※ いずれ、本も読めなくなるし、ディスプレイも見れなくなる…。
※ オレも、せいぜい励まんとな…。
※ ただ、「思考力」だけは、「鍛えれば、伸び続ける」らしい…。
※ 「脳の神経細胞」自体は、死滅していくが、「各神経細胞どうしの連結」は、死ぬまで「連結させること」ができるそうだ…。
※ それを信じて、頑張ろう…。

※ いずれ、本も読めなくなるし、ディスプレイも見れなくなる…。
※ オレも、せいぜい励まんとな…。
※ ただ、「思考力」だけは、「鍛えれば、伸び続ける」らしい…。
※ 「脳の神経細胞」自体は、死滅していくが、「各神経細胞どうしの連結」は、死ぬまで「連結させること」ができるそうだ…。
※ それを信じて、頑張ろう…。

アメリカ白人は「生まれる前から」レイシストであり、
死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできない
【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/248160
※ いやいや、「衝撃的な」記事だ…。
※ インパクトという点では、今年読んだ記事の中での「ベスト」だろう…。
※ 丸々、紹介させていただきます…。
※ それにつけても、アメリカ人やって行くのは、大変だ…。
※ 白人だというだけで、「原罪」押し付けられたり、「内なる差別意識を直視し、真摯に向き合え!」と迫られるわけだ…。
※ うちは、仏教、それも「曹洞禅(道元禅師のな)」なんで、「なむしゃかむにぶーつ(南無釈迦牟尼仏)…。」とか唱えて、(頭の中で、座禅して)「悟りに向かって、日々修行」していればそれでよい…。
※ どーせ、坊主でもない一般人が、「悟りを開く」なんて、できっこ無い…。
※ それでも、誰からも「地獄に落ちるぞ!」とか「人として、不適格だ!」なんて糾弾されることも無い…。
※ 火葬なんで、「死後の復活」とか、「死後の裁き」とか、知ったこっちゃ無いしな…。
『アメリカでBLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)の反人種差別デモが過激化の度合いを増している。その背景には、奴隷制廃止から150年、公民権運動から半世紀以上たっても、依然として黒人の地位が向上していない現実がある。
その結果、「人種問題」をめぐってアメリカの白人は2つのグループ(部族)に分断されることになった。ひとつは保守派で、「法律上は平等な権利を保証され、そのうえアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優先枠までつくったのだから、現在の苦境は自己責任だ」とする。これについては代表的な保守派知識人の一人ヘザー・マクドナルドの“The War on Cops(警官との戦争)”を紹介した。
[参考記事]
●日本ではほとんど報道されない、BLM運動の嚆矢となった「ファーガソン事件」の真相と背景にある黒人の犯罪率の高さ
それに対して、アメリカ社会の「構造的な人種差別」を批判する左翼(レフト)はどのように考えているのだろうか。それを知りたくて、BLM運動以降、アメリカでベストセラーとなったロビン・ディアンジェロの“White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism(白人の脆弱性:白人にとって人種主義について話すのはなぜこれほど難しいのか)”を読んでみた。
著者のディアンジェロは1956年生まれの「白人女性」で、「ホワイトネス(白人性)」の研究で博士号を取得し、大学で多文化教育を講じるかたわら、企業などにダイバーシティ・トレーニングを提供する活動を続けている。“White Fragility(白人の脆弱性)”はディアンジェロの造語で、これがなにを意味するかはおいおい説明しよう。
アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシスト
“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。ここではできるだけ客観的に説明し、私の感想は最後に述べることにしよう。
ディアンジェロによれば、アメリカ社会は人種・性別・性的志向などによって階層化されており、その頂点に君臨するのは「白人、男性、異性愛者・健常者・中上流階級」という属性をもつグループだ。だが「白人女性」や「白人のLGBTQI(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス)」だからといって「人種主義Racism」から逃れることはできない。
なぜならアメリカ社会の根底には、「white」と「people of color」の構造的な差別があるから。whiteは「白人」、people of colorは「有色人種」のことだが、raceを避けている用語に「人種」の訳語をあてるのは適切ではないだろう。直訳では「(肌の)色のあるひとたち」だが、これは日本語として違和感があるので、ここでは「ピープル・オブ・カラー」とカタカナで表記する。
この訳語にこだわるのは、ディアンジェロの世界観が「白人」と「ピープル・オブ・カラー」の二元論だからだ。「奴隷制」と「植民地主義」という負の歴史の上につくられたアメリカ社会では、この2つの集団間の「差別のシステム」があらゆるところに埋め込まれているのだ。
ピープル・オブ・カラーには黒人(アフリカ系)、ラティンクス/Latinx(ラテンアメリカ系)、アジア系、ネイティブアメリカンなどがいるし、人種間の結婚で生まれたひとたちもいるだろう。――中南米(ラテンアメリカ)に文化的・民族的アイデンティティをもつアメリカ人は「ヒスパニック」と呼ばれていたが、彼らは「スペイン語話者」でも「スペイン出身者」でもないため、「Latino(ラテン系男性)」や「Latina(ラテン系女性)」が好まれるようになり、近年はジェンダーフリーの呼称として「Latinx(ラテン系)」という新語が「PC=政治的に正しい」とされるようになったようだ。
