東南アジアの王朝史

東南アジアの王朝史
http://myasia.world.coocan.jp/OhtyoShi.htm

『(1) はじめに

 東南アジアには、アンコールワット、バガン、ボロブドール、アユタヤ、スコータイ、チャンパなど多数の遺跡がある。これらの遺跡を造った王朝の栄枯盛衰について考察する。 

(2) 海のシルクロードによる東南アジアでの国家形成

 紀元前後になると、インド人の航海者たちは、地中海地方の国が買い上げてくれる黄金、香料などを得るために、モンスーンを利用して東南アジアの群島部(現在のインドネシア、マレーシア)に来航していた。

 一方、中国人商人は、絹や黄金を持って、東南アジアを経て南インドに向かい、帰りには宝石やガラス製品を持ち帰った。

 このため、南インド、ベンガル湾、マラッカ海峡、インドシナ半島の湾岸に沿って海のシルクロードが完成していた。

<8世紀から9世紀頃の東南アジア>

 インド、東南アジア及び中国を結ぶ海上交易ルート(海のシルクロード)の途中に位置する現在のベトナム南部に、各地の港湾都市の連合体のようなチャンパ(2世紀末~17世紀)が興った。

 7世紀頃になると、東南アジアに来航したインド人航海者たちは、帰航のため又は中国に向かうためのモンスーンの時期が到来するまで、東南アジアに滞在する必要があった。
このため、居住用の設備、食料、物品の入手や、自分たちを警護してもらう目的で、現地の首長たちと結びついた。

 そのうち、富や武力などの支配力に抜きんでた首長が現れ、ついに、インドネシアのジャワ島にシャイレーンドラ朝(750年~832年)が成立した。

 シャイレーンドラ朝はジャワ島に大乗仏教の遺跡であるボロブドゥールを建造した。

 また、7世紀頃になると、帆船(ダウ)が大型化したため、インド人航行者は中国の絹織物などを求めて、マラッカ海峡を通過し、中国に向かうようになった。

 このため、マラッカ海峡の周辺のところどころに、モンスーン待ち、物産の集積、真水の補給などの要求を満たす機能を備えた都市国家が誕生した。

 このようにして、インドネシアのスマトラ島に、海のシルクロードの中継基地としての役割を担うシュリヴィジャヤ王国(7世紀半ば~9世紀)が登場した。

 なお、シャイレーンドラ朝とシュリヴィジャヤとの関係については、同一の国家であるか異なる国家であるかよく分からない。

(3) 中国南部からインドシナ半島にかけての民族の大移動

 7世紀頃から、中国の南部の人口が増加したため、中国南部に住んでいた、クメール人、ヴィエトナム人、ビルマ人、タイ系諸族の人々が、民族毎に時代を異にしながら南下した。

前アンコール朝(~802年)

 クメール人は、チャンパサック地方(現在のラオス南部でワット・プー遺跡の近く)に国家を建てたが、統一と分裂が繰り返された。
 
ピュー人国家(~832年)

 ビルマ人は、多数の村落を造り、村毎に精霊信仰「ナッ」を祀っていた。多数の村落をまとめ上げた王は、ポッパ山にナッ信仰の総本山を建てたが、832年頃に消滅した。

<11世紀頃の東南アジア>

(4) 群島部の衰退

 中国において勢力を誇っていた随・唐帝国が907年に滅び、中国が分裂すると、海のシルクロードを航行する船が減少したため、港湾都市国家は衰え始めた。

 そこに、926年ムラピ火山が大噴火を起こしたので、ジャワ島にあったシュリヴィジャヤ王国は完全に崩壊した。また、ボロブドールも19世紀まで火山灰の下に眠る。

(5) 半島部の繁栄

ヴィエトナム(李朝)
(1009年~1225年)

 中国南部から南下してきたヴィエトナム人は、中国の影響下で国家を存続させていたが、李朝は中国から独立した安定王朝を築いた。

バガン朝(1044年~1299年)

 9世紀前半にピュー人国家が忽然と消滅した後、ビルマ族による最初の統一国家であるバガン朝が興った。

 バガン朝は、王都バガンにおいて極めて多数のパゴダ(仏塔)と寺院を建てた。

アンコール朝の勃興及び隆盛
(802年~1432年)

 ジャヤバルマン2世は、802年に群雄割拠状態の国内を統一してシェムリアップ近郊のアンコールに王朝を興した。

 アンコール朝の歴代の王は、勢力範囲をインドシナ半島(現在のカンボジア、タイ及びラオス南部)に拡げると共に、アンコール・ワットやアンコール・トムなどの寺院を次々に建設した。

<13世紀頃の東南アジア>

(6) 半島部における栄枯盛衰

 アンコール朝の衰退

 アンコール朝は、雨期にメコン川を流れてくる多量の水をトンレサップ湖及び巨大な貯水池に貯えると共に、灌漑用水路網を完成させたため、この周辺では1年に3回も田植えができたので繁栄した。

 灌漑とは、泥土を含む水が土壌を再生させる働きであるが、シェムリアップ近傍は高低差が少ないため、多量の沈殿物が貯水池や灌漑用水路に堆積してしまう。

 このため、堆積された沈殿物を取り除く保守作業が必要になるが、年月の経過と共に多量の沈殿物が堆積し、ついに貯水池や灌漑用水路の保守作業ができなくなって、アンコール朝は衰退していく。

スコータイ朝
(1220年~1438年)

 アンコール朝の勢力が衰えると、現在のタイ国領内では、タイ系民族がスコータイを占拠して、タイ人最初の国家であるスコータイ朝を興した。

<14世紀頃の東南アジア>

(7) 半島部における大変動
 13世紀後半になると、中国の元朝(モンゴル)がインドシナ半島に対して数回にわたって軍事行動を起こした。

 ヴィエトナムは持ちこたえたが、多数のパゴダや寺院の建設により財政が疲弊していたバゴン朝は滅ぼされてしまった。

 アユタヤ朝
(1351年~1767年)

 現在のタイ国領内では、元軍の攻撃を受けたスコータイ朝が衰退し、代わりにアユタヤ朝が興った。

 アユタヤ朝は、チャオプラヤー川など河川の交通の要衝に建国されたため、貿易を通じて繁栄し、1432年には、ついにアンコール王朝を壊滅させた。』

生来の決意作戦

生来の決意作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%9D%A5%E3%81%AE%E6%B1%BA%E6%84%8F%E4%BD%9C%E6%88%A6

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Nuvola apps important yellow.svg

この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。

生来の決意作戦
Hires 141019-N-HD510-062a.jpg
イスラム国爆撃のため空母から発進するアメリカ空軍のF/A-18F戦闘機。
戦争:生来の決意作戦
年月日:2014年8月 ~ 継続中[1]
場所:イラクやシリア等中東諸国[2]。
結果:イスラム国の弱体は進んでいるが、作戦自体は継続中[3]。
交戦勢力
Seal of Combined Joint Task Force – Operation Inherent Resolve.svg有志連合 ISIL(イスラーム国)の旗 イスラム国
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 バラク・オバマ
アメリカ合衆国の旗 ドナルド・トランプ
アメリカ合衆国の旗 ジョー・バイデン
ヨルダンの旗 アブドゥッラー2世 ISIL(イスラーム国)の旗 アブー・バクル・アル=バグダーディー †
ISIL(イスラーム国)の旗 アブイブラヒム・ハシミ †
ISIL(イスラーム国)の旗 アブハッサン・ハシミ †
ISIL(イスラーム国)の旗 アブフセイン・フセイニ

戦力

空爆8289回[4] 最盛期3万3000人[5]

損害

米兵8人以上戦死[6]
ヨルダン軍パイロット拘束・虐殺[7] 指導者ら急襲・殺害
組織弱体化[8]

シリア内戦

    ホムス ドゥーマ ロジャヴァ革命 ホウラ虐殺 アレッポ ダマスカスの火山とシリアの地震 グータ ラッカI ラッカII コバニ 生来の決意 パルミラ ラマダン攻撃 イドリブⅠ ロシア軍による空爆 ロシア軍爆撃機撃墜事件 ラタキアⅠ ラタキアⅡ ユーフラテスの盾 ユーフラテスの怒り イドリブⅡ カーン・シェイクン シャイラト オリーブの枝 カイラ・ミューラー 平和の泉 ダルアー

表示

生来の決意作戦(せいらいのけついさくせん、英語: Operation Inherent Resolve)は、2014年8月に開始されたアメリカ合衆国を中心とする多国籍軍によるイスラム過激派組織・イスラム国に対する軍事作戦。当初はイラクやシリア国内に限定しており、その内容もイラク軍やクルド人部隊の地上勢力支援や救援物資の搬入を目的とした限定的な作戦行動であったが、次第に作戦の範囲が拡大しイスラム国撃滅作戦へと発展。アメリカ軍やイギリス軍などがイスラム国の支配地域で連日空爆を行っており、かつては中東全域を支配線とする勢いであったイスラム国も現在ではかなり弱体化しているとされる。Inherent Resolveは固有の決意、確固たる決意、不動の決意とさまざまに訳されるが、生来の決意が最も一般的である[9]。

経緯

ISILの敵対国家
生来の決意作戦統合任務部隊参加国
その他の対立国
2015年末のISIL最大勢力範囲

フセイン政権崩壊後の2006年頃、イラクの聖戦アル=カーイダ組織を元に誕生したイスラム過激派組織・イスラム国は次第に勢力を広め、2014年に入った頃にはイラクやシリアなど中東諸国の政治的混乱に乗じてこれらの国の大部分を制圧し、支配下に置いた。その上イスラム国は子供に対する人身売買や生き埋め[10]、イラク北部の少数民族であるヤズィーディーの人々に対する虐殺や強姦・売春[11]、9歳以上の女性や少女を拉致して強姦し自殺に追い込む[12]、さらには誘拐した14歳の少女を集団で強姦した上その様子を少女の携帯電話で親に聴かせる[13]、ヨルダン軍のパイロット・ムアズ・カサースベに対しては生きたまま火を放って焼き殺す[14]など、残虐行為を行った。

2014年8月、アメリカ合衆国はイスラム国殲滅作戦の開始を宣言。イスラム国が残虐行為を行ってきた支配地域に空爆を開始した。なお、イスラム国は周辺のイスラム世界の国々やイスラム教徒からも激しく嫌悪されており、もはや彼らはイスラム教徒ですらない単なる残虐な犯罪組織であると認識されていたため多くの国々も軍を派遣してイスラム国を殲滅せんと団結し、連合作戦を着実に遂行した[15]。その結果イスラム国の支配地域はその90%が多国籍軍や地元の義勇軍によって解放され、2017年頃にはその「疑似国家」は事実上崩壊。残虐な人権蹂躙を繰り返してきたイスラム国は、最後には世界中を敵に回して崩壊したのであった[16]。

2014年

1月26日 - コバニ包囲戦が開戦。
8月7日 - フランスの求めにより国連安保理の緊急会合が非公式で開催。過激派組織ISILによる攻撃で、危機に直面しているイラクを支援する呼び掛けが行われる。同日、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領がISILに対する限定的な空爆を承認。
8月8日 - アメリカ中央軍がイラク国内のISILの拠点に対して空爆を開始。以後、フランス、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンも作戦参加表明。
8月25日 - バラク・オバマ大統領がアメリカ軍によるシリア上空での偵察飛行を承認した[17]。
9月19日 - 国連安保理は、全会一致でISILの壊滅に向けて対策強化を求める議長声明を採択した[18]。また、同日、フランス軍はイラク北東部のISILの補給所に対して、初の空爆を実施した[19]。
9月23日 - 空爆対象区域をISILの活動範囲に合わせてシリアにも拡大[20]。
9月25日 - ベルギーとオランダが作戦参加表明。
9月26日 - 有志国としてイギリス、デンマークが参加表明。ギリシャも参加の意向が伝えられる[21]。
9月27日 - ヨルダンが作戦参加表明。
10月7日 - カナダ国会が作戦参加を決議。
10月9日 - オーストラリアが参加。同国空軍のFA-18が初空爆。
10月12日 - トルコがアメリカと有志連合に対し、インジルリク空軍基地の使用を承認。
10月15日 - 作戦名「生来の決意作戦」を公式発表。作戦内容は軍事のみではなく外交や諜報、経済などの手段も使うことを言及[22]。
10月23日 - シリア国内への空爆1ヶ月間の死者数が、ISIL戦闘員を中心に553人に達する。
11月8日 - イラクのモスル近郊の爆撃により、ISIL指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーが死亡または負傷したと報じられたが[23]、ISILは11月13日に音声を公開し死亡報道を打ち消した[24]。
12月24日 - 空爆に参加していたヨルダン軍のF-16が墜落(ISIL側は撃墜を主張)し、パイロット1人がISILに拘束された[25]。パイロット拘束の後から、ヨルダンとアラブ首長国連邦は空爆作戦への参加を停止している[26]。

2015年

ジャスティン・トルドーは2015年カナダ総選挙で勝利した後、電話でバラク・オバマに米国主導の対ISIL空爆からの漸次撤収を伝達。カナダ空軍のジェット戦闘機CF-18 ホーネットを中東から撤収させる意向を示した[27]。具体的撤収時期を設定することは避けた。北イラクにいる約70のカナダ特殊部隊のミッションについては継続させる。トルドーは約3500万人のカナダ人の代表として、我々は戻ってきたのだというメッセージになると述べた[27]。
1月26日 - コバニ包囲戦が終結。
2月3日 - ISILが、拘束していたヨルダン軍パイロットを焼死させる映像を公開。ヨルダン政府では、1月3日に殺害されたことを確認しているという[28]。この映像の公開を受け、ヨルダン軍はISILに対する空爆を再開した[29]。しかし、アラブ首長国連邦は空爆をまだ停止しており、再開の条件として、新型輸送機オスプレイの作戦への投入など、米軍が態勢を強化することを提示している。
4月8日 - カナダ空軍のCF-18AがシリアのISIL拠点を初空爆。
5月16日 - 米軍特殊部隊が同組織で資金源である原油・ガス取引などを指揮していた幹部、アブ・サヤフ (ISIL)(英語版)を殺害したと発表[30]。人質救出作戦以外ではシリアで初の地上作戦となった[30]。
8月21日 - アメリカ軍が空爆で、当時ISナンバー2であったファディル・アフマド・ハヤリ(英語版)幹部(旧イラク軍中佐)を殺害したと発表[31]。
8月24日 - アメリカ軍がISの「首都」ラッカに空爆を行った際、ジュネイド・フセイン(英語版)幹部を殺害したと明らかにした[32]。同幹部は世界各地でテロをおこす「一匹オオカミ」型のテロ要員確保を担っており、米軍や政府の関係者約1300人の個人情報をネット上に公開し、彼らを襲撃するよう呼びかけていた[32]。
8月28日 - トルコ軍がシリアのISIL拠点を初空爆[33]。
9月27日 - フランス大統領府が、フランス軍がシリアのISILの拠点に対して初めて空爆を行ったことを発表した[34]。
9月30日 - ロシア軍がシリア国内のISIL拠点への空爆開始。
10月7日 - ロシア海軍がカスピ海からシリア国内のISIL拠点への巡航ミサイル攻撃を実施。
10月22日 - イラク北部のキルクーク県で米軍特殊部隊がペシュメルガとの共同作戦により、ISIL拠点からのイラク人救出作戦に成功。戦死1名。
11月15日 - フランス軍がシリア国内のISIL拠点への空爆再開。
11月27日 - ドイツが作戦参加表明。
12月2日 - イギリス議会はイラクで実施している空爆をシリアへ拡大するよう求める動議を賛成多数で可決し承認した[35]。翌日に空爆を始めた[35]。
12月3日 - イギリス軍がシリア国内のISIL拠点を初空爆。
12月29日 - イラク政府軍がイラク西部・アンバル州の州都ラマディを奪還。

2016年

偵察任務に就いているドイツ空軍のトーネードがソフトウェア・アップデートを行ったが、これにより操縦室補助照明の照度がパイロットの視力に影響を与えるほど上がり、ドイツ空軍は夜間作戦を中止している[36]。
2月 - 米軍特殊部隊がISIL幹部Sleiman Daoud al-Afari(化学兵器部門)を拘束。 

3月24日 - 米軍特殊部隊が行った急襲作戦で、当時IS組織ナンバー2であったアブドルラフマン・ムスタファ・カドゥリ(英語版)財務大臣が死亡したと発表した[37][38][39][40]。

3月14日、米軍の空爆によりアブオマル・シシャニ(英語版)戦争大臣(元グルジア軍司令官)が死亡したと発表した[41][42][43][44]。
6月27日 - 米軍主導の有志連合から援護を受け、イラク軍が西部の都市ファルージャを奪還。

2017年

1月 - 米軍特殊部隊がISIL幹部アブ・アナス・アル=イラク(財務部門)を殺害。
6月18日 - シリア北部タブカ南郊の上空でアメリカ海軍空母ジョージ・H・W・ブッシュ所属のFA-18がアサド政権軍のSu-22戦闘爆撃機を撃墜した。有志連合が支援する「シリア民主軍」の戦闘員らが展開している地域を政権軍が空爆したため、交戦規定に基づき集団的自衛権を適用した[45]。この月、有志連合はこれ以外にも8日と20日にもアサド政権側の武装無人機を撃墜している[46]。ロシアは19日、有志連合によるシリア軍機撃墜に強く反発し、シリアを飛行する有志連合の軍用機や無人機を「防空システムの標的とし、ロシア軍機を同伴飛行させる」と発表した。オーストラリアはロシアのこの措置を受け、当面の間シリア空爆を見合わせることを発表している[45]。
7月10日 - 米軍主導の有志連合から援護を受け、イラク軍がモスルを奪還。
10月17日 - 米軍主導の有志連合から援護を受け、イラク軍がISILの「首都」ラッカを奪還。

2019年

3月23日 - 「シリア民主軍」がISIL最後の拠点だったシリア東部のバグズ町を完全に制圧したと発表。
5月31日 - 連合軍の攻撃による過失で少なくとも1302人の民間人が死亡したと、認めさらに111人の民間人が犠牲になったとみて、調査を進めている。[47]。
10月17日 - シリアのクルド人民兵組織「シリア民主軍」が対ISIL作戦を停止。
10月26日 - 米陸軍特殊部隊がISILの拠点を襲撃し、最高指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディー殺害に成功[48]。
詳細は「カイラ・ミューラー作戦」を参照
10月31日 - バグダーディーの後継者としてアブイブラヒム・ハシミが選出。

2020年

3月17日 – 米政府がISILの新指導者、アミル・モハメド・アブドル・ラーマン・マウリ・サルビ(Amir Mohammed Abdul Rahman al-Mawli al-Salbi)容疑者を国際テロリストに指定。
3月31日 – ドイツ空軍がトーネードECRが同作戦任務を終了したと発表。
5月10日 – フランス空軍ラファールB2機が「シャマール作戦(opération Chammal)」でイラクにあるISIL拠点を空爆。
5月17日 – 米軍とシリア民主軍の共同作戦によりシリア東部のデリゾール県でISIS幹部のアフマド・イサ・イスマイル・アズ・ザヴィとアフマド・アブド・ムハメッド・ハザン・アリ・ジュガイフィを殺害。
6月1日 – イラクのムスタファ・カディミ首相の指示により、キルクーク県南西部で対ISIL『イラクの英雄』作戦が開始された。』

インドの古典文明

第1節 インドの古典文明
https://y-history.net/wh_note/note_0201.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『ア.インドの風土と人びと

※インド世界=南アジア 現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、ブータン、
  スリランカなどを含む。北側にヒマラヤ山脈、南部にインド洋が広がる。

※北部のa アーリヤ 文化圏と南部のb ドラヴィダ 文化圏に分かれる。
 さらに、多くの民族、言語、宗教が共存している。

※気候:c モンスーン 気候帯 雨期と乾期がある。夏は南西風、冬は北東風が卓越する。
Text p.59

インダス文明 (緑色部分がインダス文明遺跡の分布範囲)

インダス文明地図

  インドの重要地名
  a インダス 川
  b ガンジス 川
  c パンジャーブ 地方
  d カイバル 峠
  e ハラッパー 
  f モエンジョ=ダーロ 
  g ドーラーヴィーラー 
  h ロータル 

イ.インド文明の形成

A インダス文明  前2300頃 a インダス川 流域に都市文明成立。

・主要遺跡 b モエンジョ=ダーロ  中流のシンド地方(パキスタン)
      c ハラッパー  上流のd パンジャーブ 地方(パキスタン)
     他に ロータル ・ ドーラーヴィーラー (いずれもインド西部)などがある。
・人種 e ドラヴィダ人 (イラン方面から移住したものと思われる) 説が有力。
・特徴 都市計画:特にf 沐浴場 (宗教的沐浴に使用)などの煉瓦造りの都市を建造。
    農業:大麦・小麦を常食とする(保存用の穀物倉)。綿花を世界で最初に栽培。
    文字の使用:象形文字をg 印章 に使用=hインダス文字 は未解読である。
    土器の使用:ろくろを使用したi 彩文土器 。

インダス文字

b モエンジョ=ダーロ 出土の
牛の印章。上部は未解読の文字。

 補足 メソポタミア文明との関係

B 前1800年ごろ 衰退
・インダス川流域の都市文明が急速に衰える。原因は不明。→ 補足
・インダス文明の意義:a インド文明の源流 となる。
  ※後のインドの主要な宗教となるb ヒンドゥー教 の主神シヴァ神の原型や、
   神聖視される牛の像などが見つかっている。

ウ.アーリヤ人の侵入とガンジス川流域への移動

A アーリヤ人 の侵入 前1500年頃 西北からカイバル峠を越えa パンジャーブ 地方に侵入。

  b インド=ヨーロッパ 語族。部族単位の半農半牧生活を営む。牛を神聖な動物とする。

 自然崇拝:雷、太陽などにささげた賛歌と儀礼を記した聖典をc ヴェーダ という。
 その最古の賛歌集がd 「リグ=ヴェーダ」 (前1200~1000年頃までに作成)

Text p.60

B ガンジス川流域への移動   前1000年頃、a 鉄製 の農具・武具の使用。
   →b ガンジス川 流域に進出。生産力が高まり、定住農耕社会を形成。

  その過程で、階級が形成され、固定された身分となる。

C カースト制社会の成立   アーリヤ人の征服過程で形成された身分制度。
・a ヴァルナ制 :「色」を意味し、「種姓」と訳す。次の4つの基本身分からなる。
  支配階紋  b バラモン :司祭      c クシャトリヤ :武士
  生産階級  d ヴァイシャ :農民・牧畜民  e シュードラ :隷属民
  → 後に商業の発達、人口の増加に伴い被差別民であるf 不可触民 が生まれる。
 ・それに伴う変化 d ヴァイシャ は次第にg 商人 を、
          e シュードラ は次第にh 農民・牧畜民 を指すようになった。
・i カースト集団 (インドではj ジャーティ と言われる)の形成:
  意味=k 信仰や職業で結びついた世襲的な集団。 
  → 結婚や食事などの日常的な交際が制限された。
・l カースト制度 :ポルトガル人が4種姓を、「血統」を意味するカスタと呼んだことに由来する。
  現在では4種姓を意味するa ヴァルナ制 と、血統集団であるj ジャーティ が
  結びついて形成されたインド独特の社会制度を指している。
  → 現在は法律で禁止されているが、さまざまな影響を残している。

D ヴェーダ時代  前1200年ごろ~前6世紀ごろまで
・アーリヤ人の宗教=a バラモン教 
 司祭者b バラモン が祭礼などの儀式を司る。
  → ヴァルナとジャーティによる社会秩序と結びついて権威を持ち祭政一致の政治を行う。
  = c ヴェーダ が創られた時代の意味でヴェーダ時代という。
補足 インドの言語
Text p.61

エ.都市国家の成長と新しい宗教の展開

A 都市国家の成長    前6世紀 経済の中心がガンジス川中・下流域に移る。

・ガンジス川流域に、城壁を持つ都市国家が成立。
 ラージャ(王)が支配する16ヶ国に統合される。

・前6世紀 a コーサラ国 が有力となる。続いてb マガダ国 が台頭。
  → クシャトリヤ(武士)やヴァイシャ(商人)の台頭 → バラモンの権威の動揺。

B 仏教 の成立 前6~5世紀 a ガウタマ=シッダールタ が始める。
・b シャカ 族のクシャトリヤ出身。
  形式化したバラモン教の儀式やヴェーダ祭式、ヴァルナ制などを否定し人間の解放を目指す。
  煩悩を断ち、正しい修行を行うことによって輪廻転生から解脱し、生老病死の苦しみから
  逃れると教え、さらに人間の平等と慈悲の心を説いた。悟りを開き、c ブッダ と言われる。
 → クシャトリヤとヴァイシャに多くの信者を得る。


C ジャイナ教 の成立 前6~5世紀 a ヴァルダマーナ が始祖。
・インド北東部のクシャトリ出身。悟りを開いてマハーヴィーラ(偉大な勇者の意味)と言われる。
  仏教と同じく、バラモン教の祭式やヴェーダ聖典の権威を否定
 → 徹底した不殺生主義と厳しい戒律を定める。 → 商人層に信者を得る。

D バラモン教の改革   a ウパニシャッド哲学 の成立(「奥義書」の意味)。
   従来の祭式至上主義を改め、内面の思索を重視。
 補足:生物はその行為によって永久に生まれ変わりを繰り返す(輪廻)が、宇宙の根源を意味する
 ▲b ブラフマン (梵=普遍)と生命の根源を意味するc アートマン (我=自己)
  を一致させること(梵我一如)によって、精神の自由を得て輪廻から解脱することが出来る、と説く。

E ヒンドゥー教 の萌芽 バラモン教に民間信仰が融合し、仏教・ジャイナ教の影響も受ける。
  ヴェーダの神々にかわり、シヴァ神やヴィシュヌ神を主神とするようになる。
  → 4世紀のグプタ朝時代までにE ヒンドゥー教 が形成される。(後出)

オ.統一国家の成立

A アレクサンドロス大王の侵入  
・前327年 インド北西部のインダス川流域に侵入。
 インダス川流域にギリシャ系政権が成立。
 ガンジス川流域ではa マガダ国 がb ナンダ朝 のもとで有力になる。
 → インド統一の契機となる。

Text p.62

B マウリヤ朝  の統一。
・前317年頃、マガダ国でナンダ朝に代わりa チャンドラグプタ王 となる。
 都b パータリプトラ (現在のパトナ)。
 → インダス流域に進出。ギリシア人勢力(c セレウコス朝シリア )を一掃し、
   パンジャーブ地方から現在のアフガニスタン南西部まで支配を及ぼす。
 ▲宰相カウティリヤには『アルタ=シャーストラ』(実利論)が残されている。


C アショーカ王   前3世紀半ば マウリヤ朝の最盛期となる。
・a デカン高原 の東南部、カリンガ国を征服。 
 → 最南端部を除くインドア大陸のほぼ全域を支配。
・征服戦争の殺戮を反省し、b 仏教 を篤く信仰するようになる。
 → c ダルマ (法)による統治に転換する。
・全土にd 磨崖碑 ・e 石柱碑 をつくり勅令を刻む。サールナートのものが有名。
 = 多くはブラーフミー文字が用いられ、周辺部ではその地域の文字が使われている。
・第3回目のf 仏典結集 を援助。
・g ストゥーパ(仏塔) を各地に建立(代表例がサーンチー)。
・インド西北部や、h スリランカ などに仏教を伝える。
 → 官僚組織・軍隊の維持のための財政困難、バラモン層の反発などにより衰退。

アショカ王石柱
サールナートのe 石柱碑 。

マウリヤ朝と仏教

マウリヤ朝仏教地図 マウリヤ朝までの仏教関係の重要地名
 (b~eは仏教の4大聖地)
a パータリプトラ 
b 悟りをひらいたブッダガヤ
c 生まれたカピラヴァストゥ
d 入滅したクシナガラ
e 最初の説法をしたサールナート
f ストゥーパのあるサーンチー
● g 磨崖碑 の分布

■ h 石柱碑 の分布

サーンチーのストゥーパ
  サーンチーのg ストゥーパ(仏塔) 

カ.クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝

A ヘレニズム  の影響
 前2世紀、a バクトリア からギリシア系勢力が侵入、ヘレニズム文化をもたらす。
 → 前2世紀後半、ギリシア人の王▲メナンドロス、北西インドを支配。

・イラン系遊牧民の侵入

・前2世紀中ごろa 大月氏 (イラン系か)、匈奴に追われ西方に逃れる。
  → アム川上流に国家建設。 → バクトリアに侵入、トハラを征服。

・前1世紀 中央アジアのイラン系遊牧民の▲サカ族、大月氏に押され北西インドに移住。

 同じくイラン系のパルティアもイラン東部からインド西部に侵入。
Text p.63

・紀元後1世紀 b クシャーナ人 (イラン系か)、はじめ大月氏の支配を受ける。
  → 自立してバクトリアを支配。さらに西トルキスタンからインド北西部を支配。

B クシャーナ朝   現在のアフガニスタン、パキスタン、インド北西部を支配。

・2世紀中頃 a カニシカ王 のとき、全盛期となる。
  → 仏教(この頃成立したb 大乗仏教 )を保護。仏典結集を続ける。
  c ガンダーラ 地方のプルシャプラ(現ペシャワール)が都。
  d ローマとの交易 が盛んになる → 大量の金貨の鋳造。

C 大乗仏教 の成立 クシャーナ朝時代の仏教の革新

 紀元前後、a 大乗仏教 が起こる。大乗とは大きな乗り物の意味。
  その教義:b 個人の救済に留まらず、広く衆生を救済することをめざす。 

 2~3世紀 ▲c ナーガルジュナ(竜樹) が理論を確立。
   → 中央アジア → 中国 → 朝鮮・日本に伝わり、北伝仏教とも言う。

 大乗仏教側は、従来の個人の救済を目的とする仏教を蔑称としてd 小乗仏教  と呼んだ。
   = 最も保守的な長老を意味する部派の名から、e 上座部 仏教とも言う。
   → スリランカで発達し、11世紀に東南アジアに広がり、南伝仏教という。
Text p.64

 大乗仏教の運動の中から、出家をせずに修行するf 菩薩信仰 がひろまる。

・補足:仏教経典の言語

D ガンダーラ美術   a ヘレニズム の影響のもと、ギリシア彫刻に似せて、
   b 仏像 をつくるようになる。(本来は仏教も偶像崇拝は否定されていた。) 
   ▲バーミヤン仏教遺跡も有名。インド独自のマトゥラー美術も存在した。
   → 大乗仏教とともに中央アジアを経て中国・日本に伝わる。 

3世紀 西方のササン朝ペルシアの侵入を受け、衰える。北インド分裂。

★補足 南インド 前1世紀~後3世紀

 デカン高原:a サータヴァーハナ朝  ドラヴィダ系アーンドラ族の王朝。
       都プラティシュターナ(現パイタン)

  ・アーリヤ文化を受容し、バラモン教・仏教・ジャイナ教が広まる。

 インド南端:ドラヴィダ系b タミル人 の国家
        チョーラ朝・パーンディヤ朝・チェーラ朝の三国家が存在(後出)

・インド洋交易圏 これらの南インド諸国は、ローマ帝国とのc 季節風貿易 を行う。
  → インドからは香料や象牙など奢侈品が輸出され、ローマからは金貨がもたらされる。

クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝 (緑色部分がクシャーナ朝、点々部分がサータヴァーハナ朝)

マウリヤ朝仏教地図

  両朝の都と仏教関係の重要地名
  (グプタ朝以降に続く)
  a プルシャプラ 
  b プラティシュターナ 
  c アジャンター 
  d エローラ 
  e マトゥラー 
  f カナウジ 

キ.インド古典文化の黄金期

A グプタ朝  4世紀 ガンジス中・下流から興り、北インドを支配。
  最初の王チャンドラグプタ1世、「大王の王」を称す。都はパータリプトラ。
  中央の直轄領・地方の臣下の領地・周辺の属領からなる分権的統治が特徴。
  バラモンをふたたび重用 バラモンのことばのa サンスクリット語 を公用語とする。
  → 王から徴税権を認められた村落を領主として支配。

B ヒンドゥー教 の定着 バラモン教から発展し、仏教などの要素も取り入れる。
・三大神 ブラフマー神(創造神)・a シヴァ神 (破壊神)・b ヴィシュヌ神 (世界維持神)

 特色 ・c ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三大神を中心とした多神教である。 
    ・d 特定の教祖、教義・聖典が無い。 
    ・e カースト制度とともに長くインド人の社会の土台となっている。 

・補足:その他の特徴

Text p.65

・f 『マヌ法典』  前2世紀~2世紀に編纂。4ヴァルナなどの守るべき規範を定めた。
・サンスクリット文学  二大叙事詩 g 『マハーバーラタ』 ※・h 『ラーマーヤナ』 ※※
  ※この一部の『ヴァガバッド=ギーター』は後に特にて重んじられる。
  ※※コーサラ国の王子ラーマを主人公とする英雄叙事詩。

  宮廷詩人i カーリダーサ の書いた戯曲『シャクンタラー』。

・医学・数学・天文学などの発達、十進法・j ゼロの概念 など。
 → ササン朝を経てイスラム世界に影響を与え、さらにヨーロッパに伝えられる。

・美術 k グプタ様式  仏像彫刻を中心とした美術様式。
  代表例 l アジャンター石窟寺院  デカン高原西北部に造営された。
  特色 m ヘレニズムの影響を受けたガンダーラ様式から脱しインド文化の独自性を強めた。 
 → 日本の法隆寺金堂壁画(7世紀の白鳳文化期)にも影響が見られる。

・補足:仏像彫刻の変遷

C チャンドラグプタ2世   4~5世紀初め グプタ朝の全盛期となる。
 → 地中海方面・西アジア・中国を結ぶ経済活動活発になる。大量の貨幣が造られる。
・中国の東晋の僧a 法顕 がインドを訪問。中国で超日王として知られる。

  ローマ帝国衰退 → 交易の衰退 → 遊牧民のb エフタル が西北から侵入 →
  さらに地方勢力が台頭し、6世紀半ばに滅亡する。

D ヴァルダナ朝  7世紀初めa ハルシャ王 が起こし、北インドを支配。都はカナウジ。 
・支配層ではヒンドゥー教が有力であったが、仏教とジャイナ教もともに保護される。
Text p.66

  → 中国の唐と交渉が盛んになる。

・唐僧の渡来
 7世紀前半 b 玄奘 が来てc ナーランダー学院 で学ぶ。『大唐西域記』を著す。
 7世紀後半 d 義浄 インドを訪れ、『南海寄帰内法伝』を著す。

・王の死(647年)の後、分裂し衰退、地方政権が乱立する。

・ビザンツ帝国、ササン朝の衰退 → 交易の減少 → 商業活動の不振 → 都市が衰退。

5~7世紀のインド

5~7世紀のインド
  A グプタ朝 の領域
  B エフタル の進路と最大領域
  C ヴァルダナ朝 の領域

 重要地名
  a パータリプトラ 
  b カナウジ 
  c マトゥラー 
  d サーンチー 
  e アジャンター 
  f エローラ 
  g サールナート (ベナレス)
  h ナーランダー学院 

E 仏教 の衰退
 大乗仏教の中にヒンドゥー教の影響を受け、▲a 密教 が生まれる。

・6世紀、南インドにヒンドゥー教のb バクティ運動 おこる。
  = c 最高神に対する愛を込めた絶対的な帰依(献身)を説くヒンドゥー教の改革運動。 
 → 仏教やジャイナ教を激しく攻撃し民衆に受け入れられる。14~15世紀には北インドに広がる。

 → 仏教は、ベンガル地方の地方政権(パーラ朝)のもとで最後の繁栄期を迎えるがその後衰退。

・解説:インドでの仏教衰退の要因と背景

F▲ ラージプート時代 
・北インドでの、ヴァルダナ朝滅亡後の8~13世紀のデリー=スルタン王朝成立までをいう。
 a ラージプート とは、サンスクリットの王子の意味。クシャトリヤの出身と称するカースト集団。
  → いくつもの勢力に分かれ、互いに抗争をくり返す。

    この間、北西からb イスラーム勢力のインド侵攻 が始まる。

★補足 ▲8~10世紀 ヴァルダナ朝滅亡からイスラーム化するまでの北インド

 ・北インド西部 8世紀から、プラティーハーラ朝(都カナウジ):ラージプート諸国の一つ。
  → 10世紀以降はチャーハマーナ朝が支配。

 ・北インド東部のベンガル地方 c パーラ朝 :非ラージプート。
  → ナーランダ僧院を復興するなど仏教(密教)を保護した最後の王朝となる。

ク.南インドの王朝

8~10世紀 a ドラヴィダ人 系のb タミル人 が独自な世界を形成。
  タミル語の文芸活動(サングム)が盛んであった。

・c バクティ運動 も吟遊詩人の活動によって南インドに広がる。
 タミル商人、東南アジアから中国に進出、香辛料貿易を展開。

・▲デカン高原
 6世紀中ごろ、チャールキヤ朝:ドラヴィダ系王朝。ハルシャ=ヴァルダナの南進軍を阻止。
 → 8世紀中ごろ、ラーシュトラクータ朝:エローラ石窟寺院の開削。
 → 10世紀中ごろ、再びチャールキヤ朝が栄える。

・インド最南端地域
 ▲パッラヴァ朝:3~9世紀 南部東岸を支配、北のチャールキヤ朝と争い、南のチョーラ朝に滅ぼされる。

 d チョーラ朝 :前3~13世紀 ドラヴィダ系タミル人の国家。
  → 10~11世紀に全盛期となり、シュリヴィジャヤ王国に軍事遠征、中国(宋)に使節を派遣。
 ▲チェーラ朝:前3~13世紀 タミル人国家。インド南端西岸のケーララ地方に存続。
 ▲パーンディヤ朝:前3~14世紀 タミル人国家。マウリヤ朝に併合されず。
  → 紀元前後にはローマとも交易。14世紀、北インドのイスラーム教国ハルジー朝に滅ぼされる。

・▲セイロン島(現スリランカ)
 アーリヤ系のe シンハラ王国 が14世紀ごろまで存在。
 → 上座部仏教を受容、発展させる。インド洋交易で活躍。
 → 後にタミル人が移住、シンハラ人との対立起こる。 → 現在のタミル人問題につながる。』

インドの歴史

インドの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
NoFonti.svg

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年6月)

ポータル 歴史学/東洋史

モエンジョ・ダーロ遺跡
インドの歴史(インドのれきし、History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について略述する。

インダス・ガンジス文明

インダス文明

詳細は「インダス文明」を参照

紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あり、Iravatham Mahadevanが紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説(Dravidian hypothesis、南インドのドラヴィダ系の民族)を提唱したが、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラ(英語版)が支持し、研究は振り出しに戻っている[1]。

パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、ウルを始めとしたメソポタミアの諸都市と交流していた[2]。

焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった[3]。

この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、アハール・バナス文化(英語版) (Ahar-Banas culture)、マールワー文化(英語版) (Malava Kingdom, Malwa culture)、ジョールウェー文化(英語版) (Jorwe culture) などがその例として挙げられる。

これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となったギリシャ・サントリーニ島のミノア噴火)などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない[† 1]。

前期ヴェーダ時代

カイバル峠

詳細は「ヴェーダ」を参照

インド・アーリア人は、紀元前1500年前後に現在のアフガニスタン・バクトリアから北西インド(現在のパキスタン)に移住したと考えられているが[5]、インドの伝承では移動に関して何も記していない。

『リグ・ヴェーダ』によれば、その後、バラタ族・トリツ族など諸部族の間で戦争が勃発した(十王戦争)。

バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる[6]。

バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。

こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。
また、バラタ族と先住民族のプール族の混血も進んでいった(クル族の誕生)。

『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにヴェーダの宗教が初期バラモン教としてインド化していった。

後期ヴェーダ時代とガンジス文明

十六大国

十六大国の位置

詳細は「十六大国」を参照

紀元前1000年頃より、バラタ族はガンジス川流域へと移動した。

そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。

また、この時代に鉄器が導入された。鉄器による農耕技術の発展と、それに伴う余剰生産物の発生によって、徐々に商工業の発展も見られるようになった。

農作物としては、それまで栽培されていた大麦に加え、ガンジス川流域では米が作られた。さらに、小麦の栽培も開始された[7]。

ヴェーダ祭式文化を拠り所とした社会は拡大を続け、現在の東インド、ビハール州にあたる地域にまで広がった[8]。

一方で、ヴェーダ祭式文化の拡大は、旧来の政治勢力・伝統的祭式観の影響力低下をもたらした。

北インドでは諸勢力が台頭し、十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。

『マハーバーラタ』によると、紀元前950年頃にクル族の子孫であるカウラヴァ王家が内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北して衰退していった[9]。

こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた[10]。

十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった[9]。

十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝のダレイオス1世のインド遠征 (en:Iranian invasion of Indus Valley) によって支配されるようになり[11]、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。

ウパニシャッド哲学と新宗教

詳細は「ウパニシャッド」、「仏教」、「ジャイナ教」、「枢軸時代」、および「六師外道」を参照

紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。

ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中でバラモンが凋落すると、それに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。

こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下にマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教が、それぞれ創始され当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生し、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。

ペルシャとギリシャの征服

詳細は「アケメネス朝」、「Greco-Buddhism」、「アレクサンドロス3世」、「ナンダ朝」、「Gangaridai」、「グレコ・バクトリア王国」、「インド・グリーク朝」、および「マッロイ戦役」を参照

紀元前330年頃には、インド北西部にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)が進出し、ナンダ朝マガダ国(後述)に接触していた[12]。

古代インドの諸王朝

マウリヤ朝マガダ国のインド統一

詳細は「マウリヤ朝」を参照

マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破することで決着した。紀元前4世紀後半、ナンダ朝マガダ国をチャンドラグプタが打倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝マガダ国が成立した。

王位を息子のビンドゥサーラに譲ったチャンドラグプタはジャイナ教徒になったといわれている。

紀元前3世紀のアショーカ王の時代にマウリヤ朝は最盛期を迎えた。

南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。

しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。

その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。

クシャーナ朝

ガンダーラの仏頭(2世紀)
詳細は「クシャーナ朝」および「ガンダーラ」を参照

マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。

この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。

この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。

サータヴァーハナ朝と古代交易網

詳細は「サータヴァーハナ朝」を参照

2世紀になると、南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。

南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。

このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。

なお、エジプトのギリシア系商人が著した『エリュトゥラー海案内記』は、当時の季節風貿易の様子を知る貴重な史料とされている。

大乗仏教のおこり

頭上にナーガをいただくナーガールジュナ(龍樹)

マトゥラー出土の弥勒菩薩像(2世紀、ギメ東洋美術館)
詳細は「大乗仏教」を参照

マウリヤ朝の崩壊からグプタ朝の成立までの時期の北インドは、政治的には混乱していたが、文化的には仏教やバラモン教の教義が発展し、すぐれた彫刻の生まれた時期でもあった。

西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。

また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教のもとが形成された。

仏像彫刻では、上述のガンダーラのほか、マトゥラーではインド様式による製作がなされるようになった。

二大叙事詩と『マヌ法典』

『マハーバーラタ』より「クルクシェートラの戦い(英語版)」
詳細は「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」、「マヌ法典」、および「ヤージュニャヴァルキヤ法典」を参照

この時期はまた、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた時代でもあった。

マハーバーラタは史上最大の規模をもつ壮大な叙事詩であり、ともに後世のインドのみならず東南アジアにも広がって多大な影響をあたえた。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられている。

ダルマ・シャーストラで最も重要なものとされる『マヌ法典』は2世紀ころまでに成立したとみられ、バラモンの特権的地位を規定したほか、4ヴァルナの秩序が定められた。

現代のインド人の生活のみならず、その精神にまで深く根ざしており、その影響力は計り知れない。これもまた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』と並んで、東南アジア世界に大きな影響をおよぼした。

インド古典文化の完成
Question book-4.svg

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)

グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立

アジャンター石窟寺院の壁画
詳細は「グプタ朝」を参照

4世紀前半、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、4世紀後半から5世紀にかけて北インドを統一した。

チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットが公用語に定められた。

4世紀から5世紀にかけてのこの時代は、インド古典文化の黄金時代とされる。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガ・ドゥータ』などの作品を残した。

また、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。

いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀にはナーランダ僧院が建てられ、インドはもとより東南アジアやチベットなどの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。

医学・天文学・数学なども発展した。「ゼロ」を発見したのも、古代インド人だといわれている。

グプタ朝は、5世紀以降「白いフン族」と呼ばれたエフタルの中央アジアからの侵入に悩まされ、6世紀半ばには滅亡へと追い込まれた。貴族や都市民の寄進などによって成り立っていた仏教教団は、グプタ朝の弱体化・分権化にともなってその保護者を失っていった。

ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来

ナーランダ僧院跡
詳細は「ヴァルダナ朝」、「プラティーハーラ朝」、「ハルシャ・ヴァルダナ」、「ラージプート」、「チャンデーラ朝」、「カジュラーホー」、および「ジャーティ」を参照
「玄奘」も参照

6世紀後半の北インドは政治的分裂の時代にあったが、7世紀初頭になってハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が現れ、カナウジを都としてヴァルダナ朝を創始した。

ハルシャ王は、仏教とヒンドゥー教を保護し、地方有力者には領土を封ずるかたちでの統治を推進し、また、カナウジはその後北インドの政治の中心となって発展した。

ハルシャ王の時代、唐僧の玄奘がインドに訪れ、ナーランダ僧院で教典研究にいそしみ、多数の仏典を持ち帰ってその後の漢訳仏教の基礎が固められた。

ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦解し、これらの古代王朝の後、7世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。

義浄が訪れたのも分裂時代のインドであった。ラージプートは、中央アジア方面から北西インドに侵入した異民族の子孫だといわれている。

かれらは軍事的にすぐれ、各地を支配し、その下に大小領主層がいて、地主や農民を支配した。

プラティハーラ朝がそのなかで最大のもので、イスラム勢力の侵入を11世紀初頭まで食いとめたことで知られる。

また、10世紀から12世紀頃にかけてチャンデーラ朝の歴代君主は、世界遺産にもなっているカジュラーホーの寺院群を建設した。

こうしたなかで職能集団が形成され、それぞれ世襲化されるようになり、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立していったとみられる。

南インドの諸王朝

マハーバリプラムの「石彫寺院」(ラタ)、7世紀
詳細は「前期チャールキヤ朝」、「パッラヴァ朝」、「ラーシュトラクータ朝」、「チョーラ朝」、「エローラ石窟群」、および「パッタダカル」を参照

