カテゴリー: 精神活動
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Paul Dirac
ポール・ディラックポール・ディラック(1933)
生誕 Paul Adrien Maurice Dirac
1902年8月8日
イギリスの旗 イギリス イングランドの旗 イングランド、ブリストル
死没 1984年10月20日(82歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州、タラハシー
居住 イギリスの旗 イギリス
国籍 スイスの旗 スイス(1902–19)
イギリスの旗 イギリス(1919–84)
研究分野 物理学 (量子力学)
研究機関 ケンブリッジ大学
マイアミ大学 (フロリダ州)
フロリダ州立大学
出身校 ブリストル大学
ケンブリッジ大学
博士論文 Quantum Mechanics (1926)
博士課程
指導教員 ラルフ・ファウラー(Ralph Fowler)
博士課程
指導学生 ホーミ・J・バーバー
ハリッシュ・キャンドラ(Harish Chandra Mehta)
デニス・シアマ
フレッド・ホイル
ベフラム・クルシュノール(Behram Kurşunoğlu)
ジョン・ポーキングホーン(John Polkinghorne)
主な業績 ディラック方程式
くし型関数
ディラックのデルタ関数
フェルミ分布関数
ディラックの海
ディラック・スピノル
Dirac measure
ブラ-ケット記法
Dirac adjoint
大数仮説
Dirac fermion
Dirac string
Dirac algebra
Dirac operator
Abraham-Lorentz-Dirac force
Incomplete Fermi–Dirac integral
主な受賞歴 ノーベル物理学賞 (1933)
ロイヤル・メダル (1939)
コプリ・メダル (1952)
マックス・プランク・メダル (1952)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1933年
受賞部門:ノーベル物理学賞受賞理由:原子の理論における新しい生産的な理論形式の発見
ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac [dɪˈræk]、1902年8月8日 – 1984年10月20日)は、イギリスのブリストル生まれの理論物理学者である。
量子力学及び量子電磁気学の分野で多くの貢献をした。
1933年にエルヴィン・シュレーディンガーと共にノーベル物理学賞を受賞している。
1932年からケンブリッジ大学のルーカス教授職を務め、最後の14年間をフロリダ州立大学の教授として過ごした。
生涯
生い立ち
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この節の加筆が望まれています。1902年にイギリスのブリストルで、スイス移民の父チャールズ・ディラックとイギリス人の母フローレンス・ホールトンの間に生まれた。
二歳上の兄フェリックスと四歳下の妹ベティーがいたが、フェリックスは1924年に自ら命を絶った。
父は1919年10月22日に子供も含めてそれまでのスイス国籍からイギリス国籍に変更した。
ディラックの回想によると、フランス語の教師であった父は彼とフランス語だけで話す規則をつくった。ディラックはフランス語で話すことができなかったので、英語でしゃべるよりも沈黙をすることがたやすかった。そのときから彼は非常に無口になった[1]。教育
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この節の加筆が望まれています。第一次世界大戦が始まった1914年に父がフランス語教師をしているマーチャント・ヴェンチャラーズ・スクールに入学した。
歴史とドイツ語を除き、クラスではほとんどいつも首席だった。
1918年には兄が進学したマーチャント・ヴェンチャーラーズ・カレッジに十六歳で入学し工学を学んだ。
カレッジの講座は理論より実用を重視しており、数学ではほかの学生のはるか上を行ったが、実験室の作業は不器用だった。
1921年にブリストル大学に進み、電気工学と数学を学んだ。
翌年ケンブリッジ大学に入学し、ラルフ・ファウラーが指導教官となった。ファウラーに与えられた課題に取り組み、薦められた本や専門誌の最新号を読み、講義で取ったノートを見直したりした。「量子力学」と題した学位論文で1926年5月に博士号を得た。
私生活
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この節の加筆が望まれています。極めて寡黙であり、知人の顔を見分けられなかったりごく単純な質問を理解できなかったりすることがあった[2]。
晩餐で同席した人に何か要求することなど一切なく、会話を途切れさせずに続けねばならない義務を感じることもなかった。
話をしてみようと、糸口になりそうな言葉をかけようが、何の言葉も返ってこないか、単純な「イエス」か「ノー」で返事をしておしまいになるのが常だった。
ある日、「今日は雨模様だね」と話しかけられると、つかつかと窓辺まで歩いていき、席に戻って、「今は降っていませんよ」と素気なく言ったという[3]。
ディラックは女性に興味がなく死ぬまで独身だろうと思われていた[4]が、1937年にユージン・ウィグナーの妹のマーギットと結婚した。
マーギットはマンシーと呼ばれ、ハンガリー人の前夫との間に息子のガブリエルと娘のジュディーが生まれたが、八年後に離婚していた。
マンシーの二人の連れ子以外に、ディラックとマンシーとの間には、1940年に娘のメアリー、1942年にやはり娘のモニカが誕生した。
物理学以外の事柄には余り関心を持たなかったと言われ、友人であったオッペンハイマーが詩を愛好するのを批判して、「誰も知らないことを誰でもわかる言葉で語るのが物理学だ。誰もが知っていることを誰にもわからない言葉で語るのが詩だ。」と言ったことがある。
ケンブリッジ大学の同僚はあまりにディラックが寡黙なため、冗談めかして「ディラック」という単位を作った、これは「1時間につき1単語」である。
またニールス・ボーアが書きかけの論文の最後のまとめ方がわからないと文句を言っているのを聞き、ディラックは「私は学校で、文章は終わりを考えずに書き始めてはいけませんと習いました」と答えている。
2009年に出版された伝記のレビューでは、1929年夏、ヴェルナー・ハイゼンベルクとともに日本での学会に向けた航海の途中での逸話に言及されている。
ハイゼンベルクもディラックも当時20代・独身であり、ハイゼンベルクは終始女性に声をかけてはダンスをしていた一方で、ディラックは社交の場やお喋りに巻き込まれることを苦痛と感じていた。
「なぜダンスをするのか?」と友人に聞くと、ハイゼンベルクは「素敵な女の子がいるんだから楽しいでしょう?」と答えました。ディラックは少し考え、「でもハイゼンベルクはどうやってその子が素敵だとわかったんだい?」と聞き返したという。
マーギット夫人が1960年代にジョージ・ガモフとアントン・カプリに話したところによると、ディラックは、訪問者に彼女を紹介する際、「現在私の妻になっている、ウィグナーの妹を紹介させてください」と言っていた。
当時まだ若かったファインマンと初めて会議で会ったとき、長い沈黙のあと、「ひとつ方程式を持ってきた、そちらにもありますか?」と聞いた。
ある会議で講演を行った後、聴講者の一人が手をあげ、「黒板の右上の方程式がわかりません」と聞いた。長く沈黙が続き、司会者に「答えますか」と聞かれると、ディラックは「それは質問ではなく、ただのコメントです」と答えた。
彼はとても謙虚な性格で、彼がはじめに発見した量子の時間発展演算子については「ハイゼンベルクの運動方程式」と呼んでおり、殆どの科学者がフェルミ=ディラック統計、ボース=アインシュタイン統計と呼んでいるものを前者はフェルミ統計、後者はその対称性からアインシュタイン統計と呼ぶように主張していた。
アルコールは一切飲まなかった(当初はコーヒー、紅茶さえ飲まなかったが、これらは後年飲むようになった)[5]。
SFが好きで、「2001年宇宙の旅」は映画館で3回も観たという[6]。
また、有名になることを極度に避けていたと言われ、ノーベル賞が決まった際には、有名になることを恐れて受賞を辞退しようとした。
その際、ラザフォードが「もしノーベル賞を断ったら、君はノーベル賞をもらった場合より、もっと有名になる」と言って説得した結果、渋々賞を受けたと伝えられる[7]。
1930年、王立協会フェローに選出される。
ディラック夫妻の墓石
1984年にフロリダ州タラハシーで亡くなり、同地のローズローン墓地に埋葬された。2002年に亡くなったマーギット夫人も埋葬されている。
彼を記念して、ディラック賞が1985年に設立された。
業績
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この節の加筆が望まれています。ハイゼンベルクによる量子力学の定式化(行列力学)を受け、1925年に量子力学での力学変数の間の交換子と古典力学でのポアソン括弧の関係の類似性を見出した。
1926年にはシュレーディンガーによって提案されていた波動力学と行列力学との間の等価性を、シュレーディンガーと独立に証明した。
また、パウリの排他律を満たす粒子の統計力学、フェルミ=ディラック統計をフェルミと独立に考察した。
ここでディラックは、ある粒子系の波動関数が粒子の入れ換えについて対称(反対称)であることが、その粒子がボース=アインシュタイン統計(フェルミ=ディラック統計)を満たすことと対応することを述べている。
1928年に電子の相対論的な量子力学を記述する方程式としてディラック方程式を考案した。
この方程式から導かれる電子の負のエネルギー状態についていわゆるディラックの海と呼ばれる解釈を提案した。
この解釈では粒子の質量、寿命、電荷などの絶対値は等しいが、電荷など符号を持つものは逆符号である粒子、すなわち反粒子の存在が予言される。
後に電子の反粒子である陽電子がアンダーソンにより1932年に実験的に発見され、反粒子の存在が実証された。
彼はまた数学の分野にも大きな影響を与えた。
ディラックのデルタ関数は、数学における超関数理論へと発展し、相対論的量子力学ではスピノルなどの新しい数学的概念を積極的に活用して理論を組み立てた。
さらに、波動関数の位相に関する考察と、単一の電荷に対応して単一の磁荷もあって良いのではないかと考えて、量子力学の枠内で単極磁荷を持つ粒子、磁気単極子(モノポール)の記述を考案し、磁気単極子の存在が電荷が量子化されていることを説明すると主張した。
ここでの彼の考察は数学者によって独立に考えられたファイバー束の数学と本質的に同一であった。
磁気単極子を扱った論文で、彼は物理学における数学的な美の重要性を強調している。
ディラックの考えた素粒子としての素朴なモノポールの存在については多くの物理学者は否定的だが、その後の理論的発展により大統一理論において量子場の配位としてのモノポールは存在し得ることが分かり、精力的に研究されている。
量子力学に関する洞察を彼自身が考案したブラ-ケット記法によって記述した著書『量子力学』(原題: Principles of Quantum Mechanics)は名著として知られている。ファインマンはこの著書からヒントを得て経路積分を考案した。
このほか、基礎物理定数から求められる無次元量に10の40乗(またはその2乗)という値が現れることから大数仮説を提示した。
哲学に対して
哲学者は、科学とは違う日常的言語で「存在」や「宇宙」を語ろうとしてきた[8]。
しかし、量子論を創設した一員であるディラックは、哲学者をことさら信用していなかった[9]。
ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていた哲学者はウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数や不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった[8]。
ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない[8]。
ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない[9]。
量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった[8]。
どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した[8]。
受賞歴
1933年 ノーベル物理学賞
1939年 ロイヤル・メダル
1941年 ベーカリアン・メダル
1952年 コプリ・メダル、マックス・プランク・メダル
1964年 ヘルムホルツ・メダル著作
『一般相対性理論』江沢洋訳、東京図書、1977年1月。新版1985年12月。ISBN 4-489-00154-1。
『一般相対性理論』江沢洋訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2005年12月。ISBN 4-480-08950-0。
『現代物理学講義』有馬朗人・松瀬丈浩共訳、培風館、1985年9月。ISBN 4-563-02167-9。
『ディラック 現代物理学講義』岡村浩訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2008年2月。ISBN 978-4-480-09132-1。
『ヒルベルト空間のスピノル』喜多秀次訳、吉岡書店〈物理学叢書52〉、1986年10月。ISBN 4-8427-0182-X。ISBN 4-8427-0000-9 (set)。
『量子力学』仁科芳雄ら訳、岩波書店、1936年。
『量子力学』朝永振一郎ほか共訳、岩波書店、1954年。
『量子力学 第四版』共訳、岩波書店、1968年。ISBN 4-00-006123-2。
『量子力学 第四版 改訂版』共訳、岩波書店、2017年。ISBN 9784000061513。伝記
Farmelo, Graham (2009). The Strangest Man: the Life of Paul Dirac, Quantum Genius. London: Faber and Faber. ISBN 0-465-01827-0. OCLC 426938310
グレアム・ファーメロ『量子の海、ディラックの深淵 天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯』吉田三知世訳、早川書房、2010年
2009年のCosta Book Awards(2009年度伝記部門)を受賞。
アブラハム・パイスほか『ポール・ディラック 人と業績』藤井昭彦訳、ちくま学芸文庫、2012年出典
[脚注の使い方]^ エイブラハム パイス, デイヴィッド オリーヴ, モーリス ジェイコブ, パリティ編集委員会 (編集)著、藤井昭彦訳「反物質はいかに発見されたか ディラックの業績と生涯」(丸善、2001年), p.2.
^ C・ロヴェッリ『すごい物理学講義』河出文庫、2019年、159頁。
^ グレアム・ファーメロ著、吉田三知世訳「量子の海、ディラックの深淵 天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯」(早川書房、2010年), p.83.
^ グレアム・ファーメロ著、吉田三知世訳「量子の海、ディラックの深淵 天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯」(早川書房、2010年), p.314.
^ グレアム・ファーメロ著、吉田三知世訳「量子の海、ディラックの深淵 天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯」(早川書房、2010年), p.82.
^ グレアム・ファーメロ著、吉田三知世訳「量子の海、ディラックの深淵 天才物理学者の華々しき業績と寡黙なる生涯」(早川書房、2010年), p.487.
^ Burton Feldman (2001-10-3). The Nobel Prize: A History of Genius, Controversy, and Prestige. Arcade Publishing. ISBN 9781559705929
^ a b c d e 全 2014, p. 178.
^ a b 全 2014, pp. 177–178.
参考文献
全, 卓樹『エキゾティックな量子:不可思議だけど意外に近しい量子のお話』東京大学出版会、2014年。ISBN 978-4130636070。
高橋昌一郎『天才の光と影 ノーベル賞受賞者23人の狂気』PHP研究所、2024年5月。ISBN 978-4-569-85681-0。
関連項目ウィキメディア・コモンズには、ポール・ディラックに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
大数仮説
ルーカス教授職
反物質
ブラ-ケット記法
ディラック定数
ディラック賞
ディラックのデルタ関数
ディラック方程式
フェルミ=ディラック分布
ディラック・スピノル
ディラック場
ディラックの海
ディラック共役
カピッツァ・ディラック効果
表話編歴
ノーベル賞 ノーベル物理学賞受賞者 (1926年-1950年)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ: ポール・ディラック20世紀イギリスの物理学者ノーベル物理学賞受賞者イギリスの理論物理学者イギリスの量子物理学者イギリスのノーベル賞受賞者コプリ・メダル受賞者ロイヤル・メダル受賞者マックス・プランク・メダル受賞者王立協会フェロー米国科学アカデミー外国人会員ソビエト連邦科学アカデミー外国人会員ローマ教皇庁科学アカデミー会員国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員ハンガリー科学アカデミー会員インド国立科学アカデミー・フェローメリット勲章ケンブリッジ大学の教員フロリダ州立大学の教員フロリダ大学の教員イングランドの不可知論者ブリストル大学出身の人物スイス系イギリス人ブリストル出身の人物1902年生1984年没
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「オイラー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「オイラー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
レオンハルト・オイラー
Leonhard EulerLeonhard Euler
生誕 1707年4月15日
スイスの旗 スイス・バーゼル
死没 1783年9月18日(76歳没)
[OS: 1783年9月7日]
ロシア帝国の旗 ロシア帝国・サンクトペテルブルク
研究分野 数学、天文学
研究機関 ロシア科学アカデミー
プロイセン科学アカデミー
出身校 バーゼル大学
博士課程
指導教員 ヨハン・ベルヌーイ
主な指導学生 ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
主な業績 オイラー図、オイラー数、オイラー積分、オイラー線、オイラーの公式、オイラーの等式、オイラーの五角数定理、オイラーの定数、オイラーの定理 (数論)、オイラーのφ関数、オイラー標数、オイラーの分割恒等式、オイラー法、オイラー予想およびオイラー路の発見、ラグランジュ点発見の端緒をつかむ
署名プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler、1707年4月15日 – 1783年9月18日)は、18世紀の数学者・天文学者(天体物理学者)である。
当時の数学界の中心的人物となり、19世紀へと続く厳密化・抽象化時代の礎を築いた[1]。
右目を失明していたことから「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」とも呼ばれた[2][3]。
さらに後には、数学の研究に没頭し過ぎたあまり左目も失明したが、その後も亡くなるまで研究をやめることはなかった(後述)。
概要・生涯
1707年、スイスのバーゼルに生まれる。
オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、オイラーには自分の後を継いで牧師になることを望んでいた[1]。
1720年にはバーゼル大学に入学し哲学を学んだが、ここで数学者ヨハン・ベルヌーイに出会って数学の才能を見出された。
1724年には神学の道へと一旦進んだものの、オイラー自身は数学に強い興味を抱いており、またその才能を見込んだベルヌーイが両親を説得したため、数学専攻へと転じることとなった[4]。
1727年、オイラーはロシア帝国でサンクトペテルブルクの科学学士院に赴任した[1]。
この地で、師のヨハンの子であるダニエル・ベルヌーイの同僚となった。
オイラー自身は、1733年にベルヌーイがスイスに帰った後も、サンクトペテルブルクにとどまり続けた。
1734年には画家ゲオルク・グゼル(英語版)の娘カタリーナ・グゼルと結婚し、1735年、数論の未解決問題だったバーゼル問題を解決したことで有名になった[5]。
しかし、1738年には片目を失明し[6]、さらに帝政ロシアの政情不安によって、研究生活は不安定になった。
1741年、プロイセン王国のフリードリヒ2世の依頼[注 1]でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住した[1]。
オイラーはここでも高い業績を上げ、『無限解析入門』 “Introductio in analysin infinitorum(英語版)” と『微分学教程』 “Institutiones calculi differentialis” という2冊の数学書を出版した。
また、オイラーはアンハルト=デッサウ公女の教育のために自然科学の入門書を執筆し、その後、この著作は『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』 “Lettres à une Princesse d’Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie” として出版された。
この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった[7]。
なお、当時のベルリン・アカデミーには近代科学にも明るい哲学者のヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。
啓蒙君主を自認するエカチェリーナ2世が帝位につき、1766年にオイラーは再びサンクトペテルブルクに戻り[1]、ここで厚遇を受けた。
しかし、1738年ごろより視力が低下し[1]、1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を完全に失明した。
両目の失明後は、オイラーの口述を子どもたちが筆記して、論文に仕上げたという[8]。
失明後もオイラーの研究意欲が衰えることは全くなく[1]、同僚の教授たちに自分の論文を読んでもらい、内容に間違いがないか確認し、脳内で「執筆」した論文を口述筆記してもらうことで多数の論文を生産した[9]。
1783年に76歳で亡くなるその日まで精力的な研究活動を続け、人類史上最多とも言われる膨大な量の論文や著書を遺した。
墓所はサンクトペテルブルクにあり、アレクサンドル・ネフスキー大修道院にロシア各界の著名者らとともに埋葬されている。
業績
解析学
スイスの第6次紙幣の10フラン紙幣
解析学(無限小解析)においては膨大な業績があり、微分積分の創始以来最もこの分野の技法的な完成に寄与したとされる。
級数や連分数、母関数の方法、補間法・近似計算、特殊関数、微分方程式、多重積分、偏微分法など、古典的な解析学のあらゆる領域において基礎から応用に至る広い業績があり、自身の発見を教科書を通し広く一般に普及させた。
量の膨大さのため、彼の解析学における仕事(いわば公式の一つ一つ)は、彼の業績として完全には伝わっている訳ではなかった。
たとえば後年、当初は新たな公式の発見とされたことが実はオイラーが為した仕事の再発見に過ぎなかった、ということがしばしば起きた。
このような経緯も含めて、彼の名前は指数関数と三角関数の関係を与えるオイラーの公式やオイラー=マクローリンの和公式、オイラーの微分方程式、オイラーの定数などとして残っている。
さらに複素数の変数を積極的に用いて、解析学に限らず数学全分野に大きな業績を残した[1]。
数論
フェルマー以降進展がなかった整数論において、ラグランジュの出現までほぼ一人で研究し続け、二次形式や原始根・フェルマーの小定理の拡張など、数々の功績を残した。
現在でも、数論的関数の一つであるオイラー関数(オイラーのφ関数)に彼の名前が残っている。
またゼータ関数を初めて扱い(ゼータ関数の名称はリーマンによる)、後に解析的整数論の重要な主題となる重大な結果を得た。
彼は1735年にζ(2)=π2/6を求めることに初めて成功し、さらにζ(4) = π4/90、ζ(6) = π6/945、ζ(8) = π8/9450、ζ(10) = π10/93555、ζ(12) = 691π12/638512875 を求めた。
また、1737年にはゼータ関数と素数の関係を表すオイラー積の公式を発見し、素数の逆数の和が発散するという新たな結果を得た。
さらに超人的な数学的直感に基づいてゼータ関数の負の数における値に意味付けを与えたが、これは後に数学的に正当化された。数の分割の理論においては、母関数の方法の応用が著しく、五角数定理をはじめ様々な組み合わせ論的、あるいは楕円関数論的な恒等式を得た。
幾何学
幾何学においては、位相幾何学のはしりとなったオイラーの多面体定理(ただしオイラーは証明を与えていない)や「ケーニヒスベルクの橋の問題」が特に有名である。
特性類の一つであるオイラー類は本質的にこのオイラーの多面体定理によって特徴付けられるものである。
「ケーニヒスベルクの橋の問題」は一種の一筆書き問題であるが、オイラーはこれに取り組んで一筆書きが可能になるための必要十分条件を求めた。
これはグラフ理論の起源となり、今日では一筆書き可能なグラフはオイラーグラフと呼ばれる。解析幾何学でも古代ギリシャのアポロニウスによる円錐曲線の理論を解析幾何学的手法によって近代化をはかっている。
数理物理学
数理物理学では、ニュートン力学の幾何学的表現を解析学的に修正して、現代的なスタイルに変更した。
彼は1736年に初めて力をはっきり定義し、解析的な形で運動方程式を与えた。
それ以後、この定式化に基づいて振動弦の問題を論じ、また地球の章動の研究において運動方程式による3体問題の定式化を行った。
そして1755年には流体力学の基礎方程式(連続方程式と運動方程式)を導いて体系化した。
さらに1760年には剛体の力学を論じ、剛体に固定した運動座標系を導入してオイラーの運動方程式を得、これを発展させた。
剛体の方位を規定する3つの角は「オイラーの角」と呼ばれている。
ただし、彼は1760年代までニュートンの重力理論を容認できず、デカルトの充満理論・エーテル理論に固執していた。 その他、変分法に関する業績も多い。
