世界遺産「春日大社」:神の使いの鹿と3000基の燈籠が伝える、奈良時代から続く信仰心

世界遺産「春日大社」:神の使いの鹿と3000基の燈籠が伝える、奈良時代から続く信仰心https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900252/

 ※ 今日は、こんな所で…。

『 信仰心
旅 歴史 文化 2023.05.21

古代から信仰の対象だった御蓋山(みかさやま)の麓に鎮座する世界遺産「春日大社」(奈良市)。約100万平方メートルの自然豊かな境内では、神の使いの鹿たちが闊歩する。平安貴族や戦国武将も寄進した燈籠(とうろう)が約3000基あり、万人に敬われてきた歴史を伝えている。

奈良公園の人気者にまつわるいにしえの教え

「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録される春日大社、東大寺、興福寺。その3つの社寺に囲まれる奈良公園一帯で、東大寺「奈良の大仏さま」と並び、インバウンドのお目当てになっているのが、あちらこちらで群れ遊ぶ鹿たちである。

「奈良のシカ」は国の天然記念物で、飼育動物ではない。人間と野生の鹿が市街地で共生する光景は、世界的に見ても大変珍しい。鹿は春日大社の「神の使い」と考えられたため、人々が大切にしてきたのだ。

2023年1月に発表された学術論文は、「神鹿(しんろく)信仰」が奈良時代から受け継がれてきたことを証明すると話題を呼んだ。約1400年前に奈良にすみ着き、周辺の鹿集団が狩りによって消滅する中で、固有のDNAを守り続けたと推測している。

鹿は奈良公園一帯に約1200頭が生息している

春日大社の歴史は、武神として崇敬される武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、御蓋山(通称・春日山)頂上の浮雲峰(うきぐものみね)に降り立ったのが始まりとされる。武甕槌命は鹿島(茨城県)から白鹿に乗って来たと伝わるため、この地の鹿は神鹿とされた。

春日大社を信奉したのが、奈良時代から平安時代に栄華を誇った貴族・藤原氏。朝廷では権勢を振るったが、鹿に出会った時は、わざわざ輿から降りて頭を下げたという。

神山・御蓋山は狩猟や伐採が禁じられたため、野生の鹿にとっても安住の地となった。春日大社の東側に広がる「春日山原始林」は、今でも多様な生態系を保持することから、世界遺産「古都奈良の文化財」の一つとなっている。

武甕槌命が降り立った御蓋山の山頂には本宮神社が祀られるが立ち入り禁止。本殿の東にある御蓋山浮雲峰遙拝所から拝む

平安貴族から戦国武将に至るまで信仰を集める

武甕槌命はしばらく浮雲峰に祀(まつ)られていたが、768(神護景雲2)年、称徳天皇の命を受け、藤原氏が現在の場所に本殿を造営。その際に、香取(千葉県)から経津主命(ふつぬしのみこと)、枚岡(大阪府)より藤原氏の遠祖とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)と妻の比売神(ひめがみ)を迎え、4柱を共に祀った。

藤原氏は春日大社を氏神と仰ぎ、氏寺の興福寺と共に手厚く保護。特に平安時代には、皇族や貴族の春日詣でが盛んになり、849(嘉祥2)年には天皇の使者「勅使」が派遣される盛大な「春日祭」が始まった。現在も毎年3月13日に開催し、京都の賀茂祭(葵祭)、石清水祭と並ぶ三大勅祭に数えられている。

春日祭 撮影:松井良浩

12世紀ごろからは、新たな支配者層となった武家も、武芸向上や勝負運の御利益を求めて崇敬した。その人気は次第に庶民にも広がっていき、現在は全国に約3000もの春日神社がある。

中門と左右約13メートルの御廊(おろう、重要文化財)。中門の前から奥にある本殿を参拝する

正門に当たる南門(重要文化財)。高さ約12メートルで春日大社最大の楼門

主祭神を祀る4棟の本殿を中心とする聖域を「大宮」と呼ぶ。中門と「御廊」に加え、社殿や宝庫、周囲の回廊や4つの門など、建造物のほとんどが重要文化財だ。

春日大社の建造物は、奈良・平安時代の建築技術の粋を集めたもの。特に大宮の本殿は、「春日造」という代表的な神社本殿形式の一つとして現代に受け継がれている。美しい反りを描く大屋根、それと一体化した庇 (ひさし)が特徴だ。20年に一度、修繕や造り替えをする「式年造替」を1200年にわたって執り行ってきた。4柱の4殿が横一列に並ぶ珍しいもので、国宝の指定を受ける。

大宮本殿(国宝)と同じ春日造の社殿を持つ摂社・若宮本殿(重要文化財)

左手前が社頭の大杉。周囲8.7メートル、高さ25メートルにも及ぶ大木

大宮内では、樹齢800~1000年と推測される「社頭の大杉」や、子授けの御利益があるという「七種寄木(なないろのやどりぎ)」など霊木や植物も見どころ。

晩春の花・藤は特に有名だ。南門を抜けて左手にある藤棚は、地面の砂にすれるほど花房を伸ばして咲くことから、「砂ずりの藤」と名が付いた銘木。藤は春日大社の象徴で、社紋にも用いられているが、これは藤原氏の家紋が藤であることと無縁ではない。古くから境内に自生し、「萬葉植物園」では20品種約200本が花を咲かせる。

「砂ずりの藤」は樹齢700年以上。藤原氏の嫡流、近衛家(このえけ)の献木と伝わる 写真:PIXTA

萬葉植物園の「藤の園」。藤棚とは違って、目線の高さで鑑賞できるよう工夫されている。毎年4月下旬から5月上旬に見頃を迎える 写真:PIXTA

あまたの燈籠が長年の信奉を物語る

春日大社境内の最大の特徴といえるのが、約3000基もある燈籠。広報の秋田真吾さんは「室町時代からは貴族や武士だけでなく、庶民からの寄進も増えた。全国に現存する室町以前の燈籠の約7割が、春日大社にあるといわれている」と語る通り、日本最多の神社である。

燈籠について解説してくれた広報の秋田さん

社寺の参道に燈籠を並べる風習も、春日大社が発祥だという。燈籠は本来、神仏を照らすために社殿やお堂の前に設けるが、春日大社では大宮と摂社・若宮をつなぐ参道「御間道(おあいみち)」を神前同様の聖域とするため、鎌倉時代末期から石燈籠が立ち並び始めたそうだ。その数はどんどん増え、次第に境内全域へと広がった。江戸時代になると春日大社にならって、全国の社寺が参道に石燈籠を並べるようになったという。

日本で初めて参道に石燈籠が並べられたという御間道

木製で立方体の火袋が特徴の「御間型燈籠」。2022年秋に、戦国時代の黒漆塗(くろうるしぬり)火袋の燈籠が1基復元された

境内を歩く際には、石燈籠の柱に注目したい。ほとんどの燈籠には「春日社」と刻まれているが、約2000基あるうち15基だけが「春日大明神」の文字になっているそうだ。ひと晩で3基見付けると「長者になれる」との言い伝えがあるので、ぜひ探してみよう。

「春日大明神」と刻まれた石燈籠

時代を超えた祈りを感じる光景

大宮の回廊にずらりと並ぶ釣燈籠は、現代でも寄進が絶えない。こちらは境内全体で約1000基を数え、古くは平安時代にさかのぼる。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉、戦国武将の藤堂高虎や直江兼続、宇喜多秀家らが寄進した燈籠も、現役で御廊につるされている。

東回廊(重要文化財)に列を成す釣燈籠

左から2番目が徳川綱吉、3~4番目が藤堂高虎の寄進

膨大な数の燈籠は、「江戸時代までは毎日、火をともしていた」(広報・秋田さん)そうだ。現在は2月の節分、お盆の8月14、15日の伝統行事「万燈籠」の夜にだけ、その光景を目の当たりにできる。深い森の闇にあまたのともし火が揺らめき、神聖な参道や回廊がより厳かな空気に包まれる。

幻想的な雰囲気に包まれる「万燈籠」 撮影:松井良浩

大宮内の「藤浪之屋(ふじなみのや)」では、万燈籠の雰囲気を一年中体感できる。江戸時代まで神職の詰所だった歴史ある建物内に、100基以上の釣燈籠が明かりをともしているので、時を忘れて見入ってしまう。

幽玄な世界を楽しめる藤浪之屋(重要文化財)

石燈籠を眺めながら参道を歩いていると、鹿がひょこっと顔を出すことがある。その光景を数百年前の貴族や武将も見ていたかも、と思うと感慨深い。時代を超え、現代ではアイドル的な人気者になった鹿たちは、参拝者を笑顔にし、癒やしをくれる存在だ。

こけむした石燈籠が並ぶ表参道。たくさんの鹿にも出会える

春日大社

住所:奈良県奈良市春日野町160
拝観時間:御本殿参拝所 3月-10月=午前6時30分~午後5時30分、11月-2月=午前7時~午後5時 ※お札・お守り・御朱印等は午前9時~閉門まで、御本殿特別参拝 午前9時~午後4時(参拝不可の日時あり)
拝観料:境内参拝自由、御本殿特別参拝500円
アクセス:JR「奈良」駅、近鉄「奈良(奈良公園前)」駅から奈良交通バス「春日大社本殿」行き終点下車すぐ

取材・文=ニッポンドットコム編集部、EditZ
写真=EditZ

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株価 一時500円超値下がり 午後に入り売り注文さらに広がる

株価 一時500円超値下がり 午後に入り売り注文さらに広がる
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230531/k10014083901000.html

『2023年5月31日 14時17分

31日の東京株式市場、午後に入って売り注文がさらに広がり、日経平均株価は、一時500円以上、値下がりしています。日経平均株価は30日バブル期以来の高値を更新しましたが、きょうの取り引きでは、当面の利益を確保するための売り注文が広がっていることに加えて、外国為替市場でいくぶん円高が進んだことで輸出関連の銘柄を売る動きも目立っています。』

東急東横線 目黒線 新横浜線 全線で運転再開

東急東横線 目黒線 新横浜線 全線で運転再開
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230531/k10014083971000.html

『 2023年5月31日 14時43分

東急電鉄の東急東横線と東急目黒線、それに東急新横浜線は、横浜市の日吉駅の線路で煙が出ているのが見つかった影響で一部の区間で運転を見合わせていましたが、さきほど午後2時半ごろに全線で運転を再開しました。』

政府「こども金庫」新設 政策収支、特別会計で一元管理

政府「こども金庫」新設 政策収支、特別会計で一元管理
https://nordot.app/1035105914403881682?ncmp=post_rcmd

『2023/05/27

自民党の茂木敏充幹事長は27日、党本部で講演し、政府の少子化対策の財源を巡り、子ども政策の収支を一元的に管理するための特別会計を新設する方針を明らかにした。「こども金庫を創設し、費用負担の『見える化』を進める予定だ」と述べた。

 政府は少子化対策に充てる当面の財源を確保するため、国債の一種である「つなぎ国債」の発行を検討している。つなぎ国債もこの特別会計で管理する方向で調整している。

 茂木氏は講演で、政府が6月に策定する経済財政運営の指針「骨太方針」に向けて議論を加速すると強調。財源確保については「まずは歳出改革を徹底する」と語った。

© 一般社団法人共同通信社 』

少子化対策予算「3兆円台半ば」と首相指示

少子化対策予算「3兆円台半ば」と首相指示
https://nordot.app/1036492346365215523?c=302675738515047521

『岸田文雄首相は31日、少子化対策の関係閣僚に対し、今後3年間の重点施策の予算額を「3兆円台半ば」とするよう指示した。後藤茂之経済再生担当相が協議後、官邸で記者団に明らかにした。

© 一般社団法人共同通信社 』

高速道の有料50年延長=改正特措法成立

高速道の有料50年延長=改正特措法成立
https://www.nippon.com/ja/news/yjj2023053100131/

『2065年までとしていた高速道路の料金徴収期間を最長2115年まで延長する改正道路整備特別措置法などが31日の参院本会議で可決、成立した。

人口減少で料金収入の落ち込みが見込まれる中、老朽化したトンネルや橋の更新に必要な対策費用を確保する。高速道路の4車線化の整備にも充てる。

高速道路会社は、必要な更新事業を追加した計画を随時作成し、国土交通相の許可を得ながら事業を進める。国交省は2115年までに必要となる高速道路の老朽化対策費用が8兆3000億円に上ると試算している。』