武勇をほこったハルシャ王も、デカン高原を本拠とするチャールキヤ朝にだけは敗れ、南インド進出は阻まれた。

6世紀から8世紀にかけての前期チャールキヤ朝には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマーディティヤ2世などの君主が現れ、とくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著で、チャールキヤ朝のさらに南にあってそれと対峙したタミル人王朝パッラヴァ朝の建築は高水準をほこった。

パッラヴァ朝時代の建築としてはマハーバリプラムの建造物群が著名で、その技術はヴィクラマーディティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられ、首都バーダーミ(英語版)や「戴冠の都」パッタダカルに数多くの寺院建築を生んだ。

前期チャールキヤ朝は封臣の1人であったダンティドウルガに王位を追われ滅亡、ダンティドウルガはラーシュトラクータ朝を創始し、プラケーシン2世の弟から分かれた東チャールキヤ朝と対峙した。

ダンティドウルガには子がなかったため、叔父のクリシュナ1世が継ぎ、エローラ石窟群のカイラーサナータ寺院を建設した。

いっぽう、パッラヴァ朝もさらに南方にあったパーンディヤ朝と抗争し、台頭するチョーラ家などとも合従連衡を繰り返したが、最終的にはヴィジャヤラーヤ創始のチョーラ朝によって滅ぼされた。

北インドのイスラーム化と南インド

ガズナ朝・ゴール朝の侵入

詳細は「ガズナ朝」および「ゴール朝」を参照

10世紀後半、中央アジアにあったイラン系王朝サーマーン朝のテュルク系マムルークであったアルプテギーンがアフガニスタンで自立してガズナ朝を建て、しばしば北インドへ侵入してパンジャーブを領有した。

ガズナ朝にかわり台頭したイラン系のゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図って北インドのラージプート諸王国の連合軍と対峙した。連合軍は、内部の結束が整わず、大敗した。

デリー・スルターン朝

クトゥブ・ミナール(インド最古のミナレット、13世紀)
詳細は「デリー・スルターン朝」を参照

いっぽう、ゴール朝のマムルークであったアイバクは、ゴール朝の軍とともに北インドにとどまり、1206年にデリーに都をおいて奴隷王朝を建てて自立した。これより約300年間、デリーを都としたムスリム5王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルターン朝と称する。

デリー・スルターン朝の5王朝、すなわち奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝の君主はいずれもスルターンの称号を用い、デリーに都を置いたため、デリー・スルターン朝と総称される。

5王朝は北インドをあいついで支配し、特に14世紀初頭のハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーと14世紀前半のトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクの治世には、デカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。

最後のローディー朝のみアフガン系であるが、他はいずれもトルコ系である。こうしたなか、ティムール軍が1398年にデリーに侵入している。

この時代の北インドでは、インド在来の社会組織を利用して統治する現実的な方法がとられ、イスラームへの改宗が強制されることはなかったが、イスラーム神秘主義者スーフィーの活動などもあって、都市を中心に徐々にイスラームが普及していった。

南インドのヒンドゥー諸王国

詳細は「チョーラ朝」および「パーンディヤ朝」を参照

一方で南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のヒンドゥー王国チョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。

11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。

チョーラ朝は12世紀末に再建されたパーンディヤ朝(後期パーンディヤ朝)によって13世紀後半に滅ぼされた。

ヴィジャヤナガル王国

ハンピのヴィルーパークシャ寺院
詳細は「ヴィジャヤナガル朝」を参照

その後、一時、北インドのデリー・スルターン朝の勢力が南下し、南インドの王朝は次々と滅ぼされたが、1336年ハリハラとブッカの兄弟がヴィジャヤナガル(ハンピ)に都にトゥグルク朝から独立した。

これ以降、14世紀前半から17世紀半ばにかけて、サンガマ朝(1336年 – 1486年)、サールヴァ朝(1486年 – 1505年)、トゥルヴァ朝(1505年 – 1569年)、アーラヴィードゥ朝(1569年 – 1649年)と4つのヒンドゥー王朝が繁栄し、これを総称してヴィジャヤナガル王国と呼んでいる。ここでは、北インドとは対照的にヒンドゥー文化の隆盛と爛熟がみられた。ハンピの都市遺跡などが当時の繁栄ぶりを今日に伝えている。

ヴィジャヤナガル王国はトゥルヴァ朝のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世に最盛期を迎えたが、その死後、1565年ターリコータの戦いでムスリム5王国に敗れ、衰退の道へと向かった。

しかし、アーラヴィードゥ朝のヴェンカタ2世は同国最後の名君であり、外敵と戦い、国の領土と勢力回復に尽力したが、1614年彼の死後に王国は瓦解した。

デカンの諸王国

北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、1347年トゥグルク朝の臣下であった地方長官が自立し、バフマニー朝を建国して、ムスリム政権を成立させた。

その後、バフマニー朝は2世紀近く存続したのち1527年に滅び、その領土にはベラール王国(イマード・シャーヒー朝)、ビーダル王国(バリード・シャーヒー朝)、アフマドナガル王国(ニザーム・シャーヒー朝)、ビジャープル王国(アーディル・シャーヒー朝)、ゴールコンダ王国(クトゥブ・シャーヒー朝)の5つの王国が割拠する形となり、これらはデカン・スルターン朝と呼ばれる。

デカン・スルターン朝は当初互いに他国と領土を争い、南のヴィジャヤナガル王国もこれらに関与したが、やがて5王国は同盟を結んで、1565年ターリコータの戦いで連合軍はヴィジャヤナガル王国の軍を破った。

しかし、その後は再び争うようになり、ベラール王国、ビーダル王国は他国に滅ぼされ、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国はムガル帝国に滅ぼされた。

バクティ信仰とシク教の創始

アムリトサルの黄金寺院
詳細は「シク教」を参照

やがて北インドでは都市と商工業が発展し、ムスリム商人の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な一神教の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心にバクティ信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむグル・ナーナクによってシク教が創始された。

ポルトガルとスペイン

1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。

しかし、1580年スペイン王フェリペ2世によりポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。

ムガル帝国

Question book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)

タージ・マハル(アーグラ)
詳細は「ムガル帝国」を参照

1526年から1858年までの332年間は、バーブル以来の王朝が統治するムガル帝国の時代であった。

ムガル帝国の成立と隆盛

詳細は「バーブル」、「アクバル」、および「シャー・ジャハーン」を参照

16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、最後のデリー・スルターン朝であるローディー朝の君主イブラーヒーム・ローディーをパーニーパットの戦い(1526年)で破ってデリー入城を果たし、ムガル帝国を樹立した。

その孫にあたる3代皇帝のアクバルは、アフガニスタンから北インドにかけての広大な領域を支配してアーグラに都を遷し、アンベール王国の君主でヒンドゥー教徒のビハーリー・マルの娘と結婚し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒との融和を図るためにヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止するとともにザプト制という定額地租制度を導入して、帝国財政を安定させ、マンサブダーリー制を確立させて統治機構の整備にも努めた。アクバル治下のインド社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発におこなわれた。

17世紀前半の5代シャー・ジャハーンの時代に帝国はもっとも繁栄し、ムガル文化は最盛期をむかえ、アフマドナガル王国を滅ぼしその支配領域はデカン方面にもおよんだ。デリーに再遷都され、首都デリーには居城デリー城(赤い城)、旧都となったアーグラには亡き妻の霊廟タージ・マハルが建設された。

文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラーム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。ヒンディー語文法にペルシア語・アラビア語の単語を取り入れたウルドゥー語が成立したのも、この時代であった。

ムガル帝国の衰退

詳細は「アウラングゼーブ」および「マラーター王国」を参照

17世紀後半になると、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラーム教スンナ派に基づく統治を行い、ジズヤ(人頭税)を復活したためにヒンドゥー教徒の支持を失い、デカン高原のマラーター族もシヴァージーを中心に1674年にマラーター王国を形成したのをはじめ、各地で反乱が勃発した。

アウラングゼーブはシヴァージーの死後、デカン地方に大軍を以て南下した(デカン戦争)。彼はビジャープル王国、ゴールコンダ王国を滅ぼし、マラーター王国を南に押し返し、その死までにムガル帝国の最大領土を獲得した。

だが、1707年にアウラングゼーブが死ぬと、その悪政の結果、帝国は衰退にむかった。帝国は混乱し、ことに1719年は何人もの皇帝が入れ替わり、政治的混乱の極みに達した。

1708年、マラーター王国がマラーター同盟として再建され、1737年には王国宰相バージー・ラーオに率いられた軍勢がデリーを攻撃するまで勢力を拡大した。

英蘭の南インド進出

マドラスのセント・ジョージ要塞(18世紀末ころ)
詳細は「イギリス東インド会社」および「オランダ東インド会社」を参照

17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。1612年にはオランダ東インド会社がチェンナイの北プリカットに商館を構えていたが、1623年、英蘭両国が東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されたかたちとなってインドへの進出を推し進めた。

1639年、イギリス東インド会社はチェンナイの領主であったヴァンダヴァーシの知事からプリカットとポルトガルの根拠地サン・トメ要塞の中間にあたるチェンナイの地を取得し、その地をマドラスと称して1640年にはセント・ジョージ要塞を建設した。いっぽうのオランダは1651年にポルトガル領コロンボ(セイロン島)を支配、1663年にはインド南部のコーチンに進出した。

英仏の進出と植民地抗争

プラッシーの戦い
詳細は「第2次百年戦争」を参照

インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が勃発、オランダは北米大陸とともにインドでも根拠地を失っていった。

イギリスはマドラスに続き、1661年ボンベイ(ムンバイ)、1690年カルカッタ(コルカタ)を獲得、一方、フランスも徐々にインド進出を図り、コルベールがフランス東インド会社を再建、1673年シャンデルナゴル、1674年ポンディシェリーを獲得した。

利害が対立した英仏両国は18世紀になると、新大陸と同様にインドでも抗争を続け、1757年、ベンガル地方のプラッシーにおいて、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社がベンガル太守軍とフランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。

イギリスによる蚕食とインドの貧困化

対英戦争に一生を費やし『マイソールの虎』と怖れられたティプー・スルターン
詳細は「マイソール戦争」を参照

18世紀後半、七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。

1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は打撃を受け徐々に衰退していく。

しかし、19世紀半ばになりジャムシェトジー・タタによって近代的な綿業がインドでも勃興しはじめる。

資本金100万ルピーでボンベイにスワデシ・ミルを設立。この会社は従来のインドの機械製綿工業が国内市場向けの低級綿布と中国市場向けの綿糸の生産に特化してきた慣例を打破し、イギリスが独占的に手がけてきた上級綿布の生産にインド人経営企業として初めて参入した点で画期的であった。

さらに、1793年のザミーンダーリー制、19世紀前半のライーヤトワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。

19世紀に入ると、イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大させインドや中国と独占貿易を行った。イギリス東インド会社活動停止後の19世紀後半には、灌漑事業よりも鉄道建設事業を最優先とした。当初これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く、軌道の幅もまちまちで欠損が多かった。開発資金として、インド帝国の税収やロンドン市場の鉄道公債をもとに投資されたが、これから得られる利益の多くはイギリス本国に流出した。

イギリス植民地時代

詳細は「イギリス領インド帝国」を参照

1858年から1947年まで、イギリスによる植民地化からインド・パキスタン分離独立までの89年間は、イギリス人総督を機軸とするイギリス領インド帝国の時代である。

インド大反乱と英領インド帝国の成立

『インドのジャンヌ・ダルク』ラクシュミー・バーイー
詳細は「インド大反乱」を参照

こうしたインドの困窮化と経済的従属化に対し、イギリス支配に対する不満は各地で高まり、1857年、デリーに近いメーラトの兵営でシパーヒーが蜂起すると、それは全インドにひろがるインド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。

徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。インド帝国は直轄領と藩王国から成っていた。

インド国民会議派の成立
詳細は「インド国民会議」を参照

イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。

インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。
国民会議は当初、年末の4日間ほど活動するものであったが、やがてインド人の地位向上をめざす政治運動を開始した。国民会議派の中心を占めたのはヒンドゥー教徒の知識人・官吏・地主など比較的めぐまれた階層の人びとが多く、その主張や活動は穏健なものであった。彼らはサティーなど古い因習を廃止してインドの近代化を推進しようとした。そのため、イギリスも円滑な統治の安全弁としてこれを活用した。

国民会議派の急進化と全インド・ムスリム連盟

全インド・ムスリム連盟初代総裁アーガー・ハーン3世
詳細は「全インド・ムスリム連盟」を参照

しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、1905年の日露戦争における日本の勝利、同年のベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まり、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。

とくにベンガル分割令は過激な民族運動をひきおこし、1906年のカルカッタ大会ではボイコット(英貨排斥)、スワラージ(民族独立)、スワデーシー(国産品愛用)、民族教育の急進的な4大綱領が採択された。

こうしたなか、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。

ムスリム連盟は、人口でヒンドゥー教徒に対し劣位にあるイスラーム教徒の政治力が国民会議派の運動によってさらに弱まると考えて分割支持にまわった。しかし結局、1911年には分割令は撤回された。

2度の世界大戦とインド

ローラット法とアムリットサル事件
詳細は「ローラット法」および「アムリットサル事件」を参照

1907年にタタ鉄鋼が興り、国内産業は発展し工業大国化に至る。

しかし、第一次スワラージ運動に端を発し、財政自主権獲得の要求が高まっていく。

第一次世界大戦に際して、イギリス本国は英領インド帝国から2個師団100万人以上の兵力を西部戦線に動員[要検証 – ノート]し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。

この頃から、英領インド帝国の植民地的財政負担は頂点に達し財政状態は窮迫した。

1919年、インド統治法によって財政改革を行い、植民地制度のもとで部分的地方自治制は承認される。

しかし州政府は財政困難に陥り、第二次スワラージ運動が起きる。

それはまたウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて反英抗争に発展した。

イギリスはこれに対し、1919年3月に出版物の検閲、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を認めるローラット法を制定して、反英抗争の弾圧を強化した。

同年4月、この法に対する抗議のため集まった非武装のインド人に対して、グルカ族からなるインド軍治安部隊が無差別射撃するアムリットサル事件が起き、独立運動は新しい段階に入った。

ガンディーの登場
詳細は「マハトマ・ガンディー」を参照

マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。

ガンディーによって1919年4月によりはじめられた非暴力・不服従の運動(サティヤーグラハ)は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。

数百万の人びとがデモや集会に参加し、多くの地方では商店も店を閉じ、交通機関もとまった。

ガンディーは、サティヤーグラハ運動を指導し、インドの各階層の人びとをイギリス製品排斥や地税不払いなど多様な反英運動に組み入れていった。

他方、全インド・ムスリム連盟は同じイスラーム国家であるオスマン帝国との関係を強化しながら反英闘争をおこなった。

プールナ・スワラージと塩の行進

塩の行進
詳細は「塩の行進」を参照

1929年、ラホールでひらかれた国民会議派大会(議長: ジャワハルラール・ネルー)では、ガンディーやネルーの指導のもと、プールナ・スワラージ(完全独立)を決議され、その後も粘り強く反英・独立運動が展開された。

1930年3月、ガンディーは「塩の行進」を開始した。

イギリスは塩を専売とし、貧しいインド民衆からも搾取していた。「塩の行進」は、それに対する抗議であり、海水から塩をつくることを反英独立運動のシンボルとして、アフマダーバードからダンディの海岸までの360 km を29日かけて行進したものである。

このような第2次非暴力・不服従運動に対し、イギリスは民族運動の指導者を英印円卓会議にまねいて懐柔をはかったが、成功しなかった。

1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めた。その後、国民会議派と全インド・ムスリム連盟との対立は深まった。

チャンドラ・ボースとインド国民軍

詳細は「スバス・チャンドラ・ボース」および「インド国民軍」を参照

第二次世界大戦では、国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも生まれた。

インド国民軍は、日本軍が1942年に英領マラヤやシンガポールを占領した後、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。

エリック・ホブズボームは、インドの独立を、ガンジー・ネルーらの国民会議派による独立運動よりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、英国領インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたとしている[13]。

また、日本に亡命していたA.M.ナイルやラース・ビハーリー・ボースら独立運動家の存在もあり、イギリスに代わってインドを占領した日本軍はインド人を丁重に扱ったという[誰によって?]。

第二次世界大戦後

Question book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)

詳細は「第二次世界大戦後のインド」を参照

インドは第二次世界大戦終結の2年後の1947年に立憲君主制のインド連邦として独立した。1950年に共和制に移行し、以降はインド共和国という独立した共和制国家の時代である。

分離独立と戦後インド憲法の制定

初代インド首相ネルー(1920年の写真)

1945年9月2日に第二次世界大戦が終わった結果、疲弊したイギリスは、植民地を手放す事態に陥った。

しかし、インド内のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラーム教国家のパキスタンとの分離独立(インド連邦)となった。

イスラーム教徒との融和を説き、分離独立に反対したガンディーは1948年1月、狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺された。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任し、政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図った。

1950年に共和制へ移行。1946年12月発足の制憲議会が1949年11月26日にインド憲法を公布、それを受けて1950年1月26日に施行された。

以後この1月26日は「共和国記念日」として連邦首相が主催し、8月15日は「独立記念日」として大統領が祝賀する慣例となった。

戦後インド憲法に書かれた正式国名の英語表記は”Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic”となっており、そこでは社会主義共和国が志向されている。

戦後インド憲法では、カーストによる差別も否定された。

憲法前文では、インド国民が主権を持つ民主共和国を実現する決意を明らかにし、公民すべてが社会的・経済的・政治的な正義、思想・表現・信条・信仰・崇拝の自由、地位・機会の平等を確保し、個人の尊厳と国家の統一をもたらす友愛を促進することを規定している[14]。

非同盟主義

詳細は「平和五原則」および「非同盟」を参照

ネルーは5か年計画による重工業化を推進し、対外的には冷戦下にあっても両陣営に属さない非同盟の立場をとった。

ネルーは1954年、中華人民共和国の周恩来との間で、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存から成る「平和五原則」をまとめた。

こうしてネルー以後、冷戦時代のインドは、アメリカ型政治体制にも共産党体制も採らない、中立非同盟諸国家の中心となった。また、冷戦下のインドでは、長期に亘ってインド国民会議派が政権を担った。

印パ戦争と中印国境紛争

詳細は「印パ戦争」および「中印国境紛争」を参照

パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題をめぐって第一次印パ戦争(1947年 – 1948年)と第二次印パ戦争(1965年 – 1966年)が起こり、東パキスタン(現在のバングラデシュ)を原因として第三次印パ戦争(1971年)が起こっている。両国の対立は現在も続いており、1999年にはカシミールのカルギル地区でパキスタン軍と反インド政府活動家が管理ラインを超えてインド軍駐屯地を占領し、両軍が衝突するカルギル紛争(英語版)が起こっている。

また、中華人民共和国とは国境の解釈をめぐって1959年から1962年まで武力衝突が続いたが、人民解放軍が優位に戦闘を進めた。領土問題では、冷戦が終わった現在でも緊張状態が続いている。

核大国化

中ソ対立によって中華人民共和国が核武装すると、国境紛争を抱える戦後インドも、1974年に地下核実験を行って核保有を宣言、世界で6番目の核保有国となった。

2006年7月9日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」(射程3,500キロメートル)の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。

国内政局の変換

インディラ・ガンディーとニクソン米大統領
詳細は「インドの歴代首相」および「インドの大統領」を参照

1964年にネルーが死去すると、国民会議派のラール・バハードゥル・シャーストリーの短期政権を経て、1966年にはネルーの娘インディラ・ガンディーが長期政権を担った。

ところが、長期に亘って議会の多数派を占めてきた国民会議派は地方政党の台頭によって政権基盤が動揺し、1977年の選挙では大敗して、ジャナタ党に政権を譲った。

1980年、インディラ・ガンディーが政権に返り咲いたが、1984年暗殺され、後継したインディラの息子ラジーヴ・ガンディーが政権を担った。

しかし、彼もまた、辞職後に暗殺されるという悲劇に襲われた。国民会議派の政権は続き、1997年には、不可触民カースト出身のコチェリル・ラーマン・ナラヤナン大統領が誕生した。

1990年代よりヒンドゥー至上主義の立場をとるインド人民党がアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(バジパイ)らの指導のもと勢力を伸ばし、1998年から2004年まで政権を獲得した。

2004年5月から2014年5月までは国民会議派でシク教徒のマンモハン・シン、2014年5月以降はインド人民党のナレンドラ・モディが首相を務めている。

BRICsの一角

アジア最古の歴史をもつボンベイ証券取引所
詳細は「インドの経済」および「BRICs」を参照

1980年代以降、インドでは「緑の革命」が進展するいっぽうで農民の経済格差もいっそう広がった。

しかし、インドは、1997年のアジア通貨危機に際し、中華人民共和国とならびその影響をほとんど受けなかった。

従前よりインドは変動相場制を採用しておらず、このことが為替による投機の拡大、縮小を回避することができたためであった。

21世紀に入ってからのインドの経済発展は特にめざましく、ブラジル、ロシア連邦、中華人民共和国と列んで「BRICs」と称されている。とりわけIT(情報技術)関連部門の成長が著しい。ムンバイに所在するボンベイ証券取引所は近年、インド株ブームに乗って外国から大量の資金が流入している。

その一方では、広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで約1300万人に上る惨事となった。

インドにおけるヨーガの歴史

インダス文明

インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。

紀元前2500-1500年頃の彫像

これは、1921年にモエンジョ・ダーロとハラッパーの遺跡を発掘した考古学者のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、坐法を行っているシヴァ神の原型であると解釈したものである[15]。そこから宗教学者エリアーデも、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした[15]。

近代に至るヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている[15]。

しかし、佐保田鶴治も指摘するように、このような解釈は、あくまで推論の域を出ないものであるという[16]。インダス文明には、文字らしきものはあっても解読には至っておらず、文字によって文献的に証明することのできない、物言わぬ考古学的な史料であり、全ては「推測」以上に進むことはできない、と佐保田は述べている[16]。

また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている[17]。

近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており[18]、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。

前期ヴェーダ時代

紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には「ヨーガ」やその動詞形の「ユジュ」といった単語がよく登場するが、これは「結合する」「家畜を繋ぐ」といった即物的な意味で、行法としてのヨーガを指す用例はない[19]。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、「ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない」(狭義のヴェーダの時代)と述べている[20]。

ウパニシャッドの時代

ウパニシャッドの時代では、単語としての「ヨーガ」が見出される最も古い書物は、紀元前500年 – 紀元前400年の「古ウパニシャッド初期」に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』である[21]。この書では、ヨーガという語は「ヨーガ・アートマー」という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は「不明」であるという[21]。紀元前350年 – 紀元前300年頃に成立したのではないかとされる「中期ウパニシャッド」の『カタ・ウパニシャッド』にはヨーガの最古の説明が見い出せる[22]。

古典ヨーガ
「ヨーガ」および「ヨーガ学派」も参照

パタンジャリの典型的な像

紀元後4-5世紀頃には、『ヨーガ・スートラ』が編纂された[23][24]。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという[23]。『ヨーガ・スートラ』の思想は、仏教思想からの影響や刺激も大きく受けている[25][26]。

国内外のヨーガ研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである[27]。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である[28]。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった[27]。

ヨーガ学派の世界観・形而上学は、大部分をサーンキヤ学派に依拠しているが、ヨーガ学派では最高神イーシュヴァラの存在を認める点が異なっている[29]。内容としては主に観想法(瞑想)によるヨーガ、静的なヨーガであり、それゆえ「ラージャ・ヨーガ」(=王・ヨーガ)と呼ばれている。『ヨーガ・スートラ』は、現代のヨーガへの理解に多大な影響を与えている。

後期ヨーガ

「ハタ・ヨーガ」も参照

12世紀-13世紀には、タントラ的な身体観を基礎として、動的なヨーガが出現した。これはハタ・ヨーガ(力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、超能力や三昧を追求する傾向もある。教典としては『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』、『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』がある。

ヴィヴェーカーナンダ

他に後期ヨーガの流派としては、古典ヨーガの流れを汲むラージャ・ヨーガ、社会生活を通じて解脱を目指すカルマ・ヨーガ(行為の道)、人格神への献身を説くバクティ・ヨーガ(信愛の道)、哲学的なジュニャーナ・ヨーガ(知識の道)があるとされる[30]。後三者は19世紀末にヴィヴェーカーナンダによって『バガヴァッド・ギーター』の三つのヨーガとして提示された[31]。

ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという[32]。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた[32][† 2]。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという[35][† 3]。

近現代のヨーガ

「ハタ・ヨーガ#現代のハタ・ヨーガ」も参照

19世紀後半から20世紀前半に発達した西洋の身体鍛錬(英語版)運動に由来するさまざまなポーズ(アーサナ)が、インド独自のものとして「ハタ・ヨーガ」の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代のヨーガのベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい「現代のハタ・ヨーガ」である。現代ヨーガの立役者のひとりであるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(英語版)(1888年 – 1989年)も、西洋式体操を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした[36][† 4]。 インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった[37]。

2016年、ユネスコが推進する無形文化遺産にインド申請枠で登録された[38]。

インドの歴史の史料

Question book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)

インド人は、歴史意識を持たなかったと、批判的に語られることがあるが、これは近代的な歴史の叙述、あるいは古代ギリシアや古代中国に発する歴史記述の伝統とは異なった形で、インド人が歴史を語ってきたという事実を述べるに過ぎない。

その最も顕著な例として、プラーナ文献における歴史の語りがある。

プラーナ文献は、神話を語る宗教文献として扱われることが最も多いが、宗教的な内容にとどまらず、人々の暮らしの規範や医学、音楽などに加え、歴史も重要な要素となっている。

中でも、プラーナ文献の一種であるスタラ・プラーナは、特定の都市や寺院の起源を遡る、歴史意識によって編まれた文献群である。

その叙述は、暦年によって系統立てられたものではなく、神々の事蹟や過去の偉人の生涯に関わらせる形で、その文献の主題となる都市や寺院の由緒を正統的に述べることに主眼がある。そのため、インド独特の歴史叙述とも言えるような特徴が見られるのである。

反対に、近代的な歴史学に直接に史料となりうるものに、碑文がある。最も古いものではアショーカ王碑文が有名であるが、王の即位後の年数や暦年が記されていることが多く、この点でもインド人に歴史意識が欠けていたとは言えないと考えられる。

インドの歴史において最も重要な史料である碑文のほかに、貨幣やその鋳型、印章・石柱・岩石・銅板・寺院の壁や床・煉瓦・彫刻などに刻まれた刻文、7世紀にバーナが著した『ハルシャ・チャリタ』に始まる伝記文学や12世紀にカルハナが著した『ラージャタランギニー』などの歴史書、その他の文献、さらにはメガステネース、プトレマイオス、法顕、玄奘などの外国人による記録も、インドの歴史の重要な史料となっている。』

歴史と神話が渾然一体 ヒンドゥー教至上主義で摩擦も

歴史と神話が渾然一体 ヒンドゥー教至上主義で摩擦も
映画でみる 大国インドの素顔(1) インド映画研究家・高倉嘉男
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD301C90Q3A530C2000000/

『中国を抜き人口世界一となる見込みのインドは、映画製作本数が最も多い映画大国でもある。成長の一方、社会構造や人々の暮らしはどうなっているのか。2001〜13年にニューデリーに滞在した経験を持つ高倉嘉男氏が日本でも公開された映画を通して解説する。

時代劇映画は映画の花形だ。インドにも古代や中世の歴史的人物や事件を題材にした時代劇映画は多い。実力と経験のある監督が潤沢な製作費とスター俳優を使って壮大なス…

この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』

『実力と経験のある監督が潤沢な製作費とスター俳優を使って壮大なスケールで作り上げるのが一般的で、話題作になりやすい。

ただ、インドでは歴史と神話の境目が曖昧で、実在する英雄が神格化されたり、歴史的事件が詩人の手や民間伝承を経ることで神話と化したりする。神話になるとそれは宗教と一体化し、信仰者が現れる。さらに、インド刑法は他者の宗教感情を侵害することを禁止している。これらの理由から、インドでは歴史的な人物や事件の映画化には他国に比べてより慎重さが求められる。

「パドマーワト 女神の誕生」(2018年)は、歴史と神話が渾然一体(こんぜんいったい)となった中世の物語を映画化したものだ。この映画に見出(みいだ)される歴史的事実は、デリーに樹立したイスラーム教王朝の為政者アラーウッディーンが、インド西部チットールにあったヒンドゥー教の王国を1303年に攻め滅ぼしたという点だけであり、それ以外の部分は伝承に拠(よ)るところが大きい。

その伝承の一つが王妃パドマーワティの存在である。伝承によるとアラーウッディーンは、チットール王国ラタン王の妻パドマーワティの美貌を聞きつけ、横取りするためにチットールを攻めたとされるが、歴史学者は概(おおむ)ねパドマーワティの実在ごと、この逸話を否定している。「パドマーワト」はそのパドマーワティを主人公にしている。

パドマーワティは、単に絶世の美女であるのみならず、勇敢な女傑でもあった。姦計(かんけい)によりアラーウッディーンに囚(とら)われたラタン王をデリーまで乗り込んで救出しただけでなく、報復戦の中でラタン王が戦死し、敗色が濃厚になると、アラーウッディーンによる凌辱(りょうじょく)を潔しとせず、王宮の女性たちと共に自ら火の中に身を投じて殉死した。

中世インドでは、ラージプート(尚武の支配者層)の女性たちが敗戦時に集団自殺した例がいくつも記録されており、これはジョーハルと呼ばれた。また、夫に先立たれた妻が火葬の炎の中に飛び込んで焼身自殺するサティー(寡婦殉死)も最近まで長らく横行していた。ジョーハルやサティーを行った女性は女神として神格化されて寺院に祀(まつ)られた。ただし、サティーの実行や美化は既に法律で禁じられている。

歴史的にはパドマーワティも実在しなければ、チットール陥落時にジョーハルが行われた記録もない。だが、パドマーワティはジョーハルを象徴する女神として民間信仰の対象になった。「パドマーワト」に対しては、サティーの美化との批判もあったのだが、それよりも多かったのは、パドマーワティを低俗に描写しているというものであった。憤ったラージプートの過激派団体は「パドマーワト」のセットを破壊するなど暴力行為に出たし、主演女優ディーピカー・パードゥコーンに殺害予告も届いた。公開前には上映禁止の訴訟も行われた。この大ヒット映画は、そのような数々のトラブルを乗り越えて製作され公開された。

インドでは2014年からヒンドゥー教至上主義を掲げるインド人民党(BJP)が中央の政治を握っている。それとの関連か、以来、ヒンドゥー教徒英雄の映画・ドラマ化が盛んになり、中にはBJPの党是を喧伝(けんでん)するようなプロパガンダ映画も目立つようになった。そのような映画では、「パドマーワト」のように、悪役がイスラーム教徒になることが多く、宗教融和によくない影響をもたらしている。それに加えて、過激化したヒンドゥー教徒たちの気に障るような描写をした監督や俳優は暴力や脅迫の対象になる。映画製作者にとっては非常に難しい時代だ。

架空の王国の内紛を描く「バーフバリ 伝説誕生」(C)Capital Pictures/amanaimages
ただ、日本でも大ヒットした「バーフバリ」シリーズ(15、17年)は、近年のインドにおける歴史や宗教の問題をうまく回避して作り上げられた映画だと感じる。イスラーム教勢力の侵攻を受ける前の、古代から中世に掛けての「ヒンドゥー教黄金時代」を時間軸にしながら、実在しない架空の王国の内紛を、架空の登場人物と共に描写した。全てフィクションなので文句を言う人はいない。だが、ヒンドゥー教的な世界観は維持されており、ヒンドゥー教徒の観客は高揚感と共に受け入れることもできる。

BJPが中央で政権を握っている間は、実在する歴史的英雄の映画化はプロパガンダ映画を除けば安全ではない。時代劇映画を作ろうと思ったら、「バーフバリ」の手法に倣うしかなさそうだ。

たかくら・よしお 1978年生まれ。インド映画研究家、豊橋中央高校校長。インドのジャワーハルラール・ネルー大学でヒンディー語の博士号を取得。共著に「新たなるインド映画の世界」。インド映画への出演経験も。』

ウクライナ人と日本人が持つ共通な歴史

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:ウクライナ人と日本人が持つ共通な歴史
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5439832.html

『第2次世界大戦の終結後も世界では戦争が続き、今年もロシアのウクライナ侵略で多くの人が亡くなっている。

120994add9 現在ウクライナ侵略を犯しているロシアは、過去に理不尽な悲劇と言える日本人捕虜のシベリア抑留を行い、それは今のウクライナにも関係がある。

ロシアがミサイル攻撃を続けているウクライナ北東部のハルキウKharkivにはかつて強制収容所ラーゲリ(露: Лагерь)があり、日本人が抑留されていた。

穀倉地帯のウクライナはシベリアより温暖で食料事情がよく、ウクライナの人々は日本人の抑留者に同情して差し入れをしてくれることもあったという。ハルキウの抑留者の死亡率はラーゲリの中で最も低かったといわれる。

過去ブログ:2012年6月★ 旧ソ連抑留画集 ~ 元陸軍飛行兵 木内信夫 ★ 保存記事:2009年6月:ウズベキスタンと日本兵 あるシベリア抑留:

FireShot Webpage Screenshot #837 –

‘映画「ラーゲリより愛を込めて」が だが、そのウクライナでも1930年代はじめに大 飢饉(ききん) があり、300万人とも500万人ともいわれる人が亡くなっている。
スターリンが5か年計画の名のもとに農業の集団化を進め、自営農家191122-rhea-clyman-holodomor-banner-new-142244から穀物を強制徴発したり、反対する農民たちを強制移住させたりしたためだ。

強引な5か年計画による人災とされる大飢饉は、「飢饉(ホロド)」と「抹殺(モール)」を合わせて「 ホロドモール(ウクライナ語: Голодомо́р;ロシア語: олод на Украине;英語: Holodomor, Famine Genocide、ウクライナ語で飢え死に)」と呼ばれている。過去ブログ:2023年1月ロシアはなぜ平然とウクライナ市民を殺し露市民は拍手するのか:

screenshot(10) 

ウクライナは第2次世界大戦の独ソ戦でも戦いの舞台となったが、スターリンはドイツの撤退後に、占領中の利敵行為などを理由に、多くのウクライナ領内の人々をシベリアや樺太に強制移住させている。

シベリア開発計画はウクライナで失敗した5か年計画とほぼ同じ時期に策定されたが、第2次世界大戦で中断されたままになっていた。スターリンが抑留によって強引にシベリア開発を進めたのは、ウクライナでの大失敗をシベリアで挽回するためだったという見方もできる。参照記事 

6a0e672b、、、、

日本人もウクライナ人も、ロシア(ソ連)によるシベリア抑留、強制労働、生産物没収、強制移住など過酷な虐待の歴史を経験しているのだ。

そんな歴史を知ってか知らずか、一方的に侵略を受けたウクライナへ、プーチンの言う領土割譲を飲んで停戦しろと言う国が在る。

中国、そして最近ではシンガポールの国防大臣で、日本にもそんな事を言った政治家モドキが居た。

ある日突然自国が攻め込まれてもそんな事が言えるのか?

今ロシア占領地を割譲すれば、そこで抵抗していたウクライナ人はシベリアへ送り込まれかねないのだ。強制移住と言う名目で、、。bef2cd13

明治維新後、日本が警戒したのは、アジアへの欧米、ロシアの植民地主義だった。そんなに昔の話では無い。

過去ブログ:2023年3月露は「スターリン体制」化で 国内引き締め弾圧強化:1月自由世界の戦車供与は「勝利への道での重要な一歩」:1月ウクライナ戦争後の復興財源や戦争裁判に関する関心高まる:2022年12月スターリンとプーチンの類似性、共通項:11月ロシアの変わらない非道さに、世界が警鐘を鳴らす:7月ウクライナ人に蘇るホロドモールの記憶:6月プーチンの妄想:』

カースト

カースト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スペイン植民地におけるカーストを描いた図。この語がインドのヴァルナとジャーティにも使われるようになった
差別
形態
属性
社会的
宗教的(英語版)
人種/国籍(英語版)
表現
政策
対抗措置
関連項目

表話編歴

インド哲学 – インド発祥の宗教
ヒンドゥー教
Om symbol.svg
基本教義
神々
聖典
法典・律法経
学派
宗派
人物
修行・礼拝
関連用語
一覧

ポータルポータル

表話編歴

カースト(英語: Caste[注釈 1])とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ、ヴァルナ・ジャーティ制)を指すポルトガル語・英語だが[1]、インドでは、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ[2]。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる[3][4]。ヒエラルキー。

紀元前13世紀頃に、インド亜大陸を征服したアーリア人が、先住民を肌の色で差別したことからバラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン(僧侶)・クシャトリヤ(軍人)・ヴァイシャ(商人)・シュードラ(隷属民)の4つの身分に大きく分けられるヴァルナとして定着した。さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団であるジャーティへと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、前世の業の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している[5]。

法的規定

インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条により、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、公式にスケジュールド・カースト(指定カースト)と呼ぶ。留保制度により、公共機関や施設が一定割合(平均15 – 18%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている[2]。

なお、インドの憲法が禁止しているのは、あくまでカーストを理由にした「差別行為」であり、カーストそのものは禁止対象ではない。このため、現在でもカーストは制度として、人々の間で受け継がれている[6]。

「カースト」名称の形成

語源

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源を持つ[1]。

植民地主義における呼称

第2階級クシャトリヤの子孫であるラージプート戦士集団(1876年)

15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ[2]。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[7]。インドの植民地化については「イギリス領インド帝国」を参照。

植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[7]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[7]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[7]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[7]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[7]。

ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆる類の共通の出自を指し示しうるものと指摘している[7]。

カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。

ヴァルナ・ジャーティ制

日本国内において、カースト制を、インド在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制が既にそれ自体としての意味を持ってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[1]。

インドにおけるカースト:ヴァルナ

ヒンドゥー社会の原理

「ヴァルナ (種姓)」を参照
ヒンドゥー教の儀式であるヤジナ。炎の中に供物が投げ入れられている(南インド)
バラモン(インドネシア、バリ島)

カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ – varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。カーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる[2]。

一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある[8]。

ヴァルナの枠組み

ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)
    神聖な職に就けたり、儀式を行える。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。

クシャトリヤ
    王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「戦士」とも翻訳される。

ヴァイシャ
    製造業などに就ける。「市民」とも翻訳される。

シュードラ(スードラ)
    古代では、一般的に人が忌避する職業にしか就けなかったが、時代の変遷とともに中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは売買を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「労働者」とも翻訳される。

ヴァルナを持たない人びと

    ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおり、アチュートという。「不可触民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとして、インド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」 (Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年ではダリットの人権を求める動きが顕著となっている。

歴史

発祥
「ヴァルナ (種姓)」を参照

アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由は既にかなり研究されている。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1 – 2階層程度に分けたため、全体で3 – 4の階層を設定した[9]。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している[10]。

他宗教とのかかわり

仏教

紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタ(釈迦)は、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことができたが、5世紀以後に勢力を失っていったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけていき、イスラム教の勃興などから13世紀にはインドから仏教がほぼ姿を消し[5]、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。

インドの仏教は、衰退していく過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやってきた」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれていったと言われる。それは、彼らがヒンドゥーの庇護の下に生活をすることを避けられなかったためである。

インド独立後の1956年より、インド仏教復興運動によって50万人の不可触民らが仏教へと改宗し、仏教徒はインドにおいて一定の社会的勢力として復活している[5]。

キリスト教

イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らは、それぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。

イスラム教

ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し、自由になるのが目的でもあった。

大英帝国の植民地支配時代

大英帝国の植民地以前のインドは、伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていたが、イギリスの植民地支配によって、インド社会のカースト化が進行した。

イギリス領インド帝国の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、国勢調査報告者や地誌はジャーティの序列にしばしば言及し、また、司法は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押し広げていく要因の一つには植民地支配があった[1]。

しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、1919年のインド統治法では不可触民にも議席が与えられた[11]。

イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。

カースト差別撤廃運動

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動が生まれた。

アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティーから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した[12]。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した[12]。

こうした運動はキリスト教の影響下にてカースト差別撤廃を謳ったが、それが唯一の目的というわけでもなかったため、一過性に終わったが、今日のカーストの排除及び廃絶につながっていった。

現代の状況

都市部では、カーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧めたりする人々や運動もある。[要出典]

職業とカースト

武人階級クシャトリアの肖像画
(1835年)

火葬場で働くアンタッチャブルの少年(2015年、ネパール・パシュパティナートにて)
庶民階級ヴァイシャ(1873年)

農業は全てのジャーティに開かれており、したがって、様々なジャーティが様々な形で農業に参加する。種や会社では「カースト」関連の詳細を書類上、欄でさえなくなっていて、法律上も禁止されている。また1970年代以降の都市化、近代化、産業化の急速な進展は職業選択の自由の拡大をもたらし、近代的な工場は様々なジャーティによって担われる。 ここでは世襲的職業の継承というジャーティの機能の一つは、すでに成り立たなくなってきている。

カーストや指定部族を対象とした留保制度・「リザベーション・システム」は、インド憲法にも明確に規定され、インドの行政機関が指定したカーストと指定部族を対象として、教育機関への入学の優先枠が設けられている。国営企業職員の優先就職枠、議会の議席、公務員と、1950年では20%だったものが、93年には49.5%にまで引き上げられた。優遇の対象外の人は、これは逆差別だと反対している。

インド陸軍は、兵士をカーストや信仰する宗教、出身地域別に27以上の連隊として編成している。これは、それぞれの社会集団で団結させ、連隊間の競争意識を高める目的がある[13]。

一方、民間ではタタ財閥やリライアンス財閥等が、インド・ダリット商工会議所 (DICCI) を支援している。

近代産業における新たな差別問題

近代工業における職業選択の自由権は、特に情報技術(IT)産業においてめざましい。電気とパソコンさえあれば誰でもチャンスを得られるため、カーストを問わず門戸を開いている[14]。1970年代には既にアメリカ・シリコンバレーにてインド人ソフトウェア技術者が活躍し、1980年代にはインド本土においてもアメリカ企業の下請け業を安価で引き受け始め、1990年代初頭には、インドが自由主義経済を解放したことにより、それは著しく飛躍を遂げた[15]。

しかし、アメリカにて活躍するインド人IT技術者の間においては、現地にて従事するインド人労働者のおよそ3人に2人がカースト差別を受けていることが2018年、アメリカを拠点とするダリット組織「エクティラボ」の調査にて判明されている[16]。また2020年には、ネットワーク機器大手シスコシステムズにて、上位カースト出身者2名の上司により下位カースト出身のエンジニアが昇進を阻まれたとの訴訟問題へと発展している[17]。これを受けて大手テクノロジー企業Appleは、業界に先んじてカースト差別禁止を就業規則に明示した。またアメリカでは、教育機関においてもカリフォルニア州立大学イーストベイにてカースト差別が問題視されたことにより、同大学およびハーバード大学等複数教育機関が、カースト差別を禁止とした。さらに2023年3月には、カリフォルニア州においてカーストに基づく差別を禁止とする最初の州にするための法案「SB 403」が提出された[16]。

インド本国においても、2000年代半ばに行われた、ベンガルール市にて従事するソフトウェア技術者へのヒアリング調査によると、調査対象者132人のうち、実に48%がバラモン出身者であり、再生族と呼ばれる上位カーストにあたるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャを包括すると、その割合は71%に上ることが判明されている。また対象者の親の学歴は、父親の80%、母親の56%が大卒以上であり、技術者の36%がインド5大都市にあたるデリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、ベンガルール出身とされ、29%がマイスールやプネーなど2級地の出身[注釈 2]であり、農村出身者はわずか5%であることがわかった[16]。

研究者の指摘では、技術者らが留保制度に強く反発しているという事実から[注釈 3]IT産業内部にて出身カーストを問うことを嫌悪する風潮が根強く、正確なデータはほとんど掌握されていない[15]。

しかし、インド人創業者による有名IT企業の多くが、バラモンなどのカースト上位創業者である実情もあり[15]、「IT産業は等しく能力主義で、下剋上ができる」という世間のイメージ通りであるとは言い難い。
選挙とカースト

保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインド経済発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。

児童とカースト

児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子供は、寺院売春を強制されていると国際連合人権委員会では報告されている[18]。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は、下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。

子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が、下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半、インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。

結婚とカースト

インド憲法上、異カースト同士の結婚も認められているが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、見合い結婚が多い。逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとはいえ、現在も一部の大都市でしか見ることができない。

ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として、花婿側へ支払われる金銭を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある[19]。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている[19]。
自殺とカースト

元々カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がるしかなく、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。

だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の自殺者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、というジレンマが発生しているわけだが、信教の自由や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置くことができない、という事実を示唆しているとも言える。

カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっている、というインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は、後手に回っているのが実情である。[要出典]

改宗問題

改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし他の宗教から改宗した場合は、最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力により、ヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。

ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによって、カースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナークシプラム村で不可触民が、抗議の意味も含めてイスラム教に改宗した[12]。また、ジャイナ教やシク教やゾロアスター教では、現実的な影響力や力により、その社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない富裕層に支持されている。

しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件も起こるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した[12]。

こうしたことを背景に、タミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラム教に改宗することを禁止する強制改宗禁止法を制定した[12]。

その後、2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)が、タミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された[12]。

また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる[12]。

なおインドでは、ヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいるので、ヒンドゥー教徒でない事が、必ずしもカースト否定を意味するわけではない[3][4]。

その他の世界のカースト
「en:Caste」も参照

ミャンマー

カレン族(ヤンゴン)

ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている[20]。

ネパール

ネパール・パシュパティナート火葬場で働く隠亡の男性(隠亡はカーストではアンタッチャブルに分類される)

ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは現地の民族の生活と深く結びついている為に複雑であり、2015年のネパール大地震では、上位カーストの家や邸宅は真っ先に建て替えられ、下位カーストの家が後回しにされたという報告もある[注釈 4][21]。

ネパールでは、1854年のムルキー・アイン法によってカースト制度が導入された[22]。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある[22]。

ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は、山岳地帯のマトワリといわれる[22]。

ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている[23]。

バリ島

詳細は「バリ・ヒンドゥー」を参照

マジャパヒト王国の領域

インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。

バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった[24]。

ヤジディ教

中東のクルド人の一部で信じられているヤジディ教は、改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制を持っている宗教である。ヤジディ教のルーツは、数千年前のインドに遡るとする見解がある[25]。

国連人権委員会とカースト差別問題

2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった[18]。

2002年の国際連合人種差別撤廃委員会における会合で、一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別[26]』に関する特別報告を行い、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された[27]。

