カテゴリー: 世界の歴史、関連
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【ABCD包囲網とは】簡単にわかりやすく解説!!原因や影響・その後・なぜオランダ?
https://nihonsi-jiten.com/abcd-encirclement/



『第二次世界大戦の直前、東南アジアへの進出を目論んでいた日本は、それを阻止しようとしたアメリカやイギリスをはじめとする国々から、大規模な経済制裁を受け始めました。
日本の軍部はこうした状況を「ABCD包囲網」と呼び、国内の危機感を煽っていきます。
今回は、『ABCD包囲網』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次 [閉じる]
1 ABCD包囲網とは? 2 ABCD包囲網が行われた背景や原因 ①1930年代の日本の中国進出 ②アメリカの対日政策 ③対日政策の強化へ 3 ABCD包囲網の内容詳細 ①「ABCD包囲網」という呼称 ②ABCD包囲網の実態 (1)通商航海条約の破棄 (2)日本の資産凍結と石油の全面禁輸 4 ABCD包囲網の影響 5 まとめABCD包囲網とは?
日本は1930年代後半、来たる対米開戦に向けて石油を確保するため、東南アジアへの進出を目論んでいました。
しかし、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China ※初めは、「国民党」。国共合作後は、「国民党+共産党」)、オランダ(Dutch)の4カ国はこれを阻止するため、日本に対して経済制裁を行いました。この状況を「ABCD包囲網」と呼びます。
「ABCD包囲網」という言葉は、当時の東アジアの国際状況を的確に表す言葉ではなく、日本側が国民の危機感を煽るために造った言葉です。
実際、新聞や雑誌などを通して、この言葉は国内に広く流布し、総力戦体制を整える上で重要な役割を果たしました。
ABCD包囲網が行われた背景や原因
(日本の中国進出「柳条湖事件」 出典:Wikipedia)
①1930年代の日本の中国進出ABCD包囲網が敷かれた背景には、1930年代の日本の中国進出があります。
まず、日本は1931年9月に起こった柳条湖事件をきっかけに、中国東北部の満州を侵略し、そこに日本の傀儡(かいらい)国家である満州国を建国します。
これがのちに「満州事変」と呼ばれる一連の出来事です。
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こうした傀儡国家樹立は国際社会の反発を招きました。
国際連盟は中国の提訴により、リットン調査団を派遣し、満州事変の真相が日本の謀略であることを突き止めます。
そのうえで、日本に対して満州からの撤退を要求しますが、日本はそれを拒否し、国際連盟を脱退。これにより、日本は国際的に孤立してしまいます。
そして、1937年7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発します。
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日本は当初、中国軍に一撃を加えれば、すぐに降伏すると考えていましたが、中国軍の徹底抗戦により日中戦争は長期化し、日本は物資不足に陥ります。
特に、軍事物資である石油、鉄、ゴムを安定的に確保することが重要な課題となっていきます。
②アメリカの対日政策
アメリカは満州事変以降の日本の中国進出を問題視していました。
日中戦争が長期化し、中国におけるアメリカの権益にも害が及ぶようになると、日本に抗議するため、1939年に日米通商航海条約の破棄を通告しました。
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この条約は翌年1月に失効するもので、本来であれば条約を改定すべきなのですが、アメリカはこの条約改定を盾にして、日本の中国進出を止めようとしました。
ところが、日本側がこれを拒否したため、日米通商航海条約は1940年1月に失効し、日米間は無条約状態になってしまいます。
1940年夏にドイツが電撃作戦を決行して、フランスとオランダを占領すると、東南アジアにおけるフランスとオランダの植民地(フランス領インドシナとオランダ領東インド)は宗主国を失うことになりました。
日本はこれをチャンスととらえて、同年9月に北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐しました。
アメリカはこうした日本の東南アジア進出を止めるため、1941年1月にワシントンで米英軍事参謀会議、さらに同年4月にシンガポールで米英蘭連合作戦会議(ABD会議)を開催し、対日政策を討議して、防衛兵力の増派を決定しました。
これがABCD包囲網の原型となります。
③対日政策の強化へ
ところが、日本は東南アジア進出を思いとどまるどころか、1941年7月に南部仏印に進駐します。
こうしてオランダ領東インドへの進出も視野に入れるようになります。
これにより、各国の対日政策はより厳しいものになっていきます。
ABCD包囲網の内容詳細
①「ABCD包囲網」という呼称
ABCD包囲網とは、東南アジアへの進出を目論んでいた日本に対して、アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国が1941年から経済制裁を行った状況を指します。
ABCDはAmerica(アメリカ)、Britain(イギリス)、China(中国)、Dutch(オランダ)の頭文字を取ったもので、「ABCD包囲陣」や「ABCDライン」という表現も使われました。
「ABCD」というまとめ方は、当時の日本側の見方によるものです。
そうした見方の根底には、これら4カ国(あるいはソ連も加えて5カ国)が日本に対抗して軍事同盟を作ろうとしているのではないかという憶測がありました。
ABCD包囲網という名称は、国民に対して対外危機をアピールするために造られたものです。
「外国に包囲されている」という強迫観念を国民に植え付けることで、国民の結束を強める意図がありました。
②ABCD包囲網の実態
ABCD包囲網は、主に通商航海条約の破棄、日本の資産凍結、石油の全面禁輸という形で現れました。
(1)通商航海条約の破棄
1940年1月に日米通商航海条約が破棄されたのに続き、1941年7月には日英通商航海条約が破棄されました。
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当時、フランスとオランダはすでにドイツに占領されていたため、この二つの条約破棄により、日本は連合国側と無条約状態になってしまいます。
こうして日本は日独伊三国同盟を頼りにするしかない状況に追い込まれます。
(2)日本の資産凍結と石油の全面禁輸
当時の新聞によれば、ABCD包囲網は1941年7月に完成したととらえられています。
これは、日英通商航海条約の破棄とともに、アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国が自国内の日本の資産を凍結した時期に当たります。
なお、ここで言う「オランダ」は、ドイツ占領下のオランダ本国ではなく、オランダ領東インド(※ 今の、インドネシア)を指します。
この資産凍結により、日本はこれら4カ国との貿易に制限をかけられることになります。
また、翌8月にはアメリカが日本に対して、石油の全面禁輸を実施。軍事物資であった石油を調達できなくなったことは、日本にとって大きな痛手となりました。これにより、日本政府はもはや対米開戦を避けられないと考えるようになります。
こうして同年12月8日に、日本はハワイの真珠湾にあった米軍基地を攻撃するとともに、アメリカに宣戦布告し、アジア・太平洋戦争に突入していきます。
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ABCD包囲網の影響
ABCD包囲網、ABCD包囲陣、ABCDラインといった言葉は、1941年7月以降、軍部の指導を受けた新聞や雑誌で頻繁に使われるようになっていきます。
例えば、当時の朝日新聞では、1941年8月7月29日~11日にかけて、「対日包囲陣とわが臨戦態勢」という全11回の連載が載り、さらに8月16日~21日にかけては、「ABCD包囲陣」という全6回の連載が載りました。
こうして国民は連日「ABCD包囲網」やそれに類する言葉を目にするようになります。
こうした記事の主な論調としては、ABCD包囲網がアメリカの陰謀であり、対日政策としては完全に的外れであるという強気なものがほとんどでした。
また、ABCD包囲網の裏では、アメリカを中心に、ソ連も巻き込んだ大規模な軍事同盟が結ばれようとしているのではないかという憶測を書いた記事もありました。
このように、ABCD包囲網という言葉は、アメリカの陰謀説を国民に信じ込ませ、対外危機を煽ることで、総力戦体制へと国民を駆り立てることになりました。
まとめ
✔ 日本は1930年代後半、来たる日米開戦に備えて石油を確保するため、東南アジアへの進出を目論んでいた。
✔ アメリカ、イギリス、中国、オランダの4カ国は、これを阻止するために、日本に対して経済制裁を始めた。
✔ 日本はこの状況を「ABCD包囲網」と呼んだ。
✔ ABCDは経済制裁を行った4カ国の頭文字を取ったものである。
✔ 「ABCD包囲網」は、日本の軍部が国民の危機感を煽るために造った言葉である。
✔ 新聞や雑誌などを通して、この言葉は国内に広く流布し、総力戦体制を整える上で重要な役割を果たした。』
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石油利権は誰の手に…混迷を極める「中東」国家間の争い①
https://gentosha-go.com/articles/-/17810





『かつては「赤線協定」で石油利権が守られていたが…
「赤線協定」という、石油業界では有名な協定があった。
OPEC創設に先立つこと約30年、「トルコ石油」(のちの「イラク石油」)株主が長年の協議を経て1928年7月31日に契約調印に至った際、出資者間で合意した一種のカルテル機能を持った協定だ。赤線で囲まれた旧オスマン帝国の領土内においては、全社が共同で行うことを除いて出資各社が単独で石油利権を獲得することを禁じたものである。
