アメリカ人とは何かについて考える-歴史的流れと
展望・
著者 矢ケ?停十
雑誌名 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
巻 130
ページ 367-392
発行年 2011-11-01
URL http://hdl. handle, net/10291/17780
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集(二〇ーー ・ーー ・一)
【論説】
アメリカ人とは何かについて考える
——歴史的流れと展望——
矢ヶ崎 淳
目次
! はじめに
πアメリカへの移民の流入
π社会進化論と文化相対主義
W アメリカ人のアイデンティティ
Vおわりに
子
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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! はじめに
アメリカ合衆国は移民たちから成る国家である。ヨーロッパからの初期の入植者たちは先住民であるネイティブ・
アメリカンを駆逐し、「建国の父」を中心としてアメリカを作り上げていった。建国以来、問われている「アメリカと
(1)
は何か」という問題に答えることは非常に難しい。しかも、アメリカは絶えず変化し続けている。先進国では珍しく
増加を続けている国であるアメリカの人口は、二〇ー〇年の国勢調査で三億人を超えたことが判明した。多様化が進
みマイノリティ(少数派)人口が増加し続けており、二〇五〇年の国勢調査では非ヒスパニック系白人がマイノリティ
(2
になるだろうという指摘もある。
若い頃からわたしは、滞在、留学、旅行を繰り返しながらアメリカとつきあってきたが、良いところと悪いところの
両方を見た上でもアメリカはとても面白い国であると思う。従来の国家とは異なる過程を経て作られ、多様な人々を包
含しながら絶えず新しい実験を続けているように思われるアメリカは、わたしにとって大変興味深い研究対象である。
アメリカ独立戦争(一七七五—一七八三)は、近代史上最初の成功裏に終わった反植民地戦争であった。イギリス
からの独立を勝ち取ったアメリカ(東部ニニ州の植民地)は、その当時ヨーロッパにおいて国家であるための必要条
件と考えられていた要素、つまり実在する領土の境界線や歴史、共通の民族、宗教、民俗などを持たない新しい国家
を作り上げた。わたしたちは何かあるとすぐ日本とアメリカを比較するが、アメリカはいろいろな意味で世界の中で
も特殊な国である。
アメリカ人とは何かという問いに対して、アメリカ建国の父たちも抽象的、観念的にしか答える事ができなかった。
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——アメリカ人とは何かについて考える——
むしろ、 観念的である方が良かったのかもしれない。アメリカの広大な土地を開拓していくためには、多くの労働力
と資本が必要であり、それを移民に頼る以外に道はなかった。アメリカを発展させるためには移民の力が必要だった
のである。当時のアメリカ人にとって大事なことは、先祖がどこから来たかという具体的な事実よりも、彼らが何を
信じるかという理念、理想を共有することだった。アメリカ合衆国は、当時、ヨーロッパで広がりを見せていた啓蒙運
動 (ehe En 一 ighgnmea) の支持する価値の具現化された理想であったわけだが、独立運動に賛同したアメリカ人たち
はアメリカ建国の理念の素晴らしさに大いなる自信を持っていたので、それを移民たちと共有する事を恐れなかった。
アメリカ人の定義が観念的であったが故に、より多くの移民たちをアメリカ人として取り込んでいくことができたの
だろう。アメリカ合衆国国璽 (ehe Greae+seal of fhe us.eed seags) の裏面に書かれたラテン語Novus 〇rdo sec~OTUm
(すnew order of-he agesごが示すように、移民たちはアメリカとい、つ新天地で新しい時代の新しい秩序に自らの将来
を託して行く事が求められ、それが一番重要な点であったのである。
アメリカ人とは何かを理解するためには、アメリカを作り上げてきた人々である移民たちを、アメリカがどのよう
にして国家の構成員として取り込んできたかを知ることが必要になる。この小論では、その観点からわたしなりにア
メリカの歴史を振り返り、アメリカ人とは何かという壮大な問いについて、ささやかなとりくみではあるが、現在わ
たしが感じ、考えていることをまとめてみたいと思、つ。
π アメリカへの移民の流入
アメリカで最初に国勢調査(census)が行われたのは、独立後間もない一七九〇年で、その当時のアメリカの人口
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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は三、九二九、ニー四人であった。この初回のセンサスにおいては先祖の由来を尋ねる質問項目はなかったが、当時
のアメリカの民族構成は、最多はイングランド系で五三%、二番目に多いのがアフリカ系でー九%、残りの約三分の
一は、北アイルランド、ドイツ、スコットランド、オランダ、フランス等のヨーロッパからの移民たちとその子孫で
(3)
あった。イングランドから来たイギリス人たちが初期の移民の中心になっていたとはいえ、イギリス人であることが
アメリカ人であるための必要条件ではなかった。
流入の変遷
独立後の一七九〇年の最初の連邦議会において、帰化法(NamraKzaeion Ag) が制定され、「善良で道徳的な性格
(good moral characeer)」で自由身分の白人 (free whs-‘e persons) に、申請があれば市民権を与えることになった。社
会的逸脱者の性格を持たないことを証明するために、二年間の居住要件が定められた。アメリカ国内で誕生しなかっ
たアメリカ市民の子どもたちにも市民権は与えられたが、それは父親のみを通して可能とされた。その後、居住要件
は一七九五年に五年に引き上げられ、一七九八に一四年に延長されたこともあったが、一ハ〇二年に五年に戻された。
ー八五五年にアメリカ市民の外国人妻には自動的に市民権が付与され、一八七〇年に帰化の申請がアフリカ系の出自
を持つ人々にも開かれるなどいくつかの修正もあったが、一八〇二年の改訂版帰化法は現在も有効である。
アメリカへの移民はー九世紀に入ると急増する。ー九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、新たに大挙して流入して
きた新移民と位置づけられる東欧、南欧からの移民が、数の上で従来の旧移民といわれる西欧、北欧からの移民をし
のぐよ、つになるのである。ヨーロツパからの移民流入のピークといわれたー九〇七年には、西欧、北欧といった旧地
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——アメリカ人とは何かについて考える——
域からの移民の数と東欧、南欧といった新地域からの移民の数が一対四にまでなっていた。そうなる兆候が現れ始め
4j
た四半世紀前にはその割合は四対ーであり、二五年という短い間に新旧移民の流入数が逆転したのであった。
東欧、ロシアからの、イディッシュ語(アシュケナジム系ユダヤ人の話す言語)しかできない貧しいユダヤ人たち
が、繰り返されるポグロム(ユダヤ人大虐殺)から逃れようと、一八八〇年から第一次世界大戦の始まるー九一四年ま
でに、約二〇〇万人もアメリカに流入した。彼ら新移民は、同じユダヤ人でもそれ以前にアメリカに到着し、すでに
経済的基盤も整えて地位を築いていた旧移民である西欧出身のドイツ系ユダヤ人とは大きく異なり、英語も解さず貧
しかったため両者のあいだには軋礫が生じる。しかし、どの民族集団もその内部は決して一枚岩ではなかったが、お
(5)
互いに助け合いの組織を作り上げながらアメリカ社会の一部に組み込まれていった。
法律で定められたことは無かったが、アメリカの建国の理念は、アメリカ合衆国国璽の表面にラテン語で刻まれた
(6)
E pe-a.rsgmijn (Koue of many peoples oneness) が示すように、様々な移民たちを含む「多数から一つに」まとまつ て団結して行くことであったと言っても良いだろう。第四四代アメリカ合衆国大統領のオバマも、大統領に選出され る前の二〇〇四年の民主党大会基調演説や、つい最近の二〇ーー年五月一〇日テキサス州エルパソでの演説で、この -oue 0f many- onesのフレーズを使用している。 S?礫と不協和音 しかし、アメリカは建国当初から決して一枚岩の状態ではなかった。プロテスタントの白人が中心となって建国さ れたアメリカでは、イギリス本国からもたらされたともいえる反カトリツク感情が絶えず存在した。また、旧世界ほ 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 372 どでは無かったが、反ユダヤ主義 (aner-semMsm)も根強くあったし、アメリカ先住民であるインディアンたちへの差 (7) 別、国を二分する内戦(南北戦争)の原因にもつながる黒人奴»への差別の問題もあった。その他、建国の父の一人 (8) – であるベンジャミン・フランクリンも持っていたらしいが、第一次世界大戦中に燃え上がった反ドイツ感情、ー九世 紀後半からカリフォルニアでみられた中国人移民、その後日本人移民にも向けられた反黄色人種感情(黄禍論)など、 様々な不協和音があった。第二次世界大戦中には、敵国につながる者として裁判も無いままニー万もの無実の日系人 がすべて強制収容された。また、南北戦争終了後に南部で作られた白人至上主義者の過激な秘密結社であるクー ・ク ラックス・クランや、その他の類似の差別主義的な団体も存在する。二〇〇一年九月ーー日のアメリカ同時多発テロ 事件以後は、特にアラブ系の人々への差別感情が拡大している。 どの国、どの社会においても程度の差こそあれ見受けられる事だが、アメリカの歴史においても、よそもの(strangers) である移民や外国人を排斥する排外主義 (naehdsm) が存在してきた。外国とつながりのある「非アメリカ的な」国 内の少数派や、カトリツクや急進主義への反感である。それに加えて、建国以前から主流であったアングロ ・サクソ 9) ンの伝統が、一九世紀末から二〇世紀にかけて外来者恐怖症の流れを作って行く。特に、一九二〇年代はアメリカの 歴史の中でも、民族主義的 (fhe-riba二weneies) な偏狭で人種差別的な逆戻りの時代とされた。 そのようなアメリカ社会の中へ、それぞれ固有の歴史を持つ様々な民族集団からなる移民たちが流入したわけだが、 彼らは他の国における同民族の集団とはある意味異なっていた。例えば、ソビエト連邦、チェコスロバキア、ユーゴ (〇) スラビアなどといった国々は様々な民族集団の連合体であったが、アメリカ合衆国はそうではなかった。 373 アメリカ人とは何かについて考える—— 内なる外国 アメリカは、各民族集団にそれぞれの小さな祖国をアメリカ国内に作る事を認めなかったのである。つまり、本国 から離れてアメリカに暮らす各民族集団固有の、内なる外国とも言える文化的な飛び地 (culfural enclave)をアメリ カ国内に作らせなかったのだ。 アメリカ議会は、ー八一八年に、ニューヨークとフィラデルフィアといった東部の都市部にあるアイルランド系組 織から出されたイリノイの土地供与申請を却下した。アイルランド系移民は、西部に小さなアイルランド(Erm)を作 る事ができなかったのである。この却下処分は前例となり、他の民族集団からの同様の申請も認められる事はなかっ た。これを認めれば、アメリカは「外国人居留地の継ぎはぎ細工の国 (^patchwork of foreign se球一emenf%)」になっ (1) てしまうと議会は考えたからである。その結果、連邦国家であるアメリカ合衆国は、チェコスロバキアやユーゴスラ ビアなどのような諸民族の連合体になることはなかった。現在、これらの諸民族の連合体だった国家は崩壊して、国 家としての形をとどめていないことは、非常に示唆的であると思う。 フランスでは、つい最近、二〇ーー年四月ー一日からブルカ禁止法が施行されて物議をかもしている。二〇一〇年七 月一三日にフランス下院がこの法案を可決したその翌日に、アメリカ国務省は、宗教的信念に基づく衣服の着用を法 (2) 律で定めるべきではないという異例の非難を行なった。フランス国内の民族状況は、アメリカ国内のそれよりもヨー ロッパの他の国々と共通点が多いと思われるが、国内に内なる外国を作らせ、このような禁止法を作らなければなら ない状態にまでしてしまったことの方が問題であるように思う。 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 374 フランスのイスラム人口三五五万人に比べれば少ないかもしれないが、ー、五五万人のイスラム系住人を擁するイギ リスにおいても、特に二〇〇五年のロンドン同時爆破テロ事件以後、彼らが英国社会の中で混ざり合わずに孤立を深 (3) めるにつれて「イスラム恐怖症」が問題化してきている。「英国をイスラム国家に」という理念を持つイスラム過激派 聖職者組織までも国内に許容する寛容さを持つイギリスであるが、前労働党政権下で不法移民をも流入させてきた寛 大な移民政策も終わろうとしている。保守党政権のキャメロン首相は、二。 ーー年四月一四日に、これまでの寛容な 移民政策を転換し、EU諸国以外からの移民の受け入れに上限を設けて制限し、優秀な移民のみを歓迎する方針を発 表した。 移民受け入れの最大の要因は労働力不足であろうが、国内における民族関係と将来の国のあり方を熟慮し、議論し ておく必要があるだろう。ビジョンもなく、起こりうる問題への対策も考えずに、目先の利益だけを考えて安価な労 働力としての移民の流入を政策とすることには問題があろう。アメリカとヨーロッパの国々の前例から日本は多くを 学ぶべきである。 In社会進化論と文化相対主義 様々な地域からの移民で作られた国とはいえ、建国当初からアメリカの主流となる人々は白人でプロテスタントで あった。本人たちが自らをそう呼ぶことはないが、通常、彼ら以外の人々からWASP (whig Anglo’saxon proeeseane) と呼ばれるエリート集団である。言語は英語、英国志向で英国本位の文化パターンを維持するアングロ •サクソンの 伝統が、アメリカ社会の主流であり基本となっていた。 375 ——アメリカ人とは何かについて考える—— アングロ・サクソン優越主義 ー九世紀の終わりから二〇世紀の初頭にかけて強まった、アングロ・サクソンの人々とその文化を他よりも優れた ものとするアングロ ・サクソン優越主義 (Anglo’saxon superiority)を理論的に支えたのは、当時アメリカで流行し、 大きな影響力を持っていた社会進化論の思想であった。社会進化論はー九世紀のヨーロッパにおいていろいろな分野 に影響をあたえたが、「適者生存」というフレーズを最初に提唱し社会進化論の思想を広めたハーバート・スペンサー (4) は、母国イギリスよりもアメリカでの方が有名だったという。 社会進化論はタイラー、モーガンなどの人類学者にも大きな影響を与えた。しかし、社会も進化の過程を経るもの であり、最も進化した社会は当時の大英帝国であるとする思想は、かなり人種差別的であったと言える。進化論に影 響を受けた社会科学が学問分野として成立していくのが同時期であったため、人類を外見や形態的特徴から「科学的」 に分類し、序列化することが正当化されていったのだった。アメリカ人の祖先の集団の序列化は、大雑把に言えば、ア ングロ ・サクソンと北欧、西欧の北方系を頂点にして、その下に南欧、東欧系、その次に東洋系、そして黒人を最下 位に置くとい、つものであった。 もちろん、学問的なお墨付きを得る以前から、このよ、つな序列認識は存在していた。例えば、ベンジャミン・フラ ンクリンはー八世紀半ばに、何故、アメリカ合衆国は「アフリカから黒人たちを連れてくることでアメリカを黒くし なければならないのか?アメリカはすべての黒人や黄褐色人 (=Tawneysご(アジア人のこと)を排除することによつ (5) て、美しい白人や赤銅色人 (ーーRedu)(アメリカ先住民のこと)を増やすことができる機会が折角あるのに(筆者訳)」 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 376 と書いている。フランクリンはここではインディアンたちを肯定的に受け止めているように見えるが、「われわれの地 球を磨き(白人以外を排除すること)、アメリカから(インディアンが住んでいる)森を取り除くことによって、われ われの地球上の(白色になった)アメリカの存在する側面を、火星や金星の住人たちの目により明るく光り輝いてい るよ、つに見せる(Kscourmg our planer by clearing America, oi wbod«and so makingrt-hls Side of our Gio De reflect; a brighter Lighc-f-eo-he Eyes of Inhabs-‘anes in Mats or Venus-)(筆者訳)」とも書いているので、人種差別的であったこ とは間違いないだろう。身晶Mであるかもしれないがそれが人間の常だと断りながら、「白人」の意味を限定的に狭く とらえていたようであるフランクリンは、アメリカは浅黒い肌の色でない白人種であるアングロ・サクソン人のもの であるべきだとしている。フランクリンにとって、殆どのヨーロツパ人はサクソン人を除いて、スペイン人、イタリ ア人、フランス人、ロシア人、スウェーデン人なども浅黒い肌の色 (swarehy complexion) の人々だった。 差別的な移民法 このアングロ・サクソン優越主義の流れの延長線上に、偏狭で人種差別的な後戻りの時代である一九二〇年代があ り、一九二四年移民法 (Johnson,Reed Ace) がある。この移民法はアメリカへ流入してくる新参者を国籍別に分類し、 アジア人移民の入国を全面的に禁止し、東欧、南欧出身者にはわずかな、西欧、北欧からの移民にはより大きな、そ してイギリスと北アイルランドからの移民には一番大きな人数枠を割り当てるというものだった。差別的な序列に対 応して、アメリカへ入国する移民の数を定めようとしたのである。 それまでの大規模な移民の流入が止まり、その状態がしばらく続いた。その後、大恐慌や第二次世界大戦などを経 377 ——アメリカ人とは何かについて考える—— た後に成立したー九五二年移民国籍法 (Mccarran’waleer Ace)においても、出身国による割当人数枠はそのまま残さ れた。カトリツク教徒で生粋のアイルランド系の初めての大統領に選出された第三五代大統領ジョン・F •ケネディ がその廃止を約束していたが、ー九六三年に暗殺され果たすことができなかった。その後、彼の後継大統領ジョンソ ンがリバティ島の自由の女神像の下で署名し成立に至ったー九六五年移民国籍法 (Harrce 一ler Ag)によって、ー九 二四年以来続いた出身国別の移民人数割当(quoeas) は撤廃される。 第三六代大統領リンドン・ジョンソンは一九六五年一〇月三日にこの法案に署名する際、差別的な出身国別人数割 当は「人間を、その資質によって評価し、報いるというアメリカの民主主義の基本原則を犯していた。このシステム は、われわれが建国する以前でさえ、何千もの人々をこの国にもたらした信念に背くことになるので、非アメリカ的 (umAmerican) であった。(筆者訳)」「アメリカは再び本日、素晴らしい伝統に回帰する。無制限の移民の時代は過去 のものになった。しかし、アメリカに来る人々は、彼らの出身国に依拠してではなく (-ooe because of-he land from which -hey sprungご、 彼らが持っている資質を根拠として(ー『because 0f what; ehey are) 入国するのである。(筆者
17)
訳)」と述べている。
ジョンソンもこのスピーチの中で再確認しているが、初期の入植者たちがアメリカを開拓して行くときに大切だっ
たのは、彼らの出身国ではなくて、彼らが我慢強く、その身体が厳しい仕事に堪えられるほど頑健であるかどうか、必
要とあれば自由のために命をかけられるほど勇敢であるかどうか、ということだった。建国の理念もそこにあると言
える。建前とも言える理念と現実あるいは本音が歴史を通して錯綜しているのは、理念が理想であり、現実となるに
は崇高すぎたということなのかもしれない。
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ボアズと文化相対主義
前述したように、社会文化進化論の考え方は様々な文化の間に進化の度合いに基づく優劣があるとし、大英帝国の
白人の文化が他よりも優れているとみなした。この思想はー九世紀に一般的だったフィールドワークを行なわない安
楽椅子学派の人類学者たちに大きな影響を与えた。しかし、二〇世紀に入ると、アメリカでパパ・フランツと呼ばれ
アメリカ人類学の父と称されたフランツ・ボアズは、この立場に真つ向から反対した。社会進化論はその人種差別的
な考え方に加えて、実証性に乏しいこともあり説得力を欠いていたからである。
ボアズはその語を案出した訳ではなかったが、文化相対主義 (cultural relativism)という新しい概念を押し進めた。
単一の基準で人類の文化や社会をとらえるという進化論的な考え方を退け、ボアズは人類の文化を一つ (culture」単
数)ではなく、複数(cultures)であるとし、それぞれの文化はその文化の内側から理解すべきだとする立場を提唱
した。文化に優劣といった価値を付与して序列化することを否定したのである。この考えから人類学の調査の基本が
フィールドワークになっていく。
ボアズはー九世紀末にアメリカに移民してきたドイツ生まれのユダヤ人であった。アメリカ移住後は、自らをユダ
ヤ系アメリカ人ではなくドイツ系アメリカ人と位置づけるなど、ユダヤ人としてのアイデンティティに否定的な感情
を持っていた。人間の柔軟性を信じていたボアズは、ユダヤ人はアメリカでるつぼの中に消滅して行くだろうと期待
(8)
していた。しかし、同時に彼はそれぞれ個々の文化の完結性に敬意を示して、文化相対主義の立場もとったのである。
ボアズの提唱する文化相対主義の背後には、彼の背景であるユダヤ文化とユダヤ人集団に対する彼の誇りが感じられ
379
アメリカ人とは何かについて考える——
る。ユダヤ性への否定と誇りとい、つアンビバレントな感情が、ボアズの中に存在していたのだと思う。
ボアズのよ、つに移民からアメリカ人になっていった人々にとって、アイデンティティの問題は複雑なものだった。
アメリカ人という共通のアイデンティティのほかに、自らが所属する民族集団への帰属から生じるエスニック・アイ
デンティティが併存するかたちになっていたからである。両者の折り合いをど、つつけるか、自らをどのように位置づ
けるかは、民族集団によっても異なり、また個人によっても異なっていた。
M アメリカ人のアイデンティティ
どの国、どの社会に住む人間についても、個人の持つアイデンティティが一つということはあり得ないだろうが、ア
メリカ人の場合は特にそれが複雑だと言えるだろう。アメリカの社会学者ゴードンは、アメリカ人の多層化したアイ
デンティティについて、自己を核とすると、その周りに出身国、宗教、人種、国家(国籍)つまりアメリカ人としての
アイデンティティが取り巻いているとしている。あなたは何者かと問われれば、「アメリカ人だ」「白人/黒人/黄色
人種だ」「プロテスタント/カトリツク教徒/ユダヤ教徒だ」「ドイツ系/イタリア系/アイルランド系/イギリス系
(9)
などだ」という複数のアイデンティティが、答えとして必要になるのである。
アメリカ社会が移民をどのように取り込んで行くかとい、つ「哲学」について、ゴードンは三つの主要なイデオロギー
(〇)
的な立場があるとした。「アングロ化(アングロ・コンフォーミティ)(Ango—conform<)」「るつぼ (mewing pof)」
「文化多元主義 (cultural pluralism)」である。アングロ ・コンフォーミティ論は、移民祖先の文化を完全に捨てて主
流集団のアングロ ・サクソンの人々の文化を取り入れ、それに融合することを求める立場である。るつぼ理論は、ア
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ングロ・サクソンも含めた移民すべてがアメリカ社会の中で混ざり合い溶け合って、新しいアメリカ人のタイプを作
り上げるとする考え方だつた。文化多元主義は、移民たちがアメリカ市民となり、政治的、経済的にアメリカ社会に
統合されて行く際に、自分たちが祖国から持ち込んだコミュニティの生活と文化をかなり多くの部分で保持すること
(21)
を前提とする立場であった。
アングロ•コンフォ|ミティ
イギリスを母国としてアングロ・サクソン文化へ融合して行くことを理想とするアングロ・コンフォーミティ論の
背後には、前述したアングロ ・サクソン優越主義の考え方があったと言える。しかし、この概念自体は幅の広いもので
比較的穏健なアングロ ・コンフォーミティの立場が、アメリカの歴史を通して最も広く行き渡ったイデオロギーだっ
22)
た。つまり、移民とその子孫たちが標準的なアングロ ・サクソンの文化的パタ—ンを採用している限り、彼らに反感
や敵意を持たないという立場である。
移民たちは自ら進んで自分の意思でアングロ ・サクソン化することが望ましいとされた。第六代アメリカ合衆国大
統領となったジョン・クインシー・アダムズは、その前のモンロー大統領の下での国務長官時代に、ドイツ貴族から
の移民についての問い合わせ受けた。それに対するー八一八年の返信で、移民がアメリカで求められる性格に適応で
きないならばいつでも本国にお帰りいただいてよい、新天地アメリカで幸せを見つけたいのであればヨーロッパの皮
を脱ぎ捨てて(男爵の身分を捨て)アメリカ人になり、決して古い皮を再び着用しないと決心することが必要だと述
(3)
ベている。また、移民の子孫がアメリカに対して好感情を抱くようにするために、アメリカの考え方や行動様式につ
381
——アメリカ人とは何かについて考える——
いての教育に強調をおく必要があるとアダムズは考えていた。教育が多様な人々を同質化に向かわせるための鍵とな
り得ると考えたのである。
るつぼ理論 (メルティング•ポット)
アングロ ・コンフォーミティと競合する、より寛容で理想主義の含みを持つ同化についての考え方を支持する人々
がー八世紀から存在していた。クレヴクール(注1参照)もその一人であった。彼は「アメリカ人とは何か」について
自らの考えを述べた手紙の中で、移民たちは「アメリカという慈しみの母『AlmaMaerご に受け入れられてアメリ
力人になる。ここアメリカではあらゆる国から到着した個々人が溶け合ってひとつの新しい人間になり(すre mel-ed
s-eo a new race of men)、彼らの働きが、そして彼らの子孫たちがい つの日か大きな変化を世界にもたらすことになる (5) だろう(筆者R2)」と書いている。また、アメリカにいる人々は「イギリス人、スコットランド人、アイルランド人、フ ランス人、オランダ人、ドイツ人、スウェーデン人の混合したものであり、この無差別な血の混ざり合いの中から、今 日アメリカ人と呼ばれている人間が生まれたのである.From Chis promiscuous breed】ー haf race now called Americans (6) have〔原文のまま〕arisen.)(筆者訳)」とも述べている。ここに、るつぼの理論の基本的な考え方があると言えよう。
この理想的な考え方が、絶えずアメリカの中には存在した。移民に広く門戸を開く政策がー九世紀の末までとられ
たのも、このような理念が根強くアメリカの中に存在した証拠であろう。アメリカの歴史学者タ—ナーは、苦難に満
ちた西部フロンティア開拓が、アメリカ人にとっての複合された国民意識の形成を促したと考える。「移民たちは辺境
というるつぼの中でアメリカ化され、解放され、国籍の上でも性格の上でもイギリス人ではない、一つの混合された人
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間へと融合されてレ った(Ain -he cmclze 〇 二 he froaIerfhe imimgranfs were Americanized” liberated】 and fused igo
(7)
a mixed race】 English in neither nabionaliCy nor characgriseics.)(筆者訳)」と彼は書いている。これは明らかにるっ ぼ理論の考え方である。 メルティング・ポットという言葉は、エマーソンなどによっても使用されたが、この語を広めたのはイギリスのユダ ヤ系作家ザングウィルが書いた劇The Me賈P。二初演はー九〇八年)であった。最初はUhe Crucible (るつぼ)» という題名にするつもりだったというこの劇は、アメリカでヒットした。主人公はポグロムを逃れてアメリカに移住 したロシア系ユダヤ人作曲家で、アメリカという「神のるつぼ CCGOdwcnlcible二」の中であらゆる人種、宗教、出 (8) 身国の人々が溶け合い、神がアメリカ人を作るのだと主人公に語らせている。 しかし、アングロ・サクソン優位の社会においては、移民たちがるつぼの中で溶け合った結果、それらの文化がアン グロ・サクソン的なものに収斂していくという考え方につながり得る。ここで、るつぼ理論はアングロ•コンフォー ミティ(アングロ化)に容易に結びつくと言えよう。移民たちをアメリカという巨大なるつぼの中で、アングロ ・サ クソン化というかたちで同質化することが、アメリカ化することと同義になるのである。 フォードの英語学校 自動車会社フォードの設立者であるヘンリー・フォードは、高い評価を受けた貧しい少年たちのための職業学校 (Henry Ford Trade school)の他に、移民従業員のためにフォード英語学校を創設した。ー九一四年から一九二ニ年 まで存続したこの学校で、自社の移民従業員に英語と行動様式や価値観などアメリカ文化を教え、彼らをアメリカ化 383 ——アメリカ人とは何かについて考える—— しようとしたのである。その卒業式では、舞台上に設置されたエリス島に着いた汽船から祖国の衣服を着て降り立つ た移民たちが、出身国の書かれた札を持ち「フォード英語学校メルティング•ポット『Ford English Schoo- Melttng ps.ご」と書かれた巨大な大釜に入っていく。数分後、彼らはアメリカの衣服に身を包み、新しい機会に顔を輝かせて (29) アメリカ国旗を振りながら釜から出てくるのだった。卒業式におけるこの儀式により、移民従業員たちはフォード英 語学校のるつぼの中でアメリカ人に生まれかわっていったことを表現したのであった。 (30) ヘンリー・フォードは、自らを「自動車の製造者というよりは人間の製造者 (da manufacturer of men)」だと語っ
たというが、彼はアングロ ・サクソン的な人間を作り上げることを望んでいた。二〇世紀初頭にフォードが考え実践
しょうとしていたるつぼ理論は、一八世紀にクレヴクールが語っていた本来のオリジナルのるつぼの考え方とは大き
く異なっていたと言えよう。
しかし、一ハ世紀のるつぼの考え方を提唱した人々にとって、その後アメリカに大量に流入してくる過激なまでに
多様な移民たちの存在は、想定を超えたものであったのかもしれない。その当時、るつぼの中で溶け合うのは、ヨー
ロッパの中の比較的類似した人々だったと言えるだろう。その後、数を増す多様なマイノリティに対して、アングロ ・
コンフォーミティ的るつぼ理論を当てはめるのには問題があった。アジア系、ネイティブ・アメリカン、黒人のよう
な人種的マイノリティにとっては、外観特徴が非常に異なることから、身体的な観点からもアングロ ・サクソン化は
困難であった。また、ユダヤ教、カトリック、イスラム教など宗教を生活の中心に据えている人たちにとっては、信
仰を捨て去ることは容易なことではなかった。
二〇世紀に入ると、前述した文化相対主義の考え方が人類学の立場から提唱された。アングロ ・サクソン優越主義
の文化観ではなく、個々の文化をその内側から理解しようとする動きである。この時代の流れの中で、アングロ ・コ
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ンフォーミティは否定されて行く。また、メルティング・ポットの考え方にも限界があった。ここで、三つの考え方
の中で一番新しい立場である文化多元主義が台頭してくる。
文化多元主義
ユダヤ系アメリカ人哲学者であるカレンは、その概念をー九一五年にネーション誌 (Nas-.tm)に発表していたが、ー
(1)
九二四年に発表した本の中で初めて、「文化多元主義(cultural pluralism)」という言葉を使用した。移民たちは、前
述したように、法的には、内なる外国となる各民族の共同体を作ることを認められなかったが、実質上は、それぞれ
の民族集団がかたまって共同体を形成していた。移民たちは外的には変化したかもしれないが、内的にはそれぞれの
民族性を残したままであり、メルティング・ポツトは起こらなかったとカレンは考えた。文化多元主義の父とも言、え
るカレンは、るつぼではなく、調和のとれたオ—ケストラという比喩を用いてアメリカ社会をとらえよ、っとした。ー
九一六年に「〃超国家的 (erans-nauonal)”アメリカ」とい、つ立場を提唱したボーンも、カレン同様、メルティング•
(32)
ポツトを否定した。
一九六八年にはニカ国語教育法(Bengual Education Ag) が制定され、アメリカ史上初めて連邦政府がニカ国語に
よる教育を認めた。教育の平等をはかるため、英語を話せない移民の子どもたちに母国語でも教育を受けることを認
めたのである。それぞれの民族集団の言語を尊重するという考え方は素晴らしいが、別の見方をすれば、いつまでも英
語が上達しないため、低賃金で働かざるを得ない移民の集団の存在が固定化され、彼らが社会のはしごを上って行く
ことを阻止することにもつながり得る。安価な労働力を持続的に供給する手段にされてしまう可能性があるのである。
385
——アメリカ人とは何かについて考える——
文化多元主義には、個々の文化の尊重という側面の裏側に、社会の流動性を停滞させるという側面も併せ持つこと
を忘れてはならないと思う。連邦法によって定められたことはないが、善し悪しは別として、英語がアメリカの公用
語であると広く人々に信じられている。アメリカ社会の中で、経済的、政治的に地位を上昇させ文化的にも認識され
るためには、言語が決定的な要素となる。つまり英語を使えるかどうかが鍵となるのである。
草の根でアメリカをまとめるもの
アングロ・コンフォーミティはアングロ•サクソン優越主義的で問題があった。本来のるつぼ理論は理想的過ぎた
し、アングロ・コンフォーミティ的メルティング・ポットの考え方も差別的だけではなく根本的に無理があった。ー
番新しく、また好ましいと考えられた文化多元主義にも問題点があり、アメリカ人とは何かという問いに対して納得
できる答えを提供してくれない。
カレンはアメリカがそれぞれの民族が持つ文化の連合体への道を歩むことを望んでいたが、実際にはそうはならな
かった。そうならなかったのがアメリカという国のユニークさなのではないだろうか。多元主義を急進的に進めてそ
れぞれの民族が各々の文化を固持しすぎれば、アメリカはバラバラになってしまうだろう。しかし、 そうならないの
は、アメリカが持つ人々をひとつにまとめる求心力のよ、つなものが存在するからだとわたしは思う。
昔、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) に留学していた頃のことだが、住んでいたドミトリーの学生
のたまり場だったラウンジに一人の学生が飛び込んできて「わたしは今日アメリカ人になったI」と誇らしげに公言
したことがあった。彼女は一〇歳で両親とともに韓国から渡米し、その後アメリカ人になることを夢見てきたとのこ
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
386
とだった。周りのアメリカ人学生たちは、口々に「おめでとう!」と声をかけた。移民たちが自らの祖先の文化に誇
りを持ちつつも、アメリカ人になりたいと思わせる何かがアメリカにはあるのだろう。
また、学業を終えて帰国の日が近づいていたころのことである。住んでいたアパートへ修理に来たガス会社の人に
帰国することを話すと、何故アメリカに残らないのかと彼は大層驚いた。アメリカは誰にとっても素晴らしい所で、
みんなが住みたがる国なのだと彼は信じていた。
このような真摯で無邪気とも言えるアメリカ礼賛を草の根レベルで人々が持っていることで、アメリカという国は
まとまっていられるのだと思う。そこに、アメリカ人とは何か、アメリカとは何かを解く鍵があるのではないだろう
か。多元主義に基づく個々の民族の独自性の存在と同時に、様々に異なるアメリカ人を結びつける共通なものがある
のではないかとい、っことである。
アメリカの歴史学者ハイアムは、同化のモデルと多元主義のモデルを折衷して、より穏健的な「多元的統合(成目a 一 iss-.c
(3)
一 neegraEr.onご」という新しい立場を提唱している。これまでに提唱されてきたものの中では、このモデルが最も現実
を反映していると言えるかもしれない。
アメリカは、移民たちに自主的にアメリカの主流文化に同化するよ、っにしむけてきた。彼らは母国語を捨てるよう
に強いられることはなかったが、「郷に入っては郷に従え」を基本姿勢として、自ら英語を修得しアメリカ社会に溶け
込もうとしてきた。移民の二世代目である子どもは、外国生まれの一世代目の親よりも言語面のみならず、あらゆる
点でよりアメリカ的になった。このことは、旧世界で一般的だった子が親に従うという従来の親子関係の図式を覆す
ことに寄与したと言える。アメリカには常に新しい価値観が存在した。その新しい価値観と、古い慣習、考え方が生
み出す息苦しさからの解放、自由といったものが人々を惹き付けた一因であっただろう。また、その自由さが、ある
387
——アメリカ人とは何かについて考える——
いは自由なのだとい^’イメージが、アメリカをまとめる求心力の一つになっているのではないかと思う。
紙面の都合があるので別の機会に論じたいと思うが、アメリカにおける異民族•異人種間結婚の増加により人々が
生物学的に混ざり合い、その結果、人々のアイデンティティがさらに複雑化していることも忘れてはならない。前述
したように、ー九六五年の移民国籍法での出身国別人数割当廃止により差別的な要素が払拭され、アメリカ国内の多
様性はさらに進んだ。また、公民権運動以後はマイノリティに開かれた機会の向上のため、民族、人種の壁を超えて
人々が交流する場が飛躍的に増加した。それに加えて人々の平等意識が高まってきたことも、異民族・異人種間結婚
の増加の原因となっているだろう。
これはアメリカ社会で多元主義が市民権を得た結果とも言える。自らに自信を深めた人々の民族や人種の枠を超え
た人間同士の交流が増した結果、異民族•異人種間結婚が増えたからである。逆説的なことだが、民族集団の独自性
はそれに反比例して希薄化していくことになる。アメリカ社会の構成員の平等意識の高まりとそれがもたらす混ざり
合いの状態がさらに進展していくことが、多様化の進むアメリカ社会の中でアメリカ人を一つにまとめていくカとな
り得ると田5、つ。
前述したように、クレヴクールが「無差別な血の混ざり合い」の中からアメリカ人が生まれたと述べたことが、本
当の意味において今、起こりつつあるのではないだろうか。クレヴクールはその「混ざり合い」の中に黒人やアジア
人等の存在を含めていなかったと思われるが、今日のアメリカでは彼らも含めての混ざり合いが進みつつある。その
結果、アメリカ人の民族的、人種的な帰属が複雑になり、自らのエスニック・アイデンティティを一言では表現でき
ない人々が確実に増えている。そのことが、個々の人間あるいは民族がその独自性よりも共通部分に目を向けるとい
う傾向に拍車をかけることにつながってきているのではないかと思う。
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
388
V おわりに
アメリカ社会には、国家の成り立ちの性質上、歴史的に各民族集団が固有の文化を保持しようとする力学と、アメ
リカをひとつにまとめよ、っとする求心力という二つの相反するベクトルが絶えず存在した。その両者の間でバランス
をとることが必要になるが、そのバランスをどのようにとるかは、各民族集団によっても個人によっても異なる。こ
のバランスが全体としてうまく保たれているとき、アメリカ社会は最も輝き、力を発揮できるのではないだろうか。
このバランスの問題は、人間の地理的移動が活発化した現在、アメリカのように移民国家ではない国においても、程
度の差はあるかもしれないが重要な要素になってきている。イスラム教徒を例にとってみると、今日、世界各地の非
イスラム社会の中でのイスラム教徒集団の孤立化が問題になっている。二〇〇一年九月ーー日のアメリカ同時爆破テ
口事件以来、イスラム教過激主義者に対する反発が穏健なイスラム教徒にまで向けられるようになった。非イスラム
社会で生活するイスラム教徒たちは、自らのイスラム文化を保持しつつも、移民先の受け入れホストである非イスラ
ム社会への同化という、二つのベクトルの間でバランスをとる必要があるだろう。それに加えて、過激なイスラム原
理主義者たちに対して、アメリカを筆頭とした外部からの圧力ではなく、イスラム内部の穏健なイスラム教徒からの
内省的な提案が必要だと思う。民族意識の強い集団は外部からの声を聞く耳を持たないからである。
これを書きながら、恩師の故我妻洋先生のことを思い出していた。長期に及ぶアメリカ生活を終えて帰国なさった
先生は、わたしが先生と同じようにフルブライターとしてアメリカへ留学し、ph・D・を取得することを強く望んで下
さった。高等遊民のようだと先生に称された暢気なわたしの大学院生生活も一変し、怒濤のようなアメリカの大学院
389
——アメリカ人とは何かについて考える——
での留学生活が始まることになったが、幸いにも先生のご希望通りにできたことを嬉しく思う。留学への出発直前に、
先生は惜しくも亡くなられた。しかし、先生はわたしとアメリカの関係を語る上で忘れることのできない存在である。
ある時、UCLAの図書館には、自分よりも父である我妻榮先生の蔵書の方がまだ多いのだとぽつりとわたしにおっ
しやったことがあった。どこか偉大な父への尊敬の念が感じられた。法律の道へ進まれなかった我妻洋先生の弟子の
わたしが、今、法律を志す学生たちを教えていることに不思議な運命を感じる。先生がわたしの背中を押してくださっ
たよ、つに、わたしも法学部の学生たちが異文化への興味の扉を開けて自らの世界を広げ、世界へ羽ばくために尽力し
たいと思う。
善し悪しは別として英語はもはや世界言語となっており、それを使用することで自らの世界が飛躍的に拡大する。
わたしが若かった昔、スペインで出会ったクウエート人女性と夜を徹して語り合い、モロッコを一緒に旅したフラン
ス人女性と話し合えたのも、お互いの母国語ではない英語を使ってのことであった。学生たちには、言語を手段とし
て、究極的な目標をその背後にある文化の理解に置き、それを楽しめる所まで至って欲しいと思う。その先の判断は
各個人によって異なるだろうが、これまでの経験から、わたしは文化の違いを超えて様々な人々に共通する人間の本
性 (human naeure) の普遍性が存在するように感じている。
昨今は人間の地理的移動が激増し、地球上のあらゆる情報が瞬時に世界を駆け巡っている。共通の言語を介して交
流する機会も増え、数十年前に比べて様々な文化的背景を持つ人々の間の垣根が低くなり、人間としての共通部分が
強調されてきているように思う。そのような世界の流れに先んじて、アメリカは自らの社会の中で試行錯誤を繰り返
しながら様々な移民たちの間で折り合いをつけようとしてきた。アメリカの実験とも言えるようなこれまでの実践を
吟味しアメリカ人とは何かを考えることが、アメリカ人以外の我々にとっても有益であると思える日がいつか来るの
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
390
ではないだろうか。
注
(1) 一七六五年にフランスからアメリカへ農業経営者として移住したクレヴクールが一七八二年に書いた『アメリカ農夫からの
手紙』のニー通中の第三番目の手紙で、「アメリカ人とは何か」を論じたのが、この永遠なる問いかけの最初であると言われ
ている。彼はアメリカ独立戦争には反対であったが、アメリカ人とは、新しい原則、新しい考え、新しい意見に基づいて行動
する「新しい人間(a new man)」であると述べている。HHecsr sf・ John de crevecoeur1Lexers from an American
淨rms London: J.M, Denf^sons,1971】p?39168.)
(2) ー九七〇年には非ヒスパニック系白人が一億七〇〇〇万人で全人口の八三%を占めていたが、二〇一〇年の調査では、非ヒス
パニツク系白人が一億九七〇〇万人で全人口の六四%以下になった(実際は六三・七% 」筆者)。過去四〇年間でアメリカの人
口は一億六〇〇万人増加したが、その増加分の、つちの七四% (七八〇〇万人)はマイノリティ人口であるという。«ASMingwy
Population Grow%by Edward Glaeser) GHmp Professor of Economics Harvard unlversiey»The Nein szmey Aprilダ 22L (3) Interluniversiey consortium for POHrt-ical and Social Research】 Ann Arbor” Michigan (2009)によるデータ。 (4) Arthur Manp#From Immigration fo AccuPturatiionr m Making 4me’ZCR The Soci鬢 昌d CMSe 0fc+he Unifed suites»Liifher s・!jiie<一tkp ed こ Washington】 D-c:.Umfed Sfates slormaflon Agency】 Forum senes】 1987、pp・ 68—80. (5) 例えば、現在アメリカの大手銀行のひとつであるバンク・オブ・アメリカは元々の名称はバンク・オブ・イタリーであり、イ タリア系移民のための銀行としてー九〇四年にサンフランシスコに設立されたものである。 (6) sc+ewart G, CO5RrMildred Wiese cole) Mmorfsles and fhe American Promise: The conAicfof principlpnd practice. N.Y’ Harper 昔 Brothers】 publisher™1954>V160. (7) 一八六一年にロンドンで出版された、黒人女性ジェイコブスが書いた本を読むと当時の黒人のおかれた状況がよくわかる。 Harriet; Jacob? Incidents ぎ (he Life of p s~QA}e Girl ヽ VTHSS by HeTses】 N.Y•: Penguin Books) 2000, (8) ドイツ人は英語を解さず、排他的でかたまっていること (clannishness) にフランクリンは不信感を抱いていた。しかし、 彼は完全にドイツ人の入国を拒否した訳ではなく、より分散することとイギリス人と混ざり合うことを主張した。Maurice 391 ——アメリカ人とは何かについて考える—— R Davie” WoMd Immigration: With speeded RefeTencesfhe United SSLest N.Y•: The Macmillan company” 1949 (1936)“ p.36. (9) John Higham” strangers 多 (he Lpnd,: pasems of 4me3.ccm NaMssm 186011925. Mass’ Afheneum”1963】pp 3—1L Highamは歴史家でもNaMvismを定義する事は難しいとしている。 (10) Arthur Malm” op cirp.75, (11) Marcus Lee Hanse?The Irrvmigmnt in 4me3.ccm Hisfory。N.Y” Harper^Row) publisher5°194pp,132- (12) Newsweek日本版、二〇一〇、七月二八日、ジャン・レッシューの記事。 (13) 日野壽憲、「ロンドン同時爆破テロをめぐる英国イスラム事情」明海大学外国語学部論集、第一八集、二〇〇六参照。二〇〇 五年七月七日の自爆テロ犯がイスラム系英国人であった事が判明して以来、それまで人種差別主義者と呼ばれる事を恐れて黙っ ていた人々が、公然とイスラム住人の「不寛容」な姿勢を批判し始めたという。 (14) 一九世紀の最後の三〇年とーー〇世紀初頭のアメリカは進化論の国であったという。R・ホフスタタ—「アメリカの社会進化 思想」研究社、ー九七三。 (15) Benjamin FrankH?Obseruafums Concern3g the Increase OJ Peopling 0j countries】 復 c.(1751)»Bosfom priged ◎ Sold by s. Kneeland” Queen—screee”1755】pup (16) Op cic+・訳は筆者による。 (17J pressene Lyndon B・ Johnsorfs Remarks at fhe Signing of -he Immigrationwmp Liberty Island) New vbrKOcfober 3】 1965・ Lyndon Bames Johnson Library and Museum) Naxional Archives and Records Admsls賞%101I・ (18) Leonard B- GKCK=Types Dlsescc hrom Our Owru 3anz Boas on Jewisn IdenuEy and Assimilation ヽ^TnencaTl AnthTOPO~ogi^19823 84″ w- pp.545—565, (19) Mmon M, Gordon” 4 Ss0m&afs-7l in -Ames.ccm L 席e“ The Rede of Race»Religio? and Nafs-na~ 02.g号・ NY: Oxford university press】1964• pp.26127• (20) この語はゴードンではなく、コールによって案出されたものである。seewareG・ Cole and Mildred Wiese coyMmoriMes emd fhe American Promise: The Ctmfhcf of principle emd practice- NY” Harper &; Brothers publishers»19543 pp・ 1351140 • 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 392 (21) Gordon) op cirpp 84—159。 22) 〇P cirpp, 881890 (23) Lawrence w・ Levpe” The Opening 0f f he American MmABosgm Beacon press”19969p10 9, (24) op・ cirp•ーー0• (25) crevecoeur】 op・ elー・ p 43, (26) op, cirp.41. (27) Frederic Jackson Turner】77le 耳£??:$§•American Hisfory” N.Y•: Henry Hole and COJ 19203 p.23, (28) Gordon】 op・ cirpp 120-121• (29) David E” Nye】 Henrj/ Ford Algnortme IdeaHfiM N.Y.” Kgs.kae press)19792 p.71・フォードはアメリカの移民たちだ けではなく、世界中の人々の均質化(アングロ・サクソン化)をもメルティング・ポットの比喩の視野に入れていたようである。 (30) Jonathan schwarezLCHgry FbrdmMelfing por5oso FemsEei?edj Efhnic Grtrups m^e cit^Cwtt写 了 sf&esos孕 tmd POU3 Lexington” Heath Lexington Books»19719 pp・ 1911198・ (31) カレンはー九一五年に発表した論文を一九二四年出版の本に再録した。Horace M・Kalle?Cuぎre 3d Democracy§手e ur^ted, sfafes」The Group Psychology 0frt-he 4merzccm Peo5Zes) N.Y•: Bom and Llverlghr-1924. (32) Gordon” op, cirpp,140—144, (33) John Higham) Send These ~〇 Me” Jews ofheT Tmmzarasfs s Urban 4me»N.Y, Aeheneum-1.979
カテゴリー: 世界の歴史、関連
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米国の移民
https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/05000661/05000661_001_BUP_0.pdf2003年3月
日本貿易振興会
海外調査部
はじめに
米国は「移民の国」と言われる。それは、この国の始まりが、有史以前に北アジアから移住し
てきたアメリインディアンにあり、その後も、17世紀初めから19世紀後半までの欧州北部、お
よびアフリカからの移民、20世紀初頭までの欧州南部、東部からの移民、20世紀後半から増加
したメキシコや中南米などからのヒスパニックと呼ばれる移民、中国、日本といったアジアから
の移民など、常に移民の「波」が押し寄せているからであろう。2002年時点で、外国生まれの人
が人口に占める割合は11%を超えており、現在も米国は世界最大の移動人口受入国であると言え
る。
そのため、移民が米国政治、経済、社会に与える影響は大きい。米国の移民政策は、1790年に
帰化法が移民関係法として最初に制定され、その後、1882年に中国人排除法、1924年に移民規
制法(国籍法)、1952年に移民国籍法、1965年に移民法が制定され、2002年4月には司法省移
民帰化局(INS)の廃止を盛り込んだ移民制度改革法案が下院で可決されるなど、修正を重ねな
がら現在に至っている。
移民を労働力として歓迎する時代もあれば、排除しようとした時代もあった。また米国は、移
民を政治目的に用いることもある。現在も増え続けている移民を抜きにしては、現在の米国を理
解するのは難しい。
ジェトロ •ニューヨークでは、様々な文献に基づき、米国の移民の変遷、移民政策の歴史、移
民の影響について、報告書にとりまとめた。
本報告書が、米国の移民問題に関心を有する方々のご参考となれば幸いである。
2003年3月
日本貿易振興会(ジェトロ)
ニューヨーク•センター
海外調査部米州課
1
目次
はじめに
序章
1) メキシコ移民
2) 「移民国」米国の人気の源泉
3) 米国の移民の流れ
4) 移民政策の歴史(1)
5) 移民政策の歴史(2)
6) 移民の影響(1)
7) 移民の影響(2)
8) 移民の影響(3) : メキシコ移民とゲスト労働者
9) 日本人の移民
10) 世界の中の米国
付記:ロシア,ドイツ、日本
おわりに
2
序章
岩倉使節団の報告書『米欧回覧実記』はいたるところに明察を散りばめており、その米国編で
何度か移民に触れている。いわく、米国は独立した時わずか500万の人口だったのが、100年間
に7倍に膨らんだのは外国の移民が多かったためである。1820年から1870年までの間に、外国
からの移住者は750万人に達した。英国からが一番多く、ついでドイツ。国の形成の初めから奴
款をアフリカより輸入して使役したため、黒人も全体の7分の1に達する。中部には北米先住民
がおり、西部には清国人がいる。そこで使節団は、「人種ノボウ雑ナル、各種全備セリト謂モ可
ナリ」と報じ、米国は土地が広くて人が少ないから、「経国ノ業八殊二植民ニアリ」と断じた。
しかし、使節団がサンフランシスコを皮切りに米国を観察した1872年、既に西部では移民問
題が先鋭化していたことも見落とさなかった。それは今触れた清国人である。「黄金ヲ鑿タメニ」
やってきて、家産を起こし、帰国するものも多かったために、たくさんの人たちが争ってやって
きた。すべて広東、福建の人たちで、1870年の統計で既に4万9,310人を数え、サンフランシ
スコにはチャイナタウンもある。苦役を厭わず、低賃金を良しとするので、大半は地道ではある
が成功し、毎年本国送金だけで総計1,000万ドル余に達する(100名を越す使節団の当初10力
月予定の米欧視察旅行予算は50万ドルだった)。
だが、まさに苦役と低賃金を厭わないのが仇となって、白人労働者は自分たちの職場を奪うも
のとして清国人の「渡来」禁止を要求した。一方、清国人を「買奴套奪」(買収誘拐)してでも
米国に連れてくる雇い主にとって渡来禁止などもってのほかである。その賛否両論は「一大件」
であって、奴款制についての意見分裂で生じた南北戦争をも想起させる、うんぬん。
岩倉使節団が以上のことを観察したのは、「中国人排除法」が成立するちょうど10年前のこ
とだった。しかし、その当時でも、米国が移民ゆえに栄えていること、しかし、移民は従来の住
民に反感を起こす一方、移民を増やそうという勢力があること、そして、移民にとって本国送金
が大切なことを見取ったのである。
3
1.メキシコ移民
2001年9月I1日の米国テロ事件の結果、政治問題として、あるいはマスコミの取り上げる問
題として、急速に薄らいでしまったものが幾つかある。政治問題としては、例えば、事件のまさ
に前日、ラムズフェルド国防長官が国防省の体質改善(浪費対策、膨れ上がった人員の整理)を
急務として掲げていたのが、翌日の事件により、その問題は全く後退し、2003年度予算では20
年ぶりといわれる大幅予算増(14%)が要求されるに至った。
前面から後退してしまったもう一つの政治問題に、メキシコからの移民問題がある。ブッシュ
大統領と同じ2000年に大統領に選出されたビンセント•フォックス・メキシコ大統領が就任早々、
対米関係の重要案件の一つとして移民問題を取り上げたのに対し、ブッシュ大統領はこれに積極
的に応じた。両者の話し合いはとんとん拍子で進み、一時はブッシュ大統領が米国内のメキシコ
不法移民に対して大赦(amnesty)を実施する可能性まで示唆するに至った。もっとも、その後、
ブッシュ大統領は政治的考慮から慎重になり、テロ攻撃6日前のワシントンでのフォックス大統
領との会談では、メキシコから米国への移民の流れを「調整する」ための「原則」と「枠組み」
を作ることを発表するにとどまった。しかし、移民問題が米墨間の重要課題として検討され続け
る公算は大きかった。
ところが、テロ事件勃発とともに突然影が薄くなってしまった。その理由は、テロ事件の一因
が、弛緩した移民取り締まり政策にあるとされたためである。その点、メキシコ紙7?e加naの
「ブッシュ大統領が数百万の(不法)移民を合法化する案を支持するのを想像するのは困難にな
った」という判断は正しかったといえる。
口増えるメキシコ移民
フォックス墨大統領がメキシコ人の対米移民問題を重要政策案件として取り上げ、それにブッ
シュ大統領が積極的に応じた理由は幾つかある。例えば、公的な意味では、ブッシュ大統領の出
身州テキサスが、カリフォルニアの846万人についで多い507万人ものメキシコ移民を抱えてい
る1という「政治的な」理由2や、同大統領がスペイン語を話し、それだけメキシコに親近感を感
1州民比率では、カリフォルニアの25%に対し、テキサスは24%〇
2移民が米国の対外政策に与える影響については、Tony Smithタフツ大学政治学教授がForeign Attachments: The
Power of Ethnic Groups in the Making of American Foreign Policy (Harvard University Press, 2000)で論じている。ユダヤ系
米国人が中東政策に与える影響、それにマイアミ市を中心にしたフロリダのキューバ系米国人が対キューバ政策に与える
影響が、その典型的なものとして挙げられる。
4
じているという理由を挙げることができる。事実、ブッシュ大統領は米国大統領として定期的に
行うラジオ放送で、2001年5月に1度スペイン語で放送を行い、同放送を外国語で行った最初
の大統領となった。
しかし、最大の原因は、なんといっても、国全体の移民に占めるメキシコ移民3の多さである。
幾つか啜字を挙げて見よう(以下、センサス局にならって、移民の代わりに、「居住者(residents) J
という言葉を使うこともある)。
〇 2000年、米国におけるヒスパニックの人口は3,530万人、うちメキシコ系は2,100万人
で全体の58%を占めた。ヒスパニックとして次に大きなグループはプエルトリコ(9.6%)、
キューバ(3.5%)、ドミニカ(2.2%)、エルサルバドル(1.9%)、コロンビア(1.3%)
などとなっている4。1990年から2000年までの10年間に、メキシコ系米国人の数は700
万人増加した。
〇 2000年、「外国生まれ」の米国居住者は総数2,838万人、うち中南米生まれは1,448万
人で、半数を超えた。この伸びは目覚ましいものがある。1960年にはおよそ90万人で
全体の9 %だったのが、1990年には840万人で44%に達し、その10年後の2000年に
は過半数となった。
〇 「外国生まれ」の総数のうち、メキシコ生まれは784万人で全体の28%を占めた。これ
は、地域としてのアジア生まれの725万人を上回る。一国としてメキシコにつぐ中国(香
港と台湾を含む)は139万人で、メキシコのおよそ6分の1だった。
〇 1990年、メキシコ生まれの米国移民は430万人だった。これは、2000年までの10年間
に、実数で353万人、割合で82%増加したことを意味する。急増する中南米生まれの居
住者の中でもメキシコ生まれの伸びが72%対82%と高かった。そのため、中南米生まれ
に占めるメキシコの割合は1990年の51%から2000年の54%に増えた。
〇 中南米生まれの米国移民は、その大多数が幾つかの地域に固まっている。一番極端なの
はマイアミ地域で、ここでは外国生まれの移民のうち実に87%が中南米生まれの人たち
で構成されている5。その他、ロサンゼルス地域が61%、ニューヨーク地域が49%、シ
カゴ地域が47%、サンフランシスコ地域が34%となっている。
3センサス局では、「移民」という言葉の代わりに、「居住者(residents) Jという。
4 センサス局 Current Population Survey, May 20010 詳細は、たとえば、Latinos: Remaking America (University of California
Press, 2002), p.13.
