第一次世界大戦における欧州戦線派兵要求と日本の対応
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/199803/05.pdf
※ 『現在、冷戦体制が崩壊し、一次大戦終結後と同様、世界は新たなる枠
組みを求めて大きく変化しつつあり、日米経済関係、安全保障条約も新
たなる情勢を迎えつつある。
一次大戦及びその中の欧州派兵問題には多
くの教訓が含まれているように思われる。』…。
※ まあ、そういうこったな…。
『はじめに
大正三年八月に勃発した第一次世界大戦(以後「一次大戦」と略記)で
は、日本は日英同盟の情誼に基づき、東亜の平和確保のために参戦し、イ
ギリス軍と協同してドイツの勢力を瞬く間にアジア太平洋方面から一掃
した後、大正七年十一月の停戦まで太平洋及びインド洋の連合国海軍の
主力として同海域の海上交通を安全に保って戦勝に寄与して来たことは
周知の通りであり、また戦争の全期間を通じて連合諸国へ大量の武器弾
薬、軍需品を供給してきたこともよく知られている。
しかし連合諸国から日本陸海軍の欧州方面への派遣要請が執拗になさ
れ、厳しい外交交渉が展開された事実は余り知られていない。
今回の発表はこの「欧州派兵問題と日本の対応」に関する調査研究結
果の概要である。
なおシベリア出兵は、その動機の中に大陸経営問題の
有利な解決とい、つ日本の宿年の願望が潜在し、欧州派兵問題とは同質で
ないと思われるので、ここでは取り上げない。
永井奐(※ 火辺にこのつくり)生
ー 欧州派兵要請と日本政府の対応
開戦〜大正五年とそれ以降では派兵要請の背景や頻度に違いが見受け
られるので、便宜上初期と後期に区分することにする。
(一) 初期の派兵要請状況
陸軍部隊に対する派兵要請は参戦後わずか一週間の大正三年八月三十
一日にロシアから出された三個軍団の派遣要請が皮切りで、これにイ
ギリスが続き、更にフランスでも外交ルートにこそ乗らなかったものの
言論界が盛んにアピールしていた(2)。
当時の戦局は連合国(英仏露三国協商)側が同盟側(独、填)に押し
まくられ、西部戦線では勇戦敢闘の後にベルギー全土が陥落、フランス
も奥深く侵攻され、九月三日にはパリからボルドーへ遷都せざるを得な
いほどであった。
東部戦線では開戦直後には優勢であったが八月末以降
は総崩れ、中東では十一月に同盟側に立ってトルコが参戦し、スエズ運
河に危機が迫る状況であった。
その上、連合国側の戦備は緒戦から日本
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に武器弾薬の供給を仰ぐ(3)ほど不十分なありさまで反撃準備もままなら
ず、戦局の前途は暗澹としたものであった。
彼らは同盟側の進撃を食い
止めるためにも、反擊体制を整える時間稼ぎのためにも、日本軍の来援
を望んだのである。
一方ロシアとフランスにとって、日本は共同の敵と戦っている味方で
はあったが同盟国ではなく、イギリスを介して結ばれているに過ぎな
かった。
日本が単独講和して日独同盟に走ることを深く憂慮した彼らは
それぞれ日英同盟への加入申請(4)、これが謝絶されるや英仏露単独不講
和宣言への加入を1Iしてきた。
この一連の外交攻勢から見て、派兵
要請は日本を連合国の一員として深く戦争に巻き込む狙いがあったもの
と思われる。
海軍に関しては大正三年九月三日を皮切り(6)に要請が続いたが、陸軍
の場合と異なって要請国はイギリスだけであった。
連合国海軍は、彼ら
にとって致命的に重要な海上交通線を確保するためには、強力なドイツ
主力艦隊、オーストリア艦隊及びドイツ装甲巡洋艦ゲーベンを含むトル
コ艦隊をそれぞれ北海、アドリア海及び黒海に封鎖するとともに有力な
ドイツ東洋艦隊を捜索撃破し、また世界の海洋に放たれた多数の通商破
壊用仮装巡洋艦を掃討するほかドイツ潜水艦を制圧する必要があった。
更には苦戦する陸戦を支援する任務もあった。
しかしこのように広大な
任務を遂行することは、世界に卓越したイギリス海軍を核とする協商国
海軍を以てしても耐えられるものではなかった。
このような状況下、 参戦交渉時には日本の勢力拡大を恐れてその軍事
行動範囲の局限に固執したイギリスであった(7)が、太平洋とインド洋で
は日英同盟の規定する義務を越えた協力を要求せざるを得なくなった。
日本海軍は南洋諸島獲得の底意もあって全面的にこの要請に応じてきた
が、それでも尚、欧州海域の海軍力不足は深刻であった。
(二)初期の日本の対応
執拗な欧州派遣要請に出会った加藤高明外務大臣は陸海軍の意見を聴
取の上、大正三年十一月十四日付でイギリス外務大臣宛てに欧州派兵が
不可能な旨の覚書(8)を送った。
覚書には次のようにある。
「帝国軍隊八徴兵制度及国民皆兵ノ主義二基キ組織セラレ其唯一 ノ目的