白人にも同様に、アメリカ社会の主流派であるWASP(イギリス系プロテスタント)だけでなく、かつては黒人同様に扱われていたアイルランド系やイタリア系、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系や、新興移民として奴隷制も公民権運動も知らないロシア・東欧系などさまざまなグループがあるし、白人とピープル・オブ・カラーの結婚も珍しくなくなった。
だがディアンジェロは、このように人種の多様性を強調することを否定する。「人種多様性」はピープル・オブ・カラーを分断し、白人に免罪符を与え、「白人VSピープル・オブ・カラー」という構図を曖昧にするだけだからだ。
この二元論からディアンジェロは、「アメリカでは人種主義(レイシズム)は白人だけのものである」というかなり思い切った主張をする。ピープル・オブ・カラーのなかにももちろん、他の人種に対して偏見をもつ人間はいくらでもいるだろう。だがそれは、定義上、(アメリカ社会では)レイシズムとはなり得ない。その一方で白人は、祖先の国籍や家系の歴史に関係なく、存在そのものが「レイシズム」だ。
これは、「白人は生まれながらにしてレイシスト」というだけではない。アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシストなのだ。なぜなら白人というだけで、妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどでピープル・オブ・カラー(とりわけ黒人)とまったく異なる扱いを受けるのだから……。
ディアンジェロは次のように述べる。
「私はアメリカで育った白人アメリカ人だ。私は白人の考える枠組みと白人の世界観をもち、白人の経験する世界を生きてきた。私の経験は普遍的な人類の経験ではない。それは人種が重要な意味をもつ社会、人種によって深く分断された不公平な社会のなかで、とりわけ白人が経験するものだ」
アメリカで、あるいは西欧による植民地の歴史をもつすべての文化で、白人がレイシズムと無関係に生きることは原理的に不可能なのだ。』
『ディアンジェロは生物学的な人種概念を否定する
「すべての白人はレイシストである」という前提に立つ以上、当然のことだが、ディアンジェロはトランプ支持の「白人至上主義者」だけを批判したりはしない。こうした「可視化された人種主義」はこれまでさんざん俎上にあげられてきており、それにもかかわらず人種主義はなくならないばかりか、黒人の苦境はますます強まっている。
ここで白人のリベラルは、「それはレイシズムへの批判が足りないからだ」としてBLM運動への支持を表明するかもしれない。だがディアンジェロは、こうした態度自体が「レイシズム」だとする。“White Fragility”は、「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」への糾弾の書だ。
従来のリベラリズムは、個人を「黒人」や「女性」などのマイノリティにグループ分けし、ステレオタイプを押しつけることを「差別」だとしてきた。それを乗り越える方策が「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」で、差別をなくすためのもっとも重要な心構えだとされている。――colorblindは色盲のことで、そこから「肌の色のちがいを見えなくする」の意味に使われるようになった。
だがディアンジェロは、アメリカ社会でポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の中核にあるカラーブラインドを否定する。
アメリカ社会はずっと、カラーブラインドによって人種差別を克服しようとしてきたが、ディアンジェロからすればこれは「人種のちがいがないように振る舞えばレイシズムはなくなる」という虚偽以外のなにものでもない。「人種」を見えなくするカラーブラインドによって、誰ひとり自分をレイシストだといわなくなったとしても、レイシズムは厳然と存在するのだ。
日本でも「女だから」とか「国籍がちがうから」などの理由で個人を評価することは差別と見なされるようになってきた。「個人をグループとしてではなく、一人ひとりの個性や能力で評価する」というIndividualism(個人主義)はリベラルの大原則で、ほとんどのひとが当然だと思うだろうが、ディアンジェロはこれも否定する。「彼/彼女が黒人であることは採用・昇進になんの関係もない。なぜなら人種ではなく“個人”を評価しているから」というのは、リベラルな白人が自らのレイシズムを隠蔽・正当化するときの典型的な手段にすぎない。――さらには、「客観的な評価によってバイアスから自由になれる」という「客観主義」も否定される。バイアス(偏見)は人間の本性で、どのようなことをしてもそこからフリー(自由)になることはできないのだ。
この「カラーブラインド」と「個人主義」の全否定は、「リベラル」にとっては驚天動地の話だろう。だがこれは、考えてみれば当然でもある。アファーマティブアクションは「人種」というグループで優遇するかどうか決めているのだから(ディアンジェロは「資格のある特定のマイノリティに白人と同等の機会を与えること」と定義する)、カラーブラインドと個人主義を徹底すればその根拠はなくなってしまう。「差別されたマイノリティ」を制度によって救済しようとするなら、「人種」という概念を認めるほかない。その意味では、ディアンジェロの一見過激な主張の方が筋が通っているともいえる。
ディアンジェロはもちろん、生物学的な人種概念を否定する。近年の遺伝人類学や行動遺伝学では「ヒト集団」のちがいが大きな論争になっており、イギリスのリベラルな科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーは『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)でこのテーマと格闘しているが、ディアンジェロは論文1本を根拠に「肌の下に真の生物学的な人種はない」と一蹴している。
[参考記事]
●アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている
生物学的な「人種」は虚構で、「人種」概念は社会的につくられたというのが「社会構築主義」だが、その立場からすると、リベラルのカラーブラインドや個人主義は、社会的な構築物である「人種」を否定し、アメリカ社会の根底にある「構造的レイシズム」を容認することなのだ。