5マイアミ空港では空港内アナウンスが英語とスペイン語でなされる。
5
〇 それら都市•地域で、外国生まれの移民のうちメキシコ生まれの比率が特に高いのは口
サンゼルス地域の45%、ついでシカゴ地域の40%である。州としてメキシコ生まれの居
住者が多いのはテキサス州で、メキシコ生まれの米国移民の46%がロサンゼルス地域と
テキサス州に住んでいる。
〇 1990年代、メキシコ系女性の出生率は、それ以外の人たちの平均の3倍に達し、カリフ
オルニア州の新生児の半数以上がメキシコ系女性によるものだった。また、カリフォル
二アのティーンエイジ出産(未婚出産)の3分の1はメキシコ系女性によるものである。
〇 2000年の不法外国人移民は850万人、その内450万人(53%)がメキシコ生まれだった。
〇 メキシコ系米国人の貧困率に対する寄与率は増加している。
ロメキシコ移民の特性
Hispanicという言葉はもともとスペインとポルトガルのある地域を指したが、「外国生まれ
の米国居住者」を含むスペイン語を主な言語とする国、または地域の人たち6を指す言葉として、
米国で一般化したのは比較的新しい。センサス局では、1980年と1990年に初めてHispanicsと
いう言葉を国勢調査で用いたが、その時はSpanish/Hispanicとしてスペイン系という言葉を併
記していた。それ以降のセンサス局定義でも、ヒスパニックはスペイン系、ポルトガル系を含む。
しかし、スペインとポルトガル系の移民が極めて少ないことから、一般的にヒスパニックといえ
ば、メキシコおよびカリブ海を含めた中南米諸国の出身者またはその子孫を指すようである7。
歴史を少し遡ると、ヒスパニックは、合衆国成立のもととなった英国清教徒の新大陸植民に先
行して米大陸に大掛かりな形でやってきて、これを「征服」した人たちである。その後、米国が
独立し、1803年の「ルイジアナ買収」8、1845年フロリダの合衆国編入、同年のテキサス合併
(annexation)ヽ1846〜1848年のメキシコ・米国戦争などで、多くのヒスパニック住民が米国
に吸収されたほか、1898年のスペイン•米国戦争、1910〜1920年のメキシコ革命、その他ので
きごとにより、米国におけるヒスパニックの存在を大きくした。
それでも、1993年センサス局が編纂した小冊子 We the American… Hispanic弱によると、
ヒスパニックが米国の国勢調査で最初に現れたのは1930年であり、その時「メキシコ人」とし
6必ずしもスペイン語を話すわけではない。
7脚注4で引いた著書では、ヒスパニックのかわりにラティノ Latinoという言葉を用いている。それは米国の移民問題で取り
上げられるこのグループの人たちの圧倒的な部分が中南米出身で、スペイン出身の人たちはヒスパニックの0.3%にすぎ
ないからだとしながらも、ラティノは「新しく、曖昧な発明」だと断っている。同著3ページ。
8その名にかかわらず、買収の対象となったのは、ミシシッピー河以西、西はロッキー山脈、北はカナダ国境にいたる広大
な地域のことをいい、現在はそこに13州が存在する。
9 http://www.census.gov/apsd/wepeople/we-2r.pdf
6
て数えられたのは130万人にすぎなかった。1950年には「スペイン系の姓を持つ人」を230万
人、1970年には「スペインの先祖を持つ人」として910万人を数えた。ところが、1990年の国
勢調査ではヒスパニックとして2,240万人を数えるに至り、それは当時の米国人口の9%にあた
った。2000年の数字は先に挙げたとおりである。
センサス局が2002年1月に公表した新しい分析、「中南米生まれの人たちの肖像A Profile of
the Nation’s Foreign-Born Population From Latin America」から、ヒスノヾニック、なかんず
く メキシコ系米国人の特徴を拾い出してみる。数字は特に断らない限り2000年のものである。
〇 中南米で生まれた人たち全体の帰化人(米国の市民権を取得した人)の比率は28%だっ
たのに対し、メキシコ生まれのそれは20%であった11。これに比べて、欧州生まれは52%、
アジアは47%、ヒスパニックのうちキューバが57%、カリブ海は47%であった。
〇 25歳以上のうち、高校またはそれ以上の教育を受けた者の割合は、ヒスパニック全体が
50%、南米系が80%、これに対してメキシコ系は34%だった。米国で生まれた人たち
(native)の平均は87%〇外国生まれ全体の平均は67%、アジア生まれの人たちの平均
は84%であった。メキシコ系は高校就学率が低く、しかも中途退学率が高い。
〇 労働市場に参加しているか、つまり、職に就いているかどうかでは、25歳から54歳まで
の女性では、ヒスパニック全体が63%、カリブ海が74%に対して、メキシコは55%〇
米国で生まれた人の平均は79%〇男性は、米国で生まれた人たちの平均と中南米生まれ
の人たちの違いはない。
〇 管理職または専門職についている人たちの割合を見ると、ヒスパニック全体では12%、
南米はカリブ海と同じく 23%、メキシコは6%〇米国で生まれた人たちの平均は31%〇
外国生まれの平均は25%、アジアは39%〇
〇 逆に、それ以外のサービス業、農業、手仕事などの職業では、ヒスパニック全体で71%、
南米はカリブ海と同じく 53%、カリブ海は52%に対して、メキシコは83%〇米国で生
まれた人たちの平均は38%であった。
〇 定職に就いている人の1999年の年間所得(中央値、以下同)は、ヒスパニック全体では
男性2万1,000ドル、女性1万7,200ドル、カリブ海は男性2万7,000ドル、女性2万
1,300ドル、南米は男性2万7,500ドル、女性2万3,100ドル、メキシコは男性1万9,200
10 http://www.census.gov/prod/2002pubs/cenbr01-2.pdf
11メキシコ移民の帰化率が低い理由は、メキシコ人が米国での滞在を一時的なものと見なし、出稼ぎ先と見なしたからだと
いわれる。それは1980年代まで続いたが、最近の移民はその傾向が急速に弱まり、移民すれば定住という方向に向かつ
ているとされる。
7
ドル、女性は1万5,100ドルであった。これに対して、米国生まれの平均は、男性は3万
7,500ドル、女性は2万6,700ドルであった。一方、アジア生まれの平均所得は5万1,400
ドルであった。
〇 世帯所得(1999年)は、ヒスパニック全体で2万9,400ドル、南米が4万500ドル、米
国で生まれた人たちの平均は4万1,400ドル(この項、メキシコの数字は出していない)。
〇 貧困率は1999年、ヒスパニック全体で22%、南米は12%、メキシコは26%だった。こ
れに対して米国で生まれた人たちの平均は11%〇外国生まれ全体の平均は17%、アジア
は13%であった。
〇 所帯者数では、ヒスパニック全体が3.72人で、米国で生まれた人たちの平均2.54人を大
きく上回ったが、メキシコはさらに両者を上回って4.21人だった。外国生まれ全体の平
均は3.26人、アジアは3.18人だった。
以上を表にすると次のようになる。数字は断らなければ%。
米国生まれ 外国生まれ ヒスパニック 南米 カリブ海 メキシコ
帰化率 – – 28 – 47 20
教育率 87 67 50 80 34
女性の就業率 79 – 63 – 74 55
管理職 31 25 12 23 23 6
サービス業 – – 71 53 52 83
年間所得 男性(ドル) 37,500 – 21,000 27,500 27,000 19,200- 100 – 56 73 72 51
年間所得 女性(ドル) 26,700 – 17,200 23,100 21,300 15,100 - 100 – 64 87 80 57
世帯所得(ドル) 41,400 – 29,400 40,500 – –
貧困率 11 17 22 12 – 26
・米国生まれの平均を100とした場合の割合(%)。
ロメキシコ移民の特殊性の背景
現在、外国生まれの米国移民の4分の1以上を占めるメキシコからの移民が、このように低所
得階層に集中してしまうのはなぜであろうか。その理由を、脂s血砂fonJtosZ・紙の記者Roberto Suro
8
の著書 Strangers Among Us: Latino Lives in a Changing America (Vintage Books,1999)の
見解に沿って考えて見よう吃
まず、メキシコが隣接国であるというほかに、メキシコ人が米国に入ってきた特異性がある。
過去100年ほどに限って見ると、先に触れたメキシコ革命で多大の農民が居住地からの離散を
余儀なくされたが、米国はこれらの人たちの多くを鉄道工事作業員として迎え入れた。その結果、
多数のメキシコ人が流れ込んできたが、これらの人達は、固まって住む傾向が特に強く、いわゆ
る「バリオ(barrios) Jを形成した。エスニック・グループとしてのメキシコ人に限った居住区
である(後には、ヒスパニックと呼ばれるようになる人たちも加わる)。そして、これらの人達
には、通常の移民とならず、季節労働者あるいは数年間ごとにメキシコに戻っては、また米国に
入ってくる定期労働者の形をとる者が多かった。そして、このやり方は、1942年、米国が戦争
による労働者不足を補うべく メキシコ農民をguest-workersとして法的に受け入れることにした
ことにより、米墨間の人口移動の大きな特徴となった。これら「ゲスト労働者」はbracerosと呼
ばれたが、このプログラムは:1964年まで続き、その時点でbracerosは450万人に達したとされ
る。メキシコ生まれで著名な教育家•労働運動家となったErnesto Garlarza (1905-1984)は、こ
のbraceroプログラムは根本的にメキシコの労働者を差別するものとして反対運動を展開したこ
とで名高い。
それから、1965年の移民法改正がある。この移民法改正については、この先詳しく触れるが、
これは米国における「第二の移民の波(the second immigration wave) Jを招来した。そして、
bracerosに並行して急増したメキシコ移民は、大きく二つの面で、米国社会で不利な立場に立た
されることになった。
一つは、バリオの存在であり、もう一つは、一般にメキシコ移民の教育水準が低いことである。
バリオは、新規移民が求める同じエスニック•グループの居住地としては、特にメキシコ人に
限られたものではない。イタリア人にせよ、ポルトガル人にせよ、そういう傾向を見せなかった
移民グループはないといってよく、最近の移民でそうした動きが目立つグループに韓国やベトナ
ムからの移民がある。しかし、普通、例えば20年といった一定期間を過ぎると、そうしたエス
ニック・グループから離れて米国社会に「同化」していく。ところが、バリオの場合は、そこか
ら離れるのが困難なようである。しかも、バリオは1970年代以来、大幅に拡大し続けている吃
12この本はAmazonでその一部を読むことができる。
http:/ / http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0679744568/qid=1024500806/sr=l~l/ re 仁 sr_l_l/002-5064597-9328027
13もちろん、bracerosの存在は別として、メキシコ移民の急増は過去30年のことであり、伝統的な「同化」の結果をうんぬん
するのは時期尚早だし、事実、同化の遅れをメキシコ移民について持ち出すには強い反対がある。
9
メキシコ移民の経済的、社会的な向上を悲観視させるものは、もう一つの問題である教育度の
低さである。それを端的に示すのが、インドその他のアジア系移民との比較だろう。インド移民
は、実に3分の2が大学卒であり、韓国、フィリピン、中国などの移民も米国平均を上回る高い
教育を受けた人たちであるのに対し、ヒスパニックの教育度は相対的にはるかに低く、エルサル
バドル、ドミニカ共和国からの移民では大学卒はわずかに8 %、メキシコとなるとその半分の4 %
となる。メキシコ移民のうち高校卒は4分の1をくだる。
この事態は、更に、現在の米国では昔と異なり、教育度の低い者はそこから抜け出すのが困難
な社会環境になっているという事実によっても、悲観的見方を強めることになっている。つまり、
① かつて低賃金から通常の賃金への移行を可能にした職種がなくなった。この結果、移民世
代は物売り、二世はブルー・カラー、三世になって専門職になるというpeddler一plumber
一 professionalという、かつての移民の世代的な賃金上昇が困難になった。
② 教育度の高い人と低い人の間の賃金格差が広がっている。
③ かつては移民の子弟を受け入れる教育制度が完備し、拡大を続けたが、現在は移民子弟を
受け入れる公立学校が衰退している。その典型的な例は、かつて教育天国と呼ばれたカリ
フォルニア州である。同州は住民投票により教育に対する税金の使用を大幅に規制したこ
とから、公立学校における教育の衰退が特に著しいとされている。
④ かって、移民支援に多大の貢献をした教会などの諸団体が弱体化、あるいは、移民が集中
する都市を離れてしまった。
口貧困と所得の低下
1980年から1994年の間に米国に移住したメキシコ人(不法移民を含む)の43%が米国の定
める「貧困」のカテゴリーにあった。National Research Counci!の!997年の全国調査によれば、
メキシコ移民は、移民グループの中でも最低の賃金の職種に就くが、その後、他のグループとの
賃金格差が広がっている。また、同年のカリフォルニア大学ロサンゼルス校の調査によると、30
年ほど米国に住んでいるメキシコ系米国人は、その期間に多少とも所得改善が見られるものの、
新規メキシコ移民の場合は、移住後に所得が低下しているという。
先に、メキシコ系移民のうち、25歳以上で高校卒以上の教育を受けた者の比率は、2000年に
34%としたが、1990年は44%だった。
10
- 「移民国」米国の人気の源泉
米国は「移民国」と言われる。しかし、「移民国」と言える国は米国に限られるわけではない。
今、インターネットでnations of immigrants (移民の国々)という表現を検索すると、まず出
てくるのが、『天の扉:移民政策と米国経済[Heaven’s Door: Immigration Policy and the
American Economy) 0』(Princeton University Press,1999)の著者として知られる George
Boijasハーバード大学教授の記事である。ボルハス教授は、その著作と同じく、この記事でも、
「米国も移民を許可するにあたっては基準や尺度を設定するべきである」と論じ、そういう基準
や尺度に基づく移民政策をとっている移民国としてカナダ、オーストラリア、ニュージーランド
を挙げている。これは200I年12月23日付The HW»あ切2物sよに出た記事である嗅
次に、1999年11月4日にBill Frist ±院議員(テネシー州、共和党)の、イスラエルと米国
の特別な関係をうたう演説が挙がり、その中で、両国を「移民国」としている。イスラエルと米
国は、一見、比較が困難なように見えながらも、かなり無理な移住をもとに、半ば強制的に国と
して誕生したという点で、移民国とはこういうものかと改めて考えさせられる点もある。
チリは最近、国立博物館で国の歴史の展示を行い、その中で先住民(アメリインディアン)を
大きく扱ったために保守派から非難されたというが、そのチリも移民国である。同国は先住民の
割合が現在3%で、これは米国の0.8%よりも大きいにもかかわらず、先住民との感情的な車L鬱
がある。その他、ブラジルやアルゼンチンといった南米の国々、キューバやハイチといった中米
の国々、更には、南アフリカ、リベリアも移民国である。
しかし、米国と言えば移民国というイメージが浮かび、移民国と言えばまず米国を考えるのは
なぜだろうか。別様に言えば、米国が移民にとってかほども人気が高いのはなぜだろうか。この
問いに対する答えは、温暖で変化に富む気候、広大な土地、豊富な資源とすれば、まず正解だろ
う。米国が、早くも1900年に、世界の製造力に占める比率で英国に大きく水を開けていた事実
は、ずばぬけた自然の恵みがあってこそ達成し得たものと考えられる吃 しかし、ここでは「政
治的な」面で二つの仮説を立ててみよう。
14 Heaven’s doorの意味するところについて、著者はBob Dylanの歌を引いている。新約聖書ルカ伝の関連で、何か
をする場合には、それ相当の心の準備をしておく必要があるという意味のようである。
15この記事を書いた2002年春時点では、Borjasの記事(および次に触れる記事)はウェブサイトの冒頭近くに現
れたが、その後その配置が変わったようである。ただし、Borjasのウェブサイトは幾つも存在する。
16 Paul Kennedy 著 77/eRなeowd Fa〃切7力 eGrem Powers (Random House,1987)に引く数字によると、1900 年、世界の
製造力に占める英国の比率は18.5%、米国は23.6%であった。日本はまだ数字に表れていない。p. 202.
11
一つは、植民地から早期に独立を獲得し、その後、その政治体制をさほど乱されることなく領
土の拡大に努めて成功したこと、もう一つは、独立に際し自由と平等をうたい、そうした理想の
追求者であり推進者であるという宣伝を行ったこと、そして、それを他の国の人たちが信じたこ
とである。
口独立と領土拡大
この二つの理由のうち、一番目の独立について言えば、同じ移民国のチリは:1812年、メキシ
コは1821年、ブラジルは1822年に独立しているので、米国の1776年にそれほど遅れているわ
けではない。しかし、これらの国々ではその後、内乱や政変があり、また領土の拡大はなく、メ
キシコなどの場合はかえって領土縮小に追いやられた。米国にも、国が真つ二つに割れて、その
片方が離反(secedeすなわち、別の国に分離)しようとした南北戦争があったが、これは離反を
認めようとしない側の勝利で阻止され、以来、それに似た国内紛争は生じていないa。
一方、「領土の拡大」という考えは、最近の歴史感覚からすれば、一見、米国には馴染まない
ようだが、建国時代の人たちやそれを受け継いだ人たちにとって、それは当然のことと考えられ
た。その背景には、新大陸植民地の独立がフランスと英国の世界を股にかけた覇権争いから生ま
れてきたという、いわば地政学的事情もあるが、時代感情として領土拡大は当然とみなされてい
た。それを如実に示す逸話がある。
ニューヨーク州のニックネームをEmpire Stateということはよく知られているが、ニューヨ
ーク市のニックネームもそれに準じてEmpire Cityという。その源を訪ねてみると、1784年、
この地域の港湾や水路を視察にきた植民地軍総司令官のジョージ・ワシントンが、「ここは『帝
国の首都(Seat of Empire)』と呼ぶにふさわしい」と発言したことに端を発しているという。
事実、ニューヨーク市は、米国の最初の首都となった。
しかし、それにも増して重要なものとして、白人、なかんずく「英語を話す」人たちの優越感
に基づいた、領土拡大を「正当かつ適切(right and proper) Jとする態度がある。それを最も
あらわにしたのが、有名な「明白な宿命(ManifestDestiny) Jという表現である。この表現を
最初に使ったのは弁護士にしてジャーナリストのJohn L. O’Sullivan (1813-95)で、1845年7
月、自分の主宰する雑誌『米国誌と民主評論United States Magazine and Democratic Review§
‘7ここで、日本では「南北戦争」として知られる相克は、米国では普通「内乱The Civil WarJと呼ばれることを
記しておきたい。「内乱」は離反を認めようとしなかった側のつけた名称である。それに対して、離反しようと
した側では、つい20〜30年前まで、同じ内紛を「南部独立のための戦争War for Southern IndependenceJと呼び習
わしていた。これは、ジェファソンの起草になる独立宣言に基づき、北部諸州との「政治的結束を解消dissolve the
political bands!しようとして戦争になったとの考えがあるからである。
12
にテキサス合併に対する反対を止めよと呼びかける記事を書き、その中で、英国とフランスは、
「われらに託された自由という偉大な実験の発展と、自治の連邦体制発展のために、神の摂理が
われらに与えた、この大陸全体に広がり、これを所有する明白な宿命の権利」を阻害しようとし
ていると述べた18。
もちろん、領土拡大の意図はオサリヴァンに始まったわけではなく、米国のサイズを一挙に倍
増した1803年のルイジアナ購入のほか、1818年には、名目上スペイン領のフロリダを、事実上
乗つ取っていた(連邦編入は:1845年)。「明白な運命」が米国西進の掛け声となり、ついには
太平洋をすら渡ったことは、その後の歴史が示す通りである。ちなみに、岩倉使節団はペリー提
督の日本派遣を遠大な国策として賞賛した。
口宣伝と同調
次に、米国は、建国の理想として自由と平等をうたい、それを喧伝し、自分でも信じた。先に
引いたオサリヴァンなどはその典型例で、米国はその成り立ちと理想のゆえに、拡大を続ける権
利があるとの見方を若い時から標榜した。それと同時に、このような見方に賛同しようとする雰
囲気が他の国々にもあった。
独立宣言は、「すべて人間は平等に創られ、その創造主により幾つか譲渡不能の権利
(unalienable rights)を付与され、それら権利の中には生命と自由と幸福の追求があるという真
実を自明のこととする」と高らかに謳いあげたが、以後、米国はこれを根本理想として信奉し、
喧伝したのである。
もちろん、独立宣言の冒頭で謳う「政治的結束の解消」を英国政府が認めようとしなかったよ
うに、現実が自由と平等の理想に反するものであったことも「自明」であって、その最悪の例と
して奴款制度を挙げることができる。奴款制度のうちでもプランテーションのそれは、『大英百
科事典』が、「かつて作り出された制度の中でも最も残酷なもの」と呼ぶ制度で、それは、1865
年に南北戦争が終わって憲法修正第13条で禁止されるまで続けられ、その結果、米国は当時の
先進国の中で奴款制度を最後まで続けた。当時先進国の間で後進国と見なされたロシアですら、
1863年に農奴解放を実施している。
そのような現実との矛盾にもかかわらず、米国は自由と平等の地であるというイメージが根付
くことになった。今の言葉でいえば自己「神話化」の色彩が強いのだが、似たような神話化の手
“この発言は幾つかのサイトに掲載されているが、コーネル大学のサイトが、元の雑誌を1ページずつ写真で再
現しており、一番原文に正確である。
13
続きは、1620年、現在のマサチューセッツにたどりついて新大陸における「最初の半恒久的な
植民定住者」となった、いわゆるPilgrim Fathersについてもいえる。
Pilgrim Fathersは、一般に、「信教の自由(freedom of worship) Jを求めて新大陸にやって
きた人たちというふうに考えられている。しかし、実際には、Mayflower号で新大陸にやってき
た人たちのうち宗教を移住の理由とした人は一部であった。そして、その一部の人たちについて
も、「信教の自由」を云々することは正確でない。逆に信教の自由を封じる環境を求めるための
移住であったと言った方が正しいからである。
Mayflower号の宗教関係者は清教徒の中でも過激な分離派で、英国での迫害が厳しくなるとと
もに、その一部はライデンに移住した。ライデンは当時、欧州でも特に宗教的に寛容な町であっ
たが、分離派にとってそれはかえって仇になった。若者などが宗教的に寛容な雰囲気に溶け込み、
教理から離れ始めたからである。同時に、ライデンの生活も楽ではなかった。従って、新大陸へ
の移住を決めたのは、一つには孤立した状態で教理を厳守する小さな団体を作るためであり、も
う一つは生活の向上であった。
新大陸移住の動機を「信教の自由」に求める考えについて、英国の小説家D. H・ ロ ーレンス
(1885-1930)は『古典米文学の研究Studies in Classic American Literature§において、時代も
1700年前後になると、新大陸よりも英国の方がはるかに宗教的に自由だったと皮肉っている。
口外国人による礼賛
この国を自由の地として国外で喧伝するのに多大の役割を果たした最初の人が外国人であった
ことは面白い。もっとも、当時は現在ほど国籍を強く意識しなかったことは留意しておかなけれ
ばならないのだが。
くだんの人は Michel-Guillaume Hector St. John Crevecoeur (17354813)という。フランス
に生まれ、19歳のときに英国にわたり、英国の自由主義の礼賛者となった。当初新大陸にやっ
てきたのはフレンチ・インディアン戦争(いわゆる七年戦争の米国の局面)にフランス兵士とし
て参加するためで、1759年フランスが敗北するとともに連隊を辞めさせられて、ニューヨーク
に移住、ジョージ三世支配のイギリス国民となった。Hector St. Johnという英国風の名前を採
用したのはその時だという。その後、地図製作者兼測量士として米国各地を巡った。1769年、
ニューヨーク市の北西部にあるオレンジ郡に落ちついて農業に従事、独立戦争が始まると、英国
側を支持する植民地生まれの妻の家族と、植民地独立派の友人知己との間に挟まれ苦境に立ち、
どちらからもつまはじきを食ってニューヨーク市に逃れた。そこで英国軍につかまって投獄され、
数カ月間の牢獄生活のあと、ようやく1780年本国のフランスに戻る。
14
クレヴケールが米国礼賛の『米国農夫の手紙Letters from an American Farmer』(原文英語)
を出したのは、2年後の1782年のことである。独立戦争は1775年に始まり、終わったのは1783
年だから、同書の出版は戦争の最中に行われたことになる。しかも、出版したのは、礼賛する国
には敵国の首都ロンドンであった。これは、昨今の考えからすれば不可能なようであるが、敵国
出版が可能であったのには二つの理由がある。一つは、英国人の有力者の中には植民地の独立戦
争を支持する人たちもいて、クレヴケールがその人たちの援護を受けたことである。
もう一つは、啓蒙主義18世紀の欧州の気風である。当時は、国境があってないような状態で
あり、文化人•教養人の間では、国籍に関係なく、戦争のさなかでもおおっぴらな交流が続けら
れた時代であった。
そうした機運の中で、『米国農夫の手紙』はベストセラーになり、続く 2年間で5カ国語に訳
されてクレヴケールを一躍有名にし、当時公使としてパリに駐在していたベンジャミン・フラン
クリンなど米国の政治的要人と知り合うきっかけともなった。また、この本のおかげで科学院会
員にも選出された。
1784年になると、前年戦争に勝って独立を得た米国に、フランクリンの後押しを受け、フラ
ンス公使として赴任する。4年ぶりに戻った新大陸では、北米先住民の襲撃で家は焼かれ、妻は
殺され、米国に残した二人の子供は離散していることが分かる。それでも、公使を勤めるかたわ
ら、米仏間の小包配達サービス会社を創立、経営した。その後2年間欧州で休暇を過ごし、1790
年に米国公使職から召還され、それ以後はフランスとドイツで過ごし、死ぬまで再び米国に戻る
ことはなかったという也
□米国は人種のるつぼ
『米国農夫の手紙』(後に増補し、自らフランス語に訳した)は、米国をあまりにも理想郷と
して描いたために、先にふれたD.H・ ローレンスに茶化されることになるが、その影響力は大き
く、この本を読んで直ちに新大陸移住を決意して実施した人が数多くいたといわれている。
“伝記の概要は、Susan Manning 編 Crevecoeur: Letters from an American Farmer (Oxford University Press,1997), pp. ix-x
からとった。同書の指摘によれば、クレヴェケールの人生には曖昧な部分が多く、フレンチ・インディアン戦争、
米国独立戦争の両方において、クレヴェケールの忠誠心がどこにあったのかが不明なのが、本人のせいなのか、
全てが流動的だった時代のせいなのか、はっきりしないという。Manningの本は『米国農夫の手紙』を主体とす
るが、Gay Wilson Allen と Roger Asselineau An American Farmer: The Life of St. John de Crevecoeur (Penguin Books,
1987)は伝記のみを扱う。 、 ‘
15
同書に収めた12の「手紙」(実際は長いエッセイ)のうち第三は、「米国人とは何か?(What
is an American?) Jと題している。その初めの部分から、ごく 一部を個条書きにしてみると次の
ようになる。
① 啓蒙された英国人がこの地にくると、同朋がこの地に作り出したものに喜びを禁じえな
いだろう。かれらは悲惨と欠乏を逃れてここにやってきたに違いないのだが、ここにも
たらしたものは、英国の精髄(national genius)ともいうべき自由(liberty)であった。
そして、ここではそれが新たなやり方で発展しているのを見ることができる。
② ほんの1〇〇年前には、未開で、鬱蒼と木に覆われ、開墾地などなかったところに、現在
では、美しい都市、ゆったりした村、広大な耕地があり、そして、小奇麗な家屋、立派
な道路、果樹園、放牧地、橋のある広大な国がある。この新大陸にやってくる人は、こ
れまで見てきたものとは異なる近代社会に遭遇する。欧州は全てのものを所有する大地
主と何も持たない群集でできているが、ここはそうではない。貴族も、宮廷も、王も、
大僧正もおらず、教会の支配もない。目立った少数の人たちに目に見えない権力を与え
ることもない。欧州と異なり、富める者と貧しい者との差は大きくない。政府は穏やか
であって、その権威を恐れる必要はない。
③ 君主のために苦役し、餓え、血を流す必要はない。ここは世界に現在存在する最も完全
な社会である (we are the most perfect society now existing in the world)。ここ では人
間は自由である(here man is free)。
④ ここの住人は、英国、スコットランド、アイルランド、フランス、オランダ、ドイツ、
スウェーデンからやってきた人たちである。しかし、その3分の2は無国籍と言ってよ
い。なぜなら、果てもなくさ迷い、働いても餓え、人生が絶え間なき苦痛と極貧でしか
ない人たちは、英国にせよ他のいかなる王国にせよ、それを自分の国と呼ぶことはでき
ないからである。
⑤ ところが、そうした人たちも、ここにやってくるとともに、全てが再生した。新しい法
律、生活様式、社会体制がある。ここで彼らは人間になった。彼らは欧州では無益な植
物であった。所詮、国とは土地とパンと保護と、存在感を与えるものを指す。「パンあ
るところ故郷ありUbi panis ibi patriajというのがすべての移民のモットーである。
⑥ では、米国人 つまり「この新しい人間(thisnewman) Jとは何なのか。彼は欧州人
であるか欧州人の子孫である。ここには他の国では絶対に見られない血の混合がある。
祖父が英国人、妻がオランダ人、息子がフランス人と結婚しているといった類の例は実
に多い。米国人とは、古い偏見としきたりとを(出身国に)置き去り、自ら受け入れた
16
新しい生活様式と新たに従うことになった政府、そして新しく持つことになった地位か
ら、新しい考え方を受け取る人である。
⑦ ここでは、「全ての国々の人たちは溶け合って新種の人間になり(individuals of all nations
are melted into a new race of men) J、その労働と子孫とがいつか世界に大きな変化を
もたらすことになる2〇。
口米国人とは何か
上記⑥の後半、「米国人とは〜」は、よく引用される部分である。それは、米国人を「欧州人
であるか、欧州人の子孫である」として、北米先住民のみならず、外部からやってきた人たちと
しては当時人口の5分の1を占めていた黒人を無視したことが、後世で批判される原因となった
からだ。事実、米国人といえば、自動的に白人を考える態度は現在でもきわめて根強い。
また、⑦は別の意味で注目される。米国を人種の「増塘(るつぼ)Jと呼んだのは、イギリス
の作家Israel Zangwill(18641926)であって、その1908年の劇てるつぼThe Melting Pot§の
登場人物の一人に、「米国は、欧州の全ての人種が溶けて新たな形のものとなっている神の湯だ
まりであり、偉大なるつぼである(America is God’s Crucible, the great Melting Pot where all the
races of Europe are melting and re-forming) Jと言わせた時だとされているが、クレヴケール
は100年以上も前にそのような考えを明らかにしていたからである。もっとも、ザングウィルは
クレヴケールの著作を読んでいたのかもしれない。
ただし、クレヴケールもザングウィルも、現在の多文化主義(multiculturalism)の観点から
すれば欧州中心主義(Eurocentrism)であって、これは、「政治的に正しくない(politically
incorrect) J。クレヴケールは、北米先住民と黒人をそれなりに共感をもって観察していながら、
欧州人に同化できると考えるところまではいかなかったようであるし、一方、ザングウィルは、
南北戦争とその結末を十分に知っていながら、黒人を「るつぼ」の中に加えることは思いっかな
かったようである。
□トクヴィル、ファルカス
もっとも、クレヴケールのことを知っている人は米国でも少ないし、また、米国が人類の「る
つぼ」と言われていることを知っている人でも、それが英国のシオニストによる劇作中の発言で
20 Letters from an American Farmerはインターネットでも読むことができる。
http: //xroads. Virginia. edu/~HYPER/CRE V/home. html
17
あったことを知っている人は少ない。しかし、外国人として米国のことを詳しく分析した人とし
て、Alexis de Tocqueville (1805-59) 21のことを知らない人はいないと思われる。
フランスの貴族トクヴィルは、フランスの政治形態の改革を考えるため、1831年に米国に9
カ月滞在、1835年に『米国の民主主義De la Democratic (英訳ではDemocracy in America)』
を出版した。これは、5年後に出版した部分をもって完結するのだが、その前半に相当する部分
は、出版後2、3年内に『米国農夫の手紙』と同様に有名になり、その英訳が英国で出版された
ほか、ベルギー、ドイツ、スペイン、ハンガリー、デンマーク、およびスウェーデン語に訳され
た。また、本家本元の米国でも、間もなく「古典」として受け入れられた。
トクヴィルの民主主義に対する考え方は、『米国の民主主義』が完結する前に有名になった前
半と、名声を勝ち得たあとに完結を見た後半とでは異なっており、後半では民主主義と自由(liberty)
の行方についてかなり慎重な見方を出しているようだが、同書は、根本的には、米国を自由の実
験場所として賛辞を呈する形になっている。その結果、『米国農夫の手紙』が:18世紀末に新大
陸移住に対する関心を煽ったとすれば、『米国の民主主義は』は19世紀中葉に同様の効果をあ
げたと思われる。
もちろん、米国を「偽善の国」としてけなす外国人もいたが、賛辞を呈した人として、もうー
人、トクヴィルの同時代人であったハンガリー作家AlexanderBoloniFarkas (生没年不明)22を
挙げておこう。トクヴィルが自国の政治体制の将来を考える手がかりを得るため米国の観察にや
ってきた <とすれば、ファルカスは自国の封建的体制を変えるという明確な意図をもって米国を旅 行した改革者であった。そのためであろう、1834年に出した『北米の旅Journey in North America^ は、『米国の民主主義』とは比較にならないくらい米国を理想郷として浪漫的に描写していると いう。そして、当時のハンガリーでは前代未聞の2,000部が販売されたそうである。 もっとも、移民の趨勢が、そうした著述物によってどれほど影響されるのかは推測しにくい。 それでも、ここに取り上げた3冊の本が、米国をこれまで存在しなかった新しい国として描き、 いずれもベストセラーになったことは面白い。 21Tocquevilleについてはさすがにウェブサイトが多い。その一つは著書のみならず、当時の米国がどのようなも のであったかを説明しようとするものである。http://xroads.virginia.edu/~HYPER/DETOC/home.html 22 http://xroads.virginia.edu/~HYPER/DETOC/europeans/biography.html 18 3.米国の移民の流れ 1965年の移民法に起因する現在の移民の増大は、移民の時期をどこまで広げるかによって、 第4の波とも、第2の波ともいわれる。 有史以前に遡ると、米国では通常インディアン(現在、正しいとされる用語ではNative Americans)と呼ばれ、また、特に南北両米大陸の先住民を指す時にはアメリインディアンと呼 ばれる人たちが北アジアから大々的に移住してきたのは、およそ1万3000年ほど前だったとさ れる(20世紀初頭までは、その移住はせいぜい3000年か4000年前であったとされた)。それ と前後して、北極の雪原を渡って欧州からやってきた人たちもいたようだが、その数は、北アジ アからの移動ほどではなかったというのが、現在の一般的な見方のようだ。 アメリインディアンについて、最近論争の的になっているのが、1492年、いわゆるコロンブ スの「米州大陸発見」当時、あるいはそれ以前、どれほどの数が存在したのかという問題である。 つまり、米国では、Pilgrim Fathersがやってきたころは北米先住民が明らかに少なかったこと から、長年、「北米先住民は広大な土地に点在」というのが定説であった。それを「確認」する ことになったのが、1910年、スミスソニアン博物館の著名な民俗学者James Mooneyによる「北 米の人口は115万人」という数字であった。 ところが、1966年、Henry Dobynsという文化人類学者が、南北米州大陸の人口は9,000万か ら1億1,200万(つまり、当時の欧州を凌駕する人口)だったという説を出して「定説」を揺る がした。以来、人口は少なかったとする「少数派」と、多かったとする「多数派」の間に大きな 亀裂が生じているという。 ロアメリインディアン もし「多数派」の意見が正しいとすれば、英国人による北米大陸の定住が本格的に始まったこ ろ、なぜアメリインディアンの数が少なかったのかという問題が出てくる。それは、それ以前に いろんな目的で新大陸にやってきたスペイン人、ポルトガル人、イタリア人、英国人などが、新 大陸には免疫性のなかった様々な病原菌(天然痘、麻疹、インフルエンザ、チフス)をもたらし、 そのためアメリインディアンが数度にわたって壊滅的な人口減を強いられたからだという。 19 ついでながら、そうした説を出す学者によると、当時のアメリインディアンは、都市生活や公 共衛生の面では、欧州人よりもはるかに優れていたともいう(The Atlantic Month敏2002年3 月号掲載のCharlesC. Mannの記事“1491”は、これらの学説をかみ合わせる形で扱っている23)。 ところで、最近、米州大陸における移民を考える場合に、有史以前の先住民を対象にする場合 が増えているのは、アメリインディアンについての考え方そのものが変化し、人間と生態学との 関連などが大きく取り上げられるようになったからである。つまり、例えば、米州大陸には少数 の人しか住んでいなかったという説を採れば、欧州からの移民が来る前の米国の生態系は原始的 な(すなわち、理想的な)状態に近い自然だったという想定が成り立つ。しかし、もし多数の人 が住んでいたとすれば、自然と人間との関係が、現在とそれほど異なっていなかったのではない かということになる。つまり、人間は自然を利用する形で自然と「共存していた」ことになり、 そうなると、環境保護主義者のいう、「自然はできるだけ自然のままにしておくのがよい」とい う考えも、修正が必要であろうという。 いずれにせよ、欧州からの移民が増えるとともに北米先住民は圧迫され、19世紀には北米先 住民掃討戦が行われた。それが北米先住民人口にどのような影響を与えたのか、1910年、セン サス局が「初めてまじめな」北米先住民の人口調査を行った時には、その数はわずかに26万人 だったという。 他方、欧州の移民は英国を筆頭に欧州北部(NorthernEurope、英国を含む)から陸続と行わ れ、1700年までには25万の移民が米東海岸地域に定着、およそ2世紀後の1890年までには、 そうした移民とその子孫は5,000万人以上に達したとされる。ちなみに、その年の米国の総人口 は 6,300 万人であった(Statistical Abstract of the United States)。 ロ奴崇東制度と黒人 一方、強制移民ともいうべき奴款取引は、17世紀から18世紀を通じて隆盛だった。奴款制度 には、特に英国で人道的な観点から反対が高まり、米国は英国の要求に応じて、奴款貿易は英国 ともども1808年に禁止した。しかし、奴款とその子孫の人口は、:1850年には400万人に達した とされている。同年、米国の総人口は2,320万人というから、当時米国の人口の6人に1人が奴 またはその子孫だったことになる。南部諸州では、白人と奴款の比率5対2だった24。 23 http://www.theatlantic.com/issues/2002/03/mann.htmこの月刊誌の記事はすべてInternetで読むことができる(無料)。 24 James McPherson: “Could the South Have Won?” 2002 年 6 月13 日付 The New York Review of Books. http://www.nybooks.com/articles/15481 20 米国は、奴款制度そのものは南北戦争の終結後まで廃止しなかったばかりでなく、奴款を違憲 とした後ですら隔離政策など差別待遇を続け、法制による差別待遇の全面的な禁止は、1964年 公民権法の成立までまたなければならなかった。 奴款制度と、その後、長く続いた差別待遇による後遺症は大きく、ここ何年かは、それに対す る賠償問題が論じられていたが、2002年3月26日、ついに、賠償を求める米国初の訴訟が行わ れた。訴訟で名指しされた3社は保険会社のAetna,鉄道会社のCSX、運輸会社のFleet Boston で、いずれもその前身が奴款取引に関わったか、奴線労働を用いたという。これから先、他の企 業も加えられるとされる0 訴訟の形式は奴款の子孫3,500万人を代表するという集団代表訴訟(class action suit)であ る。賠償額は示していないが、奴款労働に対する対価は、現在の額にすれば1兆4,000億ドルに なるという。原告は、マンハッタン・ロースクール卒業生で36歳のDeadria Farmer-Paellmann、 この訴訟25を実現するために5年間の調査を行ったという。 3月31日には、ハーバード・ロースクールの教授で(奴翻賠償調整委員会(Reparations Coordinating Committee) co-chairman である Charles Ogletree が The New York Times 紙に 一文を寄稿し、賠償調整委員会は、この秋、対象に政府を含む「広範な賠償訴訟(awide-ranging reparations lawsuits) Jを行うことを明らかにした26。 奴款制度に対する賠償は、一見突拍子もない要求であるように思われるかもしれないが、!980 年代には第二次大戦中の日系人および日本人在住者の強制収容に対する賠償が行われ、最近はナ チスによる強制労働に対する賠償が成立している。もちろん、奴款制度の賠償訴訟は、制度自体 は、少なくとも憲法上は、140年ほども前に廃止されたこと、また、現実の生存者がいないこと などの理由から、黒人の間にもその意味合いを疑わしいとする人が多いが、Ogletree教授は、こ の訴訟の一つの意味は法廷議論を通じて真実を発見していくことであるとしている。 ロ特異な黒人の立場 このように書いてきて、黒人の置かれた特異な立場に気付く。 米国では、かなり以前から国勢調査で人種の区分をしている。それは国政の必要に基づくもの だろうが、例えば、1997年制定の連邦規準によれば、国勢調査では最低5種類の人種区分をす ることになっている。白人、黒人またはアフリカ系米国人、アメリカン・インディアンまたはア 25 http://news.findlaw.com/cnn/docs/slavery/ホllmnfltO32602cmp.pdf 26 http://www.africana.com/DailyArticles/index_20010828_1.htm 21 ラスカ・ネイティブ、アジア人、ネイティブ・ハワイアンまたはその他の太平洋島!¢人がそれで ある。 こうした人種区分が、無考えに移民論に持ち出される。例えば、次の描写がある。1965年の 移民法で、従来の国別移民制限を撤廃し、親類が米国にいるかどうかを重要基準とした結果生じ た変化を述べる部分である。 1950年代、合法移民の3分の2が欧州またはカナダから、4分の1が中南米から、そし てわずか6 %がアジアからやってきた。1990年代になると、欧州またはカナダからやって くる人はわずか17%に落ち、中南米から来る人は全体の約半分に、そして30%がアジアか らやってきた。 この変化は、移民と、米国人口の民族および人種的な構成との関連について多大の懸念 を生み出すことになった。すなわち、1970年、人口の5%がヒスパニック、1%がアジア 系、12%が黒人であった。ところが、最近の予測によると、(現状が続けば)2050年まで には、米国の人口は、26%がヒスパニック、8%がアジア系、14%が黒人になるという。 これは、先に触れた『天の扉』の一節(p.9)だが、移民の出身地域の変化により米国の人口 構成が変化することを論じる分には問題ないと思われるものの、ここに黒人を入れるのは正当性 を欠くように思われる。なぜなら、「黒人移民」を単にアフリカからの人たちと仮定した場合、 過去2世紀間の黒人移民は総数65万人であって、日本からの移民52万人を少し上回るにすぎな い。とすれば、著者ボルハスが;!2%や14%という数字を挙げる場合に考えているのは、大半、 1808年に奴款貿易が禁止される前に米国に来た黒人の子孫で、現在問題にされている移民とは ほとんど関係がない。そうした時に、移民による人口構成の変化に黒人を含めるのは、やはり黒 人を「当然の米国人」ではないという考えがあるような感じを与えるのである。 ロ第4または第2の移民の波 以上のように見ると、現在、米国と呼ばれる土地への移民は、第1の波として有史前の北アジ アから、次いで第2の波として17世紀初めから1880年ころまでの欧州北部およびアフリカから のそれがあった。第3は、その後40年間ほどの期間で、欧州北部からの移民がその勢いを弱め るのにとって代わるように増え始めた欧州南部と東部からの移民の波である。そして、1965年 以来のヒスパニックとアジアからの移民の急増を第4の波という。ただし、有史以前や19世紀 中葉以前を無視すれば、ここ30年ほどの移民増は第2の波となる(この部分の幾つかの点は、 22 200I年11月 29 日付 The New York Review of Books 誌掲載の Christopher Jencks の記事「誰 が入国を認められるべき力ゝ“Who Should Get in?”」に基づく 27)。 そこで、話を先に進める前に、1861年以来の米国移民の変遷を見るべく、10年ごとの移民数 を調べてみよう 〇 次表の数字は、2000Statistical Yearbook of the Immigration and Naturalization 飼v/ceの表1および表2に基づく 28。地域は欧州、アジア、米国の3地域と、国はそれら地域で 移民の多い国を選んだ。ただし、日本は例外。 米国移民の変遷:1861〜1910年 1861-70 1871-80 1881-90 18911900 190110 欧少|、| 2,0665,141 2,271,925 4,735,484 3,555,352 8,056,040 オーストリア・ハンガリー 7,800 72,969 353,719 592,707 2,145,266 ドイツ 951,667 718,182 1,452,970 505,152 341,498 アイルランド 435,77827 28 29 30 * * 33 436,871 655,482 388,416 339,065 イタリア 11,725 55,759 307,309 651,893 2,045,877 スウェーデン3〇 一 115,922 391,776 226,266 249,534 ソ連31 2,512 39,284 213,282 505,290 1,597,306 英国 606.896 548,043 807,357 271,538 525,950 アジア 64,759 124,160 69,942 74,862 323,543 中国 64,301 123,201 61,711 14,799 20,605 日本 186 149 2,270 25,94232 129,797 米州33 166,607 404,044 426,967 38,972 361,888 カナダ 153,878 383,640 393,304 3,311 179,226 メキシコ 2,191 5,162 1,913 971 49,642 総数 2,314,824 2,812,191 5,246,614 3,687,564 8,795,386 27 http V/www. nybooks. com/articles/14868 28 http://www. ins. usdoj. gov/graphics/about ins/stat i st ics/Yearbook2000. pdf 29アイルランドは、プロテスタントとカトリックの間の抗争と1846-51年の有名な「ジャガイモ飢饉」の結果、 200万人が国外に流出した。米国への移民は、1841〜50年の間に78万719人となって、その前の10年間の3倍 以上に跳ね上がった。続いて!851-60年の間に91万4,119人となって、アイルランドの対米移民は早くもこの 時期にピークに達した。 30 ノルウェーとスウェーデンの移民は1871年まで別々に記録されなかった。この10年間の両国の移民総数は10 万9, 298人であった。 31ソ連は1917年まで存在せず、1991年に崩壊したが、便宜上このように区分してある。 3219世紀最後の10年は日本からの対米移民が本格化した期間だが、本格化して間もない1908年には日本からの 移民を制限する日米紳士協定が成立している。この期間は、アジア諸国では中国からの移民が急減したのに対し、 トルコからの移民が急増した。 33「米州」は米国を除く「南北米州大陸」を指す。陸を伝って米国に移住をした人たちは、1908年まで数えず、 それ以前のカナダとメキシコからの移住者は海港から入ってきた人たちのみを数えてある。1892年から1903年 の間は、船室でやってきて移住した人たちは移民とは見なさなかったという。裕福な人たちを特別扱いした。 23 米国移民の変遷:1911-1960年 1911-20 1921-30 1931-40 1941-50 1951-60 欧少|、| 4,321,887 2,463,194 347,566 621,147 1,325,727 オーストリア・ハンガリー 896,342 63,548 11,424 28,329 103,743 ドイツ 143,945 412,202 114,058 226,578 477,765 アイルランド 146,181 211,234 10,973 19,789 48,362 イタリア 1,109,524 455,315 68,028 57,661 185,491 スウェーデン 4,813 97,249 3,960 10,665 21,697 ソ連 921,201 61,742 1,370 571 671 英国 341,408 339,570 31,572 139,306 202,824 アジア 247,236 112,059 16,595 37,028 153,249 中国 21,278 29,907 4,928 16,709 9,657 日本 83,837 33,462 1,948 1,555 46,250 米^J’|、| 1,142,671 1,516,716 160,037 354,804 996,944 カナダ 742,185 924,515 108,527 171,718 377,952 メキシコ 218,004 459,287 22,319 60,589 299,811 総数 5,735,811 4,107,209 528,431 1,035,039 2,515,479 米国移民の変遷:1961〜1999年 1961-70 1971-80 1981-90 1991-2000 総数* 欧少|、| 1,123,492 800,368 761,550 1,359,737 38,460,797 オーストリア・ハンガリー 26,022 16,028 24,885 24,882 4,367,664 ドイツ 190,796 74,414 91,961 92,606 7,176,071 アイルランド 32,966 11,490 31,969 56,950 4,782,083 イタリア 214,111 129,368 67,254 62,722 5,435,830 スウェーデン 17,116 6,531 11,018 12,715 1,259,523 ソ連 2,465 38,96134 57,677 462,874 3,906,580 英国 213,822 137,374 159,173 151,866 5,271,016 アジア 427,642 1,588,178 2,738,157 2,795,672 8,814,852 中国35 34,764 124,326 346,747 419,114 1,333,490 日本 39,988 49,775 47,085 67,942 530,598 米^J’|、| 1,716,374 1,982,735 3,615,225 4,486,806 17,554,354 カナダ 413,310 169,939 156,938 191,987 4,487,572 メキシコ 453,937 640,294 1,655,843 2,249,421 6,138,150 総数 3,321,677 4,493,314 7,338,062 9,095,417 66,089,431 ・総数は1820〜1999年までの累計。 34この急増の理由は、1974年のJackson-Vanik修正案により、ソ連等共産圏諸国の移民(出国移民)政策の緩和 を最恵国待遇供与などの条件としたためである。主な目的はユダヤ人の出国自由化であった。ブッシュ政権は、 ロシアが1994年に移民政策を完全に自由化したとの理由で、この修正案の「卒業」を検討している。 351957年以後台湾を含む。香港は1952年まで個別の扱いを受けなかったが、それ以後1999年の時点まで別立て。 24 □移民の変遷 この表を見ると、1965年の移民法改正以来の移民の波は、絶対数では確かに1880年代から大 恐慌の到来まで続いた移民の波の再来を思わせるものがある。そして、現在移民論議が盛んな理 由は、まさにこの「波」のせいである。 しかし、移民数は、総人口比ではもちろん現在の方が小さい。たとえば、1901年以後10年間 の移民は879万5,000人に達したが、1910年の人口は9,197万2,000人であったから、それに 先立つ10年間の移民は総人口の9.6%を占めたことになる。これに対して、1991年から2000 年の9年間には909万5,400人の移民があったが、2000年の総人口は2億8,142万人であった から、同様の比率を求めると、3%となる。 もちろん、そのように比率が低いからといって、移民は問題にすべきでないというのではない が、現在の移民議論の中で、移民受け入れが現在のまま続くと、2050年までには米国総人口の 半分が1965年以後の移民またはその子孫で構成されるといった指摘がなされると、単なる移民 増が議論を呼んでいる理由ではないと思われてくる。なぜなら、移民国米国では、そういう指摘 自体はほとんど意味をなさず、従って、そのような指摘をすることはすなわち「警告」と解釈さ れ得るからである。有り体に言って、現在の移民議論の根底にあるのは、ヒスパニック移民の急 増のように思われる。 そこで、ここでは、ここに作成した表を見ながら幾つかの点を指摘しておこう。 ① 米国成立の本家本元と見なされる英国の移民は、1930年代の大恐慌の時こそ他の国々と 同様に激減したが、それを除けばほぼ恒常的に続いてきた。特に、1940年以後も、10年 単位で13万から20万前後の移民が続いているのは興味深い。 ② ドイツ系移民は1880年代に145万人を数えてピークに達し、その後それに近い数値に戻 ることはなかったが、1820年から2000年までの総計は718万人となって、米国に最大 数の移民を送り出した国になった。欧州諸国では、英国移民の527万人はおろか、イタ リア移民の544万人すら凌駕している。ちなみに、!930年代、そのドイツからの移民が、 他の国ほど激減しなかったのは、ユダヤ避難民を米国が受け入れたからだと思われる。 ③ イタリア系移民は、ドイツ系移民がピークに達した後を追うように増え始め、20世紀の 初めの20年間で300万人を超えた。 ④ 同様にソ連からの移民もドイツに取って代わるように増え始め、20世紀の初めの20年 間に250万人に達した。移民急増の時代には、イタリア移民とソ連移民とは、欧州北部 の人たちに比べて知性と文化の面で劣るとされた南欧、東欧の代表として軽蔑されたと いう。しかし、最近、20世紀移民の米国文化同化(assimilation)がうまくいった例と 25 して引き合いに出されるのが、ほかならぬ南欧の代表としてのイタリア移民であり、こ こでは数字を出していないが、東欧の代表としてのポーランド移民である。時代が変わ れば、移民に対する態度が変わる例であろう。 ⑤ 1980年代と1990年代合計20年間のメキシコ移民は390万人で、確かに急増であり、そ の数が大きいが、それでも20世紀初めの20年間のイタリア移民の数をそれほど凌駕す るわけではない。 ⑥ 米国の北隣カナダの移民は意外に多く、累計では1990年時点でメキシコからの移民を上 回っていた。しかし、カナダからの移民が云々されることはほとんどない。 26 4.移民政策の歴史(1) 20世紀の米国の移民の動きを見ると、今世紀の初めに急増し、大恐慌で突然縮小するまで増 加を続けた。それを「第1の波」とすると、「第2の波」は1970年代に始まり、これは現在も 続いているものである。