「北朝鮮、偵察衛星の発射準備か」 韓国報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM24A5J0U4A520C2000000/
『2024年5月24日 19:18
【ソウル=甲原潤之介】韓国の聯合ニュースは24日、北朝鮮が軍事偵察衛星2号機の発射を準備している状況を韓国軍が把握したと報じた。北西部の東倉里(トンチャンリ)付近で打ち上げの準備と推定される動向を確認し、米韓両軍で監視…
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「北朝鮮、偵察衛星の発射準備か」 韓国報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM24A5J0U4A520C2000000/
『2024年5月24日 19:18
【ソウル=甲原潤之介】韓国の聯合ニュースは24日、北朝鮮が軍事偵察衛星2号機の発射を準備している状況を韓国軍が把握したと報じた。北西部の東倉里(トンチャンリ)付近で打ち上げの準備と推定される動向を確認し、米韓両軍で監視…
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インドネシア経済調整相「年内にもTPP加盟申請」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM23CCH0T20C24A5000000/
『2024年5月24日 22:05
インドネシアのアイルランガ・ハルタルト経済担当調整相は24日、日本経済新聞のインタビューに答え、環太平洋経済連携協定(TPP)への加盟について「年内にも申請する」と明らかにした。輸出競争力を高め、経済成長を加速させる狙いだ。
アイルランガ氏は日経フォーラム第29回「アジアの未来」に登壇した。調整相として複数の経済関連省庁を統括しながら、インドネシアの経済政策立案を担ってきた。有力政党のゴルカル党…
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自衛隊、米軍の大規模演習に初参加 即応体制を強化
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA241PY0U4A520C2000000/
『2024年5月24日 13:45 (2024年5月24日 15:33更新)
陸海空の自衛隊は米軍が2年に1度開く大規模演習「バリアント・シールド」に初めて参加する。インド太平洋地域で最大規模の実動演習で、米側から招待を受けた。海洋進出を強める中国を念頭に日米の即応体制を強化する狙いがあるとみられる。
木原稔防衛相が24日の記者会見で発表した。「統合作戦能力や日米同盟の抑止力・対処力を強化し、同志国とのパートナーシップの拡大を図ることは極めて意義が高い」と強調した。
自衛隊は6月7〜18日の日程で4000人程度が臨む。米軍戦闘機が自衛隊基地を発着するほか、米軍と合同で戦闘機同士の戦闘や、艦船への攻撃といった実戦想定の訓練を含む。一部の訓練には複数の同志国も初参加する予定だ。
在日米軍基地のほか、海上自衛隊の八戸航空基地(青森県)や硫黄島航空基地(東京都)、航空自衛隊の松島基地(宮城県)などで米軍が活動する。日本からフィリピンまでの海域やパラオ周辺の海空域を含む広域が演習エリアとなる。
バリアント・シールドは2006年から定期的に米軍が単独で開き、1万人ほどが関わる。日本がオブザーバー参加したことはあった。
中国人民解放軍は23〜24日にかけて台湾を取り囲むように演習を実施している。20日に台湾総統に就いた民主進歩党(民進党)の頼清徳(ライ・チンドォー)氏を威圧する狙いがあるとみられ、陸海空軍と核・ミサイルを運用するロケット軍が参加した。』
対中関税大幅引き上げ:繰り返される米国による経済制裁の本質
https://cigs.canon/article/20240523_8117.html
『JBpress(2024年5月17日)に掲載
6月14日、米国政府が中国に対して追加関税引き上げを発表した。
その主な内容は、中国製の電気自動車(EV)に対する輸入関税を現行の25%から100%に引き上げるほか、半導体、太陽光パネルは25%から50%へ、その他の車載用電池、鉄鋼・アルミ等は25%にまで関税を引き上げるというものである。
不公正な取引慣行に対する制裁措置を定めた米国の国内法である「通商法301条」に基づく措置として実施された。
これに対して中国は「通商法301条」に基づく制裁措置が世界貿易機関(WTO)のルールに違反するものであると批判。
「自国の権益を守るために断固した措置を採る」と発表するともに、追加関税の即時撤廃を要求した。
日本のメディアも、「米国内で中国製EVはほとんど流通しておらず、追加関税の根拠はあいまいだ。WTOのルールでは今回のように『相殺措置』として追加的な関税を課すには、国内産業が実質的な損害を受けていると立証する必要がある」(日本経済新聞、5月14日)と今回の米国の発表を批判的に論評している。
通商法301条は米国の国内法である。
各国が自国内で定めたルールを外国に対して適用すれば、相手国もそれに対して報復措置を実施し、対立がエスカレートして保護主義的な貿易戦争に陥るリスクが高まる。
自由貿易が阻害されれば、各国が自由に貿易することができなくなり、世界全体の経済発展にとって大きな障害となる。
特に自国内で生産できる品目が限られている中小国家が受けるダメージが大きい。
かつて第1次、第2次世界大戦の引き金となった要因の一つが保護主義の激化に伴う経済のブロック化だった。
第2次世界大戦後、二度とこのような世界大戦を招くことがないように各国が協力して推進したのが自由貿易体制の構築だった。
1947年に世界各国が署名した「関税および貿易に関する一般協定」(General Agreement on Tariffs and Trade)、略称GATT(ガット)により、国際貿易の自由化に向けた世界共通のルールが初めて設定された。
その理念が継承されて1995年には世界貿易機関(WTO、World Trade Organization)が設立された。
各国が保護主義による貿易摩擦を激化させることがないよう、自国利益を守るために自由貿易を制限する場合には、まずWTOに提訴し、その審査を経て相手国の保護貿易的行動によって被害が生じたことが認定されれば、制裁措置を実施することが認められる。
それが国際的に合意された本来の手続きである。
しかし、今回の米国の対中経済制裁はそうした手続きを踏まえず、米国の国内法に基づいて一方的に経済制裁を発動したものである。
これが各国で合意したルールに反しているのは明らかである。
中国が法治を重視するのであれば、WTOに提訴し、米国の採った措置に対してWTOが下す判断を待ち、その上で適切な対抗措置を講じるべきである。
これまで中国自身も米国の経済制裁に対して、WTOによる判断を待たずに、米国に対して報復制裁を実施してきた。
その内容は米国が中国に対して実施する厳しい制裁の中身に比べてマイルドであるが、国際的に合意されたルール上の手続きを踏まえていないという点では米国政府の行動と同様の問題がある。
このように米中両国はいずれも国際的なルールから逸脱し、制裁と報復を繰り返してきているが、これは法治の理念に反している。
日本政府はこれまでも、WTOを中核とするルールに基づく多角的貿易体制の下での各国の連帯を繰り返し強調してきた。
特に中国に対しては、貿易問題に限らず、ルールに基づいて行動するよう強く求めてきている。
しかし、問題は米中両国に共通している。
特に米国は、国内政治における議会対策、大統領選挙対策として、対中強硬姿勢を示すために国際的に合意されたルールを無視して経済制裁を実施していることは誰の目にも明らかである。
それにもかかわらず、これに対して日本政府が批判しないのは公平性を欠いていると言わざるを得ない。
かつて、1980年代から90年代にかけて、日本自身がこうした米国の国内政治事情に基づく対日圧力に苦しんだ歴史は、内閣府経済社会総合研究所作成の「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(平成23年3月発行)第1巻第4章日米貿易摩擦にも克明に記録されている。
自国がそうした経験で苦しみ、その問題の本質をよく理解しているにもかかわらず、同盟国だからということで問題点を指摘しないという姿勢は国際的な信頼を得にくい。
国際社会において法治の仕組みは、米中のような超大国が他の中小国を制御するために利用するものであり、超大国は自国の利益を優先し、ルールを無視するのが常である。
このためルールを厳格に定めるほど中小国は自由を奪われ、超大国との格差が広がる。
その問題点は国際社会での法治に限ったことではなく、法治そのものの特質である。
この点については、日本の江戸時代の知識人は誰でも読んだと言われる名著に明確に述べられている。
江戸期において日本の聖人と呼ばれて広く尊敬されていた中江藤樹(1608~1648年)の代表作「翁問答」である。
その中に法治について次のような記述がある。
「君のこころ明らかにして道を行ひ、国じゅうの手本かがみと定めたまふが政(まつりごと)の根本なり。法度の箇条はまつりごとの枝葉なり。(中略)本を捨てて末(枝葉)ばかりにて治むるを法治といひて、よろしからず」
筆者解釈:君、すなわち国家のリーダーが誰の目からも明らかなように人としてあるべき道を実践し、国民の手本となることが政治のあるべき姿の根本である。法制度の各規定は国政の枝葉の部分である。国家統治の根本である人の道を重んじる心を捨てて、末梢の細かいルールに基づく国家統治のあり方(ガバナンス)を法治と呼んでおり、好ましいことではない。
「法治はかならず箇条あまたありてきびしきものなり。(中略)法治は厳しきほど乱るるものなり」
筆者解釈:法治は必ず様々な規定の項目によって人々を厳しく統治するものである。法治は厳しいほど(人々がルール遵守ばかりを重視し、人としてあるべき道を自ら主体的に考えなくなるため)社会は乱れる。
