オーデル・ナイセ線

オーデル・ナイセ線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%BB%E7%B7%9A

『オーデル・ナイセ線(オーデル・ナイセせん、ドイツ語: Oder-Neiße-Grenze)は、現在のドイツ連邦共和国とポーランド共和国の国境線。オーデル川とその支流のナイセ川によって構成される[1]。』

『歴史

建国時代の中世ポーランド

オーデル・ナイセ線は、1945年のポツダム会談により、第二次世界大戦後のドイツ・ポーランドの暫定的な国境として設定された。それ以前のドイツ・ポーランドの国境は、歴史的なプロイセンとポーランドの国境が適用されており、オーデル・ナイセ線よりもずっと東側にあった(参照:ポーランド分割による各国の獲得領土)。

中世フランク王国の時代にはエルベ・ザーレ川付近が境となり、以東、現在のブランデンブルク州やザクセン州付近まで、スラヴ系のソルブ人が住んでいた。カール大帝らによるエルベ以東遠征以降、13世紀頃まではおよそオーデル・ナイセ線付近がドイツ(神聖ローマ帝国)とポーランド王国の国境であった。この一帯のシレジア地方では17世紀までポーランド王家であるピャスト家の分家が諸侯として支配したが(シロンスク公国群)、13世紀にモンゴル帝国軍が襲来し一帯を荒廃させて撤退すると、疎開から戻ってきたポーランド人住民だけでは戦後の復興のために人手が足りず、西方のドイツ、フランス、オランダなどから多くの移民が招かれた。そのうち特に多かったのはドイツ人で、各地で次第にドイツ語が優勢となっていった。17世紀に最後のピャスト家の侯が死亡すると、シレジアはオーストリアのハプスブルク家に相続された。その後、この地方は18世紀中頃のシュレージエン戦争の結果、プロイセン王国の手に渡った。以後1945年にナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗北するまでは、ドイツの一地方と認識されていた。この地域では統計においては「ドイツ人」が多かったものの、実はそのうちの多くは俗に「シレジア人」「ポメラニア人」「マズーリア人」などと呼ばれる、ポーランド人やチェコ人の家系が近世から徐々に母語を西スラヴ語からドイツ語に変えることで文化がドイツ化した土着のスラヴ系の人々で、彼らは統計においてはドイツ人とみなされ、第一次世界大戦後に国家の帰属を問うために行われた住民投票でも、母語のドイツ語が国語であるドイツを選んだ。

ポツダム会談で新しい国境線をオーデル・ナイセ線に設定したのは、

ポーランドをそれまでより西側に移し、ポーランド・ソビエト戦争後に調印されたリガ講和条約によりポーランド領とされた白ロシアとウクライナの西側(ナチスのポーランド侵攻に呼応してソ連軍が侵略・不法領有した領土のほとんど)を、引き続きソ連領として存続するのを正当化させること
スターリンの歴史観によると、中世から近代にかけての各国家の発展は王侯貴族やブルジョワがプロレタリアートの意向を無視して行ったもので、無効であるため、ポーランドはまずは10世紀の建国時に設定された国境を持つべきであること
オーデル川と西ナイセ川に国境線を引くことでドイツ・ポーランド間の国境線が最短になるため、将来に両国で戦争となった場合は、他に国境線がある場合に比べるとポーランドの防衛が容易であること
ドイツ系住民の少ないポーランドを作ることで将来の民族紛争の種をなくすこと

などが目的であった。結果として第二次世界大戦前後で比較すると、ポーランドは国土全体が西側に移ったような形となった。

影響

オーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ領土
ポーランドへの影響

ポーランドにとってこの国境線設定は

第二次世界大戦期にポーランドのユダヤ人がナチスによって絶滅させられるか、戦後はアメリカ合衆国やイスラエルに亡命するなどして、ほぼ完全に国内から居なくなってしまったこと
この地域に住んでいたドイツ人が、ほとんど難民という形でドイツに移住してしまったこと(ドイツ人追放)
旧ポーランド東部の喪失領土のポーランド人のほとんどが新領有国のソ連によって、逆にポーランド新領土に強制移住させられ、多くがオーデル・ナイセ線付近の「回復領」の復興のためにこの地域へ移住したこと
正教徒が優勢な東スラヴのロシア人・ベラルーシ人・ウクライナ人を、かつての東部領土とともに切り離したこと

などから、新生ポーランドはカトリックやポーランド人の民族的・文化的均質性が極めて高い国家になった。

ドイツへの影響

ドイツにとっては

近世から近代にかけてドイツ人地域の統合を牽引したプロイセン王国の故地であり、中欧の大国ドイツ帝国に君臨したホーエンツォレルン家揺籃の地でもある東プロイセンなど、歴史的なプロイセン地域の大半を失ってしまったこと。
ドイツ騎士団の活躍に端を発した中世以来の東方植民によって、当地に数百年もの間にわたってドイツ系住民が定住していたこと

から、極めて喪失感が強かった。

決定以後

この国境線は「暫定的なもの」として定められたものであるが、ソビエト連邦がポツダム会談を通じて衛星国であるポーランド人民共和国とドイツ民主共和国(東ドイツ)に押し付けたものであった。従ってポーランドおよび東ドイツには拒否という選択肢はあり得ず、東ドイツ成立後の1950年7月6日にポーランド人民共和国とドイツ民主共和国との間でズゴジェレツ条約が締結され、この2カ国間では受け入れられることになった。

アメリカ合衆国国務長官ジェームズ・F・バーンズが1946年9月6日にシュトゥットガルトで行った演説『ドイツ政策の見直し』では、「合衆国は、これらの国境線をポーランドに有利な形で見直すことを支持する」としつつも、「ポーランドに割譲される地域の範囲は、最終解決が得られた際に決定されねばならない」と、オーデル・ナイセ線が最終解決ではない含みを持つ見解を述べたため、西ドイツのアメリカに対する支持を高める一方で、アメリカとポーランドとの関係悪化を招いた。

東ドイツがこのラインを認めた一方で、「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)がこのラインを「ドイツ」とポーランドの国境として受け入れるか?」という問題が残っていた。1950年代から1960年代の西ドイツは共産主義者の支配するドイツ民主共和国を承認せず、これと国交のある国とは外交関係を結ばないという政策(ハルシュタイン原則)を採っていた。このため当初は交渉にすらならなかった。ハルシュタイン原則は1969年に放棄され、翌1970年12月7日に締結されたワルシャワ条約(ワルシャワ条約機構とは無関係)によって、西ドイツとポーランドの国交が結ばれると、この条約の中で「オーデル・ナイセ線が事実上の独波国境である」ことが確認された。野党のCDU/CSUはこの条約の内容(国境線と共産主義ポーランドの承認)を批判して全国的な議論となったが、紆余曲折の末にドイツ連邦議会は1972年5月17日にこの条約を批准した。

さらに1972年12月に締結され、東西ドイツが相互の主権を確認し合った東西ドイツ基本条約の中でも、改めて「ドイツ」とポーランドの国境がオーデル・ナイセ線であることが確認されて、この国境が確立された。

最終解決

国境線

1990年のドイツ再統一の直前である6月12日に、旧西ドイツとポーランドの間で改めて国境線として確認され、再統一直後の同年11月14日に統一ドイツとポーランドとの間で国境線の最終確認条約(ドイツ・ポーランド国境条約)が締結された。その内容は以下の通りである。

1950年7月6日に旧東ドイツとポーランドとの間で締結されたズゴジェレツ条約により定められた国境線を、正式な国境線として再確認
以後、両国間の国境線は一切変更しない
以後、どちらの国家も領土の変更を一切要求しない

ドイツとポーランドの歴史的国境線問題は、このようにして法的かつ最終的に整理された。
旧住民の個人財産

裁判に至る経緯

条約では、個人財産の扱いは触れられていないため、オーデル・ナイセ線以東でポーランドの共産主義化により国家に没収された個人財産を取り返すべきだと主張するドイツ人が存在する(主要な政治家ではエドムント・シュトイバー、クラウス・キンケルなどがその立場を取っていた。政党別ではキリスト教社会同盟に支持者が多い)。被追放者たちはドイツ政府からそれまでに喪失財産に関する補償金は受け取っている。ドイツ、ポーランド両政府は公式に「請求権問題は解決済み」の立場を取っていたが、これについて厳密に法的な処理が成されていないと解釈する者もおり、それによると請求権の行使が認められる余地が残されているとされ、両国間の政治問題となっていた。これはドイツ政府が法的処理を行うと、ドイツ人追放者から請求権の肩代わりによる財産補償請求が行われるのを恐れての結果とも考えられた。ドイツ人追放者の最大の団体である追放者連盟のエーリカ・シュタインバッハ議長はドイツ政府に、追放者財産の請求権を法的に処理するよう要求していたが、2009年時点でドイツ議会・政府において法的処理に向かう具体的な動きはなかった。この問題は、ドイツ人による財産返還請求に反発したポーランド議会が2004年9月にドイツを相手取った「戦争被害賠償請求決議」を行うなど、21世紀に入っても両国関係に影を落とし続けた。

また2005年11月に『デア・シュピーゲル』誌が発表した世論調査結果によると、ポーランド人の61%が、ドイツ政府が戦前にドイツ領だった地域を取り戻そうとしているか、あるいはその補償を求めてくるのではないかと考え、また41%は追放されたドイツ人の各団体の目的は失った個人財産の返還あるいはその補償にあるのではないかという危惧が示されるなど[2][3]、被追放ドイツ人の財産請求に関する法的処理を先延ばしし続けるドイツ政府に対し、多くのポーランド人が強い不信感を抱いていた。

欧州人権裁判所の判断による解決の確認

2006年12月、会員数約1000人といわれていたが、実際の会員数はそこまで多いのかまったく不明な「プロイセン信託」という組織の会員23人が原告となり[4]、欧州人権裁判所に財産返還を求めて提訴し、ドイツ・ポーランド関係は日本のメディアによって「戦後最悪」とセンセーショナルに報じられた[5]。

しかし2008年10月10日に欧州人権裁判所は、

1994(出典となったドイツの公共国際放送局ドイチェ・ヴェレの記事の原文ママ、1944年の間違い)年10月19日より行われたいわゆる「ドイツ人追放」はソビエト連邦によるものであり、この「ドイツ人追放」についてポーランドには一切責任はない
ポーランドとドイツがヨーロッパ人権協約を批准したのはドイツ人追放の後のことであり、(この協約に基づいて設立された)当裁判所は今回の請求を審査する立場にない
ドイツ人住民の元の場所への再移住、ドイツ人住民が没収された財産の返還、原告の失った財産の補償、といったことのための法律をポーランドが作る責務はまったくない

との決定を下し、請求を棄却した[4]。すなわち、国境線や領土主権のみならず、この判決によりポーランドから追放されたドイツ人の「個人財産」に関する問題が、以前からすでに法的かつ最終的に解決していた事実が確認されたのである。

なお、この判決に関してポーランドのドナルド・トゥスク首相は「ポーランドとドイツの双方にとって有益な判決であり、この問題は最終的に解決した」、ドイツのアンゲラ・メルケル首相は「ドイツ政府はこれまで、原告であるプロイセン信託の請求権には正当性がまったくないと主張してきたが、ついにその主張が認められた」、ドイツのフランク=ヴァルター・シュタインマイアー外相は「ドイツとポーランドの間に第二次世界大戦から続くような財産に関する問題は一切残っていないというベルリン政府の見解が、この判決で確認されたのだ」と、それぞれ歓迎する言葉を述べた[4][6]。 』

コンスタンティノープルの陥落

コンスタンティノープルの陥落
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%99%A5%E8%90%BD

『コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく、ギリシャ語: Η Άλωση της Κωνσταντινούπολης)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。 』

『メフメト2世の野望

約1000年にわたって難攻不落を誇った「テオドシウス(2世)の城壁」

この戦争の以前には、オスマン帝国と東ローマ帝国は表向きは平和的な関係にあった。この時代になると「帝国」という名前とは裏腹に、東ローマ帝国の領土は首都コンスタンティノープルと、ペロポネソス半島の一部モレアス専制公領(古代スパルタ近郊にあるミストラの要塞が首府)を残すのみとなっていた。ローマ帝国が東西に分裂して以来、コンスタンティノープルは幾度となく攻撃を受けてきたが、占領されたのは第4回十字軍による一回(1204年の包囲戦)だけであった。10世紀のブルガリア帝国君主シメオン1世や14世紀のセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンのように、東ローマ帝国を完全に征服しようと意図した者はいたが、実際に成功した者はいなかった。しかし、メフメト2世はこれを目指したのである。

開戦の経緯

開戦の経緯については必ずしも明確であるとは言えない。

歴史家ドゥカス(英語版)の伝えるところでは、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1449年-1453年)がメフメトを牽制する意図で、コンスタンティノープルに亡命していたオスマン家のオルハン王子[注釈 1]を対立スルタンに擁立すると警告したことに、メフメトが立腹し戦争状態に突入したという。事の次第に驚いたコンスタンティノス11世は和平交渉を試みたが不成功に終わった。
1452年から1453年は世界的な異常気象が起こった「夏のない年」の一つに当たっている。海底火山クワエが複数回爆発したことによる大量の火山灰が巻き散らかされた影響(火山の冬)で冷夏が数年間続いており、そのために大飢饉になったと考えられている。

包囲戦の状況

コンスタンティノープルの包囲戦

東ローマ帝国が、オスマン艦隊の侵入を阻止するため金角湾口に張り渡した防鎖。イスタンブール軍事博物館(英語版)にて展示。
コンスタンティノープルの包囲戦後半で「オスマン艦隊の山越え」が行われた後の両軍の配置。

メフメト2世は1452年にボスポラス海峡のヨーロッパ側、つまりコンスタンティノープルの城壁の外側に城を建て、攻城戦の足がかりとした。この城は「ローマの城」という意味のルメリ・ヒサルと呼ばれた。コンスタンティノス11世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたもののその反応は鈍く、ローマ教皇ニコラウス5世はこれに応じる姿勢を見せたが実質的な進展はほとんど見られなかった。コンスタンティノープルを重要な商業拠点とするヴェネツィアとジェノヴァは援軍を送り、東ローマ軍は2000人の外国人傭兵を含めて7000人になった。都市を囲む城壁の総延長は約26kmで、おそらく当時最も堅固な城壁であった。
一方、オスマン帝国側は、スルタン直属の最精鋭部隊であったイェニチェリ軍団2万人を中心とした10万人の大軍勢に加え、海からも包囲するために艦船を建造させた。またハンガリー人の技術者ウルバンが売り込んだ新兵器ウルバン砲を採用して戦局を優位に進めた。それは長さ8m以上、直径約75cmという巨大なもので、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができた。東ローマ帝国にも大砲はあったが、より小さいもので、射撃の反動で城壁を傷つけることがあった。ただし、ウルバン砲にも欠点はあった。「コンスタンティノープルのどこか」といったような、かなり大きな標的でさえも外すほど命中精度が低かったのである。さらに1回発射してから次の発射までに3時間かかった。砲弾として使える石が非常に少なく、射撃の反動が元で6週間使うと大砲が壊れるという始末であった。

メフメト2世は、コンスタンティノープルが唯一陸地に面する西側の城壁から攻撃しようとし、1453年4月2日の復活大祭の日に、都市郊外に軍隊を野営させた。7週間にわたり大砲により城壁を攻撃したが、十分に崩すことはできなかった。というのは、射撃間隔がとても長かったため、東ローマ帝国側はその損害のほとんどを回復することができたためである。一方、メフメト2世の艦隊は、金角湾の入り口に東ローマ帝国側が渡した太い鎖によって、その中に入ることができなかった。途中、救援物資を積載したジェノヴァ船3隻と東ローマ船1隻が金角湾に来航し、オスマン艦隊と海戦になったものの、オスマン艦隊は彼らを拿捕することに失敗した。

オスマン帝国側は膠着状態を打開すべく、金角湾の北側の陸地(ジェノヴァ人居住区があったガラタの外側)に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦に出た。「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策は成功し、これによりジェノヴァ船による援助物資の供給は阻止され、東ローマ帝国軍の士気をくじくことになった。しかし、陸上の城壁を破る助けとはならなかった。

この間に、コンスタンティノープル政府とメフメト2世との間で和平交渉が形式的に行われた。メフメト2世は降伏・開城を呼びかけ、安全な退去とモレアス専制公領の支配権を約束した。コンスタンティノス11世はこれを拒絶し、包囲戦は続行された。またオスマン陣営内でも和平派と主戦派が激論を戦わせる場面もあったようであるが、最終的には後者が勝り、メフメト2世は総攻撃を決定した。

西欧からの来援は、結局なかった。最も近い国の一つハンガリー王国は消極的な干渉を試みたようであるが、オスマン側の包囲を解かせるには至らなかった。

防衛側も、最期を察知していた。5月28日の夜、コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵を前に最後の演説を行った。将兵たちは涙ながらに「キリストのために死ぬのだ!」と叫び、皆お互いに別れを告げあった。その後、ハギア・ソフィア大聖堂で聖体礼儀が行なわれ、皇帝コンスタンティノス11世以下将官、市民など多くの人々が神に最後の祈りを捧げた。聖体礼儀が終わると、コンスタンティノス11世は臣下の一人一人に自らの不徳を詫び、許しを乞うた。その場にいたもので涙を流さない者はいなかったと、偽スフランゼスの『年代記』は伝えている。

東ローマ帝国の滅亡

コンスタンティノス11世パレオロゴスが最後の演説を行ったとされる「コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿」

5月29日未明、ついにオスマン帝国側の総攻撃が開始された。攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていない不正規兵部隊(バシ・バズーク)たちだったため、多くが防衛軍に倒された。第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、何とか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。イェニチェリ軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたのだが、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが負傷[注釈 2]したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。

不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は城内に侵入し、防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した。しかしコンスタンティノス11世は、最後まで前線で指揮を執り続けた。ドゥカスの伝えるところでは、城壁にオスマンの旗が翻ったのを見たコンスタンティノス11世は身につけていた帝国の国章(双頭の鷲の紋章)をちぎり捨て、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「誰か朕の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、親衛軍とともにオスマン軍の渦の中へ斬り込んでいったと言われている[注釈 3]。コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンは逃亡を図ったが、失敗し死亡した。

残る東ローマ帝国の領土であるモレアス専制公領はコンスタンティノープル陥落後も数年ほど存続したが、混乱の中で失地を回復することはできず、1460年に制圧された。

こうして、西ローマ帝国に遅れること1000年あまり、古代から存続してきた東ローマ帝国は完全に滅亡した。しかし、ロシア、イタリアなどに亡命した皇族もいる。彼らは、東ローマ帝国の復活を求め続けた。なお、 アルメニアのおそらく 15世紀の詩人アルラケール・バギシュは『ポリスへの哀歌』で、アブラハム・アンキョルは『コーンスタンティヌポリス占領の哀歌』においてコンスタンティノープル陥落を嘆いている[1]。

陥落後のコンスタンティノープル

当初、包囲に抵抗した都市に対する伝統的な処罰として、メフメト2世は兵士たちに都市を3日間略奪するように命じたが、古代から続くこの帝国への敬意を忘れなかったため、数時間後に一転して軍の行動を阻止するように命じ、街の状況が落ち着いてからコンスタンティノープルに入った。総主教座のあったハギア・ソフィア聖堂はイスラム教のモスクに改修された。

メフメトはこの都市1つの征服によって「征服王」と呼ばれるようになる。コンスタンティノープルは「コスタンティニエ(قسطنطنية, Kostantiniyye)」の名で、オスマン帝国の新しい首都となった[注釈 4]。正教会に対しては多くの聖堂をモスクに改造して抑圧策をとる一方で、人望の篤い修道士であったゲンナディオス・スコラリオスをコンスタンティノープル総主教に任命し、正教徒の懐柔にあたった。

現代

東ローマ帝国のキリスト教会や修道院をモスクに転用するなどして残しつつ、オスマン帝国の首都として整備されたイスタンブール歴史地域はユネスコにより世界文化遺産に登録されている[2]。

オスマン帝国の実質的な継承国であるトルコ共和国政府は2020年5月29日、コンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。会場のアヤソフィア[注釈 5]でイスラム教の聖典『コーラン』を朗読したことに対して、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した[2]。トルコのエルドアン大統領は2020年7月10日、「世界遺産 イスタンブール歴史地区を代表する旧大聖堂アヤソフィアを再びイスラム教のモスク(礼拝所)とする大統領令に署名した」[3]。

滅亡の影響

大航海時代へ(15世紀中期 – 17世紀中期)

シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われ、その後制限が加えられたことから、ヨーロッパではコンスタンティノープルを経由しないルート開拓として大航海時代が始まった[4][5]。

ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、イタリアの一地方都市へと転落して行く。彼の国の航海士達の多くは、後にスペインやポルトガル等のイベリア半島の新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。

宗教改革

キリスト教徒にとってコンスタンティノープルは重要な聖地であり、それをイスラム教国家であるオスマン帝国に奪われたという事は、結果として教皇の権威失墜を意味し、後の宗教改革への胎動の一つとなる。

諸国の変遷

東ローマ帝国への援軍に消極的だったバルカン半島諸国は、後にオスマン帝国に滅ぼされるか、ハプスブルク家の傘下になるかの何れかの道を辿り、本格的な独立を回復するのは20世紀になってからである。

東ローマ帝国地方政権の末路については「モレアス専制公領」「トレビゾンド帝国」を参照。

ロシア帝国、ドイツ帝国などの国家が第二のローマであるビザンツ帝国の後継者を自称し第三のローマを標榜した。

ルネサンス

コンスタンティノープル陥落前後には、多くのギリシャ人の学者・知識人が東ローマで保存・研究されてきた古代ギリシャ・ローマ時代の文献を携えて西欧へと亡命し、これがイタリア・ルネサンスに多大な影響を与えた[6]。

以上を踏まえ、この事件は単に一帝国の滅亡に留まらず、世界史が中世から近世へと代わった重要な転換点だった事になる[6][4]。

脚注
[脚注の使い方]

注釈

^ 1412年 - 1453年5月29日または6月7日。兄弟姉妹にスレイマン・チェレビ(1423年 - 1437年。1433年に姉ファーティマと共にカイロに避難)、ファーティマ・シェフザーデ(1422年 - 1455年7月にカイロで死去。フンド・シェフザーデとも。マムルーク朝のスルタン2人(アシュラフ・バルスバーイ(1437年5月に結婚。1438年に死別)とザーヒル・ジャクマク。ジャクマク(1439年に結婚。1449年3月26日に疫病で死去した4人の息子あり(長男アフメドは7歳で死去)。1450年12月25日に離婚)。サヒブ・アル=フジュジャブ・バルスバイ・ブジャシと3度目の結婚)の妻)とカディヤ。Harbour of Eleutheriusに住んでいた、メフメト2世の祖父メフメト1世の長兄スレイマン・チェレビ(英語版)(1377年 - 1411年2月17日。バヤズィト1世の次男。弟ムーサ―との戦いに敗れて殺された。

学者によっては彼を「スレイマン1世」と数え、オスマン帝国第10代スルタンを「スレイマン2世」としている。

なお、第20代スルタン(第10代スルタンの昆孫)も「スレイマン」であるが、この観点から見れば、「スレイマン3世」となる。2人の妻がおり、1人目はフュレーン・ハトゥン(1403年に結婚。ザビア・パレオロギナ(イザベラ)とその夫イラリオ・ドリアの娘)である。

母ザビアが東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの非嫡出子とはいえ娘である為、マヌエル2世パレオロゴスの孫娘の1人であり、パレオロゴス朝の血統に連なる。

2人目はデスピナ・ハトゥン(1404年に結婚。マヌエル2世パレオロゴスの弟テオドロス1世パレオロゴスが名前が知られていない愛人との間に儲けた庶子)である)の孫でメフメト2世の20歳年長の又従兄(はとこ)にあたる。

スレイマン・チェレビの長男シェフザーデ・オルハン・チェレビ(1395年 – 1429年。33歳~34歳没)とシェフザーデ・オルハン・チェレビの無名の妻(後に疎遠となり、1460年にカイロで死去)の息子で4人の息子(アリー・シャー、ジャハーン・シャー、ワリー・カーン、ブガ・カーン)の父親でもあった。

オルハン王子の祖父スレイマン・チェレビには長男オルハン・チェレビ以外にも子2人がおり、次男シェフザーデ・メフメドシャー(ムハンマドとも。生年不明 – 1421年12月30日没。オルハン王子の父シェフザーデ・オルハン・チェレビは叔父ムーサ―もしくは同じく叔父のメフメト1世によって盲目となり、目が見えなくなった)と長女パシャメレク・ハトゥン(マリカとも。生没年不明。サンジャル・ベイという男性と結婚。子女の有無も不明)である。

因みにスレイマン・チェレビの3人の子女はコンスタンティノープルで人質にとられた経歴を持つ。
^ この時の傷が元で陥落後に死亡。ヒオス島に埋葬される。コンスタンティノープル脱出の時期と状況については資料によって異なる。
^ しかし実際に目撃者がいても、この状況下で生きていられた可能性は低く、この逸話が事実であるか定かではない。

^ 「イスタンブール」という呼び名も当時から存在したが、オスマン語による正式名称は「コンスタンティニエ」であった。なお、公式に「イスタンブール」に改称されるのは1930年である。

^ キリスト教会からオスマン帝国によりモスクへ改修され、トルコ共和国が1935年に無宗教の博物館とした。

出典

^ 呉茂一・高津春繁(訳者代表)『世界名詩集大成 ①古代・中世編』平凡社、1960年、37-38頁が解説, 396-407頁が作品の訳、ともに梅田良忠による。
^ a b 世界文化遺産「アヤソフィア」宗教対立 揺れる融合の象徴/トルコ、モスクに戻す動き ギリシャ反発『朝日新聞』朝刊2020年6月14日(国際面)同日閲覧
^ 『中日新聞』2020年7月12日 国際面(11版4面)
^ a b “Byzantine-Ottoman Wars: Fall of Constantinople and spurring "age of discovery"”. 2020年12月26日閲覧。
^ “The Fall of Constantinople: A Turning Point in Modern History?”. 2020年12月26日閲覧。
^ a b “Fall of Constantinople”. Encyclopædia Britannica. 2020年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月2日閲覧。

関連書籍
「東ローマ帝国#参考文献」も参照

井上浩一『生き残った帝国 ビザンティン』講談社学術文庫、2008年(初刊:講談社現代新書、1990年)
塩野七生『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫、改版2009年(初刊:新潮社、1983年)- 小説のため脚色がある。
鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年
野中恵子『寛容なる都 コンスタンティノープルとイスタンブール』春秋社、2008年
林佳世子『オスマン帝国 500年の平和』講談社〈興亡の世界史10〉、2008年/講談社学術文庫、2016年
スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』護雅夫訳、みすず書房、新装版1998年
ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国の最期』井上浩一訳、白水社、2013年

関連項目

イスタンブール
コンスタンティノープル
パレオロゴス王朝
フィレンツェ公会議
アヤソフィア

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、コンスタンティノープルの陥落に関連するメディアがあります。

コンスタンティノープルの陥落 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分) - flash作品 』

トルコ観光  コンスタンチノープル攻防戦 アヤソフィアの変遷

トルコ観光  コンスタンチノープル攻防戦 アヤソフィアの変遷 – 孤帆の遠影碧空に尽き
https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/b1948aa13de0253a925be93e661fce9b

『1日から8日までトルコを観光しています。
9月6日はイスタンブールに戻り、ボスポラス海峡のクルーズと、市内観光の前半。

イスタンブールはかつてコンスタンチノープルと呼ばれる東ローマ帝国の首都で、20回以上に及ぶ外敵の攻撃に対し、1204年の第四次十字軍による攻撃以外は鉄壁の城壁でこれを撃退してきましたが、1453年にオスマントルコのメフメト2世の攻撃によって遂に陥落し、東ローマ帝国は消滅しました。

この攻防戦で、守備側はガラタ塔付近の金角湾入り口を鉄鎖で海峡封鎖し、オスマン艦隊の金角湾侵入を阻止しましたが、これに対し、オスマントルコ軍は艦船を車輪付き台車に乗せて陸に引上げ、山越えして湾に収入させる奇策をとったとされます。

歴史上最も有名な攻防戦のひとつです。

【マルシアクラッチ: コンスタンチノープルの陥落 13 (calforniwa.blogspot.com) 】

↓ 画像左手前がガラタ橋  守備側はこの付近を鉄鎖で海上封鎖したのでしょう。
一方、メフメト2世は、画像右奥のガラタ塔の奥を「オスマン艦隊の山越え」させました。

*****アヤソフィア****
トルコ共和国のイスタンブールにあるモスク。2020年7月までは博物館であった。

元々は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルで建てられたキリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。

その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりイスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった。

トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館とし、それが2020年7月まで続いた。【ウィキペディア】
****************

上記のように宗教的変遷を経験してきた壮麗なアヤソフィアですが、2020年にエルドアン大統領が再びモスクとして利用することを決定。

入り口付近のキリスト教関連装飾は、礼拝時には白いカーテンで覆われるとか。

また中央祭壇上部の装飾もカーテンで覆われています。』

朝鮮戦争中の空爆日記

朝鮮戦争中の空爆日記
https://st2019.site/?p=20246

 ※ こういうものが、「エアー・パワー」なるものの実態だ…。

 ※ 当時は、「目視」+「自由落下爆弾」の組み合わせだったからな…。

 ※ 「精密誘導」どころの、話しじゃ無かったわけだ…。

 ※ その進化・発展系が、「精密誘導爆弾」「精密誘導ミサイル」「高機動ミサイル発射砲(ハイマースなんかの類(たぐい)」なんかに、なるんだろう…。

 ※ 精密砲撃という点では、偵察ドローン+りゅう弾砲などの野砲のコンビネーションも、登場している…。

『A. Timothy Warnock 記者による2000-10-1記事「Air War Korea, 1950-53」。

  たとい制空権を握れたとしてもなお、敵国の鉄道を麻痺させることは至難であることを、朝鮮戦争中の空爆日記が、端的に教えてくれる。その網羅的な記述のごく一部を、以下に抜粋したい。

 1950-6-28、ソウルと38度線のあいだの鉄道を初爆撃。B-26により。
 芦屋から出撃した。1機はAAのため、着陸後、全員死亡。
 嘉手納のB-29は鉄橋を空爆。

 6-29、マックは、漢江の鉄橋を集中空爆しろと命令。
 ナパーム弾も初使用。
 ソウル駅も敵が占領していたので、爆撃。

 6-30、B-29による鉄橋爆撃。漢江北岸。

 8-10、元山の鉄道を爆撃。B-29で。

 8-19、ソウルの西の鉄橋に1000ポンド爆弾を54トン投下。B-29×9機で。
 ぜんぜん落橋しないので、ゴム紐でできてるんじゃないかと言われた。
 そこで艦上爆撃機×37機で追加空襲。翌日偵察したら、橋桁×2が落ちていた。

