カテゴリー: 世界の歴史、関連
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モルディブ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%96
※ 環礁のでき方を示す.gif。



政府 大統領 モハメド・ムイズ 副大統領(英語版) フセイン・モハメド・ラシーフ(英語版) 面積 総計 300km2(187位) 水面積率 極僅か 人口 総計(2022年) 390,164[1]人(176位) 人口密度 1,300.5人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2020年) 576億300万[2]ルフィヤ(£) GDP(MER) 合計(2020年) 37億3800万[2]ドル(152位) 1人あたり 9888.651(推計)[2]ドル GDP(PPP) 合計(2020年) 74億4000万[2]ドル(161位) 1人あたり 1万9681.526(推計)[2]ドル 独立 - 日付 イギリスより 1965年7月26日 通貨 ルフィヤ(£)(MVR) 時間帯 UTC(+5) (DST:なし) ISO 3166-1 MV / MDV ccTLD .mv 国際電話番号 960


『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モルディブ共和国
ދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ
モルディブの国旗 モルディブの国章
(国旗) (国章)
国の標語:なし
国歌:ޤައުމީ ސަލާމް(ディベヒ語)
国家敬礼
Duration: 1 minute and 9 seconds.1:09
モルディブの位置
公用語 ディベヒ語
首都 マレ
最大の都市 マレ












『NASAによるモルディブの衛星画像
モルディブ共和国(モルディブきょうわこく、ディベヒ語: ދިވެހިރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ, Dhivehi Raa’jeyge Jumhooriyya、英語: Republic of Maldives[3])、通称モルディブは、インド洋上のモルディブ諸島を領土とする島国。
インドとスリランカの南西に点在する1192の島から構成される[3]。
いずれも小さな島や環礁であり、国土面積の合計は298平方キロメートル[3]。
首都はマレ[3]。人口は約51万人で、うち外国人が13万人以上を占める[3]。
温暖で過ごしやすく、開発が進んでいないため自然に溢れており、「アジアの楽園」とも称される[誰によって?]。
国名
正式名称はދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ(ディベヒ語:ラテン文字転写はDhivehi Raajjeyge Jumhooriyyaa。読みはディヴェヒ・ラーッジェーゲ・ジュムフーリッヤー)。通称、Raajje。
公式の英語表記はRepublic of Maldives(リパブリック・オブ・モールディーヴズ)。通称、Maldives。
日本語表記はモルディブ共和国。通称はモルディブ、もしくはモルジブとも。
ディベヒ語名の「Raajjeyge」とは、島を意味する「rah」の複数形「Raajje」に所有格を表す接尾辞「ge」がついたもの。「Jumhooriyyaa」は共和国の意。「Dhivehi」は「島に住む人」の意。
英語名の「Maldives」はサンスクリットで「島々の花輪」を意味する「Malodheep(マローディープ。マーラー(mālā、माला。「輪」)+ドウィーパーハ(dvīpāḥ、द्वीपाः。「島々」))に由来するとされる。
これはモルディブの珊瑚礁の島々が輪を描くように並んで浮かんでいる様子を花輪にたとえたものである。
歴史
詳細は「モルディブの歴史(英語版)」を参照
約2000年前、インド亜大陸南部やセイロン島から移住してきた人々が暮らし始めた[3]。
当初は仏教徒が多かったが、中東に興ったイスラム教がインド洋沿岸各地にも布教され、1153年にイスラム教へ改宗し、以降スルターンにより統治されるようになった[3]。
イスラム世界の大旅行家イブン・バットゥータが1343年から翌年にかけて滞在し、政府高官として10ヶ月間勤務した。
大航海時代に入ると、アフリカ大陸南端を回ってヨーロッパ(欧州)諸国がインド洋に勢力を拡大。
1558年から1573年にかけてポルトガルがマーレを占拠。1645年から1796年はオランダの保護国となった。
欧州列強のうち、イギリスはインド洋沿岸各地に植民地を拡大(大英帝国)。モルディブも1887年に保護国として、イギリス領セイロンを通じて統治下した[3]。
1932年、最初の憲法が起草され、スルターン位が世襲制から選挙制に移行した。
第二次世界大戦では、モルディブ南端のアッドゥ環礁がイギリス海軍の基地として使われた。
戦後、大英帝国は植民地は相次ぎ独立した。
モルディブでは1953年に君主制が廃止され、共和制に移行。
アミン・ディディが初代大統領に就任したが、一年も経たずに政権崩壊。
王政復古により、ムハンマド・ファリド・ディディが第94代スルターンに選ばれた。
1959年には、アッドゥ環礁など南部にてアドゥアン人民共和国(後にスバディバ連合共和国に改称)が独立を宣言し、1963年まで存続した。
1965年[3]7月26日、スルターンを元首とするモルディブ・スルターン国として独立。
1968年[3]11月11日には、国民投票で世襲君主制を廃止して、共和制に移行した。
1978年11月11日、ナシル初代大統領に代わりマウムーン・アブドゥル・ガユームが第2代大統領に就任[3]。
1982年7月9日、イギリス連邦に加盟した。
2016年10月13日に離脱し[4]、2020年2月1日に再加盟した[5]。
1988年11月3日、国内実業家の雇ったタミル・イーラム人民解放機構 (PLOTE) の傭兵部隊によるクーデターが勃発(1988年モルディブクーデター)。
当時モルディブは軍を保有していなかったため、同日夜に輸送機によりインド軍が投入されて傭兵部隊は鎮圧された。
2004年、長期政権となっていたガユーム大統領と野党勢力の対立が続き、政治犯釈放を求めるデモが拡大し、非常事態宣言が出される。以後、政治の民主化改革が行われる。
同年12月26日、スマトラ島沖地震による津波の襲来を受け82名が死亡するなどの被害を受けた。
2007年9月29日、首都マーレで爆弾テロと見られる爆発があり、日本人2人を含む外国人観光客12人が負傷した。
2008年1月8日、北部のホアラフシ島で大統領暗殺未遂事件があり、15歳のボーイスカウトの少年が犯人を制止し、少年は腕を負傷した。
同年10月29日、民主化後初の大統領選挙が行われ、モハメド・ナシードが当選(11月11日就任)。
ナシード大統領は2012年2月7日に辞任し、モハメド・ワヒード・ハサン副大統領が、大統領に昇格した。
2013年、大統領選挙により親中派の[6]アブドゥラ・ヤミーン大統領が当選、ナシード前大統領は僅差で落選[7]。
ナシード前大統領は2015年2月に反テロ法違反の容疑で逮捕、懲役13年の判決を受ける[7]。
ヤミーンは、中華人民共和国(中国)の資金でインフラ整備を進め、政治では独裁色を強めた[6]。
2015年7月、首都マレにて独立50周年記念式典が行なわれた[8]。
同年9月28日、アブドゥラ・ヤミーン大統領暗殺未遂事件が発生した[9]。
2018年9月23日、野党統一候補のイブラヒム・モハメド・ソリ(ソーリフ)が大統領選挙に勝利[4]。
ソリは親インド派[6]で、同年12月17日にはインドを訪問して、14億ドルの融資枠と通貨スワップの提供をとりつけ、前政権の中国依存路線から修正を図った[10]。
その後もインドから橋や道路の建設費、2019新型コロナウイルスへの対策費などの支援を受けている[11]。
2023年9月30日の大統領選挙では、モハメド・ムイズが当選し[12]、ソリを破った。
ムイズはヤミーン政権の住宅・インフラ担当閣僚やマレ市長を務め、汚職などの疑いで禁錮刑判決を受けて大統領選挙に出馬できなかったヤミーンの「代役」とする見方もある[6]。
選挙戦では、インドが海洋監視や捜索救難のため航空機を貸与していることに伴う70人程度のインド軍駐留解消を掲げ、11月17日の大統領就任式典では「主権と独立を保つため、いかなる外国の部隊の駐留も許さない」と語り、翌日には式典に出席したインド政府のリジュジュ地球科学相にインド軍撤収を正式に要請した[6]。
対外関係
イギリス連邦に加盟している一方で、非同盟・中立政策を掲げ、各国との友好に努めている[3]。
だがインド洋の中央部という地政学的に重要な位置にあるため、北隣の大国であるインドのほか、インド洋進出を図る中国(「真珠の首飾り戦略」「一帯一路」参照)、西側諸国に重視されている。
上記の「歴史」節と、「政治」「軍事」節で後述するように安全保障や国内政局、経済も諸外国、特に中印の影響を強く受ける[6]。
近海の監視や救急搬送を担う航空機やヘリコプターを運用するため、国内に約70人のインド軍兵士が駐留しているとされる。
2023年11月に就任した親中国派のムイズ大統領は、就任演説で「主権と独立を保つため、いかなる外国の部隊も駐留させない」と訴え、撤退を要請した[13]。
ロシアへの半導体供給
2022年ロシアのウクライナ侵攻開始後、モルディブが対ロシア経済制裁の回避ルートとして使われており、ロシアにおける米国製半導体の輸入額はモルディブからが約75億円と香港を含む中国やトルコに次いで大きく、取引件数は2番目に多かったとの報道がなされた[14][15]。
日本との関係
詳細は「日本とモルディブの関係」を参照
モルディブは独立の2年後、1967年に日本との国交を樹立している。
その後長らく在スリランカ日本国大使館が在モルディブ日本国大使館としての業務を兼轄していたが、2016年にマーレに在モルディブ日本国大使館が開設され、同年7月には常駐としては初の在モルディブ日本国大使が着任した。
一方、駐日モルディブ大使館は2007年に開設された。
1987年にはサイクロンによる高波でマーレの首都機能が麻痺したことから日本政府に緊急援助・災害対策支援の要請があり、これを受けて1987年から2002年までの15年間に計5回(1987年-1989年にかけて緊急事業としてマーレ島南部、1994年からは第1次:西岸、第2次:東岸、第3次:南岸、第4次:北岸)に分けて約75億円をかけてODAによる護岸堤建設が行われた[16]。
完成後の2004年にはスマトラ島沖地震による津波が襲来してマーレの約2/3が冠水したが、津波による死者は出なかった[17]。
一方、2011年3月11日の東日本大震災に際しては、救援物資としてモルディブ政府からツナ缶8万6400個、市民が持ち寄った義援金700万ルフィア(約4,600万円)とツナ缶約60万個が送られている[17][18]。
市民が持ち寄った缶詰は、缶切りなしで開けられるよう同国内の加工業者がいったん引き取ってプルトップ缶に詰め替えた上で日本に送られた[18]。
軍事
詳細は「モルディブ国防軍」を参照
モルディブは長く軍事力を保有していなかったが、1558年にポルトガルに占領された後、抵抗軍が組織され、1573年には独力でポルトガル軍の撃退に成功した。
以降、17世紀中盤の数度のポルトガルによる再攻撃もすべて撃退し、19世紀後半には近代軍に移行したが、20世紀中盤以降は治安部隊(国家保安隊)に縮小されていた。
その後、国家保安隊が警察機能を兼任していたため、一国における単一組織の権限が大き過ぎることが懸念されるようになり、また1988年に同国の実業家が傭兵を使ってクーデター未遂事件を起こしたこともあって、2006年に警察機能を分離してモルディブ国防軍として再編成された。
なお、全方位外交を旨としていることから、安全保障条約なども締結していないが、諸外国軍との共同訓練などの軍事交流はある。
政治
詳細は「モルディブの政治(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。マレの独立広場
マウムーン・アブドル・ガユーム(1978-2008年)国家元首は大統領で、任期は5年。行政府の長を兼ねており、首相は1975年以来空席となっている。
議会が候補者を選出し国民が信任投票を行う。2003年10月の選挙ではガユーム大統領の続投(6期目)が決まった。
議会は一院制で「マジュリス(Majlis、国民議会)」と呼ばれる。全85議席で、任期は5年[19]。
伝統的に政治的集団を結成する習慣が無かったため政党は存在しなかったが、アジア最長と呼ばれるガユーム政権の打倒のために2003年11月10日にモルディブ民主党(MDP)が結成された。
これを契機にガユーム大統領が新党モルディブ人民党(DRP)を結成。
その他にもモルディブ進歩党(PPM)や共和党といった中堅政党、更にはイスラム民主党や正義党といった小政党が続々と結成され、徐々に政党政治へと移行しつつある(政党の一覧は「モルディブの政党」を参照)。
2008年8月7日には基本的人権や言論の自由、複数政党制などを初めてうたった新憲法が制定された。
そして10月8日、複数政党制の下での初めての大統領選挙が行われたが、過半数を得票した候補がおらず、1位のガユーム大統領と2位のモルディブ民主党のナシード元総裁で決選投票が行われることになった。
10月29日に決選投票の結果が発表され、ナシードが当選した。また、2009年には国民議会議員選挙も行われ、モルディブ民主党が第1党となった。
2013年の大統領選挙では、前年に大統領を辞任したナシードがアブドゥラ・ヤミーンと争った。
選挙はナシードが勝利するが最高裁判所の判断で選挙結果は無効とされ、再度行われた投票+では51.3%を獲得し、ヤミーンがナシードを破り大統領に当選した。
ヤミーン就任直後からナシードやガユームなど野党有力者を相次いで逮捕するなど、強権的な手法で反対派を押さえ込んでいる。
ヤミーンは、歴代政権が採ってきた親インド政策から距離を置き、中国に接近。
2015年には二国間で自由貿易協定を締結するなど経済関係を強化した。また、多額の資金供与を引き出してインフラ建設に乗り出した[20]。
2018年2月1日、最高裁判所は政治犯9人の釈放と、議員資格が停止中の野党議員ら12人の復権命令を発令した。
しかしこれをヤミーン大統領が拒否し、抗議活動が活発になったため2月5日には15日間の非常事態宣言を発令した。[21]その後、6日に最高裁は命令を撤回した[22]。
2018年9月23日、大統領選挙が行われ、ヤミーンは露骨に介入を行った。
しかし、結果としては野党候補のイブラヒム・ソリが当選。24日にヤミーンが結果を受け入れる声明を発表したため、政権交代は平和裡に行われた[4]。
地方行政区画
モルディブの首都マーレ
詳細は「モルディブの地方行政区画」を参照首都マーレと、7つの行政区の下で、20のアトル(atholhu。環礁を意味する英語の「atoll」に由来)に分かれる。
これは、26ある自然的意味における環礁を、行政管轄の観点から合一または分割し、20に再編したもの。
「環礁区」と日本語に訳されたり、「自然上の環礁」と「行政上の環礁」として両者を区別されたりすることもある。
首都マーレは、カーフ環礁の中にあるマーレ島とヴィリンギリ島の2島のみで構成される行政地区である。
地理
モルディブの環礁
リゾートアイランドの一つ、ランダーギラーヴァルにはフォーシーズンズ リゾートがある(バア環礁)
環礁の形成
詳細は「モルディブの地理(英語版)」を参照
「モルディブ諸島」も参照
スリランカの南西、イギリス領インド洋地域(チャゴス諸島)北側のインド洋に浮かぶ26の環礁、それらを構成する1192の島々から成り、そのうち有人島は約200。高温多湿の熱帯気候である。
海抜の最高が2.4mという平坦な地形であるため、地球温暖化に伴う海面上昇と珊瑚礁の死滅により、国土が消滅する危険にさらされている。
海面が1メートル上昇すると国土の80%が失われると言われる。
このためナシード大統領(2008年当時)は、モルディブの基幹産業である観光収入の一部を使って海外の土地(インドやスリランカ、オーストラリアなどが想定されている)を購入し、国民が移住できる土地を確保する意向を表明している[23]。
海面上昇対策として、国土を盛り土して水没を防ぐ[24]、移住先となる人工島の造成、海上都市の建設など様々なプランが検討されている。
実際にフルレ島の北北東に人工島「フルマーレ」の造成が進んでおり、最終的に国民の40%が移住する予定である[25]。
モルディブの海 モルディブの海 フィハルホヒ島のビーチ フィハルホヒ島のビーチ フィハルホヒ島のビーチ フィハルホヒ島のビーチ バタラ島 バタラ島
野生動物
サンゴ サンゴ サンゴ サンゴ コショウダイの仲間 コショウダイの仲間 オニイトマキエイ オニイトマキエイ ブダイ科 ブダイ科 トゲチョウチョウウオ トゲチョウチョウウオ クマノミ亜科 クマノミ亜科 ジンベエザメ ジンベエザメ アオサギ アオサギ タイマイ(バア環礁にて) タイマイ(バア環礁にて)
経済
色と面積で示したモルディブの輸出品目。大部分を水産加工品が占めている。
モルディブ港
かつては後発開発途上国(いわゆる最貧国)の一つであった(2011年、経済成長により指定解除)。
日本国外務省のウェブサイトによると、2016年のモルディブの名目GDPは42.24億ドル[3]、IMFによる2022年の実質GDPは113.85億ドル[26]。一人当たりの名目GDP15,097ドル(2022年)はロシアやチリに近い値で、南アジアでは最も高い。
主産業は漁業と観光業。観光部門がGDPの約3分の1を占めており、最大の外貨獲得源でもある[3]。
リゾート島は85 – 100もあるといわれる。2001年7月、政府は20年間で工業化促進を目指す『2020ビジョン』を発表。各島は、その機能が特定されていることが多く、「空港の島」「ごみの島」「囚人の島」「観光の島」など特化している場合が多い。
農業
2005年時点の農業人口は2万7000人。国土の43.3%が耕地となっている。
主要作物はココナッツ(1万6000トン、2004年)、バナナ(4000トン)、タロイモ(350トン)。ココナッツはコプラの原料となる商品作物である。
一方で、主食となる穀物は輸入している。
漁業
約5000隻の漁船を擁し、16万トン(2004年)の漁獲高をあげている。対象はマグロ、次いでカツオである。これらは最大の輸出品目となっている。
鉱業
モルディブには鉱物資源がほとんど存在しない。
工業
単一の食品工業、すなわちココナッツからのコプラ製造のみが確立している。2005年時点のコプラの生産量は2295トンであった。
観光
ヴェラナ国際空港に隣接するトランスモリディヴィアン航空のターミナル
リゾートアイランドの一つ、マドゥーガリ島。美しいターコイズブルーの海が特徴。1972年以前のモルディブは観光地としてほとんど知名度がなく、国内に宿泊施設は3軒しかなかった。
1972年に国内初のリゾートであるen:Kurumba Maldivesが開業すると、リゾート大国として急成長。2020年現在はリゾート159軒・ホテル13軒・ゲストハウス638軒を数える[27]。
人口を上回る数の観光客が訪れており1999年には年間43万人、2019年には年間170万人を超えた。観光客は中国、インド、ヨーロッパ、北米など、全世界から訪れられている。
またそれに伴い観光業は雇用も生み出しており1999年にはモルディブの就業人口の14%を占めている。
基本的に1つの島に1つのホテルが存在する形式で、ホテルによって滞在する島を選択することになる(リゾートアイランド)。
各島への移動はドーニーと呼ばれる木製のボートが使用されるが、高速艇(いわゆるモーターボート)や水上機も使用される。
外国人は特別に許可された場合を除いて観光が許可されている島以外には入ることができない。
Soneva Gilly、モルディブ Soneva Gilly、モルディブ リゾート リゾート ウォーターヴィラ ウォーターヴィラ ウォーターヴィラとスパ(湧水) ウォーターヴィラとスパ(湧水) ラヴィヤニ環礁、クレドゥの水上バンガロー ラヴィヤニ環礁、クレドゥの水上バンガロー 水上バンガロー 水上バンガロー モルディブの砂州 モルディブの砂州 ホワイトビーチ ホワイトビーチ ボリフューシ島 ボリフューシ島 ムーフューシ島 ムーフューシ島
労働力
失業率4.9%(2020年)[3]
国民
モルディブの人口変化
詳細は「モルディブの人口統計(英語版)」を参照民族
[icon]
この節の加筆が望まれています。モルディブでは固有の民族呼称は該当せず、人種構成としてはインド・アーリア人とドラヴィダ人を中心に、西北から移住したアラブ系と東南から移住したインドネシア・マーレー人種(インドシナ人種(古モンゴロイド系)とオーストラロイドの混血人種)などが混血して、モルディブの住民として成り立っている。
