カテゴリー: 思考法、関連
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40代、初の子育て心構えは 体力づくり・人生経験生かす
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE262LB0W4A120C2000000/『晩婚化や晩産化が進み、40代になって初めて乳幼児期の子育てに取り組む人も少なくないだろう。年齢の上では「不惑」を迎えたが、若い世代の親と比較するなどして不安を抱える人も多いという。産婦人科医の大鷹美子さんに、不安との向き合い方や対処法などについて寄稿してもらった。
地域差はあると思うが、少なくとも東京では30代後半の初産は珍しくない。40代で初めて乳幼児期の子育てを経験するのも特別なことではない…
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』
『40代の男性の100位は2時間40〜50分台で、20代後半から30代の2時間40分台と比べてほとんど遜色ない。100位のタイムが3時間台になるのは56歳以降である。このデータ上では、40代の体力は皆さんがイメージしているほど男女とも低下していない。
もちろん、これはある程度トレーニングしていることが前提となる。学生時代まではスポーツに励んでいたが、社会人になって運動から縁遠くなった人も少なくないだろう。
年だから仕方がないと諦めず、体力づくりに取り組んで自信が持てるようにするのが建設的だ。体力には筋力、俊敏性などいろいろな側面があるが、子育てにはジョギングや水泳といった持久力を高める運動をお勧めしたい。』
『40代で初めての子育てに不安を抱えるのは、体力面だけでなく、背景にあるいくつかの要素が重なっていると感じる。40代は20代の頃と比較して仕事で責任を負う立場になり、人間関係が幅広くなるなど生活が変化している。
これまで計画的に日々の生活を送ってきた人も、子どもがいれば思い通りにならないことが多い。子育てはスケジュールどおり進むものではない。40代になって背負うものが増える中、日々、柔軟な対応が必要な子育てが加わることが心理的な負担になっている可能性がある。気が重くなれば疲れも感じやすくなる。』
『女性は年齢に関係なく、出産前後はメンタル面に注意が必要だ。親が高齢などで相談できる相手がいないという声もある。最近では医療機関や自治体は産後ケアに力をいれており、そうした機会を利用して育児に関する相談するのも一つの方法だ。ベビーシッターやチャイルドシッターを利用してサポートを受けることも検討してほしい。
子どもにとって親の年齢は、それほど大きなことではない。親がどう接してくれるか、どういう価値観で子育てをしてくれるかが大事になる。親の考え方や思考、あらゆることが子どもの生活する環境をつくる。
「子どもはかわいい」と思えることは、ほかでは味わえない感情で大切にしてほしい。親が愛情をもって接することで子どもの自己肯定感も育つ。あまり年齢を意識せずに、子育てできることを楽しんでほしい。』
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将門塚
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E9%96%80%E5%A1%9A※ 今日は、こんな所で…。
※ 「将門の首塚」は、「帝都物語」にも出てくる…。
※ 「帝都東京」を「鎮護」するために、ポイント・ポイントに「魔物封じ」のための「守護像」が置かれているのだ…、という話しも出てくる…。


『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、東京都千代田区にある塚について説明しています。滋賀県愛荘町にある古墳については「山塚古墳」をご覧ください。
将門塚
将門塚
別名 平将門の首塚
所在地東京都千代田区大手町一丁目2番1号外
地図
Wikimedia | © OpenStreetMap
位置 北緯35度41分14.2秒 東経139度45分45.8秒座標: 北緯35度41分14.2秒 東経139度45分45.8秒
築造時期 不明
被葬者 不明(伝・平将門)
史跡 東京都指定旧跡(将門塚)
テンプレートを表示将門塚(しょうもんづか・まさかどづか)とは、東京都千代田区大手町にある、平将門の首を祀る塚である。東京都指定の旧跡となっている[1]。
概要かつては盛り土があったことから、古墳であったと考えられている[2]。
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
付近一帯は江戸時代には姫路藩雅楽頭酒井家の上屋敷の敷地となり、山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』で知られる、仙台藩原田宗輔による刃傷沙汰が発生している(伊達騒動)[3]。
関東大震災による被災後、周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1927年)に将門鎮魂碑が建立され、神田神社の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
数十年にわたり、地元のボランティア団体が浄財を元に、周辺の清掃・整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。
2016年から2020年にかけて隣接地で大手町再開発事業大手町ワンの建築が行われた。この工事終了に合わせて2020年、将門没後1081年にあたって1961年の第1次整備工事以来、数えて第6次目の改修工事が実施された。関係各所の総意として、「敷地内の安全性と管理性の向上を目指すと共に、これからの時代にふさわしい新しい将門塚として皆様に愛されることを目指し」て実施[4][5]。2020年(令和2年)11月から2021年(令和3年)4月末まで工事が行われた。
供物2021年の第6次改修整備以降、一般参詣者の敷地内に供物、物品の寄進、お線香台の利用は禁止となっており、注意が必要である[6]。平将門命への奉納希望者は、将門塚を管理している外神田の神田神社社務所にて受け付けている。お賽銭に限り以前と同様に将門塚敷地内、九曜の家紋が掘られた賽銭箱にて受け付けている。
上記の改修工事以前は、首塚の境内には多数の蛙の置物が奉納されていた。これは将門の首が京都から飛んで帰ったという伝承にちなみ、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷に遭った会社員が元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられていた[7]。特に1986年の若王子事件以来、目立つようになったとされる[8]。
祟りの伝説築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。
1923年(大正12年)の関東大震災後に都市再開発(復興計画)として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大蔵大臣(第1次若槻内閣)・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊して鎮魂碑を立てた[注 1]。1928年(昭和3年)3月には大蔵省が主催して鎮魂祭を行っている。 しかし、早速が大蔵大臣に就任、それから程なくして亡くなったのは仮庁舎建設の3年後の1926年(大正15年)であり、仮庁舎建設には関わっていない。また、工事部長だった矢橋賢吉が死亡したのは建設から4年後の1927年(昭和2年)である。 さらに、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失したのは、17年後の1940年(昭和15年)の事であり、この日都内では20ヶ所で落雷していて、航空局に落雷して発生した火災が延焼したものであった[10]。
また、第二次世界大戦後に戦災復興都市計画として、GHQが丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めた[11]。
アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。それまでも事故があり日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなった。当時町内会長であった遠藤政蔵により、将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された[12]。
それらの結果、大手町周辺が高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや移転を免れて残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
交通アクセス東京メトロ・都営地下鉄大手町駅C6a出入口からすぐ。
画像九曜(平将門家紋) 九曜(平将門家紋) 関東大震災直後の首塚(往来から見たところ[13]) 関東大震災直後の首塚(往来から見たところ[13]) 関東大震災直後の首塚(裏側から見たところ[13]) 関東大震災直後の首塚(裏側から見たところ[13]) 将門塚前(平成時代) 将門塚前(平成時代) 将門塚の故蹟保存碑(2019年12月) 将門塚の故蹟保存碑(2019年12月) 首塚の碑(2012年3月22日) 首塚の碑(2012年3月22日) 周辺工事のため背後の五輪塔は強化ガラス製の防護ケースに覆われている(2019年5月4日) 周辺工事のため背後の五輪塔は強化ガラス製の防護ケースに覆われている(2019年5月4日) 強化ガラス製の防護ケースに覆われた五輪塔(2019年12月) 強化ガラス製の防護ケースに覆われた五輪塔(2019年12月) 工事中、仮設された祠(2020年12月30日) 工事中、仮設された祠(2020年12月30日) 改築後の首塚 改築後の首塚(2021年5月3日)
脚注
注釈^ 国税庁のウェブサイトでは、「大正15年、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった早速整爾が突然亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉が亡くなるなど続けて不幸があったため、仮庁舎建設に際する祟りが噂されるようになり、昭和2年に鎮魂碑を立てたといわれています。大蔵省に関わる祟りが事実か否かは確かめようもありませんが、昭和15年6月には、落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こり、また、太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。」と記述されている[9]。
出典
^ “将門塚”. 東京都文化財情報データベース. 東京都教育庁地域教育支援部. 2020年9月17日閲覧。 ^ 鳥居 1927, pp. 226–227. ^ “スポット(将門塚)”. visit-chiyoda.tokyo. 東京都千代田区. 2020年6月23日閲覧。 ^ “平将門公|将門塚保存会 » 将門塚 改修工事のお知らせ|東京都千代田区大手町1-2-1” (LANG-CODE). 2020年11月25日閲覧。 ^ 辛酸なめ子 (2020年12月13日). “改修工事が進む大手町「平将門の首塚」の現在”. 文藝春秋. 2023年10月8日閲覧。 ^ 『参詣者の皆さまへのお願い』案内板より ^ 加門七海『平将門魔方陣』文庫版あとがき ^ 「産経抄」(産経新聞2015年1月23日)。 ^ “大手町の首塚”. www.nta.go.jp. 国税庁. 2020年6月23日閲覧。 ^ 東京朝日新聞、昭和15年6月21日記事 ^ 鵜飼 秀徳 (2018年3月7日). “大都市に潜む「怨霊伝説」を訪ねる 首塚とクスノキと骨壺と”. 日経ビジネスオンライン (日経BP) 2018年9月17日閲覧。 ^ 史蹟将門塚保存会 ^ a b 鳥居 1927, pp. 210-211間.
参考文献
鳥居竜蔵『上代の東京と其周囲』磯部甲陽堂、1927年。2022年5月8日閲覧。
関連項目祟り 平将門の胴塚 御首神社 神田明神 東京都指定文化財一覧#旧跡 村上春樹 - 国文学者。平将門研究者として知られる。 帝都物語 都市伝説の女 - 第一話目ではこの首塚にまつわる伝説が題材となった。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、将門塚に関連するカテゴリがあります。史蹟将門塚保存会 築土神社/平将門を祀る江戸の古社 神田神社(神田明神) 神田の家(将門塚保存会前会長の家)
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塚東京都の歴史平将門日本の墓地千代田区の歴史大手町の歴史東京都指定旧跡東京都の考古遺跡 最終更新 2024年1月11日 (木) 10:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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多元論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%85%83%E8%AB%96『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多元論(たげんろん、英: pluralism)また多元主義(たげんしゅぎ)とは、「人」として多様性を容認・肯定・保護する国家方針を指す。
国民の様々な宗教・人種・性別・性的指向・学歴・愛好を尊重し、少なくとも二つの価値観の異なる政党が並存できることを国家の目標とする。
多元主義の代表的な理論家はロバート・ダール、デビッド・トルーマン、シーモア・M・リプセットなどが挙げられ、特にロバート・ダールは1974年に書いた多元主義の名作『Who Governs?』では詳しく論述がされている。
古典的な多元主義
古典的な多元主義の中心となる問題は、政治プロセスにおいて権力と影響力がどのように分配されるかということである。
個人のグループは、自分たちの利益を最大化しようとする。
権力は競合するグループ間の継続的な交渉プロセスであるため、対立の線は複数あり、変化していく。
不平等はあるかもしれないが、人口全体に様々な形で資源が分配されることにより、分配され、均等化される傾向にある。
この考え方に基づく変化は、グループが異なる利益を持ち、法律を破壊するために「拒否権を持つグループ」として行動する可能性があるため、ゆっくりとした漸進的なものになるでしょう。
多様で競合する利害関係の存在は、民主主義の均衡[1]の基礎であり、個人が目標を達成するためには不可欠である。
ポリアーキー(成人人口のかなりの部分で選挙の支持を得るために開かれた競争が行われている状況)は、グループの利益の競争と相対的な平等を保証する。
政治や意思決定は主に政府の枠組みの中で行われるが、多くの非政府組織がその資源を利用して影響力を行使しているという見方である。
一方で、このプロセスの参加者は国民のごく一部に過ぎないため、国民は主に傍観者として行動する。
これは必ずしも好ましくないことではない。
(1)政治的な出来事に満足している国民を代表している場合もあるし、(2)政治的な問題には継続的かつ専門的な注意が必要であるが、一般市民にはそれができない場合もあるからである。
多元主義的な権力の概念
権力の源泉としては、法的権限、金銭、威信、技術、知識、カリスマ性、正当性、自由時間、経験など、数え上げればきりがない。
多元主義者はまた、潜在的な力と実際の力の違いをそのまま強調する。
実際の権力とは、誰かに何かをさせる能力を意味し、因果関係としての権力を見るものである。
Dahlは、パワーを「AがBの反応をコントロールするような方法で行動する能力のような現実的な関係」と表現している[2]。
潜在的パワーとは、資源を実際のパワーに変える可能性のことである。
資源の一つである現金も、実際に使われなければただの札束にすぎない。
例えば、マルコムXは、決してお金持ちではありなかったが、服役後に多くの団体からお金をもらい、強引な性格や組織力などの他の資源を活用した。
彼はアメリカの政治に大きな影響を与えた。
お金のような特定の資源が自動的に権力と同一視されることはない。
なぜなら、その資源は巧みにも不器用にも、完全にも部分的にも、あるいは全く使われないこともあるからである。
多元主義者は、社会の異質性が、単一のグループが優位に立つことを妨げると考えている。
彼らの考えでは、政治は本質的に嗜好の集約の問題である。
つまり、連合は本質的に不安定であり(Polsby, 1980)、それゆえに競争は容易に維持されるのである。
Dahlの場合[3]、「政治的異質性は社会経済的異質性に従う」ため、社会的な差異はますます権力を分散させる。
この場合、Hamed Kazemzadeh(カナダの多元主義者、人権活動家)は、組織のメンバーシップは個人をデモクラティックな規範に社会化し、参加を増やし、社会の政治を穏健化して交渉やネゴシエーションが可能になると主張している。
権力の研究に対する多元主義的なアプローチでは、どのようなコミュニティにおいても、権力に関して断定的なものは仮定できないとしている。
問題は、誰がコミュニティを動かしているかではなく、実際に動かしているグループがあるかどうかである。
これを判断するために、多元主義者は特定の結果を研究する。
その理由は、人間の行動は大部分が惰性で支配されていると考えているからである。
つまり、あからさまな活動への実際の関与は、単に評判よりもリーダーシップのより有効な指標となるのである。
また、多元主義者は、どのグループも自分たちの表現した価値観に忠実であるために自己主張をしなければならない特定の問題や時点はなく、むしろそれが可能な様々な問題や時点があると考えている。
また、行動を起こすことには、損失だけでなく、時間や労力などのコストがかかる。
構造主義者は、権力の分布はどちらかというと永続的な性質を持っていると主張するかもしれないが、この理論的根拠によれば、権力は実際には、期間が大きく異なる問題に結びついている可能性がある。
また、システム内のアクターに焦点を当てるのではなく、リーダーシップの役割そのものに重点を置いている。これらを研究することで、社会にどの程度の権力構造が存在するのかを判断することができる。
最後に、おそらく最も重要なことであるが、経験的な観察によって証明されない限り、誰も万能ではない。
ある分野で影響力を持つ個人やグループは、別の分野では弱いかもしれない。
軍需産業の大企業は、防衛問題では確かに力を発揮するが、農業政策や医療政策ではどれほどの影響力を持っているでしょうか。
したがって、権力を測る尺度は、その範囲、つまり研究者が観察したときに、その権力がうまく適用されている分野の範囲である。
多元主義者は、少数の例外を除いて、権力者の影響力の範囲は比較的限られていると考えている。
多元主義には、エリート主義的な状況、つまりグループAが複数のグループに対して継続的に権力を行使するような状況が発生する余地がある。
多元主義者がこの概念を受け入れるためには、それが経験的に観察されなければならず、定義上そうだと仮定することはできません。
これらの理由から、権力は当然のものと考えることはできません。
誰が本当に統治しているのかを知るためには、経験的に観察しなければならない。
そのためには、誰がどちらの側についたか、最終的に誰が勝ったか負けたかなど、具体的な決定事項を幅広く検証することが最善の方法であると多元論者は考える。
様々な論争を記録してこそ、実際の権力者を見極めることができるのである。多元主義は行動主義と結びついていた[4]。
多元的な権力に対する矛盾は、しばしば自分の権力の起源から引用される。
特定のグループが権力を共有していても、そのグループの中にいる人たちは、それぞれの資質によってアジェンダを設定し、問題を決定し、リーダーシップを発揮する。
このような資質は移転できないため、エリート主義が依然として存在するシステムになっていると主張する理論家もいる。
しかし、この理論が考慮していないのは、他のグループからの支持を得ることで、これらの資質を克服できる可能性があるということである。
利害関係者は、他の組織と力を合わせることで、移譲できない資質を克服することができる。この意味で、政治的多元主義はこれらの側面にも適用される。
エリート多元主義
エリート多元主義者は、古典的多元主義者と同様に、権力には「複数性」があるとするが、この複数性は「純粋」なものではなく、ある人やグループが他の人よりもより多くの権力を持っている場合もある。
例えば、ある人は他の人よりもお金を持っているので、労働者階級よりも自分の意見をうまく伝えるためにお金を払うことができる(つまり、より多くの広告を出すことができる)。
このような不平等は、社会に「エリート」が存在するからである。エリートとは、お金や相続、社会的な伝統などによって、他の人よりも強い力を持っている人のことを指する[5]。
基本的に、エリートは意思決定に大きな役割を果たしていると主張している。
民主主義社会では、国民は自分たちを代表するエリートを選ぶことに参加し、最終的には法律を制定する人を選ぶという考え方である。