「トルコ石油」創設の中心人物であり、「ミスター5%」と呼ばれたアルメニアの石油業者カルースト・グルベンキアンが中東の地図を広げ、クウェートとエジプトを除く旧オスマン帝国の領土はこの範囲だ、と赤線で囲ったことから「赤線協定」の名前がついたといわれている(図表1)。「自分は、オスマン帝国の時代に首都コンスタンチノープルで生まれた。だから、どこが旧オスマン帝国の版図なのか知っている」というのだった。
[図表1]「赤線協定」の範囲
出所:Wikipedia(一部加工処理)すでに石油が発見されていたペルシャ(カジャール朝イラン)の西に広がるメソポタミア地域(現在のイラク)の石油利権を獲得し、独占的に開発・生産することを目的に設立された「トルコ石油」の親会社5社とは、「アングロ・ペルシャ(現在のBP)」や「ロイヤル・ダッチ・シェル」、「フランス石油(現在のトタール)」、「スタンダード(現在のエクソンモービル)がリードするアメリカ石油連合」の4社と、「ミスター5%」のグルベンキアンの会社だった。グルベンキアンを除けば、すべて現代のスーパーメジャー(国際石油資本)に変貌した石油会社だ。
それでは最盛期と第一次世界大戦が始まった1914年当時のオスマン帝国の領土はどうだったのか、以下の図表2および図表3を見てみよう。
[図表2]オスマン帝国の最盛期の領土
出所:『 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』、池内恵、新潮選書、2016年5月[図表3]オスマン帝国の第一次世界大戦が始まった当時の領土
出所:『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』、池内恵、新潮選書、2016年5月これらの図で明らかなように、現在のサウジアラビア(以下、サウジ)に相当する地域では、ペルシャ湾と紅海の沿岸部以外にオスマン帝国の支配は及んでいなかった。つまり最盛期でも、オスマン帝国の支配が及んでいない内陸部があったのだ。
広大な砂漠が広がるサウジの内陸部では、現在のサウジ建国の父であるアブドルアジーズ・ビン・アブドッラハマーン・アルファイサル・アールサウド(以下、イブン・サウド)が他の部族を次々と征服し、政略結婚を繰り返し、着々とサウド王国の版図を拡大しているところだった。このころ、サウジに石油があるという情報はまったくなかった。
ドイツと同盟を結んで第一次世界大戦を戦ったオスマン帝国は、折から戦略商品として重要視され始めた石油を大量に有すると信じられていたメソポタミアを版図に抱えていた。
連合国側のイギリス・フランス・ロシアの3カ国は1916年に、第一次世界大戦に勝利したあと、オスマン帝国の領土をどのように分け合うかという協議を秘密裏に行い、有名な「サイクス=ピコ協定」を締結していた。秘密協定だったが、1917年の革命によりロシアが戦線から離脱し、ボリシェヴィキ政権が同協定の存在を明らかにしたため世に知られることとなった。
欧米列強が「国境線」を勝手に画定…混迷の一途を辿る
終戦後の1920年、戦後処理のため連合国はオスマン帝国と「セーブル条約」を結んだ。だが、帝国を実質的に解体する内容だったため、トルコ民族のナショナリズムを刺激、ケマル・アタテュルクが先頭に立って独立戦争を起こし、トルコ領土を列強の分割から守ったのだった。「セーブル条約」は破棄され、独立したトルコ共和国は1923年、改めて「ローザンヌ条約」を締結した。
「サイクス=ピコ協定」がそのまま実行に移されたわけではないが、イラクからパレスチナに広がる「肥沃な三日月地帯」の「国境線」は、このような過程を経て、欧州列強が自分たちの利害調整の結果として勝手に画定したのだ。
「百年の呪縛」という言葉は、東京大学先端科学技術センターの池内恵准教授の名著『サイクス=ピコ協定百年の呪縛』(新潮選書、2016年5月)により広まった。100年前の第一次世界大戦の戦後処理が、いくつもの矛盾を放置したままだったことが今日の混迷の根底にあるのは事実だ。
だから、中東情勢が「サイクス=ピコ協定」を締結した100年前の事情に似ている、いや中東は今、「百年の呪縛」に囚われているのだ、との認識もけっして間違いではない。
この話は次回に続く。』
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赤線協定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%B7%9A%E5%8D%94%E5%AE%9A※ 画像、なし。
『赤線協定(あかせんきょうてい、Red Line Agreement)は、1928年7月31日に、当時のトルコ石油会社(the Turkish Petroleum Company, TPC:後のイラク石油会社 the Iraq Petroleum Company, IPC)の出資者間に結ばれた協定。この協定の目的は、TPC の企業体制を整えることにあり、すべての出資者に対して、旧オスマン帝国領において独自に石油権益を求めることを禁じた「自粛条項」を含んでいた。この協定によって、石油の独占ないしカルテル体制が築かれ、広い領域にわたって極めて大きな影響力が及ぶことになった。このカルテル体制は、1960年に結成された石油輸出国機構 (OPEC) によって成立した新たなカルテル体制に、30年以上も先んじていた。』
『経緯
伝えられるところによれば、1928年のある会合で、アルメニア人の実業家で慈善活動家でもあったカルースト・グルベンキアンが中東の地図に赤線を引き、「自粛条項」が効力をもつべき範囲を示したのだという[1]。
その上でグルベンキアンは、この範囲が自分の知る1914年時点でのオスマン帝国の領域だと述べた。
グルベンキアンはさらに言葉を継いで、自分は帝国に生まれ育ったのだから、当然それを知っているのだと言った。他の出資者たちは、その線を注意深く見た上で、これに異を唱えなかった。これは事前にそのような領域の設定が予想されていたからであった。(ただし、赤線を引いたのはグルベンキアンではなく、フランスの代表者だったとする別説もある。)
グルベンキアン以外の出資者は、今日のスーパーメジャー (supermajors) の前身企業であった。「赤線」の内側には、オスマン帝国の中東における領土が、アラビア半島やトルコも含めて入れられていたが、クウェートは除外されていた。クウェートが除外されたのは、この地域をイギリスのために残しておくことを意味していた。
後年、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーのウォルター・C・ティーグル (Walter C. Teagle) は、この協定は「ひどく悪い一手」だったと述べた[2]。
いずれにせよ、この協定は、TPCを継承した後継企業イラク石油 (Iraq Petroleum Company, IPC) の事業領域を明確化した。IPCの元従業員で、後に著述家となったスティーヴン・ヘムズリー・ロングリッグ (Stephen Hemsley Longrigg) は、「間違いだらけのカルテルの悲しむべき事例であるとか、国際協力と公正な分配についての啓発的事例である、などと様々に評価されるこの赤線協定は、20年間にわたってこの方面の体制を維持し、中東の大部分における石油開発の様態や速度をほとんど決定づけた」と記している[3]。
アラビアン・アメリカン・オイル(アラムコ)やバーレーン石油会社 (Bahrain Petroleum Company, BAPCO) がそれぞれ支配的地位を占めたサウジアラビアとバーレーンを別にすれば、IPCはこの時期の赤線内における石油開発事業を独占していた。
アメリカ合衆国の石油会社であったスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージとソコニー・バキューム社はIPCに出資しており、赤線協定に縛られていた。
両社に対して、サウジアラビアの石油開発に絡んで、アラムコから提携話が持ちかけられた際、他のIPC出資企業は協定を盾にして提携を認めなかった。
やがて、米国資本の各社は、第二次世界大戦の勃発によって赤線協定は無効になったと主張したが、グルベンキアンとの法的交渉はその後も延々と続けられた[4]。
結局、この一件は法廷外で和解が成立し、米国資本各社はアラムコにも資本参加した [5]。以降、赤線協定は死文書化したが、IPCは事業を継続した。 』
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民主主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9





『民主主義(みんしゅしゅぎ、英: democracy、デモクラシー)または民主制(みんしゅせい)とは、人民が権力を握り、みずから行使する政治思想や政治体制のこと[2]。
古代ではアテナイの民主政が有名であり、近代では市民革命により一般化した政治の形態・原理・運動・思想で[3][4]、民主主義に基づく社会は「市民社会」、「ブルジョア社会」、「近代社会」などと呼ばれる[5][6][7]。対義語は神権政治、貴族政治、寡頭制、独裁制、専制政治、全体主義、権威主義など[8]。 』
『デモクラシー
「デモクラシー」(democracy)の語源は古代ギリシア語の δημοκρατία(dēmokratía、デーモクラティアー)で、「人民・民衆・大衆」などを意味する δῆμος(古代ギリシア語ラテン翻字: dêmos、デーモス)と、「権力・支配」などを意味する κράτος(古代ギリシア語ラテン翻字: kratos、クラトス)を組み合わせたもので、「人民権力」「民衆支配」、「国民主権」などの意味である [9]。
この用語は、同様に「優れた人」を意味する ἄριστος(古代ギリシア語ラテン翻字: aristos、アリストス)と κράτος を組み合わせた ἀριστοκρατία(古代ギリシア語ラテン翻字: aristokratía、アリストクラティア。優れた人による権力・支配。貴族制や寡頭制などと訳される)との対比で使用され、権力者や支配者が構成員の一部であるか全員であるかを対比した用語である。
古代ギリシアの衰退以降は、「デモクラシー」の語は衆愚政治の意味で使われるようになった。古代ローマでは「デモクラシー」の語は使用されず、王政を廃止し、元老院と市民集会が主権を持つ体制は「共和制」と呼ばれた。
近代の政治思想上で初めて明確にデモクラシー要求を行ったのは、清教徒革命でのレヴェラーズ(Levellers、平等派、水平派)であった[10]。
