カテゴリー: 世界の歴史、関連
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東南アジア 前近代総合
https://www.y-history.net/wh_mondai/mondai_tiiki/m_tonan-asia-01.html

『2011 龍谷大学
【問】次の文(1)・(2)を読み、下の問い(問1~問15)に答えなさい。
(1)インドシナ半島では. 1世紀項に、東南アジア最古とされる統一国家、扶南が①メコン川下流域に建国された。その民族については、( 2 )ともマレー人とも言われている。扶南から真臘へ、そして9世紀に成立したアンコール朝へと③カンボジアの歴史は続く。
カンボジアは、豊かな水資源を利用して農業開拓をすすめ、河川の水運を活用した交易によって発展した。しかし④13世紀頃より台頭してきたタイ人諸勢力により、アンコール朝は次第に圧迫され、1431年にアンコールの都を放棄してプノンペンに移すことになる。
一方、インドシナ半島東部の⑤ヴェトナムは、北に中国と隣接する位置関係から、中国の文化的な影響を大きく受けるとともに、⑥中国に成立した各王朝からの支配をも受けた。しかし唐の衰亡とともに独立を果たし11世紀にはヴェトナム北部に李氏が⑦大越国を建国した。その後、いくつかの王朝の興亡を経て、19世紀には( 8 )の保護国となり( 8 )領インドシナ連邦に組み込まれた。問1
①について。メコン川の位置として正しいものを、次の中から一つ選びなさい。① A ② B ③ C ④ D ⑤ E
問2
空欄( 2 )に入れるのに適当なものを、次の中から一つ選びなさい。
①チャム人 ②シャン人 ③モン人 ④シンハラ人 ⑤クメール人
問3
③について。カンボジアの歴史に関する記述として誤っているものを、次の中から一つ選びなさい。
①
扶南の貿易港からローマ貨幣が出土した。
②
フエ(ユエ)は真臘の貿易港である。
③
真臘は唐に朝貢した。
④
アンコール朝は分裂した陸真臘と水真臘を統一した。
問4
④について。以下の王朝の中でタイ人王朝として正しいものを、次の中から一つ選びなさい。
①チョーラ朝 ②コンバウン朝 ③クディリ朝 ④アユタヤ朝 ⑤トゥング一朝
問5
⑤について。ヴェトナムにおける中国文化の影響に関する記述として正しいものを、次の中から一つ選びなさい。
①
両班という特権階級が形成された。
②
交鈔という紙幣が発行された。
③
字喃という文字が作られた。
④
ワヤンと呼ばれる影絵芝居が行なわれた。
問6
⑥について。ヴェトナムと中国各王朝との関係に関する記述として誤っているものを、次の中から一つ選びなさい。
①
漢は南海郡を設置してヴェトナム全域を支配した。
②
唐はヴェトナムに安南都護府を設置した。
③
明の永楽帝はヴェトナム北部を併合した。
④
ヴェトナム最後の王朝である阮朝は清を宗主国とした。
問7
⑦について。大越国の王朝に関する記述として誤っているものを、次の中から一つ選びなさい。
①
李朝(大越国)はサイゴンに都を置いた。
②
陳朝はモンゴル軍の侵略を退けた。
③
西山(タイソン)党の反乱によって黎朝がほろんだ。
④
玩朝は国号を越南とした。
問8
空欄( 8 )に入れるのに適当なものを、次ぎの中から一つ選びなさい。
①イギリス ②オランダ ③アメリカ ④フランス ⑤スペイン(2)アンコール朝の歴代の王たちは、アンコール=トムや⑨アンコール=ワットなどの壮大な石造りの建築物を次々と造営した。アンコール=ワットは、12世紀前半に( 10 )が造営したヒンドゥー教寺院であった。回廊の壁面はインド文学に題材をとった浮き彫りで飾られ、あるいは神と王を合体させた特別な神像も作られた。このように⑪インド文化の影響を強く受けつつカンボジアの民族文化を開花させていった。
しかし後にアンコール=ワットは⑫仏教寺院へと改築された。16世紀末から17世紀前半にかけて、日本の貿易船が東南アジア各地に航行し、アンコール=ワットを訪れる日本人のいたことが記録に残されている。
ところで、 8世紀にはイスラーム世界の成立にともなって、⑬ムスリム商人がインド洋をわたり、マラツカ海峡をこえ、交易路を拡大して東南アジアや中国に進出してきた。また10世紀には宋の経済発展にともない海の道の交易が飛躍的に発展した。⑭マラッカ海峡は、このようにインド洋と南シナ海をむすぶ海上交易の要衝となり、⑮マラッカなどその海域周辺の諸国が交易の主導権をめぐり勢力を競った。問9
⑨について。アンコール=ワットはどれですか。正しいものを、次の中から一つ選びなさい。① A ② B ③ C ④ D ⑤ E
問10
空欄( 10 )に入れるのに適当なものを、次の中から一つ選びなさい。
①ラーマ4世 ②スールヤヴァルマン2世 ③ハルシャ=ヴァルダナ ④パーブル ⑤ティムール
問11
⑪について。インド文化に関する記述として誤っているものを、次の中から一つ選びなさい。
①
ヒンドゥー教の神に破壊神としてのシヴァがいる。
②
クシャトリヤはバラモンより下位の階級である。
③
『マハーバーラタ』はサンスクリット語で書かれた叙事詩である。
④
『アヴェスター』はヒンドゥー教の聖典である。
問12
⑫について。東南アジアの仏教に関する記述として正しいものを、次の中から一つ選ぴなさい。
①
ヴェトナムでは仏国寺が建てられた。
②
チャンパーではポタラ宮殿が建てられた。
③
パガンでは上座部の仏教寺院が建てられた。
④
ジャワ島ではプランバナン寺院群が建てられた。
問13
⑬について。ムスリム商人に関する記述として誤っているものを、次の中から一つ選びなさい。
①
ジヤンク船という三角帆の帆船による交易を行なった。
②
奴隷をも交易品として扱った。
③
東南アジアのイスラーム化に貢献した。
④
カーリミー商人と呼ばれたムスリム商人の拠点はカイロにあった。
問14
⑭について。以下の人物の中でマラッカ海峡を通らなかった人物として正しいものを、次の中から一つ選びなさい。
①義浄 ②イブン=バットゥータ ③マルコ=ポーロ ④鄭和 ⑤マゼラン(マガリャンイス)
問15
⑮について。
(a)
マラッカと周辺諸国に関する記述として誤っているものを、次の中から一つ選びなさい。
①
シュリーヴイジャヤはスマトラ島のパレンパンを交易の拠点とした。
②
マラッカは明の支援をうけて国際貿易港として急成長した。
③
ヒンドゥー教国家のマタラムはマラッカと主導権を競った。
④
16世紀初めマラッカを占領したのはポルトガルである。
(b)
ヨーロッパ勢力のマラッカ占領後、ムスリム商人を受け入れたスマトラ島北端のイスラーム教国を何といいますか。正しいものを、次の中から一つ選びなさい。
①アチェ ②ジョホール ③バンテン ④マラーター ⑤ヴィジャヤナガル解 答 解答欄ごとにクリック。全解答を表示するには右上の「全解答表示」をクリック。クリアは左上のメニューで選択。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
② ⑤ ② ④ ③ ① ① ④ ④ ②
11 12 13 14 15(a) 15(b)
④ ③ ① 解答不能 ③解説
問3
フエは中部ベトナムのチャンパ国に含まれている。
問6
漢の南海郡は中国の南部。
問7
大越国の都はハノイ。
問11
アヴェスターはゾロアスター教の経典。
問12
①は新羅、②はチベット、④のプランバナンはヒンドゥー教の寺院群。
問13
ジャンクは中国船。
問14
マゼラン船団はマラッカ海峡を通過しているが、マゼラン自身はフィリピンで死んでいるので、これを正解としたかったのであろうが、実は彼は世界周航の前に、ポルトガルのアルブケルケの部下として東南アジアで活動しており、そのときマラッカ海峡を通過しているので、該当しない。他のすべてもこの海峡を通っているので、正解なしとなる。大学の出題ミス。 』 -
東南アジアの大陸部(インドシナ半島)
https://www.y-history.net/appendix/wh0202-001.html

『東南アジアの大部分を占めるインドシナ半島地域を大陸部という。古来、インドと中国双方の文化的影響を受けながら、ヒンドゥー教、仏教、イスラーム教が交差、幾つかの民族と王朝が興亡した。近代はタイを除き植民地化の苦難を経て現在、ミャンマー(ビルマ)、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムの5ヵ国に分かれる。(マレー半島は一般的には島嶼部に含まれる。)
インドシナ半島地図
インドシナ半島の主要河川
・東南アジア South East Asia という地域名称は、第二次世界大戦中に用いられるようになった。戦前の日本では「南方」と云っていた。大きく分けて、ユーラシア大陸の一部であるインドシナ半島と多くの島々が広がる地域都に分けられ、前者を大陸部、後者を諸島部(島嶼部)として分けることが多い。ただし、インドシナ半島から南に延びるマレー半島(現在のマレーシアなど)は、歴史的・文化的には大陸部ではなく、スマトラ島、カリマンタン島、ジャワ島などの諸島部(島嶼部)に含めている。
東南アジアの大陸部は、紅河(ホン河)、メコン川、チャオプラヤ川、エラワディ(エーヤ-ワディー)川などの大河の流域の平野部がひろがり、それらの下流域は豊かな米作地帯である。この地域の民族は、オーストロアジア語族(南アジア語族)といわれる、ベトナム人、モン人、クメール人(カンボジア人)がまず活動を始め、中部ベトナムにはオーストロネシア語族のチャム人が次いで活動した。さらに、シナ=チベット語族に属し、はじめ北方の山岳部にいたタイ語族のタイ人、ラオ人が7,8世紀に南下して定着した。またイラワディ川中流にはビルマ人が同語族の中のモン人と抗争しながら定着した。
現在の宗教の大まかな分布では、ミャンマー・タイ・カンボジア・ラオスは上座部仏教、ベトナムは大乗仏教が優勢であるが、タイの南部のマレーシアに近い地域にはイスラーム教勢力が分離独立を主張している。インドシナという呼称
東南アジアの大陸部をインドシナ Indochina というのは、インドと中国の中間に位置するところからヨーロッパ人が名付けたもの。一般に、現在のベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーの5カ国を含むことが多いが、狭い意味ではベトナム、ラオス、カンボジアの「旧フランス領インドシナ」を指すこともある。大河流域に平野部が広がるが、ジャングルに覆われた山岳地帯も広く、地形は複雑である。そのため民族分布も複雑、多彩であり、文化的には隣接する中国文明とインド文明の双方の影響を受けている。
中国文明の影響
紀元前5世紀頃から北部ベトナム地方には中国文明の影響が及び、青銅器文明であるドンソン文化が形成され、秦・漢時代からは中国王朝の直接支配を受け、唐時代頃まで続いた。
港市国家の形成
1世紀頃から海岸地方には河川を利用して内陸の物品を集め、海洋を利用してインドや中国などと交易をする港市国家が発達した。1世紀末にベトナム南部に現れた扶南がその例である。同時に扶南にはインド文明の影響が見られ、インド化の第一段階が始まった。中部ベトナムに現れたチャンパーも港市国家として栄えた。
インド化の進展
紀元後3世紀頃からインドの影響を強く受け、「インド化」が進んだ。宗教面では4世紀のインドのグプタ朝で栄えたヒンドゥー教文化が伝わり、7世紀に成立したクメール人のカンボジアではヒンドゥー教が信仰された。
東南アジアの文字ー
東南アジアの文字 2003年センターテストより
一方、現在のビルマのピュー人やビルマからタイの北方にいたモン人は上座部仏教を信仰した。
東南アジア大陸部のインド化の例証としてあげられるのが、現在もこの地域で使用されている文字の源流が前3世紀のインドで生まれたブラーフミー文字にあることが挙げられる。ビルマ文字(ミャンマー)、クメール文字(カンボジア)、タイ文字、ラオス文字は似通っており、やはりブラーフミー文字から変化した現在のインドのデーヴァナーガリ文字と文字規則が共通である。ただし、ベトナムは北部が中国文化圏に属していたため漢字が使用され、13世紀には漢字をもとに独自の字喃(チュノム)が考案された。仏教の普及
大陸部ではヒンドゥー文化と仏教信仰が重層的に重なり合って独自の文明を形成していく。12世紀に建造されたカンボジアのアンコール=ワットもはじめはヒンドゥー寺院として造られたが後に仏教寺院とされた。次第に仏教(上座仏教)が優勢となり、特にビルマ、タイでは王権の保護を受けて栄えた。特にビルマのパガン朝は多くの造寺造仏を行ったことで知られる。
植民地化
18世紀以降、タイをのぞいてイギリスとフランスに分割された。ビルマはイギリス=ビルマ戦争に敗れ、イギリスの植民地支配を受け、ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国はフランスの植民地となりフランス領インドシナ連邦を構成する。その中間にあったタイ(シャム)のみが独立を維持することができたが、領土は大幅に削減されることとなった。
大陸部諸国の領域
現在の国家ではベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー(ビルマ)にあたるが、以下に登場する東南アジアの歴史上の国々は必ずしも現在の国と領域が一致しない点に注意すること。カンボジアのクメール王国は一時はインドシナほぼ全域を支配し、ビルマのコンバウン朝も一時期はタイを支配した。タイのラタナコーシン朝も現在のタイよりも広大な領土を支配していた。また、ベトナムは、18世紀までは北部ベトナム(紅河流域)、中部ベトナム、南部ベトナム(メコンデルタ地帯)は別個な国家であったことに留意すること。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楔形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板『ギルガメシュ叙事詩』(ギルガメシュじょじし)は、古代メソポタミアの文学作品。実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュを巡る物語。人間の知られている歴史の中で、最も古い作品[1]。
ギルガメシュを主人公とする物語は古くから存在するが、現在『ギルガメシュ叙事詩』として知られているのは前1300〜1200年頃にまとめられた「標準版」(「標準バビロニア語」で記されているため)と呼ばれるもので、新アッシリア時代のアッシュルバニパルの図書館から出土した。12枚の書版から成る。
『ギルガメシュ叙事詩』というタイトルは近代学者により付けられたもので、古来は作品の出だしの言葉を取って題名とする習わしがあったことから、原題は『深淵を覗き見た人』[2]もしくは『すべてを見たるひと』[1]となる。
人物およびそれに基づく作品等については「ギルガメシュ」を参照
概要
『ギルガメシュ叙事詩』は古代オリエント最大の文学作品であり、これを英雄譚と称する場合、古代ギリシアの『オデュッセイア』や中世ヨーロッパの『ニーベルンゲンの歌』『ローランの歌』『アーサー王と円卓の騎士』などに肩を並べる世界的な物語と言える[1]。
一方、古代オリエント文学とりわけ古代メソポタミア文学界の多くが持つ宗教性と政治性という点は出張っておらず、むしろ世俗的でヒューマニズム的な芸術的感覚が見られるのが特徴とされ、日本文学としての相性も悪くない[1]。
口伝を含めてギルガメシュ叙事詩より古い物語はあるが、人間が主人公となり、人間味溢れる物語としては記録に残っている最も古い物語の一つといってよい。
多くの人に読み継がれる文学作品として、また、死すべき定めの人間が、また2人1組の関係がテーマになっているという意味では、ギルガメシュ叙事詩は最古の物語だと言える[3][4]。
成立
現在に残る最古の写本は、紀元前2千年紀初頭、書記学校の生徒たちによって書き写された、シュメール語版ギルガメシュ諸伝承である。
シュメール語版の編纂は紀元前3千年紀に遡る可能性が極めて高いが、オリジナルは残っていない。
おそらく文字に書きおこされる以前から口承などで伝えられており、叙事詩を構成する個々の題材は、シュメール時代には既に流布していたとみられる。
シュメール伝承を基に、紀元前1800年頃に成立したアッカド語による古バビロニア版は、書記学校の生徒による書写により残っているが、このときすでに後述の「標準版」の筋書きがほぼ出来上がっていたことがわかる。
A. Georgeによれば[5]、アッカド語は学校のカリキュラムではなく、アッカド語版は生徒達がシュメール語の勉強の息抜きに書き写したものであり、そのためフワワ(フンババ)討伐の話が人気で最も多く残っている、という。
紀元前1300〜1200年頃の中バビロニア時代(カッシート王朝時代)には、いわゆる「標準版」が成立した(「標準バビロニア語」という文学作品を書くのに使われたアッカド語で書かれているため、そう呼ばれる)。
アッシュルバニパルの図書館から出土した「標準版」の奥付には「ギルガメシュシリーズ、シン・レーキ・ウニンニの言葉」と、作者の名前が記されている。
前述の通り古バビロニア版と共通する点が多いが、シン・レーキ・ウニンニのオリジナルの部分もある。
たとえば、古バビロニア版の書き出しは(奥付に記された題名によると)「他の王達にまさる者」であることが知られているが、標準版では「深淵を覗き見た人」となっている。
したがって、このプロローグの部分はシン・レーキ・ウニンニの創作であろう。また洪水伝説も標準版で挿入された。また、前二千年紀後半、バビロニア語版がヒッタイトやシリア・パレスティナで発見されているほか、ヒッタイト語版、フルリ語版が発見されており、ギルガメシュ叙事詩が各言語に翻訳されて各地に広まっていたことがわかる。
研究
楔形文字で粘土版に記された『ギルガメシュ叙事詩』の断片の解読が最初に発表されたのは1872年のことであった[6]。
1853年にホルムズド・ラッサム(en)によってニネヴェのアッシュールバニパルの図書館(紀元前668年-紀元前627年)から発見されていた遺物の1つに記されていた文字を、大英博物館の修復員であるジョージ・スミスが解読を進め、『旧約聖書』の洪水物語に酷似した「(『ギルガメシュ叙事詩』第11の書版に当たる』)大洪水」部分を見つけたのが始まりである[6]。
この発見は大きな旋風を巻き起こし、スミスは自らニネヴェ発掘を繰り返すと、次々と叙事詩を構成する書版を発見。
解読が進むにつれその文学性に注目が集まり、19世紀末には更に研究が進んだ。
その後、スミス没から15年の時を経た1891年に、1人の研究者が登場人物の名を「ギルガメシュ」と初めて正しく読むことに成功する[7]。
以降1900年の独訳を嚆矢に各国語への翻訳が進み、各地の神話・民話との比較が盛んになる。
1930年にはセム語を用いた『ギルガメシュ叙事詩』をカムベル・トムソン(en)が刊行し、それが後の翻訳に関する全ての基盤となるとともに、各著者によって叙事詩の改訂増補が成されていった[8]。
和訳は矢島文夫により完成し、1965年に山本書店から、その33年後には文庫化に伴い、『イシュタルの冥界下り』を加えた増訂版がちくま学芸文庫として筑摩書房から刊行された。
和訳にあたって矢島版からは性的表現が削除されている。
また刊行後の半世紀以上のギルガメシュ叙事詩研究で明らかになった成果は反映されていない。
現在では月本昭男訳(1996年)[9]が一般的である。
この他にも『ギルガメシュ叙事詩』とする書籍は複数に渡り出版されているが、多くは物語として成立するように各言語のテキストを充足しながら編成されているため、史料的な翻訳書であるとは限らない。
あらすじ
ウルク市の王ギルガメシュは、強き英雄であると同時に暴君でもあった。
その横暴ぶりを嘆いた市民たちの訴えを聞いた天神アヌは、女神アルルにギルガメシュの競争相手を造るよう命ずる。
アルルは粘土からエンキドゥを造り、ウルクから離れた荒野に置いた。
エンキドゥははじめは自分の使命に気付くことなく荒野で獣たちと共に暮らしていた。
しかしある時、巫女からギルガメシュのことを聞き、仲間が欲しいと思い喜び勇んでウルクに向かう。
仲間を求めるエンキドゥと、近々やって来るエンキドゥという男と友人関係になることを夢で見ていたギルガメシュ。
2人は顔を知る前から互いを意識していたが、ギルガメシュが国の花嫁を奪い去るという噂を耳に挟んだ瞬間エンキドゥは憤激し、出会って早々、大格闘を繰り広げる。
結局のところ決着がつかず、2人は互いの力を認め合い深く抱擁を交わして親友となった。
彼らは常に行動を共にし、様々な冒険を繰り広げる。
昔日の暴君とは異なるギルガメシュと、野人としての姿を忘れ去ったエンキドゥはウルクの民から讃えられる立派な英雄となっていた。だが、冒険の果てに彼らを待っていたのは決してかんばしいものではなかった──。
登場人物
この項目では主に「標準版」に基づく。
主要人物
ギルガメシュ〔シュメール名:ビルガメス[10]〕(Bilgamesh)
主人公。母が女神(ニンスン)、父が人間(ルガルバンダ)。3分の2が神、3分の1が人間とされるが、不死の神ではなく、死すべき運命を免れない人間として描かれる。
物語の前半では、肉体の死を怖れず英雄としての名声を求める生き方を希求。
エンキドゥと共にフンババを討伐し、またイシュタルの求愛をつっぱねて怒りを買い、イシュタルが差し向けた天の牡牛を殺す。
しかしエンキドゥの死により、自らの死に対する恐怖におののき、肉体の不死を追い求めることになる。
しかし結局肉体の不死は手に入らず、ウルクに帰ったのち城壁を建造し、後世に名を残した。
ウルクの王として『シュメール王朝表』に、エンメルカル(治世420年)、ルガルバンダ(治世1200年)、ドゥムジ(治世100年)に続いて記載される(治世126年)が、神として扱われ、その存在は極めて神話的。
もっとも、シュメール語の「ビルガメスとアッカ」に登場する、アッカ(キシュの王でビルガメスのライバル)の父親のエンメバラゲシに言及する碑文の断片が見つかっているので、エンメバラゲシは紀元前2650年頃に実在した人物と考えられる[11]。
したがって、同じ頃に、ウルクにギルガメシュという王がいた可能性はあり、ギルガメシュやルガルバンダやその他の王達が生きたすぐ後に、吟遊詩人達が彼らを主人公に物語を作ったとも考えられる。
ただしギルガメシュが実在した証拠、また叙事詩で語られているように、ギルガメシュがウルクの城壁を建造した証拠はない(2002年、イラク戦争が始まる前、ウルクで発掘された墓が、一時はギルガメシュの墓ではないかと言われたが、結局もっと新しい時代のものということが分かった)。
エンキドゥ(Enkidu)
ギルガメシュの無二の親友。ギルガメッシュの傲慢を諫めるために神々によって作られたが、逆に彼の友となってしまう。
ギルガメシュと共に幾多の困難をともにくぐり抜けた。友と繰り広げた冒険の果てに、自身に降り注ぐ運命を夢のお告げで知ることとなる。
ルガルバンダ (Lugalbanda)
ギルガメシュの父で牧夫。ウルク第1王朝第3代の伝説的な王。ギルガメシュの守護神であると同時に[12]、人間で神官でもある[13]。
リマト・ニンスン(Ninsun)