 1950年8月23日、「ラゾン」空対地ミサイルで平壌の西の鉄橋を狙ったが、誘導装置がWWII中のもので調子が悪すぎ、外れた。

 9月9日、北鮮軍は大邱から8マイルまで迫った(最東到達点)。この攻勢衝力を弱めるためと、仁川上陸の下ならしととして、ソウル北側の鉄道をB-29で集中爆撃。
 同時に、双発の中型爆撃機は、貨車操車場とポイント切替点を分担爆撃。

 9月22日夜、B-29が群山近くの鉄道線に沿って照明弾を落とし、その明かりを頼りにB-26が貨物列車を夜間空爆。

 1951-2月8日、B-29とB-26による総力を挙げた鉄道空爆。区間は、会寧(清津の北方の満洲国境の町)~元山。

 8月18日、「絞首」作戦の一環として北鮮全域の鉄道網を空爆。

 1951-9-23、全天の9割が雲に覆われていたにもかかわらず、B-29×8機により、順天鉄橋の中央橋桁を落とすことに成功。これはShoranという、地上の2局からの電波ビーコンを頼りにする航法を使った。今のGPSの代用のようなもの。

10月16日から17日にかけての夜、当月最大の空爆。鉄橋、操車場ほか。

 11月16日、空軍の戦闘爆撃機が平壌の北に位置する「新安州~粛川」区間と「清川江~順川」区間について合計100箇所以上の線路を寸断。

 11月18日、3機のF-84戦闘爆撃機が、新安州近くの鉄道線路を空爆する予定だったが、複数機のミグ15に邀撃されて、爆弾を投棄して逃げ戻った。

 12月21日、空軍は530ソーティを飛ばして、新安州と粛川を結ぶ鉄道を30箇所で寸断した。

 12月24日、新安州の鉄橋と、泰川の飛行場をB-29が空爆。

 1951-12-27、この月の最大規模の空爆。機関車、貨車などを狙った。

 1952-1-12から13にかけての夜、沖縄のB-29が、396発の500ポンド爆弾を、新安州の東の清川江にかかる鉄橋に落とし、この橋を使えなくした。

 1952-2-9、中型爆撃機×10機によるレーダー爆撃。100トンの500ポンド爆弾を、清洲鉄橋に投弾して、使えなくした。

 2月26日、煕川近くの鉄道橋にB-29が爆弾100トンを投下。橋桁×2を落とす。

 3月25日、空軍は959ソーティをしかけ、新安州と清洲を結ぶ鉄道線路を142箇所で寸断した。

 3月31日から4月1日にかけての夜、平安北道の郭山の鉄路などを爆撃した。

 5月26日から27日にかけての夜、また平安北道の鉄橋を爆撃。

 6月10日から11日にかけての夜、郭山の鉄橋を8機のB-29で爆撃。AAとミグにより2機が撃墜された。

 6月19日から20日にかけての夜、北鮮空爆。27機の中型爆撃機が、煕川の鉄橋を爆撃。

 6月24日から25日にかけての夜、まず26機のB-29で、北鮮にある、東西方向と南北方向の鉄路の結節点である「サムドンニ」駅を爆撃。すこし遅れてB-26も飛ばし、敵が修理しているところを攻撃させた。

 11月1日、戦闘攻撃機が、北鮮のヨンミドンの鉄橋を爆撃。

 11月4日、偵察写真により、ヨンミドンの3つの鉄橋は、機能していることが判明。さらに、バイパス鉄橋も2つ、完成していることが分かった。

 11月6日、ふたたびヨンミドンの鉄橋を、100機の戦闘攻撃機で爆撃した。そのさい、敵は5番目のバイパス橋を建設しはじめていることが分かった。

 1952-12月12日から13日にかけ、B-29×6機が、平壌郊外の鉄橋×4を落とした。それらは前に破壊していたのだが、復旧していたのである。

 1953年1月4日から5日にかけての夜。20機のB-29で、煕川の鉄道橋などを爆撃。

 1月9日から10日にかけて、17機のB-29が「ヨンミドン」の鉄橋などを爆撃。

 1月10日、ダメ押しの昼間空襲を、戦闘攻撃機が実施。鉄橋、鉄道線路、AAを狙った。

 1月10日から11日にかけての夜、B-29が宣川と安州の操車場を空爆したが、飛行機雲を頼りに照空灯を当てられ、それを目当てにミグによって1機が撃墜されてしまった。

 1月11日、爆撃評価の結果、ヨンミドンの鉄道は機能を停止していることが分かった。

 1月14日、昨夜のB-29空襲につづいて、戦闘攻撃機による空襲。新安州のAA、鉄道、橋を狙った。

 3月5日、シベリア国境に近い清津の工業地帯を16機のF-84で空襲したほか、合計700ソーティ。レールは寸断した。

 4月6日から7日にかけての夜、新安州の清江川にかかる、機能していた鉄橋を、3つ、B-29で爆撃。翌朝、戦闘攻撃機が、その損傷箇所にトラックが接近しようとするのを斥けた。

 4月15日、共産軍は、亀城からクヌリ、シンビョンニに至る75マイルの鉄道を新設した。70日かからずに竣工させた。これによってそれまで米空軍が遮断していた鉄道輸送路がバイパスされることになった。

 5月16日。チャサンのダムを空襲破壊。これにより3つの鉄橋が流された。

 7月10日。戦闘爆撃機によって新安州とヨンミドンの鉄橋を爆撃。

 1953-7月10日から11日にかけての夜、B-29がヨンミドンの鉄橋を爆撃。』

二・二八事件

二・二八事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ※ 知らん人が殆んどだろうが、こういう歴史の一幕もあったんだ…。

 ※ 『非情城市』とか、レンタルビデオ屋から借りて来て、視た記憶がある…。

 ※ やたら、キレイな画像、美しい音楽だったな…。

『二・二八事件(ににはちじけん, 拼音: Èr’èrbā shìjiàn)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権(在台湾の中国人)による長期的な白色テロ、すなわち民衆(当時はまだ日本国籍を有していた台湾人と日本人)弾圧・虐殺の引き金となった事件[1]。

1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。台湾人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は中国から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

背景

中国国民政府軍と官員を出迎える台湾の学生たち(1945年)

1945年に日本が敗戦した後の台湾では、カイロ宣言に基づき、連合国軍の委託を受けて、日本軍の武装解除を行うために、中国から蔣介石国民政府主席率いる中国国民党政府の官僚や軍人らが同地へ進駐し、失地回復という名目で台湾の行政を引き継いでいた。

中国から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの汚職の凄まじさに驚き、失望した。中国から来た軍人・官僚は、当時の国共内戦の影響で質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が処罰されぬことがしばしばあった。

“Chinese Exploit Formosa Worse Than Japs Did”(ザ・ワシントン・デイリーニュース)

もし罰せられる場合でも、犯人の籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、中国上海市の国際市場で競売にかけられるに到り、物資不足に陥った台湾では、相対的に物価は高騰、インフレーションによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。

日本統治時代の台湾では、皇民化教育政策などはあったが、不正は少なく、帝国大学も創設され、インフラストラクチャも整備した台湾の経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった[2]。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい汚職、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。

経緯

専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)
台北市民に焼き討ちされた専売局台北分局
当時の弾圧を描いた木版画
台湾省警備総司令部のビラ(中国語とともに日本語も併記している)

戦後の台湾では、日本統治時代の専売制度を引き継ぎ酒・タバコ・砂糖・塩等は全て中華民国によって専売された。しかし、中国ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。

1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた女性(林江邁、40歳、2人の子持ち寡婦)を、中華民国の官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名と警察官4名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収した。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人である陳文渓に被弾・死亡させてしまい、逃亡した。

この事件をきっかけとし、民衆の中華民国への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に大挙して押しかけたが、庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した[3][4]。

激怒した台湾人民衆は国民政府の諸施設を襲撃し、中国人商店を焼いた[3]。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を中国人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せないグループもいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、台湾人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(中国人)を排除しつつ行進した。また、台湾人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と全島に呼びかけた[5]。

3月1日からは各主要都市で民衆が蜂起して官庁や警察を占拠し、中国人を殴打した[3]。台南では台南飛行場が占拠され、旧日本軍の飛行機で東京に飛んでマッカーサー元帥に陳情してGHQの占領下に組み入れてもらおうとする者もいた(機体の部品が欠損していたため果たせず)[5]。高雄では要塞司令の彭孟緝がこれに対し武力掃討を行い、多くの死者を出している[4]。

3月4日には台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立。事態の収拾に向けて、知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会も台湾各地に組織され、台北の同委員会は3月7日に貪官汚吏の一掃・省自治の実施・政府各機関への台湾人の登用などの改革を陳儀に要求した[3][4]。

劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時台湾人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では中国の国民党政府に密かに援軍を要請していた。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。

国民政府主席蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし[注釈 1]、3月8日に中国から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない台湾人を全て逮捕し、針金を台湾人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まった。

嘉義市の議員で民衆側に立った陳澄波(中国語版)が市中引き回しのうえで嘉義駅前で銃殺されたのをはじめ[4]、この事件によって多くの台湾人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。犠牲者数については800人〜10万人まで様々な説があり[7]、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。1992年、台湾の行政院は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表している[8]。

事件当時地区ごとに度々発令された戒厳令は台湾省政府の成立をもって一旦は解除された。しかしその後、1949年5月19日に改めて発令された戒厳令は38年後[9] の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑される根源となった。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。

その後

二二八和平公園の慰霊塔(台北市)
二二八和平記念碑の碑文(台北市)
二・二八紀念館(二二八和平公園内。建物は旧台湾放送協会 (THK) 台北支局)。
旧台湾放送協会台北支局(1931年)
二二八紀念碑(嘉義市)

事件後、関係者の多くは処刑されるか身を隠すか、あるいは国外逃亡を企てた。

後に中華民国総統を務めた李登輝は留学経験者という知識分子であったため処刑を恐れて知人宅に潜伏し、ほとぼりの冷めるのをまった。外国人初の直木賞受賞作家であり実業家の邱永漢は学生運動のリーダーであったが、当局の眼を掻い潜って出航。香港を経由して日本に逃亡した。亡命者の中には反国民党を掲げたものもあったが、当時は東西冷戦の時代であり、反国民党=親共産党とみなされて、日米ではその主張は理解されなかった。

中国国民党政府は、事件後、戒厳令を38年の間施行した[10]。戒厳令下の台湾では政治活動や言論の自由は厳しく制限され、白色テロと呼ばれる人権抑圧が行われた[11]。

事件は台湾人と中国人の間に亀裂をもたらし、事件について語ることは長年タブーとなっていた[12]。

しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。当初、国民党は台湾人に高等教育を与えると反乱の元になる、と考えていたが、経済建設を進めるに当たって専門家の必要性が明白となり、方針を転換して大学の建設を認めた。

戒厳令解除後の1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画で、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。[12]

李登輝体制下で事件の再調査が行われ、1992年に長大な調査報告書が作成された。

同年の1992年、史上初の『二・二八メモリアルコンサート』が、台湾の西洋オペラの父、自由と民主の戦士の音楽家としても知られる曾道雄(指揮)らによって実現された。曲目はモーツァルト作曲『レクイエム』とブラームス作曲『運命の歌』。当時『二・二八事件』はタブー視されていた用語でありコンサートを開催すること自体、前代未聞であった。これら音楽家の決意を評価した李登輝総統は、このコンサートに参加し謝罪スピーチまで行った。国民党内での自身の政治的基盤が未だ完全に確立していない事を承知の上、政治的リスクを負ってまで参加した李総統の勇気に文芸界と犠牲者家族から高い評価と敬意が向けられた。

1995年2月には台北新公園(現・二二八和平公園)に二・二八事件記念碑が建てられ、李自らが除幕式で公式な謝罪の意を表明した[3]。同公園内の台北二二八紀念館や台北市内の二二八国家記念館で、事件の資料が展示されている。

なお、二・二八事件については、当時台湾共産党が中国共産党の指令を受けて、国民党政権を倒すべく民衆の蜂起を煽ったとの説もあるが、これに対し、それは蔣介石が台湾人を虐殺するための口実だったという反論もある。[要出典]

2006年には、二・二八事件の最大の責任者は蔣介石だとする研究結果が発表された[13]。
外国人犠牲者への対応

二・二八事件が発生した当時、基隆市の社寮島(現・和平島)に約30人の琉球人漁民が残ったが、中国語が分からなかったため処刑された。2011年に訪台した沖縄県議員・當間盛夫らの要請により、「琉球漁民銅像記念碑」が設立された[14][15][16][17]。

2016年2月17日、台北高等行政法院は外国人犠牲者へ初めて賠償を認める判決を下し、二二八事件記念基金会(中華民国政府から委託を受け事件処理を行う基金)に対して犠牲になった与論島出身の日本人遺族の一人に600万台湾元(約2050万円)の支払いを命じた[1]。また、これ以外にも日本人1人を含む外国人2人が犠牲者として認定を受けた。一方、事件前に与那国島から台湾へ渡ってそのまま失踪した2人は2017年7月と2018年3月に外国人犠牲者の認定申請が却下された[18]。

関連作品

映画

『悲情城市』 侯孝賢監督、1989年台湾作品。主な出演者:李天祿(リー・ティエンルー)、陳松勇(チェン・ソンユン)、高捷(ジャック・カオ)、梁朝偉(トニー・レオン)、辛樹芬(シン・シューフェン)
『好男好女』 侯孝賢監督、1995年台湾・日本合作作品。主な出演者:伊能静、林強(リン・チャン)、高捷(ジャック・カオ)
『天馬茶房』 林正盛監督、1999年台湾作品。主な出演者:林強(リン・チャン)、蕭淑慎(シァウ・シュウシェン)、龍紹華(ロン・シァウファー)、陳淑芳(チェン・シュウファン)
『傷痕228』 鄭文堂(中国語版)監督、セミ・ドキュメンタリー(一部再現ドラマ)、2005年台湾作品。
『台湾人生』 酒井充子監督。日本統治時代と戒厳令を乗り越えて、今を生きる人々の声に耳を傾けたドキュメンタリー。2009年日本作品。
Taiwan 228 Massacre 60 Years On: 1947-2007 (紀念康阿裕) - 二・二八事件で蔣介石の中国国民党の軍隊から拷問を受けた康阿裕の証言。

音楽

蕭泰然『1947序曲(中国語版)』(1994年)- 曲中歌われる『台灣翠青(中国語版)』は台湾独立運動の一環である「台湾共和国」の「国歌」とされている。
ChthoniC 『十殿(英語版)』(2009年)

なぜ米空軍の訓練で「100年前の中国の地図」が使われる?

なぜ米空軍の訓練で「100年前の中国の地図」が使われる? 習近平の妄執の背景にある「国恥地図」
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/09060559/?all=1

『台湾を巡って米中間の緊張が高まっている。そうした中、米空軍の教育訓練では、約100年前の中国地図が使用されたという。軍事衛星もある時代に、なぜそんな古いモノを使うのか。実は、この地図には習近平政権の意図を読み解く鍵が隠されているのだ。【譚 ろ美/作家】

 ***

【写真5枚】訓練で使われる100年前の中国の地図

 台湾海峡やアジア太平洋地域の安全を脅かす中国を前に、警戒感が高まっている。きっかけは、8月2日、中国が強く反対したにもかかわらず、アジア歴訪中のペロシ米下院議長率いるアメリカの議員団が、電撃的に台湾を訪問したことだ。翌日、ペロシ下院議長は蔡英文総統と会談し、「世界は今、民主主義と専制主義のどちらを選ぶのか迫られている。台湾と世界の民主主義を守るためのアメリカの決意は揺らぐことはない」と述べた。

 台湾を中国の一部だとみなす中国は、報復措置として4日から10日まで、台湾を包囲する六つの海空域で史上最大規模の軍事演習を実施した。中国軍は最初の4日間だけで、のべ41隻の艦船と176機の軍用機を出動させ、そのうち100機以上が台湾海峡の非公式の休戦ラインである「中間線」を越えて台湾本島に迫った。

 また、中国軍は初日に11発の弾道ミサイルを発射し、このうち4発が台湾の上空を越えて東側の海に着弾したほか、5発が日本のEEZ(排他的経済水域)に着弾した。日本政府は中国側に抗議したが、中国外務省は「日中両国は関連の海域で境界をまだ確定しておらず、日本のEEZという言い分は存在しない」と主張した。
台湾周辺での軍事演習が常態化か
ナンシー・ペロシ、蔡英文

ナンシー・ペロシ下院議長、蔡英文総統(他の写真を見る)

 火に油を注いだのは14日、マーキー米上院議員ら5人のアメリカ議員団が事前発表なしに訪台し、15日に蔡英文総統と会談したことだ。

 案の定、中国軍は同日、再び台湾周辺で軍事演習を実施した。中国国防省も声明を発表し、「台湾海峡の平和と安定の破壊者としての米国の本性が完全に露呈した」として、「中国人民解放軍は戦争に向けた訓練と準備を続け、国家主権と領土の一体性を断固として守り、いかなる形の台湾独立分離主義と外国の干渉も断固として粉砕する」と表明。今後、台湾周辺での軍事演習が常態化するのではないかと懸念されている。』

『米国の態度も変化

 今後、中国の海洋進出に対抗して、アメリカが主導するインド太平洋戦略における最も重要なカギとなるのが「台湾侵攻」を食い止められるかどうかだ。

 たとえば、昨年12月8日、米国上院外交委の台湾問題に関する公聴会で、インド太平洋安全保障担当のラトナー国防次官補は、「台湾は米国の同盟ネットワークの極めて重要な結節点だ」と述べた。

「なぜなら台湾は第1列島線における極めて重要な結節点に位置し、インド太平洋地域における安全保障と米国の死活的利益の防衛に極めて重要な同盟国・パートナー網の錨(アンカー)となって支えている」として、台湾を守るために、軍事的威圧を続ける中国を最も警戒しなければならないと強調した。

 これまで米国は「一つの中国」政策をあいまいに支持してきたが、緊迫した国際情勢の下で、政策解釈の上で大きな変化が生じたことは明らかだ。
米軍が93年前の地図を訓練で使用
国恥地図

米グッドフェロー空軍基地では「国恥地図」を分析(他の写真を見る)

 そうした中、米空軍基地の訓練機関で93年前に中国で使われていた「国恥地図」を教材に使用していることがわかった。

 国恥地図については、後で詳しく触れるが、「産経新聞」(2021年12月6日付)の報道によれば、テキサス州グッドフェロー空軍基地に所属する教育訓練機関が訓練風景を公開した数枚の写真の中に、偵察・情報担当の教官が「国恥地図」をもとに講義する様子が写っていた。記事では、詳細は不明だがと断わりがあるが、教官が国恥地図を指しながら、台湾や中国大陸の沿岸部を青い蛍光ペンで囲んで、何ごとかを説明している。

 米軍なら高度な技術や精密な衛星画像を駆使して最新地図を得られるだろうに、なぜそんな古い地図を使っているのか。実は、この地図は単なる地形図ではない。いわく因縁付きの代物なのだ。

 この報道より約2カ月前、私は『中国「国恥地図」の謎を解く』(新潮新書)を出版した。国恥地図が作られた歴史的経緯や製作過程を調査し、今日でも中国が愛国主義教育の教材として使っているという事実を突き止めた。

 また、現存する約20種類の国恥地図の中から、代表的な5種類を取り上げて分析したのだが、その5種類の中に、米軍が使用している国恥地図と同一のものが含まれていたのである。』

『国恥地図とは何か

 米軍が使用していたのは、「中華国耻地図」(中華民国・河北省工商庁、1929年発行)である。拙著に掲載した「中華国恥地図」(上海中央輿地学社、発行年不詳)と発行元は異なるが、地図自体は同じものだ。それに触れる前に、まず国恥地図とは何なのかについて簡単に説明しよう。

 国恥地図とは、かつて中国が戦争で列強に奪われた領土、すなわち「国の恥」を示した地図だ。国境線は、台湾、沖縄、東南アジア諸国、中央アジア諸国など近隣18カ国を通り、南・東シナ海をほぼ囲い込んでいる。作られたのは1920~30年代の蒋介石が支配した中華民国時代で、小学校の教科書にも用いられた。

 年表をご覧いただこう。「国恥」という言葉が最初にメディアに現れたのは1915年、日本が袁世凱・北京政府に「21カ条要求」を突きつけた時だとされる。袁世凱が要求を受け入れたことに国民が猛反対し、新聞が「国の恥」だと書いた。

 次いで1929年、蒋介石・国民政府は八つの「国恥記念日」を定めた。現在では法的に存在しないが、記念日は何度か変遷を経た結果、今でも中華人民共和国では、共通認識として四つの「国恥記念日」が定着している。

 5月3日(28年、済南事件[山東出兵])、5月9日(15年、21カ条要求)、7月7日(37年、盧溝橋事件)、9月18日(31年、柳条湖事件、満州事変)だ。これらはいずれも日本と深い関わりがあるが、今日、その日が何なのかを言える日本人はあまり多くはないだろう。
文字が読めない国民に愛国教育を行うために
国恥地図

国恥地図(他の写真を見る)

 1928年当時、中国国民の識字率は20%にも満たず、人々は政治に疎く無関心だった。そのため政府は国民に「愛国と雪辱の精神」を教え込もうと、官製カルチャーセンターのような「民衆学校」や「民衆教育館」を建設し、ひんぱんに講演会や展示会を開いて国恥教育を広めた。

 しかし、いかんせん国民は文字が読めないので、文字教材は役に立たない。そこで考えついたのがビジュアル化した国恥地図だった。講演会で演壇に掲げる大地図、ポスター、各種国恥グッズ、新聞や雑誌の付録、マッチ箱のデザインに至るまで、多数の国恥地図を製作して広めた。

 また、第1次全国教育会議(28年)を開いて、小中学校に国恥教育を取り入れることも決定した。私が古書店から入手した「中華国恥図」は、地理教科書「小学適用 本国新地図」(世界輿地学社、33年)にあるもので、当時作られたものだ。地図には破線の上に重ねて、太い赤線で「旧時国界(きゅうじこっかい)」(過去の領土)が示されている。北はロシアのサハリンやシベリア、モンゴル各地、西はカザフスタンやアフガニスタン、南はマレーシアやシンガポール、南シナ海から台湾、沖縄まで囲い込み、当時の領土の約2倍の大きさだ。これらは清朝時代の藩属や朝貢国だった国々で、「大清帝国の支配地域」だとみなしている。

 だが、日本についていえば、沖縄(琉球)は確かに清朝時代に朝貢していたが、中国の領土として支配された歴史的事実はない。南・東シナ海にしても、かつて清国の影響力が強かったり、中国の漁民が漁をしたりしていたという理由だけで「支配地域」だとするのは、論理の飛躍も甚だしい。百歩譲って戦前ならそんな考え方もあっただろうが、21世紀の国際社会では到底認められないことだ。』

『「次は台湾」の恐怖

 ところが、中国政府は今でも、この地図が本当の「支配地域」だと本気で思っている。というのも、以下のような体験に基づく。

 私が国恥地図の存在自体を知ったのは、1997年「香港返還」の時だった。当時、国恥地図の復刻版が多数出回り、北京や香港でブームになっていた。中国人民出版社は小冊子「近代中国 百年国恥地図」を出版し、香港返還を絶好の機会と捉えて、「アヘン戦争で奪われた香港を取り戻した」と、大々的に宣伝した。中国共産党の古参幹部のひとりが、「これで香港は済んだ。次は台湾だ!」と言うのをたまたま耳にして、思わず身震いしたのを覚えている。

 中国では、1980年代に歴史地理学が確立し、伝統的な「文化的中国」という概念を現代政治と結び付けることが、政治方針の理論的裏付けとなった。華僑が多数生活している東南アジア諸国は、「中華帝国の文明が光り輝いていた国や地域」であるから「文化的中国」であり、そこは「奪われた土地」なのだから、中国が経済発展した今こそ「本来の姿」を取り戻すべきだと考えている。

「失地回復」に執念を燃やしているのが現代中国

 アヘン戦争以来、列強に不平等条約を強要され、領土を租借地化、割譲させられ、国民が不当に虐げられた恥辱を雪(そそ)ぐことこそ民族の誇りの回復だと本気で信じているのである。為政者としては、そうした一体感を持ち出さなければ、あの広大な国家を統治することはかなわず、常に「外部の敵」を作り出さねばならないこともあるのだろう。

 一言で言ってしまえば、100年来の「国恥意識」で「失地回復」に執念を燃やしているのが現代中国である。米軍が国恥地図を使って中国分析を行う理由は、まさにこの「中国の本質」を見極め、「台湾侵攻」の本気度を測るための理想的なツールだからではないだろうか。』

『「中国人は世界の国民ではなくなってしまう」

 さて、米軍の教材となった「中華国耻地図」だが、前述のように1929年発行の中華民国・河北省工商庁が製作したものだ。

 よく見ると、地図の隅にある赤い枠の内側と地図上に、細かい文字で不平等条約の締結年、場所、内容などが記されている。地図の下部ぎりぎりに海南島が描かれているので、1929年当時は「中国領の南限は海南島」だと認識されていたとわかる。南シナ海まで領海意識が広がったのは、1930年代に入ってからだ。

 欄外上部に「総理いわく」として、中華民国を建国した孫文の言葉が記されている。

 右側は、「現在の中国は国際的な平等と自由を失い、すでに完全な独立国家ではない。人々はみな半植民地と言うが、私に言わせれば、全き植民地にすら及んでいない。(中略)中国の地位は高麗(朝鮮)や安南(ベトナム)よりも低いからだ」。左側は、「我々中国人の地位はこれほどまでに落ちぶれた。もしまだ国民が精神を奮わないならば、そして心を一つに協力し合い、租界と海事・領事裁判権を奪回し、一切の不平等条約を排除しなければ、我々中国は世界の国家ではなくなり、我々中国人は世界の国民ではなくなってしまう(つまり、中国は世界から消滅してしまう)」と記されている。
外国批判より「学ぶべき点が多い」とした孫文

 調べてみると、どちらも1924年に孫文が発言した演説内容で、右側の言葉は、1924年11月19日、上海で記者会見したときのものだ。改めて会見記録を読むと、前後の文脈から「日本やイギリス、フランスの植民地支配は充実していて、福利厚生も行き届いている。(それに比べて)中国は植民地にも劣る劣悪な環境だ」と、外国を批判するより、むしろ「外国に学ぶべき点が多い」ということに重点が置かれているようだ。

 一方、左側は、1924年11月25日、神戸の華僑歓迎会で行った講演の一節で、その3日後、孫文は神戸の旧制神戸高等女学校講堂で有名な「大アジア主義」の講演を行っている。「日本は西洋の覇道の番犬となるか、それとも東洋王道の干城(かんじょう)となるか」と、日本人に向けて強い警告の意味を込めたメッセージを残した。ついでに言えば、神戸の講演会を終えた孫文は、神戸から船で北京へ向かう途中、天津港で喀血(かっけつ)し、列車で北京へ運ばれた後、1925年3月、「革命未だならず」という遺言を残して肝臓がんで亡くなった。』

『国恥地図は日本製だった?