ハ国防二在ルカ故二国防ノ性質ヲ完備セサル目的ノ為」に「遠ク国外二
出征セシムルコト八其組織ノ根本タル主義卜相容レサル所」であり、
またこれを実行の面から考究すると「決勝的効果ヲ奏スルニ八十個軍団」
以上を「派遣スルヲ要ス」が、これは「帝国軍隊全部ノ動員及派遣」で
あって「帝国八其防御カヲ欠如スル」ことを意味する。
しかも輸送のた
めには「大凡二百万噸ノ船舶」を要し、後方連絡維持にも多数の船舶を
要すので「資金及物資ヲ得ル困難」と相俟って「計画実行ヲ殆卜不可能」
とする。
これに加え「帝国軍制未タ曾テ予見セス且殆卜実行不可能ナ海外遠征
八唯国民ノ感情」が白熱した時にのみ決行できるが現状では「国民一般
ノ同意ヲ得ル」こと覚束なく「議会ノ協賛ヲ得ル」ことも期待できない、
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として拒絶した。
また大正五年十一月、フランス大本営における連合国
軍事会議への参加要請に対しては、日本は派兵要請問題が議題になるの
を怖れて代表権のない陸軍中佐一名を出席させただけであった。
(三)後期の派兵要請状況
左記の覚書によって日本の派兵が見込み薄であることが認識されたこ
と、 日本が大正四年十一月に単独不講和宣言に加入して事実上同格の連
合国の一員となり、旗色を鮮明にしたこと及び戦線が膠着して反撃準備
に時間を得たこと等から一時期、派遣要請は激減していた。
しかし大正
六年に入ると俄然増大し、かつ切羽詰まった様相を帯びてきた。
この背景には、陸軍の場合にはロシアの政情不安、二回にわたる革命
そして単独講和という東部戦線崩壊に至る一連の流れがあり、更に大正
六年十一月にはイタリア軍が大敗を喫し、同国の連合国脱落も憂慮され
るという事態が加わった。
これらは西部戦線のバランスを大きくドイツ
側に傾ける要因であり、同戦線の崩壊、延いては戦争が連合国の敗北で
終わることも深刻に憂慮れたのである。
朗報としてはアメリカの参戦と
二百万の大軍派遣の意志表明があったが、これらが実戦力となるのは遠
い先のことと受け止められていた。
海軍の場合には大正五年後半からドイツによる通商破壊戦が激化して
船舶の大量喪失が惹起され、翌年二月には無制限潜水艦戦の実施が宣言
されるに至り更に深刻となった。
船舶の喪失増大は海上交通への依存度
の高い連合側にとっては死活問題である。
これに加えてロシア海軍艦a
の接収により、ドイツの海軍力が一段と強化される可能性もあった。
このような状況下に、膨大なアメリカ陸軍部隊を大西洋を越えて輸
送するという大きな任務が海軍にかかってきたのである。艦艇部隊は引
く手数多であった。
(四)後期の日本の対応
この頃には、政権は大隈内閣から寺内内閣へ移行しており、対支関係
を中心に外交方針も変化したが、欧州派兵問題に関しては、基本的には
拒否の姿勢を維持していた。
ア艦隊の派遣要請と対応
大正六年一月十一日、イギリスから地中海へ一個駆逐隊、喜望峰へ巡
洋艦部隊の派遣要請(9)を受けると日本は情勢の変化を認めて態度を変更
し、各種交換条件付で地中海へ一個水雷戦隊(巡洋艦一隻、駆逐艦八隻)、
喜望峰へ巡洋艦二隻の派遣を承認した10)。
交換条件中特記すべきものは「我政府八山東及南洋諸島二対スル我要
求ヲ支持スヘキ英政府ノ保障ヲ要求スル」と英国海軍の指揮下に入らず
協同作戦とする条件であろう。
後者は天皇統帥大権という日本独特の憲
法に由来するもので、開戦当初からこの原則を貫いてきたが、イギリス
としては使い難かったことであろう。
なお、他の連合諸国海軍は状況に
応じて他国指揮官の指揮下に入るのは当たり前のことであった。
同年五月には英国皇帝から更に駆逐艦増派の要求がありfiv日本は
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「代艦建造資材供給」を交換条件として一個駆逐隊(四隻)増派を承認し
た(12)。
この頃、人的資源の不足に悩むイギリス海軍は、日本の軍艦旗を
掲げるがイギリス海軍の指揮下で作戦する条件の下に駆逐艦十四隻、ス
ループ六隻、トロール船改造型哨戒艇三隻分の将兵派遣を要請してきた
が、これに全面的に応ずることは、新規に予備役召集を要するほか派兵
問題との絡みも出てくるので第二特務艦隊の増員という名分の立つ範囲
で将兵をやり繰りすることとし甘)、駆逐艦とトロール船型哨戒艇各二隻
に配員して同艦隊の指揮下に入れた(14)。
更に翌年冬には老朽小型駆逐艦
の増派要請もあった(やが拒絶した。
一方、フランスが駆逐艦譲渡を申込んできた(16)が、日本は保有に余
裕がないため謝絶し、その代りにフランス注文の下に十二隻を急造する
ことになった(17)。•
その他、フランス、イタリアからも駆逐艦派遣の要請があった(18)が
拒否、開戦後建造の新式駆逐艦の大半は既に派遣済みであり、実際にも
