西
心 と南にはチャンプール山(CHAINPUR LEKH)、ドディ二丘陵(DHODINIBESI、海抜九九〇メートル)とコテン山(KOT,

ENG LEKH、海抜ー、ー〇〇メートル)が横たわっており、マンダン地区内のマンダン山は海抜ー、ー 00メートル
——83——
(マンダン山の最高峰は一五九八メートル)である。これらの諸丘陵にかこまれてチャッ・コーラ流域に海抜七五
五メートルの盆地がある。

マンダン地区の住民は以前はこれらの丘陵の山頂稜線にのみ住み、低地のべシーには全く部落がなかった。ネ
パールでは河川、峡谷に沿って亜熱帯的気候が入り込んでおり、海抜一 〇〇〇メートル前後までの河川沿い低地
はマラリヤの発生地であり、それを避けて住民は山頂稜線地帯に住居を構えていたからである。

同地区内でも村
落によっては山頂付近に居住し、肥沃な耕地と牧草のある低地には家畜管理舎を意味するガート(GHOT)を建て、
早朝、家畜を追ってガートに下り、夕方山頂に帰るという生活形態をとっていたところもあり、ガートでは脱穀
調整などの作業も行っていた。

それが第二次大戦後、マラリヤなどの疫病撲滅が進むにつれてガートを本居とし、
本居をガートとするケースがみられ、部落をあげて移動するところもあり、低地に居住移動する戸数も増加してお
(47)
り、ベシーにある部落は極めて新しく、ー九六四年の調査時点では、まだ移動期であると報告されている。

このような自然環境に位置するマンダン地区はカトマンズとヒマラヤ山脈とのほぼ中間にあり、地理的にも文
化的にもカトマンズ盆地と山岳地域との接点をなす地域といえる。

しかも、中国の援助によるカトマンズとチベ
ット国境を結ぶ道路がー九六六年に完成し、同地区内を通過している。

この道路の開»がこの地区の人々の生活
形態に多くの点で変化をもたらしていると想定されるので、その意味からも一九六四年の調査記録は貴重である。

第四表は同調査の報告書第五表から抜^して作成したものである。マハデウ・スターン•パンチャヤートには各村
落から選出された九名の委員がおり、パンチャヤートの資料は各委員から提出されたものであり、各委員が担当し
ている諸村落を一括して、その委員の氏名をとって管区と仮称している。各委員の同調査に対する協力関係に差
一 84—
ネパールのカースト制の形成について•の一考察
があり、ー、二の委員は中途で調査に異議を唱えるなどの事態もあり、若干不明な点があることが指摘されてい
る。

各村落の戸数、人口、カーストについては同調査隊が各戸調査に等しい調査をした数字であるが、村落境界
がパンチャヤート委員や村落民によって異なる場合があり、不鮮明であったこと、居住移動により居住村落の決定
が村落民でも確認できないことなどがあり、そのうえ祭日、農繁期などにあたり調査できなかった村落のあった
ことが付記されている。

そのためパンチャヤート提出数字と調査隊の調査した数字に相違があることを注意する必
要がある。このように調査できなくて不明な村落があるとはいえ、山また山の山頂や谷間に五九の村落が点在す
る同パンチャヤートの地形ときびしい気象条件を考えると、その労苦は想像を絶するものがある。

パンチャヤート提出の数字によると同パンチャヤートは六三二戸、人口三二四七人であり、五九の村落からな
っている。

同パンチャヤートの社会構成はネパールの上層カーストを占めるバウン、チェトリ、タクールとアウト・カー
スト的な下層カー ストとみられるカミ (鍛冶職)、 サルキ(皮革加工職)、ダマイ(仕立職)とカトマンズ盆地に住
民の多いネワールや山岳部族のタマン、マガール、ダヌワールなどの諸部族からなっている。

前述したようにマ
ハデウ・スターン•パンチャヤートのあるマンダン地区は地理的にも文化的にもカトマンズ盆地とヒマラヤ地域と
の接点をなす位置にあり、同パンチャヤートの社会構成もネパールのヒンズー教徒の上層カーストであるバウン、
チェトリ、タクールと下層の職業カーストと、その中間的な地位を占めるとみなされているネワール族や言語の
系列ではネワール語と同じくチベット・ビルマ語系に属する山地民であるタマン族、マガール族、ダヌワール族
など・の混成で村落を構成しており、大きな村落で単一構成なのはジュディ・ガウン(GUD1 GAUN)とコテン(KOT,
-85—
ENG)の両村落だけであり、それは共にタマン族である。

この他に、表中にあるマハール (MAHAR) シババクタ
I (SIBABAKUTI)はネワール族の副カーストであり、ハ マール・ジョギ} (HOMMOLOGI)は自からブラーマンと
称するヨーガ僧である。サニャシ (SANNYASL SANYESHI)はバウン、チェトリのカ1ストから離脱した階層と
みられる。ネパールではバウン、チェトリで出家し、鮮黄色の僧衣をまとって托鉢僧(SADHU MENDICANTS)と
なり修業中の者が結婚した場合、その子孫は父母の去ったカースト社会に復帰することが認められなくてサニャ
(48)
シと呼ばれ、ギリ(G1RI)、プリ(PURI)、バハラティ(BHARATI)などの家名を付けたといわれる。