 この「中華国耻地図」にはもうひとつ、鉄道路線図が目立つという特徴がある。

 実は、孫文は1900年に日本人の革命支援者たちに依頼して、日本で「支那現勢地図」を製作している。鉄道ネットワークを記すための「主題図」で、南限はやはり海南島だ。革命後の国家建設の大構想を練るために作った。これは推測だが、孫文の死後、「孫文の後継者」を自任する蒋介石が、「支那現勢地図」を使って国恥地図を作らせた可能性が十分に考えられる。

 もしそうなら、悪い冗談のような話だ。日本の侵略によって「国恥」という言葉が生まれ、「国恥記念日」が制定され、「国の恥」を忘れないよう国民を教育するために作られたのが国恥地図だ。それが、もとを正せば日本製の中国地図だったとは、まったく雑な仕事というほかない。日本人の感覚ならそれこそ恥ずべき所業だろう。だが、「使えるものは何でも使え」という拘りのなさ、パクリ精神こそ、中国的合理主義かもしれない。
「南シナ海は中国のもの」という考え

 1928年に開始された国恥教育は1940年代に入って日中戦争が激化したことで、それどころではなくなった。国恥地図も製作されなくなった。1945年に第2次世界大戦が終結すると、国民党と共産党の内戦が再燃し、負けた国民党は台湾へ逃げ延び、中国大陸には1949年、共産党政権である中華人民共和国が誕生した。

 すでにお蔵入りしていた国恥地図を再び持ち出したのは、現在の中国政府だ。共産党政権も国民党時代と同様、1980年代まで国恥地図を小中学校の歴史や国語の教材として取り入れた。その時代に学校教育を受けた中国人は、今でも「南シナ海は中国のもの」という考えを捨て去れないと聞いたことがある。

 また、中国政府は国際外交の面でも、国恥意識や失地回復を「外交カード」として使っている。南シナ海の領有権を主張して断固として譲らず、「核心的利益」と呼んで、東シナ海の台湾や尖閣諸島の領有権に固執する背景には、歴史的に生み出された「失地意識」がある。そして習近平政権は「100年の恥辱」を雪ぐことを使命とし、「大中華帝国」の再構築を国家の最高目標に掲げている。

 中国が南シナ海の領有権を主張する様は、ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を断行した際にロシア帝国の領土を回復することを「侵攻の根拠」としたのと、驚くほど似通っている。民間人の犠牲をいとわず、政治的な目的を果たそうとする点でも共通している。

 であるからこそ、米軍もこの地図を使用したのだろう。』

『「要」となる台湾

 教官が地図に描いた中国沿岸部の囲み線は、中国軍の五大戦区(軍の管轄区)のうち、台湾を管轄する東部戦区や南部戦区の作戦区域だろう。中国と台湾の距離は、最も狭い台湾海峡北部でわずか130キロメートルほどしかなく、東京と軽井沢くらいのイメージだ。中国人民解放軍は短時間で攻撃が可能である。この講義では、「国恥」の解説とともに「台湾侵攻」の動きを加速させている中国軍の現状を分析したにちがいない。

 5月23日、岸田文雄首相と米国のバイデン大統領による初の対面での首脳会談が行われ、共同声明が発表された。声明には「台湾海峡の平和と安定の重要性」を強調するとともに、「両岸問題の平和的解決を促した」と明記されている。

 翌日には、日米豪印4カ国の枠組み「クアッド」の首脳会合が行われた。ロシアのウクライナ侵攻や北朝鮮のミサイル発射と開発を非難し、インフラ、サイバーセキュリティー、宇宙など幅広い分野での協力体制を確認するとともに、中国を念頭に「包括的で強靭な、自由で開かれたインド太平洋」への揺るがない関与を確認して、「(中国含め)現状を変更し、地域の緊張を高めようとするあらゆる威圧的、挑発的又は一方的な行動に強く反対する」と、共同声明が発表された。

 今後の中国が、どこまで本気で南シナ海の領有権を主張し、台湾や尖閣諸島を取りに来るかは、予断を許さない。しかし「要」となるのは台湾であり、「台湾有事」こそが、今後の趨勢を大きく左右する「天下分け目の戦い」になることは間違いない。9月29日には「日中国交正常化50周年」を迎えて盛大な式典が催される予定だ。友好は大切だが、中国の本質を理解する上で、日本も「国恥地図」の分析は欠かせないだろう。

譚 ろ美(たんろみ)
東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。元慶應義塾大学訪問教授。革命運動に参加し日本へ亡命後、早稲田大学に留学した中国人の父と日本人の母の間に生まれる。『中国共産党を作った13人』『阿片の中国史』『戦争前夜―魯迅、蒋介石の愛した日本』など著書多数。

週刊新潮 2022年9月1日号掲載

特別読物「米軍が『台湾侵攻』分析に活用 『中国』100年前の『国恥地図』に秘めた野望」より』

中国共産党「第二のゴルバチョフにだけはなるな!」

中国共産党「第二のゴルバチョフにだけはなるな!」
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220905-00313725

『ゴルバチョフにより中ソ対立は解消したが、同時にゴルバチョフは世界最大の共産主義国家・ソ連を崩壊させた人物として中国の指導者は「第二のゴルバチョフにだけはなってはならない」ということを大原則にしてきた。

◆天安門事件進行中に訪中したゴルバチョフ

 中国と旧ソ連は1950年代半ばのフルシチョフ(第一書記)によるスターリン批判以来険悪な関係となり、長きにわたって中ソ対立が続いていたが、1985年3月にゴルバチョフ政権がソ連に誕生すると、事態は一変した。1986年7月、ゴルバチョフ書記長はウラジオストックで演説した際に、中国に関係改善を呼びかけ、鄧小平もそれを受け入れる準備があると意思表示した。

 こうして1989年5月15日にゴルバチョフは北京入りするのだが、折しも天安門広場にはその年4月15日に憤死した胡耀邦元総書記を追悼する若者が集まり、胡耀邦を憤死に追いやった鄧小平の「横暴と非民主性」を糾弾していた。

 だから民主を求める若者たちは、ゴルバチョフに会わせろと激しく叫んだのだが、その要求は鄧小平によって拒絶され、天安門広場における民主化運動は激化の一途をたどっていく。

 特にこのとき胡耀邦の代わりに中共中央総書記にさせられていた趙紫陽がゴルバチョフと会談した際に、趙紫陽がうっかり「最終的な決定権は鄧小平にある」と言ってしまったため、胡耀邦だけでなく、今度は趙紫陽までが鄧小平の逆鱗に触れ失脚してしまった(詳細は『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』第六章p.301)。

 この時点で、中国におけるゴルバチョフ評価は決まってしまったが、1991年8月、ゴルバチョフがソ連共産党を解党し、12月にソ連の崩壊を招いてしまうと、中国でのゴルバチョフ評価は決定的なものとなる。

 中ソ対立を解消したことよりも、ソ連という世界最大の共産主義国家を崩壊させてという「恐怖」は、世界第二の共産主義国家であった中国の運命を決定づけた。

 もちろん、4月30日のコラム<無血でソ連を崩壊させたレーガンと他国の流血によりロシアを潰したいバイデン そのとき中国は?>に書いたように、ソ連崩壊と同時に中国はウクライナや中央アジア5ヵ国などを一気に歴訪して国交を樹立したという経緯はある。

 しかし、もう一つの側面を見るならば、「共産党による一党支配体制を維持するには、どうすればいのか」という衝撃と教訓の方が大きい。

◆絶対に「第二のゴルバチョフ」になってはならない!

 ソ連崩壊から中国が学び取ったものは数々あるが、その中で最大のものは「西側の外部勢力が他国を平和的手段で民主国家に持っていこうとする試みと扇動に騙されるな」ということで、それを警戒しなければならないという決意は強烈だ。

 実は、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』の原型で1980年代に既に絶版になってしまった『卡子 出口なき大地』の中国語版を何としても中国大陸で出版させたいと長年にわたって努力してきたのだが、どの出版社も社長の段階までは「実に素晴らしい。公平に書かれていて感動的だ」と肯定してくれるものの、その上の地元政府当局の審査段階に入ると、必ず「今はまだ時期が適当ではない」という回答が戻ってきていた。

 最後には中国中央政府の元高官に相談したところ、以下のような回答が戻ってきた。

 ――ゴルバチョフのように、ひとたび言論を自由に解き放ったが最後、共産党の支配は一瞬にして崩壊してしまいます。共産党の支配が緩めば、中国はソ連以上に多くの少数民族から成り立っているので、たちまち各民族が自治区を中心に独立を主張して中華人民共和国も崩壊してしまうでしょう。それが最終的に中国人民の幸せにつながるかと言えば、そうとも限らない。それに、1921年以来、これだけ苦労して、多くの犠牲者を出しながら持ちこたえてきた中国共産党による統治を、ここで手放そうとする中国の国家指導者はいません。中国のリーダーが最も恐れるのは、「この自分が第二のゴルバチョフになりはしないか」ということです。どのリーダーも、絶対に「第二のゴルバチョフ」にだけはなりたくないのです。

 この言葉を聞いて以来、筆者は中国に見切りをつけてしまった。

◆中国で強まる「西側の甘い言葉に騙されるな」という警戒心

 8月30日にゴルバチョフが逝去すると、中国でも多くの報道が見られたが、そのほとんどは「第二のゴルバチョフになるな」という精神を軸としたものに偏っている。

 たとえば8月31日の環球時報英語版は<西側と仲良くなるというゴルバチョフの未熟な政策から教訓を>という趣旨の見出しで、哀悼の意を表しながらも、「ゴルバチョフは世間知らずで騙されやすく未熟だ」と批判している。「欧米体制を盲目的に崇拝することで、ソ連は独立を失い、ロシア国民は政治的不安定と深刻な経済的苦境に苦しんだが、中国はそれを自国の統治のための大きな警告や教訓とすべきだ」とも書いている。特にソ連崩壊後の1997年にゴルバチョフがピザハットのコマーシャルに出演したことへの嫌悪感を隠さない。

 また1955年にソ連とその友好国を中心として結ばれていた安全保障に関するワルシャワ条約機構は、1989年の東欧諸国における民主化革命で共産党政権が相次いで崩壊した結果、1991年7月1日にすべての政治・軍事機構が廃止・解体されたが、それに対する「原則なしの妥協」が悲劇を生んでいると、中国の他の多くの知識人などが解説を試みている。

 それによれば、ワルシャワ条約機構解体と同時に、「NATOの東方拡大を禁止する」ことが約束されていたはずなのに、そのことに対する詰めが甘かったことが、こんにちのウクライナ問題を生んでいると、厳しい。

 環球時報の解説委員だった胡錫進氏も<ゴルバチョフはソ連を裏切ることによって西側の賞賛を得た>という評論の中で、「それでもロシア社会はソ連社会よりも自由で、複数政党の選挙により西側陣営への統合を望んでいた。そのためG8のメンバーになったこともあったが、しかし、ワシントンの戦略的目標は、ロシアをさえ弱体化させ続けることであり、NATOの東方への拡大は、一歩一歩前進した。その全てが、結局、ロシアからの対抗措置の勃発につながり、ロシアが望んだ西側陣営への統合は隅に追いやられた」と書いている。そして以下のように続けている。

 ――振り返ってみると、ソ連は非常に強力で、かなりの技術革新能力を持っていた。最初の人工衛星と最初の原子力発電所はソ連で生まれた。当時の問題は農業の弱さと軽工業であった。資源の豊富なソ連がこれらの問題を解決するのは簡単だったはずだ。しかし、ゴルバチョフは問題を誤って判断し、間違った改革の道を選択し、政治的リーダーシップを欠いていた。彼自身は明らかに西洋文化の崇拝者であり、当時西洋の世論が彼に与えた賞賛を気にかけ、楽しんでさえいた。彼は欧米に騙されたのだ。(一部引用ここまで)

 習近平の戦略を、この「第二のゴルバチョフにだけはなるな」という中国が得た教訓という角度から分析するのは、興味深い作業である。

遠藤誉
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。』

ミュンヘンオリンピック事件

ミュンヘンオリンピック事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。』

ミュンヘンオリンピック事件(ミュンヘンオリンピックじけん、ドイツ語:Münchner Olympia-Attentat)は、1972年9月5日に西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われたテロ事件。実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれる。オリンピック開催中に発生し、イスラエルのアスリート11名が殺害された事件として知られる。

概要

事件発生

(以下本稿の表記はすべて現地時間)1972年8月26日から9月11日にかけて開催されていたオリンピックの選手村[注釈 1]に、9月5日4時40分頃[2]、パレスチナのテロリスト組織「黒い九月」のメンバー8名が敷地のフェンスを乗り越えて侵入した。この時、彼らがフェンスを乗り越えるのを目撃している警備員がいたが、リュックサックを背負っていたこともあり、夜間に外出した選手達が人目を忍んで戻ってきただけだと思い、気に留めなかったという。

イスラエル選手団の宿舎を発見したメンバーは、持ち込んだAK-47等の自動小銃や手榴弾などで武装・覆面した上で、午前4時頃に選手村内のイスラエル選手団宿舎へ突入した[3]。犯人グループは上階のイスラエル選手団居住フロアに侵入し、抵抗したユダヤ系アメリカ人選手とレスリングコーチのモシェ・ワインバーグの2名を殺害し、死亡したワインバーグを庭先に放置したのち、9名を人質に取った[3]。なお、この襲撃時に1人は窓から飛び出して脱出しており、彼が一時拘束された中での唯一の生存者である。

午前5時30分頃、巡回していた警察官がワインバーグの遺体を発見する。その際に立てこもる黒い九月側に気づき、事件が発覚した。黒い九月の占拠部隊は、宿舎から2ページの宣言文からなる犯行声明を警察側へ投げ入れ、イスラエルに収監されているパレスチナ人のほか、日本赤軍の岡本公三やドイツ国内で収監中のドイツ赤軍幹部など234名を午前9時までに解放するよう要求した[2]。この事件は、午前6時20分にはテレビの生中継で報道が始まり、事件の最後まで実況中継されることとなる[3]。

交渉

地元警察は、やむを得ず時間稼ぎのため交渉を行うことにした。午前8時45分頃、ミュンヘン警察本部長はオリンピック関係者2人とともに玄関先で占拠部隊のリーダーと交渉を行い、まだイスラエル当局と協議中であることにし、期限を午後0時にまで延長させた。ただし、解放されなければ人質2人を射殺する条件であった[3]。西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始していたが、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの要求を拒否するとともに、イスラエル国防軍部隊による事態解決を西ドイツに打診するが、西ドイツの法律は外国軍の国内での活動を制限していたこともあり、西ドイツ側は自国で対応するとして拒否した(イスラエルの特殊部隊派遣は西ドイツ側に侮辱だとして受け取られてしまうと思ったために、打診すらしなかったという説もある)。

これにより、西ドイツ当局は交渉による解決を一切断念することに追い込まれ、武力のみの解決を強要されることになった。しかし、この時点では当局側は占拠部隊の正確な人数を把握していなかったため、「イスラエルと交渉中である」と騙し何度も期限延長させていた。

午後5時頃、当局側はオリンピック関係者を人質の確認と称して宿舎へ潜入させることに成功した。このオリンピック関係者がそのとき見た占拠部隊のメンバーの人数は5人であることから、当局側は5人と断定して突入の準備を行い、地元警察側に突入部隊を編成して突入直前までいったが、テレビやラジオで実況中継されていたため、テレビを見ていた占拠部隊に気がつかれてしまい中止することになった。

その後、交渉が行なわれ、占拠部隊は飛行機でエジプトの首都カイロへ脱出することを要求し、当局はそれに合意した。午後10時ごろ、占拠部隊と人質は宿舎の地下から当局が用意したバスで宿舎から200m離れた草地へ移動、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は用意された飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈であった[3]。だがこれは表向きの話で、実際はバスでの移動途中、もしくは空港で犯人グループを狙撃し、人質を解放する計画であった。

終結

ルフトハンザ航空のボーイング727

午後10時30分、占拠部隊と人質を乗せたヘリコプターがフュルステンフェルトブルック空軍基地(Fürstenfeldbruck)に着陸した。基地には、占拠部隊を狙撃するために警察官が待ち構えていた。狙撃する警察官は軽装で、H&K G3自動小銃(アサルトライフル)の一般警察用モデルを使用し[注釈 2]、管制塔バルコニーに3人と滑走路上に2人が向かい合うように配置されていた。

占拠部隊のリーダーと副リーダーは安全の確認のために、用意されたルフトハンザドイツ航空のボーイング727へ入った。事前の計画では機内に警察官を配置して待ち伏せを行う予定であったが、直前で抗命事件が発生した(後述#人質救出作戦の失敗要因を参照)ために機内には誰もおらず、2名は案内役すらいないことを不審に思い、ヘリコプターへ走って逃げ戻った。その時、滑走路上の狙撃手の1人が発砲し、副リーダーは太ももを負傷したが、リーダーがヘリコプターまでたどり着き、警官側に応射した。これに対し警官側も応戦を始め、銃撃戦になった。

占拠部隊はヘリコプターに立てこもり、狙撃手として配置されていた警官隊は装備が不十分なため応援部隊を待つことにした[3]。空港周辺に詰めかけたマスコミと野次馬による交通渋滞に阻まれて到着が大幅に遅れた応援部隊は、事態がほぼ収束した午後11時30分頃、ようやく現場に到着した。

最終的に、ゲリラの1人が手投げ弾で自爆し、人質が乗ったヘリコプターが爆発、炎上した。人質たちは、両手を後ろ手に縛られ、目隠しのまま、数珠つなぎにされていたため逃げることができなかった[注釈 3]。結果的に人質9名全員と警察官1名が死亡するなどという最悪の結末で事件は終結した。犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名は逃走を図るが、その後、逮捕された[3]。だがこの3名は同年10月29日のルフトハンザ航空615便ハイジャック事件(英語版)で解放されることになる[4]。

イスラエルではオリンピックの中止を求めるデモも起きたが、反ユダヤ的言動で知られたアベリー・ブランデージIOC会長の命令により続行が指示された。9月6日午前10時からオリンピック・スタジアムで8万人の観衆を集めて、イスラエル選手団の追悼式が行われた。同日午後4時50分、オリンピックは34時間ぶりに再開された[5]。

死亡者

ロッド空港で犠牲者の棺を乗せたイスラエル軍用車
ミュンヘンオリンピック公園に設置された犠牲者の慰霊プレート
人質

モシェ・ワインバーグ - レスリングコーチ
ユセフ・ロマーノ - ウェイトリフティング選手
ゼエブ・フリードマン - ウェイトリフティング選手
ダヴィド・バーガー - ウェイトリフティング選手
ヤコブ・シュプリンガー - ウェイトリフティング審判員
エリゼル・ハルフェン - レスリング選手
ユセフ・グトフロント - レスリングレフェリー
ケハト・シュル - 射撃コーチ
マーク・スラヴィン - レスリング選手
アンドレ・シュピッツァー - フェンシングコーチ
アミツール・シャピラ - 陸上コーチ

警察官

アントン・フリーガーバウアー

犯人

ルッティフ・アフィフ
ユスフ・ナザール
アフィフ・アハメド・ハミド
カリド・ジャワード
アハメド・チク・ター

人質救出作戦の失敗要因

この事件では、以下の失敗が被害拡大を招いたとされる[3]。

主な要因としては、

人質救出作戦に従事した警察官のほとんどは地元警察の一般警察官であり、現場指揮官や実行者には、テロ対策などの高度な専門訓練を受けた経験がほとんど無かった
情報が不足していた上、マスコミの実況中継で警察の動きは犯行グループ側に筒抜けだった
基地には簡易な作業灯しかなく、強力な照明装置や暗視装置等が無かったにもかかわらず深夜の狙撃を断行した
当時は携帯型無線が大型で、運用には大規模設備と専門要員が必要であったため部署や現場間での連絡が困難であった
狙撃手の銃はスコープの付いていない通常型の警察用アサルトライフル(H&K G3)であったため[注釈 2]、精度の高い射撃が行えず、作戦上必要な高度な狙撃ができる状況ではなかった
犯人は5人しか居ないという間違った情報から作戦を立てたために5人の狙撃手しか用意しておらず、その「狙撃手」にしても射撃の成績が良いという理由で集められた一般警察官であり、狙撃の専門的な訓練を受けていなかった
ヘリコプターが所定の位置とは異なる場所に着陸したため、着陸段階から狙撃が不可能になっていたにもかかわらず、計画をそのまま続行させた
犯人を油断させるために用意したルフトハンザ機には、警察側が待ち伏せを準備していたが、待ち伏せ配置に就かされた警察官に与えられた装備は拳銃と少数の機関短銃であり、自動小銃や手榴弾を装備しているテロリストグループに対しては不十分で、これを理由に直前で抗命されたので、急遽、多数決による意思決定を行い、反対多数であったので、警察官達は職務を放棄してしまい、機内には誰もいなかった。これは前述のようにテロリストを警戒させ、作戦の破綻を決定的にした

などが挙げられている。

これらの多くは、州権主義・平和主義的な色彩の強いボン基本法上の制約によって、西ドイツ警察が爆弾などで武装したテロリストに対抗するだけの装備を持たず、また訓練も行わなかったことや、平時における西ドイツ連邦軍のドイツ国内での(準)軍事行動が認められていなかったことに起因する。

その後

西ドイツ当局はこの事件について、公式に調査・検証を行うことなどはしていない[3]。しかし西ドイツ政府はこの事件の結果を受け、1972年9月に連邦国境警備隊傘下の対テロ特殊部隊として「第9国境警備群(GSG-9)」を創設した。GSG-9は、1977年にパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のテロリスト4名が起こしたルフトハンザ航空181便ハイジャック事件に際して実戦投入され、イギリス軍の特殊部隊SASの支援の下ハイジャックされた181便(ボーイング737-200)に強行突入し、僅か5分で犯人4名のうち3名を射殺・1名を逮捕。突入前に犯人によって射殺された機長を除き、乗員乗客に犠牲者を出すことなく事件を解決した。

また、狙撃に失敗した教訓を取り入れて、西ドイツ当局は銃器メーカー各社にセミオート式の狙撃銃の設計を依頼した。これに応じH&K社がPSG-1を、ワルサー社がWA2000を開発し、西ドイツ当局はPSG-1を正式採用している。この事件をきっかけとして、先進国は遠距離からの狙撃が行える.50口径(0.50インチ=12.7mm)クラスの大口径ライフルの開発を行った(対物ライフル#歴史を参照)。

この事件を機に以後の大会では選手村の警備が強化され、関係者以外の出入りを厳しく規制するようになった[6]。なお、事件後の1973年12月28日に、イスラエル選手団居住棟がマックス・プランク研究所に寄付され、集会所などとして利用されることになった[7]。

2021年7月23日に行われた、東京オリンピックの開会式で、襲撃され死亡したイスラエル選手団への黙祷が初めて行われた。ロイター通信やイスラエルのメディアによると、事件の遺族はそれまでも国際オリンピック委員会に対し、開会式での黙祷を求めていたが、初めて実現したという[8][9]。

事件の影響と、それを受けて設立されたGSG-9の成功によって、諸外国でも対テロ特殊部隊の設立が相次いだ。

西ドイツ

連邦国境警備隊 第9国境警備群 (GSG-9)
州警察 特別出動コマンド (SEK)

東ドイツ

人民警察第9中隊 (ドイツ再統一後はSEKに吸収)

フランス

フランス国家警察 捜査介入部 コマンド対策部隊(フランス語版) (BRI-BAC)
フランス国家警察 国家警察介入部隊 (GIPN)
国家憲兵隊治安介入部隊 (GIGN)

イタリア

特殊介入部隊 (カラビニエリ)

イギリス

SAS 対革命戦部隊 (CRWウィング、パゴダ中隊)

日本

警視庁 第六機動隊 特科中隊 (後の警視庁特殊部隊(SAT))
大阪府警察 第二機動隊 零中隊 (後の大阪府警察特殊部隊(SAT))

イスラエルによる報復作戦

この事件に対し、イスラエル政府は報復として空軍にPLOの基地10カ所の空爆を命じた(イスラエルによるシリア・レバノン空爆 (1972年)(英語版))。これにより、65名から200名が死亡した。9月16日には、空爆に加えてイスラエル軍の地上部隊がレバノン領南部に侵攻。アラブ・ゲリラの基地、拠点群を攻撃を加えたが、短期間でイスラエル領内へ引き揚げている[10]。

神の怒り作戦

ゴルダ・メイア首相

イスラエルは空爆に続いて、さらなる報復および同様のテロの再発を防ぐことを名目に、黒い九月メンバーの暗殺を計画。ゴルダ・メイア首相と上級閣僚で構成される秘密委員会を設置した。委員会はイスラエル諜報特務庁(モサド)に対して、ミュンヘンオリンピック事件に関与した者の情報収集を行なわせ、これに基づき委員会は暗殺の対象を決定、モサドの「カエサレア」と呼ばれる特殊部隊に暗殺を指示していたとされる。この秘密作戦には「神の怒り作戦(英語版)」もしくは「バヨネット作戦」というコードネームがつけられているとされる。

作戦の開始

最初に暗殺されたのはアラファト議長のいとこで翻訳家のワエル・ズワイテルであった。黒い九月のメンバーでもあった彼は、1972年10月16日、ローマの自宅アパート内で射殺されている。その後もモサド工作員はターゲットを銃、あるいはリモコン式の爆弾で次々と暗殺した。

1972年12月8日、黒い九月のブレーン的存在であったマフムド・ハムシャリ博士がパリのアパート内に仕掛けられた爆弾で負傷。彼はこの時の怪我がもとで1か月後に死亡。1973年1月24日にはPLOとソ連KGBのリエゾンであったフセイン・アバト・アッ・シルがキプロスの首都ニコシアのホテルで爆殺された。

黒い九月の反撃

黒い九月も反撃を開始し、モサドの工作員、協力者などを殺害している。1972年11月13日、モサドの情報提供者であるパリ在住のシリア人ジャーナリストが射殺され、翌年1月26日にはモサド工作員のバルク・コーエンがマドリードの目抜き通りで射殺された。

ベイルート特攻作戦

イスラエル国防軍とモサドは1973年4月9日、ベイルートにあるPLOと黒い九月の幹部らが宿泊していたアパートを奇襲した(イスラエルによるレバノン襲撃 (1973年)(英語版))。PLOの公式スポークスマンであるカマル・ナサラ、黒い九月の幹部ユーセフ・ナジャール及びカマル・アドワンの3名を殺害。この時、暗殺部隊はイスラエルから船でベイルートに移動し、敵の目を欺くために半数は女装していたが、警備兵に気付かれて銃撃戦になり、強行突入の末に幹部を射殺したとされる。当時のベイルートはPLOの本拠地であり、敵中における軍事作戦であった。

部隊を指揮していたのは後のイスラエル首相となるエフード・バラックで、彼も女装して幹部らのアパート襲撃に加わった。その後も暗殺は続けられ、1973年6月28日には黒い九月の欧州責任者モハメド・ブーディアがパリで車に仕掛けられた爆弾により死亡している。
暗殺計画の露呈

モサドによる暗殺計画は、人違いにより無関係な一般市民を射殺したことから明るみに出ることになる。ノルウェーのリレハンメルで1973年7月21日、モサドはミュンヘンオリンピック事件の黒幕とされるアリ・ハッサン・サラメらしき男性がバス停にいるところを射殺したが、この男性は全く無関係のモロッコ人であった。

この事件でモサド工作員5名はノルウェー捜査機関に逮捕され、車や名簿などが押収された。この時逮捕された工作員が、ヨーロッパ各国におけるモサドの暗殺計画を自白したため、ヨーロッパ各国はイスラエルの行動に懸念を示すことになるが、モサドによるサラメの暗殺計画は続行された。

サラメの暗殺

その後、モサドはベイルートにサラメがいることを突き止めると、イギリス国籍を持つ女性工作員のエリカ・チャンバースをベイルートへ派遣する。チャンバースは難民を支援する慈善活動家を名乗ってベイルートで活動し、サラメの行動確認を行った。1979年1月22日、暗殺部隊とチャンバースは彼の車が通る場所に車爆弾を仕掛け、通過した際に彼を車ごと爆破して殺害した。チャンバースは暗殺後すぐに出国して姿を消し、サラメの殺害により作戦は終結したとされる。

これらの作戦についてイスラエルとモサドは正式な発表を行なっていないが、20名以上のパレスチナ武装組織の人間が暗殺されたといわれる。2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』はこの「神の怒り作戦」に関わったアヴナー(仮名)という工作員の実話に基づくものとされている。しかし、イスラエル政府やモサドの元高官などはこの事を否定している。

神の怒り作戦により多くのパレスチナ人が暗殺されたが、一方で暗殺をかろうじて免れた人物も存在する。黒い九月の創設者で事件の首謀者でもあるアブ・ダウードは、この作戦とは別に、1977年1月にパリで逮捕された[11]。2010年7月に腎不全で死去するまで暗殺を免れた。

関連作品
書籍

ジョージ・ジョナス『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』新庄哲夫 訳. 1986.7 新潮社
デヴィッド・ティニン『暗殺チーム』高田正純訳 集英社、1978
マイケル・バー=ゾウハー、アイタン・ハーバー共著『ミュンヘン・オリンピック テロ事件の黒幕を追え』横山啓明訳、ハヤカワ文庫NF、2006年
アーロン・J・クライン『ミュンヘン 黒い九月事件の真実』富永和子訳、角川文庫、2006年

映画

『21 Hours at Munich(テロリスト・黒い九月 ミュンヘン)』(1976年) ウィリアム・グラハム(英語版)監督
『Sword of Gideon』(1986年) カナダのテレビ映画en:Sword of Gideon
『One Day in September(ブラック・セプテンバー/五輪テロの真実)』(1999年) ケビン・マクドナルド監督
『ミュンヘン』(2005年) スティーヴン・スピルバーグ監督

放送

ナショナルジオグラフィックチャンネル 衝撃の瞬間4 第3話「ミュンヘンオリンピック事件」

脚注
[脚注の使い方]

注釈

^ 事件の舞台となったイスラエルの選手棟は、日本選手団の棟の近くであったが、運営側からの安全上の呼びかけや説明はなく、選手団は日本に国際電話をかけて情報収集していたという[1]。

^ a b 事件発生当時、ミュンヘン警察にはより専門的なボルトアクション式狙撃銃であるシュタイヤー_SSG(英語版)が配備されていたが、これを用いる狙撃手の育成が未だ行われていなかったため、当事件には用いることができなかった。

なお、当事件の狙撃の失敗について、「次弾の発射に時間のかかるボルトアクション式狙撃銃を用いたために失敗した」と解説されていることがあるが、狙撃に際しては既述のように狙撃用の精度の高いものではないにしても自動小銃が用いられており、「連続射撃が困難であったために失敗した」は誤説である。

^ 西独、救出強行し失敗 人質のヘリ爆発 ゲリラが手投げ弾 ミュンヘンの空港銃撃戦 読売新聞 1972年9月6日 夕刊 1頁

出典

^ “【あの日の五輪】五輪史上最悪の悲劇…1972年の加藤沢男(中)”. スポーツ報知 (2020年1月25日). 2021年2月19日閲覧。

^ a b 人質10人の氏名発表/ミュンヘン五輪選手村襲撃事件 読売新聞 1972年9月6日 朝刊 1頁
^ a b c d e f g h i ナショナルジオグラフィックチャンネル 衝撃の瞬間4 第3話「ミュンヘンオリンピック事件」による [要検証 – ノート]
^ ミニ解説 ミュンヘン五輪事件 読売新聞 1979年1月24日 朝刊 5頁
^ オリンピックは続行 会期一日延長、今暁再開 読売新聞 1972年9月7日 朝刊 1頁
^ 五輪招致特別企画 『ふたつの東京五輪』 「選手村(1)」Number Web - ナンバー 文藝春秋 2009年06月25日更新、2017年8月12日時点のアーカイブ。
^ イスラエル選手村が集会所に"変身" 読売新聞 1973年12月30日
^ “開会式で黙とう ミュンヘン五輪で犠牲のイスラエル選手ら追悼”. 毎日新聞 (2021年7月23日). 2021年7月24日閲覧。
^ “開会式 ミュンヘン大会で襲撃 イスラエル選手団へ初の黙とう” (日本語). NHK NEWS WEB. 2021年7月23日閲覧。
^ 「レバノンへ侵攻 反日で一部撤収 南部ゲリラ基地を掃討」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月17日、13版、1面
^ PLO最高幹部パリで逮捕 ミュンヘン五輪事件の首謀者 読売新聞 1977年1月10日 朝刊 4頁

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ミュンヘンオリンピック事件に関連するカテゴリがあります。

ドイツの警察
ヨルダン内戦
PFLP旅客機同時ハイジャック事件

外部リンク

「黒い九月」と「モサド」の報復合戦
Die olympische Tragödie (ドイツ語)
One Day in September (英語)』

ミュンヘン五輪のイスラエル選手団宿舎を襲撃した「黒い九月」。

ミュンヘン五輪のイスラエル選手団宿舎を襲撃した「黒い九月」。
https://st2019.site/?p=20227

『『タイムズ・オブ・イズラエル』の2015-10-1記事「PLO terrorists castrated Israeli hostage in 1972 Munich Olympic attack」。

  ミュンヘン五輪のイスラエル選手団宿舎を襲撃した「黒い九月」。

 11人が殺されたが、そのうちの一人、重量挙げ選手だったヨセフ・ロマノは犯人の手によって「去勢」されていた。それが生前か死後かは不明である。

 西ドイツ当局は、そうした写真証拠があることを、いままでずっと黙っていた。』

インドシナ半島

インドシナ半島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8A%E5%8D%8A%E5%B3%B6

 ※ リムランドだから、ハートランドの支配をもくろむ勢力と、それを阻もうとする勢力が激突する場所となる…。

 ※ 半島だから、ランドパワーとシーパワーが激突する場所となる…。

 ※ おまけに、ハートランド内部での中ロの勢力争いの対象ともなる…。

 ※ さらには、「山岳」部分を抱えるから、「たこ壺」化した少数民族との紛争も生じることになる…。

 ※ ある意味、強力に「統制する」必要があるから、独裁化しやすい構造があるんだ…。

『インドシナ半島(インドシナはんとう、印度支那半島、フランス語: la Peninsule indochinoise、中国語: 中南半?)は、中国の南、インド亜大陸の東にある東南アジアの半島である。ベトナム語では Ban ??o ?ong D??ng(東洋半島、チュハン:半島東洋)である。』

