5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。
https://st2019.site/?p=21180
『ストラテジーペイジの2023-5-30記事。
5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。
67万機のうち1万6000機は、自重500kg以上の大型機であること。
まず、実現は不可能だろう。外国からの部品入手努力を排除するならば。』
5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。
https://st2019.site/?p=21180
『ストラテジーペイジの2023-5-30記事。
5月6日に出されたプーチン命令。無人機を67万機、年内に国産せよ。そのために590億ドルの予算を付ける。
67万機のうち1万6000機は、自重500kg以上の大型機であること。
まず、実現は不可能だろう。外国からの部品入手努力を排除するならば。』
欧州委員会は、ロシアにデュアル・ユースの工業品を輸出している複数の中国企業に対しての新制裁について、5月8日から討議中である。
https://st2019.site/?p=21180
『Vita Spivak 記者による2023-5-29記事「How Sanctions Have Changed the Face of Chinese Companies in Russia」。
欧州委員会は、ロシアにデュアル・ユースの工業品を輸出している複数の中国企業に対しての新制裁について、5月8日から討議中である。
そのいくつかの企業は、すでに米国が先に制裁を課している。特に半導体メーカー。
ロシアからはこれまで1000社を超える外国企業が脱出しているが、中共企業は残っている。
西側企業はロシアからの撤収が遅ければ世論から叩かれる。ところが中共企業はその逆だ。たとえば昨年、レノヴォとDiDiが、ロシアからのひきあげを検討中――と報じられたとたんに中国内のSNSがこの2社を袋叩きにした。
中共の自動車メーカーは昨年、ロシア市場を乗っ取った。侵略開始前には60社がロシア国内にひしめいていたが、侵略後に残ったのが14社。そのうち3社がロシアのメーカーで、11社はすべて中国企業である。
2022年において、ロシア国内で売れた新車の20%は中国車だった。前年の6%から飛躍的に伸びたわけである。
ある予測では、2023年にはシェア40%になるのではないかという。
「Hongqi」というブランドは、中共の特権階級用の高級車ブランドだが、それが今年、ロシア市場に進出した。
また「Omoda」も進出した。「Chery」の子会社で、もともとロシア市場向けに特化した部門である。
22年末、ロシアの家電小売店は、いまや洗濯機、冷蔵庫、ラップトップPC、スマホの部門では、中国メーカーが筆頭供給者であると報告した。
中共側の輸出統計もそれを裏付ける。22年の洗濯機の対露輸出は前年比35.5%の伸び。冷蔵庫は6.4%の伸びであった。
ハイアール社はげんざい、ロシア国内の4番目となる工場を建設中だ。
2022-6にハイアールは、ロシア国営開発融資銀行であるVEBから2億5000万ルーブルの資金を借り出した。VEBは今次戦争勃発直後に西側から制裁を喰らっている。
ハイアールの冷蔵庫は昨年、ロシア市場の20%以上を支配した。
アップルもサムスンも撤退したロシアのスマホ市場は、2022年、70%が中国製品で占められた。
シェアをリードしているのは、「Xiaomi」「Realme」「Tecno」ブランド。
ファーウェイは何のアナウンスもしていないが、2022-3月早々に、黙ってロシアから抜けたようである。
同社はそれまでロシアの携帯電話基地局設備の30%のシェアをもっていたのだが、それを捨てた。
DJI社は、2020年から米政府により投資禁止対象に指定されている。2022-3にロシアのフェドロフ副首相が、DJI製品がウクライナ戦線で露軍によって使われていると発言したとき、DJI社はそれは事実ではないと必死で否定した。しかしすぐ事実を認めるしかなくなった。
2022-3にVISAとMasterCardがロシアから撤収したので、いまや中共の「UnionPay」が、ロシア人の決裁カードの命綱である。しかし同社もロシアの制裁対象銀行との取引は縮小している。
ディーゼルエンジンメーカーの「Weichai」グループは、ロシアのKamazトラックに対するエンジン供給を停止した。米国とEUが2022-6にKamazを制裁対象に加えたので、巻き添えを喰ってはたまらないからである。
Sinopecは、2022-3に、ロシアの石油ガス分野に対する5億ドルの投資計画を、凍結した。』
コソボ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BD%E3%83%9C




















『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、ヨーロッパの国家について説明しています。その他の用法については「コソボ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
コソボ共和国
Republika e Kosovës(アルバニア語)
Република Косово(セルビア語)
コソボの国旗 コソボの国章
(国旗) (国章)
国の標語:不明
国歌:ヨーロッパ
0:58
コソボの位置
公用語 アルバニア語、セルビア語
首都 プリシュティナ
最大の都市 プリシュティナ
政府
大統領 ヴィヨサ・オスマニ[1][2]
首相 アルビン・クルティ
面積
総計 10,887km2(暫定166位)
水面積率 不明
人口
総計(2013年) 1,847,708人(暫定145位)
人口密度 169.72人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2018年) 67億2,600万[3]ユーロ (€)
GDP(MER)
合計(2018年) 79億4,700万[3]ドル(146位)
1人あたり xxxドル
GDP(PPP)
合計(2018年) 209億1,200万[3]ドル(145位)
1人あたり 11,664ドル
独立宣言 2008年2月17日
通貨 ユーロ (€)(EUR)
時間帯 UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1 XK / XKX (暫定)
ccTLD .xk (非公式)
国際電話番号 381および383(公式)。携帯電話では377および386も使用
参照/en:Telephone numbers in Kosovo
コソボ・メトヒヤ自治州
Krahina Autonome e Kosovës dhe Metohisë
Аутономна Покрајина Косово и Метохиja
Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija
Kosovo and Metohija in Serbia.svg
セルビア内でのコソボ・メトヒヤ自治州の位置。
Map of Serbia (Kosovo and Metohija).PNG
公用語 アルバニア語、セルビア語
州都 プリシュティナ
州知事 スルジャン・ペトコヴィッチ[4]
自治州・自治体共同体
議長(英語版) Радован Ничић
面積 10,887 km²
人口
(2011年国勢調査) 不明(セルビア[5])
1,739,825人(コソボ共和国[6])
改組
(SAPコソボより) 1990年9月28日
セルビアの統治権排除
(UNMIK開始) 1999年6月10日
コソボ議会が独立宣言 2008年2月17日
ISO 3166-2:RS RS-KM
コソボ共和国[7](コソボきょうわこく、アルバニア語: Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。略称KOS[8]。国際連合(UN)には未加盟であるが、2016年7月時点で113の国連加盟国が国家として承認している。
概説
面積は1万887平方キロメートル(日本の岐阜県に相当)。国民の9割以上はアルバニア人で、他にセルビア人などが暮らす。人口は約180万人で、その3分の1は首都プリシュティナに集まっていると推定されている[7]。
かつてはユーゴスラビアのセルビアに属する自治州の一つで、2008年2月17日にコソボ議会が独立を宣言した。2016年7月現在、国連加盟国の内、113か国がコソボの独立を承認した[9]。独立を承認していない国は、セルビア領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなしている。
鉱物資源が豊かであり、大麦、小麦、タバコ、トウモロコシなどもとれる[8]。
呼称
「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語: Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosovë、セルビア語のキリル文字表記ではКосово、ラテン文字表記ではKosovoである。
特にセルビア人の間で、この地域の西部はメトヒヤ(セルビア語: Метохија / Metohija)と呼ばれており、この地域全体を指す呼称としては「コソボとメトヒヤ」(セルビア語: Косово и Метохија / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)が使われている。他方、アルバニア人の間ではメトヒヤの名前は使われず、この地域全体を指してコソヴァと呼ぶ。
2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語でRepublika e Kosovës、セルビア語でРепублика Косово / Republika Kosovoである。その他の言語での表記としては、英語ではRepublic of Kosovo、トルコ語ではKosova Cumhuriyeti、ボスニア語ではRepublika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。
セルビアは、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州(セルビア語: Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼んでいる。コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。
歴史
詳細は「コソボの歴史」を参照
紀元前3世紀〜紀元前1世紀頃のダルダニア王国(黄色)
6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人が住んでいたといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニア(英語版)(Dardania)と呼ばれていた。
ブルガリア帝国の進出
東ヨーロッパから侵入したスラヴ人の定住に続いて、6-7世紀以降には、古ブルガリアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニアを征服した。681年にアスパルフによって建国された、ブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国は、やがてこの地方をその支配下に置くようになった。ブルガリア帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリア人の祖となった。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガリア帝国の重要な一部だった。
セルビア王国成立
12-13世紀、セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていた。こうした中から台頭したセルビア人の指導者ステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由である。
オスマン帝国との戦い
オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。
コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。
皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。
