カテゴリー: 世界の歴史、関連
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[FT]コンゴ初訪問のベルギー国王、植民地統治に遺憾表明
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB091KK0Z00C22A6000000/『ベルギーのフィリップ国王は同国の植民地だったコンゴ民主共和国を初めて訪問し、「過去の傷に対して深い遺憾」を表した。
6月7日、コンゴのキンシャサ国際空港で開かれた歓迎式典に参加するベルギーのフィリップ国王(中央)、マチルド王妃(左)とチセケディ・コンゴ大統領(右)=ロイターベルギーがコンゴを植民地支配していた数十年の間には数百万人が強制労働を強いられ、犠牲となった。首都キンシャサで行われた国王の演説では、植民地時代の残虐な支配に対する正式な謝罪はなかった。
フィリップ国王はコンゴのチセケディ大統領の前で次のように述べた。「植民地時代の統治は搾取と支配によって成り立っていた。不平等な関係に基づく統治であり、それ自体、正当化できるものではない。パターナリズム(家父長的な干渉主義)、差別、人種主義も顕著だった。この統治は屈辱をもたらした」
「私はコンゴの初訪問に際してここに立ち、コンゴの皆さん、そして今も苦しんでいる方々の前で、過去の傷に対して深い遺憾の念を改めて表明したい」
過去に痛惜の念を表する書簡を送っていたフィリップ国王は7日、マチルド王妃、デクロー首相とともにキンシャサに到着した。2013年に即位して以来、コンゴ訪問は初めてとなる。
レオポルド2世が私領地化ベルギー国王だったレオポルド2世は1885年から1908年にかけてコンゴを私領地として支配し、天然ゴムや鉱物資源の利権を搾取した。そのなかで、数百万人のコンゴ人が死亡したとされる。
コンゴは1960年に独立を果たした。20年に、米国で黒人男性のジョージ・フロイドさんが警官に殺害された事件をきっかけに世界的に反人種差別運動が高まるなかで、ベルギーでもレオポルド2世の銅像が標的になった。
その後まもなくして、ベルギー議会はレオポルド2世の私領地とその後のベルギー植民地時代のコンゴ搾取の実態を調査する委員会を設置した。同じ年、コンゴ独立後の初代首相ルムンバ氏の遺体の一部で唯一残っている歯を遺族に返還する裁定が下された。ルムンバ氏は61年、ベルギー政府関係者の前でカタンガ州の分離独立派に暗殺された。その前には、米中央情報局(CIA)が後ろ盾となったクーデターが起きていた。ルムンバ氏の歯は6月中にコンゴに到着する予定だ。
デクロー首相はキンシャサで「両国の間の長い歴史のなかで、コンゴの方々にとってつらく、苦しい時期があったことは皆が承知している」と語った。「その事実から目をそむけず直視することが重要だ」
コンゴのパトリック・ムヤヤ政府報道官はフィナンシャル・タイムズ(FT)に対し、正式な謝罪はなかったが、「我々にとって、(ベルギー)国王の訪問はこれからベルギーと築いていく新しい関係の象徴だ。つらく、苦しい過去の認識に基づく関係となる」と語った。
歴史的遺物の返還をめぐって世界に議論が広がるなか、フィリップ国王はコンゴの伝統的仮面「カクーング」を「無期限貸与品」としてコンゴの国立博物館に手渡した。
ベルギーにある王立中央アフリカ博物館のグイド・グリシールズ館長は「(コンゴの博物館には)この種の仮面が収蔵されていないため、非常に重要な品となる」と述べた。王立中央アフリカ博物館には、コンゴに関する収蔵品が約8万4000点ある。グリシールズ氏によると、この仮面は歴史的遺物の返還を認める法が整備されるまで「貸与」扱いとなる。
ベルギー人とコンゴ人の血を引く活動家のアン・ウェッツィ・ムポマ氏はキュレーターでもあり、返還への取り組みに関わっている。同氏にとって、これは始まりにすぎない。「道徳的、倫理的な観点に立てば、返還プロセスは完全に合法であり、ベルギーが返還しなければならないことは明らかだ。今回の返還は返還プロセスの一部となるべきものだ」と同氏は言う。
コンゴでは、フィリップ国王の演説が大きな一歩だと評価する声が上がる一方で、正式な謝罪を求める声もある。コンゴ人とベルギー人のハーフの活動家モナ・ペンベレ氏は「素晴らしい演説だ。悔恨の念を表し、植民地化に絡む過ちと、今日も人種差別のかたちで残るその影響を認めている」と評した。だが同時に、「本当に平等な関係をスタートさせたい、やり直したいと望むなら、まず謝罪が必要だ」と述べた。
(2022年6月9日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)
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・ベルギー国王、コンゴ支配「深い遺憾」 初訪問
・コンゴに「痛惜の念」 ベルギー国王、植民地支配めぐり書簡 』 -
にわとりは、いままで考えられていたより、家禽化された時期が、数千年、遅いようである。
https://st2019.site/?p=19752『Mihai Andrei 記者による2022-6-7記事「The unlikely story of how humans domesticated chicken ? and how rice played a key role in this」。
最新の研究。にわとりは、いままで考えられていたより、家禽化された時期が、数千年、遅いようである。
また、飼われ始めた最初は、食べるためでなく、愛玩または崇敬対象だった可能性がある。起源地は東南アジア。
ゲノム解析によると、家禽化されたのは、7000年前~1万年前。ヨーロッパまで伝わったのは7000年前という。
しかしそうすると謎が生ずる。
欧州の古代の壺絵や壁画にニワトリは描写されていないのだ。そういう描写が出てくるのは、やっと紀元前7世紀のコリントの壺絵なのである。これは現代から逆算するとたったの3700年前にすぎない。その前の数千年はどうした?2020年の研究では、全世界のニワトリには、家禽化された始祖がひとつだけあって、それが他の複数の野鶏と交雑したようだということだった。
放射性同位体を用いた最新の研究。
ユーラシアやアフリカの各地で出土した鶏の骨は、思ったよりも新しいとわかった。最も古い、家禽化されたニワトリの骨とされるものは、タイの新石器時代の地層から出ているが、これを子細に解析したところ、せいぜい紀元前1650年~1250年であるという。かなりあたらしいのだ。
もうひとつの最新研究は、「陸稲」の栽培地の拡大につれて、ニワトリの飼育域も拡大した証拠があると言っている。森の中のヤケイは陸稲(やミレットなどイネ科の栽培植物)のおこぼれにひきつけられて、人間に飼われるようになったのではないかと考えられるというのだ。
おそらくヤケイのニワトリ化と、そのニワトリの西漸とは、同時並行の現象だったのだ。
※コメリパワーが鶏をロゴマークに使っているのは意味深だったわけだな。
いまから3000年前にヤケイは北支からインドにかけてニワトリ化されたのだろう。
そして2800年前に中東および北アフリカに鶏が到達した。
英国やスカンジナビアまでやってきたのは、1800年前だ。初期の鶏は今より小さく、食肉源としてはショボかった。そのかわり、夜明けの時を告げるという能力が、時計が無かった大昔には珍重され、たいせつに飼育されていたのだ。
ただし、欧州に伝播してから500年も経つと、鶏は食べてもいいものになった。あまり神聖ではなくなったわけだ。
ちなみにブロイラーが今のサイズにまで巨大化したのは、ほんのここ50年のことなのである。つぶして得られる肉の重量は、なんと5倍近くに増えた。』
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プーチン氏、ピョートル大帝引き合いに侵攻正当化か
ウクライナは反発
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR10CZ10Q2A610C2000000/『【ドバイ=福冨隼太郎】ロシアのプーチン大統領が、17世紀末から18世紀のロシア皇帝ピョートル大帝を引き合いに、ウクライナ侵攻を正当化したとして、同国が反発している。プーチン氏は大帝がスウェーデンと戦った北方戦争を侵攻になぞらえ「征服ではなくロシアの領土を巡って戦った」と主張した。ウクライナ高官は「即時の(ロシアの)非帝国主義化を話すべきだ」と非難している。
【関連記事】
・ウクライナ国防省「ロシアはあと1年戦争継続できる」
・ウクライナ東部要衝で市街戦激化「兵士毎日200人死亡」米CNNなどによるとプーチン氏は9日、同日生誕350年を迎えたピョートル大帝に関する展示会を訪れた。北方戦争について「なぜ彼(大帝)はスウェーデンに行ったのか。(領土を)奪い返し、強化したのだ」と指摘。「我々の運命も奪い返し、強化することにあるようだ」と強弁した。
ロシアの近代化を進めたピョートル大帝は、北方戦争でスウェーデンに勝利してバルト海の覇権を確立し、ロシアを欧州列強と並ぶ地位に押し上げた。
20年以上にわたって続いた北方戦争で国を率いたピョートル大帝と、ウクライナ侵攻を決めた自らの姿を重ねることで、指導力を誇示。国民に結束を呼びかける狙いがあったとみられる。
これに対しウクライナのポドリャク大統領府長官顧問は10日、ツイッターでプーチン氏の発言は「(ロシアがウクライナで)不自然な口実で血まみれの収奪を行ったことだけを証明している」と反発した。
「ロシアの面目を保つのではなく、即時の非帝国主義化を話すべきだ」と強調した。「面目」はフランスのマクロン大統領が「ロシアに屈辱を与えてはならない」と配慮をにじませたことを皮肉ったもようだ。
【関連記事】
・フィンランド、ロシア国境にフェンス設置へ
・ウクライナ南東部でコレラ流行恐れ 英国防省分析 』 -
クリミアの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2




















『クリミア半島は、紀元前5世紀頃のギリシア人の入植から有史時代に入り、古代には「タウリカ」または「ケルソネソス・タウリカ」(Χερσόνησος Ταυρική 「タウリカ半島」の意)と呼ばれていた。これ以来、スキタイ人(スキタイ=キンメリア人、タウロイ人)、ギリシア人、ローマ人、ゴート人、フン人、ブルガール人、ハザール人、キプチャク人など様々な民族によってクリミアは征服と支配を受けてきた。
中世には、一部がキエフ・ルーシに、別の一部が東ローマ帝国に支配されたこともあったが、モンゴルの征服を受けてモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルスの支配下に入った。また、この時代には沿岸の一部がヴェネツィアとジェノヴァの統治下に置かれた。これらの諸勢力は15世紀にクリミア・ハン国とオスマン帝国の支配下となり、18世紀まで続いた。
クリミアの近代は、1783年のロシア帝国によるクリミア・ハン国併合に始まる。1921年にはソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置されたが1945年に廃止され、代わって置かれたクリミア州は1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナが独立すると再び自治共和国の地位を得たが、2014年クリミア危機でウクライナ国内法を無視する形で一方的に独立を宣言。続いてロシアによるクリミアの併合が宣言され両国による領有権をめぐる対立が続いている。
ロシア連邦はクリミアでの軍備拡張との要塞化、クリミア・タタール人の弾圧などを進め、2022年ロシアのウクライナ侵攻ではウクライナに対する攻撃の策源地として利用した[1]。 』
(※ 以下、省略。)
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1870年にプロイセンが、新見本(近代的な徴兵制度)を示した。
https://st2019.site/?p=19710『Kamil Galeev 記者による2022-6-2記事。
※ガリーフ氏には巨額のオンライン寄付があったようで、その資金を使ってリサーチの助手を雇えるとよろこんでいる。寄稿ペースも上がっている。そうなんですよ。寄付されるとモチベーションが上がるんですよね。うらやましいぞ!
