本日、書店搬入です! 新刊『自転車で勝てた戦争があった』を、ミリタリーの棚で探そう!
https://st2019.site/?p=22085

『いや~、待ち遠しかったっす。ネットでは5月初旬から流通してますけど、街の書店さんへの出荷が未だでしたからね。』
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古舘伊知郎、日本に報道の自由「ない」民主党政権時代「大臣クラスから直で番組に電話が…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/14861c3fe67e85674ba4b3c401848933d2327514
『5/5(日) 17:19配信
フリーの古舘伊知郎アナウンサー(69)が、5日放送の読売テレビ「そこまで言って委員会NP」(日曜午後1時30分)に出演。日本の報道の自由について言及した。
【写真】日本の報道の自由について言及した古舘伊知郎
国際NGO「国境なき記者団」は3日、2024年の「報道の自由度ランキング」を発表。調査対象の180カ国・地域のうち、日本は70位(前年68位)だった。
古舘アナは日本に報道の自由があるかについて、「ない」とし、パネルに「民主党政権時代、大臣クラスからクレームが来た」と掲げた。
古舘アナといえば、04~16年まで、テレビ朝日系報道番組「報道ステーション」のMCを務めていたが、「09年に民主党が政権を取った以降の印象で言うと、結構大臣クラス、政治家から直で番組なりに電話がかかってきて『あのキャスター黙らせろ』とか、『すぐ謝罪しないと困る』とか言ってくる感じがあったんですよ。ええって思ってたんですよ」。
12年に自民党が政権を取り戻し、第2次安倍内閣となったが「自民党は3年間観察したと思います。ちょっと洗練された。第2次安倍政権から。全然、直で来ないですよ。番組や僕なんかに。でも、政治部記者とかから、さざ波のように『あの人がこうで、幹事長がああで、こうみたい』って言いながら廊下ですれ違ったりしますよ。こういうことが幻覚? 幻聴? みたいなことはよくあるんですよ」と漏らした。
作家の門田隆将氏や竹田恒泰氏が、放送法第4条を無視した報道が行われており、報道の自由はあると主張すると、古舘アナは「放送法第4条は解釈もいろんな角度がある。門田さんや竹田さんが言っているのももちろんあるけれど、一方で、制作とか編集の自由度を持っている。だから責任が生じる。そういう風にテレビ局側やメディア側がしっかり自律するという見方もある。放送法第4条を1方向だけで捉えたら危険です」と反論していた。』
外交は内政の手段にあらず
https://cigs.canon/article/20240408_8034.html
『産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2024年4月4日付)に掲載
来週から岸田文雄首相が国賓待遇で訪米する。“国賓訪米”は2015年の安倍晋三元首相以来、9年ぶり。重要な外交日程なのだが、日本マスコミの報道ぶりは相変わらずのようだ。
例えばリベラル系は、こんな具合。
《もがく首相、険しさ増す政権浮揚の道》
《米議会演説も念頭に政権浮揚につなげる狙いがある》
《日米外交筋「岸田氏は総裁選を乗り切れるか」と質問》
保守系も意外に手厳しい。
《逆風の中で外交成果を焦れば、国益を損なう事態も》
《国賓待遇で招かれた“お土産”を持っていく心配あり》
しかし、この種の論調を鵜呑みにしてはならない。これらの多くは政治部記者に典型的な「政局目線」記事だと思うからだ。
■「政治部」目線で読むな
日本の首相訪米報道は今もワンパターン。首相が訪米する、支持率がどうなる、政権浮揚のために何をアピールして、「お土産」をばら撒く…と分析する。何故こうなるのか、恐らく理由は2つある。
第一は、首相訪米を仕切るのが政治部記者の多い官邸記者クラブだからだ。政治部記者なら当然、内政・政局に関心があるので、どうしても外交も内政に関連付けて報じる傾向がある。外信・国際部の専門記者とはかなり違う視点だが、この傾向は、もしかしたら、明治時代から変わっていないのではないか。
■外交は静止画ではない
第二の理由は、外交が動的だからだ。個々の外交問題には紆余曲折の歴史があり、それぞれに長い経緯がある。要は、外交は「長編動画」なのだが、一部素人記者は一部の「静止画」だけを拡大して報ずる。もちろん、全ての政治部記者が「素人」ではない。それなりに勉強はしているだろう。でも「静止画」は大きな流れの「動画」の1コマに過ぎないことを理解している書き手は意外に少ないと思う。
筆者の見るところ、1945年以来、日本周辺で今ほど安全保障環境が激変したことはない。しかも、こうした変化は元に戻らない、不可逆的なものである可能性が高い。
