





















第24回「派遣と請負の違い」
https://apj.aidem.co.jp/column/617/




派遣と請負の違いとは? それぞれのメリット・デメリットも紹介
https://cadjob.co.jp/cad_course/workstyle/p1306/











雇用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%87%E7%94%A8
『雇用(こよう、雇傭、英: employment)は、当事者の一方(被用者、employee)が相手方(使用者、employer)に対して労働に従事することを約し、使用者がその労働に対して報酬を与えることを内容とする契約。(労働契約も参照。)
雇用する側は雇い主(やといぬし)・使用者(しようしゃ)、雇用される側は被用者(ひようしゃ)・使用人(しようにん)・従業員(じゅうぎょういん)などと呼ばれる。また、両方の意味で使われる言葉として雇用者(こようしゃ)・雇い人(やといにん)というものもある。
雇用者・雇用主を見つけるためには職業紹介事業・求人広告・求人情報誌などを使用する。キャリア・コンサルタントによるエージェントも存在する。
2016年にはシンクタンクの試算により20年以内に、日本の場合で労働人口の約半数にあたる49%が人工知能やロボットなどの機械に仕事を奪われ、従来の仕事が喪失する事態が生じ、世界的傾向となると予測している[1]。』
『雇用の意義
雇用は被用者が使用者に対して労働に従事することを約し、使用者が被用者の労働に対して報酬を与えることを約することを内容とするもので、その法的性質は諾成・有償・双務契約である(民法第623条)。
雇用契約は請負や委任と同様に他人の役務を利用することを内容とする労務型契約(労務供給契約)の一種である[14][12]。
伝統的には一定の事務処理を目的として相手方の判断に委ねるものが委任であり、雇用は労務そのものが目的となっている点で両者は異なるとされたが、出来高払制の労働のように区別が困難な場合もあるとされる[12][13]。
そもそも労務供給契約は第一に雇用の機会という点では企業側にイニシアチブがあり(労働市場における経済的従属性)、第二に企業組織の下では個々の労働は使用者の指揮命令と管理によって他律的に決定され(人的従属性)、第三に企業の組織化の進展により個々の労働関係は集団的・画一的に処理されるとともに様々な企業秩序による拘束がある(組織的従属性)など従属的地位に立つとされる[15]。このようなことから近時の学説では労働の従属性という観点を捉え、雇用・委任・請負とは異なる観点から、従属的労働関係たる「労働契約」という契約類型が別個に構成されるに至っている[12][13]。
なお、経済学においては雇用(賃労働)は労働力の売買であると観念されるが、法学においては独立した存在の物を客体とする契約としての売買や交換とは異なり、雇用は労働者の人格と不可分に結びついている契約であるという点が特に重視される[16](#労働法による修正も参照)。』
『労働法による修正
民法での雇用は、雇い主と労働者とが対等の地位にあるとの前提のもとに、それぞれ自己の自由意志によって締結される契約である。これは日本の民法がブルジョワ市民革命としてのフランス革命の精神に則って編纂されたフランス民法典(ナポレオン法典)の影響を大きく受けた市民社会モデルを想定しているためである。
しかし、労働者が生産手段を有する資本家に対して自らの労働力を時間を決めて提供し賃金を得るという雇用の本質の関係上、実際には労働者は事業主に対して経済的・社会的に従属的地位に立たされることになる[17][18]。そのため、労働法の分野では契約自由の原則に大きな修正が加えられる必要を生じ、国家は社会保障の観点から労働基準法などの各種労働法規を立法し労働者の保護を図っている[19]。
その結果、多くの労働契約には労働契約法・労働基準法・労働組合法など労働法の規定が適用されるため民法の規定が適用されることはほとんどない[20][21]。なお、家事使用人は労働基準法が適用されない典型例であるが(労働基準法第116条第2項)、2008年施行の労働契約法は「事業」を労働契約の要件にしておらず労働契約法については家事使用人にも適用がある[22]。
民法の規定は労働者側からの退職に民法第627条が適用されるなど補充的に機能する場合もあるが、退職に関する事項については労働基準法第89条3項によって就業規則の必要的記載事項とされていることもあり、退職についても実際には就業規則やそれに基づいて定められる個々の労働契約の定めによることとなる(多数説によれば民法第627条は任意法規であるとするが反対説もある[23])。以上のように労働法による大きな修正を受けてはいるが、理論上、民法の雇用の規定は労働法の基礎となる一般的規定としての意味を有する[21]。』
『雇用の成立
民法上、雇用契約は諾成契約であり不要式契約である[24]。ただし、労働基準法により、使用者は労働契約上の一定の項目につき書面による明示義務がある(いわゆる労働条件通知書。労働基準法第15条1項)。なお、労務者の募集広告は申込みの誘引にすぎない[24]。
一般的には雇用契約書(労働契約書)を双方の間で交わすことが多いが、雇用契約書自体は契約の成立には関係がなく、法的な義務でもない。ただし、労働契約法により、労働者及び使用者は、労働契約の内容についてできる限り書面により確認するものとされる(労働契約法第4条)。労働条件通知書の交付が法的な義務であることから、実務上は雇用契約書と労働条件通知書を一体にした書面を作成することが多い。』
『雇用の効力
被用者の義務
労務給付義務 – 労働者は使用者の承諾を得なければ自己に代わって第三者を労働に従事させることができない(第625条2項)。この規定に違反して第三者を労働に従事させたときは、使用者は契約の解除をすることができる(第625条3項)。
付随的義務 – 契約上・信義則上の秘密保持義務や競業避止義務などを負う。
使用者の義務
報酬支払義務 – 雇用契約では第623条により使用者は労働者に対して労働の報酬を与えることを約することを内容としているので報酬支払義務を負う。なお、2020年の改正法施行により、労働者は、次に掲げる場合には、既にした履行の割合に応じて報酬を請求することができることが明示された(第624条の2)。
