月: 2022年9月
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インドネシア政権、マスク氏に接近 EV・衛星で投資誘致
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM161OF0W2A810C2000000/※ 年間版売台数が、887,202台だそうだから、倍の990台で計算して、シェアにすれば、0.1%くらいのものだ…。
※ EVは、あまり現実的ではない…。
※ むしろ、スターリンクの方が、有望なのでは…。
※ ウクライナ事態で、一躍名を上げたしな…。
※ インドネシア、フィリピンなんかの「島嶼国家」は、この衛星を使ったインターネット回線は、しごく有望なように見えるが…。
※ マレーシアも島嶼国家と言えるのか、ちょっと調べたが、国土が「マレー半島部」と「ボルネオ島部」に分かれているが、「数多くの島がある、島嶼国家」とまでは言えないようだ…。

『インドネシアのジョコ政権が米テスラのイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)に近づいている。東南アジアでの電気自動車(EV)の生産ハブになろうと、市場を引っ張るテスラの誘致は欠かせない。マスク氏が手がける宇宙ビジネスにも関心を示す。
車載電池材料の調達で契約
ジョコ大統領の側近のルフット海事・投資担当調整相は8月上旬、テスラが中部スラウェシ州モロワリ県で操業する中国企業2社から車載電池材料を調達する契約を結んだと明らかにした。契約額は約50億ドル(約7000億円)で、2社はコバルト大手の浙江華友鈷業と電池素材製造の中偉新材料とみられる。地元メディアが伝えた。
ルフット氏は今回の契約をテスラのインドネシアでのEV生産に向けた第一歩と位置づけた。同社のEV工場の建設の可能性に関し「まだ交渉している。テスラは(マスク氏が買収計画を撤回した)米ツイッターの問題など国内の事情でまだ忙しいからだ」と説明した。
ジョコ氏自身も5月、米国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議に出席するためワシントンのホワイトハウスを訪れたその足で、テキサス州ボカチカに向かった。マスク氏が率いるスペースXの拠点で、同氏にインドネシアでのEV生産を直談判するのが目的だった。
インドネシア大統領府によると、マスク氏は2億7000万人の人口などを指摘し「テスラやスペースXを通じて連携したい。インドネシアは多くのポテンシャルがあり協力の形を緊密に考えていきたい」と語った。
ジャカルタで初めて開催されたEV展示会では地元ディーラーがテスラ車を出展した(7月)
ジョコ氏が政権を挙げてマスク氏に近づくのは、国策として進める東南アジアでのEV生産のハブ化でテスラは欠かせないからだ。インドネシアはEV電池の主要材料であるニッケルについて、世界最大の埋蔵量を誇る。未加工のニッケルの輸出を禁止し事実上囲い込むことで、世界の自動車メーカーに同国内でのEV生産を促している。
25年にEV生産比率20%に
すでに韓国の現代自動車が東南アジア初の生産拠点として首都ジャカルタ近郊に設けた完成車工場でEVの生産を始めた。中国・上汽通用五菱汽車(ウーリン)もこのほど小型EVの生産を開始した。EV電池でも韓国のLGエナジーソリューションが工場を建設しているほか、中国の寧徳時代新能源科技(CATL)も進出する計画で、産業の裾野が広がりつつある。
「テスラはEV市場のけん引役だ。もしインドネシアで生産することになれば、それが世界に伝わり、さらなる投資を呼び込める」。海事・投資担当調整省の関係者はテスラの誘致について相乗効果を指摘する。インドネシア政府は2025年に自動車全体の生産台数の20%をEVにする目標を掲げる。高価格や充電施設などのインフラの未整備がネックになり、22年1~6月のEVの販売台数は500台弱にとどまる。世界的に知名度のあるテスラの誘致で、普及を加速したい狙いがある。
バフリル投資相は6月、テスラの工場候補地として中部ジャワ州バタン工業団地を挙げた。LGエナジーソリューションの工場などEV関連産業の集積を進めており、マスク氏の最終決断に備える。
スペースXの投資も期待
ジョコ政権はマスク氏と関係を構築してスペースXからの投資も同時に引き出したい方針だ。インドネシアは国内にロケット発射場が未整備で、宇宙ビジネスで出遅れている。約1万7000の島を抱える世界有数の島国で、全国を網羅する通信インフラの拡大が急務だ。
インドネシアは「低コスト・高品質」で定評のあるスペースXからロケット発射場の建設や衛星の打ち上げで協力を得たい構えだ。市街地から離れ海に面した場所が多く、ロケット発射場を設置しやすい利点もある。政府内では西部のパプア州や北マルク州への誘致案が浮上する。
ジョコ氏は5月にマスク氏と会談した際、11月にインドネシアを訪れるよう要請し、マスク氏も前向きに応じた。11月はジョコ氏が議長を務める20カ国・地域首脳会議(G20サミット)がバリ島で開催される予定で、世界の注目がインドネシアに集まる。マスク氏が訪問時に何を語るかにも視線が注がれそうだ。
(ジャカルタ=地曳航也)』
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イスラエル、女性記者殺害は「軍が誤射の可能性高い」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB061Q80W2A900C2000000/『【カイロ=時事】パレスチナ自治区ジェニンで5月に起きた女性記者射殺事件について、イスラエル軍は5日、調査結果を公表し、パレスチナの武装組織に向けた軍の銃撃で「誤って撃った可能性が高い」と認めた。国際的な非難を前に、イスラエル側が一定の責任を確認した。ただ「別の可能性」として、武装組織が発砲した銃弾による死亡の可能性も排除はしなかった。
軍は専門の捜査本部を立ち上げ、兵士から状況を聞き取り、録画した音声や動画などを解析した。しかし、命中したのが軍と武装組織のどちらの銃弾だったか、特定は「不可能だった」と主張した。
射殺されたのはパレスチナ系米国人のシリーン・アブアクラさん。5月11日、イスラエル軍の急襲作戦を取材中だった。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は事件の翌月、独自の調査結果を公表し「銃弾はイスラエル治安部隊から発射された」とイスラエルを批判していた。
イスラエル軍の調査結果に対し、アブアクラさんの遺族は「予想した通り殺人の責任を取ることを拒否した」とイスラエルを非難した。自国民の死に関する説明責任は米国にもあるとして、イスラエルではなく米国に信頼できる調査を求めてきた。今後も求め続けるという。
ただ、米国務省は7月4日、米政府の調査結果を公表している。「イスラエル治安部隊の位置からの発砲が原因だった可能性がある」と言及したものの、故意の銃撃と断定する根拠はないと述べ「幕引き」(イスラエル紙)を図った。』
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産油国、価格維持へ覚悟示す 米圧力避け来月から減産
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR0600N0W2A900C2000000/
『石油輸出国機構(OPEC)に非加盟のロシアなどを加えた「OPECプラス」が5日、10月に原油の減産に転じると決めた。バイデン米政権の要請に一定の配慮を示した9月の小幅増産は、早くもご破算になる。米欧日などがエネルギー高への懸念を強める冬を前に増産をやめるのは、一致して相場を下支えするとのメッセージだ。
減産の発表後、ニューヨークの原油先物相場は一時前週末比4%高い1バレル90.39ドルまで上昇する場面があった。
OPECプラスは新型コロナウイルス禍からの需要回復で2021年から22年8月まで毎月、段階的に増産してきた。9月に追加で10万バレル増産すると決めたのは、バイデン米大統領が7月にサウジアラビアを訪れ増産拡大を求めた直後だった。ごく小規模の増産で米国に最低限の配慮を示した形だが、わずか1カ月での政策転換となる。