インド「グローバル・サウス」戦略と日本の対応

インド「グローバル・サウス」戦略と日本の対応:急ごしらえの政策にG7議長国として寄り添う
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00911/

『政治・外交 2023.05.31

溜 和敏 【Profile】
インドが提唱し、広島での先進7カ国(G7)サミットを通じ急速に認知された「グローバル・サウス」という概念。その背景と現実、日本外交の対応ぶりについて専門家が解説する。

2023年5月19日から21日まで広島で開催されたG7サミットにおいて、インドは招待国ながらも存在感を示した 。20カ国・地域(G20)議長国としてインドが主張してきたグローバル・サウスの観点は、G7議長国・日本の支持を受けてG7会合に取り入れられた。またインドのナレーンドラ・モーディー首相がウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領と初めて対面で行った会談も関心を集めた(ただし本稿では扱わない)。

本稿ではインドがグローバル・サウスを掲げた背景(※1)と、日本政府が行った対応について要点を示す。

グローバル・サウス関連年表

2022年12月 インド、G20議長国に就任してグローバル・サウスを掲げる
2023年1月 日本、G7議長国に就任
同 インドによる「グローバル・サウスの声サミット2023」開催
3月 デリーでG20外相会合
同 岸田首相インド訪問、ポーランド経由でウクライナ訪問
4月 軽井沢でG7外相会合
5月 広島でG7サミット開催
9月 デリーでG20サミット開催(予定)

(筆者作成)

インドのグローバル・サウス戦略

2022年12月、G20議長国への就任に際して、その方針をモーディー首相が声明として発表した中で、G20諸国だけでなく広くグローバル・サウスの国々との協議を通じて問題に取り組むことを表明した(※2)。近年急速に外交分野で人口に膾炙したグローバル・サウスであるが、インド政府がグローバル・サウスという用語を本格的に用いたのはこのときが初めてであった。翌月には「グローバル・サウスの声サミット2023」と称するオンライン国際会議を開催し、G20に含まれない124カ国(インドを除く)を集め、G20に向けた意見交換を行った。その冒頭、モーディー首相はこのように述べた(※3)。

われわれは、戦争・紛争・テロリズム・地政学的緊張、食料・肥料・燃料価格の高騰、気候変動がもたらす自然災害、そしてCOVIDのパンデミックによる長引く経済的影響という困難な1年間を経験してきた。世界が危機的状況にあることは明白である。この不安定な状態がどれだけ続くのかは予測困難である。

われわれ、グローバル・サウスは、将来に対して最大の利害を有している。世界人口の4分の3がグローバル・サウス諸国に暮らしている。われわれはしかるべき発言力も有するべきだ。したがって、80年間に及ぶグローバル・ガバナンスの古いモデルが緩やかに変化する今、われわれは新たな秩序を作り出す努力をしなければならない。

このようにインド政府は、戦争や資源価格の高騰、自然災害、新型コロナウイルスなどによる危機の時代にあって、その影響をより強く受けているのが世界人口の多くを占めるグローバル・サウスであり、その発言力を高めるために既存の世界秩序を改める必要があると訴えた。このような主張は新しいものではなく、途上国側の立場を主張する既存のスタンスにグローバル・サウスという新たな看板をかけかえたものとみることができよう。ただし「声」サミットでは参加国の意見交換だけでなく、科学技術、災害対応、教育などの分野での協力についても話し合われていた。

グローバル・サウスは出てきたばかりの言説であり、あたかもひとまとまりのグループとして捉えるのは適切でない。ましてやインドがグローバル・サウスなる集団の指導的立場にあるなどと考えることには無理がある。

インドがG20議長への就任というタイミングでグローバル・サウスを採用した狙いは、下記の3点に整理できよう。

第1に、ロシア・ウクライナ戦争が始まってから苦しい弁明を強いられていた自国の外交言説の立て直しである。G7などの西側諸国との関係を深め、とくに米国や日本とは安全保障分野でも緊密な関係を構築しつつあるインドであるが、長年の信頼と協力関係を有するロシアへの制裁には加わっていない。インドの国際・国内情勢を踏まえれば対ロ関係の維持は必然の選択ではあるが、同調を求める西側からの圧力にさらされていた。あけすけに国益の観点から自国の対応を正当化するインド外交の言説は、エゴが過ぎるとの批判も招いていた。しかし大国間対立の犠牲になっているグローバル・サウスの側に自国を位置付けることにより、インドは対ロ関係の維持という方針を正当化するための建前を手にできるのである。

第2に、グローバル外交の立て直しとしての側面がある。国連などを舞台とした世界規模の外交舞台において、かつてのインドは非同盟を掲げ、中国とともに第三世界の連帯を主導した。冷戦が終結して第三世界が意味を失い、21世紀に入るとインドは途上国ではなくBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)やIBSA(インド、ブラジル、南アフリカ)などの新興国の枠組みに立脚して、欧米先進国が主導する既存の国際秩序を改めるべきという主張を展開した。

しかし、次第に国境問題(特に2020年の国境での衝突)などをめぐって中国との関係が悪化し、利害の一致するイシューでの限定的な共闘すらも印中間では難しくなった。さらに決定打となったのはロシアによるウクライナへの侵略である。ロシアとの二国間での協力こそ維持するとは言え、すっかり世界の嫌われ者となったロシアにグローバル外交のパートナーとしての役割を期待できなくなった。つまりインドは、BRICSなどの新興国連携によるグローバル外交を立て直す必要性に直面していた。そこで、グローバル・サウスという新たな名前を冠したかつての途上国連帯へと回帰したのである。

第3に、国内向けのアピールという側面がある。G20の議長国は輪番制であるが、モーディー政権は議長への就任を大々的に国内世論にアピールしている。24年の総選挙に向けて、モーディー首相がグローバル・サウスの代表として外交の舞台で指導力を発揮したと印象付けることを目指しているのである。

日本政府の対応と今後の課題

インドのグローバル・サウス戦略に対して、日本政府はどのような対応を行ったのか。

G7広島サミットでは、「パートナーとの関与の強化(グローバル・サウス、G20)」というセッションが行われ、G20サミットに向けてインドを支援することなどで合意した(※4)。ただしG7首脳コミュニケならびに首脳声明にグローバル・サウスの文言は盛り込まれなかった(※5)。つまり、G7サミットはグローバル・サウスを取り上げるに至ったものの、G20に向けて支援することを合意したのみで、G7としてグローバル・サウスに関する何らかの合意を行ったものではない。

日印政府間では、2023年3月にインドを訪れた岸田首相が(※6)、G7サミットへの招待を伝え、G7においてもグローバル・サウスの観点に取り組むことで合意していた(※7)。

22年9月の第2回日印外務・防衛閣僚会合(いわゆる「2+2」)ではG7議長とG20議長の協力について協議していたものの、グローバル・サウスの文言は見られず、その時点では議論されていなかったと考えられる。

つまりインドによる急造の政策に日本も付き合ったというのが、グローバル・サウスをめぐる日本の対応であろう。G7議長国の日本にとって、グローバル・サウスという観点を用いることによって失うものはないが、採用することによってインドとの協力を強化できる。

前述のように2010年代中頃までのインドは新興国連携をグローバル外交の基軸としており、日印ではインド太平洋地域や二国間での協力はあれどもグローバルのレベルでは国連安保理改革のG4(日本、インド、ドイツ、ブラジル)などでの協力に限られていた。G7議長とG20議長としての協力を通じて、日印関係はグローバル外交分野での協力を一歩拡大させたのである。

しかし世界秩序の変革を訴えるインドのグローバル外交と、日本の立場には根本的な相違点も多い。

たしかにインドが重視している国連改革では、安保理の常任理事国入りという目標を共有して協力している。だがインドが目指す経済分野の国際機関の変革に、日本は同調しないだろう。

また、グローバル・サウス側では欧米先進国の価値観を押しつけられることへの抵抗が根強い。世界最古かつ最大の民主主義国を自称するインドではあるが、他国の国内問題への介入には慎重であり、自国の問題に意見されることにも強烈な反発を示す。

内政不干渉に固執する点においてインドをはじめとするグローバル・サウスとされる国々の立場は、欧米先進国との間に隔たりがあり、むしろロシアや中国に近い。現状の日印関係では、利害の一致するイシューで協力を行い、相違点には目をつむる傾向がある。今後の日本とインドが真の信頼関係を構築するには、人権や国家主権といった立場の違う問題でも話し合えるようになることが必要なのかもしれない。

バナー写真:インドのモディ首相(左)と会談に臨む岸田首相=2023年5月20日、広島市、代表撮影(共同)

(※1) ^ インドはG20の議長国として招待された形となっているが、2019年以来5年連続で招待されており、招待国の常連となっている。ただし2020年は新型コロナウイルスの感染拡大により中止され、2021年はオンラインでの参加であった。

(※2) ^ Website of Narendra Modi (December 1, 2022).

(※3) ^ Website of Prime Minister of India (January 12, 2023).

(※4) ^ 外務省「G7広島サミット(セッション4「パートナーとの関与の強化(グローバル・サウス、G20)」概要)(2023年5月20日)なお、外務省ウェブサイトの英語版ではこの第4セッションのタイトルは付けられておらず、首相官邸ウェブサイトでは「パートナーとの関与の強化(Strengthening Engagement with Partners)」となっている。

(※5) ^ 外務省「G7広島サミット(令和5年5月19日~21日)」(2023年5月22日)

(※6) ^ なお岸田首相はこのインド訪問からポーランド経由でウクライナを訪問し、ゼレンスキー大統領のG7へのオンライン参加を要請していた。秘密裏でのウクライナ訪問はインド政府側の理解なくしては実現不可能であり、ロシアとウクライナの関係をめぐりインドがロシア寄り一辺倒ではないことがこのことからも伺える。

(※7) ^ 外務省「岸田総理大臣のインド訪問(令和5年3月19日~21日)」(2023年3月20日)また、直前の林外相の訪印時にもグローバル・サウスとG7の連携について議論している。外務省「林外務大臣臨時会見記録(令和5年3月3日(金曜日)14時17分 於:ニューデリー)」(2023年3月3日)

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溜 和敏 TAMARI Kazutoshi経歴・執筆一覧を見る

中京大学総合政策学部准教授。専門は国際関係論、南アジア国際政治。中央大学大学院法学研究科博士後期課程修了。ジャワーハルラール・ネルー大学(インド)大学院M.Phil.課程修了。 博士(政治学)。高知県立大学文化学部講師、准教授を経て2020年4月から現職。』

コソボ 根深いセルビア系住民とコソボ政府の対立 NATO指揮下のコソボ治安維持部隊との衝突も

コソボ 根深いセルビア系住民とコソボ政府の対立 NATO指揮下のコソボ治安維持部隊との衝突も – 孤帆の遠影碧空に尽き
https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/b7c820ca30f879736ff3de913b0d13c4

『【コソボ国内少数派セルビア系住民を支援するセルビアそしてロシア、コソボ政府を支援する欧米】

旧ユーゴスラビアのコソボは2008年に独立を宣言したものの、国民の90%を占めるアルバニア系に対し5%のセルビア系住民が、独立を認めず対立が続いています。

セルビア系住民を支援しているのが隣国セルビアで、コソボ独立をめぐって激しい戦争を繰り広げ、「悪者」イメージが欧米世界に拡散もしました。

そのセルビアを支援するのが、民族的・文化的・宗教的にも近いロシアです。
昨年末、コソボ内における対立が激化した際も、セルビア系住民及びセルビア支持を明らかにしています。

****ロシア、セルビア支持表明 コソボ緊張激化受け****

ロシア大統領府(クレムリン)は28日、セルビアとコソボの緊張激化を受け、友好国セルビアへの「支持」を表明した。

ロシア大統領府のドミトリー・ペスコフ報道官は会見で、「ロシアは、事態の進展とセルビア人の権利が確保されているのかを注視している」として、「わが国は、セルビア政府のすべての行動を支持する」と述べた。

