一人の国会議員に費やされている国税の額…。
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/

一人の国会議員に費やされている国税の額…。
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/

http://hamusoku.com/archives/10452863.html
※ こういう「手厚い、至れり尽くせりの医療制度」が、いつまで「持続可能」なのか、という話しだな…。
※ 消費税も、いつまで「10%」のままで、いられるものやら…。
※ そして、「大前提」として、そういう「けっこうな制度」を支えている「日本国民の皆さん」の「生活回している必要物資」が、いつまで「順当に手に入る」ものやら…、という話しだ…。









BuzzFeed Japan
https://ja.wikipedia.org/wiki/BuzzFeed_Japan
『 BuzzFeed > BuzzFeed Japan
ソフトバンクグループ > ソフトバンクグループジャパン > ソフトバンク > Aホールディングス > Zホールディングス > BuzzFeed Japan
BuzzFeed Japan株式会社
BuzzFeed Japan Corporation BuzzFeed.svg
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
〒102-8282
東京都千代田区紀尾井町1-3
東京ガーデンテラス紀尾井タワー
設立 2015年8月12日 (6年前)
業種 オンラインメディア
事業内容 メディア事業、インターネット広告事業など
代表者 スコット・マッケンジー[1]
資本金 9000万円
売上高 7億8475万5000円(2018年12月31日時点)[2]
営業利益 ▲1億1967万5000円(2018年12月31日時点)[2]
純利益 1億5876万7000円(2020年12月31日時点)[3]
総資産 5億5921万8000円(2020年12月31日時点)[3]
従業員数 約70人
主要株主 BuzzFeed 51%
Yahoo! JAPAN 49%[4]
関係する人物 古田大輔(創刊編集長)
外部リンク https://www.buzzfeed.com/about
テンプレートを表示
BuzzFeed Japan株式会社(バズフィードジャパン)は、オンラインメディアBuzzFeed(バズフィード)の日本版、及びそれを運営する[5]2015年に設立された東京都千代田区に本社を置く日本の会社。アメリカ合衆国のBuzzFeedと日本のヤフーのジョイントベンチャー[6]。
バズフィードの拠点としてはシドニー、ベルリン、ムンバイ、サンパウロなどに次ぎ12番目にあたる[7]。 』
『概要
2016年1月から始まった[8]BuzzFeedの日本版で、各国のBuzzFeedのコンテンツの翻訳と独自記事が掲載される[5]。2017年1月時点で、編集部は男女25人ずつの総勢50人で構成されている[9]。コンテンツは「Yahoo!ニュース」などに配信され、広告の販売権はヤフーが独占する[5]。
フェイクニュース・キュレーションサイト・まとめサイトの問題を継続的に取材し、また政府の広報や選択的なファクトチェックを行っている[10][11][12]。DeNAのキュレーションサイト問題では、いち早く医療系サイト「WELQ」の正確性・剽窃の問題を関係者への取材も行って報じ、問題の顕在化に一役買った。この一連の記事で日本でのBuzzFeedの知名度も上がり、設立1年で月間訪問者数が1600万人を突破している[9]。
2020年11月にアメリカのBuzzFeedが同業会社のハフポストを買収したことを受けて、日本でも日本版ハフポストを運営しているザ・ハフィントン・ポスト・ジャパンと2021年5月1日付で合併することを同年3月に発表した[13][14]。なお、BuzzFeedやハフポストなどのメディアは引き続き独立した形態で運営されるとしている[14]。 』
『不祥事
桜井誠の発言誤認