今回決めた日量10万バレルの減産幅は、世界の需要の0.1%にすぎない。現物市場への影響はないに等しい。それでも市場が注目するのは、原油の需給が緩めばOPECプラスが自らの都合で「介入」する姿勢を示したことだ。
OPECプラスは5日の声明で「必要な場合、いつでも閣僚を招集するよう議長に求める」とし、市場の動向次第で10月の次回の会合を待たずに生産調整について話し合う方針を示した。議長のサウジに随時介入を委ねるものだ。
「この微調整は市場の安定を支える上で我々が注意深く、機先を制することを示す」。減産についてサウジのアブドルアジズ・エネルギー相は5日、米ブルームバーグにこう述べた。米国などの増産圧力にさらされ続けたOPECプラスが一転、供給を絞っていく可能性を市場に織り込ませるガイダンスの意味合いが強い。
ロシアのウクライナ侵攻で原油の供給不安が高まり、欧米からの増産圧力が強まる中、OPECプラスが減産に転じた背景には原油需給の緩みがある。国際エネルギー機関(IEA)の8月の月報によると、世界の原油需給は22年4~6月期から小幅な供給過剰に転じた。
世界経済の減速に伴う原油需要の鈍化が響いた。多くの国の中央銀行はインフレを抑えるため金融政策の引き締めを加速しており、需要に下押し圧力がかかる。中国では新型コロナの感染が再拡大し、都市封鎖に動いており経済回復が減速した。米国では6月に一時ガソリンの小売り価格が初めて1ガロン5ドルを超え、消費が鈍化している。
IEAの予測では、22年10~12月期には供給過剰幅が日量100万バレル程度まで広がり、23年まで供給過剰が続く。ロイター通信によるとロシアのノワク副首相は5日の協議後「我々は余剰も不足もないよう市場への十分な供給について話し合っている」と述べ、世界経済の成長鈍化に警戒感を示した。
イラン核合意の再建交渉が進展すれば、イラン産原油が市場に復帰し、さらに需給が緩む可能性もある。
国際通貨基金(IMF)の推計では、サウジの22年の財政収支を均衡させる原油価格は1バレル約80ドルとなっており、同国は安値を招く需給の緩みは避けたい。サウジは石油に依存しない経済への転換に向けて改革を進めており、今のうちに多くの収入を得たいという意向も働いた。
海外メディアによると、当初、市場に供給過剰との印象を与えたくないとして減産を支持していなかったロシアは、ウクライナ侵攻のための戦費を確保する狙いもあり、最終的にサウジなどとの合意を決めたもよう。タス通信によると、早くもロシアのシュルギノフ・エネルギー相は5日、22年末までに自国の原油生産量が2%減るとの見通しを示した。
ジャンピエール米大統領報道官はOPECプラスの決定後に「価格を下げるためエネルギーの供給は需要に応えなければならないと(バイデン)大統領は明確にしてきた」との声明を出した。米国とOPECプラスのすれ違いは続きそうだ。
野村証券の大越龍文氏はOPECプラスが減産というカードを切ったことで「原油相場は1バレル90ドル前後の水準で下支えされやすくなった」と指摘する。OPECプラスの政策転換により世界でインフレ圧力が続く可能性がある。(カイロ=久門武史、コモディティーエディター 浜美佐)』
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三増峠の戦い~信玄が北条を返り討ち!山岳戦で見せた火の如し機動力
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2016/12/15/89334























『【編集部より】
三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城を攻撃していた武田信玄が包囲を解いて甲州へ向けて撤退。それを追撃してきた北条軍を三増峠付近(現在の神奈川県西部の愛川町)で迎え撃ち、勝利した戦いである。信玄の戦上手を知らしめる戦いであるとともに、のちの家康に大勝する三方ヶ原の戦いにつながる戦法として戦国マニアに知られている戦いだ。このマニアックな三増峠の戦いを、ブログ「マイナー・史跡巡り」の筆者の玉木 造さんが現地を訪れて詳細にレポートした。そのルポと解説した記事を転載させていただいた。早速ご覧いただきたい。』
『【本文ここから】
三増峠の戦いをレポートしたいと思います。
武田信玄や、北条氏康の大ファンであれば、良くご存じの大変有名な大戦(おおいくさ)ですね。
戦死者の数が、4000人も出た戦は、山岳戦では、トップクラスに大きいと思われます。
それと、この戦(いくさ)を取り上げたかったのは、実は武田信玄は、この戦をしたくて、わざわざ軽井沢方面から関東を南下縦断して、小田原攻めをしたのではないかと私は思っているからです。
50歳の老練な信玄公の、関東の雄である北条氏へ見せつけた知略と山岳戦の上手さ!
まず、この戦にいたる背景を説明します。お好きな項目に飛べる目次 [とじる]
戦いに至る背景 コラム 東光寺の紅葉 武田信玄の小田原攻め 信玄の山岳戦~三増峠の戦い
戦いに至る背景
1.甲相駿三国同盟
さて、下の図を見て下さい。上段の勢力図にあって、下段に無いのが「今川家」です。そう、今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で織田信長に殺されてから10年後の勢力図には、今川領である静岡県は、武田家と徳川家の版図に塗り替えられているのです。
実は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、駿河の今川義元との間で、桶狭間の6年前である1554年に甲相駿三国同盟を結んでいました。当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始した訳ですが、桶狭間で討ち取られてしまうという失態を犯した訳です。
単なる約定の交換だけでなく、下の図のように、自分達の嫡子の処に、娘を嫁がせるという政略結婚付です。このように単なる紙切れの約束にしておかないことで、強固な約定となる訳ですが、信玄も氏康も自分の息子や娘が、この同盟が破られるとき、こんなになってしまう、代償の大きさがここまでとは思っていなかったでしょうね。後で詳細をお話します。
今川義元の息子は氏真ですが、これは暗愚で、蹴鞠だけ、やたらと上手いがそれ以外はダメという人物だったらしく、人心は離れます。
一方、「敵に塩を送る」(上杉謙信が武田信玄に塩を送った)の話で、海が無い武田領は有名で、信玄は海がある土地に版図を拡大するのが夢でした。
桶狭間での今川の失態は、信玄が駿河を手中にして、海に出る千載一遇の好機です。早速彼は、駿河侵攻の計画を進めようとします。2.駿河侵攻
当然、そうなると信玄は、三国同盟を破棄することになるのですが、これに大反対するのは、長男の武田義信です。そう、右図にあるように、この同盟で、彼は今川義元の娘を妻として迎え入れているのです。当然彼は駿河侵攻による今川撃滅に大反対します。同盟破棄の障壁第1弾です。
この義信、名前にも「義」があるように、義に篤く、かなり優秀かつ人望のある人物だったらしく、彼が駿河侵攻反対を強く主張すればするほど、信玄は慌てます。それは信玄がかつて、自分の父親である信虎を国外追放したように、下手をすれば自分も義信により国外追放となる、そこまで行かなくても、強固な武田軍団が2つに割れてしまう。
困った信玄は、結局義信を幽閉します。そして2年後に義信は幽閉先で死ぬのです。
義信が幽閉されていた東光寺(甲府市)
父親を追放してでも、優秀な嫡男を殺してでも、やりたいことをやる。極悪非道の信玄と、謙信は揶揄します。「人は石垣、人は城」と家臣、人民に情が厚い信玄は、その代わりというか、肉親には厳しかったようですね。
そして、信玄は徳川家康と共謀し、駿河侵攻に着手します。
予想通り、今川氏真は、ほぼ総崩れです。駿府(静岡市)からほうほうの体で、掛川へ逃げていきます。ここで同盟破棄の障壁第2弾が発生します。
氏真の妻は北条氏康の娘で、早川殿と言われました。かなり美人で気立てが良い娘らしく、現代のゲームのキャラクターにも大体美人に描かれております。
彼女は、この時今川氏真に従い、掛川へ逃げたのですが、乗り物も用意できず、徒歩で、ボロボロになって逃れたと言います。これを聞いて怒ったのは、北条氏康です。そりゃそうです、大事な可愛い娘が大変なことになったのですから。同じ娘を持つ父親として共感出来ます。(`A´)
