日本兵は“餓死”する必要など無かった!
2024/04/02/ 07:09 / 兵頭二十八
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並木書房のHPから、来月の新刊『自転車で勝てた戦争があった』の予約ができるようになりましたので、ご案内します。
戦前の日本の自転車を語る場合、それは宮田製作所を語ることと重なります。
戦前のわが国を代表する自転車メーカーの創業者であった宮田栄助(1840~1900)は、明治9年に茨城県から東京に出て来て、すぐ砲兵工廠で雇われました。もともと銃工であったのと、西南戦争とが、幸いしたようです。
彼は明治14年に東京府下の京橋に自分の製銃工場を持ちます。猟銃の受注生産と、工廠からの請負仕事とがあったと『宮田製作所七十年史』(S34)は説明をします。
おそらく陸軍は、小石川の東京砲兵工廠の製造能力だけでは「十三年式村田歩兵銃」を急速量産できなかったのでしょう。その製造を、工廠と分担して民間工場が手伝うサプライ・チェーンが、自然に成立したのだろうと私は思います。ピーク需要をそうやって調節したのです。
明治14年の『朝野新聞』に、種子島銃工が失職したので、村田銃量産のために東京に呼んだら、皆、優秀であったと書いてあるそうです。宮田は、彼らの間で成功モデルになっていた可能性があります。
明治20年時点で、工場経営者であった宮田栄助本人が、それと同時に、工廠にも籍を置いていました。
おそらく「十八年式村田歩兵銃」の量産にフルに関わっていたのでしょう。明治23年以前には、そういうことができたのです。
宮田は明治23年に自分の工場を都内の本所へ移し、そのさいに社名を「宮田製銃所」にしました。
『七十年史』はその理由を書いていませんが、私の想像では、「二十二年式村田連発銃」の部品の受注を期待し、意気込みを反映しているのだと思います。
ところが、俄かに風向きが変わります。23年か24年に、工廠からの発注が止まったのです。
これは、明治憲法が23年から施行され、帝国議会が同年に始まったことと関係があると思います。
これ以後、砲兵工廠の当年度予算は、前年に国会で決められるようになりました。
そんな整った予算制度がなかった草創期ならば、たとえば村田経芳の一存で、工廠内で猟銃商売(いわゆる「猟銃の村田銃」。古い軍用制式ライフルの機関部を転用して国内最安値の単発猟銃――散弾銃/マスケット銃――を民間に普及させようとした。受注カスタム生産であった)を推進したり、即決で周辺の民間工場に随意契約の仕事を外注することは自在だったのでしょう。
が、もはやそれはゆるされなくなった。
だから村田も23年に少将昇進と同時に予備役になっているのでしょう。その直前には、それまでの労をねぎらわれる形で欧州を公費で漫遊し、日本を留守にしています。巨額の設備投資をしていたさなかの宮田は、ボスの不在にさぞや気を揉んだでしょうね。
すっかり「お役所」らしくなった東京砲兵工廠は、もはや「二十二年式村田連発銃」の製造を宮田に外注してはくれなくなりました。突如として宮田は、安定した収入源であった軍銃の下請けに、見切りをつけねばならなくなったのです。
それで明治24年に自転車製造に転じたというのが、真相ではなかったでしょうか? これは私が『宮田製作所七十年史』を深読みした推測です。
余談を続けましょう。
村田は、早くも明治十年代において、日本の「銃猟家」としても「猟銃設計者」としても五指に入る有名人でした。
明治25年に農商務省が刊行した『狩猟図説』には、村田猟銃には不発が多いこと、バレルに螺旋が入っていないことが指摘されています。
宮田栄助が軍銃部品の請負に見切りをつけたとき、村田自身は、安価な猟銃の全国普及に没頭するようになっていました。そうすることが、明治22年にスイスの国民皆兵制度を視たときからの、村田の信念でした。
明治32年発行の『銃砲正價報告書』は、横浜の金丸謙次郎の銃砲店で取り扱っている商品のカタログです。たしか、国会図書館かどこかにあったのを私は見ました。
そこに村田式猟銃の図が載っていて、「十三年式村田歩兵銃」の機関部を流用していることがわかります。売価は¥10円から、いろいろあったことも……。とにかく安いので、マタギにも村田猟銃がいちばん普及したわけです。
村田経芳と南部麒次郎には、似通ったところがあります。
軍の工廠にはコンスタントに仕事が流れるべきなのに、しばしば、何の受注残もなくなってしまう「端境期」といえる時節が生じます。
終身雇用制ではなかった明治時代、腕の良い工員たちは、すぐに外に実入りの良い仕事を探して転職してしまう。
村田は、生産設備を一時も遊休化させない配意として、工廠の工作機械を使った猟銃商売を始めました。
南部は、いっそ自分で民間軍需企業を経営してやろうと考えました。
私は、南部は「日本のクルップ」になりたかったのではないかと思います。しかし、これは証明することができません。
また、村田流の臨機即決的なビジネスの多角化は、時代とともに予算の執行手続きがうるさくなる一方の砲兵工廠の事務方と、かならずや摩擦・衝突をきたしたはずだと思います。しかし、それを証拠だてる史料もありません。
杉浦久也先生ほか、多くの方が、戦前の兵器製造史の解明に挑んでおられ、その成果はめざましい水準に達しております。
にもかかわらず、依然として明治の銃砲開発にかんしての、匿された真相が多く残っている。5月発売の『自転車で勝てた戦争があった』の中では、そんな想像も、あれこれと致しております。
乞う、ご期待!』