ギルガメシュの母。ルガルバンダの配偶神。その名は「雌牛の女主人」の意で知恵と夢解きの女神[14]。全てに通暁する偉大な女王で、賢母らしい活躍を見せる。シュメール版では天の牡牛退治の際、エアに生贄を捧げてギルガメシュを援助した。
シャマシュ〔シュメール名:ウトゥ[10]〕(Ud)
信仰地:シッパル・ラルサ / 神殿:エバッバル[15] 正義を司る太陽神でイシュタルの兄。ギルガメシュ専属の守護神[注 1]。彼の誕生祝いに見目良さを授けて以降、叙事詩では大半の説話に登場し、終始ギルガメシュを気に掛け庇護している。
エア〔シュメール名:エンキ[10]〕(Enki)
信仰地:エリドゥ / 神殿:エアブズ[15] 知恵を司る深淵の水神。人間を創った全知全能の男神。エンリルの人類撲滅計画を幾度となく阻止してきた救いの神で、人間に対して好意的。ニップル版ではギルガメシュの守護神であるとされる[16]。
イシュタル〔シュメール名:イナンナ[10]〕(Ishtar)※ civ6に出てくる。「そなたは、イシュタルの如く邪悪なり!」と、非難される…。何のことか、分からんかったが、これで「判明」した…。)
信仰地:ウルク、他多数 / 神殿:エアンナ[15] 金星を象徴する愛と戦争の女神。ギルガメシュに求婚するが断られ、その腹いせに天の牡牛(グガランナ)をウルクで暴れさせた。
アヌ〔シュメール名:アン[10]〕(An)
信仰地:ウルク / 神殿:白神殿[15] イシュタルの父で天空を司る最高神。エンリルによる天地分離を機に権力は衰え失脚したが、神々が行う会議を主催するなどその地位は時代が下がっても変わっていない。イシュタルにせがまれ天の牡牛を造った。
エンリル〔シュメール名:ヌナムニル[17]〕(Nunamnir)
信仰地:ニップル / 神殿:エクル[15] 神々の王で空を司る風と嵐の男神、大気神。神々の会議で採決された事項の執行権を持つ、シュメールにおける事実上の最高神でエンキドゥの個人神[18]。神としての在り方はエアと対照的で、安易に人類を滅ぼそうする。杉の森にフンババを番人としておいた。
ウトナピシュティム〔シュメール名:ジウスドラ[10]〕(Utnapishtim)
大洪水を生き残り、妻とともに不死の身となる。
不死を求めて訪ねてきたギルガメシュに、不死は(非常に例外的に)神に与えられるものであって、人間の手に入らないものだと諭すため、洪水伝説を物語る。
しかしギルガメシュが諦めなかったため、6日7晩眠らないという試練を彼に課すが、ギルガメシュはすぐに眠ってしまい、試練を乗り越えることができなかった。
ギルガメシュを憐れんだ妻の説得により、「老いたる人が若返る」という植物を手に入れれば不死の生命を見出すことが出来ると教える。
首尾良くこの植物を見つけて手に入れたギルガメシュは喜んで帰途についたが、水を浴びているときに一匹の蛇がこの草を持ち去ってしまい、結局不死を手に入れることはできなかった。
『大洪水伝説』の主人公。エアの教えで箱舟を作り、少しの人類と動物たちを乗せ大洪水から逃れた。この功績が認められ神々から不死の体を与えられる。ウトナピシュティム/ジウスドラという名は「生命を見た者」[19]、アトラハシスは「賢き者」の意[20]。
フンババ〔シュメール名:フワワ[10]〕(Huwawa)
レバノン杉の森に住む番人。2015年に新しく見つかった粘土板の解読により、エンキドゥとは旧知の仲だったことが判明した[21][22]。 その叫び声は洪水、その口は火、その息は死。七層の光輝メラム(英語版)で身を武装した恐怖と評される怪人、巨人。
前兆占い文書などでは、神印(ディンギル)が付くこともあり、自然神として扱われるが、主にその異形が言及される。フワワの頭が内臓占いの羊の腸に現れる場合もある。 ギルガメシュ叙事詩ではエンリルに杉の森の番人として配されたとされている。
グガランナ(Gugalanna)
自分を振ったギルガメシュを殺害しウルクごと滅ぼすため、イシュタルがアヌを脅して造らせた「天の牡牛」と呼ばれる巨大な獣。
「7年間の不作を招く」「これを殺したら死刑」と言われる聖なる神の遣い。
大量の油が入った青玉石の角を2本持っている。
シュメール語で言う「天の牡牛」という呼称は牡牛座を構成する星の名前に対しても用いられており、シュメール名と言うこともあってその名の成立は叙事詩よりもごく古い時代のものであると言われているが、牡牛が神話として登場する例は叙事詩の基礎となったシュメール語版の断片にしかなく、「天の牡牛」が神話化するに至ったプロセスは不詳とされている[23]。
その他の人物
シャムハト(Shamhat)
ギルガメシュによりエンキドゥの元へ派遣された娼婦。エンキドゥと6日7晩交わり、彼を導く存在として描かれる。
神殿にて神に奉仕をする女官の類、その中でも比較的下位の娼婦であったと推察されている[24]。→現在では「神殿娼婦」の存在自体が疑問視されている。
シドゥリ(Siduri)
ギルガメシュが旅の途中で出会った「酌婦」、つまり酒場の女性。
アッカド語で「乙女」の意。ヒッタイト語版では「酒の女」、フルリ語版では「若い女」と訳されているが、古バビロニア版では女主人とだけ書かれ正式な名はない[25]。
神印が付いていることから女神と見なされイシュタルの化身説がある他、「知恵の女神」「生命の守護者」という呼ばれ方もある[26]。
ギルガメシュの話を聞き、最終的にウトナピシュティムへの道を教える。
ウルシャナビ(Urshanabi)
ウトナピシュティムに仕える船頭。ギルガメシュを船に乗せ、死の海を渡りウトナピシュティムの元へ案内した者。その帰りにも船を出し、ギルガメシュの帰国に最後まで付き添った。
アルル〔シュメール名:ニンフルサグ[15]〕(Ninhursag)
粘土をこねてエンキドゥを造った女神。創造神でエンリルの妹(または配偶神)。名前は「山の女主人」の意[27]。メソポタミアにおける王たちの守護女神[28]。
アルラトゥ〔シュメール名:エレシュキガル[15]〕(Ereshkigal)
ギルガメシュが死後に行きついた世界の女主人。イシュタルの姉で闇を司る死の女神。姉妹は闇と光、冥界と天界の女王としてライバル同士であり、犬猿の仲。夫、及び配偶神にネルガルを持ち、2人で冥界を統治している[29]。
ウルクの長老たち
ギルガメシュに面と向かって異を唱え、諌めることができる立場の者。
標準版では重要案件に関わる長老会に属する助言者として、「我らは王(ギルガメシュ)を信頼した。王も王として我らを信頼してほしい」と語る場面がある[30]。彼らは保守的思考だが、反対にウルクの若者たちは進歩的思考。
内容
通称アッカド語版
発見年:1849年 発見場所:ニネヴェ:アッシュールバニパル図書館 言語:バビロニア語アッカド方言 編纂者:神官シンレキウニンニ(Sîn-lēqi-unninni) 発見者:オースティン・ヘンリー・レヤード
以下、要点の過不足は補足事項を参照。ただし、全ての版に共通するとは限らない。
粘土版 1
プロローグ:語り手による「深淵を覗き見た人」(もしくは「全てを見たる人」)として導入されるギルガメシュを讃える叙述から始まる。
いわく、「彼はあらゆる国々を調べ尽くし、すべてを知り尽くし、知恵をきわめた。彼は秘められたことを見、隠されたものを開き、洪水前の事柄を知らせたのだった。」「彼は囲いの町ウルクの城壁を建てさせた、また清い宝物殿、聖なるエアンナのそれ(周壁)もまた。」つまり、これから物語られる物語がすべて終わり、ギルガメシュがウルクに帰って城壁を建造した後から始まっているわけである。
つづいて本文に入る。ウルクの暴君ギルガメシュ。そして神々によって作られたエンキドゥがシャムハトとの出会いにより人間らしさを獲得する場面が描かれる。
粘土版 2
シャムハトはエンキドゥに人間の食物を与えたりと人間らしさを培うと、2人でウルクを訪れる。激しい戦いが始まるが、ギルガメシュとエンキドゥは互いの力を認め合い抱擁を交わして友となる。
粘土版 3
ギルガメシュは杉を得るため[注 2]、杉の森に住む怪物フンババを倒すことをエンキドゥに提案。エンキドゥの目には涙が溢れ、遠征を強く反対されるが、ギルガメシュはエンキドゥの涙に驚きながらも心を痛め、土から生まれた彼にも苦しみを感じる心があることに焦りを抱く。旅の成功を祈る儀式を終え、2人の出発をウルクの民たちは祝福し送り出す。
杉の森はシャマシュが所轄しているため、ギルガメシュはシャマシュに遠征の決意を述べて許可を(或いは神託を占って)もらうシーンがある。
また、ギルガメシュは母ニンスンを訪ねると、ニンスンは不安な面立ちをしながらその決意を聞き、シャマシュに「何故あなたは息子の気持ちを動かすのか」などと不平不満を言いつつ女祭事たちと共に丁寧に祈祷を行い、それが終わると決心したようにエンキドゥを養子に迎え入れて護符を与えた[31][注 3]。
一方、ウルクの長老たちはギルガメシュに「年が若いから気持ちがはやっている」と言って遠征に反対したが、シャマシュの加護があることを祈って結果的に承諾することとなったようである。
粘土版 4
2人は45日分に及ぶ距離(1500㎞[32])を3日間で歩いた[注 4]。更に歩き進め森の入口に到着、フンババの手下と戦う。
シャマシュはギルガメシュに、杉森までの案内役として合成獣とおぼしき遣い魔[33]、または守護霊を与えている[34]。杉森に向かう途中、ギルガメシュは連日に渡り夢を見ており、エンキドゥはそれらの夢をシャマシュによる加護があることを告げる吉兆だと解いて慰めた。そして現に事実となる。
粘土版 5
森に入った2人が杉の立派さに心を奪われていると、ほどなくしてフンババが駆けつけてきた。
シャマシュは2人に「恐れるな」と声を掛け、北風や南風など8つの風を起こして援護し、フンババを降参させる[注 5]。
するとフンババが命乞いをするので、ギルガメシュは聞き入れようとするがエンキドゥは殺すことを勧める。フンババが息絶え森が静けさを取り戻すと、2人は杉を伐って船を造り、杉の大木とフンババの首を持ってウルクへ帰還。
フンババ征伐までの流れは粘土板によってバリエーション豊かだが、シャマシュが介入していることと、フンババ殺しを拒否していたエンキドゥがフンババを殺すようギルガメシュに忠告する様子に大きな差異は認められない。 エンキドゥがフンババの命乞いを却下したのは、フンババの反撃、或いはエンリルに密告されることを恐れたためである(ギルガメシュとエンキドゥはフンババを森の番人として差し向けたのがエンリルだと知っていたことが、文中から読み取れる)。
その実エンリルを怒らせないための対策として、2人はあらかじめエンリルの住むニップル市にユーフラテス川から杉を運び込み奉納していたが、エンリルはギルガメシュたちが持ち帰ったフンババの首を見た途端、激怒した。
その後エンリルはフンババが持つ7層の光輝を地上の各地に振り分けるという処置を行い、フンババ征伐一連の物語は締めくくられる。
粘土版 6
凱旋し美しく身なりを整えたギルガメシュに、愛と美の女神イシュタルが恋をする。
イシュタルは求婚を迫るが、ギルガメシュはイシュタルの愛人となった者たち(配偶神ドゥムジなど)の悲惨な末路を数え上げ、その不貞と残忍性を指摘し求婚を断った[注 6]。
イシュタルは立腹し、ギルガメシュを殺害しウルクごと滅ぼすため、父アヌに聖牛グガランナを送ることを求めるがアヌは拒否する。イシュタルは冥界から多数の死者を蘇らせ、地上に生ける者を喰わせると言ってアヌを脅し、グガランナを造らせた。
グガランナがウルクを荒らし大勢の人々が死にゆく中、ギルガメシュとエンキドゥはグガランナを倒しその心臓をシャマシュに捧げた。
イシュタルは怒って城の頂からギルガメシュに向かって呪いを吐いたが、それに怒ったエンキドゥは牡牛の死骸(腿の一部)を投げつける。
顔面を汚されたイシュタルは悲鳴をあげて退いた。ウルクの民は歓喜し、二人の英雄ギルガメシュとエンキドゥを讃えた[注 7]。
その夜、エンキドゥは不吉な夢を見た。その内容をギルガメシュに語り出す。「何故、大いなる神々は会議を開いているのか[注 8]」。
シュメール語版での題目は『ギルガメシュと聖なる牡牛』[35]、古代の書名はギルガメシュを指す主語『戦闘の青年の』[36]。 イシュタルはギルガメシュ凱旋の噂を聞きつけ、その様を見ようとエアンナからギルガメシュの王宮へ出向いたとする説もある(一目惚れではなく、元から知り合いだった)。 イシュタルと結婚することは「聖婚儀礼」に連結し、「神の座に就くこと」を意味する。
物語はギルガメシュを半神と伝えながら常に人間の側に立たせており、神の座につくことを己の崩壊に結び付けたのだとしたら、ギルガメシュがイシュタルの求婚を受け入れなかったのは「自身の神格化を拒絶した」ということに等しいはずである[37]。
ギルガメシュは牡牛を始末した後、ラピスラズリでできた角に入っていた約250リットルの油をルガルバンダに贈り、角の方は自身の寝室に飾ったという。
シュメール版では異なり、ギルガメシュは牡牛の肉を貧しい子どもたちに分け与え、角はイシュタルに奉献された。
粘土版 7
エンキドゥが夢の内容を語るには、【アヌは「森番フンババと聖牛グガランナを倒したために、2人のうち1人が死なねばならぬ」と言った。
エンリルは「エンキドゥが死ぬべきだ」と答えた。
シャマシュは「(ギルガメシュたちは)自分の命令に従って牡牛どもを殺したのに、何故エンキドゥが死ぬべきか」と反論した。
するとエンリルは「何故ならば、お前(シャマシュ)は毎日あの2人(ギルガメシュとエンキドゥ)の仲間であるかのように行動するからだ」と怒った。】
語り終えるとエンキドゥは病み倒れて泣き、ギルガメシュはエンリルに採決の取りやめを祈る(あなたの神、すなわちエンキドゥの個人神エンリルを訪ねる[38])が、エンリルによるエンキドゥの死の決定は絶対だった。
エンキドゥは狩人の仕事が不景気になるよう呪い、「酔っ払いにお前の頬を打たせてやる」などと言ってシャムハトをまでも呪おうとするので、これを聞いたシャマシュは「シャムハトのお陰で人間らしくなれ、ギルガメシュという親友ができた」と諌め、エンキドゥの心を落ち着かせた。
後にエンキドゥは冥界にいる夢を見て、死が近いことを悟る。
熱病に倒れてから12日目、ギルガメシュとこれまでの思い出を語り合い、共に冒険し寄り添った親友に看取られながら、エンキドゥは息を引き取った。
粘土版 8
夜明けの光とともに、ギルガメシュはエンキドゥを哀悼。ラピスラズリや金で出来た立派な像を作り、紅玉石の入れ物に蜜を詰め[注 9]、青玉石の入れ物にはバターを詰め、これらを飾った物を太陽にさらした(すなわち、太陽神シャマシュに供えた[注 10])[注 11]。
粘土版 9埋葬を終えたギルガメシュは荒野を彷徨って泣くうち次第に死の恐怖に怯えるようになり、永遠の生命を求め旅立つ決意を固めた。
「大洪水」の生存者、神によって妻とともに不死を与えられたウトナピシュティムに、不死のことを聞き出すための旅である。
ギルガメシュは地の果てでマシュ山(Mount Mashu)の双子山に着く[注 12]。そこには門を守る2人のサソリ人間が居た。
サソリ人間たちはギルガメシュが半神であることを見抜き、何故こんな所までやって来たのかを問い訳を聞くが、「この先の山は暗闇に包まれ、入ってしまえば出ることは出来ない」と言ってギルガメシュを引きとめる[注 13]。
しかしギルガメシュの意志は固く、サソリ人間が開いた山の門を通って続く120kmの暗闇を歩いた。果てに、宝石やブドウで満ちた木々がある楽園へ辿り着く。
粘土版 10
(長い闇を経て太陽の下に現れた)ギルガメシュを見てシャマシュは困惑し、どこまで彷徨い歩くのか尋ね、「求める生命が見つかることはないだろう」と話す。ギルガメシュは自分なりの答えを言い、先へ進んだ。
そして海辺で酒屋の女将シドゥリに出会い、旅の目的を尋ねられ訳を話すが、彼女からも「求める生命をあなたが見つけることは出来ないでしょう」と言われ、人間はいずれ死ぬものだから生を楽しみなさいと、人生のあり方を示される。
それでもエンキドゥの死によって苦しむギルガメシュは考えを変えず、海を渡る道を教えてほしいと頼んだ。
シドゥリはギルガメシュの胸中を悟り、船頭ウルシャナビを紹介、彼はギルガメシュを船に乗せ死の海を漕ぎ出した。ウトナピシュティムの島に着いたギルガメシュは旅の目的を話すが、ウトナピシュティムは「神々に創られし者であるならば、そこに必ず命は定められるのだ」とだけ語る。
粘土版 11
ギルガメシュは更に教えを請うと、ウトナピシュティムはどのようにして不死を手に入れたか、その秘事を明かし始めた。
洪水物語
【エア神の説明により私は船をつくり、自分と自分の家族、船大工、全ての動物を乗せた。6日間の嵐により人間は粘土になった。私の船がニシル山の頂上に着地して7日目、鳩、ツバメ、カラスを放ってみた。私は船を開け乗船者を解放した後で神々に生贄を捧げると、その匂いにつられて多くの神が集って来た。
生き残った者がいることを知ったエンリル神は怒り、ニヌルタ神は言った。
「エア以外に誰がこんなことをしようか」と。エア神は「洪水など起こさずとも、人間を減らすだけでよかった。ウトナピシュティムに夢を見させただけで、私は何もしていない。彼らがただ賢かったのだ。今は助かった者たちに、助言を与えるべきであろう」と話す。そしてエンリル神は私と妻に永遠の命を与え賜り、私は遥かなる地、2つの川の合流地点に住むこととなった。】
話し終えたウトナピシュティムは、洪水があったのと同じ6日6晩の間を「眠らずにいてみよ」と告げるが、ギルガメシュは眠ってしまった。
ウトナピシュティムに起こされたギルガメシュは帰り支度を済まして乗船、ウルシャナビの船が出る──その時、ウトナピシュティムは妻の執り成しによって、土産としてギルガメシュに若返りの植物「シーブ・イッサヒル・アメル[39]」が海の底にあることを教えてやる。
ギルガメシュは足に石の重りを付けて海底を歩きその植物を手に入れるが、帰還途中、泉で水浴びをしている間に蛇がその植物を取って行ってしまった。ギルガメシュは泣き、ウルシャナビと共にウルクへ到着(物語の終わり)。
物語はウルクへ到着したギルガメシュの言葉(第1の書版冒頭部分の繰り返し)で結ばれており、不死希求の旅を終え帰国したギルガメシュが、ウルクの建設を果たしたことが示唆されている[40]。 ギルガメシュにとって旅の成果はいかなるものであったかに注目が及ぶが、不死を得た者が言うには、永遠の命は神々からの贈り物(神の序列に加わっただけ)であってウトナピシュティム自身があずかり知ることではなかった。
ギルガメシュは若返りの薬すら手に入れられず、最終的に永眠しているため、旅の果てに永遠の命を諦めたとも、最後には死の恐怖を克服したとも受け取れるというが、書版によっては旅の最後にギルガメシュが「やすらぎを得た」とあり[41]、旅の途中で出会った人から「今ある生を謳歌するように」と諭されていたことからも、何らかの答えを見出したとする説が有力視されている。
ただし、そういった感想は著者によって表現、見解が異なる傾向にある。
粘土版 12
粘土版 1~11 とは独立した内容で、シュメル語の神話『ギルガメシュとエンキドゥと冥界』の後半部分(プックとメックーを落とした後)の逐語訳に近い。
シュメール語版の現在よく知られる題名は『ギルガメシュとエンキドゥと冥界』[35]、古代の書名を『古の日々に』として古バビロニア時代(紀元前2000年頃)では学校の教材にもなっていた[42]。
全文およそ300行を越える興味深い長編だが、神話風のものとなっていて解釈が難しく、前版との続き具合が不自然であるために叙事詩からは完全に切り離されて収録された。
ある意味では、本編とは別の過程を辿ったギルガメシュとエンキドゥの別れの物語である。
『ギルガメシュとエンキドゥと冥界』の内容は以下の通りである。 天地が創造されてしばらく経ったある時、ユーフラテス川のほとりにハラブ(フルップ)[注 14]の木が生えていた。木が南風により倒れると、川の氾濫が起きてハラブの木が流されていく。
これを見つけたイナンナ(イシュタル)は、椅子と寝台にする目的のため聖なる園に植えた。
ところがその木に蛇やアンズー、リリトが棲みついてしまう。
イナンナは兄ウトゥ(シャマシュ)に助けを求めるが取り合ってもらえず、ギルガメシュを頼ったところ彼はすぐさま斧を持って蛇たちを追いやった。木は切り倒され、イナンナは礼として木の根元からプック(輪)とメックー(棒)を作り、ギルガメシュはこれを受け取る[注 15]。
ところが、詳細は不明だがそれらが大地の割れ目から地下(=冥界)に落ちてしまった。
エンキドゥが立候補して拾いに向かうこととなり、ギルガメシュは冥界におけるあらゆる注意事項を言い聞かせるが上手く伝わっておらず、エンキドゥはタブーを破って冥界から帰れなくなる。ギルガメシュはエンリルに訴えたが埒が明かず、エンキ(エア)に助けを求めると彼はウトゥを呼び、最後は冥界にいるエンキドゥが、エンキとウトゥの助けによって地上に戻ることができた。
その後はエンキドゥにより冥界の様子が語られるが、プックとメックーについての記述はない。
文学性は「死後の世界」と「生死観への答え」であり、第8版に見るエンキドゥの埋葬儀礼にその背景が示されている。
当時シュメール人は、人は死んだら冥界に行くものと考えていた[42]。
死者が冥界で歓迎されることとそこでの暮らしが難儀にならないよう、葬儀は手厚く執り行い、埋葬後も死者へ供物を捧げる習慣があった。そういった故人を懇ろに扱うことの必要性を説いているとされる[42]
叙事詩に採用されなかった物語
『ギルガメシュとアッガ』『ギルガメシュの死』という2つの説話は、叙事詩では全く伝えられていない。前者は歴史的物語、後者は名の通りギルガメシュの最期にまつわるエピソードである。
ギルガメシュとアッガ
キシュの王アッガはウルクの王ギルガメシュに使者を送った。
使者たちは「井戸を空にすること」という難題を命じる。これはウルクの人々がキシュのために水汲みの労働をすること、間接的に「ウルクはキシュに屈伏すべき」という意味を含んでいる[43]。
ギルガメシュが「我々は屈伏するまい[注 16]」と言うと、長老たちは「屈伏しよう」青年たちは「屈伏するな」と答えた。
その間にウルクがキシュに包囲されると、1人の勇敢な男がギルガメシュの伝言を伝えるため城外へ出て、キシュ兵の前に連行される。
官位が様子を見やりに城壁から顔を出すと、アッガは「あれが王か」と勇敢な男に問う。彼が「王ではありません」と答えると、キシュの群衆はひるむことも逃げることもしそうになかった。
勇敢な男が捕虜となりそうになる手前、ギルガメシュが城壁に登った途端に恐ろしい輝きがウルク中を覆い、ウルクの戦士たちは奮って武器を手にし、エンキドゥは城門を蹴飛ばし出て行った(しかし連行される)。
そしてギルガメシュは姿をさらし、アッガが彼を視界に捉えると「あれが王か」とエンキドゥに尋ね、エンキドゥは「まさしく王です」と回答。
瞬間、キシュの群衆は打ちのめされ、逃げ去り、全ての他国民が震え上がる。
ギルガメシュは「アッガよ、貴方は逃げてきた私に魂をくれた。貴方は私に生命をくれた。私は昔日の恩寵を、シャマシュの前で貴方に返しました[注 17]」と言ってアッガを捕らえることはせず、キシュへ帰ることを許した。
物語はギルガメシュを讃えたところで終結する。
『シュルギ王讃歌』やシュメール王名表によれば、エンリルが起こした大洪水後、王権はキシュに降りたが、その後ギルガメシュがアッガに戦勝したことでウルクに王権が移ったと伝えられている。