内政の流れだけで外交を見ようとすると、今回の訪米も岸田首相が「勝った、負けた」の話になってしまう。
だが、そんなことは外交の大局ではない。
外交を「静止画」ではなく「動画」で考えれば、今の外交努力は必ず何カ月後、何年後かに活きてくるはず。こうした従来の成果の着実な積み重ねが、内閣ではなく国の利益、つまり国益を増進させる。事の本質は「内閣支持率が上がった」といった話ではないのだ。
■外交・安保当局の本音
少なくとも筆者が外務省現役時代、首相訪米を「政権浮揚」「お土産」といった発想で企画・実行したことはなかった。もちろん、成功すれば内閣支持率は上がるが、それは外交的成果の「副産物」に過ぎない。歴代の首相たちも、一部政治部記者が考えるような「内政視点」だけで、自らの訪米を考えることはなかったと記憶する。内閣総理大臣の外交は日本国そのものを背負っている。この点は岸田首相も同じだろう。
■今回の訪米の意義
先週、岸田首相は「国際社会が歴史的な転換点を迎える中にあって、法の支配に基づく国際秩序を維持・強化する、自由で開かれたインド太平洋を実現するために、日米比3カ国の連携を今回の訪米において力強く打ち出す、これは大変重要な取り組み」だと述べた。筆者も同感である。内政問題を過小評価するつもりは毛頭ないが、外交と内政を必要以上に関連付けて論じるのは、もうやめたらどうか。首相訪米の記事執筆はそろそろ外信・国際部記者主導にしてはどうだろうか。
(宮家 邦彦)
Kunihiko Miyake
理事・特別顧問
立命館大学 客員教授
外交政策研究所代表 』
林文夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%96%87%E5%A4%AB
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
林 文夫生誕 1952年4月18日(71歳)
国籍 日本の旗 日本
研究機関 ペンシルベニア大学
コロンビア大学
東京大学
一橋大学
政策研究大学院大学
研究分野 マクロ経済学
応用計量経済学
母校 東京大学 B.A. 1975
ハーバード大学 Ph.D. 1980
博士課程
指導教員 デール・ジョルゲンソン
オリヴィエ・ブランチャード
影響を
受けた人物 マーティン・フェルドシュタイン
エドワード・プレスコット
クリストファー・シムズ
受賞 円城寺次郎経済論文賞 1993年
第1回日本経済学会 中原賞1995年
第41回日経・経済図書文化賞1998年
日本学士院賞・恩賜賞2001年
情報 – IDEAS/RePEc
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林 文夫(はやし ふみお、1952年4月18日 – )は、日本の経済学者。
専門は、マクロ経済学・計量経済学。
ペンシルバニア大学教授、コロンビア大学教授、東京大学教授、一橋大学教授、政策研究大学院大学教授を歴任。アメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員、Econometric Society終身特別会員、アメリカ経済学会外国人名誉会員。2001年日本学士院恩賜賞受賞。1995年日本経済学会第一回中原賞受賞。
略歴
1952年岐阜県生まれ[要出典]。1975年に東京大学経済学部卒業後、ハーバード大学に留学、デール・ジョルゲンソン教授の指導の下[要出典]1980年に同博士課程を修了(Ph.D)。
その後、ノースウェスタン大学経済学部助教授(1980-1982)、筑波大学社会工学系助教授(1982-1985)、大阪大学経済学部助教授(1985-1988)、ペンシルベニア大学教授(1988-1993)、コロンビア大学教授(1993-1995)、東京大学経済学部教授(1995-2009)、一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授(2009-2015)を経て、2015年政策研究大学院大学政策研究科教授[1]。
その間、日本経済学会第一回中原賞(1995年)や日本学士院賞恩賜賞(2001)を受賞した[1]。また、1988年にはEconometric Society終身フェローに、2005年にはアメリカ芸術・科学院外国人名誉会員、2020年にはアメリカ経済学会外国人名誉会員に選ばれた[1][2]。
なお、東京大学在籍中(1995-2009)には大阪大学社会経済研究所教授(併任)や東京大学大学院経済学研究科附属日本経済国際共同研究センター教授も務めている[1]。
著書
単著
Econometrics, Princeton University Press, 2000.