2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している[28]。 』

ネパールのカースト制の形成についての一考察

ネパール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

ネパールのカースト制の形成についての一考察
飯 島 正
https://core.ac.uk/download/72778858.pdf

『はじめに

ネパールに滞在していると、インドの場合と同様に、人々の生活の各般にわたってカースト制に深く根ざして
いると考えられる生活慣行に直面することが多い。上層カーストの者は特定のカーストに属する者からの水を飲
まないとか、カーストの優劣を主張して特定カーストの者との食事共同を拒否するということも、各階層にわた
ってよく起ることであると聞く。何回かのネパール訪問で、各地を歩き、各層の人々に接する機会を得、カース
卜制に由来すると思われる多くの事態に直面し、それに関する見聞を広めることができた。しかし、その時点で
はネパールのカースト制形成の歴史をたどるという研究に着手することは考えていなかった。筆者がネパールの
カースト制の問題に取り組む直接の契機となったのは、亜細亜大学アジア研究所の「ネパールの近代化に関す総
—53——
合的研究」をテーマとする研究プロジェクトチームの発足であった。同チームは主題に対して人文、社会、自然
の諸科学にわたる各領域からの学際的協力体制でアプローチすることを意図したもので、ー九七六年三—四月に
行われた第一回の現地研究の成果の一部を、共同研究者と共に「ネパールの土地制度と土地改革」と題して、同
研究所紀要第三号(ー九七六年)に報告した。

これはネパールの諸王朝を経て歴史的に形成された伝統的な土地制
度と、ー九五一年のいわゆる「王政復古」後に実施された土地改革に関して論述したものであった。

ネパールの
土地制度は一四世紀のマツラ王朝時代に導入されたカースト制度と密接不可分に関連して形成されたものと考え
られるので、この小論ではネパールにおけるカースト制に視点を集約し,て、その形成の過程を明らかにしようと
•試みたものである、

しかし、ネパールのカースト制も導入の歴史をたどると、インド五千年の歴史とバラモン教、
ヒンズー教の発展の過程にまで関連し、先学の造詣に学びつつ論を進めたが、その成果は甚だ心もとないものと
なった。大方諸賢の御叱声を賜りたくあえて公表した次第である。

ネパ|ルの自然環境と人種的構成

インドとチベットとの間に位置し、東西に細長いー四万平方キロメートルの国土に、約ー二00万の人々が住
むネパールは、地形的、気候的な自然環境がきわめて複雑であり、長い歴史の過程でこの国土に移り住んだ人々
の人種的、言語的、宗教的な構成もまた多様である。

地形的にはネパールの国土はインドと国境を接する標高ー〇〇メートル前後のffi地から八〇〇〇>!トルをこ
——54—
不パールのカースト制の形成についての一考察
すヒマラヤ山脈までの標高差があり、この標高差と夏のインド方面からの南西モンス—ンと冬のチベット方面か
らの二つのモンスーンとにより、気候区分も亜熱帯から温帯、亜寒帯、寒帯へと多様な変化を示している。

この
ような自然環境に対応して人々が生活する地域は、一般に南から北にほぼ垂直的に、タライ、山地、高山地の三
っに区分される。
タライ地域はインドとの国境のガンジス平原から平均標高一五〇〇メートルのシワリーク(SIWALIK) 丘陵南
側までの間に約二〇—四五キロメートルの幅で東西にのびているタライ(TARAI)と、シワリーク丘陵と標高三
000 メートル前後のマハバーラト(MAHABHRAT)山脈との間の盆地である内部タライ(INNER T ARAI)とから
なる。

タライの平均標高は二〇〇メートル前後であり、内部タライの標高六〇〇>!トル以下の地域がこれに含
まれる。年間降水量はタライ一四〇〇ミリ、内部タライ一七〇〇—二四〇〇ミリ前後で、ともに亜熱帯性気候で
ある。

国土面積の二三%、総人口の三七•六%を占め、インド型の水田稲作を中心とする農業地域である。

山地地域はマハバーラト山脈からヒマラヤ山脈に接するネパールの中央部で、これには標高の高い内部タライ
の一部も含み、平均標高は六〇〇—ニ〇〇〇メートル前後で、国土の四四・一 %、人口の五二•五%を占めてい
る。

地形的には多くの丘陵、盆地、渓谷が複雑に入り組んでおり、気候的には標高差による変化があり、ーーー〇
〇メートル以下は亜熱帯、ニ〇〇〇メートルまでが暖温帯である。

夏の南西モンスーンによる雨量も多く、亜熱
帯ではネパール型の水田稲作、暖温帯では水田稲作とトウモロコシなどを主作とする農業地域である。

この地域
は地味も豊かで農耕に適しており、人間の生活の場としても他地域より快適であり、ネパール人の生活の主要な
場となってきた。古くから政治、経済、文化の中心となったカトマンズ盆地やポカラ盆地もこの地域に含まれる。

—55—

高山地地域は山地地域の北側からヒマラヤ山脈、チベット高原の南縁をなす地域までを含んでいる。ヒマラヤ
山脈の北側には内部ヒマラヤ(inner Himalayas)と呼ばれる二四五〇〇〇メートルの谷間があるが、東
部ネパールではヒマラヤ山脈の分水嶺と国境が大体一致している。

しかし西部ではネパールの領土がヒマラヤの
主嶺をこえてチベット高原の一部にまで及んでいる。ヒマラヤの南側は南西モンスーンによる降水量は多いが、
気候的には標高差により大体二000 —二五〇〇メートルが温帯、ニ五〇〇|三〇〇〇メートルが冷温帯、三〇
〇〇—五五〇〇メートルが亜寒帯で、それ以上が雪線で寒帯となる。

したがって農業の形態も標高が上るにつれ
て耕種型から牧畜型に移行する。

温帯ではトウモロコシ、シコクビエ、ソバ、室、大麦などの雑穀を、冷温帯
では小麦、大麦、ソバ、バレイショなどを栽培し、それに高度が二〇〇〇・メートルをこえると水牛に代ってヤク
と、ヒマラヤ牛とヤクとの交配種であるゾー (DS)が農耕、乳用および物資運搬用に飼育され、さらに三二〇〇
メートル位までには山羊が多く、それ以上の高度で羊が多く飼育される。

内部ヒマラヤおよび三〇〇〇 —五〇〇〇>!トルのチベット高原では南西モンスーンによる雨量が少ない乾燥
地帯であり、夏が短かく冷涼なので大麦、小麦、ソバ(ダッタンソバ)、バレイショなどが栽培されるが、ヤク、
羊、山羊、ゾーなどのチベット的な牧畜に重点がおかれている。

高山地地域は万年雪をいただく高山があり、農業および牧畜のための自然的条件も厳しいので、国土の三二・
九%の面積を占めているが、人口は九•九%にすぎない。

このような地理的な位置と自然的条件により、ネパールの人種的、言語的、宗教的な構成には、隣接のインド
およびチベットからの影響が色濃く反映されており、これら二つの文化圏からネパールに住みついた人々は異つ
-56—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
た生活様式をもっており、しかもネパールの交通不便な自然条件に制約されて、かなり地域別、高度別ないしは
山系、河系別に孤立的な生活圏を維持してきた傾向が強い。

例えばインド系とみられるネパール人の生活圏の上
限は稲作の上限である標高二〇〇〇メートルまでの暖温帯とほぼー致し、それ以上の高度になるとチベット系と
みられる諸部族のチベット高原的な牧畜型を主体とする農業に重点が移行する。

また、これら両圏系および原住
民とみられる諸部族が、複雑に入り組んだ生活圏をもっている山地地域では、ヒマラヤ前山山脈の山系、河系別
に分布し、さらに傾斜面別に異った部族が分布していることがある。

それゆえ、次にこれらの諸部族の地理的分
布状況をみることにしよう。

インドと国境を接するタライ地域には、隣接するインドのビハール(Bihar)州やウッタル•プラデシュC
TTAR ・PRADESH)州と同様の生活様式、言語をもった多<.のインド系ネパIル人が住んでおり、ヒンズー教カ
—スト社会を形成している。

ネパールの総人口のーニ%がマイティリ語(MAITHFIJ、六・ー %がボジプリ語
(BHOJPURI)、四・八%がアワド語(AWADHI)を話すが、そのうち東部タライの人口の五ー %がマイティり語、二六

  • 一%がボジプリ語、四・一%がアワド語を話し、中・西部タライの人口の九〇%と極西部タライの人口の三一
    2)
    •八%がアワド語を話すと報告されている。

タライ平原にはこの他にインド系ネパール人でもなく山地民でもな
いネパールの原住民とみられるタルー (THARU)族が、極西部タライを中心にタライ全地域に分布し、農業、狩
猟などに従事している。

モンゴロイド系で、独自の生活様式をもち他の部族との接触の少ないタルー族は、ネパ
—ルの諸部族の中で皮膚の色が最も黒いということもあり、ネパールのカースト社会からは低くみられている。

ネパールでタルー語を話すものは四・三%であり、そのうちの六二・八%が極西部タライ、五•九%が中・西部
-57—
(3)
タライ、四・〇%が東部タライに住んでおり、タルー族の人口は五〇万人前後と推定されている。

タライ地域、とりわけタルー族の生活圏のような森林地帯はマラリヤ、フィラリヤなどのような悪疫が猛威を
ふるい、容易に人々をよせつけなかったが、ー九五〇年代に国連WHOおよびアメリカの援助でマラリヤ撲滅対
策を講じて以来、山地民のタライ地域への入植者が増加している。

特に「山からタライへ」のスローガンのもと
に政府が入植事業を推進したこともあり、政府の援助で計画的に入植したところでは道路、学校、病院なども整
備され、ネパールで初めての協同組合が設立され、同国では珍しいカースト制度をのりこえた社会.をつくってい
(4)
るといわれる。

山地地域には多くの部族が分布している。この地域に住む人々はネパール語でパハリヤ(PAHARIYA)と総称さ
れ、パハリヤ・グループのもっとも大きな民族集団がネパール的ヒンズー教徒であり、人種的には多くの部族を
包摂し、カースト社会を形成している。

ネパールのヒンズー教徒の力}ストはインドのカーストに比較すると中
間カーストが少なく、山地地域の村落でも、上層カーストとアウトカースト的な下層カーストからなっている。

上層カーストはブラーマンのネパール口語訛といわれるバウン(BAHUN)、クシャトリヤと同じチェトリ(CHHE
TRI)、クシャトリャ格のタクール(Thakur)などであり山地地域では主に農耕に従事している。現王家はタク
—ルのシハヤ(SHAH)氏族出身である。下層カーストを構成するのはカミ(Kami—鍛冶職)、ダマイ(DAMAII仕
立職)、サルキ(SARKI—皮革、木工職)などの職人カーストである。

このヒンズー教徒カースト集団は山地地域を
中心に全国的に分布している。国教であるヒンズー教徒はネパールの人口の八九•四%とされており、ヒンズー
教徒社会の言語を母体とするネパール語(Nepali)を使用するものは、ー九七一年人口センサスの母語別人口で
-58—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
は全人口の五二・五%の六〇六万人であった。

ヒンズ}教徒カーストを構成するものがネパール最大の民族集団
である。

山地地域にはこの他に、東から西にリンブー族(L1MBU)、ライ族(RAI)、スンワル族(SUNWAR)、マガール族
(MAGAR)、ネワtル族(NEWAR)、タマン族(TAMANG)、グルンK(GURUNG)、タカリI族、THAKALI)、などのネ
パール土着民とみられる山地諸部族が、一般にネパール的ヒンズー教徒よりも標高の高いところに分布している。

ネパール東部のアルン(Arun)川の東、タムール(TAMOR)川流域の山地にリンブー族、その西側アルン川以
西、ドウード・コシ(DUDH—KOSI)川流域にかけてライ族、その西のタンバ・コシ(TAMBAIKOSI)川流域にス
(5)
ンワル族が分布している。

ネパ–ルの神話、伝説やインドの「マヌの法典」(第十章、四五)にもキラータ(Kira,
TA)という部族が登場するが、それがネパールのどの部族にあたるかは不明である。しかしネパールで現在キラ
ンティ(KIRANTI)と呼ばれるものにリンブー族、ライ族が含まれている。ライ族もリンブ族もキパット(KIPAT)
と呼ばれる共同体的土地所有の形態をとり、それがシャハ王朝による全国統一の際も土地制度として容認されて
きた。

リンブー族、ライ族、スンワル族はともにチベット・ビルマ語系のリンブー語、ライ諸語、スンワル語を
使用し、その母語別人口はリンブー語、一七万人、ライ諸語、二三万人、スンワル語、二万人であった。

宗教的に
はリンブー族もライ族もそれぞれ固有の土着信仰をもっているが、仏教、ヒンズー教0影響も強く受けている。

スンワル族はラマ教とヒンズー教の双方の影響を受けており、後者が増加しているといわれる。

ネパール中部のカトマンズ盆地を中心にネワール族、その周辺から北方山地にかけてタマン族、その西からア
ンナプルナ(Annapurna) 連峰にかけてグルン族、アンナプルヂとダウラギリ(DHAULAGIRI)両峰の谷間である
——59一
タコ}ラ(THAKOLA)地方にタカリー族、さらに力リ•ガンダキ(KAL1—GANDAKI)川流域から西部ネパールに
かけてマガール族およびその他の少数部族が分布している。

ネワール族はネパールの歴史の過程において常に政治、経済、文化の中心であったカトマンズ盆地とその周辺
に住み、諸王朝の変遷、チベット、インドの両文化の影響を受けつつも独自の文化を維持してきた。

ネワール族
の母語はチベット•ビルマ語系のネワールZEMRI)語であるが、その文字はデヴァナガリ(ネパール語、サンス
クリットと同じ)で、それを話すものは全人口の四%、約三八万人と推定されている。

宗教は仏教徒とヒンズー教徒
とに分けられるが、両宗教はかなり融合して共存している。

ネワール族はかってネワ}ル文化を開花させ、現在
のカトマンズ、バドガオン、パタンにみられる寺院、宮殿などの建設の担い手となり、国外にも工芸技術で進出
した歴史をもっているので農業のほかに工芸、商業その他の各方面に進出しており、ネワール社会にはブラーマ
ンから清掃夫(HALHLU)にいたる二六のカーストがあるといわれるが、カースト間の蕾も或る程度認められて
(6)
いる。

タマン族、グルン族、タカリ・・族、マガール族の母語であるタマン語、グルン語、タカリ・・語、マガール語も
共にチベット・ビルマ語系の語群に属し、人種的にはモンゴロイド的特徴をもっている。
そのうえ、各部族はそ
れぞれ独自の、しかも山地地域の諸部族に共通するシャーマニズム的な土着信仰とラマ教、ヒンズ}教などと重
層信仰をしており、これらの諸部族の起源はかなり近縁の関係にあるものと考えられている。

これらの部族のう
ち人口五六万のタマン族、一七万のグルン族、二九万のマガール族が主として農業に従事しているのに対して、
人口わずかに数千のタカリー族は農耕牧畜も営むが商業活動で知られる部族である。

かつてはインドとチベット
—60—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
との中間点にあって商業に従事し、チベットとの貿易を掌握して、チベット側から牧畜生産物、岩塩などを輸入
し、ネパール側から穀類、油、紙、布、食器などを輸出していた。

タカリー族の商法はネワール族の「小商人的」
■ (7)
な方式と対比して、「問屋商人的」であり、欧米の近代資本主義的なセンスに通ずるものがあったといわれる。


かしチベットとの貿易が閉鎖され、タカリー族の商業活動も大きな転換を余儀なくされている。

高山地地域に住むのはネパールでボティ(BHOTE)またはボティヤ(BHOTIYA)と呼ばれるチベット系ネパール
人が中心となる。高山地地域でも標高二〇〇〇—二五00 メ|トルの温帯までは、前記のようなネパール土着の諸
部族が定着しているが、それより標高の高い冷温帯以上の地域はいわゆるボティ族と呼ばれる人々の生活圏となる。

ヒマラヤ登山の補助者として有名なシェルパ族(SHmRPA) •は東部ネパールのドウード•コシ川の上流、エベレ
スト山麓付近の高山地地域を中心に生活圏をもっているチベット系の部族である。シェルパ族の生活圏の下限は
標高二五〇〇>1トル前後でライ族、タマン族などと接している。シェルパということの意味がチベツト語のS,
HARVA (東方の人)すなわち首都であったラサ(L HASA)より東に住む人々ということに由来し、最初に定着し
たソル•クンブー (SOLU—KHUMBU)もSHAR—KHUMBUに由来するといわれるように、シェルパ族は言語、
(8) 3
文化、宗教などの各方面でチベット的な生活様式をとどめている。

その使用するシェルパ語(SHERPALI)もチベ
ットの一方言であり、シェルパ族のほとんどはラマ教徒である。

また、シェルパ族のほかにヒマラヤ山脈の北側やチベット高原のネパール領でヤク、ゾー、羊などの遊牧ない
しは放牧的な飼育をし、短い夏を利用して大麦、小麦、ダッタンソバ、バレイショなどの農耕に従事するチベッ
卜人がいる。シェルパ族をふくめてチベット語を話すボテ族の人口は約八万人である。
—61—

このようにみてくるとネパールでは、標高の低いタライ地域にインド系ネパール人、ついで山地地域ではネパ
—ル的ヒンズー教徒グループ、それより高標高地にネパール土着の諸部族が東西に分布し、冷温帯以上にボティ族
というように、かなり截然と部族的に垂直的な分布をして、それぞれの生活圏を形成している。

とはいえ、これ
らの諸部族がすべて孤立的な生活圏を形成しているわけではなく、諸部族の混住は各地に存在する。

ヒンズー教
がネパールに伝えられ、ヒンズー教徒のカースト社会が形成されるにつれて、これとのかかわりをもつ部族も多
くなってきた。

とりわけイスラム勢力のインド侵入により、難をのがれてラージプート系の貴族、武士階層とい
われるもの達がネパールに入って定着し、やがて諸部族を従えて西部ネパールから中部ネパールにかけて多くの
土侯国をつくる。

これらの土侯の中で全国を統一したのがゴルカ土侯であった現シャハ王朝である。シふ八王朝
の成立と同時にヒンズー教が国教と定められた。全国統一後は家臣、土侯などに封土が行われ、十九世紀
中葉から約一世紀のラナ・(一 Rana)将軍家による治世下では、その一族に連なる者などに荘園的なビルタMIR,
\ (9)
TA)の交付が盛んに行われた。

このような過程でヒンズー教徒はさらに各地の諸部族の生活圏に入り、農業を生
業とするバウン、チェトリ、タク–ルは各村落段階で地主ないしは富農となり、下層の職人カーストとともにヒン
ズー教徒のカースト社会を形成し、本来カースト社会の枠外にある諸部族の構成員も、ヒンズー教徒カーストと
の関連で、上層カーストと下層職人カーストとの中間的な存在として位置づけられるようになったものと考えら
れる。

現在、ネパールの多くの地域で、少数の上層カーストと職人カーストおよび諸部族との混成で村落を構成してい
いるケースがみられるのは、このような経過をたどったものであろう。
—62—
ネパールのカースト制の形成についての一考察

では次に、ネパールのカースト制度の形成に大きな影響を与えたと考えられるインドにおけるカースト制の形
成の過程をたどることにしよう。

インドにおけるカ|スト制の形成

インドにおけるカースト制は、インド亜大陸へのアーリア人の侵入、その先住民のドラヴィダ系諸種族の征服、
定着、統治の長い歴史の過程で形成された社会構造と、その社会生活に深く根ざしていたバラモン教、ヒンズ—
教の体系化と密接に関連して形成されたものであろう。

中央アジアで牧畜生活をしていた種族あるいは西アジアの狩猟民族であったともいわれるアーリア人が、イン
ド亜大陸へ最初に移動を開始したのは紀元前二000年頃といわれる。この時点でモヘンジョ・ダー ロ (MOHE,
NoDARO)やハラッパー (HARAPPA)その他の遺跡が示すようにインダス河流域とその周辺の広範な地域に、整
然とした都市計画による舗装道路、排水施設、食糧倉庫や強固な城壁を持つ都市国家を建設し、諸都市間を結ぶ
商業、交通網をもったインダス文明がすでに開花していたと考えられている。

インダス文明はモヘンジョ・ダー
口やハラッパーなどの遺跡、出土品からその年代は紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇年前後と推定されている。し
かし、インダス文明についてはいまだに解明されていない部分が多く、この文明の担い手となったのはどの種族
であり、どのような要因で崩壊したかについても不明な点が多いが、その後この地域に侵入したアーリア人に
よる最古の文献であるリグ・ヴェーダ (RGVEDA) の記述により、先住民がドラヴィダ語系種族とムンダー語
—63 一
を使用するコール族などであり、またアーリア人の先住民との戦記に多くの都市城塞、堡塁を攻撃した記述が
あるので「インド•アーリアン人の侵入がインダス文明を滅亡に導いた直接の原因であったことを暗示するかと
(10)
考えられる」とされている。

紀元前二〇〇〇年頃から、いくたびかにわたってインド亜大陸に侵入したアーリア人が、先住民族と戦い征服
しつつ版図を拡大し、紀元前一五〇〇年頃にはパンジャーブ地方に定着して農耕牧畜の生活を確立し、さらに紀
元前一〇〇〇年頃にはガンジス河流域に進出して、やがてアヨーディヤー、ラージャグリハ、シュラーヴァステ
イー、ヴァイシャーリーなどに都市国家を建設していった。

或る時は異民族と戦い、また或る時はアーリア人が
互に覇を競い、王が王を従えて「諸王の王」すなわち帝国の統治者となった。

紀元前六世紀頃になるとガンジス
河流域を中心に「一六王国」があったといわれるが、これらの王国はマガダ国(王都はラージャグリハからパータ
リプトラに)、コーサラ国(アヨーディヤ—J アヴァンティ国(ウッジャイン)、ヴァツァ国(コ”・サンビー)の四国
に統合される。

これらの四大国のなかでもマガダ国が強大になる。その間、紀元前六世紀から五世紀にかけてペル
シアのアケメネス朝の軍がインダス河流域に侵入し、ガンダーラ地方も支配下にいれ、さらに紀元前四世紀には
マケド・ニアのアレキサンドロス王もアケメネス帝国の征服を目的にインドに遠征 箭三二七—三二五年)するなど
外部勢力のインド亜大陸への侵入があった。

しかし、マガダ国マウリヤ朝の開祖チャンドラグプタ王(CANDRA,
GUPTA)(前三ニー年即位)は西北インドからギリシャの勢力を一掃して、王国の版図をヒマラヤ山脈からベンガ
ル地方にまで拡大し、さらに、その孫アショカ(aoo’oka)王(前二六八年即位)は東南インドのカリンガ国(現在
のオリッサ地方)を征服して、北インドから南インドにおよぶ古代インドの一大帝国が形成された。
——64——
ネパールのカースト制の形成についての一考察

このような歴史のプロセスでアーリア人を中心とする古代インドの社会Bgや人々の生活を律するバラモン教
の諸聖典の体系化が行われた。

アーリア人がインドに定着するようになったときに、すでに自らの司祭、予言者を持ち、種々の祭式と神学的
(n)
な神聖な伝承をもっていたといわれる。

それがインドにおけるアーリア人の歴史の進展とともに累積され、®大
な文献に集大成された。これがヴェーダ(VEDA)である。

「知る」を意味するヴィツド(VID)を語根とするヴェー
ダは知識、 とりわけ宗教的な神聖なる知識を意味し、 その知識を集成した聖典の総称となった。

したがってヴェ
—ダ文献は神々の讃歌から歌詠、祭式儀礼、叙事詩、叙情詩などにおよぶ広範な内容をもっており、最古の文献
といわれるリグ・ヴェーダは、そこに記述されている事柄からみて紀元前一五〇〇年—ニー〇〇年頃にパンジャ
(2)
—ブで作られたものと推定されている。

このような広範な内容をもつヴェーダ文献は、基本的には宗教文献であり、祭式に関連して発展してきたもの
であるから、祭式儀礼を分担する祭官の職分により、㈠リグ・ヴェーダ (KGVADA)は讃歌の集成で、神々を祭
場に招き、讃誦する祭官ホートリ(HOTR)に属し、㈡サーマ・ヴェーダ (SAMAVEDA) はリグ•ヴェーダの詩
節を旋律にのせて歌詠をするウドガートリ(UDGATR)祭官に、㈢ヤジュル・ヴェーダ (YACRVEDA)は祭祀実
務を担当し、供物を神に捧げる祭官アドヴァリウ(ADHVARYU)に、さらに、後に第四ヴェーダの地位を得た除
災、招福などの呪法に関する、㈣アタルヴァ•ヴェーダ (ATHARVAVEDA) は祭式儀礼全般を統轄するブラフ
マン(brahman)祭官に属するもの、という四種に分類される。

これらの各ヴェーダを構成する要素は、次の四部門に分けられる。
—65—

㈠はサンヒタ} (SAM HIT A)と呼ばれる各ヴェーダの基本部分で、マントラ(MANTRA) —讃歌、歌詠、祭詞、
呪法の集録であり、a常、ヴェーダという場合、このサンヒター(本集)を指す。

㈡はブラIフマナ(BRAHMANA)で、第一部門に付随する文献であり、祭式に関する規定のヴィディ(VIDHI)
と、祭式の神学的解釈を主とするアルダ・ヴァーダ(ARTHAVADA)とに区分される。

㈢のアーラニアカ(ARANYAKA)は秘密の祭式や教義を説くもので、人里を避け、森林の中で伝授されるべきも
のとされる文献である。

㈣のウパニシャッド(UPAN栃AD)は宇宙万有にわたる哲学的文献であり、ヴェーダの最後の部分を形成する
ので、別名をヴェーダーンタ(Vedanta)と呼ばれる。

またこれらの文献がシュルティ 希RUTI)、すなわち天啓の書—リシ仙)が神秘的霊感によって、感
得した天の啓示の聖典であるのに対して聖賢の叙述であるスムリティ(SMRTI)と呼ばれる文献がある。六種の
ヴェーダの補助文献や、インドの二大叙事詩マハーバーラタ(MAHABARTA)とラーマーヤナ(.RAMAYA-ZA)、マ
r2)
ヌの法典 (manu,smkti)、ヤージュニヤヴァルキアの法典(yajnavalkyfsmfti)などがある。

インド亜大陸でのアーリア人の定着生活が進むにつれてアーリア人の社会での職能上の分業も進み、リグ・ヴ
エーダ末期の讃歌には四階級の分化についての表現がでてくる。プルシャ(原人)の歌(一〇・九〇)の「ーー、
プルシャを切り分かちたるとき、いくばくの部分に分割したりしや。その口は何に、その両腕は何になれるや。
その両腿は何と呼ばるるや。」、「ーニ、そのロはブラーフマナ(バラモン・祭官階級)となりき。その両腕はラー
ジャーー ア (王侯 ・武人階級) となされたり、 その両腿はすなわちヴァイシア (庶民階級)、両足よりシュードラ (奴
—66—
不パールのカースト制の形成についての一考察

(4)
婢階級)を生じたり。」とある。
ヴェーダ讃歌の叙述がそのまま史実に照応するものと考えることはできないとしても、アーリア人の内部に政
治を司り軍隊を統卒する王侯貴族、祭祀、祭式を執行する祭官、農業牧畜、工芸などに従事する庶民という社会
的な分業が進み、さらに、これらに仕える被征服者やこれと通婚した者などによる奴婢という社会的な区分が進
み、それに血統、家系の保持という目的とあいまって、リグ・ヴェーダ末期には、すでにブラーフマナ、ラージ
ャ-ーア(後のクシャトリア)、ヴァイシア、シュードラという階級の分化がかなり進んでいたとみることができよ
う。

インド古代社会において階級に相当する名称は「色」を意味するヴァルナ(VARNA)であり、「皮膚の色」の白
いインド・アーリア人と、アーリア人と戦った黒色低鼻でリグ・ヴェーダでダーサ(DASA|悪魔、野蛮人、後に奴
»を意味する言葉となる)と呼ばれた先住民とを区別し、それゆえブラーフマナ、ラージャニア、ヴァイシアの三
(15)
階級とシュードラ階級とは当初から一線を画する階級観念から出発したものと考えられている。

他方、前記の四
階級は明らかに職能的な類別でもあるので、古代インド社会における社会構成の階級的類型を示すヴァルナ制は、
征服者、被征服者という人種的な要因あるいは種姓の区別が根底にある職能的階級区分により形成されたものと
いえよう。

その後、インド・アーリア人の定着生活が進み生活領域が一層拡大されるにつれて、アーリア人と先住民との
混血や、四ヴァルナ間の雑婚が増加するようになると種姓をあらわすヴァルナとは別に、本来「出生」を意味し、
バラモン教の諸聖典では正当でない結婚による出生を意味するジャーティ(JATI)が雑種カーストを表わす言葉
——67—
として使用されるようになり、このヴァルナといわれる部分とジャーティといわれる部分との複合によってイン
(6)
ドのカースト制が成立したものと考えられている。

このようにインドのカースト制は征服、被征服によるヴァルナの区別とヴァルナ相互の雑婚によるジャーティ
という血統的区別の上に、宗教的な貴賤、浄、不浄、禁忌や職業的な区別とその世襲化などの諸要因と、社会経
済の発展にともなう職業の分化によるカーストの細分化が進み、その後三〇〇〇にもおよぶ副カーストが存在す
るといわれるようになったものと考えられる。

それゆえにインドのカースト制の著しい特色は族内婚を厳守する
という原則である。

前述のようにヴァルナ制もジャーティ制も血統、家系の保持という目的から出発したもので
あり、いかなる者も同一のカースト内で配偶者を選択しなければなちない。

その場合、同じゴートラOOTRA—
共同家族)内とサピンダ(SAP-ZPA—父系では七代、母系では五代以内の親族)間では結婚できないので配偶者の選
択の範囲はさらに限定される。

このような同一カーストでの族内婚のうえに、各カーストの職業を世襲する義務
があり、また、カースト間の交際や食事などに関する多くの禁忌を成立させている。

しかしながら、古代インド社会ではカ・-スト制も後に完成されたような厳格なものではなく、カースト間の雑
婚も多く、職業の世襲制もゆるやかなものであったと考えられる。

前述のように、紀元前四世紀に古代インドの一大帝国を形成したマウリア王朝時代の社会構成について、中村
元氏は「人間の共同行動の諸様式についてみるに、当時の人々はカーストによる結合形式を示していない。イン
ドの社会は古来バラモン・クシャトリャ・ヴァイシア・シュードラという四つの階級の区別が確立していると従
来一般に信ぜられている。

しかしそれは現在残っているバラモン教の文献にもとづいて、そのように考えるので
-68—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
あって、アショカ王詔勅をはじめマウリヤ王朝時代の、年代のほヾ判明した諸碑文によってみると、四姓制®
(7)
の片鱗さえも認められない。

故に四姓の制度はマウリヤ王朝時代には公には行われていなかった。」とされている。

さらに当時の文献「カウティリヤ実利論」(ARTHA或STRA)とギリシャ人メガステネース(MEGASTHENES)の
「インド見聞記」における職業、階級についての記述を比較検討される。

「カウティリヤ実利論」はマウリヤ朝の
開祖チャンドラグプタ王の宰相であったチャーナキヤ(CANAKYA別名をカウティリャKAUTFYA)の著作である
とされる政治、経済に関する書であり、メガステネースはギリシャの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派
遣され、王都パ}タリプトラ(現パトナ)に滞在した。

その体験から記された「インド見聞記—インド誌」の断片
がギリシャ、ローマの他の著作に引用された資料として残されている。

メガステネースの伝えるインドの階級は
哲人、農夫、牧人、職人と小売商、戦士、監察官、顧問官(高級官吏)の七種類であり、各職業間に厳重な区別、
疎隔がありカーストの観念に近いものであることを述べ、しかもインド人はすべて自由人であり奴Bなるものは
存在しないとしており、バラモン教一般で認める四姓(種姓)と一致しない。

第一の哲人はバラモン(brahma,
•ZA)、シャモン(SRAMANA)に相当するが、第二の農夫、第三の牧人、第四の職人と小売商人階級についてはバ
ラモン教文献の中の一つの階級に比定することはできない。

「実利論」ではヴァイシアの職業として農耕(KRSI)牧
畜(PASUPALYA)と商業(VANIJA)があげられ、シュードラの職業に実業(VARTTA)と手工業(KARU)と遊芸
(KUりLAVAKARMAN)とがあり、実業は耕作、牧畜、商業にはヴァイシアもシュードラとも従事しているのである
から、メガステネースの一つの階級をヴァイシアやシュードラに、さらに第五の戦士、第六の監察官、第七の顧問
官の階級もバラモン教の一つのカーストに比定することはできない。

メガステネ}スの記述に対応して七種類を
—69—
まとめているインドの文献は見当らないとし、それに近いものとして、メガステネース以前、したがってマウリ
ヤ王朝以前の社会的事実を反映していると考えられる佛典スッタ二パータ(SUTTAMPATA)にある次の職業をあ
げておられる。農夫(KASSAKA)、職人(SIPPIKA)、商人)、傭人(PESSIKA)、盗賊(CORA)、武 士 (YO,
dhahva)、祭官(YZAKA)、王(RAJAN)である。中村氏はこれとメガステネースの区分を比較し、スッターーパー
タの農夫は農夫と牧人に、職人と商人は職人と小売商に、武士は戦士、祭官は哲人にそれぞれ対応し、傭人は統
一国家の特殊任務をもった傭人であり、盗賊を職業の如くみるのは奇異であるが、マウリヤ王朝成立以前の社会
的混乱を反映しており、それまで支配階級であった王族が同王朝成立後、高級官吏に転化したものとみている。

しかし、パータリプトラに駐在してバラモンとも交り、その教説を聞いていたのは疑いない事実と考えられる
メガステネースが、バラモンの伝統的な四姓説を述べないで、前述のような全く別種の階級区分を記し、再生族
とシュードラの区別、アーリア人と«民の区別にも言及していない。

それらのことから「マウリヤ王朝時代には
四姓の制度は公(国家的)には認められていなかった。:•ただし、バラモンは依然として四姓制度の観念を固守
していたと思われる。だからマウリヤ王朝の統一的官僚国家が崩壊して、徐々に世襲的階位を重んずる国家が成
18″)
立するにつれて、バラモン教の四姓の観念も次第に社会的に復活するに至った。」との見解を示されている。

他方、バラモン教、ヒンズー教の聖典ではその後、カーストの観念とその規制はますます強化されてくる。


元前二〇〇年—紀元後二〇〇年頃に作られ、ジャスティティ・マッラ王がネパールにカースト制を導入する際に
依拠した、とされる「マヌの法典」ではそれが極めて厳格に規定されている。

インドで法典という場合のダルマ
(dharma)すなわち法というのは今日の法律という観念よりも広義であり、それには宗教、道徳、習慣をも包含
-70-
不パールのカースト制の形成についての一考察
するものであった。全篇ニー章、ーー六八四条からなる「マヌの法典」も宇宙万物の創造から、アーリア人がー
生を通じて行うべき種々の儀式(ーニ浄法)、民法、刑法的規定、種姓の義務や讀罪などにおよび、最後に輪廻、
業界、解脱に至るという広範な内容をもったサンスクリット語韻文で書かれた法典である。

人類の始祖マヌの託
宣に基づいて聖賢が叙述したという形式をとる同法典では、四種姓の義務および職業を次のように定めている。

「バラモン、クシャトリャ、ヴァイシャ、シュードラに、各々業(義務)を定めたり、バラモンには(ヴェーダの)
教授と学習、自己又は他人のための行祭、布施を興え、又受くることを定めたり、クシャトリャには、人民の保
護、施與、供犠、(ヴェ—ダの)学習、及び感覚的対象に対する無執着を指定せり。ヴァイシャには牧畜、施與、
供犠’ヴェーダの)学習、商業、金銭の貸與、及び土地の耕作を指定せり。されど主宰神は、これらの(他の)三
(9)
種姓に甘んじて奉仕すべき唯一の職能を、シュードラに命じたり。」(第一章、八七—九一)。

しかも上位の三階級は
再生族 (DVIJA)すなわちバラモンについて入法し、ヴェーダを学んで第二の誕生をするのに対して、第四のシュ
—ドラは一生のものであり、第五の種姓はない、と規定している(第十章四)。

一生のものであるシュードラ階級
はヴェーダの学習も、読誦をぬすみ聞くことも許されない。「シュードラに教訓を與うること勿れ。或は残食を、
或は神に供えられたる(食物の残余)を與うる勿れ。(かかる者に)法を説く勿れ。誓戒を課す勿れ。なんとなれば
(シュードラに)法を説き、或は誓戒を命じたる者はそのシュードラと共にアサンヴリタと呼ばるる地獄に堕つ
(M)
ればなり。」(第四章、ハ〇—八ー)と規定している。

このように同法典は四階級の区分を明確にし、結婚、職業を
はじめ人生全般にわたって、前述のようにアーリア人がその生涯を通じて遵守すべき義務や諸行為に関する法体
系として集大成された。
-71-

このようなバラモン教の諸文献にみられるヴァルナ(種姓)を中心とするカーストの観念に、さらに出生に由
来するジャーティの要素に職業的区別をも加えたカースト制が、広くインド社会の各層各般に定着するようにな
るのは、その後のヒンズー教の拾頭とヒンズー諸王朝の登場によるものであろう。

前述のようにアーリア人がインドに定着するようになったとき、司祭者をもち、数々の祭式や神学的な伝承を
もっていたといわれる。

その宗教観は自然界の構成要素、現象、その背後にあると想定される支配力を神格化し
て崇拝の対象としたものであったが、神話の発達とともに、自然現象で想定された神々が擬人化され、リグ•ヴェー
(幻)
ダに登場、天、空、海の三界に配分された神々の数は三十三とも三千三百三十九ともされている。

これらの神々
の讃歌と祭式を主体に発展してきたのがバラモン教である。その後、アーリア人の定着、先住民との接触が拡
大し、両者間の雑婚による人口が増加するにつれて、アーリア的文化と先住民のドラヴィダ的文化との混合
(SYNCRETISM)が進み、この混合の過程では、インドの歴史家コーサンビーが述べているように「スカンダやガ
ネーシャがシヴァの息子となったように、神々の複雑な家が形成され:::神と神の結婚の背後には異なった神々
を信仰する人々の間の結婚の制度がおこなわれていたし、それ以前に、別々でそのうえ対立していた崇拝者たち
が社会的に融合することがなければ、神々の結婚は不可能であったろうし、そして新しいジャーティ•カースト
は結合した社会における経済的地位とほぼ一致する身分が与えられた。」といわれる相互の文化的、社会的変容を
もたらすことになった。

アーリア的文化の要素が先住民の信仰、風俗習慣と混合し、融合する長い歴史の過程
で、バラモン教は「およそ一般に宗教的といわれる一切のものを包容して、深遠な哲理を説く体系から最も原始
(3)
的とみなされる素朴な庶物崇拝までのあらゆる相を」包摂するヒンズー教へと発展した。
—12—
不パールのカースト制の形成についての一考察

ヒンズー教の聖典プラーナ(PURANA)の最も古いものは西暦二七五年頃であるといわれるが、その後、十三世
紀の初頭にイスラム王朝が誕生し、次々にインドを席捲する以前に、インド各地に成立したヒンズー王国の身分
制度と密接不可分に結びついて、カースト制がより一層複雑に固定されたと考えられる。
以上のような形成のプロセスをたどったインドのカースト制が、どのような経路でネパールに導入されたかは
明らかでない。

恐らくヒンズー教のネパールへのかなり緩慢な伝播でカトマンズ盆地に勢力を伸長し、次いでイ
スラム勢力のインド侵入に難を逃れてヒンズー教徒がネパール各地に入り、諸部族を支配下におさめて王侯とな
り、現在の版図に全国を統一してヒンズー王国を成立させるという歴史の過程で形成されたものであろう。

ネパールへのカースト制の導入とその形成

釈迦牟尼生誕の地(LUMBINI)として世に知られるネパールには、インドのアショカ王が建立したといわれる
石柱>SOKA PFLAR- LUMB2)や仏舎利塔 (ASOKA STUPAS-PATAN)その他数多くの遺跡や古い寺院が各
地にのこされており、古い文化をしのばせる。

カトマンズ盆地はヒマラヤ連峰南側の前山山脈にかこまれ、標高ニニ〇〇メートル前後の高度に位置し、土地
肥沃で古くから栄え、多くの王朝が盛衰の歴史をかさねたと伝えられている。十四世紀の末以降に書かれたとい
われるネパールの王統年代記であるバムサバリ(VAMgAVALI)は数種類あり、これらの資料をもとに書かれたネ
パール史にはゴパル (GOPAL)、グプタ(Gupta)、アヒール(AHS1)、キラータ(KIRATA)などの諸王朝の名があ
-73—
げられ、ネパールという名がこれに由来するといわれるネ・ム二(NE MUNI) 開祖のグプタ王朝時代やインド平
(25)
原から来たアヒール王朝の支配、さらに東から来てこれを征服したキラータ王朝時代の王統が記されている。

その後に続くものとして釈迦の在世の頃、北インドで覇を競っていたリッチャヴィ(LICHHVI)族やマッラ(M,
ALLA)族と同名の王朝が登場する。しかし史実によって実証.される最古の王朝はリッチャヴィ王朝以降である。

ガンジス川流域の中流左岸のヴァイシャリー(VAIgALLVESALI)に国都をおいたリッチャヴィ族は、インドの文
献では常にクシ・ヤトリヤ族と見なされ、バラモン教には好意的ではなく、反バラモン教的立場をとる仏教やジャ
(26)
イナ教を保護したといわれる。釈迦も国都ヴァイシャリーを訪れている。結局、ヴァイシャリーはマガダ国に征
(7)
服されることになる。

しかしリツチャヴィ族は存続し、紀元四世紀に至っても非常な尊敬を博していたという。こ
のリッチャヴィの一族がネパールに入って興した王家がネパールのリッチャヴィ王朝とされるが、その関連は明
らかでない。

バムサバリではリッチャヴィ王朝第二ー代の王とされ、四六四—五〇五年頃王位にあったマーナ・デーバ(M>1
NA deva)王の治世下でネパール最初の銅貨が鋳造され、同王の名を記した碑文も存在している。同王はヒンズ
(8)
—教徒であったが、仏教にも深い敬意を示したといわれる。

また、六世紀後半から七世紀初頭にかけて在位し、教育の普及、文芸の興降に力を注いだといわれるアムシュ
•バルマン(AMSHU VARMAN)王についても、七世紀に同地を訪れた唐僧玄奘は「大唐西域記」の中で「尼波羅
国は周囲四千余里で、雪山の山中にある。•:•:貨幣は赤銅銭を使用している。•••:•邪教正法を兼ねて信じ、加藍
と天祠とは垣根を接し軒隈を連ねている。僧徒は二千余人、大小の二乗を兼ねて学習している。外道の異学をす
-74—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
るものは、その数が分からない。王は刹帝利で栗|¢姿種である。

その志学は清らかに高く、もっぱら仏法を信じ
¢ ( 9 )
ている。近い代に窟輸伐摩と号する王があった。」(第七巻第五節)と記されている。

このアムシュ•バルマン王は
王女ブリクティ(BHRIKUTI)を、当時チベットで強大な勢力をもっていたソン・ツァン・ガンポHSRONGレA,
NGGAMPO)王に嫁がせている。その後ガンポ王には中国の玄宗皇帝の文成公王(WEN CHENG)王女が第二王
(9
妃となった。

この二人の王妃がチベットに仏教を広めるのに力となった。

リッチャヴィ王朝の崩壊後、カトマンズ盆地の覇権を競う諸勢力を平定してニーー世紀から一八世紀中葉まで強力
な王国を建設し、ネパール文代史上に輝かしいネワール(NEWAR)文化を開花させたのはマッラ王朝であった。

マッラ王朝歴代の王の中で、政治、経済、社会、文化の各分野で後世に大きな影響を与えることになる諸改革を行
ったのは、ニ二ハ-年からニニ九四年頃まで王位にあった同王朝第七代のジャスティティ・マッラdAYASHTrn,
MALLA)王であった。

同王は諸制度の改革にあたって北インドおよび南インドなどから、それぞれ専門分野の異
なる五人の学者を招いて意見を聴取して、カースト制の導入、刑法の改正、課税、販売、抵当基準としての田畑、
(1)
家屋の等級決定などに着手した。

リッチャヴィ王朝支配後の混沌としたカトマンズ盆地を平定したマッラ王朝の当時は、この盆地には部族、宗教
の異なる様々な人が住み、それにインドから入ってきたカースト制が混在し、ネパールは社会的にも、宗教的に
も不安定な状態であった。このような状況を背景にジャスティティ・マッラ王は種々の階層と職業の人々の地位
(2)
と機能を明確にするため、学者の意見をいれ、マヌの法典に依拠して国民を六四の階層に分けたといわれる。

この六四階層の区分についてイギリスのD ・ライトへDaniel Wright) は、サンスクリットとネワール語の
——75—
混合したパルバティヤ(PARBATIYA)による文献からの翻訳などをもとに、一八七七年に公刊した「ネパール史」
(3)
でこれを記述している。

またイタリアのL •ペテチ(Luciano PETECH)もー九五八年刊行の「ネパール中世史」
(4)
でこの区分について記述している。

両者の資料を比較したのが第一表である。後者による階層と英訳の配列は、
前者の逆であるがほぼ重複しているので階層区分の項目は一本化し、両者による英訳は原文のまま掲載した。

ライトの文献ではこの六四の階層区分について、ブラーマンはパンチャガウダ (PANCHAGAUDA ••・北インドから
の)とパンチャドラヴィダ(PANCHADRAVIDA:・南インドからの)二つに分けられ、それぞれが多くの分枝階層をも
つ五つの副カーストをもっていると述べ、これらのカーストについては、ネパールで現在知られていないと注釈
をつけている。

ネワール族の婦人とブラーマンの混血であるジャイシイ・ブラーマン(JAISI BRAMAN)すなわち
アーチャーリー (ACHARYA)、バイダ (BAIDA)、シレスタ(SRESHTHA)、ダイバギアOAIVAGYA) の四つの階層
は、アーチャーリーが三階層に、バイダが四階層に、シレスタはアーチャーリーの三階層とダイバギアの四階層
に許されたと同様に、ブラーマン的衣服をまとうことを許された十の階層を含む多くの階層に分けられた。

ここ
に述べられているジャイシー ・ブラーマンは、純粋なブラーマンとブラーマンより低いカーストの婦人との間に
生れたブラーマンの意味で用いられたものと考えられる。

ネワール族のカーストでアーチャーリー、バイダ、シ
レスタ、ダイバギアはヴァイシャである。シュードラ(SUDRA)は三二階層に分けられたジャプー (JYAPU)と四
階層に分けられたクマール (KUMHAL) の三六の階層であった。

この場合のジャプーは農村社会又はカトマンズ
のネワールの副カーストであり、クマールは陶器製作所に雇われているネワールの副カーストであろう。最後に
前記のシュードラの三六階層とは別にポージャー ・カースト(PODHYA CASTE)は四階層であったと述べている
-76—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
が、これはカトマンズにおけるネワール族の最低の副カーストであり、清掃夫、糞尿運搬夫、葬式場夫、死刑執
行夫である。

