White Fragility
https://en-m-wikipedia-org.translate.goog/wiki/White_Fragility?_x_tr_sl=auto&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=nui,op
※ ちょっと、疲れてきたんで、今日は、こんなところで…。



White Fragility
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※ ちょっと、疲れてきたんで、今日は、こんなところで…。



アメリカ白人は「生まれる前から」レイシストであり、
死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできない
【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/248160
※ いやいや、「衝撃的な」記事だ…。
※ インパクトという点では、今年読んだ記事の中での「ベスト」だろう…。
※ 丸々、紹介させていただきます…。
※ それにつけても、アメリカ人やって行くのは、大変だ…。
※ 白人だというだけで、「原罪」押し付けられたり、「内なる差別意識を直視し、真摯に向き合え!」と迫られるわけだ…。
※ うちは、仏教、それも「曹洞禅(道元禅師のな)」なんで、「なむしゃかむにぶーつ(南無釈迦牟尼仏)…。」とか唱えて、(頭の中で、座禅して)「悟りに向かって、日々修行」していればそれでよい…。
※ どーせ、坊主でもない一般人が、「悟りを開く」なんて、できっこ無い…。
※ それでも、誰からも「地獄に落ちるぞ!」とか「人として、不適格だ!」なんて糾弾されることも無い…。
※ 火葬なんで、「死後の復活」とか、「死後の裁き」とか、知ったこっちゃ無いしな…。
『アメリカでBLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)の反人種差別デモが過激化の度合いを増している。その背景には、奴隷制廃止から150年、公民権運動から半世紀以上たっても、依然として黒人の地位が向上していない現実がある。
その結果、「人種問題」をめぐってアメリカの白人は2つのグループ(部族)に分断されることになった。ひとつは保守派で、「法律上は平等な権利を保証され、そのうえアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優先枠までつくったのだから、現在の苦境は自己責任だ」とする。これについては代表的な保守派知識人の一人ヘザー・マクドナルドの“The War on Cops(警官との戦争)”を紹介した。
[参考記事]
●日本ではほとんど報道されない、BLM運動の嚆矢となった「ファーガソン事件」の真相と背景にある黒人の犯罪率の高さ
それに対して、アメリカ社会の「構造的な人種差別」を批判する左翼(レフト)はどのように考えているのだろうか。それを知りたくて、BLM運動以降、アメリカでベストセラーとなったロビン・ディアンジェロの“White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism(白人の脆弱性:白人にとって人種主義について話すのはなぜこれほど難しいのか)”を読んでみた。
著者のディアンジェロは1956年生まれの「白人女性」で、「ホワイトネス(白人性)」の研究で博士号を取得し、大学で多文化教育を講じるかたわら、企業などにダイバーシティ・トレーニングを提供する活動を続けている。“White Fragility(白人の脆弱性)”はディアンジェロの造語で、これがなにを意味するかはおいおい説明しよう。
アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシスト
“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。ここではできるだけ客観的に説明し、私の感想は最後に述べることにしよう。
ディアンジェロによれば、アメリカ社会は人種・性別・性的志向などによって階層化されており、その頂点に君臨するのは「白人、男性、異性愛者・健常者・中上流階級」という属性をもつグループだ。だが「白人女性」や「白人のLGBTQI(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス)」だからといって「人種主義Racism」から逃れることはできない。
なぜならアメリカ社会の根底には、「white」と「people of color」の構造的な差別があるから。whiteは「白人」、people of colorは「有色人種」のことだが、raceを避けている用語に「人種」の訳語をあてるのは適切ではないだろう。直訳では「(肌の)色のあるひとたち」だが、これは日本語として違和感があるので、ここでは「ピープル・オブ・カラー」とカタカナで表記する。
この訳語にこだわるのは、ディアンジェロの世界観が「白人」と「ピープル・オブ・カラー」の二元論だからだ。「奴隷制」と「植民地主義」という負の歴史の上につくられたアメリカ社会では、この2つの集団間の「差別のシステム」があらゆるところに埋め込まれているのだ。
ピープル・オブ・カラーには黒人(アフリカ系)、ラティンクス/Latinx(ラテンアメリカ系)、アジア系、ネイティブアメリカンなどがいるし、人種間の結婚で生まれたひとたちもいるだろう。――中南米(ラテンアメリカ)に文化的・民族的アイデンティティをもつアメリカ人は「ヒスパニック」と呼ばれていたが、彼らは「スペイン語話者」でも「スペイン出身者」でもないため、「Latino(ラテン系男性)」や「Latina(ラテン系女性)」が好まれるようになり、近年はジェンダーフリーの呼称として「Latinx(ラテン系)」という新語が「PC=政治的に正しい」とされるようになったようだ。
白人にも同様に、アメリカ社会の主流派であるWASP(イギリス系プロテスタント)だけでなく、かつては黒人同様に扱われていたアイルランド系やイタリア系、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系や、新興移民として奴隷制も公民権運動も知らないロシア・東欧系などさまざまなグループがあるし、白人とピープル・オブ・カラーの結婚も珍しくなくなった。
だがディアンジェロは、このように人種の多様性を強調することを否定する。「人種多様性」はピープル・オブ・カラーを分断し、白人に免罪符を与え、「白人VSピープル・オブ・カラー」という構図を曖昧にするだけだからだ。
この二元論からディアンジェロは、「アメリカでは人種主義(レイシズム)は白人だけのものである」というかなり思い切った主張をする。ピープル・オブ・カラーのなかにももちろん、他の人種に対して偏見をもつ人間はいくらでもいるだろう。だがそれは、定義上、(アメリカ社会では)レイシズムとはなり得ない。その一方で白人は、祖先の国籍や家系の歴史に関係なく、存在そのものが「レイシズム」だ。
これは、「白人は生まれながらにしてレイシスト」というだけではない。アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシストなのだ。なぜなら白人というだけで、妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどでピープル・オブ・カラー(とりわけ黒人)とまったく異なる扱いを受けるのだから……。
