アマゾンに学ぶ新事業の作り方 顧客視点はこう生かす
『アマゾンで私が学んだ 新しいビジネスの作り方』
https://style.nikkei.com/article/DGXZZO63515280X00C20A9000000
※ 本の紹介だ…。アマゾン流の新事業の作り方のヒントが、書かれている…、かもしれない…。
本屋で見かけたら、パラパラ立ち読みし、参考になるかどうか見てみたらどうだ…。





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https://comemo.nikkei.com/n/n8465adbe1aca



『熊や猫がのっかり、可愛らしく、もこもこした内履き・部屋履きスリッパに、世界は熱狂した。カワイイ履き物!と、日本のお土産として外国の人が買っていかれる。ぬいぐるみのスリッパが世界アイテムとなった。実は日本発なのだが、多くの日本人は気づいていない。
“ぬいぐるみを履く“という発想は、世界にはなかった。
どっちみちスリッパを履くならば、ふわふわしたほうがいい。ふかふかした生地を使うのならば可愛いほうがいい。で、熊、猫をつけた。しかしそのスリッパは“部屋履き”である機能ははずさない。フワフワで、気持ちよく、あったかく、それに動物の顔をくっつけてぬいぐるみみたいになって、なおかつスリッパ。
価値観とか精神性を外してしまうと、アイデアはただのアイデアで終わる。日本人はモノづくりをするときに、ウチとソトとか、人に対する礼など根源的な価値観・精神性を決して外さない。便利で、心地よく、多様性があるモノやコトを日本人が承継してきた精神性が支える。たとえばウチで履くモノと、ソトで履くモノの意味を分ける。“ウチとソト”という精神性を基軸にして、転じて、ものごとを多様化させる。多様化してできあがったものは、とても機能的で、洗練され、しかも日本的なミニマリズムの粋になっている。それが日本のモノづくりの基本である。
内履き・部屋履きスリッパは和洋折衷のシンボル。
建物が和洋折衷になっていくに伴い、内履き・部屋履きスリッパがうまれた。内履きスリッパを履いたり脱いだりして、和と洋が混在する家のなかを行き来する。その内履きスリッパが家から出て、「つっかけ」となった。
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ベランダや庭に出るときの履き物で勝手口から、“ちょっと買い物”と、外に出た。当初はゲタだったのでカランコロンと音がしたが、形状が工夫されて静かな「つっかけ」となった。さらに「つっかけ」は進化して、ファッションアイテムとなり、街のなかで堂々と履いて歩くようになった。
また着物時代の足袋がとびだして、「地下足袋」がうまれた。親指が一本出た地下足袋を、昔のマラソンなどの陸上選手は履いていた。実は日本人は力仕事をするとき、親指に力を入れて地面を蹴る。だから親指が分かれていないと、足に豆ができる。地下足袋はこの日本人の運動スタイルを踏まえた形状であり、ゲタや草履の「鼻緒」も日本人が発明した。
これらゲタ・草履・鼻緒・地下足袋が転じて、日本人は「ビーチサンダル」を発明した。とりわけ“履いていたら乾く”という誰も考えつかなかった機能をのっけた。石文化の西洋では、サンダルは足を痛めるので履かなかったが、日本人がこのような快適なサンダルを次々につくっていったので、“すばらしい、いいね”となって、世界中の人が履くようになった。
この流れから、「クロックス」がうまれた。日本のつっかけ・ビーチサンダルをベースに、かかとが外れないようにと、「ベルト」がつけられた。この「ベルト」こそ西洋人の矜持だが、クロックスのベルトをつけない日本人が多い。
これらスリッパの進化はたんに機能だけで展開されたのではない。「内(ウチ)と外(ソト)」という精神性が踏まえられている。家の外に出るものではなかったつっかけが、家(ウチ)と外(ソト)の結界を越えて、ファッション性をあげて、外に出ていった。
日本人は精神性をはずさず、機能性を満足させ、洗練させ、そのうえで可愛いくする。どんなに可愛いいスリッパといっても、スリッパの機能を満たしている。バッグが可愛いい、ハンカチが可愛いい、スマホのケースが可愛いいと、日常生活に「可愛いい」が広がっている。
普段使うものだったら、“どっちみちなら、可愛い方がいい”と考える。弁当箱なのに可愛いかったり、ふたを開けたら猫の顔が出てくる「キャラ弁当」も、決して「弁当箱」であることを外していない。
弁当の原型は江戸時代にある。
「メンパ」と呼ぶ木製の箱に、家で調理した食べ物をつめて、外での仕事や旅のためにメンパを外に持って出た。“外にいながら、内を感じられる” “内と外をつなぐ”という精神性を込めて、パーソナル用の「主食と菜(な)」をセットにして、持ちはこんでもこぼれない、しかも愛母弁当・愛妻弁当として想いが込められるという “弁当”を今も学校や職場に持って行き、食べている。江戸時代の流儀が今に続いている。その弁当が「BENTO」という世界語となり、「キャラ弁」としても発展し世界に広がっているが、日本人の多くの人はそのことに気がついていない。
日本人は与えられた「レギュレーションとルール」のなかで、なにができるかを徹底的に考えて、洗練させ、かつ多様化させるのが得意である。欧米の人は“スリッパならばこんなものだろう”と思うが、日本人はスリッパに”こだわり”つづける。スリッパというお題があれば、そのスリッパをもっと楽しいものにしよう、可愛いものにしよう、綺麗なものにしようと考えて、スリッパをいろいろに転じる。
精神性、機能、根本を変えない。
その範囲のなかで、どっちみちなら可愛く、どっちみちなら楽しくという発想で、物事を多様化していった。そのモノづくりが最近ズレてきている。ともすれば突拍子もない、思いつきのアイデアでモノをつくろうとする。基軸を外したものは、広がらない。
日本の生きるもうひとつの道はこれではないだろうか。
そのモノ、そのコトの本質と価値観を外さず、そのうえで転じて、幅広く展開し、創意工夫し、多様化させる。あくまでスリッパはスリッパ、弁当は弁当でこだわったうえで、転じる。スリッパ・弁当以外にもある。傘なら傘の領域で、どこまで行っても傘にこだわり、綺麗な傘、可愛いい傘、折れない傘、折りたためる傘へと転じてきたが、どれも傘であることを外さない。
日本的なモノづくりは、「本質」「精神性」にこだわる。
ビーチサンダルしかり折りたたみ傘しかり、これまでやってきたことを活かす道はないのか、生き残る道はないのかと試行錯誤するなかで、いっぱいの失敗を経験して、“これ、いい” “みんな、喜ぶ”という価値あるモノやコトを生み出してきた。「試行錯誤」をめんどくさがってはいけない。 (了)』
https://comemo.nikkei.com/n/neeab7d720862




『“煩(わずら)いはまとわりつくもの。脱ぎすてることで禊(みそ)がれる”と日本人は古事記の時代から伝えつづけてきた。外(ソト)、他とかかわることで自分の身にふりかかる煩(わずら)いや穢(けが)れは、要所要所で脱ぎ捨てないといけない。煩いや穢れを脱ぎ捨てる場として結界がある。