近代の啓蒙主義以降は、「デモクラシー主義」は自由主義思想の用語として使われるようになった(自由民主制主義)。更にフランス革命後は君主制・貴族制・神政政治などとの対比で、20世紀以降は全体主義との対比でも使用される事が増えた。なお政治学では、非民主制(の政体)の総称は「権威主義制(権威主義制政体)」と呼ばれる。
日本語で「デモクラシー」は通常、主に政体を指す場合は「民主政」、主に制度を指す場合は「民主制」、主に思想・理念・運動を指す場合は「民主主義」などと訳し分けられている。なお政治学では、特に思想・理念・運動を明確に指すために「デモクラティズム」(英: democratism、民主主義(思想))が使用される場合もある。
なお、現代ギリシャ語ではδημοκρατία(ディモクラティア)は「民主主義」を表すと同時に「共和国(共和制)」を表す語でもあり、国名の「~共和国」と言う場合にもδημοκρατίαが用いられる。 』
『主義
「主義」という漢語は、伝統的な中国語の語義によれば「主ノ義」すなわち君主の事であり書経や左伝に見られる用法である。これをdemocracyやrepublicに対置させる最初期のものはウィリアム・マーティン(丁韙良)万国公法(1863年または64年)であり、マーティンは a democratic republic を「民主之国」と訳した[11]。 しかしこの漢訳は、中国や日本でその後しばらく見られるようになる democracy と republic の概念に対する理解、あるいはその訳述に対する混乱の最初期の現れであった。
マーティンより以前、イギリスのロバート・モリソン(馬礼遜)の「華英字典」(1822年)は democracy を「既不可無人統率亦不可多人乱管」(合意することができず、人が多くカオスである)という文脈で紹介し、ヘンリー・メドハースト(麥都思)の「英華字典」(1847年)はやや踏み込み「衆人的国統、衆人的治理、多人乱管、少民弄権」(衆人の国制、衆人による統治理論、人が多く道理が乱れていることをさすことがあり、少数の愚かな者が高権を弄ぶさまをさすことがある)と解説する。
さらにドイツのロブシャイド(羅存徳)「英華字典」(1866年)は「民政、衆人管轄、百姓弄権」(民の政治、多くの人が道理を通そうとしたり批判したりする、多くの名のある者が高権を弄ぶ)と解説していた。
19世紀後半の漢語圏の理解はこの点で一つに定まっておらず、陳力衛によれば Democracy は「民(たみ)が主」という語義と「民衆の主(ぬし、すなわち民選大統領)」という語義が混在していたのである。
一方で日本では democracy および republic に対しては当初はシンプルで区別なく対処しており、1862年に堀達之助が作成した英和対訳袖珍辞書では democracy および republic いずれにも「共和政治」の邦訳を充てていた。これが万国公法の渡来とその強力な受容により「民主」なる語の併用と混用の時代を迎えることとなる。 』
※ 下記にあるとおり、歴史上さまざまな「勢力」が、自己の統治の「正統性」を主張するために、あるいは「学者」が真剣に「あるべき統治の姿」を導き出すために、「民主主義」を唱え、研究した…。
『民主主義の種類
民主主義の代表的な種類・分類には以下があるが、その分類や呼称は時代・立場・観点などにもよって異り、多くの議論が存在している。
直接民主主義
スイス・グラールス州の州民集会。2014年。
詳細は「直接民主主義」および「#ルソー」を参照直接民主主義は、集団の構成員による意思が集団の意思決定に、より直接的に反映されるべきと考える。直接民主主義の究極の形態は、構成員が直接的に集合し議論して決定する形態であり、高い正統性が得られる反面、特に大規模な集団では物理的な制約や、構成員に高い知見や負担が必要となる。また議員など代表者を選出する形態でも有権者の選択が重視され、議員は信任されたのではなく有権者の意思を委任された存在であり、有権者の意思に反する場合はリコールや再選挙の対象となりうる。
古代アテナイや古代ローマでは民会が実施された。現代ではイニシアチブ(国民発案、住民発案など)、レファレンダム(国民投票、住民投票など)、リコール(罷免)が直接民主主義に基づく制度とされ、都市国家の伝統を受け継ぐスイスやアメリカ合衆国のタウンミーティングなどでは構成員の参加による自治が重視されている。
間接民主主義
2007年フランス大統領選挙で投票する女性
詳細は「間接民主主義」、「#代表制原理」、および「#代表制」を参照間接民主主義(代表民主主義、代議制民主主義)は、主権者である集団の構成員が、自分の代表者(議員、大統領など)を選出し、実際の意思決定を任せる方法・制度である。主権者による意思決定は間接的となるが、知識や意識が高く政治的活動が可能な時間や費用に耐えられる人物を選出する事が可能となる。選挙制度にもより、議員の位置づけ(支持者や選挙区の代表か、全体の代表か)、選挙の正当性(投票価値の平等性、区割りなどの適正性、投票集計の検証性など)、代表者(達)による決定の正当性(主権者の意思(世論、民意)が反映されているか)などが常に議論となる。
自由民主主義
詳細は「自由民主主義」および「ブルジョワ民主主義」を参照
自由民主主義(自由主義的民主主義、立憲民主主義)は、自由主義による民主主義。人間は理性を持ち判断が可能であり、自由権や私的所有権や参政権などの基本的人権は自然権であるとして、立憲主義による権力の制限、権力分立による権力の区別分離と抑制均衡を重視する。古典的には、選出された議員は全員の代表であり、理性に従い議論と交渉を行い決定する自由を持つと考える。
宗教民主主義
宗教における民主主義。キリスト教民主主義、会衆制、仏教民主主義、イスラム民主主義など。
社会主義
社会主義における民主主義には、フェビアン協会等による社会民主主義の潮流、民主社会主義、マルクス・レーニン主義(いわゆる共産主義)によるプロレタリア民主主義、人民民主主義、新民主主義などがある。
ジェファーソン流民主主義
詳細は「ジェファーソン流民主主義」を参照
アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソン等による民主主義。共和制、自立を重視し、エリート主義に反対し、政党制と弱い連邦制(小さな政府)を主張した。
ジャクソン流民主主義
詳細は「ジャクソン流民主主義」を参照
アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソン等による民主主義。選挙権を土地所有者から全白人男性に拡大し、猟官制や領土拡張を進めた。
草の根民主主義詳細は「草の根民主主義」を参照
市民運動や住民運動など一般民衆による民主主義。ジェファーソン流民主主義を源泉とし、フランクリン・ルーズベルトが提唱した[13]。
戦う民主主義
詳細は「戦う民主主義」を参照
第二次世界大戦後のドイツ等、自由を否定する自由や権利までは認めない民主主義。 』
『歴史(※ 省略する)』
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朝鮮族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%97%8F






『朝鮮族(ちょうせんぞく、조선족)は、中華人民共和国(以下、中国)の民族識別工作にて定義される中国の少数民族の一つ。』
『概要
中国の国籍を所有し、かつ中国戸籍法に基づく戸籍上の民族欄に“朝鮮”と記載(登記)されていることが朝鮮族と見なす条件である。したがって、中国に居住する朝鮮民族で、永住権を所有していても中国の国籍を持っていない者、あるいは戸籍上の民族欄に“朝鮮”と記載されていない者は朝鮮族とは定義されない。
中国以外の国や地域では、朝鮮民族でありながら中国国籍所有者であることを明確にするために、朝鮮族は中国朝鮮族もしくは朝鮮系中国人(조선계 중국인)と呼ばれ、朝僑と呼ばれる北朝鮮国籍を放棄して中国国籍を取得した朝鮮族も存在する[2][3]。
中国では、地方政府の戸籍資料、公式メディア、学術論文等に使用される民族の称呼に関して、非正規表現の一文字略称を用いることが実務的に許可される。その場合、「維」でウイグル(維吾爾)族、「蒙」でモンゴル(蒙古)族を表すように、「鮮」で朝鮮族を表現する。 』
『分布と現状
中国朝鮮族の総数は、第5次(2000年)人口調査によると約192万人で、第6次(2010年)人口調査によると約183万人と減少した。中国56民族の中に、人口絶対数が減少した民族は朝鮮族と満州族だけである。現在の人口減少傾向が続くと、30年で半減する可能性がある[4][1]。特に朝鮮族の民族自治地域である延辺朝鮮族自治州の少子高齢化・人口流出・農村の過疎化などの問題が深刻である[5]。
朝鮮族の人口は約230万の韓国系アメリカ人よりは少ないが、朝鮮半島以外では二番目の朝鮮民族コミュニティーといえる。中国国内での分布は中国東北部(旧満洲)に集中し、中でも吉林省に約120万人が居住し、吉林省南部の延辺朝鮮族自治州(首府延吉市)に約80万人が集中している。延吉市には、中国語と朝鮮語で教育を行う延辺大学も設置されている。
このほか、黒竜江省に約45万人、遼寧省に約25万人、内モンゴル自治区に約2万人が分布し、関内(山海関以内)の北京、天津、青島、上海などの大都市にも進出している。各地の朝鮮族集住地区には、行政的に朝鮮族自治県(吉林省長白朝鮮族自治県)や、多くの朝鮮族郷・鎮が設置されている(リンク参照)。これら東北三省の首府には、朝鮮族の学校や放送局、新聞社、出版社などが設置されて、朝鮮語の普及を図っている。
脱北者を売り飛ばすためにブローカーしている者や、中華人民共和国に従って、脱北同胞を保護しないなど、他の外国籍朝鮮民族より、自己の利益や自国(中華人民共和国民)を優先する傾向がかなり強い。サッカーの応援でも中華人民共和国を応援することに韓国や北朝鮮では批判がある[6]。また、サッカー選手の例を見れば、朝鮮族の選手は延辺のチームに所属する以外なら他の中国のクラブに所属する選手が多く、韓国のKリーグのクラブに所属する選手は少ないと同時に、一般人でも延辺を中心とした東北三省か中国の大都市で働く者が多く、韓国で働く者は少ない。