「徳治は先我が心を正しくして、人の心を正しくするものなり。(中略)法治は我が心は正しからずして、人の心を正しくせんとするものなり」
筆者解釈:徳治はまずリーダー自身が自分の心を正しくして、その上で人の心の正しさを求めるものである。法治とは、リーダー自身は自分の心を正しくすることなく、人の心を正しくしようとするものである。
以上から明らかなように、江戸期の知識人であれば、現在の国際社会における米中両国の行動の問題点の本質をすぐに見抜いていたはずである。
その問題行動を起こしている両国に対して日本は、「心を正しくすること」を公平に求めるべきである。
米中両国のみならず、両国の姿勢を正そうとする姿勢を示していない日本を含めて、今の国家リーダーは、目先の利益にばかりとらわれて国としてのあるべき道を踏み外していると、江戸期の人々であれば誰でもそう思うのではないだろうか。
瀬口 清之 研究主幹 』
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツの旗 ドイツの政治家
ヘルムート・コール
Helmut Kohl
1989年のコール首相
生年月日 1930年4月3日
出生地 ドイツの旗 ドイツ国
バイエルン自由州
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン
没年月日 2017年6月16日(87歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
ラインラント=プファルツ州
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン
所属政党 キリスト教民主同盟(CDU)
配偶者 ハンネローレ・コール(旧姓レンナー)
サイン
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
第6代 連邦首相
在任期間 1982年10月4日 – 1998年10月27日
連邦大統領 カール・カルステンス
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
ローマン・ヘルツォーク
ラインラント=プファルツ州首相
在任期間 1969年5月19日 – 1976年12月2日
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ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コール(Helmut Josef Michael Kohl、1930年4月3日 – 2017年6月16日)は、ドイツ(旧西ドイツ)の政治家。
1982年から1998年までの16年にわたって首相を務めた彼は、冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げ、時の人となった[1]。
来歴
CDU党首への道
1930年4月3日、ドイツのバイエルン州、プファルツ地方のルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(現在はラインラント=プファルツ州)に、バイエルンの財務官吏の3番目の子としてカトリック教徒の家庭に生まれた。
兄の一人であるヴァルターは1944年11月にドイツ国内で空襲を受けて戦死するが、コール自身は戦争末期にヒトラーユーゲントで軍事教練を受け、ドイツ空軍の対空砲補助員として徴集されたものの、生年のわずかな差が影響して戦闘には参加しなかった。
早くもギムナジウム在校中の1946年にキリスト教民主同盟(CDU)に入党した[2]。
その後1950年から、フランクフルト大学およびハイデルベルク大学で法学・歴史学・政治学を学び、1956年から同大学で助手を務めて1958年に「プファルツにおける政治変遷と政党の再建」という論文で博士号を取得する。
翌年鉄工所の経営や産業団体の顧問を務め、1948年からの知り合いだったハンネローレ・レンナーと結婚する。2人は2男をもうけた。
コール(1969年)
コールはCDUの青年団組織 Junge Union (JU)の地元での設立にかかわり(1947年)、在学中の1953年に党の州支部事務局に加入した。
1954年には州のJU副代表、翌年州の党執行部委員に就任した。
1959年には地元ルートヴィヒスハーフェン郡の党代表となり、翌年ルートヴィヒスハーフェン市議会の党議員団長。
1963年からラインラント=プファルツ州議会の党幹事長。
1966年、党の州支部代表に就任し、同時に党の連邦代表委員の一人となる。
1969年5月19日にラインラント・プファルツ州首相に就任し、CDU副党首となる。
州首相として郡の再編成とトリーア大学・カイザースラウテルン技術大学の創建にかかわった。彼の地元での有力支持勢力は産業界であった。
1971年、クルト・ゲオルク・キージンガーの後継党首選挙に挑むが、ライナー・バルツェルに敗れた。
しかしバルツェルは1972年にドイツ社会民主党(SPD)の連邦首相ヴィリー・ブラントに対する建設的不信任案決議が不成立となったことからその威信は著しく低下し、翌年コールが党首に就任した。
1976年、初めてドイツ連邦議会選挙に首相候補として挑み、得票率48.6%の好成績を収めて第一党となるが、SPDと自由民主党(FDP)の連立政権からの政権奪取はならなかった。
この選挙でコールは連邦議会議員に転じて議員団長となり、州首相を辞任した。
1980年の連邦議会選挙では、経験に勝る姉妹政党キリスト教社会同盟(CSU)のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス党首に首相候補の座を譲る忍従を強いられたが、この選挙でもCDU・CSUは勝てなかった。
1989年11月、ポーランドを訪問しドイツ系住民に歓迎されるコール。このポーランド訪問中にベルリンの壁崩壊がおき、急遽ベルリンへ向かうことになる。
連邦首相に
ところが1982年9月、財政再建・新自由主義を取るか社会保障・社会民主主義を取るかで与党FDPとSPDが決裂。
コールはすかさずFDPと連立協議し、10月1日にヘルムート・シュミット首相に対する建設的不信任決議案を提出。
この案にFDPが同調してシュミットの罷免とコールの第6代連邦首相就任が決まった。
建設的不信任決議案が提出されたのは2度目だが(既述)、可決したのは今のところこれが唯一の例である。
副首相兼外相にはシュミット政権時代同様、連立与党FDPのハンス・ディートリヒ・ゲンシャーがおさまった。
しかしこのようなやり方で政権を奪取したうえ、長らく地方政界にあり、前任者のブラントやシュミットと比較して国際政治に通暁していないとしてコールの手腕を不安視する向きもあった。
このためコールは政権発足後の1982年12月に内閣信任決議案を提出、これを与党議員の欠席で意図的に否決させることで、大統領の議会解散令を引き出した。
総選挙は1983年3月に実施され、連立与党が勝利を収め、ようやく政権は安定した。
コールが最初に取り組んだのは、ワルシャワ条約機構に対しての抑止力となるNATOの軍事力強化(ミサイル配備)で、国内での平和運動が盛んになる中、これを実行した。
隣国フランスとの同盟強化にも努め、1984年にはフランス大統領フランソワ・ミッテランと共に第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンを訪問し、二人で手を繋いで戦死者を鎮魂し両国の友好を誓った。
この姿は独仏関係の新時代を象徴するものとして有名であり、のちに独仏連合部隊や独仏共同テレビ局アルテの創設、さらにはマーストリヒト条約締結や欧州共同通貨ユーロ導入での「独仏枢軸」と呼ばれる緊密な協力関係へと繋がっていく。
アメリカとの友好にも努め、1985年にはロナルド・レーガン大統領と共に第二次世界大戦の米独両軍の戦死者が眠るビットブルク墓地に献花したが、この墓地にはナチスの武装親衛隊員も葬られていたため、批判する声もあった(ビットブルク論争、de:Bitburg-Kontroverse)。
内政では、FDPとの連立ということもあり、当時の先進国首脳だったマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンに近い政策であるといわれている。
ただしイギリスやアメリカに比べドイツでは伝統的に社会民主主義が強いので、それへの配慮もあった。
1987年の連邦議会選挙にも勝利して、コール政権は3期目に入る。
1989年12月22日、ブランデンブルク門が開放された日のコール(中央左)と東ドイツ閣僚評議会議長ハンス・モドロウ(左端)、西ベルリン市長ヴァルター・モンパー(中央右)
ドイツ再統一
コールの最大の政治的業績は、一連の東欧革命の中、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊によって始まったドイツの再統一である。
ヨーロッパでは、二度の世界大戦の経験から、中欧に統一されたドイツの誕生を警戒する声もあった。
また、西ドイツ国内を中心に経済的に格差のある東ドイツを吸収することに対する負担の大きさを危惧する意見も多かった。
しかし、コールはドイツ統一の好機を逃すことの不利を説き、一気に統一を推進した。
コールはヨーロッパ統合推進派として、統一ドイツをヨーロッパ連合及び、NATOの枠内に位置づけすることで、旧連合国の米英仏ソといった各国首脳の合意を得ることに成功した。
1990年10月3日、歓喜の中ドイツは再統一された。
ドイツ統一の立役者として、コールの政治的威信は頂点に達した。
統一後初めて行われた1990年の連邦議会選挙にも勝利し、コール政権は4期目を迎えた。
しかし国民の興奮が冷めると、統一前のコールの説明と異なり、統一の困難な現実が明らかとなる。
とりわけ、コールのドイツ統一過程における経済運営は、いくつかの問題が指摘された。
たとえばコラムニストのオーラフ・ストーベックは、その点について以下のように述べている[3]。
統一過程におけるコール氏の経済運営は、さほど素晴らしかったとは言い難い。