「内(ウチ)と外(ソト)」という関係を日本人は意識する。煩わしいものを身にまとってしまう世界が外(ソト)。家のなかは内(ウチ)で、 内では煩いはまとわりつかない。玄関前の盛り塩、敷居、畳の縁は外の煩いを内に入れない「結界」の意味を込める。
江戸時代の旅人が旅籠に到着すると、玄関で外のよごれがついた草鞋を脱いで足を洗う。さらに手を洗って禊(みそ)いで、土間から上がる。“結界を越えた”からと旅籠の人は「気楽にしてください。どうぞ寛いでください」と声をかける。
家の内ではなにもまとわりついてこないから、お気安に。家の外の世界ではいろいろなものがふりかかってくる。“内の空間は結界で守られた世界だ”という精神性がいまも日本人の所作なり言葉として残っている。たとえば
「敷居は踏んではいけない」
家の玄関が“結界”のひとつ。玄関で靴を脱いで家のなかに入ると、“結界”によって、それぞれの部屋の性格が分けられる。ダイニングで外国人が座っていたら、(決して汚くはないのだが)「ダイニングでは座らないで」と注意される。つづくリビングと和室、廊下と和室を仕切る「敷居」は「踏んではいけません」と声をかけられる。敷居を越えて畳のうえに立っていると、「まぁ、すわってすわって」と声をかけられる。このように敷居を境に、がらっと意味が変わる。同じ家のなかでも、空間ごとに、生活スタイルを変える。
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かつて日本は草履文化だった。
草履のままでは、建物のなかには上がらなかった。上がらないといけない場面では白足袋を履いた。明治に入り、靴を履くようになって、日本人は白足袋をやめた。白足袋をやめたので靴を脱ぐと、”上は洋装で下は素足”というスタイルとなる。ここで明治の日本人は考えた。どのような恰好で家にあがればいいのだろうか?と。
靴を脱ぐ形から靴を脱がない形に、
日本の建物が変わっていく。明治維新までの建物は靴を脱いで上がる形式であったが、日本の住宅は明治維新からの混沌期を経て、洋式の住まいとなった世界、和を守った世界、和洋折衷の世界の3つに分かれた。
日本的なスタイルは、なんでも折衷しようとする
A と B を混ぜて、C をうむ
〔1+1=2 ではなく、 1+1=Xにも、1+1=Y にする〕
日本的なスタイルは、なんでも折衷しようとする。
「A+Bを混ぜて、Cをうむ」。単純に「1+1=2」ではなく、絶妙なバランス力で、「1十1」をXにもYにもした。
住まい方でも絶妙な和洋折衷がおこなわれた。従来の和式の住まい方と西洋式の住まい方を融合させようとするが、玄関で靴を脱いで、廊下を歩き、応接室やリビングに入って、そこで靴下や素足でソファ・テーブル・椅子に座るというのはどうもしっくりこない。ここで日本的な「スリッパ」が発明された。
実はスリッパはシャワーのあとの履き物であった。
ホテルのシャワールームにはガウンとスリッパが置いてある。欧米ではシャワーを浴びるまでは靴を履いているが、シャワーを浴びると足が濡れる。足が濡れたら靴は履きにくいので、シャワーを浴びたあと、白くてタオルのような生地のスリッパを履く。ガウンを着てスリッパを履いて、ベッドに移動する。
スリッパは靴から履きかえるモノ。
欧米系のホテルでは浴室にはスリッパが置いてある。シャワーを浴びて体を拭いたときに使ったタオルを足にくるんで歩いたことから、スリッパが生まれたという説がある。シャワールームに置いてあるようなタオルの生地にはそんな背景があるかもしれない。
ホテルのベッドの足元には、帯のような布が敷いてある。
日本人はこの布がなんのためのモノなのかを知らない人が多い。寝るときには、この帯のような布を取ってベッドに入るが、ベッドの上の帯のような布は靴をのせるためのものである。なぜならば欧米には靴を履いたまま、寝る人がいるからである。
ともあれ日本人のホテルの部屋での過ごし方は欧米人と違う。
日本人は部屋には入ったら、すぐに靴を脱ぐが、どうにも自分の家のようにはリラックスできない。なぜしっくりしないかというと、家とホテルの室内構造の違いに加え、ホテルと自分の家の内での過ごすスタイルが違っているためである。
日本人は自分の家でどのようにすごすのか。
玄関で内履きスリッパに履きかえて、廊下を歩いてリビングに入る。しかしお手洗いでは別のスリッパに履きかえる。水にぬれてもいいスリッパを履く。キッチンやリビングでは内履きスリッパを履くが、リビングのフローリングの上に絨毯が敷かれていたらスリッパを脱ぎ、絨毯の端に置いたりする。
外の世界から戻ると、玄関で靴を脱ぎ、内履きスリッパに履きかえるのは、玄関が重要な結界だから。家のなかに鴨居や鴨居など視覚的に結界を張っている場所と、目に見えないが意識の結界を張って、家のなかでウチとソトを分ける。
スリッパを履いたり脱いだりして、内と外、こっちとあっちを分ける。
スリッパを履いている場所では床に座らない。一方スリッパを脱いだあと、畳や絨毯のうえに座ったり、ごろっとしたりできる。空間的には切れていないが、家の内でスリッパを履く履かないで、絶妙に内と外を分けている。これこそ、「和洋折衷の粋(すい)」といえる。
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戦後になって、新しく建つ家での洋風ウエイトが高まり、古い家でも一部部屋を洋風にリフォームするなど室内構造を変えるに伴って、洋風になった室内と履き物との違和感がでてきた。こうして内履きスリッパが高度に進化する。しかし今も靴を脱いで靴下や素足で台所仕事をしたり、テーブルでご飯を食べたりすると、違和感がある。
日本人は玄関で内履きスリッパに履きかえ、そのスリッパでリビングですごすようになった。しかし畳の部屋では敷居・鴨居という結界を超えるから、スリッパを脱ぐ。このように「ウチとソト」という意識・精神性は今もつづく。この日本的価値観や精神性が内履きスリッパをうみだし、内履きスリッパの機能性を高め、かつデザイン性を高め、バリエーションあふれる内履きスリッパを世界に広げた。
次回の「スリッパ(下)」では、日本のモノづくりの可能性を、日本発世界商品となったスリッパと弁当で学んでいきたい。』
https://comemo.nikkei.com/n/n9bf83eac773b



『どこまでいっても、日本は傘は傘で考える。
綺麗な傘、折れない傘、可愛い傘…と傘であることを外さない。たとえば持ちはこびやすいコンパクトな傘がつくれないかと考えて、たたむと骨が緩む「折り畳み傘」がうまれた。欧米人は、傘をコンパクトにしたいならば、傘である必要はなく合羽を防水にできないかと考える。日本人は、傘ならば傘の機能を担保しつつ、小さくして、洗練させて、多様な傘をつくる。こういう日本人がウォークマンをつくり、高機能なテレビをつくった。日本人は決められた筋を外さず、その領域・分野で創意工夫を重ねて、横に展開するのが日本的多様性のつくり方である。
モノやコトの本質的な意味とか価値観を外してはいけない。
