中国「必要な措置とる」 米英の中国企業への制裁発表に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM269GY0W4A320C2000000/
『【北京=田島如生】中国外務省は26日、米英両政府が中国国家安全省の関連企業などに制裁を科すと発表したことに反発した。林剣副報道局長は記者会見で「合法的な権益を守るため必要な措置をとる」と述べ、対抗措置を示唆した。…
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中国「必要な措置とる」 米英の中国企業への制裁発表に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM269GY0W4A320C2000000/
『【北京=田島如生】中国外務省は26日、米英両政府が中国国家安全省の関連企業などに制裁を科すと発表したことに反発した。林剣副報道局長は記者会見で「合法的な権益を守るため必要な措置をとる」と述べ、対抗措置を示唆した。…
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中国、日本の装備移転三原則の指針改定に「深刻な懸念」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM2694H0W4A320C2000000/
『2024年3月26日 18:28 [会員限定記事]
【北京=田島如生】中国外務省は26日、日本政府による防衛装備移転三原則の運用指針の改定に反発した。林剣副報道局長は記者会見で「近隣諸国や国際社会の強い心配を招いている」と主張し「深刻な懸念」を表明した。
日…
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中国、米国をWTOに提訴 EV購入支援「競争を阻害」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM26CRE0W4A320C2000000/
『2024年3月26日 23:13
【北京=田島如生】中国商務省は26日、米国の電気自動車(EV)などの推進策「インフレ抑制法(IRA)」が公正な競争を阻害しているとして、世界貿易機関(WTO)に同日付で提訴したと明らかにした。米中間の新たな懸案になる可能性がある。
商務省の報道官は談話で「米国はWTOルールに違反しており、中国は断固反対する」と強調した。「中国の(EVなど)新エネ…
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多様な観点からニュースを考える
※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。
柯 隆のアバター
柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
分析・考察
そもそもWTOは機能しているのか。WTOの存在意義が問われるなか、それに提訴してなんの意味があるのか。
一方、ほんとうに公平な国際貿易がありうるのかも問題である。
ここで、WTOルールとはなにか、それを再点検する必要があるのではないか
2024年3月27日 7:41
米中衝突 』
[FT]独、揺らぐウクライナ支援 与党議員が「終戦」要求
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB257U80V20C24A3000000/
『2024年3月27日 0:00
今月14日、ウクライナ支援に関する大きなタブーを破る音がドイツ連邦議会(下院)に響き渡った。それはロシアのプーチン大統領の耳には心地良い響きだったに違いない。
ドイツの最大与党、社会民主党(SPD)のミュッツェニヒ院内総務は、同国が長距離巡航ミサイル「タウルス」をウクライナに供与すべきではない理由を説明していた。ところがその後、彼はさらに踏み込んだ。
「戦争の戦い方について話すだけでなく、どうす…
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人民海軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E6%B5%B7%E8%BB%8D









『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、東ドイツの海軍について説明しています。他の社会主義国の海軍については「人民海軍 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
人民海軍
Volksmarine
紋章
創設 1956年3月1日 – 1990年10月2日
国籍 東ドイツの旗 東ドイツ
軍種 海軍
兵力 10,070人[1]
1990年2月15日段階
上級部隊 国家人民軍
表話編歴
人民海軍の軍艦旗
人民海軍(じんみんかいぐん、ドイツ語: Volksmarine, VM)とは、ドイツ民主共和国における海軍。地上軍(LaSK)および航空軍(LSK)と共に国家人民軍を構成した軍種の1つである。単に東ドイツ海軍とも呼ばれる。
歴史
創設
詳細は「海上人民警察」を参照
第二次世界大戦後、ソビエト連邦は東ドイツのソ連占領地域(Sowjetische Besatzungszone, SBZ)においてドイツ民主共和国の建国準備を進めていた。
1950年にはソ連軍将校によって海上警察本部(Hauptverwaltung Seepolizei)が設置され、1952年7月1日には海上人民警察(Volkspolizei See, VP-See)と改名される。
人民海軍が沿岸巡視艇(フリゲート)として運用したソ連製コニ型フリゲート、「ベルリン・ハウプトシュタット・デア・デーデーエール」(Berlin, Hauptstadt der DDR)。
イルティス級魚雷艇
1956年3月1日には国家人民軍が設立され、当時およそ10000人の兵力を擁していた海上人民警察は海上戦力(Seestreitkräfte)と改名された。
さらに1960年10月19日にドイツ民主共和国国防評議会(ドイツ語版)が下した決定により、1960年11月3日の大観艦式にあわせて海上戦力は人民海軍(Volksmarine)と改名された。
この名称は1918年のキール軍港にて反乱を起こした水兵の一団が自称した人民海兵団(ドイツ語版)(Volksmarinedivision)なる名称に因み、またドイツ民主共和国当局では人民海軍が人民海兵団の伝統を引き継ぐものであるとした。
拡大・再編
人民海軍の水兵
その後の数年を通じ、ペーネ造船所(ドイツ語版)(※ ヴォルガストにある)など東ドイツ各地の造船所で人民海軍向けの大型艦船の建造が始まった。
沿岸巡視艇(Küstenschutzschiff)や高速戦闘艇(Schnellboot)など小型艦艇の一部はソビエト連邦からの貸与品で、また支援艦艇の一部はポーランド製であった。
ソ連製のヘリコプターも保有していた。艦砲やミサイル、機関銃などの搭載火器は多くがソビエト連邦製のものであった。
1961年8月13日、ベルリンの壁が建設されるに伴い、それまで内務省指揮下で国境警備に当たっていた国境警察(Grenzpolizei)がドイツ民主共和国国境警備隊(Grenztruppen der DDR)に再編され、1961年9月15日には国防省及び国家人民軍に国境警備隊の権限が移譲される。
再編時に沿岸警備隊相当の下部組織として設置された沿岸国境旅団(Grenzbrigade Küste,GBK)も、1961年11月1日以降は人民海軍の指揮下に入り、第6沿岸国境旅団(6. Grenzbrigade-Küste, 6. GBK)と改名した。
1965年、人民海軍は大規模な再編成を行った。
全ての突撃戦力(Stoßkräfte, 高速戦闘艇部隊)はリューゲン島・ドランスケのブーク軍港に根拠地を持つ第6艦隊(6. Flottille)に組み込まれた。
1970年代には人民海軍の総戦力はおよそ18,000人に拡大していた。
1980年代には艦船装備の一部が更新され、1985年にはソ連製の戦闘爆撃機などを装備する第28海軍航空団(Marinefliegergeschwader 28,MFG-28)が新設された。
第28海軍航空団は当初航空軍の指揮下にあり、必要に応じて人民海軍の指揮下に移されていた。1990年春には正式に人民海軍へと移管され、人民海軍の軍服と階級章が導入された。
1986年から1988年にかけて、オーデル湾周辺における係争中の国境地帯において人民海軍とポーランド海軍の散発的な衝突が起こり、最終的にドイツ民主共和国側の要求が受け入れられた。
1989年5月22日の領海画定に関する条約は1949年以来初めての領海再確定となり、係争海域のおよそ3分の2がドイツ側の領海と認められた。
解体
1990年10月2日、ドイツ再統一に伴い人民海軍は国家人民軍の全組織と共に解体された。
活動を許された艦艇は、連邦海軍が旧人民海軍司令部に設置したロストック海軍司令部(Marinekommando Rostock)の元で小艦隊に統合された。
将校を除く一部の兵士は連邦海軍に残留することを許され、また第6国境沿岸旅団の兵士も連邦国境警備隊に残留する事を許された。
装備・機材の多くは売却あるいは廃棄され、わずか数隻の支援艦艇が現在まで運用されている。
主力だったパルヒム型コルベット16隻やホイエルスヴェルダ級中型揚陸艦(ドイツ語版)14隻、コンドール級掃海艇(ドイツ語版)9隻、合計39隻の小型艦艇はインドネシア海軍に売却された[2]。
1990年11月14日にはドイツ連邦共和国が批准したドイツ・ポーランド国境条約によってドイツ・ポーランド間の国境は再画定された。
「西側」への脱走
ドイツ再統一によるドイツ民主共和国崩壊までの間、人民海軍の将兵が海路で「西側」に逃れようとした事例がいくつか知られている[3]。
1961年8月24日、トラフェミュンデ・ヴィスマール沖を航行していた第6国境沿岸旅団所属の国境警備艇423号(G423)が脱出を図り、12人の水兵が西側へ逃れた[4]。
1963年12月、航行中のクラーケ級掃海艇(ドイツ語版)から乗組員の上級軍曹(Obermaat)が海へ飛び込んで脱出を図り、スウェーデンの商船によって救出された[5]。
1967年1月12日、対潜駆逐艦474号(U-Jagdboots 474)からの脱出が試みられるも当局によって阻止される[6]。
1967年1月27日、艦を乗っ取り脱出を図る計画を立てたとして対潜駆逐艦412号テーテロウ(U-Jagdboots 412 Teterow)の乗組員8人がペーネミュンデにて逮捕された[7]。
1968年1月、第6艦隊根拠地のブーク(ドイツ語版)軍港にて高速戦闘艇844号ヴィルヘルム・ベンシュ(TS-Boots 844 Wilhelm Bänsch)を乗っ取り脱出する計画を立てた容疑で乗組員7人が逮捕され、2人が有罪判決を受けた[7]。
1973年8月7日、対潜駆逐艦421号シュパーバー(U-Jagdschiffes 421 „Sperber“)からの脱出が試みられるも当局によって阻止される[8]。
1979年8月5日、国境警備艇424号グラール=ミューリッツ(G-424 Graal-Müritz)所属の上級軍曹がその他の乗組員を軟禁し、西側へ逃れるべく艇を乗っ取った。乗組員達は手榴弾などを以って抵抗し、脱出は阻止された。上級軍曹は一命を取り留め逃走したものの、1989年末に逮捕された[7]。
1988年3月4日、2人の水兵(Matrosen)がスウェーデンのフェリーに乗り込み脱出を図るが、後にドイツ民主共和国へ送還された[7]。
任務
人民海軍はワルシャワ条約機構各国の海軍で編成されるバルチック艦隊(Ostseeflotten)に参加していた。
主要な作戦水域はバルト海及びバルト海沿岸だった。
期待されていた役割は、バルト海で活動するソ連海軍を援護し、またバルト海から沿岸諸国への侵攻に従事することである。
その為、人民海軍の主要水上戦力は駆潜艇(U-Jagdschiffe)や高速戦闘艇、掃海艇、揚陸艇といった小型艦艇が主であった。
人民海軍の通常任務について言えば、常に高い即応性を維持していることが特徴である。
バルト海ではNATO側の海軍に対する大規模な偵察も敢行している。
こうした偵察の際には掃海艇や揚陸艇などの小型高速舟艇が活用された。
さらには電子戦装備を備えた情報収集艦も配備されており、海軍における各種情報戦に活用された。
さらに特殊な任務を帯びていた部局として、不法出入国を監視する任務を帯びた第6沿岸国境旅団(6. Grenzbrigade-Küste, 6. GBK)がある。