これを最後に別にあげているのは、アウトカースト的な賤民階層とみなしたものであろう。

六四の階層をこのように説明したうえで、ライト文献では、上位の四つの階層の者はポージャ}やチャルマカ
1ラのような低位階層の者の手からの水を飲むことを禁じられ、また上位階/■の婦人が低位階aの男子と結ばれ
『5)
た場合、その婦人は男子の階層に格下げされたと述べている。

第一表に見られるようにライトの場合は各階層について英訳された部分が少なかったが、ペテチによって、か
(6)
なりその空白が埋められている。

それでもなお不明な部分がある。このような空白はD •R •レグミが指摘する
ように、原文にカースト名についての文字のスペリングの誤りがあって判別できないのに加えて、多くのカース
卜が当時のままには継承されていないので、オリジナリティの失なわれたカ}スト名に該当する文字の探求を困
難にしている。

このような部分があるにしても、その階層区分の内容を示す貴重な葺である。

ジャスティティ・マッラ王は、その顧問であった学者の進言により、インドの法典に依拠して、六四の階層区分を
実施したとされているが、その内容はインド的なヴァルナ制とジャーティ制の観念を基本とする階層区分といえ
よう。

すでに述べたように、リッチャヴィ、マッラの両王朝はともにインドから入ったアーリア系の王朝で、そ
の支配領域は現在のネパールの版図ではなく、カトマンズ盆地とその周辺であり、この地域の先住民は主にネワ
—ル族であった。ネワール族の起源を南インドとする説、ヒマラヤの北からとするもの、キランティとリッチャヴ
イの結合した種族とする説などがあるが、ネワール族の多くは歴史時代以前にカトマンズ盆地に入ってきたと考
えられているネパール土着といえる種族である。

ネワール族はカトマンズ盆地での長い歴史の過程で形成された
一Z7—
階層社会をもっていたと考えられる。カトマンズ盆地にはインドからの仏教、ヒンズー教が入り、リッチャヴィ王
朝時代の初期には仏教徒が多く、その後次第にヒンズー教の影響が強くなってきたが両宗教は共存し、社会秩序
も安定していた。

マッラ王朝時代になって北インドから多くのブラーマン、クシャトリヤ、シュードラが入って
きてヒンズー教の影響力が一層強くなってきた。

国内的には新王朝の成立もあり社会的にも宗教的にも不安定で
あり、対外的にはイスラムのインド支配がネパールのヒンズー社会に強い衝撃を与えた。
このような背景から強
力な社会秩序を維持するための諸改革がジャスティティ•マッラ王によって実施されたが、その政策原理はマヌの法
典に依拠したといわれることが示すように、ヒンズー教徒中心のものであったと考えられる。

同王による階層区
分の実施にあたつ.ては、前述のような国内的、対外的背景があるので、ネパールの現実に適合しない古典的四カ
(7)
—スト制は強調しないで、インドで副カーストと呼ばれるものを単に区分して羅列したものとする見解もある。

事実この区分は職業別の配分が主体であり、上位階層についても本来はカーストではない(59)サチーブ、(60)マント
ウリー、(62)レーカック、(63)ブッパ、(64)ドウウィジのような官職名もカーストとして区分されているような混乱も
見られる。

しかし、最上位にあるアーリア系のブラーマン・カーストと、ブラーマンと低位階層の婦人との混血
であるジャイシイ・ブラーマンとを厳然と区別しているように、基本的にはアーリア系のヴァルナ制を主体とす
るヒンズー教中心のカースト制であることには変りはない。

人口で圧倒的多数のネワール族をこのカースト制の
枠内に再編しようとした当時の政治的、社会的状況がこのような階層区分を生むことになったものと考えられる。

またこの階層区分の背景には、職業を固定化するために国民が従事している職業、あるいは従事すべき職業を
•階層別に区分したものであり、国王は国民の社会における義務と、もしもあるカーストがその伝統的な職業をお
-78—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(8)
ろそかにした場合は刑罰に処するということを強調するために創り出したものとする見解もある。

ジャスティティ・マッラ王による前記のようなカースト制の導入の内容については、さらに十八世紀のはじめ
に書かれたジャティヤマーラー (JAT1YAMALA)にも記されており、それによると階層はライトの文献の場合より
(9)
も増加し、ハーーに区分されている。増加した主なものはアーチャリー、バイダ、シレスタなどの副カーストであ
•(〇)
り、これらは,ライト文献における六四カーストの計上の際には省略されたものであるとみなされている。

ジャスティティ・マッラ王の孫ヤクシャ•マッラ(YAKSHYA MALr 1428 — 1482 )王の死後、王国は分裂し、
バドガオン&HADGAUN 又はBHAKTAPURE)、カトマンズ 、KATHMANDU 又はKANTIPURE)、パタン (PATAN又はL,
ALITPURE)に王都をおいて分離独立した。カトマンズとバドガオンの距離はー〇キロメートル程であり、カト
マンズとパタンは数キロメートルである。それ以来十八世紀中頃までカトマンズ盆地にはマッラ王朝の三王国が
併存することになった。

マッラ王朝の支配力はカトマンズ盆地を中心とするものであり、地方には多くの土侯国があった。当時ネパー
(41)
ルにはチョービシ・ラジャ(CHAUBIS1 RAJA)、バイシ・ラジャ(BA1SI RAJA)と呼ばれる四六の土侯国に分割さ
れており、また、タライその他の地域にも土侯国があった。

これらの土侯の多くはイスラムのインド支配から逃
れてヒマラヤ地域に移住してきたヒンズー教徒の武士階級であり、それぞれの地域の先住民を従えて土侯となっ
たもので、それらの土侯の中で最も大きな勢力となったのがゴルカ(GORKHA) 土侯であり、インドのラージプー
卜(Rajput)族の出身であったとされる現シャ八王朝の祖先である。

ラージプート族はカニャークブジャ(KANYAKUBJA別名カナウジ KANAUJ)に王都をおいたハルシャ(HARSA)王
-79—
の帝国が崩壊後、七世紀中葉から十二世紀にイスラム勢が北インドを支配するまで、インド各地に王国を樹立し、
ラージプート時代を築いた種族である。

しかし、この種族の起源は必ずしも明らかではなく、五世紀頃インドに
入った中央アジア系のグルジャラOURJARA)族、エフタル(EPHTALIJE)族などの系統であるとか、インド先住
民族の系統とかの諸説があるが、武力にすぐれ、自らをラージ・プトラ(王の子の意味)と称し、強力な武力で領
域を拡大して王国を建設し、次第にインドの社会で武士階級すなわちクシャトリヤとみなされるようになったも
のとみられている。

このラージプート族の王国はイスラム軍との戦に敗れ、このうち難を逃れてネパールに入り、
西部地域に勢力を拡大し、さらに中部山岳の諸部族を支配下におさめ、マッラ王朝の本拠であるカトマンズ盆地
に攻め入るようになったといわれている。

一七六八年、カトマンズ盆地のカトマンズ、バドガオン、パタンの三王都を攻め、マッラ王朝を倒し、翌六九
年、王都をカトマンズに移し、現シャハ王朝の開祖となったプリティビ・ナラヤン・シャハ(PRITHW NARAY,
AN shah)王により、ヒンズー教が国教と定められ、ネパールは文字通りのヒンズー王国となり、国王は「シバ
神の化身」とされるようになった。

カトマンズ盆地平定後、同王朝は和戦両様の構えで国土の統一をはかり、東
部のライ、リンブー族などの支配地域を平定し、西部の各土侯を支配下におさめ、さらに、一八一四年にはネパ
—ルからインドに進出して各地を占領してイギリX勢と衝突しネパ.-ル•イギリス戦争(NEPAL-BRmsH war)
いわゆるゴルカ戦争となった。ー八一六年に停戦し、セゴーリ条約(SUGAULI treaty)により今日のネパール
の版図が決定した。

現シャハ王朝成立後、今日まで約二世紀の統治のうち、一八四六年から一九五一年までの約一世紀は、日本の
-80-
ネパールのカースト制の形成についての一考察
徳川将軍家と似た世襲制の首相マハラジャ(maharaja)が支配していた。

ー九世紀初頭からシャハ王朝の宮廷
内で首相の地位をめぐって政争が続き、ついに一八四六年、王宮内の国王謁見の場である「コート」に集った
要人五五名がジ・ン・バハドウル•ラナ(Jang Bahadur Rana)の兵によって殺される「コートの大虐殺」
(THE K〇TE massacre)事件となった。

対抗者を粛清したジャン•バハドウルは国王を王宮に軟禁して首相に
就任し、以後一九五一年のいわゆる「王政復古」まで政治の実権はラナー族が掌握する専制政治となった。

このような経過をたどったシャハ王朝のもとで、ネパールのカ.-スト制が、マッラ王朝以降どのようになった
かは極めて注目されるところとなった。

ネパールのカースト制についての研究は、一八一六年の「セゴ}リ条約」締結直後、外国人として初めてネパ
—ルに駐在したイギリスの外交官ホジソン(Brian Houghton Hodgson)をはじめ、D ・ライト、s・レヴィ(S,
ylvain LEVI)、フユ}ラ・ハイメンドレフ 、CHRISTOPH <oz furer,haimendorf)、l ・ペテチ(Luciano PE,
TECH)などネパールの歴史や社会、さらにはネワール族や諸種族の言語、宗教などを研究した外国人の研究成果
により次第に明らかになってきた。

このような成果をもとにネパールの歴史家D・R •レミグは、時の経過、使
用される用語の変遷などを整理し、ネパールのカーストおよび副カーストの伝統的職業および諸カーストの宗教
(2)
的行事を担当する僧職をヒンズー教のブラーマンと仏教のグーバ(GUVA)に区分した詳細な一覧表にまとめてい
る。

またこの一覧表にも関連する資料であるが、ペテチはネパールのカースト制についてはヒンズー教徒と仏教
徒を区別してみることも重要であり、特にそれは上位階層のヒンズー教徒集団と低位階層の仏教徒集団と低位階
層の仏教徒に二分されるとし、さらに古典的な四種姓によるカーストの区分はネパールの現実には必ずしも妥当
-81-
するものではないとしながらも、理論的に同国の諸カーストが古典的な区分のどれに該当するかという分類をし
て、第二表のような階層区分を試みている。

ペテチも十四世紀にジャスティティ・マッラ王によってネパールに導入されたカースト制が、その後現代まで
どのように継承されたかについてふれ、それは時代の経過により今日では現実的に認められていないものもある
けれども、その一般的な枠組と内部精神は今日も同じである。

職業とカーストの関係も今日の状況の下で徐々変
化してきているが、一つのカーストの伝統的な職業は依然として大部分がそのカースト構成員によって占められ
(43)
ていると述べている。

このような詳細なカーストの区分があるが、今日のネパールのカースト制は、カトマンズ盆地における主とし
てネワール族の副カーストを除くと、基本的にはブラーマン階層であるバウンと、クシャトリャ階層のチェトリ
および本来はクシャトリヤ階層であり、クシャトリャ格とみなされるタク—、ルなどの上層カーストと、シュ~・ドラ
階層であるカミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストによって構成され、その中間にネワールなどの諸部族
が位置づけされているといえよう。

またネワール族のカーストに関しては、C -αツサー(COLIN Rosser)が、第三表に示したようなブラーマ
(4)
ンから清掃夫に至るまでの階層区分を発表している。

これによるとカトマンズ盆地に住むネワール族三万七三一
五戸(ニニ万五七九八人)のうち、四二%が農民階層であるジャプーで占められ、陶工のクマ以下の職人などの
一・ハ階層は全戸数の約ーー〇%であり、シレスタとウレイが約二六%、最上層の僧職にあるものがー ー%という構
成になっている。
—82—

以上のようなカースト制に関連して、ネパールでは異カースト間の通婚や飲料水などをも含む社会的接触につ
(45)
いての差別が依然として厳格であることをL •ペテチも指摘しており、D • R •レグミも前記の一覧表の中で、
洗濯夫であるドービヤア(DHUBYA)以下の階層は不可触賤民ではないが、彼等の触れた水は穢れており、上層カ
}ストのものは彼等の手になる水を飲めないし、彼等は上層力–ストの家の一階以上にあがることができない。
(46)

ポーまたはポレ(PPPORE)以下は不可触賤民であるとしている。

ネパールのカースト制に関する数多くの実証的研究の成果が報告されているが、東京農業大学ネパール農業調
察査隊(隊長 栗田匡一、隊員、島田輝男、島田淳子)も、ー九六四年、約七ヶ月にわたってマンダン地区の農業調
『 査をした際に、同地区内のマハデウ・スターン•パンチャヤート(MAHADEW STHAN PANCHAYAT)のカースト構
“成と、それに関連する生活慣行についての調査結果を「ネパール国マンダン地区農業調査報告」(海外技術協力事業団、
つ 昭和四十年)に収録している。
頒 同調査の対象となったマンダン地区はカトマンズの北東約四〇キロメートル、スンコシ(SUN KOSI)の上流で

IJOあるチャッ・コーラ(CHHA KHOrA)の流域にある山村である。同地区のほぼ中央をチャッ・コーラが西北高地
$
W から東南へ貫流し、これにアシ・コーラ>SHI KHOLA)とボクシ・コーラ(BOKUSI KHOLA)が西より東流して
*-チャッ・コーラに合流しており、カトマンズ盆地とは峠を境に河系を異にしている。

マンダン地区の北と東には
。 ラムサレ・テユムキイ山rAMSAR thomki LEKH)とマンダン山(MANDAN LEKH)がチャコ・ーラに併行し、西
心 と南にはチャンプール山(CHAINPUR LEKH)、ドディ二丘陵(DHODINIBESI、海抜九九〇メートル)とコテン山(KOT,

ENG LEKH、海抜ー、ー〇〇メートル)が横たわっており、マンダン地区内のマンダン山は海抜ー、ー 00メートル
——83——
(マンダン山の最高峰は一五九八メートル)である。これらの諸丘陵にかこまれてチャッ・コーラ流域に海抜七五
五メートルの盆地がある。

マンダン地区の住民は以前はこれらの丘陵の山頂稜線にのみ住み、低地のべシーには全く部落がなかった。ネ
パールでは河川、峡谷に沿って亜熱帯的気候が入り込んでおり、海抜一 〇〇〇メートル前後までの河川沿い低地
はマラリヤの発生地であり、それを避けて住民は山頂稜線地帯に住居を構えていたからである。

同地区内でも村
落によっては山頂付近に居住し、肥沃な耕地と牧草のある低地には家畜管理舎を意味するガート(GHOT)を建て、
早朝、家畜を追ってガートに下り、夕方山頂に帰るという生活形態をとっていたところもあり、ガートでは脱穀
調整などの作業も行っていた。

それが第二次大戦後、マラリヤなどの疫病撲滅が進むにつれてガートを本居とし、
本居をガートとするケースがみられ、部落をあげて移動するところもあり、低地に居住移動する戸数も増加してお
(47)
り、ベシーにある部落は極めて新しく、ー九六四年の調査時点では、まだ移動期であると報告されている。

このような自然環境に位置するマンダン地区はカトマンズとヒマラヤ山脈とのほぼ中間にあり、地理的にも文
化的にもカトマンズ盆地と山岳地域との接点をなす地域といえる。

しかも、中国の援助によるカトマンズとチベ
ット国境を結ぶ道路がー九六六年に完成し、同地区内を通過している。

この道路の開»がこの地区の人々の生活
形態に多くの点で変化をもたらしていると想定されるので、その意味からも一九六四年の調査記録は貴重である。

第四表は同調査の報告書第五表から抜^して作成したものである。マハデウ・スターン•パンチャヤートには各村
落から選出された九名の委員がおり、パンチャヤートの資料は各委員から提出されたものであり、各委員が担当し
ている諸村落を一括して、その委員の氏名をとって管区と仮称している。各委員の同調査に対する協力関係に差
一 84—
ネパールのカースト制の形成について•の一考察
があり、ー、二の委員は中途で調査に異議を唱えるなどの事態もあり、若干不明な点があることが指摘されてい
る。

各村落の戸数、人口、カーストについては同調査隊が各戸調査に等しい調査をした数字であるが、村落境界
がパンチャヤート委員や村落民によって異なる場合があり、不鮮明であったこと、居住移動により居住村落の決定
が村落民でも確認できないことなどがあり、そのうえ祭日、農繁期などにあたり調査できなかった村落のあった
ことが付記されている。

そのためパンチャヤート提出数字と調査隊の調査した数字に相違があることを注意する必
要がある。このように調査できなくて不明な村落があるとはいえ、山また山の山頂や谷間に五九の村落が点在す
る同パンチャヤートの地形ときびしい気象条件を考えると、その労苦は想像を絶するものがある。

パンチャヤート提出の数字によると同パンチャヤートは六三二戸、人口三二四七人であり、五九の村落からな
っている。

同パンチャヤートの社会構成はネパールの上層カーストを占めるバウン、チェトリ、タクールとアウト・カー
スト的な下層カー ストとみられるカミ (鍛冶職)、 サルキ(皮革加工職)、ダマイ(仕立職)とカトマンズ盆地に住
民の多いネワールや山岳部族のタマン、マガール、ダヌワールなどの諸部族からなっている。

前述したようにマ
ハデウ・スターン•パンチャヤートのあるマンダン地区は地理的にも文化的にもカトマンズ盆地とヒマラヤ地域と
の接点をなす位置にあり、同パンチャヤートの社会構成もネパールのヒンズー教徒の上層カーストであるバウン、
チェトリ、タクールと下層の職業カーストと、その中間的な地位を占めるとみなされているネワール族や言語の
系列ではネワール語と同じくチベット・ビルマ語系に属する山地民であるタマン族、マガール族、ダヌワール族
など・の混成で村落を構成しており、大きな村落で単一構成なのはジュディ・ガウン(GUD1 GAUN)とコテン(KOT,
-85—
ENG)の両村落だけであり、それは共にタマン族である。

この他に、表中にあるマハール (MAHAR) シババクタ
I (SIBABAKUTI)はネワール族の副カーストであり、ハ マール・ジョギ} (HOMMOLOGI)は自からブラーマンと
称するヨーガ僧である。サニャシ (SANNYASL SANYESHI)はバウン、チェトリのカ1ストから離脱した階層と
みられる。ネパールではバウン、チェトリで出家し、鮮黄色の僧衣をまとって托鉢僧(SADHU MENDICANTS)と
なり修業中の者が結婚した場合、その子孫は父母の去ったカースト社会に復帰することが認められなくてサニャ
(48)
シと呼ばれ、ギリ(G1RI)、プリ(PURI)、バハラティ(BHARATI)などの家名を付けたといわれる。

ここでのサニ
ヤシとギリはそれに該当するものと考えられる。また同パンチャヤート提出の資料にボティ(BHOTE)とあるが、
これはチベット人を意味するネパール語であり、タマン族、マガール族などのチベット系山地民にも用いられ、
さらに時にはこれらの山地民に対する蔑称として用いられることもある。

しかし、第四表中、⑴のラリバハドウ
ル・タマン管区では、タマン族出身の同氏がボティ四六戸と報告しているのは、それがタマン族であることが明ら
かであり、また同委員によるバウン、チェトリ、タクールの区分が明確ではない。

同パンチャヤート管内ではバウン、チェトリ、タクールもその他の諸族も農耕に従事しており、その土地利用
状況を示したのが第五表である。

水田には稲作と裏作に小麦、畑には陸稲、トウモロコシ’シコクビエ(KODO)
甘^CKHU)、小麦、ソバ、大豆、落花生などが栽培される。

家畜はヒンズーカーストの慣行からバウンは牛(雌、・去勢牡)、水牛(雌)、山羊(雌、去勢牡)のみを飼育し、
チェトリ、タクールはそれに加えて鶏を飼育する。タマン、マガール、ネワールなどはチェトリ、タクールの飼
育家畜に加えて去勢水牛も飼育する。カミ、ダマイ、サルキは豚も飼育するが、豚については洋種はバウン以外の
-86—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
他の階層でも飼育し、去勢牛は農耕のみに利用し、去勢水牛と山羊は犠牲に供せられる肉用であるといわれる。

このような純然たる農耕社会においてカミ、ダマイ、サルキなどの職人カーストの果す役割と生活条件につい
て、同調査報告は次のような事実を明らかにしている。

鍛冶職であるカミは鉄製農具の製作と修理をする。各農家がどのカミと契約するかは自由であり、契約期間は
一年である。製造、修理に必要な鉄材は需要者の負担で、報酬は穀物で支払われる。報酬額は、製造、修理の農具
数によって決まるのではなくて、契約農家の家族数によって決定する方法である。

同報告の事例によると、男女
老幼五名の一農家と契約したカミは、向う一年間当該農家の農具の製造、修理を必要に応じて行なう。その代償
として稲(もみ)、トウモロコシ、シコクビエの何れかで一人当り、ーパティ(ーパティPATH一は約四•三六リッ
トル)、合計五パティを収穫後に支払われる仕組である。

どの穀物で支払うかについては慣行があり、稲、トウモ
ロコシ、シコクビエの順序である。すなわち稲を栽培している農家は必ず稲もみで、トウモロコシ、シコクビエ
しか栽培していない場合はトウモロコシを、シコクビエのみ栽培の場合はシコクビエでということになる。

ダマイの仕事は衣服の仕立と修理であり、契約の内容、支払方法はカミの場合と全く同様である。ダマイと契
約した家では衣服がどんなに破れても、綻びても決して各自の家の者が手を加えることをしない。実際には新調
が中心で修理をすることは殆んどないようである。仕事はダマイが手動ミシンを持参して各家を訪問して庭先で
^9る0
皮革の加工をするサルキの場合は前二者と異なり現物納制のようなー定の規準がなく、をれぞれのケースに応
じて報酬額を決定するといわれる。
-87—

理髪、剃髪は下層職人カーストの仕事ではなくてネワール族がこれに従事しており、一年契約の現物納制をとつ
ている。しかし、女子は理髪師にかからないので家族数は男子だけで計算する。理髪師がネワ}ル族であるため、
カミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストに属する者は契約することができないので、各自が相互にしなけ
ればならない。

マハデウ・スターン•パンチャヤートでも下層職人カーストは不可触賤民的な地位におかれていた
わけである。

しかし、このような状況におかれたマハデウ・スターン•パンチャヤート管内でも、カトマンズとチベット国境
とを結ぶ道路の開通後、カトマンズと同管内の人的、物的交流が容易になり、数多い事例ではないが農業収入と
出稼による農外収入とにより自分の耕作している小作地を地主であるバウンから買取って自作化しつつあるタマ
ン族の事例もある。このような同パンチャヤート管内のその後の変化については別の機会に報告したい。

おわりに

以上でネパールにおけるカースト制の形成の過程をみてきたが、ネパールのカースト制はその導入の歴史が示
すように、インドのカースト制がネパール的土壌の中で変容したものであり、さらに導入後の歴史的、社会的諸
条件の推移により変容しつつ現在のような内容になったものと考えられる。

このようにして形成されたカースト制が、ネパールの村落共同体の構造、とりわけ土地所有、耕作関係などの
土地制度にどのようなかかわりがあるかを解明することが今後の課題となる。今後多くの研究者の研究成果と実
証的研究の積みかさねによりこれを明らかにしたいと考えている。

—88—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
第一表 ジャヤスティティ・マッラ(JAYASTHITI MALLA)王
による階層区分
区 分 DANIEL WRIGHTの英訳 LUCIANO PETECHの英訳
(1)チャルマカール CHARMAKARA WORKERS IN LEATHER
¢2)マーターンギー MATANGI WORKERS IN LEAT- HER ELEPHANT DRIVER
(3)ニオギー NIYOGI SERVANT ( ?)
(4)ラジャク RAJ AKA DYER AND CLEANER
(5)ドビー DHOBI WASHERMEN LAUNDRYMAN
(6)クシャトウラカール KSHATRIKARA ?
¢7) ローハーカール LOHAKARA BLACKSMITH
(8)クンダカール KUNDAKARA IVORY CARVER
(9)ナディーチェーデー NADICHHEDI CUTTER OF UMBILICAL CORD ( ?)
(10)タンデュカール TANDUKARA WEAVER
(11)ダーンヤマーリ— PHANYAMARI ?
¢12)バディー BADI ?
(13)キラータ KIRATA HUNTER
¢14)マーンサビクリー MANSABIKRI BUTCHERS BUTCHER
(15)マーリー MALI GARDENERS GARDENER
(16)ビヤンジャナカール BYANJ ANAKARA COOKS ( ?) SAUCE-MAKER PROBABLY THE SAME
(17)マンデューラ MANDHURA AS THE MODERN MA- NANDHAR, OIL PRESSER
¢18)ナティジブ NATIJI VA ACTOR WHO LIVES BY PROSTITUTING HIS WIFE
(19)スラービジア SURABIJA ?
(20)チトウラカール CHITRAKARA PAINTERS PAINTER
(21)ガイネ GAYANA MUSICIANS AND SI- NGERS SINGER
(22)バタオーニ BATHAHOM ?
—89—
¢23)ナーテヤワラダー NATEBARUDA (24) スルパカール SURPPAKARA (25) ビマリー BIMARI (26) タンカダーリー TANKADHARI ¢27)タヨルタ TAYORUTA ¢28)カンジカール KANJIKARA (29) バラヤチャンチュ BHAYALACHANCHU (30) ゴーパク GOPAKA (31iタームラカール TAMRAKARA (32Iスバルナカール SUVARNAKARA (33)カーンサヤカール KANSYAKARA ¢34)カールニック KARNIKA (35) トウラーダッル TULADHARA (36) クンバッカール KUMBHAKARA (37) クシェトウラカール KSHETRAKARA (38Iスリンカリ SRINKHARI ¢39)タクシャク TAKSHAKA (40) ダ-‘ルカール DARUKARA ¢41)リーピーク LEPIKA 幽ナーピック NAPIKA (43) バーリック BHARIKA (44) シイピカール SILPIKARA ¢45)マリカー-ル MARTKARA (46) チッチャック CHICHHAKA (47) スーピック SUPIKA COOKS ¢ ?) COWHERDS COPPERSMITHS GOLDSMITHS BELLMAKERS WEIGHERS POTTERS LAND-MEASURERS ? ? ? WORKERS AT THE MINT ? ? ? COWMEN BRONZESMITHS GOLDSMITHS ALLOYS FOUNDER AND BELL CASTERS WEAVER WEIGHER POTTER LAND SURVEYORS ? CARPENTERS WOOD CARVERS WORKER IN STUCCO BARBERS BEARERS CRAFTSMEN CONFECTIONER ? COOKS
—90—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(48) サージカール SAJAKARA (49) スリチャンテー SRICHANTE ¢50)アーラム alama ¢51)ダイバギア DAIVAGYA (52>ガニック GANIKA (53)ジョーティシャ JYOTISHA S4)グラハチンタク GRAHACHINTAKA (55)アーチャーリー AchArya (56Iデーバチンタ DEVA-CHINTA (57) プージタ PUJITA (58) アマーテヤ AMATYA (59) サチーブ SACHIVA (60) マントウリー MANTRI ¢61)カーヤスタッ KAYASTHA ¢63 レーカック LEKHAKA (63}ブッパ、ラージヾ、ナレンドラ、 チェトリー BHUPA. RAJA. NARENDRA、 CHHETRI (64)ドウウィジ、ビプラ、ブラーマン DWIJA、BIPRA、BRAHMANA DIFFERENT KINDS OF ASTROLOGERS STATE OFFICIALS IN OLDEN TIMES WRITERS TAILORS ? ? ASTROLOGERS PRIEST,TEACHER AND SACRIFICATOR OF THE HINDU NEWARS SPECIALITY UNKNOWN THE OFFICIATING PRI ESTS IN THE SAIVA TEMPLES MINISTERS PRIVY COUNCILLORS STATE OFFICIALS SCRIBES SCRIBES ROYAL FAMILY, ARISTO -CRACY AND MILITAR- Y CLASS
(出典)(DDANIEL WRIGHT, HISTORY OF NEPAL, 1877, REP. 1972,
KATHMANDU, PP.185-186〇
(2)LUCIANO PETECH, MEDIAEVAL HISTORY OF NEPAL, 1958, ROME,
PP.181-183〇
—91—
き 5 N IIクラス ー MAHAJU (AMATYA)o 旧王朝時代の大臣名である。 PRADHANAUGA. 届聽齢号精辱驚議’磨した容命”球 PRADHAN• 以前はNOBLEMENの一般的称号であった。 MULA OR MURMI. 旧時代の官職名。 RAJBHANDARI OR BHANNI \ 〇切!吟嗚聘界^^£あ MASKE (MAKHI) )つ甘か、コル力王朝下では協められなか Iクラス 一部分はOLD ROYAL FA- THAKURI MILYの子孫である〇 ヴァイシャ(VAlSYA)階級 ネパールでこの名称は使用されI ない。 ! クシャトリャ(KSATRIYA)階級 理論的には、次のヒンズーカース 卜はクシャトリヤとすべきであ る。1768年おでROYAL FAM- ILY のみTHAKUR!のカースト 名でクシャトリヤとして認めら れていた。現在は純粋なTHA・ KURIは存在しないので、ネパ ールにはクシャトリヤなたい。 1 DEVA BRAHMAN (FAMILY PRIEST) この三つは社会的には同格で 2 BHATTA BRAHMAN あるが、相互間で通婚するこ (TEMPLE PRIEST) とはない。 3 JHA OR TIRAHUTIYA BRAHAMAN (TEMPLE PRIEST) W (MVWHVHH)人ヘー J 畢 鄭 (OQNIH) 1
HIクラス BAGAとSESYAの間の混合カーストである。 MTYFD C A SESYA又はSESY°はネワールのヒンズー教徒の上 M1A也Uしい13.位カーストであり、ブラーマンとより低位カ一ストとの 間の子孫であり、BAGA又はBAGHAはSESYAの父とより低位カーストの婦人との間の 『孫で共{こ母班涼に入ったもので、この混合のカーストはSRESTHAとの通婚はできない。 11 ^rAtua 理論的には上位 bKEblHA-母のカーストに KAYASTHA, WRITERS. NIKH,PAINTERS OF RELIGIOUS IMAGES. LAKHAY,PERSON AL ATTENDANTS. 1 VAJRACRYA OR LEARNED MONKS. (FAMILY GUBBAJU. PRIESTS) 2 SAKYABHIKSU OR SIMPLE MONKS•この多く は金 1 BANRE 銀細工師である。・ 仏教徒集団(BUDDHIST) 1
£。 VHIS3HS | WLg コ1 諭
®u»27w (LUCIANO PETECH)^・バ蜀尤メニーW㊀Aー利ア謹
—92—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
ヾ‘ ij 1
Iクラス UDAY OR URAY これには通婚しない7グループがある。 1 KASAR,WORKERS IN METAL. 2 LOHANKARMI STONECUTTERS. 3 SIKARMI CARPENTERS. 4 THAMBAI, WORKERS IN COPPER, BRONZE AND ZINC. 5 AWAL, TILERS. 6 MADDIKARMI, BAKERS. 7 TULADHAR, WEIGHT-MAKERS. IIクラス JYAPU, CULTIVATORS. HIクラス このグループは社会的には同一レベルとみ ]SALMI OR MANAN-られているか相互に通婚しないし、また dh/r,or?ginally uday, JYAPU とも通婚しない。 OIL-PRESSERS,ENGINEERS AND MERCHANTS- 2 NAU, BARBERS. 3 KAU, BLACKSMITHS. 4 CHIPA DYERS. /時には彼等は自身をtandukArと呼ぶ(マ R VTJJTC A DAT AMIT17I7M ツラ王の区分 55 )、また、KHUSA の SUB-C- 1 5 KHUSA, PALANKEEN ASTEのーっであるMUSAは現在ではバドカ’ -BEARERS. !オンの2 – 3家族である。 6 PUM OR CITRAKAR, PAINTERS. 7 GATUH OR MALI, GARDENERS. 田刀-つ 乙のSUB-SECTIONの一つにBALAMI. ・ドクフス CARRIERSがある。 1 1 PUTUVAR.DALI, CARRIERS. 2 TEPAY,CULTIVATORS OF VEGETABLE GARDENS | AND CHIEFLY OF THE PALUNG GRASS.
—93 一
(圧海)LUCIANO PETECH-MEDIAEVAL HISTORY OF
NEPAL- ROM-1958- PP ・186| 189
不可触暢 (INTOUCHABLES)階級・
!1 NAY, BUTCHERS. 2 KUSLE OR JOGI, このSUB — SECTIDNの一つに TAILORS AND TEMPLE DHOM か> あるが、KUSLE は彼 MUSICIANS. 等を下位のもとと考えている。 3 P〇, FISHERMEN AND ネワール語では時にはDEQLA PRIESTS IN THE とも呼ばれる。 TEMPLES ON THE BANKS OF THE RIVERS. 4 had Ahhrit (これについてのL^PETECHの説明 4 hakahuku, はないが、d.R.REGMIは最低の階層 よりもなお低位とみられる道路などの 清掃夫であるとしている。なおREGMI は POJC は poria,chyAmkhala HArAHURU の三つをUNTOUCHA BLE CASTESとして分類している’ 本文参照) 5 CAMKHALA,SWEEPERS•遂翳光・皿山は同格と わ/よミ4し[い&>〇 6 KULU,LEATHER WORKERS• ネノヾールのDRUM作りで、 靴は作らない。 1 3 DUIN,ORIGINALLY THEY 現在ではBALAMI とは全く 別個 BELONGED TO THE BALAMI•である。 1 4 PULPUL OR FULU, HEARSE-BEARERS. I 5 TATTI,VENDORS OF NECESSARIES 1 FOR FUNERAL CEREMONIES. 6 SAGAN, LAUNDRYMEN.缶&?む、高讀誤£;/ 1 ンの数家族に限られて・いる。
—94—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
第三表 ネワール族のカースト(NEWAR CASTES)
カー ス ト 伝 統 的 職 業 戸 数 比率(%)
デオブラーマン 1 DEO BRAHMAN FAMILY PRIESTS 165 0.5
バッタ ブラーマン 2 BHATTA BRAHMAN TEMPLE PRIESTS 50 0.1
ジァブラーマン 3 JHA BRAMAN 150 0.4
グバジュ バレ 4 GUBHAJU, BARE FAMILY PRIESTS, GOLD AN- 3,700 10.0
シレスタ セシャ 5 SHRESTHA(SHESHYA) D SILVER SMITHS MERCHANTS 8,100 21.4
ウレイ(ウダス) 6 URAY (UDHAS) MERCHANTS AND CRAFTS- 1,700 5.0
ジャプー 7 JYAPU MEN FARMERS 15,800 42.0
クマ 8 KUMA POTTERS 1,150 3.1
シャイ?•— 9 SAYMI OILPRESSERS 1,370 3.6
クシャ 10 KHUSA PALANQIN BEARERS 300 0.8
11 NAU BARBERS 410 1.1
カウ 12 KAU BLACKSMITHS 300 0.8
バア 13 BHA FUNERAL DUTIES 150 0.4
ガテユ 14 GATHU GARDENERS 470 1.3
テペ 15 TEPE CULTIVATORS 150 0.4
プンム 16 PUM PAINTERS 170 0.5
7・ユヒム 17 DUHIM CARRIERS 130 0.4
バラミ 18 BALAMI FIELDWORKERS 50 0.1
プル 19 PULU FUNERAL TORCH BEARERS 100 0.3
チャパ 20 CIPA DYERS 430 1.2
ジオギ 21 JOG1 MUSICIANS AND TAILORS 550 1.5
ナーイ 22 NAY BUTCHERS AND MUSICIANS 1,050 2.8
クル 23 KULU DRUM-MAKERS 70 0.2
ポレ 24 PORE FISHERMEN AND SWEEPERS 500 1.3
チャミ 25 CHAMI SWEEPERS 250 0.7
ハルル 26 HALAHULU SWEEPERS 50 0.1
ネワール族の総人口、225,798人 計37,315 100
(出典)COLIN ROSSER, SOCIAL MOBILITY IN THE NEWAR CASTE
SYSTEM, IN CHRISTOPH VON FURER-HAIMENDORF, ED. , CASTE AND
KIN IN NEPAL, INDIA AND CEYLON, LONDON, 1966. PP. 85-86.
—95一
第四表、マハデウ・スターン・‘パンチャヤー
卜のカースト構成
村 落 名 戸数 人口 カースト(JATI)
¢1) LALBAHADUR TAMAN管区 58 187 ボティ¢6)、カミ⑹、タクール(6)
1 ティン・ピプレ TIN PIPURE 26 109 バウン(2)、タマン¢22)、カミ(2)
2 バラ BARA 8 29 バウン⑵、タマン⑹
3 タディ・カミン TADI KAMIG. 7 32 カミ(7)
4 ガイリ GAIRI
5 コテン KOTENG 32 187 タクール(8)、タマン(24)
6 ボッテ・ガウン BHOTE GAUN
7 ターロー •コテン TARO KOTENG 5 19 タクー ノレ(3)、チェトリ(2)
⑵ JANBAHADUR DANUWAR管区 47 318 パウン⑴、タクール(3)、チェ トリ{2)、 ダヌ!? ール<3切、 カミ(2) 8 ドッディ二 D H 0 D IN I 8 50 パウン(1)、タクーノレ(5)、チェトリ(2) 9 カルカ ・ KAR KA 1 6 チェトリ⑴ 10 サトウパテタール SATPATETAR 5 25 バウン⑴、チェトリ(2)、ネワール(2) 11 ラプタンタール LAPTANTAR 2 26 バウン⑴、ネワール(1) 12 マスロ・ジュディ・ガウン MASLO JUDI G AUN 12 73 ダヌワール(12) 13 アプタール・ジュディ・ガウン APT AL JUDI GAUN 32 162 ダヌワール(32) 14 パダ ガウン PADA GAUN 11 56 ダヌワール(9)、カミ(2) ¢3) HARIGOPAL SHRESTA 管区 78 424 バウン、チェトリ、ネワール、ギリ、 サヌヤシ、ダヌワール、ダマイ 15 ランサ~ル・トウムカ LAMS AR THUMKA 22 142 バウン(19)、チェトリ(3) 16 ジャガールプール JAGARPUR il 72 ダヌワール(1D 17 ボッティ・ノレムティ BHOTE RUMTI 4 20 ダヌワール(4) 18 バヌガール BANUGAR 2 13 ダヌワール(2) 19 ヒウンヮ・パティ HIUWA PATI 16 47 ネワール(15)、チェトリ(1) 20 マハデウ ・スターン MAHADEW STHAN 19 113 サヌヤシ(3)、ダヌワール(16) 21 マノ、デウ ・ペディ MAHADEW PEDI 12 84 バウン(2)、ネワール(7)、ダマイ(3) 22 カルティケチイダール KARTEKECHDAR 2 7 バウン(1)、ネワール(1) —96— ネパールのカースト制の形成についての一考察 (4) NANDA PRASAD PAULER管区 114 561 バウン、タクール、チェトリ、ネワ ール、ボティ、カミ、ダマイ、サルキ 23 ダルマタール DARMATAR 6 26 バウン(3)、チェトリ(2)、タマン(1) 24 25 グラインタール GRAINTAR トウムキ THUMKI 7 29 バウン(4)、タクール(1)、ネワール(2) 26 カメレ KAMELE 1 4 タクール(1) 27 28 29 ラクレ LAKURE バトウムニ•サブコタ BATMUNI SABKOTA ダイタール•パウレル DHAITAR PAULER 1 7 タクール(1) 30 ダイタール•サブコタ DHAITAR SABKOTA 7 22 バウン(7) 31 32 カメレコット KAMEREKOT カタルパカ KATALPAKA 3 21 タマン⑴、カミ⑵ 33 34 35 ドウディ DUDE アプガリ APUGARI ラエレ RAELE 2 15 タマン(2) 36 37 クンタ・ベーシー KUNTA BESI トウムキー・ガウン THUMKI GAUN 10 56 バウン(9)、チェトリ(1) 38 ジダリ・ポカリ JIDARI POKARI 7 32 バウン(7) ⑸ 39 40 41 42 43 44 GANANATH UPADHYA 管区 ガッシ GHASI デウラリ DEURARI サルキー・ガウン SARKI GAUN ダリンチャウル DARINCHOUR チャウル CHOUR デアリ・ガウン DEALI GAUN 86 7 415 25 バウン(51)、チxトリ(3)、サルキ(32) C6) 45 PURUNABAHADUR BISI CHETRI管区 ガイリ 54 286 バウン⑹、チェトリ(10)、ダマイ⑴ カミ⑴、ボティ(36) —97— 46 47 ガハテ GAHATE ボッテ・ガウン BHOTE GAUN ⑺ 48 49 KASINATH SHRESTA 管区 パウワ PAUWA パウワ・ガイリ PAUWA GAIRI 48 308 50 ダマイ・ガウン DAMAI GAUN 11 75 ダマイ(11) (8) 51 52 KEDARNATH SABKOTA 管区 マイダン MAIDAN ジャミールコット 70 372 バウン(35)、タクール(4)、チxトリ(20) ネワール(35)、カミ(8)、ダマイ(1)、 サルキ(3)、ボティ(40) これは(9)のJ. SHRESTA管区と 合併した数である。 53 JAMIRKOT ウパラディ・ランタール UPALADI RANITAR 5 27 ハマールジョギ(3)、シババクター ⑴、チェトリ⑴ 54 ランタール RANITAR 27 133 バウン(18)、チェトリ(1)、ネワール⑻ 55 シウリニタール SIURINITAR 13 63 バウン(1)、タクール(3)、チェトリ⑼ ⑼ 56 57 58 JEEWBHAKT SHRESTA 管区 ジャミールコット・ガイリ JAMIRKOT GAIRI サノ •マイダン SANO MAIDAN ディスワールタール DESWALTAR 76 376 上記¢8)参照 チェトリ(9)、タクール(1)、マガール (8)、カミ(11)、ダマイ(1)、サルキ(3) 59 アプタール APUTAR 1 3 ネワール(1) PANCHAYAT提出資料 合 計 632 3,247 男子1,689名、女子(1,558名) (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年 18-25ページの第5表から作成。 —98— ネパールのカースト制の形成についての一考察 第五表 マハデウ・スターン•パンチャヤートの土地利用状況 区 分 面 積(ヘクタール) 水 田 400 畑 地 800 草 地 800 森 林 1,200 荒 蕪 地 400 そ の 他 200 合 計 3,800 (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年、 28ページから。 —99— 注 1) ネパールの農業形態および地域区分については、島田輝男「ネパールの農業構造についての一考察」「アジア研究 所紀要」第二号、亜細亜大学アジア研究所、ー九七五年を参照。 (2) Frederich h・ gaige-Regionalism and National Unity in Nepal・ University of Cal FORNIA PRESS-1975- R IP TABLE 3・ MAJOR LANGUAGES SPOKEN IN THE TARAL (3) IBID;R16. (4) 島田輝男、前掲書、二三八頁。 (5) 田辺繁子訳「マヌの法典」、岩波文庫、昭和二八年、三一五頁。 (6) Dor Bahadur bist>people of Nepal” Kathmandu-1967- pp・18—23・
(7) 飯島茂「ネパールの農業と土地制度」、アジア経済研究所、ー九六一年、二〇—ニー頁。
(8) Dor Bahadur Bist>or cn\ p・160・
(9) ビルタの交付とビルタ制の形成については、拙稿「ネパールの土地制度と土地改革」「アジア研究所紀要』第三号、
亜細亜大学アジア研究所、一九七六年を参照。
(10) 岩本裕「インド史」、修道社、昭和四六年、四二頁。
(11) 前掲書、四三頁。
(12) D・ u- Kosambl The culture and civilization of ancient India in historical outline”
londoz1965・(コンサンビー著、山崎利男訳「インド古代史』、岩波書店、昭和四一年、ー〇六— ー 〇七頁。)
(13) ヴェーダに関する諸文献については辻直四郎著「インド文明の曙—ヴェーダとウバーーシャッドー」、岩波新書、ー
九六七年を参照。
(14) 前掲書、九七頁。
(15) 前掲書、一四— 一五頁。
-100-
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(16) 岩本裕、前掲書、二八—二九頁。
(17) 中村元「インド古代史」上、中村元選集、第五巻、昭和三八年、五六三—五六四頁、五七〇頁。
(18) 前掲書、五七七頁。
(19) 田辺繁子、前掲訳書、三六—三七頁。
(20) 前掲書、ニニ頁。
(21) 中村元「インド思想史」、岩波全書、ー九七七年、七—九頁。
(22) コーサンビー、前掲書、二六〇頁。
(23) 岩本裕、前掲書、四八頁。
(24) 中村元、前掲「インド思想史」、一六七— 一六八頁。
(25) Daniel WRIGHT-History of Nepal-1972 (FIRST E9 1877)-KATHMANDU\972- pp・107— 109・
(26) 中村元 前掲「インド古代史」上、二五五—二五六頁。
(27) 前掲書、二七三頁。
(28) Rishkesh shah>h eroes and bufders of Nepal- Oxforo University press- 1970-p・ 35.
(29) 玄奘「大唐西域記」、水谷直成訳、中国古典文学大系ニ二、平凡社、昭和四六年版、二四〇頁。
(30) RlSHlKESH shah>OR err・ PR 39I4P
(31) LR Arian and T.RDHUNGYAL-A New History of Nepal-Kathmandu- 1975-r 50.
(32) IBID: R 51・
(33) Daniel wrighhor cit・ pr 1851186・
(34) Luciano P etech-Mediaeval History of NEPArROME-1958 – pp・1811183・
(35) Daniel Wright・ op・ cm pr 1861187・
(36) D・ RRmGML Medieval NEPArpart l 1965″ Kathmandu- r 643・
(37) Luciano petech- op・ cm P181・
-101-
(38) DMRegml or cm p, 642・
() 55: PR 647 —650•
(如)S5: p. 64
() Mahesh Candra Regml Astudy in Nepali Economic HistorhNew Delhl 197LPP2—
() d,rregml op. Cm pp・ 666—677・
() Luciano PETECH- op cm p 189,
() Colin Rosser Social Mobility in the Newar Caste systemn Christoph von fure,
Haimendorf\ Ed・ Caste and KN in NEPArINDIA and Ceylon London” 196pp 85r8G
() Luciano petech\ or cm p 18
() dorregml op・ cm pp 676—67
() 東京農業大学ネパール農業調査隊「ネパール国マンダン地区農業調査報告」、海外技術協力事業団、昭和四十年、
二七頁 、
() Dor Bahadur BisTa” op cm p
-102—

オスマン帝国の社会構造

オスマン帝国の社会構造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%A7%8B%E9%80%A0

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オスマン社会とはオスマン帝国範囲内に居住していた全ての人々を指す言葉である。