ダビタ・S・グラスバーグとデリック・シャノンが強調しているように、「政治エリートは、自分たちの狭い範囲の利益を代表する一枚岩の統一された利益集団ではなく、むしろ幅広い範囲の利益を代表する多様で競争的なエリートである[6]」。
彼らは、潜在的な有権者の間で権力が平等に分配されていることを前提に、有権者を獲得するために「政治市場」で競争しなければならない。
さらに、法案を通すためには交渉しなければならないため、システムの安定性はこのエリート間の競争によって達成される。
そして、時には、共通の認識を得るために、立場や視点を変えなければならないこともある。
エリートは、自分の行為に責任を持ち、法的手続きや新たな選挙によって交代させることができるため、政策決定手続きを尊重し、それに従う[7]。
新多元主義
国家や政策形成に関する政治理論としての多元主義は、1950年代から1960年代にかけてアメリカで最も注目を集めたが、一部の学者はこの理論があまりにも単純すぎると主張し(Connolly (1969) The Challenge to Pluralist Theory参照)、新多元主義の形成につながった。
民主主義社会における権力の分割についても見解が分かれた。
新多元主義では、複数の圧力団体が政治的影響力をめぐって競争しているが、政治的アジェンダは企業の力に偏っている。
新多元主義では、国家はもはや、異なる利益集団の要求を仲介し、裁く審判者ではなく、自らの(部門的な)利益を追求する比較的自律的なアクター(異なる部門を持つ)であると考えている。
多元主義における憲法規則は、支持的な政治文化の中に組み込まれているが、必ずしも支持的ではない多様な政治文化と、根本的に不均等な経済源のシステムという文脈の中で見るべきである。
この多様な文化は、社会経済的な権力の不均等な分配のために存在している。
これにより、あるグループには可能性が生まれ、他のグループには政治的選択肢が制限されている。
国際社会では、多国籍企業や支配的な国家によって秩序が歪められているが、古典的な多元主義では、多元的なルールや自由な市場社会の枠組みによる安定性が重視されている。
チャールズ・リンドブロムチャールズ・E・リンドブロム(Charles E. Lindblom)は、新多元主義を強く主張しているが、政策プロセスにおける利益団体間の競争を重視する一方で、企業の利益が政策プロセスに与える影響が不均衡であることを認めている。
コーポラティズム
古典的な多元主義は、ウェストミンスター型民主主義(※ 多数決主義的な議会制民主主義のこと)やヨーロッパの状況には当てはまらないと批判された。
これを受けて、コーポラティズム理論が発展した。
コーポラティズムとは、少数の選ばれた利益団体が、他の無数の「利益団体」を排除して、実際に(多くの場合、形式的に)政策形成プロセスに関与しているという考え方である。
例えば、労働組合や主要なセクターの企業団体は、特定の政策について(その推進者ではないにしても)相談を受けることが多い。
これらの政策は、労働者、雇用者、国の三者間の関係に関わることが多く、国は調整役を担っている。
国家は、これらの組織化され中央集権化されたグループと共に、政治的・経済的問題に対処できるような枠組みを構築する。この考え方では、議会や政党政治は政策形成のプロセスにおいて影響力を失いる。
外交政策において
政治的側面から見ると、「多元主義」は政策形成のプロセスや意思決定に大きな影響を与えた。
国際安全保障においては、政策形成の過程で、異なる政党が意思決定に参加する機会があるかもしれない。
より多くの力を持つ者は、より多くの機会を得て、望むものを手に入れる可能性が高くなるのである。M.フランシス(1991)によれば,”意思決定は,影響力と権力の迷路のように見える “という。
一党独裁と多元主義
「マルクス主義批判」も参照
ソビエト連邦をはじめとする共産主義国家における一党独裁制と多元主義は対極にある。
欧州評議会議員会議は2006年1月25日の1481号決議において、「20世紀に席巻し、現在でも依然としていくつかの国で権力を握っている全体主義的な共産主義政権(The totalitarian communist regimes)は、例外なく、大規模な人権侵害を行なってきた。そこには、強制収容所、人為的な飢饉、拷問、奴隷労働およびその他の組織的暴力などによる個人および集団の殺害、また、民族的または宗教的迫害、良心や思想を表明する言論の自由と表現の自由への侵害、報道の自由の侵害、政治的多元主義の欠如などが含まれる。」と決議した[8]。関連項目
意思決定 外交政策 国際関係 マルクス主義
脚注
^ Held, David, Models of Democracy ^ Dahl, Robert A., 1915-2014. (2006). A preface to democratic theory (Expanded ed.). Chicago: University of Chicago Press. ISBN 0226134334. OCLC 65198011 ^ James Madison. Pluralism ^ Pluralism ^ Schattschneider, E.E. 1960. The Semi-Sovereign People. New York: Holt, Rinehart and Winston, p. 35. ^ Deric., Shannon (1 January 2011). Political sociology : oppression, resistance, and the state. Pine Forge Press. ISBN 9781412980401. OCLC 746832550 ^ Deric., Shannon (1 January 2011). Political sociology : oppression, resistance, and the state. Pine Forge Press. ISBN 9781412980401. OCLC 746832550 ^ Resolution 1481 (2006):Need for international condemnation of crimes of totalitarian communist regimes,Assembly debate on 25 January 2006 (5th Sitting) , Parliamentary Assembly of the Council of Europe (欧州評議会議員会議) 表話編歴
心の哲学のトピックス
表話編歴
政治的スペクトル
典拠管理: 国立図書館 ウィキデータを編集ドイツ チェコ
カテゴリ:
哲学の概念心の哲学世界観政治学の理論多元論 最終更新 2023年5月8日 (月) 15:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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ロマン主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9













『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「ロマンティシズム」はこの項目へ転送されています。Mrs. GREEN APPLEのシングルについては「ロマンチシズム」をご覧ください。
曖昧さ回避 「浪漫主義」はこの項目へ転送されています。テレサ・テンのアルバムについては「浪漫主義 (テレサ・テンのアルバム)」をご覧ください。
ロマン主義(ロマンしゅぎ、英: Romanticism、仏: Romantisme、独: Romantik、伊: Romanticismo、西: Romanticismo、葡: Romantismo)は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、その後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動のひとつである。
それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義と対をなす。
恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進した。
その動きは文芸・美術・音楽・演劇などさまざまな芸術分野に及んだ。のちに、その反動として写実主義・自然主義などをもたらした。
ドラクロワ『アルジェの女たち』(1834年、ルーヴル美術館所蔵)
概要
ロマン主義は教条主義、古典主義の対概念としてとらえられるもので、アメリカの哲学者・アーサー・ラブジョイ(英語版)は「ロマン主義の時代」を1780年から1830年としている[1]。
また、ロマン主義は部分的には産業革命への反動であった[2]。
その萌芽は既にベルナルダン・ド・サン=ピエールやディドロに見られ[3]、セナンクール、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンといった初期ロマン派作家によって、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の独自性を根本とした表現が特徴とされる。
これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中で文芸サロンやサークル内で醸成された。
また、フランスのジャン=ジャック・ルソーの著作がドイツに伝えられたことで始まったドイツのロマン主義は、再びフランスに逆輸入される形でその花を開いた[4]。
フランスのロマン主義運動はオノレ・ド・バルザックの死を境に1850年代以降は勢いを失い、シャルル・クロスなどの小ロマン派を除いては[5]その座を写実主義、自然主義、高踏派などに譲ることになるが[6]、その影響はヨーロッパ全域に広まり、世紀末から20世紀初頭の後期ロマン主義にまで及んだ。ロマン主義を信奉する傾向や集団を指してロマン派 とも呼ばれる。
ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義や教条主義がしばしば無視した個人の、根本的独自性の重視、自我の欲求による実存的不安といった特性である。
ロマン主義においては、古典主義において軽視されてきたエキゾチスム・オリエンタリズム・神秘主義・夢などといった題材が好まれた。
また、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩・個人的愛情などを大きく扱った。
また、古典主義はその技法上の制約によって芸術的自由を抑圧したと非難する主張や、古典主義の欠陥に対する反発から、ロマン主義は出発したとされる[7]。
この特性および主張は、道徳やキリスト教的倫理から文学を解放し、やがて写実主義・自然主義へと継承された。
フランチェスコ・アイエツ『オダリスク』(1867年、ブレラ美術館所蔵)
「ロマン」の語源
ローマ帝国時代のラテン語には、文語としての古典ラテン語と口語としての俗ラテン語が存在したが、その差はさほど大きくなかった。
しかし、衰退期に入ると文語と口語の差は徐々に広がり、やがて、ひとつの言語の変種とは呼べないほどにその違いは大きくなり、文語は、古典ラテン語の知識のない庶民には理解困難なほどにまでなった。
対して、その時代の口語のほうをロマンス語と呼んだ。
ロマンス語で書かれた文学作品はロマンスと呼ばれるようになり、ギリシャ・ローマの古典文学の対立概念とされるようになった。
ロマン主義(ロマンティシズム)の語源はここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。
ロマンと浪漫
ロマンを「浪漫」という当て字で表記したのは夏目漱石であり、1907年の講義録『文学論』にその存在が確認できる。
表現の写実にして取材の浪漫なるものあり。取材の写実にして表現の浪漫なるものあり。 — 夏目漱石、文学論
また、1911年には長野県会議事堂での講演で、「自然派」と共に自身が「浪漫主義」と當てたと回答している。
さて一方文学を攷察して見まするにこれを大別してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。 — 夏目漱石、『教育と文芸――明治四十四年六月十八日長野県会議事院において――』
多くの和製漢語と共に中華圏で受容され、現在も中国語では「浪漫主義」の表現が用いられる。
文学
文学では「ロマンティック (romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。
フランス
ヴィクトル・ユゴー
ジョルジュ・サンド
18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー(英語版)』やディドロの『ラモーの甥(英語版)』あるいはルソーの『新エロイーズ(英語版)』、『告白』などにロマン主義の萌芽は見られた。
19世紀に入ると、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、セナンクールといった初期ロマン派作家によって、現実認識および自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。
倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものは、それまでの教条主義では存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。
同時に、この自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。
これらはナポレオン1世の第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。
また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベル・ユゴー(フランス語版)が属した「文学保守(フランス語版)」誌、あるいは「グローブ(フランス語版)」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。
1825年、ヴィクトル・ユゴーとシャトーブリアンが自由主義化することで、ロマン主義はより大きなうねりとなった。
自由主義・個人主義・感情主義を柱とするロマン主義の確立は、それまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなく、あらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。
ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文で「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適ったすべての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である」と書いている。
1830年、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「エルナニ事件(フランス語版)」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。
19世紀前半の代表的なロマン主義詩人としてはアルフォンス・ド・ラマルティーヌ、アルフレッド・ド・ミュッセ、アルフレッド・ド・ヴィニー、ヴィクトル・ユゴー、ジェラール・ド・ネルヴァルらが、小説家としてはスタンダール、オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユゴー、プロスペル・メリメ、ジョルジュ・サンドらが挙げられる。
1848年の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、1850年のバルザックの死、および1851年12月2日のルイ・ナポレオンのクーデタを通じ、ロマン主義は幻滅の中で写実主義・自然主義にその座を譲ることになる[8]。
以降のロマン派はシャルル・ラッサイー(フランス語版)、シャルル・クロス、エリファス・レヴィらの小ロマン派と呼ばれる詩人・作家たちにパリの文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて象徴主義にたどり着くことになる。
イギリス
ジョージ・ゴードン・バイロン
イギリスにおけるロマン主義は、ヨーロッパ啓蒙主義に強い影響を受け、ウィリアム・ブレイクの詩をその萌芽とし、ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジの共著である詩集『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(1798年)をもって本格的に始まる。
さらにロバート・サウジーらが牽引した。
ワーズワースやコールリッジらはフランス革命後保守化したが、ナポレオン戦争後ジョージ・ゴードン・バイロン、パーシー・ビッシュ・シェリー、ジョン・キーツらは先鋭化しイギリスを去ってスイスやイタリアなどに移り、理想主義を掲げた。
そうした中、『穀物条例歌集』のように政治に深く関わる作品も著された。
またバイロンはギリシャ独立戦争に従軍した。
これらは産業革命や重商主義への反動として産業革命の浸透と時を同じく浸透していったが、やがて産業革命の所産である功利主義的な思想にとって代わられることとなった。
バイロンの死去した1820年代以降、イギリスにおけるロマン主義は急速に後退していった。
ドイツドイツロマン派の人物たち
ドイツのロマン主義文学はゲーテの作品や疾風怒濤期の作品から理論の形成に大きな影響を受けたが、ゲーテ自身はロマン主義に批判的であった。
ドイツ文学におけるロマン主義運動は北部のイエナを中心とした。
イエナにはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の宰相でもあるゲーテの政策によって、国内を代表する学者たちが教授として招かれていた。
ドイツの初期ロマン派(ドイツ・ロマン派、イエナ・ロマン派)の文学者には文学誌「アテネーウム」を主宰したシュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリスなどがいる。
イエナのサークルにはゲーテ、シラー、シュライエルマッハー、フィヒテ、シェリングが関わった。
またこのサークルには加わらなかったが、ヘルダーリンもイエナでフィヒテの講義を聴講している。
この初期ロマン派は哲学への志向を持った。
この傾向はシュレーゲルに強く近代の特徴的所産としてフランス革命・フィヒテの知識学・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を挙げている。
しかしこの文学者からの接近は哲学者からは必ずしも歓迎されなかった。
シュレーゲルはイエナ大学で哲学の講義を行ったが、哲学界からは黙殺された。
またヘーゲルやシェリングはシュレーゲルの思想を浅薄なものと非難している。
しかしフィヒテの後期知識学や、シェリングの後期哲学(積極哲学)には明確にロマン主義の影響が認められる。
これらのドイツ観念論とは異なる哲学的思索については、のちにヴァルター・ベンヤミンが芸術批評の思想として発掘し、カール・ハインツ・ボーラーなどにより積極的に評価された。
哲学史的意味においてこの時期の古代ギリシア研究にアポロンと対置されたディオニュソス的な存在を見出した影響は大きく、ニーチェらがこの分類を用いたほか、世紀末芸術などにモチーフが受け継がれた。
彼らのグループ「イェナロマンティカー」は各人の転居や死などにより1800年には解消した。
のちにベルリンのアルニムらによるサロンを中心とする小説家群が輩出された。
この文学者群を後期ロマン主義と呼び、グリム兄弟、シャミッソー、ホフマンらが挙げられる。
シュレーゲルの友人であるスタール夫人により、ドイツのロマン主義はその源流であるフランスに紹介された。
なお、2021年9月14日フランクフルト・アム・マインのゲーテハウスに隣接してドイツロマン主義博物館(Deutsches Romantik-Museum)が開館した[9]。
ベルギー
ヘンドリック・コンシャンス
ヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』の上演をめぐるエルナニ事件が起きた1830年に、ベルギーは臨時政府議会による独立承認が行われている。
独立前の政治的混乱と産業革命の成功にともなうブルジョワ階級の功利主義の中でロマン主義の受容は遅れていたといわれ、また当時のフランス王党派色の強いロマン主義文学に対してオランダ王家(オラニエ=ナッサウ家)に対する独立運動を行っていたベルギー人の反応は薄かったといわれている[10]。
フランス側からだけでなく、ドイツ側からも喧伝されたが、一部の貴族以外からの反響はなかった[10]。
ベルギーがロマン主義の受容を始めるのは、自由主義とロマン主義を明確に掲げた「グローブ」紙が熱心に読まれ始める1820年代中盤、1826年にオーギュスト・バロン(英語版) (Auguste Baron) がパリからブリュッセルに移り、バロンの執筆した「ブリュッセル・ジャーナル(フランス語版)」紙 (Le Journal de Bruxelles) と古典派の拠城とされる「歩哨」誌 (La Sentinelle) との間でロマン主義に関する論争が行われてからのことだった[10]。