ここまでくれば、ディアンジェロが「リベラル」ではなく「左翼(レフト)」である理由がわかるだろう。その批判の刃は、頑迷なトランプ支持の「白人至上主義者」よりも、彼らを口先だけで批判する「エリートの白人リベラル」に向けられているのだ。
だがこの論理を、自分のことを「レイシズムとは無縁なリベラル」だと思っている白人は容易に理解することができない。そこでディアンジェロは、企業のダイバーシティ・トレーニングで(黒人のコーディネーターといっしょに)、白人の従業員に対して「レイシストとはあなた自身のことだ」という“事実”を伝える。すると白人たちはこの“攻撃”に驚き狼狽し、怒ったり、言い訳したり、無言になったり、席を立ったりする。こうした反応が“White Fragility(白人の脆弱性)”なのだ。
ディアンジェロは「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する
左翼(レフト)であるディアンジェロは、「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する。それが、「よい白人」と「悪い白人」の二元論だ。
リベラルを自称する白人にとって、「悪い白人」のステレオタイプは「無知、田舎者、偏見、意地悪、年寄り、南部人」で、「よい白人」のステレオタイプは「進歩的、高学歴、寛容、良心的、若者、北部人」だ。そして、トランプ支持の白人至上主義者に「悪い白人」のレッテルを押しつけることで、自らを「よい白人」に分類して安全圏に逃げ込んでいるとされる。
ディアンジェロが述べているわけではないものの、こうした視点は映画『スキン』を見たときの違和感をうまく説明する。
ガイ・ナティーヴ(イスラエル出身のユダヤ人)監督のこの映画では、カルト的な白人至上主義団体で育ち、顔面を含め全身に無数の刺青(タトゥー)をしたレイシストの若者が、シングルマザーとその子どもたちに出会ったことで人生をやり直したいと願い、組織と対決する。
これは実話を元にしていて、映画としてもよくできているが(主役は『リトル・ダンサー』の少年)、ここまで白人至上主義者を悪魔化してしまうと、映画を見たほとんどの白人は、自分にはなんの関係もないことだと思うのではないだろうか。白人至上主義のカルト団体に所属する全身刺青のレイシストなど、アメリカじゅうでせいぜい数百人しかいないだろうから。
ディアンジェロにとっては、リベラルが好む「頑迷固陋な白人至上主義者」は、白人エリートの自己正当化にすぎない。「悪い白人」を自分とまったくちがう異形の存在にしてしまえば、「よい白人である私」は人種差別とはなんの関係もなくなるのだ。
“White Fragility”では、会社のダイバーシティ・トレーニングで白人従業員が、自分はレイシズムとは無縁だと主張するときに使う科白がたくさん紹介されている。
・あなたがピンクだろうが、紫だろうか、水玉模様だろうが私は気にしない。
・あなたがたまたま黒人だったとしても、私があなたについて語ることとはなんの関係もない。
・人種を問題にすることはわたしたちを分断する。
・もしひとびとが私をリスペクトするのなら、人種にかかわらず、私もそのひとたちをリスペクトする。
・私はレイシストではない。なぜならカナダから来たから。
・私は貧しい家庭に育った(白人特権の恩恵など受けていない)。
・私はとても多様性のある職場で働いている。
・家族にピープル・オブ・カラーがいる(あるいは結婚している、子どもがいる)。
・60年代の公民権運動に参加した。
・中国から養子をもらった。
・日本に暮らしたことがあり、マイノリティがどういうものか知っている、などなど。
ダイバーシティ・トレーニングというのは、こうした「言い訳」を一つひとつつぶして、自らの「内なるレイシズム」に直面させることなのだ。
大企業で働く(恵まれた)白人が、白人特権(white privilege)をあっさり免責してしまうことを受け入れがたいマイノリティがいることは間違いないだろう。その意味で、ディアンジェロの主張に説得力を感じるところはあるものの、「白人女性の涙(White Women’s Tears)」という章を読むと複雑な気持ちにならざるを得ない。ここではダイバーシティ・トレーニングで、自らのレイシズムを指摘された白人女性が泣くことについて述べられている。
黒人などのマイノリティに共感していて、レイシズムに断固反対してきたと信じている白人女性が、「あなたのその態度がレイシズムだ」といわれて混乱し、泣き出すというのは想像できる光景だ。そんなとき、まずは同席していた白人女性や白人男性が泣いている女性をなぐさめようとし、ときにはそれに黒人男性が加わって、講師であるディアンジェロを批判するのだという。
これに対してディアンジェロは、「泣く」ということ自体が、自らの内なるレイシムズを直視することから逃げ、「女」を利用して周囲の同情を集めて自分を守ろうとする“White Fragility”の典型だとする。なぜなら「感情とは私たちのバイアスと信念、文化的なフレームワークによってつくられたもの」であり、「感情とは政治的なもの」だからだ。
そして、泣き出した白人女性をなぐさめることは、「交通事故が起きたとき、(犠牲者である)通行人が道に倒れているにもかかわらず、(事故を起こした)車の運転手に駆け寄るようなもの」だという。これを読んだときは、アメリカの白人はこんな仕打ちにも耐えなくてはならないのかと思わず同情した。』
『「現状維持」がレイシズムなら「現状を破壊する」行為はそれがどんなものであれ反レイシズム
ディアンジェロのダイバーシティ・トレーニングは、白人従業員にとってはかなり過酷な体験だ。だったらなぜ、企業はこんなことをさせるのか。
それは大企業の経営者が、いつ「人種差別的」と批判されBLM運動の標的になるかわからないと戦々恐々としているからであり、白人の従業員(とりわけ中間管理職)が黒人の部下や同僚とどのように接すれば「人種差別的」と見なされないかわからなくなっているからだろう。
