范蠡(はんれい)

范蠡(はんれい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E8%A0%A1

 ※ まず、読めんかったし(人名だ…)、知らんかった…。

 ※ 兵頭大先生のご高説(「哲学者ではないシナ人の理想の人生は「范蠡」である。これは政治家、軍人、商売人を問わない。」)なんで、調べた…。

 ※『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』の人だった…。

 ※ この故事自体は、あまりに有名…。

『范 蠡(はん れい、生没年不詳)は、中国春秋時代の越の政治家・軍人である。氏は范、諱は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている。』

『略歴

越の謀臣

范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常(勾践の父)に仕えるようになったのか、彼の経歴による明確な確証がない。

隣国の呉王闔閭は伍子胥・孫武らの補佐を受けて強勢を誇っていた。越王允常は范蠡の補佐で国力を伸ばしていた。

しかし紀元前496年に允常が逝去し、太子の勾践が父の後を継いだ。允常の訃報を聞いて喪中に服している越に対して、闔閭は出る杭を先んじて叩いてしまおうと判断し、欈李の戦いを起こして攻め込んできた。

しかし、欈李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で、范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)を集めて敵の目の前まで行かせてそこで自ら首をはねさせるという物で、呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を撃破した。越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因で闔閭は陣没し、太子の夫差が立った。

夫差は伍子胥の補佐を受け、越への復讐(臥薪)を狙い、それを知った勾践は今のうちにと呉を叩こうと出兵しようとしたが、范蠡はこれを諌めた。

しかし勾践は聞き入れずに出兵し、大敗してしまった。勾践は夫差に対し平身低頭で命乞いをし、更に家臣の中の文種は夫差の側近伯嚭(嚭は喜否)に賄賂を贈って夫差に勾践を助けるように吹き込んだ。

この時に伍子胥は勾践を殺す事を強弁したが、夫差はこれを取り上げず、勾践を解放し夫差の馬役人にさせた(嘗胆)。

呉を滅ぼす

国に戻った勾践は国政を范蠡に任せようとするが、范蠡は「軍事なら種(文種)は臣に及びませんが、政治にかけては臣は種に及びません」と応え、文種を推薦した。

勾践は范蠡・文種の補佐を受け、復讐を狙っていたが、表面的には夫差に対し従順な姿勢を見せて、夫差を油断させた。

更に范蠡は伯嚭に賄賂を送り、伍子胥の悪口を夫差に吹き込ませて離間を狙った。

思惑通り、伍子胥は夫差に誅殺され、夫差を諌める者はいなくなった。夫差は調子に乗って北へ出兵して天下の事を争おうとし、越の事など気に止めなくなった。

夫差は呉軍の大半を率いて北の会盟に出かけて、国許を守るのは太子・友とごく僅かの兵になった。

勾践はその隙を衝こうとして、范蠡に訊ねた。范蠡は 「よいでしょう」 とこたえた。そこで越は大軍を発し、一気に呉を襲い、太子を殺して呉を占領した。

夫差は慌てて引き返してきた。勾践は、 「まだ呉の全土を占領するには力が不足している」と判断し、一旦和睦した。

その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰めた。夫差は降伏して命乞いしたが、范蠡は後顧の憂いを断つべく殺すよう進言した。勾践は殺すことはためらい、舟山群島に島流しにしようとしたが、その命令を受けた夫差は自殺した。

引退

悲願が達成されて有頂天になる勾践を見て、范蠡は密かに越を脱出した。

范蠡は文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています[1]。

越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた。

そこで文種は災いを避けるため病と称して出仕しなくなったが、文種に謀反の疑いありと讒言する者が現われた。勾践は文種に剣を贈り、「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。私のために先生は亡くなった父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した。

伝説

范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。

越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。

范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。

斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(現在の山東省菏沢市定陶区)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。

浙江省紹興市諸曁市内に陶朱山がある。

評価

范蠡の見事な活躍と出処進退は後世の憧れとなり、好敵手の伍子胥と共に長く語り継がれている。

范蠡は日本でも名臣として有名である。『太平記』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、後醍醐天皇の臣児島高徳が「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という句を贈ったという話がある。後醍醐天皇を勾践にたとえ、名臣が出現しないわけではないのだから諦めないようにと励ましたのである。この逸話は「児島高徳」という文部省唱歌に詠み込まれ歌われた。

范蠡を題材とした作品
小説
『越女剣』(金庸)
テレビドラマ
燃ゆる呉越(中国語版)(2006年、演:リー・クワンジェ)
争覇-越王に仕えた男-(中国語版)(2006年、主演:チェン・クン)
復讐の春秋 -臥薪嘗胆-(2007年、演:ジア・イーピン)
孫子兵法(2008年、演:張暁瀟)
三国争乱 春秋炎城(2008年、演:劉長純)
女たちの孫子英雄伝(中国語版)(2012年、演:ケン・チュウ)
脚注
^ 前漢設立の功労者である韓信が失脚した際、皇帝である劉邦に対しこの手紙の語句をそのまま引用して伝えたとされている。
関連項目
范蠡公園
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カテゴリ: 兵家の人物春秋戦国時代の人物中国の亡命者生没年不詳 』

〔ハンガリー、関連〕

ハンガリー(Hungary)
基礎データ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hungary/data.html

『一般事情

1 面積
約9.3万平方キロメートル(日本の約4分の1)

2 人口
約970万人(2020年、中央統計局)

3 首都
ブダペスト

4 民族
ハンガリー人(86%)、ロマ人(3.2%)、ドイツ人(1.9%)等(2011年国勢調査)

5 言語
ハンガリー語

6 宗教
カトリック約39%、カルヴァン派約12%』

『8 略史

年月 略史

紀元前1世紀より ローマ領パンノニア州

紀元4世紀 フン族が侵入し、ローマ人を駆逐

896年 ハンガリー民族定住

1000年 ハンガリー王国建国

1241~1242年 蒙古軍の襲来

1526~1699年 オスマン・トルコによる占領

1699~1918年 ハプスブルグ家統治

1867年 オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立

1920~1944年 ホルティ摂政によるハンガリー王国

1920年 トリアノン条約(領土の3分の2を割譲)

1941~1945年 第2次世界大戦(枢軸国)

1946年2月 ハンガリー共和国の成立

1949年8月 ハンガリー人民共和国の成立

1956年10月 ハンガリー革命(ソ連軍の侵攻)

1989年10月 民主制の共和国へと体制転換

1999年3月 NATO加盟

2004年5月 EU加盟

2007年12月 シェンゲン協定加盟

2012年1月 基本法(新憲法)施行(国名を「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」に変更)』

ワインソムリエ・エキスパート
独学応援ブログ
https://winedokugaku.com/easteuropa/hungary-wine/

※ 地形図…。平地が多い…。

※ 水系も豊富だ…。むしろ、これだと湿地という感じなのか…。

※ 気候区分は、確か「大陸性気候」だったハズ…。

※ 東京と比較した、雨温図を貼っておく…。やや、冷涼だが、暑さ寒さは、そう厳しいというほどじゃないな…。

※ ワインの産地的には、上記のように分かれるらしい…。

※ ビザンツ帝国とフランク王国(西ヨーロッパの代表)の境界上に位置し、ビザンツ帝国が滅んだ後は、オスマン帝国(イスラム勢力)に対する防波堤の役割を果たした…、と言った感じか…。

〔ホラーサーン〕

ホラーサーン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3

『ホラーサーン(ペルシア語: خراسان‎、英: Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィー・ホラーサーン州の州都となっている。』

『歴史
詳細は「en:Greater Khorasan」を参照

中世では、ホラーサーンとは、中世イラン語で (khor+ ayan)「(イランから見て)陽の登るところ」を意味し、アムダリヤ川以南、ヒンドゥークシュ山脈以北の東イラン、北西アフガニスタン、南トルクメニスタンを含む地域に対する呼び名であった。だいたいにおいて、アトラク川、ムールガーブ川、ハリー・ルード川などの流域の肥沃なオアシス地帯を指した。ニーシャプール、メルブ、ヘラート、バルフの4つに区分され、この4つが主要な都市であった。

ホラーサーンは、古来より、北方遊牧民族が中央アジアから南下して、イラン、インドに入る通り道にあたっていた。そのため、現イランの領域を含め、この地域を領有する王朝にとっては、重要な防衛ラインであって、歴代の皇太子が太守に任ぜられるのがならわしになっているほどであった。また、地政学的に東西交通の主要幹線が貫く地域であって、「シルクロード」のイラン地方を通過する部分は「ホラーサーン街道」と呼ばれた。

