月: 2023年6月
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インドの地理
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インドの地理(インドのちり)は多様性に富み、その景色も冠雪した山岳地帯・砂漠・平野・雨林・丘陵・高原とさまざまである。インドはゴンドワナ大陸のインド=オーストラリアプレートの北側が分離移動したインドプレート上に位置するインド亜大陸のほぼ全域を占める。インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線をもつ。
北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドゥスターン平野が広がり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611m)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598m)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。
インドは北西部でパキスタンやアフガニスタンと国境で接し[注釈 1]、北部では中華人民共和国・ブータン・ネパール、東部ではミャンマーと国境を接し、バングラデシュはインドの西ベンガル州と国境を画する。インド南方の島嶼国家のスリランカ・モルジブ・インドネシアとは領海を接する。スリランカは狭いポーク海峡とマンナル湾でインドと隔てられる。インドは28の州と7の連邦直轄地に分割される。この行政区画は地理的条件より言語や民族による境界に根ざしている。
位置と領域
「en:Extreme points of India」も参照カンニヤークマリはインド本土の最南端である。
インドは北緯8度4分-37度6分、東経68度7分-97度25分に位置する[1]。陸地総面積3,287,263平方kmは世界第7位である[2]。国土の北端から南端までの距離は3,214km、東端から西端までは2,993kmである。国境線は総延長15,200km、海岸線は同7,517kmである[3]。
インド本土は南東側をベンガル湾、南側をインド洋、南西側をアラビア海に囲まれる。コモリン岬はインド半島の最南端にあり、ここで細くなった陸地はインド洋に消える。インド領の最南端はベンガル湾に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島のインディラ岬である[3]。インドの領海は領土が確定した基線から12海里である[4]。
領土と行政区
詳細は「インドの地方行政区画」を参照
インドは28州と7連邦直轄地に分割され、州はさらに県に細分化される。各州は選挙による議会制の政府をもつが、連邦直轄地は連邦政府が指名した知事が統治する。
インドとパキスタンはジャンムー・カシミール州の領有を主張し、それぞれ一部を統治している。インドはまた中国が実効支配するアクサイチンというラダックの一部地域の領有も主張している。一方中国は、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州の主権を主張している。
表話編歴
インドの旗 インドの地方行政区画
地形学上の領域地形学上インドは次の7地域に分類される。
カラコルム山脈、東西のヒマラヤ山脈など北部山岳地帯 ヒンドゥスターン平野 タール砂漠 中央高地とデカン高原 東海岸 西海岸 領海と島嶼部[3]
山岳
シッキムにあるヒマラヤ山脈は世界最高峰ヒマラヤ山脈・ヒンドゥークシュ山脈・パトカイ山脈が一繋がりとなった弧状の褶曲山脈でユーラシア大陸から区切られた地域がインド亜大陸である。この山岳地帯は、ゴンドワナ大陸の一部が分離したインドプレートが移動してユーラシアプレートに衝突してはじまった造山運動により、中生代末から更新世(50万年前)にかけて形成されてきた。この山脈に連なる世界の最高峰級の山々は冷たい季節風を遮断し、モンスーンを生じてインドの気候を特徴付けている。この山地を水源地とする河川は肥沃なヒンドゥスターン平野を流れる。 生物地理学者はこの山地を、ユーラシアのほぼ全域にわたる温帯 旧北区と、インド亜大陸から東南アジア・インドネシアへと続く熱帯・亜熱帯インドマラヤ区という2大生態圏の境界とみなしている。歴史上この山脈は侵入者にとって障壁であった。
インドには最高点の標高が1,000mを超える山脈が次のように8つある。ヒマラヤ山脈は唯一万年雪を頂く。
アラーヴァリー山脈 東ガーツ山脈 ヒマラヤ山脈 パトカイ山脈 ヴィンディヤ山脈 西ガーツ山脈 (またはサーヤドリ山脈) サトプラ山脈 カラコルム山脈
ヒマラヤ山脈には世界最高峰級の山々が連なる[5]。この山脈はインド北東部で隣国との国境となる。またヒマラヤ山脈は世界でもっとも新しい山脈にあたる。西はジャンムー・カシミール州から東はアルナーチャル・プラデーシュ州に至り、50万平方kmの地域で標高が2,500mを超える[5]。ヒマチャル・プラデーシュ州・ウッタルアーカンド州・シッキム州では行政区域のほとんどがこの山域にあるといってよい。ヒマラヤ山脈には標高7,000mを超える峰が多数あり、雪線はシッキム地方の6,000mからカシミール地方の3,000m位までと幅がある。確定したインド領の最高峰はシッキム州と隣国ネパールの国境にあるカンチェンジュンガである。ヒマラヤ山脈の峰の多くが万年雪を冠している。
シワリク丘陵あるいは小ヒマラヤは、ヒマラヤ山脈のインド側最前衛に中低山が連なったものである。ほとんどが岩稜で山稜としては新しいため、雨季には崖崩れが頻発する。在印ヨーロッパ人の避暑地はこの一帯に多い。山麓では亜熱帯気候だが高度が上がると高山気候になる。
インド東部のミャンマー国境にはパトカイ山脈(またはPurvanchal)がある。この山脈はヒマラヤと同じ造山活動で形成された。パトカイ山脈は円錐形の峰と急斜面、および深い谷が特徴である。この山脈はヒマラヤほどの高度はない。パトカイ山脈はPatkai-Bum、Garo–Khasi–Jaintia、Lushai hillsという3つの中・低山帯からなる。このうちGaro–Khasi山脈はメーガーラヤ州内にあり、モンスーンが吹き上げる南斜面のチェラプンジは世界でもっとも年間降水量が多いことで知られる[6]。
インド中央に連なるヴィンディヤ山脈
ヴィンディヤ山脈はインド中部にある総延長1,050kmの中低山帯で、山峰の平均標高は約3,000フィート(=914.4m)である[5](最高1113m)。この山脈は古アラーヴァリー山脈を造った残滓で形成されたといわれる。この山脈は 北インドと南インドの地理的境界になる。山脈はグジャラート州の東部マディヤ・プラデーシュ州との州境付近から隆起して東漸し、ガンジス川流域のミルザプール付近で消滅する。
サトプラ山脈はインド中部にある低山帯である。グジャラート州東部のアラビア海岸地方からマハーラーシュトラ州、マディヤ・プラデーシュ州を横断してチャッティースガル州で終わる。総延長は約900km、標高1,000mを超える峰は多数ある[5]。北を流れるナルマダ川と南を流れるタプティ川が縁取る山域は細長い三角形をしている[7]。この山脈と北側のヴィンディヤ山脈は並走しており、東西に走るこの2つの山脈が北のヒンドゥスターン平野と南のデカン高原の境界になっている。ナルマダ川はサトプラ山脈とヴィンディヤ山脈に挟まれた最深部を流れ、サトプラ山脈の北斜面を洗い流して西のアラビア海へと注ぎ込む。
アラーヴァリー山脈はインド西部のラージャスターン州を北東から南西に横断し、総延長は約500kmである。デリー近くのハリヤーナー州が北東端となりこの辺で山脈は途切れて低い独立峰や岩稜になる。最高峰は山脈のほぼ南西端でグジャラート州との州境付近にあるアブー山(標高1722m)である。この山脈はアラヴァリ=デリー造山運動と呼ばれる先カンブリア時代の地殻変動で生じたインド最古の山脈である。北西側のマルワルセグメントと南東側のブンデルカンドセグメントという、先史時代のセグメント2つがこの山脈で結合してインド剛塊を形成する。
インドにある山脈、高原、丘陵
西ガーツ山脈(またはサーヤドリ山脈)はデカン高原の西縁に沿い、海岸線をわずかに残して高原地帯とアラビア海の境界をなす。グジャラート州とマハーラーシュトラ州の州境に近いタプティ川の左岸(南側)がこの山脈の北端であり、マハーラーシュトラ州、ゴア州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州を南下してインド半島の最南端に達する。総延長は約1,600kmである[7]。平均標高は約1,000mで[7]、ケーララ州のカルダモン丘陵にあるアナイムディ山が最高峰(標高2,695m)である。この山脈はアラビア海とベンガル湾へ流入する河川を分ける分水界である。
東ガーツ山脈はインド南部にあり、ゴーダーヴァリ川・マハーナディー川(英語版)・クリシュナ川・カヴェリ川という四つの河川によって寸断され不連続である。この山脈は、北は西ベンガル州からオリッサ州・アーンドラプラデーシュ州を経て南はタミル・ナードゥ州まで、ベンガル湾の海岸線に沿って連なる。西ガーツ山脈ほど標高は高くないが、1,000mを超える峰は複数ある[7]。西ガーツ山脈と東ガーツ山脈はタミル・ナードゥ州のニルギリ丘陵で合流する。
ヒンドゥスターン平野
詳細は「ヒンドゥスターン平野」を参照
ヒンドゥスターン平野
ヒンドゥスターン平野はインダス川、ガンジス川、ブラフマプトラ川の3水系が生んだ広大な沖積地である。 それぞれヒンドゥークシュ山脈やヒマラヤ山脈に平行に流れ、西はジャンムー・カシミール州、東はアッサム州を源流にしてパンジャーブ州、ハリヤーナー州、ラージャスターン州の一部、ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州、ジャールカンド州、西ベンガル州を貫流する。この平野の面積は約70万平方kmで、幅は数百キロメートルである。この水系を構成する主要河川はガンジス川、インダス川とその支流、ビアス川、ヤムナー川、ゴマティ川(英語版)、ラーヴィー川(英語版)、チャンバル川、サトレジ川、チェナブ川である。
この大平野を4地域に分割することもある。
ババール・ベルトはヒマラヤ山麓に続く一帯で、河川流によって上流から運ばれた巨礫・中礫からなるこの地帯の間隙率は非常に高く河川は伏流水になる。ババール・ベルトは通常幅が狭く7-15kmである。 テライ・ベルトは、ババール・ベルトのすぐ下流で比較的新しい沖積土からなる。ここで伏流水は地上に現れる。この地域は湿度が非常に高く密林になっている。一年を通じて雨量が多く野生生物の楽園である。 バンガール・ベルトは比較的古い沖積土が形成した台地である。ヒンドゥスターン平野ではラテライトの堆積物に覆われている。 カダール・ベルトはバンガール・ベルトの下流の低地帯である。河川が運んだ沖積土でできたもの。
ヒンドゥスターンベルトは多数の河川が運ぶシルトが堆積した、世界でもっとも広大な沖積平野である。平野は平坦で樹木が少なく運河による灌漑が容易である。この地域は地下水も豊富である。
この平野は世界でもっとも集約的に農業がおこなわれる地域である。主要作物は米や小麦で輪作をおこなう。その他トウモロコシ、サトウキビ、綿花の栽培も多い。またこの平野は世界で最も人口密度が高い地域にランクされる。
タール砂漠
詳細は「タール砂漠」を参照
ラージャスターンにあるジャイサルメールはタール砂漠の中心に位置する。タール砂漠は大インド砂漠とも呼ばれ、インド西部にある熱砂漠である。パンジャーブ州、ハリヤーナー州、ラージャスターン州、グジャラート州の4州にまたがり、総面積は約208,110平方キロメートルである。このうち61%はラージャスターン州にある。砂漠は国境を越えてパキスタンまで続き、チョリスタン砂漠とよばれる。砂漠は最西端の一部地域では砂の砂漠だが残りの地域では岩だらけである。
タール砂漠の成り立ちはよくわかっていない。ある地質学者は砂漠の歴史を4千年から1万年と見積もっているが、別の者はこの地域の不毛化はもっと昔に遡るという。この地域の温度差は極端で夏は摂氏45度以上、冬は氷点下になる。年間降雨量は最西端で120mm、東部で375mmである。降雨の少なさが目立つが、この一帯はそもそもベンガル湾のモンスーン(南西風)の通り道ではない。アラビア海からの南西風もアラーヴァリー山脈に遮られて沙漠に降雨をもたらさない。
不毛な地域の土壌は砂地かローム質である。その硬度や深度は地形によってさまざまである。低地のローム層は比重が大きく、粘土・炭酸カルシウム・石膏などからなる硬盤があろう。人口密度が低いためインドの他地域と比べると人口が与える環境への影響は少ない。
中央高地
中央高地は西部のマールワ高原・南部のデカン高原(インド半島の大半を占める)・東方ジャールカンド州一帯のチョーター・ナーグプル高原の3高原で構成される。
デカン高原の衛星写真
デカン高原は大きな三角形をしており、北辺はヴィンディヤ山脈、東西端はそれぞれ東ガーツ山脈・西ガーツ山脈である。総面積は190万平方km、ほぼ平坦で標高は300m-600mである[8]。 『デカン』の名称はサンスクリット語で『南』を意味するdakshina に由来する。高原は西から東に緩く傾斜しており、ゴーダーヴァリ川・クリシュナ川・カヴェリ川・ナルマダ川などの河川がある。この高原は両ガーツ山脈の風下になるため半乾燥地帯である。植生は一部に落葉広葉樹林があるが、ほぼ全域を針葉低木林が覆う。夏の気候は暑く冬は暖かい。 チョーター・ナーグプル高原はインド東部の高原でジャールカンド州のほぼ全域とオリッサ州、ビハール州、チャッティースガル州の一部にまたがる。チョーター・ナーグプル高原の総面積は約65,000平方kmであるが、これを地域別(県と州都に対応)にラーンチー・ハザーリーバーグ・コーダルマーという3高原に細分化する。このうちラーンチー高原はもっとも広く、平均海抜は700mほどである。ほぼ全域がチョーター・ナーグプル乾燥落葉樹林という森林に覆われている。この高原は各種鉱物や石炭の埋蔵量が多い。 大インド半島に次いで大きな半島はグジャラート州のカティアーワール半島である。
東海岸
東海岸平野は東ガーツ山脈とベンガル湾に挟まれた細長い平野で、南はタミル・ナードゥ州から北は西ベンガル州まで広がる。マハーナディー川、ゴーダーヴァリ川、カヴェリ川、クリシュナ川などの河川の三角州はこの平野に大きな面積を占める。この地域はモンスーンの北東風と南西風の影響を受けて雨が多く、年間降雨量は1,000mm-3,000mmである。平野の幅は場所により異なるが100km-130kmである[9]。 平野は次の6地域に分類することができる。マハーナディーデルタ地帯、アーンドラプラデーシュ南部平野、クリシュナ・ゴーダーヴァリデルタ地帯、カーニャクマーリ海岸、コロマンデル海岸、砂浜海岸。
西海岸
インド西海岸にあるゴアの海岸線
西海岸平野は西ガーツ山脈とアラビア海に挟まれた狭い地域である。北はグジャラート州から始まり、マハーラーシュトラ州、ゴア州、カルナータカ州、ケーララ州を縦断する。幅は場所によるが50km-100kmである。 小河川と沼沢が多く氾濫しやすい。西ガーツ山脈を水源地にアラビア海に流れる河川は流速が高く、一年を通じて水量が豊富である。河川が急流であるため三角州ではなく三角江ができやすい。アラビア海に流入する主要河川にはタプティ川・ナルマダ川・マンドヴィ川・ズアーリ川などがある。 この海岸は3地域で名称が違う。北部マハーラーシュトラ州とゴア州ではコンカン海岸、中部カルナータカ州ではカナラ海岸、南部ケーララ州ではマラバール海岸とよばれる。落葉樹が多いことはこの地域の植生の特徴である。マラバール海岸にはマラバール海岸湿潤林という珍しい生態圏がある。
島嶼
インドはラッカディブ諸島とアンダマン・ニコバル諸島という2島嶼を領有する。いずれもインド連邦政府が連邦直轄地として統治する。
ラッカディブ諸島は、ケーララ州の沖合200km-300kmのアラビア海に浮かぶ。12の環礁・3の珊瑚礁・5の小島からなる。このうち10島は有人である。アンダマン・ニコバル諸島は、北緯6度-14度、東経92度-94度に位置する[10]。