オスマン社会はムスリムと非ムスリム双方から構成されていた。

非ムスリム達はジズエと呼ばれる税を納めることを除けば、社会からの差別の対象とはされていなかった。

ムスリム社会の生活はシャリーアによって形作られており、異なる国の宗教や習慣といった、オスマン帝国外の生活様式を守ることも可能であった。

社会の管理階級と被管理階級として、通時的な方法で2つの階級に分けることが出来る。 階級間の移動は禁止されていたわけではなかったが、制限は存在した。らしい。

社会的問題

オスマン帝国の文人キャーティプ・チェレビーは「人のいない建物はなく、軍隊のない共同体はなく、金のない軍隊はなく、人がいなければ金もない」と、国民と国家の関係を簡潔に表した言葉を残し、人民は税と軍の源であるとした。

キャーティプ・チェレビーと歴史家のムスタファ・ナイマは人間の成長段階は社会的な成長段階でもあると主張し、人間の誕生、成長、老化の段階を社会についても表現しようと試みていた。

オスマン帝国官僚のコチ・ベイと政治家ルトフィ・パシャは社会の崩壊と軍構造の乱れについて分析を行った。

ムスタファ・アリは社会の衰退を汚職、政治家の無責任性、不正義、ハレムの女性達による政治への関与といった要素に起因すると考えた。

フライシャーによると、オスマン帝国社会が揺らいだことの象徴として、スレイマン1世が息子ムスタファを処刑したこと、セリム2世がその絶対的な権威をソコルル・メフメト・パシャへ委譲したこと、賄賂の容認などが挙げられるとした。

統治者階級と被統治者階級の区分

オスマン帝国においては、不透明な形で社会階層の分類が為されていた。 明確な階級区分が存在しないことに加え、階級区分は時代と共に変動し、また憲法成立後は消滅した階級もある。

古典時代(15- 16世紀)

1. 統治者(軍人、アスケリーイェ)階級

    1.1. 幹部軍人

        1.1.1.俸給軍人
        1.1.2. 領地受領者及び封建騎士

    1.2. イスラム法学者

2. 被統治者(納税民、レアーヤー)階級

    2.1. 都会民

        2.1.1. 組合商人
        2.1.2. 商人及び両替商

    2.2. 村民
    2.3. 遊牧民

    封建制度の緩和後

1.統治者(軍人)階級

    1.1.中央の統治に携わる幹部軍人

        1.1.1.俸給軍人
        1.1.2.領地受領者及び封建騎士
        1.1.3.地方統治者(地方領主、アーヤン)

    1.2.イスラム法学者

2.被統治者階級

    2.1. 都会民

        2.1.1. 組合商人
        2.1.2. 商人及び両替商

    2.2. 村民
    2.3. 遊牧民



タンジマート及び改革勅令以後

1.統治者階級

    1.1.中央官僚

        1.1.1.西欧式官僚
        1.1.2.トルコ式官僚

    1.2.地方統治者(地方領主、アーヤン)
    1.3.イスラム法学者

2.少数の中産階級
3.被統治者(納税民)階級

    3.1.都会民
    3.2.商人
    3.3.職人
    3.4.労働者
    3.5.村民
    3.6.遊牧民

統治者階級(徴税民、アスケリーイェ/ベラーヤー)

イルミエ(学者階級):宗教、教育、法律に関する専門知識を持つ人々。シェイヒュルイスラームとカザスケルを筆頭に、カーディー、マドラサ教授、学者、教師、ムアッジンなどがこの階級に属しており、皆マドラサの課程を修了していた。

カレミエ(事務官階級):金融と記録に関する事務官。帝国議会議員の書記官、上級官僚、外務大臣などがこの階級に属し、また裁判所書記官はこの階級に属することを義務付けられる。 通常は宮殿学校(トルコ語版)の卒業生である。

セイフィエ(武官階級):行政及び軍事の分野で職務を行う人々。サドラザム、ワズィール、海軍最高司令官、イェニチェリ最高司令官はこの階級に属する。ベイレルベイ(州総督)、サンジャクベイ(県総督)、各地の知事はこの階級から選出される。 通常は宮殿内学校 Enderun の卒業生である。

被統治者階級 (納税民、市民 テバー/レアーヤー)

納税を義務付けられた一般大衆。 農民、村民、貿易商、小売人などがこの階級に属する。

居住区分

村部

帝国の人口の大部分は村民であった。農民は与えられた土地を用い、封建騎士或いはワクフへと税を納めていた。 村民は土地を3年間連続で放置し農業を行わなかった場合、「農業放棄」の名目で税金を支払った。この課税の目的は、土地の放置を防ぐことにあった。
16世紀の後半、封建制度の撤廃に伴い「徴税請負制度」が広まり、その結果として納税民の状況は悪化した。その後村から都市への人口の移動が始まり、それに伴い都市部の問題の増加、村落の空洞化、農業生産の減少が起こった。

都市部

オスマン帝国の都市は交易、工業、様々な社会制度や組織、行政・軍事・宗教的職務といったあらゆる面で中心としての役割を担っていた。都市部の住民は軍人、貿易商、職人といった層から構成されていた。

遊牧民

遊牧民は畜産を担っていた。国家による法が整備され、彼らは帝国領土内で遊牧生活を続けることが可能であった。国家は遊牧民から、家畜税、家畜小屋税、越冬税、夏季放牧税といった形で徴税していた。徴税や徴兵に際し遊牧民が問題となる場合は、彼らを定住させることで解決を試みたが失敗に終わった。

経済活動

オスマン帝国において、裕福な層に必要とされる基礎的な理解は、帝国政府の潜在的な懸念と共に急成長することはなかった。

しかし帝国政府の可能性は膨大で、豊かであった。

官僚はオスマン社会において最も裕福で権力を持った階級であった。イナルジュク教授によれば、「1500年代、県総督一人の年収は金貨にして4000から12000枚の範囲であったが、その一方で同時代のブルサの裕福な商人でさえ金貨4000枚を稼ぐことは滅多になかった」とされている。

ごく一部の官僚階級の者だけが、スルタンの家族に次ぐ最裕福層となり、それ以降には外国商人やイスラム教徒が続くのである。

例えば歴史学者ルトフィ・バルカンが1528年にルメリの4地域で行った調査によると、土地の35%がスルタンの領地、54%が封建騎士などの領地受領者、7%が県総督の所有地であり、家屋や教会用地はそれぞれ僅か1%程度であった。 中央政府は総収入の37%を手中に収めることが出来たが、残った分は各地域の権力者の手に渡った。このような状況は帝国の軍国主義に由来するものである。

歴史的プロセスにおける社会構造

建国期間

セルジューク朝時代、かなりの数のオグズ系トルコ人がイラン、アゼルバイジャン、アナトリア、シリアへと範囲を拡大した。

この当時初めに確立された政府のイデオロギーの傾向と統治体系はアラブ的、イラン・イスラム的伝統に依存したものであった。

軍も大半が牧畜を営む半遊牧オグズ・トルコ人から構成されていた。

文民や金融行政においてはイラン人宰相や書記官、文化人やアラブ人詩人や文筆家が、マドラサにおいてはアラビア語が採用され、アラブ人学者が中心であった。

政治や文学の世界ではペルシャ語が、マドラサではアラビア語が採用され、トルコ語は日常生活の言語として位置付けられていた。

マドラサにおいて力を付けるカーディーは、国内の様々な地域においてシャリーアの規定を適用させた。

国境地域においてはムスリムでありながら内アジアの伝統に従うトルクメンの生活習慣が一般的であった。

牧畜生活を営むトルクメンは、冬は平原、夏は高原で半定住、半遊牧の生活を行っていた。

加えて、ビザンツ地域への侵略による戦利品もまた政府の重要な収入源であった。 都市人によって貿易を管理するアーヒー同胞団(町人による商業組合)も編成されており有事の際には防衛などの任を果たしたほか、政治的混乱期にはアナトリア地方の鎮圧の補助にもあたった。

拡大期

14世紀初頭に小さなコミュニティから始まったオスマン帝国は、その政府の寛容さと公正さによりドナウ川からクズルウルマク川まで勢力範囲を拡大した。

そしてこの寛容さと公正さはバルカン半島において獲得した地域の管理を確実化した。

国家の法的基盤はシャリーアによって構成されていたが、慣習的な規則などもまた無視されなかった。 税制に関する最古のオスマン帝国の文書は15世紀の物である。 新たに獲得した地域での税の軽減は、各地域の住人が帝国を好む理由となっていた。

軍人を除いた国民は帝国へ税を納める納税民であった。

帝国の政治状況において、軍人と納税民は厳格な規則によって分離されていた。

納税民は納税民のままに、軍人は軍人のままに居ることが望まれた。

スレイマン1世に仕えた宰相ルトフィ・パシャが記した文献の中では「納税民であり、祖父母が封建騎士ではない者を封建騎士とするべきではない。門扉が開かれれば誰もが納税民の立場から逃げ出し封建騎士になろうとするだろう」と述べられている。

社会的出自、生育条件と公務の観点から、軍人階級の人間は兵士と文官の二つに分けられた。

非ムスリムはムスリムとは異なりジズエと呼ばれる税を支払っていたが、ジズエを除いては他の市民と区別されることはなかった。

都市市民、遊牧民、村民ではそれぞれ税制に違いが見られた。

社会における様々な人々を中間層として纏めようという試みも為されていた。

優勢的な要素を持たなければ権力を掌握することは不可能だと考えられていた。

商人の中で非常に裕福になった一人から没収という形でその財産を奪ったり、特定の地域で力を持つようになった市民や流民を即座に追放されたりといった例に見られるように、帝国政府は民衆が権力を手にする機会を奪ったのである。

社会学者ジヤ・ギョクアルプは、デヴシルメの子供達を政府官僚とするための宮殿学校とマドラサを比較した際に、前者では非トルコ人のトルコ人化、後者ではトルコ人のアラブ人化が行われたと述べた。

宮殿学校内での言語がトルコ語であった一方、科学分野やマドラサでの言語はアラビア語であった。

軍事階級においてはムスリムより寧ろデヴシルメによるキリスト教徒が好まれた。

通常スルタンに次いで裕福な人物は大宰相であった。 大宰相の子が就くことの出来る地位には、同様にデヴシルメによるキリスト教徒の子弟が就くことも可能とされていた。

また、組合商人に都市間貿易の許可を与えるなど、商人の地位向上の試みも為された。

村民は遊牧民に好まれた。 村民が居住地が明らかであり税を納めていた一方で遊牧民は居住地が定かではなく、徴税や徴兵の点で問題となった。遊牧民を村民として定着させることは、帝国政府の最大の課題の一つだった。

停滞と衰退

地理的発見や西洋諸国で実現した技術的革新に追随することが出来ず、帝国は内政問題に対処することを余儀なくされた。

この時期、更に税負担とインフレーションが原因で民衆による反乱の兆候が見られ始めた。

上院議員達はこの時期に政治権力を局所的に供給していた。

世界的な貿易ルートの変化と代替的な生産手段の登場により、オスマン帝国は経済的困難に見舞われることとなった。

西洋的な教育システムが導入されたのは1700年代のことであり、それ以降セリム3世やマフムト2世のようなスルタンが西洋的システムによる社会発展を試みたが、これらは定着しなかった。

タンジマート以後

タンジマートにおいて飛躍的に工業化を進めたものの、これらの取り組みは未だ十分ではなかった。

西洋列強に対し自国を維持しようと試みた帝国は社会生活において様々な規制措置を講じた。

非イスラム教徒人口の為の大きな改革も行われた。殆どが西洋主導で行われた取り組みの結果として、公務員の権利、税の平等化、軍事などの事柄に関しての改革が行われた。』

(※ 日独)防共協定

(※ 日独)防共協定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A

 ※ 条約と協定の違いについて、ちょっと調べた…。

 ※ しかし、あまりよく分からんかったところもある…。

 ※ それで、「あまり機能しなかった協定」の一例として、紹介しておく…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(日独伊防共協定から転送)

共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書
Japan Germany Anti Commintern Pact 25 November 1936.jpg
日独防共協定の日本語原本
通称・略称 日独防共協定
署名 1936年11月25日
署名場所 ベルリン[1]
締約国 ドイツ[1]、日本[1]
言語 日本語、ドイツ語
条文リンク 条約本文 – 国立国会図書館デジタルコレクション
テンプレートを表示
日本国独逸国間ニ締結セラレタル共産「インターナショナル」ニ対スル協定ヘノ伊太利国ノ参加ニ関スル議定書
通称・略称 日独伊三国防共協定、日独伊防共協定
署名 1937年11月6日
署名場所 ローマ[2]
締約国 ドイツ、日本、イタリア[1]
言語 日本語、ドイツ語、イタリア語
条文リンク 条約本文 – 国立国会図書館デジタルコレクション
テンプレートを表示
満洲国ノ共産「インターナショナル」ニ対スル協定参加ニ関スル議定書
署名 1939年2月24日
署名場所 新京
締約国 ドイツ、日本、イタリア、満州国[1]
言語 日本語、ドイツ語、イタリア語、漢文(中国語)
条文リンク 条約本文 – 国立国会図書館デジタルコレクション
テンプレートを表示
ハンガリー国ノ共産「インターナショナル」ニ対スル協定参加ニ関スル議定書
署名 1939年2月24日
署名場所 ブダペスト
締約国 ドイツ、日本、イタリア、満州国、ハンガリー[1]
言語 日本語、ドイツ語、イタリア語、ハンガリー語
条文リンク 条約本文 – 国立国会図書館デジタルコレクション
テンプレートを表示
西班牙国ノ共産「インターナショナル」ニ対スル協定参加ニ関スル議定書
署名 1939年3月27日
署名場所 ブルゴス
締約国 ドイツ、日本、イタリア、満州国、ハンガリー、スペイン[1]
言語 日本語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語
条文リンク 条約本文 – 国立国会図書館デジタルコレクション
テンプレートを表示
共産「インターナショナル」ニ対スル協定ノ効力延長ニ関スル議定書
署名 1941年11月25日
署名場所 ベルリン
締約国 ドイツ、日本、イタリア、満州国、ハンガリー、スペイン、ブルガリア、ルーマニア、デンマーク、スロバキア、クロアチア、フィンランド、中華民国南京政府
言語 日本語、ドイツ語、イタリア語
条文リンク 条約本文 – 国立国会図書館デジタルコレクション
テンプレートを表示

防共協定(ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)は、1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で調印された、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたった条約[3]。正文である日本語における条約名は共産「インターナショナル」ニ対スル協定(きょうさん「インターナショナル」ニたいスルきょうてい)。同じく正文であるドイツ語条約名はAbkommen gegen die Kommunistische Internationale。

締結当初は二国間協定である日独防共協定(にちどくぼうきょうきょうてい)と呼ばれ、1937年(昭和12年)11月にイタリアが原署名国として加盟し[4][2]、日独伊防共協定(にちどくいぼうきょうきょうてい)と呼ばれる三国協定となり、1939年(昭和14年)にはハンガリーと満州国、スペインが参加したことによって6カ国による協定となった[1]。

しかし、同年8月23日締結の独ソ不可侵条約によって事実上の空文となった。その後、第二次世界大戦の勃発を経て、1941年(昭和16年)5月の独ソ戦開始により反共という概念が再び利用され、11月25日には本協定の改定が実施されるとともに、ブルガリア王国、ルーマニア王国、デンマーク、スロバキア、クロアチア独立国、フィンランド、中華民国南京政府(汪兆銘政権)が加盟している。1945年5月のドイツの降伏によって事実上失効した。

背景

1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退した日本では、国際的孤立を回避するために同様に国際連盟から脱退したドイツおよびイタリアと接近するべきという主張が日本陸軍内で唱えられていた。また、共産主義国家であるソビエト連邦は両国にとって仮想敵であり、一方のソ連では1935年(昭和10年)7月に開催された第7回コミンテルン世界大会で日独を敵と規定するなど、反ソビエトという点では両国の利害は一致していると考えられた。また駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将は、かつて日露戦争の際にビョルケ密約によってロシア帝国とドイツ帝国の提携が成立しかけ、背後を気にする必要が無くなったロシアが兵を極東に差し向ける恐れがあった事例をひき、ユーラシアにおけるソビエト連邦とドイツの提携を断乎排除する必要があると唱えていた[5]。

ドイツ側の対日接近論者の筆頭であったのは、総統アドルフ・ヒトラーの個人的信任を得ており、軍縮問題全権代表[6]の地位にあったヨアヒム・フォン・リッベントロップであった。リッベントロップはこの協定を、イギリスを牽制するためのものとして準備していた。国民社会主義ドイツ労働者党には、外務全国指導者のアルフレート・ローゼンベルクがいたが、日独接近は英独関係に悪影響を及ぼすと考えて躊躇していた[7]。ヒトラーはリッベントロップを将来の外相であると評価していたが、外相となるには「手柄を挙げることが必要」と考えていた[8]。

一方でドイツ外務省は、日本が建国した満州国承認も行わず対日接近には消極的で、中独合作で中華民国とも結ばれていたこともあり極東情勢に不干渉の立場をとっていた。コンスタンティン・フォン・ノイラート外相は「日本は我々になにも与えることができない」と評価していた[9]上に、「第一次世界大戦において日本は、日独間に特に紛争があったわけでもないのに連合国側についた」とみなして日本に悪印象を抱いていた[10][11]。

さらには、リッベントロップが外務次官の地位を要求していたにもかかわらず、外務省側ではこれを拒否するなど両者には強い敵対関係があった[12]。このため11月26日の調印式にいたるまで、ドイツ外務省はこの協定交渉を一切関知しようとしなかった[13]。また、ドイツ国防軍は伝統的に親中国路線であり、政府の方針とは独自の中華民国支援路線をとっていた。さらに中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談するなど、ドイツは日本と中華民国との間で大きく揺れていた。

この複数の関係機関が独自に活動している状態は、ヒトラー政権下における外交の多頭制と、複数路線制を示すものであると指摘されている[7]。実際にリッベントロップは「リッベントロップ事務所」を設立し、外務省から独立して対日交渉に臨んだ。

日独間の締結交渉

大島浩駐独武官

第一次交渉

リッベントロップは兵器ブローカーフリードリヒ・ハックを通じて日本との接触を図った。ハックは日本海軍と取引があり、1935年(昭和10年)1月には英・ロンドンで山本五十六軍縮会議全権とリッベントロップの会談を実現させた。リッベントロップはヒトラーと山本の面会を求め、日独接近の交渉を行った。しかし海軍の独自の動きを警戒する松平恒雄駐英大使と、武者小路公共駐独大使によってこの動きは阻止された[14]。この動きは国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス中将に察知されたが、彼は「対ソ同盟」を主張しており、国防軍の大勢と異なり、リッベントロップらと協力する動きを開始した[15]。

9月13日、ハックは駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将に接触し、日本陸軍参謀本部の意向を確認した。大島も外務省を通じず、陸軍とリッベントロップの間で交渉を行うように要請している。11月半ばまでの間ハックと大島の間で予備交渉が行われ、大島はソ連を対象とした軍事色の強い保証協定を提案している[16]。ハックはこの提案をカナリスに伝え、カナリスは国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクにこの提案を提示することにした[17]。ブロンベルクはこの提案に前向きに応じ、リッベントロップと大島の会談を促した[17]。しかしブロンベルクはこの時点で、対日接近が対中関係に及ぼす影響をまったく考慮しておらず、国防軍総局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウをはじめとする対中接近派の意見に従うようになり[17]、具体的な軍事協定の締結には強く反対することになる[18]。カナリスは国防軍内における対日接近派の勢力拡大と、対中接近派の抑制に努めることになる[19]。

大島からの報告を受けた日本陸軍参謀本部は、参謀総長閑院宮載仁親王が「ベルリンでの作業計画」を裁可し、交渉のために参謀本部欧州課独逸班長若松只一の訪独を承認した[18]。しかし日本参謀本部の動きを察知した駐日大使館付武官オイゲン・オット大佐はこの動きを国防軍上層部に通報した。カナリスはこの動きに動揺し、オットに対し駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセン(ドイツ語版)への報告を禁じた[18]。

日本の参謀本部は提携には積極的であったが、軍事同盟には消極的であった。しかし日ソ戦の際にドイツが「好意的中立」を保ってくれることを希望していた。リッベントロップ事務所のヘルマン・フォン・ラウマーはソ連を刺激することを恐れ、協定内容を対ソ連ではなく「コミンテルンによる国際共産主義運動が自国に波及する事を防ぐ」という婉曲的な内容にしようと提案した。当時、ソ連政府はコミンテルンの活動はソ連政府と無関係であるという立場を取っており、これを逆用したものであった[13]。大島も反コミンテルン協定であるという「マント」を着せることに同意した[20]。

11月15日にはリッベントロップ邸において、リッベントロップ、カナリス、ハック、ラウマー、大島、若松が会談を行った。この席でリッベントロップは「一般的な友好協定」に「軍事上の付属紳士協定」が加えられたものを提案し、成立した協定はイギリスに通知されるべきことと、ポーランドの参加が考えられるとした[21]。

この時期になるとリッベントロップらの動きは外務省にも察知され、リッベントロップは「様々な部局、とりわけ外務省からの抵抗」に悩まされるようになった[21]。しかし11月27日にリッベントロップと面会したヒトラーは、「対コミンテルン条項は公表してもよい」「調印はベルリンで行う」という「決断」を示した[22]。11月30日にはラウマーによって協定案が完成した。「コミンテルンの危険に対する防御協力」をうたった本文と、締結国がソ連の紛争に巻き込まれた場合には一方の締結国はソ連を援助しないことを定め、ソ連との条約締結を禁止した付属協定、そして両国軍の間で締結される軍事協定から構成されていた。

しかしこの協定案提示から7ヶ月間、協定交渉は一時停滞することになる。

停滞期の交渉

この時期、イタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)が勃発し、イギリスによる調停が試みられたことは、イギリス・イタリア・フランスによるストレーザ戦線が再来するのではないかという懸念がドイツ側に存在し、外交政策の再検討を行う事態となった[23]。

外務省はこの機会を巻き返しの時期ととらえ、リッベントロップらの動きに抵抗した[24]。

また国防軍による中華民国との交渉も大きく進展し、汪兆銘らはドイツを仲介者とした日中和平を希望するようになった[25]。

ヒトラーはこの仲介に「外見上、原則的な賛意」を与え、リッベントロップも大島に、日独協定に中華民国を加えることはできないかと打診している[26]。

一方で国防軍の過度な対中接近には外務省も否定的であり、ベルンハルト・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー(ドイツ語版)外務次官は国防軍やライヒェナウの姿勢を非難している[27]。

1936年(昭和11年)1月、日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。また同月には日独合作映画『新しき土』の制作のためと称してハックが来日、日本の関係者と交渉を行った[28]。

2月に二・二六事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。

その後広田弘毅が首相となり、5月8日に外相有田八郎は駐独大使武者小路公共に「両国間に事項を限定しない漠然たる約束」をする趣旨の指令を行った。しかし参謀本部は大島少将に「日ソ戦が勃発した際に中立を守る」規定を盛り込むように指令した。

4月6日にはライヒェナウらの主導で、中華民国に一億ライヒスマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。

これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。

ライヒェナウはこの際に日独提携と独中提携は両立しないと言明した上で、「リッベントロップ氏による日本との協定交渉は中止された」と語っている[27]。

5月には国防軍が日本との提携は対ソ戦争の際に役立たないばかりでなく、イギリスやアメリカとの敵対関係も呼び込むと警告する報告書を提出した[29]。

一方で援助協定のあまりの巨大さを知ったドイツ外務省は、国防軍を牽制するため、対日接近に傾くようになった[30]。

再交渉

リッベントロップは1936年(昭和11年)7月に駐英大使に任命されているが、ヒトラーとのパイプを妨害されることを怖れ、ロンドンに赴任したのは10月になってからであり、その後もしばしば帰国してヒトラーと連絡を取っている[8]。

7月には防共協定の案文と付属議定書がドイツ側から日本に提示された。この内容は1935年11月にラウマーが作成した案とほぼ同一のものであったと見られている[31]。

広田内閣率いる日本側は協定の公表自体には反対であったが、ドイツ側は協定本文については公表することを望んだ[32]。

一方でライヒェナウらはなおも強い独中協定を主張し、中独軍事同盟の成立も主張していた[32]。

9月にライヒェナウは帰国するが、ヒトラーは「(ライヒェナウがヒトラーの)対日構想を台無しにしようとしている」と激怒し、「将軍たちは政治を何も理解していない」と罵った[33]。

10月23日には仮調印が行われ、日本の枢密院における審議を待つばかりとなった[34]。

しかし国防軍の親中的な姿勢が伝えられるにつれ、枢密院での審議が危ぶまれるようになった。

武者小路大使はドイツ側に抗議し、協定締結は不可避と考えるようになったドイツ外務省が国防軍に対中支援協定の中止を求めたことでこの動きは決着した[35]。

協定締結

日独防共協定に調印するリッベントロップとそれを見守る武者小路公共

11月25日、ベルリンのリッベントロップ事務所で協定の調印式が行われた[36]。

日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側はリッベントロップが行った。

協定の内容はドイツ側の提案、すなわち1935年11月のラウマー案の内容を大きく超えるものではなかったが、国防軍の主張通りの軍事協定の性格はつかなかった[37]。

協定締結後には祝賀晩餐会が開かれたが、この席にはヒトラー、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスといった高官の他、外務省関係者からは外相ノイラート、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーらの首脳が参加したが、国防軍からはただ一人カナリスが参席していた[38]。

国防軍はこの場に高官を出席させないことで不快感を示した形になり、またこのような場にカナリスのような地位の人間が出席するのは極めて異例である[38]。

協定の内容

大日本帝国政府および独逸国政府は共産「インターナショナル」(所謂コミンテルン)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の 破壊及爆壓に有ることを認め 共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及び社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅すものなることを確信し 共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通協定せり

第一条
締結国は共産「インターナショナル」の活動に付相互に通報し、必要なる防衛措置に付協議し且緊密なる協力に依り右の措置を達成することを約す(対コミンテルン活動の通報・協議)

第二条
締結国は共産「インターナショナル」の破壊工作に依りて国内の安寧を脅さるる第三国に対し協定の趣旨に依る防衛措置を執り又は本協定に参加せんことを共同に勧誘すべし(第三国の加入要件)

第三条
本協定は日本語及び独逸語の本文を以って正文とす。本協定は署名の日より実施せらるべく且つ五年間効力を有す。締結国は右期間満了前適当の時期に於て爾後に於ける両国協力の態様に付了解を遂ぐべし(条約の期限)

附属議定書

本日共産「インターナショナル」に対する協定に署名するに当り下名の全権委員は左の通協定せり

(イ)両締約国の当該官憲は共産「インターナショナル」の活動に関する情報の交換並びに共産「インターナショナル」に対する啓発及防衛の措置に付緊密に協力すべし

(ロ)両締約国の当該官憲は国外に於て直接又は間接に共産「インターナショナル」の勤務に服し又は其の破壊工作を助長するものに対し現行法の範囲内に於て厳格なる措置を執るべし

(ハ)前記(イ)に定められたる両締約国の当該官憲の協力を容易ならしむる為常設委員会設置せらるべし。共産「インターナショナル」の破壊活動防衛の為必要なる爾余の防衛措置は右委員会に於て考究且協議せらるべし

(以上仮名を平仮名、旧仮名遣いを現代仮名遣いに修正)

秘密附属協定

日本陸軍が望んだ軍事的条約は第一条に定められた規定に盛り込まれた。この附属協定は公表されなかった。

第一条 
締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。攻撃を受ける事態になった場合には両国間で協議する(対ソ不援助規定)。
第二条
締約国は相互合意なく、ソビエト連邦との間に本協定の意思に反した一切の政治的条約を結ばない(対ソ単独条約締結の禁止)。
第三条
この協定は本協定と同期間の効力を持つ。

(以上、概要)
秘密書簡・秘密了解事項

秘密附属協定を補則するため、秘密書簡と秘密了解事項が添付された。日独両国がすでにソビエト連邦と結んだ条約(独ソ中立条約など)は秘密附属協定の第二条の対象外となることなどが定められた。

締結直後の評価

防共協定は交渉過程において実効性をもたない骨抜きの条約となり、交渉当事者にも「『背骨無き』同盟」[36]と評価されていた。

陸軍以外は協定締結に積極的ではなく、元老西園寺公望は「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、日本はむしろ非常な損をしたように思われる」ともらしており、ディルクセンも日本外務省・海軍・財界の態度が冷淡であると報告している。

一方でリッベントロップは、「(同盟へと拡大されるはずであった)防共協定は、イギリス『抜き』、あるいはイギリスと『敵対』してでも広範囲にわたる(ヴェルサイユ条約)改訂政策とその後の領土拡大政策を実行できる」という見通しを得た[39]。

リッベントロップはこの協定をソビエト連邦に対して用いることは考えておらず[39]、この点はヒトラーも同意見であった[39]。

リッベントロップは「ジブラルタルから横浜まで」に至るユーラシア同盟によってイギリスと敵対する構想を持っていた[40]。

1937年2月には、ディルクセンが日本から勲一等旭日大綬章を受け、その他カナリス、オット、ハック、ラウマーといった交渉関係者にも叙勲が行われた。

11月にはノイラートの他、「(協定締結を)終始熱心その促進に務め」たとして、ブロンベルクら国防軍関係者にも儀礼的な叙勲が行われている[41]。

協定の拡大

日本陸軍は防共協定を実質的な軍事同盟に発展させることによってイギリスおよびソ連の日中戦争介入を防ごうと考えていた[42]。

1938年7月3日、板垣征四郎陸軍大臣は「時局外交に関する陸軍の希望」という文書を内閣(第1次近衛内閣)に提出した[42]。

7月19日の五相会議において「日独及ビ日伊間政治的関係ニ関スル方針案」が採択され、「(ドイツに関しては)防共協定ノ精神ヲ拡充シテ之ヲ対『ソ』軍事同盟ニ導キ」という方針が確認されている[42]。

このドイツとの同盟問題は当時「防共協定強化問題」と呼ばれているが[42]、これは同盟に反発する国内の抵抗を抑えるための方策であった[43]。

イギリスへの打診

日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている[44]。

また、ソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった[45]。

また、日本国内でも同盟成立を重視する日本陸軍は英仏を敵に加えるよう主張していたが、大英帝国の影響を怖れる海軍及び外務省はこれに反対していた[46]。

重光葵のように防共をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが[47]、大きな動きにはならなかった。

イタリアの参加

1937年(昭和12年)8月21日の中華民国とソ連の中ソ不可侵条約の成立によって、イタリア王国の防共協定参加が決定的なものとなり、ムッソリーニ首相は日本の東洋平和のための自衛行動を是認するという論文を発表、ベルギー九カ国条約会議でイタリアのマレスコッチ代表は日本を支持するなどの動きを見せた[48]。

会期中の1937年11月6日、イタリアが原署名国の一つとして防共協定に加盟すると規定した「日本国ドイツ国間に締結せられたる共産インターナショナルに対する協定へのイタリア国の参加に関する議定書」に調印した[4][48][49]。

イタリア王国の参加により日独伊防共協定に発展し、協定の反英・反西欧的性格はさらに強まった[39]。

1938年、リッベントロップは外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。

しかし反英的でソ連と組むことも辞さないリッベントロップおよびドイツ外務省・海軍と、どちらかといえば親英的で、ソ連打倒を考えていたヒトラーという二つの外交路線が存在していた[50]。

日本の各部首脳はヒトラーの意志のみを重視しており、後の独ソ提携で衝撃を受けることになる[51]。

満州・ハンガリー・スペインの参加

また日本の指導下によって成立した満州国は防共協定への参加を熱望していたが、将来の日独伊三国の同盟構想が決定されていないこの時期の参加は、時期尚早と見る日本の反対により加盟は実現していなかった[52]。

しかしこの日本の反対はソ連を主敵とする決定が下されたことで解決し、またドイツもハンガリー王国の参加を希望することになった[53]。

これにより原署名国の三国がハンガリーおよび満州国を勧誘する形で協定の拡大が行われ、1939年1月13日にハンガリーが、1月16日に満州国が参加を表明した。両国の調印は2月24日に別個に行われた[54]。

日独は一方で、スペイン内戦において勝利を固めつつあったフランシスコ・フランコ政権の防共協定参加交渉も行っていた。3月27日になってフランコ政権は防共協定への加盟を秘密裏に行っている[55][56](スペイン)。

事実上の白紙化

スターリンと握手するリッベントロップ外相1939年8月23日

ところがその直後の1939年8月23日には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。

リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧民主主義国という性格を持つものだとヨシフ・スターリンに説明している[39]。

これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、平沼内閣は総辞職したことによって、協定は事実上消滅し、日独の提携交渉はいったん白紙となった[57]。

日本外務省内では協定が事実上白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などの声も起こらず、手続きは行われなかった[58]。

しかしリッベントロップは翌月9月から再び日本に対する接近を開始した。

リッベントロップは持論であるユーラシア同盟がイギリスに対抗できる手段だと説いたが、日本政府の反応は良好ではなかった[59]。

しかし1940年にドイツがフランスおよびオランダを打倒してヨーロッパにおける勝利をつかみつつあると認識した日本政府は、ドイツが南アジアおよび東南アジアの植民地に進出するのではないかという危惧を抱いた[59]。

リッベントロップはその危惧を払拭し、日本が南方進出に出るように働きかけ、イギリス・アメリカとの対立を深くすることで、ドイツ側の陣営に日本を巻き込もうとした[59]。
日本でもこの動きに追随する方向性が強くなり、1940年9月27日の日独伊三国同盟の結成に至った。

また日本の松岡洋右外相もユーラシア同盟構想を抱き、1941年の欧州歴訪においてこの構想を実現しようとした。

しかしヒトラーは三国同盟結成の時点で独ソ戦を決断しており、ユーラシア同盟構想はすでに崩壊していた。

すでに独ソ関係が変化しているというリッベントロップや大島の言葉には耳を貸さず、1941年4月13日日ソ中立条約の締結が実現した[60]。

協定の延長と消滅

独ソ戦の開始後、防共協定自体は存続したものの、日ソ中立条約の存在もあり、対ソ連条約として有効にはならなかった。

1941年11月25日には期限満了を迎える協定の5年間延長を規定した条約がベルリンで調印されているが、秘密議定書については廃止されている[61]。

また同日には第二次世界大戦で枢軸側に参戦したブルガリア王国、フィンランド、ルーマニア王国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、ドイツの占領下に置かれたデンマークが協定に参加し、また日本の指導下にあった中華民国(汪兆銘政権)も、11月25日時点での協定参加を宣言する公文を12月31日に日本政府に対して送付している[62]。

1943年にコミンテルンは解散しているが、日本の外務省条約局はコミンテルンが実際に解散したかどうかは確認できなかったとして、条約は存続していると見ている[63]。

1943年9月8日にイタリア王国が降伏し、イタリア社会共和国が協定参加国となったが、1944年以降は東欧の参加国が次々と戦争から離脱し、1945年5月7日と8日にはドイツ軍が降伏してナチス・ドイツが崩壊した。

条約局は5月7日をもって他の三国間条約が失効したことを確認した上で、防共協定も法律上の意味で5月7日に失効したという見方をしている[63]。』

イランの歴史

イランの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イランの歴史(イランのれきし)は、イラン高原の古代文明から現在のイラン・イスラーム共和国に至るまで数千年に及ぶ。

こうした中でさまざまな王朝が興亡を繰り返し、イラン高原のみを領域としたものもあれば、アッバース朝やモンゴル帝国のような巨大な王朝もあった。

したがって「イランの歴史」を現在のイラン・イスラーム共和国領域に限定した地域史として記述するのはほとんど不可能である。

本項ではイラン高原を支配した諸勢力の歴史を中心に、その周辺域、特にマー・ワラー・アンナフルホラーサーン地方アゼルバイジャン地方を含めた歴史的イラン世界の歴史を叙述する。

イランの歴史
イランの歴史

イランの先史時代(英語版)
原エラム
エラム
ジーロフト文化(英語版)
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

先史時代

詳細は「イランの先史時代(英語版)」および「原エラム」を参照

イラン高原には極めて古い時代から人類の活動があったことがわかっている。考古学的には約10万年前の旧石器時代中期以降の遺跡[1]が確認されている。

この地域における定住は約1万8千年前から約1万4千年前頃に始まったと考えられている。この時代の住人達は森林に覆われた山腹の洞窟などを主な住居とし、原始的な土器や剥片石器を用いていた。動物の骨を用いた骨角器は石器に比べあまり見つかっていない。

イラン高原の気候の変化に伴って、こうした人々の居住地は移動し、やがて大規模な集落も形成されるようになった。この地域は麦を中心とした農耕が最も早く始まった地域の1つであるといわれている。紀元前6000年ころには、かなり高度な農耕社会を形成しており、都市の原型となる集住地も確認される。ザーグロス山中で発掘された紀元前5000年頃のワインの瓶(現在はペンシルベニア大学博物館で展示[2])が知られている他、最も初期の集住地の痕跡としてスィアールク遺跡が知られている。この遺跡からイランの先史時代を知る上で重要な遺物が多数みつかっている。

スィアールク遺跡の最も初期の層から発見される住居の痕跡は、木の枝で作った粗末な小屋のようなものであったが、間もなく練土を用いた建物が建設されるようになった。

製陶技術も発達し、彩文土器が用いられるようになった他、紡錘車も発見されており、イラン高原における目覚しい技術革新の跡が見られる。

紀元前4千年紀には日干し煉瓦を用いた家が建設されるようになり、漆喰が塗られていたことがわかる。家の内部には赤い塗料などで装飾が施されていたこともわかっており、文様や動物の図柄を用いた質の良い彩文土器が見られるようになる。

スィアールク遺跡から発見される煉瓦や土器は、イラン高原に暮らした人々の技術進歩の痕跡を極めて分かりやすく残している。

このことはイラン高原において文化的な断絶が長期間無かった事を示すと思われる。

しかし、彩文土器は技術的にはともかく、図案・造形的な面においては各地の遺跡で統一性が見られず、まとまった一つの政治世界としての姿はまだ曖昧であった。上記に述べたような特徴はイラン高原の中央部を中心とした地域においての話であり、スサを中心としたであろう南西部では、紀元前3千年紀には中央部と異なり、近隣のメソポタミア文明の影響を強く受けた文化が生まれた。

この地域ではイラン高原の伝統的な彩文土器も使用されなくなった。現在のトルクメニスタン南部からイラン北東部、アフガニスタン北部にかけての地域では紀元前2千年紀前半に独自の都市文化が発達した。現在これはオクサス文明などと呼ばれている。

その具体的な姿はまだわかっていないが、東部イランの歴史を考える上で大きな意味を持つ。また、極めて古い時代とあまり変わらない生活様式が長く続いていた地域もあったと言われている。

歴史時代の始まり

「イランほど研究すべき理由をもつ国は世界にも数少ない」(リチャード・ネルソン・フライ『ペルシアの黄金時代』)

明らかにメソポタミア地方の文化的影響を強く受けたイラン高原南西部の文化は、やがてイラン地域における最初の文明、エラムの成立を見た。

エラム人は高度な国家機構を整え、イラン世界最初の文字記録を残した。紀元前2千年紀の末期にはアーリア人(アーリヤ人)、またはインド・イラン人と呼ばれる人々がイラン高原に定着し、イランの歴史の根幹を成す要素が形成された。

エラム
詳細は「エラム」を参照

イラン世界の歴史時代(文字記録のある時代)はエラム人の文明とともに始まる。エラムの人々は紀元前3千年紀から紀元前1千年紀半ばまでの間に、現在のイラン・イスラーム共和国のフーゼスターンからファールス地方にかけての領域に幾多の国家を形成した。

エラム人の話した言語は、一般にエラム語と呼ばれる系統不明の言語である。これは後にイラン世界で主流となるインド・ヨーロッパ系の言語とは異なり、その出自はわかっていない。

エラム人は紀元前3千年紀の終わり頃、クティク・インシュシナク(プズル・インシュシナク)王の元で高度な政治的統一を見た。

彼の勢力範囲はイラン高原南西部のほぼ全域を覆っており、確実な記録に残るものとしてはイラン高原における最初の統一的政治勢力となって周囲に覇を唱えた。

以後、エラムはメソポタミアの諸王朝と度々戦火を交え、1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、紀元前1千年紀にアッシリアによって主要都市スサが破壊されると、列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。

だが、エラム人の作り上げた政治・社会の仕組みと文化は、後にこの地を支配したハカーマニシュ朝アケメネス朝)によって継承され、後世のイラン世界に有形無形の影響を残し続けた。

アーリア人の到来

グリフィンを描いた黄金の杯(イラン・ギーラーン州マルリク発掘。紀元前1千年紀前半。イラン国立博物館蔵)

紀元前2千年紀、中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧民として生活し、インド・ヨーロッパ系の言語を用いていたアーリア人(アーリヤ人、アールヤ人)と自称し、或いは後世インド・イラン人と呼ばれるようになる人々が、イラン高原やインド亜大陸へと移動した。

アーリア人達の移住ルートは主にコーカサス山脈の山道(コーカサス回廊)を超えるルート、中央アジアからソグディアナホラーサーンに入るルート、そしてアフガニスタン地方を経由してイラン高原に入るルート(カーフィルの道)の三つがあったと言われている。

紀元前1千年紀の始め頃までにはイラン高原全域にアーリア系の人々が定着した。

彼らはそれ以前の住民と異なり、切妻型の屋根を模した石などを載せた塚状の墓を築き、ライオンや山羊、馬などをあしらった新しい彩文土器を用いた。

こうしたアーリア人の到来によって齎されたと思われる変化はスィアールク遺跡などで発見されている。

そしてこの時期にイラン高原は本格的な鉄器時代に入った。非アーリア系と思われる先住の人々(エラムインダス文明の中間のShahr-e Sukhtehで栄えたジーロフト文化(英語版))は次第にアーリア人に同化して姿を消していった。ただし、紀元前10世紀頃にはアーザルバイジャーン地方に近いウルーミーエ湖周辺の地方には、非アーリア系と考えられるマンナエ人(英語版)の王国が一時期勢力を持った。

アーリア人の歴史には9世紀頃から次第に光が当たり始める。彼らの中でも最も重要な二部族、即ちペルシア人メディア人が、ほぼ同時に歴史記録に登場し始めるからである。
この記録を残したのは、当時イラン高原西部に勢力を伸張させていたアッシリアであった。

当時ペルシア人やメディア人は、まだ力が弱くしばしばアッシリアに貢納を収めていた。
しかしメディア人達は次第に勢力を伸ばし、やがてイラン高原全域を支配する王国を作り上げた。これは慣用的にメディア王国と呼ばれ、オリエント世界を支配したアッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトに並ぶ古代の強国となった。

その後、メディア王国は新たに興ったペルシア人のハカーマニシュ朝に飲み込まれるが、エラム人と並んでハカーマニシュ朝の支配機構の中に入り、ともに中央権力機構を構成する集団となってペルシア人と同化していった。

ペルシアとイラン

黄金のリュトン(動物頭状の杯)。ハカーマニシュ朝。エクバタナ出土。イラン国立博物館蔵

やがて、後世この地域、及び住民を指すことになる言葉、即ちペルシアとイランが歴史に登場した。

かつてエラム人の中心地のひとつであったアンシャン(現在のファールス地方)にはペルシア語でパルスアパールス、或いはファールスと呼ばれるアーリア人の部族(ペルシア人)が定着した。

このためアンシャンと呼ばれた地方は次第にその部族名で呼ばれるようになった。これは古典ギリシア語ではペルスィスと呼ばれ、ヨーロッパの諸言語で用いられるペルシアという言葉はこのペルスィスに由来するものである。

この名は紀元前6世紀にこの地から興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来、歴史的にイラン高原に発した諸帝国と住民を指す名前ともなった。

イラン人自身はイラン高原に侵入するしばらく前に分かれた、インド亜大陸に侵入した同族と同様に、「高貴な人々」を意味する「アイルヤ」(アーリア)という自称を長く用いており、サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味のパルティア語「アールヤーン」に由来するパフラヴィー語の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。

「イーラーン」は、イスラーム時代になってあらわれる、パフラヴィー語の「エーラーン」の近世ペルシア語形である。

紀元前3世紀のギリシアの地理学者エラトステネースも「イラン」の語で言及している。

1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーは諸外国に対し「イラン」の使用を要請した。その後イラン人研究者による抗議などがあり1959年にはペルシアおよびイランは併用できるものとされた(詳細はイラン・ペルシア名辞論争を参照、またペルシアの地理についてはイランの地理を参照)。

諸王の王

詳細はペルシア帝国を参照。

紀元前6世紀にファールス地方から興り、当時の文明世界の大部を支配するハカーマニシュ朝アケメネス朝アカイメネス朝)が成立した。

この王朝の王であるダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は諸王の王を名乗った。

これはアッシリア王の称号の1つに由来し、ある特定の地域の王ではなく、広大な領域に住む幾多の異民族を支配する王、世界帝国の支配者であることを意識した称号であった。
以後グレコ・マケドニア系のセレウコス朝、セレウコス朝をイランから放逐したパルティア人のアルシャク朝アルサケス朝)、そしてファールス地方から興ったサーサーン朝に至るまで、諸王の王を名乗る王朝がイラン世界で興亡を繰り返した。

ハカーマニシュ朝とその時代

ハカーマニシュ朝の最大領域
詳細は「ハカーマニシュ朝」を参照

メディアに従っていたアンシャン(ファールス)の王クル2世キュロス2世)は、反乱を起こしてメディア王イシュトゥメグ(アスティアゲス)を破ってイラン高原の支配権を握り、前559年頃にハカーマニシュ朝を成立させた。

クル2世は更にリュディア、次いでバビロニアを征服した。次のカンブージャ2世(カンビュセス2世)の時代にはエジプトからインダス川流域に至る大帝国が形成された。

アッシリア帝国やバビロニアの統治機構を倣ったハカーマニシュ朝では、広大な領域を統治するために高度な官僚制が整えられ、領土内に20以上の軍管区(サトラペイア)を設定した。

そしてそれぞれに総督(一般にギリシア語に由来するサトラップという名で知られている)が任じられたが、彼らを監視するために王の目、王の耳と呼ばれた監察官が活動した。
また首都としてペルセポリスと呼ばれる都市が築かれたが、実質的な政治の中心はエラムの中心都市スサであった。

