レバノン

レバノン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3

『レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة اللبنانيّة‎)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家[3][4][5][6]。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。』

『概要

レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた[7]。レバノンの面積はわずか10,452 ㎢ で、アジア大陸で最も小さな主権国家として認められている[3][4]。

レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前にさかのぼる[8]。

レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3,000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。

紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。

レバノン山脈では、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブのイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人は自分たちの宗教とアイデンティティを維持した。

しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派がレバノン山にも定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。

十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。

レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。

第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた。

フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。

1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。

ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。

レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年~1990年)によって崩壊した。

この戦争は部分的にシリア(1975年~2005年)とイスラエル(1985年~2000年)による軍事占領につながった。

レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている[5]。

内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた[9]。

また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した[10]。

終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため[11]、中東の金融センターとして栄えた時期もある[12]。

紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。

しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。

通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている[12]。

レバノンは1945年に国連の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。 』

『歴史

詳細は「レバノンの歴史」を参照

古代オリエント世界

ティルスの凱旋門。

現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。

この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ[† 1]・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成した。

その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれた[† 2]。その後民族としてのフェニキア人は消滅したと言われている。(ただし、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、安宅産業綻後、月刊プレイボーイのインタビューの中で自らをフェキア人の末裔だと、誇りをこめて述べているのは、その一例と言える。※ カルロス・ゴーンも、そうだったな…。)

バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となり、古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。

レバノンのアラブ化

レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。

19世紀頃からマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。

OETA北
詳細は「占領下敵国領政庁(英語版)」を参照

現代レバノン史は1918年のフランスの占領とともに始まった(OETA北)。

第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議でアメリカ・イギリスの関係者とマロン派大司教のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入れることが話し合われた。

シリア王国の独立

1920年3月8日、シリア・アラブ王国(英語版)がハーシム家のファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争(英語版)でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日に4ヶ月あまりで瓦解した。

フランス委任統治領時代

詳細は「フランス委任統治領大レバノン」を参照
「フランス委任統治領シリア」も参照

キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り離されて大レバノンとすることになった。

この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会、ローマ・カトリック、プロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を越え、シーア派、スンナ派などの他宗派に優越するようになった。

こうした経緯から、現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン国(仏: État du Grand Liban)が正式に布告された[† 3]。1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。

1923年9月29日に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノン、フランス委任統治領シリア)。

1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。

1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国(仏: République libanaise)が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた。[13]

独立

委任統治は第二次世界大戦中の1941年6月8日に、本土がドイツ軍の占領下にあり、亡命政府となった自由フランスの統治下にあったシリア、レバノンの独立宣言とともに終了した。

1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。

連合国として自由フランスを支援していたイギリスは、宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に軍人を両国の公使として派遣し両国を支援した。

その後、1943年11月22日に正式に独立した。

大戦後のレバノンは自由経済を採用し、金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「中東のパリ」と呼ばれるようになった。

1970年代までの中東戦争により、レバノン南部を中心にPLOをはじめとしたアラブ・ゲリラの基地が多数建設された。

1972年9月16日、イスラエル軍はミュンヘンオリンピック事件の報復の一環としてレバノン南部に地上侵攻。レバノン軍は反撃を行ったが、イスラエル軍の攻撃対象はアラブ・ゲリラ基地であり、攻撃を短期間で終了させると直ちにイスラエル領内へ引き揚げている[14]。

内戦と戦争

「レバノン内戦」も参照

レバノン内戦によって破壊された首都ベイルート(1978年)

しかし、中東戦争、ヨルダン内戦に伴うパレスチナ解放機構(PLO)の流入によって、国内の微妙な宗派間のバランスが崩れ、1975年にムスリムとマロン派の間で発生した衝突が引き金となってレバノン内戦が勃発した。

隣国シリアが平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル国防軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、元より寄り合い所帯である中央政府の力が弱かったこともあり、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する状態となった。

これに周辺各国やアメリカ合衆国、欧州、ソビエト連邦など大国の思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続いたため、国土は著しく荒廃し、経済的にも大きな打撃を受け、「中東のパリ」の栄華は失われた。

また、シリアやイランのイスラム革命防衛隊の支援を受けたヒズボラなどのイスラム過激派が勢力を伸ばした。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻(レバノン戦争(英語版)。ガリラヤの平和作戦とも)、西ベイルートを占領(英語版)した。

イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。

この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが(レバノン駐留多国籍軍(英語版))、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い(駐レバノンアメリカ大使館爆破事件(英語版))、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。

結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。

1990年にシリア軍が再侵攻(英語版)、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。

シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判を受けた。

シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「パクス・シリアーナ(シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。

1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦(英語版))。

この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍のフィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。

イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。

1992年10月末、ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーへの組閣を要請した。

その後反シリア派のハリーリーがレバノンの首相としてレバノン経済を立て直した。

経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。

この計画は「ホワイトゾン2000」[† 4]と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。

他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズボラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。

一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。

国の借金もハリーリーが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。

2003年9月2日、国連安保理の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する安保理決議1559号[† 5]が採択された。

ハリーリーが2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「杉の革命」と呼ばれる抗議運動が始まった。

その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であるとも目された)シリア軍のレバノン駐留に対し国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。

結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙ではシリアの威嚇も意に介さず、ハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。

しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラ等から6人の親シリア派閣僚を受け入れざるを得なかった。

「杉の革命」も参照
イスラエル軍による空爆(2006年)

2006年7月にヒズボラがイスラエル軍の兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(2006年のレバノン侵攻)。

続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港などの公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。

7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。

しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。

7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。

7月30日にはカナが空爆され、54人が死亡した。

直後にイスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。

8月13日にイスラエル・レバノン両政府が国連安保理の停戦決議受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍は撤収した。

2000年代-2010年代のレバノン

この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日、ファランヘ党創設者の一族で、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・アミーン・ジュマイエル(英語版)産業相が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。

さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。

こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。

対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。

2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。

レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済的回復を進めている。

2019年、en:2019 Lebanese protestsが起きた。

2020年代のレバノン

2020年3月7日、レバノン政府は2日後の3月9日に償還期限を迎える外貨建て国債(12億ドル相当)の支払い延期を発表。内戦時にさえ起らなかったデフォルト状態となった。

原因は、GDPの170%近くに膨らんだ債務による財政危機、それを背景とした外貨準備高の急減など[17]。

これを受けてレバノン・ポンドは暴落。対ドル公式レートでは1ドルに対して1507レバノン・ポンドに設定されているものの、6-7月頃には闇レートで1ドルが8000レバノン・ポンド超に急落し、食料品などの多くを輸入に頼るレバノン経済には大きな負担となった。

同年6月30日には、レバノン軍が兵士に提供する食事から肉が抜かれることが発表された[18]。

2020年8月4日にレバノンの首都ベイルートの湾岸地帯で大規模な爆発が2回発生、207人が死亡し、6500人以上が負傷した。

衝撃は280キロ離れた地中海のキプロス島にも伝わった。杜撰に貯蔵されていた硝酸アンモニウムが原因だった。被害総額は数十億ドル規模に上るとみられている。

同月6日には爆発を契機とする大規模な反政府のデモが発生。参加者らと治安部隊が衝突した[19]。 デモ隊は外務省、環境省、経済省を占拠し、銀行協会のビルに放火した。ディアブ首相はデモ発生から数時間後、選挙の前倒しを表明した[20]。

2020年8月6日に仏大統領が大規模爆発で壊滅的な被害を受けたレバノンの首都ベイルートを視察した。支援を約束するとともに、レバノンの政治や社会の改革を要請した。マクロンが大きな被害を受けた薬局を視察した際には、外に集まった市民が怒りを爆発させ、自国の政治家らを「テロリスト」と非難。「改革」や「国民は政権の終わりを望んでいる」といった声が響いた。

2020年8月10日にディアブ首相が内閣の総辞職を発表した[21]。

詳細は「2020年ベイルート爆発」を参照 』

『政治

詳細は「レバノンの政治」を参照

統治機構

議会

大統領を元首とする共和制国家であり、国会は大統領の選出、政府(内閣)の承認、法案、予算の承認を行う。任期は4年。現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。

国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。

この大統領・首相(行政の長)・国会議長のトロイカ体制は、内戦を終わらせた1990年のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。

しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる[22]。
総選挙は大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。

選挙の段階は選挙区改変(ゲリマンダリング)、候補者リスト作成の2段階を経る。

前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。

後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。

1996年の国会議員選挙

1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、ベッカー地区23、南部地区23、北地区28、山岳レバノン地区35に配分されることになった。

1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では野党が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合とその支持勢力が23議席すべてを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した[23]。

1998年の地方選挙

1998年5月と6月に地方選挙[† 6]が行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズボラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、トリポリではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズボラが親シリア派に敗れた。 投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、民主主義が浸透しているものと評価された[24]。

2000年の国会議員選挙

2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。

1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。

ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。

また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。

2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。

19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派がおさえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した[25]。

政治潮流と政党

「レバノンの政党」も参照

ハリーリー元首相暗殺事件まで

2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。

(1)ル・ブリストル会合派(対シリア慎重派) 〔 〕内は代表・党首。
    進歩社会主義党(PSP, 民主会合ブロック)〔ワリード・ジュンブラート〕
    民主刷新運動
    ターイブ改革運動
    レバノン軍団(LF)〔サミール・ジャアジャア〕
    民主フォーラム
    国民ブロック党

など計9政党・ブロック

(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派(親シリア派)
    アマル運動(抵抗開発ブロック)〔ナビーフ・ビッリー国会議長〕
    ヒズボラ(抵抗への忠誠ブロック)〔ハサン・ナスルッラー〕
    マトン・ブロック
    トリポリ・ブロック
    バアス党
    レバノン民主党
    ターシュナーク党
    シリア民族社会党
    ナセル人民機構
    レバノン・カターイブ党

など計15政党・ブロック

(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流(中立派)
    ムスタクバル潮流(ベイルート決定ブロック)〔ラフィーク・アル=ハリーリー(当時)〕
    自由国民潮流〔ミシェル・アウン(当時仏に亡命中)〕

ハリーリー元首相暗殺事件後

2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。

内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。 さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。

こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。

(1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)

上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流

(2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)

シリア軍撤退後

2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。

シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。 一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。

つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。

結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。

(3)「四者同盟」を中心とする「与党」
    ムスタクバル潮流((1)3月14日)
    進歩社会主義党((1)3月14日)
    レバノン・カターイブ党((1)3月14日)
    レバノン軍団((1)3月14日)
    アマル運動((2)3月8日)
    ヒズボラ((2)3月8日)

など

(4)「変化改革ブロック」を中心とする「野党」
    自由国民潮流((1)3月14日)
    人民ブロック((2)3月8日)
    マトン・ブロック((2)3月8日)
    バアス党((2)3月8日)
    ナセル人民機構((2)3月8日)
    シリア民族社会党((2)3月8日)

など
2006年2月〜

シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度に渡り麻痺に陥った。

1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。

このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。 その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。

(1)「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
    ムスタクバル潮流
    進歩社会主義党
    民主刷新運動
    レバノン・カターイブ党
    レバノン軍団(LF)
    民主フォーラム
    国民ブロック党

など計12政党・ブロック

(2)「3月8日勢力」(親シリア派)
    アマル運動
    ヒズボラ
    自由国民潮流((4)変化改革ブロック)
    マトン・ブロック((4)変化改革ブロック)
    トリポリ・ブロック((4)変化改革ブロック)
    バアス党
    レバノン民主党
    ターシュナーク党
    シリア民族社会党
    ナセル人民機構

など計12政党・ブロック

※以上の分析は青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』 (岩波書店〈アジア経済研究所叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5) によった[要ページ番号]。
2009年8月〜

2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。 [26]

「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
    ムスタクバル潮流
    ハンチャク党
    民主左派運動
    ラームガヴァーン党
    レバノン軍団(LF)
    心のザフレブロック
    国民合意ブロック

など

「3月8日勢力」(親シリア派)
    アマル運動
    ヒズボラ
    自由国民潮流
    バアス党
    レバノン民主党
    マラダ潮流
    団結党
    ターシュナーク党
    シリア民族社会党

など

無所属
    進歩社会主義党
    レバノン・カターイ

    ブ党
    団結ブロック 』

(※ 中間を省略。)

『地理

地形図

詳細は「レバノンの地理」を参照

西に地中海、南はイスラエルと接し、その他はシリアに囲まれている。その形状は南北217キロメートル、東西の幅32〜56キロメートルという帯状を成している。面積は約10,400㎢で、日本でいえば岐阜県の面積とほぼ同じである。イスラエルとは79km、シリアとは375kmにわたって国境を接している。

西部にはレバノン山脈が、東部のシリア国境周辺にはアンチレバノン山脈が走り、その間にベッカー高原が存在する。国内最大の河川はリタニ川である。

ケッペンの気候区分によれば、ほぼ全土が地中海性気候である。

地方行政区分

レバノンの地図。
詳細は「レバノンの県」および「レバノンの都市の一覧」を参照

レバノンは9つの県 (ムハーファザ、muhafaza) に分かれる。

アッカール県(ハルバ)
バールベック=ヘルメル県(バールベック)
ベイルート県(ベイルート)
ベッカー県(ザーレ)
ケセルワン=ジュベイル県(ジュニーエ)
山岳レバノン県(バアブダー(英語版))
ナバティーエ県(ナバティーエ(英語版))
北レバノン県(トリポリ)
南レバノン県(サイダ)

その他の主要都市

ジュベイル(ビブロス)
バールベック
ザハレ
サイダ(シドン)
ティール(ティルス)
カナ 』

『経済

レバノンの首都ベイルート。

詳細は「レバノンの経済(フランス語版、英語版)」を参照

主な産業はオレンジやブドウの農業、また観光業や中継貿易である。

19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。

レバノンはまず農業国として成立したが、世界大戦後は第三次産業が活況を呈した。

戦後のレバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。

このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。航空路のハブとなったことから観光業も発達した。このため、ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれた。

しかし、1975年から続いた内戦によって、国内の産業・経済は壊滅し、人材や駐在企業の多くが他国に退避したため、その地位は失われた。

現在レバノン政府は、内戦やイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光施設の充実を図るなど経済復興を進めている。

またレバノン人は投資家、商人として南アメリカや独立間もないアフリカ諸国に移住し、現地で財を成しており、これら在外レバノン人からの送金も国家財政を大きく支えている。 』

『国民

詳細は「レバノンの人口統計(英語版)」を参照

民族

複雑な宗派対立を繰り返してきた歴史から、レバノンは1932年以来総人口の統計を除いた国勢調査を行っておらず[28]、現在に至るまでその時のデータを元にして政治権力の分配が行われている[29]。

国勢調査の大綱では、1924年8月の時点で大レバノン域内に居住していた住民に加え、国外へ移民した人々もレバノン国民とされた。

実際の調査がどのように行われたかは不明だが[29]、政治学者のラニア・マクタビは、既にレバノンを去ったキリスト教徒移住者を加えることで、ムスリムとの人口比率を操作したとものと推測している[30]。

レバノン人離散

遥か昔から多くのレバノン人が紛争などの理由でアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ(英語版))、各地で影響をあたえている。特にブラジルには、レバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。

シリアからの難民

国民ではないが、隣国シリアでの内戦から逃れてきた総勢100万人とも言われる難民の一部が、レバノンに大量に流入している。これらの難民の流入によって、レバノンの人口は10%も増加した[31]。また、同国でのシリア人難民少女の24%は、18歳までに強制的に結婚させられているという深刻な問題を抱えている[32]。

言語

詳細は「レバノンの言語(フランス語版)」を参照

公用語はアラビア語で、話し言葉(アーンミーヤ)はレバノン方言である。人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。

フランス統治時代に広まったフランス語(レバノン・フランス語(英語版))は教育やメディア、ビジネス等で日常的に使用され、準公用語的な地位を占めており、フランス語圏に分類される。

他にアルメニア語、ギリシャ語、クルド語、アラム語なども話されている。

また、英語を流暢に話す国民も多い[33]。

宗教

聖エリアス大聖堂と聖グレゴリー大聖堂(英語版)
詳細は「レバノンの宗教(英語版)」を参照

国民の54%がイスラム教、40.4%がキリスト教、5.6%がドゥルーズ派ほか他宗教。キリスト教の内訳はマロン派(マロン典礼カトリック教会)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ローマ・カトリック(ラテン典礼)なども存在する。正教会信徒はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。

「Category:レバノンの正教徒」も参照

宗教構成(レバノン)

イスラム教シーア派・スンニ派

54%
キリスト教諸派

40.4%
ドゥルーズ派・その他

5.6%

アルメニア人は少数派としては比較的大きなコミュニティを形成し(アルメニア人街に入るとアラビア語が通じないケースも多い)、アルメニアカトリック、アルメニア使徒教会、アルメニア福音教会を擁し、婚姻などで改宗したごく少数の例を除きキリスト教徒である。政治的にはほぼ他のキリスト教政党と同調している(内戦時には中立を維持と主張し、事実ファランヘ党などとは距離をおいていた)。

また、イスラム教にはスンナ派、シーア派のほかドゥルーズ派、アラウィー派などが存在する。後者2派がイスラム教の枠に入るかどうかは教義的には議論が分かれ、異端と見なす向きも多いが、レバノンの政治上はイスラム枠に分類されている。

アラウィー派は独立時にはレバノンの政治構成要素ではなかったため、ほとんどのレバノン人は同派に対して身内・同胞という意識を有していない。

同派はシリアの地中海沿岸部、つまりレバノンの北部国境を越えた山岳・丘陵地帯に主に居住しており、フランスから独立したあとのシリアにおいて権力を掌握した集団である。
シリアがレバノンの政治に介入し始めた1970年代から、北部の町トリポリ郊外を中心に集団移住をしてきたが、それでも国会の議席を新規に割り当てられることはなかった。

シリア主導のレバノン平定を取り決めた1989年のターイフ合意とその流れを汲む憲法改正、選挙法改正を経て、ようやく2議席があてがわれた。

他、少数であるがユダヤ教徒の議席も設けられている。

「レバノンの信教の自由(英語版)」も参照

教育

詳細は「レバノンの教育(英語版)」を参照

2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性93.1%、女性82.2%)である[34]。

主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(英語版)(1951年)などが挙げられる。

ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。アメリカン・スクール、ブリティッシュ・スクール、フランス系ミッションスクール、イタリアン・スクール、ジャーマン・スクール、トルコ系スクール等々で、これらの学校では自国の子弟だけでなく、門戸を広く開放している[35]。

保健

詳細は「レバノンの保健(英語版)」を参照
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社会

詳細は「レバノンにおける社会(英語版)」を参照

レバノンにおける社会文化では、家族生活は非常に重要なものとして捉えられており、特に父系の親族グループの存在は、レバノン人のアイデンティティを構築するものとして注視されている。家族は、レバノン社会において集産主義の価値などに関連している面を持つ[36] 。

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治安

レバノンの治安は不安定さが著しい状態となっている。

レバノンでは犯罪件数等に関する統計を公表していないが、連日各種犯罪の発生について報じられている一面がある。

また、レバノン国内の経済・財政危機が深刻化し、燃料不足や停電、食料品および医療品等の生活必需品の不足・高騰が生じているなどの背景もあり、国内全域において窃盗、薬物犯罪(英語版)等の各種犯罪が増加傾向にある。