言語
公用語は、ディベヒ語(ディヴェヒ語とも表記され、モルディブ語とも呼ばれる)。観光関連では英語も通じる。リゾート島によってはフランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語も話されている。
宗教
イスラム教のスンナ派が国教。住民のほぼ100%(推計値、正確な数値は不明)がイスラム教徒である。
文化
フヴァフムラ環礁で行われているマーヒフン(ラマダン入りを祝う祭り)
詳細は「モルディブの文化」を参照旧国歌『ガオミィ サラーム』は『蛍の光』と同じ曲、つまり、スコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』の旋律を用いた曲であった。
祝祭日
詳細は「モルディブの祝日(英語版)」を参照
祝祭日 日付 日本語表記 現地語表記 備考
7月26日 独立記念日
11月11日 共和国記念日
ナショナルデー ヒジュラ暦第3月1日
ムハンマド生誕祭 ヒジュラ暦第3月12日
断食月明けの祭 ヒジュラ暦第10月1日より3日間
犠牲祭 ヒジュラ暦第12月10日より通常5日から7日間スポーツ
詳細は「モルディブのスポーツ」を参照
「オリンピックのモルディブ選手団」も参照サッカー
詳細は「モルディブのサッカー(英語版)」を参照モルディブ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2014年にプロサッカーリーグのディヴェヒ・プレミアリーグ(英語版)が創設された。
また、モルディブサッカー協会(FAM)によって構成されるサッカーモルディブ代表もあり、首都・マレにあるガロル国立競技場をホームスタジアムとしている。
クリケット
クリケットは他の南アジア諸国同様に高い人気がある。
1880年頃にイギリス領セイロンからクリケットの一種が伝わり、1920年頃に正式なクリケットのルールが導入された[28]。その頃にはクリケットのクラブが設立されており、当時のクリケットは宮殿の中庭や広場でプレーされており、エリート層のためのスポーツであった[28]。クリケットモルディブ管理委員会は、モルディブにおけるクリケット競技の発展と促進を目的として、1983年に政府によって設立された[28]。スリランカは1996年にアジアクリケット評議会、1998年に国際クリケット評議会に準会員として加盟した[28]。代表チームはクリケットモルディブ代表(英語版)とクリケットモルディブ女子代表(英語版)がある。
著名な出身者
詳細は「Category:モルディブの人物」を参照
脚注
[脚注の使い方]^ “Maldives”. ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月13日閲覧。 ^ a b c d e “World Economic Outlook Database”. IMF. 2021年10月26日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o モルディブ共和国(Republic of Maldives)基礎データ 日本国外務省(2023年12月31日閲覧) ^ a b c “モルディブ大統領選挙での親中派現職の敗北―それでも中国の「楽園」進出は止まらない(六辻彰二)”. Yahoo!ニュース 個人. 2019年7月19日閲覧。 ^ Maldives returns to Commonwealth Feb 2020 | Commonwealth Parliamentary Association (英語) ^ a b c d e f 「インドに駐留軍撤退要請 モルディブ 親中派の大統領誕生」『日本経済新聞』朝刊2023年11月21日(国際・アジアBiz面)2024年1月1日閲覧 ^ a b INC, SANKEI DIGITAL. “楽園に民主主義を…敏腕妻が圧力 A・クルーニーさん、モルディブ元大統領の釈放成功”. 産経ニュース. 2019年7月19日閲覧。 ^ 中根外務大臣政務官の東ティモール及びモルディブ訪問 日本国外務省(2015年7月21日)2024年1月1日閲覧 ^ “モルディブで副大統領逮捕 大統領暗殺未遂の容疑”. フランス通信社(www.afpbb.com). 2019年7月19日閲覧。 ^ “インド、モルディブに融資枠14億ドル 中国をけん制”. 日本経済新聞 (2018年12月17日). 2018年12月19日閲覧。 ^ “インド、モルディブのインフラ事業に5億ドル提供 中国に対抗”. AFP (2020年8月14日). 2020年8月11日閲覧。 ^ 岸田総理大臣発ムイズ・モルディブ共和国次期大統領宛祝辞の発出 日本国外務省(2023年10月6日)2024年1月1日閲覧 ^ “インド軍撤収を正式要請 「親中派」大統領、印は関係継続模索―モルディブ:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2024年1月11日閲覧。 ^ “楽園モルディブが持つ別の顔 ロシアへの半導体供給地に”. 2023年7月28日閲覧。 ^ “Maldives is second-largest microcircuit supplier to Russia after China”. 2023年7月28日閲覧。 ^ “ODAちょっといい話 大津波からモルディブの首都住民を守った日本の防波堤”. 日本国外務省. 2019年9月16日閲覧。 ^ a b “モルディブの大津波から住民を守った日本の防波堤”. 国際協力機構. 2019年9月16日閲覧。 ^ a b “【モルディブ】「日本への恩返し」 特産のツナ缶60万個を提供”. 2019年9月16日閲覧。 ^ 「モルディブ共和国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)213頁 ^ “債務で主導権を奪う…中国の呪縛、はまったスリランカ、モルディブにも迫る”. Sankei Biz (2018年6月23日). 2018年12月1日閲覧。 ^ 「モルディブで非常事態宣言 政治犯の釈放拒否で混乱」産経ニュース(2018年2月6日) ^ 「インド洋の楽園混乱=非常事態宣言、最高裁長官を拘束-モルディブ」時事通信(2018年6月11日) ^ モルディブ新大統領「国土水没に備え移住用の土地確保」読売新聞オンライン(2008月11月11日) ^ 「モルディブ、盛り土で水没防げ 国土存亡かけ挑戦」共同通信(2011年1月4日) ^ 日本放送協会. “海に飲み込まれる国 モルディブ”. NHKニュース. 2021年11月11日閲覧。 ^ “Report for Selected Countries and Subjects” (英語). IMF. 2022年11月22日閲覧。 ^ “Tourism Yearbook 2021”. Ministry of Tourism (Maldives). 2022年11月22日閲覧。 ^ a b c d Cricket Board of Maldives 国際クリケット評議会 2023年9月19日閲覧。
参考文献
『現代アジア辞典』図書出版、文眞堂、2009年
関連項目
モルディブ関係記事の一覧
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、モルディブに関連するメディアおよびカテゴリがあります。政府
モルディブ共和国大統領府(英語)
在日モルディブ大使館(日本語)
日本政府
日本外務省 – モルディブ(日本語)
在モルディブ日本国大使館(日本語)
観光
モルディブ政府観光局 – ウェイバックマシン(2015年5月10日アーカイブ分)(日本語)
ウィキボヤージュには、モルディブに関する旅行情報があります。
その他
『モルジブ』 – コトバンク表話編歴
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カテゴリ:モルディブアジアの国島国インド洋の島インド洋共和国イギリス連邦加盟国環礁国際連合加盟国イスラム協力機構加盟国後発開発途上国 最終更新 2024年1月11日 (木) 02:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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シク教
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アムリトサルの黄金寺院
アムリトサルの黄金寺院とシク教徒
シク教(シクきょう、パンジャブ語: ਸਿੱਖੀ Sikkhī, スィッキー)は、15世紀末にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。
スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。スィクはサンスクリット語の「シクシャー」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。
総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。寺院の周辺には大理石の板が敷き詰められていて寄進者の名前が刻印されている。経典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳され、インターネットでも公開されている。
『グル・グラント・サーヒブ』の“グル”、“グラント”、“サーヒブ”という言葉は、それぞれ“師匠”、“書物”、“様”を意味している。シク教団第10祖グル・ゴービンド・シングには4人の息子がいたが、ムガール帝国との戦いで殺され子孫がいなくなり彼の遺言で経典『グラント・サーヒブ』をグルにするようにと言ったのでこの名になった。
「グル・グラント・サーヒブ」を参照
キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教で、約2400万人の信者がいる。印僑として欧米諸国や東南アジアで暮らすシク教徒も多い[1]。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。
教義
シク教の教義は宗教家であるグル・ナーナクによる『グル・グラント・サーヒブ』のほかそのなかに含まれる『ジャブジー』『アーサー・ディー・ヴァール』などの詩歌によって伝えられており、敬虔な教徒は毎日これらを朗踊する。
グル・ナーナクはその作品を通じて、真の宗教は儀式や形式といった表面的なものへの執着を超えたところにあるとし、「イク・オンアカール (ik onakar)」(神は一つである)というメッセージを繰り返すことで神の不可分性を説いている[2]。
神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、教義の上では他宗教を排除することはない。
イスラム教のようなジハード(努力)も説いていない。
但し、他宗教への批判を全くしないのではなく、ナーナクは、ヒンドゥー・イスラム両教の形骸化、形式、儀式、慣行、苦行は批判をしている。
その一方で、「聖典に帰れ」と主張しており、宗教家・聖書解釈家によってつくられた二次宗教から離脱し、本来の教えに立ち帰るべきだとの信念を持っている。
シク教徒は常に神の本質および存在(ナーム)を思い起こし、家庭生活に結びつけることを要求される[2]。
儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ(ハタ・ヨーガの意味)、カースト、出家、迷信を否定し、世俗の職業に就いてそれに真摯に励むことを重んじる。
戒律は開祖の時はなかったが、第10代グル・ゴーヴィンド・シングによってタバコ・アルコール飲料・麻薬が禁止された。肉食は本人の自由に任されている。寺院での食事は菜食主義者に敬意を表して肉は供されない。
シク教の最終目標は、輪廻転生による再生を繰り返した末に、神と合一するムクティである。
ムクティに至れるかどうかは他人への奉仕とグルの恩寵にかかっており、ムクティと個人の性やカーストは無関係とされている。
人の一生を精神の超越への行程と考えるヒンドゥー教に対し、自分の事ばかり考える人間は5つの煩悩(傲慢、欲望、貪欲、憤怒、執着)に負けてしまうため、真のシク教徒は一生を常にグルに向け、神を真実の師(サット・グル)として仰ぐ[2]。
教祖ナーナクが他宗教の影響をどれだけ受けたかという問題は、現在に至るまで議論が続いている[2]。
ナーナクはヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定しているが、カーストは完全否定している。これにはイスラームの影響もあると考えられている。
この見解には宗教改革者カビールやラヴィダース(英語版)の影響と、北インドのイスラーム神秘主義であるスーフィズムの影響が考えられる。
カビールの生没年ははっきりしていないが、1440年誕生1518年死亡説をとるなら、カビールおよびナーナクの両人の接触はあったとも考えられる。
思想の系譜としては、初めにラーマーヌジャがいて、その孫弟子にラーマーナンダが、その弟子にカビールがおり、その影響を受けたのがグル・ナーナクということになる。
宗派
特に重要な宗派として、以下の4つが挙げられている[3]。
ニランカーリー(英語版) (Nirankari)
19世紀に起きた宗教改革運動に起源を有する。運動を始めたダヤル・ダースは、瞑想の重要性を説き、パンジャブ地方北西部で勢力を拡大した。他のシク教徒と異なり、カールサーを支持しない。シク教の経典に基づいた、誕生や結婚、死にまつわる儀式の標準化に大きな貢献をした。 「サント・ニランカーリー・ミッション」も参照
アカンド・キールタニ・ジャタ (Akhand Kirtani Jatha)
20世紀の初めに現れた。「ケスキ」という小さなターバンをかぶっている。「キールタン」(讃美歌のようなもの)に重きを置いている。
ナームダーリー (Namdhari)
19世紀に誕生した厳格な宗派で、神の名を繰り返し唱えること以外のいかなる宗教儀式も行わない。頭にターバンを巻くという特徴的なスタイルを導入した。また、カールサーのメンバーとしてのアイデンティティーを強調している。他の宗派の人間とは結婚しない。
3HO (Healthy, Happy, Holy Organization)
1971年にアメリカで設立。女性にもターバンの着用を義務付けている。信者の大半は白人のアメリカ人で、瞑想とクンダリニー・ヨーガを重視している。クンダリニー・ヨーガはヒンドゥー教のものであり、シク教の教義にはない。異端と見る者もいる。
教徒
詳細は「シク教徒」を参照
インドのシク教徒の州別割合(2011年)[4] 州 シク教 ヒンドゥー教 イスラム教
パンジャーブ州 58% 38.5% 1.9%
チャンディーガル 13.1% 80.8% 4.9%
ハリヤーナー州 4.9% 87.6% 7.0%
デリー 3.4% 80.7% 12.9%
ウッタラーカンド州 2.3% 83.0% 14.0%
ジャンムー・カシミール州 1.9% 28.4% 68.3%
ラージャスターン州 1.3% 88.5% 9.1%
ヒマーチャル・プラデーシュ州 1.2% 95.2% 2.2%
各国のシク教徒数 国 シク教徒数 国内の割合% シク教徒に占める割合%
アフガニスタン 3,000 0.01% 0.01%
オーストラリア 125,904[5] 0.54% 0.52%
オーストリア 2,794[6] 0.03% 0.01%
バングラデシュ 23,000[7] 0.01% 0.01%
ベルギー 10,000 0.09% 0.04%
カナダ 468,670[8] 1.40% 1.96%
中国 7,500 <0.01% 0.03%
デンマーク 2,000[9] 0.04% <0.01%
フィジー 2,577[10] 0.3% 0.01%
フランス 10,000 0.02% 0.04%
ドイツ 10,000–20,000[11] 0.03% 0.05%-0.17%
ギリシャ 20,000[12] 0.1% 0.07%
アイスランド 100 0.03% <0.01%
インド 22,700,000[13] 1.72% 90.2%
インドネシア 15,000[14] <0.01% <0.01%
イラン 60 families[15] <0.01% <0.01%
アイルランド 1,200[16] 0.03% <0.01%
イタリア 70,000[17] 0.11% 0.29%
日本 2,000 <0.01% <0.01%
カザフスタン 800 <0.01% <0.01%
ケニア、ウガンダ、タンザニア 50,000-100,000[18] 0.64% 0.21%-0.42%
クウェート 20,000[19] 0.64% 0.08%
レバノン 3,000 0.07% 0.01%
マラウイ 3,000 0.02% 0.01%
マレーシア 100,000[20] 0.37% 0.42%
モーリシャス 37,700 0.3% 0.16%
メキシコ 8,000 <0.01% 0.03%
ネパール 5,890[21] 0.02% 0.02%
オランダ 12,000 0.07% 0.05%
ニュージーランド 19,191[22] 0.43% 0.04%
ニジェール 3,000 0.02% 0.01%
ノルウェー 5,000 <0.01% 0.02%
パキスタン 50,000[23] 0.01% 0.08%
フィリピン 50,000[24] [25] 0.1% 0.09%
タイ 70,000[26] 0.1% 0.29%
イギリス 432,429[27] 0.68% 1.8%
アメリカ 700,000[28] 0.08% 1.05%
ザンビア 3,000 0.03% 0.01%
総計 24,000,000バンガロールの銀行の注意書き。武器の持ち込みを禁止するが、シク教徒の短刀は許可する
ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカにも教徒がいる。
教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ地方に多い。
とくにインドのパンジャーブ州ではインド国内のシク教徒の約4分の3、州人口の59.9%(2001年)[29]を占め、多数派となっている。
信徒数は約2400万人、日本には約2000人ほどが居住していると思われる。
インドでは少数派でありながら社会的に影響力のある宗教集団である。
ムガル帝国時代に武器を持って戦っていたためともされるが、技術的な事項に強い者が多く、インドのタクシー運転手にはシク教徒が多い。
シク教成立時から裕福で教養があり教育水準の高い層の帰依が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人として登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出し、職務等で海外に渡航したインド人にターバンを巻いたシク教徒を多く見かける。
カールサーという信徒集団に所属しているメンバーは髪の毛と髭を切らず、頭にターバンを着用する習慣がある。
そのため髭のあるターバンをつけたインド人男性はシク教徒だとわかる。
ターバンの着用はヒンドゥー教徒などでは一般的でないにもかかわらず、世界的にはインド人男性の一般的イメージとなっている(理由はシク教徒を参考)。
女性も髪を切らないのでロングヘアーにしている。現在ではそのようなことをするカールサーのメンバーは減り、半数を割ったとも言われ、それに代わってそのようなことをしないサハジダリーと呼ばれる人が増えている。男性はシン(Singh,IPA: /ˈsɪŋ/=ライオン)、女性はカウル(王女)という名前を持つ。
政治的にはアカリ・ダルという宗教政党を持つものの、インド国民会議派の支持者も多く、政治的に団結しているわけではない。
この州の国民会議派は、マンモハン・シング首相など有力政治家を生んだ。アカリ・ダルはジャナ・サンガ党、およびその後身であるインド人民党と同盟関係にあり、国民会議派とほぼ交互に州政権を握っている。1997年にはアカリ・ダルが勝利して州の政権を奪取し、アカリ・ダル総裁のプラカーシュ・シン・バダルがパンジャーブ州知事に就任したものの、2002年には敗北して国民会議派に政権を譲った[30]。
寺院
シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。
シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮と思われる。
グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の礼拝の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子の神前の供物を恭しく食べるが、これは日本で神社・仏壇の供えものを有難く頂戴するのと同種の習慣である。
さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容はインド料理(チャパティー、パコラ)である。これはヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判である。
日本にあるシク教寺院としては、文京区と神戸市にグル・ナーナク・ダルバールがあり境町にシク教寺院がある。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。
歴代グル
第1代 グル・ナーナク(1469年 - 1539年) 第2代 グル・アンガド(1539年 - 1552年) 第3代 グル・アマル・ダース(1552年 - 1574年) 第4代 グル・ラーム・ダース(1574年 - 1581年) 第5代 グル・アルジュン(1581年 - 1606年) 第6代 グル・ハルゴービンド(1606年 - 1644年) 第7代 グル・ハル・ラーイ(1644年 - 1661年) 第8代 グル・ハル・クリシャン(1661年 - 1664年) 第9代 グル・テーグ・バハードゥル(1664年 - 1675年) 第10代 グル・ゴービンド・シング(1675年 - 1708年)
第10代教祖の4人の息子はムガル帝国との戦争で先に死んだため、遺言により、この後は教典がグルとされた。
歴史
グル・ナーナクの啓示から反ムガル帝国へ
16世紀初めに、初代グル・ナーナクが沐浴中に啓示を受け布教を開始した。
ナーナクはパンジャーブにカルタールプルの町を建設して本拠地とし、やがてシク教はパンジャーブを中心に北インド一帯へ広がっていった。当時この地域はムガル帝国領であり、宗教に寛容なアクバルの統治下で繁栄していった。
第3代グル・アマル・ダースは、ナーナクとその後継者アンガドが作った聖歌と自作の聖歌、何人かのバガット(神愛者)の作品を『モーハン・ポーティ』としてまとめた[2]。
1574年には第4代 グル・ラーム・ダースが、パンジャブ中心部にラームダースプル(現在のアムリトサル)を建設し、そこに黄金寺院の建設を開始した。黄金寺院は1604年に第5代グル・アルジュンによって完成され、聖典『アーディ・グラント』が置かれた。アルジュンはまた、信徒に対して生産物の10分の1税を課し、それまで喜捨に頼っていた教団の財政を大幅に強化した[31]。
アクバル死後、ムガル帝国と対立するようになり、1606年にはグル・アルジュンがムガル帝国の弾圧を受け死亡した。
このころから迫害と共に教団組織を整備し、反イスラム・反ヒンドゥー色を強める。
アルジュンの息子である第6代グル・ハルゴービンドは、歴代グルのもつ宗教的支配権(ピーリー)に加え、全シク教徒に対する世俗的支配権(ミーリー)を持つことを宣言した[2]。その後、ハルゴービンドはジャハーンギール帝によって一時拘束された。
第9代グル・テーグ・バハードゥルは、イスラムへの改宗を拒否したカシミールのバラモングループの助命嘆願をした罪により、デリーで処刑された。これらの事件は、進んで迫害に立ち向かい、弱い者を守り、神に意識を向けるシク教徒の理想像である聖戦士(サンチ・シパーヒー)の概念を象徴したものとして影響を与えた[2]。
シク教国の建国からシク戦争へ
ランジート・シング
詳細は「シク教国」および「シク戦争」を参照
17世紀後半には10代目のグル・ゴービンド・シングが教団を改革し、教団内の権力構造を廃止した。また、武装集団であるカールサーを組織した。このころよりシク教団は半独立の姿勢を示すようになり、ムガル帝国の衰退とともに勢力を拡大させた。ゴービンド・シングは1708年に暗殺されるが、彼の死後グルは擁立されず、かわりに聖典『グル・グラント・サーヒブ』が中心的な権威を持つようになった[32]。
ゴービンド・シングの死後、バンダー・シング・バハードゥルがムガル帝国への反乱を起こしたが1716年に処刑された。しかしその後もシク教の勢力は衰えず、ムガル帝国の衰退に伴ってパンジャーブには12のシク教のミスル(英語版)(軍団)と呼ばれる小国家群が成立し、シク連合体と呼ばれる緩やかな政治連合を形成していた[33]。
18世紀末にはミスルのひとつであるスケルチャキア・ミスル(Sukerchakia Misl)からランジート・シングが現れ、1801年には首都をラホールに定めてシク教国を建国した。ランジート・シングはサトレジ川以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならずムルターンやカシミールまで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきたイギリスがこの混乱を見て介入を開始した。
1845-46年の第一次シク戦争でシク教国は敗北し、ラホール条約によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。
さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には第二次シク戦争が勃発した。
この戦争も翌1849年にはシク側の敗北に終わり、全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった[34]。
英領時代
英領となった後、セポイの乱においてシク教団はインドを植民地支配するイギリス政府に協力。
以後、シク教徒は植民地政府からは事実上の中間支配層として扱われ、イギリスとの協調路線をとって繁栄していく事となった。
1919年にはそれまでイスラム教徒のみに認められていた分離選挙がシク教徒にも認められ[35]、シク教からの宗派代表選出に道が開かれた。
1920年にはシク教の政治団体としてアカリ・ダルが結成された[36]。
第一次世界大戦後にヒンドゥー・イスラーム両教の対立が激しくなるとシク教も独立国「カーリスターン」の建国を望み、1940年及び1944年には正式にその要求がなされたものの、当時のパンジャーブ州の人口のうちシク教徒は10%未満にとどまっており、50%以上のムスリムや40%弱を占めるヒンドゥー教徒を無視して建国を行うことは不可能だった[37]。
結局1947年のインド・パキスタン分離独立に際し、シク教団はインド帰属を選択したが、これはパンジャーブ州のパキスタン領部分のからのシク教徒の追放を招き、ヒンドゥー教徒とともに多数のシク教徒が難民となってインドへと流入することとなった[38]。
また、開祖ナーナクの生まれたナンカーナー・サーヒブや、シク教国の都であったラホールはパキスタンに属することとなった[39]。
インド独立からパンジャブ州分割
独立したインドはジャワハルラール・ネルーのもと政教分離を国是として掲げた。
これはインドが多数の宗教をともかくも共存させる姿勢を取ったことを意味し、少数派たるシク教が迫害されるようなことはなかったが、一方でこれは宗教上の理由での分離運動を認めないことを意味した[40]ため、独立国や自治権の拡大を望んだシク教徒の一部とは対立することとなった。
また、英領インド時代には認められていたシク教徒への分離選挙も、1950年に施行されたインド憲法において撤廃された[41]。
パキスタンから流入した大量のシク教徒難民は、主にこの地方から流出したムスリムが放棄した農地へと再定住が行われた[39]。
この結果、特にパンジャーブ州西部においてシク教徒の割合を急増させることとなり、同州におけるシク教徒の割合は35%にまで上昇した[42]。
これを受けて宗教政党のアカリ・ダルはインド全土に広がっていた言語州要求運動に加わり、パンジャブ語話者が多数を占める新州の設立運動を1951年に開始したが、インド政府はこれをシク教新州の設立運動とみなして警戒し[43]、1956年に言語州への再編が行われたときもパンジャブの州再編は行われなかった[44]。
この言語州運動は1966年にようやく結実し、旧パンジャーブ州はヒンディー語話者・ヒンドゥー教徒が多数を占める東部のハリヤーナー州と、パンジャブ語話者・シク教徒が過半を占める西部の新パンジャブ州へと分割された[44]。
黄金寺院事件
詳細は「ブルースター作戦」を参照
パンジャブ州分割後、アカリ・ダルはヒンドゥー至上主義のインド大衆連盟(英語版)(ジャナ・サンガ)と連立して1967年に州政権を奪取したが、1971年には国民会議派に敗れ下野した[45]。
1977年には再びこの連立が州の与党となり、彼らはハリヤーナー州と共用していた州都チャンディーガルのパンジャブ州編入や水利権などの要求を中央政府に行った[46]。
しかしこの交渉が難航するなか、1970年代後半には急進派宗教指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが台頭して、シクの分離主義が急速に強まった。
1980年代に入るとシク急進派は反対派に対するテロを頻発させるようになり、パンジャブの治安が悪化。
これに対しインド政府は1983年10月にパンジャブ州を州政府から大統領直接統治下に移した[47]が情勢は好転しなかったため、1984年にはシク教徒の聖地・黄金寺院にたてこもるビンドランワレと過激派を排除するためインド政府軍を投入してブルースター作戦(黄金寺院事件)を起こし、6月6日にビンドランワレを殺害した[48]。
この事件はシク教徒の強い反発を招き、1984年10月31日にはシク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相が暗殺された。
さらにこの暗殺はヒンドゥー教徒側を激怒させ、インド各地でシク教徒への迫害が行われた[49]。
その後もテロの連鎖は続き、1985年6月23日にはシク教徒によるインド航空182便爆破事件が起こった。
ラジーヴ・ガンディー首相は同年7月にアカリ・ダルと合意を行って直接統治を解除し、9月には再びアカリ・ダルの州政府が誕生した[50]がテロの連鎖は続き、1987年には再度州の自治権が取り上げられて大統領直接統治下に戻った。
1992年に直接統治は解除されたものの、選出された州首相は暗殺された[51]。
しかしこのころを最後に急進派のテロは沈静化し、パンジャブ州の治安は回復に向かった[51]。パンジャーブ警察の署長の指示により過激派は全員射殺された[要出典]。
平和の回復
インド空軍の栄誉礼。シク教徒はターバンを着用している。
1997年にはアカリ・ダルがパンジャーブ州の政権を獲得したが、2002年には国民会議派に敗れ下野した[30]。
2018年11月28日、パキスタン政府はシク教徒の巡礼用に、同国中部のパンジャブ州ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した [52]。
ナーナクが没した地とされる寺院へインドから行けるようにするためであるが、着工式典でパキスタン陸軍参謀長がインドからの独立を目指すシク教活動家と握手する映像がテレビ中継されたことから、インド陸軍やインドのメディアがパキスタンを批判した[1]。
今まではインド国境から約4㎞の寺に行くのにインドのシク教徒はビザを取り寺から約70㎞離れた国境の検問所を通るか空路で近郊都市から入るしかなかったが、回廊が出来ビザ無しで巡礼できるようになった[53]。
インド軍では通常の制帽の他、シク教徒の兵士用として「制式ターバン」が設定されている。
著名人
マンモハン・シン(インドの首相) パーミンダ・ナーグラ(イギリスの女優) チャダ(インドの演歌歌手、音響機器会社の社長) タイガー・ジェット・シン(プロレスラー) マダンジート・シン(外交官、芸術家) ダレル・メヘンディ(歌手) ミルカ・シン(陸上競技選手)
脚注
[脚注の使い方]^ a b 「(世界発2019)シーク教の巡礼道、印パに新たな火種: パキスタン側へ4キロ、ビザ不要」国際面、『朝日新聞』(朝日新聞デジタル)、2019年1月10日、朝刊。2019年1月16日閲覧。「■着工式に独立派リーダー、インドは「策謀だ」」 ^ a b c d e f g ネズビット 2006, pp. 66–71. ^ Sikhism - Sects and other groups - Encyclopædia Britannica ^ Religion demographics: 2011 Census, Office of the Registrar General & Census Commissioner, Ministry of Home Affairs, Government of India ^ Census 2016, Community Profile (Australia). Australian Bureau of Statistics. Accessed 08 July 2017. ^ “UN census data”. 2019年4月20日閲覧。 ^ Largest Sikh Populations Retrieved March 23, 2018 ^ Canada, Government of Canada, Statistics. “The Daily — 2011 National Household Survey: Immigration, place of birth, citizenship, ethnic origin, visible minorities, language and religion”. www.statcan.gc.ca. 2019年4月20日閲覧。 ^ “Sikher fejrer guru - i Vanløse” (2004年9月6日). 2019年4月20日閲覧。 ^ “Religion - Fiji Bureau of Statistics”. www.statsfiji.gov.fj. 2019年4月20日閲覧。 ^ "Mitgliederzahlen: Sonstige", in: Religionswissenschaftlicher Medien- und Informationsdienst|Religionswissenschaftliche Medien- und Informationsdienst e. V. (Abbreviation: REMID), Retrieved 17 May 2017 ^ A gurdwara in Kranidi by Athens News Archived 2007-05-15 at the Wayback Machine. and 6 others including in Tavros, Athens, Oropos, Inofita, Thiva, Kriti, etc. ^ “Census of India Website : Office of the Registrar General & Census Commissioner, India”. 2015年2月14日閲覧。 ^ “UNHCR 2009 Report on International Religious Freedom- Indonesia”. 2015年2月11日閲覧。 ^ “Gurdwara in Tehran that thrives on local support” (2012年8月26日). 2014年11月26日閲覧。 ^ “Login”. 2015年2月14日閲覧。 ^ “NRI Sikhs in Italy”. 2015年2月14日閲覧。 ^ Johnson, Todd M.; Barrett, David B. (2004). “Quantifying alternate futures of religion and religions”. Futures 36 (9): 947–960. doi:10.1016/j.futures.2004.02.009. ^ “Kuwait”. U.S. Department of State. 2015年2月14日閲覧。 ^ “overseasindian.in”. 2016年2月1日閲覧。 ^ “Sikh Population of Nepal”. 2019年4月20日閲覧。 ^ “2013 Census QuickStats about culture and identity”. 2016年2月1日閲覧。 ^ “Pak NGO to resolve issues of Sikh community - Times of India”. 2019年4月20日閲覧。 ^ “Punjabi community involved in money lending in Philippines braces for 'crackdown' by new President” (2016年5月18日). 2019年4月20日閲覧。 ^ “2011 Gurdwara Philippines: Sikh Population of the Philippines”. 2011年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月11日閲覧。 ^ “International Religious Freedom Report for 2006: Thailand”. Bureau of Democracy, Human Rights and Labor. 2015年9月12日閲覧。 ^ “United Nations Table 9: Population by religion, sex and urban/rural residence”. Office for National Statistics (2015年1月21日). 2017年5月25日閲覧。 ^ “Learn About Sikhs”. SALDEF. SALDEF. 2017年8月28日閲覧。 ^ 「世界地誌シリーズ5 インド」p89 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店 ^ a b 『シク教』 p107-108 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷 ^ 『シク教』p40 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷 ^ 『シク教』p62 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷 ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p250 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行 ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p288 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行 ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p347 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行 ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)付録p44 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行 ^ 『シク教』 p81-84 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 2007年2月28日第1刷 ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p423 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行 ^ a b 「インド現代史1947-2007 上巻」p153 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊 ^ 「南アジア史」(新版世界各国史7)p430-431 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行 ^ 板倉和裕、「インドの制憲政治とB・R・アンベードカル -指定カースト留保議席導入をめぐる政治過程を中心に-」 『南アジア研究』 2014年 2014巻 26号 p.46-72, doi:10.11384/jjasas.2014.46 ^ 「インド現代史1947-2007 上巻」p287 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊 ^ 『シク教』 p101 グリンダル・シン・マン著、保坂俊司訳 春秋社 ^ a b 「世界地誌シリーズ5 インド」p5 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店 ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p241 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p242 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p247 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p255 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p259-261 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ 「インド現代史1947-2007 下巻」p267-268 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ a b 「インド現代史1947-2007 下巻」p337 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1刷 ^ “印パ、「回廊」建設工事開始”. 共同通信社 (2018年11月29日). 2019年1月16日閲覧。 ^ 京都新聞2020年1月26日朝刊