そこから、どうやって良いものにしていくのか、新しくしていくのかを考えてきたのが日本人。スリッパはスリッパのなかで考える。スリッパに代わるものは、思いつきのアイデア。イノベーションが事業として市場に受け入れられるには時間がかかる。日本人が画期的なことをやっても、日本では認められず、海外で認められて日本に逆輸入されて、ようやく“これはすごい”と受け入れられる。日本人は、突拍子もないこと、原点を離れたものを、なかなか理解しようとしない。
日本人は携帯電話を多機能化した。携帯電話にこだわりすぎ、コンピューターという世界への移行に失敗したが、多機能化は無駄ではなかった。そのひとつが携帯電話のパカパカ。こんな発想は海外にはない。携帯電話の画面を見やすくできないかと考え、液晶画面を大きくした。このガラケーの液晶画面の技術は、コンピューターの画面へ、スマホの画面へと広がった。
だから液晶技術は日本がダントツ。
携帯電話を多機能化した→大きな画面の液晶技術をつくった
→しかしコンピューター化の流れで、ガラケーは敗れた
→しかし液晶メーカーはスマホの液晶メーカーに転じて生き残った。
バイブレーターも日本の技術。音源チップもそう、日本メーカーが主役。みんな、横滑り。ガラケー向けにつくっていたが、携帯型コンピューター向けに、横滑りできた。それは誰も読めなかったが、バランスの結果論である。
「負けたらしょうがない」と平気でいう人がいる。負けないようにもっていくのが戦略なのに、「負けたら仕方ない」とすぐにあきらめる。それは「戦略」の専門家だけではない。当事者である企業経営者も「戦略」スタッフも、そう言いだした。成り行きの戦略と化しつつある。
戦略は成り行きで、浅くて狭い。
表面的であり、部分的である。戦略は負けないためのもの。負けないために、どうしたらいいのか。戦略力を高めるためには、自らが経験したこと、他の人の経験に学んだこと、「これはこうだった」という引き出しを増やす。
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戦略の核は、アナロジー(類推)。
<AがBならば、CはBになる>と発想する。アナロジー(類推)を使うためには、どれだけ多くの「引き出し」を持っているかである。自ら場数を踏んだ経験だけでなく、他人(ひと)の経験を自らの経験として学んだものをどれだけ「引き出し」に入れられるかである。
しかし人の話を聴いたことそのままを、「引き出し」に入れてはいけない。
人は語るとき、どうしても飾りつけて、創った「物語」をするので、他人の話は自らの経験と掛けあわせて、 “自分事”に翻訳して、「引き出し」に入れなければならない。そうすると、自らがなにかに出くわしたとき、「引き出し」を開いて、<AがBだから、Cはこうする>と導く。「引き出し」をたくさんもっていると、<まずこうして→次にこうして→最後にこうする>という全体ストーリーが描ける。しかし描いたストーリーどおりにうまくはなかなかいかない。
時々刻々におこる問題に対して、臨機応変、解決しながらゴールに向かう。
今の日本、このプロセスが弱くなった。それは「引き出し」が少なくなったからだ。自らの経験しか「引き出し」に入れない。他人の経験に関心がない。他人に学ぶとはスマホを検索して情報を集めるだけでなく、「自分事」として出来事を観ることであり、日々の新聞や本を“自分ならばどうか”と読み考えたことを「引き出し」に入れることであるが、ほとんどの人はそれをしない。時間がないというが、本当はめんどくさいのだ、他人のことに関心がないのだ。
しかし日本の現場力は強い。
スリッパや弁当を世界アイテムにして多様化させ、さらに発展させている。おむすびも日本海苔も、世界アイテムにした。しかし日本の人口が減少するから、超高齢・少子化していくから、別のことを考えなければ、イノベーションだとか変革が必要だといって、これまでのことを捨て、ゼロから考えようという風潮がある。
箸にかかわっている人が箸以外のことを考えて、新たなことを考えるといっても、その新たな分野にはその分野のプロがいる。短期間で彼らを上回ることなどできるだろうか。“だからこそ、やるのだ”というが、箸という世界でなにができるのかを徹底的に考えた方がいい、まだまだ箸で考えることがないかと。またストローが環境の観点から問題になっているから、“じゃストローをやめて、ストロー以外はないか”と考えるのではなく、“ストローで何ができるのか”と考えるべき。ああでもない、こうでもないと考え抜くことが減っている。
自動車は自動織機からうまれた。
自動織機をつくる機械で、そのまま自動車がつくれた。自動織機メーカーの多くは、ねじを切ったり鋳物をする生産方式であったので、そのまま自動車メーカーに横滑りできた。何かから紐づいて転じていくというスタイルである。これも「アナロジー」である。日本的な価値あるものは、そうやってうまれてきた。
「ここまでやってきたことを活かす道はないか」
とウンウンうなって、そこから、すごいことがうまれたり、できあがったりする。今あるものを別のものにできないかと、いろいろなことを考えて考えて考え抜き、試して試して試しまくる。「試行錯誤」を笑ってはいけない。“なんとしても生き残る”ともがき試行錯誤するが、だめなものはだめだが、なかにはあたるものもある。そんなストラグルを恰好悪いとか流行らないとかいって、あっさりと諦める風潮がある。“可能性”を淡白に捨ててしまっている。
日清紡はそれで生きた。
日清紡もクラボウも、ケミカルで生きている。自分たちの持っている「資産」で、横滑りできた。産業の発達史という観点だけではなく、本質にこだわったからこそ、転じることができた。スリッパしかり折りたたみ傘しかり。スリッパじゃなくていいだろう、傘でなくていいだろうという社内での議論もあったろうが、そこにこだわって試行錯誤したからこそ、そのなかに“これいいなぁ”“かわいい”というものがうまれた。餅は餅屋、蛇の道は蛇である。むやみやたらに新産業・新事業といっても、突然、「新産業」「新事業」などできない。今あるもの、今やっていることとは違った角度で考える、横から上から後ろから斜めから考える、試行してみる。なにがでてくるかどうかはわからないが、でてくる可能性はゼロではない。その可能性を消すのは勿体ない。』
https://comemo.nikkei.com/n/nd9989a5fe6fd


『いつから私たちは忙しくなったのだろう。「時代」の速度は速くなった。かつて東海道を江戸(東京)―京都を14日間かけて歩いていた江戸時代から150年後、私たちは、新幹線で2時間20分で着く。飛行機ならば、もっと早く着く。技術進歩によって圧倒的な利便性を得たかわりに、「沈思黙考」を失った。物事をひとつひとつ時間をかけて考えて、じっくりと取り組むという人が少なくなった。
みんな、同じことを語る。
