ガザ・ストリップのパレスチナ人社会
ーー占領下における社会的•経済的変容ーー
木村修三
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiz4peptYuCAxV_iFYBHYd2A2kQFnoECA8QAQ&url=https%3A%2F%2Fiuj.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F892%2Ffiles%2F10_16_0001d.pdf&usg=AOvVaw39_CHPy0l1fEbWjnSooNyb&opi=89978449
※ 今日は、こんなところで…。
※ 原本の.pdfの「文字画像」としての「状態」が良くないので、テキスト変換しても、「誤変換」が多い…。
※ まあ、大体、意味は取れるが、気になる人は、「原本の.pdf」に当たってくれ…。
『I.序
旧英国委任統治領バレスチナを地中海に沿って南下すると、エジプト領シ
ナイ半島の北側に接して長さ約45Km、幅6〜IDKmの細長い範囲に、約51
万人のバレスチナ人が居住している区域がある。これがガザ•ストリップ
(ガザ地区)である。
ガザという地名は旧約聖書にも出てくる地中海沿岸の
昔からの港町として知られているが、ガザ•ストリップという特別の区域が
形成されたのは第1次中東戦争の結果によるものであった。
すなわち、その
戦争の結果、旧英国委任統治領パレスチナの大部分がイスラエル支配領域と
なり、イスラエルの支配に入らなかったのは、トランス•ヨルダン軍が占領
したウエストバンク(西岸地区)および東エルサレムと、エジブト軍が占領
したガザ・ストリップだけとなった。
ここから、パレスチナの他の部分から
切り離された特別の区域としてのガザ•ストリップが形成されるに至ったの
である。
ガザ・ストリップに対するエジプト軍の占領行政は1949年から1967
年までの18年間続いたが、1967年の第3次中東戦争の結果、西岸地区及び東
エルサレムとともにガザ地区もまた、イスラエルの占領するところとなり、
その占領が今日もなお続いていることは周知のとおりである。
パレスチナ問題を論じる時、中心的地位を占めるのは西岸地区と東エルサ
レムであり、そこでのバレスチナ人の動向やその将来に関しては、国際的に
も大きな関心が寄せられている。それをめぐる著書•論文は、枚挙にいとま
がないほど多数刊行されている。
ところが同じイスラエルの占領地でありな
がら、ガザ地区に関しては、あまり論じられることがない。論じられるとし
ても、西岸地区及び東エルサレムにつけたりの形で言及されることがほとん
どである。
ガザ地区の現状に関し数少ない書物⑴ を著しているー人、ア
ン・レッシュの表現をもってすれば、ガザはパレスチナの「忘れられたー
一 89 —
隅」になっているとさえいえる。
(2>
このようにガザ地区が論じられることが少ないのは、面積が362Km 2で
西岸地区の約15分の1と狭いことに加えて、周囲を地中海、イスラエル、シ
ナイに囲まれて隔絶していること、イスラエルの厳しい占領政策のために住
民の意見の表出や政治的動きが極度に抑えられていること、ここに居住
し、あるいはここを訪問する外国人ジャーナリストや外国人研究者の数がき
わめて限られているため、その動向が外部にほとんど伝えられないこと、信
頼するに足るデータを入手することがきわめて困難であること、などの理由
によるであろう。
しかし、きわめて限られたデータや情報から知る限り、「忘れられたー
隅」であるガザ地区で現に進行しているのは、イスラエルによる事実上の併
合であり、西岸地区において見られるよりもはるかに過酷なパレスチナ人に
対する隔離と抑圧である。
そこには、南アフリカ共和国で黒人に対し行われ
ているのと似たような、イスラエルによる「ソエト化(3)jあるいは「バン
ツースタン化⑷」が進められつっあるといってよい。
そこで本稿では、まず
イスラエル占領以前のガザ地区をごく概括的に見、次いでイスラエル占領下
におけるガザ地区のバレスチナ人社会の変容について見ていくことにする。
-90-
II・イスラエル揄堀のガザ駆
1•第1次中東戦前のガザ地区
前述のように、ガザ・ストリップが特別の区域を形成したのは、第1次中
東戦争の結果、エジプト軍の占領区域として、そこがパレスチナの他の部分
から切り離されてしまったからである。
南部パレスチナのこの地帯には古く
からガザ、ハーンユニス、ラッファなどの町があり、周辺の農村あるいは遊
牧のベドウィンと有機的なつながりをもって経済•社会生活が営まれてい
た。
英国の委任統治時代には、ガザ地区とベールシェバ地区より成るガザ郡
を形成し、その中心地はガザ市であった。
1922年に行われたパレスチナの最
初の人口調査によれば、ガザ地区の人口は2万8,800人であったが、1947年
には約8万人と推定されるに至った。(5)
ガザ市は古くからの港町として知られ、委任統治時代にはヤッフォ、ハイ
ファに次ぐパレスチナ第3の港であり、主にベールシェバからヘブロンにか
けての穀物生産地帯への出入港及び漁港としての役割を果たしていた。
ガザ
周辺の農村は柑橘類の生産でも知られていたが、しかし生産量及びブランド
のいずれにおいても、ヤッフォ地区に劣っていた。
他方、ハーンユニスと
ラッファは農産物及び家畜の市場の町であり、とくにラッファは、エジプト
からパレスチナに至る鉄道のバレスチナ領に入って最初の駅がある町でも
あった。
— 91 —
2.第1次中東戦争後のガザ地区
イスラエルの独立宣言直後に起こった第1次中東戦争は、ガザ地区に決定
的な変化をもたらすことになった。
南部バレスチナにおいてエジブト軍が占
領したまま停戦を迎えたガザ・ストリップは、イスラエルの支配下に組み込
まれた東の穀物生産地帯と牧草地帯、及び北の柑橘類と野菜を生産する村々
から切り離されてしまった。
しかも、わずか8万ほどの人口を抱えていたこ
の狭い区域に、イスラエルの支配下に入ったバレスチナ南部の村々からほと
んど着の身着のままで逃げ出し、あるいは追い出された約18万人のバレスチ
ナ人が難民として流入し、ガザ地区の既存の社会•経済構造を根底から変え
ることになった。
流入した難民の多くは当初、雨露を凌ぐ場所さえろくにないという悲惨な
状態に置かれたが、やがて国際赤十字、アメリカ•フレンド・サービス委員
会、国連などから救援を受け、1950年以降はUNRWA (国連救済復興機
関)が難民を対象とする最低限の食料配給、保健衛生、初等教育などのサー
ビスを行うようになった。
UNRWAはまた1952年以降、在来の地主から買
収または借り受けた土地、あるいは旧国有地に、1世帯当り1部屋あるいは
2部屋の居住施設の建設を行った。
これが現在もその多くが残っている八つ
の難民キャンプである。
難民の中でも上流階層に属する者は、やがて西岸地
区あるいはヨルダンへと移っていった。
また、ガザ•ストリップ内に親戚あ
るいは身寄りのある者、さらにはUNRWAまたはエジプト軍政府に雇用
されて確実な収入源を得た者は、キャンプを出て町や村に住むようになっ
エジプトはガザ地区に軍政を敷いたが、その統治は住民の自主的な動きを
極力抑えようとするものであった。
市町村長、市町村議会議員などの公職者
はすべて任命制とされ、自治を求める動きは抑えられた。
その統治に批判的
な動きをする者、とくに共産党やムスリム同志会(イフワン)の活動家はし
一 92 —
ばしば逮捕された。⑺
また、住民は武器を持つことを禁じられた。
住民の
イスラエルへのテロ活動により、イスラエル側から報復攻撃を受けることを
エジプト当局が恐れたからである。
ヨルダンに併合された西岸地区及び東エ
ルサレムのバレスチナ人が、ヨルダンの旅券を持ち、ヨルダンを経由してア
ラブ各国と交流できたのに反し、「無国籍」のガザ住民が外に出るにはエジ
ブトに出る以外になく、エジプトに出るにも軍政当局の特別の許可が必要で
あった。
かくしてパレスチナの他の地域のパレスチナ人から隔絶され、また
アラブ各国との交流も制限されたガザのバレスチナ人たちの多くは、きわめ
て貧しい、閉塞した生活を送らざるを得なかった。
こうした絶望的な状況に置かれたパレスチナ人は、しばしばイスラエル領
に越境を試みた。
こうした越境者の中には、ひそかに入手した武器でテロ活
動を行う者もあったが、しかし当初は、かって自分たちが住んでいた村へ
行って少しでも残っている財産を持ち帰ろうとする者、あるいはひそかに西
岸地区またはヨルダンへ渡ろうとする者が多かったのである。,8,
しかし、
こうした越境事件があるたびに、イスラエル側は激しい報復攻擊を行った。
なかでも1953年8月、アリエル•シャロン指揮下の第101特別部隊がプレイ
ジ難民キャンプを襲撃し、50人以上の死者と多数の負傷者を出した事件はバ
レスチナ人を激昂させ、以後、フェダイーンのテロ活動とイスラエル軍の報
復攻撃とが次第にエスカレートするようになった。,9)
3.スエズ戦争後のガザ地区
1956年10月、第2次中東戦争(スエズ戦争)に際しガザ地区を占領したイ
スラエル軍は、翌57年3月全面撤退するまで同地区に外出禁止令を布き、バ
レスチナ人の抵抗分子を撤底的に弾圧した。とくにハーンユニスとラッファ
では大量の住民が処刑されたといわれる。い。)これに対し、地下にもぐった
-93 –
共産党、イフワン、バアス党などの活動家たちは果敢な反抗運動を展開し
/jo
イスラエル軍の占領とそれに対する住民の反抗は、エジブトのガザに対す
る政策を改善させる効果を生んだ。
イスラエル軍の撤退後再び戻ってきたエ
ジブト軍当局は、それまでと違って、バレスチナ人の政治的•経済的要求に