Understanding Saving: Evidence from the United States and Japan, MIT Press, 1997.
編著
『経済停滞の原因と制度(経済制度の実証分析と設計)』(勁草書房、2007)
『金融の機能不全(経済制度の実証分析と設計)』(勁草書房、2007)
『経済制度設計(経済制度の実証分析と設計)』(勁草書房、2007)
共編著
Structural Impediments to Growth in Japan (National Bureau of Economic Research Conference Report), University of Chicago Press, 2003.
論文
Hayashi, Fumio; Prescott, Edward C. (2002). “The 1990s in Japan: A Lost Decade”. Review of Economic Dynamics 5 (1): 206-235. doi:10.1006/redy.2001.0149.
Altonji, Joseph G.; Hayashi, Fumio; Kotlikoff, Laurence J. (1997). “Parental Altruism and Inter Vivos Transfers: Theory and Evidence”. Journal of Political Economy 105 (6): 1121-1166. doi:10.1086/516388.
Hayashi, Fumio (1982). “Tobin's Marginal q and Average q: A Neoclassical Interpretation”. Econometrica 50 (1): 213-224. JSTOR 1912538.
関連項目
東京大学の人物一覧
ハーバード大学に関係する日本人の一覧
脚注・出典
[脚注の使い方]
^ a b c d 政策研究大学院大学教員情報.2016年4月23日閲覧。
^ 日本経済学会1995年度中原賞受賞者.2016年4月23日閲覧。
外部リンク
林文夫のHP
表話編歴
新古典派経済学者
表話編歴
中原賞
表話編歴
日本経済学会会長
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最終更新 2023年9月22日 (金) 00:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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』
5月に並木書房から発売される『自転車で勝てた戦争があった』の目次(抜粋)は以下の通りです。
https://st2019.site/?p=21987
『5月に並木書房から発売される『自転車で勝てた戦争があった』の目次(抜粋)は以下の通りです。
第1章 インパール作戦 「置き去り」にしたかどうかで決まった「餓死者数」
◎「チンディッツ」部隊とは?
◎患者を後ろへ退げられないとき、食糧も前へ行かない
第2章 日露戦争は「自転車にとってのタイミング」が悪かった
◎第2次ボーア戦争よりも前の自転車は《高額なオモチャ》だった
◎ダニエル・テロンの自転車コマンドー戦術
◎「自動車」が「自転車」のライバルとして登場したタイミングの悪さ
第3章 なぜ「マレー進攻作戦」だけが「銀輪」活用の成功例となってしまったのか?
◎日本の自転車工業と幕末人力車の縁
◎日清戦争と自転車
◎対米戦争後半の内地自転車事情
第4章 「東部ニューギニア」と「ガダルカナル」の悪戦を、自転車は変えられたか?
◎補給点に物資が堆積していても、前線では飢えてしまう仕組み
第5章 ベトナム人だけが大成功できた理由は?
◎「ブチル・ゴム」チューブと「インドシナの独立」は、関係がある?
第6章 自転車は「エネルギーと食料の地政学」をこれからも左右する
◎鉄道と自転車には、相通ずるところがあり、それは中世の「駱駝」と比べられる
◎イタリア軍の先進的な考え方
◎手押しスクーターは、非常時の食料・肥料・薪炭の配分に大活躍する
コラム「自転車歩兵部隊を乗馬歩兵部隊と比べた長所と短所は何か?」
あとがきにかえて 少子高齢化社会に向き合いつつ、周辺国からの侵略に強靭に対処するには』
自転車で勝てた戦争があった 単行本(ソフトカバー) – 2024/5/2
https://www.amazon.co.jp/dp/4890634487?tag=maftracking272143-22&linkCode=ure&creative=6339

『先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37パーセントを占めるといわれる《広義の餓死者》。
だが、1950年代のベトナム兵たちが主用したような「押して歩く自転車」を、兵糧輸送と患者後送の手段として役立てる着想があったなら、餓死者数はゼロにおさえられた可能性がある。
ではなぜ帝国陸軍のエリート参謀たちにはそれができなかったのか?