2016年7月18日配信の記事において、都知事選の立候補者である桜井誠が前日におこなった演説内容をもとに「【都知事選】「朝鮮人、あるいはサル」公然と叫ぶ桜井候補。在特会前会長の狙いは?」というタイトルの記事を配信した[17]。その後、読者からの指摘を受けて確認したところ、桜井が実際には「左翼」と発言していたことが判明した[18]。同日18時31分に古田編集長は謝罪文をツイッターに投稿し[19]、桜井に直接謝罪をおこなった[18]。誤記の理由については、「現場で取材した記者が聞き取り、録音でも確認しましたが、スピーカーの音が割れて誤認しました[17]」としている[18]。
BiSHメンバーのウィキペディア立項企画
2018年7月、アイドルグループBiSHのメンバーへのインタビュー記事で、ウィキペディア日本語版にメンバーのページ(項目・記事)があるのはアイナ・ジ・エンドだけということで、「このままでは初めてBiSHを知ったファンが、ウィキペディアを検索できず路頭に迷ってしまう」として、BuzzFeed Japanの記者がウィキペディアに同記事で取材した情報を元に他のメンバーのページを作成したが、宣伝行為などのルール違反によって削除され、さらに再作成と削除が繰り返される状態となった。また、このことについてBuzzFeed Japanはツイッター上で「ソースは本人だから安心安全」と書き込んでいたとも報じられた。また、騒動後、当該記事は見出し・記事本文の一部などが修正され、末尾には修正した旨の説明文が追加されている[20]。
コンビニの成人向け雑誌取扱をめぐる記者の投稿
2019年1月21日には、コンビニ大手が成人向け雑誌の販売をとりやめたことに対し、記者が「来店しやすくなる人がいるのか。非実在なんじゃ」などとツイッターで投稿。#MeTooなどの観点から強い批判を受けたため、記者は投稿を削除してお詫び。同月25日にBuzzFeed Japanは「コンビニに行きやすくなると歓迎する人はいる」ことを紹介する記事を掲載し、その中で、「ツイートは事実とかけ離れた内容であり、記者は社内で厳重な注意を受け、当該ツイートを削除し、お詫びしました」と記載した[21]。 』
「日本国は我々のもの」「帰れ」とブログ書き込み 在日女性が40代男性をヘイトと提訴https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/kawasaki-hate22
※ 「言論の自由」と言っても、当然に「限界」はある…。
※ 「名誉棄損」や、「脅迫(害意の通知)」に該当しないように気をつけよう…。
※ 単に、「日本国は我々のもの」「帰れ」と言うくらいは、微妙だろうな…。
『訴えを起こしたのは、川崎に暮らす在日コリアン3世の崔江以子(チェ・カンイジャ)さん。弁護団によると投稿者は北関東在住の40代で、手紙を通じて自らの書き込みであることを認めた。』
『「愛する日本を取り戻す」とうたう匿名ブログやTwitterアカウントから繰り返しヘイトスピーチなどの被害を受けたとして、川崎市内の在日コリアンの女性が、投稿者の男性に対して損害賠償など計約300万円を求める裁判を11月18日に横浜地裁川崎支部に起こした。
(*この記事にはヘイトスピーチの文言が直接含まれます。閲覧にご注意ください)』
『訴えを起こしたのは、川崎に暮らす在日コリアン3世の崔江以子(チェ・カンイジャ)さん(48)。訴状によると、訴えの対象となったのはブログとTwitterに書き込まれたいくつかの言葉だ。
アーカイブサイトによると、男性は2016年6月、川崎で開かれたヘイトデモに抗議する崔さんを取り上げた記事を自身のブログで引用。「お前何様のつもりだ!」と名指しし、以下のように書き込んだ。
《日本国は我々日本人のものであり、お前らのものじゃない!『外国人(在日コリアン)が住みよい社会』なんて、まっぴらごめんだし、そんな社会は作らせない。思い上がるのもいい加減にしろ、日本国に仇なす敵国人め。さっさと祖国へ帰れ》
崔さん側は訴えで、「日本国に仇なす敵国人め。さっさと祖国へ帰れ」という言葉がヘイトスピーチ解消法が定める「地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」にあたると指摘。人格権に対する違法な侵害行為であると主張している。
崔さんが法務局に人権侵犯被害を申し立てたことで、記事は同年10月に削除された。しかし、男性は「個人的に恨みがあります」として、その後もブログやTwitterで崔さんに対する書き込みを計70件続けたという。
それから2020年10月までに計5回、崔さんの行動を指して「差別の当たり屋」「被害者ビジネス」と記しており、崔さん側はこの言葉が事実ではなく、社会的評価を低下させる名誉毀損に当たると主張している。
