IntelとAMDが輸出を禁止したロシアで代用される中国産x86チップとは?

IntelとAMDが輸出を禁止したロシアで代用される中国産x86チップとは?
https://gigazine.net/news/20220523-russia-use-chinese-cpu-kx-6640ma/

 ※ この局面で、「龍芯」(たぶん。上海兆芯集成電路有限公司が作っているとすれば、そのはずだ)の名前を聞くことになるとはな…。

 ※ 「4コア」「ベース周波数は2.1GHz、ターボ周波数が2.6GHz、L2キャッシュ4MB、熱設計電力(TDP)が25W」とか、「非力」極まりない…。

 ※ win11(TPMで弾かれるか)は愚か、win10も苦しいだろう…。

『2022年2月にウクライナへ侵攻したことを世界中から非難されているロシアは、IntelやAMDなど主要なプロセッサーメーカーから半導体製品の輸出および販売を禁止されています。そのため、ロシアでは新しいデスクトップPC向けCPUとして、中国産のx86チップの導入が進められているとのことです。

Российско-китайская компания выпускает материнскую плату на базе китайского чипа Zhaoxin / Habr
https://habr.com/en/company/selectel/blog/664258/

Export bans prompt Russia to use Chinese x86 CPU replacement • The Register
https://www.theregister.com/2022/05/19/export_bans_prompt_russia_to/

ロシアと中国に本社を持つ電子機器メーカーのDannieは、2022年5月に「MBX-Z60A」という新しいデスクトップPC用マザーボードを発売しました。このマザーボードは、台湾のVIA Technologiewと上海市が共同出資したチップメーカー・上海兆芯集成電路有限公司(Zhaoxin)が作ったx86チップをサポートするように設計されているとのこと。

MBX-Z60AはmicroATXフォームファクタで、小型PC向けのマザーボード。対応しているCPUはZhaoxinの「KX-6640MA」となっています。このKX-6640MAについて、PassMarkのベンチマークに登録されているテスト結果では、4コアCPUであることがわかっています。

ハードウェア関連ニュースサイトのCNX Softwareでは、KX-6640MAのベース周波数は2.1GHz、ターボ周波数が2.6GHz、L2キャッシュ4MB、熱設計電力(TDP)が25Wだとまとめられています。また、KX-6640MAは16nmプロセスで製造されており、16レーンのPCIe 3.0接続とUSB 3.0をサポートしているそうです

つまり、KX-6640MAは近年のスマートフォンに搭載されているチップと比べてもスペックは全く高くない、とロシアメディアのHabrは論じています。実際にPassmarkにおけるKX-6640MAの平均スコアは「1566」で、iPhone 12シリーズに搭載されたAppleのA14 Bionicチップが記録した「8543」に遠く及ばないスコアとなっています。

なお、サーバー向けプラットフォームでは、ロシア国内の半導体企業であるMSCT(Moscow Center for SPARC Technologies)が、「Elbrus」というブランドのプロセッサーをリリースしていますが、どうしても性能はIntelやAMDの製品より劣るようで、ロシア貯蓄銀行の技術部門であるSberInfraは「Elbrusのプロセッサーは、複数のワークロードをこなすにはメモリが不十分な上に遅く、コアも少なくクロック周波数も足りていない」と報告しています。さらにロシアでは、IntelやAMDのCPUが入手できない状況を打破すべく、Rostecという国営企業がオープンソースの命令セットアーキテクチャであるRISC-Vを採用したノートPC向けチップの開発に取り組んでいると報じられています。』

「反中国」:クワッドは海上監視計画を開始します

「反中国」:クワッドは海上監視計画を開始します
https://www.aljazeera.com/news/2022/5/28/why-has-the-quad-launched-an-anti-china-surveillance-plan 

 ※ なるほど…。

 ※ こういう記事(Google翻訳だが)を読むと、クアッドは、単なる「会合して、メッセージを発信する」パートナーシップのフレームワーク…、と言うだけのものでも無さそうだ…。

 ※ 今日は、こんなところで…。

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

「反中国」:クワッドは海上監視計画を開始します

Quadのイニシアチブは、インド太平洋諸国が違法な漁業や中国船による侵入をリアルタイムで追跡できるようにすることを目的としています。

2021年4月27日に撮影され、2021年5月5日にフィリピン沿岸警備隊から受け取ったこの配布写真は、サビーナ浅瀬に停泊している中国船を監視している船に乗っているフィリピン沿岸警備隊の職員を示しています。

この配布物の写真は、フィリピンのパラワン島の西約135 km(73海里)に位置するマニラが主張する南シナ海の露頭であるサビーナショールに停泊している中国の船を監視しているフィリピン沿岸警備隊の職員を示しています

[配布物/フィリピン沿岸ガード/AFP]
ZaheenaRasheed 著
2022年5月28日に公開2022年5月28日

インド太平洋地域の国々に「具体的な利益」を提供することを誓約し、クワッドの指導者たちは、アナリストが中国に対抗するためのこれまでの最も重要な動きであると言う海事監視計画を開始しました。

クワッド(日本、米国、インド、オーストラリアで構成される非公式の同盟)は、インド太平洋海域認識パートナーシップ(IPMDA)が、太平洋諸島と東南アジアおよびインド洋の国々が違法な漁業を追跡するのに役立つと述べています。

リアルタイムで彼らの海域での他の違法な活動。クワッドは名前で中国について言及していませんでしたが、このイニシアチブは、排他的な経済圏での中国のボートによる無許可の漁業や、紛争海域での中国の海上民兵船による侵入について、この地域の国々からの長年の苦情に対処することを目的としています。南シナ海。

読み続けます
4つのアイテムのリスト
リスト1/4

クワッドの指導者が東京で会ったとき、中国、ロシアのジェット機がパトロールを実施した

リスト2/4
東京サミットで、クワッドは中国に対抗するための「具体的なメリット」を提供します

リスト3/4
就任後数時間でクワッドミートに飛ぶオーストラリアの新しい首相

リスト4/4
ウクライナの緊張が薄れる中、オーストラリアでクワッド交渉のためにブリンケン

リストの終わり

クワッドはイニシアチブの詳細を提供しなかったが、名前のない米国当局者は英国のフィナンシャルタイムズ紙に、グループはインド太平洋諸国に無料で海事情報を提供するための商用衛星追跡サービスに資金を提供する予定であると語った。

このイニシアチブは、無線周波数とレーダー信号を監視することで、自動情報システム(AIS)と呼ばれるトランスポンダーをオフにして検出を回避しようとしても、各国がボートを追跡できるようにします。このインテリジェンスは、インド、シンガポール、バヌアツ、ソロモン諸島に拠点を置く地域監視センターの既存のネットワーク全体で共有されます。

米国に本拠を置く戦略国際問題研究所の東南アジアのフェローであるグレゴリー・ポーリングは、IPMDAを「野心的」であると説明し、インド洋、東南アジア、太平洋諸島の発展途上国にとって「非常に役立つ可能性がある」と述べました。「この努力は、コストを大幅に削減し、違法な漁業と中国の海上民兵の行動を監視する能力を高める可能性があります」と彼は言いました。

推定3,000隻の船舶を擁する中国の遠洋艦隊は、世界最大です。

中国政府から多額の助成を受けているこの船団は、世界中の違法、無許可、無規制の漁業を追跡する世界違法漁業指数で最悪のランクにランクされています。

中国の船舶は、2015年から2019年の間に少なくとも237回、免許なしで漁業を行ったとして非難されています。一方、近年、バヌアツ、パラオ、マレーシア、韓国で、違法な漁業または侵入により数隻の中国のボートが拘留されています。北朝鮮の海域では、トランスポンダーがオフになっている数百隻の中国船がイカを釣っているのも発見されています。
英国に本拠を置くキャンペーングループであるEnvironmentalJusticeFoundationによると、違法な漁業に加えて、中国の艦隊は、サメ、アザラシ、イルカなど、世界中の海で絶滅の危機に瀕し保護されている海洋生物を標的にしたとして非難されています。

北京は、国際規制に「厳密に準拠している」として、違法漁業の申し立てを却下します。また、遠方の水域の監視を強化し、インド洋北部を含む資源を保護するために自主的な漁業モラトリアムを課したと述べています。

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「明らかに反中国」

しかし、中国の海事行動に対する地域の懸念は、違法な漁業にとどまりません。

専門家はまた、中国は資源の豊富な南シナ海で準軍組織として漁船を利用していると述べています。北京は水路のほぼ全体を主張しており、漁船は1974年のベトナムの西沙諸島、1995年と2012年のフィリピンのミスチーフ礁とスカボローショールなどの紛争地域を占領する上で重要な役割を果たしてきました。

昨年5月、マニラは、パグアサ島としても知られるティトゥ島の近くで、「中国の海事資産と漁船の絶え間ない展開、長期にわたる存在、違法な活動」と呼ばれるものに再び警鐘を鳴らしました。その地域に係留している約287隻のボートを発見したとのことです。

北京は、「主張されているような中国の海上民兵は存在せず」、漁船は単に悪天候から身を守っていたと述べた。

しかし、米国は、天候に関係なく、ボートが何ヶ月もの間この地域で浮浪していると述べ、北京の批評家は、この策略が紛争海域で少しずつ前進するための壮大な設計の一部になるのではないかと懸念していると述べた。

インドネシア海軍が他国からの船を沈没させ、その海域で違法に漁業を行っているのを発見したときの炎と黒い煙の巨大な噴煙

インドネシア海軍は以前、インドネシア海域で不法に漁獲された中国からのボートを含む外国船を伐採した[ファイル:ロイター経由のFiqman Sunandar / Antara Foto]

キングスカレッジロンドンの国際関係学教授であるラモンパチェコパルド氏は、中国の海事行動は「クワッドだけでなく、東南アジアの国々にとっても懸念事項」であると述べた。「それで、私は多くの国が[IPMDA]に参加することを期待しています。」

「私の見解では、これは明らかに中国を対象としているため、クワッドがとった最初の明示的な反中国のステップです」とパルドは述べ、クワッドのこれまでの最大のイニシアチブはCOVID-19ワクチンの提供に関係していると述べました。「しかし、それがどれほど効果的かを見極める必要があります。」

北京では、クワッドの最新の動きのニュースが軽蔑と懸念を引き起こした。

中国外務省のスポークスマンであるワン・ウェンビン氏は記者団に対し、中国は「関連する国際法に対する義務を積極的に果たしている」と述べ、「小さな派閥を構築し、集団対立を煽ることは、平和で安定した協力的な海事秩序に対する真の脅威である」と述べた。
一方、共産党が所有する環球時報の論説では、IPMDAは「ばかげている」と呼ばれていました。

「クワッドの最初の実質的な安全対策が中国の漁船を対象としているのは冗談のようです」と南シナ海戦略的状況調査イニシアチブのディレクターであるフー・ボーは書いています。このイニシアチブは、中国を非難し、海を平和的に利用する権利を奪うことだけを目的としていたと彼は述べた。

「中国の漁船への動きは単なる「前菜」である可能性が高く、中国政府と沿岸警備隊の船、そして軍艦も監視下の次の標的になるでしょう。これは、クワッドのより広範な監視システムで実現可能です」と彼は付け加えました。

他の人々は、IPMDAが中国とクワッドの間の緊張をエスカレートさせる可能性が高いと述べた。

「米国主導の海事領域認識(IMPDA)パートナーシップは、中国の漁業を批判することを目的とした監視ネットワークを構築するための薄いベールに包まれた論理的根拠です」と北京を拠点とするアナリスト、アイナー・タンゲンはアルジャジーラに語った。