とにかく忙しい。スマホは便利。スマホなしでは仕事、生活は考えられなくなり、家庭、職場、友人とのつながりで、片時もスマホを手放せない。交通機関の普及で時代速度は加速し、携帯電話になって一段と早くなり、誰かからの電話にいつも追いかけられるようになり、スマホで24時間、誰か知っている人とつながりつづけることとなった。そしておそらくSociety5.0時代は、誰かに見られつづけ、知っている人のみならず、知らない人ともつながりつづけることになるだろう。時代速度はとてつもなく速くなる。
とても毎日が「忙しい」。
テレビや会社で誰かが言っていることを聞いたら、そのまま受け入れる。私たちの周りから減った言葉が3つある。
「それ、ほんまか?」
「なんでや?」
「要は、こうやな?」
「専門家」という誰かが言ったことの真偽を確かめなくなった(「ほんまか?」)。自ら「なぜそうなのか」「どうしてか」という背景・文脈を考えなくなり(「なんでや?」)、鵜呑みにしてしまう。だから社会観・未来観・生活観が身につかない(「要はこうやな?」)。誰かの話をそのまま自分の言葉で語るようになった。だからみんな同じように考え、思い、同じように語る。だから「専門家」の誰かが間違っていたら、みんな間違ってしまう。
分かったような分からないような言葉で、煙に巻く。組織のなかで「企画」「計画」をたてるとき、魔法の言葉がある。「~の強化」「~の推進」「~の改革」…なんにでも使える便利な言葉。困ったら、この曖昧な言葉で、締めくくろうとする。これらの言葉には具体性がない。
ソリューションやコミュニケーションやイノベーションという言葉も多い。この横文字も分かったようで分からない。会社のなかをこの横文字が飛びかうが、言っている人も言われる人も、実は意味が分かっていないことが多い。答えが導き出せないので、この横文字で体裁を整えて誤魔化すが、この言葉で「そうやそうや」で、みんな、納得する。
このような具体性に欠ける言葉をちりばめられた文書を見たり会議に立ち会うと、本当は「やる気」はないのだろう、「実現」できないだろうと感じるが、案の定、大抵はうまくいかない。
もうひとつある。同じ言葉でも使う人によって、その後の展開・結果がちがうことがある。組織のなかでは「なにを語るよりも、誰がそれを語るか」が重要なことがある。
これらの言葉がよく使われるのは、日本の社会風土に背景がある。
日本は、タテ社会でイエ社会で単一社会。個人よりも組織を重視。実力よりも、序列を重視。根回しして、満場一致で、誰の責任か判らないようにして、意思決定する。書いていることよりも意思決定していくプロセスが大事であった。それがテレワークが普及しにくかった背景でもあった。
■ 企画が偉そうにする
戦略企画とか、経営企画といった「企画」が日本の組織のなかでは一目置かれる。ライン、現場よりも一段上だと錯覚して(現実、そう扱われ)、偉そうにする。「企画」という組織・スタッフが日本には多い。江戸幕府時代は、幕僚だった。幕の内で作戦を考える人。その人たちは戦場に立たない。武将の後ろの幕の向こうにいて、戦場から情報を集めて、分析して、計画をたてた。この幕僚の系譜は明治時代以降ならば陸海軍。参謀本部・軍司令部に陸海軍のスーパーエリートが集まった。彼らがたてた戦略・企画・作戦は絶大だった。
企画・計画をする人はスタッフ。そもそもスタッフとは「杖」のこと。組織のなかの前線である営業やサービス部門というラインに、「企画」「計画」を提供するが、この企画・計画が「杖」。使い物になる企画・計画を出せるか、それとも使い物にならない企画・計画となるかであるが、営業やサービスという「ライン」が社会で事業活動を展開するときに役に立つ良い企画・計画という高性能の「杖」を考えだせたらうまくいき、それを考えたスタッフはありがたがれるが、すぐ折れてしまうような「杖」を渡すと、うまくいかない。
そんな杖ばかり渡されると、現場であるラインは企画・スタッフを信用しなくなる。そして会社に溝ができて、バラバラになる。ともすれば、組織が大きく複雑になると、混乱する。このようなスタッフとラインの問題はコロナ禍前に多くあったが、テレワーク時代に「スタッフ」をどう位置づけるかが大切になってくる。
■「考えるのは私。実行するのはあなた」
いつからか「コンサル」が重宝されるようになった。組織のなかの「誰」かが計画をまとめても、ラインである現場が納得しなくなると、お金を出して外の人に計画をたてさせて、組織内を説得しようとする。ここで「コンサル」といわれる人たちが登場する。
外の人である「コンサル」の人がその組織の計画を策定する。マネジメントの本にのっている流行りの横文字の「ツール」をちりばめて、どこかで見たことがあるような、どこの組織にでも使えるような見映えのいい図表入りで「計画」をたてて、経営陣に納品し、驚くようなコンサル料をもらう。
その組織のことを知りつくしている経営陣と勝負しないといけなく、かつ与えられる検討時間は短い。だからその業界の現場のリアルとは別の戦法を採る。ではどうするか。
コンサルはコンサル社内で以前、誰かがつくった「提案書」が閲覧でき、今回のクライアントの数字にそのフォーマットに入れ替えるだけで短期間に分厚い報告書を作成することできる。しかし頭で考えているのでリアリティはない。納品先は現場ではなくトップであり、現場からかけ離れた報告書となる。コンサルと呼ばれる人と議論したことがある。
「この計画をコンサルのあなたが私ならば、実行するか」
「考えるのは私。実行するのはあなた」
「この計画はほかでもうまくいった。うまくいかないとしたら、あなたのやり方が悪かったということ」
責任がない。うまくいかなかったら、それはあなたの責任。うまくいったら私の手柄。75年前と同じである。日本は変わっていない。
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■ 3A(トリプルA)― 足・汗・頭
泥臭い標語である。
私の営業時代の上司がつくった標語である。営業は足を使ってお客さまのところに通って、汗をかいてお客さまと議論して、お客さまのためになることを考えよという意味だった。
「順番が大切だ」と上司はいつも言っていた。ともすればお客さまのところに行かずに、スマホで情報を集めてオフィスのパソコンに向かって頭で考えようとするが、まずお客さまのおられる現場に行き、お客さまとの議論をすることから、スタートしないといけない。そして現場・現物・現実をつかんで、お客さまとともに、お客さまにとってのあるべき姿を想像して、あるべき姿を創造するための活動だった。それが「ソリューション」である。パソコンだけでできるのではない。
決して古くさいのではない。ビジネスの本質である。テレワーク時代だからといって、バーチャルですべてがおこなえるのではない。テレワーク時代ならではの3Aをリアルとバーチャルの組みあわせることでできるはずである。リアルかバーチャルではない。リアルもバーチャルもである。リアルとバーチャルを「お客さま」を中心に考えて組みたてて、お客さま価値をつくりあげる。テレワーク時代の「3A」を今から準備していかないといけない。』


『コロナ禍の今の日本、なにをめざしているのだろうか。コロナ禍を収束させる・終わらせることが日本の「目的・目標」のようなものになっている。それは目的・目標といえるのだろうか。