旧東ドイツとの通貨同盟は拙速で、為替レートの設定も高過ぎた。
国有企業の民営化は失敗し、債務による復興資金の調達は、少なくとも10年にわたってドイツの財政に傷を負わせることになった。
保守政党・キリスト教民主同盟(CDU)に所属するコール氏だが、硬直化した労働市場と膨張した社会福祉国家を改革する機は逸した。
長年の懸案だったこの問題に取り組んだのは、その後政権についた社会民主党(SPD)のシュレーダー前首相だ。
— Olaf Storbeck、ロイター BREAKINGVIEWS
1994年の連邦議会選挙に辛勝して5期目を迎え、1996年には初代連邦首相アデナウアーの在任14年を抜いた。
この間、ボスニア紛争でドイツ連邦軍にとって初の域外における戦闘行動への関与を行った[4]。
この様な国外派兵と武力行使についてはドイツ国内で激しい論争の対象となるも後に連邦憲法裁判所の合憲判決まで至り、その後もドイツ軍を積極的に派兵した。
しかし、コール政権に対する国民の飽きは覆うべくもなく、地方議会選挙でSPDに負け続けて連邦参議院では与野党の勢力が逆転した。
党内からのヴォルフガング・ショイブレらの突き上げにもかかわらず、コールは首相と党首の座にしがみ付き続け、少なくとも2002年までは党首を続けると宣言して周囲を呆れさせた。
その結果1998年の連邦議会選挙に大敗して退陣を余儀なくされた[1]。首相在任16年は、オットー・フォン・ビスマルク以来の在任期間記録である。
闇献金疑惑・余生
ロシア大統領ボリス・エリツィンと会見するコール(2000年10月、フランクフルト・ブックフェアにて)
首相退任直後、敗北の責任を取って四半世紀にわたって務めたCDU党首も辞任した。
しかし追い打ちをかけるように、1999年にはコール自身が受け取り署名した200万ドイツマルクの政治献金の出所が不明瞭であることが発覚。
CDUがコールの指示の下、不法な政治資金を調達し証拠を隠滅した疑惑が発覚し、ドイツ統一の功労者としての立場も一転して地に墜ちた。
連邦議会には調査委員会が設置され、コールは2000年1月18日に名誉党首を辞任した。
同年、ボン地検は特別背任罪でコールやその懐刀とされていたヴォルフガング・ショイブレ党首、フォルカー・リューエ元国防相などの捜査に本格的に着手する。
同年3月16日には連邦議会で証人喚問が開始され、その後も数回にわたりコールやショイブレに対し喚問が継続されるが決定打には結びつかなかった。
翌2001年2月8日、ボン地検は罰金30万マルクをコールが支払ったことで立件を断念する。
更に、翌2002年7月4日にはベルリン行政裁が、闇献金疑惑について旧東ドイツの諜報機関・シュタージが収集していた情報の公開をプライバシー保護を理由に差し止めたことにより、同事件は幕引きとなる。
2002年秋の連邦議会選挙に出馬せず、政界を完全に引退した[1]。
ただ2002年に行われたハンガリーの総選挙では当時のオルバーン・ヴィクトル首相の応援に駆けつけている。
2001年7月5日には、長年連れ添った夫人・ハンネローレが「太陽アレルギー」という現代医学では治療が不可能な難病を苦に自殺(68歳)。
前日には闇献金事件が事実上幕引きとなっており、夫の無実を見届けた、いわば、覚悟の自殺であった。
かつての栄光に比して、コールの晩年は全く寂しいものとなっている。
その後は回顧録を執筆。2004年12月のスマトラ沖地震による大津波災害の際には偶然スリランカでバカンス中で、スリランカ軍のヘリコプターで救助されたというニュースで久々に人々の注目となった。
2008年2月に自宅で転倒し頭部と脚を負傷したことで療養生活に入る[5]。
同年5月にかねて交際していた35歳年下のマイケ・リヒター(Maike Richter)と結婚した。
同年、亡き前妻の名を冠した財団を設立。
ベルリンの壁崩壊20周年を迎えた2009年11月、ブッシュ元大統領やゴルバチョフ元大統領との会見には出席したものの、政府主催の記念式典には出席しなかった。
公式には健康が優れないためとされているが、政府専用機の使用を断られたのを不満に思い出席しなかったとも報道されている[1]。
2010年10月3日にベルリンで開かれたドイツ再統一20周年記念式典には車椅子姿で出席した[6]。
死去
2017年6月16日死去[7]。87歳没。
CDUの党首を引き継いだメルケル首相は「コール氏は偉大なドイツ人であり、偉大なヨーロッパ人だった」
「彼は、ドイツ統一とヨーロッパ統合というドイツにとって、過去数十年最も重要だった2つの課題に懸命に取り組んだ」
「私の人生にも決定的な影響を与えた」と述べ、その業績をたたえ感謝の気持ちを示した。
フランスのマクロン大統領は声明を発表し、「フランスのミッテラン元大統領とともにドイツ統一を主導し、ヨーロッパの統合を推し進めた」
「自由な移動や単一通貨などの業績は、コール氏に負うところが大きい」として、その功績をたたえた。
アメリカのトランプ大統領は「ドイツの現代史で最も長く首相を務めたコール氏は、アメリカの友人であり盟友であった。ドイツ統一の父であるだけでなく、アメリカとヨーロッパの関係の推進役でもあった」と業績をたたえた。
中曽根元首相は「大きな体でにこやかに話すコール元首相の姿が懐かしく思い出される。互いの立場を超えて親交をいただいた」
「西側諸国が団結し、東西冷戦の終結とともに東西ドイツの統一が実現したことは、コール氏の指導力と判断、そして何よりその果断な行動力がもたらしたものだ」
「深甚なる敬意を表し、心からのご冥福をお祈りする」などとしたコメントを発表。
欧州委員会のユンケル委員長は「コール元首相の訃報に深く傷ついた。私の師であり、友人であり、ヨーロッパの本質でもあった」と死を惜しみ、「コール元首相は東西の間に橋をかけただけでなく、ヨーロッパの未来に向け、よりよい青写真を描き続けた。単一通貨のユーロはコール元首相なしでは、なしえなかった」として、EUの統合の基礎を築いた功績をたたえた。
ブリュッセルにあるEUの本部では、コール元首相の死去の知らせを受けて半旗が掲げられた。
同じ時期の1989年から4年間、任期を務めたアメリカのブッシュ元大統領は「コール元首相は、第二次世界大戦後のヨーロッパで最も偉大な指導者の1人だった」
「ドイツの統一は、私にとっても人生で最大の喜びの一つとなっている」と述べ、コールの功績をたたえた[8]。
表彰
内外の大学の名誉博士号多数。
1988年、独仏友好関係推進の功によりフランスのミッテラン大統領と共にアーヘン市よりカール大帝賞を授与。1999年、大統領自由勲章(アメリカ)。ドイツ連邦共和国功労勲章特装大十字章。特に特装大十字章は国家元首である大統領以外に与えられる最高位の勲章であり、授与されたのはコンラート・アデナウアー以来二人目である(後にアンゲラ・メルケルも受賞)[9]。
2007年初め、欧州委員会委員長ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾは、ヨーロッパ統合の功労者としてコールとミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領の両名にノーベル平和賞が授与されるべきだ、と発言した。
語録・その他
コール(1997年3月5日)
「我々は失業率とドイツに住む外国人を半分にします!」(1983年の選挙演説にて)
「今後ドイツの地からは、平和のみが広まるべきだ」(1989年12月19日、東ドイツのドレスデンにて)
「成功した産業国家、すなわち未来ある国家たるものは、テーマパークのように組織されてはならない」(1993年、労働と休暇時間についての政府声明)
「それは古典的なジャーナリスト的主張ですな。それは正しい (richtig)が、真実(Wahrheit)ではない」(1994年、テレビ出演での発言)
「昨日の理想主義者は今日の現実主義者になる」(1998年、「ディー・ツァイト」紙上でのヘルムート・シュミットとの論争)
「ドイツの統一とヨーロッパの統合は、メダルの両面のようなものである」(2002年、CDU党大会での締めくくりの言葉)
「(もしやり直せるならば)かつて私がやって来たことを再び同じようにやるだろう、とは私には言えない。なぜならその道は上り下りが激しく、時に誤りさえあったのだから」(2007年、インタビューで)
在任中は政治的・非政治的なさまざまなメディアに揶揄されたが、とりわけその太りすぎの体(その体重はドイツの最高機密と皮肉られた)と田舎臭い訛り(schの音をchと発音)、学歴の割に拙い外国語などがからかいの対象になった。
とりわけ有名になったのが風刺雑誌「Titanic(ドイツ語版)」に掲載された風刺画で、彼の顔を西洋ナシに見立てたものだった。水っぽい西洋ナシ(ドイツ語でBirne)は「間抜け」という意味合いもあるので、”Birne” という語はコールの代名詞のようになっていた。
ドイツ統一でコールの威信が上がるとそのような風刺は鳴りをひそめていたが、政権末期には再び見られるようになった。
元フランス大統領フランソワ・ミッテランが癌で死亡した際、パリで行われた追悼ミサにて人目をはばからずに涙し、死を大変悲しんだ。
ヤーセル・アラファートやボリス・エリツィン、フィデル・カストロ、チャールズ3世(当時皇太子)なども出席はしていたが、誰も涙を見せようとはしなかった。
不正献金疑惑を厳しく追及したメルケルとは不仲になり、メルケルが中東などからの難民に国境を開放したことを受け、2016年に出版した著書で「欧州は、世界中で困難に直面する数百万人の新たな故郷とはなり得ない」と名指しを避けて批判した[1]。
閣僚名簿
第1次コール内閣
1982年10月4日 – 1983年5月29日
首相 - ヘルムート・コール (CDU (キリスト教民主同盟))
副首相兼外相 - ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー (FDP)
国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU)
内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)
蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)
法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP)
経済相 - オットー・グラーフ・ラムスドルフ (FDP)
労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU)
食糧農業森林相 - ヨーゼフ・エルトル (FDP)
運輸相 - ヴェルナー・ドーリンガー (CSU)
建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU)
青年・家族・保健(厚生)相 - ハイナー・ガイスラー (CDU)
研究(調査)技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)
教育科学相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU)
経済協力相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU)
郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU)
ドイツ問題相 - ライナー・バルツェル (CDU)
第2次コール内閣
1983年5月29日 – 1987年5月11日
首相 - ヘルムート・コール (CDU)
副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP)
国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU)
内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)
蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)
法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP)
経済相 - オットー・グラーフ・ラムスドルフ (FDP)/マルティン・バンゲマン (FDP)(1984年6月27日から)
労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU)
食糧農業森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU)
運輸相 - ヴェルナー・ドーリンガー (CSU)
建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU)
青年・家族・保健相 - ハイナー・ガイスラー (CDU)/リタ・ジュースムート (CDU) (1985年9月26日から。1986年6月6日から、青年・家族・婦人・保健相)
研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)
教育科学相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU)
経済協力相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU)
郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU)
ドイツ問題相 - ハインリヒ・ヴィンデーレン (CDU)
環境・自然保護・原子力安全相(1986年6月6日新設) - ヴァルター・ヴァルマン
無任所特命相 - ヴォルフガング・ショイブレ(1984年11月15日から)
第3次コール内閣
1987年5月12日 – 1991年1月17日
首相 - ヘルムート・コール (CDU)
副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP)
国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU)/ルパート・ショルツ (CDU) (1988年5月18日から)/ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU) 1989年4月21日から)
内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)/ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)(1989年4月21日から)
蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)/テオドール・ヴァイゲル(CSU) (1989年4月21日から)
法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP)
経済相 - マルティン・バンゲマン (FDP)/ヘルムート・ハウスマン (FDP) (1988年12月9日から)
労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU)
食糧農業森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU)
運輸相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU)/フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)(1989年4月21日から)
建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU)/ゲルダ・ハッセルフェルト (CSU))(1989年4月21日から)
青年・家族・婦人・保健相 - リタ・ジュースムート (CDU)
研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)
教育科学相 - ユルゲン・メレマン (FDP)
経済協力相 - ハンス・クライン (CSU)/ユルゲン・ヴァルンケ(CSU)(1989年4月21日から)
環境・自然保護、原子力安全相 - ヴァルター・ヴァルマン (CDU)/クラウス・ケプファー (CDU)(1987年4月22日から)
無任所相 - ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)
郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU)
ドイツ問題相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU)
無任所相 - ハンス・クライン(CSU) (1989年4月21日から)
無任所相 - ルドルフ・ザイタース (CDU)(1989年4月21日から)
無任所相(以下の5人は旧東独閣僚) - ロタール・デメジエール (CDU)((1990年10月3日から1990年12月19日まで), ザビーネ・ベルクマン=ポール (CDU), ギュンター・クラウス (CDU), ライナー・オルトレープ (FDP), ハンス・ヨアヒム・ワルター (ドイツ社会同盟・DSU)(1990年10月3日から)
第4次コール内閣
1991年1月18日 – 1994年11月15日
首相 - ヘルムート・コール (CDU)
副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP)(1992年5月18日まで)
副首相 - ユルゲン・メレマン (FDP)(1992年5月18日から)
外相 - クラウス・キンケル (FDP)(1992年5月18日から、1993年1月21日からは副首相兼務)
国防相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)/フォルカー・リューエ (CDU)(1992年4月1日から)
内相 - ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)/ルドルフ・ザイタース (CDU)( 1991年11月26日から)/マンフレート・カンター (CDU)(1993年7月7日から)
蔵相 - テオ・ヴァイゲル (CSU)
法相 - クラウス・キンケル (FDP)/ザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー (FDP)(1992年5月18日から)
経済相 - ユルゲン・メレマン (FDP)/ギュンター・レックスロート (FDP)(1993年1月21日から)
労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU)
食糧・農業・森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU)/ヨッヒェン・ボルヒャート (CDU)(1993年1月21日から)
運輸相 - ギュンター・クラウス (CDU)/マティアス・ヴィスマン (CDU) (1993年5月13日から)
建設相 - イルムガルド・アダム・シュヴァイツアー (CSU)
家族・高齢者相 - ハンネローレ・レンシュ (CDU)
婦人・青年相 - アンゲラ・メルケル (CDU)
保健相(厚相) - ゲルダ・ハッセルフェルト (CDU)/ホルスト・ゼーホーファー (CSU)(1992年5月6日から)
研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)/マティアス・ヴィスマン (CDU) (1993年1月21日から)/パウル・クリューガー (CDU) (1993年5月13日から)
教育科学相 - ライナー・オルトレープ (FDP)/カール・ハンス・ラエルマン (FDP) (1994年2月4日から)