サーサーン朝がイスラム帝国に滅ぼされると(651年)、ホラーサーンは急速にイスラム化し、この地域を治める総督府は、メルブ(のちにニーシャプール)に置かれた。ウマイヤ朝を覆してアッバース朝を建てさせた原動力はこの地域の人々だったと言われる。

9世紀以降、イラン系のターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝、ゴール朝[1]、テュルク系のガズニ朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝が興亡を繰り返した。

この間、ホラーサーンは、ペルシア文学復興の中心となり、諸都市は繁栄を極めた。

1220~22年にモンゴルによって蹂躙されると、メルブやバルフが再び復興しなかったほどの壊滅的な打撃を受けた。

一方、モンゴルの四ハン国のひとつ、イルハン朝で財政をつかさどったのは、経済について敏感なこの地方出身の貴族たちであった。

14世紀後半になると、ティムール帝国の支配下に置かれ、ヘラートは、ティムールの子、シャー・ルフの首都となり、15世紀には、イスラムの学術・文化の一大中心地となった。
16世紀、サファヴィー朝が、アムダリヤ川をウズベク族の南侵に対する防衛線とし、ホラーサーンを確保して、マシュハドをシーア派の聖地とした。 』

カブール爆弾テロの背後と名指しされる「イスラム国ホラサン州」とはどんな組織か?
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/0827/10312722.html

『アフガニスタンからの脱出が続くカブール国際空港付近で26日(現地時間)、心配されていたテロ攻撃が起こった。米国高官は背後に「イスラム国家ホラサン州」(IS-K)がいるとの見通しを示した。

 IS-Kは、イスラム教スンニ派極端主義武装団体「イスラム国家(IS)」のアフガン支部組織にあたる。「ISIS-K」、「ISIL-KP」などと呼ばれることもある。ホラサン(Khorasan)は、イラン東部・中央アジア・アフガン・パキスタンを含む旧地名でもある。

 ISはシリアとイラク領土の相当部分を掌握した 米軍と国際同盟軍に押され、勢力が大きく弱体化した。その後、ISは他国へ進出したが、アフガンで2015年1月にIS-Kという組織をつくり、テロを繰り返してきた。

 IS-Kは2019年8月、カブール西部の結婚式場で自爆テロを敢行し、63人の命を奪った。昨年11月には、カブール大学でも銃撃テロを主導し、20人余りを死亡させた。

 同組織はタリバンと同じくスンニ派武装組織だが、タリバンが米軍と平和協定を締結したことに批判的な意見を示してきた。また、シーア派の対応で意見の食い違いを見せ、対立も増えていた。

 彼らはタリバンがカブールを占領した際、アルカイダがお祝いのメッセージを送ったのとは対照的に、「米国と取引して、ジハード武装勢力を裏切った」とタリバンを非難していた。

 IS-Kの現在の組織員規模につては、正確に知られていない。先月、国連安全保障理事会の報告書では、同組織の規模を「500人から数千人」と推定した。ロシアの駐アフガニスタン大使ドミトリー・ジルノフ氏はSNSを通じ、「アフガンには4000人のISテロ犯が活動中」と明らかにした。

2021/08/27 06:42配信 Copyright(C) herald wowkorea.jp 104 』

〔楚漢戦争〕

楚漢戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%BC%A2%E6%88%A6%E4%BA%89

『楚漢戦争(そかんせんそう)は、中国で紀元前206年から紀元前202年にわたり、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた戦争。「楚漢争覇」「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれる。』

『戦争前の経緯

秦滅亡後、項羽は根拠地である彭城(現在の江蘇省徐州市)に戻り、自ら西楚の覇王を名乗った。圧倒的な軍事力を背景に政治上の主導権を握った項羽は、紀元前、諸侯を対象に大規模な封建を行う。主なものは以下の通りである。

漢中 – 劉邦

旧秦の領地である関中は、本来ならば一番乗りを果たした劉邦に与えられる約束となっていたが、項羽はこれを反故にして、当時は辺境の地であった漢中に劉邦を追いやった。

趙 – 張耳
代 – 趙歇

趙王であった趙歇を趙の北辺の代に国替えし、項羽に付いて関中にまで従軍した趙の宰相の張耳を常山王として、趙の旧領を与えた。陳余は項羽とともに従軍しなかったため、南皮を与えられたに過ぎなかった。

九江 – 英布
衡山 – 呉芮
臨江 – 共敖

英布は楚軍の将軍として多大な功績を挙げたので、九江王として六(現在の安徽省六安市)に都させた。また、英布の舅で元県令の呉芮を衡山王、部下の共敖を臨江王として呉楚を治めさせた。

遼東 – 韓広
燕 – 臧荼

元の燕王の韓広を遼東に移し、項羽に協力した燕の将軍臧荼を燕王にした。

膠東 – 田巿
斉 – 田都
済北 – 田安

元の斉王の田巿を移して膠東王にして、項羽に協力した斉の将軍田都を斉王にした。そして項羽と親しい斉の王族の田安を済北王として、斉を三分した。また、田巿の擁立者であり、斉の実質的な支配者であった田栄は項羽に協力しなかったので、何も与えられなかった。

西魏 – 魏豹
河南 – 申陽
殷 – 司馬卬

かつて魏の公子の魏咎の弟(従弟とも)で、項梁(項羽の叔父)を頼った魏豹に魏を分割して西部を与えて西魏王に封じ、武臣・張耳の将で魏の東部に趙の将軍の申陽をおいて河南王とした。また、殷の故地にやはり趙の将軍である司馬卬を封じて殷王とした。

韓 – 鄭昌

韓王成が劉邦と親密だったことから、項羽は彼を抑留し、自分の部下の鄭昌を立てて韓王とした。

このように項羽の封建の基準となったものは、その時の功績ではなく、あくまでも項羽との関係が良好か否かであった。故にその結果はかなり不公平なものとなり、諸侯に大きな不満を抱かせるものとなった。

さらに項羽は、それまで奉じていた楚の懐王に義帝という称号を与えて辺境の郴へ流した上で、九江王の英布に命じて殺害させた。また、韓王成が領国である韓へ帰ることを許さず、その後范増に命じて殺害させた。このため、韓王成に仕えていた張良を劉邦の下へと走らせることになった。』

『楚漢戦争勃発

紀元前206年、まず田栄が田都を殺して自ら斉王になった。そして、のちに劉邦に付いて活躍した彭越を将軍として軍を派遣し、済陰を攻撃させた。

かつて張耳の同志であった陳余は、秦によって趙が攻められて張耳が籠城したときに救援しなかったことで仲違いしており、項羽から何も与えられなかったことを不満に思っていた。そこで陳余は張耳を攻めて趙を占領し、元の趙王である趙歇を迎えて趙王にした。この功績で陳余は趙歇より代王とされた。敗れた張耳は逃れて劉邦の下へ奔った。

そして紀元前205年、項羽の最大の敵である劉邦が漢中より出て、関中を陥れた。

項羽は大いに怒ったものの、まずどれを討つべきかを迷った。しかし劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず斉を討つことに決めた。田栄は抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡したところを農民によって殺された。しかし項羽はこれで満足せず、斉の城を次々と落とし、捕虜を穴埋めにし、各地を焼いて回った。このため斉の民衆は怒って項羽に反抗し、さらに田栄の弟の田横が斉の残兵を集めて抵抗したので、平定することが出来なかった。

項羽が斉で苦戦していることを見た劉邦は、諸侯との連合軍56万人を率いて項羽の本拠の彭城を陥落させた。このことで劉邦と諸侯軍は増長して軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴する、という状態になった。このことを聞いた項羽は激怒し、自らが選んだ精兵3万のみを引き連れて彭城へと戻り、油断していた劉邦たちを散々に打ち破った(彭城の戦い)。

紀元前204年、劉邦は何とか逃げ出して滎陽(現在の河南省滎陽市)にて篭城し、項羽軍もこれを追撃して滎陽に至った(滎陽の戦い)。その間に、斉では田横が田栄の子である田広を立てて斉王とし、斉一帯を制圧した。

劉邦は追い詰められたが、陳平や紀信の策を用いて脱出し、関中に戻ると蕭何の用意した兵士や物資で体勢を立て直した。この時に英布を自らの陣営に取り込むことにも成功している。