そして、第1の波の時と同じように、現在の急激な移民増加も、その是 非について議論を呼び起こす要因になっている。 ハーバ_ ド大学 Christopher Jencks 社会政策教授は、最近 The New York Review of Books 誌で、移民に関わる主だった著作を取り上げながら、米国の移民問題を二度にわたって論じ、そ の中で、「第2の波」にまつわる移民論争は、幾つかの面で20世紀初めの移民論争に似ている が、論争の下地となっている「事実」が幾つかの局面で変化したと指摘した36。 似ている点としては、 ① 労働者は、その多くが、移民の増加を自分たちの職場や賃金を危うくするものとして反対 する。 ② 一方、雇用者は、移民が労賃引き下げに役立つとして、移民増を支持する(現在、移民法 緩和の先鋒となっているのは、全米商業会議所である)。 ③ 国民の過半数は、「米国らしさ」を維持するためと称して移民制限を支持する(ジェンク スはここで、普通「単一民族」、「単一文化」というような意味で使われるhomogeneous という言葉を使っているが、ここでは「米国らしさ」と訳す)。 ④ 一方、雇用者以外にも移民を支持する人たちがおり、移民(および移民を望む人たち)と もども、移民が米国社会の文化的多様性を深くするとして、その恩恵を力説。 などがある。 これに対して、20世紀の初めと比べて異なっている事情として次の点を挙げる。 ① 移民とそうでない人(natives)の間の賃金、その他経済的な落差は、20世紀初めに比べ て現在の方がはるかに大きい。 ② 20世紀初めは、人種的あるいは民族的な相違が重要視されたが、現在はそれほどではない。 ③ 移民政策についての国民一般の影響力は、現在大きく後退し、反対意見が政策に反映され にくい。これに対して、移民反対を阻止しようとするビジネスの勢力は大きくなっている。 36Christopher Jencks: “Who Should Get in?” 2001年11月 29 日付 The New York Review of Books http://www.nybooks.com/articles/14868 27 ④労働組合は、長い間移民反対の立場を取ってきたが、2000年、その伝統的な立場を逆転 させて移民支持に転じた。その理由は、組合員数が減少し、労働組合の力が弱まったため、 新規移民を組合員に勧誘することで組合員増強を行う方向に戦略を転換したことによる。 そこで、そうした点を念頭において、移民法の変遷を中心にしながら米国の移民政策を概観し てみよう。なお、本稿で触れる移民法は、その概要を司法省移民帰化局(Immigrationand Naturalization Service : INS〇以下、移民局)のホームページから調べることができ37、原文も すべてインターネットで読むことができる(適宜URLを挙げておく)。 □ 1790年の帰化法からI882年の中国人排除法へ 通常、米国最初の移民関係法は、1790年の「帰化法(The Naturalization Act) 38」とされる。 同法は、「自由な白人であれば、いかなる外国人も米国に入国して市民になることを認められる (an alien, being a free white person, may be admitted to be a citizen of the United States) J としたことで名高い。つまり、黒人は市民として認めなかったのである39。 高邁な理想を掲げた独立宣言で黒人を無視したことからすれば、このような黒人無視は当然の 措置ともみなされようが、黒人が市民として認められるには、「帰化法」ができてから80年ほ ども待たなければならなかった。「米国で生まれるか帰化し、その管轄下にある全ての人は米国 の市民である」とした憲法修正第14条がそれである。同条は、1790年の「帰化法」が「白人」 を指定したようには「黒人」を指定していないが、この修正法が作られたのは、「解放された人 (freedman)」(すなわち黒人)の権利が南部諸州により破棄されるのを防ぐためであったか ら、対象は黒人であった。 この修正第14条が批准されたのは:1868年である。そして、北米先住民を市民として認めたの は、黒人を市民としてから更に56年後の1924年であった。 この修正条項を受けて、1870年には「帰化法」を改訂、「米国市民は白人とアフリカ人の子 孫に限る」とした。ただ、皮肉にも、この法改訂は黒人の市民権を明文化することにより、アジ ア人、なかんずく中国人の市民権を阻止したものであった。次いで、その12年後の1882年には、 まともな移民法として最初のものとされる法が成立したが、それは「中国人排除法(TheChinese Exclusion Act) 37 38 * 40Jという名が示す通り、中国人差別を明文化したものであった。 37http://www. ins. us do j. gov/graphics/aboutins/statistics/LegisHist/470.htm 38 http://www.ins.usdoj.gov/graphics/aboutins/history/1790Act.htm 抜粋。 3,この点の議論は様々になされている。一例:http://www.fathom.com/feature/121862 40 http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/chinex.htm 28 中国人の米国移民が増えるきっかけは、有名な1849年のゴールド・ラッシュであった。それで も、1860年代に6万4,000人、1870年代に12万3,000人であって、例えば、ドイツの95万人、 72万人に比べると、きわめて少なかったのだが、中国人は当初から白人労働者の競争相手とし て警戒され、カリフォルニア州では何度も中国移民者数の制限を実施した。「中国人排除法」は そうした空気を直接反映するもので、次の点を内容とした。 ① 中国人労働者の移民をio年間停止する。ここで「労働者」は熟練・非熟練を問わず、また 鉱山労働者を含む。 ② 法律発効の時点に米国に在住している中国人労働者は、一時的に米国を離れた後で米国に 戻ることを認める。 ③ 非合法的に米国にいる中国人は国外退去とする。 ④ 不法中国人労働者を米国に連れ込む船の船長は、最高500ドルまたは1年の懲役に付する。 ⑤ 中国人が米国市民になるのを禁じる。 ⑥ 中国人の学生、教師や商人などが「好奇心から」米国にやってくるのは認める。 この法律が撤廃されたのは第二次大戦たけなわの!943年であったから、成立以後61年も存 続したことになる。歴史的には、米国にはもともと宣教師を中軸とする中国好感の雰囲気があり、 1930年代に、反日の気運が高まるとともに、政府のみならず一般国民の間でも親中機運が強く なったことを考えると、この種の差別待遇の扱いがいかに難しいかを、改めて考えさせられる。 ちなみに、中国を含め国籍による市民権の差別を撤廃したのは、第二次大戦が終結後7年経っ た1952年の「移民・国籍法(The Immigration and Nationality Act) 41Jであった。同法は後 述する。 「中国人排除法」より1年前の1881年には、「移民法(The Immigration Act)」が成立し た。これは、「多妻主義者」や「道義的に乱れた人」、「精神障害者(lunatics)」や「公共の 負担となりやすい(liable to become a public charge)」人などを移民として認めないことを決 めたもので、これは人種以外の要因を理由に、政府が「望ましくない」とする人を除外すること にした最初の法律となった。 「公共の負担となりやすい」云々は、社会福祉を担当する地方自治体の意見によるものとされ るが、これは、後に扱う、昨今の「ヒスパニック移民は所得水準が貧困線以下の人が多く、社会 福祉の面倒になる人たちが多い」という議論を思わせる。 41http://www.ins.usdoj.gov/graphics/lawsregs/INA.htm ここで概要を得て、法律全体を見ることができる。 29 □移民は誰の管轄か ところで、先にカリフォルニア州は独自に移民を制限したと述べた。それは、当時、移民問題 が連邦政府の管轄とは考えられていなかったことによる。移民政策は連邦政府の管轄という概念 が確立したのは、1875年の最高裁判決であった。 これはまた、米国は単一的な移民政策を追求するには土地が大きすぎ、人口が多すぎるという 議論を想起させる。かの「封じ込め政策」の発案者として名高いGeorge KennanがAround the Cragged Hill:A Personal and Political Philosophy (Norton,1994)で行った議論がその例であ る。ケナンは、米国を少なくとも12の共和国republics (地域によって現在の州を3つか4つず つ併せたもの)に分け、移民のように地域によって影響の度合いの異なる問題は、それぞれの行 政単位の必要によって決められるべきであるとしている。 □ 1924年の移民法 米国で初めて移民制限が全国的な問題として出てきたのは、1890年代の経済大恐慌の時代で あった。単に「大恐慌」と言えば、1930年の大恐慌を指し、それに先立つ1893〜1897年の大恐 慌を考える人は少ないが、19世紀末の大恐慌も都市の失業率が25%に達するなど、ルーズベル 卜時代のものに比肩する厳しいものであった。もっとも、その時の大不況は、ルーズベルト時代 のように長続きはしなかった。 この大恐慌の結果、1890年代の10年間の移民数は370万人となり、その前の10年間の525 万人を30%下回った。それでも、不況の最後の年にあたる1897年、議会は大幅移民制限を目的 とする最初の法案を可決した。これはクリーヴランド大統領の却下で成立しなかったものの、注 目すべき内容を持っていた。単に移民を制限するというのではなく、識字力のない移民の制限を しようとし、しかも、「白人」を対象としたものだったからである。 具体的には、欧州東部の移民を3分の1、欧州南部の移民を半分減らすことを目的としたもの で、これは、当時のイタリアやロシアなどの移民に対する差別意識を如実に反映するものであっ た。当時、急速に増えていたイタリアやロシアなどからの移民は「非民主的で腐敗し、貧困で無 知 (undemocratic, corrupt, impoverished, and ignorant) J とレ、つのである。 この法案に似た案は、クリーヴランド大統領の却下の後も何度も議会に提出され、ついに、第 一次大戦中の!917年に成立した。1917年といえば、米国が第一次大戦に参戦した年だが、参戦・ 不参戦の議論が紛糾する中で、孤立主義者の勢力が強まった。そして、孤立主義者の声が大きく なるとともに、移民制限を求める声も最高潮に達した。その結果、国際主義を標榜するウィルソ ン大統領の却下にもかかわらず、同法が成立した。 30 しかし、その後の「識字テスト」では移民制限がうまくいかないことが分かり、その結果、移 民反対者は192I年、ハーディング大統領の反対を制して、「緊急割当法(The Emergency Quota Act) 42」を成立させた。それを拡大し、最初の大々的な移民制限法となったのが、「1924年移 民規制法(The Immigration Restriction Act of 1924) 42 43J (「国籍法 The National Origins ActJ としても知られる)である。移民局では、同法を「国別割当制度を打ち立てた最初の半恒久的移 民制限法で、1917年の法律と併せ、1952年まで米国の移民政策の元となった」と説明している。 この法律を移民局の挙げる要点に沿いながら、他の資料を参考にして見ると次のようになる。 ① 初めて「移民」を定義し、移民を「割当移民」と「非割当移民」に分けた。 ② 各国の領事館に移民の可否を決める権限を与えた。これは移民問題の管轄を国務省に広げ たことを意味する。また、この措置は、移民として優遇する国と優遇しない国を決める裁 量権を出先機関である領事館に与えることを意味した。 ③ 「市民権を持つ資格のない外国人」の移民を禁じた。これは、アジア移民でも特に日本移 民の禁止を目指すものであった。 ④ 割当移民では、!927年6月30日まで有効な条項として、割当対象となる国の移民数を、 1890年以来の当該国からの移民の2 %に限る。この規制の下での移民総数は年間16万 4,667人と算定された。3年前の法律では、3 %に制限していた。 ⑤ 同じく、1927年7月1日以降(後に1929年7月1日以降に延期)1952年12月31日ま で有効な条項として、年間移民数を15万人に限定し、その国別内訳は、1920年の米国人 口総数に対する当該国を母国とする米国人の比率に相当するものとする。1920年の米国 の総人口は1億700万人であったから、例えば、その年のイタリアを母国とする米国人が 仮に総人口の1%の107万人であったとすれば、イタリアからの移民数は1,500人までと なる。 ⑥ 割当移民でも優遇制度が設けられ、21歳以下の未婚者、21歳以上の米国市民の配偶者な どを優先した。 ⑦ 非割当移民では、米国市民の配偶者および18歳以下の未婚者のほか、南北米州大陸(も ちろん、米国を除く)からの移民を対象にした。 このうち最後の非割当移民は、同法の規定に従っていえば、「(英国)カナダ領、ニューファ ンドランド、メキシコ共和国、キューバ共和国、ハイチ共和国、ドミニカ共和国、運河地帯、中 央および南米で生まれた移民」には割当を設けないというのである。これらの地域からの移民(力 42 http://tucnak.isv.cuni.cz/~calda/Documents/1920s/QuotaActl918.html 43 http://www.ins.usdoj.gov/graphics/aboutins/statistics/legishist/470.htm 31 ナダを除く)の急増が昨今問題になっていることからすれば、時代の変化は大きい。なお、ニュ ーファンドランドは、その豊穰な漁業資源のため、英国の直轄地として半ば独立した状態を続け、 カナダ同盟に加わったのは1949年のことである。 □Ellis Island の誕生 ところで、1924年の移民規制法の成立により急速にその役割を失っていったのが、「自由の 玄関(front gates to freedom) Jと呼ばれたEllis Islandであった。そこで、米国移民の話には 欠かせない、このニューヨーク港の小島に触れておこうと思う。 米国政府が初めて移民問題を担当する役所としてOffice of Immigrationを設置したのは、南北 戦争も3年目の1864年のことで、目的は移民の奨励だった。南北戦争は人的消耗が激しかった ため、すぐに戦闘に参加できる若い移民は特に歓迎された。同局は国務省の管轄下にあった。 しかし、リンカーン大統領が設置した移民担当局は:1868年、「移民問題は州政府の管轄」と の理由のもとに撤廃された。その後、先に触れたように、最高裁が:1875年、移民は連邦政府の 所轄との判決を下し、それを受けて、1891年成立した「移民法」は、新たに移民局Bureau of Immigrationを設置して、財務省の管轄とした。それに伴い、ニューヨーク港のエリス島に移民 検査登録所を作ることを決定、I892年の1月1日に開所した。 たまたま、その頃から移民の数が急速に増え始めたことから、これは時宜を得た措置であった といえる。年間移民数が200万人と最高になった:1907年には、エリス島で1日最大1万!,747 人を処理したという。 しかし、移民が増えると移民反対の気運も高まり、第一次大戦が始まるとともに、移民数が急 速に衰え、1915年には年間17万8,000人を扱ったエリス島も、1919年にはわずかに2万6,000 人を扱うにとどまった。もちろん、戦争が終わると移民は再び急増、1920年には22万5,000人、 1921年には56万人となって、再び移民反対運動を発火させ、「緊急移民法」の成立となる。 その後、1924年の「移民規制法」の成立となるわけだが、この法律で大きく移民数が減らさ れたばかりでなく、領事館が移民を扱うことになった。その結果、エリス島はその役割を急速に 失い、かつては入国手続きを待つ移民で混雑した小島はたちまち「閑古鳥の鳴く小村」に変貌し たそうである。 それから:1929年の株価暴落、続いて大恐慌となる。移民は更に減少し、1932年には、初めて 出国する外国人の数が、入国する外国人の数を上回った。 「移民国」米国は入ってくる移民(immigrant)が国をでる移民(emigrant)より圧倒的に多 いと考えられがちだが、実際には、移民してきても失望して元の国に帰る人も多く、その比率は 32 おおよそ3対1であって、これはその他の移民国とあまり変わらないという調査もある44。半世 紀後の1980年代、米国経済があまり好調でなかった時代には、ずいぶん前に米国に移民し普通 の所得者となった人たちが、物価や年金の違いを利用して退職後母国に戻り、悠悠自適の生活を しているといった報道があった。イタリア系の人たちには、特にその傾向が強かったようである。 □エリス島の閉鎖 第二次大戦が始まると、エリス島は「敵性外国人(enemy aliens) Jの拘置所としていくぶん 活気を取り戻したが、それでも1943年ですら、その数は1,000人程度であった。その頃までに 「本部」はマンハッタンに移動、エリス島閉鎖の話はまず1949年に持ち上がり、ついに:1954 年に閉鎖となった。 その後、荒れるにまかされていたが、1980年頃に復旧案が多くの支持を得て、1982年に自由 の女神の修復とともにエリス島の建物を復旧する基金が樹立され、8年後の1990年、同島は移 民博物館として開館した。 復旧経費は総額1億5,600万ドル、本館の復旧だけでも、一つの建物の復旧事業としては米国 でも最大のものだったという。 以上の話は、素晴らしくも簡潔な文章で書かれたEllis Island Immigration MuseumのEllis IslandHistoiy«で読むことができる。それによると、現在、米国民のおよそ4割がエリス島を経 て米国にやってきた人たちか、その子孫であるという。 それほど多数の人たちがやってきたのであれば、悪名高い人を含め、名を上げ、功を遂げた人 も多い。そうした人たち500名は移民美術館に顕彰してあるが、うち一人だけ挙げると、Irving Berlin (1888-1989)は、ロシア生まれの作曲家で、1893年、5歳の時に移民、マンハッタンの Lower East Sideで流しの歌手としてスタートした。いったん名が知られるようになるとともに、 米国歌謡曲の全盛時代の立役者となり、映画やミュージカル・コメディの作曲家として名を馳せ た。生涯に作曲した曲は1,500編におよび、うち800が名を知られることになった。中でも有名 なのは不朽の名作「ホワイト・クリスマス」で、人気の高さでこの曲を凌ぐものは未だに出てい ない。9月!1日のテロ攻撃のあと、学校で歌って良いのかいけないのかが一部問題になった「愛 国的な」God Bless Americaもこの移民の作曲による。 英語では、貧乏から金持ちに出世することを「ボロから巨万の富へ(fh)m rags to riches) J と言うが、Berlinは移民としてその具現者となった人である。 <イ後に見るように、いったん移住してきた後で米国を出る理由の一つに、移民を出稼ぎと見なすことがある。 33 5 .移民政策の歴史(2) 移民局が、現在のように司法省の管轄になったのは1940年だったが、:1979年以降、実に9回 の「改革」が実施されてきた。そのような改革が繰り返し必要とされる理由は、もちろん世界最 大の移民国として膨大な数の移民を扱わなければならないこともあるが、加えて、恒常的な事務 処理の遅延と担当官の態度の悪さ46という点もあった。そうした中にあって、2001年9月11日 の米国テロ事件は、移民局のもう一つの弱点であるずさんさを露呈した。 このずさんさへの批判を特に悪化させたのは、テロ事件から半年経ち、そのほとぼりも冷めよ うという2002年3月、移民局が犯人のうち二人に対して米国滞在を認める学生ビザを飛行訓練 学校気付で郵送したことが判明したことである。その二人はもはや存在しないとはいえ、連日マ スコミで大きく騒がれた者だったこともあり、議会でも行政府でも移民局の改革を求める声がー 段と高まった。 まず、下院は2002年4月25日、移民制度改革法案を405対9の大差で可決した。この法案 は、基本的には現在の移民局を廃止し、その機能をビザ申請、市民権、政治庇護申請などを扱う 移民サービス•審判局(Bureau of Immigration Services and Adjudications)と、国境監視や移 民拘置などを扱う移民執行局(Bureau of Immigration Enforcement)の2つに分割することを 目指すものであった。下院案の問題点は、新たに作られる2局の調整をどうするか明示していな いこと、2局を統括する長官の権限の2点とされた。移民問題担当者として司法省内に新たに司 法次官(associate attorney general)を設けることになっているが、その権限は予算権限を欠く 弱いものであるとされた。 他方、行政府は、議会による立法ではなく行政問題として移民局の改革を追求していたが、下 院案の圧倒的な人気を察知すると、投票の直前に下院案に反対せずとの立場に転じて関係者を口亜 然とさせた。移民局改革案は、間もなく人気を失い、2002年には成立しなかった。 ちなみに、現在、移民局の職員は3万7,000人、予算は62億ドルとされている。 ロ戦争花嫁法 45 http://www.ellisisland.com/indexHistory.html 46次に述べる下院案の討議で指摘された。 34 話を移民法の変遷に戻すと、移民問題が司法省の管轄下におかれた1940年は、「外国人登録 法(The Alien Registration Act) 47Jが成立して、米国在住の外国人に指紋登録を義務づけた年 でもあった。その後の移民関係法としては、1942年、フィリピン人を米国市民としたもの、1943 年、前回述べた「中国排除法」を撤廃したものなどのほか、第二次大戦が終結した1945年:12 月に成立した「戦争花嫁法(The War Brides Act) Jがある。これは、米国が参戦してから外国 に送られた米国兵士のうち、実に100万人が駐留地の女性と結婚した事実を勘案したもので、そ れら花嫁の入国を認めることにした結果、戦後の混乱のさなかにありながらも、1924年の法律 で移民を大幅に制限して以来、最大の移民増が生じたという。 その次にできた移民法で重要なのが!952年の法律である。 □ 1952年移民国籍法 米国は1945年の「戦争花嫁法」に続いて、1946年には同じように軍人の婚約者の入国を認め る法律を作り、更に、1948年には欧州難民を受け入れる法律を作った。しかし、1950年には、 冷戦の高まりを反映して、共産主義者および「米国の国益にそぐわない」人の入国を認めないと する「国内安全保障法(The Internal Security Act)」を作り、移民規制を強化した。これは、 議会がトルーマン大統領の却下を制して成立させたもので、1952年にも同大統領の却下を制し て「移民国籍法(The Immigration and Nationality Act) Jを成立させた。 この「移民国籍法」は、前述した:1917年の識字力によって移民を制限しようとした法律と、 1924年の「移民規制法」など、それまでの移民法を総括したものだが、同法は、移民の規制を 厳しくするとともに人種差別•性差別を緩和、ないしは撤廃するという、一見相矛盾する二つの 面を持っていた。その概要は次の通りである。 ① 移民は、人種・国籍にかかわりなく、市民権を有する資格を持つ。 ② 性別による差別を排除する。 ③ 国別(または地域別)による移民割当は従来通りとするが、それぞれの国または地域から の移民数は、1920年の国勢調査時点での、当該国または地域からの人口の0.166% (1% の6分の1)に相当する数に限定する。ただし、最低100名というのは従来通り。一方、 新たにアジア太平洋地域諸国の人たちの移民を認めるが、その数は最高2,000人とする。 (この点は、後述を参照) 47 http://www.ins.usdoj.gov/graphics/aboutins/history/attachd.htm 35 ④ 熟練労働者と、米国市民ならびに米国在住外国人の親類を優先する。その比率は、各国割 当のうち熟練労働者を全体の半分、残りを親類とする。 ⑤ 移民禁止の対象および強制的国外退去の対象を広げる。同時に、国外退去条項が乱用され ないように手続き面での安全性を強化する。 ⑥ 「非移民外国人(nonimmigrant alien) Jが「恒久的在住外国人(permanent resident alien) (永住権保持者)Jになる手続きを定める。 ⑦ 非移民外国人の入国の分類を改訂し、カテゴリーを増やす。 ⑧ 外国人に米国内での住所を毎年移民局に報告することを義務付ける。 ⑨ 問題があった時に取り調べを容易にするために、外国人の総合目録を作成する。 ⑩ 契約労働者の禁止に関する法律(1868年に成立)を撤廃し、別の移民禁止分野を導入する。 この法律で、実際の割当数は、欧州人が14万9,667人、アジア人が2,990人、アフリカ人が 1,400人になったという。 □画期的な人種差別観の放棄 一方で移民を規制しようとしながら、他方では人種差別を放棄するという点で、1950年代の 米国の移民に対する考え方は、1920年代と比べて大きく変わった訳だが、それを如実に示した のが、1950年、移民法改正について上院司法委員会が作成した報告書だとされる。司法委員会 の移民問題小委員会は、「北部欧州人(スカンジナビア人英国人、ドイツ人)の優越論を正しいとす ることは(もはや)しないが、それでも、本小委は(米国が従来)国籍別割当を採用してきたの は、米国の社会学的、文化的な均衡を維持する形で、数的に移民を規制する、合理的かつ論理的 な方法だったと信ずる48」と結論した。 これは、米国に伝統的に存在した北部欧州人を他の民族より優越しているとする考えは捨てる けれども、米国らしさ、つまり白人社会という特色を維持するためには、依然として北部欧州人 を優先するとともに、アジア人の流入を制限する必要があるとしたのである。これは、少なくと も国策として人種差別観を基本的に放棄したということで、画期的なことであった。 こうした姿勢がどのように現れたかを見ると、:1950年代の欧州からの移民総数は132万5,700 人に達したが、そのうちドイツが47万8,000 A,英国が20万人で、この二国だけで半数を占め たことから明らかである。 他方、米州大陸(西半球)からの移民には、1924年法と同じく、規制を設けなかった。 * 48 http://www.iairus.org/html/03101603.htm 36 口外交政策としての移民政策 1952年移民法は、これを支持する人も反対する人も等しく規制が厳しすぎるとした。特に、 これを米国の外交政策の観点から好ましくないとしたのがトルーマン大統領であった。同大統領 は次のように述べて、同法を却下した。 「米国は今になっても、1924年と同様に東欧からの移民の洪水から身を守ろうとしている。 しかし、現在必要なのは、そうした国々からの移民から身を守ることではなく、援助の手を差し 伸べて、西欧に逃げることのできた人たちを救い、野蛮主義から逃れる勇気のあった人たちを救 援し、そうした人たちの母国が再び自由になる時まで歓迎し、その生活の回復を手伝うことであ る。1924年の孤立主義的規制を、1952年まで持ち越す愚劣さと残酷さは私の想像を超える」 しかし、上下両院ともに大統領の却下を覆して、同法は成立した。 その後、1953年には「難民救済法(The Refugee Relief Act) 49 50Jができて、難民の対象を非 欧州人に拡大した。他方、その翌年の1954年には、不法メキシコ移民を本国に送還する大々的 な措置をとった。そして、それ以後の移民法で画期的なものとなったのが、1965年に成立した 1952年移民法の修正5〇である。 □ 1965年の移民法修正 1924年移民法を根本的にくつがえしたといわれる1965年の修正はどのような内容だったのか、 その要点を見ると次のようになる。 ① 国籍別割当の廃止。人種、祖先(エスニック)に基づく移民割当の廃止でもあった。 ② 移民の認可を申請順(first come, first served)とする。ただし、優先順位として7つのカ テゴリーを設ける。カテゴリーは、大きくは、米国市民または米国永住権保持者の親戚、 および米国で必要とされる職能を持つ人たちの2つだが、詳しくは、1)米国市民の子供 で21歳未満の未婚者、2)永住権保持者の配偶者または未婚の子供、3) 「例外的な能 カ」を持つ専門家、科学者、芸術家、4)米国市民の子供で21歳以上の既婚者、5)米 国市民の兄弟姉妹、6)米国では労働者が不足している職種の、熟練、未熟練労働者、7) 難民がそれである。 ③ 数的規制の対象とならないカテゴリーを設ける。その一つは、米国市民の配偶者、子供、 両親であり、もう一つは「特別移民」で、このカテゴリーには、ある種の宗教関係者(牧 49 http://www.iairus.org/html/03102603.htm 50 http://pieria.acs.southwestem.edu/econ/migration/sld014.htm 37 師など)、米国政府の海外事務所の従業員、何らかの理由で市民権を失った人、医学生な どがそれである。 ④ 数的規制の原則は維持するが、規制対象は大きく地域に分けたものとし、東半球の移民を 最高17万人、西半球の移民を:12万人とする。西半球の移民に数的制限を設けたのは初め てだが、優先制度と一国につき最大2万人という数的規制は西半球には適用していない。 ⑤ 労働者としての移民へのビザ発行の条件として、「移民により米国民の職業が奪われるこ とがない」、「同じような職業に就いている米国民の賃金に悪影響を与えない」という証 明を必要とする。 口法律の背景 1965年の移民法が生まれた理由には次のような背景があるとされている51。 まず、国内的には、第二次大戦後、徐々に公民権運動の高まりがあったが、特に、南部諸州が 長いこと黒人差別の方法として用いてきた、「分離しても平等な恩恵を受けることができる (separate but equal)Jという考えを、最高裁は1954年、違憲とした(有名な教育問題につい ての判決Brown vs. Board of Education of Topeka)。その結果、公民権意識が急速に高まった。 次に、対外的には、冷戦の真つ只中にあって、米国が「自由世界(freeworld) Jの旗手とい う印象を与えようと思うなら、対外的にも白人でない人たちへの差別を止めなければならないと いう議論が高まった。この議論は、ケネディ大統領も支持していたが、1963年、同大統領暗殺 後、大統領になったジョンソンが強力に推進した。 その結果、翌年、ジョンソン大統領の最大の業績ともいわれる、戦後最も重要な公民権法が成 立した(「1964年の公民権法(The Civil Rights Act of1964) J )。この法律は、「人の人種、 肌の色、宗教、性、もしくは元の国籍(individual’s race, color, religion, sex, or national origin) J により差別を行うことは、いかなるものでも非合法であるとした。その意味で、1952年の移民 法が冷戦を反映するものであったとすれば、1965年の移民法は公民権運動を反映するものであ ったと言われる。 それから、同じ1964年、ジョンソン大統領は、大統領選挙でゴールドウォーター共和党候補 を圧倒的に打ち破ったばかりでなく、上下両院とも民主党が与党となった。このため、ジョンソ ン大統領の標榜する「僅大な社会(GreatSociety) Jの推進が容易になった。 51 http://www.iairus.org/html/03103603.htm その他。 38 更にまた、米国は空前の繁栄の真つ只中にあり、幾つかの経済部門では労働者の不足が生じて いた。そのため、教育度の高い、かつ熟練した労働者の移民を増やすことは米国経済にとって恩 恵となるという議論がでてきた。 他方、従来移民増に反対してきた労働組合は、米国で既に十分な労働者がいる部門での労働移 民は認めないという「労働証明書」の考えを盛り込むという条件で、移民拡大の法律を支持する 方向に転じた。 □誤算 そのような社会的事情を背景としながらも、1965年移民法の推進者には誤算もあったといわ れている。その最大の誤算が、アジア移民の増大を予測できなかったことだという。 親戚優先の考えは「人道的」立場から推奨すべきとされたが、当時アジア系とされた人たちは 全人口の0.5%であった。従って、アジア系移民の親戚の移民が大幅に伸びることは予想されず、 この優先制度のもとでも欧州からの移民が圧倒的な優勢を維持するものと考えられた。言い換え ると、アジア人移民の規制緩和を推進する人たちは、そういう議論を展開することで、米国の人 種構成は圧倒的に欧州系であるべきだとするnativistsと呼ばれる人たちを安心させたと言うの である。 しかし、現実には、この予測は大きく的を外すことになった。確かに、数値の上での変化には 目覚ましいものがある。移民局によると、1955年から1964年までの移民の比率は、大きく分け て、欧州が50%、北米が35%、アジアが8%、その他7 %であった。ところが、1988年までに は、アジアからの移民が全体の41%で1位の座を占め、ついで北米が39%、欧州の比率は10% に落ちて、逆転してしまったのである。 これを、1950年代の10年間と1980年代の10年間について少し詳しく見てみよう。 1951-60 % 1981-90 % 変化・ 総数 2,515,479 100.0 7,338,062 100.0 約3倍 欧^H’| 1,325,727 52.7 761,550 10.4 A43 オーストリア・ハンガリー 103,743 4.1 24,885 0.3 A76 ドイツ 477,765 19.0 91,961 1.3 A81 イタリア 185,491 7.4 67,254 0.9 A64 英国 202,824 8.1 159,173 2.2 A22 アジア 153,249 6.1 2,738,175 37.3 約!8倍 中国 9,657 0.4 346,747 4.7 約35倍 インド 1,973 0.1 250,786 3.4 約126倍 日本 46,250 1.8 47,085 0.6 2 39 韓国 6,231 0.2 333,746 4.6 約57倍 フィリピン 19,307 0.8 548,764 7.5 約29倍 ベトナム 335 0.0 280,782 3.8 約838倍 米州 996,944 39.6 3,615,225 49.3 263 カナダ 377,952 15.0 156,938 2.1 A58 メキシコ 299,811 11.9 1,655,843 22.7 約5.5倍 中米 44,751 1.8 468,088 6.4 約10倍 南米 91,628 3.7 461,847 6.3 約5倍 ・単位:%〇!950年代〜1980年代の増減を示す。表は移民局の2000年年次報告より作成。 □その後の移民法の変遷 1965年の移民法が発効したのは1968年だが、それ以後の主だった動きを個条書きで追うと次 のようになる。 ① 1976年、一国上限2万人の規則を西半球にも適応する。 ② 1978年、西半球、東半球の区別を廃止し、2つを併せて年間移民数を27万人とする。 ③ 1980年、「難民法(The Refugee Act) 52」を作って、難民を優先制度から外し、難民を 除いた年間移民数を27万人とした。優先制度から外したのは、ベトナムを逃れるボート• ピープルを自動的に受け入れるためであった。ちなみに、難民は、キューバ革命に続く1960 年代の初め、米国のベトナム撤退に続く1970年代の後半、それから、キューバがある種 の人たちに国外退去を認めた1980年代に急増した。 ④ 1986 年、「移民改革規制法(The Immigration Reform and Control Act) 52 53 54J を作り、不 法移民のうち米国在住の長い人たちおよそ300万人を特赦して移民として認めると同時に、 不法移民の雇用者に対する罰則を設けた。 ⑤ 1990年、移民法の改定により、年間移民者数を70万人に引き上げた54。 ⑥ 1996 年、「不法移民改革•移民責任法(The Illegal Immigration Reform and Immigrant Responsibility Act) 55Jを作り、移民対策としての国境警備を強化するとともに、政治庇 護の基準を強化した。また、家族呼び寄せについては、呼び寄せる側に所得の基準を設け た。また、「個人的責任•仕事の機会法(The Personal Responsibility and Work Opportunity Act) Jを作り、市民権がなければ公的福利を受けることができないようにした。ただし、 この規制は1997年、1998年の法律でかなり緩和された。 52 http://www.&irus.org/html/03202603.htm 53 httpV/www.&irus.org/html/O3203603.htm 54 http://www.iairus.org/html/03204604.htm 55 httpV/www.&irus.org/html/O3206010.htm 40 ⑦ 1996年、移民局は、年間移民者数を、前年の71万6,000人を30%上回る91万1,000 A に増やした。内訳は、家族呼び寄せが59万5,000人、熟練労働者が11万8,000 A,人道 的その他の理由によるものが19万8,000であった。加えて、特赦により100万Aの不法 移民が移民として認められた。 ⑧ その時点で、米国に政治庇護を求める人の数は毎年15万人に達し、未処理数は45万人で あった。 ⑨ 1998 年、「米国競争力・労働力改善法(The American Competitiveness and Workforce Improvement Act) 56」を作り、米国企業が一時的移民として米国に連れてくることので きる熟練外国人労働者の数を増やした。これはITブームによるコンピューター技術者の 不足を理由に作られたもので、このカテゴリーを対象とするH-1Bビザの支給対象者の大 半はインド人とされた。この数は、2000年の法改正により19万人に引き上げられた。 H-1Bの増加については、法律審議の最中にも、「コンピューター熟練労働者の不足は虚構」 とする人たちがいたが、皮肉にも、2000年、その数を大幅に引き上げる法律が成立する以前に 「ドットコム経済」は後退を始めた。そのため、高給の職場を約されて勇躍米国に渡ってきたイ ンド人の多くが、手ぶらで帰国することになったと報じられた。 56 http://www.oalj.dol.gov/public/ina/REFRNC/acwia.htm 41 6.移民の影響(1) 1965年の移民法改正による移民急増を検討するため、米国政府は二つの委員会を作って対処 しようとした。委員会のー-は、著名なカトリック神父TheodoreHesburgh57を委員長とする「移 民と難民政策諮問委員会(Commission on Immigration and Refugee Policy) Jである。これは カーター政権の時代で、1979年から:1981年にかけて作業をし、その結果、 ① 移民の数を減らすこと、および ② 不法移民対策 の二つを柱とする勧告を行った。この勧告を受けて審議され、生まれたのが、1986年の「移民 改革規制法The Immigration Reform and Control ActJであった。しかし、結果として同法は、 移民数の削減は行わず、300万人の不法移民を大赦(amnesty)で合法的移民にしただけであっ た。これは、不法移民の入国を制限する代償として米国在住の長い不法移民を特赦する方法をと らざるを得なかったという事情もあったが、同時に、不法移民入国制限の具体的な方法として設 けた不法移民の雇用者に対する罰則が雇用者の反対とサボタージュにより何ら効果をあげなかっ たからといわれる。 もう一つの委員会は、上記委員会から約10年後に作られた「移民改革諮問委員会Commission on Immigration ReformJで、ウォーターゲート公聴会で名をあげたBarbara Jordan元下院議 員58を委員長とした。同委員会は、1994年と1995年に提出した二つの報告で、 ① 不法移民の数を減らすこと、 ② 不法移民の雇用を難しくすること の2点を骨子とする勧告を行った。これは、前回の移民法の改正で不法移民問題が解決されるど ころか、逆に大きくなったことを如実に示したわけだが、この勧告を受けて作成された法案は、 結局のところ、これら2点を無視することになった。 へスバーグとジョーダンの委員会勧告と、それを受けた法案の作成手続きとその結果とは、米 国における移民問題を政治的に扱うことの難しさを示すと言われている。例えば、イエール大学 57 http://www.nd.edu/aboutnd/about/history/hesburgh_bio.shtml 58 Barbara Jordan (1936-1996)»1966年テキサス而上院議員に選出された。同州議会に黒人として選ばれたのは、南 北戦争以後のいわゆる再建時代の1888年以来、初めてのことであり、黒人女性としては最初の人となった。1972 年連邦下院議員に選出された時は、黒人女性として初めてのことであった。学生時代から雄弁家だったが、Watergate 事件による下院の弾劾公聴会における発言は名演説として知られる。そのため、1976年の民主党全国大会では基 調演説を行った。また、1992年の民主党全国大会でも演説した。 42 ロー •スクール Peter Schuck 教授の Citizens, Strangers, and In-Betweens (Westview Press, 2000)は、1960年代に遡って移民問題を扱いながらも、対象を広げて、市民とは何か、移民とは 何かということを論じようとするものである。その中でシャック教授は、1986年の移民法がヒ スパニックを選挙民として持つ議員の反対で当初の目的を脱線させられた経緯を述べている。ま た、James Gimpe!と James Edwards の共著になる The Congressional Politics of Immigration Reform (Allyn and Bacon,1998)は、移民立法にまつわる議会の駆け引きを、これも、1960年 代に遡って描くもので、ジョーダン委員会の勧告を受けた移民法について、不法移民削減という 当初目的が政治的考慮から再び脱線させられ、また移民制限(現行の3分の2または3分の1の 削減)の案は財界の圧力で葬り去られた経過を述べている。 ところで、ジョーダンを委員長とした第二の移民改革委員会は、勧告を出す一方で、米国最高 の調査機関である全国調査諮問委員会(NationalResearchCounci1)に対し、移民の人口動態的、 経済的、かつ財政的な影響を調査するよう要請した。その結果できた長文の報告は、1997年、 『新しい米国人(The New American詞』と題して、National Academy Pressから発行された59。 報告の結論は、移民は米国経済にプラス効果を持つというものだが、同報告は他の報告等分析の 目安になるので、次にその概要を見ることにする。以下、特に断らない限り、内容は同報告に基 づく。 □移民の概要 移民国である米国は、その移民法規で、従来一般的な問題として次の5点に対処してきた。 ① 移民の数 ② その数の中で、入国を認める人と、除外されるべき人 ③ 難民の扱い ④ 不法移民の扱い ⑤ 移民と市民(国民)の扱い(同じように扱われるべきか否か) 1965年移民法の結果の一つとして、米国生まれの(つまり、米国市民の)労働者に比べて、 移民の「労働市場技能(labor market skills)Jが低下することになった。これは、一つには、西 欧からの移民が減る一方、アジアと南米からの移民が増えたせいであった(以下、「市民」は「移 民」に対する用語として用いる)。 5,この出版物はオンラインで読むことができる。http://books.nap.edu/books/0309063566/html/index.htmlo要約掲載に は出版社の許可を得てある。 43 1994年、合法的移民は80万人に達した。この数字は、移民数が最高になった:1913年の130 万に比べると少なく、米国市民と移民の割合で見ても、1913年には市民1,000名につき移民が 13名だったのに対し、1994年は1,000名につき3名と少ない。しかし、市民の出産率が低下し てきたこともあり、人口増加に占める移民の貢献度は、1913年に比べて現在ははるかに大きく なっている。 米国では、合法的な移民に加えて、毎年20万人から30万人の不法移民が入ってくる。これら 不法移民の40%は、非移民(nonimmigrant)として入国するが、後に滞在を法定期限より長引 かせて不法移民となる。いずれにせよ、様々の理由により、現行のセンサス調査では、外国生ま れで米国に滞在している人が合法的移民なのか不法移民なのか分からない場合がかなりある。 口人口全体に対する影響 今後半世紀にわたって移民が米国の人口にどのように影響を与えるかという問いに答えるため、 出生率、死亡率、異人種間の結婚、その他もろもろの要因に基づく幾つかの想定(assumptions) を設定した上で予測をたてた。以下、「現在」は:1995年を指す。 ① 現在の純移民一移民として入国する人(immigrant)と、移民として出国する人(emigrant) の差ーが現在の率で恒常的に続くとした場合、2050年の米国の人口は、現在より1億 2,400万人増えて3億8,700万人となる。このうち8,000万人、即ち全体の3分の2は移 民による増分となる。他方、純移民が現在の半分の年間41万人に引き下げられると、人 口は3億4,900万人となり、また、年間移民数が50%増の:123万人に増やされると、米 国の人口は4億2,600万人となる6〇。 6°ここで、National Research Council報告とは別に、1990年以来の移民数と将来の人口予測をStatistical Abstract見ておく と次のようになる。 移民数 年 移民(万人) 1990 154 1991 183 1992 97 1993 90 1994 80 1995 72 1996 92 1997 80 1998 66 44 ② 年齢別の影響は、特に国や地方自治体の政策にとって重要だが、現在の移民率が続けば、 幼稚園から8年生までの生徒数は、2050年には現在より1,700万人増えて5,370万人と なる。移民を半減させると4,730万人となり、移民を50%増やすと5,760万人となる。 高校生(9年生から12年生)の数は、現行の移民率が続くと、2,030万人になる。 ③ 移民数を半減しても50%増やしても、高齢者(65歳以上)の数は約2倍となる。ただし、 移民の率を50%増やせば、20歳から64歳までの人口に対する高齢者の比率は27%とな って、移民を半減した場合の30%と比べて低くなる。 ④ 白人、黒人、ヒスパニック、アジア人と分けた場合の人口構成は、移民の率にかかわり なく、大幅に変わる。この予測は、異人種間の結婚と異人種間の交わりがどうなるかに かかる部分が大きいが、現在の移民率が続いた場合、アジア系の人口は現在の900万人 から2050年の3,400万人に(人口の3 %から8 %に)増える。これは主にアジア人の移 民に占める割合の結果である。他方、ヒスパニックは、移民に占める割合に加え出産率 が高いことから、現在の2,700万人から9,500万人に(9%から25%に)増える。 □経済的影響 移民の経済的な影響は、国内労働者の雇用、賃金、貿易、経済成長率、物価に対するものがあ る。基本的な経済モデルに従うと、移民は労働力およびモノとサービスの生産量を増やす。しか し、これらの生産はその価格を下回る賃金で行われるので、国民にとってプラスとなる。 ① 移民は経済全体にはプラスとなるが、その中にはプラス効果を享受する「勝者」と、マ イナス効果を強いられる「敗者」が出てくる。勝者は移民労働を補完する立場にある人 たち、すなわち、高度の熟練労働者および資本所有者であり、移民の作るモノやサービ スを購入する人たちである。これに対して敗者は、移民と競争しなければならない立場 2050年の人口予測(1999年センサス局作成)(万人) 2001年 2050 年 出生率(人) 平均寿命(年) 移民 中間 27,780 40,369 2.22 83.9 984,000 最低 27,688 31,355 1.80 82.2 169,000 最周 27,887 55,276 2.65 86.1 2,812,000 移民なし 27,528 32,764 2.22 83.9 0 なお、本報告で何度か触れたハーバードのChristopher Jencksは、Roy Beck著The Case Against Immigration (Norton,1996)が向こう半世紀間に人口を倍増させることの無謀さを取り上げていることに触れ、人口倍増は即 ち排気ガス大気放出の倍増を意味するなど、様々の瞑想にふけっている。ベックの焦点は、移民の急増による中 産階級の崩壊に警告を発することで、移民反対派の意見を端的に表している。同著は絶版だが、書店Barnes and NobleのHPで第一章を読むことができる。ベックがこの本を書いた時の米国の人口は2億6, 500万人であったこ 45 におかれる非熟練労働者である。ただし、移民が、その存在なくしてはありえない生産 行為に従事する場合は、文句なく国民全体が恩恵を受ける。 ② 長期的に見た場合、移民が国民経済のサイズにではなくその成長率にプラスの影響を与 え得るのは、市民と異なった技能を持ち込み、その技能が続く世代に引き継がれる場合 に限られる。移民の子供または孫、または曾孫が、こういう特殊技能を放棄して、他の 市民と同じことをし始めると、その経済的な貢献は人口を増やし、GDPを大きくするだ けにとどまり、国民一人当たりのGDPを増やすことにはならない。 ③ しかし、米国経済は、その所得や国民一人当たりのGDPが移民の影響を受けるには、あ まりにも巨大で複雑である。米国経済に影響を与えるものには、貯蓄率や投資など、移 民よりもっと重要な要因が数多くある。1980年代を通じて移民による米国労働人口の増 分は4 %だったと見積もられるが、これは移民と競合する立場にある労働者の賃金を1 〜2%引き下げる作用としたと考えられる。しかし、移民と競合しない立場にある労働 者の賃金は上がっており、また、移民と競合する労働者も競合しない労働者も、消費者 としては、移民の存在から恩恵を受けている。 ④ 総体的に見て、移民を直接の原因とする経済の大幅な増減でもない限り、移民からプラ スの影響を受ける者、マイナスの影響を受ける者、およびGDPに対する移民の影響は高 が知れている。国内的なプラス効果は年間せいぜい10億ドルから100億ドル程度と推定 される。これは米国経済のサイズからすれば、極めて小さい61。 ⑤ 移民が集中する地域や低所得者に与える影響については様々な研究があるが、それらは さして説得力がない。また、黒人に対する影響もうんぬんされるが、その影響は実証さ れていない62。 ⑥ 移民がかなりの影響を与えるのは、既に移民が住んでいるところに、新たな移民がやつ てきた場合である。高校中退者の賃金に対する影響も信頼するに足る調査報告がある。 それによると、!980年からI994年までの期間に、移民は高校中退者の数を15%増やし、 その結果高校中退者の賃金を5 %引き下げたという。しかし、米国の労働者総数に占め る高校中退の労働者の割合は年々低下しており、現在ではio%以下になっている。 とからすれば、その人口倍増予測は、センサス局の「最高」予測に近い。ちなみに、日本の人口は、1925年約6,000 万人であったのが、1975年には1億1,200万人と、50年間でおよそ倍増した。 6[報告作成の1995年の米国のGDPは7兆4,000億ドルであった。その中で100億ドルの占める割合は0.14%に過 ぎない。 62この点は、別に取り上げるヒスパニック移民の影響調査の観点から重要である。 46 □市民と移民の所得比較 経済全体に対する影響ではなく、市民と移民とを所得面で比較すると次の点を指摘できる。ま ず、市民と移民との時間給と年間所得を、1970年、1980年、1990年について一覧表にすると次 のようになる63。 (単位:ドル、!995年価格) 1970 1980 1990 時間給 年収 時間給 年収 時間給 年収 市民 19.00 37,212 19.83 37,591 19.41 37,551 外国生まれ 19.29 36,043 18.93 34,164 18.06 31,935 最近の移民 17.08 30,156 16.18 27,107 15.17 24,318 欧州とカナダ 19.20 35,779 20.04 36,648 21.52 41,957 アジア 18.09 29,863 17.54 29,548 16.97 28,026 アフリカとオセアニア 19.03 27,439 18.06 29,387 19.95 25,446 米^J’|、| 15.00 26,259 14.68 23,035 13.04 19,594 メキシコ 11.74 20,165 12.11 18,911 9.71 14,251 以前の移民 20.40 38,981 20.71 38,750 20.06 37,228 欧州とカナダ 21.69 41,942 22.45 43,299 24.07 47,270 アジア 20.00 37,980 24.00 46,883 24.67 46,385 アフリカとオセアニア 17.77 33,477 24.25 46,833 19.05 36,746 米^J’|、| 17.87 32,506 18.19 33,011 18.78 33,564 メキシコ 13.57 24,498 15.97 26,153 13.17 21,846 この表から以下のことが指摘できる。 ① 最近の移民を見ると、時間給では移民が市民のそれを上回る場合があるが、年収では、 移民は一貫して市民に後れをとっている。加えて、調査対象となった20年間に、その差 は大きくなった。両社の年収の比率は、1970年には100対81だったのが、1990年には 100対65になった。また、ヒスパニックでも特にメキシコ人の市民との差は非常に大き い。このグループの同様の比率を見ると、1970年には100対54だったのが、1990年に は38になった(この表では示していないが、その開きは移民としての米国入国が最近で あればあるほど、大きい)。 ② 最近の移民は以前の移民に比べると教育度では改善しているが、米国市民の教育度はそ れ以上に改善したため、所得の格差が更に広がる一因となった。しかし、所得の格差が 63この表では、「最近の移民」は過去10年間に米国に来た移民。「以前の移民」はそれ以外の移民。対象はすべ て男性。「米州」はメキシコとカナダを除く米州で、中米、カリブ海、南米を指す。市民に比べて移民の時間給 が高くても、年収が小さい場合があるのは、時間給は年収を実際に労働した時間数で割ったものであるため、移 民の労働時間が市民に比べて少ない場合があることによる。 47 広がったもっと大きな理由は、最近の移民の多くが、米国に比べて教育度と職能がはる かに劣る国々からやってくるためである。 ③ 所得格差のその他の理由としては、不法移民の増大、難民構成の変化、それに、特に医 師のような高度の熟練労働者の移民を米国が厳しく制限していることなどが挙げられる。 ④ 移民も米国居住年数が増えると所得が改善する。これは、10年以上米国に住んだ移民全 体の平均年収が、1970年には市民のそれを上回っていたことに如実に示される。特に、 欧州やカナダ、更にはアジアからの移民の場合、所得が市民一般のそれを一貫して凌駕 している。 ⑤ 移民の職業はどうか。職業を高い教育度が要求されるものと、低い教育度しか要求され ないものに分けると、外国語の教師、医学関係者、経済学者といった教育度の高い分野 では、移民の割合が一般市民に比べて高い。給仕、農産物の仕分け係や家政婦など、高 い教育度を必要とされない給与の低い職業分野では、移民の占める割合は、市民のそれ よりはるかに高い。また、移民は、教育はあまり必要でないが、訓練と長い経験を要す る、仕立屋、ドレスメーカー、宝石メーカーといった職種でも、その割合が多い。 口財政的影響 移民が、国、なかんずく地方自治体の財政に与える影響は、昔に比べると現在の方が大きくな った。以前に比べると政府の相対的な役割が大きくなったためで、従って、特に地方自治体にと って、移民は大切な政策問題となっている。 移民の財政的影響は、移民所帯の納税額と、移民所帯に対する公共サービス(学校教育を含む) の費用の差額で測られる。本調査で分析の対象とした移民の多いカリフォルニア州とニュージャ ージー州を見ると、次の点が指摘できる。 ① カリフォルニア州は1994-1995年、移民世帯は市民世帯に対して平均1,178ドルの負担 となり、ニュージャージー州は1989〜1990年、移民世帯は市民世帯に対して平均232 ドルの負担となった(いずれも1996年価格)。これを国全体にならすと、市民一世帯当 たり166ドルから226ドルの負担がかかったことになる。 ② 移民世帯が受ける公共サービス総額が納税額を上回る理由は、(1)通学年齢の子供が 市民世帯に比べ多いため、それだけ教育費が多くなる、(2)市民世帯より貧しく、そ れだけ地方自治体から受ける補助金(income transfer)が多い、(3)市民世帯より所 得が低く、資産も少ないため、それだけ納税額が少なくなる。 48 ③ ただし、先ほど見たように、移民グループによって所得に大きな違いがある。従って、 欧州やカナダからの移民は、財政にプラスの貢献をする一方、中南米の移民は負担とな る。これは、中南米移民の所得が低く、通学年齢の子弟が多いためである。 口財政への長期的な影響 移民の長期的な財政面での影響は複雑な要因が絡んでくるが、その最も明確な要因は年齢と教 育である。 ① 年齢別には、10歳から25歳の移民は長期的に財政にプラスとなり、一方、50歳以上の 移民は長期的に財政にマイナスとなる。教育では、高校以下の学歴しかない人たちは長 期的に1万3,000ドルのマイナスとなり、一方、高校以上の教育を受けている人たちは 19万8,000ドルの貢献をする。従って、単純に言えば、移民による財政的プラス効果を 求めようとすれば、高等教育を受けた移民を優遇し、50歳以上の移民を受け入れないよ うな政策を追求すればよいことになる。 ② 移民の影響を幾つもの想定(シナリオ)で検討したところ、その大半のシナリオで、長 期的には、全体として、米国の財政にプラスの貢献をするとの結論が出ている。