元々は沿岸警備隊相当の組織として国境警備隊内に編成されていたが、1961年11月1日以降は人民海軍の指揮下にあった。
大量の巡視艇と陸上監視要員を備えており、主にエルベ川を活動範囲としていた。
第6沿岸国境旅団の階級章は人民海軍と同様のものを使用していたが、肩章には区別の為に緑色のパイピングが施され、
また帽子の鉢巻の文字も「Volksmarine」ではなく、「Grenzbrigade Küste」と刺繍されていた。
組織
人民海軍の構造
人民海軍は長らく3つの艦隊(Flottille)のみを常時待機させる3艦隊体制を取っていた。
初期には次のような艦隊が存在した[9]。
第3艦隊(3. Flottille, 1956年 - 1958年)、沿岸警備艦隊(Küstensicherungsflottille) - 海上人民警察の第1沿岸区(Küstenabschnitt I)を母体とする。1956年5月1日からは第2沿岸艦隊(Küstenabschnitts-Flottille II)に改名。所在地はザスニッツ(ドイツ語版)の東部根拠地(Flottenbasis „Ost“)。
第7艦隊(7. Flottille, 1956年 - 1957年)、舟艇教育艦隊(Schulbootsflottille) - 海上人民警察の舟艇教育部(Schulbootsabteilung)を母体とする。所在地はパーロウ(ドイツ語版)。
第9艦隊(9. Flottille, 1956年 - 1960年)、艦船試験艦隊(Erprobungsschiffsflottille) - 訓練部(Baubelehrungsabteilung)を母体とする。1961年に科学技術センターと合併。所在地はヴォルガスト。
解散時の人民海軍は、次のような部隊及び艦隊で構成されていた。
第1艦隊(ドイツ語版)(1. Flottille) - ペーネミュンデ
第4艦隊(ドイツ語版)(4. Flottille) - ロストック・ヴァーネミュンデ
第6艦隊(ドイツ語版)(6. Flottille) - リューゲン島のドランスケ(ドイツ語版)近郊ブーク(ドイツ語版)軍港
第6沿岸国境旅団(6. Grenzbrigade-Küste, 6. GBK) - ロストック
第18海軍ヘリコプター航空団(MHG-18)のMi-8から海面に飛び降りる第18水中戦闘コマンドー(KSK-18)のフロッグマン
3P51ルベーシュ沿岸ミサイルシステム。発射機はMAZ-7310で運搬された。
また1985年頃には、次のような部隊も活動していた。
第18魚雷技術中隊(Torpedo-Technische Kompanie 18, TTK-18) - 対潜魚雷の保守点検を行う。
第18海軍ヘリコプター航空団(ドイツ語版)(Marinehubschraubergeschwader 18, MHG-18) - シュトラールズント近郊のパーロウ(ドイツ語版)に拠点を置く。第二次世界大戦中の航空艦隊の基地をそのまま使用した。
第28海軍航空団(ドイツ語版)(Marinefliegergeschwader 28, MFG-28) - 通常は航空軍に所属する。所在地はラーゲ(ドイツ語版)。
第18海軍工兵大隊(Marine-Pionierbataillon 18, MPiB-18) - ザスニッツ(ドイツ語版)。
第18水中戦闘コマンドー(Kampfschwimmerkommando 18, KSK-18) - キュールングスボルン(ドイツ語版)。いわゆるフロッグマン部隊。
第18通信連隊(Nachrichtenregiment 18, NR-18) - バート・ズュルツェ(ドイツ語版)。
第18沿岸ロケット連隊(ドイツ語版)(Küstenraketenregiment 18, KRR-18) - シュヴァルツェンプフォスト(ドイツ語版)。
第18沿岸防衛連隊(Küstenverteidigungsregiment 18, KVR-18) - ロストック(1988年から)。
第18海軍宣伝中隊(Marine-Propagandakompanie 18, PRK-18) - ロストック・ヴァーネミュンデ。
第18無線電子戦大隊(Bataillon Funkelektronischer Kampf 18, BFEK-18) - グライフスヴァルト・ハンスハーゲン(ドイツ語版)。
第18弾薬集積所(Munitionslager 18, ML18) - アルテントレプトウ・ゼルツ(Seltz)。後方指揮所と共に「街灯(Laternenpfahl)」の秘匿名称があった。
第14弾薬集積所(Munitionslager 14, ML14) - ゲルベンザンデ(ドイツ語版)。
第18燃料及び潤滑油集積所(Tank- und Schmierstofflager 18, TSL18) - グライフスヴァルト・ラーデボウ(ドイツ語版)。
第18修理基地(Instandsetzungsbasis 18, IB18) - ヴォルガスト。各地にある次のような作業区(Werkstattbereichen, WB)を統括した。
第1作業区(WB1) - 中央火器作業所(Zentrale Waffenwerkstätten)。ヴォルガスト。
第2作業区(WB2) - 中央情報通信作業所(Zentrale Nachrichten- und Funktechnische Werkstätten)。シュトラールズント・デーンホルム(ドイツ語版)。
第3作業区(WB3) - 中央車両作業所(Zentrale Kfz-Werkstätten)。グライフスヴァルト・ラーデボウ(ドイツ語版)。
第4作業区(WB4) - 船舶技術作業所(Schiffstechnische Werkstätten)。リーブニッツ=ダムガルテン(ドイツ語版)。
教育所(EM-Stelle) - ラウターバッハ(ドイツ語版)。
科学技術センター(Wissenschaftlich-Technisches Zentrum, WTZ) - ヴォルガスト
ドイツ民主共和国海洋水路局(ドイツ語版)(Seehydrographischen Dienst der DDR, SHD) - ロストック
第18独立保安小隊(Selbständigen Sicherungszug 18) - ロストック・ゲールスドルフ(ドイツ語版)。人民海軍司令部直属で、海軍高官の護衛などを行った。
各教育訓練施設
「ヴァルター・シュテフェンス」艦隊学校(ドイツ語版)(Flottenschule „Walter Steffens“) - パーロウ(ドイツ語版)。艦艇乗組員たる下士官兵の教育・訓練を行う。
「カール・リープクネヒト」士官学校(ドイツ語版)(Offiziershochschule „Karl Liebknecht“) - シュトラールズント。人民海軍および諸外国海軍の士官教育を行う。
後方要員下士官学校(Unteroffiziersschule Rückwärtige Dienste) - シュトラールズント・デーンホルム(ドイツ語版)。別名として第18海軍訓練機関(Schiffstammabteilung-18,SSTA-18)、あるいは「パウル・ブレヒシュミット」教育機関(Lehreinrichtung „Paul Blechschmidt“)とも。技術下士官をはじめとする陸上基地要員の育成を行った。自動車運転教習や陸上戦闘訓練などを含めた、人民海軍後方任務における全般訓練を行った。
その他、兵器試験場および各種特別部局。
人民海軍司令官(Chef der Volksmarine)
「副大臣たる人民海軍司令官」を示す旗
人民海軍の兵科章(上)と下士官兵用の特技章(下)
1956年に海上戦力が設立された当初は「海上戦力司令官」(Chef der Seestreitkräfte)と呼ばれていた。
1960年11月3日には海上戦力が人民海軍へ改名するのに合せて「人民海軍司令官」(Chef der Volksmarine)に改名した。
1972年12月1日から人民海軍司令官は国防副大臣を兼職することとなり、正式な職名は「副大臣たる人民海軍司令官」(Stellvertreter des Ministers und Chef der Volksmarine)となった。1989年12月11日には再び職名が「人民海軍司令官」に変更され、この名称のまま人民海軍の解散を迎えた。
平時にはロストック・ゲールスドルフ(ドイツ語版)に設置された人民海軍司令部(Kommando Volksmarine)にて人民海軍の指揮を行う。また有事にはロストック近郊に設置された司令部機能を有する掩蔽壕、テッシン指揮所(ドイツ語版)に移動して人民海軍を指揮する。
歴代人民海軍司令官
氏名、階級 任期 備考
フェリックス・シェフラー(ドイツ語版)少将 1956年3月1日 – 1956年12月31日
ヴァルデマール・フェルナー(ドイツ語版)中将 1957年1月1日 – 1959年7月31日
ヴィルヘルム・エーム少将 1959年8月1日 – 1961年7月31日
ハインツ・ノイキルヒェン(ドイツ語版)少将 1961年8月1日 – 1963年2月24日
ヴィルヘルム・エーム大将 1963年2月25日 – 1987年11月30日
テオドール・ホフマン中将 1987年12月1日 – 1989年11月17日
ヘンドリク・ボルン(ドイツ語版)中将 1989年12月11日 – 1990年10月2日
階級
詳細は「国家人民軍の階級#人民海軍の階級章及び階級章の一覧」を参照
装備の種類
「de:Liste der Schiffe der Nationalen Volksarmee」も参照
次のような艦船及び航空機を保有していた。
各種揚陸艇、揚陸艦
機雷敷設艦艇
掃海作業用艦艇
魚雷艇及びミサイル艇 - 主に第6艦隊に所属した。
ミサイル艦 - 主に第6艦隊に所属した。
沿岸警備艇
対潜駆逐艦
情報収集艦
訓練艦
各種支援艦 - 補給艦、曳航艦、特務艦など。
航空機
ヘリコプター(Mi-4 MA、Mi-8、Mi-14PL及びMi-14BT)
戦闘爆撃機(Su-22 M4)
個人装備
小銃 (AK-47など)
潜水装備一式 - フロッグマンが装備。
関連項目
国家人民軍 - ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍隊。
国家人民軍地上軍 - 国家人民軍における陸軍。
国家人民軍航空軍 - 国家人民軍における空軍。
ドイツ海軍
ドイツ帝国海軍(Kaiserliche Marine) - ドイツ帝国時代のドイツ海軍
ドイツ海軍 (ヴァイマル共和国軍)(ドイツ語版)(Reichsmarine) - ヴァイマル共和国時代のドイツ海軍
ドイツ海軍 (国防軍)(Krigesmarine) - ナチス・ドイツ時代のドイツ海軍
ドイツ海軍 (ドイツ連邦軍)(旧名称Bundesmarine, 現名称Deutsche Marine) - 西ドイツ及び統一ドイツの海軍。
ロストック海軍司令部 - 連邦海軍の司令部の1つ。人民海軍の解体及び統合を管轄した。
人民海軍の艦船一覧(ドイツ語版)
参考文献
Siegfried Breyer, Peter Joachim Lapp: Die Volksmarine der DDR, Bernard & Graefe Verlag, ISBN 3-7637-5423-7
Torsten Diedrich: Die mysteriöse U-Boot-Waffe der DDR, in: Stephan Huck (Hg.): 100 Jahre U-Boote in deutschen Marinen. Ereignisse - Technik - Mentalitäten - Rezeption. Unter Mitarbeit von Cord Eberspächer, Hajo Neumann und Gerhard Wiechmann. Mit Beiträgen von Torsten Diedrich, Peter Hauschildt, Linda Maria Koldau, Klaus Mattes, Karl Nägler, Hajo Neumann, Kathrin Orth, Michael Ozegowski, Werner Rahn, René Schilling, Heinrich Walle und Raimund Wallner, Bochum (Dr. Dieter Winkler Verlag) 2011 (Kleine Schriftenreihe zur Militär- und Marinegeschichte, Bd. 18), S. 81-92. ISBN 978-3-89911-115-6.