ディアンジェロは次のように述べる。
「私はアメリカで育った白人アメリカ人だ。私は白人の考える枠組みと白人の世界観をもち、白人の経験する世界を生きてきた。私の経験は普遍的な人類の経験ではない。それは人種が重要な意味をもつ社会、人種によって深く分断された不公平な社会のなかで、とりわけ白人が経験するものだ」
アメリカで、あるいは西欧による植民地の歴史をもつすべての文化で、白人がレイシズムと無関係に生きることは原理的に不可能なのだ。』
『ディアンジェロは生物学的な人種概念を否定する
「すべての白人はレイシストである」という前提に立つ以上、当然のことだが、ディアンジェロはトランプ支持の「白人至上主義者」だけを批判したりはしない。こうした「可視化された人種主義」はこれまでさんざん俎上にあげられてきており、それにもかかわらず人種主義はなくならないばかりか、黒人の苦境はますます強まっている。
ここで白人のリベラルは、「それはレイシズムへの批判が足りないからだ」としてBLM運動への支持を表明するかもしれない。だがディアンジェロは、こうした態度自体が「レイシズム」だとする。“White Fragility”は、「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」への糾弾の書だ。
従来のリベラリズムは、個人を「黒人」や「女性」などのマイノリティにグループ分けし、ステレオタイプを押しつけることを「差別」だとしてきた。それを乗り越える方策が「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」で、差別をなくすためのもっとも重要な心構えだとされている。――colorblindは色盲のことで、そこから「肌の色のちがいを見えなくする」の意味に使われるようになった。
だがディアンジェロは、アメリカ社会でポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の中核にあるカラーブラインドを否定する。
アメリカ社会はずっと、カラーブラインドによって人種差別を克服しようとしてきたが、ディアンジェロからすればこれは「人種のちがいがないように振る舞えばレイシズムはなくなる」という虚偽以外のなにものでもない。「人種」を見えなくするカラーブラインドによって、誰ひとり自分をレイシストだといわなくなったとしても、レイシズムは厳然と存在するのだ。
日本でも「女だから」とか「国籍がちがうから」などの理由で個人を評価することは差別と見なされるようになってきた。「個人をグループとしてではなく、一人ひとりの個性や能力で評価する」というIndividualism(個人主義)はリベラルの大原則で、ほとんどのひとが当然だと思うだろうが、ディアンジェロはこれも否定する。「彼/彼女が黒人であることは採用・昇進になんの関係もない。なぜなら人種ではなく“個人”を評価しているから」というのは、リベラルな白人が自らのレイシズムを隠蔽・正当化するときの典型的な手段にすぎない。――さらには、「客観的な評価によってバイアスから自由になれる」という「客観主義」も否定される。バイアス(偏見)は人間の本性で、どのようなことをしてもそこからフリー(自由)になることはできないのだ。
この「カラーブラインド」と「個人主義」の全否定は、「リベラル」にとっては驚天動地の話だろう。だがこれは、考えてみれば当然でもある。アファーマティブアクションは「人種」というグループで優遇するかどうか決めているのだから(ディアンジェロは「資格のある特定のマイノリティに白人と同等の機会を与えること」と定義する)、カラーブラインドと個人主義を徹底すればその根拠はなくなってしまう。「差別されたマイノリティ」を制度によって救済しようとするなら、「人種」という概念を認めるほかない。その意味では、ディアンジェロの一見過激な主張の方が筋が通っているともいえる。
ディアンジェロはもちろん、生物学的な人種概念を否定する。近年の遺伝人類学や行動遺伝学では「ヒト集団」のちがいが大きな論争になっており、イギリスのリベラルな科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーは『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)でこのテーマと格闘しているが、ディアンジェロは論文1本を根拠に「肌の下に真の生物学的な人種はない」と一蹴している。
[参考記事]
●アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている
生物学的な「人種」は虚構で、「人種」概念は社会的につくられたというのが「社会構築主義」だが、その立場からすると、リベラルのカラーブラインドや個人主義は、社会的な構築物である「人種」を否定し、アメリカ社会の根底にある「構造的レイシズム」を容認することなのだ。
ここまでくれば、ディアンジェロが「リベラル」ではなく「左翼(レフト)」である理由がわかるだろう。その批判の刃は、頑迷なトランプ支持の「白人至上主義者」よりも、彼らを口先だけで批判する「エリートの白人リベラル」に向けられているのだ。
だがこの論理を、自分のことを「レイシズムとは無縁なリベラル」だと思っている白人は容易に理解することができない。そこでディアンジェロは、企業のダイバーシティ・トレーニングで(黒人のコーディネーターといっしょに)、白人の従業員に対して「レイシストとはあなた自身のことだ」という“事実”を伝える。すると白人たちはこの“攻撃”に驚き狼狽し、怒ったり、言い訳したり、無言になったり、席を立ったりする。こうした反応が“White Fragility(白人の脆弱性)”なのだ。
ディアンジェロは「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する
左翼(レフト)であるディアンジェロは、「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する。それが、「よい白人」と「悪い白人」の二元論だ。
リベラルを自称する白人にとって、「悪い白人」のステレオタイプは「無知、田舎者、偏見、意地悪、年寄り、南部人」で、「よい白人」のステレオタイプは「進歩的、高学歴、寛容、良心的、若者、北部人」だ。そして、トランプ支持の白人至上主義者に「悪い白人」のレッテルを押しつけることで、自らを「よい白人」に分類して安全圏に逃げ込んでいるとされる。
ディアンジェロが述べているわけではないものの、こうした視点は映画『スキン』を見たときの違和感をうまく説明する。
ガイ・ナティーヴ(イスラエル出身のユダヤ人)監督のこの映画では、カルト的な白人至上主義団体で育ち、顔面を含め全身に無数の刺青(タトゥー)をしたレイシストの若者が、シングルマザーとその子どもたちに出会ったことで人生をやり直したいと願い、組織と対決する。
これは実話を元にしていて、映画としてもよくできているが(主役は『リトル・ダンサー』の少年)、ここまで白人至上主義者を悪魔化してしまうと、映画を見たほとんどの白人は、自分にはなんの関係もないことだと思うのではないだろうか。白人至上主義のカルト団体に所属する全身刺青のレイシストなど、アメリカじゅうでせいぜい数百人しかいないだろうから。