ただし、 移民は、初めの10年か20年ほどは、その影響はマイナスとなる。その期間がどれほど 続くかは、連邦政府の財政政策による部分が大きい。 ③ 移民の財政的な影響は、大半のシナリオで、地上自治体にとってはマイナスとなる。特 に、移民が集中しているカリフォルニア州で、マイナスの影響は見逃せない。 □移民の社会的側面 移民が米国社会にどのように溶け込むのか、更に、米国の諸制度にどのような影響を与えるの かという問題は複雑だが、説得力のある調査報告が出される以前に、憶測に基づく結論でもって 議論がなされがちである。これまでの歴史を考えてみると、大体、次のようなことがいえる。 ① 19世紀の終わりから20世紀初めにかけて、欧州からの移民、なかんずく東欧と南欧か らの移民について、米国社会に溶け込めないのではないかとの懸念がしばしば表明され たが、これらの人たちは問題なく米国に溶け込んでいる。最近の移民では、アジアから の移民が、教育度と職種で米国市民にかなり急速に追い付いたことが知られている。 ② 最近の移民は、同国出身者が1力所に固まりやすいとの指摘がなされるが、しかし、こ れも何代かにわたって、社会経済的に一般国民と変わらなくなるとともに、エスニック 同士で住むということはなくなったというのが過去の経験である。 49 ③ 何世代にもわたるうちに住む場所が拡散する傾向は、異なった国からの移民が結婚する という現象によっても大いに助長される。かつては、欧州の移民は国やエスニックや宗 教の違いによってそれぞれ異なっているように見えたため、それぞれ「人種」が違うと いうような議論すらなされたことがある。しかし、子供、孫、曾孫と世代が変わるうち に異なったグループ間の結婚が行われた結果、移民グループは、教育、所得、職種、住 居などの面で区別がつかなくなった。 ④ 同じようなことは、感情的な議論を呼びやすい英語を使う能力についても言える。1990 年センサス調査によると、1980年代に移民となった人たちの60%が英語を「よく」また は「非常によく」話すことができる。30年間米国に住んで英語を「よく話せない」とい う人は、わずか3 %にすぎない。 ⑤ 移民増による犯罪の増加もよく問題にされるが、1960年代から1990年頃までは、あた かも急激な移民増に対応するように犯罪率が増えた。しかし、その後、移民は増え続け ているのに、犯罪率は減少している。事実、移民の増減と犯罪の増減の間にはこれと言 える因果関係はない。国境地帯で暴力を伴わない「犯罪」が比較的多いことを除いて、 移民が集中している都市でも、そのために犯罪率が高まることはないのが実情である。 □結論 米国人は伝統的に移民に対してどっちつかずの感情を持ってきた。移民を歓迎する時期がある かと思うと、次には移民を阻止しようとする。ただ、ここ50年ほどについて見ると、移民に対 する反対が徐々に増えてきているようである。現在、移民規制の気持ちに動いている人たちは、 白人が68%で一番多く、黒人は57%となっている。アジア系米国人やヒスパニックの反対は黒 人よりも低い。また、教育の高い人ほど移民を受け入れる傾向にある。 地域別には、移民の多さと移民反対の強さとは関係が見られない。 50 7.移民の影響(2) Francis A. Walker (18401897)は統計と経済学で大きな足跡を残した人である。南北戦争従 軍後、大学で教えている時に29歳で財務省統計課長に任命され、翌1870年にはセンサス局長に 抜擢された。そして、直ちに国勢調査で集める情報量を大幅に増やした。また、1873年からI881 年まで、そのポストと並行して、イエール大学で経済学教授を兼任した。1883年から亡くなる まではマサチューセッツ工科大学(MIT)の学長を務め、同時に1883年から1897年まで米国 統計連盟(American Statistical Association)の会長、1885年から1892年まで米国経済連盟 (American Economic Association)の会長(初代)を兼任した。米国経済連盟は、近年、その 分野では最も権威があると言われてきた団体である。 ウォーカーは、センサス情報の増強とともに、経済学の分野では「労賃は資本の大きさによっ て決まる」という伝統的見方を葬ったことで名高い6七しかし、ウォーカーがもう一つ熱心に取 上げた移民問題についての理論は、「証拠不十分」として後世の学者により退けられたという。 いま、ウォーカーの有名な移民論文の一つ、Atlantic誌(1896年6月付)掲載の「移民規制 (Restriction of Immigration)64 65] を読むと、その理由が分かる。その移民の見方が頭から偏見に 満ちており、正当な理論を立てるだけの余裕がなかったと思わせるからである。簡単に要点を挙 げてみよう。 ① 移民者の中から「身体障害者、知的障害者、精神病患者、貧困層(deaf, dumb, blind, idiotic, insane, pauper, or criminal)Jを除去するのは当然である。そうした人たちは、米国社 会にとって「絶望的な重荷(hopelessburden) Jとなるのみである。そうした移民は毎 年数百人、いや数千人に及ぶ。 ② そうした人たちの受け入れを拒絶する上で、米国はこれまで醜聞と言えるほど怠慢だっ たが、今度我らが求めている移民規制はそうした人たちを対象とするのではなく、十分 に働く能力がある数十万の移民を対象とする。それは東欧と南欧諸国からやってくる「無 知蒙昧、かつ残虐に扱われて人間性を失った農民たち(ignorant and brutalized peasantry) Jであって、移民規制の目的は、「米国の賃金水準、生活水準、市民生活の 質を凋落力ゝら守る (protecting the American rate of wages, the American standard of living, and the quality of American citizenship from degradation) J ことにめる。 64 http://cepa.newschool.edu/het/profiles/walker.htm 65 http://www.theatlantic.com/unbound/flashbks/immigr/walke.htm 51 ③ しかし、このように移民規制の提案をすると、直ちにこれに反対が出てくる。それは、 移民を歓迎するのが建国以来米国の国是であり、「移民こそ国力と国富の源泉であった (that immigration was a source of both strength and wealth) J と 無考えに論じる人が 多いからである。 ④ そして、その議論は、二つの「事実」に基づいている。一つは、移民が米国人口にとつ てプラスとなったという「事実」であり、もう一つは、それとは別に、移民が普通の市 民がやりたくない仕事を進んでやる労働力を提供するという「事実」である。しかし、 これは二つとも間違っている。 ⑤ まず、1790年から1830年までの40年間に、400万人から1,300万人へと米国が世界に 例のない人口増をみたのは、移民がほとんどない時代であった。1830年から1840年に かけて移民が急増を始めて以後、米国に特殊な下層階級が生まれるようになった。それ とともに、米国民の間で、そういう低層社会の移民と競争しようという気持ちがなくな り、外国人と交わらせたくないという気持ちから子供を増やす気力をなくした66。 ⑥ 次に、:1860年以前の移民は、「特に鉄道と運河の建設のように、米国の産業•社会構造 の構築に必要な最低級の労働力(the lowest kind of work required in the upbuilding of our industrial and social structure, especially the making of railroads and canals)」を 提供したという議論は、主客転倒の最たるものだ。米国民がそういう仕事をしなくなっ たのは、移民がそういう仕事を取ってしまったからだ。 ⑦ 同様の主客転倒の議論は、最近の、もっと低級な労働階級イタリア人移民についてもな される。それ以前に多数流入していたアイルランド人移民が溝や穴を掘る作業をやらな くなったから、そういう仕事を厭わないイタリア人移民が必要だというのだ。しかし、 真実は、イタリア人がそういう仕事を取ってしまったから、アイルランド人移民がそう いう仕事をやれなくなってしまったのである。 ウォーカーの議論は、「統計学や経済学を知っている人ならすく、、分かるように」という口ぶり で、こういうふうに続く。 口変わらない移民の見方 ウォーカーが移民規制を論じた時期は、大恐慌のあった時代であって、1893年から3年間、 米国の労働者は未曾有の困難に見舞われた。そのため、景気に敏感に反応する移民動向を反映し も&移民が増えれば「住民」の人口増加率が減少するという考えは「ウォーカー仮説」と呼ばれる。 52 て,1890年から1900年の10年間は、移民数がその前の10年間の525万人から369万人に30% 減少し、10年間の人口増分に対する移民の寄与率67も、41%から28%へと減少した。それでも、 ウォーカーのような移民規制の呼びかけが効を奏して、ウォーカーがこの記事を出した翌年、「識 字率の欠如(illiteracy) Jを基準とする移民規制法を議会は可決した。それは、大統領が却下し て成立しなかったが、いずれにせよ、ウォーカーの口調は、昨今の移民議論からすれば、特定の 移民に対してあまりにも侮蔑的なものである一方、全体として見ると、移民で問題にされること が1〇〇年後でもあまり変わっていなことを教えてくれる。 ウォーカーが第1点の「身体障害者」などについて述べたことは、現在、貧困な移民にどう 対処するかという問題で取り上げられる。貧困な移民が地方自治体(あるいは国全体)にとって 「重荷」とされることは今も昔も同じである。それだけでなく、貧困な移民を「不法移民」と言 い換えると、現実に差別待遇を法制化することすらなされている。 カリフォルニア州は1994年、カリフォルニア移民改革共同戦線(California Coalition for Immigration Reform)が推進したProposition18768を住民投票で成立させ、不法移民に対する 公共福利を禁じた。連邦政府も1996年には、「不法移民改革•移民責任法The Illegal Immigration Reform and Immigrant Responsibility ActJを成立させ、市民権のない人に対する公共福利を制 限した。 特定の国々からの移民については、第2点と同じようなことが言える。もちろん、ウォーカー が東欧や南欧からの移民について使ったような生々しい言葉は現在では用いられない。しかし、 それでもヒスパニック、なかんずく メキシコからの移民について言われることと根本的には変わ らない。中でも移民の賃金に対する影響(あるいは経済全般に対する影響)はたえず問題にされ てきたことであり、最近の移民論争では中心的な問題となっているといって差し支えない。 また、ここで the quality of American citizenship とされているのは、現在は the quality of life として、特に環境保護主義者が問題にしていることは周知のとおりである。もちろん、ウォーカ 一の言わんとしたことが、低級な移民による米国市民の道義的な水準の低下ということであった とすれば、現在示唆されるのは人口増加による生活水準の低下ということだが、いずれも移民と いう「不必要な」あるいは「人為的な」人口増加を避けるべしという点では共通している。そし て、この点に関する限り、ウォーカーが移民制限を呼びかけていたころの米国の人口がおよそ7,000 万人で、現在の4分の1であったことを考えて見るのも面白い。 67単純に、10年間の移民数を同期間の人口増で割ったもの。 68その一つの分析はhttp://www.ssbb.com/article1.htmlで読むことができる。 53 更に、移民と下層階級の生成について、ウォーカーが第5点でに述べることは、最近では、ヒ スパニックが集団となって住むbarrioについて指摘されることに似ているし、特定の職種とそれ に従事する人たちについて第6点と第7点で述べたことは、今日、たとえばニューヨークのよう な大都会でビルの清掃や裕福な家庭の清掃に携わる人たちについて言われることとほとんど変わ らない。つまり、一方で、そうした移民がいなければ誰がそんな仕事をするのかと議論する人た ち(移民賛成派)がおり、その一方で、そのような移民がいるからこそ、米国生まれの人たちが そういう仕事をできなくなったと論じる人たち(移民反対派)がいるのである。 □2経済学者の移民論 移民反対で言われることは、基本的には19世紀末とその100年後との間に大きな隔たりはな いようである。もし変わった点があるとすれば、現在では当時と比べると移民の研究が進んで精 密になっており、一本調子の議論がなされなくなっていることであろうか。 そこで、次の節で、メキシコ移民の米国経済に対する影響を分析したものを細かく報告する前 に、ここでは、移民の経済的影響を分析する上での困難さを垣間見てみよう。ここで取り上げる のは、Russell Sage Foundationが1999年に出した移民問題評論集The Handbook of International Migration: The American Experience のー論文である。同基金は、米国の政治、 社会、経済問題を研究して国民一般の知識を増やすことを目的とする非営利団体で、1907年に 設立された。 くだんの論考は、「米国への移民の経済的な影響に対する歴史的展望(Historical Perspectives on the Economic Consequences of Immigration into the United States) 69J といい、筆者はカリ フォルニア大学Riverside校の経済学教授Susan Carter70と、同じく同校経済学教授のRichard Sutch71である。 これら二人の教授の意見を紹介するには、最初に、この論文が冒頭に掲げる次の3点の前提、 もしくは結論を知っておくことが有益だと思う。 69この報告は、もともと、移民改革諮問委員会のために作成されたものである。以下の要約の使用については、 Richard Sutch教授の許可を得てある。 7°同教授のウェブサイトによると、専門研究分野は、労働市場の歴史的展望、世帯行動学、教育、差別、人口ダ イナミックスなど。 71同教授のウェブサイトによると、専門研究分野は、経済政策の歴史的展望、高齢化の経済学と人口動態、移民、 奴線制と(南北戦争後の)再建時代の経済学など。 54 ① 現在の(1960年代以来の)移民増は、第一次世界大戦の始まる前4半世紀の移民増(以 下、「大量移民」といえばその時の移民を指す)の水準に近づこうとしている。という ことは、今回の移民増を考える場合に、前例があるということである。 ② 第一次大戦の前の移民増は、米国の経済と社会に深遠なプラスの影響を与えたというこ とについて、学者の間でコンセンサスがある。従って、その研究結果は移民増支持者に 使われる傾向が強い。 ③ これに対して、1960年代以来の移民増についての経済分析は、否定的な結論が多く、従 って、移民規制論に用いられることが多い。 これらを一つの前提として、カーターとサッチは、移民分析における問題点を挙げ、これまで の研究を挙げる72。 ◊経済成長率 移民が人口を増やせば、それだけ生産人口が増え、また需要が増えるから、移民増により経済 全体が大きくなることは当然である。しかし、これは経済学では「外延的成長(extensivegrowth)」 と呼ばれるもので、この種の議論で問題にされるべきものは、生産性や国民一人当たりの所得な どの「集約的成長(intensive growth) Jと呼ばれるものである。大量移民の時代には外延的成 長ばかりでなく、集約的成長も見られた。しかし、それだけでは移民の影響は分からない。問題 は、移民は生産性の伸びを加速させたのか、鈍化させたのかということである。 そこで問題になることの一つが、移民の影響する「人口」の定義である。 移民の影響を云々する場合の「人口」とは何か。移民を含めた人口の総体か。移民が到着した 時点の「米国の住民(residents。以下、特に断らなければ、「住民」は移民に対する米国市民を 指す)Jか。あるいは、米国生まれの人(一歩進んで、米国生まれの人に生まれた人)の数か。 労働者だけか、それとも労働者と扶養家族を指すのか。資本家と土地所有者のみを指すのか。 こうした問いが必要なのは、移民の影響を云々するには、少なくとも、移民と住民とを分ける 必要があるにもかかわらず、現実には、普通、そういう区別のできない総人口データで分析が行 われているからである。例えば、理論的には、住民と移民の賃金が急速に上昇していても、もし 多数の移民が陸続と続き、同時に移民の平均給与が大幅に低ければ、人口全体の賃金が低下する ことはあり得るわけである。 もう一つ、「生産要素(factors of production) Jの問題がある。 W以下の要約の使用については、了承を得てある。 55 経済総生産は、資本(機械、建物、その他の構造物を含む)、労働力(人数、労働時間、労働 密度、熟練度)、土地(利用度、資源、原料)の生産要素から成り、それに技術を足す。移民の 影響を云々する場合には、更に、「代替(substitution) Jを考えなければならない。例えば、 手仕事を厭わない農業移民が増えれば、土地所有者は、野菜や果物など、手による収穫を必要と するものの栽培を増やすことが考えられる。加えて、「もし移民がいなければ」という想定(「反 事実(counterfactual)J )も考えなければならない。反事実は、例えば、「もし移民がいなけ れば」という想定を指す。これらの要因を組み合わせる場合、多数の技術的な問題を生み出す。 ◊「資本希釈(capital dilution)」 資本を持たない移民が市場に入ってくると、資本と労働の比率が希釈する。これは住民労働者 にはマイナスの影響、資本保持者にはブラスの影響、差し引きわずかならが経済全体にとってプ ラスの影響となる。 ◊資源活用 移民(人口)の増加が(環境を含む)資源を枯渇させるという考えは比較的新しいが、これに ついては次の点を指摘できる。 ① 環境:人間の存在が自然破壊につながるのも事実。 例:アメリカ・バイソンを絶滅近くまで追い込んだこと。だが、環境改善が人口の 大きさに関係なく行われてきたのも事実。 例:ロサンゼルスの厳しい環境規制導入により、人口増の中で環境は改善した。 ② 再生不能資源:開発の過程で資源が消費されるのは事実だが、人口増による開発増によ りエネルギーなどの資源開発が進み、資源の生産量が増えたことも事実。 ◊労働力参加 労働力に参加する人口比率が高いほど、一人当たりの生産量が増える。少なくとも、1870年 から1940年について見ると、労働参加率は、移民の方が米国生まれの人たちに比べて一貫して 高かった。特に大量移民の期間は、移民の参加率が52%から58%であったのに対し、米国生ま れの人たちのそれは32%から38%どまりであった。その大きな理由は、移民の過半数が男性で あり、80%以上が14〜15歳以上の働き盛りであったことにある。 ◊発明 56 米国は大量移民の時代に技術指導国となった。多くの移民で米国の人口が増えた結果、経済が 大きくなり、生産量が大きくなるとともに、それだけ新たな技術を模索し、発明する機会が増え た。単純に、「偉大な」発明家の割合を見ても、移民に占める割合が、住民に占める割合に比べ てはるかに高い。 ◊技術の広がり 発明はそれが広がらないと経済的影響を持たない。大量移民の時代に発明された大量生産は、 新しい機械と新しい工場設計とを必要とした。新しい冷蔵技術は新しい列車を必要とした。また、 この時代の新しい発明として大々的なデパート商品発売方法がある。これら全ては移民により急 速に流布していくことになった。 ◊規模の経済 「規模の経済(economy of scale) Jという概念は比較的新しく、19世紀から20世紀の初め にかけての経済にこの概念を当てはめる分析は最近始まったばかりだ。ある経済学者73は、19世 紀中に米国の国民所得に占める資本の割合は41%増加し、国家経済が大きくなり、市場が単一 化されるにつれて、規模の経済の方向へ経済が進んでいった。そして、西進に必要とされる大量 移民がその発展に大いに貢献したと分析している。 ◊移民の「質」の問題 移民の「質」が総じて低級であるという見方は、大量移民の時代に移民反対をした人たちばか りでなく、後々の学者も往々にしてそういう見方をした。前者の典型は冒頭に引いたウォーカー で、ウォーカーは別のところで、「フン族(ドイツ人のこと)、ポーランド人、ボヘミア人、ロ シアのユダヤ人、南部イタリア人」は、「惨めで、やる気をなくした、堕落し、無気力な人たち (the miserable, the broken, the corrupt, the abject) J 7こと述べた。 ただし、移民研究者の中には、米国に移民してくる人たちの多くは元の社会では中級以上に属 する人たちであって、これは19世紀の「ジャガイモ飢饉」で国を出ることを余儀なくされたア イルランド移民についても言えるということを実証した人もいる。 73 Moses Abramovitz (1912-2000). Stanibrd大学の経済学部を創設した経済学者で、経済成長に果たす技術進歩の役割 を分析したことで名高い。ここに触れる議論は、1993年の、「経済成長の源泉の探求:無知の分野昨今(The Search for Sources of Growth: Areas of Ignorance, Old and New)Jという論考で行ったもの。この経済学者は、大都市をも「規 模の経済」の一部としている点、興味深い。 57 そのような研究者の一人Peter Hillは、:1870年から1920年までの間について、移民と米国生 まれの人たちを「熟練(skilled)」、「半熟練(semiskilled) J ,「非熟練(unskilled) Jに3 分類して74その割合を調べた。移民は、熟練では37〜45%となって、米国生まれの人たちの43 〜56%に比べて劣ったが、半熟練では23〜27%となって、米国生まれの人たちの13〜18%をか なり凌駕し、非熟練では、32〜40%で、米国生まれの人たちの2 8〜44%を下回った。言い換え ると、移民が半熟練でまさったのに対し、米国生まれの人たちは熟練と非熟練に偏っており、総 合すれば、米国生まれと移民との間の差はほとんどないと結論した。 ◊実質賃金 移民の実質賃金に対するマイナスの影響こそ、移民の悪影響として、昔から移民反対の筆頭に 挙げられてきた。しかし、その場合の分析は、例えば小麦といった一つの商品について考えられ る需要と供給の関係を、単純に労働市場に当てはめようとしたものが大半である。しかし、マク ロ経済学では労働力全体について需要と供給の関係を持ち込むことはできない。新規雇用の労働 力が増えれば、労働力需要が変わる。新規労働力は所得を得て、同所得を消費し、総需要を増や して、労働力を増やす。 もちろん、①第一次大戦の時と、「狂騒の20年代(TheRoaring20s) Jの賃金上昇を移民制 限に求める研究や、②1890年から:1910年の移民の急増(大量移民)が1910年の実質賃金を低 くしたとする研究があるが、いずれも使用した経済モデルが誤っており、特に後者は、大量移民 にもかかわらず1900年から1913年までは失業率が低く、また移民が増えると失業率が減った という明らかに矛盾した事実を無視するものである。 しかし、それにも増して重要なのは、南北戦争から第一次大戦まで実質賃金が上昇を続けたと いう事実である。また、移民の増減は景気に左右されるという事実もある。移民は景気がよけれ ば増え、景気が悪ければ減る。 ◊賃金格差 移民が労働市場全体にマイナス影響を与えることはないということは、理論的にも、現実のデ ータでも証明されないが、移民の特別のグループ(たとえば学歴の低い人たち)が、労働市場の 特別のグループ(同前)に影響するかどうかというのは別問題である。 74農民は通常「非熟練労働者」に分類されるが、H111はこの分類では「熟練労働者」としている。農民は、この分 析の対象となった時代には、「住民」の方が割合が高かったから、「熟練」の割合は住民の方が高くなった。 58 ① 熟練と非熟練:移民により熟練工と非熟練工の賃金格差が広がるのではないかという問 題については一つの研究があり、それによれば大量移民の時代に二つのグループの賃金 格差は広がったが、この研究を実施した2名の学者は、格差の原因を移民に求めず、技 術の進展に求めている。 ② 黒人:南北戦争から第一次大戦の間に、南部の黒人がそこの安い賃金に甘んじて北部に 移動しようとしなかった75のは、大量の移民が北部に流れ込んで、結果として黒人を南部 に「閉じ込めてしまう(lockup) J結果となったという研究があるが、現実には黒人が 動かなかったことには幾つか他に理由があり、まだ、決定的なことは分かっていない。 ③ 地域格差:1900年前後についての分析によると、移民は一つの都市内で賃金の高い地域 に動く傾向がある。そして、地域の人口が1%増えると、そこでの賃金の伸びが、移民 のあまりいない地区のそれに比べて、1%から1.5%抑制されるという推定が出ている。 これは、都市全体の地域格差の縮小効果であるが、同様の効果は移民がいなければ、住 民の移動により生じたであろうと考えられる。 以上、大量移民のように、長期的な移民の影響を見ると、移民は住民に恩恵をもたらすと結論 できる。 75南部の黒人がシカゴなど北部の大都市に大きな移動を始めるのは1920年代以後のことであった。ここ20年ほ どは、それほど大々的にではないが、北部諸都市からの南部への「復帰」が見られる。 59 8.移民の影響(3) : メキシコ移民とゲスト労働者 Marcelo M. Suarez-OrozcoとMariela M. Paez編集の『ラテン人:米国の作り変えLatinos: Remaking America』(University of California Press, 2002)は、米国におけるヒスパニック移民 について、歴史、社会学、労働運動、宗教、米国の移民法の影響、保健と保険、言語、教育など 各方面からの論考を集めたものである76。その論考の一つ、「どっちつかずの対応:米国の新し いヒスノヾニック移民に対する一般国民の反応(Ambivalent Reception: Mass Public Responses to the **New” Latino Immigration to the United States) Jにおいて、カリフォルニア大学サンディ エゴ校で政治学教授、国際関係準教授、米墨関係委員長の肩書きを持つWayne Corneliusは、ヒ スパニック移民の現状と、ヒスパニック移民に対する米国民の態度を次のように要約している。 ① メキシコ移民を含む1970年代以降のヒスパニック移民は、大半、低賃金で、あまり技能 を必要としない職種に就き、米国経済の一部として吸収されている。米国におけるヒス パニック移民労働に対する需要は、「構造的(structural)Jなものとなっている。また、 そうした職種は米国生まれの米国人の多く(many native-born Americans)が就きたが らない職種である。 ② しかし、米国民の多くにとって、そのような、大きな、柔軟性があり、相対的に低コス 卜の移民労働力の経済的恩恵(economic benefits of a large, flexible, relatively low-cost supply of immigrant labor)は、急速に拡大する移民という非経済的なコスト {noneconomiccosts)で相殺されている。 この二つの相反する状態を「矛盾した状態(ambivalence)jとするなら、それを如実に反映し ているのが移民対策であるとコーニリアス教授は言う。議会では移民の枠を増やさないばかりで なく、何年にもわたって米国に在住する「不法移民」に大赦を認めようとしない。しかし、その 一方で、高度な技術を有する非ヒスパニック移民は、これを増やす措置をとっていると指摘する。 しかし、「過度な」ヒスパニック移民に対する懸念が米国民の中に存在するにもかかわらず、 広範な基盤に基づく、移民反対反撃(broadly based, anti-immigrant backlash)が今のところ生 じていない。それはなぜか。同教授は、その理由として次のような点を挙げている。 ①一般国民にとって、移民問題が政策問題となるほどの重要性を帯びていない。 76この本では、本の題から推察されるように、ヒスパニックをLatinoというふうに呼んでいる。しかし、ここで は、このシリーズで用いてきたヒスパニックを引き続き用いる。 60 ② 政治家が移民「叩き」を始めていない。これは近年、民主党も共和党も、移民を有権者と して重要視し始めたことによる。 ③ 2001年まで続いた好景気。 ④ 労働組合が伝統的な移民反対方針を最近放棄して、移民を組合化する方向に転換した。 ロメキシコ移民の分析 以上、コーニリアス教授の意見をまず紹介した理由は、現在の移民分析には、肯定的なものも あるが、否定的なものも多いからである。以下、紹介する移民分析『メキシコからの移民:米国 への影響の評定 !mmigration From Mexico: Assessing the Impact on the United States11 は、 否定的な分析の典型と言ってよい。 この分析は、ワシントンの移民研究センター(Center for Immigration Studies、以下CIS) 77 78 のSteven A. Camarota所長によるものである。同センターは、1985年に設立された独立、超党 派、非営利団体で、「移民が米国に与える経済、社会、人口動態、財政、その他の面での影響の 政策分析を行う、米国唯一の移民専門のシンク・タンク」とあり、そのビジョンとするところは、 「移民受け入れには賛成するが、移民の水準を減らすこと(pro-immigrant, low-immigration) J に要約できる。Camarotaは、バージニア大学で公共政策の分野で博士号を受けた人で、かなり の出版物がある79。 ◊事実(findings) ① メキシコ移民で米国に住む人たちの数は1970年から2,000年までの30年間に76万人か ら786万人へと、10倍以上の増加となった。これに対して、同期間、その他の国々から の移民総数は890万人から2,050万人へと1.3倍になったにすぎない。 ② 国の出生率が下がれば国外移民(emigrants)の数が下がる傾向があるが、メキシコの場 合、それは起こっていない。同国の出生率は1970年の6.5人から2000年の2.75人へと 減少した。 ③ メキシコ移民の78%が、カリフォルニア(376万人)、テキサス(145万人)、イリノ イ(47万人)、アリゾナ(40万人)の4州に集中している。 77http://www.cis.org/articles/200l/mexico/release.htmloこの報告は極めて詳細な経済、社会分析を含む。ここに掲げる のは、要約を各論で補ったものである。以下の要約の使用については、cisの了承を得てある。 78 www. cis. org 79以下の要約の使用については、了承を得てある。 61 ④ メキシコ移民は教育度が低い。25歳から64歳までの人たちでは、高校中退以下(ここ では、非熟練労働者と呼ぶ)の割合は65%となる。これに対して、移民全体の平均は31%、 米国生まれの人たちのそれは9.6%であった。それに対して学士号所持者は、メキシコ移 民が3.3%、移民全体の平均は17%、米国生まれのそれは19%であった。 ⑤ メキシコ移民の教育度の低さは、管理職(一人以上を監督指導する立場にある人)およ び専門職(歯医者その他)に就く人たちが少ないことを意味する。1999年、そのような 職に就いていたメキシコ移民は5.5%に過ぎなかった。管理職•専門職の年間所得は約5 万ドル、そうでない人たちの年間所得はおよそその半分である。 ⑥ メキシコ移民の教育度は世代を経てもほとんど進展が見られない。高校中退者は、米国 生まれの人たちの平均が8.8%であるのに対して、メキシコ移民の二世は2 5.2%、三世と それ以上が25.7%となって、世代が進むと、改善するのではなく、わずかながら悪化す る。大学卒は、米国生まれの平均が28.8%であるのに対して、メキシコ移民の二世は11.2%、 三世以上で!3.0%となり、改善はしているが、大幅なものではない。 ⑦ 教育度が改善されないため、メキシコ移民の急増により、非熟練労働者の総数に占める メキシコ移民の割合が高くなった。!999年の場合、その割合は22%に達した。その結果、 メキシコ移民が非熟練労働市場の労賃に与える影響はかなりのものになると算定されて いる。 ⑧ 一例として、1997年のブルッキングズ研究所の論文がある。それによると、1980年から 1994年の間に移民(メキシコ以外の移民を含む)は非熟練労働者の賃金を5%引き下げ た。また、非熟練労働市場とその他の労働市場との間で賃金格差が広がったが、その44% は移民によるものであった。他方、移民研究センターの分析によっても、1990年代、メ キシコ移民により、非熟練労働市場の賃金は5%Tがったと試算される。 ⑨ 低賃金に甘んじる移民の流入により、消費者が恩恵を受けるという議論があるが、移民 研究センターの試算では、それはせいぜい0.13%の価格減少を生むにすぎない。 ⑩ 米国では非熟練労働者が不足しており、メキシコ移民はそれを補うという見方がある。 しかし、そうした不足は存在せず、また、非熟練労働者の絶対数は減少している。1990 年代には40万人減少した。この労働者層の実質賃金は同じ10年間に7.2%減少した。 ⑪ 所得または経済移動性(income, economic mobility)については、メキシコ移民全体で は65.6%が「貧困に近い」所得水準のカテゴリーに入るが、それを移民後20年米国に住 んだ人たちについて見ても54.7%とあまり改善がない。米国生まれの人たちの平均は27.9% である。また福祉利用者を見ても、メキシコ移民全体が30.9%で、20年米国に住んだ人 62 たちでも29.6%となって、ほとんど改善がない。米国生まれの人たちの平均は14.8%で ある。 ⑫ 同様の移動性の少なさは、年間所得についても見られる。1999年、21歳以上の人たちを 対象にした調査によると、米国生まれの人たちの所得平均は3万?,124ドルであった。 それに対し、メキシコ移民の平均は1万8,952ドルで米国生まれの人たちの所得の51%、 メキシコ移民で米国に来て1〇年以下の人たちは1万5,201ドルで同41%、11年から20 年になると1万9,365ドルで同52%であった。31年以上米国に住んだ人たちでも、所得 は2万6,131ドルと、米国生まれの人たちの70%にすぎない。 ⑬ メキシコ移民の経済貢献度はどうか。2000年センサス調査によると、1999年、米国の労 働者総数1億4,900万人(フルタイム、パートタイムを含む)のうちメキシコ移民の労 働者は490万人、3.3%であった。しかし、メキシコ移民は低賃金で働くことが多いため に、米国の所得総額に占めるメキシコ移民の所得は1.9%にすぎず、それがGDPに占め る割合は1.3%にすぎない。 ⑭ 1982年以降、学生(5歳から17歳まで)数の増分のうちメキシコ移民は全体の3分の 1相当の290万人を占める。下表は、移民の母親を持つ子弟の学生数とその割合を州別 に示したものである。問題は、集中度の高さの他に、メキシコ移民の場合は、3つの問 題があることだ。一つは、先に指摘したように、メキシコ移民の所得が低いこと。世帯 所得でみると、米国生まれの人たちの平均が5万4,110ドルであるのに対し、メキシコ 移民のそれは3万5,024ドルで65%である。これではメキシコ移民の納税額は公立学校 のコストをまかなうのに十分でない。第二に、メキシコ移民所帯の子弟数は米国生まれ の人たちの2倍であり、それだけ公立学校に行く生徒数が多い。第三に、ニカ国語教育 という余分なコストもある。ニカ国語教育の大半はメキシコ移民を対象に行われる。 メキシコ移民の子弟 全移民の子弟 割合 千人 割合 千人 カリフォルニア 24.7 1,677 43.4 2,939 テキサス 13.7 533 22.0 857 イリノイ 8.2 197 15.2 365 アリゾナ 17.0 171 23.1 232 全国 6.1 3,213 16.3 8,613 (注)割合は全生徒数を!00とした場合。 63 ⑮ 最後に、財政に与える影響については、全国科学財団の試算がある。これは、移民が米 国に入国した時の年齢と教育度により、その納税額と学校教育など公共サービスの経費 を比べるものである。この試算によると、メキシコからの成人の移民が一生の間に米国 財政に与える影響はマイナス5万5,200ドルとなる。 ◊提言 以上のことから、米国は大きく分けて2つの措置を考えるべきである。一つは、メキシコ移民 の非熟練労働者の職能を向上させる施策をとること、もう一つは、メキシコからの非熟練労働者 の移民と不法移民を減らすようにすることである。以下、少し詳しく述べる。 ① 米国がメキシコから大量の移民を受け入れる理由については、隣国との友好関係維持の 他に、メキシコの失業者のための安全弁を設けておく必要があるという議論がある。し かし、米国の国益を考えた場合、非熟練労働者の移民と不法移民の数を減らすのが最善 である。メキシコの非熟練労働者の流入が、米国の最低賃金労働者の賃金を更に押し下 げる作用を持つこと、低賃金労働者の消費者に与える恩恵が極めてわずかだからという 理由からである。 ② 移民制限の方法としては次のようなことが考えられる。現在、メキシコの場合、移民ビ ザの発給の90%が、米国市民と永住権保持者の家族に付与される。移民削減の方法とし ては、ジョーダン諮問委員会8〇は、米国市民の場合は配偶者、未成年の実子、および親に、 永住権保持者の場合は、配偶者と未成年の実子に限り、成人した実子と兄弟は移民ビザ 発給の対象外とするよう提言した。しかし、成人した実子と兄弟だけでなく、米国市民 の場合は両親と、永住権保持者の場合は、配偶者と子供を対象外とすべきである。ただ し、この変更はメキシコだけでなく、その他全ての国からの移民を対象とすべきである。 ③ メキシコからの不法移民は、現在300万〜400万人いるとされている。これら不法移民 を減らす最善の方法は、それらの人たちの職を奪うことである。不法移民は不法なので あるから、職場の取り締まりを強化する。また、国境警備を強化する。 ④ メキシコ移民は教育度が低いために貧困者の比率が高く、福祉依存者の比率が高い。こ れは米国の納税者にとっては負担である。この事態を改善するために、職業訓練を行い、 成人教育を強化し、移民の割合が高い地域の公立学校における教育を強化すべきである。 (注:このような地域での学校教育は立ち遅れがちである。) “P.46参照。 64 ⑤ ゲスト労働者(guestworker)プログラムを再導入すべしとの議論があるが、これは、 不法移民のように、学校教育、福祉利用などで、米国の財政に不当な重荷をかけるだけ である。(後述参照) ⑥ もちろん、現在のメキシコからの移民の水準を維持すべきであるという議論もある。ー つは、経済的に劣った隣国を助けようという他愛主義、一つは、他愛主義と、メキシコ の過剰労働市場に対して米国は安全弁を設けておくべきであるとする実際的な考慮を混 ぜたもの、もう一つは、米国は妥当なコストで不法移民を規制できないという議論であ る。このうち最初の二つの議論は、それならば、まともに開発援助をメキシコに行うベ きだし、いずれにせよ、政策担当者はそのコストを国民にはっきり説明すべきだ。三番 目の議論については、米国はかって真面目に不法移民を取り締まろうとしたことはない、 と指摘することができる。 以上が、移民研究センターの報告である。 次に、「ゲスト労働者」の問題を取り上げる。これは、移民を規制すべきかどうかという議論 の中で、特にメキシコ移民については、かなりの数の農業労働者の確保が必要との見方があるか らである。問題は、その必要性にどう対処すべきかという点にあり、現行の一時的あるいは定期 的な移民受け入れ制度を大幅に拡大するか、別個のものを導入するかにあるといえる。 「ゲスト労働者」というのは、もちろん、女宛曲表現であって、外国からの出稼ぎ労働者のうち 法的に認めたものをいう。 ロブラセロ ・プログラム 米国のゲスト労働者の受け入れは、19世紀後半の中国人契約労働者(contract workers)受 け入れに遡る。そのうち最も有名なのはメキシコ人を対象としたもので、1942年に導入され、 1964年に廃止されたBracero Program®】である。これは、第二次大戦による人手不足を名目に米 墨間に作られ、雇い主は、テキサスやアリゾナ、カリフォルニアの農場やランチが主体であった が、早期には鉄道工夫も指した。もう一つは現行のH-2である。これは、フロリダのサトウキ ビ伐採とニューヨークなど北東州のリンゴ採集のために、1952年に作られ、1986年にH-2Aと して改変されたもので、ジャマイカなどカリブ海諸国の人たちを季節的に受け入れるのが目的で ある。 65 braceroは、スペイン語では単に労働者を指すが、英語では、普通、農業労働者として一定期 間だけ米国入国を認められる人たちを指す。これはBracero Programの結果である。このプログ ラムは、当初、米国の労働力不足と、メキシコの貧困な農業労働者の余剰を解決するものとして 歓迎され、この条約が成立した時にメキシコ領事としてワシントンに,駐在していたメキシコ代表 のエルネスト・ガラールザErnesto Galarzaも、その点を恩恵として強調した。しかし、後に米 墨を股にかけた労働運動家になってからは、バルセロ ・プログラムはメキシコの労働者に対して 低賃金を半恒久的に強いるものだとして、強力な反対運動を展開した82。 事実、このプログラムを米国側でその末期(19591964)に担当した労働省のLee G. Williams は、後に、これを「合法化された奴款制度(legalizedslavery) Jと呼び、「大きな農業事業体 (big corporate farms) 83が政府をスポンサーとしてメキシコから安い労働力の供給を得る方途 に他ならない」とした。加えて、「ブラセロは、メキシコでは家畜のように運搬され、米国では 監獄人のように扱われた84」として、手ひどく批判した。これは、ブラセロ ・プログラムが国境 を越えた定期的な移動をその一部とし、低賃金で重労働を強いたためだが、このプログラムにつ いて書いたものを読むと、しばしば「搾取(exploitation)」や「不当な扱い(abuse)」という 言葉が出てくる。 ブラセロ •プログラムは、「不法」移民の増加と農業の機械化の進展、それに、ガラールザな どの反対運動の結果、廃止されることになった。プログラムが有効な22年間に延べ470万人の メキシコ人がこれに参加した。 2001年3月1日には、このプログラムに関連して訴訟が起こされている。同プログラムの協 定の一部として、ブラセロの賃金の10%を棒引きすることによる「農村貯蓄基金(RuralSavings Fund)」の樹立が取り決められたが、訴訟は、この返却が行われなかったことに対するもので ある。イリノイ州議会下院は、2001年5月初め、この訴訟に十分に対応するよう米国政府に呼 びかける決議案を満場一致で可決した85。 もう一つ、ここ20年ほどに米国社会の一部となったものに、braceras (女性名詞)の急増が 挙げられる。これは米国社会の富裕層が益々裕福になり、共稼ぎが増え、或いは、妻の座にある 人が専業主婦の立場に甘んじることを避けて家庭内にとどまることが少なくなり、その一方で老 81正式には、「メキシコ農業労働者の米国への一時的移動(The Temporary Migration of Mexican Agricultural Workers to the United States)J と 舌 った。http://www.farmworkers.org/bpaccord.html 82ガラ・ルザの業績の分析については、http://www.chass.ucr.edu/csbsr/gala.htm 83現在はagribusinessと呼ばれる。 84 Latinos, p.129. 85 http://www.lieffcabraser.com/braceros_press.htm 66 齢化が進んでいる結果、家政婦や看護人の需要が高まった。そして、その需要に応じる人たちの 大部分が一種のゲスト労働者ともいうべき女性によって占められている。また、事務所の清掃に 当たる人たちも、以前は移民男性の仕事と考えられたのが、女性の割合が高まっている。 この種の職業に就く移民女性は、子供を自国に残しての出稼ぎとなっている場合が多く、新た な問題を作り出しているという86。 □H-2A もう一つの「ゲスト労働者」プログラムH-2Aは、恐らく関係者を除き、ほとんど知られてい ない。理由の一つは、このプログラムで受け入れられるのが毎年4万4,000人程度87で、地域が 分散しているため、あまり目立たないからである。これに対して、ブラセロ ・プログラムは、最 盛時の1956年には年間44万5,000人にのぼる労働者の流入があった。また、現在メキシコから の不法労働者の数は毎年60万人程度88と、合法的なゲスト労働者に比べて圧倒的に多いことも、 H-2Aプログラムが相対的に知られない原因となっているかもしれない。 H-2Aの規則は、しばしば厳しくて利用しにくいとの苦情が聞かれる。管轄する労働省による と、次のような規則になっている89。 ① このプログラムは農業雇用主のためのもの。これを利用して外国人労働者を雇いたい人 は、当該作業に就く米国市民が不足していること、また、外国人労働者を雇っても、地 域の米国人労働者が被害を受けないことを明言する申請書(petition)を提出する。 ② 雇用は「一時的あるいは季節的(temporary or seasonal)Jなものであること。これは 期限が1年以内であることを意味する。 ③ 申請を行うには、新聞、ラジオ広告などを通じて積極的に米国市民を雇用しようとした との証拠が必要。 ④ 賃金(時間給)は、労働省が2年に一度決めるものか、連邦または州政府が決める最低 賃金か、地域で一般的な賃金のうち高いものとする。 ⑤ 歩合給(piece rate :作業単位に対する支払い。例:リンゴを1トン分摘めば10ドル) の場合は、当該地域で一般的な料金でなければならないが、結果として当該期間に平均 して時間給より少ない場合は、不足する分を補って時間給にする。 86 Latinos の論考のー^、Pierrette Hondagneu-Sotelo による”Families on the Frontier: From Braceros in the F ields to Braceras in the House”は、そのような女性を扱ったものである。 87 これは最近の推定。http://www.aztreasury.state.az.us/guestWorker.shtmlo 88この数字は推定する人によって異なる。 89 http://workforcesecurity.doleta.gov/foreign/h-2a.asp 67 ⑥ 住宅:労働者が同日に通勤できないところに住んでいる場合は、住宅を提供する。住宅 は適切な基準に沿って認証されたものでなければならない。 ⑦ 食事:雇用主は1日3回の食事を提供するか、無料の料理場所を提供しなければならな い。食事を提供する場合は、その分、料金を取って良い。 ⑧ 交通費:交通費は、雇用場所から作業場までの交通費(労働者が払っている場合、作業 が半分終わった時点で払い戻す)、労働者の住宅と作業場との間の交通費、当該作業が 終わってから労働者が雇用場所に戻る交通費の3種があり、すべて雇用主が支払う。 ⑨ 傷害保険:州法に従って掛ける。州法で定めがない場合は、それ相当の保険を掛ける。 ⑩ 道具、器具:当該地域で、労働者が独自に必要道具や器具を持ってくることになってい る場合を除き、必要道具や器具はすべて雇用主が無料で提供しなければならない。 ⑪ 手数料:H-2A認証費として、基本手数料100ドルプラス一人当たり10ドルとし、最高 1,000ドルまでとする。 ⑫ 雇用主は労働者の一人一人ついて、給与その他について詳細な記録をとり、労働省に提 出しなければならない。 ロゲスト労働者議論 ゲスト労働者をもっと大々的に受け入れようとする動きは、ここ何年かある。もちろん、それ に反対する動きも存在するわけで、ここでは、1999年5月12日、上院司法委員会移民小委員会 が行った公聴会で出た賛否両論を幾つか拾ってみよう9〇。 当時、同小委員会の委員長は、2001年、ブッシュ大統領が就任するとともにエネルギー長官 に選ばれたスペンサー・エイブラハムSpencer Abraham議員(ミシガン州、共)だった。 〇エイブラハム議員 まだゲスト労働者についての法案を出しているわけではないが、ここで公聴会を開いて、問題 点を明らかにしておくことは有益だろう。現在、次のような点について合意があると思う。 ① 米国は、農産物で世界市場における競争力を持つ必要がある皿。 ② 出稼ぎ労働者の生活は苦しく、その仕事は厳しい。 ③ 合法的に米国に入国する方が、密入国業者の手で入国するよりも安全である。 ④ 合法的な移民は米国の法制を用いることができるが、不法移民はできない。 90 要約原文は http://www.fairus.org/html/08230905.htm 68 〇ケネディ議員 ブラセロ •プログラムが存続していた時に議会に在籍していた92ので、それについての議論は 知っており、あのようなプログラムに戻ることは避けたい。 ① 米国の農業が、確実に頼りにできる労働力を必要としていることは明らかである。 ② 出稼ぎ労働者の賃金、労働条件、住宅などといった問題は、深刻な問題として議会が取り 上げなければならない。 ③ 不法農業労働者93の法的地位を調整する必要がある。 〇ダイアン・ファインスタイン議員(カリフォルニア州、民) ① ゲスト労働者という案には反対。 ② 特定の州の、特定の農産物収穫に従事できる農業労働者の登録を行うのがよい。米国農業 協会連盟(American Farm Bureau Federation) 94とカリフォルニア農業協会(California Farm Bureau)は、そのような登録作成に賛成している。 ③ 米国に既に在住する不法農業労働者の法的地位を調整する手続きを始める。 〇フィル・グラム議員(テキサス州、共) 合法的で安定した農業労働力は必要である。雇用主と政府と国家とが移民の恩恵を受け入れな がら、移民の不法状態を無視する体制は変える必要がある。新たなメキシコ・ゲスト労働者プロ グラムとして次のようなものを考えている95。 ① 最高1年間米国で働いた後は、メキシコに帰らなければならない。 ② メキシコの労働者はサービス・農業分野での雇用のために身分証明書を受ける。 ③ 現在不法移民として米国に在住している人たちはこのプログラムに参加し、雇用期間が終 わるとともにメキシコに戻る。 9[つまり、コストを低くしておく必要があるということ。 92ケネディは1962年、大統領になったジョン・ケネディの空席を埋めるために上院に選出された。 93ここで「不法」としたのはundocumentedという言葉である。この言葉は!llega!に代わるものとして使われるこ とが多い。 94 50州とプエルトリコの農業協会の連盟。 gこれはグラム議員のサイトからとった。http://www.senate.gov/~gramm/press/guestworker.html 69 ④不法移民から徴収される税金は何ら納税者の恩恵になっていないことを認め、これを雇用 主の資金による緊急ヘルスケアで置き換える。また、一種の退職口座のようなものを作り、 雇用が終わった時点で残っている金額は、メキシコに帰った時点で労働者に返却する。 〇ゴードン・スミス議員(オレゴン州、共) 現行のゲスト労働者プログラムH-2Aは上手くいってない。しかし、改正の目的は新たな労働 者を連れてくることではなく、現在、米国に在住する不法移民を助けることであるべきだ。 〇ハワード・バーマン下院議員(カリフォルニア州、民) ① 現在検討されているようなゲスト労働者プログラムは、米国の農業労働者の賃金と労働 条件を悪化させる。 ② 1997年の会計検査院の報告によると、米国農業には全国的な人手不足は存在しない96。 農業分野の雇用者は、米国人の農業労働者を避けて、賃金の安い不法移民を雇っている。 ③ 新たなゲスト労働者プログラムを作れば、現在の不法移民を温存したまま、新たに不法 移民を増やすことになる。プログラムで入国した人たちの多くが、雇用期間が終わると ともに米国を出るとは考えられない。 〇サンフォード・ビショップ下院議員(ジョージア州、民) ① 1997年の会計検査院報告は正しくない。ジョージア州では農業労働者が不足しており、 収穫できない農産物が生じている。 ② 現在のH-2Aプログラムは利用するのが困難。 この公聴会では、ミシガン農業協会と農業雇用主全国委員会(National Council of Agricultural Employers)が、ビショップ議員の意見を強く支持した。 〇カーネギー財団、国際移動と政策担当者 96 こ の報告 H-2A Agricultural Questworker Program: Changes Could Improve Services to Employers and Better Protect Workers (12/31/97, GAO/HEHS^98-20)は度々触れられる。要点を幾つか挙げると、①多数の外国人労働者の輸入を 必要とするような広範な農業労働者の不足は、近い将来起こりそうにない、②全国的な不足はないが、地域的、 農産物別には不足があるかもしれない、③現在、不法農業労働者は60万人と推定されているが、移民局では不法 移民取り締まり活動で、そうした農業労働者の数が大きく減るとは予想していない、④1996年度の場合、取り締 まり活動の対象になったのは5%以下であった、⑤法執行を行うのは苦情があった場合が大半だが、実際、苦情 はほとんどない、@H-2Aの利用者は必要とする労働者を獲得することができるが、関係法規を遵守することは、 利用者にも労働者関係にも困難である、等々。http://www.gao.gov/archive/1998/he98020.pdf 70 現在のように、米国農業労働者のかなりの部分の人たちを非合法な状態に置いておくというよ うなことは、あってはならない。そうした人たちの法的立場を変更しなければ、その他の労働者 が享受している保護を受けることができない。 〇ラ・ラザ全国委員会(National Council of La Raza) 97代表 ① ゲスト労働者プログラムの拡大には強く反対する。 ② 労働省の統計によれば、農業労働者の37%が不法移民ということだが、これは農業雇用者 が低賃金を求めて不法移民を雇うからである。米国には農業労働者の不足はなく、当分の 間、労働余剰があるという1997年会計検査院の報告は正しい。 ③ H-2Aは、農業従事者に過度に寛大であり、その一方、米国人労働者と外国人労働者に対 する保護措置に欠ける。H-2Aの拡大はこの状態を更に悪化させることにほかならない。 ④ 米国の農業関係者(栽培者)の要求は、反移民、反労働者、反ヒスパニックである。 〇二世農業人連盟(Nisei Farmers League) ① H-2A体制は上手くいっておらず、改革が必要である。 ② カリフォルニアの農業には危機的な労働力不足があり、農産物を適切な時節に適切に収穫 することができない。 ③ 農業労働者の多くが非合法であることは承知している。 最後に挙げた二世農業人連盟は、フレズノに本部を置く栽培者団体で、この公聴会から4カ月 後、現状の方針を採択する旨明らかにした。それは、不法移民の全てに対して暫定ビザを支給し、 その後、永住権や市民権を求める人たちにはそれができるようにするという案である。これはゲ スト労働者プログラム改定の案を素通りするものとしてSacrament Bee紙に報じられた98が、そ の後、進展を見せていないようである。 971968年に設立されたヒスパニック互助団体、シンクタンク。ヒスパニック団体としては最大。ヒスパニックの 貧困を減らし、差別をなくし、職業機会を改善することを目的としている。http://www.nclr.Org/about/#top 98 http://are.berkeley.edu/APMP/pubs/agworkvisa/newpush92699.html 71 9.日系移民 米国には「模範的マイノリティ(modelminority) Jという言葉がある。否、あった、と言っ た方が正しいかもしれない。 この言葉は、1966年1月9日付のThe New York Times Magazine (日曜版の特別セクション) に、社会学者のWilliam Petersonが「日系米国人型の成功物語(Success Story: Japanese American Style) Jという記事を出し、そこで、「良い市民ということについてどのような基準 を選ぶにせよ、日系米国人は、米国生まれの白人を含む米国社会のどのグループよりうまくやつ ている」と書いたことが最初とされている。ピーターソンはそこで、「家族を大切にし(family values)」、「高い労働意欲(strong work ethic) Jを重要視する日本文化が、日系米国人をし て「問題マイノリティ(problem minority)」になるのを避けさせていると論じた99。 それからほぼ1年後の12月26日、ピーターソンの記事に呼応するように、週刊誌US News and World Reportが、「米国におけるあるマイノリティ•グループの成功物語(Success Story of One Minority Group in the U.S.) Jと題する記事を掲載した。これは中国系米国人を対象としたが、 これら二つの記事により、「模範的マイノリティ」はアジア系米国人全体を指す言葉となった1〇〇。 ただし、1960年代の後半には、アジア系米国人という言葉はほとんど用いられなかったはずで、 「模範的マイノリティ」が適用されるとすれば、日系人と中国系の人たちを指すと考えて良い。 「模範的マイノリティ」という言葉は当初、日系・中国系米国人には概ね賛辞として受け止め られたと考えられる。しかし、1980年代に多文化主義が社会の前面に出てマイノリティの意識 が先鋭化し、黒人やヒスパニックに対比するものとして「アジア系米国人」の突出が喧伝される とともに、この概念に対する反発が強まり、様々な反論がなされるようになった。これは、1980 年代に「模範的マイノリティ」についての雑誌記事やテレビ放送が増えたことにも対応していよ う。主だったものを挙げてみよう。 