崔さんの弁護団によると、ブログサイトへの発信者情報会請求を経て、提訴に至った。長期かつ複数回にわたって執拗に攻撃を受けたとして、記事削除の5年後に提訴に踏み切ったという。
男性はブログ上で「日本国が大好き」「反日マスコミ、反日外国人、売国奴と闘う」などと記載している。弁護団によると北関東在住の40代で、手紙を通じて自身の書き込みであることを認めた。精神的な不調を理由にあげたという。
「私にとって存在を否定する言葉」
Kota Hatachi / BuzzFeed 』
『崔さんはこのほかにも「極東のこだま」を名乗るTwitterの匿名アカウントに暴力を示唆する書き込みをされたり(川崎簡裁が罰金30万円の略式命令)、職場に脅迫状を送られる(脅迫罪で刑事告訴、現在捜査中)などしており、外出時には防刃ベストをつける生活を強いられている。
弁護団の師岡康子弁護士は同日開かれた会見で、これらの被害の根本に「ネットリンチ」が存在していることに触れ、「在日、しかも女性である崔さんが攻撃の的とされている。日常生活でも恐ろしい思いを続けており、家族にも影響が及んでおり、放置できない」と話した。
同じく弁護団の神原元弁護士は「日本では差別が不法行為であるということが必ずしもはっきりしていない。裁判を通じて社会的に確立させたい」と話した。包括的な差別禁止法の制定や、者が司法に頼らずとも申告できる制度、機関の必要性にも言及した。
一方、崔さんは会見で、「祖国へ帰れという言葉は、私にとって存在を否定する言葉です。この社会にいてはいけないんだと言われている言葉です」と語り、こうも訴えた。
「ネット上の差別、ヘイト書き込みと向き合うときは、本当に孤独です。人々の生活に欠かせないツールであるネット社会で、こうやって匿名に隠れて人を人とも思わない書き込みが野放しにされているということ、被害が生じていいるけれども、被害者がとる策がほとんどないということを、ぜひ知っていただきたい」
「一方で『帰れ』という言葉は、私だけではなく、路上のヘイト街宣などで子どもたちも向けられています。差別が違法であると司法の場で示されることによって、法律や条例の運用の大きな力となり、ヘイトスピーチが野放しにされない社会になってほしいと願っています」
いまだ、崔さんを匿名で攻撃している人は少なくない。現在、このほかにも発信者情報開示請求を並行して続けているという。』
ウマ娘プリティーダービーに片思いしていた。愛されてはいなかった。つらい
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20211117/1637142976
※ 今日は、こんなところで…。
※ シロクマ先生、ソシャゲに大分つぎ込まれたようだ…。
※ まあ、ほどほどにな…。


『『ウマ娘プリティーダービー』というゲームを好きになって、頑張って時間とお金を費やしてきましたが、片思いだったことが最近やっとわかってきましてね。
f:id:p_shirokuma:20211116072203j:image
(ソーシャル)ゲームの世界では近頃、「環境」だの「人権」だの物騒な言葉が聞こえてくるけれども、『ウマ娘プリティーダービー』にもそのような「環境」や「人権」に位置づけられるサポートカードがある。いわば、かつての『Fate/Grand Order』でいう諸葛孔明やキャスター・アルトリアのような存在、将棋でいえば飛車角に相当する存在だ。
そして11月、まさにその飛車角に相当するサポートカードのひとつ、「キタサンブラック」のサポートカードピックアップガチャが到来した。
f:id:p_shirokuma:20211116220544j:image
まさにこの時のためにひたすらジュエルを貯めていた!よって、これをひたすら回すことにした。回すしかない。今回さずに、いつ回す。
ところがジュエルを費やしてもまったく「キタサンブラック」が出ない。本命の「キタサンブラック」はもちろん、選外のSSRカードすら、100連回しても一枚も出ない。結局、このゲームに設定されている「天井」に相当する、200連まで回してもかすりもしなかった。200連を回して出てきたSSRは、セイウンスカイSSRの1枚きり。なんの成果もなかったというしかない。
今回に限らず、今までジュエルを溜めてまでガチャを回すたび、本命のサポートカードが出たためしがない。ビコーペガサスやスーパークリークのピックアップガチャでも、それまで忍従を重ね、そこで一気にガチャを回してもカードを引くこと自体はできなかった。実のところ、じかにガチャを回し、目当てのサポートカードを引いた記憶が春頃から無い。ならば、小手先の工夫ではなく、札束で殴る以外に道はないということか。
