2014年から2016年にかけて、露軍のハッカーは一枚上手だった。

2014年から2016年にかけて、露軍のハッカーは一枚上手だった。
https://st2019.site/?p=20840

 ※ 今日は、こんな所で…。

『Maya Villasenor 記者による2023-1-31記事「Why Military Leaders Need to Rethink Battlefield Intelligence in a Smartphone Era」。

    2014年から2016年にかけて、露軍のハッカーは一枚上手だった。ウクライナ軍砲兵隊が持っていたアンドロイドのスマホにマルウェアを仕込み、彼らの刻々の位置を把握できるようにしていたという。』

日本統治時代の朝鮮人徴用

日本統治時代の朝鮮人徴用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本統治時代の朝鮮人徴用(にほんとうちじだいのちょうせんじんちょうよう)は、第二次世界大戦中の日本統治時代の朝鮮において国策として日本政府により朝鮮人に対して1939年9月[1]より行われた労務動員に対する呼称。

朝鮮人に対する戦時動員は、軍要員の動員(兵力動員)と労務動員に大別され、軍要員の動員(兵力動員)は志願(1938-1943)、徴兵(1944-1945)の2形式で、労務動員は募集形式(「個別渡航」(1938-40)、「集団渡航」(1939-42)、「官斡旋」(1942-1945))[2]と徴用形式(1941年より「軍関係労務」、1944年9月より「一般徴用」)[3]、道内動員(道内官斡旋[注釈 1]、無償の勤労奉仕[注釈 2]、募集)などの形式で実施された。

動員形式の種類や形式ごとの動員数は時期により変動があるが、朝鮮半島の内部を動員先とする道内動員が最も多数を占めた[5]。

動員を受けた元労務者が、実際の形式にかかわらず「徴用された」と回顧する傾向が強く[6]、マスコミ報道などでは、募集形式による動員も含め、朝鮮半島に対する戦時動員を一律に「徴用」と呼称する慣行が広く行われている。

本記事も、記事名を「日本統治時代の朝鮮人徴用」とする。

概要

日本政府は1939年から毎年、日本人も含めた動員計画を立て閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め日本の行政機構が役割を担った。朝鮮半島に対する動員の形態は、時期により、軍要員の動員(兵力動員)は志願制から徴兵制へと変化し、労務動員は募集(「個別渡航」(1938-40),「集団渡航」(1939-42),「官斡旋」(1942-45))と徴用(「軍関係労務への徴用」(1941- ),「一般徴用」(1944-45))、道内動員(朝鮮半島内部への動員。「道内官斡旋」,「勤報隊(勤労報国隊)」,「募集」等)などが併用された。

朝鮮半島内部への動員がのべ約344万7千人、「内地」(日本本土)・「その他」(樺太・千島・南洋諸島等)への動員がのべ約53万8千人。別の数値や、数値をめぐる議論は後節を参照)を数えた。

上記の諸形式による動員の実態については、まだ未解明な点が多く、当事者の証言の収集と整理、史料の発掘と分析は現在も継続中である。現時点での主要な史料や証言、主な研究に見える諸見解については歴史・太平洋戦争期、労働現場の実態と事例、証言、人数・総数、歴史認識問題などの各節を参照。

戦時中の朝鮮半島における戦時動員のうち、軍要員の動員(兵力動員)を含まない労務動員は、朝鮮半島内部への動員が総数の70%?90%を占めた(→詳細は次節を参照)が、動員形式の種類を問わず、朝鮮半島の外部(「内地」>および「その他(樺太、千島列島、南洋諸島等)」)への動員を指す「強制連行」という表現が、1970年代から2000年代初頭にかけて盛んに使用され、現在もこの呼称の是非・妥当性について議論が続いている[7][8][9][10](→詳細は後節を参照)。

戦時中の朝鮮人に対する労務動員については、朝鮮人労働者移入という呼称を用いる論者も見られる[11]。

戦後、朝鮮人に対する戦時動員は歴史認識問題・歴史教科書問題、戦後補償問題として取り上げられてきた[12]。

朝鮮半島における戦時動員の諸形式と人数

本節では、朝鮮半島における戦時動員の諸形式とその動員人数について述べる[13][注釈 3]。統計数値は在外財産調査会,1948に依る。他の典拠に見える数値や人数をめぐる議論は「日本での調査・主張」節を参照。

朝鮮半島に対する戦時動員は、軍要員の動員(志願・徴兵)と労務動員に大別される。
軍要員の動員(兵力動員)

動員形式と人数は以下の通り。

朝鮮半島からの兵力動員[14] 陸軍特別志願兵 〃 海軍特別志願兵 〃 学徒志願兵 〃 小計 〃 徴兵 〃
志願者数 訓練所入所者 志願者数 訓練所入所者 学徒志願者 採用入隊数 志願者 採用数 陸軍 海軍 動員総数
1938 2,946 406 2,946 406 406
1939 12,528 613 12,528 613 613
1940 84,443 3,060 84,443 3,060 3,060
1941 144,743 3,208 144,743 3,208 3,208
1942 254,273 4,077 254,273 4,077 4,077

1943 303,294 6,300 1,000 3,366 3,117 306,660 10,417 11,193

1944 90,000 2,000 90,000 2,000 55,000 10,000 67,000
1945 – 55,000 10,000 65,000

「1944年以後の数は「予定或いは概数であり、実際に動員された数とは異なっている」[14]。

労務動員

動員先により、朝鮮半島を動員先とするものと、その他(内地(日本本土)や樺太・千島列島・南洋諸島など)を動員先とするものに大別される。

内地やその他の各地を動員先とする労務動員には、

募集
個別渡航(1938-40)
集団渡航(1939-42)
官斡旋(1942-45)
徴用
    軍関係労務への徴用; 1941年-
    一般徴用; 1944年9月-

などの形式がある[15]。

朝鮮半島を動員先とする労務動員の形式には募集・官斡旋・徴用・道内動員などがあり[16]、このうち道内動員が最大多数を占める。道内動員は、さらに

道内官斡旋
勤報隊(勤労報国隊)
募集

などに区分される。

以上の諸形式の中では、道内動員の勤報隊が最大多数(1944年で約192万人,この年の動員数の82%)を占めていた[17]。
朝鮮半島からの労務動員(動員形式別;1942年度 – 1944年度)[18] 動員先 動員形式 1942年度 % 1943年度 % 1944年度 %
朝鮮 官斡旋 49,030 9.4 58,924 6.7 76,617 2.6
〃 徴用 90 0.0 648 0.1 19,655 0.7
〃 軍要員 1,633 0.3 1,328 0.2 112,020 3.8
〃 道内動員 333,976 64.1 685,733 77.7 2,454,724 82.9
〃 小計 384,729 73.8 746,633 84.6 2,663,016 90.0
日本 官斡旋 115,815 22.2 125,955 14.3 85,243 2.9
〃 徴用 3,871 0.7 2,341 0.3 201,189 6.8
〃 軍要員 300 0.1 2,350 0.3 3,000 0.1
〃 小計 119,986 23.6 130,646 14.8 289,432 9.8
その他 軍要員 16,367 3.1 5,648 0.6 7,796 0.3
〃 徴用 135 0.0
〃 小計 16,502 3.2 5,648 0.6 7,796 0.3
小計 官斡旋 164,845 31.6 184,879 20.9 161,860 5.5
〃 徴用 4,096 0.8 2,989 0.3 220,844 7.5
〃 軍要員 18,300 3.5 9,326 1.1 122,816 4.1
〃 道内動員 333,976 64.1 685,733 77.7 2,454,724 82.9

  • 合計 521,217 100.0 882,927 100.0 2,960,244 100.0
    朝鮮半島外への労務動員(行先別)[19] 年度 当初計画数 石炭山 金属山 土建 工場他 合計
    1939 85,000 34,659 5,787 12,674 – 53,120
    1940 97,300 38,176 9,081 9,249 2,892 59,398
    1941 100,000 39,819 9,416 10,965 6,898 67,098
    1942 130,000 77,993 7,632 18,929 15,167 119,721
    1943 155,000 68,317 13,763 31,615 14,601 128,296
    1944 290,000 82,859 21,442 24,376 57,755 286,432
    1945 50,000 797 229 836 8,760 10,622
    907,300 342,620 67,350 108,644 206,073 724,687
    道内動員の内訳(動員形式別)[17] 1944年
    道内官斡旋 492,131
    勤報隊 1,925,272
    募集 37,321
    合計 2,454,724
    概念・定義
    戦時動員の諸形式についての概念・定義
    [icon]
    この節の加筆が望まれています。
    軍要員の動員(兵力動員) 軍要員[20]
    志願
    徴兵

労務動員

募集
    個別渡航(1938-40):内地の事業者が朝鮮半島において人員を募集することを解禁、企業は個別に募集・選考を行い、採用者は個別に内地へ渡航[2]
    集団渡航(1939-42):内地の事業者が朝鮮半島において「募集・選考・自社の事業所への移送」までを一括して行う[3]
    官斡旋(1942-45):朝鮮総督府が半島内の地方自治体に人数を割り当て、募集・選考・動員先の内地事業所への移送までを一括担当して実施[3]
徴用
    軍関係労務への徴用;1941月?[3]
    一般徴用;1944年9月?[3]
道内動員[21];朝鮮半島の13道内の動員先へ配属
    道内官斡旋:朝鮮総督府が半島内の地方自治体に人数を割り当て、募集・選考・配属までを一括担当[注釈 4][22]。
    勤報隊(勤労報国隊):1941年12月、国民勤労報国協力令に基づき、勤労奉仕隊を改組して、日本領の全域で発足。学校・職場ごとに、14歳以上40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の独身女性を対象として組織され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された。1945年3月、国民義勇隊に改組されて廃止。
    募集

歴史

明治時代の朝鮮人渡航

1876年(明治9年)、日朝修好条規が結ばれ、朝鮮が開国すると1880年、金弘集らが第二次朝鮮通信使として来日、東京に朝鮮公使館が設置される。その後、留学生や亡命者などが入国し始める(朴泳孝、金玉均、宋秉畯、李光洙など)。また、韓国併合以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた[23]。

韓国併合以降

「韓国併合」および「日本統治時代の朝鮮」を参照

1910年の韓国併合以降、渡航する朝鮮人は急増し、内務省警保局統計によれば1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していた[23]。

併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で[24]、単身者が多い出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せ家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた[23]。

河宗文によれば、「日本政府は朝鮮人の渡航を抑制したり受容したりしながら、朝鮮人労働者を日本資本の差別的構造の中に編入させて行った」とする[25][26]。

当時、日本での朝鮮人の生活は劣悪なもので川辺や湿地帯に集落を造り、賃金も日本人の約半分であったとされる[27]。

それでも当時の朝鮮国内の賃金と比較すると破格の高収入だった。朝鮮人の朴代議士によると1933年当時、年間約5万人の朝鮮人が日本で増加して問題になっていた[28]。

移入制限と解除

1919年4月には朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により日本への移民が制限され、1925年10月にも渡航制限を実施したが、1928年には移民数が増加した。朝鮮では1929年から続いた水害や干害によって、国外に移住を余儀なくさせられる者が増えた[29][30]。

1934年10月30日、岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化する[31]。

日中戦争期

労務動員計画

「労務動員計画」を参照

1937年に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した[26][32]。

1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された(朝鮮では1944年9月から実施[1])。

同じ1939年7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった[26][33]。

1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた[34]。

水野直樹はこの当時、「募集方式の段階から会社・事業所の募集は行政機関、警察の支援を得ていた」としている[34]。

山口公一[35] もまた「1939年に開始される朝鮮人強制連行は戦争の長期化によって日本の労働力不足が深刻化すると同時に朝鮮内での軍需工業の拡張にともない、朝鮮人を労働力として強制的に動員するためのものであった」と説明している。

山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、1) 1939年1月からの「募集形式」、2) 1942年からの「官斡旋方式」、3) 1944年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[36][37]。

1940年、日本政府は日本工場の労働需給の調整と、朝鮮の技術水準の向上を目的とした「朝鮮工場労務者内地移住幹施に関する件」を発信し、「労働者の朝鮮への往路旅費および帰郷旅費は雇用主が負担」「雇用主は朝鮮の技術向上を目的に必要な知識・技能を授ける事」「雇用主は徳を養う事」「雇用期間は5年以内」などの条件を日本陸軍に通達した[38]。

住友鉱業の1939年9月22日付「半島人移入雇用に関する件」では、総督府は、労務者動員計画遂行に協力すること、旱魃による救済のため、内地移住につき積極的援助をなすとあり、募集の実務は「朝鮮官権によって各道各郡各面に於いて強制供出する手筈になつて居る、即ち警察に於て割当数を必ず集める之を各社の募集従事者が詮衡(選考)することになって居る」と書かれていた[39]。

国民徴用令の施行は1939年7月であるが、朝鮮では全面的発動をさけ1941年に軍関係の労務に徴用令を適用している[40]。

1941年から1945年までに朝鮮から日本内地へ動員された軍関係の徴用労務者数は6万2784人である[41]。日本内地で働いていた朝鮮人労務者には、1942年10月から一部に徴用令を発動し軍属として採用稼働されていた。1944年9月以降は、朝鮮から送り出される新規労務者に一般徴用が実施された[40]。

満州国三江省

また、1940年12月の関東軍通化憲兵隊の報告によれば、満州国三江省の鶴岡炭鉱における募集では、苦力募集をしたが、人が集まらなかったので「強制募集」をし、140人の内15人が逃亡したと記録がある[42]。

1942年3月、朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集が開始された(細かな地域ごとに人数を割り当て)。

国民総力朝鮮連盟と愛国班

1940年に朝鮮では国民総力朝鮮連盟が組織された。庵逧由香は、「日中戦争を契機に、中央連盟ー地方連盟と学校、職場の各種連盟ー愛国班による二重の組織化・統制が朝鮮民衆を戦争動員に引き入れて行った」としている[43]。また愛国班に参加を強制した女性動員の実情については、樋口雄一が「特に農村部の女性動員は、流出した男子労働力の補充と食料増産の構造の中で行われた」と指摘している[44]。

太平洋戦争期

1941年12月8日、日本とイギリス、アメリカ、オーストラリアなどとの太平洋戦争が開始する。

朝鮮人の戦時徴用(1944年 – 1945年)

朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は『大陸東洋経済』1943年12月1日号での「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」において、『従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこで官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています』と述べている[45]。

1944年9月、日本政府は国民徴用令による戦時徴用を朝鮮半島でも開始し、1945年3月までの7か月間実施された。1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かったともいわれる[26]。『朝鮮人強制連行論文集成』に記録されている証言では、徴用令には召集令状と同じ重みがあったこと、北海道や樺太、九州の炭鉱に面(村)で500人徴用されたという[46]。

1944年4月13日付の朝鮮総督府官報 第五一五五号 (四)労務動員ニ就テ

1944年4月13日付の朝鮮総督府官報に載った、政務総監(総督の次席にあたる高官)田中武雄の訓示には次のように、

『国民動員計画に基く内地その他の地域に対する産業要員および軍要員の送出また激増を来し、今日なお相当弾力性を有する半島の人力が我が国戦力増強上最大の鍵となって居るのであります。…(中略)…官庁斡旋労務供出の実情を検討するに、労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関もまた概して強制供出を敢てし、かくして労働能率低下を招来しつつある欠陥は断じて是正せねばなりません』

自由意志が守られるはずの官斡旋だが、実情は自由意志を無視した強制供出が行われていたと書かれている[47]。

1944年5月霊光郡での事例

1944年5月31日付の、北海道炭礦汽船株式会社の霊光郡送出責任者が釜山の駐在員に宛てた書簡では、霊光郡において「集合日指定時間内に120名割当に対し参集せる者36名よりなく(之れも面にて強制的に連行せるもの)」、このため「郡庁職員9名警察署高等経済係員及面職員を総動員、寝込みを襲ひ或は田畑に稼動中の者を有無を言はせず連行する等相当無理なる方法を講し」て動員対象者を確保し、また「万一割当責任数供出不能の場合は理事長の自己の家族中より適任者を送出するか或は本人出動する様、郡、警察、面長等より夫々申渡しを」するなどの措置をとって動員対象者の確保に努めていた。だが、この段階ではそのような強硬な手段を以ってしても十分な人員は集められず、「郡庁迄連行中逃走せしもの或は宿舎にて逃走せるもの等簇生又は不具者或は老人(息子逃走身代りとして父親を連行せる者)病人等多数あり」、しかも、「送出に無理せりたる為家族等と郡職員及面職員との間に大乱闘あり労務主任、次席等は顔面其他を殴打され負傷する等の騒ぎあり」というような事態を現出させていたことが書簡に記されていた[48]。

外村大は「地方組織や警察などを通じての動員」と「密航や縁故渡航による渡航」では、働く場所や条件が違っていたと記述する。「朝鮮人労働者を希望した炭鉱の経営者など」は「劣悪な労働条件でも働いてくれる人材を調達するため」朝鮮にそれを求めたがやがて集まらなくなった。そこで「寝込みを襲ひ或は田畑に稼働中の者を有無を言はさず連行する等相当無理なる方法」を講し、徴用令の令状を交付した。ゆえに朝鮮において国民徴用令の発動が遅かったのは「“より寛大な方法”での動員が続いていたのではなく」「要員確保の実態は日本内地での徴用よりも厳しいものであった」と書いている[49]。

内務省復命書

1944年7月31日付、内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された復命書[50] では「民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ」とある[51]。また「…然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であろうか、一言を以って之を言うならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない。朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である…」[52]、「徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである」と記録されている[53]。

この復命書について、元朝鮮総督府高級官僚であった大師堂経慰は「この報告は朝鮮総督府への要求を緩和させるための、陳情の目的もあった事を理解して頂きたい」「これは朝鮮全体として見ると、決して一般的ではなかった。地方地方で事情が異なっており、各人により対応が異なっていた」と語っている[54]。

千葉県東金警察署長の報告書

終戦直後の1945年9月28日付の千葉県東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」では、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きでしかも自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた」「朝鮮人も日本人である以上大東亜戦争をして有終の美を得せしむべく不可能なる労働を可能ならしめ戦力の増強に寄与したる点は内地人に劣らざる」と書いている[55]。

労働現場の実態と事例

労働環境
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この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2015年10月)

山口公一は「動員された強制労働は過酷を極め、炭鉱労働者の場合はたこ部屋に入れられ、12時間を超える平均労働時間、生命の危険が多い炭鉱夫への配置がなされ、実際に死亡率が高かった。また、賃金は日本人の半分程度であり、強制貯金と労務係のピンハネの結果、手元には残らなかった」と主張している[56]。

西岡力は朝鮮人徴用工自身が書いた手記を元に、朝鮮人徴用工の待遇は良かったとしている[57]。1944年12月に広島市の東洋工業に徴用されたある徴用工は、月給140円という高給を受け、なまこやあわびを食べ酒を飲んで宴会をするなど食生活も豊かだった。工場勤務も厳しいノルマなどなく、日本人の女工達と楽しく過ごしていた。夜には寄宿舎から外出して、日本人の戦争未亡人と愛人関係になっていた[58]。また、1945年3月に大阪府の吉年可?鋳鉄工場に徴用された別の徴用工は、徴用工の隊長とケンカで殴り合いを繰り返し、宿場を抜け出し鉄道で東京の立川へ行き、「自由労働者」として働いた。朝鮮人の親方の飯場で雇われ、半日仕事で日給15円もらった。仕事を休み東京見物もしていた。さらに別の飯場に移ると日給20円に上がった[59]。

また、韓国の落星台研究所イ・ウヨン研究員は、当時の炭坑の賃金台帳を元に朝鮮人炭鉱労働者の賃金が朝鮮半島で働く教員の4.2倍にもなる炭坑もあったとし、また他の職に就く日本人に比べても賃金面で優遇されていたとしており、韓国の映画などで「やせ細った朝鮮人労働者」のイメージが広がっているが「当時の写真を見れば健康で壮健堂々としていた」としている[60]。

ジャーナリストの赤石晋一郎は韓国で複数の元徴用工に取材し、韓国内で流布されている被害者像とは異なる証言を得た。福岡県飯塚市の三菱炭鉱で働いていた崔漢永は「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。」「朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。」と語った[61]。20歳のときに佐賀県の造船所へ徴用された金炳鐵は、食料事情が厳しかった戦争末期も日本人と同じ食事が支給されていたと語っている。金は「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。」と語っている[61]。同郷だった姜彩九と孫義奉は10代の頃に徴用され、大阪の鉄工所で働いていたが、孫は「日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。」と語った。姜は「仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」と語った。日本本土への空襲が酷くなった1945年以降は工員は散り散りとなり、姜は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた[61]。

松代大本営建設における徴用

1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった[62]。「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた[63]。飯島滋明はその労働は過酷であったとし[64]、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められた主張している[65]。李性国、李浩根、李性欽は「松代」で働いていた朝鮮人は給金がもらえ、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と主張している[66]。飯島は「その生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいた」と主張している[67]。また、「朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある[68][69]。林えいだいは「天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害された」と主張している[70]。

逃亡例

特別高等警察の記録[71] でも「移入朝鮮人労働者」による多くの逃亡があったとされている[72][73]。日本内地に動員された朝鮮人労務者の逃走者総数は22万6497人である。内訳は、募集時7万8181人、官斡旋及び徴用時14万8316人。これら逃走者で発見送還された者4121人、職場復帰した者1万2626人、所在不明者は20万9750人に上った[74]。

1944年の福岡県飯塚市住友鉱業所における労務斡旋と逃亡の事例は次のようなものだった。

福岡県飯塚市住友鉱業所に於ては、五月二十四日朝鮮総督府より朝鮮労務者72名の斡旋を受け、同所労務補導員にて引率鉱山到着までの間に於て内54名は逃走所在不明となり、又、同県粕屋郡志免町所在九州鉱業所の於いても五月二七日朝鮮総督府より朝鮮人労務者37名の斡旋を受け労務補導員2名にて引率鉱山到着までの間に於て、内36名逃走所在不明となりたる事案発生せり[75]。

山口公一は、1940年代の九州筑豊炭田地帯では全労働者の30 – 50%が朝鮮人労働者であったが、40%以上が逃亡したと言う[37]。

君島和彦は「こうした戦時強制連行については、抵抗運動があった」と書き、遠藤公司の『戦時下の朝鮮人労働者連行政策の展開と労資関係』[76] や山田昭次の『朝鮮人強制連行研究をめぐる若干の問題』[77] を参考文献に挙げている[78]。

証言

朝鮮総督府関係者の証言

鎌田澤一郎の証言

宇垣一成が朝鮮総督を務めた時代(1927-1936年)に政策顧問を務め、同時に韓国統監府の機関紙である京城日報社の社長も務めた鎌田澤一郎は著書『朝鮮新話』1950年において、南次郎が朝鮮総督であった時代(1936-1942年)の労務者の強制的な徴募方法について、

もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。

と証言している[79][80]。

ただし、鄭大均によれば、鎌田の証言は朴慶植など強制連行論者によく引用されてきたが、証言中の「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」という朝鮮人官僚が実行したという箇所について引用されることはまずないと指摘している[80]。

朝鮮総督府に勤務し、戦後法務省入国管理局総務課で勤めた森田芳夫は、1939年から1945年の労務動員について「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」と説明している[81]。

労務者の証言

強制性の証言

崔亮鎬の証言では、兵隊や憲兵による「片っ端」徴集がなされたので面長や面役所の募集係は断り切れなかったという[46]。

うちの面に徴用令が来ると、人間がいないから出せませんじゃすまされなかった。徴用令は軍隊の召集令状と同じ重みがありましたからね。面役所のほうでぐずぐずしていると、兵隊とか憲兵を連れて来て、畑の中で仕事をしていようと、道を通っていようと片っ端でね。面の募集係も巡査も、どこの部落に何人の働き手がおる、どこの家には誰と誰がおるとか、手にとるように分かっていますからね。徴用令が来ても、うちの面にはやるだけの人間がもうおらんからと、嘘のことをいうて追い返すが、そういつまでも駆け引きはできん。病気の両親がおるとか、子供や女房が体が弱いとか、行かれない事情が、それぞれありましたよ。最後には、もうそんなことは理由にはならない。子供であろうと年寄りであろうと無差別でしたから。命令ですから反対はできん。 強制して恨まれるのは面長とか、面役所の募集係でね。結局、もう村の人に顔が立たんから、面役所の何人かは、引率隊長として自分から志願して行きました。北海道や樺太の炭鉱、それに九州の炭鉱よ。うちの面は一二〇〇戸あって、五〇〇人徴用で行きましたからね。炭鉱で亡くなったら名誉の戦死だ。お国のために働いて死んで嬉しいと、心にもないことをいわんといけんやった。日本が戦争勝つために朝鮮人が死ぬる理由なんか一つもありませんからね。(中略)男がごっそり徴用にとられてから、子供ができんで、うちの面では急に人口が減りましてねえ」

徴用志願者による証言

戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬は、当時1,000名の鉱夫募集に対して7,000人の応募者が殺到したために1,000人が選考試験を受けたこと、「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言している[82]。

また、崔基鎬は北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判し、さらに北朝鮮が「日帝に強制連行されたのは750万人」と主張したのを「でたらめ」であるとして、その理由を、当時徴用に応募した者は南朝鮮出身者であったし、北朝鮮地域出身者は1%にも満たないし、大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史調査」では1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人であると反論している[83]。また北朝鮮と朝鮮総連は「強制連行と主張するが、強制連行か、志願か、または徴用に対する応募であったかは、主観的判断による」「国民徴用令に基づく徴用、または挺身隊の志願者が多かったのは明白な事実であって、それらすべてを強制的に連行したというのはおかしい」と批判している[84]。また、崔基鎬は、自身の徴用志願の体験を韓国の学者に語っても、その学者は「新聞で読んだ話は正反対」だとして、知人の実体験に基づく証言よりも、新聞の宣伝を信用するのであると述べている[85]。

人数・総数

当時の在日朝鮮人の全人口

1959年7月1日の韓国政府見解では在日韓人は1939年に961,591人、1944年に1,936,843人[86]。1959年(昭和34年)7月11日の日本外務省発表では在日朝鮮人の総数は1939年末で約100万人。1945年終戦直前には約200万人とした[87][88]。

法務省入国管理局「終戦前における在日朝鮮人人口の推移」によると、労務動員計画が開始された1939年の在日朝鮮人の人口は96万1591人、1940年119万444人、1941年146万9230人、官斡旋による動員が開始された1942年は162万5054人、1943年188万2456人、1944年9月から朝鮮全土で国民徴用令による動員が開始されたこの年の人口は193万6843人[89]。他方、1944年当時の朝鮮における総人口は2591万7881人であり、このうち内地人は71万2583人であった[90]。

法政大学大原社会問題研究所によれば、終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人[91]。また朝鮮人強制連行真相調査団は、2,365,263人だとする[92]。

日本での調査・主張

朝鮮人の労務動員の総数については、政府調査でも確定しておらず、研究者間でも様々な見解がある。

日本への労務動員数としては、

1945年9月の厚生省勤労局「朝鮮人集団移入状況調」で66万7684人とある[93]。この厚生省調査については、日韓両政府が採用している[1][93][94][95]。韓国政府は1961年12月21日の日韓会談で動員数に関する資料「被徴用者数」を提出し[95]、労務者または軍人軍属として日本に強制徴用された韓国人が、その徴用により蒙った被害に対し補償を請求するものであるとし次のように主張した。「太平洋戦争前後を通じ日本に強制徴用されたものは、労務者66万7684人、軍人軍属36万5000人、計103万2684人で、うち労務者1万9603人、軍人軍属8万3000人、計10万2603人が死亡または負傷した。これらにつき、生存者単価200ドル、計1億8600万ドル、死亡者単価1650ドル、計1億2800万ドル、負傷者単価2000ドル、計5000万ドル、総計3億6400万ドルを請求する」[96]。死者数については、労務者1万2603人、軍人軍属6万5000人としている[95]。また韓国政府は被徴用者(軍人軍属を含む)の未払い賃金等の未収金として2億3700万円を請求した[97]。一方、日本政府は1962年2月13日の日韓会談で「朝鮮関係軍人軍属数」を提出[98]、1962年2月23日に「集団移入朝鮮人労務者数」を提出した[1]。労務動員数については、自由募集(1939年9月~1942年2月)14万8549人、官斡旋(1942年2月~1944年8月)約32万人、国民徴用(1944年9月~1945年4月頃)約20万人、総数66万7684人との数値を提示した[1][99]。1939年から1945年までに期間満了で帰還したもの(5万2108人)、不良送還(1万5801人)、逃亡(22万6497人)、死亡・病気・転出等(4万6306人)を除外すれば、終戦時現在数は32万2890人としている[1][100][101]。これらの数値は朝鮮半島から日本内地へ動員された労務動員数であり、朝鮮半島内・樺太・南洋占領地等に動員された朝鮮人労務者は対象外となった。朝鮮人の労務動員について外務省は、「同統計[102]によると、昭和14年から昭和20年までに朝鮮総督府が送り出した朝鮮人労務者数は725,000名[102]であるが、同数は強制度の殆んど加わらなかった自由募集、強制徴用の徴用、およびその中間の官斡旋の三者を含む」としている[100]。また朝鮮から日本内地への移入数について「厚生省勤労局の移入朝鮮人労務者勤労状況報告なるものの昭和19年3月分が存在し、それまでの移入労務者数を、392,997名と記録している。他方、同じく厚生省資料と思われる昭和19年度(但し20年2月まで)朝鮮人労務者移入状況調(当課、森田事務官所有)によれば、昭和19年度の移入総数は254,397名であり、前記労働省資料と合計すれば、昭和20年2月までの労働者移入総数は大体64万程度[41]となり、同年3月より8月の終戦までの移入数を適当に推定すれば終戦までの移入総数は65万ないし70万程度[41]と推定される。上記移入総数は、前記総督府の資料[100][102]である送り出し労務者数725,000名とも大差のないものである。(送り出し総数が日本の移入総数より多数なのは輸送途次の逃亡者の多かったこと、および日本以外の南洋、樺太等に送り出されたものが移入数には入っていないこと等に基因するものと思われる。)またこの意味では昨年末請求権委員会で、韓国側の提示した移入労務者667,684名の数値も必ずしも不正確とはいえないものの如くである」との見解であった[100]。日本政府が主張した朝鮮人軍人軍属数は、陸軍(復員13万4512人、死亡8861人)14万3373人、海軍(復員8万5647人、死亡1万3321人)9万8968人、総計24万2341人としている[98]。被徴用者に対する韓国政府の請求について日本政府は、「被徴用韓人未収金」については、原則「支払う方針とする」とし、「被徴用韓人補償金」については、「徴用自体は、わが国内法上不当ではなく日本人にも徴用したことに対する補償金は支払っていないから、かかる請求は拒否する。(ただし、特別の配慮として引揚者に準じた見舞金の支払は、考慮の余地ありという考え方も一部にあった。)」との見解であった[100][103]。
1947年頃に書かれた大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(通巻第10冊:朝鮮編第9分冊)では日本への労務動員数は72万4787人とある[93]。また、朝鮮内外での国民徴用数を約27万人、現員徴用者は約26万145人、朝鮮内の官斡旋数は約42万人、軍要員は約15万人。
1959年(昭和34年)7月11日の外務省発表では、1939年末から1945年終戦までに増加した在日朝鮮人約100万人のうち、約70万人は自発的渡航と出生による自然増加、残り30万人の大部分は仕事の募集に応じて自由契約にもとづいたものと報告した[87][88]。また、終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げ(1946年までに約148万人が韓国に、1947年の北朝鮮引揚計画では350人が帰還)、残る約42万人は自由意思で日本に残留したのであり、1959年時点で在日朝鮮人約61万1085人のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人と報告した[87][88][104]。

軍務動員については、

厚生省援護局「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」(1962年)に24万2341人とある[93]。
1953年の法務省入国管理局総務課「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」では25万7404人、同「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」に10万6782人とあることから、強制動員真相究明ネットワーク(代表飛田雄一、上杉聡、内海愛子)では合計36万人4186人としている[93]。
日韓会談で日韓双方が主張した軍人軍属数は、韓国政府主張36万5000人[95]、日本政府主張24万2341人[98]であった。

様々な見解

森田芳夫は1955年の著書『在日朝鮮人処遇の推移と現状』で、昭和14年以来の約60万の動員労務者中、逃亡・所在不明が約22万、期間満了帰鮮者,不良送還者その他をのぞくと事業場現在数は動員労務者の半数にもみたなかった」と書いており[105][40]、これに従えば約30万未満となる。

1974年の法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年から1944年の間で1万4514人とされ、同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった[106]。

「(強制連行について)日本政府は、72万人としている」と水野直樹は書いている[107]。ただし、日本政府は公式に72万人と計算を公表していない。
角川書店『角川新版日本史辞典』(1997年)では朝鮮人動員数は「72万人とも150万人とも」と書かれている(中国人は約4万人)[108]。
西岡力は終戦時の在日朝鮮人は約200万人であり、1939年(昭和14年)からの朝鮮人内地移送計画によって終戦までに増加した120万人のうち戦時動員労働者が32万人、計画期間中に自発的に日本へ渡航した朝鮮人労働者とその家族が63万人、官斡旋・徴用で渡航した後に現場から逃走し自由労働者となった者が25万人であると述べている[109]。

80万説
山口公一は、日本や樺太、アジア太平洋地域などへの強制連行は約80万人だが、朝鮮内への動員もなされており、合計485万人に達すると主張している[37]。2014年、強制連行研究者の竹内康人が韓国の新聞聯合ニュースに報告したところによれば、内務省警保局理事官の種村一男の資料から、1939年度から1944年9月までに朝鮮人59万9306人を労務動員の名目で「強制連行」したことが判明した[110]。その内訳は1939年度が7万9660人、1940年度が8万7133人、1941年度が7万5155人、1942年度が12万2262人、1943年度が11万7943人、1944年度4月?9月が11万7152人(以上合計59万9305人)で、これに1944年?1945年に動員30万人の推計を計算すると、約80万人となるとした[110]。これまでの説では66?72万人であったが、それには縁故募集は含まれていなかったとした[110]。

在日韓国人による調査

在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを-我々の歴史を取り戻す運動報告書 –』では、渡日理由について、在日一世1106名から聞き取り調査し、「徴兵・徴用13.3%」「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」となっている(1,106名のうち、渡航時12歳未満だった者は回答に含まず)[111]。
韓国における主張

在日韓僑について李承晩政権は、「300万人が帰国したが、まだ60万人が残っている」として「彼らに正当な権利を与えるべきだ」と主張した[112]。

李承晩政権は1959年7月1日に「在日韓人の北送問題に対する政府の立場」で、1905年から1945年にかけて約200万人の韓国人が日本移住を強要され、1942年から1945年だけでも約52万人が強制労役に従事した。戦後約134万が送還されたが、約65万人が日本に残ったと主張した[86]。日本の外務省はこれに反論した(後述)[87][88]。

大韓民国国定教科書では、650万人の朝鮮人が強制的に動員され、数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされたと記載された[113]。しかし、李栄薫ソウル大学教授は1940年当時の20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人で、16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であるため、この数値は虚構であり、日本帝国による被害が誇張されていると批判した[113][114][115]。
北朝鮮における主張

2002年の日朝首脳会談後、北朝鮮の朝鮮労働党機関誌「労働新聞」は2003年1月31日記事で、強制連行された朝鮮人は840万人と新調査で解明されたと報道した[116]。

また朝鮮新報2003年2月4日記事では、「強制徴兵者」の数は陸軍(志願兵)が1万7664人、陸海軍(徴兵)が24万847人、学徒兵が4385人、陸海軍(軍属)が15万4186、強制徴用者の総数は778万4839人で、これに日本軍慰安婦20万人[117] を足して840万人と計算された[118]。同記事では日本が朝鮮を占領した当初から朝鮮人を野蛮な方法で抑圧、搾取し、さらに朝鮮人労働者に「中世期的な奴隷労働」を強要したことは「類例のない非人間的で反人倫的な犯罪」「人類史に前例のない最大、最悪のもの」「想像を絶する悪行」であると批判した[118]。具体的には朝鮮人労働者は一日に14-16時間の労働を強いられた、朝鮮の青年を戦場で弾除けにした、朝鮮人女性を手当たり次第、慰安婦として連行して性奴隷の生活を強要したと述べた[118]。2005年4月の国連人権委員会でも北朝鮮は同様の主張をした[113][114][119][120]。

こうした北朝鮮の主張について李栄薫は虚構とした[113][114]。

戦後

終戦時の帰国状況

韓国併合の翌年(1911年)、内地在留の朝鮮人は2527人にすぎなかったが、大正中期以後朝鮮における人口増加、鉱工業未発達等のため、低賃金労働者として日本内地に移住する者が増加した。1926年(昭和元年)の在留朝鮮人の人口は14万3798人であったが、1934年に53万7695人、1938年には79万9878人に増加した[89]。さらに、第二次世界大戦中、徴用などの労務動員により著しく増加し、朝鮮で官斡旋による労務動員が開始された1942年には162万5054人に増加し[89]、1945年の終戦時には200万人を超えていたとされている[121]。終戦後、日本が連合国の占領下に置かれてから間もなく集団的な引揚げが開始され、1946年3月末までに一挙に約140万人が内地から南鮮(韓国)に引揚げた[104][122]。次いで、日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)の指令に基づき、1946年3月に残留朝鮮人全員約65万人について帰還希望者の有無を調査したが、その結果、朝鮮への帰還希望者は約50万人であった。しかし、朝鮮は北緯38度線を境に国土が二分され経済再建が思わしくなく、生活の見通しも立たないことから帰還した者は約8万人にすぎず、1950年に勃発した朝鮮戦争により引揚げは事実上終了した。韓国政府発表によれば、1949年末までに正式登録された引揚者数は141万4258人としている[123]。北鮮(北朝鮮)への引揚げは、佐世保より1947年3月に233人、6月に118人、計351人が帰還した[124]。1946年6月、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書「日本への不法入国の抑制」により不法入国者の収容所が設けられ、以後1950年11月までに第二次世界大戦後の不法入国者約4万6000人が南鮮(韓国)に送還されている[125]。1950年10月に出入国管理庁が設立され、1950年12月から日本の出入国管理法令に基づいて強制送還業務が実施されるようになり、これ以後1964年までに大村入国者収容所・川崎入国者収容所浜松分室に収容中の第二次世界大戦後の不法入国者や刑余者など2万2192人が韓国に強制送還された[126]。1959年12月からは北朝鮮への帰還事業が実施され、1984年までに9万3340人(日本人、中国人、国内仮放免中の朝鮮人を含む)が北朝鮮に帰還している[127][128][129][130]。法務省統計によれば、1952年から1964年までに帰化(日本国籍取得)した朝鮮人は3万3897人と記録されている[131]。1964年4月1日現在、在留朝鮮人の総数は57万8572人であった[132]。

朴慶植によれば、日本の敗戦によって強制労働させられていた朝鮮人労働者は先を争って帰国した[133]。ノンフィクション作家の金賛汀は1945年8月15日を「強制連行、強制労働からの解放の日」であったとした[134]。金はさらに「すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ」が、「日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人が集結することを禁止した。(中略)事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。」「強制連行者の多くは、この時期に帰国した」と書いている[134]。金賛汀はまた、帰国する朝鮮人の未払い賃金を、朝鮮総連が各企業に請求して徴収したが、そのほとんどは労働者個人には渡らず、朝鮮総連の活動資金となり、また朝鮮総連から日本共産党にも渡された、と述べている[135]。

在日朝鮮人帰還事業と強制連行論

詳細は「在日朝鮮人の帰還事業」を参照

朝鮮戦争休戦後、1959年から北朝鮮への在日朝鮮人の帰還事業が推進されるようになった。これに対して韓国は「北送」として抗議した[136]。外務省は朝鮮人渡来等に関する外務省発表(1959)を発表した[136]。

韓国による強制連行論

李承晩政権は1959年7月1日に「在日韓人の北送問題に対する政府の立場」で、日本政府に対して以下のことを主張した[137]

「日本が植民地として韓国を占領した1905年から1945年の期間中、約200万人の韓国人が日本に移住することを強要された」
「1942年から1945年に至る間でだけでも約52万人の韓国人が日本に連れて行かれ、軍需工場で強制労役に従事した。」
「1939年に961,591人だった彼ら在日韓人は、1944年には1,936,843人に増加した。1945年日本が降伏した後約134万名の韓国人が現在の大韓民国の地に送還されたが、彼らは過去数年間の強制労働の代価や財産上の損失、または彼らが受けて来た不当な待遇に対して何の補償も受けられないで送還されたので、残る約65万人の韓国人は日本に残る道を選んだ」。
「在日韓人は移住を強要され、また強制労働者として利用されただけでなく、日本で出生した日本人と同等の地位を付与しなかったのに、日本は彼らを日本国民として看做した」「1952年日本が独立を回復した後に、彼らは特別に優待されなければならなかったのにも拘わらず、日本政府は却って雇用、教育、厚生、法律適用、一般社会生活その他、すべての面でわざと差別待遇をした」
「日本は1923年の東京大震災の時、数十万の韓国人を大量虐殺した」
「罪名も裁判もなく、またいつ釈放されるという希望も与えず、数多くの韓国人を強制収容所に閉じ込めて置いた」

日本外務省による反論

このような「現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるという主張」に対する反論として、外務省は1959年(昭和34年)7月11日に「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」を発表した[87][88]。この朝鮮人渡来等に関する外務省発表では「第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する」と明記され、実情として以下のことが記載されている[88]。

1939年末日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人。1945年終戦直前には約200万人に達した。この間に増加した約100万人のうち、約70万人は「自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加による」。「残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したもの」であった[87][88]。
元来、国民徴用令は朝鮮人(当時は日本国民)のみに限らず、日本国民全般を対象としたもので、日本内地では1939年7月に施行されたが、「朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施」され、1945年3月(関釜間の運航が杜絶したため)までの短期間であった[87][88]。
終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げた。

1945年8月から1946年3月までに、帰国を希望する朝鮮人は日本政府の配船によつて、約90万人、個別的引揚げで約50万人、計約140万人が朝鮮へ引揚げ、また復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた[87][88]。
1946年3月、連合国最高司令官の指令に基づき残留朝鮮人約65万人について帰還希望の有無を調査。帰還希望者は約50万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものは約8万人にすぎず、「残余のものは自から日本に残る途をえらんだ」[87][88]。
1946年3月の米ソ協定、1947年3月連合国最高司令官の指令により北朝鮮引揚計画がたてられ、約1万人が申し込んだが、実際に帰還したのは350人だった。
朝鮮戦争中は朝鮮南北いずれへの帰還も行わなかつた。休戦成立後南鮮へは1958年末までに数千人が南鮮へ引揚げた。

北朝鮮へは香港経由等で数十人が、自費で「北鮮へ引揚げたのではないかと思われる」[87][88]。

このように記載したあと、「こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である」とし、1959年時点での在日朝鮮人の総数は約61万で、外国人登録票について調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきたものは245人であったとした[87][88]。さらに、「終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記245人を含みみな自分の自由意志によつて日本に留まつた者また日本生れのものである。したがつて現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もない」と結論した[87][88]。

1959年の在日朝鮮人の来住特別内訳表[87][88]。

登録在日朝鮮人総数 611,085人

所在不明 13,898人(1956年8月1日以降登録未切替)
居住地の明らかなもの 597,187人
    終戦前からの在留者 388,359人
        1939年8月以前に来住したもの 107,996人
        1938年9月1日から1945年8月15日までの間に来住したもの 35,016人
        来住時不明のもの 72,036人
        終戦前の日本生れ 173,311人
    終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人

外務省発表への批判

外務省の見解については発表直後から在日コリアンによって批判された[136]。朝日新聞1959年7月14日記事によれば、朝鮮総連が具体的な数字を挙げて反論の声明を出した[136]。

朴慶植[138] は、外務省発表が史実に目を向けていないことに大きな憤りを感じて事実発掘の研究をはじめ[139]、1965年『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を発表した。この本は、強制連行という言葉が広がるきっかけになった[138]。朴によれば、朝鮮人の強制連行は日本政府企画院が策定した「労務動員計画」に基づき実施された。朝鮮人に対しては1944年8月まで内地(日本)人と異なり国民徴用令は適用されなかったが[140]、「企業による募集形式で強制連行された」と指摘している[141]:50。鄭大均首都大学東京教授によれば、朴慶植によって初めて「強制連行」という言葉が日本軍による徴用に限定して使われた[138]。『朝鮮人強制連行の記録』には付録として北朝鮮の平壌での「朝鮮民主法律家協会の声明」(1964年3月20日)が添付されている[138]。

東京大学大学院准教授外村大は「在日コリアンの大部分が強制連行によって日本に来たとする主張は誤りである」が[136]、この外務省発表には「労務動員の実態把握の誤謬がある」と批判している。外務省資料は、徴用(国民徴用令適用による徴用)以外の労務動員についてあたかも問題なしに進められ朝鮮人が望んで日本にやってきたかのように「『自ら内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加』が約70万人」と記録しているが、1939年以降の徴用ではない「募集」「官斡旋」と呼んでいた制度も「自由契約」とは到底言えないケースが多数見られており、それは、朝鮮総督府の事務官が『大陸東洋経済』1943年12月1日号において「労働者の取りまとめは…半強制的にやっております」と述べている事からも確認できるのだという。外村は2010年の論文で「戦時期の動員計画に基づく日本の事業所への朝鮮人の配置は徴用によってのみ行われたわけではない。すでに述べたようにそれ以前の「募集」「官斡旋」によっても行われたのであり、それらの場合でも暴力性を伴う労働者の充足=強制連行と呼ぶにふさわしい実態があった。在日コリアンのルーツのどれだけが強制連行と関係しているのかを論じるのであれば、徴用によって日本に来た朝鮮人の外国人登録者の数字のみを挙げて云々するではなく少なくとも「募集」「官斡旋」によって日本に来た者でその後も居住している朝鮮人の数字を含めて考えなければならない」と主張している[142]。さらに「外務省資料は「朝鮮人徴用労務者」の日本内地への「導入」が「1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運行が途絶したためその導入は事実上困難となった)までの短期間」としているが、これも間違いであり企業の文書や当時の新聞史料から1945年3月以降も徴用された朝鮮人の日本内地への送り出しが続けられていることが確認できる」としている[136]。なお、外村は「強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」と主張している[143]。

