カテゴリー: 国内、文化活動、関連
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愛子さま、初めての歌会始 託した「旅立ち」への思い
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE214HJ0R20C25A1000000/『2025年1月22日 11:29 (2025年1月22日 12:13更新) [会員限定記事]
天皇家の長女、愛子さまは22日、皇居・宮殿で行われた新年恒例の宮中行事「歌会始の儀」に初めて参列された。…
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『「夢」がお題となった今回、社会に一歩踏み出した愛子さまが歌に託されたのは、高校や大学で共に学んだ友人たちへの思いだ。
愛子さまは2022年から歌会始に歌を寄せてきたが、学業を理由に儀式は欠席されていた。初出席となったこの日、クリーム色のドレス姿で、皇后さまの隣に着席された。歌には新社会人としての初々しい心情がにじんだ。
我が友とふたたび会はむその日まで追ひかけてゆくそれぞれの夢
愛子さまは24年3月に学習院大学を卒業し、翌4月から日本赤十字社(東京・港)で勤務されている。宮内庁によると、一緒に卒業した学友や、高校まで共に過ごし別の大学に進んだ友人たちが、それぞれの道を歩むなか、再会できる日を楽しみに夢に向かって励んでいこう、という気持ちを込められたという。
学習院大学を2024年3月に卒業した愛子さま(東京都豊島区)側近によると、愛子さまは歌をつくられるにあたり、和歌の指導役を務める宮内庁御用掛に相談したほか、天皇、皇后両陛下ともやり取りし、アドバイスを受けながら進められたという。
愛子さまは1月、国事行為の「新年祝賀の儀」のほか、新年の一般参賀、講書始の儀などの公務に、皇室の一員として精力的に臨まれている。日赤では情報誌の編集や研修会の運営などに取り組み、仕事と公務の両立を図られている。
(岩村高信、近藤彰俊)
日本赤十字社に勤めている愛子さま(2024年4月、東京都港区)
海外訪問や友人との日々を題材に
愛子さまが2022年以降、歌会始に寄せられた歌は下記の通り。友人との何気ない日々や、海外のサマースクールを前にした高校時代の心弾む気持ちなどを詠まれた。英国の学び舎に立つ時迎へ開かれそむる世界への窓(22年)
もみぢ葉の散り敷く道を歩みきて浮かぶ横顔友との家路(23年)
幾年(いくとせ)の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ(24年)
【関連記事】
・愛子さま23歳に 公務と日本赤十字、一歩ずつ歩み進める ・両陛下や愛子さま、講書始の儀に 古代の衣服などテーマ 』
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JAXAサイバー攻撃、未知の欠陥突く 中国系が関与
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE09CJD0Z00C25A1000000/『2025年1月20日 11:00 [会員限定記事]
宇宙航空研究開発機構(JAXA)が2023年6月以降に受けたサイバー攻撃のうち、2回は通信機器に潜む未知の欠陥を悪用されたことが分かった。「ゼロデイ攻撃」と呼ばれ、防ぐことは実質不可能だ。警察庁は中国系ハッカー集団「MirrorFace(ミラーフェイス)」の関与を断定している。国家を背景とする攻撃の脅威が増している。
警察庁によるとミラーフェイスの狙いは、日本の先端技術や安全保障に関わる企業や団…
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『警察庁によるとミラーフェイスの狙いは、日本の先端技術や安全保障に関わる企業や団体が保有する機密情報を盗み取るサイバースパイ活動とみられる。19年以降に210件の攻撃が確認された。関係者によると、JAXAもその中に含まれる。』
『JAXAへの攻撃は4回、うち2回が「ゼロデイ」
JAXAは24年7月、複数回のサイバー攻撃を受け内部情報が流出したと公表した。関係者によると、攻撃は23年6月〜24年5月に計4回あった。いずれも外部のインターネットから内部に接続する通信機器の欠陥が悪用されたことが原因とみられる。
機器に欠陥が判明した場合、一般的にはメーカーや開発元が公表し修正プログラムを配布する。JAXAへの1回目の攻撃は欠陥の公表から2週間後で、修正プログラム適用の作業中に起きた。24年1月の2回目は公表からわずか数時間後だったとみられる。
脅威なのは3回目と4回目の攻撃だ。いずれも機器の欠陥が公表される約2週間前に侵入された痕跡が見つかった。』
『攻撃を受けたJAXAの通信機器はそれぞれ異なるメーカーの製品で、事業所ごとに分かれたネットワークに分散していた。欠陥がある機器を狙い撃ちし悪用する手法に対し、「ハッカーが事前にJAXAを調査していたとしか思えない」と関係者はいう。
JAXAは取材に対し、「24年7月に一連の状況や対応、見解を公表しており、その内容以上のことは申し上げられない」とコメントした。』
『技術力と資金力が不可欠
ゼロデイ攻撃について、NTTデータグループの新井悠氏は「未知の欠陥を見つけ出し、攻撃に悪用するためには高度な技術力と資金力、人的リソースが必要だ」という。
ゼロデイに関する情報は、ネットの闇市場で億単位の価格で取引される場合がある。新井氏は機器の現物を入手したハッカーが自前で解析し、ゼロデイ攻撃の仕組みを研究していることも考えられると指摘する。
カネ目当てで活動するハッカー集団であれば、膨大な手間と資金を必要とするこのような攻撃手法は採らないのが通例。ゼロデイを仕掛けていること自体が、ミラーフェイスが国家の支援を背景としている攻撃者グループと判断される根拠の一つになっている。
米グーグル傘下のセキュリティー部門マンディアントはサイバー攻撃に悪用された機器の欠陥について、23年に公表された138件を分析した。このうち7割にあたる97件は、修正策が公表される前に攻撃されていた。』
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フジテレビCM差し止め拡大、日産など10社超に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC203310Q5A120C2000000/『2025年1月20日 13:06 (2025年1月20日 13:22更新)
フジテレビで放映しているCMを当面の間差し止める企業が相次いでいる。トヨタ自動車や日本生命保険、NTT東日本、花王、セブン&アイ・ホールディングス、日産自動車など少なくとも10社超が20日までに差し止めた。いずれもタレントの中居正広さんと女性とのトラブルを巡り、フジテレビの社員の関与が報道されていることなどを踏まえた対応としている。
フジ・メディアHD傘下のフジテレビジョンが17日に同問題に関する記者会見を開いて以降、CMを差し止める企業が増えている。日本マクドナルドホールディングスは「一連の報道とフジテレビ側の発表を総合的に勘案して判断した」(広報担当者)と説明する。
【関連記事】
・フジHD株価、一時8%高 株主総会に向け思惑
・フジテレビ、後手に回った調査委設置 見えぬ事実関係
・フジテレビ、中居さん巡る社員関与を外部委員会で調査 』 -
【箱根駅伝】中国人インフルエンサーが5区に侵入し撮影行為 日本のファンも激怒「マナー守ってよ」
https://ameblo.jp/bangkokjijii/entry-12881348870.html『1/5(日) 14:36
https://news.yahoo.co.jp/articles/4a55869ed1b6488f2e30d84b40d77acec8909c84
第101回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の往路(2日)で起きた違反行為に、ネット上で批判が相次いでいる。
山上りの5区で往路優勝と総合優勝を果たした青学大の若林宏樹(4年)が山道を駆け上がる中で、中国人インフルエンサーの沈烏賊が車道を走りながら動画を撮影。
その姿が動画で拡散され、波紋が広がっていた。
大会を主催する関東学連はかねて「車道上での応援は危険です。
必ず歩道から応援してください」などと呼びかけていた。
ファンからは
「彼らがやっている事は他でもない迷惑行為及び犯罪」
「SNSの収益化がこうゆう過剰な行動に向かわせてる感じがする」
「結局謝罪してるけど…マナー守ってよ」
「こういう迷惑行為には、アカウント剥奪処分くらいしないと駄目」
などの声が上がっている。
騒動後、沈烏賊はSNSで謝罪の意を表明。しかし、中国でも厳しい指摘が見受けられており、大きな問題となっている。
==============監督にしてみれば、選手を守るために中継車に追突して、中継車を止めてでも選手をさきに行かせたいと思う。
今回はバイクのカメラなんだが、うっかりしたら伴奏の監督車が、ぶつかっちゃうかもしれないんだよね。
今回の妨害は、バイクカメラも中国人も、共に第5区でおきたですよ。
山登りの第5区ですから、精神的にも相当きついはずです。
このカメラクルーは今後一生、すべての駅伝への出入りを禁止にしてほしいですわ。
中国人も、再入国不可対応してもらいたいものです。
警察も並走してるだけで、何もしないよね。
今回の中国人の妨害行為も、白バイは警告するだけで何もしない。
日本の警察なので、舐められてるんだと思う
中国人なので、何言ってるか判らなかったって、言い訳をすると思う。
折角白バイで走ってるんだから、車体を使って止められないのかっておもう。
そういう役目はないって言うのかな?
選手の邪魔をするバイクカメラや中継車や中国人は、沿道で応援してる人が飛びついて止めても良い気がします。
バイクカメラや中継車、人が立ちはだかったら止まるしかないでしょ。
中国人にはタックルしても、バイクカメラや中継車には、立ちはだかるだけで触っちゃいかんよ。
どうせ時速20km程度のスピードで走ってますから、十分停止できるでしょ。
何の罪になるのかねえ?