1 使用者の責めに帰することができない事由によって労働に従事することができなくなったとき。
2 雇用が履行の中途で終了したとき。
付随的義務 – 契約上・信義則上の安全配慮義務などを負う。』
請負
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8B%E8%B2%A0
『請負(うけおい)とは、当事者の一方(請負人)が相手方に対し仕事の完成を約し、他方(注文者)がこの仕事の完成に対する報酬を支払うことを約することを内容とする契約。日本の民法では典型契約の一種とされ(民法632条)、特に営業として行われる作業又は労務の請負は商行為となる(商法502条5号)。』
『請負の意義
請負は請負人がある仕事を完成することを約し、注文者がその仕事の結果に対してその報酬を支払うことを内容とする契約である(632条)。
請負は雇用や委任などと同様に労務供給契約の一種であるが、請負においては、ある仕事を完成することを目的とし、そのための手段として労務の供給がなされる点で雇用や委任と異なる[1][2]。また、委任において委任者が報酬を受け取るためには特約が必要であるが(648条1項)、請負における請負人には当然に報酬が認められる(632条)。
仕事の内容は有形的(建物の建設など)なものに限らず無形的(講演や演奏など)なものであってもよい[3][2]。』

※ 本来は、会社なんかの「雇用者(雇う人)」と「被用者(雇われる人)」が、個別に「雇用契約」みたいな「契約」を締結して、労働関係における法律関係を処理していくのが基本だ…。
しかし、「資本主義」のところでも見たように、実際の力関係は、圧倒的に「雇用者側」が有利だ…。「雇われる側」は、基本的に「生産手段(利益を産出する手段)」を持ち合わせていない…(持っているなら、それを利用して、雇う側に回ればいい…)。それに対して、「雇用者側」は、「嫌なら、止めな…。雇われたがっている人間は、他にゴマンといるんだ…。」と言える立場にある…。
それで、こういう格差のある力関係を、放置して「自由契約」にまかせていると、ドンドン労働条件は悪くなって行って、しまいには、「労働者」の生活自体が成立しなくなってしまう…。そうなると、「国家」もへったくれもなくなってしまう…。
よって、現代は、どこの国家でも、そういう「自由契約」に修正を加えている…。それが、「労働組合」の結成を法律で保障し、団体交渉で「労働協約」を決めたり、それに基づく「就業規則」で細部を規制したりするやり方だ…。
労働法って何?トラブルを起こさない3つの心得ともしものときの解決法!
https://airregi.jp/magazine/guide/1312/
※ 労働法の詳しい解説では無いが、ここのサイトが極々基本的なところを抽出していて参考になったので、紹介しておく…。










https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61080620S0A700C2TCR000/
『同社の監査を担当していた大手会計事務所アーンスト・アンド・ヤング(EY)は、最大10億ユーロ(約1210億円)の預金があるとワイヤーカードが主張していたシンガポールの銀行に、少なくとも3年間、監査に必要な口座情報の開示を要請していなかった。その代わり、EYは第三者の受託会社やワイヤーカード自体から提供された文書やスクリーンショット(画面保存)に基づいて監査を進めていたのだった。』
『一部の人にとってはよく耳にする話だろう。2003年、イタリア大手食品グループのパルマラットを巡って様々な疑惑が広がっていた。その年の年末、米バンク・オブ・アメリカがパルマラットがオフショアに抱える関連会社が39億ユーロ(約4720億円)の預金を保有していることを示す文書は偽造されていたと明らかにした。パルマラットはその数日後、伊政府管理下に置かれた(編集注、同社は後にフランスの乳製品大手に買収された)。1999年から破産申請まで同社の会計監査を担当した大手会計事務所デロイトは後に、パルマットに1億4900万ドル(約160億円)、同社に出資していた投資家らに850万ドル(約9億1300万円)を支払うことに合意した。』
『だが、大企業が自社の資金をどこにどう保有しているかについて、監査人を務める大手監査法人が驚くほど無関心だった例はこれだけではない。米銀大手JPモルガン・チェースは2010年、7年間にわたり最大230億ドル(約2兆4700億円)に上る顧客たちからの預かり資金を別の口座で管理せず、自行のファンドの資金と混在させていたことを認めた。会計監査人の大手会計事務所プライスウォーターハウスクーパース(PwC)は何度も、同行が顧客からの預かり金を適正に管理しているとしていたが、後に英国で140万ポンド(約1億8700万円)の罰金を科された。当時、英国の会計事務所に対する罰金としては過去最高額だった。
一方、EY、デロイト、PwCと並んで「ビッグ4」と呼ばれる大手会計事務所のKPMGも、経営破綻した英建設大手カリリオンの監査を巡る疑惑で窮地に陥った。18年には会計業務など企業統治に関する規制を所管する英財務報告評議会(FRC)が「受け入れ難い監査品質の劣化だ」として、デロイトに制裁を科した。』
『事実が明らかになった後になって監査人を責めるのは簡単だ。ワイヤーカードに関しEYは、「19年度のワイヤーカードの監査については、第三者がEYを故意にだます目的で虚偽の書類を提出してきた。監査業界としては、最も徹底的、かつ幅広い監査を進めても、共謀による不正は暴けない場合があるとされている」と主張した。
だが、空売り筋の間では何年も前からワイヤーカードは何かがおかしいとささやかれていた。また、同社の新しい最高経営責任者(CEO)に就任したジェームス・フライス氏は取締役メンバーらに対し、基本的なチェックをきちんと進めていれば不正は明らかになったはずだと語ったという。』
『「ビッグ4の会計事務所は、さっさと確認を済ませて、すぐに問題なしと署名できるのがいい監査だと考えている。問題を発見したいなどとは思っていない」。こう指摘するのは税の元査察官で「Bean Counters」(編集注、会計士などカネに厳しい職業の蔑称。邦訳未刊)の著者リチャード・ブルックス氏だ。そして、こう続ける。「彼らは自分たちの監査業務を『安心の保証』と呼び、顧客を安心させることが自分たちの仕事だと考えている」