これまで誰も答えてくれなかった疑問を、本書はひとつひとつ解き明かす。
古今の自転車技術を探り、《追試実験》によって確かめられた真実……。日本兵は〝餓死〟する必要はなかった!』
『 商品の説明
レビュー
わたしは、近未来に、古くてあたらしい《自転車》や《無動力のスクーター》が、何万人もの命を救うことになるだろうと思っています。
この1冊を書いたのは、その未来を皆さんに伝えたいためです。
サドルも、チェーンも、ペダルも、ギヤも、ゴムチューブも無い「押して歩く」だけの自転車を調えるという着想が、もし戦前のわが国の指導者層に持てていたならば、先の大戦で、わが国は、敗けなかったかもしれません。
この可能性を頭の片隅に置いて史実の数値を眺めているうち、「それは妄説ではない」と思われてきた。その文献確認で、昨年(2023年)は、すっかり時間を費やしました。
〈「序」より〉
著者について
兵頭 二十八(ひょうどう にそはち) 1960年長野市生まれ。陸上自衛隊北部方面隊、月刊『戦車マガジン』編集部などを経て、作家・フリーライターに。既著に『米中「AI」大戦』(並木書房)、『有坂銃』(光人社FN文庫)など多数。現在は函館市に住む。
』
茅誠司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%85%E8%AA%A0%E5%8F%B8
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
茅誠司
1961年頃
生誕 1898年12月21日
日本の旗 日本神奈川県中津村(現・愛川町)
死没 1988年11月9日(89歳没)
日本の旗 日本東京都
国籍 日本の旗 日本
研究分野 金属物理学
研究機関 東京大学工学部
出身校 東京高等工業学校電気科
東北帝国大学理学部
主な受賞歴 学士院賞(1942)
文化勲章受章(1964)
補足
第17代東京大学総長(1957-1963)
プロジェクト:人物伝
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茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 – 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 – 1963年)。
人物・来歴
神奈川県生まれ。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部卒業。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。
戦後間もない頃から吉田茂首相の私的なブレーンとしての「昼めし会」のメンバーであり、傾斜生産方式の構想の場に居たことが政治学者五百旗頭真(戦後政治を専門とする)によって記述されるなど社会的活動も多大である。
専門は、強磁性結晶体の研究。しかし、茅が師事していた本多光太郎は、茅の考え方に否定的だった。
日本学術会議会長として日本の南極観測参加に尽力する。
また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。
東京大学総長退任時の卒業式告辞で述べた小さな親切運動は社会現象となり、社団法人の設立につながった。
茅は同法人の初代代表として23年間在職した。同法人は社会全体に社会道徳や親切を広める活動団体の一つとして続いている。
年譜
1920年(大正9年)- 3月 東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業、同期に土光敏夫等[1]
1923年(大正12年)- 3月 東北帝国大学理学部物理学科卒業、のち本多光太郎に師事
1926年(大正15年)- 4月 同大学助教授
1929年(昭和4年)- 1月 東北帝国大学より理学博士、論文は「強磁性結晶体の磁化」
1931年(昭和6年)- 5月 北海道帝国大学教授
1943年(昭和18年)- 12月 東京帝国大学教授
1954年(昭和29年)- 1月 日本学術会議会長、この年社団法人日本アイソトープ協会会長
1955年(昭和30年)- 世界平和アピール七人委員会の結成に参加
1956年(昭和31年)- 産業計画会議委員
1957年(昭和32年)- 12月 東京大学総長
1961年(昭和36年)- 日本学士院会員
1963年(昭和38年)- 3月 東大総長退任をひかえた最後の卒業式告辞で「小さな親切」の重要性について言及、6月 社団法人小さな親切運動の本部設立に伴い初代代表に
1964年(昭和39年)- 4月 東京大学名誉教授、11月 文化勲章受章
1966年(昭和41年)- 1967年東京都知事選挙への立候補を大久保留次郎らに推薦されるが、健康を理由に辞退[2]。
1969年(昭和44年)- 4月 春の叙勲で勲一等瑞宝章受章