ミャンマーの海岸から近いベンガル湾に572島が点在する。コルカタから1,255km、ミャンマーの首都ヤンゴンから約500kmであり、至近のミャンマー領の島まで193kmである[10]。
アンダマン諸島は、352kmの範囲に点在する204の群島である。ニコバル諸島は、アンダマン諸島の南に点在する22の島で総面積は1,841平方kmである。最高点はThullier山で標高642mである。インド最南端のインディラ岬は、このニコバル諸島にあり、インドネシアのスマトラ島まで189kmである。
インド半島の海岸に近い島で、主要なものは旧ポルトガル領のディーウ島、ムンバイ市街がありインド最大の人口を擁するサーシュティー島、ボンベイ港のエレファンタ島、アーンドラプラデーシュ州のシュリーハリコータ砂洲島がある。アッサム州のマジュリ島は、ブラフマプトラ川に浮かぶ巨大な中州である。
河川
詳細は「en:Rivers of India」および「インドの河川の一覧」を参照
インドにおける河川インドの主要河川は次の3分水界を水源地にする[7]。
ヒマラヤ山脈・カラコルム山脈 ヴィンディヤ山脈・サトプラ山脈 西ガーツ山脈
ヒマラヤ水系は氷河の融解水で年間を通じて水流がある。他の2水系はモンスーン次第で乾季には流量が極端に減少する。 12の河川を主要河川と分類し、その総流域面積は2,528,000平方km以上になる[7]。 ヒマラヤからジャンムー・カシミール州を経てパキスタンへと流れるのはインダス川とその支流のビアス川・チェナブ川・ラーヴィー川・サトレジ川・ジェラム川である[11]。
ガンジス・ブラフマプトラ・メガナ水系の流域面積は1,100,000平方kmでインド最大である[7]。ガンジス川の源流はウッタラーカンド州のガンゴトリ氷河で[11]、ヒンドゥスターン平野を南東へ流れたあとバングラデシュに入る[7]。ヤムナー川とゴマティ川もヒマラヤ西部にはじまりヒンドゥスターン平野でガンジス川に合流する[7]。ガンジス川の別の支流ブラフマプトラ川は水源地のチベットからインド最東端のアルナーチャル・プラデーシュ州に流入する。その後西に方向を変えバングラデシュでガンジス川に合流する[7]。 ガンジス川のもうひとつの支流チャンバル川はヴィンディヤ・サトプラ分水界を水源に東へ流れる。この分水界から西に流れるのはナルマダ川とタプティ川であり、グジャラート州でアラビア海に流入する。東から西にアラビア海へと流れる河川水系はインドの河川の総流量の10%である。
西ガーツ山脈はデカン高原を流れるすべての河川の水源地である。主要河川はマハーナディー河口三角州を形成するマハーナディー川、ゴーダーヴァリ川、クリシュナ川、カヴェリ川などで、すべてベンガル湾に流入する。その総流量はインド全域の20%を占める[11]。
ベンガル北西部を潤すタプティ川
水域主要な湾にはグジャラート州の東西にカンバト湾とカッチ湾が、タミル・ナードゥ州にマンナル湾がある。海峡にはインドとスリランカを隔てるポーク海峡、アンダマン諸島とニコバル諸島を隔てるテンディグリー海峡、アラビア海のラッカディブ諸島とアミンディヴィ諸島を隔てるナインディグリー海峡がある。岬にはインド半島の最南端コモリン岬(Kanniya kumari)、インド領の最南端インディラ岬、その他スリランカに近いラームセトゥ(ラーマの橋)、コロマンデル海岸のカヴェリ川河口デルタのカリメレ岬(Kodikkari)がある。アラビア海はインド半島の西に、ベンガル湾はインド半島の東に、インド洋はインド半島の南にあたる。 小規模な海域にはラッカディブ海やアンダマン海がある。珊瑚礁はアンダマン・ニコバル諸島、マンナル湾、ラッカディブ諸島、カッチ湾の4海域にみられる[12]。 主要な湖沼には、オリッサ州にあるインド最大の塩水湖チルカ湖、アーンドラプラデーシュ州のKolleru湖、マニプル州のLoktak湖、ジャンムー・カシミール州のダル湖、ラージャスターン州のSambhar湖、ケーララ州のSasthamkotta湖がある。
湿地帯
湿地帯は水系と陸系の中間的存在で、地下水位が高く地表が薄ら水に覆われている[13]。海岸線にあっては海波による侵食や土壌流出を防ぐ働きがあるので、熱帯性の暴風雨による破滅的被害を和らげる緩衝帯になる。インドの湿原生態系は冷涼性から乾燥性まで、またジャンムー・カシミール州のラダック地方からインド半島の高温高湿のものまで幅広く分布している。湿地帯のほとんどは直接・間接に河川と関係がある。1987年には政府湿原保護計画を策定し、71の湿原を保護対象に指定した[13]。 マングローブ林は三角江や小河川、沼沢地など汽水域となるインドの海岸線のいたるところで見られる。インドのマングローブ林は総面積4,461kmで世界のマングローブ林の7%を占める[14]。アンダマン・ニコバル諸島やガンジス河口のスンダルバンデルタ、カッチ湾、マハーナディー川、ゴーダーヴァリ川、クリシュナ川の河口デルタ地帯をはじめ、マハーラーシュトラ州、カルナータカ州、ケーララ州では広大なマングローブ林が見られる[12]。 確認された湿地帯の多くはその全域または一部が保護区や国立公園に指定された。
シュンドルボン
インドとバングラデシュに広がるガンジス川デルタ
詳細は「シュンドルボン」を参照シュンドルボンの河口デルタは世界最大のマングローブ林である。ガンジス川の河口にあり、バングラデシュからインドの西ベンガル州に亘って広がる。バングラデシュ側とインド側でそれぞれシュンドルボンとシュンドルボン国立公園としてユネスコの世界遺産に登録されているが、もとは一続きの密林である。スンダルバンは潮汐の水路となる汽水域と干潟、小島からなるマングローブ林であり、生態系の観察には最適である。 この一帯は豊かな動物相で知られる。有名なベンガルトラのほか鳥やヘビの種類は多く、ワニやシカも生息する。現在ベンガルトラは約400頭、シカは約3万頭が生息すると推計されている。
カッチ湿地詳細は「カッチ湿地(英語版)」を参照
カッチ湿地(Rann of Kutch)はグジャラート州とシンド州(パキスタン)にまたがる大汽水沼沢である。その名称にあるrannはヒンディー語で『汽水沼沢』を意味する。総面積は27,900平方kmである[15]。 この一帯はもともとアラビア海底で、地殻変動により隆起して広大な汽水干潟になったらしいが、その後徐々にシルトが流入して通年干潟は姿を消した。現在、モンスーンの季節には膝の深さほどに水が溢れる沼沢地と化し、モンスーンの季節が終わると乾燥した土壌が現れる。
土壌
インドの土壌は、沖積土、黒土、赤土、ラテライト土、森林土、乾燥砂漠土、アルカリ塩土、泥炭有機土の8種類に分類される[16][17]。このうちはじめの4種類が国土の80%を覆う。沖積土はインドでもっともふんだんに見られるが[17]、これは数々の河川が運ぶシルトが細粒化したものである[17]。沖積土は肥沃だが腐植土(有機土)や窒素が少ない[17]。この土壌はひろくパンジャーブ地方からアッサム渓谷に至る大平野でみられる。
黒土はマハーラーシュトラ州、グジャラート州、マディヤ・プラデーシュ州のデカン洪水玄武岩地帯によくみられる[18]。粘土の含有率が高く保水力に優れる[17]。この特性から乾燥地農業に適し綿花や亜麻仁などが栽培される。
赤土は鉄分を多く含有し、タミル・ナードゥ州・カルナータカ高原・アーンドラ高原にみられる[18]。アラーヴァリー山脈からチョーター・ナーグプル高原に至る高地帯では赤土がよく見られる。窒素・リン・腐植土(有機土)に乏しい[17][18]。
ラテライト土は激しい降雨に見舞われる熱帯地方で形成される。激しい降雨が土壌表層の水溶性物質を洗い流すと、土壌中の鉄やアルミニウムの水酸化反応が進行してケイ酸が少ない赤色土壌が出現する。この土壌は西ガーツ山脈地域、東ガーツ山脈地域、北東州の高地など降水量が多い地域に見られる。 森林土はヒマラヤ山脈、西ガーツ山脈、東ガーツ山脈など山岳地帯の斜面に見られる。落葉や腐植土などに由来する有機質に富む。ここでは茶やコーヒーが栽培される。
気候
詳細は「インドの気候(英語版)」を参照
「en:Climatic Regions of India」も参照地理的に広大で地形も多様であるためインドの気候を一般化することはできない。ケッペンの気候区分によれば、インドは6つの気候区分で分割される。西部の乾燥砂漠気候、北部の高山性ツンドラ氷河気候、さらに南西部や島嶼部の雨林を涵養する湿潤熱帯気候まで幅広い。各地にそれぞれ局地的気候がある。国家的単位では次のような四季がある。冬(1-2月)、夏(3-5月)、モンスーン(または雨季:6-9月)、モンスーン明け(10月-12月)[11]。モンスーン以外の季節を乾季とみることもできる。
インドの地理や地質は気候に大きく影響しているが、これは北のヒマラヤ山脈や北西のタール砂漠に顕著に見られる。厳寒期に中央アジアから南下する季節風はヒマラヤ山脈に遮られ、北インドに吹き降ろす頃には暖まり冬の寒さは厳しくない。夏には同じ事情でインドは暑くなる。北回帰線がインドの中央部を通過するが、気候的には国全体が熱帯地方とみるものもある。
インド各地の平均気温
インドのほぼ全域で3月から5月は夏になる。内陸では日中の最高気温が40℃を超える。海岸部では30℃を超えて湿度が高い。タール砂漠では気温が45℃を超える。 夏に続いて南西モンスーンがインドのほぼ全域に雨を降らせる。雨雲はタール砂漠にできる低気圧がもたらす。ケララ海岸を季節風が渡る時がモンスーン入りとされ、例年6月1日頃になる。南西モンスーンはベンガル湾風とアラビア海風の二つに分類される。ベンガル湾風は北上すると6月上旬頃にはインド北東部に吹き始める。そしてデリーが雨季に入るのは例年6月29日頃である。アラビア海風が北上すると西ガーツ山脈の西側斜面に大量の雨を降らせる。7月上旬にはインドのほぼ全域が雨季に入る。 北インドでは8月、ケーララ州では10月にはモンスーンは終了する。モンスーン後の短い期間は穏やかな天気が続く。北部では11月に冬が始まる。 冬は北インドでは11月、南インドでは12月下旬にはじまる。インド半島の冬は、日中暖かく夜間は涼しい。北へ行くほど気温は下がる。平野の一部では氷点下になることがある。この時期北インドでは霧がかかりやすい。 インドのこれまでの最高気温は1955年にラージャスターン州アルワルで記録された50.6℃である。最低気温はカシミール州で記録された-45℃である。近年オリッサ州で計測されたという55℃はインドの気象当局により疑問が呈されている。
地質年代
詳細は「インドの地質(英語版)」を参照
インドの地質学的区分 更新世以降に形成(黄緑)、第三紀に形成(黄)、中生代白亜紀末から新生代第三紀初期に及ぶデカントラップ(薄紫)、先カンブリア代を主とし一部が二畳紀と三畳紀に由来するゴンドワナ地域とビンドヤ山地(濃緑)、先カンブリア代に形成(紫)ヒマラヤ山脈はインド=オーストラリアプレートの一部とユーラシアプレートが衝突した結果生じたものである。この衝突は現在も進行中で山脈は毎年1cm隆起し続けている。インドには地質学的年代の全時代にわたる地層が見られるが大部分の基盤となるのは25億年前に出来た片麻岩と花崗岩で、この時はパンゲアの一部としてアフリカ大陸にあった。1億6千万年前のジュラ紀にパンゲアの分裂でゴンドワナ大陸が生じ、1億2千5百万年前の白亜紀にインド亜大陸がマダガスカルと共に分裂、9千万年前にさらにマダガスカルから分裂し北上移動を始め、1千万年前にはほぼ現在位置に達したとプレートテクトニクスは推定する。 インドの地質を形成年代によって分類すると以下のようになる[19]。 先カンブリア時代のクダッパ・ヴィンディヤ系地層の形成は東部・南部州に広くみられる。この時代の地層は西部・中央州にもわずかにみられる[19]。 古生代のカンブリア紀・オルドビス紀・シルル紀・デボン紀に形成された地層はジャンムー・カシミール州やヒマチャルプラデーシュ州のヒマラヤ山脈西部にみられる[19]。 石炭紀・ペルム紀および中生代三畳紀・ジュラ紀の地層はヒマラヤ山脈西部で見られる。ジュラ系地層はラージャスターン州でもみられる。 デカントラップはデカン高原で総面積50万平方kmを占める溶岩台地で、中生代白亜紀以後の火山活動と地塊運動により形成された[19]。トラップの土壌は黒色で農耕に適している。 新生代第三紀の地層はマニプール州とナガランド州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のヒマラヤベルト地帯で見ることができる。白亜系はインド中部のヴィンディヤ山脈とヒンドゥスターン平野の一部でみられる[19]。 このゴンドワナ系地層はヴィンディヤ山脈とサトプラ山脈に挟まれたナルマダ川流域でもみられる。始新世の地層はヒマラヤ山脈西部とアッサム州でみられる。漸新世の地層はグジャラート州のカッチ地方とアッサム州でみられる[19]。 更新世の地層はインド中央部でみられる。鉱物資源に恵まれ褐炭、鉄鉱石、マグネシウム、ボーキサイトが豊富である。アンダマン・ニコバル諸島はこの時代の火山活動で形成されたと考えられている[19]。
天然資源
インドは天然資源に恵まれている。国土の56%が耕作可能であるほか、地下資源も石炭(世界第4位の埋蔵量)、鉄鉱石、マンガン、雲母、ボーキサイト、チタン鉱石、クロム、天然ガス、ダイアモンド、石油、石灰石などがある[20]。ケーララ州の海岸沿いにはトリウム鉱脈があるが、採算ベースに見合う世界のトリウム資源の24%を埋蔵する[21]。 石油はマハーラーシュトラ州とグジャラート州の沖合で生産されており、ラージャスターン州とアッサム州で油田が確認されているが、国内需要の40%を満たすのみである。アーンドラプラデーシュ州の沖合では天然ガス田が相次いで発見されている。アーンドラプラデーシュ州にはウラン鉱が、カルナータカ州には金鉱がある。
自然災害
詳細は「en:Natural disasters in India」を参照
「en:Drought in India」も参照
インドにおける自然災害インドでは自然災害により多くの人命と財産が失われてきた。旱魃・突発的洪水・サイクロン・崖崩れ・集中豪雨による土砂崩れ・豪雪が脅威である。これ以外には夏に頻発する砂塵嵐があるが、これは北部で発生して南部まで移動しながら乾燥地方の砂塵を大量に撒き散らし、北インドを中心に深刻な被害を与える[22]。霰もインド各地で発生し、収穫前のコメやコムギに深刻な打撃となる。 小ヒマラヤでは地滑りが多発する。この地域の山稜は地質が新しく不安定であるため地滑りしやすい。西ガーツ山脈の一部地域でも地滑りが多発する。カシミール州・ヒマチャルプラデーシュ州・シッキム州では崖崩れが発生しやすい。洪水はインドでもっともよく知られた自然災害である。モンスーンの南西風が大量の雨をもたらし、 ブラフマプトラ川や他の河川が急激に増水しては頻繁に流域にあふれ出し、付近一帯を水没させる。洪水は天然の灌漑と土壌の肥沃化をいう恩恵をもたらすが、千を超える生命と数百万人の住居を奪う一面もある。季節外れの豪雨も災害を起こし農作物に被害を与える[23][24]。洪水はインドのほぼ全域で発生し、インド中央部では鉄砲水や集中豪雨などがここ数十年間で増加傾向にあるが、これは偶然にも気温の上昇と軌を一にしている。一方ほどよい雨を降らせる気圧配置の頻度は低下しており、平均年間降水量にはあまり変化がない[25]。 赤道低圧帯で発生するサイクロンは海岸地方に大きな被害をもたらす。サイクロンの大雨・高潮・強風により被災地はしばしば孤立し救援や補給を断たれる。北インド洋では4月から12月がサイクロンの季節で、5月から11月にかけて活動が活発化する[26]。例年、風速63km/h(17.5m/s)以上のサイクロンが約8個発生し、うち約2個が風速117km/h(32.5m/s)以上の強いサイクロンに発達する。毎年のように勢力の強い(カテゴリー3以上)サイクロンが発生するが[26][27]、被害や死亡者数では1999年10月29日にオリッサ州を襲った超大型のサイクロンは20世紀末の四半世紀で最悪のものである。 インドの農業は農業用水をモンスーンに大きく依存している。インドの一部地域ではモンスーンの異常で水が不足すると、穀物収穫量が平年を下回る。マハーラーシュトラ州の南部と東部、カルナータカ州北部、アーンドラ・プラデーシュ州、オリッサ州、グジャラート州、ラージャスターン州など旱魃が頻発する地域では収量減少もしばしば起きる。過去に旱魃は周期的に起こりたびたびインドは大規模飢饉に襲われた。1770年のベンガル飢饉では旱魃地帯の人口の3分の1、1876年-1877年飢饉では500万人以上、1899年の飢饉で450万人以上、1943年のベンガル飢饉では500万人以上が飢餓とこれに起因する病気で死亡した[28][29]。 インドの地震多発地帯を調査した結果、地球表面のプレート運動がヒマラヤベルトや北東インドで毎年のように発生する地震の原因であることがわかった。インドの気象当局はインド全域を地震の危険度(頻度・強度)別に分類し、この地域を最も危険度が高い『第V地域』に分類した。またグジャラート州のカッチ地方やマハーラーシュトラ州のコイナ付近を危険度が高い『第IV地域』に分類した。その他の地域の地震発生の危険度は中ないし低程度である[30]。 2004年のスマトラ沖地震による津波はアンダマン・ニコバル諸島とインド東海岸を襲い、推計1万人の死者を出した。 火山はすべてアンダマン諸島にある。活火山はバレン島にひとつあり、2005年5月に噴火した。その他ナルコンダム山という休火山、バラタン島の泥火山がある。