戦後補償問題

日韓基本条約・日韓請求権協定

詳細は「日韓基本条約」「日韓請求権協定」「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照

日本と韓国は1965年の日韓基本条約と[要出典]日韓請求権協定によって日韓請求権問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認した。

対日請求の再燃と賠償請求裁判

詳細は「徴用工訴訟問題, 新日鉄株金強制徴用訴訟/朝鮮語版ページ」を参照

韓国は1965年の請求権協定によって対日請求権を放棄したとしてきた。しかし、1991年8月27日、日本の参議院予算委員会で当時の柳井俊二外務省条約局長が「(日韓基本条約は[要出典])いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ」と答弁。それを受けて、韓国では1997年に朝鮮人強制連行に関連して賠償請求訴訟がはじまった[144]。その後、原告敗訴が続いた[144]。

2002年10月には、日本弁護士連合会が小泉政権に朝鮮人強制連行問題の真相究明と被害回復措置を講じるよう勧告した[145]。

また、朝鮮人強制連行問題は未解決であるとする強制動員真相究明ネットワークが組織され、日韓政府へ働きかけて行った。

2005年の盧武鉉政権以降、対日請求が再燃したが、2009年、韓国政府は日韓請求権協定によって完了したと確認した[146]。

しかし、さらに2012年5月、韓国最高裁(大法院)が「個人請求権は消えていない」と判定し、三菱重工業や新日本製鉄(現新日鉄住金)など日本企業は、徴用者に対する賠償責任があるとした[144][147][148]。

2013年2月、富山市の機械メーカー不二越による戦時中の動員に対して、強制動員被害者13人と遺族が計17億ウォン(約1億5000万円)の賠償を求める訴訟をソウル中央地裁に起こした[148]。

2013年3月、日本製鐵(現日本製鉄)の釜石製鉄所(岩手県)と八幡製鐵所(福岡県)に強制動員された元朝鮮人労務者ら8人が、新日本製鐵(現日本製鉄)に8億ウォン(約7000万円)支払いを要求してソウル中央地裁に損害賠償請求訴訟をおこした[148]。2013年7月10日、ソウル高裁は判決で新日鉄住金に賠償を命じた[149]。その後、新日鉄住金は上告し[144][150]、菅義偉官房長官は「日韓間の財産請求権の問題は解決済みという我が国の立場に相いれない判決であれば容認できない」とコメントした[144]。

しかし、前記柳井局長答弁にあるように協定自体は個人の請求権を国内法的な意味で消滅させるものではない。1993年5月26日の衆議院予算委員会における丹波實外務省条約局長答弁や[151]、2003年に参議院に提出された小泉総理の答弁書によれば同協定を受けて日本国内で成立した措置法によって請求の根拠となる韓国国民の財産権は国内法上消滅した[152]。実際に日本の裁判所で争われた旧日本製鉄大阪訴訟において、大阪高裁は2002年11月19日の判決で協定の国内法的措置である財産措置法による財産権消滅を根拠に一審原告の控訴を棄却している[153]。この裁判はその後上告を棄却され確定した。大阪高裁が決め手とした財産措置法は日本の国内法であるから、日本法が準拠法として採用されない限り韓国の裁判所を拘束しない[154]。そのため、大阪高裁で決め手となった財産措置法は韓国の裁判所では争点となっていない[153]。

その後、2018年10月30日、韓国大法院は個人的請求権を認めた控訴審を支持し、新日鉄住金の上告を退けた[155]。大法院判決多数意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれないと判断した。これに対し、3人の裁判官の個別意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれるが、両国間で外交上の保護権が放棄されたに過ぎないとした。この中で現在の日本政府の見解を肯定した日本の2007年最高裁判決の事案で問題となったサンフランシスコ平和条約についても言及し、個人損害賠償請求権の放棄を明確に定めたサンフランシスコ平和条約と「完全かつ最終的な解決」を宣言しただけの請求権協定を同じに解することは出来ないとしている。また、2人の裁判官の反対意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれ、かつ、請求権協定によって日韓両国民が個人損害賠償請求権を裁判上訴求する権利が失われたとした。その意見によれば、個人損害賠償請求権自体は消滅していないものの、日韓請求権協定によって外交上の保護権が放棄されただけでなく、日韓両国民が個人損害賠償請求権を裁判上訴求する権利も制限されたため、個人損害賠償請求権の裁判上の権利行使は許されないとのことである[156]。これに対して安倍首相は衆議院本会議において「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。この判決は、国際法に照らしあり得ない判断だ。日本政府として毅然として対応していく」と答弁している[157]。

2018年11月29日には同じく新日鉄住金に対して別の徴用工の遺族3人が提訴した訴訟の第二審判決が下される予定である[158]。

歴史認識問題

朝鮮半島における労務動員のうち、朝鮮半島外部への動員に着目し、これを「強制連行」と定義する用法が1960年代半ばに出現、1970年代から2000年代初頭にかけてマスコミ報道、教育現場などでも盛んに使用された。この定義・用語には疑問が提示され、現在も議論が続いている。

「朝鮮半島からの労務動員(動員形式別;1942年度?1944年度)」,「道内動員の内訳(動員形式別)」より[159] 動員形式 動員先 1942年度 % 1943年度 % 1944年度 %
道内動員 朝鮮のみ 333,976 64.1 685,733 77.7 2,454,724 82.9
(道内動員内訳) (道内官斡旋) 492,131
〃 (勤報隊) 1,925,272
〃 (募集) 37,321
官斡旋 朝鮮 49,030 9.4 58,924 6.7 76,617 2.6
〃 日本 115,815 22.2 125,955 14.3 85,243 2.9
〃 その他 – – – – – –
徴用 朝鮮 90 0.0 648 0.1 19,655 0.7
〃 日本 3,871 0.7 2,341 0.3 201,189 6.8
〃 その他 135 0.0
軍要員 朝鮮 1,633 0.3 1,328 0.2 112,020 3.8
〃 日本 300 0.1 2,350 0.3 3,000 0.1

  • その他 16,367 3.1 5,648 0.6 7,796 0.3
    合計 – 521,217 100.0 882,927 100.0 2,960,244 100.0

「強制連行」の呼称をめぐる議論

「強制連行#概念・定義」および「在日韓国・朝鮮人#徴用・強制連行と渡航」も参照

日本による朝鮮半島への戦時動員のうち、主に労務動員の各種形式による「内地」への動員[注釈 5]に対し、「集め方が強制的であった」として「強制連行」という呼称[12][160]が1970年代から2000年代初頭にかけて盛んに使用された。しかし、この「強制連行」という呼称には疑義が出されており、在日朝鮮人運動史研究家の金英達は、「定義が確立しておらず、ひとによってまちまちな受け止め方がなされている」「もともと、強制連行とは、『強制的に連行された』という記述的な用語である。そして、強制や連行は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられていることに混乱の原因がある」と指摘している[7]。

戦時動員・労務動員との関連

金英達は、日本語の文脈で「強制連行」と記述する場合、ほとんどの場合は国家総動員法を制定した戦時体制下の大日本帝国政府が朝鮮半島で行った労務動員を指して使われる言葉となっていると指摘している[8]:61[161]:32。金は、戦時中の朝鮮人の強制動員については「戦時動員」を使い、そのなかの具体的な暴力的なケースを「強制連行」とすることを提案している[7]。

また、鄭大均も朝鮮人の労務動員を「強制連行」と呼ぶのは、「日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎている」として、当時の朝鮮人は大日本帝国の国民であり、日本人男性が戦場に送られていたのを代替するものとして朝鮮人の労務動員があったとしている[162]。

これらのほか、山田昭次立教大学名誉教授は1980年代には「朝鮮人強制連行」と論文で記していたが[163]、2005年の共著『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)で「朝鮮人戦時労働動員」と呼ぶこととした[164]。ただし、これは「強制連行」という言葉が攻撃されたからではなく、強制連行というと強制労働、民族差別の問題に目を向けなくなる恐れがあるためと述べている[105]。山田は「戦時動員」には労働動員と軍事動員の二つがあり、同書ではこのうち軍事動員を除外した労働動員、それも日本内地に限定しこれを「朝鮮人戦時労働動員」と呼び、「強制連行・強制労働・民族差別」の三つの問題点を含めるとした[164][105]。

従軍慰安婦問題を含む一連の“強制連行”という言葉が広く紹介されるようになったのは朴慶植の著作である『朝鮮人強制連行の記録』(未来社1965)によってである。

的場光昭は自著『反日石碑テロとの闘い』(展転社)で、朴の著書において南方へ強制連行されたという人物について、北海道新聞が記事で紹介した総督府に残る資料と照合した結果、当該人物は干ばつによる飢饉を逃れて妻子とともにパラオに移住したことが判明したとして、実態は朴の著書にあるような昼夜分かたず官憲が男たちを狩り集めて連れ去ったという内容とは異なると述べている。

人権用語として

朝鮮人強制連行真相調査団の洪祥進は「朝鮮人強制連行」は、歴史用語としてでなく人権用語になったと主張した[145]。

事典・辞書の記載

百科事典等

平凡社の世界大百科事典第2版の「強制連行」(田中宏執筆)では「1937年に日中全面戦争に突入して以降,労働力や軍要員の不足を補うために,日本は国策として朝鮮人,中国人を日本内地,樺太,南方の各地に投入したが,駆り集め方が強制的であったためこう呼ばれる。」とし、「38年4月には国家総動員法が,翌年7月には国民徴用令が公布され,日本の内外地における労務動員計画がたてられた(徴用)。1939年の労務動員計画数110万のうち8万5000は朝鮮人に割り当てられ,各事業主にその狩出しを認可し,42年からは国家自身の手になる〈官斡旋〉に移行した。」とある[165][166]。

丸善エンサイクロペディアでは「(中国人1943-45、朝鮮人1939-45)第二次大戦中、中国人、朝鮮人を強制的に軍需動員したもの。総力戦体制の一環として、中国人労働者、朝鮮人労働者内地移入に関する件が各々閣議、朝鮮総督府により決定された」と記述する。
小学館の日本大百科全書には「朝鮮人強制連行」という項目がある(朴慶植執筆[要ページ番号])。「朝鮮総督府の官公吏・警察官および会社労務係らが一体となって暴力的に各事業所に強制連行した。それらは割当て動員数を満たすため昼夜を分かたず、畑仕事の最中や、勤務の帰りまでも待ち伏せしてむりやりに連行するなど「奴隷狩り」のような例が多かった。(中略)陸軍慰安婦として数万人の女性が女子挺身(ていしん)隊の名のもとに狩り立てられた。」と記載している。

角川書店『角川新版日本史辞典』(1997年)には「アジア太平洋戦争時に日本政府が朝鮮人や中国人に強制した労務動員を指して、一般に使われる。戦時統制経済下で、政府は1939年(昭和14年)に労務動員実施計画綱領を作成し、不足する労働力を「移入朝鮮人」で補おうとする方針を立てた」「連行先は日本国内だけでなく、樺太、東南アジア、太平洋諸国と広範囲におよび、炭坑・土木工事など、危険な重労働につかされたため死傷・逃亡が多かった」と書かれている[108]。

近現代史研究者外村大[167] は「辞典によっては朝鮮人を日本軍の兵士や軍属、「従軍慰安婦」としたことも強制連行として説明しているケースもある。このような記述はこれまでの歴史研究の成果を反映したものである」と書いている[168]。

辞書の記載

岩波書店の広辞苑は4版以後で「朝鮮人強制連行」として記載が登場する[169][170]。

【朝鮮人強制連行】
(6版2008年1月)日中戦争・太平洋戦争期に100万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の慰安婦とされた。

谷沢永一と渡部昇一は5版の記載を前提に、これは史実と異なる記述でありイデオロギーにもとづく記述は辞書に値しないと批判し、岩波書店は訂正と謝罪を行うべきであると主張している[171]。

辞典に言及した1997年の政府答弁

1997年3月12日の参議院予算委員会において、小山孝雄議員の質問に対して政府委員である文部省中等教育局長辻村哲夫は次のように答弁している[172]。

一般的に強制連行は国家的な動員計画のもとで人々の労務動員が行われたわけでございまして、募集という段階におきましても、・・・任意の応募ということではなく、国家の動員計画のもとにおいての動員ということで自由意思ではなかったという評価が学説等におきましては一般的に行われているわけでございます。(中略)例えば、ここに国史大辞典を持っておりますが、募集、官あっせん、徴用など、それぞれ形式は異なっていても、すべて国家の動員計画により強制的に動員した点では相違なかったというような、歴史辞典等にも載せられているところでございまして、私どもはこうした学界の動向を踏まえた検定を行っているということでございます。

戦時中の労務動員を「強制連行」とする説

外村大は[173]、「内地」等への「強制連行」について、「日本政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め日本の行政機構が役割を担った。動員の形態は年代により「募集」「官斡旋」「徴用」と変わったが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が朝鮮半島から日本内地・樺太・南洋占領地等に送り出された。内務省が調査のため1944年に朝鮮に派遣した職員[174]は、動員の実情について「拉致同様な状態」と文書で報告している」とする。

西成田豊も1939年7月に厚生次官・内務次官より地方長官あてに発出された「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル件」を受けて朝鮮総督府により制定された「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」が運用開始されたことを朝鮮人強制労働の始まりと定義し、『ここでいう強制連行とは、労働市場の権力的組織化による「帝国」国家が介在した朝鮮人の強制的「移入」をさす。(中略)朝鮮人強制連行政策は、朝鮮人の「内地」渡航を強制連行という権力的な募集形態に一元化するという意味を有していたといわなければならない』としている[175]。

批判

戦時中の労務動員を「強制連行」とする説への批判

西岡力は斡旋・徴用で渡航した朝鮮人労働者は、現場を逃走し条件のよい飯場に移動するケースもあり、それは「自由労働者」と当時呼ばれた[109]。また、日本政府は移送計画中も密航者を取締り、送還することもしていたが、西岡はこの朝鮮への送還こそ「本当の強制連行だ」と述べた[109]。

鄭大均は、日本人の15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子も徴用されたが、それは強制的なものであったし、応じない場合には「非国民」として制裁を受けたのであって、「強制連行などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本の加害者性を強調する態度はミスリーディングといわなければならない」と述べた[162]。鄭大均は2006年にも労務動員や徴用で渡日した朝鮮人を「強制連行」とするのは「後世の発明」であって、むしろ当時の渡航朝鮮人の多くは渡航を選択したとして、渡航をすべて強制連行のせいにするような議論はむしろ渡航した朝鮮人の品位を傷つける行為であると批判した[176]。また「強制連行」という言葉が1980年代の歴史教科書問題などを背景に大衆化させたのは日本人の左派であり、彼らは「贖罪意識を自らの使命とするような人々であった」と論じている[176]。山田昭次は鄭大均による強制連行批判を「無理解」「誤解」として批判したが[177]、これについて鄭大均は「有効な批判にはなりえていない」と反論した[176]。

「現在の在日は強制連行の子孫」説への批判

田中明は『現代コリア』1991年1月号で「戦時中、徴用などという強制によって多くの朝鮮人が日本に連れてこられたことは事実である」としながら、戦後、自由を回復したあと日本に居住した在日韓国・朝鮮人が、自分たちで選んだ行為をなかったことにして、自分たちが日本に居る理由を「強制連行の結果」とすることは御都合主義であると批判している[178]。田中は「自分たちは戦前、日本人にやられたまま、戦後の45年をも送ってきた哀れな存在」だとみなすことは、「みずからを貶めている」のであり、自己責任において決断と選択を繰り返す事が主体的に生きることであるが、「強制連行」論者は自分たちを「責任負担能力のない被害者」にしたてあげることで、それが「なんでもひとのせいにする韓国人」という不名誉な通念を補強していると批判した[178]。

小倉紀蔵は、植民地時代に日本に来た朝鮮人のすべてを強制連行の結果とみなすことは「甚だしい歴史の改竄」であり「政治的な言説以外の何ものでもない」と批判し、教育の機会や経済的成功を夢見て日本へ渡航したと論じている[179]。

戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性について

研究・分析

木村, 2005は、朝鮮人元労務者の証言・回顧を分析するなかで、1944年9月の「一般徴用」開始以前に動員されているはずの人々が自身の動員を「徴用された」と回顧していること、また量的に多数を占めていたはずの「官斡旋」への言及がほとんど見られない点に気づき、次のように分析している。

ここではこの点を知る為の具体的資料として比較的良く知られた、朝鮮人強制連行真相調査団編『強制連行された朝鮮人の証言』(明石書店、1990年)から見てみることにしよう。この資料には、都合、23名の「体験者」の証言が挙げられている。これらの事例は、目次を見ると、12件13人の「強制連行」に関する事例と、10件10人の「強制労働」に関する事例とに区分されている。

「強制連行」に関わるとされる10件の事例の概略は<表9>のようになる。一見してわかることが幾つかある。第一は、ここで挙げられている事例においては、正確な期日が明らかでないものを含めて、全てが1944年9月の一般徴用開始以前の時期の動員であること、第二に、にも拘らずその多くが、自らが「徴用」により日本へと動員されてきた、と回想していることである。『日本人の海外活動に関する歴史調査』が述べるように、1944年9月以前には、一般労務に対する徴用は未だ実施されておらず、その範囲は、「軍関係方面労務」に狭く限定されていた。このことは既に挙げた統計的数値にも明確に現れている。
第三に注目されることは、これまでの分類においては重要な地位を占め、就中、1942年から43年までの間の朝鮮半島から内地に対する人的動員において圧倒的な比重を占めた筈の、「官斡旋」に関する直接的言及が見られないことである。(中略)このような問題を考える上で、最初の手がかりとなるのは、文献資料においては、朝鮮半島における総動員において重要な比重を占める筈の「官斡旋」に対する直接的言及が、どうして『強制 連行された朝鮮人の証言』に収録された「体験者」の回想においては出てこないのか、ということであるかも知れない。既に述べたように、朝鮮半島において国民徴用令による一般徴用が開始されたのは、1944年8月閣議決定を経て後のことであり、それ以前における徴用は、狭く「軍関係労務」に限定され、その数も朝鮮半島から内地への動員全体に対して数パーセントの比重を占めるだけに過ぎなかった36。徴用先等の性格から見て、『強制連行された朝鮮人の証言』に収録された事例においては、これ以前に内地へと既に移住し、内地にて徴用を受けた事例を除いては、これに該当すると思われる事例は極めて少ない。
このような資料と「証言」の両者を整合的に理解する唯一の方法は、そもそも当時の朝鮮半島 の人々の意識の中には、「官斡旋」という独自の分類は存在せず、「官斡旋」と「徴用」を一括りにして、「徴用」として理解されていたのではないか、ということであろう。そのことは、「官斡旋」とは異なり、「募集」の方は様々な資料37において比較的明確な形で出ていることによって裏付けられるかかも知れない。(pp.334,337)

証言

以下の3例は、戦争前から渡日していた自身と、労務動員されて来た人々を区分していた事例。文中「成合」は、大阪府高槻市北部の地名のほか、同地で建設されていた地下司令部/地下工場タチソの建設現場もさす。

--本などによると、かなり虐待され、殺されたり、ひどいようですが。
朴さん 炭鉱地帯は特にひどい。それは、あの当時の常識や。炭鉱や鉄道敷き、ダム工事なんかに行かされた人間はかわいそうや。成合ではそういうことはなかった。炭鉱ではたこ部屋といって、監獄よりまだひどい。徴用以外でも自ら来た人間でも、そういう目にあっている。ここは3交代だから時間内きちっと働いたらあとはいい。ただ落盤事故で3人程死んだけど。(中略)徴用で連れてこられた人はすぐ帰国して行った。だから、今の成合に住んでいるものは、戦争が始まる前から住んでいた者がほとんどだ。--朴昌植「差別は今も変わらへん」,p.49

成合には徴用で連れてこられた人間も何人かいるけど、朝鮮での生活は苦しかったので、わしのように徴用の前に来た人間も多い。--宋慶熙「これでも自分たちの学校や」,p.51

私が成合きてみたらね。山という山に穴ばっかりや。トンネルの中で兵隊に仕事さした訳や。私らは,それを掘るために働かされた訳や。私はしなかったけれども,ここの成合は,徴用でひっぱられてきて働かされた朝鮮人たちの飯場や。--金盛吉「仕事いうても何もあらへんねん」,p.51

以下は、戦時動員の現場で働いたことを「徴用」と称している例。

姜さん佐賀県から逃げてきたあくる年に、ここへあがってきた。19年(昭和)11月や。成合に来たのは、だまされてきた。「大阪のどこか、ええとこあるから行こや」と言われた。こっち(自分)はまだ若いから、ええとこと聞いたらどこでも行く。それで又だまされてここへきたわけや。
--きてみたら、ここは軍事工場でしたか。
姜さん ああ、そうや。(中略)最初、徴用に来た時、日本語全然知らんかった。--姜明寿「ハラへってどうにもならん」,p.50

日本の教育における問題

センター入試出題事件

2004年の大学入試センター試験の世界史B第1問の問5で、『日本統治下の朝鮮で、第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた。』を正しい選択肢とする出題が行われた[180]。

これに対して、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会は、北朝鮮の根拠のない主張に通じる出題をしたとして採点から削除するよう要求し、また新しい歴史教科書をつくる会[181] が、①戦時中に強制連行を指令した文書を示せ②強制連行は全部の教科書にのってはいないはず、との質問をしたが、大学入試センター側は「①入試問題は教科書に準拠して作成するが、当センターでは史実に基づいているかどうかは検討していない②すべての教科書に載っていることだけをもとに試験問題をつくることは不可能。多くの教科書に記載されていれば出題してかまわない」と回答した[182]。

受験生の中には「第二次大戦当時の言葉としてはなかった朝鮮人の『強制連行』が、確定的史実として出題され思想の自由を奪われた」として、大学入試センターに対し、この問題を採点から除くことを求める仮処分命令申し立てを東京地方裁判所に行なった者も出た[183]。なお請求は2005年10月2日、棄却決定が出ている(つくる会のサイトには未掲示)。

2004年2月26日、文部科学省高等教育局は自由民主党の議員連盟・日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会の総会にて、問題作成者の氏名を公表する方針を示した[184]。これに対して史学会は反対した[185] が、問題出題者が自らネット上を含めて論文などを発表した[186][187]。

朝鮮人慰安婦問題と強制連行説

詳細は「日本の慰安婦問題」を参照

国家総力戦の様相を呈した第二次世界大戦では、日本でも女性や子供が戦時体制の為に挺身隊として動員され、動員対象地も内地から当時大日本帝国の一部であった朝鮮半島や台湾へと広がった。

挺身隊と慰安婦は違うものの、正義連の前身である「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は挺身隊問題を扱うはずなのに、挺身隊と慰安婦を混同させていたこと、元慰安婦らを利用してきたこと、日本からの謝罪と賠償を妨害してきたことを告発されている。寄付金の不正流用などの疑惑が続出している前理事長から国会議員となった尹美香は「罪を問われ、罰を受けるべきだ」と非難されている[188]。

吉田清治と挺対協

戦後の1977年以降、元軍人を自称する吉田清治は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語った。しかし1992年には様々な調査によって否定されるようになり、93年の韓国の研究家の著作者である『証言・強制連行された朝鮮人慰安婦たち』でさえその証言の信憑性が疑問視され[189]、1996年には吉田が自ら証言の虚偽を認めた[190]。

秦郁彦は『日本陸軍の本・総解説』(1985年、自由国民社)で千田夏光の著作『従軍慰安婦』の紹介を書き、そこで「昭和期の日本軍のように、慰安婦と呼ばれるセックス・サービス専門の女性軍を大量に戦場に連行した例は、近代戦史では他にない。その7・8割は強制連行に近い形で徴集された朝鮮半島の女性だったが、建前上は日本軍の「員数外」だったから、公式の記録は何も残っていない。・・・・他に類書がないという意味で貴重な調査報告といえよう」と書いていた[191]。しかしその後の調査で秦は「問題は・・・女子挺身隊と慰安婦を混同したり・・「半強制・強制狩り出し」が横行したかのような書き方をした点にあった」と千田夏光の調査力を批判した[192]。また、慰安婦問題の最大争点は「官憲による組織的な強制連行があったか否か」であったとし、これについて吉見義明や韓国挺身隊問題対策協議会の鄭鎮星の意見を例に出して、「学術的レベルでは「強制連行はなかった」とする見方が浸透しつつあるので、運動家たちは次に示すような論拠で再構築をはかろうとしている。」として、「(1)未発見文書に期待」「(2)監督責任を問う」「(3)強制連行の定義の拡大」「(4)挙証責任の転嫁」を挙げている[193]。

挺対協結成以降

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹貞玉は1990年「挺身隊取材記」をハンギョレ新聞に発表し、朝鮮人女性が挺身隊の名目で慰安婦として動員されたとして日本政府に真相究明と謝罪を求める声を挙げた[194]。これを受けて日本社会党は国会で責任を追及し、政府は1990年6月6日の第118回国会参議院予算委員会において「徴用の対象業務は国家総動員法に基づきます総動員業務でございまして、法律上各号列記をされております業務と今のお尋ねの従軍慰安婦の業務とはこれは関係がないように私どもとして考えられます」と、慰安婦の募集は国家総動員法業務とは無関係であると答弁していた[195]。また、第120回国会でも、業務を担当した厚生省や労働省などからは資料は発見されなかったとも説明した[196]。

こうした日本政府の答弁に対して、尹貞玉らに率いられた韓国の女性団体は「“天皇”直属の日本軍の要請で慰安婦用に『朝鮮人女子挺身隊』の動員を命ぜられ」「従軍慰安婦を動員する業務が徴用の対象業務に含まれていたことは明らか」[197] と反発した。1991年には、この答弁をテレビで見て憤激した金学順が被害者として初めて名乗り出て「強姦」された体験などを語った。これを朝日新聞は、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」の一人が名乗り出た」と報じた[198]。1991年12月には、日本政府を相手に損害賠償裁判を起こした[199]。1993年に挺対協は「当時の国際条約に規定されているように[詐欺または、暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段]による動員を強制連行だと把握するならば、本調査の(慰安婦)19人の場合は大部分が強制連行の範疇に入る。」と主張した[200]。

政府調査と河野談話

「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を参照

日本政府は、関係省庁における関連文書の調査、米国国立公文書館等での文献調査、さらには軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析等の一連の調査を行ったが「強制連行」に該当する事例は確認できなかった[201][202][203][204][205] が、韓国政府の意向・要望について受け入れられるものは受け入れ、受け入れられないものは拒否する姿勢で、当時の官房長官河野洋平の名で談話を発表した(河野談話)。この談話の中には強制連行という言葉はないが、河野が記者会見で強制連行の事実があったという認識なのかという質問に対して 「そういう事実があったと。結構です」と述べている。また、韓国政府は河野談話を受けて「日本政府が今次発表を通じ、軍隊慰安婦の募集・移送・管理等において全体的な強制性を認定した」と論評した[205]。

日本軍慰安婦強制連行説

林博史は、オランダ人女性を強制連行して慰安婦にしたスマラン事件以下インドネシアの8事例や中国慰安婦訴訟の2004年12月の東京高裁判決(最高裁判決は上告棄却)から「強制連行は事実である」とのべている[206]。

林は日本軍による慰安婦の「強制狩り出し」はハーグ陸戦条約43条および46条への違反であり、日本が植民地化していた朝鮮半島及び台湾、占領した中国、フィリピン、インドネシアなどでの「未成年者の強制連行」について婦人児童売買を禁止する国際条約違反であり、また朝鮮半島における就業詐欺や騙しによる慰安婦の徴集を戦前日本の刑法226条に違反する誘拐事件であると主張している[207]。また、朝鮮半島での慰安婦業者は就業詐欺行為を行っていたが、警察と軍はそれを黙認し、「軍と共謀して慰安婦集めも組織した」。また警察文書に「内密に」「何処迄も経営者の自発的希望に基く様取運」ように指示している事から[208]、「軍と警察が共謀して慰安婦を集めているが、それがばれると困るので、業者が勝手にやっているような振りをした」のだと解釈している[209]。ゆえに慰安婦制度は、「国家による大規模な犯罪」であり、それは現在の人権の水準に照らしてそうであるだけではなく、「当時の国際法に照らしても国内法に照らしても犯罪だ」と述べている[210]。

朝鮮人慰安婦強制連行説への批判

ソウル大学名誉教授の安秉直は、韓国挺身隊問題対策協議会と共同で3年間に渡って日本軍慰安婦について調査をおこなった[211] 結果、強制連行があったとする一部の慰安婦経験者の証言はあるが、客観的資料は一つも見つからなかったとした[212]。また、2007年3月に「私の知る限り、日本軍は女性を強制動員して慰安婦にしたなどという資料はない。貧しさからの身売りがいくらでもあった時代に、なぜ強制動員の必要があるのか。合理的に考えてもおかしい」と発言し、当時兵隊風の服を来たものは多数いたし日本軍とは特定できないと発言している[213]。(日本の慰安婦問題#安秉直による検証調査も参照)

韓国陸軍元大佐の評論家池萬元は、元日本軍慰安婦は大半が厳しい経済事情のため自ら性売買を望んだ人だとしている[214]。

秦郁彦は、実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と異議を唱えている[215]。

勝岡寛次は、慰安婦の募集は現地の業者が行い、悪質な業者に騙されて慰安婦になるケースはあったものの、大多数の慰安婦は自由意思によるもので、強制連行には当たらないと主張している[216]。また、慰安婦は一般兵士の10?50倍の報酬を支払われ、2015年現在の価値で1億円相当の収入を得た慰安婦もいたことや、接客拒否、外出、廃業、帰国の自由もあったことから、性奴隷とも言えないとしている[216]。

研究史

この節は歴史学論文を紹介していますが、全ての文献が網羅されているわけではありません。

1965年5月、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』以来、1967年に松村高夫が、翌1968年には田中直樹が、以後依田豪家や琴乗洞がそれぞれ論文を発表した後に、1975年には金賛汀の『証言 朝鮮人強制連行』が書かれている[217]。

1977年に戸塚英夫は『日本帝国主義の崩壊と移入朝鮮人労働者』を「日本労使関係史論」(東京大学出版社)に発表し、翌年藤原彰は『日本軍と朝鮮人』を書いて、当時の新聞社説から連行朝鮮人を調査した[217]。また、畑中康男は樺太の炭坑を調査し、『記録・朝鮮人労働者の戦い』を書いている[218]。

1985年の遠藤公嗣の論文を巡って長沢秀との論争が起こった[217]。

1960年代に公表された朴慶植[161] らの古典的研究は金英達、鄭大均、木村幹らによって研究の精度の問題が指摘されている。一方で廉仁縞は[219]「金ミンヨンの研究[220] において、強制連行の実態は学会では様々な文献証拠によって証明されている」と解説している[221]。

東京学芸大学とソウル市立大学は歴史教育研究会を共同で設立し[222] 1997年より活動を開始し、日韓共通教材が作成され際に「強制連行」についての論文が提出された[223]。
朝鮮人の徴用を扱った作品

『三たびの海峡』……帚木蓬生の小説。1995年に神山征二郎監督、三國連太郎主演で映画化された。

脚注
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注釈

^ 在外財産調査会,1948の統計は、「官斡旋・徴用・軍要員」の動員先を「朝鮮半島」・「日本」・「その他」に区分する一方、これらとは別枠で「道内動員」を区分、さらに1944年分のみ「道内動員」の内訳を「道内官斡旋・勤報隊・募集」に3区分している[4]。
^ 時期により根拠法が変遷するが、勤労奉仕隊(1938-41)・勤労報国隊(1941-45)・国民義勇隊(1945)などが朝鮮を含む日本全土で組織された。
^ 木村,2005は大蔵省在外調査局の統計資料(在外財産調査会, 1948の復刻版である法務研修所, 1977)を主たる史料として活用している
^ 木村,2005が整理した在外財産調査会,1948の統計数値では、1944年における通常の官斡旋による朝鮮半島内への動員は「76,617」人、道内官斡旋による動員は「492,131」人と、異なる数値が挙げられている。
^ 論者により定義はまちまちであるが、実数で際大多数を占める道内動員、なかんずく従前の職場や学校に勤務・通学しつつ動員を受けた勤報隊(勤労報国隊)を含まない論者が多い。

出典

^ a b c d e f 外務省アジア局北東アジア課「一般請求権徴用者関係等専門委員会第3回会合」(別添:集団移入朝鮮人労務者数)1962年2月23日 ※日韓会談 日本側提出資料
^ a b 木村,2005,pp.327-328.
^ a b c d e 木村,2005,p.328.
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^ 崔基鎬「日韓併合」祥伝社、2004年,p40-46
^ 荒木和博:在日韓国・朝鮮人の参政権要求を糺す、現代コリア研究所 [1] 岩手大学構造工学研究室 (2009年版)[リンク切れ]
リンク切れの代替えとして、1997年版 荒木和博 『在日韓国・朝鮮人の参政権要求を糺す : 「外国人参政権」という名の虚構』現代コリア研究所〈韓国・朝鮮を知るためのシリーズ〉、1997年。ISBN 4750597112。 NCID BA31484313。全国書誌番号:98051950。
^ 長野邁、金旻栄「1940年、日本石炭業における労働問題と朝鮮人労働者移入 石炭鉱業聯合会の労務担当者会議議事録の分析を中心として」佐賀大学経済論集第25巻第1号、1992年5月
^ a b 戦時徴用は強制労働は嘘 1000名の募集に7000人殺到していた
^ 本節は、主として、木村,2005に依る。
^ a b 木村,2005,p.330,表6.
^ 木村,2005,pp.327-329.
^ 木村,2005,pp.329-330,表3,表4.
^ a b 木村,2005,p.330,表5.
^ 木村,2005,p.329,表3.
^ 木村,2005,p.330,表4.
^ 木村,2005,p.330,表8.
^ 木村,2005,pp.329-330,表3,5.
^ 木村,2005,p.330表3,表5.
^ a b c 和田春樹・石坂浩一・編 『岩波小事典 現代韓国・朝鮮』 岩波書店、2002年、102頁
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^ a b 水野直樹他『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』(岩波書店)P40,41
^ 経歴;一橋大学大学院 社会学研究科 特任講師、追手門学院大学 国際教養学部 アジア学科 准教授 など、論文に「植民地期朝鮮における神社政策と朝鮮社会」https://www.gyoseki.otemon.ac.jp/oguhp/KgApp?kyoinId=ymdygysyggy。日本と韓国の共通歴史教材を造る作業に参加した。
^ 水野直樹他『日本の植民地支配 肯定賛美論を検証する』P40,P41ー
^ a b c 歴史教育研究会『日本と韓国の歴史共通教材をつくる視点』P304,P305山口公一「大東亜共栄圏の中の植民地朝鮮」
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参考文献
資料
一次史料

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戦争の記録を残す高槻市民の会事務局編『戦争の記録を残す高槻市民の会 資料集NO.1』,戦争の記録を残す高槻市民の会発行(1981年12月).
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札幌学院大学北海道委託調査報告書編集室『北海道と朝鮮人労務者・朝鮮人強制連行実態調査報告書』1999年
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文献目録

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一般

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鄭大均『在日・強制連行の神話』文春新書 2004年
外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書2012年
朝日新聞デジタル「(インタビュー)強制連行、史実から考える 歴史学者・外村大さん」2015年4月17日(ミラー)
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高槻タチソ戦跡保存の会編『タチソ物語 高槻地下倉庫 敗戦前夜高槻における朝鮮人強制労働を見る』高槻タチソ戦跡保存の会発行(1994).

関連団体

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)
強制動員真相究明ネットワーク
日韓市民でつくる日韓会談文書全面公開を求める会

関連項目

朝鮮半島における戦時動員に関連して
    個別渡航
    集団渡航
    官斡旋
その他の日本による戦時動員に関連して
    強制連行
    強制労働
    華人労務者(中国人強制連行)
    動員
    徴用
    徴兵 - 強制徴募
    総力戦
    国家総動員法
    日本の戦争賠償と戦後補償
    国民徴用令
    日本の慰安婦 - 日本の慰安婦問題
    北朝鮮による日本人拉致問題
    反日種族主義

外部リンク

日韓会談文書 情報公開アーカイブズ
韓国の落星台経済研究所(李宇衍)
    ”強制徴用”の神話
    果たして”奴隷労働”だったのか
    朝鮮人労働者”民族差別的賃金”の真実

カテゴリ:

日本の戦後処理歴史認識問題歴史上の人間の移動日韓関係強制労働

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アングロサクソン・モデルの本質

アングロサクソン・モデルの本質
https://1000ya.isis.ne.jp/1366.html

 ※ 松岡正剛という人の、「千夜千冊」という「書評サイト」における書評だ。

 ※ この本、前々から読みたいと思っていた…。

 ※ 身辺が、やや落ち着いてきたんで、久々で「紙の本」だが、最近購入した。
   とっくに絶版になっているんで、古本でしか、手に入らない。
   なるべく「良品」を購入したかったんで、探したら、けっこうな値段した…。

 ※ しかし、ちょっと、期待した内容とは違っていた…。
   「アングロサクソン・モデル」という語から想像していたものは、もっと「社会システム全般」「政治システム」「思考の枠組み」みたいな内容だったんだが…。

 ※ ここで言っている「アングロサクソン・モデル」とは、英米系の「グローバル企業」における、「企業の利益獲得モデル」の話しだった。

 ※ まあ、「アングロサクソンの資本主義モデル」くらいには、広がっているが…。

『なぜイギリスに世界資本主義が集中して確立し、
そこからアングロサクソン・モデルが
世界中に広まっていったのか。

英国型コモンローと大陸型ローマ法の違い、

エクイティやコーポレート・ガバナンスの違い、

とりわけアメリカ的株主主権型資本主義との違いなど、

いろいろ考えなければならないことがある。

 数年前、ぼくは『世界と日本のまちがい』(その後『国家と「私」の行方』春秋社)のなかで、イギリスを悪者扱いした。イギリス人が嫌いなのではない。ジェントル然としながらもシャカリキにしゃべるところ、オックスブリッジの学究力、コッドピース(股袋)を発明するところ、エスティームでエスクワイアーなところ、男色やギャラントな性質を隠さないところ、大英博物館が自慢なところ、そのほかあれこれ。付き合うかぎりは、むしろ喧しいフランス人や無礼なアメリカ人よりずっと好ましく思っているほうなのだが、そういうこととはべつに、歴史にひそむ「イギリス問題」を看過してはまずいと思ってきたからだ。

 この本には「自由と国家と資本主義」というサブタイトルをつけた。それは、ヨーロッパにおける都市国家・王権国家・領主国家・植民地国家などと続いてきた「国家」の歴史が、近代においてネーション・ステート(国民国家)に向かったところで、その隆盛とともに「自由」と「資本主義」をいささか怪しいものにしたと言わざるをえないからだ。

 ぼくがそのことに関する「まちがい」をどのように描いたかは、あらためて読んでもらうこととして、さて、この「イギリス問題」を現代資本主義のしくみのほうから見たときに、しばしば「アングロサクソン・モデルの問題」というふうに議論されてきたことを、今夜は考えたい。いったいアングロサクソン・モデルって何なのか。むろんイングリッシュ・モデルということだが、ではそれって「イギリス問題」なのかどうか、そこを本書に追ってみた。著者は一橋大とロンドンビジネススクールをへて、野村総研のワシントン支店長やNRIヨーロッパ社長を務めたのち、法政大学で教鞭をとっている。

 イギリスがイギリスになったのは、ヘンリー8世がルターの宗教改革に反対し、とはいえローマ教会のカトリックの支配にもがまんがならず、一挙に英国国教会という独自路線を打ち立てたとき、それからエリザベス女王と東インド会社が世界資本主義のセンター機能をアムステルダムからロンドンに移したときからである。このときイギリスは「アングリカニズム」の国になった。大陸ヨーロッパとは袂を分かち、あきらかにブリティッシュ・ナショナリズムに立ったのだ。ナショナリズムとは自国主義のことをいう。これはカトリックの普遍主義(ユニバーサリズム)とはずいぶん違う。

 その後、イギリスはクロムウェルのピューリタン革命を通してピューリタニズムを生んだかに見えたのだが、それは「エミグレ」(移住者)とともに新大陸アメリカに渡り、いささか姿と信条を変えてアメリカン・プロテスタンティズムになっていった。そのどこかであきらかに資本主義とピューリタニズムあるいはプロテスタンティズムが結びつき、イギリスには「コンフォーミズム」(順応主義・承服主義)が残った。歴史的には、それらの前期資本主義・国教会・ピューリタニズムを含んで、アングロサクソン・モデルがつくられていったはずなのである。

 本書でアングロサクソン・モデルと言っているのは、むろん英米型の資本主義のモデルのことを言う。いまではまとめて「株主資本主義」とか「新自由主義的資本主義」と呼ぶか、もしくはそれをイギリス型のアングロサクソン・モデルとアメリカ的でWASP型のアングロアメリカン・モデルとに分けるのだが、本書では一括されている。

 この見方そのものは新しくない。旧聞に属する。しかし旧聞に属したモデルから出発してそのヴァージョンを説明したほうがわかりやすいこともある。本書はその立場をとる。英米のアングロサクソン・モデルとしての株主資本主義、ドイツの社会民主主義的な銀行資本主義、フランスのエリート率先型の国家資本主義、日本の経営者従業員平均型の資本主義というふうに、とりあえず出発点を分けるのだ。

 古典派経済学は、自由市場原理(マーケット・メカニズム)によって、個人と自由と社会のつながりがほどよく鼎立すると考えた。そう考えることで、たとえ個人が利益追求をしても「見えざる手」のはたらきによって経済社会は相互的な向上を生むという確信を樹立できた。

 ところが20世紀に入って2つの大戦を経過し、そこに政治と企業と大衆と個人の分離がいろいろ生じてくると「個人の自由」と「社会の連帯」とが合致しなくなってきた。そのうち、政治のほうがこのどちらかを重視するようになった。

 市場と「個人の自由」を連動させて重視したのは、その後は市場原理主義とも新保守主義ともよばれている「新自由主義」(neo-liberalism)である。新自由主義は、もともとイギリスのコモンローの伝統やそれを補正するエクイティ(道徳的衡平)の考え方にひそんでいたイデオロギーやスタイルを生かし、これをマーガレット・サッチャー時代に強化したものだ。

 これに対して、市場の力をなんとか「社会の連帯」に結びつけようとしたのが「社会民主主義」(social democracy)で、こちらは大陸ヨーロッパに普及していたローマ法などの伝統にもとづいてラインラント型に組み立てられ、ドイツを中心に労使共同決定スタイルをもってヨーロッパ大陸に広まっていった。

 これらのうちのイギリス型がアメリカに移行して、WASP的な資本主義となり、もっぱら株主重視の強力な自由市場的資本主義になったわけである。しかし、なぜそんなふうになったのかということをリクツをたてて説明しようとすると、これが意外に難問なのだ。アメリカ人が「人生は深刻だが、希望もある」と言うのに対して、イギリス人は「人生には希望はないが、それほど深刻でもない」と言いたがるといった程度の説明では、あまりにも足りない。

 アングロサクソンという民族は一様ではない。源流は大きくはゲルマン民族に入るし、イングランドに渡ったアングル人とサクソン人は最初は別々だった。

 アングル人はその後にイングランドの語源になり、サクソン人のほうもサセックスとかエセックスといった地名として各地に残った。エセックスは「東のサクソン王国」、ウェセックスが「西のサクソン王国」である。ウェセックス王国の首都がウィンチェスターで、9世紀にそのエグバート王がそれまでの七王国を統一し、イングランドの最初の覇権を樹立して、それをアルフレッド大王が仕上げていった。

 しかし、それでイギリスという原型ができたわけではない。1066年に北フランスのノルマンディー公ウィリアム1世がヘースティングズに上陸してイングランドを征服し、ロンドンを拠点に中央集権を敷いて、ここに多民族を配下とした「ドゥームズデー・ブック」(土地台帳)にもとづく封建制を施行したとき、やっとイギリスの原型が誕生し、ここからコモンローの伝統が育まれていった。このあたりのことは、『情報の歴史を読む』(NTT出版)にも書いておいた。

 その後、エリザベス時代やヘンリー8世時代をへて、大英帝国の規範としてのイギリスがしだいに形成されていった。そのわかりやすい頂点は、ナポレオンがヨーロッパ中を戦争に巻き込んだときイギリスがこれに抵抗し、ナポレオンもまた大陸封鎖によってイギリスを孤立化させようとしたことにあらわれた。

 以上のように、イギリスは大陸ヨーロッパとの関係で大英帝国になっていったわけだが、当然、その内的歴史にもアングロサクソン・モデルの胚胎があったとも言わなければならない。その大きな下敷きにコモンロー(commonlaw)がある。

 コモンローは、中世イングランドの慣習法にもとづいて積み重ねられていった法体系である。教会法に対して世俗法の意味で、こう呼ばれるようになった。

 イングランド王国を征服したウィリアム1世が「ドゥームズデー・ブック」によってイギリスの土地と人間のつながりをまとめていったとき、税金が確実に王国の金庫に納付されているかどうかをチェックするための大蔵省(Exchequer)が設置され、納税事務とともに民法や刑法にあたる管轄権をもった。

 これを背景に、12世紀に国王裁判所(Royal Justice)が生まれ、巡回裁判(travelling justice)の制度が確立した。不法行為法、不動産法、刑法などの封建制の基幹をなす諸法がこうして整えられていった。この巡回裁判によってあまねく浸透していったのがコモンローなのである。

 そこにはほぼ同時に、「信託」(trust)や「エクイティ」(equity)の概念が芽生え、そのまま定着していった。コモンローは成文法ではない。制定法ではない。国王をも律する「王国の一般的慣習」としての判例の集合体である。そこには権威によって書かれた文書(法典)はない。