ここでのサニ
ヤシとギリはそれに該当するものと考えられる。また同パンチャヤート提出の資料にボティ(BHOTE)とあるが、
これはチベット人を意味するネパール語であり、タマン族、マガール族などのチベット系山地民にも用いられ、
さらに時にはこれらの山地民に対する蔑称として用いられることもある。

しかし、第四表中、⑴のラリバハドウ
ル・タマン管区では、タマン族出身の同氏がボティ四六戸と報告しているのは、それがタマン族であることが明ら
かであり、また同委員によるバウン、チェトリ、タクールの区分が明確ではない。

同パンチャヤート管内ではバウン、チェトリ、タクールもその他の諸族も農耕に従事しており、その土地利用
状況を示したのが第五表である。

水田には稲作と裏作に小麦、畑には陸稲、トウモロコシ’シコクビエ(KODO)
甘^CKHU)、小麦、ソバ、大豆、落花生などが栽培される。

家畜はヒンズーカーストの慣行からバウンは牛(雌、・去勢牡)、水牛(雌)、山羊(雌、去勢牡)のみを飼育し、
チェトリ、タクールはそれに加えて鶏を飼育する。タマン、マガール、ネワールなどはチェトリ、タクールの飼
育家畜に加えて去勢水牛も飼育する。カミ、ダマイ、サルキは豚も飼育するが、豚については洋種はバウン以外の
-86—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
他の階層でも飼育し、去勢牛は農耕のみに利用し、去勢水牛と山羊は犠牲に供せられる肉用であるといわれる。

このような純然たる農耕社会においてカミ、ダマイ、サルキなどの職人カーストの果す役割と生活条件につい
て、同調査報告は次のような事実を明らかにしている。

鍛冶職であるカミは鉄製農具の製作と修理をする。各農家がどのカミと契約するかは自由であり、契約期間は
一年である。製造、修理に必要な鉄材は需要者の負担で、報酬は穀物で支払われる。報酬額は、製造、修理の農具
数によって決まるのではなくて、契約農家の家族数によって決定する方法である。

同報告の事例によると、男女
老幼五名の一農家と契約したカミは、向う一年間当該農家の農具の製造、修理を必要に応じて行なう。その代償
として稲(もみ)、トウモロコシ、シコクビエの何れかで一人当り、ーパティ(ーパティPATH一は約四•三六リッ
トル)、合計五パティを収穫後に支払われる仕組である。

どの穀物で支払うかについては慣行があり、稲、トウモ
ロコシ、シコクビエの順序である。すなわち稲を栽培している農家は必ず稲もみで、トウモロコシ、シコクビエ
しか栽培していない場合はトウモロコシを、シコクビエのみ栽培の場合はシコクビエでということになる。

ダマイの仕事は衣服の仕立と修理であり、契約の内容、支払方法はカミの場合と全く同様である。ダマイと契
約した家では衣服がどんなに破れても、綻びても決して各自の家の者が手を加えることをしない。実際には新調
が中心で修理をすることは殆んどないようである。仕事はダマイが手動ミシンを持参して各家を訪問して庭先で
^9る0
皮革の加工をするサルキの場合は前二者と異なり現物納制のようなー定の規準がなく、をれぞれのケースに応
じて報酬額を決定するといわれる。
-87—

理髪、剃髪は下層職人カーストの仕事ではなくてネワール族がこれに従事しており、一年契約の現物納制をとつ
ている。しかし、女子は理髪師にかからないので家族数は男子だけで計算する。理髪師がネワ}ル族であるため、
カミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストに属する者は契約することができないので、各自が相互にしなけ
ればならない。

マハデウ・スターン•パンチャヤートでも下層職人カーストは不可触賤民的な地位におかれていた
わけである。

しかし、このような状況におかれたマハデウ・スターン•パンチャヤート管内でも、カトマンズとチベット国境
とを結ぶ道路の開通後、カトマンズと同管内の人的、物的交流が容易になり、数多い事例ではないが農業収入と
出稼による農外収入とにより自分の耕作している小作地を地主であるバウンから買取って自作化しつつあるタマ
ン族の事例もある。このような同パンチャヤート管内のその後の変化については別の機会に報告したい。

おわりに

以上でネパールにおけるカースト制の形成の過程をみてきたが、ネパールのカースト制はその導入の歴史が示
すように、インドのカースト制がネパール的土壌の中で変容したものであり、さらに導入後の歴史的、社会的諸
条件の推移により変容しつつ現在のような内容になったものと考えられる。

このようにして形成されたカースト制が、ネパールの村落共同体の構造、とりわけ土地所有、耕作関係などの
土地制度にどのようなかかわりがあるかを解明することが今後の課題となる。今後多くの研究者の研究成果と実
証的研究の積みかさねによりこれを明らかにしたいと考えている。