この背景を踏まえて物語を振り返ってみると、『ギルガメシュとアッガ』が史料的・歴史的事実の反映を伝えているのは明らかである。
叙事詩から除外されたのも、他の書版と比較して英雄的であるというより幾分か歴史的であるということが影響した。
物語にはイナンナ(イシュタル)が関与しており、『ギルガメシュとアッガ』は「論争詩」というシュメール文学の一分野に筋立てされた、論争的モチーフで描かれている。
イナンナがギルガメシュとアッガ、どちらが自分に相応しいかを軍神としての視点から観察しており、更にはギルガメシュの手指が綺麗であるという観点から、イナンナが女性目線で好む男性はギルガメシュの方ではないだろうか、という彼女の主観が示されている[44]。
論争的モチーフを介して都市と都市の対立を語る作品であると認められながらも、『ギルガメシュとアッガ』に安易に史実を見出してはならないとの指摘もある。
ギルガメシュの人間離れした英雄性を伝えるという点では、叙事詩の枠を飛び越えれば数あるシュメール文学の中で比肩しても明確には孤立しておらず、孤立していたとしてもそれが史実の反映に直結するとは言えない。
故に戦争や征服に関する客観的な記録ではなく、ギルガメシュの英雄的功業を讃えることやイナンナの好意を競うことに主題を見出すことも可能である[45]。
ギルガメシュの死
ギルガメシュは不老不死の秘薬を求める旅から帰国した後も王として国を治め、城壁を完成させるなど成すべきことを果たしたとされている[46]。
ギルガメシュは死が近くなるとエアの薦めで墓の造営に取り組み、冥界の女神エレシュキガルの住まう宮殿の神々に供物を捧げて眠りについた。王の最期をウルクの民は嘆き悲しみ、その死を悼んだ。
死者を弔うことや副葬品を用意することの意味が間接的に伝えられるが、物語の主人公が死んでしまってはまとまりが悪いとして、叙事詩に取り入れられることはなかった。代わりに第8版で描かれたエンキドゥの埋葬が対応している[47]。
文学性
世界最古の教養小説として名高く、友情の大切さや、ギルガメシュとエンキドゥの成長、自然と人間の対立など、寓話としての色合いも強い。
構成
叙事詩は12の書版で成り立つが、ギルガメシュに焦点を当てると大きな5つのまとまりに振り分けることができる[48]。
(前半)エンキドゥとの出会い (前半)杉の森への遠征(西方):人は死すべきものと認識したうえでの行い:共同の旅・成功 (繋ぎ)イシュタルの誘惑・聖牛退治 (後半)エンキドゥとの死別 (後半)不老不死の追求(東方):人の死すべき在り方を否定するための行い:孤独な旅・失敗
前半はエンキドゥとの出会いとフンババ征伐、繋ぎにイシュタルの誘惑、後半にエンキドゥとの別れと不死の探求という5つである。
ギルガメシュの前半における英雄的信条がエンキドゥの死によって脆くも放棄されたように、ギルガメシュの起こす行動のきっかけ・内容・結果がエンキドゥとの友情を軸にして見事に対応するとともに対称的である。
にもかかわらず物語全体が違和感なく首尾一貫しているのは、イシュタルの誘惑と聖牛退治という前半と後半を橋渡しする重要かつ自然な事象が、繋ぎとして配置されたからであろう。
また、場面展開の前にはギルガメシュかエンキドゥのどちらかが夢を見ており、その夢による予告機能は、物語の緊張感を促すことに貢献している。
行単位で認められる対句法、語呂合わせ、周壁持つウルク・天なるシャマシュのような枕詞など、説話文学的な表現技法も認められる[49]。
冒頭で触れたように、物語の1つ1つは元来シュメール語で成立したが、古バビロニア版が翻訳されるまで2人の友情関係は描かれていなかった。こうした改変の一種もまた、叙事詩を構成する上で貴重な役割を果たしたと言える。
主題
フンババ征伐に見る「勇気ある者の冒険譚[50]」であったり、『ギルガメシュとアッガ』から「英雄的行動の描出[51]」のように1つの説話からメインテーマを見出すこともできるが、全体を見通し様々な観点から叙事詩を俯瞰すると、以下のようなものを主題として見出すことが出来る[52]。
不死の追究
人生観を示しているという見方。「人は死から免れることは出来ない」と認識すること、すなわち人類の精神史における神話時代からの脱却と理性の目覚めを意味している、というもの[53]。
友情
エンキドゥがギルガメシュの元から去ることで友情の限界を描きたかったわけではなく、友情の意義そのものを問いているという見方。
2人の友情が永遠ではなくとも、異なる2つの魂の出会いという最古の友情物語であった、というもの[54]。
シャマシュ信仰
シャマシュ信仰に見る個人神崇拝の概念が、叙事詩に取り入れられたとする見方。ただし後代になるほど、シャマシュの個人神的性格は叙事詩内で希薄になっていった[55]。
主人公の精神遍歴
フンババ征伐時の勇敢な英雄的信条、神格化の拒絶、死への恐怖、不死の追及と、ギルガメシュの精神は物語の進行とともに変化するが、最終的に何を感じ、思い、学び、その最期を迎えたのか、叙事詩は答えない[56]。
読者に残す教訓は、上述のように「人は死すべき存在である」という生死観の在り方なのかもしれないが、ギルガメシュの不死希求が結果的に失敗に終わったからといって、その旅が無意味なものであったとは言えず、逆に新しい人生観を得たことによる日常への回帰でもなかった。
「あらゆる苦難の道を歩んだ」主人公自身の軌跡こそ『ギルガメシュ叙事詩』が伝える事実であり、ギルガメシュという1人の英雄を築き上げた、というもの[56]。
なお、主題と言ってもそれらは初めから客観的に備わっているものではなく、あくまで叙事詩を読み解く可能性を探るためのものである。
影響
冒頭で触れている通り『旧約聖書』の特にノアの方舟のくだりに『ギルガメシュ叙事詩』が影響しているとされ、この他にも最初の粘土板発見年である1872年以降の文学作品に、叙事詩の物語が原型と考えられているものがある。
例えばギルガメシュとイシュタルの恋沙汰はギリシア神話の「オデュッセイア」一説へ、ギルガメシュとエンキドゥの関係は旧約聖書におけるダビデとヨナタンなどの友情物語へと引き継がれ[57]、ギルガメシュ自身はギリシャの大英雄アキレウスの先駆けとなった[58]。
ギルガメシュを題材にした作品
和書・和訳書
梅原猛/著 『ギルガメシュ』新潮社、1988年、ISBN 4-10-303009-7。 -ギルガメシュ伝承を元に脚色された戯曲文学(小説)。 矢島文夫/訳 『ギルガメシュ叙事詩』 山本書店、1965年。 月本昭男/訳 『ギルガメシュ叙事詩』 岩波書店、1996年、ISBN 4-00-002752-2。 矢島文夫/訳 『ギルガメシュ叙事詩』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1998年、ISBN 4-480-08409-6。 -山本書店1965年刊の増訂。 月本昭男/訳『ギルガメシュ王の物語【ラピス・ラズリ版】』ぶねうま舎、ISBN 978-4906791019。 -物語の再構成を試みた原文からの新編訳書。 ゼロからわかるメソポタミア神話 単行本 かみゆ歴史編集部 (著) – 2018年11月17日
マンガ
ギルガメッシュ (漫画) 石ノ森章太郎:著 1976年
絵本
ルドミラ・ゼーマン著 松野正子訳 『ギルガメシュ王ものがたり』 岩波書店、1993 ルドミラ・ゼーマン著 松野正子訳 『ギルガメシュ王のたたかい』 岩波書店、1994 ルドミラ・ゼーマン著 松野正子訳 『ギルガメシュ王さいごの旅』 岩波書店、1995
音楽作品
合唱曲
ボフスラフ・マルティヌー作曲 : オラトリオ『ギルガメシュ』 (1954 - 1955年作曲) 青島広志作曲 : ア・カペラ男声合唱とナレーターのための「ギルガメシュ叙事詩」(1982年 - 1983年作曲)[注 18][注 19][注 20]。吹奏楽曲
ベルト・アッペルモント作曲 : 交響曲第1番『ギルガメシュ』(Symphony No.1 Gilgamesh) - 『ギルガメシュ叙事詩』を題材にした交響曲(2003年作曲)。テレビゲーム
バビロニアン・キャッスル・サーガシリーズ
ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)から発売された1986年のアーケードゲーム『ドルアーガの塔』を第1作とするテレビゲームのシリーズ。世界観やキャラクターの名称、造詣等にバビロニア神話やギルガメシュ叙事詩の影響が色濃い。
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ ルガルバンダのような祖先神としての意味合いが強い守護神とは別に、個人を守護する「個人神」。古代メソポタミアでは、男児には誕生と同時に個人神があてがわれた。 月本(1996)pp.194,197,注p.18) ^ 王の務めである神殿の建設などによい資材は欠かせなかったが、古代の南部メソポタミアでは森が枯渇していた。 ^ 当時のシュメール・アッカド地方の言葉で「護符」に当たる単語はなく、「アミュレット」と呼ばれていた。アミュレットは幸運をもたらしたり厄を払うとされる、守護力を持ったいわゆる"魔除け"のことである。自然素材や加工品などを用い、置物にしたり身に付けたりするが、アミュレットとは別に権力者であることを示す色石や貴金属なども護身に繋がると信じられ、身を飾ることは身を守ることと同義であった。 月本(2011)pp.16,104 ^ 目的地は西方となっているが、一説には東方に位置するザグロス山脈にあたる地域でもあるとされている。 岡田・小林(2008)p.239 ^ または13の風。 月本(1996) p.59 ^ イシュタルの悪癖が明らかにされる貴重なシーンだが、このときギルガメシュが発した雑言の数々は、ほとんどが推定的な訳となっている。 矢島(1998)p.244 ^ 讃えられるのはギルガメシュのみであり、それを本人が望んだ、という解釈もあり、そういったことから「友と平等に扱われなかった」としてエンキドゥが嘆く例もあるが(月本 p.p80,86 / pp.332-336)、2人が共に讃えられエンキドゥがギルガメシュに嫉妬するような描写も特に見当たらない書版も多い。 ^ 普通、シュメールにおける地上の7大神は天神アヌ・風神エンリル・水神エアを筆頭に、月神シン・太陽神シャマシュ・金星神イシュタル・大地母神ニンフルサグを指すが、本件で集まったと確認できるのはアヌ・エンリル・エア・シャマシュの4名のみ。 ^ 蜜(蜂蜜)はその特性から、古代文明の重要な儀礼で頻繁に使用されたことが知られている。 ^ これは、大層な埋葬儀礼を施すことで死者が迷わず冥界へ赴けるように、の意。 月本(1996)p.101 ^ アッカド語の「医術文書」に皮膚変色を患った者が快復した際の儀礼として、これと似たような叙述がある。曰く「患者は包帯を焼却し、太陽神シャマシュに蜜とバターの入った菓子らを供え、シャマシュの前に立ち、そして感謝する」。 月本(2011)p.35 ^ マシュ(またはマーシュ)はアッカド語で双生児の意。ここではシャマシュが出入りする日の出の山のこと。 矢島(1998)p.192,月本(1996)p.328。 ^ 2つの山の間は太陽(冥界を巡り日の出と共に現れるシャマシュ)が昇ってくる場所、つまり、マシュ山の麓が冥界に達していることを示している。 月本(1996)p.107 ^ 樫の一種(月本 1996 p.295) ^ この、楽器(太鼓と撥)或いは遊具(フープ・ローリング)とされる(アッシリア学者ベンノ・ランズベルガーによる仮説)、エルラグ(プック)とエキドマ(メックー)は、ギルガメシュが作ったとも言われる。 岡田・小林(2008)p.244(器具名は月本1996 p.295による) ^ ギルガメシュは「(ウルクの守護神であり軍神でもある)イシュタルを信頼し、キシュに立ち向かう」ことを決心した。 杉(1978)p.40 ^ ギルガメシュはかつて庇護を求めてアッガの元へ亡命し、アッガはそれを受け入れたという。 杉(1978)p.42 ^ 歌の部分は矢島文夫の訳詩(筑摩世界文学大系Ⅰ 古代オリエント集)に、語りの部分は山室静の著書(児童世界文学全集 世界神話物語集)に基づいた作品。 ^ 1982年に「出発の巻」が、1983年に「帰郷の巻」が、それぞれ関西学院グリークラブにより初演されたが、当時はそれぞれ「前編」「後編」と題されていた。 ^ 1992年に、合唱/関西学院グリークラブ 指揮/北村協一 ナレーション/青島広志にて、東芝EMIよりCDが発売されている。
出典
^ a b c d 矢島(1998)p.10 ^ 月本(1996)p.3 ^ “ギルガメシュ叙事詩研究の第一人者に本当のギルガメシュ像について聞いてみた”. Pokke (2019年). 2020年4月12日閲覧。 ^ Hay, Noelle. "Evolution of a sidekick," SFFWorld.com (2002). ^ George (2003). The Babylonian Gilgamesh Epic. Oxford University Press ^ a b 月本(1996)p.283 ^ 矢島(1998)p.145 ^ 矢島(1998)pp.138-144 ^ 月本昭男 (1996). ギルガメシュ叙事詩. 岩波書店 ^ a b c d e f g 岡田・小林(2008)p.224 ^ A. George, The Babylonian Gilgamesh Epic, 2003 ^ 矢島(1998)p.63 ^ 矢島(1998)p.188 ^ 松村(2015)p.232 ^ a b c d e f g 岡田・小林(2008)p.16 ^ 岡田・小林(2008)p.248 ^ 三笠宮(2000)p.251 ^ 月本(1996)pp.21,84 ^ 矢島(1998)p.117 ^ 矢島(1998)p.128 ^ A. George (2014). “Back to the Ceder Forest”. Journal of Cuneiform Studies 66: 69–90. ^ 渡辺和子 (2016). “『ギルガメシュ叙事詩』の新文書―フンババの森と人間”. 『死生学年報2016』: 167-180. ^ 矢島(1998)p.238 ^ 矢島(1998)pp.194-195 ^ 矢島(1998) pp.156,189 ^ 月本(1996)p.115-116 ^ 松村(2015)p.233 ^ 三笠宮(2000)p.248 ^ 松村(2015)p.217 ^ 月本(1996)p.35 ^ 月本(1996)pp.37-40 ^ 矢島(1998)p.65 ^ 岡田・小林(2008)p.239 ^ 月本(1996)p.195/注p.17 ^ a b 矢島(1998)p.161 ^ 岡田・小林(2008)p.240 ^ 月本(1996)p.334 ^ 月本(1996)p.85 ^ 矢島(1998)p.135 ^ 月本(1996)p.156 ^ 月本(1996)p.4 ^ a b c 岡田・小林(2008)pp.243-247 ^ 岡田・小林(2008)p.252 ^ 岡田・小林(2008)p.255 ^ 前田(2003)pp.138-144 ^ 岡田・小林(2008)pp.iii,259 ^ 岡田・小林(2008)p.250 ^ 月本(1996)pp.307-313 ^ 矢島(1998)p.199 ^ 金子(1990)p.39 ^ 前田(2003)p.141 ^ 月本(1996)p.313 ^ 矢島(1998)p.198 ^ 月本(1996)p.324 ^ 月本(1996)p.332 ^ a b 月本(1996)pp.338-339 ^ 月本(2011)p.63 ^ 岡田・小林(2008)p.iii
参考文献
杉勇『古代オリエント集』筑摩書房、1978年。ISBN 4-480-20601-9。 金子史朗『レバノン杉の辿った道』原書房、1990年。ISBN 4-562-02164-0。 月本昭男 訳『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店、1996年。ISBN 4-00-002752-2。 矢島文夫 訳『ギルガメシュ叙事詩』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1998年。ISBN 4-480-08409-6。 三笠宮崇仁親王(監)、小林登志子、岡田明子『古代メソポタミアの神々』集英社、2000年。ISBN 4-08-781180-8。 前田徹『メソポタミアの王・神・世界観』山川出版社、2003年。ISBN 4-634-64900-4。 小林登志子、岡田明子『シュメル神話の世界 粘土版に刻まれた最古のロマン』中公新書、2008年。ISBN 978-4-12-101977-6。 月本昭男(監修)『メソポタミア文明の光芒』山川出版社、2011年10月。ISBN 978-4-634-64827-2。 松村一男、森雅子、沖田瑞穂『世界女神大辞典』原書房、2015年。ISBN 978-4-562-05195-3。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ギルガメシュ叙事詩に関連するカテゴリがあります。シュメール文学 バビロニア文学(英語版) 創造神話 大洪水 ノアの方舟 汎バビロニア主義 杉の森(英語版)
外部リンク
ギルガメシュ叙事詩 - ニネヴェ出土のアッシリア語版に準拠した話が読める。 『ギルガメシュ叙事詩』 - コトバンク
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表話編歴
中東の神話
カテゴリ:紀元前21世紀の文学ギルガメシュ叙事詩紀元前の詩紀元前3千年紀粘土板 最終更新 2024年5月2日 (木) 12:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツの旗 ドイツの政治家
ヘルムート・コール
Helmut Kohl
1989年のコール首相
生年月日 1930年4月3日
出生地 ドイツの旗 ドイツ国
バイエルン自由州
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン
没年月日 2017年6月16日(87歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
ラインラント=プファルツ州
ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン
所属政党 キリスト教民主同盟(CDU)
配偶者 ハンネローレ・コール(旧姓レンナー)
サイン
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国
第6代 連邦首相
在任期間 1982年10月4日 – 1998年10月27日
連邦大統領 カール・カルステンス
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
ローマン・ヘルツォーク
ラインラント=プファルツ州首相
在任期間 1969年5月19日 – 1976年12月2日
テンプレートを表示ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コール(Helmut Josef Michael Kohl、1930年4月3日 – 2017年6月16日)は、ドイツ(旧西ドイツ)の政治家。
1982年から1998年までの16年にわたって首相を務めた彼は、冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げ、時の人となった[1]。
来歴
CDU党首への道
1930年4月3日、ドイツのバイエルン州、プファルツ地方のルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(現在はラインラント=プファルツ州)に、バイエルンの財務官吏の3番目の子としてカトリック教徒の家庭に生まれた。
兄の一人であるヴァルターは1944年11月にドイツ国内で空襲を受けて戦死するが、コール自身は戦争末期にヒトラーユーゲントで軍事教練を受け、ドイツ空軍の対空砲補助員として徴集されたものの、生年のわずかな差が影響して戦闘には参加しなかった。
早くもギムナジウム在校中の1946年にキリスト教民主同盟(CDU)に入党した[2]。
その後1950年から、フランクフルト大学およびハイデルベルク大学で法学・歴史学・政治学を学び、1956年から同大学で助手を務めて1958年に「プファルツにおける政治変遷と政党の再建」という論文で博士号を取得する。
翌年鉄工所の経営や産業団体の顧問を務め、1948年からの知り合いだったハンネローレ・レンナーと結婚する。2人は2男をもうけた。
コール(1969年)
コールはCDUの青年団組織 Junge Union (JU)の地元での設立にかかわり(1947年)、在学中の1953年に党の州支部事務局に加入した。
1954年には州のJU副代表、翌年州の党執行部委員に就任した。
1959年には地元ルートヴィヒスハーフェン郡の党代表となり、翌年ルートヴィヒスハーフェン市議会の党議員団長。
1963年からラインラント=プファルツ州議会の党幹事長。
1966年、党の州支部代表に就任し、同時に党の連邦代表委員の一人となる。
1969年5月19日にラインラント・プファルツ州首相に就任し、CDU副党首となる。
州首相として郡の再編成とトリーア大学・カイザースラウテルン技術大学の創建にかかわった。彼の地元での有力支持勢力は産業界であった。
1971年、クルト・ゲオルク・キージンガーの後継党首選挙に挑むが、ライナー・バルツェルに敗れた。
しかしバルツェルは1972年にドイツ社会民主党(SPD)の連邦首相ヴィリー・ブラントに対する建設的不信任案決議が不成立となったことからその威信は著しく低下し、翌年コールが党首に就任した。
1976年、初めてドイツ連邦議会選挙に首相候補として挑み、得票率48.6%の好成績を収めて第一党となるが、SPDと自由民主党(FDP)の連立政権からの政権奪取はならなかった。
この選挙でコールは連邦議会議員に転じて議員団長となり、州首相を辞任した。1980年の連邦議会選挙では、経験に勝る姉妹政党キリスト教社会同盟(CSU)のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス党首に首相候補の座を譲る忍従を強いられたが、この選挙でもCDU・CSUは勝てなかった。
1989年11月、ポーランドを訪問しドイツ系住民に歓迎されるコール。このポーランド訪問中にベルリンの壁崩壊がおき、急遽ベルリンへ向かうことになる。
連邦首相に
ところが1982年9月、財政再建・新自由主義を取るか社会保障・社会民主主義を取るかで与党FDPとSPDが決裂。
コールはすかさずFDPと連立協議し、10月1日にヘルムート・シュミット首相に対する建設的不信任決議案を提出。
この案にFDPが同調してシュミットの罷免とコールの第6代連邦首相就任が決まった。
建設的不信任決議案が提出されたのは2度目だが(既述)、可決したのは今のところこれが唯一の例である。
副首相兼外相にはシュミット政権時代同様、連立与党FDPのハンス・ディートリヒ・ゲンシャーがおさまった。