「無い袖は振れぬ」状態にあった。
駆逐艦の他、 イギリスとアメリカから新鋭主力艦の割愛や大西洋派遣
の要もあったが全て拒否した。
イ陸軍部隊の派遣要請と対応
東部戦線の崩壊に伴う危機感やアメリカの遠征軍派遣表明を受けて大
正六年秋には、連合国の主要国ながら一兵も派兵していない日本に対し、
官民挙げて派兵要請の声が上がつた。
在外大公使はそれが不可能な旨の
弁明に奔走していが、派兵要請の声は逐次、対日非難の色を帯びつつ
あった。
折も折り、軍事上の形勢の考究とロシア援助方策の協定のため
パリで連合国代表者会議が開催されることになり、派兵問題が大きな議
題とされ兼ねない形勢となってきた。
十一月二十一日、外務大臣は代表委員(珍田駐英大使、松井駐仏大使)
に「巴里連合国会議二於テ日本欧州出兵ノ要請ガ正式会議ノ議題トナラ
ザル様尽力方」を訓令した(19)。
これを受けた代表委員は、それまでの戦
争協力実績と今後の戦争協力方針(物的及び経済的協力の一層強化)並
びに欧州派兵の不可能な理由について事前の説明に奔走し、議題としな
い旨了解を得た。
しかしそれでも尚、フランスのピジョン外相は諦め切
れなかったのか内協議会で「暗二出兵ヲ求ムルノ意ヲ仄カシタ」20)ので、
やむなく席上で再説明、「説明中出兵不可能二関スル部分八席上二好感ヲ
与へ得サルハ勿論」21)であったが、本会議での正式議題化の阻止にはど
うにか成功した。
出兵不可能との理由は既述の加藤外相の覚書を基本とし、「海外遠征二
必要ナル編成卜装備ヲ有セズ」及び習慣、気候、風土の違い等を付加し
たものであったが、説明の重点は「輸送上ノ困難」に置かれた。
二 日本政府の説明には説得力があったか
理由はともあれ、日本が拒否すれば要請国は諦める以外にないが、果
たして十分に納得して引下がったであろうか。
日本政府の説明は大島陸
軍次官の素案をベースにしたものであるが、以下各項目を検討してみよ
12う。
「組織ノ根本タル主義卜相容レサル所」云々は純然たる国内的建前論で
あって「国防」の解釈や運用の問題であり、 事実参謀本部も「是一種ノ
偏見タルヲ免レス」と一蹴し「東洋永遠ノ平和二軫念アラセラレル聖旨」
に沿うものと考えていた22)。
「装備ヲ有セス」関連は連合与国が提供を
申し出ているので問題とならない。
「決勝的効果ヲ奏スルタメ」十個軍団(後に四十五個師団を主張)の派
遣は日本の独断で、要請側は三個軍団、甚だしくは義勇軍でも可と述べ
ているのである。
「帝国八其防御ヲ欠如スル」との下りは、「支那トノ関
係モ米国トノ関係モ極メテ順調ナル此際」、なぜ強力な防御が必要か23)、
と言外に日本の膨張主義を疑われる状況であつた。
「輸送上ノ問題」は事実、困難な問題ではあるが十年前の日露戦争では
ロシアは極東に百万の大軍を輸送し、また本大戦でもイギリスはカナダ
及び大洋州からだけでも五十万以上の将兵を海上輸送した実績を持ち、
更に大正六年春にはアメリカが二百万の大軍の派遣を表明していたので
ある。
要するに意志の問題と受け止められても仕方ない。
事実、参謀本
部の研究24)では、困難ではあるが連合国の協力があれば、モスクワ周
辺へ五十個師団の派遣も可能としている。
「財政上ノ困難」については約
六十億円(四十五個師団の輸送及び一年間の維持)と見積っており、巨
額であるが実はイギリスの戦費三カ月分に過ぎないし、同国は当初、所
要経費の負担を申し出ているのである。
なお経費の相手側負担は国家威
信に抵触するとして参謀本部は論外としている。
愛国心や国民感情を燃えさせ「国民ノ同意」を得ることや「帝国議会
ノ協賛」を求めるのは政府の任務そのものである。
また本来「国民感情」
の持ち出しは反英、反仏、反露、反米感情と受け取られ易い微妙な問題
でもあったであろう。
「気候風土等ノ問題」についても、既述の参謀本部
の研究では「不可能二非サルコトハ印度、豪州及亜弗利加軍隊ノ欧州戦
場ーー於ル行動二徴シテ現二証明セラレアル」として一蹴している。
このように不備な理由を、遷都を強要され、あるいは首都が砲爆撃に
曝され、国土を侵略された状態の、また人的資源、物的資源及び財力の
限りを尽くしても尚、危急存亡の淵に喘いでいる要請国に納得させよう
というのである。
彼らにとって日本の言い分は余りに建前的で不信と苛
立ちの種であっただろう。
事実、在外日本大公使からの電報には説得の
苦労がにじみ出ており、中には「十分相手ノ得心ヲ得ルー一足ルへキ論証
ノ材料速二御開示ヲ得タシ」との電報ー25)さえ見られる。
論拠の不足に加え、在外日本大公使や大使館付武官から「我国言論界
ノ連合国誹謗、親独的発言」に対して苦情26)が相次いで舞い込み、ま
た参戦や単独不講和条約調印、更には地中海への艦隊派遣は誤り•であっ
たといわぬばかりの議会の論戦など「一体日本は連合国の一員なのか」