ロシア帝国は1699年から1874年まで、「リクルート徴兵」をしていた。男子人口の一部を強制的に兵隊にする。初期にはその服役年限は一生であった。のち、25年に改められた。25年でも、永久就職のようなものだ。だから、非志願制であると同時にそれは「プロフェッショナル」な軍隊だったと言える。
この方式は、平時の軍隊の質を高くするにはよい。しかし、規模のわりにはコストがかかる。また、戦争が始まってから大量且つ急速に補充することはできない。
すなわち、平時には大所帯に過ぎるし、戦時には小所帯に過ぎるのだ。
1870年にプロイセンが、新見本を示した。近代的な徴兵制度だ。平時に、多数の若者を短期間だけ、軍営で鍛えては、次々に除隊させ、予備役をやたらに増やしておく。有事にはその予備役を総動員する。こうすれば、平時の軍隊は小所帯で済み、戦時には全男子を兵隊に使えるので、国軍は爆発的に兵力を増やせる。
この近代的徴兵制は、政府と臣民の間の暗黙の同意が大前提である。市井人たる予備役兵がいつ何どき、召集令状によって軍事動員されるかもしれないが、その政府の決定には従いましょうという社会契約が、そこには必要なのだ。
ロシアは1874年以降にこれを採用し、WWIIまでこれで乗り切った。
WWII後はどうか? 戦後のソ連は、一回も、予備役兵の充員召集はしていない。アフガニスタンのときでもそうだった。ソ連崩壊後も、現役(当初は18歳から3年間。近年は1年間に縮んでいる)の若い徴兵だけで、チェチェン作戦をやり切っている。1945いらい、予備役を動員したことがないのだ。
いつしかロシア軍は、近代的徴兵制の軍隊ではなくなっていたわけだ。戦時に兵隊の人数を膨らませることができなくなってしまっている。法制度の上ではそれは可能でも、現実に、予備役の動員など考えられない慣習が社会にできあがっているのだ。
2000年のチェチェン戦争のビデオを見るがよい。映っているロシア兵は皆、18歳か19歳である。指揮官の将校だけが、あきらかに中年だ。これでなんとかなった。というか、なんとかするしかなかったのだ。
2000年以後のロシア軍は、志願兵のプロフェッショナルを中核とする軍隊に変わった。
今次ウクライナ戦争の中核は、20歳以上の志願兵たちである。
ロシア社会からは、戦前には存在した「社会契約」が、ひとつ、消えていると考えられる。もはや誰も、予備役の召集になどよろこんで応ずるつもりはない。政府が国民から信用を失っている。だから、大量動員ができない。
兵営の側でも、大量の未訓練兵を急速に二等兵に仕立てるためのインフラを、ポスト冷戦期に、整理廃止してしまっているのだ(セルデュコフ国防相によるプロ化改革)。いまさら、うけいれようもない。
※いま、ロシアには、古い砲弾が腐るほどあるが、兵隊がまったく足りない。
FEBAが東へ遷移すればするほど、ウクライナ軍は、露軍を有利にしてやることになってしまうのである。つまり露軍は限られた未訓練の兵隊を広義の「砲兵」に仕立てて、最多余裕資源であるところの「砲弾」を撃ちまくらせればいい(WWII中も同じことをやった。120mm迫撃砲とカチューシャ)。
輸送トラックの苦労も戦場が東に移れば解消されるのである。
これに対してウクライナ軍は70kmレンジの地対地ロケット弾を整備してこなかったものだから、敵の砲弾のイン・レンジで戦うことになり、日に日に人命を捨てることになる。拙劣である。
このまずいパターンを脱するには、十五榴相当の炸薬7kgを充填した投下爆弾を70km以上運搬できる再利用型のUAV(それは全重30kg台でできあがることをとっくにポーランドが実証している。15榴のタマ1発よりも軽いのだ!)を雲霞の如くに殺到させるしかない。
30kg台のUAVを大量生産するのに、西側諸国には一体何ほどの苦労があるというのか? ぼやぼやしてるんじゃねえ!』
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『概要
現行のイラク憲法では広範な権限を持つ「地域(إقليم كر)」とされ、理論上は中央政府より委譲された権限を持つ「自治区」ではなくイラク連邦の「構成体(地域)」が正しい[2][4]。
公式に認められている領域は主にイラク北東部のアルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県、ハラブジャ県の4県にまたがり、自治区の首府はアルビール市にある。
1991年以降、主張する領域にはイラクとの間に食い違いがあり2012年には軍事衝突も起きていた[5]。
しかし2014年、ISILの攻勢の折にクルディスタン地域政府(KRG)はイラク政府軍の撤退した地域に軍隊をおくり込み[6]、2015年にはKRGの主張するほとんどの領域にて自治を行っていたが、2017年にイラク政府軍との衝突があり、キルクーク県から撤退した。[7]
イラクとの間で論争のある地域には北部最大の都市であるモースルとイラク最大の油田地帯であるキルクークが含まれる。
2017年9月25日にイラクからの独立投票を行い、独立派が賛成多数となった[8]。
歴史
1970年3月11日、イラクのバアス党政権とムスタファ・バルザニ(英語版)率いるクルディスタン民主党の間で成立した協定にもとづいて自治地域が設置された。
イラン・イラク戦争末期の1988年3月16日、イラン国境に近い東部の町ハラブジャで化学兵器が使われ、多くの住民が殺害された(ハラブジャ事件)。
1991年の湾岸戦争に際し、クルド人はサッダーム・フセイン大統領に反抗する決起を行い、多国籍軍がイラク北部に飛行禁止空域を設けて保護したことで、事実上バアス党政権の支配を離れ、実効支配を手にした。
この時代、自治区のクルド勢力は自治区独自の旗を有し、独自の通貨を発行した。
しかし、イラク・クルド人勢力の二大政党であるクルド民主党とクルド愛国同盟の対立が激しく続き、1994年、1996年、1997年には数千人が死亡する大規模な戦闘が発生し、クルディスタン地域は二大政党支配地域に分裂した。
2003年のイラク戦争によりバアス党政権が崩壊すると、連合国側についたクルディスタン地域の独立やモースル、キルクークへの拡大の可能性が浮上した[要出典]が、イラク国内のアラブ人や、国内に同じクルド人問題を抱える隣国トルコが強硬に反対しており、その将来は予断を許さない。
地域に住む若いクルド人の間では、トルコやイランのクルド地域も含めて早期に独立すべきだというクルド民族主義(大クルディスタン)の気運が高まっているとされる。[要出典]。
2017年9月25日には、国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施され、賛成派が多数となったが、イラク政府は反発しこの投票結果を認めていない。
自治政府によると2年以内に独立を目指すとしている。
2017年10月16日にはイラク軍はシーア派民兵と共に係争地であるキルクークに進軍し、戦闘が発生。
ペシュメルガは同地域から撤退しイラク軍が制圧したとされる。
戦闘を恐れた住民は流出。周辺諸国のイラン、トルコからも包囲され、経済的な封鎖が続き、米国もこれを黙認するなど厳しい状況となっている[7]。
政治
元首は、クルディスタン地域政府(英語版)(KRG)の大統領(「議長」と呼ぶこともある)である。
地域政府大統領を務めてきた、クルディスタン民主党(KDP)党首のマスード・バルザニは、上記の独立投票を巡る混乱を収拾するため2017年11月1日をもって辞任し、しばらく大統領職は空席となったが[9]、2019年6月10日よりマスード・バルザニの甥であるネチルバン・バルザニ(英語版)自治政府首相が議長に就任した[10]。
大統領の下には首相のポストがあり、首相は主に行政を担当する。地域政府は外交以外の権限が、イラクの中央政府から与えられている。
また、地方議会としてクルディスタン議会が存在する。議席は全部で111議席。主な政党は、
クルディスタン民主党(KDP) クルディスタン愛国同盟(PUK) クルディスタン・イスラーム連合(英語版) クルディスタン共産党 ゴラン党 アッシリア民主運動
KDPとPUKが地域における最大勢力であり、両政党は議会で統一会派を結成している。
このため、フセイン政権崩壊後、二大政党による議会支配が続いてきた。
近年、二大政党の長期支配による汚職などの腐敗、失業率の悪化などから住民の間、特に若者の間で両党に対する忌避感情、変化を望む意見が起き始め、2009年7月に行われた民族議会選挙では、「改革」を掲げた野党・ゴラン党が躍進した。
ほか、少数のヤズディ教徒のための議員枠がある[11]。
軍事
事実上の国軍としてペシュメルガが存在する。
ペシュメルガは、イラク国内の軍事組織としては比較的優れていると評価されている。
しかし、ほとんどは軽装備の歩兵部隊に過ぎず、フセインと戦った経験豊富な軍人も世代交代していなくなっており、敵対する過激派組織ISILに比較すると、その装備は十分ではないともされ[12]、アメリカやドイツを始めとする諸外国からの軍事支援を受けている。
2004年9月から2,800人規模の韓国軍ザイトゥーン部隊がアルビール県に展開し、平和維持と再建に当っていたが、現在は撤退している。地理・気候
デュカン湖
ザブ川
雪で覆われた冬のスレイマニヤ山岳地帯が多く北部のトルコから東部のイランとの国境地帯にザグロス山脈が走り、最高地点はシェーハ・ダー山の3,611 mに達する。
これらの、山脈部から流れる川が豊富な水をもたらし、デュカン湖等を形成している。
一方、南部は平坦な砂漠地帯となっている。
気候は変化に富み、山岳部は降水量が比較的多い地中海性気候(Csa)、南部の平野部がステップ気候(BSh)となっている。
イラクの砂漠地域と比べると夏季の酷暑は抑えられるがそれでも夏の平均最高気温は35~40度に達し、40度を超える事もあるなどかなり暑い。
冬は比較的寒く、平均気温は5~6度前後となり、アルビールでも氷点下15度以下の冷え込みを記録することもある。
標高の高い山間部では気温は氷点下となり寒さが厳しく、一部が豪雪地帯となっている。
年間降水量は南部で200~400㎜、山岳部は多雨地帯となり3000mmを超す地域もある。国民
民族
クルド人が大半であるが、正確な統計は存在しない。また、アラブ人、アッシリア人、トルクメン人、アルメニア人、ユダヤ人もいるなど多民族となっている。
言語
公用語はクルド語とアラビア語。クルド語はおおまかにソラニー方言とクルマンジー方言の二つの方言に分かれる。その他、アッシリア現代アラム語、カルデア現代アラム語、トルクメン語、アルメニア語も話されている。
宗教
イスラム教スンニ派が主流である。他にイスラム教シーア派やスーフィズム、アッシリア人とアルメニア人の間ではキリスト教も信仰されている。ヤズィーディー教、ゾロアスター教、ユダヤ教も信仰されるなど実態は多宗教共存型である。
経済
アルビールの街
ドホークの街クルディスタンでは、独自の治安維持組織が活動しており、テロリズムによる混乱が続くイラク国内では例外的なほど治安が良好に保たれていた。
そのため油田開発が進んでおり、その輸出によりビル建設などこの地域の経済は好景気に沸いている[13]。
しかし、2013年頃よりイスラム国家樹立を掲げる過激派組織、イスラム国ISILが台頭し、2014年にはクルディスタン地域と交戦状態に入った[14]
一時はクルディスタン周辺がISに攻め込まれて包囲され、この地域からクルド避難民が流出したが、米国などの空爆軍事支援もあって、2015年に入ってからはペシュメルガが周辺地域を奪還した[15][16]。