参考文献
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年4月)
クシワント・シン 著、斎藤昭俊 訳『インドのシク教』国書刊行会、1980年。ISBN 978-4-336-00077-4。 那谷敏郎『インドの黄金寺院』平凡社〈平凡社カラー新書〉、1981年。 W.O. コウル、P.S. サンビー 著、溝上富夫 訳『シク教 教義と歴史』筑摩書房、1986年。ISBN 978-4480841674。 保坂俊司『シク教の教えと文化』平河出版社、1992年。ISBN 978-4892032165。 N.G.コウル・シング 著、高橋堯英 訳『シク教』青土社、1994年。ISBN 4-7917-5301-1。 グリンダル・シン・マン 著、保坂俊司 訳『シク教』春秋社〈21世紀をひらく世界の宗教〉、2007年。ISBN 9784393203194。 エリナ・ネズビット、ジョン・ボウカー(編)、松村一男(訳)、2006、「シク教」、『ヴィジュアル版 ケンブリッジ 世界宗教百科』、原書房 ISBN 4562040343
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、シク教に関連するカテゴリがあります。インド文化圏 阿三 ブルースター作戦 ウィスコンシン州シク寺院銃乱射事件 (アメリカ合衆国ウィスコンシン州で発生した銃乱射事件)
外部リンク
アムリトサルの黄金寺院 (ハリ・マンディール) (日本語) 在日シク教コミュニティ(英語)(日本語) グル・グラント・サーヒブの抄訳 シク教経典『グル・グラント・サーヒブ』google自動日本語全訳1430ページ 『シク教』 - コトバンク
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パプアニューギニア独立国
Independent State of Papua New Guinea(英語)
Independen Stet bilong Papua Niugini(トク・ピシン)
Papua Niu Gini(ヒリモツ語)パプアニューギニアの国旗 パプアニューギニアの国章 (国旗) (国章) 国の標語:多様性は団結なり 国歌:O Arise, All You Sons(英語) すべての者よ、立ち上がれ Duration: 58 seconds.0:58 パプアニューギニアの位置 公用語 英語、トク・ピシン、ヒリモツ語、パプアニューギニア手話(英語版) 首都 ポートモレスビー 最大の都市 ポートモレスビー 政府 国王 チャールズ3世 総督 ボブ・ダダイ(英語版) 首相 ジェームズ・マラペ 面積 総計 462,840km2(53位) 水面積率 2.2% 人口 総計(2020年) 8,947,000[1]人(97位) 人口密度 19.8[1]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2019年) 841億900万[2]キナ GDP(MER) 合計(2019年) 248億2900万[2]ドル(103位) 1人あたり 2886.589[2]ドル GDP(PPP) 合計(2019年) 345億9200万[2]ドル(141位) 1人あたり 4021.652[2]ドル 独立 - 日付 オーストラリアの信託統治より 1975年9月16日 通貨 キナ(PGK) 時間帯 UTC+10 ~ +11 (DST:なし) ISO 3166-1 PG / PNG ccTLD .pg 国際電話番号 675パプアニューギニア独立国(パプアニューギニアどくりつこく)、通称パプアニューギニアは、南太平洋にあるニューギニア島の東半分及び周辺の島々からなる立憲君主制国家[3]。
東南アジア諸国連合 (ASEAN) の特別オブザーバーであるが、地理的にはオセアニアに属する。
オーストラリアの北、ソロモン諸島の西、インドネシアの東、ミクロネシア連邦の南に位置する。イギリス連邦加盟国かつ英連邦王国の一国であり、非白人が国民の多数を占める国としては英連邦王国のうち人口最多かつ面積最大の国である。首都はポートモレスビー。
国名
トク・ピシンにおける正式名称はIndependen Stet bilong Papua Niugini。通称 Papua Niugini。略称は PNG。
日本語の表記はパプアニューギニア独立国。通称はパプアニューギニア。他に、パプワニューギニア、パプアニューギニヤ、パプワニューギニヤ、という表記もされる。「パプア」と「ニューギニア」の間に、中黒(・)を入れることも多い。
パプアニューギニアは、元々あったパプアとニューギニアが合併してできた国である[4]。
パプアニューギニアの南側は、旧イギリス領(のちにオーストラリア領)で、メラネシア人の縮れ毛を指すマレー語の言葉から、パプア(オーストラリア領パプア準州)と呼ばれた[4]。
一方、北側は、旧ドイツ領(のちにオーストラリア委任統治領)で、メラネシア人がアフリカのギニア人に似ているところから、スペイン人の探検家がニューギニアと名付けた[4]。
なお、ニューギニア島の西半分はかつてはオランダ領ニューギニアであり、現在はインドネシアに併合され「パプア州」、「西パプア州」という名称である。
歴史
詳細は「パプアニューギニアの歴史」を参照
紀元前
ニューギニア島はオーストラリア大陸と共にゴンドワナ超大陸を構成していたが、白亜紀に始まった大陸分裂で、オーストラリア大陸と南極大陸は4500万年前に分離し、ヒマラヤ山脈と同じころにニューギニア中央山脈も形成された。
氷河期にはニューギニアとオーストラリアは地続きで、サフル(英語: Sahul、あるいはMeganesia – メガネシア)と呼ばれる一つの陸地であった。
この地域において、約6万年前の東南アジア方面から来たと思われる人類の痕跡が見つかっている。
約5000年前、ニューブリテン島中央部のタラセアにおいて、貝の貨幣「シェルマネー」が作られた。これが最古の貝貨とされている。
島の発見
1526〜27年ごろにポルトガル人のドン・ジョルジェ・デ・メネセスが、パプアニューギニアの主となる島を発見するに至り「パプア」と命名した。
1546年には、ニューギニア島北岸を航海したスペイン人のオルティス・デ・レテスが「ニューギニア」と命名した。
植民地時代
イギリス統治時代の農村 (1885年)
1884から1919年までのニューギニア島。ドイツ及びイギリスがニューギニア島の東半分を分割している。
1884年、イギリスへの東南ニューギニア併合時
19世紀の植民地主義の時代、1828年にニューギニア島を東西に分割し、1848年に西半分をオランダが併合、1884年には東半分をオーエン・スタンレー山脈、ビスマルク山脈で南北に分け、ニューブリテン島などを含んだ北半分をドイツ、南半分をイギリスが獲得した。
南部は1901年にイギリスから独立したオーストラリアに継承され、1902年にオーストラリア管理下での「パプア (準州)」となった。委任統治領期
1943年1月7日、ブナ・ゴナの戦いで日本軍を攻撃するオーストラリア軍。
1914年からの第一次世界大戦にドイツが敗北すると、ドイツ領ニューギニアであった島の東北部は、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領(ニューギニア (信託統治領))となった。
1941年からの太平洋戦争では、日本軍が1942年1月22日、ニューブリテン島ラバウルに上陸、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領し、ポートモレスビー攻略を狙った。
しかし、1942年5月に行われた珊瑚海海戦の結果、海からのポートモレスビー攻略を諦め、1942年8月にはソロモン海岸からオーエン・スタンレー山脈越えでポートモレスビーを陸路攻略する作戦が実行された。
ここでも飢えとマラリアの為に多くの死者を出して撤退し、その後、制海権、制空権を失い補給を絶たれたニューギニアの日本軍は、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」[5]と評される凄惨な状況となった。
自治政府期
1949年、オーストラリアは南東部パプアと北東部ニューギニアを行政連合として統合して「パプア及びニューギニア準州(英語版)」とし、西部はオランダ領ニューギニア(1949年 – 1962年)となった。
1961年にオランダは島の西部を西パプア共和国として独立を認めたが、インドネシアが侵攻したため(パプア紛争、1963年–現在)、国連による暫定統治を経て、インドネシアへ併合されてイリアンジャヤ州となった。
1964年、自治政府初の選挙が行われ、54名が当選、1968年、自治政府2回目の選挙で、84名が当選。同年、禁酒法が廃止となる。
1971年に南東部パプアと北東部ニューギニアの行政連合として統合していた「パプア及びニューギニア準州」が「パプアニューギニア」とさらに改名し、自治政府が、国旗、国歌、国章などを採択。
1972年、第3回自治政府選挙で100名が当選。この選挙で、マイケル・ソマレが連立政権を樹立。
独立
1975年9月16日、独立の丘でオーストラリアの国旗を降ろし、パプアニューギニア国旗を掲揚する儀式を経て、「パプアニューギニア独立国」として独立した。
それまでの自治政府議会が国会となり、初代首相マイケル・ソマレは紛争を行うことなく平和的に独立を成し遂げた独立の父として「チーフ」と呼ばれて崇められ、通貨(50キナ札)にもその肖像画が描かれている。
1976年、地続きで国境を接しているインドネシアが加盟しているASEAN閣僚会議にオブザーバーとして初参加し、1981年には特別オブザーバーの地位を得ている。
1983年に各州における自治の失敗を受けて、中央政府の権力が強化。
1985年、民族的緊迫により、ポートモレスビーで非常事態宣言発令。
1986年のASEAN閣僚会議で東南アジア諸国連合に正式に加盟を申請して以降、現在まで加盟を希望しているが、パプアニューギニアが東南アジアではないことからASEAN諸国は正式加盟には否定的である。
ブーゲンビル危機
1988年にブーゲンビル島(ブーゲンビル自治州)でフランシス・オナ(英語版)を中心とするグループが、パングナ(英語版)の銅山(リオ・ティント傘下のBougainville Copper Ltdが所有)の閉鎖、ブーゲンビルの分離・独立(en:Republic of the North Solomons)を求めてブーゲンビル革命軍(BRA)を構成し、鎮圧を試みた政府軍との間に内戦が始まった。
1992年に政府軍は国境を越え、BRAへの支援を理由に ソロモン諸島のショートランド諸島を攻撃した。
当初、容易に鎮圧可能と見られていたブーゲンビル危機(英語版)は休戦と戦闘再開を繰り返し長期化した。
1997年には紛争鎮圧を狙ってイギリスの民間軍事会社サンドライン・インターナショナルと傭兵派遣契約を結んだことが国外のメディアでリークされ、現役の国防軍(英語版)司令官ジェリー・シンギロック(英語版)がジュリアス・チャン(英語版)(陳仲民)首相の退陣を求めてクーデター騒ぎを起こし、全国で戒厳令が発令されるなど泥沼化した(サンドライン・クライシス, en:Sandline affair)。
2001年8月30日に武器の放棄、紛争中の戦争犯罪に対する恩赦、ブーゲンビル自治政府(英語版)の容認、将来のパプアニューギニアからの独立に関しては住民投票で決定する、などの条項を盛り込んだ「ブーゲンビル平和協定」がアラワで調印され、平和への歩みが再開された。
ブーゲンビル自治領
2005年にはブーゲンビル自治領で初の大統領選挙が行われ、元ブーゲンビル革命軍のジョセフ・カブイ(英語版)が初代大統領(英語版)に就任した。
和平協定に盛り込まれた将来的な政治的立場を問う住民投票は、2019年11月23日から12月7日までの予定で実施されている[6]。
2019年12月11日、住民投票の開票結果が発表された。投票者の98%に当たる17万6928人が賛成票を投じ、パプアニューギニア残留に票を投じたのは3043人にとどまった。新国家誕生の可能性が高まった[7]。
政治
詳細は「パプアニューギニアの政治(英語版)」を参照
国家元首は、イギリスの国王(または女王)(2022年9月8日よりチャールズ3世)が兼任するパプアニューギニア国王。象徴的地位であり、任命などの権限は、議会や内閣の決定に従い行使される。その職務は、総督が代行する。
行政府の長である首相は、議会総選挙後、第1党党首が総督により指名される。閣僚は、首相の推薦に従い総督が任命する。
議会は、一院制。全109議席で、全国を89の小選挙区に分けられ、20議席は州の代表として、選挙によって選出される。
州代表の議席を獲得した国会議員は、国務大臣にならない限り、自動的に当該州の知事となる。任期5年。
政党は全て小規模で、単独で組閣が出来ないため、常に連立内閣となっている。
2007年の総選挙[注釈 1]で最多の国会議員を当選させ、連立の中心となって組閣した国民同盟党(NAP) でさえ、27議席であった。
政治は男性中心で、女性議員はこれまで数えるほどしか当選していない。
2007年総選挙でも多くの女性候補が男性中心の政治に挑戦したが、現職のキャロル・キドゥのみが再選され、現在女性国会議員は1名のみである。2008年には、選挙とは別に女性の代表を国会に参加させる法案が審議されている。
外交においては、旧宗主国であり、現在でも最大の援助国であるオーストラリアとの関係が最重要であるが、近年、オーストラリアから派遣の警察官のパプアニューギニアにおける治外法権が違憲と判決されて即時撤退を余儀なくされたり(ECPの撤退)、オーストラリアの依頼によってポートモレスビーで逮捕された隣国ソロモン諸島の検事総長を夜間、軍用機でソロモンまで逃がした事件(モティ事件)などの問題で関係がこじれていた。
2007年12月にオーストラリアで誕生したラッド政権は関係改善に取り組み、就任早々の2008年3月、ラッド首相のパプアニューギニアへの公式訪問が実現した(なお、前任のハワード前首相は11年の任期の内で一度もパプアニューギニアへの公式訪問が無かった)。
一方、中華人民共和国からは国際会議場や幹線道路などの整備支援を受けるほか、2010年代半ばに原油や天然ガスの価格が下落した際の穴埋めなどとして多額の借款を受ける関係となった。
2019年ごろの政府債務の総額は、国内総生産の3割相当にまで拡大。中国に対し約8500億円相当の借り換えを要請するに至った[8]。
国際関係
詳細は「パプアニューギニアの国際関係(英語版)」を参照
日本との関係
詳細は「日本とパプアニューギニアの関係」を参照
駐日パプアニューギニア大使館
住所:東京都目黒区下目黒五丁目32番20号 アクセス:JR山手線目黒駅西口徒歩17分 パプアニューギニア大使館全景 パプアニューギニア大使館全景 パプアニューギニア表札 パプアニューギニア表札
行政区画
詳細は「パプアニューギニアの地方行政区画」および「パプアニューギニアの都市の一覧」を参照
行政区画21の州 (province) と首都区から成る。各州は4つの地方 (Region) に分ける事が出来る。州都を後ろに記した。
山岳地方
シンブ州の旗 シンブ州 (Simbu; チンブ州とも) – クンディアワ(英語版)
西部山岳州の旗 西部山岳州 (Western Highlands) – マウントハーゲン
東部山岳州の旗 東部山岳州 (Eastern Highlands) – ゴロカ
南部山岳州の旗 南部山岳州 (Southern Highlands) – メンディ
エンガ州の旗 エンガ州 (Enga) – ワバック(英語版)
ヘラ州の旗 ヘラ州 (Hela) – タリ(英語版)
ジワカ州の旗 ジワカ州 (Jiwaka) – Minj島嶼地方
西ニューブリテン州の旗 西ニューブリテン州 (West New Britain) – キンベ(英語版)
ニューアイルランド州の旗 ニューアイルランド州 (New Ireland) – カヴィエン
東ニューブリテン州の旗 東ニューブリテン州 (East New Britain) – ココポ
ブーゲンビル州の旗 ブーゲンビル自治州 (Bougainville; 北ソロモン州とも) – 一時的にブカ(アラワに戻す予定)
マヌス州の旗 マヌス州 (Manus) – ローレンガウ(英語版)
モマセ地方
サンダウン州の旗 サンダウン州 (Sandaun; 西セピックとも) – ヴァニモ(英語版)
東セピック州の旗 東セピック州 (East Sepik) – ウェワク
マダン州の旗 マダン州 (Madang) – マダン
モロベ州の旗 モロベ州 (Morobe) – ラエ
パプア地方
ポートモレスビーの旗 首都区 (National Capital District) – ポートモレスビー
オロ州の旗 オロ州 (Oro; 北部州とも) – ポポンデッタ
西部州(パプアニューギニア)の旗 西部州 (Western; フライ州とも) – ダル
中央州(パプアニューギニア)の旗 中央州 (Central) – ポートモレスビー
ミルン湾州の旗 ミルン湾州 (Milne Bay) – アロタウ
湾岸州の旗 湾岸州 (Gulf) – ケレマ地理・地質
タブルブル火山
パプアニューギニアの地方
山岳地方
島嶼地方
モマセ地方
パプア地方
詳細は「パプアニューギニアの地理(英語版)」を参照パプアニューギニアはオセアニア州に属し、ニューギニア島東半分とビスマルク諸島、ルイジアード諸島、アドミラルティ諸島、ダントロカストー諸島など1万近くの島で成り立っている島嶼国家である。
ニューギニア島中央部は3000メートルから4500メートル級のビスマーク山脈およびオーエンスタンレー山脈となっている。最高峰はウィルヘルム山(標高4,509m)。赤道に近いが降雪がある。高山部分以外は熱帯雨林に覆われており、セピク川とフライ川を囲んで湿地が広がる。島嶼部も含め、海岸にはサンゴ礁が発達している。なお、ニューブリテン島などは火山島である。地質的にはいくつものプレートが衝突するエリアに位置するため、地震も頻発する。
主な島
ニューギニア島 - 首都ポートモレスビー ダントルカストー諸島 ノーマンビー島 トロブリアンド諸島 ルイジアード諸島 ミシマ島 デボイネ諸島 ビスマルク諸島 ニニゴ諸島 アドミラルティ諸島 マヌス島 ロスネグロス島 バルアン島 セント・マタイアス諸島(英語版) ムサウ島 (Mussau Islands) エミラウ島 ニューハノーヴァー島 (New Hanover Island) ニューアイルランド島 (New Ireland) (ドイツ領時代はノイメクレンブルク島 Neumecklenburg) ニューブリテン島 (New Britain) (ドイツ領時代はノイポンメルン島 Neupommern) デューク・オブ・ヨーク諸島(英語版) (Duke of York Islands) Vitu諸島(英語版) (Vitu Islands) ウンボイ島 グリーン諸島 ニッサン島 ソロモン諸島 ※国家としてのソロモン諸島ではなく地理的区分として ブーゲンビル島 ブカ島 タウー環礁 ヌクマヌ環礁経済
詳細は「パプアニューギニアの経済(英語版)」を参照
2020年現在、国内総生産は247億ドルである[3]。また、一人当たりGNIは2720ドルである[3]。
独立当時は産業は4C、即ちコプラ (Copra)、コーヒー(Coffee)、ココア(Cocoa)、銅(Copper)とされていた。
コーヒー栽培は、1990年代に干ばつがあり、大きな被害を受けた。
都市部の貨幣経済と村落部の自給自足経済の二重構成で、鉱業が輸出の中心をなしている。
最大援助国はオーストラリアで、影響力が非常に大きい。
対外債務は2007年12月31日時点で18億1400万米ドルである。
経済の成長率は、-3.5%であり、2003年から2019年までほぼプラス成長になっていたが、2020年はコロナ禍が影響しマイナス成長になっている[3]。