Newsweek : “Asian Americans: *A Model Minority,’” December 6,1982 U.S. News & World Report: **Asian-Americans: Are They Making the Grade?” April 2,1984 “現在、この記事をインターネットで読むことはできないようである。弓|用した文章はJapanese American National Museum の “Chronology ofWorld WarII Incarceration”http://www.janm.org/nrc/internch.htmlから採った。 100 Model Minorityという言葉をインターネットで検索すると、幾つものサイトが出てくる。その中で、カリフォ ルニア大学バークレー校のアジア系米国人研究室が制作している中国系米国人の歴史の部分に出てくる「中国系 米国人:模範的なマイノリティ(Chinese Americans: The Model Minority)を見ると、NY Times Magazineの記事に触 れるところがないのはエスニック・グループ間の対抗意識を出しているようで面白い。 http ://www. itp .Berkeley. edu/~asam 121 /model_minority/model_minority.html 72 Newsweek (Newsweek on Campus) : “The Drive to Excel,” April 1984 Time (Special Immigrants Issue) : “The Changing Face of America,” July 8,1985 The New Republic: “America’s Greatest Success Story: The Triumph of Asian Americans,” July 15 and 22,1985 (by David A. Bell) Fortune : “America’s Super Minority,” November 26,1986 CBS, 60 Minutes : “The Model Minority,” February 1,1987 Time : “The New Whiz Kids,” August 31,1987 Parade : “Why They Excel,” 1990101 口問題点 「模範的マイノリティ」という表現が持つ問題点については、1990年代になると詳しい分析 が出されるようになったが、その萌芽は1980年代に見られる。そうした萌芽を、インターネッ 卜で比較的簡単に手に入る1987年「タイム」誌の記事「新神童(The New Whiz Kids) Jで見 ると、概ね次のようになる。 この(1987年の)秋、名門大学の新入生でアジア系米国人の占める割合は、ブラウン大 学が9%、ハーバード大学が14%、マサチューセッツ工科大学が20%、カリフォルニアエ 科大学が21%、カリフォルニア大学バークレー校では実に25%となっている。このような アジア系米国人(大半は中国、韓国、インドシナからの移民)の子弟の教育面での躍進には 目覚ましいものがある皿。これはいわゆる「米国の夢」を実現した、新たな、輝かしい例 といえる。 その理由としてハーバードの心理学者Jerome Kaganは、アジア系は「はっきり言って、 よく勉強する」と言い、ニューヨーク大学の数学者Sylvain Cappellは、自身東欧からのユ ダヤ系移民としてアジア系移民に親近感を感じるとしながら、ユダヤ系もアジア系も「知的 に秀でる義務がある」と考えているのが成功の秘密ではないかと述べる。 101このリストは、A Brief History of the Model Minority Stereotype http://modelminority.com/history/primer.htm と Donald Takaki, Strangers from a Different Shore: A History of Asian Americans (Little, Brown and Company, 1989, revised 1998), p. 474から作った。 mここでは人口比も勘案している。1990年、「アジア系および太平洋島!W系米国人」と分類される人たちの総人 口に占める割合は2.9%であった。カリフォルニア州内で、アジア系とされる人のみを見ると、1990年の割合は 州人口の9.2%であった。 73 また、カリフォルニア大学バークレー校の教育心理学者Arthur Jensen&は、サンフラ ンシスコと香港でアジア人の子弟8,500名を、またそれと比較するためにカリフォルニア州 ベイカーズフィールドの白人米国人1,000名を対象に知能テストを行い、アジア人のIQは 白人米国人のそれをioポイント上回ると結論付けた。ただし、この調査結果は他の学者に 受け入れられていない1〇4。 いずれにしても、アジア系米国人自身、「模範的マイノリティ」というのは誤解を招くス テレオタイプであるとして、次の点を指摘している。 ① そのようなイメージは個々人の特性を無視し、現実の問題を隠す。 ② 例えば、アジアからの移民、とりわけベトナム戦争後に急に増えたインドシナからの移民 の多くは、貧困な状態にある。 ③ 英語と米国文化を素早く吸収する子供もいるが、それができなくて学校を中途退学する子 供も多い。 ④ 「アジア系移民は優秀」というイメージは大きな精神的圧力となる。 ⑤ また、「アジア系移民は優秀」というイメージは一般国民に反感を抱かせ、「黄禍(yellow peril)J論の再燃をすら思わせる状態を作り出している域。 ⑥ いずれにしても、これは新たなステレオタイプを作り出す。たとえば、かつては中国系米 国人といえば、レストランか洗濯屋をやっていると決めつけられた。 ⑦ アジア系の躍進が目覚ましいところから、名門大学では、アジア系学生の受け入れを制限 するようになった(との批判がある)皿。 □一つの達成 m知能は80%が遺伝に、20%が環境によるという説を1960年代にたてたことで有名。特に1969年Harvard Educational Reviewに発表した「知能程度では、白人はアジア人に劣り、黒人は白人に劣る」とする研究結果は、 人種差別主義(racist)として大論争を引き起こした。1980年代に入ると、知性と遺伝とを結びつけることに反対 するハーバードの古生物学者Stephen Jay Gouldと大論争を展開した。http://www.debunker.com/texts/jensen.html mこの種の研究結果は、優生学とsocial control(優れているとみなされたグループがそうでないとされた人たち を支配しようとする傾向)に基づくものとして危険視され、退けられるのが普通。近年の最も有名な論争はRichard Herrstein と Charles Murray 著 The Bell Curve: Intelligence and Class Structure in American Life (Free Press,1994)〇 この著 書についての正反対の見方はhttp: //www. apa. org/j oumals/bell.htmlに掲載されている。 炒1982年、デトロイトで、日本車の輸入増加により米自動車メーカーの失業率が高まっているとして、中国系米 国人のVincent Chinを二人の白人自動車メーカー従業員が、Japと呼び、バットで撲殺した事件が起こり、白人米 国人の黄色人種の台頭に対する恐怖を表したものとして受け止められた。犠牲者が祖父の時代から米国に在住し ている、いわば生粋の米国人であったこと、中国系であったにもかかわらず、日本人と見られたこと、二人の加 害者(殺人犯)が軽い罰金で釈放されたことは、アジア系米国人の怒りを煽った。Takaki,pp. 481-484. 1061999年センサスに基づくアジア系米国人の簡単な描写は、次のAP電から窺い知ることができる。 http:/ / seattlepi. nwsource .com/national/cens〇51.shtml 74 以上のように、1960年代には誉め言葉として用いられた言葉も、後になると様々な詮索が行 われ、事実を正しく伝えるものではないと指摘されるようになった。しかし、日系、中国系米国 人を個別の社会グループとして取り上げた場合に、二つのグループが米国社会で、少なくとも1960 年代に「成功を収めた」ということは事実であった。それは、1970年センサスに基づく次の表 が示している1〇7。 日系 中国系 フィリピン系 黒人 米国全体 失業率(%) 男性 2.0 3.0 4.7 6.3 3.9 女性 3.0 3.7 4.7 7.7 5.2 年間世帯所得(ドル) 全国 12,515 10,610 9,318 6,063 9,433 シカゴ 13,478 10,967 11,734 8,032 12,957 ホノルル 14,222 14,437 10,083 6,741 10,909 ロサンゼルス 12,801 11,161 10,075 7,571 12,121 ニューヨーク 12,375 8,136 11,725 7,309 12,663 サンフランシスコ 12,045 10,045 10,122 7,964 12,754 (注)年間世帯所得は、メディアン(一番低い人から数えてちょうど中 聞の順番になる人の数値) で見た世帯所得 上表が世帯所得を全国と5つの大都市に分けているのは理由がある。これはもともとカリフォ ルニア大学バークレー校のセミナー「アジア系米国人研究プロジェクト」で、特に中国系米国人 を対象にした研究1〇8の一部として、「模範的マイノリティの神話」を明らかにするために作成さ れたものだからである。具体的には、所得を全国平均で見ると、日系、中国系米国人は米国全体 の平均を上回るが、実際には、日系、中国系米国人ともに大都市に集中しており、大都市別に見 ると、平均を下回るところも出てくるということを示すのが目的である。従って、もとのサイト では、その点を強調するために、表は全国平均と都市別の部分とに分けてあった。 しかし、そうは言っても、1969年の時点で、日系、中国系米国人が所得で米国平均を上回り、 また失業率では米国平均を下回っていたことは事実である。日系、中国系米国人が、1960年代 半ば、冒頭に触れたような形で取り上げられたとしても何ら不思議はないわけであった。 口異質のグループか 107 http://www.itp.berkeley.edu/^asaml21/model.minority/median_f_income.html 108 http://itp.berkeley.edu/~asam 121/ 75 ではなぜ日系、中国系米国人が社会グループとして抜きん出たと取り上げられたのか。白人の 中でも、例えばフランス系、あるいはユダヤ系米国人がなぜマイノリティとして取り上げられな かったのだろうか109。ユダヤ系の場合、社会的成功という点で、日系、中国系を凌駕している可 能性もある。 答えとして、まず、1990年の国勢調査に基づく「外国生まれ」という調査結果で、センサス 局が、「1970年までは、外国生まれの米国人の大多数が欧州出身であった」と指摘している点no にヒントを求めることができる。つまり、そうした欧州からの移民は十把一絡げで「白人」とさ れ、黒人を除けば、一昔前まで、それが普通にいう「米国人」であった。そうした状況の中では、 フランス系、ユダヤ系などは発想として浮かびにくいものだったと想像される。もっとも、アイ リッシュ・カトリックなどは社会学的な研究の対象として個別に扱われることがあるが、それも 移民グループという観点からは扱いにくいと考えられる。 事実、センサス局が作成した「われら米国人(We the Americans)」と題する一連の簡単な 報告は際立った国民グループとして「黒人」「ヒスパニック」「アジア人」「太平洋島!¢人」の 4つを挙げるにとどまっている山。「外国生まれ」は、これら報告の一つである。 これはうがった見方かも知れないが、白人とは異質のグループとして見ると、エスニック•グ ループとして(当時)最大の黒人や、それに次ぐヒスパニックが「成功物語」から程遠いことも あったかもしれない。 □日本人移民の歴史 ここで、日本人移民の歴史を概観しよう。日本人移民の歴史は中国人移民のそれとよく似てい る部分もあるが、違いも大きい。中国人がまとまった移民として日本人に大きく先んじたこと、 第二次大戦中(当然のことながら)敵国人として扱われることがなかったこと、そして、1970 年以後、日本人移民が減少傾向となったのに対し、中国人移民が激増したことである。 以下の歴史記述は、ジェトロ ・ニューヨークの野口宣也所長が1995年に作成した「日系米国 人の歴史瞥見」112と、The Japanese American Network作成の年表程を参考にした。移民数は 移民局の,T2000年統計年鑑』或による。 ゆ先に指摘したように、ピーターソンの記事はインターネットで読むことができないので、この疑問は見当違い かもしれない。 110 We the Americans… Foreign Bom. http://www.census.gov/apsd/wepeople/we-7.pdf ‘”全部で 11 巻。http://www.census.gov/apsd/www/wepeople.html 112 http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/534b/534/534history.html 113 http ://www.j anet. org/janet_history/niiya_chron. html 114 http://www.ins.usdoj.gOv/graphics/aboutins/statistics/Y earbook2000.pdf 76 ① 米国移民統計上、日本人移民が最初に記録されたのは1861年。日米修好通商条約締結の ために日本の使節団がワシントンにやってきた翌年である。その10年後の移民総数は 186名。それに対して、中国人移民は1850年代の終わりまでに4万人を超えていた。大 半は契約労働者瞬で、ゴールド・ラッシュに伴う鉱山労働や鉄道敷設のために米国本土 にやってきた人たちだったが、1860年代までにはサンフランシスコと、その周辺の製造 業にかなり関わっていた。また、中国人が南北戦争に参加したという記録も残っている という。1861〜1870年の中国人移民は6万5,000人。 ② 1882年に早くも「中国人排除法」が成立。その結果、1881-1890年の中国人移民はそ の前の10年間の半数の6万1,000人に落ち込み、次の1891〜1900年にはその4分の1 の1万5,000人となる。1891〜1900年の間には、日本人移民が2万6,000 Aとなり、日 本人と中国人の移民数が逆転した。 ③ 西海岸に目立った数で到達する前にハワイへの日本人移民の増加が起こった。これは中 国人も同じである。ただし、日本人、中国人、その他のハワイ移住者が米国の移民に数 えられるのは後のことらしい成。ハワイは1851年米国の保護下に入り、1893年共和国 となり、1898年米国に併合を、1900年準州(territory)となった。併合とともに1882 年にできた「中国人排除法」が適用され、中国人のハワイ移住が禁じられた。ハワイが 米国の第50州となったのは1959年。 ④ ハワイにまとまった日本人移住者がやってきたのは明治元年(1868年)で、そのため「元 年者」と呼ばれた。その数は男女あわせて150名。その扱いが良くなかったところから、 日本政府はハワイと交渉を始め、十数年後ようやくハワイから労働者保護の約定を取り 付けて、1885年900人を送り込んだ。これらの人たちは大半が3年間の契約労働者であ り、出稼ぎ人であった。その後ハワイにやってくる日本人は急速に増え、1924年までに は累計で20万人に達した。そのうち55%は日本に戻ったが、残った人たちの多さから 日本人はハワイ人口の40%に達した室。 ‘”後になると移民と契約労働者の区別がつけられるようになったようだが、当時はそうでなかったようである。 飾ハワイ移住者が移民に数えられ始めたのがいっか不明。 1171893年2度目の大統領就任を成し遂げた「改革者」クリーブランドは、前任のハリソン大統領が任期の最後に 署名したハワイ合併協定を「不公平」として撤回、それ以上米国政府が併合へ動くのを禁じた。また、国民の圧 カにもかかわらずスペインと戦争を始めようとしなかった。これに対し、1897年に大統領となったマッキンリー はハワイ合併を実施、スペインとの戦争を始めた。ちなみに、1885年から1889年にも大統領だったクリーブラン ドは、1888年の選挙で国民投票では対立候補のハリソンを破りながら、選挙人制度(electoralcollege)で負けた人 である。クリーブランドのハワイ合併反対の説明は1893年12月18日の議会メッセージとして行われた。 http ://www. civics-online .org/library/ fbrmatted/texts/hawaii_cleve. html 8 http://www.hawaiiguide.com/japan.htm Takaki, p.11. 77 ⑤ 1892年、San Francisco Examined19などサンフランシスコ主要紙が反日運動を展開し た。日本領事の介入により表面上は収まったが、反日気運はくすぶり続ける。 ⑥ 1905年、アジア人排除連盟(The Asiatic Exclusion League)がサンフランシスコで発 足。反日運動の中核ができる。日系移民に対する暴力や嫌がらせが増える。 ⑦ 1907年、米国議会、大統領に対して、ハワイとメキシコの日本人労働者が米国に移住す るのを阻止する行政命令を出す権限を付与する。この年から翌年にかけて、日米紳士協 定が成立、日本政府は、「以前二合衆国二定住セル者又八此等ノ者ノ両親、妻若ハ二十 歳以下ノ子供ヲ除ク外一切合衆国大陸二通用スヘキ旅券ヲ発給セサルヘシ」としたふ。。 その結果、いわゆる「写真花嫁」が急増した。KayoHatta監督の!994年映画Picture Bride はそのような形でハワイにやってきた女の人生を再現しようとしたもの成】。紳士協定 により、日本人移民は1901〜1910年の間に:12万9,800人とピークに達したあと、1911 -1920年には8万4,000人に減少した。 ⑧ 1913年、カリフォルニア州は「外国人土地法(Alien Land Law) * 121 122Jを成立させ、外国 人による土地の所有を禁じ、賃借条件も厳しくした。それに続き、幾つもの州が同種の 法律を成立させた。日本人移民は憲法上市民になることのできない「外国人」であって、 この法律は日本人による土地所有を禁じたものであった。カリフォルニア州は、!920年、 同法を住民投票で強化した。 ⑨ 1924年、「移民規制法(The Immigration Restriction Act)」がクーリッジ大統領の署 名を得て成立。同法律全体は特に日本人を指したものではなかったが、条項の一つで「市 民権を持つ資格のない外国人/」の移民を禁じた。これは、アジア移民でも特に日系移 民の禁止を目指すものであったとされている。昭和天皇は戦後、日米戦争の遠因を尋ね られて、この法律にそれを求めた。1921〜1930年の日本人移民は3万3,400人、中国人 移民は3万人。 ⑩ 1929年の株価大暴落に始まった大恐慌のため、:1931〜1940年は移民が激減。この:10年 間のうち何年かは、米国を出て行く人たち(emigrants)の数が、米国に移民してくる人 たち(immigrants)の数を上回った。入ってくる人たちの数は、全体では、前の10年 脚1865年創刊。WilliamRandolfHearst (1863-1951)が1887年、父から出版を引き取ってからは、販売数を増やす ためにはいかなる事実も無視する扇動紙(yellowpress)の典型となった。 就平凡社『世界大百科事典』の「日米紳士協約」の項。 121 http://www.janm.org/whatsnew/pbride.html 122この問題は現在でも尾を引いている。http://www.law.uc.edu/inlr/all/#landlaws aこの考えは、1790年の「帰化法」で市民権を白人に指定したこと、1870年同法の修正で市民権を白人と黒人に 限定したことに遡る。 78 間の411万人から52万8,000 Aへと、8分の1に減った。中国人の移民4,900人、日本 人移民1,900人。 ⑪1941年7月、ルーズベルト大統領は日本の中国における軍事行動に対する措置として日 本資産を凍結。同年8月にはディンゲル下院議員(ミシガン州、民)、日本の軍事行動 を牽制すべく、米国在住の日系人1万人を無差別に投獄して捕虜とするよう大統領に提 案。この提案は、乱暴な時代には乱暴な案が出るものであることを今更のように思い知 らせてくれるが、それはまた、真珠湾攻撃に続くルーズベルト大統領の行政命令9066号 のさきがけとなったともいえる。同行政命令の結果、西海岸の日本人移民(一世)や日 系米国人(二世)、合計11〜12万人が強制収容所に入れられた。 ⑫ 1952年、「移民国籍法(The Immigration and Nationality Act) Jが成立。これは特に 移民を大幅に緩和したものではないが、人種差別•性差別を緩和ないしは撤廃した点で 画期的なものであった。この法律の成立には日系人の働きかけがあったとされている。 ちなみに、上記第⑨項に出てくるディンゲル下院議員は、同じ名前の現下院議員の父に当たる。 父と子はともにデトロイト出身だが、父が無実の日本人•日系人たちを一挙に投獄する提案をし たのに対し、現ディンゲル議員は日本車の輸入規制を求め続けることになった。なお、同議員は 1994年、民主党が少数党となるまで、商業委員会の委員長として辣腕をふるった。 口儒教の影響か 日系、中国系の「成珈 の原因は何かと問うてみると、残念ながら、先に触れた社会学者のピ ーターソンが示唆したような、儒教の影響といった漠然としたことしか言えないようである。も っとも、日系人については当初から差別扱いされ、ついで移住禁止となり、真珠湾攻撃に続く敵 国民扱いで隔離された歴史から、少なくとも戦後はできるだけ社会に目立たない形で技術分野、 専門職分野に職を求めた結果、そのため相対的に所得水準を高めることができたとの見方が折々 出される。筆者はその見方を裏付ける調査を見つけていないが、センサス局ニューヨーク支部の RonaldUba氏が、センサス•データの使用法の説明会を機に、日系三世として、自分の親類の 体験からそれを裏付けるような話をしてくれたので、ここにその概略を記す。 日本からの移民の歴史は3つの段階に分けることができると思う。 79 最初は、ハワイ移民が始まった頃、1880年代から1890年代にかけてのことだ124。次は 日清、日露戦争の時代で、徴兵を避けると同時に、ハワイまたは米国で産業、農業面で技術 を習得しようとの希望があった。これは私の祖父の時代に当たる。 第三の段階は、「写真花嫁」の時代で、その人たちは、米国にやってきて所帯を持ち、 家族を作って米国に定住し、できるならば「アメリカン・ドリーム」を実現しようと考えて いたといわれる。この世代の人たちの子供が日系移民の苦しい時代の最後の遺産を受け継ぐ ことになったと言える。 第二次世界大戦の結果、その子供たち、つまり二世は、一世の味わった言語上の障害と 家庭生活に加わる制限を日系人コミュニティの協力で克服し、次世代をより良くしようとい う決心を強めた。そして、この世代までの日系人の価値観を言えば、努力、我慢、諦観(仕 方がない)、頼もしさを身に付けること、恩、義理、恥、和、審美素養を身に付けること、 などであったといえよう。それが、「模範的マイノリティ」を作り出したのであろう。 それに対して、三世はいろんな面で自分の祖父や両親の時代と比べて自由であり、楽であ って、米国社会の主流である白人中流階級にさほど無理なく溶け込むことができた。 思うに、「模範的マイノリティ」の問題は、社会学的研究が行われる前にその「問題点」が指 摘されてうやむやになったという側面もあるのかもしれない。 ただ、統計上明確なのは、「模範的マイノリティ」が云々され始めた頃、日系人が管理職・専 門職の分野に進出する比率が高く、所得の上でも良い地位にあったという事実がある。1990年 センサスが集計される頃までには、次項に明らかなように、1970年代から急増したインド系移 民は特異の存在になっており、同年データに基づく「アジア系人口の職業別特性」によると、イ ンド系移民は管理職•専門職が43.6%、技術系•販売等が33.2%で群を抜いていた。それに次 ぐのは日系人で、それぞれ37.0%、31.4%となり、中国系の35.8%、31.2%、韓国系の25.5%、 37.1%をわずかながら凌駕していた域。 他方、一人当たり所得でみると、同じ1990年、日系人のそれは1万9,373ドルで、その時点 では第二位のインド系の1万7,777ドルを上回り、カ、つ両者ともに全国平均の1万4,143ドルを 大きく水をあけた。第三位の中国系は1万4,876ドル遂で全国平均よりいくぶん多かった。 124当時、日本の農村は疲弊していて、また、ハワイの農業労働者の日当は日本の6倍であった。このため、日本 政府が600人のハワイ移住者を募ったところ、2万8,000Aの応募があったという。 125 Asian Americans Face Career Disadvantages http://www.modelminority.com/coolies/retums.htm に 引 かれ て いる 表。 126 We the Americans: Asians http://www.census.gov/apsd/wepeople/we-3.pdf 80 これも次項で見るが、インド系の場合、日系に比べて平均所帯人口の大きいことが一人当たり 所得で日系のそれを下回った理由と思われる。日系の平均所帯人口はずば抜けて小さい。 口薄れてゆく日系米国人の存在 最後に、1940年代以後のアジアから米国への移民を、日本、中国、香港、韓国、それにイン ドについて見てみよう並。 1940-1990年におけるアジアからの移民内訳(()内はシェア) (単位:人、%) 1941〜50 1951〜60 1961〜70 1971〜80 1981〜90 アジア 37,028 153,249 427,642 1,588,178 2,738,157 日本 1,555 (4.2) 46,250 (30.2) 39,988 (9.3) 49,775 (3.1) 47,085 (1.7) 中国 16,709 (45.1) 9,657 (6.3) 34,764 (8.1) 124,326 (7.8) 346,747 (12.7) 香港 (a) 15,541(10.1) 75,007 (17.5) 113,467 (7.1) 98,215 (3.6) 韓国 107 (b) (0.3) 6,231(40.1) 34,526 (8.1) 267,638 (16.9) 333,746 (12.2) インド 1,761(4.8) 1,973 (1.3) 27,189 (6.6) 164,134 (10.3) 250,786 (9.2) (a)米国移民統計上、香港が中国とは別個に扱われるのは1952年以後。「香港系米国人」という 言い方は通常しない。また、台湾からの移民は1957年以降中国からの移民に含まれる。 (b)韓国が移民統計に表れるのは1948年。 1991-2000年におけるアジアからの移民内訳(()内はシェア) (単位:人、%) 1991〜2000 1997 1998 1999 2000 アジア 2,795,672 258,561 212,799 193,061 255,860 日本 67,942 (2.4) 5,640 (2.2) 5,647 (2.7) 4,770 (2.5) 7,730 (3.0) 中国 419,114 (15.0) 44,356 (17.2) 41,034 (19.3) 29,579 (15.3) 41,861(16.4) 香港 109,779 (3.9) 7,974 (3.1) 7,379 (3.7) 7,199 (3.7) 7,199 (2.8) 韓国 164,166 (5.9) 13,626 (5.3) 13,691(6.4) 12,301(6.4) 15,214 (5.9) インド 363,060 (13.0) 36,092 (14.0) 34,288 (16.1) 28,335 (14.7) 39,072 (15.3) 1820-2000年におけるアジアからの移民内訳(()内はシェア) (単位:人、%) 1829〜2000 アジア 8,814,852 日本 530,186 (6.0) 中国 1,333,490 (15.1) 香港 412,009 (4.7) 韓国 806,414 (9.1) インド 818,776 (9.3) 127 表は 2000 Statistical Yearbook of the Immigration and Naturalization Service から作成した。 http://www. ins.usdoj. gov/graphics/aboutins/statistics/Y earbook2000. pdf 81 こうして見ると、日本からの移民は1950年代に急増したものの、その後、絶対数では大幅な 増減はないままに推移してきた。しかし、1970年代になると、相対的にも、また絶対的にも、 中国、韓国、インドからの移民の急増に圧倒されることになった。そのため、戦前は移民総数で 中国とあまり変わらなかったのが、現在は香港を合わせた中国系や、韓国やインドにも大きく水 を開けられることになった。もっとも、ここで示す移民総数は、:1820年以来の総計であるから、 現勢を示すわけではない。そこで、2000年について、人口、平均年齢、平均所帯人口を見ると、 次のようになる128。 2000年の人口とその特徴(()内はシェア) 人口(人、%) 平均年齢(歳) 平均所帯人口(人) 全体 281,421,906 35.3 2.59 アジア系 10,242,998 (3.64) 32.7 3.11 日系 796,700 (0.28) 42.4 2.26 中国系 2,432,585 (0.86) 35.3 2.94 韓国系 1,076,872(0.38) 32.4 2.77 インド系 1,678,765 (0.60) 30.0 3.07 この表を見ると、日系人は平均年齢では全人口平均を7歳も上回り、平均所帯人口も全人口の それをかなり下回ることがわかる。これは、日系人の影が急速に薄くなっていることを示すもの であろうか。 ‘歯表はセンサス局のサイトhttp://www.census.govから必要数字を抽出して作成した。 82 10.世界の中の米国: 付記、ロシア、ドイツ、日本 移民局の 2000 年年次報告 2000Statistical Yearbook of the Immigration and Naturalization Serviceによると、2000年の米国の合法移民は84万9,807人、「非移民(non-immigrants) J は3,370万人、また、帰化した人の数は88万8,788人であった明。これらの数字から察せられ る通り、米国は世界最大の移動人口受入国である。そのため、「移民を原動力とする変貌 (immigration-drivetransformation) 129 130J の国とも言われる。 では、この米国を世界的見地から見るとどうなるのか。この問題を、中央情報局(CIA)が2001 年3月に取りまとめた『増える世界の人口移動と米国に対するその意味合い(Growing Global Migration and Its Implications for the United Stated 131J が簡潔に分析している。そこで、本 報告の終わりに、まずCIA報告の要点を拾い出して最新情報などで肉付けし、ついで、他の国の 事情を垣間見るべく、国の崩壊という特殊な事情を経験した巨大国ロシアと、人口動態の変化に 応じて大幅な移民の導入に取り組むドイツ、加えて、移民拡大に慎重な日本を簡単に見ようと思 う。 なお、ロシア、ドイツ、および日本3国には、高齢化という共通点がある。 129 http://www.ins.usdqj.gov/graphics/aboutins/statistics/Yearbook2000.pdf 「非移民」は、旅行者、学生、企業従業員、 その他の一時的滞在者を指す。2000年、「非移民」のうち日本人が全体の!5.6%を占めて第一位、それに次ぐ英 国は14.8%であった。12ページ。 130 カーネギー国際平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)の Migration Policy Institute 作成報告”ANew Century: Immigration and the U.S.5,http://www.migrationinformation.org/Profiles/display.cfin?id=6 〇 131http://www.cia.gov/nic/graphics/migration.pdf脚注としてこのCIA報告に付記する諸点は、特に別の情報源を明示 しない限り、同報告による。 83 <世界の概観>
現在、世界で自分の出生国以外の国に住む合法移民の数は1億4,000万人に達し132、移民が人
ロの:15%以上を越える国は50カ国に達する也。そのような人口移動の結果、例えば、OEC D諸
国の大半では、人口増に対する移民の寄与率が1990〜1995年の45%から、現在の65%に跳ね
上がった。
世界には、移民を「押し出す」国と、移民を「引き付ける」国がある皮。人口動態の変化およ
びその他の原因により、その押し引きは今後強まり、従って世界的な人口移動はこれからも増え
ていくものと予想される。その理由として、
- 2015年には開発途上国で4,500万人が職場を必要とすると推定されるが、その多くは自国で
雇用を見つけることができずに、合法移民あるいは不法移民とならざるを得ない城。
•不法移民の数が劇的に増え、密入国業者136および腐敗した役人がその仲立ちとなる事例が増
加する137。そうした不法移民の数は、将来、欧州の先進国、アジア、アフリカ、南米への合
法移民その他の総数と同等、またはそれを凌駕することになる。
•開発途上国では内紛、経済危機、天災をきっかけに多数の国民が移民として国を出る。
•先進国は移民規制に動く場合が多い。欧州諸国と日本は、高齢化と労働人口の縮小が急速に
進展しているにもかかわらず、移民拡大に慎重である。そうした状況にあっては、大幅な年
金改革を図るか、生産性の大幅増強を図らなければ、動きが取れなくなる。
132 2002年10月28日、国連人口部門が発表したInternational Migration 2002によると、世界の合法移民の数は2000
年に1億7,478万人に達し、1975年の2倍となった。そのうち3,500万人(全体の20%)が米国に在住する。
http://www.un.org/esa/population/publications/ittmig2002/press-release-eng.htm 1999 UN Human Development Report
http://hdr.undp.org/reports/global/1999/en/pdf7hdr_1999_full.pdf によると、報告作成当時、そうした移民は1億 3,000
万人から1億4,500万人と推定された。これた対こて、1975年は8,400万人、1985年は1億400万人であった。32
ページ〇
133 International Migration 2002によると、52カ国。比率の高い国を拾ってみると、香港39.4%、シンガポー,レ33.6%、
クウェート57.9%、オーストラリア24.6%など。米国は12.4%、ドイツは9.0%、日本は1.3%。
134 International Migration 2002によると、移民になった人は2000年232万1,000人であった。移民を送り出す数の
多い国はコンゴ34万人、エジプトの8万人、中国の38万1,000人、インドの28万人、フィリピンの19万人、メ
キシコの31万人など。移民を引き付ける国としては、ロシアの28万7,000人、イタリアの11万8,000人、ドイツ
の18万5,000人、カナダの14万4,000人、オーストラリアの9万5,000人などだが、米国は125万人で世界の移
民の54%を受け入れていることになり、抜群である。日本は5万6,000 A〇
以例えばメキシコの場合、現在、新規雇用を必要とする人たちの数は毎年100万人であるのに対し、新たな職場
の数は70万にとどまっている。また、北アフリカ諸国では新規職場と新たに労働市場に入る人の数との格差は
50万を上回るという。
136ILOの調査によると、現在、全世界の不法移民のうち半数が密入国業者によるもので、この「産業」は年間100
〜120億ドルに達する。
成10年前、先進国への移民のうち約20%が不法移民だったのが、現在その比率は3分の1から2分の1になつ
ている。不法移民の増加の原因の一つは政治亡命認可率の急減で、亡命を認められなかった人たちの大半は地下
に潜ることになる。
84
•グローバルイ匕と民主化が進展するにつれて、国境を越える人口移動を規制する意欲も能力も
減少する。
口人口移動の様々な影響
移民を送り出す国にとって、国外への移民|堵い失業者に対する経済的圧力を減らすとともに、
国を出た人たちの本国送金が経済に寄与する影響を期待できる138。また、移民して本国に戻って
きた人たちは、しばしば本国の経済の近代化139と政治的自由化地の原動力となる。マイナスの面
として、熟練労働者の喪失Mlにつながり、国民経済の打撃となる。また、国を出た人たちは極端
主義に走ったり、分離主義の原動力となることが挙げられる。
移民受入国の多くにとって、移民は複雑な政治問題侮や社会同化金の問題を作り出す一方、人
口動態と経済面で活力を得ることになる。また、移民を送り出す国に対して影響力を持つことに
なる場合もある。移民受け入れによる影響として、
•先進国にとって、労働力および兵員の不足を補い、課税と消費者基盤を拡大する他。
•少なくとも当初、社会、教育、ヘルスケアなどで受入国を圧迫し並、異なった言語、文化、
宗教は、移民の同化(integration, assimilation)を阻むことになる地。
138 International Migration 2002によると、移民による本国送金は2000年に622億3,900万ドルで、世界総生産の0.2%
であった。うちインドが最大で90億3,400万ドル、GDPの1.9%、第二位はメキシコで65億7,200万ドル、GDP
の1.1%であった。CIA報告の引く世銀調査によると、正規登録による本国送金は、1980年の150億ドルから1999
年には500億ドル、うちメキシコ移民の本国送金は70億ドルと推定された。一方,1999 UN Human Development Report
によると、1996年のメキシコの本国送金は42億ドルで、インドの93億ドルについで第二位であった。27ページ。
“9そのような「移民」として日本人に当てはまるのは、明治大正時代の留学生であり、第二次大戦後の韓国や昨
今の中国からの留学生もそうした「移民」に数えられよう。しかし、第二次大戦後の対米日本人留学生について
しばしば「頭脳流出(braindrain) Jということが言われた理由の一っとして、そうした人たちの多くが本国に戻
らないということもあった。事実、本CIA報告では留学生を直接brain drainと表現しており、そうした留学生の
3分の2は米国にとどまると指摘している。
“°最近の例ではコソボがある。
1411999 UN Human Development Reportによると、専門職(professionals)や高等教育を受けた人たちの流出はアフリ
力でも著しい。1998年時点で米国およびEUで働いているアフリカ人の専門職の数は25万人、アフリカ以外のと
ころで働いている博士号保持者の数は3万人に達した。その結果、アフリカ大陸では、科学者およびエンジニア
は人口1万人に1人しかいない状態になっている。31-32ページ。
並例えば、EUでは、EU以外からの移民とEU内移民の失業率に2対1の格差があり、問題になっている。
143カーネギー国際平和財団作成の報告Citizenship Today: Global Perspectives and Practicesは社会的統合(social
integration)や文化的融合(cultural assimilation)という概念が、普遍的(universal)、抱合的(inclusive)な面と、
特殊的(particularist)、排他的(exclusionary)な面を持つことを分析している。
http://www.ceip.org/files/pdi7imp.citizenship.pdf
144EU10カ国では、移民は4,610億ドルの所得を得て、1,530億ドルの税金を払う。
崎同前、移民の社会福祉経費は920億ドル。
戚現代では発達した通信機器、交通機関の存在が、本国の文化その他の保持を容易にしており、それがsocial and
cultural assimilation を遅らせる。
85
•特に発展途上国でマイナスの影響が大きく、社会下部構造を悪化させ、伝染病を広めたりす
るほか、民族の均衡を崩して、内乱を引き起こしたりする原因になる場合がある。
口地域的傾向
① 米州大陸:米国を中心に、合法•不法移民が増え続ける。メキシコは人口増加率が低下する
ことで人口面の圧力が減退し、経済的見通しは良い。しかし、貧困が執拗に続き、かつ米国
との所得格差が大きい147ため、米国への大量移民が続くことになる”8。
メキシコを含む中米は、更に、密入国の下部構造の存在により、南米とアジア(主に中国)
からの米国への密入国者の通路として存在し続ける地。キューバとハイチの政治不安定と経
済的衰退とは、いつでも米国への大量移民を引き起こす可能がある比。。また、南米諸国間
の不法移民は、国家間の紛争のもとになる。
② ロシアとその近辺:移民に対する規制力が弱く、経済成長が不安定で、民族の衝突があり、
しかもマイノリティに対する差別待遇が続いているために、ソ連の崩壊以来既に1,000万人
の旧ソ連内での人口移動が生じている。その大半は、旧ソ連諸国からロシアへのロシア人の
移動で、それは労働力不足と人口減少を部分的に補ってはいるが、それを相殺するところま
戚ILO調査によると、1990年代中頃、メキシコ移民の本国と米国との賃金格差は1対9であった。
1481997年、メキシコからの合法移民は全体の18.4%にすぎなかったのに対し、1996年にメキシコからの不法移民
が全体に占める割合は実に54.0%に達した。A New Centuryによると、現在、米国とメキシコの間を行き来するメ
キシコ労働者は年間延べ3億人(米国総人口を上回る数)に達する。この不法移民と、現状では避けることので
きない労働者の流入に合法性を与えるために米国とメキシコは、(1)不法移民の登録と、本人の希望に従って、
段階的に市民権を与える制度、(2) 一時的出稼ぎ労働者制度を検討すべきであるとしている。
汀現在、米墨国境では毎年150万人の不法移民が逮捕され、本国に送還される。その他の国々からの不法移民と
して逮捕された人の数は、1999年は25万人であった(移民局の2000年年次報告によれば、不法入国して逮捕さ
れ本国送還となった人の数は181万5,000人、うちカナダとメキシコで逮捕された人の数は167万6,000人、後者
のうち98%が米墨国境で生じたとしている。232ページ)。2000年に中国からの不法移民は3万3,000 Aと推定
されたが、うち1万2,000人がメキシコを経由して米国に入り、カナダから入る8,000人を50%±回った。なお、
2000年センサスに基づく推定では、米国の不法移民は総数900万人から1,100万人に達する。
150 2002年10月末、避難民として米国に渡ろうとしたハイチ人200名を乗せた船がマイアミ沿岸で座礁、全員が
無事岸に泳ぎ着いた。これら避難民の遭難は、米国のハイチ人とキューバ人に対する扱いの違いを前面に押し出
すことになった。キューバ人の場合、岸に着く前に沿岸警備隊につかまれば本国送還となり、岸までたどりつけ
ば政治亡命者として移民することが認められている。これはwet-foot,dry-fbot措置と皮肉られているが、ハイチ人
の場合は、岸に着いても着かなくても、一様に本国送還となるところから、ハイチ人は「人種差別」として抗議
している。ハイチ人は黒人で、キューバ人はヒスパニックだからというのだが、フロリダはキューバ移民による
強力な圧力団体が存在すること、大統領選挙にとって肝要な州であることも、キューバ移民を特別扱いする一因
となっている。ブッシュ大統領は、当初、「ハイチ人は他の人たちと同じように扱われるべきだ」と述べ、関係
者に希望をもたせたが、その後、移民局は逆に取り締まりをきつくした。2002年11月5日の中間選挙日には、避
難民230名のうち19名(ドミニカ人2名を含む)がハイチに強制送還となり、11月7日には、移民判事が残りの
避難民のうち40名に対して保釈金を認めたことに対して、移民局はそれがハイチから米国への大々的な国外流出
を奨励するものとして、これを提訴した。2002年12月中旬の報道によれば、残りの避難民たちは、本国送還のた
めの釈放すら、見通しが立っていないという。
86
でには至っていない。この事態は、社会福祉費を増やすと同時に、極東ロシアへの中国から
の不法移民にまつわる紛争など問題を作り出している。現在、極東ロシアへの不法中国人移
民の数は50万人と推定される(ロシアについては後述)。
③ 中近東とサブサハラ地域:この二つの地域は、パレスチナ人、アフガン人、ルワンダ•フツ
人を中心とする約1,400万人の避難民を含み頌、政治的不安定の原因となっている。パレス
チナ人の領土上の問題が解決されない限り、平和をもたらすことはできない152。また、湾岸
産油国では、住民の半数が契約労働者としての移民であるが、これらの人たちには社会福祉
の給付も、政治参加も認められず、市民権、永住権も認められていない。
④ EU:EU諸国は、EU統合体の枠内で国境と文化的独自性を守る必要性と、高齢化と労働力不
足とをどう均衡させるかが問題となる。EU諸国では大量移民を認める公算は少ない。しか
し、差別待遇を禁止する法律と、家族の呼び寄せを認める法律が存在するため、移民につい
ては、EUの発足時に経済面で言われた「要塞(fortress)化」は不可能に近い。おそらく、
労働力不足を補うために部門別の輸入を認める一方也で、ヘルスケアと社会福祉について国
民の反感を買わないよう、慎重な措置を取っていくものと思われる(ドイツは後述)。
⑤ アジア:巨大な人口を抱える中国如やインドは、地域的かつ世界的な人口移動の源となる。
この地域の先進国は、オーストラリアとニュージーランドを除き、移民を社会的、政治的に
一般国民として吸収することに強く抵抗しよう。
⑥ 日本:アジア先進国の中で、日本は人口動態上最大の不均衡を抱えながらも、移民問題につ
いては当面極めて慎重な態度を維持するものと思われる。日本は、同一民族性に重点を置き、
差別待遇に対する法規制がほとんどなく、人口密度が高く、しかも地理的に孤立しているこ
とから、景気が回復して好景気が長続きしない限り、現行の態勢が続くものと見られる。し
かし、景気回復により労働不足が生じれば、最終的には、もっとオープンな、対象を絞った
移民増政策に転じる可能性はある(後述)。
口世界的人口移動の圧力の米国に対する意味合い
戚イラク、イラン、アフガニスタンの「北部中近東」の避難民だけでその半数の700万人。ただし、これは2001
年9月11日のテロ事件によるアフガニスタン攻撃以前である。
&平和問題の解決は、イスラエル内の意見の分裂によっても困難になっている。例えば、約100万人のロシア系
ユダヤ移民はパレスチナ問題の平和的解決に極めて慎重であるとされている。
153ドイツは最近毎年2万人のハイテク労働者の移民受け入れを認める法律を作った。ジーメンス社社長によると、
2005年までにはドイツは30万人のハイテク労働者を移民で補う必要があるという。
’外中国は都市地域の潜在失業者(underemployed)だけで1億人とされる。中国全体では2億人という。
87
米国では、外国生まれの人が人口に占める割合は、1980年の6 %から今では:11%になってい
るが、移民は今後15年間増え続けると見られる155。それは、強力な米国経済と、発展途上国と
旧共産諸国が抱える様々の政治経済問題をその理由とする。多くの専門家は、移民の受け入れに
ついて、当初は社会福祉費の負担を増やし、幾つかの分野では賃金低下の原因となるが、後には
インフレを抑制し、均衡のとれた人口動態の維持に寄与すると見ている。
しかし、以下のような問題もある。
•特に南米における政治的、経済的緊急事態城、それに巨大な天災板は、米国の移民対策を極
めて困難にする。
•大量移民放出を対米威嚇手段とする政府に対しては、有効な対抗手段がない典。
•他の国々が移民を阻止したり厳しく制限したりすると、それだけ米国への移民受け入れ圧力
が高まる。
・米国は、テロリストや麻薬業者や犯罪団体が簡単に入国して、それぞれのエスニック・グル
ープに溶け込むのが簡単である。
主要先進国は、米国のような自由な移民体制を採っていないために、ITなど戦略的に重要な
部門で米国に対して不利な立場に置かれている。OECDによると、少なくとも向こう5年間、
EUと日本とが米国に比べて経済の見通しがよくない主な理由は、移民規制から生じる人口構成
の硬化にあるという。
以上は、CIA報告の概要に肉付けをしたものである。次に、ロシアとドイツ、ならびに日本を
個別に検討してみよう。
くロシアの場合>
1551997年、移民が国民総数に占める割合は、米国9.3%、ドイツ9.0%、日本1.2%、英国3.6%、カナダ17.4%、
フランス6.3%、オーストラリア21.1%などであった。
啓例えば、1995年のペソ危機のあと、メキシコからの対米不法移民が急増した。
[容例えば、1998年10月末から11月初めにかけて中米を襲ったハリケーン・ミッチは、熱帯サイクロンとして記
録的な大きさとされ、ホンジュラスを中心に死者9,000人以上、行方不明9,000 A以上、家屋倒壊7万戸以上の被
害を出した。http://www.nhcnoaa.gov/19981nitch.htmlこのハリケーンの直接の結果としてのホンジュラスからの対
米流出人口の総数は明確でないが、、密入国業者の手で米国に入ろうとして捕まったホンジュラス人の数は、1997
年で約8,000 Aだったのが、1999年には1万9,000人に急増した。中米全体からの対米移民はハリケーンに続く 4
カ月間だけで数万人に達したとされている。
撰例えば、キューバは、1994-1995年の協定により、対米移民を年2万人に限っているが、移民申請者の数は毎
年50万人に達している。また、中国が仮に現在の移民政策を大幅に緩和した場合、移民の大半は米国に向かうと
思われる。現在、中国からの対米不法移民の数は年3万〜4万人と推定されている。
88
世界の人口移動を研究する非営利団体Migration Policy Institute159では、各国の移民の状況を
Migration Information Sourceとしてインターネットに掲載している。ロシアの事情については、
2002年10月付で!・ソ連崩壊後のロシアを悩ます人口移動のジレンマ(MigrationDilemmas Haunt
Post-Soviet Russia) 160 * 162Jとして、世銀研究官兼ジョージタウン大学教授のTimothy Heleniakが
論じている161。この論文を中心に、ロシアの人口状態を多少詳しく見ると、次のようになる。
ソ連邦の成立後、ソ連に組み込まれた合計14カ国に、ロシア人が行政官その他の形で移動し
た。そのため、非ロシア「国」におけるロシア人の割合は1926年の9.6%から、1970年19.6%
とピークに達し、その後いくぶん減少して1989年の18.2% (2,530万人)になった。比率の高
いところとしてカザフスタンの37.8%があり、低いところとしてアルメニアの1.6%があった。
また、絶対数ではウクライナが1位で1,140万人、次いで、650万人がカザフスタンに住んだ。
ソ連崩壊後のロシアへの移民は、そうした、今や「外国」となった旧ソ連諸国(FSU)からの
ロシア人移民が大半を占める。:1989年以来ロシアへの移民は延べ370万人となったが、うち300
万人(81%)がロシア人だった。それにもかかわらず、ロシアの人口は、1992年1億4,870万
人でピークに達した後、低下を続け、2002年初頭には1億4,400万人になった。これはその間
の自然増加率がマイナス770万人となって、移民がその半分にも及ばなかったためである。
ロシアを含むFSU15カ国の移民を言う場合、FSU以外の国々を「遠い外国(farabroad) J
と、「近い外国(nearabroad) Jに分ける。「遠い外国」への移民は、ソ連体制の崩壊で対外
移民規制がなくなるとともに大河となって流出が見られるのではないかと懸念された。しかし、
実際には1989年以来総計110万人にとどまっている。問題はその内容で、例えばユダヤ系移民
で高等教育を受けた人たちの割合は21% (移民全体は!3.3%)、そのうちイスラエルに向かう
人たちが30%、米国に向かう人が42%に達する。
また、人種別にはドイツ系45%、ロシア系36%、ユダヤ系13%、移民先ではドイツ57%、
イスラエル26%、米国11%であった。ドイツ系の移民が多く、かつ移民先でもドイツが多いの
は、ドイツ系が旧ソ連には多いこともさることながら、ドイツ経済の魅力と、ドイツが在外ドイ
ツ系人(Aussiedler) &を歓迎する手立てを講じているからである。こうした移民の結果、FSU
内のドイツ系人は半数になり、ユダヤ系は4分の1になったと推定される。
http://www.migrationpolicy.org/
160Migration Information Source http://www.migrationinformation.org/Profiles/display.cfin?id=62
的同教授の論考はインターネットで幾つも見ることができる。例えば、「FSU諸国における劇的な人口傾向」
http://www.worldbank.org/transitionnewsletter/so95/oct-arl.htm がおる。
162外国に移住して定住者となった人で、20世紀初頭にブラジルその他の南米諸国に移住し、!990年代に日本に戻
ってきた人たちを「日系人」と呼ぶのに相当する。
89
ロシアでは、欧州大陸に入る北部と、シベリア、それに極東を「北」と定義しているが、その
地域の人口過疎化は著しく、1989年以来12%の人口減が見られる。中でも、中国国境では中国
人の大量の流入と定住が懸念されているものの、地方担当者の推定は過大な傾向がある。現在の
ところその数はせいぜい10万人から30万人と見られ、しかも、大半が出稼ぎ労働者であって、
ロシアに定住しようとする人は極めて少ない。
他方、ロシアの人口動態は流動的で、国勢調査が十分に行われていない。従って、ロシアの人
口は過去io年間に減少していない公算もある。その他、ロシアの移民問題については次のよう
な点が指摘できる。
① 移民受入国の共通点として、ロシアでも移民反対派と賛成派に議論が分かれているが、
現在は反対派が優勢。移民対策のために設置されたFederal Migration Serviceは、もと
もと人員不足で弱かったのが、2000年に廃止された。その後、移民の管轄は、初め外務
省に、次いで2002年5月には、警察や不法移民を扱う内務省に移された。
② 国連予測によると、ロシアの人口は2050年には多くて1億1,300万人に、少なければ
9,000万人に減少すると見られる瞬。別の予測では7,500万人と、現在の人口の半数に減
るとする見方もある。これは、1995年の人口を維持するためだけに、今後50年間に2,500
万人の移民が必要であり、同じ労働人口を維持するためには3,600万人の移民が必要と
いうことである。
③ ここ数年で急速に蔓延したHIV/AIDSの影響。
以上、Heleniak教授が描く ロシアの現状からすると、ロシアは、現在「移民」を国の成り立
ちの一部と考える体制または国民感情にはなっていないように見受けられる。ソ連は崩壊時に、
ソ連内人口の国籍数128 (うち人口10万人以上のもの55)、民族祖国(ethnichomelands) 53
を数えながらも、崩壊前、江戸時代の日本の関所のような制度を作って国内移動を制限したばか
りでなく、国外移動も厳しく制限した。他方、民族ごとの大々的な強制移動を何度か実施した。
それでも、国内•国外移動を制限した歴史が長いために、移民を重要視しない国との印象を受け
るのであろうか。
<ドイツの場合> *
“3後に触れる国連の『補充移民』報告は、1995 ~2000年の出生率1.35、平均寿命66.6歳とし、1995〜2050年の間
に740万人の移民があると想定して,ロシアの人口は1995年の1億4,810万人から2050年には1億2,130万人に低
下すると してレ、る。http://www.un.org/esa/population/publications/migration/rusfed.pdf
90
ロシアとは対照的に、ドイツは移民を意識した対応を取ってきたようである。2000年に移民
問題検討のために設置された対ドイツ人口移動独立委員会(Independent Commission on
Migration to Germany)は 2001年 7 月、『移民の体系化と同化の育成(Structuring Immigration,
Fostering Integration)164 J]という報告書をまとめた。その冒頭で「ドイツは移民を必要とする」
とし、「ドイツが長いこと移民の国であったことは事実である。1954年以来、在外ドイツ系人
や外国人でドイツに移住した人たちは延べ3,100万人に達する。同期間に移民としてドイツを離
れた人は2,200万人であった」としている。
Migration Policy InstituteのHPにフンボルト大学のYeysel Oezcan教授 が2002年5月付で
掲載している「ドイツ:移行期の移民(Germany: Immigration in Transition) 165 166Jなどによっ
て歴史を少し遡ると、ドイツは、18世紀に欧州から新世界に向かう移民の波の一部として、か
なりの移民を送り出した。受け入れ面では、1900年前後を境にポーランドから炭鉱労働者の移
住があった。ナチ時代には、多数の人たちを占領国から強制労働者としてドイツに連行した或。
その数は800万人から!,200万人と推定される。これらの人たちは、ドイツの敗戦とともに自国
に帰ったが、それに並行して、占領地や植民地のドイツ人が避難民や強制本国送還民としてドイ
ツに戻ってきた。後者は、1946年から1949年の間に1,200万人に達した。