この過程を通して、自治政府の役割が増大し、その機能が強化されたため、現時点ではクルディスタン地域はイラクからは半ば独立した状況になっている。この地域は油田が豊富であり、その利権をこれまではイラク中央政府と分け合ってきた[17]。
政治的・経済的な中心都市アルビールには、アメリカ合衆国の領事館や企業の拠点があり、アメリカのイラク権益が集中する地域でもある[18]。
外交関係
領事館が置かれている国々
歴史的にイスラエルとの関係が深く、中東では数少ないイスラエルとの友好関係を保っており、イスラエルの諜報機関のモサドと連携した過去がある。
トルコ国内のクルド人組織のクルディスタン労働者党(PKK)とは対立関係にあることから、トルコ政府との関係も深くトルコ経由での石油輸出が行われ、最大の貿易相手国となっている。
しかしトルコ政府は独立には反対している。米国をはじめとした西側欧米諸国との関係も深く、スウェーデン等の欧州へ難民として渡ったクルド人が多い地域との関係、交流が深い。
米国やトルコのほか、日本[19]も含めたおよそ32か国の領事館がアルビールに置かれているが、KRGはイラク中央政府とは別の外交ルートを持っており、ビザの発給等もイラクとは異なり独自に行われている(ただし、イラク政府は同ビザを認めておらず、クルディスタン地域以外に移動した場合、不法滞在になると警告している)。
地方行政区画
2015年のクルディスタン地域
2015年以降4つの県(州と呼ぶこともある)に分かれる。
アルビール県 - 県都アルビール ドホーク県 - 県都ドホーク スレイマニヤ県 - 県都スレイマニヤ ハラブジャ県 - 県都ハラブジャ。2014年にスレイマニヤ県から分割された。 1975年の自治区 1998年の自治区 2009年の自治区
主要都市
Hawraman地方の村アルビール・・・人口140万人で、最大の都市。アルビール県の県都にして、イラク・クルディスタン地域全体の主都でもある。 スレイマニヤ・・・人口96万人。標高882 mに位置する。スレイマニヤ県の県都。 キルクーク・・・人口85万人。公式な領土外であり、イラクとの係争地となっている。 ドホーク・・・人口35万人。ドホーク県の県都。 ザーホー・・・人口33万人。ドホーク県ではドホーク市に次ぐ第二の都市。 アマディヤ・・・標高1400mに位置する。
交通
新設されたハラブジャ県を除く3県それぞれの県都に国際空港があり、すべて3,500m以上の滑走路を有するなど空路は比較的整備されている。
アルビール国際空港 2005年に建設された新空港は、民用可能な空港としては世界屈指の4、800mの滑走路を有し、ILSカテゴリー2レベルの装備を持っている。 スレイマニヤ国際空港 ドホーク国際空港関連項目
独立主張のある地域一覧 ロジャヴァ・クルド人自治区(シリア領) 』
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ジョージア (国)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2_(%E5%9B%BD)※ 途中までは、読んだ…。
※ あまりに長いので、止めておく…。
※ 時間がある時に、また読もう…。
※ ただ、「タマル」は、civ6に出てくる…。「女王ではなく、王なのです。」とか言っていた…。































『ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartveloサカルトヴェロ[3], 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。首都はトビリシである。
東ヨーロッパ[4][5][6]、もしくは西アジアに区分される[6][7]。
北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。
サカルトヴェロ民主共和国が1921年にソ連に占領され、ソ連構成国のグルジア社会主義共和国(正称:サカルトベロ・ソビエト社会主義共和国)とされたが、1991年4月に共和国として独立回復した[8]。
日本では、2008年にロシアと国交断絶したジョージア側の要請を受け、2015年4月までの国名呼称グルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)からジョージアへ変更した。[9] 』
『概要
ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。
古来から数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながらキリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。
一方で、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られている。
ジョージアは、嘗てソ連の構成国のひとつであったが、1991年に独立を果たした。
南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは、旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地でもある。
一方でロシア帝国とその後に成立したソ連の支配が長く続いたことから、独立後は様々な方面でロシアとの対立路線を取ることが多い。
1997年にはウクライナの呼びかけに応じてアゼルバイジャンやモルドバとともにGUAMを結成し、2005年にはウクライナと共に民主的選択共同体(英語版、ウクライナ語版)(CDC)を発足して加盟、2009年には独立国家共同体(CIS)を脱退した。
1999年から欧州評議会のメンバーである。
なお、本項目では2015年4月以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」など、すでに完全に定着したものについては「グルジア」を使用することとする。
国名
「ジョージアの国名」も参照
ジョージアにおける自称(エンドニム)は、サカルトヴェロ(Sakartvelo.ogg საქართველო[ヘルプ/ファイル] [sakʰartʰvɛlɔ]、ラテン文字転写:Sakartvelo)であり、「カルトヴェリ人の地」を意味する。
カルトヴェリ人の由来となった「カルトリ」は、ジョージア最古の文学作品『聖シュシャニクの殉教』(5世紀)にもみられる、ジョージア中心地域の古称である[10][11]。
この「サカルトヴェロ」系統の国名を使用しているのは、カルトヴェリ語族の諸語とエスペラントの「カルトヴェリーオ(Kartvelio)」または「カルトヴェルーヨ(Kartvelujo)」など少数である。
日本では、ロシア帝国の被支配下にあった19世紀から当地について知られるようになり、ロシア語名の “Грузия”ˈɡruzʲɪjə グルージヤ)を音韻転写した「グルジヤ」と英語名の”Georgia”(ˈdʒɔrdʒə ジョージャ)を音韻転写した「ジョルジア」の2系統の外名(エクソニム)が使われていた。
大正から昭和初期にかけては「ジョルジア」の方が主流を占めていたが[12][13][14]、1956年の日ソ共同宣言に前後して共産圏の報道に強みを持つラヂオプレスが「グルジア」を採用していたことなどから、徐々に「ジョルジア」に対して優位を占めるようになった。
このロシア語名は一説に、英語名のGeorgiaと同じく中世にペルシャ語で使われていた「グルジュ」もしくは「グルジャーン」という呼称がアラビア語などを経由して十字軍時代にヨーロッパへ紹介されたのが由来とされる[11]。スラヴ語圏でも13世紀ごろからこのグルジュに由来する呼称が見られるようになり、その後、キリスト教国であるジョージアの守護聖人・聖ゲオルギオスの名に結びつけられていった[11]。
国家としてのジョージアは、アメリカのジョージア州とラテン文字綴り字および発音も同一[注釈 1]ながら、地名の由来[注釈 2]のみならず歴史的にも何の関連性もない。
しかしながら、首都のトビリシはジョージア州の州都でもあるアトランタと1987年に姉妹都市関係を締結しており[15]、1994年にはジョージア国家警備隊とジョージア州兵(英語版)組織の間で相互協力協定(en:Georgia–Georgia National Guard Partnership)が締結されている。
1995年の憲法採択以降は国名に「共和国」などの政体名を含まないのが正式名称だが、英語圏ではアメリカのジョージア州との混同を避けるため、国家を “Country of Georgia”、アメリカの州を “State of Georgia” と呼び分ける慣例がある[16][17]。
日本語でも同様に「ジョージア国」(ジョージアこく)と「国」を付加した呼称が使用される場合がある[18][19]。
また、ビートルズの楽曲『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』では、互いに無関係ながら英語では同一の名称で呼ばれる2つの地名に引っかけたジョークが歌詞に含まれていることで知られる。
1992年に日本と国交を樹立して以降、ロシアの首都モスクワを経由せずに現地の情報が直接入るようになったことから、特に主要民族たるカルトヴェリ人の間で根強い反露感情について日本でも広く知られるようになった。
2000年代半ばには特許分野や一部のワイン輸入業者が「グルジア」の使用を取りやめて自主的に英語名の「ジョージア」を使用するようになった[20][21]。
しかし、2008年に勃発した南オセチア紛争を機に、ロシアとの敵対関係が決定的なものとなったことも後押しし[22][23]、この時期から日本を含めて「グルジア」系統の外名を使用している各国に対して、個別に「グルジア」の使用取りやめと英語名の「ジョージア」採用が要請されるようになった。
韓国では2010年にこの要請を受け入れて「그루지야(グルジヤ)」から「조지아(ジョージア)」へ外名を変更しているが[24]、北朝鮮では現在も「그루지야(グルジヤ)」を使用している。
かつてのソビエト連邦構成国では、リトアニアが2018年からリトアニア語の外名を “Gruzia” から “Sakartvelo” へ変更することを国会議長が表明している[25][26][27]。
日本政府に対しては、2014年10月の首脳会談で正式に「グルジア」の使用を取りやめて「ジョージア」へ外名を変更するよう要請が行われ[28][29]、2015年に日本政府が使用する外名の根拠法となる在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(在外公館設置法)別表の改正案が、国会で衆参両院の全会一致による可決を経て、4月22日付けで公布・施行され[30][31]、同日には外務省のサイトで外名変更の告知が行われた[32]。
日本政府が(政体等の変革を理由とする場合を別にして)外国政府から個別に外名の変更を要請されて受諾したのは、1986年(在外公館設置法の別表改正は2003年)にコートジボワールの外名変更要請(それ以前はフランス語名を意訳した「象牙海岸」を使用していた)を受け入れて以来2例目となる[注釈 3]。