—88—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
第一表 ジャヤスティティ・マッラ(JAYASTHITI MALLA)王
による階層区分
区 分 DANIEL WRIGHTの英訳 LUCIANO PETECHの英訳
(1)チャルマカール CHARMAKARA WORKERS IN LEATHER
¢2)マーターンギー MATANGI WORKERS IN LEAT- HER ELEPHANT DRIVER
(3)ニオギー NIYOGI SERVANT ( ?)
(4)ラジャク RAJ AKA DYER AND CLEANER
(5)ドビー DHOBI WASHERMEN LAUNDRYMAN
(6)クシャトウラカール KSHATRIKARA ?
¢7) ローハーカール LOHAKARA BLACKSMITH
(8)クンダカール KUNDAKARA IVORY CARVER
(9)ナディーチェーデー NADICHHEDI CUTTER OF UMBILICAL CORD ( ?)
(10)タンデュカール TANDUKARA WEAVER
(11)ダーンヤマーリ— PHANYAMARI ?
¢12)バディー BADI ?
(13)キラータ KIRATA HUNTER
¢14)マーンサビクリー MANSABIKRI BUTCHERS BUTCHER
(15)マーリー MALI GARDENERS GARDENER
(16)ビヤンジャナカール BYANJ ANAKARA COOKS ( ?) SAUCE-MAKER PROBABLY THE SAME
(17)マンデューラ MANDHURA AS THE MODERN MA- NANDHAR, OIL PRESSER
¢18)ナティジブ NATIJI VA ACTOR WHO LIVES BY PROSTITUTING HIS WIFE
(19)スラービジア SURABIJA ?
(20)チトウラカール CHITRAKARA PAINTERS PAINTER
(21)ガイネ GAYANA MUSICIANS AND SI- NGERS SINGER
(22)バタオーニ BATHAHOM ?
—89—
¢23)ナーテヤワラダー NATEBARUDA (24) スルパカール SURPPAKARA (25) ビマリー BIMARI (26) タンカダーリー TANKADHARI ¢27)タヨルタ TAYORUTA ¢28)カンジカール KANJIKARA (29) バラヤチャンチュ BHAYALACHANCHU (30) ゴーパク GOPAKA (31iタームラカール TAMRAKARA (32Iスバルナカール SUVARNAKARA (33)カーンサヤカール KANSYAKARA ¢34)カールニック KARNIKA (35) トウラーダッル TULADHARA (36) クンバッカール KUMBHAKARA (37) クシェトウラカール KSHETRAKARA (38Iスリンカリ SRINKHARI ¢39)タクシャク TAKSHAKA (40) ダ-‘ルカール DARUKARA ¢41)リーピーク LEPIKA 幽ナーピック NAPIKA (43) バーリック BHARIKA (44) シイピカール SILPIKARA ¢45)マリカー-ル MARTKARA (46) チッチャック CHICHHAKA (47) スーピック SUPIKA COOKS ¢ ?) COWHERDS COPPERSMITHS GOLDSMITHS BELLMAKERS WEIGHERS POTTERS LAND-MEASURERS ? ? ? WORKERS AT THE MINT ? ? ? COWMEN BRONZESMITHS GOLDSMITHS ALLOYS FOUNDER AND BELL CASTERS WEAVER WEIGHER POTTER LAND SURVEYORS ? CARPENTERS WOOD CARVERS WORKER IN STUCCO BARBERS BEARERS CRAFTSMEN CONFECTIONER ? COOKS
—90—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(48) サージカール SAJAKARA (49) スリチャンテー SRICHANTE ¢50)アーラム alama ¢51)ダイバギア DAIVAGYA (52>ガニック GANIKA (53)ジョーティシャ JYOTISHA S4)グラハチンタク GRAHACHINTAKA (55)アーチャーリー AchArya (56Iデーバチンタ DEVA-CHINTA (57) プージタ PUJITA (58) アマーテヤ AMATYA (59) サチーブ SACHIVA (60) マントウリー MANTRI ¢61)カーヤスタッ KAYASTHA ¢63 レーカック LEKHAKA (63}ブッパ、ラージヾ、ナレンドラ、 チェトリー BHUPA. RAJA. NARENDRA、 CHHETRI (64)ドウウィジ、ビプラ、ブラーマン DWIJA、BIPRA、BRAHMANA DIFFERENT KINDS OF ASTROLOGERS STATE OFFICIALS IN OLDEN TIMES WRITERS TAILORS ? ? ASTROLOGERS PRIEST,TEACHER AND SACRIFICATOR OF THE HINDU NEWARS SPECIALITY UNKNOWN THE OFFICIATING PRI ESTS IN THE SAIVA TEMPLES MINISTERS PRIVY COUNCILLORS STATE OFFICIALS SCRIBES SCRIBES ROYAL FAMILY, ARISTO -CRACY AND MILITAR- Y CLASS