さらに「セルビアは、近隣で困難な状況にあるセルビア系住民の権利を守ろうとしている。こうした権利が侵害された場合、厳しい対応をするのは当然だ」と述べた。一方で「セルビアは主権国家であり、ロシアの影響力を受けていると考えるのは完全に間違っている」と付け加えた。

コソボは2008年にセルビアからの独立を宣言した。しかし、セルビアは認めておらず、コソボのセルビア系住民約12万人にコソボ政府への抵抗を促してきた。

今月10日には、コソボ北部でセルビア系の元警察官がアルバニア系の警察官に暴行したとして逮捕されたことをきっかけにセルビア系住民がバリケードを築いて抗議した。

セルビアのアレクサンダル・ブチッチ大統領は26日、軍に「最高レベル」の警戒態勢を取らせるとともに、特殊部隊の強化を命じた。 【2022年12月29日 AFP】

****************

一方、コソボ政府を支援するのが欧米諸国で、独立をめぐる紛争中の1999年にはNATOはセルビアに激しい空爆を行っています。

*****NATOのセルビア空爆*****

NATOによるセルビア空爆は、1999年の3月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。

巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。

10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。【ウィキペディア】

******************

【コソボ国内で治安維持にあたるNATO指揮下のコソボ治安維持部隊(KFOR)】

こうしたNATO支援もあって戦闘はコソボ独立派が勝利し、NATOが指揮するコソボ治安維持部隊(KFOR)が今もコソボにおいて治安維持にあたっています。

****コソボ治安維持部隊(KFOR)****

KFOR、コソボ治安維持部隊は、1999年6月10日に採択された国連安保理決議1244に基づき、北大西洋条約機構(NATO)指揮の下、当時ユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国(2008年にセルビア共和国として独立)統治下にあったコソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日にコソボ共和国として独立を宣言)において治安維持を担う国際安全保障部隊である。

同決議に基づき暫定行政を行う民生部門は国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)という。(中略)

治安の現状

KFOR駐留以前はセルビア治安部隊やユーゴスラビア軍とコソボ解放軍の対立は激しく、セルビア人、アルバニア人双方に迫害の被害者を出した。

KFOR駐留以後は和平案は概ね履行され、また、スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領も逮捕されたことから、アルバニア系住民への迫害は改善したと言われている。

しかし、その一方で非アルバニア系、特にセルビア系住民の拉致と見られる行方不明、虐待、虐殺などの迫害が続いている。そのため、現在に至るもコソボのセルビア人帰還は進んでいない。

また、KFOR及びUNMIKの支配下でこのような行方不明や殺人が起きていることから、セルビア系の元住民らにはKFORやUNMIK、NATOに対する根強い不信感があるという指摘もある。(後略)

**********************

世界約110カ国がコソボの独立を認めているものの、セルビアのほか、ロシアや中国、EU加盟国ではスペイン、ギリシャ、ルーマニア、スロバキア、キプロスが独立を認めていません。また、コソボは国連にも加盟していません。(スペイン等がコソボ独立を認めないのは、国内に同様の分離独立運動を抱えているため)

【EU加盟を求めるコソボ、セルビア 加盟のためには両国関係正常化が条件】

コソボ、セルビア両国ともにEU加盟を求めていますが、加盟のためには両国関係正常化が条件とされています。
そのため、関係改善も模索はされていますが、対立の根は深いのが現実です。

****関係正常化へEU計画履行に合意 対立続くセルビアとコソボ****

欧州連合(EU)の外相に当たるボレル外交安全保障上級代表は18日、対立が続くセルビアとコソボの関係正常化に向けたEUの計画をどのように履行するかについて、両国が暫定合意したと発表した。AP通信が伝えた。

北マケドニア(旧マケドニア)のオフリドで、セルビアのブチッチ大統領、コソボのクルティ首相と協議したボレル氏が、記者会見して明らかにした。セルビアの自治州だったコソボは、紛争を経て2008年に独立を宣言。セルビアは認めておらず、両国の対立は続いている。

ロイター通信によると、ブチッチ氏は「いくつかの点で合意したが、全てではない。最終合意ではない」と述べた。【3月19日 共同】

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【根深い対立 セルビア系住民とコソボ治安維持部隊(KFOR)の衝突も】

昨年末、コソボ北部でセルビア系の元警察官がアルバニア系の警察官に暴行したとして逮捕されたことをきっかけにセルビア系住民がバリケードを築いて抗議していた件は、年末に一応の収束がはかられましたが、対立の根本が改善した訳でもありませんので、いつでも新たな形で噴出します。

前出のように、セルビア系住民にはNATO指揮下の平和維持部隊であるコソボ治安維持部隊(KFOR)への不満が強くあります。

****コソボでNATO軍兵士負傷、セルビア系デモ隊と衝突****

コソボでセルビア系住民らのデモ隊と警察の衝突が起き、鎮圧に乗り出した北大西洋条約機構(NATO)平和維持部隊の兵士約25人が負傷した。

デモ隊と衝突したNATO軍兵士らはコソボ北部の3市庁舎周辺に非常線を張り、警戒に当たっていた。

NATOのコソボ治安維持部隊(KFOR)は暴力を非難。声明の中で、「群衆の最も活発な一角に対抗していたイタリアとハンガリーのKFOR兵士数人がいわれのない攻撃を受け、発火装置の爆発により負傷した」とした。

ハンガリーのクリストフ・サライ・ボブロブニツキー国防相は、同国兵士7人が重傷を負い、治療のためにハンガリーに搬送されると述べた。また兵士20人が負傷したという。
コソボ全体ではアルバニア系住民が人口の90%以上を占めるが、北部のセルビア系が多数派の地域でセルビア系住民が市長選をボイコットし、アルバニア系の市長が誕生したことから、緊迫した状況が続いている。

隣国セルビアのブチッチ大統領は同国軍に最高度の警戒態勢を取るよう指示している。

ブチッチ氏はセルビア系の52人が負傷し、このうち3人が重傷を負ったと述べた。

コソボのオスマニ大統領は、ブチッチ氏がコソボを不安定化させていると非難。「セルビア系の非合法組織が犯罪組織となり、コソボの警察、KFOR、ジャーナリストを攻撃している。コソボ北部を不安定化させるというブチッチの命令を実行する者は正義に直面しなければならない」とツイッターに投稿した。

ブチッチ氏は、コソボのクルティ首相が緊張を作り出していると非難。コソボのセルビア系住民に対し、NATO軍兵士との衝突を避けるよう呼びかけた。【5月30日 ロイター】
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群衆が治安部隊に激しく殴りかかり、辺りでは催涙弾や閃光弾が飛び交っている状況とか。
単にコソボ国内の問題でなく、コソボとセルビア、更にはロシアと欧米という対立を背景にした構図です。

この対立が解消してコソボ・セルビア関係が改善し、両国がEU加盟を実現する日が来る・・・・のでしょうか?
あまり楽観的には考えられません。』

ナゴルノカラバフ問題解決へ? 勢力再編が進む南コーカサス

ナゴルノカラバフ問題解決へ? 勢力再編が進む南コーカサス
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/30365

『アゼルバイジャンとアルメニアの指導者が和平協議を再開する。関係者によれば、欧州連合(EU)のミシェル大統領は、アゼルバイジャンのアリエフ大統領とアルメニアのパシニャン首相との会合を5月14日に主催する予定だ(注:この報道の通りの日程で首脳会談は実施された)。

 2020年の全面戦争が不安定な停戦で終わった後、数百人が断続的な衝突で死んだ。EU、米国、ロシアは、それ以来長期的和平協定を仲介しようとしたが、失敗した。両国はソ連崩壊後、係争地ナゴルノカラバフの支配をめぐって争ってきた。アルメニア人多数派の地域は2020年にアゼルバイジャンにほぼ占領される前にはアルメニアが支配していた。

 アリエフの外交補佐官ハジエフは「アゼルバイジャンはミシェル大統領の仕事に安心している、EUには隠された目的はない」と述べ、EUプロセスは交渉とその構造に「重要な概念」を発展させたと付け加えた。

 和平協議はアルメニアとナゴルノカラバフを唯一結ぶラチン回廊に、アゼルバイジャンがチェックポイントを設置する決定をしたことに焦点が当てられそうである。また協議では国境の画定、捕虜交換、地雷の撤去の討議も行われるだろう。

 アルメニアはアゼルバイジャンがナゴルノカラバフへの食糧や医薬品を止めるためにチェックポイントを使っていると言い、アゼルバイジャン側は武器が密輸されるのを防ぐ必要があると言っている。ハジエフは「自己の領土の規制はどの国でも普通にある。道路は開かれているが、不法な貨物には閉じられている」と述べた。

 EU主導の努力はその広い隣接地域でのEUの力とモスクワの歴史的影響力への挑戦のテストである。ロシアは2020年の停戦を仲介した後、ナゴルノカラバフに平和維持軍として2000名の軍人を駐留させている。

*   *   *

  アルメニアとアゼルバイジャンの両国はナゴルノカラバフをめぐってソ連崩壊で両国が独立した後、長い間ずっと争ってきたが、最近ようやく両者が諸懸案に解決策を見出すべく話し合いが進んできている。南部コーカサスに平和が戻る見通しが出てきていると判断して良いと思われる。まだ状況を見る必要はあるが、歓迎すべきことである。』

『このような状況が出てきた背景は何かと言うと、基本的にアルメニア側が実質的にはアゼルバイジャン側の勝利に終わった2020年の戦争の結果を踏まえて、支配領土についての要求を引き下げる方針に転換したことである。

 アルメニアはアゼルバイジャンとは違い、ロシアが主導する集団安全保障条約機構(CSTO)の参加国であり、ロシアのアルメニア支援に期待を寄せていたが、そのような支援は得られないと考えるに至ったからであると思われる。

 アルメニアとアゼルバイジャンは国力の面で差がある。人口はアルメニア300万に対しアゼルバイジャンは1030万であり、国内総生産(GDP)はアルメニアが約140億ドル、アゼルバイジャンが550億ドルである。防衛費もアゼルバイジャンが多い。

 2020年の両国間の戦争では、アゼルバイジャンがトルコから入手した無人機を使い、アルメニア軍に手ひどい打撃を与えた。ロシアは双方に停戦を求め、その停戦を監視するために、ナゴルノカラバフに2000人の平和維持軍を送った。停戦後も両国の衝突が断続的に起こったが、そうしたなかでアルメニア側がロシアの出方に不信感を強めたと思われる。
南部コーカサスで進む「ロシア離れ」

 この紛争においては、アフガニスタン、パキスタン、トルコがアゼルバイジャンを支持、フランス、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)がアルメニアを支持するという複雑な構図があったが、その構図も解消に向かうだろう。アゼルバイジャンはイスラム教シーア派の国であり、なぜ同じシーア派のイランがキリスト教国のアルメニア支持なのか、とにかく複雑である。

 南部コーカサスでは、これからトルコの影響力の増大とアルメニアのロシア離れ、ロシアの影響力の減退が起きる蓋然性が高いと思われる。』

露軍再びウクライナへ大規模攻撃 ウクライナはモスクワへ無人機攻撃?