結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチも全て殺された。それ以来バルカン半島のほとんどはオスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。
オスマン帝国の支配
コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。
オスマン帝国1875〜1878年のコソボ行政区(黄色)
コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。
民族意識の高揚
19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、4つの県、サンジャク・プリズレン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ディブラ(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・スコピオン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ニシュ(ギリシア語版、英語版)をひとつにまとめたプリズレン・ヴィライェト(英語版)(1871年 – 1877年)が設置され、すぐにコソヴァ・ヴィライェト(トルコ語版、英語版)(1877年 – 1913年)となった。1878年にはコソボの都市プリズレンで民族主義者の団体「プリズレン連盟」(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。
20世紀初頭のバルカン戦争後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。
しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下にあった。
ユーゴスラビア王国成立
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代の行政区分
第一次世界大戦後に成立したユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦ではナチス・ドイツやファシスト・イタリアなど枢軸国の侵攻を受けた。
コソボにあたる領域はブルガリア王国とアルバニア王国の一部に併合された。
戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年にセルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。
1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。
1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。
独立運動
端緒
1981年の3月から4月にかけてプリシュティナのアルバニア人学生が抗議活動を開始し、6都市で2万人が参加するコソボ抗議活動に膨れ上がったが、ユーゴスラビア政府に厳しく弾圧された。
1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。
1980年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。
この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を「コソボ解放軍」(アルバニア語名: UÇK、英語名: KLA)と改名した。
1989年に東欧革命が起きて、ソビエト連邦を中心とする東欧社会主義ブロックが崩壊すると、ソ連と一線を画していたユーゴスラビアでも各民族のナショナリズムが高まった。
セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。
ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州だったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。
コソボ解放軍の実力行使
コソボ解放軍から没収された銃器(1999年)
コソボ紛争
詳細は「コソボ紛争」を参照
実質的にはセルビア人が主導しており、コソボの独立を阻止したいユーゴスラビア政府は、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。
この結果、コソボの民族バランスは大きくセルビア人側が増えることになった。
これに対して、コソボのアルバニア人指導者イブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し、アルバニア人から懐疑的な意見が出されるようになった。
デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の1990年代後半に入ると、軍事闘争によるセルビアからの独立を主張するコソボ解放軍が影響力を強めた。
一方、隣国のアルバニアは1997年に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して、社会的な混乱に陥っていた。
このような情勢で、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避。戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を伴って来た。
コソボ解放軍の指導者の一人で、後に首相となったハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を調達する活動をしていた。
翌1998年になると、セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。
セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなど、コソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。
国際連合コソボ暫定行政ミッションの始まり
戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接する北マケドニアやアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。
国連や欧州連合(EU)は、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。
1999年3月からは、北大西洋条約機構(NATO)が国際世論に押されて、セルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った(アライド・フォース作戦)。
この空爆は約3カ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始。翌年までに全てのユーゴスラビア連邦軍を撤退させた。
これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。
代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo、UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊 (KFOR) が駐留を開始した。
それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、ユーゴスラビア政府やそれを継承したセルビア・モンテネグロ(2003-2006年)、セルビア(2006年-)による実効支配は及んでいない。
しかし、セルビア側が撤退してUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、人権が守られているとは言えない。
加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している[要出典]。
コソボ紛争は2020年代にもコソボの内政や国際関係に影を落としている。コソボ大統領だったハシム・サチが2020年11月に辞任したのは、オランダのデン・ハーグに設置されているコソボ紛争の戦争犯罪を裁く特別法廷で訴追が確定したためである[2]。
地位問題
詳細は「コソボ地位問題」を参照
1991年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は、同じアルバニア人が住む隣国アルバニアしか存在しなかった。
このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっていた。
一方で1999年のコソボ紛争以降、コソボがセルビアの実効支配から完全に脱していた。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。
現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題だった。
コソボの独立
2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。
主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。
地位問題において欧州連合(EU)とアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。また同時に「国旗」が発表された[10]。4月に議会で批准されたコソボ憲法は、6月15日から正式に発効した。
セルビアの反発
この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、2月17日未明から首都ベオグラードやノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国だったスロベニア系商店への投石騒動が起きた[11][12]。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている[13]。
コソボの承認
国家承認のプロセスについては、独立宣言の翌日の2月18日にアメリカ政府が承認を公表し、ヨーロッパの国連安保理常任理事国であるイギリス、フランスも同日に承認している。ドイツが2月20日に承認した[14]。
一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインやキプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャなどは独立承認に慎重な姿勢を示している国もある[15]。このためEUによる機関承認は見送られている[16]。
同じスラブ人として歴史的にセルビアと繋がりが深いうえに米欧と一線を画すロシア連邦や、少数民族の独立運動を多く抱える中華人民共和国も同様だった。
その後、独立宣言が打ち出された当初には即座に承認しなかった国々にも承認が広まった[17]。
セルビアの周辺国では、2008年3月にクロアチア、ハンガリーそしてブルガリアがコソボの独立を承認した。
コソボの独立に際して、大アルバニア主義の拡大が憂慮されていた中、2008年10月には大アルバニア主義の利害国で国内に一定数のアルバニア人を抱えるモンテネグロと、マケドニア紛争の当事国である北マケドニアがコソボを承認した[18]。
人口の3割以上をセルビア人が占めるモンテネグロでは激しい反発が起こり、首都ポドゴリツァでは大規模な抗議集会が行われた[19]。
その一方で、セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、2008年の国連総会では、同国の要請を受けて国際司法裁判所に独立の是非の判断を求めた。
ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で[20]、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、国際連合安全保障理事会での承認は困難となっている。
またインドやスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。「大アルバニア」の利害国としては、ギリシャが承認を行っていない。
日本は2008年3月18日、コソボを国家として承認。2009年2月25日、外交関係を開設した[21]。