しかしこのようなやり方で政権を奪取したうえ、長らく地方政界にあり、前任者のブラントやシュミットと比較して国際政治に通暁していないとしてコールの手腕を不安視する向きもあった。
このためコールは政権発足後の1982年12月に内閣信任決議案を提出、これを与党議員の欠席で意図的に否決させることで、大統領の議会解散令を引き出した。
総選挙は1983年3月に実施され、連立与党が勝利を収め、ようやく政権は安定した。
コールが最初に取り組んだのは、ワルシャワ条約機構に対しての抑止力となるNATOの軍事力強化(ミサイル配備)で、国内での平和運動が盛んになる中、これを実行した。
隣国フランスとの同盟強化にも努め、1984年にはフランス大統領フランソワ・ミッテランと共に第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンを訪問し、二人で手を繋いで戦死者を鎮魂し両国の友好を誓った。
この姿は独仏関係の新時代を象徴するものとして有名であり、のちに独仏連合部隊や独仏共同テレビ局アルテの創設、さらにはマーストリヒト条約締結や欧州共同通貨ユーロ導入での「独仏枢軸」と呼ばれる緊密な協力関係へと繋がっていく。
アメリカとの友好にも努め、1985年にはロナルド・レーガン大統領と共に第二次世界大戦の米独両軍の戦死者が眠るビットブルク墓地に献花したが、この墓地にはナチスの武装親衛隊員も葬られていたため、批判する声もあった(ビットブルク論争、de:Bitburg-Kontroverse)。
内政では、FDPとの連立ということもあり、当時の先進国首脳だったマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンに近い政策であるといわれている。
ただしイギリスやアメリカに比べドイツでは伝統的に社会民主主義が強いので、それへの配慮もあった。
1987年の連邦議会選挙にも勝利して、コール政権は3期目に入る。
1989年12月22日、ブランデンブルク門が開放された日のコール(中央左)と東ドイツ閣僚評議会議長ハンス・モドロウ(左端)、西ベルリン市長ヴァルター・モンパー(中央右)
ドイツ再統一コールの最大の政治的業績は、一連の東欧革命の中、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊によって始まったドイツの再統一である。
ヨーロッパでは、二度の世界大戦の経験から、中欧に統一されたドイツの誕生を警戒する声もあった。
また、西ドイツ国内を中心に経済的に格差のある東ドイツを吸収することに対する負担の大きさを危惧する意見も多かった。
しかし、コールはドイツ統一の好機を逃すことの不利を説き、一気に統一を推進した。
コールはヨーロッパ統合推進派として、統一ドイツをヨーロッパ連合及び、NATOの枠内に位置づけすることで、旧連合国の米英仏ソといった各国首脳の合意を得ることに成功した。
1990年10月3日、歓喜の中ドイツは再統一された。
ドイツ統一の立役者として、コールの政治的威信は頂点に達した。
統一後初めて行われた1990年の連邦議会選挙にも勝利し、コール政権は4期目を迎えた。
しかし国民の興奮が冷めると、統一前のコールの説明と異なり、統一の困難な現実が明らかとなる。
とりわけ、コールのドイツ統一過程における経済運営は、いくつかの問題が指摘された。
たとえばコラムニストのオーラフ・ストーベックは、その点について以下のように述べている[3]。統一過程におけるコール氏の経済運営は、さほど素晴らしかったとは言い難い。
旧東ドイツとの通貨同盟は拙速で、為替レートの設定も高過ぎた。
国有企業の民営化は失敗し、債務による復興資金の調達は、少なくとも10年にわたってドイツの財政に傷を負わせることになった。
保守政党・キリスト教民主同盟(CDU)に所属するコール氏だが、硬直化した労働市場と膨張した社会福祉国家を改革する機は逸した。
長年の懸案だったこの問題に取り組んだのは、その後政権についた社会民主党(SPD)のシュレーダー前首相だ。
— Olaf Storbeck、ロイター BREAKINGVIEWS
1994年の連邦議会選挙に辛勝して5期目を迎え、1996年には初代連邦首相アデナウアーの在任14年を抜いた。
この間、ボスニア紛争でドイツ連邦軍にとって初の域外における戦闘行動への関与を行った[4]。
この様な国外派兵と武力行使についてはドイツ国内で激しい論争の対象となるも後に連邦憲法裁判所の合憲判決まで至り、その後もドイツ軍を積極的に派兵した。
しかし、コール政権に対する国民の飽きは覆うべくもなく、地方議会選挙でSPDに負け続けて連邦参議院では与野党の勢力が逆転した。
党内からのヴォルフガング・ショイブレらの突き上げにもかかわらず、コールは首相と党首の座にしがみ付き続け、少なくとも2002年までは党首を続けると宣言して周囲を呆れさせた。
その結果1998年の連邦議会選挙に大敗して退陣を余儀なくされた[1]。首相在任16年は、オットー・フォン・ビスマルク以来の在任期間記録である。
闇献金疑惑・余生
ロシア大統領ボリス・エリツィンと会見するコール(2000年10月、フランクフルト・ブックフェアにて)
首相退任直後、敗北の責任を取って四半世紀にわたって務めたCDU党首も辞任した。
しかし追い打ちをかけるように、1999年にはコール自身が受け取り署名した200万ドイツマルクの政治献金の出所が不明瞭であることが発覚。
CDUがコールの指示の下、不法な政治資金を調達し証拠を隠滅した疑惑が発覚し、ドイツ統一の功労者としての立場も一転して地に墜ちた。
連邦議会には調査委員会が設置され、コールは2000年1月18日に名誉党首を辞任した。
同年、ボン地検は特別背任罪でコールやその懐刀とされていたヴォルフガング・ショイブレ党首、フォルカー・リューエ元国防相などの捜査に本格的に着手する。
同年3月16日には連邦議会で証人喚問が開始され、その後も数回にわたりコールやショイブレに対し喚問が継続されるが決定打には結びつかなかった。
翌2001年2月8日、ボン地検は罰金30万マルクをコールが支払ったことで立件を断念する。
更に、翌2002年7月4日にはベルリン行政裁が、闇献金疑惑について旧東ドイツの諜報機関・シュタージが収集していた情報の公開をプライバシー保護を理由に差し止めたことにより、同事件は幕引きとなる。2002年秋の連邦議会選挙に出馬せず、政界を完全に引退した[1]。
ただ2002年に行われたハンガリーの総選挙では当時のオルバーン・ヴィクトル首相の応援に駆けつけている。
2001年7月5日には、長年連れ添った夫人・ハンネローレが「太陽アレルギー」という現代医学では治療が不可能な難病を苦に自殺(68歳)。
前日には闇献金事件が事実上幕引きとなっており、夫の無実を見届けた、いわば、覚悟の自殺であった。
かつての栄光に比して、コールの晩年は全く寂しいものとなっている。
その後は回顧録を執筆。2004年12月のスマトラ沖地震による大津波災害の際には偶然スリランカでバカンス中で、スリランカ軍のヘリコプターで救助されたというニュースで久々に人々の注目となった。
2008年2月に自宅で転倒し頭部と脚を負傷したことで療養生活に入る[5]。
同年5月にかねて交際していた35歳年下のマイケ・リヒター(Maike Richter)と結婚した。
同年、亡き前妻の名を冠した財団を設立。
ベルリンの壁崩壊20周年を迎えた2009年11月、ブッシュ元大統領やゴルバチョフ元大統領との会見には出席したものの、政府主催の記念式典には出席しなかった。
公式には健康が優れないためとされているが、政府専用機の使用を断られたのを不満に思い出席しなかったとも報道されている[1]。
2010年10月3日にベルリンで開かれたドイツ再統一20周年記念式典には車椅子姿で出席した[6]。
死去
2017年6月16日死去[7]。87歳没。
CDUの党首を引き継いだメルケル首相は「コール氏は偉大なドイツ人であり、偉大なヨーロッパ人だった」
「彼は、ドイツ統一とヨーロッパ統合というドイツにとって、過去数十年最も重要だった2つの課題に懸命に取り組んだ」
「私の人生にも決定的な影響を与えた」と述べ、その業績をたたえ感謝の気持ちを示した。
フランスのマクロン大統領は声明を発表し、「フランスのミッテラン元大統領とともにドイツ統一を主導し、ヨーロッパの統合を推し進めた」
「自由な移動や単一通貨などの業績は、コール氏に負うところが大きい」として、その功績をたたえた。
アメリカのトランプ大統領は「ドイツの現代史で最も長く首相を務めたコール氏は、アメリカの友人であり盟友であった。ドイツ統一の父であるだけでなく、アメリカとヨーロッパの関係の推進役でもあった」と業績をたたえた。
中曽根元首相は「大きな体でにこやかに話すコール元首相の姿が懐かしく思い出される。互いの立場を超えて親交をいただいた」
「西側諸国が団結し、東西冷戦の終結とともに東西ドイツの統一が実現したことは、コール氏の指導力と判断、そして何よりその果断な行動力がもたらしたものだ」
「深甚なる敬意を表し、心からのご冥福をお祈りする」などとしたコメントを発表。
欧州委員会のユンケル委員長は「コール元首相の訃報に深く傷ついた。私の師であり、友人であり、ヨーロッパの本質でもあった」と死を惜しみ、「コール元首相は東西の間に橋をかけただけでなく、ヨーロッパの未来に向け、よりよい青写真を描き続けた。単一通貨のユーロはコール元首相なしでは、なしえなかった」として、EUの統合の基礎を築いた功績をたたえた。
ブリュッセルにあるEUの本部では、コール元首相の死去の知らせを受けて半旗が掲げられた。
同じ時期の1989年から4年間、任期を務めたアメリカのブッシュ元大統領は「コール元首相は、第二次世界大戦後のヨーロッパで最も偉大な指導者の1人だった」
「ドイツの統一は、私にとっても人生で最大の喜びの一つとなっている」と述べ、コールの功績をたたえた[8]。
表彰
内外の大学の名誉博士号多数。
1988年、独仏友好関係推進の功によりフランスのミッテラン大統領と共にアーヘン市よりカール大帝賞を授与。1999年、大統領自由勲章(アメリカ)。ドイツ連邦共和国功労勲章特装大十字章。特に特装大十字章は国家元首である大統領以外に与えられる最高位の勲章であり、授与されたのはコンラート・アデナウアー以来二人目である(後にアンゲラ・メルケルも受賞)[9]。
2007年初め、欧州委員会委員長ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾは、ヨーロッパ統合の功労者としてコールとミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領の両名にノーベル平和賞が授与されるべきだ、と発言した。
語録・その他
コール(1997年3月5日)
「我々は失業率とドイツに住む外国人を半分にします!」(1983年の選挙演説にて) 「今後ドイツの地からは、平和のみが広まるべきだ」(1989年12月19日、東ドイツのドレスデンにて) 「成功した産業国家、すなわち未来ある国家たるものは、テーマパークのように組織されてはならない」(1993年、労働と休暇時間についての政府声明) 「それは古典的なジャーナリスト的主張ですな。それは正しい (richtig)が、真実(Wahrheit)ではない」(1994年、テレビ出演での発言) 「昨日の理想主義者は今日の現実主義者になる」(1998年、「ディー・ツァイト」紙上でのヘルムート・シュミットとの論争) 「ドイツの統一とヨーロッパの統合は、メダルの両面のようなものである」(2002年、CDU党大会での締めくくりの言葉) 「(もしやり直せるならば)かつて私がやって来たことを再び同じようにやるだろう、とは私には言えない。なぜならその道は上り下りが激しく、時に誤りさえあったのだから」(2007年、インタビューで) 在任中は政治的・非政治的なさまざまなメディアに揶揄されたが、とりわけその太りすぎの体(その体重はドイツの最高機密と皮肉られた)と田舎臭い訛り(schの音をchと発音)、学歴の割に拙い外国語などがからかいの対象になった。
とりわけ有名になったのが風刺雑誌「Titanic(ドイツ語版)」に掲載された風刺画で、彼の顔を西洋ナシに見立てたものだった。水っぽい西洋ナシ(ドイツ語でBirne)は「間抜け」という意味合いもあるので、”Birne” という語はコールの代名詞のようになっていた。
ドイツ統一でコールの威信が上がるとそのような風刺は鳴りをひそめていたが、政権末期には再び見られるようになった。
元フランス大統領フランソワ・ミッテランが癌で死亡した際、パリで行われた追悼ミサにて人目をはばからずに涙し、死を大変悲しんだ。
ヤーセル・アラファートやボリス・エリツィン、フィデル・カストロ、チャールズ3世(当時皇太子)なども出席はしていたが、誰も涙を見せようとはしなかった。
不正献金疑惑を厳しく追及したメルケルとは不仲になり、メルケルが中東などからの難民に国境を開放したことを受け、2016年に出版した著書で「欧州は、世界中で困難に直面する数百万人の新たな故郷とはなり得ない」と名指しを避けて批判した[1]。
閣僚名簿
第1次コール内閣
1982年10月4日 – 1983年5月29日
首相 - ヘルムート・コール (CDU (キリスト教民主同盟)) 副首相兼外相 - ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー (FDP) 国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU) 内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU) 蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU) 法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP) 経済相 - オットー・グラーフ・ラムスドルフ (FDP) 労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU) 食糧農業森林相 - ヨーゼフ・エルトル (FDP) 運輸相 - ヴェルナー・ドーリンガー (CSU) 建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU) 青年・家族・保健(厚生)相 - ハイナー・ガイスラー (CDU) 研究(調査)技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU) 教育科学相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU) 経済協力相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU) 郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU) ドイツ問題相 - ライナー・バルツェル (CDU)
第2次コール内閣
1983年5月29日 – 1987年5月11日
首相 - ヘルムート・コール (CDU) 副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP) 国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU) 内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU) 蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU) 法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP) 経済相 - オットー・グラーフ・ラムスドルフ (FDP)/マルティン・バンゲマン (FDP)(1984年6月27日から) 労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU) 食糧農業森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU) 運輸相 - ヴェルナー・ドーリンガー (CSU) 建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU) 青年・家族・保健相 - ハイナー・ガイスラー (CDU)/リタ・ジュースムート (CDU) (1985年9月26日から。1986年6月6日から、青年・家族・婦人・保健相) 研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU) 教育科学相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU) 経済協力相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU) 郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU) ドイツ問題相 - ハインリヒ・ヴィンデーレン (CDU) 環境・自然保護・原子力安全相(1986年6月6日新設) - ヴァルター・ヴァルマン 無任所特命相 - ヴォルフガング・ショイブレ(1984年11月15日から)
第3次コール内閣
1987年5月12日 – 1991年1月17日
首相 - ヘルムート・コール (CDU) 副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP) 国防相 - マンフレート・ヴェルナー (CDU)/ルパート・ショルツ (CDU) (1988年5月18日から)/ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU) 1989年4月21日から) 内相 - フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)/ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)(1989年4月21日から) 蔵相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)/テオドール・ヴァイゲル(CSU) (1989年4月21日から) 法相 - ハンス・エンゲルハルト (FDP) 経済相 - マルティン・バンゲマン (FDP)/ヘルムート・ハウスマン (FDP) (1988年12月9日から) 労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU) 食糧農業森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU) 運輸相 - ユルゲン・ヴァルンケ (CSU)/フリードリヒ・ツィンマーマン (CSU)(1989年4月21日から) 建設相 - オスカー・シュナイダー (CSU)/ゲルダ・ハッセルフェルト (CSU))(1989年4月21日から) 青年・家族・婦人・保健相 - リタ・ジュースムート (CDU) 研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU) 教育科学相 - ユルゲン・メレマン (FDP) 経済協力相 - ハンス・クライン (CSU)/ユルゲン・ヴァルンケ(CSU)(1989年4月21日から) 環境・自然保護、原子力安全相 - ヴァルター・ヴァルマン (CDU)/クラウス・ケプファー (CDU)(1987年4月22日から) 無任所相 - ヴォルフガング・ショイブレ (CDU) 郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU) ドイツ問題相 - ドロシー・ヴィルムス (CDU) 無任所相 - ハンス・クライン(CSU) (1989年4月21日から) 無任所相 - ルドルフ・ザイタース (CDU)(1989年4月21日から) 無任所相(以下の5人は旧東独閣僚) - ロタール・デメジエール (CDU)((1990年10月3日から1990年12月19日まで), ザビーネ・ベルクマン=ポール (CDU), ギュンター・クラウス (CDU), ライナー・オルトレープ (FDP), ハンス・ヨアヒム・ワルター (ドイツ社会同盟・DSU)(1990年10月3日から)
第4次コール内閣
1991年1月18日 – 1994年11月15日
首相 - ヘルムート・コール (CDU) 副首相兼外相 - ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー (FDP)(1992年5月18日まで) 副首相 - ユルゲン・メレマン (FDP)(1992年5月18日から) 外相 - クラウス・キンケル (FDP)(1992年5月18日から、1993年1月21日からは副首相兼務) 国防相 - ゲルハルト・シュトルテンベルク (CDU)/フォルカー・リューエ (CDU)(1992年4月1日から) 内相 - ヴォルフガング・ショイブレ (CDU)/ルドルフ・ザイタース (CDU)( 1991年11月26日から)/マンフレート・カンター (CDU)(1993年7月7日から) 蔵相 - テオ・ヴァイゲル (CSU) 法相 - クラウス・キンケル (FDP)/ザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー (FDP)(1992年5月18日から) 経済相 - ユルゲン・メレマン (FDP)/ギュンター・レックスロート (FDP)(1993年1月21日から) 労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU) 食糧・農業・森林相 - イグナッツ・キーヒェル (CSU)/ヨッヒェン・ボルヒャート (CDU)(1993年1月21日から) 運輸相 - ギュンター・クラウス (CDU)/マティアス・ヴィスマン (CDU) (1993年5月13日から) 建設相 - イルムガルド・アダム・シュヴァイツアー (CSU) 家族・高齢者相 - ハンネローレ・レンシュ (CDU) 婦人・青年相 - アンゲラ・メルケル (CDU) 保健相(厚相) - ゲルダ・ハッセルフェルト (CDU)/ホルスト・ゼーホーファー (CSU)(1992年5月6日から) 研究技術相 - ハインツ・リーゼンフーバー (CDU)/マティアス・ヴィスマン (CDU) (1993年1月21日から)/パウル・クリューガー (CDU) (1993年5月13日から) 教育科学相 - ライナー・オルトレープ (FDP)/カール・ハンス・ラエルマン (FDP) (1994年2月4日から) 経済協力相 - カール・ディーター・シュプランガー (CSU))(1993年1月21日から、経済協力開発相) 環境・自然保護・原子力安全相 - クラウス・テプファー (CDU) 無任所特命相 - ルドルフ・ザイタース (CDU)/フリードリヒ・ボール (CDU)(1991年11月26日から) 郵政コミュニケーション相 - クリスティアン・シュヴァルツ=シリンク (CDU)/ヴォルフガング・ベッシュ (CSU)(1992年12月17日から)