どれほど優れたソーシャルゲームでも、ガチャでSSRを引くことができない限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。然るべき場所にリソースを集中させ、人事を尽くして天命を待ったところに不要なカードの山を築いている限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。そして私とウマ娘の間柄において、ウマ娘プリティーダービーはそのように振舞い続けているのだから、ウマ娘プリティーダービーといえどもクソゲーと名指ししなければならない。
今回、このゲームのことが好きになってしまって自分なりに時間とお金を傾けてわかったことがある:それは、このゲームのデザインを知れば知るほど、自分の貢ぐ程度の時間やお金では遊びきれない、ということだ。有力なピックアップガチャのたびに福沢諭吉を何枚も要求せんとするゲームデザインは、私が慣れ親しんできた既知のゲームの感覚を完全に逸脱している。
わかってきたぞ、おれはこのゲームのレースに参加できる客ではなかった。サイゲームスの運営さんから、声が聞こえてくる気がするんですよ:「お気の毒ですが旦那様、一流トレーナーになるには、お金と時間の寄付がまるで足りないようです。」
それと「天井」のある本格ソーシャルゲームに初めてムキになってみて、「天井」とは、慈悲ではなく租税であるということも理解した。青天井のソーシャルゲームももちろん厄介だが、「天井」があったらあったで、これは厄介だ。
なるほど、「天井」があれば数万円を費やすことで必ず目当てのカードなりウマ娘なりを一単位譲り受けることができる(断じてガチャで引いた結果ではなく、譲渡の結果である)。しかし「天井」があって目当てのカードやウマ娘を譲渡され得るということは、「天井」まで回して譲渡されなければならない、ということだったのだ。
「天井」が設定されているゲームデザインである以上、それはプレイヤーの救済などではなく「『天井』までおまえはガチャを回すべきである」という神(=運営)のお告げだったのだ。これに気づくのが遅かったのは、大きな失敗だったと思う。
「天井」が設定されていて、そこまでガチャを回すことが基本指針、いや、基本単位である以上、ウマ娘というゲームは数万単位で寄進することが基本ムーブになっていると自分は解釈することにした。もちろん、リセマラからやり直すという方法や一か月980円課金+チマチマとジュエルを運営からもらって天井を意識したガチャを回すという方法もなくはない。けれどもそれはお金のかわりに大きな時間的代償を必要とするし、なんやかや言っても豪華にカードを揃えている旦那様に対抗するのは至極困難なのである。
かてて加えて、豪華にカードを揃えている旦那様でさえ、チャンピオンズミーティングの前ごとにきめ細かい調整を行わなければならない点では変わらない。だからこのゲームは、お金と時間、双方にゆとりのある旦那様が主な想定顧客なのだろう。
ここまで読んだ人のなかには、「どうして、レースに勝つことを前提にウマ娘を語っているのか」「もっと気楽に遊べばいいのに」とおっしゃる人もいるだろう。
確かに、そうではある。
けれども良くも悪くも、ウマ娘というゲームにはレースというフィーチャーが設定されていて、毎日チームレースが行われ、毎月チャンピオンズミーティングが行われ、勝利は顕彰され、栄誉とみなされているのだ。このゲームデザインで勝敗を意識しないなど、どうしてできよう。できなくもないが、ゲームデザインからいって、勝敗を意識しないほうがこの場合不自然だ。
そして自分の陣営のウマ娘たちに対し、どうして「勝負に負けてこい」という態度をとれるだろうか。
ウマ娘たちが切磋琢磨し、精一杯トレーニングしている。トレーナー側からみれば、精一杯育てたウマ娘ということでもある。おれたちの愛馬、愛するウマ娘たちがずきゅんどきゅんと走り出すゲームで、どうして負けるに任せていられよう。まして、レースというフィーチャーを敬遠することなどできようか。
である以上、ウマ娘というゲームを誠心誠意プレイしようと思ったときにレースを意識から逸らせるのはとても難しい。少なくとも私には難しかった。だからFGOの時よりもアグレッシブにゲームに取り組んだつもりだったけれども、そもそも自分の可処分時間と可処分ゲーム課金では太刀打ちできないのだった。