2018年時点で、教師に対する給料の未払いが発生しているほか、国際会議に駆り出された警官や兵士に手当が支払われず国会議事堂が襲撃されるなど混乱も見られている[9]。
通貨はキナ及びトヤである[3]。トヤはキナの100分の1の単位である[3]。
農業や林業としては、主に、パーム油、コーヒー、木材などがある。
工業・農業
パプアニューギニアは起伏に富んだ地形であること、熱帯という気候条件にあるため、畑作には向かない。
しかしながら、ヤシの栽培には適しており、工業もヤシを中心に形成されている。
ココヤシの胚乳から作るコプラとコプラを圧搾して抽出するパーム油は、いずれも世界第6位の規模である。2004年時点の生産量はコプラ(8.5万トン、世界シェア1.6%)、パーム油(33万トン、世界シェア1.2%)。
国内市場が小規模であること、輸送インフラの問題があるため、ヤシ以外の工業はいずれも自給をまかなう小規模なものである。中でも、粗糖、牛肉、豚肉、羊肉、鶏肉、ビールなどの食品工業が充実している。
鉱業
色と面積で示したパプアニューギニアの輸出品目
詳細は「パプアニューギニアの鉱業(英語版)」を参照2002年時点の輸出額15億ドルのうち7割以上を鉱物資源取引が占めており、パプアニューギニア経済にとって鉱業は重要な部門である。
上位3品目は金 (35.9%)、石油 (21.0%)、銅 (14.7%) である。化学工業、金属精錬はいずれも未発達であるため、全量が未精製の状態で輸出されている。
鉱業の主軸はまず金と銅から始まり、次いで1992年に輸出を開始した原油に移行してきた。
生産量、生産額が最も大きかった銅は、1988年に勃発したブーゲンビル島の独立運動のため、最盛期の1/3の生産量にとどまっている。
原油(日量42千バレル)と天然ガス(日量38万立方m)を生産している。
高地地帯の南部山岳州、西部州で生産・処理し、700km離れたポートモレスビーの液化・貯蔵施設まで送られてくる計画である。
同時に天然ガスの採掘や処理、貯蔵施設も建設中である。
2008年5月22日には、パプアニューギニア政府とエクソン・モービルを始めとする日本の新日本石油などの事業会社との間で液化天然ガス(LNG)工場の建設に向けての基本合意が取り交わされ、2014年5月15日には生産されたLNGの日本向け船積みが初めて行われた。
世界最大規模のLNGプラントであり年間生産量690万トンのうち約50%を東京電力や大阪ガスが購入者となっている。また、今後の生産については30年間の見通しがついている。[10]
一方、仏トタルもガス田開発中である。
金属鉱物資源では、珪長質な火成岩に伴って産出する銅(21万トン、世界シェア1.6%)、銀(75トン)、金(65トン、世界シェア2.6%)が有力。
交通
詳細は「パプアニューギニアの交通(英語版)」を参照
山がちな地形から都市間や地域間を結ぶ幹線道路が部分的にしか整備されておらず、全国的な道路網はないため、陸路での大規模移動は主に都市内で補完的に行われるに留まる。
そのかわり空路が発達しており、主要都市には近代的な空港が、地方の町村であっても小規模な飛行場が備えられている場合が多く、パプアニューギニア国内を移動する上で主要な手段となっている。なお、鉄道は存在しない。メディア
パプアニューギニアの主要放送局はEMTVであり、インターネットにおいてはDigicel PNGというプロバイダが主流である。 新聞は売店などでの販売が主流。
国民
詳細は「パプアニューギニアの人口統計」を参照
伝統的なペイントを施した住民
民族
パプアニューギニアの人々は伝統的に「ワントーク」と呼ばれる少人数の部族に分かれて生活していた。
たいていの部族は数十、数百人程度であり、それぞれの部族ごとに言語、習慣、伝統が異なっている。
かつては各部族同士で戦いを行うことがよくあり、その習慣は現在[いつ?]も一部残っている。
住民は多様な民族から成っており、主にメラネシア人、パプア人、ネグリト人、ミクロネシア人、ポリネシア人などで構成される。
その他にもクカクカ族、ラカライ族、ラオ・ブレリ族、エレマ族、en:Huli people、en:Asaro Mudmenなど多数の少数民族が存在する。
言語
詳細は「パプアニューギニアの言語(英語版)」を参照パプアニューギニアの言語分布
パプア諸語
トランスニューギニア語族
Engan
チンブ・ワギ語派(英語版)
南東パプア語派(英語版)(コイアリ語など)トランスニューギニア語族以外のパプア諸語(イマス語など)
オーストロネシア語族
言語は英語が公用語であり、教育、テレビ、ラジオ、新聞などは基本的に全て英語が使用されている。
また、共通語として、旧ニューギニア地域(ニューギニア本島北岸、ニューギニア高地や島嶼部)で主に使われているトク・ピシンと、旧パプア地域(セントラル、オロ、ガルフ州など)で主に使われているヒリモツ語(ともにピジン言語)がある。
首都ポートモレスビーはモツ語圏であるが、他地域からの移住者の増加に伴い、トク・ピジンの使用が広まっている。
国会では、英語、トク・ピジン、ヒリモツの3つの共通語を使うことが許可されており、それぞれの言語に同時通訳される。
2015年、4つ目の公用語としてパプアニューギニア手話(英語版)が追加された[11][12]。
パプアニューギニアは、世界で最も言語の豊富な国といわれている。
また、世界で最も言語の消滅の危険が高いといわれている国でもある。
険しい山岳地帯、湿地帯に阻まれて部族間の交渉が少なかったこともあり、小さなコミュニティが独自の文化・言語を発達させ、人口が600万人に対して、言語の数は800以上にもなる[13]。
そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下である。
首都ポートモレスビーで話されるピジン語であるトク・ピシンとヒリモツ語の勢力は強く、隣接する地域で話されるコイアリ語(英語版)を圧倒しており、セピック川下流で話されているイマス語(英語版)も危うい状態である。ただし、女性たちは自分たちの言葉を守り続けている。
約16%はオーストロネシアン言語に属し、他の南太平洋の言語と共通する単語や文法を持つ。これらの言語は島嶼部やニューギニア本島の海岸沿いに多く見られ、モトゥ語(英語版)、クアヌア語、ハリア語(英語版)などが挙げられる。
その他の84%は一般的に非オーストロネシアン言語(パプア諸語)と呼ばれ、大きく13のグループに分けられるが、単語や文法など、相互関連性は皆無に近い。
パプア諸語のうち最も大きなグループはトランス・ニューギニア語族であり、エンガ語派(英語版)のエンガ語(英語版)、フリ語やチンブ・ワギ語派(英語版)のメルパ語(英語版)などが挙げられる。
これらの言語がどの時代にどこから入ってきてどのように発達したのかは大きな謎である。
宗教詳細は「パプアニューギニアの宗教(英語版)」を参照
国民の95%以上がキリスト教であり、主な宗派はローマ・カトリックが27.1%、ルーテル教会が19.5%、合同教会が11.5%、アドベンチスト教会が10.1%、ペンテコステ派が8.6%などとなっている。(2000年国勢調査による)
しかしながら、中小の村落などでは自然崇拝も根強く残っており、人の死や病気や事故などの不幸は魔女のせいだと、呪術師が魔女と認定した罪のない女性を火あぶりにする「魔女狩り」の風習が残っている。これらは犯罪であり、政府は魔女狩りを含む「黒魔術」による報復を法規制するなどの対策をとっているが、貧困と教育の不備にあえぐ地域では根絶に至っていない[14]。
文化
詳細は「パプアニューギニアの文化(英語版)」を参照
パプアニューギニア本土南東海岸の村Boga-Bogaの住民。
このガラガラは葉、種、ココナツの殻で作られており、踊り子の足首の周りに付けられ、音を出す。ビルム
20世紀の木製のアベラム族の祖先の像。パプアニューギニアには1000を超える文化的集団が存在すると推計されている。
この多様性のため、多くの文化的表現様式が生まれている。個々の集団は絵画、ダンス、武器、装束、歌、音楽、建築などにおいて独自の表現形式を作り出している。これらの文化的集団のほとんどは独自の言語を有する。人々は通常、自給自足農業に依存する村に住んでいる。一部の地域では、食物を補充するために狩りや野生の植物(ヤム芋など)の採集を行う。狩りや農業、釣りに秀でたものは尊敬を集める。
セピック川には、木彫りの伝統があり、植物あるいは動物の形で祖先の魂を表わしている。貝殻はもはやパプアニューギニアの通貨ではない(1933年に廃止された)。
しかしながら、この伝統は地域の慣習として現存している。一部の文化では、花嫁を迎える時に、花婿はある数の金で縁取られた貝殻を婚資として持ってこなければならない[15]。その他の地域では、婚資は貝貨、豚、ヒクイドリ、現金で支払われる。
高地の人々は、「sing sings」と呼ばれる色彩豊かな儀式に参加している。彼らは鳥や木、山の精霊を表わすために羽根や真珠、動物の皮で化粧をし着飾る。伝説的な戦いといった重要な出来事がこういった音楽的祭典で上演されることもある。
音楽
詳細は「パプアニューギニアの音楽(英語版)」を参照祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
移動祝日 聖金曜日 Good Friday
移動祝日 イースターマンデー Easter Monday 復活祭の日曜日の翌日
7月12日 女王誕生日 Queen’s Birthday エリザベス2世の誕生日とは異なる。
7月24日 戦没者記念日 National Remembrance Day
9月16日 独立記念日 Independence Day
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 ボクシング・デー Boxing Dayスポーツ
詳細は「パプアニューギニアのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのパプアニューギニア選手団」も参照ラグビー
詳細は「パプアニューギニアのラグビーリーグ」を参照スポーツはパプアニューギニアの文化の重要な部分であり、ラグビーリーグが圧倒的に人気のスポーツとなっている[16]。
コミュニティーが離れ、多くの人々が最低生活水準で暮らしている国において、同リーグに対する熱狂は部族闘争を置き換えるものであったためであると説明されてきた。
多くのパプアニューギニア人は、国の代表となったり海外プロリーグに所属するとすぐに名声を得る。オーストラリアで毎年開催される『ステート・オブ・オリジンシリーズ』でプレーするオーストラリアの選手でさえも、同国の中で最も知名度のある人物となっている。ステート・オブ・オリジンはほとんどのパプアニューギニア人のその年の目玉である。しかし、応援が過熱し多くの死傷者も出ている[17]。ラグビーリーグパプアニューギニア代表は、オーストラリア首相選抜XIII(NRL)所属選手からの選抜チームと毎年、通常ポートモレスビーで対戦する。なお、オーストラリアンフットボールやラグビーユニオンも人気がある。
サッカー
詳細は「パプアニューギニアのサッカー(英語版)」を参照パプアニューギニアではラグビー以外ではサッカーが盛んであり、2006年にサッカーリーグのパプアニューギニア・ナショナル・サッカーリーグが創設された。リーグ開始年から2014年まで、ヘカリ・ユナイテッドFCが8連覇を達成している。さらにFIFAクラブワールドカップの2010年大会にも出場を果たしており、ヘカリは名実ともにパプアニューギニアを代表するクラブといえる。パプアニューギニアサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカーパプアニューギニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしOFCネイションズカップには4度出場しており、2016年大会では準優勝に輝いている。
クリケット
クリケットも人気スポーツの一つである。1900年代初頭にロンドン宣教師協会の宣教師によってパプアニューギニアに導入された[18]。国内競技連盟であるクリケットPNGは1973年に国際クリケット評議会に加盟した[18]。クリケットPNGにはバラマンディス(男子)、ルイス(女子)、ガラムッツ(19歳以下)の3つの主要なナショナルチームがあり、バラマンディは2014年にワンデー・インターナショナル(ODI)に出場した[18]。
著名な出身者
詳細は「Category:パプアニューギニアの人物」を参照脚注
[脚注の使い方]
注釈^ 109の定数に約3000名が立候補、国民2000人に一人の割合で国会議員に立候補だから乱立といってよい。熾烈な選挙になり、時には暴動を起こし、死者まで出る。警備に1万人を超える体制が必要だった。(川崎一平「熾烈な国会議員選挙」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58票 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 80-82ページ)
出典
^ a b “UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。 ^ a b c d e “World Economic Outlook Database” (英語). IMF. 2021年10月16日閲覧。 ^ a b c d e f “パプアニューギニア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年3月1日閲覧。 ^ a b c フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。 ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞 ^ “新国家誕生なるか? パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州で住民投票開始”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年11月23日) 2019年11月25日閲覧。 ^ “パプア・ブーゲンビル自治州、住民投票で独立支持98% 新国家誕生へ前進”. AFPBB News. (2019年12月11日) 2020年1月5日閲覧。 ^ “中国に「8500億円貸して」借金頼みの南国、負の連鎖”. 朝日新聞DIGITAL (2019年8月8日). 2022年4月18日閲覧。 ^ “パプアの警官と兵士ら、APEC手当の支払い求め議事堂に乱入”. AFP (2018年11月20日). 2018年11月20日閲覧。 ^ PNG/LNG天然ガス開発プロジェクトから生産された初のLNG(液化天然ガス)の日本向け船積みが行われる ^ “Sign language becomes fourth official language of Papua New Guinea”. Radio Australia (2015年5月25日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。 ^ “Sign Language, Next Official Language for PNG”. EMTV Online (2015年5月16日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。 ^ “言語多様性の謎:パプアニューギニア |”. GNV. 2019年1月15日閲覧。 ^ 20歳女性「火あぶり処刑」で男女2人を逮捕、パプアニューギニア ^ “Papua New Guinea – culture”. Datec Pty Ltd. 1999年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2005年12月16日閲覧。 ^ Hadfield, Dave (1995年10月8日). “Island gods high in a dream world”. The Independent 2009年10月6日閲覧。 ^ “Three dead in PNG after State of Origin violence”. BrisbaneTimes.com.au (2009年6月26日). 2010年6月27日閲覧。 ^ a b c Cricket PNG 国際クリケット評議会 2023年10月1日閲覧。
関連項目
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ヨーロッパ世界
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※ 今日は、こんな所で…。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2022年4月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2022年4月) 出典検索?: "ヨーロッパ世界" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
現在のヨーロッパ。地図のように各国が対等にひしめくようになったのは17世紀頃からである。
ヨーロッパ世界(ヨーロッパせかい)とは、ヨーロッパにおいて、ゲルマン人の大移動後、ゲルマン系諸民族の習俗と古代ローマの文明、さらにキリスト教信仰との融合(習合)、及び東ローマ帝国のビザンチン文化、キリスト教信仰とスラブ人の習俗との融合の結果できたと説明される世界についての歴史学用語である。
古代ギリシア、古代ローマによる地中海世界の後の西方世界を説明する際に用いられる。
ヨーロッパ世界の形成ヨーロッパ世界の形成はローマ帝国の東西分裂に伴い、西ローマ帝国の領域ではローマ教会が、東ローマ帝国の領域では正教会が大きな影響力を有しながら展開していった。
地中海世界との比較では、地中海世界が領域としていた北アフリカ地域がイスラム世界に組み込まれ、喪失する一方、地中海世界の外であった東ヨーロッパ、北ヨーロッパをその領域に組み込んでいることである。
この領域は現在「ヨーロッパ」と呼んでいる地域とほぼ一致する。
人種概念同様、純粋な学術的分類というよりはキリスト教的価値観を大いに含んだ概念と言える。
西ヨーロッパでのキリスト教世界の形成
パリのノートルダム大聖堂。西ヨーロッパによく見られるゴシック建築である。
ゲルマン人の大移動によって西方正帝が力を失うと、西ヨーロッパをゲルマン系諸民族が席捲した。
その際、ローマ人などのラテン系民族やガリア人(ブリトン人も含む)らケルト系諸民族からなる原住民との文化的融合が行われ、ゲルマン人はキリスト教を受容した。
やがて各地にゲルマン人を主体とする王国(征服王朝)が形成され、それらはフランク王国に収斂されて行った。
欧州の様々な民族から形成されたフランク民族の王カール大帝はキリスト教とローマ世界の庇護者としてローマ教皇によりローマ皇帝に戴冠され、キリスト教(カトリック)を重要な共通概念とする世界が構築された。
特にキリスト信仰は文明のバックボーンとなりマジャル人など東方系の民族もカトリックを受容した。
これに続き、ヴァイキング後に成立した北欧諸国のカトリック化によってほぼ現在の西ヨーロッパにおけるヨーロッパ世界が完成したと言える。
東ヨーロッパでのキリスト教世界の形成
「正教会」および「東ローマ帝国」も参照
アギア・ソフィア大聖堂。ビザンティン建築の典型であり、正教会を受容した地域に広まった
東ローマ帝国はローマ帝国分裂後も1000年近く命脈を保ったため、周囲の東ヨーロッパ、バルカン半島地域のキリスト教化によるヨーロッパ世界の展開は東ローマ帝国と正教会と移住してきたスラヴ人との闘争と融和によって進行されていった。
初期の東ローマ帝国の皇帝は西ローマ帝国での西方正帝の消滅後、「ローマにかわる第二のローマ」として「地中海帝国」の復活を目指した。
ユスティニアヌス帝のころ、ローマ帝国の領域をほぼ征服することに成功、地中海帝国の再興にこぎつけた。
しかし、神聖ローマ帝国の成立やヴァイキングの侵攻、スラヴ人の流入、イスラム世界の勃興など外部的要因で地中海帝国の維持には失敗し、ヘラクレイオス王朝の頃にはギリシア人の帝国として東ローマ帝国はバルカン半島、東ヨーロッパ地域の征服およびキリスト教の布教に専念するようになった。
一方、バルカン、東ヨーロッパ地域に移住してきたスラヴ人たちは、独自の王国を建設。
北方十字軍等の西ヨーロッパ世界の干渉や東ローマ帝国と激しく戦う一方で、正教会およびビザンツ文化を受容するようになっていった。ヨーロッパ世界の展開
ヨーロッパ世界の形成はキリスト教を支柱とする完成したが、同時に内外の要因によって多様性を深めていった。
また西ヨーロッパでは教皇と皇帝の対立、さらにシスマなど内部的要因で展開した。
東ヨーロッパではイスラム世界との接触および、モンゴル帝国の侵攻という外部的要因にさらされ展開した。