ディアンジェロにとっては、リベラルが好む「頑迷固陋な白人至上主義者」は、白人エリートの自己正当化にすぎない。「悪い白人」を自分とまったくちがう異形の存在にしてしまえば、「よい白人である私」は人種差別とはなんの関係もなくなるのだ。
“White Fragility”では、会社のダイバーシティ・トレーニングで白人従業員が、自分はレイシズムとは無縁だと主張するときに使う科白がたくさん紹介されている。
・あなたがピンクだろうが、紫だろうか、水玉模様だろうが私は気にしない。
・あなたがたまたま黒人だったとしても、私があなたについて語ることとはなんの関係もない。
・人種を問題にすることはわたしたちを分断する。
・もしひとびとが私をリスペクトするのなら、人種にかかわらず、私もそのひとたちをリスペクトする。
・私はレイシストではない。なぜならカナダから来たから。
・私は貧しい家庭に育った(白人特権の恩恵など受けていない)。
・私はとても多様性のある職場で働いている。
・家族にピープル・オブ・カラーがいる(あるいは結婚している、子どもがいる)。
・60年代の公民権運動に参加した。
・中国から養子をもらった。
・日本に暮らしたことがあり、マイノリティがどういうものか知っている、などなど。
ダイバーシティ・トレーニングというのは、こうした「言い訳」を一つひとつつぶして、自らの「内なるレイシズム」に直面させることなのだ。
大企業で働く(恵まれた)白人が、白人特権(white privilege)をあっさり免責してしまうことを受け入れがたいマイノリティがいることは間違いないだろう。その意味で、ディアンジェロの主張に説得力を感じるところはあるものの、「白人女性の涙(White Women’s Tears)」という章を読むと複雑な気持ちにならざるを得ない。ここではダイバーシティ・トレーニングで、自らのレイシズムを指摘された白人女性が泣くことについて述べられている。
黒人などのマイノリティに共感していて、レイシズムに断固反対してきたと信じている白人女性が、「あなたのその態度がレイシズムだ」といわれて混乱し、泣き出すというのは想像できる光景だ。そんなとき、まずは同席していた白人女性や白人男性が泣いている女性をなぐさめようとし、ときにはそれに黒人男性が加わって、講師であるディアンジェロを批判するのだという。
これに対してディアンジェロは、「泣く」ということ自体が、自らの内なるレイシムズを直視することから逃げ、「女」を利用して周囲の同情を集めて自分を守ろうとする“White Fragility”の典型だとする。なぜなら「感情とは私たちのバイアスと信念、文化的なフレームワークによってつくられたもの」であり、「感情とは政治的なもの」だからだ。
そして、泣き出した白人女性をなぐさめることは、「交通事故が起きたとき、(犠牲者である)通行人が道に倒れているにもかかわらず、(事故を起こした)車の運転手に駆け寄るようなもの」だという。これを読んだときは、アメリカの白人はこんな仕打ちにも耐えなくてはならないのかと思わず同情した。』
『「現状維持」がレイシズムなら「現状を破壊する」行為はそれがどんなものであれ反レイシズム
ディアンジェロのダイバーシティ・トレーニングは、白人従業員にとってはかなり過酷な体験だ。だったらなぜ、企業はこんなことをさせるのか。
それは大企業の経営者が、いつ「人種差別的」と批判されBLM運動の標的になるかわからないと戦々恐々としているからであり、白人の従業員(とりわけ中間管理職)が黒人の部下や同僚とどのように接すれば「人種差別的」と見なされないかわからなくなっているからだろう。
そこで彼らは、藁にもすがる思いでダイバーシティ・トレーニングを受講する(自分たちはここまで努力しているという免罪符を手に入れたいというものあるのだろう)。ところがそうすると、「白人という存在そのものがレイシズムだ」といわれ、「脆弱性」をさらけ出すことになってしまうのだ。
私はアメリカで暮らしているわけでもないし、そもそも「ピープル・オブ・カラー」として、定義上、レイシストにはなり得ないのだから、複雑骨折したようなアメリカの「人種問題」についての論評は控えるべきかもしれない。
それでもひと言だけいわせてもらえば、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧し「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人」を悪魔に見立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認・正当化しているのだ。
しかしそうなると、どのような説明・弁解・抗議をしても(あるいは謝罪しても)、すべてが「抑圧されたレイシズム」と見なされてしまう。このロジックは自己完結しているので、逃げ場はどこにもない。
ディアンジェロは、アメリカの(リベラルな)白人が求めているのは「status quo(現状維持)」だという。すべては、レイシズムを否認して「白人特権」という現状を守るための暗黙の策略なのだ。こうして、コリン・パウエル(ブッシュ政権の国務長官)やクラレンス・トーマス(最高裁判事)のような保守的な黒人の成功者はもちろん、バラク・オバマですら「現状維持を支え、(白人を)脅かすといういかなる意味でもじゅうぶんにレイシズムに挑戦しなかった」と批判されることになる。
ここから、一部のBLM運動の常軌を逸した(ように見える)ラディカリズムが理解できるのではないだろうか。「現状維持」がレイシズムなら、「現状を破壊する」行為は、それがどんなものであれ反レイシズムなのだ。
ディアンジェロのような白人知識人がこうした極端な思想をもち、それが一定の支持を集める背景には、アメリカのアカデミズの実態があるのかもしれない。ディアンジェロが認めるように、アメリカの大学教員の84%は白人で、それはまさに「構造的レイシズム」そのものだ。この事実を否認し正当化する必要があるからこそ、アメリカの白人知識人は、ごくふつうに暮らし働いている市井の白人に「レイシスト」のレッテルを押しつけようとするのではないだろうか。
こうしたラディカリズムは、いったいどこに向かうのか? ダイバーシティ・トレーニングの目的をディアンジェロは、「白人が引き起こしたレイシズムを直視する痛みに耐えるスタミナをつけること」だという。そして、「レイシズムを(ピープル・オブ・カラーと同様に)生と死の問題だと考え、あなたの宿題をすること」が重要だとする。
もちろん、白人であるディアンジェロ自身もレイシズムから自由になることはなく、学びが終わることもない。アメリカの白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできないのだ。――そう考えれば、これは一種の「宗教運動」にちかい。
自らが「原罪」を背負っていると考える白人がなにをしようと自由だが、民主的な市民社会で、なんら法を侵すことなく暮らしているひとたちにこうした「罪」を負わせるのは酷だし、ひとは自分が「悪」であることを受け入れることなどできない。このラディカルな人種理論は「人種問題」の解決に役立たないばかりか、状況をさらに悪化させるだけではないだろうか。
橘 玲(たちばな あきら)
橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。』
中国で芸能界の規制強化 なぜ?