そこで彼らは、藁にもすがる思いでダイバーシティ・トレーニングを受講する(自分たちはここまで努力しているという免罪符を手に入れたいというものあるのだろう)。ところがそうすると、「白人という存在そのものがレイシズムだ」といわれ、「脆弱性」をさらけ出すことになってしまうのだ。
私はアメリカで暮らしているわけでもないし、そもそも「ピープル・オブ・カラー」として、定義上、レイシストにはなり得ないのだから、複雑骨折したようなアメリカの「人種問題」についての論評は控えるべきかもしれない。
それでもひと言だけいわせてもらえば、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧し「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人」を悪魔に見立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認・正当化しているのだ。
しかしそうなると、どのような説明・弁解・抗議をしても(あるいは謝罪しても)、すべてが「抑圧されたレイシズム」と見なされてしまう。このロジックは自己完結しているので、逃げ場はどこにもない。
ディアンジェロは、アメリカの(リベラルな)白人が求めているのは「status quo(現状維持)」だという。すべては、レイシズムを否認して「白人特権」という現状を守るための暗黙の策略なのだ。こうして、コリン・パウエル(ブッシュ政権の国務長官)やクラレンス・トーマス(最高裁判事)のような保守的な黒人の成功者はもちろん、バラク・オバマですら「現状維持を支え、(白人を)脅かすといういかなる意味でもじゅうぶんにレイシズムに挑戦しなかった」と批判されることになる。
ここから、一部のBLM運動の常軌を逸した(ように見える)ラディカリズムが理解できるのではないだろうか。「現状維持」がレイシズムなら、「現状を破壊する」行為は、それがどんなものであれ反レイシズムなのだ。
ディアンジェロのような白人知識人がこうした極端な思想をもち、それが一定の支持を集める背景には、アメリカのアカデミズの実態があるのかもしれない。ディアンジェロが認めるように、アメリカの大学教員の84%は白人で、それはまさに「構造的レイシズム」そのものだ。この事実を否認し正当化する必要があるからこそ、アメリカの白人知識人は、ごくふつうに暮らし働いている市井の白人に「レイシスト」のレッテルを押しつけようとするのではないだろうか。
こうしたラディカリズムは、いったいどこに向かうのか? ダイバーシティ・トレーニングの目的をディアンジェロは、「白人が引き起こしたレイシズムを直視する痛みに耐えるスタミナをつけること」だという。そして、「レイシズムを(ピープル・オブ・カラーと同様に)生と死の問題だと考え、あなたの宿題をすること」が重要だとする。
もちろん、白人であるディアンジェロ自身もレイシズムから自由になることはなく、学びが終わることもない。アメリカの白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできないのだ。――そう考えれば、これは一種の「宗教運動」にちかい。
自らが「原罪」を背負っていると考える白人がなにをしようと自由だが、民主的な市民社会で、なんら法を侵すことなく暮らしているひとたちにこうした「罪」を負わせるのは酷だし、ひとは自分が「悪」であることを受け入れることなどできない。このラディカルな人種理論は「人種問題」の解決に役立たないばかりか、状況をさらに悪化させるだけではないだろうか。
橘 玲(たちばな あきら)
橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。』
子どもがいてもいなくても、世界について考えるのは難しくなってると思う。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/
※ そーですか…。
※「世界のでき事」についての情報を、入手するのは、ちょっと前に比べると、はるかに簡単に、素早く、大量に手に入るようになったと思いますが…。
※ むしろ、問題は、そうやって「入手した情報」を、キチンと「位置付け、分析・解析、理解する」体制が、自分の中に構築されているのかだと思いますが…。
※ そういう情報の「位置付け・整理」のための「ツール(思考ツール)の構築」こそが、最重要だと考えますが…。



『リンク先の文章は、子どもを持たない大人が増えることで自分の代までしか考えない人も増え、世界の持続可能性が危機にさらされるのではないか、といった趣旨だ。「私の死んだ後のことなんかどうでもいい」と皆が考えるようになり、後々の世界に思いを馳せなくなったら、世界の持続可能性は怪しくなるだろう。欧米を中心に若い人たちが世界の持続可能性について大きな声をあげ、その槍玉に挙げられているのがそのような大人たちであることを思い出したりした。
セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)
作者:前島 賢
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でもって、リンク先の筆者は「セカイ」というサブカルチャーの語彙を使って、そうした大人たちの世界観が自分を中心とした狭い範囲にとどまっていること、ために未来を志向しない自己中心的な死生観を持っていることを指摘している。親になる人が減るぶん、死後の未来について考える人も減るというのは、まあ、そうかもしれない。少なくとも人の親になり、まっとうに親を引き受けている人なら、子どもの代の未来まで考える動機が発生するからだ。
他方、それだけでもあるまいと思ったりもする。
なぜなら、人の親になるかならないかが世界の捉え方を全部決めてしまうわけではないからだ。たとえば輪廻をベースとした宗教を信じている人や、一族の先祖供養を行っている人、連綿と続く地域の葬祭行事に加わり続けている人などは、人の親になるかならないかに関わらず、自分が死んでも世界が続く世界観・死生観を生きている可能性は高い。自分の子どもという具体性の塊のような未来に比べると、これらは抽象的で、共同幻想に類するものではあるのだけれど、太古の葬祭の痕跡などが示しているように、案外そのようにできあがった世界観で生きていける・生きてしまうのが人間であるように思う。