当然、怒りの矛先は信玄に向かう訳です。さてその後、色々と北条は武田軍の駿河侵攻が上手く行かないよう妨害をします。長くなるので詳細は、後日別シリーズのブログに譲りますが、それらの妨害に会いながらも、結果的には戦国大名としての今川家を滅ぼし、信玄の思ったようになっていくのです。
3.信玄の小田原攻め
さて、今川家は崩壊しましたが、この駿河侵攻において、北条の数々の妨害策に煮え湯を飲まされた信玄も、このまま黙って北条を野放しには出来ません。特に北条はこの三国同盟が無くなってから、上杉謙信と約定を結び、連携して武田の国境を脅かす危険性が高まってきました。
そこで信玄は、北条軍に釘を刺しに行くことを決意します。
信玄としては、駿河を手中に収めることは、単に海に出たかったということもありますが、西上し、上洛を果たすためにも、東海道上にあるこの駿河を押えておきたかったのでしょう。海上輸送による上洛軍援護のための水軍を編成させたことからも、このことは明らかです。
ということは、信玄が上洛する最中に、北条軍が自分の領土の東側から攻めてこられては困るのです。背中から襲われる形になりますので。
したがって、一度、北条軍には武田軍の底力を知って、武田軍を畏れて貰う必要があると考えたのでしょう。そこで、北条氏の版図内にて、武田軍の示威軍事行動を起こすのです。
この行動の詳細と、三増峠の戦いにおける両軍の勝敗については、長くなりますので次の章にて書きたいと思います。コラム 東光寺の紅葉
余談ですが、武田信玄の嫡男、義信が廃嫡された後、幽閉され亡くなった東光寺に行ってきました。
前にも書きましたが、義信は義に篤く、勇に優れた男だったらしく、この駿河侵攻についても、義を通しただけと考えているのでしょう。「もしも」は歴史の禁句ではありますが、武田家が武田勝頼では無くて義信が継いでいたら、また違う大きな歴史の流れの変化があったかもしれません。しかし、時代はこのような重要な人物であっても、メインストリームから外れると忘れてしまうものなのですね。彼が幽閉された東光寺に行ってつくづく感じました。
紅葉の綺麗なこの季節、東光寺の前の昇仙峡に向かう国道は大渋滞でしたが、義信のこの東光寺には、私以外誰一人居ませんでした。しかし、義信は、来訪してきた小生ごときにも、写真のように、京都の寺院にも勝るとも劣らない美しい紅葉の庭園を見せてくれました。
それはまさに来訪に対する返礼をしてくれる「義に篤い」男にふさわしい美しい紅葉だと感心しました。【三増峠古戦場碑】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631
【東光寺】山梨県甲府市東光寺3-7-37武田信玄の小田原攻め
三国同盟破棄を楯に、駿河侵攻の邪魔をする北条氏康に、一発ガツンと食らわせないといけないと思った武田信玄は、駿河侵攻の翌年1569年8月に2万の軍を率い、小田原攻めを開始します。
1.武田軍の関東平野南下
以前、私は北条氏康の初陣を取り上げたブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で、氏康をカメだ!と言いました。それは彼の幼少期の過ごし方が、実は現代のひきこもりに近かったからです。しかし、彼の欠点に見えたこの性格が、逆に北条五代の中で、一番強い北条軍を「籠城作戦」という、カメが甲羅にひきこもるような戦い方で形成していきます。
氏康は、弱みを強みに転換できた成功者だと思います。
氏康以来、北条家の戦い方はカメ、つまり自分と同格以上の敵に攻められると、小田原城という甲羅にひきこもる というDNAが受け継がれたのですね。自身の城を作らず、「攻撃は最大の防御」と、戦は必ず出て行ってしていた武田信玄とは、180度違う訳です。
勿論、武田信玄は、そんな氏康の戦い方等、とうにお見通しです。
武田軍2万の小田原攻めのルートを見て下さい。
信玄は、わざわざ領内を北上して、佐久から今の軽井沢を通り、碓氷峠を超えて、北条の領地に関東の北側から入ります。
そして、長々と南下する進軍ルートを取っています。
これは、北条が直ぐに城に籠って戦おうとする癖を武田軍は良く分かっているため、北条領内をなるべく長い距離進軍することによって、北条氏康本体を小田原から引っ張り出し、どこか城外にて決定的な打撃を与えられるような戦がしたかったのだろうと私は想像しています。
このような自分達を「餌」にした誘き出し作戦は信玄の得意なところであり、最大の成功例は、徳川家康を浜松城から引き出し、三方原で大勝した「三方原の戦い」ですね。
これをこの小田原攻めの進軍中にやりたかったのだと思います。さて、北条氏康には沢山息子が居ましたが、今回は上から3人の息子が大活躍し、北条が三増峠の戦いで、大敗北を喫する要因をせっせ(?)と作ります。
1番上の子が氏政、次が氏照、3番目が氏邦です。この3人の息子+氏康が今回の信玄の戦相手です。
まず、信玄は、氏邦から嚙みつきます。
2.鉢形城包囲(小田原攻め①)
氏邦は、北条の北関東最大の拠点、鉢形城の城主です。この城、兎に角、断崖上の天然の要害に立地しているため、非常に堅固ですし、歩き回るのに疲れ切る位、大きい城郭です。
鉢形城の空堀
そもそも、武田軍は北条のカメ戦法には嫌気が差していますので、鉢形城を囲んで、お父さんの氏康が援軍を率いて、どこかで決戦が出来る事を半分期待して包囲しましたが、残念ながら、お父さんは小田原から動く気配は無し。ちょっと冷たいですが氏康もこの信玄の考え位は見通していたでしょう。
鉢形城へ攻撃を仕掛けるも、固いカメの甲羅のように、びくともしません。鉢形城も北条軍第1級の城です。
武田軍は、ゆるゆると囲みを解き、この城をけん制しつつも、主力軍は、また関東を南下して行きます。鉢形城本丸から荒川越しに寄居方面の臨む(こちら方面はかなり堅固)
3.滝山城攻撃(小田原攻め②)
次のターゲットは、八王子にある滝山城です。
また脱線しますが、この滝山城侵攻については、以前拙著のブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」にも詳細書きましたので、参考にしていただければ幸いです。
この城は、2番目の息子、北条氏照が守る城であり、鉢形城程の規模はありませんが、中はギュッと密度の高い防御力を持つ平城です。滝山城から信玄が陣を敷いていた拝島方面を臨む(滝山城から北東側)
しかし、信玄、流石にこの城に対し、鉢形城と同じ轍は踏まないのです。
何としても氏康を小田原から引っ張り出したいのですから、同じ戦法では見くびられます。ちゃんと滝山城の長所・短所は調べてあります。「敵を知り、己を知れば、百戦百勝」とは信玄も良く言ったものです。
この平城、北側ならびに東側に対しては、非常に堅固に作られた城です。ところが、南側、西側については、意外と脆いです。これは、信玄でなくても、皆さん実際に城跡に行かれると良くわかります。
上記の写真は、滝山城址から北側を臨んだところです。高さがあって強固な感じが分かります。
城の西側は八王子の高尾山や小仏峠、陣馬山等の山々が連なっており、これらの山々を超えて、この城に攻め入ることはあり得ないという想定なのでしょう。
ちなみに信玄は、右上の写真の上の方、拝島というところに陣を張り、滝山城とにらみ合います。これは滝山城側としては想定内の布陣です。滝山城攻防戦
信玄は、両軍多摩川を挟んでにらみ合っている最中、今の、大月市に拠点を置く部下である小山田信茂に下知して、1千人の軍に小仏峠を越えさせ、滝山城を南西側から急襲させます。(上図)
これは滝山城にとっては、想定外です。何せ小仏峠から大軍は攻めてこないとの前提なのですから。
滝山城の守備兵は2千人ですが、得意のカメ戦法が崩されそうです。
そこで慌てて一部を迎撃に出して、今の高尾駅の辺りで、小山田隊と戦をしますが、あえなく敗退(廿里の戦い)。小山田隊の進撃を食い止めることが出来ません。小山田氏の領地は、滝山城と隣り合わせなので、この城について調べ尽くしているでしょう。そのまま滝山城の弱点である西南から押し寄せ、一気呵成に攻めます。
正面に武田軍2万が構えていますし、滝山城は、甲羅を叩き割られました。落城寸前まで来ます。北条氏照切腹か?それとも2千の兵力で、正面の10倍の武田軍に向かって討死するか?