今後、新しい「環境」や「人権」サポートカードが来るたびにこれほど呻吟させられるか、さもなくば「天井」を前提としてシャトー・マルゴーやシャトー・ラフィットロートシルトほどの課金を求められるかするなら、やっぱりついていけない。自分は、もうちょっと時間やお金にやさしいソーシャルゲームをやるしかないのだと思う。それか、レースといった要素を気にしなくて構わないソーシャルゲームか。
もう、目当てのSSRの出ないガチャに苦しむのも、うちの陣営のウマ娘たちの俯き顔を見るのも、疲れてしまった。
アンインストールするしかない。
【それにつけても、ウマ娘の尊さよ】
そもそも、こんなことなってしまった一番の原因はウマ娘のかわいらしさ、尊さのためだ。
ウマ娘はみんなかわいい。わずかに気に入らないデザインのウマ娘がいないわけでもないが、それでもレース場を走っている時にはたいしたことはない。というか、多分私にとってウマ娘プリティーダービーのキャラクターデザインは至上最高といって良いほど好みなのだと思う。
f:id:p_shirokuma:20211116173408j:image
特にこの人、マルゼンスキーは特別だ。マルゼンスキーはいい。昭和から平成の古語を喋ることから「まるおば」などと言われているようだが、これほど美しいおばさんはどこにもいない。私服姿がまたいい。完璧だ。固有スキルは格好良く、水着モードもはっちゃけていて良い。
このマルゼンスキーを筆頭に、オグリキャップも、メジロマックイーンも、ビワハヤヒデも、ツインターボも、ヒシアマゾンも、みんな格好良くかわいい。そして尊い。
自分は「萌え」の世代のオタクだったから、「尊い」という言葉を当てはめることに抵抗感をおぼえる。ところがウマ娘にだけは「尊い」という言葉を当てはめたくなる。決して素手で触れてはいけない宝石のような物語とキャラクターたち。このウマ娘たちにはいつまでも尊い存在であって欲しい、そんな気持ちがふつふつと沸いて来る。こういう気持ちは、たとえばFGOや艦これでは全く無かった感覚だったので、だから自分のなかではウマ娘は尊いことになっている。
先日、ウマ娘の運営から二次創作についてのお触れが出て、暴力、グロ、エロを戒める内容だったが、これは、少なくとも自分にはすごくわかる。私にとってウマ娘世界は尊く、その尊さを何者かに脅かされることに怖さをおぼえる。でもって、思うに、ウマ娘世界の想像力というか想像世界というかは、案外脆いような気がするのだ*1。
ウマ娘の二次創作のお触れの主な狙いは、たくさんの人が言及しているように、サイゲームスと馬主の問題なのかもしれない。大人の世界だから、それは考えられることではある。けれどもウマ娘の想像世界を尊いと感じている自分からみると、それは暴力やグロやエロによって簡単に手折られてしまうウマ娘の尊い想像世界を守るための切なる願いのようにも思える。
それなら尚更、ウマ娘という宝石箱をそっと心のなかに閉まっておくべきなのかもしれない。そのほうがきっと、ウマ娘たちが尊いままでいてくれるだろうから。
TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』 オグリキャップのどんぶり
コスパ(COSPA)
Amazon
それでも私は、このオグリキャップどんぶりを買ってしまうほどにウマ娘たちが好きになってしまったから、ウマ娘というゲームにも愛されたくて、けれども愛してもらえる旦那様にはなれないことに気づいてしまった。ラーメンを食べている時のオグリキャップどんぶりだけが、ぼくを裏切らない!
ソーシャルゲームにおいて、人間がゲームを遊戯するのでなくゲームが人間を遊戯し、人間がガチャを回すのでなくガチャが人間を回しているとは周知の事実ではある。ところがこのようにウマ娘プリティーダービーに恋慕してしまった結果、またしてもガチャにいいように回され、レースにいいように走らされてしまった。
2021年のゲームで一番思い出に残ったのは、文句なしにこのウマ娘プリティーダービーだ。けれどもプレイヤーとしての自分の馬力が足りず、臥薪嘗胆する強い心も足らず。ついていけなくなってしまいました。
*1:これが艦これなら、暴力、グロ、エロが混じっても想像世界はたいして揺るがない。はしたない中波絵の艦娘もいるし、彼女たちは戦争しているのだ。だからよそはよそ、うちはうちと割り切るのはたやすい
シロクマ (id:p_shirokuma) 1日前 』
※ こっちの方が、よくない?
