1975年(昭和50年)- 4月 春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章
1980年(昭和55年)- 放送文化基金理事長。
1982年(昭和57年)- 東京工業大学学百年記念事業資金募金名誉顧問[1]
1983年(昭和58年)- 10月 復旦大学より名誉博士号授与(中国の学術機関から日本人に対して初)
1986年(昭和61年)- 小さな親切運動本部代表を退任
1988年(昭和63年)- 11月9日 死去、満89歳。贈従二位(没時叙位)、賜銀杯一組(没時賜杯)
著書
『強磁性結晶体論』 岩波書店、1936年、科学文献抄
『金属の物理』 河出書房、1948年、物理学集書
『強磁性』 岩波全書、1952年
『科学技術の進歩と原子力の利用』 民主教育協会、1958年、IDE教育選書
『青少年とともに 茅誠司講演集』 青少年育成国民会議、1968年
『雪椿』 雷鳥社、1969年
『続雪椿』 雷鳥社、1969年
『現代社会を考える』 日本法令様式販売所、1972年
編共著
『現代学問のすすめ』 編、大蔵出版、1954年
『今日の知慧 学界余滴より』 編、大蔵出版、1955年
『小さな親切』 編、光風社、1964年
『世界にほこる日本人 新しい世界の伝記』 編、学習研究社、1965年
『科学と現代』 編、日本放送出版協会、1967年、NHK現代科学講座
『未来へおくる科学統計資料』 赤堀四郎 共編、毎日新聞社、1970年
『未来へおくる科学レポート』 赤堀四郎 共編、毎日新聞社、1970年
『わたくしの幼児開発論 能力はこのように伸びる』 井深大・鈴木鎮一 共著、講談社、1970年
『現状打破の発想』 井深大 共編、ダイヤモンド社、1979年
翻訳
C. カー『大学の効用』 監訳、東京大学出版会、1966年
関連人物
蘇歩青 - 仙台で同じ家に止宿した高工・大学の後輩[3]
脚注
[脚注の使い方]
^ a b 東京工業大学百年記念館 設立30年記念誌東京工業大学博物館
^ 佐藤栄作 (1998). 佐藤栄作日記〈第2巻〉. 朝日新聞社. p. 446
^ 【21-15】【近代編10】蘇歩青~日本との関係が深い中国の「数学王」科学技術振興機構
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、茅誠司に関連するカテゴリがあります。
「小さな親切」運動本部
「菊かおる」(昭和39年11月公開) - 中日ニュース564号(動画)・中日映画社
先代
山内恭彦
日本物理学会会長
第9代:1953年 – 1954年
次代
小谷正雄
先代
新設
日本原子力学会会長
1959年 – 1961年
次代
菊池正士
表話編歴
東京大学総長(第17代:1957年 – 1963年)
表話編歴
国立大学協会会長(第3代:1957年 – 1963年)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ:
茅誠司20世紀日本の物理学者日本学士院賞受賞者勲一等旭日大綬章受章者勲一等瑞宝章受章者文化勲章受章者日本学士院会員日本学術会議会長日本の原子力関連人物ソビエト連邦科学アカデミー外国人会員大阪万博に関係した人物東京大学総長東京大学の教員北海道大学の教員東北大学の教員私の履歴書の登場人物東北大学出身の人物東京工業大学出身の人物神奈川県立厚木高等学校出身の人物放送文化基金神奈川県出身の人物1898年生1988年没
最終更新 2023年12月13日 (水) 02:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。』
※ 同じ名前の法人が、2つあるんで、混同しやすい…。
※ 株式会社と財団法人だ…。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「日本総合研究所 (株式会社)」とは異なります。
この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2022年12月)
一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2022年12月)
雑多な内容を羅列した節があります。(2022年12月)
出典検索?: "日本総合研究所" 財団法人 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
一般財団法人日本総合研究所団体種類 一般財団法人
設立 1970年8月31日
所在地 東京都港区赤坂四丁目8番20号 ASOビル6階
北緯35度40分34.6605秒 東経139度44分2.2441秒座標: 北緯35度40分34.6605秒 東経139度44分2.2441秒
法人番号 2010405010335 ウィキデータを編集
主要人物 設立者 野田一夫
会長 寺島実郎