ところが、信玄は、急に攻撃を止め、兵を纏めてまた南下を始めます。
彼の今回の目的が、北条氏康の息子の誰かを討ち取ることでも、滝山城を奪取することでも無く、圧倒的軍の強さの違いが示せれば目的達成なのですから。氏照を窮地に追い込めば、氏康が小田原を出てくるかと思いきや、やはり出てこないこと、また滝山城を取ってしまっても、その後、この城を北条から守り、武田が維持していくには、小田原からの距離が近すぎること等が、最後まで攻め切らない理由なのでしょう。
流石、武田信玄ですね。大人の余裕を感じます。
北条軍は、この時の信玄の滝山城攻撃の反省から、西側からの関東侵入に備えて、北条軍最大の山城、八王子城を築くのです。信玄の小田原攻めの反省から北条氏が造った八王子城
4.小田原城包囲(小田原攻め③)
さて、滝山城攻城以降、小田原までは武田軍を2つに分けます。
1つは相模川沿いを真っ直ぐ南下して、小田原城へ入る本隊と、もう1つは、世田谷方面経由で、新横浜の小机城、大船の玉縄城にちょっかいを出しつつ、鎌倉経由で相模湾沿いに小田原に来る隊です。
信玄も、滝山城が落ちそうになっても出てこない氏康が、決戦に出てくることは、そろそろ諦めかけていたのかも知れません。
しかし、もしかしたら兵力を2つに分けて、小机城や玉縄城等、北条屈指の名城を攻撃すれば、武田軍分散による弱体化を見込んで、氏康が出て来るかも。と思ったのですかね。
しかし、最強のカメである氏康は頑として出て来ません。氏政と小田原城に籠ります。
彼らは彼らで、上杉謙信が、武田軍の5倍の兵力(10万)で、この小田原城を、9年前に包囲した戦を経験しており、10か月にも及ぶ攻撃にも耐えたという自信もあるのでしょう。
信玄もその時には、例の三国同盟の誼で、援軍を氏康に送ったくらいですから、小田原城籠城がどれ位強固なものなのか充分分かっています。黄色い部分が小田原城総構えの内部
したがって、信玄からすれば、小田原城包囲は、とりあえず北条氏への攻撃力誇示遠征ツアーの最終到着地位にしか思っていなかったでしょう。
上杉軍のように何か月も包囲せず、たった3日で城下に火を放ち、引き揚げています。ただ小田原城も、この時の包囲での城下町防御の必要性を改めて感じたことから、城の総構え(城下町も含めて、空堀や、盛り土等の障壁で守る構築物)を9kmにもします。これは大阪城の総構えよりも大きく、日本で一番の大きさです。
今も残る総構えの遺構の一部
5.小田原攻め最後の信玄の読み
さて、信玄は、今回の小田原攻めで、空しく小田原城を後にして、自国甲斐へ引き揚げるのでしょうか?
いえいえ、それは違うと私は思います。
信玄は、ちゃんと小田原攻めへの往路に、仕掛けを作っておいたのです。
彼としては、氏康がカメ戦法で来ることは、上杉軍の9年前の戦等から想定内のことだったと思います。しかし、信玄は、その時の戦を分析し、今回の小田原攻めでは、氏康の息子の氏照、氏邦の性格を使うことを考えていたのではないでしょうか。彼は、そういう人間性を上手く使うことにも非常に長けていますから。
息子たちは氏康程の堪え性は在りません。若いですから。
氏照は落城寸前までの辛酸をなめさせられていますし、氏邦だって、包囲されて手も出せなかったのですから、悔しいには違いありません。「信玄、小田原から撤退!」
これを聞いた氏康の息子2人は、「すわっ!小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵糧も尽きかけて、冬になる前に慌てて甲斐の国へ逃げていく!これはチャンス!」と思ったことでしょう。
そして、甲斐の本国に引き上げる前に、一矢報いたいと2人は、思う訳です。しかし、こう思うように信玄は、彼らを往路にて叩いておいたのです。
氏照・氏邦は、武田軍を迎え撃つために、帰路の途中にある三増峠に布陣して待ちます。
彼らのバックヤードには、やはり武田領との国境にある津久井城(この当時は築井城)があります。武田軍の撤退ルート図
峠があるような戦は、山岳戦と言います。標高が高いところを取った方が有利なのです。
なので、北条軍は武田軍が来る前に、三増峠に布陣し、高いところを取って待っているのです。
はじめて北条軍がカメ戦法のような籠城戦から切り替え、野戦に出てきた訳です。そして、父親の氏康にも小田原城からの出撃を要請します。撤退する武田軍を自分達と追撃する氏康・氏政軍で挟み撃ちにしようと提案する訳です。
氏康は、「馬鹿息子め!なんで、信玄坊主の罠にまんまと乗るのだ!」と、叫んだかもしれません。
しかし、放っておけば、今度こそ、氏照・氏邦は危ないです。ですので、とうとう氏康も出陣します。この北条親子が次々に城という甲羅を脱ぎ捨て野戦に出てくる状況を見て、信玄はニヤッとします。
「フフ、思った通り、やっと出て来おったわ。」【鉢形城】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
【滝山城】八王子市高月町
【小田原城】神奈川県小田原市城内
【三増峠古戦場】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631信玄の山岳戦~三増峠の戦い
上図をご覧ください。
これが三増峠古戦場にある看板に描かれた両軍の配置図です。黒が武田軍、赤が北条軍です。「あれ?」と前章を読まれた方は疑問に思うでしょう。北条軍が武田軍を迎え撃つために、山岳戦に有利である高台を占拠して待ち構えた、と書いたからです。
ところが、この看板の配置図は、どう見ても、武田軍が高台を占拠しています。
実は、この地図は、武田方の古文書「甲陽軍鑑」を基に作成されています。間違っているのでは無いと思います。前回の話では、待ち構える氏照・氏邦と追いかける氏康・氏政に挟撃される筈だった信玄が、このような逆転現象を起こした事こそ、信玄がこのような戦を、最初に碓氷峠を越えて、関東に入った時から構想し練っていた証拠だと思っていますし、またそこが信玄の恐ろしくも偉大な戦上手、戦の神様と言われた証左なのです。
結論から言いますと、この配置はこの戦いの中盤から終盤を表しており、信玄は、北条氏照・氏邦らが待ち構えている三増峠に、彼らの作戦を上手く利用しつつ、裏をかいて行き、気が付くと看板のような、完全有利な配置になっていたという訳です。
流石は武田信玄。老練なのも勿論ですが、山岳戦は武田のお家芸、信玄より6つ年上の氏康でも、このお家芸には絶対敵わないというのに、それらの息子ごとき、何者ぞ!という感じの戦い方をしたのだと思います。
では、戦の経過を見て行きましょう。
1.待ち伏せする北条軍の横を通る武田軍の餌
看板を地図に落とした図
さて、先程の看板の絵を、現在の地図の上に展開すると上のようになります。
説明の前に一つ、この地図で意識して頂きたいのは、築井城(津久井城)です。
合戦の前日10月6日の夜中に、信玄は乱波(らっぱ:忍者集団)等を使い、三増峠ではなく、志田峠から密かに築井城下のトウモロコシに火を付け、松明が燃えているように見せかけます。また案山子のような藁人形60体を作り、軍勢が城下直近に滞在しているように見せかけたのです。これだけで、もう築井城は、北条軍得意のカメ戦法に入りました。翌日の合戦には全く援軍も送らず、甲羅である城に籠ってしまいます。信玄の築井城沈黙作戦大成功です。