一年間給料未払いなので労基署行ったら…。
https://orisei.tumblr.com/post/668116358174801920/lovecake
『“1年間給料未払いなので労基曙いったら、 「自分で裁判起こせ、サラリーマンなんだから書類ぐらい造れるでしょ?」 と言われた。
落ち込んで無料の弁護士事務所にかけこんだら、 「なんで急にくるんだ。わけわからん。まぁ裁判はかつか負けるかわからん。
で、裁判費用で、20万円、かったら、報酬3割、相手が控訴したら、また20万円、でも相手がお金払わなかったら、知らない。
裁判なんてお金とるもんじゃない、世の中に言いたいことがあるやつがやるんだ」 と言われて落ち込んで、今ひきこもり。”』

※ 今日も雑用に見舞われたんで、こんなところで…。
※ このコロナ対策の問題については、語っておきたいことがある…。
※ それは、日本の「医療提供体制」は、「民間病院」が主流となっている…、ということだ。
※ 民間病院に対しては、公的機関・公的権力と言えども、「公権力」を直接に行使することは、限定される…。
※ まず、一国において、「医者になる能力・資格がある人材」の数は限られている…。
※ そういう「人材」を前提に、その周辺に看護師・看護助手を配置し、医療事務関係職員も配置し、医療機器を備えた「病院」「診療所」を建築し、その「総体」がいわゆる「医療提供体制」となっているわけだ…。
※ 当然、そういうものの維持・運営には、「お金」がかかる…。
※ それを捻出するための一つの仕組みが、「健康保険」とかであるわけだ…。
※ 患者視点から見れば、「病気に罹った」ときは、「医者に診てもらいたい。」ということしか考えない…。
※ その先の、「病院」とか「医者」「その他の医療従事者」それら全体を包摂する、「一国の医療提供体制全体のシステム」とかということは、まず考えない…。
※ オレだって、このコロナ騒ぎになる前は、全く考えなかった…。
※ コロナ騒ぎになって、そういう関係の情報が数多く流通するようになったんで、断片的なものを繋ぎ合わせて、「こういうことなんだな…。」と一応把握したという程度のものだ…。
公立病院改革は、病院の経営効率性を高めたか
大阪大学 山内直人研究会 医療分科会
市後彩夏 櫻川京
鳰泰明 大林雅希
水津佐英子
2016 年 11 月








※ そういうわけで、「公立病院」は、「非効率」「不採算」の極みで、どんどん「統合・廃止」、「民間でできることは、民間で!」という「制度改革」の流れがあったわけだ…。
※ そういう「医療提供体制」も、「平時」には、上手く回ってた…。「国民皆保険」に近い仕組みも、機能した…。みなさん、真面目に「保険料」を納付する「国民性」だからな…。
※ しかし、このたびの「コロナ事態」みたいな「非常時」には、上手く機能できないんだよ…。
※ 民間の「病院」「診療所」は、「自分たちの”食いぶち”」を確保しながら、「コロナへの対応」を迫られた…。
※ 「ウイルスによる感染症」が相手だから、通常の「医療の対応」とは、勝手が違う…。
※ まず、「一般患者の診療」と、「動線」自体を分離しなくちゃならない…。
※ 医者の先生、直接患者と接触する看護師、看護助手のみなさん自身を「防護」するための「防護服」「医療用マスク」「使い捨ての手袋」なんかも、潤沢に準備しなくちゃならない…。
※ 「ウイルス対策の知識」を学ぶ「研修」も、必要だ…。
※ そういう「非常時の対応」が、ワーっと押し寄せて来たわけだ…。
※ だから、「初期段階」では上手く対応できず、「○○病院で、クラスター発生!」となって、世間を驚かせることになったわけだ…。
※ 結局、「治にいて、乱を忘れず。」ということだ…。
※ 一旦確立したシステムに安住すること無く、常に「先のこと」を考え、「最悪の事態を想定して」システムの不断の改良に取り組んでいく…。
※ 非常時にも、ある程度対応できる「伸びたり、縮んだりするシステム」を構築する…。
※ まあ、「言うは易く、行うは難し。」だ…。
子どもがいてもいなくても、世界について考えるのは難しくなってると思う。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/
※ そーですか…。
※「世界のでき事」についての情報を、入手するのは、ちょっと前に比べると、はるかに簡単に、素早く、大量に手に入るようになったと思いますが…。
※ むしろ、問題は、そうやって「入手した情報」を、キチンと「位置付け、分析・解析、理解する」体制が、自分の中に構築されているのかだと思いますが…。