一所懸命、頑張った。アプローチは正しかった。しかし結果がでなかった。うまくいかなかった。それは正しいのかどうか。結果がでなかったということは、「目的・目標」設定が正しくなかったということではないか。
一所懸命、頑張ったけれど、うまくいかなかった。そのやり方が正しかったかどうかの前に、目標設定の妥当性が問われるのが本来。その掲げた目的・目標は、果たして「適切」だったのだろうか?目的・目標設定が不適切だとしたら、その目的・目標達成に向けて努力したがうまくいかなければ、「正しい」と評価されない。
目的・目標設定が間違っていたら、それに取組んだ人全員が正しくなかったとみなされるのが世界。ところが日本はちがう。目標を掲げて取り組んだが、うまくいかなかった。それに関わった人全員が否定されるはずなのに、「次、頑張れ」と全員、生きのびる。ここが日本社会の甘いところ。
中国史や西洋史では、戦って敗れたら、全員外に出されたり殺される。そうしなければ、それにつづく社会を統制する組織は成り立たなくなると思われたから、そうなった。
池永部長のとき、こういう目標をたてたけど、結果がでなかった。”そりゃ池永さんやったからな…次の部長の時に頑張るわ”、それは違う。池永部長のときに頑張ってできなければ、あなたは池永部長とともに、消えなければならない。次の部長は次の体制で臨めばいい。そんな「あなた」は次の体制にはいらない…それはきついなあと思うが、それは世の習い。
本当ならばあなたが所属するチームが目標を達成することができなければ、チーム全員で責任をとらなければならない。しかし日本の組織はそうならない。目標未達でも、なぜか殆んどの人が残れる。だから緊張感がない。だからいい加減になる。
目的・目標を設定することが経営者の最大の仕事のひとつ。「企て」がまずければすべてダメになる。目的・目標の設定を間違え、目的・目標を実現できなければ、目的・目標の達成のために集められ担った組織は否定されるはず。
しかし日本は目的・目標設定がいい加減。目的・目標は組織の責任者と全員が合議してつくる。その時に、この目的・目標は間違っている、正しくないと意見具申しないといけないが、その場では言わない。目標が達成しようがしまいが、評価や給与に殆ど影響なく、やらなくても怒られない、飛ばされることもない。だからテキトーな目標となる。
こうして目的・目標をいい加減につくるようになった。目的・目標を軽く見る。だれも目的・目標を本気で実現しようとしないくなる。組織において良くない人、いうことをきかない人を左遷させるという「半沢直樹」の世界に「熱狂」するが、現実の社会はちがう。そうならないことが多い。そこに、日本社会の甘さがある。
かつての日本はそうではなかった。それが明治になってから、戦後になってから、「でたらめ」 になった。緊張感がなくなった。いい加減になった。
「上の人って、なんだかんだ、うまくたちまわって生き残れるんだ。御意・御意といって、いざとなったら、『わたしがやったんじゃない』といえば、生き残れるんだ」という空気になった。
もうひとつある。目標をたて、それに向かって、つきすすんでいくが、うまくいかなかったときのことを想定しないことが多い。だめになっても、「ごめんなさい」で、すまそうとする。「次、頑張ります」で許されようとする。企業人も、専門家も、みんな、エヘヘでおわる。
もともといっていたとおりにならなくても、目標が達成しなくても、責任を感じない、責任が問われない。
こうしてさらに目的・目標がいい加減になった。そして コロナ禍になった。コロナ禍の日本の今、みんなが一所懸命に努力すべき「目的」「目標」がズレている。あることはある。「コロナを何とかしたい」が目的・目標のようなものになっているが、それではコロナ禍後に失速してしまう。
コロナ禍のいま、社会で呟かれているのは、「あの日のようになれば…あの頃に戻れば…なんとかなる」である。たとえばコロナ禍で飲食店が「お客さまが昔みたいに戻ってくると、なんとかなる」といったりしているが、それは目的・目標ではない。「昔のように…」 は飲食店主が解決できる目的ではない。社会全体が変わっているときに、その店だけが前のようになるわけがない。コロナ禍で、みんな方向性を見失い、示せなくなっているのは、「新しい目的・目標」。
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では目的・目標ってなにか。たとえばホンダを創業された本田 宗一郎氏だったら「とにかく早い車をつくれ」というような目標だったはず。その目標に向かい、ホンダ社員のものすごい努力とエネルギーが積み重なり、ジェット機までつくる世界企業になった。
GAFAも、そんなに大層な目標からはじまったのではないだろう。「面白いことをしよう」「楽しくやろう」「いつでもこんなふうに話せられないだろうか」といったような目標のもとに、みんながワイワイガヤガヤ、” それならこんなことできる” ”これもある” ”あれもある” ”おもしろい” などとアイデアがどんどんと湧いてきて、あっという間に世界企業となった。
というような、「専門家」の”学説”からすれば、「いい加減」と思えるような目的・目標だが、その会社のみんながワクワクするような目標からスタートして、いい回転をしだして、人を動かし、お金を動かせるようになると、その目標がとても立派に見えたり、後付解釈で、もてはやされたりする。
大切なことはなにか。その目的・目標が、人・社会・時代の「本質」をおさえているかどうかである。現代日本ではそんな軽い、簡単な、テキトーな目標では、人は動かない、恰好悪いと思いがち。しかし目標は崇高である必要は決してない。
”JAPAN AS No1” ともてはやされてから、神棚に飾っても恥ずかしくないように、アナリストやマスコミに笑われないような立派な目標をつくって、恰好をつけたがるようになった日本。しかし格好よく使った目的・目標の大半は本質を外している。だからうまくいかない。日本社会の閉塞を深めている主因のひとつ。
対症療法_図
日本はこの半年、コロナ禍に右往左往して、社会に対して方向性が示されていない。マスク・PCR検査・医療崩壊対策・経済支援…といった対処療法ばかり。コロナ禍後の方向性が示せていないので、日本社会はどこに向かっていけばいいのかわからない。だから努力しようがない。
コロナ禍の今、クローズアップするべきは、「なにをめざすべきなのか」である。目的・目的設定が間違ったら、すべてが終わる。どんなに簡単な目的・目標でも、「本質」を踏まえて、誠実に取り組めば、大きなビジネスのフレームワークになりうる。』
https://comemo.nikkei.com/n/n5fa104539346





『池永寛明(大阪ガス エネルギー・文化研究所)
2020/09/02 14:58
「半沢直樹」が記録的高視聴率。放送時間の日曜21時台には予定を入れずにテレビに釘付けとなる。“さすがにこれはないで”“ありえへん”といいながら、観ている。昔も今も、日本人は勧善懲悪が好き。水戸黄門に、必殺シリーズの中村主水に、ウルトラマンに、アンパンマンにと、主人公はスーパースターから普通の人まで、良い人が悪い人の横暴に我慢に我慢を重ねて耐え忍んで爆発するという主人公に自分を重ね合わせ、スカッとする。いつも同じパターンで安心して、一週間に一度の密かな楽しみとなっている人が多いだろう。