なので、冒頭リンク先の主題であろう「自分の代のことしか考えない大人の増加」とは、(養子縁組も含めた)子育てに参加するしないの問題に加えて、過去から未来へとつらなるような世界を生きていない人が増えていること、死生観や世界観がそのように変わってしまっていることが大きいと私なら思う。で、冒頭リンク先の筆者が「(セカイ系に由来しているらしき)セカイ」という語彙をわざわざ選んでいるのも、そうした死生観や世界観も問題の一端であることを意識してのものだろう。
なら、そうした今しかない死生観や世界観が台頭し、過去から未来へと連なるような死生観や世界観が尻すぼみになっているのは何故なのか。
ここまでの話から、宗教の衰退や、イエ制度などと深くかかわりを持ってきた盆暮れ正月といった行事の衰退や形骸化を挙げることはたやすいし、実際、既存宗教はすごい勢いで衰退してもいる。それらが死生観や世界観に与える影響は無視できるものではないので、宗教の衰退や形骸化を、生涯未婚率の上昇と並ぶ「自分の代のことしか考えない大人の増加」の理由として挙げるのは簡単ではある。
でも私には、その既存宗教の衰退や形骸化も原因ではなく結果であるよう思えてならない。既存宗教が衰退したり形骸化したりしたのは、むしろ、そのような宗教と相性の良い死生観や世界観を持てない環境ができあがってしまったからのようにみえてしまう。
既存宗教と相性の良い死生観や世界観が持てない環境とは、どういったものなのか。
ちょっと切り口が異なるかもしれないが、アーカイブで一番これに近いことを書いたのは以下のブログ記事のものだ。
blog.tinect.jp
「老害製造装置」というタイトルがついてしまっているが、要旨としては、いまどきの生活環境では他人とコミュニケーションする必要がないし、それは団塊世代あたりから日本人が望んできたことだ、といったことが書いてある。
戦後からこのかた、日本人の生活空間はイエ的で集団的なものから、個人的でプライバシーのあるものへと変わってきた。同じく、日本人の生活時間もまた、家族や同郷集団と長い時間を過ごすものから、一人で過ごす時間の長いものへ、個人それぞれのスケジュールに従うものへと変わってきた。これらの変化が日本人の意識を、あるいは社会病理性の内実をも変えていったことは想像にかたくない。
日本人の意識も生活実態も、血縁集団や地縁集団といった単位からは離れていき、核家族や個人といった単位に基づいたものに変わっていった。もちろんこれは人々の意識だけが変わっていったのではなく、家屋や街並みといったアーキテクチャも平行して変わっていったこと、働き方や余暇の過ごし方が変わっていったこと、ウォークマンやスマホの普及といったエンタメが変わっていったなどととも、全部つながりあった変化とみるべきなのだろう。
なんにせよそうやって個人化が総合的に進んだ結果、いわゆるゲマインシャフト的なものが暮らしの時空間から排斥され、旧来の宗教観がそのままアプライできる状況が珍しくなり、「自分の代のことしか考えない大人の増加」に親和的な死生観や世界観がアプライできる状況が一般的になった。
想像してみて欲しい。アパートやマンションの自室で365日を過ごし、親世代や子世代とのコミュニケーションにも煩わされず、自分のやりたい仕事や趣味や人間関係にすべてを費やし、スケジュールも全部自分で決められる──そういう個人生活のなかで、過去から未来へと連なるような死生観や世界観を持つのは結構アクロバティックなことではないだろうか。
そういう個人でも、子育てをしているうちはそうした死生観や世界観を持っていられるかもしれない。しかし子育てをしなければそうした死生観や世界観を持つことは難しいし、たかだか20年かそこらの子育て期間を終え、親子が別々に暮らすような核家族的環境(または単身世帯的環境)に戻ってしまえば、やっぱりそのような死生観や世界観を維持するのは難しくなってしまう。
冒頭リンク先でid:Ta-nishiさんは、
このまま非婚率が天井知らずに上昇を続け、非婚者がマジョリティとなり、「私が死んだ後のことなんかどうでもいい」という「無敵の人」が多数派を占めるようになった未来が訪れたとして、そのときこの世界のサステナビリティはどうなってしまうのだろうか?
と締めくくっておられるが、思うに、少子化がここまで進行してしまう前の段階で(世界の、というより現在の日本国の、と訂正はしておくけど)サステナビリティは維持できなくなっていたように思える。つまり死生観や世界観の変化も、少子化も、全部ひっくるめての話として、ある程度以上にきわまった社会契約的-個人主義的社会はサステナビリティにもともと問題を抱えていて、たとえばアメリカが移民を集めたり、東京が田舎者を集めたりするように、外部からの人口流入をあてにできなければ成立しないもののように思えてならない。
最近、この、サステナビリティという言葉がほうぼうで使われているけれども、国や都市によってサステナビリティのための課題は結構違っていて、たとえばニューヨークのような街はどれほど社会契約的-個人主義的社会を突き詰めようとも人口流入があれば街そのもののサステナビリティに問題はない。ニューヨークは、地球温暖化さえ回避できれば持続可能な街にみえる。
一方、東京や大阪のような東アジアの街はニューヨークほどには人口流入をあてにできないし、移民制度を正当化するポリティカルコレクトネスも含めた人文科学上の建付けも甘いので、地球温暖化を回避しただけでは持続可能ではない。まして、日本の町村部ともなるとサステナビリティなど午睡の夢、地域社会が丸ごと山林に沈もうとしている。
最後に話が脱線した。が、こんな具合に私は、今の日本の生活環境で暮らしている限り、子どもがいてもいなくても世界について考えるのは結構難しいとみているし、自分自身を顧みても、どこまで考えているといえるのか、疑わずにいられなくなる。
この、高度に個人化され、他人と深く付き合うことなく暮らせてしまえる社会のなかで、それでも過去や未来に連なる想像力を持てる人というのは、逆にどうやってそういう想像力を涵養しているのだろうか? あるいは、どういう想像力を持ったことをもって過去や未来に連なる想像力が持てていると定義して構わないのだろうか?