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211109/k10013334371000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_007
※ 雑用に見舞われたんで、今日は、こんなところで…。
※ 『芸能人やアイドルの「人気ランキング」やファンによる「投票行為」は、民主的な選挙を連想させ、中国共産党の一党支配に対する批判につながりかねないとして、警戒を強めているという指摘があります。』…。
※ 『理由については「若者のゲーム依存を防ぐため」などと説明していますが、ここにも、政府の統制のおよばないところで不特定多数の人が集まることへの警戒があるとみられています。』
※ なるほど…。そこか…。
※ 『取材に応じた中国のゲーム制作会社の担当者は、宗教をモチーフにしたゲームの制作を進めていましたが、ある日突然、当局からとみられる通知を受け取りました。
そこには「宗教を暗示させるようなものにしてはならず、宗教色をゼロにしなければならない」と書いてあったということです。
なぜ、宗教をモチーフにすることが禁止となったのか理由は明示されていませんでしたが、この担当者は急きょ、ゲームのストーリーやキャラクターの変更に追われているということです。』…。
※ これについては、ちょっと語っておこう…。
※ 共産主義、社会主義の重要な「理屈づけ」の一つに、「弁証法的唯物論」というものがある…。
※ 「弁証法」は、ギリシャ哲学の昔からある「論」だが、近年はヘーゲルのそれの方が有名だ…。
※ 前にも、語ったことがある…。(〔弁証法ーその2〕 https://http476386114.com/2020/08/24/%e3%80%94%e5%bc%81%e8%a8%bc%e6%b3%95%e3%83%bc%e3%81%9d%e3%81%ae%ef%bc%92%e3%80%95/ )

※ 例の、「正-反-合」というものだ…。
※ それだけでは、「変化の契機」「変化のメカニズム」を説いたもので、それほど大した話しとも思われない…。
※ しかし、これが「唯物論」と合体して、「弁証法的唯物論」となると、一転して、「剣呑なもの」となるんだよ…。
※ ( 「唯物論」なんかの話し…。 https://http476386114.com/2020/08/03/%e3%80%8c%e5%94%af%e7%89%a9%e8%ab%96%e3%80%8d%e3%81%aa%e3%82%93%e3%81%8b%e3%81%ae%e8%a9%b1%e3%81%97%e3%80%82/ )
※ 『※ 非常に「ザックリ」とした理解・説明を、語っておく…。ごくごく、サワリの話だし、極めて「常識的」な話だ…。細部は、各人で肉付けされたし…。
まず、もの事の「本質」を考察する場合、「物質的なもの」に重きをおくのか、「精神的なもの」に重きをおくのか…、という立場決定がある。
前者が「唯物論」であり、後者が「唯心論」だ…。
弁証法とは、もの事の「本質」に迫ろうとする方法論、あるいは、もの事の「本質」の説明のし方・やり方の一種だ…。「あるテーゼ」を立てたものに対して、それに反する「アンチ・テーゼ」をぶつけて、その両立しがたい両者の相克から、「新たなこと」(より高次の価値あるもの)が生じるものなんだ…、とする考え方だ。ヘーゲルが完成させたとされ、「正」「反」「合(正でも反でも無い、新たなもの)」という形で、説明される事が多い…。
「正」と「反」がぶつかって、「合」が生じることを、「アウフヘーベン(aufheben)」と称し、「止揚」と訳されている…。
唯物論に立ち、弁証法的方法論に立脚し、これを「歴史」の理解に適用したものが、「唯物史観」だ…。
歴史の展開、歴史の変遷は、「物質的なもの」を基盤として生じるもので、「正」「反」「合」のダイナミズムによって、理解できるのだ…、とか主張するわけだな…。
ここいら辺までは、もの事や歴史の「本質」を解明しようとする、思弁的・哲学的な「考察」にとどまっているので、そんなに「現実的な力(ちから)」は、持たない…。
しかし、世の中、そういう思弁的・哲学的な「考察」だけでは、済まないから、だんだん剣呑(けんのん)なものとなって行く…。』
※ 「科学的社会主義」という用語を、聞いたことがあるだろうか…。
※ 「資本主義から、社会主義への”移行””変化”は、科学的なものだ。」という主張だ…。
※ そういう論者によれば、「物理法則(水が高きから低きに流れる)と同等なほど、確かなこと。」なんだそうだ…。それを称して、「科学的」と言っている…。
※ そういう”主張”においては、この世界は、「唯物論」じゃ無いと困るんだよ…。
※ 「物理法則と同等なほど」と、言えなくなるからな…。
※ まあ、そーゆーこと…。








『中国政府が、芸能界やゲーム業界への規制を強化しています。
中でも標的となっているのが、アイドルなどのファンクラブです。
お気に入りのアイドルを支援する活動が、なぜ規制の対象となるのか。一見、政治には関係がないように見える業界まで神経をとがらせる習近平政権のねらいとは?
わかりやすく解説します。
(取材班 上海支局・柳原章人、小林崇、広州支局・高島浩、NW9・岡部陽介、国際部・建畠一勇)
芸能界への規制って、どんなことが行われるの?
ことし8月、中国政府によって禁止されたのが、芸能人やアイドルの「人気ランキング」や、ファンによるいわゆる“推し活”としての「投票行為」、それに未成年がアイドルにネット上でお金を送る、いわゆる「投げ銭」という行為などです。
また、テレビ局などに対しては、共産党や国家から心が離れている芸能人の起用を禁じたり、アイドル育成番組の放送を禁止したりしています。
なぜ、芸能界で規制が強化されているの?
熱心なファンによる活動が過熱していることが背景にあるようです。
ことし9月、韓国の男性アイドルグループBTSのジミンさんの誕生日を祝おうと、中国のファンが募金を募り、ジミンさんの顔写真を塗装した飛行機を飛ばす計画を呼びかけました。
多くのファンの賛同を得て、わずか1時間で日本円にしておよそ4000万円の募金が集まりました。
しかし、ネット上では批判的な意見も相次ぎ、炎上する事態となったため、当局が中国版ツイッターのファンのアカウントを一時停止しました。
人気アイドルにまつわる炎上はほかにも起きています。
中国の人気オーディション番組では、応援したいアイドルへの投票権が得られる乳製品をファンが大量に購入。
中身を飲まずに排水溝に廃棄する動画がSNS上で拡散され、炎上する事態となりました。
今回打ち出された数々の規制は、こうしたファンの過熱ぶりを沈静化させるねらいがあったとみられます。
芸能界を、中国政府が標的にしているのはどうして?
芸能人やアイドルの「人気ランキング」やファンによる「投票行為」は、民主的な選挙を連想させ、中国共産党の一党支配に対する批判につながりかねないとして、警戒を強めているという指摘があります。
また、ファンクラブなどについては、政府の統制が行き届かないところに集団が形成され、そこで政府に批判的な声があがることを警戒しているとみられています。
ファンたちの受け止めは?
今回、アイドルファンの若者を取材したところ、情報交換のためにファンどうしが集うSNSサイトを見せてくれました。
そこには、アイドルを応援するメッセージだけでなく、政府や中国社会を批判する発言も散見されました。
中には
「まるで文化大革命だ。国は一つの声しか許さない」
「中国社会はとっくに終わっている。だれも庶民の声を聞かない」
といったものまでありました。
中国政府の思惑は?
東京大学大学院の阿古智子教授は「共通の関心がある人たちがどこからともなく集まってくると、それがグループになっていく。組織化すれば集団としてさまざまな行動を起こす人たちが出てくる。もしかしたら中国共産党の政策に反対するような声が大きくなるかもしれない。政府がコントロールできない傾向があれば、事前に芽を摘んでおきたいのだろう」と、規制の背景を分析しています。
ゲーム業界の規制はどうして?