イスラム世界の影響は十字軍という形で東西ヨーロッパに影響を与えただけでなく、オスマン帝国による征服と圧力という形で長期的な影響を与え続けることになった。
東西教会の分裂
東西教会の分裂とシスマ(※ シスマ(ラテン語: Schisma、ドイツ語も同じ綴り)とは、「分裂」を意味する語で、特に宗教史における「宗教団体の分裂」を指す。)を参照
十字軍
十字軍を参照
モンゴル帝国とイスラム帝国の衝撃
モンゴル帝国を参照
二つの楕円
ヨーロッパ世界は二つの楕円式構造を有している。
カトリックと正教会
宗教において、カトリック教会と正教会という二つの中心を有しているのがこの世界の特徴である。この直接の発端は東西教会の分裂に始まるが、遠くはローマ帝国の東西分裂に由来する。
教皇と皇帝
カトリック教会を精神的支柱として西ヨーロッパ世界では、神聖ローマ帝国の成立以後、精神世界の頂点である教皇と世俗の頂点である皇帝との対立が生じた。
これは叙任権闘争によって顕在化することになる。また、性奴隷を虐める問題も勃発した。
ヨーロッパ世界の変質
ローマ教会と神聖ローマ皇帝が主導する西ヨーロッパのカトリック世界と東ローマ帝国とスラブ人王国が主導する東ヨーロッパの東方正教世界からなる「ヨーロッパ世界」は以下のような外部的要因と内部的要因によって変質していき、新たな局面を迎える。
特に大航海時代以降の展開は世界の一体化過程(近世における世界の一体化)において重要な役割をなし全世界に大きな影響を及ぼすこととなった。
東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国の圧力
ルネサンスと大航海時代、宗教改革
ルネサンス、大航海時代、宗教改革を参照
三十年戦争と「ウェストファリア体制」の成立
三十年戦争と神聖ローマ帝国を参照
関連項目
ヨーロッパ史 民族移動時代 ゲルマン民族の大移動 ゲルマン民族 アーサー王伝説 北欧神話 サガ 神聖ローマ帝国 フランク王国 キリスト教の歴史 - カトリック教会(西方教会)- 東方教会 - プロテスタント - ケルト系キリスト教 - 異教 ルーシ ノルマン人(ヴァイキング) スラヴ人 スラヴ民族の北東ルーシへの移動 イスラム世界 - イスラーム哲学 ロマネスク建築 ゴシック建築 ビザンツ文化 ビザンツ建築 ペスト(黒死病)
スタブアイコン
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パンノニア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%82%A2



『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パンノニア属州の位置(120年頃のローマ帝国)
パンノニア(Pannonia)は、古代に存在した地方名。
ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。
北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。
パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。
今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーのトランスダニュービア地方(Transdanubia、ハンガリー語:Dunántúl)およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。
語源
言語学者ユリウス・ポコルニーによると、パンノニア(Pannonia)の語源は、インド・ヨーロッパ祖語で沼地や湿ったという意味を表す *pen- という言語要素から派生したイリュリア語である。
歴史
パンノニアの地図
パンノニアには、元々はイリュリア人に近い部族であるパンノニア族が住んでいた。
紀元前4世紀以降、この地域は多くのケルト人部族からの侵略を受けるようになるが、その頃の出来事についてはあまり知られていない。
紀元前35年、当時のパンノニアはダルマティア族と同盟を結んでいたが、初代ローマ皇帝アウグストゥスが侵攻してきてシスキア(Siscia、現シサク)を征服した。
紀元前9年、パンノニアは明確にローマ帝国の支配下に入り、イリュリクム属州に併合されて国境線がドナウ川まで広がった。
西暦6年、パンノニア族はダルマティア族など他のイリュリア人と連合して反乱を起こした。
激しい戦いが3年間続いたが、結局はローマ帝国のティベリウスとゲルマニクスによって制圧された。
この後にイリュリクム属州は新に二つの属州に分割され、北側がパンノニア属州、南側がダルマティア属州になった。
分割が正確にはいつ行われたのかは不明だが、20年から50年の間だと考えられている。
この地域の隣は攻撃的な蛮族(クァディ族、マルコマンニ族)の領域だったので、ドナウ川の川岸には大勢の軍が配備され(後年には7個軍団となった)、数多くの砦が建造された。
トラヤヌス帝によるパンノニア属州の2分割
102年から107年までのいずれかの年(2回にわたるダキア戦争の間)に、ローマ皇帝トラヤヌスはパンノニア属州を上パンノニア属州(西側)と下パンノニア属州(東側)とに再分割した。
学者プトレマイオスによると、このときの分割の境界線は北のアラボナ(Arrabona、現ジェール)から南のセルビチウム(Servitium 、現en: Gradiška)を結ぶ線だったが、後には境界線は東側に移された。二つの属州を合わせてパンノニアス(Pannonias、Pannoniae)と呼ばれることもあった。
上パンノニア属州はコンスル格の総督(レガトゥス)が支配し、この総督は駐留部隊として3個のローマ軍団の指揮権を有した。
一方の下パンノニア属州は、初めはプラエトル格の総督が駐屯部隊として1個軍団を持ち統治したが、皇帝マルクス・アウレリウスの後は軍団数はそのままにコンスル格の総督の担当地域に変更された。
ドナウ川の国境線を守るために、皇帝ハドリアヌスによってアエリア・ムルシア(Aelia Mursia 、現オシエク)とアエリア・アクィンクム(Aelia Aquincum、現en:Óbuda)の二つの植民市が築かれた。
皇帝ディオクレティアヌスの時代に、パンノニアは4つに分割された:
パンノニア・プリマ(Prima)– 北西部、首都はサウァリア(Savaria、現ソンバトヘイ) パンノニア・ウァレリア(Valeria)– 北東部、首都はソピアナエ(Sopianae、現ペーチ) パンノニア・サウィア(Savia)– 南西部、首都はシスキア(Siscia、現シサク) パンノニア・セクンダ(Secunda)– 南東部、首都はシルミウム(Sirmium、現スレムスカ・ミトロヴィツァ)
またディオクレティアヌス帝は、現在のスロベニアにあたる地域をパンノニアから除外し、ノリクム属州に編入した。
ディオクレティアヌス帝の死後は西ローマ帝国に属した。
5世紀の半ば、皇帝ウァレンティニアヌス3世の時代に、パンノニア属州はフン族に割譲され、ローマ帝国の属州ではなくなった。
フン族の王アッティラの死後、この地は次々と支配者が変わった:
東ゴート王国(456年-471年)、
ランゴバルド人(530年-568年)、
アヴァール人(560年代 – 約800年)、
スラヴ人(480年頃からこの地に居住しており、800年頃-900年頃は独立を果たした)、
マジャル人(現ハンガリー人)(900年または901年以降)、
ハプスブルク君主国、
およびオスマン帝国(1526年-1878年)。第一次世界大戦の後、この地域はオーストリア、ハンガリー、ユーゴスラビアに分割された。
主な都市
ゴルジウム・ヘルツリア(現ハンガリーのターツ)の航空写真
アクィンクムの航空写真原住民族の頃はいくつかの村が集まって州を形成していた。主な都市はローマ帝国の時代に作られた。前述した都市以外にも、次のような都市が存在した:
ソルヴァ(Solva、現エステルゴム) アクィンクム(Aquincum、現ブダペストのブダ地区) コントラ-アクィンクム(Contra-Aquincum、現ブダペストのペスト地区) アルバ・レギア(Alba Regia、現セーケシュフェヘールヴァール) アラボナ(Arrabona、現ジェール) シバレー(Cibalae、現ヴィンコヴツィ) ゴルジウム・ヘルクリア(Gorsium-Herculia、現ターツ) ムルサ(Mursa、現オシエク) マルソニア(Marsonia、現スラヴォンスキ・ブロド) スカルバンティア(Scarbantia、現ショプロン) タウルヌム(Taurunum、現ゼムン) クスム(Cusum、現ペトロヴァラディン) セルビヌム(Serbinum、現グラディシュカ) ウィンドボナ(Vindobona、現ウィーン)
地域の産業や経済のあらまし
この地域は元々かなり豊かであった。
広大な森林があり、木材も主要な出荷品目であったが、ローマ皇帝プロブスとガレリウス帝が森林地帯を開墾したことにより、農産物の出荷が増えてさらに豊かになった。
主要な農産物はオート麦や大麦で、それを原料としてビール(sabaea)も蒸留した。
一方で、ブドウやオリーブはあまり生産しなかった。
また、パンノニアは猟犬を産出することでも有名だった。
鉱物について記載された資料は見つかっていないが、鉄や銀の鉱山があった可能性もある。
水にも恵まれており、主な河川としてはドラーヴァ川、サヴァ川、ラバ川などがドナウ川に流れ込んでいた。
参考文献
Radomir Popović, Rano hrišćanstvo u Panoniji, Vojvođanski godišnjak, sveska I, Novi Sad, 1995. Petar Milošević, Arheologija i istorija Sirmijuma, Novi Sad, 2001.
関連項目
パンノニア平原 属州 ローマ帝国
外部リンク
Pannonia (英語) Pannonia (英語) Pannonia (英語) Aerial photography: Gorsium - Tác - Hungary (英語) Aerial photography: Aquincum - Budapest - Hungary (英語) 表話編歴
前期ローマ帝国の属州(3世紀以前)
表話編歴
後期ローマ帝国の属州(4 – 7世紀)
典拠管理 ウィキデータを編集
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ハンガリー ポータル表話編
ハンガリー王国の歴史的境界
ハンガリー平原とそれを取り囲む山々。山々に囲まれた平原でハンガリーの歴史は展開された。
ここでは、ハンガリーの歴史について記述する。
ハンガリーはヨーロッパのほぼ中央、東ヨーロッパの山岳地帯の中でドナウ川中流に盆地状に開けた平原を国土とする。
この盆地は冷涼で乾燥した草原が広がり、遊牧に適した地理的条件を有するため、中央ユーラシアのステップ地帯から繰り返しヨーロッパに侵入した多くのアジア系遊牧民集団の多くは、ここに根拠地を置いた。
彼らはやがてキリスト教世界の一員になり、スラブ人などの周辺民族や、オーストリア・オスマン帝国などの周辺諸国の影響を受けつつ盛衰を経た。
冷戦の時代には、共産主義圏にあっていち早く民主化を進め、東欧革命の芽を蒔いた。
概史
建国まで
この地域は、1世紀にはローマ帝国が属州パンノニアを置いた。
4世紀にローマ帝国が衰退し、ゲルマン人の移動が始まると、この地にゴート族が到来した。
その後、ドナウ川中流の良質の平原に着目して、5世紀にフン族、6世紀にアヴァール人などテュルク系と見られる遊牧民の勢力がそれぞれ到来し定着した。
5世紀あたりからウラル山脈の中南部~アゾフ海北岸周辺からウゴル系遊牧民であるマジャル人が、テュルク系のオグール(ブルガール人)と混合を繰り返して、9世紀になると黒海北岸~ロシア南部のヴォルガ川南岸付近の広大な草原地帯に到達した。
その後、大首長(ジュラ)アールパードは共同統治者の名誉最高首長(ケンデ)クルサーンとともにバルカン半島を経由して、ハンガリー平野この地に移住してきた。
アールパードはパンノニア平原を根拠とし、アールパード家の祖となり、ドイツ南東部のバイエルンなど東・中部ヨーロッパ各地を騎馬で蹂躙し、同時期の海のヴァイキングとともに怖れられた。
しかし、955年にアールパードの孫タクショニュはレッヒフェルトの戦いでオットー1世に敗れると、今までの部族の風習であるシャーマニズムによる自然崇拝を放棄し、カトリックによるキリスト教に改宗して、パンノニア平原に統一王国建設を開始した。
同時に現地のスラヴ人(南スラヴ人・西スラヴ人)やラテン人やドイツ人(オーストリア人)と上記のテュルク系など多くの民族と混血して、現地に同化した。
ハンガリー王国
「ハンガリー王国」も参照
イシュトヴァーン1世と軍勢を描いたミニアチュール
聖イシュトヴァーンの王冠と宝器
1000年にタクショニュの孫であるアールパード家のイシュトヴァーン1世が本格的にキリスト教に改宗すると、ローマ教皇からハンガリー国王として聖別をうけ戴冠し、ヨーロッパ世界の一員となった。
それからのハンガリー王国は北部のスロヴァキア(モラヴィア)、南部のクロアチアのスラヴ人を支配下に入れ、さらにルーマニアトランシルヴァニアにも勢力を伸ばした。
この頃がハンガリーの絶頂期であり、中欧の強国として君臨していた。
この時代の領域は聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれ、以後ハンガリーの歴史観において重要な位置を占めた。
このためハンガリー王となるものは聖イシュトヴァーンの王冠を頂く者であるという概念が生まれた。
1240年にはモンゴル帝国のバトゥによる侵略を受け、甚大な被害をうけた(モンゴルのポーランド侵攻)。
この経験を経たことでハンガリー国王は防衛体制を整える必要に迫られ、貴族層に土地を与えて彼らの主導で堅固な城塞を築かせていった。
同じく防衛上の観点からも城壁を持つ都市の発展が求められ、従来までの都市のほか、新たにドイツ人の入植を契機とした都市も形成・発展した。その例として、シビウ、ブラショフ、ビストリツァ、コシツェなどが挙げられる。
その後1301年にアールパート朝が断絶すると選挙王制となり、1308年にナポリ王国のアンジュー家から王が出た(ハンガリー・アンジュー朝)。
以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなくポーランド王も兼ねるようになったが1395年に断絶した。
15世紀にはトランシルヴァニア貴族のフニャディ家のマーチャーシュ1世の頃に強盛を極めた。
ハプスブルク帝国とオスマン帝国
14世紀になると東方からオスマン帝国が興隆し、コソボの戦い以後バルカン半島に進出してきた。
神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが1396年ニコポリスの戦いで敗北した。
ハンガリーはオスマン帝国の脅威にさらされ、1526年のモハーチの戦いでは国王ラヨシュ2世が戦死する大敗を喫し、ヤギェウォ王家は断絶した。
王冠は姻戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家が継承することになった。
ハンガリーを征服したオスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを直轄地(オスマン帝国領ハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護領とした(トランシルヴァニア公国)。
ハプスブルク家はハンガリーの北部と西部を支配し(王領ハンガリー)、ハンガリーは150年近くにわたり分割支配され、両国の係争地とした。
1683年の第二次ウィーン包囲以後の大トルコ戦争を経て1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク家のものとなった。
これに反発したハンガリー人貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世との間で民族解放運動が戦われることとなったが、1711年には鎮圧された。
オーストリア=ハンガリー二重帝国
詳細は「ハンガリー革命 (1848年)」を参照
聖イシュトヴァーンの王冠を戴冠するフランツ・ヨーゼフ1世
19世紀が中盤にさしかかるとハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力は相対的に低下し始めた。
1848年の2月革命でオーストリアが混乱すると、3月にコシュート・ラヨシュはペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。
しかし国内の安定を取り戻したオーストリア軍に鎮圧されると、コシュートはハンガリーの独立を宣言して再びブダペストを奪回した。
しかしオーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗した(ハンガリー革命)。
しかし1866年にプロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。
これを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とともに帝国の支配の強化を図り、1867年にハンガリー王国の自治権拡大を認めた。そして自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。
これは帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の一層の強化を求めるハンガリー貴族の両者の利害が一致してできた融和と妥協の産物で、「アウスグライヒ」(和協)と呼ばれる。
しかしハンガリー王国内には独自の内閣や議会も置かれ、帝国に対するハンガリーの影響力は強まった。
19世紀末のハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。
2つの世界大戦
詳細は「ハンガリー王国 (1920年-1946年)」を参照
ブダペストで騎乗するホルティ・ミクローシュ。1919年11月16日
クーデターの後、摂政宮殿に入るサーラシ・フェレンツ。1944年10月18日。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国は中央同盟の一翼を担い戦ったが、1918年に敗北した。
11月16日にカーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー人民共和国が二重帝国から独立した。
しかし共和国の軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニア王国に、北部ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアに占領された。
1919年3月21日、クン・ベーラを首班とするハンガリー共産党が革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国が成立した(ハンガリー革命)。
しかしルーマニアの介入と海軍提督ホルティ・ミクローシュのハンガリー国民軍の蜂起により8月6日にソビエト共和国は崩壊した(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
1920年3月1日、ホルティはハンガリー王国の成立を宣言した。
しかし国王候補が定まらなかったため、ホルティが摂政として支配を行うことになった。
6月4日、ハンガリーの領域を確定するため、パリにおいてトリアノン条約が結ばれた。この条約によりハンガリーは北部ハンガリー、トランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、ブルゲンラント、ガリツィアなど領域の大半を失い、さらに莫大な賠償金も支払うことになった。このためハンガリーは右傾化し、領土回復を狙うようになった。
ホルティはナチス・ドイツと協調し、ドイツの軍事力を背景にミュンヘン協定やウィーン裁定で北部ハンガリーの一部と北トランシルヴァニアを回復することに成功した。
このため1941年に、ドイツによるユーゴスラビア侵攻が発生すると侵攻に参加した。
ハンガリー軍はユーゴスラビアからヴォイヴォディナを奪回し、占領を続けた。
同年6月22日に始まった独ソ戦においてもハンガリーはドイツ側につき、ソビエト連邦への攻撃を行った。
ハンガリーはイギリスから他のドイツ同盟国(ルーマニア、フィンランド)とともに対ソ戦線における停戦を求められたが、三か国はこれを拒否。
同年12月5日、イギリスがハンガリーに対して宣戦を発表し[1]、枢軸国側の一員として戦うことが決定づけられた。