ある程度応える姿勢を示した。
1957年には初めて行政評議会の設立が認めら
れ、保健、教育、福祉の責任が住民に任されることになった。
1961年にはエ
ジプトの「アラブ社会主義連合」の支部に相当する「国民連合」の設立が許
され、半数が同連合から選出され半数が行政部門から任命される立法評議会
が発足した。
立法評議会は新たな法令を制定し、あるいは既存の法令を改正
する権限を与えられたが、委任統治時代の英国の法令に基づき、軍政当局は
拒否権を維持した。(,2)
ナセル大統領はまた、機能を停止していたガザ港をフリー•ポートに指定
し、エジプトで認められていなかった産品の自由輸入を一定限度まで認め
た。
他方、ナセルは東欧の社会主義諸国と取決めを結んで、ガザの柑橘類の
輪出を促進した。
フリー •ボートと柑橘類の海外輸出によって、それまで逼
塞状態にあったガザの経済はある程度活況を呈するようになった。旧国有地
の払い下げを受けて、新たに柑橘類の生産に従事する農家の数も増えた。
エジプトはまた、パレスチナ住民の要求とシリアからの非難をかわすため
に、1964年にアラブ連盟に働きかけてPLO (バレスチナ解放機構)の設立
を行わせた。
アハマド・シュケイリを議長とする最初のPLO執行委員会に
は、ガザ地区から3名の委員が選出された。
また、PLOの軍事組織として
PLA (バレスチナ解放軍)が作られ、それにはエジプト軍から小火器が供
与され、ガザ地区において軍事訓練も行われた。
しかしエジプトは、ガザ地
区のエジプトからの自立をめざす動きを厳しく弾圧し、当初PLOの外にい
たファタハその他のコマンド組織の行動も厳しく抑えられた。”3)
-94 –
4.第3次中東戦争前の経済状態
イスラエル占領直前のガザ地区には、約39万人の住民が居住していたと推
定される(後出の表1を参照)。
その内、ほほ54%に当る約21万人が難民で
あった。すでに触れたように、大量の難民を抱えたガザ地区の経済はきわめ
て貧困であり、1966年の時点でガザ地区のGNP (国民総生産)は3,540万
U.S・ドルにすぎず、1人当りにすると約91ドルにすぎなかった。
しかもGN
Pの24%はUNRWAその他からの援助金であり、それを除いたGDP (国
内総生産)は2,700万ドル、1人当りにしてわずか69ドルにすぎなかった。
GDPを産業別の構成比で見ると、農業34.4% ( 920万ドル)、工業4.2%
(110万ドル)、建設業6. 2 % (170万ドル)、公共部門25.0% ( 670万ド
ル)、運輸3.1% (100万ドル)、商業その他のサービス業27.1% ( 730万
ドル)となっていた。,,4)
最大のシェアを占めていたのは農業で、それは雇用の約40% “ら)、全輸出
の90% ,,6lを占めていた。
ガザ地区の土地の約4分の1は古くからの伝統的
な名家少数によって所有されており‘”しこれらの名家は柑橘類の生産及び
祐出でうるおっていたが、しかし大多数の農家は零細であった。
全耕地面積
はガザの全面積の52%に相当する17万ドナム(1ドナムは1,0001II之、約4分
の1エーカー)であったが、50ドナム以上の耕地を持つのは11.2%にすぎ
ず、大多数の農家はioドナム以下という零細農家であった。,,8)
商業その他のサービス業が第2位を占めたのは、ガザ港がフリー•ポート
とされたため、エジプトからの観光客を惹きつけたこと、エジブトへの密輸
が盛んに行われたこと、エジプト軍、UNE F (国連緊急軍)及びUN RW
A関係者を当て込む商売が行われたことなどによる。
また、公共部門が大き
なシェアを占めたのは、エジプト軍政当局やUNRWAに雇用されるバレス
チナ大が多かったからである。
他方、工業はごくわずかしか存在せず、その多くは柑橘類の加工業、瓶詰
-95 –
め業、小規模な繊維織物、タバコ、石敵製造などに限られていた。い9)
1966
年の時点でガザ全体の雇用労働者の数は7万1.000人と推定されたが、その
内工業労働者は6.000人にすぎなかった。
最も大きな比率を占めたのは農業
の2万1.000人で、次いで商業•個人サービス業•建設業の計1万5.000
人、公務員6.000人、運輸関係(港湾業務を含む)4.000人であった。
7万
1.000人のうちの1万9.000人までは国連機関あるいは軍関係の雇用で、
その内訳はUN RWAが3.000人、UNEFが1.000人、エジプト軍に雇
用された労務者が5.000人、それにPLAに加わっていた者が1万人であっ
(20)
—96 —
D!.イスラエルの占飢政
1.抵抗運動に対する撤底的弾圧
1967年の第3次中東戦争によって、 ガザ地区は再びイスラエルによって占
領された。
イスラエルがガザ地区全部を占領するのには4日間を要したが、
これはP LAをはじめ、パレスチナのコマンド組織が果敢な抵抗を行ったか
らである。
これらのコマンド組織の活動家たちは大量の武器をもって地下に
もぐり、イスラエル軍の占領後も数年間は激しい抵抗運動を続けた。
彼ら
フェダイーンたちは難民キャンプやオレンジ畑に隠れてイスラエル兵あるい
はイスラエルに任命されたラシャド•シャワ=ガザ市長らを目標に、しばし
ばテロ活動を展開した。
かくしてガザは、イスラエルの占領地の中でも最も
テロ事件の頻発するところであった。
1960年代末にイスラエルのモシェ•ダ
ヤン将軍は、「ガザは昼はイスラエル軍が支配しているが、夜にはフェダ
イーンが支配している」と語ったほどである。び‘)シナイあるいはレバノン
を経由しての武器と資金の流入も絶えなかった。
しかし、1970年9月にP L 0がヨルダン政府軍によって壊滅的打撃を受け
たことは、ガザにおける反イスラエル抵抗運動にも大きな打撃を与えた。
こ
の後、武器と資金の入手が、イスラエル軍の取締りの強化ともあいまって、
きわめて困難となった。
1971年にはアリエル・シャロン将軍が先頭に立って
「平定化計画」を強行した。
1971年7月、イスラエル軍は過密化した難民
キャンプの居住施設の一部をブルドーザーで取り壊し、縦横に走るノ’トロー
ル道路の建設を始めた。
同時にイスラエル軍は、難民キャンプにひっきりな
しに外出禁止令を布き、数百人に及ぶフェダイーン及びその容疑者を逮捕し
て刑務所に送り、あるいは域外に追放した。テロ事件で逮捕者が出た場合に
-97 –
は、その家族の家も取り壊すという「連帯懲罰」によって徹底的に弾圧し
た。(22)
]972年にガザ地区のPFLP (パレスチナ解放人民戦線)の指導
者、ムハンマド・アル・アスワドが逮捕され処刑されたことは、イスラエル
の「平定化計画」によって反イスラエル抵抗運動が事実上制圧されたことを
象徴するものであった。その後も散発的なテロは続いているが、組織的な武
装抵抗運動は壊滅に等しい状態となった。
2.絶対的権力者としてのイスラエル軍
イスラエルはガザ地区及び西岸地区を占領地とはみなしていない。
した
がって、そこには1949年の占領地に関する第四ジュネープ条約の規定は当然
には適用されないというのが、イスラエル政府の公式見解である。
イスラエ
ル政府は1967年、軍令第144号を発し、軍司令官の命令がジュネーブ条約に
優先することを明確に示した。(23,
ガザ地区はイスラエル軍の法的管轄下
にあり、地区軍司令官が統治のあらゆる権限を有している。
イスラエルはガ
ザ地区において1967年以前に適用されていた委任統治時代の法令を維持して
はいるが、占領後1,200以上の命令(軍令)を発して新たな規制を付け加え
た。
それは住民の法的•市民的権利、土地及び水資源、各種免許、課税、治
安、社会福祉など、住民の生活のあらゆる分野にわたっている。地区軍司令
官は必要に応じ、いかなる命令をも発することができる。,24)
命令には大別して、立法的命令と懲罰的命令の二つがある。
立法的命令と
は、例えばオレンジの木を植えることを禁じるとか、井戸を掘ることを禁じ
るとか、集会を禁じるとか、結社の設立を禁じるといった、住民の生活を規
制する内容のものが圧倒的多数を占める。
他方、懲罰的命令とは次のような
内容のものである。
-98 –
(1) 予防拘禁•••イスラエル軍はガザ地区において逮捕状あるいは裁
判なしに住民を無期限に拘禁する権限を有する。これにより、イスラエル軍
兵士に投石したと疑われた者あるいはデモを行ったと疑われた者まで、長期
間にわたって拘禁されることになる。(25»
(2) 域外追放•••委任統治時代の「緊急規則」第12条がいまなお適用
されており、イスラエル軍当局は「好ましからざる人物」をガザ地区から永
久に追放する措置をしぱしばとってきた。具体的にはレバノン国境あるいは
ヨルダン国境から追放することが多い。(26)
(3) 外出禁止令及び閉鎖令•••テロ事件への報復として市町村あるい
は難民キャンプを単位として外出禁止令がしばしば発布される。外出禁止令
は1日から数週間にわたり、それに違反した者は逮捕され、極端な場合には
銃殺される。後述のように、イスラエル領内への出稼ぎ労働者が非常に多い
ことから、これはしばしば住民に深刻な経済的苦痛を与える。閉鎖令は通
常、学校や大学を対象に行われる。ガザのイスラーム大学はこれまで1日か
ら2カ月に及ぶ期間の閉鎖令を何回も受けてきた。
(4) 家屋の取壊し• • •この懲罰はとくにガザ地区において頻繁に行わ
れているものである。イスラエル軍当局はこれを難民キャンプの「希薄化」
(thinning out)のためにも利用している。
なお、ここで留意すべきことは、軍司令官の命令が適用されるのはもっぱ
らガザ地区のパレスチナ人に対してであって、ガザ地区に居住しているイス
ラエル人には適用されないということである。