また、王は一年の間にスサ、バビロン、エクバタナを移動したと伝えられる。

ハカーマニシュ朝はしばしばペルシア帝国と呼ばれるが、単純に「ペルシア人の国家」というわけではない。

ペルシア人は支配者として振舞ったが各地で征服された現地人の人口は圧倒的であり、またその中には長い歴史・伝統を持つ集団が数多く存在した。

メディア人はしばしばペルシア人と併置して呼ばれ、帝国の中枢部にいて支配者の栄誉を共有していた。

行政組織においては、豊かな経験を持つエラム人が多用されていた。行政文書や事務書類にエラム語が多用されていることがこれを端的に示す。

バビロニアでは征服以前の官僚達が引き続いて現地の政治行政を担当していたし、リュディアやエジプトでもその統治は現地人の有力者に強く依存していた。

このようにハカーマニシュ朝は長い伝統を持つ征服地の政治組織を温存し、その上に君臨した。またハカーマニシュ朝時代にはゾロアスター教の教義体系、組織もかなりの程度整えられたと考えられる。ザラスシュトラゾロアスター)(※ ドイツ語で、「ツァラトゥストラ」)によって開かれたとされるこの宗教はこの時代以降、長い時間をかけてイラン世界の思想的な柱となっていった。

ハカーマニシュ朝は紀元前5世紀初頭ギリシアへの遠征(ペルシア戦争)においては一敗地にまみれ、対外的な拡大は一つの限界に達した。

紀元前5世紀末頃には、相次ぐ分割相続と税負担増のために軍務を担ったペルシア人の封土所有者が没落し、帝国を支える軍の中心は傭兵へと移っていった。

宮廷では慢性的な王位継承の争いが起きており、地方ではペルシア人の有力者やバビロニアやエジプト、リュディアなどの現地勢力による反乱が頻発した。

歴代の王達はしかし、これらの反乱の鎮圧の脅威を抑えてその覇権を維持し続けた。

この時代は王朝衰退の時代と言われているが、近年では再評価する動きもある。

ハカーマニシュ朝の支配は最終的には外敵の侵入に対する敗北によって失われた。ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)の治世であった紀元前334年にマケドニア王国アレクサンドロス大王がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した。ダーラヤワウ3世はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い、次いでガウガメラの戦いで大敗し、最後は部下の裏切りによって殺された(前330年)。

こうしてハカーマニシュ朝は短期間のうちに瓦解し、アレクサンドロスがハカーマニシュ朝の領域と統治機構を継承した。

ヘレニズムとイラン世界

詳細は「セレウコス朝」、「ヘレニズム」、および「パルティア」を参照

アレクサンドロスはハカーマニシュ朝を征服して間もない前323年にバビロンで没した。

アレクサンドロスの将軍達はその後継者たるを主張して相互に争った(ディアドコイ戦争)。

この争いの末、イラン世界の大部分はセレウコス1世によって建てられたセレウコス朝の支配する所となった。

アレクサンドロス時代からセレウコス朝時代にかけて、各地にギリシア人マケドニア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)による植民都市が多数建設された。

特にセレウコス朝は各地にギリシア的なポリスや、将来のポリスへの昇格を前提としたカトイキア(軍事植民地)の建設を行った。

こうしたセレウコス朝の都市建設政策によって作られたポリスやカトイキアを拠点にギリシア文化やギリシア的な社会制度の普及が進み、ギリシア語はイランでもアラム語と並ぶ共通語となった。こういった文化的・社会的な潮流はヘレニズムと呼ばれる。

だが、セレウコス朝の植民政策は圧倒的にシリア、次いでバビロニアを中心としており、イラン高原より東への植民は規模からすればかなり限られたものであった。

東方のサトラペイアの支配者たちはセレウコス朝の西方重視の姿勢に反発し、前250年前後にはバクトリアの支配者ディオドトス1世や、パルティアソグディアナの支配者アンドラゴラスが相次いで独立した。

ディオドトス1世は王国(グレコ・バクトリア王国)を存続させることに成功したが、アンドラゴラスの領土は独立後間もなくアルシャク1世(アルサケス1世)に率いられたパルニ氏族を中心とする中央アジアの遊牧民部族連合によって征服された。

彼らはイラン系の言語を使用していたと考えられ、パルティアに定着し、一般にパルティア人という名で呼ばれるようになった。

このパルティア人の王国がアルシャク朝アルサケス朝)である。アルシャク朝は100年余りの間領土奪回を図るセレウコス朝と争った。

これはセレウコス朝の王アンティオコス7世(前139 – 前129年)の敗北によって大勢が決し、セレウコス朝はシリア以外の領土を完全喪失した。

一方アルシャク朝は戦いの中でバビロニアイラン高原及びその周辺地域を支配し諸王の王を称するようになった。

アルシャク朝のフラーテス4世后ムーサーの胸像。イラン国立博物館蔵

アルシャク朝は遊牧民的な気質を強く残しており、王の宮廷は常に移動した。

政治では有力な貴族が大きな影響力を持ち、その領地の経営には中央の統制はあまりかからなかった。

アルシャク朝の領土、特にバビロニアを中心とした西部にはギリシア人やバビロニア人の多くの都市があった。ギリシア人は特にアルシャク朝の支配下にあってもそ政治・経済・文化の面で強力であった。

コインの鋳造技術はギリシア人が握っていたし、軍事的にも大きな存在であった。

アルシャク朝はこのギリシア人に特に配慮し、ミフルダート1世(ミトラダテス1世)のようにフィルヘレネ(ギリシアを愛する)という称号を用いたりした王もいた他、芸術や一部の社会制度については顕著にヘレニズム的な要素を取り入れられた。

ギリシア人やバビロニア人など都市住民が力を持った西部と、遊牧民的な大氏族の勢力が強い東部との社会的な相違は深刻な政治対立を引き起こしていた。

紀元前1世紀の接触以来アルシャク朝の主要な敵となったローマは、アルシャク朝に親ローマ的な王を擁立すべく介入を続けたが、この親ローマ王の支持基盤は常にギリシア人を中心とした西部の都市住民であった。

1世紀初頭にローマの支援の下でヴォノネス1世が王座を得ると、それ以前の親ローマ王と同じくギリシア人(及びバビロニア人)の都市がこれを支持したが、パルティア人の貴族達はヴォノネス1世に反対してアルダヴァーン2世(アルタバヌス2世)を擁立した。

西暦12年頃まで続いた内戦でヴォノネス1世は敗れた。

この戦いの結果、アルシャク朝におけるギリシア人都市の政治的意義は急速に低下した。
36年から43年にかけてバビロニア最大のギリシア人都市セレウキアで大規模な反乱が発生したが、これはイラン世界においてギリシア人が主要な政治勢力として起こした最後の出来事となった。

ギリシア人の勢力減退にあわせるようにイラン世界におけるヘレニズムは大きな影響を残しつつも終焉へと向かった。そしてイラニズムとも呼ばれる伝統回帰の動きが強くなっていった。

サーサーン朝
詳細は「エフタル」および「サーサーン朝」を参照

アルシャク朝の治世後期はローマとの戦争を除き情報が乏しいが、王位継承を巡って激しい内乱が繰り返し発生していた事がわかっている。

またローマとの戦いでは中核地帯であるメソポタミアが度々占領されるなど、大きな損害を数度に渡り被った。このような戦乱の代表的なものは西暦110年代ローマ皇帝トラヤヌスによるパルティア遠征である。

最終的にアルシャク朝はイラン高原南西部で発生した反乱によって滅亡した。

208年頃、ファールス地方の支配者パーパクの元でアルシャク朝に対する反乱が起きた。

同じ頃、アルシャク朝ではヴォロガセス6世とアルダヴァーン4世(アルタバヌス4世)による内乱が発生した。

アルシャク朝の内乱の最中、ファールスで新たに支配者となったアルダシール1世は226年までに二人のアルシャク朝の王を相次いで倒し、新たにサーサーン朝を建てた。

サーサーン朝は間もなく旧アルシャク朝の領域のほぼ全てを支配下に置いて諸王の王を称するようになり、更に西ではローマ皇帝を捕虜とする大勝利を収め、東ではクシャーナ朝を支配下においた。

そしてその中心都市はイラクのクテシフォンに置かれた。

ただし、パルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続けた点に見られるように、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの面おいてアルシャク朝時代の継続であった。

サーサーン朝は支配の正統性をゾロアスター教に求めた。

アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成された。

こうした中で教会の勢力は増大し、シャープール1世(241年-272年)の時代に祭司長となったカルティールはやがて国王に匹敵する権力を得た。

この時代のイランは諸宗教が渦巻く時代であった。正統な教義の制定に伴って教義論争・宗教対立が激化した。

古くからイランに存在したズルワーン主義、サーサーン朝と時を同じくして成立したマニ教、またローマに対する勝利によって得られた捕虜達からはキリスト教が広まり、一定の勢力を得たし、東部領土には仏教を信仰する人々もいた。カルティールがこういった異端、異教を弾圧したことを誇っているように、宗教弾圧がしばしばあった。

サーサーン朝は王位継承紛争に悩まされながらも4世紀を通じてローマとの戦いを優位に進め、ローマを苦しめた遊牧民フン族の移動でも彼らの圧力をかわすことに成功していた。

しかし5世紀には中央アジアで勢力を拡大したエフタルに相次いで敗北し、貢納を収めるようになった他、中小貴族の没落や飢饉の発生による社会不安の中で、急進的なマズダク教が広まり、彼らによる反乱や暴動が頻発するようになった。

6世紀に入るとホスロー1世(531年-579年によってエフタルが滅ぼされ、国内で盛んになっていたマズダク教を徹底弾圧して抑え、安定した時代を築いた。

この時代には定額税制が導入され、軍制と身分制が確立した。

繁栄は長く続き、ホスロー1世の孫、ホスロー2世(591年-628年)の時代には一時東ローマ帝国の支配下にあったシリアエジプトアナトリアを一時占領した。

しかし東ローマの反撃でホスロー2世は敗れ、最後は反乱によって殺害された。

この結果サーサーン朝では深刻な政治混乱が発生し、短期間に王が次々と交代した。

混乱の中でヤズデギルド3世(632年-651年)が即位したが、この政治混乱とカーディスィーヤの戦い(636年)等の敗戦による弱体化は明らかであった。

7世紀半ば、疲弊していたサーサーン朝はアラビア半島から勢力を拡大したアラブ人たちによって攻撃され、首都マダーインの陥落、ニハーヴァンドの戦い(642年)での敗北によって瞬く間に瓦解し、逃亡したヤズデギルド3世が殺害(651年)されたことによって完全に滅亡した。

イランのイスラーム世界化

イランは7世紀半ば、イスラーム勢力の統治下に入る。

ウマイヤ朝アッバース朝はペルシアの統治機構を温存して利用した。

9世紀にアッバース朝が衰退を始めるとホラーサーンなどでイラン系半独立王朝ターヒル朝アリー朝ザイド朝)が現れ、ペルシア文芸復興の時代が始まる。

アフガニスタン・スィースターン(英語版)地方では、アフガン系独立王朝サッファール朝ガズナ朝が現れた。

イラン高原でも10世紀ブワイフ朝が成立、イランの地のイスラーム化が進み、イスラーム世界に統合されるようになる。

11世紀になると中央アジアからのテュルク系遊牧民が参入。遊牧系王朝ペルシア文人官僚ペルシア文化の組み合わせからなる時代がセルジューク朝のもとにはじまる。

イスラーム到来

アラブ人たちは一神教イスラームを奉ずる共同体を形成していた。

第3代正統カリフ・ウスマーン(644年-656年) の頃までにイラン世界はカスピ海沿岸部と中央アジア方面を除くホラーサーンまでがイスラーム勢力下にはいり、670年代にはサマルカンドブハラなどマー・ワラー・アンナフルも征服された。

これらの土地のうちサーサーン皇族などの領主がいなくなった土地はメディナペルシア財務庁が管理し、地租ハラージュを徴集するハラージュ地に編入される一方、在地領主がいる場合にはイスラーム勢力との契約が結ばれ、一定の貢納を条件に彼らの統治が追認された(アフド地、スルフ地。以上について詳細はイスラームの征服 (イラン)を参照)。

イスラーム勢力はやがて王朝化してウマイヤ朝が成立する。

この時代には東方・北方における散発的なサーサーン朝残党の蜂起や領土拡大を目的として、ホラーサーンなど辺境要地と都市にアラビア半島方面から徐々にアラブ人が入植してくるが、領土の人口の大部分はサーサーン朝遺民であった。

これを治めるために先述のように在地の統治機構は温存されたが、ウマイヤ朝では広大な領域統治のため中央統治機構にもサーサーン朝の官僚制文書行政通貨などの経済制度を導入した。

ハカーマニシュ朝以降の帝国統治で蓄積されたペルシアの政治的経済的経験と知識が利用されたのである(西方では東ローマ帝国の経験と組織を同様に利用した)。

実際に8世紀初め頃までの徴税文書はアラビア語ではなく中世ペルシア語で記されているし、東方ではサーサーン朝のディルハム銀貨が流通した。

ウマイヤ朝下では地租ハラージュはアラブ人には事実上免除されていた。

一方、東方領民の大部分はイスラーム征服後も特に改宗を強制されることもなかったためゾロアスター教徒のままであり、非ムスリムである彼らにはジズヤという人頭税が課された。

8世紀に入るとマワーリーと呼ばれる降伏したサーサーン朝残党やアラブ人に仕える人々がイスラームに改宗しムスリムとなり、官僚や軍人などとして活躍する者も出てきた。

しかしながらムスリムとなってもジズヤが免除されることはなく、イスラームの平等の理念に反するとして徐々に不満が高まった。

このマワーリー問題は、8世紀半ば、ウマイヤ朝を打倒しアッバース朝を成立させるアッバース朝革命の一因となった。

アッバース朝革命がホラーサーンに起こり東方を根拠としたこと、指導したアブー・ムスリムがイラン系マワーリーである点にこれを見て取ることができる。

アッバース朝はこれまでのダマスカスにかえてバグダードを首都とした。

これによってイスラーム世界の比重はやや東方に移り、政治・経済・文化のさまざまな面でシリア系マワーリーにかわってイラン系マワーリーの参入が始まる。

またアッバース朝下にはムスリムであればアラブ出身でなくともジズヤが免除されるようになる一方、平等性を強調するシュアービーヤ運動は高まりをみせる。

ペルシア人官僚はアッバース朝で重きをなし、ハールーン・アッ=ラシードの宰相バルマク家はその代表である。

同時にアッバース朝はホラーサーンの度々の反乱、アゼルバイジャン方面のバーバクの乱を抑えつつ、9世紀初頭に安定した全盛期を迎える。

文芸復興とイラン系諸王朝の時代

アッバース朝の全盛はしかし長くは続かなかった。

ハールーン・アッ=ラシードの子、アミーンとマアムーンの内乱は全土に影響し混乱状態を導いた。

このような中で頭角を現し、反乱討伐に派遣されたホラーサーン総督となったイラン系マワーリーの将軍ターヒル・イブン・アル=フサインがニーシャーブールを中心に半独立政権をたてた。

半独立というのはカリフからの直接の支配は受けないものの、アッバース朝によって支配権を追認されアミールとして正統性を確保したためで、これがターヒル朝(821年 – 873年)である。

その後、9世紀後半には都市任侠集団ともいえるアイヤールを出自としてイラン東部スィースターンに成立したサッファール朝(867年 – 903年)、マー・ワラー・アンナフルにブハラを首都としてサーマーン朝(875年 – 999年)といういずれもイラン系の王朝が成立した。

これらの王朝もアッバース朝から認められたアミールによる半独立政権であった。ターヒル朝は873年、南から侵入してきたサッファール朝に滅ぼされ、そのサッファール朝も北から進出したサーマーン朝に900年、ホラーサーンを奪われている。

イラン史ではこれらの王朝をもって「アラブの軛」を脱したとすることもあるが、この評価はイラン民族主義的な色彩が濃く、あくまでアッバース朝下の地方政権と評価するべきである。

しかし、この時代が近世ペルシア語ほぼ形成され、ペルシアの伝統やペルシア語への誇りが復活した、ペルシア文芸復興と呼ばれる時代であったのは確かである。

特にサーマーン朝はペルシア文芸の保護に熱心でルーダキー、ダキーキー、フィルダウスィーらのペルシア詩の巨人を輩出している。

この時代のもう一つの特徴は社会的流動性が活発化したという点である。

アッバース朝の内乱はイスラーム世界全体で軍隊の移動、知識人の避難、糧食の移動に伴う取引など人々や物資の流動を激しくした。

辺境部にあるイラン系諸王朝、特にサーマーン朝は中央アジア方面のテュルク系遊牧民との抗争を繰り返し、捕虜をマムルーク(奴隷軍人)としてアッバース朝へ供給した。

恒常的なイスラーム世界中心部へのテュルク族の移入と、その代価としての銀の流れは巨大なものであった。

経済は活況を呈し、人々の交わりは増えてゆく。イラン以外の諸地域における地方王朝の成立もこのような社会的背景があるが、重要なのはこの時期にイラン地域で社会上層部を中心にイスラームへの改宗が飛躍的に進むことである。

まさにこの時期に人々の生活・交流の規範となる文化――イスラーム的ペルシア文化が形成されたのである。換言すればイランやテュルクの人々がイスラーム文化に参入し、イランのイスラーム世界への統合が起こったといえよう。

テュルク族の参入と黄金時代

カスピ海沿岸ではイスラーム化は遅々として進まず、アッバース朝もたびたび侵攻をおこなっているが、恒久的な支配権を打ち立てることは出来なかった。

このような中でシーア派がこの地域に勢力を徐々に扶植し、9世紀後半にはシーア派の一派ザイド派アリー朝が成立するなど地域独自の勢力が形成されていた。

10世紀にはズィヤール朝が成立(927年)、ザンジュの乱ののち衰退著しいアッバース朝の領域へアルボルズ山脈を越えて進出してゆく。

この過程で優秀な歩兵としてダイラム人が脚光を浴び、その指導者のブワイフ家が932年、ブワイフ朝を建てた。

ブワイフ朝はその後イラン高原からイラクを席捲、945年にはバグダードに入城して、アッバース朝カリフからアミール・アル=ウマラーに任じられた。

配下の軍人にイクターとして徴税権を分与して軍事力を確保する一方、統治権は自らのもとにおいた。

またブワイフ家シーア派を奉じており、スンナ派アッバース朝がその支配権を承認するという状況を引き起こした。

この時代には西方エジプトではシーア派イスマーイール派ファーティマ朝がカリフを称し、アッバース朝カリフの権威は地に落ち、現実の支配者に正統性を付与する存在に過ぎなくなる。

同時期、ホラーサーン方面ではテュルク族が政治の表面にあらわれてくる。

9世紀半ばころに中央アジアの草原地帯に形成されたカラハン朝が10世紀半ばには大勢力となってマー・ワラー・アンナフル方面へ進出してきた。

伝承では960年、20万帳におよぶテュルク系遊牧民がイスラームへ改宗したという。

これ以降、カラハン朝はサーマーン朝とマー・ワラー・アンナフルとホラーサーン北部をめぐって激しく争う。

一方962年、サーマーン朝のテュルク系奴隷軍人でガズナ太守となったアルプテギーンがサーマーン朝から半独立、勢力を伸ばして972年にはガズナ朝となる。サーマーン朝は北からカラハン朝、南からガズナ朝に挟撃され999年に滅亡した。

11世紀初めのイラン世界の勢力配置は北東から順にマー・ワラー・アンナフルにカラハン朝、ホラーサーンにガズナ朝、イラン高原にブワイフ朝という状況であった。

カラハン朝、ブワイフ朝が内紛に見舞われて弱体化する一方、998年に即位したマフムードの下でガズナ朝は最盛期を迎え、北インドから西部イランにまで遠征しており、インドのイスラーム化はこのころにはじまる。

ガズナ朝はサーマーン朝をついでペルシア文化を保護した。

しかしマフムードが1030年に没するとガズナ朝は急速に勢力を後退させ、イラン世界全体が混乱状態におちいる。

9/10世紀はイラン世界が東西にやや分立する時代であった。直轄地の多い西方が内乱で疲弊してゆく一方、東方ではサーサーン朝以来の在地勢力が温存され生産力の拡大が見られた。これを背景に政治勢力も東西に分かれたが、ガズナ朝の後退後にこれを克服したのがトゥグリル・ベグ率いるオグズ系テュルク族セルジューク朝である。

セルジューク朝は、遊牧的部族紐帯を維持したままイスラームへと改宗、集団としてイスラーム世界に参入して王朝を開いたという点で、これ以降の西アジアにおけるテュルク系諸王朝の嚆矢ともいえるものである。

セルジューク朝は1038年のニーシャープールへの無血入城ののちホラーサーンでガズナ朝を破って、さらに南方・西方へと転じて勝利を得る。

1055年にはトゥグリル・ベグがバグダードに入城、アッバース朝カリフから外衣と賜与品を与えられ、スンナ派ムスリムの支配者としてスルターンの称号を正式に認められた。

続くアルプ・アルスラーン、マリク・シャーのもと、セルジューク朝は東部アナトリアシリアへと勢力を広げてゆく。

地中海から中央アジアにおよぶこの広大な帝国の行政を担ったのがペルシア人官僚たちであった。

セルジューク朝の行政用語ペルシア語であり、在地の行政・司法を担うカーディーらもペルシア人であった。

ガズナ朝にも見られるが、このようなペルシア系文人官僚をタージークといい、行政はタージークが、政治軍事はテュルク系をはじめとする遊牧民が担い、さらにペルシア語を共通語とする枠組みがセルジューク朝のもとで完成した。

イラン史を専門とする羽田正はこの体制をもつ世界を「東方イスラーム世界」と呼ぶ。このような体制は以降、20世紀に至るまでイラン世界の歴史の骨格となるのである。

タージークの頂点に位置したのが、宰相ニザームルムルクであった。彼は自らペルシア散文の名著『統治の書』(スィヤーサト・ナーメ)を著す一方、文芸・科学を保護し、レイ、エスファハーン(イスファハーン)、ニーシャープール、バルフ、マルヴなどの都市を中心にペルシア文化の黄金期が訪れる。

宰相は全主要都市にニザーミーヤとよばれるマドラサ(学院)を設け、あるいはジャラーリー暦を生み出すウマル・ハイヤームの天文台建設を後援するなどした。

またセルジューク朝の主要都市の一つたるバグダードにアブー・ハーミド・アル=ガザーリーなど、イスラーム史上に名高い学者らを招聘、その活動をも後援した。

スンナ派の保護者として君臨したセルジューク朝の脅威となったのは、イラン内のシーア派急進派であるイスマーイール派であった。

ファーティマ朝10世紀後半以降、イスラーム世界全体にイスマーイール派の宣教員(ダーイー)を送り込んでいたが、このころには東部山岳地帯エスファハーンアルボルズ山脈地帯に勢力を扶植。

1090年に現在のテヘラン北方にアラムート城砦(英語版)を奪取すると、これ以降150年間にわたって散在する根拠地周辺を支配してイラン高原に無視できない勢力(ニザール派)を築き上げた。暗殺などの手段を用いて立場を確立するその政治手法は王朝統治者やスンナ派住民らに特に恐れられた。

トルコマーンと東方イスラーム世界

セルジューク朝のもと、政治・軍事をテュルク系などの遊牧民が担い、行政・文化をペルシア系の者が担う東方イスラーム世界が現出した。

13世紀にはモンゴル帝国がイラン高原を征服しイルハン朝が成立する。

この時代、遊牧民の機動力に基づく軍事的優位性は圧倒的であった。

こうした勢力は権力中枢所在地に広大な牧草地を必要としており、この時代のイラン高原の歴史は、東方のホラーサーンやマー・ワラー・アンナフル、あるいは西方のアゼルバイジャンから東アナトリアに基盤を置く勢力による角逐の歴史であったといえる。

イルハン朝崩壊後にはマーワーランナフルからティムールが大帝国を築く。

その勢力が弱まると、西方の黒羊朝、白羊朝東方のティムール朝が対峙する状況となる。
やがて16世紀への転換期にアゼルバイジャン方面からサファヴィー朝(1502年 – 1736年)がイラン高原を統一する。

サファヴィー朝はシーア派国教とし、ここにイランのシーア化がはじまる。

中期のシャー・アッバース1世は都をイラン高原中央のエスファハーンに移し全盛の時代を迎える。サファヴィー朝崩壊後も遊牧系のナーディル・シャーのアフシャール朝、カリーム・ハーンのザンド朝がそれぞれ短期間イランを支配し、同じくトルコマーン系のガージャール朝(1795年 - 1925年)が成立する。

遊牧勢力の優位性が揺らぐ中で、東方イスラーム世界もまたその変容を余儀なくされる。
サファヴィー朝中期ころから、イラン世界は縮小をはじめ、マー・ワラー・アンナフルはトルキスタンとしてイラン世界から離れ、そしてドッラーニー朝以降ホラーサーンもまたアフガニスタンとイラン辺境部に二分される。

さらに西方も東アナトリアイラク方面オスマン帝国との間に完全な国境線が敷かれ、ここに東方イスラーム世界は終焉を迎える。

ガージャール朝はうち続く戦敗によってヘラートやカフカズを失い、今日ある姿での国民国家「イラン」の原像が立ち現れてくることになる。

セルジューク朝の分裂とホラズム・シャー朝

詳細は「セルジューク朝」および「ホラズム・シャー朝」を参照

セルジューク朝はマリク・シャーの没後、遊牧的分割相続の影響もあり分裂がはじまる。
イラン高原方面を治めたのが、宗家大セルジューク朝であるが、シリアイラクケルマーンルームなどの地方政権が分立し、各政権間およびその内部において抗争が繰り返され、政治的統一は失われてゆく。

この間にもテュルク族の流入は続き、セルジューク朝は彼らをアナトリアなど辺境部に送り出しており、これがアナトリアのテュルク化のきっかけとなっている。

1141年に大セルジューク朝のアフマド・サンジャルがカトワーンの戦いでカラキタイに敗れ1157年に亡くなると、大セルジューク朝は決定的な混乱に陥る。

このときアラル海東南方に独自勢力を築きつつあったホラズム・シャー朝はアラーウッディーン・テキシュのもとで内紛を克服、イラン高原へと進出し1197年、アッバース朝カリフからイラクからホラーサーンに至る支配権を認められた。

アラル海北方出身の遊牧民カンクリ、キプチャクの軍事力を背景にホラズム・シャー朝は次代アラーウッディーン・ムハンマドのもと13世紀初に最盛期を迎えた。

しかし1219年チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国軍が侵攻を開始(チンギス・カンの西征)。ホラズム・シャー朝は決定的な敗北を喫し、西方へ移りアゼルバイジャン地方を本拠地とするようになるが、1230年にルーム・セルジューク朝などの中東のイスラーム国家の連合軍との戦闘に敗れる。

モンゴル帝国下のイラン

詳細は「フレグ・ウルス」を参照

モンゴル帝国軍はチンギス・ハーンのもとではホラーサーン中部まで侵攻し、のちにアラーウッディーン・ムハンマドおよびジャラールッディーン・メングベルディー追撃のためにアザルバイジャン地方まで進撃した。

チンギス在世中にマー・ワラー・アンナフルやヘラート周辺をはじめとするアフガニスタン地域が早くにマフムード・ヤラワチらによって復興が開始され行政組織が整備されたのに対して、ホラーサーン以西は長らく放置されたままであった。

1230年になってモンゴル皇帝オゴデイは、イラン高原へ帰還したジャラールッディーンの討伐のためチョルマグン率いるイラン駐留軍(タンマチ)を中央アジアから派遣してイラン中・西部の掌握を確実にし、さらにルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国、アッバース朝、ディヤルバクル、ジャズィーラ地方の諸政権などに対し牽制をはかった。

この時、これらアゼルバイジャン方面軍への兵站を任されていたウルゲンチのバスカーク(ダルガチ)であったチン・テムルをホラーサーンへ入府させ、ホラーサーンおよびマーザンダラーン地方の行政組織を整備させた。これがモンゴル帝国によるいわゆるイラン・ホラーサーン総督府のはじまりである。

これ以降オゴデイ治世時代にホラーサーン総督府はその統括地域をイラーク・アジャミー、ヘラート周辺のアフガニスタン地方アゼルバイジャン地方へと順次拡大した。

1241年にオゴデイが没し第六皇后ドレゲネ・ハトゥンによる摂政時代にはモースルディヤルバクル方面まで権限を拡大した。

1240年頃にはバイジュ・ノヤン率いるイラン駐留軍はキョセ・ダーの戦いなどでルーム・セルジューク朝アルメニア王国グルジア王国などイラン北西部の諸政権を軍事的に屈服させ、1243年にはホラーサーン総督アルグン・アカがアゼルバイジャン地方の州都タブリーズに入府し、イラン全域の統治が可能となった。

この間にもルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、モースルのバドルッディーン・ルウルウなどがアルグンを仲介としてモンゴル軍人による誅求をカラコルムモンゴル帝国中央に訴えるようになった。

このアルグンの時代にホラーサーン総督府は、ルーム・セルジューク朝などのムスリム政権だけでなく、グルジア王国やキリキアの小アルメニア王国など、モンゴル帝国に帰順した西方地域の土着王侯と帝国中央への仲介の役割を積極的に果たした。

1251年にモンケがモンゴル帝国の第四代皇帝(カアン)に即位すると、オゴデイ時代の行政区分を引継いで、帝国を燕京を中心とする華北、ビシュバリクを中心とするマー・ワラー・アンナフル・中央アジアアムダリヤ川からシリア方面までの三つの巨大行政区を定めた。

最後のものがアルグン・アカが監督していたイラン・ホラーサーン総督府の区分であり、その担当領域は「アームー(川)の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」と称された。『元史』にみえる「阿母河等処行尚書省」がこれにあたる。

1253年1月、モンケはオノン川河源で開催したクリルタイの決議により、西方のニザール派やアッバース朝などを討滅すべくフレグ率いる本格的な遠征軍をアム川以西の諸国へと派遣した。

フレグがイランに入ったのが1256年で、彼はアルグンからホラーサーン総督府の権限を接収、イランに対する行政権の全てを持つことになった。

同年アラムートのニザール派を屈服させ、1258年、バグダードに入城、アッバース朝を滅ぼしカリフ位は空位となったのである。

1260年にはシリア方面に進出するが、大カアン・モンケの死去により引き返し、大カアン位を巡る争いを見てイランに自立しアゼルバイジャンのタブリーズを中心にイルハン朝を開いた。

イルハン朝においても軍事政治を行う遊牧民行政を担うペルシア人という伝統的構造は変わらず、やがてモンゴル人テュルク系遊牧民混淆が進み、政権自体もイスラーム化してゆく。

1295年、ガザン・ハンはムスリムとなり、その弟オルジェイトゥ・ムハンマド・フダーバンダの代には、ペルシア文化がイルハン朝のもとさまざまな成果を生み出す。

代表的なものに宰相ラシードゥッディーンの『集史』や今日に伝わる多くのミニアチュールを用いた写本、世界遺産ともなっている首都ソルターニーイェなどがある。

またイルハン朝の時代は13世紀後半世界的経済活性期にあたっており、文化的繁栄の背景には大元ウルスを中心とするモンゴル帝国による政治的安定を前提とした交易の活発化・地方特産品の開発を通じた地方産品の増加といった経済的状況があった。

ガザンの治世から中央政権による強力な軍政駅逓制度(ジャムチ)財政制度が確立・機能されると、やがて農地開拓商工業など各地で安定的な経済発展が促された。モンゴル王侯や財務官僚、往昔の聖人たちなどの墓廟建築を中心とするワクフによる巨大な寄進複合施設の建設が流行し、これに附随したモスクやマドラサ、バザール、キャラヴァンサライなども各地で建設された。後の時代に同様の寄進複合施設がティムール朝、オスマン朝などでも多数建設されている。

イルハン朝時代は大元ウルスと同じく「歴史叙述の時代」でもある。

『世界征服者史』をはじめとして『集史』、『ワッサーフ史』、『選史』といった通史や「世界史」のジャンルの作品がペルシア語で多く執筆され、『ヘラート史記』や『シーラーズの書』、ルーム・セルジューク朝史である『尊厳なる命令』などの地方史も多く書かれた。

また韻文学としては『ワッサーフ史』を筆頭にイルハン朝末期の『ガザンの書』や『シャーハンシャーの書』、『チンギスの書』などフェルドウスィーの『王書』に倣った詩文形式による歴史叙述のジャンルが開拓された。

『集史』にはじまり『チンギスの書』などテュルク・モンゴル的な族祖伝承を、人祖アーダムに遡るイスラーム世界の伝統的な歴史観に組み込ませた歴史像をもつ作品群も現れ、後世のオスマン朝やティムール朝、サファヴィー朝、さらにジョチ・ウルス系の諸政権への影響は甚だ大きい。

イルハン朝の領域は『集史』において「アームー川の岸辺からミスルの境域まで」と称されたように広大な地域に及んだ。これは丁度サーサーン朝の支配地域とほぼ重なる規模であり、14世紀からこのイルハン朝の支配領域を指して「イランの地」の意味である「イーラーン・ザミーン」という地域的な呼称が登場する。

14世紀後半にはいり、ジョチ・ウルスマムルーク朝同盟による南北からの圧力、さらには繰り返される内紛によって衰退していく。

1335年、オルジェイトゥの子アブー・サイードが後継者を得ないまま病没するとついに中央政権は瓦解し、各地の諸族が独自にチンギス裔をたてて分立する状況となる。

イルハン朝後継国家の並立

詳細は「チョバン朝」、「ジャライル朝」、「ムザッファル朝」、「インジュー朝」、「サルバダール運動(英語版)」、および「クルト朝」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

やがて傀儡のハーンも徐々に消えてゆくことになる。これら地方政権で有力だったのはバグダードからアゼルバイジャンにかけての西方にジャライル朝、アナトリア東部からメソポタミア平原北部の黒羊朝および白羊朝、東方には南からシーラーズを中心としたファールスのムザッファル朝、ヘラートのクルト朝、サブサヴァールのサルバダール運動(英語版)などである。

ティムールの大帝国と東西並立

サマルカンドのウルグ・ベク・マドラサのイーワーン。ティムール朝下に頂点を極めるイラン・イスラーム建築の精華
詳細は「ティムール朝」、「黒羊朝」、および「白羊朝」を参照

14世紀末にこのようなイラン高原を一気に征服したのがティムール朝である。

ティムールはテュルク化したモンゴル出身でチャガタイ・ウルスの内紛に乗じて頭角を現した。

マー・ワラー・アンナフルのサマルカンドを中心として、瞬く間にイラン高原からシリアアナトリアに至る大帝国を築きあげた。

しかし1405年、ティムールが大明帝国攻撃の途上に没すると内紛が発生、東方では三男シャー・ルフがヘラートを本拠に権力を確立する一方、帝国西半は次々と自立し、アナトリア東部を本拠とするカラ・コユンルー部族連合による黒羊朝カラ・コユンルー朝)が成立した。

シャー・ルフは黒羊朝に対して数度の遠征を行い、宗主権を獲得するものの完全に併呑することはできなかった。

1447年、シャー・ルフが没するとティムール朝はサマルカンド政権ヘラート政権に分立、互いに抗争を繰り返すようになる。

この頃、西方でもバーヤンドル部族連合を中心とする白羊朝アク・コユンルー朝)が成立、1468年前後に黒羊朝を駆逐した。

白羊朝のウズン・ハサンはティムール朝を破ってイラン高原東部まで勢力を伸ばすが、1473年オスマン帝国のメフメト2世に破れ白羊朝の征服活動は停止する。1480年代、ヤアクーブの治世下では比較的安定していた白羊朝もその死後に内紛・分裂に陥った。

ティムール没後のイラン世界も政治的に安定した時代ではなかったが、サマルカンドやヘラートなどでの建築活動や、あるいは宮廷での文学作品を数多く生み出した時代であった。

代表的なものにサマルカンドのウルグ・ベク・マドラサがある。またスーフィー・タリーカの流行も著しかった。ナクシュバンディー教団やニアマトゥッラー教団(英語版)がその代表的なものである。

白羊朝は1508年、新興のサファヴィー朝に滅ぼされた。東方では北方にジョチ・ウルスの余裔であるウズベクのシャイバーニー朝が成立して南下をはじめ、1501年にサマルカンド政権、1507年にヘラート政権が滅んだ。

サマルカンド政権の王子バーブルは再興を試みるも失敗し、アフガニスタンに退いたのちやがてインドにムガル朝を開くことになる。

こうして東西分立の時代を終え、16世紀イラン高原サファヴィー朝による統一的な歴史を歩み始める。

エスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝
詳細は「サファヴィー朝」を参照

今日のイランでシーア派的イランの黄金期として想起されるとすれば、それはサファヴィー朝である。言語的民族的視点からはハカーマニシュ朝やサーサーン朝、文化的視点からはセルジューク朝の黄金期が想起されるが、なおシーア派的視点を加える時、帝国としての「偉大さ」を想起する候補としてはサファヴィー朝よりほかにないからである。

しかし、サファヴィー朝もなお、その起源・性格において前代から引き続くトルコマーン系政権に属していたことは明らかであった。

サファヴィー朝はティムール朝や黒羊朝、白羊朝がイラン高原の覇を競うなかで西北隅アゼルバイジャンアルダビールから勢力を拡大し、イランを統一した。

サファヴィー朝は、もともとは13世紀半ばに確固とした姿をあらわす在地の神秘主義教団であるサファヴィー教団(英語版)をなす家であった。

教団内部の争いなどから、アナトリア東北部からアゼルバイジャンにかけてのトルコマーン系遊牧民との交流を拡大し、彼らの支持を集めるためにサファヴィー教団は非常に神秘的なシーア的言説を用いるようになった。

こうしたことからサファヴィー教団は、12のひだシーア派12イマームの数)のついた赤い帽子をかぶるトルコマーン系遊牧民、すなわちクズルバシュ(キズィルバーシュ,テュルク語。赤い頭)を背景に政治勢力化してゆく。

1494年、黒羊朝との戦いで命を落とした兄をついだのが14歳のイスマーイール1世である。

イスマーイールはキズィルバーシュを率いて1501年、黒羊朝を破ってタブリーズに入ってアゼルバイジャンを手中におさめ、さらに1508年、白羊朝を滅ぼしてメソポタミアもその版図に入れた。

イラン世界西部を手中にしたイスマーイールは、東部においてティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝と激突。1510年にマルヴ会戦で衝突し敵君主シャイバーニー・ハーンを討ち取り、イラン高原はサファヴィー朝によって統一されることになった。

しかしイラン高原の統一勢力の出現は、アナトリア東部における過激シーア派トルコマーンの存在と叛乱の続発という事態を背景として、西方の大帝国オスマン朝の注意を引いた。

1514年8月23日、スルタン・セリム1世率いるオスマン朝軍とイスマーイール1世率いるサファヴィー朝軍は東部アナトリア・チャルディラーンで会戦、オスマン朝軍の火力を備えた組織的歩兵戦力のまえに、サファヴィー朝キズィルバーシュ騎兵戦力は惨敗した。

このときに至るサファヴィー朝の奉じたシーア派は過激シーア派と称せられるようなものであった。それはトルコマーン系遊牧民のシャーマニズムを混淆し、さらにイスマーイールを無謬の地上における神の影、救世主とするようなもので、イスラームの教義を逸脱しかねないものであった。

すなわちサファヴィー朝は一種の神秘的熱狂に裏付けられた勢力であったのである。しかしながら、チャルディラーンの敗北は、こうした性格を後退させ、トルコマーン系遊牧民タージーク系官僚からなる伝統的な体制へと変容してゆく。宗教面でもレバノンやバーレーンなどから高名なシーア派法学者を招致し、王朝のシーア派教義の洗練につとめ、法学的精緻さを高めていった。

1524年にイスマーイール1世が没すると、キズィルバーシュ間の勢力争いによる混乱に陥る。後をついだタフマースプ1世は、その長い治世のはじめの10年こそ傀儡的立場に置かれたが、やがてキズィルバーシュ間勢力均衡グルジア系の人々の登用などにより小康状態を導き、度重なるオスマン朝やシャイバーン朝の侵攻を許しつつもよく耐えた。

1576年、タフマースプ1世が没すると、再び母后やこれと結びついたキズィルバーシュ勢力によって国政は混乱した。

1587年に即位したアッバース1世はキズィルバーシュ勢力間の争いをおさめるとともに、さらに彼らの勢力を削いで実権を掌握、中興の英祖として名高く「大帝」を冠して呼ばれる。

トルコマーン系政権の混乱は、遊牧部族民半独立傾向相互の争いから生ずるものであるが、それはサファヴィー朝も例外ではなかった。

武力部族民依存し、中央直轄の軍事力を欠きやすいトルコマーン=タージーク体制の特徴ともいえる。

アッバースは、カフカズ出身(特にグルジア)奴隷からなるグラーム軍団、各部族から引き抜いて編成したコルチ軍団両騎兵、さらに銃砲兵をペルシア系住民によって編成し、常備直轄兵化、軍事力のキズィルバーシュへの依存を避けた。

この改革はサファヴィー朝軍制を一変させるとともに、財政的裏付けのために王領地増加直轄化などがおこなわれ、権力構造を著しく変容させた。こうしたことから対外的にも軍事力の組織的運用が可能となり、東にシャイバーン朝からホラーサーン、西にオスマン朝からバグダードを奪還した。

1598年、アッバースは都を北西部カズヴィーンから中部エスファハーンへと遷した。これまでアゼルバイジャンあるいはホラーサーン方面に置かれた首都がイラン高原中央のエスファハーンへと遷されたことは、アッバースによる権力体制の変革を示すものであると同時に、ペルシア湾の重要性の増加を示すものでもあった。

アッバース1世の時代、貨幣経済が著しく発展し、絹貿易などによる好景気に沸いた。ムガル朝のもとで安定するインドとの交易も進展し、ホルムズを拠点としたポルトガルをはじめ大航海時代に入ったヨーロッパ諸勢力(ネーデルラント連邦共和国イングランド王国)は競ってアッバースの宮廷に使節を派遣した。

ロバート・シャーリーによってペルシア軍が近代化すると、1622年にはホルムズをポルトガルから奪って(ホルムズ占領)、バンダレ・アッバースを中心とする貿易体制を確立した。

アッバースは街道・港湾整備治安維持によって交易条件を整えるとともに、保護貿易的姿勢に出て莫大な利益を獲得。文化的にもレザー・アッバースィーの細密画などの写本芸術、あるいはムッラー・サドラーのシーア派哲学などが発達。イランの実質的なシーア化の進展はこの時代のことであった。

アッバース1世の時代は、まさにサファヴィー朝の黄金時代であり、40万の人口を擁する新都エスファハーンは「世界の半分」と謳われ、今日世界遺産としてその姿をとどめている。アッバースが没したのは1629年のことであった。

アッバース没後も1660年代ころまでのサフィー1世、アッバース2世の時代ころまではサファヴィー朝はそれなりの安定を保った。

1638年にオスマン帝国の反撃にあい、現在のイラク領域を失い、1639年にはガスレ・シーリーン条約(英語版)によってオスマン朝との間の国境線確定、長く続いた対オスマン戦争に終止符が打たれている。

しかし、その後は、宮廷におけるキズィルバーシュ、ペルシア系文官、カフカズ系、さらにハラムのからんだ勢力争いで中央は混乱に陥り、給料の遅配などで叛乱が続発、地方の治安は極度に悪化した。

ペルシア湾では海賊が跳梁し、インド産品に優位性を奪われ交易の利益も著しく減少した。

このような状況下で物価は乱高下し、サファヴィー朝経済は壊滅状態に陥ってゆく。

18世紀に入ることには、アッバース1世以降続けられた地方軍権削減首都への過度の兵力集中によって辺境・地方の防衛体制は脆弱化して混乱状態に拍車をかけた。

東方から進出したアフガーン民族は、1722年、あっさりと首都エスファハーンに入城し、統一政権としてのサファヴィー朝は滅亡したのである。

アフシャール朝
詳細は「アフシャール朝」および「ザンド朝」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

近代イランへの道―ガージャール朝
ナポレオン3世宮廷への大使アミーノッドウレ
詳細は「ガージャール朝」を参照
[icon]
この節の加筆が望まれています。

17世紀までにはヨーロッパ列強、すなわちポルトガルイギリスロシアフランスがこの地域に地歩を確立し始めていた。その後、イランはトルコマーンチャーイ条約、ゴレスターン条約などの諸条約によって上記諸国へと領土を割譲し、縮小してゆくことになる。


現代イランの光と蔭

立憲革命とパフラヴィー朝の成立
詳細は「イラン立憲革命」、「パフラヴィー朝」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照

イラン近代史はいまだに政権を握るシャーに対して闘った1905年イラン立憲革命立憲君主制への移行を示す1906年(暫定)憲法発布1908年石油の発見にはじまる。

第一議会(マジュリス)は1906年10月1日の招集である。

また、 地域の鍵となる石油の発見は英国によるものであった(詳細はウィリアム・ノックス・ダーシー(英語版)、アングロ・イラニアン石油会社(英語版)(AIOC)を参照)。
地域の支配権をめぐるイギリスとロシアの争いは1907年英露協商によって勢力圏分割で合意に達した。外国の支配と専制に反対し続けたギーラーンにおける立憲主義運動も1921年パフラヴィー朝への王朝交替とともに終焉している。

第二次世界大戦の連合軍兵士墓地(テヘラン)

第一次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍占領されたが、基本的には中立を維持している。1919年、イギリスはイランに保護領を設定しようとするが、1921年のソヴィエト連邦軍の撤退で断念。

同年イラン・ガザーク(コサック)旅団の軍人レザー・ハーンがクーデタをおこし、ついで1925年、皇帝に即位してガージャール朝にかわりパフラヴィー朝を開いた。

レザー・シャーの統治は英国秘密裏の援助によって開始されたが、やがて英国勢力の浸透を防ぎつつイランの開発を進める政策に転じ、約16年にわたった。

レザー・シャーの統治下、政治の非宗教化と部族および地方権力を掣肘し中央集権化がおこなわれてイランの近代化がはじまる。

第二次世界大戦ではイランはソヴィエト連邦へのレンドリース法に基づく物資供給路として不可欠の位置を占めていた。1941年8月、イラクから進出したイギリス軍および英領インド軍、北から南下したソ連軍がイランを占領9月にはイギリスによってレザー・シャーが強制的退位させられ、その子モハンマド・レザー・シャーが後を継いだ(→イラン進駐参照)。モハンマド・レザー・シャーはこの後、1979年まで皇帝としてイランを支配する。

1943年テヘラン会談後のテヘラン宣言ではイランの戦後の独立および国境の維持が保障された。

しかし、終戦を迎てもイラン北西部に駐留するソ連軍撤退拒否1945年後半にはイラン領アゼルバイジャンおよびクルディスタン北部における親ソヴィエト民族主義・分離主義者による傀儡政権のアゼルバイジャン自治共和国およびクルディスターン人民共和国の設立を援助した。