「それは悪化している国際関係においてもう一つの刺激物として役立つでしょう。」

出典:アルジャジーラ
©2022アルジャジーラメディアネットワーク 』

ロシアが東にポンドを打つようにゼレンスキーは反抗する

ウクライナのライブニュース:ロシアが東にポンドを打つようにゼレンスキーは反抗するhttps://www.aljazeera.com/news/2022/5/27/biden-accuses-putin-of-seeking-to-wipe-out-ukrainian-culture-liveblog

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

ウクライナ東部がロシアの猛攻撃に耐えているため、ウクライナ大統領は毎晩の演説を使って支持を集めています。

ウクライナの兵士がウクライナ東部に埋葬され、彼の名前が記された十字架の周りに国の青と黄色の旗がはためく

葬儀屋は、ウクライナ東部のハルキウ市で同志の隣にウクライナの軍人を葬ります[Bernat Armangue / AP Photo]

Jillian Kestler-D’Amours、Kate Mayberry 、 Usaid Siddiqui
2022年5月27日に公開2022年5月27日

ウクライナの大統領は、ロシアがセベロドネツクを叩くと、国「ドンバスはウクライナ人になる」と語った

米国のジョー・バイデン大統領は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナの文化とアイデンティティを「一掃」しようとしていると述べています。

ロシアの財務大臣は、今年、追加のエネルギー収入で144億ドルを受け取ると見込んでおり、その一部はウクライナでの同国の戦争に資金を提供する予定であると述べています。

ICCの検察官は、ロシアに対し、戦争犯罪の捜査に協力するよう要請します。

インタラクティブなロシア-ウクライナの地図DonbasDAY94で誰が何を管理するか
(アルジャジーラ)

読み続けます

3つのアイテムのリスト

リスト1/3
「決して起こらない」:ウクライナは平和のために土地の交換を爆破する

リスト2/3
WHO加盟国は、ウクライナの健康サイトに対するロシアの攻撃を非難している

リスト3/3
ウクライナで4,000人以上の民間人が殺害された:国連

リストの終わり

最新のアップデートはすべて次のとおりです。

14分前(06:42 GMT)
ロシア-ウクライナ戦争:主要な出来事のリスト、94日目

5月28日土曜日のこれまでの主要なイベントをここで読んでください。

ドネツクのマヤキー村でウクライナの軍人が車に乗り込む

2022年5月27日金曜日、ウクライナの軍人がウクライナのドネツク地方のマヤキー村で車に乗り込みます。[Andriy Andriyenko/AP写真]

1時間前(05:54 GMT)
ウクライナのロシア加盟教会は、モスクワを拠点とする侵略を支援するリーダーを批判している

ロシア正教会に所属していたウクライナ正教会の指導者たちは、ロシアのウクライナ侵攻を支持したロシア教会の指導者を批判する一方で、教会の完全な独立を宣言する措置を採用しました。

モスクワに関連する組織の評議会であるウクライナ正教会は金曜日に、「戦争を神の戒めの違反として非難する」と述べた。…そして、ウクライナでの戦争に関して、モスクワとすべてのロシアのキリル総主教の立場に同意しないことを表明します。」

1時間前(グリニッジ標準時05:30)

ロシアはセベロドネツクを取り囲んでいない:知事

ルハンシク地方の知事は、彼らの軍隊が東部の都市セベロドネツクを取り囲んでいるというロシアの主張を否定したが、ウクライナの兵士は撤退しなければならないかもしれないと述べた。

Serhiy Haidaiは金曜日の電報で、ロシア人がホテルとバスの駅を押収したと書いた。

「アナリストが予測するように、ロシア人は今後数日でルハンシク地域を占領することができなくなります。私たちは自分たちを守るのに十分な力と手段を持っているでしょう」とハイダイは書いています。

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彼は、「囲まれないで、私たちは去らなければならない」可能性があると付け加えた。

重要な補給と避難の道であるリシチャンシク-バクムット高速道路は絶えず火事になっていますが、物資と人々はまだそれを通過しているとハイダイは言いました。

ルハンシク地方のシエビエロドネツクで、ロシアのウクライナへの攻撃が続く中、地元住民のヴィアチェスラフがミサイル攻撃で被害を受けた住宅の残骸の上を歩く

ルハンシク地方のセベロドネツクで、ロシアのウクライナへの攻撃が続く中、居住者が軍事攻撃で被害を受けた住宅の残骸の上を歩く[ファイル:Serhii Nuzhnenko / Reuters]

3時間前(04:08 GMT)
ロシアの国会議員が軍の撤退を要求:AP

AP通信社(AP)は、ロシアの極東の共産党立法代理人がウクライナでの戦争の終結とその軍隊の撤退を要求したと報じています。

APによると、金曜日にウラジオストクの太平洋港で開催されたプリモルスク地域立法議会の会合で、レオニード・ヴァシュケビッチ氏は、「わが国が軍事作戦を止めなければ、わが国に孤児が増えることを理解している」と述べた。 ロシアは戦争を「特別な軍事作戦」と呼んでいます。

彼がウラジミール・プーチン大統領に宛てた彼のコメントは、この地域から発信されたテレグラムチャンネルに投稿されたビデオで示されました、とエージェンシーは言いました。

別の議員がVasyukevichの見解を支持するために続いたが、立法議会の議長はその後、この発言を大多数の議員によって支持されていない「政治的挑発」と呼ぶ声明を発表した。
3時間前(03:53 GMT)
「ドンバスはウクライナ人になる」:ゼレンスキー

ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ロシアがライマンを捕らえ、セベロドネツク市を襲ったという報道の中で、彼の定期的な毎晩のビデオ演説で断固とした口調を打ちました。

ウクライナは「現在の防衛資源が許す限り」その土地を保護していたと彼は言った。

「占領者がライマンまたはセベロドネツクが彼らのものになると考えるなら、彼らは間違っている」とゼレンスキーは言った。「ドンバスはウクライナ人になります。」

5時間前(02:20 GMT)
リトアニア人が集まってウクライナ向けのドローンを購入

リトアニア人は、ウクライナ向けの高度な軍用ドローンを購入するために、必要な500万ユーロ(530万ドル)のうち、わずか3日間で約300万ユーロ(320万ドル)を調達しました。

ドライブを立ち上げたリトアニアのインターネット放送局であるLaisvesTVは、何百人もの人々が少量を寄付したと言います。

ウクライナは近年、20機以上のバイラクタルTB2武装ドローンを購入し、1月27日にさらに16機を注文しました。そのバッチは3月上旬に配達されました。

「これは、一般の人々がバイラクタールのようなものを買うためにお金を集めるという歴史上最初のケースです。ロイター通信によると、ウクライナのリトアニア大使であるベシュタ・ペトロ氏は、レイズベステレビに語った。

エアストリップに描かれたトルコ製のバイラクタルTB2ドローン

ウクライナは近年、20機以上のトルコ製バイラクタルTB2ドローンを注文しました[ファイル:Birol Bebek / AFP]

5時間前(01:39 GMT)
ロシア軍はセベロドネツクの都市の戦いで戦う可能性があります:ISW

戦争研究所(ISW)は、ウクライナでの戦闘に関する最新の評価を発表しました。

セベロドネツクへのロシアの直接攻撃は、都市が完全に取り囲まれる前から始まったと言われています。これにより、軍が町を迅速に前進することが困難になる可能性があります。

「これまでの戦争中、ロシア軍は市街地の市街地での作戦をうまく遂行できなかった」とシンクタンクは述べた。

それはまた、ロシア軍によって占領された南部のウクライナのパルチザン軍の活動の増加を観察した。

#ロシア軍は、都市を完全に取り囲むことなく、 #セベロドネツクの市街地への直接攻撃を開始し、都市自体に着陸するのに苦労する可能性があります。

@TheStudyofWarおよび@criticalthreatsからの完全なレポートを読む:https ://t.co/WDRQxi65ff pic.twitter.com/aQoLdHZxjY

— ISW(@TheStudyofWar)2022年5月28日

7時間前(00:23 GMT)
衛星画像はロシアの作戦、荒廃を示しています

ウクライナ東部で何が起こっているのか、そして荒廃の規模についての洞察を与える新しい衛星画像がリリースされました。

衛星画像は、ウクライナのルハンシク地方のポパスナで、ロシアがウクライナに侵攻している最中の、ロシアの装甲部隊と砲撃の余波を示しています。

ロシアの装甲部隊とウクライナ東部のルハンシクのポパスナでの砲撃の余波。写真は2022年5月25日に撮影されました[ロイター経由の衛星画像2022MaxarTechnologies]

Maxar Technologiesが提供する衛星画像は、ウクライナのリマン北部に配備された発射位置にある曳航砲を示しています

ウクライナのリマンの北に配備された発射位置にある曳航砲[©2022MaxarTechnologiesvia AP Photo]

Maxar Technologiesが提供する衛星画像は、ウクライナのリマンにある最近の砲撃で破壊された野原の砲兵クレーターと破壊された建物の概要を示しています。

この衛星画像は、ライマンで砲撃によって破壊された大砲のクレーターと建物によってポックマークされたフィールドを示しています。2022年5月26日木曜日[©2022MaxarTechnologiesvia AP Photo]

Maxar Technologiesによって提供された衛星画像、ロシア軍は、ウクライナのリマンの北東約11kmにあるKolodyaziの町に配備されています。

ロシア軍は、ウクライナのライマンの北東約11キロにあるコロディアジの町に配備されました。2022年5月26日木曜日。車両は町中の建物の近くに配置されています[©2022MaxarTechnologiesvia AP Photo]

9時間前(22:21 GMT)
米陸軍は、在庫を補充するためにスティンガーを追加購入することを確認しました

米陸軍は、ウクライナに送られた在庫を補充するための対空スティンガーミサイルについて、レイセオンテクノロジーズ社に6億2500万ドル相当の契約を交わしたと述べた。

レイセオンが製造した肩から発射される対空スティンガーミサイルは、ウクライナで需要が高く、ロシアの空中攻撃を阻止することに成功しました。また、近隣のヨーロッパ諸国では​​、ロシア軍を打ち負かす必要があるかもしれないと恐れています。

米軍は現在のスティンガーの供給に限定的な使用をしているが、米国は次世代の「携帯式防空システム」を開発する間、その供給を手元に維持する必要がある。

ワシントンは2月以来約1,400のスティンガーをキーウに出荷しました。

9時間前(21:41 GMT)
プーチンは彼の目的の「正確にゼロ」を達成しました:米国の公式

国防総省のスポークスマン、ジョン・カービーは、東部での戦闘が激化しているにもかかわらず、プーチンはウクライナでの目標を「正確にゼロに達成した」と述べた。

「私たちの評価では、ロシア人はドンバスでいくらかの漸進的な利益を上げ続けています。それほど大きくはありません–飛躍的ではありません。彼らは直面しており、厳しいウクライナの抵抗に直面し続けています」とカービーは記者会見で記者団に語った。

「私たちはこれにほぼ100日かかります、そしてプーチン氏は彼の戦略的目標の正確にゼロを達成しました」と彼は言いました。

10時間前(20:55 GMT)
NATOがスウェーデンと交渉、フィンランドは「継続する」:トルコ当局者

トルコの高官はロイター通信社に対し、NATOに加盟するための両国の取り組みについてスウェーデンとフィンランドと話し合うことは「簡単なプロセスではない」が継続すると語った。

アンカラは、米国主導の同盟に参加する最近の入札について懸念を表明し、スウェーデンとフィンランドが「テロリスト」を抱えていると非難する一方で、ストックホルムがシリアでの戦争への関与について2019年にアンカラへの武器販売を停止したことを批判しました。

スウェーデンとフィンランドの外交官は水曜日にトルコで会い、彼らの違いを埋めようとしました。

トルコ当局者はロイター通信に対し、スウェーデンとフィンランドはアンカラの支持を得るために「困難な」措置を講じなければならないと語った。「さらなる交渉は続くでしょう。しかし、日付はそれほど近いようには見えない」と当局者は述べた。