Robert Rosentreter: Im Seegang der Zeit – Vier Jahrzehnte Volksmarine, Ingo Koch Verlag, ISBN 3-935319-07-X
R. Fuchs: Genosse Matrose!, BS-Verlag-Rostock, ISBN 3-89954-196-0
Dieter Flohr: Volksmarine – Betrachtung einer deutschen Flotte 1950–1990, BS-Verlag-Rostock, ISBN 978-3-89954-138-0
Hans-Werner Deim, Hans-Georg Kampe, Joachim Kampe, Wolfgang Schubert: Die militärische Sicherheit der DDR im Kalten Krieg, ISBN 978-3-932566-80-6
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、人民海軍に関連するカテゴリがあります。
Ausbildungs- und Dokumentationsfilme zur Volksmarine
Informationen zur 1. Flottille
Homepage der MK KSS e.V. mit vielen Informationen über die 1. und 4. Flottille
Uniformen und Dienstgrade der Volksmarine der DDR.
脚注
^ „Das letzte Kommando“, 1993, Theodor Hoffmann S. 163
^ „Deutschland an vorderster Front“, Die Zeit Online vom 12. März 1993, abgerufen am 4. Mai 2012
^ Überblick zu den Fluchtversuchen bei: Ingo Pfeiffer: Fahnenflucht zur See – Die Volksmarine im Visier des MfS, Homilius, Berlin 2008, ISBN 978-3-89706-913-8.
^ Ingo Pfeiffer: Flucht und „Meuterei“, Die Seegrenze der DDR im August 1961. In: Marineforum 10/2006, S. 50ff.
^ Willy Reiss: Begegnungen von Bundesmarine und Volksmarine auf See – Erlebnisberichte von sechs Offizieren der Deutschen Marine. In: Marineforum 1/2006, S. 26f.
^ Ingo Pfeiffer: „Alibaba und die 40 Räuber“ – Die vereitelte Gruppenfahnenflucht mit Entführung des U-Jagdschiffes „474“ der Volksmarine 1967. In: Marineforum 3/2003, S. 26ff.
^ a b c d Ingo Pfeiffer: Im Visier des MfS: Fahnenfluchten von VM-Angehörigen. In: Marineforum 6/2005, S. 25ff.
^ Ingo Pfeiffer: Fahnenfluchtversuch mit U-Jagdschiff der NVA-Volksmarine. In: Marineforum 6/2002, S. 48ff. (Teil I) und Marineforum 7–8/2002 S. 43ff. (Teil II)
^ Klaus Froh, Rüdiger Wenzke: Die Generale und Admirale der NVA. Ein biographisches Handbuch. 4. Auflage. Ch. Links, Berlin 2000, ISBN 3-86153-209-3, s.277 ff.
表話編歴
ドイツの海軍
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カテゴリ:
ドイツの海軍史国家人民軍
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キール (ドイツ)
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出典検索?: “キール” ドイツ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月)
紋章 地図
Wappen Kiels Lage der kreisfreien Stadt Kiel in Deutschland
基本情報
連邦州: シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州
郡: 郡独立市
標高: 0 から 74.2 m
面積: 118.6 km²
失業率: 11.1 % (2008年9月現在)
人口:
246,243人(2021年12月31日現在) [1]
人口密度: 2,076 人/km²
市外局番: 0431
郵便番号: 24103-24159 (旧: 2300)
ナンバープレート: KI
自治体コード: 01 0 02 000
市庁舎の住所: Fleethörn 9
24103 Kiel
ウェブサイト: http://www.kiel.de
行政
上級市長: Ulf Kämpfer [2]
多数派政党: SPD/Grüne
座標: 北緯54度19分31秒 東経10度8分26秒キール(ドイツ語: Kiel, ドイツ語発音: ˈkiːl)は、バルト海に面したドイツ北部の都市。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都で最大の都市である。人口は約24万人。
キールは、ハンブルクのおよそ90キロメートル (56 mi)北、フレンスブルクの70キロメートル (43 mi)南東、リューベックの60キロメートル (37 mi)北西に位置する。
ドイツ北部の、ユトランド半島の南東、バルト海の南西という地理的条件により、キールはドイツ海事の中心地の1つとなった。
また、国際セーリングイベントでも知られ、世界最大のセーリングイベントのキール・ウィーク(英語版)も開催される。ベルリンオリンピックやミュンヘンオリンピックでは、セーリング競技がキールで開催された[3]。
地勢
キール湾は地形的にはフィヨルドであり、水深が深く港の立地に適している。
しかし、北海に出るためにはユトランド半島を大きく迂回しなければならなかった。この不便を解消するため、1895年にキール湾と北海を直通するキール運河が掘削された。キール運河は、国際航路で、ヨーロッパの重要輸送ルートである。
歴史
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出典検索?: “キール” ドイツ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月)
1233年から1242年の間にシャウエンブルク家のアドルフ4世により建設される。
キール周辺のみがザクセン領であり、西と北はデンマーク領で、東にはスラブ系民族が住んでいた。
町の中心に位置する修道院とニコライ教会はこの頃の設立。
1283年にハンザ同盟に加入するもフレンスブルクとリューベックとに挟まれ商業都市として発展することはなかった。
1329年に町の城壁が建設されてから16世紀末まで町は現在の旧市街のあたりに限定される。
1460年にデンマークによって併合され、1544年にデンマーク王家の分家ホルシュタイン=ゴットルプ家のホルシュタイン=ゴットルプ公領の首都となる。
1665年にクリスチャン・アルブレヒトによりキール大学が設立される。ホルシュタイン=ゴットルプ家からは1751年にスウェーデン王家、1762年にロシア帝国の皇帝ピョートル3世が出ている。
1773年よりデンマーク王がホルシュタイン=ゴットルプ公を兼ねた。
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争と普墺戦争を経て、1866年にプロイセン王国へと併合された。
1918年、第一次世界大戦の末期に、この地の軍港で起こった水兵の反乱が各地に広がり、ドイツ革命へと至る。
第二次世界大戦では市街の80%以上が破壊された。戦後、修復作業が進められたが、取り壊されて現代的な街並みに変わってしまった地区もあり、かつての風情は取り戻していない。
1902年のキール港のパノラマ(2枚のポストカード)
観光
旧市街の俯瞰
ホルステン通りは、ドイツで最も長い商店街の1つ
市内で最も古い建築物は、13世紀の聖ニコラス (Nikolaikirche) 教会であり、前にはGeistkämpferと呼ばれるエルンスト・バルラハによる彫刻がある。
キールは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の商業の中心地であり、旧市街は主要な観光地となっている。キールのホルステン通り(Holstenstraße) は、ドイツで最も長い商店街である。町役場 (Rathaus) は、1911年に建造され、パーテルノステルやタワーのデザインは、ヴェネツィアの基礎の1つとなった。町役場の前の広場には、湖とオペラハウスが隣接する。町の中心には、湖や公園が数多くあり、例としてSchreven公園 (Schrevenpark) がある。旧植物園(英語版)と新植物園(英語版)の2つの植物園が存在する。
キールは、海に近く、北にはシュトランデ(英語版)、キール=シルクセ、Möltenort(英語版)、ラーボエ(英語版)といったビーチがあり、春と夏には人気の場所となる。
キール・ウィーク(英語版) (Kiel Regatta) は、世界最大のセーリングイベントであり、毎年6月最終週に行われる。すべての種類、時代の何千ものボートがパレードに参加する。キール・ウィークは、海事イベント、フォルクスフェスト(英語版)、フェアでもある。
キールには、多くのスポーツ会場があり、最も著名なのは、世界で最も成功したハンドボールクラブの1つであり、多数のドイツチャンピオンを獲得したTHWキールが本拠とするスパルカッセン・アリーナ(英語版)(以前はバルト海ホール (Baltic Sea Hall) やオストゼーホール (Ostseehalle) として知られていた)である。
キールには、現在ブンデスリーガサッカークラブは存在しないが、ホルシュタイン・キールは、ホルシュタイン・スタディオン(英語版)でプレイする。絵のような風景に、多くのヨット、セーリングクラブがある。
さらに、キールには多くの博物館があり、動物学、地質学、歴史、美術、産業及び軍事博物館が含まれる。有名なのは、市海事博物館 (Stadt- und Schifffahrtsmuseum Warleberger Hof) であり、museen am meer協会に属している。絵画のある漆喰の天井のある16世紀からの建築、歴史的な部屋の保存に加え、19、20世紀の都市・文化的展示品を展示する[4]。特に興味深い展示は、キールのカーニバルの歴史についてである[4]。ラーボエには、第二次世界大戦の潜水艦、U995のある人気の観光地、ラーボエ海軍記念碑がある。
エルンスト・バルラハによるNikolaikircheの前のGeistkämpfer
エルンスト・バルラハによるNikolaikircheの前のGeistkämpfer
キール・オペラハウス(英語版) (Opernhaus Kiel) と市庁舎 (Kieler Rathaus)
キール・オペラハウス(英語版) (Opernhaus Kiel) と市庁舎 (Kieler Rathaus)
Holstenstrasse Kiel (1917年、ウィリー・ルーカス)