そのあたりが今の私にはなんだかよくわからない。たとえば地球温暖化についてニュースで見て、再生可能エネルギーを重視する企業の商品を買うよう心がける人がいるとして、それでもって過去や未来に連なる想像力を持てている人だと言って構わないものなのだろうか?
地球環境というマクロな視点を除外するなら、お盆や彼岸のたびに先祖の御霊をお迎えしているような、そういう生活環境で暮らしているのと比較すれば、私たちが過去や未来を肌で感じる機会と動機、いや、導線は少なくなっていると私は思わずにいられない。うまくわかってもらえるかわからないけれども、本当は、私は死生観や世界観を規定する第一要因はアーキテクチャとしての社会環境だと思っていて、宗教は、その後ろから追いかけてくるもの(またはアーキテクチャに沿って盛衰するもの)だとか思っている。死生観や世界観が変わるとしたら、それは第一にアーキテクチャが変わる時じゃあないだろうか。
長文になってしまったので今日はこのへんで。SNSが世界じゅうを繋ぐようになったからって、世界について考えるのが簡単になっているようには思えない。』
人生でのスキルアップはもういい
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/5295916.html
※ nappi10さん、「悟りの境地」に入られたようだ…。




『多少は器用な方の人間だろうが、20代になっても目指したいものが見つからなかった。
そんな自分には、当時の日本の教育の在り方も社会も受け入れ難かった。何とか留学のチャンスをつかみ、自力で好きな学校に転校、在籍を繰り返し、その合間に一人旅を楽しみ、生きてく為に懸命に働いたし、必要から語学も学び、恋愛も、結婚も離婚も再婚も経験した。
何とか一人前の人間になろうと、初めて自発的にスキルアップに励んだ時期だった。
それでも目標は見つからず、帰国して、やみくもに働いた。結果的に、無駄だと思っていた、それまでに学んだり、経験していたことの断片が繋がり、自分の適性と、それを利用できる仕事が見えてきて、30代にやっと目標が定まり、以後、会社勤務、経営へと邁進した。
その時期は、次から次へと新たなイノベーションが出現し、コンピューターだ、携帯、SNSだ、GPSだと、それらを使いこなすためのスキルアップに必死だった。
人生でしてみたかった事をほぼやりつくし、60代には余生を迎える準備に入り、今に至っている。
もう、あくせくと、生きて行くために新たなスキルアップで時間をつぶしたくはない。
何かわくわくするものにだけに日々の時間を割き、晴耕雨読の毎日でいたい。
家の周りで、昆虫やカエルを観察したり、毎日来るキツネや、冬になると来てくれるキジへの餌の用意もそれで、最近揃えた3台のカメラで、彼らや季節の変化を記録するのも楽しく、楽しいから酷暑も酷寒も苦にならないし、負けない為に鍛練もしている。
しかし社会は、新世代のコンピューターや、カード決済を押し付け、情報や手続きにスマホが無いと困るような、さらなるスキルアップを求めてくる。
もういい加減放って置いてもらいたい。
今は懸命に、シンプルで質素な生き方が出来るように、それらと、なるべく距離を置く努力をしている。つまり、ゆっくりと逆行してアナログで生きて行きたいのだ。
倉庫に機械はあるが、時間はかかっても汗を流しながら草刈りはカマで行い、除雪はスコップだ。
これまでの人生、十分に忙しく楽しかったから、残りはマイペースで、スマホ等気にせず、空を見ながら過ごして行こうと思う。
動物たちの様に、、。
禅的生き方と言う人もいるが、筆者にその素養は無い。強いて言えば、今は亡き、九州佐賀出身で実業家で武道家でもあった祖父の影響だろう。
(写真:水はけが悪く、木々が立ち枯れしていた藪に排水溝を増設すると木々は蘇った。一本には、毎年ツタが絡まり、きれいな朱赤を見せてくれる。一番上は中庭、雪が積もる頃、キジが三角形のオンコの木の中に泊りに来る 撮影:2021/11/5)』
『無理ゲー社会』橘玲に聞く 「自分らしく生きる」が生んだ絶望
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00290/091500019/?n_cid=nbpnb_mled_mre
※ 残念ながら、読んでも「課題解決」「問題解決」には、あまり役立たない…。
※ 「問題提起」「課題提起」本だな…。
※ それと、「覆面作家」ということだから、「一人で書いている」とは限らないよな…。「橘玲」という「チーム」かもしれない…。
※ 特に、こういう「社会派もの」「社会問題提起もの」は、チームによる「役割分担」になじみやすい…。
※ 全体の構成考える「企画・立案班」、足で稼ぐ「取材班」、それを統括して一本にまとめる「文章作成班」…。ざっと考えても、この程度は思いつく…。
※ 「田中角栄研究 その金脈と人脈」で名高い「立花隆」さんも、「チーム」を編成していた…、という情報を最近見た…。
※ 大体、世の中そういうもの…、と思っておいた方がいい…。
※ 参考になったのは、『『幸福の「資本」論』(ダイヤモンド社)に書いたのですが、人生の土台には「金融資本(お金)」「人的資本(働いて労働市場からお金を手に入れるための資本)」「社会資本(人間関係)」の3つの資本があると考えています。この3つの資本を持っていれば、人生はある程度うまくやっていくことができる。
3つの資本の中で、最もシンプルなのは金融資本です。攻略は難しいけれど、理屈は単純で理解しやすい。その次が人的資本(働き方)で、最も難しいのが社会資本です。著作で扱う内容も、その3つの資本の区分に沿って、だんだん難易度が高いところへと進んできたわけです。 』という部分が一つ…。
※ 『しかし、皆が気づいていない本当の問題は、次にやってくる「評判格差社会」です。国家はイーロン・マスクから税を徴収できますが、6000万人のTwitterのフォロワーを移転することはできない。「お金は分配できても評判を分配することはできない」という問題に対して、これまで解を出せた人はいません。』という部分が、もう一つ…。