漢字表記には「グルジア」に由来する「具琉耳」と「ジョージア」に由来する「喬治亜」の2通りがある。台湾(中華民国)では「喬治亞」を採用しているが[33]、中華人民共和国では格鲁吉亚(簡体字)[34]、香港では格魯吉亞(繁体字)と[35]、いずれも「グルジア」系統の外名が現在も使用されている。
歴史
詳細は「ジョージアの歴史」を参照
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この節の加筆が望まれています。原始・古代
近年、ジョージア国内では南東部のドマニシの洞窟から180万〜160万年前ごろの原人タイプの化石人骨が発見されている[36]。出土人骨のデータから、従来東アジアで発見されていた原人よりも原始的な特徴をもち、ユーラシア大陸で最古の年代が想定される[36]。
この原人は「ホモ・ゲオルギクス」と命名され、遺跡からはいわゆる「礫器」に属するオルドヴァイ型石器群や動物化石なども多量に発見された[36]。
ほかに、前期旧石器時代に属し、対称形の礫器が特徴的なアシュール文化や、中期旧石器時代に属し、剥片石器を多数ともなうムスティエ文化期の遺構・遺物がジョージア各地の洞窟や遺跡から発見されている。
コルキス盆地やフラミ渓谷、南オセチアなどでは、新石器時代の遺跡が発見されており、紀元前6000年から紀元前5000年にかけて以降、刃先に磨製石器を利用した鍬やつるはし、石製の鎌、製粉用の摩臼、貯蔵用の土器などがともなう本格的な定住生活と穀物栽培が始まったと考えられる[37]。
コムギやライムギについては、当地方はもっとも重要な種の発祥地と考えられている[38]。石器の石材には主として地元産のフリントや黒曜石が用いられ、牛や豚などの牧畜を行い、ブドウを含む果樹の栽培も行われた[37]。
グルジア(ジョージア)を含むカフカス地域は、先史時代にあっては金属精錬の発祥地のひとつとされる[37]。
紀元前3700年ごろから紀元前2500年ごろにかけてのマイコープ文化や、紀元前3400年ごろから紀元前2000年ごろにかけてのクラ=アラクセス文化(英語版)の青銅器時代の遺跡からは、おびただしい数の金属器が発見されている[39]。
B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州)で調査した遺跡によれば、内陸部では紀元前2000年紀には遊牧を生業とする諸部族が生活し、部族の指導者とみられる人物の墳墓からは美麗に彫琢された金銀製の容器が副葬されるなど、当時の社会が首長に富と権力を集中させていた様相が確認されている[37]。
グルジア人(ジョージア人)の祖先となる民族は、黒海の東岸に広範囲に分布してのちにコルキス王国をつくるコルキス人の源流をなすクルハ族と、のちに南西グルジアのタオ地方に定住するタオホイ族の源流をなすディアウヒ(英語版)族であり、両民族を母体として形成されたと考えられる[37]。
なお、コルキス人の富裕さについては、早くからギリシャ人たちの知るところであり、ギリシア神話におけるコルキス王女メーデイアと金羊毛(翼を持つ金色の羊の毛皮)の物語に端的に示されている[37]。
西のコルキス王国と東のイベリア王国
紀元前6世紀以降、黒海に面する西グルジアの地にコルキス王国(コルヒダ王国)が成立し、黒海東岸のギリシャ植民市の影響のもとで発展を遂げた[40][41][42]。
黒海とカスピ海をつなぐ地峡地帯には交易路が通り、地中海とペルシア地域を結ぶ貿易が盛んに行われていた。
コルキス王国東側の内陸部は、紀元前6世紀にオリエントを統一したアケメネス朝ペルシア、続いてセレウコス朝の一部となり、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてはイベリア王国(カルトリ王国)が成立した[41][42]。
その領域は今日の中部グルジアのカルトリ、東部グルジアのカヘティ、西南グルジアのサムツヘとその周辺であり、ここにはギリシャ文明の影響が直接及ばなかった[37]。
住民は西方のアナトリア・コルキス方面から流入してきた人々と土着民との融合によって形成されたと考えられる[37]。首都のムツヘタはクラ川とアラグヴィ川(英語版)の合流点近くに立地している。
紀元前2世紀、コルキス王国は黒海東南海岸にあったポントス王国のミトリダテスによって制圧され、紀元前65年にはそのポントスが共和政ローマのポンペイウス軍に敗れたことでコルキス(西グルジア)はローマの属領となった[37]。
同じころ、東グルジアのイベリア王国もローマの保護下に置かれた[37]。
1世紀に入り、キリスト教が創始されると、グルジアでは十二使徒による福音伝道が行われたと伝えられている。
特にローマ帝国の支配が揺らいだ3世紀から4世紀にかけては大幅に信者が増加した[43]。
これは、カッパドキア出身の聖ニノ(グルジアのニノ)の布教によって東グルジアの多くの人が入信したことによるといわれている[37]。ローマ帝国が衰退に転じた4世紀、西グルジアの旧コルキス王国の一部(現在のアブハジア地域)にはラジカ王国(英語版)が成立し、古代コルキスを併合した[41][42]。
ラジカ王国は首都をアルケオポリス(現、ナカラケヴィ(英語版))に置き、東ローマ帝国との結びつきを強めた[37][44]。
この王国は523年にキリスト教を受容し、562年には東ローマに併合された[44]。
イベリア王国では、330年代にキリスト教に深く帰依したミリアン3世(英語版)によってキリスト教が国教として採用された[41][42]。
世界でも301年のアルメニア王国に続いて2番目に古いキリスト教国教化の例であり、キリスト教がこの地域の公式宗教となったことは、その後の文化の形成に大きな影響を及ぼした[40][43]。
グルジアの教会は当初、シリアのアンティオキア総主教の管轄下に置かれたが466年には独立教会となり、カトリコス(総主教)の座はムツヘタに置かれた[45]。
グルジア文字(カルトリ文字)は4世紀から5世紀ごろにかけての時期に考案された、グルジア語を表記するために考案された独自の文字で、字形は異なるもののギリシア文字と同じ原理の文字体系をなしている[46][47]。
イベリアは、一時ペルシア人の支配を受けたが、5世紀末には剛勇で知られるヴァフタング1世(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権が回復され、トビリシの都市的発展が始まった[48]。
6世紀初頭、ヴァフタング1世の子のダチ(英語版)王が父の遺言に基づきムツヘタからトビリシへ遷都した[48]。
カフカス地域のアルメニア、グルジア(ジョージア)、アルバニア(バルカン半島のアルバニアとは無関係)の3教会は、431年のエフェソス公会議(第3回全地公会)での、イエス・キリストは神そのものだとしてその神性のみを認める「単性論」の採用に賛成した[43]。
ところが、451年のカルケドン公会議(第4回全地公会)では単性論が否定され、「まことの神であり、同時にまことの人でもある」として、キリストの神性と人性との両性共立とともに位格的一致を説く、いわゆる「両性論」が正統とされた[43]。
506年、3教会の代表者はアルメニアのドヴィン(英語版)に集まってカルケドン派に反対する旨の決議を行ったが、以前から両性説に傾いていたグルジア正教会は7世紀初頭には明瞭にカルケドン信条を告白する立場に立った[43]。
「合性論」(両性論派からは単性論の一種と見なされた)を採るアルメニア使徒教会は、これに対し「非カルケドン派正教会」にとどまった[43]。
「ジョージアのキリスト教」も参照
中世・近世
ペルシアを支配したサーサーン朝はゾロアスター教を国教としており、その勢力がカフカスに及ぶとキリスト教・ゾロアスター教の両勢力は互いに抗争を繰り返した[49]。
ラジカ王国がキリスト教を国教化すると、サーサーン朝は軍を派遣して527年から533年まで続くラジカ戦争(英語版)となった[49]。
ラジカ王国は最終的に東ローマ帝国、東のイベリア王国はサーサーン朝にそれぞれ併合され、ホスロー1世はイベリアの王政を廃止した[41]。
7世紀初頭、自立の動きを見せたイベリアに対し、東ローマ皇帝ヘラクレイオスは北方のハザールと同盟して遠征を行った[49]。
627年から629年にかけてはサーサーン朝・イベリア王国連合軍と西突厥・東ローマ帝国・ラジカ連合軍との間でトビリシ包囲戦が起こり、トビリシは一時占領された[50]。
ニハーヴァンドの戦い以降はサーサーン朝の影響力が後退し、7世紀後半からは新興のイスラームを奉ずるアラブ人の影響が拡大した[41]。
トビリシは736年から738年にかけて「ムスリムの征服(英語版)」を受け、これによってトビリシ首長国(英語版)が成立した。
カフカス地方にもイスラムの教義がもたらされたが、広い山岳地帯を抱えるグルジアへの流入は限定的なものにとどまり、キリスト教信仰が守られた。
750年、グルジア正教会は自治教会となり、9世紀から10世紀にかけてはカフカス地域の布教の中心を担った[43]。
かつてラジカ王国があったグルジア西部では東ローマ皇帝の直臣となったアブハズ人(アブハジア人)が次第に強勢となり、8世紀末にはアンチャバヅェ家のアブハジア公レオン1世(英語版)が皇帝から王号を許可された[50]。
レオン1世は母がハザール王女、妻がカルトリ大公の娘であったことから両者とも友好関係を築きつつ勢威を振るった[50]。
グルジア東部では、イベリア公国のバグラティオニ家(英語版)が台頭し、9世紀初頭には、この家からイベリア大公アショト1世(英語版)が現れた[37]。
アルメニアでは、バグラトゥニ家(英語版)のアルメニア大公アショト1世(英語版)(イベリア大公アショト1世とは別人)が、イスラム帝国であるアッバース朝によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公」の位を許され、885年にはアルメニアの諸侯によってアルメニア王に推戴された[50]。
こうして、カリフと皇帝の双方の承認のもと、アッバース朝版図のアルメニア王国が再興された[50]。
東ローマとイスラムの抗争は拡大されたアルメニア王国の中でも繰り広げられ、最終的には小国分立状態がもたらされた[50]。
こうしたなか、アルメニア王アショト1世は、西南グルジアのタオ(英語版)に本拠を遷して、東ローマ皇帝からクロバラテス、すなわち「宮殿の守護者」の称号を獲得するのに成功した[37]。
10世紀後半、アッバース朝の繁栄にも陰りが見えるようになり、グルジアではイベリア大公グルゲン(英語版)が現れ、アブハジア王女のグランドゥフトと結婚。
イベリアとアブハジアの領域は2人の息子バグラト3世(英語版)に継承された[50]。
バグラド3世は、アルメニア王アショトの養子となって将来の地位を自ら保障し、975年にはカルトリ地方の宗主権をも獲得、976年にバグラト朝(英語版)のグルジア王国(グルジア連合王国)を建てた[42]。
1001年には義父アショトからアルメニアと南西グルジア、1008年には実父グルゲンから南西グルジア残部を継承してカヘティ地方を除く全グルジアの諸公国を統一して、クタイシを首都とする中世グルジア王国の隆盛が始まった[37][41]。
バグラト3世はクタイシに大聖堂(バグラティ大聖堂)を創建し、1010年にはカヘティ地方をも支配下に収めた。