『概要

この地域はインドシナ(仏: Indochine)と呼ばれ、インドと中国(支那)に挟まれている地理特徴からフランスによって名付けられた。具体的には、ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国に加え、タイとミャンマー両国のマレー半島の部分を除く地域がインドシナと呼ばれる。ただし、マレー半島をも含めてインドシナ半島やインドシナと呼ぶ場合もある。一方、フランスから「インドシナ」という場合などには、旧仏領インドシナ地域のみを指していることがある。ベトナムではこの地域を、西洋に対して、アジアの中心であるという意味も含めて、「インドシナ」ではなく「?ong D??ng(東洋)」と呼んでいる。このような「狭義のインドシナ」については、仏領インドシナを参照。このフランス領インドシナ旧構成3国と英領インドシナであったミャンマーをインドシナ4国(CLMV)という場合もある。

歴史

英仏による進出 ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国(狭義のインドシナ)はかつてフランス領インドシナだった。フランスが英国とのブラッシーの戦いで敗北してインドから撤退、植民地政策をインドシナに向けたため、ベトナムとの戦争で保護国化、カンボジアとラオスはタイから宗主権を委譲されて保護国、植民地化した。一方、インドを植民地化した英国はインドに近いミャンマーをインド植民地に併合(のちにビルマ植民地に分離)した。

日本による介入

一時、日本はフレンチインディア(フランス領インドシナ)と英領インドシナ(ミャンマー)を占領して、日本保護下で半独立国としてベトナム皇帝・カンボジア王・ラオス王による君主制とし、ビルマでは英国が王を追放して直轄植民地としたことから君主制にせず、総統を元首とする共和制とした(いずれも日本後押しの傀儡政権とみられ、現政権は連続性を認めていない)。4か国はラオスとミャンマーが微少に国境を接するだけであったことから、英仏衝突の弊害は軽度で済んだようである。

日本介入時のインドシナ諸国

ベトナム帝国
カンボジア王国 (1954年-1970年)
ラオス王国
ビルマ国

独立~現在

その後、4か国は日本が戦争に敗れると英仏から独立するが、ベトナム・ラオスは共産主義政権、カンボジア・ミャンマーは共産主義の影響を受けたことがあるとして、「インドシナ4国」(4か国の頭文字からCLMV)と総称される。

これらの国々は未加盟の東ティモールを除けば、東南アジアでは東南アジア諸国連合への加盟は最後発にあたる。

タイはこれらインドシナ4国に三方を囲まれているが、英仏によるインドシナ4国介入の影響から植民地化は免れ、政治・経済上などでインドシナ諸国と呼ぶ場合は含まれない(マレーシアを含めた最広義のインドシナには含まれる)。

2021年、ビルマで軍事クーデターが勃発して政権が変わり、構成4国すべてが再び独裁国家となった。

民族

インドシナ半島と周囲国
1770年代の古地図

古くからバンチェン、ホアビン、ドンソンなどの先史文化が栄え、インド文明や中国文明の影響を受けたカンボジア人、タイ人、ビルマ人、ベトナム人や数多くの少数民族が住居する。

形成

半島の東側は南シナ海、西側はベンガル湾に面する。東部にはアンナン山脈、西部にはアラカン山脈があり、その間をメコン川、チャオプラヤー川、エーヤワディー川などが北から南へ流れ、下流地域では広大な三角州を形成している。

備考

一部の旅行会社等がインドシナに含まれる「シナ」を差別用語だとして、インドシナを英語における呼称に準じてインドチャイナと呼びかえる(書き換える)動きがある。韓国では実際に、中国との国交正常化後、「インドシナ」から「インドチャイナ」に言い換えている。なお、北朝鮮では、「インディアチナ」と呼んでいる。しかしインドシナが差別的文脈で使われる事例は皆無のため、この動きは一般化していない。

中国では、日本向けの言語月刊誌『人民中国』などで、東シナ海や南シナ海については、東中国海や南中国海としていたが、インドシナはそのままカタカナで表記されていた。中国では最近まで、「印度支那半島」がごく普通に用いられていた。しかし現在は、中国の南にあるという意味で、中南半島が推奨されている。 』

〔イラク、関連情報1〕

雑学から知るユーフラテス・チグリス川。メソポタミア文明を生んだ偉大な川
https://seiwanishida.com/archives/13759

『2つの川なくしてメソポタミア文明なし

ユーフラテス川とチグリス川は主に現在のイラクに位置する。2つの川の源流はトルコにあり、シリア、イラクへと流れている。2つの川はイラク南部の町クルナで合流し、ペルシャ湾へと流れ込む。

チグリス川は全長1,900キロで、うち1,290キロがイラクを流れている。ユーフラテス川は全長2,800キロで、うち1,015キロがイラクを流れている。

ユーフラテス川とチグリス川の場所

メソポタミア文明が興ったのも、この2つの川ゆえである。メソポタミアは、古代ギリシャ語で「川の間の土地」を意味する。

ここで言う川がチグリス、ユーフラテス川である。この2つの川に挟まれた場所、メソポタミアで文明が興ったので、メソポタミア文明と呼ばれているのである。

日本のような、成熟した便利な社会に住んでいると、普段の生活で川のことを考えることは、ほぼないだろう。せいぜい、台風や大雨の時に川が増水して、氾濫しないかを心配するぐらいである。

けれども、川というのは、人間の生活に大きな恵みを与えてくれるということが、メソポタミアの例を見るとよくわかる。

紀元前4,500年前には、人類最初の文明を作ったと言われるシュメール人たちが、川から水をひいて農業を営む技術を習得していた。これにより、川の周辺だけでなく広い場所で農業が可能となった。

広大な農地からは、大麦や小麦などの穀物が取れた。シュメール人は、大麦を使って世界最古のビールを作っていた人々である。

安定した食料が手に入ると、人口も増えやすい。余った穀物で交易を行うこともできる。シュメールの人々は、すでにアラビア半島の国々と交易をしていた。川は食生活を豊かにしただけではなく、交易や移動面でも大きな役割を果たした。

シュメール人たちは、こうした穀物を元に、メソポタミアにはない木材や金属、宝石などを輸入して、神殿などを作った。

食料が十分に確保でき、交易により様々な資材を手に入れることで、社会が形成され、その中から権力者が生まれ、やがて国となる。こうしてメソポタミアには、数々の古代都市が生まれたのである。

メソポタミアの古代都市を見てみると、ちょうど川の近くに点在していることがわかる。それは、現在のイラクの都市も同じだ。都市が川の恩恵を受けて発達したことを示している。

これは何もイラクやメソポタミアだけに限ったことではない。中国は黄河、インダスはインダス川、エジプトはナイル川と他の文明も同じである。

一方で、シリアやサウジアラビアに近い場所は砂漠が広がり、不毛地帯となっている。イラク国土の約半分が、そうした砂漠地帯である。

イラク都市地図
イラクの地図。都市が川に沿って位置しているのがわかる。地図はMDSより引用

国土の半分が砂漠で、おまけにイラクでは雨がほとんど降らない。夏になると、日中の気温が50度近くになることもある。農業をやるには不向きな土地と思いきや、イラクの食卓は実に色鮮やかである。

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それもユーフラテス、チグリス川のおかげである。雨が十分に降らずとも、こうした川の水をひいて農業をすることができる。イラクの農地面積は、日本のそれに匹敵するとも言われている。

メソポタミアの川の恵み

川の水をめぐる問題

かつては古代文明も栄えて、メソポタミアの人々は万々歳だっただろう。けれども、現代のイラクではちょっと事情が異なる。

ユーフラテス、チグリス川の源流に近いトルコやシリアが、巨大なダムを作って水をせき止めたり、大規模な農業開発を始めたことで、イラクへ流れてくる水の量がかなり減っているのだ。その量は、年間にして3分の1にも減ったと言う。

イラクは過去20年間に、2つの戦争を経験している。クウェートにイラクが侵攻して始まった1990年の湾岸戦争と、アメリカに「アイツ、大量破壊兵器持ってんじゃね?」とイチャモンをつけられ、2003年に始まったイラク戦争である。

いずれの戦争でも、下水処理場が破壊されたり、経済制裁で浄水装置が輸入されなくなるなどして、イラク国内のインフラに大きなダメージを与えた。

イラク戦争後には、サダムフセイン政権が崩壊し、魑魅魍魎たちがのさばり国内ではテロが多発している。戦後復興どころではなく、破壊されたインフラはほとんど元に戻っていない。

チグリス、ユーフラテス川の水が減る一方で、汚れた下水はそのまま川へ垂れ流しになる。水を浄化するシステムも整っていない。その結果、川の汚染レベルが上がった。イラク戦争後には汚染水が原因で、コレラや腸チフスで亡くなる人が急増したという。

こうしてみると、川の水がいかに人々の生活に影響を与えているかが分かる。
2つの川の合流地点

トルコから始まったチグリス、ユーフラテス川は、イラクの南部クルナで合流する。イラン国境に近い場所だ。2つの川は「シャットルアラブ」と呼ばれる1つの川になり、ペルシャ湾へとそそぎこむ。

シャット・アル・アラブ_ユーフラテスとチグリス川の合流地点
ユーフラテスとチグリス川の合流地点。市民の憩いの場になっている。

この合流地点から車で1時間ほどの場所には、広大な湿原地帯が存在する。チグリス、ユーフラテス川は、トルコやイラク北部の山岳地帯の雪解け水が流れ込み、古代より洪水が頻繁に起こった。

聖書に出てくる「ノアの箱船」の話も、このメソポタミアの洪水にインスパイアを受けたとされる。

何度も洪水が起こることで、できたのがこの湿原地帯である。中東=砂漠、というイメージには程遠く、この湿原ではラクダでは水牛がのっそりと歩いている。

沼地には背の高い大葦が生えており、人々はその間をマシューフと呼ばれる小舟で移動する。彼らが住むのは、湿原に浮かぶ葦で作った家である。これらの光景は、バビロニアやシュメールの時代から変わらない。

イラクの沼地のアラブ人

湿原を小舟で移動する人々。湿原は独自の生態系を作り出し、ここにしか生息しない固有種もいる。

残念ながら、こうしたほのぼのとした光景も、今では失われつつある。

サダムフセイン政権時に、反政府ゲリラの温床とされ、湿原の水が大幅に抜かれてしまったのである。アマゾンで言うところの、森林破壊である。

これにより湿原の生態系が壊れてしまっただけでなく、多くの沼地のアラブ人が、「この場所には住めん!」と湿原を去ってしまった。湿原の面積は小さくなり、あたりには干上がった土地が残るだけだ。

湿原を下って、さらに南下するとイラク第3の都市バスラがある。ここはかつて、中東のヴェニスと呼ばれた場所だ。街中をいく運河に浮かぶ小舟、まさしくイタリアのヴェニスさながらの光景が広がっていた。

しかし、現在の川の汚染レベルはひどいものであった。水の色は灰色になり、大量のゴミが浮いている。川からは異臭が発生しており、本気でえづきそうになったほどだ。中東のヴェニスは、もはやどこにもない。

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かつては、古代文明を生み出したほど雄大な川であったチグリス、ユーフラテス川。けれども、川の”恩恵”を受けられなくなった今、そこにはあるのは発展ではない。陰鬱な人々の暮らしである。』

中国史上に残る大悪党「安禄山」とは何者だったのか

「200キロの巨体で、キレキレのダンス」――中国史上に残る大悪党「安禄山」とは何者だったのか
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/09010615/?all=1

 ※ 今日は、こんなところで…。

『中国史上には数多くの「悪党」が存在する。中でも、唐を滅亡寸前に追いやった安禄山(あんろくざん)は、「平家物語」でも言及され、その名前は日本でも比較的よく知られている。いったいどんな人物だったのか。中国史の第一人者・岡本隆司さんの新刊『悪党たちの中華帝国』から、安禄山に関する記述を再編集してお届けしよう。

 ***

ソグド系突厥人という出自
地図「唐の最大領域」

「ソグディアナ」はソグド人の地という意味で、いわゆるシルクロードのど真ん中に位置し、ユーラシアの交通の十字路であった。図は「唐の最大領域」 (※本書『悪党たちの中華帝国』より)(他の写真を見る)

 安禄山は8世紀初頭に生まれた。史料の記録がまちまちで、正確な生年はわからない。漢字の姓名ながら、漢人ではない。かれはソグド系突厥(とっけつ)人であった。生まれたのはモンゴル高原ともいわれるが、定説はない。

中国の偉人はなぜ「悪党」ばかりなのか――? 安禄山、永楽帝から、朱子、梁啓超まで12人の「闇落ち」した男たち。彼らが「悪の道」に堕ちた背景を解き明かす。現代中国の悪党も射程に入れた、圧巻の1400年史!

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 ソグド人とは、中央アジアのアム河とシル河にはさまれた流域に点在するオアシス都市出身のイラン系種族である。この地域は乾燥草原地域ながら、紀元前6世紀ころから灌漑(かんがい)農業が発展して、サマルカンドやブハラなどをはじめとするオアシス都市が栄え、ソグド人の地という意味で「ソグディアナ」と呼ばれる。いわゆるシルクロードのど真ん中に位置し、ユーラシアの交通の十字路であった。

 ソグド人は近隣の遊牧民と共存してきた。農地に定住する者もいれば、遊牧民と農産物の取引に従事する商人もいたし、また遊牧民化し軍人になる人々もいた。その活躍の舞台は、シルクロードの東西におよぶ。

 商人と軍人はいまでは結びつきにくいけれども、キャラバンの国際貿易が主流だった当時では、遊牧民の軍事力は貿易の安全をはかる役割があった。突厥遊牧民とソグド商人はそこで密接な共存関係にある。ほとんど一体の局面も少なくなかったし、双方の混交転換もしばしばだった。

 シルクロードの東端に位置する唐も、彼らの活動範囲である。都の長安では、経済・文化はほとんどソグド人が牛耳っていたほどで、洛陽その他の主要都市でも、そのネットワークがはりめぐらされていた。

頭角をあらわす安禄山

中国史の年表

安禄山は唐を滅亡寸前に追いやった――(他の写真を見る)

 ソグド系突厥人の安禄山は、そんな時代の申し子といってよい。父を早くに亡くし、突厥の有力氏族・阿史徳(あしとく)氏の出である母が、ブハラ出身のソグド軍人の首領・安延偃(あんえんえん)と再婚したため、「安」という姓を名のった。安禄山はその後、親族とともに突厥第二可汗国(カガン)を離れて唐へ亡命し、黄河の北・河北地方で活動をはじめる。716年ころのことであった。

 安禄山はそうした経歴から、ソグド語のみならず、突厥語・漢語・契丹(キタイ)語・奚(けい)語など、複数の言語に通じていた。その能力を生かして「諸蕃互市牙郎(しょばんごしがろう)」なる交易の仲買人としての役職をつとめたことがある。その後、范陽(はんよう)節度使につかえた。

 節度使はこのころから設置のはじまった辺境防備軍の司令官であり、安禄山も軍人として頭角をあらわす。安禄山はソグド人らしく、やはり商人でもあり軍人でもあったのであり、742年には遼東半島に近い営(えい)州を本拠とする平盧(へいろ)節度使に抜擢された。

 西暦の742年といえば天宝元年、いわゆる「開元の治」が名実ともに終わったころ。玄宗の長き治世も後半に入って、政務に倦(う)み政治が乱れてきたとの定評である。

 そうした長安の中央政界に、安禄山は登場してくる。節度使は皇帝に直結する建前であって、安禄山は皇帝・玄宗にもとりいって抜け目なく寵遇(ちょうぐう)を受けている。そこは交易・交渉に従事していた前歴が、大いに役立ったにちがいない。

 その時に培ったのであろう、いわば人たらしの術に長(た)けていた。安禄山は200キロの巨躯(きょく)肥満、膝まで垂れ下がった腹に何が入っているのかと玄宗に問われ、「ただ赤心(忠誠)のみ」と答えて喜ばれた、というエピソードは有名である。当意即妙の迎合、余興のダンスも「疾(はや)きこと風の如し」、キレキレにうまかったというから、社交に巧みな技量は一流、およそただのデブではない。

北京の礎は安禄山がつくった

 安禄山はこうした経過をへて、744年には范陽節度使をも兼任し、幽(ゆう)州に拠点を移した。いまの北京である。安禄山は周辺の部族集団の指導者と通婚したり、擬制的父子関係を結んだりして麾下(きか)に組みこみ、多種族混成の強大な軍団を形成していった。

 そのなかには、牧畜を営む非漢人が少なくなかったし、多数の職業軍人が軍鎮に属していたから、かれらを養う資金・物資の調達が欠かせない。必然的に商業が発達し、そこで活躍したのがソグド商人である。

 この方面でも、安禄山の出自・経歴は都合がよかった。安禄山は軍団を率いると同時に、ソグド商人集団の元締(もとじめ)にもなり、中原にひろがるソグド人の交易ネットワークを通じて巨利を得ている。かれの勢力がますにつれ、幽州は農耕・遊牧境界地帯の拠点都市として発達した。いまの北京の淵源(えんげん)は、安禄山にはじまるといってもよい。

 玄宗から寵(ちょう)をえた安禄山は、中央の朝廷とも深い連携を保った。こうしたコネクションは、安禄山にとって勢力拡大の前提だったようである。莫大な賜与(しよ)を得ただけでなく、従前のポストにくわえて、さらに河東(かとう)節度使の任命をうけた。

 安禄山はたとえば、玄宗が寵愛した楊貴妃の「仮子」になっている。これは自身が部下たちと結んでいた父子関係と同じやり方だった。

反乱軍の快進撃と突然の死

 しかし8世紀も半ばになると、局面はかわりつつあった。同じく私的な君寵を通じ、貴妃のまたいとこの楊国忠(ようこくちゅう)が、台頭してきたからである。安禄山とは玄宗の恩寵を争う関係になり、遠隔の地にいる安禄山が劣勢に立たされていった。

 安禄山は755年11月、宰相の楊国忠を誅殺するのを名目に、幽州で挙兵した。率いるは、仮父子関係を結んで忠誠を誓う8千人の親衛隊の精鋭を中核とした、突厥・ソグド・奚・契丹・靺鞨(まっかつ)・室韋(しつい)・漢人など、多種族からなる大軍である。10万を超える安禄山軍は、河北平原を席巻、南下して難なく洛陽を陥れた。挙兵からわずか1カ月あまりである。

 その半年後、西から出撃してきた唐軍と決戦し、潼関(どうかん)でこれを撃破した。これで関中の守りを失った唐の朝廷は、なすすべもなく長安を放棄し、玄宗は退位して四川へ落ちのびる。この過程で楊国忠は殺され、楊貴妃も亡くなった。

 しかし君側の姦臣(かんしん)・楊国忠を打倒したはずの安禄山の運命も、またはかないものだった。757年1月、洛陽で子の安慶緒(あんけいしょ)に殺害されたのである。肥満だった安禄山は、糖尿病の合併症をおこしていたらしく、ノイローゼにもかかっていた。継嗣の安慶緒は身の危険を感じて、先手を打ったのだという。

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「安史の乱」の結末

 首領を失った安禄山軍は、まもなく内紛をおこし、安慶緒も統率しきれず、唐軍に敗北した。河北で後詰めをしていた部将の史思明(ししめい)は、759年に安慶緒を殺害して主力軍をひきついで、安禄山の事業を相続する。史思明も安禄山と同じくソグド系突厥人、1日ちがいで生まれたともいわれ、ずっと行動をともにしてきた仲だった。

 この大乱を「安史の乱」とよぶのは、このように安禄山の衣鉢(いはつ)を史思明が継いだことに由来する。衣鉢といえば、末路も同じであって、史思明も761年、子の史朝義(しちょうぎ)に殺され、安史軍の勢力は内紛をくりかえして解体していった。

 かたや唐では、四川に向かった父の玄宗と別れて、西北の霊武(れいぶ)に逃れた粛宗(しゅくそう)が即位し、近隣の軍隊を動員して、安史軍と対抗する。さらに唐はモンゴル高原の新興遊牧国家ウイグルの援軍を得たことで、長安・洛陽の奪回に成功した。

 部将たちの離反があいつぎ、追い詰められて自殺した史朝義の首が長安に届いたのは、粛宗の子の代宗(だいそう)の御代・763年1月。8年の長きにわたった安史の乱は、ようやく終結したのである。
『悪党たちの中華帝国』で登場する12人の「悪党」たち

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『悪党たちの中華帝国』で登場する12人の「悪党」たち

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デイリー新潮編集部 』

フランス・マクロン大統領 旧植民地のアルジェリア訪問

フランス・マクロン大統領 旧植民地のアルジェリア訪問 歴史問題の難しさ ガス調達では成果? – 孤帆の遠影碧空に尽き
https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/2bf7a802873efa74be2d14aa9c668853

『【サルコジ元大統領 一般論として植民地制度の不正を認めつつも、自国のアルジェリアに対しての行為は「謝罪」はしない】
日本を含めて、どこの国も自国の過去に、特にその過去が負の歴史の側面がある場合、その過去に向き合あうことは非常に困難です。

その一例が欧州列強と旧アフリカ植民地の関係。
ベルギーとコンゴについて、6月23日ブログ“ベルギーとコンゴ 植民支配の重い歴史”で取り上げましたが、今回はフランスとアルジェリアの関係。

フランスのサルコジ元大統領時代の話について、2007年12月8日“フランス なお残る植民地問題と移民問題”で取り上げたことがあります。

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サルコジ大統領は(2007年12月)5日、3日間にわたる旧植民地のアルジェリア公式訪問を終えた。両国は核エネルギーの平和利用協力を含む総額73億ドル(約8000億円)以上の投資・協力協定を締結した。

サルコジ大統領は滞在中、一般的な植民地制度を「不正だ」と非難したが、アルジェリアが要請していた仏植民地時代(1830~1962年)に関する直接の謝罪はしなかった。【2007年12月6日 産経】
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一般論として植民地制度の不正を認めつつも、自国のアルジェリアに対しての行為は「謝罪」はしないという対応。
「(植民地当時)入植したフランス人はアルジェリアを支配しようとしたのではない。アルジェリアのためになることをしよう思っていた・・・」そうした趣旨の発言も。

2004年頃、“海外においてフランスの存在が果たした植民地支配のポジティブな面”“を教育カリキュラムに盛り込む法案を成立させたのが、当時の国民運動連合(UMP)党首のサルコジ氏でした。

【マクロン大統領 個々の案件では踏み込んだ言動も】
一方、マクロン大統領はこれまでアルジェリアに対するフランスの責任に踏み込む言動も見せてきました。

****マクロン仏大統領、アルジェリア戦争時の拷問を認め、謝罪****
(2018年)9月13日、マクロン仏大統領は、1957年にアルジェでフランス軍に拘束され行方不明となったモーリス・オダン(Maurice Audin)の死について、軍の責任を認め、未亡人に謝罪した。

数学者でアルジェ大学教授であったオダンは、共産主義者でアルジェリアの独立を支持し、FLN(アルジェリア民族解放戦線)とも繋がりがあった。

マクロンは、Audinがフランス軍に拘束されたうえで拷問を受け、それによって死亡した、もしくはその後処刑されたとして、共和国の名において責任を認め、87歳の未亡人に面会し謝罪した。
 
今回の謝罪が実現するには長い時間がかかっている。2007年に未亡人がサルコジ大統領に手紙を書いたとき、返答はいっさいなかった。

一方、フランソワ・オランド前大統領は、2014年6月18日、オダンは公に言われているように失踪したのではなく、拘禁中に死亡したと発言した。

今回の謝罪の手紙と面会は、その延長線上にある。マクロンは、共和国議会の投票によって導入された「特別権力」のため、「逮捕・拘禁」システムが出来上がり、それがこの悲劇を招いたと説明した。軍の責任を認めつつも、軍だけでなく議会の決定で導入されたシステムの問題だと述べたわけである。
 
今回の措置により、フランスがアルジェリアの独立を阻止するため、拷問を含めた非人道的な措置を広範に用いていたことがはっきりした。

14日のルモンド紙の社説では、マクロンが決定的な一歩を踏み出したとして、アルジェリア戦争の過去を明らかにすることは、フランス・アルジェリア両国の和解にとって不可欠だし、アルジェリアにも同様の行動を促すことになるとして評価した。

アルジェリア側は公式には目立った反応をしていないものの、総じてマクロンの行為を評価する声が目立つ。一方、極右政党の国民戦線は、国民を分断させる行為だとして大統領を強く批判した。
 
自国の暗い過去を明らかにすることは、簡単ではない。それは指導者の決断がなければできないことである。しかし、ルモンド紙が指摘するように、これはフランス・アルジェリア間の真の和解を達成するには不可欠の行為と言えるだろう。

マクロンは就任前から、植民地主義を人道に反する罪だと述べるなど、植民地統治の関わる問題について積極的に発言してきた。この勇気ある行動が、フランスとアルジェリアの相互理解と過去の克服に繋がることを願う。【2018年9月18日 現代アフリカ地域研究センター】
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****60年前のデモ弾圧「犯罪」 アルジェリア巡り仏大統領****
フランスのマクロン大統領は16日、1961年10月に植民地アルジェリアの独立を求めるアルジェリア人らのデモをパリの警察が弾圧し、多数が死亡した惨事の追悼式典に出席した。発生から17日で60年となるが、追悼式典への大統領の参加は初めて。マクロン氏は声明でデモ弾圧を「国にとり許せない犯罪だ」と批判した。

歴代大統領では前任のオランド氏が「流血の弾圧」と指摘しており、さらに踏み込んだ形。マクロン氏はアルジェリア独立戦争(1954~62年)に絡む自国の負の歴史と向き合う取り組みを進めているが、複雑な仏アルジェリア関係の改善にはつながっていない。

大統領府の声明によると61年10月17日夜、アルジェリア系住民だけに適用された夜間外出禁止令に抗議し、約2万5千人がパリへ郊外から向かうと、モーリス・パポン警視総監(当時)指揮下のパリ警察が激しく弾圧。数十人が死亡し、遺体はセーヌ川に投げ捨てられたほか、約1万2千人が逮捕された。

追悼式典はデモ参加者が渡ったパリ西郊の橋のたもとで行われ、マクロン氏は献花、黙とうした。地元メディアによると、関係者からはパポン警視総監の関与を強調し、国や当局の責任を十分認めていないと批判の声も上がった。

マクロン氏は9月、アルジェリア独立戦争をフランス側で戦った「ハルキ」と呼ばれるアルジェリア人兵士や家族らに対し、非人道的処遇で戦後、多くの犠牲や苦難が生じたとして謝罪した。【2021年10月17日 日経】
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【「謝罪」には至らず  “未来志向”で歴史学者による合同委員会やサッカー対戦】
個々の案件ではこれまでにないフランスの責任を認める言動をとっているマクロン大統領ですが、ただアルジェリア側の歴史認識(歴史書き換え)には批判も。

****アルジェリア、駐仏大使を召還 マクロン氏発言報道に反発****
アルジェリア政府は(2021年10月)2日、フランスの「許し難い内政干渉」を批判し、駐仏大使を召還したことを明らかにした。

仏紙ルモンドは、マクロン仏大統領が9月30日、アルジェリア関連の会合で、アルジェリアでは歴史が「事実に基づかず、フランスを憎む論文に基づいて書き換えられている」と発言したと報じていた。

ルモンドによると、マクロン氏はこの際、アルジェリア政治は「軍政」と指摘。テブン現大統領も「この強力なシステムに絡め取られている」と述べた。【2021年10月03日 時事】
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そのマクロン大統領は今月25日にアルジェリアを訪問し、テブン大統領と会談し。会談後の共同記者会見で、フランスの植民地支配をめぐり、両国の歴史学者による合同委員会を設置すると発表しました。

****仏大統領、アルジェリア訪問 植民地支配の歴史で共同委員会設置 エネルギー協力促す****
フランスのマクロン大統領は25日、旧植民地アルジェリアを訪問し、テブン大統領と会談した。会談後の共同記者会見で、フランスの植民地支配をめぐり、両国の歴史学者による合同委員会を設置すると発表した。ロシアのウクライナ侵攻にも触れ、資源大国のアルジェリアにエネルギー危機への対応で協力を促した。

マクロン氏は「われわれは複雑で、つらい過去を共有している」と発言。合同委員会が両国の公文書を検証することで、未来志向の関係作りに期待を示した。(中略)

今年はアルジェリア独立から60年にあたり、マクロン氏の訪問は、緊張が続く両国関係の修復が最大の目的。

特に、歴史問題は大きなしこりとなっており、マクロン氏が昨年、アルジェリアは「フランスへの憎悪」を培い、歴史の記憶を政治利用していると発言したのに対し、テブン氏が「フランスは過去の罪を認めよ」と反論して駐仏大使を一時呼び戻す騒ぎとなった。

マクロン氏は2017年、大統領就任の直前に「植民地支配は、人道に対する罪にあたる」と発言したが、就任後は謝罪問題には踏み込んでいない。

マクロン氏の訪問は27日まで。財務、外交、国防閣僚など主要閣僚のほか、エネルギー企業トップなど約90人が同行した。

欧州連合(EU)ではロシア産天然ガス依存からの脱却が課題となる中、ドイツからフランス、スペイン経由でアルジェリアを結ぶガスパイプラインの敷設構想が浮上している。国際エネルギー機関(IEA)によると、アルジェリアは天然ガス生産で世界10位。【8月26日 産経】
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大統領就任の直前に「植民地支配は、人道に対する罪にあたる」と発言したが、就任後は謝罪問題には踏み込んでいない・・・・基本的にはサルコジ大統領当時と大枠では変わっていないということでしょうか。

両国の歴史学者による合同委員会とのことですが、日本と韓国の間でも日韓歴史共同研究がありましたが、あまり成果を出したようには見えません。どういう姿勢で臨むかによりますが・・・。

責任や「謝罪」云々で揉めるより、手っ取り早くスポーツで和解をアピールしたいという思惑も。

****過去克服へサッカー対戦も 仏大統領、アルジェリアと****
フランスのマクロン大統領は26日、フランスの植民地支配の歴史によるアルジェリアとの複雑な関係を巡り、両国によるサッカーの親善試合開催は「過去を払いのける良い機会になるだろう」と述べた。訪問先のアルジェリアの首都アルジェで記者団の質問に答えた。

両国のサッカー親善試合は、1962年のアルジェリア独立後、2001年に初めて行われたが、試合の後半にアルジェリアのサポーターがグラウンドに乱入し、打ち切りとなった。

マクロン氏は「スポーツは和解をもたらすものだと思う」と述べ、アルジェリア側と話し合う考えを示した。【8月26日 共同】
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しかし、日韓のサッカー等のスポーツ対戦を見ると、「スポーツは和解をもたらす」というより、対立・憎悪を煽る側面が強いようにも思えますが・・・。