露軍再びウクライナへ大規模攻撃 ウクライナはモスクワへ無人機攻撃?
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5438295.html

『ウクライナへの侵略戦争を継続するロシア軍は、2023年5月29日未明に再び同国に対してミサイルと自爆型無人機で大規模攻撃を行った。

ウクライナ防衛戦力は、巡航ミサイル37弾と自爆型無人機29機を撃墜した。29日午前中も攻撃を受けた首都キーウKyiv中心部では爆発音が鳴り響く中、地下鉄駅に市民が避難する様子が見られた。市民はこのところ空襲警報を無視するようになっていたが、今回の集中攻撃には慌てふためく市民も多く、市当局によると約4万1000人が地下鉄構内に一時避難した。AFPが取材したプログラマーの男性は「みんな家で寝ている夜間(の攻撃)には慣れているが、日中の攻撃はずっとなかった」と語った。

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ザルジュニー・ウクライナ軍総司令官は、「本日未明占領者は巡航ミサイルと自爆型無人機でウクライナの軍事施設と重要インフラ施設を攻撃した」と伝えた。

ロシア軍が攻撃に使ったミサイル・無人機は以下のとおり。

kh_555・巡航ミサイル「Kh101/Kh555:右」40弾(カスピ海方面の戦略爆撃機Tu95ms)

FireShot Webpage Screenshot #493 – ‘攻撃ドローン「日本製8M689W8RVX-editor_5db48・自爆型無人機「シャヘド136/131」35機

また、ウクライナの防空戦力がその他の部隊とともに撃墜したのは、巡航ミサイル37弾、自爆型無人機29機、偵察型無人機1機だと発表された。

同日、ニェビトウ・キーウ州警察長官は、「キーウ州への敵の新たな大規模攻撃だ。敵は、巡航ミサイルと無人機で私たちを攻撃した。0時31分から5時まで州では空襲警報が発令されていた」と書き込んだ。

同氏はまた、防空戦力のおかげでほぼ全ての敵の攻撃を撃墜できたとしつつ、「攻撃の被害により、州内の複数地区の住宅とインフラ施設に損傷が出ている。死傷者は出ていない」と伝えたが、その後の報道で、朝5時前に撃墜された無人機の破片で集合住宅の住民1名が死亡し、負傷者も多数出たことが判明した。

西部リヴィウ州のコジツィキー州軍行政府長官は、リヴィウ州では防空システムによりミサイルを撃墜したが、ミサイルの破片でゾロチウ地区にて木造の建物とトラクターが炎上したと報告した。犠牲者は出ていないという。

南部オデーサ州では、ブラッチューク州軍行政府市民会議議長が、同州は約4時間空襲警報が鳴り、防空システムのおかげで無人機を撃墜できたが、破片が港湾インフラ敷地内に落下したと伝えた。

1685339673-417南部ミコライウ州では、キム州軍行政府長官が、同州上空で自爆型無人機を3機を撃墜したと報告した。また、キム氏は、28日には、州内のオチャキウ、クツルブ共同体で砲撃が確認されたと伝えた。

東部ハルキウ州では、シニェフボウ州軍行政府長官が、28日、州内4地区(ハルキウ地区、クプヤンシク地区、チュフイウ地区、イジューム地区)が砲撃され、住民4名が負傷したと伝えた。参照記事 

ウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領はこの日29日夕方の演説で、「とても長い一日だった」とし、「われわれの元にある『パトリオット(Patriot)』でロシアのミサイルは100%確実に撃墜され、テロリストは敗北する」と強調した。参照記事 参照記事 英文記事   
2023-05-30T064331Z_1381359157_R2023年5月30日:

ロシア国防省は、現地30日朝、ウクライナが8機の無人機でモスクワを攻撃したが、すべて撃墜されるか、電子戦システムを使用して制圧され、目標から遠ざかったと述べた。

ロシアの首都に対する異例の攻撃により、建物への被害は「軽度」で、死傷者は出なかったと同市の市長は述べた。市長は重傷者はいないとしており、住民に平静を呼びかけた。負傷者が出ているとの情報もある英文記事 参照記事 』

いまやドローン戦争は「数の戦い」のモードに入った。

いまやドローン戦争は「数の戦い」のモードに入った。
https://st2019.site/?p=21180

『Fabien ZAMORA 記者による2023-5-30記事「How drone warfare has evolved in Ukraine」。

   AFPの取材に対してある匿名の仏軍幹部は語った。いまやドローン戦争は「数の戦い」のモードに入った。ウクライナ戦線は、「TB2」のような少数の「MALE」(中高度で長時間滞空する無人機)が戦勢を左右するような戦場ではとっくにない。

 宇軍が飛ばす「Furia」と、露軍が飛ばす「エレロン-3」は、どちらも50kmくらい航続できるリモコン偵察機だ。そして次々に消耗することを覚悟している。

 英国のシンクタンクRUSIの推定ではロシアは長射程SAMを月産40発製造できるだけだ。40機を越えるドローンで空襲を仕掛け続ければモスクワは丸裸になる。

 RUSIまたいわく。長大なウクライナ戦線の任意の「10km幅」の中には、露軍と宇軍がそれぞれ、25機から50機のUAVを互いに飛ばし合っている。それが一千数百km続いているのである。』

北朝鮮 “軍事偵察衛星 打ち上げ失敗 速やかに2回目打ち上げ”

北朝鮮 “軍事偵察衛星 打ち上げ失敗 速やかに2回目打ち上げ”
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230531/k10014083931000.html

『2023年5月31日 13時37分

北朝鮮は、国営の朝鮮中央通信を通じて軍事偵察衛星の打ち上げに失敗したと明らかにしました。
原因を調査したうえで、速やかに2回目の打ち上げを行うとしています。
発表された内容は次の通りです。

(以下全文)
朝鮮民主主義人民共和国国家宇宙開発局は2023年5月31日6時27分、ピョンアン(平安)北道チョルサン(鉄山)郡ソヘ(西海)衛星発射場で予定されていた軍事偵察衛星「マルリギョン(万里鏡)1号」を新型衛星運搬ロケット「チョルリマ(千里馬)1型」に搭載して打ち上げた。

打ち上げられた新型衛星運搬ロケット「チョルリマ1型」は正常飛行中、1段目の分離後、2段目エンジンの始動不正常によって推力を失い、朝鮮西海(黄海)に墜落した。

国家宇宙開発局の報道官は、衛星運搬ロケット「チョルリマ1型」に導入された新型エンジンシステムの信頼性と安定性が落ち、使われた燃料の特性が不安定であることに事故の原因があると見て、当該の科学者、技術者、専門家が具体的な原因の解明に着手すると明らかにした。

国家宇宙開発局は、衛星の打ち上げにおいて現れた重大な欠陥を具体的に調査、解明し、それを克服するための科学技術上の対策を早急に立てるとともに、さまざまな部分試験を経て可及的速やかな期間内に2回目の打ち上げを断行すると明らかにした。』

5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。

5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。
https://st2019.site/?p=21180

『ストラテジーペイジの2023-5-30記事。

    5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。
 67万機のうち1万6000機は、自重500kg以上の大型機であること。

 まず、実現は不可能だろう。外国からの部品入手努力を排除するならば。』

欧州委員会は、ロシアにデュアル・ユースの工業品を輸出している複数の中国企業に対しての新制裁について、5月8日から討議中である。

欧州委員会は、ロシアにデュアル・ユースの工業品を輸出している複数の中国企業に対しての新制裁について、5月8日から討議中である。
https://st2019.site/?p=21180

『Vita Spivak 記者による2023-5-29記事「How Sanctions Have Changed the Face of Chinese Companies in Russia」。

    欧州委員会は、ロシアにデュアル・ユースの工業品を輸出している複数の中国企業に対しての新制裁について、5月8日から討議中である。
 そのいくつかの企業は、すでに米国が先に制裁を課している。特に半導体メーカー。

 ロシアからはこれまで1000社を超える外国企業が脱出しているが、中共企業は残っている。

 西側企業はロシアからの撤収が遅ければ世論から叩かれる。ところが中共企業はその逆だ。たとえば昨年、レノヴォとDiDiが、ロシアからのひきあげを検討中――と報じられたとたんに中国内のSNSがこの2社を袋叩きにした。

 中共の自動車メーカーは昨年、ロシア市場を乗っ取った。侵略開始前には60社がロシア国内にひしめいていたが、侵略後に残ったのが14社。そのうち3社がロシアのメーカーで、11社はすべて中国企業である。

 2022年において、ロシア国内で売れた新車の20%は中国車だった。前年の6%から飛躍的に伸びたわけである。

 ある予測では、2023年にはシェア40%になるのではないかという。

 「Hongqi」というブランドは、中共の特権階級用の高級車ブランドだが、それが今年、ロシア市場に進出した。
 また「Omoda」も進出した。「Chery」の子会社で、もともとロシア市場向けに特化した部門である。

 22年末、ロシアの家電小売店は、いまや洗濯機、冷蔵庫、ラップトップPC、スマホの部門では、中国メーカーが筆頭供給者であると報告した。

 中共側の輸出統計もそれを裏付ける。22年の洗濯機の対露輸出は前年比35.5%の伸び。冷蔵庫は6.4%の伸びであった。

 ハイアール社はげんざい、ロシア国内の4番目となる工場を建設中だ。

 2022-6にハイアールは、ロシア国営開発融資銀行であるVEBから2億5000万ルーブルの資金を借り出した。VEBは今次戦争勃発直後に西側から制裁を喰らっている。
 ハイアールの冷蔵庫は昨年、ロシア市場の20%以上を支配した。

 アップルもサムスンも撤退したロシアのスマホ市場は、2022年、70%が中国製品で占められた。
 シェアをリードしているのは、「Xiaomi」「Realme」「Tecno」ブランド。

 ファーウェイは何のアナウンスもしていないが、2022-3月早々に、黙ってロシアから抜けたようである。
 同社はそれまでロシアの携帯電話基地局設備の30%のシェアをもっていたのだが、それを捨てた。

 DJI社は、2020年から米政府により投資禁止対象に指定されている。2022-3にロシアのフェドロフ副首相が、DJI製品がウクライナ戦線で露軍によって使われていると発言したとき、DJI社はそれは事実ではないと必死で否定した。しかしすぐ事実を認めるしかなくなった。

 2022-3にVISAとMasterCardがロシアから撤収したので、いまや中共の「UnionPay」が、ロシア人の決裁カードの命綱である。しかし同社もロシアの制裁対象銀行との取引は縮小している。

 ディーゼルエンジンメーカーの「Weichai」グループは、ロシアのKamazトラックに対するエンジン供給を停止した。米国とEUが2022-6にKamazを制裁対象に加えたので、巻き添えを喰ってはたまらないからである。

 Sinopecは、2022-3に、ロシアの石油ガス分野に対する5億ドルの投資計画を、凍結した。』

コソボ

コソボ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BD%E3%83%9C

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、ヨーロッパの国家について説明しています。その他の用法については「コソボ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

コソボ共和国
Republika e Kosovës(アルバニア語)
Република Косово(セルビア語)
コソボの国旗 コソボの国章
(国旗) (国章)
国の標語:不明
国歌:ヨーロッパ
0:58
コソボの位置
公用語 アルバニア語、セルビア語
首都 プリシュティナ
最大の都市 プリシュティナ

政府
    大統領     ヴィヨサ・オスマニ[1][2]
    首相     アルビン・クルティ 
面積
    総計     10,887km2(暫定166位)
    水面積率     不明 
人口
    総計(2013年)     1,847,708人(暫定145位)
    人口密度     169.72人/km2 
GDP(自国通貨表示)
    合計(2018年)     67億2,600万[3]ユーロ (€) 
GDP(MER)
    合計(2018年)     79億4,700万[3]ドル(146位)
    1人あたり     xxxドル
GDP(PPP)
    合計(2018年)     209億1,200万[3]ドル(145位)
    1人あたり     11,664ドル

独立宣言    2008年2月17日
通貨     ユーロ (€)(EUR)
時間帯     UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1     XK / XKX (暫定)
ccTLD     .xk (非公式)
国際電話番号     381および383(公式)。携帯電話では377および386も使用
参照/en:Telephone numbers in Kosovo

コソボ・メトヒヤ自治州
Krahina Autonome e Kosovës dhe Metohisë
Аутономна Покрајина Косово и Метохиja
Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija
Kosovo and Metohija in Serbia.svg

セルビア内でのコソボ・メトヒヤ自治州の位置。
Map of Serbia (Kosovo and Metohija).PNG
公用語    アルバニア語、セルビア語
州都    プリシュティナ
州知事    スルジャン・ペトコヴィッチ[4]
自治州・自治体共同体
議長(英語版)    Радован Ничић
面積    10,887 km²
人口
(2011年国勢調査)    不明(セルビア[5])
1,739,825人(コソボ共和国[6])
改組
(SAPコソボより)    1990年9月28日
セルビアの統治権排除
(UNMIK開始)    1999年6月10日
コソボ議会が独立宣言    2008年2月17日
ISO 3166-2:RS    RS-KM