水戸黄門の助さん格さんは大暴れし、中村主水たち裏稼業の仕事人は依頼人の晴らせぬ恨みを晴らし、ウルトラマンはスペシウム光線などで怪獣をやっつけ、アンパンマンはバイキンマンを毎回吹っ飛ばし、半沢直樹は「左遷」という人事でどこかに吹っ飛ばす。それを見て、みんな留飲を下げる。
「半沢直樹」では、悪い人が左遷されるだけでなく、良い人も左遷される。“これって20年前のバブル前後の話じゃないの?”“今ではありえへん”と思うが、ビジネスでの人間関係の上司と部下、同僚という「構造」は今も変わらないと、「半沢直樹」に没入する。
ちなみに「上司」は奈良時代の荘園管理者の役職名以来の言葉であり、「部下」も「同僚」(僚とは役人のこと)も同じく1300年以上前から使われている。日本の仕事関係の構図は基本は変わらない。
■ 仕事の「場所」が大きく変わる
職住一体の生業はあったが、仕事は家を出て役所・会社・工場などに行くものだった。江戸時代の江戸づめ武士スタイルから400年続いた勤め人スタイル。テレワーク・リモートワーク・在宅勤務・オンライン会議で、どこでも、いつでも、だれとでも仕事ができるという仕事の「場」と「時」が大きく変わろうとしている。
オンライン会議は思っていたよりも操作は簡単で、画像も音声もいい、リアルであり、もしかするとオフィスにいる以上に鮮明であり、息遣いまで感じられたりする。オンラインで、ほとんど支障ない。このようにして、仕事をするスタイルがガラッと変わっていく。
リモートワークが1週間2週間の試行からはじまり、1か月2か月半年とつづき、個人ワークがすすんでいくなか、いつもオフィスの席のそばにいたマネジャーや課長は「なにをしているだろう」と内心思いだした。
これまでどんどん会社組織は階層を減らしてフラット化してきたが、テレワーク・リモートワークは組織の階層を、さらに減らしていくことになる。そうなったら、「そもそも中間管理職はいるのだろうか?」と思うようになる。もともとメンバーからは中間管理職の姿・行動は見えづらかったが、さらに見えなくなった。中間管理職はテレワークになって、さらに大変になっているということはメンバーに伝わらない。
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■ マネジャーはつらい
いつからか組織は巨大化していった。日本経済の拡大とともに、バブル・ITブームの20年前から大きな組織が増え、組織は肥大化し、フロアーに人がいっぱい集められて座るレイアウトになって、同じ組織でも部・課がちがったら、どこのだれなのかがわからなくなるようになった。自分が所属する部・課以外の人々との交流が減っていくと、組織の空気、匂いが感じられなくなり、組織全体が分からなくなっていく。
仕事が増えるなか、仕事の効率化をしないといけないといって、当初事務まわりの改善から、OA化・IT化がすすめられた。改善されるたびに、組織をいじる。そして仕事の進め方が変わる。マネジャー・課長は本当に大変。何度も何度もワークスタイルの変革だといわれるが、ディベロップメント(開発)業務よりも、マネジメント(管理)業務のウエイトが高まっていく。本来すべき仕事ができない。
組織のなかで「文書」が大切で、かつては丁寧に手書きした。なんどもなんども書くので推敲され、結果として良い文書となった。昔はコピー機がなかったので、印刷するのに半日もかかったりした。それを専門の仕事としている人もいた。コピー機で楽になった。FAXが組み込まれたものもでてきた。どんどん便利になっていった。
なんといってもメール、インターネット、スケジューラの登場は革命的だった。この三点が「上司」という役割を根底から変えた。それまで上司だから手にできた、上司しか持っていない多くの「情報」を誰もが手にすることができるようになった。職場内の情報革命が起こった。
職場内の「報告-連絡-相談」の仕組みはメールで大きく変った。それまで上司の顔色を観察して行っていた「ホウレンソウ」はメールで、いつでもどこでもできるようになった。なによりも組織内を走りまわり電話をかけまくって日程調整をした会議のセットが楽になった。その面倒だった調整業務が「スケジューラ」で簡単に即座にできるようになった。楽になったが、組織と組織の間が開いていくことになる。
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組織内の事務があれもこれも電子化されて、書類が減った。それまでのハンコ決裁から「電子決裁」となったが、なんでもかんでも電子決裁なので決裁者の業務は飛躍的に増えた。
そして固定電話一色のワークスタイルに携帯電話があらわれ、仕事場が「オフィスのなか」から「いつでもどこでも」となり、さらにスマホのLINE・チャットなどで、いつでもみんなとつながるようになり、ずっと仕事に追われるようになった。
働き方改革と言い出した。部下にとっては良いが、上司の働き方改革とはならない。そしてコロナ禍でテレワークとなった。上司の管理業務はさらに増え「マネジメント>ディベロップメント」のウエイトがさらに高まる。上司は本当に大変だが、マネジメントばかりしているマネジャー・課長などいらないという声があがる。
このように生産性は飛躍的に高まったが、それでも日本の生産性は低いといわれるのは、なぜか。
たしかに事務関連における技術は進んだ。OAとかITといわれたオフィス改革は、ムダな「仕事」や非効率だと思われた「仕事」をターゲットに、「事務処理」分野での生産性をあげ、それに費やしていた時間を減らしたが、「仕事」をする人にとってより良いものになったのだろうか。仕事を細分化して部分部分は効率化できたが、逆にプロセスがブラックボックスして全体が見えなくなり、組織全体の力が弱まった。
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■ マネジャーはどうしたらいいのだろう
これまでの業務改善は「仕事」を見ているが、仕事をしている「人」を見ていない。ムダな仕事に着目するが、それをしている「人」を見ていない。なぜ「それ」をしているのか、「それ」をしている意味を読み解かずに仕事を「改善」したので、部分最適となったが、全体最適とならなかった。
誰かが楽になると、誰かに負荷がかかる。目に見える問題は解決されてよくなったが、本当にしなければならないことができなくなった。大切なことが後回しになり、時間切れとなった。ITで便利になったが、決裁などやらなければならないことが増えて、本来しなければならない仕事が回らなくなった。優先順位はどうしてもそっちになる。目に見えることはしなければ目立つが、目に見えないことはしなくても目立たない。だから本当にしなければならないことができなくなった。こうしてレベルがおちて品質がおちていく、会社の力がおちていく。