関数概念の導入
ライプニッツによって定義された関数について、現代では一般的なy=f(x)の形での表現は、1748年のオイラーよるものが初めてである。
このような近代的な関数の概念・表現は、物理学などの応用分野でも関数を使いやすいものとした[1]。
その他
オイラーは人類史上最多の論文を書いたと言われる数学者であり、並の数学者が一生かかって執筆する量の論文をオイラーは毎年のように発表し続けていたとも言われる。
彼は平均すると年間800ページを超える論文を執筆しており、短い論文であればわずか30分ほどで書き上げることができたという逸話も伝わっている。
オイラーが執筆した論文は現時点で886編が確認されており、これらの論文は5万ページを超える全集にまとめられて1911年から刊行され続けているが、論文や書簡、原稿をも含むその全集は刊行開始から100年以上が経った現在も未だに完結していない[1]。
2005年には書籍としての出版計画は中止され、デジタルフォーマットでのアーカイブ化が進められている[10]。詳細はOpera Omnia Leonhard Eulerを参照。
1980年〜2000年にかけて流通していたスイスの第6次紙幣の10フラン紙幣にはオイラーの肖像を見ることができる。
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ しかし後年、徐々にフリードリヒ2世には疎まれるようになったとされる。
出典
^ a b c d e f g h i j 日本数学会編『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「オイラー」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541
^ 「数学の真理をつかんだ25人の天才たち」p103 イアン・スチュアート著 水谷淳訳 ダイヤモンド社 2019年1月16日第1刷発行
^ 「数学者列伝 オイラーからフォン・ノイマンまで Ⅰ」p9 I・ジェイムズ 蟹江幸博訳 シュプリンガー・フェアラーク東京 2005年12月17日発行
^ 「数学を育てた天才たち 確率、解析への展開」(数学を切りひらいた人びと 2)p149 マイケル・J・ブラッドリー著 松浦俊輔訳 青土社 2009年4月15日第1刷発行
^ 「数学を育てた天才たち 確率、解析への展開」(数学を切りひらいた人びと 2)p151 マイケル・J・ブラッドリー著 松浦俊輔訳 青土社 2009年4月15日第1刷発行
^ 「数学の真理をつかんだ25人の天才たち」p100 イアン・スチュアート著 水谷淳訳 ダイヤモンド社 2019年1月16日第1刷発行
^ 「数学を育てた天才たち 確率、解析への展開」(数学を切りひらいた人びと 2)p158-159 マイケル・J・ブラッドリー著 松浦俊輔訳 青土社 2009年4月15日第1刷発行
^ “数学者オイラーが視力を失っても平気だった理由”. 東洋経済オンライン (2022年7月2日). 2023年1月1日閲覧。
^ 「数学を育てた天才たち 確率、解析への展開」(数学を切りひらいた人びと 2)p160 マイケル・J・ブラッドリー著 松浦俊輔訳 青土社 2009年4月15日第1刷発行
^ スイス科学アカデミーオイラー委員会 Euler Committee of the Swiss Academy of Sciences
著作
おいれる『不定解析論 おいれる代数学 整数論ノ一部』林鶴一・小野藤太訳、大倉書店〈数学叢書 第18編〉、1914年。
レオンハルト・オイラー『オイラーの無限解析』高瀬正仁訳、海鳴社、2001年6月。ISBN 4-87525-202-1。
レオンハルト・オイラー『オイラーの解析幾何』高瀬正仁訳、海鳴社、2005年11月。ISBN 4-87525-227-7。
レオンハルト・オイラー『オイラー 無限解析序説』高瀬正仁訳、共立出版、2024年3月。ISBN 978-4-320-11561-3。
髙瀨正仁:「無限解析のはじまり:わたしのオイラー」、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、ISBN 978-4-480-09225-0 (2009年7月10日)。※ 既存書の文庫化ではない書き下ろし。
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オイラー (小惑星)
外部リンク
O’Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Leonhard Euler”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews.
The Euler Archive オイラーの原論文を閲覧可能
Googleロゴがレオンハルト・オイラー生誕306周年の記念ロゴに。
レオンハルト・オイラー – Find a Grave(英語)
『オイラー』 – コトバンク
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カテゴリ: レオンハルト・オイラー18世紀の天文学者18世紀の物理学者18世紀の数学者サンクトペテルブルク科学アカデミー正会員プロイセン科学アカデミー会員サンクトペテルブルク大学の教員数値解析研究者数論学者スイスのプロテスタントの信者スイスの数学者スイスの天文学者スイスの物理学者宗教と科学に関する著作家スイス・フラン紙幣の人物水理学に関する人物流体力学者隻眼の人物バーゼル出身の人物地球空洞説スモレンスキー・ルーテル派墓地に埋葬された人物数学に関する記事天文学に関する記事1707年生1783年没
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※米国の富豪たちはいかにして税金を払わないようにしているか…。
https://st2019.site/?p=22828※ まあ、「株式」で資産保有する以上、常に、「株式下落のリスク」を負うわけだが…。
※ キャピタルゲインに対する課税率が「低い」のは、そういうことも加味されている…。
※ リーマン・ショックの時、日経平均は、「4分の1」になった…。
※ 退職金の2000万円を、「株で保有」していた人は、評価額が「500万円」に下落した勘定だ…。
※ 退職後、「老後の人生設計」もなにも、あったものじゃ無い…。
※ 「リスク資産」とは、そういうものだ…。
※ NISAで浮かれている人も、そういう「覚悟」は、しといた方がいい…。
『※米国の富豪たちはいかにして税金を払わないようにしているか、というSNSの解説。
多くの人は企業から給料を100万ドル貰ったら所得税40%を納める。のこり60万ドルが、じぶんのものである。
もし節税したい人は、企業から現金ではなくその企業の発行株式を報酬として100万ドル分、もらう。そしてその株式を売却してしまう。
するとその売却益の25%(キャピタルゲイン税)だけを納税すればよくて、残り75万ドルはじぶんのものである。
富豪たちは、企業から発行株式を報酬として100万ドル分もらったら、その株式を担保にして銀行から現金を借りる。
この負債は米国の税法上、真の所得とはみなされないので、100万ドルのカネを好きなように使えるのに彼にはまったく課税されなくなる。
さらに、それに加えて彼は、担保にしている株式を売却することもできる。
その場合はキャピタルゲイン税25%だけ払えばよいのだ。』
-
政教分離原則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自由主義
一覧
思想
潮流
人物
地域
宗教的自由主義
組織表話編歴
政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)とは、国家と宗教団体の分離の原則をいう[1][2]。教会と国家の分離原則(英: Separation of Church and State)ともいう[3]。
ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し広義には「君主」や「国家」を指す[4]。
世界大百科事典は「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と解説する[5]。
フランスに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や[4]、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国に見られる緩やかな分離(融合型)[6][7][8] などに分かれる。
政教の分離と信教の自由は不可分であり[9]、信教の自由を制度的に保障していることが政教分離において重要な視点である[10]。
本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。
類型
融合型・分離型・同盟型
→「国教」、「コンコルダート」、および「政教一致」も参照歴史的条件の違いを反映して、政教分離は国によって様々な形態をとる[11]。
1977年にジャック・ロベール(英語版)の試みた類型化によれば、国家と宗教の関係には融合型、分離型、同盟型がある[12][13][14]。
融合型(フランス語: la confusion[13])は国教型ともされ、バチカン市国、イスラム諸国のほか、イギリス、イタリア、北欧諸国も含まれる[12][14]。 分離型(フランス語: la séparation[13])のフランスやアメリカ合衆国などにおいては、国家と宗教が完全に分離され、教会は私法上の組織にすぎず、国はその運営に関与しない[11][12]。
ただし、分離型とされる中でも、宗教に友好的ないし同調的なタイプ、宗教に非友好的ないし中立的なタイプ、宗教に敵対的なタイプ(フランス語: la séparation hostile[13]、唯物論に立った旧ソビエト連邦など)の3タイプに分かれる[12][15]。
井上順孝によれば、ピューリタンの影響を受けて建国されたアメリカ合衆国は友好的なタイプ、19世紀を通じてカトリックの影響力が削がれていったフランスのライシテは中立的なタイプに該当する[15]。
また井上修一によれば、国教を禁じるアメリカ合衆国憲法は中立的なタイプに該当する一方、フランスの政教分離はカトリックから抵抗を受け、第一次世界大戦後の友好的な時代を経て、今日は同調的なタイプに変わってきた[12]。
同盟型(コンコルダート型)においては国家と教会は独立しているが一定の協力的制度関係が存在する[12]。
同盟型における国家の教会への関与の例としては、司教の任命、司祭の報酬の決定などが挙げられる[13]。
ドイツにおいては、教会は憲法上の地位を持って活動するが、政治と競合する領域ではコンコルダート(政教協約)を結んで解決する[11]。
国教が定められている国
キリスト教
イスラム教
仏教融合型(国教制度)
マルタ - カトリック(1964年憲法 第2条) コスタリカ - カトリック (コスタリカ憲法 第75条) モナコ - カトリック (モナコ憲法 第9条) イングランド - イングランド国教会(聖公会) スコットランド - 長老派教会 アイルランド - アイルランド教会 ウェールズ - ウェールズ教会 デンマーク - ルター派教会(1953年憲法 第4条) ノルウェー - ルター派教会(1814年憲法 第2条) アイスランド - ルター派教会(1944年憲法 第62条) フィンランド - ルター派教会、正教会(フィンランド正教会) ギリシア - 正教会(ギリシャ正教会) チュニジア - イスラム教 サウジアラビア - イスラム教ワッハーブ派 基本統治法第1条で憲法はクルアーンおよびスンナであると規定 エジプト - イスラム教、ただし宗教政党は禁止されている。 スリランカ - 上座部仏教 ブータン - 大乗仏教
分離型(厳格な分離)
アメリカ合衆国 フランス(ライシテ) トルコ(ライクリッキ) メキシコ エストニア スロヴァキア スロヴェニア ハンガリー(ハンガリー共和国憲法) 日本(日本国憲法第20条) - 戦後のみ政教分離型。戦前は国家神道が宗教でないとされ神道が事実上の国教であった。 オーストラリア - 憲法第116条で信教の自由が保障、国教は禁止
コンコルダート型
→詳細は「コンコルダート」を参照
オランダ ルクセンブルク ドイツ(1949年基本法 第140条) オーストリア イタリア(1947年憲法 第7条、第8条) アイルランド(1937年憲法 第44条) スペイン(1978年憲法 第16条) ポルトガル(1976年憲法 第41条4項)
協約方式・寛容令方式・政教分離方式・国教制
また、別の類型としては、
国教制:特定の宗教の優位の公的承認を含む(中南米、アジア(仏教、イスラム教)、イギリス、スペイン) 協約方式(コンコルダート、政教条約):国家と宗教とくにローマ・カトリック教会の関係を国家間の条約のように扱う(イタリア、ドイツ) 寛容令方式:優勢な宗教を尊重する(スイス、ベルギー、フランス、ブラジル) 政教分離方式(日本、アメリカ、メキシコ、フランス、トルコ、インド、韓国)
がある[9]。
ただし、現実には重複することもあり、完全に形式的に分類できない[9]。
その他(社会主義国など)[icon]
この節の加筆が望まれています。ロシア帝国 - ロシア正教会を国教とし、1905年に勅令で正教以外の信仰の自由を容認した[16]。 ソビエト連邦 - 政教分離を採用したが、教会の財産は没収し、また教会は法人格を剥奪され、信教の自由は保障されなかった[16][17][18]。
ソ連は無神論という宗教に基づく政教一致であったともいわれ[17]、マルクス・レーニン主義以外の思想は許可しない無神論国家として宗教弾圧が行われた[16]。
1920年代末までにローマ・カトリック布教区は消滅した[19]。
ロシア正教会は、1930年代までに7万2千人〜7万7千人の司祭が処刑・投獄され[20]、ロシア正教会は組織としてはほとんど存在しなくなった[16]。
また中央アジアではイスラム教が弾圧され、ムスリム宗務局によって統制された。
政府に反抗的な宗教活動は禁固刑または強制労働または極刑とされ、宗教教育や聖書研究も禁止された[16]。
スターリンは戦意昂揚のために政教和解の方針を取ったが、フルシチョフ政権は弾圧を再開した[16]。
ゴルバチョフ政権は政教和解を申し入れ、1990年信教自由法でロシア史上初めて信教の自由が認められた(第3条)[16]。また「バチカン外交部」が開設された[19]。
ロシア連邦 - ソビエト連邦の崩壊後の憲法(1993年)や宗教法(1997年)で、ロシアは世俗主義であるとされ、宗教団体と国家は分離され、信教の自由が保障された[16][19]。
一方、正教は特別な役割を持つとされ、事実上の国教の位置を占め、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教は伝統宗教であるとされた[16][19]。
しかし、2002年に教皇ヨハネ・パウロ二世が布教組織を1917年以前に戻すと決定すると、正教会は反発し、ロシア外務省はバチカンに決定の取り消しを求め、カトリック司教のビザが没収され、再入国を禁止されるとともに各地でカトリック教会の建設が禁止された[19]。
また公教育でロシア正教会は別格に扱われており[19][21]、正教会の教理が正規科目とされるなど、ロシアは「正教国家」に向かっているといわれる[19]。
中華人民共和国 - 中国共産党の党員が宗教を信仰することは禁止されているが、公民の信教の自由と無神論を宣伝する自由が中華人民共和国憲法で認められている(第36条、第46条)[22]。 朝鮮民主主義人民共和国 - 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法第68条で、公民の信教の自由が保障されている。
仏教寺院、キリスト教会などの他「統一協会」の施設があり、その建設・運営には国の制度上、国家指導部の大きな理解と援助なくして成立しえない。
また、天道教青友党が存在し、儒教文化が深く根付いた社会でもある。
一方で宗教文書を配布したとして外国人が罪に問われた例もあり、正確な実態は不明である。
厳格分離主義と不偏許容主義
政教分離には、国教の禁止が「規制原理」として働き、信教の自由が「構成原理」として働くという二面性がある[23][24]。日本の憲法学では、政教分離は信教の自由を実現するための手段(制度的保障)であると言われる[25]。アメリカ合衆国憲法修正第一条(英語版)の条文にも規制原理と構成原理の両面が見られる[24]。ジョン・ヴィッテ(英語版)は国教の禁止の側面を重視する立場を「厳格分離主義」、信教の自由の側面を重視する立場を「不偏許容主義」と呼んだ[24]。
信教の自由と寛容宗教改革で信教の自由が成立したといわれるが、ツヴィングリ派や他派の自由が認められたわけではなかった。その後の宗教戦争を経て、信教の自由が普遍的に相互承認されるようになり、それを政治的に保障するための制度としてヨーロッパにおいて政教分離制度が成立した[17]。また、信教の自由を成り立たせているものは寛容の精神であり、寛容を制度化したものが政教分離であるとされる[17]。
伊藤潔志は「政教分離の本質は、政教関係の有様ではなく、信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって、政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である」と解説する。一方で国家間の関係において「宗教対立を解消するための方向の一つとして、信教の自由を認めない国家に対して(信教の自由)を認めるよう働きかけていくこと」それ自体が信教の自由に反するという逆説に陥る可能性があり、政教分離を「普遍的な政治原則とみなすことが押しつけになる」可能性を述べ[17]、寛容の精神の重要性を指摘する。
軍と宗教
空母ハリー・S・トルーマン艦内で、復活大祭の聖体礼儀を司式する正教会の従軍司祭と、参祷する乗組員達(2004年4月11日)キリスト教圏の国では政教分離を国制とした後も、軍隊で従軍聖職者を雇用している。厳格に分離しているアメリカやフランスでも、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。
自衛隊に宗教活動に従事する職種(兵科)は存在しないが、艦内神社の勧請や駐屯地への神棚設置、装備品のお祓い[26]など、防衛省が主導せず費用を負担しない神事が容認されている。
歴史
→詳細は「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」および「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」を参照一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる[27]。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする[28]。
962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[29]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[30]。
叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[31]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[29]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[30]。
フランスでは1516年の政教条約によって国教制度がとられ、カトリックは特権的地位を与えられた[29][32]。ナントの勅令後は 「寛容」が認められプロテスタントにも信仰の自由は認められていたが、1685年に廃止され、1789年まで国教制度が存続した[32]。1789年のフランス人権宣言は第10条で「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」とカトリック以外の宗派を含む信教の自由を明記した[29]。また、1792年9月20日には国民公会が、出生や結婚、死亡などの民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した[要出典]。しかし、聖職者世俗化法で「至高尊者」などの名の下にカトリックに代わる新たな公的祭祀が行われた[32]。ナポレオンと教皇ピウス7世は、コンコルダ(政教条約)を締結し、カトリック中心の公認宗教制となった[32]。このコンコルダ体制では、プロテスタント、ユダヤ教も認可したものの、カトリック国教制であった(1814年憲章、1830年憲章・1848年憲法)[32]。その後、第三共和制のもとでは、修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]。フェリー法(1881年)では初等教育の非宗教性が定められ、ゴブレ法(1886年)では聖職者を初等教育から排除され現在のライシテへとつながっていく政策がとられ、1901年の結社法では、修道会設立を政府許可制にした[32]。1904年、フランスとローマ教皇庁は外交断絶となるが、1905年には教会と国家の分離に関する法律 (Loi de séparation des Eglises et de l’Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された[32]。
イングランドでは1534年にヘンリー8世によってイングランド国教会が成立した。エリザベス女王時代にはピューリタン(カルヴァン派)が国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返した。ピューリタン革命前夜、議会派ピューリタンも、長老派(国王との妥協を模索し、国教会のなかで改革をする)と独立派(国教会から分離し、会衆教会を基本単位として教会純化を考える)、平等派(王制を廃止し、人民主権を達成しようとする)などの分離派(国教会からの分離を主張)に分裂した。クロムウェル政権は独立派の会衆派教会を優遇した。同じ分離派でもクエーカー教徒、平等派などは認められず、強く信教の自由を主張した。これらの人々はアメリカ、オランダなどへ亡命してのちに帰国する人も多く、信教の自由、政教分離への主張を強めていった。1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活した。議会は1673年に審査律を制定し、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定を行った。そうした中、信教の自由を求める運動は継続され、1689年の名誉革命に際して、「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」(寛容法)が制定され、プロテスタントの非国教徒は信仰を理由に迫害されることはなくなった。しかし、1828年の審査律廃止まで公職に就くことはできなかった。また、カトリックも迫害されたが1801年のアイルランド併合の際に解放が約束され、オコンネルの運動による1829年のカトリック教徒解放令によって認められた。
政教分離を国制とした史上初の世俗国家はアメリカ合衆国である[33]。1791年合衆国憲法修正第1条では国教の設置が禁止された[34]。政教分離が選ばれたのは、啓蒙主義思想によるだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり[35][36]、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたためであった[37]。しかし、州の独立性は強く、ニューヨーク州、メリーランド州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州は監督派教会を、マサチューセッツ州、コネチカット州、ニューハンプシャー州は会衆派教会を当初は公定教会としていた。その後、修正第1条の精神が徐々に浸透し、各州における公定教会制度は廃止されていき、最も頑強にピューリタンの伝統が保持されたマサチューセッツ州においても1833年に公定教会は廃止された[38][注釈 1]。
ローマ教皇ヨハネ23世は1963年に回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」を出し、第2バチカン公会議からは現代世界憲章や「信教の自由に関する宣言」が出された[39][40]。現代世界憲章26項では信教の自由に関する権利は人間の普遍的な権利と義務とされ、29項では万人の本質的平等が認められた[39]。教会は世俗国家との対立図式を乗り越え、人類の未来のためのパートナーとして国家を意識するようになった[40]。
現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている[29][30]。ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない[34]。
各国における政治と宗教の関係
アメリカ合衆国の政教分離
→合衆国における政教分離の形成過程については「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」を参照
→「en:Accommodationism」も参照アメリカ合衆国憲法修正第1条は国教の樹立を禁じている[41][42]。憲法修正第1条における政教分離原則の目的は、市民の宗教的自由の保護であるため、宗教の自由な活動は私的・公的領域において保障される[43][44][45]。そのため、特定の宗教が政治に関わっても政教分離違反にならず[8]、フランスに比べて、宗教が機能する場がかなり広い[43]。
フランスでは政治と宗教が厳格に分離される(Separation of Religion and Politics)のに対して、アメリカでは政府と特定の宗教団体との分離(Separation of Church and State)である[44]。アメリカにおいては、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者への優遇措置が違憲なのであり、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれている[45]。
アメリカではキリスト教的伝統は尊重され、アメリカの公的領域において一定の役割を果たすことは伝統的に是認されている[45]。アメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには”IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)”の文言が刻まれ印刷されているし、アメリカ合衆国議会には宣教師が専属している。
また、証言やアメリカ合衆国大統領などの公職就任の際に、宣誓もしくは確約 (en:Affirmation) が求められるが、このうち宣誓は神に対する誓いであり、神に言及しない確約はクエーカーなどの宣誓を禁ずる教派の信徒のために用意されたものである。ロバート・ニーリー・ベラーによれば、アメリカには、教会と明確に分化された高度に制度化された「市民宗教」が、アメリカ人の生活の枠組みに宗教的次元を付与しており[43]、アメリカの最大公約数的な宗教がアメリカの公的領域で一定の役割を果たすことが伝統的に是認されている[44]。