また、パリに対してその約半分だったブリュッセルの印刷費とフランス第二帝政の厳しい言論統制により、ブリュッセルでフランス向けの海賊出版物が数多く出版されている[10]。
この海賊出版はバルザックの『19世紀フランスの作家たちへの書簡』で激しく非難されている[10]。
この状態は1852年4月22日にフランス・ベルギー両政府間で「文学・芸術著作権に関する相互保護協定」が締結されるまで続いた[10]。
この海賊出版をめぐる論争はフランスのロマン主義に対する攻撃にも発展した。
1836年の『ベルギー評論』ではすでに「想像力のもとで良識を抑圧しようとするこの新しい文学は、風俗を廃れさせ、道徳を破壊し、悪徳と罪とに、金の小片を散りばめた真っ赤なマントを纏わせている」と非難されており、1846年には詩人ラウルの『ユゴーに反して』(L’Anti-Hugo) というロマン主義を激しく非難する小冊子が刊行され、ブリュッセルではその後次々とロマン主義を攻撃する風刺的小冊子が刊行された[10]。
海賊出版論争の間にベルギー言論界はフランスの自由主義的ロマン主義と自らの矛盾を自覚してベルギー・ナショナリズムが萌芽し、ゲルマン的ロマン主義の模倣を経由しベルギー独自の幻想文学に至っている[10]。
このロマン主義を受容した時期に書かれた小説としてヘンドリック・コンシャンス(英語版)(アンリ・コンシャンス)のロマン主義的歴史小説『フランデレンの獅子(フランス語版)』(1839年)が挙げられる[10]。
ポルトガル
ポルトガルのロマン主義はフランスのそれの影響が強く[11]、ポルトガルにおいてロマン主義は、1825年に詩人のアルメイダ・ガレットが亡命先のフランスで発表した『カモンイス』(1825年)によって導入された。
ガレットのほかに初期のポルトガル・ロマン主義の形成に大きな役割を果たした人物として、歴史家であり、詩人でもあるアレシャンドレ・エルクラーノの名を挙げることができる。
写実主義の萌芽が見られるジュリオ・ディニスや、『破滅の恋』(1862年)のような恋愛小説を残したカミロ・カステロ・ブランコ のような第二世代に続いて保守的で形式的な超ロマン主義が文壇を支配し、こうした超ロマン主義に対して1865年に反ロマン主義者がその後進性を批判したコインブラ問題は、ポルトガルの後進性をめぐる文学論争に発展した。
ポーランド
ポーランドの詩人、アダム・ミツキェヴィチ
ポーランドのロマン主義(Romantyzm)は、ポーランド分割に参加したドイツの諸作家およびイギリスのバイロンの影響を強く受けた。1831年のポーランド蜂起から1863年の第2次ポーランド蜂起までが盛んな期間であった。
ポーランドロマン主義三大詩人と呼ばれるアダム・ミツキェヴィチ、ユリウシュ・スウォヴァツキ、ジグムント・クラシンスキや、歴史小説で知られるユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキ(英語版)らが活躍した。ロマン主義隆盛のあと、ポーランド文学は19世紀後半の実証主義、自然主義に向かっていくことになる。
キューバ
キューバにおいてロマン主義は、スペインの植民地支配に対する抵抗の手段としての役割を果たした[12]。
1830年代から1840年代にかけてキューバのロマン主義文学者はドミンゴ・デル・モンテが創刊した雑誌『レビスタ・ビメストレ・クバナ』(1831 – 1834)に集結し、その中から重要な批評家が現れた。その他にもキューバのロマン主義者として、反スペイン運動に参加した叙事詩人ホセ・ハシント・ミラネスのような人物の名を挙げることができる。
アルゼンチン
エステバン・エチェベリーア
アルゼンチンにおいてロマン主義は、1829年から1852年までアルゼンチンを独裁的に支配したフアン・マヌエル・デ・ロサスとの関係の中で培われた。
ロマン主義がラ・プラタ川流域に登場したのは、フランスのロマン主義に影響を受けたエステバン・エチェベリーアの『エルビア、もしくはエル・プラタの恋人』(1832年)によってであった[13]。
エチェベリーアはその後『調べ』(1837年)などを著したあとに、ロサスと決定的に敵対したためにウルグアイに亡命し、亡命先でロサスの圧政から着想を得て暴力を描いた小説『エル・マタデーロ』(1840年)を著した。
エチェベリーアがそうであったように、ロサスの反対者は「1837年の世代」と呼ばれるグループを結成し、亡命先からロサスと対立したが、そのような人物の中で特に優れていたのはチリに亡命していたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントだった。
サルミエントはラ・リオハ州のカウディーリョ、フアン・ファクンド・キロガの生涯を描いた『ファクンド』(1845年)で、アルゼンチンにおける「野蛮」なガウチョやカウディーリョと、「文明」であるヨーロッパの文化との対立を描いている。
ロサス失脚後のロマン主義に位置づけられる作家には、『アマリア』のホセ・マルモルや、ガウチョ文学(英語版)の大成者であり、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』(1872年)を著したホセ・エルナンデスの名が挙げられる。
ブラジル
ジョゼ・デ・アレンカール
ブラジル帝国においてロマン主義は、ゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836年)によって導入された[14]。
ブラジルのロマン主義はヨーロッパの形式の模倣に過ぎなかったが[15]、扱われた主題は新たな国民国家のアイデンティティに関するものだった[15]。
ヨーロッパのロマン主義において英雄と見なされたのは中世の騎士だったが、中世を経験せず、騎士も存在しなかったブラジルにおいてその役割はインディオによって担わされることになり、インディアニズモと呼ばれる文学潮流が生まれた[15]。
その中で目標とされたのは、「ブラジル語」の創造だった[15]。
このように、ロマン主義文学者の想像上のインディオはインディアニズモの潮流の中で賞賛されたが、奴隷制に苦しむ黒人は少数の例外を除いてロマン主義文学者のテーマにはならず[16]、実際に存在するインディオに対しては無関心、または敵対的な政策がとられた。
ブラジルロマン主義の文学者としては、詩においてインディアニズモを開拓したムラートのアントニオ・ゴンサルヴェス・ディアス[17]、インディアニズモ小説の『イラセマ』と『グアラニー』でブラジルロマン主義の頂点に立ったジョゼ・デ・アレンカール[14]、『ある在郷軍曹の回想録』(1852年)で帝都リオの風俗を描き、上流階級を揶揄したマヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ[16]、ブラジルロマン主義に「笑い」をもたらし[14]『苦しめられし犠牲者たち』(1869年)で黒人に若干の偏見を持ちながらも黒人奴隷制を告発したジョアキン・マノエル・デ・マセード[16]、ヴィクトル・ユーゴーの人道主義に共感し、奴隷制廃止運動に携わった詩人カストロ・アルヴェス[16]、『奴隷女、イザウーラ』(1875年)で白人女性のような黒人女性を描いたベルナルド・ギマランエス[16]などの名が挙げられる。
日本
島崎藤村
日本では明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受け、森鷗外の『舞姫』(1890年)によってロマン主義文学が始まり、「文学界」同人の島崎藤村・北村透谷らによって推進された。
透谷は『内部生命論』(1893年)で「吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり」と主張した。
また、写実主義に対する反動から泉鏡花の観念小説が書かれ、日清戦争後の社会不安から広津柳浪の悲惨小説(深刻小説)が書かれた。
日本のロマン主義文学のおもな作品は、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説『高野聖』(1900年)、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、高山樗牛の評論『美的生活を論ず』(1901年)、伊藤左千夫の中篇小説『野菊の墓』(1906年)などである。
国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化していき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。
日本のロマン主義文学は、西欧のそれと比べて短命であった。また、夏目漱石は「浪漫」という漢字による当て字を考案した。
大正ロマン
日本におけるロマン主義は明治中期に始まり明治末には自然主義への移行で終わったが、「ロマン主義の終焉した大正時代」の文化世相を「大正ロマン(大正浪漫)」と呼ぶ。
日本浪曼派
1935年(昭和10年)になると新しいロマン主義を模索する保田與重郎をはじめとする日本浪曼派が登場し、同名の機関紙「日本浪曼派」が発刊された。
日本浪曼派は、反近代主義と古代賛美の色を濃くし、国粋主義的傾向も強かったとされ、戦前末期の論壇や青年層に強い影響力を持った。
「日本浪曼派」の同人には亀井勝一郎、檀一雄、太宰治等がいる。三島由紀夫は日本浪曼派から影響を受けた代表人物の一人である。
政治
民衆を導く自由の女神(1830年、ルーヴル美術館所蔵)
キリスト教的教条主義から表現を解放したロマン主義は、教会の指導から世俗権力に政治的主導権が大きく振られる過程と時を同じくし、王権神授説によってその正統性を保障されたブルボン王家からフランス革命によってその権力が離れ、ナポレオンによってフランス帝国がヨーロッパ全体に伸張する過程でブルジョアジーに支持され、普及した。
この動きの中でロマン主義陣営からの政治参加がめざましく見られた。
フランスにおいてはオルレアン公爵夫人の側近を務め、のちにルイ・ナポレオン公の陣営に転じたヴィクトル・ユゴー[18]や、二月革命の臨時政府で外務大臣に就任したものの同年の大統領選挙で華々しい失敗を演じたアルフォンス・ド・ラマルティーヌ[6]などの政治への参加がみられたものの、1851年のルイ・ナポレオンのクーデターによりブルジョアジーの関心は急速にロマン主義から離れ、科学的経済的進歩の競争に向けられるようになった。
フランス革命によって刺激された国民意識の形成は、東欧・北欧・スペイン・ドイツなどの諸民族が同様に民族主義的な文化的国民性および民族としての一体性を強く意識させた。
ドイツにおいては領邦国家に分裂した社会および近代世界の克服がドイツにおけるロマン主義の主要な主題のひとつであり、これは民族共同体の意識が強かったオリエントへの憧憬や教会と神聖ローマ帝国のもとにあった中世への懐古と結びついた。
こうしたドイツにおける保守化・伝統回帰の傾向は特にナポレオン戦争後のウィーン体制・正統主義を背景とした後期ロマン派に顕著である。
大戦間において再び隆盛したロマン主義的な政治についてはカール・シュミットが、至上化した生の高揚のために政治を利用する機会偶因主義(独: Okkasionalismus、オッカジオナリスムス)であると批判した。
絵画
ターナー『ミノタウロス号の難破』
先行する新古典主義に対するロマン主義の反伝統的、反制度的表現を準用して、絵画においてもロマン主義の呼称が用いられる。
ロマン主義に属する画家としては、スペインのゴヤ、フランスのドラクロワ、テオドール・ジェリコー、ギュスターヴ・ドレ、イギリスのウィリアム・ブレイク、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー、サミュエル・パーマー、リチャード・ダッド、イタリアのフランチェスコ・アイエツ、スイスのヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ドイツでは山岳・廃墟などをテーマにしたカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲ、ノルウェーのヨハン・クリスチャン・ダールなどが挙げられる。
日本の絵画では藤島武二、青木繁らが知られる。
音楽
ショパン
詳細は「ロマン派音楽」を参照音楽におけるロマン主義(ロマン派)時代は、バロック音楽に続く古典派音楽の次にくる時期を指し、ほぼ19世紀全体および20世紀初頭に及んでいる。
ただし19世紀後半にはロシアや東欧・北欧・スペインでは民族主義的な国民楽派が栄え、フランスでは20世紀初頭には印象主義音楽に移行していた。
このため、後期ロマン派と呼ばれる19世紀中盤以降のロマン派音楽は、ドイツ・フランス・イタリアなどの限定的な地域での流行となった。代表的な作曲家としてフランツ・シューベルト、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマン、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーなどが挙げられる。
脚注
[脚注の使い方]^ ROMANTICISM-Dictionary of the History of Ideas、2009-08-20閲覧。 ^ Romanticism. Retrieved 30 January 2008, from Encyclopædia Britannica Online ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp.9-10。 ^ 中込純次 (1982年7月29日). “ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」”. 財団法人山人会. 2006年6月16日閲覧。 ^ 澁澤龍彦『小ロマン派群像』(「悪魔のいる文学史」〔中公文庫〕所収) ^ a b ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p.83。 ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p.25。 ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、pp.9-85。 ^ 高橋優「ノヴァーリス生誕250年シンポジウムに参加して」Ikubundo(郁文堂) Brunnen Nr.527, Okt. 2022、7-9頁のうち9頁。 ^ a b c d e f g h i 岩本和子、「ベルギーにおけるロマン主義運動ー想像の「国民文化」形成ー」『国際文化学研究 : 神戸大学国際文化学部紀要』 1999年3月 11号 p.1-35, 神戸大学国際文化学部 ^ 田所(1993:150) ^ ジョゼ/高見訳(1975:44) ^ ジャック・ジョゼ/高見英一、鼓直:訳『ラテンアメリカ文学史』白水社(文庫クセジュ)、1975/07 p.38 ^ a b c シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.255 ^ a b c d 田所清克「ナショナル・アイデンティティー構築の歴史とその構想者たち」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09 ^ a b c d e 田所清克「ブラジル浪漫主義の思想と主題」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09 ^ シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ:訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003/01 p.254 ^ ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』、白水社文庫クセジュ、1980年、p.41。
参考文献
澁澤龍彦「小ロマン派群像」『悪魔のいる文学史』 中央公論社、のち中公文庫 高階秀爾『フランス絵画史』講談社学術文庫、1990年 ジャック・ジョゼ『ラテンアメリカ文学史』高見英一、鼓直訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1975年7月。 ドミニック・ランセ『十九世紀フランス文学の展望』加藤民男訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1980年。 デーヴィッド・ブレイニー・ブラウン『岩波世界の美術 ロマン主義』高橋明也訳、岩波書店、2004年 田所清克「ポルトガルの古き良き伝統を求めて──ポルトガル文学の流れを中心に」『郷愁ポルトガル──地果て海始まるところ』監修、泰流社、1993年3月。 田所清克「ナショナル・アイデンティティー構築の歴史とその構想者たち」『ブラジル学への誘い──その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001年9月。 田所清克「ブラジル浪漫主義の思想と主題」『ブラジル学への誘い──その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001年9月。 中込純次 (1982-7-29). "ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」" (日本語). 財団法人山人会. 2006年6月16日閲覧。 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』彩流社、増補版2003年4月。 村上義和、池俊介編著『ポルトガルを知るための50章』明石書店、2001年2月。 伊坂青司『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』御茶の水書房、2000年2月。 伊坂青司・原田哲史編『ドイツ・ロマン主義研究』御茶の水書房、2007年1月。
関連項目
ロマン派音楽 リヒャルト・ワーグナー ルドルフ・シュタイナー マンフレート・フランク ヴィンフリート・メニングハウス モーリス・ド・ゲラン プロスペル・ド・バラント アドルフ・ティエール シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ ウィリアム・ブレイク ゴシック 世紀末芸術 退廃芸術 民俗学 世俗主義 イギリス・ロマン派学会 科学におけるロマン主義
外部リンク
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カテゴリ:ロマン主義19世紀のヨーロッパヨーロッパの文化史イギリス文学フランス文学ポーランド文学ラテンアメリカ文学日本文学ドイツ文学哲学の概念近代哲学ドイツ観念論世界観政治思想文学運動汎神論美学 最終更新 2023年11月7日 (火) 10:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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西洋近代主義に対抗できる「ヘゲモニー文化」(グラムシ用語)を持っているのはムスリムだ。
https://st2019.site/?p=21706『西洋近代主義に対抗できる「ヘゲモニー文化」(グラムシ用語)を持っているのはムスリムだ。だからプー之介は大量のムスリム労働者階級を西欧に移入させてしまうという工作を続け、ようやくそれは成功一歩手前まで来た。
またプー之介は、自身を頭首とするロシアの現支配機構が、他のすべての被支配階級から放伐されないための、機能する「ヘゲモニー文化」を創出し定着させることもなしとげつつある。
すなわち旧東独流の警察監視文化だが、さいしょはチェチェン騒乱を背景圧力として利用し、2022以降は、対宇の泥沼戦争の永久持続と「赤紙」の力により、着実に確実に、強化しつつあるところだ。
これは北鮮から学んだ知恵だと思われる。』
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アナキズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0※ 「自由」と「平等(特に、結果の平等)」は、両立しない。
※ 「自由」に行動することを、認める限り、「能力差」がある以上、結果として「多くを稼ぐ人」と、「少なくしか稼げない人」が生じるからだ…。
※ そうすると、「オレは、多く稼いだんだから、多く取るのは、当然だろ?」という論を、打ち負かすことは、できない…。
※ 共産主義、社会主義、マルクス主義…。
※ 全ての主義・思想は、この「論」を、打ち負かすことができないでいる…。
※ まあ、ある程度効力があるのは、「そうは言っても、あんたも「他者のお世話」にならなければ、「生存」していけないだろ?それなら、「他者の生存」も、ある程度は考えないとな…。」という、「全体の器」自体が壊れてしまっては、大多数の人が、「生存していけなくなる」という、消極的な、妥協的な、「全体の器」論くらいのものか…。
※ どうも、「アナキズム」というのは、「そういう腐った社会ならば、壊れてしまってくれて、けっこうだ!」という、捨て鉢、投げやりな思想にしか、思えない…。