(出典)(DDANIEL WRIGHT, HISTORY OF NEPAL, 1877, REP. 1972,
KATHMANDU, PP.185-186〇
(2)LUCIANO PETECH, MEDIAEVAL HISTORY OF NEPAL, 1958, ROME,
PP.181-183〇
—91—
き 5 N IIクラス ー MAHAJU (AMATYA)o 旧王朝時代の大臣名である。 PRADHANAUGA. 届聽齢号精辱驚議’磨した容命”球 PRADHAN• 以前はNOBLEMENの一般的称号であった。 MULA OR MURMI. 旧時代の官職名。 RAJBHANDARI OR BHANNI \ 〇切!吟嗚聘界^^£あ MASKE (MAKHI) )つ甘か、コル力王朝下では協められなか Iクラス 一部分はOLD ROYAL FA- THAKURI MILYの子孫である〇 ヴァイシャ(VAlSYA)階級 ネパールでこの名称は使用されI ない。 ! クシャトリャ(KSATRIYA)階級 理論的には、次のヒンズーカース 卜はクシャトリヤとすべきであ る。1768年おでROYAL FAM- ILY のみTHAKUR!のカースト 名でクシャトリヤとして認めら れていた。現在は純粋なTHA・ KURIは存在しないので、ネパ ールにはクシャトリヤなたい。 1 DEVA BRAHMAN (FAMILY PRIEST) この三つは社会的には同格で 2 BHATTA BRAHMAN あるが、相互間で通婚するこ (TEMPLE PRIEST) とはない。 3 JHA OR TIRAHUTIYA BRAHAMAN (TEMPLE PRIEST) W (MVWHVHH)人ヘー J 畢 鄭 (OQNIH) 1
HIクラス BAGAとSESYAの間の混合カーストである。 MTYFD C A SESYA又はSESY°はネワールのヒンズー教徒の上 M1A也Uしい13.位カーストであり、ブラーマンとより低位カ一ストとの 間の子孫であり、BAGA又はBAGHAはSESYAの父とより低位カーストの婦人との間の 『孫で共{こ母班涼に入ったもので、この混合のカーストはSRESTHAとの通婚はできない。 11 ^rAtua 理論的には上位 bKEblHA-母のカーストに KAYASTHA, WRITERS. NIKH,PAINTERS OF RELIGIOUS IMAGES. LAKHAY,PERSON AL ATTENDANTS. 1 VAJRACRYA OR LEARNED MONKS. (FAMILY GUBBAJU. PRIESTS) 2 SAKYABHIKSU OR SIMPLE MONKS•この多く は金 1 BANRE 銀細工師である。・ 仏教徒集団(BUDDHIST) 1
£。 VHIS3HS | WLg コ1 諭
®u»27w (LUCIANO PETECH)^・バ蜀尤メニーW㊀Aー利ア謹
—92—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
ヾ‘ ij 1
Iクラス UDAY OR URAY これには通婚しない7グループがある。 1 KASAR,WORKERS IN METAL. 2 LOHANKARMI STONECUTTERS. 3 SIKARMI CARPENTERS. 4 THAMBAI, WORKERS IN COPPER, BRONZE AND ZINC. 5 AWAL, TILERS. 6 MADDIKARMI, BAKERS. 7 TULADHAR, WEIGHT-MAKERS. IIクラス JYAPU, CULTIVATORS. HIクラス このグループは社会的には同一レベルとみ ]SALMI OR MANAN-られているか相互に通婚しないし、また dh/r,or?ginally uday, JYAPU とも通婚しない。 OIL-PRESSERS,ENGINEERS AND MERCHANTS- 2 NAU, BARBERS. 3 KAU, BLACKSMITHS. 4 CHIPA DYERS. /時には彼等は自身をtandukArと呼ぶ(マ R VTJJTC A DAT AMIT17I7M ツラ王の区分 55 )、また、KHUSA の SUB-C- 1 5 KHUSA, PALANKEEN ASTEのーっであるMUSAは現在ではバドカ’ -BEARERS. !オンの2 – 3家族である。 6 PUM OR CITRAKAR, PAINTERS. 7 GATUH OR MALI, GARDENERS. 田刀-つ 乙のSUB-SECTIONの一つにBALAMI. ・ドクフス CARRIERSがある。 1 1 PUTUVAR.DALI, CARRIERS. 2 TEPAY,CULTIVATORS OF VEGETABLE GARDENS | AND CHIEFLY OF THE PALUNG GRASS.
—93 一
(圧海)LUCIANO PETECH-MEDIAEVAL HISTORY OF
NEPAL- ROM-1958- PP ・186| 189