この市民宗教では、アメリカは神がイスラエルの民に与えると約束した「約束の地」「イスラエル」、アメリカ人は「選ばれた人々(選民)」、独立革命は「出エジプト」、独立宣言と憲法は「聖典」、ワシントンは「モーセ」、南北戦争とリンカーンの死はキリストの死と再生に結び付けられており、「世界の光明」であるアメリカを世界規模に拡大することが目指される[43]。
森孝一はベラーの「市民宗教」を「見えざる国教」と意訳し[44]、巡礼父祖(ピルグリム・ファーザーズ)のキリスト教と、建国父祖(ファウンディング・ファーザーズ)の啓蒙思想とが結合したものがアメリカの「見えざる国教」とする[43]。独立宣言では、
all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられている. — 独立宣言,1776.森孝一訳[44]
と明記されるが、森孝一は「すべての人間は平等である」と非宗教的に表現することもできたが、キリスト教的な表現になったのは当時の大半の人々にとって自然であったからで、この状況は21世紀現在でも変わらず、アメリカの人口の90%がユダヤ・キリスト教的伝統の宗教を信仰している[44]。
2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生して3日後の9月14日にはワシントン大聖堂で追悼礼拝が実施された[44]。ワシントン大聖堂はイングランド国教会系統の聖公会に所属する教会であり、森孝一は政教分離の原則を犯しても国家統合を優先させたい意図があったとしている[44]。追悼礼拝ではイスラームの聖職者、ユダヤ教の聖職者も招かれ、バクスター大聖堂牧師は「アブラハム、ムハンマド、そして私たちの主であるイエス・キリストの父なる神」と呼びかけ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つのセム的一神教(アブラハムの宗教)が同じ一つの神を信仰する兄弟であるというメッセージがこめられた[44]。ブッシュ大統領は、アメリカへの攻撃は、創造主がアメリカに与えた「自由と平等」という理想への攻撃であり、この理想はすべての人類の希望である、と演説で語った[44]。
司法では、合衆国最高裁判所は1961年のTorcaso v. Watkins訴訟で連邦・州政府において宗教に関する質問、検査、査察などを違憲とした[46]。1971年のレモン対カーツマン事件では、国家にゆるされる宗教的行為の条件として、政府の行為が適法で世俗的な目的をもつこと、宗教を助長または抑制しないこと、政府と宗教の過度の関係をもたらさないことの3要件を判示した。
2002年の「星条旗に対する宣誓」の中の「one Nation under God(神の下にある一つの国家)」という言葉に対する無神論者による訴訟において、サンフランシスコ第9連邦控訴裁判所は違憲と判決したが、連邦議会は圧倒的多数で反対決議し、世論調査では89%がこの言葉を残すべきであると答えた[44]。
最高裁は2005年にマクリアリィ郡 v.アメリカ自由人権協会訴訟で、公共の場における他の宗教の文書なしの聖書のみの展示は違憲と判示した[47]。同年、刑務所における無神論者の服役が議論できる集会についてのCutter v. Wilkinsonで無神論も宗教と同等の保護されるべき法益であると判示した[48]。
マーティ、ピラード、リンダーらによれば現在のアメリカでは、大統領が超越的な価値基準から国家や国民の行為を評価するリンカーンのような「預言者型」から、国家自体が究極の基準となり大統領は国民に国家賛美を求める「司祭型」へ移行してきた[43]。コールズは「預言者型」に「リベラルな市民宗教」を、「司祭型」に「保守的な市民宗教」が対応しているとする一方で、蓮見博昭は市民宗教が保守とリベラルに分裂して、国民統合のための装置として機能しなくなったと指摘している[43]。
公立の学校が宗教性を帯びた教育をすることに対して連邦最高裁は厳格であり、進化論教育を禁じる州法、創造論教育を義務づける州法(英語版)が違憲と判断された[42]。これを受け、一部の親が子どもを宗教系の学校に通わせる動きがある[41]。
フランスの政教分離(ライシテ)
→詳細は「ライシテ」を参照フランスの政教分離はライシテ (laïcité) の原則に基づく[注釈 2]。ライシテとは国家の非宗教性、宗教的中立性の原則を意味するものであったが、1958年憲法では法の下の平等、差別の禁止、信条の尊重を含む概念へと強化され、法概念としては国家の非宗派性、教会と国家の分離などを含んでおり、あいまいさという柔軟性も持っている[12]。カトリック教会のような特定の宗派を優遇も冷遇もするのでなく、諸宗派に対して中立的で平等な対応をとることを定めた制度である[50]。奥山倫明によれば、ライシテは国家と宗教との関係を定めたものなので、これを日本の憲法学者の宮澤俊義が述べたような「国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立的な立場に立つこと、すなわち、宗教を純然たる『わたくしごと』にすることが要請される[51]」という厳しい分離を解釈していた意味で「政教分離」と呼ぶことは難しいと指摘している[50]。
第三共和制のもとで修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]。フェリー教育相は1881年に公教育を無償化するとともに、初等教育の非宗教性が定められた(フェリー法)[32]。1884年の憲法改正では議会開会の祈りは廃止された[50]。1886年には初等教育の公立学校から聖職者が排除された(ゴブレ法)[32]。ピエール=ワルデック=ルソーは1901年に修道会を政府認可制にした[32]。1902年にエミール・コンブ首相はカトリック系学校約12,500校を閉鎖。これは教会財産の国家接収を意味し約3万人の修道士女が国外へ亡命した。1904年にルベ大統領がイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を訪問するとローマ教皇庁はフランス政府と国交を断絶したが、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l’Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された[32]。ただし、この1905年の教会国家分離法では自由な礼拝が保護され、さらに礼拝への公金支出禁止についての特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められており、厳密な国家と宗教との分離ではなかった[50][52]。
ライシテが憲法に規定されたのは、1946年の第四共和制憲法である[注釈 3][12]。1958年成立のフランス第五共和国憲法に引き継がれた[12]。
La France est une République indivisible, laïque, démocratique et sociale. Elle assure l'égalité devant la loi de tous les citoyens sans distinction d'origine, de race ou de religion. フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。出生、人種、または宗教の差別なく、すべての市民に対し法の前の平等が保障される。 — Constitution du 4 octobre 1958 ,Article 1
ルソーが論じた市民宗教は第三共和政で禁止されたが、21世紀現在のライシテを「共和主義的市民宗教」とする指摘もある[43]。ボベロはライシテが国民のアイデンティティとなって、「共和国の諸価値」と矛盾するイスラムの方に問題があるとするように、ここには「市民宗教」が持つ危険性が現れているという[43]。現代では「異教徒を排除してはならない」という宗教的寛容が、イスラム教徒の移民問題で議論されているが、移民反対論者はかつてのようなレイシズム的な排外主義ではなくて、リベラルな価値観を受容しない人々を排除しようとしているとも指摘されている[53]。
ドイツの政教分離ドイツでは宗教改革による対立を経てアウクスブルクの和議において、ルター派はカトリックと同等の権利を持ったが、同時に領邦教会制が成立した[32]。領邦教会制では”cuius regio, eius religio”「一つの領邦に属する者のすべてが一つの領邦教会に属する」とされた[32][54]。領邦教会司教が領邦君主であることもあり、世俗権力と宗教権力は密接な関係にある一方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、トリアー、ケルン、マインツ大司は神聖ローマ帝国選帝侯でもあった[32]。
1918年にドイツ帝国が崩壊しヴァイマル共和政となり、ヴァイマル憲法137条では「国の教会(Stasstskirche)は存在しない」と規定され、宗教団体設立の自由と宗教の自由も保障された[32]。しかし、教会は引き続き公法上の社団とされ、教会税徴収権も有し(137条)、公立学校で宗教は正規科目とされる(149条)など、ヴァイマル憲法においていわゆる「政教分離」制度が採用されたわけではない[32]。
ヴァイマル憲法の規定は1949年のドイツ基本法140条でも取り込まれ、ドイツ基本法4条では個人の信教の自由を保障する[54]。しかし現在でも、宗教団体は「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収も認められている[32][54][55]。そのため、H.P.マルチュケは「ドイツ連邦共和国では国家と教会(カトリック教会と福音主義教会)の分離の原則が行われているが、それは宗教的に無色の国家が教会の公共活動に無関心な態度をとるというのではなく、国家が特定の教会と一体化して他の教会ないし宗教団体を排除することなしに教会の活動を支援することを許容するものである」と解説する[55]。また宗教に関わる事項は、各ラントの権限に属し、連邦は権限を持たない[54]。また、公立学校における宗教の授業は、憲法上の正規科目とされている(基本法第七条三項)[32][54][55]。他面において、国家は、教会内の立法・裁判などに介入できない[55]。
ドイツにおける国家と教会の関係は、カトリックとの関係では連邦と教皇庁の政教条約によって規律されている[55]。なお、1933年にカトリック教会とナチス・ドイツとが締結したライヒスコンコルダートも現在も連邦では効力を有している[54]。また、国家とドイツ福音主義教会(EKD)との関係では教会協定(教会条約)によって規律されており[55]、教会条約は1955年のニーダーザクセン州のロックム条約以降ほとんどのラントで類似条約が締結されている[54]。
イタリアの政教分離イタリアでは、1870年イタリア王国がローマを併合し、教皇国の処遇が問題となった[32]。王国政府は1871年教皇保障法で、教皇は特別の主権者とされ、独自の衛兵を保持し、国による経費の負担が保障したが、聖座は一方的行為として受け入れなかった[32]。王国憲章第1条ではカトリック教は国の唯一の宗教とされていたが、政権を掌握していた自由主義的政治家は、教会財産を没収するなど反カトリック政策を遂行していたことも背景にあった[32]。決着をみたのは、1929年ムッソリーニのイタリア王国とローマ教皇庁のラテラノ条約で、第一条で「イタリアは、使徒伝承のローマのカトリック教は国の唯一の宗教である」とし、またバチカン市国を成立させた[32][56]。1947年のイタリア共和国憲法第7条では「国家とカトリック教会は、各々その固有の領域において、独立かつ最高である。両者の関係は、ラテラノ協定により規律する」とラテラノ協定は継続する一方で、第8・19条では信教の自由が保障された[56]。1984年のヴィッラ・マダーマ協約でラテラノ協定が改訂され、憲法7条の規定を削除し、国家の非宗教性を憲法原理とした[56]。しかし、現在でもカトリック教会が頂点にあるとの指摘もあり、1990年代の納税申告での使徒指定制度では80パーセントがカトリック教会を選択していた[56]。宗教教育では1859年のカザーティ法でカトリックを必須教育とする一方で非カトリック教徒の免除も認めていたが、1923年、ムッソリーニ政権でカトリック教育が必須科目とされた[56]。1984年のヴィッラ・マダーマ協約ではカトリックがイタリア国民の歴史的財産の一部となっていることから学校におけるカトリック教育を引き続き保障するとする一方で宗教教育を受けることを選択する権利も保障された[56]。ただし、公立学校に在籍する生徒の90パーセントがカトリック宗教教育を選択しているという[56]。
イギリスの公認宗教制度
→「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史」も参照イギリスにはイングランド国教会があり、日本のような意味での政教分離原則は採られてはおらず、広義での公認宗教制度をとる[32]。イングランド教会は、国教会制定法を通じて議会によってコントロールされている[32]。また、女王は国教会の主教任命権を有しており、国王はイングランド教会の「至上の支配者」である一方で国教会を信仰し、国王の戴冠式は国教会で執り行われる[32]。イギリスには憲法が存在せず、信教の自由について憲法上の保障はないが、イギリスは、ヨーロッパ人権規約(1953年)の調印国であり、1998年の人権法によって、同規約を国内法の一部とし、人権規約9条の信教の自由に依拠して裁判所で適合か不適合かが判断される[32]。大戦中の1944年、戦費による財政圧迫で義務教育の維持が困難となったため国教会とカトリックによる支援を求めて、教育法が制定された[32]。1944年教育法では学校教育の中で宗教礼拝が規定された[32]。1988年教育改革法では、宗教教育は基本カリキュラムの一部と位置づけられ、イギリスの宗教的な伝統が主としてキリスト教であるという事実を反映しなければならないと明確に定められた[32]。なお、両親が子供に宗教教育を受けさせない権利を認められているが、公立学校での礼拝はキリスト教的なものでなければならないと定められている[32]。
オーストラリアの政教分離オーストラリアはイギリスから独立しているが憲法上の国家元首はイギリス女王で、1867年カナダ憲法と同様に、連邦憲法では人権保障に関する条項がほとんどみられないが、自由権として第116条「国教を樹立し、宗教の遵奉を強制し、または自由な宗教活動を禁止するための法律を制定してはならない」で国教の禁止と信教の自由が規定されている[57]。司法では私立の宗教学校に対する連邦の補助金支出は合憲。宗教的反戦家への兵役義務は合憲[57]。第2次大戦中に、戦争遂行に不利益な団体として解散を命じた措置についての訴訟は、国家の目的が治安確保であり宗教禁止ではなかったため合憲と判示された[57]。
トルコの政教分離記事の体系性を保持するため、 リンクされている記事の要約をこの節に執筆・加筆してください。(使い方)
→「トルコの政治 § 世俗主義」、および「ライクリッキ」を参照
ロシア・ソ連の政教分離
→「ロシア正教会の歴史」を参照ロシア帝国のピョートル1世は、モスクワ総主教座を廃止し、ロシア正教会を国教として聖務会院(シノド)が管理した[16]。19世紀末のポベドノースツェフは、教会と国家の分離は宗教と道徳を崩壊するため国家と正教会の政教一致を主張した[16]。
1905年ロシア第一革命後に皇帝ニコライ2世と内務大臣ブルイギンは信教の自由勅令を発し正教以外の信仰の自由を容認した[16]。
ソビエト連邦
→「ロシア正教会の歴史 § ソ連:無神論政権による弾圧の時代」、および「ティーホン (モスクワ総主教) § ボリシェヴィキによる宗教弾圧への抵抗」も参照ロシア革命後のソビエト連邦は無神論国家として「反宗教」を国是とし、国家の宗教統制が徹底的に行われ、宗教信仰の自由はまったく認められなかった[16][17]。ソ連では正統的マルクス・レーニン主義以外の思想は許可されなかったため、「真理の独占体制」とも呼ばれる[16]。キリスト教のローマ・カトリック、ロシア正教会は弾圧と厳しい制限を受けて、一時は消滅した。イスラム教もムスリム宗務局によって統制された。
ロシアのローマ・カトリックは20世紀初頭にはロシアに50万人以上の教徒がいたが、1920年代末までにカトリック布教区は消滅した[19]。
ロシア正教会も弾圧を受けた。ピョートル1世が廃止した総主教座を復活させてティーホンはモスクワ総主教に就任したが、ソビエト政権は土地に関する布告によって1890万エイカーの正教会の土地を没収し国有化した[16]。1918年の国家と教会および教会と学校の分離に関する布告では、政教分離の原則を確立するとともに、教会から法人格と所有権を剥奪し、教会施設と教会資産は国有化された[16][18]。ティーホンは1922年に逮捕収監され、翌年の裁判で反ソ的態度の放棄を誓った[16]。
1922年6月1日に発効したソ連邦刑法では教会と国家との分離規定違反が定められた(第119 -125条、227条)[16]。政府の法律へ反抗するために宗教的迷信の利用は禁固刑または強制労働、戦時の市民の兵役義務を妨げ煽動もしくは宣伝を行った場合は極刑とされた[16]。また協同組合の設立、宗教団体の構成員への援助、児童への宗教教育や聖書や宗教書の研究も禁止され、小旅行や児童用の遊び場、図書館、読書室、サナトリウム、医療活動を組織することなども禁止された[16]。またボリシェヴィキ党のエメリヤ ン・ヤロスラフスキーがソ連邦無神論者同盟を組織し、反宗教キャンペーンを展開した(1929年に戦闘的無神論者同盟に改組)[16]。
ティーホンが生前指名していた総主教代理3名も逮捕された[16]。逮捕されたセルギーは教会の消滅を恐れて1927年、ソヴィエト国家に対するロシア正教会の忠誠を誓約した[16]。1929年、全64条から成る宗教団体に関する法律と宗教団体の権利と義務に関する内務人民委員部指令が発効し、宗教団体 は20 人制によって登録を厳しく制限され、また慈善活動や伝道活動も禁止され(第17条)、さらに人民委員会付属の信仰問題委員会が設置され正教会など宗教団体は国家の支配の下に置かれ、30年代にはロシア正教会は組織としてはほとんど存在しなくなった[16]。革命後1930年代までに7万2千人〜7万7千人のロシア正教会司祭が処刑・投獄された[20]。
しかし、1941年に独ソ戦が開始すると、スターリンは戦意昂揚のために政教和解の方針を取り、戦闘的無神論者同盟を解散したり、総主教制の復活を認めた[16]。また、スターリン政権にとって反体制運動の温床となり得るキリスト教諸派をロシア正教会に吸収する狙いもあった[16]。1943年にはソヴィエト人民委員会議付属ロシア正教会問題評議会が、1944年には正教会以外の宗教団体のための宗教信仰問題評議会が設置され、1966年に、ソ連邦閣僚会議付属宗教問題評議会として統合された[16]。評議会議長は、帝政時代の宗務院総長さながら、「無神論国家の宗教大臣」の役割を担ったといわれる[16]。フルシチョフ政権は苛烈な宗教攻撃を再開し、ロシア正教会は約一万の教会を失った[16]。
1988年、ゴルバチョフはピーメン総主教に対してソヴィエトの教会弾圧について謝罪し、政教和解を申し入れ、1990年の信教の自由に関するロシア連邦共和国法においてロシア史上初めて信教の自由が認められた[16]。同法は信教の自由を保障し(第3条)、宗教団体または無神論団体の国家からの分離、教育制度の世俗的性格など政教分離原則が明文化された(第5条)[19]。ゴルバチョフはローマ法王とも会見し、バチカン外交部が開設され、1991年には暫定的な布教区が復活された[19]。
ロシア連邦の政教関係
1997年宗教法1991年12月にソ連は崩壊した。ソ連崩壊とともに社会的混乱が生じて、カルト集団が大きな影響力を持つようになった[58]。この頃から正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していった[19]。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていった[59]。
1993年6月、ロシア正教会の要望で、「非ロシア的・非伝統的」な宗教の登録を厳しく規制するゴルバチョフ宗教法改正法案が議会を承認したが、反対もあり廃案となった[60]。
1993年12月12日に制定されたロシア連邦憲法でロシア連邦は世俗国家であり、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障された(第28条)[19]。
1996年7月のロシア国家会議は新宗教法改正案を作成し、信教の自由の保障を原則としていたのに対して、ロシア正教会は「非ロシア的・非伝統的」な宗教の排除を求めた[60]。1996年の調査ではロシア正教を肯定する国民は88%にのぼった[19]。
1996年、エリツィン大統領就任式には総主教アレクシイ2世が最前列に並んだ[61]。
1997年9月26日、エリツィン政権で「良心の自由(信教の自由)と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効した[注釈 4][16][19]。この1997年宗教法は、1990年の信教の自由に関するロシア・ソヴィエト連邦共和国法の改正作業の結果であり、またロシア正教会の意向を相当程度受け入れたものであった[65]。前文で、ロシア連邦は世俗国家であるが、『ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別な役割を認める』と謳われた[60][注釈 5]。これによって、ロシア正教会は法制上も事実上の国教会の地位を確固たるものにした[16][59]。また、それに続く前文でロシアの伝統的な諸宗教である「キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、その他の宗教」に触れていることから[注釈 6]、正教とこれらの宗教が伝統宗教として明文化されたとされる[19]。良心の自由、信教の自由に対する権利(第3条)、公教育機関における教育の世俗的性格と宗教教育を受ける権利も保障され、世俗国家ロシアにおける国家の宗教的中立と宗教団体の政治的中立が明文化された(第4条)[16][19]。一方で、国家登録を済ませ15年以上の存続を条件を満たさない宗教団体には法人格を与えないとし(第11条)、外国の宗教組織はロシアで宗教活動はできないとされた(第13条)[19]。さらに、民族的・宗教的不和の煽動や、人間憎悪の煽動、家族崩壊の強制、自殺や医療拒否の勧誘、義務教育の妨害、財産の団体への譲渡の強制などの活動を禁止された[19]。この宗教法の下、宗教組織のヒエラルキーが成立し、最上位を多数派正教とし、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ローマ・カトリック、プロテスタント諸宗派までが伝統宗教であるとされ、その他の宗教セクトとして古儀式派、その他のプロテスタント、新宗教運動などが位置づけられた[19]。このように1997年の宗教法は信教の自由よりも、宗教のヒエラルキーを強化しているため、ロシアは「正教国家」に向かっているとも指摘されている[19]。この宗教法は欧米やローマ教皇から批判があったが、エリツィンはロシア憲法とこの宗教法は矛盾しているが、宗教を野放しにすると混乱を生み出すためにこの法を制定したと回顧している[61]。
しかし、この宗教法以後も宗教団体へのロシア政府の扱いには問題が多く発生している。エホバの証人は正教徒7千万人、イスラム教徒900万人、仏教徒90万人に次いで、信徒数28万人に達するロシア第四の宗教団体であるが、エホバの証人に対して検察は団体登録取消訴訟を開始した(エホバの証人側が勝訴)[19]。
ローマ教会と正教会ローマ・カトリック教会問題もあり、2002年に教皇ヨハネ・パウロ二世がロシア布教組織を1917年以前の状態に戻すと決定し、モスクワに大司教区を置くとした[19]。ロシアには11万人、外国人を含めて40万人のカトリック信徒がいる[19]。この決定にロシア正教会は反発し、アレクシイ2世総主教はバチカンによるロシアでの宣教を拒否すると述べ、さらにロシア外務省はバチカンに決定の取り消しを求め、カトリック司教のビザが没収され、再入国を禁止された[19]。テレビ番組「ロシアの家」はカトリックの侵略に対して行動を起こせと放映された[19]。プスコフのカトリック教会は工事が停止され、アルタイ共和国ではカトリック大聖堂の建設が禁止された[19]。また下院議会では、ロシアではカトリック教徒に対するいかなる迫害もないと明言され、カトリック問題の審議は拒否された[19]。ロシアのカトリック大司教コンドルセービチは、カトリックへの迫害は違法であると是正を求めたが、下院総会ではローマ・カトリック教会は公式サイトで南サハリンとクリル諸島が「樺太」と表示されており、日本のロシアへの領土要求を意図的に煽っており、これはロシア連邦の統一を脅かすものであるため、ロシアにおけるカトリック教会の活動は禁止されなければならないと訴えられた[19]。
しかし、2016年2月12日、ローマ教皇フランシスコとモスクワ総主教キリル1世はキューバで歴史上初の歴史的な和解をし、イスラーム過激派のISIL(イスラム国)を共同で非難した[66]。
公教育での宗教教育このほか、公教育での宗教教育、特に正教会の勢力拡大が問題視されている[67]。1999年にモスクワ総主教庁の提案で「世俗・宗教委員会」が教育省内に創設され、教育省と正教会総主教庁との協定が成立した[19]。1990年代末各州で公立中学校に正教が正規科目として導入がはじまり、2002年には教育省と総主教庁の調整評議会が推薦する教科書『正教文化の基礎』による授業が開始された[19]。こうした教育省の政策をリベラル派は脅威であるとして教科書の作者ボロジナは反ユダヤ主義であると糾弾し、裁判が行われた[19]。ロシア軍には従軍聖職者制度が導入された[68]。
2000年8月、ロシア正教会高位聖職者会議で、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその家族を新致命者として列聖し、ソ連時代の殉教者が讃栄された[69]。
プーチンと正教ウラジーミル・プーチン大統領の「大国ロシアの復活」は、ロシア正教会にとっても歓迎すべき国家目標となった[70]。
2012年3月、モスクワの救世主ハリストス大聖堂で、フェミニストパンク・ロック集団のプッシー・ライオットがプーチンを追い出すことを求める抗議行動を起こした[71]。この事件によって、同年6月、信仰への侮辱を禁止する「信仰者の感覚擁護法」案が上院で批准したが、世論では意見が分かれた[72]。
2013年7月、プーチン大統領はクレムリンにキリル総主教を受け入れ、ルーシがキリスト教を受け入れた988年を記念して「ルーシ受洗1025年」を祝った[73]。2014年のクリミア併合は、「第二のローマ」であるコンスタンティノープル(現イスタンブール)を睥睨する位置にあり、ロシア正教の歴史的復権に連なるもので、「クリミアは新しいエルサレムである」とプーチンは力説した[74]。1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡して以来、モスクワは「聖なる第三のローマ」であるという「聖なるルーシ」信仰が生まれたが、そのことが背景にある[75]。