一方、過去の内戦の影響により国内には銃器が出回っている為、強盗や傷害事件では銃器を使用したケースが多く見られる他、死傷者を伴う銃撃事件等も発生している。

その他にも、薬物関連の犯罪が深刻化しており、バイクによるひったくり事件も確認されている[37]。

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人権

詳細は「レバノンにおける人権(英語版)」を参照
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女性の権利

詳細は「レバノンの女性(英語版)」を参照

レバノンの女性は1953年2月8日付で女性参政権を獲得しているが、ヒューマン・ライツ・ウォッチからは「レバノン当局が『女性を暴力から保護し女性に対する差別をなくす』法的義務を果たせていない」と報告されている[38]。

なお、レバノン政府は国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(女子差別撤廃条約)」第16条を未だ導入していない[39]。

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マスコミ
詳細は「レバノンのメディア(英語版)」を参照
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「レバノンにおける郵便と電気通信(英語版)」も参照
新聞
詳細は「レバノンの新聞の一覧(英語版)」を参照
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文化

レバノン杉の木。
詳細は「レバノンの文化(英語版、フランス語版)」を参照
食文化
詳細は「レバノン料理」を参照

地中海世界の食文化のひとつであるレバノン料理は、野菜やハーブ、オリーブ油を多用した料理が多いことに特色がある。世界的に有名なフンムスやファラーフェル、ケバーブ料理はレバノンでも人気が高い。

レバノンワイン(英語版)も古代オリエントがワイン発祥の地と謳われるだけあり、多数のワイナリーを抱え、世界的にも評価が高い。

文学
詳細は「レバノン文学(フランス語版)」および「アラビア語文学」を参照

20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をカイロと争っていた。

文学においては、ブシャッリに生まれたハリール・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された[40]。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリー、アミン・マアルーフ、ハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。

音楽
詳細は「レバノンの音楽(英語版)」を参照

レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。

中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、作曲家にしてウードの演奏家であるレバノン人でありながらパレスチナを主題とした音楽を多く発表し、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロス、マジダ・エル・ルウミ、サバー、ワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズ、ナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。

他のアーティストが西洋の音楽との融合を図る中、ナジワ・カラームやアッシ・エル・ヘラーニのようなレバノンのアーティストは、’jabali’(「山より来る」)として知られるような伝統的な形式の音楽に忠誠を尽くしている。

1981年に発表されたレバノンのアラブ演歌歌手であるアーザール・ハビブの楽曲である「 حبيتك (お前が好きだった)」が2000年にHatten ar dinという動画で使われ世界中で再生された。しかし、アラブ演歌としてではなく、スウェーデン語の空耳に聞こえるという動画作成者の勝手な解釈や関連の無い画像の面白さで流行した。

近年では、欧米のプログレッシヴ・ロックの影響を受けたギタリスト Amadeus Awad の作品が国外でも発売されている。

演劇

レバノンに存在する劇場の大部分は首都ベイルートに拠点を構えている[41]。
「レバノンの劇場(英語版)」も参照
映画
詳細は「レバノンの映画(英語版)」を参照
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美術

美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンのもっとも傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。ファルークはレバノンが政治的独立を主張していた時に国民主義的なレバノン人画家だとみなされた。彼の芸術はレバノンの人々の気質と個性を捉え、彼は同世代の中で突出した画家だと見なされた。彼は五冊本を書き、ベイルート・アメリカン大学で芸術を教えた。

「レバノンのアーティストの一覧(英語版)」および「レバノンの美術館の一覧(英語版)」も参照
建築
ベイトエッディーン宮殿(英語版)
詳細は「レバノンの建築(英語版)」を参照

レバノンは石造りの城が多く遺されている場所として知られている。一例としてレイモンド・ド・サン・ジル城塞(英語版)やムッサ城(英語版)が存在する。
「レバノンの建築家の一覧(英語版)」も参照
世界遺産
詳細は「レバノンの世界遺産」を参照

レバノン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件存在する。

アンジャル - (1984年)

バールベック - (1984年)

ビブロス - (1984年)

ティルス - (1984年)

カディーシャ渓谷と神の杉の森 - (1998年)

祝祭日
詳細は「レバノンの祝日(英語版)」を参照
祝祭日 日付 日本語表記
5月1日 メーデー
5月6日 殉教者の日
8月1日 軍隊記念日
11月22日 レバノン独立記念日(1943年11月22日)

1977年1月1日の閣議で、それまでは一年に25日もあった国民の祝祭日を一挙に14日まで減らして、国民の勤労意欲を掻き立てることを決定した[42]。
スポーツ
詳細は「レバノンのスポーツ(英語版)」を参照

レバノン国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1934年にプロサッカーリーグの「レバノン・プレミアリーグ」が創設された。サッカーレバノン代表はFIFAワールドカップには未出場であるが、AFCアジアカップには2度の出場歴をもつ。著名なレバノン人のサッカー選手としてはジョアン・オマリが挙げられる。当時ドイツ2部のFSVフランクフルトやJリーグ・FC東京などで主に活躍した、レバノンを代表するセンターバックである。
「レバノンのサッカー(英語版)」も参照
著名な出身者
詳細は「レバノン人の一覧」を参照 』

バラクラバ

バラクラバ
https://en.wikipedia.org/wiki/Balaklava#Underground_submarine_base

『(※ 原文は、英文。翻訳は、Google翻訳)

バラクラバ

この記事はクリミアの街についてです。その他の使用法については、 バラクラバを参照してください。

Balaklava(ウクライナ語:Балаклáва、ロシア語:Балаклáва、クリミアタタール語:Balıqlava、ギリシャ語:Σύμβολον)は、クリミア半島とセヴァストポリ市の一部にある集落です。セヴァストポリ市に移管される前はクリミア州の一部であったバラクラフスキーライオンの行政の中心地です。人口:18,649人(2014年国勢調査)。[1]

バラクラバ
БалаклаваBalıqlava
_
セヴァストポリ の一部
バラクラの旗
国旗
バラクラの紋章
紋章

Balaklavaはセヴァストポリにあります
バラクラバ
セヴァストポリ内のバラクラバの場所。
座標:44°30′0″ N 33°36′0″ E

紛争中のロシア、ウクライナ

領域
セバストポリ
標高
10 m(30フィート)
人口
• 合計
18,649
タイムゾーン
UTC + 4(MSK)
郵便番号

299xxx
エリアコード
+ 380-692
旧名
チェンバロ(1475年まで)、ヤンボリ、シンボロン
Webサイト
http://sovetbalaclava.ru/
コンテンツ

歴史
バラクラ港、1830年
バラクラ港、1855年、 ロジャーフェントンが撮影

Balaklavaは、その歴史の中で何度か所有権を変更しました。現在の場所にある集落は、重要な商業都市であった古代ギリシャ人によってシンボルン( Σύμβολον)の名前で設立されました。

ハーバービュー、バラクラバ、ウクライナ、 画像コレクション部門、ナショナルギャラリーオブアートライブラリー、ワシントンDC

中世の間、それはビザンチン帝国によって支配され、 1365年にそれを征服したジェノバによって支配されました。

ビザンチンは町をヤンボリと呼び、ジェノバはそれをチェンバロと名付けました。

ジェノバ人は地中海と黒海の両方に大規模な貿易帝国を築き、東ヨーロッパで奴隷を購入し、ベネチア人が激しく争った儲かる市場であるクリミアを経由してエジプトに輸送しました。

バラクラインレットの入り口の上の崖の上にあるジェノバの要塞の遺跡は人気のある観光名所であり、最近では中世の祭りの舞台になっています。要塞は、ミツキェヴィチの1826年のクリミアソネットのサイクルにおける最後から2番目の詩の主題です。

1475年、チェンバロ市はトルコ人に征服され、その後バリクユバ(魚の巣)と改名され、バラクラバになりました。[2]

1768年から1774年の露土戦争中、 1771年にロシア軍がクリミアに侵攻しました。

13年後、クリミアはロシア帝国に完全に併合されました。

その後、クリミアタタール人とトルコ人の人口は、群島からのギリシャ正教の人々によって強制的に置き換えられました。[要出典]

1787年にエカチェリーナ2世が街を訪れました。[3]

クリミア戦争中のバラクラヴァの戦いで有名になった町は、軽騎兵の突撃のおかげで有名になりました。

これは、誤解によるイギリスの騎兵隊が、ロシア人によって3つの側面に強く保持された谷を送り、約250人の兵士がいたためです。

死亡または負傷し、400頭以上の馬が失われ、搭載された旅団のサイズが3分の2に効果的に縮小され、世界で最も優れた軽騎兵の一部が軍事目的で破壊されました。[4]

イギリスの詩人アルフレッド、テニーソン卿は彼の軽騎兵の突撃で詩の戦いを不滅にした。

目出し帽は、頭と首全体を目と口の穴で覆うタイトなニットの衣服であり、兵士が最初に着用したこの集落にちなんで名付けられました。

また、19世紀後半に英語圏の国々で設立された多くの町は、「バラクラバ」と名付けられました(バラクラバ(曖昧さ回避)を参照)。

1954年、バラクラバはクリミア全体とともに、ロシアからウクライナに渡りました。

1957年にソビエト政府によってセヴァストポリの市境に正式に組み込まれ、市の地位を失いました。

それは1991年にウクライナの独立国家の一部になりました。今日、町には、大祖国戦争、クリミア戦争、ロシア内戦などの過去の戦争での軍事的勇気の記憶に捧げられた50以上の記念碑があります。[要出典]

ロシア連邦による国際的に認められていない 2014年のクリミア併合以来、バラクラバは他のクリミアとともにロシアによって管理されています。2019年、ロシア当局はセヴァストポリ内の都市のバラクラバステータスを付与しました。[5] [6]

バラクラーヴァ湾

地下潜水艦基地

記念碑の1つは、1993年まで運用されていた、以前は分類されていた地下の潜水艦基地です。

基地は事実上破壊不可能であり、直接的な原子衝撃に耐えるように設計されていると言われています。

その期間中、バラクラバはソビエト連邦で最も秘密の住宅地の1つでした。

バラクラのほぼ全人口が一度に基地で働いていました。家族でさえ、正当な理由と適切な身分証明書なしにバラクラバの町を訪れることはできませんでした。

ソビエト連邦の崩壊後も基地は稼働し続けた1991年から1993年に廃止措置プロセスが開始されるまで。

このプロセスでは、弾頭と低収量の魚雷が除去されました。

1996年に、最後のロシアの潜水艦が基地を去りました。その後、基地は海軍博物館複合施設バラクラバとして一般公開されました。

クリミア戦争中のバラクラバでの陸軍キャンプ

現代のバラクラバ-ジェノバの要塞からの眺め

潜水艦ソビエト海軍基地への入り口

トンネル

も参照してください

ケープアヤ–風光明媚な洞窟で知られるバラクラバ近くの岬
1854年の大嵐
ヒックスウィザーズ-ランカシャー

ノート

ロシア連邦国家統計庁(2014)。” Таблица1.3。ЧисленностьнаселенияКрымскогофедеральногоокруга 、городскихокругов、муниципальн クリミア連邦管区、その都市オクルグ、地方自治体、都市および農村集落の人口]。Федеральноестатистическоенаблюдение«ПереписьнаселениявКрымскомфедеральномокруге»。(「クリミア連邦管区の人口調査」連邦統計調査)(ロシア語)。連邦国家統計庁。2016年1月4日取得。
Sergei R. Grinevetsky、etal。「黒海百科事典」、Springer、2014年:80–81。

Balaklavaを取り巻くいくつかの農村コミュニティは、1944年に国外追放されるまで、クリミアタタール人が住んでいました。 [要出典]

ブライトン、テリー、地獄のライダー:光の旅団の突撃についての真実。ロンドン:ペンギン、2005年。ニューヨーク:ヘンリーホルト、2005年。

“АргументыНедели.Крым” Балаклаваофициальносталагородом[バラクラバは正式に都市になりました](ロシア語)。2019-08-04にオリジナルからアーカイブされました。2019年8月4日取得。

Закон города Севастополя от 23 июля 2019 года № 518-ЗС «О внесении изменений в Закон города Севастополя от 3 июня 2014 года № 19-ЗС „Об административно-территориальном устройстве города Севастополя“»[2019年7月23日のセヴァストポリ市法#518-ZS「セヴァストポリの行政区域分割に関する法律の改正について」](ロシア語)。pravo.gov.ru。2019-08-04にオリジナルからアーカイブされました。2019年8月4日取得。

外部リンク
ウィキボヤージュにはバラクラの旅行ガイドがあります。
ウィキメディアコモンズには、バラクラバに関連するメディアがあります。

(英語) Balaklava and the Sevastopol Inquiry、1855、Commander W.Gordon、RN
(英語) Balaklava Photoalbum
(ロシア語) バラクラのジェノバ要塞
(英語)ロシアの地下潜水艦基地Englishrussia.com(写真)
(英語)ロシアの地下潜水艦基地Iconicarchive.ch(iconicarchiveギャラリー)
(ロシア語) バラクラのパノラマ
(英語) 地下潜水艦基地の写真[永久デッドリンク]

最終編集日:2022年4月30日00:46
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セヴァストポリ

セヴァストポリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9D%E3%83%AA

『セヴァストポリ(ウクライナ語:Севастополь, [seʋɐˈstɔpɔlʲ] (セワストーポリ)、ロシア語:Севастополь, [sʲɪvɐˈstopəlʲ] (シヴァストーパリ)、ラテン文字転写の例:Sevastopol、クリミア・タタール語:Акъяр (アキヤール), Aqyar)は、黒海に面したクリミア半島南西部に位置する都市である。

首都のキエフとともに、ウクライナの特別市であったが、2014年3月17日にクリミア自治共和国とともに主権宣言した上で、翌3月18日にロシア連邦と条約を締結し、ロシア連邦の構成主体となったとしている[1]。

一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナおよび国際連合(総会決議68/262)との間で論争が続いている状態である。

広義・行政区画上のセヴァストポリ(特別市 / 連邦市)は864平方キロメートル、41万6263人(2016年)。4つの行政区で構成され、インケルマン(英語版)やカチャ(英語版)などの集落を含む。 狭義・都市としてのセヴァストポリは57.45平方キロメートル、37万750人(2016年[2])。 』

『歴史

古代この地にはボスポロス王国の都市ケルソネソス(ケルソン)があり、6世紀に東ローマ帝国の統治下になった後も東ローマ帝国のクリミア半島における統治の拠点、ハザールやキエフ大公国などとの交易拠点としてテマ(軍管区)が置かれ、12世紀のコムネノス王朝時代まで東ローマの領土であった。

12世紀後半に東ローマが衰退すると、その後はモンゴル人のジョチ・ウルス、その後裔のクリミア・ハン国などの支配下にあったが、1783年、ロシア帝国がクリミア半島を併合した際、一緒に組み込まれた。

その後、重要な海軍基地、商業港として発展してきた。

1856年のセヴァストポリ

1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスがオーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストポリに変更。

ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を築いて要塞化したが、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒーモフ提督やヴラジーミル・コルニーロフ提督も戦死し(セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年))、1855年9月に放棄を決定。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えに返還された。

第二次世界大戦時、要塞化された同地に対してドイツ軍は80cm列車砲「ドーラ」、カール自走臼砲などを用いて攻略、占領したが、その後赤軍の反撃によりセヴァストポリはソ連へ取り戻された。(セヴァストポリ包囲戦 (1941年-1942年))

ソビエト連邦の時代には、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内のクリミア州の一部としてではなく、キエフ(1954年以前はモスクワ)の直轄下に置かれ、外国人の立ち入りを固く規制する閉鎖都市だった。

ソ連時代に、クリミア戦争と第二次世界大戦での攻防戦の奮闘を讃え英雄都市の称号を与えられた。

ソビエト連邦崩壊後のセヴァストポリ軍港にはロシア連邦の海軍基地とウクライナ海軍の司令部も置かれている。

ソビエト連邦時代はソ連の黒海艦隊の基地であったが、ソ連邦解体後の1997年にロシア・ウクライナ間で締結された協定により、2017年まで租借、また2010年に再締結された協定によりさらに2042年まで駐留が認められることになった。

ウクライナが受け取る租借料は年間9800万ドルであり、そのセヴァストポリ軍港租借料はウクライナがロシアへ払うガス料金未納分を考慮して決められている。

ロシア編入後のセヴァストポリ(2014年4月)

ロシアとウクライナの政治対立から、セヴァストポリのロシア領土編入を求める運動がしばしば同地に住むロシア人住民によって起きており、両国の対立の火種となってきた。

2010年以降のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権では対立は沈静化していた。

しかし2014年2月にヤヌコーヴィチ政権が崩壊し、親欧米派の暫定政権が樹立されたことにロシアは反発。

2014年3月11日、ロシア軍の占領下で実施された同月16日の住民投票においてクリミアのロシアへの編入が賛成多数を得た場合、ウクライナよりいったん独立する決議をクリミア自治共和国とともに採択した(クリミア・セヴァストポリ独立宣言)[3]。

16日の投票では賛成票が全体の9割を超え(2014年クリミア住民投票)、クリミア自治共和国とともに主権宣言した上で(クリミア共和国)、3月18日にロシア連邦に編入される条約をロシア連邦と締結した(ロシアによるクリミアの併合)。

この編入により、セヴァストポリはロシア連邦の連邦市という位置付けになったが、ウクライナを始めとする大多数の国は認めていないため、国際的にはウクライナの特別市のままである。

2014年4月1日には市政のトップが市長から知事へと改められた[4]。 』

『行政区分

「セヴァストポリ特別市の行政区画」および「セヴァストポリ連邦市の行政区画」も参照
セヴァストポリの行政区分

  1. Gagarin Raion (pink)
  2. Lenin Raion (red)
  3. Nakhimov Raion (blue)
  4. Balaklava Raion (light green)
  5. Inkerman (green) ガガーリン地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)・・・ケルソネソス
    レーニン地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)
    ナヒモフ地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)
    バラクラヴァ地区(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版) – バラクラヴァ・・・旧ソ連バラクラヴァ原子力潜水艦地下秘密基地(Balaklava Underground submarine base)の所在地
    インケルマン(ウクライナ語版、ロシア語版、英語版)

産業

帝政ロシア時代以来セヴァストポリは軍港都市・商港都市として発展してきた。またリゾート地・観光地としても有名である。
人口

母語話者(セヴァストポリ市) 2001

ロシア語

90.6%

ウクライナ語

6.8%

2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。

総人口:379,500人[5]
都市人口:358,100人(94%);農村人口:21,400人(6%)[6]
性別人口:男性は173,500人(46%);女性は206,000人(54%)[7]

民族構成[8]

ロシア人

270,000人 (71.6%)
ウクライナ人

84,400人 (22.4%)
ベラルーシ人

5,800人 (1.6%)
タタール人

2.500人 (0.7%)
クリミア・タタール人

1,800人 (0.5%)
アルメニア人

1,300人 (0.3%)
ユダヤ人

1,000人 (0.3%)
モルドヴァ人

800人 (0.2%)
アゼルバイジャン人

600人 (0.2%)
姉妹都市

ロシアの旗 サンクトペテルブルク、ロシア 2000年
ジョージア (国)の旗 ポティ、ジョージア 2008年
ロシアの旗 ペトロパブロフスク・カムチャツキー、ロシア 2009年

標準時

Map of Russia – Moscow time zone.svg この地域は、モスクワ時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。ロシア編入前は標準時がUTC+2で、夏時間がUTC+3であった。2014年3月に通年UTC+4に変更されたが、同年10月に通年UTC+3に変更された。』

