Map with red spot in upper center reflecting Zagreb’s population density of over 1200 people per square kilometer 2011 Croatian 人口密度 (人/km2) <30 30-49 50-69 70-89 90-119 120-200 >1200 詳細は「クロアチアの人口動勢」を参照
クロアチアの人口統計学的特徴は、1850年代以降通常10年おきに実施され、様々な統計担当部局により分析が行われる国勢調査を通じて知ることができる。1990年代からはクロアチア統計局 (Croatian Bureau of Statistics) (英語版) が国勢調査を行っており、直近では2011年4月に実施された。その調査によると人口は429万人に達しており、1平方キロメートル辺りの人口密度は75.8人、出生時の平均余命 (平均寿命) は75.7歳だった。人口は1857年の210万人から着実に増加し(2度の世界大戦を除く) 、1991年にはピークの470万人に達した。1991年以降クロアチアの死亡率は継続して出生率を越えており、人口の自然増加率はマイナスである[36]。クロアチアは人口転換 (社会の近代化に伴い、人口の自然増加の形態が変化すること。) の第4または第5段階にある[37]。年齢構成に関しては15歳から64歳のグループが最も多い。平均年齢は41.4歳で、総人口の男女比は女性1に対して男性0.93である[6][38]。
民族による人口構成はほとんどがクロアチア人によって占められており(89.6%) 、その他クロアチア憲法 (Constitution of Croatia) (英語版) により認められたセルビア人 (4.5%) や21の少数民族 (それぞれ1%未満) がいる[6][39]。クロアチアの人口動勢の歴史には下記の重要な変動が刻まれている。すなわち、クロアチア人のこの地域への到着[40]、クロアチア王国 (Kingdom of Croatia、Croatia in the union with Hungary、1102年-1526年、ハンガリー王国支配下で自治が認められていた。) 以降のハンガリー語、ドイツ語話者の増加[41]、ハプスブルク君主国による併合[42]、オスマン帝国による征服[43][44][45]、ヴェネツィア共和国支配下でのイストリア半島、ダルマチア (クロアチアのアドリア海沿岸一帯の地域で、現在のクロアチア共和国の一部。) におけるイタリア語話者の増加[10]などである。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後、ハンガリー人は減少し[46]、同時にドイツ語話者は第二次世界大戦終盤及び戦後にいなくなり[47]、イタリア人も同じ運命をたどった[48]。19世紀後半と20世紀には大規模な経済移民 (Economic migrant) (英語版) が見られた[49]。1940年代、1950年代のユーゴスラビアの人口動勢は国内での移動と共に都市化の影響を受けた。近年のもっとも大規模な異動はユーゴスラビア紛争の結果として発生した、数十万の移民流入である[50][51]。
『政治的地理 詳細は「クロアチアの地域区分」を参照 Division of Croatia into 3 sections, one coastal, one upper left, and one with the rest クロアチアの地域統計分類単位 (NUTS): クロアチア北西部 クロアチア中央部及び東部 (パンノニア) アドリア海沿岸部
クロアチアは最初中世に「郡 (county) 」の単位により区分された[62]。 区分方法はオスマン帝国による領土の喪失やその領土の回復、さらにはダルマティア、ドゥブロヴニク、イストリアの政治的状況の変化を反映した。伝統的な「郡」による区分は1920年代に廃止され、セルビア、クロアチア、スロベニア王国 (Kingdom of Serbs, Croats and Slovenes) 次いでユーゴスラビア王国がオーブラスチ (Oblast、スラヴ系諸国に設置されている地方行政区分の呼称の1つ。日本語では「州」と訳されることが多い。)、バナヴィナ (banovina) による区分を導入した[63]。共産党支配によるクロアチアは、第2次世界大戦後ユーゴスラビアの一部として元々あった区分を廃止し、主に農村部において市制を導入して約100の自治体に区分した。「郡 (county) 」は1992年に法制化により再導入され、特に1920年代以前の区分に対応する形で変更された。例えば、1918年、クロアチアの「聖イシュトヴァーンの王冠の地 (Lands of the Crown of Saint Stephen) 」はビェロヴァル、ゴスピチ、オグリン、ポジェガ、ブコバル、ヴァラジュディン、オシエクとザグレブの8つの「郡」に分割され、1992年の法制化では同じ領域が14の「郡」に区分された。メジムリェ郡は1920年のトリアノン条約によって割譲された同名の地域に置かれた[64][65]。(1990年のクロアチア憲法は、特に郡の名前や番号を特定することなく、政府の一部としての郡議会 (Chamber of the Counties) (英語版) あるいは郡そのもののために提供された[66]。しかしながら、郡は実際には1992年まで再設置されず[67]、最初の郡議会議員は1993年に選出された[68]。)
『AFPの2022-12-16記事「Croatia lawmakers say ‘no’ to Ukraine troops training」。 EUは各国分担で、ウクライナ軍将兵1万5000人を訓練させてやろうとしているのだが、クロアチアでは議会が反対したため、この分担はできなくなった。クロアチアの大統領も、反対の立場である。ロシアとの戦争に巻き込まれるというので。大統領には軍隊の指揮権がある。