ジャガイモ飢饉

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E9%A3%A2%E9%A5%89

 ※ これは、絶対読んでおいた方がいい話しだ…。

 ※ イングランドとアイルランドの相克、米国におけるアイルランド系移民の社会的な位置付け(ちなみに、JFKはアイルランド系だぞ…)…。ひいては、カトリック教徒の位置付けなどの背景ともなっているでき事だ…。

ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB

 ※ 胸くそ悪い話しだが、こっちも読んでおいた方がいい…。

 ※ 世界は、こういう話しで満ちている…。

〔「国民主権」というものの話し…。〕

※ 「民主主義」とは、統治される側の「国民」が、統治の決定過程に参加し、理念的には「最終・最高の国家意思決定権を持つ」とする政治システム、と言える…。

『国民主権( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%BB%E6%A8%A9
国民主権は、主権は国民にある、という思想であり、つまり国民が政治権力の源(拠り所)・責任主体であり、政府は国民の意思により設立され運営される機関であるとする思想・考えのこと。「主権在民」または「人民主権」ともいう。』

『概要
ここで言う「主権」とは、国政のあり方を最終的に決定することを意味する。

「国民主権」は、歴史的で多義的な概念であり、その時代、論者によって内容が異なる概念である。「主権在民」または「人民主権」ともいう。

「人民主権ないし国民主権」は、17~18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。「人民」と「国民」は、peuple プープルとnation ナシオン(フランス語の表記。英語ではpeopleとnation)という対立的な概念として図式化されることもある。

また「人民主権ないし国民主権」は、フランス、ドイツのほか、アメリカ合衆国[1]、日本(日本国憲法は「国民主権」を明記している) 他、多くの国家の現行憲法で採用されている。ただし、その内容は必ずしも同一ではない。

これらの国に対し、英国では「国会主権」がとられているが、政治的な主権は市民が有するとされている。』

『日本における国民主権
概略
日本では、日本国憲法前文と日本国憲法第1条が国民主権を定めている。日本の学説においては平和主義、基本的人権の尊重とともに三大原則の一つとされている。この憲法における国民主権は、個人主義と人権思想の原理に立脚する、とされている。

国民主権の下では、主権は国民に由来し、国民は選挙を通じて代表機関である議会、もしくは国民投票などを通じて主権を行使する。その責任もまた国民に帰趨きすうする。

歴史的にはかつて「必ずしも君主主権と相反するものではない」などともされていたが、日本国憲法下の学説では君主主権を否定する原理であるとするものが多い。

伝統的見解
日本国憲法の制定後、まもなく生じた尾高・宮沢論争を経て、国民主権とは、全国民が国家権力を究極的に根拠づけ正当化する権威を有すること(正当性の契機)に尽きるとの宮沢説が伝統的見解となった[6]。この見解は、国民主権を君主主権ないし天皇主権を否定する概念とする一方で、正当性の契機における「国民」は、国家権力を正当化し権威付ける根拠であるから、有権者に限定されず、抽象的な全国民を意味するとする。そして、その権威は国民に由来するが、権力は代表民主制に基づき、「国権の最高機関」である国会が行使すると解した上で、憲法上、要請される代表制は、選挙民の意思に拘束されない自由委任を前提とした「政治学的代表」を意味するとする。』

※ 「法的な概念」は、全てそうだが、特に「憲法における法的概念」は、「あいまいで」「はっきりとせず」「どうとでも解釈できるようなもの」が殆どだ…。

※ 当然だ…。「国家権力」発動の、「根拠」となり、その「正当性」を裏付けようとする「文書」だからな…。その時々、時代時代の権力闘争の「妥協の産物」だ、後々自分の陣営に都合がいい解釈の余地を残して作られる…。

※ 「国民主権だ!」「国家意思の最終的決定権は、国民にあるのだ!」と言ったとたんに、「国民って誰?」「オレも、国民だ!」「オレの意見を、国政に反映しろ!」「なぜ耳を貸さない!国民の声を、ないがしろにするのか!」という問題が生じる…(どっかの政党が、よく言ってる、よく聞く話しだな…)。