韓信の躍進

同じ頃、劉邦の将軍である韓信は、劉邦から離反した西魏を攻め、これを下して王の魏豹を廃して庶人とした。次に劉邦の命により代を下し、さらに趙へと攻め込んだ。この時の韓信の兵力はわずか2万であったが、独創的な戦術(背水の陣)で20万と号した趙軍を半日で打ち破って趙を占領、趙王歇と代王陳余を処刑して、張耳を趙王とした(井陘の戦い)。その後、趙の降将である李左車の策を容れて、燕王臧荼を降伏させることにも成功する。

紀元前203年、劉邦は韓信に対して斉を討つように命令した。ところがその後で、劉邦は儒者の酈食其を派遣して斉との和平交渉を行わせ、斉もこれに応じた。韓信は斉との国境付近まで来てこれを知ったが、謀士の蒯通に「これでは弁士の功績が将軍の功績を上回ってしまうことになる」と唆されて斉へ攻め込み、これを占領した。酈食其は怒った斉王田広と宰相田横により、釜茹でにされた。

逃れた田広たちは楚に救援を求め、楚は将軍龍且を派遣するが、韓信はこれをも破った(濰水の戦い)。これらの功績により韓信の名声は非常に高まり、韓信は劉邦に自らを斉王にするように要請して、これを認められた。ここに至り、韓信は劉邦の将軍というよりも一つの独立勢力としての立場を築くことになった。項羽もこれを恐れるようになり、武渉という者を派遣して韓信を自分の方へと引き込もうとしたが、韓信はかつて項羽軍にいた時に冷遇されていたことを覚えていたのでこれを断る。

蒯通は韓信に対し、自立して天下を三分するべきだと説いたが、韓信は悩んだ末に劉邦への恩義を選び、蒯通は後難を恐れ、発狂した振りをして逃げ出した。

楚の敗北

関中から出撃した劉邦は、彭越たちに命じて項羽の後方を撹乱させ、これに乗った項羽は彭越の方へと軍を向けた。この隙に劉邦は秦の食料集積地であった敖倉の食料を手に入れ、滎陽の北の広武山に陣した。彭越たちを追い散らした項羽は、戻ってきてその向かい側の山に対陣した。

彭越たちは項羽軍の後方撹乱を続けたので、項羽は食糧不足に悩んだ。漢軍では途中で劉邦が負傷したこともあって、両軍共に和睦を望むようになり、劉邦軍の弁士の侯公が使者となって和睦し、天下を二分することを取り決めて両軍が引き上げることになった。

劉邦はそのまま引き上げる気でいたが、張良と陳平は、楚軍が本拠に帰って英気を養った後では漢軍は到底敵わなくなるだろうと考え、劉邦に楚軍の背後を襲うべきだと進言した。

劉邦はこれに従って楚軍を後ろから襲ったが、敗北した。これに先立って韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送ったが、2人は来なかった。劉邦がこれに対する恩賞を何も約束しなかったからである。張良にこれを指摘された劉邦は、韓信を斉王とし、彭越を梁王とする約束をした。果たして2人は軍を率いて加勢し、兵力で圧倒した漢軍は楚軍を垓下へと追い詰める(垓下の戦い)。

楚軍を包囲した漢軍から楚の歌が聞こえ(四面楚歌)、楚軍のほとんどが降伏したと考えた項羽は勝利を諦め、残った800騎を率いて脱出し、南下した。途中湿地帯に迷い込むなどした項羽たちは数千騎の漢軍に追いつかれ、ついに意を決して戦いを挑んだ。28に減った騎兵を4隊に分けた項羽は漢軍に切り込み、大将1人を切り伏せると、山の東側に部下を集結させ、再び切り込んで100人もの兵を斬った。この間、項羽が失ったのは2騎のみであった。

逃げた項羽は烏江(現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)へ到った。河の渡し場では烏江の亭長が船を準備しており、項羽に江東へ逃げるよう献言した。しかし、項羽はそれを断って愛馬を亭長に与え、生き残った26の歩兵を率いて漢軍を迎え撃った。項羽は満身創痍となりながらも1人で数百の漢兵を斬った。項羽は旧知の呂馬童を敵軍の中に見つけ、「漢王はわたしに莫大な賞金をかけ、万戸侯を約束しているというではないか。お前は旧知の仲だ。ひとつ、手柄をやろう」と言い、みずからの首を切った。王翳が駆け寄って首を拾ったが、周囲の漢兵たちも群がり、互いに斬りあって項羽の死体を奪いあった。数十人の死者を出した結果、呂馬童・王翳・楊喜・呂勝・楊武の5人が項羽の首と両手足を分けあい、褒賞を5分して受けた。

項羽の敗北が決定的となっても魯のみは降らずにいたが、項羽の首を見ると降った。劉邦は項羽を魯公として葬り、喪に服し、墓前に涙をそそいだ。また、項伯ら残った項羽一族を誅殺することはせず、「劉」の姓を与えて家を存続させた。さらに項羽の右腕として劉邦を苦しめた季布や陳嬰も、諌められてこれを登用した。しかし同じく項羽の右腕として劉邦を苦しめた鍾離眜は韓信が匿っていたが、韓信に謀反の疑いがかけられたときに自決させられた。

関連作品

映画

項羽と劉邦/その愛と興亡 (1994年 中国・香港)
項羽と劉邦/White Vengeance (2011年 中国)
項羽と劉邦 鴻門の会 (2012年 中国)

テレビドラマ

項羽と劉邦・背水の陣 (1991年 中国)
劉邦と項羽 (1997年 中国)
大漢風 〜項羽と劉邦〜 (2004年 中国)
項羽と劉邦 (2004年 香港)
THE MYTH/神話 (2009年 中国)
項羽と劉邦 King’s War (2012年 中国)

小説

項羽と劉邦(司馬遼太郎)※ これは、読んだ…。
項羽と劉邦(童門冬二)
漢楚軍談(田岡典夫)
四面楚歌―漢楚戦記(小島真爾)

戯曲

項羽と劉邦(長與善郎)

漫画

項羽と劉邦(横山光輝)
史記(横山光輝)
赤龍王(本宮ひろ志)
レッドドラゴン(池野雅博)
龍帥の翼 史記・留侯世家異伝(川原正敏)

ゲーム

項劉記(コーエー)
シャンチー・チャンギ – チャトランガ系統のボードゲーム。盤面や駒に「楚」「漢」と書かれている。 』

2020-09-28
楚漢戦争㉓ 雌雄決す ── 垓下の戦い
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/sokan-gaika

〔垓下の戦い〕

垓下の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

『垓下の戦い(がいかのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県)を中心に行われた戦い。この戦いで項羽が死んだことによって劉邦の勝利が完全に決定し、楚漢戦争が終結した。

目次
1 垓下の戦いまでの流れ
2 四面楚歌
3 関連
4 異説
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目

垓下の戦いまでの流れ

紀元前203年、広武山で長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の負傷や劉邦の父の劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどの理由があり、両軍とも戦いを止めることを願うようになった。漢軍から弁士の侯公[1]が楚軍へ使者として送られ、天下を二分することで盟約が結ばれた。

楚軍は本拠地の彭城(現在の江蘇省徐州市)への帰還を始めたが、劉邦は張良・陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。

漢軍は楚軍を追って固陵(現在の河南省周口市淮陽区の北西)という所まで進み、同時に韓信と彭越にそれぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現在の河南省周口市太康県)に兵を進めた。しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。

張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては睢陽より北の穀城に至るまでの土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚の大司馬周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と洨城(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)付近の垓下の劉邦の下に集結した。

四面楚歌
漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔藂と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。

韓信は自ら先頭に立ち項羽ら楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。しかし、孔藂と陳賀が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び楚軍を攻撃すると、楚軍は大敗した。

敗れた楚軍は防塁に籠り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から、敵や反対する者に囲まれて孤立することを四面楚歌(しめんそか)と言うようになった[2]。

形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩に読んだ(垓下の歌)。

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。

宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城(現在の安徽省滁州市定遠県の南東)に辿りついたときには項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。

ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここで私が滅びるのは天が私を滅ぼそうとするからで、私が弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう」と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八・九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。

項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません」と告げた。

しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び私を王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか」と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いを起こしたほどであった。結局遺体は5つに分かれ、呂馬童を含む5名それぞれに5等分された領地が渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。

