フランスは現在ルーマニア国内に1500名の仏軍部隊を駐留させているが、2025年までにこの部隊を4000人に増強する。
https://st2019.site/?p=21981
『その部隊は50両のルクレール戦車を装備するであろう。
その120㎜砲は自動装填で、4km先の動いている標的にも当てられる。』





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フランスは現在ルーマニア国内に1500名の仏軍部隊を駐留させているが、2025年までにこの部隊を4000人に増強する。
https://st2019.site/?p=21981
『その部隊は50両のルクレール戦車を装備するであろう。
その120㎜砲は自動装填で、4km先の動いている標的にも当てられる。』
カンボジア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2















『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「カンボジア王国」はこの項目へ転送されています。1954年に成立し、1970年に滅亡したカンボジア王国については「カンボジア王国 (1954年-1970年)」をご覧ください。
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カンボジア王国
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
カンボジアの国旗 カンボジアの国章(画像無し)
(国旗) (国章)
国の標語:ជាតិ សាសនា ព្រះមហាក្សត្រ(クメール語)
国家、信仰、国王
国歌:បទនគររាជ(クメール語)
王国
Duration: 1 minute and 31 seconds.1:31
カンボジアの位置
公用語 クメール語(カンボジア語)
首都 プノンペン都
最大の都市 プノンペン
政府
国王 ノロドム・シハモニ
首相 フン・マネット
上院議長 サイ・チュム(英語版)
下院議長 クオン・スダリー(英語版)
面積
総計 181,035km2(87位)
水面積率 2.5%
人口
総計(2020年) 16,718,971[1]人(68位)
人口密度 94.714[2]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2020年) 54兆8010億[3]リエル
GDP(MER)
合計(2020年) 252億9100万[4]ドル(99位)
1人あたり 1,512.728[5]ドル
GDP(PPP)
合計(2019年) 754億1600万[6]ドル(103位)
1人あたり 4,574.403[7]ドル
独立
フランスより 1953年11月9日
クメール共和国成立 1970年3月18日
民主カンプチア成立 1975年4月17日
カンプチア人民共和国成立 1979年1月10日
王政復古、現カンボジア王国成立 1993年9月24日
通貨 リエル(KHR)
時間帯 UTC+7 (DST:なし)
ISO 3166-1 KH / KHM
ccTLD .kh
国際電話番号 855
カンボジア王国(カンボジアおうこく、クメール語: ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា)、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家[8]。東南アジア諸国連合加盟国であり、通貨はリエルである[8]。人口1671万人、首都はプノンペン都。
南はタイランド湾に面し、西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接する。
国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)である。国歌は『王国』である。
国名
正式名称は、クメール語で ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プレアは王の称号。リアチアは「王」、ナーチャックは「国」で、両方合わせたリアチアナーチャックは「王国」を意味する。隣国のタイの正式名称とよく似ている。
カンボジアではアンコール王朝以後、国名をカンブジャと呼んでいる[9]。
チャム語で書かれた948年のバクセイ・チャムクロン碑文はリシのカンブ・スヴァーヤンブヴァと天女メラーの婚姻による建国伝説を伝え、カンブジャとはカンブの子孫を意味すると説明される[10]。クメール語では「カンプチア」に近く発音される。
公式の英語表記は「Kingdom of Cambodia」である。略称は「Cambodia」(カンボーディア)と読ばれる。日本語では「カンボジア王国」、「カンボジア」と称する、漢字による表記は「柬埔寨」。
傍らで「クメール」という言葉も使われる。
本来は「カンボジア」は主に民族、「クメール」は言語を指していたが、現代では区別があいまいになっている[11]。
20世紀前半までの中国およびベトナムでは「高棉」(拼音: Gāomián、ベトナム語: Cao Miên)とも呼ばれた。
歴史
詳細は「カンボジアの歴史」を参照
古代
詳細は「扶南」、「真臘」、および「シャイレーンドラ朝」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。
扶南はインド文化を強く受けていた。また、扶南の従属国であった真臘が扶南を占領、滅亡させたが、インドの文化はそのまま残った。
クメール朝
アンコール・ワットはアンコール遺跡のひとつで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている
詳細は「クメール王朝」を参照
9世紀初頭にクメール王朝が成立し、12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡が建造された。
カンボジアの暗黒時代
詳細は「カンボジアの暗黒時代(英語版)」を参照
16世紀ごろに、ポルトガルの商人やカトリック教会の宣教師が最初にカンボジアに到来した西洋人であったと考えられている。続いてスペイン人、オランダ人、17世紀半ばからフランス人が到来した[12]。
保護国時代
1863年にフランス帝国の保護国となり、1887年にフランス領インドシナの一部となった。
フランス保護下でも形式的に王国体制は存続し、1904年にシソワット王が、1927年にシソワット・モニヴォン王が即位した。
シソワット・モニヴォン王の下で1940年から1941年にかけての間にタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、東京条約によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパーサック県(タイ語版)(現在のチャンパーサック県、プレアヴィヒア州)、ピブーンソンクラーム県(英語版)(現在のウドンメンチェイ州、シェムリアップ州、バンテイメンチェイ州)、プレアタボン県(英語版)(現在のバタンバン州)がタイ王国に割譲された。
1941年に即位したノロドム・シハヌーク王の治下では、第二次世界大戦中に日本軍に占領されるも、明号作戦によってフランス領インドシナが解体されたあと、大戦末期の1945年3月13日に独立を宣言した。
1945年8月にシハヌーク王を後見していた日本が連合国に敗北したあと、フランス領に復帰するも、1949年にフランス連合の枠組みの中で独立を認められ、1953年に完全独立を達成した。
独立と内戦
仏印内東隣のベトナムは共産主義の北ベトナムと反共資本主義体制の南ベトナムに分かれて独立した。
北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は、ラオスおよびカンボジア領内の「ホーチミン・ルート」を経由して南ベトナムへのゲリラ攻撃を行う。
これに対してアメリカ合衆国は軍事介入を行い(ベトナム戦争)、1968年にはアメリカ軍がカンボジア・ラオス領内のホーチミン・ルートへの空爆を開始する。
1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク元首を追放し、クメール共和国を樹立した。
これに対して北ベトナムがカンボジアへの侵攻を開始すると、ロン・ノル政権は国内のベトナム系住民に対する迫害・虐殺を行う。
また、中華人民共和国の北京に亡命したシハヌークは、共産主義勢力クメール・ルージュなどを含む反米・反ロンノル勢力の武力共闘を呼びかけ、カンプチア王国民族連合政府の樹立を宣言。カンボジア内戦が始まる。
ロン・ノル政権下でも米軍による空爆は拡大し、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となった。
米軍と南ベトナム軍による地上侵攻も行われている。(カンボジア作戦)
ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立したクメール・ルージュ政権はシハヌークとペン・ヌートをそれぞれ国家元首と首相に推戴するも、実権はポル・ポトに掌握されていた。
クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8か月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。
この死者数は、1970年代前半の総人口は700万人から800万人だったとの推計の13 – 29%にあたり、大量虐殺が行われた。
教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。
生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。
それゆえ、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。
なお、内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている。
この時期のカンボジアの人口推計として1976年の国際連合のもので835万人、1978年にイエン・サリ副首相兼外相(当時)が発表した776万人(1976年時点)とする数字がある[13]。
1978年12月25日に中ソ対立の文脈の中でソ連寄りのベトナム社会主義共和国の正規軍とカンプチア救国民族統一戦線が、対立していた中国寄りの民主カンプチアに侵攻。
翌1979年1月、ポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。
なお、このベトナムによるカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発している。
その後、ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。
1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンプチア連合政府(CGDK)(英語版)を樹立した。
カンプチア人民革命党と反ベトナム三派連合政府の対立が継続する[14]。1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結された。
制憲議会発足
1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施された。
このときの国連の代表が日本の明石康である。
6月2日、国連安全保障理事会は、選挙が自由・公正に行われたと宣言し、選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。
さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した[15]。