Holstenstrasse Kiel (1917年、ウィリー・ルーカス)
キール・ウィークの帆船
キール・ウィークの帆船
キール旧植物園
キール旧植物園
ラーボエのU995
ラーボエのU995
市海事博物館 (Warleberger Hof)
市海事博物館 (Warleberger Hof)
冬の植物園
冬の植物園
オペラハウス
オペラハウス
経済
キール港
キールの経済は、サービス業、交通、海事産業が主である。
また、ドイツ海軍の主要港の1つであり、軍事、造船においてドイツの最先端にあり、中心となっている。
キールには、1838年に設立された造船所で、潜水艦の構築で知られるホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船が置かれる。HDWは、最初のドイツ潜水艦、ブラントタオハー(英語版)を1850年に建造し、今日では、ドイツの造船所主要グループである、ティッセンクルップ・マリン・システムズの子会社になっている。
2005年時点で、1人当たりのGDPは€35,618であり、ドイツ平均を大幅に上回っており、ヨーロッパ連合平均の159%である[5]。
2005 ユーロスタット[6] 1人当たりのGDP
キール €35,618
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の旗 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 €24,250
ドイツの旗 ドイツ €27,219
欧州連合の旗 EU27 €22,400
交通
キール中央駅(英語版)は、ハンブルク、リューベック、フレンスブルク及びフースム(英語版)方面の列車が発着する。さらに、ICE (Intercity-Express)の乗り入れもあり、ベルリン、フランクフルト、ケルン、ミュンヘンを結んでいる。
キール港は、ドイツからスカンジナビア、バルト三国、ロシアへ向かう旅客船、貨物船の重要な港である。旅客フェリーは、スウェーデンのヨーテボリ(ステナライン、毎日、所要13.5時間)、ノルウェーのオスロ(カラーライン(英語版)、毎日、所要19.5時間)、リトアニアのクライペダ(DFDSリスコ(英語版)、毎週6便、所要21時間)へ運行されている。また、貨物フェリーは、ロシアのサンクトペテルブルク(DFDSリスコ(英語版)、毎週2便)、カリーニングラード(NSA、毎週1便)へ運行されている。
最も近い国際空港は、ハンブルク空港で、キールのおよそ90キロメートル (56 mi)南に位置する。ハンブルクとキール中央駅の間では、シャトルバス(KIELIUS)が運行されている。
A7(英語版)は、主要なヨーロッパ高速道路で、北ヨーロッパ、中央ヨーロッパと南ヨーロッパを結んでいる。
出身人物
ピョートル3世 (1728–1762)
マックス・プランク (1858–1947)、物理学者
トマ・アブツ(英語版) (1964-) – 画家
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー (1912–2007) – 哲学者、物理学者
ブリッタ・カールソン(英語版) (1978-) – 女子サッカー選手
クリスティーナ (1573-1625) – スウェーデン王妃
オットー・クレッチマー (1912-1998) – Uボート指揮官
アンドレアス・ケプケ (1962-) – サッカー選手
オズヴァルト・コーレ(英語版) (1928–2010) – 性教育者
フランシスコ・コパド(英語版) (1974-) – チェス選手
カール・ツックマイヤー (1896–1977) – 劇作家
ピョートル3世 (1728–1762) – ロシア皇帝
エルンスト・ブッシュ (1900–1980) – 俳優
マックス・プランク (1858–1947) – 物理学者
アルフレッド・ブリンクマン(英語版) (1891–1967) – チェス選手
ジュディス・マリナ (1926-2015) – 女優
マライ・メントライン(英語版) (1983-)
アウグスト・レスキン(英語版) (1840–1916) – 言語学者
パウル・ローレンツェン(1915–1994) 哲学者、数学者、論理学者
姉妹都市
フランスの旗 ブレスト、フランス(1964年)
イギリスの旗 コヴェントリー、イギリス(1947年)
フィンランドの旗 ヴァーサ、フィンランド(1967年)
ポーランドの旗 グディニャ、ポーランド(1985年)
エストニアの旗 タリン、エストニア(1986年)
ドイツの旗 シュトラルズント、ドイツ(1987年)
ロシアの旗 カリーニングラード、ロシア(1992年)
ロシアの旗 ソヴィェツク、ロシア(1992年)
トルコの旗 サムスン、トルコ(2010年)
脚注
^ Statistikamt Nord – Bevölkerung der Gemeinden in Schleswig-Holstein 4. Quartal 2021 (XLSX-Data)
^ Oberbürgermeister Dr. Ulf Kämpfer
^ “General Information”. Kieler Woche. 2005年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年3月13日閲覧。
^ a b “Kieler Stadtmuseum Warleberger Hof”, City of Kiel webpage, in German
^ GDP per person 2005 in Euro
^ “Regional GDP per inhabitant in the EU 27” (PDF). Eurostat. 2008年8月19日閲覧。
関連項目
デンマーク王国
ホルシュタイン=ゴットルプ家
キール条約
ドイツ連邦共和国
ヴァイマル共和政
第一次世界大戦
キール市電(廃止)
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、キール (ドイツ)に関連するメディアがあります。
Kiel – Landeshauptstadt – Segeln – Kieler Woche – Ostsee – Deutschland – Sailing City – Germany
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カテゴリ: キールドイツの主要都市ドイツの州都シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の行政区画ハンザ同盟ヨーロッパの港町
最終更新 2022年12月25日 (日) 12:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紋章 地図
Wappen der Kreisfreien Stadt Wilhelmshaven Lage der kreisfreien Stadt Wilhelmshaven in Deutschland
基本情報
連邦州: ニーダーザクセン州
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯 53度31分
東経 8度8分
標高: 海抜 約 2 m
面積: 106.91 km²
人口:
75,027人(2021年12月31日現在) [1]
人口密度: 702 人/km²
失業率: 12.3% (2006年7月現在)
郵便番号: 26351 – 26389 (旧: 2940)
市外局番: 04421, 04423
ナンバープレート: WHV
自治体コード: 03 4 05 000
市の構成: 27 地区このうち一つは区議会を持つ自治区である
市庁舎の住所: Rathaus
26380 Wilhelmshaven
ウェブサイト: http://www.wilhelmshaven.de
行政
上級市長: エーベルハルト・メンツェル (Eberhard Menzel) (SPD)
ヴィルヘルムスハーフェンのヴィルヘルム皇帝橋
ヴィルヘルムスハーフェン(独: Wilhelmshaven)はドイツ連邦共和国の都市。ニーダーザクセン州に属する。人口はおよそ8万5千人。
地勢・産業
北海に面しており、19世紀より軍港として栄えた港湾都市。近隣の都市として、30キロほど東にブレーマーハーフェン、50キロほど南にオルデンブルク、100キロほど南東にブレーメンなどがある。港のコンテナ取扱量は、ハンブルク、ブレーマーハーフェンに次いでドイツ第3位。
歴史
オルデンブルク大公国の領土だったが、1853年の条約に基づいてプロイセンが買収した。プロイセンはこの地に軍港を建設し、プロイセン海軍の重要な拠点とした。ヴィルヘルムスハーフェンという地名は、1871年に成立したドイツ帝国の初代皇帝、ヴィルヘルム1世にちなんだものである。
第一次世界大戦末期の1918年10月末、ヴィルヘルムスハーフェンにドイツ艦隊が集結した。指導部は、敗北が決定的になったにもかかわらず、敗戦後の交渉を有利に導くためイギリス艦隊への出撃を命じた(いわゆる「提督たちの反乱」)。これに対し、水兵たちは出撃を拒否し不穏な状況となった。抗議行動を続けていた一部の艦隊の水兵はキール軍港へ上陸、11月3日に大規模な反乱を引き起こし、ドイツ革命へと至った。
1956年以来、この地には北大西洋条約機構(NATO)の海軍基地が置かれている。
年表 ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)の発展
年 ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven) ヘッペン(Heppens) ノイエンデ(Neuende) バント(Bant) ゼングヴァルデン(Sengwarden)
1869 ヴィルヘルムスハーフェンと命名 ヘッペン ノイエンデ – ゼングヴァルデン
1873 ヴィルヘルムスハーフェンが市に昇格
1879 ヴィルヘルムスハーフェン バント市が誕生
1911 三地域が合併してリュストリンゲン(Rüstringen)
1937 リュストリンゲン(Rüstringen)と合併
1938 クナイプハウゼン(Kniphausen)を併合して拡大
1948 ヴィルヘルムスハーフェン フェッデルヴァルデン
→ ゼングヴァルデン
1972 ゼングヴァルデンを併合して拡大
姉妹都市
フランスの旗ヴィシー、フランス
アメリカ合衆国の旗ノーフォーク、アメリカ合衆国
ダンファームリン、スコットランド、イギリス
中華人民共和国の旗青島、中華人民共和国
ドイツの旗バート・ハールツブルク、ドイツ
ポーランドの旗ブィドゴシュチュ、ポーランド
出身有名人
詳細は「Category:ヴィルヘルムスハーフェン出身の人物」を参照
関連項目
SVヴィルヘルムスハーフェン
新世紀エヴァンゲリオン 作中、ドイツで建造されたエヴァ弐号機は、ここから日本へ向け移送された
引用
^ Landesamt für Statistik Niedersachsen, LSN-Online Regionaldatenbank, Tabelle A100001G: Fortschreibung des Bevölkerungsstandes, Stand 31. Dezember 2021
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ヴィルヘルムスハーフェンに関連するカテゴリがあります。
街の公式ホームページ(ドイツ語)
ドイツ海軍博物館(ドイツ語)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
表話編歴
ニーダーザクセン州の郡独立市および郡
カテゴリ: ヴィルヘルムスハーフェンドイツの主要都市ドイツの計画都市ニーダーザクセン州の行政区画ヨーロッパの港町
最終更新 2023年4月2日 (日) 06:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツ連邦海軍
Marine
創設 1956年1月2日 (68年前)
国籍 ドイツの旗 ドイツ
兵科 海軍
兵力 16,390人 (2021年3月現在)
船舶:65隻
航空機:56機
上級部隊 ドイツ連邦軍
本部所在地 ロストク (海軍司令部)
標語 Wir. Dienen. Deutschland.