項羽の死によって約5年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くのである。

関連

杜牧は「題烏江亭」(烏江亭に題す)を詠んで、江東で再起すれば劉邦に勝てたかもしれないと項羽の短慮を嘆いた(この詩が捲土重来の語源となった)。これに対して王安石は「和題烏江亭」(烏江亭に題すに和す)を詠んで、たとえ江東に渡ったとしても再び勝てただろうか?と疑問を呈している。

異説

日本の歴史学者の佐竹靖彦によると、この戦いの存在自体が疑わしいとされている[3]。

脚注

^ 始皇帝に仕えた方士とは同姓同名の人物。
^ この言葉自体は、寝返った味方を含めた敵軍に囲まれているという複雑な状況に基づいているが、慣用句として用いる場合はそこまでの類似性は求めない。ただ「楚歌」の「楚」は敵国ではなく自国であることは留意が必要である。
^ 佐竹靖彦は著書『劉備』第二十章において、陳において最後の戦いが行われたとしている。

参考文献
佐竹靖彦、『劉邦』、中央公論新社、2005.5
佐竹靖彦、『項羽』、中央公論新社、2010.7
関連項目
ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。
四面楚歌

楚漢戦争』

〔垓下歌〕

垓下の歌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C

垓下歌
秦末漢初 項羽
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/gaixiage.htm

力拔山兮氣蓋世,
時不利兮騅不逝。
騅不逝兮可奈何,
虞兮虞兮柰若何。

力は 山を拔き  氣は 世を蓋(おほ)ふ
時 利あらず  騅(すゐ) 逝かず
騅(すゐ)の 逝(ゆ)かざるを  奈何(いか)にすべき
虞(ぐ)や虞(ぐ)や  若(なんぢ)を 柰何(いかん)せん。

『◎ 私感訳註

※垓下歌:楚の項羽と漢の劉邦が天下を争い、やがて垓下で項羽軍は敗れようとするが、その最終段階で、項羽が滅亡を悟った時に歌ったのものとされ、『史記・項羽本紀』や『古詩源』に遺されている。烏江で項羽が亡ぶ前日、四面に楚歌の声が響き渡った時、項羽と虞姫が別杯を交わしたときの情景を歌ったものである。

以下にそのくだりを『史記(中華書局版・金陵局本)・項羽本紀』より次に示す。

「項王(項羽)軍壁垓下,兵少食盡,漢(劉邦)軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚※1歌,項王乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也!」項王則夜起,飮帳中。有美人名虞,常幸從;駿馬名騅,常騎之。於是項王乃悲歌慨,自爲詩曰:「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可何,虞兮虞兮奈若何!」歌數,美人和之,。項王泣數行下,左右皆泣,莫能仰視。」 (※1:蛇足:楚は、項籍(字は羽)の本国。ここから「四面楚歌」の言葉が生まれた)。なお、虞美人がこの詩に答えた「漢兵已略地,四方楚歌聲。大王意氣盡,賤妾何聊生。」も(『史記』の古註に出ている唐・張守節の『史記正義』に)あり、勝者の漢の高祖・劉邦の『大風歌』「大風起兮雲飛揚。威加海内兮歸故鄕。安得猛士兮守四方。」よく戦乱の世を生き抜いた気概を表している。なお、これよりもやや早いものに、『古詩源』に採録された『獲麟歌』「唐虞世兮麟鳳逝。今非其時來何求。麟兮麟兮我心憂。」がある。

※項羽:秦末の武将。後の西楚の覇王。劉邦と天下の覇を争い、垓下で敗れ去る。前232年~前202年。名は籍。羽は字になる。項羽は、叔父の項梁とともに挙兵し、漢王劉邦と呼応して秦を滅ぼし、西楚の覇王となる。後、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下の戦いで大敗、烏江で自殺。二千年前、楚の項羽と漢の劉邦が天下を争い、垓下で項羽軍は敗れた。

※力拔山兮氣蓋世:(その)勢威は山をも(改造して)引き抜き、気概は広く天下を掩っていた。 

・力拔山:覇王・項羽の勢威が巨大な様をいう。政治力で自然を改造することができることをいう。天を支え河を治める古代神話の神聖から始まって、旧山河を改造して青山緑水を築きあげるのは悲願でもある。「山を抜く」いうイメージは、日本の山からは、分かりにくいが、右の写真や上の絵のような山を指していう。

 ・兮:〔けい;xi1○〕歌う時に語調を調え、リズムを取る辞。字数を揃えるための意味の無い字ではない。古来、日本の漢文(漢学)でも、中国の古代漢語でもいわれるが、詩では、重要な意味を持つ。特に古代では、『詩経』『楚辞』などで、これでリズムを取る兮字脚となる。ただし、近代の一部の作では、気が横溢したあまりに、(俳句でいう)字足らずとなり、そこを補っているようなものも見受けるが…。 

・氣蓋世:気概が天下をおおいつくしている。ここは、前半の「力抜山(兮)」と後世で謂う句中の対になっている。項羽の勢威が偉大な様をいう。

※時不利兮騅不逝:時節、時運は(わたしに)利していなくて、(愛馬)騅(すゐ)は進もうとしない。 

・時不利:時節は(わたしに)利していない。兵員・武器も食糧も尽き、漢軍四面皆楚歌という具合に全ての運が尽きようとしている。ここもやはり、句中の対で、「騅不逝」と揃いになっている。 

・時:時節。時運。名詞として読んでいる。副詞としても充分に考えられる。その場合は「時に」と読む。 

・騅:〔すゐ;zhui1○〕項羽の愛馬の名。項羽がいつも乗っていた。あしげ。青白色の混じった馬。 

・騅不逝:愛馬は進まない。史記の表記から見ると、別に馬が前進するのを拒んだ訳ではない。ここは、項羽が自分の心情を馬に託して述べている。馬を進められない、ということになる。

(※ ここは、知らんかった…。ずっと、愛馬「騅」が、動かなくなった…、と解釈していた…。)

・逝:〔せい;shi4●〕往く。ずっとゆき去る。

※騅不逝兮可奈何:(愛馬)騅(すゐ)が進もうとしないのを、本当にどのようにすべきなのか、どうしようもない。 

・可:ほんとうに。…べし。…べき(か)。 

・奈何:どのようにしようか。どうしようか。いかにすべきか。どうすることもできない。いかんせん。

※虞兮虞兮奈若何:虞(美人)よ、虞(美人)よ、貴女をどのようにしようか。。

 ・虞:〔ぐ;Yu2○〕項羽の寵姫、虞美人のこと。美人は、女官の官職名。 

・兮:…よ!…や! ここでは前出歌う時の語調を調えるというよりも、「耶」後世の「」といった、語尾に附く語気詞の働きをしている。 

・若:なんじ=あなた。同等またはそれ以下の用法。=汝、女、爾、若。 

・若何:何=「奈何」は「いかん;どうしよう」。 

・奈若何:あなたをどのようにしよう。 

・「奈何」の間に目的語として、人称代詞の「若」が入る「奈若何」。上代漢語語法の目的語をとる疑問文の用法。「」と「奈」とは本来別字だが、『史記』では「」が「奈」の意味で使われている。この語法で似たものとして、漢の『樂府』『箜篌引』「公無渡河,公竟渡河。 墮河而死,當公何。』があり、表現も似たものとなっている。但し、『古詩源』では「奈」字にする。

蛇足になるが、項羽と虞姫との別れの場面は、古来涙を誘うものであり、詩歌となり、絵画となり、近代では京劇『覇王別姫』となり、映画『覇王別姫』となっている。

また、項羽の兵家としての行為(後出の東渡の拒絶)に対しては、幾多の見方がある。杜牧の詩『烏江亭』「勝敗兵家事不期,包羞忍恥是男兒。江東子弟多才俊,捲土重來未可知。」がそうであり、秋瑾の詩がそうであろう。

しかし、李清照の詩『絶句 烏江』「生當作人傑,死亦爲鬼雄。至今思項羽,不肯過江東。」では、その潔さをみとめていよう。江東の故地に落ちのびることを勧めたのに対し、「江東の父兄にどのような顔でもって、会うことが出来ようか。」と拒んだことである。
『史記・項羽本紀』では「於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長船待,謂項王曰:『江東雖小,地方千里,衆數十萬人,亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船,漢軍至,無以渡。』項王笑曰:『天之亡我,我何渡爲!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縦江東父兄憐而王(この王は動詞)我,我何面目見之?縦彼不言,籍(項羽のこと)獨不愧於心乎?』」とあり、その昂ぶりが二千年の時を越えて伝わってくる。