9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。
憲法は「複数政党制に立脚した自由な民主主義」を憲法原則のひとつとした。制憲議会は国民議会に移行した。
1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となった。
2009年12月18日、カンボジア特別法廷[16] は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。
法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の2名にも大虐殺罪適用を決定している。[17]
2013年カンボジア国民議会選挙では与党のカンボジア人民党が僅差でカンボジア救国党に勝利し、フン・セン首相の続投が決まった。
2023年7月26日にフン・センは首相を辞任し、長男で元陸軍司令官のフン・マネットに後を継がせた。
政治
首都プノンペンの王宮
カンボジア国民議会議事堂
詳細は「カンボジアの政治(フランス語版、英語版)」を参照
政体
詳細は「カンボジア君主・国家元首一覧」を参照
国家体制は国王を元首とする立憲君主制である。
選挙君主制であり、ノロドム家(英語版)とシソワット家(英語版)のメンバーから、王室評議会(英語版)が国王を選出する。
王室評議会は、首相、両院の議長、両院の副議長(それぞれ2名ずつ)、上座部仏教の2つの宗派の代表(それぞれ1名ずつ)の合わせて9名からなり、秘密投票で国王を選出する。
国王の地位は終身である。
1993年にカンボジア王国が成立した際、初代国王にノロドム・シハヌークが選出され、2004年10月の国王退位を受けてシハヌークの実子であるノロドム・シハモニが選出された。
行政
詳細は「カンボジアの首相」を参照
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立法
立法府たる議会は両院制を採用しており、定数125議席からなる国民議会(下院)議員は直接選挙で選出され、定数61議席からなる元老院(上院)議員は間接選挙と国王からの任命によって選出される。
「カンボジアの選挙(フランス語版)」も参照
1998年7月末に総選挙が実施され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。
人民党が第1党になったが、フンシンペック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあり、単独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権が成立した。
2003年7月に総選挙が実施され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンペック党26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立をめぐり紆余曲折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足した[18]。
2013年の選挙で野党人民救国党が躍進した。
2017年に最大野党の人民救国党の党首が国家反逆罪により逮捕され、党は裁判所の命令で解党され、所属する政治家も政治活動が禁止された。
翌2018年の総選挙では有力野党不在の選挙となり、与党人民党が下院全議席の125議席をとって事実上の一党独裁状態となった[19]。
政党
詳細は「カンボジアの政党」を参照
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憲法
1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党51議席(38.2%)、フンシンペック党58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)であった。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会に移行した。
「カンボジア憲法議会(英語版)」も参照
カンボジア王国憲法には、内政不干渉、紛争の平和的解決、永世中立が明記されている。
法律
カンボジアでは、クメール・ルージュ[注釈 1] 時代にほとんどの法律家(裁判官、検察官、弁護士)が殺害され、法律およびその資料も廃棄された。
カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状態から民法や民事訴訟法などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援を行っている[20]。
民事訴訟法は2007年7月から適用を開始しており、民法も2007年12月8日に公布され[21]、2011年12月21日から適用が開始された[22]。
国際関係
詳細は「カンボジアの国際関係(英語版)」を参照
日本との関係
詳細は「日本とカンボジアの関係」を参照
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ベトナムとの関係
詳細は「カンボジアとベトナムの関係(英語版)」を参照
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フランスとの関係
詳細は「カンボジアとフランスの関係(フランス語版、英語版)」を参照
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アメリカとの関係
詳細は「カンボジアとアメリカの関係(英語版)」を参照
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中国との関係
詳細は「カンボジアと中国の関係(英語版)」を参照
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国家安全保障
詳細は「カンボジア王国軍」を参照
カンボジア王国軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成される。
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地理
カンボジアの地図
カンボジアの地形図
詳細は「カンボジアの地理(英語版、フランス語版)」を参照
カンボジアの中心には湖と河川の複合体であるトンレサップ湖があり、その河川部分は国土の東部を縦貫する国際河川たる大河メコン川の支流となっており、水運と漁業・農業を支えている。
この平野部にカンボジア人口の3分の1が居住している。
トンレサップ湖の北辺にはクメール王朝の遺跡として世界的に有名なアンコール・ワットやアンコール・トムといったアンコール遺跡(1992年、世界遺産登録)が存在する。
国土の大部分は海抜100メートル以下であるが、東北部にアンナン山脈(ラオス・ベトナム国境となる)につながるモンドルキリ高原(モンドルキリ州)がある。
北部には切り立ったダンレク山地(タイ東北部との国境付近)、プノンペン西方にカルダモン山脈(英語版)(クロワーニュ山脈)が連なり、その山系に最高峰アオラル山(1,813メートル)がある。
気温と降雨量
詳細は「カンボジアの気候(フランス語版)」を参照
北緯11度から15度にまたがり、熱帯気候、モンスーン気候帯に属し、5月から10月が雨季(暖かく湿った南西の季節風)、11月から4月が乾季(乾いた浦東風が吹く)である。
降雨のピークは9月(海岸地域は8月)。
雨季にはタイ湾からの風で気温は22度まで下がり、乾季には北東風で40度まで上がる。
プノンペンでは、年間平均気温が27度、乾季と雨季の境目の4月が最高気温(35 – 25度)で、乾季の11月に最低気温(30 – 23度)である。
雨季のメコン川の増水でトンレサップ湖に逆流し、湖面積がほぼ10倍に拡大する。
降雨量は地域によって差が大きい。
その地域区分は、中南部の平野地域、トンレサップ湖地域、南西部の海岸地域、北東部の高原山岳地域の4地域である。
海岸地域がもっとも年間降水量が多く、次いで高原地域がやや多い。
これらの降雨量が農業生産を左右する最大の要因である。
しかし、年間降雨量は年によって変わる。
そして、雨季が始まってからの7月から8月にかけて1 – 2週間雨が降らないことを小乾季といい、この田植えの時期に小乾季が続くと作付や成育に大きな影響をもたらす[23]。
「カンボジアの気候変動(英語版)」も参照
生態系
詳細は「カンボジアの野生生物(英語版)」を参照
カンボジアの野生生物は非常に多様で、少なくとも162種の哺乳類、600種の鳥類、176種の爬虫類(89種の固有種を含む)、900種の淡水魚、670種の無脊椎動物の存在が確認されている[24][25]。
しかし、カンボジアに生息する野生生物(いくつかの固有種を含む)の多くは、 森林伐採や生息地の破壊、密猟、野生生物の違法取引、同国内の農業、漁業、林業の発展によって、その存在が危ぶまれている。これにより現地の野生生物は国際自然保護連合(IUCN)によって、危急種や絶滅危惧種(或るいは絶滅寸前種)として認定されている。
「カンボジアの樹木の一覧(英語版)」および「カンボジアにおける森林破壊(英語版)」も参照
「カンボジアの保護地域の一覧(英語版)」も参照
地方行政区分
カンボジアの地方行政区画
カンボジアの地図
詳細は「カンボジアの地方行政区画」、「カンボジアの地方行政」、および「カンボジアの都市の一覧」を参照
カンボジアは、首都(クメール語: រាជធានី : reach theany)と24の州(クメール語: ខេត្ត : khett)に分かれている[26][27]。
首都(クロン)-区(カン)-町(サンカット)
プノンペン(クメール語: ក្រុងភ្នំពេញ、英: Phnom Penh)
州(カエト、24州)-市(クロン)/郡(スロック)-町(クム(郡のみ)/サンカット)
バンテイメンチェイ州(クメール語: បន្ទាយមានជ័យ、英: Banteay Meanchey)
バタンバン州(クメール語: បាត់ដំបង、英: BattamBang)
コンポンチャム州(クメール語: កំពង់ចាម、英: Kampong Cham)
コンポンチュナン州(クメール語: កំពង់ឆ្នាំង、英: Kampong Chhnang)
コンポンスプー州(クメール語: កំពង់ស្ពឺ、英: Kampong Speu)
コンポントム州(クメール語: កំពង់ធំ、英: Kampong Thom)
カンポット州(クメール語: កំពត、英: Kampot)
カンダール州(クメール語: កណ្ដាល、英: Kandal)
ココン州(クメール語: កេាះកុង、英: Koh Kong)
クラチエ州(クメール語: ក្រចេះ、英: Kratie)
モンドルキリ州(クメール語: មណ្ដលគិរី、英: Mondol Kiri)
ウドンメンチェイ州(クメール語: ឧត្តមានជ័យ、英: Otdar Meanchey)
プレアヴィヒア州(クメール語: ព្រះវិហារ、英: Preah Vihear)
プレイベン州(クメール語: ព្រៃវែង、英: Prey Veng)
ポーサット州(クメール語: ពោធិសាត់、英: Pursat)
ラタナキリ州(クメール語: រតនគិរី、英: Ratana Kiri)
シェムリアップ州(クメール語: សៀមរាប、英: Siem Reap)- アンコール遺跡
ストゥントレン州(クメール語: ស្ទឹងត្រែង、英: Stung Treng)
スヴァイリエン州(クメール語: ស្វាយរៀង、英: Svay Rieng)
タケオ州(クメール語: តាកែវ、英: Takeo)
ケップ州(クメール語: កែប、英: Kep)
パイリン州(クメール語: បៃ៉លិន、英: Pailin)
シアヌークビル州(クメール語: ព្រះសីហនុ、英: Preah Sihanouk.)