通常の交通じゃないですからね。
「危険を防いだ」と言い張って、警察から感謝状を貰いたいくらいですわ。
あははー
テレビクルー、本当に程度が低い。
一言
今回はバイクの運転手が、下手糞過ぎたという事です。
ネット民のコメント
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ぶつかりそうなほど接近したと言うより、バイクが進行方向を塞いだんだよね。
斜め前なら大丈夫だと思ったんだろうけど、コーナーだから選手はアウト側からイン側にコースを切りたかった。しかしバイクはまっすぐ行くと思って前ではなく斜め前から撮影した。
それが逆に邪魔になったという事。視聴者の自分が見たいのは選手、気になるのはチームと監督の選択決断。なので映像は白バイより外からの映像て十分。白バイの内側に入り込み映り込むバイクと人情話をばら撒くアナウンス、それらの無い副音声希望。自身の爪痕だけに暴れている若手の様な報道姿勢にスポンサーからの注意が欲しい。
カメラを持つとファインダーの中以外の周りの状況が見えなくなるようで、何年か前陸上競技でゴールした一位の選手を追ったカメラマンがトラックに入りケーブルが他の選手の妨害をした事があった。
その時は謝罪がありました。20m先から撮影するとかにすればリスクは減ると思う。近づいた映像とかより引いた絵でもしっかり周りとの距離感とかが見られた方がいい。1号車などの中継車はだいたい平地なら50mぐらい先を走ってるし、山でも30mぐらい前を走ってる。全然そのぐらいの距離感でも問題ない。
しっかりとした下調べができてないというか、思い込みの下調べしかできてなさそうですよね。アナウンサーとかもそうですが、事前準備ばっちりしてきました!なので、外れた事はできません!という感じが多く見受けられました。感動をお届けしたいと言いますが、テレビ局側は自分達の手柄探しに重きを置いている気がしてなりません。
視聴者はそこまでして映像を望んでないと思います。
メディア側の勝手な思い込みで選手を妨害する様な事は、今後無いようにしてもらいたいです。
選手ファースト、安全第一でお願いしたいですね。もっとバイクとか中継車とか警察の白バイも距離空けて欲しいと思いますね
すこし詰めすぎな気がしますよ
いい絵を取りたいテレビ局やなるべく早く撤収したい警察の思惑もわかりますけど
選手にしてみるとちょっと邪魔かなあと感じる場面が結構ありますよイクカメラ)とも一生懸命だったから、ドチラが良い悪いはないと箱根駅伝を経験された芸能人の方もいましたが、選手の中には一生に一度のチャンスを懸命に走ってますがバイクカメラは免停でもならなければ、来年も再来年も撮影の機会はありましょう
荒い言葉も、こうした場面では敬語が自然に使えたら集中してない証です暗黙の了解でなく、平地では15メートル、山の登りでは10メートル以内の接近禁止ルールとかにしたら良いのではと思います。カメラはズーム機能など今もこれからも優れた技術が期待できるから撮影には問題な
1区、2区でも、やたら白バイが多いことに気になりますした。進行も護衛も兼ねているとは思うけど、結構、選手の進路を塞いでいるように思えました。選手を守る側も時に邪魔になりえます。プロだからと過信しないで、万が一を想定して運営して欲しいです。選手ファーストだけは忘れて欲しくない。誰のための誰が主役かを勢いに任せないで考えて欲しい。
主催は関東学連だけど、実際は共催の読売新聞主催のようなもの。系列の日テレは当然、社命をかけて良い画を撮らなきゃならないし、他局や各スポーツ紙も画像貰わなきゃいけないから、表立って日テレを責めることはできない。選手なんてどうでも良いって感じで、また、旧メディアの俺様感が出た事件だね。
スポーツでの、特に陸上競技では、顔のアップは要らないです。ランナーの前から撮ると言うことは、バイクの排気ガスが直接ランナーにかかってしまうと言うことです。その辺のランナーへの配慮も、必要かと思います。
バイクカメラから謝罪はないのか?TV見てたけど明らかに超危険な行為でした!言われて当然だ!道路交通違反ではないのか。第一トライクに車幅を超えた機材を積んでいるし高さも結構あった。警察車両もはっきり言って邪魔だし選手に迷惑かけているTVに写ろうとウロウロしているし。バイクカメラや警察車両は選手から2、30メートル以内には進入禁止にするべきではないか?
5区に関しては、固定カメラを中心に運営すれば良いだけでしょうよ。実際、小涌園前とかの中継は機能しているし。上り坂のS字連発では重い中継車もスピード管理が難しい。バイクもS字の反対を常に走るのはクロスするから無理。車間距離制動含めて、観ていてハラハラする中継など要らん、と思いますが。
皆選手のベストパフォーマンスが見られることを求めてるのに本末転倒な理屈。
選手の安全を第一に考えて撮影する大変さに緊張するならまだ分かるけど視聴率のために緊張するのはスポーツ実況としては発想として3流どころじゃない気がする。
誰も中継ファーストなんて求めてないよ。見てる側からしても中継車、バイク、邪魔な時ある。後ろから来てる選手とかも見えないし。全体を撮るように遠目から撮るのでは駄目なのでしょうか。カメラにはズーム機能だってあるのに、なんであんな近くで撮るの?素朴な疑問。
万が一事故となれば、おそらく中継バイク側に100パーセントに近い過失責任が問われると思う。中継バイクに節度、わきまえがなくて起こったことだと思う。それに切羽詰まった選手が「よけてください」なんて言ってられないないと思う。
選手の戦場であるコース内にカメラが入る異常さ。野球やサッカーで臨場感ある映像を撮りたいからってグラウンド内にカメラマンやアナウンサーが立つ?
マラソンや駅伝は移動があって追いかける必要があるから別?
だったら、車線から1.5メートル内のみ走行可能とかルールを作ればいいだけ。ルールがあれば選手もそのルール内でコース取りするだけだから。選手ファーストより中継ファーストになるくらいのレベルなら、他局に譲った方が良い。
テレビなどにも役割があるのは重々承知だが、守るべきところや競技そのものの邪魔をするくらい選手か中継かの大切さの優先順位が分からないのは以ての外。関東学生陸上競技連盟は日テレに強く抗議しないのでしょうか?
選手が安全に競技に集中できる状態を作るべき主催者側が、それを怠っていること自体を問題視すべきと思います。何時も思うのだが、箱根駅伝の放送は殆ど外部に丸投げではないか、それに中継のアナウンサーの自分が目立ちたい感が前面に出ているので私は結果しか見ない、あくまで主役は選手。特にこの系列の放送は上から目線が多いと思う。
その時の状況を考えずに、出てきた言葉だけを切り取って「コンプライアンス」だなんて、昨今何かと世間を騒がせているどっかのマ◯ゴミの様な言い分ですね。
この日のために必死に練習を積んできて、いざ本番で過酷な山登り区間を、自分の限界まで絞り出している選手が発した言葉に対して“暴言”だなんて、少なくとも自分には違和感しかないですね。============== 』
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止まらぬ新聞の販売部数減 読売も1年で43万部強減 元旦の紙面で試みた一策
https://www.zaikei.co.jp/article/20250104/795962.html#google_vignette『2025年1月4日 11:21印刷
日本ABC協会の発表にあらためて、「新聞の販売減」を痛感した。昨年9月の平均販売部数は全国紙ベースで、こんな状況とか。「1位:読売新聞:578万2000部:前年同期比43万6732部減」「2位:朝日新聞:334万9780部:22万3898部減」「3位:毎日新聞:142万7361部:20万2143部減」「4位:日本経済新聞:135万4962部:6万7692部減」「5位:産経新聞:83万9219部:7万6012部減」。
【こちらも】ネット活用M&A市場「SMART」運営の、ストライク株投資はストライクか!?
ABC協会の発表は各社の報告に基づいて行われている。象徴的なのはかつて1000万部を誇っていた読売がいつの間にか、600万部を割り込み1年間で約43万部を減らした点。朝日も毎日も1年間で20万部以上を減らしている。そしてこの減少トレンドは今後とも続くと予想されている。
少なくても読売新聞にして広告収入なくしては、経営が成り立たない状況にあるとして決して過言ではあるまい。
「象徴的」と感じたのは、元旦の読売新聞。総頁数は40頁のうち19頁が、一面広告で埋め尽くされていた。ある種、妙な寂しさを覚えた。天邪鬼な気持ちが蠢いた。これぞとばかりに幅を利かしている、広告を活かす方法はないものか・・・。「一面広告を打つぐらいだから金はあるということだろう」と一方的に判断し、広告主の上場企業は「投資企業として価値があるか否か」の篩にかけてみた。
I:昨年大納会の終り値の予想税引き後配当利回り。
II:過去10年間の修正済み株価パフォーマンス。
III:IFIS目標平均株価と時価の乖離。こんな結果になった。読者諸氏に参考にして頂ければ幸い。
★トヨタ(7203):I:2.29%、II:2.08倍、III:時価3146円に対し3195円。
★積水ハウス(1928)I:2.73%、II:2.38倍、III:3782円対4194円。
★大和ハウス(1925)I:2.7%弱、II:2.1倍、III:4858円対4992円。
★日本ハウスHD(1873)I:2.7%弱、II:-37%強、III:算出対象外。
★三井住友海上(MS&ADHD、8725)I:3.4%弱、II:3.6倍、III:3449円対4083円。
★アシックス(7936)I:0.5%強、II:4.36倍、III:3110円対3389円。
★キヤノン(7751)I:2.3%余、II:35%、III:5161円対5295円。
★サントリー食品(2587)I:1.78%余、II:2.49倍、III:5013円対6150円。(記事:千葉明・記事一覧を見る)』 -
正力松太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の旗 日本の政治家
正力 松太郎
しょうりき まつたろう『読売新聞八十年史』より(1955年9月撮影)
生年月日 1885年4月11日
出生地 日本の旗 日本・富山県射水郡枇杷首村
(現:射水市)
没年月日 1969年10月9日(84歳没)
死没地 日本の旗 日本・静岡県熱海市
出身校 東京帝国大学(法学部)卒業
前職 内務官僚
警視庁警務部長
内閣情報局参与
京成電気軌道総務部長
読売新聞社代表取締役社長
日本テレビ放送網代表取締役社長
讀賣テレビ放送取締役会長
読売ジャイアンツ創立者・初代オーナー
日本武道館会長
所属政党 (翼賛政治会→)
(無所属→)
(日本民主党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
富山県高岡市名誉市民
富山県射水市名誉市民
駒澤大学名誉博士
大日本武徳会講道館柔剣道四段[1]
講道館柔道十段
野球体育博物館特別表彰(1959年)
法学士
配偶者 初婚・正力布久子
再婚・正力波満
子女 長男・正力亨
二男・正力武
親族 孫・正力源一郎
孫・関根達雄
日本の旗 第4代 科学技術庁長官
第8代 国家公安委員会委員長
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 – 1958年6月12日
日本の旗 初代 科学技術庁長官
内閣 第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1956年5月19日 – 1956年12月23日
日本の旗 第11代 北海道開発庁長官
内閣 第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1955年11月22日 – 1956年12月23日
日本の旗 衆議院議員
選挙区 富山県第2区
当選回数 5回
在任期間 1955年2月28日 – 1969年10月9日
日本の旗 貴族院議員
選挙区 勅選議員
在任期間 1944年5月18日 – 1946年4月13日[2]
テンプレートを表示正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 – 1969年〈昭和44年〉10月9日[3])は、日本の実業家、政治家。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。
読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したために「プロ野球の父」と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したために「テレビ放送の父」と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために「原子力の父」とも呼ばれる[4]。
1955年(昭和30年)から1969年(昭和44年)まで衆議院議員(自民党に所属)を務めた。政界でも一定の影響力があった。
駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。
1885年(明治18年)に富山県射水郡枇杷首村(現在の射水市)生まれ。1911年に東京帝国大学(法学部)卒業で旧内務省に入省。
1923年12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は警視総監の湯浅倉平とともに引責辞職[5]。
翌1924年2月、後藤新平の助力のもと経営難で不振の読売新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。
意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。当初二流紙扱いであった読売は、1941年に発行部数で朝日新聞・毎日新聞を抜いて東日本最大の新聞となる。
同年秋には、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対し、撤回させた[5]。
1940年の開戦時は大政翼賛会総務であったために、1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)[6]。A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、後に不起訴となったが公職追放処分を受けた。戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)を行っていたことが、アメリカ合衆国で保管されている公文書により判明している[7][8][9][10][11][12]。
また、1960年代に衆議院議員(自民党に所属)になり自由民主党総裁の座も狙っていた。読売新聞社の部下だった渡邉恒雄を中曽根康弘(当時、自民党の衆議院議員)との連絡役にしていた[13]。CIAエージェントとしてのコードネームはPODAM。
略年譜
左から吉田茂首相、堤操(歌人)、正力、堤康次郎
(昭和29年7月衆議院議長就任レセプション)1955年
『キネマ旬報』1964年1月新春特別号より
1885年(明治18年)
4月11日 – 富山県射水郡枇杷首村(後の大門町、射水市)に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった[14]。