もっとも、前出『史記』を詳しく読むと、虞姫と別れた項羽は、漢軍の重囲を八百の騎兵とともに夜陰に乗じて脱出したものの、三百騎にまで減り、道に迷ったあげく、農夫に道を欺かれ、沼沢地に迷い込んで、行き詰まってしまった。

天運の尽きたことを悟って「吾起兵至今八歳矣,身七十餘戰,所當者破,所撃者服,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必三勝之,爲諸君潰圍,斬將,刈旗,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」と言った。

情況からくる「天之亡我」という諦めがあったのだろう。だからこそ、烏江の畔では、笑って『天之亡我,我何渡爲!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還,縦江東父兄憐而王我,我何面目見之?縦彼不言,籍獨不愧於心乎?』」と言えたのだろう。

  なお、この詩の虞美人は、「虞兮虞兮奈若何」といわれた後、虞姫はどうなったかは、『史記』では、書かれていない。前出上記『項羽本紀』の古註で、虞美人がこの詩に答えて「漢兵已略地,四方楚歌聲。大王意氣盡,賤妾何聊生。」のみである。その分、京劇『覇王別姫』では、「漢兵が已に地を侵略したからには、足手纏いとなるわたしに死を賜れ」となり、映画『覇王別姫』では「大王快將寶劍賜予妾身」となる。

そして、剣を奪い、自殺する。京劇では、虞美人がこのせりふを言う直前、覇王のために剣舞を舞う。舞い続け、たけなわになる頃、一振りの剣が踊りの中で、二本に変わり、双剣の舞になり、終わる頃には一本に戻っている。何を暗示象徴しているのか、興味深い。この京劇でも、剣を奪い、首筋を切って、自殺する。

 ただ、この詩と『項羽本紀』の記述からみれば、項羽は虞美人を殺したのではないのか。数年前、関中に攻め入った劉邦は、一旦、秦の王宮の財宝や女性を得ている、そのような時代であったろうし……。』

〔西サハラ問題、西サハラの歴史、イベリア半島の歴史…。〕

西サハラ問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%82%B5%E3%83%8F%E3%83%A9%E5%95%8F%E9%A1%8C

西サハラの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%82%B5%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『西サハラの歴史(にしサハラのれきし)は、紀元前5世紀のカルタゴの冒険者であった航海者ハンノの時代まで遡ることができる。それ以前にも僅かに歴史的記録は見られるものの、西サハラに於ける近代的な意味での歴史のルーツはベルベル人部族の支配下にあったいくつかの遊牧民にあり、イスラム教とアラビア語の導入は8世紀からである。

西サハラ地域は現代の言葉でいう意味の「国家」を形成した経験がない。古代にはフェニキア人が植民していたが、彼らは姿を消し痕跡もほとんど残っていない。イスラム教は8世紀にこの地域に達したが、砂漠化に悩まされていたこの地域では、ほとんど発展せずにいた。

1884年にスペインはボハドール岬(スペイン語版)からブラン岬(スペイン語版)(現ヌアウディブ岬)までの海岸を保護領と主張し、この領域は後に拡張された。1958年にスペインはそれまで別個であった地区を統合してスペイン領サハラとした。

1975年の国際司法裁判所による西サハラの地位についての勧告では、一部の部族がモロッコとの歴史的な繋がりをもっているが、それは西サハラとモロッコの間に”領土主権の繋がり”をもたらすには足らないと看做していた。

この1975年の11月、非武装のモロッコ人30万人がタルファヤに集結し、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入し、緑の行進が始まった。最終的に、スペインは1975年11月14日に西サハラを手放し、スペイン人の遺体を墓から掘り出しさえもした。モロッコは1976年に実際に西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコと同様に西サハラの領有権を主張していたモーリタニアの撤退後、1979年に残りの部分を併合した。

1976年2月27日、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国建国を正式に宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立し、モロッコに対してゲリラ戦を開始した。この西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。この停戦の合意の一部として、独立かモロッコへの併合かを選択する住民投票が固有の住民の間で行われることになったものの、有権者の数が正確に把握できないため、未だ実施されていない。』

『序説

11世紀から19世紀にかけ、西サハラはブラックアフリカと北アフリカの間にあった。11世紀にサンハジャ部族連合(英語版)はラムツナ部族(英語版)と同盟し、ムワッヒド朝を立てた。ムワッヒド朝の征服範囲は大モロッコと呼ばれる、マグリブの一部を含む現在のモロッコの大部分とトレムセン(現在のアルジェリア西部)、北はイベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)、南はマリ帝国、ガーナ王国(現在のモーリタニアやセネガル)まで達していた。

16世紀にモロッコに成立したサアド朝は1591年にニジェール川を基盤としてたソンガイ帝国を征服した後、西サハラはマリのトンブクトゥとモロッコのマラケシュの間のキャラバン隊の戦略的交通路となり、サハラ交易が活発となった。17世紀と18世紀には奴隷貿易が一般的となった。

西サハラ地域は19世紀末の列強によるアフリカ分割についてのベルリン会議にてスペインに与えられたことにより、1884年にスペインの植民地となった。その結果、西サハラはスペイン領サハラと呼ばれることとなった。

1975年11月6日、モロッコは緑の行進を組織した。これは、非武装民間人35万人がモロッコ全土から後に南部諸州と呼ばれるようになった地域[注釈 1]へ移動するという大規模デモである。その数日前(10月31日)に、モロッコ王立軍(英語版)は北西より侵略を行っていた。この結果、スペインはモロッコとモーリタニアと共にマドリード協定に調印しこの地域を放棄した。

西サハラにはモロッコとポリサリオ戦線との間の係争地域が1975年より残っている。モロッコは歴史的な繋がりに基づく統治権を要求し、一方ポリサリオ戦線は脱植民地化と国家の独立を求めている。この係争はマンハセット交渉によって解決を保留している。

西サハラには主にアラビア語ハッサニヤ方言を話すサハラウィー人(英語版)に加えて、シルハ語(ベルベル語)を話す北部の少数民族がいる。』

レコンキスタ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF

〔シルクロード…。〕

※ まず、これを見てくれ…。

※ 「世界の気候区分」だ…。

※ ユーラシア大陸に注目すると、東が「湿潤地域」で、西が「冷涼地域」ということが、見て取れると思う…。

※ そして、東西の中央は、「乾燥地域」だ…。

※ 「シルクロード」とは、「交易路」と考えた方がいい…。

※ その場合、東の「植生が豊かな地域」の文物を、西の「やや植生が乏しい地域」へ運んで行く「交易」の道があって、それを「乾燥地域の遊牧の民」が仲介した…、という構図になっていたらしい…。

※ そういうことを言っている文献を、最近読んだ…。

※ 「四大文明」の配置だ…。

※ それぞれの「地域」でも、「農作物」「文物」の生産量の大小があっただろうから、そういう「各領域」においても、それぞれ「交易」は行われたんだろう…。

※ ユーラシア全域における「東西の交易路」と、「地形」を見たものだ…。

※ 山岳地帯においても、「谷伝い」に運搬したり、「やや傾斜の緩いところ」を伝って行ったりしたんだろう…。

※ 「1世紀ごろ」とあるんで、それこそ「漢帝国」と「ローマ帝国」との間で、「交易」が行われたものだろう…。

※ 地形を除いて「交易路」だけ表示したもの…。

※ オレらが知っている「シルクロード」だけでなく、「海路」も、「東南アジアルート」も、「チベットーインドー今のパキスタン辺りのルート」もあったことが、分かるな…。