(We. Serve. Germany.)
行進曲 Gruß an Kiel
主な戦歴
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 (1993–96)
不朽の自由作戦
第150合同任務部隊 (2002– )
アクティブ・エンデバー作戦
UNIFIL II
EU海軍によるソマリア沖海賊対処行動
ウェブサイト http://www.marine.de
識別
海軍旗
表話編歴
ドイツ海軍(ドイツかいぐん、ドイツ語: Deutsche Marine〈ドイチュ・マリーネ〉)は、ドイツ連邦共和国の海軍である。
概要
2019年2月26日時点で現役兵総員は16,438人[1]。
建軍以来、非公式には報道機関などを通じて1990年頃まで「連邦海軍(Bundesmarine)[2]」と呼称されていたが、1995年に連邦国防省主導のもとで正式名称「ドイツ海軍(Deutsche Marine)」と呼称される。
翌1996年11月6日に議会で名称変更について論争となったがこの経緯については政務次官は説明を拒否した[3]。
組織の位置としては、ドイツ連邦国防省連邦防衛軍における軍事機構分野(Militarische Organisationsbereiche)の軍隊(Streitkräfte)で軍備部門(Teilstreitkraft)にあたる。
本稿では他の時代や体制のドイツ海軍と区別するため必要に応じて、ドイツ連邦海軍、連邦海軍、西ドイツ海軍および統一ドイツ海軍の呼称を用いる。
歴史
終戦後
第二次世界大戦後ドイツは非武装化される。
しかし、連合軍最高司令部の下で旧ドイツ海軍の一部は沿海域の機雷を除去するために掃海艇部隊を維持・運用していた。
これらの掃海艇は1947年にドイツ掃海管理局(Deutscher Minenräumdienst、German Minesweeping Administration:GMSA)の下で最大規模となる。
その後、1956年の連邦海軍創設まで人的基盤を維持するために、より小規模な組織として掃海業務部門を税関[4]と警察内に維持した。
イギリス主導によるイギリス・バルト海漁業保護部(BBFPS)の下で、ハンス=ヘルムート・クローゼ(Hans-Helmut Klose)を指揮官とするクローゼ高速艇グループ(Schnellbootgruppe Klose)を非公式名称ながら組織し、新型高速艇部隊の中核として整備される。
また、ドイツ連邦国境警備隊内部にも海上部門(Seegrenzschutz)が設立され高速哨戒艇(後のジルバーメーヴェ級魚雷艇)6隻が発注されるも、準備段階ではその意図が露骨であったため、1955年のその内の3隻が名目的にイギリス海軍所有に移される[5]。
建軍段階
新しい海軍の基礎概念については、アメリカ合衆国海軍の海軍歴史チーム(NHT)にて1949年から1952年にかけて既に確立されていた。
1949年のドイツ連邦共和国(西ドイツ)の建国直後にコンラート・アデナウアー連邦首相は海軍の再建について米国海軍歴史チームと秘密審議を行い、米国海軍歴史チームはこれらの事項について同意する。
ヒンメロート覚書の拘束後に米国海軍歴史チームは同覚書を追補する。
内容は新海軍について人員15,000人から20,000人の規模の範囲内で、掃海艇、高速艇、追跡艇および水雷艇など小型艦艇を主体になっていた。
さらに、24隻の小型潜水艦に海軍航空隊の保有も視野に入る。
欧州防衛共同体の枠組みにおけるドイツ海軍分担計画では過小な戦力と装備が予定されていた。
計画当初は現役兵11,500人と予備役兵12,000人だけで構成される予定であり、最大級の部隊は輸送部隊で、潜水艦や航空機は含まれなかった。
西ドイツ側はこの所要量を不十分とみなした。
1954年に欧州防衛共同体構想が頓挫し、ドイツの海軍再軍備については北大西洋条約機構において引き続き交渉される。
欧州連合軍最高司令部は1955年7月6日付の書簡(最高司令部参謀長コンラード・スカイラー米陸軍中将によるいわゆるスカイラー要領のこと)で、それまで曖昧であった海軍の責任と給与に基準を与え、新生ドイツ海軍はそれに拘束されることになる。
北海・バルト海の入り口やキール運河に接近する敵海軍に対する拒止行動。
最も想定されるソビエト連邦海軍の活動を可能な限りバルト海近接部にて停止させる。
ドイツ・バルト海沿岸域とデンマーク島嶼部などでの連合防衛への参加。
ドイツ沿岸域で連合軍向け海洋通信と隣接海域の維持に貢献。
これらの任務のために小型護衛艦18隻、輸送艦艇10隻、掃海艇など54隻、高速艇40隻、潜水艦12隻、海軍用航空機58機が必要と判断された[6]。
1955年11月12日に西ドイツは旧ドイツ軍の伝統を継承しない新たな軍事組織としてドイツ連邦軍を創設し、1956年1月2日にドイツ連邦軍の海洋戦力としてドイツ連邦海軍が建軍され、旧海軍要員の再教育がヴィルヘルムスハーフェンで開始される。
同年3月1日付けで海軍総監が任命され、手始めに陸上の官庁組織を整備する[5]。
連邦軍の独立軍種として確立し他の軍種では多数の人員が配分されていたが、前述の通り連邦海軍は旧ドイツ海軍の人員をとり込みつつ再生を開始した。
最初期
ドイツ連邦海軍は当初から同盟国海軍と異なりNATOの指揮構造に結合される事を前提に組織されていた。
しかし、自己概念上の考え方が将来の同盟国間で調整されるのは1950年代前半からであった。
二つの重要な要因はこの考えに大きな影響を与える。
一方、ワルシャワ条約機構の強大な軍は東西国境に沿って展開し脅威となっていた。
他方、NATOは海洋大同盟として海洋を支配していた。
この相違によって西ドイツ正面の防衛が主要懸案事項となっていた。
したがって、初期における海軍が考慮すべき事項は、牽制のため敵地への着上陸作戦を指向する事となる。
これにより活動正面はほぼメクレンブルク方面に絞られた。
利用可能なドイツ連邦海軍は連合軍の上陸計画に備えて、安全確保と主力海軍部隊が到着するまでの間バルト海沿海域の確保が求められた。
予定された直上陸地点の確保は一義的にはドイツ連邦海軍が担う事になる。
海軍初の調達計画で次の装備が求められる。駆逐艦、高速艇、掃海艇、上陸用舟艇および海軍警備部隊を準備し、陸海空一体となった着上陸作戦に備えた。
連邦海軍の基礎はアメリカ合衆国軍の監督下で1956年1月2日以前まで海軍教育中隊と労務部隊(ドイツ掃海管理局)を通じて教育された。
1956年4月1日にハンス=ヘルムート・クローゼが指揮するクローゼ高速艇教育戦隊がキールにて編成される。
1956年5月2日に艦隊基盤司令部がヴィルヘルムスハーフェンにて任務を開始する。
1956年6月15日に海軍司令部はマックス=エッカート・ヴォルフ海軍大佐の暫定指揮の下で任務を開始する。
1956年5月16日に第1機雷捜索隊が12隻の掃海艇を基幹にヴィルヘルムスハーフェンにて編成され、1956年6月1日に第2啓開機雷調査隊が6隻の艦艇を基幹にブレーマーハーフェンにて編成される。
艦艇については当初、終戦後から連合国軍が敷設した機雷の除去のため、旧ドイツ海軍艦艇を活用して米英に編入されて掃海活動に従事しており、再軍備にあたって西ドイツに返還された。
戦闘艦艇についてはアメリカ海軍のフレッチャー級駆逐艦6隻やイギリス海軍のハント級護衛駆逐艦3隻、ブラックスワン級スループ4隻などの戦時建造艦艇を供与ないし購入し、国産艦艇の調達を開始するまでの繋ぎとした。
これ以外にも、バルト海で戦没したUボートXXIII型2隻やUボートXXI型1隻を引き上げて、前2隻は訓練用に、後1隻は実験用に供された[5]。
早くも1957年4月1日に第2啓開機雷調査隊はNATOの指揮構造に結合される。
1957年秋頃の連邦海軍には次の装備があった。
カペラ級掃海艇20隻、38型高速艇2隻、ヘーリング級高速艇6隻、ゼーフント級掃海艇6隻、護衛艦2隻、XXIII型Uボート2隻、練習艦艇8隻。
その後、連邦海軍の構造はしばしば変更され、1974年に一応の完成を見て1990年まで存続する。
1956年から1960年末までは海軍司令部(ヴィルヘルムスハーフェン、1958年に艦隊司令部に改編)、海軍基地司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)、海軍訓練司令部(キール)、艦艇試験司令部(キール)の4個基幹コマンドが組織された。
再編成
1960年代初めにはこの計画が非現実的である事が露見した。
東西ヨーロッパ諸国はすでに戦力の均衡を志向し、このような作戦計画は軍事バランスを揺るがしかねないものであった。
したがって、優先順位の問題としてバルト海を確保する点に注力され、ソビエト連邦海軍によるデンマークおよびドイツ沿岸への着上陸を阻止する事が主任務となる。
新計画は基本的に次の事項がドイツ連邦海軍の義務として求められた。
バルト海ではデンマーク海軍と共同でソビエト連邦海軍の着上陸を撃退するためのバルト海の封鎖や、バルト海の海上交通の封鎖に伴いワルシャワ条約機構軍の陸上部隊の強化と補給を遮断する事。
北海ではドイツ連邦海軍は自己航路の保護に貢献する事が求められた。
この航路は連合軍の援軍をオランダ、ドイツ、デンマークの港湾に輸送するためであった。
1970年代から1980年代にかけてこれらの任務のために新装備を調達する。
これらの内訳は40隻の最新鋭ミサイル高速艇、24隻の潜水艦、最新の掃海システムおよび112機のトーネード IDS戦闘攻撃機とヘリコプター搭載フリゲート(ブレーメン級)8隻であった。
ドイツ連邦海軍がバルト海に展開していた海洋戦力は全海軍のおよそ三分の二に達していた。
そしてより小規模なデンマーク海軍と共に縦深防衛システムを構築することに成功し、これを継続管理して仮想敵の着上陸作戦に対抗する。
これらの任務に基づき、ドイツ連邦海軍の作戦域は当初の運用計画ではバルト海および北海のドーバー・カレー線西方、北緯60度以北に展開するが、教育訪問については例外であった。
この運用制限は1980年6月に解除され[7]、全体をNATO北側面領域と呼称される。