※ 「民主主義」とか、「国民主権」とかの根底には、「個人の尊重(国民一人一人が大切な存在で、国政の上で、尊重されるべき存在である)」という理念が横たわっている…。それを追求して、国民個人個人の利益をてんで勝手に追求することを許すと、その大切な存在であるはずの個人の生存・生活の基盤である、「国家システム」「社会システム」まで破壊してしまって、却って(かえって)、個人の尊重を傷つけてしまう結果となる…。大矛盾だ…。

※ それを「回避するための方策」は、「国民主権」と言いつつ、「国民」の意思が「直接流入することを、極力避ける」という、「国民主権の希薄化」策だ…。

※ 上記で紹介されている「尾高・宮沢論争」からも見てとれるように、国民主権とは、決して「個々の国民の意思が、現実に反映されるという力(ちから)がある」ということまで、保障するものではない…、とせざるを得ない…。

※ これまた、当然の話しだ…。個々の国民の「考えていること」「大切だと思っていること」「こうあって欲しいと思っていること」が千差万別、十人十色である以上、そういう人たち「全員」を「納得させ」「満足させる」現実解なんてものが、あるはずも無い…。

※ 現実の姿は、「そこそこな解決。」「まあまあ、手ひどく酷い事態ではない。」という辺りに、落ち着かざるを得ない…。

※ 「最大多数の、最大幸福」の追求という辺りに、ならざるを得ない…。

※ そしてまた、この「希薄化策」の現実の姿は、各国において、少しずつ異なったものとならざるを得ない…。

※ これまた、当然の話しだ…。

※ 各国は、それぞれ異なった歴史的背景、異なった民族構成、異なった「国民」の集合体だ…。「最大多数の最大幸福」を達成しようとするシステムのあり様は、そういう「国民の姿」を反映した、異なったものとならざるを得ない…。

※ 「欧米では…。」とよく言うが、「欧(ヨーロッパ)」と「英・米」では、はっきりと「法的な伝統」が異なる…。法体系も、「ローマ法」以来の「成文法」中心のやり方と、辺境だった「連合王国」(UKとは、「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」のこと。そう言うと、スコットランド人やウエールズ人が、「オレらは、ブリテン人じゃねえ。」って言うんだよ…。)とでは、相当異なる…。こっちは、「慣習法」「不文法」が中心のやり方となっている…。

七王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD

イギリスのカントリー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC

※ さらには、「英米」とひと括りにするが、「英」と「米」でも、異なる点が随分ある…。

※ これまた、当然だ…。「米」は、とにかく国土が「広大」だ…。東西に広大だから、「時間帯(タイム・ゾーン)」が3つもある…。国内で「時差」が公式に3つある国なんだよ…(こういう実情は、中国もロシアも同じだ…。似たような「システム」になっているんだろうと思う…)。

※ 大体、こんな風に領土を拡張してきた…。

※ そもそもの「建国の歴史」が、イギリスからの植民者(ピルグリム・ファーザーズが有名だな…)に始まっていることと、国土が「広大」で、各地域で気候・風土に違いがあることもあって、「各州」の独自性が強く反映される「システム」となっている(合衆国だしな…)。

※ 「不文法」「慣習法」という法体系は、そういう「異なった統治システム」の併存にとって、好都合なものでもあるわけだ…。

※ そういうことで、「西側民主主義国」と一括りにするが、その「民主主義」「国民主権」の現実のシステムは、随分と異なった姿をしているものなわけだ…。

※ そういうところに持って来て、建国の初期段階から、国土建設に「労働者」を使役した(公然と、「奴隷制」も採用されていた…)から、社会の内部にそういう存在も抱え込むことになってしまった…。

※ こうなると、ますます、「国政に参加できる「国民」って、誰?」「そういう資格の無い輩(やから)は、排除しなくちゃな。」という論が横行することになる…。

※ 「個人の尊重」「統治される側が、統治する体制に参画していくシステム」という言説や理念は、美しく、耳障りが良く、心地よい…。

※ しかし、その「実相」は、ドロドロとしていて、生臭く、人間の欲に塗れて(まみれて)いるものだ…。

欧州の歴史が大きく変わった 黒死病の後に起きたこと

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO59077960U0A510C2000000?channel=DF260120166526