独立承認国
コソボを国家承認している国
詳細は「コソボ地位問題」を参照
2016年7月時点で、コソボはアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、日本など113か国から承認を受けている[22]。一方で、セルビアをはじめ、ロシア、中国、スペイン、キプロス、ギリシャ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、ジョージア、ウクライナ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、インド、インドネシア、南アフリカなどが承認していない。
2010年7月22日には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言を「国際法違反にはあたらない」と判断した[23]。国際司法裁判所の判断は勧告的意見とされ、法的な拘束力はないものの、承認するか否かを決めかねていた国際社会には大きな判断材料になると同時に、民族自決を掲げる少数民族の分離独立に大きな影響を与えるとされる[24]。
独立を承認している国・地域一覧
ヨーロッパ
アルバニアの旗 アルバニア (2008年2月18日)
フランスの旗 フランス (2008年2月18日)
イギリスの旗 イギリス (2008年2月18日)
ラトビア (2008年2月20日)
ドイツの旗 ドイツ (2008年2月20日)
エストニア (2008年2月21日)
イタリアの旗 イタリア (2008年2月21日)
デンマーク (2008年2月21日)
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク (2008年2月21日)
ベルギーの旗 ベルギー (2008年2月24日)
ポーランドの旗 ポーランド (2008年2月26日)
スイスの旗 スイス (2008年2月27日)
オーストリア (2008年2月28日)
アイルランドの旗 アイルランド (2008年2月29日)
スウェーデン (2008年3月4日)
オランダの旗 オランダ (2008年3月4日)
アイスランドの旗 アイスランド (2008年3月5日)
スロベニアの旗 スロベニア (2008年3月5日)
フィンランド (2008年3月7日)
モナコの旗 モナコ (2008年3月19日)
ハンガリー (2008年3月19日)
クロアチアの旗 クロアチア (2008年3月19日)
ブルガリア (2008年3月20日)
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン (2008年3月25日)
ノルウェー (2008年3月28日)
リトアニア (2008年5月6日)
サンマリノの旗 サンマリノ (2008年5月12日)
チェコ (2008年5月21日)
マルタの旗 マルタ (2008年8月22日)
ポルトガルの旗 ポルトガル (2008年10月7日)
モンテネグロの旗 モンテネグロ (2008年10月9日)
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア (2008年10月9日)
Flag of the Order of St. John (various).svg マルタ騎士団 (2009年6月1日)
アンドラの旗 アンドラ (2011年6月8日)
アジア
トルコの旗 トルコ (2008年2月18日)
アフガニスタンの旗 アフガニスタン (2008年2月18日)
中華民国の旗 中華民国(台湾) (2008年2月19日)
日本の旗 日本 (2008年3月18日)
大韓民国の旗 韓国 (2008年3月28日)
アラブ首長国連邦の旗 UAE (2008年10月14日)
マレーシアの旗 マレーシア (2008年10月30日)
モルディブの旗 モルディブ (2009年2月19日)
サウジアラビアの旗 サウジアラビア (2009年4月20日)
バーレーンの旗 バーレーン (2009年5月19日)
ヨルダンの旗 ヨルダン (2009年7月7日)
カタールの旗 カタール (2011年1月7日)
オマーンの旗 オマーン (2011年2月4日)
クウェートの旗 クウェート (2011年10月11日)
ブルネイの旗 ブルネイ (2012年4月25日)
東ティモールの旗 東ティモール (2012年9月20日)
パキスタンの旗 パキスタン (2012年12月24日)
イエメンの旗 イエメン (2013年6月11日)
タイ王国の旗 タイ (2013年9月24日)
シンガポールの旗 シンガポール (2016年12月1日)
バングラデシュの旗 バングラデシュ (2017年2月27日)
イスラエルの旗 イスラエル (2020年8月4日)
アメリカ州
コスタリカの旗 コスタリカ (2008年2月18日)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 (2008年2月18日)
ペルーの旗 ペルー (2008年2月22日)
カナダの旗 カナダ (2008年3月18日)
コロンビア (2008年8月4日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2008年8月7日)
パナマの旗 パナマ (2009年1月16日)
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国 (2009年7月10日)
ホンジュラスの旗 ホンジュラス (2010年9月3日)
セントルシアの旗 セントルシア (2011年8月19日)
ハイチの旗 ハイチ (2012年2月10日)
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス (2012年11月28日)
ドミニカ国の旗 ドミニカ国 (2012年12月11日-2018年11月2日)
ガイアナの旗 ガイアナ (2013年3月16日)
エルサルバドルの旗 エルサルバドル (2013年6月29日)
グレナダの旗 グレナダ (2013年9月25日-2018年11月4日)
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ (2015年5月20日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2016年4月30日)
スリナムの旗 スリナム (2016年7月8日-2017年10月27日)
バルバドスの旗 バルバドス (2018年3月9日)
コロンビア (2019年3月9日)
アフリカ
セネガルの旗 セネガル (2008年2月18日-2020年3月2日)
ブルキナファソの旗 ブルキナファソ (2008年4月23日)
リベリアの旗 リベリア (2008年5月30日)
シエラレオネの旗 シエラレオネ (2008年6月11日)
ガンビアの旗 ガンビア (2009年4月7日)
コモロの旗 コモロ連合 (2009年5月14日-2018年11月1日)
マラウイの旗 マラウイ (2009年12月14日)
モーリタニアの旗 モーリタニア (2010年1月12日)
エスワティニの旗 エスワティニ (2010年4月12日)
ジブチの旗 ジブチ (2010年5月8日)
ソマリアの旗 ソマリア (2010年5月19日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2011年1月10日)
中央アフリカ共和国の旗 中央アフリカ (2011年7月22日-2019年7月19日)
ギニアの旗 ギニア (2011年8月12日)
ニジェールの旗 ニジェール (2011年8月15日)
ベナンの旗 ベナン (2011年8月18日)
ガボンの旗 ガボン (2011年9月15日)
コートジボワールの旗 コートジボワール (2011年9月16日)
ガーナの旗 ガーナ (2012年1月23日-2019年11月7日)
チャドの旗 チャド (2012年6月1日)
ブルンジの旗 ブルンジ (2012年10月16日-2018年2月15日)
タンザニアの旗 タンザニア (2013年5月29日
エジプト (2013年6月26日)
リビアの旗 リビア (2013年9月25日)
レソトの旗 レソト (2014年2月11日-2018年10月16日)
トーゴの旗 トーゴ (2014年7月11日-2019年6月28日)
ガンビアの旗 ガンビア (2016年9月23日)
マダガスカルの旗 マダガスカル (2017年10月24日-2018年11月7日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2018年7月19日)
オセアニア
※コソボ共和国はパプアニューギニアとは2018年7月6日まで、ソロモン諸島とは2018年11月まで、パラオとは2019年1月まで、ナウルとは2019年11月まで外交関係を持っていた。
オーストラリアの旗 オーストラリア (2008年2月19日)
マーシャル諸島の旗 マーシャル諸島 (2008年4月17日)
ナウルの旗 ナウル (2008年4月23日-2019年11月13日)
サモアの旗 サモア (2008年9月15日)
ミクロネシア連邦の旗 ミクロネシア (2008年12月5日)
パラオの旗 パラオ (2009年3月6日-2019年1月17日)
ニュージーランドの旗 ニュージーランド (2009年11月9日)
バヌアツの旗 バヌアツ (2010年4月28日)
キリバスの旗 キリバス (2010年10月21日)
ツバルの旗 ツバル (2010年11月18日)
パプアニューギニアの旗 パプアニューギニア (2012年10月3日-2018年7月6日)
フィジーの旗 フィジー (2012年11月19日)
トンガの旗 トンガ (2014年1月15日)
ソロモン諸島の旗 ソロモン諸島 (2014年8月13日-2018年11月28日)
クック諸島の旗 クック諸島 (2015年5月18日)
ニウエの旗 ニウエ (2015年6月23日)
国際関係
詳細は「コソボの国際関係(英語版)」を参照
独立を宣言して以降、コソボは上記のような承認国の拡大と国際機関への加盟を追求してきた。
ハシム・サチ大統領はセルビアとの関係正常化と、欧州連合や北大西洋条約機構への加盟を希望すると表明している[25]。
前述のように、セルビアはコソボの独立を認めていないが、近年ではセルビア系住民が多数派を占めるコソボ北部とアルバニア系住民が多数派を占めるセルビア南部を交換し、両国の関係正常化を目指すといった動きを見せており、全くの没交渉ではない[26]。
EUの仲介などにより、コソボ北部のセルビア人保護などについて交渉や政府間合意を行っている。2020年には、米国の仲介で21年ぶりの空路再開で合意した[27]。
詳細は「セルビアとコソボの関係」を参照
アルバニア人を主体とし、公用語の一つとしてアルバニア語を共有するアルバニアとは特別な関係にある。アルバニアは1992年にコソボ共和国が独立を宣言した際、独立を承認した数少ない国の一つであった。2008年2月にコソボが独立を宣言した際にも最初に同国の独立を承認した国の一つである。
詳細は「アルバニアとコソボの関係(英語版)」を参照
日本との関係
詳細は「日本とコソボの関係」を参照
駐日コソボ大使館
詳細は「駐日コソボ大使館」を参照
住所:東京都港区西新橋三丁目13-7 VORT虎ノ門サウスビル10階
アクセス:東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅
コソボ大使館が入居するビル
コソボ大使館が入居するビル
コソボ大使館は10F
コソボ大使館は10F
地方行政区画
コソボの郡
詳細は「コソボの郡」および「コソボの都市の一覧」を参照
コソボは全体で7つの郡(ラヨーニ (Rajoni) / オクルグ (Okrug) )に分けられている。1999年にUNMIKの保護下に入った後の2000年に、UNMIKによってセルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ (Komuna) / オプシュティナ (Opština) )が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。
経済
首都プリシュティナ
詳細は「コソボの経済(英語版)」を参照
通貨はユーロが使われているが、欧州中央銀行(ECB)と正式な導入協定を結んではいない。
2018年の国内総生産(GDP)は約79億ドルであり[3]、経済的にはヨーロッパの後進地域である。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦、小麦、トウモロコシ、タバコが生産される。
鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。
その他にも石炭、銀、アンチモン、鉄、ボーキサイト、クロムなどが産出される。石炭のうち褐炭が豊富で、それを燃やす火力発電が電力の95%を賄う[28]。このため電力料金はヨーロッパで最も安い水準だが、設備の老朽化などにより停電が多く、大気汚染が深刻であり、温室効果ガスである二酸化炭素の排出削減も困難な現実がある[28]。
2011年時点でGDP成長率は5%程度であるが、貧しい者も多く、ヨーロッパの最貧国の1つである。
失業率は3割とヨーロッパ最悪の水準。特に若者では6割にも達しており、犯罪や国外移民、さらに中東へ渡ってのテロ組織「ISIL」参加などの問題を生んでいる[29]。国連の調査では、2013年時点でGDPの16%が、国外に住む国民縁者からの送金である。自分達の稼ぎでは生活が成り立たない者も多く、全世帯の25%は、この国外からの送金に頼って生活している[30]。
インターネットは普及途上で、ホームページすら持たない企業も多い[31]。
政治
プリシュティナの政府ビル
詳細は「コソボの政治(英語版)」を参照
国連安保理決議1244により国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self Government、PISG)が2001年から置かれている。
独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している[32]。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。
2008年2月、コソボは独立を宣言した。前述のように、コソボの独立を承認するか否かの対応は国により異なるが、UNMIKの役割は大幅に縮小され、警察・関税・司法の分野における任務をEUのCFSPミッション(European Union Rule of Law Mission in Kosovo、EULEX)が引き継いだ。
議会
詳細は「コソボ議会」を参照
1院制(定数120名)[21]
構成(2019年10月選挙。
任期4年) 政党(会派)名 議席数
自己決定運動 29議席
コソボ民主同盟 28議席
コソボ民主党 24議席
コソボ未来連合 13議席
セルビア人統一候補 10議席
少数民族グループ 10議席
諸派 6議席
「コソボの政党(英語版)」も参照
軍事
コソボ独自の軍事力として、治安軍を有している。
詳細は「コソボ治安軍」および「コソボ防護隊」を参照
またコソボ紛争終結に伴い、北大西洋条約機構(NATO)加盟国を主体とするKFOR(コソボ治安維持部隊)が駐留している。
コソボ議会は2018年12月14日、治安軍を軍に昇格させる法律を成立させた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権による支持を背景としている。これに対して中国の支持を背景とするセルビアとセルビアを支援するロシア連邦は反発し、地域の不安定化を懸念するNATOや欧州連合(EU)も批判的である[33]。
ユーゴスラビアやセルビアへの武力抵抗を担った組織については「コソボ解放軍」を参照。
住民
アルバニア人の子供(プリシュティナにて)
詳細は「コソボの人口統計(英語版)」を参照
民族構成は以下の通りである。
アルバニア人: 92%
セルビア人: 4%
ボシュニャク人およびゴーラ人: 2%
トルコ人: 1%
ロマ: 1%
オスマン帝国時代の統治により、コソボのアルバニア人の比率は高かった。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後にセルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で難民となったセルビア人をコソボに入植させた。
これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。
コソボ紛争により、コソボ内のセルビア人は約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。
現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛地状に点在している。
コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、2008年6月28日に独自議会の設立を宣言した。北部のセルビア人はコソボの統合に反対しセルビアから行政サービスを受けていたが、2013年のコソボ・セルビア間の合意を受けて同年に実施されたコソボの統一地方選挙に紛争後初めて参加した[21]。
このコソボ・セルビア間合意により、ミトロヴィツァなど北部のセルビア人居住地域でも、セルビア共和国が管轄していた警察・司法権限がコソボ側へ移されている。EU加盟を目指すセルビア政府の外交政策が影響しているとみられるが、コソボ内のセルビア人には「見捨てられる」との懸念が強まっている[34]。
言語
コソボの公用語はアルバニア語とセルビア語で、法律は英語でも翻訳版が作られている[35]。大多数を占めるアルバニア人はアルバニア語を使い、日常生活ではアルバニア語の2大方言のうちの、地続きのアルバニア北部で使われるゲグ方言に分類される言葉を使う。
宗教
「コソボの宗教(英語版)」を参照
アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。
婚姻
婚姻の際には、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)、配偶者の姓への改姓(夫婦同姓)、複合姓より選択できる[36]。
スポーツ
詳細は「コソボのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのコソボ選手団」も参照
サッカー
詳細は「コソボのサッカー(英語版)」を参照
コソボ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1945年にサッカーリーグのライファイゼン・スーペルリーガが創設されている。コソボサッカー連盟(FFK)は、2015年と2016年にUEFAとFIFAにそれぞれ加盟を果たしている。サッカーコソボ代表は、FIFAワールドカップ予選には2018年大会・予選から参加しており、2022年大会・予選もグループ最下位で敗退し本大会への出場の夢は未だ叶っていない。
著名な出身者
詳細は「コソボ人の一覧」を参照』
コソボでNATO部隊とセルビア人住民が衝突、兵士25人と住民52人が負傷
https://grandfleet.info/european-region/25-soldiers-52-civilians-injured-in-clashes-between-nato-forces-and-serbs-in-kosovo/



『再び対立が高まっていたコソボ北部でNATO派遣の治安維持部隊(KFOR)とセルビア人住民が衝突、イタリアやハンガリーの兵士25人が負傷し、イタリアのメローニ首相は「一方的な行動を慎み緊張緩和に乗り出すべきだ」とコソボ側を非難した。
参考:NATO soldiers injured in Kosovo clashes with Serb protesters
選挙のやり直しはコソボ側にとって主権の侵害と映るため歓迎できる内容ではない
これまでの経緯を説明するとセルビア共和国から分離・独立したコソボ共和国で暮らす約5万人のセルビア人はコソボ側の統治を拒否、コソボ当局がユーゴスラビア時代のナンバープレートを廃止する計画を発表すると「統治を認めていないコソボ側の強制=これに応じるとコソボ主権を間接的に認めたことなる」と反発して道路をバリケードで封鎖、セルビア人が多数派を占める地域ではセルビア系議員、裁判官、治安部門のトップが一斉に辞任。
出典:Public Domain 昨年12月に登場したバリケード
セルビア共和国も「コソボ地域に住むセルビア人の権利が侵害されている」と主張したため両国関係が極度に悪化してしまい、この事態をEUの仲介で何とか沈静化させたものの辞任した代表の再選出を行う選挙管理事務所が何者かに爆破され、セルビア人とコソボ当局は「アルバニア人による選挙妨害だ」「セルビア共和国が犯行を指揮している」と互いに非難しあい、再びセルビア人がバリケードで道路を封鎖したためコソボ当局が撤去を試み発砲事件(どちら側が発砲したのか不明)に発展。
この事件後もコソボ当局は「KFOR(NATO派遣の治安維持部隊)がバリケードを撤去しないなら自分たちの手で行う」と強行姿勢を崩さず、KFORもバリケード撤去に手を出すと事態が悪化するため容易に動けず、発砲事件を重く見たセルビア共和国が警戒体制(戦闘準備)を最高レベルに引き上げ国境沿い部隊を配備、このまま事態を静観すればコソボ側がバリケードの自力撤去に踏切るの確実で、住民との衝突に発展すればセルビア側が軍事介入を行う恐れがあった。
出典:Милош Вучевић
しかし米国・EUから保証を受けったブチッチ大統領は昨年末「警戒体制の解除」を発表したため最悪の事態だけは回避できた格好だが、保証の中身は「中央選挙管理委員会や治安当局に対する攻撃を組織したという理由で逮捕されたコソボに住むセルビア人元警察官の釈放」「コソボに住むセルビア人の逮捕リストを放棄=恐らく今回の抗議に関連した人々を起訴しないという意味」「NATOもコソボもセルビア人居留地に許可なく立ち入らない」というもので、主権を制限されたコソボ側にとって歓迎できる内容ではない。
一方のセルビア側は「これはセルビアの勝利でコソボ・メトヒヤ(独立を承認していないコソボ地域を指す名称)に住むセルビア人の勝利だ」と保証内容を歓迎していたが、再びプリシュティナ側とコソボに住むセルビア人が衝突しまった。
出典:GoogleMap/管理人が加工(クリック拡大可能)
今回の衝突原因はセルビア人が多数派を占める地域(ズヴェカン、レオプサビッチ、ズビン・ポトク)のアルバニア人新市長就任で、4月23日に実施された選挙は実施までのプロセスに問題があり、現地のセルビア人住民は選挙のボイコットを宣言、当該地域に住むアルバニア人の投票率も異常に低く、選挙管理委員会の公式データによると実際に投票したのは住民4.5万人の内1,567人(投票したセルビア人は13人)だけだった。
EUは選挙自体は適切に実施されたと認めているが「コソボ側とセルビア人住民の緊張を和らげることに失敗した」と指摘しており、選挙結果を認めていないセルビア人住民はバリケードを築いて新市長が市庁舎に入るのを妨害、コソボ警察の特殊部隊が催涙弾などを使用して鎮圧に乗り出しため両者が衝突、これ受けてセルビアのブチッチ大統領は「プリシュティナ側がコソボ北部のセルビア人へのテロ行為をエスカレートさせてきたため、軍の警戒体制(戦闘準備)を最高レベルに引き上げ、行政ライン方向への移動を命じた」と発表。
そのためKFORの部隊が市庁舎の警備に投入されたのだが、アルバニア人新市長が働く市庁舎を守るKFOR部隊とセルビア人住民のデモ隊が衝突、イタリアやハンガリーの兵士25人が負傷(内7人は焼夷弾の爆発で骨折と火傷を伴う重症らしい)し、セルビア人側にも52人の負傷者が出たと報じられている。
コソボ当局は今回の衝突について「セルビア人住民がブチッチ大統領の手先となり北部地域を不安定化させようとしている」と主張したが、ブチッチ大統領は「コソボのクルティ首相が緊張状態を意図的に作り出そうとしている」と非難し、衝突に巻き込まれ兵士が負傷したイタリアのメローニ首相も「現在起きていることは絶対に受け入れられないし無責任だ。コソボ側は一方的な行動を慎み緊張緩和に乗り出すべきだ」とコソボ側の対応を非難した。
今回の選挙も選出されたアルバニア人新市長も法的には合法だが、そもそもコソボ共和国で暮らすセルビア人住民はコソボ側の統治を拒否しており、選挙結果を認めていないセルビア人住民を排除して市庁舎に新市長を送り込めば何が起きるのかなど誰の目にも明らかで、これを強行したコソボ側を欧米は「緊張緩和の努力を放棄した無責任な行動だ」と非難しているのだ。
因みにセルビアのダチッチ外相は「セルビア人が多数派を占める自治体に現地住民によって選出されていない市長を置くのは不可能」と述べており、ここで言う「緊張緩和の努力」とはセルビア人が参加できる環境を整えて市長選挙をやり直すことなのだろう。
#Kosovo: At least two people were wounded after Serb protesters clashed with NATO KFOR and local security forces in the town of Zvečan.