不可触暢 (INTOUCHABLES)階級・
!1 NAY, BUTCHERS. 2 KUSLE OR JOGI, このSUB — SECTIDNの一つに TAILORS AND TEMPLE DHOM か> あるが、KUSLE は彼 MUSICIANS. 等を下位のもとと考えている。 3 P〇, FISHERMEN AND ネワール語では時にはDEQLA PRIESTS IN THE とも呼ばれる。 TEMPLES ON THE BANKS OF THE RIVERS. 4 had Ahhrit (これについてのL^PETECHの説明 4 hakahuku, はないが、d.R.REGMIは最低の階層 よりもなお低位とみられる道路などの 清掃夫であるとしている。なおREGMI は POJC は poria,chyAmkhala HArAHURU の三つをUNTOUCHA BLE CASTESとして分類している’ 本文参照) 5 CAMKHALA,SWEEPERS•遂翳光・皿山は同格と わ/よミ4し[い&>〇 6 KULU,LEATHER WORKERS• ネノヾールのDRUM作りで、 靴は作らない。 1 3 DUIN,ORIGINALLY THEY 現在ではBALAMI とは全く 別個 BELONGED TO THE BALAMI•である。 1 4 PULPUL OR FULU, HEARSE-BEARERS. I 5 TATTI,VENDORS OF NECESSARIES 1 FOR FUNERAL CEREMONIES. 6 SAGAN, LAUNDRYMEN.缶&?む、高讀誤£;/ 1 ンの数家族に限られて・いる。
—94—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
第三表 ネワール族のカースト(NEWAR CASTES)
カー ス ト 伝 統 的 職 業 戸 数 比率(%)
デオブラーマン 1 DEO BRAHMAN FAMILY PRIESTS 165 0.5
バッタ ブラーマン 2 BHATTA BRAHMAN TEMPLE PRIESTS 50 0.1
ジァブラーマン 3 JHA BRAMAN 150 0.4
グバジュ バレ 4 GUBHAJU, BARE FAMILY PRIESTS, GOLD AN- 3,700 10.0
シレスタ セシャ 5 SHRESTHA(SHESHYA) D SILVER SMITHS MERCHANTS 8,100 21.4
ウレイ(ウダス) 6 URAY (UDHAS) MERCHANTS AND CRAFTS- 1,700 5.0
ジャプー 7 JYAPU MEN FARMERS 15,800 42.0
クマ 8 KUMA POTTERS 1,150 3.1
シャイ?•— 9 SAYMI OILPRESSERS 1,370 3.6
クシャ 10 KHUSA PALANQIN BEARERS 300 0.8
11 NAU BARBERS 410 1.1
カウ 12 KAU BLACKSMITHS 300 0.8
バア 13 BHA FUNERAL DUTIES 150 0.4
ガテユ 14 GATHU GARDENERS 470 1.3
テペ 15 TEPE CULTIVATORS 150 0.4
プンム 16 PUM PAINTERS 170 0.5
7・ユヒム 17 DUHIM CARRIERS 130 0.4
バラミ 18 BALAMI FIELDWORKERS 50 0.1
プル 19 PULU FUNERAL TORCH BEARERS 100 0.3
チャパ 20 CIPA DYERS 430 1.2
ジオギ 21 JOG1 MUSICIANS AND TAILORS 550 1.5
ナーイ 22 NAY BUTCHERS AND MUSICIANS 1,050 2.8
クル 23 KULU DRUM-MAKERS 70 0.2
ポレ 24 PORE FISHERMEN AND SWEEPERS 500 1.3
チャミ 25 CHAMI SWEEPERS 250 0.7
ハルル 26 HALAHULU SWEEPERS 50 0.1
ネワール族の総人口、225,798人 計37,315 100
(出典)COLIN ROSSER, SOCIAL MOBILITY IN THE NEWAR CASTE
SYSTEM, IN CHRISTOPH VON FURER-HAIMENDORF, ED. , CASTE AND
KIN IN NEPAL, INDIA AND CEYLON, LONDON, 1966. PP. 85-86.
—95一
第四表、マハデウ・スターン・‘パンチャヤー
卜のカースト構成
村 落 名 戸数 人口 カースト(JATI)
¢1) LALBAHADUR TAMAN管区 58 187 ボティ¢6)、カミ⑹、タクール(6)
1 ティン・ピプレ TIN PIPURE 26 109 バウン(2)、タマン¢22)、カミ(2)
2 バラ BARA 8 29 バウン⑵、タマン⑹
3 タディ・カミン TADI KAMIG. 7 32 カミ(7)
4 ガイリ GAIRI
5 コテン KOTENG 32 187 タクール(8)、タマン(24)
6 ボッテ・ガウン BHOTE GAUN
7 ターロー •コテン TARO KOTENG 5 19 タクー ノレ(3)、チェトリ(2)