芸能界と同じ理由だと思われます。
オンラインゲームについても、多くの若者たちがインターネット上でつながるという点で共通しています。
中国政府はことし8月、未成年を対象に規制を導入すると発表。
企業がサービスを提供できる日を金曜から日曜までと法定休日のみに限定し、時間も夜8時から9時までの1時間としました。
理由については「若者のゲーム依存を防ぐため」などと説明していますが、ここにも、政府の統制のおよばないところで不特定多数の人が集まることへの警戒があるとみられています。
規制強化を受けて、どんな影響が出ているの?
早速、ゲームを競技として競い合う「eスポーツ」の分野に影響が出ています。
中国はオンラインゲームの一大市場で、eスポーツの育成にも国をあげて取り組んできただけに、業界からは困惑の声も出ています。
NHKが取材したプロのゲームプレーヤーを育成する上海の専門学校では、以前は未成年を含むおよそ100人の若者が、寮生活をしながら連日12時間以上の授業を受けていました。
しかし、規制の導入で授業が成立しなくなり、およそ8割の生徒が退学したため、廃校せざるをえない状況だといいます。
ゲーム制作会社にも影響
ゲームの対象年齢や時間だけでなく、コンテンツにも影響が及び始めているようです。
取材に応じた中国のゲーム制作会社の担当者は、宗教をモチーフにしたゲームの制作を進めていましたが、ある日突然、当局からとみられる通知を受け取りました。
そこには「宗教を暗示させるようなものにしてはならず、宗教色をゼロにしなければならない」と書いてあったということです。
なぜ、宗教をモチーフにすることが禁止となったのか理由は明示されていませんでしたが、この担当者は急きょ、ゲームのストーリーやキャラクターの変更に追われているということです。
担当者は「表現の自由が厳しく管理されると、ゲーム本来の楽しさがなくなってしまう。こんなところまで政府が介入するのはおかしい」と困惑していました。
ゲーム産業が盛んな日本への影響は?
阿古教授は「中国当局は海外から入ってくる思想をすごく警戒するので、そうした中で日本に対する見方も厳しくなる可能性がある」として、今後はゲーム産業のみならず、文化交流全体にも影響が出かねないと指摘しています。 』
人生でのスキルアップはもういい
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/5295916.html
※ nappi10さん、「悟りの境地」に入られたようだ…。




『多少は器用な方の人間だろうが、20代になっても目指したいものが見つからなかった。
そんな自分には、当時の日本の教育の在り方も社会も受け入れ難かった。何とか留学のチャンスをつかみ、自力で好きな学校に転校、在籍を繰り返し、その合間に一人旅を楽しみ、生きてく為に懸命に働いたし、必要から語学も学び、恋愛も、結婚も離婚も再婚も経験した。
何とか一人前の人間になろうと、初めて自発的にスキルアップに励んだ時期だった。
それでも目標は見つからず、帰国して、やみくもに働いた。結果的に、無駄だと思っていた、それまでに学んだり、経験していたことの断片が繋がり、自分の適性と、それを利用できる仕事が見えてきて、30代にやっと目標が定まり、以後、会社勤務、経営へと邁進した。
その時期は、次から次へと新たなイノベーションが出現し、コンピューターだ、携帯、SNSだ、GPSだと、それらを使いこなすためのスキルアップに必死だった。
人生でしてみたかった事をほぼやりつくし、60代には余生を迎える準備に入り、今に至っている。
もう、あくせくと、生きて行くために新たなスキルアップで時間をつぶしたくはない。
何かわくわくするものにだけに日々の時間を割き、晴耕雨読の毎日でいたい。
家の周りで、昆虫やカエルを観察したり、毎日来るキツネや、冬になると来てくれるキジへの餌の用意もそれで、最近揃えた3台のカメラで、彼らや季節の変化を記録するのも楽しく、楽しいから酷暑も酷寒も苦にならないし、負けない為に鍛練もしている。
しかし社会は、新世代のコンピューターや、カード決済を押し付け、情報や手続きにスマホが無いと困るような、さらなるスキルアップを求めてくる。
もういい加減放って置いてもらいたい。
今は懸命に、シンプルで質素な生き方が出来るように、それらと、なるべく距離を置く努力をしている。つまり、ゆっくりと逆行してアナログで生きて行きたいのだ。
倉庫に機械はあるが、時間はかかっても汗を流しながら草刈りはカマで行い、除雪はスコップだ。
これまでの人生、十分に忙しく楽しかったから、残りはマイペースで、スマホ等気にせず、空を見ながら過ごして行こうと思う。
動物たちの様に、、。
禅的生き方と言う人もいるが、筆者にその素養は無い。強いて言えば、今は亡き、九州佐賀出身で実業家で武道家でもあった祖父の影響だろう。
(写真:水はけが悪く、木々が立ち枯れしていた藪に排水溝を増設すると木々は蘇った。一本には、毎年ツタが絡まり、きれいな朱赤を見せてくれる。一番上は中庭、雪が積もる頃、キジが三角形のオンコの木の中に泊りに来る 撮影:2021/11/5)』
『アングロ・サクソン人(アングロ・サクソンじん、Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である[1]。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いたため、現在も英米などの英語圏白人をアングロ・サクソン人と呼ぶ[2]。このようにドイツ起源の民族であるが、現在のドイツ圏の国民をアングロ・サクソン人と呼ぶことは原則ない。ただし、ザクセン王国は20世紀初頭までドイツ帝国内に存続しており、現在も州名などに残っているため、ドイツの地域住民としてのザクセン人(サクソン人)という名称は今も用いられる。』
『歴史
409年にローマ帝国がブリタニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきた。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。これが英国における最初のアングロ・サクソン人である。彼らの言葉が英語の基礎となった。
彼らはイングランドの各地に小王国を築いていった。7世紀頃には、イングランドは7つの王国(七王国)にまとまっていったが、9世紀初めには、ウェセックス王エグバートのもとで、サクソン人のウェセックス王国が強大となって、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期はデーン人に支配され、デンマーク王の下にあった。
アングロ・サクソン人はその後また、イングランドを支配した。これは1066年、ギヨーム2世(=ウィリアム1世)によるノルマン・コンクエストまで続いた。』
『アングロ・サクソン諸国
西暦400年代のユトランド半島からブリテン諸島への移住。