トボンクムン州(クメール語: ខេត្តត្បូងឃ្មុំ、英: Tboung Khmum)2013年設置
非行政単位
サンカット内に村(プーム)
首都と州の知事および区長、郡長、市長は、首相から任命される。
首都と州および区や市、郡の職員は、内務省からの国家公務員。
2001年、クムやサンカット評議会選挙法、クムやサンカット行政運営法(クム行政法)を制定。18歳以上のカンボジア国籍者が投票権を有する。
2002年2月の選挙で全国に1621のクムおよびサンカット評議会が設置された。
経済
首都プノンペン
カンボジアの農村では高床式住居が主流である
詳細は「カンボジアの経済(英語版、フランス語版)」を参照
国際通貨基金(IMF)によると、2014年のカンボジアのGDPは約165億ドルである[28]。一人当たりのGDPは1,080ドルであり、世界平均の10%に満たない水準である。 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えている[29]。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に位置づけられている[30]。
主要産業は農業、漁業、林業などの第一次産業である。近年は観光産業と縫製産業が成長し、最貧国ではあるものの外国からの投資も大きな伸びを示している。
「カンボジアの観光(フランス語版、英語版)」も参照
おもな鉱物資源として燐(未開発)、マンガン(未開発)、宝石がある。塩を4万トン生産する。経済成長率は、2004年に10%、2005年に13.4%、2006年には10.4%に達した(カンボジア政府の統計)。
首都プノンペンの経済発展は著しく、2020年現在、先進国に匹敵する数の高級車が街中を走っている。
農業
詳細は「カンボジアの農業(英語版)」を参照
国土の約3割が農地として利用されており、その8 – 9割は水田である。次に多いのは「チャムカー(畑)」と呼ばれる畑地で、およそ農地の10 – 15%程度とみられている。さらに、「チャムカー・ルー(上の畑)」と呼ばれる畑があり、農地の10 – 15%程度を占めているとみられている。これら3種の農地のほかに、焼畑、ゴムの木のプランテーションがある。
食料作物と主要な工芸作物の作付面積を見ると米が圧倒的に多い。
トウモロコシ、キャッサバ、甘薯、野菜類、緑豆などの食料作物、落花生、大豆、胡麻、サトウキビ、タバコ、ジュートなどの工芸作物の作付面積は非常に狭い[31]。
カンボジアの国土に占める農地面積は21.6%に及び、人口の34%が農業に従事している。
生産年齢人口が人口の55.8%であることを考慮に入れると、カンボジアの主産業は農業である(以上、2002年時点)。しかしながら、労働生産性が低いため、農産物は国内需要を満たすにすぎない。主要穀物では米(417万トン)の生産に特化している。商品作物の生産では葉タバコと天然ゴム(4.6万トン)が目立つ。
外国貿易
主要輸入品目は、石油製品(8.2%)、タバコ、オートバイ。主要輸出品目は衣類(77.8%)、天然ゴム、木材である。主要輸出先はアメリカ合衆国(36.8%)、シンガポール、タイ王国。主要輸入先はタイ(15.6%)、香港、シンガポールである。
カンボジア製の衣類は日本にも2000年代以降多く輸出され始めている。たとえば、ユニクロを運営するファーストリテイリングの子会社であるジーユーが販売している一本990円という低価格のジーンズなどがカンボジア製である。人件費の安さなどを武器とし、経済成長の緒に就いている。
隣国とのGDP比較
国
GDP(単位:100万ドル)
タイ王国の旗 タイ
ベトナムの旗 ベトナム
カンボジアの旗 カンボジア
ラオスの旗 ラオス
出典:IMF[32] 2014年の名目GDP
近年、中国が経済進出し、カンボジア首相府のビル建築や南部シアヌークビルのインフラ整備にも多額の資金援助を行っている。
法環境
一方、ソフト面でのインフラストラクチュアというべき法律分野における法整備支援では、民法および民事訴訟法の起草や裁判官、弁護士の人材育成を支援する日本のプレゼンスが大きい[33][34]。
通貨
通貨はリエルが存在するが、カンボジア経済の実情と比較してリエルの為替レートは高い。特に輸出に不利なため、一部を除いては通常は米ドルが使用される。カンボジアではポル・ポト政権下の1978年に、原始共産主義的政策の一環としてすべての通貨が廃止された。同政権崩壊後の1980年にリエルは復活した。地方、シェムリアップ西部のクララン周辺以西、以北、アンロンベンやプレア・ヴィヘアなどのタイ国境に近い地域ではリエルよりもタイの通貨バーツが使用される場合もあるが、1B=100Rで使用できる。
交通
詳細は「カンボジアの交通(フランス語版、英語版)」を参照
道路
詳細は「カンボジアの高速道路(英語版)」を参照
鉄道
詳細は「カンボジアの鉄道」を参照
航空
詳細は「Category:カンボジアの航空」および「カンボジアの空港の一覧」を参照
国民
詳細は「カンボジアの人口統計(フランス語版、英語版)」を参照
民族
カンボジアの民族分布(1972年)
ヒンドゥー教の神話に登場する女神「アプサラ」に扮したクメール人女性
詳細は「カンボジアの民族(英語版)」を参照
クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族である。日系カンボジア人も少数ではあるが存在し、著名な人物として猫ひろしや後藤忠政が挙げられるが、その多くは起業や投資のためにカンボジア国籍を取得した元日本国籍者である。
言語
詳細は「カンボジアの言語(フランス語版)」を参照
カンボジアでは約20の言語が話されている。カンボジア国内でもっとも話されている言語はクメール語(カンボジア語)である。
公用語は1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語などがある。
高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語がある程度通じるが、若者の間でもっともポピュラーな外国語は英語となっている。
「カンボジアにおけるフランス語(英語版)」も参照
婚姻
詳細は「カンボジアの婚姻(英語版)」を参照
婚姻しても、夫婦別姓であり、姓が変わることはない[35]。
宗教
詳細は「カンボジアの宗教(フランス語版、英語版)」を参照
上座部仏教が憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒(カンボジアのイスラム教)である。
クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられ、あるいは虐殺された。
教育
王立プノンペン大学
詳細は「カンボジアの教育(フランス語版、英語版)」を参照
若年層の識字率は低くないが、45歳以上の識字率はクメール・ルージュ時代に教育が禁止された影響もあってか21.0%とかなり低い水準である。2004年の15歳以上で読み書きができる者は男性84.7%、女性64.1%。2005年の初等教育純就学率91.9%、中学校教育就学率男子57%、女子16%(1998 – 2002年)(ユニセフ『世界子供白書2005年』ほか)。内戦の影響で学校の鐘として砲弾などの兵器が使われており、2018年に政府は禁止の指示を出した[36]。
王立プノンペン大学
カンボジア工業大学
王立法律経済大学
国立経営大学
国立教育研究大学
王立農業大学
カンボジア健康科学大学(フランス語版)
カンボジア大学
アンコール大学
保健
詳細は「カンボジアの保健(英語版)」を参照
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治安
詳細は「カンボジアにおける犯罪(英語版)」を参照
カンボジアの治安は非常に危うい状況に置かれている。カンボジア内務省の犯罪統計によると、同国における2018年の犯罪総件数は2,995件で前年と比較して8%の増加と発表されているが、これはいわゆる氷山の一角ではないかとも言われていて、統計に含まれていない案件も多数あり、実際の犯罪発生件数はこれよりも多いのではないかと考えられている。
外国人の犯罪被害も報告が多数挙がっており、たとえば日本人が被害にあう犯罪の大多数が金品目的のひったくり、スリを含む窃盗、「いかさま賭博」詐欺で占められ、他には空き巣などの住宅関連の犯罪が挙げられている[37]。
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汚職問題
詳細は「カンボジアにおける汚職(英語版)」を参照
カンボジアはアジアにおいて汚職の度合いがかなり高い方に位置する。世界経済フォーラムが2018年に公表した『世界競争力報告(Global Competitiveness Report)』では、カンボジアは腐敗指数が21.0で世界で5番目に腐敗している国と認定される[38]。
地雷
国内にはベトナム戦争中のカンボジア作戦や、それに続くベトナム・カンボジア戦争、カンボジア内戦の影響で多くの地雷と不発弾が埋まっている。危険地域の多くには危険標識が立てられているものの、カンボジアの子供たちは母語であるクメール語の文字が読めないことが多く、誤って危険地帯に入ってしまうという問題があった。そのため日本地雷処理を支援する会(JMAS)などの日本のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置するなどの活動をしている。
現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になったものの、地方部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていない。
人権
詳細は「カンボジアにおける人権(英語版)」を参照
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マスコミ
詳細は「カンボジアのメディア(英語版)」を参照
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通信
詳細は「カンボジアの通信(英語版)」を参照
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「カンボジア郵政省(英語版)」も参照
文化
詳細は「カンボジアの文化(英語版、フランス語版)」を参照
食文化