日本の政教分離
→「日本のキリスト教史」および「禁教令」も参照江戸時代の日本では、幕府が仏教の寺社勢力に介入統制し支配に利用する方針が徹底され、仏教は民衆の教化のみ役割を担わされ宗論は厳しく制限された[76][77]。儒教と神道の習慣は尊重され、神道のなかで論じられた廃仏論は明治初期の廃仏毀釈運動に影響を与えた。またキリスト教は厳しく弾圧された[77]。
日本近代史における政教分離この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。
出典検索?: “政教分離原則” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年1月)ここでは法制史の立場から日本近代での政教分離について概説する。「祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す」とする慶応4年3月の太政官布告で神祇官再興が宣言された[78]。村上重良によればこれは「政治と神を祭ることは一体であるという古代的観念」を掲げたものである[79]。
1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で、神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立したが、1871年には神祇省に格下げされ1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。しかし1872年、浄土真宗本願寺派の島地黙雷は三条教則批判建白書を提出し、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、同5月に大教院は解散した。
1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)に内務省通達により、神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)[80]。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。
日露戦争時点では靖国信仰は薄いものだったとされる[81]。しかし、昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、大日本帝国政府の方針にしたがうべきことを表明した。
第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、日本国憲法では政教分離が実現されている。
日本国憲法における政教分離日本国憲法に「政教分離」の言葉はないが、根拠として日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条が挙げられる。
日本国憲法 第二〇条
一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国憲法 第八九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。したがって、政教分離の具体的内容とは次の通りである[7]。
国が宗教団体に特権を与えることの禁止 - 特定の宗教団体に特権を付与すること。宗教団体すべてに対し他の団体と区別して特権を与えること。 宗教団体が政治上の権力を行使することの禁止(「宗教団体の政治参加」を参照)。 国およびその機関が宗教的活動をすることの禁止 - 宗教の布教、教化、宣伝の活動、宗教上の祝典、儀式、行事など(「目的効果基準」を参照)。
上記の憲法規定は、宗教の関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められている[82]。
政教分離と信教の自由の関係につき、最高裁判所は津地鎮祭訴訟の判決で、「信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた[83]」として、信教の自由と政教分離は目的と手段の関係にあり、個人の権利ではなく制度的保障(自由権本体を保障するために、権利とは別に一定の制度をあらかじめ憲法によって制定すること)であるとしている。これに対しては、信教の自由を侵していないという理由で政教分離の規定が縮小されてしまう可能性があり不適切であるという批判もある[84]。
国家と分離される「宗教」については、信教の自由の場合と異なり、宗教だと考えられるものすべてを指すと考えることはできない[85] とする立場が一般的であるが、この「宗教」の定義によって国家および地方公共団体が禁じられる「宗教的活動」のとらえ方には2つの説が生じる。
一つには「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為[83]」とする説である。津地鎮祭最高裁判例がその代表である。二つにはより厳格に「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」や「祈祷、礼拝、儀式、祝典、行事等およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を包括する概念」であるとする説がある[86]。
この説に対しては、死者に対する哀悼、慰霊等の行事のすべてが含まれるのは非常識であるとする批判がある[87]。
また、政教分離の対象は国家および地方公共団体である。判例によれば、護国神社などは私的な宗教団体であり、私人である隊友会が殉職自衛官を山口県護国神社に合祀申請しても国家は関係ないから政教分離の問題にはならなかった[88][89]。
他方、国家権力主体としての性格を有する愛媛県が靖国神社に寄付金を納めるのは、国家と宗教の過度なかかわり合いを発生させるので、憲法20条に反し、許されなかった(愛媛県靖国神社玉串料訴訟)[90](「目的効果基準」も参照)。
神道の評価と目的効果基準
歴史的経緯大日本帝国憲法は第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。この条項は天賦人権説を否定する立場から起草されていることが草案作成者である井上毅とヘルマン・ロエスレルとの間の往還書類で判明しており、政府が宗教の論争から自由であること、宗派の分裂が政治の分裂を招くことから政府は宗教を統一するよう介入すべきであること、正教と謬教に同等の権利を与えてはいけない、といった趣旨が含まれており、条文の表現はこの目的を踏まえあえて曖昧に記述する方針となった。一方で国家神道との関わりについては日中戦争以降の国家ファシズム期のように、国民および官吏に対する参拝の義務といった論理(解釈)は、法文の執筆時典においては確定的に含まれていたわけでは無かった[91]。
この第28条は信教の自由、および“安寧秩序” “臣民の義務”という定義自体が不完全なもので、のちに神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、家庭や公共機関などに神札を祀ることが奨励された。これに反する宗教は弾圧を加えられることもあった(大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、横浜ホーリネス教会、美濃ミッションなど)。
戦後日本における政教分離原則は、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部 (GHQ) が、1945年(昭和20年)12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである[92]。そして、1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった。憲法制定過程では 松本委員会案[93]において、すでに神社の特典を廃止するとして記載されている(第二十八条)。
目的効果基準津地鎮祭訴訟において最高裁は、宗教は個人の内心にとどまらず外部的な社会現象(教育・福祉・文化・民族風習など)をともなうのが通常なので、「国家と宗教の完全な分離は、実際上不可能に近い」として、いわゆる「目的効果基準」に従って国の宗教的活動の違憲性を判断するべきと判示した。これは「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」か否かをもって、憲法第20条3項にいう「宗教的活動」に抵触するかどうかを判断するものである[83]。
目的効果基準はアメリカのレモンテストに由来する。
箕面忠魂碑訴訟では、この目的効果基準にしたがって、忠魂碑の移転に関わる費用等を市が負担した行為が合憲とされた。また、愛媛県靖国神社玉串料訴訟では、同基準に従い、県知事が公費から靖国神社に玉串料を奉納した行為が違憲とされた。
なお、宗教的要素をもった文化財に対する補助金や、宗教系私立学校への助成金支出などもこの基準に照らして問題ないとされている。宗教系私立学校への公金支出については、学校教育法、私立学校法などにより公教育を担っていると位置付けられているという理由もある。
判例の転換なお、目的効果基準は、近年の判例上は必ずしも採用されていない。
例えば、砂川政教分離訴訟では北海道砂川市が市有地を神社に無償提供していた件につき、憲法第20条3項に触れず、目的効果基準についても言及していない。本判決は、その代わり、「当該宗教的施設の性格,当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯,当該無償提供の態様,これらに対する一般人の評価等,諸般の事情」の総合衡量により、市有地の無償提供を憲法第89条違反を理由として違憲と判断した[94][95]。また、孔子廟訴訟の上告審判決は、憲法第20条3項違反の有無の判断においても、砂川政教分離訴訟の総合衡量を踏襲し、違憲の判断を下した[95]。
靖国神社公式参拝の問題
→「靖国神社問題」も参照政治と靖国神社の関係について、「特権付与の禁止」と「国の宗教活動の禁止」の視点から議論がなされてきている。
1985年8月14日に、政府は「内閣総理大臣その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法第二十条第三項との関係で問題がある。断定はしていないが違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」という従来の政府統一見解[96] を変更して、「正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しない」という見解を打ち出し[97]、8月15日に中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝し供花代金として3万円の公費を支出した。この参拝について、仏教、キリスト教信者が中心となって、信教の自由、宗教的人格権、宗教的プライバシー権等の侵害を理由に損害賠償・慰謝料を求める訴訟を行った。福岡高裁(平成4年2月28日)判決は、靖国信仰を公認し押しつけたものとは言えず、信教の自由の侵害はない、としたが、傍論において公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとした。大阪高裁(平成4年7月30日)判決も、今回は具体的な権利侵害はないが、公式参拝自体は違憲の疑いが強いとした[98]。 小泉純一郎首相も靖国神社を参拝したが「私的参拝」であるとして公費の支出もしなかった。千葉地裁(平成16年11月25日)判決、東京高裁(平成17年9月29日)判決は憲法判断を避け、原告の請求を棄却した。他方、福岡地裁(平成16年4月7日)判決と大阪高裁(平成17年9月30日)判決は原告の控訴を棄却したが、傍論で違憲に言及している。
また、岩手県靖国神社訴訟では、1962年から毎年岩手県議会が行っていた靖国神社への玉串料公費支出と県議会が総理大臣の靖国公式参拝を求める決議をしたことをめぐって住民訴訟が争われた。一審の盛岡地裁(昭和62年3月5日)判決は、社交儀礼であって政教分離に反しないとしたが、二審の仙台高裁(平成3年1月10日)判決は、特定の宗教団体への関心を呼び起こし、かつ靖国神社の宗教的活動を援助するもの」で政教分離に反するとした。
さらに愛媛県靖国神社玉串料訴訟では、愛媛県知事が靖国神社・県護国神社に玉串料を22回計16万6000円を公費支出していた事実を争った住民訴訟で、一審の松山地裁(平成元年3月17日)判決では「同神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するので、違憲」とした。二審の高松高裁(平成4年5月12日)判決は、金額も少なく社会的な儀礼の程度で、神道の深い宗教心に基づく行為ではないから合憲としたが、最高裁(平成9年4月2日)判決は、玉串料の奉納は県が特定宗教団体と意識的に特別な関係を持ったことになり、一般人に対して靖国神社は特別な宗教団体であるという印象を与えるので、目的効果基準に照らして違憲であるとした。
次は政治家の参拝が違反であるという意見と合憲であるという意見の例である。
日本の政治家による靖国神社への参拝は、この政教分離原則に反するという説
この政治家への徹底は不可能であるとの論に対し、
政治家は国の機関であり、同条3項の国の機関による宗教的活動に該当するという説
政治家が参拝すること自体が、間接的な靖国神社への特権となるという説
靖国神社とは東京招魂社であり、元々が国家的権威の元で主導されたものである。同時期に建立された明治神宮のように最初から別格の存在である。
また、新年に首相以下の閣僚がこぞって参拝する伊勢神宮に対しては同様の批判の声は比較して少ないことから、靖国神社に対する政治的意図を持った批判であるとされる。(靖国神社問題参照)宗教団体の政治参加
宗教勢力と関連がある団体の政治参加について、「宗教団体の政治的権力の行使の禁止」と関わりが話題にのぼることがある。日本政府の見解[99] によれば宗教団体が政治的活動をすることに問題はないが[100]、国民の間には忌避感があるという[100][101]。
戦後日本の新宗教の政治活動は多くの場合、教団組織の拡大に伴って起こってきた[102]。中野毅・井上順孝・梅津礼司(1990年)及び中野毅(1996年)によれば、1960年代の日本の宗教団体の政治への関わり方の類型として、単独の宗教団体が独自の政党を作った創価学会、新日本宗教団体連合会系の団体が自民党や民社党のリベラルな部分と結びついたタイプ、天皇復権などを謳う右派グループ、政治参加を否定する団体の4種類があった[103][102][104]。1978年の朝日新聞社調査研究室の報告によれば、独自の政党を生んだ創価学会のタイプ、右派のイデオロギーが教義と一体化したタイプ(生長の家、世界救世教、世界平和統一家庭連合(統一協会、国際勝共連合)、キリストの幕屋、日本会議関係宗教団体など)、教義にイデオロギーが希薄なタイプ(新宗連加盟教団に見られる)、左派イデオロギーと教義が重なるタイプ(日本キリスト教協議会(NCC)加盟のキリスト教会やキリスト者政治連盟(キ政連)、平和を実現するキリスト者ネット(キリスト者平和ネット)など)、政治運動に関与しないタイプ(NCC非加盟のバプテストや救世軍、福音派、日本福音同盟(JEA)加盟のキリスト教会、エホバの証人など)の5種類に分かれる[105]。1970年代に入ると「右派系の運動が非常に強く」なったと中野毅は1996年に述べ、生長の家、霊友会、世界救世教を例として挙げた[103]。
また、世界平和統一家庭連合(統一協会)の創設者文鮮明によって作られた国際勝共連合[106][107] が政治活動を行っており、過去には生長の家政治連合なども政治活動を行っていた。
宗教政党
→詳細は「宗教政党」を参照現在、日本の宗教団体が設立に関与したり、あるいは支持母体とする政党は、以下の通りである。
公明党(創価学会) 幸福実現党(幸福の科学)
また、過去には、オウム真理教が設立に関わった真理党、和豊帯の会が母体となったなかよしの党(旧称・女性党)も存在した。
学界の議論学界の通説は、国家が宗教団体に政治上の権力を行使させてはならない、ということは、宗教団体を政治参加させてはならないという意味ではないとする。すなわち「政治上の権力」とは、国が独占すべき「統治権力(立法権、課税権、裁判権等)」のことを指す[85][87][108] とするものである。
この説に対して、佐藤功は、宗教団体の政治参加を制限する立場から、国の統治的権力を宗教団体が行使するということは現代では考えられないので「政治上の権力」とは「政治上の権威とでもいうべき観念」であり、「政教分離の原則を明らかにするために宗教団体が政治的権威の機能を営んではならない」とする説を主張している[109]。
この説には、世界の政教分離の態様は様々であり、例えばドイツには現に教会に租税徴収権が認められていることを留意すべきという反論[110]、「政治的権威の機能」の意味が明確を欠き、疑問が残るという批判がある[108]。
田上譲治は、「政治上の権力」を「積極的な政治活動によって政治に強い影響を与えること」ととらえ、その理由として「宗教団体の政治活動は他の政治団体と容易に妥協しない性格を持つから民主政治にそぐわない(趣意)」という説を主張している[111]。一方、芦部信喜や橋本公亘は、宗教団体の政治活動の自由を制限したり禁止したりするのは宗教を理由に差別することになる、と主張している[87][112]。
宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を制限することは、以下の複数の規定に抵触することになる。
信条による差別全般を禁止した憲法第14条1項 公務員の選定を「国民固有の権利」(=全ての国民に保障された権利)とした憲法第15条1項 思想・良心の自由を保障した憲法第19条 結社・言論の自由を保障した憲法第21条1項 国政選挙における信条による差別を禁止した憲法第44条 地方選挙権を「住民」に保障した憲法第93条2項
憲法第20条1項を厳しく解釈した結果それ以外の複数の条項に違反するのは明らかに不合理であるというのが通説的見解の根拠である。
日本国憲法成立の経緯から日本国憲法制定前の第90回帝国議会で憲法草案が審議されていた段階で、以下のような答弁があった。
(松沢)「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」と書いているのであります。これは外国によくありますように、国教というような制度を我が国において認めない。こういう趣旨の規定でありまして、寺院やあるいは神社関係者が、特定の政党に加わり、政治上の権利を行使するということは差し支えがないと了解するのでありますが、いかがでございますか。 (金森)宗教団体そのものが政党に加わるということがあり得るのかどうかは、にわかに断言できませぬけれども、政党としてその(注:宗教団体の)関係者が政治上の行動をするということを禁止する趣旨ではございませぬ。 (松沢)我が国におきましてそういう例はございませぬが、たとえばカトリック党というような政党が出来まして、これが政治上の権利を行使するというような場合は、この(注:第20条の)規定に該当しないと了解してよろしゅうございますか。 (金森)この「権力を行使する」というのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思います。国から授けられて、正式な意味において政治上の権力を行使してはならぬ。そういう風に思っております[113]。
最高裁判例から
宗教団体の政治活動に関する最高裁の判例はない。
津市地鎮祭事件判決(昭和52年7月13日)は、津市が行った地鎮祭という宗教的行為に関する事件である。ここでは
憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。(中略)政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。
と述べて、政教分離原則は国家と宗教の分離を目指した規定である、とした上で
「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない」
と、目的と現実を明確にした上で国家に許容される宗教的行為の基準として目的効果基準を打ち出している。
この判決に見られる政教分離の視点は、国家にいかなる宗教行事や宗教団体への介入が許されるかという、国家から宗教への視点であり、宗教からの政治への介入という視点ではない。
内閣法制局の答弁から内閣法制局は、
憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。 — 自社さ連立政権における内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨
という見解を一貫して述べてきた[114][115][116]。
2008年10月7日衆議院予算委員会で、民主党の菅直人の「90年にオウム真理教の麻原氏を党首とする真理党が結成され、25人が立候補した。多数を占め、政治権力を使って教えを広めようとしたら、憲法第20条の政教分離の原則に反すると考えるがどうか」との質問に対し、内閣法制局長官および首相が違憲と答弁したが、翌10月8日に長官は「誤解を与える結果となったとすれば誠に申し訳ない」と陳謝のうえ「菅委員の質問の場合は、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないので、憲法第20条第1項後段違反の問題は生じない」との趣旨を再答弁した。
法制局は法的に憲法解釈の権限をあたえられているわけではないが(違憲立法審査権をもつのは最高裁である)[注釈 7]、政府の公式見解である。ただし近年においては、与党関係者から、内閣内で憲法解釈を担ってきたことへの批判が生じており、その地位および解釈は必ずしも保証されているわけではない。
宗教法人に対する非課税・減税措置について宗教法人に対する非課税・減税措置が「特権の付与」に当たるかどうかの議論がある。
憲法上の疑義があるという見解も存在しているが、宗教法人は公益法人に属し、その他の社会福祉法人や学校法人などの公益法人も免税されており、特に宗教法人だけが特権を付与されているわけではないので、合憲としている[112]。
また、法人の内部留保金については、役員や職員への給与、賞与等(宗教法人を含む公益法人の職員への給与等は、他の法人同様、源泉徴収されている)以外の資産は、法の規定どおり、本来の公益(宗教)活動のほか、文化財の保護、伝統と慣習の承継等に使用が限定されている。
みなし寄附金制度
法人税法がいう儲けとは配当金のことであり、法人擬制説に立って我が国の税法は運用され、法人税法等では株主などの構成員へ分配することが出来る剰余金配当(配当金)や、残余財産分配(みなし配当)に法人税などを課税し、法人自体にではなく配当金を貰う個人へ税を課している。
宗教法人を含む公益法人は、本来の(宗教)活動とは別に駐車場貸しなどの収益事業を行っている場合は、その収益については、当然ながら法人所得税が課税されている。
しかしながら、その収益は法の規定で本来の公益活動へ使わなければならず、営利企業のように個人や株主に配当することは禁止されているので、その観点から税率は軽減されている。
憲法改正の動きとの関係憲法改正論議では自民党などによって政教分離の緩和が検討されている。2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている[117]。成澤孝人は憲法調査会の議論にナショナリズムが現れていると批判した[118]。恵泉バプテスト教会は「憲法改悪に反対する声明」を出した[119]。
祭祀・お祭り・民俗宗教皇室の執り行う大嘗祭について。平成14年(2002年)7月に最高裁判示によると大分県の平松知事らが大嘗祭関連儀式に公人として参列し、日当などが公費から支出された件について、目的・効果基準から合憲判断を示し(7月9日)、同7月11日には鹿児島県の土屋知事らについての同様の訴えについても合憲判断を示した[120]。
神社の例大祭について。東京都世田谷区は、神社の祭に区幹部職員が参加して公費で玉串の奉納をしていたことを「憲法の政教分離の原則に疑念を生じさせる、不適切な行為であった」と認め、職員から公費の自主返納があったことが平成28年7月29日の区議会で報告された[121]。この件に関する住民監査請求の勧告措置[122] への対応として、宗教法人等が行う祭礼に職員が公費で参加する場合は、宗教的色彩のある式典への参加はしないことになった[123]。
宗教法人が開催する節分会追儺式について。真言宗智山派の大本山である高尾山薬王院が開催する節分会追儺式[124] に東京都主税局職員が職務命令で参加して電子申告制度の広報活動と称して護摩祈祷[125] と大本堂での豆まき後に[126]、薬王院参道で「平成27年度 節分会追儺式 年男年女 修行者」として「八王子都税事務所長」と掲示が一年間あり、その様子を都税事務所が写真付き印刷物にして庁内および他の事務所で回覧させた事案について、東京高等裁判所は、護摩祈祷の間は職員は座布団に座っていたので受動的参加であり、豆をまけば電子申告制度の広報になる、薬王院の追儺式参加者の大多数は芸能人目当てで信仰心のある信徒はいないから世俗行事である、等の理由により政教分離に違反しないと判示した[127]。
文化財保護や地域の民俗史に関わる重要な有形・無形財産の保持にしばしば政教分離原則が関わった。地域の「お祭り」については戦後すぐから伝統的行事としての祭事に公金が一切支出されなくなり各地で混乱が発生した。GHQ統治時代に緑風会議員の議員立法により成立した「文化財保護法」では、国家神道体制を助長するような要素は極力排除された。1975年の改定による「民俗文化財」の創設について無形民俗資料とされたものの多くは神社に関わる祭礼行事であり戦後憲法の「政教分離」に抵触しかねないものばかりであった[128]。文化庁は1999年4月から「伝統文化を生かした地域おこし」プロジェクトや1992年交付の「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」などから地域振興策としての「お祭り」を見直す方向にかじを切り、2000年11月には「ふるさと文化再興事業」として約20億円の予算配分がされた[129]。
公教育と政教分離教育現場にも政教分離がしばしば関わる。公立学校では、例えば「修学旅行で伊勢神宮に”参拝”する」との表現はせず「伊勢神宮を”見学”する」との表現を用いたりする。旧教育基本法第9条は宗教的情操をはぐくむ教育を禁止していると解すべきだとの立場があり[130]、一方で文部省教育局長通達などでは「宗教的感情の芽生えを伸ばす教材」を盛り込むことを指示しており、1977年以降では「超自然的な存在」「人間の力を超えたものへの畏敬」の観念を示しそれにもとづく道徳教育を実施している[131]。この点は法改正のさい議論の対象となり[132] 平成18年12月22日施行の新法[133] では、宗教に関する一般的な教養は教育上尊重されるべきことを新たに規定された。
脚注