築井城から三増峠と志田峠を臨む(左が三増峠、右が志田峠)
さて、日が変わって10月7日早朝です。
この日の北条軍の配置は、下図の通りです。ちゃんと山岳戦の基本、「高いところを取った方が有利」を抑え、三増峠に差し掛かる武田軍を東側山麓で、整然と待ち構えています。武田軍を待ち構える北条軍と小荷駄隊を先頭に進軍する武田軍
ここで北条軍の中に氏照・氏邦以外で北条綱成という武将が居ることにご注目ください。
この時、待ち伏せする北条軍は1万2千~2万と言われています。勿論、氏照の滝山城や、氏邦の鉢形城の兵だけでなく、江戸城、小机城、玉縄城等、北条氏の名だたる城からも兵を集めています。北条綱成は、玉縄城の城主であり、北条氏康と同い年です。
また勇猛果敢で若い時から有名であり、大将でありながら、一番に突撃していく無茶ぶり。しかも「勝った!勝った!」と叫びながら突っ込んで行き必ず勝つ、なんとも剛毅で頼もしい常勝の武将なのです。今回、この待ち構える北条軍の中での総大将というのは決めていないようです。ただ、一番信玄に煮え湯を飲まされた氏照が、その思いと信玄との戦いの経験で、なんとなく総大将的な位置付けになっていたようですが、この綱成のように勇猛かつ親父の氏康と同い年の将が居たのでは、氏照も統一の取れた軍事行動を取ることは難しかったと思います。
北条軍の最前線(北条氏照軍のあたり)から武田信玄の本陣方向を臨む
そんな状態を知ってか知らずか、信玄は、この方面に、まず小荷駄隊を、武田24将の1人である浅利信豊護衛の下、三増峠方面へ進めます。
これには訳があります。
武田が小田原攻めをした9年前、北条氏は上杉謙信の小田原攻めの際に、小荷駄隊を襲い、上杉軍がボロボロになると言う成功体験を持って居ます。北条軍は小荷駄隊襲撃は得意なのです。襲いたくなるだろうと。
つまり小荷駄隊は「餌」です。信玄得意の「自軍を餌にする作戦」です。
2.三増峠の合戦①(戦闘開始)侵掠すること火の如く
さて、この罠に、北条氏照・氏邦は乗りません。
乗らないというか、彼らは信玄に痛い目に合わされているので、こんな見え透いた手薄の小荷駄隊が最初に出てくるのを叩いていたら、親父殿である氏康・氏政軍との挟撃作戦が上手く行かなくなる可能性を怖れたのではないかと思います。また小荷駄位が通過しても、武田軍本隊が来ない限り、挟撃まで高所の陣構えは確保しておきたいでしょう。しかし、ここで、今回信玄に痛い目にはあっていない、氏康と同い年、かつ常勝軍の勇将として知られる北条綱成が黙っていられませんでした。
彼は、小荷駄隊を守備しながら進んで行く浅利信豊に対して、一斉射撃を開始し、攻撃を仕掛けてしまいます。
この一斉射撃により、浅利信豊は見事戦死。
しかし、次の瞬間、武田軍から御諏訪太鼓(武田軍の陣太鼓)が鳴り響きます。
それを合図に、厚木方面より一列で北上してきた武田軍が西側の山裾平原に向けて、猛烈な勢いで、展開して行くのです。「すわっ、やられた!追え、追え!」と、孫子の紺に金字の風林火山の大旗が西に疾走していくのを見て、氏照は、叫びます。
「疾(はや)きこと風の如く」です。
西側の高所を取られてしまったら、山岳戦における北条の優位が保てません。取られる前に、武田軍に一撃を与えたい。
しかし、長く伸びた小荷駄隊とその守備兵たちが行く手を阻みます。彼らの防御力は貧弱ですから、破るのは容易いのですが、ここで足止めを食らう時間が致命傷です。武田軍の合戦における軍展開
↓
展開後の武田軍と追いかけて来た北条軍の配置。「三増峠合戦場」にある看板の軍配置に北条軍がやっと追撃して山裾の平原に出てきた頃には、武田軍は西側の丘の上に、軍の展開を完了していました。
「其の徐(しず)かなること林の如く」だったことでしょう。
その時の軍配置を書いたのが、上記看板になります。上にも再掲しておきますが、看板でも、北条軍の一番先頭に氏照の軍が書かれています。(看板では「北条陸奥守」と書かれていますが氏照のことです)
そこに小さく「orz」(がくっ)と書かれているように見えたのは私だけですね。笑しかし、畏るべし武田信玄、山岳戦を知り尽くし、あっという間に敵と高所の入れ替わり技を披露してくれました。
信玄は、敵が三増峠で待ち構えているだろうことをかなり前から察知し、築井城への牽制だけでなく、乱波等を使い、この場所の地勢等も詳細に調べた上で、この合戦に臨んだようです。
なので、武田軍は、三増峠よりも志田峠を抜けるルートを詳細に調べ、ここに陣を張ることを意識したのです。
この戦が無ければ、三増峠を進軍して、築井城を包囲し、落として帰ったかもしれませんが、ここで大戦となると、甲府への撤退ルートは、築井城を避けて通れる志田峠からと考えていたのでしょう。
単に北条とは反対側の高所を取れば良いと考えていた訳では無いのです。一方、武田軍は築井城へ進軍するであろう、よって、この三増峠の街道を行くに違いないと考えて布陣をした北条軍は完全に裏をかかれました。
3.三増峠の合戦②(勝敗の行方)真田昌幸も奮戦
さて、皆さん、この合戦、武田軍の最前線で、あの真田昌幸が果敢に戦っています。
武田四天王の1人である馬場美濃守の補佐的な立場ですが、山岳戦に長けた真田昌幸が、それこそ山岳戦の神である信玄の元で、「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」戦っていたのではないでしょうか?
後で武田家滅亡となってしまう、武田勝頼も、この頃は素晴らしく勇猛果敢な働きをしていますね。
武田軍は、それこそ孫子の旗を立てた「旗立の松」の信玄が「動かざること山の如し」で采配する元で、生き生きと戦っています。信玄の本陣「旗立の松」からは戦場も厚木方面も 良く見渡せる
武田信玄本陣「旗立の松」あたり
大河ドラマでは、昌幸も勝頼も、最後死ぬ時に「御屋形様ぁ!」と信玄の亡霊(?)に会って死にますが、奇しくも二人が一緒に信玄の元で大活躍した大山岳戦は、この三増峠しかありません。彼らと信玄が一番輝いていた時と言えるでしょう。
さて、戦も終盤に入ります。日も暮れかけて来た頃、ただでさえ、不利な北条軍に、当時の武田の赤備え隊で有名な山県昌景が、北条軍へトドメの一撃を食らわします。
彼は、その煌びやかな赤備え隊を率い、志田街道を南下、北条軍の背後から襲いかかります。
日も暮れかけて、薄暗い中、北条軍はこの隊に気が付くのが遅れたこともあり、大混乱です。
近くの山林へバラバラに敗走します。この時、氏康・氏政親子は、1万の軍勢を引き連れ、まだ厚木に居ます。そして北条破れるの報を聞くと、さっさと小田原へ引き返します。
この戦で、北条の戦死者は3200人と言われております。武田軍も900人余りは戦死者が出たということで、武田軍の圧勝なのですが、合計で4000人以上の死者を出したというのは、山岳戦では最大規模の戦でした。あの20万の軍が戦った関ヶ原の戦いでも、死者が3000~8000人と言うことですから、この戦がいかに大きかったことが分かると思います。
4.三増峠の合戦後
ところで、どうして氏康は、氏照・氏邦を見殺しにするような行動をしたのでしょうか?