10時間前(20:43 GMT)
バイデンは、プーチンがウクライナの文化とアイデンティティを消そうとしていると言います

米国のジョー・バイデン大統領は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナの文化とアイデンティティを「一掃」しようとしていると非難した。

「彼はウクライナを乗っ取ろうとしているだけでなく、文字通りウクライナの人々の文化とアイデンティティを一掃しようとしている」とバイデンは米国海軍アカデミーの卒業式での演説で述べた。

彼は、ロシア軍は「文化を排除する以外の目的で学校、保育園、病院、美術館を攻撃している」と述べ、戦争は「ルールに基づく国際秩序の基本的な信条に対する直接の攻撃」であると付け加えた。

10時間前(20:34 GMT)
ICCの検察官は、ロシアに戦争犯罪の調査に協力するよう要請します

国際刑事裁判所(ICC)の検察官は、ウクライナでの戦争犯罪の疑いに関する裁判所の調査に協力するようロシアに要請しました。

カリム・AA・カーン検察官は、ハーグに本拠を置く裁判所のメンバーではないロシアは、ウクライナのICCとの協力を拒否したと述べたが、支援したい場合は彼の「ドアは開いている」と付け加えた。

「招待状はそこにあります。私のドアは開いています、そして私もロシア連邦のドアをノックし続けます」とカーンはAFP通信社とのインタビューで言いました。

「ロシア連邦が持っている申し立てがある場合、彼らが持っている情報がある場合、彼らが独自の調査や起訴を行っている場合、または関連する情報を持っている場合-それを私たちと共有してください。」

11時間前(20:25 GMT)
ロシアは今年、追加の石油とガスの収入で144億ドルを見込んでいます

ロシアは今年、追加の石油とガスの収入で144億ドル(1兆ルーブル)を受け取ると予想している、と国の財務大臣は言った、そして風雨の一部はウクライナでのロシアの攻撃に使われるだろうと付け加えた。

アントン・シルアノフは国営テレビで放送された発言の中で、モスクワは今年、追加の収入を脇に置くのではなく使うことを計画していると述べた。

彼は、資金は年金受給者と子供を持つ家族への「追加の支払い」とウクライナでの「特別な作戦」の実施に使われると述べた。これはロシアが進行中の侵略を指すために使用する用語である。「これにはリソースがあります」とシルアノフは付け加えました。

こんにちは、アル・ジャジーラによるウクライナ戦争の継続報道へようこそ。

5月27日金曜日からのすべての更新をここで読んでください。
出典:アルジャジーラと通信社 』

中国、米国務長官演説に反発 「デマで脅威を宣伝」

中国、米国務長官演説に反発 「デマで脅威を宣伝」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052701007&g=int

『【北京時事】中国外務省の汪文斌副報道局長は27日の記者会見で、ブリンケン米国務長官の中国戦略に関する演説に対し「強烈に不満で断固反対だ」と反発した。

さらに「デマをばらまいて中国の脅威を宣伝し、内政に干渉し、内外政策に泥を塗った。中国の発展を抑え込み、米国の覇権を守るのが目的だ」と激しく批判した。

 ブリンケン氏は中国が「国際秩序に対する最も深刻で長期的な挑戦」をもたらしていると指摘した。

これに対し汪氏は「典型的なデマで、中国に泥を塗る言論だ」と反論。中国は国連や国際法に基づく国際秩序の「擁護者」だと主張し、自国主導の秩序を守る米国こそが「国際秩序を乱す最大の源だ」と非難した。 』

ウクライナ軍、退路断たれる恐れ 過去にも東部で包囲戦

ウクライナ軍、退路断たれる恐れ 過去にも東部で包囲戦
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052700711&g=int

『ウクライナ軍が、東部ドンバス地方のルガンスク州でロシア軍の猛攻にさらされている。ガイダイ州知事によると、ウクライナの支配地域は「5%」に縮小。残る都市セベロドネツク周辺ではロシア軍が3方向から包囲を進め、退路を断たれたウクライナ部隊が完全に孤立する恐れが出ている。

東部で「ジェノサイド」 ウクライナ大統領が危機感

 住民の退避も完了していない中、ロシア軍は兵力を集中させてセベロドネツク一帯への無差別攻撃を継続。ウクライナのメディアは、激戦の末に陥落した南東部の要衝になぞらえて「第2のマリウポリ」になると警鐘を鳴らしている。

 相手の退路を断つ包囲戦は、ロシア語で「カチョール(鍋)」と呼ばれる。ロシア軍は2014~15年、親ロシア派武装勢力を隠れみのにしたドンバス地方の紛争でこの戦術を多用し、ウクライナ軍を苦しめた。その結果、停戦交渉で優位に立つことができたという「成功体験」が、プーチン政権にはある。

 14年8月からのドネツク州イロワイスクの戦いは、双方で数百人の犠牲を出し、ウクライナ軍が敗北。翌9月の第1次ミンスク停戦合意の呼び水となった。

 翌15年の年明けには、ドネツク州デバリツェボでも包囲戦が再現された。親ロ派「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の支配地域を結ぶ交通の要衝で、ウクライナ軍はくさびを打ち込むため大軍を配置したが、結果的に孤立。双方で数千人の死者を出し、同年2月にロシア側が勝利を収めた。ウクライナ側が「不平等」と見なした第2次ミンスク停戦合意は、この時に結ばれている。

 ルガンスク州をめぐっては今回、全域の陥落を避けたいゼレンスキー政権が、米欧に武器支援の加速を求めている。一方、ロシアのショイグ国防相は20日、完全制圧が「近づいている」と主張。双方とも態度を硬化させており、停戦交渉は見通せない状況だ。 』

米、ミサイル開発関与で追加制裁 北朝鮮とロシアの個人・企業

米、ミサイル開発関与で追加制裁 北朝鮮とロシアの個人・企業
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052701215&g=int

『【ワシントン時事】米政府は27日、北朝鮮の弾道ミサイル開発に関与したなどとして、北朝鮮やロシアの4個人・企業に制裁を科したと発表した。

北朝鮮が25日に行ったミサイル発射を受けた措置で、米国内の資産が凍結され、米国との取引が禁じられる。

 発表によると、制裁対象は北朝鮮の高麗航空や政府機関に支援を行っていたロシアの金融機関2社。北朝鮮との国境に近い中国・丹東を拠点に、部品調達などに関わっていた北朝鮮の貿易会社も対象に加えた。

 このほか、ベラルーシの首都ミンスクを拠点に2019年以降、核・ミサイル開発を主導する北朝鮮の第2自然科学院(現・国防科学院)の関連組織代表として、調達活動に携わっていた北朝鮮の男性1人も制裁対象に追加した。』

ロシアのデフォルト認定持ち越し 国際組織、協議継続

ロシアのデフォルト認定持ち越し 国際組織、協議継続
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052700728&g=int

『【ロンドン時事】主要な金融機関などで構成する国際組織「クレジット・デリバティブ決定委員会」は27日、ロシアのドル建て国債がデフォルト(債務不履行)状態に当たるかどうかを協議した。今回の協議では結論が出ず、決定を31日の次回会合に持ち越した。
 外貨建て債務のデフォルトと認定されれば、ロシア革命直後の1918年以来、約1世紀ぶりとなるところだった。
 デフォルトと認定されると国際資本市場での資金調達が困難になる。ただ、ロシアは既にウクライナ侵攻に伴う制裁で市場から締め出されており、大きな混乱を招く可能性は低いとみられている。 』

ベラルーシ部隊が国境展開 ウクライナ侵攻に参戦の観測

ベラルーシ部隊が国境展開 ウクライナ侵攻に参戦の観測
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052800143&g=int

『ウクライナ軍参謀本部は27日、ベラルーシ軍がウクライナ国境に近い南東部ゴメリ州に電子戦部隊を展開したと発表した。他の国境地帯でも7個大隊が態勢を強化しているといい、ロシアの軍事同盟国ベラルーシがウクライナ侵攻に参戦するのではないかという観測が、再び高まっている。

<ウクライナ情勢 関連ニュース>

 ベラルーシはウクライナ北部キーウ(キエフ)州などへの侵攻ルートをロシア軍に提供。既に間接協力をしているが、直接の参戦は見送っている。

 ベラルーシのルカシェンコ大統領はロシアのプーチン大統領と頻繁に会談している。参戦すれば3カ国の戦争となるが、実現性は不明だ。ベラルーシ部隊の展開は、ウクライナ軍の兵力を分散させることで、東部ドンバス地方の攻略に集中するロシア軍を支援する狙いもありそうだ。 』

ロシア、キーウ再攻撃も 東部戦果踏まえプーチン政権

ロシア、キーウ再攻撃も 東部戦果踏まえプーチン政権―報道
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052800158&g=int

『独立系のロシア語メディア「メドゥーザ」は27日、ロシアのプーチン政権がウクライナ東部ドンバス地方での一定の戦果を踏まえ、首都キーウ(キエフ)再攻撃の可能性を検討中だと伝えた。複数の大統領府関係者の話としている。

<ウクライナ情勢 関連ニュース>

 ロシアはウクライナへの本格侵攻を始めた2月下旬、短期間でのキーウ制圧を目指したが、激しい抵抗を受け失敗。

北東部ハリコフ州も掌握できず、東部の親ロシア派支配地域の拡大に当面の目標を限定した。

結果、東部ルガンスク州の95%を支配下に置き、同州セベロドネツク一帯に残るウクライナ軍の包囲を進めている。 』

ロシア、利払い完了 27日期日の外貨建て国債

ロシア、利払い完了 27日期日の外貨建て国債
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052800186&g=int

『【ロンドン時事】ロイター通信によると、ロシア当局は27日、同日が支払期日だった2本の外貨建て国債の利払いを完了したと明らかにした。デフォルト(債務不履行)を回避するため、期日前に支払いを急いだという。

<ウクライナ情勢 関連ニュース>

 米財務省は、米国人にロシア政府からの元利払いの受け取りを認める特例措置を25日で打ち切った。ロシア政府が支払いを実施するのは困難となり、デフォルトは不可避な情勢だが、ロシア政府は今回、米財務省の決定直前に利払いを実行し、当面のデフォルトを回避したもようだ。』

対中競争、最重視変わらず 国内世論へにじむ配慮

対中競争、最重視変わらず 国内世論へにじむ配慮―米政権が戦略公表
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052700868&g=int

『【ワシントン時事】ブリンケン米国務長官は26日に行った中国戦略に関する演説で、バイデン政権の外交問題として対中競争を最重視し続けていく構えを打ち出した。

ロシアのウクライナ侵攻で欧州秩序が動揺する中でも、中国との覇権争いを闘い抜く覚悟を国内外に示した形だが、演説からは「内向き志向」の国内世論に苦慮する姿も浮かび上がる。

 ◇包囲網を構築

 「最も深刻で長期的な挑戦」「国際秩序を変える意図とそれを実行する力を持つ唯一の国家」。ブリンケン氏は演説で中国への激しい対抗意識をあらわにした。また、開かれた国際システムの進展に向け、中国の周囲に米国優位の「戦略的環境」を形成していく必要性を訴えた。

 バイデン大統領は今月中旬、首都ワシントンで米国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の特別首脳会議を開催。その後、日韓を歴訪して首脳会談や日米豪印4カ国の枠組み「クアッド」の首脳会議もこなし、東京では新たな経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の発足も宣言した。

 バイデン政権の包括的な対中政策を明らかにする演説は当初、今月5日に予定されていたが、ブリンケン氏の新型コロナウイルス感染で延期された。予定通り行われていれば、IPEFの発足が事実上の「対中包囲網」を構築するための「仕掛け」であることをより鮮明に各国に印象付けていたはずだ。