イスラエル人に対してはイス
ラエルの法令が適用される。「ソエト化」あるいは「バンツースタン化」と
いわれるゆえんは、ここにもある。
—99 —
3•司法と地方自治
もっぱらガザ地区のパレスチナ人のために地方裁判所が設けられている
が、その権限は弱い。
なぜなら、ガザ地区に居住するイスラエル人はこれと
別個の地区裁判所の管轄下にあり、パレスチナ人は地区裁判所に訴えを提起
することが許されていないからである。
びア)他方、多くの事件、とくに治
安関係の事件は軍事法廷で裁かれる。軍事法廷の判決はきわめて厳しく、例
えば投石で1年間の懲役、パレスチナの地図を開示しただけで1年間の禁固
といったケースもある。(28)
形式的には軍事法廷の判決をイスラエルの最高裁判所に上告する途が開か
れている。しかし、それはめったに行われない。
なぜなら、被告の大多数は
無学あるいは貧困であり、上告のための複雑な手続きや費用に堪え得ないか
らである。
西岸地区の場合にはイスラエルの人権擁護グループと連携した動
きが見られるが、ガザ地区の場合には、その点でも劣っている。
他方、地方自治に関しても、ガザ地区は西岸地区よりもはるかに劣悪な状
態にある。
西岸においてはイスラエルの占領後、1972年と76年の二度にわた
り、市町村議会及び市町村長の選挙が行われたが、ガザ地区の市町村におい
ては委任統治下の1946年に選挙が行われて以来、一度も選挙は行われていな
い。
その結果、ガザ地区の市町村は、イスラエルが任命した市町村長及び市
町村議会を持つか、あるいはイスラエルの軍人の直接統治下にある。
ガザ市
の市長にはラシャド•シャワが任命されたが、同市長は二度にわたりイスラ
エル軍当局により解任され、現在のガザ市には市長も市議会も存在していな
い。
-100-
4.民政移管
1981年11月、イスラエルは西岸地区及びガザ地区に対して民政官制度を導
入した。
すなわち、従来、地区軍司令官が持っていた統治のあらゆる権限を
民生関係と治安•軍事関係の二つに分け、前者の責任を民政官に負わせるこ
とにしたのである。
これは、折からイスラエル、エジプト、米国間でパレス
チナの「自治」に関する交渉が行われていたことから、もし万一「自治」が
実行に移されたとしても、イスラエルが大幅な権限を維持し続けるために、
あらかじめ「自治」政府に委ねるべき権限の幅を明確化するねらいでとられ
たものと見られる。,29)
しかし、民政移管とはいっても、その民政はイスラエル軍、究極的にはイ
スラエル国防省の管轄に服するものであって、民政官の権限自体が軍当局か
ら委任されたものであるにすぎない。
民政官の下には多数のシビリアンのス
タッフが置かれることになったが、彼らのほとんどはイスラエル政府の各省
庁から派遣された者である。
これは見方を替えれば、イスラエルが西岸地区
及びガザ地区の事実上の併合を一層推進するためにとった措置ということも
できる。
-101-
IV・イスラエルへ應潮飴離廳化
1.ガザ地区の人口動態
表1に示されるように、イスラエルが占領した当時のガザ地区のパレスチ
ナ人人口は、約39万人であった。
占領直後から1984年末にかけて約10万人の
バレスチナ人がガザ地区から移住したといわれるが、その理由は、イスラエ
ルの支配を嫌って他のアラブ諸国、とくに湾岸諸国に新天地を求めたこと、
イスラエル軍当局によって多数の若者が追放処分にあったことなどによる。
しかし、1980年に人って石油価格が低迷していること、イラン•イラク戦争
が起こったことなどの理由から、移住者の数は急激に減少するに至った。
過
去においては、高い出生率が移住によって相殺され、人口増加は比較的緩慢
であったが、1984年の時点で人口増加率は年率3.1%ときわめて高い数字を
示している。
1984年末の時点で、ガザ地区のバレスチナ人人口は50万9,900人であり、
内25万4,500人が男性、25万5,400人が女性となっている。
UNRWAの統
計によると、難民として登録されている者がその内の35万4,700人であり、
内23万8.400人が八つの難民キャンプのいずれかに住み、残りの11万6,300
人がキャンプの外に住んでいる。仰。)表1で示されるように、ガザ地区の
人口の顕著な特徴の一つは、年齢構成がきわめて若いということである。14
オ以下の者が実に47.8%も占めている。また、15オから34オまでの者が34.3
%を占め、その両者を合せると実に82.1%を占めている。とくに14才以下の
人口が全体の半分近くを占めていることは、そうでなくても雇用機会が少な
いガザ地区の将来にとってきわめて深刻な意味を含んでいる。柑橘類を中心
とする農業が不振で、かつ地場産業も他に見るべきものがない状況のもとで
-102-
表1•年齢集団別のガザ地区の人口
(単位・!.oooA)
年 合計 0-14 15-29 30-44 45-64 65+ 女性1、000 人当り男性
1967 339.7 194.6 83.2 55.6 34.9 18.3 943
1969 362.2 174.0 87.3 49.7 13.6 14.6 946
1971 381.8 189.0 97.9 50.8 31.5 12.6 954
1973 405.4 197.5 107.5 50.4 36.2 13.8 974
1975 418.5 201.1 111.3 54.8 39.3 12.0 972
1977 441.3 209.1 123.1 50.3 43.9 14.9 980
1979 432.6 201.0 125.4 52.0 42.5 11.7 986
1981 451.6 210.4 130.5 56.2 43.9 10.4 988
1983 494.5 235.3 146.0 52.8 47.1 13.3 994
1984 509.9 243.4 148.9 55.9 47.9 13.8 996
(出所)Fawzi A. Gharaibeh, The Economies of the West Bank and Gaza Strip.
Westview Press. Colorado, 1985 及び Statistical Abstract of Israel.
Central Bureau of Statistics, Jerusalem, 1984 & 1985.
-103—
これらの若年層が就労年齢に達した時、いったいどのようにして彼らに雇用
機会を見出すことができようか。結局は、イスラエルへの出稼ぎ労働しか生
計の途がないということになろう。それは、ガザ地区のイスラエルへの経済
的依存関係をますます深めることになるであろう。
2.イスラエルへの出稼ぎ労働者の増加
イスラエルによる占領がガザ地区の経済に与えた最も直接的な影響は、雇
用条件が急激な変化を受けたことである。
すでに見たように、1966年の時点
で7万1.0皿人であったガザ地区の雇用労働者の内、エジプト軍に雇われて
いた労務者が5.000人、UNEFに雇用されていた者が1.000人、PLAに
加わっていた者が1万人もいた。
また、ガザ港がフリー •ポートとして活況
を呈していたことから、港湾関係の仕事のほか、観光や密輸でうるおう商業
及び個人サービス業でも多くの人間が働き口を得ていた。
ところがイスラエ
ルの占領にともない、エジプト軍とUN E Fはガザ地区から完全に姿を消
し、P L Aはもとより非合法化された。
また、ガザ港は閉鎖され、エジプト
との経済関係も途絶するに至った。
かくして大量の人間が仕事口を失ってし
まったのである。
しかも、ガザ地区の経済基盤はきわめて脆弱であって、こ
れら大量の失業者を吸収する余力は全くなかった。
その結果、イスラエル領内に仕事ロを見出す者の数が年々増加の一途をた
どった。
表2で示されるように、イスラエルで働くガザ地区の労働者は1970
年の5.900人から1984年の4万人強へと500%の増加を示した。
1984年につ
いて見ると、ガザ地区の全雇用労働者の内の46.1%がイスラエルで雇われて
いる。しかも、ここにあられている数字はイスラエル政府の雇用局に登録さ
れている者の数であって、多数の無届雇用は除かれている。イスラエル当局
の推定によれば、このほか約1万人の潜りのガザ労働者がイスラエルで無届
けで働いており、その中にはかなりの少年(8〜15才)労働者も含まれてい
-104-
表2.ガザ地区の雇用労働者の雇われている場所
連位•1.000A)
年 総数 ガザ地区内 イスラエル
1970 58.8 52.9 90.0 5.9 10.0
1971 59.7 51.5 86.3 8.2 13.7
1972 63.5 46.0 72.4 17.5 27.6
1973 68.3 45.6 66.8 22.5 33.2
1974 73.0 46.7 64.0 26.3 36.0
1975 72.6 46.7 64.3 25.9 35.7
1976 76.1 48.3 63.5 27.8 36.5
1977 77.0 49.5 64.3 27.5 35.7
1978 80.1 48.7 60.8 31.4 39.2
1979 79.8 45.5 57.0 34.3 43.0
1980 80.8 46.3 57.3 34.5 42.7
1981 82.5 46.6 56.5 35.9 43.5
1982 82.2 46.1 56.1 36.1 43.9
1983 85.3 45.0 53.5 39.7 46.5
1984 87.2 47.0 53.9 40.2 46.1
(出所)F. Gharaibeh. op. cit., p. 38 及び Statistical Abstract of Israel,
1985.