ドイツの敗色が濃くなると、ホルティは単独講和に乗り出したため、1944年10月15日にドイツの支援を受けた矢十字党のクーデターが発生した(パンツァーファウスト作戦)。
矢十字党のサーラシ・フェレンツが首相となり、ホルティは摂政を退位し亡命した。
矢十字党はユダヤ人の移送などドイツの政策に協力し、また連合軍との戦闘の継続を宣言した。
しかし、既にソ連軍が国土の大半を奪取する中で、翌1945年2月13日には首都ブダペストも陥落し(ブダペストの戦い)、矢十字党の政権も短命に終わった。
この戦闘でドイツ、ソ連両軍により街は徹底的に破壊され、またソ連軍により市民の女性の多くが強姦された。
矢十字党の政府はハンガリー・ドイツ国境付近で戦いを続けたが、ドイツの降伏により消滅した。
ハンガリー人民共和国
第二次世界大戦後の1946年に王制は廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。
しかしハンガリーはスターリン指導のソビエト連邦の影響下に置かれ、共産主義政党ハンガリー勤労者党の影響が拡大した。
1949年にはハンガリー人民共和国が成立し、東側諸国に組み込まれた共産主義体制の一党独裁制国家となった。
勤労者党の書記長ラーコシ・マーチャーシュは忠実なスターリン主義者であり、反対勢力の粛清を行った。
ハンガリー動乱
詳細は「ハンガリー動乱」を参照
しかし1956年にソ連のフルシチョフが「スターリン批判」を行い非スターリン化を始めると、ラーコシは失脚した。
しかし後継のゲレー・エルネーもスターリン主義者であったため、反発した市民は大規模なデモを起こした。また、圧制の象徴であった秘密警察ハンガリー国家保衛庁の建物が襲撃され、職員が市民の私刑を受けることになった。
これを押さえきれなかった政府は、国民に人気のあった前首相ナジ・イムレを首相に就任させ事態の収拾を図った。
しかし事態を重く見たソ連は介入を決定し、ソビエト連邦軍とワルシャワ条約機構軍がハンガリーに侵攻した。
この結果、市民およそ約2万人が殺害され、ナジを始めとした多数の幹部が処刑された。また20万人以上の難民がハンガリーから逃れた[2]。
グヤーシュ・コミュニズム
動乱によりハンガリー勤労者党が崩壊したため、ハンガリー社会主義労働者党が新たに樹立された。
新首相となったカーダール・ヤーノシュはナジの路線を断ち切り、ソ連との友好を協調することで動乱後の混乱をおさめた。
1961年、カーダールは融和的新路線を打ち出し穏健な政治路線を踏み出した。
1968年には新経済メカニズムと称する経済改革が行われ、市場経済が導入された。
これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ・コミュニズム(en:Goulash Communism)[3]と呼ばれている。
ハンガリーは他の東欧諸国に比べて経済状態は良好であったが、カーダール政権が長く続くにつれ、徐々に停滞していった。
共産主義政権の終焉
1980年代、ソ連のゴルバチョフ書記長がペレストロイカを推進すると、社会主義労働者党政権は改革派が主導するようになり、急速な民主化を進めた(ハンガリー民主化運動)。
憲法改正が行われ、社会主義労働者党は一党独裁制を放棄して西欧流の社会民主主義を志向するハンガリー社会党へ改組し、国名も「ハンガリー共和国」に変更された(第一共和国(ハンガリー民主共和国)、第二共和国に次ぐ共和政体として「第三共和国」と称される)。1989年にはハンガリーはオーストリアとの間の「鉄のカーテン」を撤去し、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」を起こした。
これらは他の東欧の共産主義諸国にも影響を与え、東欧革命を急速に促し、ベルリンの壁崩壊および1990年のドイツ再統一、1991年のソビエト連邦の崩壊など一連の冷戦終焉に向かう流れを生んだ。
現在のハンガリー
1990年以降のハンガリーの国章。
1990年には複数政党による選挙が行われ、民主フォーラムが第1党となり社会主義政権に終止符が打たれたが、政権運営の行き詰まりから1994年社会党が政権に復帰した。1997年から経済が好転し、「旧東欧の優等生」と呼ばれるようになった。
1996年には経済協力開発機構、1999年に北大西洋条約機構、2004年にヨーロッパ連合に加盟した。
一方、2010年から政権を率いるヴィクトル・オルバーンは、親露・極右路線に舵を切り、反LGBT法案などEUと一線を画す政策を推し進める。
脚注
^ 英、対ソ戦停止を拒否した三国に宣戦(『東京日日新聞』昭和16年12月7日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p398 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ ラカトシュ・イムレ、ヘッレル・アーグネシュ、リゲティ・ジェルジなどの主張 ^ グヤーシュはハンガリーの伝統的なシチュー料理。
参考文献
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2022年6月)
木戸蓊『世界現代史24バルカン現代史』山川出版社、1977年。ISBN 9784634422407。 矢田俊隆編『世界各国史13東欧史』山川出版社、1977年。ISBN 4-634-41130-X。
関連項目
ハンガリー王国 オーストリア帝国 ハンガリー国王一覧 オーストリア=ハンガリー帝国 ハンガリー王国 (1920年-1946年)
外部リンク
『ハンガリー史』 - コトバンク 表話編歴
ヨーロッパの歴史
西ヨーロッパオーストリア オランダ スイス ドイツ フランス ベルギー モナコ リヒテンシュタイン ルクセンブルク
東ヨーロッパ
ウクライナ スロバキア チェコ ハンガリー ブルガリア ベラルーシ ポーランド モルドバ ルーマニア ロシア
南ヨーロッパ
アルバニア アンドラ イタリア 北マケドニア ギリシャ クロアチア サンマリノ スペイン スロベニア セルビア バチカン ボスニア・ヘルツェゴビナ ポルトガル マルタ モンテネグロ
北ヨーロッパ
アイスランド アイルランド イギリス エストニア スウェーデン デンマーク ノルウェー フィンランド ラトビア リトアニア
その他
沿ドニエストル共和国 コソボ
自治領等
アゾレス諸島 オーランド諸島 ガーンジー ジブラルタル ジャージー スヴァールバル諸島 フェロー諸島 マン島 ヤンマイエン島
各列内は五十音順。
バチカンは国際連合非加盟。
「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧・独立主張のある地域一覧も参照。国連による世界地理区分によればカザフスタン、キプロス、トルコはヨーロッパに含まれない。 ロシアはアジアに分類されることもある。
関連カテゴリ:大陸別の歴史/各国の歴史
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バブル崩壊後の中国は80年代ソ連と同じようになる
https://www.thutmosev.com/archives/32962.html『2024.01.31
1991年にソ連は崩壊したが、今もロシアは崩壊し続けている
ソ連と中国のバブル崩壊後の世界
ソビエト連邦は1920年頃に成立し1991年に滅んだが、ソ連崩壊後に全盛期を迎えたのが中国で90年代に爆発的成長が起きて2000年代にはアメリカを抜いて最大の超大国になると言われた
米オバマ大統領は演説の時度々「中国がアメリカに替わる超大国になるのは確実だが」と前置きするほどの中国かぶれで、こうした態度が中国を増長させた
2010年代になると中国はもう唯一の超大国になったかのように日独英仏伊に命令口調で指図し始め、アメリカに対しても自分のほうが「上」なのだという格付けをしようとした
それはG20のような国際会議の席順だとかの下らない事だったりしたのだが、習近平はそうした事に異常にこだわる事が多い
ソ連と中国は共に共産主義国だが成立時から違いがあり、ソ連はソビエト(評議会)連邦なので国家ではなく国連のような世界連邦組織として誕生した
1900年頃の世界は5つほどの大国とその植民地に別れていて、ロシアは落ちこぼれた帝国という位置づけだったが全世界の王権や資本主義を倒して市民革命を起こすというのがロシア革命でした
全世界が次々に共産化する筈だったが実際にはユーラシア大陸の半分と少数の貧困国だけに留まったので、ソ連は世界政府ではなくロシアと周辺国による国家という不本意な形になった
世界政府を作れなかった時点でソ連崩壊は決定していたのだが、その後70年間も持ちこたえて一時はアメリカを中心とする西側陣営とも張り合った
中国はこれとは違い中国共産党の前身はソビエト共産党北京支部であり、最初のメンバーの1人が毛沢東で、世界政府ソ連に対して中国という地方の共産勢力として始まった
第二次大戦終了後に毛沢東の軍隊は蔣介石の軍隊を倒して大陸中国を制圧し「中華人民共和国」を建国したが、共産党が先にできて後で国家をつくった順番は重要です
人民解放軍は法律上も制度としても中国に所属しておらず、共産党に所属しており共産党の最高指導者しか軍に命令する事はできない
今後の中国は末期のソ連のようになるなぜなら国家が軍の指揮権を持つと中華民国総統の蒋介石が人民解放軍最高指導者になってしまうからで、共産党のために国家や軍が存在しています
中国経済を率いているのも共産党であって中国という国ではなく、今までの数十年間に渡って共産党は中国を高度成長させて西側を驚かせた
今までの経済理論では独裁国家や共産国家は経済成長できないので、資本主義民主主義国との競争に敗れるとされてきたが中国の成長でこの理論は崩壊した
特に2008年リーマンショック以降はむしろ共産主義や独裁主義のほうが資本主義民主主義国より経済運営で優れているというような説がまかり通った
その中国は2020年のコロナショックを機に経済危機に陥っていて、2023年の成長率は5.2%だったが世界中からGDP水増しを指摘されている
以前から中国GDPは水増しが指摘されていたが実際のGDPは2割か3割程度低いだろうというのが世界のコンセンサスになっている
GDP(当時はGNP)水増しはソ連の得意芸で1980年代には公表値の半分以下しかないのが常識になっていて、1990年に破綻した
ソ連は1970年代までが全盛期で80年代には衰退していたがソ連と世界政府を維持する為に衛星国家を援助したり、金があるかのように振舞い続けた
中国の実体経済の全盛期は1990年代から2000年代で2008年北京五輪の時には失速していたが、ここから資産バブル経済に移行して経済成長を続けた
これは多くの成金国家が行き詰った時にやってきた事で、日本も1985年までに実体経済が失速していたのに、そこからさらにバブル経済で成長を続けようとした
資産バブル経済は価値の無い土地を一平米数千万円に吊り上げてお金を増やす事で、なんの努力もせずお金だけが増えるので一度やったら辞められない
人口最大の中国は人類史上最大の資産バブルを引き起こしだが、バブルは弾けて地価や株価のような資産価値は今後下落する
バブルが弾けると借金と資産のうち資産が消えて借金だけが残る事に成り、その後数十年間借金返済に追われるのが「失われた数十年」の正体です
中国は今後厳しい数十年を過ごす事になるがここで問題なのは共産主義国な点で、共産国家の使命は「世界革命」を達成する事で拡大し続けなくてはならない
中国は今まで資産バブルで得た金を経済成長に使っていたが、もうバブルが弾けて資産が富を産まなくなり、貿易などで得た金は借金返済に当てなくてはならない
すると今後の成長率は1%やマイナスになり末期のソ連とほとんど同じになってしまう
資本主義国は不況になっても国は崩壊しないが共産主義国は偽造と隠蔽を繰り返すので立ち直ることがなく、事態はある時点で急激に悪化するでしょう
ソ連は崩壊してロシアになって30年以上も崩壊が続いているが、核保有国であるためどの国も手出しせず、実質的にソ連は今も「ロシア」と名前を変えて存続している
中国も強大な核保有国であるためどの国も手出しせず、破綻したまま長期間存在し続けるだろうと予測できます
世界各国は核保有国ソ連を腫れ物に触るように扱ったため、ソ連という腐ったリンゴが今も腐ったまま生き続けています
中国のシステムが破綻してもどの国も手出しや介入をしないので、おそらく永遠に腐った大木として存在し続ける 』
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プー之介が今やっていることは、1935年のムソリーニになぞらえるのが正確だ。
https://st2019.site/?p=21826『Dean D. LaGattuta 記者による2024-1-29記事「Putin Isn’t Hitler, He’s Mussolini――and Ukraine Is His Abyssinia」。
プー之介が今やっていることは、1935年のムソリーニになぞらえるのが正確だ。イタリアがその年、アビシニア(今のエチオピア)を侵略し、英仏はそれを放置することにした。
1934~1935に、英国は、ムソリーニの侵略的な政策に目をつぶるべきではなかった。が、当時の英政府は、イタリアは「対独」の潜在的な同盟者になると期待していて、アビシニア侵略を目こぼしするのである。
フランスも同様で、ドイツの脅威を抱えていたがために、ムソリーニがアビシニアの主権を侵害しているのを黙認した。
これは全く没義道な話だった。アビシニアは独立国であり、1923年に国際聯盟に加盟している。連盟規約の「アーティクル16」は、メンバー国に対して戦争を仕掛けた国々に対しては、全加盟国は一致して行動を起すと決めていたのだ。
しかし、英国もフランスも、アビシニアの防衛にはそれほど価値があると思わず、1935-10のイタリア軍による侵略を、仲裁によって終らせようとした。仲裁案は、アビシニア領の多くをイタリアに割譲させるというものだった。
英仏政府による、この水面下の動きが世間に漏れるや、聯盟加盟諸国は怒った。
聯盟の権威は失墜し、機能を停止し、1936-5にイタリア軍はアジスアベバに入城して、勝利を宣言した。
イタリアはエチオピアを侵略したのに、国際聯盟から何の罰も受けなかった。このいちぶしじゅうを、ヒトラーが見ていたのだった。
今日、米国がプー之介を罰しないとすれば、それは1935にムソリーニを甘やかした英国と同じように、世界史への悪影響がある。
ヒトラーがエチオピア戦争で英国政府がどうするかを観察していた如く、目下、中共は、ウクライナ戦争で米国政府がどこまでやるかを観察しているからだ。
米国はロシアに対してじきに譲歩すると判定されたなら、熊プーは台湾を侵略する。国際連合の権威など、どこにもなくなってしまう。 』
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ベッサラビア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2







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曖昧さ回避 この項目では、地名について説明しています。その他の用法については「ベッサラビア (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ベッサラビア
ベッサラビアの紋章
平野を流れるドニエストル川
ベッサラビア(英語: Bessarabia, トルコ語: Besarabya)、またはバサラビア(ルーマニア語: Basarabia, モルダヴィア語: Басарабиа, ウクライナ語: Бессарабія)[1]は、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダヴィア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシアに一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指した名称である。
モルダヴィア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。
1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。
第一次世界大戦終結時にはルーマニアと合併した。
第二次世界大戦初期の1940年、ソビエト連邦によって併合。
1941年から44年までのルーマニア占領期を経て、大戦末期の1944年、ソビエト連邦が再占領し、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国に再編した。
北部と南部の一部地域はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み入れられた。
1991年、モルダヴィアはソビエト連邦から独立を宣言し、モルドバ共和国となった。
地理
ロシア帝国時代における中央ヨーロッパ領土の一部分で、現在のモルドバのほとんどと、現在のウクライナの一部を加えた地域である[1]。
基本的に中世のルーマニア側のモルダヴィア公国と同一であった。
高地の多い北側[1]と東側はドニエストル川で区切られ、西側はプルート川が流れ[1]河口付近でドナウ川と合流する。
低地の多い南側[1]は黒海に面している。
面積はおよそ45,600平方キロメートル。大部分は起伏のあるステップ(草原)であり、気候も温暖で[1]農業に非常に適した土壌である。
ベッサラビアでは主にテンサイ、ヒマワリ、小麦、トウモロコシ、タバコ、ブドウなどが栽培されており、牛の放牧[1]を中心とした酪農も行われている。
現在でもこの地域で盛んな産業は農業である。資源として亜炭や石材も産出する。
この地域の中心都市はモルドバの現在の首都であるキシナウ(キシニョフ)の他に、イズマイール、ティラスポリ、ビルホロド=ドニストロフスキーなどがある。
他に行政上、歴史上重要な都市としてホティン(英語版)、リプカニー(英語版)、ブリチェニー(英語版)、ソロカ(英語版)、バルツィ、オルヘイ(英語版)、ウンゲニ(英語版)、ベンデル、カフル(英語版)、レニ(英語版)、チリア(セルビア・クロアチア語版)などがある。
歴史
ベッサラビアの名称は、ワラキアをハンガリーから独立に導き、この地の南部を支配したこともあるバサラブ一族に由来する[1]と言われる。
元々はこの地の南部、現在のブジャクに相当する地域を指す名前であり、1484年にこの地の支配権を獲得したトルコ人によって最初に使われた。
15世紀から20世紀にかけて、この地はモルダヴィア、オスマン帝国(ブジャク地方のみ)、ロシア、ルーマニア、ソビエト連邦の支配を経て、現在はウクライナ及びモルドバ共和国の領土となっている。
古代
ベッサラビアの地では何千年もの間人間が定住していた。
紀元前2000年頃にインド・ヨーロッパ語族の侵入があった。
キンメリア人を最初に、スキタイ人[1]、トラキア人の一派のダキア人(もしくはゲタエ人)の順にこの地に住んだ[1]。
紀元前7世紀頃、ギリシャ人がこの地に植民地を築き周辺地域と黒海貿易を行っていた。
紀元前1世紀、ガイウス・ユリウス・カエサルと同時代人であったブレビスタによるダキア人の王国(紀元前70年 – 42年)が最初に国としてベッサラビア全体を領土に収めた。
その後、国家は細かく分けられて再統合は1世紀のデケバルスの王国(87年 – 106年)によってなされた。
この国は106年にローマ帝国に敗れたがベッサラビアはローマ領とはならず、ダキア人はローマ人の支配に抵抗した。ローマ人はスキティア地方を守るためにベッサラビアの南方に土壁を築いた。
ローマ帝国によるダキア地方のローマ化で、ダキア人はラテン語や慣習を身に付けていった。
ラテン文化やラテン文字はベッサラビアを含む古代ダキア人の地を支配していくように広がっていった。
270年にローマはゴート人やカープ人の侵入のためにダキアから軍隊を引き上げ始めた。
ゲルマン民族に属するゴート人は、ベッサラビア南部のブジャク地方を通過しローマ帝国に押し寄せた。
地理的な位置とステップという地形的特性により、5世紀以降フン族、アヴァール人、ブルガール人など多くの遊牧民族の侵略を受けた。
しかしローマ人は居残り、主に羊飼いや農民となり騎馬戦士などが侵入してこない地に住み着くようになった。ローマ人の影響は567年まで続くことになる。
民族大移動時代
3世紀から11世紀にかけて、この地にはゴート人、フン族、アヴァール人、スラヴ人、マジャル人、ペチェネグ人、クマン人、モンゴル人などの進入が相次いだ。
ベッサラビアには他の異民族が押し寄せると解体してしまうような短命の国が沢山興った。
不安定な国家状態と、民族の集団移動が、この数百年間の時代の特徴であり、後世では「暗黒時代」と呼ばれる。このような状況が終結するのは中世になってからである。
ベッサラビアにおいては6世紀までにスラヴ人が領土を形成し定住した。
スラヴ人の軍隊は小規模だが強力な騎馬戦士の集団であり、痕跡を残さずに移動することができた。