雄神小学校から高岡中学(後の富山県立高岡高等学校)に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、8キロメートルの道のりを地下足袋姿で通った[15]。第四高等学校入学[注釈 1]。
1906年(明治39年) – 三高との高専柔道の対校戦に優勝[注釈 2][注釈 3]。
1907年(明治40年)
7月 – 東京帝国大学(法学部)入学[注釈 4]。
1911年(明治44年)
7月 – 東京帝国大学(法学部)卒業。内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)
1912年(明治45年/大正元年)
11月 – 高等文官試験に合格。
1913年(大正2年)
6月 – 警視庁入庁、警察官となる。警務部警務課勤務。
1914年(大正3年)
6月 – 警視に任官、日本橋堀留警察署長。
1917年(大正6年)
2月 – 牛込神楽坂警察署長。
9月 – 警視庁第一方面監察官。早稲田騒動を鎮圧。
1918年(大正7年)
10月 – 米騒動鎮圧の功により、従六位に叙せられる。
1919年(大正8年)
6月 – 警視庁警務部刑事課長。
1921年(大正10年)
6月 – 警視庁官房主事。
7月 – 正六位に叙せられる。
1923年(大正12年)
9月 – 関東大震災において「朝鮮人暴動の風説」が蔓延したことで、関東大震災朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、甘粕事件が発生。1944年(昭和19年)警視庁で行った講演において正力は、虚報は震災の衝撃と通信電信途絶による人心の疑心錯覚から生じたもので、それに翻弄された当時の警視庁は事態への対応に失敗したと述べている(『正力松太郎 悪戦苦闘』 “米騒動や大震災の思い出”[18])。
10月 – 警視庁警務部長 虎ノ門事件
1924年(大正13年)
1月 – 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。
1928年(昭和3年)
8月 – 外部招聘により在籍していた京成電気軌道での事件「京成疑獄事件」に連座していたため逮捕。直後に起訴され、裁判の結果、禁錮4ヶ月・執行猶予2年の判決を受ける。
1931年(昭和6年)
神奈川県三浦郡逗子町(現在の逗子市)に移住。詳細は「逗子邸宅」を参照。
1934年(昭和9年)
ベーブルース他の大リーグ選抜チームを招聘[19]、大日本東京野球倶楽部創立。
1935年(昭和10年)
2月 – 右翼団体「武神会」長崎勝助のテロに遭い、瀕死の重傷を負う。
1940年(昭和15年)
9月 – 大政翼賛会総務に就任。
1943年(昭和18年)
5月 – 翼賛政治会総務に就任。
6月 – 内閣情報局参与に就任。
1944年(昭和19年)
5月18日 – 貴族院議員に勅選される[20]。
10月 – 小磯内閣顧問に就任。
1945年(昭和20年)
10月 – 第1次読売争議起こる。
12月 – A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収容される[注釈 5]。
1946年(昭和21年)
1月 – 公職追放。
1947年(昭和22年)
9月 – 不起訴、釈放。(追放中にプロ野球再編問題が起き、正力に球団創設を勧められた毎日新聞が千葉ロッテマリーンズの前身の毎日オリオンズ創設)
1950年(昭和25年)
10月 – 読売新聞、有限会社から株式会社に改組。
1952年(昭和27年)
10月 – 日本テレビ放送網を設立。初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年(昭和28年)
8月 – 日本テレビ放送網本放送開始。
1955年(昭和30年)
1月 – 米国の新たな情報キャンペーン「平和のための原子力」プログラムを読売新聞のトップ記事で大々的に紹介し、放送やイベントを含む半年に渡る一大PR活動を開始[22][23]。
2月 – 第27回衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選し衆議院議員(自民党に所属)になる。
11月 – 第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官
1956年(昭和31年)
1月 – 原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。(『原子力委員会月報』1957年1月号)原子力産業会議の設立を提唱。
5月 – 初代科学技術庁長官に就任。
1957年(昭和32年)
7月 – 第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。
国家公安委員長としてパトカーや移動通信の導入を推進し、警察の近代化に貢献した[24]。
1958年(昭和33年)
6月 – 読売新聞の社主に復帰。
8月 – 讀賣テレビ放送会長に就任。
1961年(昭和36年)
6月 – 国会議員柔道連盟会長。
1962年(昭和37年) – 財団法人日本武道館初代会長 駒澤大学より名誉博士号を授与される。
1964年(昭和39年)
11月 – 勲一等旭日大綬章を受章(没後、勲一等旭日桐花大綬章追贈)。
1965年(昭和40年)
6月18日 – 高岡市名誉市民[25]、26日 – 大門町名誉町民(合併に伴い、現在は射水市名誉市民)[26]。
1967年(昭和42年)
5月 – 報知新聞社社主に就任。
1969年(昭和44年)10月9日 – 保養中の国立熱海病院で、午前1時頃に突然意識が薄れ、血圧も低下した。駆けつけた医師の手当を受けたが、午前3時50分に死去[27]。奇しくもこの日は、読売ジャイアンツがセントラル・リーグを制覇(5連覇)した日だった。叙・従二位。14日に日本武道館にて葬儀。柔道八段から十段に。墓所は神奈川県鎌倉市にある円覚寺。1968年のサッカー日本代表のメキシコ五輪銅メダルの後、将来のプロ化導入を目指した日本サッカー協会会長野津謙の要請で[28][29][30][31]、サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ1969)をこの年立ち上げ[28][29][30][31]、これが事実上正力の最後の仕事となった。読売グループはサッカークラブの経営から完全に手を引き、読売新聞大阪本社がセレッソ大阪の、日本テレビがヴェルディの運営する日テレ・ベレーザの、それぞれスポンサーである。
2018年(平成30年)
10月29日 – 第15回囲碁殿堂入り[32]内務官僚時代
警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)
警視庁官房主事として1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。その際、朝鮮人の暴動説を新聞記者を通じて流布させ、関東大震災朝鮮人虐殺事件の一因を作った[33]。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。
刑事畑においては、島倉事件(のちに甲賀三郎が『支倉事件』の題名で小説化した)[注釈 6]の捜査にあたり、東大同窓生が犯した鈴弁殺し事件においては自首を仲介した。
新聞経営
1924年(大正13年)、番町会グループである郷誠之助、藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(後の読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。
戦前は報知新聞社の販売局長だった務臺光雄を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪資本の東京朝日新聞・東京日日新聞などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞の全国進出を狙って九州日報など日本各地の地方紙を買収して経営参加に成功するも、新聞統制によって計画は頓挫した。
戦後、読売新聞の全国紙計画が本格化し、1952年(昭和27年)に大阪讀賣新聞社(後の読売新聞大阪本社)を設立、念願の西日本進出を果たした。以後、札幌と正力のお膝元である高岡市にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年(昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州に読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を務臺との二人三脚で朝日・毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。
大リーグ招聘・球団結成
1934年(昭和9年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。大リーグ選抜チームは、日本で17試合を戦い、一試合当たりの観客数が6万5000人(大リーグでの平均動員数に匹敵)に達することも多かった[19]。当時アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも、全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が創設され、1936年(昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、京都商業から慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も、沢村が中学卒であったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。
また、沢村を中退させたのと同様の手口でヴィクトル・スタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した[34]。
旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、家庭の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている[35]。
中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書[36] の中で断言している。
正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。
戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグとパ・リーグに分かれることになる。ちなみに正力自身としては、当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であったが、日本プロ野球が実際に2リーグに分かれた際、読売(読売ジャイアンツ)はセ・リーグ、毎日(毎日オリオンズ)はパ・リーグの所属となった。
襲撃事件
1935年(昭和10年)2月22日、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられた。傷は浅く頸動脈は外れており命に別状はなかったが、出血ははなはだしく輸血が行われた。直接の実行犯の長崎勝助は武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘して多額の利益を与えたこと[37]、神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。襲撃の報を受けたベーブ・ルースは見舞いの電報を正力に送っている[19]。
襲撃犯は懲役5年の求刑を受けたが、1935年(昭和10年)6月12日、東京刑事地方裁判所は「殺意は認められなかった」として殺人未遂を傷害罪に更訂、懲役3年の判決を言い渡した[38]。
テレビ放送事業
→「正力マイクロ波事件」も参照ラジオ民間放送で出遅れていた反省もあり、正力はテレビ放送では最初に動いた。電通の吉田秀雄のもとへテレビ放送について相談に行ったが、吉田は聞き役に回り、積極的な動きを示さなかったという。1951年(昭和26年)10月、正力は電波監理委員会へ「日本テレビ」の免許を申請する。翌1952年(昭和27年)7月31日、免許出願していた日本テレビ放送網(以下、日テレ)に、日本のテレビジョン放送局としては初となる予備免許が交付された。
日テレは当初、東京を本部として札幌市から鹿児島市まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という郵政省(当時)の見解により、やむなく関東地方のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。
当時の日テレの放送機材はアメリカ合衆国からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れた。一方、日本放送協会(NHK)は、日テレより後に予備免許が下りたものの、ほとんどの機材を国産品としたため、1953年(昭和28年)2月1日に東京で日本初のテレビジョン放送(のちのNHK総合テレビジョン)を開始することになった。
同年5月15日、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のためのユニテル・リレー網計画」の説明会が行われた。ユニテル・リレー網はテレビに留まらないマルチメディア事業であり、正力の懐刀柴田秀利も、日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元OSS(米軍戦略諜報局)局員か、アメリカ中央情報局(CIA)スタッフか、ジャパン・ロビーかであった[注釈 7]。
そして、NHKより半年遅れの8月28日に日テレは日本初の民間放送によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した[注釈 8]。日テレは民間放送であることから、コマーシャルを収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からのスポンサー獲得のため、東京都内を中心とした繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に街頭テレビを常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、力道山などが活躍したプロレスを始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。
1958年(昭和33年)10月、東京のテレビ電波塔「東京タワー」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、麹町本社鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・新宿に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、1968年(昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。そして、正力の死後の1970年(昭和45年)11月10日に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した[注釈 9]。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である日本テレビサービスが日本テレビゴルフガーデンを建設したが、1997年(平成9年)12月、社有地が売却され、2012年(平成24年)4月に新宿イーストサイドスクエアが建築されている。