コソボ共和国[7](コソボきょうわこく、アルバニア語: Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。略称KOS[8]。国際連合(UN)には未加盟であるが、2016年7月時点で113の国連加盟国が国家として承認している。

概説

面積は1万887平方キロメートル(日本の岐阜県に相当)。国民の9割以上はアルバニア人で、他にセルビア人などが暮らす。人口は約180万人で、その3分の1は首都プリシュティナに集まっていると推定されている[7]。

かつてはユーゴスラビアのセルビアに属する自治州の一つで、2008年2月17日にコソボ議会が独立を宣言した。2016年7月現在、国連加盟国の内、113か国がコソボの独立を承認した[9]。独立を承認していない国は、セルビア領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなしている。

鉱物資源が豊かであり、大麦、小麦、タバコ、トウモロコシなどもとれる[8]。

呼称

「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語: Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosovë、セルビア語のキリル文字表記ではКосово、ラテン文字表記ではKosovoである。

特にセルビア人の間で、この地域の西部はメトヒヤ(セルビア語: Метохија / Metohija)と呼ばれており、この地域全体を指す呼称としては「コソボとメトヒヤ」(セルビア語: Косово и Метохија / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)が使われている。他方、アルバニア人の間ではメトヒヤの名前は使われず、この地域全体を指してコソヴァと呼ぶ。

2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語でRepublika e Kosovës、セルビア語でРепублика Косово / Republika Kosovoである。その他の言語での表記としては、英語ではRepublic of Kosovo、トルコ語ではKosova Cumhuriyeti、ボスニア語ではRepublika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。

セルビアは、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州(セルビア語: Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼んでいる。コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。

歴史

詳細は「コソボの歴史」を参照

紀元前3世紀〜紀元前1世紀頃のダルダニア王国(黄色)

6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人が住んでいたといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニア(英語版)(Dardania)と呼ばれていた。

ブルガリア帝国の進出

東ヨーロッパから侵入したスラヴ人の定住に続いて、6-7世紀以降には、古ブルガリアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニアを征服した。681年にアスパルフによって建国された、ブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国は、やがてこの地方をその支配下に置くようになった。ブルガリア帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリア人の祖となった。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガリア帝国の重要な一部だった。

セルビア王国成立

12-13世紀、セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていた。こうした中から台頭したセルビア人の指導者ステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由である。

オスマン帝国との戦い

オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。

コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。

皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。

結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチも全て殺された。それ以来バルカン半島のほとんどはオスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。

オスマン帝国の支配

コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。

オスマン帝国1875〜1878年のコソボ行政区(黄色)

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。

民族意識の高揚

19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、4つの県、サンジャク・プリズレン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ディブラ(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・スコピオン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ニシュ(ギリシア語版、英語版)をひとつにまとめたプリズレン・ヴィライェト(英語版)(1871年 – 1877年)が設置され、すぐにコソヴァ・ヴィライェト(トルコ語版、英語版)(1877年 – 1913年)となった。1878年にはコソボの都市プリズレンで民族主義者の団体「プリズレン連盟」(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。

20世紀初頭のバルカン戦争後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。

しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下にあった。

ユーゴスラビア王国成立

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代の行政区分

第一次世界大戦後に成立したユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦ではナチス・ドイツやファシスト・イタリアなど枢軸国の侵攻を受けた。

コソボにあたる領域はブルガリア王国とアルバニア王国の一部に併合された。

戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年にセルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。

1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。

1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。

独立運動

端緒

1981年の3月から4月にかけてプリシュティナのアルバニア人学生が抗議活動を開始し、6都市で2万人が参加するコソボ抗議活動に膨れ上がったが、ユーゴスラビア政府に厳しく弾圧された。

1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。

1980年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。

この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を「コソボ解放軍」(アルバニア語名: UÇK、英語名: KLA)と改名した。

1989年に東欧革命が起きて、ソビエト連邦を中心とする東欧社会主義ブロックが崩壊すると、ソ連と一線を画していたユーゴスラビアでも各民族のナショナリズムが高まった。

セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。

ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州だったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。

コソボ解放軍の実力行使

コソボ解放軍から没収された銃器(1999年)

コソボ紛争

詳細は「コソボ紛争」を参照

実質的にはセルビア人が主導しており、コソボの独立を阻止したいユーゴスラビア政府は、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。

この結果、コソボの民族バランスは大きくセルビア人側が増えることになった。

これに対して、コソボのアルバニア人指導者イブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し、アルバニア人から懐疑的な意見が出されるようになった。

デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の1990年代後半に入ると、軍事闘争によるセルビアからの独立を主張するコソボ解放軍が影響力を強めた。

一方、隣国のアルバニアは1997年に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して、社会的な混乱に陥っていた。

このような情勢で、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避。戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を伴って来た。

コソボ解放軍の指導者の一人で、後に首相となったハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を調達する活動をしていた。

翌1998年になると、セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。

セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなど、コソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。

国際連合コソボ暫定行政ミッションの始まり

戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接する北マケドニアやアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。

国連や欧州連合(EU)は、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。
1999年3月からは、北大西洋条約機構(NATO)が国際世論に押されて、セルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った(アライド・フォース作戦)。

この空爆は約3カ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始。翌年までに全てのユーゴスラビア連邦軍を撤退させた。

これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。

代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo、UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊 (KFOR) が駐留を開始した。

それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、ユーゴスラビア政府やそれを継承したセルビア・モンテネグロ(2003-2006年)、セルビア(2006年-)による実効支配は及んでいない。

しかし、セルビア側が撤退してUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、人権が守られているとは言えない。

加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している[要出典]。

コソボ紛争は2020年代にもコソボの内政や国際関係に影を落としている。コソボ大統領だったハシム・サチが2020年11月に辞任したのは、オランダのデン・ハーグに設置されているコソボ紛争の戦争犯罪を裁く特別法廷で訴追が確定したためである[2]。

地位問題

詳細は「コソボ地位問題」を参照

1991年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は、同じアルバニア人が住む隣国アルバニアしか存在しなかった。

このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっていた。

一方で1999年のコソボ紛争以降、コソボがセルビアの実効支配から完全に脱していた。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。

現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題だった。

コソボの独立

2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。

主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。

地位問題において欧州連合(EU)とアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。また同時に「国旗」が発表された[10]。4月に議会で批准されたコソボ憲法は、6月15日から正式に発効した。

セルビアの反発

この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、2月17日未明から首都ベオグラードやノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国だったスロベニア系商店への投石騒動が起きた[11][12]。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている[13]。

コソボの承認

国家承認のプロセスについては、独立宣言の翌日の2月18日にアメリカ政府が承認を公表し、ヨーロッパの国連安保理常任理事国であるイギリス、フランスも同日に承認している。ドイツが2月20日に承認した[14]。

一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインやキプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャなどは独立承認に慎重な姿勢を示している国もある[15]。このためEUによる機関承認は見送られている[16]。

同じスラブ人として歴史的にセルビアと繋がりが深いうえに米欧と一線を画すロシア連邦や、少数民族の独立運動を多く抱える中華人民共和国も同様だった。

その後、独立宣言が打ち出された当初には即座に承認しなかった国々にも承認が広まった[17]。

セルビアの周辺国では、2008年3月にクロアチア、ハンガリーそしてブルガリアがコソボの独立を承認した。

コソボの独立に際して、大アルバニア主義の拡大が憂慮されていた中、2008年10月には大アルバニア主義の利害国で国内に一定数のアルバニア人を抱えるモンテネグロと、マケドニア紛争の当事国である北マケドニアがコソボを承認した[18]。

人口の3割以上をセルビア人が占めるモンテネグロでは激しい反発が起こり、首都ポドゴリツァでは大規模な抗議集会が行われた[19]。

その一方で、セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、2008年の国連総会では、同国の要請を受けて国際司法裁判所に独立の是非の判断を求めた。
ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で[20]、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、国際連合安全保障理事会での承認は困難となっている。

またインドやスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。「大アルバニア」の利害国としては、ギリシャが承認を行っていない。

日本は2008年3月18日、コソボを国家として承認。2009年2月25日、外交関係を開設した[21]。

独立承認国

コソボを国家承認している国

詳細は「コソボ地位問題」を参照

2016年7月時点で、コソボはアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、日本など113か国から承認を受けている[22]。一方で、セルビアをはじめ、ロシア、中国、スペイン、キプロス、ギリシャ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、ジョージア、ウクライナ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、インド、インドネシア、南アフリカなどが承認していない。

2010年7月22日には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言を「国際法違反にはあたらない」と判断した[23]。国際司法裁判所の判断は勧告的意見とされ、法的な拘束力はないものの、承認するか否かを決めかねていた国際社会には大きな判断材料になると同時に、民族自決を掲げる少数民族の分離独立に大きな影響を与えるとされる[24]。

独立を承認している国・地域一覧

ヨーロッパ

アルバニアの旗 アルバニア (2008年2月18日)
フランスの旗 フランス (2008年2月18日)
イギリスの旗 イギリス (2008年2月18日)
 ラトビア (2008年2月20日)
ドイツの旗 ドイツ (2008年2月20日)
 エストニア (2008年2月21日)
イタリアの旗 イタリア (2008年2月21日)
 デンマーク (2008年2月21日)
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク (2008年2月21日)
ベルギーの旗 ベルギー (2008年2月24日)
ポーランドの旗 ポーランド (2008年2月26日)
スイスの旗 スイス (2008年2月27日)
 オーストリア (2008年2月28日)
アイルランドの旗 アイルランド (2008年2月29日)
 スウェーデン (2008年3月4日)
オランダの旗 オランダ (2008年3月4日)
アイスランドの旗 アイスランド (2008年3月5日)
スロベニアの旗 スロベニア (2008年3月5日)
 フィンランド (2008年3月7日)
モナコの旗 モナコ (2008年3月19日)
 ハンガリー (2008年3月19日)
クロアチアの旗 クロアチア (2008年3月19日)
 ブルガリア (2008年3月20日)
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン (2008年3月25日)
 ノルウェー (2008年3月28日)
 リトアニア (2008年5月6日)
サンマリノの旗 サンマリノ (2008年5月12日)
 チェコ (2008年5月21日)
マルタの旗 マルタ (2008年8月22日)
ポルトガルの旗 ポルトガル (2008年10月7日)
モンテネグロの旗 モンテネグロ (2008年10月9日)
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア (2008年10月9日)
Flag of the Order of St. John (various).svg マルタ騎士団 (2009年6月1日)
アンドラの旗 アンドラ (2011年6月8日)

アジア

トルコの旗 トルコ (2008年2月18日)
アフガニスタンの旗 アフガニスタン (2008年2月18日)
中華民国の旗 中華民国(台湾) (2008年2月19日)
日本の旗 日本 (2008年3月18日)
大韓民国の旗 韓国 (2008年3月28日)
アラブ首長国連邦の旗 UAE (2008年10月14日)
マレーシアの旗 マレーシア (2008年10月30日)
モルディブの旗 モルディブ (2009年2月19日)
サウジアラビアの旗 サウジアラビア (2009年4月20日)
バーレーンの旗 バーレーン (2009年5月19日)
ヨルダンの旗 ヨルダン (2009年7月7日)
カタールの旗 カタール (2011年1月7日)
オマーンの旗 オマーン (2011年2月4日)
クウェートの旗 クウェート (2011年10月11日)
ブルネイの旗 ブルネイ (2012年4月25日)
東ティモールの旗 東ティモール (2012年9月20日)
パキスタンの旗 パキスタン (2012年12月24日)
イエメンの旗 イエメン (2013年6月11日)
タイ王国の旗 タイ (2013年9月24日)
シンガポールの旗 シンガポール (2016年12月1日)
バングラデシュの旗 バングラデシュ (2017年2月27日)
イスラエルの旗 イスラエル (2020年8月4日)