※ そういう情報の「位置付け・整理」のための「ツール(思考ツール)の構築」こそが、最重要だと考えますが…。



『リンク先の文章は、子どもを持たない大人が増えることで自分の代までしか考えない人も増え、世界の持続可能性が危機にさらされるのではないか、といった趣旨だ。「私の死んだ後のことなんかどうでもいい」と皆が考えるようになり、後々の世界に思いを馳せなくなったら、世界の持続可能性は怪しくなるだろう。欧米を中心に若い人たちが世界の持続可能性について大きな声をあげ、その槍玉に挙げられているのがそのような大人たちであることを思い出したりした。
セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)
作者:前島 賢
SBクリエイティブ
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でもって、リンク先の筆者は「セカイ」というサブカルチャーの語彙を使って、そうした大人たちの世界観が自分を中心とした狭い範囲にとどまっていること、ために未来を志向しない自己中心的な死生観を持っていることを指摘している。親になる人が減るぶん、死後の未来について考える人も減るというのは、まあ、そうかもしれない。少なくとも人の親になり、まっとうに親を引き受けている人なら、子どもの代の未来まで考える動機が発生するからだ。
他方、それだけでもあるまいと思ったりもする。
なぜなら、人の親になるかならないかが世界の捉え方を全部決めてしまうわけではないからだ。たとえば輪廻をベースとした宗教を信じている人や、一族の先祖供養を行っている人、連綿と続く地域の葬祭行事に加わり続けている人などは、人の親になるかならないかに関わらず、自分が死んでも世界が続く世界観・死生観を生きている可能性は高い。自分の子どもという具体性の塊のような未来に比べると、これらは抽象的で、共同幻想に類するものではあるのだけれど、太古の葬祭の痕跡などが示しているように、案外そのようにできあがった世界観で生きていける・生きてしまうのが人間であるように思う。
なので、冒頭リンク先の主題であろう「自分の代のことしか考えない大人の増加」とは、(養子縁組も含めた)子育てに参加するしないの問題に加えて、過去から未来へとつらなるような世界を生きていない人が増えていること、死生観や世界観がそのように変わってしまっていることが大きいと私なら思う。で、冒頭リンク先の筆者が「(セカイ系に由来しているらしき)セカイ」という語彙をわざわざ選んでいるのも、そうした死生観や世界観も問題の一端であることを意識してのものだろう。
なら、そうした今しかない死生観や世界観が台頭し、過去から未来へと連なるような死生観や世界観が尻すぼみになっているのは何故なのか。
ここまでの話から、宗教の衰退や、イエ制度などと深くかかわりを持ってきた盆暮れ正月といった行事の衰退や形骸化を挙げることはたやすいし、実際、既存宗教はすごい勢いで衰退してもいる。それらが死生観や世界観に与える影響は無視できるものではないので、宗教の衰退や形骸化を、生涯未婚率の上昇と並ぶ「自分の代のことしか考えない大人の増加」の理由として挙げるのは簡単ではある。
でも私には、その既存宗教の衰退や形骸化も原因ではなく結果であるよう思えてならない。既存宗教が衰退したり形骸化したりしたのは、むしろ、そのような宗教と相性の良い死生観や世界観を持てない環境ができあがってしまったからのようにみえてしまう。
既存宗教と相性の良い死生観や世界観が持てない環境とは、どういったものなのか。
ちょっと切り口が異なるかもしれないが、アーカイブで一番これに近いことを書いたのは以下のブログ記事のものだ。
blog.tinect.jp
「老害製造装置」というタイトルがついてしまっているが、要旨としては、いまどきの生活環境では他人とコミュニケーションする必要がないし、それは団塊世代あたりから日本人が望んできたことだ、といったことが書いてある。
戦後からこのかた、日本人の生活空間はイエ的で集団的なものから、個人的でプライバシーのあるものへと変わってきた。同じく、日本人の生活時間もまた、家族や同郷集団と長い時間を過ごすものから、一人で過ごす時間の長いものへ、個人それぞれのスケジュールに従うものへと変わってきた。これらの変化が日本人の意識を、あるいは社会病理性の内実をも変えていったことは想像にかたくない。
日本人の意識も生活実態も、血縁集団や地縁集団といった単位からは離れていき、核家族や個人といった単位に基づいたものに変わっていった。もちろんこれは人々の意識だけが変わっていったのではなく、家屋や街並みといったアーキテクチャも平行して変わっていったこと、働き方や余暇の過ごし方が変わっていったこと、ウォークマンやスマホの普及といったエンタメが変わっていったなどととも、全部つながりあった変化とみるべきなのだろう。