561年、アヴァール人が侵入し、支配者であったメサマーを処刑した。
582年には、ブルガール人のクトゥルグル(英語版)族がベッサラビア南部およびルーマニアのドブロジャ北部に住み着いた。
彼らは後にマジャル人の脅威からブルガリアのモエシア地方へ移動し、初期ブルガリアを形成した。7世紀には、トラキア人のベシ族(英語版)が移住した。
7世紀以降ハザール国が東方のカスピ海北岸に興り、異民族の侵入が衰えたことから、ようやくこの地に大きな国家を形成することが可能となった。
9世紀から13世紀にかけて、ベッサラビア北部はボロホベニ(英語版)、南部はブロドニチ(英語版)という国に属していた。
これらはヴラフ民族の国で、中世初期に成立した。
また、タタール人の侵入時に山岳地帯へ逃れなかったグループで、中世後期の歴史書にティゲチ(英語版)「共和国」と紹介されているものがある。この国は、ベッサラビアの南西部、現在のカフル(英語版)付近に位置している。
異民族の侵入で最後の大規模なものはモンゴル人とタタール人の侵入[1]であり、1241年(モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻)、1290年、1343年に起こった。
1390年代に追い出されるまで、彼ら異民族の小さな集団が、現在のオルヘイ周辺に住み着いていた。
モルダヴィア公国時代(オレンジ色)のベッサラビア(1800年)
モルダヴィア公国時代
1343年にモンゴル人に敗北した後、この地はモルダヴィア公国に編入された。
モルダヴィアは1392年までにチェタテア・アルバとチリア(セルビア・クロアチア語版)の要塞に支配権を確立した。東側の国境はドニエストル川である。
14世紀後半にこの地の南部が数十年の間ワラキアの領土となった。ワラキアの代表的支配者がバサラブと呼ばれ現在のこの地の名前の元となっている。
15世紀にこの地域のほとんどがモルダヴィア公国の領土となった。
モルダヴィア公シュテファン3世が支配していた1457年から1504年までの約50年の間にはオスマン帝国やタタール人などから32回も勝利を挙げ、敗北を喫したのはたった2回であった。
勝利の後にシュテファン大公は戦場の近くにキリスト教の修道院や教会を建てた。このような戦場、教会、要塞都市の多くはベッサラビアにある。
1484年にオスマン帝国が侵入し、チリアとチェタテア・アルバを攻略し、ベッサラビア南部の海岸線沿いを2地域に分けて併合した。
1538年にモルダヴィア公国の一部分だったベッサラビアはオスマン帝国の影響下に置かれることになる[1]。
1711年から1812年にかけてロシア、オスマン帝国、オーストリア間の戦争においてロシアはこの地を5回占領した。
1820年から1846年にかけて、ガガウズ人が長年のオスマン帝国の圧政に耐えかねてドナウ経由でロシアへ移住、ベッサラビア南部に定住した。
ノガイ・オルダにいたテュルク語族もまた16世紀から18世紀にかけてベッサラビア南部のブジャクに住み着いた。しかし1812年までにほとんどが追い出されてしまった。
ロシア帝国時代
1856年からベッサラビアからの葉書
1812年3月28日、露土戦争の結果として締結されたブカレスト条約により、オスマン帝国はモルダヴィア公国の東半分をロシアに割譲した。
この地はその時にベッサラビアと呼ばれた。この年以前においては南側の一部を占める部分の呼び名に過ぎなかった。
1814年、最初のドイツ人移民が到着し主に南部に住み着いた(ベッサラビア・ドイツ人(英語版))。また同地域にはブルガリア人も定住するようになり、ボルフラードなどの町を建設した。
クリミア戦争終結後の1856年、パリ条約の締結によりベッサラビア南部の2地域がモルダヴィア公国に返還され[1]、ロシアはドナウ川への進路を失った。キシナウを含む多くが国境地帯となった。
1859年にモルダヴィア公国とワラキア公国が同君連合を形成し、1866年立憲君主国を経て、1881年、ルーマニア王国となった。
ルーマニア独立戦争(露土戦争のこと)がロシアの支援の元1877年から1878年にかけて行われた。
この時ロシアとルーマニアの間で結ばれた同盟条約において、ロシアはルーマニアの領土を尊重し、戦後ルーマニアの領土に干渉しないことを約束したが、サン・ステファノ条約と戦後に開催されたベルリン会議では認められず、ベルリン条約によりベッサラビア南部は再びロシアに併合された[1][2]。
これにより民族意識が高まったルーマニア人はベッサラビア回復の衝動を大きく募らせることとなる[3]。
1903年4月6日、ベッサラビアの首都キシニョフ(キシナウ)に於いてポグロム(集団的迫害、ユダヤ人大虐殺)が行われた。
これは20世紀においてユダヤ人に対する最初の国家的行為で、47人ないしは49人のユダヤ人が殺され、92人が負傷し、約700軒の家が破壊された。
1911年の時点で、165の貸付組合、117の貯蓄銀行、43の貯蓄貸付組合、8のゼムストヴォ(ロシアの県単位の地方自治機関)の金融会社が存在し、資本は総計約1,000万ルーブルであった。また、89の政府貯蓄銀行もあり、預金総額は約900万ルーブルであった。
1917年のロシア革命後、ルーマニア人民族主義者の活動がベッサラビアにおいて進展し始めた。同年10月のロシア革命の混乱が広がるとベッサラビアに評議会(英語版)が設立され、120人がベッサラビアから、10人がトランスニストリアから選出された[注釈 1]。
1918年1月14日(旧1月1日)、第一次世界大戦のルーマニア前線から2つのロシア軍師団が撤退する間に、キシニョフがロシア軍に占拠された。
「キシナウ駅占領事件 (1918年)」も参照
ルムチェロド(英語版)委員会(ルーマニア(Румыния)戦線、黒海(Черное море)艦隊、オデッサ(Одесса)軍管区(ロシア語版、英語版)の労働者・兵士・船員ソビエトの中央執行委員会)がベッサラビアにおいて最高機関であると宣言した。
ルーマニア人の評議会は軍隊を招集することが出来ず、ルーマニア政府に援助を求めた。1月16日(旧1月3日)にルーマニア軍はキシニョフを制圧し、続いてドニエストル川沿いのベンデルも制圧。こうしてソビエトの支配は3日で終わった。
ルーマニア・ベッサラビアの統一宣言
10日後の1918年2月6日(旧暦1918年1月24日)、ルーマニア人の評議会はモルダヴィア民主共和国としてベッサラビアの独立を宣言した[1][注釈 2]。
しかし、ルーマニアをはじめとする、ドイツ、ウクライナ、ロシアら周辺強国による分離講和合意の調印から、モルダヴィアの民は次第にルーマニアとの連合を強く望むようになって行った。
これに促される形で議会はルーマニアとの連合の票決を問う姿勢を固めることとなる。
だが、その最中の2月26日(旧2月13日)、ルーマニア軍がモルダウィアの首都であったキシナウへ侵攻するという事態が発生する。
1918年4月9日(旧1918年3月27日)ベッサラビア議会(旧評議会)においてルーマニアとの統一を問う投票が行われ、賛成86票、反対3票、棄権36票で統一が可決された[1](ルーマニアのベッサラビア統一(英語版))。
1918年の時点で、鉄道の総延長は657マイル。ロシア方面へつながる本線は広軌であった。
鉄道車両・敷設用地の状態は劣悪だった。機関車は約400台で、うち使用可能なのは100台であった。290台の客車を有していたが、他に33台は修理が必要だった。
また、4,530台の貨車と187台のタンク車のうち、それぞれ1,389台と103台が使用可能であった。ルーマニア人が軌間を標準軌 (1435mm)に改修し、ヨーロッパ諸国と接続した。
ルーマニア領時代
ベッサラビア領有期のルーマニア(1920年~1940年)
1919年5月5日にボリシェヴィキによるベッサラビア暫定政府がオデッサに設立された。
1919年5月11日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の自治領として、ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国(英語版)の成立が宣言されたが、1919年9月、ポーランド軍とフランス軍により阻止された。
しかしながら1922年、ロシア内戦におけるボリシェヴィキの勝利の後、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が成立。1924年、ウクライナ領であるドニエストル川以東の一部地域が、モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国として成立を宣言した。
1920年に行われたパリ平和会議(パリ条約)で、ルーマニアとの統一連合はアメリカ、フランス、イギリスおよび西欧諸国に承認される[1]こととなり、その日にキシナウを含むベッサラビア地方がルーマニアに併合された。しかしソビエト連邦だけは承認しなかった[1]。
第二次世界大戦期
1939年8月23日、ドイツとソビエト連邦の間でモロトフ=リッベントロップ協定が調印された。
表向きの内容はドイツとソビエト連邦の不可侵条約であったが、付属する秘密議定書の第3条には、ベッサラビアをソビエト連邦の勢力範囲とし、ドイツはベッサラビアにおけるソ連の権益を承認することが定められていた[4][5]。
1940年6月26日、議定書の条件にもとづき、ソビエト連邦はルーマニアに対し、ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲、および軍隊の4日以内の撤退(さもなくば軍事力を行使する)を要求する最後通牒を発出[1]、ルーマニア政府と国王カロル2世はこれを応諾せざるをえなかった[1][6][7]。
両地域合わせて広さ51,000 km2に及び、人口は375万人で大部分はルーマニア人であったが、ソビエト連邦は主にウクライナ人が居住しているものと主張した。
2日後、ルーマニア政府は軍隊の撤退を開始した。
ソビエト軍はベッサラビアに進駐し、ベッサラビアをソビエト連邦に併合、モルダヴィア自治共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国に分割した。
ベッサラビアの北部および南部地域はトランスニストリア(ドニエストル川東部地域)と領土の交換がなされた。
この地域は領土交換前にはルーマニア人が大部分を占め、その他ウクライナ人とドイツ人で構成されていたが、今日ではウクライナ人とロシア人が大部分を占めている。
ソ連占領後のベッサラビアから鉄道で他国へ移住するベッサラビア・ドイツ人たち(1940年)
ソビエト連邦への支配権の移行に伴い、多くのベッサラビア人は処刑されるか、シベリアやカザフスタンへ強制移送された。
1940年8月2日、新たな領土を加え、モルダヴィア自治共和国がモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国に再編された。
同年9月、ベッサラビア在住のドイツ人住民は、ドイツ国内へ再定住するよう申し出を受けた。
ソビエト連邦の抑圧を懼れ、約93,000人のドイツ人住民のほとんどがこの申し出に同意した。
そして大多数の住民は、ドイツがポーランド侵攻により新たに併合した地域に再定住した[注釈 3]。再定住を拒否した場合、赤軍に殺された者も多かった。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦により、ルーマニアを含む枢軸国軍のソビエト連邦への侵攻が開始された[8]。
ソビエト連邦はベッサラビアからの退却の際に焦土作戦を採用し、輸送可能な物資をすべて鉄道でロシアに輸送した。
7月の終わりには、1年間におよぶソビエト連邦の占領期間の後、ベッサラビアは北ブコヴィナと共に再度ルーマニアの支配下に戻った[9]。
ルーマニア兵は再占領作戦の途上、ベッサラビア在住のユダヤ人に対しポグロムを開始し、数千人の死者を出した。
1940年当時はヒトラーによるユダヤ人根絶政策は「解放」とみなされていたため、ソビエト連邦と手を結んでいるとされたユダヤ人は憎悪の対象となった。
同じ頃、ナチス親衛隊(SS)のアインザッツグルッペン[注釈 4]が、スパイ・破壊活動家・共産主義者等の口実のもとにユダヤ人を処刑した。
約20万人のユダヤ人がゲットーや強制収容所に入れられた後、1941年から1942年にかけてルーマニア占領下のトランスニストリアまで、死の行進をしたといわれる。
数年間の比較的平穏な期間の後、独ソ間の戦線は1944年にはドニエストル川まで後退した。
8月20日、90万人の赤軍は、ヤッシー=キシニョフ攻勢に転じた。
ソビエト連邦は二方面の攻撃により、5日のうちにベッサラビアを制圧した。
1942年から43年のスターリングラード攻防戦での敗北ののち再編成された約65万人のドイツ第6軍は、キシニョフとサラータ(英語版)での戦闘において全滅した。
ソビエト連邦の勝利を受けてルーマニアはドイツとの同盟を解消し、前線はルーマニア以西に転換した。
1944年8月23日、対独同盟に固執したルーマニア指導者のイオン・アントネスク元帥は退陣・逮捕され、国王ミハイ1世が復権した[8]。
ソビエト連邦時代
ソ連時代のモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(赤色)
1944年、ソビエト連邦はベッサラビアを再併合[1]、また1947年、ブカレストに親ソ共産主義政権を樹立し、1958年までルーマニアを占領した。
ソ連軍占領下の社会主義共和国政権は、ベッサラビアとブコヴィナの領土問題をソビエト連邦に提起することはなかった。
「ルーマニア・ソビエト連邦関係におけるベッサラビア(英語版)」も参照
1969年から1971年にかけて、キシニョフにおいて秘密結社国民愛国戦線(英語版) (Nordul Bucovinei) が、数人の青年知識人を中心に組織され、そのメンバーは100人を数えた。
彼らはモルダヴィア民主主義共和国の建設と、ソビエト連邦からの離脱およびルーマニアとの統合に向けて戦うことを誓った。
1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会 (the Council of State Security) 委員長のイオン・スタネスク(ドイツ語版)から、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報に基づき、アレクサンドル・ウサティウク=ブルガル(英語版)、ゲオルゲ・ギンプ(英語版)、ヴァレリュー・グラウル(英語版)の3人の国民愛国戦線指導者、および北ブコヴィナの秘密結社の指導者アレクサンドル・ソルトイアヌ(英語版)が逮捕され、長期刑を宣告された。
モルドバの独立
ソビエト連邦の弱体化を受け、1988年2月、キシニョフで最初の未認可デモが行われた。
ソ連政府に敵対的になった民衆は、ロシア語に代わりモルドバ語(ルーマニア語とほとんど同じ)を公用語とするように要求した。
1989年8月31日、4日前のキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、モルドバ語がモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の公用語となった。
1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行われた。
候補者に野党も含まれていたが、勝利したのはその野党だった。フロントゥル・ポプラル(英語版)(Frontul Popular:人民戦線)の指導者の一人、ミルチェア・ドルク(英語版)による政府が組織された。モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国はソビエト社会主義共和国・モルドバ (SSR Moldova) となり、後にモルドバ共和国となった。
1991年、モルドバ共和国が独立。国境線は1940年8月2日のモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国成立時からほとんど変更されていない。
人口構成
第二次世界大戦以前の人口構成は、主にモルドバ人(ルーマニア人)、ウクライナ人、ブルガリア人、ドイツ人、ガガウズ人、ルテニア人、ユダヤ人からなっていた。このうちの多くはモルドバ人であった[1]。
1889年:1,628,867人 1897年:1,936,392人 1970年:モルダヴィアの人口の69%はルーマニア人で、そのうち98%がモルドバ語を母国語としていた。 1989年:モルドバ共和国の公式資料では、88,419人のブルガリア人が記録されていた。 1992年:モルドバ共和国からイスラエルへの移民は4,305人であった。これは1年間の旧ソビエト連邦からイスラエルへの移民の7.1%であった。 2004年:国勢調査によれば、トランスニストリアを除く地域に65,072人のブルガリア人が記録されていた。
1817年ロシア国勢調査(計482,000人)
ルーマニア人:83.848世帯 (86%) ルテニア人:6.000世帯 (6.5%) ユダヤ人:3.826世帯 (1.5%) リポバン(英語版)(ロシア正教会からの分派:古儀式派):1.200世帯 (1.5%) ギリシャ人:640世帯 (0.7%) アルメニア人:530世帯 (0.6%) ブルガリア人:241世帯 (0.25%) ガガウズ人:241世帯 (0.25%)
1856年ロシア国勢調査(計990,000人)
ルーマニア人:736.000人 (74%) ウクライナ人:119.000人 (12%) ユダヤ人:79.000人 (8%) ブルガリア人・ガガウズ人:47.000人 (5%) ドイツ人:24.000人 (2.4%) ロマ(ジプシー):11.000人 (1.1%) ロシア人:6.000人 (0.6%)
1897年ロシア国勢調査(計1,935,412人)
ルーマニア人:1.092.000人 (56%) ロシア人・ウクライナ人:373.000人 (18.9%) ユダヤ人:229.000人 (11.7%) その他(ドイツ人、ブルガリア人、ガガウズ人他):259.000人 (13.4%)
1930年ルーマニア国勢調査(計2,800,000人)
ルーマニア人:57% ロシア人:12% ウクライナ人:11% ユダヤ人:7% ブルガリア人:6% ドイツ人:3% その他(ガガウズ人、ロマ、ギリシャ人 、アルメニア人):1%
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ トランスニストリアはドニエストル川以東に位置し、モルドバ人(ルーマニア人)が居住している。 ^ 首都となるキシナウはこの当時、まだ地方都市程度の扱いでしかなかった。 ^ 第9代ドイツ連邦共和国大統領ホルスト・ケーラー(在任2004年~2010年)の両親もその中に含まれる。 ^ ここではベッサラビアからコーカサス方面担当のアインザッツグルッペン-D。
出典
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『ベッサラビア』 - コトバンク ^ ポロンスキ 1993, p. 109 ^ ポロンスキ 1993, p. 128 ^ ポロンスキ 1993, p. 123 ^ 独ソ不可侵条約秘密議定書 - ウィキソース英訳版 ^ ポロンスキ 1993, p. 124 ^ ルーマニア、ソ連にベッサラビアを割譲『東京朝日新聞』(昭和15年6月28日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p384 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ a b ポロンスキ 1993, p. 126 ^ ポロンスキ 1993, p. 184
参考資料
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アントニー・ポロンスキ 著、羽場久浘子監訳、越村勲、篠原琢、安井教浩 訳『小独裁者たち 両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1993年2月15日。ISBN 4-588-02137-0。 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫。山川出版社、1998年12月(新版世界各国史;20)
関連項目
ベッサラビアの紋章の一覧(ルーマニア語版)
外部リンク
Довідник з історії України. За ред. І. Підкови та Р. Шуста. — Київ: Генеза, 1993.(ウクライナ語) 表話編歴
ウクライナの歴史的地域
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カテゴリ:ベッサラビア 最終更新 2022年11月13日 (日) 02:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』