監査というビジネス構造自体が、この問題を悪化させている。監査法人は監査の対象である企業から選任され、その企業から報酬を得るのであって、もっと懐疑的な姿勢で監査に取り組んでほしいと考えている可能性が高い投資家や規制当局に依頼されて監査をしているのではない。しかもビッグ4にとって会計監査は、コンサルティングや税務サービスなどうまみの多い事業を提供する大きな組織の一部門にすぎない。これらのサービスは、監査部門の顧客になり得る企業に提供される。』
『こうした利益相反の問題を改善しようとする動きは2000年代初めから何回もあった。英米では監査する顧客に提供できる他のサービス業務を制限しようとした。さらに英FRCはビッグ4に監査業務にかかるコストと同業務から得られる利益は、自主的に他の事業と分離するよう要請した。だがこの計画、つまりFRCを新たな規制組織に刷新し、新組織に監査業務をほかの業務と分離させるだけの強制力を発揮できる権限を与えるという法案の審議は、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)で中断している。』
『ワイヤーカードの件は監査業務の問題が英米にとどまらないことを示している。監査をコンサルティング業務と切り離しても、監査する側にとっては、経営側の言葉をうのみにして、監査にかけるコストを削減したり時間節約のために重要なプロセスを飛ばしたりするインセンティブがなくなるわけではない。
「ビール工場を監査するならたるを数えるだけではだめで、たるを揺らして全部、中身が満タンであることを確かめる必要がある」と欧州議会の経済・通貨委員長を務めたシャロン・ボウルズ氏は言う。「だが、監査を担当する人は、誰もが自分がきちんと調べていなくてもばれるとは思っていない」
こんな話はもう聞き飽きた。監査のモデル自体を考え直す時だ。私たちは、当局が銀行業界のいいなりになってしまうと一般市民がその損失を被ることになることを既に学んだ。監査法人が、”餌”を与えてくれる主人の手を喜んでかむことなど決してない。
By Brooke Masters
(2020年7月1日付 英フィナンシャル・タイムズ紙 https://www.ft.com/)』
※ 肝心かなめの「会計監査」が、この体たらくだ…。
「株式会社」制度の根幹は、「株主(出資者)有限責任」→厳正な「会計監査(第三者かつ専門家としての「会計監査人(「公認会計士」の資格が必要)」がする)」→会社の決算書類(「損益計算書」、「貸借対照表」)の開示…、などだ…。
何段階も、会社の運営状態・財産状態を示す資料を作成・開示させて、何人もの内部者(取締役、監査役などの経営陣)、何人もの外部者(金融機関、取引先なんかの会社債権者など)、さらには「社外取締役」なんかも設けて、何段階も目を通させて、監視するように「制度設計」している…。
その専門家たる「会計監査人の会計監査」が、この体たらくではな…。
しかし、現実はそういうものだ…。
そういうものであることを前提に、自分の行動を決定していくより他は無い…。
※ 次に、「強力に人権(自由)が制約されている例」について、見ておこう…。
刑法の条項だ…。
『第三章 外患に関する罪
(外患誘致)
第八十一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
(外患援助)
第八十二条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。
第八十三条 削除
第八十四条 削除
第八十五条 削除
第八十六条 削除
(未遂罪)
第八十七条 第八十一条及び第八十二条の罪の未遂は、罰する。
(予備及び陰謀)
第八十八条 第八十一条又は第八十二条の罪の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の懲役に処する。
第八十九条 削除』
※ 外患誘致罪なんて、法定刑は「死刑」だけだぞ…。「無期懲役」ですら規定されていない…。
だから、「死刑廃止論」を声高に唱える人には、気をつけた方がいい…。もしかして、暗に「外患誘致罪」の廃止を狙っているのかもしれない…。そこいら辺を、よくよく見極めないとな…。
その周辺罪として、「外患援助罪」というものもある…。こっちも、「死刑又は無期若しくは二年以上の懲役」だから、相当な「重刑」だ…。
さらには、「外患誘致罪」「外患援助罪」は、「未遂罪」も処罰される…。
そればかりでは無い…。両罪の「予備罪」さらには、「陰謀罪」も処罰される…。「予備罪」とは、一定の「予備行為」を必要とする…。「陰謀罪」だと、そういう「予備行為」すら必要無い…。
「陰謀」する行為だけで、処罰される…。まあ、そういう「陰謀」が発覚して、逮捕される…、なんて事態は、ごくごく稀なケースだろうがな…。
『第二章 内乱に関する罪
(内乱)
第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
二 謀議に参与し、又は群衆を指揮した者は無期又は三年以上の禁錮に処し、その他諸般の職務に従事した者は一年以上十年以下の禁錮に処する。
三 付和随行し、その他単に暴動に参加した者は、三年以下の禁錮に処する。
2 前項の罪の未遂は、罰する。ただし、同項第三号に規定する者については、この限りでない。
(予備及び陰謀)
第七十八条 内乱の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の禁錮に処する。
(内乱等幇助)
第七十九条 兵器、資金若しくは食糧を供給し、又はその他の行為により、前二条の罪を幇助した者は、七年以下の禁錮に処する。
(自首による刑の免除)
第八十条 前二条の罪を犯した者であっても、暴動に至る前に自首したときは、その刑を免除する。』
※ 内乱罪は、「目的犯」だ…。「国の統治機構を破壊」する目的や、「その領土において国権を排除して権力を行使すること」を目的や、「その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱すること」を目的としていることを必要とする。そういう「目的」で、「暴動する」と内乱罪となる…。
この犯罪は、そういう目的での「暴動」における、果たした「役割」に応じて、処罰されるのが特徴だ…。
「首謀者」「謀議参与者・群衆指揮者」「付和随行者・単なる暴動参加者」に分かれて、処罰される…。