第5次コール内閣
1994年11月15日 – 1998年10月27日
首相 - ヘルムート・コール (CDU) 副首相兼外相 - クラウス・キンケル (FDP) 国防相 - フォルカー・リューエ (CDU) 内相 - マンフレート・カンター (CDU) 蔵相 - テオ・ヴァイゲル (CSU) 法相 - ザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー (FDP)/エドザルド・シュミット=ヨルトジーク (FDP)(1996年1月17日から) 経済相 - ギュンター・レックスロート (FDP) 労働社会問題相 - ノルベルト・ブリューム (CDU) 食糧・農業・森林相 - ヨッヒェン・ボルヒャート (CDU) 運輸相 - マティアス・ヴィスマン (CDU) 建設相 - クラウス・テップファー (CDU)/ エドワルド・オスヴァルド(1998年1月14日から) 家庭・高齢者・婦人・青年相 - クラウディア・ノルテ (CDU) 保健相 - ホルスト・ゼーホファー (CSU) 教育・科学・研究・技術相 - ユルゲン・リュットガース (CDU) 経済協力開発相 - カール・ディーター・シュプランガー (CSU) 環境・自然保護・原子力安全相 - アンゲラ・メルケル (CDU) 無任所特命相 - フリードリヒ・ボール (CDU) 郵政コミュニケーション相 - ヴォルフガング・ベッシュ (CSU)(1997年12月31日まで)
親族
前妻のハンネローレ(Hannelore Kohl, 1933年 – 2001年)は15歳でコールと知り合い、20歳で婚約、コールの収入が安定した1960年に結婚。
父親はナチ党員としてフーゴ・シュナイダー社 (HASAG) の経営幹部となり、パンツァーファウスト製造などに関わった。
敗戦後、占領期ドイツにおける強姦 (en:Rape during the occupation of Germany) の被害者となり、心身ともに後遺症を得、1983年に同じ病に苦しむ人のための支援団体Kuratorium ZNSを設立した。コールが首相就任でベルリン移住後はボンで暮らす。語学が堪能で、外国語が話せないコールをよく助けた。ペニシリン投与を受けたことが原因とみられる光に対するアレルギーを発症し、2001年に過剰服薬で自殺した[10]。
長男のヴァルター(Walter Kohl, 1963年 – )は金融アナリストで、最初の妻は経済学者のクリスティーネ・フォルクマン (Christine Volkmann) 。母親の死後離婚し、韓国人女性と再婚した[11]。2005年に妻と韓独の自動車関連サプライヤー Kohl & Hwang社を設立(Hwangは妻の旧姓、2018年に韓国投資家に売却)。自伝を含む何冊かの著書がある。
次男のペーター(Peter Kohl, 1965年 – )は投資銀行を経て、バイオテック関連会社などを共同起業した実業家。早くから英仏で学び、マサチューセッツ工科大学、ウィーン大学の学位を持つ。2001年にMITで知り合ったトルコ人女性Elif Sözen-Kohlと結婚。妻の父はイスタンブールで金属事業を手掛ける富豪。2002年には前年自殺した母ハンネローレの伝記を出版して話題を呼んだ。
後妻のマイケ(Maike Kohl-Richter, 1964年 – )は2008年に34歳年上のコールと結婚した。マイケはルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで経済学の博士号を持ち、連邦首相府でスピーチライターの経験を持つ人物で、コールが被災した2004年のスマトラ津波にマイケも遭っている。結婚当時コールは施設で車椅子生活を送り、口もきけなかったとも言われ、前妻の子供たちから財産相続を巡って告発されている[12]。
先妻 先妻 長男 長男 後妻 後妻
出典
^ a b c d 中日新聞 2017年6月17日 朝刊 ^ “ヘルムート・コールさん87歳=元ドイツ首相”. 毎日新聞. (2017年6月17日) 2020年2月9日閲覧。 ^ Olaf Storbeck (2017年6月19日). “コラム:コール元独首相がドイツと欧州に残した「遺産」” (日本語). BREAKINGVIEWS (ロイター): p. 1 2017年6月27日閲覧。 ^ 中村『ドイツの安全保障政策』P82からP83 ^ “コール元独首相が死去…独統一、欧州統合に足跡”. 読売新聞. (2017年6月17日) 2017年6月17日閲覧。 ^ “ドイツ統一20周年、コール元首相も式典に” (日本語). 読売新聞. (2010年10月4日) 2010年10月4日閲覧。 ^ “コール元ドイツ首相死去”. 時事ドットコム. (2017年6月17日) 2017年6月17日閲覧。 ^ ドイツ コール元首相が死去 東西ドイツ統一実現 欧州統合に尽力(NHK NEWS WEB 2017年6月17日 2017年6月18日閲覧) ^ “メルケル氏に最高位の功労勲章、独首相で3人目”. ロイター. (2023年4月18日) 2023年4月18日閲覧。 ^ コール前独首相の夫人自殺/病気苦にと事務所が発表四国新聞社、2001/07/06 ^ Sohn von Helmut Kohl (†) mit erschütternder LebensbeichteGala, 02.08.2017 ^ Maike Kohl-Richter wehrt sich gegen VorwürfeGala, 18.01.2018
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ヘルムート・コールに関連するカテゴリがあります。ドイツ歴史博物館による経歴紹介(ドイツ語) 「コール時代」コンラート・アデナウアー財団(Konrad-Adenauer-Stiftung)による経歴・時代背景の説明(ドイツ語)
公職
先代
ヘルムート・シュミット ドイツの旗 ドイツ連邦共和国首相
1982年 – 1990年は旧西ドイツ
第6代:1982年 – 1998年 次代
ゲアハルト・シュレーダー
先代
ペーター・アルトマイアー ラインラント=プファルツ州首相
1969年 – 1976年 次代
ベルンハルト・フォーゲル
党職
先代
ライナー・バルツェル ドイツキリスト教民主同盟党首
第5代:1973年 – 1998年 次代
ヴォルフガング・ショイブレ
外交職
先代
マーガレット・サッチャー
ジョン・メージャー
イギリス 主要国首脳会議議長
1985年, 1992年 次代
中曽根康弘
宮沢喜一
日本表話編歴
ドイツの歴代首相
表話編歴
ラインラント=プファルツ州の旗 ラインラント=プファルツ州首相
表話編歴
ドイツキリスト教民主同盟党首
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ:ヘルムート・コール西ドイツの首相ドイツの首相ラインラント=プファルツ州首相ドイツキリスト教民主同盟党首ラインラント=プファルツ州選出のドイツ連邦議会議員ラインラント=プファルツ州議会議員ドイツの反共主義者アストゥリアス皇太子賞受賞者ドイツの勲章等の受章者大統領自由勲章受章者ルートヴィヒスハーフェン出身の人物1930年生2017年没 最終更新 2024年2月3日 (土) 04:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツの旗 ドイツの政治家
ヴォルフガング・ショイブレ
Wolfgang Schäuble
ヴォルフガング・ショイブレ(2006年3月)
生年月日 1942年9月18日
出生地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 フライブルク
没年月日 2023年12月26日(81歳没)
所属政党 ドイツキリスト教民主同盟
配偶者 インゲボルク・ショイブレ(1969年 – 2023年)
サイン
公式サイト Dr. Wolfgang Schäuble MdB: Dr. Wolfgang Schäuble MdB
ドイツの旗 第13代 ドイツ連邦議会議長
在任期間 2017年10月24日 – 2021年10月26日
大統領 フランク=ヴァルター・シュタインマイアー
ドイツの旗 財務相
内閣 第2次メルケル内閣
第3次メルケル内閣
在任期間 2009年10月28日 – 2017年10月24日
ドイツの旗 内相
内閣 第1次メルケル内閣
在任期間 2005年11月22日 – 2009年10月27日
内閣 第3次ヘルムート・コール内閣
在任期間 1989年4月21日 – 1991年11月26日
ドイツの旗 国務相兼首相府長官
内閣 第2次ヘルムート・コール内閣
在任期間 1984年11月15日 – 1989年4月21日
その他の職歴
第6代 キリスト教民主同盟党首
(1998年 – 2000年)
テンプレートを表示ヴォルフガング・ショイブレ(ドイツ語: Wolfgang Schäuble、1942年9月18日 – 2023年12月26日)は、ドイツの政治家。ドイツ連邦共和国財務相(第2次-第3次メルケル内閣)。2017年から2021年までドイツ連邦議会議長を務めた。
ドイツ連邦共和国国務相兼首相府長官(第2次ヘルムート・コール内閣)、ドイツ連邦共和国内相(第3次コール内閣・第1次メルケル内閣)、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)党首などを歴任した。
経歴
生い立ち
1942年9月18日、フライブルクに生まれる。1961年、アビトゥーアに合格。フライブルク大学とハンブルク大学で法学と経済学を学ぶ。1966年、第一次法曹試験に合格し大学を修了。1970年、第二次法曹試験に合格。翌年、法学博士号を取得する。同時にバーデン=ヴュルテンベルク州の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。1978年から1984年まではオッフェンブルクで弁護士として働いた。
弟トーマスも政治家で、バーデン=ヴュルテンベルク州内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの連邦議会議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。
1992年にエアランゲン・ニュルンベルク大学から、2005年11月に母校フライブルク大学から、2009年6月にテュービンゲン大学から、それぞれ名誉博士号を授与された。
ドイツ外務省に保管されている、東西ドイツ統一条約文書。ページ左側にショイブレの署名がある
政界入り
政治活動に参加したきっかけは、1961年にドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部(Junge Union)に参加したことである。在学中、ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。1965年にCDU党員となり、1969年から1972年まで南バーデンの青年部委員長を務める。
1972年、連邦議会に初当選。1976年から1984年まで党のスポーツ委員会委員長を務め、1981年から1984年までは連邦議会院内総務も務めた。
コール内閣
1984年、第2次ヘルムート・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣。1987年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーによる西ドイツ訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第3次コール政権の成立に伴い、1989年4月から内相に転じる。1990年の東西ドイツ再統一条約交渉には西ドイツ側代表として参加し、同年8月31日に調印した。
ドイツ再統一直後に行われた連邦議会選挙戦の最中である1990年12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は車椅子生活を送っている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、後にこの事件を謝罪し、2004年には仮退院した。この選挙戦では野党ドイツ社会民主党(SPD)の首相候補オスカー・ラフォンテーヌも精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。
観劇するショイブレと夫人(2007年、ベルリン)
CDU党首
1991年から2000年まで、CDU・CSU連邦議会議員団長を務める。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、1997年にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも2002年までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし、首相・党首の座に執着したコールは1998年の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。
コールの辞任直後にショイブレがCDU党首に就任するが、翌年になって、コール党首時代の1994年にショイブレが武器商人からCDU宛に10万ドイツマルクの不正献金を受けていた疑惑が発覚する。最初は沈黙していたが、2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首には幹事長アンゲラ・メルケルが選出された。なお、汚職罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。
2001年、ベルリン市長エーベルハルト・ディープゲンのリコールに伴う選挙では、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。2004年にも党重鎮として大統領選挙候補に取りざたされたが、クリーンなイメージに欠けるとの理由で早々に外された。
メルケル内閣
2002年ドイツ連邦議会選挙後には党副幹事長に就任していたが、2005年11月のアンゲラ・メルケル政権成立に伴い、14年ぶりに再び内相として入閣する。この入閣にも批判する声があった。
2009年ドイツ連邦議会選挙後は連立組み替えにより財務相に転じ、2013年ドイツ連邦議会選挙後に発足した第3次メルケル内閣でも財務相に留任した。
2017年ドイツ連邦議会総選挙でもオッフェンブルク選挙区で48.1%の票を得て当選した。1972年から45年以上のドイツ連邦議会所属が確実となり、これはドイツ連邦議会史上最長である。10月24日にはCDU・CSUの指名により、ドイツ連邦議会議長に選出され、同時に財務相を退任[1]。
死去
2023年12月26日の夜に自宅で死去。81歳没[2]。
政治姿勢
保守強硬派
ショイブレは、CDUの中でも保守派とみなされている。
1991年、統一ドイツの首都をボンからベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。 ヨーロッパ大陸の中央に位置する神聖ローマ帝国の歴史に照らして、愛国主義は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。 エリート層に対しては、エリートとしての意識を持つことを主張している。 学校でのイスラム教の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。 SPDのゲアハルト・シュレーダー政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。
メルケル政権の内相時代には強硬な姿勢が指摘された。
内相時代は対テロ戦争を想定して国内の治安維持にドイツ連邦軍が出動出来るよう憲法改正を主張した。 テロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず大連立の相手であるSPDからも強い反対を受けた。 オンライン捜査を認める憲法改正も主張する。 ドイツ国内で開催された2006 FIFAワールドカップや第33回主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)の際は、治安維持や反グローバリゼーション活動家対策のため、EU内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「シュタージ」のような監視国家体制に繋がると非難された。 2017年1月にヴェルト・アム・ゾンターク(ドイツ語版、英語版)のインタビューを受けて、2015年からのドイツの難民受け入れ政策について「私たち政治家は人間であり、私たちは誤りを犯した。しかし、人というものは少なくとも誤りから学ぶことができる。」[3]と発言し、難民受け入れ政策が失敗であったとの認識を示した[4]。
財務相として
ユーロ圏ソブリン危機の渦中に財務省に就任したが、2011年11月29日のユーロ圏財務相会議(ブリュッセル)に先立ち、「例えばリスボン条約第14条などの限定的な条約により、欧州の機関が安定成長協定の責務を強化することが可能になるよう望む」と発言する[5]。
同年12月6日、スタンダード&プアーズ(S&P)がユーロ圏15カ国の長期・短期ソブリン信用格付けを引き下げ方向で見直すと声明したことに対し、「全世界の市場は今ユーロ圏を全く信用していない」「S&Pの見直し声明は、欧州の首脳らに約束を果たすこと、つまり必要な決定を一つ一つ下し、世界の投資家の信頼を回復することを促す」と評し[6]、「非常に誇張したもので公正でない」[7]と批判したユーログループ議長のジャン=クロード・ユンケルと対照的な態度を示した。
その一方、欧州委員会が2011年11月23日に打開策として提案した[8]ユーロ共同債については「まず各国の財政規律の強化が確実になってから」と否定的な見解を示した[9]。
脚注
^ “独下院、議長にショイブレ前財務相を選出”. ロイター (ロイター). (2017年10月25日) 2017年10月25日閲覧。 ^ “Wolfgang Schaeuble, German elder statesman and finance minister during euro debt crisis, dies at 81” (英語). AP News (2023年12月27日). 2023年12月27日閲覧。 ^ ドイツ語での本人発言は „Wir Politiker sind Menschen, auch wir machen Fehler. Aber man kann wenigstens aus Fehlern lernen.“ ^ 難民保護: ショイブレが難民政策の誤りを認める - ヴェルト (Asyl: Schäuble gesteht Fehler in Flüchtlingspolitik ein - WELT) (ドイツ語) - 2017年1月29日 ^ ショイブレ財務相:ドイツは財政規律強化に向けた条約変更を望む 2011年11月29日付 Bloomberg.co.jp ^ S&Pはユーロ圏の応援団、警告は首脳らへの「激励」-独財務相 2011年12月6日付 Bloomberg.co.jp ^ S&Pユーロ圏格付け見直し、非常に誇張したもの─ユーロG議長=報道 2011年12月6日付 ロイター・ジャパン ^ ユーロ共同債、発行に向けて取り組み前進を-欧州議会の経済委員会 2011年12月20日付 Bloomberg.co.jp ^ ドイツ財務相:ユーロ共同債の議論は「安定同盟」の達成後に可能に 2011年11月28日付 Bloomberg.co.jp
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ヴォルフガング・ショイブレに関連するカテゴリがあります。公式ホームページ (ドイツ語) ドイツ連邦議会 経歴紹介[リンク切れ] (ドイツ語)
議会
先代
ノルベルト・ランメルト ドイツの旗 ドイツ連邦議会議長
2017年 – 2021年 次代
ベーベル・バス
公職
先代
ペール・シュタインブリュック ドイツの旗 財務大臣
2009年 – 2017年 次代
ペーター・アルトマイヤー
(暫定)
先代
オットー・シリー ドイツの旗 内務大臣
2005年 – 2009年 次代
トーマス・デメジエール
先代
フリードリッヒ・ツィンマーマン ドイツの旗 内務大臣
1989年 – 1991年 次代
ルドルフ・ザイタース
先代
ヴァルデマー・シュレッケンベルガー ドイツの旗 首相府長官
1984年 – 1989年 次代
ルドルフ・ザイタース
党職
先代
ヘルムート・コール ドイツキリスト教民主同盟党首
第6代:1998年 – 2000年 次代
アンゲラ・メルケル表話編歴
ドイツ連邦議会議長
表話編歴
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国財務大臣
表話編歴
ドイツの旗 ドイツ連邦共和国内務大臣
表話編歴
ドイツキリスト教民主同盟党首
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ:ドイツキリスト教民主同盟党首ドイツ連邦議会議長ドイツの内相西ドイツの内相ドイツの財務相バーデン=ヴュルテンベルク州選出のドイツ連邦議会議員対麻痺を持つ人物フライブルク出身の人物1942年生2023年没 最終更新 2024年5月13日 (月) 22:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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ジョージア (国)(再掲)
https://http476386114.com/2022/05/31/%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%82%a2-%e5%9b%bd/『※ 途中までは、読んだ…。
※ あまりに長いので、止めておく…。
※ 時間がある時に、また読もう…。
※ ただ、「タマル」は、civ6に出てくる…。「女王ではなく、王なのです。」とか言っていた…。』という感じだったな…。
※ そうは言っても、オレ自身の「知識体系」も、進化している…。
※ 「地政学」的に、特に注目した部分を、析出しておこう…。







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※ 今日は、こんな所で…。














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ニューカレドニア