王国成立期にはグルジア正教会がバグラティオニ家の王朝を支えた。聖人として知られるイベリアのヨアネが活躍し、レオンティ・ムロヴェリ(英語版)によって『グルジア年代記(英語版)』が書かれたのもこの頃のことである。
10世紀から13世紀にかけてのグルジア王家は東ローマ帝国、キエフ大公国、アラニア(北オセチア)などの王侯貴族との間で盛んに婚姻関係を結び、東ヨーロッパ各地域との精神的結びつきを強めた[43]。
バグラト3世の子ギオルギ1世(英語版)はムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂の修復を行い、ギオルギ1世の子のバグラト4世(英語版)は1045年、アルメニアの首都アニ(現トルコ共和国)を制圧した。
1057年にシリアのアンティオキアで開かれた地方教会会議では、グルジア正教会が自治教会資格を有することが公認されている[43]。11世紀後半にはトルコ人勢力が中央アジアやペルシアの大部分を含む地域に広大な遊牧帝国セルジューク朝を建設した。グルジアもその侵略を受けるようになり、バグラト4世治下の1063年には南西グルジアが、1068年には東グルジアがセルジューク朝によって制圧された。
「建設王」と呼ばれたダヴィド4世が即位したのは1089年のことであった。
ダヴィド4世は、北カフカスのキプチャク人を移住させて親衛隊を組織し、軍制改革を行ってグルジアを強固な国家に改造し、セルジューク朝に勝利。
1096年にはセルジューク朝に対する貢納の支払いを停止し、12世紀に入ってからはクタイシ郊外のイメレティア丘陵にゲラティ修道院と付属の王立学校(アカデミー)を創立した[51]。
この王立学校はグルジアを代表する科学者、神学者、哲学者を擁し、トビリシ遷都後も17世紀に至るまでグルジアの文教の中心として栄えた[51]。
1122年、ダヴィドはムスリム勢力に支配されていた要衝トビリシを奪還して、ここに都を遷した[37]。
グルジアの黄金時代を築いたタマル(左)と父王ギオルギ3世(右)
12世紀後半のギオルギ3世(英語版)も1156年にセルジューク朝を攻撃してこれに勝利し、1161年から1162年にはアルメニアにも侵攻してアニとドヴィンを占領するなど強勢を誇った。
ギオルギ3世の王女で1184年に正式に王として即位したタマル女王の時代、バグラト朝グルジア王国はザカフカス全域を支配する強国に発展し、黄金時代をむかえた[37][41]。
1194年から1204年にかけてはセルジューク朝に勝利してアルメニア南部を保護領としたほか、1195年には現アゼルバイジャンのシャムコルの戦いに勝利して同地を支配した。
1201年から1203年にかけてはアルメニアのアニとドヴィンを再併合し、さらに現在のトルコ北部を占領した[37]。
1204年、イタリアのヴェネツィア商人の策謀によって第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が没落した際には、その亡命政権トレビゾンド帝国の建国を援助している[37]。
タマルの時代は、文化・学術の面でもグルジア王国の最盛期であり、多くの修道院が寄進され、とくに文学分野の充実と教会建築の発展が顕著であった[41]。
『グルジア年代記』が編まれ、また、特にタマル女王に仕えた官吏で詩人のショタ・ルスタヴェリの活動がよく知られている[52]。
タマル女王死後のグルジアはホラズム・シャー朝の軍による侵入を受けた。
1220年にはチンギス・カンの命を受けたスブタイとジェベはホラズムのムハンマド2世(アラーウッディーン・ムハンマド)を追撃している途上でカフカス地方を通過し、遭遇したグルジア軍はモンゴル軍に打ち負かされた[53]。
翌1221年、スベタイ・ジェベ軍2万がグルジア王国を再び攻撃。
タマルの子ギオルギ4世(英語版)は第5回十字軍への支援を取りやめ、国を挙げて抵抗したものの敗北した[50][53]。
1222年の戦いでも敗北し、これらは、キリスト教文明に属する地域がモンゴル軍からの猛攻を受けた最初であった[50]。
ギオルギ4世はモンゴル戦の負傷がもとで1222年に死去し、妹のルスダンが王位を継承した。
ルスダン治下の1225年、ホラズムの支配者ジャラールッディーン・メングベルディーがグルジアに侵入し、1226年、首都トビリシが占領されて略奪を受けた[50]。
さらに、1236年にはチョルマグン率いるモンゴル軍が再びグルジアに侵攻し、ルスダン女王はクタイシへの避難を余儀なくされた。
女王はローマ教皇グレゴリウス9世に支援を求めたが失敗し、1243年、モンゴル軍3万が常駐するなか、グルジアはモンゴル帝国に併合され、その属領となった[50]。
モンゴルは「グルジスタン州」を置き、そこにグルジアと南カフカス全域を管掌させ、グルジアの領主たちを通じて間接統治を行った。
モンゴル帝国のグユク・カンは1247年、グルジア王国を東半部と西半部に分け、ギオルギ4世の子のダヴィド7世(英語版)には東部のカルトリを、ルスダンの子のダヴィド6世(英語版)には西部のイメレティをそれぞれ与え、2人を共同王として公認した[54]。
1259年から1260年にかけて、ダヴィド6世に率いられたグルジア貴族たちがモンゴル勢力に叛旗を翻し、西部グルジアにイメレティ王国(英語版)の独立を勝ち取った。しかし、東部グルジアは引き続きモンゴル支配を余儀なくされた[37][41]。
遊牧国家であるイルハン朝では税務行政上の首都と重要地点とを結ぶ駅逓制度が整備され、東部グルジアの中心トビリシも「シャーフ・ラーフ(王の道)」と称する交通網のひとつの終点として重要な役割を担った[55]。
モンゴル支配下では貢納は厳しかったものの一定の自治は与えられた。
またモンゴル人たちは概して宗教に寛容で、イスラムやキリスト教ネストリウス派、ルーシ・グルジアの東方正教会はむしろ民衆統治に役立てられた。
交通上の変革としては、1260年以降、ジェノヴァ共和国と東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスとの条約によって黒海にジェノヴァ商船隊が乗り入れが実現した[55]。
クリミア半島のフェオドシヤやアブハジアのスフィミは港湾として発展し、黒海沿岸には40ものジェノヴァ商館が設けられたという[55]。
モンゴルの支配は長く続いたが、「光輝王」と呼ばれたギオルギ5世(英語版)が現れて東西に分裂していたグルジアを再統一し、ようやく1335年にモンゴル勢力を放逐して、事実上の独立を果たした[37][41][42]。
ただし、その翌年の1336年にはトビリシでペスト(黒死病)が大流行し、大きな痛手を受けている。再統一後もグルジアはジャライル朝とチョバン朝の影響下にあった[56]
1380年、西チャガタイハン国から自立したティムールが侵入、トビリシを占領して王と王妃は捕虜となった[50]。
以後、グルジアはティムール朝の侵入に苦しめられることになり。特に1386年から1403年にかけて計8度におよぶ猛襲は、経済的にも文化・生活の面でも回復困難な打撃をグルジア社会に与えた[37][41][42]。
グルジアはこののち一時黒羊朝の支配にも服した。
1444年にはトビリシがペルシア軍によって侵略を受け、1460年代にはカヘティ王国(英語版)が独立、分権化が進行して1466年、グルジア王国はついに崩壊、一種の無政府状態に陥った。
1490年におけるグルジアの3王国5公国
グルジア王国は東部のカルトリ王国とカヘティ王国、西部のイメレティ王国というバグラティオニ家の王統を戴く3つの王国に分裂した。
1490年、この3王国が相互に承認しあうことでようやく無政府状態を脱することができた。
3王国のほかには、13世紀以来の西南グルジアの有力豪族ジャケリ家(英語版)が公式に支配したアタバク領サムツヘ国(英語版)があり、さらに黒海沿岸にグリア公国(英語版)、サメグレロ公国、アブハジア公国(英語版)、内陸部にスヴァネティ公国(英語版)が独立した君公国としてふるまい、事実上5つの公国が分立した[52]。
16世紀初頭から18世紀前半にかけてのグルジアは、イラン高原に建国された東のサファヴィー朝、新首都イスタンブールを本拠として周囲に勢力を拡大する西のオスマン帝国の圧力を受け、しばしば両者の係争の地となった[41]。
カルトリ王国とカヘティ王国はサファヴィー朝、イメレティ王国はオスマン帝国の支配をそれぞれ受け、両者の抗争はイスラームにおけるスンナ派とシーア派の宗教戦争の性格も内包していた[41]。
この時代、特にグルジア東部にあっては度重なる戦乱と住民の強制移住によって人口が減り、経済活動も停滞を余儀なくされた[44]。
イメレティ王国は頻繁に王位が交替し、混乱が続いた[55]。
サメグレロ公国のダディアニ家(英語版)は17世紀のレヴァン2世(英語版)の時に最盛期を迎えたが、17世紀後半には衰え、公国支配者の血統が交替した[55]。
サムツヘのジャケリ家はグルジア王家との婚姻によって独自の立場を築いたが、のちにオスマン帝国の直接支配下に入り、パシャの称号を獲得し、その領域(現在のアジャリア自治共和国など)ではイスラーム化が進行した[55]。
カヘティ王国では、16世紀前半に英明な君主レヴァン(英語版)が現れ、国王の権力を強化して絹の交易などで王国を繁栄に導いた[57]。一方のカルトリ王国では16世紀中葉にシモン1世らがペルシアに対して抵抗して以降は、サファヴィー朝の宗主権を認めた[57]。
1555年、トルコとペルシアは長年の抗争の結果アマスィヤの講和を結んで平和を実現する一方カフカスにおける相互の勢力範囲を定め、これはその後グルジア社会を大きく規定することとなった[52]。
1578年、小康状態は破られ、オスマン帝国の勢力がカフカス全土を蹂躙してトビリシを制圧したのに対し、サファヴィー朝第5代シャーのアッバース1世はこれに反撃。トルコ人勢力を撤退させたが、アッバース1世はまたカヘティに対して略奪遠征を行ったため、その富は失われてしまった[37][57]。
サファヴィー朝の政治的影響下にあったカルトリとカヘティでは、イスラーム改宗を条件にバグティオニの家系の王子から選ばれ、政治経済的ないし軍事的には衰退し、文化面でもペルシア文化の影響を強く受けた[52][57]。
しかし、一方ではアルメニア人やチェルケス人などとともに「グラーム(王の奴隷)」と呼ばれる軍人・官吏としてサファヴィー朝を支え、イラン人やトルコ人と並んで枢要な国政ポストについてエリートの一画を占めるグルジア人も現れた[52][58]。
サファヴィー朝の帝都エスファハーンの長官職は半ばグルジアの王子による世襲の職となっており、現在のイラク国境に近いシューシュタルの町は、グルジアの大貴族出身者の家系が約100年にわたって支配し続けた[58]。
グルジア独自の伝統文化もペルシア支配下で復興を遂げ、12世紀初頭の「黄金時代」に対比し「銀の時代」と呼ばれるほどである[52]。
その中で、カヘティ王のティムラズ1世(英語版)、カヘティとイメレティの両方の王位を経験したアルチル(英語版)の2人は詩人王として知られている[52]。
また、サファヴィー朝の官吏であったパルサダン・ゴルギジャニゼ(英語版)は17世紀末に『グルジア年代記』を著している。
18世紀に入ると、カルトリ王国にヴァフタング6世が現れた。彼は傑出した立法家であったが、一方では1709年にグルジアに印刷術を持ち込み、グルジア語印刷を始め、自国史の追究に関心の強い文化人でもあった[37][52]。