 ※ 引用、転載に問題がある場合は、Word Press.comの方に連絡してください。

『1347年のある日、地中海の港に停泊した大型帆船から、歴史上最も危険な疫病の1つが解き放たれた。「黒死病」だ。

積荷や乗客に紛れて上陸したネズミたちには、病原菌をもつノミが付いていた。同じことがヨーロッパじゅうの港で繰り返された結果、1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病のパンデミック(世界的な大流行)は史上最悪の規模となり、ヨーロッパの人口の3分の1が命を落としたとされる。

黒死病の正体がアジアとヨーロッパで周期的に流行する腺ペストだったことに、ほとんどの歴史学者が同意している。腺ペストはペスト菌が引き起こす疾患で、6世紀にビザンチン帝国(東ローマ帝国)で大流行して2500万人の命を奪った「ユスティニアヌスの疫病」も同じものだった。

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猛スピードで広がり、膨大な死者をもたらした
14世紀の黒死病の後も大勢のヨーロッパ人がペストによって命を落とし、1665年の英国ロンドンでの流行は特に規模が大きかった。最後となる三度目のパンデミックは19世紀半ばに始まり、20世紀まで続いた。

中世ヨーロッパでは、赤痢、インフルエンザ、麻疹、そして非常に恐れられたハンセン病など、多くの伝染病が流行した。けれども人々の心に最も恐怖を与えたのは黒死病だった。ピーク時の数年間、黒死病は後にも先にもない速さで広がり、膨大な数の死をもたらしたのだ。

天使と聖ロクスの像(16世紀)。聖ロクスはペストからの守護聖人として崇められてきた(PHOTOGRAPH BY ERICH LESSING/ALBUM)
黒死病は、生き延びた人々の生活や意識を一変させた。農民も王子も同じように黒死病に倒れたことから、当時の文献には、黒死病の前では身分の差などなんの意味もないという思想が繰り返し登場する。

黒死病の原因についてはいくつもの説が提案されたが、そのほとんどが宗教や迷信を前提にしていた。占星術的な現象が黒死病の原因だとする人々もいたし、火山の噴火や地震などの自然現象により有毒ガスが発生したとする説もあった。科学的真実に最も近かったのは古代ギリシャ医学の「瘴気(しょうき)」に基づく説明だった。瘴気は、腐ってゆく物質から発生するという目に見えない「悪い空気」で、呼吸や接触により体内に取り込んでしまうと病気になるとされた。

ペスト菌の発見
こうした迷信的な説が完全に否定されたのは、三度目のパンデミックが起きたときだった。その頃には研究者は病原体を特定できるようになっていて、1894年に日本の北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンという2人の細菌学者が同時期にペスト菌を発見した。

のちにエルシニア・ペスティスと命名されたこの細菌は、ネズミなどの小型げっ歯類に寄生するノミによって媒介される。ノミの体内で増殖したペスト菌は、ノミが噛みついた際に相手の体内に送り込まれる。通常、ペスト菌はノミとげっ歯類の間を行き来するだけだが、一定の条件下では、ノミの宿主であるげっ歯類を皆殺しにしてしまい、ノミは別の宿主を探さざるをえなくなる。それが人間だ。ペストは動物から人間に伝染する動物由来感染症(ズーノーシス)なのである。

ヨーロッパでは膨大な人が黒死病で死亡したが、王族の犠牲者は比較的少なかった。1348年にアラゴン王ペドロ4世の妃レオノールが、1350年にはカスティーリャ王アルフォンソ11世がジブラルタル攻略中にペストの犠牲となった(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)

ペストが容易に広がってしまうのは、ネズミが人間の生活に引き付けられるからである。特に、納屋、製粉場、家庭にストックされている食料は、ネズミにとって魅力的だった。

ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく最初の症状が出る。症状が出て3~5日後には患者は死亡する。コミュニティーが危険に気づくのはさらに1週間後で、その頃にはもう手遅れだ。ペスト菌は患者のリンパ節に移行し、腫れ上がらせる。患者は嘔吐し、頭痛に苦しみ、高熱によりガタガタと震え、せん妄状態になる。