-105-
るといわれる。(31)
占領直後から現在まで、イスラエルで雇用されるガザ労働者の産業別構成
にはかなりの変化が見られた。
1970年には、全体の40.7%が農業、8.5%が
工業、47.4%が建設業、3.4%がサービス業で雇われていたが、1984年につ
いて見ると、農業が19.6%、工業が18.1%、建設業が45.1%、サービス業が
17.2%となっている。
現在では、イスラエルの建設業の下働き労務者として
雇われている者が最も多い。
建設業に限らず、イスラエルで雇われているガ
ザ労働者はいずれも最も下級な未熟練労働に従事しており、イスラエル経済
にとってきわめて安価な労働源を提供している。
3.劣悪な労働条件
イスラエルで雇用されているガザ地区の労働者は、イスラエルの労働者に
比較すると、きわめて劣悪な条件に置かれている。
イスラエル当局の公表資
料によると、1984年の時点で平均日当は2,284シェケル($5.71)であり、
イスラエルの労働者の半額にも達していない。(32)
しかも、ガザ地区及び西
岸地区からの労働者は、賃金の中から約30%を税、健康保険料及び社会福祉
引当金としてイスラエル政府の雇用局により天引きされる仕組みとなってい
る。(33)
ところがイスラエルの労働者とは異なり、占領地区からの労働者
は、年金、病気の際の有給休暇、労災保険、失業保険などの恩恵をほとんど
受けることができない。賃金の中から差引かれるのは、いわばタダ取りされ
るに等しいのである。(34)
イスラエルの労働組合総連合であるヒスタドルートもまた、同様の搾取を
行っている。
占領地区からの労働者は賃金の1%をヒスタドルートによって
天引きされるが、ヒスタドルートは彼らを組合員として認めることを拒否
し、したがって組合としての保護も与えていない。(35,なお、上記の平均
-106-
賃金(1日当たり2,284シェケル= 5.71U.S・ドル)は登録された労働者のそ
れであり、無届けの未成年労働者の場合はもっと安い賃金で雇われているも
のと考えられる。
そのうえ、占領地区からイスラエルに働きに出る労働者に対しては厳しい
規制がある。
占領地区の住民は、午前1時から午前4時までイスラエル内に
留ることを禁じられている。
したがって、この規制に服する限り、占領地区
からイスラエルに出稼ぎする労働者は、毎日仕事場に通う必要がある。
とこ
ろが、とくにガザ地区の場合、イスラエル内の仕事場まで通うのに長時間
(場合によっては片道2時間以上)を要し、交通費も安くはない。
しかも、
占領地区の住民に対してはしばしばイスラエル内で厳しいセキュリティ・
チェック(治安上の検査)が行われるため、時間通りに仕事場に着けないこ
とも少なくない。
その場合、賃金はカットされ、しかも交通費は賃金の中か
ら自弁しなければならないのである。
それゆえ、実質の手取り賃金は、イス
ラエル当局が発表している額の約60%にすぎないと推定される。
占領地区の労働者の中には、規制を犯し、イスラエル内で寝泊りしている
者も少なくない。
イスラエルの雇い主もまた、長時間あるいは深夜にわたり
労働者を働かせたいということから、きわめて劣悪な条件のもとで彼らを寝
泊りさせている。
例えば建設現場、あるいは農作業小屋、あるいは閉店した
あとのレストランのテーブルの上などである。このため、火災により労働者
が焼死するという悲惨な事件も時折起こっている。(36)
多数の労働者がイスラエルで雇われ、現金収入を得ているという実態は、
ガザ地区内での失業を緩和し、住民に一定の購買力を与えてきたことは事実
である。
1968年から1982年にかけて、ガザ地区のGNPが年平均9.7%の高
成長をとげた主要な理由はここにある。
しかし半面、ガザ地区内の経済活動
は停滞し、農業、工業ともに不振で、ますます多くのガザ住民がイスラエル
内での賃金労働に依存せざるを得ない構造が作り上げられてしまった。
他方、イスラエル経済から見ると、占領地区に大量の未熟練あるいは半熟
-107-
練の労働力が存在し、しかも不況の際にはまったく抵抗なしに首切りが可能
であるということは、多くの利点を与えるものであった。
占領地区がイスラ
エル経済に構造的に組み込まれている以上、占領地区の労働者に支払われる
賃金はイスラエルの資金の流出ではなく、その多くはイスラエル産品の消費
という形でイスラエルに還流されることになるのである。
4.柑橘類生産の抑制
イスラエルの占領によって大きな影響を受けたのはガザ地区の農水産業、
わけてもガザ地区の経済で最も重要な地位を占める柑橘類の生産と輸出であ
る。
表3にあらわれているように、占領後1982年まで柑橘類はガザ地区の全
作付面積の40%以上を占めていた。
また、表4に示されるように、農水産物
の全産出高(価額)の中でも約5割を占め続けてきた。この二つの表からも
分るように、ガザの農業は柑橘類にほぼ特化されているといっても過言では
ない。
とくに70年代の前半には生産量が20万トンを越すに至ったが、これは
1967年以前に植えた約4万ドナムの新しい樹木が生産期に入ったためであ
る。
柑橘類は通常、苗木を植えてから生産期に入るまで5〜8年を要すると
いわれる。(37,
ところが1977年以降、柑橘類の生産量は下降線をたどるよ
うになった。
その理由は大きく別けて二つあった。
ー^はイスラエルがガザ
地区の柑橘類の生産を抑える政策をとり始めたことであり、いま一つは水資
源の利用を抑えたことである。
過去io年間、イスラエル当局はガザ地区の柑橘類の生産と輸出を制限する
ためのさまざまな措置をとった。以下、それを概括的に見ていこう。
(1)植樹制限•••軍令によって、無許可で新たに柑橘類の木を植えた
り、古い木を若い苗木で代えることは厳しく禁じられている。しかも、その
-108-
表3.産品別によるガザ地区の農作物作付面積
(単位•1.000ドナム)
1968年 1979年 1981年 1982年 1984年
面積 % 面積 % 面積 % 面積 % 面積 %
合計 198 100 170 100 177.1 100 164.6 100 183.7 100
穀物 野菜 56 22 28.3 11.1 17 30 10.0 17.7 20.1 30.7 11.3 17.3 17.0 29.2 10.3 17.8 57.0 31.0
柑橘類 70 35.3 72 42.3 71.6 40.4 71.5 43.4 66.7 36.3
その他 の果物 50 25.3 51 30.0 54.7 31.0 46.9 28.5 60.0 32.7
(出所)1982年までは F. Gharaibeh, op. cit.. p. 68. 1984年については Sharif
Kanana & Rashad al-Madani. Settlement and Land Confiscation in the
Gaza Strip, Birzeit University, West Bank, 1985, p.9.(ただし、198仰
については穀物を除いていることに注意。)
-109—
表4.産品別によるガザ地区の農水産物生産量と価額構成比
(単位•!,000トン、カッコ内は%)
1968 1971 1974 1977 1980 1983
穀 物⑴ — — — ~- — —
(1.5) (〇. 9) (1.0) (〇. 6) (〇. 8) (〇. 3)
野 菜 33.2 38.9 46.0 53.4 72.7 86.7
(1 5. 6) (11.3) (1O. 0) (9. 7) (14. 6) (20. 6)
メロン•カボチャ 8.0 4.6 4.7 2.8 6.1 1.0
(3.1) (1・ 7) (1.6) (〇・ 9) (1.β) (〇•1)
柑橘類 106.2 178.0 201.4 180.6 179.3 159.5
(43. 5) (50. 6) (50. 3) (49・ 6) (43.1) (46. 8)
他の果物 20.0 26.3 25.2 24.8 20.8 17.1
(13. 9) (11-7) (10. 9) (11.6) (1 2. 3) (S. 5)
食 肉 1.9 3.0 3.7 4.8 6.2 5.9
(7. 9) (8. 5) (7. 9) (β. 8) (1 3. β) (12. 5)
牛 乳 6.9 9.7 12.9 14.8 13.9 11.2
(5. 8) (4. 9) (6. 5) (8. 2) (6. 9) (7. 〇)
魚 3.8 4.7 4.8 4.5 1.4 1.0
(3. 7) (6. β) (7. 3) (6. 8) (2.1) (〇• 7)
鶏 卵 10.0 24.0 32.0 40.0 45.6 44.5
(3. 7) (6. 6) (7. 3) (6. 8) (2.1) (〇. 7)
その他⑴ — — — — — —
(〇・ 3) (〇• 2) (〇. 7) (〇. 5) (〇. 5) (〇• 9)
(出所)F. Gharaibeh, op. cit., p. 75 及び Statistical Abstract of Israel,1985.