と疑わせるような国情が理由説明を一段と色褪せたものにした可能性も
否定できない。
また、連合国諸国の疲弊が進む中で、日本唯一人が空前
の戦争景気に沸いていたのも嫉妬の的であり、感情的にも受付け難かつ
たであろう。
そして度重なる派兵拒否は「日本八戦争二依リ非常ナル利益ヲ得同盟
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国ヨリハ適当ノ待遇ヲ受ケ・••二拘ラスー向同盟国二対スル責務ヲ顧
ミズシテ自己ノ利益ヲ図り居レル・こ27)と受け取られ、 説得力不足を
露呈するのである。
三 派兵拒否の本音
政府説明は既述の如く必ずしも本音ではない。
では本音は何処にあっ
たのであろうか。
日本では「参戦は日英同盟の情誼に基づく、従って責任範囲は同同盟
の義務範囲内に限定」する認識が底流にあったが、派遣の主体である陸
海軍にはこれ以外に次があった。
海軍の場合には、感情的には「開戦当時英国八極東方面二於テスラ帝
国海軍ノ行動範囲制限ノ意向ヲ有シタルニ拘ラズ今更地中海派遣ヲ求ム
ルカ如キハ頗ル不条理28)」との参戦交渉時における対英不信感、少なく
とも不快感があったが、最大の理由は「•・意外ナル突発事件ノ為二開
戦ノ止ムナキニ至コトアル事実アルニ想倒セ八差当り我国ノ存亡二関セ
サル欧州戦争二我唯一 ノ恃ミトスル主力艦隊ヲ送り其運命ヲ賭スルコト
ハ・•危険ヲ感スル」とあり、また派遣条件の「若シ将来米国卜日本卜
開戦スル時八我二助力スルコト」29)に見るように突発事件とは日米戦を
示すので、対米顧慮にあったといえる。
実際、日米関係は日露戦争以後
円滑を欠く傾向にあって日米戦を想定した書物も多数出版され、参戦当
時には移民問題の険悪化やアメリカ・メキシコ紛争への日本関与の疑惑
等が重なって日米戦の可能性も現実味を帯びて論じられていたのである。
それ故、太平洋及びインド洋では装甲巡洋艦の艦以下の補助艦艇を以
て日英同盟の義務以上の協力を行って来たが、主力艦部隊は本土沿岸に
拘置していたほどであり、戦艦及び巡洋戦艦の欧州派遣などは以ての外
と考えられていたのである。
大正六年の地中海派遣は内閣の交代による方針変換の若干の容易化、
無制限潜水艦戦の宣言やアメリカの参戦等情勢の変化、海軍内に大戦に
おける新戦術及び新兵器の調査研究の必要性を認める気運の発生30)が
誘い水となったことは確かであるが、対英交換条件に「南洋諸島の永久
占領」のみを挙げている(31)ように、海軍が承認した根本的理由は南洋
諸島領有の願望であったろう。
陸軍の場合、参謀本部は政府説明の各項目が実は口実に過ぎないこと
を百も承知であった。
では、本音は何処にあったのであろうか。
参謀本部は日本が欧州派兵を拒否し、地中海へ小規模な艦隊の派遣だ
けで終わるならば「与国ノ我二対スル猜疑怨念八彼等ノ国運危胎ノ度ヲ
高ムルニ比例シテ益増加」し「平和ノ折衝二方リテ権威アル発言至難」と
なるだけでなく「戦後二於テハ戦争間二成立瀾満セシメタル与国国民ノ
増悪的思潮」は「排日的行為トシテ現出スルハ殆卜疑フ」余地なく、「将
来」ノ帝国八孤立無援恰モ今戦役二於ル独逸ノ境遇二至ルモノト覚悟セ
サルへカラス」と出兵拒否の影響を懸念はしていたが、
反面では「然レ
トモ斯クノ如キハ畢竟欧米人ノ正義人道論二等シク」どー蹴、「出兵ノ是
非八其成敗利鈍二依リテ打算決定スルコト」との重大性を強調し「出兵
二因り大戦ノ終局ヲ見ルニ至ル場合二於テハ果タシテ与国力衷心帝国二
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感謝ノ意ヲ表」するや否や、「(出兵で)国力ノ減退ヲ来スニ於テ八却テ軽
蔑ヲ招ク」のではないかとの疑念、即ち出兵努力に対す.る評価と報酬へ
の不安を指摘している32)。
また「帝国ノ利権ヲ完シ東洋永遠ノ平和ヲ企画敢行センカ為二ハ兵備
ヲ厳ニシ• ・威厳ヲ備ヘテ他ノ横議ヲ制セサル可ラス何ゾ帝国軍ノ主力
ヲ割テ遠ク絶海二派遣シ得へキ秋ナランヤ」とし更に今回の戦争では列
強は疲弊困^して「東洋ノ利権二触ルルヲ得サルヘシ故二帝国八前述ノ
如キ困難ヲ冒シ経費ヲ投シテモ敢テ大軍ヲ欧西一ー出ササル可ラサルノ理
由ヲ発見セス」とある33)。
当時の東洋重視は伝統的な支那満蒙への関心
のほか、底流には将来の世界政治を白色人種と有色人種の抗争と読み、
その場合には有色人種の盟主は日本、衝突発生の場を東洋とする思想の
影響もあった。
この観点に立てば白人同志の星の潰し合いである欧州戦
線は彼らに任しておき、我はその間に実力を養って東洋で圧倒的優位に
立てるように努めることが先決であった。
更に「帝国八出兵ノ結果 戦後二於テモ独・填卜益反目ノ形勢ヲ持続」
し、戦後も引続き「英国卜提携シ独国•••対手ノ地位一ー立ツ」ことに
なるがそれで良いか。
「英独両国中間二立」つべきか、あるいは「早晩極