※ 地形の衛星画像での確認…。交易路は、ほぼ「乾燥地帯」に当たっている…。

※ 長い年月の間には、存在していた「湖」が、「干上がって」「消滅する」なんてことも起きたようだ…。

ロプノール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AB

※ こんな感じで、ラクダを使って「運搬」したものか…。1992とあるから、1992年の撮影か…。

※ 中国の雲南省・青海省からミャンマー北部、バングラデシュ・ブータン・チベット辺りのルート…。

※ こうしてみると、ミャンマー北部も「シルクロードの一部」だったんだな…。

※「海路」に焦点を当てた画像…。

※「陸路」を運んで、「沿岸」の「港」に出て、一気に「舟運」したんだな…。

※ 中継都市を入れたマップ…。

※ 「メディナ」「メッカ」「ジェッダ」もあるんで、「ムハンマド」「イスラム」の発生すら、この「交易路」と無関係ではなかったと思われる…。

※ 仏教みたいな「宗教」も、この「交易路」を「伝搬」したもののようだ…。

※ 「南伝仏教」「北伝仏教」とは、そういうことだったんだな…。

※ 正倉院の「御物」も、このルートを辿って伝えられたものが多いんだろう…。

〔フェニキア〕

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2

 ※ 調べたら、ギリシャvs.フェニキアは「ポエニ戦争」じゃなかったな…。

 ※ お互い「支配権」を争ったんだろうが、特に「大戦争」をやったわけではないようだ…。

 ※ 小競り合い程度は、あったんだろうが…。

 ※ ポエニ戦争は、ローマvs.カルタゴだ…。

 ※ カルタゴも、フェニキア人の国だったようだが…。

『消滅
しかし紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。アッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。しかし、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によってティルスが征服されると、マケドニア系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となった。

カルタゴ
一方、紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。』

EU移民流入抑制へ、支援先拡大 受け入れ分担は難航

EU移民流入抑制へ、支援先拡大 受け入れ分担は難航
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR237MD0T20C21A6000000/

『【ブリュッセル=竹内康雄、イスタンブール=木寺もも子】欧州連合(EU)は移民や難民の流入を抑制するため、近隣諸国への資金支援の対象を広げる。新たに地中海に面する北アフリカ諸国も加える方針だ。トルコへの支援継続も合意したが、EU加盟国間で移民や難民の受け入れを分担する改革案の協議は停滞しており、抜本的な解決はみえない。』

※ この問題を考える場合、「地中海世界」及び「その周辺国」の「歴史」というものの構図に置いて、考える方がいい…。

※ 衛星画像は、こんな感じ…。

※ 地形図(山脈、高低)は、こんな感じ…。

※ 気候区分…。

※ そして、忘れがちなのが、「海流(潮の流れ)」だ…。

※ 「蒸気機関」が発明されるまで、「動力」は、「帆船(風力を利用する)」と「人力(人が櫂で漕ぐ)」しか無かった…。

※ よって、「潮流」は、決定的に重要だった…。

※ 上記にあるように、「地中海」は、ある意味「内海」で、適度な「潮流」があったから、「沿岸航法」により、物資を運搬することが可能だった…。

※ ここの「中継都市」と、「運送の担い手」を押さえると、「交易の利益」を独占することができた…。

※ それで、「欲に塗れたヤカラ」どもが、激しく支配を争った…。河川も流入しているから、そこを遡れば、河川の沿岸の都市にも物資を運び入れることが可能で、利益はますます増大した…。

※ 史上名高い「ギリシャvs.フェニキア」の植民都市の配置だ…。「ポエニ戦争」だったか…。

※ ギリシャの植民都市(ギリシャ人が移住したと言うより、「影響下にあった」ということなんだろう)が、黒海沿岸や今のトルコの地中海側にもあったことに、注目しておこう…。

※ そして、周辺に大国や帝国が勃興すると、その支配下に置かれ、没落・滅亡すると「支配勢力」が目まぐるしく変更していくことになる…。

※ まず、ローマ帝国…。

※ エジプトの覇者、メソポタミアの覇者も進出してくる…。

※ 7世紀以降は、「イスラム勢力」が進出する…。

※ 11世紀頃になると、キリスト教勢力が反攻に出る…。「レコンキスタ」運動だな…。

※ イベリア半島を、イスラム勢力から奪還することになる…。

※ 13世紀には、「モンゴル帝国」の進出だ…。

※ これで見ると、イベリア半島の対岸の北アフリカには、「王朝」が成立していたようだな…。

※ おそらく、イスラム勢力の「残党」と言ったところなんだろう…。

※ ここら辺で止めておくが、この後も延々と、支配の「争奪戦」が繰り返されることになる…。

※ 特に、近年は、「石油資源」の支配の争奪が絡んでくるんで、争いは「熾烈化」することになる…。

〔世界の舟運、運河、大帝国…。〕

デュースブルク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF

京杭大運河
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9D%AD%E5%A4%A7%E9%81%8B%E6%B2%B3

煬帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D

クビライ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4

『至元13年(1276年)には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都臨安を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服した(モンゴル・南宋戦争)。この前後にクビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらした。これにともなって東西交通が盛んになり、クビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れた。』

〔バルカン関連…。〕

※ まず、地形を押さえておこう…。

※ ほぼ、山岳地帯だ…。平野は、あまり無い…。

※ 地形図だと、こんな感じ…。

※ 現在の国境線と、国名はこんな感じ…。

※ オスマン帝国に支配されることが、長かった…。

※ ちょっと領域を広げると、こんな感じ…。

※ まあ、そういう歴史が、現在にまで尾を引いているわけだ…。

ジャガイモ飢饉

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E9%A3%A2%E9%A5%89

 ※ これは、絶対読んでおいた方がいい話しだ…。

 ※ イングランドとアイルランドの相克、米国におけるアイルランド系移民の社会的な位置付け(ちなみに、JFKはアイルランド系だぞ…)…。ひいては、カトリック教徒の位置付けなどの背景ともなっているでき事だ…。

ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB

 ※ 胸くそ悪い話しだが、こっちも読んでおいた方がいい…。

 ※ 世界は、こういう話しで満ちている…。

〔「国民主権」というものの話し…。〕

※ 「民主主義」とは、統治される側の「国民」が、統治の決定過程に参加し、理念的には「最終・最高の国家意思決定権を持つ」とする政治システム、と言える…。

『国民主権( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%BB%E6%A8%A9
国民主権は、主権は国民にある、という思想であり、つまり国民が政治権力の源(拠り所)・責任主体であり、政府は国民の意思により設立され運営される機関であるとする思想・考えのこと。「主権在民」または「人民主権」ともいう。』

『概要
ここで言う「主権」とは、国政のあり方を最終的に決定することを意味する。

「国民主権」は、歴史的で多義的な概念であり、その時代、論者によって内容が異なる概念である。「主権在民」または「人民主権」ともいう。

「人民主権ないし国民主権」は、17~18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。「人民」と「国民」は、peuple プープルとnation ナシオン(フランス語の表記。英語ではpeopleとnation)という対立的な概念として図式化されることもある。

また「人民主権ないし国民主権」は、フランス、ドイツのほか、アメリカ合衆国[1]、日本(日本国憲法は「国民主権」を明記している) 他、多くの国家の現行憲法で採用されている。ただし、その内容は必ずしも同一ではない。

これらの国に対し、英国では「国会主権」がとられているが、政治的な主権は市民が有するとされている。』

『日本における国民主権
概略
日本では、日本国憲法前文と日本国憲法第1条が国民主権を定めている。日本の学説においては平和主義、基本的人権の尊重とともに三大原則の一つとされている。この憲法における国民主権は、個人主義と人権思想の原理に立脚する、とされている。

国民主権の下では、主権は国民に由来し、国民は選挙を通じて代表機関である議会、もしくは国民投票などを通じて主権を行使する。その責任もまた国民に帰趨きすうする。

歴史的にはかつて「必ずしも君主主権と相反するものではない」などともされていたが、日本国憲法下の学説では君主主権を否定する原理であるとするものが多い。

伝統的見解
日本国憲法の制定後、まもなく生じた尾高・宮沢論争を経て、国民主権とは、全国民が国家権力を究極的に根拠づけ正当化する権威を有すること(正当性の契機)に尽きるとの宮沢説が伝統的見解となった[6]。この見解は、国民主権を君主主権ないし天皇主権を否定する概念とする一方で、正当性の契機における「国民」は、国家権力を正当化し権威付ける根拠であるから、有権者に限定されず、抽象的な全国民を意味するとする。そして、その権威は国民に由来するが、権力は代表民主制に基づき、「国権の最高機関」である国会が行使すると解した上で、憲法上、要請される代表制は、選挙民の意思に拘束されない自由委任を前提とした「政治学的代表」を意味するとする。』

※ 「法的な概念」は、全てそうだが、特に「憲法における法的概念」は、「あいまいで」「はっきりとせず」「どうとでも解釈できるようなもの」が殆どだ…。

※ 当然だ…。「国家権力」発動の、「根拠」となり、その「正当性」を裏付けようとする「文書」だからな…。その時々、時代時代の権力闘争の「妥協の産物」だ、後々自分の陣営に都合がいい解釈の余地を残して作られる…。