ノルディックバランス

ノルディックバランス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9

 ※ スウェーデンとNATO間には、実は「密約」があったという話しを、民放のワイドショーでやっていた(テレ朝系、「大下容子のワイド!スクランブル」で、どっかの大学の先生が、語っていた)。

 ※ それで、調べた…。

 ※ なるほど、本当のようだ…。

 ※ 「ワイド!スクランブル」、恐るべしだ…。

 ※ こういう「密約」されると、大分経って「機密解除」にならないと、我々一般人は、知る由も無い…。

 ※ 相当、アンテナを張り巡らしておかんとな…。

 ※ そういう「背景」があっての、今般の「正式加盟申請」の事態となっている…。

 ※ 何事も、一朝一夕の話しじゃ無いんだ…。

『ノルディックバランス(英語: Nordic Balance)とは、第二次世界大戦後の東西冷戦中における、北欧諸国の動向。

アメリカ寄りのデンマークとノルウェー、中立のスウェーデン、ソ連寄りのフィンランド、いわゆる「北欧の均衡」である。

北欧に表面的な平和を提供するものと言われた。

しかし最近[いつ?]の研究[誰によって?]によれば、むしろアメリカと同盟のノルウェー、アメリカ寄りの中立のデンマークとスウェーデン、ソ連寄りの中立のフィンランド、という状態がより実態に近かったとも考えられている[独自研究?]。(フィンランド化も参照)

冷戦期の実態はソ連がたびたび北欧への領海違反、スパイ事件を起こしており、平和を維持するどころではなかった。

北欧の中立政策が重心とは言え、スカンディナヴィア三国はソ連とは敵対に近かった[要出典]。

冷戦終結後にノルディックバランスも消滅した。

スウェーデンとフィンランドは、EUに加盟(1995年)。デンマークは、既に1973年にEC加盟。ノルウェーはEU加盟案を国民投票で否決し、現在に至っている。 』

『デンマーク

デンマークはナポレオン戦争以来、近隣の列強を刺激しないようにすることを安全保障の基本政策としてきた。

したがって、その本質は中立である。

しかし、ナチス・ドイツによる占領の経験を踏まえ、自国デンマークのような小国の単独中立は不可能であると結論づけ、何らかの同盟を必要とし、それを模索しはじめた。

1949年にスウェーデンの外相アーステン・ウンデーン(スウェーデン語版、英語版)が提唱したスカンディナヴィア防衛同盟を中立と同盟とを両立させるものとして歓迎したのである。だからこそ、それが挫折したあとには、次善の策としてNATO加盟へと至ったのである。

かかる背景を持つデンマークがNATOの中でたびたびアメリカ等と衝突したのは必然と言ってよいのだろう。

このためデンマーカイゼイション(デンマーク化)とレッテル貼りされることになる。

ここにアメリカの傲慢さと焦燥感が同時に見て取れるが、アメリカとデンマークは共に相手を必要としていた。

超大国と小国という違いはあれど、複雑な冷戦外交の中でギリギリの妥協と互いの国益を追求した両者の必死な姿が浮き彫りになっていると言えよう。

フィンランド

フィンランドは独ソ不可侵条約ではナチスに、冷戦ではアメリカ・イギリスによってソ連に売り渡されることになった。

隣国スウェーデンは、国民感情の上ではフィンランド寄りの立場であったが、ナチスとソ連の間で孤立を余儀なくされたことで中立維持に念頭を置いたため、結果的にフィンランドを見殺しにする格好になっていた。

したがって、継続戦争時のナチス・ドイツとの同盟を除いて、他国と連携してソ連に対抗することなどは最初から選択肢になりようがなかった悲劇の国である。

さらに、第二次世界大戦初期にはフィンランド湾対岸のバルト三国(とくにフィンランドと民族的・文化的にも近いエストニア)がソ連の直接的な支配下に置かれたこともあって、単独で超大国ソ連と向かい合わなければならなかった。

完全な独立を念頭に置いた安全保障政策を考えることが不可能である状況下においては、独立の大義とした民主主義を守ることを譲れない一線としたのである。

戦後スウェーデンは、戦時中のフィンランドに対する仕打ちから、フィンランドを重視し、より配慮する様になった。

ソ連との特別な関係を有するフィンランドの利益を尊重するため、NATOへは加入せず、冷戦においては武装中立政策を強化して行くこととなる。

不可能に近い命題を抱える中で独立の理念を守る何らかの手がかりにしたのは、中立指向である。

冬戦争・継続戦争における徹底抗戦後のソ連とのギリギリの交渉の結果、同盟は結ぶが有事の際の中立を認めさせることに成功し、それを安全保障の基本政策とした。

また、できる限りソ連を刺激するような言動を慎み、親ソ路線をことあるごとに内外にアピールした。

このソ連への従属・迎合ぶりがフィンランド化という言葉の誕生した背景であったが、逆説的に言えばフィンランドのしたたかさを証明するものでもある。

ノルウェー

ノルウェーは独立以来、当時のヘゲモニー国家であるイギリスの軍事的な支援を安全保障の基本政策としてきた。

地理的に近接していることもあってか、第二次世界大戦でも亡命政権はロンドンに置かれていた。

イギリスの国力が衰えると、今度は超大国のアメリカをその代替に考えていたようである。

したがって英米との同盟はノルウェーにとって譲れない一線であり、スウェーデンの外相ウンデーンのスカンディナヴィア軍事同盟構想に対してNATOへと合流することを条件とすることに拘ったのである。

そして交渉の決裂後、原加盟国としてNATOへ参加したのは当然の帰結である。

また当初はシャルル・ド・ゴール仏大統領のもとで反英米的な色彩の強かった欧州経済共同体 (EEC) ではなく、イギリス主導で結成された欧州自由貿易連合 (EFTA) に加盟している。

ド・ゴール退陣後はイギリス自身も含めたEFTA諸国が次々と組織を脱退してEECの後身にあたる欧州共同体 (EC) に加盟したが、ECのさらに後身である欧州連合 (EU) にノルウェーは加盟していない
(2014年現在のEFTA残留国はノルウェー、スイス、アイスランド、リヒテンシュタインの4か国のみ)。

しかし決してアメリカ一辺倒ではなく、NATOを巡って分裂してもなおスウェーデンとの繋がりを極めて重視していた。

大国スウェーデンの軍事力をソ連に対する盾として期待する一方、自らが仲介役となりスウェーデンとNATOとの秘密同盟をも実現させている。

また21世紀に入っては日本とともに遠くスリランカ内戦の講和仲介に乗り出すなど主体的な政策も展開しており、単なるNATO陣営の一員としてのみにあらず、複雑な冷戦構造の中で自らの安全保障を追求し、その経験を培ってきたことが窺える。

スウェーデン

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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年3月)

スウェーデンはナポレオン戦争終結後以来、中立外交を安全保障の基本政策として来た(武装中立、中立主義)。

また、スウェーデンは北欧諸国の中で唯一、単独中立を自らの軍隊によって担保することが可能な戦力を持ち得た国であり、第二次世界大戦においてもそれは成功を収めている。
そのため外相ウンデーンが提案したスカンディナヴィア防衛同盟は、米ソに対する中立を基礎としており、このためノルウェーとの交渉は難航し、結局実現することは無かった。
もちろんNATOに加盟しないことは当然とされた。

しかし冷戦が激化すると、デンマークやノルウェーを窓口にNATOとの密約を結んでいたことが、公開された外交資料などで分かってきた。

有事の際にはNATOへと加盟し、対ソ戦に参戦するというものである。

しかも極めて詳細に内容が決められており、スウェーデンは名目ほどには中立ではなく、実態はアメリカ寄りだったということである。

その強かな外交手腕は200年以上の平和を維持してきた原動力であるといえる。

スウェーデンは他北欧諸国と共に徴兵制を敷いてきた歴史があり、国力に比して大規模な軍を組織し、軍需産業の維持にも熱心な重武装中立国である。

しかしパルメ首相のようにベトナム戦争を非難し、対米批判を行ない、積極中立を遂行出来得る程、スウェーデンの中立政策には自信と実力を兼ね揃えていたと言える。

それをあえて西側諸国、米国よりの立場に立ったのは、中立と防衛同盟構想を越えた、北欧全体の自由と平和を守る戦いでもあったからである。

そして冷戦後は、中立主義を事実上放棄している。

一方、ソ連・ロシア寄りの隣国フィンランドとの関係は、フィンランドが存亡の危機を迎えた冬戦争・継続戦争の際に中立を保持して結果的に見捨てたことや両国の経済格差により微妙なものがあった。

冷戦終了後、両国は経済的には相互依存しつつもなお、スウェーデン人はフィンランド人を貧しいと蔑み、フィンランド人はスウェーデン人を尊大だと憎む民族感情が日常生活レベルで続いている[要出典]

(こうした感情は、近代まで大国間の抗争によって翻弄され、他国によって支配されて来た民族の感情の一面を顕しているとも言えるが、

フィンランドの場合、1918年の独立から冷戦期にかけて苦渋の外交を強いられて来ており、対ソ関係においても相互不信が存在したように、フィンランドはこうした大国間の抗争に翻弄されて来た歴史的経緯があった。

しかし冷戦終結とソビエト連邦の崩壊後は、新たな政治外交の再編の過程を歩んでおり、1995年にはスウェーデンと共にEUに加盟し、西欧諸国の一員となるのである)。

中立主義は、19世紀以来のスウェーデンの国是であり、武力行使は控えて来たが、18世紀以降のスウェーデンの国情からすれば止むを得ないものもあった。

英米に見殺しにされ、ソ連の横槍があっては、ドイツによるヨーロッパ占領を目の当たりにしていたスウェーデンの現実的な外交政策上、単独介入は不可能とも言えた。

しかしスウェーデンは、フィンランド内戦やソ芬戦争において義勇軍を送り、第二次世界大戦において人道的行為を行った様に決して日和見的な中立政策に偏っていたわけではなかった。

脚注

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この節の加筆が望まれています。
主に: 脚注形式での出典明記 (2015年3月)
[脚注の使い方]

参考文献
読書案内

武田龍夫『物語 北欧の歴史 - モデル国家の生成』中央公論新社〈中公新書 1131〉、1993年5月。ISBN 978-4-12-101131-2。
武田龍夫『北欧の外交 - 戦う小国の相克と現実』東海大学出版会、1998年8月。ISBN 978-4-486-01433-1。
『北欧史』百瀬宏、熊野聰、村井誠人編、山川出版社〈新版世界各国史 21〉、1998年8月、新版。ISBN 978-4-634-41510-2。

関連項目

冷戦
西側諸国
北大西洋条約機構
北欧理事会
スウェーデンの原子爆弾開発
ウィスキー・オン・ザ・ロック
汎スカンディナヴィア主義
デンマーク化
フィンランド化 』

ヴァイキング

ヴァイキング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

『ヴァイキング(英: Viking、典: viking、独: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年 – 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装集団を指す言葉。

通俗的には、ヴァイキングは角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士であるとされるが、このイメージは後世の想像の影響が強く、実際には略奪を専業としていたのではなく交易民でもあり、故地においては農民であり漁民であった。

各地に進出し、北ヨーロッパの歴史に大きな影響を残したが、次第に海上の民としての性格を失い、13世紀までには、殆どのヴァイキングは消滅した。 』

『名称

ヴァイキングという呼称の語源は古ノルド語: víkingr(氷語: víkingur、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語: vík(氷語: vík)は湾、入り江、フィヨルドを意味する。スカンジナビア半島一帯に点在するフィヨルドのことをヴィークと呼んだため、その「ヴィークの人々」を指して「ヴァイキング」と呼ぶようになったと考えられている。後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からはノルマン人とも呼ばれる。

また、『サーガ』や『エッダ』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」「航海」「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある[1]。
背景

彼らは北方系ゲルマン人で、9世紀に入って侵略などを活発化させた。どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。
現在の説

ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期(10世紀 – 14世紀)にはじまり、小氷河期(14世紀半ば – 19世紀半ば)に収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。
キリスト教と宗教的対立

ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumézilはヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている[要出典]。Rudolf Simek教授は“初期のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない”と分析する。カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは考えられる[要出典]。
技術的優位性からの富を求めた侵略

ヴァイキングは通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるものである。
その他の説

人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなく、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという仮説である。しかし、生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
人口過剰説として、中世の温暖期も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。
大陸ヨーロッパではゲルマン民族移動など民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに南下して付け入ったという説もある。
能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかったというものである。

風俗
史実に近い形で描かれたヴァイキング。ただしここに描かれている人物はノヴゴロド公リューリクであり、半伝説的な人物である事には留意されたい。

ヴァイキング戦士の格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特徴となる。

ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。

族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。

ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍の騎士の一般的な装備ともなっている。

ステレオタイプ

一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプとして知られている[2]。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない[3]。角のついた兜は、古代ローマ時代にローマと敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に分かれていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。

ヴァイキングは広く金髪であると言うイメージを持たれている。実際には多くのヴァイキングは茶色い髪を持ち、スカンディナヴィア出身者以外の遺伝子の影響も大きく、血統内にはアジアや南欧由来の遺伝子も存在した[4]。
ヴァイキングの舟
オーセベリ船
(ヴァイキング船博物館、オスロ)
詳細は「ヴァイキング船」を参照

ヴァイキングは「ロングシップ」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸のフランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。戦闘に主に用いられた。[要出典]ロングシップのほか、戦闘にも貿易にも使用できたと考えられているクナールなど、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた[5]。

ヴァイキング船については、オスロ市ビグドイ地区にあるヴァイキング船博物館、およびデンマークのロスキレにあるヴァイキング船博物館が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習(船葬墓)があり、ノルウェー・ヴェストフォル県トンスベルグ近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかったオーセベリ船や、[要出典]同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ墳丘で見つかったゴクスタ船など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした[6]。オスロのヴァイキング船博物館には、オーセベリ船およびゴクスタ船、トゥーネ船が展示されている。
商業
ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している

ヴァイキングは通常の商業も活発に行っており、ユトランド半島東岸のヘーゼビューや、スウェーデンのビルカは商業拠点として栄えた。ビルカからの交易ルートは、例えばブリテン諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、ヨーロッパロシア、北アフリカに達した。9世紀のイスラム・ディレム銀貨がバルト海のゴトランド島から大量に発掘されるなど、西アジアへの交易路はルーシの地を経て東ローマ帝国やイスラム帝国へと出る、いわゆるヴァリャーグからギリシアへの道によって東方世界とつながっており、コンスタンティノープルとの貿易も、ヴァイキングの通商路である。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。
初期のヴァイキング
リンデスファーン修道院の廃墟

西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。

本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年の北部イングランドのリンデスファーン修道院襲撃からとされる[7][8]。以後、795年にはヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

中世初期の文献資料は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)とペスト(黒死病)は二大脅威だったのである[1]。

793年、ノルマン人と思われる一団によって、ブリテン島東岸のリンディスファーン修道院が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、西ヨーロッパの記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。

ヴァイキングは、9世紀にフェロー諸島、次いでアイスランドを発見した。そしてアイスランドからグリーンランド、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行してイスタンブールに進出していった。

ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った[1]。10世紀に入るとパリがヴァイキングにより包囲され、ロワール川流域も荒廃した。10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロが西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3世によってキリスト教への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川流域に領土を封じられた[9]。これがノルマンディー公国の始まりである(なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1世がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエストである)。

ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる[10]。
各国のヴァイキング
デンマークおよびノルウェー
デーンロウ:黄色の部分
ヴァイキングの入植地オーフス再現モデル

アングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングはデーン人 (Daner, Dane) と呼ばれ[11]、ヴァイキングの代名詞となった。また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。

804年、フランク王国のカール大帝はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王ゴズフレズは、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市であるヘーゼビューへと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、810年にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代のヘミングの代には一時和平が成立したものの、834年にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。841年には、フランク王ロタール1世はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する[12]。しかし、デーン人の南進は収まらず、さらにフランク王国自体が王位争いにより3分割されるに及んで、ヴァイキングの活動はさらに活発になった。

840年代にはロワール川河口やナント、ブルターニュを襲い、850年代にはジブラルタル海峡を回って地中海にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。863年にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。

セーヌ川 (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、865年にはふたたびイングランドに来襲してノーサンブリアからイースト・アングリア一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、ウェセックス王国のアルフレッド大王は877年にデーン人を撃退し、翌878年のウェドモーアの和議によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域(デーンロウ)とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。

ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた[11]。後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる[注釈 1]。[要出典]

ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴのポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(在位1016年 – 1035年)と呼ばれる。しかしその後、1035年にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年にはエドワード懺悔王がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公ギョームは1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。

一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年ごろより聖地巡礼の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。こうしたなか、ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは1059年、プッリャ公となり、やがて南イタリアを統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略。(ノルマン・東ローマ戦争)さらに1076年までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリアを占領し、ノルマン朝(オートヴィル朝)を開いた。1130年にはルッジェーロ2世が王位につき、シチリア王国が成立した(ノルマン人による南イタリア征服)。

イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年にアンティオキア公国を建国した。
ノース人の北方進出
インゴールヴル・アルナルソン
シンクヴェトリルのアルシング開催地
ランス・オ・メドーの家

ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡を経て南下するものが主だった。9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリンが建設された。

フローキ・ビリガルズソンらの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年には、インゴールヴル・アルナルソンがアイスランドへと入植し、レイキャヴィークに農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。これらの入植は、やがて『植民の書』と呼ばれる書物にまとめられた。930年、アイスランド各地のシング(民会)の代表がシンクヴェトリルへと集結し、全島議会アルシングを開催し、以降毎夏開催されるようになった。

985年に赤毛のエイリークがグリーンランドを発見し、ここでもただちに入植がはじまった。その息子レイフ・エリクソンは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。1000年のことである(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化)。この後もヴィンランドへは数度航海が試みられ、ソルフィン・カルルセフニは再到達に成功している。1960年にはカナダのニューファンドランドにあるランス・オ・メドーでノース人の入植地跡が発見され、この到達が事実であることが確認された。これらの航海は、『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ』というふたつのサガによって語り継がれ、この二つのサガを総称してヴィンランド・サガとも呼ばれる。しかし、このヴィンランド植民の試みは、スクレーリングと彼らの呼んだ先住民との対立によって潰え、ランス・オ・メドーも数年で放棄された。グリーンランドも数世紀植民地を維持したものの、寒冷化による食糧事情の悪化によって1430年前後に壊滅し、グリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。

なお、開拓者の消滅後もデンマーク=ノルウェー王国は、グリーンランドを自国の領有地であると考え続け、18世紀以降、この島に対するデンマークの領有権主張の始まりとなった(デンマークによるアメリカ大陸の植民地化)。またノルウェー人も、20世紀初頭に「赤毛のエイリークの土地」と呼んでグリーンランドの領有権を主張していたが、現在、グリーンランドはデンマークの自治領となっている。
スウェーデン
地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシアへの道」を示す

スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、8世紀後半から9世紀半ばにかけてあったとされる都市国家群のルーシ・カガン国の建国であった(国家群の民族構成には、ノース人の他、バルト人、スラヴ人、フィン人、テュルク系民族も含まれている)。彼らはフランク王国の「サンベルタン年代記」などでノース人、あるいはスウェーデン人であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、リューリクがノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『ルーシ年代記』にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、リガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[13]。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサガ(スノッリ・ストゥルルソン「ヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアとクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。
フリースラント
詳細は「:en:Viking raids in the Rhineland」を参照