関連項目
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India 78.40398E 20.74980N.jpg
プロジェクト 南アジア
Portal:地理
ポータル 地理en:Extreme points of India インドの地質(英語版) インドの気候(英語版) en:Ecoregions of India en:National parks of India en:Regions of India インド亜大陸 en:European Digital Archive on Soil Maps of the World』
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ウクライナ、ノヴァ・カホフカダムの爆発でも軍事計画は阻止されないと主張
https://www.aljazeera.com/news/2023/6/7/ukraines-zelenskyy-says-dam-blast-will-not-stop-military-plans※ 『ゼレンスキー大統領は国民に向けた夜の演説で、ロシアはロシアに併合されたクリミアの支配権を失うことを容認しており、そのため同地域の上水供給を破壊したと述べた。』…。
※ もしも、ロシア側がやったことだとしたら、そう判断せざるを得ないだろうな…。
※ しかし、もし本当にそうだとしたら、「クリミア奪還」されて、「黒海艦隊」の基地をも失うことになったとしたら、それこそ「国家存亡の危機」だろう…。※ それでも、「核」を使わないという選択肢は、あるのか?

『(※ 翻訳は、Google翻訳)
ウクライナのゼレンスキー大統領は、カホフカダムの破壊はロシアによる「大規模な環境破壊」行為であると述べた。
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動画時間 01分41秒01:41
ダム決壊後、ウクライナ南東部で広範囲に洪水が発生
2023 年 6 月 7 日発行2023 年 6 月 7 日
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更新日:
3時間前ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ウクライナ南部のカホフカダムの決壊を「大規模な環境破壊」行為と呼び、このような重要インフラへの攻撃によってロシア軍の占領から領土を奪還するというウクライナの計画は変更されないと述べた。
ゼレンシキー大統領は火曜日、ダムを破壊した爆発はロシアによる意図的かつ無秩序な行為だと述べ、ダムはウクライナ軍を妨害するための「洪水を武器として利用する」目的で爆破されたと述べた。
読み続けます
4つのアイテムのリスト
リスト 1/4
ノヴァ・カホフカダム破壊でウクライナとロシアが貿易責任を問う
リスト 2/4
「デッドゾーン」:ウクライナ戦争がロシア国内でどう動いたか
リスト 3/4
ウクライナのノヴァ・カホフカダム爆発について知っておくべきこと
リスト 4/4
ウクライナでノヴァ・カホフカダム決壊後、数百人が洪水から避難
リストの終わりゼレンスキー大統領は国民に向けた夜の演説で、ロシアはロシアに併合されたクリミアの支配権を失うことを容認しており、そのため同地域の上水供給を破壊したと述べた。
「ロシアが、特にクリミアに水を供給する上で非常に重要なカホフカ貯水池を意図的に破壊したという事実は、ロシア占領者たちがクリミアからも逃げなければならないことをすでに認識していることを示している」と同氏は述べた。
ゼレンスキー大統領は「われわれは依然としてすべての土地を解放する」と述べ、ダム爆破はロシアの敗北を回避することにはならないが、いずれロシアがウクライナに支払わなければならない戦後賠償費を増大させることになると付け加えた。
クレムリンは火曜日、ダム崩壊の責任はウクライナにあると非難し、キエフはモスクワが既に鈍化させた反撃のたどたどしい開始から注意をそらすために現場を破壊したと述べた。
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Session ID: 2023-06-07:70153b2c88ab7cf7b08d458f Player Element ID: vjs_video_3ロシアのセルゲイ・ショイグ国防大臣は、数千人のウクライナ兵士が死傷した戦闘で、ウクライナ軍の反撃の最初の3日間をロシア軍が阻止したと述べた。ダム破壊の決定はロシア軍の攻撃を遅らせるためだったと同氏は述べた。
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サインアップすると、当社のプライバシー ポリシーに同意したものとみなされますモスクワもキエフも、ダムの破壊に関する主張の証拠を提供しなかった。
ウクライナが待望の反撃の準備を進めている中、紛争地域の中心でダムの決壊は新たな人道的災害をもたらした。
「重大かつ広範囲にわたる影響」アルジャジーラのチャールズ・ストラットフォード記者は、ウクライナのザポリージャ地方にあるダムの貯水池からリポートし、ダムは破壊される前、ウクライナの何十万人もの人々に電気と飲料水を供給していたと語った。
「私たちがここで話をした地元の人々は、今日の水位は1メートルから2メートルの間で下がったと言いました。そして、今後数時間から数日間、水位は下がり続けると予想しており、それに基づいて、できることは一つしかありません」ダムの南側の被災地にどんな壊滅的な影響を与えているか想像してみてください」とストラットフォード氏は語った。
ウクライナ水力発電当局のイホル・シロタ長官は、米国が資金提供するラジオ局ドンバス・レアルイに対し、洪水により水位が3.5メートル(11.5フィート)上昇しており、ウクライナ当局は水曜に洪水が最高潮に達し、その後水位が上昇すると信じていると語った。 3~4日以内に降り始めます。
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Session ID: 2023-06-07:9c4b0a753382b2d5d1cfbc6b Player Element ID: vjs_video_1538この洪水により、ヘルソン市周辺の村や町はすでに水没しており、ロシア当局は、ロシアに併合されたクリミア半島に水を供給する主要運河の受け入れ水量が大幅に減っていると警告した。
ウクライナ当局は、ウクライナ支配地域から1万7000人が避難し、計24の村が浸水したと発表した。
ウクライナのアンドリー・コスティン検事総長は「4万人以上が浸水の危険にさらされている」と述べ、ドニプロ川のロシア占領側の危険にさらされている最も重要な地域でさらに2万5000人が避難すべきだと付け加えた。
ダムがあるノヴァ・カホフカ市のモスクワ市長ウラジミール・レオンチェフ氏は、同市が水没し数百人が避難していると述べた。
国連は、少なくとも1万6000人がすでに家を失い、被災者にきれいな水や資金、法的・精神的支援を提供する取り組みが進められていると述べた。ウクライナが管理する川側の住民はフェリーで西のムィコラーイウやオデッサなどの都市に避難していた。
マーティン・グリフィス国連人道問題担当事務次長は火曜日、安全保障理事会で、「大惨事の規模」の完全性は今後数日以内に初めて完全に認識されるだろうと語った。
「しかし、前線の両側にいるウクライナ南部の数千の人々に、家、食料、安全な水、生計手段の喪失を通じて、重大かつ広範囲にわたる影響を与えることはすでに明らかだ」とグリフィス氏は述べた。
ロシアとウクライナは火曜日の国連安全保障理事会の緊急会議で、この災害の責任を交換した。
ニューヨークの国連本部から取材しているアルジャジーラの外交編集長ジェームズ・ベイズ氏は、理事会会議に出席したロシアとウクライナの大使がダムで「何が起こったのかについて全く異なる説明」を行ったと述べた。
ベイズ氏によると、ロシア大使は以前にもウクライナによるダムへの脅迫があったと主張し、ウクライナ側はダムはロシア軍の支配地域内に位置しており、ダムを破壊できたのはダムの採掘だけであり、破壊は不可能だったと主張した。遠くから攻撃する。
「これらは双方の明確な立場であり、本当に必要なのは、これら2つのまったく異なる話のどちらが真実であるかを適切に調査する誰かです。それがすぐに起こる可能性は低いと思う」とベイズ氏は述べ、ダムが依然として軍事前線であることを指摘した。
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Session ID: 2023-06-07:23531802d04c79e6c3b6287 Player Element ID: vjs_video_2257ウクライナ内務大臣は火曜日、ダムの洪水から人々が避難している地域をロシアが砲撃し、警察官2人が負傷したと発表した。
国際戦略研究所の上級研究員ベン・バリー氏は、ダムからの洪水は短期的にはモスクワにとって有利になるだろうと述べた。
「ロシアが戦略的守備にあり、ウクライナが戦略的攻撃にあることを念頭に置くと、短期的には間違いなくロシアにとって有利だ」とバリー氏は語った。
「ウクライナの強襲渡河がより困難になるため、水が引くまではロシアにとって助けになるだろう」と同氏は語った。
ストラトポインツ財団の安全保障専門家で元ポーランド軍対諜報部副長官のマチェジ・マティシアク氏は、この地域に洪水が浸水すると、少なくとも1カ月は戦車などの重火器の使用ができなくなるだろうと述べた。
マティシアク氏は「(これは)ウクライナの攻撃活動を期待するロシア人にとって非常に良い守備陣地を生み出すことになる」と述べた。
出典:アルジャジーラおよび通信社
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第1節 インドの古典文明
https://y-history.net/wh_note/note_0201.html※ 今日は、こんな所で…。








『ア.インドの風土と人びと
※インド世界=南アジア 現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、ブータン、
スリランカなどを含む。北側にヒマラヤ山脈、南部にインド洋が広がる。※北部のa アーリヤ 文化圏と南部のb ドラヴィダ 文化圏に分かれる。
さらに、多くの民族、言語、宗教が共存している。※気候:c モンスーン 気候帯 雨期と乾期がある。夏は南西風、冬は北東風が卓越する。
Text p.59インダス文明 (緑色部分がインダス文明遺跡の分布範囲)
インダス文明地図
インドの重要地名
a インダス 川
b ガンジス 川
c パンジャーブ 地方
d カイバル 峠
e ハラッパー
f モエンジョ=ダーロ
g ドーラーヴィーラー
h ロータルイ.インド文明の形成
A インダス文明 前2300頃 a インダス川 流域に都市文明成立。
・主要遺跡 b モエンジョ=ダーロ 中流のシンド地方(パキスタン)
c ハラッパー 上流のd パンジャーブ 地方(パキスタン)
他に ロータル ・ ドーラーヴィーラー (いずれもインド西部)などがある。
・人種 e ドラヴィダ人 (イラン方面から移住したものと思われる) 説が有力。
・特徴 都市計画:特にf 沐浴場 (宗教的沐浴に使用)などの煉瓦造りの都市を建造。
農業:大麦・小麦を常食とする(保存用の穀物倉)。綿花を世界で最初に栽培。
文字の使用:象形文字をg 印章 に使用=hインダス文字 は未解読である。
土器の使用:ろくろを使用したi 彩文土器 。インダス文字
b モエンジョ=ダーロ 出土の
牛の印章。上部は未解読の文字。補足 メソポタミア文明との関係
▼
B 前1800年ごろ 衰退
・インダス川流域の都市文明が急速に衰える。原因は不明。→ 補足
・インダス文明の意義:a インド文明の源流 となる。
※後のインドの主要な宗教となるb ヒンドゥー教 の主神シヴァ神の原型や、
神聖視される牛の像などが見つかっている。
▼ウ.アーリヤ人の侵入とガンジス川流域への移動
A アーリヤ人 の侵入 前1500年頃 西北からカイバル峠を越えa パンジャーブ 地方に侵入。
b インド=ヨーロッパ 語族。部族単位の半農半牧生活を営む。牛を神聖な動物とする。
自然崇拝:雷、太陽などにささげた賛歌と儀礼を記した聖典をc ヴェーダ という。
その最古の賛歌集がd 「リグ=ヴェーダ」 (前1200~1000年頃までに作成)
▼
Text p.60B ガンジス川流域への移動 前1000年頃、a 鉄製 の農具・武具の使用。
→b ガンジス川 流域に進出。生産力が高まり、定住農耕社会を形成。その過程で、階級が形成され、固定された身分となる。
▼
C カースト制社会の成立 アーリヤ人の征服過程で形成された身分制度。
・a ヴァルナ制 :「色」を意味し、「種姓」と訳す。次の4つの基本身分からなる。
支配階紋 b バラモン :司祭 c クシャトリヤ :武士
生産階級 d ヴァイシャ :農民・牧畜民 e シュードラ :隷属民
→ 後に商業の発達、人口の増加に伴い被差別民であるf 不可触民 が生まれる。
・それに伴う変化 d ヴァイシャ は次第にg 商人 を、
e シュードラ は次第にh 農民・牧畜民 を指すようになった。
・i カースト集団 (インドではj ジャーティ と言われる)の形成:
意味=k 信仰や職業で結びついた世襲的な集団。
→ 結婚や食事などの日常的な交際が制限された。
・l カースト制度 :ポルトガル人が4種姓を、「血統」を意味するカスタと呼んだことに由来する。
現在では4種姓を意味するa ヴァルナ制 と、血統集団であるj ジャーティ が
結びついて形成されたインド独特の社会制度を指している。
→ 現在は法律で禁止されているが、さまざまな影響を残している。
▼
D ヴェーダ時代 前1200年ごろ~前6世紀ごろまで
・アーリヤ人の宗教=a バラモン教
司祭者b バラモン が祭礼などの儀式を司る。
→ ヴァルナとジャーティによる社会秩序と結びついて権威を持ち祭政一致の政治を行う。
= c ヴェーダ が創られた時代の意味でヴェーダ時代という。
補足 インドの言語
Text p.61エ.都市国家の成長と新しい宗教の展開
A 都市国家の成長 前6世紀 経済の中心がガンジス川中・下流域に移る。
・ガンジス川流域に、城壁を持つ都市国家が成立。
ラージャ(王)が支配する16ヶ国に統合される。・前6世紀 a コーサラ国 が有力となる。続いてb マガダ国 が台頭。
→ クシャトリヤ(武士)やヴァイシャ(商人)の台頭 → バラモンの権威の動揺。
▼
B 仏教 の成立 前6~5世紀 a ガウタマ=シッダールタ が始める。
・b シャカ 族のクシャトリヤ出身。
形式化したバラモン教の儀式やヴェーダ祭式、ヴァルナ制などを否定し人間の解放を目指す。
煩悩を断ち、正しい修行を行うことによって輪廻転生から解脱し、生老病死の苦しみから
逃れると教え、さらに人間の平等と慈悲の心を説いた。悟りを開き、c ブッダ と言われる。