Nouvelle-Calédonie
ニューカレドニアの ニューカレドニアの
ニューカレドニアの旗 ニューカレドニアの紋章
モットー:“Terre de parole, terre de partage” 地域歌:Soyons unis, devenons frères(フランス語版) ニューカレドニアの位置 公用語 フランス語 首都 ヌメア 地域圏 未所属 (特別共同体) 県番号 988 本国 フランスの旗 フランス 大統領 エマニュエル・マクロン 政府主席 ルイ・マプ(フランス語版) 高等弁務官(英語版) ルイ・ル・フラン (Louis Le Franc) 面積 (世界156位) - 総面積 18,575 km² 7,172 mi² - 水面積率 (%) 1.6 人口 - 統計(2016年) 275,355人 - 人口密度 14.8/km² 38.3/mi² GDP (PPP) (2014年) - 合計 111億ドル - 1人当り 38,800ドル(2012年) 通貨 CFPフラン (XPF) 時間帯 UTC+11 ISO 3166-1 NC / NCL ccTLD .nc 国際電話番号 +687 表示掲げられたフランス国旗とFLNKS(フランス語版)の旗
2010年より両方とも公式旗となった[1]ニューカレドニア(英語: New Caledonia、フランス語: Nouvelle-Calédonie)は、ニューカレドニア島(フランス語でグランドテール Grande Terre、「本土」と呼ばれる)およびロイヤルティ諸島(ロワイヨテ諸島)からなるフランスの海外領土(collectivité sui generis、特別共同体)である。
ニッケルを産出する鉱業の島である一方、リゾート地でもある。ニューカレドニアの珊瑚礁は世界遺産に登録されている。
概要
ニューカレドニア地図オーストラリア東方の島で、南太平洋のメラネシア地域にあり、面積は1万8575.5平方キロメートル(四国ほどの大きさ)である。
フランス語ではヌーヴェルカレドニー(Nouvelle-Calédonie)と呼び、ニューカレドニアは英語読み(英語: New Caledonia)から来ている(Caledoniaはスコットランドのラテン語名であり、新しいスコットランドの意。同義のノヴァ・スコシアとは無関係)。
先住民カナックの言葉ではカナキー(Kanaky)とも呼ばれる。
人口は、2016年の調査では27万5355人。政庁所在地で人口最大の都市はヌーメア(2014年の人口は9万9926人[2])。インターネットの国別コードトップレベルドメインは「.nc」。通貨はウォリス・フツナ、フランス領ポリネシアと共にCFPフランを使用している。主都ヌーメアは、太平洋地域の地域協力機構、太平洋共同体の本部所在地である。
1985年以降、カナックによる激しい独立運動が行われ、一時は暴動や内戦に近い状態を呈していた。
1986年、国連非植民地化委員会(United Nations Committee on Decolonization)は、ニューカレドニアを国連非自治[3]地域リストに掲載した。
1998年、フランス政府と独立派組織のFLNKS、カレドニア共和国運動(英語版)と締結されたヌーメア協定(英語版)に基づき、2018年11月4日、2020年10月4日、そして2021年12月12日に独立を問う住民投票が実施されたが、いずれも独立反対が過半数を占め、独立は否決された(詳細は後述)[4][5][6]。
地名
「カレドニア」とは、今日のスコットランドにあたる地域を指すラテン語名である。
一方、カナキー (Kanaky) という名もフランス語、英語、現地の先住民であるカナックの言葉では一般的に使われており、メラネシア民族主義者の間では「ヌーヴェルカレドニー」より「カナキー」のほうが好まれる。
カナキーという名は、ポリネシア語で「人間」を意味し、ポリネシア人の自称として使われる「カナカ (kanaka)」から来ている。
カナカという語は後に、フランス人がポリネシア・メラネシアを含めた全ての太平洋先住民を指して使う言葉になった。
一方、フランス語化したカナク (Canaque) は侮蔑語として使われていた[注釈 1]。
1960年代から1970年代にかけ、ニューカレドニアのメラネシア系先住民が政党を結成し独立への訴えを開始したとき、侮蔑語だったカナクはメラネシア人の政治的解放と民族の誇りのシンボル的な言葉となった。
1983年、政治的混乱がニューカレドニアを襲った時期、カナク (KANAK) とカナキーは政治的な標語となり、カナクという語が政治的主張の強い言葉へと変わったことが広く認識されるようになった。
歴史
1774年にジェームズ・クックによって「発見」され、1853年にフランス領となっている。当初は流刑植民地だったが、19世紀後半のニッケル発見後は鉱業の島となった。20世紀後半には独立闘争で島が揺れ、1998年のヌーメア協定(英語版)で将来に関する合意がなされた。
先住民族
西太平洋に人が住み始めたのは5万年前であった。
その後パプア諸語の民族がメラネシアに拡散した。
他にも、ラピタ人 (Lapita) がメラネシアの島々に移り住んでいる。
紀元前1500年、ラピタ人たちは現在のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島に到達し、高度な航海術や農業、土器作りは太平洋の広い範囲に影響を及ぼした。
その土器などの痕跡は今もニューカレドニアに残るほか、彼らの前に住んでいた民族による1万年前のペトログリフ(岩刻)も残っている。
その後、オーストロネシア語族が台湾などを起点にオセアニアに進出している。
11世紀ごろ、オーストロネシア語族のポリネシア人がニューカレドニアに到達し、パプア系などの先住民族と混血した。
ニューカレドニアのメラネシア人は、27のメラネシア系言語とウォリス・フツナ人よりもたらされたポリネシア系言語、合わせて28の言語を有している。
その共同体社会は、クラン(clan、氏族)を基本単位にして細分化している。
実際の居住は、いくつかのクランが集まり集団 (tribu) を構成している。
これらの集団において首長権限に違いが出ている。
たとえば首島のグランド・テール (Grande Terre) では首長権限は緩やかだが、ウベア、リフー、マレなどのロイヤルティ諸島では、首長支配が強い[7]。
ヨーロッパ人到達
ヨーロッパ人のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島到達は18世紀後半のことだった。
イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック)が1774年、海上からニューカレドニア本島(グランドテール島)を「発見」し、山の多いスコットランド(カレドニア)を思わせる眺めからニューカレドニアと名づけた。
同じ航海で、彼はニューカレドニア北方の島にニューヘブリデス諸島(現在のバヌアツ)と名づけている。
ニューカレドニアの地図、1888年
イギリスとアメリカ合衆国の捕鯨業者および白檀(サンダルウッド)貿易商がニューカレドニアに関心を示すようになり、ヨーロッパ人と先住民との間に緊張が高まった。ヨーロッパ人の先住民への接触も次第に無知に付け込んだ不正直なものとなり、高慢な態度と詐欺が横行するようになった。英米人はアルコールや煙草など依存症の高い物品を物々交換の品物に混ぜ、先住民を中毒にした。またヨーロッパ人との接触で天然痘、インフルエンザなどさまざまな疫病が先住民の間に蔓延したことにより多くの人々が亡くなった。そして緊張は敵意に変わり、1849年にはカッター号の船員がポウマ族 (Pouma) に殺され、食べられる事件が起きた。
白檀貿易が衰退すると、新たな商売が誕生した。ニューカレドニア、ロイヤルティ諸島、バヌアツ、パプアニューギニア、ソロモン諸島などで先住民を捕らえ、フィジーやクイーンズランドのサトウキビプランテーションで奴隷労働をさせる「ブラックバーディング」である。こうした奴隷貿易で島々の社会や文化は荒廃したが、20世紀初頭まで終わることはなかった。
カトリックやプロテスタントの宣教師がやってきたのは19世紀である。彼らが先住民の文化に与えた効果は重大なものがあった。宣教師は人々に服を着て肌を隠すように言い張り、多くの風習や伝統を根絶やしにしてしまった。
フランス領有
ニューカレドニアは1853年9月24日、イギリスのオーストラリア・ニュージーランド領有に対抗しようとしたナポレオン3世の派遣した提督オーギュスト・フェヴリエ=デポワント (Auguste Febvrier-Despointes) によってフランス領と宣言された。
同年9月29日、パン島も領有宣言した。1864年には、ロイヤルティ諸島もフランス植民地として組み込んだ。 イギリスのオーストラリア植民の例に倣い、1854年から1922年までの間、有罪を宣告された重罪犯およそ2万2000人が、流刑地とされたニューカレドニア島南西岸地域に送り込まれた。この中には通常の凶悪犯もいれば、パリ・コミューンの共産主義者、アルジェリア北部のカビリアで逮捕されたカビル人民族主義者ら政治犯も数多くいた。
ニッケル鉱山の発見により流刑植民地の時代が終わり、鉱山労働者の需要が増え、ヨーロッパからの自由意志での移住者(前科者なども含む)や日本人などアジア人契約労働者が多くなった。また鉱山で強制労働をさせられる人数も激増した。同時期、先住のカナク人の人口は疫病や、彼らの生計・移動の自由・土地所有を厳重に制限するアパルトヘイトに似た先住民に対する法制 (“Code de l’Indigénat”) によって激減していった。
日本からニューカレドニアへの契約移民は1892年から1919年まで続き、約5700名の日本人男性がニューカレドニアに移住した。元来は独身男性に限る出稼ぎであったが現地女性と所帯を持って定住する日本人が少なからず現れるようになり、1940年には首都ヌメアに日本帝国領事館が開設された。但し、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発に伴い当時ニューカレドニアに約1200名ほどいた日系人は敵性外国人として弾圧の対象となって、ヌメアの帝国領事館も設立から僅か2年足らずで閉鎖された[8]。
ガダルカナルへ出撃する米海軍プレジデント・アダムズ号、ニューカレドニアは太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点だった
第二次世界大戦では、ニューカレドニアは自由フランス側に付いたため、太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点となった。島にはフランスと違うアメリカの文化や物資が豊富に流入した。この出来事は、フランス人支配下であえいでいた現地人には肯定的に受けとめられている。一方、日本人労働者や日系人は「敵性外国人」としてオーストラリアなどへ強制移送されたり、戦中の交換船により日本へ帰国した者や敗戦まで捕虜として収容されたりした。
独立闘争
カナックの旗。将来独立した場合、カナキー国旗となる
ニューカレドニアの紋章メラネシア人の政治参加は、初めはヨーロッパ人の共産党やキリスト教組織が主導していたが、1953年、「2つのカラー(肌の色)に1つの国民」を合言葉としてユニオン・カレドニエン(UC、社会主義政党)が結成された[9]。 脱植民地化運動は1960年代末から始まっており、「カナック・アイデンティティの回復要求」として具体化されている。それは、先住民としての権利回復要求の政治的声明でもある[10]。 先住民は1960年代以降政党を組んで権利主張と独立運動、先住民文化復興活動などを始め、ニューカレドニアは1986年以来、一度は1947年に外された国連非自治地域リストに再度掲載されている。このリストには近隣の島国であるアメリカ領サモア、ニュージーランド領トケラウなどが含まれている。
1985年、先住民文化復興活動の先頭に立っていたジャン=マリ・チバウ(英語版)率いるカナック社会主義民族解放戦線(fr:Front de libération nationale kanak et socialiste、FLNKS)は独立への扇動を行った。ジャン=マリー・チバウらは独立国家「カナキー」の樹立を主張した。FLNKS指導者の暗殺に端を発してカナックによる暴動が始まり拡大し、ニューカレドニア全土に非常事態宣言が出される事態となった。特に1988年4月22日、独立過激派が27人のフランス国家憲兵隊員と1人の裁判官を人質にとってロイヤルティ諸島ウベア島の洞窟に監禁し、4人を殺害した事件が最大の危機となった。この事件は5月、海軍特殊部隊、GIGN、EPIGNなどによる突入で過激派を殺害することで解決したが、特殊部隊側にも犠牲者が出た。なお、GIGNの隊長が1990年に発表した手記によれば、制圧後に無抵抗だった過激派は暴行・射殺され、その事実をフランス政府は隠蔽したとしている[11]。
動乱の中、フランス政府は1987年に約束どおり住民投票を行い、翌1988年にマティニョン合意が成立し自治拡大が約束された。合意を結んだジャン=マリー・チバウは独立過激派により1989年に暗殺されてしまいFLNKSは混乱に陥った。
以後も自治への運動や協議が行われ、1998年にはヌーメア協定(フランス語版、英語版)(ヌメア協定)が結ばれ、住民への権限譲渡プロセスを「不可逆なもの」と位置づけた。
フランス市民権とは別の「ニューカレドニア市民権」を導入すること、ニューカレドニアのアイデンティティを表す公的なシンボル(ニューカレドニア「国旗」など)をフランス国旗とは別に制定すること、フランス政府がニューカレドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡し、最終的には外交、国防、司法権、通貨発行以外の権限はニューカレドニアに全面的に譲渡されること、2014年から2018年にかけてのいずれかの時点で独立かフランス残留かの住民投票を行うこと、などが定められた。2018年11月4日にフランスからの独立の是非を問う住民投票が実施されたが、独立反対が得票率56.40%で過半数となり否決された[3][12][13]。
2019年5月12日には議会選が行われ、フランスへの残留を支持する独立反対派の票が小差で過半数を占めた。政庁所在地ヌーメアの高等弁務官事務所の発表によれば、全体の54議席のうち独立反対派の右派が28議席、独立支持派は26議席を、獲得の見通しであった[14]。2020年10月4日のフランスからの独立の是非を問う住民投票では独立反対が得票率53.3%で過半数となり再び否決された[15]。
2021年2月3日、ヴァーレ社のニッケル事業売却をめぐり独立支持派の5人の大臣が辞任を表明し、独立反対派のティエリ・サンタ政権が事実上崩壊[16][17]。2月17日、議会で実施された選挙で新たな大臣が選出され、11の大臣ポストのうち過半数の6席を独立支持派が獲得した。政府主席は大臣による多数決で選出されるため、協定以降初めてとなる独立派政権の発足に大きく前進[18][19]。同年7月7日に実施された5回目の選出選挙でようやくFLNKS所属で独立派のルイ・マプ(フランス語版)がサンタを下し当選を果たした[20]。
2021年9月20日、フランス軍事省傘下の軍事学校戦略研究所(英語版)は、中国の影響力拡大戦略についての報告書を発表し、在外華人を使った中国共産党の宣伝工作、国際機関への浸透、インターネットの情報操作などを分析し、中国が潜在的敵国の弱体化を狙い、ニューカレドニアで独立運動を煽っていると報告した[21]。
2021年、独立派は新型コロナウイルスの影響による外出規制、感染症による死者の葬儀が問題となっていたため、投票延期をフランス政府に訴えたが却下され投票でのボイコットを呼びかけた。
同年12月12日、ヌーメア協定で定められた最後の独立を問う住民投票の結果は、独立反対96.5%・独立賛成3.5%であったが、独立派の多くがボイコットを実施し、投票率43.9%で前回の85.7%の半分であった[22]。フランス大統領エマニュエル・マクロンは投票の実施及び結果を正当化し、ボイコットした独立派は結果を認めないと宣言した[23]。
メラネシア国家とメラネシア系民族団体で構成されるメラネシア・スピアヘッド・グループは多数のボイコットにより正当な住民投票ではなく無効であり、国連憲章の第1条と自己決定に関する国連決議1514に違反していると[24]の声明を出した[25]。
2023年1月、第二次世界大戦終結後では初となる日本の領事機関として在ヌメア領事事務所が新設された[8]。
「en:2024 New Caledonia unrest」も参照
2024年5月、フランス系住民の参政権を拡大する憲法改正に関する議論の中で暴動が発生し、非常事態宣言がされ、4人が死亡した[26][27]。
地理
詳細は「ニューカレドニアの地理(英語版)」を参照
ニューカレドニアの衛星写真
乾燥した本島西側では、熱帯雨林の東側とは対照的な風景が広がるニューカレドニアは南西太平洋の南緯21度30分、東経165度30分あたりに位置し、オーストラリア大陸の約1200キロメートル東、ニュージーランドの約1500キロメートル北西にある。島国バヌアツはニューカレドニアの北東にある。
ニューカレドニアは本島(グランドテール島)と周囲の島々からなる。ベロップ列島 (Belep archipelago) が本島の北に、ロイヤルティ諸島(ローヤリティー諸島、Îles Loyauté、Loyalty Islands)が本島の東に、イルデパン島(Île des Pins、カナック語でクニエ Kunyié)が南に、チェスターフィールド諸島とベロナ環礁がさらに西にある。
本島グランドテールはこれらの島々の中で群を抜いて大きく、唯一山がちな島である。島自体の面積は1万6372平方キロメートル、北西から南東に細長く伸び、長さは350キロメートル、幅は50 – 70キロメートルである。長く高い山脈が島の中央部に伸び、中には1500メートルを超える峰も5つある。島の最高地点はパニエ山(Mont Panié、標高1628メートル)である。ニューカレドニア地域全体の面積は1万9060平方キロメートルであり、うち陸地面積が1万8575.5平方キロメートルとなっている。
ニューカレドニアは世界のニッケル資源の 1/4 を有している。日欧米などの企業が採掘権を買っており、これらの採掘はほとんど露天掘りで行われている。
主な島
「ニューカレドニアの島の一覧」も参照ニューカレドニア島(グランドテール島) イル・デ・パン ベレップ(Art島) ロイヤルティ諸島 ウベア島 リフー島 マレ島(フランス語版、英語版) チェスターフィールド諸島気候
ニューカレドニアは南回帰線にまたがり、南緯19度から南緯23度にわたっている。島の気候は熱帯で、季節によっては非常に雨が多い。5月から11月は比較的降水量が少なく過ごしやすい。東から太平洋を越えて来る貿易風が山脈に当たり、大量の雨を降らせることで島内には多くの熱帯雨林が形成されている。年間降水量はロイヤルティ諸島で約1500ミリメートル、本島東部の低地で約2000ミリメートル、本島の山岳部では2000 – 4000ミリメートルに達する。本島の西側は山脈の影となるため雨は比較的少なく、年間降水量は1200ミリメートルである。
生態系
カグー(おとなしい状態)
詳細は「ニューカレドニアの生物多様性」を参照比較的新しい時代に火山によって形成された多くの太平洋の島々とは異なり、ニューカレドニアは古代のゴンドワナ大陸の破片にあたる。8500万年前にオーストラリアからジーランディアと呼ばれる一塊の陸地が分離し、この陸地は5500万年前にさらに二つに分かれた。これがニューカレドニアとニュージーランドである。このため、ニューカレドニアにはゴンドワナ起源の珍しい固有の植物・動物が残っている。
特に有名なのは山岳部の密林に住むニワトリ大の灰色の鳥、カグーで、威嚇や求愛の際には頭の巨大な飾り羽をはね上げ大きな翼を広げ、犬にも似た奇妙な大声で鳴き、飛ぶことはできず林の中を走り回っている。ニューカレドニアのシンボルともいえる鳥であるが、人間の持込んだ犬や猫などにより絶滅が心配されている。また、道具を自ら作って獲物を捕るカレドニアガラスなども有名である。
オーストラリアやニューギニアにも生えているニアウリ(英語版) (Niaouli) の木の樹液は樟脳にも似た匂いのする殺菌力の高い精油(芳香油、Gomenol)を出し、古来より医学的な関心が寄せられてきた。精油は風邪や傷などの治療やアロマテラピーに使われている。
ニューカレドニアの淡水の生態系も長い地理的孤立のために独自の進化を遂げ、水量豊富な川や沢には多くの固有の水生生物が存在する。
人間の渡来前はルーセットと呼ばれる草食性のオオコウモリ以外に哺乳類はいなかった。ヨーロッパ人の渡来後は、乱獲や持ち込まれた外界の動物により固有の生態系は危機に瀕している。
ニューカレドニアには二つの異なった生態系を持つ地域がある。ひとつはロイヤルティ諸島、イルデパン島、本島東部のニューカレドニア熱帯雨林で、もうひとつは雨の少ない本島西側のニューカレドニア乾燥林である。ヨーロッパ人は首都ヌーメアをはじめ本島西側に多く住み、東側はカナックが多くすんでいる。政治的な区別と自然の区別は同一のものとなっている。
ニューカレドニア本島とイルデパン島を取り囲むサンゴ礁(堡礁)、ニューカレドニア・バリア・リーフはオーストラリアのグレート・バリア・リーフ(長さ2600キロメートル)に次ぐ世界第二の大きさを誇るサンゴ礁である。その長さは1500キロメートルに達する。サンゴ礁は種がきわめて多様性に富み、絶滅の危機に瀕するジュゴンの生息地であり、アオウミガメの重要な産卵地でもある。ニューカレドニア・バリア・リーフは2008年にユネスコの世界遺産に登録された。
行政
「ニューカレドニアの行政区画」も参照注意:フランスの地方行政区画の訳語は一定ではない。
フランス領ポリネシアやウォリス・フツナ同様、ニューカレドニアもフランスの海外領土であり、フランスの一部である。フランスでも特殊な地方行政区画「特別共同体 (a collectivité sui generis)」であり、「特別(独自、sui generis)」という用語を冠されている。これは、ニューカレドニアはフランスで唯一、地域圏や県、海外県、海外準県など地方共同体 (Collectivité territoriale) でない行政区だからである。ニューカレドニアは1946年まで植民地だったが、1946年以来1999年まで海外領土(territoire d’outre-mer、略称TOM)となっており、その後独自の地位を得た。首府はヌーメアで、地域内唯一の大都市圏である。
ニューカレドニアの行政区画は3つの州(province、地方:フランスでこのような名称の行政区画はニューカレドニアにしかない)に分けられる。ロイヤルティ諸島の「離島州 (Province des Îles)」、本島北部の「北部州 (Province Nord)」、および本島南部の「南部州 (Province Sud)」である。さらにこれらは33のコミューン(市町村)に分かれる。