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注釈^ 南北戦争後の1868年に批准された修正第14条第1節「~いかなる州も合衆国市民の特権または免除を損なう法律を制定し、あるいは施行することはできない。またいかなる州といえども正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由そして財産を奪ってはならない。また、その管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒むことはできない。」により、修正第1条は州政府に対しても正式に適用されることとなった[要出典]。 ^ ライシテの語源は、ギリシャ語のラオス (laos 民衆)、ライコス (laikos 民衆に関すること)で、聖職者を意味するクレリコスと対語である[49] ^ 前文「フランスは、種族・宗教・信仰の差別なく、譲渡することのできない神聖な権利を所有することを声明する。」「国家は、児童および青年が教育・職業および教養を均等にうけ得ることを保障する。あらゆる段階における無償かつライックな公の教育を組織することは、国の義務である。」第1条「フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。」 ^ ロシア語名称は、Федеральный закон "О свободе совести и о религиозных объединениях" от 26.09.1997 N 125-ФЗ である。(宗教法(ロシア連邦大統領府サイト)) 「свободе совести」 の直訳は「良心の自由」だが、露和辞書では熟語として「信仰の自由」や「信教の自由」としているため訳が分れている。[要出典] 宮川真一は「良心の自由」と訳し、また第3条の訳で「良心の自由、信教の自由に対する権利」と併記している[62]。廣岡正久は「信教の自由」と翻訳し[63]、下斗米伸夫は「良心の自由と宗教諸団体法」と訳している[64]。 ^ 宗教法 1997 前文(ロシア語: признавая особую роль православия в истории России, в становлении и развитии ее духовности и культуры,) ^ 宗教法 1997 前文で、『ロシアの諸民族の歴史的遺産の不可欠な部分を成す、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、その他の諸宗教を尊重し、』としている。(ロシア語: уважая христианство, ислам, буддизм, иудаизм и другие религии, составляющие неотъемлемую часть исторического наследия народов России,)』 ^ 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」(憲法第81条)
出典
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関連項目
国葬 私立学校振興助成法 en:Establishment Clause of the First Amendment en:Lemon v. Kurtzman 世俗主義 神政政治 祭政一致 宗教政党 王権神授説 国家神道 神国思想 神道指令 キリスト教民主主義 聖職者主義 教権的ファシズム ライシテ 従軍聖職者 表話編歴
宗教的中立性 (Religious Neutrality)
表話編歴
キリスト教と政治
表話編歴
政教分離の歴史
カテゴリ:政教分離憲法宗教政策宗教の歴史日本国憲法戦後日本の政治宗教と政治フランスの憲法アメリカ合衆国の憲法宗教法 最終更新 2024年12月26日 (木) 05:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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「反キリスト教的偏見」根絶へ トランプ氏、大統領令に署名
https://www.jiji.com/jc/article?k=2025020700697&g=int『2025年02月07日13時55分配信
米ワシントン大聖堂で開かれた礼拝に出席したトランプ大統領(左端)=1月21日、ワシントン(AFP時事)
米ワシントン大聖堂で開かれた礼拝に出席したトランプ大統領(左端)=1月21日、ワシントン(AFP時事)【ワシントン時事】トランプ米大統領は6日、米政府内に「反キリスト教的偏見」を根絶するための組織を新設する大統領令に署名した。大統領令は、女性の人工妊娠中絶やトランスジェンダーの権利を推進したバイデン前政権を「反キリスト教的」と批判。前政権下で中絶に反対する団体などが「迫害を受けた」と主張し、これらを検証し、是正するのが目的だとしている。
トランスジェンダーの女子競技参加禁止 IOCにも同調圧力―トランプ氏
これに先立ち、トランプ氏は6日にワシントン市内の宗教イベントで演説し、大統領令に関し「宗教を復活させなければならない。神をわれわれの生活に取り戻そう」と訴えた。ボンディ司法長官を新設組織のトップに起用し、「社会における反キリスト教的な暴力行為を徹底的に訴追させる」と説明した。
トランプ氏は昨年11月の大統領選で中絶禁止を求めるキリスト教福音派などの支持を受けて当選した。ただ、米メディアでは今回の大統領令と政教分離の原則の相反を指摘する声も上がっている。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「ニーチェ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ニーチェ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
Friedrich Wilhelm Nietzsche1882年の肖像
生誕 1844年10月15日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国、レッツェン・バイ・リュッケン
死没 1900年8月25日(55歳没)
ドイツの旗 ドイツ、ヴァイマル
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 大陸哲学
ドイツ観念論
形而上学的主意主義
Weimar Classicism
反基礎付け主義
実存主義
研究分野 美学
倫理学
形而上学
ニヒリズム
心理学
存在論
詩
事実と価値の区別
価値の理論
悲劇
無神論
主意主義
反基礎付け主義
歴史哲学
主な概念 アポロとディオニュソス
超人
ルサンチマン
力への意志
「神は死んだ」
永劫回帰
運命愛Amor fati
畜群
チャンダラ
「最後の人間」
遠近法主義
君主-奴隷道徳
価値の再評価
肯定
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署名
テンプレートを表示フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 – 1900年8月25日)は、ドイツ・プロイセン王国出身の思想家であり古典文献学者。ニイチェと表記する場合も多い。
概要
現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版、ドイツ語版)に才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離脱して無国籍者であった[1][2]。辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。
なお、ドイツ語では「ニーチェ」(フリードリヒ [ˈfriːdrɪç] ヴィルヘルム [ˈvɪlhɛlm] ニーチェ [ˈniːtʃə])のみならず「ニーツシェ」[ˈniːtsʃə]とも発音される[3]。
生涯
少年時代
ニーチェは、1844年10月15日火曜日にプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(Provinz Sachsen、現在のザクセン=アンハルト州など)、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。
父カールは、ルター派の裕福な牧師で元教師であった。同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんで、「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられた。
なお、ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている。
1846年には妹エリーザベトが、1848年には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれている。
しかし、ニーチェが4歳の時(1848年)8月、父カール・ルートヴィヒは近眼が原因で足元にいた小犬に気付かず、つまづき玄関先の石段を転げ落ちて頭を強く打ち付けた。ニーチェ5歳の時1849年4月30日にこの時の怪我が原因で死去した。
また、それを追うように、1850年には2歳の弟ヨーゼフが、歯が原因とされる痙攣によって病死[4]。また、父の死の日付に関しては、ニーチェ自身は、7月27日と語り、弟の死に関しては、1850年1月末の出来事と語る[5][注 1]。
男手を失い、家計を保つ必要性があったことから、父方の祖母とその兄クラウゼ牧師を頼って故郷レッケンを去りナウムブルクに移住する。また、2人の伯母も家事や食事などに協力した。計6人でのナウムブルクでの生活が始まった。
その後ニーチェは、6歳になる前に、ナウムブルクの市立小学校に入学する。
翌年、ウェーベル(ウェーバー)氏の私塾(予備校)に入った。数年そこで学び、1854年にナウムブルクのギムナジウムに入学する[6]。
なお、私塾では、ギリシア語ラテン語の初歩教育を受け、ただ勉強を受けるだけではなく、外へ遠足へ出かけることもあり楽しかったとニーチェは語る[7]。
ニーチェは、父が死ぬ前の幼い時代が幸せだったこと、その後父や弟が死んだ時の悲しみを、ギムナジウム時代に書いた自伝集で綴っている。
また伯母や祖母の死もあったこと、そして、その他のいろんな困難を自分が乗り越えてきたことを語る。
そして、それには神の導きのお陰があったと信じていた[8]。神に関しては、この時代はまだ信仰していた事がわかる。
ある雨の日の話
市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。
まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降ってきた。他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも拘わらずニーチェはひとり雨の中を頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。
心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、ニーチェは「校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから」と述べたという。
このエピソードは、ニーチェという人物の生真面目さと結び付けられてよく語られている。
エリーザベトの兄への思い
エリーザベトが残した文からエリーザベトが兄への尊敬の念を持っていたことも分かっている。その理由は、兄の人格が誠実で嘘を憎むからであり、さらには活発で抑えのきかない自分に自制の心を教えてくれたからだという。
さらに、エリーザベトは6歳の頃から、兄の書いた文を集めていたことがわかっている。エリーザベトは、ニーチェ文庫を創設しており、彼女が集めた文書は兄の研究に大きく貢献した。
一方で彼女は、兄の遺稿をめちゃくちゃに編集したり、ナチスに宣伝したりした。
その理由は、自身の名誉のためという説が強いが、こうしたエリーザベトの兄への思いも考慮して、兄への尊敬の念が行き過ぎてしまっただけなのだという見方をする者もいる[9] 。
青年時代
1861年のニーチェ
ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通った。
ギムナジウムでは音楽と国語の優れた才能を認められていた。プフォルター学院に移る少し前、一人の伯母の死とそれに相次ぐ、祖母の死をきっかけにニーチェの母は移住することを決める。ニーチェの母は友達の牧師に家を借りる。ニーチェは勉強やスポーツに励み、友人であるピンデル(ピンダー)やクルークとの交流のおかげもあって芸術や作曲に長けていた。
その噂を聞いたドイツ屈指の名門校プフォルタ学院(ドイツ語版、英語版)の校長から給費生としての転学の誘いが届く。ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院に[注 2]ニーチェは、母や妹とのしばしの別れを惜しみながらも入学する事を決心した。このとき、生まれて初めて、田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。
1858年から1864年までは、古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。
また、詩の執筆や作曲を手がけてみたり、パウル・ドイッセン(英語版)と友人になったりした。
またニーチェは、プフォルター学院時代に、詩や音楽を自作し互いに評価しあうグループ「ゲルマニア」を結成し、その中心人物として活動した。
大学生時代
1868年のニーチェ。除隊する際に撮影
1864年にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。
神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。
しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。
そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で、牧師の息子が信仰を放棄するというのは、大変珍しい事で、ましてや、夫を亡くした母にとっては、一家の一大事と考えた事も予測できる)。
ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのは、ダーヴィト・シュトラウスの著書『イエスの生涯』である。
ニーチェは、大学在学中に、友人ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わったが、最初の頃は楽しんでいたものの、徐々にニーチェはその騒がしさや野蛮さに嫌悪を抱いていったようである。その事は、友人ゲルスドルフに宛てた手紙から確認されている[10]。
また、ボン大学では、古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版)と出会い、師事する。
リッチュルは、当時大学1年生であったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに、懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけている。
ニーチェは、このリッチュルのもとで文献学を修得している。
そして、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて、自分もライプツィヒ大学へ転学する。
このライプツィヒ大学では、ギリシア宗教史家エルヴィン・ローデ(英語版)と知り合い親友となる。彼は、後にイェーナ大学やハイデルベルク大学などで教鞭を執ることになる。
また、1867年には、一年志願兵として砲兵師団へ入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊する。それから、再び学問へ没頭することになる。
ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で大きな影響があったと指摘される出会いが、2つあった。
ひとつは、1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったことである。もうひとつは、1868年11月、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒに滞在していたリヒャルト・ワーグナーと面識を得られたことである。
ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてワーグナーと論じ合ったことや「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。
バーゼル大学教授時代(左)フランツ・オーヴァーベック
1871年、右からニーチェ、カール・フォン・ゲルスドルフ、エルヴィン・ローデ
1869年のニーチェは24歳で、博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学の教授として招聘された。
バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる[1][2][注 3])。
本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とすることとなる。
講義は就任講演「ホメロスと古典文献学」に始まるが、自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。
研究者としては、古代の詩における基本単位は音節の長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なるということを発見した。
終生の友人となる神学教授フランツ・オーヴァーベック(英語版)と出会ったほか、古代ギリシアやルネサンス時代の文化史を講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交が始まり、その講義に出席するなどして深い影響を受けたのもバーゼル大学でのことである。
1872年、ニーチェは第1作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。
しかしリッチュルや同僚をはじめとする文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。
特にウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは『未来の文献学』と題した(ワーグナーが自分の音楽を「未来の音楽」と称していたことにあてつけた題である)強烈な批判論文を発表し、まったくの主観性に彩られた『悲劇の誕生』は文献学という学問に対する裏切りであるとしてこの本を全否定した。
好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられたワーグナーの他にはボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみである。
こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名(いずれも他学部)となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。
ワーグナーへの心酔と決別
リヒャルト・ワーグナー
生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈なリヒャルト・ワーグナーのファンであり、1868年にはすでにライプツィヒでワーグナーとの対面を果たしている。
やがてワーグナー夫人であるコジマとも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、バーゼルへ移住してからというもの、同じくスイスのルツェルン市トリプシェンに住んでいたワーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ(23回も通ったことが記録されている)。
ワーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、バイロイト祝祭劇場の建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させ、一方ニーチェは1870年のコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文(The Genesis of the Tragic Idea)の手稿をプレゼントするなど、2人は年齢差を越えて親交を深めた。
近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン以来の伝統があった。
当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、ドイツ3月革命に参加した革命家でもあるワーグナーもまたこの系譜に属している。
『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、とのロマン主義的思想が述べられている。
そしてニーチェにとって(またワーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそワーグナーその人に他ならなかった。
ワーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、第1作『悲劇の誕生』(1872年)において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもワーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ワーグナー自身を狂喜させるほどであったが、その後はワーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。
1876年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるワーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会の道徳や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ワーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなくブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する。
また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためワーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにワーグナーから離れていった。
祝祭劇場から離れる際、ニーチェは妹のエリーザベトに対し、「これがバイロイトだったのだよ」と言った。
この一件と前後して書かれた『バイロイトにおけるワーグナー』ではまだ抑えられているが、ワーグナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、2人が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなった。
1878年、ニーチェはワーグナーから『パルジファル』の台本を贈られるが、ニーチェからみれば通俗的なおとぎ話にすぎない『聖杯伝説』を題材としたこの作品の構想を得意げに語るワーグナーへの反感はいよいよ募り、この年に書かれた『人間的な、あまりにも人間的な(ドイツ語版、英語版)』でついに決別の意を明らかにし、公然とワーグナー批判を始めることとなる。ワーグナーからも反論を受けたこの書をもって両者は決別し、再会することはなかった。
しかし晩年、ニーチェは、ワーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はワーグナーを愛していた」と付け加えていたという。
また同じく発狂後、コジマに宛てて「アリアドネ、余は御身を愛す、ディオニュソス」と謎めいた愛の手紙を送っていることから、コジマへの横恋慕がワーグナーとの決裂に関係していたと見る向きもある。
一方のコジマは、ニーチェを夫ワーグナーを侮辱した男と見ており、マイゼンブーグ充ての書簡では「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いている。
1875年、バーゼル大学教授時代のニーチェ
1873年から1876年にかけて、ニーチェは4本の長い評論を発表した。
『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対する歴史の利害』(1874年)、『教育者としてのショーペンハウアー』(1874年)、『バイロイトにおけるワーグナー』(1876年)である。
これらの4本(のちに『反時代的考察』(1876年)の標題のもとに一冊にまとめられる)はいずれも発展途上にあるドイツ文化に挑みかかる文明批評であり、その志向性はショーペンハウエルとワーグナーの思想を下敷きにしている。
死後に『ギリシア人の悲劇時代における哲学』として刊行される草稿をまとめはじめたのも1873年以降のことである。
またこの間にワーグナー宅での集まりにおいてマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという女性解放運動に携わるリベラルな女性(ニーチェやレーにルー・ザロメ(後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ワーグナーの前夫である音楽家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レーらとの交友を深めている。
特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともにイタリアのソレントにあるマイゼンブークの別荘まで旅行に行き、哲学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の起源』をニーチェは高く評価していた。
またソレント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していたワーグナーと邂逅しており、これが2 人があいまみえた最後の機会となる)。
レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作に見られたショーペンハウエルに由来するペシミズムからの脱却に大きな影響を与えている。
ハンス・フォン・ビューロー
1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』出版。形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにワーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェの思想における初期から中期への分岐点とみなされる。