東二於テ利害ノ衝突」を免れ得ない「英国トノ提携ヲ或程度二止ムルヤ」
との戦後の世界観、いや文脈的には親独的願望もあった。
更には成功の
「反面ニハ失敗ノ因子モ含有スルハ戦争ノ通議ナリ」34)との不安もあっ
た。
少数兵力の派遣については「所要二充タサル兵力ノ逐次的唐加八何等
戦局ヲ左右シ得サル無意味ノ出兵卜為り了リテ徒二内帝国ノ武威ヲ損シ
外与国ニ利スル所ナカルヘシ」と相手にせず、また戦費を要請国側に仰
ぐことは「国家ノ体面上••与国二仰クカ如キハ之ヲ避ケサルへカラサ
ルことする等35)、拒否理由を探すに急であったことを見ると、プロシャ
流で親独派の多い陸軍の本音は、師たるドイツ陸軍とは戦いたくないと
の深層心理に由来するものではなかっただろうか。
しかしこの陸軍も大陸問題に係る具体的な獲物が見えると豹変する。
大正七年九月に作成された参謀本部の「東欧新戦線構築二関スル研究」
36)では、一転して三十個師団のヨーロッパ東部への派遣を主張する。
狙いは極東ロシア及び東部シベリアにおける優越権確保である。
しかし背
景にはアメリカ出兵の顕著な軍事的、政治的効果への羨望と焦燥感及び
戦後国際政治へのアメリカの影響力に対する警戒感があったことが行間
から窺われる。
世論は親独派や陸軍の影響も手伝って派兵反対論が圧倒的、元老連も
否定的、政党では最大政党の政友会も反対、派兵賛成の街頭演説会もヤ
ジり倒される状況であった37)。
このような中、第二特務艦隊の地中海派遣は秘密閣議で決定され、所
属艦艇の内地からの鹿島立ちは隠密裏、艦隊の編成場所はシンガポール、
派遣事実の公表は五月十四日のことであった。
政府は派遣反対論者への
刺激を恐れたのである。
果たせるかな第三九回衆議院議会では野党は宣
戦詔勅や日英同盟条文を片手に、艦隊派遣は如何なる根拠なりや、と政
府を攻擊、その論旨には連合国の一員としての立場は見られず、外交問
15
題を口実にした政争に過ぎなかった。
危機に立つ連合諸国の目にはどう
映ったことであろうか。
なお地中海派遣はその活躍ぶりの報道も手伝っ
てか、議会•世論とも好意的になった。
四 連合国日本に対する列国の評価
欧州派兵には消極的であったが、日本は軍事面では太平洋及びインド
洋の主力としてこの広大な海域の海上交通を安全に維持し、経済面では
多額の起債に応じ、更に物質面では産業能力を振り絞って膨大な軍需品
を供給(但し有償)して戦争に寄与してきた。
連合与国はこれらを含めた日本の戦争協力をどのように評価したであ
ろうか。
日本の対独参戦は「日英同盟の情誼によるものであって戦争協力もま
た同条約による」とすれば地中海や南アフリカまで艦隊を派遣し、日英
同盟の義務範囲を越えての日本の協力を高く評価でき、大戦前半のイギ
リス外相•グレイ氏はその一人で、その回顧録の中で「多年間英国にと
り公平にして名誉且つ忠実なる同盟者であった」38)と述べている。
一方、日本は大正四年秋の単独不講和条約調印を以て同格の連合国
の一員になったと見る者には、欧州派兵拒否を以て「日本は自国の利益
の追求にのみ熱心で危機に瀕した同盟国を冷然と傍観する許されざる同
盟国」と見えたことが外交電報の行間から窺える。
この見方は連合諸国の危機が重大化した大正六年秋以降に顕著である。
戦局の苦しい大正六秋には親日家といわれるグレイ氏さえ、「日本八日英
同盟ノ義務以外二ハー切協力シナイト言フコトナリヤ」と駐英日本大使
に迫る一幕39)も生じており、また大正六年十一月二十三日の在英日本
大使からの電報40)には「日本八自己ノ利益ノ外共同ノ敵一一対スル観念
ヲ有セサルモノノ如シトハ一般ノ感想ナリ」とあり、他の在外大使、公
使からの電報にも類似電報が多く見られる。
外国新聞にも対日批判の記
事が多く、これらは連合国の日本の戦争協力に対する一般的評価を示し
ていよう。
連合与国は日本が力を注いだ太平洋やインド洋での戦争協力について
は、在外日本大使•公使の説明に対する反応ぶりからは必ずしも高い評
価は窺えない。
この一因は彼らの眼前に日本の国旗が翻らなかったこと
及びイギリス以外は陸軍国であって海洋力の評価に疎いことにあったか
も知れない。
軍需品の供給(有償)や公債の購入による経済協力につい
ても強い反応は見られない。
多分、彼らの消耗した膨大な物量•戦費か
ら見れば微々たるものであり、また同盟国として当然、出兵代替として
は過少と受け取られたのだろうか。
日本の戦争協力で異彩を放ったのは地中海の第二特務艦隊で、•その活
躍振りが多くの外国紙の紙面を飾り、また講和会議に合わせて欧州各国
を訪問して眼前に軍艦旗を翻したためか、各国は指揮官を国賓並みに遇
し、その戦績を高く評価した。
そして講和会議全権代表の一人である伊
集院駐伊大使をして日本が五大国の一つになったのは、地中海派遣艦隊の