注⑴穀物及びその他については生産量は統計にあらわれていない。
-110-
許可を得ることはきわめて難しい。許可が与えられるにしても、5年以上も
待たされるといわれる。
(2)税制•••柑橘類に関係するのは土地税、所得税、付加価値税(V
AT)及び輸出税である。
土地税は所有する面積に応じて課されるが、税率
はイスラエルの柑橘類生産農家の生産高を基準に定められている。
ところが
イスラエルの生産者は、バレスチナ人生産者とは違って政府補助金、融資な
どのさまざまな恩恵を受けている。したがって、同じ税率を課されるパレス
チナ人生産者にとってはきわめて苛酷なものとなる。(39,
同様のことはV
ATについてもいえる。なぜなら、イスラエルの業者は合法的にVATの払
い戻し金を請求し受け取ることができるのに対し、バレスチナ人の場合には
事実上それができないからである。
H〇,また、ガザ地区の業者が柑橘類の
輪出を行う場合には、イスラエル当局から輸出許可を得なければならず、同
時に輸出税を払わねばならない。この点もまた、イスラエルの同業者に比べ
著しく不利をもたらすのである。
(4)耕作地拡大の禁止••・荒地を開墾して耕作地に転じることは、軍
令によって禁じられている。たとえ自己の所有地であっても、イスラエル当
局の許可がなければ未耕作地を耕作地に変えることはできず、その許可もほ
とんど与えられない。
(5 )水資源の利用制限• ・ガザ地区における水の消費量は年平均1億〜
1億2,000万m3であり、その内の90%が農業潅漑用に、残りの10%が一般消
費用に使われている。
(い)農家はガザ地区北部と東ネゲブにある地下水源に
大きく依存している。しかし、長年にわたって大量の水を汲み上げてきたた
め地下水の水位が下がり、海水が地下水に混入するようになった。
その結
果、潅漑用水に塩分が混じり、ガザの農業、とくに柑橘類に悪影響を及ぼす
ようになった。
こうした事情もあって、イスラエル当局はガザ地区において
新たに井戸を掘ることを禁じ、農家の水利用にも制限を課した。現在、ガザ
の各農家は、堅い土を耕作している場合には年間800m\砂地の場合には年
-111-
間l.OQOドという上限を設定されている。(42)
その上限を越すと重い罰金を
取られ、翌年の割当てを減らされる。
ところが問題は、ガザ地区に入植した
イスラエル人に対してはこうした制限がないことである。彼らは過去数年間
に35〜40の新しい井戸を掘った。1984年について見ると、ガザ地区のパレス
チナ人が1人平均200m3の水を消費したのに対し、ガザ地区に居住するイス
ラエル人は1人平均1万4,200〜2万8,400m3の水を消費した。(“)イスラ
エル当局のこうした差別的政策がガザ地区の農業、とくに柑橘類の将来に暗
い影を投じている。
5.ままならぬ柑橘類の輸出
ガザの農産物、とくに柑橘類にとって最も深刻な問題は輸出の問題であ
る。
1967年以前には、ガザの柑橘類はエジプトのポートサイドを通じて英
国、オランダ、西ドイツなどの西ヨーロッパ諸国に輸出されていたほか、
1950年代後半からはコメコン諸国へも輸出されるようになった。
イスラエル
の占領後、西欧諸国への輸出はイスラエルの柑橘類マーケッティング•ボー
ド(CMB)を通じる以外には認められなくなった。
コメコンへの輸出は継
続を認められ、また新たにヨルダンを通じ湾岸諸国にも輸出されるように
なった。
ところが、イスラエル産の柑橘類との競争を防ぐため、イスラエル当局は
1970年代半ばからイスラエルのCMBを通じるガザの柑橘類の西欧向けの輸
出を停止し、イスラエルが輪出できないアラブ諸国向けの輸出に切り替えさ
せた。
また、新たにイラン向けの輸出が開始された。
しかし、1979年のイラ
ン革命によって、イラン向けの輸出は途絶するに至った。
他方、コメコン諸
国はキューバからバーターの形で柑橘類を輸入するようになった。
このた
め、1979年頃からガザ地区もまた止むなく、羊、木材、ガラス製品などと
-112-
バーターでコメコンへ輸出せざるを得なくなった。
しかし、これらについて
はイスラエル当局に輸入税を支払わねばならないため、ガザの業者にとって
は輸出の利点はあまりなくなった。
1985年現在、ガザの柑橘類の約80%はヨルダン及びヨルダン経由でアラブ
諸国に向けられ、約20%は東ヨーロッパとイスラエルに向けられている。
イ
スラエル向けはもっぱらジュース用である。
しかし、ヨルダンヘトラック輪
送するには経費がきわめて高くつくうえ、悪路のため損傷品が大量に出る。
しかも、石油価格の低迷のため、湾岸諸国への輸出も減少している。その結
果、ガザの生産者の中には柑橘類生産をあきらめ、イスラエルへの出稼ぎに
転じる者が少なくない。
柑橘類以外の農業もまた、苦境にあえいでいる。
イスラエルは、イスラエ
ルの生産者との競争を防ぐため、ほとんどの果物及び野菜のイスラエルへの
輪出を禁じている。
わずかにイチゴ、ナス、ズッキーニといった、イスラエ
ルと競争関係のないものだけが輸出を認められているにすぎない。
柑橘類は
ジュース用の二級品だけがイスラエルへの輸出が認められている。
ところ
が、イスラエルの果物や野菜はガザの市場に制約なしに入ってくる。
イスラ
エルの生産者は政府からさまざまの補助金を受けているため、ガザの農家は
これに太刀打ちできない。
こうした一方的な物の流れは、ガザ地区をイスラ
エル産品の大きな市場としている。事実、西岸地区及びガザ地区は、イスラ
エルにとって米国に次ぐ第2の輸出市場となっているのである。
6.イスラエル依存の貿易構造
イスラエルの占領以前のガザ地区は、柑橘類その他の果物、アーモンド、
タバコ、じゅうたんなどを輸出し、燃料、織物、建設資材、井戸ボンプその
他の工業製品、食糧などを輸入するという貿易パターンを有していた。もち
-113-
ろん、貿易収支は恒常的に赤字であったが、その赤字は観光収入とUNRW
Aその他からの移転資金によって埋められていた。
貿易の主要な相手はエジ
プトであった。
1950年代の半ば以降、エジプトは柑橘類を自給するように
なったので、ガザの柑橘類は全くエジプトに輸出されなくなり、その代わり
西欧、東欧が主要輸出先となったが、ガザの輸入の約半分はエジプトから来
ていた。
イスラエル、ヨルダン及び西岸地区との貿易は全くなかった。
イスラエルが占領してから1年以内に、エジプトとの貿易は途絶し、イス
ラエル、ヨルダン及び西岸地区との貿易が開始された。
表5で示されるよう
に、ガザ地区の輸入の約90%がイスラエルから来ている。ヨルダンからの輸
入がないのは、イスラエルがそれを禁じているからである。
その他の国とい
うのは主として東欧諸国である。
他方、ガザ地区の輸出も、1980年に入って
80%以上がイスラエルに向けられるようになった。
ガザからイスラエルへの
輸出品は主として工業製品であるが、その多くはガザの企業がイスラエル企
業との下請け契約によって加工したものである。
また、1984年について見る
と、ガザ地区の輸入の91.9%に相当する2億5,680万ドルがイスラエルから
の輸入である。
2億5,680万ドルの内の2億2,130万ドルまでが工業製品あ
るいは工業原料であり、残りの3.550万ドルが農産物となっている。
イスラ
エルからガザ地区への農産物の輸出についてはすでに述べたが、工業製品あ
るいは工業原料というのはさまざまな耐久消費財や建設資材のほか、ガザの
下請け工場が製品を作るための原料、半加工品などである。
イスラエルの企業は、ガザ地区の安い人件費を利用し、ますます多くのガ
ザの中小企業を下請けとして使うようになってきている。
これらの下請けに
は、織物、衣類、じゅうたん、家具、靴などが含まれており、とくに衣類の
裁縫にはガザの女性がきわめて安い手間賃で使われている。
このようにし
て、ガザ地区の工業はますますイスラエルに依存する構造となっており、逆
に自立的発展の条件をますます欠くものとなってきている。
-114-
表5.ガザ地区の輸出入
(単位・10077U.S.ドル、カッコ内は構成比く%>)
1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984
<輸入> 合 計 204.9 219.7 260.9 309.5 310.4 332.1 279.4
イスラエルから 186.7 195.3 231.8 282.6 282.0 305.7 256.8
(9 1.1) (88. 9) (88. 9) (9 1.3) (90. 8) (92.1) (9 1.9>
ヨルダンから 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0
その他の国から 18.2 24.4 29.0 26.9 28.4 26.4 22.6
(8. 9) (11. i) (11.1) (8. 7) (9. 2) (7. 9) (β.1)
<輸出> 合 計 122.3 123.5 154.2 197.8 190.0 180.6 114.9
イスラエルへ 79.9 80.0 113.1 159.1 149.4 151.1 95.8
(65. 3) (64. 8) (73. 3) (80. 4) (78. 6) (83. 7) (83. 4)
ヨルダンへ 33.7 34.2 31.3 31.2 34.5 22.5 14.9
(27. 6) (27. 7) (20. 3) (1 5. 8) (1 8. 2) (12. 5) (1 3. 〇)
その他の国へ 8.7 9.3 9.8 7.5 6.1 7.0 4.2
(7.1) (7. 5) (6. 4) (3. 8) (3. 2) (3. 8) (3. 6)
(出所)Statistical Abstract of Israel, 1985.