The protests started after Albanian mayors took office in northern Kosovo, following the elections that local Serbs boycotted. pic.twitter.com/wxnbTCkl0P
— Status-6 (@Archer83Able) May 29, 2023
ただ選挙のやり直しはコソボ側にとって主権の侵害と映るため歓迎できる内容ではない。
関連記事:コソボ当局と住民が衝突、セルビア大統領は軍に戦闘準備と移動を命じる
関連記事:米国とEUから保証を受けったセルビアが警戒体制を解除、事実上の外交的勝利
関連記事:増え続けるバリケード、コソボ側が手を出せばセルビア軍介入の可能性も
関連記事:緊張が高まるバルカン半島、発砲事件を受けてセルビア側が戦闘準備
※アイキャッチ画像の出典:Radio Free Europe
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投稿者: 航空万能論GF管理人 欧州関連 コメント: 21 』
岸田総理長男は「家柄、学歴、職歴文句なし」欠けているのは「良識と常識」伊藤惇夫氏バッサリ
https://www.daily.co.jp/gossip/2023/05/30/0016413448.shtml?fbclid=IwAR01KiX-iDPP8xixN8huIrLzCC0guTubtHaVxb3dy07AY8RLw9r9-n9rnCs
※ 「良識」と「常識」が欠けている人物って、「政治家の資質」うんぬんよりも、「人」として、どうなのよ…。
※ やれやれな話しだ…。
※ まあ、「デイリースポーツ」では、あるが…。

『政治アナリスト・伊藤惇夫氏が30日、TBS系「ひるおび!」で、事実上更迭された岸田文雄総理の長男・翔太郎秘書官について、学歴、職歴など文句がないだけに「欠けているのは良識と常識かなと」との思いを語った。
この日は事実上更迭となった岸田総理の長男・翔太郎秘書官の問題を取り上げた。先週の時点では厳重注意だったが、前日に急転直下の事実上の更迭となった。
「乗り切れると思ったのか?」という恵俊彰の問いかけに伊藤氏は「金曜の発言を聞くとね。前回のイタリア観光旅行疑惑もありましたが、あの時も乗り切った訳ですから、今回も行けると判断したのかもしれませんが」と辛らつ。そして「今後、これを引き延ばすとダメージが強くなるというのもあったのかもしれない」と分析した。
翔太郎氏は慶大卒業後は三井物産に入社。20年に岸田事務所で公設秘書となり、22年10月に総理秘書官となった。伊藤氏は「翔太郎さんは家柄も学歴も職歴も文句ない。となると、欠けているのは良識と常識かなと」と厳しい言葉も。「この辺を岸田さんがどう指導し、教育したのかが問われる」とも語っていた。』
危機の二十年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4
※ 『なお訳書は、旧版訳書は、多数の誤訳や不適切な訳文が指摘され(山田侑平「岩波文庫あの名著は誤訳だらけ: 大学生必読『国際政治学の古典』は全く意味不明」。「文藝春秋」2002年4月号)、以後は「在庫なし」の状況となり、入手は困難だったが、2011年11月に新訳出版された。』…。
※ 「翻訳本」は、こういう問題もあるからな…。
※ 何事においても、「信者になるな!」「権威を疑え!」だ…。
※ 「自分の頭で、考えろ!」…。
※ まあ、そういうことができる「頭の持ち主」じゃないと、「話しにならない。」…。
※ 「信者に、なってる人」「権威に、盲従している人」のすぐ後ろには、AIが迫っている…。
※ 既に、「追い抜かれている人」も多いのか…。
※ 『この理想主義は、世界政府や自由民主主義などの政治理念を生み出すとともに、1919年のパリ講和会議の国際連盟設置などを契機に現実の政治に具体化されていった。』…。
※ おそらく、「日本国憲法」も、この延長線上にある…。
※ 『1939年の第二次世界大戦が発生した時には権力を排除した理想主義の政治理論は現実に適応できなくなっていた。』という「世界情勢」だったにも、拘わらずだ…。
※ 70年以上も経って、ウクライナ事態や、隣国の軍事力の増大により、「グルっと周って」、「我が身に火の粉が降りかかって来た」のは、皮肉な話しだ…。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『危機の二十年』(ききのにじゅうねん、英語:The Twenty Years’ Crisis 1919-1939)とは政治学者、歴史家であり外交官でもあったE・H・カーによる国際政治学の著作である。
この著作は、ヨーロッパで第二次大戦が勃発する直前の1930年代に執筆され、第1版が戦争勃発の直後である1939年9月に刊行され、1945年に第2版を刊行された(日本語訳は第2版から)。
なお第2版ではヒトラーに対する宥和政策に好意的な箇所が削除されている。
概要
国際政治学の歴史を概観すれば、そこには理想主義と現実主義の交代が認められる。
元来、伝統的な政治学はイデアや徳などの理想的な理念で政治秩序を論じていた。
近代において功利主義の道徳哲学や利益調和の政治経済学の思想的な展開に伴って、現実政治にも理想主義の政治学原理が適用されるようになった。
この理想主義は、世界政府や自由民主主義などの政治理念を生み出すとともに、1919年のパリ講和会議の国際連盟設置などを契機に現実の政治に具体化されていった。
しかし第一次大戦後の理想主義的な国際政治学は次第に衰退していくことになる。
理想主義者は国際政治から権力を除外すべきであると考えていたが、1939年の第二次世界大戦が発生した時には権力を排除した理想主義の政治理論は現実に適応できなくなっていた。
現実主義は理想主義に対する批判を強めるとともに、理想主義が掲げる政治秩序を現実政治の観点から解体した。
軍事力、経済力、また世論を支配する能力は、政治秩序の実際のあり方を左右することを論じた。
結果として理想主義は破綻を余儀なくされ、全体主義の台頭とともに、国際的な利益調和の喪失が生じた。
本書の問題意識は破綻した国際政治を再び秩序化するために、どのような基盤が求められるのかを考察することである。
カーは国際政治の新しい秩序を構想するために、権力と道義の二つの原理から考えを展開する。
権力がもたらす政治闘争の現実という課題と、道義がもたらす政治統合の理想という願望を考えれば、まずは世界経済再建が非常に有望な提案と考えられる。
なぜならば権力が国際政治を支配する限りでは危機が深刻化するものの、権力闘争が解決されれば道義の役割が回復されて秩序が安定するためである。
たしかに経済的な利益は道徳的な正義と等しくない。ただ経済的利益を独占しようとする傾向を諸国家から軽減すれば、各国の外交政策を協調へと方向付けることが可能となるのである。
カーへの応答
『危機の二十年』は、出版後、国際関係研究において不可欠の著作となった。
学部教育課程で依然として広く講読されており、伝統的現実主義の基本テキストの一つと考えられている[1]。
『危機の二十年』が数多くの研究に刺激を与えた。
国際関係論の学説の盛衰を概観した『危機の八十年』の序論で、編者の3人(マイケル・コックス、ティム・ダン、ケン・ブース)は、「カーの『危機の二十年』における議論とジレンマの多くが今日の国際関係の理論と実践に関連している」と指摘する[2]。
しかし、カーへの応答は決して肯定的なものばかりではない。
en:Caitlin Blaxtonは、『危機の二十年』におけるカーの道徳的立場を批判した[3]。
カーがいわゆる現実主義と理想主義の抗争を提示したことについて批判する研究者もいる。
ピーター・ウィルソンによれば、「カーのユートピア概念は科学的概念として十分に練られたものではなく、きわめて便利なレトリック上の仕掛けである」[4]。
『危機の二十年』のもつ複雑な性格について、近年、ジョナサン・ハスラム(訳書は下記)、マイケル・コックス[5]、チャールズ・ジョーンズ[6]らの研究を含んだカーに関する数多くの文献によって理解が深まっている[7]。
書誌情報
The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, London: Macmillan, 1939.