活躍が最も貢献していると語らせた41)のである。
以上を要するに日本の協力は日英同盟を尺度とする人には高く評価さ
16
れ、 連合国の一員として見る者にとっては非常に不満であったといえ、
また、目に見える形での汗と血による協力に勝る協力はないということ
である。
なお、戦中戦後を通じて日本では、大きな戦争協力にも拘らず連合与
国からは期待したほどの感謝も評価もないとして不審と不満を抱き、陰
に陽にその後の外交に影響を及ぼすのであるが、過大評価の原因は日本
の立場を日英同盟からしか捉えず、単独不講和宣言調印を以て事実上連
合国の一員になったことを認識しない傾向にあるためではなかろ、つか。
五 出兵拒否の影響
その影響は、まず最初に講和会議における日本の地位に出現した。
五大国の一員になるにはなったが、実際には規則外の四大国会議や三大国
会議が日本抜きでしばしば挙行されて朝野を憤慨させた。
しかしその背
景には次のことがあったあ)。
「••米英仏伊ノ四大強国八・•夙二連合国最高軍事会議ヲ組織シ軍事
上®政事上一切ノ重要案件ヲ処理シ来レリ・• ・休戦成立セル後此ノ機
関ハ自ラ講和準備ノ会議トシテ転用セラレ・••講和会議ノ構成二関ス
ル大国ノ内協議会モ亦最高軍事協議会ノ延長トシテ開カレタリ。連合与
国ハ帝国ノ欧州二出兵セザリシノ故ヲ以テ・・大国内協議会参加セシム
ルへキャー一就テ協議• ・ 一月十二日協議一決シテ之力参加ヲ求ムルコト
トナリシ・・」とあり、欧州出兵を拒否したため、日本は休戦成立から
ニカ月間も講和準備会議の蚊帳の外に置かれたのである。
更に「四国ノ首相会シテ・・議スルニ至リシ八其起源ヲ••最高軍事
会議二日本ノ参加セサリシコトーー萌セルモノト思ハル日本ノ出兵回避 軍
事評議会参列回避卜相俟ツテ•••四国二依リテ戦勝ヲ得 講和二至レリ
トノ思想八深ク浸透シ居リ日本ヲ入テ五大国卜為スヤ否ヤニ就テハ問題
タリシコトヲ念頭二置カサルヲ得ス・こともあり、五大国になったと
はいえ、欧州派兵拒否故にその実態には厳しいものがあったのである。
これらは戦後の日本の国際的地位を端的に示すものであり、それは取
りも直さず日本の戦争協力に対する総合評価でもあった。
また出兵拒否のため、最高軍事会議に参加しなかったことは勿論、そ
の他の会議にも出兵問題の議題化を警戒して回避又は消極的姿勢に終始
してきたことは、国を賭して戦う列強の世界観の変化や情勢認識の機微
を肌で感知できなかったことを意味し、日本をして前例のない様相の講
和会議に違和感を抱かせ、適切な対応を困難としたのではなかろうか。
そのほか外交の泰斗である石井菊次郎氏がその著書の中で「ftには欧
州出兵を峻拒して單り戦争成金たらんとB醒し乍ら今に至って数百万の
兵を動かしたる与国と同一の資格を得んとするは余りに虫の好き論」43)と
述べている後ろめたさも口を重くしたであろう。
また日本の戦死者陸海
軍合わせて九八一名44)、これに対しフランス約百三十七万強、イギリス
四十三万強、イタリア十六万強といわれる数字も重圧となったであろう。
講和会議全権団は「沈黙の代表団」と揶揄され、その活動ぶりは当時
言論界の重鎮であった吉野作造博士が「どんな顔をして日本の土を踏む
西園寺大使節」砧と評したのを初め、一般に不評であったが、右記のよう
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な背景を踏まえた上でのことであっただろうか。
次はイギリスの対日姿勢変化の事例である。
イギリスは大戦直後、ジェリコー提督に各植民地を訪問させ、明らか
に日本を対象とした植民地海軍建設及びシンガポール基地の強化構想を
打ち出し、また日本海軍に冷淡になり、大正九年四月在英大使館付武官
を拝命した小林^造海軍大佐(のち大将、台湾総督)は大正十年夏「日
英同盟モ実質上消滅ニ近ク•・戦時ノ戦訓二基ヅク物質上ノ改善二就テ
八問フモ答へズ窺フモ示サザル状況ニテ之ヲ十年前小官ノ駐在当時二比
較シ時代ノ変化如何ーーモ急ナルニ呆レ居候」46と書き送るに至る。
背景には何があったのであろうか。
軍務局長当時、彼は「イギリス海軍首脳のビーティー提督等が排日思
想を抱いている主因は一次大戦中の日本の巡洋戦艦部隊派遣拒否にある」
とのメモ(47を海軍省と軍令部に回覧していることから見て、派兵拒否と
無縁ではなかろう。
その後、日本海軍は技術面を中心に漸次ドイツへの依存を深めて行く。
以上は終戦直後に現われた欧州出兵拒否の「つけ」の一端であるが、ー
次大戦終結後、世界は大きな変革を迎え、日本は国際連盟常任理事国の
座は占めたものの、大正十年に開かれたワシントン会議で海軍軍縮条約、
九カ国条約及び四ケ国協約の調印、日英同盟破棄となり、以後いわゆる
ワシントン体制の枠組み中で逐次孤立して行くことになる。
事ここに至った背景や原因は複雑多岐であるが、一次大戦における欧