Jutes: ジュート人
Angles:アングル人
Saxons: サクソン人


英語を国語・公用語とする白人主流派の先進国であるイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどをアングロ・サクソン諸国と呼ぶ[4][5]。しかし言語がアングロ・サクソン人に由来しているだけで、歴史的なアングロ・サクソン人と現代のアングロ・サクソン諸国には血統的な関係が薄い(フランク人とフランス人の違いと同じ)。アングロ・サクソン人の故地と見なされるイングランドでさえ、ユトランド半島やスカンディナビア半島などのバルト海沿岸地域にルーツを持つデーン人やノルマン人、グレートブリテン島の原住民であるブリトン人(ケルト人)などの多様な民族が入り混じって形成された国家である。当のアングロ・サクソン諸国では一般にあまり用いられておらず、自分たちがアングロ・サクソン人であるという意識も乏しい。なお、イングランドに先立つ故地であるドイツでは、アングル人という呼び方は現在殆ど行われておらず、サクソン人(ザクセン人)という呼び方は残っているものの、少なくともアングロ・サクソンと繋げて呼んだ場合、ドイツ人とは別個の集団と考えるのが通常であり、ほぼ語源発祥の地というにとどまる。』
『用法
主に大陸ヨーロッパや日本で用いられることが多い。アングロ・サクソン諸国は独特の経済や社会を形成しており、古くから研究の対象となってきた(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神等)。また、グローバル資本主義の進展とその反発により、アングロ・サクソン諸国を「特殊」な国々と規定するために、様々な比較考証が行われてきた。以下はその代表的なものである。
◎法体系におけるコモン・ロー
※ これは、前に考察した…。
※ 英米法における「コモンロー」は、ゲルマン法とローマ法の「すき間」を解釈で埋める仕掛けだった…。
※ それがまた、「判例法」重視の法体系へと、つながって行く…。
◎政党制における二大政党制
※ 英国の保守党⇔労働党、米国の共和党⇔民主党…、に典型的に見られるものだな…。
※ 日本の自民党+公明党⇔野党…は、それの一変形と言えなくもない…。
『ジョヴァンニ・サルトーリの指摘では、二大政党制はイギリスや、イギリスから独立したアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどのアングロサクソン諸国で多く見られる。
二大政党制の背景には、主要な二大政党以外からは大量当選が困難な選挙制度である小選挙区制や、国民のイデオロギーや支持層が「保守と革新」など2種類または2方向に大別できること、更に両政党が比較的穏健かつ民主的であり現実的な政権交代を相互に許容できること、などが挙げられる。
二大政党制の利点には、二大政党による政策論争が国民にわかりやすく、二大政党への参加や支持が容易で、現実的な政権交代が容易なため国民に実質的な選択の余地があり、長期政権に発生しがちな腐敗防止や、政権獲得時に国民の支持を背景にした大胆な政策転換を行いやすいこと、などが挙げられる。また、中間層の有権者の支持を得る為に二つの政党の政策が似たものとなる傾向があり、少数派の意見をくみ取る政党がなくなるという問題があるが、ジョヴァンニ・サルトーリの主張ではイデオロギーの差異が小さいことは良い政治であり、この点を利点とする立場もある。
二大政党制の欠点には、二大政党の思想や政策が離れている場合にはイデオロギー的あるいは感情的な対立になりやすく、政権交代の発生時には大幅な政策変更により政治の不安定化を招く場合があること、逆に二大政党の思想や政策が接近している場合には国民に選択の余地が狭く多様な意見や思想を反映しにくいこと、同じ政党・政策・支持勢力などが長期間存続しがちなため政党内の新陳代謝や政策転換が進みにくいこと、特に二大政党間で談合や汚職などが常態化した場合には致命的な政治不信を引き起こしやすいこと、あるいは二大政党制へ誘導するための小選挙区制では大量の死票が発生すること、などが挙げられる。アーレンド・レイプハルトの合意形成型民主主義の考え方に立てば、二大政党制を基盤とする多数決型民主主義においては多党制を基盤とする合意形成型民主主義より、少数意見の代表性が相対的に低いとされる[3]。』
『ジョヴァンニ・サルトーリの指摘するアングロサクソン諸国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国:典型的な二大政党体制。現代では共和党と民主党が二大政党である。合衆国議会および各州の議会の会派は「多数派」と「少数派」の二会派とされることが通例であり、それぞれ共和党、民主党いずれかの議員のみか、あるいはそれに若干の無所属または地域政党所属議員を加えて構成される。全国規模の少数政党も存在するが、二大政党の指名を受けない候補が大統領に当選した例は19世紀以降なく、議会の議員もほとんどが二大政党に属する。
詳細は「アメリカの政党」を参照
イギリスの旗 イギリス:1800年代以降のトーリー党(後の保守党)とホイッグ党(後の自由党)。1920年代以降は保守党と労働党。第一次世界大戦、大恐慌を挟む戦間期、第二次世界大戦の際には大連立が行われた。1980年代以降は第3勢力の自由民主党(自由党の後継政党)や、スコットランドの地域政党であるスコットランド国民党などの得票率が拡大しているが、議席数は二大政党と大差がある。1990~2000年代にはトニー・ブレアが率いる労働党が総選挙での地滑り的勝利で保守党の約2.5倍の議席を獲得した時期があり、2010年代には連立政権や少数与党政権があったものの、政権首班と「女王陛下の野党」をそれぞれ保守党と労働党が担当する構図に変わりはなかった。
カナダの旗 カナダ:1993年まではカナダ進歩保守党とカナダ自由党の二大政党制。1993年の総選挙で進歩保守党が壊滅的な大敗を喫して二大政党制が崩れたが、進歩保守党を引き継ぐカナダ保守党が2004年の総選挙で第2党となり、2006年の総選挙で政権に就いて自由党との二大政党制となった。2011年の総選挙ではそれまで第3党だった新民主党が第2党に浮上し、従来の保守・自由の二大政党制が崩れたが、2015年の総選挙では自由党が議会の第1党の座を奪回する一方、新民主党が第3党に後退したため再び自由・保守の二大政党制に回帰した。ほかにブロック・ケベコワなどが存在する。
Flag of Australia (converted).svg オーストラリア:保守連合と労働党。保守連合は自由党とオーストラリア国民党の連合だが、選挙協力と連立協定が長期化しているため、二大政党制とも呼ばれる。なお、2010年の総選挙で、労働党も保守連合も、過半数を取れなかったが、労働党が、オーストラリア緑の党などの閣外協力を得て、政権続行をした。