そもそも、挟撃を氏照・氏邦から具申されているのであれば、この戦始まる頃には、合戦場に現れて良いはず。実は氏康は夜を待っていたのです。
彼は勿論カメ戦法だけで、関東を上杉から切り取ってきた訳ではありません。拙著のブログの「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で詳しく書いていますが、彼のもう一つの必殺技というか戦術は
「夜襲」
なのです。デビュー戦の小沢原の戦いは、それで上杉朝興を破り、また河越城を落とした「河越夜戦」は、旧日本陸軍に研究し尽されるほどの腕前。
籠城と夜襲、これが氏康の得意技ですが、山岳戦で信玄に勝てる訳が無いと踏んでいたのです。なので、彼としては、氏照・氏邦らが、信玄の挑発には乗らずに、たとえ、西側の高所を武田軍に取られたとしても、東側の高所で、対峙して、氏康の到着を待ってほしかったのだと思います。
多分、綱成が挑発に乗らず、じっと待って居たら、氏康は10月7日の夜半に得意の夜襲で、信玄に鉄槌を下したかも知れません。
まあ、力量のある人程、自分の得意・不得意を明確にして、勝てない戦はしないということでしょうね。
これこそ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の孫子の言葉は、信玄だけでなく、氏康などの名将も意識されていたのでしょう。兎に角この戦で、信玄は当初の計画通り、北条にガツンと一発食らわすことが出来ました。
氏康は、2年後の1571年に急速に衰え病死します。臨終に際し、子・氏政に「武田との同盟を復活するように」と遺言したと伝えられ、北条は武田と同年12月、再度甲相同盟を締結するに至るのです。
そして、翌年1572年、武田信玄は、ようやく念願の上洛を開始するのでした。
5.終わりに 日本史上有数の山岳戦
長い記事を読んで頂き、ありがとうございました。
三増峠の戦いは、ある意味、その後の武田家の上洛に対しても、北条氏の関東固めにとっても、そして日本の山岳戦にとっても、この戦の意味は大変大きいと思います。決してマイナーな戦ではありません。その割には、その戦い自体も不明な点が多く、また歴史的背景も含め複雑であり、諸説紛々なのです。その中で多くの説などを基に、事実で分かっているところは抑えるも、そこから次の明確な事実の間の話は、私の推測で展開されていますので、ご容赦ください。
なるべく時代のメインストリームとどう絡むのかを、分析を基に私なりに分かりやすく描いたつもりですが、ちょっと強引なところも多いのは私も認識しておりますので、この場をお借りして陳謝します。さて、一応、終わりですが、次のブログあたりでは、この戦に直接、間接的に絡む人物や、いくさ後の江戸時代から今に至るまで長きに渡る都市伝説のような伝承が本当かどうかを現場で私自身が検証してきた事などを外伝として、軽く(?)ご報告したいなと思っていますので、宜しくお願いします。
【築井城(津久井城】神奈川県相模原市緑区根小屋
【三増峠古戦場】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631「三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~外伝」はこちら(玉木氏のブログに飛びます)
玉木氏のブログ「マイナー・史跡巡り」では、ほかにも小机城(横浜市)など神奈川県の史跡を紹介しているので、ぜひ読んでほしい。』
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三増峠の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84※ コレか?





『三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日[1]に武田信玄と北条氏により行われた合戦である。本項では、合戦に至るまでの経緯として、小田原城包囲戦も合わせて解説する。駿河侵攻の二正面作戦の一つとも言える。』
『合戦の経緯
戦国期の甲相関係と武田氏の駿河侵攻
戦国期に領国を接する武田氏と北条氏は武田信虎・北条氏綱期には甲斐都留郡において抗争を続けていたが、やがて両者は和睦して甲相同盟が結ばれ、これに駿河今川氏との同盟を結び甲相駿三国同盟の締結に至り、武田氏は信濃侵攻を行い北信地域において越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北条氏は北関東侵攻を行い同じく越後上杉氏と抗争し、両者は相互に協調して上杉氏に対抗していた。
武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し永禄11年(1568年)12月には同盟を破棄して駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。
小田原城包囲
翌永禄12年(1569年)1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している[2]。同年8月24日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、碓氷峠から上野国を上杉謙信をけん制(越中の戦国時代の永禄12年の上杉謙信の越中出兵の項参照)しつつ南下、廿里古戦場にて小山田信茂1000人が北条氏方2000人を打ち破り、滝山城(包囲のみ)などの後北条氏の拠点を攻撃したのち、犬越路を通って10月1日には北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城であったため、城攻めはせず小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。しかし後北条氏は小田原城を出ることはなかった。武田軍は包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。
北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万[3]が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋 – 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。10月6日には武田軍と北条軍が対陣することになった。
三増峠での激突
氏政本隊は到着前であったが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ、1隊は津久井城の抑え、1隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしている[4]。
しかし、志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、小幡信貞、加藤景忠ら武田軍別働隊に抑えられて救援に出られず、大きな被害を受けている。武田左翼大将である浅利信種が戦死した左翼では、軍監であった曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。
また、武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。
合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。
自軍の勝利を見た信玄は軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。この戦いで武田方では西上野の箕輪城代・浅利信種が戦死し、信種戦死後に箕輪城代は浅利氏から内藤昌秀・昌月親子に交代している。
自刃にまつわる伝説
この合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。
武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。
また、同様の伝説は北条軍側にも残されている。戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという[5][6]。
またこの地では合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が残っている。
合戦の評価
高低差が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として知られている。
従来、『甲陽軍鑑』に依拠した武田家主観による評価がされてきた。本稿でも合戦の経過など、概ね『甲陽軍鑑』に基づいた記述がされている。『北条五代記』などの北条側の史料では、北条軍の敗戦ではあるものの損害は軽微(20〜30程度)だったと書かれている。北条氏照は戦後、この合戦に勝利したという書状を上杉家に出している[7]。また、この戦いで古河公方家の重臣である豊前山城守が戦死しており、北条氏康から未亡人に宛てた書状が現存している[8]。
この合戦だけ見れば、撤退の過程で偶発的に起こった部分的な戦闘に過ぎない。追撃する北条軍は撃退したものの、家中の有力武将である浅利信種が戦死するなど、勝者である武田軍にとっても失ったものは大きかった。『甲陽軍鑑』でも著者とされる高坂昌信が、この合戦のことを「御かちなされて御けがなり(勝利はしたものの、損害も蒙った)」と論評し、本拠地甲斐を留守にしてまで行った遠征の必要性に疑問を呈している。
戦略的に見ると、本戦いの結果、後北条氏は西の今川氏救援に兵を向けられず、武田氏方が永禄12年(1569年)暮れに北条氏が救援していた今川氏の蒲原城を落とし、駿河侵攻を大きく進めた。また、武田氏主力が上野国方面に通って小田原まで南下した為、椎名康胤の松倉城 (越中国)を攻略中だった上杉謙信は本拠地越後に戻る事になった。(越中の戦国時代参照)