※ これを言ってる人に、初めてお目にかかった…。
※ しかし、もっと「根源的な問い」を問うて、思索するべきなのでは…。
※ 「そもそも、人の”幸福”って何?」…。
※ 「”評判”って、Twitterのフォロワー数で測れるものなの?」…、とかな…。




富士山に登ると、人生観が一変する
https://blog.tinect.jp/?p=72365
※「やった人生」と、「やらない人生」の絶対的な隔絶…。
※ これは、たぶん、本当だ…。
※ ただ、人生、「やった」結果、破滅(玉砕)するということもある…。
※ それもまた、人生の「真実」だ…。
『これに加えて富士山に登る事で何が得られるかといえば、やった人生とやらない人生の可視化である。
これは内在感覚としても間違いなく己の内に宿る。
例えば今後、僕が新幹線や飛行機でもって眺める富士山の景色は、富士山に登る前にみた景色とは完全に異なったものとなる。
外からみた富士山は銭湯の絵みたいだけど、あれを見ながら殺風景な岩景色や山頂の青さと白さを想起できるのは、登った事がある人間だけだ。
外側の美しさと内面の殺風景さ。
この二面性は実際に登った人だけが得られる心の目である。
文字や映像では絶対に得ることができない。
単に美しい景色や知識といったものなら誰でも得ることができるけど、この真理だけは富士山に登った事がある人間しか手に入れる事ができない。
ここにある種の人生の本質がある。
世の中にはこういった類のモノが実にたくさんある。
傍観する人生と、やる人生。あなたはどちらがお好きですか?
経験はとても尊く、人生をとても色鮮やかにしてくれる。
例え話を一つしよう。学園の美しいマドンナをみて
「あんな美しい人と付き合えたら死んでもいい」
というだけの傍観する人生と
実際に勇気を出して告白し、付き合って結婚し、子供を産み育て
「いや、まあ実際に腰を据えて付き合うとなると、結構大変だったよ」
と言う人生。
富士山を登ったか登らないかは、この2つの人生と同じぐらいの格差がある。
この理論を頭で理解するのは誰にでもできるかもしれないが、心の底から理解できるのは”やった側”の人間だけだ。
「富士山は外から眺める山であって、登ってて楽しい山ではない」
実際に、登った人がそういう感想を持つのはいい。
それはその人にとっての真理だからだ。
ただ、やってもいないくせに「富士山に登る意味なんてない。単なる殺風景な山でしか無いんだし」と斜に構え、したり顔でもって”やらない”人生を堂々と主張し始めるのは、とても損だ。
そういう態度は人生を物凄く毀損する。
富士山に登れば、あなたは今すぐにでも”やった側”に立つ事ができる。
そう考えると、なんだか登らない事が物凄く損に思えてこないだろうか?
さあ、あなたも富士山に登ってみよう。大丈夫、絶対に損はしないから。』
屏風(びょうぶ)の数え方 : 知っていると教養人っぽい!?
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01096/



『「一■の屏風が、宴席に華やかさを添えた」――さて、■に入る漢字はなんでしょう。「枚」でも「個」でもありません。知らなくても生きていけるけれど、知っているとちょっと使ってみたくなる。
屏風(びょうぶ)の「屏」は「おおって防ぐ」「さえぎる」などの意味。もともとは、風をさえぎり、外からの視線を避けるための道具だったが、平安時代の頃から屏風に絵を描くことで、芸術的な価値のある調度品として発展した。
現代の一般家庭には無縁の存在だが、高級な旅館に泊まったり、ホテルの宴会場などでは目にすることも。うっかり「素晴らしい屏風が2枚飾ってありました」などと言って恥をかかないための基礎知識。
屏風は「扇(せん)」と呼ばれる縦長の画面を6枚つなぎ合わせた「六曲屏風」が基本形。右側が「第一扇」で、左へと視線を動かすことを想定して描かれている。「二曲」「四曲」「八曲」と画面の数にはバリエーションがある。
屏風を数える単位は「隻(せき)」。ちなみに「隻」は単数を示す助詞で、「隻眼の武将・伊達政宗」のように、「本来は対であったものの片側」を指す言葉。
六曲一隻
「二隻」の屏風で一組になっているものを「一双(いっそう)」という。
江戸時代初期に俵屋宗達(たわらや・そうたつ)が描いた「風神雷神図」は、最も有名な屏風絵と言っていいだろう。向かって右の「右隻(うせき)=風神」から「左隻(させき)=雷神」へと視線を動かして鑑賞する。
二曲一双
京都・建仁寺「風神雷神図」(高精細複製品 / 国宝である本物は国立京都博物館に寄託されている)(PIXTA)
バナー写真 :PIXTA
この記事につけられたキーワード
美術館』
https://www.toshogu.or.jp/about/goikun.php
※ この「御遺訓」を、拳々服膺したところで、「お金が、足りない…。」事態は、如何ともならない…。
※ しかし、なにがしかの「足し」には、なるだろう…。
※ 個人の場合、「時間を味方につけること」が可能だ…。
※ 「分かりきっている」ことには、あらかじめ「手を打って」、長い年月をかけて、備えよう…。
※ それと、若いうちから、万事「安上がり」なように、自分を躾けよう…。
※ よく「清貧」を馬鹿にする向きがあるが、自分の生活の「収支」の管理ができないのは、アホウに過ぎない…。
※ そういうヤツに限って、「一攫千金」狙いに出て、ビットコインみたいなものや、リスク資産、先物の相場なんかに手を出して、スッテンテンになったりするわけだ…。
※ ゆめゆめ、そういうハメに陥っては、ならん…。



人の一生は重荷(おもに)を負(をひて)遠き
道をゆくが如し いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望(のぞみ)おこらば困(こん)窮(きゅう)したる