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イデオロギー > 政治イデオロギー > アナキズム
アナキズムアナキズムのシンボル「サークルA」
アナキズムのシンボル「黒旗」潮流
理論と実践
人物
課題
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文化
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一覧
関連表話編歴
自由主義
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思想
潮流
人物
地域
宗教的自由主義
組織表話編歴
社会主義
社会主義のシンボル「赤旗」
社会主義の潮流
宗教的社会主義の潮流
歴史
国際組織
関連項目表話編歴
アナキズム(英: anarchism、仏: anarchisme、露: анархизм、アナーキズムとも)は、国家や宗教など一切の政治的権威と権力を否定し、自由な諸個人の合意のもとに個人の自由が重視される社会を運営していくことを理想とする思想[1][2][3]。
四大巨頭とされる著名な思想家はウィリアム・ゴドウィン、ピエール・ジョゼフ・プルードン、ミハイル・バクーニン、ピョートル・クロポトキン。
アナキズムは自由主義的な立場である個人主義的無政府主義と、社会主義的な立場である社会的無政府主義にも分類され、アナキズムの支持者はアナキスト(アナーキスト)と呼ばれる。日本では無政府主義と訳される場合も多いが、誤解の多い訳語として忌避される傾向もある。
語源と用語、および定義
アナキズム(英: Anarchism)の語源は、「支配者」を意味する αρχ?(archi)に「?が無い」を意味する接頭辞の ?ν-(an-)が付いた「支配者がいない」ことを意味する古代ギリシア語の ?ναρχ?α(anarkhia)または?ναρχο?(anarkhos)である[4][5][6][7][8]。
接尾辞の -ισμ??(-ism)は思想・イデオロギーであることを意味している。
英語では、 anarchism という言葉は1642年から anarchisme として現れ[9]、anarchy は1539年から現れた[10]。
フランス革命における様々な派閥は、敵対者に対して anarchists という烙印を押したが、そのような非難を受けた者の中に後のアナキストと同様の見解を持つ者はほとんどいなかった。
ウィリアム・ゴドウィン(1756?1836)やヴィルヘルム・ヴァイトリング(1808?1871)などの19世紀の多くの革命家は、次の世代のアナキズムの原則に貢献することになったが、彼らは自分自身や自分の信念を表現する際にアナキストやアナキズムといった語を使わなかった[11]。
自らアナキストを名乗った最初の政治哲学者は、「無政府主義の父」と言われている19世紀フランスのピエール・ジョゼフ・プルードン(1809?1865)である。
1890年代以降、フランスを始めとしてリバタリアニズムはアナキズムの同義語として用いられることが多く[12][13]、アメリカ以外の国では現在でも同義語として使われるのが一般的であるが[14]、他方では個人主義的な自由市場哲学のみを指す言葉としてリバタリアニズムを用いる人もおり、自由市場無政府主義をリバタリアン・アナキズムと呼んでいる[15]。
国家への反対はアナキズム思想の中心だが、様々な潮流がアナキズムを微妙に異なって捉えているため、アナキズムを定義することは容易ではなく、学者やアナキストの間で多くの議論がなされている[16]。
そのため、アナキズムとは、あらゆる人間関係の営みにおける権威や階層的組織(国家、資本主義、ナショナリズム、および関連するすべての制度)に反対し、自発的な結社と自由、および分権化に基づく社会を支持する政治哲学の集合体であると言えるかもしれない。
しかし、この定義は語源に基づく定義(単なる支配者の否定)や、反国家主義に基づく定義(アナキズムはそれ以上のものである)、あるいは反権威主義に基づく定義(これは結果論である)と同じ欠点を持っている[17]。
とはいえ、アナキズムの定義の主要な要素には以下のものが挙げられる[18]。
・非強制的な社会への意志。 ・国家組織の棄却。 ・人間本性が、そのような非強制的社会の中に人間が存在すること、あるいはそれに向かって進歩することを可能にしているという信念。 ・アナキズムの理想を追求するための具体的行動の提案。
オードリー・タンは「保守的なアナーキスト」を自称し、日本での「無政府主義」との訳を批判している[19][20]。
歴史
詳細は「アナキズムの歴史(英語版)」を参照近代以前
ゼノンが著した『Republic』は、ピョートル・クロポトキンに影響を与えた[21]。
先史時代に確立された権威は存在しなかった。
権威的制度が確立され、その反動として無政府主義的な思想が膾炙するようになったのは、街や都市が造られた後だった[22]。
古代における無政府主義の最も顕著な前身は中国とギリシアにあった。
中国では、哲学的無政府主義(英語版)(国家の正当性に関する議論)が道教の哲学者である荘子と老子によって叙述された[23]。
同様に、無政府主義的な態度はギリシアの悲劇家と哲学者によっても表現された。
アイスキュロスとソポクレスは、国家によって布かれた規則とオートノミーとの対立を説明するためにアンティゴネーの神話を用いた。
ソクラテスはアテナイの当局に絶えず疑問を投げかけ、意識の個人的自由の権利を主張した。
キュニコス派は、人間が作った法律(ノモス)と関連付けられた権威を退け、自然法則に従って生きようとした。
ストア派は、国家の存在を伴わない市民間の非公式で友好的な関係に基づく社会を支持していた[24]。
中世では、一部の禁欲的な宗教運動を除き、イスラム世界やキリスト教圏のヨーロッパにおいて無政府主義的な活動は見られなかった。
このような伝統は、後に宗教的無政府主義を生み出した。
サーサーン朝ペルシャでは、マズダク教が平等主義と君主制の廃止を求めたが、すぐに国王によって弾圧された[25]。
バスラでは、敬虔な宗派が国家に対して説教を行った。
ヨーロッパでは、様々な宗派が反国家主義的および自由主義的な傾向を持つに至った。
リバタリアンの思想は、ヨーロッパでの理性主義とヒューマニズムの展開に伴い、ルネサンス期にさらに隆盛した。
小説家たちは、強制ではなく自発に基づいた理想的社会を小説に描いた。啓蒙主義は、社会的進歩に対する楽観主義を持ってアナキズムへとさらに押し進められた[26]。
近代
フランス革命の際、アンラジェとサン・キュロットのパルチザングループは、反国家主義と連邦主義の騒乱の中に転機を見た[27]。
最初のアナキズムの流れは18世紀を通して発展した。
ウィリアム・ゴドウィンはイギリスで哲学的無政府主義を支持し、国家は不当なものであるとの道徳的な判断を下した。
マックス・シュティルナーの思想は個人主義への道を開き、ピエール・ジョセフ・プルードンの相互主義理論はフランスの肥沃な地に根を下ろした[28]。
このアナキズムの古典時代は、1939年にスペイン内戦が終わるまで続き、後にアナキズムの黄金時代だったと考えられるようになった[28]。
ミハイル・バクーニンはプロレタリア独裁を目標とするマルクス主義に反対した。マルクス主義者によって第一インターナショナルを追放される前、彼は連邦主義者と同盟していた。
ミハイル・バクーニンは、相互主義に基づいて集産主義的無政府主義を確立し、国際労働者協会に加入した。
国際労働者協会は、後に第一インターナショナルとして知られるようになった結社であり、多様な革命的潮流を統合するために1864年に発足した。
インターナショナルは重要な政治勢力となり、その重要人物であるカール・マルクスは総評議会のメンバーであった。
バクーニンの派閥であるジュラ連合(英語版)と、相互主義者であるプルードンの支持者は、マルクスの国家社会主義に反対し、政治的自制主義と小規模な私有財産制を主張した[29]。
苦い論争の後、バクーニン主義者は1872年のハーグ大会でマルクス主義者によってインターナショナルから追放された[30]。
バクーニンは、「革命家がマルクス主義の条件下で権力を得た場合、労働者の新たな専制君主に終わることになるだろう」という有名な予測を残した。
追放された後、アナキストはサン=ティミエ・アナキスト・インターナショナル(英語版)を形成した。
ロシアの哲学者・科学者であるピョートル・クロポトキンの影響の下、無政府共産主義は集産主義と重なり合うようになった[31]。
1871年のパリ・コミューンに触発された無政府共産主義者は、自由な連邦と必要に応じた物資の分配を提唱した[32]。
世紀の変わり目には、アナキズムは世界中に広がっていた[33]。
中国では、少数の学生グループが無政府共産主義の人文主義的なプロサイエンス版を輸入した[34]。
東京は、極東の国々から勉強のために殺到した反抗的な若者たちのホットスポットだった[35]。
ラテンアメリカでは、アルゼンチンがアナルコ・サンディカリスムの牙城になり、最も顕著な左翼イデオロギーとなった[36]。
この間、少数のアナキストが戦術として革命的な政治暴力を採用した。この戦略は、後に「行為によるプロパガンダ」として知られるようになった[37]。
個人主義的な政治的表現と行動を好んだパリ・コミューンの弾圧に続いて、フランスの社会主義運動は多くのグループに分断され、多くのコミュナード(英語版)が処刑および流刑された[38]。
多くのアナキストがこれらのテロ行為から距離を置いていたにもかかわらず、運動には悪評が付いた。イリーガリズム(英語版)は、同年に一部のアナキストが採用した別の戦略である[39]。
ネストル・マフノとウクライナ革命反乱軍のアナキスト。
アナキストは、懸念を余所にロシア革命へ熱心に参加し白軍と戦った。
しかし、ボリシェヴィキ政権が安定すると彼らは激しい弾圧に直面した。
ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)とモスクワからは一部のアナキストがウクライナへ逃亡し[40]、クロンシュタットの反乱と自由地区でのネストル・マフノによる闘争につながった。
ロシアでアナキストが弾圧される中、二つの新たな対立軸、すなわち政綱主義(英語版)(英: Platformism)と統合無政府主義(英語版)(英: Synthesis anarchism)が生まれた。
前者は革命を推進する首尾一貫した集団を作ろうとしたが、後者は政党と類似するものに反対していた。
十月革命とその結果としてのロシア内戦でのボリシェヴィキの勝利を見て、多くの労働者と活動家は、無政府主義と他の社会主義運動を犠牲にして成長した共産党に転向した。
フランスとアメリカでは、主要なサンディカリスト運動のメンバーが、彼らの組織であるフランス労働総同盟と世界産業労働組合から離れ、コミンテルンに参加した[41]。
スペイン内戦では、アナキストとサンディカリスト(CNT-FAI)が再び左派の様々な潮流と同盟を組んだ。
スペインにおけるアナキズム(英語版)の長い伝統は、内戦でアナキストが極めて重要な役割を果たすことにつながった。
軍の反乱に応じる形で、農民と労働者のアナキストに触発された運動は、民兵の支援を受けてバルセロナと農村部の広大な地域を支配し、土地を共同所有するようになった[42]。
ソ連は内戦開始時に限定的な支援を提供したが、スターリンが共和派の支配権を掌握しようとしたため、May Days(英語版)と名付けられた一連の出来事で共産主義者と無政府主義者の間で苦闘が繰り広げられる結果となった[43]。戦後と現代
ロジャヴァの縫製組合。ロジャヴァは労働者が協同組合を結成する取り組みを支援している。
第二次世界大戦終結後、アナキストの運動は大幅に弱まった[44]。
しかし、1960年代には、マルクス・レーニン主義の失敗と冷戦の緊張によって引き起こされたと思われるアナキズムの復活が見られた[45]。
この間、アナキズムは、反核と環境・平和運動、新左翼、1960年代のカウンターカルチャーなど、国家と資本主義の両方に批判的な他の運動に根付いた[46]。
アナキズムは、クラスやセックス・ピストルズなどのバンドに示されるように、パンクのサブカルチャーと関連するようになり[47]、第二波フェミニズムでは、アナルカ・フェミニズムの確立されたフェミニズムの傾向が活力を持って戻ってきた[48]。
21世紀への変わり目には、アナキズムは反戦と反資本主義、および反グローバリゼーション運動の中で人気と影響力を増した[49]。
アナキストは、世界貿易機関、主要国首脳会議、世界経済フォーラムに対する抗議活動に参加したことで知られるようになった。
抗議活動の間、ブラック・ブロックとして知られている即興で作られ指導者がいない匿名集団が、暴動と器物損壊、および警察との暴力的対峙に従事した。
この時代に作られた他の組織的戦術には、セキュリティ文化(英語版)とアフィニティ・グループ、およびインターネットなどの分散化された技術の利用などがある。
この時代に起きた大きな出来事は、1999年にシアトルで開催されたWTO会議での抗議である[49]。
アナキストの思想は、メキシコのサパティスタ民族解放軍や、シリア北部にある事実上の自治区で、一般的にロジャヴァとして知られている北シリア民主連邦の発展に影響を与えた[50]。
日本
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詳細は「日本におけるアナキズム(英語版)」を参照近代
大杉栄。大正時代、日本においてアナルコ・サンディカリスムを主張した。
日本では、先駆的に江戸時代後期の安藤昌益がアナキズム的な発想で思想を展開した。
近代思想としてのアナキズムの影響ということでいえば、幸徳秋水がいる。秋水はクロポトキンの影響を受けていた。明治末期、幸徳秋水は無政府主義を実現させるための直接行動を主張したが、幸徳事件(大逆事件の一つ)で死刑となった[51]。
大正時代に入りロシア革命が起こると、大杉栄が主張する労働組合を基盤としたアナルコ・サンディカリスムが一定数の支持を得た。
マルクス主義・共産党との対立以降
アナキズムでは政党も否定するため[51]、 日本のマルクス主義者(ボリシェヴィキ)との間にアナ・ボル論争と呼ばれる論争が行われた。
大杉栄が日本のアナキストの中心であったため、1922年にボリシェヴィキ率いるソ連の「コミンテルン日本支部 日本共産党」として日本共産党が設立、1923年の大杉は関東大震災後の混乱の中、甘粕事件で殺害されることで衰退した[51]。
大杉の死後、主導的人物を失ったアナキズム運動は個人的な活動から組織的・社会的な運動となっていった。
まず、八太舟三に代表される純正アナキズム(アナルコ・サンディカリスムは、サンディカリスムの影響を受けた不純なアナキズムであるとの批判)が盛んになり、その後は、アナキズムとしては異例の強固な「党的志向」をもった日本無政府共産党や、全国的な農民運動として、歴史的には「農青イズム」と呼ばれた革命的地理区画を全国に樹立した具体的で実践的な農村青年社の運動が登場した。
権藤成卿、橘孝三郎らの超国家主義・農本主義運動らにもアナキズムは影響を与えた。
詩人の金子光晴や日本のダダイスムもアナキズムに影響を受けており、その作品のいくつかはアナキズムを謳っている。
1935年には日本無政府共産党ギャング事件が、翌1936年に約350名が治安維持法違反として検挙される農村青年社事件が起きる。この事件をもって「戦前のアナキズム活動の終息」と見る向きもある[52]。
戦後
太平洋戦争敗戦後のアナキストの潮流はプルードン主義の立場に近く、実力での資本主義制度の打倒よりも地域コミュニティ再建の実現を目指していた。
戦後のアナキズムはアナルコ・サンディカリズム系の日本アナキスト連盟と、純正アナキズム系の日本アナキスト・クラブが啓蒙的活動を続けていたが、何れもサロン的、研究クラブの域を出ず、ほとんど影響力はなく、アナキズムは死んだに等しいと見なされていた。
そのようなアナキズムが蘇ったのは1968年から1970年にかけての全国的な学園闘争においてである。
学園闘争の中核となった全学共闘会議(全共闘)の多くはノンセクトであり、日大全共闘芸術学部闘争委員会(後期)などのように、旗やヘルメットは黒を基調とした組織も多く、またその運動形態も、アナキスト系組織に見られる比較的自由な評議制をとっていたことから、アナキズムへの関心が芽生えることになった。
東京のアナキストは連盟の後継の要素を引き摺り、学習会的・サロン的色彩を払拭出来ず(麦社)、それ以外もテロリスト的な小結社主義(東京行動戦線、背叛社)の域を出なかったが、関西・大阪のアナキストは、小組織・小グループの傾向を離脱してアナキスト革命連合(ARF、アナ革連)という「アナキスト・ブント」とあだ名された統一組織を形成し、各大学や地域において強力な運動を展開した。
関西の主要大学にはアナキスト連合の組織や支部が形成され、キャンパスにはアナキストの黒旗が翻り、一部では完全にマルクス主義者を凌駕していた。
1974年から1975年にかけて連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線はアナキズム傾向がある組織だった[53]。
戦後のアナキストとしては、詩人の秋山清や、後に右翼の立場性を鮮明にする評論家大澤正道らがおり啓蒙的著述を続けていたが、その後、向井孝は自身のミニコミ紙で非暴力直接行動論を粘り強く持論とし、フランスにいた尾関弘はダニエル・ゲランの翻訳を行った。
またアナキスト革命連合の活動家だった千坂恭二は『情況』や『映画批評』誌などでバクーニンの思想をベースにブント的アナキズムを精力的に展開し[54]、大島英三郎は黒色戦線社を設立し八太舟三の純正アナキズムの普及に努めた。
作家の石川淳や埴谷雄高、俳優の天本英世などがアナキズムに強い関心を示すとともに、映画評論家で『映画批評』編集長の松田政男はアナキズムの立場を明確にしていた。
また現在では佐藤優や福田和也らがアナキズムに言及している。
脱資本主義を掲げたオルタナティブ運動としてのだめ連、「ゆるいアナキズム」を提唱した栗原康や鶴見済など街頭闘争より個人の生活スタイルの変化に重視を置く運動も起こっている。加納穂子は沈没家族と称して、新たな家族のあり方を模索した。
だめ連に関わりアナキスト的活動をしていた外山恒一は、ファシズムとアナキズムを根本的に同一とみなし、「アナキストは、かつて一度も勝利したことがないし、これからも決して勝利することがない」としてファシストに転向すると[55][56]、千坂恭二も共闘してアナルコ・ファシストとも呼ぶべき独自の体系化を行った[57]。
思想
詳細は「アナキズムの学派(英語版)」を参照
アナキズムの思想潮流は、一般的にその起源と価値観、および歴史の違いによって、社会的無政府主義と個人主義的無政府主義の二つの主要な歴史的伝統に分けられる[58]。
個人主義的な潮流は、自由な個人への抑圧に反対する消極的自由を強調しており、社会主義的な潮流は、平等と社会的所有を通じて自由な社会の可能性を達成することを目指す積極的自由を強調している[59]。
時系列的に見ると、アナキズムは19世紀後半の古典的潮流と、その後に発展した古典的潮流の後続(アナルカ・フェミニズムやグリーン・アナキズム、ポストアナーキズムなど)に細分化される[60]。
政治的無政府主義を構成する無政府主義運動の特定派閥を超える立場として、国家は、それを排除しようとする革命を受け入れないため、道徳的正当性を欠いているとする哲学的無政府主義(英語版)がある[61]。
特に個人主義的無政府主義の構成要素である哲学的無政府主義は、最小限の国家の存在を容認する場合があるが[62]、個人の自律性と競合する場合は、市民は政府に従う道徳的義務を負わないと主張している[63]。
アナキズム哲学において道徳は中心的役割を持っているため、アナキズムは道徳的議論に多くの注意を払っている[64]。
アナキスト間に存在したセクト主義に対する反応の一つは、形容詞のないアナキズム(英語版)だった。
形容詞のないアナキズムは、アナキストの間での寛容主義と連帯を訴えかけており、1889年に当時のアナキズム理論の苦い論争に応答する形でFernando Tarrida del Marmolによって採用された[65]。分離にもかかわらず、様々なアナキズムの思想潮流は、個別の実体ではなく、混ざり合う傾向にあると見られている[66]。
アナキズムは、一般的に政治的スペクトル上で極左に置かれる[67]。
その経済学と法哲学の多くは、集産主義、共産主義、個人主義、相互主義、そしてサンディカリスムといった急進的な左翼・社会主義政治の反権威主義的かつ反国家主義的、およびリバタリアン的な解釈を反映している[68]。
アナキズムには単一の特定の世界観に基づくような原理原則が存在しないため[69]、アナキズムには多くの分派と伝統が存在しており、広漠な多様性を持つ[70]。
古典期
ピエール・ジョセフ・プルードン。アナルコ・ミューチュアリズムの主な提唱者であり、個人主義的無政府主義と社会的無政府主義の両方の思想家に影響を与えた[71]。
古典的アナキズムの初期の潮流は相互主義(ミューチュアリズム)と個人主義であり、社会的無政府主義の主要な潮流(集産主義、共産主義、サンディカリスム)がそれに続いた。これらは、理想とする社会の組織的および経済的な側面で異なっている[72]。
相互主義は18世紀の経済理論で、ピエール・ジョセフ・プルードンによってアナキズム理論へと発展させられたものである。
相互主義の目標には、互恵主義、自由結社、任意契約、連邦制、および人民銀行によって規制される信用取引と通貨改革などがある[73]。