歴史学者の柴辻俊六は信玄の小田原攻撃について、越相同盟への揺さぶりと共に、関東の反北条勢力への示威活動であった可能性をも指摘している。事実、北条家と越相同盟を締結したばかりの上杉謙信は、同盟の締結条件に、武田軍牽制のための8月15日以前の上杉軍の信濃出兵があり、それに対し謙信は血判誓詞をもって了承していたにも関わらず、信濃出兵を果たさなかった。これは謙信の越中戦線の事情のほか、将軍義昭から武田氏との和睦を命じられて7月下旬に成立していた「甲越和与」があった。そのために謙信は、信濃に出兵するつもりであったが延期する旨を家臣の鮎川盛長に送っている[9]。信玄は「甲越和与」により、謙信の北条氏救援のための出兵がないことを踏まえた上での侵攻であったわけである。上杉氏に、北条氏側は約定催促、不履行による詰問の書状、不信・不満を表した書状を送っている[10]。このことから、武田軍による小田原城攻撃から三増峠のこの合戦に至るまでの戦いは、この2年後に北条家が上杉家と手を切り、武田家と再同盟する遠因ともなったとも考えられている。
参戦武将
武将 武将
武田軍 武田信玄 北条軍 北条氏照
武田勝頼 北条氏邦
武田信廉 北条綱成
山県昌景 北条氏忠
内藤昌秀 高城蔵人
馬場信春 原胤栄
浅利信種 上田朝直
小幡憲重
曽根昌世
脚注^ a b 『甲陽軍鑑』より。『北条五代記』では戦闘は10月6日にあったとされる。 ^ 『戦国遺文後北条氏編』-1151号 ^ 『甲陽軍鑑』より。武田信玄書状では6000〜7000。 ^ 『甲陽軍鑑』より。北条方の軍記である『豆相記』でも同様の記述が見られる。 ^ 植木知司『かながわの山』(神奈川新聞社)P103 ^ ただしトウモロコシの日本伝来時期の研究とは矛盾する ^ 山吉文書、山吉孫次郎宛北条氏照書状 ^ 豊前氏古文書 ^ 森山八郎氏所蔵文書『上越史』別編1-780、池享・矢田俊文『上杉氏年表(増補改訂版)』(高志書院)P136、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P68 ^ 「上杉家文書・集古文書・歴代古案」山口博『北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)pp105-110、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P70
参考文献
『甲陽軍鑑』 『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営』柴辻俊六著(中央公論新社、2006年11月)ISBN 978-4121018724 『武田信玄』平山優著(吉川弘文館、2006年)ISBN 4642056211
関連文献
「毛利庄 長竹村 三増峠」 『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之122村里部津久井縣巻之7、雄山閣、1932年8月、389-393頁。NDLJP:1179240/201。
関連作品
ボードゲーム
『甲斐の虎』(ツクダホビー)、絶版 『関東制圧』(ツクダホビー)、絶版 『RAN』(GMT Games)、2007年、英語
関連項目
三増トンネル 日本の合戦一覧
外部リンク
三増峠の合戦について - ウェイバックマシン(2004年8月7日アーカイブ分) 三増の合戦 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分) 三増合戦場 三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍 』
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ウクライナ、東部の要衝奪還 ロシアの補給路を分断
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM120OZ0S2A910C2000000/
『ウクライナ軍が東部を中心に侵攻ロシア軍の制圧地域を奪還する動きを加速させている。米シンクタンクの戦争研究所は11日、急速な反攻で東部ハリコフ州で制圧されていた地域の「ほぼ全域を奪還した」との戦況分析を示した。米欧から供与された兵器でロシア軍の補給拠点をたたき、同軍の継戦能力が大幅に低下したタイミングで一気に攻勢をかけた。
【関連記事】
・ウクライナ原発「炉心溶融の危険残る」 原子力企業首脳 ・ウクライナ、東部ハリコフ州のロシア制圧地域ほぼ奪還か ・ウクライナ、北東部の要衝を奪還 大統領「解放」を宣言
ウクライナ軍にとっては、2月から3月にかけて首都キーウ(キエフ)を守り抜いて以来の大きな戦果となる。自壊ぶりを隠しようがないロシア軍が、局面打開へ大量破壊兵器の使用などに踏み切る懸念もある。
ウクライナ軍はここ数日間、東部ハリコフ州で攻勢を維持し、10日にロシア軍の鉄道による補給拠点だったクピャンスクを奪還したのに続き、11日にはゼレンスキー大統領が、ロシア軍が同州内で重要拠点としてきたイジュームを奪還したと宣言した。ロシア国防省も10日に「作戦強化を目的とした部隊の再配置を決めた」との表現で、イジュームからの撤退を事実上認めた。
ウクライナ軍のザルジニー総司令官は11日「今月に入ってから3000平方キロメートル以上の領土を奪還した」とSNS(交流サイト)に投稿した。これは東京都の1.4倍に匹敵する広さだ。ロシアとの国境まで50キロメートルに迫ったとしている。
ロシア国境に近いハリコフ州の町で記念撮影するウクライナ兵(11日)=ウクライナ国防省提供・ロイター
戦争研究所は11日、イジュームを失ったことで、東部ドネツク州全域の制圧というロシアの目標は達成困難になったと指摘した。10日には、ロシア軍が無統制な状態でイジュームを放棄しているとの見方を示していた。
東部におけるウクライナ軍反攻の思わぬピッチの速さは、そのままロシア軍の自壊ぶりの裏返しといってよい。ロシア軍側では、侵攻当初から不十分だった補給物資の集積拠点が、米欧諸国からの軍事支援を受けたウクライナ軍に精密攻撃されたことで兵器が枯渇。兵士の士気低下も収まっていない。
ウクライナ軍参謀本部によると、ロシア兵の中には軍服を脱ぎ捨てて戦線を離脱する者が続出しているという。戦時国際法上の「軍人」の要件は、①組織として行動②武器を携行③軍服を着用ーーの3つで、ロシア兵が軍服を脱ぐことは「ウクライナ軍の攻撃対象から外れたい」との意思表示となる。
ウクライナ軍の作戦面でのうまさも際立っている。同軍は8月以降、南部での攻勢を強め、それによってロシア軍は東部に展開していた部隊の一部を引き抜いて南部に移動せざるを得なくなった。米軍の助言も効いているもようだ。
この結果、ロシア軍が手薄になった東部に対し、今回ウクライナ軍は大きな抵抗も受けずに部隊を進めることができた。軍事的に言えば、包囲された側(ウクライナ軍)が、戦力の振り向け先を効果的に切り替え、包囲する側(ロシア軍)を翻弄する非常に巧みな「内線作戦」と言える。
日本では戦国時代、甲斐の武田軍が、相模の北条の「首都」だった小田原を奇襲的に包囲し、これに驚いた北条軍が実効支配していた旧今川領の駿河東部を放棄し、小田原防衛を強化。これをみた武田軍が駿河東部を大きな抵抗も受けずに制圧した故事がある。
武田軍の小田原奇襲がウクライナ軍の南部反攻、武田軍の東部駿河制圧が今回のウクライナ軍の東部奪還に相当する。北条軍が小田原防衛を強化したように、ウクライナ東部に展開するロシア軍は今後、2月24日の侵攻開始以前から実効支配していた東部2州の一部地域を最終防衛ラインとして戦力を立て直そうとする見通しだ。
ただ、武田軍の小田原包囲が相手をおびき出す陽動作戦だったのに対し、ウクライナ軍の南部反攻は陽動作戦にとどまらない見通しだ。ゼレンスキー大統領は、ロシア軍が制圧したすべての地域を取り戻すまで戦闘を継続する、と繰り返し強調している。ウクライナ軍は、東部奪還作戦と並行して南部でも攻勢を続けそうだ。
強まる懸念は、ロシア軍が目下の劣勢をはね返すため、大量破壊兵器の使用も含めた「別次元の戦い」に踏み切る事態だ。東部や南部のウクライナ軍の兵力や物資の集積地帯に、爆発力の比較的小さな超小型核弾頭や、化学弾頭を装塡した弾道ミサイルを打ち込んだり、黒海洋上の無人空域で威嚇を目的とした核攻撃演習をしたりする恐れがある。
(編集委員 高坂哲郎)
【関連記事】ウクライナ南部原発、全原子炉が停止 最大のリスクは?
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[FT]EU、強制労働製品の禁止へ規制案 ウイグル念頭に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB131G40T10C22A9000000/『欧州連合(EU)は強制労働で生産された製品の禁止に踏み込む方針だ。中国の新疆ウイグル自治区で強制労働が行われているとの疑惑があるなか、EUと中国の貿易関係はこの動きによってさらに緊張が高まるとみられる。
EUの強制労働による製品を禁止する規制案は、新疆ウイグル自治区に限らず、域内を含むどの国・地域の製品も対象とする=ロイター
規制内容を知る人物らによると、禁止措置の影響を最も受けるのは靴や衣類のほか、木材や魚、ココアといった1次産品などであるという。
米国では6月に新疆ウイグル自治区からの輸入を全面的に禁じる法律を施行した。新疆ウイグル自治区ではイスラム教徒のウイグル族や他の少数民族に拷問や恣意的な拘束、強制労働などを含む人権侵害が広く行われているとの疑惑がある。
EUの草案は新疆ウイグル自治区に限らず、域内を含むどの国・地域の製品であっても強制労働を使ったものであればすべて禁止する方式だ。これは世界貿易機関(WTO)の無差別原則に抵触しないようにするためだ。
欧州議会の会派、欧州緑グループ・欧州自由連盟は米国方式の措置を支持してきた。ドイツ緑の党に所属し対中国関係議員団の一員であるエンリケ・ハーン議員は「我々は中国の一党独裁体制におもねる友ではない。中国での強制労働によって作られる製品の輸入と中国企業が強制労働を使って生産する製品全般の禁止を要求する」と述べた。