→ クシャトリヤとヴァイシャに多くの信者を得る。▼
C ジャイナ教 の成立 前6~5世紀 a ヴァルダマーナ が始祖。
・インド北東部のクシャトリ出身。悟りを開いてマハーヴィーラ(偉大な勇者の意味)と言われる。
仏教と同じく、バラモン教の祭式やヴェーダ聖典の権威を否定
→ 徹底した不殺生主義と厳しい戒律を定める。 → 商人層に信者を得る。
▼
D バラモン教の改革 a ウパニシャッド哲学 の成立(「奥義書」の意味)。
従来の祭式至上主義を改め、内面の思索を重視。
補足:生物はその行為によって永久に生まれ変わりを繰り返す(輪廻)が、宇宙の根源を意味する
▲b ブラフマン (梵=普遍)と生命の根源を意味するc アートマン (我=自己)
を一致させること(梵我一如)によって、精神の自由を得て輪廻から解脱することが出来る、と説く。
▼
E ヒンドゥー教 の萌芽 バラモン教に民間信仰が融合し、仏教・ジャイナ教の影響も受ける。
ヴェーダの神々にかわり、シヴァ神やヴィシュヌ神を主神とするようになる。
→ 4世紀のグプタ朝時代までにE ヒンドゥー教 が形成される。(後出)
▼オ.統一国家の成立
A アレクサンドロス大王の侵入
・前327年 インド北西部のインダス川流域に侵入。
インダス川流域にギリシャ系政権が成立。
ガンジス川流域ではa マガダ国 がb ナンダ朝 のもとで有力になる。
→ インド統一の契機となる。
▼
Text p.62B マウリヤ朝 の統一。
・前317年頃、マガダ国でナンダ朝に代わりa チャンドラグプタ王 となる。
都b パータリプトラ (現在のパトナ)。
→ インダス流域に進出。ギリシア人勢力(c セレウコス朝シリア )を一掃し、
パンジャーブ地方から現在のアフガニスタン南西部まで支配を及ぼす。
▲宰相カウティリヤには『アルタ=シャーストラ』(実利論)が残されている。▼
C アショーカ王 前3世紀半ば マウリヤ朝の最盛期となる。
・a デカン高原 の東南部、カリンガ国を征服。
→ 最南端部を除くインドア大陸のほぼ全域を支配。
・征服戦争の殺戮を反省し、b 仏教 を篤く信仰するようになる。
→ c ダルマ (法)による統治に転換する。
・全土にd 磨崖碑 ・e 石柱碑 をつくり勅令を刻む。サールナートのものが有名。
= 多くはブラーフミー文字が用いられ、周辺部ではその地域の文字が使われている。
・第3回目のf 仏典結集 を援助。
・g ストゥーパ(仏塔) を各地に建立(代表例がサーンチー)。
・インド西北部や、h スリランカ などに仏教を伝える。
→ 官僚組織・軍隊の維持のための財政困難、バラモン層の反発などにより衰退。
▼
アショカ王石柱
サールナートのe 石柱碑 。マウリヤ朝と仏教
マウリヤ朝仏教地図 マウリヤ朝までの仏教関係の重要地名
(b~eは仏教の4大聖地)
a パータリプトラ
b 悟りをひらいたブッダガヤ
c 生まれたカピラヴァストゥ
d 入滅したクシナガラ
e 最初の説法をしたサールナート
f ストゥーパのあるサーンチー
● g 磨崖碑 の分布■ h 石柱碑 の分布
サーンチーのストゥーパ
サーンチーのg ストゥーパ(仏塔)カ.クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝
A ヘレニズム の影響
前2世紀、a バクトリア からギリシア系勢力が侵入、ヘレニズム文化をもたらす。
→ 前2世紀後半、ギリシア人の王▲メナンドロス、北西インドを支配。
▼
・イラン系遊牧民の侵入・前2世紀中ごろa 大月氏 (イラン系か)、匈奴に追われ西方に逃れる。
→ アム川上流に国家建設。 → バクトリアに侵入、トハラを征服。・前1世紀 中央アジアのイラン系遊牧民の▲サカ族、大月氏に押され北西インドに移住。
同じくイラン系のパルティアもイラン東部からインド西部に侵入。
Text p.63・紀元後1世紀 b クシャーナ人 (イラン系か)、はじめ大月氏の支配を受ける。
→ 自立してバクトリアを支配。さらに西トルキスタンからインド北西部を支配。
▼B クシャーナ朝 現在のアフガニスタン、パキスタン、インド北西部を支配。
・2世紀中頃 a カニシカ王 のとき、全盛期となる。
→ 仏教(この頃成立したb 大乗仏教 )を保護。仏典結集を続ける。
c ガンダーラ 地方のプルシャプラ(現ペシャワール)が都。
d ローマとの交易 が盛んになる → 大量の金貨の鋳造。
▼C 大乗仏教 の成立 クシャーナ朝時代の仏教の革新
紀元前後、a 大乗仏教 が起こる。大乗とは大きな乗り物の意味。
その教義:b 個人の救済に留まらず、広く衆生を救済することをめざす。2~3世紀 ▲c ナーガルジュナ(竜樹) が理論を確立。
→ 中央アジア → 中国 → 朝鮮・日本に伝わり、北伝仏教とも言う。大乗仏教側は、従来の個人の救済を目的とする仏教を蔑称としてd 小乗仏教 と呼んだ。
= 最も保守的な長老を意味する部派の名から、e 上座部 仏教とも言う。
→ スリランカで発達し、11世紀に東南アジアに広がり、南伝仏教という。
Text p.64大乗仏教の運動の中から、出家をせずに修行するf 菩薩信仰 がひろまる。
・補足:仏教経典の言語
▼D ガンダーラ美術 a ヘレニズム の影響のもと、ギリシア彫刻に似せて、
b 仏像 をつくるようになる。(本来は仏教も偶像崇拝は否定されていた。)
▲バーミヤン仏教遺跡も有名。インド独自のマトゥラー美術も存在した。
→ 大乗仏教とともに中央アジアを経て中国・日本に伝わる。
▼3世紀 西方のササン朝ペルシアの侵入を受け、衰える。北インド分裂。
★補足 南インド 前1世紀~後3世紀
デカン高原:a サータヴァーハナ朝 ドラヴィダ系アーンドラ族の王朝。
都プラティシュターナ(現パイタン)・アーリヤ文化を受容し、バラモン教・仏教・ジャイナ教が広まる。
インド南端:ドラヴィダ系b タミル人 の国家
チョーラ朝・パーンディヤ朝・チェーラ朝の三国家が存在(後出)・インド洋交易圏 これらの南インド諸国は、ローマ帝国とのc 季節風貿易 を行う。
→ インドからは香料や象牙など奢侈品が輸出され、ローマからは金貨がもたらされる。クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝 (緑色部分がクシャーナ朝、点々部分がサータヴァーハナ朝)
マウリヤ朝仏教地図
両朝の都と仏教関係の重要地名
(グプタ朝以降に続く)
a プルシャプラ
b プラティシュターナ
c アジャンター
d エローラ
e マトゥラー
f カナウジキ.インド古典文化の黄金期
A グプタ朝 4世紀 ガンジス中・下流から興り、北インドを支配。
最初の王チャンドラグプタ1世、「大王の王」を称す。都はパータリプトラ。
中央の直轄領・地方の臣下の領地・周辺の属領からなる分権的統治が特徴。
バラモンをふたたび重用 バラモンのことばのa サンスクリット語 を公用語とする。
→ 王から徴税権を認められた村落を領主として支配。
▼B ヒンドゥー教 の定着 バラモン教から発展し、仏教などの要素も取り入れる。
・三大神 ブラフマー神(創造神)・a シヴァ神 (破壊神)・b ヴィシュヌ神 (世界維持神)特色 ・c ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三大神を中心とした多神教である。
・d 特定の教祖、教義・聖典が無い。
・e カースト制度とともに長くインド人の社会の土台となっている。・補足:その他の特徴
Text p.65
・f 『マヌ法典』 前2世紀~2世紀に編纂。4ヴァルナなどの守るべき規範を定めた。
・サンスクリット文学 二大叙事詩 g 『マハーバーラタ』 ※・h 『ラーマーヤナ』 ※※
※この一部の『ヴァガバッド=ギーター』は後に特にて重んじられる。
※※コーサラ国の王子ラーマを主人公とする英雄叙事詩。宮廷詩人i カーリダーサ の書いた戯曲『シャクンタラー』。
・医学・数学・天文学などの発達、十進法・j ゼロの概念 など。
→ ササン朝を経てイスラム世界に影響を与え、さらにヨーロッパに伝えられる。・美術 k グプタ様式 仏像彫刻を中心とした美術様式。
代表例 l アジャンター石窟寺院 デカン高原西北部に造営された。
特色 m ヘレニズムの影響を受けたガンダーラ様式から脱しインド文化の独自性を強めた。
→ 日本の法隆寺金堂壁画(7世紀の白鳳文化期)にも影響が見られる。・補足:仏像彫刻の変遷
▼C チャンドラグプタ2世 4~5世紀初め グプタ朝の全盛期となる。
→ 地中海方面・西アジア・中国を結ぶ経済活動活発になる。大量の貨幣が造られる。
・中国の東晋の僧a 法顕 がインドを訪問。中国で超日王として知られる。ローマ帝国衰退 → 交易の衰退 → 遊牧民のb エフタル が西北から侵入 →
さらに地方勢力が台頭し、6世紀半ばに滅亡する。
▼D ヴァルダナ朝 7世紀初めa ハルシャ王 が起こし、北インドを支配。都はカナウジ。
・支配層ではヒンドゥー教が有力であったが、仏教とジャイナ教もともに保護される。
Text p.66→ 中国の唐と交渉が盛んになる。
・唐僧の渡来
7世紀前半 b 玄奘 が来てc ナーランダー学院 で学ぶ。『大唐西域記』を著す。
7世紀後半 d 義浄 インドを訪れ、『南海寄帰内法伝』を著す。・王の死(647年)の後、分裂し衰退、地方政権が乱立する。
・ビザンツ帝国、ササン朝の衰退 → 交易の減少 → 商業活動の不振 → 都市が衰退。
5~7世紀のインド
5~7世紀のインド
A グプタ朝 の領域
B エフタル の進路と最大領域
C ヴァルダナ朝 の領域重要地名
a パータリプトラ
b カナウジ
c マトゥラー
d サーンチー
e アジャンター
f エローラ
g サールナート (ベナレス)
h ナーランダー学院▼
E 仏教 の衰退
大乗仏教の中にヒンドゥー教の影響を受け、▲a 密教 が生まれる。・6世紀、南インドにヒンドゥー教のb バクティ運動 おこる。
= c 最高神に対する愛を込めた絶対的な帰依(献身)を説くヒンドゥー教の改革運動。
→ 仏教やジャイナ教を激しく攻撃し民衆に受け入れられる。14~15世紀には北インドに広がる。→ 仏教は、ベンガル地方の地方政権(パーラ朝)のもとで最後の繁栄期を迎えるがその後衰退。
・解説:インドでの仏教衰退の要因と背景
▼
F▲ ラージプート時代
・北インドでの、ヴァルダナ朝滅亡後の8~13世紀のデリー=スルタン王朝成立までをいう。
a ラージプート とは、サンスクリットの王子の意味。クシャトリヤの出身と称するカースト集団。
→ いくつもの勢力に分かれ、互いに抗争をくり返す。この間、北西からb イスラーム勢力のインド侵攻 が始まる。
★補足 ▲8~10世紀 ヴァルダナ朝滅亡からイスラーム化するまでの北インド
・北インド西部 8世紀から、プラティーハーラ朝(都カナウジ):ラージプート諸国の一つ。
→ 10世紀以降はチャーハマーナ朝が支配。・北インド東部のベンガル地方 c パーラ朝 :非ラージプート。
→ ナーランダ僧院を復興するなど仏教(密教)を保護した最後の王朝となる。ク.南インドの王朝
8~10世紀 a ドラヴィダ人 系のb タミル人 が独自な世界を形成。
タミル語の文芸活動(サングム)が盛んであった。・c バクティ運動 も吟遊詩人の活動によって南インドに広がる。
タミル商人、東南アジアから中国に進出、香辛料貿易を展開。・▲デカン高原
6世紀中ごろ、チャールキヤ朝:ドラヴィダ系王朝。ハルシャ=ヴァルダナの南進軍を阻止。
→ 8世紀中ごろ、ラーシュトラクータ朝:エローラ石窟寺院の開削。
→ 10世紀中ごろ、再びチャールキヤ朝が栄える。・インド最南端地域
▲パッラヴァ朝:3~9世紀 南部東岸を支配、北のチャールキヤ朝と争い、南のチョーラ朝に滅ぼされる。d チョーラ朝 :前3~13世紀 ドラヴィダ系タミル人の国家。
→ 10~11世紀に全盛期となり、シュリヴィジャヤ王国に軍事遠征、中国(宋)に使節を派遣。
▲チェーラ朝:前3~13世紀 タミル人国家。インド南端西岸のケーララ地方に存続。
▲パーンディヤ朝:前3~14世紀 タミル人国家。マウリヤ朝に併合されず。
→ 紀元前後にはローマとも交易。14世紀、北インドのイスラーム教国ハルジー朝に滅ぼされる。・▲セイロン島(現スリランカ)
アーリヤ系のe シンハラ王国 が14世紀ごろまで存在。
→ 上座部仏教を受容、発展させる。インド洋交易で活躍。
→ 後にタミル人が移住、シンハラ人との対立起こる。 → 現在のタミル人問題につながる。』 -
インドの歴史
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ポータル 歴史学/東洋史
モエンジョ・ダーロ遺跡
インドの歴史(インドのれきし、History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について略述する。インダス・ガンジス文明
インダス文明
詳細は「インダス文明」を参照
紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あり、Iravatham Mahadevanが紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説(Dravidian hypothesis、南インドのドラヴィダ系の民族)を提唱したが、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラ(英語版)が支持し、研究は振り出しに戻っている[1]。
パンジャーブ地方のハラッパー、シンド地方のモエンジョ・ダーロなどの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、ウルを始めとしたメソポタミアの諸都市と交流していた[2]。
焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった[3]。
この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、アハール・バナス文化(英語版) (Ahar-Banas culture)、マールワー文化(英語版) (Malava Kingdom, Malwa culture)、ジョールウェー文化(英語版) (Jorwe culture) などがその例として挙げられる。
これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となったギリシャ・サントリーニ島のミノア噴火)などが指摘されているが、インダス文字が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない[† 1]。
前期ヴェーダ時代
カイバル峠
詳細は「ヴェーダ」を参照
インド・アーリア人は、紀元前1500年前後に現在のアフガニスタン・バクトリアから北西インド(現在のパキスタン)に移住したと考えられているが[5]、インドの伝承では移動に関して何も記していない。
『リグ・ヴェーダ』によれば、その後、バラタ族・トリツ族など諸部族の間で戦争が勃発した(十王戦争)。
バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、部族の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる[6]。
バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。
こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。
また、バラタ族と先住民族のプール族の混血も進んでいった(クル族の誕生)。『リグ・ヴェーダ』において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものがヴェーダである。司祭者バラモンがヴェーダの神々をまつり、ここにヴェーダの宗教が初期バラモン教としてインド化していった。
後期ヴェーダ時代とガンジス文明
十六大国
十六大国の位置
詳細は「十六大国」を参照
紀元前1000年頃より、バラタ族はガンジス川流域へと移動した。
そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。