「首謀者」は、「死刑または無期禁錮」だ。「懲役」でなく、「禁錮」になっているのは、「政治・信条」において行動に出た場合があり、そういう「政治犯」の場合は、「名誉刑」としての「禁錮刑」が適切だ…、と考えたからだ…。「禁錮刑」だと、刑務所内でムリヤリ働かせられる…、ということは無いから、独房で寝っ転がって、差し入れの「本」ばかり読んでいることも、できる…(むろん、「検閲」は、されるだろうがな…)。
『第八章 騒乱の罪
(騒乱)
第百六条 多衆で集合して暴行又は脅迫をした者は、騒乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、一年以上十年以下の懲役又は禁錮に処する。
二 他人を指揮し、又は他人に率先して勢いを助けた者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
三 付和随行した者は、十万円以下の罰金に処する。
(多衆不解散)
第百七条 暴行又は脅迫をするため多衆が集合した場合において、権限のある公務員から解散の命令を三回以上受けたにもかかわらず、なお解散しなかったときは、首謀者は三年以下の懲役又は禁錮に処し、その他の者は十万円以下の罰金に処する。』
※ 騒乱罪は、上記のような「日本国の存立を危うくする」とか、「日本国の統治秩序を転覆させる」とかの「大それたことを考えずに」、単に「大きな騒ぎ(騒乱)を起こしたケース」を、処罰するものだ…。
「多衆で集合して暴行又は脅迫」と言っているが、「一地方の平穏を害する程度」に達することを要する、と解されている…。まあ、そうとう程度の警察官・機動隊員(銃器で武装している場合、場合によっては、自衛隊…。その前に、SATか…)を投入しないと鎮圧できないような程度だろうな…。
以下に、日本の有名な「騒乱事件」を挙げておく…。興味がある人は、見てくれ…。
騒乱罪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%92%E4%B9%B1%E7%BD%AA
大須事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
吹田事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E7%94%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
平事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
新宿騒乱(※いわゆる「新宿事件」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A8%92%E4%B9%B1
毎年、「憲法記念日」の近辺には、「憲法」や「人権」の問題を考える慣わし(ならわし)にしている…。
今年は、「コロナ騒動」で、かっこうの題材が提供された形だ…。「緊急事態条項」の話しだ…。
この機会だから、日本国憲法の代表的な「人権規定」の条項を、見ておこう…。
『第2章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条 日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。
第3章 国民の権利及び義務
〔国民たる要件〕
第10条 日本国民たる要件は,法律でこれを定める。
〔基本的人権〕
第11条 国民は,すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は,侵すことのできない永久の権利として,現在及び将来の国民に与へられる。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によつて,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであつて,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。
〔奴隷的拘束及び苦役の禁止〕
第18条 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。
〔思想及び良心の自由〕
第19条 思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。
〔信教の自由〕
第20条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
〔集会,結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕
第21条 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。
2 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。
〔居住,移転,職業選択,外国移住及び国籍離脱の自由〕
第22条 何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も,外国に移住し,又は国籍を離脱する自由を侵されない。
〔学問の自由〕
第23条 学問の自由は,これを保障する。
〔生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務〕
第25条 すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
〔教育を受ける権利と受けさせる義務〕
第26条 すべて国民は,法律の定めるところにより,その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
〔勤労の権利と義務,勤労条件の基準及び児童酷使の禁止〕
第27条 すべて国民は,勤労の権利を有し,義務を負ふ。
2 賃金,就業時間,休息その他の勤労条件に関する基準は,法律でこれを定める。
3 児童は,これを酷使してはならない。
〔勤労者の団結権及び団体行動権〕
第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は,これを保障する。
〔財産権〕
第29条 財産権は,これを侵してはならない。
2 財産権の内容は,公共の福祉に適合するやうに,法律でこれを定める。
3 私有財産は,正当な補償の下に,これを公共のために用ひることができる。』
※ 最初に言っておきたいことは、「基本的人権」と言えども、「無限定・無制限に保障されるものでは無い」ということだ…。