ソヴィエト軍は1946年5月石油利権確約を得てようやく本来のイラン領から撤退、北部のソヴィエト政権は直ちに鎮圧され、利権も取り消された。

イラン皇帝とアメリカ合衆国

議会議事堂を囲む兵士たち(1953年8月19日、テヘラン)

アルノー・ド=ボルシュグラーヴは言う。

「米国の諸政権は、1953年のCIAの主導によるモハンマド・モサッデグ政権の打倒と短期間ローマ亡命中のモハンマド・レザー・シャー復権の事件に始まり、1978年にシャーを裏切るまで、イランへの直接の内政干渉を行った[1]。」

占領後、当初は立憲君主制国家となる望みがあった。若い新皇帝(シャー)、モハンマド・レザーは議会に大きな権力を委ね、君臨するに留まっていたのである。数回の選挙が流動的な状況下でおこなわれたが、これは多くの選挙違反の伴うものであった。議会は慢性的な不安定状態に陥り、1947年から1951年まで6人もの首相が入れ替わりに政権を担うこととなったのである。

1951年、民族主義者モハンマド・モサッデグが英国の所有する石油会社の国有化を主張して、議会によって首相に選ばれた。これがアーバーダーン危機の始まりである。英国の経済制裁などによる圧力はイランに多大な困難をもたらしたが、国有化政策は続行された。
1952年、モサッデグは辞任を強制されたが、選挙での圧勝により再選、ひるがえってシャー亡命を余儀なくさせた。モサッデグは共和国を宣言するが、数日後の8月19日、アジャックス作戦(英: TPAJAX Project)として知られるCIAと合衆国政府の策謀によってシャーは帰国して復位、モサッデグは職を追われて逮捕され、新任の首相はシャーによって任命された。

シャーはこの事件における米国の支持への見返りとして、1954年、英40%、米40%、仏6%、蘭14%の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年にわたって認める契約に調印した。

つまり石油の支配権も完全な利益もイランにはもたらされないことになったのである。

1950年代末から1960年代には安定が回復した。1957年には16年にわたる戒厳令解除され、イランはバグダード条約へ加盟し、米国から軍事援助、経済援助を受けて西側陣営にさらに接近する。政府は近代化政策を広範に実施、特に準封建的な土地制度を改革した。

しかしながら改革により経済状態の劇的な改善はなく、自由主義的西欧的政策はイスラーム的な宗教集団、政治集団を政権から遠ざけてゆく結果となる。

1960年代半ば以降はモジャーヘディーネ・ハルク(MEK)などの組織の出現にともなって、政情は不安定化してゆく。

1961年、シャーの白色革命として有名な、一連の経済、社会、行政改革を開始した。政策の核心は農地改革にあった。近代化と経済成長は空前の勢いで進行、世界第3位の膨大な石油埋蔵量がこれを後押しした。

1965年の首相ハサン・アリー・マンスールの暗殺事件以降、国家情報安全機関 (イラン)(SAVAK)の活動が活発化。この時期、13,000人から13,500人にのぼる人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問されたと見積もられている。ルーホッラー・ホメイニー(1964年に追放)の指導するイスラーム勢力は反対活動を大々的に繰り広げるようになった。

国際関係においては1937年の協定でイラクに帰属するとされたシャッタルアラブ川の水路領有権をめぐる争いでイラクとの関係が急速に悪化している。

1969年4月中の数回の衝突ののちイランは協定を破棄、再交渉を要求。イランは防衛費に多大な予算をつぎ込み1970年代初頭までには域内第一の軍事大国となっていた。これを背景に1971年11月、イラン軍はペルシア湾口の3島を占領、イラクは報復として数千人のイラン人を追放した。この問題は1975年3月6日アルジェ合意でようやく解決している。

1973年半ば、シャーは石油工業へのイランの管理権を回復した。1973年10月の第四次中東戦争にあたっては、西側およびイスラエルに対する石油禁輸措置には加わらず、原油価格上昇の好機をとらえて莫大な石油収入を得て、これを近代化と国防費に回した。

1970年代初め、モジャーヘディーネ・ハルクは体制の弱体化、外国の影響力の排除を目的に、軍の契約にかかわるテヘラン駐在の米軍人、民間人の殺害事件を起こしている。

白色革命以降の経済成長による利益は、しかしながら非常に小さな集団に集中し、大多数の人々に恩恵がもたらされることはなかった。

1970年代後半にはいると、宗教勢力に率いられた広範囲な反対運動が起こる。いまやシャーの統治への政治的・宗教的反感、特にSAVAKへの嫌悪が高まっていた。

1978年9月戒厳令が全国主要都市に布告された(黒い金曜日を参照)が、シャーは権力基盤の崩壊を認識。翌1979年1月16日にシャーはイランから亡命し、帝政は崩壊した。

イスラーム革命

詳細は「イラン革命」を参照

数ヵ月におよぶシャーの統治への大衆抗議ののち、1979年1月16日、モハンマド・レザー・シャーはイランを去ることを余儀なくされた。短期間の次期政権と政策構想をめぐる攻防では、アーヤトッラー・ホメイニー指導のもとイスラーム国家への移行を支持する連合勢力が勝利した。1979年2月1日、ホメイニーがフランスから帰国(ホメイニーは追放後の15年をイラクトルコフランスで過ごした)し、2月11日、最高指導者に就いた。

新政府の政策は非常に保守的で、産業の国有化、法律・文化のイスラーム化を断行した。西洋的文化は禁止され、親西側エリートは速やかにシャー同様に亡命した。宗教内の対立派閥の衝突があり、また厳しい抑圧は急速に常態と化した。

イスラーム共和国

1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起こった。これはモジャーヘディーネ・ハルクの支持を背景として、好戦的なイラン人学生がテヘランのアメリカ大使館を占拠・人質を監禁したもので、1981年1月20日まで続く(詳細はイーグルクロー作戦を参照)。

カーター政権は国交を断絶、1980年4月7日には経済制裁を発動、同月末には救出作戦に踏み切った。しかしこの救出作戦ではヘリコプターに技術的問題が生じたこと、これに伴う空中衝突で8人の米兵を失ったことで4月25日に作戦中止が指令されている。

国際司法裁判所は5月24日に人質解放を要求、最終的にロナルド・レーガン大統領就任の日、イラン側の要求をほぼ受け入れて事件は解決した。

1980年9月22日、イラクがイランに侵攻した。イラン・イラク戦争の勃発である。

アメリカ政府はイランの孤立化を試み、米国およびその同盟国は勢力均衡のためイラクに武器と技術を供与した。

皮肉にもその裏でレーガン政権高官は秘密裏にイランへ武器、補充部品の売却を行っていた(イラン・コントラ事件)。この戦争は1988年、国際連合安全保障理事会決議598号を受け入れてようやく終結、8年に及ぶ戦争でイランだけで3500億米ドルに達する損害を被った。

1979年以降90年代まで(また小規模には現在まで[3])、クルド人勢力(民族主義者および共産主義者)と政府のあいだで激しい戦闘が起こっている。これとイラン・イラク戦争の影響により、イラン領クルディスターンの大部分が無政府状態に陥ることもあった[4]。

1981年、モジャーヘディーネ・ハルクによるイスラーム共和党本部および首相府爆破事件が連続して起こった。これら事件では当時の同党党首アーヤトッラー・モハンマド・ベヘシュティー、大統領モハンマド・アリー・ラジャーイー、首相モハンマド・ジャヴァード・バーホナルなど70人の政府高官が殺害されている。

1989年6月3日、ホメイニーが死去。専門家会議(高位ウラマーからなる)はアリー・ハーメネイー大統領を後継最高指導者に選出、スムーズな権力移行を内外に示した。

1991年の湾岸戦争にあたってはイランは中立を維持したもののアメリカに批判的で、イラク航空機および難民のイラン入国を許している。

ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領は一定の多数票を占め1993年に再選されたが、西側の観察では投票率の低下をもって悪化する経済への失望感の表れとの解釈も出た。

1997年、ラフサンジャーニーをついで、穏健なモハンマド・ハータミーが大統領となった。これは未だに保守的なウラマーと改革と穏やかな自由化を求める行政府との亀裂をもたらした。

1999年7月にはこの亀裂が頂点に達し、テヘランの街頭では大規模な反政府デモが起こっている。騒動は警察および政府支持の民兵によって解散されるまで1週間にわたって続いた。ハータミー大統領は2001年6月に再選されたものの、その政策はウラマーの構成する監督者評議会によってたびたび妨害されている。

ハータミーの再選後、イラン政府内の保守派は自由主義的新聞の発刊停止処分、改革派候補の立候補不適格判断などを通じて改革派の活動を徐々に圧迫していった。異議申し立てへの取り締まりは、ハータミーの改革への失望感と相まって、若年層のあいだに政治的アパシーを醸成。2005年の大統領選挙では、監督者評議会によって1,000人以上の立候補者が不適格とされたうえで、非常に保守的なテヘラン市長マフムード・アフマディーネジャードが選出された。

また2005年8月9日には最高指導者アーヤトッラー・アリー・ハーメネイーが核兵器の製造・配備・使用を禁じたファトワー(宗教令)を発出。当該文書はウィーンでの国際原子力機関(IAEA)会議の席上で公式声明として公開されている[5]。しかし、2006年に入り、核の使用を容認する新たなファトワが宣言された。

2009年6月12日に大統領選挙が行われ、大差で現職のアフマディーネジャードが再選されたが、敗れた改革派候補ミール・ホセイン・ムーサヴィーは不正選挙を主張、6月13日から市民の抗議デモや暴動が連日発生している。

最高指導者アリー・ハーメネイーは「選挙に不正は無かった」と述べ、抗議デモ中止を要求したが、それでも市民の怒りは収まらず、暴動は全土に広がっている。政権側は武力鎮圧する構えを見せているが、治安要員が私服に着替えて抗議デモに参加するなど内部での瓦解が始まっているとされ、現体制は最大の危機に立たされている。

脚註

^ E.U.-U.S. train wreck over Iran? - Washington Times - ワシントン・タイムズ 2005年2月15日付 - 2018年8月4日閲覧。

参考文献
日本語

富田健次『アーヤットラーたちのイラン』(第三書館、1993)
桜井啓子『現代イラン 神の国の変貌』(岩波書店、2001)
モハンマド・ハタミ,平野次郎訳『文明の対話』(共同通信社、2001)
宮田律『物語 イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』(中央公論社、2002)
ケネス・ポラック,佐藤陸雄訳『ザ・パージァン・パズル アメリカを挑発し続けるイランの謎』上下巻(小学館、2006)
ハミッド・ダバシ,田村美佐子、青柳伸子訳 『イラン、背反する民の歴史』(作品社、2008)

日本語以外

Abrahamian, E., Iran Between Two Revolutions, 1982, ISBN 0691101345
Bird, I., Journeys in Persia and Kurdistan. Vol. I.,, Reprint: Viagra Press, London, 1988.
Kinzer, S., All the Shah's Men: An American Coup and the Roots of Middle East Terror, 2003. ISBN 0471265179
Marcinkowski, M. I., Persian Historiography and Geography: Bertold Spuler on Major Works Produced in Iran, the Caucasus, Central Asia, India and Early Ottoman Turkey, with a foreword by Professor Clifford Edmund Bosworth, member of the British Academy, Singapore: Pustaka Nasional, 2003, ISBN 9971774887.
Google News: Iran

関連項目

アフガニスタンの歴史
アゼルバイジャンの歴史
タジキスタンの歴史

表話編歴

アジアの歴史(関連カテゴリ:Category:大陸別の歴史/Category:各国の歴史)
北アジア

ロシア1(ウラル連邦管区、シベリア連邦管区、極東連邦管区)

東アジア

大韓民国 中華人民共和国
    香港 マカオ チベット 中華民国3 朝鮮民主主義人民共和国 日本 モンゴル国 台湾

東南アジア

インドネシア カンボジア シンガポール タイ 東ティモール フィリピン ブルネイ ベトナム マレーシア ミャンマー ラオス

南アジア

アフガニスタン イラン インド スリランカ ネパール パキスタン バングラデシュ ブータン モルディブ

中央アジア

ウズベキスタン カザフスタン1 キルギス タジキスタン トルクメニスタン

西アジア
中東
地中海沿岸

イスラエル4 シリア トルコ1 レバノン パレスチナ国3

ペルシア湾沿岸

アラブ首長国連邦 イラク オマーン カタール クウェート サウジアラビア4 バーレーン

紅海沿岸

イエメン2 ヨルダン

南コーカサス

アゼルバイジャン1 アルメニア1 ジョージア1 アブハジア1,3 アルツァフ1,3 南オセチア1,3

地中海

キプロス1 北キプロス1,3

海外領土等

アクロティリおよびデケリア1 イギリス領インド洋地域 クリスマス島 ココス諸島

各列内は五十音順。1 ヨーロッパにも分類され得る。2 一部はアフリカに含まれる。3国連非加盟の国と地域。4紅海の沿岸国でもある。
執筆の途中です この項目は、イスラームに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル イスラーム/PJ イスラーム)。
カテゴリ:

イランイランの歴史

最終更新 2023年4月18日 (火) 00:03 』

ペルシア

ペルシア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曖昧さ回避 ペルージャの古名については「ペルシア (ペルージャの古名)」をご覧ください。
曖昧さ回避 「ペルシャ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ペルシャ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
現在のイラン全土とファールス地方
イランの歴史
イランの歴史

イランの先史時代(英語版)
原エラム
エラム
ジーロフト文化(英語版)
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

ペルシア、ペルシャ(ギリシア語: Περσ?α[注釈 1])は、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある[1]。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。

概要

古代ペルシア人は「パールサ」(????????)を自称していた。それを古代ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」となった[2]。

かつてイランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられたが、1935年3月21日に「イラン」に改めるよう諸外国に要請したものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。

イランの主要民族・主要言語は現在もペルシア人・ペルシア語と呼ばれている。なお、イラン人・イラン語はペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なり、代替可能ではない。
歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 Parsa のこと。語源は騎馬者を意味するパールス Pars。ギリシャ語ではペルシス(Π?ρσι? Persis)と呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。

ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、またはパールサの現代形のファールスと呼ばれている語である。たとえばペルシア語をファールス語に相当する現代のペルシア語ファールスィー(ペルシア語: ?????? f?rsi)と呼ぶ。

また、この地に興ったペルシア帝国と呼ばれる諸王朝も指す。ただし、同じ地に興ったパルティア(アルシャク朝)はペルシアとは語源的に無関係である。

イランの文化や特産物に対する呼び名としても使われる。

ペルシアの王朝

アケメネス朝の領域

アケメネス朝の領域
アルサケス朝の領域

アルサケス朝の領域
サーサーン朝の領域

サーサーン朝の領域
ティムール朝の領域

ティムール朝の領域
サファビー朝の領域

サファビー朝の領域 』

テュルク系民族

テュルク系民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「テュルク」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「テュルク (曖昧さ回避)」をご覧ください。

世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。

テュルク系民族の分布。

テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurks、ロシア語: Тюрки、トルコ語: Turk halklar?)またはテュルク系民族とは、チュルク語族の言語を使用する民族集団である[1]。

ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫く、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地域を中心に[2]シベリア、中央アジアおよび西アジア、東欧などに広く分布する[1]。トルコ系諸民族、テュルク系諸族などとも[1]。

呼称・表記
Question book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “テュルク系民族” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年9月)

英語では、狭義のテュルク / トルコと言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のテュルク / トルコであるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。

これにならい、日本語でも狭義のトルコに「トルコ」、広義のトルコに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。

同じく漢字を使用する台湾、中国など中国語圏では、狭義のトルコを「土耳其」(トルコ)、広義のトルコを「突厥」(とっけつ)と呼んでいる。

歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、回?、葛邏禄、抜悉蜜、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[3]。

人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが[4]、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。

歴史

起源

テュルク系民族の原郷についての定説がないが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力である[5]人種的にはモンゴロイドであったらしい[5]。また、プロト・テュルク(トルコ語版)はモンゴロイドであったと言われている[6]。

唐代まではほとんどが黒髪・直毛・黒目のモンゴロイドであったが、唐代の終わり頃東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリア―アルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配するようになった結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化した[4]。

匈奴はテュルクとモンゴルの諸民族の先駆者として、満場一致とはいかないまでも、広く認められている。

Turkic origin and expansion.png

ただし、言語上、エスニシティ上の関連性について、確たる証拠となるような記録が十分残されているとは言い難い[7]。

言語学者の仮説によれば、前3000~前500年ごろにはテュルク祖語が話されていたというが、直接的な証拠は何も残されていない[7]。

匈奴やフン族の民族的出自についての確立した説はないが、現代のテュルク族は匈奴やフン族が自分たちの先祖だと考えている[8]。

丁零(ていれい)

詳細は「丁零」を参照

「丁零」或いは「丁令」と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている[9][10]。

丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して?魏を建てた[11][12][13]。

高車(こうしゃ)

詳細は「高車」を参照

モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から「高車」と呼ばれるようになる。

これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[14]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。

阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した[15][16][12][17]。

突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)

7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=隋、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝
詳細は「突厥」を参照

中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった「突厥」によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。

そのため東ローマ帝国の史料[18]にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。

また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[19]、古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。

突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡した[20][21]。
詳細は「鉄勒」を参照

一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は「鉄勒」と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。

やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回?(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、抜悉蜜(バシュミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした[22][20][23]。

突厥の滅亡後

中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回?(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。

その後のウイグルは甘州ウイグル王国天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。[24][25][26]

中央アジアではカルルク、突騎施(テュルギシュ)、キメク、オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。

カスピ海以西ではブルガール、ハザール、ペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。

11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。[27][28]

テュルクのイスラーム化

テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。

彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年にガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。

1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。

このセルジューク朝が中央アジアから西アジア、アナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。

また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝、奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。

こうした中で「テュルク・イスラーム文化」というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語、ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった[29]。

西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化

840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。

天山ウイグル王国はタリム盆地、トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教、仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。

一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンやクチャもイスラーム圏となる。

これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派、トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した[30]。

中央アジア草原地帯、西トルキスタンのテュルク化

13世紀前半の世界。

中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。

一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。

他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのが最も効果的なのであるが、西トルキスタンでは定住民がすでにムスリム(イスラーム教徒)であったため、あるいは遊牧民と定住民の住み分けが明確になされていたため、人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。

西トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝、カラキタイ、ティムール朝、シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行した[31][32]。

モンゴル帝国の拡大

チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。

古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した遼(契丹)や金(女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。

当時、モンゴル高原にはケレイト、ナイマン、メルキト、モンゴル、タタル、オングト、コンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 – 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。

チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグト、オイラト、キルギス、西のタングート(西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。

チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 – 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。

こうしてユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位: 1251年 – 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう[33]。

モンゴルの支配下

この史上最大の帝国に吸収されたテュルク系諸民族であったが、支配層のモンゴル人に比べてその人口が圧倒的多数であったため、また文化的にテュルク語が普及していたため、テュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。

むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。

こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設されることとなった[33]。

チャガタイ領のテュルク

チンギス政権以来、天山ウイグル王国はモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。

それはウイグル人が高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍したことや、モンゴルにウイグル文字を伝えてモンゴル文字の基礎になったこと、オアシス定住民の統治に長けていたことが挙げられる。

モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。

一方、カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。

やがてチャガタイ汗国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。

マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。

彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる[34]。

ティムール朝

詳細は「ティムール朝」を参照

西チャガタイ・ハン国から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。

しかし、文官にいたっては知識人であるイラン系のターズィーク人が担っていた。

こうしたことでティムール朝の公用語はイラン系であるペルシア語と、テュルク系であるチャガタイ語が使われ、都市部においては二言語併用が一般化した[35]。

ジョチ領のテュルク

キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスは比較的早い段階でイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。

15世紀になると、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シャイバーニー朝、カザフ・ハン国、シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた[36]。

ウズベクとカザフ

現在、中央アジアのテュルク系民族で上位を占めるのがウズベク人カザフ人である。

これらの祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブル=ハイル・ハン(在位:1426年 – 1468年)に率いられた集団であった。

彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャニベク・ハンとケレイ・ハンがアブル=ハイル・ハンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離することとなり、前者をウズベク、後者をウズベクカザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。

アブル=ハイル・ハンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。

やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハンのもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャイバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた[37]。

3ハン国

1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権はジャーン朝アストラハン朝)に移行した。

ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はハン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 – 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。

これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハン国と称する[38]。


ロシアの征服

13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位: 1533年 – 1584年)によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。

このときロシアに降ったテュルク系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた。

16世紀末になってロシア・ツァーリ国はシベリアのシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。

同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。

1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位: 1716年 – 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。

19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国(イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。

ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた[39]。

アナトリア半島のテュルク

1300年のアナトリアにおけるテュルク系諸勢力。

現在、最も有名なテュルク系国家であるトルコ共和国はアナトリア半島に存在するが、テュルク人の故地から最も離れた位置にあるにもかかわらず、テュルク系最大の民族であるトルコ人が住んでいる。

これは歴史上、幾波にもわたってテュルク人がこの地に侵入し、移住してきたためである。それまでのアナトリア半島には東ローマ帝国が存在し、主要言語はギリシア語であった。

アナトリアへ最初に侵入してきたのはセルジューク朝であり、セルジューク朝によって東ローマ帝国が駆逐されると、その地にセルジューク王権の強化を好まないトゥルクマーンなどが流入してきたため、アナトリアのテュルク化が始まった。

その後はセルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立し、モンゴルの襲来で多くのトゥルクマーンが中央アジアから逃れてきたので、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は一層進んだ。

14世紀にはオスマン帝国がアナトリアを中心に拡大し、最盛期には古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展したが、18世紀以降、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、広大な領地は次第に縮小してアナトリア半島のみとなり、第一次世界大戦後、トルコ革命によって1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が成立する[40]。

テュルクの独立

ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。

しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。

1991年のソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国(アゼルバイジャン共和国ウズベキスタン共和国カザフスタン共和国キルギストルクメニスタン)が独立。

これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある[41]。

歴史的なテュルク系民族および国家

丁零
高車
悦般
突厥
    東突厥
    西突厥
        沙陀族
            後唐
            後晋
            後漢
                北漢
鉄勒
回鶻(ウイグル)
    天山ウイグル王国
    甘州ウイグル王国
堅昆(契骨、黠戛斯、キルギス)
オグズ
カルルク
ブルガール人
    ヴォルガ・ブルガール
ハザール
ペチェネグ
チョールヌィ・クロブキ
    トルク族…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
    ベレンデイ族…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
    コヴイ人…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
    トゥルペイ人…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
    ペチェネグ…黒帽子族(チョールヌィ・クロブキ)のひとつ
カンクリ
エメク
キプチャク(ポロヴェツ、クマン)
カラジ (テュルク)
アガチェリ

[9][42][43]
イスラーム化後のテュルク系国家

カラハン朝
ガズナ朝
セルジューク朝
    ルーム・セルジューク朝
ホラズム・シャー朝
マムルーク朝
オスマン帝国
奴隷王朝
ハルジー朝
トゥグルク朝
サイイド朝

[44]
モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家

チャガタイ・ウルス系

モグーリスタン・ハン国
西チャガタイ・ハン国
ティムール朝
ムガル帝国

ジョチ・ウルス系

スーフィー朝
ブハラ・ハン国
    シャイバーニー朝
    ジャーン朝(アストラハン朝)
    マンギト朝
ヒヴァ・ハン国
    ウルゲンチのシャイバーニー朝
    イナク朝
コーカンド・ハン国
シビル・ハン国
カザン・ハン国
カザフ・ハン国
アストラハン・ハン国
ノガイ・オルダ
クリミア・ハン国

フレグ・ウルス(イルハン朝)系

ジャライル朝
黒羊朝(カラコユンル)
白羊朝(アクコユンル)

[45]
現代のテュルク系諸民族

[46]
主権国家

トルコの旗 トルコ → トルコ人(5,549万人?5,800万人/7,000万人)
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン → アゼルバイジャン人(720.5万人/2,050万人?3,300万人、イランに1,200万人?2,010万人)
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン → ウズベク人(2,230万人/2,830万人)
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン → トルクメン人(550万人/800万人)
キルギスの旗 キルギス → キルギス人(380.4万人/485.5万人)
カザフスタンの旗 カザフスタン → カザフ人(955万人/1,600万人)

連邦構成国・民族自治区

ロシアの旗 ロシア連邦
    タタールスタン共和国 → タタール人(555.4万人/671.2万人)
    バシコルトスタン共和国 → バシキール人(167.3万人/205.9万人)
    チュヴァシ共和国 → チュヴァシ人(163.7万人/180万人)
    ハカス共和国 → ハカス人(8万人)
    アルタイ共和国 → アルタイ人(6.7万人/7万人)
    トゥヴァ共和国 → トゥヴァ人(24.3万人/28万人)
    サハ共和国 → ヤクート人(44.4万人)
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
    カラカルパクスタン共和国 → カラカルパク人(55万人)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
    新疆ウイグル自治区 → ウイグル人(840万人/1,125.7万人)
モルドバの旗 モルドバ
    ガガウズ自治区 → ガガウズ人(12.6万人/16.2万人)

その他の主なテュルク系民族とその居住地

ウクライナのクリミア自治共和国では、クリミア・タタール人が人口の2割を占める。
リトアニアやポーランド、ロシア、トルコ共和国には、ハザールを起源とするテュルク系カライム人、クリミア・カライム人(ロシア語版、英語版)やクリムチャク人が居住する。
ベラルーシ、リトアニア、ポーランドには、タタール系(リプカ・タタール人、クリミア・タタール人、ノガイ族、ヴォルガ・タタール人)が居住している。
ウクライナ、トルコには、テュルク系キリスト教徒のガガウズ人が居住している。
キプロスの北部では、テュルク系の住民が北キプロス・トルコ共和国を立て独立を宣言している。
アフガニスタンには、ウズベク人など多くのテュルク系民族が住む。
イランには、北西部にアゼルバイジャンと連続する同族のアゼリー人がまとまって居住し、北東部カスピ海東南岸および南部内陸にトルクメン人が散在し、併せて人口のおよそ3割がテュルク系である。
モンゴル国には、バヤン・ウルギー県を中心として西部にまとまった数のカザフ人が居住する。また、北部には少数のトゥバ人が居住する。

遺伝子

テュルク系民族には、同じアルタイ系であるモンゴル系民族やツングース系民族に高頻度なC2系統は、カザフ(66.7%[47])を除きそれほど高頻度ではない。

広範囲に見られるタイプとしては印欧語系インド・イラン人やスラブ人に多いR1a系統がキルギス人に63.5%[47]、南アルタイ人に53.1%[48]などで観察される。

またヤクートはウラル系民族に関連するN系統が88%の高頻度で見られる[49]。11世紀にトルコ族が進入したアナトリアでは在来のJ系統等が高頻度である[50]。

テュルク系民族の明確な遺伝子の単一性は認められないことから、テュルク系民族の拡散は話者移動よりも言語置換中心であったことが示唆されている[51]。

また、調査されたほとんどのテュルク系民族は遺伝的に近隣地域の住民に似ていることから、インド・ヨーロッパ語族のような少数上位階級による支配が示唆されている[51]。

しかし、西部のテュルク系民族も、現在の南シベリアとモンゴル地域のテュルク系民族と同一の「非常に長い染色体領域」を共有している[51]。

キルギス人、カザフ人、ウズベク人、トルクメン人、アルタイ人など中央アジアのテュルク系民族は、モンゴロイドコーカソイド混合体である[52]。

西端のトルコ人のはコーカソイド、東端のヤクートはモンゴロイドとされるが、それぞれモンゴロイドとコーカソイドの遺伝子を僅かに含んでいる[52]。 』

コソボ

コソボ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BD%E3%83%9C

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、ヨーロッパの国家について説明しています。その他の用法については「コソボ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

コソボ共和国
Republika e Kosovës(アルバニア語)
Република Косово(セルビア語)
コソボの国旗 コソボの国章
(国旗) (国章)
国の標語:不明
国歌:ヨーロッパ
0:58
コソボの位置
公用語 アルバニア語、セルビア語
首都 プリシュティナ
最大の都市 プリシュティナ

政府
    大統領     ヴィヨサ・オスマニ[1][2]
    首相     アルビン・クルティ 
面積
    総計     10,887km2(暫定166位)
    水面積率     不明 
人口
    総計(2013年)     1,847,708人(暫定145位)
    人口密度     169.72人/km2 
GDP(自国通貨表示)
    合計(2018年)     67億2,600万[3]ユーロ (€) 
GDP(MER)
    合計(2018年)     79億4,700万[3]ドル(146位)
    1人あたり     xxxドル
GDP(PPP)
    合計(2018年)     209億1,200万[3]ドル(145位)
    1人あたり     11,664ドル

独立宣言    2008年2月17日
通貨     ユーロ (€)(EUR)
時間帯     UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1     XK / XKX (暫定)
ccTLD     .xk (非公式)
国際電話番号     381および383(公式)。携帯電話では377および386も使用
参照/en:Telephone numbers in Kosovo

コソボ・メトヒヤ自治州
Krahina Autonome e Kosovës dhe Metohisë
Аутономна Покрајина Косово и Метохиja
Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija
Kosovo and Metohija in Serbia.svg

セルビア内でのコソボ・メトヒヤ自治州の位置。
Map of Serbia (Kosovo and Metohija).PNG
公用語    アルバニア語、セルビア語
州都    プリシュティナ
州知事    スルジャン・ペトコヴィッチ[4]
自治州・自治体共同体
議長(英語版)    Радован Ничић
面積    10,887 km²
人口
(2011年国勢調査)    不明(セルビア[5])
1,739,825人(コソボ共和国[6])
改組
(SAPコソボより)    1990年9月28日
セルビアの統治権排除
(UNMIK開始)    1999年6月10日
コソボ議会が独立宣言    2008年2月17日
ISO 3166-2:RS    RS-KM

コソボ共和国[7](コソボきょうわこく、アルバニア語: Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。略称KOS[8]。国際連合(UN)には未加盟であるが、2016年7月時点で113の国連加盟国が国家として承認している。

概説

面積は1万887平方キロメートル(日本の岐阜県に相当)。国民の9割以上はアルバニア人で、他にセルビア人などが暮らす。人口は約180万人で、その3分の1は首都プリシュティナに集まっていると推定されている[7]。

かつてはユーゴスラビアのセルビアに属する自治州の一つで、2008年2月17日にコソボ議会が独立を宣言した。2016年7月現在、国連加盟国の内、113か国がコソボの独立を承認した[9]。独立を承認していない国は、セルビア領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなしている。

鉱物資源が豊かであり、大麦、小麦、タバコ、トウモロコシなどもとれる[8]。

呼称

「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語: Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosovë、セルビア語のキリル文字表記ではКосово、ラテン文字表記ではKosovoである。

特にセルビア人の間で、この地域の西部はメトヒヤ(セルビア語: Метохија / Metohija)と呼ばれており、この地域全体を指す呼称としては「コソボとメトヒヤ」(セルビア語: Косово и Метохија / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)が使われている。他方、アルバニア人の間ではメトヒヤの名前は使われず、この地域全体を指してコソヴァと呼ぶ。

2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語でRepublika e Kosovës、セルビア語でРепублика Косово / Republika Kosovoである。その他の言語での表記としては、英語ではRepublic of Kosovo、トルコ語ではKosova Cumhuriyeti、ボスニア語ではRepublika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。

セルビアは、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州(セルビア語: Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼んでいる。コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。

歴史

詳細は「コソボの歴史」を参照

紀元前3世紀〜紀元前1世紀頃のダルダニア王国(黄色)

6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人が住んでいたといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニア(英語版)(Dardania)と呼ばれていた。

ブルガリア帝国の進出

東ヨーロッパから侵入したスラヴ人の定住に続いて、6-7世紀以降には、古ブルガリアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニアを征服した。681年にアスパルフによって建国された、ブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国は、やがてこの地方をその支配下に置くようになった。ブルガリア帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリア人の祖となった。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガリア帝国の重要な一部だった。

セルビア王国成立

12-13世紀、セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていた。こうした中から台頭したセルビア人の指導者ステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由である。

オスマン帝国との戦い

オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。

コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。

皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。

結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチも全て殺された。それ以来バルカン半島のほとんどはオスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。

オスマン帝国の支配

コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。

オスマン帝国1875〜1878年のコソボ行政区(黄色)

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。

民族意識の高揚

19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、4つの県、サンジャク・プリズレン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ディブラ(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・スコピオン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ニシュ(ギリシア語版、英語版)をひとつにまとめたプリズレン・ヴィライェト(英語版)(1871年 – 1877年)が設置され、すぐにコソヴァ・ヴィライェト(トルコ語版、英語版)(1877年 – 1913年)となった。1878年にはコソボの都市プリズレンで民族主義者の団体「プリズレン連盟」(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。

20世紀初頭のバルカン戦争後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。

しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下にあった。

ユーゴスラビア王国成立

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代の行政区分

第一次世界大戦後に成立したユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦ではナチス・ドイツやファシスト・イタリアなど枢軸国の侵攻を受けた。

コソボにあたる領域はブルガリア王国とアルバニア王国の一部に併合された。

戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年にセルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。

1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。

1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。

独立運動

端緒

1981年の3月から4月にかけてプリシュティナのアルバニア人学生が抗議活動を開始し、6都市で2万人が参加するコソボ抗議活動に膨れ上がったが、ユーゴスラビア政府に厳しく弾圧された。

1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。

1980年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。

この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を「コソボ解放軍」(アルバニア語名: UÇK、英語名: KLA)と改名した。

1989年に東欧革命が起きて、ソビエト連邦を中心とする東欧社会主義ブロックが崩壊すると、ソ連と一線を画していたユーゴスラビアでも各民族のナショナリズムが高まった。

セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。

ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州だったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。

コソボ解放軍の実力行使

コソボ解放軍から没収された銃器(1999年)

コソボ紛争

詳細は「コソボ紛争」を参照

実質的にはセルビア人が主導しており、コソボの独立を阻止したいユーゴスラビア政府は、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。

この結果、コソボの民族バランスは大きくセルビア人側が増えることになった。

これに対して、コソボのアルバニア人指導者イブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し、アルバニア人から懐疑的な意見が出されるようになった。

デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の1990年代後半に入ると、軍事闘争によるセルビアからの独立を主張するコソボ解放軍が影響力を強めた。

一方、隣国のアルバニアは1997年に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して、社会的な混乱に陥っていた。

このような情勢で、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避。戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を伴って来た。

コソボ解放軍の指導者の一人で、後に首相となったハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を調達する活動をしていた。

翌1998年になると、セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。

セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなど、コソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。

国際連合コソボ暫定行政ミッションの始まり

戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接する北マケドニアやアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。

国連や欧州連合(EU)は、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。
1999年3月からは、北大西洋条約機構(NATO)が国際世論に押されて、セルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った(アライド・フォース作戦)。

この空爆は約3カ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始。翌年までに全てのユーゴスラビア連邦軍を撤退させた。

これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。

代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo、UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊 (KFOR) が駐留を開始した。

それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、ユーゴスラビア政府やそれを継承したセルビア・モンテネグロ(2003-2006年)、セルビア(2006年-)による実効支配は及んでいない。

しかし、セルビア側が撤退してUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、人権が守られているとは言えない。

加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している[要出典]。

コソボ紛争は2020年代にもコソボの内政や国際関係に影を落としている。コソボ大統領だったハシム・サチが2020年11月に辞任したのは、オランダのデン・ハーグに設置されているコソボ紛争の戦争犯罪を裁く特別法廷で訴追が確定したためである[2]。

地位問題

詳細は「コソボ地位問題」を参照

1991年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は、同じアルバニア人が住む隣国アルバニアしか存在しなかった。

このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっていた。

一方で1999年のコソボ紛争以降、コソボがセルビアの実効支配から完全に脱していた。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。

現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題だった。

コソボの独立

2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。

主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。

地位問題において欧州連合(EU)とアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。また同時に「国旗」が発表された[10]。4月に議会で批准されたコソボ憲法は、6月15日から正式に発効した。

セルビアの反発

この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、2月17日未明から首都ベオグラードやノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国だったスロベニア系商店への投石騒動が起きた[11][12]。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている[13]。

コソボの承認

国家承認のプロセスについては、独立宣言の翌日の2月18日にアメリカ政府が承認を公表し、ヨーロッパの国連安保理常任理事国であるイギリス、フランスも同日に承認している。ドイツが2月20日に承認した[14]。

一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインやキプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャなどは独立承認に慎重な姿勢を示している国もある[15]。このためEUによる機関承認は見送られている[16]。

同じスラブ人として歴史的にセルビアと繋がりが深いうえに米欧と一線を画すロシア連邦や、少数民族の独立運動を多く抱える中華人民共和国も同様だった。

その後、独立宣言が打ち出された当初には即座に承認しなかった国々にも承認が広まった[17]。

セルビアの周辺国では、2008年3月にクロアチア、ハンガリーそしてブルガリアがコソボの独立を承認した。

コソボの独立に際して、大アルバニア主義の拡大が憂慮されていた中、2008年10月には大アルバニア主義の利害国で国内に一定数のアルバニア人を抱えるモンテネグロと、マケドニア紛争の当事国である北マケドニアがコソボを承認した[18]。

人口の3割以上をセルビア人が占めるモンテネグロでは激しい反発が起こり、首都ポドゴリツァでは大規模な抗議集会が行われた[19]。

その一方で、セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、2008年の国連総会では、同国の要請を受けて国際司法裁判所に独立の是非の判断を求めた。
ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で[20]、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、国際連合安全保障理事会での承認は困難となっている。

またインドやスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。「大アルバニア」の利害国としては、ギリシャが承認を行っていない。

日本は2008年3月18日、コソボを国家として承認。2009年2月25日、外交関係を開設した[21]。

独立承認国

コソボを国家承認している国

詳細は「コソボ地位問題」を参照

2016年7月時点で、コソボはアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、日本など113か国から承認を受けている[22]。一方で、セルビアをはじめ、ロシア、中国、スペイン、キプロス、ギリシャ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、ジョージア、ウクライナ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、インド、インドネシア、南アフリカなどが承認していない。

2010年7月22日には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言を「国際法違反にはあたらない」と判断した[23]。国際司法裁判所の判断は勧告的意見とされ、法的な拘束力はないものの、承認するか否かを決めかねていた国際社会には大きな判断材料になると同時に、民族自決を掲げる少数民族の分離独立に大きな影響を与えるとされる[24]。

独立を承認している国・地域一覧

ヨーロッパ

アルバニアの旗 アルバニア (2008年2月18日)
フランスの旗 フランス (2008年2月18日)
イギリスの旗 イギリス (2008年2月18日)
 ラトビア (2008年2月20日)
ドイツの旗 ドイツ (2008年2月20日)
 エストニア (2008年2月21日)
イタリアの旗 イタリア (2008年2月21日)
 デンマーク (2008年2月21日)
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク (2008年2月21日)
ベルギーの旗 ベルギー (2008年2月24日)
ポーランドの旗 ポーランド (2008年2月26日)
スイスの旗 スイス (2008年2月27日)
 オーストリア (2008年2月28日)
アイルランドの旗 アイルランド (2008年2月29日)
 スウェーデン (2008年3月4日)
オランダの旗 オランダ (2008年3月4日)
アイスランドの旗 アイスランド (2008年3月5日)
スロベニアの旗 スロベニア (2008年3月5日)
 フィンランド (2008年3月7日)
モナコの旗 モナコ (2008年3月19日)
 ハンガリー (2008年3月19日)
クロアチアの旗 クロアチア (2008年3月19日)
 ブルガリア (2008年3月20日)
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン (2008年3月25日)
 ノルウェー (2008年3月28日)
 リトアニア (2008年5月6日)
サンマリノの旗 サンマリノ (2008年5月12日)
 チェコ (2008年5月21日)
マルタの旗 マルタ (2008年8月22日)
ポルトガルの旗 ポルトガル (2008年10月7日)
モンテネグロの旗 モンテネグロ (2008年10月9日)
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア (2008年10月9日)
Flag of the Order of St. John (various).svg マルタ騎士団 (2009年6月1日)
アンドラの旗 アンドラ (2011年6月8日)

アジア

トルコの旗 トルコ (2008年2月18日)
アフガニスタンの旗 アフガニスタン (2008年2月18日)
中華民国の旗 中華民国(台湾) (2008年2月19日)
日本の旗 日本 (2008年3月18日)
大韓民国の旗 韓国 (2008年3月28日)
アラブ首長国連邦の旗 UAE (2008年10月14日)
マレーシアの旗 マレーシア (2008年10月30日)
モルディブの旗 モルディブ (2009年2月19日)
サウジアラビアの旗 サウジアラビア (2009年4月20日)
バーレーンの旗 バーレーン (2009年5月19日)
ヨルダンの旗 ヨルダン (2009年7月7日)
カタールの旗 カタール (2011年1月7日)
オマーンの旗 オマーン (2011年2月4日)
クウェートの旗 クウェート (2011年10月11日)
ブルネイの旗 ブルネイ (2012年4月25日)
東ティモールの旗 東ティモール (2012年9月20日)
パキスタンの旗 パキスタン (2012年12月24日)
イエメンの旗 イエメン (2013年6月11日)
タイ王国の旗 タイ (2013年9月24日)
シンガポールの旗 シンガポール (2016年12月1日)
バングラデシュの旗 バングラデシュ (2017年2月27日)
イスラエルの旗 イスラエル (2020年8月4日)

アメリカ州

コスタリカの旗 コスタリカ (2008年2月18日)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 (2008年2月18日)
ペルーの旗 ペルー (2008年2月22日)
カナダの旗 カナダ (2008年3月18日)
 コロンビア (2008年8月4日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2008年8月7日)
パナマの旗 パナマ (2009年1月16日)
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国 (2009年7月10日)
ホンジュラスの旗 ホンジュラス (2010年9月3日)
セントルシアの旗 セントルシア (2011年8月19日)
ハイチの旗 ハイチ (2012年2月10日)
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス (2012年11月28日)
ドミニカ国の旗 ドミニカ国 (2012年12月11日-2018年11月2日)
ガイアナの旗 ガイアナ (2013年3月16日)
エルサルバドルの旗 エルサルバドル (2013年6月29日)
グレナダの旗 グレナダ (2013年9月25日-2018年11月4日)
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ (2015年5月20日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2016年4月30日)
スリナムの旗 スリナム (2016年7月8日-2017年10月27日)
バルバドスの旗 バルバドス (2018年3月9日)
 コロンビア (2019年3月9日)

アフリカ

セネガルの旗 セネガル (2008年2月18日-2020年3月2日)
ブルキナファソの旗 ブルキナファソ (2008年4月23日)
リベリアの旗 リベリア (2008年5月30日)
シエラレオネの旗 シエラレオネ (2008年6月11日)
ガンビアの旗 ガンビア (2009年4月7日)
コモロの旗 コモロ連合 (2009年5月14日-2018年11月1日)
マラウイの旗 マラウイ (2009年12月14日)
モーリタニアの旗 モーリタニア (2010年1月12日)
エスワティニの旗 エスワティニ (2010年4月12日)
ジブチの旗 ジブチ (2010年5月8日)
ソマリアの旗 ソマリア (2010年5月19日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2011年1月10日)
中央アフリカ共和国の旗 中央アフリカ (2011年7月22日-2019年7月19日)
ギニアの旗 ギニア (2011年8月12日)
ニジェールの旗 ニジェール (2011年8月15日)
ベナンの旗 ベナン (2011年8月18日)
ガボンの旗 ガボン (2011年9月15日)
コートジボワールの旗 コートジボワール (2011年9月16日)
ガーナの旗 ガーナ (2012年1月23日-2019年11月7日)
チャドの旗 チャド (2012年6月1日)
ブルンジの旗 ブルンジ (2012年10月16日-2018年2月15日)
タンザニアの旗 タンザニア (2013年5月29日
 エジプト (2013年6月26日)
リビアの旗 リビア (2013年9月25日)
レソトの旗 レソト (2014年2月11日-2018年10月16日)
トーゴの旗 トーゴ (2014年7月11日-2019年6月28日)
ガンビアの旗 ガンビア (2016年9月23日)
マダガスカルの旗 マダガスカル (2017年10月24日-2018年11月7日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2018年7月19日)

オセアニア
※コソボ共和国はパプアニューギニアとは2018年7月6日まで、ソロモン諸島とは2018年11月まで、パラオとは2019年1月まで、ナウルとは2019年11月まで外交関係を持っていた。

オーストラリアの旗 オーストラリア (2008年2月19日)
マーシャル諸島の旗 マーシャル諸島 (2008年4月17日)
ナウルの旗 ナウル (2008年4月23日-2019年11月13日)
サモアの旗 サモア (2008年9月15日)
ミクロネシア連邦の旗 ミクロネシア (2008年12月5日)
パラオの旗 パラオ (2009年3月6日-2019年1月17日)
ニュージーランドの旗 ニュージーランド (2009年11月9日)
バヌアツの旗 バヌアツ (2010年4月28日)
キリバスの旗 キリバス (2010年10月21日)
ツバルの旗 ツバル (2010年11月18日)
パプアニューギニアの旗 パプアニューギニア (2012年10月3日-2018年7月6日)
フィジーの旗 フィジー (2012年11月19日)
トンガの旗 トンガ (2014年1月15日)
ソロモン諸島の旗 ソロモン諸島 (2014年8月13日-2018年11月28日)
クック諸島の旗 クック諸島 (2015年5月18日)
ニウエの旗 ニウエ (2015年6月23日)

国際関係

詳細は「コソボの国際関係(英語版)」を参照

独立を宣言して以降、コソボは上記のような承認国の拡大と国際機関への加盟を追求してきた。

ハシム・サチ大統領はセルビアとの関係正常化と、欧州連合や北大西洋条約機構への加盟を希望すると表明している[25]。

前述のように、セルビアはコソボの独立を認めていないが、近年ではセルビア系住民が多数派を占めるコソボ北部とアルバニア系住民が多数派を占めるセルビア南部を交換し、両国の関係正常化を目指すといった動きを見せており、全くの没交渉ではない[26]。

EUの仲介などにより、コソボ北部のセルビア人保護などについて交渉や政府間合意を行っている。2020年には、米国の仲介で21年ぶりの空路再開で合意した[27]。

詳細は「セルビアとコソボの関係」を参照

アルバニア人を主体とし、公用語の一つとしてアルバニア語を共有するアルバニアとは特別な関係にある。アルバニアは1992年にコソボ共和国が独立を宣言した際、独立を承認した数少ない国の一つであった。2008年2月にコソボが独立を宣言した際にも最初に同国の独立を承認した国の一つである。

詳細は「アルバニアとコソボの関係(英語版)」を参照

日本との関係

詳細は「日本とコソボの関係」を参照
駐日コソボ大使館
詳細は「駐日コソボ大使館」を参照

住所:東京都港区西新橋三丁目13-7 VORT虎ノ門サウスビル10階
アクセス:東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅

コソボ大使館が入居するビル

コソボ大使館が入居するビル
コソボ大使館は10F

コソボ大使館は10F

地方行政区画

コソボの郡

詳細は「コソボの郡」および「コソボの都市の一覧」を参照

コソボは全体で7つの郡(ラヨーニ (Rajoni) / オクルグ (Okrug) )に分けられている。1999年にUNMIKの保護下に入った後の2000年に、UNMIKによってセルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ (Komuna) / オプシュティナ (Opština) )が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。

経済

首都プリシュティナ
詳細は「コソボの経済(英語版)」を参照

通貨はユーロが使われているが、欧州中央銀行(ECB)と正式な導入協定を結んではいない。

2018年の国内総生産(GDP)は約79億ドルであり[3]、経済的にはヨーロッパの後進地域である。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦、小麦、トウモロコシ、タバコが生産される。

鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。

その他にも石炭、銀、アンチモン、鉄、ボーキサイト、クロムなどが産出される。石炭のうち褐炭が豊富で、それを燃やす火力発電が電力の95%を賄う[28]。このため電力料金はヨーロッパで最も安い水準だが、設備の老朽化などにより停電が多く、大気汚染が深刻であり、温室効果ガスである二酸化炭素の排出削減も困難な現実がある[28]。

2011年時点でGDP成長率は5%程度であるが、貧しい者も多く、ヨーロッパの最貧国の1つである。

失業率は3割とヨーロッパ最悪の水準。特に若者では6割にも達しており、犯罪や国外移民、さらに中東へ渡ってのテロ組織「ISIL」参加などの問題を生んでいる[29]。国連の調査では、2013年時点でGDPの16%が、国外に住む国民縁者からの送金である。自分達の稼ぎでは生活が成り立たない者も多く、全世帯の25%は、この国外からの送金に頼って生活している[30]。

インターネットは普及途上で、ホームページすら持たない企業も多い[31]。

政治

プリシュティナの政府ビル
詳細は「コソボの政治(英語版)」を参照

国連安保理決議1244により国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self Government、PISG)が2001年から置かれている。

独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している[32]。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。

2008年2月、コソボは独立を宣言した。前述のように、コソボの独立を承認するか否かの対応は国により異なるが、UNMIKの役割は大幅に縮小され、警察・関税・司法の分野における任務をEUのCFSPミッション(European Union Rule of Law Mission in Kosovo、EULEX)が引き継いだ。

議会

詳細は「コソボ議会」を参照

1院制(定数120名)[21]
構成(2019年10月選挙。
任期4年) 政党(会派)名 議席数
自己決定運動 29議席
コソボ民主同盟 28議席
コソボ民主党 24議席
コソボ未来連合 13議席
セルビア人統一候補 10議席
少数民族グループ 10議席
諸派 6議席
「コソボの政党(英語版)」も参照
軍事

コソボ独自の軍事力として、治安軍を有している。
詳細は「コソボ治安軍」および「コソボ防護隊」を参照

またコソボ紛争終結に伴い、北大西洋条約機構(NATO)加盟国を主体とするKFOR(コソボ治安維持部隊)が駐留している。

コソボ議会は2018年12月14日、治安軍を軍に昇格させる法律を成立させた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権による支持を背景としている。これに対して中国の支持を背景とするセルビアとセルビアを支援するロシア連邦は反発し、地域の不安定化を懸念するNATOや欧州連合(EU)も批判的である[33]。

ユーゴスラビアやセルビアへの武力抵抗を担った組織については「コソボ解放軍」を参照。

住民

アルバニア人の子供(プリシュティナにて)
詳細は「コソボの人口統計(英語版)」を参照

民族構成は以下の通りである。

アルバニア人: 92%
セルビア人: 4%
ボシュニャク人およびゴーラ人: 2%
トルコ人: 1%
ロマ: 1%

オスマン帝国時代の統治により、コソボのアルバニア人の比率は高かった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後にセルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で難民となったセルビア人をコソボに入植させた。

これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。

コソボ紛争により、コソボ内のセルビア人は約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。

現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛地状に点在している。

コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、2008年6月28日に独自議会の設立を宣言した。北部のセルビア人はコソボの統合に反対しセルビアから行政サービスを受けていたが、2013年のコソボ・セルビア間の合意を受けて同年に実施されたコソボの統一地方選挙に紛争後初めて参加した[21]。

このコソボ・セルビア間合意により、ミトロヴィツァなど北部のセルビア人居住地域でも、セルビア共和国が管轄していた警察・司法権限がコソボ側へ移されている。EU加盟を目指すセルビア政府の外交政策が影響しているとみられるが、コソボ内のセルビア人には「見捨てられる」との懸念が強まっている[34]。

言語

コソボの公用語はアルバニア語とセルビア語で、法律は英語でも翻訳版が作られている[35]。大多数を占めるアルバニア人はアルバニア語を使い、日常生活ではアルバニア語の2大方言のうちの、地続きのアルバニア北部で使われるゲグ方言に分類される言葉を使う。
宗教

「コソボの宗教(英語版)」を参照

アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。

婚姻

婚姻の際には、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)、配偶者の姓への改姓(夫婦同姓)、複合姓より選択できる[36]。

スポーツ

詳細は「コソボのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのコソボ選手団」も参照

サッカー

詳細は「コソボのサッカー(英語版)」を参照

コソボ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1945年にサッカーリーグのライファイゼン・スーペルリーガが創設されている。コソボサッカー連盟(FFK)は、2015年と2016年にUEFAとFIFAにそれぞれ加盟を果たしている。サッカーコソボ代表は、FIFAワールドカップ予選には2018年大会・予選から参加しており、2022年大会・予選もグループ最下位で敗退し本大会への出場の夢は未だ叶っていない。

著名な出身者
詳細は「コソボ人の一覧」を参照』

アフリカ分割

アフリカ分割
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%88%86%E5%89%B2

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Nuvola apps important orange.svg

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年6月)
ほとんどまたは完全に一つの出典に頼っています。(2022年4月)
出典検索?: "アフリカ分割" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL

1913年の欧州列強によるアフリカの植民地分割状態

ベルギー

イタリア
イギリス

ポルトガル
フランス

スペイン
ドイツ

独立国

アフリカ分割(アフリカぶんかつ)とは、1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のことである。

1912年にイタリアがリビアを獲得したことによって、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された[1]。

なお、リベリアはアメリカ合衆国の保護国であったため、事実上アメリカ合衆国の植民地であった。また、エチオピアもアフリカ分割後の1936年にイタリア領東アフリカとして実質的な植民地となった。

背景

1880年から1913年の植民地分割図

ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、15世紀のポルトガル・スペインの進出以来、ムスリム(イスラム教徒)やその他の様々な現地の王国との対立抗争をはらみつつ行われてきたが、いずれもアフリカ大陸の沿岸部に限られており、しかも多くの場合、沿岸の港湾を点として支配するのみであった[2]。

支配が内陸部まで及ばなかったのは、アフリカにヨーロッパ人が求めたのは奴隷や若干の物産に過ぎず、沿岸の拠点地を通じて内陸部を支配する王国から購入すれば充分事足り、支配を広げるコストに見合う利益がアフリカには見当たらなかったためである[2]。

しかし19世紀に入ると産業革命が進み、それに伴って奴隷貿易が禁止された[3]。この結果、アフリカを奴隷や象牙などの珍品の供給地としてではなく、工業のための原料の供給地とし、さらに工業製品の市場として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換する[4]。

当時のヨーロッパの人々は、奴隷貿易の廃絶を求めるなど、アフリカの人々に人間としての権利を認めるようになっていた。しかし一方で、アフリカの人々は自分達より人種的・文明的に劣等であるという意識を強烈に持つようになっていた[2]。こうした考えを抱いたヨーロッパの人々にとって、アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(altruism)とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。

沿革

初期の進出

18世紀の末頃から、ヨーロッパはアフリカの内陸部に対する興味を深め、探検隊を派遣してこれまで「暗黒大陸」と呼ばれてきたアフリカの実像を明らかにしようとするようになった[4]。19世紀半ばにはデイヴィッド・リヴィングストン、ヘンリー・スタンリーら偉大な探検家が現われ、内陸部の探検を進める[4]。これらの探検隊は、宗教的、あるいは政治的な目的を帯びており、探検の目的は奥地へのキリスト教の布教や、奥地の首長との政治関係樹立を行っていった[5]。

また、奴隷貿易の対象ではなく宗教上のライバルであった北アフリカのイスラム諸国は、19世紀には宗主国オスマン帝国の影響力が衰え、また自立した群小政権もヨーロッパ勢力の経済的・軍事的な発展に対してほとんど為す術がないほど弱体化していた。ここに入り込もうとしたのが当時の植民地大国であるイギリスとフランスであり、両国はナポレオン戦争時代からエジプトの支配権を巡って対立関係にあった。1869年、フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成させたが、この建設はエジプト財政に対する過大な負担に跳ね返り、1875年になってスエズ運河会社の株を購入したイギリスがかわってエジプトの支配権を手に入れた。1882年、イギリスはついにエジプトを保護国化し、さらに南のスーダンへと侵攻する。

イギリスは、エジプトとは別に、1815年のウィーン議定書でオランダから手に入れたアフリカ南端のケープ植民地領を拡大し、南アフリカの内陸部に植民地を広げつつあった。イギリスはエジプトと南アフリカの南北ふたつの拠点から大陸を南北に貫くよう植民地の拡大に向かっていったので、これをアフリカ縦断政策という。

一方、フランスはモロッコを影響下におくとともに、1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とした。フランスは北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて大陸の中央部を西は大西洋から東は紅海、インド洋にいたる東西に広がった植民地の拡大を目指すアフリカ横断政策を推進した。1881年には東アフリカのアフリカの角西部にジブチ植民地を建設して大陸横断の東の終点とする。

この2政策が交錯したため、1898年に現スーダンのファショダでファショダ事件が勃発した。この事件においてフランスがイギリスに譲歩したため、大きな軋轢は生まれなかった。
新興国の進出と植民地化に対する抵抗

19世紀後半に入ると、ヨーロッパの新興工業国であるイタリア、ドイツ、ベルギーなどがアフリカへの進出を試み始め、イギリス・フランスや古くからの進出国であるポルトガル・スペインなど、列強の間で植民地の境界を巡る衝突と対立が起こった。特に、ベルギーの国王レオポルド2世が王家の私的な領地としてアフリカに植民地を持つことを目指し、探検家スタンリーを中部アフリカに派遣してコンゴ川流域の領有化をはかると、ベルギーの国内外を巻き込んだ大きな問題となった。また、西アフリカの大河川ニジェール川流域には北のサハラ側からフランス、南の大西洋側からイギリスの勢力がのび、対立が明らかとなる。

これに対しドイツのビスマルク首相はコンゴとニジェールの問題の協議をつうじてアフリカ植民地化の列強の利害を調整する会議の開催を提唱し、1884年にベルリン会議が開かれた[6]。14か国が参加したこの会議によってコンゴ川およびニジェール川の航行の自由が定められ、ベルギー王領コンゴはコンゴ自由国として形式的に独立し、ベルギー王の領有が認められる。加えて、沿岸部を新規に領有した国は、その後背地の領有を国際的に認められること、新規に領土を得た国は他の列強にその事実を通告することなどを定めた植民地化の原則が合意された[7]。

当然、これらの一連の協定はアフリカ現地の人々の意向はまったく考慮に入れないものであった。そのため、アフリカではヨーロッパ列強の支配が及んでくるのに対し、さまざまな抵抗運動が起こった[8]。すなわち、スーダンにおけるマフディー運動、西アフリカのトゥクロール帝国(1848年–1890年)および後継国家のサモリ帝国(英語版)(1878年–1898年)のジハード政権、タンザニアのマジ・マジ反乱などであるが、これらはいずれも圧倒的に進歩したヨーロッパ列強の軍事技術の前に敗れ去り、滅びた。

また、ヨーロッパが到来する以前から、アフリカ現地には様々な土着の王国が既に存在していたが、これらも同様に武力で制圧され、20世紀の初頭までに消滅したり、植民地に内包された保護領になっていった[7]。

わずかな例外は、1896年に侵攻してきたイタリア軍を撃退し、独立を保ったエチオピア帝国である[9]。

もうひとつの独立を保ったリベリアは、1847年にアメリカ合衆国から送り込まれた解放奴隷たちが立てた国で、英語を話しキリスト教を信仰するアメリカ帰りの黒人たちによる土着黒人を支配したその体制は、周辺諸国の植民地支配と実のところ大差ないものであり、しかも政治的にアメリカの強い影響下にあった[10]。

列強間の衝突と分割の完了

カイロからケープタウンまでの鉄道用電線を敷設するセシル・ローズの風刺画

ベルリン会議を成功させたドイツのビスマルクは、1885年にタンガニーカ(現在のタンザニア)にドイツ領東アフリカ植民地を建設し、カメルーン、トーゴランド、西南アフリカ(ナミビア)を次々に獲得した。さらに、縦断政策により本来この地方の領有をねらっていたイギリスと東アフリカ分割協定を結び、ケニアおよびウガンダをイギリスに譲って過度な植民地拡大による外国との衝突を避けた。

しかし列強の角逐はやまず、1898年にはマフディー戦争によってイギリスの勢力が後退したスーダンにフランスが進軍し、イギリスとフランスの間で武力衝突の危機となったファショダ事件が起こった。スーダンはイギリスの縦断政策とフランスの横断政策の交点であったためであるが、結局はフランスが先にスーダンに進出していたイギリスを尊重して譲歩し、衝突は回避された。

1904年、イギリスとフランスは最終的な妥協を行い、英仏協商を結んで同盟する。このときまでに西アフリカには広大な仏領西アフリカ植民地が形成され、アルジェリア・チュニジアと仏領コンゴ、ジブチ、そしてマダガスカルがフランス植民地として確定した。一方、イギリスはエジプト・スーダン・ケニア・ウガンダに加え、ニジェール川下流域のナイジェリアを植民地化し、さらにブーア戦争に勝利して南部アフリカに広大な植民地を獲得していた。

一方、1888年に即位したドイツのヴィルヘルム2世は、1890年にビスマルクを退けて植民地獲得に積極的に取り組み、英仏と対立した。1905年には、英仏協商によって帰属未確定のモロッコがフランスの勢力圏に定められたことに対抗し、第一次モロッコ事件を起こして圧力をかける。しかし、この問題の解決のために開かれたアルヘシラス会議ではスペインとイギリスがフランスの側につき、モロッコはフランスとスペインの勢力圏と定められた。1911年、ドイツはモロッコに軍艦を派遣し、再びフランスを牽制した(第二次モロッコ事件)が、結局フランスに譲歩せざるを得なくなり、モロッコをフランスの保護国とすることを認めた。

同じ1912年、イタリアがイタリア・トルコ戦争に勝利してオスマン帝国から北アフリカのトリポリ・キレナイカを獲得し、イタリア領リビアを成立させた。リビアとモロッコの帰属確定により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土はヨーロッパの列強によって悉く分割し尽くされ、植民地と成っていった。

1912年のアフリカの領有区分

イギリス

「イギリス帝国」も参照

イギリス領エジプト(英語版)(保護国)
イギリス・エジプト領スーダン(エジプトと共同統治。現:スーダン、南スーダン)
イギリス領東アフリカ
    イギリス領ケニア(英語版)
    イギリス領ウガンダ(英語版)
イギリス領ソマリランド(現:ソマリランド)
イギリス領西アフリカ
    イギリス領黄金海岸(現:ガーナ)
    イギリス領ガンビア(英語版)
    シエラレオネ
    イギリス領ナイジェリア(英語版)
南ローデシア(現:ジンバブエ)
北ローデシア(現:ザンビア)
ベチュアナランド(現:ボツワナ)
イギリス領南アフリカ(現:南アフリカ共和国)
ニヤサランド(現:マラウイ)
イギリス領バストランド(英語版)(現:レソト)
スワジランド (現:エスワティニ)
イギリス領モーリシャス
イギリス領セーシェル(英語版)

イタリア

イタリア領リビア
イタリア領東アフリカ
    イタリア領エリトリア
    イタリア領ソマリランド(現:ソマリア)

スペイン

プラサス・デ・ソベラニア
スペイン領モロッコ(現:モロッコの北端及び南端)
    イフニ
スペイン領サハラ(現:西サハラ)
    リオ・デ・オロ
    サギア・エル・ハムラ
    セウタおよびメリリャ
スペイン領ギニア(現:赤道ギニア)
    アンノボン島
    ビオコ島
    リオ・ムニ

ドイツ

「ドイツ植民地帝国」も参照

ドイツ領カメルーン(現:カメルーン)
ドイツ領東アフリカ
    ブルンジ
    ルワンダ
    タンガニーカ(現:タンザニア本土)
ドイツ領南西アフリカ(現:ナミビア)
ドイツ領トーゴラント(現:トーゴ、ヴォルタ州)

フランス

「フランス植民地帝国」も参照

フランス領北アフリカ
    フランス領アルジェリア
    フランス領チュニジア
    フランス領モロッコ
フランス領東アフリカ
    フランス領インド洋無人島群
    コモロ諸島
    フランス領ソマリランド(現:ジブチ)
    フランス領マダガスカル(英語版)
フランス領赤道アフリカ
    フランス領ウバンギ・シャリ(現:中央アフリカ共和国)
    ガボン
    フランス領コンゴ(現:コンゴ共和国)
    フランス領チャド
フランス領西アフリカ
    フランス領ギニア(現:ギニア)
    コートジボワール
    フランス領スーダン(現:マリ共和国)
    セネガル
    フランス領ダホメ(現:ベナン)
    モーリタニア
    ニジェール
    オートボルタ(現:ブルキナファソ)

ベルギー

ベルギー領コンゴ(現:コンゴ民主共和国)

ポルトガル

「ポルトガル海上帝国」も参照

ポルトガル領アンゴラ
    アンゴラ本土
    ポルトガル領コンゴ(現:カビンダ州)
ポルトガル領モザンビーク
ポルトガル領ギニア(現:ギニアビサウ)
ポルトガル領カーボベルデ
ポルトガル領サントメ・プリンシペ
    ウィダー(現:ベナン南部)
    サントメ島
    プリンシペ島

独立国

リベリア(事実上のアメリカ合衆国の保護国)
エチオピア(ソロモン朝。しかし、アフリカ分割後の1936年から1941年の5年間はイタリア領東アフリカとしてイタリアの統治下にあった。)』

オデッサ

オデッサ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5

 ※ 「歴史」のみを、ざっと紹介する。

『歴史

建設以前

オデッサ、およびその周辺にはキンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人が居住していた[14]。オデッサが位置する場所にはタタール人によってカチベイ(ロシア語版)という集落が形成され、15世紀にオスマン帝国によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる[7][15]。1764年にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された[7]。

露土戦争の過程で1789年にロシア帝国はハジベイを占領し、1792年に締結されたヤシ条約によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将ホセ・デ・リバス(英語版)、オランダ人技師デ・ヴォラン(英語版)らは皇帝エカチェリーナ2世にハジベイに港を建設することを進言し、1794年から港の建設が開始される[16]。1795年にハジベイは「オデッサ」に改称される[7][8]。

ロシア帝国時代

トーマス・ローレンスによるリシュリュー公爵の肖像画
1905年に撮影されたポチョムキン号

エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いたパーヴェル1世はリバスを首都ペテルブルクに召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだアレクサンドル1世はオデッサの経営に関心を示し、1803年にフランス人アルマン・エマニュエル・リシュリューをオデッサの長官に任命した[17]。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された[18]。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、1803年当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、1804年に2,340,000ルーブルだった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する[19]。1812年8月から1814年2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている[20]。1814年9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。

1819年にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年にノヴォロシア総督に就任したミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる[21]。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される[22]。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く[23]。

また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した[24]。

プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている[24]。

1853年から1856年にかけてのクリミア戦争においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った[23]。

砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する[23]。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている[23]。

19世紀末にオデッサはペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第四の都市に発展し[5]、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる[7]。

1865年に鉄道が開通し、オデッサ大学の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために1873年にドニエストル川の水を汲み上げる設備が建設され、翌1874年に大規模な下水道が完成する[25]。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる[26]。

1875年にロシア初の労働者の政治組織とされる南ロシア労働者同盟がオデッサで結成され、1900年にはロシア社会民主労働党オデッサ委員会が設立された[27]。

1905年から1907年にかけてのロシア第一革命ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きたポチョムキン号が入港する。

革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた[27]。1914年に第一次世界大戦が勃発した後、オスマン帝国によってダーダネルス海峡が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける[27]。

ソビエト連邦時代

1917年の二月革命後のオデッサには臨時政府、ソビエト権力、ラーダなどのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。

1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。

ウクライナ民族派のディレクトーリヤの支配を経て、1919年4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。

1919年8月から1920年2月まで反革命勢力のアントーン・デニーキンがオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。

二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている[28]。

1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたがボリシェヴィキ政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに1921年から1922年にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた[28]。

ソビエト連邦時代にオデッサはウクライナ・ソビエト社会主義共和国オデッサ州の州都に定められる。

第二次世界大戦期においては、1941年8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍はセヴァストポリに撤退した(オデッサの戦い (1941年))。

1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツ、ルーマニア連合軍の占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた[29]。

第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった[30]。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。

オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された[30]。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた[30]。

オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード

オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード
ソビエト連邦期に発行された「英雄都市」オデッサの切手

ルーマニア陸軍, オデッサ

ウクライナ独立後

ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる[31]。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された[31]。
2014年の親ロシア派騒乱では、オデッサでも暴力の伴う衝突が起こった。

2014年5月2日の衝突事件では親ウクライナ派と親ロシア派との間で42人の死者が出た。抗議中に4人が殺害され、火炎瓶の投げ合いによって労働組合庁舎に火がついたことで少なくとも32人の労働組合員が死亡した[32][33]。2014年の9月から12月の間に行われた調査では、オデッサ市民にロシアへの編入を支持する者はいなかった[34]。

2021年8月、旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンによる「大粛清」の犠牲者とみられる数千人の遺骨がオデッサで発見された。これらの遺骨について、国立記憶研究所の地方館長を務めるセルギー・グツァリュク(Sergiy Gutsalyuk)は、国家保安委員会(KGB)の前身かつスターリンの秘密警察として知られた内務人民委員部(NKVD)が1930年代に処刑した人々のものではないかとみている[35]。

ロシアによる侵攻が始まった2022年7月には、オデーサ(オデッサ)でロシア皇帝エカテリーナ2世の像を撤去してゲイポルノ俳優のビリー・ヘリントンの像を立てるよう要求する署名に2万5000人以上が署名した[36]。ロシアの国営テレビはこの署名運動やウクライナでの「ガチムチ」の流行を「米欧に洗脳された染まったウクライナ市民の異常な価値観」として批判している[37]。 』

〔四臣(ししん) 千里を照らさんとす…。〕

中国通史で辿る名言・故事探訪(四臣 千里を照らさんとす)
 「四臣(ししん) 千里を照らさんとす」

                     ◇ 戦国時代 ◇
https://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/blog-entry-310.html 

 ※ 「宝物(ほうもつ)」自慢の話しを聞くと、いつもこれを思い出す…。

  『四人の優れた将軍が、それぞれの所定の国境地帯で守備に就き、

 よく外敵を防いで国家の平安に寄与するとともに、また敵国に対しても

 その余影を与える事が出来たという故事。

  ※ 千里とは距離の実数ではなく、方千里の国という「国の異称」で

    ある。

 《 斉の威王と魏の惠王の国宝問答 》

   斉王と魏王が城外で相互親善の狩猟をした時のこと、魏王が斉王に

  問うた。

   「斉にはどんな宝がありますか」と。

   問いを受けて斉王は、

   「あると言えるほどの宝はありません」と。

   魏王は其の言葉を聞いて、自慢げに言った。

   「私の国は小さいとはいえ、直径が一寸ほどの宝玉があり、

  その輝きたるや車の前後 十二乗の距離を輝き照らす事が出来ます」

  と。

   だが斉王は悠然として言った。

   「私の宝は、王のものとは異なります。  

   我が臣に壇子と言う者がいますが、南の城を守らしてからというもの、

  楚は敢えて領土の泗上を侵攻しなくなり、十二諸侯まで来朝するよう

  になりました。

   肦子(はんし)と言う者に高唐を守らせたところ、

  趙の人たちは敢えて東の河を侵略しなくなりました。

   黔夫(けんぷ)と言う者に徐州を守らせたところ、

  燕は吾が北門に、趙は吾が西門に来て攻められないように祈り、

 祭礼をするようになりました。

   種首(しょうしゅ)という者を盗賊に備えさせれば、

  当に道 遺ちたるを拾わず、と言う治安状態となりました。

   この四臣、将に千里を照らさんとす、

   豈に特(ただ) 十二乗のみならんや」と。

   これを聞いた魏王は、恥じ入った態であった。

                 「十八史略 戦国・斉」』

XLDP3AZ1C3Q4.indd
(※ Z会の教材の一つらしい…。)

 ※ 「原文」を読みたくて検索したが、なかなかヒットしなかった…。

 ※ かろうじて、これくらいのものだ…。

露軍は日曜日に、兵站系幕僚の最上位者だった、ミハイル・ミジンツェフ上級大将を左遷した。

露軍は日曜日に、兵站系幕僚の最上位者だった、ミハイル・ミジンツェフ上級大将を左遷した。
https://st2019.site/?p=21102

『AFPの2023-5-1記事「Russian Army Replaces Top Logistics Commander」。

    露軍は日曜日に、兵站系幕僚の最上位者だった、ミハイル・ミジンツェフ上級大将を左遷した。

 この将軍、2022のマリウポリ市攻囲中の非人道犯罪に責任があるとも指弾されている人物である。

 後任は、アレクセイ・クヅメンコフだと発表された。

 プー之介が昨年9月に追加動員を発令したと同時にミジンツェフが国防副大臣に起用されていた。ロシアでは、国防副大臣が、全露軍の兵站を統監するのである。

 更迭の噂は先週からあった。

 ※真の責任者は、プリゴジンが非難する如く、ショイグなのだが、ショイグは責任を転嫁できる部下には事欠きはしない。

 ※Lizzie Collingham 氏著『The Taste of War』(2012ペンギン版)にこんな記述がある。

――独ソ戦初盤で動員された16歳のウクライナ兵。軍靴がなく、ボロ切れを巻いて代用する必要があった(p.320)。露軍内にはなぜかウォッカとタバコだけは常にあった。そして露軍の兵站将校は1942当時から、物資の横流しをしていた(p.321)。

がんらい、鉄道と馬車しかない輸送力に、アメリカが莫大なトラックを援助してくれたので、ソ連の車両工業は、戦車の製造だけに集中できたのである(p.336)。

アメリカからの食糧援助がなかったら、うたがいもなく、はるかに多数のソ連市民が餓死していた。

米国から送った対ソの援助品のうち、食糧は、重量比で14%もあった。

戦後、アメリカに亡命した露人旋盤工の証言。ソ連兵は末端までよく承知していましたよ。靴から軍服から罐詰から何から何まで、米国の物資が援助されたおかげで勝つことができたのだと。それなしでは勝利は無かったと。ソ連兵よりも悪い栄養で戦争したのは日本兵だけである――。

この本は再読する価値が高い。今次ウクライナ戦争に関して、いちじるしく示唆的なのだ。ヒトラーには、公刊されなかった《第二の書》があった。ドイツ語スクールのプー之介はそれを読んだのかと疑われる。』

アルナーチャル・プラデーシュ州

アルナーチャル・プラデーシュ州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B7%9E

『アルナーチャル・プラデーシュ州(アルナーチャル・プラデーシュしゅう、ヒンディー語:अरुणाचल प्रदेश 英語: Arunachal Pradesh)は、主にヒマラヤ山脈東部の中国、インドの国境紛争地帯において、インドが実効支配している領域に設置された州。

地理

ほぼ北海道の面積に等しい。南はアッサム州、東はミャンマー、北は中華人民共和国(チベット自治区)、西はブータンと接する。現在中華人民共和国政府はこの州の大半の領有を主張して蔵南地区と呼んでおり、名目上、西蔵自治区ロカ市のツォナ・ゾン(錯那県)、ルンツェ・ゾン(隆子県)、ニャンティ市のメトク・ゾン(墨脱県)、ザユル・ゾン(察隅県)などの各ゾンに分割して帰属させている。

地方行政区分

詳細は「アルナーチャル・プラデーシュ州の県(英語版)」を参照
アルナーチャル・プラデーシュ州の行政区分

アンジャウ県(英語版) (Anjaw District)
チャンラン県(英語版) (Changlang District)
東カメン県(英語版) (East Kameng)
東シアン県(英語版) (East Siang)
クルン・クマイ県(英語版) (Kurung Kumey)
ローヒト県(英語版) (Lohit District)
低ディバン谷県(英語版) (Lower Dibang Valley)
低スバンシリ県(英語版) (Lower Subansiri)
パプム・パレ県(英語版) (Papum Pare) - 州都イーターナガルの所在地
タワン県 (Tawang District)
ティラプ県(英語版) (Tirap District)
上ディバン谷県(英語版) (Upper Dibang Valley)
上スバンシリ県(英語版) (Upper Subansiri)
上シアン県(英語版) (Upper Siang)
西カメン県(英語版) (West Kameng)
西シアン県(英語版) (West Siang)

歴史

「7姉妹州」も参照

この州が位置する地方がインドの管轄下となり、中国との国境紛争地帯となった発端は、1910年代半ばに開催されたシムラ会議と、ここで提示されたシムラ協定にさかのぼる。
シムラ会議の背景とシムラ協定

1922年の国境線

辛亥革命によって同君連合としての政体で君臨していた清朝が滅亡し、その遺領の再編が問題になった際、チベットとモンゴルの民族政権は、「文殊皇帝」(=清朝の皇帝)が退陣した結果、その支配下にあった中国、チベット、モンゴルなどの諸国はそれぞれ対等、別個の国家となったという立場をとり、チベット、モンゴルの二国がそれぞれ独立国家として国際承認を受けることを目指し、国際社会への働きかけに着手した。

一方、漢人共和主義者たちは、自分たちがつくる共和国を、単に漢人の土地のみを国土とする漢人国家とはせず、清朝に臣属していた諸民族の分布領域を枠組とする中国を設定し、自身の共和政権を、その「中国」の「中央政府」と位置づける立場をとり、チベット、モンゴルの民族政権の服属を目指してそれぞれと戦火を交えた。

この紛争を調停するべく、モンゴルにはロシア、チベットにはイギリスが後ろ盾となって開催されたのが、シムラ会議(1913年-1914年)、キャフタ会議(1915年5月15日)である。

この二つの会議では、チベット、モンゴルを独立国家としては承認せず、中華民国の宗主権下で完全な内政自治を行使するにとどめること、チベットの青海、西康部分、モンゴルの内蒙古部分は中国政府の統治下におかれ、チベットとモンゴルの両民族政権はそれぞれの国土の中核部分(チベットは西蔵部分、モンゴルは外蒙古部分)だけを管轄すること、などを骨子とする協定案が、それぞれまとめられた。

1911年に辛亥革命を経て清朝の主権が弱体化したことを契機としてモンゴルで独立運動が高揚し、モンゴルのハルハ地方(外蒙古)の諸王公はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意し、1912年に新たにモンゴル国(ボグド・ハーン政権)が成立した。

1913年-1914年のシムラ会議では、ガンデンポタン(=チベット政府)が内政自治権を行使する領域の境界について合意が成らず、シムラ条約の批准(1914年)はイギリス、チベットの2者のみの参加にとどまった。

チベットと中国(北京政府)の紛争を調停したシムラ会議で、イギリスの全権をつとめたマクマホン卿は英領インドのアッサム地方とチベットとの境界をチベット側に受諾させた。これがマクマホンラインである。

以後もチベットと中国との間では、しばしば戦火を交える緊張状態が続く。

1915年のキャフタ会議では、中国(北京政府)、ロシア帝国、モンゴル国(ボグド・ハーン政権)がキャフタ協定を調印、批准して、以後この協定にもとづく安定した関係が築かれた。

マクマホンラインに対する中国の対応と中印国境紛争

マクマホンラインはチベット系住民の分布領域の境界より相当北方に位置するヒマラヤの嶺線付近に引かれた実効支配線である。

このことから、チベットを中国の一部分だと主張する中華民国の歴代政権、中華人民共和国政府ともこのラインを中国とインドとの国境として承認することを拒否、1959~1960年にかけては、インドと中華人民共和国政府の間で武力衝突が勃発するに至っている(詳細は中印国境紛争を参照)。

この紛争では、東西の紛争地帯でいずれも中国軍がインド軍を圧倒、中国は、西部紛争地域(アクサイチン地区)では自身が主張する領域に実効支配を確立する一方、東部紛争地域では、一時的には全域を確保しながら、一方的にマクマホンライン以北へ撤兵した。

アルナーチャル・プラデーシュ州の成立

インドは1954年以来、この地方を東北辺境地区(英語版)として管理してきたが、中国との武力衝突以後、この地域に対する実効支配をより強固にする政策を取ってきた。

インフラの整備につとめ、学校教育もヒンドゥー語に加えて英語も重要な科目と位置づけた。

1987年にはこの地にアルナーチャル・プラデーシュ州を設け、現在に至っている。

一方で習近平政権は中国固有の領土と主張して、蔵南地区(南チベット地区)に変えた。 』

金九

金九
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B9%9D

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 金曜日9時のテレビ放送枠については「金9」をご覧ください。
Question book-4.svg

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “金九” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年5月)
金 九
??
Kim Gu.jpg
1942年
Flag of the Provisional Government of the Republic of Korea.svg 大韓民国臨時政府
首相
任期 1926年12月8日 ? 1927年3月
Flag of the Provisional Government of the Republic of Korea.svg 大韓民国臨時政府
第6-7代大統領
任期 1927年3月 ? 1927年8月
Flag of the Provisional Government of the Republic of Korea.svg 大韓民国臨時政府
第13-15代大統領
任期 1940年3月 ? 1947年3月3日
出生 1876年8月29日(陰暦7月11日)
Flag of the king of Joseon.svg 李氏朝鮮、黄海道海州郡白雲面基洞
死去 1949年6月26日(72歳没)
Flag of South Korea (1949?1984).svg 大韓民国、ソウル特別市西大門区京校荘
政党 韓国独立党
配偶者 崔如玉、崔準礼、周愛宝(中国人妾)
宗教 性理学-天道教(東学)-基督教-天主教
金九
各種表記
ハングル: ??
漢字: 金九
発音: キム・グ
日本語読み: きん きゅう
ローマ字: Gim Gu(2000年式)
Kim Ku(MR式)
英語表記: Kim Koo
テンプレートを表示
1949年ごろ

金 九(日本語読み: きん きゅう[1]、朝鮮語読み: キム・グ、??、1876年8月29日(陰暦7月11日) – 1949年6月26日)は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。

本名は金昌洙(???、キム・チャンス)、改名して金亀のちに金九(??、キム・グ)、幼名は昌巖(??、チャンアム)、字(あざな)は蓮上(??、ヨンサン)、号は蓮下(??、ヨンハまたはヨナ)のちに白凡(??、ペクポム)、法名は円宗(??、ウォンジョン)、還俗して斗来(??、トゥレ)[2][3]。本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒でもある。

1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光(朝鮮語版)と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、南朝鮮単独選挙実施を巡って李承晩と対立し、1949年6月26日に暗殺された。

次男の金信は韓国空軍中将として参謀総長を務めた。
生涯
1876年 – 黄海道海州に産まれる。先祖は朝鮮時代早期の左議政金士衡である[4]:48。
1896年 – 鴟河浦事件。食事を注文した時に女給が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨したのが真相ともいう[5]が、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人の土田譲亮を、後の本人の言によれば、土田が朝鮮人のふりをしていたことから閔妃殺害の仲間か同類の輩と考え、日帝・日本人への懲罰として殺害したという。仁川領事館の報告書では、土田は「長崎県出身の庶民」であり、「出張中の長崎商人の従業員」と記されていたとされる。しかし、金九は自叙伝の中で、土田は刀を隠しており、日本陸軍中尉であることを示す身分証明書を持っていたと主張している。殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する[6][7]。
1899年 – 黄海道各地に学校設立運動などを行う。
1919年

3月 - 三・一独立運動が失敗に終わる。
4月 - 上海に亡命し大韓民国臨時政府の設立に参加、第3、4期臨時政府で国務領(内務大臣)を務める。なお、第1、2期臨時政府大統領は李承晩だった。

1921年 – ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示する。
1922年10月 – 上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道などと一緒に韓国労労兵会を組織する。
1922年11月 – 金九が刺客として放った呉冕稙と盧鍾均により韓国人の共産主義者・金立(朝鮮語版)が上海で狙撃殺害される。
1930年 – 韓国独立党結党。
1931年10月 – 韓人愛国団を組織する。
1932年 – 韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロを指令する。
1940年 – 重慶に脱出し、大韓民国臨時政府主席に就任、韓国光復軍を組織して?介石の中国国民党政府の元で抗日活動を行う。
1941年12月9日 – 大韓民国臨時政府主席金九と、外務部長趙素昻の署名で対日宣戦布告[8]。しかし布告文書は日本政府に通達されず連合国にも無視された。主として武装闘争・本国工作活動によって独立を目指した。
1945年

軍政庁にて。右はホッジ司令官、左は李承晩(1945年11月)
    11月 - 「臨時政府主席」の身分での帰国を要望したが、臨時政府の正統性を認められず一般人の身分で朝鮮半島南部に戻ることを選ぶ[9]。
    12月 - 信託統治反対国民総動員中央委員会を組織し、信託統治反対運動を主導する。
    12月31日 - 信託統治反対暴力デモによりアメリカ軍政庁に召喚され、同日、前日の韓民党の党首・宋鎮禹暗殺の容疑で軍司令官に再召喚される。
1946年2月8日 - 李承晩率いる独立促成中央協議会と統合し、大韓独立促成国民会を結成、副総裁に就任。
1947年12月 - 韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。
1948年
    3月8日 - 南北交渉を要請する書簡を北朝鮮に発送する[10]。
    3月12日 - 金奎植、金昌淑、趙素昻とともに南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表[11]。
1949年
    6月 - 自宅で安斗煕によって暗殺される。
    7月 - 国民葬

戦後から暗殺まで

1945年に日本が降伏(光復)した後、日本領朝鮮を占領した連合国(アメリカ・ソ連)は軍政を敷き、大韓民国臨時政府を朝鮮の正式な亡命政府として承認しなかった。11月に臨時政府代表として朝鮮半島に来た金はアメリカ政府からはオランダなどの臨時政府のように正統な臨時政府と認められず、一般人として入国するか拒否を選ぶことになり、一般の在外朝鮮人の身分で朝鮮半島に戻ることになった[9]。そのため、臨時政府最後の指導者であった金九が独立した大韓民国の初代大統領になることはなかったが、独立運動の実績からアメリカ軍軍政庁統治下の南朝鮮において有力な政治家の一人であり続けた。

冷戦激化の影響から朝鮮はソ連占領下の北朝鮮とアメリカ占領下の南朝鮮とで分裂が深まり、アメリカ政府は自国軍の軍政下にある南朝鮮だけで独立政府を樹立する方針で動き始めた。そのような中、アメリカ軍軍政庁は南朝鮮単独で国会議員の選出総選挙を準備し始めるが、金九は南朝鮮だけでの単独選挙実施に反対し、あくまで南北統一を進めるべきという立場から活動した。この活動は北側主導の統一を企図する金日成の北朝鮮人民委員会側からも歓迎されず、また反共姿勢を優先する李承晩らとの確執を深め、李承晩の最大の政敵とみなされた。突然の北朝鮮侵略で始まる朝鮮戦争まで、李承晩は韓国で最大権力と国民からの支持を謳歌していた。韓国国内で自身の主張が多数派ではないと理解した金は北朝鮮訪問までしたが、あくまで韓国を潰した形での朝鮮半島統一国家を望む金日成から自身の提案拒絶され、南北双方に拒否されたことによる失意で政治活動から引退した[12]。ところが隠居していた1949年6月、金は面会と称してソウル郊外の自宅を訪れた33歳の韓国陸軍砲兵少尉(当時)だった安斗煕(アン・ドゥフィ)に短銃で射殺された。安は極右・反共団体の西北青年会の元会員で、思想的には李承晩に近しい人物であった[13]。

安は現場で逮捕され無期懲役の判決を受けるが、1年後には特赦されて韓国軍に復帰し李承晩の庇護のもと中領(中佐)にまで昇進した。1992年、金九の暗殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったとする証言を出版したが、1996年、金九に私淑する朴琦緖によって自宅で殺害された。2001年9月には韓国で安が駐韓アメリカ軍防諜隊 (CIC) 要員であったという報道がなされた[14]。
評価
肯定的評価

抗日独立活動が長期に渡ったことや右翼でありながら反共よりも統一志向に基づく活動をつづけたことに加えて、独立後早くに暗殺されたことも関係してか、南北朝鮮・左右両翼から比較的尊敬されている人物として稀有な存在となっている。韓国のソウルには金九の業績を讃える白凡金九記念館が存在する。

盧武鉉も尊敬する人物として金九のことを毛沢東、リンカーンとともに挙げている。

1999年、自自公連立政権の自由党党首の小沢一郎が金九の墓を訪れ祈りを奉げている[15]。
否定的評価

韓国の右翼論客であり軍事評論家の予備役大佐である池萬元社会発展システム研究所長は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論している[16]。2004年7月27日、ジャーナリストの金完燮も「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論して、ソウル高等検察庁に起訴された[17]。
金九による殺人事件に関する議論
金立殺害と風評に関する疑惑

1922年初頭、上海臨時政府は「レーニンが送った独立運動の資金を流用した」と金立を糾弾した。金九の配下の呉冕稙、盧鍾均が1922年2月11日に、上海で金立を射殺した[18]。

金九は著書『白凡逸志』の中で、金立がレーニンから支給された金で、北間島にいる自分の家族のために土地を購入し、共産主義者だという韓国人、中国人、インド人にいくらかずつ支給した。そうして自分は上海に密かに潜伏して広東の女を妾にして享楽に耽っていたと主張した[18]。

韓国外国語大学の韓国史学教授である潘炳律の研究によると、金立が横領を行ったという話は事実とは言い難く、政敵の間に流布した風評だった。レーニン政府の望み通り、金立とその同志たちは三度に渡って数万ルーブルの資金を韓人社会党に苦労して運搬し、韓・中・日左派革命家たちの事業費として使うようにしたが、その資金が金九ら臨時政府の右派指導者の手に入らなかったことが禍根を残したという[18]。

ノルウェーのオスロ大学韓国学教授である朴露子は、これに対して「同族テロ」と批判した[18]。朴によると、この暗殺を“正当な報復”として主張した『白凡逸志』の権威が絶対的であったために、これまで金立が相応の対価を受けたという通説が疑われた事はほとんどなかったという[18]。金九の著述の中で金立が享楽に耽ったという根拠も示されておらず、これらも風評ではないかという反論がある。
日本人殺害事件(鵄河浦事件)に関する疑惑
詳細は「鴟河浦事件」を参照

金九は著書『白凡逸志』の中で、土田讓亮を日本軍の士官と記述したが、土田は民間人ではないかという疑惑が提起され続けてきた。当時の日本や朝鮮の記録でも土田讓亮が軍人であるとは示されていない。

2003年11月末に金完燮は、ソウル市汝矣島の国会議事堂を訪問し、国会過去真相究明特別委員会の公聴会で「金九先生は閔妃の敵を討つために罪のない日本人を殺害した後、中国に逃走した朝鮮王朝の忠犬」という内容の文書を配布した[19]。文書を受け取った一部の国会議員と市民は、その場で彼に非難を浴びせ、検察に行って金完燮を告訴した。

2004年7月に検察は控訴状で「金九先生が1896年10月に黄海道安岳郡鵄河浦港で殺害した“土田”は、当時、朝鮮人に偽装した日本軍であるという事実が明らかになり、金九先生が土田を処断した後に逮捕され死刑判決まで受け、1919年に中国に亡命した件を、まるで逃走したかのように(金完燮は)虚偽をでっち上げた」と述べた[19]。金完燮はソウル高等検察庁から在宅起訴処分を受けた。ソウル高等検察庁の鄭現太検事は、7月27日に白凡・金九先生の名誉を毀損した疑い(死者名誉毀損)で小説『親日派のための弁明』の作家・金完燮を在宅起訴したと発表した[19]。また、ソウル高検は「金九が罪のない日本人を殺害した」と主張した文書を配布したとして、金完燮を虚偽事実流布罪による名誉毀損で職権起訴している。鄭現太検事は、金完燮の起訴は国史編纂委員会と国家報勲処資料を綿密に検討してから下した決定だったと話している[20]。

1997年、昌原大学史学科教授である都珍淳は、日本外務省の資料から、土田讓亮は鷄林奨業団所属の商人だったと主張した[21]。しかし、土田が鷄林奨業団所属であったという直接的な証拠がない上に、鷄林奨業団が土田が殺害された1896年5月に組織された事から時系列的に辻褄が合わず、商人説は根拠に乏しかった。都珍淳も後に自ら主張を撤回している。

韓国の記者であり元国会議員である孫世一は、著書『李承晩と金九 新版』の中で、土田という名の日本人は対馬出身の民間人に過ぎなかったという意見を表明した。
その他

金九は金性洙の暗殺を計画して失敗しており、この件を米軍諜報機関に入手された[22]。
肖像
紙幣

韓国銀行は2007年12月に2009年から流通を開始する100,000ウォン紙幣(最高額面)に、表に金九の肖像と1945年11月3日に大韓民国臨時政府の要人らと中華民国の重慶で撮影した記念写真など配したデザインを採用すると発表[23]した。ただし2009年1月に発行計画は中止された。これは従来よりも10倍の高額紙幣を発行することに批判があったこともあるが、デザインにあった大東輿地図の木版にはない竹島(韓国名・独島)を竹島が入っている筆写版と掛接ぎて入れていたこと、何よりも金九が南北統一政府の樹立を主張していたことから、保守系の李明博現政権が問題視し、見送られたとの指摘もある[24]。
切手

韓国の普通切手のデザインとして1986年に450ウォン切手、1988年に550ウォン切手に肖像が登場しているほか、2001年発行の千年紀シリーズ第10集にて独立運動指導者として登場した。また、1993年には北朝鮮からも「祖国統一賞受賞者」の6種の記念切手に金九の肖像が登場している。
著書
『白凡逸志』(梶村秀樹訳、平凡社、

1973年。ISBN 4256802347)
『屠倭實記』(日本政府と朝鮮総督府の高官テロ報告書、1932年 上海刊)』