時を思ひ出(いだ)すべし
堪忍(かんにん)は無事(ぶじ)
長久(ちょうきゅう)の基(もとい) いかりは敵とおもへ
勝事(かつこと)ばかり知しりてまくる事をしら
ざれば害(がい)其(その)身(み)にいたる おのれ
を責せめて人をせむるな
及ばざるは過すぎたるよりまされり
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM014OX0R00C21A2000000/
『【香港=木原雄士】香港終審法院(最高裁)は9日、香港国家安全維持法違反で起訴され収監中の香港紙創業者・黎智英(ジミー・ライ)氏の保釈を認めない決定を下した。保釈を認めた高等法院(高裁)の決定を不服とする検察当局の上訴を認めた。黎氏の収監は長引く可能性がある。
黎氏は2020年12月に詐欺罪や外国勢力に中国への制裁を求めたとして起訴され、刑事施設に収監された。高裁は保釈金支払いや自宅滞在を条件にいったん保釈を認めたものの、同12月末の最高裁の決定で再び収監されていた。
黎氏の保釈をめぐっては中国共産党の機関紙、人民日報(電子版)が「反乱分子は中国本土で法律の懲罰を必ず受けるべきだ」と批判し、中国当局の介入を示唆した。香港国家安全法には起訴後の保釈を制限する規定があり、検察当局は安易な保釈を認めるべきではないと主張していた。
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https://www.nikkei.com/login 』
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM08BGA0Y1A200C2000000/
※ 自由に、「ものが言えん。」ということは、自由に「ものが考えられん。」ということだ…。
※ 自由に「ものが考えられん」で、「生きてる価値」「人としての価値」は、あるのか…。
※ 「権威主義」とやらは、根本的に、そこのところを「省みないと」な…。
『【香港=木原雄士】米企業が運営する音声SNS(交流サイト)の「Clubhouse(クラブハウス)」が8日夜、中国本土で利用できなくなった。複数の香港メディアが報じた。ウイグルやチベットなど政治的に微妙なテーマも自由に議論できるとして話題になっていたが、中国当局が規制に乗り出した可能性がある。
クラブハウスは招待制のSNSで「room」と呼ばれるテーマごとの部屋で参加者が音声だけの会話を楽しむ仕組み。米テスラのイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)が参加し、中国でも急速に注目度が高まっていた。
中国当局は国内でフェイスブックやツイッターといったSNSの利用を制限し、ネット上の言論も厳しく統制している。クラブハウスは当局の監視が及ばない例外的なSNSとみられていたが、8日午後7時(日本時間午後8時)ごろから使えないという報告が相次いだ。
ロイター通信によると、規制前のクラブハウスでは、中国語の利用者が新疆ウイグル自治区の収容所や台湾の独立、香港国家安全維持法などの政治的なテーマを議論していた。
多様な観点からニュースを考える
※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。
村上臣のアバター
村上臣
リンクトイン日本代表
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別の視点 1ヶ月後くらいには、中国版Clubhouse(コピー版)が出てくるでしょう。これまでも検索やTwitter、Youtubeといった米国発の革新的なアプリは拡大すると規制され、当局のポリシーに沿った現地版が開発されるということを繰り返してきました。それが国内の膨大なユーザーの利用を経てブラッシュアップされ、本家を超えた利便性を持って国際版として輸出される。そのような未来もあるのかもしれません。
2021年2月9日 9:34いいね
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青山瑠妙
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 教授
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ひとこと解説 音声だけで会話するクラブハウスアプリのおかげで、世界のどこからかわからないが、見知らぬ人たちが中国語で政治を熱く語っていた。朝顔の花一時のような自由であったが、中国の若者から惜しまれる声が多く聞かれている。
2021年2月9日 8:22 (2021年2月9日 8:35更新)
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小平龍四郎
日本経済新聞社 編集委員
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ひとこと解説 軍政下のミャンマーでもヤンゴンで働く方々がクラブハウスで毎晩、現地の情勢を発信しています。東南アジア各地や日本の学生がそれに耳を傾け、「明日は何が起きるのか」と警戒を強めています。クラブハウス参加者の中には「軍当局に聞かれるとまずいのであまりはっきり言えないのですが・・・」と前置きをした上で発言する方もいらっしゃいます。
逆に言えば、それだけ生々しい現実や鋭い批判が飛び交っているということ。中国の規制は、音声SNSの力やパワーを認めたことにもなります。アンドロイド版も出たら、所得の低い発展途上国でも利用者が広がるのではないでしょうか。
2021年2月9日 8:35いいね
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