2020年10月、アメリカの大学に進学する全世界の学生が使用するSATとAPの教科書が、歴史上ほとんどの期間、朝鮮は中国の植民地だったと記述していることがJTBCニュースルームの取材で明らかになったが[7]、JTBCニュースルームによると、百度が運営する百度百科でも、尹東柱や尹奉吉や安重根や金九が朝鮮族と表記されており、尹東柱は国籍も中国籍になっている[7]。朝鮮族が中国籍を取得したのが1954年であることを勘案すれば、事実関係が間違っており、これらの独立活動家が満洲、上海、吉林省に居住して独立活動を行っていたためとみられるが、この場合、朝鮮の抗日運動が中国の抗日運動の歴史に編入されることになる[7]。
韓国における根深い差別問題
韓国には朝鮮族全体を「韓国人に混じって、いつ中国政府が追求する国家的プロパガンダに同調するか分からないエージェント」とみなす風潮がある。『ハンギョレ』は中国びいきの韓国人に朝鮮族疑惑が湧くことに「韓国社会の根深い人種差別が反映された結果」と報道している[8]。中国と大韓民国(韓国)の国交樹立以来、韓国人との接触が増え、韓国に出稼ぎに行く朝鮮族も多い。韓国では、中国の朝鮮族に好意的な者は在中同胞(재중동포)と呼び、彼らは在韓中国朝鮮族は中国同胞(중국동포)や中国僑胞(중국교포)と呼ぶ。韓国に留学する朝鮮族も多く、2か国語を話せることを武器にしている[9]。少子化晩婚化や流入する漢民族との同化などにより、21世紀に入ってから2010年までに延辺では7割超も朝鮮族の教育機関と生徒は激減している[10]。韓国など積極的な外国への移住により、朝鮮族は約180万人の人口のうち100万人も海外に流出している[11]。ただし、韓国で出稼ぎしてから中国の自治区に帰る者も少なくない。これは朝鮮族への韓国人の差別が根深く過酷なために、韓国は金銭だけ稼ぐ場所と認識されており、自治区の方が住みやすいと広く理解されているからである[12]。』
『歴史
朝鮮族の住居室内
朝鮮民族は古くから満州の開拓・発展に深く関わってきた歴史を持つが、中国が定義する朝鮮族の範疇は、あくまで民族識別工作の結果によるものであって、必ずしも朝鮮民族が満州にて活躍してきた長い歴史的経緯を反映していない。朝鮮族の歴史は満州(今は中国領)に発生した朝鮮民族の歴史の一部に過ぎないが、文化的・血統的な見地からでなく、朝鮮族が明確な法的・政治的定義を持つ集団であるという立場から、朝鮮族の歴史を語るべきである。
日本で良く知られる豊臣秀吉の朝鮮派兵(文禄・慶長の役)の際に明軍を率いて日本軍を迎撃した李如松、その父にあたる満州の実質上統治者-明朝の遼東総兵こと李成梁について、中国鉄嶺市政府が李氏一族を朝鮮半島からの移民という見地から、朝鮮族や朝鮮族の末裔と見なしている[13]。李成梁の出自(世家)を“李成梁是朝鲜族后裔。他在朝鲜的先祖可查四代”と公式見解を示している。
朝鮮語の雑誌「延辺文芸」の表紙
清朝の初期に、多くの朝鮮人(戦争捕虜、連行された民間人、移民)が満州族の八旗組織に取り組まれたため、満州族の苗字の中に少なくとも45個の朝鮮苗字が存在する[14]。朝鮮出身の高級官僚・地方役人が清朝の中枢(上3旗、内務府3旗)に集中し、牛録(ニル、清朝の軍事・行政共同体単位)を指揮管理する朝鮮(高麗)佐領が多数いた。また、朝鮮人だけで組織される牛録が、正黄旗満州旗に2つ、正紅旗満州旗に4つ、計6つもあり、軍勢の数は数万人に上った[15]。
1744年に編纂された「八旗満州氏族通譜」に既に43個の朝鮮苗字(氏族)が記載されている。清の初期に満州に取り込まれた(来帰)朝鮮人は、人材が輩出する名門・貴族となり、満州民族社会の運営のみならず、清国の拡張に関わる重要な戦役に大きな功績を残した[16]。特に遼西攻略、蒙古南部制圧、李自成撃滅、陝西、四川、浙江、福建省の征伐、並びに台湾征伐(鄭成功の海軍撃破)において輝かしい戦績を残し、満州族の中国支配に貢献した[17][18]。
朝鮮半島の出自が清朝の公式文献に明記されたにも関わらず、これら朝鮮人の末裔は、朝鮮民族の言語をうまく使えないことから、ほとんどが満州族や漢族に識別・認定された。しかし、満州族から朝鮮族へ、または漢族から朝鮮族へ、族籍を改めるケースもある。
新羅時代に遡る朴という姓をもつ通称「朴氏朝鮮族」は、明の末(清の初)の捕虜や拉致被害者として清国に住み続けてきた。清朝の時は満州族、中華民国の時は漢族と見なされたが、50年代に族籍改正を申し出た後、中国の民族識別工作により、1982年にやっと朝鮮族として認定された。河北省青竜県、遼寧省蓋県、本渓県から合わせて2000名足らずの朝鮮人の末裔が、3世紀半の歳月を経て朝鮮民族に復帰したというエピソードがある[19]。強い民族意識や、農耕文化、氏族の絆と内向的吸引力、逆境において起こる抵抗心理等が民族を守ったと分析される[20]。
中国政府に正式に認定された朝鮮族に限っても、朝鮮族の歴史は明末清初に遡り、少なくとも400年という上限が成立し、決して“清朝末期から100年余り”のような短いものではない。
満州に居住する朝鮮人を中国の一つの少数民族と見なした最初の公式文献は、1928年中国共産党第6回全国代表大会に可決された議案「民族問題に関する決議」[21]である。決議の中に少数民族を“北部之蒙古、回族、満州之高麗人、、、”の順で定義している。
清代初期に、満洲人が中国を征服すると、彼らは大挙して中国本土に移住し、また清朝は満洲を祖先の地として漢民族の移民を禁止したので、清代を通じて満洲は人口希薄地帯となった。一方、この時代の朝鮮では農村が疲弊して逃散する農民が多く、これらの窮乏農民が次第に豆満江(中国では図們江)を越えて満洲に入り込み、焼畑などを行うとともに、野生の朝鮮人参の採集などに従事した。その数は時代が下るにつれて増加し、清朝と朝鮮の国境紛争も発生した。朝鮮では、豆満江を越えた朝鮮人居住地を間島(カンド)と呼び、鴨緑江を越えた朝鮮人居住地を西間島(ソカンド)と呼んだ。清領への朝鮮人の流入は、特に1860年代に朝鮮半島北部で起こった大凶作と、1885年の満洲への移民禁止の撤廃をきっかけに、爆発的に増加した(闖関東)。
近代になって、李氏朝鮮(大韓帝国)が日本に併合(韓国併合)されると、日本の武力を背景として朝鮮農民がさらに満洲に流入した。1932年に日本の影響下で満洲国が成立すると、日本の移民政策もあって、新天地を求めて満洲国に渡る朝鮮人がまたもや激増した。この時は間島地区だけに限らず、満洲全域に様々な職業の朝鮮人が拡散した。
満洲国の朝鮮人人口は一説に300万人とも言われるが、満州帝国国務院総務庁統計処「現住戸口統計」等の公式資料を引用した「満州国人口統計の推計」「各年度民族別人口」[22]を参照すると、1942年に満州にいた朝鮮人の人口は約160万であった。(当時の統計手法は台湾人を朝鮮人と分類していたので、160万人の中には台湾人も含まれる。)
満洲国の崩壊と朝鮮の独立並びに朝鮮戦争の勃発によって多くの朝鮮人が帰国したが、約100万人が中国内に残留し、これが今日の朝鮮族の起源の一つとなった。多くの朝鮮族は日本統治下から中国へ移住したというルーツを持つ。
第2次世界大戦終結後の1年間で約100万人前後が朝鮮に帰国した[23]。しかし延辺の居住者のほとんどは満州事変以前に移住し、すでに定着したため朝鮮に引き揚げることは少なかった[23]。また朝鮮に戻っても財産も生活の場も無い、経済的な理由、徴兵された息子を待ち続けるため等の事情から東北部に残る人も多かった[24]。
国民党との対立や内戦で弱い立場に置かれ、東北地区居住朝鮮人の支持を必要としていた中国共産党は、中国東北部に留まる朝鮮人に定住を勧めた[25]。戻れない朝鮮人にたいしては「帰農運動」を展開し、土地を分配するなど積極的な定住条件を創出した[25]。また朝鮮人と中国人の民族矛盾に対し、中国共産党は両民族にお互いに偏見を解消して団結するように絶えず工作を行った[26]。
中国共産党の発表によれば、国共内戦期に中国共産党軍に参加した朝鮮人は6万4942人であり、戦死者は3943人であった[27]。その他に、担架隊、運輸隊に参加した者は延辺だけでも30万2300人に達した[27]。1947年5月当時、第4野戦軍の15~20パーセントは朝鮮人が占めていた[27]。延安幹部は「民族関係を改善するため、まず、東北地区居住朝鮮人大衆に頼った。当時延辺の人口のなかで朝鮮人が8割以上を占め、彼らの革命精神は非常に強かった。それ(朝鮮人の支持)に頼って、政権を強固にし、武装を拡大したのは正しかった。事実上朝鮮人の武装は比較的安定し、新政権の柱の役割を果たした」と評価した[26]。一方で、建軍の初期から軍隊内部の民族傾向が強いと批判されている[28]。
朝鮮戦争以降
朝鮮戦争が勃発すると、延辺では戦場に行くことを希望して入隊を申請した男女が1万9394人に達した[29]。入隊志願者のほとんどは中国人民志願軍に従軍し、合計2万余人が参戦した[29]。ちなみに中国の朝鮮戦争への参戦とともに開始された抗米援朝運動において、 吉林省延辺朝鮮自治州の朝鮮族だけでも青年4万6000人が参戦している。これらは韓国でも知られており、中華人民共和国のために韓国滅亡に共助したことで朝鮮族全体が憎悪される根深い差別の原因となっている[30]。2021年時点でも韓国国内ではいつ中国政府側に立って、韓国を裏切るか疑わしい集団とみなされている[8]。
彼らの多くは朝鮮の地理と言語に詳しかったため、各中隊に連絡員として配属された[29]。彼らは朝鮮戦場における道先案内、宿営地調達、敵情偵察、対民衆宣伝、交渉などにあたり、これによって中国軍の偵察力、兵站の充実、夜間戦闘の卓越および追撃速度を高めた[29]。
1949年1月21日、民族工作座談会が開催された[31]。延辺専員公署専員を務めていた林春秋を代表とする側は、延辺を北朝鮮に帰属させ、東北地区居住朝鮮人問題を根本的に解決しようと主張した[31]。ソ連から帰還した林民鎬を代表とする側は、朝鮮人が中国で血を流し命を捧げた事実とソ連の実例を挙げながら、延辺にソ連式の加盟共和国を成立させることを主張した[31]。民族事務所長の朱徳海は「東北地区居住朝鮮人は100年前から中国に定着して中国人および他民族とともに荒蕪地を開拓し、共同して日本と戦ってきた。中国共産党が指導する自治を実施してこそ、東北地区居住朝鮮人は隆盛し発展することができる」と述べ、中国の領内における自治を提案した[31]。会議はまとまらず、半月も続けられたが、朱徳海の提案は中共吉林省委の支持を得て中共中央も高い関心を寄せ、中国共産党と中央人民政府の指導下に充分な民族自治権利を享受することでようやく一致し、民族工作座談会は閉幕した[32]。