⑵ JANBAHADUR DANUWAR管区 47 318 パウン⑴、タクール(3)、チェ トリ{2)、 ダヌ!? ール<3切、 カミ(2) 8 ドッディ二 D H 0 D IN I 8 50 パウン(1)、タクーノレ(5)、チェトリ(2) 9 カルカ ・ KAR KA 1 6 チェトリ⑴ 10 サトウパテタール SATPATETAR 5 25 バウン⑴、チェトリ(2)、ネワール(2) 11 ラプタンタール LAPTANTAR 2 26 バウン⑴、ネワール(1) 12 マスロ・ジュディ・ガウン MASLO JUDI G AUN 12 73 ダヌワール(12) 13 アプタール・ジュディ・ガウン APT AL JUDI GAUN 32 162 ダヌワール(32) 14 パダ ガウン PADA GAUN 11 56 ダヌワール(9)、カミ(2) ¢3) HARIGOPAL SHRESTA 管区 78 424 バウン、チェトリ、ネワール、ギリ、 サヌヤシ、ダヌワール、ダマイ 15 ランサ~ル・トウムカ LAMS AR THUMKA 22 142 バウン(19)、チェトリ(3) 16 ジャガールプール JAGARPUR il 72 ダヌワール(1D 17 ボッティ・ノレムティ BHOTE RUMTI 4 20 ダヌワール(4) 18 バヌガール BANUGAR 2 13 ダヌワール(2) 19 ヒウンヮ・パティ HIUWA PATI 16 47 ネワール(15)、チェトリ(1) 20 マハデウ ・スターン MAHADEW STHAN 19 113 サヌヤシ(3)、ダヌワール(16) 21 マノ、デウ ・ペディ MAHADEW PEDI 12 84 バウン(2)、ネワール(7)、ダマイ(3) 22 カルティケチイダール KARTEKECHDAR 2 7 バウン(1)、ネワール(1) —96— ネパールのカースト制の形成についての一考察 (4) NANDA PRASAD PAULER管区 114 561 バウン、タクール、チェトリ、ネワ ール、ボティ、カミ、ダマイ、サルキ 23 ダルマタール DARMATAR 6 26 バウン(3)、チェトリ(2)、タマン(1) 24 25 グラインタール GRAINTAR トウムキ THUMKI 7 29 バウン(4)、タクール(1)、ネワール(2) 26 カメレ KAMELE 1 4 タクール(1) 27 28 29 ラクレ LAKURE バトウムニ•サブコタ BATMUNI SABKOTA ダイタール•パウレル DHAITAR PAULER 1 7 タクール(1) 30 ダイタール•サブコタ DHAITAR SABKOTA 7 22 バウン(7) 31 32 カメレコット KAMEREKOT カタルパカ KATALPAKA 3 21 タマン⑴、カミ⑵ 33 34 35 ドウディ DUDE アプガリ APUGARI ラエレ RAELE 2 15 タマン(2) 36 37 クンタ・ベーシー KUNTA BESI トウムキー・ガウン THUMKI GAUN 10 56 バウン(9)、チェトリ(1) 38 ジダリ・ポカリ JIDARI POKARI 7 32 バウン(7) ⑸ 39 40 41 42 43 44 GANANATH UPADHYA 管区 ガッシ GHASI デウラリ DEURARI サルキー・ガウン SARKI GAUN ダリンチャウル DARINCHOUR チャウル CHOUR デアリ・ガウン DEALI GAUN 86 7 415 25 バウン(51)、チxトリ(3)、サルキ(32) C6) 45 PURUNABAHADUR BISI CHETRI管区 ガイリ 54 286 バウン⑹、チェトリ(10)、ダマイ⑴ カミ⑴、ボティ(36) —97— 46 47 ガハテ GAHATE ボッテ・ガウン BHOTE GAUN ⑺ 48 49 KASINATH SHRESTA 管区 パウワ PAUWA パウワ・ガイリ PAUWA GAIRI 48 308 50 ダマイ・ガウン DAMAI GAUN 11 75 ダマイ(11) (8) 51 52 KEDARNATH SABKOTA 管区 マイダン MAIDAN ジャミールコット 70 372 バウン(35)、タクール(4)、チxトリ(20) ネワール(35)、カミ(8)、ダマイ(1)、 サルキ(3)、ボティ(40) これは(9)のJ. SHRESTA管区と 合併した数である。 53 JAMIRKOT ウパラディ・ランタール UPALADI RANITAR 5 27 ハマールジョギ(3)、シババクター ⑴、チェトリ⑴ 54 ランタール RANITAR 27 133 バウン(18)、チェトリ(1)、ネワール⑻ 55 シウリニタール SIURINITAR 13 63 バウン(1)、タクール(3)、チェトリ⑼ ⑼ 56 57 58 JEEWBHAKT SHRESTA 管区 ジャミールコット・ガイリ JAMIRKOT GAIRI サノ •マイダン SANO MAIDAN ディスワールタール DESWALTAR 76 376 上記¢8)参照 チェトリ(9)、タクール(1)、マガール (8)、カミ(11)、ダマイ(1)、サルキ(3) 59 アプタール APUTAR 1 3 ネワール(1) PANCHAYAT提出資料 合 計 632 3,247 男子1,689名、女子(1,558名) (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年 18-25ページの第5表から作成。 —98— ネパールのカースト制の形成についての一考察 第五表 マハデウ・スターン•パンチャヤートの土地利用状況 区 分 面 積(ヘクタール) 水 田 400 畑 地 800 草 地 800 森 林 1,200 荒 蕪 地 400 そ の 他 200 合 計 3,800 (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年、 28ページから。 —99— 注 1) ネパールの農業形態および地域区分については、島田輝男「ネパールの農業構造についての一考察」「アジア研究 所紀要」第二号、亜細亜大学アジア研究所、ー九七五年を参照。 (2) Frederich h・ gaige-Regionalism and National Unity in Nepal・ University of Cal FORNIA PRESS-1975- R IP TABLE 3・ MAJOR LANGUAGES SPOKEN IN THE TARAL (3) IBID;R16. (4) 島田輝男、前掲書、二三八頁。 (5) 田辺繁子訳「マヌの法典」、岩波文庫、昭和二八年、三一五頁。 (6) Dor Bahadur bist>people of Nepal” Kathmandu-1967- pp・18—23・
(7) 飯島茂「ネパールの農業と土地制度」、アジア経済研究所、ー九六一年、二〇—ニー頁。
(8) Dor Bahadur Bist>or cn\ p・160・
(9) ビルタの交付とビルタ制の形成については、拙稿「ネパールの土地制度と土地改革」「アジア研究所紀要』第三号、
亜細亜大学アジア研究所、一九七六年を参照。
(10) 岩本裕「インド史」、修道社、昭和四六年、四二頁。
(11) 前掲書、四三頁。
(12) D・ u- Kosambl The culture and civilization of ancient India in historical outline”
londoz1965・(コンサンビー著、山崎利男訳「インド古代史』、岩波書店、昭和四一年、ー〇六— ー 〇七頁。)
(13) ヴェーダに関する諸文献については辻直四郎著「インド文明の曙—ヴェーダとウバーーシャッドー」、岩波新書、ー
九六七年を参照。
(14) 前掲書、九七頁。
(15) 前掲書、一四— 一五頁。
-100-
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(16) 岩本裕、前掲書、二八—二九頁。
(17) 中村元「インド古代史」上、中村元選集、第五巻、昭和三八年、五六三—五六四頁、五七〇頁。
(18) 前掲書、五七七頁。
(19) 田辺繁子、前掲訳書、三六—三七頁。
(20) 前掲書、ニニ頁。
(21) 中村元「インド思想史」、岩波全書、ー九七七年、七—九頁。
(22) コーサンビー、前掲書、二六〇頁。
(23) 岩本裕、前掲書、四八頁。
(24) 中村元、前掲「インド思想史」、一六七— 一六八頁。
(25) Daniel WRIGHT-History of Nepal-1972 (FIRST E9 1877)-KATHMANDU\972- pp・107— 109・
(26) 中村元 前掲「インド古代史」上、二五五—二五六頁。
(27) 前掲書、二七三頁。
(28) Rishkesh shah>h eroes and bufders of Nepal- Oxforo University press- 1970-p・ 35.
(29) 玄奘「大唐西域記」、水谷直成訳、中国古典文学大系ニ二、平凡社、昭和四六年版、二四〇頁。
(30) RlSHlKESH shah>OR err・ PR 39I4P
(31) LR Arian and T.RDHUNGYAL-A New History of Nepal-Kathmandu- 1975-r 50.
(32) IBID: R 51・
(33) Daniel wrighhor cit・ pr 1851186・
(34) Luciano P etech-Mediaeval History of NEPArROME-1958 – pp・1811183・
(35) Daniel Wright・ op・ cm pr 1861187・
(36) D・ RRmGML Medieval NEPArpart l 1965″ Kathmandu- r 643・
(37) Luciano petech- op・ cm P181・
-101-
(38) DMRegml or cm p, 642・
() 55: PR 647 —650•
(如)S5: p. 64
() Mahesh Candra Regml Astudy in Nepali Economic HistorhNew Delhl 197LPP2—
() d,rregml op. Cm pp・ 666—677・
() Luciano PETECH- op cm p 189,
() Colin Rosser Social Mobility in the Newar Caste systemn Christoph von fure,
Haimendorf\ Ed・ Caste and KN in NEPArINDIA and Ceylon London” 196pp 85r8G
() Luciano petech\ or cm p 18
() dorregml op・ cm pp 676—67
() 東京農業大学ネパール農業調査隊「ネパール国マンダン地区農業調査報告」、海外技術協力事業団、昭和四十年、
二七頁 、
() Dor Bahadur BisTa” op cm p
-102—