この時期においてフリースラントといえば、現在のブルッヘからユトランド半島西岸までの領域を指す。この領域はフリースラント・フランク戦争の影響で徐々にフランク人の勢力下に入りつつあったが、フランク人らによるキリスト教化政策や文化的同化政策はうまく進んでいなかった。それ故にしばしばフリースラントの住民ら自身がヴァイキングとして周辺を荒らしまわることもあった。

 それと同時期に、フリースラントの諸都市が北欧のヴァイキングに襲撃され始める。ヴァイキングらはフリースラント北部のen: Wieringen地域に拠点を構えることが多かった。またヴァイキングの首長がフリジア公などと名乗りフリースラントを実質的に支配下に置くこともあった。
北米大陸
ヴァイキング後裔国家

ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国やキエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当に実在したヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよ、この一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人に同化して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世までがヴァリャーグ人時代であったと言える(ノルウェー・ヴァイキングであるオーラヴ・トリグヴァソンや後にノルマン・コンクエストに関わるハーラル3世が親衛隊としてキエフ大公国に仕えた他、ルーシにおける半伝説的存在であったリューリクを高祖とするリューリク朝が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年まで存在していたなどの影響が残った)。リューリクは、862年にラドガを自分の都と定めたが、ヴァイキングたちにとってもラドガは東方の拠点の一つでもあり、ラドガの周囲にはリューリク及びその後継者たちのものとされる陵墓も現存する。990年代にノルウェー・ヴァイキングのエイリーク・ハーコナルソンがラドガ湖を襲い、ラドガの街に火をかけたことがサガに記されているほか、11世紀にスウェーデン王女とノヴゴロド公ヤロスラフ1世が結婚した時の条件として王女のいとこのスウェーデン貴族にラドガの支配を任じたことが年代記とサガに記されている。また、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認でき、少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキルとインゲ1世)が青少年期をラドガで過ごしている。しかし12世紀以降、ラドガはノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地となり、さらに正教会の教会と要塞が建てられ、北欧との関係は薄れていった。

ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。

こうして初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神は失われてしまったのである。海賊、交易民的な性格を失っていったヴァイキングは、次第にノルマン人と呼ばれる頻度が多くなっていく。

イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキング・ノルマン人たちは、その地に根付き、王となり、貴族となった。やがてノルマン人としてのアイディンティティを喪失し、現地に同化していった。

一方でヴァイキングの故地たる北欧においても、徐々に強固な国家形成がなされていき、その住民たちも、デーン人、スヴェア人、ノース人、アイスランド人へと、それぞれの国家の国民、民族として分離していく。

こうして、13世紀までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅していく事になる。

考古学者による研究では、ヴァイキングの内、ノルウェー人の祖先は主にアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ、スウェーデン人の祖先はバルト諸国へ、デンマーク人の祖先はスコットランド、イングランドへ移住したとされる[14]。
バイキングの戦い

バイキングの襲撃と戦術
バイキングの装備(英語版)

タイムライン

詳細は「fr:Chronologie des invasions vikings」を参照

対バイキング

ブルフ(英語版)(イギリスの対バイキング用要塞群)

著名なバイキング

ヨムスヴァイキング - バルト海のヨムスボルグを本拠地とするバイキング
ノルウェー王オーラヴ1世 - キリスト教化していく転機を作った。
ラグナル・ロズブローク - 大異教軍を率いイギリスやフランス(パリ包囲戦)を襲った。
ビルカの女性ヴァイキング戦士
骨なしのイーヴァル(英語版)
エギル・スカラグリームスソン
赤毛のエイリーク
のっぽのトルケル
ハールヴダン・ラグナルスソン
剛勇のビョルン
シグヴァルディ』

フィンランドの歴史

フィンランドの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『フィンランドの歴史(フィンランドのれきし)では、フィンランドの歴史について記述する。』

『先史時代

石器時代

現在の北欧の全域は1万3000年前までの間は氷床が広がっていたが、ヴュルム氷期が終わって気温が上昇すると、氷が解けて海面が上昇すると共に氷河の重さに抑えられていた陸が隆起した[1][2]。

約9000年前、後にバルト海になるアンキュルス湖の東側へ南方や東方から人々が移動するようになり、狩猟や漁業を行った[1]。

紀元前3300年頃にヴォルガ川周辺の文化が持ち込まれ、櫛目文土器を使い始めた[1]。

ウラル語族のフィン人の祖先はフィンランド湾の南に広がり、サーミ人の祖先は北へ分かれた[1]。この頃から北ゲルマン語群の文化と交流が始まり、言語や文化に影響を受けた[1]。

紀元前1500年頃に青銅器時代が始まるまでに南部や西部では農業が始まったが東部や北部では狩猟と漁業が中心のままだった[1]。

青銅器が伝わった頃のフィンランドの遺跡は少なく、サーミ人はアスベスト土器を用いた[2]。

民族移動時代

5世紀から6世紀のフィンランドを前期民族移動時代と呼び、8世紀末までを後期民族移動時代として区分する[3]。

後期民族移動時代には錫製装飾品で有名な「サーミの金属舞納遺構」がある[3]。

8世紀から11世紀にかけてスウェーデン、ノルウェー、デンマークに国が作られたが、フィン人もサーミ人も国を作る事はなかった[4]。

フィン人は大まかにスオミ、ハメーンリンナ、カレリア(Karelians)の3つのグループがあったが、政治的には十分にまとまっていなかった[4]。

この頃の主な産業は夏の農業(大麦、ライ麦)と冬の狩猟(テン、リス、ミンク)であった[4]。後者の動物の毛皮は交易品として重用された[4]。

スウェーデンによる支配

北方十字軍

北方十字軍の進路。赤1150年スオミ族に対する制圧・緑1238年1239年ハメ族に対する制圧・青1293年-1294年カレリア族に対する制圧

キリスト教が広まる前のフィンランドでは北欧神話とは異なる多神教の信仰が存在した[5]。

西隣のスウェーデンは12世紀初めにキリスト教化し、スウェーデン王のエリク9世は1155年または1157年に北方十字軍を編成してトゥルクを中心とするフィンランド南西部を支配したとされる[6]。

しかし当時の史料は無く、短期間の武力行使とキリスト教の布教が行われたものの征服には至らなかったと推測されている[7]。

布教を行った司教ヘンリク(英語版)は農民に殺害され、エリク9世と共に称えられた[7](cf. スカンディナヴィアのキリスト教化#フィンランド)。

北欧で最初にキリスト教化したデンマークは1191年から1202年の間、フィンランドやエストニアを攻撃した[7]。

1219年、デンマークはエストニアの拠点を攻略してタリンに城を築いた[7]。

フィンランドのトゥルクを中心とする地域はスウェーデンの勢力に入り、13世紀初めにカトリックの司教座が設置された[8][5]。

ハメーンリンナを中心とする地域は西のトゥルクからのカトリックと東のノヴゴロド公国からの東方正教会の両方から布教を受けた[8]。

スウェーデンとノヴゴロドの間では12世紀から争いが続き(スウェーデン・ノヴゴロド戦争)、ロシア側の記録によれば1240年にネヴァ川でノヴゴロドのアレクサンドルがネヴァ河畔の戦いでスウェーデンに勝利した[8]。

スウェーデンは約9年後に反撃し、13世紀中頃までにはハメーンリンナはスウェーデンの支配下におかれた[8][9]。

13世紀末にスウェーデンはカレリアの西部を獲得し、ヴィープリにヴィボルグ城(英語版)を建てた[8]。

1323年、オーレシェク講和条約(英語版)によってカレリア地峡を分割する形でノヴゴロドとの境界線が定められた[8][9]。

領土の確定で一定の安定を見た後、フィンランド人の地主、僧侶、官僚たちの自治集会が成立し、1362年にスウェーデン国王を選出する8つの地区の1つと認められた[10]。

彼らはスウェーデン人に同化されたが、フィンランド人の文化は、農民の間に遺された。
この時代にスウェーデンから移住したスウェーデン人たちは、スウェーデン系フィンランド人と呼ばれ、19世紀初頭まで続く「スウェーデン=フィンランド」を形成した。

カルマル同盟

1397年にカルマル同盟が成立するとデンマークが統治に関与してスウェーデンからの圧力は減ったが[11]、エリク13世による重税にスウェーデンもフィンランドも苦しんだ[10]。
スウェーデン王となったカール・クヌートソンは連合王の地位を巡ってクリスチャン1世と争い[12]、カールの後を継いだ甥の大ステン・ストゥーレ(英語版)はスウェーデンの摂政を勤めた。

大ステン・ストゥーレは1471年にクリスチャン1世と戦って勝利し、1483年までにはフィンランドを支配した[10][11]。

1507年にデンマークはオーランド諸島を攻略し、1509年にかけてポルヴォーやトゥルクを攻撃した[13][14]。

フィンランドの貴族や農民はストゥーレ一族に味方したが、1520年に小ステン・ストゥーレ(英語版)が戦死してスウェーデンは降伏した[12][14]。

勝利したクリスチャン2世がストックホルムの血浴と呼ばれる粛清を行うと、これに対抗してグスタフ・ヴァーサがダーラナで挙兵した。

グスタフ・ヴァーサは1523年にスウェーデン王として選出され、リューベックの協力でデンマークを退けスウェーデンを独立させた[12][14]。

バルト帝国

1523年のスウェーデンの独立によりデンマーク人の勢力は後退した。

グスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)は軍隊整備の制度改革を行い、国家財政のために増税とカトリック教会の財産の没収を行った[15]。

スウェーデンとフィンランドはルター派になり、教皇ではなく国王が司教を任命するようになった[15]。フィンランド語による新約聖書などがアグリコラによって出版された[16]。

タタールのくびきを脱したモスクワ大公国との国境争いは15世紀から継続していたが[10]、16世紀初めには期限付きの停戦協定が結ばれた[14]。

グスタフ1世の後を継いだエリク14世の治世にはエストニアを巡ってデンマーク、ポーランドとの間で戦争となり、北方七年戦争が行われた[17][18]。

この頃のフィンランドの人口は約25万人でスウェーデンの約25%に相当した[19]が、フィンランドの徴兵負担は他の地域より高かった[注釈 1][20]。

富裕農民は軍隊の為に騎手を用意することで徴兵を回避できた為、その他の農民に負荷が集まった[21]。

税と徴兵の負担により、フィンランドの農民は棍棒戦争(英語版)と呼ばれる内乱を起こしたが鎮圧された[21]。

三十年戦争、北方戦争でスウェーデンの勢力は拡大し、1658年にはロスキレ条約により最大版図となる領土を獲得した[22]。

フィンランド人の兵士は、三十年戦争で勇猛さを発揮し、「ポーランド軍にはタタール人(コサック)がいる様に、スウェーデン軍にはフィン人がいる」と言われ、恐れられたという。

17世紀後半に小氷河期が訪れ、フィンランドでは飢饉が発生した[23]。1695年から1697年にかけて10万人以上が飢饉により死亡したと推定されている[24]。

スウェーデンは1700年に始まった大北方戦争に敗れ、1713年にフィンランドはロシアによって制圧された[25]。

1721年のニスタット条約によりフィンランドはスウェーデンへ返還されたが、バルト海沿岸の多くのスウェーデン領が失われた[25]。フィンランドではこの戦争の間に約5万人が病気などによって死亡した[24]。

1741年から1743年にかけて、スウェーデンがロシアとハット党戦争を行うとフィンランドは再びロシアに占領された[26]。

1743年のオーボ条約(英語版)によってフィンランドはスウェーデンへ戻されたが、国境は変更されてロシアが西へ拡大した[26]。

1788年にスウェーデンがロシアと第一次ロシア・スウェーデン戦争を開始すると、スウェーデンの貴族将校たちが国王に反してエカチェリーナ2世へ和平とロシアの協力の元でフィンランドの独立を求めるアニアーラ事件が起きた[27]。

計画は失敗し、スウェーデンとロシアの間の戦いは国境を変更せずに終わった[27]。

現代のフィンランドの歴史家は、これをロシア帝国の策略とする、愚かな犯罪的反乱予備罪だったと決定付けている。[要出典]

しかしこれはフィンランド人のナショナリズムの現われの一端ではあった。フィンランド人はその歴史上地理的に緩衝地帯としての役割を宿命付けられて来た。

中世の初頭から冷戦終結後までフィンランド人は、スウェーデン人(西方教会、パン=ゲルマン主義、資本主義)とロシア(正教会、汎スラブ主義、共産主義)との間の緩衝国であり、東西交流の窓口であった。

フィンランド大公国

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出典検索?: “フィンランドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)
ナショナリズム

1807年、ロシア皇帝アレクサンドル1世はティルジット条約においてナポレオンの対英大陸封鎖(大陸封鎖令)に参加する見返りとして、フィンランド領の獲得を承認させた。

このため、1808年ロシア帝国はスウェーデン政府に宣戦布告(フィンランド戦争)、既にフィンランド人にはスウェーデン人に対する不満が渦巻いていたが、フィンランド軍は孤軍奮闘した。

しかしスウェーデン軍は、ロシア軍に大敗すると算を乱して逃亡し、翌年の1809年春にロシア軍はフィンランドの全域を制圧した(フレデリクスハムンの和約、ハミナの和平)。
アレクサンドル1世はフィンランド大公となり、フィンランドを立憲君主制の大公国とした(フィンランド大公国の成立)。

内政はフィンランド人が担当し、公用語はスウェーデン語、後に待望のフィンランド語が追加された。

開明的な啓蒙君主であったロシア皇帝アレクサンドル2世の下、「自由の時代」を謳歌し、フィンランド人の民族的基礎が着々と築かれていった。

今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しており、その銅像とちなんで名付けられたアレクサンドル通りとが有名である。

しかし文化も宗教も異質なロシア人に支配されることによって初めて自らのアイデンティティの問題に直面したのである。

そして民族としての独立した精神は名実共に確立し、フィンランド文化も頂点に達するのである。

民族叙事詩カレワラが出版されたのは1835年のことであった。

「我々はスウェーデン人には戻れない。しかしロシア人にもなれない。そうだフィンランド人でいこう(Ruotsalaisia emme enää ole, venäläisiksi emme voi tulla; meidän täytyy olla suomalaisia.) 」と謳われたのはこの頃である。

1848年のヨーロッパ革命(1848年革命)の年、デンマークで絶対王政は崩壊し、民主主義が成立すると、フィンランド人の間でも学生を中心に民主化運動とナショナリズムは高まりをみせ、学祭で「我等の地」が歌い上げられる。

民主主義が浸透しつつある西側、絶対王政を崩さない東側という対比の下、フィンランド人の間に北欧への復帰の世論が強まっていくことにもなった(汎スカンディナヴィア主義)。

ロシア化政策

ロシアはアレクサンドル2世が暗殺された後、次第に反動的[要出典]になっていった。

特に1871年に成立したドイツ帝国に動揺したロシアは、中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになる。

1894年の露仏同盟により露独関係の亀裂は決定的となり、ロシアはきたるべき対独戦争の準備のため強権化をエスカレートさせていった。

そうしたものの一つとして1899年にニコライ2世が署名した二月詔書には「フィンランドの自治権廃止宣言(フィンランド語版、英語版)」(ロシア化政策)が含まれており、フィンランド人の自治は剥奪され、フィンランド語も禁止され、公用語としてロシア語が強要された。

20世紀に入るとロシア帝国内で各民族の民族意識が高まり、強権化によりかえって帝国内は混乱を極めていった。

フィンランド人も民族意識に目ざめ、ロシアへの反発を強めて行く。

そして日露戦争のさなかの1904年6月17日、フィンランド民族主義者オイゲン・シャウマン(フィンランド語版、英語版)がフィンランド総督ニコライ・ボブリコフを暗殺するという事態に至る[注釈 2]。

日露戦争終了後、第一次ロシア革命が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世は「フィンランドの自治権廃止宣言」を撤回した。

フィンランドは独立こそ果たせなかったが民主的な憲法を制定し、普通選挙法、女性参政権などが実現、総選挙により議院内閣制に基づく政府が発足する。

選挙権拡大により、社民党が躍進した。

しかし、世界は第一次世界大戦に至る緊迫感に包まれ、ロシアは再びフィンランドを弾圧し、政府は解散され憲法は停止される。

自治と独立を望むフィンランド人は息の根を止められたかに見えた。

この時代、フィンランドとロシアの政治的緊張は目に見えて高まったが、経済的にはロシア帝国を輸出先としてフィンランドは経済成長を遂げた。

特に西側の最新技術を元に工業化を推進し、ロシア帝国に輸出する東西貿易の窓口として国力を充実させたのである。こうした発展は、後の独立のための基盤になった。

フィンランド共和国

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2度の世界大戦

ロシアの支配からの独立運動は日本が1904年日露戦争でロシアを破ったことなどから高まりを見せ、第一次世界大戦では、フィンランドはロシア軍の前哨基地となったが、職業軍人を除いて参戦する義務を負わず、国力を温存させた。

1917年にロシア革命によりロシア帝政が倒されると、社民党は政権を奪取し、憲法を復活させた。

ケレンスキーとの暗闘の後、社民党は下野し、有産階級の諸政党の連立政権が引き継いだ。

ボリシェヴィキとの交渉が成立し、フィンランド人は独立を宣言した。

しかし、労働者階級はソビエト連邦への参加を求めて蜂起し、内戦に突入する。

両陣営の勢力は互角であり、労働者階級は都市部とくにヘルシンキに集中していた。

1918年、赤軍がヘルシンキなど南部地域を掌握(フィンランド社会主義労働者共和国)したため、白軍はヴァーサへ逃れたが、ここで政府はマンネルヘイムを指揮官に任命し、ドイツ人・スウェーデン人も義勇軍を送った。

白衛軍は勢力を取り戻し、タンペレの決戦で白軍が勝利した。

余勢を駆って白軍はカレワラ発祥地、カレリアに出兵。

この是非を巡り連立政権は王党派と共和派に分裂した。

王党派(保守党、スウェーデン人民党)は、ドイツ帝国に接近して王国の樹立を画策、ヴィルヘルム2世の義弟ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ・カールを国王に選出しフィンランド王国を成立させた。

しかしドイツは第一次世界大戦に敗れ、ドイツ革命によって帝政が崩壊。総選挙で共和派(農民党、自由党)と社民党が大勝すると、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で認知された(ヨーロッパにおける民族自決)。

1921年にスウェーデン人が多数を占めるオーランド諸島がスウェーデン王国との領有権問題に発生すると、両国の交渉により国際連盟に裁定が委ねられた。

この結果、オーランド諸島は、フィンランドに属する自治領となった。オーランド諸島は、現代においてもスウェーデンとの重要な窓口の一つである。

第二次世界大戦では、ソビエト連邦と2度に渡って戦い、その結果カレリア地峡やペッツアモを失い、多額の賠償金を負った(ソ芬戦争。第1次は冬戦争、第2次は継続戦争と呼ばれる)。

この時フィンランドは、スウェーデンに助力を求めたが、中立主義をとられ、やむなくナチス・ドイツに接近した。第二次世界大戦でのドイツの敗北と同じくしてフィンランドも敗戦国となり、ソ連から戦争犯罪に問われることになった。

冷戦と現代

ソ連からの圧力に屈し、マーシャル・プランを拒絶せざるを得なかったが、戦後のフィンランド人は独自の努力と中立国スウェーデン人からの援助によって復興へ邁進することとなった。