 ◇自国優先も維持

 戦略の柱には「投資」「連携」「競争」の三つのキーワードを並べた。

教育や人材育成、研究開発への投資を拡大し、国力復活と共に「米国の強み」(ブリンケン氏)である民主主義を立て直す。また、ロシアのウクライナ侵攻への対抗で発揮された同盟・友好国との連携を対中競争にも生かして、立ち向かう考えだ。

 ただ、ブリンケン氏は、中国の国有企業優遇策や不公平な競争環境が「数百万の米労働者の職を犠牲にした」と非難し、「あらゆる手段を使って米国の労働者と産業のために闘う」とも強調した。「米国第一」を掲げたトランプ前政権と表現や手法は異なるとはいえ、柱に掲げた「投資」には米国民の不満への配慮がにじむ。

 ブリンケン氏は「各国に選択を強制するのではなく、選択肢を与える」と述べ、米国主導の国際秩序の優位性を訴える。

だが、IPEFは関税引き下げなど米市場開放を含まず、経済圏構想としてメリットに欠けると指摘される。

自国の利益に重きを置きながら、同盟国・友好国による「対中包囲網」を築けるのか。バイデン政権の指導力を各国が注視している。 』

来月8日に国連総会 北朝鮮めぐる中ロ拒否権で

来月8日に国連総会 北朝鮮めぐる中ロ拒否権で
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022052800290&g=int

『【ニューヨーク時事】国連安保理で26日、対北朝鮮制裁決議案が中国とロシアの拒否権行使で否決されたことを受け、両国に説明を求める国連総会(193カ国)の会合が6月8日に開かれることが決まった。総会議長報道官が27日、明らかにした。

 拒否権行使国の説明は任意だが、中国代表部は27日、時事通信の取材に対し、総会に出席し説明に応じる意向を示した。

北朝鮮に一定の理解を示す中国は26日、米主導の制裁強化案を「弊害と対立の激化を招く」と一蹴。総会でも同様の立場を訴えるとみられる。』

米主催の米州首脳会議、ベネズエラとニカラグア招待せず

米主催の米州首脳会議、ベネズエラとニカラグア招待せず
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN26EY90W2A520C2000000/

『【メキシコシティ=清水孝輔】米政府が6月に米西部カリフォルニア州で開く米州首脳会議に、南米ベネズエラと中米ニカラグアの2カ国を招待していないことが26日に明らかになった。会議への出欠をめぐって、メキシコなど他の中南米諸国の判断に影響する可能性がある。

米州首脳会議の責任者を務めるケビン・オライリー氏が26日、米議会上院の小委員会で明らかにした。カリブ海の社会主義国キューバを招待するかどうかは米ホワイトハウスが決めるという。キューバのディアスカネル大統領は「どのような状況になっても出席しない」とツイッターに投稿した。

米国務省のニコルズ国務次官補(米州担当)は3日にベネズエラとニカラグア、キューバの3カ国を招待しないと発言した。全ての国を招待すべきだと主張するメキシコやホンジュラスの反発を招いた。メキシコのロペスオブラドール大統領は26日、米州首脳会議への出欠について「恐らくあした決めるだろう」と述べた。

一方でブラジル外務省は26日、同国のボルソナロ大統領が米州首脳会議に出席すると明らかにした。ボルソナロ氏は米国のバイデン大統領と会談する予定だ。コスタリカとエクアドルも大統領が出席する方針を示している。』

日米韓、来週に高官協議 北朝鮮担当、ソウルで

日米韓、来週に高官協議 北朝鮮担当、ソウルで
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB27ATG0X20C22A5000000/

『【ソウル=共同】韓国外務省は27日、日米韓の北朝鮮担当の高官が6月3日にソウルで対面の協議をすると発表した。外務省の船越健裕アジア大洋州局長、米国のソン・キム北朝鮮担当特別代表、韓国の金健・朝鮮半島平和交渉本部長が出席する。

3氏の対面協議は尹錫悦政権の発足後、初めて。韓国外務省は「最近の北朝鮮の連続した挑発など、朝鮮半島情勢の評価や今後の対応方策を議論する」としている。』

北朝鮮ハッカーに機密提供 韓国陸軍大尉を起訴

北朝鮮ハッカーに機密提供 韓国陸軍大尉を起訴
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB27ART0X20C22A5000000/

 ※ 『ボリスは違法サイバー賭博の運営を通じ韓国の現役軍人らをスパイに仕立て、情報収集する任務を担っていた。』とか、いかにもな話しだ…。

 ※ ターゲットを「スパイ」に仕立てる手口は、

 相手の信頼を勝ち取り、「親密」な関係になる → 相手の「弱点」を、探り出す → (大体の人間の弱点は、カネ・オンナ(男性の場合)・快楽 のいずれかが多い)→ 弱点を突いて、「弱みを握る」(カネ:ワイロ(または、ワイロまがいの利権)を送り、その証拠を取得する オンナ:美女を近づけて、密会の現場を撮影しておく 快楽:違法カジノに引きずり込み、証拠を握っておく 違法薬物に誘い込み、薬物漬けにする)→ 握っておいた、証拠を突きつけて、のっぴきならない立場に追い込む…。

 ※ これをやられて落ちないケースは、稀と言うぞ…。

 ※ ご用心、ご用心…。

『【ソウル=時事】韓国国防省の検察部が、北朝鮮のハッカーに機密情報を提供したとして、国家保安法違反で現役の陸軍特殊部隊の大尉を4月に逮捕・起訴していたことが分かった。与党議員が27日、入手した起訴状を明らかにした。

起訴状によると、大尉は昨年9月ごろ、大学時代の同級生から北朝鮮の工作機関、軍偵察総局傘下のハッカー「ボリス」を紹介された。ボリスは違法サイバー賭博の運営を通じ韓国の現役軍人らをスパイに仕立て、情報収集する任務を担っていた。

大尉は違法賭博などで金に困っていたことからボリスの要求に応じ、昨年11月から今年3月にかけ、所属していた地域隊の作戦計画など機密情報を提供。ハッキングしようとするボリスの指示を受け、陸軍ホームページのログイン画面の写真や軍の指揮統制システムのコンピューター立ち上げの映像も送った。大尉は代価や激励金などの名目で、計約4800万ウォン(約490万円)相当の仮想通貨を受け取った。

ボリスは「中国に住む朝鮮族ブローカー」と名乗り、通信アプリ「テレグラム」を通じてやりとりしていた。』

イラン国防研究所で事故 首都近郊、爆発か

イラン国防研究所で事故 首都近郊、爆発か
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB26CE20W2A520C2000000/

『【テヘラン=共同】イラン国防軍需省は26日、首都テヘラン近郊パルチンの研究所で25日に事故があり、技術者1人が死亡、同僚1人がけがをしたと発表した。同省は事故原因の調査を開始した。研究所の詳細は不明。発表に先立ちタスニム通信は26日、情報筋の話として、パルチンの工場で爆発が起きたと伝えた。

パルチン付近では2020年にミサイル製造施設で爆発が起きた疑いが報じられ、破壊工作の可能性が指摘されていた。イランでは敵対するイスラエルや米国が妨害工作を展開しているとされる。

パルチンには過去に核兵器開発が疑われた軍事施設があり、15年に国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長(当時)が視察した。イランは核開発疑惑を否定している。』

米、イラン産原油押収 革命防衛隊が報復措置

米、イラン産原油押収 革命防衛隊が報復措置
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB281E60Y2A520C2000000/

『【テヘラン=共同】ロイター通信は27日までに、情報筋の話として、ロシアが運航するイラン船籍のタンカーをギリシャ当局が拿捕、積まれていたイラン産原油を米国がギリシャ沿岸で押収したと伝えた。イラン革命防衛隊は27日、「報復措置」(国営イラン通信)として、原油を運ぶギリシャ船籍のタンカー2隻をペルシャ湾で拿捕したと発表した。

イラン核合意の修復に向けた米国とイランの間接協議が行き詰まる中、欧米とイランの間の新たな火種となりそうだ。

ロイターやギリシャメディアによると、ギリシャ当局が4月、ロシアのウクライナ侵攻に関連する欧州連合(EU)の対ロシア制裁の一環で、タンカーを拿捕。その後、米司法省がタンカーの貨物がイラン産原油であるとギリシャ側に通知。原油は米国が雇った別の船に積み替え、米国に送られるという。

革命防衛隊は2隻に違反行為があったと主張したが、詳細な説明はしていない。2隻のうち1隻を原油輸送の大動脈であるホルムズ海峡近くで拿捕した。

ギリシャ外務省は27日「海賊行為に等しいものだ」と強く非難する声明を発表。2隻と乗船していたギリシャ人計9人の即時解放を求めた。

イラン外務省は27日までに、断交している米国の利益代表部を務める在イラン・スイス大使館と在イラン・ギリシャ大使館の担当官を召喚し、抗議したと発表した。』

スウェーデン財務相「NATO軍の恒久基地と核兵器不要」

スウェーデン財務相「NATO軍の恒久基地と核兵器不要」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR25EP60V20C22A5000000/

『【ダボス(スイス東部)=中島裕介】スウェーデンのダンベリ財務相は日本経済新聞のインタビューに応じ、北大西洋条約機構(NATO)への加盟が実現した場合でも、NATO軍の恒久的な基地は置かない方針を示した。NATOの拡大に反発するロシアの刺激を避けたい考えがあるとみられる。

26日に閉幕した世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)の会場で取材に応じた。

スウェーデンはロシアのウクライナ侵攻を受けて、18日にNATO加盟を申請した。NATOの集団的自衛権の傘下に入るため、約200年守ってきた安全保障上の中立政策を転換した。

NATO加盟国はウクライナ危機をきっかけに、ロシアと近い東欧への兵力の増員を進めている。ダンベリ氏はNATO加盟後の防衛体制について「恒久的な(NATOの)基地を置く必要はないし、核兵器の配備も必要ない」と強調した。

NATOに入れば、同時に加盟申請したフィンランドを含めた「北欧諸国での非常に緊密な軍事協力ができる」と指摘。平時でのNATO軍や加盟国による大幅な常駐兵力の増強は、必要ないとの考えを示した。

ロシア政府はスウェーデンのNATO加盟に軍事的に対抗するかどうかは、「外国軍の基地を受け入れ、攻撃システムを配備するか次第だ」としている。スウェーデンの方針はロシアへの刺激を避ける戦略とみられる。

2028年までに国防費を国内総生産(GDP)比2%以上に引き上げる方針も表明した。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると21年のスウェーデンの防衛費は79億ドル(約1兆円)で、GDP比はこの10年間1%強の水準が続いていた。

ダンベリ氏は「実行可能なスピードで防衛費を増額すべきであり、軍も28年までに(2%への増額は)可能とみている」と語った。2%に到達するにはGDPの規模が変わらない場合でも、40億ドル強の上積みが必要になる。財源捻出について他の政策経費は極力、削らない方針を示した。国債の増発が議論される可能性もある。

スウェーデンとフィンランドのNATO加盟にはトルコが反発している。トルコ政府が敵視する非合法武装組織クルド労働者党(PKK)やクルド系勢力と、両国が近い関係にあるというのが、トルコ側の言い分だ。

ダンベリ氏は「PKKは長い間、テロ組織と見なされてきた。私たちはテロと戦うことに疑問符をつけることはない」と述べた。そのうえで「トルコとの緊密な対話を続け、問題が解決されることを願う」と語った。既存のNATO加盟国によるトルコへの働きかけにも期待を示した。

スウェーデンが加盟する欧州連合(EU)はロシア産エネルギーへの依存軽減を目指している。ダンベリ氏は「スウェーデンはロシアの石油やガスへの依存は少なく、EUの政策の影響はほぼない」と説明した。