【「新時代を開く」・・・はともかく、天然ガス調達に尽力】
「謝罪」問題はともかく、2007年のサルコジ元大統領がアルジェリアへの原発売り込みに精を出したように、マクロン大統領が注力したのは、現在価格高騰で問題になっている天然ガスの調達でした。

****仏アルジェリアが「新時代」宣言 独立60年、ガス供給増か****
フランスのマクロン大統領は27日、アルジェリアの首都アルジェでテブン大統領と両国の新たな協力関係を定めた「アルジェ宣言」に署名し、3日間の同国訪問を終えた。アルジェリアがフランスから独立して今年で60年。複雑な関係が続いているが、宣言は「新時代を開く」とうたった。

フランスの民放ラジオ、ヨーロッパ1は28日、ロシアのウクライナ侵攻で欧州諸国の重要課題となっている天然ガス調達を巡り、アルジェリアがフランスへの供給を約50%増やすことを検討していると伝えた。マクロン氏に同行したエネルギー大手エンジーのトップがアルジェリア側と協議した。【8月28日 共同】
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政治家がよく口にする“未来志向で・・・”ということでしょうか。
まあ、それもよいですが、やはり過去の清算もしておかないと、事あるごとに不満が噴き出します。』

ベネズエラ

ベネズエラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%82%A8%E3%83%A9

 ※ 今日は、こんなところで…。

『ベネズエラ・ボリバル共和国[3](ベネズエラ・ボリバルきょうわこく、スペイン語: República Bolivariana de Venezuela)、通称ベネズエラは、南アメリカ大陸北部に位置する連邦共和制国家。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面する。首都はカラカスである。

コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界の一員であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、オランダ王国のABC諸島(キュラソー島など)、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が存在する。ガイアナとは、現在ガイアナ領のグアヤナ・エセキバを巡って、19世紀から領土問題を抱えている。南アメリカ大陸でも指折りの自然の宝庫として知られている。原油埋蔵量は3008億バレルと推測され世界最大と言われているが、近年は2006年から始まった米国の制裁により、原油生産は低落している[4]。加えて石油輸出収入に依存して、他産業育成など構造改革や石油産業自体への投資を長年怠ってきた「資源の呪い」により、2010年代以降は経済危機と政治の混乱が続いている[5]。 』

『国名

詳細は「ベネズエラの語源」および「es:Etimología de Venezuela」を参照
アメリゴ・ヴェスプッチ。

正式名称は、República Bolivariana de Venezuela。通称 Venezuela [beneˈswela](ベネスエラ)。

公式の英語表記は Bolivarian Republic of Venezuela。通称 Venezuela [ˌvɛnəˈzweɪlə] (ヴェネズエイラ)。

日本語の表記は、ベネズエラ・ボリバル共和国[3]。スペイン語を音写すると、レプブリカ・ボリバリアーナ・デ・ベネスエラとなる。通称、ベネズエラ。英語発音のヴェネズエラ、スペイン語発音のベネスエラという表記もある。漢字表記では委内瑞拉, 花尼日羅, 部根重良, 分額兌拉と記される。

ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れた探検者、アロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」(”Venezuola”)と命名した事によるとされている。

もう一つは、ヴェスプッチとオヘダの水夫だったマルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ(スペイン語版、英語版)が著作の”Summa de Geografía”で、彼等が出会った当地に居住していたインディヘナが当地を”Veneciuela”と呼んでいると言及しており、そこから派生して”Venezuela”になったとする説であり[6]、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉に由来することになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として人々に信じられている説は前者である。

国名中の「ボリバル」とは、ラテンアメリカの解放者・シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも表記する)のことである[3]。 』

『歴史
詳細は「ベネズエラの歴史」を参照
先コロンブス期

ヨーロッパ人がこの地を訪れる前、この地にはアラワク人とカリブ人と狩猟と農耕を行うインディヘナが居住していた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばなかったが、コロンビアのムイスカ人の影響を受けていた。この地から多くの人間がカリブ海諸島に航海していった。
スペイン植民地時代
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペインによるベネズエラの征服(スペイン語版)」、および「マラカパナの戦い(スペイン語版)」も参照
スペイン人に立ち向かったインディオの首長、グアイカイプーロの像。ウゴ・チャベス政権によって大々的に再評価がなされた。

ヨーロッパ人が今のベネズエラと接触するのは1498年のクリストファー・コロンブスによる第3回航海が初めてである。翌1499年にはスペイン人のアロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検している。その後スペイン人によって1526年にクマナが建設され、先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中の1567年にディエゴ・デ・ロサーダ(スペイン語版、英語版)によってサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスが建設された。植民地化当初はヌエバ・エスパーニャ副王領の一部として、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴのアウディエンシアに所属していたが、1739年にはヌエバ・グラナダ副王領の一部となり、1777年にはベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)に昇格した。植民地時代のベネズエラ経済はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クリオーリョ支配層は更なる自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺境だったために独立に有利な状況が整い、やがて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。
独立戦争
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
最初の独立指導者フランシスコ・デ・ミランダ。
「解放者」「迷宮の将軍」シモン・ボリバル、スペインから南アメリカの五共和国を独立に導いた軍人、政治家、思想家、革命家。

1789年のフランス革命によりヨーロッパの政局が混乱し、19世紀にナポレオン戦争がスペインに波及するとインディアス植民地は大きく影響受けた。インディアス植民地各地のクリオーリョ達は独立を企図し、ベネズエラでも1806年にはフランシスコ・デ・ミランダによる反乱が起きた。この反乱は鎮圧されたが、1808年ホセ1世がスペイン王に即位すると、それに対する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発、インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立の気運は抑えがたいものになって行った。1810年にはカラカス市参事会がベネズエラ総督を追放。翌年1811年にはシモン・ボリバルとミランダらがベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 – 1812年)を樹立した。しかし、王党派の介入とカラカス地震によってベネズエラは混乱し、共和国は崩壊した。この時の大地震によってカラカス市の2/3が崩壊した[7]。

ボリバルは不屈の意志で独立闘争を展開し、1816年には亡命先のジャマイカから『ジャマイカ書簡』を著した。何度かのベネズエラ潜入失敗の後、ヌエバ・グラナダ人の独立指導者フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルらの協力を得てヌエバ・グラナダのサンタフェ・デ・ボゴタを解放すると、1819年にはベネズエラとヌエバ・グラナダからなる大コロンビア(Gran Colombia)を結成した。その後解放軍は1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)でスペイン軍を破り、ここでベネズエラの最終的な独立が確定した。ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に向かい、1824年にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍の率いる解放軍がアヤクーチョの戦い(英語版)に勝利して全インディアス植民地の最終的独立を勝ち取り、ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となった。しかし、留守を預かっていたコロンビアの大統領サンタンデルとの関係が悪化し、コロンビアに帰国し、帰国した後もコロンビアの政局は安定せず、1830年には「エクアドル」(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)とともにカウディーリョ、ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の指導するベネズエラはコロンビアから脱退し、完全に独立した。翌1831年にコロンビアの独裁者、ラファエル・ウルダネータが失脚するとコロンビアは崩壊し、以降この地域を統一しようとする動きはなくなった。

内戦と軍事独裁の時代

アントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)将軍。

独立後、旧ボリバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、3月革命(スペイン語版)が勃発し、連邦戦争(スペイン語版)(内戦:1859年 – 1863年)に発展した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のアントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)が政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚した。

グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心だったフアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続いた。ゴメス治下の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネズエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになった。

1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。

1945年10月18日には青年将校と民主行動党(英語版)による軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1945年)(英語版))が起こり、軍政は崩壊し、民主行動党と青年将校が協力するエル・トリエニオ・アデコ体制(英語版)が確立した。19日には民主行動党の創設者であるロムロ・ベタンクール(英語版)が大統領に就任した。

1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者のロムロ・ガジェーゴス(英語版)政権が誕生するが、ガジェーゴス政権もそれまで民主行動党に協力していた青年将校によって軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1948年)(英語版))で打倒された。その後、1952年から青年将校の一人だったマルコス・ペレス・ヒメネス(英語版)将軍による独裁下ではベネズエラは原油高によって西半球で経済的には最も繁栄する国にまでなるも、ヒメネスは1958年にバブル経済の崩壊に伴う債務危機で失脚することになった[8]。

ベネデモクラシア

「民主化の父」ロムロ・ベタンクール(英語版)。2度大統領になり、民主体制を確立したが、1945年のエル・トリエニオ・アデコ体制はその後の軍事クーデター、1958年に確立されたプント・フィホ体制も後の政治的不安定化の要因となった。

ヒメネス失脚後、民主行動党とキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)、民主共和国ユニオン(英語版)の間でプント・フィホ協定(英語版)と呼ばれる密約が成立し、左翼勢力の排除と政府ポストの各党への割り当てが確約され、この協定は新たな民主体制の基礎となった[9]。

1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党のロムロ・ベタンクールが再び大統領に就任した。ベタンクールは、1930年代にコスタリカ共産党の指導者だった経歴を持つが[10]反共主義者に転向しており、米州機構から非民主的な国家を排除するベタンクール・ドクトリンを打ち出してドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ政権や、キューバのフィデル・カストロ政権と敵対した。これに反発した左翼ゲリラ(キューバ革命に影響を受けており、キューバに直接支援されていた)が山岳部で蜂起した。一方で農地改革やサウジアラビアとともに石油輸出国機構(OPEC)の結成なども行った。ベタンクールは、左翼ゲリラと戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初めて民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。

1969年にはゲリラへの恩赦を公約にキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)のラファエル・カルデラ(英語版)政権が発足した。反乱は治まり、キューバを初めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立した。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほど大いに潤う[11]。ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めてラテンアメリカ経済機構の設立にも尽力した。

カラカソ (Caracazo)

ところが、1980年代を通して豊富な原油や天然資源により莫大な貿易利益がありながら貧富の格差、累積債務が増大しプント・フィホ体制の腐敗が明らかになっていった。1989年2月27日には低所得者層によりカラカス暴動(英語版)(カラカソ)が発生した[12]。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続いた。1992年には空挺部隊のウゴ・チャベス中佐が政治改革を求めてクーデター未遂事件を起こした。翌1993年には不正蓄財によりペレスが辞任し、キリスト教社会党(コペイ党)からカルデラが再び大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。

チャベス政権

1999年に「第五共和国運動」から1992年のクーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任した[12]。1958年代に成立したプント・フィホ体制から排除された貧困層から支持を受け、反米・ボリバル主義とポプリスモを掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称された。

チャベスは、国名変更、石油資源国有化、キューバとの交流など反米路線を掲げた。これにより、2002年にはアメリカの中央情報局(CIA)の援助・支援の下に軍部親米派のクーデターでいったん失脚したが、全国的な国民のデモの激化[12]、ラテンアメリカ諸国の抗議によって再び政権に復帰し、わずか3日間でクーデターは失敗に終わった。米国は諦めず、ブッシュ政権は2006年にベネズエラに対して武器輸出の禁止措置をとった[13]。さらに、麻薬取引を理由に個人制裁も発動し、2005年以降少なくとも22人のベネズエラ人と27企業を制裁対象とした。

こうした経緯もあり、チャベス大統領は反米的なキューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、中華人民共和国、ロシア、イランと関係を強化し、友好的な関係を維持している。また、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体や南米諸国連合、米州ボリバル同盟、南米銀行の設立を主導して中南米の結束を図った。

一方で、隣国である親米国のコロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結してベネズエラ軍の軍備増強を発表し、両国間の緊張が高まっている(アンデス危機)。2010年7月22日にはコロンビアとの国交を断絶し、国境に「全面的非常態勢」を敷くよう軍への命令が出され[14]、3週間後の8月11日には国交回復で合意した[15] が、依然として不安定な状況が続いている[16]。

ベネズエラにおいては、富裕層の所有メディアにより反チャベス的な内容のものが報道されることが多かった[17]。チャベス政権成立以降、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。これは失敗に終わった2002年のクーデターを支持した放送局のオーナーたちに対する報復だとの見方もある[18]。なお、チャベス派からのメディア発信も行われており、『こんにちは大統領』のようなテレビ番組も放送されていた[17]。チャベスはワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げていた。しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。

マドゥロ政権時代

詳細は「ベネズエラ危機」を参照

チャベス体制を引き継いだ大統領ニコラス・マドゥロ

チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレーションは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党と激しく対立した。

2015年12月6日、総選挙において野党・民主統一会議を中心とした右派連合[19] が勝利を収め、過半数の議席を獲得した。ただし大統領の任期は2019年まで続き、仮に弾劾などが行われたとしても第一副大統領が昇格するためベネズエラ統一社会党が引き続き政権与党となる[19]。

反マドゥロ政権の野党が三分の二(167議席中112議席)を占めたことで以降国民議会を使った立法行為が不可能となったマドゥロ政権は、自身の影響下にある最高裁判所(スペイン語版)を使って国民議会の立法権を制限する様々な手段を打つようになった。例えば国民議会が可決させた法律を大統領が「違憲判断のため」として最高裁に送り、最高裁に違憲判断を出させて立法を無効化する方法である。2016年1月から4月に国民議会が可決させた5つの法案は全て最高裁に送られ、そのうち4つが「違憲」として無効化されている[20]。また最高裁はアマソナス州選出の3人の野党議員に「不正選挙があった」として公務就任権を認めず、2016年7月にこの3人が国民議会で宣誓すると最高裁は「最高裁の決定を尊重しない限り国民議会は法的有効性をもたない」と宣言。以降マドゥロ政権はこの「3人問題」を理由に国民議会を無視して最高裁に立法権を代行させるようになった。予算案も国民議会ではなく最高裁に提出して承認させている[20]。

2016年4月、大統領の任期が後半に入った事を踏まえ、野党は憲法に規定されている任期途中での大統領罷免を求める国民投票の実施を宣言、10月に国民投票の第一条件となる1%の有権者の署名が与野党共同運営の選挙管理委員会に提出された。この署名に死亡者や有権者登録されていない人物の署名が含まれていた事が与党側から問題視され[19]、選挙委員会と野党は再発防止を約束して手続きを再開したが、10月20日に7州の裁判所は「身分証明書の窃盗事件と関連がある」として手続き停止を命令した[19]。一連の騒動で与党と野党に続き、司法と議会の対立も鮮明となった。

2017年3月29日、最高裁判所は「不正選挙に基いた議会」「侮辱罪にあたる状態が続く議会の手続きは無効である」との司法判断を下し、立法権も最高裁判所に付与する異例の事態となった[21]。この決定を与党側は歓迎したが[21]、野党や南米諸国をはじめとする米州機構のみならず[22]、最高検察庁のルイサ・オルテガ・ディアス(英語版)検事総長など政府要人からも懸念や批判が相次いだ[23]。マドゥロは国家安全保障委員会の決定として最高裁に再考を促し、最高裁の判断は撤回された[22]。

2017年4月以降、反政府デモとそれに対する鎮圧が頻発しており、非政府組織「ベネズエラ社会紛争観測所」の集計で死者は80人を超えている[24]。デモは継続的に続けられており、7月8日で100日間連続となった[25]。政府支持派の暴動も発生し、群集が国会に突入して反政府派の議員らを議会に閉じ込める事件も起きている[26]。政府側と野党側デモの衝突は激化の一途を辿り、4月27日に民主統一会議議長で正義第一党の党首エンリケ・カプリレス・ラドンスキーは早期選挙の実施を要求した[27]。

制憲議会成立

マドゥロは野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した[28]。しかし制憲プロセスが憲法違反である疑いがある上、制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こした。このような選挙に立候補することは恣意的な選挙制度を有効と認めることになるため、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした[20]。

2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ[29]、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥っている[29]。軍や警察は政府側を支持して行動しており、民間人と警官・兵士の側の双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した[30]。宣言において国民議会の廃止を行う意向も示しており[31]、制憲議会のロドリゲス議長も右派連合は「裁きを受けるだろう」として旧議会の廃止を示唆、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行しつつある[32]。

2017年8月2日、レオポルド・ロペス、アントニオ・レデスマ(スペイン語版)ら野党連合の主要政治家が軍に連行された[33][34]。8月3日、反政府派に転じているオルテガ・ディアス検事総長は検察庁に不正選挙に関する捜査命令を出したが[35]、これに対して軍が検察庁を包囲下に置いた[36]。8月5日、ベネズエラ最高裁判所(英語版)はオルテガを検事総長から解任する決定を下し[36]、制憲議会もオルテガが深刻な職権乱用により起訴された事を発表した[37]。8月18日、制憲議会は国民議会から立法権などの権限を剥奪したと宣言した[38]。

反発の激化

ニコラス・マドゥロとフアン・グアイド
ベネズエラ
中立宣言した国
発言がない国
グアイドを承認した国
国民議会支持を表明した国
マドゥロを承認した国
詳細は「2019年の大統領騒乱(英語版)」を参照

2018年5月21日の大統領選挙(スペイン語版)は、選挙前に有力野党政治家の選挙権がはく奪されたうえで行われたため、マドゥロ再選の「出来レース」状態となり、主要野党はそれに反発して選挙をボイコットした。マドゥロ政権は国際選挙監視団の査察を拒否して国民の投票を監視し、マドゥロに投票しなかった者は食糧配給を止めるなど、なりふり構わぬ選挙戦を展開した[39]。西側諸国やブラジルなどはこの選挙を批判し、欧米や日本などは2019年1月10日の大統領就任式の出席を拒否した[40]、選挙の正当性を否定される形となった。その後もインフレーションなど経済的な混乱は加速した。

2019年1月10日にマドゥロは2期目の大統領就任式を行ったが、首都カラカス市内でもデモが活発に行われるようになり死者も発生[41]。1月23日には国民議会議長フアン・グアイドが昨年の大統領選挙は憲法違反で無効と主張し、1月10日をもってベネズエラは大統領が不在となったので、憲法233条に従って国民議会議長である自分が暫定大統領になったことを宣言した[39]。

体制転覆を目指す米国のドナルド・トランプ大統領は、「マドゥロの政権は正統ではない。ベネズエラにおいて唯一正統なのは国会である」として、グアイドの暫定大統領就任を直ちに承認した。これに対抗して1月24日にマドゥロ政権は「アメリカ合衆国と国交断絶する」と発表したが、アメリカ合衆国連邦政府は「グアイド政権を通じて、ベネズエラとの外交関係を維持する」としている[42]。

その後、アメリカに続く形で西側諸国が続々とグアイド暫定大統領就任を支持表明した。日本国政府はしばらくの間グアイドの承認を保留してきたが、2019年2月19日に「ベネズエラ政府に対して大統領選挙の早期実施を求めてきたにもかかわらず、いまだに行われていない」として「グアイド暫定大統領を明確に支持する」との意向を表明した[43]。

反発がありながらも、実際のところベネズエラでは引き続きマドゥロが軍部の支持を確保して実効支配している。またロシア、中国、北朝鮮、イラン、キューバ、トルコ、シリア、パレスチナ、ボリビアなど反米主義的な国家群からは、2期目就任の承認を受けている[44][45]。二つの政権が対立する形となった[44][46]。

2019年2月2日には、マドゥロの退陣を求める大規模デモ活動がベネズエラ全土で執り行われ、この中で、グアイドが「デモ参加者に発砲するのをやめてほしい。それだけでなく、ベネズエラの再建にかかわってほしい」として、ベネズエラ軍に対する呼びかけを行った[47]。一方のマドゥロ側でも政権支持を目的とした集会が行われ「立法府が再び合法化されることに同意する」と訴えた上で、2020年に行われることになっている国会議員の選挙を前倒しすることを提案した[47]。

2019年2月20日、マドゥロ政権は、オランダ王国に属するアルバ、キュラソーとの海路を遮断したと発表。翌21日には「ベネズエラに人道危機は存在しない」「領土侵害を防ぐ」と称してブラジルとの国境を封鎖すると表明した[48]。コロンビアとの国境封鎖の指示も行われていたが、2月23日にはグアイド側はこれを無視して国境沿いで人道支援の受け入れ式典を開催。この時点で50か国から暫定大統領として承認を受けたグアイドに対し、コロンビア、チリ、パラグアイの各大統領も受け入れ式典へ参加して支援を表明した[49]。

4月30日にグアイドが離反兵士らに自宅軟禁から救出されたレオポルド・ロペスとともにビデオメッセージを出し、軍に決起を呼び掛けた。これにより反マドゥロ派の軍人たちが催涙ガスなどで鎮圧にあたるマドゥロ政権側と衝突した[50]。その後ベネズエラ各地で衝突が発生した[51]。マドゥロ政権側はこれを「クーデター」と非難し[50]、「クーデターは失敗に終わった」と主張している[51]。一方、アメリカ政府は「アメリカはグアイド氏を暫定大統領だと考えており、明らかにクーデターではない。グアイド氏側による勇敢な行動だ」としてグアイドの行動を支持表明した[52](2019年ベネズエラ蜂起未遂(英語版))。

2020年5月2日、アメリカの民間軍事会社「シルバーコープUSA」および反体制派の志願兵によるマドゥロ政権転覆計画が実行されたが、事前に察知したベネズエラ当局によって早期に鎮圧された[53][54]。マドゥロ政権はシルバーコープUSAがグアイドと支援協力関係にあったとして批判したが、グアイドはこれを否定している[55](ギデオン作戦 (2020年)(英語版))。

2020年6月、最高裁判所が全国選挙評議会メンバーを決定し、野党人事に介入した。12月、主要野党はボイコットを表明中で国会の選挙(英語版)が実施され、マドゥロ派が圧勝し、新たな国会議長としてホルヘ・ロドリゲス(英語版)が選出された[56]。欧州連合、アメリカはこの選挙結果を認めていないが、欧州連合はグアイドが議長・議員職を失ったことを理由に「暫定大統領」の承認を取り下げた。一方でアメリカのトランプ政権は、引き続きグアイドを暫定大統領と認めることを表明[57]。2021年1月に米国大統領に就任したジョー・バイデンも、グアイドを暫定大統領として引き続き認めるとしている[58][59]。

ここまで、米国など西側諸国が中心となってベネズエラに強力な経済制裁を科して体制転覆を目指しているが、実現はしていない。狙い通り、経済基盤である原油生産・輸出は激減したが、ベネズエラ政府は違法な採掘から麻薬密売までのさまざまな違法ビジネスに手を出したり、政権側の富豪に経済の一部を開放したりして、国内支持基盤を固めた。さらに、米国の金融システムに依存していないイランや中国、ロシアといった国々とも連携することで、制裁を出し抜いた[60][13]。市民の生活難は続いているが、マドゥロの支持率は一定を保ち、逆に反政府の諸外国が推すグアイドと野党の支持率は汚職問題などで低下してきている[61][62]。

2022年、欧米によるロシアへの経済制裁と世界的インフレーションにより原油価格が高騰すると、米国はベネズエラ産原油の禁輸措置緩和の可能性を示した[63]。
ベネズエラ難民問題
ベネズエラ難民と抱き合う暫定大統領フアン・グアイドとアメリカのマイク・ペンス副大統領(2019年2月25日コロンビア・ボゴタ)

長らく反米左翼政権が続いたベネズエラでは、2015年に政治的迫害などを理由に、アメリカ合衆国へ亡命申請したベネズエラ人は5,605人である。2016年には14,700人を超え、2017年にはさらに更新することが確実視されている[64]。

さらに経済危機で、ベネズエラ難民の数は急増していった。国際連合によれば、2018年11月までに国外へ逃れたベネズエラ難民は300万人を超え、この数はベネズエラ国民の1割に相当する[65]。

2018年9月4日、エクアドルの首都キトで中南米諸国がベネズエラ難民対策の国際会合を開いた。有効な対策はまとめられなかったものの、「キト宣言」を発表し、ベネズエラ難民を「十分に受け入れる」と明記した[66]。

最も受け入れている国は、隣国のコロンビアであり、2019年2月現在110万人を超えるベネズエラ難民を受け入れている[67]。しかし北部の町ククタでは施設に収容しきれないベネズエラ人が路上にあふれており、ベネズエラ人による犯罪が社会問題になっている[66]。

ほかにもペルーに50万6000人、チリに28万8000人、エクアドルに22万1000人、アルゼンチンに13万人、ブラジルに9万6000人のベネズエラ難民が流出している(いずれも2019年2月時)[67]。ブラジルでは、ベネズエラ難民のテントを襲撃する運動が発生しており、治安悪化の原因になっている[66][68]。2019年6月7日に国連難民高等弁務官事務所が発表した難民と国外移住者数は約400万人としており、過去7カ月間で100万人増加する驚異的なペースとなった[69]。

ベネズエラ政府は、難民の存在自体を認めておらず、頭を抱える南米諸国になんら協力しない状態が続いている[66]。』

『地理
詳細は「ベネズエラの地理」および「en:Geography of Venezuela」を参照
ベネズエラの地形図
世界で最も高い滝、サルト・アンヘル。
ラ・グラン・サバナのパノラマ。

北にカリブ海に面し、コロンビア、ブラジル、ガイアナに接する。中央部のジャングルをコロンビアからオリノコ川が流れている。北西部には南米最大の湖、マラカイボ湖が存在する。コロンビアから続くオリノコ川流域の平原部をリャノと呼び、国土の主要部はコロンビアのオリエンタル山脈を通してアンデス山脈が延びてきており、国内最高峰はメリダ山脈に位置する海抜4978mのボリバル山である。なお、南米大陸に位置してはいるが、国土は全て赤道以北、すなわち北半球に位置している。

国土はマラカイボ湖を囲むマラカイボ低地、西部から北部に広がるベネズエラ高原、オリノコ川流域平原のリャノ(スペイン語で平野を意味する)、そしてギアナ高地の四つの主要地域に分けられ、ベネズエラ高原はさらに中央高地、北東高地、セゴビア高原、メリダ山脈の四つの地域に分かれる。国土北部の海岸沿いをラ・コスタ山脈が東西に連なり、東部にはアラヤ半島、パリア半島が存在し、アラヤ半島沖にマルガリータ島が存在する。国土の80%がオリノコ川の流域であり、平らな大草原が広がっている。この草原地帯のリャノが国土の35%(380,000平方kmで、ほぼ日本の国土と同じ)、グアヤナ高地が国土の45%を占めるものの、人口の圧倒的な部分は北方の海岸線沿いのマラカイボ低地とベネズエラ高原に集中し、ベネズエラの多くの都市や村落は標高800m-1300mの人間が住むのに適した気候の谷間に存在する。

熱帯のため、雨季と乾季の区分がはっきりし、12月から4月が夏(ベラーノ)と呼ばれ、5月から11月が冬(インビエルノ)となり、6月から7月にかけて「サン・フアンの夏」と呼ばれる中だるみの季節が存在し、夏は乾季に、冬は雨季に相当する。カリブ海側は乾燥しており、カラカスの外港ラ・グアイラでは年間降水量が280mmしかない。リャノはサバナ (地理)が広がっており、サバナ気候であるゆえに乾季は完全に乾燥し、雨季は洪水となるため牧畜ぐらいの生産活動しかできず、こうした気候が屈強なリャネーロや、ホローポなどの文化を生み出した。

現在のベネズエラ政府は、ベネズエラの国土を海域、島嶼部、西北沿岸部、中北沿岸部、東北沿岸部、アンデス地方、リャノ地方、オリノコ川デルタ地方、アマゾン地方、グアヤナ地方という10の地理区分に分けて扱っている。

ヌエバ・エスパルタ州、マルガリータ島のビーチ 』

『国民
詳細は「ベネズエラ人」を参照
民族
ベネズエラの民族構成[122]
Demografia de Venezuela.jpg
メスティーソ 49.9%
クリオーリョ 42.2%
ムラート 3.5%
インディヘナ 2.7%
黒人 1%
アジア系 0.9%
高地オリノコに住むインディヘナの部族、ヤノマミ人の子どもたち。

ベネズエラ人は多くの人種と民族が合流して生まれており、現在も移民が流入し続けている。先住民はインディヘナのカリブ人、アラワク人などが住んでいたが、現在先住民の社会を維持しているのはアマゾンの密林の中に住む少数である。白人は植民地時代のスペイン人が主で、当時は植民地社会の上層部にあった。独立後は他のヨーロッパ諸国からの移民も増え、近年では中南米諸国、特に隣国コロンビアからの、難民に近いような移民が多い。最近は政治的な理由により富裕層や中間層が国外へ流出している。また、不況や社会不安、就職難により、大学などで高度な教育を受けた移民2世以降が移民1世の母国に多く流出している。

アフリカ系ベネズエラ人は植民地時代に奴隷としてつれてこられた人々の子孫である。アジア系は他より少ないが、独立後に移民した華僑(中国系)がおり、小商店主として成功した者が多い。しかし、南米の国の中で日本からの移民はかなり少ない方であり、日系ベネズエラ人の人口は現在では800人程とウルグアイの日系人の倍程度である。

世代を重ねて混血が進んだため、人種集団をはっきり区分することはできない。人種別統計は長くとられておらず、そうした調査も実施されていない。しかし、北米、日本、欧州では各国の研究者が独自に調査した構成比が出回っている。それによれば、メスティーソ67%、ヨーロッパ系21%、アフリカ系10%、インド系2%とされる。ベネズエラ人の主流の意識は自らをメスティーソとし、ベネズエラをメスティーソの国とするものである。

そして現実社会では他のラテンアメリカ諸国と同じように上流階級が白人で占められている。当然のことだが白人が他人種より上にあるという関係が個人間でなりたつわけではなく、下層の白人も中流の黒人もいる。インディヘナはスリア州やオリノコ川南部に多く居住している。
移民

主な移民の出身地としては、イタリア、スペイン、ドイツ、ポルトガル、シリア、レバノン、インド、パキスタン、中国、日本、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、エクアドルなど。1940年代から1950年代にかけてヨーロッパからの移民ブームがあり、1950年から1958年までの間に、ポルトガル人を中心に実に45万人の移民が流入した。特に有名なドイツ系の入植地としてコロニア・トバール(英語版)が挙げられる。
人口

独立直後の1830年にはおよそ80万人ほどだったベネズエラの人口は、20世紀に入ってからも余り増加せずに1920年には推定で200万人ほどだった。しかし、第二次世界大戦後に急速に人口が増加し、1967年には推定900万人、1983年の調査では1639万人となっており、2007年には2600万人を越えた。人口の都市化率は85%であり、73%は北部のカリブ海沿岸100km以内に住んでいる。ただし、国土の約半分を占めるオリノコ川以南には人口の5%しか居住していない。

なお、2010年代のハイパーインフレによる経済的混乱から、2018年の時点で300万人以上が南米各国へ流出したと推測されており、混乱が収まらない限り今後も増加する見込み[123]。
言語
詳細は「ベネズエラの言語」および「en:Languages of Venezuela」を参照