ゴルギジャニゼの著したグルジア年代記の続編を編纂する目的で学者・有識者を集め、グルジア国内の写本・古文書の精査を命じ、その成果を14世紀から17世紀までの公的年代記として刊行した[52]。
1722年、パシュトゥーン人がエスファハーンを陥落させサファヴィー朝が崩壊すると、グルジアはオスマン帝国の新たな侵入を招いた[37]。
ペルシアでは征服者ナーディル・シャーが現れ、ロシア帝国との間に反オスマン同盟を結び、アフシャール朝を創始してオスマン帝国に奪われた失地を回復。カルトリ王位をカヘティ王だったティムラズ2世(英語版)に与えた[37][52]。
ロシア帝国時代
18世紀後半、東グルジアのカヘティ王国にエレクレ2世(英語版)が現れ、サファヴィー朝後に興起したアフシャール朝を撃退し、父のカルトリ王ティムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国を建てた[37][41]。
エレクレはアルメニア商人たちと提携して王国の殖産興業に尽力したため、その経済は大いに発展した[40][57]。
1768年に始まった露土戦争ではエレクレはロシア側で戦った。クタイシを首都とする西部のイメレティ王国もこの戦争ではロシア側に立ち、ソロモン1世(英語版)治世下の1779年にはオスマン支配から脱却することに成功した[37]。
エレクレ2世は、北カフカスからのレズギン人の襲来やペルシア・トルコの両勢力から自国を守るため、同じ正教を奉ずる北の大国ロシア帝国との同盟を目指し、1783年には女帝エカチェリーナ2世との間にギオルギエフスク条約(英語版)を結んでロシアの保護国となることを認めた[37]。
しかし、ロシアはこの条約を守らず、エレクレ2世は結局、新興のガージャール朝からの猛攻を単独で受けざるを得なくなった。
1795年、グルジアは大敗北を喫してトビリシは略奪を受け、経済成長の成果は無に帰した[37][57]。
エレクレの病弱な後継者ギオルギ12世(英語版)は無条件で自国をロシアの保護に委ねることを決し、1800年12月に死去した[37]。
1801年1月、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ・カヘティ王国を廃して東グルジアの併合を宣言し、同年9月、新帝アレクサンドル1世によって併合が実行に移された[37]。
カフカス総督府(英語版)をトビリシに設け、グルジアはロシアの軍政長官の支配下に置かれた[48][59]。
このとき、カルトリ・カヘティ各地では人民の叛乱が起こった[37][48]。
カフカス総督は、帝政ロシアの他の植民地総督以上の権限を有し、グルジアには内地同様、県(グベールニヤ)を置いて県知事などには現地の有力者を充てた[59]。
ロシア帝国は19世紀初頭、ザカフカス(南カフカス)の強固な支配とペルシアの背後にあるイギリスへの対抗のため、グルジア軍道を建設した[60](英露の抗争は「グレート・ゲーム」を参照)。
ロシアは1810年には西グルジアのイメレティをも併合し、グルジア主要部は総じて簡単にロシアの一部になってしまった[61]。
ロシアはまた、1828年にはアルメニアを併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、アゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年にはグルジアのグリアを併合した[37][61]。
グリアではロシア政府によるジャガイモの強制栽培に端を発した1841年グリア反乱(英語版)が起こっている。さらに、ミングレア(旧サメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年、1858年、1867年に完全にロシアの版図となった[37]。ロシア側からみれば、南カフカスよりも北カフカスのチェチェン人、レズギン人などのイスラーム系山岳民族の方が強敵であった[61][62]。
結局ロシアは、北カフカスを戦場とするコーカサス戦争(カフカス戦争)に1816年から1861年まで、45年の歳月を費やしている[61]。
この戦争に対し、グルジアの軍隊と人々はロシア側で参加した[63]。
これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと共通の信仰(キリスト教)を持っていたばかりでなく、彼らがロシア統治に積極面を感じていたという指摘がある[63]。すなわち、ロシアへの併合はムスリムの諸勢力の攻勢から自身を守り、自らロシア政府の主導するカフカスの再キリスト教化に参与できたのである[43]。
一方、グルジア正教会は1811年、ロシア正教会に吸収され、その組織的独立を失った[43][45]。
グルジア教会のカトリコス(総主教)は廃され、代わりにロシアの宗務院に属する大主教が置かれた[45]。
これは、ロシア教会とグルジア教会の間には教義上の差異がないとみなされたためであったが、後者には長い歴史を持つグルジア語の文語と独特の典礼があり、その聖職者・信者にとってグルジア語の禁止とロシア語の強制は大きな苦痛であった[43]。
1856年のコーカサス
グルジア貴族の中にはロシアの帝都サンクトペテルブルクに留学する者が増え、ロシア経由でロマン主義文学の影響を強く受ける者も現れた[64]。
また、開明的なミハイル・セミョノヴィチ・ヴォロンツォフ総督時代の1845年から1854年にかけては、グルジアの商業と貿易が急速に発展し、トビリシには劇場なども整備され、都市文化が開花した[37][64]。
1861年にロシア皇帝アレクサンドル2世の発した農奴解放令はグルジアにもおよび、1864年以降、農奴制の元にいた農民たちは自由の身となり、従来の家父長制的な慣行は近代教育の普及とヨーロッパからもたらされた諸思想によって急速に消え去っていった[37]。
19世紀後半には、国民的作家として知られるイリア・チャヴチャヴァゼ、アカキ・ツェレテリ、ヴァジャ・プシャヴェラという、現代でも親しまれる三大文豪が活躍した[64]。
1860年代、トビリシには織物工場が設けられ、1872年、トビリシとポティの間の鉄道が開通した[37][60]。
さらに、バトゥミ、トビリシとアゼルバイジャンのバクーを結ぶ鉄道も敷設された[48]。
黒海とカスピ海の沿岸が結ばれたことなどにより、鉱山・工場・農場経営などの諸産業が発展した。しかし、資本の多くはロシア人、アルメニア人、西欧諸国の人々の掌握するところとなり、グルジア人には恩恵が少なく、多数の農民と都市化・工業化によって新たに形成された労働者階級の多くはこれに不満を抱いた[37]。
1883年、トビリシにザカフカス鉄道本部が置かれ、グルジアはザカフカス地方全体の鉄道輸送の要地となった[60]。
19世紀末葉にはアゼルバイジャンのバクーで油田開発が進み、黒海に面したグルジアにはパイプラインが造られた[60]。
農奴は解放されたものの私有地の約3分の2が地主の所有であり、教会領も多かったため、農民の多くは貧窮していた[60]。
また、皇帝アレクサンドル2世の暗殺後は反ツァーリ運動に対する締めつけが強くなり、1881年に即位したアレクサンドル3世は計画的なロシア化政策を打ち出して少数民族の同化政策を強制的に推し進めた[37][59]。
これに抗して、さまざまな農民運動や民族主義運動が興起した[37][59]。
民族再興運動は、当初は文学と社会運動を基本とするグループが力を持っていたが、やがて社会民主主義を奉ずるグループが優勢となり、ノエ・ジョルダニアやニコライ・チヘイゼらのメンシェヴィキがその受け皿になっていった[37][41]。
彼らの活動は、やがて1902年春のグリアでの農民運動「種まきストライキ」へとつながった[65]。
また、1902年のバトゥミでのストライキは社会民主党の指導によるものであった[66]。
1903年、トビリシでロシア社会民主労働党カフカス連盟が組織され、カフカス諸都市の労働運動は組織化を一層強めた[65]。
1903年7月にバクーとオデッサで始まったゼネラル・ストライキはトビリシやバトゥミにも波及した[65]。
1904年8月から9月にかけての日露戦争の遼陽会戦でロシア陸軍が日本陸軍に敗北したことは、ロシア帝国内の労働運動・農民運動にも大きな影響を与えた。
1904年末、グルジアではバクーやバトゥミの労働運動と結びついて農民委員会が結成され、広範な騒擾事件とゲリラ戦が展開された[37]。
特にグリア地方の農民蜂起は、ツァーリ政府から地域権力を奪い、地主の所有する農地を占拠し、さらに武装集団を組織するに至ったというもので、その様態は「グリア共和国」と呼ばれるほどであった[37][65]。
「マルクス主義者が指導した世界初の農民反乱」と評されるこの動きは全グルジアに広がり、これにはかつてのグルジア貴族も参加した[65]。
この年の一連の反政府行動はロシア第一革命(1905年革命)と呼ばれており、1905年前半期を通じて暴動や反乱が帝国全土に広がった[67]。
トビリシやポティ、クタイシではストライキが起こり、トビリシとカルスでは軍部の反乱さえ起こっている[67]。
1905年はまた「自由主義者の春」という状況が生まれ、9月にはロシア帝国内の革命派によってフランスのパリで反政府党・革命党会議をひらかれた[68]。
そこにはグルジア革命的社会主義者連邦派党も参加している[68]。
1906年以降、革命運動は退潮していくが、グルジアにあってはメンシェヴィキが一層広範な支持を獲得していった[65]。
ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代
首都トビリシでパレードする赤軍(1921年)
ロシア革命後の1918年5月26日にグルジア民主共和国はロシアからの独立を宣言するが、1921年に赤軍のグルジア侵攻(英語版)によって首都を制圧され、崩壊した。
1922年、グルジア問題では、フィリップ・マハラゼとブドゥ・ムディヴァニらグルジアの穏健派共産主義政権が失脚し、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。
1936年には直接のソ連邦構成共和国(グルジア・ソビエト社会主義共和国)に昇格した。
第二次世界大戦に一環である独ソ戦では、ナチス・ドイツ軍がグルジアに近い黒海北岸や北コーカサスまで一時侵攻した。詳細は「コーカサスの戦い(英語版)」、「黒海の戦い (第二次世界大戦)」、および「ブラウ作戦」を参照
戦後、ソ連はアメリカ合衆国など西側諸国との冷戦に入り、ソビエト連邦の崩壊直前まで民族問題が取り上げられることはなかった。またヨシフ・スターリンの故郷という側面もあり、かつては共産党員の割合がもっとも高かった。
ソ連崩壊後
1989年、東西冷戦が終結しソ連のペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、ソ連地上軍が反ソ運動を弾圧したトビリシ事件(英語版)を大きな転機として、ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。
1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出。
これは同年12月25日付でのソ連邦解体により実効性を持ったものの、独立後も多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず治安も悪化し内戦状態に至った。