 なぜそのようなコモンローがアングロサクソン・モデルの基本となったのか。なぜコモンローがローマ法やカノン法の継受を必要としなかったのか。3つの理由がある。

 第一には、ノルマン人によるイングランド統一以降、国王裁判所が巡回的に全土に判例を積み重ねていったため、国内の地方特有の規則や法が淘汰されていったことだ。これが多民族多言語の大陸系のヨーロッパにあっては、ローマ法などを導入して成文的統一をはかるしかなかった。

 第二には、法律家はすべて法曹学院(Inns of Court)という強力な法曹ギルドによってかためられていた。イギリスの法モデルは、大学でローマ法を学んだ者が管理するのではなく、法曹学院の成果をその出身者たちが管理するものなのだ。いまでもイギリスのロースクールは大学とは独立していて、バリスターとよばれる法廷弁護士が所属する法曹団体(Bar Council)がこれをサポートしている。

 第三には、そうした封建制がくずれて近代化が始まったのちも、大法官府裁判所がコモンローを補完するエクイティ(衡平法)という体系を接合してしまったからだった。以降、アングロサクソン・モデルはコモンローとエクイティの両輪によって資本主義ルールを確立することになっていく。

 アングロサクソン・モデルにおけるコモンローとエクイティの役割は、まことに独特だ。コモンローが支配的ではあっても、会社法・為替手形法・商品販売法といった制定法(statute law)はその後に次々に加えられていった。

 これを促進したのは「最大多数の最大幸福」を説いたジェレミー・ベンサムで、コモンローだけではあまりに合理的な解決が得られないことを批判したためだ。1875年に裁判所法がコモンローとエクイティの統合をはかったのが、その大きな転換だった。それでも、包括的な家族法、相続法、契約法、民事訴訟法などはいまなおコモンローの判例にもとづいている。

 こういう変成的なことがアングロサクソン・モデルに入りうるのは、イギリスの議院内閣制では行政府と立法府はほぼ一体になっていて、意外にも三権分立が必ずしも確立していないせいでもあろう。イギリスの議会は与党内閣の政策意思を受けて、なかば受動的に立法機能をはたしていることが多いのだ。それゆえ、内閣の意思に反して党籍を除名されれば、その議員が日本の政治家のように、政党を変えて再選に臨むなどということはまずおこらない。イギリスの政治家は党籍剥奪とともに政治生命をおえる。日本にはイギリス的な意味での本格的な政党政治家はほとんどいないと言っていい。

 では、「エクイティ」とは何なのかというと、ここでもちょっとした歴史認識が必要になる。

 今日のアメリカ型の株主資本主義では、株式のことをエクイティとかエクイティ・キャピタルと言い、株主資本をシェアホルダーズ・エクイティと言っている。けれどももともとのエクイティの意味とは衡平法から生まれた「信託」のことだった。

 エクイティという言葉も、委託者(受益者)の権利を公平に守るという意味から生まれた新概念なのである。14世紀には明確な意味をもちはじめ、ヘンリー8世の1535年に信託法(ユース法)が確立すると、大法官が「エクイティによる救済」を施すようになって、その判例がしだいに集合してエクイティの概念を普及させた。コモンローが基本的な決め事の本文(code)だとすれば、エクイティは付属文書(supplement)にあたるもの、ざっとはそのような価値観の関係だと見ていい。

 こうしてイギリスに、法律上の所有権(legal ownership)と、土地などの所有権(equitable ownership)とを区別する、汎用的なエクイティの考え方が浸透し、これがその後の株式会社における有限責任制の保護や、さらにはアングロサクソン・モデルにおける経営者の株主に対する受託者責任の重視につながっていった。

 すでによく知られているように、アングロサクソン・モデルにおいては、法人化された株式会社(共同出資企業)では、経営者(取締役と執行役員)は受託者で、会社と株主の利益に対しての忠実義務(duty of loyalty)と注意義務(duty of care)を負っている。そのぶん、広範な裁量権(執行権限)も与えられている。今日の取締役や役員の行動基準はここから発してきたものなので、ここから受託者が委託者(株主)に説明する(account for)という、いわゆる「説明責任」(accountability)も生まれた。

 こういうことはすべてコモンローとエクイティの考え方から派生したものだった。しかし、そんなことはイギリス人の自分勝手だったのである。

 以上のような特異なアングロサクソン・モデルの基本を理解するには、いったん、それとはいささか異なる大陸ヨーロッパ型の資本主義がどのようなものであるかを知っておいたほうがいい。

 そもそも「ヨーロッパ」という概念は、今日のEUに見られるごとく、地域や民族や人種や言語の実体をあらわしてはいない。古代ギリシア、ローマ帝国、ガリア地方、フランク王国、ライン川諸国(ラインラント)、イベリア半島勢力その他の、さまざまな社会経済文化が離合集散する共同体群が、あるときローマ・カトリック教会によって“統一体としてのひとつの規範”をもったことから、「ヨーロッパ」という超共同体が認識されてきたものだった。

 なかで、大陸ヨーロッパで法的な規範として重視されていったのが「ローマ法」である。風土も慣習も言語も異なる複数民族のヨーロッパ社会では、これらを統括する法典が必要だったからだった。そこはイングランドとは決定的に違っていた。いや、イングランドが変わっていた。

 たとえばドイツだが、ドイツは神聖ローマ帝国の昔から連邦制の分権国家群として成り立っていた。それが19世紀まで続いた。なぜそうなったかというと、有名な話だろうが、次のような変遷があった。

 962年にザクセン朝のオット11世が神聖ローマ帝国皇帝として戴冠したとき、いったんローマ・カトリック教会の世俗社会に対する権威が失われた。それまではキリスト教の聖職者が王国内部の大公や伯を牽制し、その力が王国ガバナンスの要訣となっていたのが崩されたのだ。しかし11世紀になって、ローマ・カトリック教会は中央集権的な教会体制を再構築し、教会の司祭職の叙任権を奪回する試みに出た。

 この叙任権問題をめぐっては激しいやりとりがあった。挙句、ローマ法王グレゴリウス7世がドイツ国王ハインリッヒ4世を破門し、1077年にハインリッヒ4世がイタリアのカノッサで法王の許しを乞うことになった。これが教科書にも有名な「カノッサの屈辱」だが、これを機会にローマ・カトリック教会はゲルマン系の諸国家を布教するにあたって、諸侯には自治権を、庶民には生活上の自由を認めるようにした。

 こうしたことがしだいにヨーロッパ各地におけるローマ法の定着を促した。加えてこの事情のなかで、そのころ成立しつつあった大学の教職者たちがローマ法を研究し、その影響をその地にもたらすという制度ができあがっていった。ドイツでは大学の教科書こそが法律になったのだ。イギリスが法曹団体によって外側から法をコントロールしたこととは、ここが大いに異なっている。

 ヨーロッパの資本主義は、12世紀の銀行業の確立から14世紀の小切手の利用や複式簿記の実験をへて、15世紀にはほぼその前提的全容が姿をあらわしていた。いわゆる商業資本主義の世界前史にあたる。

 この史的世界システムとしての資本主義が産業革命を促し、やがて強度のアングロサクソン・モデルと軟度のドイツ・イタリア型とアメリカ型などに分化していったことについては、また、それとは別に日本モデルやブリックス・モデルが登場してきたことについては、ましてそのおおもとのアングロサクソン・モデルがいったんサッチャリズムやレーガノミックスでそれなりの絶頂期を迎えながら、どうにも不具合を生じてしまったことについては、アナール派以降の説明でもウォーラーステインの説明でも必ずしも充分なものになっていない。

 そうなのだ、アングロサクソン・モデルはしばしば限界状況をきたし、それをそのたびなんとかくぐり抜けてきたというべきなのである。それがついにはエンロン事件やリーマン・ショックにまで至ったのだ。

 古い歴史の話はともかくとして、その後の現代資本主義における「イギリス問題」を見てみても、アングロサクソン・モデルがしばしば限界状況をきたすということは、決してめずらしいことではなかった。たとえば多国籍企業の時代でも、70年代から80年代にかけてのスタグフレーション(景気停滞とインフレの同時進行)の時代でも、もっと言うなら大恐慌の時代でも、そういう症状はあらわれていた。

 それらの症状が90年代以降は、たんにディレギュレーション(規制緩和)とリストラクチャリング(事業再編)とグローバリゼーション(経済管理の標準化)によって、乗り越えられようとしていたか、あるいはごまかされていたとも言えるわけである。ということは、ディレギュレーションとリストラクチャリングとグローバリゼーションの掛け声は、アングロサクソン・モデルの“ぼろ隠し”だったとも言えるわけだった。

 1993年に書かれたハムデン=ターナーとトロンペナールスの話題の書『七つの資本主義』(日本経済新聞社)には、資本主義をめぐる七つの対立が明示されていた。古くなった見方もあるが、いまなお参考になる対比点もあり、本書も踏襲しているので、あらためて掲示しておく。

①普遍主義(universal)と個別主義(particular)

 カトリックとプロテスタントに普遍主義があった。ラテン系やアジア諸国は経済的には個別主義を重視する。このいずれをもグローバリズムが覆ったのだが、その一方では地域ごとの普遍主義と個別主義の抵抗に遇った。

②分解主義(analytic rational)と総合主義(synthetic intuitive)

 要素に分解したがるのが分解主義である。つまりはスペシフィック(関与特定的 〈specific〉)にものごとを見たり、アンバンドル(切り離す)しながら事態を進めたりする。証券化のプロセスで、要素価値とリスクをアンバンドルするのがその例だ。総合主義は統合したがり、バンドルしたがりだが、ときに関与拡散(diffuse)になる。ネットワーク主義がこの傾向をもつ。

③個人主義(individualistic)と共同体主義(communitarian)

 個人主義はアングロサクソン・モデルの根底にある。ドイツ・イタリア・日本は共同体的であろうとすることが多い。このあたりのこと、エマニュエル・トッドの研究がある。しかし、ここでいう共同体主義(コミュニタリアニズム)については、いまはかなり深化し、また多様になっている。

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エマニュエル・トッド著『新ヨーロッパ大全Ⅰ』より作成

遺産相続に際して財産が平等に分配されるかどうかによって①と②に分類し、
さらに、大家族制度が支配的か、各家族制度が支配的かによって③と④に分けている。
こうして欧州諸国を4つのタイプに分類したもの。

④自己基準(inner directed)と外部基準(outer directed)

 アングロサクソン・モデルは株主や企業が自己基準をもってコーポレート・ガバナンスとコンプライアンスに当たることを前提とし、アジア型企業の多くは状況判断や社会変化に対応しようとする傾向をもつ。

⑤連続的時間(sequential)と同時的時間(synchronic)

 野球やアメフトはシークエンシャルに時間秩序が整っているスポーツゲームで、サッカーやラグビーはシンクロニックなゲームである。連続時間的な価値観は継続事業的な判断(going concern)をし、たとえばM&Aにおいても、M(merger)は合併によって新会社を設立する一方、A(acquisition)によって株式の一部取得を通して事業を継続させるという方法をとる。同時間主義はドイツや日本の徒弟制や、マンガ制作やアニメスタジオに顕著だ。

⑥獲得主義(achievemental)と生得主義(ascriptive)

 フランスではエリート養成学校グランゼコールの同窓生、なかでもENA(国立行政学院)の卒業生が高級官僚から天下って民間会社の経営者となり、政財界を牛耳ってきた。日本ならば東大法科にあたる。これが獲得主義だ。一方、生得主義は生まれながらの才能をどう伸ばすかという方向になっていった。

⑦平等主義(egalitarian)と権威主義(hierarchical)

 とくに説明するまでもないだろうが、これにタテ型とヨコ型が交差するとややこしい。たとえばフランスやドイツはヨコ型権威主義、スペインやシンガポールはタテ型平等主義の傾向がある。

 これらの対比特色のうち、アングロサクソン・モデルがどこを吸着し、何を発揮していったかというと、たとえば「分業」の思想や「株主重視」の発想は分解主義と個人主義がもたらした。「複利」の発想は連続時間的価値観から生まれた。株主資本主義は分解主義がもたらしたのである。一方、アメリカ型は保守もリベラルも自己基準的なので、集団に奉仕しながらも、個人がその集団に埋もれてしまうのを嫌うため、プロテスタントな自立性を組織的に求めようとしていく。

 これに対してドイツや日本は同時間主義的で、状況的な外部基準をおろそかにしないので、ついつい労使共同決定的になっていった。ドイツや日本にいまでも多数の中小企業群(Mittelstand)があって、それぞれが専門技術やノウハウをもって食品から自動車までを支えているのは、かつてはそれぞれのハウスバンクが機能していたせいだ。いいかえれば、ドイツや日本では、労使共同的であるから経営の透明性や説明の明示性が劣り、そのかわりに親方日の丸や業務提携が発達したということになる。逆にアングロサクソン・モデルでは、事態と機能を分解したのだから、それならつねに経営者や担当者の説明責任(アカウンタビリティ)が求められるわけである。

 こういった特色があるということは、アングロサクソン・モデルにおける「会社という法人」が、きわめて擬制的であるということを物語っている。ハイエクやフリードマンを擁したシカゴ学派などでは、会社というものははなはだフィクショナルなもので、取引関係者相互の「契約の束」(nexus)にすぎないという見解さえまかり通っていた。
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ハムデンターナーとトロンペナールス著『七つの資本主義』より

 アングロサクソン・モデルがつくりあげたしくみのなかで、無節操に世界に広がり、はしなくも価値の毀誉褒貶が激しく、最も説明がつかなくなったものがある。それは何か。会社ではない。議会や政府でもない。貨幣や通貨というものだ。

 そもそも社会は物々交換の経済をもって始まった。そこでは互酬的で互恵的な交換が通例になっていた。そこに、共同体ごとに原始的な貨幣が使われるようになった。それでもそれらはいわば「内部貨幣」であったのだが、やがてそのような貨幣に「交換手段」(medium of exchange)と「計算単位」(unit of account)があらわれてきた。そうなると、人々の異時点あるいは異地点のあいだでの消費と支払いのズレを、貨幣がしだいに保証するようになり、そのうち貨幣に「貯蔵手段」(store of value)が派生した。
 それだけならまだしも、生産に従事する労働の対価を貨幣で支払うようになって、貨幣は「もの」にくっついて動くだけではなく、「ひと」にくっついて労働や生活にも所属することになった。こうして貨幣は法律や言語に匹敵するパワーの象徴になっていったのである。

 そうした貨幣の本質をどのように議論するかということは、とんでもなく難しい。これまでもその議論をぞんぶんに組み立てたという思想はきわめて少ない。近々、ゲオルグ・ジンメルの『貨幣の哲学』(白水社)などを通して、そのあたりを千夜千冊したいと思うのだが、それはそれとして、今夜は、今日の貨幣の問題で、次のことについて言及しておかなければならないだろう。

 第一には、貨幣は地球上のいろいろな場所で発行され、使用されてきたにもかかわらず、これを通貨とし、世界通貨として金などの金属価値から切り離して不換紙幣にしてしまったのは、ひとえにイギリスとアメリカの事情によっていたということ、つまりはアングロサクソン・モデルがもたらした出来事だったということだ。明治日本が列強に伍するために「円」をつくらされたのも、イギリスの画策だった。

 第二に、今日の貨幣は政府と銀行などの「取り決め」(agreement)によってのみ、その価値が裏付けられているにすぎないということだ。これを「貨幣法制説」というのだが、そのことによってだけ、ポンドやドルや円や元やフランという「国民通貨」が成り立っているわけである。

 この国民通貨には、現金通貨と預金通貨があるのだけれど、今日ではそのいずれもが「信用通貨」とみなされている。信用通貨というのは銀行の債務としての銀行信用によって裏付けられているという意味である。これは、通貨は銀行の与信行為によって生まれ、それが同時に銀行にとっての負債に相当するということを意味する。

 第三には、貨幣が利子を生むようになったということだ。この習慣が本格的に生じたのは、イギリスが三十年戦争後のウェストファリア条約以降、国家が保有していた通貨発行権を民間銀行に委譲したことからおこった。戦費を調達するためである。このとき例のジョン・ローが大活躍したということについては、1293夜のミルクス・ウェイトらの『株式会社』(ランダムハウス講談社)でも詳しく述べた。問題は、そのとき、国家が戦費調達の代償として国債を発行し、それを銀行に引き受けさせることの見返りに、通貨発行権とともに利子を付ける権利を認めたということなのだ。

 ちなみに、この利子をこそ問題にしたのがシルビオ・ゲゼルの自由貨幣論やイスラーム経済というもので、いまでも独特の経済価値論を発揮しつづけているので、これについてもいずれ千夜千冊したいと思っている。

 第四に、通貨は世界資本主義システムが進展するなかで、しだいに為替相場と密接な関係をもつようになり、やがて固定相場制から変動相場制に移行したとき、一方では「基軸通貨」の思想をもたらし、他方では「無からつくる通貨」(fiat money)の可能性を開いてしまったということだ。

 そして第五に、ここが今夜の一番の眼目になるのだろうが、通貨の歴史は、株式が「擬似貨幣」の役割を担うことを許したということである。エクイティの発想は、ここからは金本位制でも不換紙幣制でもなく、株式本位制としての資本主義に達したということなのだ。株式は計算単位としての役割をもちえないにもかかわらず、その他のありとあらゆるパワーを吸収することができるようになったのだった。

 株式は国民通貨ではないし、銀行の負債でもない。また確定的な利子も付かない。それなのに現代の資本制は名状しがたい情報価値の評価の変動を媒介に、現代貨幣の本質である「無からつくる通貨」の可能性をもってしまったのである。

 ここにこそ、アングロサクソン・モデルがつくりだした最も強力で最も理不尽な「株式資本主義」と「市場原理型資本主義」の特徴があらわれていた。

 とりあえずの結論ではあるが、ぼくとしては以上のような見方がいいと思っている。日本のビジネスマンは、そろそろアングロサクソン・モデルに代わるモデルを構想するか、もしくはエクイティの英米的ロジックに明るくなるべきなのである。

【参考情報】
(1)本書の著者の渡辺亮は一橋大学とロンドン・ビジネススクールの出身。野村総研で企業財務調査、為替予測、アメリカ経済予測に携わったのち、ワシントン支店長をへて、ヨーロッパ社長となっている。1999年、いちよし経済研究所の社長となり、2002年からは法政大学経済学部教授になった。『ワシントン・ゲーム』(TBSブリタニカ)、『英国の復活・日本の挫折』(ダイヤモンド社)、『改革の欧州に学ぶ』(中公新書)などの著書がある。

 本書はテーマが章立てで分けられているわりに、さまざまに重複していて、実はそこがおもしろい。本来なら未整理な原稿ということにもなるのだが、それがかえってネステッドな解説の複合性を発揮したのだ。これは「ケガの功名」なのだけれど、ときに読書にはこういう僥倖をもたらすことがあるものなのである。

(2)本書に先行する本も後追いする本もいろいろある。先行例としてはハムデンターナーとトロンペナールスの『七つの資本主義』(日本経済新聞社)、ミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』(竹内書店新社)、ブルーノ・アマーブルの『五つの資本主義』(藤原書店)、ピーター・ドラッカーの『ポスト資本主義社会』(ダイヤモンド社)などが有名だ。後攻例はいくらでもあるから省くけれど、たとえばアラン・ケネディの『株式資本主義の誤算』(ダイヤモンド社)などはどうか。

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2010年6月11日

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1363夜 フェルナン・ブローデル 物質文明・経済・資本主義
1362夜 グレゴリー・クラーク 10万年の世界経済史
1364夜 イマニュエル・ウォーラーステイン 史的システムとしての資本主義
0231夜 戸板康二 あの人この人
1355夜 エマニュエル・トッド 経済幻想
1337夜 フリードリヒ・ハイエク 市場・知識・自由
1338夜 ミルトン・フリードマン 資本主義と自由
1293夜 ジョン・ミクルスウェイト&エイドリアン・ウールドリッジ 株式会社

Keyword

世界資本主義
アングロサクソン・モデル
英国型コモンロー
大陸型のローマ法
エクイティ
コッドピース
歴史にひそむ「イギリス問題」
ネーションステート
東インド会社
アングリカニズム
カトリックの普遍主義
ピューリタン革命
エミグレ
アメリカン・プロテスタンティズム
コンフォーミズム

Keyperson

ヘンリー8世
クロムウェル
ジョン・ロー
フェルナン・ブローデル
ジョン・ミクルスウェイト
アルフォンス・トロペンナールス
チャールズ・ハムデンターナー

アングロサクソン・モデルの本質―株主資本主義のカルチャー 貨幣としての株式、法律、言語

ダイヤモンド社
七つの資本主義―現代企業の比較経営論

日本経済新聞社
資本主義対資本主義―フランスから世界に広がる 21世紀への大論争

竹内書店新社
五つの資本主義―グローバリズム時代における社会経済システムの多様性

藤原書店
ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか

ダイヤモンド社
株主資本主義の誤算―短期の利益追求が会社を衰退させる

ダイヤモンド社
画像

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黒田清隆は明治の初めに米国を鉄道で横断してみて、鉄道網が整備されていれば鎮台や屯田兵は少なくしてもいいのだと確信できた。

黒田清隆は明治の初めに米国を鉄道で横断してみて、鉄道網が整備されていれば鎮台や屯田兵は少なくしてもいいのだと確信できた。
https://st2019.site/?p=20838

『※黒田清隆は明治の初めに米国を鉄道で横断してみて、鉄道網が整備されていれば鎮台や屯田兵は少なくしてもいいのだと確信できた。

ところが日本の場合、2つの大問題がたちはだかる。ひとつは、本州の策源から満洲・沿海州まで1本の鉄道で連接することができない。途中で「汽船海送区間」と「鉄道空白荒野」「無橋河」がいくつも挟まるのだ。

この条件でプロイセン式の動員速度を実現することは不可能だった。

さらに朝鮮政府も支那政府も、日本軍が満州まで急速にかけつけるための鉄道の敷設や運用に、協力する気が無かった。戦前の時代でも、他国の主権領土内に軍用鉄道を維持することは、どの先進大国にとっても、難題だらけであった。

けっきょく日本は、満洲に達する鉄道を確実に監理するために、朝鮮を併合する必要があり、また満洲事変も起こさねばならなくなった。

しかもそこまでしてもなお、半島や満洲に数個師団を常駐させねばならない負担は、解消されなかったのである。

その戦前の日本の苦労に比べたなら、ウクライナの現状は天国だ。軍用鉄道を敷いてやるから土地を出せといえば、今のウクライナ政府はよろこんで出す。そこに標準軌の複線貨物鉄道を敷いてやれ。これなら日本政府もすぐに協力を約束できるはずだ。

電化の必要はない。機関車はもちろん、ディーゼルに限る。理想的には、ディーゼルで発電する電気機関車だ。これだと客車もつなぎやすいから。

さらにターミナル駅からは、「軽便鉄道」を四通八達させること。その動力は石炭でいい。ハイテクの低公害ボイラーが可能なことを見せつけてやれ。エネルギーを自給できないウクライナの復興は、最も省エネの陸上輸送手段である、鉄道によるべし。』

北大西洋条約機構/NATO(世界史の窓)

北大西洋条約機構/NATO(世界史の窓)
https://www.y-history.net/appendix/wh1601-071.html#wh1702-109

 ※ 『2002年にロシアは準加盟国となった』…。

 ※ ここは、知らんかった…。

『(4)NATOの変質

冷戦終結後、対共産圏軍事同盟としての目的は消滅。東欧革命、ソ連の解体、ユーゴスラヴィアの解体に伴い、東欧に加盟国を拡大させ、全ヨーロッパの集団安全保障機構へと性質を転換させた。

 NATO(北大西洋条約機構)は第二次世界大戦後、冷戦期の1948年に創設され、その目的は時期とともに変化しながら、柱は共産圏に対する防衛を目的とする軍事同盟であった。従って冷戦の終了とともに東側のワルシャワ条約機構の解散と同じく消滅してしかるべきであったが、前者が解散されたのに対して、NATOは存続を続け、さらに加盟国を増大させている。その反面、アメリカ軍の占める割合は減少し、米軍主体の核で重装備した軍事同盟という性格は薄らいでいる。その変質をまとめると次のようになる。

冷戦終結後のNATO

 1990年にNATO加盟諸国は「ロンドン宣言」を発表し、ワルシャワ条約機構を敵視することを放棄すると宣言、目的を一変させた。結成当時のNATOの目的は大きく変化したので、現在のものを「ニューNATO]という。東欧民主化によって成立した東欧諸国、ソ連解体に伴って成立したバルト三国などが相次いでNATO加盟を申請するようになると、ロシアはNATOが新たにロシアを敵視するのではないかと反発したが、97年にNATO諸国首脳がロシアのエリツィン大統領との間で「ロシアを敵視しない」という「基本文書」に署名、その結果東欧諸国のNATO加盟が実現した。
 → NATOの東方拡大

現在のNATO

 「北大西洋」地域の安全保障にとどまらず、国際連合とOSCE(全欧安全保障協力機構)のもとで、民族紛争や人権抑圧、テロに対して、平和維持に必要な軍事行動を行うこととなった。その最初の行動が1999年のコソヴォ紛争でのNATO空軍のセルビア軍に対する空爆であり、アフガニスタンへの治安出動である。

対ロシア軍事同盟への傾斜 

2002年にロシアは準加盟国となったが、2014年のウクライナ危機がおこり、ウクライナ反政府軍への軍事支援の疑いが生じたため、ロシアの準加盟国は撤回された。

NATOは集団安全保障機構という理念からはずれ、かつてのソ連に対抗する軍事同盟という性格を復活させ、対ロシアの軍事行動に対する集団的自衛権の行使へと進む気配を見せており、憂慮されている。』

過去のイスラエルは、かきあつめた雑多な戦車を戦時中にも改造してフルに活用できている。

過去のイスラエルは、かきあつめた雑多な戦車を戦時中にも改造してフルに活用できている。
https://st2019.site/?p=20830

『Jeff Schogol 記者による2023-1-27記事「How Ukraine might maintain its Abrams, Challenger, and Leopard tanks to fight Russia」。

   元海兵隊のフィリップ・カーバーは、今は軍事アナリスト。彼はウクライナ国内のT-80の工場を3箇所、視察したことがある。そしていわく。ウクライナ人にはM1を整備できる能力は、ある。

 むしろ、レオ2の「モデル2」と「モデル7」の差異が大きいことが、戦車整備のネックになるかもしれない。

 もしウクライナに2個大隊分の戦車を送りたいのなら、それはすべて1車種(1モデル)だけに統一するべきだ。車種が変わると整備の準備もすべて違えねばならず、たいへんな非効率を招くことは必至なので。

 ※過去のイスラエルは、かきあつめた雑多な戦車を戦時中にも改造してフルに活用できている。

他方、必要を感じて武器を援助する側としては、それを「使い捨て」にされてもしょうがないと思い切る必要があるだろう。その場合、新品よりも中古の在庫品を渡すのが合理的だと思われるが、なぜか米国はここにきて、あれこれ「新品」にこだわりはじめた。

これは危険信号だ。選挙区対策だ。しかしトランプのような阿呆陣営からの国内口撃をかわすためには、必要になるのか。』

ナポレオンは、対英「経済封鎖」に協力しなくなったロシアをこらしめるために対露戦争をおっ始めた。

ナポレオンは、対英「経済封鎖」に協力しなくなったロシアをこらしめるために対露戦争をおっ始めた。
https://st2019.site/?p=20830

『Daniel J. Flynn 記者による2023-1-27記事「First Guns, Now Tanks, Then What?」。
   ナポレオンは、対英「経済封鎖」に協力しなくなったロシアをこらしめるために対露戦争をおっ始めた。
 日本は、米国が石油を禁輸し、対支兵器援助を拡大したので真珠湾を攻撃した。

 今日、米国がウクライナへ武器を提供しすぎれば、ロシアは対米戦争を始めるだろう。

 ※この記者のポジションは明瞭。そして反論はかんたんだろう。

19世紀はじめ、英国はロシア軍とプロイセン軍に軍資金を援助することによって、ナポレオンを陸上で屈服させることができている。

ぎゃくにWWII中の米国による対支援助は、とても効率が悪かった。蒋介石の頭の中の対日戦のプライオリティが低かったために、けっきょく米軍自身が空から爆撃する必要があった。贈った援助兵器はすべて無駄になった。

この非効率はベトナム戦争中の対サイゴン援助でも繰り返された。

しかし朝鮮戦争中の、ソ連による対支援助は、ものすごく効率が高かった。なぜなら毛沢東軍の戦意がとても高かったからだ。天下無双だった米軍が、38度線での休戦を呑むしかなくなった。

同様、ベトナム戦争中の北ベトナムに対する武器援助も、至って効率がよかった。天下の米軍を敗退させたのである。

今の宇軍は、朝鮮戦争中の中共軍や、ベトナム戦争中の北ベトナム軍に似ていることを、誰が疑うだろうか? ユーザーの「戦意」が、常に第一ファクターなのだ。西側による対宇武器援助の効率は、期待し得る最大となるであろう。』

デザートストーム作戦には2000両以上のM1戦車が持ち込まれ…。

デザートストーム作戦には2000両以上のM1戦車が持ち込まれ…。
https://st2019.site/?p=20826

『Howard Altman 記者による2023-1-26記事「This Is What M1 Abrams Tanks Will Bring To The Fight In Ukraine」。

   1992年に米会計検査院がまとめた報告によると、デザートストーム作戦(※ 湾岸戦争の時の対イラク戦争の作戦)には2000両以上のM1戦車が持ち込まれ、そのうち23両が破壊もしくは損壊させられたと。9両が、完全に破壊された。その9両のうち7両は、友軍によって誤射されたものだった。2両は、故障して動かせなくなったので、乗員の手によって爆破された。

 M1部隊には、燃料補給トラックが随伴する必要がある。M1の燃料タンクには500ガロン入るが、燃費が悪いので、8時間ごとに300ガロンを給油してもらわなくてはいけない。

 これは途方もない給油能力を必要とする。ウクライナ軍には無理だろう。』

ナポレオンの命運を左右した「情報」とは

ナポレオンの命運を左右した「情報」とは
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29218

 ※ 今日は、こんな所で…。

『ナポレオン・ボナパルトは、その軍事的才覚によって19世紀初頭のヨーロッパを席巻して巨大な帝国を築き上げ、一介の軍人から皇帝に上りつめた。その手法は、「国民皆兵制度」による国民軍の創設や、砲兵・兵站の重視など枚挙にいとまがないが、意外なことにナポレオンは戦場において情報を重視しなかったとされる。

 その理由は、戦場の情報が司令官の元に届くのに時間がかかったことや、多くの報告は斥候が自分の目で確認したものではなく、伝聞情報を基にしており信頼性が低かったことにある。また、ほとんどの場合、司令官に情報が届く頃には情勢が変化しており、使い物にならなかった。

 ただし彼は、情報そのものには価値を見出しており、自らの参謀本部に情報部門を設置したり、英国で発行される新聞を熱心に読んでいたとされる。当時、英国内では検閲制度が廃止され、新聞各社は自由に記事を書くことができ、その情報の信頼性がフランスのものより高かったためである。

抜擢された大臣が皇帝さえも監視下に

 ナポレオンを情報面から支えた人物としては、警察大臣を務めたジョゼフ・フーシェが有名だろう。当時、フランスでは革命に起因する密告がはびこっており、フーシェの秘密警察はその延長に確立されたのである。

 フーシェは大臣に抜擢されると、あっという間にフランス国内に情報網を築き上げ、政治家の書簡や外交文書を秘密裏に開封して中を読み解くことで、国内の反ナポレオン派や外国スパイ、さらには上司のナポレオンまでをも監視下に置いていた。ナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌは放蕩三昧の生活であり、金銭目的でナポレオンの私生活の情報をフーシェに売っていたようである。

 フーシェは毎日、ナポレオンに情報報告を行うほどその能力を高く評価されていたが、決して信頼はされなかった。ナポレオンは「私のベッドをのぞくような大臣はうんざりだ」と不平を漏らしつつも、フーシェの首を切れなかったようである。

 そのためナポレオンは、個人的に12人の情報提供者を別に雇って情報を得ていた。フーシェが国内で逮捕した政治犯は数千人にもなるとされ、フランス国内だけではなく、ウィーン、アムステルダム、ハンブルクにも拠点を設置し、海外の動向にも目を光らせていた。

 ハンブルクにおいては、スパイ網を築きつつあった英国人、ジョージ・ランボルド卿の邸宅に忍び込んで、スパイのリストを奪い、ランボルドの身柄も押さえることで、英国の陰謀を未然に防いでいる。

 海外からナポレオンに貴重な情報を届けていたのは、カール・シュルマイスターである。ドイツ生まれのシュルマイスターは、仏独ハンガリー語に堪能であったので、オーストリア軍のカール・マック将軍にスパイとして採用されている。しかし、オーストリア軍はシュルマイスターの情報を重視しなかったため、密かにフランス軍に接触し、ナポレオンの副官であったアン・ジャン・マリエ・サヴァリ将軍のスパイとして活動した。

 サヴァリはフーシェの後任として警察大臣を務めた人物である。シュルマイスターはオーストリア軍の情報をナポレオン軍に伝える一方、偽情報をオーストリア軍に伝えることで、1805年10月のウルムの戦いでのフランス軍の勝利に貢献した。そしてその貢献を認められ、シュルマイスターは対外情報の責任者に抜擢されるほど重用された。』

『勝敗を決した重要情報の扱い

 他方、強大なナポレオン軍に対峙していたのが英国やプロイセン、ロシアといった国々である。中でも英軍はインテリジェンスを武器の一つとして活用することで、劣勢を補おうとした。

 英軍司令官、初代ウェリントン公爵は、ナポレオンと同い年で、第二外国語がフランス語という共通点があり(ナポレオンの母語はイタリア語)、ナポレオンのライバルの一人に数えられる。ただし、ウェリントンはインドにおける9年もの戦争経験から、戦場での情報の重要性を認識していた点がナポレオンと異なる。

 ウェリントンの配下の卓越した暗号解読官であったジョージ・スコウベル将軍は、ナポレオンの兄でスペイン王のジョゼフ・ボナパルトの暗号書簡を解読し、仏軍はスペインでゲリラ戦に専念するため、英軍に対する兵力を減らす旨の情報を得ていた。そこでウェリントンは、スペイン・ポルトガル軍とともに十分な兵力を準備し、13年6月のビトリアの戦いで、仏軍を打ち破ることに成功している。

 その後、天下分け目の「ワーテルローの戦い」の直前にも、ウェリントンの部下がナポレオンの戦争計画について知らせてきた。その情報は15年6月18日にナポレオン軍が英蘭軍を攻撃するというものであった。この戦闘は、英蘭軍とプロイセン軍が戦場で合流できるかが勝敗の鍵であり、ウェリントンはプロイセン軍の参戦を確定させてから、仏軍に挑むことになる。

 他方、ナポレオンは戦いの当日、末弟のジェローム・ボナパルトから、プロイセン軍がワーテルローに接近中との情報を得ていたが、プロイセン軍の到着にはあと2日かかるとして、この重要情報を退けたのである。

 戦端が開かれると予定通り、プロイセン軍はその日の夕刻までには参戦を果たし、英蘭軍とプロイセン軍に挟撃された形の仏軍は崩壊した。

 さらにナポレオン戦争で、巨万の富を築いたのが、英国の銀行家であったネイサン・ロスチャイルドである。ロスチャイルドは欧州大陸中にビジネスのための情報網を開拓しており、そこに生じたのがワーテルローの戦いであった。ロンドンの金融市場もこの戦いに注目しており、英国が勝てば英国債を買い、負ければ売りとの観測であった。

 この時、ロンドンにいたロスチャイルドは、ドーバー海峡を隔てた数百㌔メートル先の戦場の情報を得ており、英国政府よりも早く英軍の勝利を知ったという。

 しかしここでロスチャイルドは、英国債を猛烈な勢いで売りこんだのである。ロスチャイルドの一挙一動を見守っていた市場関係者は、彼の売りを見て英国が敗北したと判断し、市場の英国債は暴落するも、ロスチャイルドは価格が底をついたのを見計らい、今度は猛烈な買いに転じ巨万の富を得ることとなった。これは「ネイサンの逆売り」として知られている。』

パンデミック(世界的大流行)の歴史

【医療コラム】パンデミック(世界的大流行)の歴史
https://kawakita.or.jp/aisafetynet/airoken/news/column/

『みなさん、こんにちは。施設長の佐藤です。

全世界が新型コロナウイルスのパンデミックの元におかれて2年間が経過しました。人類は紀元前の昔からさまざまな感染症と戦ってきました。最古のパンデミックの記録は、紀元前430年のギリシャの感染症です。疾患名は不明ですが、死者数7万~10万人といわれています。感染症のパンデミックは歴史を変えるほどの影響を及ぼしてきました。

天平の日本では、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死し、橘諸兄への政権交代が起きました。社会復興策として「墾田永年私財法」が施行され、土地の私有が認められるようになりました。

14世紀、ヨーロッパではペストが大流行し全人口の4分の1から3分の1が死亡しました。教会をはじめとする封建的な権威の失墜、労働力の急激な減少、人材の払底が起こり、労働者の地位の向上、農奴解放がもたらされました。限界を迎えていた中世ヨーロッパ世界の社会構造の変化を加速させ、近世への変革の一因になったと考えられています。

以下に、パンデミック(世界的大流行)の歴史を示します。

【挿絵】死の舞踊(ヴォルゲムート 1493年)

天然痘

紀元前 エジプトのミイラに天然痘の痕跡がみられる。

6世紀 日本で天然痘が流行、以後、周期的に流行。

735年~737年 天平の疫病大流行では藤原四兄弟が相次いで病死。社会復興策として、土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行。

15世紀 コロンブスの新大陸上陸。アメリカ大陸で大流行。50年で人口が8,000万人から1,000万人に減少。

1980年 WHOが天然痘の世界根絶宣言。人類が根絶した唯一の感染症。
ペスト

540年頃 ヨーロッパの中心都市ビザンチウム・コンスタンチノープルで流行。最大で1日1万人の死者が出たといわれている。

14世紀 ヨーロッパで「黒死病」と呼ばれるペスト大流行。ヨーロッパだけで全人口の4分の1~3分の1にあたる2千500万人が死亡。
コレラ

19~20世紀 地域を変えながら7回の大流行。

幕末から明治 日本ではコロリと死ぬからコロリと呼ばれた。

1961年 インドネシアのセレベス島に端を発した第7次世界大流行は、現在も世界中に広がっていて、終息する気配がない。

新型インフルエンザ

1918年 スペインかぜが大流行。世界で4,000万人以上が死亡したと推定。 (当時の世界人口18億人)

1957年 アジアかぜの大流行。世界で200万人以上の死亡と推定。

1968年 香港かぜの大流行。世界で100万人以上の死亡と推定。

2009年 新型インフルエンザ(A/H1N1)の大流行。世界の214カ国・地域で感染を確認、1万8,449人の死亡者(WHO、2010年8月1日時点)。

新興感染症

1981年 エイズ(後天性免疫不全症候群:HIV)

過去20年間で6,500万人が感染、2,500万人が死亡。

1996年 プリオン病

イギリスでクロイツフェルト・ヤコブ病と狂牛病との関連性が指摘。

1997年 高病原性鳥インフルエンザ

人での高病原性鳥インフルエンザA(H5N1)発症者397人、死亡者249人(2009年1月20日時点) 。

2002年 SARS(重症急性呼吸器症候群) 9ヶ月で患者数8,093人、774人が死亡。

【パンデミック死者数】

1位
1347-1351年 ペスト・黒死病 2億人
2位
1520年 天然痘 5,600万人
3位
1918年-1919年 スペインかぜ 4,000万人-5,000万人
4位
541年-542年 ペスト・東ローマ帝国 3,000万人-5,000万人
5位
1981年-現在 エイズ 2,500万人-3,500万人
6位
1855年 ペスト・19世紀中国とインド 1,200万人
7位
165年-180年 ペスト・ローマ帝国の疫病 500万人
8位
1600年 ペスト・17世紀の大疫病 300万人
9位
1957年-1958年 アジアかぜ 110万人-200万人
執筆者プロフィール

あい介護老人保健施設 施設長 佐藤 清貴(さとう・きよたか)

医学博士
・日本内科学会認定内科医
・日本循環器学会認定循環器専門医
・日本医師会認定産業医
・日本総合健診医学会 日本人間ドック学会認定 人間ドック専門医
・日本人間ドック学会認定 人間ドック健診情報管理指導士
・日本老年病学会老人保健施設認定医 』

ルーマニアの歴史

ルーマニアの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『目次
ページ先頭

古代・ダキア人・ローマ化・異民族支配

中世

東方問題の中での近代化と独立

「大ルーマニア」の成立と社会主義政権の成立

チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命

    ルーマニア革命
    革命以後
参考文献
脚注
関連項目

ルーマニアの歴史

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出典検索?: “ルーマニアの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年5月)

ルーマニアの歴史
Coat of arms of Romania.svg
この記事はシリーズの一部です。
ククテニ文化 (5500 BC-2750 BC)
ダキア
ダキア戦争 (101-106)
ダキア属州 (106-c.270)
ワラキア公国 (13C末-1856)
モルダヴィア公国 (1359-1856)
トランシルヴァニア公国 (1571-1711)
ワラキア蜂起 (1821)
ルーマニア公国 (1859-1881)
ルーマニア王国 (1881-1947)
ルーマニア社会主義共和国 (1947-1989)
ルーマニア革命 (1989)
ルーマニア (1989-現在)
ルーマニア ポータル
表 · 話 · 編

ルーマニアの歴史を以下に記述する。ルーマニア(Romania)は「ローマ人の国」を意味するその国名からわかるように、バルカン半島におけるラテン人が形成した国である。だが、周辺のスラブ人と同様に正教会をはじめとするビザンティン文化を受け入れたことや、オスマン帝国、ハプスブルク帝国の影響下に置かれ、長らく独自の民族国家が樹立できなかったのもルーマニアの歴史の一つの側面と言える。また冷戦時期の大統領ニコラエ・チャウシェスクによる共産独裁体制と、1989年に起こった一連のルーマニア革命でも知られる。

古代・ダキア人・ローマ化・異民族支配

帝政ローマ期のダキア一帯

バルカン半島の東北部のこの地には、旧石器時代には人の定住した痕跡があり、石器や祭祀に使用されたであろうと思われる人形などが発掘されている。紀元前2000年頃に、トラキア人から派生したダキア人が住み始め、紀元前514年のペルシア戦争では、ペルシア王ダレイオス1世と戦い、その勇敢さをヘロドトスが記録している。紀元前60年頃には、ダキア人は統一国家を成立させた。2世紀の始めには、ローマ帝国のトラヤヌス帝が、101年から102年と、105年から106年の2度に渡るダキア戦争に於いてダキア王デケバルスを下し、ドナウ川以北でローマ帝国の唯一の属州となる属州ダキアが置かれた。

ローマの属州になるとローマ人の植民地化が進められ、ダキア人はローマ人と混血しローマ化が進み、これが今のルーマニア人の直接の祖先となる。さらに、キリスト教がこの地域にもたらされることになり、2世紀から3世紀にはキリスト教が普及する。ルーマニアでは聖アンドレがダキアにキリスト教を伝えたとされている。

271年、ローマ帝国はダキアを放棄すると共にゲルマン系の西ゴート族に移譲、西ゴート族支配下となる。378年からはフン族の西進によって西ゴート族かイベリア半島へと移り、その後のフン族の四散によってスラヴ系民族の移住が進み、更にブルガール人が1000年ごろまで支配した。このように異民族が侵入・支配が続くものの、ローマ人(ラテン民族)の特色は残った。

中世
ヴラド・ツェペシュ。
詳細は「中世におけるルーマニア(英語版)」を参照

10世紀には、各地に小国がいくつか成立し始め、ワラキア、トランシルバニア、モルダヴィア3カ国に収斂されていく。

そして、1054年の大シスマの時には、ルーマニアの3カ国は東方教会に組み込まれていくことになる。

そして、このうちトランシルバニアは、早くからカトリックを奉じるハンガリー王国の支配下に入り、さらに、1310年にはアンジュー家、次いでハプスブルク家の支配を受けた。
この地域がルーマニアに復帰するのは20世紀初頭の1918年である。

残るワラキア、モルダヴィアは、13世紀にはタタール人に征服された。

14世紀にはタタール人を退け、ワラキア公国とモルダヴィア公国が成立。

しかし、周辺からハンガリー王国、ポーランド王国、オスマン帝国などの脅威にさらされ、1415年にはワラキア公国がオスマン帝国の宗主下に入った。

なお、ワラキアでは吸血鬼や串刺し公と悪評されたヴラド・ツェペシュが、オスマン帝国と度々戦っている。彼は少なくとも現代のルーマニア人からは、オスマン帝国の侵略から守った英雄として捉えられている。一方モルダヴィア公国は、からくもオスマン帝国の支配から免れ、シュテファン大公の時代[1]にはオスマン帝国を破ることもあったものの、16世紀には自治を条件にオスマン帝国の支配下におかれることになった。

東方問題の中での近代化と独立

1859年から2010年までのルーマニアの国境の変遷

1699年のカルロヴィッツ条約以降、この地域はオーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けることになった。1821年、ギリシャ独立戦争の嚆矢としてトゥドル・ウラジミレスクによってワラキア蜂起が勃発したが、これはオスマン帝国によって鎮圧された。

19世紀にはロシアが占領したが、オスマン帝国の宗主下でワラキア、モルダヴィアの連合公国が成立。1859年にアレクサンドル・ヨアン・クザが両公国の公となり、1861年にルーマニア公国へと統合された。しかし保守貴族が反発しクザは退位させられた。1866年には新憲法が起章され、ドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家からカロル1世が迎えられた。カロル1世は国内の近代化を推進し、1877年の露土戦争に参戦。この年の5月9日に独立を宣言、オスマン帝国と独立戦争を展開、翌年のサン・ステファノ条約とベルリン協定で列強の承認をうけた。1881年には、カロル1世は国王に即位し、ルーマニア王国が樹立された。