では、コロナ禍後のテレワーク時代、どうしたらいいのか。テレワークは与えられた仕事をこなすという意味では在宅で十分であるが、仕事の幅を広げる、仕事を大きくするうえでは、在宅では限界がある。メンバー間や組織内の仕事・情報をつなぎ回転させ増幅させてきた中間管理職であるマネジャーや課長・部長の役割は従前以上に求められるようになる。
しかしとても大切だが目に見えないこの「仕事」は、ITやAIを中心とする技術アプローチによる生産性向上の議論からは、どうしても抜けおちる。さらにコロナ禍のテレワークが進み責任が曖昧になる可能性が高まるなか、組織の明確化・組織の価値創造を高めるために、会社内の部・課を分社化したり社内分社化するということことも考えられるが、その話はまた後日。』
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63704500Q0A910C2MM8000/


『日本企業がデジタルトランスフォーメーション(DX)に向けた社員の再教育に乗り出す。三井住友海上火災保険は約5千人の営業社員にデータ分析の研修をする。日立製作所もグループ全16万人にデジタル教育を始めた。モノの販売が中心の時代は投資対象も設備が中心だった。データや知識が富の源泉となるデジタル時代を迎え、人材への投資にシフトする動きが強まる。
海外に比べて日本は人材投資で出遅れている。企業が従業員の能力開発に支出する費用をみると、国内総生産(GDP)に占める割合は14年までの5年間平均で0.1%。米国(2.08%)やフランス(1.78%)に比べて大幅に低い。
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富士通が目指すDX伝道師 テレワーク起点に全社改革
コロナで仕事に不安 社会人の学び直しが加速
製造業がけん引する日本の産業は終身雇用や年功序列の人事評価を前提に、一括大量採用した新卒を職場内で訓練してきた。企業の投資先は工場や各地の営業拠点など有形の設備が中心だった。デジタル革命が本格化するなか、人材に投資しないと時代に取り残される懸念が高まっている。
三井住友海上は2021年から、保険の取引先108万社と地方自治体向けに自動車事故や自然災害などのデータの販売を始める。保険の外回りの営業担当者をデータ販売も同時に手掛けるデジタル人材に再教育する。
東洋大学や京都先端科学大学と連携し、3~10日間のプログラムを用意した。社員は業務として無料で受講できる。ドローンやウエアラブル端末を使ったデータの取得方法などを学ぶ。
まず来年3月末までに600人が受講し最終的には正社員の約4割にあたる5500人の営業社員全員が受講する。営業拠点などのスリム化で浮いた財源をまわし、デジタル人材育成への投資額を21年度は20年度比約1.5倍に増やす予定だ。
日立は4月からDXへの対応策として国内グループ全16万人を対象に専門研修を始めた。製造業からデータ活用などを軸とした企業への転換をめざしており、社員にはデータの選別や解析など1回あたり30分~2時間程度のウェブ学習を年間を通して実施する。
21年度からはジョブ型雇用を本格導入し、社員の仕事内容や必要な能力をジョブディスクリプション(職務定義書)で明確にする。個々の社員が学ぶべきスキルが分かるため、ジョブに対応した研修も拡充して補う。
富士通も20年度からAI(人工知能)やプログラミングなど約9千の無料講座をネットで配信し、国内のグループ全8万人が自由に受講できる。スーパーコンピューター「富岳」の責任者など専門的な社員による独自講座も用意し20年度の社員教育への投資額を19年度の2倍に増やす。
新型コロナウイルスの感染拡大を機に在宅勤務が増え、デジタル技術の活用が一段と重要になるなか、人的投資を増やす機運が高まりそうだ。
成果で人を処遇する傾向が強い米国企業は社員への教育も手厚い。米アマゾン・ドット・コムは25年までの6年間で米国の従業員10万人の再教育に7億ドル(約740億円)を投じる。一般職社員がエンジニアになるための講座や機械学習の授業を提供する。米グーグルはオンラインでデータ分析技術などを学べるプログラムを実施している。
足元では新型コロナウイルスの問題で苦境に陥る業種が出ており、社会のデジタル化で産業構造もかわりつつある。バブル期に大量採用した中高年の新たな技能習得が急務で、若者にとってもスキルを向上できる職場かどうかが職選びで重みを増す。人材の高度化と成果主義が進めば、雇用の流動化が促され産業の新陳代謝も活発になる。
昭和女子大学の八代尚宏副学長は「デジタル時代は技術を使って価値を生み出す人的資本の育成が重要だ」とし、「会社を休んで学ぶ人を金銭的に支援する教育版の育児休業のような制度も欠かせない」と指摘する。』
他山の石:
「急遽テレワーク導入」に落とし穴 国内約40社が被害「VPN不正アクセス事件」が他人事とは限らない理由
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2009/06/news009.html




『([高橋睦美,ITmedia])
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、リモートワークが広がる中、8月下旬に「VPN(Virtual Private Network)のアカウント情報が盗まれ、ネット上で公開された」という事件がメディアを賑わせました。VPN接続に利用されるパルセキュア社の製品の脆弱(ぜいじゃく)性を突かれてアカウント情報が盗まれたというものです。世界で約900社が被害を受け、中には約40社の日本企業も含まれていました。新聞の一面を飾ったこともあり、「うちの会社は大丈夫か? 同じような攻撃を受けないか?」と不安に感じた読者もいるのではないでしょうか。
もしかすると「このベンダーの製品を使っていないから大丈夫」と思われた方もいるかもしれません。ですが、実はそうとは限りません。この一件にはいくつか他山の石にしたいポイントがあります。
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写真はイメージです(提供:ゲッティーイメージズ)
狙われる「閉じられない、止められないサービス」
前置きになりますが、今回話題になった製品「Pulse Connect Secure」以外の機器を利用していても、安心というわけではありません。
実はパロアルトネットワークス、フォーティネット、シトリックスといったベンダーが提供する多くのVPN製品でも、悪用されるとリモートから任意のコードを実行されたり、今回のように認証情報などを取得されてしまう恐れのある脆弱性が以前から指摘されています。すでに攻撃用に使えるコードも公開されていて、単に大きく報道されていないだけで、同様の攻撃を受けている可能性もあります。この製品を使っていないからといって安心するのではなく、いま一度棚卸しと脆弱性の有無を確認する必要があるでしょう。