カンボジア料理の一例
詳細は「カンボジア料理」を参照
文学
詳細は「カンボジア文学(英語版)」を参照
民話 - 民話は、カンボジアでも人から人へと語り継がれてきた民話が多く残っており、19世紀ごろにはヤシの葉に書かれたという。20世紀になるとフランス人研究者が同地研究者らとともに「クメール風俗習慣委員会」を設立し、民話の採取と編集を始めた。その事業を仏教研究所が引き継ぎ、同研究所の『カンプチア・ソリヤー』に1932年から連載した。その後、『クメール民話集』(全249話、全9巻、1959 - 1971年)が刊行された。何度も復刻版が出され、誰もが手にする民話集になっている[39]。
古典文学作品 - カンボジアを代表する古典文学作品は、『リアムケー』[40]、『ジャータカ』[41]、『50のジャータカ』[42] などの長編物語があげられる。[43]
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音楽
詳細は「カンボジアの音楽(英語版)」を参照
ロ・セレイソティア
チュット・ソヴァン・パンニャー
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舞踊
クメールのアプサラス・ダンサー
詳細は「カンボジア舞踊(英語版)」を参照
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美術
詳細は「カンボジア美術(英語版)」を参照
カンボジアでは20世紀半ばから現代美術の伝統が始まった。20世紀後半にはクメールルージュによる芸術家の殺害など、いくつかの原因から伝統芸術と現代芸術の両方が衰退していたが、同国政府やNGO、外国人観光客からの支援が増えたため、21世紀になってその存在が再生を迎えることとなった。
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「クメール彫刻(英語版)」も参照
映画
詳細は「カンボジアの映画(英語版)」を参照
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衣類
詳細は「クメールの伝統衣装(英語版)」を参照
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建築
詳細は「クメール建築(フランス語版、英語版)」を参照
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祭礼
新年を祝うクメール人女性
水祭り - 2010年11月に300人以上が死亡する事故が起きた。100メートル、幅6メートルの橋の上には見物客約7,000人から8,000人がおり、橋が揺れたのが原因と見ている。24日の政府発表では、死者数は347人だった[44]。
世界遺産
詳細は「カンボジアの世界遺産」を参照
カンボジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、暫定リストが8件存在する。[45]
アンコール遺跡
アンコール遺跡
プレアヴィヒア寺院
プレアヴィヒア寺院
無形文化遺産
カンボジアには、ユネスコの無形文化遺産リストに登録された文化が4件存在する。
カンボジアの王宮古典舞踊(2003)
クメールの影絵劇(英語版)(2005)
綱引き(2015) 注:ベトナム・フィリピン・韓国との共同申請
Chapei dong veng(2016)
祝祭日
詳細は「カンボジアの祝日(英語版)」を参照
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スポーツ
詳細は「カンボジアのスポーツ(英語版、フランス語版)」を参照
サッカー
詳細は「カンボジアのサッカー(英語版)」を参照
カンボジア国内でも他の東南アジア諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1982年にはサッカーリーグのカンボジア・リーグが創設されている。さらに2018年には、元日本代表の本田圭佑がカンボジア代表のGMに就任し話題となった。
2019年には、”2022 FIFAワールドカップ・アジア2次予選”のイラン代表戦で、0対14で大敗し、カンボジア史上ワースト記録での敗戦となった。なお、FIFAワールドカップへの出場経験はないものの、AFCアジアカップでは1972年大会でベスト4に進出した事もある。また、東南アジアサッカー選手権には8度の出場歴をもつが、全大会でグループリーグ敗退となっている。
ボッカタオ
アンコール・ワット
ボックは「激しく叩く」タオは「ライオン」を意味し、両方合わせてボッカタオは「ライオンを激しく叩く」を意味する。名称は2000年前にライオンが人々の村を襲った時、ある武人が膝の技でライオンを倒したという伝説に由来するという。アンコール・ワット建造のころから伝わる武術とされ、かつてはアンコール王国(クメール王国)の軍隊で行われていたという。ボッカタオは東南アジアを支配したアンコール王国の強さの源泉と考えられ、12世紀終盤には王であるジャヤーヴァルマン7世によって推奨された。しかし王国の衰退と共にボッカタオも衰退していく事となる。
さらにその後のフランスによる植民地支配、ポル・ポトやクメール・ルージュ時代の弾圧によってボッカタオの運命は風前の灯となる。この失われつつあった伝統武術の復興を試みたのがサン・キムサンである。キムサンは素手の武術や槍術・棒術などを学んでいたが、ポル・ポト時代にタイに亡命し、その後アメリカでハプキドーの師範として暮らしていた。しかしキムサンは自国の武術復興を志し、国内の情勢が安定した2001年に帰国。師範を集めて組織を整備し、2005年にそれまで名前が忘れられていたこのカンボジア武術を「ボッカタオ」と仮に名付けた。
オリンピック
詳細は「オリンピックのカンボジア選手団」を参照
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著名な出身者
詳細は「カンボジア人の一覧(英語版)」を参照
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ Khmer Rouge、KRと略、フランス語、元来はシアヌークが左派を一まとめにして呼んだ言葉、近年は国際社会でポル・ポト派を指す用語となっている。天川直子「誰をどう裁くのか」/上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 210-213ページ
出典
^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月5日閲覧。
^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月5日閲覧。
^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月6日閲覧。
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^ a b “カンボジア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年3月5日閲覧。
^ 石澤 2013, p. 125.
^ 石澤 2013, pp. 175–176.
^ 石澤 2013, pp. 38–39.
^ 岡田知子「インドシナの枠組みの中で」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 173ページ
^ カンボジアの人口は七百七十六万人『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月18日朝刊、13版、7面
^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 205ページ
^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 207ページ
^ 大虐殺の審理始まる 2009年2月18日『しんぶん赤旗』
^ キュー・サムファン大虐殺罪で訴追『しんぶん 赤旗』2009年12月19日(土曜日)版
^ ここまで上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 217ページ
^ “カンボジアで見たしなやかな、強権政治に対する抵抗”. 2019年3月10日閲覧。
^ 宮崎朋紀「各国法整備支援の状況-カンボジア」
^ カンボジアが新しい民法を公布 | プレスリリース(2007年) | ニュースとお知らせ - JICA
^ カンボジアで民法の適用開始 | トピックス(2011年度) | ニュースとお知らせ - JICA
^ 高橋美和「季節のリズム」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 78-80ページ
^ “Cambodia Clearing House Mechanism Species Database”. 2022年6月3日閲覧。
^ Reptile Database, accessed 3 March 2013
^ “カンボジアの国土政策の概要”. 国土交通省国土政策局. 2020年2月4日閲覧。
^ “カンボジア住所の日本式表記について”. 在カンボジア日本大使館. 2020年2月4日閲覧。
^ カンボジアのGDP World Economic Outlook Database, April 2015
^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update
^ 外務省 後発開発途上国
^ 天川直子「米をつくる」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 344ページ
^ IMFの2014年の各国のGDPデータ
^ 「特集 法整備支援の課題」『法律時報』2010年1月号(日本評論社)
^ 特集 日本の法整備支援
^ Valerie Ooka Pang & Li-Rong Lilly Cheng. Struggling to Be Heard: The Unmet Needs of Asian Pacific American Children. SUNY Press (1998), p51. ISBN 0-7914-3839-2.