また、初期ニーチェのよき理解者であったドイッセンやローデとの交友もこのころから途絶えがちになっている。
翌1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。
ニーチェは極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのである。
バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。
在野の思想家として
ニーチェは、病気の療養のために気候のよい土地を求めて、1889年までさまざまな都市を旅しながら、在野の哲学者として生活した。
夏はスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村シルス・マリアで、冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースといった都市で過ごした。
時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが多かった。ニーチェは、バーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることがあった。
かつての生徒である音楽家ペーター・ガスト(本名はHeinrich Köselitzで、ペーター・ガストというペンネームは、ニーチェが与えたものである)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ガストとオーヴァーベックは、ニーチェの生涯を通じて、誠実な友人であり続けた。
また、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークも、ニーチェがワーグナーのサークルを抜け出た後もニーチェに対して、母性的なパトロンでありつづけた。
その他にも、音楽評論家のカール・フックス(Carl Fuchs)とも連絡を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。
そして、このころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。
1878年に『人間的な、あまりにも人間的な』を刊行した。そして、それを皮切りにして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。
特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。
1879年には、『人間的な、あまりにも人間的な』と同様のアフォリズム形式による『さまざまな意見と箴言』(独: Vermischte Meinungen und Sprüche、英: Mixed Opinions and Maxims)を、翌1880年には『漂泊者とその影』(独: Der Wanderer und sein Schatten、英: The Wanderer and His Shadow)を出版した。
これらは、いずれも『人間的な、あまりにも人間的な』の第2部として組み込まれるようになった。
ルー・ザロメとの交友
左からルー・ザロメ、パウル・レー、ニーチェ。1882年ルツェルンにて
ニーチェは1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知識(ドイツ語版、英語版)』の第1部を発表した。『力への意志』として知られる著作の構想が芽生えたのもこの時期と言われる(草稿類の残っているのは1884年頃から)。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてルー・ザロメと知り合った。
ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。
ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。
ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。
レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。
その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。
後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。結果として、ザロメとレーの2人はニーチェを置いてベルリンへ去り、同棲生活を始めることとなった。
失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアのラパッロへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。
ショーペンハウアーとの哲学的つながりもリヒャルト・ワーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。
ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。
一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。
1885年には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その内7冊を親しい友人へ献本する [11]だけにとどめた。
1886年にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。
この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりにも人間的な』『曙光』『悦ばしき知識』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。
事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。
メータ・フォン・ザーリス(ドイツ語版)やカール・シュピッテラー[注 4]、ゴットフリート・ケラー[注 5]と知り合ったのはこのころである。
1886年、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスターと結婚し、パラグアイに「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。
書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで2人が顔を合わせることはなかった。
病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。
同じ年、ニーチェはドストエフスキーの著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想に共鳴している。
また、イポリット・テーヌ[注 6]やゲーオア・ブランデス[注 7]とも文通を始めている。
ブランデスはニーチェとキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代からコペンハーゲン大学でキェルケゴール哲学を講義していたが、1888年には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義を行い、ニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んでみてはどうかとの手紙を書き送り、ニーチェは薦めにしたがってみようと返事をしている[注 8]。
ニーチェは1888年に5冊の著作を書き上げた(#著作参照)。
健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。
この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『ワーグナーの場合(ドイツ語版、英語版)』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。
ニーチェは、44歳の誕生日に、自伝『この人を見よ』の執筆を開始した。
『偶像の黄昏(ドイツ語版、英語版)』と『アンチクリスト(ドイツ語版、英語版)』を脱稿して間もない頃であった。
序文には「私の言葉を聞きたまえ!私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」とまで書き記す。
12月、ニーチェはストリンドベリとの文通を始める。
また、このころのニーチェは国際的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。
さらに『ニーチェ対ワーグナー(ドイツ語版、英語版)』と『ディオニュソス賛歌(ドイツ語版、英語版)』の合本を出版しようとの計画も立てた。
また『力への意志』も精力的に加筆や推敲を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げる。
狂気と死
晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899年
1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、2人の警察官の厄介になった。
数日後、ニーチェはコジマ・ワーグナーやヤーコプ・ブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では
「
「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」」
と書き、またコジマ・ワーグナー宛の手紙では、「
「愛しのアリアドネ姫へ。/私が人間であるというのは偏見です。しかし私はすでにしばしば人間の下で生きて、人間の体験できる最低のものから最高のものまで、すべてを知っています。私はインド人の下では仏陀であったし、ギリシアではディオニュソスでした、――アレクサンダーとシーザーは私の化身であり、同じものではシェイクスピアの作者ベーコン卿に。しまいには私はさらにヴォルテールとナポレオンでしたし、もしかしたらワーグナーでも……しかし今度は勝利に輝くディオニュソスとしてやってきて、地を祝祭日となすでしょう……私に多くの時間は無い……天は私がここいることを歓喜します……私は十字架にもかけられてしまった……」」
というものであった。1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。
友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母フランツィスカはイェーナの病院で精神科医オットー・ビンスワンガー(ドイツ語版))に診てもらうことに決めた。
1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーン(ドイツ語版)が治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。
エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年
この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。
1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ワーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。
またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。
エリーザベトと『力への意志』
1893年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。
彼女は兄の著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を揮うようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。
1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは兄の面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。
1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなった。
エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。
ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトは兄の友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。
「
―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」[注 9]
」エリーザベトは兄の死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。
エリーザベトの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となった(#思想参照)。
決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィーノ・モンティナーリ(英語版)は「贋作」と言っている。
思想
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出典検索?: “フリードリヒ・ニーチェ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2013年7月)ニーチェはソクラテス以前の哲学者も含むギリシア哲学やアルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。
実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。
先行の哲学者マックス・シュティルナーとの間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」とシュティルナーによる「唯一者」との思想的類似点等々)を見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。そのことはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事に詳しい。
ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。
解釈の多様性
ニーチェは、唯一の真実なるものはなく、解釈があるのみだと考えた[12]。
ニーチェにとって、解釈とは、価値、意味を創り出す行為である[12]。
そして、解釈は多様である。
世界はどのようにも解釈される可能性があり、世界は無数の意味を持つ[12]。
ニーチェがこのように考える背景には、従来的な認識・真理に対する懐疑があった[13]。
永劫回帰
→詳細は「永劫回帰」を参照ニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的な世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた[14]。
永劫回帰(永遠回帰)とは、この世界は、全てのものにおいて、まったく同じことが永遠にくり返されるとする考え方である[14]。
これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうキリスト教的世界観の悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。
彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。
超人
それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。
自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。
ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。
さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。
すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。
そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。
だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。
その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。
いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。
古代インド思想
ニーチェは『ヴェーダ』『ウパニシャッド』『マヌ法典』『スッタニパータ』などの古代インド思想に傾倒、ゴータマ・シッダールタを尊敬していた。
度々、忌み嫌う西洋キリスト教文明と対比する形で仏教等の古代インド思想を礼賛し、「ヨーロッパはまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」と語っている[15]。
書簡や著作等をみることによって、ニーチェが、いかにして古代インド思想や仏教について知るようになったかが分かる。
シュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から仏教徒たちの聖典の一つとかいう『スッタ・ニパータ』の英語本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる結句の一つを、つまり『犀の角のように、ただ独り歩め』という言葉を僕はもう普段の用語にしているのだ[16]。
ブッダの〈宗教〉これは、キリスト教のようなあんな哀れむべきものと混同されない為には、宗教などと呼ばず、『衛生学』と呼んだ方がよいと思うが、とにかくブッダの〈宗教〉は、布教の手掛かりを怨恨感情の克服という点に置いている。つまり、魂を怨恨感情から解脱させること――これが快癒への第一歩なのだ。
『敵意によって敵意が息むことはない、友愛によって敵意は息む[注 10]』という言葉がブッダの説法の劈頭にあるのだが、こんな言い方をするのは決して道徳ではない。それは生理学だ[17]。
— 『この人を見よ』仏教は、老成の人間達にとっての苦悩をあまりにも易々と感受するところの、善良な、温和な、極めて精神化されてしまった種族にとっての宗教である(――ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟してはいない――)。
即ち、仏教はこのような人間達を平和と快活とへ連れ戻して精神的なものにおいては摂生を、肉体的なものにおいては或る種の鍛練を施しかえすのである。キリスト教は猛獣を支配しようと願うが、その手段はそれを病弱ならしめることである[18]。
— 『反キリスト者』仏教はもはや『罪に対する闘争』ということを囗にせず、現実の権利を全面的にみとめながら『苦に対する闘争』を主張する。仏教は――これこそそれをキリスト教から深く分かつのだが――道徳概念の自己欺瞞を既に己の背後に置き去りにしている。仏教は、私の用語で言えば、善悪の彼岸に立っている[19]。
— 『反キリスト者』仏教にとっての前提は、極めて温和な風土、習俗における大いなる柔和や寛大であって、ミリタリズムではない。またそれは、この運動の発生地が上流階級や知識階級ですらあるということである。快活、静寂、無欲が最高の目標として目指され、しかもこの目標が達成される。仏教はただ、完全性の獲得をのみ熱望するような宗教ではない。即ち、完全性が常態なのである[20]。
— 『反キリスト者』ニヒリズム的宗教の内部でもキリスト教のそれと仏教のそれとは依然として鋭く区別される必要がある。仏教のニヒリズム的宗教は、美しい夕を、完結した甘美や柔和を表現する[21]。
— 『力への意志』新しい闘い。
――仏陀の死後も、尚幾世紀もの永い間に渡り、ある洞窟の中に彼の影が見られた
――巨大な怖るべき影が。神は死んだ。
――けれど人類の持ち前の然らしめるところ、恐らく尚幾千年の久しきに渡り、神の影の指し示される諸々の洞窟が存在するであろう。
――そして、我々は更にまた神の影をも克服しなければならなない![22]
— 『悦ばしき知識』わたくしはヨーロッパのブッダになれるかもしれない。もちろん、インドのブッダの正反対ではあるけれども[23]。
ナチズムへの利用
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出典検索?: “フリードリヒ・ニーチェ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2019年12月)ニーチェの思想は妹のエリーザベトがニーチェのメモをナチスに売り渡した事でナチスのイデオロギーに利用されたが、そもそもニーチェは、反ユダヤ主義に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていたベルンハルト・フェルスターと結婚したのち、1887年には次のような手紙を書いている。
「 お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』[注 11]は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。 」
また、1889年1月6日ヤーコプ・ブルクハルト宛ての最後の書簡は、「ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」と記している。
主著『善悪の彼岸』の「民族と祖国」ではドイツ的なるものを揶揄して、「善悪を超越した無限性」を持つユダヤ人にヨーロッパは感謝せねばならず、「全ての疑いを超えてユダヤ人こそがヨーロッパで最強で、最も強靭、最も純粋な民族である」などと絶賛し、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いている。
にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。
しかしながら、ルカーチ・ジェルジや戦後に刊行のトーマス・マンの、ニーチェをモデルにした小説『ファウストゥス博士』において、ニーチェをナチズムと結びつけて捉えるべきかのように示唆する観点をもつ研究者や作家も存在する。
とくにそれは優生学に基づいた政策を人間に当てはめることを肯定する態度に表れている。
これもまた人間愛の戒律の一つ。――子供を産むのが犯罪となるかもしれない場合がある。最強度の慢性疾患や神経衰弱症の場合である。どうしたらいいのか? (中略) 結局は、ここで果たすべき義務﹅﹅は社会にある。これほど社会に対する切実で、根本的な要求はあまりない。社会は、生命の偉大な委任統治者として、あらゆる失敗した生命の責任を、生命自体に対して﹅﹅﹅負うべきなのだ。――またその償いをしなければならない。したがって﹅﹅﹅﹅﹅、社会はそうしたものを阻止しなければならない。社会は多数の場合に生殖行為を予防しなければならない。さらにまた、素姓ママ、階級、知能を顧慮することなく、きわめて手きびしい強制処置、自由剥奪、場合によっては去勢手段にも訴える用意が要る。(中略) 生命そのものは、一有機体の健全な部分と退化変質した部分との間にいかなる連帯性も、いかなる「平等な権利」も認めない。変質した部分は切除﹅﹅されなければならない。
—Mp ⅩⅥ4d. Mp ⅩⅦ7. WⅡ7b. ZⅡ1b. WⅡ6c.フリードリッヒ・ニーチェ 著、氷上英廣 訳『ニーチェ全集 第12巻 (第II期) 遺された断想 (1888年5月-1889年初頭)』白水社、1985年8月30日、125-126頁。[注 12][注 13](前略) すべての生の廃棄物やごみ屑に対して憐れみを持たぬ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅こと、上昇する生に対するたんなる妨害物であり、毒物であり、陰謀であり、潜伏的な敵対者であるものの打倒を求める
—フリードリッヒ・ニーチェ、Mp ⅩⅥ4d. Mp ⅩⅦ7. WⅡ7b. ZⅡ1b. WⅡ6c.フリードリッヒ・ニーチェ 著、氷上英廣 訳『ニーチェ全集 第12巻 (第II期) 遺された断想 (1888年5月-1889年初頭)』1985年8月30日、140頁。ナチスはユダヤ人虐殺以前に、障害者を強制「断種」して、 その後、精神病院にガス室をつくって障害者を多数「安楽死」させていた。T4作戦も参照。上記のニーチェの思想はナチスの行為を正当化するものとの誤解を与えかねないものであった。
それ以後の哲学・思想への影響
ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリダらがいる。1968年のフランス五月革命の民主化運動も、思想背景はニーチェだった。
個々の著作の概要
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出典検索?: “フリードリヒ・ニーチェ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2013年7月)『悲劇の誕生』
→詳細は「悲劇の誕生」を参照当初の表題は『音楽の精神からの悲劇の誕生』(1886年の新版以降は『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』に改題)がある。これは、哲学書ではなく西洋古典学での文献学書である。
ニーチェにしてみれば、明朗快活な古代ギリシア時代という当時の常識を覆し、アポロン的―ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。
しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。
そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。
また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの音楽を賛美するために古典文献学を利用したと思い、「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したため、リッチュルとの関係が悪化した。
この書の評判が響いて、発表した1872年の冬学期のニーチェの講義を聞くものは、わずかに2名であった(古典文献学専攻の学生は皆無)。満を持してこの本を出版したニーチェは、大きなショックを受けた。