経済協力相 - カール・ディーター・シュプランガー (CSU))(1993年1月21日から、経済協力開発相)
環境・自然保護・原子力安全相 - クラウス・テプファー (CDU)
無任所特命相 - ルドルフ・ザイタース (CDU)/フリードリヒ・ボール (CDU)(1991年11月26日から)
郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU)/ヴォルフガング・ベッシュ (CSU)(1992年12月17日から)
第5次コール内閣
1994年11月15日 – 1998年10月27日
首相 - ヘルムート・コール (CDU)
副首相兼外相 - クラウス・キンケル (FDP)
国防相 - フォルカー・リューエ (CDU)
内相 - マンフレート・カンター (CDU)
蔵相 - テオ・ヴァイゲル (CSU)
法相 - ザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー (FDP)/エドザルド・シュミット=ヨルトジーク (FDP)(1996年1月17日から)
経済相 - ギュンター・レックスロート (FDP)
労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU)
食糧・農業・森林相 - ヨッヒェン・ボルヒャート (CDU)
運輸相 - マティアス・ヴィスマン (CDU)
建設相 - クラウス・テップファー (CDU)/ エドワルド・オスヴァルド(1998年1月14日から)
家庭・高齢者・婦人・青年相 - クラウディア・ノルテ (CDU)
保健相 - ホルスト・ゼーホファー (CSU)
教育・科学・研究・技術相 - ユルゲン・リュットガース (CDU)
経済協力開発相 - カール・ディーター・シュプランガー (CSU)
環境・自然保護・原子力安全相 - アンゲラ・メルケル (CDU)
無任所特命相 - フリードリヒ・ボール (CDU)
郵政コミュニケーション相 - ヴォルフガング・ベッシュ (CSU)(1997年12月31日まで)
親族
前妻のハンネローレ(Hannelore Kohl, 1933年 – 2001年)は15歳でコールと知り合い、20歳で婚約、コールの収入が安定した1960年に結婚。
父親はナチ党員としてフーゴ・シュナイダー社 (HASAG) の経営幹部となり、パンツァーファウスト製造などに関わった。
敗戦後、占領期ドイツにおける強姦 (en:Rape during the occupation of Germany) の被害者となり、心身ともに後遺症を得、1983年に同じ病に苦しむ人のための支援団体Kuratorium ZNSを設立した。コールが首相就任でベルリン移住後はボンで暮らす。語学が堪能で、外国語が話せないコールをよく助けた。ペニシリン投与を受けたことが原因とみられる光に対するアレルギーを発症し、2001年に過剰服薬で自殺した[10]。
長男のヴァルター(Walter Kohl, 1963年 – )は金融アナリストで、最初の妻は経済学者のクリスティーネ・フォルクマン (Christine Volkmann) 。母親の死後離婚し、韓国人女性と再婚した[11]。2005年に妻と韓独の自動車関連サプライヤー Kohl & Hwang社を設立(Hwangは妻の旧姓、2018年に韓国投資家に売却)。自伝を含む何冊かの著書がある。
次男のペーター(Peter Kohl, 1965年 – )は投資銀行を経て、バイオテック関連会社などを共同起業した実業家。早くから英仏で学び、マサチューセッツ工科大学、ウィーン大学の学位を持つ。2001年にMITで知り合ったトルコ人女性Elif Sözen-Kohlと結婚。妻の父はイスタンブールで金属事業を手掛ける富豪。2002年には前年自殺した母ハンネローレの伝記を出版して話題を呼んだ。
後妻のマイケ(Maike Kohl-Richter, 1964年 – )は2008年に34歳年上のコールと結婚した。マイケはルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで経済学の博士号を持ち、連邦首相府でスピーチライターの経験を持つ人物で、コールが被災した2004年のスマトラ津波にマイケも遭っている。結婚当時コールは施設で車椅子生活を送り、口もきけなかったとも言われ、前妻の子供たちから財産相続を巡って告発されている[12]。
先妻
先妻
長男
長男
後妻
後妻
出典
^ a b c d 中日新聞 2017年6月17日 朝刊
^ “ヘルムート・コールさん87歳=元ドイツ首相”. 毎日新聞. (2017年6月17日) 2020年2月9日閲覧。
^ Olaf Storbeck (2017年6月19日). “コラム:コール元独首相がドイツと欧州に残した「遺産」” (日本語). BREAKINGVIEWS (ロイター): p. 1 2017年6月27日閲覧。
^ 中村『ドイツの安全保障政策』P82からP83
^ “コール元独首相が死去…独統一、欧州統合に足跡”. 読売新聞. (2017年6月17日) 2017年6月17日閲覧。
^ “ドイツ統一20周年、コール元首相も式典に” (日本語). 読売新聞. (2010年10月4日) 2010年10月4日閲覧。
^ “コール元ドイツ首相死去”. 時事ドットコム. (2017年6月17日) 2017年6月17日閲覧。
^ ドイツ コール元首相が死去 東西ドイツ統一実現 欧州統合に尽力(NHK NEWS WEB 2017年6月17日 2017年6月18日閲覧)
^ “メルケル氏に最高位の功労勲章、独首相で3人目”. ロイター. (2023年4月18日) 2023年4月18日閲覧。
^ コール前独首相の夫人自殺/病気苦にと事務所が発表四国新聞社、2001/07/06
^ Sohn von Helmut Kohl (†) mit erschütternder LebensbeichteGala, 02.08.2017
^ Maike Kohl-Richter wehrt sich gegen VorwürfeGala, 18.01.2018
外部リンク
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ドイツ歴史博物館による経歴紹介(ドイツ語)
「コール時代」コンラート・アデナウアー財団(Konrad-Adenauer-Stiftung)による経歴・時代背景の説明(ドイツ語)
公職
先代
ヘルムート・シュミット ドイツの旗 ドイツ連邦共和国首相
1982年 – 1990年は旧西ドイツ
第6代:1982年 – 1998年 次代
ゲアハルト・シュレーダー
先代
ペーター・アルトマイアー ラインラント=プファルツ州首相
1969年 – 1976年 次代
ベルンハルト・フォーゲル
党職
先代
ライナー・バルツェル ドイツキリスト教民主同盟党首
第5代:1973年 – 1998年 次代
ヴォルフガング・ショイブレ
外交職
先代
マーガレット・サッチャー
ジョン・メージャー
イギリス 主要国首脳会議議長
1985年, 1992年 次代
中曽根康弘
宮沢喜一
日本
表話編歴
ドイツの歴代首相
表話編歴
ラインラント=プファルツ州の旗 ラインラント=プファルツ州首相
表話編歴
ドイツキリスト教民主同盟党首
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カテゴリ:
ヘルムート・コール西ドイツの首相ドイツの首相ラインラント=プファルツ州首相ドイツキリスト教民主同盟党首ラインラント=プファルツ州選出のドイツ連邦議会議員ラインラント=プファルツ州議会議員ドイツの反共主義者アストゥリアス皇太子賞受賞者ドイツの勲章等の受章者大統領自由勲章受章者ルートヴィヒスハーフェン出身の人物1930年生2017年没
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』
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツの旗 ドイツの政治家
ヴォルフガング・ショイブレ
Wolfgang Schäuble
ヴォルフガング・ショイブレ(2006年3月)
生年月日 1942年9月18日
出生地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 フライブルク
没年月日 2023年12月26日(81歳没)
所属政党 ドイツキリスト教民主同盟
配偶者 インゲボルク・ショイブレ(1969年 – 2023年)
サイン
公式サイト Dr. Wolfgang Schäuble MdB: Dr. Wolfgang Schäuble MdB
ドイツの旗 第13代 ドイツ連邦議会議長
在任期間 2017年10月24日 – 2021年10月26日
大統領 フランク=ヴァルター・シュタインマイアー
ドイツの旗 財務相
内閣 第2次メルケル内閣
第3次メルケル内閣
在任期間 2009年10月28日 – 2017年10月24日
ドイツの旗 内相
内閣 第1次メルケル内閣
在任期間 2005年11月22日 – 2009年10月27日
内閣 第3次ヘルムート・コール内閣
在任期間 1989年4月21日 – 1991年11月26日
ドイツの旗 国務相兼首相府長官
内閣 第2次ヘルムート・コール内閣
在任期間 1984年11月15日 – 1989年4月21日
その他の職歴
第6代 キリスト教民主同盟党首
(1998年 – 2000年)
テンプレートを表示
ヴォルフガング・ショイブレ(ドイツ語: Wolfgang Schäuble、1942年9月18日 – 2023年12月26日)は、ドイツの政治家。ドイツ連邦共和国財務相(第2次-第3次メルケル内閣)。2017年から2021年までドイツ連邦議会議長を務めた。
ドイツ連邦共和国国務相兼首相府長官(第2次ヘルムート・コール内閣)、ドイツ連邦共和国内相(第3次コール内閣・第1次メルケル内閣)、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)党首などを歴任した。