^ 「砲弾などを鐘として使わないで」 カンボジア政府、各学校に指示AFP、2018年7月30日閲覧。
^ “カンボジア 危険・スポット・広域情報”. 外務省. 2022年6月3日閲覧。
^ 世界で最も腐敗している国 ワースト29 | BUSINESS INSIDER JAPAN
^ 岡田知子「ウサギの裁判官」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 52ペー
^ インドの『ラーマーヤナ』のカンボジア版で「リアム」(ラーマ)王子の栄光という意味。
^ 最終話第547話「布施太子物語(モハーウェサンドー)」、釈迦前世の物語
^ カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマーにのみ残る
^ 岡田知子「天界の喜びから農民の苦しみまで」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 58ペー
^ 転倒現場で追悼式=死者347人に修正―カンボジア 朝日新聞 2010年11月25日
^ ユネスコ世界遺産センター カンボジア
参考文献
石澤良昭『〈新〉古代カンボジア史研究』風響社、2013年。ISBN 9784894891708。
カンボジアを扱った関連作品
柳瀬房子(著), 葉祥明(イラスト)『サニーのおねがい 地雷ではなく花をください』自由国民社 1996.9
柳瀬房子(著), 葉祥明(イラスト)『続・地雷ではなく花をください サニーカンボジアへ』自由国民社 1997.7
地雷を踏んだらサヨウナラ(1999年日本)
関連項目
Portal:東南アジア
ポータル 東南アジア
カンボジア関係記事の一覧
カンボジア君主一覧
日本とカンボジアの関係
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カンボジア、前首相が上院議長に 外交復帰の見方
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM01CTA0R00C24A4000000/
『2024年4月3日 21:53
【ハノイ=新田祐司】カンボジア上院議会は3日、フン・セン前首相(71)を議長に選出した。フン・セン氏は議長として外交を最優先する方針を明らかにした。息子フン・マネット首相(46)の現内閣にも影響力を保持しており、フン・セン氏を頂点にした一族支配がより鮮明になる。
上院議員選挙は2月下旬に投開票し、与党のカンボジア人民党が58議席のうち55議席を獲得する圧勝をおさめた。上院選にはフン・セン氏も出馬…
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』
『上院選にはフン・セン氏も出馬し、難なく当選した。
3日に選挙後初めての上院議会を開き、フン・セン氏を全会一致で議長に選出した。選挙で3議席を獲得した野党「クメール意思党」の議員も賛成に回った。
「国際協調を促進するための議会外交が優先事項になる」。議長選出後、フン・セン氏は議会でそう話し、外交復帰を宣言した。上院議会では外交経験があるフン・セン氏側近が2人の副議長に選ばれた。
前政権の副首相兼外務国際協力相だったプラク・ソコン氏と、外務国際協力省の長官を務めたオッチ・ボリット氏だ。
フン・マネット首相との外交の役割分担が想定される。フン・セン氏は首相在任時に中国優先の外交を続けた。中国が掲げる「一つの中国」原則を支持し、東南アジア諸国連合(ASEAN)会合でも中国の意向に沿った振るまいが目立った。
上院議長として、習近平(シー・ジンピン)国家主席との関係維持などを担う可能性がある。
独自の海外人脈もある。ミャンマーでは国軍トップのミンアウンフライン最高司令官とクーデター後で初の首脳会談に臨んだ。タイの現政権に影響力があるタクシン元首相とも親密だ。知日家でもあり、2日には植野篤志・駐カンボジア大使と面会し「上院議長を務めている間は日本、特に(日本の)国会との関係を強化する」と表明した。
一方のフン・マネット氏は米国や英国への留学経験がある。英語が堪能で米陸軍士官学校に学び、経済学の博士号も取得した。父親は強権政治家の印象が強い。中国以外の外国投資を増やすためにも、フン・マネット氏は欧米外交で力を発揮しそうだ。
フン・セン氏は昨年8月、約40年ぶりに首相を交代した。用意周到に息子への禅譲を準備した事実上の世襲だった。フン・セン政権の実力者だったサル・ケン内務相やティア・バン国防相らも同時に退任させた。フン・マネット首相の政権運営を盤石にした上で、自身は与党党首に残って権力を保持した。
さらに新内閣に多数の親族や側近を送り込んだ。そのため副首相と上級大臣は計30人を超え、今年2月には末子のフン・マニー公務員相までも副首相に追加している。与党、内閣、議会の実権を掌握し、カンボジア政治の「家族経営」を強固にする。
フン・セン氏は選挙制度の変更や法律改正を通じて、民主主義を装いながら事実上の独裁体制を敷く手法が巧みだ。弾圧と懐柔の繰り返しで、野党勢力を弱体化させた。権威主義に批判的な米国に背を向け、人民党支配を認める中国に近づいて経済成長も実現した。
一党支配を確立した強権政治は次第に、一族や側近を優遇する個人独裁へと進んだ。人民党内にも反発の芽がくすぶっている。新型コロナウイルス禍以降は中国人観光客の減少や中国資本の引き上げで一部地域の開発が止まるなど、中国に傾斜した経済運営も綻びが見えている。』
タイ・タクシン元首相が政治活動再開 求心力低下に焦り
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGS300W00Q4A330C2000000/
『2024年4月3日 20:54 (2024年4月3日 21:12更新)
【バンコク=井上航介】タイで仮釈放中のタクシン元首相が政治活動を本格的に再開した。自身が実質的指導者である最大与党「タイ貢献党」は政権獲得のために国軍と組んだことを批判されている。党の顔として政治活動を主導し、求心力の回復を急ぐ。
タクシン氏は3月中旬に出身地の北部チェンマイを訪れ、多くの支援者が出迎えた。地元入りはクーデターで首相の座を追われた2006年以来となる。24年2月に仮釈放された直後…
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』
『24年2月に仮釈放された直後に使っていた車椅子や腕のサポーターはなく、健在ぶりを見せた。
チェンマイでは次女で貢献党党首のペートンタン氏が同行したほか、同党に所属するセター首相も合流した。党内の主要人物が顔をそろえて地元重視の姿勢をアピールした。4月上旬に再び訪問する意向も示している。
3月下旬には帰国後初めてバンコクにある貢献党本部を訪れ、同党に所属する議員らに檄(げき)を飛ばした。ペートンタン氏は記者団に「タクシン氏は今後も本部を訪れて助言する」と述べた。
タクシン氏が貢献党の政治活動に積極的に関与する背景には自身への支持低下に焦りがあるもようだ。
タクシン氏は貢献党の前身「タイ愛国党」を率いて01〜06年まで首相を務めた。低額医療制度の導入などで低所得層から絶大な人気を得たが、クーデターで失脚。その後は海外で逃亡生活を送り、昨年8月に貢献党と国軍系政党の大連立に合わせて帰国した。
その後は汚職などの罪で禁錮8年の実刑判決を言い渡されたものの、国王から恩赦を与えられ今年2月に仮釈放された。一連の動きには貢献党と国軍の間で密約があったとみられている。貢献党はかねて反軍を訴えてきただけに政権を取るために妥協したとの批判を受けた。
タイ国立開発行政研究院(NIDA)が3月下旬に公表した首相の適任者に関する世論調査では最大野党「前進党」のピター前党首の支持率がトップの43%と、セター首相(18%)やペートンタン氏(6%)に大差をつけた。貢献党の人気は低迷している。
タクシン氏が巻き返しの切り札とみなすのが「赤シャツ」と呼ばれる市民団体だ。主義主張の異なる複数の団体で構成され、反軍政という共通理念でまとまっていた。貢献党の政権樹立によって一部の団体は民主派政党である前進党に流れた。
同氏の帰国前までは大規模な反政府デモの実施などで中心的な役割を果たした。「タクシン氏には赤シャツの動員力を支持者のまとめ上げに役立てたいとの思惑がある」(バンコクの外交筋)
3月末には海外に亡命していた赤シャツの中核団体「反独裁民主統一戦線(UDD)」指導者の一人、チャクラポップ氏が15年ぶりに帰国した。政界入り前は人気のテレビキャスターで、タクシン派のサマック政権では首相府相などを歴任した。
主要幹部であるチャクラポップ氏の帰国は赤シャツの再統一に向けた動きとみられている。赤シャツ幹部の一部は国軍の弾圧から逃れるために現在も国外で逃亡生活を送っている。 』
イスラム教徒、気がつけば隣人 在日信者20万人超
シニアライター 野沢康二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB0364U0T00C24A4000000/
『2024年4月4日 0:00