相互主義はアナキズムの個人主義と集産主義の形態の中間に配置されるよう、遡及的に特徴付けられた[74]。プルードンは、彼の目標を「社会の第三形態としての共産主義と財産の統合」として最初に特徴付けた[75]。
集産主義的無政府主義(アナキスト集産主義やアナルコ・コレクティビズムとも言われる[76])は、ミハイル・バクーニンとよく関連付けられるアナキズムの革命的社会主義的形態である[77]。
集産主義的無政府主義者は、暴力革命によって達成すると理論化されている生産手段の共同所有[78]と、共産主義にあるような必要に応じた物資の分配ではなく、労働時間に応じた労働者への給与の支払いなどを主張している。
集産主義的無政府主義は、マルクス主義と並んで発生したが、集産主義的な無国家社会という同様の目標を持つにもかかわらず、マルクス主義のプロレタリア独裁には反対した[79]。
無政府共産主義(アナルコ・コミュニズム、コミュニスト・アナキズム、リバタリアン・コミュニズムなどとも言われる)は、生産手段の共同所有[80]と直接民主制、そして「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という指導的原則に基づいた生産と消費に関わる自発的組合および労働者評議会があるような共産主義社会を主張するアナキズム理論である[81]。
無政府共産主義は、フランス革命後の急進的な社会主義の流れから派生して発展したが[82]、第一インターナショナルのイタリア支部で最初に定式化された[83]。それは後に、ピョートル・クロポトキンの理論の中で拡大された[84]。
アナルコ・サンディカリスム(革命的サンディカリスムとも言われる)は、労働組合を革命的な社会変革のための潜在的な力であるとみなし、国家と資本主義を労働者によって民主的に自己管理された新しい社会へ置き換えることを主張するアナキズムの分派である。アナルコ・サンディカリスムの基本原則は、労働者の連帯と直接行動、および労働者自主管理である[85]。
個人主義的無政府主義は、あらゆる外在的決定要因よりも個人とその意志を強調するアナキズム運動内のいくつかの伝統的思想を指す[86]。アナキズムの個人主義的形態に影響を与えたのは、ウィリアム・ゴドウィン、マックス・シュティルナー、およびヘンリー・デイヴィッド・ソローである。多くの国を通して、個人主義的無政府主義は、ボヘミアの芸術家や知識人[87]、およびイリーガリズム(英語版)とIndividual reclamationとして知られるようになった若い無法者のアナキストなど、少数ながらも多様な支持者を集めた[88]。
ポスト古典期と現代
詳細は「現代のアナキズム(英語版)」を参照
Lawrence Jarach(左)とJohn Zerzan(右)は現代のアナキズム(英語版)に関する著名な作家である。Zerzanはアナルコ・プリミティビズム(英語版)における著名な発言者であり、Jarachはポスト左翼アナーキー(英語版)の著名な提唱者である。アナキズムの原則は、現代の左翼の急進的社会運動を支えている。
アナキズム運動への関心は、反グローバリゼーション運動の趨勢と共に発展し[89]、その主要な活動家のネットワークはアナキズム的方向性を持っていた[90]。
この運動が21世紀のラディカリズムを形成していく中、アナキズムの原則のより広い受容は関心の再燃を示唆していた[90]。
ブラック・ブロックのデモ活動を際立たせて報道する現代のニュースは、アナキズムが混沌と暴力とに歴史的に結びついてきたということを強調しているが、その喧伝によってより多くの学者がアナキズム運動に関与するようになった[89]。
アナキズムは、多くの哲学や運動を生み出し続けてきた。それはときに折衷的であり、様々な起源に基づいていたり、異なる概念を組み合わせて新たな哲学的アプローチを生み出したりしてきた[91]。古典的アナキズムの反資本主義の伝統は、現代の潮流の中でも顕著であり続けている[92]。
今日における様々なアナキストのグループと傾向および分派は、現代のアナキズム運動を解説することを困難なものにしている[93]。
理論家や活動家は「アナキズムの原則についての比較的安定した集合」を確立しているが、どの原則が核となるかについては意見の一致が見られない。
その結果として評論家は、共通の原則がアナキズムの分派間で共有されている一方で、各グループがそれらの原則に異なる優先順位を付けている「複数のアナキズム」(単一の「アナキズム」なるものではなく)を解説している。
例えば、男女平等は共通原則であり得るが、それは無政府共産主義者よりもアナルカ・フェミニストにとっての方が優先順位が高い[94]。
アナキストは一般的に、次のような強制的権威に反対している。
すなわち、「すべての中央集権的で階層的な形態の政府(君主制、間接民主主義、国家社会主義など)、経済的階級制度(資本主義、ボルシェヴィズム、封建制、奴隷制など)、独裁的宗教(イスラム教原理主義、ローマ・カトリックなど)、家父長制、強制的異性愛、白人至上主義、帝国主義」である[95]。
しかしながら、これらにどのような方法で対抗すべきかについては、アナキストの間でも意見が分かれている[96]。
戦術
アナキストの戦術は様々な形をとるが、主に二つの目標に仕える。
第一に、体制に反対すること。
第二に、アナキストの倫理を推進し、手段と目的の一致を描くアナキストの社会観を反映させることである[97]。
アナキストの戦術は、革命的手段による抑圧的な国家と制度の破壊を目的とするものと、進化的手段による社会変革を目指すものとに大別される[98]。
進化的戦術は暴力を拒否し、目標に向かって漸進的なアプローチをとるが、両者には大きな重なり合いがある[99]。
アナキストの戦術は20世紀の間に変遷した。20世紀初頭のアナキストはストライキと闘争に大きく焦点を合わせていたが、現代のアナキストは多数の幅広いアプローチを採用している[100]。
古典的戦術
アナキズムと暴力(英語版)の関係性はアナキストの間で賛否両論のある主題である。画像はマッキンリー大統領暗殺事件の犯人でアナキストのレオン・チョルゴッシュがマッキンリー大統領に向けて発砲する瞬間。
古典時代のアナキストは過激な傾向を持っていた。
彼らは、スペインやウクライナであったように国家の正規軍に立ち向かっただけではなく、中には行為によるプロパガンダとしてテロリズムを実行した者もいた。
国家元首に対しては暗殺が試みられ、そのうちのいくつかは成功した。
また、アナキストは革命にも参加した[101]。
暴力に対するアナキストの見解は常に入り組んでおり、論争の的となっている[102]。
平和主義アナキストが手段と目的の統一を指摘している一方で[103]、他のアナキストのグループは直接行動、つまり破壊活動やテロ行為を含む戦術を提唱している。
このような態度は、20世紀に非常に顕著であった。国家を専制君主とみなし、可能な限りの手段で国家による弾圧に反対するあらゆる権利が自分たちにはあると信じるアナキストもいた[104]。エマ・ゴールドマンとエンリコ・マラテスタ(英語版)は暴力の限定的使用を支持していたが、暴力は必要悪としての国家の暴力に対する反動にすぎないと主張した[105]。
形式的なサンディカリスムに反感を抱く傾向にあり、改良主義とみなしていたにもかかわらず、アナキストはストライキで積極的な役割を果たした。彼らは、それを国家と資本主義を打倒しようとする運動の一部として見ていた[106]。
また、アナキストは芸術分野でもプロパガンダを強化し、一部の人々はヌーディズムを実践した。さらに、友情に基づいた共同体を構築し、報道機関にも関与していた[107]。
革命的戦術
イタリアのアナキストであるアルフレド・ボナーノ(英語版)は反乱的無政府主義(英語版)の提唱者であり、クロポトキンをはじめとする著名なアナキストが19世紀後半から採用してきた非暴力的戦術を否定することで、暴力を巡る議論を復活させた。
ボナーノとフランスのグループ「The Invisible Comittee(英語版)」は、それぞれのメンバーが自分の行動に責任を持ちながらも、国家や資本主義、およびその他の敵に対して破壊活動やその他の暴力的な手段を用いて抑圧を打倒するために協力し合う、小規模で非公式な連帯グループを提唱している。「The Invisible Comittee」のメンバーは、2008年に様々な容疑で逮捕されたが、その中にはテロリズムも含まれていた[108]。
全体的に見て、今日のアナキストは、彼らのイデオロギー的祖先と比べて遥かに非暴力的であり過激ではない。
特にカナダとメキシコ、およびギリシャのような国では、デモや暴動の際に警察と対峙することがほとんどである。
過激なブラック・ブロックの抗議グループは、警察と衝突することで知られている[109]。しかし、アナキストは国家と衝突するだけではなく、ファシストや人種差別主義者との闘いにも従事しており、反ファシズム活動を行ったり差別主義者の集会を阻止したりしている[110]。
進化的戦術
アナキストは一般的に直接行動をとる。
不当なヒエラルキーに抗議したり、コミューンなどの非階層的反体制集団を作ることにより、生活を自己管理するという形をとる[98]。
多くの場合、意思決定はオリゾンタリダ(英語版)として知られる反権威主義的な方法で行われ、誰もがそれぞれの意思決定において平等な発言権を持つ[111]。
現代のアナキストは、様々な草の根運動(明示的にアナキストという訳ではない)に関わっており、多かれ少なかれオリゾンタリダに基づいて個人の自律性を尊重し、ストライキやデモなどの大衆活動に参加している。
古典期の「ビッグ・ア・アナキズム」とは対照的な「スモール・ア・アナアキズム」という新たな造語は、古典的アナキズムをベースにしたり、クロポトキンやプルードンを参考にして自分の意見を正当化したりはしない傾向を示している。むしろ彼らは、後に理論化されるであろう自身の経験に基づいた思考と実践を行っているのである[112]。
アナキストの小規模なアフィニティ・グループにおける意思決定プロセスは、戦術的に重要な役割を果たしている[113]。
アナキストは、指導者や指導的グループを必要とせずに、グループのメンバー間での大まかな合意を形成するために、様々な方法を採用してきた。
一つの方法は、グループの個人がまとめ役を担い、自ら議論に参加したりせず、特定の点を推進したりもすることなく、合意形成のための手助けをすることである。
少数派は通常、提案がアナキストの目標、価値観、あるいは倫理観と矛盾していると感じる場合を除き、大まかな合意を受け入れる。アナキストは通常、自律性とメンバー間の友情を強化するために小規模なグループ(5人から20人程度)を形成する。このような種類のグループは、より大規模なネットワークを形成し、相互に接続し合うことが多い。アナキストは現在でもストライキに参加しており、特に、組合を中心に組織されず指導者がいないストライキであるワイルドキャット・ストライキ(英語版)を支持している[114]。
アナキストは、メッセージを広めるために活動の場をオンラインに移した。
かつてのように新聞や雑誌も使われていたが、流通やその他の不便さから、アナキストはウェブサイトを作成したり、電子図書館やその他のポータルを主催するようになった[115]。
また、アナキストたちは、無料で利用できる様々なソフトウェアの開発にも携わっていた。これらのハクティビストが開発や配布に取り組む方法、特に国家の監視からユーザーのプライバシーを守るという点はアナキストの理想と類似している[116]。
アナキストは自らを組織し、公共空間を屯し埋め尽くす。
抗議活動のような重要なイベントが行われ空間が占拠されている際、それは一時的自治区(英語版)(TAZ)とよく呼ばれ、シュルレアリスムや詩、アートが融合してアナキストの理想を示す空間となる[117]。
屯するのは資本主義の市場たる都市空間を取り戻すための方法であり、実利的需要に応える模範的な直接行動であるとアナキストは考えている[118]。
空間を確保することで、アナキストは自分たちのアイデアを実験し社会的な絆を構築することができる[119]。すべてのアナキストがそれらに対して同じ態度を共有している訳ではないが、非常に象徴的なイベントでの様々な形態の抗議活動が、これらの戦術に加えて現代のアナキズムを明瞭なものにしているカーニバレスク(英語版)な雰囲気を形成している[120]。
主な論点
詳細は「アナキズムにおける問題(英語版)」を参照
アナキズムは多様な姿勢と傾向、そして思想潮流を体現している哲学であり、価値観やイデオロギー、および戦術の問題をめぐる意見の相違が一般的である。
その多様性は、異なるアナキズムの伝統間で同一の用語が広く異なる形で使用されることに繋がり、アナキズム理論の定義問題(英語版)を多く生み出してきた。
例えば、資本主義[121]とナショナリズム、および宗教のアナキズムとの適合性は広く議論されている。
それと同様に、アナキズムはマルクス主義と共産主義、集産主義、および労働組合主義などのイデオロギーとも複雑な関係を持っている。
アナキストは、ヒューマニズムや神の権威、啓発された利己心(英語版)、ヴィーガニズム、あるいは数々の代替的な倫理的教義等に動機付けられている場合がある。
文明と技術、そして民主的プロセスなどの現象は、あるアナキズムの潮流では鋭く批判され、同時に他の潮流では称賛されることがある。例えば、アナルコ・プリミティビズム(英語版)は科学技術に批判的だが、アナルコ・トランスヒューマニズムは科学技術を用いて積極的に人間を変えようとさえする[122]。
アナキズムと教育
詳細は「アナキズムと教育(英語版)」を参照
教育に関するアナキストと国家主義者の見解
Ruth Kinna (2019)[123] アナキストの教育 国家の教育
構想 自制としての教育 サービスとしての教育
運営 コミュニティベース 国家主導
方法 実践に基づく学習 職業訓練
目標 批判的な社会の一員になること 生産的な社会の一員になること教育に対するアナキストの関心は、古典的アナキズムが出現した頃にまで遡る。アナキストは、個人と社会の将来的な自律性の基礎を築く「適切な」教育を、相互扶助の行為であると考えている。ウィリアム・ゴドウィンやマックス・シュティルナーなどのアナキストは、支配階級が特権を継承させる手段の一つとしての公教育と私教育の両方を攻撃した。
1901年、カタルーニャのアナキストで自由思想家のフランシスコ・フェレール(英語版)は、カトリック教会の影響を受けていた教育制度に反対し、バルセロナに近代的な教育機関を設立した[124]。フェレールのアプローチは世俗的なものであり、教育課程への国家と教会の干渉を拒否し、生徒たちに学習と出席についての大きな自治権を与えた。フェレールは労働者階級の教育を目指し、生徒の間に階級意識を抱くことを明確に求めた。学校は国家から絶え間ない妨害を受けて閉鎖され、フェレールは後に逮捕された。しかし、彼のアイデアは近代的な学校のインスピレーションを世界中に与えた[125]。
クリスチャン・アナキストのレフ・トルストイも同様の学校を設立しており、「教育が効果的であるためには、自由でなければならない」という創立理念を掲げていた[126]。
同様に、A・S・ニールも1921年にサマーヒル・スクールを設立し、抑圧から自由であることを宣言した[127]。すべてのアナキストによる学校は、主に道徳的価値、すなわち、操作されることなく自由に成長する子供の権利を尊重することに基づいていた。しかし、彼らは若者を政治と階級闘争へ導くべきかどうかというジレンマに直面した。20世紀初頭のほとんどのアナキストの教育者は中立的な立場を取らず、その後の数十年間に渡って特定の問題でアナキストを悩ませ続けた[128]。
それから数十年後、ハーバート・リード、コリン・ワード(英語版)、ポール・グッドマン(英語版)などのアナキストの作家らは、公教育、さらには教育学的方法としての学校教育の必要性にまで批判を拡大・強化し、子供たちをキャリアハンターにするのではなく、子供たちの創造性に焦点を合わせるシステムを提案した[129]。
アナキストの教育は、操作されることなく自由に成長する子供の権利を尊重すべきであり、合理性が子供を道徳的に良い結論に導くという考えに基づいている。しかし、何が操作を構成するかについては、アナキストの間で意見の一致が見られない。例えば、フェレールは道徳的な教化が必要であると考えていた。彼は、ナショナリズムや政府に対する他の批判と同様に、資本主義の下では、平等や自由、社会正義は不可能であるということを生徒たちに明確に教えていた[128][130]。
20世紀後半から現代にかけてのアナキストの作家(ハーバート・リード、コリン・ワード(英語版)、ポール・グッドマン(英語版)など)は、公教育に対する批判を拡大・強化した。主に、子供たちがキャリアを積んだり、消費社会に参加したりする能力よりも、子供たちの創造性に焦点を当てたシステムの必要性に注目した[129]。Colin Wardのような現代のアナキストは、公教育が社会的不平等を永続させる役割を果たしていると更に主張している[要出典]。
現代まで生き残っているアナキストの教育機関は少ないが、子供の自律性を尊重し、教育方法としての教化よりも理性的思考に頼るというアナキストの学校の基本原則は、主要な教育機関の間で広まっている[131]。
アナキズムと国家
国家とその制度への反対はアナキズムの必須要件である[132]。
アナキストは国家を支配のための道具であると考えており、政治的傾向に関係なく国家は不当なものであると考えている。
人々が自身の生活の側面を制御できる代わりに、重要な決定は一部のエリートによって下される。権威は最終的に権力のみにかかっており、それは開放的であろうと透明性があろうと関係なく人々を強制する力を持っている。
国家に対するアナキストのもう一つの主張は、政府を構成する一部の人々は、たとえ役人の中で最も利他的であろうと、不可避的にさらなる権力を掌握しようとし、汚職につながるということである。
アナキストは、支配階級は爾余の社会と区別されているため、国家が人々の集合的な意志であるという主張はお伽噺にすぎないと考えている[133]。
アナキズムと芸術
アナキストの画家、カミーユ・ピサロによる『リンゴの収穫、エラニー』(1888年)。19世紀の新印象派は、エコロジカルな美学を持っており、社会主義への道を歩むアナキストの認識例を示している[134]。この具体的絵画の中で、美学と社会的調和の融合が如何にして理想的な無政府主義的農耕社会を予示しているかに注目されたい[135]。
アナキズムと芸術は、古典的アナキズムの時代に深い関わりを持っていた。特に未来派やシュルレアリスムなど、当時発展していた芸術的潮流と深い結びつきがあった[136]。一方で文学の世界では、アナキズムは主にニューアポカリプス(英語版)や新ロマン主義と結びついていた[137]。レフ・トルストイやハーバート・リードなどのアナキストは、芸術家と非芸術家の境界線、つまり芸術と日常の行為を分かつものは資本主義による疎外が生み出した構築物であり、それが人間の歓喜に満ちた生活を妨げていると主張した[138]。他のアナキストたちは、アナキストの目標を達成するための手段としての芸術を支持・主張していた[139]。三つの重なり合う性質が、芸術をアナキストにとって有用なものにした。それは、既存の社会やヒエラルキーに対する批判を描くことができ、アナキストの理想的社会を反映するための予見的道具として機能し、直接行動などの抗議活動の手段としても機能する。感性と理性の両方に訴えかける芸術は「人類全体」に訴えかえ、強力な効果を発揮し得る[140]。
アナキズムと自由恋愛主義
詳細は「自由恋愛主義」を参照
「アナキズムと性」および「クィア・アナキズム(英語版)」も参照
フランスの個人主義的無政府主義者エミール・アルマンド(英語版)は、20世紀初頭のパルチザン・アナキスト・ミリューで自由恋愛の美徳を説いた。ジェンダーとセクシュアリティはヒエラルキーのダイナミクスをもたらす。アナキズムには、ジェンダーロールが伝統的に課しているダイナミクスによる個人の自律性の抑圧に反対し、分析・対処する義務がある[141]。
1890年から1920年の間に隆盛したアナキズム内の歴史的な流れは自由恋愛であり、ある意味ではポリアモリーとクィア・アナキズム(英語版)を支持する傾向として現在でも生き残っている[142]。自由恋愛の支持者は、「男性に有利な立場を与える結婚法の下で、女性に権威を押し付ける」という男性の方法としての結婚に反対していた。自由恋愛という概念は、性的な自由と喜びから女性を制限する既存体制全体への批判という遥かに広範なものだった[143]。ベッドを共にする同志を持つ多くの様々な家庭があったため、この運動は現実に近いものになった[144]。自由恋愛は、ヨーロッパとアメリカの両方にルーツがあった。一部のアナキストは、嫉妬が生じたように、自由恋愛が必ずしも良い影響だけをもたらすとは限らないことを発見した[145]。アナキストのフェミニストは自由恋愛とプロチョイスの支持者であり、結婚に反対するなど、同様のアジェンダを持っていた。アナキストと非アナキストのフェミニストは、選挙権に関する意見で異なっていたが、それでもお互いを支持し合っていた[146]。
アナキズムは、20世紀後半に第二波のアナキズムと交錯し、フェミニズム運動のいくつかの潮流を急進化させ、同じように影響を受けた。20世紀最後の数十年まで、アナキストとフェミニストは、女性、同性愛者、クィア、およびその他の疎外されたグループの権利と自律性を主張し、フェミニストの思想家の中には、この二つの潮流の融合を示唆する者もいた[147]。アナキズムの第三波では、性的アイデンティティと強制的異性愛がアナキストの顕微鏡の下に置かれ、性的規範性に対するポスト構造主義的な批判が行われた[148]。しかし、一部のアナキストは、個人主義に傾倒していることを指摘し、それによって社会的解放の大義を欠いてしまっているとして、この考え方の路線から距離を置いた[149]。