「大ルーマニア」の成立と社会主義政権の成立

詳細は「第二次世界大戦下のルーマニア」を参照
1941年のルーマニア

第一次世界大戦では1916年8月27日に連合国側で参戦した。ルーマニア軍はトランシルヴァニア地方の併合を目指してオーストリアに進撃したものの、旧態依然とした体質と敵ドイツ軍のエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン、アウグスト・フォン・マッケンゼンらの奮戦により、開戦からたった3ヶ月後の1916年12月6日に首都ブカレストを陥落させられた。休戦後の1918年12月1日には、ブコヴィナ、トランシルバニア、ドブロジャ、ベッサラビアを獲得し、大ルーマニアを実現させた[2]。

第二次世界大戦では、独ソ不可侵条約を受けてホルティ政権下のハンガリーがトランシルバニアに進駐。

また、スターリンのソ連もルーマニアに侵入し、ベッサラビアとブコヴィナを占領した。
このような領土喪失に無為だった国王カロル2世に国民の不満は高まり、王政廃止の原因となる。

その後、ルーマニアはファシズム団体鉄衛団が政権獲得後枢軸国について戦ったが、ソ連軍侵攻により、1944年に政変が起こり連合国につき(1944年のルーマニア革命)、ナチス・ドイツと戦端を開いた。

戦後、ベッサラビアとブコヴィナをソ連に奪われ、ソ連軍の圧力の下、1947年の12月30日に人民政府が成立。王政は廃止され、ルーマニア人民共和国となった。

チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命

1968年8月。プラハ侵攻に抗議するルーマニアのチャウシェスク大統領。東側でのルーマニアの特異性が現れた場面であった。

1965年にはチャウシェスクが指導者の地位につき、国号をルーマニア社会主義共和国へ変更。

1974年には大統領に就任し、独裁体制をしいた。

その間、アメリカ合衆国、西ヨーロッパ、中華人民共和国と外交関係を交わし、「東欧の異端児」と呼ばれるようになった。

急速で過度に重工業化を目指し、西側からの技術の導入や機械の輸入で債務を膨張させた。

対外債務は飢餓輸出の結果完済したものの、「国民の館」と称する豪奢な宮殿を造営するなどの奢侈にはしったため、ルーマニアの経済は疲弊していった。

ルーマニアには石油が埋蔵されていて資源面で優位なことが、東西冷戦、中ソ対立においても、独自の立場の維持を可能にした。しかし、これはルーマニアをチャウシェスクの独裁国家に変質させる要因にもなった。

1977年3月4日、ブカレストの北方約100kmを震源とするマグニチュード7.0から7.5の地震が発生。多数の建物が倒壊して死傷者が出た。ブカレスト市内でも少なくとも十カ所のビルが倒壊したことを駐ルーマニアのアメリカ大使館員が報告している[3]。同年3月9日、ルーマニア共産党政治執行委員会は、同日時点で死者が1357人、重軽傷者10396人、被災家屋2万戸超に達していることを明らかにしている[4]。

ルーマニア革命

ソ連にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカをはじめ、1989年にはベルリンの壁の崩壊に連なる、東欧の民主化の波はルーマニアにも波及した。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなど、東欧諸国が無血で民主化を成し遂げる中、チャウシェスク大統領は権力の保持を企図したため、暴動が発生。ルーマニアだけは、流血の革命[5]による民主化となった(1989年のルーマニア革命)。

1989年12月16日に、ルーマニア西部の都市ティミショアラでの牧師強制連行事件に対し、市民は抗議運動を起こし、当局はこれを鎮圧に乗り出したが、死者の発生が抗議運動に過熱化させる結果を招いた。

国民のチャウシェスク独裁の不満は一挙に噴出し、暴動は首都ブカレストを含むルーマニア全域に広がった。12月22日にはチャウシェスクは全土に戒厳令をしき、国軍による混乱鎮圧に着手する。

しかし、国軍は大統領の命令を拒否し国民に合流。彼らと治安部隊との武力衝突が、首都を含む各地で繰り広げられた。ブカレストでは、市民が共和国広場に押し寄せ、更に共産党本部、放送局を占拠。もはやこれまでと、チャウシェスクは夫人とともにヘリコプターで脱出を試みるが失敗、身柄を拘束されてしまう。

これを受けて、暫定政権として救国戦線評議会が結成され、数日で実権を掌握。事実上の政府となった。同評議会は議長に、イオン・イリエスクを選出。12月25日には、チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺刑となった。その様子は映像で世界中に配信され、「ベルリンの壁の崩壊」の場面と並び、東欧民主化を国際社会に見せ付けることになった。

革命以後

1992年の救国戦線評議会の党大会では、内部抗争の結果分裂し、同年9月には大統領選、上下院選挙が行われイリエスクが大統領に就任。その後、民主化はされたが、高失業率や経済成長の停滞で前途は多難なものとなり、今も旧東欧圏では遅れをとっている。また、トランシルヴァニア地方の少数民族であるハンガリー系住民との民族問題を抱えている。2007年、ルーマニアは欧州連合(EU)に加盟した。

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この節の加筆が望まれています。

アンドレイ・オツェテァ著 鈴木四郎・鈴木学訳 『ルーマニア史1』恒文社、1977年。
アンドレイ・オツェテァ著 鈴木四郎・鈴木学訳 『ルーマニア史2』恒文社、1977年。
ジョルジュ・カステラン著 萩原直訳 『ルーマニア史』白水社、1993年。ISBN 4-560-05747-8。
六鹿茂夫編著 『ルーマニアを知るための60章』明石書店、2007年。ISBN 978-4-7503-2634-4。

ユーゴスラビア

ユーゴスラビア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2

 ※ まず、バルカン半島の地理と歴史を、押さえておこう…。

 ※ コソボ紛争は、そういうものの「派生」として、生じている…。

『ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija/Југославија)は、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。

国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり[1]、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義が生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった[1]。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。

なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。

国家の多様性から『七つの国境[注釈 1]、六つの共和国[注釈 2]、五つの民族[注釈 3]、四つの言語[注釈 4]、三つの宗教[注釈 5]、二つの文字[注釈 6]、一つの国家』と形容される[1][2][3]。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照 』

『概要

首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年にユーゴスラビア王国に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンを中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置したユーゴスラビア民主連邦が正式なユーゴスラビア政府となり社会主義体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称された[注釈 7]。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。

しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、1991年から2001年まで続いたユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も2006年にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアとなっている。また、セルビア国内の自治州であったコソボは2008年にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり[4]、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。

バルカン半島に位置し、北西にイタリア、オーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニア、ブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。

国名

ユーゴスラビアはスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でЈУГОСЛАВИЈА(スロベニア語: [juɡɔˈslàːʋija]、セルビア・クロアチア語: [juɡǒslaːʋija, juɡoslâʋija])。

日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。過去にはユーゴースラヴィアという表記が使われていた[5]。

ユーゴスラビアは「南スラヴ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。

国名の変遷

1918年 - セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
1929年 - ユーゴスラビア王国
1943年 - ユーゴスラビア民主連邦
1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国
1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国
2003年2月5日 - セルビア・モンテネグロ独立、ユーゴスラビアの国名が消滅。

歴史

王国の成立
詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照
ユーゴスラビア王国の国旗

第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。

1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。

憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年10月3日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。

国王アレクサンダル1世

国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。

1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。

アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。

第二次世界大戦
Axis occupation of Yugoslavia, 1941-43.png
Axis occupation of Yugoslavia, 1943-44.png

ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。

同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印した[6]が、 翌4月6日朝にはドイツ国防軍がイタリア王国、ハンガリー、ブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始[7]。 4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した[8]。

ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。

ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。

ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はイギリスのロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任するヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。

連邦人民共和国の成立

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗

大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り[9]、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[10][11]、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍[12] など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。

社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。

第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照

このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。

1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。

東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。

崩壊

詳細は「ユーゴスラビアの崩壊(英語版)」を参照
「ユーゴスラビア紛争」も参照
1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷

1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。ドイツのハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている[13]。

セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。

連邦共和国の成立

詳細は「ユーゴスラビア連邦共和国」を参照

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。
一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。

ユーゴスラビアの変遷

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指導者
王国

すべてカラジョルジェヴィチ家。

ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)
アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)
ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)

共産主義者同盟

ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(1939年3月-1980年5月4日)
    ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理
    ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理
ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)
ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)
ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)
ミティア・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)
ドラゴスラヴ・マルコヴィッチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)
アリ・シュクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)
ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)
ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)
ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)
スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)
ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)

連邦人民共和国・社会主義連邦共和国

イヴァン・リヴァル(1945年12月29日 - 1953年1月14日)
ヨシップ・ブロズ・ティトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領
ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)
ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)
セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)
ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)
ミカ・シュピリャク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)
ヴェセリン・ジュラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)
ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)
シナン・ハサニ(1986年5月15日 - 1987年5月15日)
ラザル・モイソフ(1987年5月15日 - 1988年5月15日)
ライフ・ディスダレヴィッチ(1988年5月15日 - 1989年5月15日)
ヤネス・ドルノウシェク(1989年5月15日 - 1990年5月15日)
ボリサヴ・ヨヴィッチ(1990年5月15日 - 1991年5月15日)
スティエパン・メシッチ(1991年6月30日 - 1991年10月3日)
    ブランコ・コスティッチ(1991年10月3日 - 1992年6月15日)代理

連邦共和国

ドブリツァ・チョシッチ(1992年6月15日 - 1993年6月1日)
    ミロシュ・ラドゥロヴィッチ(1993年6月1日 - 1993年6月25日)代理
ゾラン・リリッチ(1993年6月25日 - 1997年6月25日)
    スルジャ・ボジョヴィッチ(1997年6月25日 - 1997年7月23日)代理
スロボダン・ミロシェヴィッチ(1997年7月23日 - 2000年10月7日)
ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(2000年10月7日 - 2003年3月7日)

政治

1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。

1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があったことから、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。

1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。
地方行政区分

「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照。
1918年-1941年
詳細は「ユーゴスラビア王国の地方行政区分」を参照

1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。

ドラヴァ州(Dravska banovina)
サヴァ州(Savska banovina)
プリモリェ州(Primorska banovina)
ヴルバス州(Vrbaska banovina)
ドナウ州(Dunavska banovina)
ドリナ州(Drinska banovina)
モラヴァ州(Moravska banovina)
ゼタ州(Zetska banovina)
ヴァルダル州(Vardarska banovina)
ベオグラード市(Grad Beograd、パンチェヴォおよびゼムンを含む)

1945年-1990年
スロベニア
社会主義共和国
クロアチア
社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ
社会主義共和国
モンテネグロ
社会主義
共和国
マケドニア
社会主義
共和国
セルビア
社会主義共和国
ヴォイヴォディナ
社会主義
自治州
コソボ
社会主義
自治州
詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分」を参照

1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。

スロベニア社会主義共和国
クロアチア社会主義共和国
マケドニア社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国
セルビア社会主義共和国
    ヴォイヴォディナ社会主義自治州
    コソボ社会主義自治州
モンテネグロ社会主義共和国

1990年以降

1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。

スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言し、スロベニア共和国となった)
クロアチア共和国(1991年6月に独立を宣言し、クロアチア共和国となった)
マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立し、マケドニア共和国となった。2019年に北マケドニア共和国に改称)
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(1992年3月に独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国となった。その後内戦に突入し、1995年12月和平に調印)
セルビア共和国(2003年に「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の独立に伴って独立し、セルビア共和国となった)
    ヴォイヴォディナ自治州(セルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州となっている)
    コソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日に独立を宣言し、コソボ共和国となった)
モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立しモンテネグロとなった)

地理
河川

ドナウ川
サヴァ川
モラヴァ川
ヴァルダル川
ドリナ川
ウナ川
ネレトヴァ川

山脈

ディナル・アルプス

経済

1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。

また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。

通貨はユーゴスラビア・ディナール

国民

セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、アルバニア人のために南部にコソボ自治州が、ハンガリー人のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。

宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人は主にイスラームである。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えてムスリム人という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。

言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解することができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。

文化
スポーツ
詳細は「ユーゴスラビアのスポーツ」を参照

サッカー

サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第1回から出場している。ワールドカップでの最高成績は1930年および1962年の4位である。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。

1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990 FIFAワールドカップでは準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。

しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応してFIFA、UEFAはユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体とともにユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録はユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ→セルビアが引き継いでいる。

旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承されている。1998 FIFAワールドカップではユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアは3位に入る活躍を果たした。またサッカーが盛んとはいえないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002 FIFAワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに世界を驚かせた。さらに2014 FIFAワールドカップではボスニア・ヘルツェゴビナも本大会初出場を果たし、2018 FIFAワールドカップではクロアチアが準優勝し、さらに大きな驚きを呼んだ。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われたことが上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。

オリンピック

サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。

第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。

有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。

しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦うことを認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年リレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。

ユーゴスラビアは1996年アトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年シドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア
^ スロベニア、クロアチア、セルビア(ボイボディナ、コソボの2自治州が含まれる)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア
^ スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人(ユーゴスラビア内ムスリム)。 また、アルバニア人も多く、彼らのほとんどはコソボ自治州に住む。
^ スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語
^ カトリック、正教、イスラム教。 宗教はスロベニア、クロアチアらほとんどカトリック信者、ボスニア・ヘルツェゴビナ(40%以上)やコソボ(80%以上)では多数のイスラム教徒がおり、セルビアとモンテネグロ、マケドニアでは圧倒的に正教の信者が多い。
^ ラテン文字とキリル文字
^ ユーゴスラビア連邦人民共和国の国家規模は(社会主義国の連邦として)ソ連に次ぐものであった。

出典

^ a b c 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典. “ユーゴスラビアとは” (日本語). コトバンク. 2022年3月8日閲覧。
^ “特集 西バルカン地域 多民族社会の平和を目指して(1/4ページ) | 広報誌・パンフレット・マンガ | JICAについて - JICA”. www.jica.go.jp. 2021年4月29日閲覧。
^ “映画『灼熱』 公式サイト” (日本語). www.magichour.co.jp. 2022年3月8日閲覧。
^ KosovaThanksYou コソボ独立を承認した国の一覧
^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について
^ ユーゴ、ソ連と友好不可侵協定調印『東京日日新聞』昭和16年4月7日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ ドイツ軍、ユーゴ・ギリシャへ侵入(『東京日日新聞』昭和16年4月7日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387
^ ユーゴ全軍が無条件降伏(『東京日日新聞』昭和16年4月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p388
^ W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953
^ Sherman Register - Yugoslavia
^ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)
^ United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force
^ “旧ユーゴ内戦と国際社会” 2017年7月11日閲覧。

参考文献

柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社

関連項目

ユーゴスラビア関係記事の一覧
    ユーゴスラビア紛争
    ボスニア紛争
    セルビア・モンテネグロ
    ユーゴスラビア共産主義者同盟
    ユーゴスラビア人
    ユーゴスラビア辞書協会百科事典
バルカン半島の歴史
ヨーロッパ史
アンダーグラウンド (映画)
石の花 (坂口尚の漫画)
さよなら妖精 (米澤穂信)
ユーゴスラビア (小惑星)(ユーゴスラビアに因んで命名された小惑星)
ロヴロ・フォン・マタチッチ
ユーゴノスタルギヤ: 無くなったユーゴスラビアに対する懐古感情。
ユーゴスラビアの政治犯(英語版)

外部リンク

最後の国王ペータル2世の皇太子アレクサンダル・カラジョルジェヴィチの公式ウェブサイト(英語)
The Weight of Chains (2010) - ユーゴスラビア解体を招いたアメリカ、EUの介入を暴いたカナダのドキュメンタリー映画
旧ユーゴスラビア - NHK for School
『ユーゴスラビア』 - コトバンク

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コソボ紛争

コソボ紛争
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コソボ紛争
ユーゴスラビア紛争中
Kosovo War header.jpg
(上)コソボ空爆による被害。
(下)爆撃のため飛び立つNATO軍(米空軍)のF-15E。
戦争:コソボ紛争
年月日:1998年2月 – 1999年6月11日
場所:コソボ
結果:NATOの勝利。コソボからユーゴスラビア軍は撤退、UNMIK開始、KFOR駐留、コソボ解放軍は解体。
交戦勢力
Flag of Albania.svg コソボ解放軍
アルバニアの旗 アルバニア
Flag of Jihad.svg ムジャーヒディーン義勇軍
北大西洋条約機構の旗 NATO[注釈 1]
戦闘参加国:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
イタリアの旗 イタリア
オランダの旗 オランダ
カナダの旗 カナダ
スペインの旗 スペイン
チェコの旗 チェコ
デンマークの旗 デンマーク
ドイツの旗 ドイツ
トルコの旗 トルコ
ノルウェーの旗 ノルウェー
ハンガリーの旗 ハンガリー
ベルギーの旗 ベルギー
フランスの旗 フランス
ポーランドの旗 ポーランド
ポルトガルの旗 ポルトガル
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ユーゴスラビア連邦共和国
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ユーゴスラビア軍
セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 セルビア警察
セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 セルビア人準軍事組織(外国人兵士含む)
指導者・指揮官
北大西洋条約機構の旗 ウェズリー・クラーク(英語版)(SACEUR)
北大西洋条約機構の旗 ハビエル・ソラナ(NATO事務総長)
Flag of Albania.svg アデム・ヤシャリ(英語版)(1996-1998、コソボ解放軍総司令官)
Flag of Albania.svg スレイマン・セリミ(英語版)(コソボ解放軍参謀長、1999年5月まで)
Flag of Albania.svg アギム・チェク(英語版)(コソボ解放軍参謀長、1999年5月から) ユーゴスラビア連邦共和国の旗 スロボダン・ミロシェヴィッチ(ユーゴスラビア軍最高司令官)
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ドラゴリュブ・オイダニッチ(英語版)(参謀総長)
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 スヴェトザル・マリャノヴィッチ(参謀副長)
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ネボイシャ・パヴコヴィッチ(英語版) (ユーゴスラビア第3軍司令官)

戦力

北大西洋条約機構の旗 航空機: 1,031+[1]
Flag of Albania.svg 兵士:

12,000-20,000 人(アルバニア人側の情報)
6,000-8,000 人(セルビア人側の情報)

セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 兵士: 85,000-114,000 人

セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 警察官: 20,000 人
セルビア共和国 (1990年-2006年)の旗 義勇軍 15,000 人

損害
コソボ解放軍: 死者: 2,788 人[2] – 6,000 人[3]

NATO: 死者: 2 人(非戦闘中)[4]
コソボ解放軍による死者数:
不明
NATOによる死者数:
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 兵士: 462 人[5]
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 警官: 114 人[6]

コソボ紛争

    プレカズの攻撃 ロジャの戦い ベラチェヴァツ炭鉱の戦い ユニクの戦い グロジャネの戦い ゴルニェ・オブリニェの虐殺 パンダ・バーの虐殺 ラチャクの虐殺 ユーゴスラビア空爆 ポドゥイェヴォの虐殺 ヴェリカ・クルシャの虐殺 イズビツァの虐殺 アルバニア作戦 コシャレの戦い ツスカの虐殺 スヴァ・レカの虐殺

表示

ユーゴスラビア紛争

    十日間戦争 クロアチア紛争 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 コソボ紛争 マケドニア紛争

コソボの歴史
Flag of Kosovo.svg
古代 – 中世
イリュリア
ローマ帝国 (100 BC – 395 AD)
東ローマ帝国 (395 – 839)
ブルガリア帝国 (839 – 1241)
セルビア王国
コソボの戦い
オスマン帝国(1455 – 1912)
ルメリ
コソボ州 (en)
アルバニア民族覚醒 (en)
プリズレン連盟
20世紀以降
第一次バルカン戦争
セルビア王国
ユーゴスラビア王国
アルバニア王国
コソボ・メトヒヤ自治州 (1946 – 1974)
コソボ社会主義自治州 (1974 – 1990)
コソボ共和国(1990 – 2000)
コソボ・メトヒヤ自治州 (1990 – 1999)
コソボ紛争 (1996 – 1999)
UNMIK(1999 – 2008)
コソボ共和国 (2008 -)

表話編歴

コソボ紛争(コソボふんそう、アルバニア語:Lufta e Kosovës、セルビア語:Рат на Косову и Метохијиは、ユーゴスラビア紛争の過程で、バルカン半島南部のコソボで発生した2つの武力衝突を示す。

1998年 - 1999年:1998年2月から1999年3月にかけて行われたユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人の武装組織コソボ解放軍との戦闘
1999年:1999年3月24日から6月10日にかけて行われた北大西洋条約機構(NATO)によるアライド・フォース作戦[13]、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。

なお、セルビア語とアルバニア語で地名が異なる場合、この記事では「アルバニア語呼称 / セルビア語呼称」のように表記する。
前史
1945年 – 1986年 : 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボ
詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)」および「コソボ社会主義自治州」を参照

セルビア人、アルバニア人の間には20世紀を通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期には頻発した。第二次世界大戦後、社会主義体制をとるヨシップ・ブロズ・チトーの政府はユーゴスラビア社会主義連邦共和国全域において民族主義者の活動を体系的に抑止し、ユーゴスラビアのいかなる構成国も、ヘゲモニー(覇権)となってユーゴスラビアを牛耳ることのないように努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多くの人口を抱えていた。そのため、セルビアの影響力を制限するために、セルビア北部のヴォイヴォディナと南部のコソボ・メトヒヤはそれぞれヴォイヴォディナ自治州、コソボ・メトヒヤ自治州としてセルビア本体から切り離された。コソボの国境はユーゴスラビアにおけるアルバニア人の居住地域の境と完全には一致していなかった。多数のアルバニア人住民はコソボ域外のマケドニア、モンテネグロ、セルビア本体に残された一方、コソボの北部には多くのセルビア人が住む地域が含まれた。いずれにしても、新設されたコソボの領域全体では、ユーゴスラビア王国時代の1921年の段階でアルバニア人が多数派であった。

コソボの公的な自治は1945年にユーゴスラビア憲法によって定められ、大きな自治権は与えられなかった。チトーの秘密警察(UDBA)は民族主義者を厳しく弾圧した。1956年には、多くのアルバニア人がコソボにおいて国家転覆の企てとスパイの容疑で訴追された。分離主義による脅威は実際にはそれほど大きなものではなく、少数の地下活動組織がアルバニアへの統合を求めて活動しているのみであり、政治的には大きな影響力を持ち得なかった。しかしながら彼らの活動のもたらす長期的な影響は小さくなく、アデム・デマツィ(Adem Demaci)によって組織されたアルバニア人統一革命運動は、後のコソボ解放軍(Ushtria Çlirimtare e Kosovës; UÇK)の政治的中核となっていった。デマツィ自身は1964年に他の賛同者らとともに投獄されている。

ユーゴスラビアでは1969年、政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部と貧しい南部の地域の間で貧富の差が拡大し、政治的・経済的な危機を迎えていた。しかしながら、ユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置を求め、アルバニア語の地位向上を求める学生らの要求に、チトーは応じることになった。1970年には、ベオグラード大学の下部組織であったプリシュティナ大学が独立の教育機関として設置された。コソボにおける教育のアルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身が教材を用意することで合意された。

1974年、コソボの政治的地位はユーゴスラビアの憲法改正に伴って大きく向上し、コソボの政治的権利は拡大された。ヴォイヴォディナとともに、コソボは他のユーゴスラビア構成国と多くの面において同等の地位を持つコソボ社会主義自治州となった。政治権力は依然として共産主義者同盟が独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった。

1980年5月4日のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は大アルバニア主義への始まりと見ていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、軍や警察を大量投入して反乱を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別の者は、この騒動での死者は1000人を超えると主張している。

コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類の民族主義に対して強硬路線が採られ、セルビア人、アルバニア人双方の民族主義者らに対する取締りが行われた。コソボには大量の秘密警察が配置され、当局に認められていないセルビア人、アルバニア人双方の民族主義の活動を厳しく弾圧した。マーク・トンプソン(Mark Thompson)の報告によると、コソボの住民580,000人が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。

この間、アルバニア人とセルビア人の共産主義者の間の緊張は高まり続けていた。1969年、セルビア正教会はその主教に対してコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を命じ、ベオグラードの政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索した。1982年2月、セルビア本国からセルビア人の神品(聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会は沈黙しているのか、なぜ進行中のコソボの聖堂に対する破壊行為、放火、冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めた。このような懸念はベオグラードの政府の関心をひきつけた。コソボにおいてセルビア人やモンテネグロ人が迫害を受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖と不安定化を招く重大な事実として、コソボのアルバニア人マフィアによる麻薬取引の話があった。

これらに加えて、コソボの経済状態の悪化が不安定化に拍車をかける要因となった。コソボの経済状態の悪化によってコソボのセルビア人は同地で職にありつく機会は失われていった。アルバニア人、セルビア人ともに、新しく労働者を採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのものが人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人を自称している者の中に多くのイスラム教の信仰を持つようになったロマが含まれていると信じられるに至った。コソボはユーゴスラビアの中で最も貧しく、1979年の時点で一人当たりGDPは795ドルであった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635ドル、最も豊かなスロベニアでは5315ドルであった。

1986年 – 1990年 : スロボダン・ミロシェヴィッチ登場とコソボ

「パヴレ (セルビア総主教)」も参照

コソボでは、アルバニア人の民族主義が拡大し、分離主義によってアルバニア人とセルビア人の民族間の緊張は高まっていった。有害な雰囲気が拡大し、危険な噂が蔓延し、小規模な衝突の数は増大していった[14]。セルビア正教会の修道院・聖堂等へのアルバニア人による破壊行為、聖職者や修道士への暴行、修道女の強姦なども増え、後にセルビア総主教となった主教パヴレも、1989年にアルバニア人の若者グループに襲われ、全治3ヶ月の重傷を負った。

セルビア科学芸術アカデミー(SANU)が1985年から1986年にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、このような緊張関係に対してのものであった[15]。報告では、この期間にコソボを去ったセルビア人の少なからざる部分は、アルバニア人による追放圧力によるものであると結論した。

SANUの6人の研究者らは、1985年6月に草案に基づいてこの仕事をはじめ、草案は1986年9月にリークされた。この「SANU覚書」は大きな議論を呼ぶものとなった。この文書では、ユーゴスラビアに住むセルビア人の置かれた困難な状況に焦点をあてており、セルビアの地位を低下させるチトーの周到な計画と、セルビア本国の外でのセルビア人の困難について述べている。

メモランダムはコソボに特に高い関心を寄せ、「コソボにおけるセルビア人が物理的、政治的、法的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と論じた。このメモランダムでは、1986年時点でのコソボのセルビア人の地位は、セルビアがオスマン帝国から解放された1804年以降で最悪となっており、ナチス・ドイツの占領下にあった第二次世界大戦時や、オーストリア=ハンガリー帝国と戦った第一次世界大戦時よりも悪いとした。メモランダムの著者らは、この20年間で20万人のセルビア人がコソボを去ったと主張し、急進的な改革がなければまもなくコソボからセルビア人はいなくなる、と警告した。メモランダムでは、その対処法として、「治安、およびコソボ・メトヒヤに住む全ての人々の明白な平等を保障すること」、そして「コソボを離れたセルビア人のコソボへの帰還を可能とする、永続的で実効性のある環境を作り出すこと」であるとした。メモランダムは「セルビアは、過去に見られたような、受身の姿勢で他者が何を言うかを待ってはならないとしている。

SANUメモランダムに対しては様々な反応があった。アルバニア人らは、これをコソボにおけるセルビア人優越主義を喚起するものであるとした。彼らは、コソボを去った全てのセルビア人は、単に経済的理由であると主張した。その他のユーゴスラビアの民族主義者、特にスロベニア人やクロアチア人は、セルビアの拡張主義の伸張であるとみた。セルビア人自身の見解は割れていた。多くのセルビア人らはこのメモランダムを歓迎した一方、古くからの共産主義の守護者らはこれを激しく非難した[16]。メモランダムを非難したセルビア共産主義者同盟の指導者の一人に、スロボダン・ミロシェヴィッチの名があった。

1988年、コソボ自治州の行政委員会の首班が逮捕された。1989年3月、ミロシェヴィッチはコソボおよびヴォイヴォディナでの「反官憲革命」(en)を宣言し、これらの自治権を剥奪し、外出制限をかけ、コソボでの24人の死者が出た暴力的なデモを理由にコソボに対して非常事態宣言を発令した。ミロシェヴィッチとその政府は、セルビアの憲法変更はコソボに留まるセルビア人を、多数派を占めるアルバニア人による迫害から保護するために必要不可欠であるとした。

1990年 – 1998年 : セルビア統治下のコソボ
詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1990年-1999年)」を参照

スロボダン・ミロシェヴィッチが1990年、コソボとヴォイヴォディナの自治権を剥奪し、ミロシェヴィッチの支持者によって選ばれた新しい地元の指導者へと挿げ替え、コソボの権限縮小のプロセスを大きく進めた[16]。両自治州はユーゴスラビアの6つの構成共和国と同様にユーゴスラビア連邦の大統領評議会に議決権のある代表者を持っていたため、コソボ、ヴォイヴォディナをミロシェヴィッチ派が乗っ取ったことにより、ミロシェヴィッチ派の支配下となった両自治州とセルビア、モンテネグロを併せて、大統領評議会の8議席のうち4議席をミロシェヴィッチが独占することになった[16]。そのため、これ以外のユーゴスラビアを構成する4箇国、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの代表者は、ミロシェヴィッチによる憲法改正の計画を阻止するために共同行動を維持し続けなければならなかった。セルビアの体制変更は1990年7月5日、コソボを含むセルビア全土での住民投票によって可決された。これらの動きによって、80,000人のアルバニア人がコソボで職を追われることになった。コソボの全ての高等教育に対して、新しいセルビアの教育カリキュラムの導入が強いられた。この動きをアルバニア人は拒絶し、既存の教育機関と並存する独自の教育システムを設立した[17]。

コソボへの影響は絶大なものであった。自治権の縮小は、コソボの政治機構の解体を伴うものであった。コソボ共産主義者同盟、コソボ州政府、議会は公式に解体された。コソボの産業の多くは州が保有していたが、これらの企業の中枢は抜本的に入れ替えられた[16]。形式的には、少数の企業はその例外となった。政府は企業に対して忠誠の誓約を要したが、ほとんどのコソボのアルバニア人はその署名を拒否して追放されたものの、ごく一部は署名に同意し、セルビアの国有企業となった後も雇用を解かれずにいた。

アルバニア人の文化的自治も劇的に削減された。唯一のアルバニア語の新聞である『Ridilin』は発禁され、アルバニア語でのテレビ、ラジオ放送は中止された。アルバニア語は州の公用語から外された。プリシュティナ大学はアルバニア人民族主義の温床と見られていたが、大規模に粛清された。800の講義は閉鎖され、23,000人の学生のうち22,000人は追放された。40,000人程度いたユーゴスラビア軍の兵士や警官は、それまでのアルバニア人による治安維持機構から取って代わった。強権体制は「警察国家」との非難を受けた。貧困と失業は壊滅的な状況に達し、コソボの人口のおよそ80%は失業者となった。アルバニア人成人男性の3分の1は職を求めて国外(ドイツやスイスなど)へと流出した。

ミロシェヴィッチによるコソボ共産主義者同盟の解体によって、アルバニア人による最大の政治勢力はイブラヒム・ルゴヴァの率いるコソボ民主同盟へと移った。コソボ民主同盟は、コソボの自治権剥奪に対して平和的手段で抵抗することで応じた[17]。ルゴヴァは現実的な理由から、武装闘争を選択しなかった。武装闘争はセルビアの軍事力の前には無力であり、単に流血を招くだけと考えたためである。ルゴヴァはアルバニア人らに対してユーゴスラビア、セルビア国家へのボイコットを求め、選挙の不参加、徴兵の拒否、そして納税の拒否を呼びかけた。ルゴヴァはまた、並存するアルバニア語の学校、病院、診療所の設置を呼びかけた[16]。1991年9月、コソボの「影の」議会はコソボの独立を問う住民投票を実施した[16]。セルビア治安部隊による妨害や暴力にも関わらず、コソボのアルバニア人人口の90%の投票率であったと報告されている。そして、うち98%、およそ100万票がコソボ共和国の独立に賛成した[17]。1992年5月、2回目の選挙ではルゴヴァを大統領に選出した。セルビア政府はこれらの投票を違法であり、その結果は無効であるとした。

ルゴヴァは非暴力主義に立ち平和的独立を目指したが、セルビア当局は独立を認めなかった。しかし、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナなどの紛争を抱えるために、コソボに対する対処を十分に採ることができなかった。1991年6月以降、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していたスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナが次々に独立し、残されたセルビアとモンテネグロが新国家ユーゴスラビア連邦共和国を結成する一方で、「コソボ共和国」は国際社会からも無視され、1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の和平会議でも顧みられることはなかった[17]。

ルゴヴァの受動的抵抗の方針によって、1990年代前半のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで独立戦争があった間、コソボは平穏に保たれていた。しかしながら、コソボ解放軍の登場に見られるように、この平穏はアルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった[17]。1990年代半ば、ルゴヴァは国際連合に対してコソボでの平和維持活動を求めた。1997年、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された(上記のように、このユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって1992年4月に発足した新しい連邦である)。

セルビアによる抑圧が続くにつれ、アルバニア人たちの多くが過激化し、その一部は武力闘争のみが状況を打開し得ると考えるようになった[17]。1996年4月22日、セルビア治安部隊の隊員に対する攻撃が同時多発的にコソボの異なる地域でそれぞれ発生した。コソボ解放軍の性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍は小規模で、氏族を基盤とし、組織化の十分でない急進的アルバニア人の集団に過ぎず、その多くはコソボ西部のドレニツァ(英語版)地方の出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元の農民や追放者、失業者らであったと見られる。

コソボ解放軍は、コソボ国外に離散したアルバニア人ディアスポラから資金援助を受けていたと考えられている[18]。そして、アルバニア人による麻薬取引の拠点はヨーロッパ各地に作られた[19]。1997年初期、アルバニアでは、ねずみ講破綻に伴うアルバニア暴動とサリ・ベリシャの失脚の中、無秩序状態となっていた。軍の武器庫から武器が犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へと持ち込まれ、コソボ解放軍の装備を大幅に強化した。ブヤル・ブコシ(英語版)はスイスのチューリヒに置かれた亡命政府の大統領で、ブコシはコソボ共和国軍(英語版)(Forcat e Armatosura të Republikës së Kosovës; FARK)と呼ばれる組織を設立した。 多くのアルバニア人たちは、コソボ解放軍を正当な解放闘争者と見ていたが、ユーゴスラビア政府からは政府や市民を攻撃するテロリストと呼ばれた[17]。1998年、アメリカ合衆国の国務省はコソボ解放軍をテロリストに指定した[19]。1999年、アメリカ合衆国上院の共和党政策委員会は、ビル・クリントン大統領の政治がコソボ解放軍と「実質的に同盟関係にある」ことを指摘した。

「信頼できる複数の非公式の情報源によると(…)、コソボ解放軍は大規模なアルバニア人犯罪ネットワークに深く関与し(…)、イスラム主義のイデオロギーに動かされるテロリスト組織であり、イランやウサーマ・ビン=ラーディンからの援助を受け(…)」[20]

2000年、BBCの記事で、NATOによる戦いでは、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を「テロリスト」と規定しつつも、この時コソボ解放軍と関係を持つことを模索していたと指摘した[21]。

アメリカのロバート・ジェルバード(Robert Gelbard)使節はコソボ解放軍をテロリストと呼んだ[22]。批判に対してジェルバード使節が下院外交委員会に対して、「コソボ解放軍はテロリスト活動を実行しているものの、アメリカ合衆国政府によって法的にテロリスト組織と認定されているわけではない」、と明らかにした[20]。1998年6月、ジェルバード使節は、コソボ解放軍の政治的指導者を名乗る2人と面会した[22]。

アメリカやその他の国々の中には、コソボ解放軍に資金や武器が流入するのを食い止めることに対して積極的ではなかったと指摘されている。コソボ紛争をはじめとする一連の問題が起きた旧ユーゴスラビア地域を、アメリカは「制裁の外壁」の中においていた。制裁をとめることを目的としていたデイトン合意が結ばれた後もこれは維持され続けた。アメリカのビル・クリントン大統領はデイトン合意によって、ユーゴスラビアはコソボに関してルゴヴァと話し合うことができるようになったと主張した。

コソボの危機的状況は1997年12月に上昇した。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題を監督する和平履行評議会の会合がドイツのボンで開かれた際に各国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表に対して、選挙で選ばれた指導者を退ける権利を含む強大な権限を与えることに同意した。同じ時期に、西側各国の外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアはコソボのアルバニア人の要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合うコタンクト・グループ諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決局面に入ったという認識と、セルビアに対するコソボ問題解決の求めに対するものであった。

戦闘の経過

1998年2月 – 10月 : 紛争に突入
1998年、セルビア人犠牲者の遺体

1998年2月、コソボ解放軍による攻撃が激化し、ドレニツァ渓谷地帯に集中、アデム・ヤシャリ(英語版)はその中心的存在となっていた。ロバート・ジェルバードがコソボ解放軍をテロリストと呼んでから数日後、リコシャン(アルバニア語版)(リコシャネ(セルビア語版))地域でのコソボ解放軍の攻撃に対してセルビア警察が応じ、コソボ解放軍の兵士らをチレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)まで追い、30人のアルバニア人市民と4人のセルビア人警官が死亡した[23]。これが紛争において初の本格的な戦闘であった。

複数の捕虜の即決殺害や市民に対する殺害があったものの、西側諸国のユーゴスラビアに対する非難は、この時点ではあまり大きくならなかった。セルビア警察はヤシャリとその支持者をプレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ(Prekazi-i-Poshtem / Donje Prekaze)へと追撃した[24]。この3月5日の出来事は、西側諸国の政府からの大きな非難を呼んだ。アメリカ合衆国国務長官マデレーン・オルブライトは、「この危機はユーゴスラビア連邦共和国の国内問題ではない。」と述べた。

3月24日、セルビア軍はドゥカジン(Dukagjin)作戦地帯にあったグロジャン / グロジャネ(Gllogjan / Glođane)の村を包囲し、村にいた反乱分子を攻撃した[25]。セルビア軍は火力の上で優位にたっていたものの、コソボ解放軍の部隊を壊滅させることはできなかった。アルバニア人側には死者や重傷者もあったものの、グロジャン / グロジャネでの反乱を抑えきることはできなかった。この地域は、後に続く紛争では抵抗勢力側の重要な拠点の一つとなった。

また別のコソボ解放軍の重要な拠点はコソボとの国境に近いアルバニアの北部の、トポロヤを中心とした地域であった。続く1997年のアルバニア暴動によって、アルバニアの一部の地域では政府の統制が及ばなくなった。さらに、アルバニア軍の装備が略奪された。これらの略奪された兵器の多くは、後にアルバニア国境地帯に拠点を構えるコソボ解放軍の手に渡った。ここはコソボ解放軍による攻撃、そして武器をドレニツァ地方へと送り込む拠点であった。メトヒヤ平原には、ジャコヴァ / ジャコヴィツァ(Gjakova / Đakovica)を経由してアルバニアからドレニツァ、そしてクリナを結ぶ道路があり、コソボ解放軍の活動の初期の拠点であった。

コソボ解放軍の最初の目標はドレニツァの拠点とアルバニア本国の拠点を結ぶことであった。そして、戦闘の最初の数箇月でこれは達成された。コソボ解放軍は西側諸国、そしてイスラム世界からの支援を受けており、その中にはムジャーヒディーンたちも含まれる。

セルビア側は交渉の努力も続けており、イブラヒム・ルゴヴァの側の人員と会談もした。何度かに及んだ交渉が全て失敗に終わった後、セルビア側の代表者ラトコ・マルコヴィッチ(Ratko Marković)はコソボの少数民族のグループを呼び、アルバニア側との交渉を続けた。セルビアの大統領ミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)も会談に参加したが、ルゴヴァは参加を拒否している。ルゴヴァとその支持者らはセルビアではなくユーゴスラビア連邦との会談を望んでおり、コソボの独立を目指す立場であった。

この時、セルビアではセルビア社会党とセルビア急進党を中心とした新しい政権が発足した。民族主義者のヴォイスラヴ・シェシェリが副首相となった。これによって、セルビアと西側諸国との軋轢はいっそう激しくなった。

4月上旬、セルビアはコソボ問題に関する外国の干渉問題について、国民投票を実施した。セルビアの有権者らは、この国内問題に対する外国の干渉を明確に拒絶した。

その間、コソボ解放軍はデチャニ(Deçan / Dečani)周辺の大半の地域を制圧し、グロジャン / グロジャネ (Gllogjan / Glođane)の村の周辺を進攻した。5月31日、ユーゴスラビア軍とセルビア内務省の警察は、コソボ解放軍との前線を突破するための作戦に入った。この作戦は数日後に終わり、その中では捕虜の即決殺害や市民の殺害があったとされている。これによって西側諸国からの空爆を招くことになった。

この間、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領はロシアのボリス・エリツィン大統領との間でNATOによる攻撃的行動を中止させ、セルビアではなくユーゴスラビアとの話し合いを望むアルバニア人側と交渉を持つことで合意に達した。実際には、ミロシェヴィッチ大統領とイブラヒム・ルゴヴァとの間で行われた会談は、5月15日にベオグラードでのたった1回のみであった。リチャード・ホルブルックは、交渉が行われるだろうと発表した2日後のことである。1ヶ月後、ホルブルックはセルビアの首都ベオグラードを訪れてミロシェヴィッチ大統領に対して「要求に従わなければ、あなたの国に残された全てが破壊されるだろう」と脅迫した後、5月から6月にかけての作戦行動の跡を見に国境地帯を訪れた。その場所で、ホルブルックがコソボ解放軍とともに写真に写っている。これらの写真の公表は、コソボ解放軍とその支持者、共鳴者らに対して、あるいは広く一般の人々の目に、アメリカがコソボ解放軍を支持していることを示す明確なシグナルとなった。

エリツィン大統領との合意では、ミロシェヴィッチ大統領は国際的な代表者らにコソボ・メトヒヤでの活動を容認することになっていた[17]。これはコソボ外交監視団(Kosovo Diplomatic Observer Mission)と呼ばれ、7月初旬から活動を開始した。アメリカの政府はこの合意の一部を歓迎したものの、双方への停戦の呼びかけを批判した。むしろ、アメリカはセルビア、ユーゴスラビア側が「テロリスト活動の中止とは関係なく、無条件で停戦すべき」であるとした[17]。

6月から7月にかけて、コソボ解放軍はその優位を保ち続けた。コソボ解放軍はペヤ / ペーチ、ジャコヴァ / ジャコヴィツァを包囲し、ラホヴェツィ / オラホヴァツの北のマリシェヴァ / マリシェヴォ(Malisheva / Mališevo)の町にて臨時首都を設立した。コソボ解放軍はバラツェヴェツ(Belacevec)炭鉱を攻撃して6月末に占領し、地域のエネルギー供給を脅かすことに成功した。

7月中旬にコソボ解放軍がラホヴェツィ / オラホヴァツを制圧すると、情勢は一転した。1998年7月17日、ラホヴェツィ / オラホヴァツに近接した2つの村レティムリェ(Retimlije)とオプテルシャ(Opteruša)にて、全てのセルビア人男性が拉致され、後に遺体で発見された。これらほど組織化されてはいないものの、同様の事例はラホヴェツィ / オラホヴァツや、より大きなセルビア人の村ホチャ・エ・マヅェ / ヴェリカ・ホチャ(Hoça e Madhe / Velika hoča)でも発生した。これがきっかけとなり、セルビア人とユーゴスラビアによる攻撃が始まり、8月20日頃まで続いた。

ラホヴェツィ / オラホヴァツから5キロメートルにあるゾツィステ(Zociste)の正教会の修道院は、聖人コスマスとダミアノス(Kosmas and Damianos)のレリーフが有名であったが、この修道院も1999年には地元のアルバニア人によって襲撃・略奪され、修道士らはコソボ解放軍の収容所に送られた。無人となった間の同年9月13日から9月14日にかけて、修道院の聖堂を始め全ての建物は爆破され、消失した。

コソボ解放軍による新しい攻撃は1998年8月下旬に、ユーゴスラビア軍によるコソボ・メトヒヤ南西部のプリシュティナ=ペヤ道路の南で行われた攻撃に反応して始められた。この攻撃によってクレツカ(Klecka)は8月23日にコソボ解放軍に制圧された。この場所はコソボ解放軍による死体焼却場として使われ、その犠牲者らが見つかった。9月1日には、コソボ解放軍はプリズレン周辺で攻勢をかけ、ユーゴスラビア軍はその対処にあたった。ペヤ / ペーチ周辺のメトヒヤ地域において行われた別の攻撃は大きな非難を呼び、各国の政府や国際的な機関は、追放された人々の大規模な一行が攻撃を受けた可能性を危惧した。これに引き続いてドニイ・ラティス(Donji Ratis)が陥落した。同地では、コソボ解放軍が集団死体遺棄現場を築いており、この場所からは行方不明になっていたセルビア人やそのほかのコソボの市民ら60人の遺体が発見されている。

9月中旬の初め頃、コソボ解放軍による戦闘が初めてコソボ北部のベシアナ / ポドゥイェヴォ(英語版)で報じられた。最終的に9月の末には、コソボ解放軍をコソボ北部、中部、そしてドレニツァ渓谷そのものから一掃するための作戦が行われた。この間、西側諸国からセルビアに対して様々な脅迫がなされたものの、それらはボスニア・ヘルツェゴビナで実施される選挙のために中断された。西側諸国はセルビア急進党やセルビア民主党が選挙で勝利することを嫌い、セルビアへの圧力を弱めたのである。しかしながら、ボスニア・ヘルツェゴビナでの選挙が終わると、再びセルビアに対する脅迫を強化させた。しかし、それらは決定的とはならなかった。9月28日、コソボ外交監視団が、アブリ・エ・エペルメ / ゴルニェ・オブリニェ(英語版)の村の外で、ある家族の切断された遺体を発見した。そこから見つかった血まみれの人形は衝撃的な映像として発信され、参戦への大きな理由となった。