※ 「国民主権だ!」「国家意思の最終的決定権は、国民にあるのだ!」と言ったとたんに、「国民って誰?」「オレも、国民だ!」「オレの意見を、国政に反映しろ!」「なぜ耳を貸さない!国民の声を、ないがしろにするのか!」という問題が生じる…(どっかの政党が、よく言ってる、よく聞く話しだな…)。

※ 「民主主義」とか、「国民主権」とかの根底には、「個人の尊重(国民一人一人が大切な存在で、国政の上で、尊重されるべき存在である)」という理念が横たわっている…。それを追求して、国民個人個人の利益をてんで勝手に追求することを許すと、その大切な存在であるはずの個人の生存・生活の基盤である、「国家システム」「社会システム」まで破壊してしまって、却って(かえって)、個人の尊重を傷つけてしまう結果となる…。大矛盾だ…。

※ それを「回避するための方策」は、「国民主権」と言いつつ、「国民」の意思が「直接流入することを、極力避ける」という、「国民主権の希薄化」策だ…。

※ 上記で紹介されている「尾高・宮沢論争」からも見てとれるように、国民主権とは、決して「個々の国民の意思が、現実に反映されるという力(ちから)がある」ということまで、保障するものではない…、とせざるを得ない…。

※ これまた、当然の話しだ…。個々の国民の「考えていること」「大切だと思っていること」「こうあって欲しいと思っていること」が千差万別、十人十色である以上、そういう人たち「全員」を「納得させ」「満足させる」現実解なんてものが、あるはずも無い…。

※ 現実の姿は、「そこそこな解決。」「まあまあ、手ひどく酷い事態ではない。」という辺りに、落ち着かざるを得ない…。

※ 「最大多数の、最大幸福」の追求という辺りに、ならざるを得ない…。

※ そしてまた、この「希薄化策」の現実の姿は、各国において、少しずつ異なったものとならざるを得ない…。

※ これまた、当然の話しだ…。

※ 各国は、それぞれ異なった歴史的背景、異なった民族構成、異なった「国民」の集合体だ…。「最大多数の最大幸福」を達成しようとするシステムのあり様は、そういう「国民の姿」を反映した、異なったものとならざるを得ない…。

※ 「欧米では…。」とよく言うが、「欧(ヨーロッパ)」と「英・米」では、はっきりと「法的な伝統」が異なる…。法体系も、「ローマ法」以来の「成文法」中心のやり方と、辺境だった「連合王国」(UKとは、「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」のこと。そう言うと、スコットランド人やウエールズ人が、「オレらは、ブリテン人じゃねえ。」って言うんだよ…。)とでは、相当異なる…。こっちは、「慣習法」「不文法」が中心のやり方となっている…。

七王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD

イギリスのカントリー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC

※ さらには、「英米」とひと括りにするが、「英」と「米」でも、異なる点が随分ある…。

※ これまた、当然だ…。「米」は、とにかく国土が「広大」だ…。東西に広大だから、「時間帯(タイム・ゾーン)」が3つもある…。国内で「時差」が公式に3つある国なんだよ…(こういう実情は、中国もロシアも同じだ…。似たような「システム」になっているんだろうと思う…)。

※ 大体、こんな風に領土を拡張してきた…。

※ そもそもの「建国の歴史」が、イギリスからの植民者(ピルグリム・ファーザーズが有名だな…)に始まっていることと、国土が「広大」で、各地域で気候・風土に違いがあることもあって、「各州」の独自性が強く反映される「システム」となっている(合衆国だしな…)。

※ 「不文法」「慣習法」という法体系は、そういう「異なった統治システム」の併存にとって、好都合なものでもあるわけだ…。

※ そういうことで、「西側民主主義国」と一括りにするが、その「民主主義」「国民主権」の現実のシステムは、随分と異なった姿をしているものなわけだ…。

※ そういうところに持って来て、建国の初期段階から、国土建設に「労働者」を使役した(公然と、「奴隷制」も採用されていた…)から、社会の内部にそういう存在も抱え込むことになってしまった…。

※ こうなると、ますます、「国政に参加できる「国民」って、誰?」「そういう資格の無い輩(やから)は、排除しなくちゃな。」という論が横行することになる…。

※ 「個人の尊重」「統治される側が、統治する体制に参画していくシステム」という言説や理念は、美しく、耳障りが良く、心地よい…。

※ しかし、その「実相」は、ドロドロとしていて、生臭く、人間の欲に塗れて(まみれて)いるものだ…。

欧州の歴史が大きく変わった 黒死病の後に起きたこと

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO59077960U0A510C2000000?channel=DF260120166526

 ※ 引用、転載に問題がある場合は、Word Press.comの方に連絡してください。

『1347年のある日、地中海の港に停泊した大型帆船から、歴史上最も危険な疫病の1つが解き放たれた。「黒死病」だ。

積荷や乗客に紛れて上陸したネズミたちには、病原菌をもつノミが付いていた。同じことがヨーロッパじゅうの港で繰り返された結果、1347年から1351年にかけてヨーロッパを襲った黒死病のパンデミック(世界的な大流行)は史上最悪の規模となり、ヨーロッパの人口の3分の1が命を落としたとされる。

黒死病の正体がアジアとヨーロッパで周期的に流行する腺ペストだったことに、ほとんどの歴史学者が同意している。腺ペストはペスト菌が引き起こす疾患で、6世紀にビザンチン帝国(東ローマ帝国)で大流行して2500万人の命を奪った「ユスティニアヌスの疫病」も同じものだった。

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猛スピードで広がり、膨大な死者をもたらした
14世紀の黒死病の後も大勢のヨーロッパ人がペストによって命を落とし、1665年の英国ロンドンでの流行は特に規模が大きかった。最後となる三度目のパンデミックは19世紀半ばに始まり、20世紀まで続いた。

中世ヨーロッパでは、赤痢、インフルエンザ、麻疹、そして非常に恐れられたハンセン病など、多くの伝染病が流行した。けれども人々の心に最も恐怖を与えたのは黒死病だった。ピーク時の数年間、黒死病は後にも先にもない速さで広がり、膨大な数の死をもたらしたのだ。

天使と聖ロクスの像(16世紀)。聖ロクスはペストからの守護聖人として崇められてきた(PHOTOGRAPH BY ERICH LESSING/ALBUM)
黒死病は、生き延びた人々の生活や意識を一変させた。農民も王子も同じように黒死病に倒れたことから、当時の文献には、黒死病の前では身分の差などなんの意味もないという思想が繰り返し登場する。

黒死病の原因についてはいくつもの説が提案されたが、そのほとんどが宗教や迷信を前提にしていた。占星術的な現象が黒死病の原因だとする人々もいたし、火山の噴火や地震などの自然現象により有毒ガスが発生したとする説もあった。科学的真実に最も近かったのは古代ギリシャ医学の「瘴気(しょうき)」に基づく説明だった。瘴気は、腐ってゆく物質から発生するという目に見えない「悪い空気」で、呼吸や接触により体内に取り込んでしまうと病気になるとされた。

ペスト菌の発見
こうした迷信的な説が完全に否定されたのは、三度目のパンデミックが起きたときだった。その頃には研究者は病原体を特定できるようになっていて、1894年に日本の北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンという2人の細菌学者が同時期にペスト菌を発見した。

のちにエルシニア・ペスティスと命名されたこの細菌は、ネズミなどの小型げっ歯類に寄生するノミによって媒介される。ノミの体内で増殖したペスト菌は、ノミが噛みついた際に相手の体内に送り込まれる。通常、ペスト菌はノミとげっ歯類の間を行き来するだけだが、一定の条件下では、ノミの宿主であるげっ歯類を皆殺しにしてしまい、ノミは別の宿主を探さざるをえなくなる。それが人間だ。ペストは動物から人間に伝染する動物由来感染症(ズーノーシス)なのである。

ヨーロッパでは膨大な人が黒死病で死亡したが、王族の犠牲者は比較的少なかった。1348年にアラゴン王ペドロ4世の妃レオノールが、1350年にはカスティーリャ王アルフォンソ11世がジブラルタル攻略中にペストの犠牲となった(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)