1952年、ヘルシンキオリンピックを開催した。

同年に対ソ賠償を完済し、財政的な負荷がなくなったため、急速に福祉国家建設へ邁進することとなる。

外交面においては冷戦時代は、北大西洋条約機構 (NATO)にもワルシャワ条約機構にも加盟せず、中立を貫きノルディックバランスを構成する。

しかし共産主義勢力のクーデター騒ぎやロシア人の度重なる内政干渉に動揺し、国内政情に不安定な要素を提供することになった。

そのため、長い間対ソ批判はタブー化された。政府もロシア人の干渉を未然に防ぐために親ソとも言えるような言動を繰り返し、かくして「フィンランド化」という言葉まで生まれた。

しかしそれは、フィンランド人自身の独立維持へのすさまじいまでの努力の結果であった。

賠償金の支払いに工業製品の代物弁済を求められたフィンランドであったが、このことは、フィンランド製品がソ連など東側諸国への進出をもたらし、フィンランドを先進国へと昇華させるきっかけにもなった。

また、その賠償のための搬送ルートを東側への拡販ルートとして流用し、東西貿易の窓口として莫大な利益を上げることとなる。福祉国家戦略の優越性と相まって、人口1人当たりGDPは、他の北欧諸国とともに世界一になった。

その後冷戦の終わりと共に囚われの鎖から解き放たれたが、既にロシア人は最大の貿易相手国であり、経済的なパートナーとしてなくてはならない存在であった。

それゆえソビエト連邦崩壊後、政治的な自由とは裏腹に経済的な苦境に見舞われた。GDPは約4割も減少し、財政赤字を増大させたのである。

そのため、経済的な便益を求めて1995年にスウェーデンと共に欧州連合に加盟した。

欧州連合に加盟したことで、欧州連合諸国や北欧諸国との政治・経済は密接となった。

情報通信産業に活路を見出したフィンランドは国家を挙げてIT革命に邁進し、21世紀初頭の現在、北欧諸国とともに世界トップグループの一員となった(世界経済フォーラム調査)。』

自己家畜化

自己家畜化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%B6%E7%95%9C%E5%8C%96

『自己家畜化(self domestication)とは、野生生物が人間との共同生活に適応する過程のことであり、とくに人間が直接家畜に適した形質を選抜して繁殖させること(人為選択)なしに、それが達成されていることを指す[1] 。

犬や猫は部分的にはそのように進化した、あるいは進化していると考えられている。

一方でヒト科の動物が、協調的で従順な行動を進化させたことも自己家畜化とする場合がある。

リチャード・ランガムによれば、同種間あるいは異種間のあいだで攻撃性の低下が有益な環境下で進むとされる[2] 。自己家畜化には進化の副産物として、脱色、性的二型の縮小、幼形化が含まれることがある。』

『野生生物の場合

野生動物は、攻撃的な行動が減少することで、人間の近くでの生存率が向上することがある。

そうやって生存率の向上した個体同士で、(人間の積極的な繁殖選抜をすることなしに)繁殖することが、攻撃性の低い形質を遺伝的に固定することになる。

こうした自己家畜化は、人間の作り出す環境から発生する食糧の入手可能性を増加し、またそれを利用する能力の進化も促される。

この攻撃性の低下は、ホモ・サピエンスの周辺環境に限定しなくても適応度を上昇させることがある。

自己家畜化によって生じる形質が個体間距離の近接化につながり、集団性が高くなることで自己家畜化が有利になる場合もある。

自己家畜化された動物の環境は、野生の表現型とは異なる行動や外見の変化をもたらす可能性がある。

こうした変化しやすい形質としては、脱色、フロッピーな耳、カールした尾、小さな歯、小さな頭蓋構造、幼少期の行動、性的二型の減少、発育の停止などが含まれる[3]が、これらに限定されるものではない。 遊び好きの増加、攻撃性の低下もまた、自家家畜化の進んだ種で観察されている。

「ネコ」も参照

約1万年前、人が定住化し、植物を栽培化する中で、備蓄した穀物を狙うネズミ対策が重要になった。

その中でリビアヤマネコの一部は人の周辺で生活をし、住居近くのネズミを利用するようになった。

人がネコを受け入れる中で、ネコ自身も野生の時代にもっていた人に対する攻撃性を減退し、従順さを増加させるようになったと考えられる[4]。

攻撃的な行動の減少と「飼いならしさ」の増加の永続化を支持し、猫を人間社会でますます許容できるようにしたとする[5][6]。

「イヌの起源」も参照

リチャード・ランガムはイヌの家畜化において自己家畜化の過程があったと推測している。

ランガムによれば、イヌの頭蓋骨はオオカミの幼体の頭蓋骨と類似しており、先史時代において人が積極的に家畜化したのではなく、オオカミ自体が人と互恵的な関係を築く中で自ら家畜化したのではないかという。

食料の自足に不安のあったオオカミのうち、人に対する攻撃性や警戒の少ない個体が人間の住居近くの残飯や屠殺の残骸を利用できることで生存し、その中から原始的なイヌが生まれたとしている[7][8][9]。

ボノボ(パンパニスカス)
「ボノボ」も参照

ブライアン・ヘアは、ボノボは自己家畜化したと主張している。

ボノボはチンパンジーと近縁にもかかわらず、攻撃性が低い[10]。

たとえばオスのチンパンジーは食物資源や、メスへのアピール、あるいは群内順位のために威圧的なディスプレイをすることが見られる他、両性とも子殺しをすることがある[11]。

しかしながらボノボのオスはチンパンジーのように他の個体に接触するようなディスプレイをせず、枝引きずりディスプレイのときも他個体はチンパンジーのように逃げることはせずに落ち着いて見ている。

メスも母子、姉妹に限らず連合関係を結ぶことで、交尾を求めるオスに対し拒絶することを最小限にとどめている。

ボノボはオス同士の同盟をつくることで知られるチンパンジーとは異なり、オスーメス間の組み合わせは多様であり、とくに母ー息子間での結びつきが強い。

集団内の関係だけでなく、集団間の関係についてもボノボとチンパンジーは異なり許容度が高く、複数の群が同じ餌場を同時に利用することも観察されることがある。

さらに、ボノボの大人はチンパンジーの大人よりも遊ぶ傾向にあり、子供っぽさをしめす。[12]

こうした特性の違いについての遺伝的基盤についてはわかっていないことが多いが、前頭眼窩皮質、運動野、海馬といった中枢神経に違いが見られる[13][14][15]。こうした領域は、摂食習慣、運動協調、感情と関連している[10]。

自然淘汰の観点からは、なぜボノボにとって自己家畜化が有利だったのかは議論の余地がある。

一説によれば、自己家畜化は安定した社会構造を強化し、社交的な行動を促進することを示唆し、自己家畜化は、主に種内動態の変化によって動機づけられているとされている。
ボノボの集団(菜食や移動のまとまり)サイズは、スクランブル競争が生じる頻度が低下しているため、チンパンジーの集団よりも安定している[16]。

単位集団(群)の全メンバーの16〜21%が参加しており、小規模の集団(母子やオスのまとまり)しか作らないチンパンジーよりも大きいことがわかっている[17]。

行動学的・神経学的な証拠だけでなく、形態学的にもボノボの自己家畜化説を支持する証拠は多い。

近縁種のチンパンジーとは異なり、最大20%の頭蓋骨の減少、顔の突起の平坦化、および減少した性的二型を持っている。ボノボの歯は小さく。尻周り毛は白く(white tail tuft)、唇はピンクであり、一般的に幼少霊長類で観察されるこういった特徴は、成人のボノボでもみられる。

マーモセットサル( Callithrix jacchus )コモンマーモセット

神経学者のAsif A. Ghazanfar は、コモンマーモセットの親子の発声交換と体毛の発達に関係があると指摘している[18] 。

マーモセットの幼獣は親から声をかけられるほど顔の白い毛の面積が広がる。

高ストレス環境下では、副腎とそれに対応する神経堤細胞が発達することで体毛近傍にメラノサイトが発達することになり結果的に白い部分が減る。

逆に白い部分が増えるということはストレスが低いことを示しており、霊長類一般で見られる自己家畜化の結果である。

Ghazanfarはこの観察から協調的な子育てが自己家畜化の選択圧であることを主張している。マーモセットの場合、二卵性双生児の育児の必要性がその原動力であり、ヒトの場合は長い幼児期間が協調的な子育てを要請したとしている。

人間では
類人猿
現代人
身体解剖学
反応性攻撃性
人口密度仮説
言語ベースの陰謀
理論的批評
関連項目

家畜化
在来種
動物行動学
社会生物学
進化心理学
シナントロープ 』

【詳しく】プーチン大統領なぜ執着?キエフ・ルーシの歴史とは

【詳しく】プーチン大統領なぜ執着?キエフ・ルーシの歴史とは
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220514/k10013622761000.html

『ウクライナ侵攻に踏み切ったプーチン大統領。ウクライナを“兄弟国家”と呼び「強い執着」があると指摘されています。そのよりどころとするのが、1000年前にあった「キエフ・ルーシ」と呼ばれる国の存在です。

いったい、どういう国なのか。元駐ウクライナ大使で『物語 ウクライナの歴史』の著者の黒川祐次さんに、キエフ・ルーシの歴史について話を聞きました。

プーチン大統領がこだわる「キエフ・ルーシ」とは?

《以下、黒川さん》

キエフ・ルーシは9世紀末から13世紀にかけて、今のウクライナやロシアなどにまたがる地域にあった国です。

「キエフ大公」と呼ばれる君主が支配し、最盛期はヨーロッパ最大の版図を誇った大国だったと言われています。

その中心的な都市だったのが、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)でした。

そもそもキエフ・ルーシの成り立ちは?

キエフ・ルーシを形成したのは東スラブ人です。スラブ人は、ラテン、ゲルマンとともにヨーロッパを構成する三大民族のうちの1つですね。

12世紀に編さんされた『原初年代記』という歴史書の伝説によると、東スラブ人のポリャーネ氏族の3兄弟、キー、シチェク、ホリフとその妹が町をつくって、一番上の兄の名を取ってキーウ(キエフ)と名付けたそうです。これが今のウクライナの首都にもなっているキーウの始まりだとされています。

その後、実質的に国を作ったのは北欧から海を渡ってきたバイキングで、オレフ(ロシア語名オレーグ)という人物が創始者でした。882年にキエフ公となったオレフは首都をキーウに移しキエフ・ルーシを建国しました。

栄えたのはいつ?

最盛期を築いたとされるのは2人の君主です。

まず、キエフ大公の「ヴォロディーミル」(在位978~1015・ロシア語名ウラジーミル)は、公国をヨーロッパ最大の版図を持つ国にまで拡大したとされています。キリスト教を国教化したことから「聖公」とも呼ばれるほどです。

また、ヴォロディーミルの息子の「ヤロスラフ」(在位1019~1054)は内政や外交に優れた才能を発揮し「賢公」とも呼ばれた存在です。現在は世界文化遺産にも登録されている聖ソフィア大聖堂を建設しました。

どうして栄えたの?

キエフ・ルーシがヨーロッパ有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達が関係しています。中世のヨーロッパは圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていたのに対し、キエフ・ルーシは商業を重視して富を得ていたと考えられます。

例えば、12世紀までにフランスに運ばれた絹織物は「ルーシ物」と呼ばれるほどで、貿易が盛んでした。これに伴い都市も発達し、領土の全人口の13%から15%ほどが都市に住んでいたと推計されています。

なぜキリスト教を取り入れたの?

かつてキエフ・ルーシはアニミズム的な多神教が支配的だったとされています。しかし、国の規模が大きくなる中、キエフ大公の統治を正当化し結束を強めるのに、一神教は都合がよかったのでしょう。

また、キリスト教国となることで、ビザンツ帝国を中心とした「文明国の共同体」の一員に認められ、ヨーロッパ各国との婚姻政策などの外交面でも役に立っていたと考えられます。

“栄光の国”がなぜ滅んだ?

最終的な要因は、13世紀にユーラシア大陸で猛威を振るっていたモンゴルの侵攻だと言われています。ただそれ以前にキエフ・ルーシは衰退過程に入っていたようです。

まず国の内部で制度が変わり、各地を治める地方の貴族が力を持ち始め、バラバラに動くようになった結果、公国全体の君主「大公」の力は低下していったと考えられます。

またヨーロッパやその周辺の勢力図が外部要因によって変化すると、キーウを通過する交易路の重要性が低下し、国の繁栄をもたらしていた経済の停滞を招いたと推察されます。
モンゴルの侵攻で1240年に首都キーウが陥落すると、キエフ・ルーシは事実上崩壊します。オレフが建国してからおよそ350年後のことでした。

モスクワが力を持ったのはなぜ?

これとは対照的にモスクワは森林地帯で、交易による収入もあまり見込めないことから、比較的モンゴル軍の攻撃を受けにくかったことなどもあり、力を蓄えていきました。

こうしたことがキーウとモスクワの力関係が逆転するターニングポイントになったと考えられます。

キエフ・ルーシは崩壊後はどうなったの?

ウクライナ側がキエフ・ルーシ崩壊後の継承国としているのが「ハーリチ・ヴォルイニ公国」です。

この公国は、キエフ・ルーシ崩壊後も1世紀にわたって現在のウクライナの西部で栄え、今の西部の主要都市のリビウもこのときに町が建設されています。

ウクライナの歴史家の1人は、ハーリチ・ヴォルイニ公国が今のウクライナの人口の9割が住む地域を支配していたとして「最初のウクライナ国家」だとしています。

《ここまでが黒川さんの話です》

プーチン大統領の考えは

では、こうしたキエフ・ルーシの歴史をプーチン大統領はどう考えているのでしょうか?
去年7月の論文では、ロシアとウクライナがともにキエフ・ルーシにルーツを持つとして両国は「兄弟」であり「一つの民族」と主張しています。

この中でプーチン大統領はロシアとウクライナは「精神的、人間的、文化的なつながりは数百年にわたって築き上げられた」として、両国民の一体性を強調しています。その結び付きの始まりこそキエフ・ルーシであり、「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は皆、かつてヨーロッパ最大の国家であった古代ルーシの子孫」と述べています。

また論文では、キエフ・ルーシは滅亡後、モスクワを中心とする東側とポーランド・リトアニアの支配下に置かれた西側に分かれたものの、17世紀に「モスクワが再統一の中心となって国家としての古代ルーシの伝統を受け継ぐことを定めた」とロシア側の正統性を強調しています。

「キエフ・ルーシは誰のものか」

一方のウクライナ側はキエフ・ルーシをどう考えているのでしょうか?

黒川さんはこう説明しています。

「さきほど指摘したように、キエフ・ルーシは滅亡後、西ウクライナに栄えたハーリチ・ヴォルイニ公国に継承されたという考えがあります。『最初のウクライナ国家』とも呼ばれるこの公国の系譜が現在のウクライナまでつながるとされています。そのため、ウクライナ側は“自分たちこそキエフ・ルーシの正統な継承者だ”と主張するのです」

「したがって、ウクライナはロシアの一地方などではなく、1000年以上前からの栄光の歴史を引き継ぐ国だと。一方のモスクワはこそキエフ・ルーシの一地方(東北地方)に過ぎず、民族も言語も違い、ロシア帝国やソビエト連邦に至っては非常に強い中央集権制でそのシステムは全く異なる、というのがウクライナ側の歴史の考え方ですね」

プーチン大統領の主張には、他の歴史研究者からも疑問の声もあがっています。

ウクライナ史に詳しい神戸学院大学の岡部芳彦教授は「ウクライナ側から見れば、ロシアのキエフ・ルーシ起源説は16世紀のモスクワ・ツァーリ国のイヴァン雷帝の頃に唱えられ始めたことで、その論理はいわば“後付け”です。ウクライナの歴史家が指摘するように、ロシアの起源はキエフ・ルーシまでさかのぼるよりも、むしろ13世紀後半以降に成立したモスクワ大公国が拡大してできたと思われる」と説明します。

そのうえで岡部教授は「ウクライナからみると“ロシアがルーシの名前を盗んだ”というんです。プーチン大統領は“キエフ・ルーシは自分たちの歴史だから自分たちのものだ、だから起源を取り返せ”というわけですが、それは起源の論争が侵略と拡大の理屈に使われているわけです。ウクライナ側からすると全く逆の解釈ですので、当然受け入れられないということになります」と話しています。

「キエフ・ルーシは誰のものか」

1000年前の国に起源を求める歴史論争は、今もまだ現実の政治の中に影を落としているようです。

(ウクライナの歴史については【詳しく】のシリーズで数回にわたってお伝えする予定です。次回は「コサック」を取り上げます。)』

民族浄化とは、どういう事か? 机上空間

民族浄化とは、どういう事か? 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28679179.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 「将棋」だったら、取った「駒」を使うことができる…。

 ※ しかし、対象が「人間」の場合は、「取った」だけでは、こちら側の都合よく「使うこと」は、なかなか難しい…。

 ※ そこで、人格形成前の「子ども」を狙って、「再教育(≒洗脳)」を図るわけだ…。

 ※ ウンザリな話しだが、洋の東西・時代を問わず、「行われて来た」ことだろう…。
 ※ いわゆる、「先進国」においては、もっと「ソフィスティケート」され、「あからさま」じゃ無い形で行われているに過ぎない…。

 ※ 「あからさま」にやることは、「人権侵害」として、非難されることになるんでな…。

『 ロシアは、ドンバス地方のロシア系ウクラナイ人を迫害から救うという事を建前に、ウクライナ全体を併合し、ロシアに取り込む事を狙っています。

実際にウクライナから民間人を強制移住させて、大陸を挟んで真反対のサハリンへ送り込み、「再教育」を施しています。

そこで何が行なわれているかは、正確には不明ですが、民族の社会と文化を破壊して、歴史から抹消するいわゆる「民族浄化」を行う場合、世の東西を問わず、まったく同じ事が行なわれます。

目的が同じなので、やることも似てくるわけです。同化ではなく根絶やしにしようと思うと、ナチス・ドイツの行った強制収容所のような施設で、まとめて「処分」して息の根を止める事になります。

こうした詳細な記録は、良くも悪くもアメリカの方が記録として残っています。なので、ロシアの例ではありませんが、アメリカが過去に行った民族浄化政策を見れば、大体、ロシア支配下のウクライナ人が受けている仕打ちが推察できます。

アメリカでは、先住民族を対象に、最盛期に408校の寄宿学校がありました。特定の民族を併合し、文化を破壊し、歴史から抹殺しようとする場合、子供を親から引き離して洗脳するのが第一歩になります。親は、人格が既に確定してしまっているので、どうとでも洗脳できる子供を親から引き離して、教育を与えるわけです。

ここで言う先住民とは、インディアン(今は、この言葉は使ってはいけないそうです。アメリカ先住民と言わないといけない)、エスキモー、ハワイ王国の人々です。洗脳し、文化的な同化を推進する為の寄宿学校ですから、反抗は許されず、それに対しては、激しい体罰で応じました。結果として、19校の記録だけで、500人の子供が寄宿学校内で死亡した事が確認されました。もちろん、現地の言葉は使用禁止で、英語を話さないといけません。

これは、カナダなんかも同じで、最近、古い寄宿学校を解体して再開発を行ったさいに、身元不明の大量の子供の白骨死体が埋められているのが発見されて騒ぎになりました。1800年代~1900年代なかばくらいまでは、宗主国が植民地に対して同化を強制するのは、当たり前の事だったので、そもそも差別であるとさえ考えられていませんでした。実際、この時代には、異民族の子供が一般の学校には行けず、そんな事をしたら、白人の子供の親から石を投げられて追い出される時代だったので、寄宿学校にでもぶちこまないと、教育もできなかったのです。