「自由」とか、「権利」というものは、必ずや他者の「自由」「権利」と衝突する…。「私の自由は、あなたの不自由。」「あなたの自由は、私の不自由。」という関係にあるのだから、「当たり前」の話しだ…。
そこで、必ずや「両者の調整、妥協」が必要となる…。そこを説明する「理屈」が、「内在的制約」というものだ…。本来、「自由・人権」には、「内在的な制約」があるのだ…、とか「理屈づけ」するわけだな…。
「内在的な制約」というものがあるなら、「外在的な制約」というものは、無いのか、というのが次の問題だ。
実は、ある。
というのは、「福祉国家」なるものの実現は、「私有財産権(財産権)」を強力に制限しないと、実現不可能だからだ…。
例えば、「生活保護」の実現、「義務教育の無償化」の実現、「労働者の労働権(より良い環境で働く権利、より良い賃金ではたらく権利など…)の保障」の実現、「児童・女子などを過酷な労働環境から守ること」の実現など…。これらの実現は、「私有財産(財産権)」を強力に制限しないと、到底実現は不可能だ…。
よく、立憲民主や共産党あたりが、「企業の内部留保は、けしからん!」とか、「このコロナ事態の今こそ、内部留保の放出を!」とか言っているが、「企業の内部留保」って「株主」の「私有財産」だぞ…。何の「補償」も無いのに、国家権力でその放棄を強制するなんてことが、日本国憲法のもとでできようはずが無い…。
しかし、「日本国憲法」は「福祉国家」観に立脚はしているとは考えられるんで、一定程度は「財産権の制約」も許容していると解されている…。
12条、13条は「一般的人権条項」と解されている…。その位置からして、人権規定の「総論」的な位置にあるからな…。そこで、ここで言っている「公共の福祉」は、人権相互間の調整を意味する「内在的な制約」を言っているもの…、と解される。
29条2項、3項の「公共の福祉」「公共のために」は、そこから一歩踏み込んで、「福祉国家」実現のための「外在的な制約」を規定したものと解される…。
このように、「人権の制約原理」にも、二種類のものがある、というのが通説的な見解だ…。
それから、「人権」のほうにも、「他者への影響の度合い(程度)」で斬った場合、段階がある…、と考えられる。
既に、精神的自由>財産的自由だった…。前者は、内在的な制約のみが可で、後者は外在的な制約も可…、だった。
さらには、「精神的自由」にも段階がある…、と考えられる。
内心の自由(思想・信条の自由、信教の自由、学問の自由)>集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由
21条は「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由」と並べて規定しているが、「他者への影響の度合い(程度)」という観点からは、並列ではあり得ない…。
「集会の自由」なんては、「届出も無しに」、あちこちで勝手に「集会」されたんでは、迷惑こうむって大変だ…。交通渋滞だって、起こりかねない…。
「結社の自由」も、「志を同じくする者同士が、結集して、何が悪い!」と言うんだが、「オウム真理教」みたいな「カルト教団」のようなものの「結社の自由」を肯定する人は、少ないだろう…。またまた、サリンみたいなものを、撒かれたんじゃ、堪ったものじゃないからな…。
「表現の自由」だって、同様だ…。あらゆる「表現」が「無制約に」認められるわけが無い…。
『刑法第230条
1項 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
2項 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。』
名誉毀損罪の成立には、「公然と」「事実を摘示」することを要する。ここで、「事実を摘示」とは、2項との対比から、「たとえ、それが真実であっても」と解されている。「その事実の有無にかかわらず」と、念押ししているしな…。
「たとえ、それが真実であっても」それを「公然と」指摘して、他者の「名誉を毀損」する言論は、まかりならん…、とされているんだよ…。
というわけで、同じく「人権・自由」とは言うものの、「他者への影響の度合い」に応じて、「制約の許容程度」には、段階がある…、と考えられる…。
例えば、「集会の自由」とかは、「他者へ影響する度合いが、大きい」から、「届け出制」とすることも、許容される…。しかし、「学問の自由」「宗教の自由」について、これを国家に「届け出る」なんてことは、許容されんだろう?
そういう風に、「人権・自由」の許容され得る「制約」というものは、「伸びたり、縮んだりする」ものなんだ…。
https://ps.nikkei.co.jp/souzokuzeirishi/?n_cid=PSDB0021
『2018年の民法改正では、自筆証書について“自筆”の要件が緩和された。2019年の1月13日以降に書かれた遺言書については、遺言書の財産目録の部分は手書きでなくてもよくなり、不動産は不動産登記事項証明書、預金は通帳の表紙のコピーでも可となった。
2020年7月には自筆証書遺言を法務局が保管する制度がスタートする。これによって、自筆証書遺言の改ざん、隠匿、紛失等のリスクがなくなるうえ、家庭裁判所の検認も不要になる。手数料等は今後決まる予定だ。 』
間接民主制のほうも、日本における選挙権の歴史は、明治憲法制定当時(明治
23年(1891年。明治維新から23年かかってる)の男子制限選挙(「直接国税
15円以上納める25歳以上の男子」。今の貨幣価値で、120万円くらいの納税額
らしい。税制が違うので、比較しづらいが、年収8000万円以上くらいではと
いう推定だ。人口の1.1%)、明治35年(1904年)の男子制限選挙「直接国税10円
以上納める25歳以上の男子」(人口の2.2%)、大正9年(1921年)の男子制限選挙
「直接国税3円以上納める25歳以上の男子」(人口の5.5%)、昭和3年(1928年)の
男子普通選挙「25歳以上の男子」(人口の20.0%)。選挙制の実施から、37年も
かけてやっと男子のみの普通選挙(納税額=財産によって左右されない、1人1 票制。ただし、男子のみ)が実現したわけだ。ここまでが、明治憲法下の話しだ。
太平洋戦争の敗戦により、1947年に「20歳以上の男女」(人口の48.7%)となっ
た。実に、選挙制の実施から56年かけて女子にも選挙権が与えられるという話
しになったわけで、今年2017年でたかだか70年の歴史なわけだ。その間、日本