中華人民共和国が成立すると、中国共産党は1952年、民族区域自治実施要綱を発表し、55の国内少数民族に自治権を付与した。これに伴い、吉林省南部に延辺朝鮮族自治区が誕生し、1955年には延辺朝鮮族自治州と改名され、自治州の州長には朝鮮族が就任している。首府・延吉には、朝鮮族のための高等教育機関である延辺大学も設置されている。
1990年代の中韓国交樹立以降、韓国へ移住または出稼ぎに行った朝鮮族は急増したため、朝鮮族村の高齢化・過疎化が目立ちになった。また、特に延辺朝鮮族自治州での朝鮮族の出生率は急落しているため、朝鮮族の人口が減少傾向を示しつつある[5]。
朝鮮族の出身地
20世紀初頭には、満洲地区の朝鮮人はほぼ10万人いたと推定される。日本が朝鮮を併合して、満洲を勢力下に置き、五族協和を押し進めた20世紀の前半に、朝鮮総督府の政策で、朝鮮半島の北部の朝鮮八道でいう咸鏡道・平安道の朝鮮人を現在の中国の吉林省へ送り、南東部の慶尚道の朝鮮人を黒龍江省へ、南西部の全羅道の朝鮮人を遼寧省へ送り、それぞれの地域で約20万人、合計で約60万人の朝鮮人が移住したといわれている[33]。在満洲朝鮮人の大部分は水田開拓・稲作に従事したが、製鉄所・炭坑などで働く人たちもいた。
朝鮮の独立とともに多くは帰国したが、満洲に残留した者も多く、その子孫が現在の中国東北部の朝鮮族の主体となっている。現在も朝鮮族が多く住む黒竜江省のハルビン市、チチハル市、ジャムス市、吉林省も延辺朝鮮族自治州、吉林市、遼寧省の瀋陽市、鞍山市など、各地での朝鮮族の朝鮮語方言(中国朝鮮語)や食習慣・日常習慣は上の述べた朝鮮半島の出身地の方言・習慣を色濃く反映している。
中国朝鮮族の教育
朝鮮族は居住地や家族環境によって主に使う言語が異なるが、基本的には中国語・朝鮮語両方を学んでいる。中国朝鮮族の教育レベルは中国平均より高く[34]、漢族を含む人口100万人以上の各民族の中でも屈指である[35][36]。
著名な朝鮮族
政治・教育関連
朱徳海
孔鉉佑朱徳海(1911年3月 - 1972年7月3日) - 延辺朝鮮族自治州初代州長 林民鎬(1904年1月3日 - 1970年7月14日)- 政治家、教育家。延辺大学の設立者の一人で、初代副校長(実質的な校長)として民族教育の発展に努めたが文革時に拷問を受け死去。 鄭判龍(1931年10月2日 - 2001年10月7日)- 作家、知識人、教育家。延辺大学教授・副校長。 李徳洙(1943年11月- ) - 国家民族事務委員会主任(閣僚) 孔鉉佑(1959年7月- )- 外交官。黒龍江省出身。上海外国語学院日本語学科卒。2015年12月から外務次官補。2017年から朝鮮半島問題特別代表を兼務。2018年1月から外務次官[37]。 張留成 元・中国共産党対外連絡部南北担当部長。2010年6月23日、スパイ容疑で極秘に処刑されたとの情報が香港の中国政情誌『外参』で報じられる。
文学関連
尹東柱
金学鉄(1916年11月4日 - 2001年9月25日)- 朝鮮の独立運動家、中国朝鮮族を代表する作家。「朝鮮義勇隊最後の分隊長」と呼ばれた。 尹東柱(1917年12月30日 - 1945年2月16日) - 日本統治時代の朝鮮の詩人。後に立教大学や同志社大学に在学しながら活動した。間島出身。
音楽・芸術関連
崔健
鄭律成(1918年8月13日 - 1976年12月7日) - 軍歌作曲家、韓国光州広域市生まれ、本名は鄭富恩である。 1933年南京に渡り、義烈団に入り、抗日活動に従事。1937年より延安に赴いて中国共産党に入党、魯迅芸術学院等で音楽を学習する。 第二次世界大戦後は朝鮮に帰国、朝鮮人民軍交響楽団団長や平壌音楽大学作曲部部長を歴任。 1950年の朝鮮戦争勃発を機に周恩来の要請で中国に定住、音楽活動に精魂を傾ける。 「延安頌」、「延水謡」、「八路軍軍歌」、「八路軍進行曲(中国人民解放軍進行曲)」、「朝鮮人民軍行進曲」などを作曲した。 金正平(1929年 - ) - 黄海道信川郡生まれ、国家一級指揮者、作曲家。中国朝鮮族音楽研究会名誉会長。 南京中央大学音楽家卒。中央歌劇舞劇院、中央電影楽団で指揮者として活躍。 崔健(1961年 - ) - 北京市生まれ、中国最初のロック歌手。 張千一(1959年-) - 作曲家。瀋陽出身。中国人民解放軍総政治部歌舞団団長 張律(1962年 -) - 映画監督。韓国在住。 金星(1967年 - ) - 遼寧省瀋陽市生まれ、舞踊家、バレリーナ、芸能人。「上海金星舞導団」のオーナー。トランスジェンダー。 金海心(1978年10月30日 -) - 女性歌手。吉林省出身。 金美児(1984年3月27日-) - 歌手。延吉出身。中国人民解放軍空政文工団所属 白青剛(1989年2月19日 -) - 歌手。琿春市出身。 金龍国(1996年3月2日 -) - 歌手。和龍市出身。 黄仁俊 (2000年3月23日 -) - 歌手。韓国の男性アイドルグループNCTのメンバー。吉林省出身。軍関連
崔海龍(1928年9月 - 1996年4月19日)-軍人。文革期に中共延辺朝鮮族自治州委書記などを務め、延辺州の指導者として権勢をふるったが文革終了とともに失脚、1985年に党籍剥奪。 趙南起(1927年4月 - ) - 軍人、政治家。吉林省永吉県出身(1927年4月20日、韓国忠清北道清源郡で生まれたと言う説もある) 1978年 - 1985年:中共延辺朝鮮族自治州委第一書記→吉林省副省長→中共吉林省委書紀 1987年 - 1992年:解放軍総後勤部部長、中央軍事委員会委員 1988年:上将に進級(日本語における大将に相当) 1992年 - 1995年:解放軍軍事科学院院長 1998年 - 2003年:全国政治協商会議副主席 李永泰(1928年 - )- 空軍軍人。吉林省通化出身。 1951年、朝鮮戦争にて、大隊長として、米軍F-86を4機撃墜。 1975年、武漢軍区空軍司令官に就く。 1982年、中国人民解放軍空軍副司令官に就く。 1988年、空軍中将に進級。学術関連
李相哲(1959年 - ) - 黒竜江省生まれ、龍谷大学社会学部教授。 金文学(1962年 - ) - 遼寧省瀋陽市生まれ、福山大学人間文化学部人間文化学科講師、放送大学客員教授。 姜景山(1932年 - )- 吉林省龍井市生まれ、中国科学院宇宙空間研究センター所長。 金熙徳 - 元・中国社会科学院日本研究所副所長。延辺大学で修士課程を終えた後日本に留学し、1994年に東京大学で国際政治学の博士号を取得。2006年に中国社会科学院の日本研究所副所長に就任。2009年1月9日、国家安全部の捜査員に連行され拘束[38]、 李敦球 - 世界発展研究所朝鮮半島研究センター主任。 洪延姫 - 人民解放軍装備指揮技術学院教授。 張景子 - 日中韓研究家。
経済関連
羅永浩
石山麟(1945年-) - 企業家。吉林省出身。北京市昌寧集団総裁 羅永浩(1972年7月9日- ) - 企業家。和龍県出身。BullogおよびSmartisan会長。 全哲洙 中華全国工商業連合会副首席兼書記。共産主義青年団出身。 李明星 中国企業連合会副理事長、中国経済発展戦略理論家
スポーツ関連
サッカー選手
南勇(1962年6月16日-)元・中国サッカー協会副主席。 高仲勲(1965年1月4日-)元サッカー中国代表。 高万国(1984年6月17日-) 朴成(1989年1月27日-)龍井市出身。サッカー中国代表。 金泰延(1989年8月21日-)延吉市出身。サッカー中国代表。 池忠国(1989年10月26日-)延吉市出身。サッカー中国代表。 金敬道(1992年1月18日 -)延吉市出身。サッカー中国代表。 白子健(1992年10月16日-)瀋陽出身。 金波(1993年1月20日ー)龍井市出身。 池文一(1988年2月18日-)延吉市出身。 朴世豪(1991年7月9日-) 姜洪権(1987年1月21日-) 楊世元(1994年3月11日-) 裴育文(1985年7月4日-) 呉永春(1989年3月30日-) 崔民(1989年7月6日-)汪清県出身。 尹昌吉(1995年3月17日-) 孫君(1993年4月29日-) 韓光徽(1990年1月24日-) 金成俊(1997年1月17日-) 崔仁(1989年1月19日-)延吉市出身。 元敏誠(1995年8月8日-)延吉市出身。 高准翼(1995年8月21日ー)延吉市出身。朝鮮族初のJリーガー。現在は中国スーパーリーグの広州恒大淘宝所属。サッカー中国代表。 南松(1997年6月21日ー)
野球選手
朱権(1995年5月31日-)吉林省出身。韓国籍。韓国プロ野球チーム・KTウィズ所属。
その他のスポーツ選手
羅致煥(中国語: 罗致焕) (1940年-) - スピードスケート選手。 宋容慧(1992年7月25日 -) - 囲碁棋士。黒竜江省ハルビン市出身。 朴文尭(1988年4月25日 -) - 囲碁棋士。黒竜江省出身
その他
鄭守一(1934年11月 - )- 朝鮮労働党対外情報調査部のスパイ、韓国檀国大学校教授。 蘇春熙(朝鮮語: 소춘희) (1963年4月25日 -) - 1988年版2角人民元紙幣に登場する朝鮮族女性のモデルなった人物。吉林省延辺朝鲜族自治州出身。 黄西(1970年4月20日 -) - Joe Wong。米国籍コメディアン。吉林省白山市出身。
関連項目
中国の少数民族 朝鮮民族 朝鮮戦争:中国軍である人民解放軍による韓国侵略の先駆けとなったため、根深い差別が発生している[30]。 朝鮮民主主義人民共和国 白頭山(長白山) 朝鮮語の方言 中国朝鮮語 在韓中国朝鮮族 』
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高麗人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BA%BA



『高麗人(こうらいじん、Корё сарам、고려인 (高麗人) / 고려사람 (高麗사람)/ コリョ・サラム)は、ソビエト連邦崩壊後の独立国家共同体(CIS)諸国の国籍を持つ朝鮮民族。』
『概要
高麗とは朝鮮半島に10世紀から14世紀まで存在した国家で、非漢字圏では朝鮮民族のことを英語ではコリアン (Korean) 、ロシア語ではカリェーエツ (Корейцы (Koreyts’)) というように、朝鮮民族の呼称として“高麗人”にあたる語が広く用いられている。旧ソ連地域の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものであり、「コリョ・サラム」と読む。