このほかにも、参戦の有力な動機となった事実として推計250,000人のアルバニア人が家を追われ、30,000人は森の中に隠れており、寒さから身を守る十分な服も住む場所もなく、季節は冬へと向かっていた。

この間、マケドニア共和国に駐在するアメリカのクリストファー・ヒル大使がルゴヴァ率いるアルバニア人側の代表者と、セルビア、ユーゴスラビアの当局との間でシャトル外交を展開していた。この時の交渉こそが、NATOがコソボ占領の計画を策定している間に、和平合意に盛り込まれるべき内容を形作ることとなった。

この2週間の間、セルビアに対する圧力はさらに強められ、NATOにはついに戦時編成命令が出されるに至った。空爆のためのあらゆる準備が整えられ、ホルブルックはベオグラードへ行き、NATOによる圧力を背景としてミロシェヴィッチ大統領との間での合意を模索した。ホルブルックに同行したマイケル・ショートは、ベオグラードを破壊すると脅した。長く辛い交渉の末に、1998年10月12日にはコソボ査察合意が結ばれた。

公式には、国際社会は戦闘の終結を求めていた。国際社会は特に、セルビア側に対してコソボ解放軍への攻撃を中止するよう求めていた(コソボ解放軍による攻撃には特に触れられることはなかった)[17]。また、コソボ解放軍に対しては、その独立要求を取り下げるように求めた。さらにミロシェヴィッチ大統領に対しては、コソボ全域でのNATOによる平和維持部隊の活動を認めるように要求していた。彼らによる交渉の中で、ヒル大使に対して和平プロセスを進め、和平合意を受諾することを認めた。1998年10月25日、停戦が取り付けられた。合意ではコソボ査察使節団の設置が認められた。コソボ査察使節団は欧州安全保障協力機構(OSCE)による非武装の和平監視団であった。OSCEは10月15日に署名されたNATOコソボ検証ミッション(KVM)のために大量の4WDやトラックを持ち込んだが、それらが鮮やかなホオズキ色に塗装されていたこと、その活動が不十分であるとの批判から”clockwork orange(時計じかけのオレンジ:ロンドンの下町言葉で「外見はまともだが中身はおかしい」の意)”と通称された。ただし、翌年3月の活動縮小とその後のKVMの終了によって監視が緩んだことから殺害、強姦、勾留、国外追放といあった民族浄化キャンペーンが再開されているため、一方的に無意味無価値であったわけではない。

1998年12月 – 1999年1月 : 紛争の再開、激化
紛争により破壊された建物

12月上旬にコソボ解放軍が、戦略的に重要なプリシュティナ=ポドゥイェヴォ幹線道路を見渡すバンカーを占領したことにより、停戦は数週間のうちに破棄され、戦闘が再開された。これは、コソボ解放軍がペヤ / ペーチのカフェを襲撃したパンダ・バー虐殺(Panda Bar Massacre)から程なくしてのことであった。虐殺の2日後、コソボ解放軍はフシェ・コソヴァ / コソヴォ・ポリェの市長を暗殺した。 コソボ解放軍による攻撃とセルビア側の反撃は1998年から1999年にかけての冬の間中続けられ、都市部での危険度は増し、爆破や殺人などが多発した。1999年1月15日にはラチャクの虐殺(英語版)が引き起こされた。事件は直ちに(調査が始められるより前に)虐殺事件として西側諸国や国際連合安全保障理事会から非難された。このことは、ミロシェヴィッチ大統領とその政権の首脳らを戦争犯罪者とみなす基礎となった。テレビカメラは、殺害されたアルバニア人たちの遺体のそばを歩くアメリカのウィリアム・ウォーカー(英語版)外交官を映し出した。ウォーカー外交官が記者会見を開き、一般市民に対するセルビアの戦争犯罪行為について明らかにしたと述べた([26])。この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入することのみが、問題を解決する唯一の手段であると断じた。

連絡調整グループは、「交渉不可能な要素」をまとめあげた。これは”Status Quo Plus”として知られ、コソボをセルビアの枠内で1990年以前の自治水準に戻し、さらに民主主義と国際組織による監督を導入するというものであった。連絡調整グループはまた、1999年2月にも和平交渉を開き、フランスの首都パリ郊外のランブイエ城(Château de Rambouillet)にて交渉が持たれた。

1999年1月 – 3月 : ランブイエ和平交渉
1999年、アルバニアのクケスにおける難民キャンプの写真。

ランブイエ交渉は2月6日に始められ、NATOのハビエル・ソラナ事務総長が両サイドと仲介交渉を行った[17]。彼らは2月19日に交渉をまとめる意向であった。セルビア側の代表者はセルビアのミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)大統領であり、ミロシェヴィッチ大統領自身はベオグラードに留まった。これは、ミロシェヴィッチ大統領自身が直接交渉に臨んでの、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させたデイトン合意の時とは対照的であった。この時は、ミロシェヴィッチ大統領自らが交渉に臨んだ。ミロシェヴィッチ大統領の不在は、交渉に関わらず実際の決定はミロシェヴィッチ大統領がベオグラードで行っていることを示すものとみなされ、セルビア国内、国際社会双方からの非難を受けた。コソボのセルビア正教会の主教アルテニイェ(Artemije)は自らランブイエへ出向き、交渉は代表者を欠いていると抗議した。

歴史的根拠に関する交渉の初期段階には成功した。具体的には、連絡調整グループの共同議長による1999年2月23日の声明では、交渉では「民主的な共同体による自由で公正な選挙、公平な法体系を含む、コソボの自治に関して合意が得られた」としている。さらに、「政治的枠組みは定められた」とし、「合意文書の内容を定める」ことを終えるための更なる作業が残されており、残されたものの中には「コソボにおいて招致された国際的な文民と軍のプレゼンス」が含まれていた。しかし翌月の間、アメリカのルービン(Rubin)外交官とオルブライトの影響を受けたNATOによって、軍のプレセンスは「招致された」ものではなく「強制する」べきであるとした。NATOのコソボ解放軍への傾倒は、BBCテレビの番組『Moral Combat: NATO at War』にて特集された[27]。実際には、NATOの軍事委員会の議長であるクラウス・ナウマン将軍の発言では、「ウォーカー大使は北大西洋理事会(North Atlantic Council)にて、停戦の破棄の大部分はコソボ解放軍によるものであるとしている」とされた。

1999年3月18日、アルバニア人、アメリカ、イギリスの代表者らはランブイエ合意に署名したが、セルビアおよびロシアは署名を拒否した。合意案では、次のことを求めていた。
コソボをユーゴスラビア枠内の自治州としてNATOが統治する。
3万人のNATOの兵士がコソボの治安維持にあたる。
NATO兵士によるコソボを含むユーゴスラビア領内への無制限の通行の権利。
NATOとその人員に対するユーゴスラビア法の適用除外。

アメリカ合衆国およびイギリスの代表者らは、この合意案はセルビア側が受け入れることのできないものであると考えていた[17]。これらの後半の要求内容はボスニア・ヘルツェゴビナの平和安定化部隊に対して適用されたものと同様であった。合意案はアルバニア人側の要求を完全には満たしていなかったものの、合意案はセルビア側にとっては十分に過激なものであり、これに対してセルビア側は合意案の大幅な変更を求め、ロシアも合意案は受け入れ不可能であるとした。

ランブイエ交渉が2月に行われている間も攻撃は続けられ、コソボ査察合意は3月には破綻した。道路上での殺害は増加し、軍事衝突が頻発した。他の地域に加え、2月にはヴシュトリ / ヴチトルン(英語版)で、3月にはこれまで衝突のなかったカチャニク(英語版)でも衝突が起こった。

交渉の失敗以降、事態は急速に進行した。NATOによる空爆が始まる1週間前、西側諸国のほとんどのジャーナリストが滞在しているベオグラードのハイアットホテルに、アルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチが現れ、セルビアを去るように求めた[28]。

欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際監視団は3月22日、NATOによる空爆が予見され、監視団の安全を保障できないとして、監視団を撤退させた。3月23日、セルビア議会はコソボの自治を認め、ランブイエ合意の非軍事部分を受け入れることを決定した。しかし、ランブイエ合意の軍事部分、より厳密には「NATOによるコソボ占領統治」の様相を呈している条項Bの受け入れには反対した[29]。合意案は全てにおいて「欺瞞」であるとし、その理由として合意案の軍事部分は交渉の最終段階になって初めて議題に上がり、十分に交渉する時間も与えられず、またその交渉相手は「分離主義者のテロリストの代表者」であり、ユーゴスラビア連邦共和国の代表者と直接会わず、直接交渉することを交渉中一貫して拒否していたとして激しく非難した。その翌日の3月24日、NATOはセルビアへの空爆を始めた。

1999年3月 – 6月 : NATOによる空爆
詳細は「アライド・フォース作戦」を参照
米ミサイル駆逐艦「ゴンザレス」から発射されるトマホーク巡航ミサイル(1999年3月31日)
イタリアのアヴィアノ空軍基地に駐機するアメリカ空軍所属のF-117攻撃機(1999年3月24日)
セルビア側のSremska Mitrovica兵器貯蔵庫の空爆後に撮影された空中写真(1999年)
NATO軍をナチス・ドイツのハーケンクロイツに喩えたグラフィティが描かれたノヴィ・サドの町(1999年)
NATO軍の空爆後のノヴィ・サド(1999年)

NATOによるセルビア空爆は、1999年の3月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。

NATOによって目標と定められたのは、NATOのスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力を一掃し、平和維持軍を置き、難民を帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍がコソボを去り、国際的な平和維持軍に置き換えられ、そして避難しているアルバニア人がコソボに帰還することを意味していた。作戦は初期の頃には、ユーゴスラビア空軍の防衛力を削ぎ、重要な戦略目標を押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍が容易に隠れられることによるものであった。NATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗の意思を過小評価していた。ブリュッセルでは、大半が作戦は数日のうちに終わると予想していた。初期の爆撃は軽度に留まり、1991年の湾岸戦争におけるイラクの首都バグダードへの集中的な攻撃と比べれば、ほぼ誰もいないような場所への攻撃が加えられるのみであった。地上では、セルビア人による民族浄化作戦は激化し、空爆が始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人が隣接するアルバニアやマケドニア共和国に去り、その他にも多くがコソボ域内で強制移動された。4月の時点で、国際連合は、アルバニア人を中心に85万人が故郷を離れたと報告している。

NATO軍の作戦は次第に変化し、地上のユーゴスラビア軍の、戦車や大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃を加えることに重点が置かれるようになった。この活動はしかし、政治によって強く束縛されたものであった。その攻撃対象は、NATOの加盟19箇国が同意できるものでなければならなかったためである。モンテネグロはNATOにより何度か空爆を受けたものの、モンテネグロの政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派のミロ・ジュカノヴィッチの政治的不安定な状況を支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃は中止された。セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、ドナウ川にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・ミリャナ・マルコヴィッチが党首を務めるユーゴスラビア左翼連合(英語版)の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃の一部は、国際法、特にジュネーヴ条約に違反するのではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、これらへの攻撃が合法であるとした。

5月の始めには、NATOの航空機がユーゴスラビア軍の輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民の輸送車隊を攻撃し、50人ほどの死者を出した。NATOは5日後に誤りを認めたものの、セルビア人らは難民への攻撃を意図的なものであるとして非難した。5月7日、アメリカ空軍はB-2によって、ベオグラードの中国大使館をJDAM爆弾で攻撃し、3人の中国人ジャーナリストを殺害し、26人を負傷させた[17]。これによって中国の世論は沸騰した。

当初、NATOは「ユーゴスラビアの施設への攻撃であった」と主張した。しかし、後に会議が開催され、アメリカ合衆国とNATOは誤りを認めて謝罪し、「CIAによる地図が古かったことによる「誤爆」であった」とした。この見解は、イギリスの新聞『オブザーバー』の記事(1999年11月28日)や、デンマークの新聞『Politiken』から疑問が提示された[30]。それらの記事によると、「NATOは、中国の大使館が、ユーゴスラビア軍の通信信号の中継(「アーカン」と呼ばれる人物からセルビア人の暗殺部隊への情報通信)に使われていたことをアメリカ側が把握していたため、「意図的に」大使館を狙って攻撃したのではないか」と主張されている。また、訪中経験もあるセルビアの指導者ミロシェヴィッチは中国から「老米」と親しまれ[31][32]、後に息子のマルコ・ミロシェビッチ(英語版)とその妻や子供が北京に逃亡を試みたようにミロシェビッチ一家と中国は親密な関係にあった[33][34][35]。この「誤爆」によって、NATOと中国との間で関係が悪化し、北京にある西側諸国の大使館の周辺、NATO加盟国にゆかりのある企業(マクドナルドなど)では、店舗の破壊を伴う攻撃的なデモ活動が起こった。

なお、駐中国大使館を爆撃目標と指定したのは、アメリカ中央情報局(CIA)のウィリアム・J・ベネット中佐であり、「誤爆」の責任を取らされて、2000年にCIAを解雇されている。その後、2009年3月22日、ベネット中佐が妻とともに公園を散歩していた際に、窓のない白い不審車両が公園に入って行き、激しい物音がした後に自動車が走り去るという出来事が発生した。発見された時には、ベネット中佐は既に死亡しており、妻も重傷を負っていた。この殺人事件に関して、2009年4月にアメリカの外交誌『フォーリンポリシー』は、ベネット中佐の過去の経歴が関係している「暗殺」であったと報じている。
一方、米連邦捜査局(FBI)は、「事件とベネットの経歴を結びつける証拠は一切ない」と暗殺説を否定している[36]。

赤い印はNATO軍が空爆で劣化ウラン弾を使用した位置。

また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者が出たと言われる。ヒューマン・ライツ・ウォッチのコソボでの調査によると、5月21日に18人の囚人がNATOの空爆によって死亡し、また3日前の5月19日には3人の囚人と1人の守衛が死亡したとされた。

4月初めの時点において、衝突は終結には程遠いものと見られ、NATO諸国は陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れる前に準備を整えなければならず、その際に予想される、ギリシャやアルバニアの港から、アルバニア北部やマケドニア共和国を経由してコソボに陸路で侵入する経路を確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカのクリントン大統領は、アメリカ軍によるコソボ進攻を究極の選択と考えていた。代わりにクリントン大統領は、セルビア人の政府機能を弱体化させるため、CIAがコソボ解放軍を訓練することを決定した[37]。同時に、フィンランドとロシアによるミロシェヴィッチ大統領の説得交渉が続けられた。ミロシェヴィッチ大統領は最終的に、NATOがコソボ紛争の解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞を並べるロシアには、現実的にはセルビアを守る力がないことを理解した。微修正を加えた後、ミロシェヴィッチ大統領はフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボの平和維持軍の駐留に同意した。

1999年6月 – : ユーゴスラビア軍の撤退とKFOR進駐

KFORの派遣については、指揮系統や担当地域を巡ってアメリカとロシアが交渉を続けていたものの難航し、6月11日に一旦決裂[38]。NATO軍はこの状況下で部隊の派遣に動き、ミロシェヴィッチがKFORの条件を受け入れた後の6月12日、KFORはコソボへの進駐を開始した。KFORの中心となったのはNATOの軍であり、コソボでの戦闘を指揮するために準備されていたものの、平和維持活動に従事することになった。KFORは、イギリス軍の陸軍中将マイク・ジャクソン(Mike Jackson)の指揮の下、連合軍緊急対応軍団(Allied Rapid Reaction Corps)を司令部としていた。KFORは各国の軍によって構成された。イギリス軍(第4装甲旅団と第5空輸旅団からなる旅団)、フランス軍、ドイツ軍は西から、イタリア軍やアメリカ軍などそのほかは南からコソボに入境した。この時のアメリカ軍の働きは初期介入部隊(Initial Entry Force)と呼ばれ、第1機甲師団に率いられた。その配下に置かれたのはドイツのバウムホルダー(Baumholder)から来たTF1-35機甲任務部隊、アメリカのフォートブラッグ(Fort Bragg)から来た第505落下傘歩兵連隊第2大隊、ドイツのシュヴァインフルト(Schweinfurt)から来た第26歩兵連隊第1大隊、第4機甲連隊E中隊である。アメリカ軍の初期介入部隊は、後のボンドスティール基地(Camp Bondsteel)に近いフェリザイ / ウロシェヴァツ(Ferizaj / Uroševac)、およびモンタイス基地(Camp Monteith)に近いジラニ / グニラネの両地域の占領を実現した。初期介入部隊は4箇月にわたってここに留まり、コソボ南西部セクターの秩序回復にあたった。アメリカの初期介入部隊は地元のアルバニア人たちから歓声を浴び、花を投げて迎えられた。その間、KFORの兵士たちはコソボ各地の町や村に順次入っていった。抵抗を受けることは無かったものの、事故によって初期介入部隊のアメリカ軍兵士3名が死亡した[39]。

KFORのロシア軍部隊(2000年8月)。

ロシア側もNATO主導による既成事実化を避けるため、合意未成立の中でKFOR部隊の派遣に踏み切り、最も近いボスニア・ヘルツェゴビナで平和安定化部隊(SFOR)に参加していた空挺部隊から一部を抽出し、約200人規模の派遣部隊を編成[38]。ユーゴスラビア国内を経由して陸路プリシュティナに送り込み[38]、NATO軍に先んじて6月12日にプリシュティナ空港周辺に展開した[40][41]。到着したロシア軍は、過激派の脅威にさらされていた現地のセルビア人住民から歓迎を受けた[40][42]。ロシア軍は、この先遣部隊に続き1,000人規模の主力の空挺部隊をロシア本国から空輸する準備を整えていたが、NATOの圧力を受けたハンガリー、ブルガリア、ルーマニアが上空通過を認めなかったため増派は中断し、第一波の約200名のみが7月初旬まで現地を守ることとなった[43][44]。

NATOとロシア双方の事前合意のない派兵で現地で緊張が高まる中、KFORの指揮系統や派遣地区に関する交渉は6月19日にまとまり、ロシア軍は派遣兵力規模3,600名(うち戦闘部隊は5個大隊2,850名)でKFORに参加し、NATOの指揮系統外の独自の指揮系統で行動することが認められた[45][46]。また、KFORの指揮権の統一を保つため、関連するNATOの各段階の司令部(欧州連合軍・南欧軍・コソボ国際部隊等)にロシア軍代表が派遣されることとなった[45]。7月4日までには、ロシア軍の具体的な行動に関するNATOとの合意も成立し、ロシア軍は、空輸の他、ノヴォロシースクとトゥアプセからギリシャのテッサロニキへの海上輸送も併用して約3,600名の部隊を現地に派遣した[47]。NATO軍側は、第1装甲師団隷下の第3野戦砲兵連隊第2大隊がロシア軍の展開を支援した。

6月の時点で、進駐したロシア軍には、現地のセルビア人住民から、アルバニア系過激派による脅迫などの被害の訴えが寄せられていた[47]。ユーゴスラビア政府は、コソボで少数派となるセルビア人などの保護について懸念しており、ロシアもKFOR派遣にあたっては、セルビア人住民の多い地域を中心にロシア軍の単独進駐地区を設定するようNATO側と交渉していたが[38]、NATO側はコソボの分割につながるとしてこれを認めず、NATO側5箇国がコソボ全域を分担して管轄区域を設け、ロシア軍はそのうちアメリカ・フランス・ドイツの管轄区域の一部に独自の指揮系統を保って組み込まれる形となった[45]。結果的に、KFORはセルビア人など少数派住民を迫害から守りきれず、多数のセルビア人住民などが迫害を逃れて難民となりコソボを離れる事態を防ぐことはできなかった。

戦争に対する反応

NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。NATOは国際連合安全保障理事会による裏づけのないまま攻撃を行った。これは、ユーゴスラビアと親しい関係にある常任理事国の中国やロシアの反対による。ロシアはユーゴスラビアに対する軍事行動を正当化するような決議には拒否権を行使するとしていた。NATOは、国連安全保障理事会による同意のないままでの軍事行動を、「国際的な人道危機」を理由に正当化しようとした。また、NATOの憲章では、NATOは加盟国の防衛のための組織であるとされていたにもかかわらず、今回の場合はNATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃を行ったことも、批判の対象となった。NATOは、バルカン半島の不安定はNATO加盟国への直接の脅威であると主張し、そのためこの軍事作戦はNATOの憲章上、認められるものであるとした。この時、バルカン半島の不安定によって直接の脅威を受ける国はギリシャであった。

多くの西側諸国の政治家たちは、NATOによる作戦はアメリカによる侵略、帝国主義であるとみなし、加盟国の安全保障の利益と一致しないとして批判した。ノーム・チョムスキーやエドワード・サイード、ジャスティン・レイモンド、タリク・アリなどの古参の反戦活動家らによる反戦活動も目立った。しかし、イラク戦争に対する反戦運動と比べると、コソボ紛争介入に対するものは多くの支持を集めることはなかった。テレビに映し出されるコソボ難民たちの姿は、NATOの活動を単純化し、また西側諸国による紛争介入の大きな動機であった。このような中で、コソボ解放軍による蛮行は矮小化されていた。また、イラク戦争時と比べると、介入に踏み切った国々の指導者たちの顔ぶれも大きく異なっていた。このときの各国の指導者たちの多くは中道左派、あるいは穏健なリベラル主義の政治家たちであった。主だった者として、アメリカの大統領はビル・クリントン、イギリスの首相はトニー・ブレア、カナダの首相はジャン・クレティエン、ドイツの首相はゲアハルト・シュレーダー、イタリアの首相はマッシモ・ダレマであった。反戦活動家たちの多くは、リベラル右派、極左、セルビア系移民、そのほか人道主義団体の支援を受けた各種の左翼主義者たちであった。ベオグラードに対するドイツの攻撃(20世紀で3度目のことである)は、オスカー・ラフォンテーヌが連邦金融大臣やドイツ社会民主党(SPD)議長の地位を退く理由の一つであった。

しかし、NATOが軍事作戦を指揮するに至った点については様々な政治的立場からの批判が上がっている。NATOの指導者たちは、コソボへの介入で、誘導爆弾を用いた「きれいな戦争」を実現したいと考えていた。アメリカ国防総省は、6月2日までに使用された20,000の爆弾およびミサイルのうち99.6%は目標に命中していると主張した。しかしながら、劣化ウランやクラスター爆弾の使用、そして「環境への攻撃」として批判を受けた製油所や化学工場への攻撃については強い異論がある。また、紛争の進展の遅れについても批判があった。NATOは小規模な空爆や空中戦から始めるのではなく、最初から大規模な全面攻撃に出るべきであったとの見解も強い。

NATOによる空爆の対象に関して
セルビアの都市、クラグイェヴァツの空爆後に撮影された空中写真。

攻撃目標の選定についても批判がある。ドナウ川にかかる橋への攻撃は、その後数箇月にわたってドナウ川の水上交通を遮断し、ドナウ川沿いの国々の経済に深刻な影響をもたらした。生産設備も攻撃を受け、多くの町の経済を破壊した。後に、セルビアの反体制派らは、ユーゴスラビア軍が民間の工場を武器生産に使用したと主張した。チャチャクにあるスロボダ(Sloboda)の真空クリーナー工場は戦車の修復にも使われ、クラグイェヴァツにあるザスタバの工場は、自動車とともにカラシニコフ銃を生産していた。だが、自動車と銃の生産場所はそれぞれ離れた別の建物であった。国有の工場のみが標的とされており、そのため、外国資本主導による民間ベースでの再建まで見据えて空爆の標的が選ばれたのではないかとの疑念を持たれた[48]。私有、あるいは外国資本の生産施設は一切攻撃を受けていなかった。

最も批判の強かった空爆対象は、4月23日に行われたセルビアの公共放送の本社への攻撃であろう。この攻撃では少なくとも14人が犠牲となった。NATOはこのセルビア公共放送への攻撃について、ミロシェヴィッチ政権のプロパガンダの道具を破壊するためのものとして正当化した。セルビア国内の反体制派らは、放送局の上層部は攻撃を事前に警告されており、空襲警報が発令されていたにもかかわらず、放送局のスタッフに建物内に留まるよう命じたとして、これを非難した。

ユーゴスラビア国内では、紛争へのNATO介入に対する世論は、強く批判するセルビア人と、強く擁護するアルバニア人に分かれた。しかし、アルバニア人すべてがNATOを全面的に擁護したわけではなく、NATOの攻撃が遅いとしてこれを批判する者もいた。ミロシェヴィッチ大統領に対する支持は落ちていったものの、NATOによる空爆によって、セルビア人の間では民族的連帯感が高まった。ミロシェヴィッチ大統領は事態を放置することはなかった。多くの反体制派らは、特にジャーナリストのスラヴコ・ツルヴィヤ(英語版)が4月11日に暗殺されてからは、生命の危機に脅かされることとなった。ツルヴィヤの暗殺は、ミロシェヴィッチ大統領の秘密警察への批判を高めた。モンテネグロでは、同国のミロ・ジュカノヴィッチ大統領がNATOの空爆とセルビアのコソボでの攻撃の双方に反対し、モンテネグロでのミロシェヴィッチ大統領の支持者によるクーデターへの恐れを表明した。

ユーゴスラビア周辺の国々の反応はより複雑であった。マケドニアは旧ユーゴスラビア諸国のうち、モンテネグロ以外ではセルビアとの戦争を経験していない唯一の国であった。コソボでのセルビア人とアルバニア人の衝突によって、マケドニア国内で多数派であるマケドニア人と、規模の大きい少数派であるアルバニア人との関係が緊迫化した。マケドニアの政府はミロシェヴィッチ大統領の行動を支持しなかったものの、マケドニア国内に流入するアルバニア人難民にも強く共感することはなかった。アルバニアは紛争がコソボとの国境の両側での不安定化につながるものとして、全面的にNATOの行動を支持した。クロアチア、ルーマニア、ブルガリアはNATO空軍機に対して上空通過権を認めた。ハンガリーは当時新しくNATOに加盟したばかりであり、攻撃を支持した。アドリア海をはさんで隣接するイタリアでは、大衆世論は反戦に傾いていたものの、政府はNATOに対してイタリアの空軍基地の全面的な使用権を認めた。ギリシャでは、紛争への反対世論は96%に達した[49]

1999年当時、サッカーJリーグの名古屋グランパスエイトに所属していたユーゴスラビア代表(当時)のストイコビッチがゴールを決めた後に、「NATO STOP STRIKE」と書かれたTシャツを見せるパフォーマンスを行った。

紛争に対する批判

紛争に対する批判は、コソボでのジェノサイドを阻止できなかった各方面の指導者たちにも向けられた[50]。アメリカのクリントン大統領は、多くのアルバニア人がセルビア人によって殺害されるのを阻止できなかったことについて批判された[51]。クリントン政権の国防長官であったウィリアム・コーエンは演説のなかで、「コソボでの虐殺に関する恐ろしい報告や、セルビア人による迫害から命を守るためにコソボを逃れるアルバニア人難民の姿は、この戦争がジェノサイドを阻止するための正義の戦争であることを明確にした」と述べた[52]。CBSの『国家の顔』でコーエン国防長官は「現在、100,000人の従軍可能年齢の男性の行方がわかっていない。彼らは殺害されたかもしれない」と述べた[53]。クリントン大統領も同様の見解を引いて、「少なくとも100,000人の行方不明者がいる」と述べた[54]。

後に、ユーゴスラビアの選挙に関してクリントン大統領は「彼らは、ミロシェヴィッチ氏が命じた事実に直面せざるを得なくなるだろう。彼らがミロシェヴィッチ氏を指導者として認めるかどうか、彼らが数万人の人々の殺害を是認するか否か…」と述べた。同じ記者会見でクリントン大統領はさらに、「意図的で、体系的な民族浄化とジェノサイドのための動きを、NATOは食い止めた」とも述べた[55]。クリントン大統領はコソボでの出来事をホロコーストと比べた。CNNは、「ユーゴスラビアでのNATO軍の戦闘への支持を得るために、火曜日の記者会見でクリントン大統領が行った、セルビアのコソボでの民族浄化へを第二次世界大戦でのユダヤ人に対するジェノサイドに類するものとする非難によって、外交による平和的解決への道は一段と難しいものとなった。」と報じた[56]。クリントン政権の国務長官もまた、ユーゴスラビア軍がジェノサイドに加担していると主張した。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「政府は、ユーゴスラビア軍によるジェノサイドの証拠には、大規模な恐ろしい犯罪行為に関するものが含まれている。国務省による言葉は、これまででもっとも強い、ミロシェヴィッチ大統領への批判であった」と報じた[57]。国務省はまた、それまでで最大数のアルバニア人の死者数を挙げた。ニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによると、国務省は、アルバニア人の死者および行方不明者の数は500,000人に上るとした[58]。

国際連合の憲章は、国連安全保障理事会での決議を必要とする一部の例外を除いて、他の独立国への軍事侵攻を禁じている。この問題はロシアによって、国連安全保障理事会に持ち込まれた。その決議案では、特に、「このような一方的な武力行使は、国際連合憲章への重大な違反にあたる」とした。中国、ナミビア、ロシアが決議案に賛成、その他の国々は反対し決議案は否決された[59]。

1999年4月29日、ユーゴスラビアはハーグにある国際司法裁判所でNATO加盟諸国(ベルギー、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ポルトガル、スペイン、アメリカ)を相手に訴えを起こした。裁判所は、紛争当時、ユーゴスラビアが国連の加盟国ではないために、この訴えについての判断を避けた。

西側諸国では、NATOによる攻撃に反対する意見は主にリベラル右派から起こり、またほとんどの極左主義者も攻撃に反対した。イギリスでは、元外務英連邦大臣のマルコム・リフキンド(Malcolm Rifkind)や、元財務大臣のノーマン・レイモント(Norman Lamont)、ジャーナリストのピーター・ヒッチェンズ(Peter Hitchens)、サイモン・ヘッファー(Simon Heffer)などの有力な右派の人物が紛争に反対した。また、The Morning Star紙によると、左翼の議員トニー・ベン(Tony Benn)、アラン・シンプソン(Alan Simpson)らが紛争に反対していることを報じた。しかし、レーニン主義の党派である緑の英国共産党(Communist Party of Great Britain (Provisional Central Committee))は、NATOによる攻撃をアメリカ帝国主義とみなしたものの、コソボ解放軍には同調し、コソボのセルビアからの完全分離を支持した。

紛争が終わった1999年6月11日、紛争はコソボに破壊と混乱を残し、ユーゴスラビアは将来への不安に直面することとなった。

死傷者の数

NATOの空爆による市民の死者数

紛争によって多くの死傷者が出た。1999年3月の時点で既に戦闘による死者と民間人への攻撃をあわせて、戦闘員・民間人あわせて1,500人ないし2,000人の死者が出ていた[60]。最終的な死者数はなお定まっていない。

ユーゴスラビアは、NATOの攻撃によって1,200人から5,700人の死者が出たとしている。NATOは、市民の死者数を1,500人とした。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、90回の攻撃で少なくとも488人の市民の死亡を確認している[17]。(うち90-150人はクラスター爆弾による死者である)。コソボでの攻撃はより激しいものであり、攻撃全体の3分の1で、全死者数の半数以上を出したとしている[61]。

ユーゴスラビア軍の行動による市民の死者数

ユーゴスラビア陸軍による死者数については複数の推計がたびたび行われている。

紛争後ほぼ1年が経過した2000年6月、国際赤十字は、3,368人の市民(2,500人のアルバニア人、400人のセルビア人、100人のロマ)が依然行方不明であるとした[62]。

2000年8月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、2,788体の遺体がコソボで発掘されたが、うちいくつが戦争犯罪の犠牲者であるかは定かではないとした[63]。しかし、KFORの情報筋がAFPに伝えたところによると、2,150体の遺体が1999年7月までに発見され、うち850体は戦争犯罪の犠牲者であると考えられるといわれた[64]。

行方不明になった市民の一部は、セルビア本国の集団墓地で再び焼却された。2001年7月、セルビア当局は、1,000体ちかい遺体が投棄された集団墓地が見つかったと発表した[60]。最大の集団墓地は、ベオグラード郊外のバタイニツァ(Batajnica)にて、セルビアの警察訓練の団体によって発見された。

人権団体に報告された4,400人の死者数を大きく上回っているが、ICTYの検察局の専門家らは、死者数は合計で10,000人程度であると推定している[65]。ICTYの検察局による死者数の推計は、大切な人の死についてICTYに報告しない人々がいることを考慮に入れたものである[66]。

10,000人という死者数の推計は、人道上の犯罪をユーゴスラビア攻撃の最大の理由としているアメリカ国務省によっても使用されている[67]。

アトランタのアメリカ疾病予防管理センターによって、2000年に医学ジャーナル誌『Lancet』に報告された研究調査では、住民全体の死者数のうち、12,000人は紛争によるものとみられるとした[3]この値は、1197世帯に関しての1998年2月から1999年6月までの調査に基づいており、対象となった世帯でのこの期間の死者数105人のうち67人が紛争に関連する外傷によるものであり、これに基づいてコソボの住民全体の死者数を推計した結果が12,000人となる。紛争による死亡率がもっとも大きかったのが15歳から49歳の男性で死者数5421人、50歳以上の男性では5176人とされる。15歳に満たない人々の死者数は男性160人、女性200人とみられる。15歳から49歳の女性の死者数は510人、50歳以上の女性の死者数は541人であった。論文の著者らは、民間と軍人の犠牲者数を正確に区別することは不可能であるとした。

コソボ解放軍による市民の死者数

セルビア政府の報告によると、1998年1月1日から1999年6月10日までの間に、コソボ解放軍は998人を殺害し、287人を拉致したとしている。また、NATOによる統治が行われていた1999年6月10日から2001年11月11日までの期間で、847人が殺害され、1154人が拉致された。この死者数には軍人と民間人の双方が含まれている。1999年6月10日までの期間の死者のうち、335人は民間人、351人は兵士、230人は警官、72人は不明である。民間人の死亡者を民族別に分けると、87人がセルビア人、230人がアルバニア人、18人がその他[68]である。

NATOの損害

NATOの軍人の損害は少なく、戦闘による死者はなしとなっている。しかし5月5日、アメリカ軍の攻撃ヘリコプターAH-64 アパッチがアルバニアとセルビアの国境近くで墜落した[69]。

AH-64はティラナから64キロメートル北西の、コソボ国境に近いところで墜落した[70]。CNNによると、墜落はティラナから北西に72キロメートルの地点であった[71]。AH-64の2人のアメリカ人のパイロット、上級准尉デーヴィッド・ギブス(David Gibbs)とケヴィン・L・ライチャート(Kevin L. Reichert)はこの墜落で死亡した。NATOの公式発表によると、この2人のみが、紛争中におけるNATO軍人の死者である。

また、紛争後の死者もあり、その多くは地雷によるものであった。紛争が終わった後のNATOの報告によると、最初のアメリカ軍のステルス攻撃機F-117の損失は、敵による撃墜であったことが明らかにされた[72]。さらにもう1機のF-16戦闘機がシャバツ(Šabac)付近でユーゴスラビア空軍によって失われ(NATOはエンジン不良であると報告した)、その残骸はベオグラード空軍博物館(en)に展示されている。また32機の無人航空機も失われた[要出典]。撃墜された無人偵察機の残骸は紛争中に、セルビアのテレビで放映された。2機目のF-117Aは激しく損害を受けたものの、基地への帰還を果たし、それ以降は飛ぶことはなかった[73]。

ユーゴスラビア軍の損害

MiG-29の残骸。1999年3月27日、ボスニア・ヘルツェゴビナのUgljevikにて。

NATOは公式にユーゴスラビア軍の損害の推計を出してはいない。ユーゴスラビア当局は、NATOの空爆によって、169人の兵士が死亡し、299人が負傷したとしている[74]。ユーゴスラビア軍の死者の名前は『記憶の書』に記録されている。

ユーゴスラビア軍の装備に対して、NATOは50機のユーゴスラビアの軍用機を破壊した。その多くは古く、飛べないものであり、実戦投入可能な軍用機への攻撃を逸らすための「おとり」として、わざと配置されたものであった。例外として、11機のMiG-29、6機のG-4スーパーガレブは、頑丈なシェルターの中に収められたものであったが、シェルターのドアの閉め忘れによって攻撃を受けることになった。紛争が終わった時点で、NATOは公式に93輌のユーゴスラビアの戦車を破壊したとした。ユーゴスラビアは13輌の戦車の損失を認めた。ユーゴスラビアの主張は、同国がデイトン合意の枠組みに復した時点で、西側諸国の検査官らによって、デイトン合意当時とコソボ紛争終結後のこの時点での戦車の台数の差から確認された。喪失した戦車は全部で14輌であり、9輌のM-84と5輌のT-55であった。また。18輌の装甲兵員輸送車、20門の大砲も破壊された[75]。

コソボで攻撃を受けた標的の多くは「おとり」であり[17]、プラスチック・シートに電信柱で砲身をつけた戦車や、動かなくなった第二次世界大戦時の戦車などであった。対空戦力は戦略上使用されずに隠し置かれ、破壊を免れた。そのためNATO空軍機は低空を飛ぶことができず、高度5,000メートル(15,000フィート)以上を飛ぶことを余儀なくされ[17]、正確な空爆を困難にした。紛争終結に向けて、コソボ・アルバニア国境でのB-52爆撃機での絨毯爆撃が駐留するユーゴスラビア軍に大きな損害を与えたと宣伝された。後に、NATOの注意深い調査によって、そのような大規模な損害を与えた証拠はないと結論付けられた。

しかしながら、ユーゴスラビア軍の中でもっとも重大な損害は、損害・破壊を受けたインフラストラクチャーであった。ほぼ全ての空軍基地と飛行場(バタイニツァ Batajnica、クラリェヴォ=ラジェヴツィ Lađevci、スラティナ Slatina、ゴルボヴツィ Golubovci、コヴィン Kovin、ジャコヴィツァ Đakovica)や、その他の軍関係の建物、施設は激しく損害・破壊された。これは、部隊やその装備とは異なり、軍事施設は「おとり」によってカモフラージュすることはできないためである。同様に、軍需産業や軍事技術修復施設も激しく破壊された(Utva、Zastava Arms工場、Moma Stanojlović空軍修復拠点、チャチャクおよびクラグイェヴァツの技術修復拠点)。加えて、ユーゴスラビア軍を弱らせるために、NATOは重要な民間施設も標的にした(パンチェヴォの石油精製所、橋、鉄道など)。
コソボ解放軍の損害

コソボ解放軍の損害については解析が困難である。コソボ解放軍の死者数は5000人とする報告もある[76]。コソボ解放軍の兵士の死亡は、軍の退却時に発生することがあることや、遺体が戦場に残され、ユーゴスラビア軍によって集団墓地で焼却されてしまうことも、死者の数を特定することを困難としている。さらに問題を複雑にしているのは、「誰がコソボ解放軍の兵士か」という問題である。たとえば、ユーゴスラビア軍は、武装したアルバニア人はコソボ解放軍であるとみなしており、武装者が実際にコソボ解放軍に徴用されIDを与えられた兵士であるかは問題としていなかった。このことから、ある人物が、アルバニア人側からは民間人として、セルビア人側からはコソボ解放軍の戦闘員として計算されることも起こる。また、コソボ解放軍の兵士の多くは制服を着ておらず、コソボ解放軍の戦術では、死亡した兵士からは武器などを取り去り、ユーゴスラビア軍によって民間人が殺害されたかのように装うこともあったという。
余波
戦後にアルバニア人によって破壊されたセルビア正教会の教会

3週間の間に、50万人のアルバニア人難民が故郷に戻った。1999年11月の時点で、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、難民848,100人のうち、808,913人が故郷に戻った。

しかしながら、大規模な暴力によって、20万人のセルビア人がコソボを去ることを余儀なくされた[77]。ロマ(ジプシー)もまたアルバニア人からの迫害によって、コソボを追われた。1999年6月12日以降、少なくとも1000人のセルビア人やロマが、コソボ解放軍の成員や犯罪組織、あるいは個人による民族的憎悪によって、殺害されるか行方不明となった[68]。ユーゴスラビア国際赤十字は、11月までに247,391人の難民を登録している。新たな難民の発生は、NATOの悩みの種となった。NATOはUNMIK傘下で45,000人の平和維持軍を作り上げていた。

マケドニア共和国から帰還した避難民たちは、ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァの鉛で汚染された難民キャンプに留め置かれた。ポール・ポランスキ(Paul Polansky)による慈善団体によると、鉛汚染によって27人が死亡したとしている。UNMIKはこれを否定し、死亡したのは1人のみであるとした。

アムネスティ・インターナショナルによると、コソボでの平和維持軍の駐留によって、性的搾取を目的とした人身売買が増加したとしている[78][79][80]。
戦争犯罪
詳細は「コソボ特別法廷(英語版)」を参照

空爆が終わる前に、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ大統領は、紛争当時の連邦内相ヴライコ・ストイリコヴィッチ(Vlajko Stojiljković)連邦内相やニコラ・シャイノヴィッチ(Nikola Šainović)連邦副首相、ドラゴリュブ・オイダニッチ(英語版)(Dragoljub Ojdanić)セルビア国防相、ミラン・ミルティノヴィッチ(英語版)セルビア大統領とともに旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって殺人、強制移住、追放、政治的・人種的・宗教的な迫害を含む人道に対する罪で訴追された。このうち、ストイリコヴィッチ連邦内相は、2002年にセルビア議会前で拳銃自殺を計り死亡している。

2003年10月にはさらに多くの人物が起訴された。このとき起訴されたのは、元ユーゴスラビア連邦軍のネボイシャ・パヴコヴィッチ(Nebojša Pavković)参謀総長、元司令官のヴラディミル・ラザレヴィッチ(Vladimir Lazarević)元司令官、ヴラスティミル・ジョルジェヴィッチ(Vlastimir Đorđević)元警察官、当時のスレタン・ルキッチ(Sreten Lukić)セルビア公安局長であった。これらは全て人道に対する罪と戦時国際法への違反によって訴追された。

ICTYはまた、コソボ解放軍の成員らに対しても起訴を行った。起訴を受けたのはファトミル・リマイ(Fatmir Limaj)、ハラディン・バラ(Haradin Bala)、イサク・ムスリウ(Isak Musliu)、アギム・ムルテジ(Agim Murtezi)であり、人道に対する罪で起訴された。これらは2003年の2月17日から2月18日にかけて逮捕された。アギム・ムルテジに対する起訴はその後、人違いとして取り下げられ、またファトミル・リマイは2005年11月30日に全ての容疑について無罪となった。容疑は、1998年の5月から7月にかけてラプシュニク(Lapušnik / Llapushnik)の強制収容所の護衛であったことに関連する。

戦争犯罪に対する訴追はユーゴスラビア国内でも起こされた。ユーゴスラビア軍の兵士イヴァン・ニコリッチ(Ivan Nikolić)は2002年にコソボでの2人の市民の殺害に関して有罪と認定された。多数のユーゴスラビア軍の兵士らがユーゴスラビアの軍事法廷で裁判を受けた。

2005年3月、ICTYはコソボの首相・ラムシュ・ハラディナイをセルビア人に対する戦争犯罪の容疑で訴追した。ハラディナイ首相は3月8日に首相を辞任した。アルバニア人のハラディナイ首相は、コソボ解放軍の部隊を指揮した元指揮官であり、2004年12月にコソボ議会で72票の賛成をうけて首相に就任したばかりであった。ハラディナイ首相は2008年4月、一審で全ての容疑について無罪となった[81][82]。ICTYの検察局は判決を不服として控訴した。

セルビア政府や多数の国際的な圧力団体は、NATOが紛争中に戦争犯罪をしたと主張している。特に、ベオグラードにあるセルビア公共放送の本社など、軍民共用の施設に対する攻撃に関してこのような見方がもたれている。ICTYはこれらについても調査を命じた[83]。ICTYは、NATOの民間人に対する戦争犯罪について訴追を進める権限がないと宣言した。

2007年までICTY検事であったカルラ・デル・ポンテは、2008年に出版された著書の中で、1999年に紛争が終わった後、コソボのアルバニア人たちは100人から300人のセルビア人やその他の少数民族を殺害し、臓器をコソボからアルバニアに送っていたと主張した[84]。しかし、ICTYの法廷は、デル・ポンテが主張するような嫌疑を支持する確固たる証拠はないとした[85]。

ICTYとは別に、コソボ解放軍による虐待容疑を裁く特別法廷の準備手続きが2017年7月に完了した。コソボの国内法に基づいているが、公正さを確保するため設置場所は国外(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷と同じオランダのハーグ)で、裁判官・検察官・職員も全て第三国民である。コソボ国内には反対論が多いものの、コソボ独立を支持した米国や欧州連合(EU)が、セルビアとの和解を促す一環として設置を強く求めたため、コソボ政府・議会が受け入れた[86]。
余談

2010年3月17日の『ザ・ベストハウス123』によれば、チリ国営テレビの音声担当のアブナー・マチュカが撃たれて、手術するためイタリアに運ぶために、カメラマンのアレシャンド・レアルが世界中のマスコミに報せた。その結果、ジャーナリスト保護委員会がNATO本部へ直接交渉して、1999年5月28日午前2時から4時まで停戦した。マチュカは無事イタリアへ運ばれた。

その後の軍事的・政治的な推移
「コソボ地位問題」も参照

紛争終結以降、コソボは国際連合の監督下におかれた。その間、コソボはその後、政治・軍事の両面で重要な成果を挙げてきた。コソボの地位は2008年まで未確定の状態が続いた。

国際連合安全保障理事会決議1244で規定された、コソボの最終的な地位を決定するための国際的な地位交渉は2006年に開始された。国際連合の元での話し合いは、国連の特使であるマルッティ・アハティサーリの指導の下、2006年2月に開始された。技術的な面での進展は得られたものの、コソボの地位そのものに関するセルビア、コソボ双方の主張は正反対のままであった[87]。2007年2月、アハティサーリは、セルビアとコソボの双方の指導者らに対して、自ら提起した草案を送った。これは国連安全保障理事会の決議の草案の基盤として作成されたものであり、コソボに対して国際的な監督下での独立を提案するものであった。2007年7月までに、草案はアメリカ合衆国、イギリス、その他の安全保障理事会の欧州の理事国からの承認を取り付けたものの、国家の主権に対する侵害にあたるとする懸念を持つロシアの同意を取り付けようと、4度にわたって修正された[88]。ロシアは、安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国であり、セルビアとコソボ双方が受け入れ可能なもの以外、あらゆる解決法を支持しないとしている[89]。2008年2月のコソボの一方的な独立宣言によって、草案は無効となった。