その後、アブハジア(アブハジア紛争、アブハジア戦争(英語版))や南オセチア(南オセチア紛争 (2008年))やアジャリア自治共和国 (en:2004 Adjara crisis) で分離独立運動が起き、現在は南オセチアとアブハジアが事実上の独立状態となっている(アジャリア自治共和国は2004年にジョージア中央政府の支配下に置かれて自治権剥奪)。
シェワルナゼ政権
1991年11月22日、グルジア国家警備隊がクーデターを起こし、政府軍と交戦[69]。
1992年1月6日、ズヴィアド・ガムサフルディア大統領は首都トビリシを脱出し[69]、代わって軍事評議会がグルジアを統治した。
その後、軍事評議会の招きによりエドゥアルド・シェワルナゼ元ソ連外相が帰国し、同年3月10日に国家評議会が創設されると、シェワルナゼが議長に選出された[69]。
同年10月11日、最高会議議長の直接選挙が実施され、シェワルナゼが96%の得票により当選[70]。10月17日、国家評議会は自主解散し、統治機能は最高会議に引き継がれることとなった[71]。
1992年7月31日、国際連合に加盟した。その後は2003年まで、シェワルナゼが最高権力者であった。
バラ革命
2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカが非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。
これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には2万5,000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。
シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。
代わって、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。
詳細は「バラ革命」を参照
サアカシュヴィリ政権
旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党国民運動のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。
しかし、労働党のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、伝統主義者連盟が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシア連邦を後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はサアカシュヴィリの圧勝に終わった。これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受け入れ、アバシゼ議長は反対し続けたが、5月には最終的にロシアへ亡命し一連の混乱も収拾した。
3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派と産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアでもっとも自由な選挙のうちのひとつだったと考えられる。
2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置づけるものとなった。
ロシア-グルジア戦争
南オセチア紛争 (2008年)2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発した。
詳細は「南オセチア紛争 (2008年)」を参照
「#2008年の南オセチア紛争(ロシア-グルジア戦争)」も参照この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され、のちに紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。
2009年4月9日、首都トビリシで、サアカシュヴィリ大統領に辞任を要求する大規模な反政府集会が議会前広場で主要野党(民主運動・統一グルジアなど)によって開かれた。その集会には、6万人に上る市民が集結した。要求の背景は、大統領の権力集中への批判とロシアとの軍事衝突を回避できなかった責任の追及などが挙げられている。なお、グルジアが求めていた北大西洋条約機構(NATO)加盟は現在棚上げされている。
2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。
サアカシュヴィリ政権の終焉とマルグヴェラシヴィリ政権2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「グルジアの夢–民主主義グルジア」が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、「グルジアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のダヴィト・バクラゼ候補は惨敗した[72]。
これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、欧州連合(EU)加盟を目指す方向性は変わっておらず、2014年6月27日、EUと連合協定を締結し[73][74][75]、2016年7月1日、正式に連合協定を発効した[76]。
マルグヴェラシヴィリ大統領やミヘイル・ジャネリゼ外務大臣は、NATO加盟を引き続き模索していることをたびたび表明している[77][78]。
年譜4世紀 - キリスト教を国教化。 6世紀 - 10世紀 サーサーン朝ペルシア帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国(アラブ人)の支配下となる。 11世紀 - バグラト朝(英語版)成立。 13世紀 - 14世紀 タタール、ティムールによる侵攻。 16世紀 - 18世紀 西部がオスマン帝国、東部はサファヴィー朝ペルシアの支配下となる。 1783年 - ギオルギエフスク条約(英語版)によりグルジア東部はロシア帝国の保護領となる。 1801年 - ロシア帝国、グルジア東部を併合。ロシアはその後、併合を繰り返していく。 1878年 - 露土戦争の結果、アジャリアがロシア帝国に併合。現在のグルジアにあたる領域がすべてロシア帝国の版図に入る。 1918年5月 - 前年のロシア革命を受けグルジア独立宣言(グルジア民主共和国)。 1922年 - アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を形成、ソビエト連邦に加盟。 1936年 - スターリン憲法により、独立した連邦構成共和国となる。 1989年8月 - 南オセチア紛争始まる。 1990年8月 - アブハジア紛争始まる。 1991年4月9日 - 独立宣言[79]。ソビエト連邦の崩壊により12月に独立。 1992年 1月 - ズヴィアド・ガムサフルディア大統領が失脚。 3月 - エドゥアルド・シェワルナゼが国家評議会議長に就任。 10月 - エドゥアルド・シェワルナゼが最高会議議長に就任。 1995年11月 - エドゥアルド・シェワルナゼが大統領に就任。 2000年4月 - エドゥアルド・シェワルナゼ大統領再選。 2002年8月 - チェチェン共和国武装勢力に加わっていた日本人義勇兵(元自衛隊員)がグルジア領内で拘束されたとの報道。 2003年11月23日 - バラ革命、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領が辞任、ニノ・ブルジャナゼ暫定政権発足。 2004年 1月4日 - 大統領選挙を実施、ミヘイル・サアカシュヴィリが圧勝。 1月25日 - ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就任。 2006年 3月27日 - ロシア政府、グルジア産ワインの輸入禁止を表明、親欧米色を強めるグルジア政府に対する圧力ともいわれる。 5月23日 - ウクライナの首都キエフにおいてGUAMの設立が宣言され、グルジアも加盟を表明。 7月13日 - ロシアを通過せずに旧ソ連圏産の石油を輸出することが可能で、グルジア領内も通過するBTCパイプライン開通。 7月25日 - グルジア軍が、独立を主張しているアブハジアに軍事攻撃を仕掛ける。アブハジア側とグルジア側にまたがるコドリ渓谷での26日までの戦闘で、現地を支配していたアブハジア系民兵を追い出した。グルジア側は、この戦闘で攻撃ヘリ数機、兵員輸送トラック34台、戦闘用車両18台を投入した。この戦闘で民間人1人が死亡、数人が負傷、民兵25人が捕虜となった。 9月27日 - グルジア治安当局が、スパイ行為を行ったとしてロシア軍将校ら十数人を拘束。ロシア外務省は28日、抗議のため駐グルジア大使を召還。 10月13日 - 国連安保理、アブハジアに対する「グルジア政府の挑発的行動」を非難する決議1716[1]を採択。 2007年 8月7日 - グルジア北部で国籍不明の軍用機がミサイルを投下。グルジア政府は「ロシアの恫喝」と非難するが、「自作自演」ともいわれる。以前にも「グルジア領内への空爆」を自作自演した疑惑[2]が存在する。 9月27日 - 以前からタカ派として国民からの人気が高かったイラクリ・オクルアシヴィリ元国防相が拘束される。大統領から反政府的とされるビジネスマンの殺害を命じられたと「告白」したことが原因とみられている。28日には元国防相の身柄拘束に反対するデモがトビリシで行われる。この件以降、グルジア各地での反政府デモが活発化。 11月1日 - サアカシュヴィリ大統領の辞任や議会選挙の前倒しなどを求めるデモがトビリシなどで行われる。7日に武力鎮圧されるまで、グルジア各地で断続的にデモが発生。 11月7日 - サアカシュヴィリ大統領、非常事態宣言発令。当初は2週間ほど継続される予定だったが、16日に解除。 11月14日 - グルジア政府が、反政府的報道を行ったとして野党系テレビ局「Imedi」の放送免許を停止。同局は11月7日、グルジア政府特殊部隊の強襲を受け、スタジオ・放送機材などを破壊されていた。免許停止自体は12月5日に解除されるが、放送再開には時間がかかるとの見方もある。 11月25日 - サアカシュヴィリ大統領が、野党側が求めていた議会選の前倒しを拒否。代わりに大統領選の前倒しを行うことを表明し、立候補のため大統領職を辞任。大統領選は1月5日と決まるも、同日国会前では数万人が参加するデモが発生。11月7日の衝突以降、初の大規模デモとなる。 11月27日 - 事実上の国外追放処分を受けドイツに滞在していたオクルアシヴィリ元国防相が、ドイツ検察当局に拘束される。 2008年 8月8日 - 事実上の独立状態にあった南オセチアに侵攻。平和維持軍として駐留していたロシア軍に攻撃を加え、ロシアと戦闘状態に入る(南オセチア紛争 (2008年)も参照)。 8月10日 - 南オセチアから軍が退却。 8月12日 - 独立国家共同体(CIS)より脱退を発表。 8月29日 - ロシアと断交。政治
ズラビシュヴィリ大統領
ガリバシヴィリ首相
詳細は「ジョージア国の政治(英語版)」を参照ジョージアは共和制国家であるが、1995年12月8日から2004年2月17日までの間、首相の規定はなく大統領が政府を組織していた。ただし、首相職に相当するものとして国務大臣が設置されていた。