現在の主な居住地は、ロシアをはじめとしてウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギス、ウクライナなどである。約50万名の高麗人が中央アジアを中心に居住しており、ロシア南部のヴォルゴグラード近郊やカフカース、ウクライナ南部にも高麗人コミュニティが形成されている。これらのコミュニティは、19世紀後半まで朝鮮と境を接した沿海州(現在の沿海地方)に居住していたが、1930年代後半から第二次世界大戦中にかけて中央アジアに追放された高麗人によって形成されたものである。
樺太にも、ロシア本土とは別に在樺コリアンが居住している。19世紀後半から20世紀初頭にかけてロシア本土へ移住した者達とは異なり、樺太における朝鮮人は、主に1930年代から1940年代にかけて主に慶尚道と全羅道から移住した者達と戦後に北朝鮮から労働者として渡っていった者達である。前者は、第二次世界大戦期の労動力不足を補うために、南樺太へ出稼ぎや徴用によって移住していた[2]。 』
『歴史
極東ロシアとシベリア移住19世紀の李氏朝鮮は、国政が混乱して少数の両班達が大部分の土地を独占するようになった。現在の高麗人の祖先達は、中国の朝鮮族と同様に故郷を離れ、李氏朝鮮北部からロシアを目指したが、清の領地がそれを阻む形となった。それでも、朝鮮人移民第1期となった761家族5,310人は、当時清の領土だったシベリアに移住した。同地は1860年の北京条約によってロシアに割譲されることとなった。帝政ロシアは人口の少ない沿海地域を入植地として開放した。朝鮮半島北部はもともと農業には厳しい気候であった上、ひとたび飢饉が起こると農村は疲弊した。厳しい生活から逃れるために、窮乏農民が北へと流入した[3]。
その後も、多くの農民達がシベリアに移住するようになり、19世紀末にはその数が急増し、1869年には朝鮮人が沿海州における人口の 20%を占めるようになった。シベリア鉄道が完成するより前に、極東ロシアにおける朝鮮人の人口はロシア人より多くなり、地方官吏達は彼らに帰化を推奨した。1897年のロシア帝国の人口調査によれば、ロシア全体で朝鮮語を話す人口が26,005人(男性:16,225、女性:9,780)という結果が出ており[4]、この頃には多くの都市に高麗人村や高麗人農場ができるようになった。
20世紀初頭に、ロシアは日本と朝鮮半島における権益を巡って対立するようになり、1904年には日露戦争が勃発し、戦争は日本の勝利に終わった。1907年に、ロシアでは日本の干渉によって朝鮮人を排斥する法律が制定され、朝鮮人の農場主は土地を没収され、朝鮮人労動者達は職を失うこととなった[5]。同時に、ロシアは朝鮮独立運動の為のシェルターとなり、朝鮮人の民族主義者達と共産主義者達はシベリアや沿海州、満州に亡命した。1917年10月の十月革命と東アジアでの共産主義の台頭とともに、シベリアは在ソ連朝鮮人の日本に対抗する為の独立軍養成の基盤になった。1919年に、ウラジオストクの新韓村(高麗人街)に集まった朝鮮のリーダーたちが三・一運動を支援した。この村は、軍隊の物資補給を含めた民族主義者達の足場となったが、1920年4月4日には日本軍の総攻撃によって、100人以上が死亡した[5]。
ウラジオストクに移住した朝鮮人達は、キリスト教を受け入れるなど積極的にロシア文化に順応するようになった。何よりも、日本の影に怯えることなく働くことが出来るということが、移住の最大の理由だった。
1922年に、ロシアで共産主義を掲げるソビエト連邦が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立するようになった。一方で、ソ連国内における高麗人の人口は、1923年に106,817人にまで増加し、翌1924年からソ連政府によって国内の高麗人の人口を抑制する為の対策が取られるようになったこともあって、1931年にかつては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は閉鎖されることとなった。
強制移住日本軍によるシベリア出兵以来、日ソ両国は互いを仮想敵国とみなしていたが、満州事変以降、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、沿海州に居住する高麗人住民が日本のためにスパイ活動を行なっていると考えるようになった。実際、満ソ間の国境不確定地帯において、長年にわたり日ソ双方によりスパイ戦が行われていた[6]。また、満州において抗日戦を展開しようとしていた中国共産党との協力体制を構築するためにも、自国内にスパイ活動の恐れのある民族を留まらせておくわけには行かなかったとも言われる。スターリンの下で大粛清が開始されると、高麗人のスパイ活動への関与の疑いが高まり、高麗人のほとんどは日本側の活動とは無関係であったにもかかわらず、ニコライ・エジョフの報告によると1937年10月25日までに沿海州に居住していた36,442家族171,781人の高麗人が、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放されたと記録されている[7]。
強制移住先の中央アジアの乾燥地帯は、農耕には不向きな土地で、ソ連政府によって保障されていたはずの資金援助は受けることができなかったことに加え、移住させられた者のほとんどが稲作農家や漁師だったこともあって、乾燥地帯への適応に困難を伴った[3]。1938年までに少なくとも4万人の高麗人が死亡している[7]。しかし、他の場所から強制連行されてきたドイツ人、チェチェン人、トルコ人らと協力し合いながら、灌漑施設を設置するなどの工夫を重ねたうえで稲作を始め、移住から3年後には不毛の大地を一大農業地帯に変えることに成功した。その姿勢が評価され、ソ連共産党から模範的社会主義者(労働英雄)として表彰される者もあった。
独ソ戦には372人が参加し、そのうち195人が死亡または行方不明となった[8]。
戦後も、軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って来ることによって、不安定要素が生ずることを望まないソ連当局の意向によって、高麗人は沿海州や朝鮮に帰還する権利を認められず、その後も多くの高麗人がそのまま中央アジアに住み続けた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、実際に移動の許可を得るにまでに多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州に帰還する者はほとんどなかった。また、グラスノスチが始まるまでは、強制移住に対して発言することは許されなかった。
ソ連崩壊以降
ロシア
居住地への帰還を認める「ロシアの高麗人の名誉回復に関する法」が1993年に成立したが具体的な手続きはなく帰還の手助けとはならなかった[9]。
2002年の人口調査では、148,556人の高麗人がロシアに居住し、男性が75,835人、女性が 72,721人だった。そのうち、25%はシベリアと極東ロシアに居住している。同地の高麗人達はその移住経路が多様で、1937年の強制移住から帰って来たCIS諸国の国籍を保持した 33,000人以外にも、約4,000から12,000人の北朝鮮からの移住者も確認されている。大韓民国や中国少数民族出身の高麗人も定住し、投資を行うなど国境貿易に参加している。
ウクライナ
2001年の人口調査では、高麗人を自称する者が12,711人存在しているという結果が出たが、これは1989年の8,669人より大幅に増加している。特に人口が多い都市はハルキウ、キエフ、オデッサ、ムィコラーイウ、チェルカースィ、リヴィウ、ルハーンシク、ドネツィク、ドニプロペトロウシク、ザポリージャ、クリミア半島などである。ウクライナで一番規模が大きい高麗人コミュニティは、ハルキウにあり、約150人の高麗人家族が居住している。最初の朝鮮語学校が、1996年に開校している。
中央アジア
ソ連崩壊後、50年を経て生活基盤が中央アジアに完全に定着してしまった高麗人の多くは、そのまま中央アジアに住み続けているが、中央アジア諸国は、いずれも民族主義的志向が強く、ロシアに流出する傾向にある。例えば、ソ連時代、モスクワの高麗人の人口は数千人に過ぎなかったが、1990年代末には1万5000人にまで達している。
同地域における高麗人は、その多くがウズベキスタンとカザフスタンに居住している。カザフスタンにおける高麗人文化はかつての首都だったアルマトイを中心に発信されており、同都市では中央アジアでは唯一の朝鮮語新聞である『高麗日報』と朝鮮語劇場が運営されている。カザフスタンの人口調査では、1939年には96,500人、1959年には74,000人、1970年には81,600人、1989年には100,700人、1999年には99,700人の高麗人がそれぞれ記録されている。
ウズベキスタンのサマルカンドにある高麗人墓地
ウズベキスタンの高麗人たちは、農村地域に広く散らばっている。同国では、高麗人たちが公用語であるウズベク語ではなくロシア語を常用しており、言葉の壁にぶつかるケースが続発することとなった。ウズベキスタンの独立後、多くの高麗人たちがウズベク語を話すことができないために、失業の憂き目に遭うこととなった。その一部は、極東ロシアに移住したが、そこでも生活の困難に直面することとなった。2017年現在ウズベキスタンでは18万人が居住し、約6万人が首都タシケントに集まっている[10]。強制移住から80年の節目である2017年、タシケントにあるソウル公園で記念碑が建てられた。この式典にはソウル市市長も参加した[10]。
タジキスタンにも小規模ながら高麗人コミュニティがある。ウズベキスタンとカザフスタン以外の地域への移動を禁じる規制が緩和された1950年代後半から1960年代前半にかけて、高麗人たちの同地への大規模な移住が始まった。移住の引き金となったのは、豊富な天然資源と温暖な気候だった。同国における高麗人の人口は1959年に2,400人、1979年に11,000人 、1989年に13,000人にまで増加し、そのほとんどが首都のドゥシャンベに住み、少数ながらクルガン・テッパとホジェンドにも居住する者もいた。他の中央アジア諸国の高麗人と同様に、タジキスタンの高麗人たちも他の民族より高い平均収入を誇る傾向があった。しかし、1992年5月に勃発したタジキスタン内戦により、多くの高麗人たちは同国を離れることとなり、その人口は1996年までに7年前の半分以下となる6,300人にまで減少した。内戦終了後の2000年にも、イスラム解放党のメンバーがドゥシャンベにある高麗人のキリスト教教会で爆弾テロ事件を起こし、9人が死亡、30人が重軽傷を負う事態となった。現在も同国に残っている高麗人のほとんどは、農業と小売業に従事している。