The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, 2nd ed., London: Macmillan, 1946.
The twenty years' crisis, 1919-1939: an introduction to the study of international relations, reissued with a new introduction and additional material by Michael Cox, Basingstoke: Palgrave, 2001.
日本語訳[8]
E.H.カー『危機の二十年 ― 國際關係研究序説』、井上茂譯(岩波書店「岩波現代叢書」、1952年、新版1992年ほか)
E.H.カー『危機の二十年 ― 1919-1939』、井上茂訳(岩波文庫、1996年)
E.H.カー『危機の二十年 ― 理想と現実』、原彬久訳(岩波文庫、2011年)
関連文献
ジョナサン・ハスラム『誠実という悪徳―E・H・カー 1892-1982』角田史幸、川口良、中島理暁訳(現代思潮新社、2007年)
デーヴィッド・ロング/ピーター・ウィルソン編著『危機の20年と思想家たち―戦間期理想主義の再評価』
宮本盛太郎、関静雄監訳(ミネルヴァ書房「人文・社会科学叢書」、2002年)
出典
^ [1]
^ Tim Dunne, Michael Cox and Ken Booth. "Introduction the Eighty Years Crisis". The Eighty Years' Crisis. Cambridge: Cambridge University Press, 1998. p. xiii
^ Wilson, Peter. "The Myth of the 'First Great Debate'". The Eighty Years' Crisis. Cambridge: Cambridge University Press, 1998. p. 3
^ Ibid., p. 11
^ Michael Cox ed., E. H. Carr: A Critical Appraisal, (Palgrave, 2000).
^ Charles Jones, E. H. Carr and international relations: a duty to lie, Cambridge: Cambridge University Press, 1998.
^ 日本でもカーの再評価が進んでいる。2009年1月発行の『外交フォーラム22(2) 特集「 E・H・カー―現代への地平」』(第247号)の他に、遠藤誠治「『危機の20年』から国際秩序の再建へ―E.H.カーの国際政治理論の再検討」「思想」945、2003年、西村邦行「E・H・カーにおけるヨーロッパ的なものの擁護―理論、歴史、ロシア」「法学論叢」166(5)、2010年、西村邦行「知識人としてのE・H・カー─初期伝記群と『危機の二〇年』の連続性」「国際政治」160、2010年、山中仁美「国際政治をめぐる「理論」と「歴史」―E・H・カーを手がかりとして」「国際法外交雑誌」108(1)、2009年、山中仁美「新しいヨーロッパ」の歴史的地平―E・H・カーの戦後構想の再検討」「国際政治」148、2007年、山中仁美「「E.H.カー研究」の現今の状況をめぐって」「国際関係学研究」29、2003年、山中仁美「E.H.カーと第二次世界大戦―国際関係観の推移をめぐる一考察」「国際関係学研究」28、2001年、角田和広「戦間期におけるE・H・カーの国益認識―独伊政策を焦点として」「政治学研究論集」28、2008年、角田和広「E・H・カーの『国際秩序』構想―平和的変革構想とその失敗」戦略研究学会編『戦略研究』第7号、2009年、清水耕介「世界大戦とナショナリズム―E・H・カーとアレントの見た一九世紀欧州」「アソシエ」16、2005年、細谷雄一「大英帝国の外交官たち(4)「新しい社会」という誘惑―E.H.カー」「外交フォーラム」16(5)、2003年。
^ なお訳書は、旧版訳書は、多数の誤訳や不適切な訳文が指摘され(山田侑平「岩波文庫あの名著は誤訳だらけ: 大学生必読『国際政治学の古典』は全く意味不明」。「文藝春秋」2002年4月号)、以後は「在庫なし」の状況となり、入手は困難だったが、2011年11月に新訳出版された。
』
G7雑感 グローバルサウスの存在感 – 風来庵風流記
https://blog.goo.ne.jp/mitakawind/e/6a99aa73c5666d83aea864dab8070bae
『G7を巡る狂騒曲を続ける。一見、その存在感が高まっていることを称揚するかのような、あるいは少なくともニュートラルな意味合いに見えるブログ・タイトルだが、正直なところ、グローバルサウスに対して、歴史的には大いに同情するが、最近はその増長振りがやや気になるところでもある。
正確に言うと、存在感が、ひいては発言力が高まっていることを感じ、自己主張を強めようとするのであれば、それに応じた国際社会の責任も引き受けるべきところだ。
その点では、中国と言う悪しき先例がある(もっとも最近は、アメリカが後退する“隙間”を狙って外交努力を誇示しつつあるが)。
グローバルサウスが、ロシアとウクライナとの戦争からも、また、アメリカと中国との対立からも、距離を置きたがり、巻き込まれないように慎重に行動するのはよく分かるが、結局、いずれからも利益を得ているから、あるいは得たいからという現実的で短絡的な(と敢えて言わせて貰う)対応を示しているだけのことで、それは何も今に始まったことではない。
ツキュディデスの罠を流行らせたハーバード大学のグラハム・アリソン教授がインタビューしたシンガポール建国の父、リー・クアンユー氏も同様のことを語っていた(『リー・クアンユー、世界を語る』(サンマーク出版 2013年)。
相対的に中小国が多いグローバルサウスにとって、それがまだ発展途上の彼らが厳しい国際社会を生き抜く知恵であることは理解する。
国際政治においてリアリズムが大事であることは、E.H.カーが既に、国際政治学の原典とも言うべき『危機の二十年』(原書”The Twenty Years’ Crisis, 1919-1939”は1939年)で指摘していた。
だからと言って所詮ユートピアニズムは偽善だとも言い切れなくて、現実と理想(や理念)とのバランスの問題だろう。
前回ブログでは、アメリカが中国に引っ張られて、理念を置き去りにするような行動に走り、今、グローバルサウスの台頭でも、理念がよく見えない。理念がなんだか不憫な扱いをされる時代である。
ロシアとウクライナとの戦争に関して、グローバルサウスは、ロシアの行動を非難することには辛うじて賛同し、戦争が早く終わって欲しいと望みつつ、制裁、すなわち力による現状変更という国連憲章違反の行為が高くつくことを思い知らしめる行動には乗って来ない。
第三次世界大戦を回避し、秩序を維持しようと返り血を浴びながらも健気に努力する西側の行為(などと、かなり西側寄りの発言であるが 笑)には背を向ける。
果ては、食糧危機は西側の制裁のせいだとロシアが声高に宣伝するのを信じる国すらある。同様に、アメリカと中国との対立ではどっちもどっちなのか、中国に非はないのか、という理念の問題について、問い掛けたい。
アメリカの苦悩は、実はグローバルサウスには分からないだろう。
何故なら、グローバルサウスは中国が欲しがるような技術を持たないし、アメリカほどのインテリジェンスもないからだ。
アメリカは、自由と民主主義を尊ぶオープンな社会で、科学・技術が発展していればこそ、中国をはじめ多くの国々から多くの人々が学ぶために集まり、共創し、アメリカの科学・技術の発展を助けるとともに、それぞれの出身国の経済発展にも貢献する。
中でも中国は、そのオープンな環境に乗じて、技術を学ぶだけでなく、金に飽かせて技術を買い漁り、正当に入手できない場合は窃盗し(先のグラハム・アリソン教授は、中国の場合はR&D&Tとなる、すなわちR&DにとどまらずT=Theftまでやると言われた)、自国の軍(正確には共産党の軍)の近代化に余念がない。
それが、人口数千万程度の開発独裁国ならまだしも、国家資本主義という異質の体制で、既に世界第二の経済大国に登り詰め、なお国家がその全精力を傾けて国の経済と軍事の発展を主導する国なのだから、覇権が脅かされる(とアメリカを揶揄しつつも)アメリカにとってはたまったものではない。
ついでに言うなら、中国が欲しがる技術をまだ辛うじて持っている日本も、アメリカの苦悩は十分には分からないだろう。何故なら、アメリカほどのインテリジェンスがないから、技術が盗まれているかどうかすら分からないだろうからだ。日本の経済人の多くがお人好しでお気楽でいられるのは、そのせいではないかと思う。