1961年以降はNATOの指揮構造に結合され連邦海軍内の改革がなされ次のように、艦隊司令部(グリュックスブルク=マイアーヴィク)、ヴィルヘルムスハーフェン基地司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)、中央海軍司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)の3個基幹コマンドが設けられ、さらに1965年に海軍局が組織される。
1972年に以前と類似した組織構造に編制されることになり、1974年に連邦海軍の高等指揮機関は次の三つに分けられた。
艦隊司令部(グリュックスブルク=マイアーヴィク)、海軍支援司令部(ヴィルヘルムスハーフェン)、海軍局(ヴィルヘルムスハーフェン)で、この組織構造は2000年まで維持された。
冷戦の終結と新世紀
1980年代半ば、3つの要因が連邦海軍に新しい方向性を位置づけた。
一つ目はソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長がペレストロイカを推進し、米ソ首脳会談で核軍縮やアフガニスタン問題の解決に向けて歩み寄り、これに合わせてヨーロッパ情勢の変化のための政府間交渉を開始したことである。
バルト海正面での脅威の低下は連邦海軍に完全な転換を必要とさせた。
二つ目はNATO域外での新たな紛争である。
イラン・イラク戦争で1987年にNATO加盟各国の海軍は石油タンカー等を護衛するためペルシャ湾に艦艇を派遣し、従来展開していた地中海に「力の空白」を生じた。
西ドイツ海軍はこの空白を埋めて均衡を維持するために代替役を果たす必要性に迫られ、以来、艦艇部隊は地中海に常時展開する事になる。
三つ目に、従来の装備を可能であれば早期にでも最新の武器システムへと一対一で更新する事が求められた。特に老朽化が著しかった第一世代掃海艦艇は最新艦艇に更新された。
1990年の東側5州の連邦共和国への加盟により東西ドイツ統一がなされ、1991年に海軍総監ハンス=ヨアヒム・マン海軍中将は2005年を目標とする、統一ドイツ海軍として更なる発展のための指針を提示する。
東西ドイツ再統一により旧東ドイツの人民海軍(Volksmarine)が編入され、統合事業が始まる。
1995年に海軍指導部は組織の連続性にもかかわらず、これまで非公式ながらも使用されてきた「連邦海軍(Bundesmarine)」を「ドイツ海軍(Deutsche Marine)」に改め、以後は公式文書で旧名称を使用しないように通達が出された[3]。
1990年以降、連邦海軍は基本的には以前の組織構造を維持したが、連邦軍全体は徐々に縮小されつつあり、連邦海軍も同様に削減される事になる。
2プラス4条約の規定により旧東ドイツ地域は1994年末までNATO指揮下軍隊の入域を禁止していた。
したがって、旧人民海軍の将兵達は当初のまま維持され、当初はシュトラウスベルクに設置された連邦軍東部司令部隷下にあるロストック海軍司令部の全面指揮下におかれた。
そして1995年から統一ドイツ海軍は同一標準の新組織構造を採用しNATO加盟国による旧東領域への駐留を可能とした。
東部海軍司令部は解散され、代わりに一部の新部門は東側地域に設立され(東部海軍司令部は一部が海軍術科学校に)、他には西側からいくつかの部隊や機関が移転する(高速艇隊群や海軍局)。
2000年にルドルフ・シャーピング連邦国防大臣は連邦軍制度改革の海軍組織について抜本的に変更する。
一方、連邦軍の緩やかな継続的変革はこれまでの普通段階から踏み出して一挙に進められ、海軍はこの方針に拘束される。
1990年以前はバルト海で活動することを前提とした小型艦艇が主流であり、このため大型艦については異なる艦種を調達していた。
同時に海軍将兵の定数は約25,000人まで削減される。これにより海軍の勢力は他軍種との構成比率が1990年以前の約10%からほぼ7.7%まで縮小される。
NATOの沿海域での活動について、ドイツ海軍は自己の経験を反映しより良いアイデアを伝達するため、2007年に浅海域制限作戦センター(COE CSW)をキールに設置し、2009年にNATOに公認される。
組織
海軍司令部(ドイツ語版) 在ロストック - 海軍総監(中将)が率いている。2012年に艦隊司令部(在グリュックスブルク)と海軍局(在ロストック)を統合し、それまでの海軍指揮幕僚監部(在ボン)を置き換えた。
第1機動隊群 在キール
第2機動隊群 在ヴィルヘルムスハーフェン
第3海軍航空団 在ノルトホルツ
第5海軍航空団 在キール=ホルテナウ
任務
1956年の建軍以来、ドイツ連邦海軍は北海およびバルト海沿海域でのワルシャワ条約機構軍の侵攻を抑止することが主たる任務であった。
しかし、東西ドイツ統一とヨーロッパにおける冷戦の終結は、その後の安全保障環境と国内世論の変化も相まってドイツ海軍の戦略を抜本から変革することが求められる事になる。
ドイツ海軍は連邦国防大臣により確立した防衛政策に則り、海軍は国家の安全保障政策に貢献する。1990年以降、連邦軍の任務はNATO域外に拡大し平和維持活動に参加する。
主たる任務には以下の様なものがある。
国際テロとの戦いを含む国際紛争の予防と危機の解決。
同盟国の支援。
ドイツそのものとドイツ国民の保護。
救出と避難。
パートナーシップと協力。
民間への援助(公的支援、自然災害、特に重大事故)。
国外任務
ドイツ海軍准将と自衛隊海将補
冷戦末期の1987年にイラン・イラク戦争の余波により地中海へ艦艇を派遣し定期的に軍事行動を実施していた。
初の海軍NATO域内派兵であったが加盟国間の共同防衛義務に基づく安全保障支援であった。
東西再統一直後から国内では連邦軍の域外派遣について集中的な議論が始まった。
これについては1990年8月2日のイラク軍のクウェート侵攻に端を発した湾岸危機とそれに引き続く湾岸戦争においてドイツ連邦軍の運用についての影響があった。
これらの活動で統一間もないドイツ連邦海軍はかなりの分野で外国軍と関係していた。
湾岸戦争にあってはドイツはアメリカ合衆国が連邦軍の派兵を求めたがドイツ連邦共和国基本法のほか、国際連合加盟後に形成されたNATO域外派兵に関する自主的規制に拘束され、戦争中には湾岸地域に軍隊を派遣せず総額172億独マルクの戦費を拠出し、トルコに空軍航空機を、地中海では出動した他の加盟国海軍の穴埋めで海軍が展開し(ズュートフランケ作戦)、戦後になってペルシャ湾に掃海艇を派遣したが、それでも日本と共に「小切手外交」と各国から激しく非難された[8]。
1991年6月25日のクロアチア・スロベニア両国同時の独立宣言により6月27日にスロベニアにて十日間戦争が勃発し所謂ユーゴスラビア紛争が始まる、この影響により1992年からNATOはアドリア海での監視作戦を開始する。
ここではドイツの艦艇と航空機が含まれた。
アドリア海に初めて展開した艦艇は駆逐艦「D183 バイエルン」であった。
各国それぞれ異なる活動をしていたが国際連合の禁輸措置によって派生した各種監視活動はシャープガード作戦の発動をもって集約される。
この作戦に対するドイツの参加は連邦憲法裁判所での訴訟手続対象の一つとなっていた。
連邦憲法裁判所の判断で1994年の間に限りドイツ海軍は完全な範囲でアドリア海での活動に参加することができた。
作戦については一応の体裁としては旧ユーゴスラビア全域を対象とした武器流入禁止を目的に活動したが、他方ではユーゴスラビア連邦主体、すなわちセルビア人勢力に対して禁輸措置が押し通され、ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争解決に寄与するとされた。
1995年6月30日に、連邦政府はボスニアでの国際連合保護軍(UNPROFOR)部隊に全軍種を参加させることを決定し、いくつかの部隊はデリバリット・フォース作戦に参加する。
海軍の担当については必要に応じて、ブレゲー アトランティック哨戒機2機と掃海艇および高速艇1隻をアドリア海に派遣した。
これらのうち実際に活動したのは哨戒機2機だけであった。
1996年にシャープガード作戦の運用は終了するが、海軍はNATOの一角として引き続いてアドリア海上にて存在を保持した。
この後の1997年3月にはアルバニアの政情不安に伴い在留邦人および外国人救出のためにトンボ作戦が発動し、海軍はアドリア海に出動する。
またコソボ紛争中にもアドリア海で哨戒任務に就き、紛争後の1999年にドイツ海軍はアドリア海に遺棄された弾薬の回収作業を実施する。
1993年12月に内閣は、第二次国際連合ソマリア活動(UNOSOM 2)のために翌1994年3月から7月までソマリアに連邦軍を出動させる決定をする。
先遣隊は同年6月5日にソマリア入りし、しかし、先遣隊到着直後の平和維持軍によるアイディード将軍派ヘ攻撃や同年10月のアメリカ合衆国軍の失態とその後の各国軍の急速な撤退は、違憲訴訟まで発展した国内政治情勢も相まって国論の分裂を伴いつつ、1994年2月13日に第1陣101人がフリゲート「F211 ケルン」でモガディッシュを出発し、ケニアのモンバサ港へ向けて撤退することになる[8]。
第2陣以降にフリゲートと補給艦がモンバサ港およびジブチ港にて派遣部隊約1700人を撤収させた。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、対テロ戦争で連邦軍は戦列に投入される。
海軍については2002年以降に不朽の自由作戦の一環としてアフリカの角にあるジブチに艦艇や航空機を展開させる(アフリカの角における不朽の自由作戦)。
初期段階ではフリゲート3隻、高速艇5隻、支援艦艇の他ヘリコプターおよび海軍長距離偵察隊を含む総員約1700人に達した。
これは1990年以来ドイツ海軍としては最大規模であった。
その後派遣戦力は縮小され、派遣隊はジブチ港を拠点にフリゲートや補給艦および小規模な基地支援隊で構成される。さらに地中海東部では2001年末からアクティブ・エンデバー作戦に参加している。
2006年のレバノン侵攻に伴い国際連合レバノン暫定駐留軍海上任務部隊に艦艇その他を派遣した。
2006年10月から2008年2月まではドイツ海軍の提督が海上任務部隊の司令官を務めた。
当初のドイツ派遣部隊はフリゲート2隻、高速艇4隻および支援艦艇2隻から成った。