こういう施設には、当然ながら宗教系の団体が経営に関与してきますから、もちろん改宗も強制されます。そして、両親の元で親しんだ現地の文化を否定する事を教えられます。漏れ伝え聞いている話だと、拉致された先のウクライナ人の子供も、作文でウクライナを非難する事を強要されて、拒否すると食事が与えられないという罰を受けているようです。もしくは、ロシアは素晴らしいと絶賛し、新しい祖国として忠誠を捧げるような作文を書かせます。

アメとムチで教育が行なわれると、そもそも自我が確定していない子供は、自分達の今の境遇を招いたウクライナという国を憎むようになります。

まぁ、それが目的で教育しているので、最終的には両親から感じる祖国の文化に嫌悪感を抱くようになります。

これも、両親に再び会える機会があったらという条件付きですが。

そのまま、年齢を重ねたら、軍隊に放り込んで、ロシアの為に危険な最前線で命を張ってもらうのが、投資に対する成果です。

今でも、ロシア軍の中で、死亡率が高いのは、ロシアから見て他民族で構成された部隊です。積極的に危険な前線で、突撃攻撃を強制されるので、死亡率がダントツです。

恐らくは死亡者数が2万人に近づいているのに、ロシア国内で余り問題になっていないのは、死んでいるのが辺境の異民族出身の割合が高いからです。弾除けに異民族を使うのは、どこの戦争でも伝統です。

これからも判るように、そもそもロシアのウクライナ侵攻は、建前にしている「ドンバス地方のロシア系ウクラナイ人を迫害から救う」ではなく、ウクライナのロシアへの併合。
つまり、大ロシア主義の実現である事は明確です。

ついでに、ロシア正教の支配権の拡充も狙っています。

実際、プーチン大統領の時代になってから、ロシア正教と軍隊の一体化が進んでいて、ロシア軍お抱えのロシア正教会の大聖堂も完成しています。噂ですが、現在の大主教は、KGB出身という話もあります。だとすると、宗教家とは思えない発言を連発している理由も判ります。

プーチン大統領より前の時代は、そもそも共産主義が宗教否定の社会なので、ロシア正教会の財産は没収されて、それでも信教を止めない人々によって、支えられていました。

つまり、迫害されていたので、超貧乏でした。しかし、プーチン大統領は、国政の立て直しの精神面において、ロシア正教会の組織を利用する事を進めて、優遇を始めました。

これは、画像が出回っているのですが、今の大主教が執務している姿を映した画像で、腕に数百万円の高級腕時計を巻いているのが確認されています。今のロシア正教の高職者は、富豪クラスの金持ちです。そして、大ロシア主義の拡張に全面協力しています。

それゆえ、純粋な宗教家ではなく、プーチン大統領の息のかかった人間を大主教に据えたのではないかと、噂になっているのです。

真実は、どうあれ、プーチン大統領にとって、宗教も人心掌握のツールでしかないのは確かです。映像などで、盛んに敬虔な信徒である事をアピールしていますが、まぁ、信教はしていないでしょうね。利用する事は考えていても。

独裁者として国を収めるに当って、模範のケースを示さないといけないので、上半身裸で馬に乗り肉体を誇示したり、ピアノをエレガントに弾いてみたり、敬虔な信徒として礼拝する姿をカレンダーやポスターで流布しているわけです。国家が個人とイコールの独裁国家では、必要な事です。北朝鮮も盛んに真似してますしね。

憎しみというのは、方向性さえコントロールすれば、人を支配するのに、とても有効です。

祖国を憎む子供を育成する事で、対ウクライナの理想的な要員を得る事ができます。

仮に彼らが成長して、ロシアに併合された祖国に管理者として派遣されたとして、そこでウクライナ人を支配する事に何の躊躇も無いでしょう。

厳しい子供時代を過ごさなければならない原因を作ったのは、微かな記憶しかない祖国と教えられているからです。』

ウクライナのロシア軍占領地で行われている事 : 机上空間

ウクライナのロシア軍占領地で行われている事 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28654317.html

※ 今日は、こんなところで…。

『これは、ロシアに限った事ではなく、植民地が欧州列強の当然の権利として認められていた時代には、どの国でもやっていた事です。ただ、現代で同じ事をやろうとしているのが愚かであるというだけの話です。

・相手の言語を奪う。

ドンバス地方やヘルソンなどのロシア軍支配地域では、ウクライナ語を廃したロシア語での教育が始まっています。いくつかの、このブログの記事で解説したように、スターリン時代のソ連がウクライナ地方を制圧した時に、同じ事をしています。もともと、ウクライナでは、ロシア語も話せる人が多いです。というのは、スターリン時代に行われた人工飢饉であるホロモドールで、餓死したウクライナ農民と入れ替わりで、ロシア人の入植者がタダで農地を手に入れているからです。文化の土台である言語を奪われると、その土地の文化は急速に衰退して死滅します。植民地の言語を絶滅させるのは、奴隷支配の第一歩です。

これは、欧州がアフリカの旧植民地で行っていた事でもあり、現代でも政治家として出世するには、現地の言葉ではなく、フランス語や英語ができる必要があります。つまり、当時の宗主国の政治家と、交渉できる言語能力が無いと、事実上、国のトップにはなれないという事です。また、当時の欧州列強が勝手に引いた国境が、今のアフリカ諸国の国境になっている事が多いので、部族が歴史と関係無く寸断されて、一つの国の中で何種類ものローカル言語が混在しているのも、彼らの罪です。その為、国民の声を糾合する言語が無く、意志の疎通すら困難な国がゴロゴロしています。地味ながら、アフリカが貧困から抜け出せない一つの原因です。植民地支配するには、現地の部族が理解し合えず、なんなら憎み合っていたほうが統治しやすかったのです。

今でも、植民地支配の爪痕が良く残っているのはハワイです。ここも、もともとは王国があったのですが、アメリカが入植するにあたって、現地の言葉を絶滅させ、子供には先祖の文化を野蛮で価値の無いものと教え込みました。現地の子供が学ぶ学校教育で、徹底的な洗脳が行われた結果、観光資源としてしか、王国時代の文化は残っていません。

歴史を見ると、ロシアが特別酷い事をしているわけではないのですが、現代で時代錯誤な大ロシア主義を掲げて、領土で国力を誇示しようとしている点が「滑稽」です。このブログで何度か取り上げているように、今の世界の国力のリソースは、システムです。植民地時代のリソースは、土地と労働力が重要だったので、アメリカはアフリカに行っては、黒人を拉致してアメリカの綿花農園で奴隷労働させていましたし、植民地の拡張に目を血走らせていたわけです。しかし、今は経済に国境が無くなっているので、大きな力を持つのは、そうしたものより、仕組みを支配するシステムを押さえる事です。

・支配地からの徹底的な収奪

これも、このブログで何度か取り上げていますが、植民地支配で重要なのは、抵抗する気持ちを挫くくらいギリギリの生活を押し付けて、労働の成果として上がってくるモノを、収奪しつくす事です。力で支配するには、農奴のように社会での地位を固定化して、限界まで収奪して抵抗する力を削ぐのが一番に効力があります。

欧州で中世が人類史の中で長く続いたのは、身分の固定が強固だったからです。農民の子は農民。貴族の子は貴族。この強固な社会の階級制度が、文化の停滞と引き換えに、権力の持続力を担保していました。国民が親の人生以外の可能性を考えられない社会というのは、権力的には安定しているのです。その為、海外資本を取り入れて、多様性の進んだ中国社会では、習近平氏の肝いりで、国民の愚民化政策が進んでいます。どういう事かと言うと、世界の情報とアクセスする窓口である英語の義務教育からの排除。農作業の体験授業の義務化。道徳での習近平思想(劣化毛沢東思想)の義務化で、つまり、これから育つ子供たちに、労働者になる以外の選択肢を狭めようとしています。

現在、ヘルソンなどのロシア軍の支配地域では、農産物の70%を差し出す農家に対して、種まきを許可するという恐ろしい収奪政策が行われています。スターリンの引き起こした人工飢饉であるホロモドールの再現かとも言われている生きる権利さえ侵害しそうな政策ですが、武力で支配されるという事は、こういう事です。特にヘルソンは、前線のロシア軍の劣勢が伝えられているので、支配している間で、持ち出せるだけの資源を強奪しようとしているように見えます。ロシア軍の特徴なのですが、盗めるだけ盗むという行動があります。旧ソ連がドイツを制圧した時も、ドイツ内の線路を引き剥がして、強奪する徹底ぶりでした。これは、満州でもやられています。

事実上の後方基地になっているベラルーシでは、ウクライナの民家から盗んできた家具や電化製品を、故郷の実家に送る兵士で、郵便施設がごった返しています。略奪は正規軍・非正規軍を問わず、ロシア兵の役得になっています。

・拷問・強※

どこの戦場でもそうですが、兵士の最大の娯楽が「拷問・強※」です。武器を持たない相手を、一方的にイタブッたり、女性を強※するのは、常に生命の危機のある戦場にいる兵士にとって、「生」を実感できる大きな娯楽です。その為、制圧された敗戦国の都会では、爆発的に私生児が増えます。今回のウクライナ侵攻でも、ポーランドへ脱出した難民の中から、さらに他の国へ移動する女性が増えています。ポーランドの法律では、裁判で被害が証明された時以外の妊娠中絶が禁止されているからです。望まない妊娠をした女性は、さらに中絶が可能な国を求めて彷徨うしかありません。』

ロシアのネオ・ナチ : 机上空間

ロシアのネオ・ナチ : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28659611.html

『ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ侵攻の理由として上げているのが、ウクライナのネオ・ナチとウクライナ現政権との癒着、そして、ロシア系ウクライナ人に対する迫害です。最初に理っておきますと、これは、まったくの虚偽ではありません。ロシア親派の前大統領であるヤヌコビッチ氏が、国外逃亡を余儀なくされた時、政権打倒を祝う群衆の中で、ネオ・ナチの旗が翻っていました。

この革命騒動は、最も一般化すると、EU参加を求める国民と、それをロシアの影響を受けて、阻止しようとしたヤヌコビッチ氏が、対立し、市民のデモ隊に対して、秘密警察による暴力による鎮圧を計った事により、抗議活動が全国的に広がり、政権が倒れたと説明されています。まぁ、概要を短文で説明しろと言われたら、間違いではありません。しかし、国政というのは、そう単純なものでもなく、争いのあるところには、すきを狙って、様々な勢力が入り込んできます。

このブログで何回か説明した通り、歴史的な経緯で、ウクライナにおけるナチス・ドイツというのは、スターリンのソ連の圧政から解放してくれた解放軍と認識されています。実際、ドイツ軍がウクライナを制圧した時は、歓迎されて、ソ連に協力していた共産党員が、ドイツ軍へ突き出されています。その為、国政とナチズムというのは、切っても切れない縁でした。ネオ・ナチによる、ウクライナの左派議員への襲撃なども起きています。

それと、良く誤解されるのですが、ゼレンスキー大統領がユダヤ系の家系だから、ネオ・ナチと関係があるはずがないと説明する人がいますが、ウクライナにおける排斥すべき人種は、ユダヤ人ではなく、ロシア系ウクライナ人です。これも、何回か歴史的な経緯を説明していますが、スターリンが起こした人工飢饉であるホロモドールで、餓死したウクライナ人の土地を引き継ぐ形で入植してきたのが、ロシア系ウクライナ人です。なので、地方によっては、日常の言語がロシア語の地域があります。つまり、ウクライナというのは、人種間紛争の坩堝と言って良い土地柄なのです。

ゼレンスキー大統領も、就任直後ぐらいは、ネオ・ナチと対立路線を見せていましたが、結局のところ、ドンバス地方やクリミヤでロシアの圧力が高まると、カウンターで対抗する戦力として、ネオ・ナチの勢力と握手しています。勲章も授与していますし、国家の会合にネオ・ナチのリーダーを呼んでいます。必要から武装勢力と手を結ぶというのは、国情が不安定な国では良くある事です。それで、国を乗っ取られるのも、良くあります。カンボジアのポルポト政権なんかが好例です。

では、ロシアにネオ・ナチはいないのかと言えば、まったくそんな事はありません。ロシアのネオ・ナチは、ウクライナとは違って、侵略の歴史の結果ではなく、エリツィン大統領時代に混乱したロシア経済の結果として生まれました。エリツィン大統領は、改革派の騎手として、様々な政策を実行しますが、この時に西側に良いように取り込まれて、かなりロシアの資産を食い物にされています。大統領の任期後期には、病気と精神の衰弱で、まともに政権を維持できなくなり、エリツィンの親族が政治に口を出して、利権を漁るという腐りきった状態になっていました。この時のクレムリン宮殿大改修工事に関わるスキャンダルを揉み消して、功績を認められたのが今のプーチン大統領です。この事のプーチン氏は、権力の譲渡が完了するまで、徹底して、エリツィン氏の飼い犬を演じていました。

経済の混乱は、道徳の低下を生み、ロクに教育を受けられない多数の若者を生みました。どの時代でも、貧乏でコネの無い人間の頼みの綱は、その国の軍隊です。新兵として入隊した若者の10%が、読み書きができなかったと言います。そんな昔の話ではありません。

経済が困窮すると、一番簡単な不満の捌け口は、全ての責任を特定の対象に押し付ける事です。ロシアの場合、自分達よりも余裕のある暮らしをしているように見える外国人に向きました。ここでの外国人は、ロシア人以外と言う意味で、白豪主義とは少し違います。ただ、ロシア人の人種的な純血とか、外国人の排斥を言っているので、ナチズムとは親和性が高く、彼らの旗印は、鉤十字のシンボルですし、ナチス式の敬礼もします。頭は、連帯感を出す為に、スキンヘッドが標準で、多くの場合、入れ墨もセットです。典型的な右翼スタイルですね。

しかし、彼らは、深い絶望を味わった分、実際に酷く暴力的で、外国人旅行者を人種に関係無く、徒党を組んで襲撃したりします。ロシアという広い国土の中には、人種で言えばアジア、アラブ人。宗教で言えば、イスラム教徒もいますが、ロシア人(スラブ系民族)、ロシア正教徒以外は、全て排斥の対象です。なので、最終的には、全てロシアの国土から駆逐するべきと主張しています。実際、ロシアを旅行する場合、スキンヘッドを見かけたら、近づかないというのは、常識です。

ナチスに侵略された歴史を持つロシアにとって、これは都合の悪い事実なので、多くのロシア国民は知らないフリをしています。もしくは、愛国というオブラードに包んで、存在しない事にしています。場合によっては、非難の対象にもなります。ただ、経済的困難に巻き込まれた(悪い時期に生まれた)若者の攻撃性は、そんな事では収まるはずもなく、他民族に対するリンチや暴行、襲撃という形で噴出しています。悪いのは全部外国人というのは、ロシア政府も暗に利用してきた責任回避の方便でもあったので、強く取り締まる事はありませんでした。

ネオ・ナチと言っても、結局は、その地域のナショナリズムと結びつく、人種的優越性・外国人排斥・人種的純血崇拝の思想なので、迫害の対象がユダヤ人とは限らないし、その原因は、戦争や支配、差別や貧困から生まれた不満です。なので、ネオ・ナチの支部は、世界中にあります。アメリカにもあります。そして、政情が不安定な国では、国政レベルの影響力を持っているのです。

ネオ・ナチ一つをとっても、その国の歴史・経緯があるので、定型文で語れるものではありません。なので、国際紛争を評価する場合、ロシアの言い分にも正しいところがあるとか、ウクライナにも悪いところがあるとか言っても埒が明かないのです。つまり、解決するのに取った手段が、国際秩序に反しているかどうかで判断するしかありません。「力による一方的な現状の変更」を行使した時点で、他の事がどうであっても、ロシアが全面的に罰せられなければなりません。

仮に、ウクライナ人が、国内でロシア系ウクライナ人狩りを、ガンガンやっていたとしても、それに対する制裁は、一国の独善的な判断ではなく、国連で事実の調査を行い、合議の結果として、ウクライナに罰が与えられなくてはならないのです。もし、それが事実なら、経済制裁でも国連軍の派遣でも、あらゆる手段を使って、ウクライナに制裁すれば良いだけの話です。そうでない時点で、全ての非はロシアにあります。常任理事国が、やってはいけない事を、やったのです。』

戦争賠償

戦争賠償
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F

『戦争賠償(せんそうばいしょう、戦時賠償とも)は、戦争で生じた損害の賠償として、ある国が他の国へ金品や資産を提供すること。

多くの場合賠償金の形を取る。

通常、戦争賠償が支払われるのは敗戦国から戦勝国に対してのみであり、逆の例は少ない。賠償する対象は戦勝国の費やした戦費も含まれ、戦争法規違反には限らない。

よく似た概念語として「戦後補償」があるが、一般に戦争賠償は国家間、戦後補償は国家対個人の賠償・補償を指す場合に使われる。

第二次世界大戦を例にとるならば、日本の場合は国家間の戦争賠償、ドイツの場合は国家対個人の戦後補償にも応じている(ただしドイツの公式な立場は「個人が戦争で受けた被害を自国政府以外に請求することはできない」というものであり、ドイツ国民以外の戦争被害の請求は認めていない)。

ドイツの個人に対する賠償の場合は、敗戦国であっても戦勝国に対し自国民が受けた被害(戦勝国内や独立国内に遺棄されたインフラや資産など)に対する賠償を請求し実際に賠償がなされたことがあり、この点は敗戦国にのみ負担が偏るという賠償に対する批判に類しない。

また、遺棄された在外資産は中間賠償と呼ばれる賠償の一部という形態をとることもある。 』

『歴史

戦争賠償の慣習は、ポエニ戦争で共和政ローマがカルタゴに賠償金を課した例など古代からみられた。

だが戦争賠償が戦後処理の手段として一般化するのは、ヴェストファーレン条約の締結により近代的な国際秩序が形成され、戦争の主目的が敵領土の併呑や奴隷労働力の獲得から一定の政治目的の達成へと変質した17世紀以降のことである。

戦争賠償を巡っては様々な政治問題が発生した。

日露戦争

日露戦争の講和条約、ポーツマス条約締結は戦争賠償の有無を巡って難航した。

日本は賠償金の支払いを要求したが、ロシア帝国は国内の政情不安のため講和に応じただけで、海軍は太平洋艦隊とバルチック艦隊が壊滅的大損害を被ったが、陸軍力はまだ粉砕されておらず強気であった。

対して日本は、旅順攻囲戦、奉天会戦や日本海海戦で、持てる戦力を全て出し切り、巨額の戦時国債を発行しており、それ以上戦争を続けることは軍事上も経済上も不可能であった。

そこで、日本の全権大使小村壽太郎は、ロシア皇帝ニコライ2世が出してきた「賠償金は支払わないが樺太南部の割譲は認める」とする譲歩案を呑むしかなかった。

ポーツマス条約の「屈辱的な」内容を知った日本国民の中には小村を売国奴と罵る者もおり、日比谷焼き討ち事件が発生するなど混乱が続いた。

第一次世界大戦

「第一次世界大戦の賠償」も参照

4年以上の長期戦となった第一次世界大戦の結果、欧州連合国は多額の対アメリカ・イギリス向け戦争債務を抱え込んだ。

パリ講和会議では敗戦国である中央同盟国に対して賠償金を支払わせることが決定された。

ドイツに対しては1921年4月29日のロンドン会議において1,320億金マルクと総額が決定された。

しかし賠償金調達のためにマルクの為替レートは急激に低下し、ドイツは賠償金支払いの延期を求めた。

しかしフランスは、支払いを確保するためとしてルール地方を占領したが、これは逆効果であった。

ルール工業地帯を失い、さらに同地のストライキを支援するために紙幣の大増刷を行ったため、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥った。1ポンド=20パピエルマルクだった為替レートは、1ポンド=500億パピエルマルクまでマルク安が進んだ。