ただエネルギー価格の高騰は「経済に悪影響を及ぼしている」と分析し、洋上風力発電を軸にした脱炭素エネルギーへの転換を急ぐと語った。

Mikael Damberg 与党・社会民主労働党に所属。産業政策の閣僚や内相を経て、21年11月発足のアンデション政権で現職就任

この記事の英文をNikkei Asiaで読む
Nikkei Asia https://asia.nikkei.com/Editor-s-Picks/Interview/Sweden-to-spend-2-of-GDP-on-defense-by-2028-finance-minister?n_cid=DSBNNAR 』

コーカサスの歴史 [17] ポントス草原の人々

コーカサスの歴史 [17] ポントス草原の人々
https://kyjworld.web.fc2.com/ukkazaki.htm

 ※ 到底、「一筋縄では、いかない。」歴史のようだ…。

 ※ テキストを読むのは、ツラいんで、画像だけを眺めておくほうが良さそうだ…。

 ※ と思ったが、読み始めたら、面白くて最後まで読んでしまった…。

 ※ また、長々と時間を食ったよ…。

『(8) コサックと北コーカサス

(9-3) ウクライナ・コサック

 ポーランド・リトアニア共和国周辺の南部草原のチェルカシ人(後にカザキと呼ばれた)への最初の言及は15世紀。

 カザキは始め、南キエフと東ポドリアに住み、後にドニエプルまたはザポロジュと呼ばれ始め、セヴリュキ・カザキ、シーチ(下流)、
登録(都市)、オホチコモンニエ、ナドヴォルニエとスロボダ・カザキと区別された。

 1663年以降、チェルカシ人の一部は共和国忠誠を拒否し、ロシア皇帝に奉仕し、ビザンティン伝統で小ロシア・カザキと呼ばれ始めた。これは後にロシア帝国でドニエプル左岸に住むカザキの公式名称として使用された。

 しかし、広義には、革命前はすべてのドニエプル・カザキが小ロシア・カザキと呼ばれた。

*チェルカシ人は現在の北コーカサスのアディゲ人(の祖先)を指すことが多いが、一方で、ドニエプル川中流に都市チェルカスがあり、その周辺に住んだウクライナ・コサックを指すこともある。

*セヴリュキ:セヴェリャーネの子孫。15-17世紀資料で言及。セヴェルシナ(セヴェリア、ドニエプル左岸支流地域)に住んだ。

 ロシアの資料での最初の公式言及は16世紀、特にノガイ公子ユスフのイワン雷帝への手紙に遡り、1550年の手紙では、ロシアと交易する人々を襲う、泥棒について言及。
 コサックの起源で唯一信頼できる主張は、コサックが種々の民族グループの接触地帯で生じたことである。

*ウクライナという言葉の最古の言及は1187年に遡る。以降、この言葉はルスの種々の公国の要塞国境地帯に採用された。

 1569年、以前のルスの南西の土地がポーランド王に従属すると、東ポドリアからザポロジアの地域は非公式にウクライナの名を得た。

(9-3-1) ザポロジュ・コサック

起源

 黒海の北の草原にはクマン、ペチェネグとハザールのような遊牧民族が住んでいた。

 後のコサック資料はハザール起源を主張するが、コサックの民族発生でのこれら部族の役割は議論になっている。

 抑圧や犯罪追求から逃れるためにキエフ・ルスの耕地からこれら荒野に逃げた人々もまたいた。

 彼らの生活様式はおおよそ現在コサックと呼ばれる人々と同じであった。

 彼らは主に狩猟と漁業と馬と食料を求めてのアジア部族襲撃で生きた。

 16世紀にウクライナ人貴族ドミトロ・ヴィシュネヴェツキがこれら異なるグループを強固な軍事組織に統一した。

 ザポロジュ・コサックは種々の社会・民族起源を持つが、主にポーランド人貴族支配下の生活より、荒野での危険な自由を好む農奴からなっていた。しかし、都市住民、下級貴族とクリミア・タタールさえコサック軍団の一部となった。

 彼らはまた東方正教を信仰として受け入れ、その儀式と祈祷を採用した。

 遊牧民仮説では、コサックの祖先はスキタイ、サルマタイ、ハザール、ポロヴィッツ(クマン)、シルカシア(アディゲ)、タタールとその他である。18世紀のコサック年代記はハザール起源を提案する。

しかし公式歴史学では遊牧民仮説は拒絶される。

ポーランド・リトアニア共和国内で

 16世紀に、共和国の南方拡大で、ザポロジュ・コサックは共和国によってほとんど従臣と見なされた。

 登録コサック(1572-)は1699年まで共和国軍の一部であった。

 16世紀末頃、共和国とオスマン帝国の関係は、ますますのコサックの攻撃で緊迫した。
 16世紀後半から、コサックはオスマン領を襲撃し始めたが、共和国は独立的コサックを支配できなかった。

 しかし彼らは名目的には共和国の従臣で襲撃に責任があった。逆にオスマン支配下に住むタタールが共和国の、主に人がまばらに住むウクライナ南東地域で襲撃に乗り出した。
 コサックはオスマン帝国心臓部の豊かな商人港都市を襲撃し、そこはドニエプル川河口から船で、丁度2日離れていた。

 1615と1625年までにコサックはコンスタンティノプルの郊外の地域を破壊し、スルタンのムラド4世を宮殿に逃げさせた。

 オスマン帝国と共和国は互いにコサックとタタールを抑制することを要求したが、両者に実行力はほとんどなかった。

 コサックはポーランド人に強制され、船を焼き、襲撃を止めることに同意。しかし、船はすぐに再建され、コサックの生活様式は襲撃と略奪を賛美した。

この頃、ハプスブルク家はときどきコサック襲撃者を国境でのオスマンの圧迫を軽減するために利用した。

 コサックとタタールの互いの襲撃と報復の繰り返しで共和国南東国境は低強度紛争地域となり、共和国とオスマンの戦争が拡大、モルダヴィア・マグナト戦争からツェツォラの戦い(1620年)と1633-1634年の戦争に至った。

 共和国の農奴制から逃げるウクライナ農民でコサックは増加。

シュラフタのザポロジュ・コサックを農奴に戻す試みでコサックの共和国への忠誠が弱まった。

共和国をポーランド人・リトアニア人・ウクライナ人の共和国にする計画はコサックに不人気で、ほとんど進まなかった。更に東方正教会への強い忠誠のコサックは、カトリック支配の共和国へ敵対した。

 共和国の正教会抑圧で、コサックは強い反カトリックとなり、これは反ポーランド人と同義であった。

 コサックの忠誠の衰退と、シュラフタの横暴で、17世紀にコサックは数度、共和国に反乱。

 コサックのコサック登録拡大要求の王の拒否で最大で最も成功した反乱 、フメルニツキ反乱が促進され、これは1648年に始まった。

この反乱でヘトマン国が形成された。

 この反乱やロシアやスウェーデンとの戦争などの大洪水と呼ばれる危機的な出来事が続き、共和国は非常に弱体化し、100年後の分解への過程が始まる。

 ザポロジュ軍団は自己の軍事・領域的支配地域を持った。士官は軍評議会で選出された。部隊の指導者は公式的ではないがヘトマンと呼ばれた。

 ザポロジュ軍団はヘトマン国と密接に結びついていたが、それ自身の統治と秩序を持っていた。

 軍事行動のために軍団のコサックはキシュに組織化された。キシュはシーチの統治の中央組織であった。

 キシュはシーチ・ラーダ(黒ラーダ)で選ばれた。黒ラーダは全コサックの評議会であった。

 平時には、コサックは仕事に従事し、家族と住んだ。

ロシアとの提携

 1654年のペレヤスラフ条約後、ウクライナはロシア保護下の従属国となったが、かなりの間、相当の自治を享受した。(皇帝陛下のザポロジュ軍団と呼ばれ始める。)

 1657年のボフダン・フメルニツキの死後、後継者のイヴァン・ヴィホフスキーはロシアの干渉の増加で、ポーランドに向き始めた。

 1658年のハディアチュ協定では、ザポロジュ・コサックの参加で3民族共和国の試みへの復帰が試みられた。

 しかし、これはカトリックとの連合を拒否するコサック兵士によって拒否された。

 怒った、コサックは共和国のヴィホフスキーの仲間を処刑し、ヴィホフスキーはなんとか死を免れた。

 ザポロジュはヘトマン国からほとんど分離した政府を維持した。かれらはコシュ(キシュ)・オタマンとして知られる指導者を選出。

 この時期、ヘトマン国とザポロジュのコサックの間の摩擦が増大。

 コサックは特権と自治を失うのを恐れ、皇帝に対する幾度かの反乱に関係した。

 1709年、コスト・ホルディイエンコ率いるザポロジュ軍団はロシアに対し、ヘトマンのイヴァン・マゼパに加わった。

 マゼパは以前はピョートル大帝の密接な友人であったが、後にピョートル大帝に対し、スウェーデンのカール12世と提携。

 ポルタヴァの戦いの勝利後、ピョートルは報復にシーチ破壊を命じた。

 1709年のマゼパのベッサラビアでの死で、ピリク・オルリクが後継者に選ばれた。
 彼はヘトマンの権威を制限し、ザポロジュの特権を維持、社会的平等化とウクライナとロシアの分離政策を取り始めた。

 彼はスウェーデンのカール12世の支援でロシアに対し、クリミア・タタールとオスマンと提携したが、戦いに敗れ、亡命。

 ザポロジュはオスマンの保護でドニエプル下流にオレシュキ・シーチを新しく築いた。
 しかし一部のザポロジュ・コサックはモスクワの保護に復帰したが、指導者コスト・ホルディイエンコは反ロシアで、彼の1733年の死まで、歩み寄りは不可能であった。

ロシア帝国内で

 時とともにコサックとロシアの摩擦は緩和され、特権はコサックの自治との交換であった。

 反マゼパ派はヘトマンにイヴァン・スコロパドツキを選出。彼はロシアとの衝突を避け、ヘトマン国内にロシア連隊駐留を認めた。

 1734年、ロシアはオスマン・トルコとの戦いを準備し、ザポロジュ・コサックとルブニ協定を結んだ。

 キエフ駐留のロシア軍指揮下に入ることと交換に、ザポロジュ・コサックはすべての以前の土地、特権を再確保。

 新しいシーチ(ノヴァ・シーチ)が築かれた。

 ロシアのザポロジアの内部問題干渉を心配しながら、コサックはポーランドとロシアの農奴制から逃げたウクライナ農民とその土地に住み始めた。

1762年までに33700コサックと150000農民がザポロジアに住んだ。

 18世紀末期までに多くのコサック幹部階級がロシア貴族に組み込まれたが、多くのコサック兵士は農民の地位に落ちた。

 彼らは自由を維持することができ、ロシアとポーランドの逃亡農奴に避難場所を与えた。

これにはロシア人コサックのプガチョフ支持者も含む。その結果、1775年まで、ヘトマン国とポーランド支配ウクライナからのザポロジアへの逃亡農奴の数は10万に登った。

 1774年のキュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国がロシアに併合され、南方国境防衛の必要性は存在しなくなった。

 ノヴォロシアへの植民が始まり、植民地の一つ、新セルビアはザポロジュ・シーチの丁度隣であった。

 コサックとの土地所有をめぐる摩擦は増大し、しばしば暴力に至った。

ザポロジュ軍団の終焉(1775)

 1775年5月、エカチェリーナ2世の宮廷評議会でシーチ解散決定が採用された。将軍ピョートル・テケリがシーチの占領、解散を命令じられた。命令はグリゴリ・ポテムキンに与えられた。