指揮権交代後はフリゲート1隻と高速艇2隻(高速艇もしくは掃海艇)に削減される。
2002年末からの不朽の自由作戦に参加以来、ドイツ軍艦はソマリア沖・アデン湾に展開し続けてきたが、2008年にはソマリア沖の海賊による民間船舶の被害が急増し始めた。
これに対応するため欧州連合の枠組みでアタランタ作戦に参加し第1陣「F212 カールスルーエ」が2008年12月19日から護衛任務を開始する。
階級
通常は最高位の役職である海軍総監でも海軍中将である。連邦軍総監のみが海軍大将となる。
日本語 ドイツ語 NATO階級符号
士官
海軍大将 Admiral OF-9
海軍中将 Vizeadmiral OF-8
海軍少将 Konteradmiral OF-7
海軍准将 Flottillenadmiral OF-6
海軍大佐 Kapitän zur See OF-5
海軍中佐 Fregattenkapitän OF-4
海軍少佐 Korvettenkapitän OF-3
海軍上級大尉 Stabskapitänleutnant OF-2
海軍大尉 Kapitänleutnant OF-2
海軍中尉 Oberleutnant zur See OF-1
海軍少尉 Leutnant zur See OF-1
准士官および下士官
海軍上級准尉 Oberstabsbootsmann OR-9
海軍准尉 Stabsbootsmann OR-8
海軍兵曹長
(士官候補生) Oberfähnrich zur See OR-7
海軍兵曹長 Hauptbootsmann OR-7
海軍一等兵曹 Oberbootsmann OR-6
海軍一等兵曹
(士官候補生) Fähnrich zur See OR-6
海軍二等兵曹 Bootsmann OR-6
海軍三等兵曹 Obermaat OR-5
海軍三等兵曹
(士官候補生) Seekadett OR-5
海軍伍長
(兵曹候補生) Maat
(Feldwebelanwärter) OR-5
海軍伍長 Maat OR-5
兵卒
海軍先任兵長 Oberstabsgefreiter OR-4
海軍兵長 Stabsgefreiter OR-4
先任上等兵 Hauptgefreiter OR-3
海軍上等兵 Obergefreiter OR-3
海軍一等兵
(士官候補生) Gefreiter
(Offizieranwärter) OR-2
海軍一等兵
(兵曹候補生) Gefreiter
(Feldwebelanwärter) OR-2
海軍一等兵
(伍長候補生) Gefreiter
(Unteroffizieranwärter) OR-2
海軍一等兵 Gefreiter OR-2
海軍二等兵 Matrose OR-1
主要基地・施設
ヴィルヘルムスハーフェン(フリゲートなど主力艦艇の基地)
エッカーンフェルデ(潜水艦や支援艦艇の他に陸戦部隊の基地)
キール(掃海部隊と練習艦の基地)
ヴァーネミュンデ(コルベットや高速艇などの基地)
ノルトホルツ航空基地(第3海軍航空団)
キール=ホルテナウ・ヘリポート(第5海軍航空団)
ノイハルリンガージール(DHJ59、送信施設)
ザターラント(DHO38、長波送信施設)
マーロー (ドイツ)(マーロー海軍無線施設)
装備
艦艇
2022年現在
歴代艦艇については「ドイツ海軍艦艇一覧」を参照。
通常動力型潜水艦
212A型×6
U31(S181) - 2005年
U32(S182) - 2005年
U33(S183) - 2006年
U34(S184) - 2007年
U35(S185) - 2015年
U36(S186) - 2016年
212CD型潜水艦(英語版)×0(2隻発注済み)
フリゲート
ブランデンブルク級(123型)×4
ブランデンブルク(F215 Brandenburg) - 1994年
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン(F216 Schleswig-Holstein) - 1995年
バイエルン(F217 Bayern) - 1996年
メクレンブルク=フォアポンメルン(F218 Mexhlenburg-Vorpommern) - 1996年
ザクセン級(124型)×3
ザクセン(F219 Sachsen) - 2004年
ハンブルク(F220 Hamburg) - 2004年
ヘッセン(F221 Hessen) - 2005年
バーデン・ヴュルテンベルク級 (125型)×4
バーデン=ヴュルテンベルク(F222 Baden-Württemberg) - 2019年
ノルトライン=ヴェストファーレン(F223 Nordrhein-Westfalen) - 2020年
ザクセン=アンハルト(F224 Sachsen-Anhalt) - 2021年
ラインラント=プファルツ(F225 Rheinland-Pfalz) - 2022年
126型フリゲート×0(4隻発注済み)
127型フリゲート×0(4隻発注済み)
コルベット
ブラウンシュヴァイク級×5(5隻建造中)
ブラウンシュヴァイク(F260 Braunschweig) - 2008年
マクデブルク(F261 Magdeburg) - 2008年
エアフルト(F262 Erfurt) - 2013年
オルデンブルク(F263 Oldenburg) - 2013年
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(F264 Ludwigshafen Am Rhein) - 2013年
汎用揚陸艇(LCU)
520型×1
ラクス(L762 Lachs)
機雷掃討艇
フランケンタール級(332型)×10
フルダ(M1058 Fulda) - 1998年
ヴァイルハイム(M1059 Weilheim) - 1998年
ドレット (M1061 Dret) - 1993年
ズルツバッハ=ローゼンベルク(M1062 Sulzbach-Rosenberg) - 1996年
バート・ベヴェンセン(M1063 Bad Bevensen) - 1993年
グレーミッツ(M1064 Grömitz) - 1994年
ディリンゲン(M1065 Dillingen) - 1995年
バート・ラッペナウ(M1067 Bad Rappenau) - 1994年
ダッテルン(M1068 Datteln) - 1995年
ホンブルク(M1069 Homburg) - 1995年
掃海艇
エンスドルフ級(352型)×2
ペグニッツ(M1090 Pegnitz) - 1990年
ジークブルク(M1098 Siegburg) - 1990年
水中作業母船
332B型×1
ロットヴァイル(M1061 Rottweil) - 1993年
調査艦
751型×1
プラネート(A1437 Planet) - 2005年
多目的支援艦
シュヴェーデネック級(748型)×2
クロンスオルト(Y861 Kronsort) - 1987年
ヘルムザント(Y862 Helmsand) - 1988年
支援艦
オステ級(423型)×3
アルスター(A50 Alster) - 1989年
オステ(A52 Oste) - 1988年
オカー(A53 Oker) - 1988年
424型×0(3隻建造中)
エルベ級(404型)×6
エルベ(A511 Elbe) - 1993年
モーゼル(A512 Mosel) - 1993年
ライン(A513 Rhein) - 1993年
ヴェラ(A514 Werra) - 1993年
マイン(A515 Main) - 1994年
ドナウ(A516 Donau) - 1994年
練習帆船
ゴルヒ・フォック(A60 Gorch Fock)[9] - 1958年
補給艦
ベルリン級×3
ベルリン(A1411 Berlin) - 2001年
フランクフルト・アム・マイン(A1412 Frankfurt am Main) - 2002年
ボン(A1413 Bonn) - 2013年
給油艦
レーン級(704型)×2
シュペッサルト(A1442 Spessart) - 1974年
レーン(A1443 Rhön) - 1974年
707型×0(2隻発注済み)
油回収船
ボットサント級
ボットザント(Y1643 Bottsand) - 1985年
エファーザント(Y1644 Eversand) - 1988年
港内曳船
725/660型×6
フォーゲルザント(Y816 Vogelsand) - 1987年
ノルトシュトラント(Y817 Nordstrand) - 1987年
ランゲネス(Y819 Langeness) - 1987年
リューチェ・ヘルン(Y812 Lütje Hörn) - 1990年
クネヒトザント(Y814 Knechtsand) - 1990年
シャルヘルン(Y815 Scharhörn) - 1990年
航洋曳船
ウォーナ (Y1659 Warnow)
航空機
「海軍航空隊 (ドイツ連邦軍)」も参照
固定翼機
ドルニエ Do 228-212×2
ロッキード P-3C オライオン CUP×8
回転翼機
ウェストランド シーキングMK41 KWS×14
ウェストランド スーパーリンクスMk88A×22
NH-90 シーライオン×18
陸戦兵器
小火器
ワルサー P1
H&K P7
H&K P8
H&K G3
H&K G36
アキュラシー・インターナショナル G22
IMI MP2
H&K MP5K
H&K MP7
ラインメタルMG3
H&K MG4
H&K HK69
P2 信号銃
パンツァーファウスト3
脚注
^ Die Starke der Streitkrafte公式サイト。2019年3月12日閲覧
^ これは1848年成立した北ドイツ連邦海軍(Marine des Norddeutschen Bundes)と混同するおそれがあるも、冷戦時代は東ドイツ側の「人民海軍:(Volksmarine)」と区別する目的もあり、募兵ポスター等でもBundesmarineと銘打たれていた。
^ a b Wie heißt die kleinste Teilstreitkraft der Bundeswehr richtig?