州派兵問題もその原因の一つではあるまいか。
例えば、「日本八自己ノ利益ノ外共同ノ敵二対スル観念ヲ有セサルモノ
ノ如シ」との日本観や、同盟国及び連合国の一員として開戦時から共通
の敵と戦いながら国内事情や輸送等の物理的困難性をWに言を左右して
小さな艦隊しか援軍を派遣しなかった「頼りにならない同盟国」日本と、
一度参戦するや二百万の将兵を始め陸海軍の総力を挙げて救援に馳せ参
じた「頼りになる同盟国」アメリカと「信頼性の差」は影響していない
か。
現在、冷戦体制が崩壊し、一次大戦終結後と同様、世界は新たなる枠
組みを求めて大きく変化しつつあり、日米経済関係、安全保障条約も新
たなる情勢を迎えつつある。
一次大戦及びその中の欧州派兵問題には多
くの教訓が含まれているように思われる。
註
(1) 「露国外務大臣ガ日本軍ノ欧州派遣要請方二関シ英仏両政府二提議
シタル旨在露英仏両国大使来談二付請訓ノ件(ー九一四年八月三十ー
日)」外務省編「日本外交文書 大正三年第三冊』(外務省い•ー九六六
年)六〇二頁(以後、外交文書は「外交文書(年•冊二と略記)。
(2) 「英国ヨリノ日本軍欧州派遣要請二対シ熟考ヲ要スル旨語リタル件
(ー九一四年十一月四日)属書一十一月二日付英国外務大臣ヨリ在
本邦同国大使宛電報写日本軍ノ欧州派遣方要請二関シ訓令ノ件」「外
交文書(三・三)』六一九頁、「仏全国一ー蔓延ノ日本欧州出兵論二関シ
報告ノ件((ー九一五年一月六日)」「外交文書(四•三)』(ー九六九
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年)ーー七頁ほか。
(3) 「本邦ヨリ弾薬等買入タキ旨露国参謀本部砲兵本部長申出ノ件(一
九一四年八月十一日)」「外交文書(三・三)』六八〇頁、「仏国政府英
国ヲ通シ兵器買入方本邦二要請ノ件(ー九一四年八月二十七日)」同
上、及び「本邦ヨリ小銃及弾薬供給ヲ受ケタキ旨在本邦英国大使来談
ノ件(ー九一四年九月十九日)」同上、六八九頁。
(4) 「仏国ヨリ日英同盟協約二加盟希望提議ノ件(ー九一四年八月七
日)」「外交文書(三・三)』五九九頁、及び「露国ノ日英同盟加入希
望ノ件(一九一四年八月十日)」同上、六〇五頁。
(5 )「英仏露ノ単独不講和宣言二日本参加一一依リ日英露仏同盟ヲ希望ス
ル露国外相ヲ満足セシメ得ヘシトノ英国外相ノ意向通報ノ件(ー九一
五年七月三十日)」『外交文書(四•三)』一八頁。
(6) 「英国外務大臣日本艦隊地中海派遣ノ希望ヲ内話ノ件(ー九一四年
九月三日)」「外交文書(三・三)』六三一頁。
(7) 「日本ノ対独開戦ノ必要一一関シ英国外相卜会談シ外相八其ノ已ムヲ
得ザルヲ諒トスル旨述べタル等報告ノ件(ー九一四年八月十一日)」
「外交文書(三・三二ーニニ— ー二三頁で伝えられたのが最初で、日
本勢力の拡大と英米関係、英豪関係等を考慮する英外相は執拗に主
張。開戦と共に海軍力不足の英側は済し崩し的に解消させる。
(8) 「日本軍ノ欧州派遣及小銃供給不可能ノ旨回答ノ件(一九一四年九
月三日)属書十一月十四日付加藤外務大臣ヨリ在本邦英国大使へ手
交セル覚書」「外交文書(三・三)」六四六—六四七頁。
(9) 「日本ヨリ地中海及喜望峰二艦隊派遣方懇請ノ件(ー九一八年一月
十一日)「外交文書(六•三)』(一九六八年)九九頁。
(10) 「日本八喜望峰二対馬及新高ヲ、地中海二明石及ー駆逐隊ヲ派遣ス
ベキ旨回答ノ件(ー九一七年二月十日)」「外交文書(六•三)』九九
— ー〇〇頁。
(11) 「英国皇帝陛下ヨリ日本駆逐艦欧州増派ノ御希望、我艦艇ノ英兵救
助二対シ感謝ノ御沙汰及時局二関シ種々御談話アリタル旨報告ノ件
(ー九一七年五月七日)」「外交文書(六•三)』ーー〇— ーーー頁。
(12) 「日本駆逐艦四隻欧州海面へ増派決定ノ旨通知及代艦建造資材英国
ョリ輸出ニ特別ノ配慮ヲ得度キ旨申入ノ件(ー九一七年五月二十五
日)」「外交文書(六•三二ー 一五頁。
(13) 「海軍次官から第二特務艦隊司令官宛て電報(ー九一七年六月十六
日)」「自大正三年至大正九年戦時書類巻一三一」(防衛研究所図書館
蔵)(以後、「戦時書類」と略記)。
(14) トロール船改造哨戒艇は「西京」「東京」と命名し六月十一日編入、
駆逐艦は「梅檀」、「橡^」と命名し九月下旬編入。
(15) 「第二特務艦隊司令官から海軍次官•軍令部次長宛て四番電報 (一
九一八年二月二十四日)」「戦時書類巻一三二」。
(16) 「在仏大使館付武官から海軍大臣•軍令部長宛て電報(ー九一六年
十月二十二日)」「戦時書類巻ー ー三」。
(17) 「海軍次官から松村仏国大使館付武官宛て電報(ー九一六年十月二
十七日)」「戦時書類巻ー ー三」。翌年三月二十九日正式契約、ポート
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サイドで第一陣を九月中旬、第ー 一陣を十月下旬に引き渡した。