同時代の古典文献学者の中でほぼ唯一、ニーチェの考えを積極的に受容したのがイギリスのケンブリッジ儀礼学派の祖ジェーン・エレン・ハリソンであった。
ハリソンは1903年の著書『Prolegomena to the Study of Greek Religion』において、ディオニュソス信仰とオルフェウス教の密儀によって古代ギリシア人のオリンポスの神々への信仰が「宗教」と呼べるものに転換していったと主張した[25]。
そして、ニーチェは、自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われたままで古典を読解するという当時の古典文献学の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。
そして、『悲劇の誕生』で説いたような、悲劇の精神から遊離し、生というものを見ず、俗物的日常性に埋没し、単に教養することに自己満足して、その教養を自身の生にまったく活用しようとしない、当時のドイツに蔓延していた風潮を、「教養俗物」(Bildungsphilister)と名づけ、それに対する辛辣な批判を後の『反時代的考察』で展開していくことになる。
『反時代的考察』
これは、ヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して、1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(1873年):
これは、当時のドイツ思想を代表していたダーフィト・シュトラウスの『古き信仰と新しき信仰: 告白』(1871年)への論駁である。ニーチェは、科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスの言う「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。
「生に対する歴史の利害」(1874年):
ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってことが足りるとする従来の考え方を退け、「生」を主要な概念として、新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。
「教育者としてのショーペンハウアー」(1874年):
アルトゥル・ショーペンハウアーの天才的な哲学がドイツ文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェは、ショーペンハウアーの個人主義や誠実さ、不動の意志だけでなく、ペシミズムによって、この有名な哲学者の陽気さに注目している。
「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」(1876年):
この論文では、リヒャルト・ワーグナーの心理学を探求している。当時のニーチェの心の中では、ワーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていたため、対象となっている人物との親密さのわりには、追従めいたところがない。そのため、ニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はワーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。
『人間的な、あまりにも人間的な』
1878年に初版を刊行、1886年の第2版からは『さまざまな意見と箴言』(1879年)と『漂泊者とその影』(1880年)をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な ―― 自由精神のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイツ・ロマン主義およびワーグナーとの決別や明瞭な実証主義的傾向が見て取られる。
また、本書の形式にも注目する必要がある。
体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなるアフォリズム数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。
この本では、ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。
ニーチェは、「パースペクティヴィズム」と「力への意志」という概念を用いている。
『曙光』
『曙光』(1881年)において、ニーチェは、動因としての快楽主義の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。
また、道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判が完成の域に達した。
この明晰で穏やかで個人的な文体のアフォリズム集の中で、ニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりも、自らが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。
『悦ばしき知識』
『悦ばしき知識』(1882年)は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。
中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルはトルバドゥールの作詩法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。
たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。
これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。
これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである。
永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張である。
NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「ちむどんどん」において、この書に含まれた箴言の一つが、ヒロインが修行するレストランの名前の由来とされている[注 14]。
『ツァラトゥストラはかく語りき』
→詳細は「ツァラトゥストラはこう語った」を参照『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの主著であるとされており、またリヒャルト・シュトラウスに、同名の交響詩を作曲させるきっかけとなった。
なお、ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教(拝火教)の開祖ザラスシュトラの名前のドイツ語形の一つであるが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。
その他
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『善悪の彼岸』
『道徳の系譜』
『偶像の黄昏』
『ヴァーグナーの場合』
『アンチクリスト』(『反キリスト者』;独語Der Antichrist)
『この人を見よ』
『ニーチェ対ヴァーグナー』
『力への意志』(ニーチェの死後、遺稿を元にエリーザベトが編集出版したもの。長らくニーチェの主著と見なされていた。)作曲
ニーチェは、専門的な音楽教育を受けたわけではなかったが、13歳頃から20歳頃にかけて歌曲やピアノ曲などを作曲した。その後、作曲することはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの曲を残しており「生涯で70を越す楽曲を作曲したそうである」[26]。作風は前期ロマン派的であり、シューベルトやシューマンを思わせる。彼が後にまったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しくなったという理由のほかに、自信作であった『マンフレッド瞑想曲』をハンス・フォン・ビューローに酷評されたことが理由として考えられる。
現在に至るまで、ニーチェが作曲家として認識されたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲した作品ということで、一部の演奏家が録音で取り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲学者」としての側面が明らかになっている。彼の作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかであるが、四手連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想曲』交響詩『エルマナリヒ』など、オーケストラを念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。また、オペラのスケッチを残しており、2007年にジークフリート・マトゥスがそのスケッチを骨子としてオペラ『コジマ』を作曲した。またディートリヒ・フィッシャー=ディースカウはニーチェの歌曲を幾つか演奏・録音するとともに「ワーグナーとニーチェ」という著作も生んでいる。
ニーチェ音楽関連年譜
マンフレッド瞑想曲
ニーチェ作品集
新作オペラ『コジマ』著作
『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(『悲劇の誕生』)(Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik,1872)
『反時代的考察』(以下の論文所収)(Unzeitgemässe Betrachtungen, 1876)
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873)
「生に対する歴史の利害」(Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben, 1874)
「教育者としてのショーペンハウアー」(Schopenhauer als Erzieher, 1874)
「バイロイトにおけるヴァーグナー」(Richard Wagner in Bayreuth, 1876)
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches, 1878)
『曙光』(Morgenröte, 1881)
『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)
『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1885)
『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse, 1886)
『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887)
『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888)
『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
『偶像の黄昏』(Götzen-Dämmerung, 1888)
『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist, 1888)
『この人を見よ』(Ecce homo, 1888)
遺稿集には『力への意志』(遺稿。妹が編纂)(Wille zur Macht, 1901)
『生成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイムラー編)(Die Unshuld des Werdens, Alfred Kröner Verlag in Stuttgart, 1956)
日本語訳
※最近の主な「全集」は、校訂を一新したグロイター版を底本とする白水社版(第1期全12巻・第2期全12巻)と、それより古いクレーナー版・ムザリオン版・シュレヒタ版等に基づく筑摩書房「ちくま学芸文庫」版(全15巻、元版は理想社)。
白水社版は多くの「遺された著作」「遺された断想」を含むが、第3期が未刊行となった。ちくま学芸文庫版は、上記の他に別巻4冊(書簡・詩集・遺稿集『生成の無垢』を収録)を刊行している[27]。文庫版は『ツァラトゥストラはこう言った』、『悲劇の誕生』、『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』、『この人を見よ』など、岩波文庫・光文社古典新訳文庫、河出文庫などで刊行している。
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ 命日に関しては、他にも様々な主張がある。
^ 卒業生には、ゴットフリート・ライプニッツ、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、レオポルト・フォン・ランケ、シュレーゲル兄弟などがいる。
^ ただし、普仏戦争(1870年 – 1871年)中の一時期だけはプロイセン軍に従軍し、トラウマにもなる経験をしたうえにジフテリアや赤痢を患ったりもしている。
^ 1919年にノーベル文学賞を受賞した作家。処女作『プロメテウスとエピメテウス』はしばしば『ツァラトゥストラ』からの影響が指摘される。
^ ニーチェはケラーの教養小説『緑のハインリヒ』を、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ作『ヴィルヘルム・マイスター』やアーダルベルト・シュティフター作『晩夏』とともにドイツ文学の中で最も高く評価している。
^ ニーチェは1886年に『善悪の彼岸』をテーヌに寄贈し、後日テーヌから好意的な礼状を受け取っている。
^ 『道徳の系譜』を寄贈されたことがニーチェとの交流の契機となった。
^ キェルケゴールはニーチェが著述活動を始める前の1855年に亡くなっているうえ、ニーチェはこの後すぐに発狂してしまったため、ともに「実存主義の始祖」として知られる2人は互いの思想に触れることがなかったと長らく信じられてきた。しかし、その後の研究の結果、キェルケゴールの思想を解説・批評した二次資料のいくつかをニーチェが読んでいたことが明らかになっている。
^ ニーチェ自身がいかに神聖視されたくないかを『この人を見よ』の中で語っていることに注意する必要がある。「私は聖者にはなりたくない。道化のほうがまだましだ」
^
五、
世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
— 荻原雲来訳註
『法句經』
第一 雙敍の部
^ 引用者訳注:ニーチェの思想を歪曲して利用したらしい反ユダヤ主義文書。
^ 元は『偶像の黄昏』の校正稿に入っていたものをニーチェが自分で抜き出した原稿[24]。傍点は引用文献のまま。記号の意味については引用文献を参照のこと。
^ エリーザベト・ニーチェが捏造した『力への意志』では734番に充てられている。734番はニーチェが『偶像の黄昏』校正稿から抜いた原稿と同じ内容である。『力への意志』日本語訳では次のように書かれている。
人間愛のいま一つの命令﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。――子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。そのときにはどうしたらいいのか?(中略) 社会は、生の大受託者として、生自身に対して﹅﹅﹅生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、――またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべき﹅﹅である。しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、 事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。(後略)
—フリードリッヒ・ニーチェ、フリードリッヒ・ニーチェ 著、原佑 訳、信太正三・原佑・吉沢伝三郎 編『ニーチェ全集 権力への意志 (下) すべての価値の価値転換の試み』理想社、1962年、216-217頁。傍点は原文のまま。
^ 第18週、90回、2022年8月12日放送。レストラン名はイタリア語 “alla fontana“ (「泉」、「泉にて」、「泉へ」)。箴言の題は、“Unverzagt“ (「意気盛ん」、「気後れせずに」、「臆することなく」)。箴言は4行であるが、番組ではその前半部がレストランのオーナー自身によって「汝の立つ処深く掘れ、/ そこに必ず泉あり」と紹介されている。なお、原文は „Wo du stehst, grab tief hinein! / Drunten ist die Quelle!“ Die fröhliche Wissenschaft (projekt-gutenberg.org) 2022年8月15日閲覧。信太正三訳(『ニーチェ全集』8 理想社1980年、20頁)では「ひるまずに」と題して「お前の立つところを 深く掘り下げよ! / その下に 泉がある!」と訳されている。その後には、「「下はいつも――地獄だ!」、と叫ぶのは、/ 黒衣の隠者流に まかせよう。」と続く。
出典
^ a b Hecker, Hellmuth: “Nietzsches Staatsangehörigkeit als Rechtsfrage”, Neue Juristische Wochenschrift, Jg. 40, 1987, nr. 23, pp. 1388–91.
^ a b His, Eduard: “Friedrich Nietzsches Heimatlosigkeit”, Basler Zeitschrift für Geschichte und Altertumskunde, vol. 40, 1941, pp. 159-186
^ 『現代独和辞典』三修社、1992年、第1354版による。
^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p47-48
^ 『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷、pp.166-168
^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p50-51
^ 『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷、pp.170-171
^ 『ニーチェ全集 第14巻 この人を見よ・自伝集』理想社 第一版第五刷、pp.166-168,184-185,198
^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p52
^ 『人と思想22ニーチェ』第26刷p63 – 64
^ 『人と思想22 ニーチェ』第26刷p108
^ a b c 小坂国継,岡部英男 編著 2005, p. 207.
^ 小坂国継,岡部英男 編著 2005, p. 208.
^ a b 小坂国継,岡部英男 編著 2005, p. 210.
^ 川鍋征行「ニーチェの仏教理解」『比較思想研究 』第8巻 pp.44-46
^ 塚越敏訳、書簡集1、ニーチェ全集第一五巻。二九〇頁。
^ 川原栄峰訳『この人をみよ』ニーチェ全集第一四巻、理想社、三〇頁。
^ 原佑 1980, pp. 165–166
^ 原佑 1980, pp. 162–163
^ 原佑 1980, pp. 164
^ 原佑訳「権力への意志」ニーチェ全集一一巻、理想社、一五四。
^ 信太正三訳『悦ばしき知識』ニーチェ全集第八巻、理想社、第三、一〇八。
^ Sämtliceh Werke Kritische Studienausgabe. Band 10, Herausgegeben von Giorgio Colli und Maggino Montinari. p.109
^ フリードリッヒ・ニーチェ 著、氷上英廣 訳『ニーチェ全集 第II期第12巻 遺された断想 (1888年5月-1889年初頭)』白水社、1985年8月30日、125頁。
^ ハンス・キッペンベルク『宗教史の発見 宗教学と近代』158頁/166頁-169頁(月本昭男、久保田浩、渡辺学共訳 岩波書店、2005年)
^ 井戸田総一郎「ニーチェーーピアノと文体」〔Brunnen. Juni 2023, Nr.530 Ikubundo(郁文堂)3-5頁、引用は3頁。〕
^ 渡邊二郎「ニーチェ全集の歴史」渡邊二郎・西尾幹二編『ニーチェを知る事典 その深淵と多面的世界』ちくま学芸文庫、2013年。三島憲一「さまざまなニーチェ全集について」『ニーチェ事典』弘文堂、1995年。
参考文献
“Nietzsche” (1961) 。マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)著
『ニーチェ』 薗田宗人訳、白水社 (全3巻)、新装版2007年
『ニーチェ〈1〉 美と永遠回帰』平凡社ライブラリー、1997年
『ニーチェ〈2〉 ヨーロッパのニヒリズム』 平凡社ライブラリー、1997年
“Nietzsche et la philosophie” (1962) ジル・ドゥルーズ (Gilles Deleuze) 著 ISBN 2130532624 , ISBN 978-2130532620
日本語訳『ニーチェと哲学』 足立和浩訳、国文社、1974年
日本語訳『ニーチェと哲学』 江川隆男訳、河出文庫、2008年 ISBN 430946310X , ISBN 978-4309463100
Löwith, Karl (1964). From Hegel to Nietzsche. Columbia University Press. ISBN 0-231-07499-9.
日本語訳『ヘーゲルからニーチェへ 十九世紀思想における革命的断絶』三島憲一訳、岩波文庫(上・下) 2015年-2016年
“Nietzsche et le cercle vicieux” (1969)ピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski) 著
日本語訳『ニーチェと悪循環』 兼子正勝訳、哲学書房、1989年/筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004年
“Nietzsche Aujourd’hui?”
日本語訳『ニーチェは今日?』 リオタール、ドゥルーズ、ジャック・デリダ共著、林好雄・本間邦雄・森本和夫共訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2002
ジョージ・スタック『ニーチェ哲学の基礎』未知谷、2006年。
マッツィーノ・モンティナーリ『全集編者の読むニーチェ グロイター版全集編纂の道程』 未知谷、2012年。
ルー・ザロメ『ルー・ザロメ著作集〈3〉 ニーチェ 人と作品』以文社 1974年
信太正三『ニイチェ研究 実存と革命』創文社 1956年
川原栄峰『ニヒリズム』 講談社現代新書 1977年
三島憲一『ニーチェ』岩波新書、1987年
三島憲一『ニーチェとその影 芸術と批判のあいだ』未來社、1990年、講談社学術文庫、1997年
三島憲一『ニーチェ以後 思想史の呪縛を超えて』岩波書店、2011年
三島憲一『ニーチェかく語りき』岩波現代文庫、2016年
竹田青嗣『ニーチェ入門』ちくま新書、1994年
竹田青嗣・西研・藤野美奈子『知識ゼロからのニーチェ入門』幻冬舎、2013年
工藤綏夫 『ニーチェ 人と思想22』 清水書院・センチュリーブックス、新装版2014年
清水真木『ニーチェ入門』ちくま学芸文庫、2018年
西部邁「近代に突き刺さった棘 フリードリッヒ・ニーチェ」『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2012年、73-87頁。ISBN 978-4-7584-3629-8。
橋本智津子『ニヒリズムと無』京都大学学術出版会、2004年。ISBN 4-87698-642-8
小坂国継,岡部英男 編著『倫理学概説』ミネルヴァ書房、2005年。
原佑訳『ニーチェ全集第一三巻『偶像の黄昏・反キリスト者』』理想社、1980年。
関連項目ドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
フリードリヒ・ニーチェ
グノーシス
生の哲学
歴史主義
外部リンク
http://www.lenahades.co.uk/#!portraits-of-friedrich-nietzsche/c1u64 – レナ・ハデスのフリードリヒニーチェの肖像画
Nietzsche Source – Digitale Kritische Gesamtausgabe (eKGWB)(コリ・モンティナリ版)
ウィキソース:Friedrich Nietzsche
フリードリヒ・ニーチェの楽譜 – 国際楽譜ライブラリープロジェクト
『ニーチェ』 – コトバンク
ニーチェ音楽関連年譜 – ウェイバックマシン(2009年1月31日アーカイブ分)
マンフレッド瞑想曲
ニーチェ作品集
新作オペラ『コジマ』
フリードリヒ・ニーチェ『この人を見よ(最終章)』(安倍能成訳) – ARCHIVE表話編歴
フリードリヒ・ニーチェ
表話編歴
大陸哲学
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カテゴリ: ニーチェ19世紀ドイツの哲学者ドイツの倫理学者19世紀ドイツの詩人ドイツの作曲家ドイツの音楽評論家ドイツの無神論活動家実存主義者形而上学者存在論の哲学者ドイツの美学者歴史哲学者宗教研究の哲学者文献学者無神論の哲学者宗教と科学に関する著作家アフォリストニヒリズムの哲学者決定論者死刑廃止論者バーゼル大学の教員ライプツィヒ大学出身の人物ボン大学出身の人物無国籍の人物ポーランド系ドイツ人梅毒で死亡した人物1844年生1900年没
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【解説マップ】ニーチェの哲学思想を図解でわかりやすく(著書や名言まで)
https://mindmeister.jp/posts/Nietzsche『『この記事は、有名哲学者らの思想をマインドマップでひもとく哲学入門コンテンツです。彼らの思想や考え方が、世界にどんな意味や影響を与えたのかを見ていきましょう。⇒「哲学者」一覧
偉人ライターの神宮寺葵です。
ニーチェは19世紀のドイツの哲学者です。既存の価値観を批判し、「神は死んだ」という言葉はあまりにも有名です。実存主義の先駆者であり、超人思想や永遠回帰など、独自の概念で現代思想に大きな影響を与えました。主著に『ツァラトゥストラはこう語った』があります。今回は、そんなニーチェがどんな人で何をした人なのか、彼の哲学人生を深掘りしていきます。
🔗参照:【解説マップ】もしもニーチェが現代の企業経営者だったら?