^ ドイツ連邦共和国では沿岸警備隊の機能は連邦内務省連邦国境警備隊(現ドイツ連邦警察)、連邦運輸省水運管理局、連邦財務省連邦税関管理局、連邦農林食品省農業食品連邦機関など複数の省庁が分野別に担当しており、税関については海上管制部隊がこれを担当する。2010年時点では各機関や部門を調整する連絡調整機関としてドイツ沿岸警備隊が運用されている。
^ a b c 世界の艦船1998年9月号
^ Karl-Adolf Zenker, Aus der Vorgeschichte der Bundesmarine, in: Die deutsche Marine – Historisches Selbszverständnis und Standortbestimmung; Schriftenreihe Deutsches Marine Institut; Deutsche Marine-Akademie, Bd. 4, Herford und Bonn 1983, S.91ff
^ Militärgeschichtliches Forschungsamt
^ a b 中村『ドイツの安全保障政策』
^ バーク形帆船。
参考文献
Christopher Langton, Military Balance 2007, Routledge.
Bundeswehr 2002 Sachstand und Perspektivens Bundeswehr, 2002.
Hannes Ewerth, Peter Neumann, Deutsche Marine. The German Navy, Mittler & Sohn, 2007.
Sigurd Hess, Faszination See: 50 Jahre Marine der Bundesrepublik Deutschland, Mittler & Sohn, 2005.
戦略問題研究会『戦後 世界軍事史[1945~1969年]』原書房、1970年(昭和45年)。
戦略問題研究会『戦後 世界軍事史[1970~1973年]』原書房、1974年(昭和49年)。
『世界の艦船』542号、海人社、1998年。
中村登志哉『ドイツの安全保障政策』2006年、一藝社。
Jane's Fighting Ships 2011-2012
外部リンク
(ドイツ語) Deutschen Marine 海軍公式サイト
(ドイツ語) Marine-Offizier-Vereinigung
(ドイツ語) Deutscher Marinebund
(ドイツ語) Deutsches Marinemuseum
(ドイツ語) Deutsches Maritimes Kompetenz Netz
表話編歴
ドイツ連邦軍
表話編歴
ドイツの海軍
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カテゴリ:
ドイツ連邦海軍ドイツ連邦軍各国の海軍
最終更新 2024年1月31日 (水) 05:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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ドイツ海軍の「F126型」フリゲートに秘められた性能
https://kaiyoukokubou.jp/2024/03/27/f126-frigate/


『contents
1万トンの多目的戦闘艦
長期の海外派遣を想定
1万トンの多目的戦闘艦
ドイツといえば陸軍のイメージが強く、対する海軍は2つの世界大戦でその脅威を知らしめたUボート、潜水艦の印象がいまも残っています。
そんなドイツ海軍は新たに「F126型」という次世代フリゲートを建造しており、2028年から合計4隻が就役予定です。
ただし、この新型艦はフリゲートでありながら排水量は1万トン超えとなり、ドイツにとって戦後最大の軍艦になりました。
⚪︎基本性能:F126型フリゲート
排水量 10,550t
全 長 166m
全 幅 21.7m
乗 員 198名(最小114名)
速 力 26ノット(時速48km)
兵 装 127mm速射砲×1
垂直発射装置×16
NSM対艦ミサイル×8
SeaRAM×2
27mm機関砲、12.7mm機関銃
艦載機 哨戒ヘリ×2、無人機
建造費 1隻あたり約2,000億円
スクロールできます
1番艦の名から「ザールラント級」とも呼ばれる新型フリゲートは、その大きな船体に多くの装備を詰め込み、多目的戦闘艦として使えるように設計されました。
防空向けの垂直発射装置(VLS)は16セルとなっているものの、1セルあたり4発のESSM対空ミサイルを搭載できるので、最大64発もの中距離対空ミサイルを運用可能です。一方、対艦兵装には対地攻撃にも使えるNSMステルス・ミサイルを選びました。
F126型のイメージ図(出典:独ダーメン社)
さらに、F126型はさまざまな目的を果たせるように「ミッション・モジュール」というコンセプトを採用しました。
これは任務に合わせて装備を取り換えるもので、対潜水艦戦や機雷戦、特殊部隊の支援、不審船の海上臨検を想定したモジュールが用意されています。例えば、対潜版には曳航式ソナーが、特殊部隊向けのものには海中潜入に備えた減圧室がついています。
任務によってモジュールを組み合わせる手法は、かつてアメリカが目指して失敗した「沿海域戦闘艦(LCS)」でも見られたもので、ドイツの試みが同じ結果にならないかは気がかりです。
長期の海外派遣を想定
さて、陸軍国のドイツがわざわざ1万トン超えの多目的戦闘艦を建造したのは、海外での長期活動を見据えてのことです。
F126型フリゲートは4ヶ月ごとに乗組員を交代しながら、最大2年間は本格整備なしで活動できるため、アフリカ沖での海賊対処・商船護衛任務、長期間の警戒監視や海洋調査などに投入される予定です。
アジア太平洋地域への関与を強めている最近のドイツを考えれば、この新型フリゲートは日本にもやってくるかもしれません。
このように国際貢献活動を担う存在として期待されている反面、そのコストは1隻あたり約2,000億円にまで膨らみ、財政難に悩むドイツにとってはかなりの出費です。
そして、前の「F125型」がトラブルを起こしまくった結果、ドイツ海軍でさえ受取拒否をした苦い経験があります。もし、2,000億円もかけて似た結末になれば、取り返しのつかない事態になるのは間違いありません。』
春ははじまりの季節 | 韓国しじぷさり日記
https://ameblo.jp/edamamemame/entry-12845877573.html
『2024年03月26日(火) 13時34分51秒
以前書いた、わたしの職場のニューフェイス、SさんとKさんのゴタゴタの続きです。
そして誰もいなくなった・・・・・笑
そもそも、トラブルの中心は、新入りのKさんでして、KさんがSさんに批判的であることで生じたトラブルでした。
だからKさんを来月から異動させ・・・・喧嘩両成敗で、Sさんも移動させる。
という解決策が上がっていました。
ところが、別の人が電撃辞職をした。表の理由は体調不良、しかし上司に不満あり。
しかも、若手のひとりが資格試験に合格し、転職のタイミングをうかがっている。
加えてあろうことか、先輩職員までも辞職を打診・・・まとまったお金が必要なので退職金で、とのこと。
春はお別れの季節~~笑
「はじめまして。わたしは有能です。あなたは謙虚になって、お互い仲良くしましょうね。」
という、ゴタゴタでひともんちゃくあったのですが、
それであってもなくても、
辞める時は辞めるのね~。
まぁ、タイミングというのもあるかな。
それでも、職場の雰囲気というのも、影響はあると思います。
でも、春ははじまりの季節。
ひとり、補充されました。
新入りですが、「主任」が補充されました。
同僚が業務内容の一部を「主任」に説明するよう、課長から仰せつかったのですが、
主任さんは、ちょっとだけ説明を聞いた後、
「もういいです。課長から説明してもらいますから」と、同僚の説明を断りました。
同僚は気分を害していました。
(あんたなんかから教えてもらわなくてもいいわ時間の無駄)ってことですかね。
韓国の新入りさんというのはどうも、プライドが高いですねー。
年功序列社会ではあるものの、つまりは職位主義で能力主義の階級社会である。
そして、新卒採用優先の終身雇用ではなく、契約で職場を渡り歩く雇用形態。
そうしますと、完成品の採用であって、入ってすぐから自分の能力アピールに邁進することになりますね。
年齢の物差し、職位の物差し、職責の物差し、入社年度の物差し、能力の物差し、
階級社会である韓国で、いくつもの物差しによる、多種の上下関係が交錯します。
年齢が上で入社年度が先輩であるSさんと、年下の新入りでありながら経験豊富で能力のあったKさんとのトラブルも、このいくつもの物差しの交錯によるものです。
どちらが有能、有益か。上か。
Win-Winで建設的に能力アピールしてくれればいいのですが、誰かを負かしてWinを取ろうとするのは、
誰かの負担になります。
そう、先輩職員さんが辞職を決意したのは、まとまったお金が必要だったのですが、
それは前々から言ってました。それがこのタイミングであるのは、
たぶん新入り主任さんが入ってからです。
別にぶつかったわけではないのですが。
業務の大黒柱的な存在でしたが、空席だった「主任」が補充されたなら辞めるにちょうどいいタイミングだとか?居心地が悪いとか、もう自分はいらないかなとか?思ったかもしれません。
この方が主任に昇進してもよかったのに、そうはならない事情がいろいろあるのでしょう。
職場の雰囲気は誰が作るのか。
今まで見てきて、それは上司かなと思った時期もありましたが、上司以上に雰囲気に影響力を持つ人もいた。
Kさんはその例でした。
なぜか大量離職の波があり、安定継続の時期もある。
その理由も、
騒がしい末に去る時もあるし、
みなそれなりに大人なので、表だった理由なしにすすーっと人が去ってしまう時があります。
今回は波及効果でその両方が来たようです。
うちの職場は最近、離職と補充の回転が相当速いので、もう当たり前になっちゃって、あまり引き止めたりしない感じです。
最近のケースは皆、引き止めたって解決できない、どうしようもない感じかなー。
「社内で育てる」「角付き合っていずれ丸くなる」という意識があまりなくなった感じ。
1か月の適応期間を許容して、完成品を求めている感じ。
ならば、今後の幸せのために、辞めたい人は送り出してあげよう!!
自分に合った職場が必ずあるはず。
(いつかかならずどこかにきっと~~)
(そしてさまよう人もいる)
(知り合いを連れてこいとのお達しが出ました。知り合いにさまよっている人がいるはずだという前提だな。)
なんだかせわしない春。
よく言えば、新陳代謝が早く、基礎代謝が高い企業である。
(いや、うちは、業界ではホワイト企業の方よ)