なんにせよそうやって個人化が総合的に進んだ結果、いわゆるゲマインシャフト的なものが暮らしの時空間から排斥され、旧来の宗教観がそのままアプライできる状況が珍しくなり、「自分の代のことしか考えない大人の増加」に親和的な死生観や世界観がアプライできる状況が一般的になった。
想像してみて欲しい。アパートやマンションの自室で365日を過ごし、親世代や子世代とのコミュニケーションにも煩わされず、自分のやりたい仕事や趣味や人間関係にすべてを費やし、スケジュールも全部自分で決められる──そういう個人生活のなかで、過去から未来へと連なるような死生観や世界観を持つのは結構アクロバティックなことではないだろうか。
そういう個人でも、子育てをしているうちはそうした死生観や世界観を持っていられるかもしれない。しかし子育てをしなければそうした死生観や世界観を持つことは難しいし、たかだか20年かそこらの子育て期間を終え、親子が別々に暮らすような核家族的環境(または単身世帯的環境)に戻ってしまえば、やっぱりそのような死生観や世界観を維持するのは難しくなってしまう。
冒頭リンク先でid:Ta-nishiさんは、
このまま非婚率が天井知らずに上昇を続け、非婚者がマジョリティとなり、「私が死んだ後のことなんかどうでもいい」という「無敵の人」が多数派を占めるようになった未来が訪れたとして、そのときこの世界のサステナビリティはどうなってしまうのだろうか?
と締めくくっておられるが、思うに、少子化がここまで進行してしまう前の段階で(世界の、というより現在の日本国の、と訂正はしておくけど)サステナビリティは維持できなくなっていたように思える。つまり死生観や世界観の変化も、少子化も、全部ひっくるめての話として、ある程度以上にきわまった社会契約的-個人主義的社会はサステナビリティにもともと問題を抱えていて、たとえばアメリカが移民を集めたり、東京が田舎者を集めたりするように、外部からの人口流入をあてにできなければ成立しないもののように思えてならない。
最近、この、サステナビリティという言葉がほうぼうで使われているけれども、国や都市によってサステナビリティのための課題は結構違っていて、たとえばニューヨークのような街はどれほど社会契約的-個人主義的社会を突き詰めようとも人口流入があれば街そのもののサステナビリティに問題はない。ニューヨークは、地球温暖化さえ回避できれば持続可能な街にみえる。
一方、東京や大阪のような東アジアの街はニューヨークほどには人口流入をあてにできないし、移民制度を正当化するポリティカルコレクトネスも含めた人文科学上の建付けも甘いので、地球温暖化を回避しただけでは持続可能ではない。まして、日本の町村部ともなるとサステナビリティなど午睡の夢、地域社会が丸ごと山林に沈もうとしている。
最後に話が脱線した。が、こんな具合に私は、今の日本の生活環境で暮らしている限り、子どもがいてもいなくても世界について考えるのは結構難しいとみているし、自分自身を顧みても、どこまで考えているといえるのか、疑わずにいられなくなる。
この、高度に個人化され、他人と深く付き合うことなく暮らせてしまえる社会のなかで、それでも過去や未来に連なる想像力を持てる人というのは、逆にどうやってそういう想像力を涵養しているのだろうか? あるいは、どういう想像力を持ったことをもって過去や未来に連なる想像力が持てていると定義して構わないのだろうか?
そのあたりが今の私にはなんだかよくわからない。たとえば地球温暖化についてニュースで見て、再生可能エネルギーを重視する企業の商品を買うよう心がける人がいるとして、それでもって過去や未来に連なる想像力を持てている人だと言って構わないものなのだろうか?
地球環境というマクロな視点を除外するなら、お盆や彼岸のたびに先祖の御霊をお迎えしているような、そういう生活環境で暮らしているのと比較すれば、私たちが過去や未来を肌で感じる機会と動機、いや、導線は少なくなっていると私は思わずにいられない。うまくわかってもらえるかわからないけれども、本当は、私は死生観や世界観を規定する第一要因はアーキテクチャとしての社会環境だと思っていて、宗教は、その後ろから追いかけてくるもの(またはアーキテクチャに沿って盛衰するもの)だとか思っている。死生観や世界観が変わるとしたら、それは第一にアーキテクチャが変わる時じゃあないだろうか。
長文になってしまったので今日はこのへんで。SNSが世界じゅうを繋ぐようになったからって、世界について考えるのが簡単になっているようには思えない。』