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一般財団法人日本総合研究所(いっぱんざいだんほうじん にほんそうごうけんきゅうじょ、Japan Research Institute)は、日本のシンクタンク。
1970年8月に野田一夫が茅誠司と設立した。
各種調査研究事業を行うほか、名古屋事務所では医療・介護・福祉施設や一般企業に対する教育研修事業をグループ企業とともに行っている[1]。
元内閣府および経済産業省所管。略称は「日総研」、「JRI」、「日本総研」など。
事務所
本部:東京都港区赤坂四丁目8番20号 ASOビル6階
東京事務所:東京都新宿区四谷一丁目21番2号 ニュー四谷ビル8階
特別研究本部:東京都千代田区一番町10番2号 一番町Mビル7階
名古屋事務所:愛知県名古屋市中村区則武本通1丁目38番
沿革[2]
1970年8月 - 設立。
1977年5月 - 名古屋事務所を開設し、教育研修事業を開始。
1979年3月 - 大阪事務所開設(1985年8月閉鎖)。
1982年12月 - 本部を分離し、東京事務所開設。
1983年 - 名古屋事務所の出版部門を分離し、株式会社日総研出版を設立。
1986年 - 株式会社日総研出版の編集デザイン部門を分離し、株式会社日総研印刷を設立。
1993年4月 - 特別研究本部開設。
2000年12月 - 評議委員会設置。
2012年4月 - 一般財団法人日本総合研究所に移行。
歴代役員
名誉会長
茅誠司(1985年5月 - 1988年11月)
岸田純之助(1990年5月 - 2012年9月)
会長
初代:茅誠司(1981年5月 - 1985年4月)
2代:岸田純之助(1985年5月 - 2001年5月)
3代:野田一夫(2001年6月 - 2006年3月)
4代:寺島実郎(2006年4月 - 2010年5月)
5代:野田一夫(再任、2010年6月 - 2016年5月)
6代:寺島実郎(再任、2016年6月 - )
理事長
初代:茅誠司(1970年8月 - 1981年4月)
2代:野田一夫(1981年5月 - 2001年5月)
3代:寺島実郎(2001年6月 - 2006年3月)
4代:野田一夫(再任、2006年4月 - 2010年5月)
5代:寺島実郎(再任、2010年6月 - 2016年5月)
6代:岸田良平(2016年6月 -2018年5月)
6代:松岡斉(2018年6月 - )
副理事長
初代:野田一夫(1975年4月 - 1981年4月)
2代:菅家茂(1981年5月 - 1993年4月)
3代:西藤冲(1993年5月 - 2008年5月)
4代:富永哲郎(2008年6月 - 2013年6月)
5代:岸田良平(2013年7月 -2016年5月)
2016年5月限りで副理事長廃止。
所長(常勤)
初代:野田一夫(1970年8月 - 1975年3月)
2代:菅家茂(1975年4月 - 1981年5月)
3代:塩田長英(1981年6月 - 1990年7月)
4代:西藤冲(1990年8月 - 2000年4月)
5代:岸田良平(2000年5月 - 2008年5月) - 後に、名古屋事務所の社会福祉士養成所担当理事(日総研グループ代表兼務)
6代:松岡斉(特別研究本部担当、2008年6月 - 2018年5月)
7代:坂本俊英(2018年6月 - )
脚注
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^ 日総研(日総研グループ)
^ 沿革
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一般財団法人日本総合研究所
日総研(一般財団法人日本総合研究所名古屋事務所)
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』
並木書房の新刊『自転車で勝てた戦争があった――サイクルアーミーと新軍事モビリティ』は5月の連休明けに書店販売となります。
https://st2019.site/?p=21966
『2024/03/30/ 06:22 / 兵頭二十八
ネット予約は4月から可能になるそうです。ねだんは1800円台でしょう。
表紙カバーの袖の売り文句は、こんな感じになると思います(じっさいとは違います)。
――先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37%を占めているとすらいわれる《広義の餓死者》。
だが、1950年代のベトナム兵たちが主用したような「押して歩く自転車」を、兵糧輸送と患者後送の手段として役立てる着想さえあったなら、その餓死者数はゼロにおさえられた可能性があると著者は説く。
ではなぜ帝国陸軍のエリート参謀たちにはそれができなかったのか? これまで誰も答えてくれなかった「そもそも」の疑問を、本書はひとつひとつ解き明かす。古今の自転車技術を探り、《追試実験》によって確かめられた真実……。日本兵は“餓死”する必要はなかった!