国民は男女ともに上記の前提条件をクリアできる水準に達しているのか、自問し
てみる必要がありそうだな。
また、選挙権の拡大は戦争と密接に関係している。1894年が日清戦争、1904年が日露戦争、1914年が一次大戦、1945年が太平洋戦争だ。戦争で死んでいく国民からすれば、「実際に戦地で死んでくのは俺たちなのに、戦争を決定するのはぬくぬくと暮らしている金持ち連中かよ。ふざけんな!」って話しだ。1921年と1928年の拡大は、戦争の犠牲と関係なさそうだが、一次大戦に日本は直接参戦せず(中国でのドイツの権益を横取りするなど、セコい行動を取った)、戦地となったヨーロッパ向けの輸出なんかで空前の好景気となり、その利益の配分を求めて労働運動・小作争議も盛んに行われ、民主的な制度を求める風潮が盛んだった(初の政党内閣の原敬内閣もこの頃実現)。選挙制の実施から、37年経っている(約1世代)。
余談だが、歴史的な事象を考える場合、1世代-30年というのは、重要だ。
その人に与えた社会的な影響を考える場合、生まれてから成人して次世代の子孫
を作る頃までというのが一区切りになる。
次は、50年。次世代の子供が青年になる頃。その青年は、青年になるまで親の世代の社会的影響と自分の世代の社会的影響を受けて生きたことになる。
次は、60年。自分の次の世代が、さらに子孫を作る頃。3代目は、じいさん・ばあさんの社会的影響と親の社会的影響を受けつつ、自分自身の世代の社会的影響を受けて生きることになる。オレの寿命(単に生きてるだけでなく、知的活動が可能な年月。頭が使えている年月)自体あと○○年位のもんだろう。こうしてキーボードを叩いて、お前に考えてることを伝達できるのも、あと○○年位だと思う。だから、「ウザい」と思うだろうが、遺言だと思って我慢して聞け。
「親の小言と冷や酒は後でジワジワ効いてくる」と言うらしいからな。
それで、続けると、選挙制の実施からは37年、明治維新からは37+23=
60年(2世代)経ってるんで、そろそろ(男子だったら)国政に参加させても
良かろう。それ位の水準には達しているだろう(明治5年の「学制」の実施から
は、55年経っている)、という判断もあったのだろう。実際、大正デモクラシー
で都市部では新聞・ラジオが普及し、田舎でも雑誌が読まれ、ちょっとした金持
ち宅では蓄音機があったらしい(オレの親父は昭和○年、お袋は昭和○年の生まれだ。新聞を取ってたかは聞き漏らしたが、雑誌はそれなりに有ったらしい。蓄音機は、残念ながらなかったらしい)。
間接民主制の実現すらも、この位の年月がかかっている。その間黙っていても
実現される訳ではなく、まず識字率を地道に上げないといけなかった。
江戸末期、武士階級の識字率は100%。ただし、人口は全人口の1割。武士階級の識字者は、全人口比で10%。商人階級の識字率は、江戸においては70~80%。ちょっとした、丁稚になるのすら読み書きできないとダメだったらしい。人口比は、商人・職人階級が全人口の2割位か。その半分として、商人・職人階級の識字者は、全人口比で10%。農民階級の識字者は、ちょっと不明だが、村方三役はたぶん識字者だったろうと思う。自作農(本百姓)の識字率はどれ位か。半分はいかなったかも、と思う。小作農(水呑み百姓)の識字率は、おそらく零だろう。
農民階級の識字者は、全人口比でざっくり10~15%位か。全くの推量だが、識字率は全体で20~30%位か(それでも、世界的な比較で驚異的な数字という説もある)。
明治期に入ると、統計的な数字がある。というのは、徴兵制だったんで、軍隊
に入れるとき(20才)に読み書き・算術計算検査を実施したらしい。兵器の操
作方法を記してある取説が読めなかったり、砲弾の着弾計算を誤って味方の頭を
吹っ飛ばしたりされたら堪ったもんじゃないからな。
それによると、明治32年(1899年)で約50%位、1915年(大正4年)で88%位、1925年(大正14年)で98%位の数字になっている。1928年の男子普通選挙制の実施とほぼ重なるな。
ここから分かることは、間接民主制(選挙制度)の実現ですら上記のような地
道な年月の積み重ね、その間の国民(=選挙民)の育成が必要だということだ。
そのような基盤・前提が存在しないところに、形式だけ「国民主権だ!民主制だ!
選挙制度の実現だ!」と唱えて、選挙制度を実施したところで、機能しないとい
うことだ。アメリカは、民主制度の伝道者を自認し、民主制を押しつけ、非民主
制の政治システムを「独裁的だ」と言って攻撃するが、果たして民主制が機能す
る基盤・前提が存在するのかよくよく考察しないと。
※ 以下の投稿は、2年前に作って、お前にメールしたものだ。
しかし、オレにとっては、これが原点だ…。
常に、ここに立ち還って、制度のことや、体制のこと、世界における日本国の戦略のことなんかを、考えて行くんだ…。
そういう意味で、自戒を込めて、ここにも貼っておく…。
この頃は中国の国家としての台頭、北朝鮮の暴走、イギリスのEU離脱、トランプのアメリカの出現、EUでの右翼の台頭など「民主主義」とは何かって問題について再考を迫るような事象が続いているんで、それについてのオレの考えを語っておきたいと思う。
近代化とは、大きく言って政治面での近代化と経済面での産業革命と2つの側面から捉えることができると思う。
政治面での近代化は、王政を倒すこと(イギリスの清教徒革命(クロムウェル革命)、フランスのフランス革命)による共和制の樹立に代表される民主制の樹立だ。
経済面での近代化は、産業革命による生産手段の大変革だ。もちろん両者は密接に関連し、イギリスにおいては羊毛生産者と毛織物生産者が大成功し、彼らの経済活動の拡大の要求と王政下の下級官吏・下級将校の政治力拡大の要求が手を結んで王政打倒が実現された。
その時の思想的支柱が、「そもそも政府は、国民の幸福実現のために存在するもので、政府の権力は国民が契約によって付与したものだ。」(社会契約説)、「国民の利益や権利を侵害するような政府を、国民は抵抗することによって打倒する権利を有する。」(抵抗権)などの考えだった。
これらの政治的な思想は、「民主主義」と呼ばれるが、実は矛盾を内包している。
近代的な政治思想によれば、国民一人一人は「個人」として尊重され、生まれながらにして有するいかなる政治権力も剥奪することのできない「人権(human righits)」を有し、国権の最高の意思決定は最終的には「国民」にある、とされるが、その「国民」って具体的には一体誰なのよ、という問題だ。上記の社会契約説や抵抗権の考えからすれば、政府によって権力を行使される(統治される)すべての人間ということになりそうだ。すなわち、国家による統治権が及ぶすべての人間ということになる。