日本テレビ放送網の役職と国会議員活動の関係
1952年10月28日 – 日本テレビ放送網設立、代表取締役社長に就任。
1955年2月28日 – 第27回衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選し衆議院議員になる。
1955年11月22日 – 第3次鳩山一郎内閣で北海道開発庁長官に就任。日本テレビを離脱(社長辞任)。
1956年5月19日 – 科学技術庁長官に就任。
1956年12月23日 – 北海道開発庁長官および科学技術庁長官を辞任。
1957年1月28日 – 日本テレビ放送網取締役に選任、日本テレビに復帰。
1957年2月6日 – 日本テレビ放送網取締役会長に選任。
1957年7月10日 – 第1次岸改造内閣で国務大臣に就任。日本テレビを離脱(会長辞任)。
1958年6月12日 – 国務大臣を辞任。
1958年7月10日 – 日本テレビ放送網取締役会長に選任、日本テレビに復帰(以後、死去まで役職固定)。CIAの協力者としての活動
早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後にアメリカ中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[40]、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。
米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために作戦名‘KMCASHIR’という心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した[23]。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダである「平和のための原子力」を大衆に浸透させるために、まずは正力と親しい柴田秀利と接触した[22]。
日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして「PODAM」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「POJACPOT-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「PODALTON」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)[41][42]。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「POHALT」というコードネームを与えられた。
ベンジャミン・フルフォードの主張によると[注釈 10]、正力をCIAに推薦したのは上院議員カール・ムントであったという。なお、CIAは「正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない人間だった」と評価しているとされる[44]。
遺訓
正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。
巨人軍は常に紳士たれ
巨人軍は常に強くあれ
巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ逗子邸宅
旧正力家別邸
情報
設計者 1961年増築:清水一
施工 1961年増築:水澤工務店
構造形式 木造 瓦葺 数寄屋造り
建築面積 200 m2
延床面積 254.48 m2
階数 地上2階
竣工 1931年(昭和6年)以前
改築 1939年(昭和14年)
1961年(昭和36年)
2016年(平成28年)
所在地 〒249-0007
神奈川県逗子市新宿三丁目
文化財 登録有形文化財(建造物)
指定・登録等日 2022年2月17日(令和4年)
テンプレートを表示正力松太郎が1931年から1969年に死去するまで居住していた神奈川県逗子市の邸宅。1939年に増築、1961年に大規模増改築。延床面積254.48平方メートル(蔵除く)。
1965年1月2日に逗子邸宅で新年会が行われ、記念撮影された写真を日刊スポーツ / アフロが所有している。参加者は正力松太郎、正力亨、清水与七郎、川上哲治、柴田勲、広岡達朗、関根潤三、王貞治、金田正一、長嶋茂雄。
正力松太郎の長女梅子(小林與三次)の邸宅が隣接しており、正力の死後、空き家を小林夫妻が管理していたが、2013年に小林梅子が死去。小林梅子の孫で、正力松太郎の曽孫の塚越暁が旧正力邸の管理人兼居住者として名乗りを上げ、2016年に大規模改修。同時期に小林梅子邸は解体されたが、建具や建材は旧正力邸に再利用されている。
2018年9月から、逗子旧邸(応接間16帖、和室10帖、縁側2帖半、庭園)を会議室、イベント、写真撮影の古民家レンタルスペースとして開放している。
2022年2月17日に国の登録有形文化財に登録された。
外部リンク
旧正力家別邸主屋 – 文化遺産オンライン(文化庁)
旧正力家別邸蔵 – 文化遺産オンライン(文化庁)
旧正力家別邸表門 – 文化遺産オンライン(文化庁)
旧正力家別邸主屋 – 国指定文化財等データベース(文化庁)
旧正力家別邸蔵 – 国指定文化財等データベース(文化庁)
旧正力家別邸表門 – 国指定文化財等データベース(文化庁)
【逗子海岸まで徒歩5分】築80年の古民家。庭も利用可。会議利用、展示会、写真撮影に! – スペースマーケット家族・親族
正力家
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による[14]。江戸嘉永年間(1848年 – 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した[14]。この功により、庄助は奉行から苗字帯刀を許された[14]。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている[14]。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった[14]。
祖父・庄助[14]
父・庄次郎[14](土建請負業[14])
母・きよ[45]松太郎の両親はもともと本願寺の熱心な門徒だった[45]。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行をかかさなかった[45]。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった[45]。
前妻・布久子[46]
警視庁の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監の安楽兼道が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合いさせ、結婚させたことでもわかる[46]。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった[46]。その長女も8歳で早世した[46]。
後妻・波満
1895年(明治28年)4月生
正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県上総湊(後の富津市)出身で精華女学校の和裁教諭の吉原波満と再婚した[47]。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥が、波満の実家と縁つづきという関係からだった[47]。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった[47]。長男・亨
長男・亨 … 波満との子
1918年10月24日 – 2011年8月15日(92歳没)〔大正7年 – 平成23年〕
第2代讀賣社主、第2代球団オーナー長男嫁・峰子[48]
1936年 – 2019年8月17日(83歳没)〔昭和11年 – 令和元年〕
旧子爵の元貴族院議員梅溪通虎の次女[48]
妹は池坊専永夫人の保子である[48]。
孫・源一郎
1963年11月23日生(61歳)
読売新聞グループ本社、株式所有3045株 4.97%。
1986年、日本テレビ放送網入社。2020年、CS日本(CS日テレ)代表取締役社長。
孫・美緒
読売新聞グループ本社、株式所有3029株 4.94%。長女・梅子
長女・梅子 … 後妻との間の子
1920年 – 2013年7月30日(93歳没)〔大正9年 – 平成25年〕
長女婿・小林與三次
1913年7月23日 – 1999年12月30日(86歳没)〔大正2年 – 平成11年〕
小林與三次と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた[49]。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった[49]。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった[49]。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない[49]。結婚についてはジイさんから直接話があった[49]」という。
小林與三次の実家について佐野眞一によると「要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった[14]。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ舟の船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という[14]。孫・塚越陽子
読売新聞グループ本社、株式所有2804株 4.58%。
曽孫・塚越暁
1978年4月15日生(46歳)
正力松太郎逗子旧邸の管理人兼居住者。
神奈川県逗子市生まれ。山手学院高等学校、一橋大学卒業。
2002年4月 – 2013年9月、リクルートに勤務。
2012年4月、個人事業「子ども原っぱ大学」企画運営。
2015年7月、HARAPPA株式会社 代表取締役「原っぱ大学ガクチョー」。二女・利子
二女・利子 … 後妻との間の子
1923年 – 2007年9月21日(84歳没)〔大正12年 – 平成19年〕[50]
二女婿・関根長三郎
1918年生
元三菱銀行副頭取関根善作の三男、元衆議院議員、信濃毎日新聞社長小坂善之助の孫。
孫・関根達雄
1949年4月17日生(75歳)
読売新聞グループ本社、株式所有4800株 7.83%。
1972年、読売新聞社入社。二男・武
二男・武 … 柳橋の元芸者中村すゞとの間の子
1934年 – 1985年5月(51歳没)〔昭和9年 – 昭和60年〕
日本テレビの副社長に就任した亨が最初に断行したことは、同社の役員だった弟の武を、傍系のよみうりランドに追放したことだった[51]。正力から認知され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか2年にすぎなかった[51]。武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、1985年(昭和60年)5月、51歳で死去した[51]。熱望していた結婚は結局叶わず、独身のままの淋しい死だった[51]。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどの酒をのみつづけた[51]。愛人・中村すゞ
正力を演じた俳優
津川雅彦『日本プロ野球を作った男たち』(2002年、テレビ東京)
大森立嗣『菊とギロチン』(2018年、映画)
評伝
長尾和郎『正力松太郎の昭和史』実業之日本社、1982年
波多野勝『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』芙蓉書房出版、2013年
関連項目
読売新聞グループ本社
よみうり(かつて読売ジャイアンツを運営していた企業)
スポーツ報知
ウォルト・ディズニー・カンパニー
クラブ33
日本の原子力発電所
田邊宗英
真鍋八千代
松本滝蔵
キャピー原田
萩山教嚴 – 正力の議員秘書だった。
務臺光雄 – 正力の大番頭と呼ばれた。
正力松太郎杯国際学生柔道大会
おはよう!こどもショー – 正力が日本テレビ会長時代に放送を開始した子供向け番組で、正力の没後も1980年9月まで続いた(なお、平日版の後を襲ったのは2001年まで続いた『ズームイン!!朝!』である)。
正力松太郎賞 – 日本のプロ野球の発展に大きく貢献した人物に贈られる賞。
日本テレビ放送網
讀賣テレビ放送
北日本放送脚注
[脚注の使い方]注釈
^ 同級生に河合良成(小松製作所会長)、品川主計(読売ジャイアンツ代表)など
^ この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった
^ 巴投げを防がれた所からの送襟絞とする説あり[16]。
^ 河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連初代会長)などが同級。柔道と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった[17]
^ 巣鴨の正力は、娑婆にいる時と変わらぬ傍若無人ぶりで、同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのは、まず正力の大イビキだった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が下駄で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった[21]
^ 『支倉事件』は、甲賀が正力の新社長就任に際して1927年に『読売新聞』に連載したもの。なお、登場人物名は仮名となっており、正力は「庄司利喜太郎」、また、被告人の弁護にあたった布施辰治は「能勢弁護士」となっている。
^ OSS出身で説明会と最も深く関わったのは、X-2部長の ジェイムズ・マーフィ である。1000万ドル借款をアメリカ政府から取り付けるための交渉など全般を担当する弁護士として、日テレに雇われていた。説明会にも主催者として直接関わり、出席もしていた[39]。
^ 日テレで初の地方完全系列局で、務臺光雄が設立に関わった讀賣テレビ放送(読売テレビ。大阪市)の初代会長も務めた。
^ 2013年5月31日に地上デジタル放送の完全移行に伴い、NHKと他の在京キー局の基幹送信所は東京スカイツリーに再移転した。なお東京タワーは予備送信所としての機能に移行している。
^ カール・ムント米上院議員は、「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義の撲滅に乗り出した「プロパガンダの雄」である。1951年(昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力はテレビ放送免許を取得、1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した[43]。
出典
^ 時事通信社 1920.