-115-
7.海を奪われた漁民たち
南部バレスチナの海岸沿いには、古くから漁業によって生計を営む人々が
暮していた。
第1次中東戦争によってイスラエルがパレスチナの大部分に支
配を及ぼすに至ったことから、これら南部パレスチナの漁民の多くはガザ地
区に難民として逃れた。
第3次中東戦争でイスラエルがガザ地区を占領した
当時、ガザ地区では約1.500人の漁民が漁業によって生計を立てていたとい
われるが、その約80%は難民であった。
表4で示されるように、1970年代に
ガザ地区の漁獲高は年間4.500トンを上回っていたが、その約75%はイワシ
であった。漁獲の大部分はガザ地区及び西岸地区の小売市場に向けられ、残
りはイスラエルの躍詰工場に売られた。<m)
しかし、イスラエルによる占領は、ガザ地区の漁業にも深甚の影響を与え
た。
イスラエル軍当局は、安全保障上の理由から日没から夜明けまで沖合い
での操業を禁じたため、夜間には距岸2キロ以遠に出ることが不可能となっ
た。
この規制に違反した漁民は重い罰金を科され、さらに最長6カ月間にわ
たって漁船を繫留されるという処罰を科された。
1隻の漁船に漁民数世帯が
生活を託していたため、この刑罰の影響は大きかった。
このように夜間の操
業が事実上禁止されたのに加えて、1979年にイスラエルとエジプトとの間に
平和条約が結ばれ、1982年にシナイがエジプトに返還されたことから、ガザ
地区の漁民はさらに大きな制約を受けることになった。
というのは、それま
でガザ地区の漁民はシナイの沖合い、とくにエル・アリッシュの沖合いでの
操業を認められていたのに、シナイの返還にともない、それが不可能になっ
たからである。
加えて、シナイにあったイスラエルの入植地が撤去され、そ
の分だけガザ地区への入植地建設が増大したことにともない、大植地沖合い
でのパレスチナ漁民の操業が禁じられるようになった。
このようにして操業
の場を狭められたため、ガザ地区の漁業者の数は次第に減少し、1982年には
約1、000大となった。また、表4で示されるように、1980年代に入って漁獲
-116—
高も大幅に減少するに至った。
8.ガザ地区バレスチナ人の階層分化
ハーバード大学のサラ・ ロイによれば、1967年のイスラエルによる占領以
前から、ガザ地区のバレスチナ人社会にははっきりとした階層分化が存在し
た。”丁)
最上級の階層は昔からガザ地区に居住していた少数の名家で
あって、それは大地主あるいは大商人を形成していた。
大商人というのは、
大々的に柑橘類の輸出などを行なう少数のプルジョア階層であった。
イスラ
エルによる占領はガザ地区の経済に大きな影響を及ぼしたが、しかし、この
上流階層の規模及び構成にはほとんど変化をもたらさなかった。
第二の階層は小ブルジョアジーであるが、それはさらに三つのカテゴリー
に細分された。
第一のカテゴリーは教師、技術者あるいはUNRWAに雇用
されている各種専門家のグループである。
第二のカテゴリーは小規模な自営
業者の内、商業あるいはサービス業を営む人たちであり、第三のカテゴリー
は工業を営む人たちである。
この階層に属する人々の内、第一、第二のカテ
ゴリーに属する人々に関しては占領後もあまり本質的な変化はなかったが、
第三のカテゴリーに属する人の数は急速に減少し、その多くはイスラエルへ
の出稼ぎ労働者に転じた。
すでに見たように、ガザ地区の工業は、イスラエ
ル企業の下請けになったもの以外はイスラエル企業との競争にさらされて深
刻な打擊を受け、さらに資本不足などの理由から衰退を余儀なくされたので
ある。
第三の階層は小農あるいは小作農層であるが、この階層はイスラエルの占
領によってきわめて大きな影響を受け、その多くはガザの農業、とくに柑橘
類産業の衰退のために農業をあきらめるか、あるいは農業だけでは生計を維
持できぬことから兼業農家に転じ、イスラエルへの出稼ぎ労働をするように
-117-
・なった。
第四の階層は労働者階層であるが、すでに述べたように、イスラエ
ルの占領はガザ地区内の雇用条件にきわめて大きな変化をもたらした。
イス
ラエルによる占領後、この第四階層に属する人の数は増大し、しかもますま
すプロレタリアート化するに至った。彼らは主としてイスラエルへの出稼ぎ
労働以外に生計の途を見出すことができない状態に置かれている。
イスラエルによる占領は、一面においてガザ地区の階層分化を一層きわ立
たせる結果を生んだ。しかし他面において、かつては見られなかった各階層
をクロスする反イスラエル的な民族主義感情を育むことにもなった。(48)
-118-
v・イスラエルの人!i應一一着4建む事実上¢!齢ー-
1•労働党政権の入植政策
1977年にイスラエルにリクード政権が登場するまで、イスラエルの占領地
に対する入植は、西岸地区、ゴラン高原、東エルサレム及びシナイ北部では
活発に行われたが、ガザ地区ではあまり活発に行われなかった。
1967年から
1971年にかけてガザ地区ではバレスチナ住民による反イスラエルの抵抗運動
が激しく展開されていたこともあり、イスラエルの民間人をそこに入植させ
ることは危険であると考えられた。
この期間にガザ地区に建設された入植地
は、1970年に建設されたクファル・ダ□ム(地図の中の7)1カ所にすぎな
かった。
この入植地は、第1次中東戦争のさいにエジプト軍によって破壊さ
れた宗教運動系のキプツの跡地に同じ運動の人々によって再建されたもので
あり、その規模もきわめて小さいものであった。,49)
1971年にガザ地区のパレスチナ抵抗運動が鎮圧された後、新たに五つの入
植地が建設された。
すなわち、ネツァリム(建設されたのは1972年)、モラ
グ(同じく1972年)、エレツ(同じく1972年)、カティフ(同じく1973年)、
ネツェル・ハザ二(同じく1973年)である。
これらはいずれもナハールとし
て出発した。
ナハールとは屯田兵駐屯地のようなものであり、軍事的前哨拠
点として兵士を駐留させると同時に、その兵士たちに一定の耕地開拓や農作
業を行わせるというものである。
しかし、労働党政権の時代には、ガザ地区への入植はきわめて限られたも
のであった。
イスラエルの労働党政権は、ガザ地区の内部に入植地を建設す
るよりもシナイの北部に入植地を建設して、ガザ地区をエジプトから隔離す
る政策をとった。このため1978年までにガザ地区の南に接する北シナイには
-119-
13の入植地が建設され、約4,500人のユダヤ人が居住するに至った。(5〇»
2,急速に拡大された入植地
1977年にリクード政権が登場し、1978年にキャンプ・デービッド合意が成
立したことは、ガザ地区に対するイスラエルの入植政策を大きく変えること
になった。
リクード政権のベギン首相は、西岸及びガザを「占領地」ではな
く「解放地」と規定し、将来いかなることがあっても、そこにはイスラエル
以外の主権を認めることはできないという方針を固めた。
他方、キャンプ・
デービッド合意に基づき、イスラエルはシナイに建設していた基地及び入植
地を完全に撤去し、シナイを全面的にエジプトに返還することになった。
か
くしてガザ地区をシナイから隔離する入植地が存在しなくなることから、イ
スラエルはガザ地区内にナハールとして存在した既存の入植地を強化•拡充
したのに加えて、新たに12の入植地を建設した。
そのねらいは、ガザ地区内
におけるイスラエルのプレゼンスを強化し、将来、バレスチナ人社会が独立
国家樹立を主張することを不可能たらしめるとともに、ガザ地区内における
バレスチナ人コミュニティを相互に隔離し、統一的な政治活動を行うことを
不可能たらしめることにある。,B,)
地図で示されるように、ガザ地区の北部及び南部には入植地が密集し、ガ
ザ地区のパレスチナ人社会を包囲する形となっている。
さらに中央部の枢要
な場所にも入植地が建設されている。
これらの入植地の多くはナハールまた
は軍事的拠点として出発したものであるが、現在ではそれぞれ特定の宗教的
あるいは政治的運動につながる民間人の入植地となっている。
入植地の大多
数は地元の産品と競争関係に立つ農産物の生産を行っている。
もっとも、入
植地としては農業で自立するに至っているものは少なく、現在でもなお、入
植者の過半数はイスラエルの職場に通勤している。
なお、入植地の多くが地
—120—
中海沿いにあるため、観光事業の比重が次第に大きくなりつつある。
1985年末現在において、ガザの全面積の31%に相当する約10万ドナムの土
地がイスラエルの「直接所有」下に置かれているという。,52,
「直接所有」
とは必ずしも所有権の法的な移転を意味しないが、事実上イスラエルによっ
て押えられてしまったことを意味する。伍3)
この却万ドナムの内、2万ドナ
ムがユダヤ機関に貸与されており、それ以外に約7.000ドナムがガザ地域入
植地評議会に貸与されているという。(“)
もっとも、そのすべてが入植地に
よって実際に利用されているわけではない。
現在、ガザ地区には、地図で示
されるように18の入植地があり、約2.150人のイスラエル人がこれらの入植
地に住んでいるが、これらの入植地が利用している土地は2万2.250ドナム
(5.562エーカー)であり、入植者1人当りにすると平均10.4ドナム(2.6エー
カー) になるという。 (55,
23万8.400人のパレスチナ難民が住んでいる八つ
の難民キャンプが合せて5.500ドナム(1.375エーカー)の土地しか割当て
られていないのと比較すれば、ガザ地区においてイスラエル人入植者とバレ
スチナ人との間に土地がいかに差別的に利用されているかが分かるであろ
う。
- 土地を奪う方法
すでに触れたように、ガザ地区の全面積の31%に相当する土地がすでにイ
スラエルの「直接所有」下に置かれている。
イスラエルがガザ地区の土地を
押えるために講じた方策は、一つはイスラエルの占領以前に存在した法令
(オスマン・トルコ時代の法令、英委任統治時代の法令及びエジプト軍政時
代の法令)を適用することであり、また一つは新たに法令(軍令)を発布す
ることであった。36)
例えば委任統治時代の「緊急法」(1945年)によれば、軍事的目的のため
-121-
に無期限に一定の土地を収用することが可能とされていた。
また、エジプト
軍政時代の「緊急措置法」(1953年)によれば、施政当局は所有者によって
耕作も利用もされていない土地を防衛上あるいは入植上の目的のために利用
することができることとなっていた。
イスラエル当局は、これらの法令を適
用して多くの土地を押えた。
さらにイスラエル当局は、新たに軍令第5 8号
及び5 9号を発布して、1967年以前に「国有地」として登録されていた土地