経歴
生い立ち
1942年9月18日、フライブルクに生まれる。1961年、アビトゥーアに合格。フライブルク大学とハンブルク大学で法学と経済学を学ぶ。1966年、第一次法曹試験に合格し大学を修了。1970年、第二次法曹試験に合格。翌年、法学博士号を取得する。同時にバーデン=ヴュルテンベルク州の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。1978年から1984年まではオッフェンブルクで弁護士として働いた。
弟トーマスも政治家で、バーデン=ヴュルテンベルク州内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの連邦議会議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。
1992年にエアランゲン・ニュルンベルク大学から、2005年11月に母校フライブルク大学から、2009年6月にテュービンゲン大学から、それぞれ名誉博士号を授与された。
ドイツ外務省に保管されている、東西ドイツ統一条約文書。ページ左側にショイブレの署名がある
政界入り
政治活動に参加したきっかけは、1961年にドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部(Junge Union)に参加したことである。在学中、ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。1965年にCDU党員となり、1969年から1972年まで南バーデンの青年部委員長を務める。
1972年、連邦議会に初当選。1976年から1984年まで党のスポーツ委員会委員長を務め、1981年から1984年までは連邦議会院内総務も務めた。
コール内閣
1984年、第2次ヘルムート・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣。1987年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーによる西ドイツ訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第3次コール政権の成立に伴い、1989年4月から内相に転じる。1990年の東西ドイツ再統一条約交渉には西ドイツ側代表として参加し、同年8月31日に調印した。
ドイツ再統一直後に行われた連邦議会選挙戦の最中である1990年12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は車椅子生活を送っている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、後にこの事件を謝罪し、2004年には仮退院した。この選挙戦では野党ドイツ社会民主党(SPD)の首相候補オスカー・ラフォンテーヌも精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。
観劇するショイブレと夫人(2007年、ベルリン)
CDU党首
1991年から2000年まで、CDU・CSU連邦議会議員団長を務める。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、1997年にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも2002年までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし、首相・党首の座に執着したコールは1998年の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。
コールの辞任直後にショイブレがCDU党首に就任するが、翌年になって、コール党首時代の1994年にショイブレが武器商人からCDU宛に10万ドイツマルクの不正献金を受けていた疑惑が発覚する。最初は沈黙していたが、2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首には幹事長アンゲラ・メルケルが選出された。なお、汚職罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。
2001年、ベルリン市長エーベルハルト・ディープゲンのリコールに伴う選挙では、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。2004年にも党重鎮として大統領選挙候補に取りざたされたが、クリーンなイメージに欠けるとの理由で早々に外された。
メルケル内閣
2002年ドイツ連邦議会選挙後には党副幹事長に就任していたが、2005年11月のアンゲラ・メルケル政権成立に伴い、14年ぶりに再び内相として入閣する。この入閣にも批判する声があった。
2009年ドイツ連邦議会選挙後は連立組み替えにより財務相に転じ、2013年ドイツ連邦議会選挙後に発足した第3次メルケル内閣でも財務相に留任した。
2017年ドイツ連邦議会総選挙でもオッフェンブルク選挙区で48.1%の票を得て当選した。1972年から45年以上のドイツ連邦議会所属が確実となり、これはドイツ連邦議会史上最長である。10月24日にはCDU・CSUの指名により、ドイツ連邦議会議長に選出され、同時に財務相を退任[1]。
死去
2023年12月26日の夜に自宅で死去。81歳没[2]。
政治姿勢
保守強硬派
ショイブレは、CDUの中でも保守派とみなされている。
1991年、統一ドイツの首都をボンからベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。
ヨーロッパ大陸の中央に位置する神聖ローマ帝国の歴史に照らして、愛国主義は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。
エリート層に対しては、エリートとしての意識を持つことを主張している。
学校でのイスラム教の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。
SPDのゲアハルト・シュレーダー政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。
メルケル政権の内相時代には強硬な姿勢が指摘された。
内相時代は対テロ戦争を想定して国内の治安維持にドイツ連邦軍が出動出来るよう憲法改正を主張した。
テロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず大連立の相手であるSPDからも強い反対を受けた。
オンライン捜査を認める憲法改正も主張する。
ドイツ国内で開催された2006 FIFAワールドカップや第33回主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)の際は、治安維持や反グローバリゼーション活動家対策のため、EU内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「シュタージ」のような監視国家体制に繋がると非難された。
2017年1月にヴェルト・アム・ゾンターク(ドイツ語版、英語版)のインタビューを受けて、2015年からのドイツの難民受け入れ政策について「私たち政治家は人間であり、私たちは誤りを犯した。しかし、人というものは少なくとも誤りから学ぶことができる。」[3]と発言し、難民受け入れ政策が失敗であったとの認識を示した[4]。
財務相として
ユーロ圏ソブリン危機の渦中に財務省に就任したが、2011年11月29日のユーロ圏財務相会議(ブリュッセル)に先立ち、「例えばリスボン条約第14条などの限定的な条約により、欧州の機関が安定成長協定の責務を強化することが可能になるよう望む」と発言する[5]。
同年12月6日、スタンダード&プアーズ(S&P)がユーロ圏15カ国の長期・短期ソブリン信用格付けを引き下げ方向で見直すと声明したことに対し、「全世界の市場は今ユーロ圏を全く信用していない」「S&Pの見直し声明は、欧州の首脳らに約束を果たすこと、つまり必要な決定を一つ一つ下し、世界の投資家の信頼を回復することを促す」と評し[6]、「非常に誇張したもので公正でない」[7]と批判したユーログループ議長のジャン=クロード・ユンケルと対照的な態度を示した。
その一方、欧州委員会が2011年11月23日に打開策として提案した[8]ユーロ共同債については「まず各国の財政規律の強化が確実になってから」と否定的な見解を示した[9]。
脚注
^ “独下院、議長にショイブレ前財務相を選出”. ロイター (ロイター). (2017年10月25日) 2017年10月25日閲覧。
^ “Wolfgang Schaeuble, German elder statesman and finance minister during euro debt crisis, dies at 81” (英語). AP News (2023年12月27日). 2023年12月27日閲覧。
^ ドイツ語での本人発言は „Wir Politiker sind Menschen, auch wir machen Fehler. Aber man kann wenigstens aus Fehlern lernen.“
^ 難民保護: ショイブレが難民政策の誤りを認める - ヴェルト (Asyl: Schäuble gesteht Fehler in Flüchtlingspolitik ein - WELT) (ドイツ語) - 2017年1月29日
^ ショイブレ財務相:ドイツは財政規律強化に向けた条約変更を望む 2011年11月29日付 Bloomberg.co.jp
^ S&Pはユーロ圏の応援団、警告は首脳らへの「激励」-独財務相 2011年12月6日付 Bloomberg.co.jp
^ S&Pユーロ圏格付け見直し、非常に誇張したもの─ユーロG議長=報道 2011年12月6日付 ロイター・ジャパン