言語はスペイン語(ベネズエラ・スペイン語)が公用語であり、かつ日常生活で最も使われている。31のインディヘナの言葉があり、政府は先住民の言語を通用させる努力を規定しているが、話す人は限られている。その他にも移民によってドイツ語、ポルトガル語、ガリシア語、イタリア語などが話されている。
宗教
詳細は「ベネズエラの宗教」を参照
Monumento a la Chinita.jpg

宗教はローマ・カトリックが76%、プロテスタントが2%、その他が2%である。その他の宗教としてはイスラム教、ユダヤ教など。
教育
詳細は「ベネズエラの教育」および「en:Education in Venezuela」を参照
カラカスの大学都市。

2001年のセンサスによると、ベネズエラの15歳以上の国民の識字率は93.0%であり[124]、ラテンアメリカ域内では中程度の部類に入る。6歳から15歳までの国民を対象に義務教育が行われており、初等教育と前期中等教育は無償である。主な高等教育機関としてはベネズエラ中央大学(1721年)、ロス・アンデス大学(1785年)、カラボボ大学、スリア大学(1891年)、シモン・ボリバル大学(1967年)などが挙げられる。

チャベス政権が推進していた社会政策の一つに「第二次ロビンソン計画」がある。初等教育(6年)の未終了者を対象とし、受講期間は二年。第一回終了式が、2006年8月、首都カラカスで行われ、32万5000人が修了証書を受け取る。修了者は、「リバス計画」(中等教育)や「見つめ直そう計画」などに進むことが出来る。これらの計画の受講中は、奨学金が給付される。

さらに、ベネズエラの教育で特色あるものとしてエル・システマというメソッドで行われる音楽教育が挙げられる。ホセ・アントニオ・アブレウが1975年に始めたもので、主に貧困層の児童を対象に無償で施されるクラシック音楽の教育は、ストリートチルドレンの救済や非行少年の更生に大きな成果を上げてきた。35年以上にわたり歴代の政権も支援をしており、35万人がこの教育を受けている。現在ではボリーバル音楽基金によってシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ、児童オーケストラなど200以上もの楽団が運営されており世界的にも高い評価を得ている。また、このシステムで学び指揮者となったグスターボ・ドゥダメルのように国際的に活躍する音楽家も輩出している。 』

(※ その他は、省略)

古代ローマの属州の一覧

古代ローマの属州の一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%B1%9E%E5%B7%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

『アナトリア

アシア属州
ガラティア
カッパドキア
キリキア属州
パンフィリア
リュキア

アフリカ

アエギュプトゥス
アッシュリア属州
アフリカ属州
ヌミディア
マウレタニア・カエサリエンシス
マウレタニア・ティンギタナ

イベリア

ヒスパニア・ウルテリオル
ヒスパニア・キテリオル
ヒスパニア・タラコネンシス
ヒスパニア・バエティカ
ルシタニア

ギリシャ

アカエア属州
エピルス
キュプルス属州
マケドニア属州

コーカサス

アルメニア属州
ビテュニア
ビテュニアとポントス(英語版)

地中海

クレタとキレナイカ(英語版)
サルデーニャとコルシカ(英語版)
シキリア属州

西・中央ヨーロッパ

アルペス・コッティアエ
アルペス・ポエニナエ
アルペス・マリティマエ
ガリア・アクィタニア
ガリア・キサルピナ
ガリア・ナルボネンシス
ガリア・ベルギカ
ゲルマニア
ブリタンニア
ラエティア

東ヨーロッパ

イリュリクム
ダキア属州
ダルマティア属州
トラキア属州
ノリクム
パンノニア
モエシア

レヴァント・アラビア

アラビア属州
シリア属州
メソポタミア属州
ユダヤ属州

関連項目

共和政ローマ
ローマ帝国
ローマの属州
ヴェローナ・リスト
ノティティア・ディグニタートゥム
シュネクデモス

属州(※ 古代ローマの)

属州(※ 古代ローマの)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%9E%E5%B7%9E

『属州(ぞくしゅう、ラテン語: provincia)は、古代ローマの本国以外の領土を指す。』

『概要

古代ローマは、当初は都市国家連合体であった。イタリア半島のほとんどの地域が、都市国家ローマと同盟を結んだ同盟市の領域であった。属州とは、それ以外の古代ローマの領土をさす。原語プロウィンキア(provincia)はもともとインペリウム保持者の担当地域を指し、第一次ポエニ戦争後に獲得した一人のインペリウム保持者が統治を担当する直轄地を指すようになった。

ローマの最初の属州は第一次ポエニ戦争後にシチリア島に設置した「属州シキリア」で、以降の帝国主義的拡張の中で新たに組み込まれた領土に次々と属州が設置されていった。
属州の統治はコンスルやプラエトル経験者がプロコンスルやプロプラエトルといった肩書きで担当し、その下には総督つきのクァエストルほか数名の官僚がローマから派遣された。しかしこの程度の少人数では行政は困難であるため、属州総督は通常私的な下僚(多くは奴隷・解放奴隷)を抱えていた。もっとも総督に限った話ではなく、官僚制が発達する帝政期以前の古代ローマの多くの官職に言えることである。

属州民には、収入(資産評価額という説もある)の10%に当たる属州税(10分の1税)が課せられた。これはローマ市民・同盟市民が兵役義務を持つのに対し、属州民にはその義務がなく、その代替と考えられた。他、50分の1税として売上税(今日の日本の消費税と異なり、売買ごとに掛けられ、控除はない)などいくつかの税があったが、これはローマ市民と共通のものであった。

属州民にとって最も大きな負担は、国有地の賃貸料として支払う、収穫物の3分の1税である。新たに古代ローマの支配領域となった地域においては、多くの農地が国有地として収公されたため、属州民の多くは国有地を借りるしかなかったのである。

それら各税は、属州内の自由市や自治市では各都市が、直轄地では徴税請負人(プブリカニ、publicani[1])[2]が徴収を担当した。徴税請負人はしばしば総督と結託、もしくは総督の名を騙り単独で、属州民を搾取した。税額は法によって決められていたので上乗せ徴収はできないが、納税が遅延した場合にそれを徴税請負人が立て替えて貸し付けたものとして、利子を加算して徴収することで収益をあげた。この他、シキリアなどでは穀物の強制買い付けの制度も属州民の負担となっていた。

属州総督の地位は、住民からの搾取により多大な利益を期待できるものであった。このため、共和政中期から末期のローマでは、多額の借金をしてコンスルに就任し、その後の属州統治の任で負債の返済だけでなく一財産を築くような者も少なくなかった。こうした属州総督の苛斂誅求に対して、属州は総督の不正を元老院に訴えることができた。ただし、弾劾は任期中には免除されるため、搾取は経年して続くことになった。当時キケロを有名にしたウェッレスの弾劾も、こうした不正追及の裁判であった。そのキケロは、自らが属州総督に赴任した際の私財の蓄積の “少なさ” によって、自らを廉潔の士として自画自賛していたという。

その収奪はすさまじく、新たに属州になった地域は数年のうちに疲弊し、属州民の人口は数十年のうちに10分の1に減少してしまう例すら見られた[3]。属州民の人口が減少したと言っても、死に絶えた訳ではなく、奴隷の境遇に落とされたのである(すなわち属州民として、課税対象者として戸籍に登録された者の数が激減したということである)。古代ローマには、借金の返済ができなくなった場合に自らを奴隷として売却する事で返済する、債務奴隷の制度があった。

多くの国有地は、代わってローマの貴族などの富裕層が借りることとなった。彼らは奴隷を酷使することによって、3分の1税を収めてもなお多大な収益を得て、ラティフンディウムの成立を見る。酷使される奴隷には、当然ながら奴隷の境遇に身を落とした元属州民も多くいたであろう。

このような搾取に属州が従った背景としては、新たにローマの支配下となった地域は、元より専制君主の支配下にあり重税を課せられていた場合があったからである。従ってそうでない地域、例えばギリシャの諸ポリスは、ローマの支配下においても特別な地位にあった。ビュザンティオンのように、後にローマの首都となった場合すらあった。

属州からの富はローマに繁栄を与えた。共和政末期のローマでは、属州総督の際に獲得する富と軍事的成功が中央での政治的資源となった。またシキリアやアフリカ、のちにはエジプトからの穀物は、ローマの巨大な人口を維持するためには必要不可欠なものであった。しかし、流入する安価な穀物はイタリアの自作農民に打撃を与え、彼らの没落と政情の不安定化の原因の一つとなった。イタリア本土では代わって、オリーブやブドウといった高付加価値の農産物の生産が中心となった。

帝政期には、古代ローマは拡大期から安定期へと移行し、すなわち属州に対する収奪も一段落した。拡大期には可能であったラティフンディウムを支えてきた安価で大量な奴隷の供給も、安定期になれば細っていき、従来のように奴隷を酷使し収益をあげる経営は成り立たなくなっていった。属州は繁栄し、イタリアの商品の輸出先として、ローマの経済を支えることになる。しかし、オリーブやブドウなど高付加価値農産物の属州での生産が本格化し、イタリアは市場を失い、経済的には没落していった。

212年にはアントニヌス勅令により、全ての属州民がローマ市民権所有者となり、10分の1税の負担はなくなった。しかし、これにより税収減となったローマは、代わって臨時税の濫発で補ったため、税負担は変わることがなく、むしろ増加した。またディオクレティアヌスの時代には、既存の属州はおよそ100程度[4]に再分割され、属州総督の権力削減と皇帝権の強化が行われた。

脚注
[脚注の使い方]

^ 複数形はプブリカヌス(pubulicanus)
^ 『新約聖書』で主より徴税人と呼ばれているのは彼ら徴税請負人のことであり、ユダヤ人には同胞の裏切り者とみなされ蛇蝎のごとく嫌われた。イエス・キリストは徴税人と食事を共にしただけで弟子たちから批判を受けている。『新約聖書』マタイの福音書9:9~13
^ 会田雄次『合理主義―ヨーロッパと日本』(1966年)
^ ディオクレティアヌス帝からコンスタンティヌス1世時代に成立したとされる文献ヴェローナ・リストに101の属州名が掲載されている

関連項目

古代ローマの属州の一覧
保守政党
ラティフンディウム
ヴェローナ・リスト
ノティティア・ディグニタートゥム
シュネクデモス
属州会議 (ローマ帝国) 』

世界史の窓 パンノニア

世界史の窓 パンノニア

『現在のハンガリー。ローマの属州となった後、5世紀にはフン人が移住し建国。6世紀にはアジア系アヴァール人が建国したが、8世紀にフランク王国カール大帝に制圧される。9世紀にマジャール人が移住し、さらに西進したが、955年、東フランク王オットー1世に敗れたためにこの地に後退し国家を建設。それが現在のハンガリー国家につながっている。
 現在のハンガリー共和国の一帯、ドナウ川の中流にひろがる盆地を古くからパンノニア平原という。紀元前33年ごろ、ローマに征服され、属州イリュリクムの一部であり、紀元後9年ごろ、分割されて一つの属州パンノニアとなった。

民族大移動

 4世紀後半にはゲルマン民族の大移動が始まり、その動きの中で、380年には東ゴート人とヴァンダル人のパンノニア移住がローマ帝国に認められた。ローマ帝国が東西に分裂すると、パンノニアは東ローマ帝国領となったが、5世紀にはアジア系のフン人がダキア(現在のルーマニア)を拠点にヨーロッパ各地に侵入を繰り返した。425年に西ローマ帝国はパンノニアをフン人に割譲したので、フン人はイタリアから撤退した。
フン帝国 445年、フン人はアッティラによって統一され、フン帝国として強大となり、黒海からライン河畔までを支配下に収め、447年には東ローマ皇帝テオドシウス2世から、ドナウ南岸、トラキア(バルカン半島東部)の割譲を受けた。さらにヨーロッパへの侵攻を続けたが、451年のカタラウヌムの戦いで敗れ、アッティラも453年に急死したため、その帝国は急速に瓦解した。
 フン帝国が弱体化したころ、パンノニアには一時ゲルマン人の東ゴートがフン人の支配から独立して定住し、489年まで続いた。しかし彼らはその後、イタリアに移動した。
アヴァール人の侵攻 東ゴート人の次にランゴバルド人が入ったが、彼らもまた西方に移動し、その後に入ったのがアヴァール人がである。彼らはゲルマン系ではなく、アジア系の遊牧民と考えられている。彼らはパンノニアに568年ごろに国家を形成し、パンノニアとその周辺のスラヴ人を服属させた。さらにアヴァール人はビザンツ帝国とフランク王国を脅かし、勢力圏を拡げていったが、626年のコンスタティノープル遠征失敗以後は、急速に力を弱めてった。それに乗じて、ボヘミア、モラヴィアなどのスラヴ人は622~623年にアヴァール人を撃退して自立し、スラヴ人最初の国家を成立させたが、658年にアヴァール人に滅ぼされてしまった。
 パンノニアのアヴァール国家はさらに存続していたが、8世紀になるとフランク王国の圧迫を受けるようになった。796年、フランク王国のカール大帝はフランク軍を東方に遠征させてアヴァール人を破り、アヴァール人はエンス川まで後退して勢力を大幅に弱め、9世紀にはマジャール人に吸収されてしまう。

マジャール人の定住

 9世紀には東方からマジャール人がこの地に移動してきた。マジャール人は、ウラル山脈西部で遊牧生活を送っていたウラル語系民族でアジア系ではない。彼らは10世紀になるとさらに西に移動し、東フランク王国の東辺を脅かした。東フランクのザクセン朝、ハインリヒ1世は、それに備えて城塞都市を建設してマジャール人と戦った。

マジャール国家の形成

 955年に東フランク王国のオットー1世とのレヒフェルトの戦いに敗れて西進をあきらめ、この地に退いて定住し、1000年にハンガリー王国を建国した。

 パンノニアは平原であるために周辺からの外敵の侵攻を受けやすく、その後もモンゴル人の侵入、オスマン帝国の支配、オーストリア=ハプスブルク家の支配、オーストリア=ハンガリー帝国に併合、などの異民族支配が続き、ようやく第一次世界大戦後の1918年にハンガリーは独立した。

なお、国名をハンガリーとするのは日本が英語表記に従っているからであり、かれら自身は「マジャール」を国名としている。 → 20世紀以降の現在のハンガリー共和国 』

スロバキアの歴史

スロバキアの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%90%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2007年5月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2008年9月)
正確性に疑問が呈されています。(2008年9月)
言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2009年2月)』

『スロバキアの歴史では、現在のスロバキアの領土での歴史について説明する。』

『先史時代

旧石器時代

スロバキアで発見された現存する最古の考古学上の遺物は、放射性炭素年代測定により、ノヴェー・メスト・ナド・ヴァーホム(英語版)近くで発見された、旧石器時代初期の紀元前27万年頃のものであるとされている。このクラクトン文化様式の道具の発見は、スロバキアに太古に人が居住していた証左である。

旧石器時代中期(紀元前20万年 – 紀元前8万年)以降の他の石器はボイニツェ(英語版)近くのプレポシュツカ洞窟(Prepoštská jaskyňa)および他の近くの場所由来のものである。この時代のもっとも重要な発見は、スロバキア北部の村の一つガーノフツェ(英語版)近くで発見されたネアンデルタール人の頭蓋骨である。 考古学者たちは、この地域で先史時代の人類の骨を発見し、同様に多数のグラヴェット文化の遺物と遺構を、主にニトラ川(英語版)、フロン川(英語版)、イペリ川(英語版)、ヴァーフ川の谷やジリナ市付近、またミヤヴァ(英語版)山脈とともにVihorlat、InovecおよびTribeč山脈の裾野においても発見した。もっともよく知られた発見にはマンモスの骨で作られた女性の彫像(紀元前22,800年、いわゆる「モラビアのヴィーナス(en)」も含まれている。この小さな像は1940年代にピエシュチャニ近くのモラヴァニ・ナド・ヴァーホム(英語版)において発見された。キプロスの第三紀の好高熱性の腹足綱の貝殻で作られた多数の首飾りはモラヴァニ=ジャーコヴスカー、ポトコニツェ、Hubina およびラドシナ(英語版)からのものである。これらの調査結果は、地中海と中央ヨーロッパとの間で行われていた商業交易の最古の証拠である。

新石器時代

いくつかの考古学的発掘における道具と焼き物、および比較的標高の高い北部地域を含むスロバキア各地に散在する埋葬地の発見は、新石器時代の人類の居住の証拠である。ジェリエゾフツェ(英語版)、ゲメル(英語版)およびBukové山地で発見された焼き物は、顕著な造形と精密な線形による装飾によって特徴づけられる。

それはまた、最初の彩色の試みであった。この意図的な装飾品は、発展された新石器時代の職人の美的センスを示している。 要な考古学上の発見はかつて居住していた洞窟にもあった。たとえば、人類は長さほぼ6000メートル、深さ700メートルの有名なドミカ洞窟にも居住していた。この洞窟はヨーロッパにおける最大の新石器時代の遺跡の一つである。Bukové山地からやってきた焼き物を製作した部族は、800年以上にわたり継続的にドミカ洞窟に居住していた。

中央ヨーロッパの新石器時代の遷移は農業の発展と牧草地の開拓と局地的段階の最初の金属の精錬、”Retz”様式の焼き物と素焼きの笛で特徴づけられる。「素焼きの笛時代」の間、人々はNitriansky Hrádokに、いくつかの要塞化された景観を建設している。 新石器時代が始まったとき、今日のスロバキアの地理的な位置は貝殻、琥珀、宝石および武器のような財のための緻密な交易網を担っていた。その結果、そこはヨーロッパの交易システムにおいて重要な拠点となった。

青銅器時代と鉄器時代

スロバキアの領土での青銅器時代は紀元前2000年から800年にかけて発展、拡大の段階を経て進行した。 大きな文化的、経済的および政治的発展は銅の生産の顕著な発展は、特に中部スロバキア(例:シュパニア・ドリナ)と北西スロバキアにおける銅の生産量の著しい増加によるものと考えられている。銅は地域の人口の繁栄の安定的な源泉となったチャカニとヴェラティセ文化が消えたのち、ルサチア文化の人々は強固で複雑な要塞化した建造物を拡張した、大きな行政の中心地と恒久的建造物とともにである。ルサチア人のヒルフォートの発掘調査はこの時代の農業と交易の相当な発展を記録している。

墳墓の豊かさや多様性は著しく増加していた。この時代の居住者たちは武器、武具、貴金属、食器と彫像を生産していた。トラキア からの部族の到来はカレンダーベルク文化の人々を滅亡させた。かれらは平原にあった村落(セレト(英語版))や、山頂に位置する要塞(スモレンセ、モルピ)にも住んでいた。 ハルシュタット文明の君主の権力は、スロバキアにおいては、スキタイ・トラキア人とケルト系部族との間の衝突の後の鉄器時代の末期の間に失われた。スキタイ・トラキア人はスロバキアの河川をたどり南から北へと進出した。
ブラチスラヴァで鋳造されたケルトのコインとそれを模した現代の5スロバキア・コルナ硬貨。

ケルト人の勝利はこの地域の最後の鉄器時代のはじまりを指し示していた。スロバキアに住む二大ケルト系部族はコティニ人とボイイ人である。 コティニはおそらく独自あるいはプコフ文化の顕著な部分を成していた。ケルト人は、ブラチスラヴァとリプドフ(ハヴラノク神殿)に大きな塀で囲まれたオッピドゥムを造営した。 BIATECと呼ばれるケルトの王の名前のある銀貨はスロバキアにおいては史上最初の文字の使用の代表例である。 ケルト人の支配はゲルマン人の侵略や、ノイジードル湖近くのボイイ人に対してのダキア人の勝利およびローマ帝国の拡大によって消滅した。

古代ローマ時代

詳細は「マルコマンニ族」および「マルコマンニ戦争」を参照

スロバキアにおいてローマ時代は6年にはじまり、マルコマンニ族とクァディ族に対する戦争を導いたローマ帝国の軍団のこの地域の到来によって始まった。クアディ人によって屈服させられた蛮族の王国のひとつヴァニウス王国は、西部から中央スロバキアに20年から50年に存在していた。ローマとその軍はドナウ川東岸の細い地域と南西スロバキアのたいへん小さい地域(セレマンティア, ゲルラタ, デヴィン城)を占領しただけであった。

174年のみ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はヴァー、二トラとフロンの川の谷へと深く侵入した。フロンの川岸において、この哲人皇帝は自身の哲学的著作『自省録』を執筆している。179年にローマ軍はトレンチーン城の岩の上にトレンチーンの昔の名(Laugaritio)を彫り、ヨーロッパのこの地域におけるローマ帝国の最北端として印をつけた[1]。

4世紀から8世紀の「大侵略」

ランゴバルド国(青色の部分、紀元後526年)

2世紀および3世紀にフン族は中央アジアのステップから離れ始めた。彼らは377年にはドナウ川を渡り、パンノニアを占領した。そこは彼らが75年の間、西ヨーロッパに向かっての略奪と襲撃の出撃のための拠点にした土地である。 451年にアッティラの指揮のもと、かれらはライン川を渡り、費えのためにガリアへと侵攻した。それからカタロニアの近郊を破壊しながらピレネー山脈をも越えている。しかし453年のアッティラの死で、フン族は姿を消した。

フン族の後、5世紀から6世紀に、ゲルマン人の部族がパンノニア平原に居住を開始した。東ゴート人、ランゴバルド人、ゲピド人、ヘルール人である。 6世紀の3分の1から半分もの間に彼らの諸王国とその競争が出来事となった。 6世紀、初期のランゴバルド人の国は現在のスロバキアの領域を中心にしていた[2]。その後、ランゴバルド人はこの地域から離れ、はじめはパンノニア、それからイタリアへと移動し、そこに11世紀まで続く国を建設した。

568年には遊牧民のアヴァール人がドナウ川中流の諸王国への彼ら自身の侵略を指揮した。アヴァール人はパンノニア平原の低地を占領し、そこを支配する帝国を樹立した。彼らは何度かの攻撃をビザンツ帝国に対して行っており、ビザンツ皇帝は、かれらの攻撃を避けるために定期的に貢物を贈っている[3]。 623年、パンノニア西部に暮らすスラヴ人の人びとはアヴァールの帝国から離脱した[4]。 626年、アヴァール人とサーサーン朝ペルシャは共同してコンスタンティノポリスを包囲したが、その攻略には失敗した。この失敗の後、アヴァールの威信と勢力は減少し、パンノニア平原の外側のかつての版図の統制能力を失った。しかし彼らの王国は11世紀まで継続した[3]。

スラヴ人

初期の歴史
詳細は「スラヴ人」を参照

主流派の歴史家の多く[要出典] がスラブ人の中央および西部ヨーロッパの居住は6世紀にはじまったと示唆している[5]。 一定の要素が以下のことを証明している。6世紀の始まりまでにスラブ人の住民がヴィスワ川、ドニエストル川とドナウ川に、今日のスロバキアとパンノニアとカランタニアを含む広大な地域を席巻し始めたという事実である[要出典]。

近年の考古学的および逐語的な資料の解読に基づいて、歴史家と言語学者の少数は、以下のことを有する代替的な理論を発展させてきた。すなわち、スラブ人の諸部族は紀元前数千年ごろの現れて、ケルト・ゲルマンの諸部族の運動の中心で、じっとしていた土着の民族から進化したのではないかというものである[要出典]。 最もよく知られた支持者は、『スラブ諸語百科事典』の編纂者である、ロシア・スラブおよびハンガリーの言語学者オレグ・ニコラエヴィチ・トゥルバチョフである。彼はこの理論について詳細な著作をあらわしている[要出典]。 また、古代ギリシャ・ローマの史料は、この地域の一層古いスラブ人の存在のありうべき証拠を提供している。たとえば、紀元前400年のものとされる、ハリカルナッソスのヘロドトスによる作品のひとつのなかの、Vénèdesの出現は、スラブ人の最初の記録であると、かれらは議論している [要出典]。 スラブ人の存在についての言及は大プリニウス(79年)とタキトゥス(55年 – 116年)の著作においてもあるという[要出典]。 160年のクラウディオス・プトレマイオスの著作にある、ラテン語でのSouveniの綴りは、スラブ人をスラブ人と特定した最初のものである[要出典]。 8世紀以前のドナウ川中流のスラブ人は、現在のスロバキアと北部、西部ハンガリー、モラヴィア、パンノニア、オーストリアとスロヴェニアに住んでいたが、Sloveni (*Slověne)という綴りの名を使用していた[要出典]。

近年の調査は、スラブ人とケルト人諸部族が北部スロバキアのリプトフスカ・マラ地域の近くのリプトフ地方に共存していた証拠を発見してきた[要出典]。 発掘調査を行う学者たちは6つのケルト・スラブのコロニーとその中央に、ケルトとスラブの儀式のための聖所を有する城の遺構を発見してきた[要出典]。 チェコの考古学者J. Poulíkの最新の調査結果によれば、スラブ人諸部族はゲルマン人のクアディ人とも共存していた[要出典]。 この二つの競合する理論は必ずしもどちらかを排除するものではない[要出典]。
サモ王の帝国

詳細は「en:Samo」を参照

623年のアヴァール汗国に対してのスラブ人の反乱が成功したのち、ドナウ川中流に住むスラブ人の一部がサモ王によって糾合された。631年、サモはフランク王国のダゴベルト1世の軍をヴォガスティスブルクの戦いで破った。最初のスラブ人の政権として知られる「サモの帝国」は、建国者が665年に没すると消滅し、アヴァール汗国にふたたび併呑された。

スラヴ人政権の登場
詳細は「en:Principality of Nitra」を参照
プリビナ政権下のニトラ公国(青の部分、緑の部分はモラヴィア公国)
800年ごろのヨーロッパ

670年代に「グリフィンとテンドリル(”griffin&tendril”)」文化を持った人々がパンノニア平原に現れ(オノグル(英語版)として区別される)、短い間の後にアヴァールはその版図をウィーン盆地の向こうまで拡大することができた[6]。 しかし、同時代の考古学上の発見は(例:ブラトニツァ(英語版)の身分の高い人物の精巧な墓)はまた、後に大モラヴィア中核となる領域におけるスラブ人の支配階級の形成を指摘している[7]。 南部スロバキアより向こうのアヴァールの優位は、フランク王国のカール大帝がドナウ川北部(のちのニトラ公国[8] の中心)に住むスラブ人の助けによって、アヴァールを破る803年まで続いた。フランク王国はこのときついにスラブ人を取り込むことになった。 文書記録に基づいた、ニトラ公国に関する情報は、870年ごろの『バイエルン・カタランニア地誌(Conversio Bagoariorum et Carantanorum )』の2つの記載事項に記録されているのみである[9][10]。 それにもかかわらず、9世紀はじめの10年間は、パンノニア平原の北西部のスラブ人はニトラを拠点とする部族長(後世の歴史家は「ニトラ公」と形式上呼ぶ)の支配下に置かれていた[11]。9世紀には、この都市周辺の居住地の広範囲のネットワークは発展していた[12]。 9世紀はじめ、この政権は現在のスロバキアの領土の北西部に位置していた[3]。 828年ごろ、大司教のザルツブルクのアダルラムがニトラヴァ(Nitrava)にニトラ公国の君主プリビナ(800-861年)のための教会を奉献した[8]。 833年に、モラヴィア公モイミール1世がプリビナを放逐した。 プリビナはラトボード(Ratbod)伯の下に行った。伯はカロリング朝フランク王国のオストマルクを統治しており、そこではプリビナは、東フランク王国の宗主権の下の下パンノニア公国とバラトン湖に流れ込むザラ川の近く地に位置するブラトノグラードの首都の統治者になった[13][14]。 プリビナが放逐されていた時期に、少なくとも3つのニトラの城(ポデディム城、チンゴフ城とオストラ・スカラ城)が破壊されたと発掘調査で明らかになっている[7]。

大モラヴィアの時代

詳細は「en:Great Moravia」を参照
スヴァトプルクの治世期 (871年-894年) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。
9世紀の中央ヨーロッパ。東フランク王国は青、第一次ブルガリア帝国は橙色、ラスティスラフ王(870年)治世の大モラビア王国は緑色で示している。緑色の線で囲った部分はスヴォトプルク1世王(894年)治世の大モラビア王国の版図(大モラヴィアの境界の中には議論のあるものも存在する)。

糾合されたスラブ人諸部族がドナウ川北に居住した830年ごろに大モラヴィアは興隆し、この地域での優位を拡大した。 [9] 846年にモラヴィア公モイミール1世が東フランクの王の優位から離脱する努力をしたとき、ルードヴィヒ2世王は彼を斥けて、王座につくようモイミール1世の甥のラスティスラフ (846年–870年)を支援した。 [15] 新しい王権は独自路線を追求した。855年のフランク王国の攻撃を止めたのち、新王は、領内でのフランク王国の僧侶の伝道を弱体化させる方法を探した。ラティスラフはビザンツ帝国のミカエル3世にスラブ語にキリスト教を翻訳する教師の派遣を要請した。ラティスラフの要請を受けて、863年にビザンツの公式の伝道師、聖キリルとメトディオス 兄弟がモラヴィアに来訪した。二人は最初のスラブ語のアルファベット、グラゴル文字を発展させて、福音書を教会スラブ語に翻訳した。 ラティスラフはまた国家の防衛と統治に腐心した。国中にある数々の要塞化された城は彼の治世に造営されたものであり、その中には(e.g., Dowina – w:Devín Castle) [16][17][18][19][20] フランク王国の年代記によってラティスラフとの関係が言及されるものもある。 [21][22] 彼の治世に、ニトラ公国は彼の甥のスヴァトプリックに封地として与えられた。 [17] 870年、この反逆的な公は自身とフランク王国と追放したおじと同盟を結んだ。先代と同様に、スヴァトプルク1世 (871年–894年)は「王(rex)」の称号を自称した。 彼の治世には、大モラヴィア帝国は、その版図の拡大が最大に達していた。このときには、現在のモラヴィアとスロバキアのみならず現在の北部および中央ハンガリー、下オーストリア、ボヘミア、シレジア、ルサチア、南部ポーランド、北部セルビアをもこの帝国に属していた。しかし彼の版図の正確な境界はいまだに現代の歴史家によって議論されている[7][23] スヴァトプルクはまた半遊牧のハンガリー諸部族とブルガリア帝国の攻撃に耐えた。 [8] しかしながら、彼は東フランク王国にたいする戦いのときにおいてはハンガリー人を傭兵に雇った。 [24] 880年に教皇ヨハネス8世が、大司教の聖メトディウスをその長とする独立した教区を大モラヴィアに設置した。彼はまたドイツ人聖職者のヴィティニングをニトラの司教に任命した。 894年のスヴァトプルク王の死後、その息子モイミール2世 (894年-906年?)とスヴァトプルク2世は、大モラヴィア王位とニトラ公位をそれぞれ継承した。 [17] ところが、かれらは帝国全体の支配をめぐり争いを開始した。帝国は、東フランク王国との絶え間ない攻防戦とよるものと同様に国内の紛争によっても弱体化し、大モラヴィアは周辺の領域のほとんどを失うことになった。 そのころ、ハンガリー諸部族は、遊牧民のペチェネグ人からの打撃に苦しんできたので、カルパチア山脈の東の版図を離れ、パンノニア平原を侵略し、896年ごろにはその領域を徐々に占領していった。 [25] ハンガリー諸部族の軍隊の進展は、当該地域の統治者がハンガリー諸部族の闘争に介入するために、彼らを傭兵に雇った地域の国々の間での戦争の継続によって、推進された。 [26] モイミール2世とスヴァトプルク2世の両方ともおそらく、904年から907年の間のハンガリー諸部族との間の戦闘で死亡したと考えられる。なぜならば彼らの名は906年の文書史料には言及されていないからである。ブレザラウスプルク(Brezalauspurc いまのブラチスラヴァ)近郊での三つの戦闘(ブラチスラヴァの戦い) (907年7月4–5日、8月9日)において、[27] ハンガリー人はバイエルン人軍を引き入れた。歴史家は伝統的にこの年を大モラヴィア帝国の崩壊と位置付ける。 大モラヴィアは後世にいまなお残る遺産を中央および東ヨーロッパに残した。 グラゴル文字とその後継文字であるキリル文字は他のスラブ人諸国に伝播し、その文化的発展において新たな道を引いた。 大モラヴィアの統治機構はハンガリー王国の統治機構の発展に影響を与えたかもしれない。[要出典]