中国やロシアは、多極化した世界を望むことで一致する。
欧米的な自由・民主主義が全てではなく、中国やロシアのような権威主義も、さらにグローバルサウスのような発展途上の世界も、存在感を主張し、その限りでは理解できなくはない“美しい世界”だが、そのときの秩序はどうなるのだろうか。共有できる理念はあるのだろうか。
中国やロシア(だけでなく、イランや北朝鮮などの)サイバー攻撃をはじめとする無法は許されるものではない。
以前であれば、産業スパイ事件は新聞の一面を飾る事件たり得たが、サイバーを介した産業スパイは日常茶飯事になってしまった感がある。
言葉は悪いが、北朝鮮は犯罪国家であり、中国は共産党が人民を搾取する泥棒国家という形容が成り立ち得る。
そんな世界で、大規模言語モデルが急速に発展し、AIのリスクが俄かに語られるようになったのにはワケがある、というべきだろう。
今朝の日経記事(英エコノミスト紙の翻訳記事)は、人種差別や子供を対象にした性犯罪、爆弾の作り方に関する情報の提供などの危険が考えられると言い、強大化するAIモデルが、偽情報や選挙操作、テロ行為、雇用の喪失などの危険をもたらす可能性がある、という。
最近は雇用の喪失が多く語られるが、私はどちらかと言うとそこは楽観的で、それ以外の政治・社会的リスクが恐ろしい。
なお、そのグローバルサウスの一つとして招聘された韓国が、G7入りに意欲を示し、日本の支持を期待しているとの記事が目に留まって、目を疑った。
ドイツの首相が30年振りに、また欧州委員長も、G7後に韓国を訪問した。NATO以外の国で、韓国ほどの経済力があって、今なお法的には戦争中で、ウクライナに武器・弾薬の支援を出来る国は、世界広しと言えどそうあるものではない。
この期にNATOや欧州の関係者が韓国に秋波を送るのはもっともだと思うが、当の韓国はそう思わず、勘違いしている可能性がある。
保守政権で日本の悪口をあちらこちらの国々で触れ回る「告げ口外交」を恥じることなく、その後の左派政権では反日活動に勤しむ市民団体に数千億円の補助金を出して、反日を大いに煽って戦後最悪の日韓関係に立ち至らせた国である。
グローバル・イシューを語るに足るパートナーだと、自ら自負されているのだろうか(もっともG8発言のヌシは韓国の駐日大使で、ほんの都内での講演での軽口だったのかも知れないが)・・・
日米欧の民主主義陣営にしても、中露の権威主義陣営にしても、グローバルサウスを取り込むことに躍起になっているが、いずれもグローバルサウスには振り回されそうな予感がする。これも(中国やロシアと同様)、歴史の復讐であろうか・・・』
米・ウクライナが牛耳る中国人の胃袋、習近平氏の不安
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFE271ZN0X20C23A5000000/

『造林をやめて畑に戻せ――。中国のインターネット言論空間で今、最もホットな言葉である。中国語のスローガンとしては「退林還耕」という四字熟語になる。各地で始まった公園をつぶしての耕地化、林伐採が映像付きで出回り、「税金の無駄遣いではないのか」といったシビアな声を含む賛否両論が巻き起こっているのだ。
過去、中国に関わった人なら「これは間違いだ。逆ではないのか」と思うだろう。なぜなら、20年以上にわたっ…
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『なぜなら、20年以上にわたって中国政府の基本方針は、樹木の伐採で必要以上に切り開いてしまった畑を再び森林に戻す「退耕還林」だったからだ。
ここには「改革・開放」政策以降の中国の食糧・農業政策の歴史が絡む。「だれが中国を養うのか――」。米国の学者、レスター・ブラウンが1990年代に中国の食糧不足を心配する論文を発表したことで、中国は一時、自給率引き上げに躍起になる
食糧大増産は当時、首相だった李鵬が旗振り役だった。だが、1998年、辣腕といわれた改革志向の朱鎔基が後任首相に就くと地合いが変わる。ブラウンの指摘に踊らされた必要以上の増産で穀物過剰となり、高コストも問題になったのである。
中国西部地域では2000年ごろから非効率な耕地を林に戻す運動が始まった。兵士は山肌に植樹用の穴を掘っている(2000年、甘粛省蘭州市郊外)
まさに鼓腹撃壌。人民のおなかは十分に満たされたと自信をもった中国政府は、ここから「退耕還林」にカジを切る。ひどくなる一方だった黄砂被害の防止という環境重視とともに、内陸部にある農村の過剰人口を、沿岸部の都市近郊で拡大する工業地帯の労働力として活用するため移動させる社会・産業政策でもあった。
「退耕還林」から一転、「退林還耕」も
2012年、習近平(シー・ジンピン)が中国共産党総書記、続いて国家主席に就くと、この方針がグレードアップする。自らの時代を特徴づける政策として「緑色運動」の旗を大々的に振ったのだ。
温暖化防止という世界の潮流にも合致する環境重視は、習時代の「一丁目一番地」の政策だと誰もが思っていた。中国全土で上意下達式の「政治運動方式」によって緑化が進んでいたのだから。ところが、ここ数カ月で様相が変わってきた。主な原因は、習がよく口にする「百年に一度しかない大変局」である。
「(中国内では)既に『退耕還林』は、口にしにくい時代になった。皆、トップの一挙手一投足に敏感になっている」
「我が中国は、食糧増産に転換する兆しがある。理由は、ウクライナでの戦争、そして米国が主導する中国包囲網だ。そこには、インド太平洋経済枠組み(IPEF)だって関係している」
これらは、中国の学者、知識人らが、内外のインターネット空間上を含めて発信している声である。
IPEFは大国、中国が貿易・経済上の力を武器に、立場が弱い国を威圧するのを防ぎつつ、自由貿易体制を守る足場を築くものだ。IPEF参加14カ国は先の閣僚級会合で重要物資のサプライチェーン(供給網)を強化する協定策定で合意した。
中国にとっては大問題である。そればかりではない。もっと切実に中国人民の生活に直結する問題が浮上している。それは、ロシアによるウクライナ侵攻で一気に顕在化した。
中国の食卓に様々な料理として並ぶトウモロコシだが、輸入先は米国とウクライナが主体だった
実は、中国人民のおなかを直接、間接的に満たしていたのは、世界の穀物庫といわれる農業大国、ウクライナのど真ん中の穀倉地帯で育つトウモロコシでもあった。三大穀物のひとつでイネ科のトウモロコシは飼料用でもある。中国では収益性が高い養豚用に輸入品が回される。
かつて全輸入量に占めるウクライナの割合は8割強だったが、その後、米トランプ政権時代の米中貿易戦争の妥協策として米国産が急増。21年には米国産が7割、ウクライナ産が3割になった。既に中国の需要の1割以上を占め、さらに増加傾向だった輸入トウモロコシを牛耳っていたのは、米国・ウクライナ両国なのだ。
ちなみに中国の人々が好んで食べるヒマワリの種子も、相当量が搾油用などとしてウクライナから輸入されてきた。1970年に公開されたソフィア・ローレン主演の名画「ひまわり」で有名になったあのウクライナの美しいヒマワリ畑で育った種である。
22年トウモロコシ輸入量は3割弱の激減
だが、中国側報道によれば、中国の22年トウモロコシ総輸入量は、前年比27%減った。契約切れなどによる米国産の減少に加え、ウクライナ侵攻というロシアの蛮行のせいで、ウクライナ産も大きく減り、国際相場も20年初の2倍以上に高騰したのが原因だった。
中国東北部では欠かせないトウモロコシのマントウ
中国が慌てるのは無理もない。中国は世界貿易機関(WTO)加盟後、安定した貿易秩序を享受して急成長した。原動力は工業へのシフトだ。高コストで競争力のない中国国産大豆には見切りをつけ、海外産に頼る方向に。既に大豆では総需要の85%を輸入に頼る。こちらも米国依存が突出していた。
中国政府は「自給率は十分、高い」と主張してきた。だが、1人に供給される食料全品目の熱量に占める国産の割合を示すカロリーベースの食料自給率を国際統計から計算すると、70%台半ばにすぎないとの推計もある。ここには中国の食の米欧化による肉類の輸入急増も関係している。
日本で華人向けに輸入販売される中国ブランドのトウモロコシ加工食品の原料産地は、多くが米国だ。中国東北地方で好まれるトウモロコシ粉の蒸しパン(冷凍)などが目立つ。
ウクライナ侵攻1年を経て、中国のトウモロコシ輸入はどうなったのか。中国側報道によれば、23年1〜3月のトウモロコシ輸入先ビッグスリーは①米国②ブラジル③ウクライナの順になった。輸入先シフトでブラジル産が急増したが、3位のウクライナ産との差は大きくない。