このため連合国も従来の賠償金取り立て方式は継続不可能であるとみるようになった。またオーストリアも経済破綻し、同国への賠償請求は事実上棚上げされた。

1924年、新マルク(レンテンマルク・ライヒスマルク)の導入で通貨が安定すると共に、賠償金の支払いプロセスにアメリカを参加させた。

協議の結果、ドイツに賠償支払いのための債権発行を認め、1年に25億金マルクの支払いを行うドーズ案が採択され、ドイツ経済は安定期を迎えた。

しかしドイツ経済はやがて減速し始め、ドイツは賠償金総額の再確定と減額を求めた。

1929年、賠償金支払い年数を59年とし、賠償金総額を358億金マルクとするヤング案が了承された。

ところが世界恐慌の発生で再び世界経済、特にドイツ経済は再びどん底の状態となった。
1931年にフーヴァーモラトリアムで一年の支払い延期を認めたが、結局、支払い不能が明らかになり、1932年のローザンヌ会議でヤング案の停止と、賠償金残額を30億金マルクまで減額することが決定された。

しかしドイツの経済混乱は右派、特にナチスの台頭を招き、ドイツはローザンヌ案を批准することはできなかった。

1933年にヒトラー内閣が成立してナチスが政権を取ると、7月に外債のモラトリアムを宣言し、ドーズ債、ヤング債の利子支払いを拒否したが、実際にはアメリカを除く国々に住む債権者に対する利払いは行われていた。

第二次世界大戦によって利払いは完全に中止され、その後の冷戦下で継承国が決まらなかったため、1953年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)政府は西側諸国との間に戦前の債務の支払いを約束するとともに、ドイツ統一まで支払いを猶予するロンドン債務協定(en:Agreement on German External Debts)を締結した。

ドイツ再統一後、ドイツ政府はドーズ債、ヤング債の利払いを再開した。2010年10月3日、ドイツ政府は支払い要求のあった債権に対する利払いを完了させた[1]。完済まで実に89年を要した。

第二次世界大戦

「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」および「日本の戦争賠償と戦後補償」も参照

第二次世界大戦の結果、ドイツは、1945年に合意されたポツダム協定で、連合国へ生産設備や動産による現物賠償を行った。

1953年に西ドイツはロンドン協定において再統一までの賠償支払いを凍結することを宣言し、1953年8月には東ドイツ(ドイツ民主共和国)とソビエト連邦の間で、賠償請求権の放棄が合意された。

1990年9月12日のドイツ最終規定条約により、ドイツ政府の第二次世界大戦交戦国に対する戦争賠償金問題は終結した。これはホロコースト被害者諸個人に対する賠償問題は含まれない。

日本は各国との個別の合意により、総額1兆300億円の賠償金を支払っている[2]。

その他の旧枢軸国は、1947年に締結されたパリ条約で、連合国に対する以下の賠償金の支払いに合意した(いずれも1938年価格)。

イタリアは、ユーゴスラビア、ギリシャ、ソビエト連邦、エチオピア、アルバニアへ3億6,000万ドルを支払う。

フィンランドは、ソビエト連邦へ3億ドルを支払う(後に完済)。

ハンガリーは、ソビエト連邦、チェコスロバキア、ユーゴスラビアへ3億ドルを支払う。

ルーマニアは、ソビエト連邦へ3億ドルを支払う。

ブルガリアは、ギリシャとユーゴスラビアへ7,000万ドルを支払う。

湾岸戦争

湾岸戦争の後、イラクは国連安全保障理事会決議687を受け入れ、サッダーム・フセイン政権のクウェート侵略によって同国が負った損害を賠償している。

クウェートの官民から提出された3,500億ドルという損害見積もりに対して、これまでに国連賠償委員会(UNCC)で521億ドルが承認され、イラクからは2005年までに192億ドルの支払いが行われている[3]。

戦争賠償に対する批判

ジョン・メイナード・ケインズは、戦争賠償の国際経済に与える影響は破滅的であると指摘した。

ヴェルサイユ条約でドイツが課せられた賠償金は疲弊したドイツの経済問題をさらに悪化させ、その結果生じたハイパーインフレはワイマール共和国を失敗させ、ナチスとヒトラーの台頭をもたらした。

第一次世界大戦の戦後処理の失敗の教訓は第二次世界大戦後の戦後処理において生かされ、戦勝国はドイツからは賠償金ではなく動産や機器による賠償を受けた。

関連項目

日本の戦争賠償と戦後補償
日本の戦後補償条約一覧
日本の戦争犯罪
戦争犯罪
戦争責任 』

思索の人、ジョージ・F・ケナンの遺産

思索の人、ジョージ・F・ケナンの遺産 ―― 決して満足しない精神
https://www.asahi.com/international/fa/TKY201201060297.html

※ 今日は、こんなところで…。

『2012年1月10日発売号

ニコラス・トンプソン/ニューヨーカー誌エディター

■考えることを止めない

 (封じ込め戦略のアウトラインを示した)ジョージ・ケナンの名声に影を落とす著作が最初に発表されたのは1967年。600ページものこの大著のフロントカバーには、孤独を漂わせ、読者をみつめる若者がいた。

物語は、周りに溶け込めない中西部の少年時代の話から始まる。この少年こそ、外交経験を知識として身につけ、アメリカでもっとも優れたソビエト分析者になる人物だった。

短期間だったとはいえ、彼は非常に重要な時期に、トルーマン政権の国務省で政策企画部長を務め、第二次世界大戦後の世界を再設計する仕事をしている。

彼はモスクワからの長文電報(1946年)とフォーリン・アフェアーズで発表したX論文(1947年)を通じて、その後、「封じ込め政策」として知られる戦略を描き出し、マーシャルプランの設計にも大きな役割を果たした。

ケナンは、ドイツを分割しておくことの危険、ソビエトとの軍拡レースのリスクを指摘した素晴らしい政策メモランダムもまとめている。

 だが、その後程なく、彼はワシントンのやり方に苛立ちを感じるようになり、ワシントンも彼を厄介な存在とみなすようになる。

ケナンは聡明であるがゆえに苛立ち、遠大なビジョンの持ち主であるがゆえに不満を抱いた。

 この著作は彼がアメリカに失望し、政府を去るところで終わる。

『ジョージ・ケナン回顧録1925―1950(上巻)』を世に送り出したのはケナン自身だった。

この回顧録は、20世紀の自伝としては自己批判と省察にあふれている点で傑出している。その後、私を含む数多くの作家や研究者が彼の伝記をまとめ、タマネギの皮を一枚ずつはぐようにケナンの実像に迫ろうと試みた。新たに発見された文書や日記によって、それまで知られていた彼の実像がますます鮮明に描き出されるようになった。

 そして、2011年11月、歴史家のジョン・ルイス・ギャディスの手になるケナンの公的な伝記がついに世に送り出された。『George F. Kennan: An American Life=ジョージ・ケナン あるアメリカ人の一生』は、緻密なインタビュー、そして、自分の夢を書き留めた彼のメモを含むケナンのすべての日記を前提にまとめられている。

 ギャディスが描き出しているのは、『ジョージ・ケナン回顧録』で彼がヒーローとみなすような、賢明で、物事を深く考える人物だ。

 ケナンは同時代に起きた主要な戦争のすべてを予見していた。

1940年、彼はアメリカがドイツとの戦争にいつ介入するか、アメリカが勝利を収めるのに何年かかるかを的確に予測していた。

1950年夏には、朝鮮戦争においてダグラス・マッカーサーに大きな権限を与えることのリスクを彼は警告した。

1966年には、ベトナム戦争を戦い続けることの危険を分析し、栄誉ある撤退を促している。

ケナンは、この間ずっと厳格な自己批判、自虐的な考えを自分のメモとして書き残している。ギャディスが引用している日記の一節は次のようなものだ。「自分がひ弱で、幼稚で、役に立たないだめな人間に思えることがある」。彼の聡明さと自己卑下は常に表裏一体をなしていた。

 彼の影響力が頂点に達していた1949年、政策企画部長を辞任することを考えていたケナンは、ディーン・アチソン国務長官(当時)に宛てた手紙で「寄生虫に侵され断末魔状態の社会秩序のなかで有力なポストにあることは不幸な慰めでしかありません」と書いている。

これと同じ態度が、その後の40年間における歴史家、エッセイスト、そして核兵器に頼る愚かさを批判した評論家としての彼の人生にもみてとれる。

 ギャディスの著作が明らかにしているように、ケナンが退屈で凡庸な存在だったことは一度もなく、また彼が人生に退屈したこともなかった。

たびたび病にかかったが、病身にあっても彼が思索を止めることはなかった。

彼の人生は、いかにすれば自分が、そして自分の国がよりよい存在になれるかを考えることにあった。

生産的な時間も数多くあった。101歳まで生きた彼は、96歳のときに最後の著作を世に送りだしている。

1950年代半ばに彼は「人間、少なくとも私のような人間は、何かに突き動かされるか、追いかけられるか、取り憑かれて、毎日を地球最後の日であるかのように送らないと、まともな生活はできない」と書き残している。

    ◇

Nicolas Thompson ニューヨーカー誌のシニアエディターで、The Hawk and the Doves: Paul Nitze, George Kennan, and the History of the Cold Warの著者。ニューアメリカン財団のフェロー。

 <フォーリン・アフェアーズ・リポート2012年1月号掲載>

 (C) Copyright 2012 by the Council on Foreign Relations, Inc., and Foreign Affairs, Japan 』

ロシアは断固たる対抗力で封じ込めるしかない

ロシアは断固たる対抗力で封じ込めるしかない――アメリカ人外交官が書いた長文電報の衝撃的な内容
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/05030608/?all=1

『かつて、ロシア人の善意を前提にして、ロシアとの協力を軸とした国際秩序を夢想することに、警鐘を鳴らし続けていたアメリカ人外交官がいた。国際政治学者の細谷雄一さんの著書『戦後史の解放II 自主独立とは何か』から紹介する。

 ***

ジョージ・F・ケナン(1904~2005年)(他の写真を見る)

 1946年から48年までの2年間、アメリカ政府の中では1人の外交官の構想と戦略が巨大な影響力を及ぼし、さらに国際情勢の行方に深く結びつくことになる。そのアメリカ人外交官の名前は、ジョージ・F・ケナンである。

 当時のアメリカ国務省のなかでも、もっともロシア事情に精通した専門家であったケナンは、1944年以降、代理大使としてモスクワに戻ってきた。

 ロシア語やロシア文化を理解する者が少ない大使館での生活において、次第にケナンは孤立感を抱くようになる。多くの者は、戦争が終わってもソ連政府との協力が継続可能だと楽観視していたのだ。

 ソ連は好機を巧みに利用して、自らに有利な戦略環境を構築していた。その間、アメリカ政府は辛抱強く、ソ連の善意を待ち続けていた。ケナンは長年のロシア分析の結果を踏まえ、そのようにロシア人の善意を前提にして、ロシアとの協力を軸とした国際秩序を夢想する危険に警鐘を鳴らし続けていた。しかし、それに気がつく者は多くはない。ケナンはそれを、次のように批判する。

 「ソビエトは、ヨーロッパの再建にわれわれと実際に協力しても何の益もないことを知っていた。しかしそのような協力の可能性が、満更ないこともないように見せびらかし、その実体がはっきりするまでわれわれの建設計画実施を遅らせれば、彼らにとって利益は大きいというものであった。西側の苦悩が続くことは、それだけ西側諸国で虎視眈々と機会を狙っている共産党の思うつぼにはまるだけであろう」

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ロシア人の文明論的な劣等感と不安感

 ワシントンDCの巨大なアメリカ政府機構、さらにはアメリカ世論が音を立てて回転し始めるためには、外部からの強力な心理的衝撃が求められていた。そのような衝撃を提供したのは、ケナンの「長文電報」である。

 ケナンは、1946年2月22日に、歴史を動かすことになる8000語に及ぶ長大な電報をモスクワからワシントンDCへと送った。それは、ソ連がどのような論理と、どのような動機に基づいて行動しているのかを理解するために不可欠な、アメリカ政府内ではいわば教育的な目的をもつ文書であり、政権の中枢の指導者たちにも広く読まれる結果となった。

 その電報の冒頭で、ケナンは次のように論じる。すなわち、「ソビエト連邦はいぜん敵対的な『資本主義の包囲網』の中にあり、長い目でみれば資本主義との恒久的な平和共存はありえない」

 なぜソ連は、西側諸国との協調を継続することを求めないのか。何が問題なのか。ケナンは次のように解答する。

「国際問題に関するクレムリンの神経過敏症的な見解の底には、ロシアの伝統的、本能的な不安感がある。

元来これは、獰猛な遊牧民と隣合わせに、広大なむき出しの平原に住もうとした、平和な農耕民族の不安であった。

ロシアが経済的に進んだ西方と接触するようになったとき、その地域のより有能で、より強力で、より高度に組織された社会に対する恐怖がその上に加わった」

 このようにケナンは、ロシア人が感じる不安を、文明論的な劣等感に由来するものであると説明した。さらにケナンは次のように続ける。

「こうした理由で、彼らはつねに外国の浸透を恐れ、西方世界と自国との間の接触を恐れ、もしロシア人たちが外の世界について真実を知るか、あるいは外国人が内部の世界について真実を知ったときに、何が起こるかを恐れてきたのである。

そして、彼らは、対抗勢力との盟約や妥協の中にではなく、その完全な破壊のための、忍耐強いけれども必死の闘争の中にのみ、安全を求めることを学んできたのである」

トルーマン大統領(アメリカ合衆国第33代大統領)

トルーマン大統領もケナンの「長文電報」に目を通したという (出典:Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)(他の写真を見る)

「長文電報」の衝撃

 このようにケナンの「長文電報」は、この頃にアメリカ政府内で幅広く浸透していたロシア人との協力が可能だと信じる楽観的な思考や、国連を通じた国際協調により平和を確保できると考える安易な方針に、冷や水をかけることになった。

 この長文電報の衝撃について、ケナンについての伝記を書いたジョン・ルカーチは、次のように述べている。

「電文は2月22日の休日、ワシントンの誕生日にワシントンに届いた。それはただちに回覧され、増刷され、送付され、陸軍長官、海軍長官によって読まれ、トルーマン大統領自身も目を通したようだ。歴史家たちは、長電文をまさしく合衆国の対ソ政策を転換させ、事実上冷戦の開始を促した重要な文書であり、手段のひとつだとみなすようになった」

 翌年の1947年7月にはケナンは『フォーリン・アフェアーズ』誌において、現役の政府高官であることから「ミスターX」という匿名で「ソヴェトの行動の源泉」という論文を寄稿して、より体系的にソ連の対外行動の原理を説明した。

それは、世界中で多くの読者に読まれることで、国際世論と主要国の政策を大きく動かすモーターとなった。世界は、戦後初期の米ソ協調を基調とした時代から、米ソ対立を基調とする冷戦の時代へと、音を立てて回転し始めていた。

「封じ込め政策」の必要性

 ケナンはこの論文の中でアメリカ政府が採用すべき具体的な政策提言を行い、次のように論じている。

すなわち、「これらの事情からみてアメリカの対ソ政策の主たる要素は、ソ連邦の膨張傾向に対する長期の、辛抱強い、しかも確固として注意深い封じ込めでなければならないことは明瞭である」

 ケナンはこの匿名論文において、そのような認識を前提としてさらに次のように明言する。「アメリカはソ連邦を世界政治における協力者としてではなく、対抗者だと考えていかねばならない」

 この論文を読んだ多くの読者は、ソ連を「対抗者」として明確に位置づけるケナンの論理に納得した。戦争終結後のソ連の行動を見る限り、それはとてもアメリカに対する「協力者」とは思えぬようなものであった。だとすれば、われわれもソ連と向き合う上での態度を変えていかなければならない。

 さらに、具体的な政策提言として、ケナンはこの論文において次のように論じる。

「この事実とともに考慮されるべきことは、ロシアが西側世界全体と対比すれば、まだ遙かに弱い相手であること、ソヴェトの政策がきわめて柔軟性をもっていること、ソヴェトの社会がやがて自分の潜在力全体を弱めてしまうような欠陥をその内に含んでいるように見えることである。

これらのことは、それだけ、もしロシアが平和な安定した世界の利益を浸食する兆候を示すならばどこであろうと、アメリカが、断乎たる対抗力をもってロシアに対処するために計画された確固とした封じ込め政策を、十分な自信をもって始めることの妥当性を示すものである」

 なるほど、アメリカには、「断乎たる対抗力をもってロシアに対処するために計画された確固とした封じ込め政策」こそが必要なのだ。アメリカの新しい長期的な対外戦略、「封じ込め」戦略の誕生であった。

 ***

細谷雄一(ほそや・ゆういち)
1971年、千葉県生まれ。慶應義塾大学法学部教授。立教大学法学部卒業。英国バーミンガム大学大学院国際関係学修士号取得。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。博士(法学)。北海道大学専任講師などを経て、現職。主な著書に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(サントリー学芸賞)、『倫理的な戦争』(読売・吉野作造賞)、『外交』、『国際秩序』、『安保論争』、『迷走するイギリス』、『戦後史の解放I 歴史認識とは何か』『戦後史の解放II 自主独立とは何か』など。

デイリー新潮編集部』

アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

 ※ 『出自

ヒトラー家
「アロイス・ヒトラー」も参照
母クララ・ヒトラー
父アロイス・ヒトラー

ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている[12]。出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている[12]。 』

『ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている[12]。

出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている[12]。

そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、彼は低地オーストリア地方にあるシュトローネス村にマリア・アンナ・シックルグルーバーという未婚女性の私生児として1837年に生まれ、アロイス・シックルグルーバーと名付けられている[13][14]。

父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれた高齢出産かつ初産であった[15]。

さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、結果的にアロイスの洗礼台帳は空白になっている[15]。

後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人ヨハン・ゲオルク・ヒードラー(英語版)と結婚[15]、アロイスは「継父と母が儲けた婚外子」で後に結婚したのだろうと語っているが、その根拠はない[16]。

職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている[17]。 』…。

 ※ ということで、そもそもが「家系不詳」「氏不詳」の、どういう「素性」の人物なのか、よく分かっていない…、と言うのが実情のようだ…。

ゾンビのルーツは、ヒトラーが「ユダヤ人の血」を持っていたと主張しています

ゾンビのルーツは、ヒトラーが「ユダヤ人の血」を持っていたと主張しています
https://www.washingtonpost.com/?reload=true&_=1651562756411

『(※ 翻訳は、Google翻訳)
グレン ・ケスラー
スタッフライター
今日の 午前3時EDT

「では、[ウクライナのウォロディミル大統領]ゼレンスキーがユダヤ人だったらどうなるでしょうか。事実は、ウクライナのナチスの要素を否定するものではありません。ヒトラーにもユダヤ人の血があったと思います。それは絶対に何の意味もありません。賢明なユダヤ人は、最も熱心な反ユダヤ主義者は通常ユダヤ人であると言いました。私たちが言うように、すべての家族には黒い羊がいます。」

—ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相、5月1日、イタリアのテレビニュース番組「ゾナビアンカ」とのインタビューで

ラブロフは、アドルフヒトラーの遺産について長い間議論されてきた主張を繰り返したとき、イスラエルで怒りを引き起こしました。これは、家族の歴史の曖昧なビットが、しばしば暴かれた物語が時々再び現れることをどのように可能にしたかについての良い例です。