さて、今回の件で考えさせられるポイントの1つ目は、こうしたVPN機器をはじめ、外部に公開せざるを得ないサービスをどのように守るかという昔からある課題です。
今回悪用されたのは、テレワークの導入に伴って存在感を増したVPN製品「Pulse Connect Secure」の脆弱性でした。テレワークを行う以上、社内だけに閉じるわけにはいかないという環境が狙われてしまったのです。被害に遭ったいくつかの企業は「内部侵入は確認されなかった」としていますが、過去にはVPN経由で不正侵入され、データを消去される被害にあったケースも発生しています。
しかも、外部からのリモートアクセスを許さざるを得ない「入り口」は他にも存在しています。
典型的な例が、外部からのリモート接続に用いられる「RDP」(Remote Desktop Protocol)と呼ばれるサービスです。過去にはパスワードを総当たり攻撃で破られるという不正アクセス被害が発生した他、「Bluekeep」と呼ばれる深刻な脆弱性も指摘されています。修正しなければ、同様の被害に遭ったり、ランサムウェアを送り込まれたりする可能性は否定できません。
不要なポートやサービスは停止することがセキュリティの鉄則ですが、企業が業務を継続するのに不可欠な閉じるわけにいかないポート、サービスはどうしても存在します。攻撃者はそこを狙ってくることを前提に、認証を強固にしたり、しっかり監視を行ったりしてリスクを下げる必要があるでしょう。
「急きょテレワークへ移行」に潜んでいた落とし穴
次に今回の件で感じたのは、環境を変えたり、イレギュラーなことが起きたときほど要注意だということです。
被害を受けた一社、平田機工はプレスリリースの中で、経緯の詳細を説明しています。それによると、同社は新型コロナウイルスの感染が拡大し、緊急事態宣言が出された4月中旬からテレワークを始めていました。それに伴いVPN装置の負荷が急増したため、昨年度に交換して外していた旧VPN装置を急きょ再導入し、負荷を分散することにしたそうです。
ここで非常に残念なのは、交換後の現行機種は脆弱性に対応済みだったのに、急きょ投入した旧機種は、脆弱性が潜んでいるバージョンのままだったということです。緊急事態宣言というイレギュラーな状況に対応すべく、できる範囲で最善の策を打ったのでしょうが、そこに落とし穴が潜んでいたのでした。
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脆弱性が潜んでいた旧VPN装置を使ってしまった=平田機工のプレスリリースより
この経緯を聞いて、「もしかしたら、うちでも十分起こりうることだ」と感じるネットワーク管理者は少なくないのではないでしょうか。
筆者が思い出した別のインシデントは、これまたメディアを賑わせた、NTTコミュニケーションズに対する不正アクセスの一件です。同社の5月28日のプレスリリースによれば、新サービスへの移行に伴って撤去を控えていたサーバや一部の通信経路が、攻撃者の侵入経路として利用されたとあります。これもまた、環境の変化に伴うイレギュラーな状態を突かれた例といえそうです。
いったん導入したシステムや環境が、未来永劫変わらないことはあり得ません。また、移行の過程で今回のテレワーク導入のような緊急対応を迫られたとき、十分なリソースがあるとも限りません。万全の対応は取れないけれど、「取りあえずその場をしのごう」というパターンは少なくないでしょうが、そこが攻撃者に狙われることは十分あり得るのだと、あらためて感じさせられます。
「脆弱性の修正を」という原則はまだ机上論?
最後に、そして最も悩ましい課題があります。
止められないサービスを提供している機器やサーバに深刻な脆弱性が発覚したときにどう対応していくかという、これまた“古くて新しい”問題です。
今回悪用された脆弱性は、2019年4月、つまり1年以上前にパッチが公開されていました。しかも、19年8月にはこの脆弱性を悪用する方法が公表され、脆弱な機器を探索していると思われるスキャン行為が増加したことから、JPCERTコーディネーションセンターなどが注意を呼び掛けており、ニュースにもなりました。
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JPCERTコーディネーションセンターが注意を呼び掛けていた
先日開催された記者説明会の質疑応答によると、開発元であるパルスセキュアも、顧客に対し、パートナーなどを介してパッチの適用を複数回呼び掛けてきたことを明らかにしています。にもかかわらず、パッチを適用しないまま運用されている機器が残っており、被害が発生してしまいました。
特定の用途向けに開発された「アプライアンス製品」だったということもあり、ソフトウェアとはちょっと受け止められ方が異なり、アップデートに手間取る側面があったのかもしれません。しかし、富士通がコラムで指摘している通り、「本来は信頼すべきVPNというネットワーク区間であるからこそ、それが知らぬうちに悪用された場合のリスクと想定される被害の大きさを正しく評価する必要がある」といえます。
セキュリティの大原則として、「脆弱性が発覚したらアップデートしたり、パッチを適用したりしましょう」ということは、耳にたこができるほど叫ばれています。けれども問題なく動いているシステムや機器には手を触れたくなかったり、運用委託先も含めたメンテナンス時期の調整に手間取ったり、あるいは前述の「イレギュラーな状態」と相まってシステムの中で忘れ去られていたり、そもそも存在すら認知されていなかったり……原則には例外がつきものなのでしょうか。
しかし攻撃者はそうした例外を見逃してはくれません。「パッチを当てて脆弱性を修正すること」はセキュリティの大原則ですが、実はその原則がまだ机上論であり、徹底していない場面があちこちにあるのだな、と思い知らされます。しかも最初にお伝えした通り、深刻な脆弱性は他のVPN機器にも、それどころか企業ITシステムを支えるあちこちのソフトウェアにも存在しています。それらとどう向き合えばいいのでしょうか。
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写真はイメージです(提供:ゲッティーイメージズ)
逆のケースもあります。少し古い話になりますが、17年にはWebアプリケーションをJavaで効率よく開発できる「Apache Struts 2」に深刻な脆弱性が発覚したことがありました。このときは、修正パッチの公表後わずかな期間で複数のWebサイトがこの脆弱性を悪用する攻撃を受け、情報漏えいなどの被害が発生しています。IT部門側ができる限り早く対応に当たったにもかかわらず、間に合わなかったケースです。つまり、脆弱性が発覚すれば、1年以上たって攻撃されることもあれば、発覚からほんの数日のうちに悪用されることもあるのです。
この事実を受け止め、自社のシステムでセキュリティの原則を本当に徹底するにはどうすればいいのか、運用現場の状況と折り合いを付けながら、どうリスクを減らしていくのかを、真剣に問い直すきっかけになったという意味で、今回の事件はまだまだ終わらないのかもしれません。』