加えて、カナックの各部族ごとの課題に対処するため、別の種類の行政区画が並行して存在する。これらは伝統的区域(aires coutumières、英語: traditional spheres)と呼ばれ8つある。(伝統的区域の地図(zipファイル)を参照)その司法権は、地域内に住むカナック以外の民族には適用されない。伝統的区域は言葉の違いやフランス植民地支配以前の部族同盟の範囲を大なり小なり反映している。
産業
鉱業
ニューカレドニアのニッケル露天掘り鉱山1860年代にニッケルが発見された。コバルト埋蔵量世界第4位、ニッケル埋蔵量同5位を誇り、世界第5位のニッケル生産がある。ニッケル鉱業がGDPの20%、輸出の90%近くを占めており、世界最大級のフェロニッケル生産地である。
日本のニッケル鉱石の年間総輸入量約400万トンのうちの約50%がここから出荷されている。ニッケルは、主としてステンレスをはじめ、各種電子材料、蓄電池材料などの原料として使用されている。
観光豊かな自然から観光業が歴史的に盛んであり、海岸部やイルデパン島などの離島にリゾートが設けられ、フランス本土のみならず、日本やオーストラリア、アメリカなどから多数の観光客が訪れている。
交通
ヌメア国際空港
鉄道
ヌメア-パイタの鉄道 – かつてヌメア – パイタ間で運行されていた唯一の鉄道。人口統計
詳細は「ニューカレドニアの人口統計(英語版)」を参照2010年推計による。
ヌメアにある、カナック文化を研究・展示するジャン=マリー・チバウ文化センター(レンゾ・ピアノ設計)
年齢構成~14歳:23.19%(男性:3万2,178人/女性:3万804人) 15~24歳:16.89%(男性:2万3,435人/女性:2万2,488人) 25~54歳:42.99%(男性:5万8,769人/女性:5万7,994人) 55~64歳:8.21%(男性:1万874人/女性:1万1,417人) 65歳~:8.72%(男性:1万558人/女性:1万3,138人)
男女比
女性1人当たり男性人数を示す。
誕生時点:1.05 ~14歳:1.05 15~24歳:1.04 25~54歳:1.01 55~64歳:0.95 65歳~:0.8
乳児死亡率
全体:5.37人/1000人 男児:6.33人/1000人 女児:4.37人/1000人
平均余命
全体:77.5歳 男性:73.49歳 女性:81.71歳
その他
人口成長率:1.38% 出生率:15.33人/1000人 死亡率:5.52人/1000人 純移動率:4.01人/1000人
民族
カナック:40.3% ヨーロッパ人:29.2% ワリシア人 8.7% タヒチ人(英語版):2% インドネシア人:1.6% ベトナム人:1% バヌアツ人(英語版):0.9% その他:16.2% … 戦前のニッケル労働者に由来する日系ニューカレドニア人(約8000人)や華人などアジア系人、アルジェリアから流刑にされたアラブ人などの末裔が若干存在する。
言語
公用語:フランス語 33のメラネシア・ポリネシア諸語、クレオール言語 識字率 全体:96.9% 男性:97.3% 女性:96.5%宗教
カトリック:60% プロテスタント:30% その他:10%
情報・通信
放送は、本国フランス共和国の放送局フランス・テレビジョンが傘下におく海外領土向けチャンネルのRFOがある。ニューカレドニアにおいては、RFOのニューカレドニア局であるRFO NewCaledoniaが放送している。ほかに、チャンネル・カレドニアなどがある。 インターネットにおいては、ニューカレドニアに限らず本国のプロバイダも利用される。 新聞は、売店などでの販売が主流。
著名な出身者
コリン・ヒギンズ - 映画監督 クリスティアン・カランブー - 元サッカー選手 フレデリック・ピキオンヌ - 元サッカー選手 ローラン・ガネ - 元自転車競技選手 セバスチャン・ヴァアマイナ - ラグビー選手
ギャラリー
北部ヤンゲン (Hienghène) の奇岩、「La Poule(めんどり)」、別名チキンロック 北部ヤンゲン (Hienghène) の奇岩、「La Poule(めんどり)」、別名チキンロック アメデ島 (Amédée) の灯台 アメデ島 (Amédée) の灯台 ウベア環礁のビーチ ウベア環礁のビーチ イルデパン島のウピ湾 (Upi) イルデパン島のウピ湾 (Upi) イルデパン島のサン・ジョセフ湾 (Baie de Saint-Joseph) イルデパン島のサン・ジョセフ湾 (Baie de Saint-Joseph) イルデパン島の伝統的な丸木舟 イルデパン島の伝統的な丸木舟 ヌーメアのココティエ広場にある噴水 (Fontaine Céleste) ヌーメアのココティエ広場にある噴水 (Fontaine Céleste) グランドテール(本島)南部の典型的な風景 グランドテール(本島)南部の典型的な風景 カナックの女性たち カナックの女性たち ブーライユ (Bourail) 近郊の「亀の湾」(La Baie des Tortues) ブーライユ (Bourail) 近郊の「亀の湾」(La Baie des Tortues) 25kmにおよぶ長さの白砂の浜、ウベア島 25kmにおよぶ長さの白砂の浜、ウベア島
脚注
[脚注の使い方]
注釈^ カナックは、ハワイ語で人を意味するカナカという言葉から派生した。ニューカレドニアでは、フランス語化してカナックとなった[7]。
出典
^ Vœu no 1 du 13 juillet 2010 ^ City Population閲覧日:2017年1月17日 ^ a b “仏からの独立否決=ニューカレドニアで住民投票”. 時事通信. (2018年11月4日). オリジナルの2018年11月5日時点におけるアーカイブ。 2018年11月4日閲覧。 ^ “ニューカレドニア フランスからの独立投票、11月に”. 毎日新聞. (2018年3月19日) 2018年8月22日閲覧。 ^ “独立、再び否決 住民投票で賛否僅差―仏領ニューカレドニア”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2020年10月4日) 2020年10月5日閲覧。 ^ “仏領ニューカレドニア 独立否決 独立派がボイコット 大統領、「フランスに留まる」と結果を正当化”. 産経新聞. 2021年12月12日閲覧。 ^ a b 江戸淳子「<ニューカレドニア> 10 カナク」/ 綾部恒雄監修 前川啓治・訓棚橋編集『講座 世界の先住民族 -ファースト・ピープルズの現在- 09 オセアニア』 明石書店 2005年 191ページ ^ a b <関学研究室から~神戸三田キャンパス>ニューカレドニア 総合政策学部・津田睦美教授 | 三田 | 神戸新聞NEXT ^ 江戸淳子「<ニューカレドニア> 10 カナク」/ 綾部恒雄監修 前川啓治・訓棚橋編集『講座 世界の先住民族 -ファースト・ピープルズの現在- 09 オセアニア』 明石書店 2005年 193ページ ^ 江戸淳子「カナク」/ 綾部恒雄監修 前川啓治・訓棚橋編集『講座 世界の先住民族 -ファースト・ピープルズの現在- 09 オセアニア』 明石書店 2005年 190ページ ^ “「天国にいちばん近い島」で起きた事件を映画化 監督に聞く”. 日本経済新聞 (2012年11月22日). 2014年5月30日閲覧。 ^ Referendum 2018 ニューカレドニア高等弁務団 2018年11月4日配信 2018年11月5日閲覧。 ^ 仏領ニューカレドニアの差別と血に濡れた独立運動 Newsweek 2018年11月8日配信 2019年8月24日閲覧。 ^ “仏領ニューカレドニアで議会選、独立反対派が小差で過半数制す”. AFPBB News. (2019年5月13日) 2019年8月24日閲覧。 ^ “独立、再び否決 住民投票で賛否僅差―仏領ニューカレドニア”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2020年10月4日) 2020年10月5日閲覧。 ^ “New Caledonia's government collapses over independence vote”. Nikkei Asia (2021年2月3日). 2021年2月24日閲覧。 ^ “New Caledonia coalition collapses over independence, mineral resources”. ラジオ・フランス・アンテルナショナル (2021年2月3日). 2021年2月24日閲覧。 ^ “New Caledonia: Pro-independence parties win majority in snap elections”. ユーロニュース (2021年2月17日). 2021年2月24日閲覧。 ^ “New Caledonia's pro-independence camp wins historic election”. ラジオ・ニュージーランド (2021年2月19日). 2021年2月24日閲覧。 ^ “En Nouvelle-Calédonie, un indépendantiste kanak, Louis Mapou, devient pour la première fois chef du gouvernement collégial”]. ル・モンド. (2021年7月8日) 2021年7月9日閲覧。 ^ 三井美奈 (2021年10月5日). “仏軍事研究所が「中国の影響力」報告書 沖縄を標的と指摘”. 産経新聞. オリジナルの2021年10月5日時点におけるアーカイブ。 ^ “フランス領ニューカレドニア、三たび独立否決”. NHK. 2021年12月12日閲覧。 ^ “仏領ニューカレドニア 独立否決 独立派がボイコット 大統領、「フランスに留まる」と結果を正当化”. 産経新聞. (2021年12月12日) 2021年12月12日閲覧。 ^ “France under Pacific scrutiny after New Caledonia referendum impasse”. ASPIストラテジスト. 2021年12月23日閲覧。 ^ “‘Null and void’: boycott clouds New Caledonia’s final poll on independence”. ガーディアン. 2021年12月23日閲覧。 ^ “ニューカレドニア、暴動で非常事態宣言 改憲案のフランス議会採決に抗議”. CNN. (2024年5月16日) 2024年5月16日閲覧。 ^ “仏領ニューカレドニア 大規模暴動続く 日本人観光客も足止め”. NHK. (2024年5月16日) 2024年5月16日閲覧。
関連項目
サッカーニューカレドニア代表 ニューカレドニア駐屯フランス軍 チェスターフィールド諸島 天国にいちばん近い島 森村桂(作者) いまでも天国にいちばん近い島 森村桂・文 後藤鐵郎・写真(PHP研究所2002年6月) 交換船 裏切りの戦場 葬られた誓い ISO 3166-2:NC外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ニューカレドニアに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
ウィキニュースにはニューカレドニアに関連するニュースのカテゴリがあります。ニューカレドニア観光局(日本語) ニューカレドニア観光局 (@nctpsjapan) - X(旧Twitter)(日本語) ニューカレドニア (newcaledoniatourismjapan) - Facebook(日本語) 『ニューカレドニア』 - コトバンク 表話編歴
フランスの旗 フランスの県
表話編歴
オセアニアの国と地域
表話編歴
フランコフォニー国際機関 フランコフォニー国際機関
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ:ニューカレドニアメラネシア太平洋の島フランスの島フランス語圏欧州連合加盟国の特別領域先進国日本人墓地 最終更新 2024年5月19日 (日) 11:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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中東
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、西アジアの地域について説明しています。中国の地域については「中国東北部」をご覧ください。
中東
Middle East
伝統的中東
伝統的中東
国
狭義の中東16か国
[表示]
拡大中東13か国
[表示]中東の地図
中東(ちゅうとう、英語: Middle East)は、ヨーロッパから見て近辺にあるアジア・アフリカの地域概念を指す。狭義では西アジアの大部分にエジプト及びイランを含めた国々、広義では中近東とほぼ同じ範囲を指す。
概念
元々アジア圏内は歴史上インドを中心に栄えており、それを軸に地政学あるいは国際政治学上の地理区分が行われた[1]。
ヨーロッパから見てそのインドより近辺に位置する地域を指し、その範囲は国際政治の変化や文化的な認識の変化により時代とともに伸縮してきた[2]。
19世紀には「中近東(Near and Middle East)」の呼び方のほうが一般的であった[3]。
「中東」を最初に使用した人物は米国の海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハンで1902年のこととされているが、その範囲は曖昧であり、厳密な定義をして用いるようになったのはイギリスの政治行政官である[2][3]。
極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)などはイギリスからみた呼称として成立した[4]。
「中東」はオスマン帝国の崩壊を背景にイギリスの最も重要な植民地であったインドに至る地域(トルコ、エジプト、シリア、イラクなど)を指す呼称として次第に形成された[2]。
また、「近東」は東方問題が焦点となる中でオスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された[2]。
そのため、当初の「中東」の概念は第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なる[2]。
「近東」とはトルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を指す[2]。
また、第二次世界大戦以前において「近東」と並行して「中東」が用いられる場合、イランとコーカサス、アフガニスタン、中央アジア、さらに広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった[2][4]。
第二次世界大戦が起こるとイギリスは北アフリカや西アジアでドイツやイタリアなどと対戦し、そこでは作戦上使用する呼称として中東(MENA)が使われるようになった[4]。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した[4]。
また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された[2]。
アメリカの中東戦略
冷戦崩壊以降、国際安全保障環境は民族・宗教対立の表面化、核拡散、国際秩序の地域分化などが顕著となった。
アメリカは、産油国でありながらかつ紛争の絶えない中東への介入を拡大させ、湾岸戦争後はイラクに対する敵視政策を拡大してきた。
2001年における4年ごとの国防見直し (QDR) においては中東から東アジアにかけての広い地域を不安定の弧と位置づけ、対アジア戦略の中枢に据えてきた。
中でも中東は紛争の絶えない地域でありアメリカの世界戦略の軸とされてきた。
こうしたアメリカの中東への介入によりアルカーイダはアメリカに対する敵視・敵対・テロ活動を増大させ、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が勃発、アメリカの富の象徴、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)、並びにアメリカの国防機関の中枢、国防総省へのテロが発生し、時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、このテロを「新しい戦争」と呼び、ますます中東への介入を強めた。
しかし、国際法上、テロに対する戦争が困難だったアメリカはテロ支援国家を攻撃することによりこれに対抗しようとした。
その結果がアフガニスタンのターリバーン政権打倒であり、イラク戦争であった。
イラク戦争をはじめとするアメリカの中東戦略は国連安保理の承認を経ずに自国とイギリスを中心とした有志連合によって攻撃をしたため、国際社会から批判された。
アフガニスタンに対してはアフガニスタン戦争でターリバーン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したアフガニスタンの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、大統領選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、2014年末中のアフガニスタンへの派遣軍の全軍撤退をめざしているが、ターリバーンによるテロは収束せず治安回復や復興計画が進展していない[5]。
イラクに対してはイラク戦争でフセイン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したイラクの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、首相の選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、テロが完全に収束せずテロによる死傷者が発生している状況ではあるが、2011年末にイラクへの派遣軍を全撤退させた[6]。
日本との関係
20世紀前半の中東は欧米列強の侵略に悩まされた地域である。
植民地支配からの独立後、また中東戦争時に欧米諸国が一斉に人材や資本を引き上げた時に西側諸国として唯一、政府開発援助や国際協力機構を通じて国際協力を続けた。
日本にとっても豊かな産油国であるこれらの国との関係はエネルギー安全保障上において重要なパートナーであり、日本から東南アジア、インド洋、そして中東にかけて伸びる海洋交通路即ちシーレーンの防衛が課題となっている。
1970年代から1980年代にかけて新左翼系国際テロ組織の日本赤軍による活動拠点となり、多数の民間人が犠牲になったテルアビブ空港乱射事件や日航機ハイジャック事件などの日本赤軍事件の舞台ともなった。
アメリカ合衆国によるイラク戦争の開戦後は、日本もアメリカの同盟国としてイラク戦争の支持を表明し、イラク戦争の後方支援並びにイラク戦後復興支援に尽力している。
日本のイラクへの自衛隊派遣に反対する人々は「アメリカの戦争への協力」、「アメリカのいいなり」、「イラク国民のためにならない」、「自衛隊の派遣は憲法違反」、「武装組織との戦闘によりイラク国民にも自衛隊にも死傷者が発生したらイラク国民の対日感情が悪化する」などの理由で批判し、日本の左派系のマスコミによって論争になった。
イラクでアメリカ軍やイギリス軍を攻撃した武装勢力は、イラクに派遣された日本の自衛隊に対しては攻撃せず、自衛隊はイラクの武装勢力との戦闘による死傷者は発生せず、自衛隊もイラク国民を死傷させなかった。
イラクからの自衛隊の撤退後に、イラクの大統領、首相、外相、その他の閣僚や政府幹部、国会議員団が来日して、日本の首相や閣僚と会談した時に、日本がイラク戦争後のイラクの復興に協力したことに感謝を表明した[7][8][9][10][11][12][13][14]。
伝統的中東(深緑色)とG8によって提案された拡大中東(薄緑色)
中東の国 – 首都の一覧ここでは中東の国として、西アジア諸国・地域、及びに北アフリカのアラブ諸国(アラブ人が多数を占める国)を記載する。
伝統的中東
国旗
国章
国名
正式国名
原語(公用語)表記
人口
面積 (km2)
首都
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 アラブ首長国連邦 الإمارات العربيّة المتّحدة(アラビア語) 4,599,000 82,880 アブダビ
イエメンの旗 イエメン イエメン共和国 الجمهوريّة اليمنية(アラビア語) 23,580,000 527,970 サナア
イスラエルの旗 イスラエル イスラエル国 מדינת ישראל(ヘブライ語)
دولة اسرائيل(アラビア語) 7,170,000 20,770 エルサレム(イスラエルの主張)
テルアビブ(国際連合の主張)
イラクの旗 イラク イラク共和国 الجمهورية العراقية(アラビア語)
كۆماری عێراق(クルド語) 30,747,000 437,072 バグダード
イランの旗 イラン イラン・イスラム共和国 جمهوری اسلامی ایران(ペルシア語) 74,196,000 1,648,195 テヘラン
エジプトの旗 エジプト エジプト・アラブ共和国 جمهوريّة مصرالعربيّة(アラビア語) 82,999,000 1,001,450 カイロ
オマーンの旗 オマーン オマーン国 سلطنة عُمان(アラビア語) 2,845,000 312,460 マスカット
カタールの旗 カタール カタール国 دولة قطر(アラビア語) 1,409,000 11,437 ドーハ
クウェートの旗 クウェート クウェート国 دولة الكويت(アラビア語) 2,985,000 17,820 クウェート
サウジアラビアの旗 サウジアラビア サウジアラビア王国 المملكة العربية السعودية(アラビア語) 25,721,000 2,149,690 リヤド
シリアの旗 シリア シリア・アラブ共和国 الجمهوريّة العربيّة السّوريّة(アラビア語) 21,906,000 185,180 ダマスクス
トルコの旗 トルコ[t 1] トルコ共和国 Türkiye Cumhuriyeti(トルコ語) 74,816,000 780,580 アンカラ
バーレーンの旗 バーレーン バーレーン王国 مملكة البحرين(アラビア語) 791,000 665 マナーマ
パレスチナの旗 パレスチナ パレスチナ暫定自治政府[t 2] فلسطين(アラビア語) 4,277,360 6,220 ラマッラーおよびガザ
(東エルサレムを希望)
ヨルダンの旗 ヨルダン ヨルダン・ハシミテ王国 المملكة الأردنّيّة الهاشميّة(アラビア語) 6,316,000 92,300 アンマン
レバノンの旗 レバノン レバノン共和国 الجمهوريّة البنانيّة (アラビア語) 4,224,000 10,400 ベイルート拡大中東