この主張を裏付ける証拠はほとんどありません。

事実

この物語の出典は、文書化された事実に由来しています。ヒトラーの父親は嫡出から生まれ、ヒトラーの祖父は明らかにされていません。それはヒトラーの祖父がユダヤ人であったという可能性を開いたままにしました—そしてヒトラー自身は4分の1のユダヤ人でした。(しかし、ユダヤ人の伝統では、ユダヤ人は母親の家系から派生しています。)

 ※ 「祖父がユダヤ人だった。」とは、確たる証拠は無いもよう。ただ、いろいろと「書類」のあいまいさがあって、「そうだったのでは。」と推測されているようだ…。

ヒトラーが権力を握っている間、彼の祖父についての欠落した情報は、ユダヤ人の祖先の可能性についての憶測につながりました。その後、1953年に、ヒトラーの個人弁護士ハンス・フランクの回想録が出版されました。彼がナチス占領下のポーランド政府を率いたときに犯された犯罪のニュルンベルク裁判で処刑されてから7年後のことです。

「絞首台に直面して」という本の中で、フランクは、ヒトラーの半甥が総統を脅迫してユダヤ人の過去を明らかにした後、ヒトラーの祖先を掘り下げたと主張した。フランクは、ヒトラーの父方の祖母であるマリア・アンナ・シックルグルーバーが、オーストリアの都市グラーツでユダヤ人家族の料理人として働いていたときに、ヒトラーの父であるアロイスを1937年に出産したことを発見したと主張しました。当時、ヒトラーは42歳でした。

出生を「非合法」と記録した洗礼文書には、もともとアロイスの父親は記載されていませんでした。しかし、フランクは、ヒトラーの祖母と家族の間で交換された手紙(フランケンベルガーとして知られている)は、家族の一員、おそらく19歳の息子がヒトラーの祖母を含浸させ、家族が養育費を支払ったことを示したと主張した。

(ヒトラーは、彼の祖母が実際にユダヤ人の家族に、ティーンエイジャーが父親であると誤って主張することによって養育費を支払うように仕向けたとフランクに言ったと思われます。ヒトラーは彼の祖母を物語の源として引用しました—しかし彼女は彼が生まれる40年前に亡くなりました。)

ほとんどの歴史家は、フランクのアカウントはエラーでいっぱいであり、信頼できないと言います。

「1830年代にはグラーツにフランケンベルガーと呼ばれるユダヤ人の家族はいませんでした」とイアン・カーショーは1998年のヒトラーの伝記「ヒュブリス」に書いています。「フランケンレイターという名前の家族はそこに住んでいましたが、ユダヤ人ではありませんでした。肉屋のレオポルド・フランケンライターに雇われたのは言うまでもなく、マリア・アンナがグラーツにいたという証拠はありません。」

さらに、フランクによって説明されたような事件と養育費の支払いを詳述する通信はこれまで発見されていません。実際、家族は貧しくて養育費を払うことができませんでした。それに加えて、フランケンライターの息子(祖父とされる)は、アロイスが生まれたときは10歳だったでしょう。
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ヒトラーを恐喝しようとしたとされる甥のウィリアム・パトリック・ヒトラーについては、米国に移住した後も、公にそのような主張をしたことは一度もない。

歴史家はまた、1860年代までオーストリアのその地域に住むユダヤ人に対する公式の禁止を引用しました。しかし、2019年に、心理学者のレオナルドサックスは、当時グラーツにユダヤ人は住んでいないという主張の調達に疑問を投げかけ、市内に小さなユダヤ人コミュニティがあったという証拠を見つけました。フランクの説明にもっと信憑性を与えるべきだと主張する彼の研究は、Journal ofEuropeanStudiesに掲載されました。

アロイスが5歳のとき、彼の母親は、ヒトラーが彼の祖父として公式に主張したヨハン・ゲオルグ・ハイドラーという男と結婚しました。彼女はアロイスが9歳のときに亡くなり、アロイスはまだ母親の名前であるシックルグルーバーを使用して、ヨハン・ゲオルクの弟であるヨハン・ネポムク・ハイドラーの農場に送られました。

多くの歴史家は、ヨハン・ゲオルグかヨハン・ネポムクのどちらかが実際にはアロイスの生みの父であると推測していますが、スキャンダルを避けるためにつながりは隠されていました。(ヨハン・ネポムクはアロイスが生まれたときにすでに結婚していた。)それを何らかの形で証明する証拠はこれまで出てこなかった。JohannNepomukはAloisに相続を残しました。しかし、おそらく近親相姦のひねりで、ヨハン・ネポムクはアドルフ・ヒトラーの母親、クララの母方の祖父でもありました。

ヨハン・ゲオルグの死からほぼ20年後の39歳のとき、アロイスは教区司祭にバプテスマの記録を変更し、ヨハン・ゲオルグ・ハイドラーを父親として書くよう説得しました。

理由は不明ですが、公式記録ではヒトラーとして名前が表示されていました。

washingtonpost.com ©1996-2022ワシントンポスト 』

冷戦はなぜ始まったのか? 歴史は繰り返されるのか?

冷戦はなぜ始まったのか? 歴史は繰り返されるのか?
https://style.nikkei.com/article/DGXZQOLM042470U2A400C2000000?channel=ASH06006&n_cid=TPRN0016

『1945年の夏、第2次世界大戦における連合国側である米国、ソ連、英国の首脳がドイツのポツダムに集まり、この史上最も血なまぐさい戦争の終結に向けて話し合った。ドイツを分割して占領統治し、ソ連の支援を受けたポーランド政府を認め、さらにベトナムを分割するという、戦後の世界秩序を左右する重大な決断が下された。

1945年のポツダム会談に出席したスターリン、トルーマン、クレメント・アトリー英首相 (PHOTOGRAPHS VIA CORBIS, GETTY IMAGES)

ポツダム会談で最も重要な出来事の1つは、覚書として残されることも、記者会見で語られることもなかった。会議の後半、ハリー・トルーマン米大統領がソ連のスターリン首相をそばに呼び、ある衝撃的なニュースを伝えたのだ。米国は「異常な破壊力を持つ兵器」の実験に成功した、と。

1945年のポツダム会談で撮影された写真の裏面に、ハリー・トルーマン米大統領のメモが。「私はスターリンに、史上最強の爆弾を日本に投下する予定だと伝えた。彼は微笑みながら、教えてくれて感謝すると言った。だが、彼には私が何のことを言っているのか分からなかったのだ。そう、原爆のことだ!」(PHOTOGRAPHS VIA CORBIS, GETTY IMAGES)

数週間後、米国は原爆を使用して日本を降伏させた。核兵器の破滅的な力を実証した米国は、戦争で同盟関係にあった列強の中で突然優位に立った。そして、わずか1年半後には、米国とソ連という2つの超大国の危険な覇権争いが始まり、ソ連が崩壊する1991年まで40年以上も続くことになる。

両国は表向きは平和な関係にあったものの、莫大な費用をかけた急速な軍拡競争や、南米、アフリカ、アジアでの代理戦争、そして米国主導の資本主義陣営とソ連主導の共産主義圏の間で、世界的な支配をかけた競争が繰り広げられた。

半世紀近くも続いた冷戦はなぜ始まり、どのようにエスカレートしていったのか。今日の世界に何をのこしたのか。そして、新たな冷戦がすでに進行していると考える専門家たちがいる理由を見ていこう。

なぜ「冷戦」と呼ばれたのか?

「冷戦」という言葉は、欧州諸国間の関係が険悪になっていく様子を表現するためにフランスで「ゲール・フロワ(冷たい戦争)」という表現が使われていた1930年代から存在した。その後、1945年に米国が広島と長崎に原爆を投下した直後、英国の作家ジョージ・オーウェルが、原爆が国際関係において何を意味するかを探るエッセーの中で、冷戦という言葉を使った。

原爆は10万人を超える民間の日本人の命を奪った。あまりに恐ろしいその破壊力は、大国間の戦争を抑制する代わりに「征服不可能であると同時に、近隣諸国と永久に『冷戦』状態にある国家」を作り出すだろう、とオーウェルが予測するほどだった。

かつて同盟国だった米ソの間に不信の種が育つにつれて、オーウェルが予言した「平和でない平和」は現実となった。

冷戦はどのように始まった?

ソ連は第2次世界大戦でナチス・ドイツと激戦を繰り広げ、 軍人・民間人合わせて推定2400万人という最も多くの犠牲者を出した国だ。指導者スターリンは、こうしたソ連の貢献を反映していないとして、戦後の欧州分割に不満を抱いた。

米国では、外交官ジョージ・ケナンが、1946年にソ連外交を分析した「長文電報」で、ソ連への不信感を表した。

ケナンは、ソ連が非論理的で不安定であり、長期的に西側と協力することはないだろうと警告した。

これを受けて、米国はソ連のイデオロギーと影響力の拡大を防ぐために「封じ込め」政策を取り始める。』

『米国は、すぐにこの新しい政策を実行に移す機会を得た。1947年、英国が、共産主義者による反乱を抑えようとしていたギリシャとトルコに対する援助を打ち切ると発表した。トルーマン米大統領は、これを機に、米国議会に両国を支援する資金を要求し、「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる原則を確立した。米国は、ソ連軍や共産主義者の暴動によって脅かされる国や人々を支援すべきだというものだ。スターリンは、この動きを「影の戦争」の幕開けと見なした。

「冷戦」という言葉は、西側の資本主義と東側の共産主義の間のイデオロギー的な闘争を表す略語になった。米国のジャーナリスト、ウォルター・リップマンが、1947年に発表した一連の記事でこの言葉を流行らせた。
なぜNATOができたのか?

ソ連の影響力を西に拡大し、他の国々を共産主義の支配下に置こうとするスターリンの動きを懸念していたのは米国だけではない。

1948年、ソ連はチェコスロバキアで起きたクーデターを支援し、西ベルリンの封鎖を開始した。当時ベルリンは、東は共産主義、西は資本主義が支配する占領地域に分割されていた。

米国とその同盟国は統一戦線を示そうと、大西洋をまたぐ相互防衛同盟である「北大西洋条約機構(NATO)」を結成した。1949年4月4日、米国、カナダ、ベルギー、デンマーク、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、英国は、「加盟国のうち1カ国でも武力攻撃を受ければ、それをすべての加盟国に対する攻撃だとみなす」ことに合意し、条約に調印した。

これに対し、ソ連は独自の防衛同盟を結んで対抗した。1955年に締結されたワルシャワ条約は、ソ連に加え、ポーランド、東ドイツなど7つの衛星国を含み、1946年にチャーチルが演説の中で「鉄のカーテン」と呼んだ東西ヨーロッパの思想的・軍事的な壁を強化するものとなった。

1955年5月、ワルシャワ条約の締結に向けた会合に出席するためポーランドに到着したソ連代表団 (PHOTOGRAP VIA AFP, GETTY IMAGES)

世界は核戦争にどこまで近づいたのか?

「鉄のカーテン」を挟んで対峙していた米ソ両国は、何百兆円もの資金を投入して核兵器を蓄積し、軍拡競争を繰り広げた。

当初は米国が有利だった。しかし、ソ連が核兵器を保有するようになると、両国は「相互確証破壊」によって膠着状態に陥った。どちらかが攻撃すれば、もう一方が報復し、双方に破滅的な結果をもたらすという考え方だ。

1962年のキューバ・ミサイル危機は、冷戦の中で最も緊迫した出来事だった。米国は、フロリダ州からわずか145キロ南に位置する共産主義国キューバに、ソ連のミサイル基地と武器があることを察知した。ケネディ大統領は、これらの撤去を要求し、「米国領土を攻撃すれば、直ちにソ連に核攻撃を加える」と宣言した。

1962年、キューバの海上封鎖を宣言するジョン・F・ケネディ米大統領がデパートのテレビに映っている (PHOTOGRAPH BY RALPH CRANE, LIFE MAGAZINE/THE LIFE PICTURE COLLECTION/GETTY)

2週間近くに及ぶ緊迫した交渉の間、核戦争の脅威は間近に迫っていた。最終的にソ連は、米国がキューバに侵攻しないと約束すればミサイルを撤去することに同意した。このとき水面下では、米国もトルコからの核兵器撤去に合意していたが、この合意が公表されたのは1987年だった。

しかし、その後も双方の核兵器は激増し続けた。1980年代後半には、米国が2万3000発、ソ連が3万9000発の核兵器を保有していたと推定されている。』

『さまざまな形の「冷戦」

40年以上にわたる冷戦の間、米ソは世界中で何度も代理戦争を行ってきた。朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他の武力紛争で、2つの超大国は国家に資金提供を行い、また直接的な戦闘を行ってきた。さらに、南米、アフリカ、アジア、中東において、革命や反乱、政治的暗殺にも資金を提供した。

米ソはまた、20年にわたる宇宙開発競争の中で、技術的な優位性を証明するために競い合った。1957年、ソ連は初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ、1969年には米国が初めて月面に人類を送り込み、成功を収めた。1970年代半ばになるとようやく、両国は共同ミッションで協力し始めた。

1950年代以降、米ソは宇宙開発という新たな舞台で軍備を競い合った。写真はソ連初の人工衛星スプートニク (PHOTOGRAPH BY MARK THIESSEN, NAT GEO IMAGE COLLECTION )

冷戦はどのように終結したのか?

1980年代半ばになると、鉄のカーテンの向こう側の生活は一変していた。ソ連邦の国々では民主化運動が起こり、ソ連邦自体も経済的、政治的混乱に見舞われた。1987年には、特に危険な地上発射型ミサイルを廃棄する核条約を結ぶなど、米ソはより開かれた関係を築くようになった。

1991年、ソ連は民主化革命によって大半の構成国を失い、ワルシャワ条約は正式に解消された。ソ連最後の指導者ゴルバチョフは、西側諸国に国を開き、国有化に依存する制度を崩す経済改革を行った。そして、1991年12月、ソ連邦は解体された。

また新たな冷戦が始まるのか?

ソ連はなくなり、核兵器も1980年代から1990年代にかけて米ソ間で結ばれた核不拡散条約によって劇的に減少した。ここ数十年、米ロはアフガニスタンや対テロ戦争など、世界における様々な問題で協力してきた。

しかし、現代の地政学には今も冷戦の影響が刻まれている。

両国は依然として、対立する利害、多額の防衛予算、そして国際的な軍事基地を抱えている。

NATOもいまだに政治的な力を持ち、30カ国が加盟するまでに成長した。

現在、NATOはポーランドやバルト3国などの旧ソ連邦諸国や旧ワルシャワ条約機構加盟国を含み、ロシアの国境際まで広がっている。1990年代以降、ロシアはNATOの東方拡大を自国の安全保障に対する脅威と見なしてきた。

2008年、ウクライナはNATOに加盟したいと希望を表明したが、2年後に新大統領がその計画を撤回した。

2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻したことで、ロシアと欧米の緊張は最高潮に達している。今回の危機を新たな冷戦の始まりになぞらえる論者もいる。

21世紀の冷戦はすでに始まっているのだろうか? それはまだ分からない。歴史家たちは、ポツダム会談が第2次世界大戦後の長い対立の舞台を作ったと言うが、新冷戦の始まりは、歴史のバックミラーに映るまで分からないかもしれない。

(文 ERIN BLAKEMORE、訳 桜木敬子、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年3月29日付]』

阻塞気球はWWIで登場したが、WWIIでも有効だった。

『「Barrage Balloons Can deny Russian aircraft safety at low altitude」という記事。
    阻塞気球はWWIで登場したが、WWIIでも有効だった。バトルオブブリテン中、102機のドイツ機が気球から垂らしたワイヤーに引っかかり、そのうち66機は墜落しているのだ。

 また「V-1」号巡航ミサイルのうち231発が、やはり阻塞気球にかかって、堕ちている。

 WWII中に英国は気球を2000機、展開した。それらは常時同じ位置ではなく、素早く要所に集中させていた。
 米国本土防衛省によると、35立方フィートの小型気球でも、半ポンドの荷物を吊るして、高度1000フィートに昇騰させることができる。繋留索は最近はケヴラー繊維の綱である。

 これはピックアップトラックで運搬でき、人手は数名しか要しない。
 げんざい、地面スレスレの超低空飛行を守っているロシア軍のヘリコプターが、1000フィート以上で飛ぶことを余儀なくされれば、MANPADで遠くから照準しやすくなる。』

ロシアを深く知りたいか? だったら、これを読め

『カミル・ガリーフ氏の2022-4-20記事「What to read about Russia?」。

  ロシアを深く知りたいか? だったら、これを読め――という記事なのだが、スターリンの話が面白すぎた。

 英文で読める書籍のリストについては直接にガリーフ氏のツイッターを参照されたい。

 英語にすら訳されていないディープな文献が5冊紹介されており、これが貴重。

 その筆頭の1冊が、Bazhanov が書いた『I was Stalin’s secretary』。※原題は仏語だろう。

 バザノフは1923年にスタの秘書(ポリトビューロ関係の専門)になった。1928に彼はイランへ逃亡し、そこから英領インドに入り、最終的にフランスへ。そこでスターリンの暴露本を書いている。

 バザノフは毎日十回以上も、スタの執務室に入る必要があった。
 スタは、バザノフが持ってくる文書の全部に目を通しもせず、バザノフに処置を委ねてしまうことがしばしばあった。

 ならば、スターリンはいちにち、何をしていたのか?
 部下幹部党員どうしの、有線電話の会話を、執務室において、盗聴していたのである。

 スタの部屋には4つの、ふつうの電話端末があった。

 ひとつは中央委員会に直通。

 他の3つは、クレムリン内外の幹部につながる電話だった。

 そしてもうひとつ、ふつうでない電話端末があった。それは傍聴専用の受話器で、こっちから話すことはできない。

 バザノフは、グリゴリィ・カネル(秘密警察担当秘書)から、どういう仕組みになってるのかを、聞き出した。

 かつてレーニンが、手動電話交換機室の女たちが、ソ共幹部同士の会話を簡単に傍聴できることを問題視したのだという。

 そこでレーニンがスターリンに命じ、中枢幹部80人(Vertuskha)に関しては自動交換機経由で互いに安全に交信のできる電話システムを導入させた。

 そのシステムはクレムリン内のスターリンの部屋に設置されることになった。
 システムの構築は、1人のチェコスロヴァキア人の共産党員の技師が請け負ったという。

 そのさいスタは、幹部同士の秘密の通話を、まったく気付かれずにこっそり盗み聴きできるような回路を、じぶん専用として、追加させた。「コントロール・ポスト」と称した。

 表向きは、このポストは故障箇所の発見用だと説明された。どこが悪いのかを、聞いてチェックするための回線だと。
 その端末が、スタの個人の机に、装置されたのである。

 すべてが完成したところで、カネルは秘密警察長官ヤゴダに命じて、チェコスロヴァキア人をスパイとして逮捕し、処刑させた。ヤゴダは、それは国際スキャンダルになるだろうと心配したが、スターリンも逮捕を承認した。

 バザノフは解説する。1920年代を通じ、スターリンの毎日の執務は、この秘密端末を使って、他の幹部同士の電話通話を盗聴することに、ほとんど費やされていたのだと。

 ※NSAの濫觴だね。

 ほかにも面白い話が満載だから、この1冊は、早く英訳したほうがいいだろう。

 英訳されている書籍のひとつは、こういうことを教えてくれる。いわく。トルコのナショナリズムはフランスからの輸入だが、ロシアのナショナリズムは、ドイツのコピーなのである、と。』