ネパールとインド,下流アルン水力70万KWと,プコットカルナリ水力48万KW開発で合意

ネパールとインド,下流アルン水力70万KWと,プコットカルナリ水力48万KW開発で合意
http://blog.livedoor.jp/adachihayao/archives/2031817.html

『【日刊 アジアのエネルギー最前線】 ネパールとインド,下流アルン水力70万KWと,プコットカルナリ水力48万KW開発で合意
http://www.adachihayao.net

2023年6月3日 土曜日 晴れ

ネパールのプシュパ・カマル・ダハル首相のインド公式訪問が話題になっている,両国は長い間,ネパールの巨大な包蔵水力を開発するために,交渉を行ってきたが,基本的には,ネパールの政治的因習と中国の介入で,合意が遅れてきた,今回の両国首脳の合意が最終的で,実現への期待が高まる,

ネパールとインドの両首相立会いの下,合意したプロジェクトの一つが下流アルン水力(Lower Arun)プロジェクト,約70万KW,で,ネパール東部のアルン川に位置し,インドの水力発電会社サトルジ(Satluj )が開発主体となる,発電の全量がインドへ輸出されるとされているが,国内需要も

両首相が合意したもう一つのプロジェクトは,ネパール西部カルナリ川の上流,プコットカルナリ(Phukot Karnali)水力,48万KWで,インドの国営水力開発NHPCが主導する,高さ109mのRCCダムを建設し,地下発電所を採用した,所謂,調整池式の水力発電所と考えられている,』

NATOがトルコにスウェーデンの加盟承認迫る

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:NATOがトルコにスウェーデンの加盟承認迫る
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5439062.html

『北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長NATO Secretary General Jens Stoltenbergは2023年6月1日、スウェーデンのNATO加盟について協議するため、近くトルコを訪問すると述べた。

NATOはノルウェーの首都オスロで2日間の日程で外相会議を開催。イェンス・ストルテンベルグJens Stoltenberg事務総長は、2023年5月28日のトルコ大統領選決選投票で勝利したエルドアン大統領と今週初めに電話会談を行ったとし、 「近くアンカラを訪問し、スウェーデンの早期加盟について協議すると述べた。

7eb3d806その上で、トルコの大統領選が終ったため、対話プロセスの再開が重要になると指摘。スウェーデンがこの日に新たな対テロ法を施行し、トルコの主要な懸念に対処したことに言及し「スウェーデンはやるべきことを行った。スウェーデンの加盟を批准するときが来た」と述べた。、、参照記事 

スウェーデンの新法では、過激派組織を支援するなどした個人に最大禁錮8年、テロ組織の指導者には終身刑が科されることになる。NATO加盟には、全加盟国からの承認が必要で、加盟国トルコはフィンランドを先行承認、スウェーデンについてはトルコの非合法組織クルド労働者党(PKK)や「テロリスト」を支援しているとして、テロ対策への協力が加盟条件だとしていた。参照記事 

04fc09cb、、、スウェーデンのPKK支持者は、PKKが資金源とする送金も出来なくなり、スウェーデンへのクルド人の政治亡命や難民申請も難しくなると思われるが、PKKへの送金システムは欧州各国に存在する。

写真右は、ギリシャでのクルド人によるPKK支持デモの様子。今も刑務所で服役するPKKオジャラン( Abdullah Ocalan)党首の肖像を掲げている。過去ブログ:2023年5月エルドアン大統領再選される 米はスウェーデンのNATO加盟承認促す:2019年10月トルコ大統領訪日中止, SDFはIS攻撃凍結>5日間停戦とクルドの歴史:8月PKK党首のトルコへの戦闘中止協議申し出とセーフゾーン:』

ウクライナは、電池動力の「TLK」というリモコン水中ロボット兵器を3種類、開発中

ウクライナは、電池動力の「TLK」というリモコン水中ロボット兵器を3種類、開発中https://st2019.site/?p=21184

『ストラテジーペイジの2023-6-1記事。

   ウクライナは、電池動力の「TLK」というリモコン水中ロボット兵器を3種類、開発中だと。

 現在テスト中の「TLK-150」は、長さ2.5m、航続距離100km、速力20km/時。弾頭重量は20kg~50kgというところで、これはバッテリーサイズとのトレードオフである。
 偵察にも用いる。もし自爆攻撃する場合は、低速で夜間に動かす。
 操縦には、ペリスコープからのビデオ画像が用いられる。

 より大型の「TLK-400」は、レンジが1200km、弾頭重量は500kgだという。
 さらに大型の「TLK-1000」になると、レンジ2000km、炸薬5トンだという。

  ※旧帝国海軍の「回天」のレンジが12ノットで78km、炸薬1.5トンであったこと、および、「甲標的」のレンジが2ノットで190km、ペイロードが1836kg(=91式魚雷の全重×2本+自爆薬140kg)であったことと比べてみよう。

ちなみに91式魚雷の炸薬は235kg。』

水曜日にペンタゴンが発表した、最新の対宇援助、3億ドルの内訳。

水曜日にペンタゴンが発表した、最新の対宇援助、3億ドルの内訳。
https://st2019.site/?p=21184

『Matthew Adams 記者による2023-5-31記事「New US military aid for Ukraine worth up to $300M, includes munitions for drones」。

    水曜日にペンタゴンが発表した、最新の対宇援助、3億ドルの内訳。
 名称非公示の「ドローン」と「ドローン用弾薬」が含まれていることが特に注目される。

 主なアイテム名を列挙する。

 ペトリオットの追加ミサイル。
 防空システム用の「AIM-7」ミサイル。※ほんらい空対空のものを地対空に使わせる。
 アヴェンジャー近距離防空システム。
 スティンガー肩射ちSAM。
 HIMARSの追加ロケット弾。

 155ミリ砲弾と105㎜砲弾。野砲用。
 戦車用の105㎜砲弾。
 航空機投射型の精密弾薬。
 ズーニ空対地ロケット弾。
 AT-4対戦車ロケット弾。
 ドローン用の弾薬。

 小火器弾薬3000万発以上。
 地雷啓開システム。
 障害物除去用の爆破薬。
 暗視装置。
 スペアパーツ、発動発電機、その他の野戦装具。』