ペスト患者の首を締める死神。プラハの14世紀の写本より(W. FORMAN/SCALA, FLORENCE
リンパ節が腫れ上がるペストは「腺ペスト」と呼ばれる。しかし、これはペストの3つの病型のなかの最も一般的なものにすぎない。第2の病型である敗血症性ペストはペスト菌が血液中に入ったもので、皮膚の下に黒い斑点が現れ、おそらく「黒死病(Black Death)」という名前の由来となった。肺ペストでは呼吸器系がおかされ、患者は激しく咳き込むので、飛沫感染しやすい。中世には敗血症性ペストと肺ペストの致死率は100%だったと言われる。

「すぐに逃げろ」が拡散を助長
黒死病がヨーロッパのすみずみまで広がったきっかけは地中海沿岸の港と考えられているが、最初の大流行は黒海沿岸のクリミア半島の港町だった可能性がある。ジェノバの植民都市だったカッファ(現在のフェオドシヤ)だ。カッファは1346年にモンゴル軍に包囲されたが、当時、モンゴル軍の内部では黒死病が広まっていた。

カッファで流行したのは、モンゴル軍が黒死病で死んだ兵士の遺体をカッファの城壁内に投げ込んだためという言い伝えがある。実際には、モンゴル軍の戦列の間をうろちょろするネズミにたかっていたノミが市内にペスト菌を持ち込んだ可能性のほうが高い。市内に疫病が入ったことに気づいたジェノバの商人たちは大慌てでイタリアに逃げ帰ったが、一緒に疫病も持ち帰ってしまった。

黒死病がこれほど速く、広大な領域に広まったのはなぜか、歴史学者も科学者も不思議に思っていた。「これだけ速く広まったのは飛沫感染したからであり、主な病型は腺ペストではなく肺ペストだった」と主張する研究者もいる。しかし、肺ペストはむしろゆっくり広がる。患者はすぐ死に至り、多くの人に広めるほど生きられないからだ。

大半の証拠は、黒死病の主な病型は腺ペストであること、ノミだらけのネズミや旅人が船に乗ることで遠くまで広めたことを示している。海上貿易が拡大していったこの時代、食料や日用品は、国から国へと、どんどん長い距離を運ばれるようになっていた。これらと一緒に、ネズミや細菌も1日に38キロのペースで広まっていった。

交易路を介して、最初に感染が広まったのは大きな商業都市だった。そこから近隣の町や村へと放散し、さらに田舎へと広がった。中世の主な巡礼路も黒死病を運び、各地の聖地は、地域内、国内、国家間の伝染の中心地になった。

非常に寒冷で乾燥した地域では拡大はゆっくりになり、ついには足を止めた。おかげでアイスランドとフィンランドはほとんど影響を受けなかった。

プラハはボヘミア王国の首都だった。ボヘミア王国は南のバイエルン公国から広がってきた黒死病に苦しめられた(PHOTOGRAPH BY RAINER MIRAU/AGE FOTOSTOCK)
当時の町では「すぐに逃げろ、急いで遠くに行け、戻るのはあとにするほどよい」と言われていた。この助言にしたがって避難する余裕がある人々の多くが田舎に逃げたため、悲惨な結果になった。避難した人々もすでに感染していたり、感染者と一緒に旅をしたりしたため、自分たちが助からなかったばかりか、それまで感染者がいなかった遠隔地の村に病気を持ち込むことになってしまったのだ。

各地で社会が崩壊、そして
黒死病の犠牲者は膨大な数に上ったと推定されているが、具体的な数字については論争がある。パンデミック前のヨーロッパの人口は約7500万人だったが、1347年から1351年までの間に激減して5000万人になったと見積もられている。死亡率はもっと高かったと見る研究者もいる。

人口が激減したのは、黒死病に罹患した人々が死亡しただけでなく、畑や家畜や家族の世話をする人がいなくなり、広い範囲で社会が崩壊したからである。中世のパンデミックが終わったあとも小規模な流行は続き、ヨーロッパの人口はなかなか回復しなかった。人口増加が軌道にのってきたのは16世紀頃である。