実際、上記政治闘争(市民革命運動、と呼ばれる)の初期においては、有力経済人や下級の官吏・将校が主力だったが、運動が拡大していくにつれて一般の民衆も参加していくようになり(もちろん初期の主力勢力側も、自分達に事を有利に運ぶため、積極的に扇動していった-大衆動員だな)、いざ王政打倒が実現し、新たな政治体制を作る段階に至ると、革命勢力内部での利害対立(自分たちの権利を最大限実現したい民衆側と、これを抑制したい有力経済人などの側の対立)が生じ、血で血を洗う闘争が行われた(イギリスにおける反クロムウェル闘争、フランスにおけるジャコバン派独裁に対するテルミドール9日のクーデターなど)。
結局、民衆代表による直接民主制的な統治は、政治経験の未熟さなどからうまくいかないということが学習され、イギリスでは王政が復活(処刑されたチャールズ1世の息子が亡命先のオランダから呼びかけた)し、フランスではナポレオンによる大統領制(ナポレオン自身は、下級将校の出身で一応選挙によって選出されたが、その権限は王政下の国王と殆ど変わらなかった)となって落ち着いた。
これらの歴史をざっくりまとめると、国民主権を叫んでの王政打倒-民衆代表
による直接民主制的政治-その失敗-直接民主制的な政治制度の修正、というこ
とになる。
疑問なのは、国民主権の考えからすれば、民衆代表による直接民主制こそ国民
主権を実現する政治制度ではないのか、なぜそれが失敗に終わっているのかとい
う点だ。
実は、国民主権による政治がちゃんと機能するには、その前提条件がある、と
いうのがオレの考察だ(制度には、必ずそれが妥当する基盤と妥当する範囲があ
る、ってのがオレの持論だ)。
その1:政治に参加する(立候補して議員になる、議員候補者を吟味して投票
する)国民にそれを実現するに足りる能力が備わっていること(一定水準の知的
能力)。
その2:一国の政治は、結局は諸勢力の妥協の産物で、自分だけの利益が10
0%実現されるものではない、ということを充分わきまえていること(自己抑制
の能力)。
その3:各人の利益を声高に叫んでその実現を迫れば、結局は制度を支えてい
る基盤を崩し、ひいては多くの人の利益を害する結果となることを、充分わきま
えていること(自分だけでなく全体に目配りできる能力)。
その4:議論においては、自分の利益も十分に主張するが、一旦決定が下され
れば鉾を納め、それに従う度量を持っているいること(自分に不利な決定にも耐
えることができる能力)。
その5:もちろん制度に絶対はなく、社会・国際情勢と共に変化させていくべ
きものなので、不断の検討と制度自体の改良を怠らないこと(政治制度に関心を
失わず、継続して考察し続ける能力)。
再言すれば、一定の知的水準を持ち、自己抑制でき、全体のことを考え、不利
な決定にも耐え、不断に考察し続ける国民でなければ、民主制なんてのは機能し
ないだろ、って話しだ。世界のどの国も、「民主国家」を自称するが、その前提
条件を備えている国家はあるのかよ(日本国も含めてな)、って話しだ。
それで、実際の諸国が採用している処方箋は、間接民主制を主とし、直接民主
制的な制度を極力抑えるというものだ。
日本国憲法においても、国家の意思決定は選挙で選ばれた国会議員が決定し、
直接民主制的な制度(国民の意思が「直接」国政に反映される制度)は、2つし
かない。1つは、最高裁の裁判官の国民投票(任官して初めて行われる衆議院選
挙の際に、一緒に行われることになっている。罷免したほうがよいと考える裁判
官の名前の下の欄に×印をつけるというもの)。2つ目は、一地方公共団体にの
み適用される法律に対する、その適用される地方公共団体の住民による承認の投
票(例えば、東日本大震災の復興費に充てるため、岩手・宮城・福島の住民だけ
に特別税を課すなんて法律の承認のような例が考えられる-実際例を、オレは知
らない)。この2つだけだぜ。
憲法記念日でもあり、「違憲(立法)審査権」について、語っておく。
立憲主義は、「憲法」という法を立てて、国家権力側にそれを守らせることによって、国家権力の恣意的な濫用を抑制し、国民の人権を保障して行こうとする考え方だ。通常は、「憲法典」という「成文法」を制定し、それを公布する。
しかし、別に「憲法典(例えば、「日本国憲法」とか)」を制定しなくても、国家の基本的なあり方や、根本的な考え方について規定する「法」であれば、それが「憲法(不文法)」だ。現に、立憲主義発生の地とされる、英国(1215年大憲章が、その精神の始まりとされる)においては、「英国憲法典」みたいな成文法は、存在しない(イギリスの憲法 https://ja.wikipedia.org/wiki/イギリスの憲法 )。そして、これを承継しているアメリカ合衆国(元来が、英国の植民地として始まっている)においては、逆に「1787年アメリカ合衆国憲法」と言うものが制定されている。これは、現在も機能している世界最古の成文憲法と評価されている。
こういう風に、「法」を立てて、それを守らせることによって、国家権力の濫用を規制して行こうとする考え方において、次に問題となるのは、「国家権力側が、法(憲法)に反する振る舞いをした場合、それをどういう方法で、「違法だ(憲法違反だ)」と宣言し、止めさせて、本来の軌道に戻させるのか、と言うことだ。
「法に反する」と判断することなので、国家作用としては、立法・行政・司法のうちの、「司法」作用に含まれることだろう。そして、それを実際に取り扱う部署としては、「裁判所」に管轄させることが、自然な考え方だろう。それで、各国の法制度においても、「裁判所」に「違憲審査権」を与えて、国家権力側の憲法違反を審査させる、という仕組みが殆んどだ。
しかし、ここに大矛盾があるんだよ。
国民主権の考え方からすれば、国民主権 → 国民代表たる議会 → それが、制定する法律 という構造だ。しかし、「違憲審査権」は、その国民代表たる議会が制定した「法律」を、非民主的な「裁判所」「裁判官」が覆すわけだからな…。
「裁判官」は、国民代表か?選挙で選ばれているのか?国民の意思が反映されているのか?立法府たる議会(国会)は、「国権の最高機関」じゃなかったのか?( 第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。) 司法府は、三権の頂上に立つ第四権なのか?