^ 『官報』第5781号、昭和21年4月25日。
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参考文献
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外部リンクウィキメディア・コモンズには、正力松太郎に関連するカテゴリがあります。
正力松太郎 略歴
高岡市秘書課 名誉市民 正力松太郎 肖像
濱田信夫、新聞経営の革新と大衆文化の演出 : 正力松太郎の企業家活動をめぐって」 『紀要visio : research reports』 2005年 32巻 p. 23-34, doi:10.15005/00000130, 九州ルーテル学院大学
公職
先代
創設
宇田耕一 日本の旗 科学技術庁長官
初代:1956年5月19日 – 同12月23日
第4代:1957年7月10日 – 1958年6月12日 次代
三木武夫
先代
創設
宇田耕一 日本の旗 総理府原子力委員会委員長
初代:1956年1月1日 – 同12月23日
第4代:1957年7月10日 – 1958年6月12日 次代
宇田耕一
三木武夫
先代
大久保留次郎 日本の旗 国家公安委員会委員長
第8代:1957年6月10日 – 1958年6月12日 次代
青木正
先代
大久保留次郎 日本の旗 北海道開発庁長官
第11代:1955年12月22日 – 1956年12月23日 次代
石橋湛山(事務取扱)
表話編歴
日本テレビ 歴代社長・会長
表話編歴
読売テレビ歴代社長・会長
表話編歴
読売ジャイアンツ歴代オーナー
表話編歴
読売新聞グループ本社
表話編歴
日本の旗 文部科学大臣 (科学技術庁長官)
表話編歴
日本の旗 総理府原子力委員会委員長 日本国政府の紋章
表話編歴
日本の旗 国家公安委員会委員長
表話編歴
日本の旗 国土交通大臣 (北海道開発庁長官)
表話編歴
富山県の旗 旧富山2区選出衆議院議員(1947年 – 1993年) 国会議事堂
表話編歴
野球殿堂表彰者
表話編歴
柔道十段
表話編歴
囲碁殿堂表彰者
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ: 正力松太郎20世紀日本の実業家日本の内務官僚日本の警察官日本の警察官僚貴族院勅選議員昭和時代の貴族院議員日本民主党の衆議院議員自由民主党の衆議院議員富山県選出の衆議院議員昭和時代戦後の衆議院議員在職中に死去した衆議院議員昭和時代戦後の閣僚日本の国家公安委員会委員長北海道開発庁長官科学技術庁長官日本の野球殿堂表彰者囲碁殿堂表彰者日本野球機構の人物A級戦犯容疑者日本の反共主義者アメリカ中央情報局の人物日本の原子力関連人物公職追放者戦前の読売新聞社の人物読売新聞グループの人物読売ジャイアンツ関連人物日本テレビの人物プロ野球のオーナー京成電鉄日本の企業創立者大日本武徳会の武道家講道館柔道殿堂プロレスの関係者力道山日本のボクシングに関する人物従二位受位者勲一等旭日大綬章受章者勲一等旭日桐花大綬章受章者旧制第四高等学校出身の人物東京大学出身の人物富山県出身の人物1885年生1969年没
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渡邉恒雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%81%92%E9%9B%84『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目は訃報が伝えられた直後の人物について扱っています。 その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。
2024年12月19日 (木) 01:05 (UTC)貼付。(表示終了予定:2024年12月26日 (木) 01:05 (UTC))曖昧さ回避 「渡辺恒雄 (工学者)」、「渡辺恒夫 (心理学者)」、「渡部恒雄」、あるいは「渡部恒郎」とは別人です。
渡邉 恒雄2018年3月、東京ドームにて
生誕 1926年5月30日
日本の旗 日本・東京府豊多摩郡
(現:東京都杉並区)
死没 2024年12月19日(98歳没)
日本の旗 日本・東京都
別名 ナベツネ
教育 東京大学文学部哲学科卒業
職業
読売新聞グループ本社主筆旭日大綬章
活動期間 1950年 – 2024年
テンプレートを表示渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月30日 – 2024年〈令和6年〉12月19日[1])は、日本の新聞記者・実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。勲等は旭日大綬章。「世界のナベツネ」の通称で知られていた[2]。
株式会社読売新聞社社長、読売ジャイアンツの球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長を歴任した。
日本のプロ野球界に関連する渡邉の伝説は数知れず[3]、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ[4]、マスメディアにおいて「野球界の独裁者」または単に「独裁者ヒトラー」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めていた。他にも「メディア界のドン」「政界の大フィクサー」とも呼ばれた(詳細は後述)[5]。
生い立ち〜学生時代
生い立ち
東京府豊多摩郡(後の東京都杉並区)出身。父の名は平吉、母の名は花。五人姉弟の三番目で長男である[6]。
1934年(昭和9年)、恒雄が8歳の時、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身、現:りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然吐血、胃癌で1週間後に47歳で死去した[6]。父が残した十一軒の貸家からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった[7]。母親の花は、夫を失った打撃からなかなか立ち直れなかった[8]。
戦前の家父長下では恒雄が全財産を相続し、一家の柱として責任を負わねばならなかった[8]。母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという[9]。「お前は総領だ[9]。総領というのは跡継ぎだ[9]。だからお前は勉強して偉くならないかん[9]。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さん[注釈 1] に報告できない[9]。」
学生時代
第一志望の府立高校尋常科(現:東京都立桜修館中等教育学校)、第二志望の武蔵高校尋常科(現:武蔵高等学校中学校)、第三志望の府立一中(現:東京都立日比谷高等学校)と、続け様に受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中(現:開成中学校・高等学校)にビリに近い成績ですべり込んだ[10]。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという[10]。
1939年(昭和14年)4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時、哲学の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。また反軍国少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、軍国主義を吹聴する校長をはじめ教職員を襲撃して殴っている。勤労動員された航空機の工場では、密かに不良品を作り、抵抗した[11]。1943年(昭和18年)4月、開成4年修了で旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。網野善彦、氏家齊一郎が尋常科四年に進級した1943年(昭和18年)4月、一学年上の高等科に入ってきた[12]。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった[13]。以来、2人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった[13]。
1945年(昭和20年)4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学。その後陸軍に徴兵され、近衛師団に配属。本土決戦に備えて神奈川県に配置された[14]。渡邉の回顧録によれば陸軍二等兵としての軍隊生活で上官から暴行を受けたという[15]。渡邉はもし、米軍が上陸したら真っ先に降伏しようと考えていたという。そのために捕虜になった時のことを考えて、千葉県あたりに置かれる可能性がある捕虜収容所で過ごすための哲学書を3冊肌身離さず持っていた[16]。同年8月半ばに除隊の内示を受け、8月15日の朝に除隊。除隊日の正午からの玉音放送で終戦となる。除隊後は千葉県の家族の下で休養。3ヶ月後に東大に復学した[17]。
前述の学徒動員時代に陸軍の上官から受けた暴行などから軍人(特に日本陸軍の軍人)を嫌い、軍国主義・国家主義的な考えを嫌悪していた。そこで、東京大学在学中の1945年12月、反天皇制を掲げていた日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験して、1947年頃、正式な党員として認められる。東大細胞(共産党が地域・職場・学園などに設けた末端組織の旧称、現在の「支部」)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やした。1947年9月、カスリーン台風の被害に対する共産党の考えをきっかけに党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。1947年12月に自ら離党届を提出したが、党から除名処分を受け、東大細胞も解散となった[18]。離党後の彼を、しんぶん赤旗は「戦後の一時期に入党した渡辺氏は、青春を燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている」と評している[19]。氏家とともに母校である東京高等学校へオルグに行った際に、インターハイを目指す後輩の野球部員達に対して「野球なんてくだらないものをする時ではない!」と共産党への入党を勧めた。
1950年(昭和25年)3月、東京大学新聞研究所(現:情報学環)を修了。
読売新聞社での歩み
政治記者時代
読売新聞社に次席で入社(その年の首席は、後に作家となる三好徹)。また、東京新聞の採用試験にも合格している[20]。「朝日新聞社に入社したかったが採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えている。「中央公論」の入社試験も不合格となっており「頭が良すぎて採用されなかった」とは本人談である。なお、中央公論に関しては渡邉が読売新聞社長時代に買収している。
『週刊読売』(後の『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎が脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現:鳩山会館)で張り込みをしていた。
慌ただしい気配がした為、渡邉が屋敷の中を覗いたところ、大きな犬を連れた秘書の石橋義夫に追い出された[注釈 2]。その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた政治評論家の岩淵辰雄にも「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われ、鳩山が倒れた確証を得られなかった。結局、デスクから「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示されたと言う[21]。
警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物、大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする[22]。
渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家のゴーストライターとして、週刊誌の論説の執筆まで引き受ける[23]。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている[24]。
また、鳩山一郎の次の自民党総裁、総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり[25]、大野の死後は中曽根と親密になった。
中曽根とは、1957年(昭和32年)の自民党総裁選の最中に出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は造船疑獄の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[26]。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党員だった。1966年(昭和41年)の大手町にある国有地払い下げ問題でも、大きな役割を果たしている[27]。
なお、政治記者としてよりは、若いころからジャーナリストとして多くの著作で知られる存在だったが、魚住昭は「戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、彼はテクニックにおいては最高の人でしょう」と評している[28]。
新聞社幹部として
1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞』社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して、裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の1エピソードである。
同年、取締役論説委員長に就任した。1
982年12月にソ連による執拗かつ周到な対日諜報活動・間接侵略(シャープパワー)が暴露されたレフチェンコ事件当時、首相官邸に赴いた際に自社の記者について後藤田正晴や中曽根康弘とやりあったという。
1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員、1999年には日本新聞協会会長に就任した。
日本国民の世論の大多数が、日本国憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より、読売新聞は憲法第9条の改正を含む改憲キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた改憲論議の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が、反対を上回ることが多々見られるようになった[29]。
1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の再販売価格維持制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や定価を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した[30]。
その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。
2005年、読売新聞グループ本社の会長に就任。2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。
盟友の中曽根を強引に引退させ[注釈 3]、毎年靖国神社を参拝した小泉純一郎政権に対しては批判的であった。靖国神社に対する見解は後述。
2011年2月、内閣総理大臣菅直人、夫人菅伸子夫妻と世界らん展日本大賞開会式にて(左端)
自民党員及び元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に、2007年の自民党と民主党の大連立構想の黒幕であったと報じられている。小沢一郎は『朝日新聞』の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。