法律の成立は23年以降に
EUの執行機関である欧州委は 今週、この規制案を明らかにする見通しだ。
フィナンシャル・タイムズ(FT)が確認した草案についての極秘文書によると「強制労働は人間の尊厳と基本的な人権の重大な侵害に相当する」と指摘し、その根絶はEUの「優先事項」であると強調する。
この文書では禁止措置の対象となり得る具体的な国・地域に言及しておらず、さらに問題の緊急性から「本格的な」影響評価のための時間が得られなかったとしている。
文書によると、この禁止措置が法律として成立するのは早くても来年とみられるが、その対象は生産や収穫、採取のどの段階でも強制労働が使われたあらゆる種類の製品と広く、その部品なども含まれる。
同文書は「すべての事業者や経済セクター、生産段階、バリューチェーンの段階が対象範囲に含まれる」としている。
国連機関の推計では世界で2800万人が強制労働に
EUは国連の専門機関である国際労働機関(ILO)が定めた強制労働の定義を用いる。ILOは12日、強制労働条件で働かされている人は全世界で2800万人いるとする最新の推定値を公表した。
今回の規制案によると、強制労働による製品の検知と執行にあたるのはEUの27加盟国で、非政府組織(NGO)や企業などからの申し立てがあればこれに対応しなければならない。各加盟国は調査をする責任を負うとともに、製造国からの協力を要請することができる。
欧州委関係者は強制労働が使われていることの立証は、特に製造国が協力しない場合に困難になることを認めている。だが、強制労働が使われている可能性が高い場合には加盟国が当該の製品を押収しその輸入を禁じることができる。欧州委関係者によるとEUは執行を容易にするため「立証責任」のハードルを下げたという。同文書によると、禁止措置は製品のメーカーや生産者、サプライヤーなどを含む大企業のみを対象としている。小規模企業はサプライヤーに圧力をかけられるほど立場が強くなく、「徹底的なデューデリジェンスを実施するための手段が比較的乏しい」との懸念に配慮したものだ。
さらに、強制労働を使った製品がEU域内に入らないよう域外の国・地域との協力関係も強化するという。
国連人権高等弁務官事務所は8月31日、新疆ウイグル自治区でウイグル族やその他のイスラム教少数民族に対する「深刻な人権侵害」が行われていると指摘する報告書を公表した 。
新疆ウイグル自治区は世界屈指の綿の産地であり、太陽光パネルの主要部材の製造でも重要な役割を担うが、中国は同自治区での人権侵害を否定している。
By Javier Espinoza and Andy Bounds
(2022年9月12日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)
(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation. 』
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中国、習近平氏側近が軍最高幹部へ 台湾統一にらみ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM0262F0S2A900C2000000/
『【北京=羽田野主】中国で10月16日に開幕する共産党幹部の人事を決める5年に1度の党大会で、中国人民解放軍の最高幹部が入れ替わる。異例の3期目入りを固めた習近平(シー・ジンピン)党総書記は将来の台湾統一に向け、自身の側近を新たなメンバーにすることを検討しているもようだ。
中国建国70年の軍事パレードで人民解放軍を閲兵する習近平国家主席=2019年10月、北京(新華社=共同)
中国軍の最高意思決定機関は、党中央軍事委員会だ。習氏は党トップの総書記と国家主席に加え、中央軍事委主席の肩書ももつ。
中央軍事委は習氏をトップに計7人の幹部で構成する。台湾の武力統一や核弾頭を搭載できる弾道ミサイルの使用の是非といった重要事項はすべて、習氏を中心とする中央軍事委の決裁が必要とされる。中央軍事委の判断は、先々の日本の安全保障を揺るがしうるものともなる。
軍の出身者として実質的な指揮権を握ってきた許其亮副主席や、党の思想教育を担当した張又俠副主席、魏鳳和国防相ら4人が定年で引退する見通し。米国と対決姿勢を強め、台湾統一を目指す習氏がどのような布陣とするかに関心が集まっている。
軍内で有力視されているのが、中央軍事委の苗華氏の副主席への昇格だ。習氏が福建省勤務時代に知り合った30年来の関係だ。習氏は2015年に陸軍偏重だった軍を陸・海・空軍などが一体となって戦える体制に改める軍改革に着手した。その目玉の人事となったのが、陸軍出身の苗氏の海軍への転籍だ。いわば軍の縦割り打破のため起用した。
習氏が評価しているとされる北部戦区前司令官の李橋銘氏も抜てきするとの見方が出ている。「旧ソ連が崩壊したのは、党の軍隊を持たなかったためだ」。李氏はかつてこうした論文を執筆し、党による軍の掌握を強めようとしていた習氏の目に留まったとされる。順調に昇格してきた。
習氏の子飼いといわれるのが陸軍司令官の劉振立氏だ。首都防衛の責任者を長年務め、陸軍で最も優秀な精鋭部隊を任された経歴がある。李氏も劉氏も共産党の序列200位以内の中央委員で、副主席をうかがう位置にいる。
習氏は10月の党大会で台湾統一の目標を改めて掲げる見通し。武力統一を巡っては軍内で慎重論が多い。習氏が状況に応じて判断しやすいように苗氏らを引き上げるとの見方が強い。軍内の腐敗を取り締まってきた張昇民氏も副主席に昇格させて習氏が軍内ににらみをきかせるとの観測がある。
焦点になるのが台湾情勢に精通した人材の登用だ。台湾や沖縄県・尖閣諸島方面の作戦を担当する東部戦区の司令官を務める何衛東氏と、同区の陸軍司令官を務めた徐起零氏らの名前が挙がっている。何氏は8月上旬に台湾周辺で実施した大規模な軍事演習にも関わったとされる。
空軍司令官の常丁求氏も有望だ。習氏から最年少で軍の最高位である「上将」を付与された。
習氏は2017年の党大会で中央軍事委を11人から7人に減らした。陸海空軍やロケット軍などでどのようにバランスを取るかも注目される。
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Nikkei Asia https://asia.nikkei.com/Politics/International-relations/Taiwan-tensions/Xi-poised-to-build-support-on-Taiwan-with-senior-military-picks?n_cid=DSBNNAR多様な観点からニュースを考える
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柯 隆のアバター 柯 隆 東京財団政策研究所 主席研究員 コメントメニュー
ひとこと解説
どの国にとっても同じことだが、人事の鉄則は適材適所。強権政治が強いようにみえるが、突然混乱し崩れてしまう。なぜか。人的資源の配置は適材適所ではないからである。政治指導者は要所要所に意中の人物を配置するが、適材かどうかの基準は違う。結局のところ、友達を重要なポストに据える。チームとなったときに、力が最大限に発揮されないことが多い。これはマフィアの組織構造とよく似ている。一定レベルまで強くなるが、それ以上強くなれないのはマフィアである。本来、人事を決定づけるのは制度であり、指導者個人の好みであってはならない。これから中国はどのような道を辿るのか
2022年9月13日 7:17 』 -
中国「影の銀行」取引拡大 8月5年ぶり規模
インフラ建設加速で資金需要増大
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM1124D0R10C22A9000000/
『【北京=川手伊織】中国で銀行の帳簿に計上されない「影の銀行」からの資金調達が増えている。8月の純調達額は2017年3月以来5年5カ月ぶりの大きさとなった。地方政府傘下の投資会社がインフラ建設のため銀行を介さない取引で資金を調達した。銀行からの借り入れが難しい中小零細企業の調達が膨らんだ可能性もある。
中国人民銀行(中央銀行)によると、銀行の簿外で扱う委託融資、信託融資、手形引き受けの純増額は4768億元(約9兆8500億円)だった。返済が調達を上回る月が大半で、調達が上回ったのは5カ月ぶりだ。
影の銀行からの資金調達が急増した一因は、地方で加速するインフラ投資だ。
新型コロナウイルスの感染封じ込めを狙う「ゼロコロナ」政策で景気が停滞から抜け出せないなか、国務院(政府)はインフラ建設を成長のけん引役に位置づける。22年分のインフラ債発行枠で調達した資金を8月末までに原則使い切るよう指示していた。
地方政府は債券発行で得た資金を建設現場に投じたほか、傘下の投資会社である融資平台が銀行融資以外の形でも必要な資金を賄ったという。この部分が、8月の「影の銀行」からの調達額を押し上げた。
銀行からの借り入れが難しい中小零細企業が手形などを活用して資金を確保しているとの見方もある。
人民銀行は8月に今年3回目の利下げを実施した。貸出金利の平均は下がった。ただ調査対象に民間企業が多い長江商学院の景況指数によると、資金調達のしやすさを示す指数は7月と比べて悪化した。小規模事業者を中心に民間企業の資金繰りは厳しく、「影の銀行」に頼る企業も少なくないとみられる。
一方、8月の銀行貸し出しの純増額は前年同月比で約3%増にとどまった。企業向けに貸し出す中長期資金は41%増えた一方、住宅ローンが大半を占める個人向けの中長期融資は38%減った。
不動産開発企業の資金不足でマンション工事が止まる物件が続出し、今夏には未完成物件の家主が住宅ローンの支払いを拒否する動きが全国に広がった。住宅市場の混乱をうけ、新規購入の様子見だけでなく、住宅ローンの前倒し返済も増えているという。』

