ここでは、「国民主権」と「法の支配」が激突するんだよ。( 法の支配 https://ja.wikipedia.org/wiki/法の支配 )
両者ともに追求すべき価値なんで、解決方法としては、両者ともに成立させる方向となる。しかし、ここから先は、「国会」と「裁判所」のどちらに信頼を置くか、と言う各国の歴史的な経緯をも踏まえた、制度設計の話しとなる。
まず問題となるのは、「憲法裁判所」と言う「違憲審査権」を専門に扱う特別な裁判所を設置するのかどうかだ。
次に問題となるのは、違憲審査権の内容として、「抽象的違憲審査権(特定の法律の条項や行政行為が、憲法に違反しているかどうかと言うことそのものを審査すること)」を認めるのかどうかだ。
日本国憲法の通説的な解釈としては、「憲法裁判所」は設置されていない(そういう憲法の条文は、存在していない) → 「抽象的違憲審査権」は認められていない(そういう憲法の条文は、存在していない。逆に、違憲審査権を認める81条は、「第6章 司法」の中に置かれている) → 付随的違憲審査権と解される と言うものだ。
「付随的違憲審査権」とは、違憲審査は、通常の訴訟(民事訴訟:国家行為によって損害を受けたとして、損害賠償請求していく、刑事訴訟:法律違反として起訴されたが、そもそもその「法律」が「違憲」だから、無効で、無罪だと主張する)の中で、直接には「法律」の適用の成否を争う中で、その法律が「違憲でないのか」を付随して審査する、と言うものだ。
日本国憲法は、その制定の歴史的な経緯から、アメリカの影響を強く受けている。だから、日本国憲法の定める「違憲審査権」も、アメリカ流のものと解するのが、穏当な憲法解釈だろう…、と言うのが通説的な憲法解釈だ。
あと、付け足しとして、「法の支配」と「法治主義」について、語っておく。
「法の支配」とは、上記Wikiにもある通り、「rule of law」の日本語訳だ。
ここにおける「law」は、単なる「法律」ではない。「正義の法」という概念をも、含んだものだ。単に、立法府が制定した「法律」だから、常に適用されるのだ、と言うことになったら(これが、「法治主義」。中国共産党の得意技だ)、そもそも「違憲審査」とか成立しない話しだろ?国民代表たる立法府も、間違うことがある。その場合は、「正義の法」によって、それを正すことができるのだ、としない限り「違憲審査」とか、できない話しになるだろ?
しかし、こう言うと直ちに問題が生じる。「正義の法」って、何?誰が、どうやって判定するんだ?という問題だ。争うヤツは、いつだって「自分の主張は、正義だ。」と言い立てるに決まっている。それぞれが主張する「正義」と「正義」が衝突するから、争いになるんだよ。それをどういう風に、どこら辺で妥協させるのか、がいつだって問題になるんだ。結局は、制度設計の話しになる。
ヨーロッパ近代の歴史において、英国流とフランス流(ドイツも含めて、大陸流と称されることがある)とに分かれた。
英国では、大憲章の歴史的な経緯もあり、貴族が穏健な議会を形成し、議会制民主主義を採用し、わりと国民代表を信頼する制度設計となった(司法府の権限を、縮小する方向となる)。
フランスでは、フランス革命の経緯もあり、国家権力側を徹頭徹尾信頼しない流れとなり(司法府も国家権力側の一味だ、とする)、特別な「憲法裁判所」を設置する流れとなった。
いずれにおいても、血で血を洗う闘争の果ての妥協の制度なんで、その制度に込められた「血の重み」は、相当なものだ。
しかし、日本国の制度とて、それに劣るものでは無いぞ。一大内戦だった「戊辰戦争」の末の明治維新の成立、西南の役を初めとする武士の反乱の鎮圧、日清・日露の戦争、一次大戦における大陸への派兵、ソ連成立への干渉の派兵(シベリア出兵)、ノモンハンでのソ連との戦闘、そして大東亜の欧米勢力からの解放を掲げて戦った大東亜戦争(太平洋戦争)…、とたっぷり血が流れている(原爆投下も、あったしな)。
よく、日本は市民革命を経験していないんで、人権保障に弱いところがある…とか言う論があるが、とんでもない話しだ。
憲法記念日にあたって、日本国憲法が成立するまでに日本国及び日本国民がはらった犠牲に思いをはせることも、有意義なことなんじゃないのか…。