(18) 「伊国大使館付武官から海軍次官•軍令部次長宛て電報(ー九一八
年十月二十四日)」「戦時書類巻一三二」、及び「日本駆逐艦ノ地中海
へノ増援ヲ希望スル旨仏国外相ヨリ申出ノ件(ー九一八年九月二十
日)」「外交文書七・三』(一九六九年)九0—九一頁。
(19) 「巴里連合国会議二於テ日本欧州出兵ノ要求ガ正式会議ノ議題ニナ
ラザル様尽力方訓令ノ件(ー九一七年十一月二十一日)」『外交文書
六・三』一七三頁。
(20) 「巴里連合国会議内協議会二於テ我方ヨリ日本出兵不可能ノ理由ヲ
開陳ノ件(ー九一七年十二月二日)」『外交文書六•三』ー九ーー ー九
二頁。
(21) 同右。
.(22)「欧州出兵二関スル研究(大正六年十月)」『秘大正七年乃至十一年
西伯利出兵史第一巻』(参謀本部、一九二四年)付録第二。
(23) 「英国外相二対シ我国ノ巡洋戦艦割愛及欧州派兵不可能ノ理由説明
ノ件(ー九一七年十一月十四日)」『外交文書(六・三)』一五七— 一
六0頁。
(24) 前掲「欧州出兵二関スル研究(大正六年十月)」。
(25) 「巴里連合国会議二於テ提議セラルベキ諸問題二関スル応答振リ二
付請訓ノ件(ー九一七年十一月二十三日)」『外交文書(六•三)』ー
七五—一ハ〇頁。
(26) 例えば、「在英大使館付武官から海軍次官宛て電報(ー九一七年八
月一日)」「大正六年公文備考巻一」(防衛研究所図書館蔵)、及び「日
本軍人等ノ英国ヲ貶シ独逸ヲ称揚スルガ如キ戦評二付セシル卿ヨリ注
意アリタル件(ー九一八年八月二十一日)」『外交文書(七•三)』八
六—ハ八頁。
(27) 「日本ノ同盟国二対スル協力批判ノデリープレス紙論説報告ノ件
(ー九一八年一月四日)」『外交文書(七•三)』五九頁。
(28) 「軍極秘大正四年乃九年戦役海軍戦史附録第六編機密補輯」(防
衛研究所図書館蔵)二三頁。
(29) 「日本軍ノ欧州派遣及小銃供給不可能ノ旨回等ノ件(ー九一四年十
一月十四日)付記二 島村軍令部長意見」『外交文書(三・三)』六四
八—六五ー頁。なお、八代海軍大臣意見では「東洋二第二ノ敵ヲ見ル
二至リタルトキハ」と一層具体的に暗示。
(30) 前掲「軍極秘 大正四年乃九年戦役海軍戦史附録 第六編機密補
輯」二四頁。
(31) 同右、二六頁。
(32) 前掲「欧州出兵二関スル研究(大正六年十月)」。
(33) 前掲「日本軍ノ欧州派遣及小銃供給不可能ノ旨回等ノ件(ー九一四
年十一月十四日)付記三 大島陸軍次官意見」。
(34) 前掲「欧州出兵二関スル研究(大正六年十月)」。
(35) 同右。
(36) 「東欧新戦線構築二関スル研究(大正七年九月)」前掲『秘大正七
年乃至十一年西伯利出兵史第一巻』付録第十三。
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(37) 「大阪朝日新聞(大正三年十二月二十一日)」(朝日新聞社編「朝日
新聞に見る日本の歩み大正元年一四年』朝日新聞社、ー九七五年)一
九七頁。
(38) エドワ|ド•グレー(石丸藤太訳)「グレー回顧録」(日月社、ー九
三二年)二七三頁。
(39) 前掲「英国外相二対シ我国ノ巡洋戦艦割愛及欧州派兵不可能ノ理由
説明ノ件(ー九一七年十一月十四日)」。
(40) 「日本ノ欧州非出兵論議八連合国側二反感ヲ生ゼシメ居ルニ付取扱
二注意ヲ要スル旨稟申ノ件(ー九一七年十一月二十三日)」「外交文書
六・三』ー八〇—ー八二頁。
(41) 平間洋一「第一次世界大戦と日本海f外交と軍事との連接』(慶
応義塾大学出版会、ー九九八年)一ニ九頁。
(42) 「巴里講和会議ノ実況二関シ牧野全権委員復命上奏ノ件(ー九一九年
九月二十日)」「外交文書(八・三)』(ー九七一年)七八ニー七八七頁。
(43) 石井菊次郎「外交余禄』(岩波書店、ー九三〇年)四六一頁。
(44) 海軍六六〇名、「大正三年乃九年戦役 極東及地中海方面戦死者名」
「戦時書類巻一」、陸軍三ニー名、「自九月二十七日午後至同二十八日
独立第一八師団死傷表」及び「自九月二十九日至十月二十八日独立第
ー八師団各部隊死傷表」「秘大正三年日独戦史』(参謀本部、ー九一六
年)付表第十六其二及び付表第二十四。
(45) 「報知新聞(ー九一九年八月二日)」「新聞収録大正史第七巻(大正
八年)』(大正出版株式会社、ー九七八年)二八二頁。
(46) 伊藤隆・野村実編「海軍大正小林踏造覚書』(山川出版社、ー九八
一年)八頁。
(47) 「在英大使館付武官豊田大佐から海軍省副官宛て文書(英海第五九
号ノニー九一四年六月十三日)」(内容は英海軍戦史原稿の内容照会
の回覧に軍務局長小林少将が付したメモ)「大正十三年公文備考巻三」
(防衛研究所図書館蔵)。
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