アメリカ州

コスタリカの旗 コスタリカ (2008年2月18日)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 (2008年2月18日)
ペルーの旗 ペルー (2008年2月22日)
カナダの旗 カナダ (2008年3月18日)
 コロンビア (2008年8月4日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2008年8月7日)
パナマの旗 パナマ (2009年1月16日)
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国 (2009年7月10日)
ホンジュラスの旗 ホンジュラス (2010年9月3日)
セントルシアの旗 セントルシア (2011年8月19日)
ハイチの旗 ハイチ (2012年2月10日)
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス (2012年11月28日)
ドミニカ国の旗 ドミニカ国 (2012年12月11日-2018年11月2日)
ガイアナの旗 ガイアナ (2013年3月16日)
エルサルバドルの旗 エルサルバドル (2013年6月29日)
グレナダの旗 グレナダ (2013年9月25日-2018年11月4日)
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ (2015年5月20日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2016年4月30日)
スリナムの旗 スリナム (2016年7月8日-2017年10月27日)
バルバドスの旗 バルバドス (2018年3月9日)
 コロンビア (2019年3月9日)

アフリカ

セネガルの旗 セネガル (2008年2月18日-2020年3月2日)
ブルキナファソの旗 ブルキナファソ (2008年4月23日)
リベリアの旗 リベリア (2008年5月30日)
シエラレオネの旗 シエラレオネ (2008年6月11日)
ガンビアの旗 ガンビア (2009年4月7日)
コモロの旗 コモロ連合 (2009年5月14日-2018年11月1日)
マラウイの旗 マラウイ (2009年12月14日)
モーリタニアの旗 モーリタニア (2010年1月12日)
エスワティニの旗 エスワティニ (2010年4月12日)
ジブチの旗 ジブチ (2010年5月8日)
ソマリアの旗 ソマリア (2010年5月19日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2011年1月10日)
中央アフリカ共和国の旗 中央アフリカ (2011年7月22日-2019年7月19日)
ギニアの旗 ギニア (2011年8月12日)
ニジェールの旗 ニジェール (2011年8月15日)
ベナンの旗 ベナン (2011年8月18日)
ガボンの旗 ガボン (2011年9月15日)
コートジボワールの旗 コートジボワール (2011年9月16日)
ガーナの旗 ガーナ (2012年1月23日-2019年11月7日)
チャドの旗 チャド (2012年6月1日)
ブルンジの旗 ブルンジ (2012年10月16日-2018年2月15日)
タンザニアの旗 タンザニア (2013年5月29日
 エジプト (2013年6月26日)
リビアの旗 リビア (2013年9月25日)
レソトの旗 レソト (2014年2月11日-2018年10月16日)
トーゴの旗 トーゴ (2014年7月11日-2019年6月28日)
ガンビアの旗 ガンビア (2016年9月23日)
マダガスカルの旗 マダガスカル (2017年10月24日-2018年11月7日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2018年7月19日)

オセアニア
※コソボ共和国はパプアニューギニアとは2018年7月6日まで、ソロモン諸島とは2018年11月まで、パラオとは2019年1月まで、ナウルとは2019年11月まで外交関係を持っていた。

オーストラリアの旗 オーストラリア (2008年2月19日)
マーシャル諸島の旗 マーシャル諸島 (2008年4月17日)
ナウルの旗 ナウル (2008年4月23日-2019年11月13日)
サモアの旗 サモア (2008年9月15日)
ミクロネシア連邦の旗 ミクロネシア (2008年12月5日)
パラオの旗 パラオ (2009年3月6日-2019年1月17日)
ニュージーランドの旗 ニュージーランド (2009年11月9日)
バヌアツの旗 バヌアツ (2010年4月28日)
キリバスの旗 キリバス (2010年10月21日)
ツバルの旗 ツバル (2010年11月18日)
パプアニューギニアの旗 パプアニューギニア (2012年10月3日-2018年7月6日)
フィジーの旗 フィジー (2012年11月19日)
トンガの旗 トンガ (2014年1月15日)
ソロモン諸島の旗 ソロモン諸島 (2014年8月13日-2018年11月28日)
クック諸島の旗 クック諸島 (2015年5月18日)
ニウエの旗 ニウエ (2015年6月23日)

国際関係

詳細は「コソボの国際関係(英語版)」を参照

独立を宣言して以降、コソボは上記のような承認国の拡大と国際機関への加盟を追求してきた。

ハシム・サチ大統領はセルビアとの関係正常化と、欧州連合や北大西洋条約機構への加盟を希望すると表明している[25]。

前述のように、セルビアはコソボの独立を認めていないが、近年ではセルビア系住民が多数派を占めるコソボ北部とアルバニア系住民が多数派を占めるセルビア南部を交換し、両国の関係正常化を目指すといった動きを見せており、全くの没交渉ではない[26]。

EUの仲介などにより、コソボ北部のセルビア人保護などについて交渉や政府間合意を行っている。2020年には、米国の仲介で21年ぶりの空路再開で合意した[27]。

詳細は「セルビアとコソボの関係」を参照

アルバニア人を主体とし、公用語の一つとしてアルバニア語を共有するアルバニアとは特別な関係にある。アルバニアは1992年にコソボ共和国が独立を宣言した際、独立を承認した数少ない国の一つであった。2008年2月にコソボが独立を宣言した際にも最初に同国の独立を承認した国の一つである。

詳細は「アルバニアとコソボの関係(英語版)」を参照

日本との関係

詳細は「日本とコソボの関係」を参照
駐日コソボ大使館
詳細は「駐日コソボ大使館」を参照

住所:東京都港区西新橋三丁目13-7 VORT虎ノ門サウスビル10階
アクセス:東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅

コソボ大使館が入居するビル

コソボ大使館が入居するビル
コソボ大使館は10F

コソボ大使館は10F

地方行政区画

コソボの郡

詳細は「コソボの郡」および「コソボの都市の一覧」を参照

コソボは全体で7つの郡(ラヨーニ (Rajoni) / オクルグ (Okrug) )に分けられている。1999年にUNMIKの保護下に入った後の2000年に、UNMIKによってセルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ (Komuna) / オプシュティナ (Opština) )が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。

経済

首都プリシュティナ
詳細は「コソボの経済(英語版)」を参照

通貨はユーロが使われているが、欧州中央銀行(ECB)と正式な導入協定を結んではいない。

2018年の国内総生産(GDP)は約79億ドルであり[3]、経済的にはヨーロッパの後進地域である。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦、小麦、トウモロコシ、タバコが生産される。

鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。

その他にも石炭、銀、アンチモン、鉄、ボーキサイト、クロムなどが産出される。石炭のうち褐炭が豊富で、それを燃やす火力発電が電力の95%を賄う[28]。このため電力料金はヨーロッパで最も安い水準だが、設備の老朽化などにより停電が多く、大気汚染が深刻であり、温室効果ガスである二酸化炭素の排出削減も困難な現実がある[28]。

2011年時点でGDP成長率は5%程度であるが、貧しい者も多く、ヨーロッパの最貧国の1つである。

失業率は3割とヨーロッパ最悪の水準。特に若者では6割にも達しており、犯罪や国外移民、さらに中東へ渡ってのテロ組織「ISIL」参加などの問題を生んでいる[29]。国連の調査では、2013年時点でGDPの16%が、国外に住む国民縁者からの送金である。自分達の稼ぎでは生活が成り立たない者も多く、全世帯の25%は、この国外からの送金に頼って生活している[30]。

インターネットは普及途上で、ホームページすら持たない企業も多い[31]。

政治

プリシュティナの政府ビル
詳細は「コソボの政治(英語版)」を参照

国連安保理決議1244により国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self Government、PISG)が2001年から置かれている。

独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している[32]。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。

2008年2月、コソボは独立を宣言した。前述のように、コソボの独立を承認するか否かの対応は国により異なるが、UNMIKの役割は大幅に縮小され、警察・関税・司法の分野における任務をEUのCFSPミッション(European Union Rule of Law Mission in Kosovo、EULEX)が引き継いだ。

議会

詳細は「コソボ議会」を参照

1院制(定数120名)[21]
構成(2019年10月選挙。
任期4年) 政党(会派)名 議席数
自己決定運動 29議席
コソボ民主同盟 28議席
コソボ民主党 24議席
コソボ未来連合 13議席
セルビア人統一候補 10議席
少数民族グループ 10議席
諸派 6議席
「コソボの政党(英語版)」も参照
軍事

コソボ独自の軍事力として、治安軍を有している。
詳細は「コソボ治安軍」および「コソボ防護隊」を参照

またコソボ紛争終結に伴い、北大西洋条約機構(NATO)加盟国を主体とするKFOR(コソボ治安維持部隊)が駐留している。

コソボ議会は2018年12月14日、治安軍を軍に昇格させる法律を成立させた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権による支持を背景としている。これに対して中国の支持を背景とするセルビアとセルビアを支援するロシア連邦は反発し、地域の不安定化を懸念するNATOや欧州連合(EU)も批判的である[33]。

ユーゴスラビアやセルビアへの武力抵抗を担った組織については「コソボ解放軍」を参照。

住民

アルバニア人の子供(プリシュティナにて)
詳細は「コソボの人口統計(英語版)」を参照

民族構成は以下の通りである。

アルバニア人: 92%
セルビア人: 4%
ボシュニャク人およびゴーラ人: 2%
トルコ人: 1%
ロマ: 1%

オスマン帝国時代の統治により、コソボのアルバニア人の比率は高かった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後にセルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で難民となったセルビア人をコソボに入植させた。

これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。

コソボ紛争により、コソボ内のセルビア人は約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。

現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛地状に点在している。

コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、2008年6月28日に独自議会の設立を宣言した。北部のセルビア人はコソボの統合に反対しセルビアから行政サービスを受けていたが、2013年のコソボ・セルビア間の合意を受けて同年に実施されたコソボの統一地方選挙に紛争後初めて参加した[21]。

このコソボ・セルビア間合意により、ミトロヴィツァなど北部のセルビア人居住地域でも、セルビア共和国が管轄していた警察・司法権限がコソボ側へ移されている。EU加盟を目指すセルビア政府の外交政策が影響しているとみられるが、コソボ内のセルビア人には「見捨てられる」との懸念が強まっている[34]。

言語

コソボの公用語はアルバニア語とセルビア語で、法律は英語でも翻訳版が作られている[35]。大多数を占めるアルバニア人はアルバニア語を使い、日常生活ではアルバニア語の2大方言のうちの、地続きのアルバニア北部で使われるゲグ方言に分類される言葉を使う。
宗教

「コソボの宗教(英語版)」を参照

アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。

婚姻

婚姻の際には、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)、配偶者の姓への改姓(夫婦同姓)、複合姓より選択できる[36]。

スポーツ

詳細は「コソボのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのコソボ選手団」も参照

サッカー

詳細は「コソボのサッカー(英語版)」を参照

コソボ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1945年にサッカーリーグのライファイゼン・スーペルリーガが創設されている。コソボサッカー連盟(FFK)は、2015年と2016年にUEFAとFIFAにそれぞれ加盟を果たしている。サッカーコソボ代表は、FIFAワールドカップ予選には2018年大会・予選から参加しており、2022年大会・予選もグループ最下位で敗退し本大会への出場の夢は未だ叶っていない。

著名な出身者
詳細は「コソボ人の一覧」を参照』

コソボでNATO部隊とセルビア人住民が衝突、兵士25人と住民52人が負傷

コソボでNATO部隊とセルビア人住民が衝突、兵士25人と住民52人が負傷
https://grandfleet.info/european-region/25-soldiers-52-civilians-injured-in-clashes-between-nato-forces-and-serbs-in-kosovo/

『再び対立が高まっていたコソボ北部でNATO派遣の治安維持部隊(KFOR)とセルビア人住民が衝突、イタリアやハンガリーの兵士25人が負傷し、イタリアのメローニ首相は「一方的な行動を慎み緊張緩和に乗り出すべきだ」とコソボ側を非難した。