ハンガリーとポーランドの統治

詳細は「ハンガリー王国」および「ポーランド王国」を参照
10世紀のハンガリー人の居住
詳細は「en:Seven chieftains of the Magyars」および「ハンガリー大公国」を参照

895年から902年の間[28]、ハンガリー人(マジャル人)は、徐々にパンノニア平原における権威を及ぼしていった。 しかし、現在の史料の中には大モラヴィアが跡形もなく姿を消し、その住民が、後に現れたブルガール人、クロアチア人とハンガリー人の勝利の後に、彼らのためにモラヴィア人がいなくなったことに言及しているが、考古学調査と地名学では西カルパティア山脈の川の谷のスラブ人の集団との連続性を示唆している[26][29]。 地名学は以下のことを証明しているであろう。ほかにスラブ人とハンガリー人との混血した人々とスラブ語の山々の谷に住む人々が居住していた頃、半遊牧のハンガリー人が今日のスロバキアのある西パンノニア平原を席巻したことをである[30]。 10世紀の間、大モラヴィアに対しての文献の作成さえなされたし、考古学上の発見はまた大モラヴィアの身分の高い一族の生き残りについても言及しているらしい[要出典]。他方、ハンガリー王国の初期の歴史の年代記は、ハンガリー人の指導者あるいは移民の後裔たる著名な高貴な王族を記録し、彼らは大モラヴィアとは一切結びつかない。 たとえば、ホント・パーズマーニュ(Hont-Pázmány)部族について、現代の学者は彼らが大モラヴィアの起源の可能性があるとしているが[31]、彼らは「ケーザイ・シモン」によって、神聖ローマ帝国のスワビア公国から王国に10世紀後期に到来したと記録されている[32][33][34]。

現在のスロバキアの領土は、10世紀初期に徐々に発展しつつある国家(後のハンガリー王国)に統合されるようになった。 『ハンガリー人の所業(w:Gesta Hungarorum )』はハンガリー諸部族の指導者のフバが、ニトラ(Nyitra / Nitra) とジトヴァ(Zsitva / Žitava)周辺の支配を継受したと記しているが、その一方で『フン族とハンガリー人の所業(w:Gesta Hunnorum et Hungarorum)』 は、もう一つの指導者レヘルはガルゴック(Galgóc)、フロベック(Hlohovec)の周辺に居住するようになり、ハンガリー人のモラヴィア人にたいする勝利ののち、彼はニトラ(Nyitra / Nitra)にとどまるようになった[35]。現代の史家はまた北西パンノニアがハンガリー諸部族のひとつによって占拠されたと主張している[35]。 899年から970年の間、ハンガリー人はしばしば現在のイタリアと東フランク王国、西フランク王国とヒスパニアおよびビザンツ帝国の土地への領域に対しての襲撃を実施した[36]。 このような活動は西へは955年のレヒ川でのレヒフェルトの戦いまで継続された。神聖ローマ皇帝オットー1世はハンガリー軍を壊滅せしめた。ビザンツ帝国への襲撃は970年に終焉した[36]。

917年から、ハンガリー人は複数の領域に対する襲撃を同時に行っており、それが部族連合内の画一された指揮系統の崩壊を証明しているかもしれない[37]。 史料は連合内の少なくとも3つ最大5つの部族集団の存在を証明している。そして、それらのただ一つが、パンノニア平原西部を統治していたアールパード(後のハンガリー王国の最初の王朝の王)に直接指導されていた[38]。

「王国の三分の一公国」あるいは「ニトラ公国」か?(11世紀)
詳細は「en:Principality of Nitra」および「ro:Tercia pars regni」を参照

のちのハンガリー王国の発展はガラム川(英語版)(スロヴァキア語名フロン川(英語版))の西、現在のスロバキアの領土にまで版図を拡大したゲーザ公の治世(972年以前-997年)の間に始まった[39]。 彼は972年に洗礼を受けたものの、彼は確信してキリスト教徒になったわけではなかった。997年に後を継ぐ彼の息子イシュトヴァーン1世とは対照的にである[40]。 史家の中には、イシュトヴァーン1世は、バイエルン公女ギーゼラとの結婚の後に父から扶持としてニトラ公国を賜ったと主張している[41]。 ゲーザ大公が薨去したとき、アールパード朝の王族の一人で異教徒のコッパーニュが継承権を主張したが、イシュトヴァーンは妃ギーゼラのドイツ人の家来の支援によってこれを打倒した[42]。 スロバキア民謡のひとつは「イシュトヴァーン王(Štefan kral)はビナの辺りではスロバキアの戦士の援けによって異教の敵を倒すことができたのだ」と歌っている[43]。 この勝利の後、イシュトヴァーンは、ローマ教皇シルウェステス2世 から王冠を受け、1000年か1001年に彼は初代ハンガリー国王イシュトヴァーン1世として戴冠したのである。

ハンガリー王国はかつての大モラヴィア王国の国家組織の要素を統合した[7][44]。 他方、歴史家たちはこのことに対してコンセンサスをとるに至っていない。王国内の「統治の基礎単位 (vármegye)」の構成はブルガリア帝国やドイツ、モラヴィアなど外国のものを踏襲したのか、ハンガリー内部の刷新なのかはいまだに議論されているのはその一例である[45]。

イシュトヴァーン1世(在位1000/1001年-1038年)がハンガリー王国に設置した城県のうち、は少なくとも8つの城県(“vármegye”)が現在のスロバキアの領土に含まれている。すなわち、アバウーイ(Abaúj / Abov)、ボルショド (Boršod)、エステルゴム、ホント(Hont)、コマールノ(コマーロム)、ニトラ、バルシュ(Bars / Tekov)およびゼンプレーン(Zemplén / Zemplín)はおそらく彼によって設置された[46]。 現在のスロバキアの領土の北部、北東部のほとんど人が住んでいなかった領域は王の私有林となった[47]。
イシュトヴァーン1世はまた、複数の教区を王国内に設置した。11世紀には、現在のスロバキアの領土は、エステルゴム大司教区 (1000年ごろ設置)とその下のエゲル教区(1006年–1009年に設置)に分割されていた[48]。

1003年のポーランドの一部としてのスロバキア

1003年ごろか1015年ごろ、ポーランド王国のボレスワフ1世は、現在のスロバキアの領土である、モラヴァ川以東の土地を獲得した。しかしイシュトヴァーン1世は1018年にこれら領地を奪還した[49]。

イシュトヴァーン1世が崩ずると、王国は王冠をめぐる国内の紛争に巻き込まれた。そして神聖ローマ皇帝のハインリヒ3世もまた、闘争に介入した[50]。 1042年にハインリヒ3世は今日のスロバキアの一部であるフロン川(ハンガリー語名ガラム川)以東を獲得し、それらをイシュトヴァーン1世のいとこのベーラ1世に与えた。しかし皇帝の軍が撤退したのち、アバ・シャームエル王の軍がこれらを奪還した[49]。

1048年に国王アンドラーシュ1世は「王国の三分の一 (Tercia pars regni)」 を彼の兄弟のベーラ公に譲渡した[51]。 公国の領域はニトラ(Nyitra / Nitra)とビハル (現在はルーマニア領。ルーマニア語ではビホル)を中心としていた[52]。 以後60年もの間、「王国の三分の一公国」はアールパード王家の王族(ゲーザ公(のちのハンガリー王ゲーザ1世)、ラースロー公(のちのハンガリー王ラースロー1世)、ランペルト公およびアールモシュ公)によって王国とは別個に統治されてきた[35] 公は王の優位を容認した。しかし彼らの中(ベーラ、ゲーザ、アールモシュ)には神聖ローマ帝国やボヘミア王国のような隣国の統治者と同盟と王冠を得るために、王に対して反乱を起こす者もいた[53]。 「王国の三分の一公国」の歴史は1107年に終わりを告げた。このとき「文人王」カールマーンが、弟であるアールモシュ公の聖地巡礼の留守に乗じて、その領地を占領したのである[54]。 アールモシュ公は王国に帰還した時に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の軍事的支援によって旧領の回復を図ったが、失敗し「現状(status quo)」が課せられ、三分の一公国の王領への併合による消滅が確定した。

城県と都市の発展(12 – 13世紀)

実弟の公国の占領後、カールマーンは3番目の司教区、ニトラ司教区を現在のスロバキアを設置(再設置)した[55]。 王国の領地の統治は11世紀から13世紀に徐々に発展してきた。新しい城県は、既存の城県の分割あるいはポジョニュ(Pozsony / Prešporok)城県、トレンチェーン(Trencsén / Trenčín)城県、ゲメル(Gömör-Kishont / Gemer)城県およびノーグラード(Nógrád / Novohrad)城県の北へとその版図を拡大した王国の中央の城県によって創設された。その間に王の私有林はゾーヨム(Zólyom / Zvolen)城県とシャーロシュ(Sáros / Šariš Castle)城県を取り巻く「森林城県」に組織された [56] [57] (ポジョニュ城県の県都ポジョニュ市は1526年以降ハンガリー王国の首都であった)。ハンガリー王国の北部の植民はこの時期に継続された。このころスラブ人、ハンガリー人、ドイツ人、ワロン人らがほとんど人のいない土地に居住したのである[58]。 現代の文書はモラヴィアとボヘミアから現在のスロバキアへの移住を記している。一方、北部や東部ではポーランド人やルーシ人が移住した[59]。 王の特権は、発展しつつある地方の貴族の家門の中にスラブ人を起源としているものがいたことを証明している[60]。 ドイツ人移民は13世紀前半までに複数の都市(例:クラピナ、オーバルシュ(Óbars / Starý Tekov)およびバンスカー・シュチャヴニツァ)に移住した[61]。 セペシュ(Szepes / Spiš)地域の移民はもともとハンガリー人、スラブ人(ポーランド人など)に発祥し、1240年からワロン人が到来し、ドイツ人がそれらと一緒になった[62]。 現在のスロバキアの領土は金、銀、銅、鉄および塩という鉱物が豊富であり、鉱業が次第に発展していった[63]。 鉱業と商業の発展はいくつかの集落の地位を強化し、それらは王から特権を賜ることになった。最初の都市特権は現在のスロバキアのトルナヴァ(ナジソンバト、1238年)、オーバルシュ(Óbars / Starý Tekov(1240年))とシェルメツバーニャ(Selmecbánya / Banská Štiavnica(1241年か1242年))に授与された[64][65](ハンガリーで最も古い大学の1つである、現在ブダペストにあるエトヴェシュ・ロラーンド大学は1635年にナジソンバト市に設立された)。特権都市の住民は主にドイツ人の植民都市を起源としていたが、ハンガリー人とスラブ人市民もまた居住していた[66]。 現在のスロバキアのいくつかの都市(例:ブラチスラヴァ、ペジノク) のユダヤ人の存在は、少なくとも13世紀から記録されている。 ユダヤ人の特別な地位は1251年のベーラ4世の憲章に確認されている。しかし地方の教会会議の決定は彼らの活動を制限した(例:任官および土地所有の禁止)[67]。 ニトラのイスラム教徒はまた同様の制限に直面しなければならなかった。彼らは13世紀の終わりには姿を消した(おそらくキリスト教に改宗した)[68]。
モンゴル帝国の侵略は、セペシュ城のような強固な城塞の建造をもたらした。

1241年に、モンゴル帝国は王国の北西部を侵略し(オロモウツの戦い(チェコ語版、ロシア語版))、いくつかの要塞は攻撃に抵抗した(例:トレンチーン、ニトラ、フィラコヴォ(英語版))[69]。 1242年のモンゴル軍の撤退の後、複数の城(例:コマーロム、ベコフ(英語版)およびズヴォレン)が、ベーラ4世の勅令で建築あるいは強化された[70]。 彼はまた、複数の都市(例:クラピナ(1244年)、ニトラ(1248年)、バンスカー・ビストリツァ(1255年)およびゲルニツァ(英語版)(1270年))に対しての都市特権の授与政策を継続した[71]。 彼の治世の間、新しいドイツ人 移民がスピシュ(セペシュヴァール / Spiš(ドイツ語: Zips))に移住し、1271年にイシュトヴァーン5世によって都市特権を授与された[72]。 13世紀最後の十年間は、王室と貴族の複数の集団内部の不和によって特徴づけられる[73]。 王権の弱体化といくつかの有力貴族の勃興は、統治機構の変化をもたらした。王の統治の基礎単位であった城県(”royal counties”)は次第に地方貴族の自治的な統治単位(”noble counties”)に変化していった。しかし、地方貴族は、寡頭制の登場を止めることはできなかった[74]。

少数支配の時代 – 1290年-1321年
Máté Csákとアバ・アマデーが統治する地域

王国へのモンゴルの侵略ののち、領主たちの間で競争が始まった。彼らのそれぞれが、王の許可を受けてあるいは受けずに城塞の建築に努めた[75]。 競争は、貴族間の分化の過程を開始させた。城を造営できるほどの貴族は隣の領主に影響をおよぼずことができるからである[76]。 王族間の紛争はまた貴族(彼らは時に、王から城県の全域を授かった)の権力を強化させ、王国に1290年代に有力な貴族たちによって統治される8つの広大な領邦を形成させる結果となった[77]。 現在のスロバキアでは、城のほとんどは二つのハンガリー人有力貴族(アバ・アマデー(英語版))とチャーク・マーテー(英語版))とその後継者が所有していた(ハンガリー人は姓を先に表記するので、それぞれアバとチャークが姓である)[78]。 1301年のアールパード王朝の滅亡ののち、彼らの両方が王権のもとの一つに従うふりをした。しかし実際は、彼らはその領地を独自に統治していた[77]。 アバ・アマデーは、ゲンツを本拠に、現在のスロバキア東部を統治していた[79]。 彼は、1311年カッシャ城(Kassa / Košice)の南門にてハンガリー・アンジュー朝のカーロイ・ローベルト(のちのカーロイ1世)の刺客によって殺された[80]。 チャーク・マーテーは、トレンチェーンを本拠にした、現在のスロバキア西部の事実上の統治者であった[81]。 彼はカッシャにたいして殺害されたアバ・アマデーの息子と同盟した。しかしカーロイ1世は、反対派に対しての王位の具備を統御し、軍事的支援を都市と国王軍に与え、彼を1312年のBattle of Rozgony / Rozhanovce にて打倒した[35]。 ところが北西部の城県は1321年に彼が死ぬ時まで残った。このときに、国王軍は抵抗なき彼のかつての居城を占領した[35]。 ポジョニュ(Pozsony / Požoň)城県は、1301年から1328年のカーロイ1世の再占領まで、事実上、オーストリア公によって統治されていた[82]。

中世末期(14-15世紀)

20年の長い機関の反対派と領主貴族(オルガルヒ)にたいする闘争ののち、カーロイ1世は王国の中央の権力を強化した[83]。 彼は商業的合意(ヴィシェグラード合意)をボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルク と、ポーランド王カジミェシュ3世と1335年に妥結した。これはカッシャ(Kassa / Košice)からクラクフおよび ジョルナ(ジリナ)からブルノへの商業ルートにおける交易を発展させるものであった[84]。 王はセペシュ(Szepes / Spiš)の24の”ザクセン人” の都市の特権の確認し、エペルイェシュ(Eperjes / Prešov)の特別な権利を強化し、ソモルノク(Szomolnok / Smolník)に特権を授与した[85]。 現在のスロバキアの都市は既にドイツ人市民によって支配されていた。ところが、「w:Privilegium pro Slavis(スラブ人への特権、1381年)」は富裕な都市の「建国」を特に認証している。 国王ラヨシュ1世 はスラブ人にジョルナ(Zsolna / Žilina)の自治評議会議席の半分を与えた。 都市の多く(例:バンスカー・ビストリツァ、ブラチスラヴァ、コシツェ、クレムニツァおよびトルナヴァ)は「自由都市(liberæ regiæ civitates) 」として認められ、それら諸都市は1441年の身分制議会に議員を派遣する権利を与えられた[86][87]。

14世紀の最初の半世紀は、かつての「森林城県」の地域の人口は増加し、その領域は、現在のスロバキア北部にあるアールヴァ(Árva / Orava)リプトー(Liptó / Liptov)、トゥローツ(Turóc / Turiec)、ジョーヨム(Zólyom / Zvolen)のような新しい城県を形成した[88]。 セペシュ(Szepes / Spiš)地域では、住民のいくつかの構成者が特権を賜った。24のザクセン人の都市は自律的な城県を形成し、セペシュ城県(Szepes / Spiš)の独立と10のランスを有する貴族たち(”nobles with ten lances”)は特に自律的な行政単位「席(セーク)」(szék)を組織した[89]。 1412年に神聖ローマ皇帝ジギスムントは13のザクセン人都市をポーランド王ヴワディスワフ2世に与えた。そのため事実上、これら都市は1769年までポーランドに属していた[90]。

1320年代から、現在のスロバキアのほとんどの土地は王が所有していたが、聖職者と貴族(ドルゲト家(Drugeth)、セントジェルジ家(Szentgyörgyi)および セーチェーニ家(Szécsényi)など)もまた領土内に財産を保有していた[91]。 1385年の12月、ジギスムント帝、のちの「ハンガリー王ジグモンド」はその時ハンガリーのマーリア女王の王配であったが、現在のスロバキアの領土であるヴァーグ川(スロヴァキア語名ヴァーハ)以西をいとこのヨープストとモラヴィア公プロコプに差し出した。前者は彼の領土を1389年まで保有し、後者は1405年まで領地のいくらかの統治を維持することができた[92]。

ジグモンド王(在位1387年–1437年)は、その治世において広大な領地を彼の後継者 (ツィッレイ家の一族、 ロズゴニ家と ペレーニ 家など) に与えた。彼の宰相の一人であったポーランドの シュティボリチ・シュティボル(ポーランド語:Ścibor ze Ściborzyc)は、ヴァーフ川周辺に10の城を持っていることから、自分自身を「ヴァーフ全域の王」と称していた[93]。 アルベルト1世 の崩御(1439年)ののち、王位をめぐって後継者間で内戦が勃発した[94]。 エルジェーベト王太后は、現在のスロバキアの複数の都市(クレムニツァ、レーチェおよび バールトファ)を占拠したヤン・イスクラ率いるチェコ人傭兵を雇い、1462年にヤンがマーチャーシュ1世王に降伏するまで、そのほとんどを維持した[95]。

ハプスブルク帝国とオスマン帝国の統治

詳細は「en:Kingdom of Hungary (1538–1867)」および「en:Uyvar Eyalet」を参照
「ハプスブルク君主国」、「オーストリア帝国」、「オーストリア・ハンガリー帝国」、および「オスマン帝国」を参照

モハーチの戦い以降

1550年ごろの王領ハンガリーと東ハンガリー王国。灰色の部分が王領ハンガリーであり、現在のスロバキアの大半(ブラチスラヴァも含む)も含まれている。
1572年ごろの中央ヨーロッパ。紫の地域がハプスブルク帝国、青の地域が王領ハンガリー、ピンクの地域がクロアチア。水色の地域がオスマン帝国、薄緑地域がオスマン帝国宗主下の公国。
1683年ごろの中央ヨーロッパ。紫の地域がハプスブルク帝国、青の地域が王領ハンガリー、ピンクの地域がクロアチア。水色の地域がオスマン帝国、薄緑地域がオスマン帝国宗主下の公国。

1526年のモハーチの戦いののち、スレイマン1世率いるオスマン帝国はかつてのハンガリー王国の中央部を征服し、複数のオスマン帝国の属州をそこに設置した(ブディン・エヤレト(英語版)、エーリ・エヤレト(英語版)、ウイヴァル・エヤレト(英語版)参照)。 トランシルヴァニアはオスマン帝国宗主下のトランシルヴァニア公国(東ハンガリー王国)になり、ここに1601年から1711年の期間のハンガリー貴族に率いられた反ハプスブルクの叛乱の拠点が誕生した。 かつてのハンガリー帝国の残り、そこには現在のスロバキアの領土(ただし南中央部は除く)の大半、現在のハンガリー北部、北部クロアチアおよび現在のブルゲンラントはオスマン帝国の征服に抵抗し、すぐにハプスブルク帝国の属州となった。ハンガリー王国と知られるように(ハンガリー王冠領)して残された。しかし現代の歴史家は、これを「王領ハンガリー」と呼び、専らトランシルヴァニア公国を正当なハンガリーの継承国家と見なしている。

オーストリア大公のフェルディナーンド1世がハンガリー王に選ばれた。1541年のオスマン帝国のブダの征服以後は、ポジョニュ(ドイツ語名プレスブルク、スロヴァキア語名プレシュポロク、現在はスロヴァキア共和国のブラチスラヴァ)が1536年から1784年もしくは1848年の期間、ハプスブルク朝ハンガリー王国の首都、戴冠式開催都市となった。 1526年から1830年までハプスブルクの19人の君主はハンガリー国王として戴冠式を聖マールトン大聖堂(聖マルティナ大聖堂)で執り行った。

オスマン帝国の侵略につれて、ハンガリー王によって統治されていたかつての領地が、ほぼ2世紀の間に、主要なトルコ戦争の舞台となった。この地域は、オスマン帝国の拡大に対する、ハプスブルク帝国の防衛(さらにヨーロッパの他の地域の防衛)のための役割を大いに担わされた。領地は住民の血と財でまかなわれたでなく、金や銀といった天然資源の実質すべての喪失によってもなかなわれた。それは風土病との代償の高くつく困難な戦いにも費やされるようになった。加えて、いくつかの地域での二重徴税が常態化し、地方の都市の減少した人々の生活水準をさらに悪化させた。

オスマン帝国の統治の間、現在のスロバキアの領土の一部はブディン・エヤレト(英語版)、エーリ・エヤレト(英語版)、ウイヴァル・エヤレト(英語版)として知られる属州に含まれた。 現在のスロバキアにあるウイヴァル(ノヴェー・ザームキ)に、ウイヴァル・エヤレトの統治の中心があった。 17世紀の二番目の半世紀に、オスマン帝国の勢力はハプスブルク朝ハンガリーの東部に広がり、テケリ・イムレが率いるオスマン帝国の宗主下のトランシルヴァニア公国が創設された。

1686年のブダ(のちのブダペスト)からのオスマン帝国の撤退以後、同市がハプスブルク朝ハンガリー王国の首都となった。ハンガリー王国、ハプスブルク帝国およびオスマン帝国もとでの数世紀のわたる生活にもかかわらず、スロバキアの人々は独自の言語と文化を維持しつつ継承した。

スロバキア民族主義運動

モラヴィアの画家、アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩』の1枚(1912)。本作が製作された時期にはスラヴ民族は複数の中小国家を得ることなり、汎スラヴ主義は時代遅れとなっていた。

18世紀の間、スロバキアの民族運動が出現したが、それは部分的にスロバキアの人々の間の国民意識の感覚の育成の目的とともに、広範な汎スラブ主義により引き起こされたものであった[96][97][98]。 主にスロバキアの宗教指導によって進められつつ、この運動は19世紀の間に発展していった。同時に、この運動はカトリック路線と別れ、いくつかのグループはありふれた戦略から言語学にいたるすべてのことについて異なる見方を有していた。 特に、1867年以後ハンガリー人の統制が厳格に残され、運動はハンガリー化政策によって制約された。

1780年代のアントン・ベルノラーク(英語版)による、スロバキア言語の最初の辞書は、西部スロバキアの方言を基にしている。 それは主にカトリックの知識人によってサポートされた。ナジソンバトの中心とともに。 ルター派の知識人はチェコ語のスロバキア語された形態の使用を継続した。とくにヤーン・コラールとパヴェル・ヨセフ・シャファリク(英語版)は全スラブ民族の連合を強調する汎スラブ主義のコンセプトの支持者であった。彼らは単一国家を構成しているチェコ人とスロバキア人のことを考え、どちらの言語にも近い言語を作り出そうとした。

1840年代、リュドヴィート・シュトゥールが中央スロバキア由来の方言を基にした言語を発展させたため、プロテスタントは分裂した。 彼の後継者はスロバキアのアイデンティティと言語の独自性を分離した。シュトゥールのまとめた言語は、複数の変更ののち、1847年にカトリックとルター派に承認された。それが公式なスロバキア語としていまに残る。
1850年のハプスブルク朝ハンガリーの北部の地図。現在のスロバキアの領土を中心を管轄した軍区が示されている。

1848年のハンガリー革命において、スロバキア民族主義の指導者らは、オーストリア帝国内部のハンガリー王国からの分離を推進するために、オーストリア側についた。 スロバキア国民会議は、ハンガリー革命政府(オーストリアにとっては反政府組織)に対するオーストリアの軍事遠征に対して支援の用意さえしたのである。 1848年の9月には、占領された領域において、短命な行政府を組織した。 ところが、スロバキア軍はのちにウィーン宮廷によって解散させられたのである。 他方で、現在のスロバキアの領土の、数多のスロバキア人らによる、義勇軍の何分かはハンガリー軍と戦った。 ハンガリー革命の打倒後は、ハンガリーの政治的エリートはオーストリア当局に虐げられ、革命の参加者の多くは処刑、投獄あるいは強制移住された。 1850年ハンガリー王国の5つの軍区と属州への分割によって、それらの二つは現在のスロバキアの領土に行政上の中心を有していた。すなわちポジョニュ管区とカッシャ管区である。

オーストリア当局は両州を1860年に廃止した。スロバキアの政治的エリートは民族の目標へ推進するために、ウィーン宮廷の新絶対主義の時代と伝統的なハンガリーのエリートの弱みを利用した。 トゥルツ=ザンクト=マルティン(マルチン / トゥーローツセントマールトン)はスロバキアの民族主義運動の第一の中心となった。それは、マチツァ・スロベンスカー(英語版)全国文化協会(1863年)、スロバキア国立美術館およびスロバキア国民党(1871年)の設立によってである。

オーストリア・ハンガリー二重帝国成立以降

運動の高まりは、1867年に突然終わりを迎えた。この年、中央ヨーロッパのハプスブルク家領は、オーストリアとハンガリーの妥協の結果として、オーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国へと憲法を改正したのである(アウスグライヒ)。 現在のスロバキアの領土は、汎スラブ主義、分離主義および「1848年のハンガリー革命に対する態度」などがもとで、スロバキア人エリートに不信感を持つハンガリー人の政治エリートによって二重帝国のハンガリー王国に組み入れられた。 Maticaは汎スラブ主義的分離主義で取り締まられたし、1875年には当局によって解散させられた。また他のスロバキアの団体(学派もふくむ)も同じ運命をともにした。

民族的および政治的な営みの兆しは19世紀の終わりに現れた。スロバキアは戦いにおいて、ともにしてきた対象と同盟を結ぶことが必要であることを知ったのである。この認識のひとつの結果、すなわち1895年にブダペストで開催された「ハンガリー王国被抑圧人民会議」、政府を警告した。スロバキア民族の戦いにおいて、スロバキア民族はチェコ人から多くの支援を受けてきた。1896年、チェコ・スロバキア相互同盟が、「チェコスロバキアの協力関係」の強化とスロバキアのハンガリー王国からの離脱の支援のために、プラハで結成された。 20世紀の初頭、政治的および社会的な営みの民主化の伸長は君主制を圧倒する脅威となった。普通選挙のための呼びかけは主要なスローガンとなった。ハンガリー王国において、住民の5%のみが投票できた。スロバキア人は、代表民主制に向かう時代の潮流において、民族の抑圧の緩和と新たな政治活動へ突破口を見出した。

20世紀の初頭のスロバキアの政治的拠点は異なったに党派に散らばった。スロバキア国民党の指導者はマルチンを拠点にし、スロバキアの恩恵のなる国際情勢の変化を期待した。また彼らは大きなstoreをロシア帝国によっておかれていた。アンドレイ・フリンカ神父に率いられた、スロバキアの政治家の、カトリックの党派はスロバキアの公衆の中の少数の活動家に、戦争前に、焦点を絞り、スロバキア人民党と名づけた政治団体を結成した。 雑誌『声 (Hlas)』周辺の 自由主義的なインテリは同様の政治的な路線を追随したが、「チェコスロバキア協力関係」に対する重要性に一層、接続した。独立のスロバキア社会民主党は1905年に出現した。

フランツ・フェルディナント大公によって計画されたオーストリア・ハンガリー連邦の地図。スロバキアは連邦を構成する一つの州として示されている。

スロバキア人はいくつかの結果を達成した。それらの中で最大のひとつは1906年の選挙によって起きた。このとき、民族弾圧は継続されていたにもかかわらず、7人のスロバキア人が議会の議席を獲得した。この成功は政府を警戒させ、スロバキア人が抑圧的政策だと認識する事柄が増加した。 ハンガリー化政策は、アポニ・アルベルト伯爵にちなんだ「アポニ法」として知られる「新教育法」によって頂点を迎えていた。 この新しい法律はハンガリー語教育を、内容のひとつとして明文化しており、義務教育の骨格において、私立の4年制の初等学校のカリキュラムにおいても含まれなければならなかった。これは私立学校が国家の補助を受けるための条件でもあった。 15人のスロバキア人がロージャヘジュ近郊のチェルノヴァ(チェルノヴァー)(Černová / Csernova (チェルノヴァの悲劇参照))の新しい教会の献堂式の場での暴動で殺害されたときに、民族間の緊張は高まった。地域住民は人気のあった聖職者で民族主義的政治家アンドレイ・フリンカに新しい教会を献堂式を執り行ってほしかった。 しかしパルヴィー司教はカノン法に拠り、スロバキア系カノン法学者であるアントン・クリムスキーとの接続と指名を拒否した。彼は、かつて奉仕のためのロージャヘジュの小教区司祭であった。全員がスロバキア系である地方憲兵は、憲兵に護衛された司祭の車両を攻撃した400人の暴徒の群衆の中で、15人の抗議者を射殺した。 これらすべては、スロバキアのハンガリー支配からの離反と抵抗に付け加えられ、事件はオーストリア・ハンガリー二重帝国に反対するプロパガンダ・キャンペーンのトピックとなった。