また、東ドイツから西ドイツへの移動に限ると、1945年からベルリンの壁が作られた1961
年までにその数は380万人に達し、その後もベルリンの壁崩壊までに40万人が西ドイツに移り
住んだ。
口重要な移民受入国
1950年代の中ごろ以来、ドイツは、米国、フランス、英国などとともに、重要な移民受入国
となって現在に至っている。第二次大戦以来のドイツの移民受け入れ政策をおおまかに特徴付け
れば、在外ドイツ系人と「外国人」の二つの流れについて、その区別を強調するかしないかで政
策が分かれてきた。
近年、在外ドイツ系人の移民が顕著になったのは、ソ連崩壊に続くもので、1988年から2000
年の間にそうした移民は270万人に達した。うち190万人が旧ソ連から、57万5,000人がポー
ランドから、 22万人がルーマニアからであった。
wこの報告は、次に触れる報告をインターネットで読めば、その最後にサイトが明示してある。
165 http://www.migrationinformation.org/Profiles/display.cfinfIg22
166http://www.religioustolerance.org/fin_nazi.htmこれらの人たちは「奴款労働」を強いられたとして、訴訟が行われ、
2001年にドイツは賠償金の支払いW開始した。
91
他方、外国人移民は、1950年代のドイツ敗戦後の経済回復とともに採用されたゲスト労働者
(Gastarbeiter)制度を中心に増加した。これは、1955年のイタリアとの協定を皮切りに、スペ
イン(1960年)、ギリシャ(1960年)、トルコ(1961年)、ポルトガル(1964年)、ユーゴ
スラビア(1968年)などに広がった。この制度による移民は、制度が始まって5年後の1960年
で既に68万6,000人、人口の1.2%に達した167。
1988年、外国人移民の数は450万人で人口の7.3%になり、政治亡命申請者の数が急増すると
ともに排他感情(xenophobia)と外国人に対する暴力が高まった。それでも移民は増え続け、2000
年に移民総数は730万人、人口の8.9%になった。そうした趨勢を反映して、1998年には社会民
主党とグリーン党の連立政権が成立するとともに新たな移民法が模索され、2000年には幾つか
の移民法が成立した。特筆すべきものとしては次の2点がある。
① ドイツ国内で生まれた子供は自動的に市民権が与えられる。ただし、親の一人は合法的
にドイツに最低8年間住んだ者であることが必要峻。そのような子供は親の国籍も所有
することができるが、23歳になれば、いずれか一つの国籍を選ぶ必要がある。
② グリーン・カードの導入。これは!T技術者のみを対象にし、また5年間の期限付きであ
る的。
口将来への勧告
対ドイツ人口移動独立委員会の2001年の報告書は、次のような点を指摘している。
① ドイツは世界経済の一部であり、その中で競争力を維持していくためには情報の交換と
ともに、他の国の人々に依存する必要がある。グローバル化は、技術と情報を高度に保
つ必要性を意味するが、それは同時に高度の技術を有する人たちの獲得競争が国際的に
高まることでもある。
② ドイツは高齢化が進む。これは労働力の低下を意味するとともに、経済・社会の革新性
を弱める。ドイツでは出生率がここ30年来低下を続けており、移民を現在の水準から引
き上げなければ、ドイツの人口は現在の8,200万人から2050年には6,000万人に減少し、
所得有職者数は4,100万人から2,600万人に減少すると予想される。この結果、経済成
16?この割合は現在の日本の在日外国人の比率とあまり変わらない。
168これは90年来初めての市民権法制であるという。8年間云々の条件をつけたのは保守派であった。米国では
そのような条件は付けられていない。
“9この制度の導入により、翌年8月までに9,200人がグリーン・カードを取得した。うち1,935人はインド人で、
また1,293 Aはドイツの大学で学位を受けた外国人に付与された。ちなみに、米国のグリーン・カードは対象を限
定せず、更新は必要だが一般的な永住権を認める。
92
長、技術革新、労働市場、国の財政、国民一人当たりの負債などが悪化する。また、移
民受け入れを現在のまま続けても、社会保障費負担は向こう50年間に倍増する。
③ 現在390万人の失業者がいるにもかかわらず、高度技術、およびそれほど高度でない技
術を必要とする職場(highly and less qualified employment positions)に就くだけの資
格を持った人たちが不足している。失業者には、就職に必要な能力を持たない人、高齢
者、外国人が含まれるが、そうした人たちの職業訓練にはそれ相当の努力がなされてい
るにもかかわらず事態は改善していない。同時に、特定の技能を必要とする職場は、適
切な人を見つけられないままになっている。そうした状態で移民を増やそうとすれば、
移民を増やすことが国を富ます上で必要であるということについて、国民一般を説得し
ていくことが大切である。これは、有能な人たちを優先し、能力のない人たちを避ける
という意味で、移民の選択を体系化することである。
④ 移民のドイツ社会への同化を推進し、経済、社会、政治、文化面で平等な形で参加でき
るようにする。同化のためにはドイツ人も移民も相互に協力しなければならないが、ー
番大切なのは移民がドイツ語を習得することであるい。。
<日本の場合>
日本は現在、移民をどのように見ているのであろうか。その目安として朝日新聞社発行の『知
恵蔵』2001年版を見ると、人口問題の部分に国連報告に基づく「補充移民」という小項目があ
るほかは、人権問題の部分で少々扱い、労働・雇用の部分で「移民(労働者)/外国人労働者」の
ILO定義を引く程度のようである。それでも、『知恵蔵』は索引に「移民」という項目を設けて
いるが、自由国民社の『現代用語の基礎知識』2002年版には設けられておらず、日本史の「在
日韓国•朝鮮人」、人権の部分で「外国人」の問題として取り上げる程度にとどまっている。
もちろん、高齢化に伴う諸問題は日本では重要であり、移民問題と結びつけた議論がなされな
いわけではない。橋本元首相が共同名誉議長として参加しているグローバルエイジング(世界高
齢化)委員会では、2001年8月の会合でその問題を取り上げた”んしかし、現在、移民を国の
問題として取り上げている様子はない。
m言語習得を移民同化の要諦とするのは、米国では運動としてはあっても、全国的な義務付けとしては未だに存
在しない。英語を「国語」とする運動のほかに、ニカ国語教育は英語の習得を不必要に遅延させるという考えが
あって、最近ニカ国語教育の漸減を進めている州が増えているが、英語習得を義務として打ち出す考えはまだな
い。
171 http://www.guardian.co.Uk/population/Stoiy/0,2763,544116,00.html
93
それを外部から見ると、日本が移民問題を故意に無視しているようにすら見えなくはない。ー
方で、日本が移民を増やさないとどうなるかという、いわば中立的な分析があり、他方で、日本
は国際的な義務を遂行していないという議論がなされている。
□「補充移民」
先に『知恵蔵』で触れた「補充移民」の項目は、国連社会経済問題部人口課が2000年3月に
公表した調査報告『補充移民は減少し高齢化の進む人口に対する解決策か? (Replacement
Migration: Is it a Solution to Declining and Ageing Populations?)172 J!を略述したものである。
この分析は出生率の低い8カ国と2地域について1995〜2050年の人口予測を行った上で、人口
減少を補い、労働人口比率の低下を補うためにはどれほどの移民が必要かを述べる。その日本に
関わる部分・の要点を挙げると次のようになる。
① 日本では、1950年以降、出生率の低下と寿命の伸びが急速に起こったため、その他の先
進国に比べて、労働人口(15歳から64歳まで)と高齢者(65歳以上)の比率が急速に
縮小してきた。この傾向が続けば、同比率は1995年の4.8から2050年には1.7になる。
1920年には11.0、1950年には12.2であった。
② 日本の人口は2005年に1億2,750万人で頂点に達した後、減少し始める。もし人口を同
じ水準で保とうとすれば、2050年までに延べ:1,700万人の移民を受け入れなければなら
ない。これは年間平均38万1,000人の移民を必要とすることを意味する。その結果、2050
年には移民とその子孫の数は2,250万人となって、全人口の!7.7%を占めることになる。
③ 労働人口を1995年の絶対数8,720万人の線で維持しようとすれば、2050年までに延べ
3,350万人の移民が必要となる。これは年平均60万9,000人の移民受け入れを意味する。
もしこの措置がとられた場合、2050年には移民とその子孫は4,600万人となって、総人
ロ1億5,070万人の30%を占めることになる。
④ 他方、労働人口と高齢者の比率を、:1995年の4.8の水準で維持しようとすれば、2050年
までに延べ5億5,300万人の移民が必要になる。これは年平均1,000万人の移民を受け
入れる”ことを意味する。もしこの措置がとられた場合、2050年の日本の総人口は8億
1,800万人となって、うち移民とその子孫が占める割合は87%となる。
172 http://www.un.org/esa/population/publications/migration/migration.htm
173 http://www.un.org/esa/population/publications/migration/japan.pdf
174現在の米国の移民受入数のほぼ10倍。 J
94
この報告では、現在の日本の移民の比率を1%になるかならない程度であると指摘し、④のシ
ナリオは「あり得ない」としているが、もし移民なしに労働人口と高齢者の割合を1995年で維
持しようとすれば、労働年齢の上限を77歳に引き上げる必要があるとしている。
□日本の移民
ここで、明治以後の日本の移民を簡単に見てみよう。
日本からの移民(emigrants)は、明治元年から太平洋戦争まで北米に41万人、中南米に24
万人、千島・南樺太28万人、中国東北(満州)27万人であった。これら移民のうち、千島・南
樺太と中国東北の移民の大半は、ドイツと同じく、敗戦後に引揚者となって帰国した。戦後は、
米国への移民だけをみれば、2000年までに約25万人の移民があった。
外国から日本への移民(immigrants)は、1910年の朝鮮併合のあたりから増えたと見られ、
その後1939年の朝鮮人労務者労務動員計画により強制連行された人たちがいた。労務動員には
中国人も加えられ、その結果、敗戦時には朝鮮人260万人、中国人:10万人がいた。それらの人々
の多くは間もなく本国に戻り、1947年9月の登録では、朝鮮人は53万人、中国人は3万人に減
っていた拓。
日本への移民が増えたのは1980年以後で、特に:1990年代には、南米の「日系人」移民が増
えた。Migration Policy InstituteのHPを見ると、柏崎千佳子慶応大学教授による2002年8月
付の日本への移民の概観英がある。それによると、2000年末時点で、在日外国人は約170万人
(総人口の:1.3%)を数え、うち63万6,000人が朝鮮系、33万6,000人が中国系、25万人がブ
ラジル系、14万5,000 Aがフィリピン系であった。また、総数のうち40%が永住者だった。永
住権を認められる人は、1996年の1万人から1999年の2万人、2000年には3万人へと増えた。
最近では、朝鮮系•中国系の人たちを中心に、毎年約1万5,000人の人たちが帰化を認められ
ている。
口日本の作り直し
柏崎教授によると、1951年の出入国管理法は米国の移民法制をモデルにしたが、入国者を日
本に定着するよう奨励するようには作られていなかったし、また、国籍法も帰化を容易にするよ
うにはできていなかったという。確かに、出入国管理法は、入国者を規制するように作られてい
訪以上、平凡社『世界大百科事典』による部分が多い。
176 http://www.migrationinformation.org/Profiles/display.cfin?id=39
95
た観があり177、帰化については、米国が国籍(nationality)より居住期間(residency)を重視
する方法を取っているのと異なる(この点は、日米の外国人の扱いの違いでしばしば指摘される)。
柏崎教授は、また、日本の移民に対する方針が幾分でも変わり始めたのは、1970年後半のべ卜
ナム難民の受け入れに関する論争であったとしている。
最後に、日本の移民政策を日本の将来に結びつけて分析した報告を紹介する。Migration Policy
Instituteのために、カーネギー国際平和財団のDemetrios G. Papademetriou移民問題担当者と
アルコア財団のKimberly A. Hamilton上級研究員が2000年に作成した『日本の作り直し:日本
の将来を形成する上での移民の ^^(Reinventing Japan: Immigration’s Role in Shaping Japan’s
Future) “8』がそれである。その序文はインターネットで読むことができるので、その要点を挙
げると次のようになる。
『日本は21世紀の課題として、変化する世界経済に対応できるかどうかという問題に直面して
いる。日本が合法移民の数と移民の永住化を拡大していくかどうかは、重要な問題の一つである。
日本には移民に対して十分に国を開いた歴史がない。
他方、移民に大々的に国を開く決定を引き延ばすために日本は様々な方法を取ってきた。その
うち近年の主なものとして、対外直接投資(FDI)、1990年の出入国管理法の改定、それに在日
外国労働者に公式の許可なく日本で働き続けることを認める措置の3方法を挙げることができる。
FDIはもちろん市場拡大が狙いで、移民規制と結びつけるのは穿ったやり方かもしれないが、国
外に生産力を移すことにより、副次的に国内の労働力不足を緩和し、他方、FDI対象国(特にア
ジア)での雇用を増やすことにより、日本への移民流入圧力を緩和することができる。1990年
の出入国管理法改定は、米国の「非移民」カテゴリーの多くを取り入れ、日系人の移民を奨励す
ることになった。これらの措置は小規模ながらも外国人労働者の数を増やし、経済相手国との互
恵性を増やした明。3つ目は、30万人から50万人の外国人労働者がビザ期限が切れた後も滞在
することを暗黙のうちに認めたものである。
177「管理」は通常contro1と訳されることも、その印象を強める。要約にはPapademetriou氏の許可を得た。
178 http://www.ceip.org/files/Publications/reinventingjapan.asp?p=6&from=pubdate “reinvent Japan’,は、クリントン政権下
で政府の再組織を任されたゴア副大統領が提出した報告”‘Reinventing Government”を思わせる。
の報告作成者の一人Demetrios Papademetriouは、1988年から1992年まで労働省の移民問題担当官として、日本
が米国移民法の抜け穴(loopholes)をいかに上手く見つけて、多数のビジネス関係者,投資家、様々な一時的労働
者などを米国に送り込むかに、米国の領事関係者がひどく悩まされたとし、この苦情は英国、フランス、ドイツ
の担当官からも出されたとしている。
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これら3措置は一時的な安全弁となってはいるが、根本的な経済リストラを可能にするもので
も、絶対に必要な移民増を認めたものでもない。日本が受け入れる移民の規模はその他の先進エ
業国に比べると極端に小さい脚にもかかわらず、日本には移民が増えて日本社会・経済の恒久的
な部分となることに対する根強い怖れがある。この怖れと近年の失業率の高まりが、移民の位置
付けに戸惑いを与えている。
しかし、東南アジア諸国を中心に、豊かな日本への移住を望む人たちが多く存在することが事
実なら、日本にはその社会下部構造を移民の補充で健全に保つ必要性があることも事実である。
そして、この二つは、相互補完的な意味合いを持っている。例えば、OECD (こよれば、日本の年
金支払い必要額は1995年から2020年の間に倍増するという。これは米国の場合25%増にすぎ
ないとの予測から見ても、日本の状態がいかにゆゆしいものであるか分かる。
日本のオピニオン・リーダーは、欧州諸国が1960年代から1970年代にかけてゲスト労働者を
受け入れたのはよいが、これを永住者とするのを阻止できなかったこと、および、米国が大々的
に移民を受け入れたことで社会混乱を作り出したことを「過ち」であったとし、日本は同じよう
な過ちを繰り返してはならないとしている。問題は、日本がそうした過ちを犯さないで、社会経
済力を保っていけるかどうかという点である。』
180 OECD1997年の報告によると、総人口に占める外国人および外国生まれの人の割合は、日本が1.2%で最低であ
り、それについで低いのはスペイン1.5%、イタリア2.2%となっている。一番高いのはオーストラリアで23.3%、
スイス19.0%、カナダ17.4%、ついで米国の9.7%、ドイツの9.0%などとなっている。
97
おわりに
米国は貿易を政治目的に用いる国として知られている181が、時折、移民を明確な政治目的に用
いることでも知られる。ここ半世紀で一番名高いのは、ソ連に対する貿易規制緩和(最恵国待遇
の供与)を条件として、主にユダヤ系ロシア人の国外移住規制の緩和を求めた、Jackson-Vanik
法である。同法は、「1974年通商法」の修正案として、時の有力な上院議員Henry Jacksonと
下院議員Charles Vanikの協力で成立したもので、大きな効果をあげた&が、発効して数年した
頃の、一つの落とし話にも似た実話がある。
1979年1月、鄭小平副主席がワシントンD.C.にカーター大統領(当時)を訪れて会談した際、
カーター大統領が人権問題に触れて、「中国はMFN供与を米国に求めているが、Jackson-Vanik
法に従い、中国が国外への移民を自由に認めなければ、それはできない」と述べた。それに対し
て、鄭小平副主席は莞爾として、「米国は何人の中国人が必要ですか?1,000万人?2,000万人?
それとも、3,000万人?」と問い返したという。人権擁護を外交政策の旗印としたカーター大統
領も、これには言葉に窮し、その話はそこで打ち切りになったという。
ハーバード大学のGeorge Borjas社会政策教授は、著書の『天の扉:移民政策と米国経済』の
冒頭でこの話を引き、仮にカーター大統領が、ri,〇〇〇万人引き受けましょう」と応じ、それに
対して鄭小平副主席が「では、わが国総人口io億人のうちのどの1,000万人にしましょうか」
と言った場合を想像、そこに米国移民政策の根本的な二つの問題を見る。すなわち、一つは、移
民を認めるのなら、どの程度であるべきなのか、もう一つは、その移民はどのような人たちを選
ぶべきなのかということである。
この報告を書くきっかけとなったのも、1965年の移民法が予期せぬ膨大な移民の増大をみた
ことに対する懸念が表明されていることと、その一方で高度教育を受けた人たちの移民枠を大き
くする措置が取られていることによる。報告の中で指摘したように、移民の増大はここしばらく
識者の間で不安材料とはなっていても、全国的問題として政治家が取り上げるという意味では未
如例えば、「米国・ニュージーランド自由貿易協定」推進報告では、「米国は、重要な通商政策においては、常
に経済目標とともに戦略的な側面を重視してきた」と明確にうたってい?>〇 http://www.tln.co.nz/downloads/Bergsten.doc
182 2002年4月11日、Larson国務次官は下院歳入委員会でJackson-Vanik法撤廃のための証言をし、その中で、「同
法が1975年に発効してから57万3,000 Aのソ連避難民(主にユダヤ人)が米国に移住、その他類似の法律があっ
たこともあって、旧ソ連からの移民を合計すると約100万人(見方によれば200万人)のユダヤ人が米国に定住
するようになった」と述べた。http://www.state.gOv/e/rls/rm/2002/9310.htm
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だに「政治化」していない。本報告が、その辺の事情を、歴史的な面も交えて、幾分でも明らか
にすることができたとしたら、幸いである。
- 100 – 56 73 72 51
-
WWII中に米国はソ連に対して「レンドリース」を発動した。
https://st2019.site/?p=21299『※WWII中に米国はソ連に対して「レンドリース」を発動した。
その中にはオートバイが3万5170台も含まれていた。ちなみに戦車は7000両、ハーフトラックなどの装甲車が6303両、救急車が2328台、貨物トラックが42万7284台、機関車1977両、鉄道貨車11075両、飛行機は1万1400機……。
つまりこういうことだ。WWI以後の、内燃機関戦争の時代においては、米国が味方についた陣営が勝つにきまっているのである。
「中間デポ」の負担を米国に頼める側と、自力でそれも構築せねばならん側とでは、勝負になるわけがないのだ。
この例外となりたくば、北ベトナムのように、内燃機関を使わない対抗策を根本から考えるしかないわけ。
中共は朝鮮戦争で、鉄道と人海戦術を組み合わせることでかろうじて対抗したが、その戦略は現代にはとても再現はできまい。』
-
東南アジア諸国の民族構成
https://honkawa2.sakura.ne.jp/8130.html






『1.東南アジア諸国の民族構成
フィリピンはマレー系が90%を占めており、中国系(福建華人)、スペイン系との混血も多いという特徴がある。米CIAの各国統計集により作成した図の民族構成はマレー系をさらに細分化した分類である。マレー系のタガログ人が28.1%と最も多く、同系のセブアーノ人13.1%、イロカノ人9%と続く。
インドネシアも多くがマレー系であり、フィリピンと同様図の民族構成はさらにマレー系を細分した側面が大きい。ジャワ人が40.6%で最も多く、スンダ人15%、マドゥラ人3.3%がこれに次ぐ。
マレーシアはマレー人、中国人、インド人という3つの民族の混合国家といわれるが、マレー系が、マレー人50%、先住民を含めると6割以上となっている。インドネシアやフィリピンのようにマレー系は細分されていない。中国人は23.7%と約4分の1、インド人は7.1%である。
マレーシアから独立したシンガポールは中国人が76.8%と4分の3以上を占める。その他では、マレーシアと同様、マレー人とインド人が多い。
マレーシア、シンガポールの中国系住民には、英国植民地時代にスズ鉱山労働者・クーリーなどとして中国南部から連れて来られた賃金労働者の子孫が多いが、華僑として知られる商業者や政治難民出身者も少なくない。
スズ鉱山の労働者に中国系が多かったのはスズ鉱山開発では華僑資本が欧州資本に先行したからだと言われる。
インド系住民は、多くが、南インド出身者 (タミール人) であり、中国系労働者の導入を嫌った欧州系中心のゴム栽培プランテーションに投入されたエステート労働者の子孫である(注)。
商業都市国家として独立したシンガポールでは中国系住民が支配的であるが、インド系住民の割合は、マレーシアとシンガポールではともに1割弱と余り変わらない。
(注)「マレー半島では、1921年にゴムが栽培面積の6割以上を占め、ゴム生産の4分の3をヨーロッパ系のプランテーションが占めたが、その労働者の78%をインド人が占めた。
彼らはプランテーションが任命するカンガーニという移民仲介人によって徴集募集され、過酷な条件の下で働いたが、インドの民族運動の高揚のなかで抗議が高まり、1938年に廃止された。1898~1938年の間のカンガーニ制度による移民労働者は115.4万人であったという」(北原淳「東南アジア経済発展の歴史-小農社会の形成と崩壊-」(北原淳・西澤信善編『アジア経済論 (現代世界経済叢書)』ミネルヴァ書房、2004年))。
シンガポールでは1960年代に続発した人種暴動の反省に立って民族宥和政策を保持している。
「移民政策も民族のバランスを維持するように管理されている。中国人はインド人やマレー人より子どもが少ないため、これが北京語を話す中国本土からの移民流入にむすびついているが、シンガポール生まれの中国人にとっては癪の種である。というのもシンガポール生まれの旧世代中国人の共通方言は客家語だからである」(The Economist July 18th 2015, Special Report: Shingapre)。
マレー系の国以外では、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーでは、それぞれ、タイ人、ベトナム(越)人、クメール人、ラオ人、ビルマ人が過半数から9割程度を占めている。
東南アジア各地に中国人、中国系、華僑がおり、図の民族構成にも多くの国で顔を出している。
経済界や商業などで果たしている役割は人口比率より大きい。特に、マレーシア、シンガポール、タイでは中国人比率が大きく、商業都市国家としてマレーシアから分離したシンガポールは中国人の国といってよい。
中国人が計上されていないインドネシア、フィリピンでもかなりの中国系住民が存在している(Wikipediaによるとインドネシアの中国人は5%。各国の華僑人口は図録8590参照)。
2.東南アジア諸民族の解説
東南アジア諸民族 国名 民族名 解説
インドネシア ジャワ人 ・ジャワ島中・東部を本拠地とするインドネシア最大の民族・政府の島外移民政策によりスマトラ島ランボン州や南米スリナムなどにジャワ人社会を形成
・千年近いインド系諸王朝のもとでヒンズー・仏教を信仰していたがその後土着的
・インド的な要素を持ちながらイスラム教を信仰
スンダ人 ・ジャワ島西部のインドネシア第2の民族
・スンダ人もイスラム教徒だが多数を占めるジャワ人との対抗関係もあって厳格な信仰を守ろうとする傾向が強い
マドゥラ人 ・ジャワ島北東海岸に接するマドゥラ島及びジャワ島東端に住む
・ジャワ人との対比で個人の独立心が強く、熱情的なイスラムの信仰をもち、個人の武勇に高い価値が置かれ伝統的に血の復讐の慣習が行われてきたといわれる
・過去にはジャワの諸王やオランダ植民者にマドゥラ人の軍隊が重用された歴史をもつ
ミナンカバウ人 ・西スマトラを故地とするジャワ語系民族
・伝承ではアレクサンドロス大王の末裔という
・現存する世界最大の母系制社会を形成することで知られる
・強固なイスラム教とでありムランタウ(出稼ぎ。広義には知識、富、名声を求めての出村)の習慣によっても知られる
・現在はジャカルタをはじめインドネシアの諸都市に多く移り住んでおり、都市知識階層の一翼も担っている
ブギス人 ・スラウェシ(セレベス)島の南西半島に居住する
・東南アジア海域世界において、海賊、傭兵、商人として著名であり、オーストラリア北岸、ニューギニア、マレー半島など大陸部東南アジアの沿岸にその活動は及んでいるフィリピン タガログ人 ・ルソン島、ミンドロ島などに住みタガログ語を話すフィリピンの最大グループ
・マニラが政治経済文化の中心だったため国全体への影響力が強rくタガログ語を基礎としたピリピノ語が国語とされている
セブアーノ人 ・セブ島,ボホール島,ネグロス島東部,レイテ島西部などの中部ビサヤ地域に住むビサヤ族の最大グループ
ヒリガイノン・イロンゴ人 ・糖業の盛んな西部ビサヤ地域のとくにネグロス島西・北部,およびパナイ島東部に住むビサヤ族のグループ
・耕地面積に対して人口が稠密なため、東部ビサヤ地域やマニラ、ミンダナオ島、さらにはハワイやアメリカ本土に移住する者も多い
イロカノ人 ・ルソン島北部の西海岸のイロコス・ノルテ、イロコス・スール両州およびカガヤン河谷などに住むフィリピン第3の人口グループ
・性向が他の諸族に比して勤勉で忍耐強く、生活が質素で倹約家であるといわれ、マルコス大統領をはじめ、政府や軍の要職に就いている者が多い
ビコル人 ・ルソン島南東端にのびるビコル半島およびカタンドゥアネス島に住む(レガスビが中心都市)
・他の諸族に比較してカトリック教徒の比率が高く、運命を享受して郷里にとどまることを好み、他地域へ移住することが比較的少ないといわれるマレー半島 マレー人 ・マレー半島、東マレーシア、スマトラ東岸やその周辺に散在する小島群におもに居住する民族であり、オーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族に属するマレー語を話す
・紀元前2500‐前1500年ごろ南中国の雲南あたりから南下してきたものといわれ、航海術に秀でてフィリピン群島やインドネシア諸島、アフリカのマダガスカル島にまで渡ったというタイ タイ人 ・タイ国に住み仏教を信じているタイ系民族の主要グループを指していることが多い
・タイ系民族はタイの他、インド・アッサム、ビルマ(シャン族など)、雲南(ヌア族)、ラオス(ラオ人)、ベトナム、中国(チワン族など)と広範囲に広がっている
ベトナム ベトナム人 ・漢字では越南人、周辺の少数民族からはキン(京)人(主要民族の意)と呼ばれる。安南人はフランス統治下での旧呼称。
・南下した越人が先住民と混交して形成されたベトナムの中心種族
・10世紀までの中国の直接支配の及ぼした影響大。信仰面では仏教,儒教,道教が移入。
タイー(Tay)人 ・ベトナムで2番目に多いタイ系の民族グループ
・中国やベトナムの王朝に反抗してきたタイ族の子孫であり、中国の影響下に置かれたのが、チワン族、ベトナムの影響下におかえたのが、タイー族といわれる
・かつて漢字を利用した、タイーノムという独自の文字を使用していた
ターイ(Thai)人 ・中部・北部高原地帯に住む黒タイ族、赤タイ族、白タイ族など
ムオン人 ・北部から中部にかけての山間地帯に散在する種族
・ムオン語はベトナム語とともにアウストロアジア語族に属すが今日のベトナム語が失った語頭の子音群を残しているなど歴史上の価値が大で両者を併せてベト・ムオン語と呼はれる。
モン人 ・オーストロアジア語族のモン・クメール語族に属する
・かつてインドシナ半島に諸王国(ドバーラバティ(タイ)、ハリプンジャヤ(タイ)、ペグー(ビルマ)など)
・11C以降タイ族、ビルマ族の攻略によって衰退カンボジア クメール人 ・アウストロアジア語族のモン・クメール語族に属するカンボジアの中心種族
・カンプチア人、クマエ人と自称
・9~15Cに古代クメール王国アンコール朝を形成ラオス ラオ人 ・タイの北部・東北部からラオスにかけて分布するタイ系の民族
・雲南から南下したユアン系ラオ族はタイのチエンマイを中心とするラーンナータイ王国をつくり、一方,メコン川に沿って東進した東ラオ族はカンボジアのビエンチャンなどに土侯国をつくりのちにランサン王国として統一されたミャンマー ビルマ人 ・自称バマーのモンゴロイド種族。シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属する言語を話しミャンマー人口の多くを占める。
・ヒマラヤ山脈北側の騎馬民族が9Cにイラワジ平野に進出し農耕民化し定着したといわれる
シャン人 ・インドのアッサム地方から上ミャンマーを経て中国雲南省にかけて分布するタイ系諸族の一種族
カレン人 ・ミャンマー南東部のカレン州を中心に分布する種族。チベット・ビルマ語派に属す。一部は低地ミャンマーやタイ西部にも住む。
・ビルマ英領時代キリスト教を信奉し植民地支配に協力的だったためビルマ人はカレン人に対し複雑な感情をもつ
ラカイン人 ・アラカン人ともいう。ビルマ人、シャン人、モン人と並ぶ4大仏教民族集団の1つ。チッタゴン(バングラデシュ)のマルマ人や北東インドのモグ人と系統を共にする。
・なお、ラカイン州(旧アラカン州)にはイスラム系先住民族としてロヒンギャ人が住んでおり、もともとはバングラデシュからアラカン王国の従者として渡来したともいわれ、仏教徒からの迫害でバングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国を跨っている(コラム参照)。
(資料)平凡社大百科事典など【コラム】シャン人(族)とシャン州(ミャンマー)
(アジア各地の納豆食を訪ね歩き、納豆地域の性格や納豆や日本納豆の起源を探った高野秀行「謎のアジア納豆」新潮社(2016年)から、以下に、納豆の本場のひとつであるシャン人(族)とシャン州(ミャンマー)についての記述を引用する。)
シャン族はミャンマー最大の少数民族である。その数ざっと500万、ミャンマー全人口の1割弱を占める。多くはタイと国境を接する東北部のシャン州に住んでいる。
自称は「タイ(Tai)」。タイ王国のタイ族(Thai)とは民族的に親戚筋に当たる。タイ族がシャン族のことを「タイ・ヤイ(大タイ)」、自分たちのことを「タイ・ノーイ(小タイ)」と呼ぶことからわかるように、本来シャン族は「自分たちより先に生れ偉大だ」という意味のはずなのだが、今となっては「山のタイ人」という、蔑視のニュアンスを含むように感じる。
タイ語とシャン語は日本の標準語と沖縄語くらいの違いがある。シャンというビルマ語や英語の呼び名も「シャム」が訛ったものだ。本来は彼らの自称を尊重し「タイ」と呼ぶべきだが、混乱をさけるため「シャン」と書くことにする。
ミャンマーは、主だった少数民族はほとんど全て第2次世界大戦後まもなく反政府ゲリラを結成し、民族独立運動を展開していた。ミャンマーが軍事政権の統治下におかれると、対立や戦争は激化した。シャンもその一つだ。おかげで、シャン州の人々は独立運動家、ゲリラ兵士、一般人を問わず、弾圧されて難民化したり、出稼ぎに来たりで、タイ北部に出てきていた。私が暮らした1990年代、その数は十万人を超えると言われ、タイ北部の中心であるチェンマイはシャン独立運動の一大拠点と化していたのだ。
センファー(チェンマイ大学で著者が友人となったシャン族の当時23歳の若者-引用者)と私は反政府運動の雑用係みたいなことをしていた。難民や避難民に支援物資を配るとか、独立運動のリーダーたちをバイクで運ぶとか、集会所の掃除とか。ここで私は民族、宗教、戦争、独裁、人権侵害、独立、難民、援助、麻薬、ジャーナリズムといった諸問題を実践でイロハから学ぶこととなった。学ばなかったのは食文化ぐらいだ。例えば納豆とか(p.18~19)。(中略)
日本人はシャンの家庭料理を口にする機会をかってはふんだんにもっていた。第2次世界大戦で日本軍がビルマを攻略し占領したとき、大きな拠点の一つがシャン州だったのだ。このとき日本軍の将兵はシャン料理を体験しなかったのだろうか。シャン料理を強く印象づけられる記録について、私は見聞きしたことがない(ビルマ関連の戦記200冊くらいに目を通した作家の古処誠二氏によると納豆に関する記述は思い当たらないという-引用者の要約)。
第2次世界大戦が終わると、シャン州は次々と動乱に巻き込まれ、外国人が立ち入れない場所になってしまった。
まず、中国で共産党軍に敗れた国民党軍が国境を越えてシャン州になだれ込んできた。彼らは武力で無理やり居座っただけでなく、軍事資金を稼ぐためにケシ栽培を行い、アヘンを作り始めた。一時は世界のアヘンの8割がシャン州及びその周辺で作られるという事態となった。世に言う「ゴールデントライアングル」はタイ・ラオス・ビルマ国境地帯ということになっていたが、実質上の中心はシャン州だったのだ。ちなみに「山のニューヨーク」ことチェントゥンは、当時「ゴールデントライアングルの首都」と呼ばれていた。そして最大の名物は味噌納豆ではなく生アヘンであった。
いっぽう、国民党軍とは無関係なところでも、戦争が頻発した。ビルマの軍事独裁政権に叛旗をひるがえしたシャン族や他の少数民族の反政府ゲリラが政府軍と激しく戦うようになった。麻薬組織とゲリラと軍事政権。この三者がくんずほぐれつの戦いを繰り広げるのだから世界屈指の暗黒地帯になってしまった(p.80~81)。
3.東南アジアの民族形成
ここで各民族についての理解を深めるため、東南アジアの民族形成の歴史のアウトラインにふれておくこととする。
東南アジアの民族分布は、大きく、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、シナ・チベット語族の3つの語族から構成され、後2者が東南アジア地域に南下して現在の民族分布に至っていると考えられている。
古代DNAを含めた遺伝子分析による最新研究によるとオーストロネシア語族は台湾の北方大陸地域に淵源し、オーストロアジア語族は中国南部、シナ・チベット語族は黄河流域に源を発すると考えられている(篠田謙一「人類の起源」中公新書、2022年)。
(1)オーストロネシア語族
マレー半島のマレー人、インドネシア、フィリピンの諸民族は、東南アジア古代人の生き残りともいわれるネグリト(小さな黒人の意味。タイ南部・半島マレーシアのセマン族、フィリピン群島のアエタ族など)の少人数集団を除くと、オーストロネシア語族(別名、マレー・ポリネシア語族)に分類される。この語族は、東南アジアの他、西はマダガスカル島、東は太平洋諸島、北は台湾の高山族(高砂族)と広範囲に海洋性の分布を有している。
東はイースター島から西はマダガスカル島にまで及ぶオーストロネシア語族のこうした分布は、他の民族分布同様、「移動説」と「残存説」の2通りの説明が可能である。
すなわち、移動説は、そうした分布はいずれかの中心からオーストロネシア語族が帯状に移動していった結果形成されたとする説明である。発祥地の想定としては、オーストロネシア語の系譜上台湾諸語が最も早く分岐したとされることから、中国南部や台湾におく考え方がある(大林太良「アウストロネシア語系諸族」平凡社大百科事典)。
また残存説は、以前は全域に分布していたが、北方民族の南下(の玉突き現象)により、アジア大陸を取り巻く帯状に、南下の影響を免れたオーストロネシア語族が残ったとする説明である。この考え方によれば、帯状の分布の中にある各民族の系譜は余り意味がないということになる。
この2つの説は両立が可能であり、実際、両方を組み合わせた説明が行われることが多い。例えば、鈴木秀夫「気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ 」NHKブックス(1990年)では、「火」「弓」をあらわす言葉の共通性から、台湾からフィリピン、インドネシアにかけてのアジア周辺島しょ部に加え、大陸沿岸の中国少数民族トン族居住地域、かつてチャンパ国の存在した南ベトナム、またマレー半島を、気候の寒冷化(5000年前及び3500年前がメルクマール)にともなう北方民族の南下によって押し出された、またそれから免れたオーストロネシア語族の分布地域ととらえている。
(2)オーストロアジア語族
オーストロアジア語族には、ベトナム人、カンボジアの主要民族であるクメール人、タイ・ミャンマーなどに散在するモン人などが含まれる。クメール人とモン人は一括してモン・クメール語族と呼ばれることが多い。
オーストロアジア語族は、シナ・チベット語族が中国方面から南下する以前は、東南アジア半島部の主要民族であった。またインド方面においてもドラヴィダ人やアーリア人が制覇する以前は重要な民族であった(図録8245参照)。
東南アジアにおける食文化と民族史の関わり、および魚醤系うま味を開発したのがオーストロアジア系だったとする説については図録0214参照。
(3)シナ・チベット語族
歴史時代の東南アジア史においては、オーストロアジア語族に属するベトナム人が中国文化の影響を受けてベトナム南部を含め王権を確立し、同語族のクメール王朝がタイ・カンボジア地域に覇権を樹立するとともに、シナ・チベット語族に属するタイ人(シナ・タイ語族に下位分類される)、ビルマ人(チベット・ビルマ語族に下位分類される)が中国国境地帯から南下し東南アジア平地部に移住、政権樹立を行った。
こうした歴史を食文化の成立とからめて説明した叙述を以下に要約する。
(4)食文化から見た東南アジア民族史
東アジアから東南アジアにかけての地域は、醤油、魚醤、出汁などうま味成分を含んだ調味料を使用する点に特徴があり、世界の中で他地域にはない「うま味文化圏」が形成されている。石毛直道、ケネス・ラドル「魚醤とナレズシの研究―モンスーン・アジアの食事文化」(1990)は、魚醤やナレズシなど魚介類の発酵食品が、東アジアから東南アジアの島しょ部にまで広がっており、同地域の味噌・醤油といった大豆の発酵食品とともに、こうした「うま味文化圏」の成立根拠になっていることを明らかにしている。
この地域の中でも魚介類の発酵食品の種類が多く、食生活における重要性が高いのは、海面漁業への依存度がより高い東南アジアの島しょ部ではなく、むしろ淡水魚に特徴がある東南アジア大陸部である。
このことから、魚介類発酵食品の歴史的な成立過程を探るため、東南アジア大陸部の現在の民族分布に至る民族史を以下のように要領よく概説している。
「現在のベトナムの国土の北部には、新石器時代以来オーストロアジア系の言語を話すベトナム人(キン族)が居住していたものとかんがえられる。国土の南半はオーストロネシア系の言語に属するチャム族の土地であり、二世紀末には海上交易活動がさかんなチャンパ王国が建国された。南下するベトナム人(キン族)とのながい歴史的抗争のすえに、チャンパ王国が滅亡するのが十七世紀末のことである。
ベトナムの東側では、二世紀の扶南建国以来、オーストロアジア系の言語に属するクメール族が、現在のカンボジアのみならずタイのおおくの地域を版図としていたし、おなじくオーストロアジア系のモン族もタイに進出していた。雲南方面から南下するシナ=チベット語族のタイ・ラオ系諸族が、北タイのモン族の国を滅ぼすのが八世紀のことであり、十三世紀になると、中部タイがクメールの支配を脱して、タイ人の王国であるスコタイが建国される。
チベット高原東部から南下するシナ=チベット語族のビルマ系諸族が、それまでモン族の土地であったパガンに王朝を建てたのが十一世紀である。
したがって、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の南下以前の主要な民族分布は、アンナン山脈の東側はベトナム人とチャム族によって、西側はクメール族とモン族によって占められていたと考えてよい。」
そして、タイ系諸族やビルマ系諸族の出身地域では、漁業を行わない生活様式を伝統としている点、また発酵による魚類保存の発達が東南アジア大陸部の水田農業、あるいはアジアモンスーンの乾期・雨期交替にともなって河川本流と氾濫原との間を往復する魚類の生態と大きく関連している点から、次のように結論に達している。「東南アジア大陸部における発酵魚の文化のにない手は、インドシナ半島の先住民であるベトナム人・チャム族・クメール族・モン族のいずれかであり、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の侵入以前から、これらの食品がインドシナ半島で発達していたであろうという結論となる。」
そして、「東南アジアの基層文化を構成する文化要素のおおくは、大陸部から島嶼部へと伝播をとげたものであり、その逆はきわめてすくない。魚介類の発酵食品の伝播も、大陸部から出発して島嶼部にむかったものであろう。」とまとめている。
【コラム】ミャンマー西部ラカイン州の民族問題
以下、ミャンマー西部ラカイン州における複雑で深刻な民族問題についての新聞記事を2つ掲げる。
1.ミャンマー 少数民族に出産制限 スー・チー氏「人権反する」
(東京新聞2013年5月30日)【バンコク=寺岡秀樹】ミャンマー西部ラカイン州は、州内の一部地区に住むイスラム少数民族のロヒンギャ族に対し、一家族につき子どもを二人までに制限する規制を導入した。政府から「不法移民」扱いされているロヒンギャ族の人口増加を食い止めるのが狙い。最大野党、国民民主連盟(NLD)党首のアウン・サン・スー・チー氏は「人権に反する」と非難した。
AFP通信などによると、規制対象となるのは隣国バングラデシュに近く、ロヒンギャ族の人口が約95%を占める二地区。子どもの数が制限されるだけでなく、一般にイスラムが認める一夫多妻制も禁じられる。具体的な規制方法については不明。
昨年以降、ラカイン州をはじめミャンマー各地でロヒンギャ族と多数派の仏教徒の間で抗争が頻発し、多数の死傷者が出た。抗争を受けて政府が設立した調査委員会は四月に公表した報告書で「ロヒンギャ族の人口増加が原因の一つ」と指摘していた。州の報道官は二十六日、この報告書が規制導入の背景にあることを認めた。
こうした規制導入についてスー・チー氏は二十七日、「違法だ。人権にも反する」と批判。スー・チー氏は国民和解を訴える一方、これまでロヒンギャ族に関する発言は控えており、非難の声が上がっていた。
政府はロヒンギャ族をバングラデシュからの「不法移民」として国籍を与えず、移動の制限も加えており、世界の人権団体などが批判している。オバマ米大統領も、訪米したテイン・セイン大統領に少数民族紛争の解決を求めたばかりだった。
2.闇の正体:ミャンマー宗教暴動/6 汚職、民族問題を複雑化
(毎日新聞2013年10月31日)ミャンマー西部ラカイン州で昨年起きた暴動は、仏教徒女性へのレイプ殺人が発端となり、犯行はロヒンギャ族(ベンガル系イスラム教徒)のグループだと報じられた。だが「実際はカマン族だ」とのうわさを聞いた。
ラカイン文芸文化協会の女性会長ソーキンティン氏(66)によると、カマンは弓を射る者を意味する。中世期、ラカインの仏教王朝に仕えるため、アフガニスタンから来た傭兵(ようへい)の子孫だという。
カマン族は、ミャンマー政府が市民権(国籍)法で認定する135の自国民族の一つだが、ロヒンギャ族は除外されており、無国籍状態となっている。
だが、ロヒンギャ族は1948年に当時のビルマが英国から独立して以降、事実上「民族」扱いされていた。通常は市民権に付随する選挙権も与えられ、閣僚もいた。一時期はロヒンギャ語(ベンガル語の一方言)のラジオ番組もあった。
州検察庁トップでラカイン族のフラテイン検事正(56)は「当時の政権は人気取りのために(不法移民の)ベンガル人に選挙権を与えたのです。政治ゲームの結果、イスラム教徒の人口を増やしてしまった」と指摘する。
今の市民権法は旧軍政が82年に制定。これに伴う新たな国民登録証(身分証)の切り替えに際し、ロヒンギャ族への再発行を認めず「国民」から排除した。今は国連の要請もあり、ロヒンギャ族には「ホワイトカード」と称される一時滞在許可証が発給されるが、カードには「市民権の証しにあらず」のただし書きがある。
レイプ殺人の男たちがロヒンギャ族でないなら、それは何を意味するのか。検事正は「彼らはカマン族だ」と認めた上で「重要なのはイスラム教徒かどうかということです。カマン族は昔、仏教からイスラム教に(集団)改宗した裏切り者ですから」と語った。検事正によると、イスラム過激派でも誰でも、カマン族の2人から証言を得られれば、法的にはカマン族として市民権を取得できるという。つまりカネやコネ次第で融通が利くということだ。
文芸文化協会のソーキンティン氏によると、本来のカマン族の人口はわずか数千。だが、最大都市ヤンゴンのイスラム教徒のうち1万人はカマン族だと推計する。
元国会議員のアブタヘイ氏(49)は「ロヒンギャ族」を名乗るが「国会議員になるため、やむを得ずカマン族の市民権を得た」と明かす。ミャンマー有数の大企業の経営者に「ロヒンギャ族出身者」がいるが、取材には応じてもらえなかった。
ラカイン州最北端部で、父と弟が長く税関職員を務めた男性が匿名を条件に証言する。「軍政期、身分証の発給などほとんどの業務が賄賂絡みでした。窓口で受け取った賄賂は職員全員で職責に応じ配分します。歴代引き継がれたシステムです。公務員は薄給なので、賄賂なしには生活できませんから」
この国に根付いた汚職風土が民族・宗教対立の構図に絡みついている。【シットウェ春日孝之】
(2009年3月2日収録、7月3日インドの民族事情を図録8245へ移動、2011年10月24日マレーシア・シンガポールの民族構成の由縁コメント追加、2013年5月29日ミャンマーの民族地図・ラカイン人解説を追加、30日コラム追加、10月31日コラム引用記事追加、2015年7月27日The Economist:シンガポール事情追加、2015年10月30日インド人の(注)、11月9日ミャンマー民族地図更新、2016年7月13日【コラム】シャン人(族)とシャン州(ミャンマー)、2020年9月8日インドネシア更新、2023年2月20日篠田謙一「人類の起源」マップ)』
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冊封体制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81%E4%BD%93%E5%88%B6





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出典検索?: “冊封体制” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月)冊封体制(さくほうたいせい、さっぽうたいせい)又中華朝貢体系(ちゅうかちょうこうたいけい)とは、中国の歴代王朝の君主(元朝・清朝も含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、天子と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係を伴う、外交関係を規定する体制の一種。天子とは天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主のこと。
概要
形式
冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「冊封国」の側は
「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上 「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)
などを行った[1]。
「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した[2]。「方物」の献上を「朝貢」と言い、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを「職貢」と称する。宗主国と朝貢国の相互関係は、つづめて「封貢」と称された[1]。
具体的なやり方
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出典検索?: “冊封体制” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月)冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。 したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。 冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。 冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。
冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。
ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。
冊封が行われる中国側の理由には、華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部は礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想は、それら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることができるという思想である。つまり夷狄である周辺国は、冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。
冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できることや、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、また、当時は朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことができる、などがあった。 また、冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことができ、この場合は「蕃客」(蕃夷の客)という扱いになる。また時代が下ると、朝貢以外の交易である互市も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。
冊封の最も早い事例としては前漢初期に南越国・衛氏朝鮮がそれぞれ南越王、朝鮮王に冊封されたことが挙げられる。その後、時代によって推移し、清代にはインド以東の国ではムガル帝国と鎖国体制下の日本を除いて冊封を受けていた。
歴史
周〜漢
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委奴王国倭国が後漢と外交交渉をもったのは、以下の史料が示すように倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したのが始まりである。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬漢委奴国王印を与えられたという。
朝鮮半島
中国皇帝が周辺諸国の国王・君長を正式な支配者と認定し、周辺諸国の国王・君長が中国皇帝に忠誠を誓うべく使者を派遣し貢物を贈る冊封体制について、『史記』や『三国遺事』などの中国・朝鮮史料には、周武王が箕子を朝鮮に封じたという記述があり、それに従えば中国・朝鮮間の冊封体制は紀元前11世紀前後に始まったことになり、中国学界では定説になっている[3]。
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、中国系商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[4]。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[5]。秦代は遼東郡の保護下にあった[6]。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢王朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、朝鮮王国が成立した[7]。
『日本書紀』応神天皇三年条に、「東蝦夷悉く朝貢す。即ち蝦夷を役して厩坂道を作らしむ。」とあり、『日本書紀』応神天皇七年条に、「高麗人、百済人、任那人、新羅人、并びに来朝す。」とある[8]。これに類する朝鮮半島諸国が日本に従属を称して朝貢したことに関する無数回の記載は、日本が朝鮮半島においてある程度の宗主国の地位を確立し、それによって中華帝国に対してはその力を示して勢力範囲を分割できるようにし、さらには朝鮮半島諸国を属国とする「小冊封体制」を打ち立てようとしたことを示している[8]。
南越王国中国南部から東南アジアにいたる交易ルートは、戦国時代、楚が掌握していたが、秦にいたり、百越とよばれた原住民を征服し、桂林郡(広西)、南海郡(広東)、象郡(ベトナム北部)の三郡を置いた。秦末の混乱期、南海郡の司令官趙佗はこの三郡を押さえて独立政権を樹立し、南越王と自称した。漢は建国初期、趙佗の政権を承認し、「南越王」の称号も認めた[9]。
三国〜南北朝
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この節の加筆が望まれています。倭王国
魏の皇帝は[10]制書を発して卑弥呼に下賜品を与えるとともに、卑弥呼を「親魏倭王」に任じてその証である金印を与えた。
隋・唐
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この節の加筆が望まれています。唐の帝国秩序[11]
貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)とを定期的に中央政府に納入する内地諸州(10道315州県) 王朝に服属した蕃夷が貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)を不定期に納入し、長官を世襲する羈縻諸州(800州府) 突厥・契丹・奚・渤海・回鶻・堅昆・突騎施 王朝から冊封を受けて中華秩序に組み込まれ貢献を定期的に行う蕃夷 靺鞨・吐蕃・室韋・新羅・南詔・吐火羅諸国 貢物のみを不定期に朝貢する遠夷(入蕃) 日本・林邑・扶南宋・元・明
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この節の加筆が望まれています。朝鮮
冊封を通じて政権の正当性への認証を獲得するという朝鮮の意図が、時には中国に利用されることもあり、明の太祖の家訓には、朝鮮が中国から冊封を獲得することが朝鮮の国内支配にとって重要であることを認識していたことが記載されている。明代には「朝鮮は中国の寵愛を恃むにあらざれば、則ち以てその臣民とせしむなし」、清代には「みなその国弱臣強により、もし我が朝の護持にあらざれば、几ど簒窃を経るを知らず」という記載は、この事例を説明するものである[12]。
日本
日本の征夷大将軍足利義満が明に朝貢、「日本国王」の称号を獲得し、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王として承認された。
倭寇に苦慮した明は、民間の海上貿易を禁止し(海禁)、対外通交を国家間の朝貢 – 冊封関係に限定する厳格な対外関係管理政策を断行、対外交流を国家間通交に一元化し、明と貿易するためには朝貢をおこなって冊封を受けねばならなくなり、足利義満は日明貿易のために朝貢・冊封を受け入れたが、それは通時的な国際秩序ではなく、明初特有の対外政策に起因したものであった[13]。
琉球
琉球の中山察度王が明に朝貢、次いで南山王、北山王も朝貢し、朝貢貿易が始まる。
清
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この節の加筆が望まれています。琉球王国は日本による琉球処分、琉球藩設置に際しても清に朝貢を続けるが最終的に尚泰王が追放され王国は滅亡、沖縄県設置に至り朝貢関係は廃止となる。
史上最後の朝貢使はネパールから清朝に派遣されたもので、
光緒32年(1906年) - 6月1日付で「稟」を送り、「朝貢品」を携えて「陽布」(カトマンズ)を発足したことを清朝に通知。 光緒33年(1907年) - ラサに駐紮している清蔵大臣聯豫は正月16日付で北京に報告[14]。同年、ネパールの朝貢使、北京入り。 光緒34年(1908年) - 8月16日、北京を出立[15]。 宣統元年(1909年) - 7月27日、チベットに到着。同年12月11日、チベットを発って帰国[16]。 宣統2年(1910年) - 四川総督趙爾豊、蜀軍を率いて1905年から四川の西隣に隣接するチベット諸侯(土司)たちの征服に着手していたのがついにラサまで到達。チベット政府ガンデンポタンとラサを占領した蜀軍の双方から情報収集したネパール王、蜀軍に援軍を申し出る。同年夏、皇帝名義で、ネパール王の恭順な姿勢はほめるべきものだが、援軍は不要とコメント[17]。 宣統3年(1911年) - ネパールの貢期は「五年一貢」であるが、次の朝貢使がチベットから四川省経由で中国入りを目指した。その途上、清朝からの独立を目指すチベット軍と、このとき四川からラサまでのルートを制圧していた蜀軍(四川省)との戦闘が勃発、巻き込まれたネパールの朝貢使が立ち往生している間に、1912年に清朝は滅亡した。