無国籍となった高麗人
ソビエト連邦の崩壊以降、一部の高麗人達は無国籍となった。ソ連時代に連邦だった国々が、ロシア国籍を認めなかったために、それぞれの国籍を再度申請しなければならなかった。これを知らなかった、書類の紛失、住民登録の失念、経済的な余裕の有無、パスポートの再申請の不可などの理由により無国籍者が存在している。この背景には、生まれ育った家庭が貧困だったため、教育など社会生活を送るうえで必要な情報を得られなかったという事情があり、このような不利益は彼らの子孫にまでそのまま受け継がれてしまっている。CISには現在、高麗人全体の10%にあたる約5万人の無国籍者がいることが推測されている。
こうした事態に対して、韓国政府は2007年から現地の国籍を取得させる為の外交活動と法的支援といった無国籍高麗人支援事業を開始し、ウクライナでは移民局が、「ウクライナ国籍がない高麗人の身分を、韓国大使館が証明すれば国籍回復手続きを手助けできる」という意向を明らかにしたものの、各国の法律や文化的な障壁に阻まれ、成果を上げるには至っていない[11][12]。
朝鮮半島に帰還した高麗人
ソウル特別市中区光熙洞にある高麗人を対象としたキリスト教教会。同じ建物の1階には、キルギス料理店が見られる。
第二次世界大戦前後に、小規模ながら高麗人の朝鮮半島への帰還移動があった。主なグループとしては
・日本統治下における諜報活動を行うために派遣された者。 ・大戦後の1945年から1946年にかけて到着した赤軍兵士 ・1946年から1948年にかけて北朝鮮に到着した各方面の指導者。 ・一身上の都合でソ連から北朝鮮に渡った一般人。
に分類される。
前述した通り、中央アジアにおける高麗人の品行方正ぶりが評価されたことにより、第二次世界大戦末期から対日戦争をにらんで、ソ連当局は一部の高麗人を軍・共産党に受け入れ始めた。彼らは終戦後、北朝鮮の経済再建や朝鮮人民軍の創設に大きく貢献したが、ほぼ全員が粛清されることとなった。
後に、大規模な韓国への労働移住が展開されることとなった。 2005年の時点で、10,000人ものウズベキスタン人が韓国での労働に従事しており、その大部分が高麗人である。 韓国からウズベキスタンへの送金は、毎年1億ドルを超えると見積もられている[13]。韓国では1945年の政府発足時点に国籍を有した高麗人の韓国での帰還を認めているが祖父母が韓国籍と定められ四世は成人になると出国する必要がある[14]。
文化
中央アジアへの移住以降の高麗人達は、稲作農家として暮らしていた以外にも、周辺の遊牧民とはほとんど交流せず、教育に重点を置いた現地人とは異なる様式の生活を送ることとなった。また服装に関しても、この頃から韓服の着用を止め、中央アジアで着られているスタイルのものより、西洋式の洋服を着る生活を送るようになった。著名な食文化としては、ニンジンで作ったキムチであるマルコフチャが挙げられる。
高麗人コミュニティにおける生活風習は、様々な変化がもたらされることとなった。 結婚に関してはロシア式のスタイルが取り入れられることとなった一方で、葬式に関しては朝鮮における伝統的な方法が受け継がれることとなった。また名前に関しては、すでに亡くなった世代の者の場合、伝統に則って漢字で表記されているが、現在存命している者の場合、スターリン時代の影響もあって、漢字を解する者はほとんどいないため、ハングル文字のみで表記されている。一方で、1歳の誕生日(トルチャンチ)と還甲の儀式は、葬式と同様に伝統的な方式が受け継がれることとなった。
大戦後に生まれた高麗人は、ソビエト連邦という多民族国家で育った影響から、異民族との交流を盛んに持つようになり、韓国・朝鮮人が単一民族国家意識が強いのとは正反対である。
無宗教者が多かったが、ソ連崩壊前後の時代からキリスト教が増えた。韓国からの宣教師の影響もあるが、イスラム教徒が多い中央アジアで新しいアイデンティティを探していることも関係している[15]。
高麗人には、オガイ(Огай)、ノガイ(Ногай)、ユガイ(Югай)、ヘガイ(Хегай)など、「ガイ」(гай)のつく姓がよくみられる。呉(オ、오)、盧(ノ、노)、柳(ユ、유)、許(ホ、허)などといった朝鮮の姓が変形したもので、それらはたいていの場合、ハングルでいうパッチムのつかない単音節の姓である。なぜ「ガイ」(гай)がついたのかは定かではないが、ロシア人の入国管理官に姓を尋ねられた際、朝鮮語で「~家です」(~ガイムニダ、~가입니다)と答えたところ、朝鮮語に明るくない管理官に「ガイ」(가이)の部分まで姓の一部だと誤解されたのだという説はよく知られている[16]。
言語状況
スターリン時代、高麗人は、公式の場で朝鮮語を使用することを禁止され、学校の授業もすべてロシア語で行われた。スターリンの死後、これらの制限は撤廃されたが、ソ連社会に同化した高麗人は、進学や社会的栄達に有利なロシア語を母語としていた。子供を持つ高麗人の両親の中には、朝鮮語をもはや不要なものと考え、朝鮮語の授業の廃止を要請する者もいた。しかし、インターナショナリズムを標榜するソ連当局は、これら一部の高麗人の両親達の訴えを退けた。フルシチョフ及びブレジネフ時代、朝鮮語紙「レーニンの旗幟」(1938年 – 1989年発行)が発行され、朝鮮語で上演される朝鮮劇場が中央アジア各地を巡業した。よって、スターリン時代を除けば、ソ連で朝鮮語が弾圧されたというのは事実に反する。ただし、社会的な圧力があったことは否定できない。
ペレストロイカとグラスノスチの訪れと共に、短期間の朝鮮民族復興運動が始まった。ソ連の各共和国には、朝鮮民族協会が設立され、朝鮮語を学ぶ高麗人の若者が一時的に増加した。高麗人の知識人層の中では、沿海州への帰還運動も起こったが、実際に沿海州に再移住したのは数千人に過ぎなかった。なお、彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた高麗語と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国・北朝鮮・延辺朝鮮族自治州で話される中国朝鮮語はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語や在日朝鮮語の場合は、意思疎通は無理ではないにしろ、かなりの困難を伴う。 』
(※ 以下、省略)
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范蠡(はんれい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E8%A0%A1※ まず、読めんかったし(人名だ…)、知らんかった…。
※ 兵頭大先生のご高説(「哲学者ではないシナ人の理想の人生は「范蠡」である。これは政治家、軍人、商売人を問わない。」)なんで、調べた…。
※『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』の人だった…。
※ この故事自体は、あまりに有名…。

『范 蠡(はん れい、生没年不詳)は、中国春秋時代の越の政治家・軍人である。氏は范、諱は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている。』
『略歴
越の謀臣
范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常(勾践の父)に仕えるようになったのか、彼の経歴による明確な確証がない。
隣国の呉王闔閭は伍子胥・孫武らの補佐を受けて強勢を誇っていた。越王允常は范蠡の補佐で国力を伸ばしていた。
しかし紀元前496年に允常が逝去し、太子の勾践が父の後を継いだ。允常の訃報を聞いて喪中に服している越に対して、闔閭は出る杭を先んじて叩いてしまおうと判断し、欈李の戦いを起こして攻め込んできた。
しかし、欈李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で、范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)を集めて敵の目の前まで行かせてそこで自ら首をはねさせるという物で、呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を撃破した。越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因で闔閭は陣没し、太子の夫差が立った。
夫差は伍子胥の補佐を受け、越への復讐(臥薪)を狙い、それを知った勾践は今のうちにと呉を叩こうと出兵しようとしたが、范蠡はこれを諌めた。
しかし勾践は聞き入れずに出兵し、大敗してしまった。勾践は夫差に対し平身低頭で命乞いをし、更に家臣の中の文種は夫差の側近伯嚭(嚭は喜否)に賄賂を贈って夫差に勾践を助けるように吹き込んだ。
この時に伍子胥は勾践を殺す事を強弁したが、夫差はこれを取り上げず、勾践を解放し夫差の馬役人にさせた(嘗胆)。
呉を滅ぼす
国に戻った勾践は国政を范蠡に任せようとするが、范蠡は「軍事なら種(文種)は臣に及びませんが、政治にかけては臣は種に及びません」と応え、文種を推薦した。
勾践は范蠡・文種の補佐を受け、復讐を狙っていたが、表面的には夫差に対し従順な姿勢を見せて、夫差を油断させた。
更に范蠡は伯嚭に賄賂を送り、伍子胥の悪口を夫差に吹き込ませて離間を狙った。
思惑通り、伍子胥は夫差に誅殺され、夫差を諌める者はいなくなった。夫差は調子に乗って北へ出兵して天下の事を争おうとし、越の事など気に止めなくなった。
夫差は呉軍の大半を率いて北の会盟に出かけて、国許を守るのは太子・友とごく僅かの兵になった。
勾践はその隙を衝こうとして、范蠡に訊ねた。范蠡は 「よいでしょう」 とこたえた。そこで越は大軍を発し、一気に呉を襲い、太子を殺して呉を占領した。
夫差は慌てて引き返してきた。勾践は、 「まだ呉の全土を占領するには力が不足している」と判断し、一旦和睦した。
その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰めた。夫差は降伏して命乞いしたが、范蠡は後顧の憂いを断つべく殺すよう進言した。勾践は殺すことはためらい、舟山群島に島流しにしようとしたが、その命令を受けた夫差は自殺した。
引退
悲願が達成されて有頂天になる勾践を見て、范蠡は密かに越を脱出した。