第一次世界大戦以前、スロバキアの自治の理想は、スロバキアのジャーナリストで政治家のミラン・ホッジャの支援を伴った、フランツ・フェルディナント大公の王国の連邦化計画となった。 この最後の、スロバキアとオーストリア・ハンガリー帝国を結びつける現実的な試みは、フェレンツ・フェルディナーンド(フランツ・フェルデォナント)大公の暗殺(サラエボ事件)によって水泡に帰した。

チェコスロバキア

チェコスロバキアの形成
詳細は「en:Origins of Czechoslovakia」および「en:First Republic of Czechoslovakia」を参照

1928年のチェコスロバキア

第一次世界大戦

第一次世界大戦勃発後、スロバキア人は二重帝国から離脱し、チェコ人とともに独立共和国を創設することを具現化させることとなった。その決定は国外のスロバキア人から起こった。アメリカ合衆国のスロバキア人、特に大きなグループは、大規模な組織を結成した。これらとロシア帝国や他の中立国の組織はチェコスロバキア共和国の構想を持ち帰った。スロバキア人はこれらの運動を支援した。

当時、最も重要なスロバキアの代表者でスロバキア系フランス人の組織のミラン・シュテファーニクはフランスの将軍として軍務についており、パリを拠点にチェコスロバキア国民評議会の代表者を指導していた。本国での全ての政治的集団の代表者を含む政治的代表は、当初はやや躊躇したものの、 マサリク、ベネシュとシュテファーニクの活動を支援した。

戦争の間、ハンガリー当局はスロバキア人への弾圧を倍増させた、スロバキア地域の住民の間の民族主義運動は阻まれた。厳しい検閲にもかかわらず、チェコスロバキア国家建設に対する海外の運動の報道はスロバキアにもたらされた。

第一次世界大戦の間、オーストリア・ハンガリー二重帝国の中のチェコとスロバキアと他の民族主義集団は海外のチェコ人、スロバキア人から独立国家のための運動に多くの支援を得た。戦争の最後の不穏な年、散発的な抗議活動がスロバキアで起きた。1918年5月1日にリプトフスキー・ミクラーシュにて、政治家によって秘密集会が開催された。

オーストリア・ハンガリー二重帝国崩壊

大戦の末期に、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊した。プラハの国民評議会10月28日にチェコスロバキア独立共和国を布告し、2日後にMartinのスロバキア国民評議会はプラハでの布告に加盟した。新しい共和国はチェコ国(ボヘミア、モラビアとシレジアの一部を含む)とスロバキアとカルパト・ウクライナを含んでいた。新国家は議会制民主主義を採用し首都はプラハであった。

1919年の5月から6月のハンガリー赤軍の反撃の結果、チェコ軍はいまのスロバキアの中央から東部から退却し、そこにはプレショフを首都にスロバキア・ソビエト共和国という短命な傀儡国家が設立された。 しかし、ハンガリー軍は攻撃を停止し、のちに三国協商の外交的介入で部隊は撤退させられた。 [99][100][101] 1920年に調印されたトリアノン条約によって、パリ講和会議はチェコスロバキアの南の国境を戦略的経済的な理由によってスロバキアとハンガリーの言語境界よりもっと南に設定した。これにより、すべてあるいはほとんどのハンガリー系住民地域はチェコスロバキアに含まれた。1910年の国勢調査によれば、ハンガリーの官僚によって調査されてきた、 [102] 現在のスロバキア領土の人口は2,914,143人で1,688,413人(57.9%)がスロバキア語話者であり、881,320人(30.2%)がハンガリー語話者であり、198,405人(6.8%) がドイツ語話者であり、103,387人(3.5%)がルテニア、ウクライナ語話者で42,618人(1.6%)がその他の話者であった。 加えて、カルパト・ウクライナ、当時チェコスロバキアに含まれた、地域は1910年のハンガリー政府による国勢調査では人口は605,942人であり330,010 (54.5%)がルテニア、ウクライナ語話者であり、185,433人(30.6%)がハンガリー語話者であり、64,257人(10.6%)がドイツ語話者であり 11,668人(1.9%)がルーマニア語話者であり、6,346人(1%)がスロバキア語(チェコ語も含む)話者であり8,228 (1.4%)がその他の話者である。1930年のチェコスロバキアの国勢調査ではスロバキアの人口は3,254,189人であり、 2,224,982人 (68.4%)がスロバキア人であり、585,434人(17.6%)がハンガリー人であり、154,821人(4.5%)がドイツ人であり、120,926人(3.7%)人がチェコ人であり、95,359人(2.8%)がルテニア、ウクライナ人であり、72,666人(3%)がその他であった。

チェコスロバキア建国後

スロバキア、チェコスロバキア国家においてチェコの後塵を拝していた、は隣りのチェコとは多くの重要な方面で異なっていた。スロバキアはチェコよりも農業地域である一方で工業化は進んでいなかったし、チェコ人が宗教を信奉する可能性がそれほどなかったのに、スロバキア人の多くがローマ・カトリック教会信徒であった。 スロバキア人は総じてチェコより自治による教育や経験がなかった。これら不均衡は、プラハの中央集権的な政府の統制によってなされ、新国家建設とともに、スロバキア人の間に不満を作り出すことになる。[要出典]

チェコスロバキアは、中東欧の中で1918年から1938年まで議会制民主主義を維持したが、この政体は軍事的な問題に直面し続けたし、それら問題のほとんどは国内のドイツ人と関係している。新しいスロバキアの知識人の多数はスロバキアの自治を求めた。自治への運動は1920年からそれが最高潮に達する1939年まで徐々に築かれていった。[要出典]

両大戦間期、チェコスロバキア政府は、スロバキアの工業化を試みた。これらの試みは、部分的には1930年代の世界恐慌のため、成功を収めなかった。チェコ人による経済的・政治的支配に対するスロバキア人の怒りは、第一共和国への不満の、そして独立への支持を増加させた。スロバキア人の多くは、チェコとスロバキアの平等と、大幅な自治を求めるアンドレイ・フリンカやヨゼフ・ティソに加わった。

スロバキアの自治に向けて(1938年-1939年)

ウィーン裁定によるスロバキアの領土の喪失。

1938年9月、フランス、イタリア、イギリスとナチス・ドイツはミュンヘン会議で「ミュンヘン協定」を決定し、それによってチェコスロバキアはズデーデン地域として知られるドイツ人居住地域をドイツに割譲した。11月第1次ウィーン裁定によってイタリアとドイツはチェコスロバキア(のちのスロバキア)に南部スロバキアの主にハンガリー人が居住している地域をハンガリーに割譲するように強制した。10月にドイツがチェコとスロバキアの指導者へなされた「領土的要求はズデーデンだけ」という公式な宣言にもかかわらず実行された。

1939年3月14日、スロバキアは独立を宣言し、外交と徐々に内政もナチス・ドイツの影響下に入ることになる中欧の名目上の独立国になった。ヨゼフ・ティソは首相にのちに大統領になった。

3月15日、ナチス・ドイツはミュンヘン協定以降に残っていたボヘミア、モラビアとシレジアに侵攻した。ドイツ人はこの地域にベーメン・メーレン保護領として知られる保護領を設立した。同日に、カルパト・ウクライナは「カルパト・ウクライナ」として独立を宣言した。しかしハンガリーがすぐに侵攻しカルパト・ウクライナ共和国を併合した。3月23日には、ハンガリーはいまのスロバキア東部の領土とされる地域を占領した。これはスロバキア・ハンガリー戦争を引き起こした。
第二次世界大戦
詳細は「独立スロバキア」、「en:Slovak invasion of Poland (1939)」、および「スロバキア民衆蜂起」を参照

1941年のティソ政権下の独立スロバキア

保護国の独立スロバキアは第二次世界大戦のはじめの年を相対的平和な状態でくぐり抜けた。枢軸国のひとつとして、スロバキアは1939年にドイツとともにポーランドに侵攻した(スロバキアのポーランド侵攻)。この貢献はドイツの戦争の努力においては象徴的だったが、参加した兵力(ソビエトの遠征にはおよそ4万5000人)はスロバキアの人口(1940年で260万人)比にたいして特段のものではなかった。

独立後すぐに、ヨゼフ・ティソの権威主義的な政府の下で、国内の9万人のユダヤ人を目的とした一連の政策が開始された。w:Hlinka’s Guardはユダヤ人を攻撃し、「ユダヤ人法(”w:Jewish Code”)」が1941年に可決された。同法はニュルンベルク法に似ており、ユダヤ人に黄色の腕章の着用を義務付けるものでありユダヤ人は結婚や多くの職業から追放された。 スロバキア議会は1942年5月にユダヤ人の国外追放の法案を受け入れ、全会一致で同法案を可決した。 この法案に反対票を投じたのがスロバキアでは少数派のハンガリー人のエステルハージ・ヤーノシュだというの記録は興味深いものかもしれない。 [103] 1942年3月から10月の間、スロバキアはおよそ5万7000人のユダヤ人のドイツ占領下のポーランドに強制送還し、そこではユダヤ人のほぼ全員が殺された。 残る2万4000人の強制送還は、教皇使節がスロバキア大統領にドイツ当局はスロバキアから強制送還されたユダヤ人を殺していることを伝えると、取りやめになった。 しかし、1944年のスロバキア国民蜂起のあとのドイツ軍のスロバキア占領後、1万2600人以上のユダヤ人がドイツ軍によって強制送還された。 このときのユダヤ人のおよそ半分は強制収容所で殺された。[104] 1万人ほどのスロバキアのユダヤ人の生存者は地域住民に匿われ、6000人から7000人のユダヤ人はスロバキア当局の公的な保護を受けた。

1944年8月29日、6万人のスロバキア軍と1万8000人のパルチザンがナチスに対して蜂起した。彼らは様々な地下組織とチェコスロバキア亡命政府によって組織されていた。この暴動は後に「スロバキア国民蜂起」として知られるようになる。 スロバキアは激しいドイツの反撃と占領によって荒廃したが、ゲリラ戦は組織的なレジスタンスが終わった後も継続した。最終的にはドイツ軍がこれらを鎮圧したが、この蜂起はスロバキア人にとって歴史的に重要な事件となった。スロバキアが連合軍に貢献した国の一つとして戦争を終戦を迎えたことを許されたからである。

1944年ののち、ソビエトの攻撃は激化した。それゆえルーマニア軍に支援された赤軍はドイツ軍をスロバキア領内から駆逐した。1945年4月4日ソ連軍はスロバキアの首都ブラチスラヴァに入城した。

第二次世界大戦後のチェコスロバキア

詳細は「en:History of Czechoslovakia」を参照

1945年、第二次世界大戦の終結によってチェコスロバキアは再建された。しかし、ルテニア地方はソ連に割譲され、領土的には縮小した。またベネシュ政令によって、戦前300万人が居住していたドイツ系住民が追放され、ハンガリー系住民も住民交換で国外に去り、ユダヤ人やロマはナチスのホロコーストによって激減し、多民族性は失われた。

1946年の総選挙で、スロバキアにおいて民主党が、チェコではチェコスロバキア共産党が勝利を収めた。1948年の2月の政変で、共産党の支配が確立し、ソ連の衛星国となった。
「チェコスロバキア事件(プラハの春)」
詳細は「プラハの春」を参照

強固な共産主義者の統制はこの国の第二次世界大戦後の40年を形作り、アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロバキア共産党中央委員書記長就任後の1968年のプラハの春と呼ばれる短い自由化の時期を阻んだ。 ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」という現実のために努力し、政治、社会、経済分野の改革を提案した。ドゥプチェクはあまりに遠くに行ってしまったというワルシャワ条約機構加盟国の間での危惧がソ連、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツ、ポーランド軍による1968年の8月21日のチェコスロバキア侵攻と占領を導いた。 1969年4月にグスターフ・フサークがドゥプチェクに代わって共産党の指導者になった。

1969年-1990年のチェコスロバキア

1970年代と1980年代は「 正常化(”normalization”)」の時期として知られ、このころには1968年のソ連の侵攻への謝罪がチェコスロバキアにとってソ連の体制にできうる最善の反対行動とされ、そのソ連の保守的な体制を予防した。 政治的、社会的経済的には停滞した。

改革運動の中心はプラハにあったため、スロバキアは「正常化」をチェコほど強く経験しなかった。事実、スロバキア共和国は1970年代と1980年代にチェコ共和国より相対的に高い経済成長を比較的に遂げた。(1994年からいまに到るまでの中で)。

1970年代はまた反体制運動がみられた時期であり、特にチェコ共和国おいてはである。1977年1月1日に250人以上の人権活動家が「憲章77」に署名し、そこにはチェコスロバキア政府が人権を守る義務を果たすことに失敗していると批判がされていた。

「ビロード革命」

詳細は「ビロード革命」を参照
Pamätná tabuľa na bratislavskom Námestí SNP

1989年11月17日、ビロード革命として知られる一連の抗議運動が始まり、チェコスロバキアでの共産党支配の終焉を導いた。

同年12月には暫定政府が結成され、1948年以来の初めてのチェコスロバキアにおける自由選挙が1990年6月に行われた。1992年に新連邦憲法がスロバキアの自治問題で袋小路に陥った。

1992年の後半、同意がチェコスロバキア解体に対して平和裏に現れた。1993年1月チェコ共和国とスロバキア共和国のいずれもが同時に、そして平和的にその存在を明示した。両国家は直ちにアメリカ合衆国とヨーロッパ周辺諸国からの承認を得た。

「ビロード革命」の後の数日、「憲章77」と他のグループは市民フォーラムを結成するために連合し、官僚的な改革と市民の自由を擁護する参加のグループになった。その指導者で、戯曲家で反体制派のヴァーツラフ・ハヴェルが、1989年の12月のチェコスロバキア大統領選挙に当選した。スロバキアの「市民フォーラム」「暴力に反対する公衆」は同じ理念を表明した。

1990年の6月の選挙では、「市民フォーラム」と「暴力に反対する公衆」は地すべり的勝利をおさめた。ところが「市民フォーラム」と「暴力に反対する公衆」は、彼らが共産党支配に最も反対的な集団だったのにもかかわらず、彼らは政党として、比較的低い影響力を確立していた。 1992年の選挙において、新しい政党の連続体が両方の「市民フォーラム」と「暴力に反対する公衆」を代表するようになった。

「ビロード離婚」(1992年)以降のスロバキア

詳細は「ハイフン戦争」および「ビロード離婚」を参照
ブラチスラヴァの中心的ビジネス街の一つムリンスケー・ニヴィ通り(ルジノウ街区)

1992年6月に選挙が行われ、ヴァーツラフ・クラウスのチェコ経済改革プラットフォーム市民民主党がチェコで勝利した、自治の公平性のアピールを基礎にする、ヴラジミール・メチアルの民主スロバキア運動(HZDS)がスロバキアの有力政党として台頭してきた。 メチアルとクラウスは交渉し、チェコスロバキアの解体に合意した。メチアルの政党はスロバキア独立から5年間、不信任投票が出され、ヨーゼフ・モラヴチクの改革政府が運営していた1994年の9か月間を除いては第一党であった。

初代スロバキア大統領はミハル・コバチであり、スロバキアを「東欧のスイス」にすると約束した。最初の首相はウラジーミル・メチアルであり彼は1992年のチェコスロバキア時代からスロバキア地区の首相職を務めていた。

ルドルフ・シュスターは1999年の大統領選挙に当選した。ミクラーシュ・ズリンダ率いる連合によって1998年の議会選挙ののちの与野党交代の前に、申し立てによるとメチアル準権威主義的政府は民主的規範と法による支配に違反していた。

第一次ズリンダ制憲は多くのスロバキアをOECDに加盟できるような政治的経済的改革を行い、EUとの加盟交渉に接近しNATOには加盟に立候補した。 しかし与党の人気は急速に低下した。複数の新政党が現れた。これら新政党は世論調査では高い支持率を持っていた。メチアルはHZDSの指導者の地位にとどまり、HZDSは第1次ズリンダ政権期には野党として20%、ときにはそれ以上もの支持率を維持した。

2002年9月の選挙で、支持者のうねりでズリンダ首相のスロバキア民主キリスト教連合(SDKÚ)が彼に政権第2期をゆだねた。 彼は3つの異なる中道右派政党 ハンガリー連合党 (SMK), the キリスト教民主運動 (KDH) と新市民同盟 (ANO)と連立した。 連立政権は議会で過半数を占めた。 政府は強力に、NATOとEU統合を支援し、第1次政権で始まった民主的で自由市場的傾向を継続することを表明した。 新しい、連立政権は最優先課題に、海外投資の誘致、高度な医療システムのような社会福祉改革とNATOとEUへの参加を認めてもらうことがあった。 ウラジーミル・メチアルの民主スロバキア運動は1998年の選挙では27%の支持を受け(ほぼ900,000人が投票)、2002年の選挙では19.5%(ほぼ560,000人が投票) 野党にはHZDS,社会党 (Róbert Fico党首)と共産党が含まれ共産党の支持者は6%であった。 当初、スロバキアは近代的な市場経済の発展はチェコよりも難しいと言われていた。 スロバキアは2004年3月2日にNATOに加盟し2004年5月1日にEUに加盟した。スロバキアは2005年10月10日に国連安保理の非常任理事国に2度目に選ばれた(任期2006年–2007年)。

2006年の6月1日に選挙があり、左翼の社会党が29.14% (約67,000人が投票)の得票率で勝利し、Slotaのスロバキア国民党とメチアルのスロバキア民主運動と連立した。 野党にはかつての与党SDKÚ、SMKとKDHが含まれる。

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関連項目

w:Communist Party of Czechoslovakia
w:History of Bratislava
w:History of Czechoslovakia
ハンガリーの歴史
オーストリアの歴史
チェコの歴史
ポーランドの歴史
欧州連合の歴史
w:History of the Slovak language
チェコスロバキアの大統領
チェコスロバキアの首相
スロバキアの大統領
スロバキアの首相
w:List of rulers of Slovakia
w:Politics of Slovakia
w:Slovaks in Czechoslovakia (1918-1938)
w:Slovaks in Czechoslovakia (1960-1990) 』

オランダ時代のインドネシア地形図

オランダ時代のインドネシア地形図
https://homipage.cocolog-nifty.com/map/2007/06/post_af07.html

 ※ 『世界史の教科書にも登場する1602年の東インド会社 Verenigde Oostindische Compagnie 設立以来、オランダによる支配は1949年の主権移譲まで350年近くも続いた。その間に作られた膨大な歴史資料がここに集積されていた。』…。

 ※ オランダの支配が、『350年近くも続いた。』ということが、驚きだよ…。

『オランダのアムステルダムにある王立熱帯研究所 Koninklijk Instituut voor de Tropen(略称 KIT、英訳 Royal Tropical Institute)は、長年にわたって熱帯地域の文化資料の収集と研究を行ってきた。その中核に位置づけられるのが、旧オランダ領東インド諸島 Nederlands-Indië、すなわち現在のインドネシアに関する資料だ。世界史の教科書にも登場する1602年の東インド会社 Verenigde Oostindische Compagnie 設立以来、オランダによる支配は1949年の主権移譲まで350年近くも続いた。その間に作られた膨大な歴史資料がここに集積されていた。

近年、この中から地図コレクションがKITのサイトで公開され始め、オランダ本国の旧版地図と同じように精密で美しい地形図や都市図が、人々に知られるようになった。そのことは本ブログ(旧稿)でも紹介したとおりだ。
Blog_indonesia_historicalmap1
1:50,000バタヴィアとその周辺 要塞地図
Garnizoenskaart Batavia (Jakarta) en Omstreken 1940年
Blog_indonesia_historicalmap2
同 凡例の一部
 

ところが、2011年に転機が起こる。オランダ政府が支出抑制策を打ち出し、そのあおりを喰らって、KITに交付されていた年間2000万ユーロの補助金が廃止されることになったのだ。これにより事業予算が半減してしまうことから、KITは活動縮小の一環として、貴重なコレクションを手放さざるを得なくなった。2013年にライブラリーが閉鎖された後、書籍や資料約25,000冊、刊行物3,300冊、地図11,500枚、地図帳150冊から成るコレクションは、まとめてライデン大学図書館 Universitaire Bibliotheken Leiden(英訳 Leiden University Libraries)に移管された。

嬉しいことに現在(2015年)、地図コレクションのウェブサイトは、ライデン大学の手によって再開されている。そこで改めて、地図の検索方法を記しておこう。例として、首都ジャカルタ Jakarta の地形図を照会するとしよう。ジャカルタはオランダ植民地時代、バタヴィア Batavia と称されたが、このサイトではジャカルタの名で登録されている。

■参考サイト
ライデン大学図書館(KIT 地図収集)http://maps.library.leiden.edu/apps/s7

・By Locationに “Jakarta” と入力、右のボックスから “Indonesia” を選択して、[SEARCH]をクリック。
Blog_indonesia_historicalmap_hp1

・検索結果が表示されるので、ここでは一番上の”1. Jakarta” を選択(クリック)する。
Blog_indonesia_historicalmap_hp2

・Jakartaに関する全ての図面が表示されるので、左のチェックボックスの Type of map(地図の種類)で “topographic(地形図)” 以外のチェックをはずす(画面は自動更新される)。

・これで、ジャカルタをテーマとする地形図のサムネールが一覧表示される。
Blog_indonesia_historicalmap_hp3

・各項目にある “View the Map” をクリックすると、専用画面が起動して、地図が実寸で表示される。

この専用画面には、同じシリーズの図葉が存在するときに、ワンクリックで表示する機能がある。

・隣接図の選択:画面右上の Overview ウィンドウに現れる矢印をクリックする。

・索引図から選択:画面右下の Series ウィンドウ(”Click here to enlarge” で拡大可能)で見たい場所をクリックする。

地形図の解像度はそれほど高くはないものの、最大限に拡大すれば細部も問題なく読み取れるレベルだ。インドネシアの幹線鉄道は多くがオランダ時代に建設されているので、地形図上でその軌跡を追えばひととき楽しめる。

最後に、かつてKITのホームページに紹介されていた古地図公開の背景を引用しておこう。

「KITはその著名な古地図コレクションをデジタル化して、オンラインで利用可能にした。オランダのみならず海外の科学者、地図製作者、その他関係者がインターネット経由で、旧オランダ植民地の最大規模の地図コレクションにアクセスできるようになった。地図コレクションのデジタル化は、数年にわたるプロジェクト『KIT特別遺産 Erfgoed Extra』の成果の一部である。外務省の支援によるこのプロジェクトで、KITは、未完だった植民地史料や遺物の整理保存を終えることができた。

KITは(亜)熱帯地方の地図・海図の広範なコレクションを所有している。地形概観図、区分図シリーズ、市街図、主題図、国別国勢地図帳を含め、コレクションは全体で約27,000枚の地図と1000冊以上の地図帳から成っている。このコレクションは、科学調査の用途や開発計画、緊急援助、平和維持活動の策定で参考に供されたほか、陸地・海洋の境界を決定する際の国際裁定の資料としても活用された。古地図部門はコレクションの基礎を成すもので、主としてKITが『植民地社会研究所 Vereeniging Koloniaal Institute』として運営された時期に遡るオランダ領東インド諸島、同アンティル諸島およびスリナムの地図で構成される。この部門には、1850~1950年の地図約15,000枚と地図帳150冊がある。

古地図コレクションの原本を直接精読すれば、常に大きな成果が得られるが、保存という点で見れば、古資料の劣化が進むために好ましくない。あい反する利益を両立させるために、KITは、1850~1950年代の地図・海図のコレクション全体をデジタル化し、それをインターネットでアクセス可能とすることにした。このような取り組みはオランダでは当研究所が最初である。」
Blog_indonesia_historicalmap3
1:50,000 チアンジュール Tjiandjoer (Cianjur) 1941年

なお、これらの地形図の一部は、戦時中、日本の陸地測量部が作成した「外邦図」の原図にも使われた。東北大学附属図書館/理学部地理学教室が公開する地図画像の中にそれらが見つかる。下図はその一例で、左が旧KIT所蔵の1:50,000原図(ただし1941年版)、右が同縮尺、同図郭の外邦図(ただし1925年版を4色に複製したと注記あり)。減色化により、見た目の印象は異なるが、地図表現はほぼそのまま利用されているのがわかるだろう。

■参考サイト
東北大学外邦図デジタルアーカイブ http://chiri.es.tohoku.ac.jp/~gaihozu/
Blog_indonesia_historicalmap4
同じ範囲の原図と外邦図
(本文中の説明参照)
 

(2015年3月1日改稿)

★本ブログ内の関連記事
 オランダの地形図
 米軍のアジア1:250,000地形図
 フィリピンの地形図
 米軍のベトナム1:50,000地形図 』

古代ギリシア周辺の地理・気候・特徴を見てみよう

古代ギリシア周辺の地理・気候・特徴を見てみよう
https://rekisi-daisuki.com/entry/2019-08-21

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 「バルカン半島」のところでも考察したが、元来、「半島」というものは、「ランドパワー」と「シーパワー」が激突するところとなる…。

 ※ これに加えて、ユーラシアの辺縁に位置するから、いわゆる「リムランド」の代表でもある…。

 ※ さらに加えて、古代ギリシア、ビザンチン帝国、オスマン帝国…と、「支配者」「統治者」が変わっているんで、「文化」が「重層構造」となる…。

 ※ そういう、「地理と歴史の力学」が強く作用するところとなるわけだ…。

『歴史を学ぶ前に基本的な場所や風土などを学んでいきましょう。』

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ギリシアの位置を確認しよう
ギリシアの風土を見てみよう
    土地
    気候
    作物

ギリシアの位置を確認しよう

現代でも同じ国名が残っているので分かりやすいですが、地図で確認を。
古代ギリシア周辺地図

ギリシアはヨーロッパにあるバルカン半島(上の地図で言うとストライプ部分)の先の方に位置しています。薄いピンクが現在のギリシア共和国です。

古代ギリシアの場合も大体は現在のギリシアと同じと考えてもいいのですが、古代ギリシアの発展がポリスと呼ばれる都市国家単位の発展が主だったことに注意した方が良いかと思います。

アナトリア半島やアフリカ大陸にもギリシアの植民都市があり、ギリシア世界と言われた時には現在のギリシアだけでなく、そういった植民都市を含んでいたりします。統一国家が作られるのは他の地域と比べて少し遅れますので、これまで学んできた『国』とは少し感覚が違うかもしれません。

独立した都市国家を作る場合もあれば、交易目的に都市国家を作ることもありました。交易を手広く行っていたこともあってギリシア人の活動範囲は非常に広く、ギリシア沿岸は勿論地中海沿岸のイタリア半島、スペインのあるイベリア半島、黒海沿岸、北アフリカ沿岸などまで足を延ばしていたようです。

ギリシアの風土を見てみよう
土地

多くの島から成り立っています。また、現・ギリシア国土の80%が山地から成り立っていると言われており、大きな平野や大河がありません。

さらにギリシアの北方は豊かな土壌(肥沃な三日月地帯と同様のチェルノーゼルと呼ばれる土壌が広がっています)ですが、南方の土壌はやせた石灰岩質『テラロッサ(赤い土)』だと言われています。

※土壌は、土の元となる岩石などの材料に生物が作用したり遺体の腐食したりして出来上がっていきます。元の岩石の種類、土壌に作用する生物の種類、気候など多くの要素が合わさって土壌の特徴が生まれてきます。また、土の材料である岩石の粒が小さければ小さい程粘土質となるようです。

以前書いた記事でギリシアの土壌がランクBって書いた地図を紹介してるのに「何故やせた土地なの?」と疑問を持った方!一応言い訳させてください!!気にならなかった方はスルーで・・・

古代中東地図

古代オリエントの世界古代オリエント世界の地理・気候から、各地でどんな農耕・牧畜が行われていたのかを探っていきます。…

日本でメインの土壌・黒ボク土は

 チェルノーゼムと外観は同様でも、性質や生産力は全く劣った、世界でも指折りの不良土なのです。 
『これなら分かる「土と肥料」の実践講座-世界の土を知る』より

この様に評されているにも拘らずAからGの評価ではランクCに評価されています。ギリシアの土壌はランクBで上から二つ目とはいえ、ランクAのチェルノーゼルとは歴然たる差があるってことなのでしょう。

歴史から脱線してきたので土壌については一旦終えますが、この土壌の分布を見てると見事に遊牧民のいる場所がランクGに分類されてますね。覚えておいて損はないかもしれません。

気候

ケッペンの気候区分でいう地中海性気候です。
ギリシアの気温と降水量

ギリシアでは、夏は日差しが強く気温は高いが湿度の低いカラッとした過ごしやすい気候で、冬に一定の雨が降ります。

作物

夏に乾燥気味の気候とやせた土壌からできる作物は限られています。オリーブやブドウなどの果物や柑橘類の栽培です。

現在のギリシア…というかイタリアやスペインを含む地中海料理といった方が想像しやすいかもしれませんが、地中海で獲れるタコやイカ、貝、魚、魚卵などに加えて農作物として獲れたオリーブを加工したオリーブオイルを使用する料理が多いですよね?

ワインのイメージも地中海には結構あります。ちなみに、トマトは南米のペルー原産なので食べられ始めているのは18世紀以降ですから古代には食べられていません(トマト以前は酢を使用していたそうです)。ギリシアの場合は、トルコからの影響もあってヨーグルトを使用した料理も多いです。

実際にオリーブもブドウも昔から食べられていましたし、ヨーグルトを作るための牧畜もギリシアでは行われていました。

地図や土壌ランキングを見てもらうと分かりますが、マケドニアにはエーゲ海にそそぐ川と豊かな土壌がありました。ギリシア南部程山がちでもありません。

そんなわけで、 ギリシアに文明が興る前、石器時代(~3200年前頃まで)初期農業が行われ始めたころにはギリシア北方のマケドニア周辺が先進地域でした。

ですが、マケドニアで獲られる穀物量といえば大河と大きな平野のあるメソポタミアにはかないません。そこで古代のギリシア人は方針転換を決めました。ギリシア北部から南部に移行してオリーブオイルやワインを交易品として用いるようになっていったのです。

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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