国旗
国章
国名
正式国名
原語(公用語)表記
人口
面積 (km2)
首都
アフガニスタンの旗 アフガニスタン[t 3] アフガニスタン・イスラム首長国 جمهوری اسلامی افغانستان(アラビア語) 31,108,077 652,225 カーブル
アルジェリアの旗 アルジェリア[t 3] アルジェリア民主人民共和国 الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية(アラビア語) 34,895,000 2,381,740 アルジェ
キプロスの旗 キプロス[t 3][t 1] キプロス共和国 Κυπριακή Δημοκρατία(ギリシア語)
Kıbrıs Cumhuriyeti(トルコ語) 871,000 9,250 [注釈 1] ニコシア
北キプロス・トルコ共和国の旗 北キプロス[t 3][t 1] 北キプロス・トルコ共和国 Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti(トルコ語) 265,100 3,355 レフコシャ
スーダンの旗 スーダン[t 3] スーダン共和国 جمهورية السودان(アラビア語)
Republic of the Sudan(英語) 30,894,000 1,886,068 ハルツーム
チュニジアの旗 チュニジア[t 3] チュニジア共和国 الجمهرية التونسية(アラビア語) 10,272,000 163,610 チュニス
西サハラの旗 西サハラ[t 3] サハラ・アラブ民主共和国 الجمهورية العربية الصحراوية الديمقراطية(アラビア語)
República Árabe Saharaui Democrática(スペイン語) 502,585 266,000 アイウン(名目上の首都)
ティファリティ(暫定的な首都)
ティンドゥフ(事実上の首都)
ジブチの旗 ジブチ[t 3] ジブチ共和国 République de Djibouti(フランス語)
جمهورية جيبوتي (アラビア語) 864,000 23,000 ジブチ
ソマリアの旗 ソマリア[t 3] ソマリア連邦共和国[t 4] Soomaaliya(ソマリ語)
الصومال(アラビア語) 10,272,000 163,610 モガディシュ
パキスタンの旗 パキスタン[t 3] パキスタン・イスラム共和国 ‘اسلامی جمہوریت پاکستان’(ウルドゥー語)
Islamic Republic of Pakistan(英語) 180,808,000 803,940 イスラマバード
モロッコの旗 モロッコ[t 3] モロッコ王国 المملكة المغربية(アラビア語) 31,993,000 446,550 ラバト
モーリタニアの旗 モーリタニア[t 3] モーリタニア・イスラム共和国 الجمهورية الإسلامية الموريتانية(アラビア語)
République islamique de Mauritanie(フランス語) 3,291,000 1,030,700 ヌアクショット
リビアの旗 [t 5] リビア[t 3] リビア国 دولة ليبيا(アラビア語) 6,420,000 1,759,540 トリポリ
表註^ a b c ヨーロッパにも分類され得る ^ 2013年現在、国際連合に加盟する193カ国中134カ国(69.4%)から「パレスチナ国(State of Palestine)」として国家承認されている。 ^ a b c d e f g h i j k l m G8により提案された拡大中東。外務省 平成17年版(2005年)外交青書 ^ 2012年8月に暫定政権の統治が終了するまでは、「ソマリア共和国(Republic of Somalia)」を国名としていたが、全土を実効支配しておらず、公式国名と見なされていなかった。 ^ 2011年リビア内戦後のリビア国民評議会による暫定政権はロゴマークのみしか制定しておらず、正式な国章はまだ決まっていない。
言語
この地域で話される主要言語としては、アフロ・アジア語族に属するアラビア語やヘブライ語、インド・ヨーロッパ語族に属するペルシャ語やクルド語、アルタイ諸語に属するトルコ語やベイリム語がある。
中東で最も広く話される言語はアラビア語であり、中東はおおまかにアラビア語圏と非アラビア語圏に二分することができる。
アラビア語圏はマグリブ諸国やエジプト、アラビア半島諸国、シリアやイラクなどであり、これらの国では公用語がアラビア語とされている。
アラビア語圏の国家は中東地域の過半を占めており、地域の共通語として広く話される。
これに対し、ペルシャ語を話すイランやトルコ語を話すトルコ、ヘブライ語を話すイスラエルは非アラビア語圏に属する。エルサレムの神殿の丘
メッカのカーバ神殿宗教
中東はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の誕生した地であり、イスラム教の聖都であるメッカとメディナはこの地に存在し、毎年世界中から多数の巡礼を受け入れている。
また、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教がすべて聖地としており、11世紀末から170年以上にわたって断続的に行われた十字軍などに見えるように、3宗教の争奪の地となってきた。21世紀においてはこの地域の信仰は圧倒的にイスラム教が多数を占める。
非イスラム教徒が多数派を占める国家はイスラエルただ一国である。
ただし、レバノンにはマロン派のキリスト教徒が比較的多く、エジプトにはコプト派のキリスト教徒が一定数存在する。
イスラム教徒の大半はスンニ派であるが、イランの国民の多くはシーア派に属する十二イマーム派を信仰している。
イランにはゾロアスター教やバハイ教の小規模なコミュニティも存在する。
イラクはシーア派が6割、スンニ派が3割5分を占めており、両派の間に対立がある。
バーレーンもシーア派が75%、スンニ派が25%を占めるが、同国の首脳部はスンニ派で占められ、国民の多数派であるシーア派とはしばしば激しく対立する。
オマーンにおいてはイバード派が主流となっている。
民族
詳細は「中東の民族」を参照
中東最大の民族はアラブ人であり、エジプトやサウジアラビアをはじめ、中東の過半の国々はアラブ人が多数派を占めている。
アラブ人に次いで人口規模が大きいのはペルシャ人とトルコ人であり、それぞれイランとトルコの人口の大多数を占める。
その次に人口が多いのはトルコ・イラン・イラクの三か国にまたがる山岳地帯に居住し、2,500万~3,000万人の人口を抱えるクルド人であるが、クルド人は独自の国を持たず、居住するどの国においても少数派である。
このため、とくに居住者の多いイラクやトルコとの間に紛争が多発している。
イラクにおいては、2003年のバアス党政権崩壊によってクルディスタン地域に大きな自治が与えられるようになった。
このほか、イスラエルにおいてはユダヤ人が多数派である。
ユダヤ人はもともとパレスチナの地に居住しており、アラブ人と共存していたが、19世紀後半以降シオニズムの進展とともにパレスチナへの移住者が増大し、人口バランスが崩れて紛争が多発するようになった。
やがて両者の対立は1948年に第一次中東戦争として火を噴き、勝利したユダヤ人は建国したイスラエルの基盤固めに成功したが、その後も両民族間では対立が絶えず、四度にわたる中東戦争を招くこととなった。
イスラエルにおいては建国後ユダヤ人の流入がさらに増大したものの、アラブ人を排除しているというわけではなく、人口の20%はアラブ人が占めている。
政治
中東の政治の最大の対立点はイスラエルである。
イスラエルはほかの中東諸国のほとんどすべてと対立状態にあり、そのため中東諸国がすべて加盟している地域協力機構は存在しない。
イスラエルを除けば、中東地域で域内大国と言えるのはエジプト、トルコ、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の5か国である。
エジプトは人口8000万人を抱える中東最大の国家であり、政治面でも文化面でもアラブ諸国の主導権を長く握ってきた。
これに対抗できるアラブ人国家はサウジアラビアのみである。
サウジアラビアは人口は3000万人弱であるが、聖地であるメッカとメディナの統治者であり、また世界最大の産油国であることから経済的にも強く、宗教面・経済面で影響力が強い。
これらのアラブ人国家はすべてアラブ連盟に加盟しており、アラブ連盟は中東最大の地域協力機構となっている。
ただしアラブ連盟はあくまでもアラブ人諸国家の連合組織であり、イスラエルはもとより、トルコ人を主体とするトルコやペルシャ人を主体とするイランも加盟してはいない。
中東域内のアラブ人国家には過去何度か統合の動きがあり、1958年にはエジプトとシリアが連合してアラブ連合共和国が、同年イラクとヨルダンが連合してアラブ連邦が結成されたが、アラブ連邦はわずか数か月で、アラブ連合共和国も3年後の1961年に崩壊した。
また、ペルシャ湾岸の諸国の間では湾岸協力会議という独自の地域協力機構が存在する。
トルコもこの地域では経済力が強く存在感を持っているが、同国はヨーロッパ連合加盟を長年求め続けているようにヨーロッパ志向も強い。歴史
現在中東と呼ばれている地域は地球上でもっとも古くから文明の発達した土地である。
この地域に成立したエジプト文明とメソポタミア文明の二つの大文明、およびそれを含む肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域はエジプトやバビロニア、ヒッタイト、アケメネス朝ペルシアなど古来より多くの帝国を育んできた。
紀元前331年にはアケメネス朝がマケドニア王国のアレクサンドロス3世によって征服されるが、アレクサンドロスの帝国はすぐに崩壊し、中東全域はその後継国家であるセレウコス朝シリア王国とプトレマイオス朝エジプト王国に分割されたが、この時の文化混交によって政治的・文化的にヘレニズムと呼ばれる一時代が形成された。
その後ヘレニズム国家はローマ帝国によって併合され、イラン高原はパルティア王国によって支配された。
このシリア・エジプトを支配する地中海国家とメソポタミア・イラン高原を支配するペルシア国家の構図は、両国崩壊後の東ローマ帝国とサーサーン朝の両王朝においても継続された。
この構図が根本的に変動するのは、622年にアラビア半島に成立したイスラム帝国が北上を開始してからである。
イスラム帝国はサーサーン朝を滅亡させて東ローマ帝国をアナトリアの端にまで追いつめ、中東のほぼ全域を統一的な支配下におさめた。
この中東の統一は9世紀初頭のアッバース朝初期まで続き、この時期以降中東ではイスラム教が支配的な宗教となった。
その後アッバース朝の衰退により各地にイスラム王朝が分立するようになり、1095年から1291年にかけては十字軍国家がパレスチナからシリアにかけて勢力を張ったこともあったものの、イスラムの優越は現代まで続いている。
16世紀初頭には中東西部はオスマン帝国によって統一され、イラン高原のサファヴィー朝と対峙するようになった。
この中東東西勢力の対立はイランでの王朝交代をはさみつつ19世紀まで続くものの、やがて両勢力ともに衰退し、ヨーロッパからの介入を招くようになった。
将来予測
地球温暖化の深刻な影響により、将来的には全世界での中でも、夏の暑さが人類にとっての生存の限界(湿球温度35度。それ以上の環境では健康な若者でも屋外に6時間ほどいると死に至るとされる)に達する状況が本格的に発生して居住不能になるのが最も早い地域の一つと予測されており、実際その限界の状況が2015年頃以降、ペルシア湾岸で短時間ながら既にしばしば発生している。
そのため、サウジアラビアなどでは産業の構造転換などの動きが模索されている。
中東の主要都市
アブダビ - アラブ首長国連邦 アブダビ - アラブ首長国連邦 アンカラ - トルコ アンカラ - トルコ バグダード - イラク バグダード - イラク ベイルート - レバノン ベイルート - レバノン タブリーズ - イラン タブリーズ - イラン カイロ - エジプト カイロ - エジプト ダマスカス - シリア ダマスカス - シリア ドーハ - カタール ドーハ - カタール ドバイ - アラブ首長国連邦 ドバイ - アラブ首長国連邦 イスタンブール - トルコ イスタンブール - トルコ エルサレム(アル・クドゥス) - パレスチナ・イスラエル エルサレム(アル・クドゥス) - パレスチナ・イスラエル クウェート市 - クウェート クウェート市 - クウェート マナーマ - バーレーン マナーマ - バーレーン マッカ - サウジアラビア マッカ - サウジアラビア ラマッラー - パレスチナ ラマッラー - パレスチナ サナア - イエメン サナア - イエメン テヘラン - イラン テヘラン - イラン テルアビブ - イスラエル テルアビブ - イスラエル
脚注
[脚注の使い方]
注釈^ この内、3,355km2は北キプロス・トルコ共和国の実効支配地域。
出典
^ インドの区分 ^ a b c d e f g h 池内恵. “「中東」概念の変容 中国・インドの台頭と「西アジア」の復活?”. 中東協力センターニュース 2018・7. 2020年6月30日閲覧。 ^ a b 栗田禎子「中東情勢と日本・世界のゆくえ」『公共研究』第13巻第1号、千葉大学、178頁。 ^ a b c d 畑中美樹. “最近の中東情勢と世界経済への波及”. 中経連 2020.1. 中部経済連合会. 2020年6月30日閲覧。 ^ 外務省>アフガニスタン・イスラム共和国>基礎データ ^ 外務省>イラク共和国>基礎データ ^ 外務省>イラク共和国>麻生総理とタラバーニー・イラク大統領との会談 ^ 外務省>イラク共和国>イラク副大統領と麻生外務大臣との会談について(概要) ^ 外務省>イラク共和国>ハーシミー・イラク副大統領と中野経済産業副大臣及び宇野外務大臣政務官との会談 ^ 外務省>イラク共和国>マーリキー・イラク首相と麻生外務大臣との会談について(概要) ^ 外務省>イラク共和国>野田総理大臣とマーリキー・イラク首相の会談 ^ 外務省>イラク共和国>ズィーバーリー・イラク外相による野田総理表敬 ^ 外務省>イラク共和国>シャハリスターニー・イラク石油大臣、ハリーリー同国産業鉱物資源大臣一行の中曽根外務大臣との会談 ^ 外務省>イラク共和国>イラク国会議員代表団による榛葉外務副大臣表敬
関連項目
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中東
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出典検索?: “ハンス・ギュンター” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月)ハンス・F・K・ギュンター
Hans F. K. Günther
1933年
生年月日 1891年2月16日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国 フライブルク
没年月日 1968年9月25日
死没地 西ドイツの旗 西ドイツ フライブルク
出身校 フライブルク大学
ソルボンヌ大学
ウィーン大学
前職 学者
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
テンプレートを表示ハンス・フリードリヒ・カール・ギュンター(Hans Friedrich Karl Günther, 1891年2月16日 - 1968年9月25日)は、ナチス・ドイツ時代の学者、政治家。
ナチスお抱えの人種学者(優生学者)として、その人種政策・民族政策に多大な影響を与え、「人種学の教皇」(Rassenpapst) と綽名された。
生涯
生い立ち
帝政ドイツ下の自治国家バーデン大公国の首都フライブルク・イム・ブライスガウで、音楽家の子として生まれた。
青年期に地元のフライブルク大学で比較言語学を学んでいたが、動物学や地理学などの講義を聴くうちに志を変え、1911年にフランスのソルボンヌ大学に転学して学び直し、最終的に博士号を授与された。
同時期に勃発した第一次世界大戦に兵士として出征、歩兵連隊に従軍したがすぐに病気を患って除隊を宣告された。
体の弱さから兵士としては不向きと考えられた彼は赤十字社の活動で軍に貢献する道を選んだ。
人種学者としての成功
ヘルマン・ルンドボリ
1919年、戦争が敗戦に終わった後に赤十字社を離れたギュンターは故郷に戻り、文筆活動に新たな人生の目標を求めた。
彼は『騎士、死と悪魔:英雄叙事詩』という著作で、人種学的な側面から戦後起こりつつあった新しい形の国家主義勢力の思想を擁護しようと試みた。
これがその「新しい国家主義」の典型であったナチス、そしてその指導者層に属していたハインリヒ・ヒムラーに大変な感銘を与えることになった。
しかしすぐにギュンターがナチスに関わることにはならなかった。
著作出版後、ギュンターはしばらくドレスデン博物館での勤務で生活費を捻出しながら、オーストリアのウィーン大学に通って人種学の研究を続けていた。
ギュンターは最初の妻と別れてノルウェー人の女性と再婚すると、1923年に後妻の実家のある北欧へと活動の場を移した。
移住先の北欧で彼は人種学の研究家として厚遇を受け、ヘルマン・ルンドボリが率いるスウェーデンのウプサラ大学人種生物学研究所から名誉賞を授与された。
ノルウェー時代は親ナチ派の政治家ヴィドクン・クヴィスリングとも親交を持った。
1931年、イェーナ大学の教授の地位を得て、ノルウェーを離れドイツに帰国した。
ナチスとの関わり
1935年にギュンターは人種学の権威としてベルリン大学に生物学と人種学の教授として招致され、1940年からは最初の母校であるフライブルク大学でも教鞭を執った。
背景には彼の理論に傾倒していたナチスの台頭があり、ナチスは人種政策の決定においてギュンターの理論を下敷きにして行っていた。
ギュンターもまた1931年にナチスに入党していた。
ナチスはギュンターに大学の教授職を歴任させつつ、いくつもの権威ある科学賞を彼に授与した。
その中にはアドルフ・ヒトラー自らが創設した芸術・科学で偉大な功績を残した人物に与えられるとしたゲーテ・メダル(ドイツ語版)も含まれており、ナチスの党機関紙はギュンターの学説を「ナチスの誇り」とまで賛美した。
第二次世界大戦が勃発するとより深くナチスと関わり、1941年3月には東部占領地域相アルフレート・ローゼンベルクから「ユダヤ人問題会議」のメンバーに指名され、人種的側面からユダヤ系住民の扱いについて意見を求められた。
会議ではユダヤ系住民の扱いについて同化政策や強制労働、大量虐殺に至るまで様々な「解決法」が延々と議論された。
ギュンターは会議について「退屈であった」とだけ書き残しており、彼がローゼンベルクの「ユダヤ人絶滅政策」に積極的に関与したかどうかは定かではない。
とはいえ東ヨーロッパ人種の劣等論などナチズムのイデオロギー形成に多大な影響を与え、自らも恩恵を受けていたギュンターがナチスに無関係とは言いがたかった。
第二次世界大戦終結後にギュンターは連合軍に拘束され、「直接的に関与はしていない」と結論付けられたものの、3年間の捕虜生活を送ることになった。
晩年
しかしギュンターの側も自らの持論を曲げることはなく、戦後もホロコースト否定や人種論研究に没頭し続けた。
早くも1951年に西ドイツで人種学的に良い結婚相手を選ぶように奨励した『夫の選択』という著作を刊行している。
彼は優生学に基づいた断種政策を強く支持して、ナチス時代の選択的断種すら批判の対象にしていた。
1959年には人種淘汰が薄れゆく戦後ヨーロッパの衰退を危惧して、州による家族の管理計画を主張する著作を発表している。
人種理論
マディソン・グラントによる欧州における人種図(1911年)。黄色が地中海人種、緑色がアルプス人種、赤色が北方人種とされた。
オイゲン・フィッシャー(左から2人目)
ギュンターの理論は概ね当時流行していた「ノルディック・イデオロギー」(北方人種至上主義)に基づいている。
彼の母校フライブルク大学の教授には、ドイツ人種学の大家でノルディック・イデオロギーによる優生学を主張したオイゲン・フィッシャー(ドイツ語版)がおり、ギュンターが影響を受けた可能性は高い。
また、ギュンターはアメリカ合衆国のマディソン・グラント(英語版)の理論も取り入れている。ヒトラーはグラントの『偉大な人種の消滅』を「私の聖書」と呼んで愛読していた。
ギュンターは白人を、北方人種・西方人種・東方人種・東バルト人種・ファリック人種・ディナール人種の6分類に分割した。
このうち、西方人種と東方人種はより頻繁に用いられている地中海人種(西方)とアルプス人種(東方)の代替用語で、定義はほとんど変わらなかった。
ファリック人種は後の著作になるにつれて、次第に棄却された。
東バルト人種はアルプス人種のうち東欧からロシアの住民を指したもので、ディナール人種はバルカン半島のアルプス人種を指した用語であり、ギュンター以前から用いられていた。
彼の理論において、北方人種は主たる人種として欧州文明を築いた偉大な種族であり、ヨーロッパ史の優れた文明の全てが彼らによって始められたとギュンターは強弁した。
そしてキリスト的価値観からユダヤ教徒(セム種族とも)は、ヨーロッパ文明を阻害するためにアジア人によって打ち込まれた楔であると批判した。
他の白人種については西方人種、東方人種、ディナール人種は北方人種ほどではないが、北方種を支えてきた勇敢で賢明な種族として賞賛した。
しかし反対に東バルト人種は北方人種との近縁性を徹底して否定した上で「劣等人種」と定義した(「欧州史における人種」)。
彼のこうした理論はナチスによる占領政策によって現実に反映されることになった。
全く科学的客観性と根拠に欠ける恣意的な人種優劣論に過ぎない。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ハンス・ギュンターに関連するカテゴリがあります。ナチズム 表話編歴
国家社会主義ドイツ労働者党の旗 国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党) 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党章
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ:ドイツの学者ドイツのホロコースト否認論者優生学者ナチ党員フンボルト大学ベルリンの教員アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクの教員フリードリヒ・シラー大学イェーナの教員フライブルク出身の人物1891年生1968年没 最終更新 2024年3月24日 (日) 03:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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