2008年2月17日、コソボは独立を宣言し[90]、直後にアメリカや、イギリス、ドイツなど一部の欧州連合加盟国、トルコなどが独立を承認し、日本政府も3月18日に承認した。一方で、セルビアはアメリカなど独立を承認した国から大使を引き上げた。ロシア、ルーマニア、スロバキア、キプロス、スペインなどは独立を承認しない方針を明らかにしている。2008年末の時点で、コソボは50を超える国際連合加盟国から独立の承認を得ている一方、独立宣言の後も安全保障理事会の決議の上ではコソボの地位は未確定のままであり、引き続き国際連合の監督下に置かれている。

2019年6月12日、コソボのプリシュティナで紛争終結20年の記念式典が開かれ、クリントン元米国大統領、オルブライト元米国務長官、クラーク元NATO最高司令官らが出席した。対セルビア攻撃を決断したクリントンはコソボで英雄視されており、プリシュティナに銅像が建てられている[91]ほか、コソボ当局から勲章を授与された。クリントンは式典で「未来を作るには新たな勇気と忍耐が必要だ」と両国に和解を呼びかけたが、セルビアは式典に参加せず、コソボ担当局長はコソボ側の戦争責任者が訴追されていないことに不満を表明した[92]。

ミロシェヴィッチ大統領は紛争後、しばらくの間は政権に留まったもののコソボを事実上失ったことによって支持は低迷し、[93]セルビア正教会の聖シノドからも退陣勧告が行われた。2000年にミロシェヴィッチ大統領を失脚させた反乱が起こった。ミロシェヴィッチ大統領はその後逮捕され、ハーグに送られた。ICTYによる判決を待つことなく、ミロシェヴィッチ大統領は2006年3月10日、拘置所内で自然死した。
NATOにとっての戦訓

紛争では、アメリカ軍の兵器の弱点も明らかにした。これは後にアフガニスタン侵攻やイラク戦争のために処置されている。AH-64 アパッチ ヘリコプターや、AC-130 ガンシップは前線で使用されていたものの、2機のアパッチがアルバニアの山中で衝突してからは使用を中断した。精密なミサイルの備蓄は危険な水準まで低下し、紛争は想定を超えて長期化し、NATOは選択の余地なく精度の悪い爆弾を使わざるを得なかった。空中戦においても良好な結果は得られなかった。連続した作戦によってメンテナンスが省かれ、多くの航空機が代替パーツを待つ間待機を余儀なくされた[94]。さらに、多くの誘導型の兵器はバルカン半島の気候に順応できておらず、雲によって爆弾のレーザー誘導は遮られた。これは、悪天候でも使用することができる、グローバル・ポジショニング・システム(GPS)を使用した旧型の爆弾によって回避された。多くの無人航空機が使用されたものの、敵側の標的を捕らえるには遅すぎることも明らかにされた。これは、後のアフガニスタン戦争では、敵機の飛行音に合わせてミサイルを使う方法が用いられ、センサ映像を確認して撃つ時間をほぼ完全に削減することができた。

コソボ紛争はまた、NATOのようなハイテクの軍が、単純な戦術によって裏をかかれてしまうことも明らかにした。ウェズリー・クラーク(Wesley Clark)や、紛争後にこれらの戦略を解析したその他のNATOの将軍らによる[95]。ユーゴスラビア軍は、圧倒的に強い敵に対して、ずっと立ち向かい続けていた。ユーゴスラビア軍は効果的に敵を欺いたり隠したりする戦術を発展させてきた。これらは、全面進攻に対しては長期的には無力であると思われるが、上空を飛ぶ航空機や人工衛星を欺くには効果的な方法であった。使われた戦術には、次のようなものがあった:

アメリカのステルス戦闘機が波長の長いレーダーで追跡されていた。ステルス機のジェットが湿る場合や、爆弾を投下している場合、ステルス機はレーダーで捕捉することができる。F-117はこの方法で照準を定められ、ミサイルで撃墜されたものと見られる。
多くのローテク手法によって、熱探知ミサイルや赤外線センサが撹乱された[17]。小さなガス炉などによって、実在しない山腹があるかのように見せかけられた。
「おとり」が頻繁に用いられた[17]。偽物の橋や飛行場、「おとり」の航空機や戦車が用いられた。戦車は古タイヤ、プラスチック・シート、丸太、缶、そして熱放射を装うために燃料が用いられた。しかし、クラークの調査によると、「おとり」に爆弾が投下されたのは974回のうち25回だけだった[96]。しかし、NATOの情報によると、これは作戦遂行の手続きであり、明らかに本物であるとは思えないもの以外は、あらゆる全ての標的に対して攻撃する義務を負っているとしている。明らかに本物であるかどうかが分かるのならば、本物のみを攻撃することになる。NATOは、ユーゴスラビア空軍の損害は10倍に上るとしており、「公式なデータによると、コソボ紛争におけるユーゴスラビア軍の空爆による損害は、戦車の26%、APCの34%、大砲の47%に上る」としている[96]。
アメリカの人工衛星を使った空爆に対して、古い電子妨害装置が用いられた。
第二次世界大戦期のイスパノ・スイザ対空砲が、ゆっくり飛ぶ無人偵察機に対して効果的に使用された。

軍事勲章

コソボ紛争の結果を受けて、NATOは2つめのNATO勲章(NATO Medal)となる「コソボ戦役のNATO勲章」を、国際的な軍事勲章として作った。その後NATOは、ユーゴスラビア紛争とコソボ紛争の両方に対して与えられる「バルカン戦役の非5条事態勲章」を作った。

アメリカのクリントン大統領はコソボ戦役勲章として知られる軍事勲章を2000年に創設した。

ギャラリー

アルバニアKukësのコソボ難民キャンプ。

アルバニアKukësのコソボ難民キャンプ。
原子力空母セオドア・ルーズベルト、搭載されているのはF/A-18ホーネット。

フランス空軍のミラージュ2000の搭載するミサイル。
廃墟と化したコソボ。1999年。

Glogovacの近くにある2S1グヴォズジーカ 122mm自走榴弾砲の残骸。
プリズレンの近くにある破壊されたT-55戦車。

プリズレンの近くにある破壊されたT-55戦車。
セルビアが撃墜したRQ-1 プレデター無人偵察機。

セルビアが撃墜したRQ-1 プレデター無人偵察機。
博物館に飾られる撃墜したF-117の破片。

コソボ紛争を題材とした作品

映画

ブラックバード・ライジング(クラウディオ・ボニヴェント監督、2003年 出演:ジョルジョ・パソッティほか)

音楽

夜鷹の夢(Do As Infinity、アルバム『NEED YOUR LOVE』に収録)

参考文献

柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社』

米英の支配者やその従者が主張する「共通の価値観」とは侵略、破壊、殺戮、略奪

米英の支配者やその従者が主張する「共通の価値観」とは侵略、破壊、殺戮、略奪 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301240000/

『アメリカの歴史は先住の「アメリカ・インディアン」を殲滅、土地を奪い、奴隷に働かせるところから始まる。そのアメリカはイギリスから独立するが、人権を否定するという点で両者に大差はない。アメリカのいわゆる「独立宣言」は「すべての人間は平等」としているが、その人間の中に先住民や奴隷が含まれていないことは歴史が示している。

 西側の支配層やその従者たちは「共通の価値観」なる用語をしばしば使う。彼らが行っていることは侵略、破壊、殺戮、略奪であり、民主的な体制を倒し、民主主義を実現しようとする人びとを排除してきた。それが彼らの真の価値観であり、かつて彼らは「帝国主義者」と呼ばれていた。そうした事実が語られることを嫌い、最近では言論の弾圧を強めている。

 そうした帝国主義的な行為を正当化するため、彼らはしばしば「神」を持ち出す。アメリカを「自由と民主主義」に基づく「正義の国」だと主張する人は、虐殺されたアメリカ・インディアンを「悪魔の創造物」だと考えているのかもしれない。特定の人以外は劣等だとする優生学がイギリスやアメリカで生まれ、発展したことは本ブログでも書いてきた。

 優生学の創始者とされているフランシス・ゴールトンは『種の起源』で知られているチャールズ・ダーウィンの従兄弟にあたる。ダーウィンはトーマス・マルサスの『人口論』から影響を受け、「自然淘汰」を主張していた。当時、イギリスの支配階級に広まっていた信仰だが、その信者にはセシル・ローズも含まれていた。彼は1877年6月にフリーメーソンへ入会、その直後に『信仰告白』を書いている。

 その中で彼はアングロ・サクソンを最も優秀な人種だと位置づけ、その領土が広がれば広がるほど人類にとって良いことだと主張している。大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)

 イギリスで生まれた優生学はアメリカの支配層へ広まり、イギリス以上に社会へ大きな影響を与えることになる。支援者の中心はカーネギー財団、ロックフェラー財団、そしてマリー・ハリマンで、優生学に基づく法律も作られた。

 マリーは鉄道で有名なE・H・ハリマンの妻だが、ハリマン家は金融の世界でも有名。ハリマン家の銀行で重役を務めていたジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘と結婚したのがプレスコット・ブッシュだ。プレスコットはウォーカーの下でブラウン・ブラザーズ・ハリマンやユニオン・バンキング・コーポレーションの重役を務めていたが、いずれもウォール街からナチスへ資金を供給する重要なルートだ。同僚のひとりにW・アベレル・ハリマンがいる。

 優生学の信奉者はアングロ・サクソン、ドイツ系、北方系の人種が優秀だと主張、劣等な種を「淘汰」するべきだと考える。そうした考えに引き寄せられたひとりがアドルフ・ヒトラーであり、ウクライナを支配しているネオ・ナチもその神話を信奉している。

 いわゆる『新約聖書』にもそうした思想が書き込まれている。例えば「ヨハネの黙示録」の第7章には天使が「我々の神の僕たちの額の上に我々が印をつけるまでは、地と海と木を害してはならぬ」と語ったとしてある。その僕とは「イスラエルの各支族の中から印をつけられた者」で、その印を付けられた人だけが殺されるのを免れるのだという。(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 7 ヨハネの黙示録』作品社、2017年)

 田川健三によると「民族伝説の趣旨からすれば「ユダヤ人」は十二支族の中の二支族にすぎない」のだが、これは無視されている。勿論、「十二支族」は歴史的な事実に裏付けられていない。(前掲書)

 田川は「黙示録」の中にギリシャ語の文法を理解している人物と初歩の知識もない人物の文章が混在していると指摘、少なくともふたりの人物によって書かれているとしている。大量殺戮に関する記述は後で文法的な知識のない人物によって書き加えられた部分だ。(前掲書)

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最終更新日 2023.01.24 00:00:07 』

マックス・ウェーバーは百年前に指摘した。

マックス・ウェーバーは百年前に指摘した。
https://st2019.site/?p=20799

『Alexander J. Motyl 記者による2023-1-18記事「As Russia weakens, whoever has soldiers and guns will survive」。

   マックス・ウェーバーは百年前に指摘した。機能する国家は暴力を独占している。暴力を国家が独占できなくなれば、その国家は崩壊する。ワグネルは、後進国における軍閥や麻薬カルテルのようなものになりつつあり、それはロシア崩壊の兆しである。

 ロシアにはチェチェン部隊もいる。これも露軍とは何の関係もない軍閥である。

 もうひとつ、じつはショイグがじぶんの私兵を抱えている。「パトリオット」という民間軍事会社で、今、ドネツクのVuhledar戦区に投入されている。

 「パトリオット」とワグネルは、競合関係にある。
 カディロフもショイグを批判しているから、三団体はライバルである。

 ※昨日の雑報によると、ロシア正規軍が、ワグネル兵が鈴なりにタンクデサントしていた戦車を同士討ちで撃破してしまったという。』

再び中国に近づくドイツ なぜだか歴史から考えてみた

再び中国に近づくドイツ なぜだか歴史から考えてみた
樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29073

『昨年11月4日、ドイツのオラフ・ショルツ首相が訪中し、習近平国家主席との会談に臨んだ。同首相は、習国家主席が昨年10月の第20回共産党全国大会で3期目続投が確定した後に迎える最初の西側国家トップであり、一方のショルツ首相はフォルクスワーゲン、シーメンス、ドイツ最大化学企業のBASFなどドイツ経済を牽引する大手12社のCEO(最高経営責任者)を引き連れていた――。ここからも両首脳の会談に向けての意気込みが感じられる。

ドイツのショルツ首相は西側諸国として初めて3期目を迎える習近平国家主席と会談した(代表撮影/ロイター/アフロ)

 就任以来、同首相はアンゲラ・メルケル前首相の対中政策を踏襲するかのように、「中国の台頭を理由に中国を孤立させたり協力を阻害したりすることが正当化されてはならない」との方針を掲げ、ジョー・バイデン米政権の対中強硬姿勢とは明らかに一線を画している。ドイツが打ち出す中国に対する融和姿勢を、習国家主席が高く評価しているであろうことは容易に想像できるはずだ。

 たしかに現在、ドイツにとって中国は最大の貿易相手国ではある。だからメルケル(前)、ショルツ(現)の両政権が中国の秘めた経済的可能性に照準を合わせていたとしても、決して不思議ではないだろう。

 だが、短期的にはそうではあっても、長期的に捉え直すならば、やはり中国に対する多年に亘る強い関心がドイツを突き動かしてきたと考えるべきではないか。

 ここで欧米列強に日本を加えたプレーヤーが中国の秘めた富源を標的としたゲームを激しく争っていた清国末から中華民国初年――19世紀末から20世紀初年――に立ち返り、同時代の日本人が残した記録を手掛かりにして、中国におけるドイツの過去の振る舞いを探ってみたい。

 なぜ、あの時代なのか。それは中国において各国の利害が錯綜する構図は、現在に似通っていると考えるからである。もっとも、当時は存在すらしていなかった中国共産党政権が強力なプレーヤーとして参入していると言う大きな違いはあるが。

清国市場を席巻していたドイツ

 清国末期の四川省で日本語を教えていた山川早水(生没年、経歴不詳)は日露戦争が勃発した1905(明治38)年の3月から7月にかけ湖北省宜昌から長江を遡り、成都、嘉定、重慶など四川省各地を踏査し、その報告を『巴蜀』(成文館 1909=明治42年)に記した。

 四川省に近い宜昌市街の「西洋雜貨店」を覗いた山川は、「独仏品其大部分を占め、英米之に次ぐ」。これに対するに日本製品は福神漬などに限られていると綴る。中国(清国)市場に遅れて参入した日本製品は、ドイツを筆頭とする「西洋雑貨」の後塵を拝するしかなかったわけだ。

 宜昌で雇った小舟の舳先に日章旗を立て長江を遡って到着したある港には、極めて厳格な審査を行う英国人税関吏が待ち構えていた。英国の影響力は日本人の想像を超え、長江上流にまで及んでいたのである。

 当時、ドイツ、英国、フランスは「在重慶及沿居留民の保護」に加えて「一種の示威の為めに、特別建造に係る小型の砲艦を以て峡江の往来」をしていた。列強による清国利権をめぐっての激しい戦いは、四川の辺境でも止むことはなかった。

 因みに1897年に長江を遡り山川と同じようなルートで四川省に向かった英国の女性旅行家イザベラ・バードは苦難の旅の詳細を『中国奥地紀行(1、2)』(平凡社ライブラリー 2013年)に残しているが、長江下流に位置する鎮江一帯におけるドイツ企業の企業活動を「わがライバル、ドイツ」と記した。当時、長江流域一帯で経済的利権を先行取得していた英国に対し、ドイツは果敢に商戦を挑んでいたに違いない。』

『山川は激浪を遡り、苦難の旅の果てに「天府」の別名で呼ばれる豊かな四川省に足を踏み入れる。当時、省都の成都は外国には未開放だったが、すでにドイツを軸に列強諸国が活発なビジネスを展開し、同地における「外国商品は主として独、仏、英及日本等より輸入」されていた。

 「毛布、大小時計、靴、玻璃類、莫大小類、金属器具、玩具、缶詰、酒烟、菓子、薬品、西洋食器、陶器、洋傘、洋紙、文具等」に他の雑貨を加えた日用品が上海から運ばれていたが、なかでもドイツ製品が最も人気とあり、ことにドイツが独自に考案・製造した「独特の瀬戸引器具即ち洗面盤、薬缶、手提割盒など」が売れ筋だった。

 山川はドイツ製品が品質堅牢、価格低廉である上に、現地消費者の「嗜好習慣」を巧みに取り入れている点に舌を巻く。

 たとえば手提割盒だが、古くから中国には「携帯用の数段に重ねたる竹製〔中略〕の割盒ありて、家居旅行共に闕く可からざる一要器に数へら」れていた。重箱を何段にも重ねたような「割盒」は、たしかに食べ物の持ち運びには便利ではある。だが、竹製だから長期間の使用には耐えられないばかりか汁物を扱えない。この欠点に、ドイツは目を付ける。

 ドイツは、竹製と同じ機能で鉄製瀬戸引きの手提割盒の大量生産を始めた。当然、価格は中国の竹製よりは高くはなるが、水にも火にも強い。そのうえ長期使用にも耐えられる。さまざまな利点から考えて、コストパフォーマンスは抜群だ。加えて「見懸によらず、体裁を喜ぶ」中国人の消費動向を見抜いて斬新なデザインを採用した販売戦略が奏功し、ドイツ製品は瞬く間に販路を広げることとなる。

 このように中国人が日々接する商品から、ドイツは中国の消費者心理を巧みに捉えることに成功したのだろう。おそらくドイツ人は日本人とは違って、《中国人はこういうものだ》という一知半解な固定観念に左右されることがないのではないか。

 考えればドイツは中国との間に日中関係に象徴される一衣帯水も、同文同種も、子々孫々の友好も、ましてや歴史問題などとの厄介極まりない関係はなく、あるのは主として「双贏(ウィン・ウィン)関係」だろう。この実利関係は、その後の日中戦争期を経て現在にも通じているに違いない。ドイツと中国の間には〝親和性〟とでも呼べそうな関係が続いているように思える。

裏工作にも余念がない

 山川はドイツの成功の要因を、「独乙が真面目なる研究の結果に外ならず、歩を進めて考ふれば、善く詳に身を需要者の側に置」いただけではなく、「主として在留の官商間に於て油断なく注意を払」っていたからだ、とも指摘することを忘れない。成都在留のドイツ官民が共同し現地における消費動向を抜かりなく観察し、ビジネスに生かしていたわけだ。

 そこで、時に〝悪手〟も使って見せる。ドイツ艦船による日本商品輸送妨害工作などは、その顕著な一例だろう。

 東亜同文書院に学んだ後に外務省中国畑を歩くことになる米内山庸夫は、山川から5年遅れた1910(明治43)年、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンから北西に向かい、雲南省から四川省入りした。彼は踏査記録の『雲南四川踏査記』(改造社 1940=昭和15年)のなかで、「官商間に於て油断なく注意を払」っているドイツの姿を記している。

 実は「商品を軍艦で運んで来る」ドイツは、「輸入税を一文も払はない。だから価を安くして売ることが出来る」。こうして他国商品を圧倒し、ますます販路を拡大することになる。

 ドイツ領事は「支那官憲と聯絡するに金を使ふことは少しも惜しまず、あらゆる手段を尽して利権の獲得に努めてゐる。(中国側の)機器局の技師は独逸人で独占し、いま製革廠にまで手を伸ばさんとしてゐる」。

 ドイツ領事は製革廠の責任者に「オルガンだのピヤノなどを贈」るばかりか、彼の邸宅に「自ら洋酒や料理を持つて」出向いて「饗応したりする」。当時、製革廠で技術指導に当たっていた日本人技師を追放し、ドイツ人技師を送り込もうと画策していたのだ。』

『ドイツ領事の活発で老獪な活動は続く。

 ドイツの「領事は、また西蔵(チベット)にも興味を持ち、蔵文学堂教師の西蔵人某を一週二回づゝ自宅に招んで西蔵語を習」っているが、語学教師としては破格の金額の授業料を惜しまない。それというのも、彼は語学教師の傍ら官吏として四川省政府のチベット関連公文書の一切を取り仕切っているからである。

 「西蔵と四川との交渉往復は第一にその西蔵人の知るところとなり」、そのままドイツ領事に筒抜けとなる。だからドイツ領事は、居ながらにしてチベットの内情に加えチベットと四川省政府(ということは中央政府)の交渉の詳細を知ることができた。スパイもどきと言うより、スパイそのものだったわけだ。

 しかも、である。その領事はドイツの「陸軍中尉で、今度帰国に際して西蔵を経て西に向はんとして支那官憲に交渉中といふ」。中国、インド、中央アジアの中央に位置しているゆえに、チベットもまた列強にとっては極めて重要な戦略拠点だったはずだ。かくて米内山は「いかにも独逸の活動心憎きまで溌剌たるものあるを感じ」た、呆れ顔で記している。

鉄鉱山での狡猾な利権獲得

 米内山から9年後の1919(大正8)年夏、東京高等商業学校(一橋大学の前身)の「日頃東亜の研究に志す」若者の一団は「四旬に渉つて支那を南から北へ旅行し」、帰国後に「支那が我々日本青年の目に如何に映じたかを語」ろうとして、『中華三千哩』(大阪屋號書店 1920=大正9年)を上梓する。そこに、長江中流の漢口近くの大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」に「暗中飛躍」する姿が書き留められていた。

 清朝末期に近代化を推し進めた洋務派有力官僚の1人である張之洞は長江中流域を管轄する湖広総督を務めていた当時、古書の記述から管轄区域内の湖北省大冶県一帯に鉄鉱床があろうかと見当を付けた。

 そこで1980年にドイツ人技師の「ライノンを聘して、実地踏査をなさしめた」ところ、果たせるかな張之洞の見立てに狂いはなかった。「ライノンは三旬の探査の後、古代製鉄の遺跡を発見し、次いで世界に有名なる本鉄山(=大冶鉄鉱山)の発見するに至つた」のである。

 だがライノンもさるもの。雇い主の張之洞に対し素直に従うわけではなかった。「単なる支那の忠実なる一傭技師に甘んぜんや、我が本国への忠義立ては此時と、張之洞へは知らぬ顔の半兵衛をきめこんで、裏面では早速北京の独逸公使を通じて本国政府に密電を発し、利権の獲得を慫慂した」と言うのだ。

 ライノンからの「密電」を受けたドイツ政府は、もちろん素早く動いた。直ちに在北京公使に訓令し、大冶県一帯の鉱山採掘権と鉄道敷設権を「支那政府に要求せしめた」のである。

 中央政府にとっては寝耳に水だったろうが、張之洞からしたら飼い犬に手を噛まれたも同然である。烈火のごとく怒りまくったであろうことは、やはり想像に難くはない。

 「当時独逸のやり方が如何に狡猾であつたかは、大冶に行つたものは、素人でも直ぐ気付く程」であった。それというのも「殊更鉄路を迂回せしめて、距離を延長し」、なんとかして「機械材料などを少しでも多く買はせやうかとする魂胆だつた」からだと、大正期の「日頃東亜の研究に志す」若者の1人が『中華三千哩』に綴っている。』

『現代でも頭に入れるべき〝何でもあり〟のドイツ

 清末から民国初年へと続いた列強による中国の富源の争奪戦が展開されていた時期、山川は四川省でドイツの「眞面目なる研究の結果」を目にし、米内山はドイツ領事の暗躍を語る。東京高等商業学校学生は大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」な「暗中飛躍」振りを知る。

 これを言い換えるなら、あの時代の中国におけるドイツの振る舞いは「真面目なる研究」から「狡猾」さを発揮しての「暗中飛躍」まで、まさに〝何でもあり〟ではなかったか。その延長線上にショルツ首相の「中国の台頭を理由に中国を孤立させたり協力を阻害したりすることが正当化されてはならない」との発言を置いてみるなら、時代は違えどもドイツの利益の最大化を目指し「暗中飛躍」する姿が浮かび上がってくるだろう。

 日本のメディアからは、メルケル、ショルツと続くドイツ政権の中国に対する一連の融和姿勢を〝利敵行為〟と批判も聞かれる。だが、中国を取り囲む国際社会が複雑化の度を加えるばかりの現状を考えるなら、日中関係だけを基盤にした画一的な対応では早晩立ち行かなくなるではないか。であればこそ、虎児を得んとするためには、〝虎穴に入るリスク〟を取ることも必要だろう。

 それにしても先人はドイツの「眞面目なる研究の結果」から「暗中飛躍」する「狡猾」な姿まで、じつに冷静な目を持っていたものだと、改めて感心せざるを得ない。』

国境を越える「民族」 : アウスジードラー問題の歴史的経緯

 ※ テキストがガタガタなのは、.pdfファイルを手持ちの変換ソフトにかけただけだからだ…。

 ※ 時間が惜しいんで、整形しない。

 ※ 読みにくければ、原文に当たってくれ。

 ※ まあ、オレは、この程度で充分に意味取れるがな…。

 ※ 内容的には、「領土」「民族」「喋っている言語」「国家」「国民」「国民国家」…、などというものを「一致させること」がいかに困難かということの、参考になる…。

 ※ ひいては、現下の「ウクライナ事態」の「背景にあるもの」を考察する際の、参考になる…。

 ※ それと、「ドイツ国民」の「被害者意識」と「加害者意識」の混在…、なんて話にもつながってくることだろう…。

 ※ ロシアは、「巧みに」そういう「ドイツ国民の意識・認知構造」に働きかけて、操っている…、という情報も、見たぞ…。

国境を越える「民族」 : アウスジードラー問題の歴史的経緯
著者
佐藤 成基
出版者
法政大学社会学部学会
雑誌名
社会志林

54

1
ページ
19-49
発行年
2007-07
URL
http://doi.org/10.15002/00021040
19

1. アウスジードラー理解への視点
    −在外同胞問題としてのアウスジードラー−

ドイツ連邦共和国は建国から1990年代初頭までのあいだ,東欧(ないし中東欧)からやって来 た人間を,当人が「ドイツ人」であるという理由により,当人およびその祖先がかつて一度もドイ ツ国籍を取得したことがなかった場合ですら無条件で受け入れ,国籍を付与してきた。この政策に
より,戦後継続的に400万人以上の「ドイツ人」が東欧からドイツ連邦共和国にやってきた(表1
参照)。1988年以後,その数は急激に増加し,世間の注目を浴びることになった。彼らを総称して
「アウスジードラーAussiedler」と呼んでいる。連邦共和国のこのアウスジードラー政策により, 東欧からの「ドイツ人」移民は,アウスジードラーという資格によって,外国人労働者や庇護権請 求者等の他の移民集団と比較して大幅に有利な待遇を受けることになった。

これまでアウスジードラーは,外国人労働者や庇護権請求者とセットで「ドイツの移民問題」と いう枠組みで理解されることが多かった
1
。そのような枠組みから見ると,「民族帰属」を認定され た「ドイツ人」に対する優遇は突出して見える。

そのため,ドイツのアウスジードラー政策を, 「血統」や「文化」を重視する「エスニック(エスノ文化的)」なナショナリズムの象徴であるとか, ナチス時代の「民族政策」への回帰であるとか,あるいはドイツの非「西欧」的な特殊性を示す現象であるなどと批判的ないしは文化宿命論的にとらえる解釈が,ドイツ国内・国外を問わず少なくなかった。

しかしこのような見方をすると,アウスジードラー問題が負っている固有の歴史的経緯,すなわ ち,なぜアウスジードラー政策が採用され,それがどのような形で継続されてきたのかという側面 への視点が失われてしまう。

確かにアウスジードラー政策において,ナチスの民族政策を想起させる「民族帰属」という概念を,「ドイツ人」の認定基準として用いている。だが,その点だけをとりあげて,戦後から1990年代初頭まで続いた(その後改訂されながらも現在までも継続している)
アウスジードラー政策の特徴を決定付けてしまうのは単純に過ぎる。

そこで本論文では,アウスジードラー問題を「移民問題」という観点からではなく,在外同胞と
4 4 4 4 4
国境を越える「民族」
―アウスジードラー問題の歴史的経緯―
佐 藤 成 基
1
例えばその理解の仕方は,ドイツの代表的な移民研究者クラウス・バーデの1994年の著作『外国人,
アウスジードラー,庇護』(Bade 1994)の題名の中に表わされている。
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(表1)1950 年以来のアウスジードラー統計(連邦行政局)

旧ソ連邦 ポーランド
旧チェコ
スロバキア
ハンガリー ルーマニア
旧ユーゴ
スラヴィア
その他 計
1950 0 31,761 13,308 3 13 179 2,233 47,497
1951 1,721 10,791 3,524 157 1,031 3,668 3,873 24,765
1952 63 194 146 30 26 3,407 9,503 13,369
1953 0 147 63 15 15 7,972 7,198 15,410
1954 18 664 128 43 8 9,481 5,082 15,424
1955 154 860 184 98 44 11,839 2,609 15,788
1956 1,016 15,674 954 160 176 7,314 6,051 31,345
1957 923 98,290 762 2,193 384 5,130 6,264 113,946
1958 4,122 117,550 692 1,194 1,383 4,703 2,584 132,228
1959 5,563 16,252 600 507 374 3,819 1,335 28,450
1960 3,272 7,739 1,394 319 2,124 3,308 1,013 19,169
1961 345 9,303 1,207 194 3,303 2,053 756 17,161
1962 894 9,657 1,228 264 1,675 2,003 694 16,415
1963 209 9,522 973 286 1,321 2,543 629 15,483
1964 234 13,611 2,712 387 818 2,331 749 20,842
1965 366 14,644 3,210 724 2,715 2,195 488 24,342
1966 1,245 17,315 5,925 608 609 2,078 413 28,193
1967 1,092 10,856 11,628 316 440 1,881 262 26,475
1968 598 8,435 11,854 303 614 1,391 202 23,397
1969 316 9,536 15,602 414 2,675 1,325 171 30,039
1970 342 5,624 4,702 517 6,519 1,372 368 19,444
1971 1,145 25,241 2,337 519 2,848 1,159 388 33,637
1972 3,420 13,482 894 520 4,374 884 321 23,895
1973 4,493 8,903 525 440 7,577 783 342 23,063
1974 6,541 7,825 378 423 8,484 646 210 24,507
1975 5,985 7,040 516 277 5,077 419 343 19,657
1976 9,704 29,364 849 233 3,766 313 173 44,402
1977 9,274 32,857 612 189 10,989 237 93 54,251
1978 8,455 36,102 904 269 12,120 202 71 58,123
1979 7,226 36,274 1,058 370 9,663 190 106 54,887
1980 6,954 26,637 1,733 591 15,767 287 102 52,071
1981 3,773 50,983 1,629 667 12,031 234 138 69,455
1982 2,071 30,355 1,776 589 12,972 213 194 48,170
1983 1,447 19,121 1,176 458 15,501 137 85 37,925
1984 913 17,455 963 286 16,553 190 99 36,459
1985 460 22,075 757 485 14,924 191 76 38,968
1986 753 27,188 882 584 13,130 182 69 42,788
1987 14,488 48,423 835 581 13,994 156 46 78,523
1988 47,572 140,226 949 763 12,902 223 38 202,673
1989 98,134 250,340 2,027 1,618 23,387 1,469 80 377,055
1990 147,950 133,872 1,708 1,336 111,150 961 96 397,073
1991 147,320 40,129 927 952 32,178 450 39 221,995
1992 195,576 17,742 460 354 16,146 199 88 230,565
1993 207,347 5,431 134 37 5,811 120 8 218,888
1994 213,214 2,440 97 40 6,615 182 3 222,591
1995 209,409 1,677 62 43 6,519 178 10 217,898
1996 172,181 1,175 14 14 4,284 77 6 177,751
1997 131,895 687 8 18 1,777 34 0 134,419
1998 101,550 488 16 4 1,005 14 3 103,080
1999 103,599 428 11 4 855 19 0 104,916
2000 94,558 484 18 2 547 0 6 95,615
2001 97,434 623 22 2 380 17 6 98,484
2002 90,587 553 13 3 256 4 0 91,416
2003 72,289 444 2 5 137 8 0 72,885
2004 58,728 278 3 0 76 8 0 59,093
2005 35,396 80 4 3 39 0 0 35,522
総  計 2,334,334 1,444,847 105,095 21,411 430,101 90,378 55,716 4,481,882

典拠:連邦内務省ホームページ(http://www.bmi.bund.de)"Aussiedlerstatistik seit 1950" をもとに作成
21
国境を越える「民族」
いう「民族問題」の観点
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
から考察してみたい。

確かにアウスジードラーが現象として移民の一種で
あることには間違いはない。だが彼らは移民であると同時に,というよりもそれ以前に,ドイツ連 邦共和国にとっての在外同胞(つまり「在外ドイツ人Auslandsdeutsche」)なのである

2

このことがアウスジードラーに対し,その他の移民とは異なった歴史的負荷を与えている。

国家の境界線の外にいながら,同一の「ネーション(民族)」(それがどのように定義されるにせ よ)に帰属する「同胞」。これが在外同胞である。在外同胞は,同一の「ネーション」の成員でありながら国境外に散在している。それは,西欧,アメリカ,日本などでは問題になることは少ないが,イスラエル,ギリシャ,朝鮮,東欧地域の諸ネーションなどでは重要な「民族問題」である。

より一般的な視点
4 4 4 4 4 4
から,「民族問題」を国家とネーションとの不一致に伴う問題
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

と捉えるとするならば,在外同胞問題は,民族マイノリティ問題とともに「民族(ネーション)問題」の二大テーマを構成することになるだろう

3
。民族マイノリティが国境内における国家とネーションとの不一致
であるとすれば,在外同胞は国境外における国家とネーションの不一致である
4

ドイツでは,その統一国家の建国(1871年)以来,国境外に多くの在外ドイツ人を抱えてきた。

彼らは,その時々の政治的・社会的状況の中で,様々に理解され,誤解され(時に見過ごされ,忘れられ),テーマ化され,様々な政治的関心の下に道具化されてきた。

また,ドイツのネーション概念それ自体も,在外ドイツ人問題との関わりを通じて形成されてきたという面がある。

ドイツ史を見ると,国家によって領土的に区切られたネーション概念のほかに,それとは連動しつつも独立
した非国家的ないし超国家的なネーション概念
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
が,様々な形で「想像」されてきた
5

その過程に
おいて,在外ドイツ人問題への関与が少なからぬ役割を果たしてきた。戦後連邦共和国のアウスジードラー問題は,このような在外ドイツ人の歴史,さらにはドイツのネーション概念形成史の文脈の中で捉えて行く必要がある。

2
アウスジードラーを在外マイノリティ問題と関連で分析した研究としてオーリガーとミュンツのもの
(Ohliger and Münz 2002)がある。本報告はこの論考から大きな示唆を得ている。

だが,この分析も「マイノリティから移民へ」という転換が主題であり,アウスジードラー問題そのものを「民族」の問題と捉える視点が一貫しているわけではない。
3
ナショナリズムにおける在外同胞問題,さらには国家を超えたナショナルな関係性の重要性を指摘したのはロジャース・ブルーベイカーであった(Brubaker 1996)。彼は,「民族化する国家」「民族マイノリテ
ィ」とならんで「外部の民族的故郷」からなる,民族問題の「三項関係」を指摘している。
4

アーネスト・ゲルナーによる有名なナショナリズムの定義によれば,「ナショナリズムとは,第一義的に,政治的な単位とナショナル(民族的)な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理である」
(Gellner 1983: 1=2000: 1)。

この表現を借りて言うならば,民族政策とは,政治的な単位とナショナルな
(民族的な)単位を一致させるための具体的な方策ということになるだろう。

そこで問題となるのが,領土内の異民族である民族マイノリティと領土外の民族同胞である在外同胞である。
5

言うまでもなく,その歴史はフィヒテやヘルダーにまで遡る。フリードリッヒ・マイネッケは,国家の基盤を持たない統一以前のドイツのネーション概念を「文化ネーション」と呼んだ(Meinecke 1919)。

ブルーベイカーは,統一以後のドイツのネーションの自己理解においても,やはり国家的な概念よりも 「エスノ文化的」な概念の方が優位していると論じている(Brubaker 1992=2005)。
22

しかしまたアウスジードラー問題は,戦後に固有のものでもある。既存国境外のドイツ人を受け入れるアウスジードラー政策は,第二次大戦終結前後,東欧のドイツ人が被った「追放」と呼ばれ る歴史的事件と不可分に結びついている。

「追放」とは,1400万人以上のドイツ人が戦争による避難やその後の強制移住政策の被害にあった出来事である
6

「追放」は1950年にいちおうの終結を見た。しかしドイツ連邦共和国(当時の「西ドイツ」)は,「追放」が終わったあとも,「被追放者」の受け入れを続けるための法体制を構築した。アウスジードラー政策の起源はここにある。

また,その後のアウスジードラー政策は,ドイツ連邦共和国が「追放」という歴史的事件とその帰結に対して,また「追放」犠牲者である「被追放者」に対して,どのように対峙し,対処するのかという問題と不可分の関係にあった。

「追放」はドイツ連邦共和国に対し,「被追放者」たちが東方で受けた被害に対する補償や救済の要求,「故郷」を守りたい(できれば帰還したい)という願望,「故郷」(戦後は社会主義国家群の下に置かれた)に依然残されたドイツ人マイノリティなど,国境を
4 4 4
超える「民族」
4 4 4 4 4 4 4
の諸問題を,それ以前の在外ドイツ人問題とは異なった形でつきつけたのである。

アウスジードラー政策は,これらの問題と関連させつつ,さらにそれを国際政治上の文脈の中に置きつつ理解してかなければならない。

それは1960年代からドイツにやってくる外国人労働者や,
1980年代末に急増する庇護権請求者がもたらす問題とは,当然その歴史的文脈を異にしているのである。

本論文では,まず在外ドイツ人がドイツ建国以来ドイツ本国(政府や社会)においてどう理解され,テーマ化されてきたのかを,アウスジードラー問題の「前史」として簡単に回顧したあと,本題である戦後の「アウスジードラー」概念の形成とその展開に沿って論じていきたい。

最後に,
1990年以後明らかになってきたアウスジードラー終結への方向性が,国境を越える「民族」としてドイツ・ネーションの終焉を意味するのか否かを検討する。

2. アウスジードラー前史
    −ドイツ統一以後の在外ドイツ人問題−
7
(1)帝政ドイツの時代

1871年に統一されたドイツ帝国は,オーストリアのドイツ人を含む大量のドイツ人,ヘルダー やフィヒテ的にドイツ語を母語とする人間という意味でのドイツ人を外部に残すことになった。

特にハプスブルク帝国やロシア帝国内には,多くのドイツ人居住地域があり,それらが皆ドイツ帝国の外に残されたことになる。これをもって「在外ドイツ人問題の起源」とすることもできるが,それがナショナリスト的なアナクロニズムに陥るということにも注意をする必要がある。

というのは,帝政ドイツ時代,エルンスト・ハーセなど,「全ドイツ協会」や 「ドイツ学校協会」 などに所属す
6
「追放」についてはBeer(2004)を参照せよ。
7
この章での論述は,筆者が以前に公刊した論文(佐藤 1999; 佐藤 2000)に依拠している。
23
国境を越える「民族」
る一部の「全ドイツ」派知識人
8

を除いて,これら東欧の在外ドイツ人に対する社会的な関心は低く,
ビスマルクを初めとする政治指導者も,外交関係への配慮から,在外ドイツ人問題には介入しないというスタンスをとっていたからである。

帝政ドイツ時代のドイツのネーションは,主流としては国境内に限定された「国家的ネーション」として形成されたと見ることができるだろう(Schieder
1961)。

純粋血統主義の原理を確立した1913年の帝国国籍法は,「エスノ文化的」 と特徴づけられることが多いが(Brubaker 1992=2005),あくまでも国家の領土内の住民(そこには非ドイツ民族も含まれるが)の国籍の血統主義を確立したにとどまり,東欧に住む民族的ドイツ人は問題にされていない。

東欧からのドイツ人移民に国籍を付与する戦後連邦共和国の国籍政策は,1913年の国籍法と はなんら直接のつながりは持たないのである
9

確かに,国籍法をめぐる帝国議会の討論を見ると,
「在外ドイツ人」 という概念が頻出するが,この 「在外ドイツ人」 とは,当時の海外植民地に移住したドイツ国籍保持者(あるいは,かつての保持者)のことを主として意味していた。

それまでの国籍法では,国外に10年以上居住すると自動的に国籍を喪失する規定になっていたため,海外植民地に移住したドイツ人の中には国籍を喪失したり,これから喪失する可能性の高い者が多く存在したのである。政府や政治家たちは,それを「世界政策」の時代に適合しないものとして問題にしたのである
10

その関連で,血統主義の国籍法により 「ドイツ民族Volkstum」 の結合の強化が称揚
されることも多かった。しかし,国籍を一度も持ったことのない「民族帰属」のみのドイツ人に, 国籍を付与するということが考えられていたわけではなかった。

(2)ヴァイマル共和国からナチス時代へ

第一次大戦後,在外ドイツ人問題の構図は大きく変化する。その要因は大きく言って三つある。
8
ハーセは,『ナショナルな国家としてドイツ帝国 Das Kaiserreich als Nationalstaat』(Hasse 1905)とい
う著作の中で,国外にドイツ民族の一部を排除,国内に非ドイツ民族を包摂しているという点において,
ドイツ帝国がナショナルな国家として「未完結 unvollendet」であると規定している。この議論の中では,
ドイツの「ネーション」(ないし「民族 Volk」)は国家とは別の実体として理解されている。また,全ド
イツ協会の「全ドイツ的活動」については,Alldeutscher Verband(1910)を参照せよ。
9

この点に関しては,専門家の間でも誤解が多いように思われる。例えば,他の点では優れたナショナリズム史研究である伊藤定良(伊藤 2002)による理解がその典型である。

「ドイツを「真の国民国家」につくり替えるためには,「在外ドイツ人」(「民族的ドイツ人」)にドイツ市民権を与えねばならないのである。

こうして彼ら[全ドイツ派]の要求は1913年の国籍法に結晶した。それは市民権を「血縁共同体」として定義し,「在外ドイツ人」に開かれ,帝国内の移住者に対しては排他的であった」(Ibid.: 178)と伊藤
は述べている。

だが,1913年の国籍法は中東欧の「民族的ドイツ人」(この概念はナチス時代に多用され たものだが)に「開かれていた」わけではなく,また「全ドイツ派」がもった政治的影響力も限られたものであって,決して彼らの要求がそのまま国籍法に「結晶」したわけではない。

「エスニック」な移民政策であるアウスジードラー政策は,同じく「エスニック」な(つまり血統主義的な)国籍規定を確定した1913年の帝国国籍法と連続しているという誤った理解に基づくものであり,ドイツの「エスニックな特殊性」を前提においた理解がうみだす弊害の一つである。
24

第一は,敗戦によってドイツが東方の領土を喪失したことである。

これによって,東欧の新興国家の下に在外ドイツ人が新たに発生しただけでなく,それが戦後ドイツの国境修正運動とも関連していくようになる。賠償金の負担軽減と並んで,国境修正はヴァイマル共和国時代のドイツ政府の大きな外交上の目標だった。

第二に,ハプスブルク帝国が解体し,代わって多くの国民国家が新たに建国されたことにより,東欧の在外ドイツ人の多くが,そこにおける民族マイノリティの地位に転落したということである。彼らは新たに「国民化」を目指す新興国家のもとで,差別や同化の圧力 にさらされることになる。

第三に,戦後のパリ講和会議や新たに設立された国際機関の国際連盟な
どの場において,「民族自決」や 「民族マイノリティの権利」 の概念が国際的(ヨーロッパ内での)な規範として広まっていくということである。

しかし敗戦国のドイツでは,この原則が適応されず(オーストリアのドイツ人の「結合」の決議も却下された),しかもマイノリティとなった在外ドイツ人たちも,「民族的」な権利を阻害されることになる。

こうして,戦後の在外ドイツ人問題は,ドイツの国境修正運動とマイノリティの権利主張運動とに連動していくことになるのである。

ドイツ人は,当時のヨーロッパにおいて最大のマイノリティ集団であった。

ナチスが対外拡大を始める直前の1937年段階で,オーストリアとドイツ以外の東欧,南東欧に約850万のドイツ人が存在したとされている(Münz and Ohliger 1998: 156)。

各地のドイツ人マイノリティは団体を結成し,自らの文化的・言語的権利が認められず,ホスト国家の中で差別され 「民族の権利」 が侵害されて
いることについて抗議を行い,国際連盟に対しても盛んに陳情書を提出している(Pieper 1974;
Fink 1972)。

また,ドイツ国内でも,失地回復運動との関連で在外ドイツ人の問題についての公共
的関心が高まり,在外ドイツ人を支援する運動が行なわれるようになる(Jaworski 1978)。ドイツ
学校協会から発展した「在外ドイツ民族協会 Verein für Deutschtum im Ausland」は,そのメンバ
ーを劇的に増加させた。在外ドイツ人を扱った研究(「東方研究」 と呼ばれる)も発達し,多くの
著作も出版された(Burleigh 1988)。

そのような中で,「ドイツ民族 Volkstum」の姿を,国境を越えたもの,超国家的なものとして理
解することが一般的になっていった。その一例として地理学者アルブレヒト・ペンクが描いた「民
族・文化領土 Volks- und Kulturboden」の地図を紹介しおこう。これは1925年に出版されたもので
ある(Herb 1997: 57)。そこにはドイツの「文化領土」「民族領土」が,ヴァイマル共和国の国境
線を越えたものとして描かれている(図参照)。このような地図は,当時のヴァイマル共和国の国
10
例えば,帝国国籍法修正案を帝国議会で紹介している内務大臣のハンス・デルブリュックの演説などを
参照せよ(RT 13/13: 249-250)。そこで彼は,「この法律は,われわれが植民地や保護領を所有していな
い時代に公布されています。状況の変化に合わせて,今皆さんに紹介するこの法律案は,特定の条件で,
保護領において直接的帝国帰属を得ることを許可しています。……皆さん,ドイツ帝国はかつてとは異な
った利害関心を持っています。自らに繋がれていたものは,今や海を越えて出かけていくのです。移民の
理由も,大部分,かつてとは別のものになっています。今日出かけていくものは,経済的・政治的に祖国
から自らを切り離すためにそうするのではないのです。経済的・政治的に祖国のために奉仕するがために
出かけていくのです」と述べている。
25