解説マップ
さらにくわしく解説します
1.どんな哲学者なのか?
2.どんな哲学思想なのか?
3.どんな影響を与えたのか?
ニーチェの最期(死因)
ニーチェの著書
ニーチェの名言
さいごに
関連:「哲学者」一覧解説マップ
【解説マップ】ニーチェの哲学思想を図解でわかりやすく(著書や名言まで)
🔍このMAP画像を【PDF】で見るさらにくわしく解説します
上記のマインドマップで整理したニーチェの哲学思想について、イメージを交えながらくわしく解説します。1.どんな哲学者なのか?
【解説マップ】ニーチェの哲学思想を図解でわかりやすく(著書や名言まで)
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900年)は、ドイツの哲学者で、19世紀後半の西洋思想に革命をもたらした人物です。彼はすでに存在する道徳観や宗教観に鋭い批判を向け、新しい価値観の創造を提唱しました。ニーチェは、人間の本質や生きる意味について深く考察し、「神は死んだ」という衝撃的な宣言で知られています。また、「ルサンチマン」や「超人」といった独自の概念を通じて、人間の心理と社会の関係を鋭く分析しました。彼の思想は、現代哲学や文学、心理学など、幅広い分野に大きな影響を与えています。
ニーチェの性格や人柄とは?
ニーチェは生真面目で純粋、同時にどこか人間味あふれる性格を持っていました。幼少期には、校則を守るために雨の中でも決して走らず、ゆっくりと帰宅したエピソードがあり、真摯な性格の表れとして知られています。24歳でバーゼル大学の教授に就任したものの、周囲の嫉妬と自分への厳しい理想から孤立し、苦悩する日々を過ごしました。また、神や超人といった哲学的な探求に没頭する一方で、「なぜ自分はモテないのか」といった悩みも抱えていたとされ、普遍的な理想を求めながらも、時折、俗世の弱さも垣間見せる姿が、彼の独特な魅力を生み出しています。
2.どんな哲学思想なのか?
ニーチェの哲学思想は、すでに存在する価値観を根本から問い直し、人間の可能性を最大限に引き出そうとするものです。彼は、人間が自らの力で新しい価値を創造し、より高い段階の存在へと進化することを目指しました。
【解説マップ】ニーチェの哲学思想を図解でわかりやすく(著書や名言まで)
① 「神は死んだ」:価値観の転換
ニーチェの最も有名な言葉の一つである「神は死んだ」は、それまでの西洋社会を支えていた絶対的な価値観(神や道徳)が失われたことを意味しています。
たとえば、昔は「良い人間とは神の教えを守る人」と考えられていましたが、科学の発展などにより、そうした考え方が通用しなくなってきました。ニーチェは、このような状況で人間は自分自身で新しい価値観を作り出す必要があると主張したのです。
② ルサンチマンと超人思想:自己超越への道
ニーチェは「ルサンチマン」という概念を提唱しました。これは、自分より強い者や恵まれた者に対する劣等感や妬み、またはそこから生まれる価値観の逆転を指します。たとえば、「お金持ちは悪い人だ」という考え方は、実際にお金持ちが悪いからではなく、自分がお金持ちになれないことへの妬みや恨みから生まれた価値観かもしれません。
ニーチェは、このようなルサンチマンに基づく道徳を批判し、それを乗り越えるものとして「超人(Übermensch)」という概念を提唱しました。超人とは、ルサンチマンから解放され、自らの意志で新しい価値を創造できる理想的な人間像のことです。
身近な例で考えてみましょう。たとえば、「みんなが良いと言うから」という理由で進路を決めるのではなく、自分の情熱や才能にもとづいて独自の道を切り開く人がいるとします。そういった人々が、ニーチェの言う「超人」に近い存在と言えるでしょう。
③ 永遠回帰:人生を肯定的に生きる
「永遠回帰」は、ニーチェの難解な概念の一つです。これは、同じ人生を何度でも繰り返し生きることになったとしても、それを喜んで受け入れられるかという思考実験です。
たとえば、あなたの人生のすべて―良いことも悪いことも―が永遠に繰り返されるとしたら、どう感じますか?ニーチェは、そんな人生でも「もう一度!」と言えるほど、自分の人生を肯定的に生きることを提唱しました。これは、人生の一瞬一瞬を大切にし、後悔のない生き方をすることの重要性を示しています。
3.どんな影響を与えたのか?
【解説マップ】ニーチェの哲学思想を図解でわかりやすく(著書や名言まで)
ニーチェの思想は、20世紀以降の哲学、文学、芸術、心理学など、幅広い分野に多大な影響を与えました。キルケゴールと同じく実存主義の先駆者として、サルトルやハイデガーなどの哲学者に影響を与え、文学ではヘルマン・ヘッセやトーマス・マンなどがニーチェの思想を作品に反映させました。
心理学の分野では、フロイトやユングがニーチェの思想から影響を受けており、とくに無意識の概念や「ルサンチマン」の心理分析の発展に寄与しました。また、ニーチェの価値観の転換という考え方は、現代の価値観の多様性を認める思想の基礎となっています。
ニーチェの最期(死因)
ニーチェは1900年8月25日、55歳で肺炎により亡くなりました。故郷の教会に埋葬され、葬儀は彼の意思に反して盛大に行われました。死後、妹のエリーザベトが遺稿を編纂し『力への意志』を刊行しましたが、その恣意的な編集が後にニーチェの思想解釈に混乱をもたらしました。ニーチェの真の思想を理解するには、原典に当たることが重要です。
ニーチェの著書
『悲劇の誕生』
(時期)1872年
(内容)古代ギリシャ悲劇を分析し、アポロン的なものとディオニュソス的なものという二つの原理を提唱。芸術と人生の関係について論じた初期の重要な著作
『道徳の系譜』
(時期)1887年
(内容)道徳の起源を探り、「ルサンチマン」の概念を詳しく展開した著作。西洋の道徳観を批判的に分析している
『ツァラトゥストラはこう語った』
(時期)1883-1885年
(内容)ニーチェの思想を詩的に表現した代表作。超人思想や永遠回帰などの重要な概念が登場する
🔗【要約マップ】『ツァラトゥストラかく語りき』を簡単にわかりやすく解説します『善悪の彼岸』
(時期)1886年
(内容)9つの章を通じて、哲学、宗教、道徳、知識などの幅広いテーマを探求し、人間の可能性を探る哲学書
🔗【要約マップ】『善悪の彼岸』を簡単にわかりやすく解説します『この人を見よ』
(時期)1888年
(内容)44歳のニーチェが精神崩壊を起こす直前に書かれた作品で、自身の人生と思想を振り返る
🔗【要約マップ】『この人を見よ』を簡単にわかりやすく解説しますニーチェの名言
「神は死んだ。我々が神を殺したのだ」(意味)絶対的な価値観が失われた現代社会の状況を表現しています。同時に、新しい価値観を創造する必要性を示唆しています。
(出典)『悦ばしき知識』(1882年)
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
(意味)危険や困難に立ち向かう時、その経験が自分自身を変えてしまう可能性があることを警告しています。
(出典)『善悪の彼岸』(1886年)
さいごに
ニーチェの思想をくわしく知りたいなら、彼の主著『ツァラトゥストラはこう語った』がおすすめです。この本では、山から降りてきた賢者ツァラトゥストラが、人々に新しい生き方を教えていきます。とくに大切なのは「超人」と「永遠回帰」の二つの考え方です。「超人」は、今の自分を超えて成長し続ける人。「永遠回帰」は、同じ人生を何度でも繰り返すとしたら、どう生きるか?という問いかけです。
この本は、正直言って少し難しいです。でも、読んでみると自分の生き方について深く考えるきっかけになります。ニーチェは私たちに「自分らしく、強く生きよう」と語りかけているんです。彼の考えは、今の私たちの人生にも役立つヒントがたくさん詰まっています。
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ニーチェ』』




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善悪の彼岸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%BD%BC%E5%B2%B8『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
善悪の彼岸
Jenseits von Gut und Böse
初版本のタイトルページ
初版本のタイトルページ
著者 フリードリヒ・ニーチェ
訳者 金子馬治、生田長江
発行日 1886年7月
発行元 自費出版
ジャンル 哲学、散文アフォリズム
国 ドイツの旗 ドイツ帝国
言語 ドイツ語
次作 道徳の系譜
ウィキポータル 哲学
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『善悪の彼岸』(ぜんあくのひがん、ドイツ語原題:Jenseits von Gut und Böse)は、ドイツ人哲学者フリードリヒ・ニーチェの著書。副題は「将来の哲学への序曲」(ドイツ語:Vorspiel einer Philosophie der Zukunft)となっている。1886年に初版が発行された。前著『ツァラトゥストラはこう語った』でのいくつもの考えを取り上げ、さらに詳しく述べている。前著では明るく、生を肯定していたが、本書では高度に批判的、論争的なアプローチへと変えている。
過去の哲学者たちが道徳性について考察するときに、批判的感覚が欠けていた疑いがあることと、とりわけキリスト教の諸前提を盲目的に受け入れていたことを、ニーチェはこの『善悪の彼岸』で非難している。代表的な対象はカント、ルターである。本書は伝統的な道徳性を、排し進むという意味で、「善悪を超えた(=善悪の彼岸にある)」領域へと進む。伝統的な道徳性を、ニーチェは破壊的な批判にさらすわけである。その批判をするときニーチェが支持するのは、感覚主義やモラリズムであり、近代的個人の危険な状態等と衝突することを恐れない積極的なアプローチと自らみなすものである。ビゼー、スタンダールを称賛している。
文庫訳本
『善悪の彼岸』 木場深定訳(岩波文庫、初版1970年、改版2010年)、ISBN 4003363957
『善悪の彼岸』 丘沢静也訳(講談社学術文庫、2024年)、ISBN 4065373204
『善悪の彼岸』 中山元訳(光文社古典新訳文庫、2009年)、ISBN 4334751806
『善悪の彼岸』 竹山道雄訳(新潮文庫、改版2008年)、ISBN 4102035044
『善悪の彼岸 道徳の系譜』 信太正三訳(ニーチェ全集(11) ちくま学芸文庫(新版)[1]、1993年)、ISBN 4480080813脚注
[脚注の使い方]^ 元版は「ニーチェ全集」理想社
参考文献
工藤綏夫『ニーチェ』清水書院〈Century Books 人と思想〉、1967年12月。ISBN 978-4389420222。新装版2014年9月
外部リンク
善悪の彼岸 – プロジェクト・グーテンベルク — (英語訳)
善悪の彼岸 – プロジェクト・グーテンベルク — (ドイツ語)
表話編歴
フリードリヒ・ニーチェ
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「Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.」
https://news.mynavi.jp/article/20231128-2813605/


『「深淵をのぞく時深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の意味や英語を紹介
掲載日 2023/11/28 20:21 著者:ちょことあいす
目次
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とは
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の意味・解釈
誰の言葉? 元ネタは?
ドイツの哲学者・フリードリヒ・ニーチェとは
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の教訓
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というフレーズについて、哲学チックで理解が難しい、とっつきにくいと感じる人も多いでしょう。
本記事ではこの言葉の解釈や教訓をわかりやすく紹介。英語や原文のドイツ語、ニーチェの生涯にその他の名言もまとめました。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだとは
偉人・ニーチェが残した格言「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の意味や、教訓について紹介します
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とは
「深淵(しんえん)をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という言葉は、かの有名な哲学者であるニーチェが、著書内で記したフレーズです。
早速、意味や解釈、出典などについて解説していきます。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の意味・解釈
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」は抽象的な言葉のため、人によってさまざまな解釈がされています。
広く知られている意味、解釈は「乗り越えるべき悪や問題に立ち向かうことに没頭し過ぎると、いつしか我を失って、自分自身が悪い方向に影響されてしまう可能性がある」ということです。
例えば刑事が事件を解決すべく、凶悪な犯罪者と接するうちに、次第に共感したり影響されたりして、犯罪に手を染めてしまうことなどが挙げられるでしょう。
似た意味を持つ言葉として、「ミイラ取りがミイラになる」ということわざがあります。
誰の言葉? 元ネタは?「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」は、ドイツの哲学者・思想家であるニーチェの言葉で、1886年の著書『善悪の彼岸(原題:Jenseits von Gut und Böse)』第146節に登場します。
『善悪の彼岸』でニーチェは、当時のヨーロッパにおける、キリスト教を中心とした道徳感を批判し、新たな道徳に対する考えを確立するべきだと主張しました。
「深淵」とはどんな意味を持つか
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」に使われている「深淵」とは、水深が深い淵、つまり水が深くよどんでいる場所を指す言葉で、英語では「abyss」と表記されます。
単に水が深くまであることを指すこともありますが、奥深く底知れないこと、容易に抜け出すことができない苦境を暗示する際に使うケースもあります。
ニーチェが危惧した「怪物」とは何か
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」には、実は「怪物と戦う者は、戦ううちに自分も怪物とならないように用心した方がいい」という旨の前文が存在します。
「怪物」が何を指すのか明記はされていないため、「悪」「敵」「問題」「悩み」など、多くの解釈が成立します。
これを踏まえて「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の意味を考えてみると、先ほども触れたように「乗り越えるべき悪や問題に立ち向かうことに没頭し過ぎると、いつしか我を失って、自分自身が悪い方向に影響されてしまう可能性がある」という解釈にたどり着くというわけです。
自分が倒す側、影響する側、観察する側だと思っていたら、逆に倒される側、影響される側、観察される側だったという可能性があるのです。
ドイツ語・英語で表すと?
『善悪の彼岸』の原書はドイツ語で書かれているため、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」も原文はドイツ語です。
ドイツ語では「Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.」と記されています。
英語では「When you gaze into the abyss、the abyss gazes into you.」「If you gaze long enough into an abyss, the abyss will gaze back into you.」などの訳が考えられます。
なお同様に、日本語訳も複数存在します。
ドイツの哲学者・フリードリヒ・ニーチェとは
ドイツの哲学者・フリードリヒ・ニーチェとは
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という言葉を残したニーチェの思想は、後世にも多大な影響を及ぼしました。彼の生い立ちと、他にどんな言葉が有名なのかなどを見ていきましょう。
ニーチェの生い立ち・生涯
フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)は、1844年10月15日、ドイツ・プロイセン王国領、ザクセン州の田舎町で、父母ともに代々牧師である家庭の長男として生まれました。
哲学者・思想家・古典文献学者として活躍し、代表的な著書には『ツァラトゥストラはかく語りき』『道徳の系譜』『善悪の彼岸』『権力への意志』などがあります。
ニーチェは幼い頃から極めて優秀で、古典文献学者であるリッチュルによって才能を見いだされ、24歳という異例の若さでスイス・バーゼル大学の古典文献学の教授として抜擢されます。
その後体調を崩し、大学を辞職。各地を周遊しながら執筆活動を行います。1889年に精神に変調をきたして発狂。精神科病院に入院した後、母や妹に看護されたものの、1900年に55歳という若さで亡くなりました。
ニーチェは、現実の人間の存在に目を向けようとする「実存主義」の先駆者として有名です。また、あらゆる物事の根底に虚無を見いだし、既存の価値体系や権威を否定する思想である「ニヒリズム(虚無主義)」でもありました。彼は当時のヨーロッパで支持されていたキリスト教的思想を弱者の奴隷道徳とみなし、厳しく批判しました。
ニーチェが残したその他の名言
ニーチェは「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」以外にも、多くの名言を残していますので、いくつか紹介しましょう。
もっとも有名な言葉は、著書『喜ばしき知恵』『ツァラトゥストラはかく語りき』にある言葉「神は死んだ」だと言えるでしょう。宗教の持つ力が大きかった時代としては、異例の発言ではないでしょうか。
また、自分に正直に、かつ自らの言動に責任を持つことを説いた「人生を危険にさらせ」、自分自身こそが人生において勝つべき敵であることを示した「あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう」なども、ニーチェが残した言葉として有名です。
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「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の教訓「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」から学べること
ニーチェが残した「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」から、わたしたちの人生に生かせることを考えていきましょう。
どんな状況でも自分を見失わず、強い信念を持って生き抜くこと
何かに立ち向かうとき、見たくないことや知りたくないことに触れてしまうかもしれません。時には心に大きなダメージを受けてしまうこともあるでしょう。しかしそのようなときも、常に自分を見失わずにいれば、平常心を保てるはずです。
万が一のときに自分自身を守れるように、普段から自分の今までの言動を振り返ったり、考えを整理したりする時間を持つことで、自分に対する理解がより深まるでしょう。
もちろん、自分と違う意見に耳を傾ける柔軟性は大切ですが、譲れる部分と譲れない部分を明確にして、ふとした拍子に引きずり込まれないようにしたいものです。
自分を過信してうぬぼれることなく、常に用心すること
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」は、立ち向かう相手や物事を甘く見ることを避け、用心することの重要性を説いているとも考えられます。ふとした拍子に足をすくわれてしまうことは誰にでも起こり得るので、どんなときでも油断は大敵です。
自分だけは大丈夫だと慢心することで、大切なことが見えにくくなる可能性も出てくるでしょう。常に周囲に気を配って用心しておくことが、結果的には自分の身を守ることにつながるはずです。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」を人生に生かそう
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」は、19世紀の哲学者・思想家であるニーチェによる言葉です。難解な意味を持つ言葉のため解釈が分かれることもありますが、生きる上での本質を表している言葉であることは確かです。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の意味を自分なりに理解して、よりよい人生を送っていくために生かしましょう。』