反対論・保守的アナキズム哲学講師のAndrew G. Fialaは、アナキズムに反対する5つの主な論拠を挙げている。第一に、アナキズムは実利的世界(つまり抗議活動の場)だけではなく、倫理の世界でも暴力や破壊と関係していることを指摘している。第二に、犯罪から市民を守るために行動する国家、あるいは国家に類似した何かがなければ、社会が機能することは不可能であるというものである。Fialaは、トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」やロバート・ノージックの「夜警国家」を例に挙げている。第三に、アナキズムは現実的に国家を打倒することができないため、実現不可能であるか、あるいはユートピア的であるとの評価である。この種の主張は、制度を改革するために制度内での政治的行動を求めることが多い。第四に、「archiei」には誰もいないと主張しているが、多くの人々に受け入れられれば、アナキズムは支配的な政治理論に変わるため、自己矛盾しているということである。この種の批判も、集団行動を求めるアナキストの呼びかけは個人の自律性の支持と競合しており、それゆえ集団行動をとることができないという自己矛盾から来ている。最後に、Fialaは哲学的無政府主義(英語版)への批判として、その議論と思考はすべて無力なものであり、そうこうしている間にも資本主義とブルジョワ階級は依然として強く残っているということに言及している[150]。
哲学的無政府主義は、A. John Simmons(英語版)の『Moral Principles and Political Obligations』(1979年、未邦訳)のような親アナキズム的書籍が出版された後、アカデミアの人々から批判を受けた[151]。法学教授のWilliam A. Edmundsonは、哲学的無政府主義の誤った三大原則に反駁するエッセイを執筆した。Edmundsonは、通常の国家に従う義務は確かにないが、だからといってアナキズムが必然的な結論になるということはありえず、国家が道徳的に正当なものであることに変わりはないと主張している[152]。
保守的アナキズム
台湾の政治家である唐鳳(オードリー・タン)は自らを「保守的なアナキスト」と呼ぶ。氏の考えるアナキズムとは「強制のない世界」で、権力に縛られず、暴力で威圧されず、変革に取り組むが、進歩のために伝統を切り捨てたりはしない。肝心なのは強制のなさであり、日本語訳の「無政府主義」はアナキズムの意味を狭めると批判する[153]。
脚注
[脚注の使い方]
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Anarcho-capitalists, even if they do reject the State, might therefore best be called right-wing libertarians rather than anarchists."; Honderich 1995, p. 31; Meltzer 2000, p. 50: "The philosophy of "anarcho-capitalism" dreamed up by the "libertarian" New Right, has nothing to do with Anarchism as known by the Anarchist movement proper."; Goodway 2006, p. 4: "'Libertarian' and 'libertarianism' are frequently employed by anarchists as synonyms for 'anarchist' and 'anarchism', largely as an attempt to distance themselves from the negative connotations of 'anarchy' and its derivatives. The situation has been vastly complicated in recent decades with the rise of anarcho-capitalism, 'minimal statism' and an extreme right-wing laissez-faire philosophy advocated by such theorists as Murray Rothbard and Robert Nozick and their adoption of the words 'libertarian' and 'libertarianism'. It has therefore now become necessary to distinguish between their right libertarianism and the left libertarianism of the anarchist tradition."; Newman 2010, p. 53: "It is important to distinguish between anarchism and certain strands of right-wing libertarianism which at times go by the same name (for example, Murray Rothbard's anarcho-capitalism)." ^ De George 2005, pp. 31?32. ^ Kinna 2019, p. 97. ^ Suissa 2019, pp. 511?512. ^ Suissa 2019, pp. 511?514. ^ Suissa 2019, pp. 517?518. 詳細はトルストイのエッセイ『Education and Culture』を参照。 ^ Suissa 2019, pp. 518?519. ^ a b Suissa 2019, pp. 519?522. ^ a b Kinna 2019, pp. 89?96. ^ Avrich, Paul (1980) (英語). The Modern School Movement: Anarchism and Education in the United States. Princeton University Press. pp. 3-33. ISBN 978-1-4008-5318-2. OCLC 489692159 ^ Suissa 2019, pp. 523?526. 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関連項目
学派社会的無政府主義 個人主義的無政府主義 無政府共産主義 無政府資本主義 反乱的無政府主義(英語版) アナルコ・サンディカリスム アナルコ・ミューチュアリズム アナルコ・プリミティビズム(英語版) アナルコ・トランスヒューマニズム アナルコ・パシフィズム オートノミー 民族アナキズム グリーン・アナキズム エゴイスト・アナキズム(英語版) アナルカ・フェミニズム クィア・アナキズム(英語版) 形容詞のないアナキズム(英語版)
組織
パリ・コミューン ドゥルティの友 怒りの旅団 ナロードニキ ギロチン社 黒色青年連盟 日本無政府共産党 農村青年社 日本アナキスト連盟 アナキスト革命連合 無政府共産主義者同盟 アナキスト高校生連合 東アジア反日武装戦線 ドイツ無政府主義ポゴ党 ブラック・ブロック
文化人
ルイ・オーギュスト・ブランキ ウィリアム・ゴドウィン ピエール・ジョゼフ・プルードン マックス・シュティルナー ミハイル・バクーニン エリゼ・ルクリュ ダニエル・ゲラン ジョルジュ・ソレル ピョートル・クロポトキン レフ・トルストイ ネストル・マフノ エマ・ゴールドマン エミリアーノ・サパタ ロバート・シェイ ジェロ・ビアフラ ルドルフ・ロッカー ジャック・エリュール 幸徳秋水 朴烈 金子文子 古田大次郎 竹中労 宮下太吉 内山愚童 大杉栄 伊藤野枝 難波大助 奥崎謙三 牧田吉明 千坂恭二 秋山清 中浜哲
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、アナキズムに関連するメディアがあります。無政府主義図書館 メインページ - アナーキォペディア アナキズムFAQ(アナーキー・イン・ニッポンのサイト) Spanish anarchism アナルコ・サンディカリスト・ジャーナル 【黒 La Nigreco】(WRI: en:War Resisters' International Japan - 戦争抵抗者インターナショナル日本支部) http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/index.html アナキズム誌 Centre International de Recherches sur L'Anarchisme (アナキズム国際文献センター) アナキズム文献センター 『アナキズム』 - コトバンク 表話編歴政治思想
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哲学
表話編歴
社会哲学と政治哲学
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カテゴリ:倫理原則無政府主義正義共産主義社会主義社会理論反ファシズム政治イデオロギー政治学の用語 最終更新 2023年11月14日 (火) 03:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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構造主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
構造主義(こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場し主にフランスで発展していった20世紀の現代思想のひとつである。
構造主義の代表的な思想家としてクロード・レヴィ=ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトなどが活躍した。
広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である[注釈 1]。
概観
構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちであるが、今日では方法論として普及・定着している。
あらゆるイデオロギーを相対化するという点でメタイデオロギーとも言える。
ゲーム理論、数理モデル、数学、言語学、医学、生物学、精神分析学、分析心理学、文化人類学、社会学などの学問分野のみならず、文芸批評でも構造主義が応用されている。
これはフランスの思想界を中心にして多くの反響をもたらしており、この見解をかりてマルクス主義を更新させようとする修正主義の試みもあらわしている。
研究対象の構造を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する要素を探り出さなければならない。
構造とはその要素間の関係性を示すものである。それは構造を理解するために必要十分な要素であり、構造の変化を探るためには構造の変化に伴って変化してしまうような要素であってはならない。
一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。
例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。
数学と構造
レヴィ=ストロースの人類学における試みが構造主義の先駆となった
数学において、ブルバキというグループは、代数的構造、順序的構造、位相的構造の3つを母構造と呼び、公理学を導入することにより数学の形式化を進めた。
古典的数学は代数や幾何や解析などのように、異質な事項の集合から成り立っていたが、数学における構造主義学派とも呼ばれるブルバキ学派は全数学を構造に従属させようとしたのであった。
この方法論は論理学・物理学・生物学・心理学でも受け入れられることとなった。
このような方法論がどのような学問に応用できるのかについては一定のコンセンサスがあったわけではなく、現在、構造主義の祖とされるソシュール自身は構造という用語を用いておらず、自身の理論を言語学以外の分野に拡張することにも慎重であった。
構造主義という用語が広く知られるようになったのは、クロード・レヴィ=ストロースが、このような方法論を人類学に応用し、文化人類学において婚姻体系の「構造」を数学の群論 (group theory) で説明したのが嚆矢である。
群論は代数学(抽象代数学)の一分野で、クロード・レヴィ=ストロースによるムルンギン族の婚姻体系の研究を聞いたアンドレ・ヴェイユが群論を活用して体系を解明した。
原則として要素還元主義を批判し、関係論的構造理解がなされる。
ソシュールが言語には差異しかないと述べたと伝えられているように、まず構造は一挙に、一つの要素が他のすべての要素との関係において初めて相互依存的に決定されるものとして与えられる。
このような構造の理解においては、構造を構成する要素は、原則として構造を離れた独立性を持たない。
厳密に数学の群論にモデルを仰ぐものから、もう少し緩く、多様なバリエーションを持つ現象において、それぞれのバリエーションが、その(必ずしも顕在的に観察されない、事後的に変換群から理論的に抽出された)構成要素の間の組み換えによって生成されたものだと見なしうるとき、その顕在的な一連の変換を規定する潜在的な構造に重心をおいて分析するようなもの全般を包含していわれることもある。
発達心理学に抽象代数学を持ち込んだピアジェも、構造主義者の一人である。
現代思想としての構造主義
フェルディナン・ド・ソシュールの言語学の影響がフランスで広まったことが起源になっている。
1960年代、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースによって普及することとなった。
レヴィ=ストロースはサルトルとの論争を展開したことなども手伝ってフランス語圏で影響力を増し、人文系の諸分野でもその発想を受け継ぐ者が現れた[注釈 2]。
アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル理解を承継したルイ・アルチュセールは構造主義的マルクス主義社会学を提唱した。
構造主義にとっての構造とは、単に相互に関係をもつ要素からなる体系というだけではなく、レヴィ=ストロースの婚姻体系の研究にみられるように、顕在的な現象として何が可能であるかを規定する、必ずしも意識されているわけではない、潜在的な規定条件としての関係性を意味する。
そのような限りで、フロイトの精神分析の無意識という構造を仮定するアプローチも一種の構造主義と言える。ジャック・ラカンは精神分析に構造主義を応用し、独自の思想を展開した。
構造主義を応用した文芸批評は、言語学者ロマーン・ヤーコブソンの助力の下に、レヴィ=ストロースがボードレールの作品『猫』について言及したことに始まる。
彼によれば、人類学が神話において見出した構造と、言語学・文学が文学作品・芸術において見出した構造は顕著な類似性を見出すことができるのである。
ここでは、言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、語や表現などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとするアプローチがなされている。
このようなアプローチは、ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァらの文芸批評に多大な影響を与えた。構造を見出すことができる対象は、商品や映像作品などを含み、狭い意味での言語作品に限られない。こうした象徴表現一般を扱う学問は記号論と呼ばれる。
ただし、静的な構造のみによって対象を説明することに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点がその後導入された。これは今日ポスト構造主義として知られる立場の成立につながった[注釈 3]。
西部邁(評論家)は2004年に次のように述べた。「自然のみならず文化においても「宿命」とよぶべきものがある。つまり言葉の動物たる人間の生き方の根本、文化にあっても、言葉の構造によって決定づけられているところがある。そうみる見方を構造主義という[…]構造主義という名の悟りの境地もあると知っておくと、変てこりんな宗教にすがらなくとも、安心立命に近づきうる」[1]
生物学における構造主義(構造主義生物学)
詳細は「構造主義生物学」を参照
構造主義生物学とは構造主義の考えを生物学に応用しようとする試みである[2]。
なお、生体分子の立体構造を解析し研究する生物学の一分野は「構造生物学」と呼ばれるが、これは名称が類似しているだけで直接の関係はない。
開発経済学における構造主義
経済学、とりわけ開発経済学の分野において、構造主義は1940年代?1960年代の主流派であった。ここにおける構造主義とは、発展途上国の経済構造は先進国のそれとは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生している、という考えである。南北問題などもこの経済構造の違いが原因で起こるとされた。
こうした構造主義では、先進国と発展途上国で適用すべき経済理論を使い分けなければならないとされたが、1960年代以降に主流派となる新古典派経済学によってこの考え方は否定されることとなる。
構造主義にかわって主流派となった新古典派経済学では、先進国と同様に発展途上国でも経済市場のメカニズムは同じように機能する、という考えにもとづく自由主義的アプローチがなされた[3]。
音楽における構造主義
しばしば現代作曲家のヘルムート・ラッヘンマンを指して書かれるが、これはベートーヴェンから導き出した変容法や変奏技術が、そのまま楽曲の構造に反映していると見られている。
しかしこればかりではなくほとんどすべての作曲家に音楽上の構造問題はかかわってくる。ブラームスのソナタ形式をはじめ、リヒャルト・シュトラウスの対位法やバッハのフーガでもそういう意図は常に散見される。
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ 伝統的にフランスの数学者集団ブルバキとのつながりがある。 ^ 岩井克人によれば構造主義とは、歴史には方向性があるとするマルクスへの批判であり、歴史の先取りに価値を見るサルトルへの批判であったという(日本経済新聞2013年10月10日(人間発見)国際基督教大客員教授 岩井克人さん 「資本主義」を考え抜く (3))。 ^ ピアジェは構造主義者を自認しているが、発達心理学を基礎に構造は構成的なものであるとして、レヴィ=ストロースの静的な構造理論を批判している。また、構造主義のむやみな拡張にも反対しており、ミシェル・フーコーも厳しく批判している。
出典
^ 西部邁「晴読雨読 老境には保守の精神がよく似合う:俗世の憂鬱をやり過ごす15冊」『文藝春秋』2004年7月臨時増刊号 ^ 池田清彦『さよならダーウィニズム』p.144 ^ 絵所秀紀『開発の政治経済学』日本評論社、1997年。
参考文献
日本大百科全書『構造主義』 - コトバンク ジャン・ピアジェ 著、滝沢武久・佐々木明 訳『構造主義』白水社〈文庫クセジュ〉、1970年。ISBN 4560054681。 「構造主義」
関連項目
ヨーロッパ構造主義言語学・アメリカ構造主義言語学 ポスト構造主義 構造機能主義 構成主義
外部リンク
構造主義 - コトバンク 足立和浩「構造主義」(Yahoo!百科事典) 構造主義 - Weblio 構造主義(英語) - ブリタニカ百科事典 表話編歴
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※ まあ、「構造主義」の文献を読むと、「実存主義」の対義的なところもある思想のようだ…(特に、サルトルとの論争)…。
※ オレとしては、「人」が行動起こすのは、もちろん、「その人個人の内部」の衝動に突き動かされてのものではあるだろうが、それには、もろもろの「構造」的なものが働きかけている…、程度の「軽いもの」のつもりだったんだが…。
※ いずれ、「哲学論争」は、終わりのない、しかも、「実りのない」、不毛な議論(議論のための議論)になりがちだ…。
※ あまり「深入り」せず、とっとと、やるべきことを淡々粛々とやるのが、吉だな…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロード・レヴィ=ストロース
Claude Levi-Strauss
クロード・レヴィ=ストロース
生誕 1908年11月28日
ベルギーの旗 ベルギー・ブリュッセル
死没 2009年10月30日(100歳没)[1]
フランスの旗 フランス・パリ
時代 20世紀の哲学
21世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 大陸哲学