^ ユーロ共同債、発行に向けて取り組み前進を-欧州議会の経済委員会 2011年12月20日付 Bloomberg.co.jp
^ ドイツ財務相:ユーロ共同債の議論は「安定同盟」の達成後に可能に 2011年11月28日付 Bloomberg.co.jp
外部リンク
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公式ホームページ (ドイツ語)
ドイツ連邦議会 経歴紹介[リンク切れ] (ドイツ語)
議会
先代
ノルベルト・ランメルト ドイツの旗 ドイツ連邦議会議長
2017年 – 2021年 次代
ベーベル・バス
公職
先代
ペール・シュタインブリュック ドイツの旗 財務大臣
2009年 – 2017年 次代
ペーター・アルトマイヤー
(暫定)
先代
オットー・シリー ドイツの旗 内務大臣
2005年 – 2009年 次代
トーマス・デメジエール
先代
フリードリッヒ・ツィンマーマン ドイツの旗 内務大臣
1989年 – 1991年 次代
ルドルフ・ザイタース
先代
ヴァルデマー・シュレッケンベルガー ドイツの旗 首相府長官
1984年 – 1989年 次代
ルドルフ・ザイタース
党職
先代
ヘルムート・コール ドイツキリスト教民主同盟党首
第6代:1998年 – 2000年 次代
アンゲラ・メルケル
表話編歴
ドイツ連邦議会議長
表話編歴
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国財務大臣
表話編歴
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国内務大臣
表話編歴
ドイツキリスト教民主同盟党首
典拠管理データベース ウィキデータを編集
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ドイツキリスト教民主同盟党首ドイツ連邦議会議長ドイツの内相西ドイツの内相ドイツの財務相バーデン=ヴュルテンベルク州選出のドイツ連邦議会議員対麻痺を持つ人物フライブルク出身の人物1942年生2023年没
最終更新 2024年5月13日 (月) 22:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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』
メルケル氏の師が歩んだドイツ戦後史、分断と克服を体現
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR0637N0W4A500C2000000/
『2024年5月25日 2:00
ドイツのメルケル前首相が「政治の師」と仰いだウォルフガング・ショイブレ元財務相が2023年12月、81歳でこの世を去った。ドイツ再統一にベルリンへの首都移転、欧州債務危機……。欧州統合を夢見て奔走した大物政治家は、歴史の瞬間に何を考え、行動したか。
4月に発売されたばかりの『ショイブレ回想録―我が政治人生―』は、半世紀以上にわたる戦後ドイツ史をショイブレ氏の「主観」を通じて振り返ったものだ。紡ぎ…
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集団安全保障条約(CSTO)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
集団安全保障条約機構(CSTO)
Организация Договора о
коллективной безопасности
Collective Security Treaty Organization
CSTOの旗
加盟国一覧
略称 CSTO
設立 2007年10月7日
種類 軍事同盟
法的地位 集団安全保障条約
本部 ロシアの旗 ロシア
モスクワ市
会員数
6カ国
公用語 ロシア語
事務局長 スタニスラフ・ザス
ウェブサイト https://odkb-csto.org
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集団安全保障条約(しゅうだんあんぜんほしょうじょうやく、露:Договор о коллективной безопасности、英:Collective Security Treaty[1])は、1992年5月15日に旧ソビエト連邦の構成共和国6か国が調印した集団安全保障および集団的自衛権に関する軍事同盟である。
3か国の新規加盟、3か国の条約延長拒否を経て、2023年時点でロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの6か国が加盟している[1]。
同条約は計11条の条文から成り、加盟国の軍事分野における協力について規定している。
2002年には後述の通り集団安全保障条約機構(英:Collective Security Treaty Organization=略称CSTO)に発展した。
概要
ソビエト連邦の崩壊後の1992年5月15日にタシケントで、アルメニア、カザフスタン、キルギス、ロシア、タジキスタン、ウズベキスタンが署名した。
1993年にアゼルバイジャン、グルジア(ジョージア)[注釈 1]、ベラルーシがこれに加わった。条約は1994年4月20日に発効した。
1995年11月1日に同条約は国際連合事務局に登録された。
1999年4月2日、集団安全保障条約の有効期限5年延長に関する議定書にアルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、ロシア、タジキスタンが署名したが、アゼルバイジャン、グルジア、ウズベキスタンは延長せず、同条約から脱退した。
このうち原加盟国だったウズベキスタンは2006年8月に再加盟したが、2012年6月に再脱退した。
加盟国だったジョージア(グルジア)では北大西洋条約機構(NATO)加盟を目指すミヘイル・サアカシュヴィリ政権が誕生したことで対ロ関係が悪化し、ロシアが南オセチア及びアブハジアの独立を一方的に承認して2008年8月に南オセチア紛争が勃発し、以後これらの地域をロシアが実質的に占領する状態が続いている[2]。
2022年以降の動き
2022年カザフスタン反政府デモにおいて、同国のカシムジョマルト・トカエフ大統領からの要請に基づき、情勢が安定化するまでの期間限定で集団安全保障条約機構の平和維持部隊を派遣する事が発表され[3]、2022年1月7日時点で先遣隊としてロシアの空挺部隊が現地入りした[1]。
加盟国のアルメニアと、CSTOから離脱したアゼルバイジャンは領土紛争をナゴルノ・カラバフ戦争から断続的に続けて対立し、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争でアゼルバイジャンが優勢に立った。
2022年2月、ロシアとアゼルバイジャンは軍事面での関係強化や領土紛争の解決に向けた協力を含む「同盟的協力宣言」に署名した[4]。
その直後、2022年ロシアのウクライナ侵攻が始まり、CSTOや、CSTOより多くの旧ソ連諸国が参加する独立国家共同体(CIS)にも大きな影響を与えた。
CSTOとCISの加盟国であるベラルーシはロシアを支援し、対ウクライナ攻撃の拠点が置かれた[5]。
他方、アメリカ合衆国のNBCによると、カザフスタンはロシアからのウクライナ侵攻への軍派遣要請があったが断ったとされ、ウクライナ東部の親露派2地域の独立についても承認していない[6]。
2022年11月23日、アルメニアの首都エレバンで首脳会議が行われた。
会議ではロシアのプーチン大統領がウクライナにおける軍事行動への支持を求めたほか、開催国のニコル・パシニャン首相は、ナゴルノ・カラバフ地方をめぐる衝突において集団安全保障条約が機能していないことへの不満を表明した[7]。
パシニャンは翌2023年5月22日にも集団安全保障システムが機能していないことに不満を表明し、このことを理由にCSTOからの脱退を示唆し[8]、同年9月19日にアゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフに対して軍事作戦を決行した際にロシアは介入を拒みアルメニア分離勢力がわずか1日で降伏するなど惨敗に終わったことを受け、パシニャンは9月24日に対ロシア政策を大幅に転換する考えを表明した[9]。
集団安全保障条約機構
2002年5月14日に集団安全保障条約を集団安全保障条約機構(露:Организация Договора о Коллективной Безопасности;略語 : ОДКБ 英:Collective Security Treaty Organisation 略語 : CSTO)へ改編することに関する決議が採択された。
集団安全保障条約機構の憲章及び法的地位に関する協定は、10月7日にキシニョフで条約加盟国6か国が署名した。
2003年4月28日に集団安全保障会議で、両文書は最終的に承認された。9月18日に全加盟国がこれら文書を批准した。
2004年12月2日に、集団安全保障条約機構に国際連合総会オブザーバーの地位が付与された。
集団安全保障条約機構の目的は、条約加盟国の国家安全保障、並びにその領土保全である。
ある加盟国に脅威が発生した場合、他の加盟国は、軍事援助を含む必要な援助を提供する義務を有する。条約加盟国の大統領は、軍事力の使用に関する問題を提起することができ、その要請は、集団安全保障会議により検討される。
加盟国間の軍事・政治関係は、非加盟国との軍事関係及び接触と比較して優先性を帯びる。
集団安全保障条約のシステムには、東欧方面(ロシア・ベラルーシ軍集団)、カフカーズ方面(ロシア・アルメニア軍集団)、中央アジア方面(集団緊急展開軍〈露:Коллективные силы быстрого развертывания;略称 : КСБР〉2001年に創設)の3方面が含まれる。
集団安全保障条約機構の任務には、テロ、犯罪及び麻薬対策も含まれている。