を占領当局が直接管理することとした。
また、軍令第131号、321号及び
949号を発布して、公共の目的のために土地を収用することを定めた。
1980年に入ってリクード政権がとくに多用した方法は、ガザ地区の未耕作
地を次々と「国有地」に指定することであった。
これはオスマン•トルコ時
代以来、土地に対する権利関係が不明確であったという事情を逆用するもの
であった。
すなわち、オスマン・トルコ時代の土地法では、土地はすべてス
ルタンに帰属するという建前が存在したことから、ワクフ(宗教財産)やム
ルク(村有財産)として認められた以外の土地は、継続的な耕作の実績に
よって個々人に事実上所有権が付与されていたが、未耕作地についてはまっ
たく登録が行われていなかった。
登録が行われていない未耕作地は当然スル
タンに帰属すべきものという暗黙の前提があったからである。
委任統治時代
に入って「国有地」の指定登録が行われるようになったが、大部分の未耕作
地はまだその登録が行われるに至っていない。
その点に着目したのがリクード政権であった。ガザ地区のイスラエル占領
当局はパレスチナ住民に未耕作地の耕作をきびしく禁止するとともに、こう
した未耕作地を次々と「国有地」に指定することによって、それに対する直
接の管理権を手中に収めたのである。(57)
-122—
4.入植地の実態
(1) 北部ブロック
ガザ地区の最北部、ガザ市から約ioキロ北に位置するベイトラヒア村に属
する土地に四つの入植地が建設されている。
ベイトラヒア村の人口は1万
1.700人で、1979年までこの村及び村民に帰属する土地は1万9,200ドナム
(1.800エーカー)であったが、1979年にイスラエル当局が2, 500ドナム
(625エーカー)を、さらに1984年に361ドナム(90エーカー)を収用した。
四つの入植地は以下の通りである。
a, エレツ•••これはナハールとして発足したものだが、イスラエルは
その後、工業団地に指定した。境界線のすぐ内側の800ドナム(200工ー
カー) の土地に26の各種工場が建設されている。イスラエル人のほか、約
600人のパレスチナ人が雇用されている。38)
b, 二サニット• • •1978年に軍事前哨拠点として設立され、1982年にナ
ハールから入植地となった。1、700ドナム(425エーカー)の土地に40世
帯、90人のイスラエル人が住み、養鶏などを行っている。(59)
c•アレイ・サイナイ・・ •1983年、シナイ北部のヤミット入植地から撤
収した人々のために建設された。1985年1月現在、20棟のプレハブ建築に約
70人が居住しているが、将来は300世帯の入植地に拡大する予定。漁業及び
農業をめざしているが、観光の拠点にする計画もある。(6〇,
d•ネベッツ•サラ•••アレイ・サイナイの拡張として1983年にアマナ
入植運動(グッシュ・エムニムの一派)の人々により設立されたもの。観光
センターをめざしている。
(2) 中央部ブロック
ガザ地区の中央部の枢要な場所に、以下の三つの入植地が存在する。
a.ネツァリム・••ガザ市の南約8キロの所にある入植地ネツァリムは
—123—
1972年、ガザ地区で二番目の入植地として建設された。
この地帯一帯はガザ
地区で最大のベドウィン部族、アブ•ミッダイン族が数百年にわたって土地
を所有していた所だが、1985年までにアブ・ミッダイン族の18家族から約
4,000ドナム(1.000エーカー)が収用された。(い)
1985年1月現在、ネ
ツァリム入植地に55世帯、170人のイスラエル人が住み、モッシャブ(組合
方式の農業経営))を形成している。ブドウ、イチジク、柑橘類などの生産
が行われている。
b.テル・モンタール・・ ・これは1982年、200ドナムの土地にナハール
として設立されたもので、ガザ市及びガザ市に入る幹線道路を見下す高い丘
に位置するところから、戦略的な重要性を帯びている。
c .クファル・ダロム・••すでに触れたように、ここには委任統治時
代、ユダヤ人のキブツ(集団農場)があり、1948年、第1次中東戦争の勃発
とともにエジプト軍によって破壊された。その跡地に1970年、ガザ地区最初
の入植地として建設されたものである。そうした象徴的意味を持つところか
ら、ここには1982年、4年制の宗教カレッジが設立された。,62)
(3 )南部プロック
シナイに接するガザ地区の南部には、1972年から1984年にかけて11の入植
地が建設され、ガザ地区とシナイとを遮断する形となった。
しかも、この地
帯はガザ地区の主要な地下水源がある所であり、したがってこれらの入植地
は水源を押える形にもなっている。
これら11の入植地はハーンユニスとラッ
ファの二つの市に属する場所に建設されている。ハーンユニス市の総土地面
積は5万6′ 000ドナム(1万4、000エーカー)であるが、すでにその47%に
相当する2万6,415ドナム(6.604エーカー)がイスラエル側により押え
られてしまった。
他方、ラッファ市の総土地面積は5万200ドナム(1万
2.550エーカー)であるが、その内の約25%に相当する1万2.365ドナム
(3.091エーカー)が「国有地」に指定され、イスラエルの管理下に置かれて
-124-
いる。
11の入植地を設立順に見ると、以下の通りである。
a. モラグ• ・・ 1972年にナハールとして設立され、後に輸出用農産物を
生産するキブツとなった。1.800ドナム(450エーカー)の土地に約45世
帯、約150人のイスラエル人が住んでいる。ダンボール箱製造及びトラク
ター修理の工場、シナゴーグ、雑貨店を持つ。(63)
b. カティフ• • ・ハーンユニス市の北側の1、500ドナム(375工ー
カ ー) の土地に約60世帯、約200人が住んでいる。宗教系のモッシャブを形
成し、温室栽培に力を人れている。保健所、幼稚園、小学校、シナゴーグを
持つ。(64)
c. ナハール・カティフ・D•••地中海監視のためのナハールとして設
立されたもので、将来はリゾート基地として発展させる計画がある。
d. ネツェル・ハザ二・• •1973年にナハールとして設立され、後にモッ
シャブとなった。2.000ドナム(400エーカー)の土地に約100世帯、約
350人のイスラエル人が住み、主に温室栽培で野菜、果物及び花を作ってい
る。また、果物の箱詰め工場で約80人のパレスチナ人を使用している。I”)
e. ガネイ・タル••・カティフのすぐ隣に1978年に設立されたモッシャ
ブで、カティフやネツェル•ハザニーと同様、宗教運動系の入植地。1.200
ドナム(300エーカー)の土地に約50世帯、約170人が住んでおり、幼稚
園、地区小学校及びシナゴーグがある。(66)
f ,ミツペ•アツモナ・♦・ 1979年に設立されたキブツで、2.000ドナム
(500エーカー)の土地に約60世帯、約200人が住んでいる。グッシュ•エ
ムニム系のアマナ入植運動に属する入植地で、温室農業のほかエレクトロ二
クスのソフトウェア及びプラスティック工場を持つ。幼稚園、宗教学校及び
シナゴーグがある。價ア)
g•ガン・オル・・・1980年に設立されたモッシャブで1.000ドナム
(250エーカー)の土地に約50世帯、約180人が住み、野菜、果物及び花の栽
培を行っている。幼稚園、地区小学校、保健所、雑貨店がある。(68)
-125-
h.ガディッド• • •1982年に設立されたモッシャブで、主として花の栽
培を行っている。1.200ドナム(300エーカー)の土地に約55世帯、約
190人が住んでいる。(69)
i ,ネベ•デカリム• • •ハーンユニス市の南に1983年に建設されたもの
で、南部ブロックのセンターとしての機能を果たしている。600ドナム
(125エーカー)の土地に約70世帯、約250人が住んでいる。幼稚園、小学校
のほか、「へスデル•イエシュバ」と呼ばれる宗教カレッジがあり、120人
の学生が在籍している。南部ブロックのセンターとして、スーバーマー
ケット、 銀行、リクリエーション・センター、保健センターなどの建設が計
画されている。,7〇,現在の入植者の多くは、農業のほかにイスラエル占領
当局で働いている。(7,)
J ,ベドラ・ •-1983年にガン・オルの南に建設された入植地だが、詳細
はよく判らない。
k•アツモナ・・ •1983年にべドラとともに、そのすぐ隣に建設された入
植地だが、これも詳細はよく判らない。
5.対照的な二つの社会
以上に概観したように、ガザ地区に現在設立されている18の入植地は、人
口の点でいえばそれぞれに30ないし350人が居住するといった、規模の小さ
いものばかりである。
しかし、土地の点でいえぱ人口に釣り合わないほど彪
大な面積を占めている。
先にも触れたように、ガザ地区の全面積の31%に相
当する土地がすでにイスラエルによって押えられてしまったのであり、その
内の約4分の1が既存の18の入植地に貸与されているのである。
しかも、こ
れらの入植地の大多数は宗教運動系でイデオロギー色のきわめて濃いもので
あり、入植運動をますます強化•拡充しようという強い信念に燃えている〇
-126-
それと同時に見逃せないのは、ガザ地区の水資源が完全にイスラエル側に
よって押えられてしまったということである。
また、ガザ地区のバレスチナ
人社会を囲い込むような形で建設された各入植地をつなぐ新しい道路網が建
設され、イスラエル人はいまやパレスチナ人社会と接触することなしに、イ
スラエルとガザ地区内の入植地との間を往復することが可能となった。
このようにして、ガザ地区には完全に対照的な二つの社会が存在するに
至っている。
ー^は囲い込まれ、隔離されたパレスチナ人の社会であり、大
量の土地や海を奪われ、水の使用を厳しく制限され、新たな耕作や植樹を禁
じられ、日常的に人権を侵害され、イスラエルへの出稼ぎ労働にますます依
存せざるを得ない状態に追い込まれている人々である。
他の一^は、イスラ
エル人入植者の社会であり、あり余るほどの土地を利用し、輝く太陽の下で
ふんだんに水を使う温室農業や近代的な海洋リゾートへの夢をふくらませっ
っある人々である。
このあまりにも対照的な姿こそは、ガザ地区バレスチナ人社会の「ソエト
化」あるいは「バンツースタン化」を物語るものにほかならない。
—127—
[注]
(1) Ann M. Lesch, The Gaza Strip: Heading Toward a Dead End, Universities
Field Staff International, Indianapolis, 1984.