ペストが容易に広がってしまうのは、ネズミが人間の生活に引き付けられるからである。特に、納屋、製粉場、家庭にストックされている食料は、ネズミにとって魅力的だった。

ペスト菌が人々の家庭に忍び込むと、16~23日後になってようやく最初の症状が出る。症状が出て3~5日後には患者は死亡する。コミュニティーが危険に気づくのはさらに1週間後で、その頃にはもう手遅れだ。ペスト菌は患者のリンパ節に移行し、腫れ上がらせる。患者は嘔吐し、頭痛に苦しみ、高熱によりガタガタと震え、せん妄状態になる。

ペスト患者の首を締める死神。プラハの14世紀の写本より(W. FORMAN/SCALA, FLORENCE
リンパ節が腫れ上がるペストは「腺ペスト」と呼ばれる。しかし、これはペストの3つの病型のなかの最も一般的なものにすぎない。第2の病型である敗血症性ペストはペスト菌が血液中に入ったもので、皮膚の下に黒い斑点が現れ、おそらく「黒死病(Black Death)」という名前の由来となった。肺ペストでは呼吸器系がおかされ、患者は激しく咳き込むので、飛沫感染しやすい。中世には敗血症性ペストと肺ペストの致死率は100%だったと言われる。

「すぐに逃げろ」が拡散を助長
黒死病がヨーロッパのすみずみまで広がったきっかけは地中海沿岸の港と考えられているが、最初の大流行は黒海沿岸のクリミア半島の港町だった可能性がある。ジェノバの植民都市だったカッファ(現在のフェオドシヤ)だ。カッファは1346年にモンゴル軍に包囲されたが、当時、モンゴル軍の内部では黒死病が広まっていた。

カッファで流行したのは、モンゴル軍が黒死病で死んだ兵士の遺体をカッファの城壁内に投げ込んだためという言い伝えがある。実際には、モンゴル軍の戦列の間をうろちょろするネズミにたかっていたノミが市内にペスト菌を持ち込んだ可能性のほうが高い。市内に疫病が入ったことに気づいたジェノバの商人たちは大慌てでイタリアに逃げ帰ったが、一緒に疫病も持ち帰ってしまった。

黒死病がこれほど速く、広大な領域に広まったのはなぜか、歴史学者も科学者も不思議に思っていた。「これだけ速く広まったのは飛沫感染したからであり、主な病型は腺ペストではなく肺ペストだった」と主張する研究者もいる。しかし、肺ペストはむしろゆっくり広がる。患者はすぐ死に至り、多くの人に広めるほど生きられないからだ。

大半の証拠は、黒死病の主な病型は腺ペストであること、ノミだらけのネズミや旅人が船に乗ることで遠くまで広めたことを示している。海上貿易が拡大していったこの時代、食料や日用品は、国から国へと、どんどん長い距離を運ばれるようになっていた。これらと一緒に、ネズミや細菌も1日に38キロのペースで広まっていった。

交易路を介して、最初に感染が広まったのは大きな商業都市だった。そこから近隣の町や村へと放散し、さらに田舎へと広がった。中世の主な巡礼路も黒死病を運び、各地の聖地は、地域内、国内、国家間の伝染の中心地になった。

非常に寒冷で乾燥した地域では拡大はゆっくりになり、ついには足を止めた。おかげでアイスランドとフィンランドはほとんど影響を受けなかった。

プラハはボヘミア王国の首都だった。ボヘミア王国は南のバイエルン公国から広がってきた黒死病に苦しめられた(PHOTOGRAPH BY RAINER MIRAU/AGE FOTOSTOCK)
当時の町では「すぐに逃げろ、急いで遠くに行け、戻るのはあとにするほどよい」と言われていた。この助言にしたがって避難する余裕がある人々の多くが田舎に逃げたため、悲惨な結果になった。避難した人々もすでに感染していたり、感染者と一緒に旅をしたりしたため、自分たちが助からなかったばかりか、それまで感染者がいなかった遠隔地の村に病気を持ち込むことになってしまったのだ。

各地で社会が崩壊、そして
黒死病の犠牲者は膨大な数に上ったと推定されているが、具体的な数字については論争がある。パンデミック前のヨーロッパの人口は約7500万人だったが、1347年から1351年までの間に激減して5000万人になったと見積もられている。死亡率はもっと高かったと見る研究者もいる。

人口が激減したのは、黒死病に罹患した人々が死亡しただけでなく、畑や家畜や家族の世話をする人がいなくなり、広い範囲で社会が崩壊したからである。中世のパンデミックが終わったあとも小規模な流行は続き、ヨーロッパの人口はなかなか回復しなかった。人口増加が軌道にのってきたのは16世紀頃である。

大災害の影響は生活のあらゆる領域に及んだ。パンデミック後の数十年間は労働力不足により賃金が高騰した。かつての肥沃な農地の多くが牧場になり、村が丸ごと打ち捨てられることもあった。英国だけで1000近い村が消えた。地方から都市に向かって大規模な移住が起きたため、都市は比較的速やかに回復し、商業は活気を取り戻した。田舎に残った農民は遊休地を手に入れ、土地を持つ農民の権力が増し、農村経済が活性化した。

実際、歴史学者たちは、黒死病から新しい機会や創造性や富が生まれ、そこからルネサンスの芸術や文化や概念が開花し、近代ヨーロッパが始まったと主張している。

次ページでも、当時の欧州に暮らした人々が、どうこの疫病と向き合ったのかがうかがえる絵画をご覧いただきたい。

ピサの壁画『最後の審判』は、ペストの流行前に描かれた。その後、黒死病がピサの街に壊滅的な被害をもたらしたことを考えると、その鮮やかさがいっそう胸に響いてくる(PHOTOGRAPH BY ERICH LESSING / ALBUM)

15世紀の絵画の中で、黒死病に罪人(写真外)を狙わせる天使(PHOTOGRAPH BY PRISMA/ALBUM)

1348年5月14日、バルセロナのキリスト教徒が行っていた行進は、ユダヤ人居住区域の襲撃に変わった。虐殺のきっかけは、司祭がユダヤ人を非難し、水と食物に毒を混入して黒死病を引き起こしたと主張したことだった。ペストを口実に、ヨーロッパ各地のユダヤ人はしばしば激しい迫害を受けた(PHOTOGRAPH BY AKG/ALBUM)

地獄の業火に永遠に焼かれることを恐れ、多くの人が教会に寄付をするようになった。神の怒りを和らげようとする人々のおかげで教会の金庫は大いに潤った。また、黒死病からの守護聖人とされる聖ロクスや聖セバスティアヌスが崇拝されるようになった(PHOTOGRAPH BY AKG/ALBUM)

英国などで羊毛の取引がさかんになったのは、黒死病による被害のためである。労働力が不足し、生き延びた人々はより高額の支払いを求めるようになり、ヨーロッパの封建制度を脅かした(PHOTOGRAPH BY ORONOZ/ALBUM)
(文 ANTONI VIRGILI、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 2020年5月4日付の記事を再構成]』

スターリングラード(※現ヴォルゴグラード)攻防戦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6 

※ 独軍の進路と、前線の推移の様子だ…。これを見ると、クリミア半島がいかに「要衝」であるかが、分かるな…。この地域に軍を送り、その「兵站」を担う…、となると、「黒海」を利用しての「舟運」ということになる。その場合、クリミア半島は、決定的に重要になる…。オレは、ロシアの黒海艦隊が「地中海」に出て行く…、という視点しか無かった…。しかし、「バクーの油田地帯」を防衛する(独軍も、その「油田地帯」を、取りに来た…。それと、この地域は、「一大軍需産業・工場地帯」だったらしい…)、となると、その戦略的な要衝なわけだ…。

※ 初期の段階では、独軍が優勢で、ほぼ市街地を占拠したようだ…。しかし、逆に、その占拠状態から身動き取れなくなったらしい…。

※ そこで、露軍が「大包囲作戦」に出たらしい…。その「身動きとれない」原因が、自分の撒いた種だったらしい…。というのは、「爆撃機」による「大爆撃」「絨毯爆撃」を敢行して、街を徹底的に破壊したらしい…。そしたら、その瓦礫の山のお陰で、ご自慢の「装甲機動兵団」の機動力が、全く使えない状態になったらしい…。それで、「歩兵」「狙撃兵」などによる、「叩き合い」「白兵戦」ということになったらしい…。「装甲機動兵団」は、「市街戦」には、あまり有用でない…、という戦史に残る前例となったらしい…。

『スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 – 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。』

『スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。

緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている[5]。

死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。』