 陰謀により5千が包囲から逃げ、ダニューブ・デルタに行き、そこで新しいダニューブ・シーチをオスマン保護下で築いた。

 残った1万1千コサックには何もできなかった。

その後

 ダニューブ・シーチは翌年、オスマンの支援を受けることとなる。

 1784年、ポテムキンは忠誠ザポロジュ軍団を形成し、南ブグとドニエステルの間に住ませた。

 彼らの露土戦争(1787-1789)での奉仕に対し報酬として、クバンの土地が与えられ1792年に移住。

 1828年、ニコライ1世に許されて、ダニューブ・シーチのコサックはベルディアンスクとマリウポルの間の北アゾフ沿岸に移住し、アゾフ・コサック軍団を形成。

最終的に1862年、クバンに移住し、クバン・コサックと融合。

(9-3-2) コサック・ヘトマン国 1648-1764

 中央ウクライナ地域に1648-1764年(一部資料では1782年まで)に存在。
 1648-1657年の反乱の時にザポロジュ軍団ヘトマンのボフダン・フメルニツキが形成。

 1569年、ポーランドとリトアニアのルブリン連合で南のリトアニア支配ルテニアのヴォイヴォド領はポーランド・リトアニア共和国に与えられた。一方で拡大するロシアは南方のキエフ・ロシア土地を確保しようとしていた。

 またカトリック拡大主義の圧迫が1596年のブレスト連合で頂点に達し、これはローマ法皇のもと、現在のウクライナ、ポーランドとベラルーシの東方正教会の自治を維持しようとするものであったがこれは問題があった。

 コサックは共和国とオスマンの和平協定で海賊行為を阻止されて非常に憤っていた。

 コサックは既に1637-1638年の反乱に失敗していた。

ボフダンはコサックの歩兵はポーランドの騎兵に対抗できないと考え、大胆にもクリミア・タタールの騎兵を利用することを考えた。フメルニツキーはなんとかコサックとタタールの長い相互敵意を打ち破ることができた。

 1648年1月、フメルニツキは400-500のコサックでザポロジア・シーチを占領し、クリスマスには勝利してキエフに入った。
(*登録軍団の忠実ザポロジュ軍団の将校ボフダン・フメルニツキーが下流ザポロジュ軍団とザポロジアの登録コサック駐留軍の支援で共和国へ反乱を起こした。)

 クリミア・ハンのイスラム3世ギレイの支援でポーランドの反撃も阻止できた。

 1649年、ズボリフ協定が結ばれたが、コサックの予想より若干あてがはずれていた。

 1653年のクリミア・タタールの裏切りで、フメルニツキはポーランドに対し、もはやオスマンを頼れず、ロシアの支援を求めた。

 1654年、ペレヤスラフ条約でロシア保護下で自治を獲得。これで1654-1667年のロシア・ポーランド戦争が引き起こされた。

 1657-1687年の時期はヘトマン国の歴史で荒廃として知られ、国中での絶え間ない内戦で刻印される。

 1657年、ボフダン・フメルニツキーが死亡し、16才の息子のユリが後継者に選ばれたが、彼は父のような指導性を欠いていた。

 代わりにイヴァン・ヴィホフスキーがスタルシナ(幹部)評議会によってえらばれ、これが部隊と軍団に不満を生じさせた。

 選出が再度行われ、ヴィホフスキーが再選され、モスクワも承認。

 親ロシアのザポロジュのコシュ(キシュ)・オトマン(アタマン)のヤキフ・バラバシュの反乱を鎮圧し、ヴィホフスキーはモスクワと断絶したと考え、ポーランドとの交渉を決心、1658年、ハディアチュ協定でウクライナはポーランド・リトアニア共和国での第3番目の自治要素となるはずであったが実行されず、ヴィホフスキーは不評で、ヘトマン職を捨て、ポーランドに逃亡、ユリ・フメツキーが再任された。

 1659年の第2ペレヤスラフ協議でヘトマン国の独立が更に制限された。(ユリとの合意)

 1667年、ヘトマン国の代表が参加せずに決められたアンドルソヴォ条約でポーランドとロシアの国境が確立し、ヘトマン国はドニエプルに沿って、2分割され、ザポロジュ・シーチはロシアとポーランドの共同統治(1667-1686)となった。

 左岸ウクライナはロシアの下である程度の自治を享受し、右岸ウクライナは共和国に留まり、一時、1672-1699年にオスマン帝国が占領。

短期間ペドロ・ドロシェンコは両岸のヘトマンとなった。

左岸のヘトマンのデミアン・ムノホフリシュニの裏切りと、ポーランドの攻勢でドロシェンコはオスマンと提携し、オスマンは彼にウクライナを与えた。

 1683年のウィーンでの戦いの敗北後、ポーランドは1690年までにキエフを除いて右岸を取り戻し、共和国のヴォイヴォダ(領主)たちの支配下に置き、一方、全ヘトマン国の統治は1699-1704年の間に廃止された。

 荒廃の時期はイヴァン・マゼパのヘトマン選出(1687-1708)で終わり、彼はヘトマン国を統一させた。

 ロシアとスウェーデンの大北方戦争でマゼパはピュートル1世と提携し、コサックの重い損失とロシアの干渉を引き起こした。

 皇帝がポーランドに対するウクライナ防衛を拒否し、マゼパとザポロジュ・コサックの一部は1708年、スウェーデンと提携。

 ポルタヴァの戦い(1709年)でロシアが勝利し、マゼパの独立の目標は終焉。
 全地域はキエフ・グベルニヤに併合され、コサックの自治は著しく制限された。
 ロシアはマゼパの提携者と疑われるものすべてを追放し、これは1708-1709年のレベディンの処刑で頂点に達した。

 1764年、エカチェリーナ2世が公式にヘトマン制廃止、1764-1781年にヘトマン国は小ロシア・グベルニヤに編入され、1781年、ヘトマン国の最後の残った統治制度は廃止された。

*ヘトマン国

 ヘトマン国は始めポドニエプル(ドニエプル沿い)、プリドニエステル(ドニエステル沿い)、セヴェルシナ(北の土地)とザポロジアを覆っていた。

 下流ザポロジア軍団のコシュ・アタマンのバラバシュとプシュカルの反乱(親ポーランドのザポロジア軍団のヘトマンのイヴァン・ヴィホフスキーへの左岸ウクライナの反乱、1657-1658)後、ヘトマンへの不満が高まり、ザポロジュ・シーチはヘトマンに公式的にしか従わないようになった。

 ロシアと共和国の1686年の永久和平後、ポーランド支配下の右岸ウクライナは解体。
 以降、ヘトマン国は左岸、キエフとその周辺だけを言及。

 しかし、1760年代までに、ヘトマン制度の勢力はエディサン・オルダ(ハン・ウクライナ:ドニエステルとドニエプル下流間)にも存在、これはピョートル・イヴァネンコ(クリミア・ハン国の支援でマゼパと戦った)がオスマン帝国から受け取り、クリミア・ハンの保護下にあった。

 1654年、ヘトマン国はロシア保護下に入った。ヘトマン地域は多くの政治的特権を持っていたが、1663年以降、小ロシア令によって統治した。

 ヘトマンのマゼパの大北方戦争でのスウェーデンのカール12世の支援後、ヘトマンの影響力は大幅に減少。

 小ロシア・コレーギア(府)のステパン・ヴェリヤミノフとの際限ない抗争と、彼がセイム(評議会)承認の得られなかったヘトマンのパヴェル・プロボトクを罰したことで、1726年、コレーギアは閉鎖され、ヘトマンが復活、1727年、ダニエル・アポストル(1727-1734)が新しいヘトマンに選ばれた。

 ピョートル2世とアンア・ヨアノヴナの時代にヘトマンの権利は非常に拡大、トルコに住むコサックの復帰が許され、イヴァン・ビレツキがベーラヤ・ツェルコフ(ビラ・ツェルクヴァ)に軍と来てロシアに忠誠を誓った。

 しかし、1764年、ヘトマン制度は廃止された。

 
 ()内は現国名(赤線:現国境)                 1600年頃のクリミア・ハン国とオスマン領(赤)

<参考> 忠誠ザポロジュ軍団(1783-1792))

 1775年に解散したザポロジュ・コサック軍団から形成。

 1775年、ザポロジュ・シーチは破壊され、ザポロジュ・コサック軍団は廃止され、シーチの支配する土地は新ロシア・グベルニアに併合。

 多くのコサックはまずクリミア・ハン国、ついでトルコへ行き、ダニューブ・デルタに住んだ。

 オスマン・スルタンは5千の軍団を供給することを条件に彼らがザドナウ・シーチ(1775-1828)を築くのを許可。

 1785年、コサックのかなりの部分がオーストリアのバナト地域に移住(バナト・コサック)。

 しかし、多くのザポロジュ・コサック(約1万2千)が依然、ロシア帝国市民であった。
 同時に、以前のコサックのスタルシナ(隊長)は貴族の地位を与えられ、下位の者も軍隊に加わることを許された。
 しかし、一部のスタルシナはエカチェリーナ2世から許されなかった。

 新ロシアはトルコの脅威にあり、総督の公子グリゴリ・ポテムキンはコサックに好意的であった。

 1768-1774年の露土戦争には多くの以前のザポロジュ・コサックがロシア側で戦った。

 1783年、公子のポテムキンはロシアに留まったコサックから忠誠ザポロジュ・コサックのコシュを創設し、これらが志願者とともにスヴォロフのもと、クリミア反乱を平定。
 
1787年、ポテムキンはエカチェリーナ2世にザポロジュ軍復興を請うた。彼はすでに南ロシアに軍隊とクバン・国境線を築いていた。彼はコサックを集め忠誠コサック軍団が形成された。

 忠誠ザポロジュ・コサック軍団は1787-1792年の露土戦争に参加。

 1790年の戦功により軍団は黒海コサック軍団と改名し、ブフとドニエステルの間の土地を(中心都市スロボジア)与えられた。

 これは1792年、クバンに移動。

<参考> ザポロジア・シーチ

 シーチの6期区分

  シーチの出現(1552ー1583)
  小ポーランドのキエフ・ヴォイヴォダ領(1583-1657)
  共和国の一部としての独立の戦い(1657-1686) 共和国、クリミア・ハン国、オスマン・トルコに対して
  コサック一体性(ヘトマン国)のための戦い(1686-1709) クリミア・ハン国、オスマン・トルコ、ロシア帝国に対して
 (*クリミア・ハン国に逃げ、オレシュコフ・シーチ形成、ハン国からの差別で1734年帰郷、ノヴァ・シーチ形成(1711-1734))
  自治取り消しによるロシア政府との膠着状態とシーチ崩壊(1734-1775)
  ダニューブ・シーチ形成から帰郷(1775-1828)

ザポロジア・シーチ
 1 ホルティツィア・シーチ(1552-1558) オスマン・クリミア軍によって崩壊
 2 トマコフ・シーチ(1563-1593) 1591-1593年のコシンスキー反乱で、ポーランドにそそのかされたタタールによって崩壊
 3 バザヴルク・シーチ(1593-1630?または1638) オストリャニン(1637-1638)の共和国への反乱で破れ崩壊
 4 ニキティンスク・シーチ(1628?または1638-1652) タタールの攻撃で放棄
 5 チェルトムリク・シーチ(1652-1709) スウェーデン側について、ピュートル1世の攻撃で崩壊
 6 カメンカ・シーチ(1709-1711、1728-1734) 1711年、ピュートル1世が破壊、1728年、再び戻るが1734年、ノヴァ・シーチへ
 7 オレシュコフ・シーチ(1711-1728又は1734) クリミア・ハン領、クリミア・ハンの要求で去る
 8 ノヴァ・シーチ(1734-1775) アンナ・イヴァノヴナ女帝の恩赦でロシア市民権を得て移り、国から給与を受ける

 シーチ所在地

ヘトマン国(1649-1654);背景は現ウクライナ

 ヘトマン国とロシア支配下のザポロジュ・コサック地域(1751年)