国境を越える「民族」

境が「ヴェルサイユの命令」によって作り出された不当なものであるという一般的な認識とともに,
国境修正につながる政治的な意味合いも強く持っていた
11

「ドイツの民族・文化領土の地図」(Herb 1997: 57より転写)

このように,ヴァイマル時代に広まってきた「民族」概念を,政治的に利用したのがナチスであ
った。ナチスの対外拡大は,オーストリア,ズデーテンラント,ポーランド西部というように,
「民族自決」の論理で正当化されるような在外ドイツ人居住地域を皮切り
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
に進められている。特に
前二者関しては,イギリスなどの西欧諸国も,「民族自決」の原理から承認せざるを得なかったの
である。ポーランドにおいては,「民族リスト」を作成して,民族的にドイツ人と見なせる住民を
集団帰化させた(後述)。また,帝国の範囲外のソ連,バルト諸国,ルーマニアなどから合計で約
90万人のドイツ人を「帝国への帰還」の名の下にドイツ帝国内に集団移住させ(Hürter 2006: 41),
代わりに大量の非ドイツ人住民を国外に強制移住させるか虐殺するという方法によって,「帝国」
と「民族共同体」とを一致
4 4
させることを目指したのであった。
11
1926年にはこのような新たな地理学的概念を基にした地図作成に従事する「ドイツ民族・文化領土財団」
が組織され,政府からの研究委託や支援を受けていた(Herb 1997: 65-75; Burleigh 1988: 25-26)。そこに
は,ヴェルサイユ条約によってつくられた第一次大戦後の国境がドイツにとって不当なものであるという
認識が反映されている。
26

3.アウスジードラー概念の発生
    −「追放」とアウスジードラー−

(1)領土喪失と「追放」

ナチスドイツの敗戦により,在外ドイツ人問題の構図は,再び劇的に変化する。敗戦の結果ドイ
ツは,戦前の領土の約四分の一にあたる東方領土(オーデル=ナイセ線以東の領土)を喪失し,東
欧からは大量のドイツ人が強制移住させられた(表2を参照)。一般に「追放Vertreibung」と呼ば
れる強制移住は,最初はソ連軍の侵攻による避難民の発生に始まり,最終的には連合国のポツダム
協定第13条に基づく組織的大量移住政策へと発展した。結果的に,1950年までに,東方領土から
ソ連,ユーゴスラビアにかけて広がる東欧一帯から,1200万人以上のドイツ人(国籍を持つもの
も持たぬものも含めて)がオーデル=ナイセ以西の占領地区に移住することになる。また,その過
程で約200万人が死亡したと言われている。「アウスジードラー」は,この「追放」の歴史と不可
分の関係にある。本節では,その関係をやや詳しく考察していくこととする。

(2)被追放者受け入れのための法的整備

追放されたドイツ人(これを「被追放者 Vertriebene」と呼ぶ)の約3分の2にあたる約800万
人が西側占領地域(後の連邦共和国)に移住した(表2参照)。1950年当時,連邦共和国の住民の
約16.5%が(Beer 2004: 24),この被追放者であった。被追放者の中には,すでにドイツ国籍を保
持したものもいたが,保持していないものも少なくなかった。ドイツ連邦共和国は既存の国籍法
(1913年のもの)を維持したまま,これらドイツ人被追放者を国内に法的に編入するための法整備
を行うこととなる
12

その被追放者編入のための法整備の基本にあたるものとして,先ず連邦共和国の憲法に当たる基
本法の第116条1項をあげておかなければならない。ここでのポイントは,国籍法によるドイツ国
籍保持者とは別の概念
4 4 4 4
として,「ドイツ人 Deutscher」なる概念が導入されているということであ
る。この条文が,これが戦後長くアウスジードラーを受け入れるための,究極的な法的根拠となっ
ていく。

第116条
( 1) 基 本 法 の 意 味 に お け る ド イ ツ 人 と は, 他 の 法 的 規 定 を 条 件 と し て, ド イ ツ 国 籍
Staatsangehörigkeitを持つか,あるいはドイツ人の民族帰属 Volkszugehörigkeit をもち難民か被追放者
12
1913年の帝国国籍法が維持されたのは,ドイツの国家的分裂は平和条約締結の時には解消され,国家的
一体性が回復されるはずのものであり,連邦共和国はそれまでの間の暫定的な国家であるという(建国当
初は広く受け入れられていた)前提からである。しばしば誤解されているように,「血統主義への固執」
からではない。連邦共和国の暫定的性格については,基本法前文に明確な記載がある。連邦共和国は統一
後しばらく経った1999年まで,連邦共和国自身の
4 4 4 4 4 4 4 4
国籍法を持たなかった。
27
国境を越える「民族」

(表2)1950年段階における連邦被追放者法で定義された意味での被追放者の総数
A. 喪失した領土
1)

との故郷被追放者数
/ B. 故郷被追放者で
ない被追放者数
受け入れ国(地域)ごとの被追放者数
総 数 連邦共和国
民主共和国
と東ベルリン
オーストリア
西欧諸国と
海外
(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)
A. 故郷被追放者
2)
ドイツ東方領土 6980 54.7 4380 54.1 2600 63.4 − − − −
自由都市ダンツィヒ 290 2.3 220 2.7 70 1.7 − − − −
ポーランド 690 5.4 410 5.1 265 6.5 10 2.3 5 4.2
チェコスロバキア 3000 23.5 1900 23.4 850 20.7 200 46.5 50 41.6
バルト諸国 170 1.3 110 1.3 50 1.2 − − 10 8.3
ソヴィエト連邦
3)
100 0.8 70 0.9 5 0.1 − − 25 20.8
ハンガリー 210 1.6 175 2.2 10 0.2 20 4.7 5 4.2
ルーマニア 250 2.0 145 1.8 60 1.5 40 9.3 5 4.2
ユーゴスラヴィア 399 2.4 150 1.8 35 0.9 100 23.3 15 12.5
オーストリア 80 0.6 70 0.9 10 0.2 − − − −
他のヨーロッパ 135 1.1 70 0.9 15 0.4 50 11.6 − −
海外 20 0.2 15 0.2 5 0.1 − − − −
小 計 12225 95.9 7715 95.3 3975 96.9 420 97.7 115 95.8
B. 被追放者
4)
525 4.1 385 4.7 125 3.1 10 2.3 5 4.2
総 計 12750 100 8100 100 4100 100 430 100 120 100
1) 国,国の一部,1937年12月31日の国境線内の地域。
2) 連邦被追放者法第二条の意味における故郷被追放者,すなわち追放されて来た領土に1937年12月31
日時点あるいはそれ以前に居住地を持っていた者。連邦被追放者法第15条第2段落第1項の規定によ
り,故郷被追放者は被追放者証明書Aを所持している。
3) 西部ポーランドから追放されたロシアドイツ人「行政移住者」(戦争末期に帝国軍撤退と共にソ連か
ら西部ポーランドに移住させられたロシアドイツ人)は,ソヴィエト連邦からの故郷被追放者と見な
される。ただし,連邦被追放法第2条の定義に従えば,彼らは故郷被追放者ではない。後にやって来
たロシアドイツ人アウスジードラーは法律的にも故郷被追放者であり数量的にも圧倒的に多いが,彼
らのことを考慮に入れて,「行政移住者」 を故郷被追放者と見なしたのである。
4) 連邦被追放者第1条の意味での被追放者,すなわち居住地が連邦被追放者第2条での故郷被追放者と
して認知できる条件を満たさない者。法律上の意味で「故郷喪失なき被追放者」とされる者は,第15
条第2段落第2項に従って被追放者証明書Bを所持する。
典拠:Reichling(1986: 59, 61)をもとに作成
28
あるいはその配偶者や子孫として1937年12月31日時点でのドイツ帝国の領土に受け入れられた者のこ
とである。(BGBl 1/1949)
ここで「ドイツ人」は,①ドイツ国籍保持者と② 「ドイツ民族帰属」保持者で難民か被追放者と
してドイツ国内に受け入れられたもの(「1937年のドイツ帝国」とは,戦後も存続していると想定
されている統一のドイツ国家のことを指している)の二種類であることが分かる。つまり「ドイツ
人」はドイツ国籍を超えた
4 4 4
概念なのである。 ②のカテゴリーを一般に「地位上のドイツ人
Statusdeutsche」と呼ぶ。この「地位上のドイツ人」としてドイツ国内(実際上は連邦共和国内)
に受けいれられた者には自動的にドイツ国籍が与えられる。
ここに,問題の「民族帰属」という概念が登場している。しかしこれは,決してナチス時代への
ノスタルジーから採用されたわけではない。これは,大量に流れ込んでくる(基本法制定時にはま
だ「追放」は終わっていなかった)大量の難民・移住者たち(1950年までに800万人を超える)を
法的に編入するための緊急の法的措置として,いわば機会主義的
4 4 4 4 4
に採用されたものと言える。「追
放」の憂き目を見たドイツ人は,必ずしもドイツ国籍保持者だけではない。国籍の有無に関わらず,
東方においては,民族的に「ドイツ人」であるという理由で「追放」の被害にあったのである。連
邦共和国は彼ら全員を戦後「国民」として受け入れるための法的整備を,喫緊に必要としたわけで
ある。
そこで重要になるのが「難民あるいは被追放者として」という語句である。戦後の連邦和国は,
単にドイツの「民族帰属」を持っているからというだけで
4 4 4
自動的に国民として受け入れる「純粋エ
スノ文化的」な国家ではない。連邦共和国が受け入れるのは,「追放」されたドイツ人
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
だけである。
だから,オーストリア,スイス,ルクセンブルク,あるいはアルザスなどのドイツ語住民が,ある
いはアメリカのドイツ系アメリカ人が,その「民族帰属」が主張できるからといって(彼らがそう
主張しようと思えば主張できるだけの理由は,十分に立つと考えられるが),連邦共和国に「ドイ
ツ人」として受け入れられることはないのである。それは,彼らが「難民あるいは被追放者」では
ないからである。
「難民あるいは被追放者」を総称して「被追放者」と呼ぶ。それでは,いったい誰が「被追放
者」なのか。それを法的に規定したのが1953年の「連邦被追放者法」である。連邦共和国は,こ
の法によって「被追放者」概念を規定し,空襲被害者などと共に,戦争被害者として「負担均衡」
という被害保障政策を,国家をあげて行っていくことになる
13

連邦被追放者法は,その冒頭の第1条で「被追放者」を次のように定義している。
13
「負担均衡Lastenausgleich」とは,国民が戦争で喪失した財産やその他の被害に対する補償政策である。
残された財産に税をかけることによってその費用とした。戦争被害を国民全体で「均衡に負担する」とい
う意味の政策である。被追放者は,その負担均衡政策の中心的な補償対象であった。
29
国境を越える「民族」

第1条 被追放者
(1) 被追放者とは,ドイツ国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者として,差し当たり外国の行政
下にある東方領土に,または1937年12月31日時点でのドイツ帝国国境の外部にある領土におい
て居住地を持ち,その居住地を第二次大戦と関連して追放の結果,特に駆逐や避難により失った
者のことである。いくつかの居住地がある場合には,その当事者の個人としての生活状況に決定
的であった居住地でなければならない。戦争のために,第1文で示された領土に居住地を移住し
た場合に関しては,その者が戦争の後この領土に継続的に定住しようとしていたという事情にお
いてのみ被追放者である。

(2) 被追放者とは(また),ドイツの国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者として,以下のよう
な者である。
1.1933年1月30日以後,政治的信念,人種,信仰,世界観を理由にその者を脅かしたり,そ
の者に対して行使された国民社会主義の暴力措置の故に,第1段落で示された領土を去り,ドイ
ツ帝国外部に居住地を得た者。
2.第二次大戦中締結された国家間条約を理由にドイツ外部の領土から移住させられた者,ある
いは同時期にドイツの行政機関の措置を理由に,ドイツ陸軍に占領された領土から移住させられ
た者。(移住者Umsiedler)
3.全般的な追放措置が終結したあと,差し当たり外国の行政下にあるドイツ東方領土,ダンツ
ィヒ,エストニア,ラトヴィア,リトアニア,ソヴィエト連邦,ポーランド,チェコスロヴァキ
ア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,ユーゴスラヴィア,あるいはアルバニアを離れた
(または離れる)者。ただし1945年5月8日以後に初めてここの領土に居住地を定めた者を除外
する。(アウスジードラー)
4.居住地は持たないが,第1段落に示した領土に継続的に仕事あるいは職業を営んでいて,追
放の結果その活動をやめざるを得なかった者。

(3) 被追放者とはまた,自らはドイツ国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者ではないが,被追放
者の配偶者として第1段落に示された領域において居住地を失った者を言う。(BGBl 22/1953)
(引用部分の下線は引用者によるもの。以下同様。)
「アウスジードラー」という概念が最初に登場するのはここである((2)3)。それによれば,
アウスジードラーとは「被追放者」の下位概念
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
なのである。ただし,直接「追放」が行われていた
時期にそれを経験した人々のことではない。実質的に「追放」が終わった1950年以後に,「追放」
が行われた領域から移住してくる人々のことなのである。被追放者法の第7条で,「追放」以後に
生まれた被追放者の子供も被追放者の地位を得られることが規定されているので,アウスジードラ
ーの地位が取得できる者の範囲も,直接の「追放」経験者世代を超えて継承されることになる。
こうして,基本法第116条と被追放者法第1条の規定により,連邦共和国では,東欧に居住する
在外ドイツ人を「ドイツ人」として受け入れるアウスジードラー政策が可能になったわけである。
また,この体制は連邦共和国がオーデル=ナイセ線以東の東欧諸地域に対し,「全ドイツ民族」
30
の名の下に関わることのできる法的な前提となった。連邦政府は,国内に800万以上も存在する被
追放者の利益を代弁するという立場から,被追放者の保護・援助を任務とする「被追放者省」を設
置し,「追放」の歴史を公式に記録し,被追放者の「故郷権」さえ支持した
14
。また,連邦政府は
東方領土を含む「追放」が行なわれた全地域におけるドイツ人に対する「保護義務」をもつものと
された。このように連邦政府は,「追放」という歴史への関わりを立脚点として,オーデル=ナイ
セ線を越えて東方に広がる「全ドイツ民族」へのコミットメントを続けることになったのである
15

4. 冷戦下でのアウスジードラー問題

(1)アウスジードラーと反共主義 − 「追放」 概念の解釈転換−

実際の「追放」が終わったとされる1950年以後も,東欧諸国からのアウスジードラーの流れは
続いた。1950年代の段階で,その多くは戦後の「追放」の混乱期に離れ離れになった妻や子供が
連邦共和国にいる夫や親・親類を求めて移住したり,戦後に捕虜や強制労働につかされていた者が
連邦共和国に移住して生活している家族のもとに戻ったりするケースであった。連邦共和国ではそ
れを,ドイツ赤十字の活動を通じて,「家族再会 Familienzusammenführung」という問題の枠組み
において処理していた。しかし東欧の社会主義諸国は,しばしばそのような被追放者家族の「再
会」のために出国を希望するドイツ人の移動を制限した。残留ドイツ人の出国問題は,連邦共和国
とソ連を始めとする東欧社会主義諸国とのあいだの外交交渉のテーマの一つであった。
スターリンの死後,1956年から58年にかけての「雪解け」の時代は,ソ連やポーランドにおい
てドイツ人出国制限を大きく緩和している。それはアウスジードラーの統計に如実に表れている。
例えばポーランドからのアウスジードラーの数は,1955年の860人から1958年の117,550人へと劇
的に増大している。しかし「雪解け」ムードが終わると1960年には7,739人へと激減している(表
1参照)。このようにアウスジードラーの動向は,東欧社会主義国との関係に大きく左右された。
しかし1950年代から60年代にかけて,アウスジードラーそれ自体が政治的な争点になったとい
うケースは余り多くはない。アウスジードラーは毎年,1957年から58年のあいだを除き,ほぼコ
ンスタントに2万人前後来ていたが,それだけが独立して政治的な論争のテーマとされたことはな
かったといってよいであろう。やはりこの時代の東方政策(東欧諸国との外交政策)の主たる問題
は,オーデル=ナイセ線の承認や被追放者の帰還をめぐるものだった。連邦共和国ではそれらは,
「全ドイツ民族」の「自決権」や「故郷権」の問題,さらには将来のドイツ統一に関する問題の枠
組みの中で議論されていた
16
。「ポーランドの行政下に残留するドイツ人」や「追放が行われた領
14

しかしそのような東欧諸国に対する「全ドイツ」の名による介入は,東欧諸国から「修正主義」「報復 

主義」の名で批判された。そのようななか連邦政府は,被追放者の「故郷権」を露骨に主張することは,
外交的配慮から困難になっていた。詳しくは佐藤(2006)を参照。
15
なお,オーデル=ナイセ線は事実上のドイツ国家(ドイツ連邦共和国)の国境線だが,ドイツ連邦共和
国がこれを正式の国境線と見なしたのは,1990年になってからである。詳しくは佐藤(2006)第9章を参照。
31
国境を越える「民族」

域に残留するドイツ人」に関する言及はしばしばなされたが,それも「全ドイツ」に関わる諸問題
のもとに一括して扱われる傾向が強かった。

しかしヨーロッパの冷戦体制が定着し,ドイツの分裂も既成事実化してくると,当初はあくまで
「追放」の直接的な延長で考えられていたアウスジードラーについて,新たな理解の仕方が発生し
てくる。アウスジードラーは,社会主義圏国から「自由」を求めて連邦共和国に移住を求めるドイ
ツ人として見なされるようになっていくのである。

社会主義諸国に残留したドイツ人は,財産を没収されただけでなく母語を使用する権利も奪われ,
ドイツ人であることによって差別されている。しかもドイツ人に対して当然認められている移動の
自由も奪われ,出国を申請が却下されることが少なくないばかりか,申請することによって逆に当
局からの嫌がらせを受けることもある。そのような自由と権利を奪われた状況。それが「追放」の
もたらした帰結であると見なされた。アウスジードラーは,そのような苦境から逃れ,「自由なド
イツ」へと移動してくるドイツ人のことであると見なされるようになる。

アウスジードラーが,
「追放」が事実上終結した後も「被追放者」としての資格で受け入れられ続けたことの背後には,
このような冷戦下におけるアウスジードラー理解の転換があった。このような「追放」概念の解釈
4 4 4 4 4 4 4 4 4
転換
4 4
の背景には,当時の連邦共和国の反共主義があったことは間違いない。

戦争直後から連邦共和国では,「追放」の非人道性や法的不当性が繰り返し問題にされてきた。
被追放者に対する積極的な支援や保護政策も,そのことと関係していた。しかし今や,社会主義諸
国における残留ドイツ人の「人間的苦境」(BT-Ds 3/2807)が,「追放」がもたらした「ドイツ人
の運命」と見なされるようになった
17

。例えば,次のようなラインホルト・レースの発言は,こう
した冷戦期のアウスジードラー観をよく表わしている
18

[東方領土]でのドイツ人たちは,外国にいる囚人なのです。その国家は彼らの土地を占拠し,何年に
も渡って彼らの言語を,彼らにとってそこでドイツ人でいられる唯一のものである言語を,話すことを
禁じているのです。ドイツ人アウスジードラーがドイツ語で歓迎の言葉を聞いたとき,どれほど筆舌に
尽くしがたい感動でいるかを,一度でも見た人ならば,そこで生活する人々にとって,同じ民族から励
ましの言葉を聞くことがどのような意味を持つかがわかるでしょう。(BT 5/160: 8355)
16
1960年代前半頃まで,「全ドイツの統一」と言えば,「1937年時点のドイツ」の国境線における統一が
一般には意味されていた。ここにはオーデル=ナイセ以東の東方領土が含まれている。詳しくは佐藤
(2006)第3章を参照。
17
この時代,東欧に残留するドイツ人について集中的に言及した数少ない議会文書として,「ヤークシュ
文書」がある。これは,連邦議会外務委員会に設置されたヴェンツェル・ヤークシュを座長とする「ヤー
クシュ小委員会」が,1961年6月に連邦議会に提出した,東欧諸国の国交正常化に向けての諸問題に関
する報告書(通称 「ヤークシュ報告」)である(BT-Ds 3/2807)。この報告書は,社会主義諸国との外交
関係を結ぶことに余って,残留ドイツ人の状況は改善されるだろうと論じている。ヤークシュは,被追放
者連盟の代表であり,社会民主党所属の議員であった。詳しくは佐藤(2006)第4章を参照。
18
1968年3月14日の連邦議会より。ここで発言しているライホルト・レースは,当時の被追放者連盟の
会長で社会民主党の議員であった。
32

(2) 「新東方政策」とアウスジードラー問題

1969年10月にブラント政権が誕生し,いわゆる「新東方政策」が進められていく中,アウスジ
ードラー問題のとらえられ方はさらに変化していく。そのきっかけは,ブラント政権がポーランド
とのワルシャワ条約に向けての外交交渉の中で,残留ドイツ人の出国の自由に関する問題を「人道
的問題」としてとりあげるようになったことにある。ワルシャワ条約は,連邦共和国建国以来の東
方政策上の大問題だったオーデル=ナイセ線を承認するというものだった。ブラント政権は,この
条約が連邦共和国のポーランドに対する一方的譲歩であるという批判をかわすため,この「人道的
問題」における「成果」を国境線承認の代価として提示しようとしたのである(Bingen 1998:
142)。野党に回ったキリスト教民主/社会同盟の主流派は,オーデル=ナイセ線の承認に強く反発
していた。また与党の社会民主党と自由民主党の中にも,この国境線を認めることに反対する勢力
が存在していた。そのため,オーデル=ナイセ線承認を規定したワルシャワ条約を連邦議会で批准
するには,野党の一部穏健派の支持を取り付ける必要があった。そのような中,アウスジードラー
問題でのポーランドからの譲歩は,ワルシャワ条約交渉の双方向性を示す一つの有効な材料を提供
しえたのである。
外務大臣のヴァルター・シェールは,ワルシャワ条約締結直前の1970年12月3日の『シュトゥ
ットガルト新聞』への寄稿の中で,次のように書いている。
ポーランド側が,われわれにとって決定的に重要な人間的負担軽減に関する領域において譲歩する用意
があることに,十分な確証を得ない限り,われわれはこの条約を締結することにはならない。この問題
は最初からワルシャワ交渉の重要なテーマなのである。(Bingen 1998: 142における引用)
シェールは,その「人間的負担軽減」として,残留ドイツ人の「家族再会」の問題とともに,ポ
ーランドにおける彼らの「民族集団権」の問題あげる。後者の問題での成果を得ることは現段階で
は難しいが,前者の問題に関しては成果をあげることができた。そうシェールは論じている。
その「成果」の具体的現われが,ポーランド政府が公表した『人道的問題(家族再会問題)の解
決に関するポーランド人民共和国政府からドイツ連邦政府に対する情報』(通称『情報』)という文
書である。この文書は,ワルシャワ政府がポーランド国内に「ドイツの民族帰属」を持った人々が
「若干の数eine gewissene Zahl」存在し,彼らがその民族帰属ゆえに出国を希望していること,そ
してドイツへの出国を許可できる基準にかなうドイツ人が「数万人einige Zehntansend」存在する
ことを認めている。そして,全体として,ポーランド政府がドイツ人の出国について前向きの姿勢
を示したものであった(DDF 6: 543)。これは,ポーランド政府がそれまで国内のドイツ民族の存
在を否定してきたことに比べると,大きな変化であった。
だが,このような外交交渉の経緯は,かえって反対派からの批判の材料を提供してしまうことに
なる
19
。条約反対派は,この『情報』に記された出国許可の基準に適合するドイツ人の数をとりあ
げた。『情報』には「数万」だったが,長らくアウスジードラーの出国事業に関わってきたドイツ
33
国境を越える「民族」
赤十字の調査によれば,ポーランドから出国を希望しているドイツ人の数は28万人とされていた
からである(Miszczak 1993: 81-83)。さらにポーランドに住む残留ドイツ人の総数はさらに多いも
のとされていた。反対派はこの数字のギャップを問題にした。ポーランド政府は,ドイツ人の数を
低く見積もることにより,ドイツ人の出国の自由を依然として制限しているものと解釈されたので
ある。
例えば,エアリッヒ・メンデは次のように述べている。この政治家は,オーバーシュレージエン
出身の被追放者であり,シェールの前の自由民主党の党首でありながら,ブラント政権の東方政策
に反対してキリスト教民主同盟に移籍していた。
ドイツとポーランドとの条約とその交渉における文書,それはわれわれの手元にあるものですが,この
文書においては移住を申請するであろう人間は数万人と述べられています。しかしこの期間,約30万
人が確認されたのです。ドイツおよび国際的な観察者の推計に寄れば,シュレージエン,東プロイセン,
ポンメルン,西プロイセンには,ドイツ民族であると信じている人間がおよそ150万にいるそうです。
……ここで問われるのは次の問題です。連邦政府は,ドイツ東方領土において移住の許可を得られない
人々
  (キリスト教民主/社会同盟からの野次:嫌がらせだ!)
よって統治に留まらなければならない人々に対する配慮や保護の義務に関し,いかに対処するのでしょ
うか。(BT 6/172: 9988-9989)
このようにアウスジードラー問題は,ワルシャワ条約締結・批准をめぐる政治過程の中で,オー
デル=ナイセ線承認を進める連邦政府と与党に対する批判の材料として取り上げられるようになる
のである。
ブラント政権が進める「新東方政策」は,オーデル=ナイセ線の承認をめぐって国内の世論を二
分することになった。一方はブランと政権を支持し,社会主義国との関係を正常化し,ポーランド
の西側国境を認めていこうという左派・リベラル的立場である。もう一つは,それに反対する立場
である。キリスト教民主同盟/社会同盟を中心とする保守派は,被追放者からなる諸団体(被追放
者連盟のもとに糾合されている)の支持を受けつつ,ブラント政権の東方政策と鋭く対立するよう
になった。そしてアウスジードラー問題は,この国内の党派対立の中で,一つの政治的テーマとし
て浮上したのである。
19
「新東方政策」をきっかけに,東方領土問題をめぐる争点は,単に国境線問題プロパーだけでなく,ア
ウスジードラー問題,残留ドイツ人問題,被追放者の権利問題などの,国境線の設定・変更に伴う「属人
的」な問題へと分化した。詳しくは佐藤(2006)第6章,第7章を参照せよ。
34

(3)ワルシャワ条約以後のアウスジードラー問題

1970年12月のワルシャワ条約締結の直後,予想されていたようにポーランドからのアウスジー
ドラーの数は急激に増大した。1970には5624人であったものが,その1年後の1971年には25,241
人と5倍に増大した。しかしその後,ワルシャワ条約の連邦議会批准にあわせたかのようにアウス
ジードラーの数は減少の一途をたどった。1971年には13,482人,1973年には8,903人,1974年には
7,825人となった。
このような,あまりに恣意的なアウスジードラーの数の減少は,国境承認に消極的な保守派から
は格好の批判の材料となった。例えば,キリスト教民主同盟/民主同盟の議員団長カール・カルス
テンスは,以下のようにアウスジードラー問題をとりあげた。
そこ[=ポーランド政府の行政下]に生活するドイツ人で15回も出国申請を行い,毎回拒否されてい
るケースがいくつもあるということです。さらに悪いことには,移住の申請をした人たちの多くが,申
請を出した後彼らや彼らの家族がすぐさま嫌がらせにあっているのです。正しく理解された緊張緩和の
一部として,ポーランドにいるドイツ人の人間的負担緩和や自由がいっそう実現されることを,われわ
れは緊急に望むものです。(1973年9月13日,BT 7/48: 2748)
1956年から1970年までの間,年平均2万2千人のドイツ人アウスジードラーがポーランドからドイツ連
邦共和国に来ていました。1974年は6000人になるでしょう。
  (ドレッガー議員(キリスト教民主同盟):信じられないことだ!)
そして現在,連邦政府はアウスジードラー問題をポーランドの補償要求との取引材料と見なしているの
です。……皆さん,1970年のワルシャワ条約でオーデル=ナイセ線に関するポーランドの要求に応え
ておきながら,そのための唯一の条件であるポーランドからのドイツ人の移住 Aussiedlung を実際に期
待できるだけ保証することのできない政治とは,いったいなんなのでしょうか。(1974年11月6日,BT
7/127: 8533)
このように当時のドイツでは,アウスジードラーを単なる移民の問題ではなく,ポーランドに残
留するドイツ人(彼らは在外ドイツ人ではあるが,連邦共和国の国内法の立場から見ればドイツ国
籍保持者である)の自由や権利の問題として捉える議論が一般的であった。つまり,アウスジード
ラー問題は「ドイツ人」の権利にかかわる問題であった。この段階において,アウスジードラーが,
例えば当時発生していた外国人労働者(ガストアルバイター)と同列に論じられるというケースは
見られなかった。保守政党や被追放者諸団体が問題としていたのは,アウスジードラーの数の低下
であって,それがポーランド残留ドイツ人の権利を保護する立場にある連邦共和国が,その義務を
果たしていないということ,すなわち連邦政府の東方政策の失策の指標として理解されたのである
(上の引用では,アウスジードーラーがポーランドの戦争被害への補償要求への取引材料として用
いられていることが批判されている)。
35
国境を越える「民族」

ブラントの後を継いだヘルムート・シュミットは,このような批判を回避するために,1975年
の協定でポーランドにドイツ人出国許可に関する合意を,経済支援とセットで認めさせることにな
る。東方領土に対するドイツの権利要求に対して一貫して冷淡だったシュミットでさえ,アウスジ
ードラー問題に関する保守派からの批判には答えざるを得なかったのである。1975年のドイツ=
ポーランド協定に付随して作成された『出国関連文書』では,ポーランド政府が四年間で12万人
から12万5千人の出国者を許可するとされていた(DDF 8: 452-453)。この数字は,ドイツ赤十字
の28万よりは少ないものの,出国許可の可能性のあるものが「数万人」としていた1970年の『情
報』と比べると,大きな前進であった
20
。連邦政府は,ドイツ赤十字の出している数字とのギャッ
プについても,この後のポーランドとの関係改善の中で解決できる問題であるという立場をとった。
外務大臣のハンス=ディートリッヒ・ゲンシャーは連邦参議院で,政府にとってのアウスジードラ
ー問題の重要性を次のように強調した。
ドイツ赤十字の資料によれば,少なくとも28万人のドイツ人がまだドイツ連邦共和国への出国を希望
しています。連邦政府の確信するところによれば,この問題についての安定的な規定が,ドイツ=ポー
ランドの関係の長期にわたる良い形態のための重要な前提になります。それゆえ,連邦政府が過去にも
常に出国者数の増大に努力し,申請者に対する不利な扱いに対して抗議してきたことは当然でしょう。
それゆえ,連邦政府が近年ポーランド政府と両国の関係の永続的な改善をめぐって交渉してきた際,こ
の問題はわれわれの努力の中核に位置するものでした。(BR 425: 310)
実際に,この協定以後,ポーランドからのアウスジードラーの数は顕著に増大し,1976年には
29,364人,その後も1987年まで毎年2万から3万人のアウスジードラーが連邦共和国に移住してき
たのである。

5.アウスジードラーの終結へ 向けて
    ―東欧の民主化とドイツ「再統一」のインパクト―
前節で述べたように,冷戦下において,法的には「被追放者」の下位概念として規定されたアウ
スジードラーは,社会主義圏での非民主的で抑圧的な政治体制の犠牲者と見なされるようになった。
20
この協定ではまた,連邦政府がポーランドに対し,3年間で10億円の融資を2.5%の利率で行なうこと
も合意された。野党は,アウスジードラー問題を経済融資と結びつけることに対し,「人道的問題」を経
済取引の対象としているとして批判した。しかし,このように社会主義国がドイツ人アウスジードラーの
出国許可を経済援助を引き出す取引材料とした例はこれだけではない。ルーマニアとの間には,よりに露
骨な「人身売買」的合意を結んでいる。1978年,連邦政府はルーマニアと協定を結び,ルーマニアが毎
年12200人のアウスジードラーの出国を許可する代わりに,一人当たり8000ドイツマルクの支払いを約束
したのである(Wagner 2000: 137)
36

そして1970年代以後,アウスジードラー問題は東方政策の改善度をはかるバロメーターとしてテ
ーマ化された。野党は連邦政府の東方政策を批判する材料として,与党は政府の東方政策の成功を
証明する材料として,それぞれアウスジードラー問題をとりあげた。その中で一貫して前提にされ
ていたことは,社会主義圏に残留したドイツ人が経験している「人間的苦境」や「人道上の問題」
が戦争直後の「追放」の帰結であり,彼らの生活状況を改善することは連邦政府の義務であるとす
る考え方であった。

しかしアウスジードラー問題は,1980年代末から始まる東欧の民主化,社会主義体制の解体,
ドイツの「再統一」という大きな政治・社会変動の中で,再びその意味を大きく変化させる。そし
て,1990年代に入ると,アウスジードラーという地位そのものが終結に向かうことが確実となっ
たのである。ここではその過程を,①1980年代後半の社会主義圏民主化に伴うアウスジードラー
の急増, ②社会主義圏の解体とドイツ「再統一」がアウスジードラーの意味にもたらしたインパク
トという二つの段階に分けて考察する。

(1)東欧の民主化とアウスジードラーの急増

1988年以後のアウスジードラーの急増は,おそらく誰もが予期しえぬものであった。その予想
外の急増は,それまでは一般的な世論や政治の場ではあまり注目されてこなかったアウスジードラ
ーに対する関心を著しく高めた。
しかし当時,増大したのはアウスジードラーだけではなかった。社会主義圏からの庇護権請求者
の数も増大した。その中で,すでに連邦共和国国内に在住していた外国人労働者とともに,アウス
ジードラーは同じ「移民」の枠組みで捉えられるようになる。
「移民問題」の枠組みの中で見ると,アウスジードラーは際立った存在であった。彼らがその
「民族帰属」を証明できれば,単に「ドイツ人」として国籍を自動的に付与されるというだけでは
ない。住宅援助,職業支援,言語教育,年金支払など,他の移民よりも手厚い社会的援助を得るこ
とができたのである(IDDO 7/1989)。連邦政府はアウスジードラーの受け入れと統合を「国民的
な義務」であるとして,その援助政策のための財源を増額した。しかしそれは,急増するアウスジ
ードラーは,州政府と連邦政府にとって,極めて高いコストの負担を強いることになった。その結
果,アウスジードラーの「エスニック」な特権それ自体が問題視されるようにもなってきた
21

エスニックな基準でアウスジードラーを特別扱いすることは,単に人権と言う普遍的基準から見
て公正性を欠き,世論からの批判を買ったばかりではない
22
。「ドイツ人の下でのドイツ人」とし
て生活することを求めてやってくるアウスジードラーたちが表象する「ドイツ民族Deutschtum」
概念は,すでに「克服」されたはずのナチス時代の,「フェルキッシュ」な民族政策を想起させる
ものでもあった(Bade 1994: 161)。しかも,アウスジードラーが実際には十分なドイツ語力を持
21
ミュンツとオーリガーは,「1988年以前,アウスジードラーは西ドイツの政治,社会,世論からほとん
ど注目されてこなかった。しかし1988年からの大量移住は,エスニックな特権をもった移民に関する論
争へとつながった」と述べている(Münz und Ohliger 2001: 383)。
37
国境を越える「民族」

たず,文化的には他の外国人移民とほとんど変わらなかったこと(彼らはしばしば「ロシア人」
「ポーランド人」と見なされ,庇護権請求者と同じく,ネオナチ的極右排外主義の攻撃の対象にす
らなっていた)は,その「民族帰属」による認定基準の虚構性を浮き彫りにしていた。アウスジー
ドラーは結局,「経済難民」と変わらないだろうということで,「フォルクスヴァーゲンドイツ人
Volkswagendeutsche」という揶揄も使われた。

アウスジードラーとナチス民族政策との連想は,アウスジードラー(特にポーランドからの)の
「民族帰属」地位認定の実務手続きにおいて,実際にナチス時代の記録が頻繁に用いられたことと
も関係していた。ナチス占領時代のポーランドでは,集団帰化政策の際「民族リストVolksliste」
が作成され,4つに分類して「ドイツ民族」が登録されていた。その「第3類」には「ドイツ化可
能」とされた多くのポーランド人が登録されていた
23

戦後ポーランド人として問題なく生活して
いたこれら元「第3類」のポーランド人たちが,1980年代後半に自分たちのドイツ民族帰属を主
張して,アウスジードラーの申請を行ったのである。ナチス時代の「第3類」の登録は,彼らの民
族帰属を証明する有力な証拠となった(S 52/1989: 50-58, 1989年12月25日)
24

彼らはその「民族
帰属」を証明できれば,「基本法の意味でのドイツ人」であると認定され,ドイツ国籍を取得でき
ることになるわけである。
このようなナチス時代の文書や記録の利用は,しばしばメディアでスキャンらダラスに報道され
た。例えば週刊誌『シュピーゲル』は,「ナチス時代の記録は,[アウスジードラー]申請者,官庁,
裁判所が疑いもなく利用する,あまりにも価値の高い文書になっている」と述べ,あるポーランド
からのアウスジードラー申請者が,「SSの嫁として相応しくない」と記したナチス時代の書類が見
つかったために,申請が許可されなかった例をレポートしている(S 43/1989: 103-108, 1989年10
22
『シュピーゲル』誌は次のような報道をしている。
アウグスブルクの社会局係官のジークハルト・シュラム(社会民主党)は,「このような何十億も
つぎ込まれた特権が世論からの恨みを買ってる」のだから,連邦政府は「アウスジードラーにかえ
って迷惑をかかている」のだと非難している。シュラムは言う「われわれは全ての必要な人々に好
都合な住宅を必要としているのであって,特定の集団にだけそれを必要としているのではない。」
(S 34/1988: 58,1988年8月22日)
23
これは,元来ドイツ民族だったが長いポーランド化の結果ほとんどポーランド化したドイツ人という意
味であり,よって「再ドイツ化」も可能であるという意味である。なお,この「民族リスト」は,第1類
は「戦前にドイツ民族への帰属を積極的に公言していた者」,第2類は「積極的な民族的ドイツ人ではな
いがドイツ民族を明白に保持していた者」,第3類は「ポーランド民族とのつながりを持ったドイツ起源
の人間で,ドイツ民族に再帰させうる前提のある者」,第4類は「ポーランド民族に吸収されドイツ人に
敵対的だった者」の4種の「ドイツ民族」概念から構成されていた(Urban 2000: 22)。通過収容所にお
ける行政手続上の「ガイドライン」にも,ポーランド東部からのアウスジードラーの「民族帰属」の基準
の一つして,「民族リスト」の登録があげられている(Liesner 1988: 71)。
24
集団帰化政策により,彼らには「取り消し中の国籍 Staatsangehörigkeit auf Widerruf」が与えられてい
た。戦後ポーランド国籍を得た彼らは,すでにナチス時代の「取り消し中の国籍」を失ってはいたが,民
族帰属の証拠としては有力と見なされたわけである。
38
月23日)。このような報道は,アウスジードラーとナチス時代の民族概念との連想を強め,結果と
して一般世論のアウスジードラーへの懐疑を強めるものであった。
そのような中で,のアウスジードラー受け入れ政策に対し批判的な意見が広がった。特に社会民
主党が政権を握る州政府からは,アウスジードラーを制限すべきという声が上がっていた。その理
由の大きなものは財政問題,住宅問題,労働問題などであったが,アウスジードラー政策がナチス
時代の民族政策を想起させるというシンボリックな面がもつ意味も少なくなかった。しばしばアウ
スジードラー政策は,ナチス時代の「帝国への帰還 Heim ins Reich」政策の再来と見なされたので
ある。
例えば,ザールラントの州政府首相であり,社会民主党の中では左派として知られるオスカー・
ラフォンテーヌ(現在は「左派党」の代表)は,「ドイツ民族妄想 Deutschtümelei」という言葉を
用いてアウスジードラー政策を批判している。そのようなラフォンテーヌの批判は,アウスジード
ラーに対する「差別的」で「デマゴーグ的」な言辞として連邦議会でも問題にされている。そこで
ラフォンテーヌは,次のように弁明する(1988年10月26日の連邦議会)。
連邦共和国で外国人嫌いを掻き立てようとするものは,ドイツ語を話せもしないアウスジードラーに対
する躊躇感を強めてもいるのです。これは,一方で外国人嫌いの波をうまく利用できると考え,また同
時にアウスジードラーの移住に向けて強力な宣伝をしようとしているものにとっては,ディレンマなの
です。……隣人愛への義務ないし連帯,あるいは禁じられた制限のない啓蒙思想の遺産の有効性を認め
ることによってのみ,このディレンマから脱却することができるのです。人道性 Menschlichkeit への
義務が先ず最初になければなりません。それは不可分なもので,隣人愛への義務と同じく,古き国家機
構の境界によって制限されるものではないのです。最近私は,このことについて何度もはっきりさせて
きましたし,誇張されたドイツ民族妄想 ―『デューデン』の辞書によれば,「ドイツ民族
Deutschtum の押し付けがましい強調」なのだそうですが―について警告を発してきたのです。人間
としてのわが隣人 unsere Mitmenschen のための援助対策は,その隣人がわれわれの援助をどれだけ必
要としているのかに応じて行っていかなければならない。私はそう主張してきました。(BT 11/102:
7005)
それに対し,当時の政権与党であるキリスト教民主同盟のゲルスターは「ドイツ人アウスジード
ラーは,基本法第16条の意味においてドイツ人なのであり,無条件でドイツ国民なのです」(Ibid.:
7004)と述べ,ドイツ人,ドイツ国民としての基本的権利は保障されるべきであると主張している。
そして,庇護権請求者とアウスジードラーを同列に論じるのは誤りであることを強調した。
政府や与党(特に保守のキリスト教民主同盟,キリスト教社会同盟)はアウスジードラー政策を
維持するため,第二次大戦と「追放」がドイツ人にもたらした被害を指摘し,「追放」の影響をい
まだに被っているアウスジードラーを保護するのは「ドイツの義務」であるという立場を堅持した。
しかし,アウスジードラー政策の時代錯誤性は広く世論で認知されるようなり,政治家や専門家の
39
国境を越える「民族」
間では,アウスジードラーの制限のみならず,その基盤となっている戦後の被追放者の受け入れ体
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
制それ自体
4 4 4 4 4
を見直すべきだと言う声も高まっていった
25

