他人と自分を比較しない 嫉妬を捨てよう
学び×コロナ時代の仕事論(3)一橋大学教授の楠木建さん
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58437810U0A420C2I00001/
※ 引き続き、この人の仕事論の第三弾だ…。最終回のようだな…。
『幼児性の中身には以下の3つがある。1つ目は世の中に対する基本的な認識というか構えの問題だ。子どもは身の回りのことがすべて自分の思い通りになるという前提で生きている。物事は自分の思い通りになるべきであって、思い通りにならないことは「間違っている」。これが子どもの世界認識だ。
仕事においては「世の中は自分の思い通りにならない」という前提が大切だと心得ている。これだけ多くの人間が、それぞれ違う好みとか目的をもって利害のあるなかで生きている。そういう世の中で自分の思い通りになることなど、ほとんどない。そういう前提で生きていれば、思い通りにならなくてもいちいちイラッとすることもない。』
『本来は独立した個人の「好き嫌い」の問題を手前勝手に「良しあし」にすり替えてわあわあ言う。これが幼児性の2つ目だ。誰かが「オレは天丼が好きだ」と言うのをカツ丼好きが聞いたとしても、あまりイラッとしない。イラッとするのは、「カツ丼のほうが天丼よりよい」「カツ丼のほうが正しい」と思っているヘンな人だけだ。
本当は「好き嫌い」にすぎないことを勝手に良しあしの問題に翻訳する。だから妙な批判をしたり意見を言いたくなったりする。
悪い意味での「意識高い系」にもそうした人が多い。口では「多様性が大切!」とか言いつつ、ちょっと考えが合わない人にすぐにイラッとする。世の中は文字通り多種多様な考え方の人々が集まって構成されているのに、そこに考えが及ばない。「意識の高い(大人の)子ども」ほど厄介なものはない。』
『このことと関連して第3に、大人の子どもは他人のことに関心を持ちすぎる。なぜそうなるかといえば、本当にその人に関心があるというより、自分のなかに何かの不満や不足感があって、その埋め合わせという面が大きいのではないか。自分の仕事や生活に鬱憤や鬱屈がある人は他人の欠点や問題、もっといえば「不幸」を見て刹那的な心の安らぎを得るというか、鬱憤晴らしをするところがある。ようするに「他人の不幸は蜜の味」、ここに幼児性の最たるものがある。』
『「出る杭(くい)は打たれる」。世の中そういうこともある。これはこれでうすらさびしい言葉だが、それ以上に嫌なのが「出すぎた杭は打たれない」というフレーズだ。「うまいこと」を言っているつもりなのだが、ますますセコい話に聞こえる。この比喩から浮かび上がる光景をイメージしてほしい。
杭が横一線にずらずらと並んでいる。色も形もすべて同じ。マットな暗い茶色の杭が黙って並んでいる。多少引っ込んでようが出ていようが出すぎていようが、傍から見れば一介の杭であることには変わりない。出すぎたら打たれないかもしれないが、しょせんワン・オブ・ザ・杭ズである。
出るとか出すぎるというのは、つまるところ周囲と比較しての差分を問題にしている。ある物差しを当てて、その上で人の能力なり成果を認識する。平均値や周囲の誰かとの差をもって優劣を競う。こういうアプローチを取る限り、ロクな仕事はできない。』
『人と比較してばかりの人は嫉妬――おそらくもっとも醜く、非生産的で、意味のない人間感情――にさいなまれる。子どもがやたらと「イラっとする」のも、つまるところ嫉妬であることが少なくない。
嫉妬が生まれる条件は「比較可能性」にある。自分も知らない国で生活しているような外国人や歴史上の偉大な人物など、時空間で遠く離れた人には嫉妬しない。シーザーや始皇帝や織田信長や聖徳太子に嫉妬して歯ぎしりしているような人はまずいないだろう。そもそも自分との比較の対象になりえないからだ。』
『面白いことに、嫉妬に駆られている人は対象となる人物の良いところ、恵まれているところしか見ていない。一見大変な魅力と能力で成功しているように見える人でも、その人の仕事や生活の総体――それは外から見ているだけでは決して分からない――を知れば、わりと不運や不幸に苦しんでいるものだ。
しかし、彼らに嫉妬する人にはそういう負の面は見えない。ま、中には何の苦労も矛盾も葛藤もない人もいるだろうが、それはこの際おいておく。いずれにせよ、人はそれぞれ自分の価値基準で生きている。人は人、自分は自分。ほとんどの場合、比較には意味がない。自分と反対の考えの人がいてもイラッとせず、「そういう人もいるのか。世の中は面白いねえ……」と受け止めたい。』
『仕事ができる人ほど、出来合いの物差しで他人と自分を比較しない。人と比べてあれができる、これができると言っているうちはまだまだだ。本当にスゴイ人は他人との差分で威張らない。余人をもって代えがたい。ここまでいってはじめて本当のプロといえる。』
『ただし、全方位的にスゴイ人などこの世の中に存在しない。「この人にはかなわない……」と思わせる人でも、ある分野において余人をもって代えがたいのであって、すべてについて同様にスゴイわけではない。「全面的に余人をもって代えがたい」となると、もはや超人だ。レオナルド・ダ・ヴィンチぐらいしか思いつかない。』
『ある分野で圧倒的な能力を持つ人でも、別の分野になると意外なほどヌケているというのが面白い。あることは得意中の得意なのに、別のことになるとからっきしダメになる。
考えてみればこれは当たり前の話で、強みと弱みはコインの両面なのである。何かについて不得手であるということが、そのまま別の何かについて得手である理由になっている。ここが人間のコクのあるところだ。だとしたら、「弱みを克服して、強みを伸ばす」というのは虫が良すぎる話だ。その人の最大の強みは最大の弱みと隣り合わせになってはじめて存在する。両者は切っても切れない関係で結びついている。下手に弱みを克服しようとすると、せっかくの強みまで矯めてしまうことになりかねない。』
『「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)というのは名言に違いないが、裏を返せば「みんなちがって、みんなダメ」。余人をもって代えがたいほどスゴイ人ほど、自分のダメなところ、弱いところを自覚している。自分の強みはあくまでも条件つきの強みであり、全面的に優れているわけでは決してないことをよくわきまえている。だから他者にも威張らない。自分を抑制して威張らないのではない。そもそも威張る理由がない、威張る気にならないのである。』
『自分一人ですべてに秀でる必要はない。世の中にはいろいろな得手不得手の人がいる。そうした人々の相互補完的な関係が仕事を成り立たせている。それが社会の良いところだ。他人を気にせず、自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。
=おわり
(この連載はデジタル政策エディター 八十島綾平が担当しました)
グラフィックス 佐藤綾香』