2007年(平成19年)10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、2010年(平成22年)11月25日に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている[31]。2011年7月5日の判決では、原告の主張は一部認められたが損害賠償は棄却された[32]。『週刊文春』によると、渡邉は2004年(平成16年)に、不正な方法で運転免許証を更新し、道路交通法違反を犯したと報道されている[33]。
2018年3月、内閣総理大臣安倍晋三、駐日アメリカ合衆国大使ウィリアム・F・ハガティ夫妻と東京ドームにて(左端)
2018年、死亡説が流布され、自らそれを打ち消した[34]。
2024年12月19日2時、肺炎のため都内の病院で死去。98歳没。11月末まで定期的に出社し役員会などに出席、12月に体調を崩して病院で治療を受けるも死去数日前まで社説の原稿に目を通すなど、最後まで執務を続けていたという[1][35]。
読売ジャイアンツにおける活動
渡邉自身、元々野球について詳しくなく[36]、球団経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは同社名誉会長の務臺光雄、同社社長の小林與三次、オーナーの正力亨)。1991年に務臺が死去した後、渡邉はしばらくは沈黙するも、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。「野球はやったこともなく興味もなかった」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの球団の人気、資金、読売新聞と日本テレビ放送網という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、コミッショナーの人事も決める人物と言われた。
球団オーナーとして
2003年オフに、原辰徳が監督を辞任して堀内恒夫が就任したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した[37]。
2005年、堀内が成績不振で辞任することになり、星野仙一の監督就任を目論んだが各方面からの反対もあり頓挫。結果的に原を監督に復帰させている[注釈 4]。
プロ野球再編問題とオーナー辞任
→「プロ野球再編問題 (2004年)」も参照2004年、パシフィック・リーグにおいて、人気が低迷していた大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの福岡ダイエーホークスと西武ライオンズ親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。
この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らと日本プロ野球1リーグ構想を画策したものの、ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった[注釈 5]。
7月8日、2リーグ12球団の維持を主張していた当時日本プロ野球選手会会長の古田敦也(ヤクルトスワローズ)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」と発言した[38][39] [注釈 6]この発言に対し、選手・野球ファンを中心に、世論全体からの猛反発を招いた。
このことから先述の通り「球界の独裁者」と評されている。このスポーツ記者(西村欣也)の質問とは「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。そのため捏造を元にした取材であった可能性も指摘されている。
8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の一場靖弘を巡る裏金事件が発覚する。渡邉は球団社長の土井誠、球団代表の三山秀昭と伴に責任を取って辞任、読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄にオーナーの座を譲った。
世論に後押しされる形で、日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。同年11月、ライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。
その後1年足らずして球団会長に就任した。肩書きは変えながらも実質オーナー状態となっていた。
球団会長として
2011年(平成23年)、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響でプロ野球の開幕が当初の3月25日の予定から延期になることについて、3月16日の球団激励会の挨拶で、「この前の大戦争で負けた後、選手、監督から3ヶ月でやりたいとい上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した[40]。また延期を決めたパ・リーグに対しては「こういう時には何もやらない方が良いというなら勝手にしろ」と話した。その後セ・リーグもパ・リーグ同様4月12日に開幕になったが渡邉は「いいんじゃないか。もう、しゃあない。ガーガー言ってるんだから」と話した[41]。
2011年(平成23年)11月11日、専務取締役球団代表兼ゼネラルマネージャー・編成本部長・オーナー代行の清武英利が「球団のコンプライアンス上の重大な件」とする記者会見を行い、球団が発表した岡崎郁ヘッドコーチの留任について、「ツルの一声で決めてしまうなど、球団を私物化するようなことがあっていいものか」として渡邉を批判している[42]。清武は同年11月18日に全ての役職から解任されている。
11月25日、清武は日本外国特派員協会において会見を開き、11日の会見を前にした清武との電話において渡邉が「俺は最後の独裁者」と酒まじりに言い放ったことを述べ[43]、これに対し渡邉は11月28日付の朝日新聞において「独裁者と呼ばれて」と題したインタビューに応じ、「僕は民主的だよ。物事を決めるときには必ず人に相談することにしている。独裁者と書くメディアもあるが面白いし、売れるからね」と答えている。その一方で、正力松太郎は独裁者だったとも述べている。
→詳細は「清武の乱」を参照
2014年(平成26年)6月10日、読売巨人軍取締役最高顧問に就任した。
2015年(平成27年)に福田聡志、笠原将生、松本竜也の3名が野球賭博に関与していたことに加え、2016年(平成28年)3月8日になって高木京介も関与していたことが発覚したため、11日付で責任を取って最高顧問を辞任した[44][45]。
→詳細は「読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題」を参照
他のスポーツとの関係
相撲
1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。2001年から2年間は委員長を務め、若貴ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、大関・魁皇の横綱昇進には最後まで否定的だった。
Jリーグとの関係
読売グループでは、1968年のメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年に読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。
1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良・ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と日テレの歌番組に出演していた設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。
その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。
元々ヴェルディは、東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市を本拠地としていた。程無く後々に発生する「本拠地:東京移転を巡るヴェルディと川崎市の確執」は、本拠地移転を経験しながらも地域密着に成功した浦和レッズおよびコンサドーレ札幌と対比される事が多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(東京スタジアム(味の素スタジアム))に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になった。
オリンピック
オリンピックに対して敵愾心を露にしてきた。2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国・台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュアの日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきたことから巨人からの選手派遣を拒否したが、2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。
人物
前述の通り、政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に有名。中曽根の秘書だった小林克己は渡邉と学生時代からの親友だった。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を発揮してきた。
中川一郎とは中川がかつて大野伴睦の秘書だったので、家族ぐるみで親しく付き合っていたが彼が右派の議員グループ「青嵐会」を作ってからは疎遠になった。「1982年自由民主党総裁選挙に出馬し、中川さんは最下位。惨敗だった。ある政治家への不信もあって、急に気力をなくしたように見えた。パーティーで久しぶりに会った彼は「中曽根政権下で協力するからナベさんと喧嘩しなくてもすむ。仲良くやろう」と涙を浮べて私の手を取った。異様な感情の高ぶりが腑に落ちなかった。翌年1月に自殺する予兆だったのだろうか。」[46] と述べている。
趣味は読書(哲学書など。新進気鋭の哲学者の著書は必ず目を通すという)とクラシック音楽鑑賞。ハムスターを飼っている。喫煙者で、パイプと葉巻きたばこを好む。野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(橋田壽賀子脚本)の大ファン。
『私の死亡記事』(文藝春秋 2004年)という本の中では、自分の死去はカラスを打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来たカラスをゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で日本野鳥の会を除名された)。葬儀は音楽葬の形式で、また、「読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だ」と、本気なのかリップサービスなのか不明な発言をしている。
アクの強いキャラクターのため、いしいひさいちの四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞(朝刊)連載中の四コマ漫画ののちゃんに、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。ナベツネツネオは、人差し指を立てて円を描くように振り回しながら「バカヤロー、バカヤロー」と連呼するのが特徴。
酒豪で健啖でもあり、長嶋一茂が連れて行ったカレー専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという[47]。
清武英利によれば、渡邉の野球知識は素人以前で、巨人の選手やコーチの名前すら覚えていない。当時球団社長の桃井恒和に「いまさら誰にも聞けないんだがな。君、遊撃と二塁はどちらが一塁に近いんだ?」と質問したことがある[48]。
「情報保全諮問会議」の座長となった際、高知新聞で「『報道の自由』と相反しかねない特定秘密保護法だけに、取りまとめ役の座長に就くことに違和感が拭えない。」と論評されている[49]。
靖国神社に対する見解
渡邉は、内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対している事で知られ、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも戦犯がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである」[50]、「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力で、それを倒す」[51] と述べ、靖国神社の代わりに無宗教の国立戦没者追悼施設を建設すべきと主張している(後述)[52]。また「内務班で受けた暴力をいまでも許せない、だから首相の靖国参拝には反対だ」[53] と本音を語っている。ただし、極東国際軍事裁判の判決が絶対的正義ではない、とも述べている[54]。
2001年から2006年に靖国神社を参拝した当時の首相・小泉純一郎を「愚かな総理大臣」と辛辣に批判しており、小泉が自身の靖国参拝は「心」の問題だと語っていた事に対しては、日本遺族会が選挙における票田になっていることを挙げた上で、小泉が自由民主党総裁選挙の際、遺族会に向けて、自身が首相に就任すれば靖国神社を参拝することを約束していたとして、「私はそれは偽善的であり、彼は心から参拝に行きたいと思っているのではなく、そういうパフォーマンスで、戦犯の遺族から得票を増やすためであったと思っている」と主張している[55]。2006年、ニューヨーク・タイムズのインタビューに対して、渡邉は「(小泉純一郎は)歴史も哲学も知らず、勉強もせず教養も全くない」とまで述べた。渡邉は「小泉首相が『靖国参拝のどこが誤っているのか』『靖国を批判する国は韓国、中国しかない』と愚かな発言をするのは無知から始まったこと」とも述べた[56]。
旧日本軍の戦争行為に対する見方も厳しい。ミッドウェイ海戦とガダルカナル島の戦いでの大敗以来、大日本帝国陸軍・海軍から再び上申された神風特別攻撃隊に対しては「今でも許せない軍の非人間的作戦」[注釈 7] としているほか、アッツ島の戦いで大本営が前線にいる兵士に全員自決せよとの命令を出した玉砕に対しては「前線の将兵に対する鬼畜の行為」と怒りを露わにし、戦陣訓を作成したとされる当時の首相兼摂陸軍大臣の東條英機を批判している。渡邊は東條について「最大最悪の責任者が東條英機であることはまちがいない」[57]、「「東條っていうのは、ヒトラーと同じ」と批判し、靖国神社を参拝した中曽根康弘にも自分は東條を「断じて許すことができない」[58]と中曽根が東條が合祀されている靖国を参拝したことを本人に直接抗議している。「「渡邉曰く「焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無い」[59]、「加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不条理ではないか」[60]。
靖国神社の遊就館に対しては、真珠湾攻撃などの日本が勝利を勝ち取った写真が展示されているため、「非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない」と主張している。また、自民党幹事長だった加藤紘一が遊就館を参観した後、遊就館はまことに行き過ぎだと語ったとも述べている[61]。
2005年、読売新聞社は渡邉の主導のもとで、日本の戦争責任を反省するための「戦争責任検証委員会」を創設し、『戦争責任を検証する』という本にまとめた。日本語版と英語版のほか、2007年には中国語版も新華出版社から出版・発行された[50]。渡邉は中国語版の序文にて、「本書を出版した動機は、日本のこの戦争に対する非人道性及び責任の所在を研究して明白にし、日本人自身の良心に照らして、正確な歴史認識を得てはじめて、被害国と率直かつ友好的な対話が可能になる、との信念からにほかならない」と記している[62]。また朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記にも「読んでほしい」と述べている[63]。
社会民主党は2006年9月7日午後、東京都内で「千鳥ケ淵戦没者墓苑・平和祈念施設提言委員会」を開き、渡邉と意見交換し、渡邉は「世界各国に無名戦士の墓があり、国賓が来た時に訪問する国も多い。日本でこれに該当するのは千鳥ケ淵墓苑だ」と主張し、同墓苑に隣接する公務員宿舎などを廃止して墓苑を拡充、無宗教の追悼施設にする事を提案した。党首(当時)の福島瑞穂は「社民党の考え方と共通点が大変多く、とても参考になった」と応じた[64]。