また、この時代に鉄器が導入された。鉄器による農耕技術の発展と、それに伴う余剰生産物の発生によって、徐々に商工業の発展も見られるようになった。
農作物としては、それまで栽培されていた大麦に加え、ガンジス川流域では米が作られた。さらに、小麦の栽培も開始された[7]。
ヴェーダ祭式文化を拠り所とした社会は拡大を続け、現在の東インド、ビハール州にあたる地域にまで広がった[8]。
一方で、ヴェーダ祭式文化の拡大は、旧来の政治勢力・伝統的祭式観の影響力低下をもたらした。
北インドでは諸勢力が台頭し、十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入した。
『マハーバーラタ』によると、紀元前950年頃にクル族の子孫であるカウラヴァ王家が内部分裂し、クルクシェートラの戦い(英語版)でパンチャーラ国に敗北して衰退していった[9]。
こうした中で、祭司階級であるバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的な地位上昇がもたらされた[10]。
十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった[9]。
十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝のダレイオス1世のインド遠征 (en:Iranian invasion of Indus Valley) によって支配されるようになり[11]、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。
ウパニシャッド哲学と新宗教
詳細は「ウパニシャッド」、「仏教」、「ジャイナ教」、「枢軸時代」、および「六師外道」を参照
紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。
ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中でバラモンが凋落すると、それに代わりクシャトリヤやヴァイシャが勢力を伸ばすようになった。
こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下にマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)によってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教が、それぞれ創始され当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生し、「六師外道」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。
ペルシャとギリシャの征服
詳細は「アケメネス朝」、「Greco-Buddhism」、「アレクサンドロス3世」、「ナンダ朝」、「Gangaridai」、「グレコ・バクトリア王国」、「インド・グリーク朝」、および「マッロイ戦役」を参照
紀元前330年頃には、インド北西部にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)が進出し、ナンダ朝マガダ国(後述)に接触していた[12]。
古代インドの諸王朝
マウリヤ朝マガダ国のインド統一
詳細は「マウリヤ朝」を参照
マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破することで決着した。紀元前4世紀後半、ナンダ朝マガダ国をチャンドラグプタが打倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝マガダ国が成立した。
王位を息子のビンドゥサーラに譲ったチャンドラグプタはジャイナ教徒になったといわれている。
紀元前3世紀のアショーカ王の時代にマウリヤ朝は最盛期を迎えた。
南端部をのぞくインド亜大陸の全域を支配し、ダルマにもとづく政治がなされ、官僚制が整備され、また、属州制を導入するなど中央集権的な統治体制が形成され、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。
しかし、アショーカ王の死後より弱体化が進み、紀元前2世紀後半に滅亡した。
その後、西暦4世紀にグプタ朝が成立するまでの数百年、北インドは混乱の時代をむかえることとなった。
クシャーナ朝
ガンダーラの仏頭(2世紀)
詳細は「クシャーナ朝」および「ガンダーラ」を参照マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。
この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。
この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
サータヴァーハナ朝と古代交易網
詳細は「サータヴァーハナ朝」を参照
2世紀になると、南インドではデカン高原のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)をはじめとする諸王朝がローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄した。
南インドではローマ帝国時代の金貨が大量に出土しており、当時の交易がきわめて活発だったことを裏付けている。インドからは綿織物や胡椒が輸出された。
このころはまた、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教が広がっていった時期でもあった。
なお、エジプトのギリシア系商人が著した『エリュトゥラー海案内記』は、当時の季節風貿易の様子を知る貴重な史料とされている。
大乗仏教のおこり
頭上にナーガをいただくナーガールジュナ(龍樹)
マトゥラー出土の弥勒菩薩像(2世紀、ギメ東洋美術館)
詳細は「大乗仏教」を参照マウリヤ朝の崩壊からグプタ朝の成立までの時期の北インドは、政治的には混乱していたが、文化的には仏教やバラモン教の教義が発展し、すぐれた彫刻の生まれた時期でもあった。
西暦1世紀はじめには大乗仏教がおこり、2世紀にはナーガールジュナ(龍樹)が現れて「空」の思想を説いた。現代の大乗仏教は、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国、朝鮮半島、日本へ伝播した(北伝仏教)。
また、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間の土俗信仰とがさかんに混淆し、ヒンドゥー教のもとが形成された。
仏像彫刻では、上述のガンダーラのほか、マトゥラーではインド様式による製作がなされるようになった。
二大叙事詩と『マヌ法典』
『マハーバーラタ』より「クルクシェートラの戦い(英語版)」
詳細は「マハーバーラタ」、「ラーマーヤナ」、「マヌ法典」、および「ヤージュニャヴァルキヤ法典」を参照この時期はまた、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』のインド二大叙事詩がかたちづくられた時代でもあった。
マハーバーラタは史上最大の規模をもつ壮大な叙事詩であり、ともに後世のインドのみならず東南アジアにも広がって多大な影響をあたえた。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられている。
ダルマ・シャーストラで最も重要なものとされる『マヌ法典』は2世紀ころまでに成立したとみられ、バラモンの特権的地位を規定したほか、4ヴァルナの秩序が定められた。
現代のインド人の生活のみならず、その精神にまで深く根ざしており、その影響力は計り知れない。これもまた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』と並んで、東南アジア世界に大きな影響をおよぼした。
インド古典文化の完成
Question book-4.svgこの節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立
アジャンター石窟寺院の壁画
詳細は「グプタ朝」を参照4世紀前半、グプタ朝がパータリプトラを都として成立し、4世紀後半から5世紀にかけて北インドを統一した。
チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットが公用語に定められた。
4世紀から5世紀にかけてのこの時代は、インド古典文化の黄金時代とされる。宮廷詩人のカーリダーサが戯曲『シャクンタラー』や『メーガ・ドゥータ』などの作品を残した。
また、バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。
いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀にはナーランダ僧院が建てられ、インドはもとより東南アジアやチベットなどの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。
医学・天文学・数学なども発展した。「ゼロ」を発見したのも、古代インド人だといわれている。
グプタ朝は、5世紀以降「白いフン族」と呼ばれたエフタルの中央アジアからの侵入に悩まされ、6世紀半ばには滅亡へと追い込まれた。貴族や都市民の寄進などによって成り立っていた仏教教団は、グプタ朝の弱体化・分権化にともなってその保護者を失っていった。
ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来
ナーランダ僧院跡
詳細は「ヴァルダナ朝」、「プラティーハーラ朝」、「ハルシャ・ヴァルダナ」、「ラージプート」、「チャンデーラ朝」、「カジュラーホー」、および「ジャーティ」を参照
「玄奘」も参照6世紀後半の北インドは政治的分裂の時代にあったが、7世紀初頭になってハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が現れ、カナウジを都としてヴァルダナ朝を創始した。
ハルシャ王は、仏教とヒンドゥー教を保護し、地方有力者には領土を封ずるかたちでの統治を推進し、また、カナウジはその後北インドの政治の中心となって発展した。
ハルシャ王の時代、唐僧の玄奘がインドに訪れ、ナーランダ僧院で教典研究にいそしみ、多数の仏典を持ち帰ってその後の漢訳仏教の基礎が固められた。
ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦解し、これらの古代王朝の後、7世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。
義浄が訪れたのも分裂時代のインドであった。ラージプートは、中央アジア方面から北西インドに侵入した異民族の子孫だといわれている。
かれらは軍事的にすぐれ、各地を支配し、その下に大小領主層がいて、地主や農民を支配した。
プラティハーラ朝がそのなかで最大のもので、イスラム勢力の侵入を11世紀初頭まで食いとめたことで知られる。
また、10世紀から12世紀頃にかけてチャンデーラ朝の歴代君主は、世界遺産にもなっているカジュラーホーの寺院群を建設した。
こうしたなかで職能集団が形成され、それぞれ世襲化されるようになり、今日のカーストにつながる「ジャーティ」と呼ばれる集団単位が成立していったとみられる。
南インドの諸王朝
マハーバリプラムの「石彫寺院」(ラタ)、7世紀
詳細は「前期チャールキヤ朝」、「パッラヴァ朝」、「ラーシュトラクータ朝」、「チョーラ朝」、「エローラ石窟群」、および「パッタダカル」を参照武勇をほこったハルシャ王も、デカン高原を本拠とするチャールキヤ朝にだけは敗れ、南インド進出は阻まれた。
6世紀から8世紀にかけての前期チャールキヤ朝には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマーディティヤ2世などの君主が現れ、とくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著で、チャールキヤ朝のさらに南にあってそれと対峙したタミル人王朝パッラヴァ朝の建築は高水準をほこった。
パッラヴァ朝時代の建築としてはマハーバリプラムの建造物群が著名で、その技術はヴィクラマーディティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられ、首都バーダーミ(英語版)や「戴冠の都」パッタダカルに数多くの寺院建築を生んだ。
前期チャールキヤ朝は封臣の1人であったダンティドウルガに王位を追われ滅亡、ダンティドウルガはラーシュトラクータ朝を創始し、プラケーシン2世の弟から分かれた東チャールキヤ朝と対峙した。
ダンティドウルガには子がなかったため、叔父のクリシュナ1世が継ぎ、エローラ石窟群のカイラーサナータ寺院を建設した。
いっぽう、パッラヴァ朝もさらに南方にあったパーンディヤ朝と抗争し、台頭するチョーラ家などとも合従連衡を繰り返したが、最終的にはヴィジャヤラーヤ創始のチョーラ朝によって滅ぼされた。
北インドのイスラーム化と南インド
ガズナ朝・ゴール朝の侵入
詳細は「ガズナ朝」および「ゴール朝」を参照
10世紀後半、中央アジアにあったイラン系王朝サーマーン朝のテュルク系マムルークであったアルプテギーンがアフガニスタンで自立してガズナ朝を建て、しばしば北インドへ侵入してパンジャーブを領有した。
ガズナ朝にかわり台頭したイラン系のゴール朝も北インドに進出し、この地の統治を図って北インドのラージプート諸王国の連合軍と対峙した。連合軍は、内部の結束が整わず、大敗した。
デリー・スルターン朝
クトゥブ・ミナール(インド最古のミナレット、13世紀)
詳細は「デリー・スルターン朝」を参照いっぽう、ゴール朝のマムルークであったアイバクは、ゴール朝の軍とともに北インドにとどまり、1206年にデリーに都をおいて奴隷王朝を建てて自立した。これより約300年間、デリーを都としたムスリム5王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルターン朝と称する。
デリー・スルターン朝の5王朝、すなわち奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝の君主はいずれもスルターンの称号を用い、デリーに都を置いたため、デリー・スルターン朝と総称される。
5王朝は北インドをあいついで支配し、特に14世紀初頭のハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーと14世紀前半のトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクの治世には、デカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。
最後のローディー朝のみアフガン系であるが、他はいずれもトルコ系である。こうしたなか、ティムール軍が1398年にデリーに侵入している。
この時代の北インドでは、インド在来の社会組織を利用して統治する現実的な方法がとられ、イスラームへの改宗が強制されることはなかったが、イスラーム神秘主義者スーフィーの活動などもあって、都市を中心に徐々にイスラームが普及していった。
南インドのヒンドゥー諸王国
詳細は「チョーラ朝」および「パーンディヤ朝」を参照
一方で南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のヒンドゥー王国チョーラ朝がインド洋貿易で繁栄した。
11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。
チョーラ朝は12世紀末に再建されたパーンディヤ朝(後期パーンディヤ朝)によって13世紀後半に滅ぼされた。
ヴィジャヤナガル王国
ハンピのヴィルーパークシャ寺院
詳細は「ヴィジャヤナガル朝」を参照その後、一時、北インドのデリー・スルターン朝の勢力が南下し、南インドの王朝は次々と滅ぼされたが、1336年ハリハラとブッカの兄弟がヴィジャヤナガル(ハンピ)に都にトゥグルク朝から独立した。