このチャレンジングな難しい企画にご協力を賜りました皆々様方に、あらためましてこの場で謹んで御礼を申し上げます。
ありがとうございました!』
SF小説第2弾 津村記久子「サラと気難しい人間たち」
「テクノ新世」コラボ小説まとめ読み
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD133W40T10C24A3000000/

『2024年3月21日 5:00
本紙1面連載「テクノ新世」は現代の先端テクノロジーの光と影をルポしてきた。連載を読んだ作家がSF小説を書き下ろすコラボレーション企画の第2弾として、津村記久子氏の「サラと気難しい人間たち」を連載する。
主人公の「私」はオンラインで「上質な雑談」を提供する「トークアテンダント」を仕事としている。一癖も二癖もある客たちの応対に疲れきったとき、「私」と交代してくれるのが人工知能(AI)のサラだ。好き勝手にふるまう客にもそつなく応じるサラに救われる日々だったが――。感情を持たないAIを描きながら、機械に代替できない人間の価値をアイロニカルに問う。
◇
第1話
「よそ見すんなよ、金もらってるんだろあんた」。もう3時間も居座っている常連の顧客Nは、疲れで上の空の「私」に容赦がない。「交替しましょうか?」。ギブアップ寸前の「私」の様子を見て、サラが助け舟を出してきた。
【こちらからお読みいただけます】
「テクノ新世」コラボ小説 津村記久子「サラと気難しい人間たち」(1)
◇
第2話
横暴な顧客Nが不快な質問をしてきたが、サラと「私」は力を合わせて何とかきょうも乗り切れた。なぜ顧客Nはいつも私を指名するのだろうと思う「私」に、サラは鋭い人間観察を披露する。
【こちらからお読みいただけます】
「テクノ新世」コラボ小説 津村記久子「サラと気難しい人間たち」(2)
◇
第3話
「〈人〉と〈人〉の上質な雑談」をうたうオンライン雑談サービスでは、トークアテンダントがAIを使うのはNG。だが感情労働に疲弊した「私」はサラを手放せない。きょうの顧客Rは嫌みで詮索好きな年配の女性だ。
【こちらからお読みいただけます】
「テクノ新世」コラボ小説 津村記久子「サラと気難しい人間たち」(3)
◇
第4話
顧客Rの話がだんだん説教めいてきたので、「私」はサラに交替してもらう。疲れ知らずで完璧な客あしらいをしてみせるサラの様子を見ながら、なぜ人間がトークアテンダントを務めなくてはならないのだろうと自問する「私」。
【こちらからお読みいただけます】
「テクノ新世」コラボ小説 津村記久子「サラと気難しい人間たち」(4)
◇
第5話
きょうは無難な会話ができる顧客Cが相手。話が弾んで、サラも交えて3人で雑談を楽しんだ。ほっとしたのもつかの間、夕方になって顧客Rから呼び出しがかかる。出たくなかったのでサラを使おうかと思ったが、呼びかけても返事がない。
【こちらからお読みいただけます】
「テクノ新世」コラボ小説 津村記久子「サラと気難しい人間たち」(5)
◇
第6話
疲れた頭で顧客Rに応対していると、今度は顧客Nからも呼び出しが。サラの助けが得られない中、2人の顧客に追い詰められた「私」はとうとう力尽きてしまい――。
【こちらからお読みいただけます】
「テクノ新世」コラボ小説 津村記久子「サラと気難しい人間たち」(6)
◇
津村記久子氏「人間のことを書いている」
作者の津村記久子氏は本紙連載「テクノ新世」を読んで「サラと気難しい人間たち」のアイデアを膨らませた。「この作品はロボットのことを書いているようで、人間のことを書いている小説です」と話す。
【記事はこちら】
津村記久子氏インタビュー AIが書けない小説を書くには
円城塔「長い豚の話」』