イスラム暦「ラマダン」中のいま、日本で暮らすイスラム教徒たちも断食を実践している。日本の人手不足が深刻なことを背景に在日信者は増え続けている。20万人を超えているとみられ、気がつけば既に隣人になっている。
東京・目黒区の閑静な住宅街に立つ東京インドネシア共和国学校。3月末の週末の夜、ヒジャブと呼ばれる布で髪の毛を覆った女性や、白、黒の帽子などを身に着けた男性ら数百人が集まった。ほとんどが東京周辺…
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』
『ほとんどが東京周辺に住むインドネシア人のイスラム教徒だ。
「また1日、断食ができた。空腹は耐えられるが、のどの渇きは本当に辛い」。4歳の男の子を連れて参加した女性は、友人と食事を楽しみながらこう話した。
イスラム教徒は1日の断食を終え、日没後に食事する(3月31日、東京・目黒)
3月半ばに始まった今年のラマダンは4月9日ごろまでおよそ1カ月間続く。断食は、1日5回の礼拝や喜捨などとともに信者の義務とされ、日中は食べ物だけでなく飲み物も口にしない。インドネシア人たちは、日没後の礼拝と食事をともにするために足を運んだ。
男性信者は、断食によって「貧しい人が食べられない気持ちが理解でき、助け合う気持ちも育つ」と話す。夕食をともにすることで、仲間意識を高めることにもつながっているようだ。
日本で暮らすイスラム教徒は年々増えている。店田廣文・早稲田大学名誉教授の調査によると、日本人も含めた信者数は推計で2020年末には約23万人に及ぶ。1990年の3万人弱、05年の10万人強から急増した。
文化庁の最新統計で神道、仏教に次ぐ第3グループであるキリスト教徒の126万人の2割近くになっている。
例えば少し混んだJR東日本の山手線だと、単純計算で1編成の乗客のうち平均4〜5人ほどがイスラム教徒となる。外国人観光客も含めればさらに多いとみられ、日本人にとってイスラムはより身近な存在になってきたと言っていい。
日本のイスラム教徒を出身国別で見ると、最大勢力は約5万8000人のインドネシア人だ。「イスラム=中東」というイメージが強いが、インドネシアは国民の9割近い2億人を超える世界最多のイスラム信者を抱える国で、両国の関係の深さも考えれば当然とも言える。
特に最近は人手不足が深刻な看護や介護分野の人材も多く来日している。出入国在留管理庁によると、在日インドネシア人は23年6月末には12万人2000人に達し、20年末の6万7000人からほぼ倍増している。その多くがイスラム教徒とみられ、ますます存在感が高まる。
イスラム教徒の人口は世界でも増える一方で、米ピュー・リサーチ・センターの予測では、50年には世界最多のキリスト教徒と並ぶ世界最大の宗教の1つになる。日本で活況を呈する海外観光客の受け入れでも、アジア人を中心にイスラム教徒が一定数おり、教義に従ったハラル食品の提供に対応する飲食店も目立ってきた。
少子化に伴う深刻な労働力不足を受けて、外国からの人材誘致も盛んになりつつある。イスラム教も含めた多様な宗教や言語、文化を持つ人も増えており、多様性を受け入れる素地があまりなかった日本社会は変化を求められている。
それでも、日本ではイスラム教をテロなどと結びつける人が少なくないのも事実だ。これに対して、信者たちは「イスラムは平和を求める宗教だ」と口をそろえる。
世界に目を向ければ、イスラエル軍が侵攻したパレスチナ自治区ガザ地区を巡って、国連安全保障理事会がラマダン期間中の停戦を求める決議を採択した。しかし、現地ではイスラム教徒中心の住民が引き続き悲惨な状況に置かれている。
集団礼拝では、仲間意識を高める効果もある
インドネシア学校での集団礼拝に参加して講演したNPO法人千葉イスラーム文化センターの杉本恭一郎理事長は、ラマダンは信者が神であるアラーをより意識する神聖な月で「(苦境にある)イスラム同胞を心配する気持ちが高まる」と説明する。杉本さんはこの時期、信者向けにガザについての話をする機会も多いという。
世界中で、平和を願う祈りが続く。
【関連記事】
・ガザがラマダン入り 休戦成立せず、各地で衝突に警戒
・イスラエルは現地入りせず 「ラマダン休戦」交渉難航も 』

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1994年以前からのNATO加盟国
PfP加盟後、NATOに加盟した国
PfP加盟国
PfP加盟を希望する国
平和のためのパートナーシップ(へいわのためのパートナーシップ、英: Partnership for Peace)は、北大西洋条約機構(NATO)と他の欧州諸国ならびに旧ソ連構成国の20ヶ国との間の信頼を醸成することを目的とした取り組みのことである[1]。
全加盟国(NATOを含む)により、NATO内部の一機関である欧州・大西洋パートナーシップ理事会が構成される。略称はPfP。
沿革
旧東側諸国が崩壊して間もなくの1994年に創設された。
14ヶ国の加盟国(アルバニア、ブルガリア、クロアチア、チェコ、エストニア、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、モンテネグロ、北マケドニア、ポーランド、ルーマニア、スロバキア、スロベニア)がその後、NATOに加盟した。
1995年4月26日、マルタがPfP加盟国となったが[2]、完全中立政策を維持するために、1996年10月に一旦は脱退した[3]。
しかし2008年4月3日、ブカレストNATO首脳会議において同国首相がEAPC会議に参加し、マルタのPfP復帰を認めた[4]。
2006年11月29日のリガNATOサミット時に、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビアがPfP加盟を申請し[5]、その後2006年12月14日、それらの国はPfPに加盟した[6][7]。
2023年 4月4日 フィンランドはNATOに加盟した。
署名国
現在の加盟国
アイルランドの旗 アイルランド(1999年12月1日)[6]
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン(1994年5月4日)[6]
アルメニアの旗 アルメニア(1994年10月5日)[6]
ウクライナの旗 ウクライナ(1994年2月8日)[6]
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン(1994年7月13日)[6]
オーストリアの旗 オーストリア(1995年2月10日)[6]
カザフスタンの旗 カザフスタン(1994年5月27日)[6]
キルギスの旗 キルギス(1994年6月1日)[6]
ジョージア (国)の旗 ジョージア(1994年3月23日)[6]
スイスの旗 スイス(1996年12月11日)[6]
スウェーデンの旗 スウェーデン(1994年5月9日)[6]
セルビアの旗 セルビア(2006年12月14日)[6]
タジキスタンの旗 タジキスタン(2002年2月20日)[6]
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン(1994年5月10日)[6]
ベラルーシの旗 ベラルーシ(1995年1月11日)[6]
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ(2006年12月14日)[6]
マルタの旗 マルタ(1995年4月26日加盟[2]、1996年10月脱退[3]、2008年4月再加盟[4])
モルドバの旗 モルドバ(1994年3月16日)[6]
ロシアの旗 ロシア(1994年6月22日)[6]
PfP加盟後、1999年3月12日NATOに正式加盟した国
チェコの旗 チェコ(1994年3月10日)[6]
ハンガリーの旗 ハンガリー(1994年2月8日)[6]
ポーランドの旗 ポーランド(1994年2月2日)[6]
PfP加盟後、2004年3月29日NATOに正式加盟した国
エストニアの旗 エストニア(1994年2月3日)[6]
スロバキアの旗 スロバキア(1994年2月9日)[6]
スロベニアの旗 スロベニア(1994年3月30日)[6]
ブルガリアの旗 ブルガリア(1994年2月14日)[6]
ラトビアの旗 ラトビア(1994年2月14日)[6]
リトアニアの旗 リトアニア(1994年1月27日)[6]
ルーマニアの旗 ルーマニア(1994年1月26日)[6]
PfP加盟後、2009年4月1日NATOに正式加盟した国
アルバニアの旗 アルバニア(1994年2月23日)[6]
クロアチアの旗 クロアチア(2000年5月25日)[6]
PfP加盟後、2017年6月5日NATOに正式加盟した国
モンテネグロの旗 モンテネグロ(2006年12月14日)[6]
PfP加盟後、2020年3月27日NATOに正式加盟した国
北マケドニアの旗 北マケドニア(1995年11月15日)[6]
PfP加盟後、2023年4月4日NATOに正式加盟した国
フィンランドの旗 フィンランド(1994年5月9日)[6]
参照