これ以降、14世紀前半から17世紀半ばにかけて、サンガマ朝(1336年 – 1486年)、サールヴァ朝(1486年 – 1505年)、トゥルヴァ朝(1505年 – 1569年)、アーラヴィードゥ朝(1569年 – 1649年)と4つのヒンドゥー王朝が繁栄し、これを総称してヴィジャヤナガル王国と呼んでいる。ここでは、北インドとは対照的にヒンドゥー文化の隆盛と爛熟がみられた。ハンピの都市遺跡などが当時の繁栄ぶりを今日に伝えている。
ヴィジャヤナガル王国はトゥルヴァ朝のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世に最盛期を迎えたが、その死後、1565年ターリコータの戦いでムスリム5王国に敗れ、衰退の道へと向かった。
しかし、アーラヴィードゥ朝のヴェンカタ2世は同国最後の名君であり、外敵と戦い、国の領土と勢力回復に尽力したが、1614年彼の死後に王国は瓦解した。
デカンの諸王国
北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、1347年トゥグルク朝の臣下であった地方長官が自立し、バフマニー朝を建国して、ムスリム政権を成立させた。
その後、バフマニー朝は2世紀近く存続したのち1527年に滅び、その領土にはベラール王国(イマード・シャーヒー朝)、ビーダル王国(バリード・シャーヒー朝)、アフマドナガル王国(ニザーム・シャーヒー朝)、ビジャープル王国(アーディル・シャーヒー朝)、ゴールコンダ王国(クトゥブ・シャーヒー朝)の5つの王国が割拠する形となり、これらはデカン・スルターン朝と呼ばれる。
デカン・スルターン朝は当初互いに他国と領土を争い、南のヴィジャヤナガル王国もこれらに関与したが、やがて5王国は同盟を結んで、1565年ターリコータの戦いで連合軍はヴィジャヤナガル王国の軍を破った。
しかし、その後は再び争うようになり、ベラール王国、ビーダル王国は他国に滅ぼされ、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国はムガル帝国に滅ぼされた。
バクティ信仰とシク教の創始
アムリトサルの黄金寺院
詳細は「シク教」を参照やがて北インドでは都市と商工業が発展し、ムスリム商人の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な一神教の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心にバクティ信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむグル・ナーナクによってシク教が創始された。
ポルトガルとスペイン
1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。
しかし、1580年スペイン王フェリペ2世によりポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。
ムガル帝国
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出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)タージ・マハル(アーグラ)
詳細は「ムガル帝国」を参照1526年から1858年までの332年間は、バーブル以来の王朝が統治するムガル帝国の時代であった。
ムガル帝国の成立と隆盛
詳細は「バーブル」、「アクバル」、および「シャー・ジャハーン」を参照
16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族であるバーブルが北インドへ南下し、最後のデリー・スルターン朝であるローディー朝の君主イブラーヒーム・ローディーをパーニーパットの戦い(1526年)で破ってデリー入城を果たし、ムガル帝国を樹立した。
その孫にあたる3代皇帝のアクバルは、アフガニスタンから北インドにかけての広大な領域を支配してアーグラに都を遷し、アンベール王国の君主でヒンドゥー教徒のビハーリー・マルの娘と結婚し、イスラーム・ヒンドゥー両教徒との融和を図るためにヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止するとともにザプト制という定額地租制度を導入して、帝国財政を安定させ、マンサブダーリー制を確立させて統治機構の整備にも努めた。アクバル治下のインド社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発におこなわれた。
17世紀前半の5代シャー・ジャハーンの時代に帝国はもっとも繁栄し、ムガル文化は最盛期をむかえ、アフマドナガル王国を滅ぼしその支配領域はデカン方面にもおよんだ。デリーに再遷都され、首都デリーには居城デリー城(赤い城)、旧都となったアーグラには亡き妻の霊廟タージ・マハルが建設された。
文化的には、宮廷でペルシア色の強いインド・イスラーム文化が発展した。当時のムガル絵画はイランのミニアチュール(細密画)の影響がみられるほか、宮廷内ではもっぱらペルシア語が使用され、ムガル帝国の代表的建築であるタージ・マハルも、イラン系技術者が多くかかわっていた。ヒンディー語文法にペルシア語・アラビア語の単語を取り入れたウルドゥー語が成立したのも、この時代であった。
ムガル帝国の衰退
詳細は「アウラングゼーブ」および「マラーター王国」を参照
17世紀後半になると、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラーム教スンナ派に基づく統治を行い、ジズヤ(人頭税)を復活したためにヒンドゥー教徒の支持を失い、デカン高原のマラーター族もシヴァージーを中心に1674年にマラーター王国を形成したのをはじめ、各地で反乱が勃発した。
アウラングゼーブはシヴァージーの死後、デカン地方に大軍を以て南下した(デカン戦争)。彼はビジャープル王国、ゴールコンダ王国を滅ぼし、マラーター王国を南に押し返し、その死までにムガル帝国の最大領土を獲得した。
だが、1707年にアウラングゼーブが死ぬと、その悪政の結果、帝国は衰退にむかった。帝国は混乱し、ことに1719年は何人もの皇帝が入れ替わり、政治的混乱の極みに達した。
1708年、マラーター王国がマラーター同盟として再建され、1737年には王国宰相バージー・ラーオに率いられた軍勢がデリーを攻撃するまで勢力を拡大した。
英蘭の南インド進出
マドラスのセント・ジョージ要塞(18世紀末ころ)
詳細は「イギリス東インド会社」および「オランダ東インド会社」を参照17世紀、スペイン・ポルトガルの没落に伴い、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進した。1612年にはオランダ東インド会社がチェンナイの北プリカットに商館を構えていたが、1623年、英蘭両国が東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されたかたちとなってインドへの進出を推し進めた。
1639年、イギリス東インド会社はチェンナイの領主であったヴァンダヴァーシの知事からプリカットとポルトガルの根拠地サン・トメ要塞の中間にあたるチェンナイの地を取得し、その地をマドラスと称して1640年にはセント・ジョージ要塞を建設した。いっぽうのオランダは1651年にポルトガル領コロンボ(セイロン島)を支配、1663年にはインド南部のコーチンに進出した。
英仏の進出と植民地抗争
プラッシーの戦い
詳細は「第2次百年戦争」を参照インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が勃発、オランダは北米大陸とともにインドでも根拠地を失っていった。
イギリスはマドラスに続き、1661年ボンベイ(ムンバイ)、1690年カルカッタ(コルカタ)を獲得、一方、フランスも徐々にインド進出を図り、コルベールがフランス東インド会社を再建、1673年シャンデルナゴル、1674年ポンディシェリーを獲得した。
利害が対立した英仏両国は18世紀になると、新大陸と同様にインドでも抗争を続け、1757年、ベンガル地方のプラッシーにおいて、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社がベンガル太守軍とフランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。
イギリスによる蚕食とインドの貧困化
対英戦争に一生を費やし『マイソールの虎』と怖れられたティプー・スルターン
詳細は「マイソール戦争」を参照18世紀後半、七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。
1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は打撃を受け徐々に衰退していく。
しかし、19世紀半ばになりジャムシェトジー・タタによって近代的な綿業がインドでも勃興しはじめる。
資本金100万ルピーでボンベイにスワデシ・ミルを設立。この会社は従来のインドの機械製綿工業が国内市場向けの低級綿布と中国市場向けの綿糸の生産に特化してきた慣例を打破し、イギリスが独占的に手がけてきた上級綿布の生産にインド人経営企業として初めて参入した点で画期的であった。
さらに、1793年のザミーンダーリー制、19世紀前半のライーヤトワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。
19世紀に入ると、イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大させインドや中国と独占貿易を行った。イギリス東インド会社活動停止後の19世紀後半には、灌漑事業よりも鉄道建設事業を最優先とした。当初これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く、軌道の幅もまちまちで欠損が多かった。開発資金として、インド帝国の税収やロンドン市場の鉄道公債をもとに投資されたが、これから得られる利益の多くはイギリス本国に流出した。
イギリス植民地時代
詳細は「イギリス領インド帝国」を参照
1858年から1947年まで、イギリスによる植民地化からインド・パキスタン分離独立までの89年間は、イギリス人総督を機軸とするイギリス領インド帝国の時代である。
インド大反乱と英領インド帝国の成立
『インドのジャンヌ・ダルク』ラクシュミー・バーイー
詳細は「インド大反乱」を参照こうしたインドの困窮化と経済的従属化に対し、イギリス支配に対する不満は各地で高まり、1857年、デリーに近いメーラトの兵営でシパーヒーが蜂起すると、それは全インドにひろがるインド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。
徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。インド帝国は直轄領と藩王国から成っていた。
インド国民会議派の成立
詳細は「インド国民会議」を参照イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。
インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。
国民会議は当初、年末の4日間ほど活動するものであったが、やがてインド人の地位向上をめざす政治運動を開始した。国民会議派の中心を占めたのはヒンドゥー教徒の知識人・官吏・地主など比較的めぐまれた階層の人びとが多く、その主張や活動は穏健なものであった。彼らはサティーなど古い因習を廃止してインドの近代化を推進しようとした。そのため、イギリスも円滑な統治の安全弁としてこれを活用した。国民会議派の急進化と全インド・ムスリム連盟
全インド・ムスリム連盟初代総裁アーガー・ハーン3世
詳細は「全インド・ムスリム連盟」を参照しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、1905年の日露戦争における日本の勝利、同年のベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まり、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。
とくにベンガル分割令は過激な民族運動をひきおこし、1906年のカルカッタ大会ではボイコット(英貨排斥)、スワラージ(民族独立)、スワデーシー(国産品愛用)、民族教育の急進的な4大綱領が採択された。
こうしたなか、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
ムスリム連盟は、人口でヒンドゥー教徒に対し劣位にあるイスラーム教徒の政治力が国民会議派の運動によってさらに弱まると考えて分割支持にまわった。しかし結局、1911年には分割令は撤回された。
2度の世界大戦とインド
ローラット法とアムリットサル事件
詳細は「ローラット法」および「アムリットサル事件」を参照1907年にタタ鉄鋼が興り、国内産業は発展し工業大国化に至る。
しかし、第一次スワラージ運動に端を発し、財政自主権獲得の要求が高まっていく。
第一次世界大戦に際して、イギリス本国は英領インド帝国から2個師団100万人以上の兵力を西部戦線に動員[要検証 – ノート]し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。
この頃から、英領インド帝国の植民地的財政負担は頂点に達し財政状態は窮迫した。
1919年、インド統治法によって財政改革を行い、植民地制度のもとで部分的地方自治制は承認される。
しかし州政府は財政困難に陥り、第二次スワラージ運動が起きる。
それはまたウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて反英抗争に発展した。
イギリスはこれに対し、1919年3月に出版物の検閲、令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を認めるローラット法を制定して、反英抗争の弾圧を強化した。
同年4月、この法に対する抗議のため集まった非武装のインド人に対して、グルカ族からなるインド軍治安部隊が無差別射撃するアムリットサル事件が起き、独立運動は新しい段階に入った。
ガンディーの登場
詳細は「マハトマ・ガンディー」を参照マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。
ガンディーによって1919年4月によりはじめられた非暴力・不服従の運動(サティヤーグラハ)は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。
数百万の人びとがデモや集会に参加し、多くの地方では商店も店を閉じ、交通機関もとまった。
ガンディーは、サティヤーグラハ運動を指導し、インドの各階層の人びとをイギリス製品排斥や地税不払いなど多様な反英運動に組み入れていった。
他方、全インド・ムスリム連盟は同じイスラーム国家であるオスマン帝国との関係を強化しながら反英闘争をおこなった。
プールナ・スワラージと塩の行進
塩の行進
詳細は「塩の行進」を参照1929年、ラホールでひらかれた国民会議派大会(議長: ジャワハルラール・ネルー)では、ガンディーやネルーの指導のもと、プールナ・スワラージ(完全独立)を決議され、その後も粘り強く反英・独立運動が展開された。
1930年3月、ガンディーは「塩の行進」を開始した。
イギリスは塩を専売とし、貧しいインド民衆からも搾取していた。「塩の行進」は、それに対する抗議であり、海水から塩をつくることを反英独立運動のシンボルとして、アフマダーバードからダンディの海岸までの360 km を29日かけて行進したものである。
このような第2次非暴力・不服従運動に対し、イギリスは民族運動の指導者を英印円卓会議にまねいて懐柔をはかったが、成功しなかった。
