1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: الإمبراطورية العمانية)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。
1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北西のカタールやバーレーンも合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦 (Federation of Arab Emirates:FAE) の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。
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24日8時より、サウジアラビア軍を主体とする東部合同軍(Joint Force Command-East: JFC-E)も攻撃を開始し、障害帯を処理した後、海岸線沿いにクウェート市に向かって前進した[32]。2隻の戦艦、アメリカ海兵隊の海空火力支援連絡中隊及び偵察部隊がサウジアラビア軍に協力した[32]。こちらも大きな抵抗を受けることなく、24日夜までには攻撃目標を確保して、数千人のイラク軍兵士の投降を受けいれた[32]。
海岸線沿いの攻撃が予想以上に順調に進展したことから、MARCENTの西側を援護するため、シュワルツコフ大将は他の部隊の攻撃開始時間を24日15時に繰り上げた[32]。西部クウェートでは、MARCENTと連携しながら、エジプト軍及びサウジアラビア軍を主体とする北部合同軍(Joint Force Command-North: JFC-N)が前進し、クウェート市の北西において、同市とバスラを結ぶ幹線道路を遮断することになっていた[15]。エジプト軍のハラビー少将が悪天候を理由として攻撃開始時刻の繰り上げを拒否する一幕があったが、最終的にはエジプト政府からの命令により、ハラビー少将も攻撃開始時刻の繰り上げを了承した[32]。
第18空挺軍団長ラック少将が28日に攻撃停止命令が出る可能性を伝えられたのは、28日午前1時45分のことであった[40]。正式な命令を受領したのは午前2時のことだったが、この時、第18空挺軍団は2月28日朝からの攻撃を準備しており、特に第24歩兵師団は午前4時からバスラに対する攻撃を開始する予定だったことから、師団長マカフリー少将は、戦闘停止命令への不満を隠さなかった[41]。ラック少将は、隷下部隊指揮官に対し攻撃中止と防御態勢への移行を命じた[41]。しかし彼らと対峙していたイラク軍は後退の気配を見せなかったため、戦闘隊形で接近し、後退を勧告した[41]。イラク軍の多くはアメリカ軍の勧告に従ったが、共和国防衛隊はしばしば従わず、3月2日午前8時7分には、ハムラビ機甲師団の戦車が第24歩兵師団に対して砲撃したのに対して米軍が応射し、戦車約30両や装甲車約80両などを撃破するという交戦 (Battle of Rumaila) も発生した[41]。
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フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas、英: Republic of the Philippines)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲共和制国家。7641の島々がある島国であり、そのうち有人島に暮らす総人口は1億人を超える[2]。首都はルソン島にあるマニラ市またはマニラ首都圏[1]。
詳細は「フィリピン紛争」および「en:Moro insurgency in the Philippines」を参照 噴火するピナトゥボ山(1991年6月12日)
フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍(NPA New Peoples Army)を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年時点、武力行使は継続中である。
ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、その後はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した[23]。