参考:NATO soldiers injured in Kosovo clashes with Serb protesters
選挙のやり直しはコソボ側にとって主権の侵害と映るため歓迎できる内容ではない

これまでの経緯を説明するとセルビア共和国から分離・独立したコソボ共和国で暮らす約5万人のセルビア人はコソボ側の統治を拒否、コソボ当局がユーゴスラビア時代のナンバープレートを廃止する計画を発表すると「統治を認めていないコソボ側の強制=これに応じるとコソボ主権を間接的に認めたことなる」と反発して道路をバリケードで封鎖、セルビア人が多数派を占める地域ではセルビア系議員、裁判官、治安部門のトップが一斉に辞任。

出典:Public Domain 昨年12月に登場したバリケード

セルビア共和国も「コソボ地域に住むセルビア人の権利が侵害されている」と主張したため両国関係が極度に悪化してしまい、この事態をEUの仲介で何とか沈静化させたものの辞任した代表の再選出を行う選挙管理事務所が何者かに爆破され、セルビア人とコソボ当局は「アルバニア人による選挙妨害だ」「セルビア共和国が犯行を指揮している」と互いに非難しあい、再びセルビア人がバリケードで道路を封鎖したためコソボ当局が撤去を試み発砲事件(どちら側が発砲したのか不明)に発展。

この事件後もコソボ当局は「KFOR(NATO派遣の治安維持部隊)がバリケードを撤去しないなら自分たちの手で行う」と強行姿勢を崩さず、KFORもバリケード撤去に手を出すと事態が悪化するため容易に動けず、発砲事件を重く見たセルビア共和国が警戒体制(戦闘準備)を最高レベルに引き上げ国境沿い部隊を配備、このまま事態を静観すればコソボ側がバリケードの自力撤去に踏切るの確実で、住民との衝突に発展すればセルビア側が軍事介入を行う恐れがあった。

出典:Милош Вучевић

しかし米国・EUから保証を受けったブチッチ大統領は昨年末「警戒体制の解除」を発表したため最悪の事態だけは回避できた格好だが、保証の中身は「中央選挙管理委員会や治安当局に対する攻撃を組織したという理由で逮捕されたコソボに住むセルビア人元警察官の釈放」「コソボに住むセルビア人の逮捕リストを放棄=恐らく今回の抗議に関連した人々を起訴しないという意味」「NATOもコソボもセルビア人居留地に許可なく立ち入らない」というもので、主権を制限されたコソボ側にとって歓迎できる内容ではない。

一方のセルビア側は「これはセルビアの勝利でコソボ・メトヒヤ(独立を承認していないコソボ地域を指す名称)に住むセルビア人の勝利だ」と保証内容を歓迎していたが、再びプリシュティナ側とコソボに住むセルビア人が衝突しまった。

出典:GoogleMap/管理人が加工(クリック拡大可能)

今回の衝突原因はセルビア人が多数派を占める地域(ズヴェカン、レオプサビッチ、ズビン・ポトク)のアルバニア人新市長就任で、4月23日に実施された選挙は実施までのプロセスに問題があり、現地のセルビア人住民は選挙のボイコットを宣言、当該地域に住むアルバニア人の投票率も異常に低く、選挙管理委員会の公式データによると実際に投票したのは住民4.5万人の内1,567人(投票したセルビア人は13人)だけだった。

EUは選挙自体は適切に実施されたと認めているが「コソボ側とセルビア人住民の緊張を和らげることに失敗した」と指摘しており、選挙結果を認めていないセルビア人住民はバリケードを築いて新市長が市庁舎に入るのを妨害、コソボ警察の特殊部隊が催涙弾などを使用して鎮圧に乗り出しため両者が衝突、これ受けてセルビアのブチッチ大統領は「プリシュティナ側がコソボ北部のセルビア人へのテロ行為をエスカレートさせてきたため、軍の警戒体制(戦闘準備)を最高レベルに引き上げ、行政ライン方向への移動を命じた」と発表。

そのためKFORの部隊が市庁舎の警備に投入されたのだが、アルバニア人新市長が働く市庁舎を守るKFOR部隊とセルビア人住民のデモ隊が衝突、イタリアやハンガリーの兵士25人が負傷(内7人は焼夷弾の爆発で骨折と火傷を伴う重症らしい)し、セルビア人側にも52人の負傷者が出たと報じられている。

コソボ当局は今回の衝突について「セルビア人住民がブチッチ大統領の手先となり北部地域を不安定化させようとしている」と主張したが、ブチッチ大統領は「コソボのクルティ首相が緊張状態を意図的に作り出そうとしている」と非難し、衝突に巻き込まれ兵士が負傷したイタリアのメローニ首相も「現在起きていることは絶対に受け入れられないし無責任だ。コソボ側は一方的な行動を慎み緊張緩和に乗り出すべきだ」とコソボ側の対応を非難した。

今回の選挙も選出されたアルバニア人新市長も法的には合法だが、そもそもコソボ共和国で暮らすセルビア人住民はコソボ側の統治を拒否しており、選挙結果を認めていないセルビア人住民を排除して市庁舎に新市長を送り込めば何が起きるのかなど誰の目にも明らかで、これを強行したコソボ側を欧米は「緊張緩和の努力を放棄した無責任な行動だ」と非難しているのだ。

因みにセルビアのダチッチ外相は「セルビア人が多数派を占める自治体に現地住民によって選出されていない市長を置くのは不可能」と述べており、ここで言う「緊張緩和の努力」とはセルビア人が参加できる環境を整えて市長選挙をやり直すことなのだろう。

#Kosovo: At least two people were wounded after Serb protesters clashed with NATO KFOR and local security forces in the town of Zvečan.

The protests started after Albanian mayors took office in northern Kosovo, following the elections that local Serbs boycotted. pic.twitter.com/wxnbTCkl0P

— Status-6 (@Archer83Able) May 29, 2023

ただ選挙のやり直しはコソボ側にとって主権の侵害と映るため歓迎できる内容ではない。

関連記事:コソボ当局と住民が衝突、セルビア大統領は軍に戦闘準備と移動を命じる
関連記事:米国とEUから保証を受けったセルビアが警戒体制を解除、事実上の外交的勝利
関連記事:増え続けるバリケード、コソボ側が手を出せばセルビア軍介入の可能性も
関連記事:緊張が高まるバルカン半島、発砲事件を受けてセルビア側が戦闘準備

※アイキャッチ画像の出典:Radio Free Europe
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 21 』

岸田総理長男は「家柄、学歴、職歴文句なし」欠けているのは「良識と常識」伊藤惇夫氏バッサリ

岸田総理長男は「家柄、学歴、職歴文句なし」欠けているのは「良識と常識」伊藤惇夫氏バッサリ
https://www.daily.co.jp/gossip/2023/05/30/0016413448.shtml?fbclid=IwAR01KiX-iDPP8xixN8huIrLzCC0guTubtHaVxb3dy07AY8RLw9r9-n9rnCs

 ※ 「良識」と「常識」が欠けている人物って、「政治家の資質」うんぬんよりも、「人」として、どうなのよ…。

 ※ やれやれな話しだ…。

 ※ まあ、「デイリースポーツ」では、あるが…。

『政治アナリスト・伊藤惇夫氏が30日、TBS系「ひるおび!」で、事実上更迭された岸田文雄総理の長男・翔太郎秘書官について、学歴、職歴など文句がないだけに「欠けているのは良識と常識かなと」との思いを語った。

 この日は事実上更迭となった岸田総理の長男・翔太郎秘書官の問題を取り上げた。先週の時点では厳重注意だったが、前日に急転直下の事実上の更迭となった。

 「乗り切れると思ったのか?」という恵俊彰の問いかけに伊藤氏は「金曜の発言を聞くとね。前回のイタリア観光旅行疑惑もありましたが、あの時も乗り切った訳ですから、今回も行けると判断したのかもしれませんが」と辛らつ。そして「今後、これを引き延ばすとダメージが強くなるというのもあったのかもしれない」と分析した。

 翔太郎氏は慶大卒業後は三井物産に入社。20年に岸田事務所で公設秘書となり、22年10月に総理秘書官となった。伊藤氏は「翔太郎さんは家柄も学歴も職歴も文句ない。となると、欠けているのは良識と常識かなと」と厳しい言葉も。「この辺を岸田さんがどう指導し、教育したのかが問われる」とも語っていた。』

危機の二十年

危機の二十年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4

 ※ 『なお訳書は、旧版訳書は、多数の誤訳や不適切な訳文が指摘され(山田侑平「岩波文庫あの名著は誤訳だらけ: 大学生必読『国際政治学の古典』は全く意味不明」。「文藝春秋」2002年4月号)、以後は「在庫なし」の状況となり、入手は困難だったが、2011年11月に新訳出版された。』…。

 ※ 「翻訳本」は、こういう問題もあるからな…。

 ※ 何事においても、「信者になるな!」「権威を疑え!」だ…。

 ※ 「自分の頭で、考えろ!」…。

 ※ まあ、そういうことができる「頭の持ち主」じゃないと、「話しにならない。」…。

 ※ 「信者に、なってる人」「権威に、盲従している人」のすぐ後ろには、AIが迫っている…。

 ※ 既に、「追い抜かれている人」も多いのか…。

 ※ 『この理想主義は、世界政府や自由民主主義などの政治理念を生み出すとともに、1919年のパリ講和会議の国際連盟設置などを契機に現実の政治に具体化されていった。』…。

 ※ おそらく、「日本国憲法」も、この延長線上にある…。

 ※ 『1939年の第二次世界大戦が発生した時には権力を排除した理想主義の政治理論は現実に適応できなくなっていた。』という「世界情勢」だったにも、拘わらずだ…。

 ※ 70年以上も経って、ウクライナ事態や、隣国の軍事力の増大により、「グルっと周って」、「我が身に火の粉が降りかかって来た」のは、皮肉な話しだ…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『危機の二十年』(ききのにじゅうねん、英語:The Twenty Years’ Crisis 1919-1939)とは政治学者、歴史家であり外交官でもあったE・H・カーによる国際政治学の著作である。

この著作は、ヨーロッパで第二次大戦が勃発する直前の1930年代に執筆され、第1版が戦争勃発の直後である1939年9月に刊行され、1945年に第2版を刊行された(日本語訳は第2版から)。

なお第2版ではヒトラーに対する宥和政策に好意的な箇所が削除されている。

概要

国際政治学の歴史を概観すれば、そこには理想主義と現実主義の交代が認められる。

元来、伝統的な政治学はイデアや徳などの理想的な理念で政治秩序を論じていた。

近代において功利主義の道徳哲学や利益調和の政治経済学の思想的な展開に伴って、現実政治にも理想主義の政治学原理が適用されるようになった。

この理想主義は、世界政府や自由民主主義などの政治理念を生み出すとともに、1919年のパリ講和会議の国際連盟設置などを契機に現実の政治に具体化されていった。

しかし第一次大戦後の理想主義的な国際政治学は次第に衰退していくことになる。

理想主義者は国際政治から権力を除外すべきであると考えていたが、1939年の第二次世界大戦が発生した時には権力を排除した理想主義の政治理論は現実に適応できなくなっていた。

現実主義は理想主義に対する批判を強めるとともに、理想主義が掲げる政治秩序を現実政治の観点から解体した。

軍事力、経済力、また世論を支配する能力は、政治秩序の実際のあり方を左右することを論じた。

結果として理想主義は破綻を余儀なくされ、全体主義の台頭とともに、国際的な利益調和の喪失が生じた。

本書の問題意識は破綻した国際政治を再び秩序化するために、どのような基盤が求められるのかを考察することである。

カーは国際政治の新しい秩序を構想するために、権力と道義の二つの原理から考えを展開する。

権力がもたらす政治闘争の現実という課題と、道義がもたらす政治統合の理想という願望を考えれば、まずは世界経済再建が非常に有望な提案と考えられる。

なぜならば権力が国際政治を支配する限りでは危機が深刻化するものの、権力闘争が解決されれば道義の役割が回復されて秩序が安定するためである。

たしかに経済的な利益は道徳的な正義と等しくない。ただ経済的利益を独占しようとする傾向を諸国家から軽減すれば、各国の外交政策を協調へと方向付けることが可能となるのである。

カーへの応答

『危機の二十年』は、出版後、国際関係研究において不可欠の著作となった。

学部教育課程で依然として広く講読されており、伝統的現実主義の基本テキストの一つと考えられている[1]。

『危機の二十年』が数多くの研究に刺激を与えた。

国際関係論の学説の盛衰を概観した『危機の八十年』の序論で、編者の3人(マイケル・コックス、ティム・ダン、ケン・ブース)は、「カーの『危機の二十年』における議論とジレンマの多くが今日の国際関係の理論と実践に関連している」と指摘する[2]。

しかし、カーへの応答は決して肯定的なものばかりではない。

en:Caitlin Blaxtonは、『危機の二十年』におけるカーの道徳的立場を批判した[3]。

カーがいわゆる現実主義と理想主義の抗争を提示したことについて批判する研究者もいる。

ピーター・ウィルソンによれば、「カーのユートピア概念は科学的概念として十分に練られたものではなく、きわめて便利なレトリック上の仕掛けである」[4]。

『危機の二十年』のもつ複雑な性格について、近年、ジョナサン・ハスラム(訳書は下記)、マイケル・コックス[5]、チャールズ・ジョーンズ[6]らの研究を含んだカーに関する数多くの文献によって理解が深まっている[7]。

書誌情報

The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, London: Macmillan, 1939.
The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, 2nd ed., London: Macmillan, 1946.
The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, reissued with a new introduction and additional material by Michael Cox, Basingstoke: Palgrave, 2001.