<参考> ザポロジア、左岸ウクライナ、右岸ウクライナ、荒野、小ロシアの変遷

*ザポロジア

 正式名は下ザポロジア軍団の自由な土地、そのほか荒野、ノヴォロシヤなど。

 ザポロジアは”急流の向こう”の意味、ザはザカフカージェ、ザバイカルのザと同じで”向こう:beyond”の意味。

 1667年、アンドルソヴォ休戦でモスコヴィとポーランド王国の共同統治、1686年の相互和平条約でロシア宗主権下。

 下流ザポリジアは古シーチ(スタラ・シーチ)を中心としていた。

(*17世紀後半にザポロジアは下流ザポロジュ軍団の領土と呼ばれた。内紛でヘトマンはザポロジア・シーチの支配を失った。)

 1709年、ピュートル1世が古シーチを破壊させ、ザポロジュ・コサックはオレンシュク(ドニエプル河口)に逃げた。

 (オレンシュクは1711-1728年、クリミア・ハン国保護下でザポロジュ軍団の首都。)

 1734年、ロシアはコサックに新シーチ(古シーチの少し下流)を基地にザポロジュ軍団の自由な土地再建を許可。

 1775年、シーチは破壊され、地域は新ロシア(1764年形成)に編入。

*左(東)岸ウクライナ 1663- 露語

 この言葉は1663年、イヴァン・ブリウホヴェツキのパヴロ・テテリヤへの対抗ヘトマン選出で出現。

 ブリウホヴェツキはロシア影響下の左岸ウクライナの最初の知られるヘトマン。

 17世紀中期までこの地域はポーランド・リトアニア共和国に属し、1654年のペレヤスラフ条約以降、南部(タウリダ)とともにロシア支配下となり、コサック・ヘトマン国としてある程度の自治を共有したが、ザポロジュ・シーチの破壊で18世紀中に徐々に彼らは去っていった。

 1654-1667年のロシア・ポーランド戦争でコサック陣営が分裂、両岸でヘトマンが選出された。

 1663年、イヴァン・ブリウホヴェツキが左岸ウクライナの、1665年、パヴロ・テテリヤが右岸ウクライナのヘトマンとなる。

 1667年のアンドルソヴォ休戦でドニエプルに沿ってのウクライナの分裂状況は法的に確定、左岸ウクライナは自治を維持して公式的にロシア帝国領となる。

 1708年、ヘトマンのイヴァン・マゼパの裏切りで左岸ウクライナの自治は制限され、キエフ・グベルニヤの一部となる。

 1722-1734年と1764年以降、左岸ウクライナは小ロシア・コレーギヤが統治。

 1781年以降、チェルニゴフ、ノヴドロド・セヴェルスクとキエフ・ナメストニチェストヴォに分割。

 1796年、左岸ウクライナ地域は小ロシア・グベルニヤとなる。

*右(西)岸ウクライナ 1663-1793 

 荒廃(1659-1686、内紛)で左岸から分離。左岸連隊はユリ・フメルニツキを認めるのを拒否。

 西は歴史的地域のヴォルヒニアとポドリアに、南西はモルダヴィア、南はイェディサンとザポロジア、東は左岸ウクライナ、北はポレシアと境する。

 1667年、アンドルソヴォ休戦で左岸ウクライナはキエフとともにロシア編入、右岸は18世紀末のポーランド分割まで、共和国に留まった。

 1669年、ヘトマンのペトロ・ドロシェンコは右岸ウクライナをオスマンの一部とするのを許す。

 1672年のブチャチュ和平で3分割、ポドリアはトルコ、ブラツラフシナと南キエフは右岸ヘトマンでトルコ従臣のドロシェンコ、残りの右岸ウクライナはポーランド。

 1683年、トルコ支配右岸ウクライナ廃止。

 1699年、カロリッツ条約でトルコのポドリアは共和国に戻る。

 1752年、ノヴォセルビア(ザポロジアの北西)、1764年、ノヴォロシア・グベルニヤ(ザポロジアの北)成立。

 1768年、農民の農奴制への不満、コサックや農民の反貴族、反ポーランドの雰囲気のなかでハイダマカ(ウクライナ・コサックの準軍事組織)による反乱コリイヴシナが起き、ウマンの大虐殺(ポーランド人、ユダヤ人、ローマ・カトリックと東方正教会
聖職者に対し)が生じる。

 1793年、ポーランドの第2回分割で右岸ウクライナはロシアが併合し、小ロシアの一部となる。

*荒野

 16-18世紀にポーランド・リトアニアの文書で使用された。
 黒海とアゾフ海の北、現在の東と南ウクライナと西ロシアのポントス草原。
 ウクライナ歴史家によると、15世紀にザポロジュ・コサックがドニエステルとヴォルガ中流の間に植民したときに
この言葉が出現。

 この地域は長い間、スキタイ、アラン、フン、ブルガル、ペチェネグ、キプチャクなどの種々の遊牧民が疎らに住んだ。

 モンゴルのキエフ・ルス侵攻(1237-1242)後、こ地域は青水の戦い(1362)まで、黄金オルダが支配。

 青水の戦いでアルギスダスが勝利し、リトアニア大公国のものとなったが、1399年のヴォルスクラ川の戦いでヴィタウタスが黄金オルダのテムル・クトゥルグに敗れた。

 1441年、荒野の西部エディサンがクリミア・ハン国支配下に入った。これは16世紀からオスマン・トルコに支配された。

 荒野は部分的にザポロジュ・コサックが住んだ。

 これは、ポーランド人のキエフのカトリック司教が彼らがノガイ・オルダを撃退させることを期待した。

 クリミアとノガイの長い間の奴隷狩りのための襲撃(1468-1769)と、クリミア・タタール、ノガイ・オルダ対リトアニアとモスクワの大公国の戦いのために、この地域はザポロジュ・コサックが起きる前は非常に荒廃し、人口は希薄化した。

 17世紀までに、荒野の東部は逃亡農民と農奴が住み、彼らはコサック集団の核となった。

 フメルニツキーの反乱(1648-1657)の間に、北部はドニエプル流域からのコサックが住み、スロボダ・ウクライナとして知られるようになった。

 露土戦争のあと、1780年代にロシア帝国に編入。

 右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、ザポロジア、スロボダ・ウクライナ、荒野

 小ロシアの変遷と新ロシア(ノヴォロシア)

*小ロシアの変遷
 14世紀はビザンティンの教会統治地域名
 16世紀はポーランドとリトアニアのロシア人の土地(キエフ主教座管区)
 17世紀にヘトマン国に小ロシア意識形成
 1654年のペレヤスラフ条約以降、ロシアは大ロシアと小ロシアと称し、小ロシアは自治を有した
 1662年、小ロシア省(統治単位)が形成され、1667年の分割で左岸ウクライナが小ロシア
 1764年、小ロシア・グベルニア形成
 19世紀はロシアの全南西地域

 新セルビア(ノヴォ・セルビア、1752-1764)、主に今のキロヴォフラード州
 ノヴォロシア・グベルニヤ(1764-1783、1796-1802) 灰色点線は1750年のザポロジア、年はロシアの獲得。

 ポーランド分割

 ウクライナSSR(1922-1954)の領域拡大 1939年のモロトフ・リッベントロップ協定(黄)と第二次大戦の結果
 ピンク破線:ウクライナ人民共和国(1917-1921)
 緑破線:西ウクライナ人民共和国(1918-1919)

 ウクライナの歴史的地名

 白ロシア(ル-シ、ベーラヤ・ルーシ)、黒ロシア(チョールナヤ・ルーシ)、赤ロシア(チェルヴォーナ・ルーシ)
*色で呼ぶのは、一説にはモンゴルの影響

ザポロジュ・コサックの流れ(1)

(9-3-3) ダニューブ(ザドナウ)・シーチ 

 18世紀末までにザポロジアの戦闘能力は著しく減少、特にキュチュク・カイナルジ条約とロシアのクリミア併合後、軍団が国境を警備する必要性が取り除かれたため。
 同時にザポロジアの他の敵、ポーランド・リトアニア共和国もまた弱体化し、分割の瀬戸際にあった。

 これは軍事的にザポロジュ・シーチがますます余計になったことを意味するが、同時に、彼らの存在はロシア帝国当局と摩擦を引き起こした。ロシアはコサックが住む新しく獲得した土地に植民を望んだ。

 コサックの数多くのセルビア植民地攻撃とコサックのイェメリアン・プガチェフへの支援提供で、ロシア女帝エカチェリーナ2世は将軍ピョートル・テケリに面倒なシーチ破壊の命令を出した。

テケリの作戦は1775年に無血で実行され、コサックは抵抗しなかった。この際、陰謀で、約5千のコサックがオスマン領の南ブフ川方面に逃げた。

 これらのコサックにロシア農奴制から逃げた多くのウクライナ農民が加わり、当時、オスマン帝国領のダニューブ川左岸(ブジャク)にオスマン帝国に許され、住んだ。

 1778年までに1万2千の男子を数え、トルコのスルタンはコサック軍団として使用しようと、彼らをドニエステル下流のクチュンガリの土地(現代トランスニストリア)を割り当て、彼らはそこでオスマン帝国に忠誠を誓った。

 しかし、露土戦争(1787-1792)の勃発でコサックは分裂。一部はロシアに戻り、1775年にロシアに留まることを選んだ

コサックから形成された、新しい忠誠ザポロジュ軍団(後に黒海コサック軍団)に参加。
 露土戦争(1806-1812)後、ベッサラビアはロシア領となり、ダニューブ・コサックは割り当てられた土地を喪失。

 トルコの敗北後、一部のコサックはトルコ軍とダニューブ川を渡って撤退、そこでスルタンはダニューブ・デルタのカテルレッツ居住地にシーチを築くことを許可。そこはネクラソフ・コサックとリポヴァン人のすでに存在する居住地の丁度、隣であった。

 2つのグループの間で、土地と漁業権を巡って摩擦が増加。1794年、ネクラソフはカテルレッツを攻撃し、破壊。

 以降トルコ当局はダニューブ・ザポロジュを更にダニューブをさかのぼったブライロフ島に再移動させた。

 新しい場所は漁獲が少なく、500のコサックグループがロシアに戻った。

 1800年のオスマン・パズヴァントグルの新しいスルタンのセリム3世へのバルカン半島での反乱で、パズヴァントグルはネクラソフに対し、ダニューブ下流のすべての土地を約束。これに対しダニューブ・ザポロジュは復讐のためスルタンに味方。

 内戦で両者は大きな損失を出したが、結局、反乱は鎮圧され、ザポロジアはブライロフ・ナズィルで報いられ、1803年にはカテルレッツ帰還が許された。

 ネクラソフはイズミル指揮官ペフレヴァノグルの支援でシーチを再度攻撃、略奪した。
 残ったザポロジュはブライロフ(現代ルーマニアのブライラ)に逃げた。

 新しい露土戦争(1806-1812)はダニューブ・コサックに更なる分裂を引き起こした。

 ロシアがダニューブを制圧し、コシュ・オタマンのトロフィム・ガイバドゥラとイヴァン・グバはロシアに忠誠を誓った。

 彼らはブドジャク地域への定住を許され、アレクサンドル1世の命令で、1807年、下流ダニューブ・ブドジャク軍団を形成。

 軍団の拠点のキリヤとガラツに農奴が逃亡することで、ウクライナとモルドヴァの土地所有者が苦情を言い、5ケ月しか軍団は続かなかった。当時軍団は1387男子を数えた。そのうち約500がクバンに移動。