フランス現代思想
フランス社会学派構造主義
研究分野 哲学
社会人類学、文化人類学、民族学、アメリカ先住民、親族関係
神話学
倫理学
言語哲学主な概念 二項対立、限定交換、一般交換、互酬性、構造、構造変換
影響を受けた人物
[表示]
影響を与えた人物
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テンプレートを表示クロード・レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss、1908年11月28日 – 2009年10月30日[1])は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った[2]。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。
専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ[3]、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。
主な経歴
生い立ちから学生時代まで 1908-1929
1908年に、両親が一時的に滞在していたベルギーのブリュッセルで生まれる。両親ともアルザス出身のユダヤ人の家系であり、また両親はイトコ同士であった。曽祖父はイザーク・シュトラウスという作曲家で[4]、同時代に活躍したワルツ王ヨハン・シュトラウス2世と同姓であったことから生前パリで人気があったという。姓の一部「ストロース」は「シュトラウス」のフランス語風の読み方である。父親の職業は画家であり、その交友関係は芸術を通じてのものが多かった。そのため、幼少期から、芸術に親しみやすい環境で育った。
少年期には、ピカソやストラヴィンスキー、ワーグナーなどを同時代的に摂取しただけでなく、ジャポニスム期、印象派の時代からフランスへさかんに紹介されていた浮世絵を初めとする日本の文物にも触れており、日本の美術工芸への関心を持ち続けた。
両親の友人らを通じて、比較的早くからマルクス主義に触れ、高校から大学時代にかけては、社会主義運動に参加し学生組織の書記長を務めた。また、ベルギー社会党の協同組合運動をフランスに紹介したほか、社会党代議士ジョルジュ・モネの秘書として法案作成に携わるなど、政治的な活動も行っていた。 ソルボンヌ大学を卒業し、法学の学士号を取得する傍ら、哲学を学び、アグレガシオン(哲学教授資格試験)に合格する。合格後の教育実習の同期生には、モーリス・メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなどがいた。
教授資格取得後、2つのリセ(フランスにおける中等教育機関、日本の高等学校に相当する)で、哲学教師を経験する。その時期には、資格取得試験のために中断していた政治活動を再開し、教師生活をしながら、ベルギー出身の社会主義理論家ヘンドリック・ド・マン(アンリ・ド・マン)のパリ講演を企画したり、赴任地の地方議会への立候補を企てるなどの活動を行った。また、哲学教師としての生活にあきたらず、パリ大学での指導教授の一人であった社会学者セレスタン・ブーグレから、新設のブラジル、サンパウロ大学の社会学教授としての赴任の打診を受けたことをきっかけに、当時興味をもち始めていた民族学のフィールドワークへの期待を抱いて[5]、社会学の教授としてブラジルへと渡る[6]。
ブラジルでの教師生活 1930-1939大学教授として、1932年の護憲革命(ポルトガル語版、英語版)後の新たな社会の担い手を自認する新興ブルジョワ層の学生相手に社会学を講じ、妻ディナとともにサンパウロ州の郊外を中心に民族学のフィールドワークに取り組んだ[7]。
2年間の大学教授生活の間は、主に大学の休暇を利用して現地調査を行い、長期休暇の際には、パラグアイとの国境地帯に居住していたカデュヴェオ族(英語版)や、ブラジル内陸のマトグロッソ地方に居住していたボロロ族(英語版)のもとでの調査を行った。
これらの調査結果は、フランスへの一時帰国の際に、マルセル・モースらの後援のもとで、パリの人類博物館などで発表された。
その後、大学からの任期延長の話を断り、1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やす。この調査の途上で、ナムビクワラ族(英語版)やトゥピ=カワイブ族など、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触している。
ブラジルに渡るまでの経緯や、ブラジルでの現地調査などのさまざまな体験、さらに後述の亡命を経て第二次大戦後フランスに帰国する頃までの体験のいくつかが、著書『悲しき熱帯』(1955年)のなかで印象的に回想されている。
ニューヨークにおける亡命生活 1940-1949
ブラジルでの長期横断調査の後、第二次世界大戦前夜にフランスに帰国して応召、西部戦線に従軍する。
フランスの敗戦により兵役解除となり、いったん南仏に避難するも、ナチスによるユダヤ人迫害が迫るのを逃れて、マルセイユから船でアメリカ合衆国へ亡命する。同じ船上には、シュルレアリスト詩人のアンドレ・ブルトンもいた。
亡命先のニューヨークでは、ブルトンを初め、当時ニューヨークに集っていたシュルレアリストたちと親しく交際[8]。
彼らと連れ立って、アメリカ先住民の美術工芸品の収集を熱心に行っていた。社会人大学のニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて文化人類学を講じる。当時のニューヨークにはまたヨーロッパからのユダヤ系をはじめとする亡命知識人たちがおり、ニュースクールには彼らが教師として多数名を連ねていた[9]。
この大学において同じく合衆国へと亡命してきていた言語学者・民俗学者のロマン・ヤコブソンと知り合う。二人はお互いの講義を聴講しあい、レヴィ=ストロースは彼から、彼自身が主導してきた構造言語学の方法論、とりわけ音韻論(音素およびその二項対立的な組成、さらにゼロ音素の概念など)の発想を学び、ブラジルでのフィールドワークにおいて漠然とした着想を得ていた、親族構造論の骨格として活用することを思いつく[10]。
1945年の論文『言語学と人類学における構造分析』において、音韻論的な二項対立を活用して親族組織を分類するための基礎的な方法論がテストされた後、第二次大戦の終結後も合衆国にとどまり、およそ2年間の執筆期間をかけて、デュルケム学派の親族論の批判的継承やモースの贈与論の着想の活用をはじめ、従来の人類学・社会学の近親相姦および親族関係の主題を網羅したうえで、女性の交換を親族構造の根本的機能であることを提起した序論および第1部と理論部と、それに続いて、ニューヨーク公共図書館に通いつめての所蔵文献資料の検討の結果である、オーストラリアから北東・東南アジア・古代中国・インドの親族構造を題材にそうした交換様態の存在を例証した第2部・第3部からなる大著『親族の基本構造』を、博士論文として完成させた。
『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959
1948年頃に完成した『親族の基本構造』を携えて、フランスへと帰国する。
1949年に『親族の基本構造』は論文審査を通過し、フランスにおいて公刊される。神話学者ジョルジュ・デュメジルの紹介により、高等研究実習院に職を得て、未開社会における宗教をめぐるセミネールを、この後、コレージュ・ド・フランスへの社会人類学講座創設にともなってのこのセミネールが発展的に解消されるまで担当する[11]。
この間、マルセル・モースの著作集『社会学と人類学』の編集にたずさわり、「浮遊するシニフィアン」の概念などを提起しつつ、モースを彼自身の構造人類学の先駆者として再読する長大な序文を執筆するなど、自身の方法論である構造人類学をいわばフランス社会学派の相続者のひとつとして認知させる方向で研究をすすめていく。
1951年、1952年の2度にわたってコレージュ教授選へと立候補するも、学閥間の争いの結果として落選する。
1958年の再々度の立候補までの間、みずからの方法論を冠した初めての論文集『構造人類学』(1958年)に所収される民族学・社会人類学関連の諸論文を執筆し研究活動を続けるかたわら、ユネスコの反人種主義キャンペーンのための小冊子『人種と歴史』(1952年)を執筆したほか[12]、メルロ=ポンティとサルトルが共同で編集していた論壇誌『タン・モデルヌ(現代)』誌でも「火あぶりにされるサンタクロース」をはじめとして幅広い論考を世に問うており、さらには1955年の自叙伝的色彩をもった民族誌風の著作『悲しき熱帯』の刊行によりセンセーショナルな評価を獲得する。
『基本構造』によって学会内部で著名であった彼の名前は、一気に世間に知れ渡ることになった。
3度目の立候補で、親友の哲学者であるメルロ=ポンティの尽力をはじめ[13]、デュメジルやバンヴェニストらの後押しもあって、1959年からコレージュ・ド・フランスの教授に選出される[14]。
この選出により彼が担当することになる講座は、新設の社会人類学講座であり、コレージュ・ド・フランスに人類学系の講座が設けられたのはこれが最初であった。
またこの社会人類学講座の創設と前後して、人類学のための学術雑誌『L’Homme(人間)』が、彼の呼びかけのもと、言語学者バンヴェニストや先史学者ルロワ=グーラン、さらに地理学者のピエール・グルーらを編集同人に加えて発刊される。
それまではフランスに存在しなかった、大英帝国の『王立人類学協会雑誌』、『マン』誌、アメリカ合衆国人類学会の学会誌『アメリカン・アンスロポロジスト』のような人類学専門誌の創刊により、前述の社会人類学講座と合わせて、フランスにおける人類学研究の拠点のひとつの軸が形成され、彼も自身の研究を勧めるとともに、この研究グループに指導的立場として関わっていくことになる。
『今日のトーテミスム』および『野生の思考』から『神話論理』へ 1960-1969
コレージュ教授への就任と前後して、レヴィ=ストロースの研究活動の中心は、拠点としてはコレージュにおける毎年度の講義に、主題としては高等研究実習院のセミネール担当以来取り組んできた、未開社会の宗教研究とりわけ未開社会の神話の研究へと移った。
パリの人類博物館や高等研究実習院の人類学関連部門と連携しつつセミネールを運営しながら研究活動を行っていった。これ以降、1984年のコレージュ退職までに刊行された著作はすべて(および、1969年度講義をもとにして1992年に刊行された『大山猫の物語』)、まず講義において着想が練られ、聴講者との議論を経たのちに、著作として刊行されたものである。
1962年には、前年度の講義「今日のトーテミスムおよび野生の思考」を下敷きにして、トーテミズムという人類学上の概念を批判的に検討し、従来の用法を徹底的に解体しつくした『今日のトーテミスム』、ならびに、その解体作業を踏まえて未開的分類論がもつある種の合理性を説得的に取り出し、『人種と歴史』において挑発的に提出した「冷たい社会」と「熱い社会」という理念的対比を念頭において、冷たい社会における社会像の産出とその秩序維持のメカニズムを現代社会にも残存する諸要素と通底させるかたちで例証してみせた『野生の思考』が発表された。
思想的特色
彼の人類学におけるデータ分析の方法論において中心をなすのは、言語学とりわけ、ソシュールからヤコブソンへといたる構造言語学における音韻論および、フランス社会学年報派、とりわけデュルケムの流れを汲む社会学者マルセル・モースの社会学=人類学思想の2つであるといえる。
ただし、さまざまな著作の随所で度々述べられているように、青年期に親しんだマルクス主義や、地質学への興味に見られる博物学的関心(こうした性向から、ときにゲーテが研究した自然学への親近感を表明することもある)に加え、芸術家の出入りが多い環境で育ったこともあり、西洋クラシック音楽におけるワーグナーやストラヴィンスキー、絵画におけるシュルレアリズムやキュビズムなど、同時代のアヴァンギャルド芸術思潮からの影響も多分に受けており、こうした多方面的な知識が、彼の著作を単なる人類学における論文や著書とは一線を画したものにしており、多くの言語に訳されている。
親族構造の分析-『親族の基本構造』から『親族の複合構造』へ
未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析した。
オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析をし、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。
この「構造」に、群論を使った数理的な解析を与えたのは、数学者のアンドレ・ヴェイユ(かのブルバキの結成メンバーであり、シモーヌ・ヴェイユの兄である)である。
「未開社会」観の変革
レヴィ=ストロースは、『野生の思考(パンセ・ソバージュ)』(1962年)などにおいて、従来の「野蛮(混沌)」から洗練された秩序が形作られたとする西洋中心主義に対し、混沌の象徴と結びつけられた「未開社会」においても一定の秩序・構造が見いだせると主張し、オリエンタリズム的見方に一石を投じた。
これは、後のポストコロニアリズムで特に高く評価されている。なお、『パンセ・ソバージュLa pensee sauvage』の題は、パスカルの『パンセ』を元にしたといわれ「野生の三色すみれ」の意味もある。
関わった論争
『弁証法的理性批判』をめぐって-サルトルとの論争
1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてレヴィ=ストロースは、サルトルの実存主義を強烈に批判した。
このことから、実存主義に対立し、それを乗り越えるものとしての構造主義という思潮が、ときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。
本人はその後も、センセーショナルな流行からはつねに距離をとり、10年もの歳月をかけて、ライフワークとなった4巻に及ぶ『神話論理』(『生のものと火にかけたもの』、『蜜から灰へ』、『テーブルマナーの起源』、『裸の人』)を完成させ、神話研究において不滅の業績を残した。
彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。
前者に対しては、主体ではなく、主体間の構造こそが重要だと主張し(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なものなので、絶対的な主体ではありえない)、後者に対しては、どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。
デリダによる批判
橋爪大三郎の分析によると[15]、
ジャック・デリダは、従来のパロール(話し言葉)中心の言語分析(ロゴス中心主義(en:Logocentrism)、音声中心主義(en:Phonocentrism)という語をデリダは使った)に反対し、エクリチュール(文字)を重視せよと主張していた。 そのデリダから見ると、レヴィ=ストロースは音韻論を人類学に持ち込み、なおかつ社会が出来てから文字が出来るという後成説を採っているので、デリダの批判するロゴス中心主義者と映る。
そのため、デリダは、レヴィ=ストロースを批判したとされる。
しかし、同じく橋爪大三郎の指摘によれば、レヴィ=ストロースの主張とデリダの批判の間には噛み合っていない部分が多く、またレヴィ=ストロースの専門(人類学)とデリダの専門(言語分析)は必ずしも矛盾しないとされ、すなわちデリダによる批判という見解にはやや的外れな点があるとされる。
リーチによる批判
英国の社会人類学者エドマンド・リーチは、レヴィ=ストロースの親族研究を多岐に渡って批判している。
しかし、小田亮の分析によると、これはリーチ自身、「基本構造」という語が、交叉イトコ婚(いとこ婚#文化人類学におけるいとこ婚)による婚姻体系ではインセスト・タブーと外婚制が裏表となっているという意味で「基本」構造と呼ばれていることを理解していないためであり、また経済的に何の利益もない「交換のための交換」が社会生成に関係するということを捉え損なっているためであるという。
詳しくは、小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書、2000年)と、エドマンド・リーチ『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾訳、ちくま学芸文庫、2000年)を参照。
エピソード・来日ほかレヴィ=ストロース(Levi-Strauss)が姓である。ジーンズのブランドリーバイスの創始者リーヴァイ・ストラウス(Straussが姓)と似ているので、時折、関係があると誤解されることがあり、実際にリーバイス社が日本で紹介され始めた際には「レヴィ・ストロース社」とされることがあった。本人も、合衆国に出張した際、カリフォルニアのレストランで名前を告げると「pants or books?(ズボン、それとも本?)」と尋ねられたと語っている。 1955年に代表作『悲しき熱帯』を刊行し、センセーショナルに評価受容された際、ゴンクール賞を選定するアカデミー・ゴンクール(英語版)から、小説でないために『悲しき熱帯』を受賞作にできないのは、非常に残念だという旨のコミュニケが発表された。
なおアカデミー・フランセーズ選出者は、賞を返上するという慣行があるらしく、仮にレヴィ=ストロースが受賞した場合、この慣行が行われていた可能性がある。
1973年にエラスムス賞を受賞。同年アカデミー・フランセーズ正会員に選ばれた。 国際交流基金の招きで1977年10月から11月に初来日、以後も1986年4月の他に数度来日し[16]、講演・シンポジウムや、日本人学者や日本学者らとの交流を行っている。日本文化を高く評価する親日家であり、1993年春の外国人叙勲で勲二等旭日重光章が授与されている。 1993年4月14-15日、NHK教育テレビ「ETV特集」で、弟子の川田順造によるロング・インタビュー「第1回 自然・人間・構造」、「第2回 日本への眼差し」を放映。のち白水社でビデオ化(別冊付)されたが絶版、未DVD。 2008年11月28日に100歳の誕生日を迎え、フランスでは記念行事が行われ、また政府はフランスで活動する人文社会科学者を対象とする「レヴィ=ストロース賞」の創設を発表。 2009年10月30日深夜にフランス東部リニュロール村の別荘で死去した。遺言により親族による密葬を経て、11月3日に代理人でもある出版社が公表した。最後の様子は、川田順造『文化を交叉させる 人類学者の眼』(青土社、2010年5月、序文レヴィ=ストロース)の著者あとがきに詳しい。後に『レヴィ=ストロース論集成』(青土社、2017年4月)を出版。 フランス語圏での伝記にドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(藤野邦夫訳、講談社、2011年)、また入門書にカトリーヌ・クレマン『レヴィ=ストロース』(塚本昌則訳、白水社<文庫クセジュ>、2014年)がある。 他の「構造主義者」と異なり、レヴィ・ストロースの文章は明晰であると評価されている。難解な言い回しを用いず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後にフランス現代思想界を揺るがすアラン・ソーカルによる一連の批判(ソーカル事件)の対象外に置かれることとなった。
指導を受けた研究者たち
ピエール・クラストル フランソワーズ・エリティエ=オジェ フィリップ・デスコーラ モーリス・ゴドリエ ピエール・ブルデュー ミシェル・ペラン 川田順造 関連著書多数 渡辺公三 関連著書多数 吉田禎吾 『レヴィ=ストロース 人と思想』(入門書で共著、清水書院、1991年、新版2015年)がある。 夏刈康男 社会学者
受章
アカデミー・フランセーズ公式ウェブサイトの情報による[17]。
レジオンドヌール勲章グランクロワ(フランス) 国家功労勲章コマンドゥール(フランス) 芸術文化勲章コマンドゥール(フランス) 教育功労章コマンドゥール(フランス) 王冠勲章(フランス語版)コマンドゥール(ベルギー) 南十字国家勲章(ポルトガル語版)コメンダドール(Comendador)(ブラジル) 勲二等旭日重光章(日本) 学術功労国家勲章(Ordem Nacional do Merito Cientifico)グランクルス(Gra-Cruz)(ブラジル)
主要著作