1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めた。その後、国民会議派と全インド・ムスリム連盟との対立は深まった。
チャンドラ・ボースとインド国民軍
詳細は「スバス・チャンドラ・ボース」および「インド国民軍」を参照
第二次世界大戦では、国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも生まれた。
インド国民軍は、日本軍が1942年に英領マラヤやシンガポールを占領した後、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。
エリック・ホブズボームは、インドの独立を、ガンジー・ネルーらの国民会議派による独立運動よりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、英国領インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたとしている[13]。
また、日本に亡命していたA.M.ナイルやラース・ビハーリー・ボースら独立運動家の存在もあり、イギリスに代わってインドを占領した日本軍はインド人を丁重に扱ったという[誰によって?]。
第二次世界大戦後
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出典検索?: “インドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月)詳細は「第二次世界大戦後のインド」を参照
インドは第二次世界大戦終結の2年後の1947年に立憲君主制のインド連邦として独立した。1950年に共和制に移行し、以降はインド共和国という独立した共和制国家の時代である。
分離独立と戦後インド憲法の制定
初代インド首相ネルー(1920年の写真)
1945年9月2日に第二次世界大戦が終わった結果、疲弊したイギリスは、植民地を手放す事態に陥った。
しかし、インド内のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラーム教国家のパキスタンとの分離独立(インド連邦)となった。
イスラーム教徒との融和を説き、分離独立に反対したガンディーは1948年1月、狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺された。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任し、政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図った。
1950年に共和制へ移行。1946年12月発足の制憲議会が1949年11月26日にインド憲法を公布、それを受けて1950年1月26日に施行された。
以後この1月26日は「共和国記念日」として連邦首相が主催し、8月15日は「独立記念日」として大統領が祝賀する慣例となった。
戦後インド憲法に書かれた正式国名の英語表記は”Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic”となっており、そこでは社会主義共和国が志向されている。
戦後インド憲法では、カーストによる差別も否定された。
憲法前文では、インド国民が主権を持つ民主共和国を実現する決意を明らかにし、公民すべてが社会的・経済的・政治的な正義、思想・表現・信条・信仰・崇拝の自由、地位・機会の平等を確保し、個人の尊厳と国家の統一をもたらす友愛を促進することを規定している[14]。
非同盟主義
詳細は「平和五原則」および「非同盟」を参照
ネルーは5か年計画による重工業化を推進し、対外的には冷戦下にあっても両陣営に属さない非同盟の立場をとった。
ネルーは1954年、中華人民共和国の周恩来との間で、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存から成る「平和五原則」をまとめた。
こうしてネルー以後、冷戦時代のインドは、アメリカ型政治体制にも共産党体制も採らない、中立非同盟諸国家の中心となった。また、冷戦下のインドでは、長期に亘ってインド国民会議派が政権を担った。
印パ戦争と中印国境紛争
詳細は「印パ戦争」および「中印国境紛争」を参照
パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題をめぐって第一次印パ戦争(1947年 – 1948年)と第二次印パ戦争(1965年 – 1966年)が起こり、東パキスタン(現在のバングラデシュ)を原因として第三次印パ戦争(1971年)が起こっている。両国の対立は現在も続いており、1999年にはカシミールのカルギル地区でパキスタン軍と反インド政府活動家が管理ラインを超えてインド軍駐屯地を占領し、両軍が衝突するカルギル紛争(英語版)が起こっている。
また、中華人民共和国とは国境の解釈をめぐって1959年から1962年まで武力衝突が続いたが、人民解放軍が優位に戦闘を進めた。領土問題では、冷戦が終わった現在でも緊張状態が続いている。
核大国化
中ソ対立によって中華人民共和国が核武装すると、国境紛争を抱える戦後インドも、1974年に地下核実験を行って核保有を宣言、世界で6番目の核保有国となった。
2006年7月9日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ3」(射程3,500キロメートル)の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。
国内政局の変換
インディラ・ガンディーとニクソン米大統領
詳細は「インドの歴代首相」および「インドの大統領」を参照1964年にネルーが死去すると、国民会議派のラール・バハードゥル・シャーストリーの短期政権を経て、1966年にはネルーの娘インディラ・ガンディーが長期政権を担った。
ところが、長期に亘って議会の多数派を占めてきた国民会議派は地方政党の台頭によって政権基盤が動揺し、1977年の選挙では大敗して、ジャナタ党に政権を譲った。
1980年、インディラ・ガンディーが政権に返り咲いたが、1984年暗殺され、後継したインディラの息子ラジーヴ・ガンディーが政権を担った。
しかし、彼もまた、辞職後に暗殺されるという悲劇に襲われた。国民会議派の政権は続き、1997年には、不可触民カースト出身のコチェリル・ラーマン・ナラヤナン大統領が誕生した。
1990年代よりヒンドゥー至上主義の立場をとるインド人民党がアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(バジパイ)らの指導のもと勢力を伸ばし、1998年から2004年まで政権を獲得した。
2004年5月から2014年5月までは国民会議派でシク教徒のマンモハン・シン、2014年5月以降はインド人民党のナレンドラ・モディが首相を務めている。
BRICsの一角
アジア最古の歴史をもつボンベイ証券取引所
詳細は「インドの経済」および「BRICs」を参照1980年代以降、インドでは「緑の革命」が進展するいっぽうで農民の経済格差もいっそう広がった。
しかし、インドは、1997年のアジア通貨危機に際し、中華人民共和国とならびその影響をほとんど受けなかった。
従前よりインドは変動相場制を採用しておらず、このことが為替による投機の拡大、縮小を回避することができたためであった。
21世紀に入ってからのインドの経済発展は特にめざましく、ブラジル、ロシア連邦、中華人民共和国と列んで「BRICs」と称されている。とりわけIT(情報技術)関連部門の成長が著しい。ムンバイに所在するボンベイ証券取引所は近年、インド株ブームに乗って外国から大量の資金が流入している。
その一方では、広大な国土に対するインフラ整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部のグジャラート、南東部のアーンドラ・プラデーシュの2州だけで約1300万人に上る惨事となった。
インドにおけるヨーガの歴史
インダス文明
インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。
紀元前2500-1500年頃の彫像
これは、1921年にモエンジョ・ダーロとハラッパーの遺跡を発掘した考古学者のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、坐法を行っているシヴァ神の原型であると解釈したものである[15]。そこから宗教学者エリアーデも、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした[15]。
近代に至るヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている[15]。
しかし、佐保田鶴治も指摘するように、このような解釈は、あくまで推論の域を出ないものであるという[16]。インダス文明には、文字らしきものはあっても解読には至っておらず、文字によって文献的に証明することのできない、物言わぬ考古学的な史料であり、全ては「推測」以上に進むことはできない、と佐保田は述べている[16]。
また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている[17]。
近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており[18]、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。
前期ヴェーダ時代
紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には「ヨーガ」やその動詞形の「ユジュ」といった単語がよく登場するが、これは「結合する」「家畜を繋ぐ」といった即物的な意味で、行法としてのヨーガを指す用例はない[19]。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、「ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない」(狭義のヴェーダの時代)と述べている[20]。
ウパニシャッドの時代
ウパニシャッドの時代では、単語としての「ヨーガ」が見出される最も古い書物は、紀元前500年 – 紀元前400年の「古ウパニシャッド初期」に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』である[21]。この書では、ヨーガという語は「ヨーガ・アートマー」という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は「不明」であるという[21]。紀元前350年 – 紀元前300年頃に成立したのではないかとされる「中期ウパニシャッド」の『カタ・ウパニシャッド』にはヨーガの最古の説明が見い出せる[22]。
古典ヨーガ
「ヨーガ」および「ヨーガ学派」も参照パタンジャリの典型的な像
紀元後4-5世紀頃には、『ヨーガ・スートラ』が編纂された[23][24]。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという[23]。『ヨーガ・スートラ』の思想は、仏教思想からの影響や刺激も大きく受けている[25][26]。
国内外のヨーガ研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである[27]。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である[28]。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった[27]。
ヨーガ学派の世界観・形而上学は、大部分をサーンキヤ学派に依拠しているが、ヨーガ学派では最高神イーシュヴァラの存在を認める点が異なっている[29]。内容としては主に観想法(瞑想)によるヨーガ、静的なヨーガであり、それゆえ「ラージャ・ヨーガ」(=王・ヨーガ)と呼ばれている。『ヨーガ・スートラ』は、現代のヨーガへの理解に多大な影響を与えている。
後期ヨーガ
「ハタ・ヨーガ」も参照
12世紀-13世紀には、タントラ的な身体観を基礎として、動的なヨーガが出現した。これはハタ・ヨーガ(力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、超能力や三昧を追求する傾向もある。教典としては『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』、『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』がある。
ヴィヴェーカーナンダ
他に後期ヨーガの流派としては、古典ヨーガの流れを汲むラージャ・ヨーガ、社会生活を通じて解脱を目指すカルマ・ヨーガ(行為の道)、人格神への献身を説くバクティ・ヨーガ(信愛の道)、哲学的なジュニャーナ・ヨーガ(知識の道)があるとされる[30]。後三者は19世紀末にヴィヴェーカーナンダによって『バガヴァッド・ギーター』の三つのヨーガとして提示された[31]。
ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという[32]。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた[32][† 2]。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという[35][† 3]。
近現代のヨーガ
「ハタ・ヨーガ#現代のハタ・ヨーガ」も参照
19世紀後半から20世紀前半に発達した西洋の身体鍛錬(英語版)運動に由来するさまざまなポーズ(アーサナ)が、インド独自のものとして「ハタ・ヨーガ」の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代のヨーガのベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい「現代のハタ・ヨーガ」である。現代ヨーガの立役者のひとりであるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(英語版)(1888年 – 1989年)も、西洋式体操を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした[36][† 4]。 インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった[37]。
2016年、ユネスコが推進する無形文化遺産にインド申請枠で登録された[38]。
インドの歴史の史料
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その最も顕著な例として、プラーナ文献における歴史の語りがある。
プラーナ文献は、神話を語る宗教文献として扱われることが最も多いが、宗教的な内容にとどまらず、人々の暮らしの規範や医学、音楽などに加え、歴史も重要な要素となっている。
中でも、プラーナ文献の一種であるスタラ・プラーナは、特定の都市や寺院の起源を遡る、歴史意識によって編まれた文献群である。
その叙述は、暦年によって系統立てられたものではなく、神々の事蹟や過去の偉人の生涯に関わらせる形で、その文献の主題となる都市や寺院の由緒を正統的に述べることに主眼がある。そのため、インド独特の歴史叙述とも言えるような特徴が見られるのである。
反対に、近代的な歴史学に直接に史料となりうるものに、碑文がある。最も古いものではアショーカ王碑文が有名であるが、王の即位後の年数や暦年が記されていることが多く、この点でもインド人に歴史意識が欠けていたとは言えないと考えられる。