大災害の影響は生活のあらゆる領域に及んだ。パンデミック後の数十年間は労働力不足により賃金が高騰した。かつての肥沃な農地の多くが牧場になり、村が丸ごと打ち捨てられることもあった。英国だけで1000近い村が消えた。地方から都市に向かって大規模な移住が起きたため、都市は比較的速やかに回復し、商業は活気を取り戻した。田舎に残った農民は遊休地を手に入れ、土地を持つ農民の権力が増し、農村経済が活性化した。

実際、歴史学者たちは、黒死病から新しい機会や創造性や富が生まれ、そこからルネサンスの芸術や文化や概念が開花し、近代ヨーロッパが始まったと主張している。

次ページでも、当時の欧州に暮らした人々が、どうこの疫病と向き合ったのかがうかがえる絵画をご覧いただきたい。

ピサの壁画『最後の審判』は、ペストの流行前に描かれた。その後、黒死病がピサの街に壊滅的な被害をもたらしたことを考えると、その鮮やかさがいっそう胸に響いてくる(PHOTOGRAPH BY ERICH LESSING / ALBUM)

15世紀の絵画の中で、黒死病に罪人(写真外)を狙わせる天使(PHOTOGRAPH BY PRISMA/ALBUM)

1348年5月14日、バルセロナのキリスト教徒が行っていた行進は、ユダヤ人居住区域の襲撃に変わった。虐殺のきっかけは、司祭がユダヤ人を非難し、水と食物に毒を混入して黒死病を引き起こしたと主張したことだった。ペストを口実に、ヨーロッパ各地のユダヤ人はしばしば激しい迫害を受けた(PHOTOGRAPH BY AKG/ALBUM)

地獄の業火に永遠に焼かれることを恐れ、多くの人が教会に寄付をするようになった。神の怒りを和らげようとする人々のおかげで教会の金庫は大いに潤った。また、黒死病からの守護聖人とされる聖ロクスや聖セバスティアヌスが崇拝されるようになった(PHOTOGRAPH BY AKG/ALBUM)

英国などで羊毛の取引がさかんになったのは、黒死病による被害のためである。労働力が不足し、生き延びた人々はより高額の支払いを求めるようになり、ヨーロッパの封建制度を脅かした(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)
(文 ANTONI VIRGILI、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 2020年5月4日付の記事を再構成]』

スターリングラード(※現ヴォルゴグラード)攻防戦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6 

※ 独軍の進路と、前線の推移の様子だ…。これを見ると、クリミア半島がいかに「要衝」であるかが、分かるな…。この地域に軍を送り、その「兵站」を担う…、となると、「黒海」を利用しての「舟運」ということになる。その場合、クリミア半島は、決定的に重要になる…。オレは、ロシアの黒海艦隊が「地中海」に出て行く…、という視点しか無かった…。しかし、「バクーの油田地帯」を防衛する(独軍も、その「油田地帯」を、取りに来た…。それと、この地域は、「一大軍需産業・工場地帯」だったらしい…)、となると、その戦略的な要衝なわけだ…。

※ 初期の段階では、独軍が優勢で、ほぼ市街地を占拠したようだ…。しかし、逆に、その占拠状態から身動き取れなくなったらしい…。

※ そこで、露軍が「大包囲作戦」に出たらしい…。その「身動きとれない」原因が、自分の撒いた種だったらしい…。というのは、「爆撃機」による「大爆撃」「絨毯爆撃」を敢行して、街を徹底的に破壊したらしい…。そしたら、その瓦礫の山のお陰で、ご自慢の「装甲機動兵団」の機動力が、全く使えない状態になったらしい…。それで、「歩兵」「狙撃兵」などによる、「叩き合い」「白兵戦」ということになったらしい…。「装甲機動兵団」は、「市街戦」には、あまり有用でない…、という戦史に残る前例となったらしい…。

『スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 – 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。』

『スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。

緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている[5]。

死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。』