先の主要7カ国首脳会議(G7広島サミット)に出席するため、はるばる広島にやってきたウクライナ大統領のゼレンスキーと、ブラジル大統領のルラは結局、2国間会談をしなかった。両国首脳の政治的立場の違いとは別に、中国向け穀物輸出で激しく競争する両国のライバル関係は興味深い。
習近平の大きな心配は、まず①の米国だ。米国が主導するIPEFは、米デトロイトでの閣僚会議で中国が大きな世界シェア握る製品、材料の輸出制限を政治的な道具に使う問題に対処する「供給安定」で合意した。
広島平和記念公園で献花したウクライナのゼレンスキー大統領(21日)
農業大国、米国の政治構造を考えれば、大統領選を控える米国が、食糧輸出を対中圧力の武器に使うとは思えない。それでも習は不安だろう。豊かになって食欲旺盛な中国人民の胃袋を牛耳っているのは米国なのだから。
そこに③のウクライナも大いに関係している。だが、戦闘終結のメドは立たない。中国は、ロシアとウクライナの間の和平仲介に意欲を見せているが、穀物需給の点からみても、ひとまず早期停戦が望ましいのは確かだ。
中国が食糧増産に転換した明確な証拠がある。3月の全国人民代表大会(全人代)で退任前の首相、李克強(リー・クォーチャン)が読んだ政府活動報告である。作付面積の確保で5000万トンの食糧(穀物、イモ、豆類など)の増産を宣言している。
目標達成には、かつては畑だった林を耕地に戻し、農業の担い手も確保しなければならない。これは、都市部で仕事がない失業中の若者を農村に送り込む政策につながっている。21世紀初頭のまるで逆である。こうして中国全土で耕地拡大がにわかに始まった。
習氏は「安全担当者」連れで小麦畑視察
習は、文化大革命(1966〜76年)中だった青年期を西部の陝西省で過ごし、清華大学卒業後は、河北省の農村、正定県のトップとなった。農業、とりわけ小麦、トウモロコシの重要性は熟知している。1985年、正定県トップの習が初めての外国視察の地として選んだのも、トウモロコシなど穀物生産の先進地域である米アイオワだった。
11日、河北省で小麦畑を視察する習近平国家主席(右)と、同行した共産党政治局常務委員の蔡奇氏(左)=国営中国中央テレビの映像から
その習は5月11日、北京の近い河北省の小麦畑をあえて視察した。7人しかいない党政治局常務委員のひとりで、異例の形で中央弁公庁主任にも就いた蔡奇(ツァイ・チー)が同行していた。
蔡奇は、広い意味の国家安全も担当している。この動きからは、中国的な意味で「安全」に大きく関わる食糧の確保が、どれほど重要な課題になっているのかが透けてみえる。
なんだかんだ言っても、中国は食べ物を米国に頼っている。これから急速に「退林還耕」に動き、小麦、大豆、トウモロコシを増産したとしても、胃袋を米国に握られている構造は当面、変えられない。
万一、台湾海峡を巡る緊張などがさらに激化したとき、習が頻繁に口にしてきた「戦いへの備え」は十分なのか。「長期戦」にも耐えうる食糧を確保できるのか。国家指導者にとって最大の不安が、すぐに解消されることはない。(敬称略)
中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。
【関連記事】
・ゼレンスキー大統領が北京で習近平氏と会う条件
・「ロシアは中国の属国」が波紋 習氏はウクライナに特使 』
ChatGPTで資料作成、実在しない判例引用 米国の弁護士
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN30E450Q3A530C2000000/
※ こういう辺りが、「生成型AI」の怖いところだ…。
※ 特に、判例法中心のアングロサクソンの法体系においては…。
※ 「司法試験に合格」「医師免許試験に合格」と言ったところで、「本物の弁護士」「本物の医師」になれるわけのものでも無い…。
『【ニューヨーク=吉田圭織】米東部ニューヨーク州の弁護士が審理中の民事訴訟で資料作成に米オープンAIの生成AI「Chat(チャット)GPT」を利用した結果、存在しない判例を引用してしまったことが問題となっている。米紙ニューヨーク・タイムズなどが報じた。
問題が起きたのは、米ニューヨーク行きのフライトで食事配膳用カートが当たってけがをしたとする男性客が南米コロンビアのアビアンカ航空を訴えた訴訟だった。
資料で引用された判例が見つからなかったため、ニューヨーク州の連邦裁判所のカステル裁判官が確認したところ、弁護士がChatGPTを使っていたことが発覚した。弁護士は資料に6件のデルタ航空やユナイテッド航空などが関連しているとされた実在しない判例を引用していた。
同裁判官は「インチキな引用を使ったインチキな司法判断が記述された資料が提出された」と指摘するとともに「前例のない状況に置かれている」と説明した。弁護士の懲戒をするかどうかを判断するために6月8日に審理を開く予定だ。
5月24日に署名した供述書で弁護士は「非常に後悔しており、今後は正当性を検証せずに(ChatGPTは)絶対に利用しない」と伝えた。「情報源として信頼できないことが明らかになった」と書いた。供述書には弁護士が判例について情報の出どころなどをChatGPTに確認するやり取りも含まれた。
【関連記事】
・ChatGPT、法務のイロハ 生成物の著作権侵害に注意
・ChatGPT、世界こう変えた 10の数字で振り返る公開半年
・課題も多い生成AI これからどう付き合うべき? 』
批判覚悟の「PayPay改悪」 楽天経済圏に対抗
LINE・ヤフー 背水の合併(2)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC199EB0Z10C23A5000000/
『「使いづらくなる」「PayPayさよなら」――。5月1日、ネット上はZホールディングス(HD)子会社のPayPayに対する批判の投稿であふれた。ツイッターでは「PayPay改悪」がトレンド入りした。PayPayのスマートフォン決済はクレジットカード払いの場合、他社が発行するカードも利用できるが、8月から自社の「PayPayカード」に限定すると発表したからだ。
他社カード排除により自社カードの発行…
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『他社カード排除により自社カードの発行数を増やし、スマホ決済、ポイント、カードなどPayPayで完結できる経済圏への誘導を狙う。だが、他社カードを使う利用者が離れかねないリスクもはらむ。
批判覚悟で囲い込みを優先するのは、ZHDとして経済圏づくりで先行する楽天グループを追うためだ。決済取扱高はPayPayの10兆円に対し、楽天はカード取扱高のみでPayPayの1.8倍、グループ電子商取引(EC)取扱高は1.5倍にのぼる。
囲い込み策に踏み切れるのは「数の力」があってこそだ。PayPayはサービス開始からわずか4年半で利用者が5700万人を超えた。スマホ決済シェアは3分の2を握る。ただ、PayPay幹部や営業現場はさらなる利用者獲得に貪欲だ。
2月中旬、東京都港区にあるPayPay本社の一室に同社幹部らが勢ぞろいした。「LINEのように、日常に欠かせない存在にならないといけない。絶対に(利用者数増の)スピードを緩めるな」。社長の中山一郎は檄(げき)を飛ばした。
「『楽天市場』でもPayPayを導入してもらいたい」。PayPay副社長の馬場一は目的のためには「敵」とさえ組みたいという本音も隠さない。2022年にはアマゾンジャパンと提携。ヤフーのECでためたPayPayポイントをアマゾンで使うこともできる。ヤフーからは「なぜ敵に塩を送るのか」との声が漏れる。
「PayPayの成長は異例の速さだ」。ZHD社長の出沢剛のPayPayにかける期待は大きい。LINEやヤフーの業績が足踏みするだけに、グループの次の成長を担う存在になりうる。9500万人が利用するLINEとの連携でさらなる利用者の拡大も狙える。PayPayを活用した囲い込み策が吉と出るか凶と出るかは、10月に発足する合併新会社LINEヤフーの行く末を占う。(敬称略)
【関連記事】
・PayPay、他社のクレジットカードの利用停止 8月から
・PayPay、スマホ決済5700万人をクレカへ 楽天に対抗
・PayPayサービス変更 他社カード利用停止に衝撃も
・「線」になれぬLINEとヤフー AIで挽回なるか
・EC決済比率、PayPayがコンビニ抜く 2年で3倍
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分析・考察 スマートフォン決済のように価値の差別化が難しい業界では、初期の段階は顧客への「出血サービス」でユーザーの数を増やす競争がしばらく続く。しかしそれだけでいずれもたなくなる。利便性の一部を落としてでも将来の利益につながるようなサービスの仕様変更が必要になる。
2023年5月31日 8:43』