学説
定義
冊封体制とは東アジアの国際外交関係であり、宗主国側の行為である「冊封」の語を用いて「冊封体制」というものを生じた。「東アジア世界」を特徴付けるものは漢字・儒教・仏教・律令制の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている。そのため冊封体制論は基本的に政治構造論であるが、文化論の趣きを得ることにもなる。「東アジア世界」の範囲は漢字文化圏にほぼ合致し、含まれる国は現在の区分で言えば、中国・朝鮮・日本・ベトナムであり、「東アジア世界」の中心にかけられる「網」が冊封体制であるとしている。このように当初は「東アジア世界」を説明するためのものであった冊封体制はその後、唐滅亡後にも拡大され、清代のように明らかに東アジア世界と冊封体制の範囲とが異なる時代にまで一定の言及をしている。
日本での研究家としては、前田直典と西嶋定生が唐滅亡後の東アジア諸国の大変動[18]に目をつけ、東アジア諸国の間に相互連関関係があると提唱していた(「東アジヤに於ける古代の終末」1948年)。しかしこの前田論に於いては、そういった連関関係を作っている要因に付いては言及されないままであった。それに対して西嶋冊封体制論は冊封に着目することによってこれに一定の回答を与え、「東アジア世界」という「その中で完結した世界」の存在を提唱するに至った。この概念は「六-八世紀の東アジア」(1962年)にて提唱され、、単独の冊封を指したものではなく、冊封によって作られる中国を中心とした国際関係秩序のことである。以下、両方学者の「冊封体制」論による各時代の展開を記す。特に注記しない限り『西嶋定東アジア史論集第三巻』を主点として記述されたものである。
始まり武帝時代初期の漢の国際関係
この時代の冊封関係は結局、有力な被冊封国を漢王朝が併呑することで解体された
周王朝では頂点である王がその下の諸侯に対して一定の封地を分割して与え、その領有を認める封建制が行われていた。その後の春秋戦国時代にはその形態が崩れ、再統一をした秦では封建制を否定する形で皇帝が天下の全ての土地を直接支配し、例外を認めない郡県制が行われた。
全ての土地を直接支配すると言うのはもちろん理念上の話であり、現実には匈奴を始めとして秦の支配に従わない周辺民族が多数存在した。しかしこの理念がある限りはこれら周辺民族に対しては征服するか無視するかのいずれかしか無くなり、国際関係の発生のしようが無かった。
秦に取って代わった漢では郡県支配をする地域と皇族を封建して「国」[19]を作らせて統治させる地域に分ける郡国制を行った。この郡国制が登場したことにより、周辺民族の「国」もまた中国の内部の「国」として中国の「天下全てを支配する」と言う思想と矛盾無く存在できるようになるのである。
冊封の事例の始めとして、南越国に対するものと衛氏朝鮮に対するものが挙げられる。この二国はそれぞれ漢より「南越王」・「朝鮮王」の冊封を受け、漢の藩国となったのである[20]。
両国は武帝の治世時に滅ぼされ、朝鮮の土地には楽浪郡・玄菟郡・真番郡・臨屯郡の漢四郡が、南越の土地には南海郡・交阯郡などが置かれ、漢の郡県支配の元に服すようになり、冊封体制も一旦は消滅する。
一方、武帝の治世時より儒教の勢力が拡大し始め、前漢末から後漢初期にかけて支配的地位を確立する。この影響により華夷思想・王化思想もまた影響力を強め、冊封が匈奴・高句麗などの周辺国に対して行われるようになり、再び冊封体制が形成され始める。この時期、倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受けている(57年)。
完成
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出典検索?: “冊封体制” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)6世紀前半の東アジア国際関係
倭は5世紀しきりに南朝に通交したが、6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶える。高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる
後漢滅亡後、中国は長い分裂時代を迎える。その一方、日本列島に於いては、239年?にいわゆる邪馬台国の卑弥呼が魏に対して使者を送り親魏倭王の爵号を受け、また朝鮮半島に於いては、4世紀半ばに百済・新羅が興るなど周辺諸国の成熟が進み、冊封体制の完成へと進んでいく。
五胡十六国時代には高句麗が前燕により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした前秦に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は東晋に対して朝貢し、冊封を受けている。
南北朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受けた。この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華秩序下での支配権のお墨付きを得ようと南朝の宋から承認を得るため自ら冊封を受けた。新羅については承認されたが、百済は既に宋の冊封国であり倭の百済支配が承認される事はなかった。高句麗は北朝の北魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。一方百済もまた高句麗に対抗して北魏に朝貢している。
この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。
全盛
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出典検索?: “冊封体制” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)二元的な冊封体制は、589年に中国を統一した隋によって一元的なものへ纏められた。
高句麗・百済は隋成立の581年すぐに隋の冊封を受けたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年になって初めて隋の冊封を受ける。一方、高句麗は585年からは隋と対立する陳に対して朝貢するようになり、隋が陳を滅ぼした後も隋に対する朝貢を怠り、さらには隋領内に侵入する事件まで起きる。
これに激怒した文帝は高句麗に対する遠征軍を起こす。この軍は苦戦し、撤退を余儀なくされるが、高句麗が謝罪したことで高句麗の罪を赦した。しかし高句麗はなお朝貢を怠り、文帝に代わって煬帝が立った後の607年には突厥と結んで、隋に対抗する姿勢を見せた。煬帝はこれに対して二百万と号する大遠征軍(隋の高句麗遠征)を起こすが、三度とも失敗に終わり、隋滅亡の主要因となった。
隋の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)
高句麗が隋の敵突厥と結ぶ様子を見せたため、隋は高句麗の藩属国としての非礼を責めてこれを攻撃した
他方、中国王朝との接触を行っていなかった倭国は、隋に対して遣隋使を送るようになる。この際煬帝に対して「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國)で始まる国書を送ったことが知られているが、これは、当時台頭し始めた俀國なりの大国意識に基づく、冊封体制への忌避感の表明と見られている。
また、唐使の高表仁が倭国王(中国の史書のうち『旧唐書』は舒明天皇5年1月26日(633年)「與王子爭禮 不宣朝命而還」とし王子とする)と礼を争い帰国するなどした。ただしこの時期の倭国もまた東アジア世界の一員であり、「冊封体制の外部」にあったとしても、主に政治制度の確立という点で中国王朝からの影響は大きかった。
隋が滅び、唐が成立すると、624年に朝鮮三国は唐の冊封を受けた。しかし高句麗で淵蓋蘇文による権力奪取が起きるとこれを理由として2代太宗は高句麗遠征(唐の高句麗出兵)を開始するが、この遠征は再び失敗に終わる。
その過程で唐と新羅との関係が密になり(唐・新羅の同盟)、660年、唐は百済と戦争中の新羅からの救援要請に応じて兵を送り、百済を滅ぼした。その後も連合は維持され、668年には高句麗を滅ぼした。更に百済遺民の要請を受けて出兵した倭との白村江の戦いにも勝利する。
しかし新羅は二国の旧領が唐の郡県支配に置かれることを不快に思い、これに攻撃(唐・新羅戦争)を仕掛けて朝鮮半島を統一するに至った。唐は当然これに怒り、新羅の王号を剥奪し討伐軍を送るが失敗に終わり、最終的に新羅が謝罪して入朝するという形式をとることで和解し、拡大した支配領域を維持したまま再び新羅は冊封を受ける。以後、新羅と唐は冊封体制の中でも最も強固な関係となる。
一方、高句麗の遺民たちは北に逃れ、震国を建国した。唐は初めこれに対して討伐軍を送ったものの713年には王の大祚栄を渤海郡王に冊封する。震国はこれにより渤海と呼ばれるようになり、唐の冊封体制に入った。
また白村江の戦いに敗れた倭国では、大宝2年(702年)第8次以降の遣唐使により唐との関係修復を試み、これを朝貢の形式で行っているが冊封を受けることはなかった。
唐の隆盛とともに冊封体制も安定期を迎え、冊封体制を通じて各国に唐文化が伝えられた。各国では唐の制度を模した律令制が採り入れられた。
崩壊
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出典検索?: “冊封体制” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)冊封体制の安定も唐の衰退と共に揺らぎを見せ、唐滅亡によって冊封体制のみならず東アジア世界が崩壊することになる[18]。
五代十国時代の後、中国を統一した宋(北宋・南宋)では遼や金などに対して対等更に臣下としての礼を取らなければならなくなり、冊封体制の中心とは到底なりえなかった。
その一方で宋代・元代を通じて中国を中心とした交易網が飛躍的に発展しており、これが以後の冊封体制の再生に大きな役割を果たす。
再生
洪武帝が元を北に追いやり(北元)、明が成立すると冊封体制と東アジア世界が再生される。朝鮮半島に於いては高麗に代わって李氏朝鮮が興り、明の冊封を受けて朝鮮王とされた。
この頃の日本では、朝廷が分裂した南北朝時代という特殊な状況もあり、南朝の征西将軍であった懐良親王が、明からの倭寇鎮圧の要請を機に、北朝に対し自勢力の正統性を主張するため日本国王として冊封を受けている。
また後に北朝室町幕府3代将軍の足利義満も、明との貿易による利益を得るため、同じく日本国王として冊封を受けている。
明は当初、義満の資格について天皇の陪臣に過ぎないとして通行を拒んだものの、国情を脅かす倭寇の鎮圧を、権力基盤を確立した義満に期待して妥協し、最終的には、位階上天皇との封建的関係性が明白な准三后を称する義満と関係を結んだ。
以降日明間で勘合貿易が行われることとなったが、これは朝貢の形式をとっていたため、日本の体面を汚すとして4代将軍義持によって中断される。
しかし幕府の財政状況の悪化を考慮した6代将軍義教によって再開され、1549年、13代将軍義輝の代まで続けられた。室町幕府の得た利益、即ち明の支出は多大であり、これには倭寇鎮圧の見返りという性格があったと見られている。
なお、日本では懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。
南朝・北朝および室町幕府いずれも天皇は冊封を受けておらず、前者は天皇の尊厳を傷付けることなく、国内政治に利用し得る「日本国王」の称号を得るため、後者は、実権を握り、天皇に代替する立場としての「日本国王」になるためという思惑が、それぞれ指摘される。
明滅亡後、清代には冊封体制の範囲は北アジア・東南アジアなどに大きく広がり、インド以東ではムガル帝国と鎖国体制下の日本のみが冊封体制に入らなかった。
また冊封の称号の違いについて、身内と目される国は『王』、化外の国は『国王』と使い分けられている。皇帝からの書状についても違いがあり、北元・吐蕃には「皇帝問」、その他には「皇帝勅」としている。
終焉
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清国はアヘン戦争での敗北により、条約体制に参加せざるを得なくなり、更にはベトナムの阮朝が清仏戦争の結果、フランスの植民地となる。この時点でも、未だに清朝はこれらを冊封国に対する恩恵として認識(あるいは曲解)していた。しかし、1895年、日清戦争で日本に敗北し、日本は下関条約によって清朝最後の冊封国であった朝鮮を独立国と認めさせ、ついに冊封体制が完全に崩壊することとなった。批判
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出典検索?: “冊封体制” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)西嶋冊封体制論に対して、早くも同じ『岩波講座日本歴史』シリーズの5巻に於いて旗田巍が、当時の新羅・渤海・日本を比較することによって当時の東アジア世界に構造的な物は存在しないと結論付けた。
これに対して堀敏一は、旗田説を批判する形で、当時の東アジア世界に構造的な物は存在すると述べた。しかしあたかも唐の国際関係が冊封体制によってどの民族に対しても画一的に存在するかのような西嶋の論には反対し、突厥・吐蕃のような北・西に対する政策として羈縻政策や和蕃公主の降嫁なども視野に入れて、総合的な唐の異民族対策としてみるべきであると述べた。
杉山清彦は、「冊封体制論」は日本対外関係史、中央ユーラシア史、東南アジア史の研究進展により修正が迫られている、と指摘しており、「冊封体制論」の問題点を以下指摘している[21]。
朝貢 - 冊封は単なる外交手続きにすぎず、実際の支配・従属関係を意味するものではない。 冊封関係が恒常的にカバーした範囲は極めて狭く、継続的に朝貢 - 冊封関係下に包摂されたのは朝鮮・ベトナムだけで、下って琉球・シャムが加わる程度にすぎない。 朝貢 - 冊封という手続きは漢代から清末まで常におこなわれており、時代を特徴づける指標にならず、冊封関係があるというだけでは「冊封体制」が存在したとはいえない。
脚注
^ a b 原田,2003, pp.1-3 ^ 渡辺信一郎『天空の玉座―中国古代帝国の朝政と儀礼』柏書房、1996年9月1日、3-4頁。ISBN 4760113452。 ^ 伊藤一彦『7世紀以前の中国・朝鮮関係史』法政大学経済学部学会〈経済志林 87 (3・4)〉、2020年3月20日、187頁。 ^ 岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年6月10日、38-42頁。ISBN 4480424490。 ^ 岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年6月10日、22頁。ISBN 4480424490。 ^ 岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年6月10日、23頁。ISBN 4480424490。 ^ 岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年6月10日、25-27頁。ISBN 4480424490。 ^ a b 蔣立峰・厳紹璗・張雅軍・丁莉 (2010年). “序章”. 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 27 ^ 岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年6月10日、27-29頁。ISBN 4480424490。 ^ 『魏志倭人伝』では景初2年12月とする。その場合は皇帝は曹叡(明帝)。なお景初3年説の場合、皇帝は曹芳。 ^ 渡辺信一郎『天空の玉座―中国古代帝国の朝政と儀礼』柏書房、1996年9月1日、244-247頁。ISBN 4760113452。 ^ 韓東育「東アジア研究の問題点と新思考」『北東アジア研究』別冊2、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2013年5月、160-161頁、ISSN 1346-3810、NAID 120005710669。 ^ 杉山清彦 (2016年). “「東アジア世界」と日本” (PDF). 帝国書院. p. 8. オリジナルの2021年12月25日時点におけるアーカイブ。 ^ 呉豊培,1994, pp.1483-1485 ^ 呉豊培,1994, pp.1529 ^ 呉豊培,1994, pp.1529-30 ^ 呉豊培,1994, pp.1554-55 ^ a b 907年、唐滅亡。918年、高麗成立、936年、新羅滅亡。926年、渤海滅亡。契丹の勃興、946年、遼成立。935年、承平天慶の乱。938年、ベトナムの独立。 ^ これを藩国と言う。 ^ 内部の藩国を内藩国、南越・朝鮮のような外部の藩国を外藩国と呼び、朝廷に直接仕えるものを内臣、冊封を受けた君主を外臣と呼ぶ。 ^ 杉山清彦 (2016年). “「東アジア世界」と日本” (PDF). 帝国書院. p. 7. オリジナルの2021年12月25日時点におけるアーカイブ。
参考文献
Question book-4.svg出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年4月)
乙坂智子「元朝チベット政策の始動と変遷:関係樹立に至る背景を中心として」『史境』20(1990.3),pp.21-46,ISSN 0285-0826 「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第三号(1989.10),pp.21-46 「元代「内附」序論:元朝の対外政策をめぐる課題と方法」『史境』 (34), 29-46, 1997-03 「元朝の対外政策:高麗・チベット君長への処遇に見る「内附」体制」『史境』 (38・39), 30-53, 1999-03
西嶋定生
「六-八世紀の東アジア」(改題して「東アジア世界と冊封体制 – 六-八世紀の東アジア」)が収録されているのは以下の四冊。ただし「六-八世紀の東アジア」はその名の通り、六-八世紀の東アジアに限定的な論文であり、それ以外の時代や東アジア世界論に付いては未だ不明瞭である。そのほかの「東アジア世界の形成と展開」・「序説―東アジア世界の形成」なども参照のこと。(前者は4、後者は3に収録)
『岩波講座日本歴史2』(岩波書店、1962年) 『中国古代国家と東アジア世界』(東京大学出版会、1983年 ISBN 4130210440) 『古代東アジア世界と日本』(岩波現代文庫、2000年 ISBN 4006000251) 『西嶋定生東アジア史論集』(岩波書店、2002年 ISBN 400092513X)
浜下武志
浜下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,1997.ISBN 4-00-001382-3
渡辺信一郎
渡辺信一郎『天空の玉座―中国古代帝国の朝政と儀礼』柏書房、1996年9月1日。ISBN 4760113452。
その他
『岩波講座日本歴史5』(家永三郎ほか、岩波書店、1962年) 『元朝史の研究』(前田直典、1973年、東京大学出版会、ISBN 4130260138) 『中国と古代東アジア世界』(堀敏一、岩波書店、1993年 ISBN 400001367X) 『室町の王権』(今谷明、中公新書、1990年) 呉豊培編『趙爾豊川辺奏牘』四川民族出版社,1984 呉豊培主編『清代蔵事奏牘』中国蔵学出版社,1994, ISBN 7-80057-115-7
概説書
岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2008年6月10日。ISBN 4480424490。 原田禹雄『琉球と中国:忘れられた冊封使』吉川弘文館,2003.ISBN 4-642-05553-3 松本雅明・山口修・山崎利男『世界の歴史3 東洋の古代文明』社会思想社,1974 ISBN 4-390-10823-9 宮崎市定『世界の歴史7:大唐帝国』河出書房新社,1989.ISBN 4-309-47166-8 宮崎市定『世界の歴史6:宋と元』中央公論社,1975.ISBN 4-12-200179-X 森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社,2007.ISBN 978-4-06-280705-0
関連項目
中華 四夷 中華思想(華夷思想、華夷秩序) 冊封 朝貢 羈縻政策 遣明使 琉球の朝貢と冊封の歴史 冊封国 小中華思想 事大主義 パクス・シニカ 保護国 表話編歴
中国の王朝政府
王朝歴代王朝一覧 皇帝 (歴代皇帝の一覧) 天子と冊封体制 近衛兵 禁軍 錦衣衛官職
宰相 官職一覧 九品官人法 郷挙里選 九寺 五監 マンダリン 士大夫 御史台 僕射
育成
科挙 進士 太学 国子監 翰林院 書院
九卿
太常 光禄勲 衛尉 太僕 廷尉 大鴻臚 宗正 大司農 少府
九寺
太常寺 光禄寺 衛尉寺 宗正寺 太僕寺 大理寺 鴻臚寺 司農寺 太府寺
古代
周 - 冢宰/卿士 宋 - 太宰/左師/右師/司城 楚、徐、越 - 令尹 晋 - 中軍将 魯 - 司徒 鄭 - 当国/為政
中世
三公九卿 三公 節度使 羈縻政策宰相(秦 – 南北朝)
相国 丞相 三公 (丞相→大司徒→司徒 / 太尉→大司馬→太尉 / 御史大夫→大司空→司空) 三師 (太師/太傅/太保) 大将軍
三省六部(魏 – 隋唐)
尚書省 (尚書令) 中書省 (中書監/中書令/内史省/内史令) 吏部 戸部 礼部 兵部 刑部 工部 門下省 (侍中/納言)カテゴリ:
東アジア史中国の制度史清朝の外交中国の国際関係史日中関係史冊封国 最終更新 2022年10月1日 (土) 09:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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出典検索?: “インドネシア独立戦争” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年11月)インドネシア独立戦争
Indonesian National Revolution montage.jpg左上から時計回りにオランダからインドネシアへの主権の移譲に署名するオランダのユリアナ女王、スラバヤの戦いで燃やされたオランダ軍司令官の車、バンドンで焦土作戦を行うインドネシア軍、リンガジャティ協定の調印に向かうインドネシアとオランダの代表、パダンに侵攻するオランダ軍、スカルノとハッタ。
戦争:インドネシア独立戦争
年月日:1945年8月17日 ~ 1949年12月27日[1]
場所:インドネシア
結果:オランダの軍事的勝利、インドネシアの政治的勝利、ハーグ協定 独立による独立 [2]。
交戦勢力
インドネシアの旗 インドネシア
日本における郵船商船規則の旗 残留日本兵
イギリス領インド帝国の旗 インド人義勇兵 オランダの旗 オランダ
イギリスの旗 イギリス
華僑
指導者・指揮官
インドネシアの旗 スカルノ
インドネシアの旗 モハマッド・ハッタ
インドネシアの旗 スディルマン
インドネシアの旗 ハメンクブウォノ9世
インドネシアの旗 ストモ オランダの旗 ウィルヘルミナ
オランダの旗 ユリアナ
オランダの旗 フベルトゥス・ファン・モーク
オランダの旗 シモン・ヘンドリック・スポール
イギリスの旗 クレメント・アトリー
戦力
115,000 人のオランダ兵
60,000 人のイギリス兵
損害
10万人以上が死亡[3] 4,585人のオランダ軍の死者
イギリス軍死者980人[要出典]冷戦
ヤルタ会談 ギリシャ内戦 国共内戦 インドシナ1 竹のカーテン 印パ1 中東1 ベルリン封鎖 朝鮮 台湾海峡危機 ハンガリー動乱 中東2 ラオス内戦 コンゴ動乱 インドシナ2 ポルトガル ベルリン危機 キューバ危機 中印国境 印パ2 中東3 プラハの春 中ソ国境 チリ・クーデター カンボジア内戦 印パ3 中東4 カンボジア・ベトナム 中越 エチオピア内戦 モザンビーク内戦 オガデン アンゴラ内戦 エリトリア 中米 アフガン侵攻 シドラ湾1 グレナダ侵攻 リビア爆撃 シドラ湾2 東欧革命 マルタ会談 パナマ侵攻 ソ連8月クーデター ソ連崩壊表示
インドネシアの歴史
Bali Wayang Kulit shadow puppet Ramayana Hanoman dramatic show 5.jpg
初期王国
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃)
タルマヌガラ王国 (358-723)
スンダ王国(英語版) (669-1579)
シュリーヴィジャヤ王国 (7世紀–14世紀)
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀)
古マタラム王国 (752–1045)
クディリ王国 (1045–1221)
シンガサリ王国 (1222–1292)
サムドラ・パサイ王国 (1267-1521)
マジャパヒト王国 (1293–1500)
イスラーム王朝の勃興
マラッカ王国 (1400–1511)
ドゥマク王国 (1475–1518)
アチェ王国 (1496–1903)
バンテン王国 (1526–1813)
パジャン王国(英語版) (1568年-1586)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)
ヨーロッパ植民地主義
オランダ東インド会社 (1602–1800)
オランダ領東インド (1800–1942)
インドネシアの形成
日本占領下 (1942–1945)
独立戦争 (1945–1950)
オランダ・インドネシア円卓会議 (1949)
インドネシアの独立
9月30日事件 (1965–1966)表話編歴
インドネシア独立戦争(インドネシアどくりつせんそう)とは、日本が太平洋戦争で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)である。1945年から1949年までの4年5か月にわたる戦争で、10万人が犠牲になった。
より狭義には、1947年7月21日と1948年12月19日の2度にわたって、オランダ軍がインドネシア共和国に軍事侵攻した結果生じた大規模な軍事衝突を指し、オランダ側ではこの自国の軍事行動を「警察行動」(Politionele acties)と呼称している。しかし一般的には、インドネシア共和国とオランダ軍との軍事衝突だけでなく、東インドに進駐したイギリス軍とインドネシアの武装組織との武力衝突、インドネシア共和国内での反乱事件や政治闘争、そして軍事衝突とほぼ並行して進められたオランダや国際連合との外交交渉など、インドネシアの独立へ向けての一連の政治過程を総称して「インドネシア独立戦争」という。
また、植民地時代や日本軍政期には旧東インド領の各地で、伝統的な領主層や貴族層が為政者によって特権を保護されてきたが、独立宣言後にインドネシア人の急進的な青年層や武装勢力によって、これらの者の地位や特権を剥奪する社会革命の動きがみられた。こうした動きも含めて、一連の事象を「インドネシア独立革命」ともいう。
結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立した。さらに1950年8月15日、連邦構成国の1つであるインドネシア共和国に他の全ての構成国が合流して、単一国家インドネシア共和国が誕生した。現在も同日を記念して祝祭日としており、首都・ジャカルタを中心に祝賀される。
第二次世界大戦
詳細は「蘭印作戦」を参照
オランダは大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきた(オランダ海上帝国)。しかし1941年夏のABCD包囲網以来日本とオランダは敵対し、同年12月8日に太平洋戦争が始まるとオランダ政府は12月10日に日本政府に対して宣戦布告(オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が追認したものとされる)、これに応じて日本軍(第16軍、ジャワ島上陸第1陣は約5万5000人)は1942年2月末から3月にかけて、スマトラ島とジャワ島に進攻した。オランダ領東インド軍(蘭印軍、約4万人)は、3月10日に日本軍に全面降伏した[注釈 1]。
3A運動のポスター(1942年)その後日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやモハマッド・ハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁し、英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」を公用語にした[4]。
さらに1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなったが、この頃までは石油資源の安定確保を目的として東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかった。
しかし、日本の戦局が悪化してくると、1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって[注釈 2]、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。1945年8月15日、ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がっていたため、スカルノとハッタは山本茂一郎軍政監と接触して、確実な情報を得ようと務めたが徒労に終わった[5]。そこで二人は同日14時半頃前田精海軍少将を訪ねたところ、前田は公式な情報がないという理由で回答を留保した[6]。16日早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年グループに拉致された(レンガス・デンクロック事件)[7]。スカルノ、ハッタおよびスバルジョは青年グループを説得し、8月17日の正午までに準備を整え独立を宣言すべく解放され、ジャカルタへ向かった[8]。16日23時頃、スカルノ、ハッタらは前田海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基いて独立宣言を起草し採択した[9]。17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し[注釈 3]、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。
独立宣言後の8月22日には人民治安団(Badan Keamanan Rakyat)が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけた。この人民治安団が治安維持、急進化する青年層の取り込みといった目的をもっていたのに対して、10月5日に結成された人民治安軍(Tentara Keamanan Rakyat)は、10月になって本格的に進駐してきたイギリス軍および旧宗主国のオランダ軍に対抗するという目的があった[注釈 4]。人民治安軍は旧蘭印軍将兵に対してもこれへの参加を呼びかけ、純然たる軍組織を目指した。共和国側にはこの正規軍以外にも複数の非正規の武装組織が誕生し、その活動には政府の統制が及ばなかった[10]。
一方、大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。
この命令を守るために独立派との間でスマラン事件などの衝突が生じ、日本側にも多数の死傷者が出た[注釈 5]。
他方で、日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある[11]。
その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡った[注釈 6]。日本に引き揚げずにインドネシア独立派に身を投じた元日本兵は数千人に上った[12]。各国の独立運動支援のために武器を持ったまま義勇軍に加わる日本兵も少なくなく、インドネシアの場合、その数は通常3千人といわれ、千人がオランダ軍との戦いで独立義勇軍の兵士として戦死、千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、千人がインドネシアに帰化したといわれる[注釈 7]。
約2000人の元日本軍兵は祖国に帰らず、そのまま除隊(この時点で日本軍籍は消滅)、残留してインドネシア独立軍に参加し、降伏時所持していた兵器物資を横流しした者、軍政資材をそのまま利用し独立運動の広報・宣伝に当たった者もいた[13]。
ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラム教に改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかった。なお、陸軍第16軍の作戦参謀を務めた宮元静雄によると、帰隊者・死亡者をのぞく現地逃亡残留兵は総計277名で、そのうち166名はジャワのバンドン地区の将兵であった[14]。
独立戦争の推移
イギリス軍の占領
大戦中ロンドンに亡命していたウィルヘルミナ女王のオランダ政府は、すでに1942年12月7日には戦後における東インドの自治について言及していたが、その独立について譲歩する考えはなかった。オランダ政府のハーグ復帰後、東インドの再植民地化を決定し、カナダで訓練されていたオランダ領東インド軍(蘭印軍)部隊を派遣する準備をすすめていた[15]。
連合国側では、オランダ領東インドの管轄をアメリカ軍南西太平洋司令部からイギリス軍東南アジア司令部(総司令官ルイス・マウントバッテン)に移し、その指揮下のイギリス軍部隊(その大半は英印軍)が東インドに進駐することになった[16]。
このイギリス軍部隊の役割は、東インドにおける現状維持と、日本兵の武装解除および日本人の本国移送であり、オランダとインドネシアの独立問題には不介入の立場を取っていたが、期せずしてインドネシア人の武装勢力との衝突に巻き込まれていくことになるのである。
戦前から東インド植民地官僚、副総督を務めていたファン・モーク。独立戦争期にはオランダを代表してリンガルジャティ協定に調印。
9月29日、イギリス軍第一陣がジャカルタに上陸し、10月1日付でイギリス陸軍フィリップ・クリスティソン中将指揮下の蘭印連合軍(AFNEI)司令部がジャカルタに開設された。10月末までには、AFNEI傘下の英印軍第23師団の一個旅団がジャカルタ、バンドン、スラバヤに、一個大隊がスマランに配置された。
10月20日にはオランダ領東インド政府副総督フベルトゥス・ファン・モークが亡命先のオーストラリアからジャカルタに帰還し、10月23日にはインドネシア共和国大統領スカルノ、副大統領ハッタと会見している。以後、1946年11月末にイギリス軍がインドネシアから完全撤退するまでの期間、インドネシアの独立問題は、当事者であるインドネシアとオランダ、その両者の仲介役であるイギリスという、三者間の交渉によって「外交」交渉が進められていくことになる。
なお、インドネシアに進駐したAFNEIの指揮下には、オランダ領東インド軍(蘭印軍)陸軍司令官ファン・オイエン少将率いる蘭印陸軍七個中隊があった。この部隊がインドネシア人殺害、誘拐、放火など多くの事件を起こした。これらの破壊工作が、インドネシアと連合国との交渉環境を著しく悪化させた[17]。
スラバヤの戦いで鹵獲されたマーモン・ヘリントン CTLS-4TAY軽戦車。オランダ軍の装備だったものを日本軍が鹵獲使用し、それをインドネシア独立派が受け継いだもの。
10月25日にスラバヤに上陸したイギリス軍第49旅団は、民衆に武器の提出を求めるチラシを全市で配布し、これがインドネシア側を刺激した。このチラシをイギリスからの宣戦布告であると受け止めたインドネシア人は、同28日、29日、30日にわたってスラバヤ市内に展開するイギリス軍を攻撃し、これに打撃をあたえた[18]。イギリスとの交渉環境の悪化を危惧したスカルノやハッタがスラバヤに飛来して停戦を成立させたが、10月30日夜、その停戦ラインの侵犯をめぐって銃撃戦が起こり、英印軍の旅団長マラビー准将が射殺された。
イギリス側(英印軍)は、この他にも共和国側の武装組織との交戦によって多数の死傷者を出しており(1946年11月28日の完全撤退までに死傷者1377人、うち戦死者407人、行方不明者162人)、また、インドの世論もインドネシアの民族独立運動の弾圧に英印軍が利用されることに反対し、インド総督アーチボルド・ウェーヴェルも英印軍の早期撤退をイギリス政府に要請していた[19]。
10月半ばから下旬にかけては、英印軍第26師団がスマトラのメダン、パレンバンなどに進駐した。このように、ジャワとスマトラは英軍指揮下にあったが、チモール、カリマンタン、スラウェシ、アンボンなどの「外島」はオーストラリア軍が部分的に占領した[20]。
1945年12月14日現在で累計5億ギルダーの南発券が英軍に供給された。1946年1月4日、インドネシア共和国政府は首都を治安の悪化したジャカルタからジョグジャカルタに移し、大統領スカルノ、副大統領ハッタらはジョグジャカルタに退避し、イギリス・オランダとの交渉は、ジャカルタに残った共和国首相シャフリル(外相兼任)、国防相アミル・シャリフディン(情報相兼任)が担っていくことになった。
一方、オランダ軍部隊が東インドに派遣されると続々と増加して12万人に達し、インドネシア側との本格的衝突が懸念された。1946年11月末に予定されたイギリス軍部隊のインドネシアからの完全撤退を前に、停戦協定の締結が急がれることになった。
国連の介入
1946年11月12日、オランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、双方は連邦国家樹立に向けて努力するという停戦協定(リンガジャティ協定)が成立した。そして当初の予定どおり、イギリス軍は11月中にインドネシアからの撤退を完了した。
シャフリル政権崩壊後、共和国首相の座に就いたアミル・シャリフディン
しかしオランダ軍は同協定の批准も済んでいない1947年2月24日、東部ジャワのクリアンとシドアルジョを攻撃、これを占領するとともにさらに内陸のモジョケルトへも兵を進めた。このオランダ軍の進出に譲歩するか徹底抗戦するかをめぐって、インドネシア国内で混乱が続くなかで(その結果、6月27日、シャフリル内閣崩壊)、6月28日、オランダ軍は全域での進軍を命じ、スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始された。
1947年7月17日に共和国側へ最後通牒を突きつけたオランダ軍は、7月21日、共和国領内への全面的攻勢を開始した(オランダ側ではこれを「(第1次)警察行動」という)。オランダ軍はジャワ西部のジャカルタ、チルボン、キンタマーニ、南部のチアミス、タシクマラヤ、北部のスマラン、マグラン、スマトラのメダン、パレンバンなど、主だった拠点を占領し[21]、インドネシア共和国臨時首都であるジョグジャカルタにも迫った。12万を超すオランダ軍は装備の面でも、練度においてもインドネシア側の武装組織を凌駕しており、独立軍は都市部を放棄せざるをえなかったが、一方のオランダ側も、農村部でのゲリラ戦に苦しめられた。これに対してオランダ軍は徹底したゲリラ掃討作戦を展開し、1947年12月9日には西ジャワにある小村ラワゲデに独立派指導者ルカス・クスタリオが潜伏しているとして捜索を行った際、村に住む男性150人以上を虐殺する事件が起きている。
ここで成立したばかりの国際連合が介入、8月1日に国際連合安全保障理事会で、即時停戦と仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27が採択された。
この決議にもとづいて8月4日に停戦が成立したが、その後もオランダ軍の攻撃は止まず、占領地域に次々と傀儡国家・自治領域を設立していった。
このためインドネシア共和国国連代表シャフリル(前首相)の求めによって、国連はインドネシアが指名したオーストラリア、オランダが指名したベルギー、そしてオーストラリア・ベルギー両国が指名したアメリカ合衆国の3カ国による仲裁委員会の設置を決定した。10月にはこの仲裁委員会の代表がジャカルタに到着し、新たな停戦協定の締結へ向けて努力していくことになった[22]。
アメリカ軍艦レンヴィル上での外交交渉
1948年1月17日、ジャカルタ沖に停泊する米国軍艦レンヴィル (Renville) 艦上(ハスケル級攻撃輸送艦APA-227)で調印された停戦協定(レンヴィル協定)は、インドネシア共和国領をジャワ島の中部と西端部、マドゥラ島のみとし、共和国側も、さらに狭い領域へと押し込まれる現状を追認するしかなかった。
オランダ軍の第二次警察行動
1948年1月23日、同協定を批准する見込みのなかったアミル・シャリフディン内閣は総辞職し、その後を引き継ぐ内閣を担う意思と能力のある政治家は既存の政党にはいなかった[23]。
大統領スカルノは、1月29日、副大統領ハッタに超党派の内閣を組織させ(首相と国防相を兼任)、レンヴィル後の国内混乱を収拾し、オランダとの外交交渉を継続していくことになった。
共和国政府と対立したPKIの指導者ムソ。マディウン事件後の混乱の中で射殺された。一方で、レンヴィル協定に反対するインドネシア共産党(PKI)をはじめとする徹底抗戦派および左派勢力が糾合され、スカルノ、ハッタらの外交路線と対立した。この政府と左派勢力の対立のなかで、1948年9月18日、PKIの影響下にある部隊がジャワ島東部のマディウンで政府機関を襲撃し、革命政府樹立を宣言した(マディウン事件)。1ヶ月ほどでこの反乱は鎮圧されたが、共和国内部での混乱に乗じて、オランダは12月11日和平会談決裂を宣言、12月19日早朝に共和国領内への全面攻勢が開始された(オランダではこれを「第二次警察行動」という)。
オランダ空軍の爆撃機によってジョクジャカルタのマグオ空港が空爆され、オランダ海兵隊と蘭印軍が地上から侵攻し、12月23日までにはジョグジャカルタを陥落させた。当時、ジョクジャカルタの共和国側には3個中隊の兵力しかなく、オランダはスカルノ大統領、首相兼副大統領ハッタ、そして閣僚の大半を逮捕した[24]。
共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴えた。このように共和国政府の存続を国際的にアピールするとともに、インドネシア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすめ、1949年3月1日にはオランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ[注釈 8]。
オランダの全面攻勢によってインドネシア共和国は存続の危機に瀕したが、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。オランダがインドネシアの各地で設立した傀儡国家では急速にオランダ離れがすすみ、これらの地域が後にインドネシア共和国に合流する素地を作った[25]。また、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。とりわけ、マディウン事件で左派勢力を一掃したハッタ政権を高く評価していたアメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。
こうした国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。
ハーグ円卓会議
円卓会議での調印式。右が共和国代表モハマッド・ハッタ
オランダに逮捕されていたスカルノらインドネシア指導者は1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させた。
8月23日にオランダの首都ハーグでハーグ円卓会議が開催された。オランダ首相によって主催されたハーグ円卓会議は11月2日に一応終結し、当事者であるインドネシア共和国、同連邦構成国、オランダとのあいだで、以下が決議された。
諸邦連立のインドネシア連邦共和国を樹立する。 オランダは無条件でインドネシアの主権を連邦共和国に引き渡すことに同意する。 インドネシア連邦共和国は、オランダ=インドネシア連合(イリアン・ジャヤを含む)に参加し、オランダ女王をその元首とする。 インドネシア連邦共和国の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する。他。
オランダはインドネシアに対する影響力を残しながらも、12月27日インドネシアの主権を連邦共和国に移譲した。ここにおいて戦争は公式に終結した。また、オランダは交渉の過程で、当初、インドネシア側に61億ギルダー(17億3200万ドルに相当)の債務負担を要求し、最終的には43億ギルダー(11億3000万ドル相当)の債務をインドネシア側が継承することで合意した[26]。
独立戦争後のインドネシアとオランダ
解放を獲得したインドネシアだが、日本(枢軸国)に勝利したオランダ(連合国)が影響力を残すため、共和国が支配するジャワ島のほかに、オランダの作ったいくつもの傀儡政権が連立する連邦共和国となっていた[27]。だが、諸邦が分立する連邦共和国制度を不満とし、土侯国を中心とする諸邦の権力をジャカルタの中央政権に委譲させ、1950年8月15日、単一のインドネシア共和国の樹立が宣言された。オランダの目論みは完全に失敗し、300年に及ぶ影響力を遂に失った。
建国後のインドネシアは原油とゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、政治的混乱を収拾するため、スカルノは1956年に「指導された民主主義」を提唱し、独裁制へ移行して行くとともに、ソビエト連邦へ接近した。1960年には、なおオランダ支配下にあった西イリアンへ進攻し、オランダと国交を断絶し、アメリカの介入による国連暫定統治を経て、1962年にはインドネシアへの移管が決まった。
オランダは第二次世界大戦後に、アメリカによるマーシャル・プラン(西欧経済援助)が停止されたことも、打撃が大きかった。1962年には西イリアンも失い、植民地国家から西欧国家への移行を目指した。ベルギーやルクセンブルクとのベネルクス関税同盟は、その後の欧州共同体、現在の欧州連合の先駆けとなった。
日本人とインドネシア独立戦争
日本軍の敗北から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人を数え、この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るものだった[4]。この死者数は、武器・弾薬譲渡をめぐる独立派からの襲撃によるもの(陸輸総局勤務の婦女子を含む70名余りの無抵抗の日本兵が殺害された)や[4][注釈 9]、連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて戦闘になったこと、などによるものだった[注釈 10]。一方で、独立派が武器を奪っていくのを、現地日本人が見てみぬふりをする形で、穏便に解決すると同時に、旧日本軍が独立派に事実上武器を譲渡するような例もあった。
また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人がいた[注釈 11]。彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍[注釈 12]の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる[注釈 13]。
これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した[注釈 14]。インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった[29]。
独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。
青松寺 故市來吉住兩君記念碑
1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ
その石碑が東京青松寺に建てられている。
1987年の訪日の際、アラムシャ第三副首相は、日本占領時に創設されたPETAでの人材育成に感謝し、連合軍に敗戦後もインドネシアに残留し独立戦争に参加した日本兵らについても語っている[30][4]。
日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。 — アラムシャ第三副首相、1987年[4]
またスハルトは、1988年8月17日の独立記念日に、インドネシア独立に尽力した金子智一・稲嶺一郎の2名の日本人に国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」を授与している[31]。それ以前には、1976年に前田精、その後に高杉晋一、清水斉、小笠公詔の4名が既に受章していた。
「インドネシアと日本軍政」についての研究は[注釈 15]、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった[32]。
ジョージ・S・カナヘレは著書『日本軍政とインドネシア独立』の中で、「日本軍政は、インドネシア語の公用化を徹底させたが、このことを通し、インドネシアは国民的自覚の連帯意識を強化せしめることができた」とし、以下のように分析している[33][4]。
日本軍政は、オランダ時代には知らなかった広い地域の大衆をインドネシアという国家形態に組織した。…日本軍政は、ジャワ、バリ、スマトラに、現地人による常備軍(ペタ)を設けて訓練した。オランダ復帰に抵抗して闘ったこの革命軍将校と数万の兵士の組織と訓練、そして日本軍があたえた大量の兵器なしに、インドネシア革命はあり得なかった。 — ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』[4]
2023年6月にインドネシアを訪問した天皇、皇后は、同月19日に残留日本兵の二世らと会談。翌日には残留日本兵を含む独立戦争の犠牲者が眠るカリバタ英雄墓地で供花した[34]。
インドネシア独立戦争を題材とした作品『ゲリラの家族 Keluarga Gerilya 』 - インドネシアの作家、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの長編小説。独立戦争下のジャワで生きる庶民の姿を描いた作品[35]。 『ムルデカ17805』 - インドネシア独立戦争に参加した日本兵を描いた日本・インドネシア合作映画。藤由紀夫監督。2001年に制作され、日本とインドネシアの両国で上映された。
脚注
[脚注の使い方]
注釈^ このように比較的短期間のうちに戦闘が終わった要因として、(1)オランダ本国がすでにドイツ軍に占領されていたこと、(2)蘭印軍自体が領土防衛ではなく国内治安のための軍隊であったこと、(3)開戦前からの日本軍による情報操作が功を奏し、現地住民の間に日本軍を歓迎するムードを作り出すことに成功していたこと、の3点が挙げられる(インドネシア国立文書館編、1996年、35頁) ^ 8月14日に日本降伏は予告されていない。奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』95頁他。 ^ 日本軍政期、軍政当局によって皇紀を使用することが規定されていたため、独立宣言文にみられる「2605年8月17日」の年号も皇紀が用いられている。信夫、1988年、258頁、倉沢、1991年、755頁。 ^ 今日のインドネシア国軍の「建軍記念日」はこの10月5日とされている。 ^ 1945年9月2日から約半年の間に、日本軍はインドネシア側との衝突で627人の死者を出した。そのなかでも1945年10月、中部ジャワ州のスマランで発生した日本軍部隊とインドネシア人独立派との衝突(スマラン事件)では日本側に187人、インドネシア側に2000人近い犠牲者が出た(後藤乾一「戦後日本・インドネシア関係史研究序説」、『社会科学討究』40巻2号、1994年12月、358-359頁)。 ^ 元蘭印軍出身で後にインドネシア国軍の高官となるナスティオンの著作は、小銃2万6000、自動小銃1300、機関銃600、手榴弾9500、速射砲40、榴弾砲16などの数字を挙げている。 ^ 帰化組は国の英雄とされ、死亡後は国立英雄墓地に埋葬されている。 ^ このとき共和国軍部隊を率いたのが後に第2代大統領となるスハルト中佐であった。 ^ スマラン事件で刑務所に収容され現地人に射殺された日本人の一人は、それでも鮮血の広がる血の海の中、壁に血糊で「バハギャ インドネシア ムルデカ」(インドネシアの独立に光栄あれ)」と記し、さすがにその血文字はインドネシア側に非常な感動を与えたため、記念として保存されているという[28][4]。 ^ このインドネシアからの日本人引揚げで婦女子854名が全員無事に帰国したことについて、永井は満州や樺太からの日本人引揚げ時の悲劇との対比で「特筆に値する」としている。永井、1986年、34頁。 ^ 独立戦争に身を投じた「アブドルラフマン」こと市来龍夫(歩兵操典をインドネシア語に翻訳した)と「アレフ」こと吉住留五郎の墓が、東京タワーそばの青松寺にある。なお、市来龍夫については、後藤、1977年、を参照。 ^ インドネシアの独立宣言後、初期のインドネシア国軍の将校団を構成したのは、兵補・郷土防衛義勇軍(略称「ペタ」)といった、日本軍政期に結成された対日協力軍の元幹部たちであった(倉沢、1992年、第7章、を参照)。また、オランダ領東インドを占領した日本軍は兵補制度を採用して、これを日本軍の中に組み込んだ。こうした兵補の多くは、旧蘭印軍の現地人兵士から募集されたが、農村の住民から採用された者も多かった。なお、これらの組織で日本軍の軍事教育を受けたインドネシア人の回想については、インドネシア国立文書館編著、1996年、第4章、を参照。 ^ インドネシア独立戦争に参加した日本人兵士の回想の一例として、バリ島に駐在した日本軍兵士、平良定三(インドネシア名ニヨマン・ブレレン)について、藤崎康夫「インドネシア独立戦争を戦った日本人兵士」、『宝石』1995年9月号、を参照。 ^ 独立戦争終結後しばらくして、現地逃亡元日本兵に日本への帰国の機会が与えられたが、帰国せずにそのまま残留した者も多かった。日本政府からは「脱走兵」と見なされたため、軍人恩給は支給されず、その存在が日本国内に伝えられることも少なかった。1970年代末になって軍人恩給に代わる一時金が支払われた。倉沢愛子 『二十年目のインドネシア 日本とアジアの関係を考える』、草思社、1994年、162頁。 ^ 以下の研究史の整理は、倉沢愛子「シンポジウム『東南アジア史の中の日本占領 -評価と位置づけ- 』」、『アジア経済』37巻7・8号、1996年7・8月号、191-193頁、を参照。
出典
^ “インドネシアの独立記念日とイベントの紹介”. 岡山県 (2013年10月). 2022年12月5日閲覧。 ^ “インドネシアの民族運動”. 世界史の窓. 2022年12月5日閲覧。 ^ “ジュムラー コルバン インドネシア – インペリアル & グローバル フォーラ”. historibersama.com. 2023年4月18日閲覧。 ^ a b c d e f g h 水間 2013, pp. 49–68 ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』116頁。 ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』229頁他。 ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』128頁。 ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』142頁。 ^ 奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』156頁。 ^ 安中、1969年、113-115頁 ^ 増田、1971年、205-206頁。 ^ 畠山清行、p675-676頁。 ^ 『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/『アジア独立への道』田中正明など) ^ 宮元、1973年、375頁) ^ 増田、1971年、200頁。 ^ 首藤、1993年、56頁脚注6 ^ 増田、1971年、201頁、首藤、1993年、38頁。 ^ 増田、同、205-208頁。 ^ 首藤、同、40頁および56頁脚注8。 ^ 首藤、同、37頁および54頁脚注2。 ^ 増田、同、222-224頁、首藤、同、67頁。 ^ 増田、同、224頁、首藤、同、76頁。 ^ Kahin,1952,pp.230-232. ^ 増田、同、233頁、首藤、同、109頁。 ^ 首藤、同、118頁 ^ 首藤、1993年、120頁および126頁脚注23。 ^ インドネシア連邦の傀儡国家群を参照。 ^ 田中正明『アジア独立への道』展転社、1991年7月 ISBN 978-4886560681 ^ 倉沢、同上書、162頁。 ^ ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』展転社、1988年10月 ISBN 978-4886560452 ^ 藤井厳喜「教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章」夕刊フジ 2014年2月26日 ^ 一例として、W.H.Elsbree, Japan's Role in Southeast Asian Nationalist Movements 1940-1945, New York, Russel and Russel, 1953. ^ ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』(後藤乾一訳)鳳出版 、1977年1月 ^ “両陛下、残留日本兵の子孫らとご面会”. 産経新聞社 (2023年6月20日). 2023年6月22日閲覧。 ^ 邦訳は、押川典昭訳、『ゲリラの家族』<プラムディヤ選集1>、めこん、1983年刊、ISBN 4839600163、がある。邦訳書のテキストは、Pramoedya Ananta Toer, Keluarga Gerilya, Pembangunan Djakarta, 1955.