尊敬している中国人政治家は鄧小平と述べ、渡邉が鄧小平に日本の対中侵略戦争の責任問題についてどう見ているのかと尋ねたところ、鄧小平は侵略戦争を起こしたのは大日本帝国政府と軍隊の中のひと握りのものであり、広範な日本国民に罪はないと言明し、渡邉はこの言葉を聞いた後「親中派」となった、と言う[51]。ただし、2005年の中国における反日活動では「中国の反日暴動は、中国政府の統治能力と国民の文明開化度が日本より半世紀遅れていることを示すもので、いたずらに興奮するのは無益だが、あの暴挙については、日本国政府は厳しく抗議して、損害賠償を求め、国の威信を保たねばならない」と中国側を批判していた[65]。
2013年末に、内閣総理大臣の安倍晋三が靖国神社を参拝した事に対して、幹部たちとの会合で、「あれにはオレも失望した」と漏らしている[66]。2007年には「安倍さんとは歴史観が違うんだ。僕は少年時代から反戦でね。A級戦犯が合祀されている靖国には参拝しない。彼は戦争を知らないから、仕方ないけどね」と述べている[67]。
2023年1月に渡辺は戦争と歴史認識の問題について、具体的な提言を行っている。靖国神社参拝問題については、「侵略した加害国と侵略された被害国の政治的なシンボル」となっているとして、A級戦犯の分祀がなされない限り政治的権力者は公式参拝すべきでないと述べている[68]。ただし、渡邊は元将兵や戦没者の遺族が亡き戦友や家族を想って靖国神社を参拝することまでは否定しておらず、理解を示している。
略年譜
1926年(大正15年)
5月30日 – 現在の東京都杉並区に生まれる。父・平吉、母・花。
1939年(昭和14年)
4月 – 開成中学校に入学。
1943年(昭和18年)
4月 – 開成中学を4年修了で東京高等学校に入学[69]。高校は戦時措置で一年繰り上げ卒業。
1945年(昭和20年)
4月 – 東京帝国大学文学部に入学。
7月 – 砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊[70]
12月 – 日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員を経て、1947年頃、同党の正規の党員になる[71]。入党の動機は天皇制への嫌悪からだという[注釈 8]。
1947年(昭和22年)
12月 – 日本共産党に離党届を出し、結果的に除名される[72]。
1949年 (昭和24年)
東京大学を卒業して東京大学大学院に入学する。
1950年(昭和25年)
11月 – 読売新聞社に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友である氏家齊一郎を誘う。
1952年(昭和27年)
日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束されるも、無事解放される。このとき隊のリーダーだった人物が、『生きることの意味』の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動[73]。
1955年(昭和30年)
5月 – 元女優でモデルの女性と結婚[74]。
12月 – 大野伴睦の番記者になる。
1956年(昭和31年)
中曽根康弘と知り合う。
1958年(昭和33年)
児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓。
1959年(昭和34年)
児玉誉士夫邸を初訪問。
1960年(昭和35年)
安保反対の全学連デモにおける樺美智子の死亡に対する内閣声明を執筆。
1968年(昭和43年)
9月 – ワシントン支局長
1972年(昭和47年)
1月 – 編集局参与。
10月 – 解説部長。
1975年(昭和50年)
6月 – 政治部長兼局次長。
1977年(昭和52年)
7月 – 編集局総務(局長待遇)。
1979年(昭和54年)
6月 – 取締役論説委員長。読売の論調に変化。
1987年(昭和62年)
6月 – 筆頭副社長。
1991年(平成3年)
社長に就任。日本相撲協会の諮問機関横綱審議委員会委員に就任。
1996年(平成8年)
読売ジャイアンツのオーナーに就任。
1998年(平成10年)
前立腺癌の全摘手術を受ける[75]、
1999年(平成11年)
日本新聞協会会長。経営難に陥った「中央公論社」の営業権を買収し、中央公論新社を設立。
2000年(平成12年)
中央公論新社から『渡邉恒雄回顧録』を出版。
2003年(平成15年)
日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任。
2004年(平成16年)
一場事件の責任をとってジャイアンツオーナーを辞任。
マスコミ集中排除原則対策としての渡邉名義日本テレビ株の解消に際し、同社株が管理ポストに割り当てられる。
東京医科歯科大学学長選考委員会座長に就任。
2005年(平成17年)
横綱審議委員を任期満了で退任。
ジャイアンツ取締役会長に就任。
2006年(平成18年)
1月5日に刊行された論座(朝日新聞社)において、靖国神社への首相参拝を非難する内容の対談を若宮啓文・『朝日新聞』論説委員と行う。この年に白内障の手術を受ける。
12月 日本経済新聞『私の履歴書』執筆(2007年11月に「君命も受けざる所あり―私の履歴書―」として出版)。
2007年(平成19年)
第54回カンヌ国際広告祭でメディアパーソン・オブ・ザ・イヤーをアジア人では二番目の受賞。
2009年(平成21年)
麻生内閣の設置した安心社会実現会議の委員に選ばれる。
2014年(平成26年)
特定秘密の保護に関する法律「情報保全諮問会議」の座長となる[76]。
ジャイアンツ取締役最高顧問に就任[77]。
2016年(平成28年)
3月 ジャイアンツ取締役最高顧問を辞任。
6月 読売新聞グループ本社会長を退き、読売新聞グループ本社代表取締役主筆となる[78]。
2018年(平成30年)
12月 巨人・原辰徳監督の野球殿堂入りを祝うパーティに車イスで参加した[79]。
2023年(令和5年)
3月 「燦燦会」渡辺恒雄主筆のゲキに原監督「発行部数も増えるように頑張ってまいります」[80]。
2024年(令和6年)
12月19日 肺炎のため、都内の病院で死去。98歳没[1]。家族・親族
渡邉家
父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧:協和銀行の前身・現:りそな銀行)の重役だった柳井信治(千葉県 平民[81])は伯父(母・花の実兄)[9]。柳井信治は苦学の末、巨額の資産を築いた立志伝中の人である[9]。
愛妻家である。妻が事故により認知症になって出かけるときはキスを忘れなかった(本人談)。長い夫婦生活で妻は空気のような存在になっていたが、認知症の発症により自分が面倒を見なければならなくなり、妻が愛おしくなったと渡邉は自伝で記している。なお、妻は2017年に87歳で死去した。
受賞・栄典
2002年(平成14年) – 第14回日本メガネベストドレッサー賞経済部門を受賞
2008年(平成20年) – 旭日大綬章受章[82]著書
単著・編著
『派閥―保守党の解剖』弘文堂、1958年9月25日。増補版1964年、新装復刊2014年6月。ISBN 978-4-335-46032-6
『大臣』弘文堂、1959年2月10日。
『党首と政党 : そのリーダーシップの研究』弘文堂、1961年11月20日。
『政治の密室 : 総理大臣への道』雪華社、1966年11月20日。
改題『派閥と多党化時代 政治の密室 増補新版』雪華社, 1967年
再改題『自民党と派閥 政治の密室 増補最新版』実業之日本社, 2024年5月。ISBN 978-4-408-65099-9
前木理一郎(元・読売新聞政治部)解説「令和の派閥と政党政治の将来」、電子書籍版も刊
『ホワイトハウスの内幕 : アメリカの権力政治』読売新聞社、1971年7月25日。増補改題「ウォーターゲート事件の背景」, 1973年
『大統領と補佐官 : キッシンジャーの権力とその背景』日新報道、1972年10月1日。
『保革連立政権論 : 一九七〇年代後半の政治展望』ダイヤモンド社、1974年11月8日。
『永田町見聞録 : 政界・派閥・権力の実像』東洋経済新報社、1980年5月29日。
『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』博文館新社、1999年
『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』光文社、1999年
『わが人生記――青春・政治・野球・大病』中公新書ラクレ、2005年、増補版2021年3月
『君命も受けざる所あり――私の履歴書』日本経済新聞社、2007年
『反ポピュリズム論』新潮新書、2012年。電子書籍版も刊
共著
『渡邉恒雄回顧録』中央公論新社、2000年/中公文庫、2007年 – 聞き手伊藤隆・御厨貴・飯尾潤
三宅久之共著『闘争 渡邉恒雄の経営術』ぺんぎん書房、2005年
論座編集部編『「靖国」と小泉首相――渡辺恒雄・読売新聞主筆vs. 若宮啓文・朝日新聞論説主幹』朝日新聞社、2006年
『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』新潮社、2023年 – 聞き手安井浩一郎(NHK報道局)
訳書
ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』弘文堂、1962年 – 中曽根康弘共訳
セオドア・ホワイト『大統領になる方法』弘文堂(上・下)、1964年 – 小野瀬嘉慈共訳
改題『大統領への道』弘文堂 新書判、1965年。全1冊
再改題『大統領職をめぐる死闘』雪華社、1968年
フランシス・ラッセル『大統領を創った人々』政府広報センター、1976年 – 監訳脚注
[脚注の使い方]注釈
^ 目黒の伯父さんとは、母・花の実兄で、父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役・柳井信治のこと(魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25)
^ 後年、石橋は渡邉とともに横綱審議委員となり、その席で渡邉と顔を合わせることとなった。石橋は渡邉の後任の横綱審議委員長に就任した。
^ 衆議院への小選挙区比例代表並立制導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に比例北関東ブロックの名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部(橋本龍太郎総裁及び加藤紘一幹事長)が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした[要出典]。
^ 原は渡邉の説得を受け入れ、渡邉自身は特別顧問の肩書で引き続き球団に残った。
^ 堀江は仙台ライブドアフェニックス設立構想を持っていたが, この構想は楽天のプロ野球チーム・東北楽天ゴールデンイーグルスの影響で立ち消えとなっている
^ 発言全体の内容は後述の質問に対して、「ふん、無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。『たかが選手』ったって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話する協約上の根拠が一つも無い。」であり、「(選手会側が)ストライキ権を行使するって言う可能性も…。」と言う質問には「どうぞ!どうぞ、やったらいい。」と答えた。
^ ただし、特攻隊員は志願による予科練出身の割合が高い。しかし、その中でも特に敗勢が顕著になった頃からは、上からの命令的な説得、救国を掲げた同調圧力によるもの等の証言も見受けられるため、渡邉のように解することも可能ではある。
^ 渡邉自身は自著で敗戦後天皇退位を主張した唯一の政治団体が共産党であったことが入党の理由であると記している。
出典
^ a b c 渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳,読売新聞,2024年12月19日
^ 総額100億円 田中将大ヤンキース入団橋渡しにゴジラ松井リアルライブ – (週刊実話 2014年1月17日 15時01分)
^ 江尻良文『渡邉恒雄とプロ野球』株式会社双葉社、2014年、5ページ、ISBN 978-4-575-30647-7
^ 2011年11月25日、清武英利による記者会見において
^ 朝日新聞『独裁者と呼ばれて』(渡邉に対するインタビュー記事) 2011年11月28日
^ a b 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23
^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23-24
^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p24
^ a b c d e f g 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25
^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p26
^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、27、35-41頁
^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p36
^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p37
^ 『本土決戦幻想コロネット作戦編』p98
^ 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社, 2000年
^ 『本土決戦幻想コロネット作戦編』p100
^ 『本土決戦幻想コロネット作戦編』p101
^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-69頁
^ 渡辺オーナー発言 署名活動は“大衆迎合”か
^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、83頁
^ 水木楊『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁 – 178頁
^ 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p145
^ 『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』弘文堂)も大半を渡邉が執筆している。
^ 魚住昭 2000, pp. 154–155, 160–166, 204–216
^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
^ 魚住昭 2000, p. 132-134,355-360
^ 魚住昭 2000, pp. 260–274。この件については、杉山隆男『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。
^ 知のゆくえ 第十四回魚住昭 第2週 渡邉恒雄氏の魅力
^ 西川伸一 “読売新聞の論調にみる「改憲意識インプット戦略」” 社会主義理論学会会報 第56号 (2004)
^ 第136回国会 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 第9号(1996年6月5日)
^ “読売新聞:元論説委員、渡辺会長を提訴”. 毎日新聞. (2010年11月25日), “渡辺恒雄氏を元部下が提訴 「虚偽の発言で名誉棄損」”. 共同通信社. (2010年11月25日)
^ メディア・ウォッチング―Tokyo Journalim Review
^ 『週刊文春』(2012年11月7日)「渡辺恒雄・読売新聞会長兼主筆が運転免許を不正更新」
^ 渡辺恒雄主筆「死亡説を流されたから来たんだよ」5カ月ぶり公の場で周囲にジョーク
^ “渡辺恒雄さん死去 98歳 読売新聞グループ本社の代表取締役主筆”. NHK. 2024年12月19日閲覧。
^ BRUTUS2009年7月15日号
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^ “日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (2/5)”. 北京週報日本語版 (人民網). (2007年8月10日) 2014年2月20日閲覧。