(2)社会主義圏の解体と「戦後時代」の終結

社会主義圏の解体はアウスジードラーをめぐる状況に大きな変化をもたらした。それまでアウス
ジードラー受け入れの前提であった社会主義圏の自由や権利の抑圧という状況が解消したのである。
連邦共和国では,そのような社会主義圏の「人間的苦境」を「追放圧力Vertreibungsdruck」
26
が継
続しているものととらえ,その前提の下で,アウスジードラーの認定基準としてあえて「被追放
者」であることの証明を求めることをしてこなかった。社会主義圏で生活しているということが,
自動的に「追放圧力」の下にあるものとみなされた。しかし社会主義圏の自由化・民主化の展開は,
「追放圧力」というそれまでのアウスジードラー受け入れの自明の前提を揺るがすことになった。
そうなると,アウスジードラーの受け入れを続ける必然性も揺らいでくることになる。
社会主義圏の解体にともなう「追放圧力」解消は,しばしば「戦後時代 Nachkriegszeitの終結」
とみなされた。「戦後時代」とは,「戦争の帰結 Kriegsfolgen」としての「追放」の圧力が継続され
た時代であった。今やその圧力が急激に消滅の方向に向かいつつある。そのような中,被追放者受
け入れを規定してきた連邦被追放者法を改正しようというこのような動きが促進されることになる。
ベルリンの壁が崩壊してから数ヵ月後の1990年初めには,早くも当時野党の立場にあった社会
民主党の側で,「被追放者」という地位の付与を終わらせるべく連邦被追放者法を改正すべきとい
う主張が高まってきた。1990年1月には連邦議会で「被追放者の地位の新規付与を終わらせる」
ための法律案が社会民主党から提出された。この提案は否決されている(BT-Ds 11/631; BT
11/197)。だが連邦政府も,東欧における政治変動が,もはやこれまで同様にアウスジードラー概
念を維持し得なくなっていることは認識していた。政府はアウスジードラー受け入れの手続き変更
に関して規定した「アウスジードラー受け入れ法」
27
を提出したが(1990年4月25日連邦議会可決),
興味深いのはその法案に書かれた「根拠」の中で,東欧での政治的変化が,「追放圧力」を和らげ
ていることを明確に認めていることである。これは,アウスジードラー概念終止へ向けての一つの
転換点になっている。
25
『シュピーゲル』誌は,次のように被追放者法を問題視している。
[民族帰属ゆえに受け入れると言う]被追放者法の基本は,ハンブルクの国家法教授ヘルムート・
リットシュティークによればナチス時代の民族政策の継続であり,それが東方からの貧しい難民の
流入の原因になっている。フィクション抜きで言えば,仮にアウスジードラーが今日でもなお,祖
父母のドイツ民族への帰属意識ゆえに故郷から追放されているとしても,彼らはこの地では哀れな
庇護権請求者の法的地位しか持たないはずである。(S 3/1990: 79,1990年1月15日)
26
「追放圧力」という概念は,アウスジードラー受け入れの行政手続き上一般に用いられた概念で,行政
裁判所の判決文などにも用いられている(Liesner 1988: 97-107)。
27
この法律は,アウスジードラーがその出身地でアウスジードラー申請を行うことを可能にした法律であ
る。
40
アウスジードラーの出身地域Aussiedlungsgebieteにおける変化した実状は,連邦被追放者法の意味での
アウスジードラーの数を減少させている。一般に言って,ハンガリーやユーゴスラビアからのドイツ国
籍保持者,ドイツ民族籍保持者においては,もはや追放圧力を受けていない。彼らはそこで,マイノリ
ティとしての権利を保持しているか,何年も前からその国を離れることが可能であった[=つまり出国
の自由が何年も前から保証されていたという意味]かのどちらかである。(BR-Ds 222/90)
ここで連邦政府は,ハンガリーとユーゴスラビアには,もはや「追放圧力」が存在していないこ
とを認めた。この法案の審議の過程で,社会民主党議員は,この点に関する連邦政府の態度の変化
を評価しつつも,まだ不足があるとして批判している。同党のヘンマーレは,以下のように述べる。
法案の根拠の中で,連邦政府は,ハンガリーとユーゴスラヴィアではもはや追放圧力はないと確言して
います。それは,連邦被追放者法に述べられている他の国,特にポーランドとチェコスロヴァキアにも
当てはまります。それゆえわれわれは,連邦被追放者法を終わらせるという[従来の]提案を堅持しま
す。あなた方の提案は第一歩に過ぎないものです。(BT 11/206: 16192)
「被追放者」という地位で特権的な移民として入国してくるアウスジードラーという存在に,な
るべく早く終止符を打ちたい社会民主党議員と,制限を加えつつもアウスジードラーという地位は
保持したい政府与党の立場とが対立していることが,ここに示されている。
ドイツが統一を果たした後,1991年の2月1日の連邦議会では,社会民主党のペンナーは,連
邦被追放者法に加え,被追放者という地位の究極的根拠となっている基本法第116条の改訂にまで
触れるようになる。
第一に,基本法116条は,ドイツ連邦共和国の国家領土に限定されます。第二に,地位上のドイツ人
[=本論文3(1)参照]の概念は削除されます。……第四に,被追放者法は,被追放者の地位を,こ
れまで連邦共和国領域内に移住することが不可能であった民族帰属保持者だけに付与されるべく限定す
べく改訂されます。(BT 12/7: 232)
社会民主党の考えは,被追放者の地位は(つまり今後のアウスジードラーは),これまで移動の
自由が認められていなかった一部の民族帰属保持者を例外として,原則的に廃止していくというも
のであった。それに対し,内務大臣でキリスト教民主同盟の有力政治家であるショイブレは,次の
ように反論している。
連立政権では,基本法第116条には改訂を加えないということを決めました。……われわれが特別な義
務を負っている全ドイツ人に対して扉は開いておきます。(Ibid: 231)
41
国境を越える「民族」
「被追放者」が言及されている基本法第116条は,戦争と「追放」に由来する「全ドイツ人」に
対する連邦共和国の「特別の義務」を保持するために,残しておく必要があるとショイブレは述べ
る。これは保守派に典型的なアウスジードラーの解釈である。
だが,被追放者法の改訂は,もはや時間の問題となっていた
28
。政府と与党にとっても,アウス
ジードラー政策をこれまでのように続行できないことは明らかだった。問題は,アウスジードラー
政策にどのような形で「終止符」を打つのかであった。
被追放者法の根本的改訂は,1992年11月に可決された法律(「戦争の帰結清算法 Kriegsfolgenbereinigungsgesetz」)によって実現された
29
。「被追放者」の地位をなるべく削減したい社会民主党に
対し,「追放」への言及をなるべく残したいキリスト教民主/社会同盟。多くの法律がそうである
ように,この法律もこのような与野党の双方の立場の妥協的形態となっている。結果として,この
法律によりアウスジードラーの終結への道は確実になったが,アウスジードラー受け入れそれ自体
は継続されるというものとなった。しかし「アウスジードラー」の法的地位は大きく変わった。
1993年1月から施行されたこの法律により,これまでの「アウスジードラー」は停止され,代
わって新たに「遅発アウスジードラーSpätaussiedler」なる概念が公式に導入された。法律施行以
後のアウスジードラーは,原則的に「遅発アウスジードラー」として入国してくるものとなった。
さらに,その「遅発アウスジードラー」の地位も,1993年1月1日以後に生まれた者には適用さ
れないこととなった。これにより,長期的に見れば,アウスジードラーという地位そのものに終止
符が打たれたことになる。同法提案の際の「根拠」には,この法律が「戦後時代の終わり」を意味
することが明言されている。
ドイツ統一の実現とともに,ドイツとポーランドの国境の国際法的確定とともに,そして四カ国とポー
ランドとの条約とともに,戦後時代は終わりを迎えた。このことはポーランド共和国,旧ソ連の共和国,
その他の中東欧諸国に住むドイツ国籍保持者,ドイツ民族帰属保持者の受け入れを,変化した現状を考
慮に入れた法的基礎の上に置くという目的に向けて修正することを必要にしている。そこで次のことを
考慮に入れなければならない。これらの諸国には依然として何百万ものドイツ人が生活しており,その
生活の基礎は第二次大戦の最中およびその結果,暴力的な移住,追放政策,離散と抑圧により破壊され,
28
連邦参議院では,連邦政府が被追放者法の改訂に躊躇していることを非難する決議も採択されている。
1991年12月19日の決議文は次のようになっていた。
連邦政府は,戦争の帰結終結法の中で,アウスジードラーの特権的な移住を,戦後の終結と追放圧
力の消滅の後,まもなく終結させるための規定に至らなければならないことに,明らかに困難を抱
いている。連邦参議院は,そうした規定を,将来の移民政策の中へと取り込むためにも喫緊に必要
であると考える。(BR-Ds 754/91)
29
以下,この法律の理解に関しては,(Juncker 2001)(Delfs 1993)(Wolf 1993: 4-20)(DOD 3/36, 1993:
1-2)を参照した。また改訂連邦被追放者法の法律文は http://www.juris.de から採ることができる。
42
その帰結は現在の社会的・国家的な構造の変化によってもなお乗り越えられてはいないということを。
これらのドイツ人たちに対し,ドイツ連邦共和国は引き続き特別な義務を担っている。(BT-Ds
12/3212: 19)
この文は「戦後時代の終わり」とともに,「追放」の帰結が依然として消滅してはいないことも
また明言している。そして,連邦共和国は引き続きアウスジードラーを「遅発アウスジードラー」
として受け入れることとなる。だが遅発アウスジードラー(連邦被追放者法第4条での規定)は被
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
追放者の下位概念としてのアウスジードラー(同第1条(2)3)ではもはやない
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
。大きな違いは,
旧ソ連地域以外から来る者は,必ず 「ドイツ民族帰属が理由で不利に扱われた」 ことの証明を,自
ら示さなければならないということである。かつてのような,集合的な 「追放圧力の継続」 の存在
は,旧ソ連地域のみに認められていた。このような法規定の改訂は,当然旧ソ連以外の地域からの
アウスジードラーの流入を,大幅に減少させる結果となる。
この法律をきっかけに,アウスジードラーの数は顕著な減少に向かう。この法律が施行される前
に,与野党で年間のアウスジードラーの受け入れ人数を約20万人と決めたことも大きかった。
その後1996年から,「民族帰属」 の証明としてのドイツ語テストの導入があり,アウスジードラ
ーの数は益々減少の一途をたどった。2000年には,ドイツ語テスト受験者の約半分が不合格にな
ってアウスジードラーの資格を得られなくなっている
30
。こうして,2000年には約9万5千人いた
アウスジードラーも,2005年には3万5千強にまで減っているのである。
このようにアウスジードラー受け入れは,終止符に向けて軟着陸していくように見える。振り返
ってみれば,アウスジードラー受け入れの起源は戦後東欧ドイツ人の 「追放」 にあった。「追放」
とアウスジードラーの大量流入は,人口学的な意味で東欧在外ドイツ人の大民族移動(暴力や強制
を伴った)を意味していた
31
。これが,建国以来様々な形で問題になってきた在外ドイツ人問題を
「解決」したことになったのだろうか
32
。ドイツは,在外同胞問題のない,「西欧」 型の,「完結し
たネーション・ステート」 へと変貌したのか。一見そうにも見える。だが,その前にもう一点検討
しておかねばならない問題がある。民族マイノリティとしての在外ドイツ人
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
の問題である。
30
被追放者連盟のHPによる(http://www.bund-der-vertriebenen.de/infopool/spaetauss2.php3)。
31
被追放者諸団体のリーダーやそれに近い学者の中には,このドイツ人の強制移住を「民族浄化」という
挑発的な語で表現するものもいる。もちろん,ユーゴスラヴィアでの 「民族浄化」 との連想を意図したも
のである。だが,その含意はどうあれ,戦後の追放とそれに続くアウスジードラーの移住で,東欧の在外
ドイツ人が大規模に「一掃」されたことは確かである。また,現在ドイツでは,「追放」の問題を,より
一般的に「純粋な民族国家」形成を目的とした大規模民族移動政策との関連で理解しようという研究も行
われている。例えばBeer(2004a)を参照せよ。
32
実際,戦争末期イギリスの首相チャーチルは,東欧での民族紛争の火種を除去するという観点から,ド
イツ人移住政策の必要性を考えていた(Beer 2004)。となると,このチャーチルの目論見は,戦後60年以
上たってその結果にたどり着いたと言えるかもしれない。
43
国境を越える「民族」
6.在外ドイツ人マイノリティの問題
社会主義圏における民主化の動きは,残留するドイツ人マイノリティの生活や権利の状況も向上
させた。ドイツ人マイノリティの文化的活動の自由も出てきた。ポーランドにように,それまでド
イツ人マイノリティの存在を公的に認めていなかった国でも,その存在が認められるようになった。
彼らの西側諸国に対する出国制限も著しく緩和された。そのような中,連邦政府の政治家も,在外
ドイツ人との接触をもつ機会も増えていく。また,政府間交渉で,ドイツ人マイノリティの権利問
題が取り上げられることも多くなってきた。例えばポーランド政府は,1989年11月に,コールと
の会談の中で国内のドイツ人マイノリティの権利保護を約束したのである。ドイツ人マイノリティ
の権利は,1991年6月に締結されたドイツ=ポーランド善隣有効協力条約においても規定される
ことになる
33

そのような文脈の中で,ドイツ政府は,アウスジードラーの認定条件を制限していくのと並行し
て,在外ドイツ人マイノリティの現地での生活環境を向上させるための援助活動を政府が行うよう
になっていく。それはまた,東欧からのアウスジードラー申請者の数を減らすためにも有効と考え
られた。このような傾向は,ドイツ「再統一」以後強まっていく。内務省は,入国したアウスジー
ドラーの統合と並び,「出身地である領土において,ドイツ人たちの生活条件を,文化,社会,経
済領域における多種多様な施策によって改善し,彼らに継続的な生活の見込みが開けるようにする
こと」をアウスジードラー政策の政策目標に掲げるようになる(IDDA 18/1990: 1)。また,この政
策はヨーロッパにおける 「マイノリティの保護Minderheitenschutz」(CSCEや欧州評議会など)の
法的枠組みを基礎として目指されるようになっていく。1991年1月30日,第二期政権成立直後,ヘ
ルムート・コール首相は政府声明演説で,「統一されたドイツにとって,民族マイノリティの保護
は特別な課題となります」 と述べたあと,次のように在外ドイツ人問題をとりあげている。
ここで問題になりますのは―私はこのことをこのことを強調したいのですが―何よりもまずわれわ
れドイツ人,中央ヨーロッパ,南東ヨーロッパ,そしてソ連に暮らしているドイツ人同胞たちのことな
のです。われわれは,彼らが出身国からの出国を唯一の逃げ口とみなしてしまうことを望んではいませ
ん。われわれは,彼らが自分が生まれた故郷において,自分たちのために,そして子供たちのために再
び安全な将来を見つけ出すことを望んでいるのです。それには,彼らが自分たちの言語,歴史,伝統を
守り,自由に宗教活動のできる権利と機会を持つことが,そして彼らの生活環境が改善されることが前
提となります。連邦政府は,問題となる諸国との間との二国間協定の中で,この問題を書き込んでいき
ます。(BT 12/5: 88)
33
ポーランドとの関係においてドイツ人マイノリティの問題をテーマ化しえたことの理由の一つは,ドイ
ツ連邦共和国がオーデル=ナイセ線を国境として最終承認したことである。これにより,それまで国境修
正要求の手段として用いられがちだったドイツ人マイノリティ問題が,両国の間で以前よりもオープンに
論じられるようになったのである。詳しくは佐藤(2006)第9章を参照。
44
また,前に論じた 「戦争の帰結清算法」 の 「根拠」 でも,前に5(2)の項で引用した部分の直
後に,以下のような文章が来る。
連邦政府は,アウスジードラー出身地の領土に生活しているドイツ国籍保持者,ドイツ民族帰属保持者
を援助し,彼らの文化的を擁護するという目的を,何年も前から追求してきた。彼らは,将来への見込
みが開かれるような条件の下で生活できていなければならない。かつての東側ブロック諸国の民主化と
経済的変動の過程は,そのような対策を貫徹することを容易にしている。この過程が,その対策を今ま
で以上の規模で貫徹することを,今初めて可能にしたのである。これらの諸国における経済的変動とド
イツ連邦共和国の援助は,ドイツ人マイノリティの生活状況の向上につながることになりうる。それが
最終的には,ドイツ連邦共和国へのアウスジードラーの波を終わらせることになるだろう。(BT-Ds
12/3212)
この法案をめぐる連邦議会の討論では,野党の社会民主党議員も「出国移民の原因をできる限り
除去する」という観点から,ドイツ人マイノリティに対する援助対策を支持している(BT 12/107:
9147)。つまり,在外ドイツ人マイノリティ援助に関しては,与野党の間で合意がほぼ成立してい
たのである。
コールが前出の演説の中で述べていたように,連邦政府による東欧のドイツ人マイノリティの援
助政策は,東欧諸国との二国間条約で規定され,ドイツ語教育,ドイツ語メディア,企業活動や農
業,インフラ整備,医療,ドイツ人団体や集会所などへの資金,人材,技術の援助などが行われる
ようになる(Wolff 2000: 194-200; Delfs 1993: 9-10)。ポーランド人マイノリティへの援助の金額だ
けを見ても,1989年には830万ドイツマルクから1994年には3320万ドイツマルクへと急増している
(BT-Ds 13/1036)。援助が特に集中していたのが,ロシアにおけるドイツ人マイノリティであった。
1996年に東欧のドイツ人マイノリティに対する全支援額の約60%にあたる9千万ドイツマルクが,
ロシアのドイツ人マイノリティに支払われていた(Wolff 2000: 197)。1990年代のアウスジードラ
ーの大部分がロシアから来ていることを考えれば,当然の処置であっただろう。
1995年以後,ドイツに流入するアウスジードラーの数は急激に減少してく。1997年に内務省は
それを,ドイツ人マイノリティの現地での生活が定着した結果であるとして歓迎する姿勢を示して
いる(IDDA 88/1997: 2)。アウスジードラーの減少が,政府の在外ドイツ人マイノリティ援助の成
果と見なされたのである。
しかしその後,政府からの在外マイノリティへの財政援助からは手を引くようになる。例えば,
内務省による在外マイノリティ保護のための費用は,1998年の1億2500万マルク(約7200万ユー
ロ)から2005年には2100万ユーロへと減額されている(DOD 8/2005)。社会民主党/緑の党政権
の方針は,在外マイノリティは,ドイツ文化は維持しつつも現地国家の国民として生活していくべ
きであるという姿勢であり,内政干渉とも受け取られかねない在外マイノリティ支援からは距離を
置こうとしていたように見える。
45
国境を越える「民族」
だが,地域や民間レベルでの在外ドイツ人マイノリティの文化保護活動は続いている。特に最近,
ヨーロッパという枠組みにおいて,民族マイノリティの保護が一つのテーマとして浮上してきてい
る。1993年のEUのいわゆる「コペンハーゲン基準」や,欧州評議会のいくつかの合意文書が,民
族マイノリティの保護を規定している。西欧諸国において,このテーマはそれほどの関心を引いて
いないようだが,EUが東方へと拡大していくのに比例して,民族マイノリティの保護というテー
マは,これまで以上に重要なテーマになっていく可能性はある
34

被追放者諸団体は,この在外ドイツ人マイノリティ問題に一貫して積極的な関与を続けてきた。
被追放者諸団体はかつてオーデル=ナイセ線の承認に強硬に反対し,また現在に至るまで 「追放」
の不正に対して強い非難の声を上げてきた集団であり,「領土修正主義」 として批判的に語られる
ことの多い集団である。特にポーランドでの評判は悪い。しかし1990年の国境最終確定の前後から,
被追放者諸団体は在外ドイツ人マイノリティ問題を重要な活動の場とし,ポーランドを始めとする
東欧諸国の在外ドイツ人との交流を深めつつ,国境を越えた 「東方のドイツ」 の歴史と記憶(それ
は彼らの 「故郷」 の歴史と記憶でもある)を喚起しようとしている(Salzborn 2001)。
また,在外ドイツ人問題と並べて注目すべきは,ドイツ国内での「東方のドイツ」に関する博物
館,展示,出版,研究施設などへの援助の増大である。被追放者の「故郷」の文化伝統の保存や学
術研究の推進は,連邦被追放者法第96条で規定されたものであり,すでに長い歴史があるが,そ
の援助額は1980年代末から増大し,1982年に年間約400万マルクであったものが,1994年には4700
万マルクに増額されている(BT-Ds 12/2311)。社会民主党・緑の党連立政権の下,この「東方の
ドイツ」の文化保存活動に対する援助も減額される。しかしこの政権は,活動の「専門化」と「ネ
ットワーク」の強化を提案し,特に東プロイセン,シュレージエン,ジーベンビュルゲン等と言っ
た東欧のドイツ人定住地域ごとの文化や歴史を展示した博物館の「強化」に力を入れるとされた
(BT-Ds 15/2967)。
現在,アウスジードラーは終結に向かいつつある。だが,在外ドイツ人マイノリティ問題や「東
方のドイツ」の文化保存の問題として,「国境を越える民族」としてのドイツのネーションはまだ
終結していないのである。アウスジードラーの終止をもってドイツが「西欧」型の,「完結したネ
ーション・ステート」になったと判断するのは,いまだ時期尚早のように思われる
35

34
現在の在外ドイツ人マイノリティの数について,確定的な数字はない。被追放者連盟の推計では,ロシ
アに80万,カザフスタンに35万,ポーランドに30万から50万,ハンガリーに20万,ルーマニアに8万,
チェコに10万となっている。総計で183万から203万人の在外ドイツ人ということになる(http://www.
bund-der-vertriebenen.de/infopool/dt-minderheiten.php3)。連邦内務省の推計では,ロシアに70万,カザ
フスタンに35万,ポーランドに40万,総計で150万から200万人の在外ドイツ人マイノリティが存在する
とされている(http://www.bmi.bund.de/cln_012/nn_122688/sid_90F0FFC389894859661FEFFA3E6E569
C/Internet/Content/Common/Lexikon/M/Minderheiten__deutsche__Id__19916__de.html)。おそらく彼ら
の中には状況に応じて機会主義的に民族帰属を変えることのできる人も多いので,数字を正確に確定する
のは,事実上困難であろう。
46
結 語
    −国境を越える「民族」の将来−
本報告では,アウスジードラー問題が移民問題としてだけではなく,在外ドイツ人問題の一変異
として,すなわちドイツの国境を越える「ネーション」問題の枠組み
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
の中で理解する必要があるこ
とを論じてきた。そのような枠組みで見ると,アウスジードラー受け入れの終止は,在外ドイツ人
問題の消滅
4 4
ではなく,変容
4 4
に過ぎないことが分かる。現に連邦共和国は,アウスジードラーの終止
に向かう方向性を打ち出すと同時に,在外ドイツ人マイノリティの援助策に乗り出していた。この
二つの政策には,不可分のつながりがある。
しかし戦後ドイツ人の「追放」と,その後のアウスジードラーの流れは,ドイツ人の人口学的分
布の状態に劇的な変化をもたらしたことも否定できない。戦間期には900万人近くいたドイツ人マ
イノリティも,現在は150万人にまで減少した。国境を越える「民族」(あるいは,ディアスポラ
民族)としてのポテンシャリティは,数量的に確実に縮小している。しかしながら,在外ドイツ人
マイノリティや「東方のドイツ」文化は,戦後の「追放」の歴史の記憶と共に,依然としてドイツ
の「ネーション」をめぐる問題の一角をなしている。この国境を越えたドイツの「ネーション」の
問題が,周辺諸国・諸民族との対立の火種になるのか,あるいはヨーロッパ諸民族の「架け橋」に
なるのか(連邦政府や被追放者諸団体は後者の面を強調するのだが),今後の展開を見ていかなけ
ればならない。
追記:この論文は,2006年11月26日に法政大学大学院付置ヨーロッパ研究所の研究報告会で配布した報
告資料に大幅な加筆修正を加えたものである。なお,本論文での研究にあたっては,平成18年度日本学術
振興会科学研究費補助金(基盤研究(C))(課題番号:18530406)の援助を受けた。
35
他方で,フランス型の出生地主義の要素を多く取り入れた1999年のドイツ国籍法改訂は,ドイツが,
政治的原理による「西欧型」の「完結したネーション・ステート」に変貌していることを示している。筆
者は,それがドイツのネーションの変容の主たる流れであることを否定しない。だがそれと並行して,国
境を越えた,「未完結」なネーションの伝統は,今もなお消滅してはいない。
47
国境を越える「民族」
参考文献
(インターネットからの引用・参照は脚注に直接記載した)
【一次資料】
BGBl=Bundesgesetzblatt[連邦法律公報]
BR=Verhandelngen des Deutschen Bundesrates: Stenographische Berichte, 1.- Sitzung[ドイツ連邦参議院議
事録]
BR-Ds=Verhandelngen des Deutschen Bundesrates: Drucksache, 1-[ドイツ連邦参議院議事資料]
BT=Verhandelngen des Deutschen Bundestages: Stenographische Berichte, 1.- Wahlperiode/1.- Sitzung[ドイ
ツ連邦議会議事録]
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〔ドイツの領土の変遷〕

北方領土問題の本質と対応 その12 大戦時の同盟国ドイツに学ぶこと
https://kirashuji.com/s/message/?p=303

『北方領土問題シリーズ第12弾です。

前回の第11弾では、平和条約締結ができなくても、4島の主権を主張し続ける選択肢と一部の島の主権を放棄することになるが、ロシア側が受け入れる可能性のある現実的選択肢を提示させてもらいました。

今回は、第二次世界大戦時、日本の同盟国であったドイツの戦後対応に学ぶべきことについてお伝えします。尚、下記するドイツの歴史については、東京大学名誉教授の坂井榮八郎先生(歴史学者、専門は西洋近代史、ドイツ史)の著書や講演録(1991年の学士会会報790号)を参考にしています。

1.東西統一に当たり固有の領土を永久放棄したドイツ

(1)現代ドイツが、現在のポーランドや東ドイツを領土とするプロシアから起こった国であることを考慮すると、1990年の東西ドイツ統一の際、ドイツは、日本でいえば奈良・京都ともいえるオーデル川、ナイセ川(オーデル・ナイセ線)以東の「プロシア以来の固有の領土」(プロイセンの東半分)をポーランドに永久に永久割譲しています。

(2)もう少し正確に解説すれば、第二次世界大戦後は東ドイツもポーランドも事実上ソ連の支配下におかれました。そのため、ソ連の意向のまま、ソ連・ポーランド間の国境とポーランド・東ドイツ間の国境は、現在に至る国境線で固定されました。この国境線固定により、ポーランドの固有の領土ともいえる同国の東の領土はソ連領となりました(現在のベラルーシの西側の領土に当たる)。

(3)当時の西ドイツは、東ドイツとポーランドの国境線となっていたオーデル・ナイセ線以東の、プロシア以来の固有の領土がポーランド領になっている状況を受け入れませんでした。

(4)しかし、何としても東西統一を実現したい西ドイツ(政府と国民)と東ドイツの国民は、ベルリンの壁崩壊後、大決断の上、「ドイツ・ポーランド国境条約」を締結し、オーデル・ナイセ線以東の固有の領土を永久放棄することにより、ポーランド、ソ連はじめ、関係諸国から東西統一の了解を得たのです。

この説明だけで理解しづらいと思いますので、ドイツ領土の変遷を示した地図、および、ドイツ・ポーランド国境条約の地図を含む詳細を以下のとおりご参照願います。

2.第二次世界大戦後のドイツ人の苦難

1985年に開催された「ナチス・ドイツ敗戦40周年記念日」において、当時の西ドイツのワイツゼッカー大統領が、世界中の人々に感銘をあたえた有名な演説を行います。

この演説の奥深さを理解するためには、第二次世界大戦直後のドイツ人が難民として味わった苦難の歴史を知る必要があります。

(1)ドイツは第二次世界大戦中のある時期、欧州全域を占領下においていました。敗戦後、特に東欧に住んでいたドイツ人は着の身着のまま即時追放ということになります。追放されたのは、ドイツ人だけではなく、ソ連がポーランド領東部を併合したことにより。そこに住んでいたポーランド人が追い出され、そのポーランド人が今度はドイツ人を追い出すという玉突き現象が生じたのです。
(2)このポーランド地域や、チュコ、ハンガリー、その他の地域を追われて難民化したドイツ人は1800万人です。第二次世界大戦後の世界全体の難民が3000万人といわれていますので、その2/3がドイツ人ということになります。また、東西統一前の東ドイツの人口が1600万人ですから、そのすさまじさがご理解戴けると思います。そして、この追放の過程で300万人が犠牲(死亡)になっています。
(3)ナチスの占領地における統治はあまりにも残虐でしたので、レジスタンス運動に代表されるナチスへの抵抗はすさまじく、ドイツの敗戦が濃厚となってからは、ドイツ人が倍返しで仕返しされるという悲惨な状況でした。
(4)ちなみに、ドイツは第二次世界大戦中に780万人(軍人400万人、民間人380万人)、ソ連は独ソ戦の影響で2000万人、ユダヤ人はホロコーストの影響で500万人、ポーランドは420万人、日本は310万人が犠牲になっています。
(5)独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻したことにより、2000万人の犠牲が出ていることは、ソ連の日ソ中立条約を破っての対日参戦や日本降伏後の北方領土の占領、実効支配が許されるものではありませんが、北方領土問題を議論する際には頭に入れておくべき事実です。

3.世界中に感銘を与え、ドイツ国民の心を打ったワイツゼッカー大統領の演説

1985年のナチス・ドイツ敗戦40周年記念日に、ワイツゼッカー大統領がおこなった演説の有名な一節を下記します。

(1)「過去を忘れる国民は未来をもたない」

(2)「戦後のドイツ難民の苦難は到底言葉には尽くせないけれども、その苦難の原因は、ドイツが戦争に負けたことにあるのではなく、ドイツが戦争を始めたことにある。このことを取り違えないでほしい」

(3)「今まで我々は国境をめぐって血を流してきた。しかし、これからの国境は諸国民をわけ隔てるものではなく、諸国民をつなぐ架け橋にならなければならない」

以上、ドイツの第二次世界大戦後の対応はいかがでしたか。

シリーズ第5弾で共有させてもらったように「北方4島は日本の固有の領土」であることは間違いがありません。しかし、大戦時の同盟国であったドイツは、その固有の領土、それも歴史的に心臓部にあたる領土を戦争の結果として失いました。そして、その固有の領土を永久放棄することにより、悲願の東西統一を成し遂げました。ポーランドは歴史的に何度か世界地図から消えることがありました。歴史的にはどこが固有の領土かわかりません。
世界の歴史を見る限り、「固有の領土」論は残念ながら説得力を持たないことがおわかり戴けると思います。
ドイツがそうであるように、固有の領土である北方4島を第二次世界大戦の結果、失ってしまった、という認識を持つことは、多くの批判を受けるかもしれません。しかし、歴史を含めて世界を見渡せば、それが冷徹な現実なのです。

またまた長くなりましたので、シリーズの最終回にあたる第13弾は次回にさせてもらいます。

吉良州司』

吉良州司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E5%B7%9E%E5%8F%B8

『吉良 州司(きら しゅうじ、1958年3月16日 – )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、院内会派「有志の会」代表。

外務副大臣(野田第3次改造内閣)、外務大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員長等を務めた。 』

ノモンハン事件

ノモンハン事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ 相当に長いので、ごくごく一部だけ紹介する。

『ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。

1930年代に、満州国、後に日本(大日本帝国)と、満州国と国境を接するモンゴルを衛星国にしていたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つ。第一次(1939年5月 – 6月)と第二次(同年7月 – 9月)の二期に分かれる。

満州国軍とモンゴル人民軍(英語版)の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。 』

『情報管理

ノモンハン事件当時の日本陸軍の情報統制は厳しく、ノモンハン事件の情報についても管理されていた。憲兵隊が新聞などのマスコミ報道や、手紙・電報などの私書について検閲を実施し、それを毎月データ化して関東憲兵隊に報告し、関東憲兵隊はそれを取りまとめて『検閲月報』という極秘資料を作成していた。1938年は年間の総頁は550頁であったが、これがノモンハン事件が始まると1939年には1200頁に倍増した。太平洋戦争開戦後の1942年には4900頁まで激増したが、戦局が悪化すると検閲の余力も無くなったのか1944年には1300頁、1945年にはたった130頁にまで減少している[388]。

事件当時の新聞などの報道では、日本軍の苦戦や損害に対する記事は検閲される一方で戦果と武勇伝が強調され、新聞紙面上からは日本軍が苦戦している状況は微塵も感じられなかった[389]。私書についても同様で、日本軍が苦戦していることが判るような表現や、日本軍や兵器の問題点を指摘した記述は削除されていった[390]。

しかし、膨大な私書全てを検閲し削除や差し押さえできることは困難で、例えば1939年8月には667,502通の電報と682,309通の郵便に検閲を実施したが、何らかの処置を行った数は電報で1,345通、手紙で793通に過ぎず、それぞれ処置率は電報0.2%、手紙0.11%とごくわずかな数に過ぎなかった[391]。この中で最も多かったのが『防諜上要注意通信』で、検閲処置がなされた郵便793通の内の295通がそれに該当し37%の構成率であったが、その中でも、軍の作戦行動や移駐に関するものや、部隊の固有名を記述したものなど、通常の軍事機密に関する検閲が多数を占めた[392]。

また、満州で事業を展開していた日本の建設業などの事業者には情報が筒抜けだったようであり、ハルハ河渡河戦に失敗後、司令部に戦況を報告するためハイラルに立ち寄った関東軍参謀の辻は、兵站宿舎で休憩していたところ、隣室で建設業者らが酒で酩酊しながら「軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨てておる、阿呆な奴じゃ」と大声で騒いでいるのを聞くや激高し、その部屋に乗り込むと、建設業者ら数名を殴り倒している[393]。

情報を全て遮断することは困難であったため、ノモンハンは負け戦だったという噂が兵士のみならず一般国民にも広がりつつあった[394]。さらに、多くの参戦者やジャーナリストからの見聞記が多数出版され、中には中隊長であった草葉栄の著作『ノロ高地』のように100万部以上のベストセラーも生まれるに至って、陸軍は部外からの問い合わせに備えるための質疑応答集である「ノモンハン事件質疑応答資料」を作成した。その中に「民間に相当広くデマの流布せられたる現在、何故、詳細なる発表を行わざるや」という想定質問があったのを見ても判る通り、国民の間にかなりノモンハンの敗戦や苦戦の情報が広まっていた[395]。

その後、1939年10月3日になって日本陸軍は当時としては異例の自軍の損害の公表に踏み切った。まずは地方官会議で発表され、翌日に各新聞で報道された。その報道では日本軍の死傷者は18,000名とされていた[9]。当時、陸軍は自軍の死傷者を正確に発表することはなかったが、この18,000名という死傷者数は戦後に日ソの多くの資料によりほぼ正確な数字と判明しており、陸軍が敢えて日露戦争の旅順攻囲戦並みの衝撃を与える覚悟で正確な損害の公表に踏み切った理由は、このまま負け戦という噂が広まるより、我が方も損害は大きかったが、敵にも大損害を与えた“痛み分け”だったという情報を開示して、国民の士気を引き締めようという計算があったのではと推測されている[394]。さらに『朝日新聞』は「軍当局がノモンハン事件から今後の軍事訓練を改善すべき必要があるとの教訓を学び、十分考察した。軍は最大限機械化部隊で満たす必要がある」とする自戒と教訓についても述べるという異例ぶりであった[396]。

この記事の反響は大きかったようで、師団長の小松原には多くの批判の投書が寄せられている。小松原がその内の「愛児を失った父親」からの投書を自分の日記に引用しているが「ノモンハンの大事件は、国民一般、実に悲痛の思いにて、真相を知り其の責任者(平野で、ソ軍の大部隊の集結を気付かず、陛下の赤子を、多数失いたる実相)の男らしき弁明を、ほめ居候」との記述で、小松原らがソ連軍の総攻撃を事前に察知できなかったことについて認識している。また、小松原が満州から帰京する前日に熱海に一泊したことも知れ渡っており「戦塵を、熱海に悠々洗う、実に馬鹿馬鹿しき悪習慣に…戦塵洗いを、止めて下さい(有りもせぬ塵、兵隊さんは一体どうするのですか)」などと強い批判も書かれている[397]。

その他にも、苦戦や敗戦を十分に連想できる吉丸、大内、森田の3大佐に東中佐の4名の指揮官級の佐官の戦死も新聞紙面で報道された。その記事では後年、硫黄島の戦いで戦死する栗林忠道大佐が、陸士第26期の同期であった4名への追悼の言葉を送っており、陸軍が主導してこの記事が掲載されたことが窺える[398]。

既にこの時点では、翌1940年2月28日の帝国議会の決算委員会において福田関次郎議員が畑俊六陸軍大臣に「ノモンハンにおいては、色々と総合して見てますと、どうも日本の、軍装備に、欠陥があったのではないか、斯う云う風に見られるのであります」と質問したことでも判る通り[399]、ノモンハンの敗戦や日本軍の問題点についてはかなり広く認識されていた。

ノモンハンの戦いについては、その敗戦を陸軍は国民にひた隠しにしたという主張が目立つが[400]、逆に、情報が広まったことによる後追い的な情報開示とはいえ、当時の日本としてはむしろ意図を持って積極的に情報を開示した戦闘であった。 』

『ソ連軍の損失

人的損失

ソ連は従来、イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定を大きく膨らませる一方で、自軍の人的損害を故意に小さく見せようとしてきた[524]。冷戦下で、ジューコフの報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編集した『大祖国戦争史(1941〜1945)』といった、ソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデータが広く知れ渡り、ソ連側の一方的勝利が定説化する大きな要因ともなった[525]。

その定説が大きく覆されるきっかけとなったのが、ソ連の共産主義独裁体制が崩壊した1990年前後であり、グラスノスチにより次々とソ連軍のかつての極秘資料が公開される度に、ソ連軍の人的損害が激増していき、ついには日本軍の損害をも大きく超えていたことが判明し[526]、ソ連が情報を意図的に操作していたことが明らかになっていった[527]。

ソ連・モンゴル公表人的損失数の推移表[6] 軍隊 出典 日付 死亡・行方不明 捕虜 戦傷 総計

ソ連軍 タス通信[528] 1939年10月 300名 – 400名 900名 1,200名 – 1,300名
ジューコフ報告書 1939年11月 1,701名 7,583名 9,284名
極東国際軍事裁判判決文 1948年11月 9,000名
大祖国戦争史(1941〜1945)[529] 1960年 9,284名
ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告[12] 1991年8月 4,104名 94名 14,619名 18,815名
戦争、軍事行動および軍事紛争におけるソ連軍の損害[530] 1993年 7,974名 15,251名 23,926名
20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析[18][531] 2001年 9,703名 15,952名 25,655名
モンゴル軍 ロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐の報告[12] 1991年8月 165名 401名 566名
モンゴル戦史研究所 2001年 280名 710名 990名

2016年時点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害は下記の通りである。

ソ連軍戦死:9,703人[16]
戦傷:約15,952名[16](約16,000名とする見解もある)
    ソ連軍合計:約25,655名[16][531][18]
モンゴル軍死傷者990名[18]
    ソ連軍・モンゴル軍合計:26,645人[16][18]。

ソ連軍の損失率はノモンハン事件の全期間を通じて高い水準で推移し、投入兵力に対するソ連軍の損失率は34.6%の高い水準に達した。これは同じソ連軍の攻勢における損失で、後の第二次世界大戦での東部戦線の激戦の一つであるクルスクの戦いにおける、最大の激戦地区となった南部戦区の損失率13.8%を大きく上回る損失率となっている[532]

日本軍は事件直後には、ソ連軍の損害を比較的正確に把握していた。停戦後1939年10月17日に参謀本部作戦課長稲田正純大佐らが纏めた報告書『ノモンハン事件に関する若干の考察』にて、「(ソ連軍)人員ノ死傷ハ恐ラク弐萬に及ビ」とソ連軍の死傷者は20,000名前後だと捉えていた[533]。

事件当時、あまりにも莫大に発生したソ連軍の戦傷者を寝かせるベッドが全く足らず、ノモンハンに近いソ連の都市チタは負傷者で病院は満杯となり、溢れた負傷者はイルクーツクや西シベリアの各都市に送られ、さらにはソ連の欧州部であるクリミア半島やコーカサスにも送られている[503]。その様子をソ連の駐在武官補佐の美山要蔵中佐が目撃しており「ソ連軍も相當な損害を得まして、シベリア極東方面の病院には概ね九千余名を収容しております。尚モスコウ(モスクワ)方面には医者を要求しているし、駅の待避線に入っている病院列車を見ます」と報告している[534]。

装甲車輌損失
鹵獲したソ連軍のBT-5戦車・FAI装甲車の上で万歳斉唱する日本軍兵士

車種別損失数[535] 兵器名 損失数 備考
BT-7 59 通常型30・無線機搭載型27・火力支援型2
BT-5 157 通常型127・無線機搭載型30
T-26 20 通常型8・kHT-26化学戦型10・kHT130化学戦型2
T-37 17
BA-3 8
BA-6 44
BA-10 41
FAI装甲車 21
BA-20 19
T-20 9
SU-12 2
合計 397

これ以外にも多数の戦車・装甲車輌が撃破され修理されたが、数が膨大で特定は困難である[535]。また、ソ連軍の装甲車輌の損害は800輌以上とする見解もある[531]

航空機損失
撃墜されたソ連軍戦闘機I-15bis
機種別損失数[17] 兵器名 損失数 備考
I-16 109 うち4機が翼内にShVAK機関砲 2丁を搭載したI-16P型
I-15bis 65 I-15の改良型
I-153 22
SB-2 52
TB-3 1
R-5 2
合計 251 うち非戦闘損失43

日本軍による戦果報告では航空戦にて撃墜したソ連軍機は1,340機とされ[328]、航空戦のほかにも高射砲攻撃で180機、戦車で26機、歩兵攻撃で3機が撃墜したと報告した[531]。日本軍は事件後も1300機撃墜を喧伝し、地上では負けていたものの航空戦は例外的勝利だったと主張、その認識は戦後も消えなかった[536]。第24戦隊長だった梼原秀見少佐は「確実撃墜じつに1200機を越え、我が方の損害50機足らず…類例のない嘘のような事実」と揚言し、従軍記者の入江徳郎は1958年に発売した著作「ホロンバイルの荒鷲」で「空中戦では文字通り圧倒していた」と回想した[536]。しかし、1980年代以降には航空戦の実態が明らかとなっていき、飛行第11戦隊所属の滝山和大尉が「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は劣勢」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と証言した[536]。ソ連邦崩壊後は被害の実態が明らかとなった。ソ連空軍の被害は戦闘損失207機で、日本の損失176機との比率は1対1.2であった[537]。ただしこの比率はソ連側の戦闘損失と日本側の大破・未帰還数を比べた結果であり、両軍の分類基準が異なる以上単純な比較は出来ないともされている[536]。』

軍事における革命(Revolution in Military Affairs、RMA)

軍事における革命(Revolution in Military Affairs、RMA)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9D%A9%E5%91%BD

『軍事における革命(ぐんじにおけるかくめい、Revolution in Military Affairs、RMA)とは、軍事の変革を指す言葉である。なお、似たような言葉に「軍事革命」があるが、RMAと意味はまったく異なる。』

『広義のRMA

広義のRMAとは、戦術・組織等といった、軍事に関する諸要素の「革命的な変化」を指す。

RMAが発生する要因はいくつか存在するが、その一例として技術革新が挙げられる。革新的な技術が登場することにより、従来では実現不可能だった新しい兵器等のシステム開発を可能にし、さらにそれらを運用する戦術・組織等も変革が生じるというパターンである。ただし発明・開発された新兵器等の存在そのものがRMAにつながるとは限らず、それらを活かす戦術、それを支える組織、補給、人材など軍事基盤、更には社会基盤が伴う事で初めてRMAがおきると考えられる。

例えば、第一次世界大戦に登場した戦車は局所的成功は収めたものの、その時点では決して戦争に決定的な影響を与えるものでは無かった事が挙げられる。戦車が戦況を左右する決定的要因となったのは、第二次世界大戦初頭のナチス・ドイツのフランス侵攻、いわゆる電撃戦においてであった。戦車の運用に合わせた戦術変化が起き、砲兵の代わりとして航空機による近接支援が実現できるようになった為である。

通信技術の普及した大日本帝国陸軍は、浸透戦術により大兵力を誇る中国国民党軍を第一次上海事変で打ち破った。

情報におけるRMA

RMAとは、狭義にはアメリカ合衆国で発生して以来各国で進行しつつあるRMAである情報RMAを指す。この発案提唱は旧ソビエト連邦のニコライ・オガルコフだとされ[1]、これにアンドリュー・マーシャルが注目したとされる。情報通信技術をはじめとする各種の新技術を適用したシステムを軍事組織に導入する事で、戦力の円滑・効率的な運用を行うことで従来より少数の戦力で従来以上の戦果を追求するという考え方から発生したものである。導入されるシステムは極めて多種多様だが、それらの多くは、

敵より多くの情報収集

様々なセンサーでの情報収集。その手段は兵士の足によるものから偵察衛星による大規模なものまで、広範囲にわたり多種多様である。また同時に、敵の情報収集を妨害する手段も重要であり、こちらも大きく発達している。

情報の高いレベルでの管理・運用能力

優先目標の決定をサポートする意思決定システム等。また広義では兵士に情報を管理・運用する為の教育の徹底も欠かせないとされる。

戦力を構成する部隊間での密接な連携

データリンクの普及。データリンクは情報RMAにおける極めて重要な役割を担っており、これにより作戦で運用される各部隊で情報の常時共有、それに伴う密接な連携を可能にする。たとえ個々の部隊が小規模であっても、それら同士で情報を共有、統一すれば、まるで一つの大規模戦力のような働きをすることが出来る。また、一つのシステムの能力が限られていても、他のシステムで補完出来るようにもなる。

例えば、戦闘機に装備されているレーダーは基本的に探知距離や探知範囲等の性能が限られており、目標の距離が離れすぎている場合や、目標の方位が探知範囲外である場合(例えば後方にいる場合等)は探知が出来なくなる。しかし、レーダー基地や早期警戒機等のレーダーは一般に戦闘機のレーダーより探知距離が長く、また全周に渡っての探知が可能である。そこで、これらのシステムで捉えた情報をデータリンクにより戦闘機と共有する事で、戦闘機側は自機のレーダーだけでは得られない、高レベルな情報を得られる事になる。また、戦闘機が他システムに探知を任せ、自機のレーダーを使わないでいれば、敵機のレーダー警戒装置により戦闘機が発見される可能性を無くす事が出来る。

 この様に各部隊での連携が取れれば、その戦闘能力は大きく向上する。

最小限かつ効果的な攻撃能力

命中率を向上させる技術。今では兵器の誘導システムにGPSが使用される事も珍しくなくなっている。これらの技術は戦闘の大幅な効率化を実現するが、同時に攻撃目標周辺への被害や誤爆の発生率の低減も実現する。
現代においては、もし民間の施設や人間に対し攻撃を加えてしまえば、その被害が大きく報道され、世論の支持や国際関係等に影響を与えてしまうのは確実であり、それを防ぐ手段としても重要であるとされる。

多種多様な攻撃からの防御能力

ハード面はもちろん、サイバーテロ等のソフト面での攻撃に対しても高い防御能力を持たせる必要がある。また、社会インフラに対しても同様の措置が欠かせないとされる。

以上の目的を達成する為のシステムであるとされている。

アメリカでは情報通信技術(インターネット)と高性能電子計算機、通信衛星、GPSなどのハイテク機器を次々に開発し、さらにそれらを発展させることにより、情報RMAを実行段階に移行しつつある。現在世界規模で行なわれている米軍再編の大きな目的の一つに情報RMAの具現化があり、これを達成した場合、有事に際しては、必要に応じて適切な兵力を適切な場所に迅速に投入し、効果的に運用する事で極めて高いレベルでの作戦遂行が可能になり、兵力の規模をスリム化しながらも実際の戦闘力を従来よりも圧倒的に向上出来るとされる。

この情報RMAがもたらす効果は極めて大きいと考えられている。しかし一方で新世代軍事技術に対応した技術の導入、また各種情報の収集・管理・運用・活用等といった面において、クリアすべき課題は数多い。

例えば現在、既に一般の兵士にもパソコンを始めとする情報機器を扱いこなせるスキルが求められつつある。また最近の自衛隊では、Winny等のファイル共有ソフトによりパソコンから機密が漏洩してしまうという事件が幾度か発生し、問題となった。

関連項目

情報技術
    情報通信技術
    情報処理
ARPANET
情報戦
電子戦
通信衛星
偵察衛星
精密誘導兵器
C4Iシステム
ネットワーク中心の戦い
データリンク
    統合戦術情報伝達システム
AWACS
J-STARS

出典

^ Steven Metz, James Kievit. "Strategy and the Revolution in Military Affairs: From Theory to Policy" June 27, 1995

外部リンク

情報RMAについて 防衛省冊子
軍事における革命(RMA)の理論的考察―変革の原動力としての技術、組織、文化―

カテゴリ:

軍事学 軍事技術 軍事史 兵器の歴史』