范蠡は文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています[1]。
越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた。
そこで文種は災いを避けるため病と称して出仕しなくなったが、文種に謀反の疑いありと讒言する者が現われた。勾践は文種に剣を贈り、「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。私のために先生は亡くなった父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した。
伝説
范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。
越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。
范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。
斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(現在の山東省菏沢市定陶区)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。
浙江省紹興市諸曁市内に陶朱山がある。
評価
范蠡の見事な活躍と出処進退は後世の憧れとなり、好敵手の伍子胥と共に長く語り継がれている。
范蠡は日本でも名臣として有名である。『太平記』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、後醍醐天皇の臣児島高徳が「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という句を贈ったという話がある。後醍醐天皇を勾践にたとえ、名臣が出現しないわけではないのだから諦めないようにと励ましたのである。この逸話は「児島高徳」という文部省唱歌に詠み込まれ歌われた。
范蠡を題材とした作品
小説
『越女剣』(金庸)
テレビドラマ
燃ゆる呉越(中国語版)(2006年、演:リー・クワンジェ)
争覇-越王に仕えた男-(中国語版)(2006年、主演:チェン・クン)
復讐の春秋 -臥薪嘗胆-(2007年、演:ジア・イーピン)
孫子兵法(2008年、演:張暁瀟)
三国争乱 春秋炎城(2008年、演:劉長純)
女たちの孫子英雄伝(中国語版)(2012年、演:ケン・チュウ)
脚注
^ 前漢設立の功労者である韓信が失脚した際、皇帝である劉邦に対しこの手紙の語句をそのまま引用して伝えたとされている。
関連項目
范蠡公園
典拠管理 ウィキデータを編集
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カテゴリ: 兵家の人物春秋戦国時代の人物中国の亡命者生没年不詳 』 -
ハンガリー(Hungary)
基礎データ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hungary/data.html『一般事情
1 面積
約9.3万平方キロメートル(日本の約4分の1)2 人口
約970万人(2020年、中央統計局)3 首都
ブダペスト4 民族
ハンガリー人(86%)、ロマ人(3.2%)、ドイツ人(1.9%)等(2011年国勢調査)5 言語
ハンガリー語6 宗教
カトリック約39%、カルヴァン派約12%』『8 略史
年月 略史
紀元前1世紀より ローマ領パンノニア州
紀元4世紀 フン族が侵入し、ローマ人を駆逐
896年 ハンガリー民族定住
1000年 ハンガリー王国建国
1241~1242年 蒙古軍の襲来
1526~1699年 オスマン・トルコによる占領
1699~1918年 ハプスブルグ家統治
1867年 オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立
1920~1944年 ホルティ摂政によるハンガリー王国
1920年 トリアノン条約(領土の3分の2を割譲)
1941~1945年 第2次世界大戦(枢軸国)
1946年2月 ハンガリー共和国の成立
1949年8月 ハンガリー人民共和国の成立
1956年10月 ハンガリー革命(ソ連軍の侵攻)
1989年10月 民主制の共和国へと体制転換
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟
2007年12月 シェンゲン協定加盟
2012年1月 基本法(新憲法)施行(国名を「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」に変更)』
ワインソムリエ・エキスパート
独学応援ブログ
https://winedokugaku.com/easteuropa/hungary-wine/

※ 地形図…。平地が多い…。
※ 水系も豊富だ…。むしろ、これだと湿地という感じなのか…。

※ 気候区分は、確か「大陸性気候」だったハズ…。
※ 東京と比較した、雨温図を貼っておく…。やや、冷涼だが、暑さ寒さは、そう厳しいというほどじゃないな…。


※ ワインの産地的には、上記のように分かれるらしい…。




※ ビザンツ帝国とフランク王国(西ヨーロッパの代表)の境界上に位置し、ビザンツ帝国が滅んだ後は、オスマン帝国(イスラム勢力)に対する防波堤の役割を果たした…、と言った感じか…。
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ホラーサーン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3





『ホラーサーン(ペルシア語: خراسان、英: Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィー・ホラーサーン州の州都となっている。』
『歴史
詳細は「en:Greater Khorasan」を参照中世では、ホラーサーンとは、中世イラン語で (khor+ ayan)「(イランから見て)陽の登るところ」を意味し、アムダリヤ川以南、ヒンドゥークシュ山脈以北の東イラン、北西アフガニスタン、南トルクメニスタンを含む地域に対する呼び名であった。だいたいにおいて、アトラク川、ムールガーブ川、ハリー・ルード川などの流域の肥沃なオアシス地帯を指した。ニーシャプール、メルブ、ヘラート、バルフの4つに区分され、この4つが主要な都市であった。
ホラーサーンは、古来より、北方遊牧民族が中央アジアから南下して、イラン、インドに入る通り道にあたっていた。そのため、現イランの領域を含め、この地域を領有する王朝にとっては、重要な防衛ラインであって、歴代の皇太子が太守に任ぜられるのがならわしになっているほどであった。また、地政学的に東西交通の主要幹線が貫く地域であって、「シルクロード」のイラン地方を通過する部分は「ホラーサーン街道」と呼ばれた。
サーサーン朝がイスラム帝国に滅ぼされると(651年)、ホラーサーンは急速にイスラム化し、この地域を治める総督府は、メルブ(のちにニーシャプール)に置かれた。ウマイヤ朝を覆してアッバース朝を建てさせた原動力はこの地域の人々だったと言われる。
9世紀以降、イラン系のターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝、ゴール朝[1]、テュルク系のガズニ朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝が興亡を繰り返した。
この間、ホラーサーンは、ペルシア文学復興の中心となり、諸都市は繁栄を極めた。
1220~22年にモンゴルによって蹂躙されると、メルブやバルフが再び復興しなかったほどの壊滅的な打撃を受けた。
一方、モンゴルの四ハン国のひとつ、イルハン朝で財政をつかさどったのは、経済について敏感なこの地方出身の貴族たちであった。
14世紀後半になると、ティムール帝国の支配下に置かれ、ヘラートは、ティムールの子、シャー・ルフの首都となり、15世紀には、イスラムの学術・文化の一大中心地となった。
16世紀、サファヴィー朝が、アムダリヤ川をウズベク族の南侵に対する防衛線とし、ホラーサーンを確保して、マシュハドをシーア派の聖地とした。 』カブール爆弾テロの背後と名指しされる「イスラム国ホラサン州」とはどんな組織か?
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/0827/10312722.html
『アフガニスタンからの脱出が続くカブール国際空港付近で26日(現地時間)、心配されていたテロ攻撃が起こった。米国高官は背後に「イスラム国家ホラサン州」(IS-K)がいるとの見通しを示した。
IS-Kは、イスラム教スンニ派極端主義武装団体「イスラム国家(IS)」のアフガン支部組織にあたる。「ISIS-K」、「ISIL-KP」などと呼ばれることもある。ホラサン(Khorasan)は、イラン東部・中央アジア・アフガン・パキスタンを含む旧地名でもある。
ISはシリアとイラク領土の相当部分を掌握した 米軍と国際同盟軍に押され、勢力が大きく弱体化した。その後、ISは他国へ進出したが、アフガンで2015年1月にIS-Kという組織をつくり、テロを繰り返してきた。
IS-Kは2019年8月、カブール西部の結婚式場で自爆テロを敢行し、63人の命を奪った。昨年11月には、カブール大学でも銃撃テロを主導し、20人余りを死亡させた。
同組織はタリバンと同じくスンニ派武装組織だが、タリバンが米軍と平和協定を締結したことに批判的な意見を示してきた。また、シーア派の対応で意見の食い違いを見せ、対立も増えていた。
彼らはタリバンがカブールを占領した際、アルカイダがお祝いのメッセージを送ったのとは対照的に、「米国と取引して、ジハード武装勢力を裏切った」とタリバンを非難していた。
IS-Kの現在の組織員規模につては、正確に知られていない。先月、国連安全保障理事会の報告書では、同組織の規模を「500人から数千人」と推定した。ロシアの駐アフガニスタン大使ドミトリー・ジルノフ氏はSNSを通じ、「アフガンには4000人のISテロ犯が活動中」と明らかにした。
2021/08/27 06:42配信 Copyright(C) herald wowkorea.jp 104 』