日本語訳[8]

E.H.カー『危機の二十年 ― 國際關係研究序説』、井上茂譯(岩波書店「岩波現代叢書」、1952年、新版1992年ほか)
    E.H.カー『危機の二十年 ― 1919-1939』、井上茂訳(岩波文庫、1996年)
    E.H.カー『危機の二十年 ― 理想と現実』、原彬久訳(岩波文庫、2011年)

関連文献

ジョナサン・ハスラム『誠実という悪徳―E・H・カー 1892-1982』角田史幸、川口良、中島理暁訳(現代思潮新社、2007年)
デーヴィッド・ロング/ピーター・ウィルソン編著『危機の20年と思想家たち―戦間期理想主義の再評価』

    宮本盛太郎、関静雄監訳(ミネルヴァ書房「人文・社会科学叢書」、2002年)

出典

^ [1]
^ Tim Dunne, Michael Cox and Ken Booth. "Introduction the Eighty Years Crisis". The Eighty Years' Crisis. Cambridge: Cambridge University Press, 1998. p. xiii
^ Wilson, Peter. "The Myth of the 'First Great Debate'". The Eighty Years' Crisis. Cambridge: Cambridge University Press, 1998. p. 3
^ Ibid., p. 11
^ Michael Cox ed., E. H. Carr: A Critical Appraisal, (Palgrave, 2000).
^ Charles Jones, E. H. Carr and international relations: a duty to lie, Cambridge: Cambridge University Press, 1998.

^ 日本でもカーの再評価が進んでいる。2009年1月発行の『外交フォーラム22(2) 特集「 E・H・カー―現代への地平」』(第247号)の他に、遠藤誠治「『危機の20年』から国際秩序の再建へ―E.H.カーの国際政治理論の再検討」「思想」945、2003年、西村邦行「E・H・カーにおけるヨーロッパ的なものの擁護―理論、歴史、ロシア」「法学論叢」166(5)、2010年、西村邦行「知識人としてのE・H・カー─初期伝記群と『危機の二〇年』の連続性」「国際政治」160、2010年、山中仁美「国際政治をめぐる「理論」と「歴史」―E・H・カーを手がかりとして」「国際法外交雑誌」108(1)、2009年、山中仁美「新しいヨーロッパ」の歴史的地平―E・H・カーの戦後構想の再検討」「国際政治」148、2007年、山中仁美「「E.H.カー研究」の現今の状況をめぐって」「国際関係学研究」29、2003年、山中仁美「E.H.カーと第二次世界大戦―国際関係観の推移をめぐる一考察」「国際関係学研究」28、2001年、角田和広「戦間期におけるE・H・カーの国益認識―独伊政策を焦点として」「政治学研究論集」28、2008年、角田和広「E・H・カーの『国際秩序』構想―平和的変革構想とその失敗」戦略研究学会編『戦略研究』第7号、2009年、清水耕介「世界大戦とナショナリズム―E・H・カーとアレントの見た一九世紀欧州」「アソシエ」16、2005年、細谷雄一「大英帝国の外交官たち(4)「新しい社会」という誘惑―E.H.カー」「外交フォーラム」16(5)、2003年。

^ なお訳書は、旧版訳書は、多数の誤訳や不適切な訳文が指摘され(山田侑平「岩波文庫あの名著は誤訳だらけ: 大学生必読『国際政治学の古典』は全く意味不明」。「文藝春秋」2002年4月号)、以後は「在庫なし」の状況となり、入手は困難だったが、2011年11月に新訳出版された。

G7雑感 グローバルサウスの存在感

G7雑感 グローバルサウスの存在感 – 風来庵風流記
https://blog.goo.ne.jp/mitakawind/e/6a99aa73c5666d83aea864dab8070bae

『G7を巡る狂騒曲を続ける。一見、その存在感が高まっていることを称揚するかのような、あるいは少なくともニュートラルな意味合いに見えるブログ・タイトルだが、正直なところ、グローバルサウスに対して、歴史的には大いに同情するが、最近はその増長振りがやや気になるところでもある。

正確に言うと、存在感が、ひいては発言力が高まっていることを感じ、自己主張を強めようとするのであれば、それに応じた国際社会の責任も引き受けるべきところだ。

その点では、中国と言う悪しき先例がある(もっとも最近は、アメリカが後退する“隙間”を狙って外交努力を誇示しつつあるが)。

 グローバルサウスが、ロシアとウクライナとの戦争からも、また、アメリカと中国との対立からも、距離を置きたがり、巻き込まれないように慎重に行動するのはよく分かるが、結局、いずれからも利益を得ているから、あるいは得たいからという現実的で短絡的な(と敢えて言わせて貰う)対応を示しているだけのことで、それは何も今に始まったことではない。

ツキュディデスの罠を流行らせたハーバード大学のグラハム・アリソン教授がインタビューしたシンガポール建国の父、リー・クアンユー氏も同様のことを語っていた(『リー・クアンユー、世界を語る』(サンマーク出版 2013年)。

 相対的に中小国が多いグローバルサウスにとって、それがまだ発展途上の彼らが厳しい国際社会を生き抜く知恵であることは理解する。

国際政治においてリアリズムが大事であることは、E.H.カーが既に、国際政治学の原典とも言うべき『危機の二十年』(原書”The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939”は1939年)で指摘していた。

だからと言って所詮ユートピアニズムは偽善だとも言い切れなくて、現実と理想(や理念)とのバランスの問題だろう。

前回ブログでは、アメリカが中国に引っ張られて、理念を置き去りにするような行動に走り、今、グローバルサウスの台頭でも、理念がよく見えない。理念がなんだか不憫な扱いをされる時代である。

 ロシアとウクライナとの戦争に関して、グローバルサウスは、ロシアの行動を非難することには辛うじて賛同し、戦争が早く終わって欲しいと望みつつ、制裁、すなわち力による現状変更という国連憲章違反の行為が高くつくことを思い知らしめる行動には乗って来ない。

第三次世界大戦を回避し、秩序を維持しようと返り血を浴びながらも健気に努力する西側の行為(などと、かなり西側寄りの発言であるが 笑)には背を向ける。

果ては、食糧危機は西側の制裁のせいだとロシアが声高に宣伝するのを信じる国すらある。同様に、アメリカと中国との対立ではどっちもどっちなのか、中国に非はないのか、という理念の問題について、問い掛けたい。

 アメリカの苦悩は、実はグローバルサウスには分からないだろう。

何故なら、グローバルサウスは中国が欲しがるような技術を持たないし、アメリカほどのインテリジェンスもないからだ。

アメリカは、自由と民主主義を尊ぶオープンな社会で、科学・技術が発展していればこそ、中国をはじめ多くの国々から多くの人々が学ぶために集まり、共創し、アメリカの科学・技術の発展を助けるとともに、それぞれの出身国の経済発展にも貢献する。

中でも中国は、そのオープンな環境に乗じて、技術を学ぶだけでなく、金に飽かせて技術を買い漁り、正当に入手できない場合は窃盗し(先のグラハム・アリソン教授は、中国の場合はR&D&Tとなる、すなわちR&DにとどまらずT=Theftまでやると言われた)、自国の軍(正確には共産党の軍)の近代化に余念がない。

それが、人口数千万程度の開発独裁国ならまだしも、国家資本主義という異質の体制で、既に世界第二の経済大国に登り詰め、なお国家がその全精力を傾けて国の経済と軍事の発展を主導する国なのだから、覇権が脅かされる(とアメリカを揶揄しつつも)アメリカにとってはたまったものではない。

 ついでに言うなら、中国が欲しがる技術をまだ辛うじて持っている日本も、アメリカの苦悩は十分には分からないだろう。何故なら、アメリカほどのインテリジェンスがないから、技術が盗まれているかどうかすら分からないだろうからだ。日本の経済人の多くがお人好しでお気楽でいられるのは、そのせいではないかと思う。

 中国やロシアは、多極化した世界を望むことで一致する。

欧米的な自由・民主主義が全てではなく、中国やロシアのような権威主義も、さらにグローバルサウスのような発展途上の世界も、存在感を主張し、その限りでは理解できなくはない“美しい世界”だが、そのときの秩序はどうなるのだろうか。共有できる理念はあるのだろうか。

中国やロシア(だけでなく、イランや北朝鮮などの)サイバー攻撃をはじめとする無法は許されるものではない。

以前であれば、産業スパイ事件は新聞の一面を飾る事件たり得たが、サイバーを介した産業スパイは日常茶飯事になってしまった感がある。

言葉は悪いが、北朝鮮は犯罪国家であり、中国は共産党が人民を搾取する泥棒国家という形容が成り立ち得る。

そんな世界で、大規模言語モデルが急速に発展し、AIのリスクが俄かに語られるようになったのにはワケがある、というべきだろう。

今朝の日経記事(英エコノミスト紙の翻訳記事)は、人種差別や子供を対象にした性犯罪、爆弾の作り方に関する情報の提供などの危険が考えられると言い、強大化するAIモデルが、偽情報や選挙操作、テロ行為、雇用の喪失などの危険をもたらす可能性がある、という。

最近は雇用の喪失が多く語られるが、私はどちらかと言うとそこは楽観的で、それ以外の政治・社会的リスクが恐ろしい。

 なお、そのグローバルサウスの一つとして招聘された韓国が、G7入りに意欲を示し、日本の支持を期待しているとの記事が目に留まって、目を疑った。

ドイツの首相が30年振りに、また欧州委員長も、G7後に韓国を訪問した。NATO以外の国で、韓国ほどの経済力があって、今なお法的には戦争中で、ウクライナに武器・弾薬の支援を出来る国は、世界広しと言えどそうあるものではない。

この期にNATOや欧州の関係者が韓国に秋波を送るのはもっともだと思うが、当の韓国はそう思わず、勘違いしている可能性がある。

保守政権で日本の悪口をあちらこちらの国々で触れ回る「告げ口外交」を恥じることなく、その後の左派政権では反日活動に勤しむ市民団体に数千億円の補助金を出して、反日を大いに煽って戦後最悪の日韓関係に立ち至らせた国である。

グローバル・イシューを語るに足るパートナーだと、自ら自負されているのだろうか(もっともG8発言のヌシは韓国の駐日大使で、ほんの都内での講演での軽口だったのかも知れないが)・・・

 日米欧の民主主義陣営にしても、中露の権威主義陣営にしても、グローバルサウスを取り込むことに躍起になっているが、いずれもグローバルサウスには振り回されそうな予感がする。これも(中国やロシアと同様)、歴史の復讐であろうか・・・』