^ 読売新聞会長「小泉首相、歴史も知らない」2006年02月12日18時30分 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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^ “日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (3/5)”. 北京週報日本語版 (人民網). (2007年8月10日) 2014年2月20日閲覧。
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^ 高史明は『青春無明』(1983年、径書房)で、渡邉恒雄は『わが人生記』(2005年、中公新書ラクレ)でこの事件について詳しい回想文を書いている。
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^ 久保新社長が就任「ファンに愛され、常勝の巨人を」
^ 読売新聞グループ本社、社長に山口氏 白石氏は会長
^ https://friday.kodansha.co.jp/article/25701#goog_rewarded
^ https://www.nikkansports.com/baseball/news/202303070001292.html
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^ “大綬章受章者の顔触れ”. 四国新聞社 (2008年11月3日). 2023年6月15日閲覧。
参考文献
魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社、2000年。ISBN 4-06-209819-9。
伊藤隆, 御厨貴, 飯尾潤 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)ISBN 4-12-002976-X
『君命も受けざる所あり―私の履歴書―』(日本経済新聞社)ISBN 4-53-216643-8
保阪正康『昭和史の大河を往く』 第8集『本土決戦幻想コロネット作戦編』2009年(毎日新聞社)
関連項目
読売新聞社
読売新聞
水野成夫(共産党から転向→政界と太いパイプを持つ→メディアトップ→プロ野球オーナーというところが渡邉と類似している)
黒田清
三宅久之
西山太吉
読売ジャイアンツ
プロ野球再編問題 (2004年)
レフチェンコ事件 – 特定秘密の保護に関する法律
大連立構想 (日本 2007)
表話編歴
読売新聞グループ本社
表話編歴
読売ジャイアンツ歴代オーナー
表話編歴
横綱審議委員会委員長
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カテゴリ: 亡くなったばかりの人物日本の男性ジャーナリスト20世紀日本のジャーナリスト日本の新聞編集者旭日大綬章受章者20世紀日本の実業家21世紀日本の実業家読売新聞グループの人物読売ジャイアンツ関連人物日本テレビの人物プロ野球のオーナー横綱審議委員会委員日本共産党の人物日本野鳥の会の人物大野伴睦私の履歴書の登場人物東京大学出身の人物旧制東京高等学校出身の人物開成中学校・高等学校出身の人物東京都区部出身の人物1926年生2024年没
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渡辺恒雄・読売新聞主筆が死去:巨大メディアに30年以上君臨、政界に強い影響力
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h02246/『2024.12.19
日本最大手のメディア企業、読売新聞グループのトップに30年以上も君臨した、同グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が12月19日、死去した。98歳。
facebook sharing button Sharetwitter sharing button Tweetprint sharing button Printemail sharing button Emailsharethis sharing button Share政治部での取材を通じて中曽根康弘氏と「盟友関係」を持ち、近年では安倍晋三、岸田文雄両首相の指南役としても知られた。愛称は「ナベツネ」。憲法改正に積極的で、読売新聞は1994年に「憲法改正試案」を紙面で発表。自衛力保持や環境権の新設、憲法裁判所創設などを明記し、憲法論議に一石を投じた。
1926年、東京生まれ。東京大学の学生時代に敗戦を迎え、日本共産党の東大細胞に所属した(47年除名)。50年、読売新聞社に入社し、ワシントン支局長、編集局総務兼政治部長、専務取締役主筆兼論説委員長など歴任。91年に代表取締役社長・主筆に就任した。以降、「新聞社で一番偉いのは主筆だ」と公言して30年以上トップに君臨した。
政治記者としては大野伴睦氏の番記者となり、以降は保守政界と強い繋がりを持った。福田康夫政権時の2007年の自民党と民主党の「大連立」構想を首相に進言したことでも知られる。
渡辺氏のトップ在任中、読売新聞は1994年に発行部数1000万部を突破。日本テレビとその系列局を傘下に持つ巨大メディアグループの「総帥」として、長く権勢を誇った。また、プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人)のオーナーを務め、退任後も最高顧問として球界、さらにスポーツ界に深くかかわった。
バナー写真:プロ野球開幕戦の巨人-阪神戦を観戦するため、東京ドームを訪れた(左から)ウィリアム・ハガティ駐日米大使、安倍晋三首相、渡辺恒雄読売新聞グループ本社主筆=2018年03月30日、東京都文京区(時事)
』 -
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本原水爆被害者団体協議会
設立 1956年(昭和31年)
種類 平和団体
目的 核兵器廃絶
本部 日本・東京都港区
受賞 ノーベル平和賞(2024年)
ウェブサイト http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/
テンプレートを表示
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2024年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して日本原水爆被害者団体協議会(にほんげんすいばくひがいしゃだんたいきょうぎかい)は、原爆被爆者の組織。略称は日本被団協、あるいは被団協[1]。英語名称はJapan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers Organizations。本部は東京都港区芝大門1丁目に所在する。
旧ソ連の核実験再開を受け「いかなる国の核実験に反対するかどうか」で、加盟していた全国組織原水協が原水協、原水禁、核禁会議の3つに分裂。
各都道府県の被団協も意見[2]が割れたため、1965年の原水禁を受けた被団協代表理事会は「いかなる原水禁団体にも加盟しない」と決定し、原水協からも脱退した。
2020年時点も広島の2つの被団協のように被爆者団体が複数存在する都道府県もある[3]。
2024年にノーベル平和賞を受賞した[4]。概要
広島・長崎で原爆の被害を受けた被害者の生存者(被爆者)によって都道府県ごとに結成されている被爆者団体が加盟している被爆者の全国組織[3]。次のような活動を行っている。
核兵器廃絶と原爆被害への国家補償要求
日本政府、国連、諸国政府への要請行動
核兵器の廃棄、撤去、核兵器廃絶国際条約の締結、国際会議の開催、非核法の制定、原爆被爆者援護法の国家補償の法律への改正、被爆者対策の充実など
被爆の実相の国内外への普及活動
原爆被害の調査・研究、出版、展示、集会、代表派遣
被爆者の相談・援護活動
傘下に社団法人日本被団協原爆被爆者中央相談所がある。なお、2008年7月時点山形県には被団協加盟団体は存在しない。さらに、高齢化による役員の後継者不足などにより、奈良県と滋賀県(滋賀県被爆者友の会)の被団協組織が解散している。
ソ連の核実験再開を巡る分裂
また、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)は、1961年ソ連の核実験再開[5]や1963年のソ連が推進した部分的核実験禁止条約評価をめぐり、「いかなる国のいかなる理由による核実験にも反対」とする原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)・社会党・総評と、「防衛的立場の社会主義国の核実験を帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」とする日本共産党・全国組織原水協から分裂した原水爆禁止日本協議会の対立、「いかなる国の核実験に反対するかどうか」で、加盟していた全国組織原水協が原水禁など3つに分裂したことの影響を受けた。
各都道府県の被団協も意見[2]が割れたため、1964年に被団協も分裂し、1965年の原水禁を受けた被団協代表理事会は「いかなる原水禁団体にも加盟しない」と決定し、原水協からも脱退した。
2020年時点も被爆者団体が複数存在する都道府県もある[3]。
広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)
これら2つの広島県被団協は名前が全く同じであるため、理事長名(箕牧智之[6]、佐久間邦彦[7])をつけて区別されている。
社会党系 広島県被団協(理事長・箕牧智之)は、旧社会党・総評系・2000年時点で会員約2万人。
共産党系 広島県被団協(理事長・佐久間邦彦)[8]は、日本共産党系・2000年時点で会員約3千人である。
旧社会党系の広島県被団協は日本原水爆被害者団体協議会に加盟しているが、共産党系の同名団体は加盟していない(オブザーバー参加)。
組織構成等
本部所在地:東京都港区芝大門1丁目3-5 ゲイブルビル9階
代表委員:田中重光(2018年6月14日選出[9])・田中煕巳(2017年6月7日選出[10])・箕牧智之(2022年6月9日選出[11])
事務局長:木戸季市(2017年6月7日選出[10])
事務局次長:和田征子
機関紙:「被団協」(月刊)1976年創刊[12]。毎月6日発行[12]。創刊当時は不定期発行、1979年に月刊化[12]。2020年9月で創刊500号を迎えた[12]。発行部数はピーク時は2万部以上、2020年9月現在、約1万部[12]。過去の役員
代表委員:谷口稜曄(2017年8月30日死去[13])
代表委員:伊東壮(2000年3月3日死去[14] [1])
代表委員、顧問:岩佐幹三(2020年9月死去[15])
代表委員:坪井直(2021年10月24日死去[16])沿革
1954年(昭和29年)3月、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を実施。静岡県焼津港のマグロ漁船第五福竜丸が被爆。7月、原水爆禁止広島県民運動連絡本部が発足。1955年(昭和30年)8月、広島市公会堂で原水爆禁止世界大会開催。9月、原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足。
1956年(昭和31年)5月、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)が結成。8月10日、長崎市で開催された第2回原水爆禁止世界大会の2日目に、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成。
1962年(昭和37年) ソ連の核実験をめぐり原水爆禁止世界大会で対立。
1963年(昭和38年) 原水爆禁止世界大会が分裂大会となる。
1964年(昭和39年) 共産党系の広島県被団協が別に大会を開き、広島県被団協は分裂。
1967年(昭和42年) 「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」(原爆特別措置法)成立。
1970年(昭和45年) 『ウルトラセブン』のスペル星人問題。東京都被団協の抗議を発端に全ての被団協が行動を起こす。
1977年(昭和52年) 原水禁と原水協が統一大会を開くことで同意、2つの広島県被団協が分裂後初の統一決起集会。
1984年(昭和59年) 「原爆被爆者の基本要求」を発表。
1986年(昭和61年) 原水禁、原水協などの大会が9年ぶりに再分裂。
1994年(平成6年) 「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」成立。
1996年(平成8年) 国際司法裁判所が勧告的意見「核兵器の使用と威嚇は一般的には国際法違反」。
2024年(令和6年) ノーベル平和賞受賞[17]。
関連項目
原水爆禁止日本協議会(原水協)
原水爆禁止日本国民会議(原水禁)
核兵器廃絶・平和建設国民会議(KAKKIN、旧核禁会議)
核兵器禁止条約
反核運動
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)
伊東壮 – 経済学者、元代表委員
石田忠 – 社会学者、元専門委員
原爆詩集
はだしのゲン脚注
[脚注の使い方]
^ “国連本部で原爆展 米NY、被団協など共催”. 産経ニュース (2021年12月14日). 2021年12月14日閲覧。
^ a b 1962年日本被団協の定期総会で11府県が「原水協からの脱退、もしくは核禁会議にも加盟を」と共同提案し、議論が紛糾。平行線が続きました。
^ a b c “被団協機能不全に 「はっちゃん」の努力 原爆を背負って(42)”. 西日本新聞me. 2022年6月15日閲覧。
^ 日本放送協会 (2024年10月11日). “【速報中】ノーベル平和賞に日本被団協 | NHK”. NHKニュース. 2024年10月11日閲覧。
^ “ヒロシマの記録1961 9月”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター. 2022年6月15日閲覧。
^ “広島の象徴」坪井さんをしのぶ 広島県被団 後任理事長に箕牧さん”. 朝日新聞デジタル (2021年11月3日). 2021年12月30日閲覧。
^ “平和・ヒロシマ【聞きたかったこと~被爆から76年~】一度は逃れ 向き合う”. 朝日新聞デジタル (2021年1月21日). 2021年12月30日閲覧。
^ “広島県原爆被害者団体協議会(佐久間理事長)”. 広島県原爆被害者団体協議会. 2021年12月30日閲覧。
^ “被団協 代表委員に田中重光氏 総会で選出 故谷口氏の後任”. 長崎新聞 (2018年6月15日). 2021年12月27日閲覧。
^ a b “新事務局長に木戸氏 被団協、世代交代目指す”. 日本経済新聞 (2017年6月7日). 2021年10月28日閲覧。
^ “日本被団協の代表委員に箕牧さん 大きな壁に挑む新たな「顔」”. 朝日新聞デジタル (2022年6月10日). 2022年8月8日閲覧。
^ a b c d e “機関紙「被団協」が500号 被爆者つなぎ声伝える「世界遺産」 励まし合う相談相手に /長崎”. 毎日新聞地方版 (2020年9月1日). 2021年12月27日閲覧。
^ “日本原水爆被害者団体協議会代表委員・谷口稜曄=8月30日死去・88歳”. 毎日新聞 東京朝刊 (2017年10月30日). 2021年10月28日閲覧。
^ “資料詳細 – 広島平和記念資料館平和データベース”. hpmm-db.jp. 2024年10月11日閲覧。
^ “核兵器廃絶、旗振り役の訃報続く 広島・長崎、継承が課題”. 中国新聞 (2021年10月28日). 2021年12月30日閲覧。
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^ “日本被団協にノーベル平和賞 「核兵器なき世界の実現へ努力」”. 毎日新聞. (2024年10月11日) 2024年10月11日閲覧。
外部リンク
日本原水爆被害者団体協議会 – 公式サイト
日本原水爆被害者団体協議会 – Nobelprize.org ウィキデータを編集
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反核運動
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カテゴリ: 反核兵器運動日本の反核団体ノーベル平和賞受賞者日本のノーベル賞受賞者朝日賞受賞者
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