参考文献
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関連項目
日本占領時期のインドネシア インドネシア独立宣言 カリバタ英雄墓地 オランダ領東インド スカルノ モハマッド・ハッタ タン・マラカ
外部リンク
インドネシア連邦の傀儡国家群 - ウェイバックマシン(2006年8月18日アーカイブ分) 『インドネシア独立運動』 - コトバンク 『マディウン事件』 - コトバンク
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インドネシア独立戦争20世紀のアジア1940年代東南アジアの戦争独立戦争インドネシアの戦争オランダの戦争イギリスの戦争第二次世界大戦後のイギリス日本の戦後処理日尼関係独立運動植民主義1945年のインドネシア1946年のインドネシア1947年のインドネシア1948年のインドネシア1949年のインドネシアオランダの植民政策スカルノ 最終更新 2023年7月7日 (金) 01:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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【米国:メディア比較】統計:愛国心とは何か?
https://www.newshonyaku.com/24265/『ギャラップ社(中道)によると、2022年にアメリカ人であることを「極めて」または「とても」誇りに思うアメリカ人成人は65%で、2013年の85%から減少しました。
今年7月4日の独立記念日において、さまざまな分野のライターたちが、アメリカにおける愛国心とは何か、そして他国から何を学ぶべきかについて考察しています。
中道のDeseret Newsのライターは、「愛国心はアメリカ人が団結し、より良い未来に向かう方法を提供する」と述べ、それが人々を「政治的な相違を脇に置き、問題を解決する」「国を守るために立ち上がる」原動力となることを示唆し、ロシアによる「消滅を食い止める」ウクライナの愛国心を例に挙げました。
右傾向のワシントン・エグザミナー紙のライターは、愛国心のモデルとして韓国を挙げ、「アメリカ史の批判的人種理論の視点が示唆するように、被害者意識から歴史を教えるのではなく、善悪の視点を提供することでバランスを重視し、進歩の力と利益を示している」と述べています。
左傾向のポリティコのライターは、「保守派が我々の暴力的で複雑な過去と向き合うことを嫌うのであれば、我々進歩派は、我々も愛するこの場所をどのように祝うべきかと苦闘している」と述べ、「アメリカの 十分に活用されていない市民の遺産 」に焦点を当てることで、「攻撃的な愛国主義から抜け出し、より良く、より公正で美しい、我々全員に開かれた市民生活と帰属のビジョンへの道」を追求することを勧めています。
この中で、当サイトでは、韓国の愛国心に焦点を絞った右派傾向のワシントン・エグザミナーの記事をご紹介いたします。
このオピニオン記事は、共和党員の知事選と下院議員選の元候補者であったケンダル・クオールズ氏によるものです。同氏は、黒人コミュニティにおける保守的価値観の擁護を目的とした組織、テイクチャージMNの創設者兼代表でもあります。
共和党が韓国に愛国心を学べということを述べているのは興味深いですね。
考える材料として読んでください。』『《引用記事 ワシントンエグザミナー》
韓国が教えてくれる愛国心の大切さ
若い世代は、私たちの両親や祖父母ほど愛国心を持っていない。最近の世論調査によると、ここ数十年間で、自国に対する誇りを感じるアメリカ人の割合が減少している。残念なことに、その原因は私たちの子供たちにはなく、むしろ彼らの教育にある。
公立学校や大学での批判的人種理論が徐々に採用されるようになったことが、この減少の主な要因の一つである。長年にわたるこのような教育への支持の高まりは、片寄った教育をもたらす。子供たちにはわが国の数々の罪について教える一方で、その美点はほとんど教えていないというものだ。この誤った教育は、米国市民権テストに合格できない世代を生み出している。最近の全国調査では、45歳以下のアメリカ人のうちわずか19%しか米国市民権テストに合格できないことが判明したが、65歳以上の人では74%が合格できるという結果だった。
私はアメリカの奴隷の子孫であり、ジム・クロウの時代を生きた両親の子として、私は我が国の過去を痛感している。しかし、私たちがどれだけ進歩したかも理解している。残念ながら、この国に対する全体的な見方は教えられておらず、多くの子供たちや孫たちは国に対して恨めしい感情を抱いている。それが愛国心や誇りの低下として現れている。この憤りは、若い国家警備隊の兵士が機密文書をネットに投稿したり、最高裁判所の判決が確定公開される前にリークされて報道されたりするという事態を引き起こすというは危険な前例の増加につながっている。
我が国が岐路に立たされていることは明らかであり、それは私にとっても馴染み深いものである。朝鮮戦争休戦70周年が近づくにつれ、私は米陸軍の若い砲兵将校として、1989年に非武装地帯近くの戦車大隊を支援するため韓国に駐留した時のことを思い出す。共産主義の脅威を打ち負かすために戦っていたアメリカは、1950年に朝鮮戦争に参戦し、3万6574人の兵士がこの地域の平和と韓国とその国民のために究極の犠牲を払った。
この70年間、韓国は繁栄してきた。民族の誇りは依然として高く、勤勉さと家族的価値観に重点を置くことで、韓国は貧困のどん底から世界の舞台でリーダーとして脚光を浴びるまでになった。韓国が経験した成功は国民の誇りであるが、その変革には教育も一役買っている。世界でも有数の教育システムを持つ韓国は、アメリカ史の批判的人種理論的視点が示唆するような被害者意識から歴史を教えるのではなく、善悪の視点を提供することでバランスを重視し、進歩の力と恩恵を示している。
私の家族と私は、誇り高きアメリカ人として7月4日を祝うが、それは歴史の経験に根ざしたものである。私たちの家族の歴史、国の歴史、そして私たちの自由と他国の自由のために支払われた代償。韓国の友人たちも私たちと一緒に祝ってくれることだろう。
(海外ニュース翻訳情報局 樺島万里子 文・翻訳)』
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コミンテルン
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共産主義インターナショナル
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コミンテルンのロゴ
略称 コミンテルン[1][2]
前身 第二インターナショナル
ツィンマーヴァルト左派
後継 コミンフォルム
設立 1919年3月2日[3]
設立者 ウラジーミル・レーニン
解散 1943年5月15日
種類 国際的労働者組織[4]
共産主義政党の国際統一組織[5]
目的 ロシア革命の世界革命への発展[1]
ドイツ革命の成功[1]
マルクス・レーニン主義[1]
貢献地域 Europe (orthographic projection).svg ヨーロッパ[6], Europe-western-countries.svg 西欧諸国[1]
Asia (orthographic projection).svg アジア[1]
Africa (orthographic projection).svg アフリカ[1]
Latin America (orthographic projection).svg ラテンアメリカ[1]
共産主義思想の普及と活動家の育成[1]
会員数
388 (1922年 第4回大会)
主要機関 コミンテルン執行委員会[5]
関連組織 共産主義青年インターナショナル
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政治シリーズ記事からの派生
共産主義
Red star
概念
側面
潮流
国際組織
人物
関連項目
Portal:政治学表話編歴
コミンテルン(ロシア語: Коминтерн、英語: Comintern)は、1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動の指導組織である[2]。
別名は第三インターナショナル[5][6](だいさんインターナショナル)、第三インター[5](だいさんインター)、国際共産党[2][7](こくさいきょうさんとう)、コミンターン[8][9](コムミンターン[9])、共産党インタナショナル[8]。
概要
「コミンテルン」とは正式名称の「共産主義インターナショナル」(ロシア語: Коммунистический Интернационал、カムニスチーチェスキイ・インテルナツィアナール、英語: Communist International)の略称。
1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第7回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した[10]。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。
第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスで開いたツィンマーヴァルト会議がコミンテルンの源流である。十月革命後の1919年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。
当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国革命運動を支援する、という使い分けがなされた。
しかしウラジーミル・レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。
その一方、同じ第二インターナショナルの系譜に属する社会民主主義政党には厳しい姿勢をとりつづけ、1928年夏のコミンテルン第6回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりを強調する「社会ファシズム論」が登場した。
1930年代前半よりドイツで台頭する国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の急伸をまえに、ドイツ共産党が社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党(SPDの略称で知られる中道左派・リベラル政党)との対立にあけくれたことは、ナチ党の権力掌握を許す一因となった。
1935年のコミンテルン第7回大会では反ファシズムを最優先課題として多様な勢力と協調しようとする人民戦線戦術を採択した。スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。独ソ不可侵条約の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。
独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がイギリスやフランス、さらにアメリカ合衆国などとともに連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。
歴史
「コミンテルンの年表」も参照
レーニン時代
「日支闘争計画#レーニンの敗戦革命論」および「革命的祖国敗北主義」も参照設立
「ウラジーミル・レーニン#コミンテルンの創設」も参照
第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が国際主義を放棄して「祖国防衛」を支持したために瓦解した。1914年8月、ドイツ社会民主党の国会議員団は「われわれは危機の瞬間にあって祖国を見捨てるようなことはしない」[11]と声明して軍事公債に賛成投票した。イギリスでは労働党のアーサー・ヘンダーソン、ジョン・ホッジとジョージ・バーンズ、フランスでは社会党のジュール・ゲードとマルセル・サンバが挙国一致内閣に入閣した。
反戦派はスイスのツィンメルワルトで1915年9月に国際会議(ツィンメルワルト会議)を開き、国際主義を復活させようとした。しかしツィンメルワルト会議に集まった社会主義者らも十分に意見が一致したわけではなく、平和主義的な右派と革命的な左派に分かれた。左派の中心となったボリシェヴィキは排外主義者や日和見主義者と絶縁して第三インターナショナルを設立することを主張した[12]。
レーニンは、1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけたのに対抗して、外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンに第三インターナショナル設立の準備を始めるよう指示した[13]。1919年1月に39の党やグループにあてた創立大会への招待状が発表され、同年3月にモスクワで会議が開かれた。54名の代議員のうち、35名が19の組織やグループを代表して議決権を持っていた。国外から参加したのは5名だった。ドイツ共産党を代表して出席したフーゴ・エーバーラインは、明確に組織を代表して参加している代議員はごくわずかで、多くはグループの代表にすぎないことを指摘し、第三インターナショナルの即時創立に反対した[14]。しかしその反対を押し切る形で創立が決議された。
大会は指導機関として「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」執行委員会を設置すること、および執行委員会は5名からなるビューロー(事務局)を選出することを決めた。グリゴリー・ジノヴィエフが初代の議長となった。
21ヶ条の加入条件と急進主義批判
コミンテルンはボリシェヴィキの主導によって創設され、運営された。加盟政党の中で革命を成功させたのはボリシェヴィキだけだったため、その地位は圧倒的なものとなった。一方、ロシア革命(十月革命)の成功は様々な勢力をコミンテルンにひきつけた。第一次世界大戦時に自国政府を支持し、レーニンに厳しく批判された社会民主主義者(ドイツの独立社会民主党やフランス社会党など)が、第二インターナショナルを再建する試みが失敗したこともあってコミンテルンへの加盟を求めてきた。また、ボリシェヴィキに影響された極端に左翼的な潮流も登場した。ドイツ共産党内で議会に対するボイコット戦術や反動的な労働組合からの脱退を主張し、1920年4月に分裂してドイツ共産主義労働者党を創設した勢力が典型例である。
社会民主主義勢力に対しては、ボリシェヴィキはコミンテルンの加入条件を厳格化することで対応しようとした。1920年のコミンテルン第二回大会で採択された21箇条の加入条件には、内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)、党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)、社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)、コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)などが盛り込まれた。このときプロフィンテルンの創設も決定されている。
この加入条件は必然的にヨーロッパの諸党の分裂をもたらした。ドイツでは1920年10月に独立社会民主党が分裂し、その左派とドイツ共産党が合同して同年12月に統一ドイツ共産党を結成した。フランスでは1920年12月に社会党の大会でコミンテルン加盟と共産党への改称が決定され、反対派が新たに社会党をつくった。すでにコミンテルンに加盟済みだったイタリア社会党も1921年1月に分裂し、イタリア共産党が設立された。
急進主義勢力に対しては、第二回大会前にレーニンが『共産主義における「左翼」小児病』を書いて批判した。反動的な議会や労働組合であっても、その中で共産主義に対する大衆的な支持を獲得するために運動すべきだと主張した。
武装蜂起の支援
「共産主義革命」、「暴力革命」、「武装闘争」、および「赤色テロ」も参照
ボリシェヴィキはロシア革命をヨーロッパ革命の導火線と位置づけており、ヨーロッパ革命なしではロシアで国家権力を維持することも難しいと考えていた。そのため、ソヴィエト政府の財政資金も利用して[15]ヨーロッパの共産主義運動を積極的に援助した。
とりわけ重要視されたのがドイツだった。1918年11月に社会民主党政権が成立して以後、1919年のバイエルン・レーテ共和国、1920年のカップ一揆と政治的激動がつづき、勝利が近いと考えられた。
1921年3月のドイツにおける三月行動はコミンテルンが組織的にヨーロッパの革命を援助した最初の例となった[16]。
まず、コミンテルンは統一ドイツ共産党議長パウル・レヴィを辞任に追いこんだ。イタリア社会党に対するコミンテルンの分裂工作に反対したことが理由であった。
そして新たな指導部を「攻勢」すなわち武装闘争へと駆り立てた。クン・ベーラをリーダーとするチームをドイツに派遣し、統一ドイツ共産党を監督した。しかし三月行動は大衆的支持を得られないままあっさりと粉砕された。
1923年のルール占領はドイツの政治危機を呼び起こし、統一ドイツ共産党を復活させた。コミンテルンは武装蜂起の方針を決め、ドイツの党の指導部をモスクワに呼びよせて蜂起の詳細な計画を作成した。しかし同年10月の蜂起は直前に中止が決定され、不発に終わった。連絡ミスで蜂起を開始したハンブルクでも戦闘は数日で終わり、統一ドイツ共産党は非合法化された。
労働者統一戦線
「統一戦線」も参照
ほかのヨーロッパ諸国でもボリシェヴィキが期待したような革命は起こらず、第一次世界大戦後の混沌とした政治状況は安定化へと向かった。コミンテルンは方針転換を余儀なくされた。1921年6月から7月にかけて開かれた第3回コミンテルン世界大会(ロシア語版)は、「攻勢」戦術を否定し、まず労働者階級の多数者を獲得することを強調する戦術テーゼ[17]を採択した。この新しい方向性は、社会民主主義者との共同行動を呼びかける「労働者統一戦線」戦術として同年12月に定式化された[18]。この大会では、コミンテルン執行委員会国際連絡部も創設された。また、同年10月には東方勤労者共産大学も開校した。
スターリン時代第二期
レーニン(左)とスターリン
(ただしこの写真は後に合成と判明した)ニコライ・ブハーリン
1924年レーニンが亡くなる。1925年には世界革命に直結する活動からソ連政府の防衛への変更が示された。この年スターリンは「一国社会主義論」を掲げ、それはニコライ・ブハーリンが彼の1925年4月のパンフレット Can We Build Socialism in One Country in the Absence of the Victory of the West-European Proletariat? (我々は西欧プロレタリアートの勝利なしに一国の社会主義を建設できるか?) で詳しく説明している。スターリンの1926年1月における記事 On the Issues of Leninism (レーニン主義の問題について)の後、それは国家方針としてまとめられた。
ドイツにおけるスパルタクス団蜂起とハンガリー・ソビエト共和国の失敗、さらに例えばファシストの準軍事組織黒シャツ隊がストライキを中止させ、1922年のローマ進軍に続いて直ちに権力を掌握したイタリアのような欧州における革命運動すべての顕著な後退傾向のため世界革命という考え方は退けられた(国際赤色救援会も参照)。1928年までに至るこの時期は「第二期」として知られ、ソ連の「戦時共産主義」から新経済政策「ネップ」への移行を反映している[19]。
第5回コミンテルン大会は1924年6月17日から7月8日にかけてモスクワで開催され、49か国から510名の代表が出席した。ソビエト連邦共産党代表は資本主義は一時的に相対的安定が可能とするスターリンの意見を基にコミンテルンの戦術を作成するがこの過程でコミンテルン内部の左右両派と闘争が行われ、各国共産党を大衆組織としてコミンテルン各支部のボリシェヴィキ化を決定している。このときの決議に従い、1926年には、国際レーニン学校も設立されている。
大会中ジノヴィエフはマルクス主義哲学の学者ルカーチ・ジェルジがクン・ベーラのハンガリー・ソビエト共和国に関与した後、1923年に出版した『歴史と階級意識』(Geschichte und Klassenbewusstsein)とカール・コルシュの 『マルクス主義と哲学』[要出典]を非難した。ジノヴィエフ自身は一国社会主義の問題でスターリンと対立して1926年に解任されたが、その時スターリンはすでにかなりの権力を握っていた。そしてブハーリンが「右翼的偏向」と非難されるようになる1928年までの2年間コミンテルンを指導している。ブルガリアの共産主義指導者ゲオルギ・ディミトロフが1934年にコミンテルンを指導するようになり、その解散まで議長を務めた。
第三期
1928年2月9日から2月25日までモスクワで開催されたコミンテルン執行委員会第9回会合(Plenum)には27か国から92名の代表が参加し、いわゆる「第三期」(Third Period)を開始し、それは1935年まで続けられる予定であった[20]。コミンテルンは資本主義体制が最終的崩壊の段階に入っていること及び全ての共産党の正しい在り方は高度に攻撃的、軍事的、極左(Ultra-left)路線であることといったことを宣言している。特にコミンテルンは全ての穏健な左翼会派を「社会主義ファシスト」と表現して、共産主義者は穏健な左翼会派の破壊のために尽力するよう主張した。1930年以後のドイツにおけるナチの活動拡大により、この姿勢はドイツ社会民主党を主要な敵として扱うドイツ共産党の戦術(社会ファシズム論)を批判していたポーランド人共産主義者で歴史家のアイザック・ドイッチャーなど多くの者と多少の論争となった。
第6回コミンテルン大会は1928年7月17日から9月1日にかけてモスクワで開催され、57か国から532名の代表が出席した。 開会演説はニコライ・ブハーリンが行い、次いでプハーリン、スターリン、モロトフ、テールマンなど28人が幹部に選ばれた[21]。
しかし大会はスターリンが直接に指導し、ブハーリンの「日和見主義的立場」を除き、資本主義戦後発展第三期は資本主義的安定の矛盾を発展させ資本主義的安定をさらに動揺させ、資本主義の一般的危機を激化させるべきとする第三期論を決定した。
「日支闘争計画#コミンテルン1928年テーゼ」も参照共産主義者の帝国主義戦争への反対運動は一般平和主義者の戦争反対運動とは根底が異なり、共産主義者は戦争反対運動をブルジョワ支配階級の絶滅を目的とする階級闘争に必要なものとテーゼに記され、ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論[22]に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった[23]
「革命的祖国敗北主義」および「プロレタリア独裁」も参照
この大会においても植民地の世界における統一戦線の方針が修正されている。太平洋労働組合書記局が創立された1927年、中国国民党は中国の共産主義者を攻撃し(上海クーデター)、そのため植民地の国々における地元ブルジョワジーとの同盟を形成するという方針の見直しにつながった。しかし、大会では中国国民党を一方とし、インドのスワラジ党(Swaraj Party)とエジプトのワフド党を信頼できない同盟ながら敵ではないと考慮して他方とした区別がなされた。大会はインドの共産主義者に地元のブルジョワジーと英国の帝国主義者間の矛盾を利用することを求めた[24]。
第7回コミンテルン世界大会と人民戦線
「en:Seventh World Congress of the Comintern」も参照7回目であり最後の大会は1935年7月25日から8月20日にかけてモスクワで開催され、そこには57か国、65の共産党から510名の代表が出席している。会議はファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定している。スポーツ・宗教などの活動にも浸透することが求められた[25]。
主な報告はディミトロフによってなされ、他の報告はパルミーロ・トリアッティ、ヴィルヘルム・ピーク、ドミトリー・マヌイリスキーによった[26]。大会は公式にファシズムに対する人民戦線を承認した(反ファシズム統一戦線)。この方針の主張は共産党ならばファシズムに反対する全ての会派と人民戦線をなすこと、及び共産党自身が労働者階級を基盤とする会派との統一戦線を形成することを制限しないことであった。コミンテルンのどの国家の部局からもこの方針に対する目立った反対はなく、特にフランスとスペインにおいては人民戦線政府につながるレオン・ブルムの1936年選挙とともに重要な結果となる。
ゲオルギ・ディミトロフ ゲオルギ・ディミトロフ パルミーロ・トリアッティ パルミーロ・トリアッティ ヴィルヘルム・ピーク ヴィルヘルム・ピーク ドミトリー・マヌイリスキー ドミトリー・マヌイリスキー
統一戦線はコミンテルンの根本政策とした決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中華民国を重用することが記されている[27](コミンテルン指令1937年、尾崎秀実#諜報活動、『米国共産党調書』、ヴェノナ文書も参照)。コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。
大粛清とコミンテルン
フリッツ・プラッテン
ホルローギーン・チョイバルサン1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。
スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。
「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。
コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。
ナチス・ドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている[28]。
フリッツ・プラッテン(英語版)は1942年にニャンドマで銃殺され[29]、インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア(英語版))、朝鮮、メキシコ、イラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。
11人のモンゴル人民革命党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。
概して、欧米の民主主義国家の共産党指導者は粛清を免れ、ファシズムや植民地の共産党指導者が粛清された。
レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った[30]。
日本共産党とコミンテルンテーゼ
1922年に日本共産党が承認された(日本共産党はコミンテルン日本支部となる)[31]。
22年テーゼ(草案) 1922年にコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」。日本共産党では君主制廃止をめぐる内部意見の対立から正式な綱領(テーゼ)とはしなかったが、理論的に承認した(1923年)。 27年テーゼ 関東大震災で打撃を受けた日本共産党は1926年に再建し、1927年コミンテルンで採択された「日本問題に関する決議」が活動方針になった。 31年政治テーゼ草案 コミンテルンのゲオルギー・サファロフ(元ジノヴィエフ派、後に粛清)により執筆され、当面する日本革命を「ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命」とした。 32年テーゼ コミンテルンと片山潜、野坂参三、山本懸蔵らの討議を経て、1932年に「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」が採択され、日本共産党の新たな活動方針になった。 1936年 1935年のコミンテルン第7回大会で採択された人民戦線に基づき、野坂参三・山本懸蔵が「日本の共産主義者への手紙」を執筆。だが日本共産党の党組織はすでに崩壊していたため影響力は無に等しかった。
脚注
[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i 日本大百科全書(ニッポニカ) - インターナショナル#第三インターナショナル コトバンク. 2018年10月15日閲覧。 ^ a b c 大辞林 - 第三インターナショナル コトバンク. 2018年10月15日閲覧。 ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1022頁。ISBN 4-06-203994-X。 ^ デジタル大辞泉 - だいさん‐インターナショナル【第三インターナショナル】 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。 ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。 ^ a b 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年10月15日閲覧。 ^ デジタル大辞泉 - こくさい‐きょうさんとう〔‐キヨウサンタウ〕【国際共産党】 コトバンク. 2018年10月15日閲覧。 ^ a b 『新修百科辞典』「だいさんインタナショナル」NDLJP:1234138/1346 ^ a b 『大思想エンサイクロペヂア』25NDLJP:1217507/68 ^ 『コミンテルン資料集 第6巻』村田陽一編訳、大月書店、1983年、548ページ ^ 山本統敏編『マルクス主義革命論史2 第二インターの革命論争』、紀伊國屋書店、1975年、504ページ ^ レーニン『社会主義と戦争』、『レーニン全集』第21巻、大月書店、1957年 ^ 『レーニン全集』第42巻、大月書店、1967年、132頁 ^ 中村丈夫編『マルクス主義革命論史2 第三インターとヨーロッパ革命』、紀伊國屋書店、1975年、94ページ ^ ケヴィン・マクダーマット、ジェレミ・アグニュー『コミンテルン史』、大月書店、1998年、50-51ページ ^ B・ラジッチ/M・M・ドラチコヴィチ『コミンテルンの歴史』、三一書房、1977年、366ページ ^ 「戦術についてのテーゼ」、『コミンテルン資料集』第一巻、大月書店、1978年、421ページ ^ 「労働者統一戦線について、ならびに第二、第二半およびアムステルダム・インタナショナルに所属する労働者、さらにアナルコサンディカリスム的諸組織を支持する労働者にたいする態度についてのテーゼ」、『コミンテルン資料集』第二巻、大月書店、1979年、95ページ ^ Duncan Hallas The Comintern, chapter 5 ^ Duncan Hallas The Comintern, chapter 6; Nicholas N. Kozlov, Eric D. Weitz "Reflections on the Origins of the 'Third Period': Bukharin, the Comintern, and the Political Economy of Weimar Germany" Journal of Contemporary History, Vol. 24, No. 3 (Jul., 1989), pp. 387-410 JSTOR ^ コミンテルン第六回大会開く『東京朝日新聞』昭和3年7月19日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p362 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論(三田村武夫 1950, p.37) ^ 三田村武夫 1950, pp.41-43 ^ M.V.S. Koteswara Rao. Communist Parties and United Front - Experience in Kerala and West Bengal. Hyderabad: Prajasakti Book House, 2003. p. 47-48 ^ 『特高月報』内務省警保局保安課 1935年8月 ^ Institute of Marxism-Leninism of the CPCz CC, Institute of Marxism-Leninism of the CPS CC. An Outline of the History of the CPCz. Prague: Orbis Press Agency, 1980. p. 160 ^ 『世界の戦慄・赤化の陰謀 』東京日日新聞社〔ほか〕、1936年 75-76頁 ^ The Black Book of Communism p. 298-301. ^ Kevin McDermott The Comintern: A History of International Communism from Lenin to Stalin, 1996. p.146 ^ エドワード・ラジンスキー、『スターリン』、1997年 ^ コミンテルンとの関係 どう考える?しんぶん赤旗
関連項目
コミンテルンの年表 コミンフォルム レーニン - レフ・トロツキー - スターリン 国際共産主義運動 - 世界革命論 - 一国社会主義論 - 社会ファシズム論 - 統一戦線 - 人民戦線 第一インターナショナル - 第二インターナショナル - 第二半インターナショナル - 第四インターナショナル - コミンフォルム ノルウェー労働党 インターナショナル (歌) 東方勤労者共産大学(クートヴェ) - Communist University of the National Minorities of the West - モスクワ中山大学 - 国際レーニン学校 軍事・準軍事関連 ハンガリー・ソビエト共和国 ? レーニン・ボーイズ、3月行動 ? ドイツ共産党、エストニア・クーデター未遂事件 ? エストニア共産党、国民革命軍(中国国民党軍)、Amicii URSS(ルーマニア)、スペイン内戦 - 国際旅団 日独防共協定 - 治安維持法 - 特別高等警察 - 片山潜 川村肇 コミンテルン指令1937年 - 尾崎秀実#諜報活動 - 『米国共産党調書』 - ヴェノナ文書 ハルノート
参考文献
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推奨文献
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外部リンク
Comintern Archives (英語) Comintern Archives (ロシア語) Article on the Third International from the Encyclopedia Britannica Workers' Internationals, at Marxist Internet Archive Report from Moscow, 3rd International congress, 1920 by Otto Ruhle Comintern History Archive Marxists Internet Archive The Communist International Journal of the Comintern, Marxists Internet Archive 表話編歴
国際政党組織
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出典検索?: “オーストリア=ハンガリー帝国” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年6月)オーストリア=ハンガリー帝国
Österreichisch-Ungarische Monarchie (ドイツ語)
Osztrák-Magyar Monarchia (ハンガリー語)
← オーストリア帝国 1867年 – 1918年 ↓
オーストリアの国章
(国章)
(オーストリア=ハンガリーの国旗も参照)
国の標語: Indivisibiliter ac inseparabiliter(ラテン語)
分割できず、分かれ難い
国歌: Gott erhalte Franz den Kaiser(ドイツ語)
神よ、皇帝フランツを守り給え
1:02
オーストリアの位置
1913年のオーストリア=ハンガリー帝国の領域
公用語 ドイツ語
(オーストリア・ドイツ語、バイエルン・オーストリア語)
ハンガリー語
言語 チェコ語、ポーランド語、ルテニア語、ルーマニア語、スロヴェニア語、ボスニア語、クロアチア語、セルビア語、イタリア語
宗教 76.6% カトリック
8.9% プロテスタント
8.7% 正教
4.4% ユダヤ教
1.3% イスラム教
(1910年の調査による[1])
首都 ウィーン
ブダペストオーストリア皇帝兼ハンガリー国王 1867年6月8日 - 1916年11月21日 フランツ・ヨーゼフ1世 1916年11月21日 - 1918年11月11日 カール1世 共通閣僚評議会議長 1867年2月7日 - 1867年12月30日 フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(初代) 1918年10月27日 - 1918年11月11日 ルートヴィヒ・フォン・フロトウ(ドイツ語版)(最後) 面積 1910年 676,615km² 人口 1907年 48,592,000人 1910年 51,390,223人 変遷 成立 1867年3月30日 独墺同盟 1879年10月7日 ボスニア・ヘルツェゴビナ併合 1908年10月8日 オーストリア最後通牒 1914年6月28日 セルビア侵攻 1914年7月28日 崩壊 1918年10月31日 通貨 グルデン(1867年 - 1892年) クローネ(1892年 - 1918年) 現在 先代 次代 オーストリア帝国 オーストリア帝国 オーストリア共和国 オーストリア共和国 ハンガリー民主共和国 ハンガリー民主共和国 チェコスロバキア共和国 チェコスロバキア共和国 ポーランド共和国 ポーランド共和国 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国 西ウクライナ人民共和国 西ウクライナ人民共和国 ルーマニア王国 ルーマニア王国 イタリア王国 イタリア王国オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、ドイツ語: Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語: Osztrák-Magyar Monarchia)は、かつて中央ヨーロッパに存在した多民族国家である。ハプスブルク帝国の一つで、ハプスブルク家領の最後の形態である。
概要
ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主が統治した連邦国家であり、国家連合に近い。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に第一次世界大戦に敗北して解体するまで存続した。
前身はオーストリア帝国である。
領土には、オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレージエン・ガリツィア=ロドメリア(ルテニア)・スロバキア・トランシルバニア・バナト・クロアチア・カルニオラ・キュステンラント・スラヴォニア・ブコビナ・ボスニア・ヘルツェゴビナ・イストリア・ダルマティアなど、多くの地域を抱える大国だった。
国号
正式名称はドイツ語で
Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
マジャル語で
A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országai
で、日本語に訳すと「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦[2]」となる。「オーストリア=ハンガリー帝国」以外の慣用的な呼び名としてはオーストリア=ハンガリー二重帝国、オーストリア=ハンガリー君主国などともいう。漢字による表記では墺洪国、墺洪帝国と表記される。
正式なものではないが、オーストリア側を指してツィスライタニエン(ライタ川のこちら側)、ハンガリー王国側を指してトランスライタニエン(ライタ川の向こう側)という呼称も存在した。
なお、「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」は1915年に「オーストリア諸邦(Österreichische Länder)」と改称し、正式名称は「オーストリア諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」となった。当局はその時まで、「オーストリア」の範囲はあくまでハンガリーを含むものであるとする大オーストリア主義的な姿勢を堅持していた[2]。
国旗
「オーストリア=ハンガリーの国旗」、「オーストリアの国旗」、および「ハンガリーの国旗」も参照オーストリア=ハンガリー帝国には共通の国旗は存在しなかったが、ハプスブルク君主国の旗(黒黄旗)が事実上の国旗として用いられた。また、ハンガリーではハンガリーの紋章が付いた赤白緑の三色旗が用いられた。
ハプスブルク君主国の旗 ハプスブルク君主国の旗 ハンガリー王国の国旗 ハンガリー王国の国旗
軍艦旗はオーストリアの旗に紋章を加えたものが用いられた。民間用の商船旗はオーストリアとハンガリーの旗を組み合わせ、それぞれに王冠と紋章が付けられたものが使用された[3]。
軍艦旗 軍艦旗 商船旗 商船旗
歴史
オーストリア帝国の衰勢
1848年革命はヨーロッパ中に波及し、ウィーンでも暴動が起こるなど混乱の中、フェルディナント1世の後を甥の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が継いだ。しかし、すでに帝国は衰退傾向にあった。
1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国は、オスマン帝国との間に戦端を開く(クリミア戦争)。これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れたオーストリアは、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これは神聖同盟の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果オーストリアを盟主とするドイツ連邦が消滅してその威光を失うなど、徐々に国際的地位を低下させていった。
二重帝国の成立この帝国の衰退に希望を抱く人々がいた。帝国内の諸民族である。先にあげたようにオーストリア帝国は、既に数多くの民族を抱える多民族国家であった。しかし支配階級はドイツ人であり、彼らだけが特権的地位を有していた。以前からドイツ人以外の民族の自治獲得・権利獲得の運動はあったが、帝国軍に鎮圧されていた。しかし、衰退傾向にあるこの時期、諸民族は活発に動き出した。そもそも民族運動が活発なのは、支配階級であるドイツ人が国内における人口の過半数を占めていないことも原因にあげられる。ドイツ人は帝国内の総人口の24%にすぎず、諸民族が力を持てばどうにも抑えようがなかった。帝国は改革を余儀なくされたが、改革路線として2つの道があった。
ドイツ人支配をあきらめ、諸民族との平等な関係にもとづく連邦国家とする。 帝国内人口20パーセントを有するマジャル人(ハンガリー人)と友好を結び、ドイツ人とマジャル人で帝国を維持する。
だが、特権的地位を手放したくないドイツ人達の抵抗、諸民族による支配で帝国の様相の劇的変化を恐れる、皇帝をはじめとする支配者の存在などの要因があいまって、後者の方針が採られた。その結果1867年、帝国を「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」(ツィスライタニエン)と「神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」(トランスライタニエン)に二分した。このドイツ人とマジャル人との間の妥協を「アウスグライヒ」という。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」と軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これが「オーストリア=ハンガリー帝国」である。
自治獲得の動きしかし、(いわゆる)オーストリアとハンガリーに分割しても、オーストリアではドイツ人35.6%、ハンガリーではマジャル人48.1%という具合に、ドイツ人とマジャル人はそれぞれの国内で過半数を占めていなかった。そこでハンガリー政府はクロアチア人と妥協して協力を得ることで過半数に達した(ナゴドバ法)。そのような中でハンガリーは国内の「マジャル化」を推し進めた。一方オーストリアでは、新憲法で「民族平等」を謳ったが、ドイツ人の反発とハンガリー政府からの要請があり、ポーランド人と協力して憲法を廃案に追い込み、ポーランド人と妥協することで支配的地位を保とうとした。
その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。まずは工業地帯を握るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家・経営者および金融業者のほか、医者・弁護士やジャーナリストなどの専門職従事者も多いユダヤ人もまた発言力を増した。従来の地位を保持しようとするドイツ人と、新たな権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリー地域でも、マジャル化という同化政策に反して諸民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、プロイセン主導の統一ドイツならびにロシア帝国という2つの大国に挟まれた地域で、小国が分立していては生き残れないことを自覚していたためである。各地域の住民が「独立」するのではなく、あくまでオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。
皇帝一族の不幸
民族問題もさることながら、ハプスブルク家にとってもこの帝国の末期は悲劇の連続だった。まず1863年、ナポレオン3世の誘いに乗って、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンがメキシコ皇帝に即位するも、フランス軍がメキシコ大統領ベニート・フアレスの徹底抗戦によって撤退を余儀なくされ、マクシミリアン皇帝はそのまま見捨てられてしまい二重帝国成立と同じ1867年に銃殺刑に処された。1889年には、皇太子ルドルフがマイヤーリンクで謎の情死事件により落命した(暗殺の疑惑も残る)。皇后エリーザベトはこの事件以来いっそう頻繁に旅行するようになるが、1898年に旅行先のスイスで無政府主義者により暗殺された。皇帝は激しく落胆したが、政務に没頭するようになった。19世紀後半オーストリア=ハンガリーの産業にフランス資本が主役を演じていたのに対し、普仏戦争後ドイツ帝国資本の比重が漸次高まった[4]。1901年、二重帝国における外資総額において、フランス資本が30.3%を占めたのに対し、ドイツ資本は49%にも達したのである[5]。
サラエボ事件
1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が起き、その混乱に乗じてオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合した。ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またムスリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリアへの帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合したオーストリアへの反感があがるのも当然のことだった。その後、2度のバルカン戦争を経て、バルカン半島は「汎ゲルマン主義」と「大セルビア主義」、それに加えて「汎スラヴ主義」が角逐し、個々の民族間でも対立が激化して「ヨーロッパの火薬庫」の様相を深めていった。
1914年6月28日、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともにボスニアの州都サラエヴォを軍の閲兵のために訪れていた。オープンカーでパレードしていたところに、「青年ボスニア(英語版) (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)で民族主義者のテロリスト、プリンチプが、この皇位継承者夫妻を銃撃した。2人は奇しくも結婚記念日のこの日に暗殺された。これを「サラエヴォ事件」といい、ヨーロッパ中に戦乱を告げる狼煙となった。オーストリア軍部はこれを口実にセルビアを討つことを叫んだ。国民は最初は大公暗殺に関しては冷めていたが、貴賤結婚だった大公夫妻の葬儀は簡素に行われ、これが市民の同情を誘い、「セルビア討つべし」の声が高まった。
第一次世界大戦の勃発
オーストリア側は、7月24日期限付きの最後通牒をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、ドイツと三国同盟関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。ロシアと三国協商関係にあったイギリス・フランスも相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発した。
開戦当初、どこの国も3か月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。初戦で小国セルビアに敗北したオーストリア軍は、軍事力の弱さを露呈した。多民族国家ゆえに軍の近代化に遅れを取っており、軍内部で使用される言語さえも統一されていなかった。そのため、翌年からは同盟国のドイツ帝国の支援に依存する状況に陥った。1916年には、68年間帝国に君臨してきた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、国内に動揺が走った。さらに1917年にはアメリカが協商側で参戦し、連合国(協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「民主主義と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアでボリシェビキ革命が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で、帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝カール1世は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。
ハプスブルク帝国崩壊
詳細は「オーストリア革命」を参照
そのような中、マニフェストどおりロシアのボリシェヴィキ政府(レーニン政府)はドイツと単独講和し、ブレスト=リトフスク条約を結んで戦線を離脱した。同盟側が西部戦線で攻勢を強めるのは必至だった。連合国は極秘にオーストリア=ハンガリー帝国と単独講和を結ぼうとしたが、ドイツに発覚して失敗した。オーストリア側から連合国に講和を持ち込むも、フランスがこれを公にして失敗し、ドイツとの間にも溝ができてしまうありさまだった。
そんな中、シベリアでチェコスロヴァキア軍団(チェコ軍団)の活躍があった。その救出目的にシベリア干渉の名目も立ち、連合国にとってチェコスロヴァキア軍団の活躍は目覚しかった。そこでチェコ人指導者トマーシュ・マサリクは、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけ、連合国はマサリクの「チェコスロヴァキア国民会議」を臨時政府として承認した。当初、オーストリア=ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった連合国は、それをあっさり踏み越えた。これが端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。
皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、1918年秋に「国事不関与」を宣言して国外へ亡命した。ここに650年間、中欧に君臨したハプスブルク家の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。しかし、その継承諸国の辿った歴史は、いずれも悲惨なものであった。
ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう[6]。 — イギリス首相ウィンストン・チャーチル
評価
帝国の言語分布(1910年時点)
ドイツ語
ハンガリー(マジャル)語
チェコ語
スロバキア語
ポーランド語
ルテニア(ウクライナ)語
スロベニア語
セルビア・クロアチア語
ルーマニア語
イタリア語普墺戦争に完敗したオーストリア帝国の19世紀後半から20世紀前半にかけての世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」などとあまり良くなく、民族自決理念による各民族の自立は、現実には連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料ともなった。中でも「ポーランド復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たしたことを連合国は大きく宣伝した。
しかし戦後処理にはずさんな点が多くあり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたため、東欧に平和と安定が訪れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、ソビエト連邦やチェコスロバキアと戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも、戦争責任を問われて領土が大幅に縮小されたため不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は、「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた第一次世界大戦以前となんら変わらなかった。またオーストリアでは、基幹産業がなくなり深刻な不況に陥った。更に戦前では国外からの投資が行われ、経済は非常に好調だったがそれがすべてなくなってしまったために多くの混乱がおこった。
やがてドイツでアドルフ・ヒトラーが台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ系人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして第二次世界大戦後、中欧・東欧の諸国の大半はソビエト連邦の衛星国として東西冷戦の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、さらなる混乱が生まれたのである。
ハプスブルク帝国を崩壊させるのはご自由ですが、これは多民族を統治するモデル国家であり、一度こわしたら二度ともとに戻ることはないでしょう。後には混乱が残るだけです。そのことをお忘れなく[6]。 — 19世紀初頭、ウィーンを占領したナポレオンにフランス外相シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが送った手紙
帝国の支配体制の一番のメリットは、この混沌とした地域を一応一つにまとめていたことにある。民族は違えど同じ帝国臣民として、帝国内を行き来し、戦争もともに戦った。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した一つの大国であった。昔から東ローマ帝国、大ハンガリー、モンゴル帝国、オスマン帝国などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立を、緩やかな統合によって成し遂げていた点だけでも帝国の存在意義は十分にあった。
帝国内の各民族の地位については、時代が下るにつれて向上してきていた。諸民族のねばり強い運動や各地域の重要性などもあり、支配階級も譲歩せざるを得なかった。オーストリア・マルクス主義が主張したような、帝国の「民主的連邦制」への改変まではいかなかったが、全ての諸民族に普通選挙権が与えられるなど、それなりの地位を得ることはでき、皇帝への諸民族の信頼も厚かった。(アウスグライヒ)。しかし、その中途半端さが独立への道に進ませたことも事実である。オーストリアの場合は、崩壊の仕方が全くもって最悪であった。第一次世界大戦という長引く戦争で、諸民族の連邦制支持派が衰退して独立派が台頭し、連合国の格好の標的となった。諸外国の介入を受けても引き離されないほどの一体感と統一性を諸民族にもたせることができなかったことが、この帝国の一番の失敗であったと言える。
逆に、諸民族の離脱によって取り残される形となったオーストリアのドイツ系住民にとっては、帝国の崩壊と領土の縮小のみならず、19世紀以来の大ドイツ主義に基づくドイツとの合併までも禁止されたため、自己の民族アイデンティティまでも喪失した。これは後々までオーストリアの政情の不安定さをもたらし、ついには自身もオーストリア出身であるアドルフ・ヒトラーの率いるナチス・ドイツによる併合(アンシュルス)へと至らしめた。十四か条の平和原則の原案を書いたウォルター・リップマンは、「各民族の自治権は確立しても、ハプスブルク帝国を解体してはならない」とウィルソン大統領に進言し、条項草案に帝国の存続を盛り込んだ。結局オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊してしまったが、「これが中欧の政治的均衡を破壊し、ヒトラーへの道を開いた」とリップマンは後々まで嘆いた[6]。
オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊しなかったらよかったのにと心から思う。あれは多民族国家がうまく機能する最上の解決策だった[6]。 — ドイツの歴史学者ゴーロ・マン(ドイツ語版)
地域構成
オーストリア=ハンガリーの版図
赤色の地域がツィスライタニエン、青色の地域がトランスライタニエン、黄色の地域が両者共同統治のボスニア=ヘルツェゴヴィナ
帝国議会において代表される諸王国および諸邦(ツィスライタニエン)1. ボヘミア王国 2. ブコヴィナ公爵領 3. ケルンテン公爵領 4. カルニオラ公国(クライン公爵領) 5. ダルマチア王国(ダルマチア) 6. ガリツィア・ロドメリア王国 7. オーストリア領キュステンラント(ドイツ語版、英語版)(オーストリア沿海州(キュステンラント)) 1861年にゲルツ=グラディスカ伯爵領(諸侯領格)(ドイツ語版、英語版)、イストリア辺境伯領、帝国直属都市トリエステの3つに分割 8. エスターライヒ・ウンター・デア・エンス大公国 9. モラヴィア辺境伯領 10. ザルツブルク公爵領(ドイツ語版、英語版)(ザルツブルク) 11. オーバー・ウント・ニーダー・シュレージエン公爵領(ドイツ語版、英語版)(シュレジエン) 12. シュタイアーマルク公爵領 13. チロル伯爵領(諸侯領格) 14. エスターライヒ・オプ・デア・エンス大公国 15. チロル領フォアアールベルク神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦(トランスライタニエン)
16. ハンガリー王国 17. クロアチア=スラヴォニア王国(クロアチア・スラヴォニア)
共同統治
18. 共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(ボスニア=ヘルツェゴヴィナ)
植民地
天津租界(zh:天津奥租界) ニコバル諸島、ナツナ諸島、アナンバス諸島及びソロモン諸島(計画のみ[7])
文化
詳細は「世紀末ウィーン」を参照
帝国の末期は、文化の終焉期ではなかった。立派な帝立の劇場や美術・音楽などの学校を有し、文化が振興されていた。その上、文化人だけでなく有能な学者も輩出しており、国勢の衰退傾向を思わせない文化・学問の花を咲かせていた。ことに音楽・美術の点では、当時のヨーロッパの中心的存在であった。画家志望だった若きヒトラーがウィーンの帝立美術学校に入学しようとやって来たのもこの時期である。
作曲家
グスタフ・マーラー アントン・ブルックナー ヨハネス・ブラームス - 生まれはドイツのハンブルクだが、活動の拠点はウィーン ヨハン・シュトラウス一家 フーゴー・ヴォルフ エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト アルノルト・シェーンベルク アントニン・ドヴォルザーク フランツ・レハール - ハンガリー在住ドイツ人として生まれ、チェコで学び、バルカン音楽にも精通し、ウィーンで活躍し、最後はベルリンを本拠とし、ナチスの庇護も受けたという、ハプスブルク帝国の申し子のような人物である。 フランツ・リスト
学者
ジークムント・フロイト アルフレッド・アドラー ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン カール・ポパー グレゴール・ヨハン・メンデル カール・ラントシュタイナー エルヴィン・シュレーディンガー ルートヴィヒ・ボルツマン エルンスト・マッハ クルト・ゲーデル ジョン・フォン・ノイマン カール・メンガー ヨーゼフ・シュンペーター
画家
グスタフ・クリムト オスカー・ココシュカ エゴン・シーレ
軍事
[icon]
この節の加筆が望まれています。
詳細は「オーストリア=ハンガリー帝国軍(英語版)」を参照
略年表1867年 - ハンガリーとアウスグライヒ(妥協)。オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。 1869年 - 日墺修好通商航海条約締結、日本との国交が結ばれる。 1873年 - 6月、三帝同盟成立。 1878年 - 6月13日、ベルリン列国会議に参加。ベルリン条約で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を得る。 1879年 - ドイツ帝国と同盟。 1882年 - 2月、三国同盟成立。 1888年 - ドイツとロシア再保障条約。オーストリア、三帝同盟の更新を受けず。 1897年 - 最初の普通選挙による帝国議会選挙。バデーニ言語令によるドイツ系・チェコ系の対立で国政が混乱。 1900年 - 清国で義和団の乱が発生したため、列強国連合として派兵を行う。 1902年 - 清国天津市市域の一部を租界地として獲得。 1907年 - 男子普通選挙法成立。 1908年 - ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言。ドイツ帝国はこれを支持し、ロシアを牽制。 1912年 - 第一次バルカン戦争。この時、セルビア王国の力を抑制すべくオスマン帝国を支援。終戦後はセルビア占領地域のアルバニアの建国を支援。 1914年 6月28日 - オーストリア大公フランツ・フェルディナント夫妻、サラエヴォで暗殺される。 7月5日 - セルビアに対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する。 7月23日 - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付。 7月25日 - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。 7月26日 - イギリス外相エドワード・グレイが危機解決のための会議を提案するも、ドイツ・オーストリアはこれを拒否。 7月28日 - セルビアに宣戦布告。 7月29日 - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。 7月31日 - ドイツがロシアに兵力動員の最後通牒、ロシア回答せず。 8月1日 - ドイツがロシアに宣戦布告した。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツのルクセンブルク侵攻に対して兵力動員。 8月3日 - ドイツがフランスに宣戦布告。 8月4日 - ドイツがベルギーに侵攻、イギリスがドイツに宣戦布告。 1915年 5月23日 - イタリア王国がオーストリアに対して宣戦布告、イソンゾ戦線の開始。 10月 - セルビア全土を占領。 1916年 6月 - ブルシーロフ攻勢でロシア軍に惨敗を喫し、東部戦線が崩壊の危機に陥る。 8月 - ルーマニア王国がオーストリアに対して宣戦布告、トランシルヴァニアの戦いで撃退する。 11月21日 - フランツ・ヨーゼフ1世崩御、カール1世即位。 12月 - ルーマニアの大半を占領、ルーマニア王国を降伏させる。 1917年 1月 - 皇后ツィタの兄であるシクストゥス公子による単独講和工作の初め。 10月 - 膠着したイソンゾ戦線にドイツ軍が参戦、助力によりカポレットの戦いでイタリア王国に勝利を収める。 1918年 3月3日 - ロシア革命政府、同盟軍と単独講和を行い戦争を離脱。 4月 - 帝国内の諸民族による自治要求(ローマ会議)。 6月15日 - イソンゾ戦線で単独攻勢を開始、ピアーヴェ川の戦いでイタリア王国軍に敗北する。 10月 - ブダペスト暴動起こる。チェコスロヴァキア共和国独立を宣言、以後帝国内で独立相次ぐ。 10月24日 - ヴィットリオ・ヴェネトの戦いで敗北。退却中に主力軍が降伏し、主戦力を喪失。 10月27日 - 連合国各国に対し降伏を宣言。 11月3日 - イタリア王国とヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び停戦、降伏。 11月11日 - カール1世、「国事不関与」を宣言してシェーンブルン宮殿を退去。日本との関係
新橋駅に到着したフランツ・フェルディナントを描いた日本の錦絵(楳堂小国政画)1873年(明治6年)6月に岩倉使節団がオーストリア=ハンガリー帝国を訪問しており、その当時のオーストリア各州の地理が、「米欧回覧実記」に記されている[8]。明治22年3月よりビーゲレーベン男爵が特命全権大使として日本に着任し、明治25年まで3年以上勤務した[9]。その後任としてハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が代理公使として着任した(ハインリヒと日本人妻の次男はのちにEU発足のきっかけとなった国際汎ヨーロッパ連合を提唱したリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー)。
1892年(明治25年)、後にサラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺され第一次世界大戦勃発のきっかけとなった皇太子フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが世界一周旅行の際来日した。1913年(大正2年)皇太子はシェーンブルン宮殿に見よう見まねで日本庭園を造営させた。1998年(平成10年)日本から庭師を招き正式に枯山水の庭園が整備された。
1910年(明治44年)、オーストリア=ハンガリー帝国のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐は、日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため1910年11月に交換将校として来日、翌年新潟県上越市において日本で初めて本格的なスキー指導(ただし一本杖を用いたスキー術)をおこなった。さらに1912年には旭川で指導した。
1911年(明治44年)に行われたカール皇子とブルボン=パルマ家のツィタの結婚にたいして明治天皇がフランツ・ヨーゼフ1世に「大祝辞」を発した。
威徳隆盛なる朕の良友に復す。 陛下の鍾愛なる皇甥カール、フランツ、ヨーゼフ親王殿下とジタ、ド、ブルボーン、プランセス、ド、パルム女王殿下と本年十月二十一日結婚の式礼を挙行せられたる旨同月二十六日附の親翰を以て報せられ朕欣然之を領せり。朕は此の慶事に対し陛下と陛下の皇室とともに歓喜を同ふし茲に誠実なる祝詞を呈すると共に成婚両殿下の悠久に幸福を享有せられんことを懇祷す。此の機に際し朕は陛下に対し至高の敬意と不渝(「不変」の意)の友情とを致す。 明治四十四年十二月七日 東京宮城に於いて 陛下の良友 睦仁(原文は旧字全カタカナ文で句読点なし)その他
2022年、ウクライナ政府は、ハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相がオーストリア=ハンガリー帝国時代の地図(ウクライナ西部が帝国領となっている)をあしらったマフラーを公の場で着用していたことに抗議、謝罪を要求した[10]。
脚注
[脚注の使い方]^ Geographischer Atlas zur Vaterlandskunde, 1911, Tabelle 3. ^ a b 阿南 2015, p. 68. ^ この旗を国旗とするのはミスリード ^ Eva Priester, Kurze Geschichte Österreichs: Aufstieg und Untergang des Habsburgerreiches, Globus-Verlag, 1949, SS.490-491. ^ Jurij Křížek, Die Frage des Finanzkapitals in der Österreichisch-Ungarischen Monarchie 1900-1918, Akademie der Sozialistischen Republik Rumänien, 1965, Tabelle 17. ^ a b c d 塚本 1992, p.403 ^ 大井知範、「1860年代初頭のオーストリアとプロイセンにおける東アジア進出構想-ヴュラーシュトルフとヴェルナーの東アジア政策構想を中心として-」『政治学研究論集』 2009年 29巻 p.1-22, 明治大学大学院 ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、358~410頁 ^ 墺地利洪牙利特命全権公使バロン、ド、ビーゲレーベン叙勲ノ件 明治25年06月30日 国立公文書館デジタルアーカイブ ^ “ウクライナ、ハンガリー首相に謝罪要求 西部地域の自国領扱いで” (2022年11月24日). 2022年11月25日閲覧。
参考文献
塚本哲也『エリザベート:ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋、1992年。ISBN 4-16-346330-5。 大津留厚『ハプスブルクの実:多文化共存を目指して』中央公論社、1995年、ISBN 4-12-101223-2 百瀬宏ほか『東欧』自由国民社〈国際情勢ベーシックシリーズ〉、2001年、ISBN 4-426-13101-4 中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社、2001年、ISBN 4-10-149822-9 阿南大「ハプスブルク君主国における「中欧」地域概念の形成史(1648-1918) : 複合国家像と国制改革案における「二元的二元主義」の刻印」『東洋学園大学紀要』23号、東洋学園大学、2015年3月15日、55-69頁、NAID 110009911504。 明治・大正初期日本及び墺太利=洪牙利二重帝国下ハンガリーの関係史 LINK
関連項目
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カテゴリ:オーストリア=ハンガリー帝国かつて存在したヨーロッパの君主国クロアチアの歴史セルビアの歴史ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史ルーマニアの歴史ポーランドの歴史 (1795–1918)かつてバルカンに存在した国家かつてポーランドに存在した国家かつてウクライナに存在した国家かつて存在した帝国19世紀のヨーロッパ20世紀のハンガリー20世紀のオーストリア連邦制国家 最終更新 2023年6月22日 (木) 05:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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2008年の四川省の地震災害出動のさい、中共軍の空挺部隊が500人、降下したが、…。
https://st2019.site/?p=21242『Daniel Fu 記者による2023-6-23記事「PLA Airborne Capabilities and Paratrooper Doctrine for Taiwan」。
2008年の四川省の地震災害出動のさい、中共軍の空挺部隊が500人、降下したが、ドロップゾーン内に降りられたのはそのうちのたった15人でしかなかった。
いま、中共軍の重輸送機である「輸-20」は、すくなくも31機、運用されているはず。
これに、ロシア製の「イリューシン76」が、20機前後、中共軍にはあるはず。それらとは別に、中型の軍用輸送機が、55機くらい使えるはず。30機の「輸-8」と、すくなくも25機の「輸-9」が。
2021年に元海軍大学校教官のライル・ゴールドスタインは、中共軍は固定翼輸送機とヘリコプターを総動員することで、台湾に第一波で5万人を空輸できると書いた。初日の24時間では10万人を空輸可能だろう、とも。
2022年2月、中共軍には「輸-12」小型輸送機が加わった。古い「輸-5」型を更新する機材で、特殊部隊の潜入作戦に使える。すでに、台湾空軍のレーダー反応を試すテストまでしている。
「輸-20U」の量産も始まったという兆候がある。これは「輸-20」を空中給油機に改造したものだ。
また中共軍は、無人機で空挺部隊のために燃弾補給する演習もしている。前の中共軍空挺軍の指揮官であった劉発慶(リュー・ファキン)中将が、軍政的な手腕は特にないのに、2018-10に中共軍の装備局副長官に抜擢されたのは、台湾占領作戦を真剣に考えているからだろう。
中共軍の『戦役学』の教科書には、空挺戦力を開戦劈頭の奇襲に使うことが強調されている。その目的は台湾の政治指導者の殺害、空港の占領、指揮統制の破壊、弾薬貯蔵所の破壊だという。
※露軍のエリート空挺部隊がウクライナ攻撃の緒戦で失敗したことばかりである。同じ教科書によれば、その次の段階では、橋頭堡の確保のために、空挺部隊は活動する。
中共軍の教科書は、空挺降下作戦は、夜間か、荒れ模様の天候下でやりなさいと言っている。
2021年には「雷神突撃隊」という特殊降下部隊がCCTVで紹介された。高々度から自由降下して、高価値目標を確保するという。
台湾北部の桃園国際空港と、新竹空軍基地に対しては、中共軍は、ヘリボーンを実行するつもりである。
宜蘭、花蓮、台東の各飛行場に対しては、「輸-20」「輸-9」を飛ばして、パラシュート降下で占領する。
花蓮にある佳山航空基地は戦略的に重要な施設だ。そこを占領すれば、台湾政府首脳の退路を断つこともできるという。中共軍は自信満々で、台湾国内に空挺堡を確保するのには30分で足りるなどとほざいている。
2018年に奥地砂漠で降下訓練したときは、横風のためだいぶ、流されたようである。
何にしても、彼らの課題は、「政治将校」の同意がないと部隊指揮官がイニシアチブを発揮できないこと。それで空挺作戦というのは、チト無理だろう。』