^ Bosnia and Herzegovina, Montenegro and Serbia join NATO Partnership for Peace 北大西洋条約機構(2006年12月14日)
^ a b Secretary General’s Council Welcoming Remarks, Visit by Maltese Deputy Prime Minister and Minister of Foreign Affairs 北大西洋条約機構(1995年4月26日)
^ a b Malta: History, Geography, Government, and Culture – Infoplease.com Pearson Education (1995年4月26日)
^ a b Malta re-engages in the Partnership for Peace Programme 北大西洋条約機構 (2008年4月3日)
^ Alliance offers partnership to Bosnia and Herzegovina, Montenegro and Serbia 北大西洋条約機構(2006年11月29日)
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah Signatures of Partnership for Peace Framework Document 北大西洋条約機構(2006年10月5日)
^ Serbia inducted into NATO Associated Press (2006年12月14日)
外部リンク
NATO Issues: The Partnership for Peace
Signatures of Partnership for Peace Framework Document
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地域組織
表話編歴
現行の軍事同盟・安全保障条約・集団安全保障
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ロシアの脅威再び NATO75周年、加盟32カ国揺らぐ結束
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR01D3I0R00C24A4000000/
『2024年4月4日 5:32
【ブリュッセル=辻隆史】北大西洋条約機構(NATO)は4日、設立75周年を迎えた。
旧ソ連に対抗するために発足したが、東西冷戦後はその任務を変えた。
加盟国を当初の12カ国から32カ国にまで増やし、宇宙・サイバーなどに作戦領域を広げてきた。加盟国の結束が揺らぐなか、再び脅威となったロシアとの対峙を迫られる。
NATOは北大西洋条約第5条をその根幹とする。「1つの加盟国への攻撃は全ての加盟国への攻撃と…
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『NATOは北大西洋条約第5条をその根幹とする。「1つの加盟国への攻撃は全ての加盟国への攻撃という、たった1つの厳粛な約束のもとにNATOは創設された」。ストルテンベルグ事務総長は3日、ブリュッセルの本部での外相会合で記者団にこう強調した。
4日には記念式典を開く。ストルテンベルグ氏は「NATOの功績をたたえつつも、それに安住してはならない」と指摘した。
NATOは1949年4月4日、旧ソ連を中心とする共産圏の脅威を受けて米欧12カ国で立ち上げた。
その後、大きく姿を変えてきた。冷戦終結後の1991年にまとめた「戦略概念」では、集団防衛だけでなく民族対立や領土紛争による地域的不安定性にも対処するとうたった。ボスニア紛争にも介入した。
「平和のためのパートナーシップ(PfP)」と呼ぶ枠組みを設け、非加盟国と協力して平和維持活動を進めた。
2022年のロシアのウクライナ侵攻が、NATOが軍事同盟として再び活性化する転機となった。NATO全体が再びロシアの脅威を認識した。同年の戦略概念でロシアを「最も重大かつ直接の脅威」と明記し、部隊や装備をバルト諸国などに配備する「前方防衛」の推進を強調した。
中国についても初めて「体制上の挑戦」と名指し、対処する必要性を指摘した。
これまで軍事的な中立を掲げてきたフィンランドとスウェーデンは22年5月に同時に加盟申請した。フィンランドは23年、スウェーデンは24年3月に正式加盟した。NATOは32カ国体制となった。
作戦領域も、伝統的な陸海空から広げた。16年の首脳会議でサイバー空間を第4の作戦領域に、19年の首脳会議では宇宙を第5の領域として認めた。
ロシアや中国がもたらすサイバーや宇宙での安全保障リスクは、日本などインド太平洋の国々との協調機運をもたらした。23年には日本と新たな協力計画をまとめた。
NATOは日本に対し、新興・破壊技術(EDT)と呼ぶ技術でも組めないか模索する。極超音速ミサイルや人工知能(AI)、量子コンピューティングといった先端技術が軍事面で用いられると、既存の防衛技術が無効化されかねない。
NATOは中国発の偽情報でも日本の知見に期待する。日本や韓国など非加盟国とも積極的に交流し、最新の課題に取り組む。
「歴史上最も強力で成功した軍事同盟」(ストルテンベルグ事務総長)となったNATOだが、加盟国の結束は揺らぎ始めた。
トランプ前米大統領は24年2月10日の演説で、NATO加盟国への防衛義務を守らない可能性に言及した。「米国の関心はインド太平洋地域に移りつつある」。ドイツのピストリウス国防相は2月17日のミュンヘン安保会議で指摘した。
オランダのルッテ首相は「トランプに対する不平や泣き言はやめよう」と同会議で語り、欧州加盟国が国防支出を増やして域内防衛に備えるべきだと提起した。前大統領が11月の米大統領選で返り咲くリスクはNATO内でも議論されている。
NATOは欧州連合(EU)と同様、加盟国に権威主義国やロシア、中国と近い国を抱える。トルコのエルドアン大統領やハンガリーのオルバン首相はフィンランドとスウェーデンの加盟交渉を停滞させた。
NATOの意思決定は全ての加盟国の同意が必要な「コンセンサス方式」を採用する。一国でも反対に回れば重要な決定は難しい。
「より危険な世界に直面する今、欧州と北米の絆はかつてないほど重要だ」。ストルテンベルグ氏は3日の記者会見で訴えた。同日の外相会合ではウクライナに1000億ドル(15兆円)規模の支援をするための基金創設の議論に着手した。
7月の首脳会議までに決着できれば、対ロシアで強い団結力をアピールする好機となる。ハンガリーなどが慎重姿勢を示しているとみられ、ストルテンベルグ氏らが説得を続ける。交渉の成否は同盟の今後を占う試金石となる。
【関連記事】
・NATO、ウクライナ支援基金を協議 事務総長表明
・NATO、対ウクライナ15兆円基金案 「もしトラ」で浮上
・日米韓首脳会談、7月に米国で NATO会議に合わせ検討
多様な観点からニュースを考える
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広瀬陽子
慶応義塾大学総合政策学部 教授
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ひとこと解説 NATOは冷戦の所産であり、冷戦終結後、その存在意義が疑問視されることもあったが、欧州や周辺の危機が起こる度にその存在意義が確認されてきた。
ウクライナ戦争もその重要な契機となったが、同時に加盟国の足並みのブレを示す機会にもなった。
だが、足並みを乱したとされるトルコはむしろ自国こそがNATOを結束させてきたと自信を持つ。
特にNATOのPfP(実はロシアも加盟国である事は死角になりがち)加盟国をトルコの枠組みでNATOのPKO活動に従事させたり、周辺国の軍事的レベルアップを図り、NATO周辺の安全を確保してきたのはトルコだと言う。
その一面は間違いなくあり、NATOの様々な面を検討する必要がある。
2024年4月4日 11:01いいね』
原油に上昇圧力、5カ月ぶり高値 再燃する地政学リスク
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB0333R0T00C24A4000000/
『2024年4月3日 23:27
原油価格への上昇圧力が強まってきた。石油輸出国機構(OPEC)プラスは3日に今の減産目標の据え置きを決めたものの、中東やロシアの地政学リスクが供給減につながるとの警戒が根強く、主要原油価格は3日に1バレル86ドル台と5カ月ぶりの高値をつけた。景気低迷する中国の需要底入れも意識され始めた。原油価格の上昇は世界のインフレを再燃させる可能性がある。
サウジアラビアなどでつくるOPECと非加盟のロシアな…
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『サウジアラビアなどでつくるOPECと非加盟のロシアなどが加わるOPECプラスは3日、2カ月に1度の合同閣僚監視委員会(JMMC)をオンラインで開き、サウジやイラクなど8カ国による日量220万バレルの自主減産目標の据え置きを決めた。ロシアも自主的に日量47万バレルの輸出・生産削減方針を続けるとした。