 多くのネクラソフは許されて、ロシアに移動。

 1812年のブカレスト条約でブドジャクはロシア領となった。

 旧敵は依然強固で、ザポロジュ・ダニューブは再度、敵を攻撃、1813年、カテルレッツを奪い戻した。

 ザポロジはネクラソフの首都上ドゥナヴェツ(現在ルーマニア)を1814年、占領。そこにかれらは最後のシーチを築いた。

 多くのネクラソフ・コサックは後にアナトリアに移住、残ったものはダニューブ・コサックでリポヴァン人と古儀式派と融合。

 ギリシャ独立戦争ではダニューブ・コサックはトルコを支援。

 この時期、ダニューブ・シーチはその頂点に達し1万から1万5千男子を数えた。

 1828-1829年の露土戦争でダニューブ・コサックは親ロシア派と親トルコ派に分裂。

 1828年、コシュのオシプ・グラドキはダニューブを渡り、ニコラス1世に忠誠を誓った。

 彼らは許され、新しい特別ザポロジュ軍団を形成。

 グラドキに従うことを拒否したダニューブ・コサックには悲惨な運命がまっていた。シーチはイェニチェリによって破壊された。

 ニコライ1世は1828年、ダニューブ・コサック軍団を形成。これには1775年、ロシアに逃げたザポロジュの子孫が含まれ、更に、忠誠なネクラソフとバルカン人の多くの志願者も含まれた。

 1832年、グラドキはアゾフ海北岸に仲間を連れていき、そこでアゾフ・コサック・軍団が形成された。

<参考> トルコのコサック

 ドン・コサックのグループがピョートル大帝の改革に反対し、ブラヴィンの反乱(1707-1708)に参加。

 その敗北後、1737年から、ネクラソフ・コサクックとして知られる彼らの一部が以前住んでいたクバン地域からオスマン帝国に避難。

 1740年、一部のグループは黒海沿岸のコンスタンツァ(現ルーマニア)周辺に住み、他のグループは北西アナトリアのベイシェヒル湖沿岸に住んだ。

1883年、ルーマニアのグループは最初ベイシェヒル湖のマダ島に、ついで中央アナトリアのアクシェヒル湖沿岸に住んだ。

 一方、ザポロジュ軍団の解体とザポロジュ・シーチの破壊で5千のコサックがトルコ支配のダニューブ・デルタの逃亡し、そこに、スルタンは彼らがダニューブ・シーチを形成することを許した。

 ネクラソフとの数度の血なまぐさい衝突の後に、彼らのほとんどはロシアに戻るか、マニアスに再移動し、ギリシャ独立戦争で彼らはトルコ支援を支援、ダニューブ・シーチは1828年に終焉。一部はロシアに戻り、一方、他は中央トルコに移動し、強制労働に
従事。

<参考> ダニューブ・コサック軍団

 1828年に露土戦争(1828-1829)前に、ニコライ1世の命令でベッサラビアと特にブジャクに住んでいるザポロジュ・コサックの子孫から形成されたウクライナ人コサック軍団。

 下ダニューブ・ブジャク軍団という名のウクライナ人コサック軍団がそこで、1807年に形成されたが、すぐに解散されていた。

 軍団はネクラソフ・コサックとルーマニア人、セルブ人とブルガリア人のようなバルカン人の志願者も含んでいた。

 露土戦争後、軍団はベッサラビアとヘルソン・グベルニア国境の警護を任せられ、オデッサ、イズマイル、アッケルマンを前哨基地とした。

 1853-1856年の露土戦争でダニューブ・コサックはトルコ軍のダニューブ渡河を阻止。

 1856年のパリ条約でロシアはブジャクの一部を譲渡し、軍団はオデッサに撤退し、1856年にノヴォロシア・コサック軍団と改名。しかしやがて平和な時代の到来で、1868年、解散。

(*ドナウ・コサック軍団

 1828年にザドナウ・シーチのコサックから形成されドナウ川下流域に1868年まで存在。

 1775年、ザポロジュ・シーチの崩壊でザポロジュ・コサックの一部はドナウ川岸に移住、新しいシーチを形成。

 1803年、ドナウ河口を渡り、ロシア人逃亡者、教会分離派を追い払う。

 種々の地域からの逃亡者を集め、シーチは1万に達する。

 1806年、露土戦争開始でドナウ・コサックはロシア側に参加。戦後、一部は黒海コサック軍団に参加、一部はセルビア人、ギリシャ人、アルバニア人志願者とベッサラビアに留まる。

 1828年の露土戦争ではドナウ・コサックはロシア軍に参加。戦後、軍団はブジャク草原を与えられる。

 ザポロジュ・コサックの流れ(2)

(9-3-4) スロボダ・コサック

 ウクライナのロシアとの北東国境付近、ドン右岸とドネツ両岸の歴史的スロボダ・ウクライナに17-18世紀に位置したコサックで主に5連隊からなる。

 チェルカス(ドニエプル両岸)からのスロボダ・ウクライナへの移動は、ザポロジュ・コサックとポーランド・リトアニア共和国との衝突、ザポロジュ・コサックの内紛と外国軍(タタールとトルコ)との関係による。

 この荒野への移動の第一波はボグダン・フメルニツキーの反乱(1648-1657)のベレステチュコの戦い(1651)での敗北による。

第二はフメルニツキー死後のザポロジュ(ドニエプル)コサックの内戦(荒廃、1659-1687)による。

 1672-1681年の露土戦争でのチギリン遠征(1674-1678)、1680-1700年の露土戦争のクリミア遠征(1687、1689)、
アゾフ遠征(1695-1696)、ペルシャ遠征(1722-1723)など多くの遠征に参加。

 大北方戦争(1700-1721)やそのほかの当時多くの遠征に参加。

 スロボダ・コサックはロシアの南東国境をカルムイク、クリミアとノガイ・タタールから守っただけでなく、泥棒コサック(ドンとザポロジュ)からも守った。

 ピュートル1世のときに権利の一部が奪われた。1718年、ロシア将軍指揮下に入った。

 1765年、エカチェリーナ2世のときにコサック軍は正規軍となる。スロボダ・ウクライナ・グベルニアが形成される。

(9-3-5) ネクラソフ・コサック

 ネクラソフ・コサックはドン・コサックに由来、1707-1708年のブラヴィン反乱で敗れ、1708年、イグナト・ネクラソフに率いられクバンに逃げた。

当時、クリミア・ハン国がクバンを支配。後に他のドンからの逃亡者と逃亡ロシア農奴が参加。

 ネクラソフ・コサックは古儀式派で正教ロシア当局に迫害された。

 最初、ネクラソフ・コサックは大ラバ川右岸、その河口近くに住み、後にネクラソフを含む多くはタマン半島に移住。

 ネクラソフ・コサックはドン地域を含む近くのロシアの土地を襲撃し続け、ロシア軍は反撃した。

 その結果、1737年まで南ロシアから多くの逃亡者がクバンへ逃亡し、多数がネクラソフ・コサックに参加。

 1737年頃、ネクラソフ・コサックは絶えた。ネクラソフ共同体が解体し始めてすぐ後に、オスマン帝国へ移住した。

*トルコのコサック

 1740-1778年にトルコのスルタンの許可で、ネクラソフはオスマン領のダニューブに移動。ダニューブではドブルジャに住んだ。

 1775年のザポロジュ・シーチの敗北で、同じ場所にコサックが出現。両者で衝突が起き、多くのネクラソフは更に南に移動。

 ダニューブ川とティサ川、ドブルジャ

ザポロジア、右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、スロボダ・ウクライナ

<参考> ポドリアとブジャク

 ポドリア・エヤレト 1672-1699

 1672年、オスマン軍がカムヤネツィを占領。ブチャチュ条約でオスマン支配が確認され、新しいエヤレトの中心となる。

 ポーランド国会で条約が否認され、戦争が再開(1672-1676年のポーランド・オスマン戦争)。

 ポーランドの遠征は不成功で、ジュラヴノ条約でポドリアはオスマン領に留まった。

 1683年にまたポーランド・オスマン戦争(1699年まで)が勃発、1699年のカルロヴィッツ条約でポーランドがポドリアを取り戻す。

 1793年のポーランド分割で西部はハプスブルク、東部はロシアへ渡る。

 シリストラ・エヤレト

  1593年、シリストラ・エヤレトはオズィのベイレルベイリクとして形成され、1599年頃拡大、エヤレトとなり、 ドブルジャ、
 ブジャク、エディサンを含む。

  小ノガイから生じたエディサン・オルダは1728年からドニエプル、南ブグとドニエステルの下流の間の草原を占領していた。

1768-1774年の露土戦争で、オルダは1770年、ロシア帝国の保護権を認めてクバンに移住。

  1774年、キュチュク・カイナルジ条約で南ブグとドニエプルの間のエディサン東部はロシア併合。

  クリミア・ハン国はオスマンから独立。

  1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合。

  露土戦争(1806-1812)の結果、1812年、エディサンとブジャク(南ベッサラビア)はロシアに渡される。(ブカレスト条約)

  1853-1856年のクリミア戦争の結果、パリ条約でベッサラビア南部はモルダヴィア公国へ返還。

  1878年、ベッサラビア南部は再びロシアへ。(ベルリン条約)

参考 →露土戦争

ポドリアとシリストラ・エヤレト

キュチュク・カイナルジ条約(1774年)
ピンク:ロシア、緑:トルコ、黄と緑斜線はクリミア・ハン国(独立、事実上ロシア従属)、ピンクと緑斜線はロシアが獲得、

ブカレスト条約 』

ウクライナ史の解説書 翻弄された「欧州の国家」

ウクライナ史の解説書 翻弄された「欧州の国家」
世界の話題書
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR2307A0T20C22A5000000/

『ロシアのウクライナ侵攻から約3カ月がすぎた。戦場に近い欧州は強大なロシアと軍事力で向き合う状況に逆戻りし、「新・冷戦」の時代に入った。外交・安保の劇的な転換をもたらし、経済ではスタグフレーション(インフレと景気後退の同時進行)が忍び寄る。
そんな欧州で「読むべき本」と口の端にのぼる書籍がある。ウクライナ育ちのハーバード大学教授、セルヒー・プロヒー氏の『The Gates of Europe: A History of Ukraine(欧州の扉 ウクライナの歴史)』だ。2015年の出版だが、再び注目を集め、ウクライナを理解するための「最初の1冊」(英紙ガーディアン)などとされる。

ウクライナはどんな国家なのか。「基本的なことが知られていない。それが執筆の原動力」(プロヒー氏)ということだけあって紀元前から丁寧に説き起こす。

オスマン帝国、ハプスブルク帝国(オーストリア)、ナチス・ドイツ、ロシア(ソ連)など大国に翻弄され、宗教や文化が交差した。締めくくりは2014年のロシアによるクリミア半島併合とウクライナ東部への介入。これが国際秩序を揺さぶりかねないと、足元の状況を予言するかのような内容で終わる。

「ウクライナにとって欧州は重要であり、ウクライナは欧州の一部である」と著者は強調する。長い歴史のなかでウクライナは欧州とユーラシアの橋渡し役を担ってきたが、ユーラシアの多くの国にとってウクライナこそ欧州だった。だからこそ本の題名にもあるようにウクライナは「扉」なのである。

それがいまのウクライナの人たちの実感なのではないか。

3月、同国のゼレンスキー大統領はイタリア議会での演説で「ウクライナは欧州の玄関口」との表現を使った。ウクライナは欧州である、と強調して支援を呼びかけたのだ。5月中旬に取材したマルチェンコ財務相は、ウクライナはロシアの兄弟国家ではなく、「大欧州の一員」だと繰り返した。

これまで日米欧は、ロシア研究の一環としてウクライナを扱ってきた。しかしウクライナはモスクワ史観を拒絶し、欧州の一部に組み込んでほしいと熱望する。欧州連合(EU)の加盟にこだわるのは「欧州的なもの」にアイデンティティー(帰属意識)を感じるからだろう。ウクライナ問題を話し合う6月のEU首脳会議は期待にこたえるべきだろう。

(赤川省吾)』