インドの歴史において最も重要な史料である碑文のほかに、貨幣やその鋳型、印章・石柱・岩石・銅板・寺院の壁や床・煉瓦・彫刻などに刻まれた刻文、7世紀にバーナが著した『ハルシャ・チャリタ』に始まる伝記文学や12世紀にカルハナが著した『ラージャタランギニー』などの歴史書、その他の文献、さらにはメガステネース、プトレマイオス、法顕、玄奘などの外国人による記録も、インドの歴史の重要な史料となっている。』
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歴史と神話が渾然一体 ヒンドゥー教至上主義で摩擦も
映画でみる 大国インドの素顔(1) インド映画研究家・高倉嘉男
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD301C90Q3A530C2000000/
『中国を抜き人口世界一となる見込みのインドは、映画製作本数が最も多い映画大国でもある。成長の一方、社会構造や人々の暮らしはどうなっているのか。2001〜13年にニューデリーに滞在した経験を持つ高倉嘉男氏が日本でも公開された映画を通して解説する。
時代劇映画は映画の花形だ。インドにも古代や中世の歴史的人物や事件を題材にした時代劇映画は多い。実力と経験のある監督が潤沢な製作費とスター俳優を使って壮大なス…
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『実力と経験のある監督が潤沢な製作費とスター俳優を使って壮大なスケールで作り上げるのが一般的で、話題作になりやすい。
ただ、インドでは歴史と神話の境目が曖昧で、実在する英雄が神格化されたり、歴史的事件が詩人の手や民間伝承を経ることで神話と化したりする。神話になるとそれは宗教と一体化し、信仰者が現れる。さらに、インド刑法は他者の宗教感情を侵害することを禁止している。これらの理由から、インドでは歴史的な人物や事件の映画化には他国に比べてより慎重さが求められる。
「パドマーワト 女神の誕生」(2018年)は、歴史と神話が渾然一体(こんぜんいったい)となった中世の物語を映画化したものだ。この映画に見出(みいだ)される歴史的事実は、デリーに樹立したイスラーム教王朝の為政者アラーウッディーンが、インド西部チットールにあったヒンドゥー教の王国を1303年に攻め滅ぼしたという点だけであり、それ以外の部分は伝承に拠(よ)るところが大きい。
その伝承の一つが王妃パドマーワティの存在である。伝承によるとアラーウッディーンは、チットール王国ラタン王の妻パドマーワティの美貌を聞きつけ、横取りするためにチットールを攻めたとされるが、歴史学者は概(おおむ)ねパドマーワティの実在ごと、この逸話を否定している。「パドマーワト」はそのパドマーワティを主人公にしている。
パドマーワティは、単に絶世の美女であるのみならず、勇敢な女傑でもあった。姦計(かんけい)によりアラーウッディーンに囚(とら)われたラタン王をデリーまで乗り込んで救出しただけでなく、報復戦の中でラタン王が戦死し、敗色が濃厚になると、アラーウッディーンによる凌辱(りょうじょく)を潔しとせず、王宮の女性たちと共に自ら火の中に身を投じて殉死した。
中世インドでは、ラージプート(尚武の支配者層)の女性たちが敗戦時に集団自殺した例がいくつも記録されており、これはジョーハルと呼ばれた。また、夫に先立たれた妻が火葬の炎の中に飛び込んで焼身自殺するサティー(寡婦殉死)も最近まで長らく横行していた。ジョーハルやサティーを行った女性は女神として神格化されて寺院に祀(まつ)られた。ただし、サティーの実行や美化は既に法律で禁じられている。
歴史的にはパドマーワティも実在しなければ、チットール陥落時にジョーハルが行われた記録もない。だが、パドマーワティはジョーハルを象徴する女神として民間信仰の対象になった。「パドマーワト」に対しては、サティーの美化との批判もあったのだが、それよりも多かったのは、パドマーワティを低俗に描写しているというものであった。憤ったラージプートの過激派団体は「パドマーワト」のセットを破壊するなど暴力行為に出たし、主演女優ディーピカー・パードゥコーンに殺害予告も届いた。公開前には上映禁止の訴訟も行われた。この大ヒット映画は、そのような数々のトラブルを乗り越えて製作され公開された。
インドでは2014年からヒンドゥー教至上主義を掲げるインド人民党(BJP)が中央の政治を握っている。それとの関連か、以来、ヒンドゥー教徒英雄の映画・ドラマ化が盛んになり、中にはBJPの党是を喧伝(けんでん)するようなプロパガンダ映画も目立つようになった。そのような映画では、「パドマーワト」のように、悪役がイスラーム教徒になることが多く、宗教融和によくない影響をもたらしている。それに加えて、過激化したヒンドゥー教徒たちの気に障るような描写をした監督や俳優は暴力や脅迫の対象になる。映画製作者にとっては非常に難しい時代だ。
架空の王国の内紛を描く「バーフバリ 伝説誕生」(C)Capital Pictures/amanaimages
ただ、日本でも大ヒットした「バーフバリ」シリーズ(15、17年)は、近年のインドにおける歴史や宗教の問題をうまく回避して作り上げられた映画だと感じる。イスラーム教勢力の侵攻を受ける前の、古代から中世に掛けての「ヒンドゥー教黄金時代」を時間軸にしながら、実在しない架空の王国の内紛を、架空の登場人物と共に描写した。全てフィクションなので文句を言う人はいない。だが、ヒンドゥー教的な世界観は維持されており、ヒンドゥー教徒の観客は高揚感と共に受け入れることもできる。BJPが中央で政権を握っている間は、実在する歴史的英雄の映画化はプロパガンダ映画を除けば安全ではない。時代劇映画を作ろうと思ったら、「バーフバリ」の手法に倣うしかなさそうだ。
たかくら・よしお 1978年生まれ。インド映画研究家、豊橋中央高校校長。インドのジャワーハルラール・ネルー大学でヒンディー語の博士号を取得。共著に「新たなるインド映画の世界」。インド映画への出演経験も。』
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米国務長官、サウジ皇太子と会談 人権状況改善促す
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN074460X00C23A6000000/『【デモイン(米アイオワ州)=坂口幸裕】ブリンケン米国務長官は6日、サウジアラビア西部ジッダで同国の実力者ムハンマド皇太子と会談した。国務省によると、ブリンケン氏は両国の関係を強化するにはサウジの人権状況を改善する必要があると強調した。
バイデン政権は2021年2月、18年にトルコで起きたサウジの著名ジャーナリスト殺害事件に皇太子が関与したと結論づけた。これをきっかけに両国関係はぎくしゃくした。
皇太子を厳しく批判してきたバイデン米大統領は22年7月にサウジを訪問した際も人権問題を提起し、議論は平行線だった。ブリンケン氏は「我々の二国間関係は人権の進展によって強化される」と訴え、人権問題を重視する姿勢を改めて示した。皇太子の反応は明らかになっていない。
米国はサウジを含む中東で存在感を増す中国に対抗するため、地域での関与強化をもくろむ。中国がサウジとイランによる関係正常化の合意を主導したことに危機感を強めており、関係を立て直す糸口を探っている。
ブリンケン氏のサウジ訪問は関係修復の一環といえる。皇太子との会談で両国が停戦を仲介したスーダン情勢を巡り、米国人退避に関するサウジの協力や戦闘停止に向けた取り組みに謝意を伝えた。
サウジとイランによる事実上の代理戦争の様相だったイエメンの安定に向けた決意を確認した。クリーンエネルギーや技術支援など経済分野での連携を深める方策を議論した。
サウジは中国と同国の広域経済圏構想「一帯一路」で協力を深め、脱石油依存を目指すサウジの経済構造改革「ビジョン2030」でも連携する。米メディアによると、米政府が中東で大規模なインフラ整備の構想をサウジやインド、アラブ首長国連邦(UAE)と協議しており、具体策で巻き返しを急ぐ。
ブリンケン氏はサウジ訪問に合わせ、7日にアラブの主要産油国で構成する湾岸協力会議(GCC)の閣僚会合に出席する。8日にはサウジのファイサル外相と過激派組織「イスラム国」(IS)によるテロの脅威への対処策を協議する閣僚会合を共催する。』
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独ロガス管、ウクライナ軍が破壊を計画 米機密文書
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB0715V0X00C23A6000000/
『【ワシントン=共同】ロシア産天然ガスをドイツに送る海底パイプライン「ノルドストリーム」で昨年9月に起きたガス漏れを巡り、米紙ワシントン・ポスト電子版は6日、ウクライナ軍のダイバーによる破壊計画を米政府が事前に把握していたと報じた。米当局の機密文書に基づくとしている。破壊計画と実際の状況が酷似し、欧米がウクライナの関与を疑う根拠になっているという。
破壊計画の情報は欧州の情報機関によって昨年6月に米中央情報局(CIA)にもたらされた。親ウクライナのグループによる攻撃が原因だった可能性があると既に報じられているが、具体的な破壊計画が明らかになるのは初めて。ウクライナ当局は関与を否定している。
同紙によると、ウクライナ軍特殊部隊のダイバーら6人が身元を偽って船を借り、潜水艇を使用してパイプラインを破壊する計画だった。6人はウクライナ軍のザルジニー総司令官に直接報告をすることになっており、ゼレンスキー大統領が計画を把握していない可能性もあるという。CIAはドイツなどに機密情報を共有した。ガス漏れを巡っては、米著名記者が米海軍のダイバーによる爆破だったと主張したほか、英軍関係者の関与をロシアが指摘するなど、さまざまな見方が出ていた。
【関連記事】
・ノルドストリーム破損 「数日前にロシア特殊船」報道
・ドイツ、ノルドストリーム破損で6人捜査 国籍など不明 』 -
[FT]中国「宮廷政治」 習近平氏の忠臣らが権力闘争へ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2613M0W3A120C2000000/『2023年1月26日 17:51
中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は3月に開く「両会(2つの会議)」を使って、世界最大級の人口と強大化する軍事力を擁する国家の中枢を担う人事を一気に承認する。両会は中国の国会に相当する全国人民代表大会(全人代)と国政の助言機関である全国政治協商会議(政協)を合わせたものだ。
中国共産党大会の開幕式に到着した習近平氏(2022年10月)=ロイター
任命される人物の大半は、習氏にとって旧知の仲の男性部下や、数十年ともに仕事をしてきた信頼する高官で占められる。そこに毛沢東以来で最も強力な指導者となった習氏に忠誠を示す期待の若手も加わる。権力固めの総仕上げ
今回の人事の承認は、昨年10月の党大会で異例の3期目(1期の任期は5年)入りを果たした習氏にとって権力固めの総仕上げになる。
さらには習氏の信奉者や忠臣の間に新たな派閥が誕生することが明らかになるものでもある。
中国の趙紫陽元首相の顧問だった呉国光氏は最近、米研究グループ「チャイナ・リーダーシップ・モニター」によって出版された論文で「派閥政治の新時代が幕を開けた」と評した。
「最高指導者としての習氏の地位と権威が中国共産党幹部から挑戦を受けることは考えにくい。だが、習氏の追従者のさまざまなグループの間で派閥競争がすでに始まっている」と呉氏は指摘する。同氏は現在、米スタンフォード大学と米シンクタンク、アジア・ソサエティーに所属している。
習氏によるこれまで10年間のリーダーシップの特徴は、意思決定の中央集権化であり、自分以外の幹部指導者の影響力をそぐことだった。すでに前国家主席の胡錦濤(フー・ジンタオ)氏、元国家主席で昨年11月に死去した江沢民(ジアン・ズォーミン)氏に連なる、かつて権勢を振るっていた人脈を根こそぎにした。
新たな派閥は習氏の後任争いにも
新たな派閥は習氏の鉄壁の権力を脅かすことはないものの、支配力や影響力、さらには党トップとしての習氏の後任の地位をめぐって争うことになる。
不透明で予測不可能な中国の政治を解明するには、習氏周辺の幹部の経歴や人柄、思想傾向、政策の好み、個人的な人脈を知ることが非常に重要だと専門家は指摘する。
「今後数年間、派閥競争は避けられない。内部でのエリートの入れ替えや権力の継承という意味での世代交代は、形成されつつある習氏の下部派閥間の権力闘争も加速させるだろう」と呉氏は論じる。
呉氏は論文の中で4つの重要な派閥として、習氏が福建省、浙江省、上海市、陝西省でそれぞれ共に働いた高官の集団を挙げている。陝西省は習氏の家族にとって縁の深い場所でもある。
呉氏はさらに5つの派閥を挙げる。軍産部門の高官、名門の清華大学の学閥、中国共産党幹部の養成学校である中国共産党中央党校の関係者、習氏の夫人である彭麗媛氏に関係する複数の高官、そして公安関係者だ。
「より大きな構図で見ると、(軍産)派閥の台頭は、習氏による経済や技術開発の新たな戦略を示唆しているようにみえる。国家が技術進歩を促進させる能力を強調し、中国経済での民間部門の比重を減らそうとするものだ」と呉氏は説明する。
中国エリート政治の専門家である米カリフォルニア大学サンディエゴ校のビクター・シー氏は、最も重要な派閥として、習氏が福建省と浙江省の幹部だった時代にそれぞれ形成した集団と、党の強力な腐敗摘発組織に任命された陝西省出身の高官の集団に絞り込んでいる。
習氏が10年以上を過ごした福建省
福建省時代からの習氏の側近には、大方の予想では劉鶴(リュウ・ハァ)副首相に代わって経済政策の責任者に就くとみられる何立峰(ハァ・リーファン)氏や、党のプロパガンダや思想を担う中央政治局常務委員に新しく選ばれた蔡奇(ツァイ・チー)氏、公安相の王小洪氏がいる。いずれも1999〜2002年に福建省の幹部だった際の習氏とつながりがある。
「非常に強力な組み合わせだ。(福建省時代は習氏の)経歴で最も長い期間だという点を忘れてはならない」とシー氏は話す。「習氏は福建省で10年以上を過ごした。この場所は習氏の中に深く刻み込まれており、その逆もまたしかりだ」
習氏が02〜07年に浙江省トップの党委員会書記を務めていた時代とのつながりでは、中央政治局常務委員で次期首相の最有力候補である李強(リー・チャン)氏や、広東省トップの党委員会書記を務める黄坤明氏、新しい国家安全相の陳一新氏がいる。
習近平氏(中央)に続いて歩く李強氏(2022年10月)=ロイター
米ブルッキングス研究所の中国政治専門家の李成氏は「非常に複雑な」中国の新たな政治状況について、専門家らの理解は「端緒についた」ばかりだと指摘する。
つまり指導部の広大な人脈のほか、政策や思想、影響力の違いを新たに分析し直す必要があるという意味だ。
しかし中国人エリートや旧ソ連政治が専門の米アメリカン大学のジョセフ・トリジアン氏は、中国ウオッチャーはこれまでも秘密めいた北京の共産党内部の動きをうまく予測できてこなかったと語る。一方で同氏は、独裁者が同世代の指導者を追放し、より若手の幹部を登用した毛時代との類似点を指摘する。
「『大掃除』で登用される異なるグループの間では確実に競争が起こるだろうが、彼らが主にやってきたのは最高指導者に対する忖度(そんたく)合戦だ」とトリジアン氏は説明する。
派閥は習氏の怒りを買うリスクも
中国共産党の上層部で形成されつつある派閥は、どこも習氏の怒りを買うリスクを負っている。習氏は政治的に対立する相手や、自らの支配にとって脅威とみなした相手を厳しく取り締まってきた。
22年10月に開かれた中国共産党大会の前の数カ月間で、司法省や公安省の元幹部らが、国家主席に背く「政治ギャング」の一味だとして長期の懲役刑を言い渡された。
トリジアン氏は、こうした中国における政治集団について「派閥と呼べるほど結束することはまれだ」と語る。
「他の誰かとあまりに協調して動いているようには見られたくない。そんなことをすれば習氏は即座に警戒すべき兆候と受け止め、粉砕しようとするからだ」
By Edward White
(2023年1月25日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)
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