OPECプラスは「市場の状況を引き続き注意深く見極め、いつでも追加措置を講じる用意がある」と強調した。
市場は減産据え置きを事前予想していた。一段の減産ではなかったにもかかわらず、原油価格は上昇で反応した。米原油指標のWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)先物価格は3日に4営業日連続で上昇し、一時1バレル86ドル台と2023年10月以来5カ月ぶりの高値をつけた。
22年3月に1バレル130ドルをつけた原油価格は中国をはじめ世界景気の減速懸念などから23年12月に70ドル台まで下落した。
ところが、24年初からじりじり上昇を続け、23年末からの上昇率は約2割に達した。原油価格に上昇圧力がかかる背景には3つの要因がある。
まず供給減だ。OPECプラスが自主減産を決めた3月上旬時点では懸念されていた減産の実効性が高まってきた点だ。
ロシアのノワク副首相は3月末、国内石油企業に4〜6月の減産を命じたと明らかにした。輸出・生産削減はOPECプラスの強制力を伴わない自主目標だが、政府命令が減産の背中を押すとの見方が広がった。ノワク副首相は「(OPECプラスの減産に)全ての国が平等に貢献するためにこの措置を取った」と強調する。
サウジのエネルギー相のイラク訪問を受け、イラクも3月中旬、輸出を日量10万バレル強減らすと表明した。イラクの生産量は2月時点で日量425万バレルと生産枠を25万バレル超過していた。
3日のJMMCでは、1〜3月に生産過剰となったメンバー国に4月末までに詳細な補正計画を出すよう求めた。OPECプラスはイラクやロシアなどの動きについて「JMMCが歓迎した」とも発表した。市場では「サウジをはじめとしたOPECプラスがなりふり構わず価格下支えに動いている」(日本総合研究所の松田健太郎副主任研究員)との見方が広がる。
2つ目の理由が地政学リスクの再燃だ。
中東では1日、イスラエルがシリア首都ダマスカスにあるイラン大使館周辺を空爆した。イエメンの親イラン武装組織がサウジの石油関連施設を攻撃したり、海上輸送の大動脈であるホルムズ海峡を通じた供給網に支障が出たりする懸念が増す。
ロシア情勢をめぐっても、ウクライナが今年に入り、少なくともロシアの7地域の石油関連施設へのドローン(無人機)攻撃を実施。ロシアの石油精製能力はすでに1割程度低下しているもようだ。
供給力が弱まるなかで需要回復の芽が出てきたことも原油価格上昇に拍車をかける。
代表例が中国経済だ。中国国家統計局が3月31日に発表した3月の製造業購買担当者景気指数(PMI)は50.8と市場予想を上回り、好不況の境目とされる50を6カ月ぶりに上回った。
原油をガソリンなど石油製品に加工する精製処理量も中国では1〜2月に前年同期から3%増え、伸び率は4カ月ぶりの大きさだった。
国際エネルギー機関(IEA)によると、24年の世界石油需要増加分の約半分は中国が占める。中国経済の復調は世界の石油需給を引き締めそうだ。
エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)の野神隆之首席エコノミストは「中国の需要増と産油国の減産で需給が引き締まっているところに地政学リスクが重なり、原油価格を強く押し上げている」と指摘。
JPモルガンのナターシャ・カネバ氏は「ロシアの減産強化などで、欧州指標の北海ブレント原油価格は5月までに1バレル90ドル台半ば、9月には100ドル近くまで上昇する可能性がある」とみる。
原油価格の高騰はインフレ再来のリスクを高める。
米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長は3月29日、「利下げを急ぐ必要はない」と述べ、今後のインフレ動向を慎重に見極める考えを示した。
米株式市場には利下げ時期が遠のいたとの見方が広がり、ダウ工業株30種平均は4万ドルを手前に頭打ちが続く。
OPECプラスは7月以降の減産計画について、6月に開く閣僚級会合で議論する方針だ。地政学リスクが解消されないなかで、さらなる減産延長や深掘りなどが打ち出されれば、原油価格の一段の押し上げにつながる可能性もある。
(古賀雄大、ドバイ=福冨隼太郎)
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柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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分析・考察 日本では、ガソリン価格は高止まりしている。しかも、補助金の支給が継続されているなかのこと。もし補助金の支給が取りやめられたら、ガソリン価格はいくらぐらいになるだろう。
トランプは電気自動車に対する補助金を取りやめるといっている。完全に市場に任せれば、車の数は相当減るに違いない
2024年4月4日 7:06いいね
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志田富雄
日本経済新聞社 編集委員
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分析・考察 米国では5月末から 9月初めあたりまでが「ドライブシーズン」といわれ、ガソリン需要が増える時期です。
ただ、昨年はガソリン価格が上がると需要の伸びが鈍化し、インフレの中で米国民の動きが鈍っていることが伺えました。今年はどうなるか。
もうひとつの注目点は、ガソリン高騰対策で激減した米国の戦略石油備蓄(SPR)の補充が遅れていること。
米政府が買い入れ目標とする価格を実際の相場が上回ってしまっているからです。
SPRが少ない状態でハリケーン被害など供給障害が起きれば相場はより跳ね上がりやすくなります。
2024年4月4日 8:38 』
ロシア国防省、10万人超の契約軍人が登録 24年
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR03DMN0T00C24A4000000/
『2024年4月3日 22:22
ロシア国防省は3日、2024年1月以降にロシア軍に登録した契約軍人の数が10万人を超えたと公表した。モスクワ郊外で3月22日にテロが発生して以来、登録ペースが拡大したと説明した。
国防省によると直近10日間で約1万6千人が契約軍人として登録したという。多くが動機としてモスクワのテロを挙げたとしている。
長期化するウクライナ侵攻で、ロシア軍は不足する兵員を確保するため、志願兵である「契約軍人」の雇用を優先して進めていた。
3月22日にモスクワ郊外のコンサートホールでテロが発生した。プーチン大統領や政権幹部はテロの実行犯はイスラム過激派だとしつつも、背後にウクライナや西側諸国が関わった可能性を示唆し、ウクライナ関与説を強めている。
政権のこうした姿勢が国民世論に一定の影響を与えているとみられる。
ロシアでは4月1日から春の徴兵が始まった。18〜30歳を対象に実施する15万人の徴兵者は国内に配置され、ロシアが一方的に併合したウクライナ東・南部4州には派遣されない。
希望者が軍当局と契約を結んだ契約軍人になれば戦地への赴任も可能になるため、独立系メディアは軍が移行を促すとの見方を報じている。』
EU、太陽光発電で中国企業調査 補助金で競争阻害の疑い
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR0401Q0U4A400C2000000/
『2024年4月4日 6:18
【ブリュッセル=辻隆史】欧州連合(EU)の執行機関である欧州委員会は3日、中国の太陽光発電関連企業2社への同国政府の補助金を巡り、EU域内市場の競争が阻害されているおそれがあるとして調査を始めた。
EUは外国の補助金を得る企業による域内の公共調達への規制を導入しており、問題視した。
調査対象となったのは、中国の太陽光パネル大手ロンジソーラーと重電大手の上海電気集団の子会社。両企業のコンソーシアムが…
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『調査対象となったのは、中国の太陽光パネル大手ロンジソーラーと重電大手の上海電気集団の子会社。両企業のコンソーシアムがルーマニアの太陽光発電施設の設計や建設などに関する入札に参加している。
調査の結果、問題が認められれば2社が入札から排除させられる可能性がある。欧州委は2月にも中国の鉄道車両メーカーに対し、同規制に基づく調査を開始。同社が入札から撤退した経緯がある。
ブルトン欧州委員(域内市場担当)は3日の声明で「太陽光パネルは欧州にとって戦略的に重要だ。企業の公平な事業展開を保証することで、経済安全保障と競争力を維持する」と主張した。
EUは電気自動車(EV)や再生可能エネルギーの大規模な導入を推進するが、域内市場では安価な中国企業製品に勢いがある。EUの加盟国や企業は域内の産業競争力を弱めるとして欧州委に対策を求めている。』