条約加盟国は、2003年から毎年、アフガニスタンの北部国境において、対テロ作戦「カナール」 (Канал) を行っている。その他、集団安全保障条約機構の枠内において、テロ組織の統一リストが準備されている。
集団安全保障会議
機構の最高政治機関は、条約加盟国の大統領が入る集団安全保障会議(露:Совет коллективной безопасности;略語 : СКБ)である。会議は、年1回行われる。閉会中は、議長が集団安全保障会議を指揮する。議長職は、条約加盟国大統領が順番で就任する。
集団緊急展開軍
集団緊急展開軍編成の決定は、2001年5月にアルメニアの首都エレバンで行われた集団安全保障会議で採択された。
集団緊急展開の編成下には、ロシア(タジキスタンに配置された第201軍事基地)、カザフスタン、キルギス及びタジキスタンから1個大隊ずつ、並びに増強部隊が含まれる。総員は約1,500人である。
エレバンの会議で、セルゲイ・チェルノモルジン少将は集団緊急展開軍司令官任命されると、2001年6月に参謀長ナスイプベク・アブドゥベコフ大佐等とともにビシュケクで統制機関の編成に着手した。本部の員数は将校を参加国から2 – 3人ずつ選出して計10人である。
2001年8月に集団緊急展開軍統制機関の最初の指揮所演習が、10月に最初の部隊演習が、それぞれ行われた。
加盟国
ロシアの旗 ロシア(2002年 - )
アルメニアの旗 アルメニア(2002年 - )
ベラルーシの旗 ベラルーシ(2002年 - )
カザフスタンの旗 カザフスタン(2002年 - )
キルギスの旗 キルギス(2002年 - )
タジキスタンの旗 タジキスタン(2002年 - )
首脳会議
2008年
2008年9月5日、ロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの首脳が参加してモスクワで開催された[10]。全会一致でロシアのジョージアへの軍事介入を支持した[10]。
2022年
5月16日
ロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの首脳が参加して、ロシアの首都モスクワで開催された[11]。ロシアのプーチン大統領が会合冒頭の演説でウクライナ侵攻について主張を述べたものの、ベラルーシのルカシェンコ大統領を除き同調する発言は出ず、ルカシェンコ大統領は米欧を批判したもののロシアに停戦を勧めたとも取れる内容の演説も行なった[11]。また、プーチン大統領からはウクライナでの作戦の進捗について説明があったが、CSTO軍の参戦は議題にも上らなかった[11]。カザフスタンのトカエフ大統領はロシアのウクライナ侵攻の早期終結を訴え、CSTOと国連平和維持活動の連携を提案した[11]。
アルメニアのパシニャン首相は、2020年のアゼルバイジャンとの紛争の際に実効支配地域の多くを放棄させる停戦合意になったことから「CSTO諸国はアルメニアと国民を喜ばせなかった」と不満を表明した[11]。
キルギスのジャパロフ大統領とタジキスタンのエモマリ・ラフモン大統領は、両国と近接するアフガニスタン情勢について演説した[11]。
11月23日
アルメニアの首都エレバンで開催され、ロシアのウクライナ侵攻について、ベラルーシのルカシェンコ大統領は「停戦交渉を始めるべきだ」「ロシアが敗戦すればCSTOは崩壊するとの(メディアの)論調がある」と発言し、カザフスタンのトカエフ大統領も「和平を模索するときが来ている」と訴えた[12]。アルメニアのパシニャン首相は、ナゴルノ・カラバフの紛争地にロシアの停戦維持部隊がいるにもかかわらずアゼルバイジャンからの攻撃が続いていることに不満を表明し、共同宣言への署名を拒否した[12]。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 2008年のロシアによる軍事介入を受けて、同国はロシア語由来の国名呼称「グルジア」を「ジョージア」へ変更するよう各国に要請し、日本国政府は2015年に応じた。参照:【ことばオンライン】グルジアはジョージアが正しい? 国名呼称の不思議 NIKKEI STYLE(2015年5月27日)2023年1月1日閲覧。
出典
^ a b c カザフ騒乱 ロシアが部隊派遣/政府、外国の関与主張 市民の犠牲「26人」朝日新聞デジタル(2021年1月8日)同日閲覧
^ “ウクライナ危機「日本も連帯を」 露の侵攻受けたジョージア駐日大使”. 毎日新聞. (2022年2月25日)
^ “カザフ暴動、死傷者多数か ロシア主導CSTOが平和維持部隊派遣へ”. 産経新聞 (2021年1月6日). 2022年1月6日閲覧。
^ “ロシア・アゼルバイジャン首脳、軍事協力含む宣言署名”. THE SANKEI NEWS. (2022年2月23日)
^ “NATO、欧州東部の防衛強化 ウクライナに兵器供与継続”. 日本経済新聞. (2022年2月26日)
^ “カザフスタン、ウクライナ侵攻参加を拒否 米NBC報道”. 毎日新聞. (2022年2月27日)
^ “ロシア軍事同盟に不満 支配地域喪失のアルメニア”. 時事通信 (2022年11月24日). 2022年11月24日閲覧。
^ “アルメニア、ロシア主導の安保機構脱退を示唆”. AFPBB News. フランス通信社. (2023年5月23日) 2023年10月11日閲覧。
^ “アルメニア首相、対ロ政策大幅転換の考え ナゴルノ不介入に反発”. AFPBB News. フランス通信社. (2023年9月25日) 2023年10月11日閲覧。
^ a b “旧ソ連首脳会議、グルジア介入でロシアを支持 露大統領”. AFB BB NEWS. (2008年9月6日)
^ a b c d e f “露軍事同盟に足並みの乱れ 首脳会合で侵攻めぐり批判も”. THE SANKEI NEWS (iza). (2022年5月17日)
^ a b 「軍事同盟首脳会議 露の求心力低下鮮明 停戦要求や共同宣言拒否」『産経新聞』朝刊2022年11月25日(国際面)2023年1月1日閲覧
関連項目
共通安全保障防衛政策
ワルシャワ条約機構(ソ連崩壊で解体された、東欧諸国を含む軍事同盟)
上海協力機構
外部リンク
集団安全保障条約機構公式HP(ロシア語、英語)
『独立国家共同体集団安全保障条約』 - コトバンク
表話編歴
現行の軍事同盟・安全保障条約・集団安全保障
典拠管理データベース ウィキデータを編集
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ロシア連邦の国際関係国際連合総会オブザーバーアルメニアの国際関係カザフスタンの国際関係キルギスの政治タジキスタンの国際関係ベラルーシの国際関係1992年の条約
最終更新 2024年3月13日 (水) 13:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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プーチン氏「共に防衛空間つくる」 ベラルーシと連携拡大
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR24E1V0U4A520C2000000/
『2024年5月25日 2:32
ロシアのプーチン大統領は24日、同盟国ベラルーシのルカシェンコ大統領とのミンスクでの首脳会談を終え、記者会見した。プーチン氏はウクライナ侵略の長期化や深まる欧米諸国との対立を受けて「(ベラルーシと)共通の防衛空間を形成する」と述べ、戦術核兵器の演習実施など軍事や、経済連携を強める方針を強調した。
ロシアメディアによると、プーチン氏はベラルーシ領内に合同部隊やロシアの防衛施設、戦術核兵器が配備されていることに触れ「ロシアと(旧ソ連諸国の軍事同盟である)集団安全保障条約機構(CSTO)の西側国境をカバーしている」と強調した。CSTOにはロシアのほか、ベラルーシやカザフスタンなど旧ソ連諸国が加盟する。
ロシア国防省は21日に戦術核兵器の使用を想定した第1段階の演習を始めたと発表した。プーチン氏はベラルーシの戦術核演習への参加について、実施に向けた「状況を確認した」と述べた。具体的なスケジュールについては言及しなかった。ベラルーシは第2段階に参加する予定と伝えられている。
プーチン氏は演習について「核兵器の分野におけるすべての義務を完全に順守している」とも述べ、実施に問題はないと主張した。
ルカシェンコ氏は会見で「両国の関係に解決不可能な問題はない」と述べ、軍事だけでなく、機械やハイテクなどの産業分野でロシアとの連携を強める考えを示した。ロシアは戦時体制下で軍需が拡大しており、ベラルーシがロシアの軍需産業を下支えしているとみられる。
ロシアのペスコフ大統領報道官は24日、ロイター通信が同日にロシア指導部に近い消息筋の話としてプーチン氏がウクライナでの現在の前線を維持できれば停戦に応じる用意があると報じたことについて、事実ではないと否定した。タス通信が伝えた。
ペスコフ氏はロシアがウクライナ東・南部4州を併合した際、ロシア憲法は「4つの新しい地域を含めた連邦の構成を定めた」などと述べた。ロシア軍は一方的に併合した東部ドネツク州などで制圧地域拡大に向けた戦闘を続けており、目標達成の途上にあるとの見方を示した。』
デジタル課税・富裕層課税 G7協調演出も米国が壁に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN24C5U0U4A520C2000000/
『2024年5月25日 5:00
【ストレーザ(イタリア北部)=八十島綾平】主要7カ国(G7)各国は24日から本格的に始まった財務相・中央銀行総裁会議で、巨大グローバル企業や富裕層への課税について討議する。公平性の観点から欧州側は課税強化を求めるが、慎重な姿勢を取る米国側の壁は高くG7の協調が試される。
今回のG7での税に関する議論は、大きく2つテーマがある。巨大グローバル企業を対象とした「デジタル課税」の実現と、最近になり急浮…
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