Gracchus Babeuf et le Communisme (publie par la maison d'edition du Parti ouvrier belge L'Eglantine, 1926) La Vie familiale et sociale des Indiens Nambikwara (Paris, Societe des americanistes, 1948) Les structures elementaires de la parente (Paris, Presses Universitaires de France, 1949) 『親族の基本構造』 (馬淵東一・田島節夫 監訳、花崎皋平ほか訳、番町書房、1977年) 『親族の基本構造』 (福井和美訳、青弓社、2000年) Introduction a l’?uvre de Marcel Mauss (Paris, Presses universitaires de France, coll. ≪ Quadrige ≫, septembre 1950. Reimpr. 2012) 「マルセル・モース論文集への序文」、マルセル・モース『社会学と人類学I』(有地亨・伊藤昌司・山口俊夫訳、弘文堂、1973年) Race et Histoire (Paris, UNESCO, 1952) 『人種と歴史』(荒川幾男訳、みすず書房、1970年、新装版2008年) 「人種と歴史」(渡辺公三訳、新編『人種と歴史/人種と文化』、他は三保元・福田素子訳、みすず書房、2019年所収) Le Pere Noel supplicie (Les Temps modernes, mars 1952, p. 1572-90)), repris aux editions des Sables, sur la route de l'Eglise a Pin-Balma, 1996. 『サンタクロースの秘密』(中沢新一訳、せりか書房、1995年) 『火あぶりにされたサンタクロース』(中沢新一訳、角川書店、2016年)、改題新編 Tristes tropiques (Paris, Plon(Terre humaine), 1955. Reimpr. Pocket Paris 2005) 『悲しき熱帯』(川田順造訳、中央公論社、1977年。中公クラシックス、2001年。各・全2巻) 『悲しき南回帰線』(室淳介訳、講談社文庫、1971年。講談社学術文庫、1985年、全2巻) La geste d'Asdiwal(Annuaires de l'Ecole pratique des hautes etudes, vol.66, 1957, pp.3-43) 『アスディワル武勲詩』(西澤文昭訳/内堀基光解説、青土社、1974。ちくま学芸文庫、2011年) Anthropologie structurale (Paris, Plon, 1958) 『構造人類学』(荒川幾男・生松敬三・川田順造・佐々木明・田島節夫訳、みすず書房、1972年)、度々新版 Entretiens avec Claude Levi-Strauss par Georges Charbonnier (Plon et Julliard, 1961) ジョルジュ・シャルボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』(多田智満子訳、みすず書房、1970年) Le Totemisme aujourd'hui (Paris, PUF, 1962) 『今日のトーテミスム』(仲沢紀雄訳、みすず書房、1970年、新版2020年、みすずライブラリー、2005年) La pensee sauvage (Paris, Plon, 1962) 『野生の思考』 (大橋保夫訳、みすず書房、1976年)、度々新版 Mythologiques, t. I : Le Cru et le Cuit (Paris, Plon, 1964 Document utilise pour la redaction de l’article) 『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』(早水洋太郎訳、みすず書房、2006年) Mythologiques, t. II : Du miel aux cendres (Paris, Plon, 1967) 『神話論理Ⅱ 蜜から灰へ』(早水洋太郎訳、みすず書房、2007年) Mythologiques, t. III : L'Origine des manieres de table (Paris, Plon, 1968) 『神話論理Ⅲ 食卓作法の起源』(渡辺公三・榎本譲・福田素子・小林真紀子訳、みすず書房、2007年) Mythologiques, t. IV : L'Homme nu (Paris, Plon, 1971. Document utilise pour la redaction de l’article) 『神話論理Ⅳ-1 裸の人1』(吉田禎吾・木村秀雄・中島ひかる・廣瀬浩司・瀧浪幸次郎訳、みすず書房、2008年) 『神話論理Ⅳ-2 裸の人2』(吉田禎吾・渡辺公三・福田素子・鈴木裕之・真島一郎訳、みすず書房、2010年) Race et Culture (conference a l'UNESCO, 1971. Revue int. des sciences sociales (UNESCO), 1971. Unesco, et Claude Levi-Strauss. Le racisme devant la science. (Unesco/Gallimard, 1973) 「人種と文化」(三保元訳、『人種と歴史/人種と文化』他は渡辺公三・福田素子訳、みすず書房、2019年所収) Anthropologie structurale deux (Paris, Plon, 1973. Reimpr. 2009) 〔収録されている18本の論文のうち、6本は邦訳がある。「人類学の創始者ルソー」「アスディワル武勲詩」「ウェネバゴ族の四つの神話」「神話はいかにして死ぬか」「構造主義とは何か」「人種と歴史」〕 La Voie des masques (Pocket Agora no 25, 2004. 1re ed. Geneve, ed. Skira, 1975 ; nouv. ed. augmentee et rallongee de Trois Excursions, Plon, 1979) Document utilise pour la redaction de l’article 『仮面の道』(山口昌男・渡邊守章訳、新潮社 叢書創造の小径、1977年/新編:渡辺公三補訳、ちくま学芸文庫、2018年) 『構造・神話・労働 クロード・レヴィ=ストロース日本講演集』(大橋保夫編、三好郁朗・松本カヨ子・大橋寿美子訳、みすず書房、1979年、新装版、2008年) 1977年来日時の講演 Myth and Meaning (Londres, Routledge & Kegan Paul, 1978) 『神話と意味』(大橋保夫訳、みすず書房、新版2016年、みすずライブラリー、1996年) Le regard eloigne (Paris, Plon, 1983) 『はるかなる視線』(三保元訳、みすず書房 全2巻、1986 - 1988年、新版2006年) Paroles donnees (Paris, Plon, 1984) 『パロール・ドネ』(中沢新一訳、講談社選書メチエ、2009年) La potiere jalouse (Paris, Plon, 1985) 『やきもち焼きの土器つくり』(渡辺公三訳、みすず書房、1997年) L'Anthropologie face aux problemes du monde moderne (Paris, Le Seuil, 2011) 、1986年に日本で行った講演 『レヴィ=ストロース講義 現代世界と人類学』(川田順造・渡辺公三訳、サイマル出版会、1988年/新編・平凡社ライブラリー、2005年) De pres et de loin (Paris, Odile Jacob, 1988) 『遠近の回想』(ディディエ・エリボンとの共著。竹内信夫訳、みすず書房、1994年、増補版2008年) Des symboles et leurs doubles (Paris, Plon, 1989) Histoire de Lynx (Paris, Pocket, 1991) 『大山猫の物語』(渡辺公三・福田素子・泉克典訳、みすず書房、2016年) Regarder ecouter lire (Paris, Plon, 1993) 『みる きく よむ』(竹内信夫訳、みすず書房、2005年) Saudades do Brasil (Paris, Plon, 1994) 『ブラジルへの郷愁』(川田順造訳、みすず書房、1995年/普及版・中央公論新社、2010年)、主に写真解説 Saudades de Sao Paulo (Sao Paulo, Companhia das letras, 1994) 『サンパウロへのサウダージ』(今福龍太訳、みすず書房、2008年)、主に写真解説 L'autre face de la lune. Ecrits sur le Japon (Paris, Seuil, 2011) 『月の裏側 日本文化への視角』(川田順造訳、中央公論新社、2014年) Nous sommes tous des cannibales (Paris, Seuil, 2013) 『われらみな食人種(カニバル) レヴィ=ストロース随想集』(渡辺公三・泉克典訳、創元社、2019年) Anthropologie structurale zero (Paris, Seuil, 2019) 『構造人類学ゼロ』(佐久間寛監修、小川了・柳沢史明訳、中央公論新社、2023年)脚注
[脚注の使い方]^ a b “Necrologie: Claude Levi-Strauss, anthropologue, pere du structuralisme”. Le Monde (2009年11月4日). 2009年11月12日閲覧。 “"30 octobre 2009 Mort a Paris."” ^ 2016年12月5日放送、NHK「100分de名著」レヴィ=ストロース 野生の思考 『「構造主義」の誕生』。 ^ 光嶋裕介『建築という対話 僕はこうして家をつくる』筑摩書房、2017年、188頁。ISBN 978-4-480-68980-1。 ^ 在日フランス大使館公式サイトの記事「クロード・レヴィ=ストロースが100歳の誕生日」より(2010年1月29日更新、2017年3月1日閲覧) ^ 本人は民族学への転進にはアメリカの文化人類学者ロバート・ローウィの著作『未開社会』を読んだことが大きな契機だったと語っている。 ^ このときのフランスからの派遣教授陣のなかには、後に大著『地中海』で有名になるアナール学派の歴史家、フェルナン・ブローデルもいた。 ^ この最初の妻とは、ブラジルを離れる頃には離婚していたようであるが、ブラジルでの大小さまざまなフィールドワークは共同で行っていた。たとえば、彼らが撮影したボロロ族の民族誌フィルムには、2人の名前がクレジットされている。 ^ 他にはマックス・エルンスト、イヴ・タンギーら ^ ドイツからフランスを経て亡命してきたハンナ・アレントもそのひとりである。 ^ 「南米のインディオにおける戦争と交易」という南米を主題にした親族交換論が1942年に発表されている。 ^ 講座新設後も数年間はコレージュの講義と並行して、高等研究実習院でも彼の講義が行われており、サルトルの『弁証法的理性批判』の講読はこの講座で行われている。 ^ 同キャンペーンに際してミシェル・レリスも『人種と文明』という小冊子を執筆している。 ^ 『野生の思考』はこの選出後しばらくして急逝した、彼の記憶に捧げられている。 ^ クロード・レヴィ=ストロース『神話と意味』みすず書房、2016年。ISBN 978-4-622-08591-1。 ^ 橋爪大二郎『はじめての構造主義』講談社現代新書、1988年。ISBN 978-4061488984。 ^ 『芸術新潮』2018年6月号、新潮社、 124頁。 ^ “Claude LEVI-STRAUSS”. www.academie-francaise.fr. Academie francaise. 2020年4月13日閲覧。
関連項目
ポスト構造主義 インセスト・タブー ブリコラージュ オクタビオ・パス - 『クロード・レヴィ=ストロース あるいはアイソーポスの新たな饗宴』がある。鼓直・木村栄一訳(叢書ウニベルシタス・法政大学出版局、1988年) 中沢新一 - 訳書に『パロール・ドネ』(講談社選書メチエ、2009年)『火あぶりにされたサンタクロース』(角川書店、2016年)
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、クロード・レヴィ=ストロースに関連するカテゴリがあります。
英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。
Claude Levi-Strauss
Scholiaにはクロード・レヴィ=ストロース (Q128126)に関するプロフィールがあります。ウィキニュースに関連記事があります。訃報 クロード・レヴィ=ストロース氏 - 人類学者、「構造主義の父」 「未開人」へのまなざしと『野生の思考』髙本善四郎氏助成図書コーナー 小展示 第16回 レヴィ=ストロース著作リスト - ウェイバックマシン(2019年9月14日アーカイブ分) レヴィ=ストロース 主要著作と邦訳より (みすず書房編集部 作成, 2019) Documentaire 52': About "Tristes Tropiques" 1991 - Film Super 16 『レビ・ストロース』 - コトバンク 『レビ・ストロース』 - コトバンク 『レビ=ストロース』 - コトバンク 『レヴィ=ストロース』 - コトバンク
前任
アンリ・ド・モンテルラン アカデミー・フランセーズ
席次29
第18代:1973年 – 2009年 後任
アミン・マアルーフ表話編歴
大陸哲学
典拠管理 ウィキデータを編集
カテゴリ:クロード・レヴィ=ストロース20世紀フランスの哲学者21世紀フランスの哲学者フランスの文化人類学者アメリカ合衆国の文化人類学者ポストモダン哲学構造主義神話学者第二次世界大戦期フランスの軍人フランスの亡命者レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者国家功労勲章受章者芸術文化勲章受章者教育功労章受章者勲二等旭日重光章受章者エラスムス賞イギリス学士院客員フェロー米国科学アカデミー会員アメリカ芸術文学アカデミー会員アカデミー・フランセーズ会員ノルウェー科学文学アカデミー会員コレージュ・ド・フランスの教員高等研究実習院の教員サンパウロ大学の教員オランダ王立芸術科学アカデミー会員ユダヤ系フランス人ユダヤ人の哲学者ユダヤ人の著作家フランスのセンテナリアンブリュッセル出身の人物1908年生2009年没 最終更新 2023年11月14日 (火) 08:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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「いい人」は戦争を起こすから危ない――有名国際政治学者が名指しした「二人の政治家」の名前
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/11300615/?all=1※ 「人」が、何かを起こすのか…。
※ むしろ、因って来る(きたる)「基盤」「構造」が、何かを起こすのではないのか…。
※ 「構造」が、いろいろな「動力」を発揮して、それが「人」に働きかけるのではないのか…。
※ そういう意味じゃ、「構造主義」と言えるのか…。

『戦争というものは、ヒトラーのような悪人が始めるものだと、多くの人は考えているのではないか。しかし、戦後の国際政治学をリードした高坂正堯(1934~1996年)氏は、むしろ善人が戦争を起こす危険性について警鐘を鳴らしていた。
速報小室佳代さんの渡米に暗雲 「父の世話で忙しく、身動きが取れません」と周囲に愚痴
速報「久本雅美さんは“池田大作大先生の枕になりたい”と」「石原さとみさんとは創価高校について話した」 元信者・長井秀和が明かす「芸能人と池田大作名誉会長」
なぜ「いい人」が戦争を始めるのか――高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。
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「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。世界恐慌、共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一】ネット書店で購入する
誰が世界大戦を始めたのか
注目すべきことは、第1次世界大戦を始めた政治家たちはどちらかというと、いい部類の人間なのです。私は個人的に、第2次世界大戦を指導した政治家よりも、好感が持てます。我々に近い感じもする。どこが近いところかというと、ヒトラーやスターリンのように強い権力意識を感じさせない。並外れていいこともしそうにないが、ものすごく悪いこともしない感じが、割と普通の人間並みなのです。だからこそ、そんな彼らが第1次世界大戦を始めてしまった点に、着目しなければいけません。
ここで二人の人物をご紹介します。一人はテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク。当時のドイツ帝国宰相です。7月30日、戦争が始まって2日後、自分の秘書官リーツラに対して「我々は正義を失った。地滑りが始まった。もうどうしようもない」と漏らしています。こんな怖しい事態をまねいた人物が、「外交的な動きが自動的に起こってしまい、制御不能になって、各国が戦争に突っ込んだ」と、告白しているわけですから、なんと気の弱い人なのでしょうか。その後、ベルンハルト・フォン・ビューローという、ベートマン・ホルヴェークの前の首相が、「一体どうしてこんなことになったのかを話してくれ」と、彼のところに行きます。それに対してベートマン・ホルヴェークは、「誰にわかるものか」と、なんとも頼りなく答えています。
ベルンハルト・フォン・ビューロー独首相
高坂氏が“第1次世界大戦を起こした一番悪い人間”と示したベルンハルト・フォン・ビューロー独首相 (出典:Bundesarchiv, Bild 146-2004-0098 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons)(他の写真を見る)
付言すると、第1次世界大戦を起こした一番悪い人間は誰かといえば、おそらくこのビューローでしょう。ドイツ帝国の世界政策を推し進めるため軍事力増強を試みたものの、それに失敗して首相をやめたという経緯もあり、つまりはマッチポンプで、焚きつけておきながら「なぜこんなことになったのか」と訊きに行く人物です。現首相にしてみれば、「誰にもわかるものか」と、言い返したのかもしれませんが、それは呻くようだったといわれていますから、本心から「なんでこんなことになったんだろう」と思ったんでしょう。
同じことは、もうひとり、イギリスの外務大臣エドワード・グレイにも見られます。グレイは8月3日、ドイツと戦う必要性を議会で演説します。その結果、翌日、対独宣戦布告が行われますが、その後、「戦争は嫌だ、戦争は嫌だ」と、彼は発言するのです。なんとも頼りないですが、人間ってこんなものだと思います。そして、彼らのことを私は嫌いではありません。
権力に対する意識の欠如ベートマン・ホルヴェークに行政能力はありました。しかし、ある人の言葉を借りれば、彼は「権力に対する意識を欠いていた」「権力に対する完全に安定した本能を欠いていた」「権力を有することの喜びを感じることができなかった」というのです。
自分にはたまたま能力があり、他になり手がないので、彼なりの責任感からドイツ帝国宰相の地位を引き受けたと。これをやらなければならない、という強い意志を持った人間ではなかったようなのです。その結果、想定外の事態が起こると、このような人物は往々にして無力になってしまう。また、危機に際しては運命論に打ち負かされやすかったようです。小市民的であったのはグレイも同様で、彼の趣味はバードウォッチング。週末にロンドンから田舎の家に戻って、鳥を観察するのをなによりの幸せとしていました。彼とて、英国紳士ですからたまには策略もこらし、平時ではしたたかな政治家でもあったようです。しかし、本当に困難な事例に直面すると平常心を失い、精神がおかしくなるような傾向もあったという記録もあります。
第1次世界大戦を始めてしまった政治家が、気の小さい、どこにでもいる人間であったことが重要なのです。以上、私が申し上げたかった二つは、まず兵器の技術が進歩し強大な軍事力を使う立場の軍人は、第1次大戦に際して自信満々だったということ。そして、政治家はそれ以前に稀に見るような平和な時代が続き、なんとも平凡な人間ばかりになってしまっていたこと、なのです。
19世紀は貴族社会が次第に崩壊して中産階級が力を持ってくる時期です。中産階級というのは、どういう人たちかといえば、我々の周りにもいるような普通の人間です。他方、正直言って、ヨーロッパ貴族の話を聞くと、私も自分があのようになれたらと憧れるところがあります。うんと無駄遣いをしても平気。他人が死んでもそう涙を流しませんが、親友が死んだら悲しむ。そのような気高い生き方もあるのです。
ただし、それが無理なくできる人とできない人があって、生まれたときから、お前は貴族で庶民と関係がないという教育を受けたら話は別ですが、生まれたときから人間みんな一緒と育てられたら、貴族としての威厳や誇りを持った高貴な心の持ち主になりません。つまり、平和と平等の時代がもたらした政治家が、グレイや、ベートマン・ホルヴェークなのです。
いずれにせよ、軍人と政治家、民衆、各々に事情はありましたが、戦闘がヨーロッパ全土に広がってしまった最大の理由は、政治家の責任放棄にあるように思われます。※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。世界恐慌、共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一】ネット書店で購入する
デイリー新潮編集部 』