(2) Ann M. Lesch. “Gaza: Forgotten Corner of Palestine,” Journal of
Palestine Studies. Vol.XV, No.1.Autumn 1985. P. 43.
(3) Joan Mandell, *Gaza: Israel’s Soweto,” MER1P Reports, Oct. -Dec. 1985, pp.7-19. (4) Richard Locke & Antony Stewart, Bantustan Gaza. Zed Books, London, 1985. (5) Sara M. Roy. The Gaza Strip: A Demographic, Economic. Social and Legal Survey, West Bank Data Base Project, Jerusalem, 1986, p. 5. (6) Mandell, op. cit., p. 8. (7) Locke & Stewart, op. cit., p.5. (8) Ibid. (9) Ibid. (10) Mandel, op. cit., p. 9. (11) Ibid. (12) Locke & Stewart, op. cit.. p.7. (13) ガザ地区においてファタハのイスラエルに対するゲリラ活動がエジプト軍当局に よりいかに厳しく抑圧されたかは、Abdallah Frangi, The PLO and Palestine, Zed Books, London, 1983 を見よ。 (14) Fawzi A. Gharaibeh, The Economies of the West Bank and Gaza Strip. Westview Press. Colorado, 1985, p.17 及び Ben Shahar et al..Economic Structure and Development: Prospects of the West Bank and Gaza Strip. Rand Corporation, Santa Monica, Ca.,1971,p.29. (15) Eliyahu Kanovsky, The Economic Impact of Six Day War: Israel, the Occupied Territories, Egypt and Jordan, Praeger, N.Y.,1970, p.175. (16) Brian Van Arkadie. Benefits and Burdens: A Report on the West Bank and Gaza Strip Economies since 1967, Carnegie Endowment, N.Y..1977, p.30. (17) Roy, op. cit., p.19. (18) Ibid., p.38. (19) Gharaibeh, op. cit., p.16. (20) Kanovsky, op. cit., p.177. -128- (21) Mandell, op. cit.. p.10. (22) Ibid. (23) International Center for Peace in the Middle East, Research on Human Rights in the Occupied Territories 1979T983. 1985. Tel Aviv, p. 9. (24) Ibid. (25) Roy, op. cit., p.125. (26) Meron Benvenisti, 1986 Report: Demographic, Economic, Legal, Social and Political Development in the West Bank, The West Bank Data Base Project, Jerusalem Post, Jerusalem, 1986, p. 44. (27) Roy, op. cit., p.126. (28) Ibid.. p.127. (29) Ibid.. p.129. (30) UNRWA, Registration Statistical Bulletin for the Third Quarter 1985, p. 6. (31) Gharaibeh, op. cit., p. 50 及び Roy, op. cit., p. 32. (32) Civil Administration of Gaza, 18th Year of the Administration. 1985, p. 31. (33) Roy, op. cit., p. 35. (34) Michael Shalve, “Winking an Eye at Cheap Arab Labour,” Jerusalem Post, Jan. 7,1986. (35) Ibid.及び Benvenisti, op. cit., p.12. (36) Roy, op. cit., p.36. (37) M. K. Budeiri, nChanges in the Economic Structure of the West Bank and Gaza Strip under Israeli Occupation,” Labour, Capital and Society. Vol.15, No.l, Apr. 1982, p. 54. (38) Roy, op. cit., p. 45. (39) Ibid. (40) Ibid. (41) Joe Stork. “Water and Israel’s Occupation Strategy,” MERIP Reports, Vol.13, No. 6, Jul. -Aug. 1983, p. 23. (42) Roy, op. cit., p. 51. (43) Ibid. (44) Gharaibeh. op. cit., p.109. -129— (45) Mandell, op. cit.. pp.13-14. (46) Ibid. (47) Roy, op. cit.. pp.84-86. (48) Ibid. (49) Sharif Kanana and Rashad al-Madani, Settlement and Land Confiscation in the Gaza Strip 1967-1984, Center for Research and Documents, Birzeit University, Birzeit, West Bank, 1985, p. 23. (50) Lesch, The Gaza Strip, op. cit., Part II. p.1. (51) Roy, op. cit., p.137. (52) Ibid.. p.139. (53) Meron Benvenisti, The West Bank Data Project: A Survey of Israels
Policies, American Enterprise Institute for Public Policy Research,
Washington,D.C.,1984. p. 30.
(54) Roy, op. cit., p.139.
(55) Kanana and al-Madani, op. cit., p. 32.
(56) Roy, op. cit.,叩.134-135.
(57) Ibid.同様のことは西岸でも行われた。リクード政権になってからイスラエルが
西岸及びガザ地区の大量の土地を押えたのは、主としてこの方法によるもので
あった。Benvenisti. The West Bank Data Project, op. cit., pp.30-35.
(58) Kanana and al-Madani. op. cit., p.19.
(59) Ibid., p.2〇.
(60) Lesch, The Gaza Strip, op. cit., Part II, p. 2.
(61) Kanana and al-Madani, op. cit., p.22.
(62) Lesch, The Gaza Strip, op. cit., Part II, p. 3.
ad d d d d
1 »1 *! ・1・1 ・1
D b b b b b
1 I 1 I I I
(63) Ibid.,
(64)
(65)
(66)
(67)
(68)
(69)
(70) Lesch,
p. 32.
p. 33.
pp.27 and 32.
The Gaza Strip, op.
cit..
Part II, p. 3.
(71) Roy, op. cit., p.148.
-130-
The
Gaza Strip
SETTLEMENTS
Northern Bloc
Central Bloc
Qatif Bloc
REFUGEE CAMPS
Sheikh Ajlin
Tel Ajjul
REFUGEE RESETTLEMENT
PROJECTS
-Atatra
Beit Hanun
Jabaly
AZA
Old road
•Balah
International border
Armistice line
Israeli settlement zone
RAFAH
Ann M. Lesch
Merip Reports,
Israeli built or
improved road
‘ TO
TEL AVIV
ASHKELON
1 Alai Sinai
2 Nevets Sala
3 Nisanit
4 Eretz
5 Tel Montar
6 Netzarim
7 Kfar Darom
8 Nahal Oatif D
9 Netzer Hazani
10 Qatif
11 Ganei Tai
12 Neve Dekalim
13 Gadid
14 Gan Or
15 Bedolah
16 Atzmona
17 Mitzpe Atzmona
18 Morag
A Jabalya
B Shati (Beach)
C Nuseirat
D Bureij
E Mughazi
F Deir al-Balah
G Khan Yunis
H Rafah
AA Hai Sheikh Radwan
BB Nazla
CC Amal
DD Swedish Village
EE Tel al-Sultan
FF Canada Camp
GG Brazil Camp
HH Dehaniya (bedouin)
び・・Delhi camp
Suhaila
Abas耳n Saghir
Khirbat Ikhza
BEERSHEBA
October-December 1985.
(出所)
—131 — 』