ニュージーランドの旗 ニュージーランド:ニュージーランド国民党と労働党。ただし 1993年の選挙制度の小選挙区比例代表併用制への変更後は多党化した。』
◎アーレンド・レイプハルトの研究による多数決型民主主義
※ ここで「多数決型民主主義」とは、一般には「議院内閣制」と言われているものだ…。特に「行政府」が、国会の「過半数(多数決)」の支持に立脚していることに、注目しての用語のようだ…。
『レイプハルトの業績は、
分裂社会における多極共存型民主主義モデル
比較選挙制度論
比較民主主義体制論
に大別できる。
二大政党制、小選挙区制によって特徴づけられる多数決型民主主義(majoritarian democracy)もしくはウェストミンスター型民主主義のモデルに対して、コンセンサス型、多極共存型民主主義モデルを対峙させた、自由民主主義政治体制の比較研究を主張。』
『ウェストミンスター・システム(多数決型民主主義)
議会で過半数の議席を持つ政党の党首が首相として内閣を組織する(多数決型民主主義)。過半数をもつ政党が存在せず、複数の政党により内閣が運営されるコンセンサス・システム(多極共存型民主主義)に対比する。』
◎レギュラシオン学派における市場ベース型資本主義
※ 様々な「資本主義」のタイプのうち、特に「市場の役割・機能」を重視し、なるべく「自由な市場」を肯定する考えのようだ…。
◎福祉レジーム論における自由主義型福祉国家論
※ 「福祉国家」も、様々な形態があるようだが、その中でも、「国民の自立」を重視し、企業の「自由な活動」を広く認める考えのようだ…。
※ 典型的には、「自助・公助・共助」の標語で表現される…。これも、散々聞いた話しだな…。
※「新自由主義」だ!と、叩く向きも多い…。
◎イギリス経験論とそれを元にしたプラグマティズム
※ これは、そもそもの「ものの考え方(哲学)』の根底にあるものだ…。
※ これも、演繹法⇔帰納法…で、検討した…。
後世へも影響を与えたデカルトの演繹法的思考(帰納法との違い)
https://http476386114.com/2021/02/23/%e5%be%8c%e4%b8%96%e3%81%b8%e3%82%82%e5%bd%b1%e9%9f%bf%e3%82%92%e4%b8%8e%e3%81%88%e3%81%9f%e3%83%87%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%ae%e6%bc%94%e7%b9%b9%e6%b3%95%e7%9a%84%e6%80%9d%e8%80%83%ef%bc%88/
※ ということで、アングロサクソンの社会制度は、けっして「グローバル・スタンダード」というわけのものでも無く、「彼らの社会に根ざした」、相当に特殊な制度という側面があるようだ…。
※ しかし、それがまた逆に、「英米流」の特殊性で、結束する「力(ちから)」にもなって行く…。
※ ファイブ・アイズとか、今般のAUKUSとか、原潜技術の提供とかの「世界情勢」にも、そういうものが色濃く影を落としている…。
※ しかし、「アングロサクソン流だ!」とか、「英米由来の制度だ!」とか、「グローバル・スタンダードだ!」とか言われても、そこで「思考停止」しないようにしないとな…。
※ 何事も、「自分の頭で、考えること」が大切だ…。
※ そういう事情も踏まえながら、「日本国の生き残り戦略」を立てていく必要がある…。
※ 引き続き、「忌中」なんだが、どうしてもこれだけは貼っておきたい…。
※ 自ら、禁を破って、貼っておく…。
沈黙の螺旋
https://orisei.tumblr.com/page/4
徒然草 第七十四段
https://tsurezuregusa.com/074dan/




http://pikonotisikidana.hatenablog.com/entry/2019/02/27/165512(※ 投稿当時は、無限定公開だったが、現在は限定公開(有料)になったようだ…。)









『◆ デカルトの大陸合理論
一方でデカルトは、経験よりも【理性】を重んじました。
経験よりも、1つ1つの事実や原理原則を丁寧に積み上げて、合理的に結論を導き出そうとしたんです。
要するに【演繹法的なアプローチ】です。
この考えは後世の哲学にも大きな影響を与え「大陸合理論」何ても呼ばれました。
大陸合理論を要約すると
理性の絶対性を主張し,理想によって得られた明晰判明な観念のみを真理としました。
経験論が重視する感覚的経験は【人間の正しい認識を阻害する要因にすぎない】とみなす点に特徴があり、理性によって論理的に展開される数学を学問の模範にした。
って感じです。
つまり《人間の感覚や経験なんか信じられるかー!!!》っていうスタンスです。
数学的に科学的に論理を構築していくスタンスです。
結局この「大陸合理論」は哲学の大きな流派の1つとなり、スピノザやライプニッツに受け継がれていきます。
そうやって、デカルトは、人間の感覚だけでなく、ありとあらゆるモノを徹底的に疑っていく事で、真理に辿り着こうとします。 』
経験論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E8%AB%96
フランシス・ベーコンとは?【死ぬほどわかりやすく解説】
https://uteimatsu.com/francis-bacon/
『フランシス・ベーコンはイドラを生み出した
フランシスベーコンを紹介する上で必要不可欠なのが、
「イドラ」という哲学用語です。
イドラというのは
「正しい知識をとりいれる上で障害となる思い込み」
をさしています。
フランシスベーコン は
「知識なんか生まれつき全くない、生きていく上で積み上げていくもの」
と考えていました。
これは上でも何度か言いました「経験論」という考え方です。
フランシスベーコン は
「どうすればうまく知識を積み上げれるのか?」を考え、
その上で知識の積み上げの妨げになるものを「4つのイドラ」と呼びました。
その4つがこちらです。
種族のイドラ→人間特有の思い込み
洞窟のイドラ→生きた環境による思い込み
市場のイドラ→噂による思い込み
劇場のイドラ→権威による思い込み
この4つを自分自身で認識することが、
正しい知識を得る上で大切だ、というのがフランシス・ベーコンの哲学です。
この4つのそれぞれをもっと深く知りたい方は
下の記事を読んでみるといいかもしれません。
死ぬほどわかりやすい哲学ブログ2019.12.29
イドラとは?←先入観にとらわれないために
https://uteimatsu.com/idola/
こんにちは、素人哲学者 ミルマノ(@mirumano)ですこの記事では「イドラ」という哲学用語をわかりやすく紹介したいと思います。ちなみに、このイドラを理解することができれば、固定観念や先入観にとらわれてるな〜って時に自分自身でそれに気づけるようになりま…』
『フランシス・ベーコンの名言「知は力なり」とは?
そしてもう一つ外せないのが「知は力なり」という
フランシス・ベーコンの名言です。
これは直訳すると「知識は力だよ!」っていう意味です。そのままです。
ただ実際のところ、この名言にはもっと深い解釈があります。
この名言の本当の意味は
「(観察や実験によって得た)知識こそ力だよ!!」
です。
カッコの部分が本当に重要です。
大抵の人はこの部分を知らずに
「知識が多ければ成功する」的な名言と思ってしまっています。
イドラもそうなのですが、
この名言も経験論という考え方を元にされています。
フランシスベーコン の中では
「知識というのは経験や検証、実験」を通してしか得ることができません。
逆に言えば、経験から得た知識こそが本当の知識なのです。
正しい知識が経験から得られるという経験論と、
正しい知識は理性から得られるという合理論。
この二つの思想は哲学界でも大きく議論されているジャンルになりますので、
興味がある方は調べてみてください。』






※ なんで、ベーコンの経験論が廃れた(あまり、注目されなくなった)のか、ちょっと不思議だった…。
※ この「年表」見ると、だいぶ「古い人」だったんだな…。それで、「後から生じた思想」に追い越された感じだったんだろう…。
※ しかし、「哲学」「思想」というものは、流行り廃りじゃない…。どれだけ、「根源的な問い」に答えているのかという点が、「生命線」だ…。
※ 4つのイドラとか、今現在でも、十分に通用するだろう…。



※ 科学的な「発見」「知見」の背後にも、こういう「根源的な思考・思惟」が横たわっている…。

※ そして、その科学においても、「限界」はある…。
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/24924101.html
※ 「机上空間」さんのサイトからだ…。
※ この論に、反論できる人は、いないだろう…。
※ 「思想」や、「哲学」というものは、常に「二面性」を有するから、取り扱いは要注意だ…。
※ 『ここまでの説明で判るとおり、人というのは、多数派で判断を丸投げして、自分で考えないで済む他者というのを、常に求めている社会的な動物であるという事です。これは、ギリシャ文明の時代でも、現代でも変わりません。インターネット上で、面白半分に、何かしらの不手際をしでかした有名人を、リンチにかけて面白がっている人間(結構、いい大人も混じっているんですよ。高校生や大学生だけじゃないんです)が、必ず発生する事を見ても、テクノロジーの進歩や、歴史の積み重ねが、人間の本質を大きく変えるわけでは無い事が判ります。』というのも、卓説だ…。
※ 他者に判断を丸投げして、自分は「思考停止」する…。
※ 実は、「脳」にとっては、一番楽な「モード」なんだろう…。
※ しかも、「権威筋」「権力筋」が「お墨付き」を与えてくれる場合は、「喩えようもない、安心感に包まれていること」ができる…。
※ これほど、楽ちんなポジションがあろうか…。
※ そういう「脳のモード」に入っている群衆が、一旦、行動を始めたら、押しとどめることは、できやしない…。
※ 「権威に従え!自分勝手に、モノを考えるな!」の権威主義は、そういう「脳のモードに入れ!」という命令だと、思った方がいい…。
※ そして、高度にテクノロジーが発達した現代社会では、「目に見える形での強制力」よりも、むしろ、「知らず知らずのうちに働きかけられて」、じわじわと「洗脳されて行く」ことのほうが恐ろしい…。
https://www.philosophyguides.org/fastphilosophy/descartes/
※「人工知能と閃き」の問題を、ちょっと深掘りしてたら、「デカルトの懐疑論」「フッサールの現象学」なんてものに当たった…。
※「デカルトの懐疑論」、ごく常識的なところは、知っているつもりだったが、その「意義付け」みたいなところは、知らんかった…。
※ そこを解説しているサイトを、見つけたんで、紹介しておく…。
※ ただ、いつも言ってることだが、この手の「形而上学」は、「深入りしないこと」が吉だ…。ご用心、ご用心…。














※ まあ、相当に「ヤバイ」内容を含んでいるんで、「深入りしない」ことが、「吉」だ…。
「思弁的」「哲学的」思考の段階でとどまっている内は、そんなに「現実的な影響力」を持たないので、「面白がって」いられる…。
しかし、これを「現実世界に応用して、現実的な力(ちから)を持たせよう…。」とか考えだすと、ロクなことにはならない…。
「テクノロジー」でも「哲学・思想」でも、それを「政治的に利用」して、「自己の現実の影響力を拡大しよう」と考え、行動するヤカラは、いつの世にも必ずや存在する…。「不可知論」でも繰り出して、適切な距離を置くことが「吉」だ…。
ただ、「もの事の変化・変遷のメカニズム」のとらえ方の「契機」としては、未だに色あせない優れた視点を有する「思想」だとは思うので、紹介しておく…。
くれぐれも、「一つの論」に過ぎないことを、再度強調しておく…。
















弁証法の解釈仮説の構図
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12373776408.html
ヘーゲル 弁証法 ヤルデア研究所 伊東義高
http://yarudea.kt.fc2.com/Hegel-benshouhou.html
復帰摂理歴史の真実
≪ フリーメーソンと理神論・汎神論 <トップ> 共産主義の台頭 ≫
■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
b. ヘーゲル弁証法の正しい理解
https://ywhc.ken-shin.net/futski/3_2_c.html
疎外
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E5%A4%96
『哲学、経済学用語としての[1]疎外(そがい、独: Entfremdung、英: alienation)は、人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。』
『概要
ラテン語のalienato(他人のものにする)に由来する疎外概念は、経済、社会、歴史的には、客体として存在するようになったものを操作する力を主体が失っている状態のことを指す。たとえば、あるものが私とは無関係であるという場合、そのあるものに対して私は無力なものとして疎外されていることになる[2]。この疎外を克服することによって、人間はその本来の自己を取り戻し、その可能性を自己実現できるものとされる[3]。』
『思想史
マルクスは、この疎外Entfremdungという用語をヘーゲルの『精神現象学』(1807年)から継承し、またフォイエルバッハの、神が人間の善性を客体化した発明である限り、それだけ人間は貧しくなる(「キリスト教の本質」)という思想も取り入れて、経済学用語に鋳直した。
マルクスによる概念
有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。
マルクスは「疎外された労働」が再生産されるこのような社会関係を『経済学・哲学草稿』(1844年)で分析し、『経済学批判要綱』(1857年 – 1858年)や『資本論』(1867年、1885年、1894年)に継承した。
スターリン主義による歪曲
スターリン主義者は、ソ連において社会主義社会が実現したと宣言したにもかかわらず、疎外が存在する現実を否定するために、疎外という概念そのものを、マルクスの青年期に特有のものとして事実上否定せざるをえなかった。スターリン主義者の理論では、疎外とは搾取のことであるとして、疎外概念は葬り去られた。
サルトルによる概念
サルトルは、自由な対自として実存する人間は「自由の刑に処せられている(condamné à être libre)」という言葉を残したが、死については、これが実存の永遠の他有化であるという意味で、これを回復不能の疎外であるとした。
脚注 出典
^ ドイツ語であるEntfremdungの訳語としての疎外概念は、他人(fremd)のものにするという意味を持つ。日本語「疎外」には、「うとんじること」(広辞苑より)あるいは「仲間外れにすること」という意味があり、そちらが本来の意味である。経済学や哲学の学者や学生でもない限り、日常的には主にそちらの意味で用いている。ただし、本項は辞書ではなく百科辞典であることを考慮し、哲学用語や経済学用語の「疎外」について解説する。
^ フランスの哲学者ルソーは、「譲渡するaliener」ことを、「私と無縁なものetrangerとなる」ことだとしている。
^ 自己実現のプロセスとして労働を捉えたヘーゲルを批判的に受け継いだマルクスは、資本主義社会における疎外された労働を問題とした。』