「ジョージア憲法」も参照
行政国家元首は大統領で、任期は5年となっている。大統領は首相その他の大臣の任命・指名に関して議会の同意を得る必要がある。
2010年に憲法改正が行われ、2013年10月より大統領ではなく首相が権限を握る議院内閣制に移行した。
立法ジョージア議会は一院制で、任期4年(定数235名)。その内、150議席が比例代表制で、85議席が小選挙区制である。なお、議会は行政官庁が集中する首都トビリシではなく、西部の古都クタイシに置かれている。
州知事と大都市の市長は、大統領による任命制である。
政党複数政党制であり、独立後から多くの政党の存在が認められている。
「ジョージアの政党一覧」も参照
司法同国には最高裁判所と憲法裁判所があり、憲法裁判所には大統領の推薦に基づき議会によって選出された裁判官が存在する。
国際関係
詳細は「ジョージアの国際関係(英語版)」を参照
「ジョージアの在外公館の一覧」および「駐ジョージア外国公館の一覧」も参照
ロシアとの対立独立およびソ連解体以降、ジョージアは一貫して隣国ロシアと距離を置き、欧米との関係強化を打ち出してきた。この路線は2004年に成立したサアカシュヴィリ政権下で一層に高まり、軍事的には2008年の北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)への加盟推進、ロシア語からグルジア語への言語変更の推進と英語教育の義務化、ソ連時代のみならずロシア帝国時代にまで遡っての「抗露運動の歴史」を教える記念館の建設、同じ路線をとるウクライナ、ポーランド、バルト三国との連携など、強硬な反露と親米・親欧・親イスラエル路線、そして民族主義を高揚させる路線を歩んできている。また対露強硬派で知られるアメリカのネオコンとの協力も深めているとされる。実際、ネオコンに近いとされるアメリカ人ランディ・シェーネマン(Randy Scheunemann)は、サアカシュヴィリの外交顧問を務めていた。またサアカシュヴィリ政権は、ロシア軍に対抗するべく、それまでのロシア製兵器から欧米製兵器への更新による近代化、アメリカ軍やイスラエル国防軍との共同軍事訓練を行うなど、大幅な軍拡を進めていたが、軍事評論家の江畑謙介は、予算に無理のある計画だと評している[80]。
一方、ロシアにとってジョージアはカスピ海産原油パイプラインの存在など、中央アジアの原油を確保するうえで密接な関わりがあり、南の玄関口である黒海へ連なる要衝に位置する重要な国家と位置づけている。またチェチェンとの対立を抱えるロシアにとって、チェチェンの周辺国の一角を成すジョージアと手を結ぶことは、ロシア南部における安全保障の観点からも非常に有効と見ていた。
民族問題こうした流れに加えて、ジョージア国内の民族問題も両国の対立に拍車をかけている。コーカサス地方は古くから多数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したにすぎないジョージア人という民族意識はいまだ不安定で、ジョージア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。最大勢力であるジョージア人(カルトヴェリ人)の中でもミングレリア人(ミングレリア)、スヴァン人(スヴァネティ)、ラズ人やアジャリア人(アジャリア)は民族意識が強くあり、ジョージア人とは区別する場合もある。
また、カルトヴェリ人とはまったく異なる北西コーカサス語族系のアブハズ人(アブハジア)、イラン系民族のオセット人(南オセチア)、アルメニア人(ジャワヘティア)、アゼルバイジャン人、チェチェン人など多数の非ジョージア民族を国内に抱えている[81]。ジョージア政府の反露政策はカルトヴェリ人民族主義と密接に結びついており[82]、これらの地方民族への弾圧が強まっている[83]。これらの国の中には、言語の保護など多民族共生の向きが強いロシアの庇護を受けることで自民族の文化を守ろうとする動きがあり、ロシアもジョージアへの牽制から積極的に支援する立場にある。とりわけ南オセチアでは、北オセチアを統治するロシアへの併合を求める運動が活発化している(ただしロシア政府は国家承認はしつつも、併合は望まないとしている)。対するジョージアは自民族中心主義(エスノセントリズム)・反ロシア路線の双方から一連の動きに激しく反発した。
2006年9月27日・28日には、ジョージア国内に駐在していたロシア軍将校6名が、ジョージア軍によりスパイ容疑で拘束された。ロシア政府が抗議としてジョージアに対するビザ発給停止や国境線の封鎖などの報復をとる事態が発生している。さらに2008年には、ジョージア軍が南オセチアに展開するロシア軍主体の停戦監視部隊に攻撃を仕掛け、兵器を強奪する行為を起こした。ジョージア政府は「ロシア軍の停戦部隊は独立派を支援しており公平ではなく、EU部隊との交代を行うべき」と発言しているが、ロシア軍駐留に関しては当のEU側も賛同する意向を示している。
南オセチア紛争
詳細は「南オセチア紛争 (2008年)」を参照2008年8月7日、ジョージア政府は南オセチア自治政府に対して、自治権を剥奪するとともに軍部隊を南オセチアとアブハジアに侵攻させ、同時にオセット人を虐殺した。しかし、南オセチアとアブハジア側に立って参戦したロシア軍の前に、ジョージア軍は一方的な敗北を喫し、8月15日に停戦が決定した。
停戦後、ロシアはジョージア国内に駐屯しつつ、議会でアブハジアと南オセチアの独立を承認する決議案を採択、メドヴェージェフ大統領がこれを正式に了承した。ジョージア側はこれに抗議する形で8月28日、議会にてロシアとの外交関係を断絶するよう求める決議を全会一致で採択した。8月29日、バシャゼ外務次官はロシアのアブハジア自治共和国と南オセチア自治州の独立承認に対し、ロシアとの外交関係を断絶すると発表した。
日本との関係
詳細は「日本とジョージアの関係」を参照
軍事
詳細は「ジョージア軍」を参照現在、同国軍は陸軍と特殊作戦軍(英語版)、国家警備隊で構成されている。
以前は海軍及び空軍も存在していたが、上述の紛争によって壊滅した事から国境警察ならび沿岸警備隊と陸軍へ編入される形で統合している為、どちらも現存しない。
地理
ジョージア全土の地図
詳細は「ジョージア国の地理(英語版)」を参照東ヨーロッパ[4][5]、もしくは西アジアに区分される[84]。独立当初から一貫して欧州連合(EU)への加盟を志向しているのをはじめ、ヨーロッパオリンピック委員会(EOC)に加盟するなど、政治やスポーツ関連の国際組織では東ヨーロッパに区分されることが多い。こうした事情はトルコやアルメニア、キプロス、イスラエルなどに近いものと言える。
アジアに区分される事例としては、tz databaseで”Asia/Tbilisi”としてタイムゾーン(UTC+4)が設定されているジョージア時間が挙げられる。また、アジア開発銀行には「地域内メンバー」として加盟している[85]。
地理概況・地勢東経40 – 47度、北緯41 – 44度に位置するジョージアは、コーカサス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山(標高5,201メートル)。200キロ離れたカズベギ山(標高5,074メートル)が第2の高山で、唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。コーカサス山脈に沿ってロシア連邦と723キロの国境を接し、クラスノダール地方、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためジョージアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国、南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある(下表参照)。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷は、チェチェン人ゲリラの巣窟となり中央政府の統治が行き届かない時期も存在した[86]。
ジョージアは中部のリヒ山脈によって東西に分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川(ムトゥクヴァリ)などの主要な河川がある。クラ川の源流域やチョロフ川の流れる一帯が歴史的な西南ジョージア(メスヘティ)であり、統一王朝発祥の地として知られる。クラ河岸に古都ムツヘタ、現首都トビリシなど、東ジョージアの諸都市が発展した。
アブハジアにあるボロニア洞窟は世界でもっとも深く、深度2,140メートルに達する。
気候
スヴァネティはジョージア北西部に位置する歴史的な地域名である山岳地帯が多いため、国土面積のわりに気候は多様である。標高5,000メートルを超えるコーカサス山脈がロシアからの寒気団を遮断する役割を担っているため、国土の大半は比較的温暖で、ケッペンの気候区分の温暖湿潤気候に属する(かつてのソ連邦構成国の中では唯一、柑橘類を収穫できた)。黒海沿岸部はもっとも温暖で、その気候を生かしたグルジアワインの生産地として有名である。山岳地帯は多雨地帯で、降水量は4,000ミリ以上、冬場の積雪は2メートルに達する。首都トビリシなどが位置する東部はより大陸性気候に近くなり、年間降水量は400 – 1,600ミリ程度と、西部に比べると比較的乾燥していて、冬の寒さはより厳しくなる。
各州・各共和国の概況アブハジアと南オセチアについては、内戦の結果、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月時点で4か国(ロシア連邦、ベネズエラ、ニカラグア、ナウル)によってそれぞれ、主権国家「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」として承認されている[42]。
政府名 首都 面積 人口 民族 宗教 2016年現況
Flag of Georgia.svg
ジョージア トビリシ 7.0万km2 430.5万人ジョージア人(グルジア人) 83.8% アゼルバイジャン人 6.5% アルメニア人 5.7% ロシア人 1.5% オセット人 クルド人 キリスト教 グルジア/ジョージア正教 83.9% アルメニア使徒教会 3.9% カトリック教会 0.8% イスラーム 9.9% —Flag of Adjara.svg
アジャリア自治共和国 バトゥミ 2,900km2 39.3万人ジョージア人(グルジア人) 93.4% (大部分がイスラームを 信仰するアジャール人) ロシア人 2.4% アルメニア人2.3% イスラーム ジョージアの直轄統治
アブハジアの旗
アブハジア自治共和国 スフミ 8,665km2 24.0万人アブハズ人 50.7% アルメニア人 19.2% ジョージア人(グルジア人) 17.4% ロシア人 9.1% キリスト教、スンナ派イスラーム 事実上ジョージアより独立
(4カ国が国家承認)
南オセチアの旗
南オセチア自治州 ツヒンヴァリ 3,900km2 5.1万人オセット人 64.3% ジョージア人(グルジア人) 25.0% ロシア人 2.8% アルメニア人 1.2% オセット人はキリスト教(正教)主体 事実上ジョージアより独立
(4カ国が国家承認)
環境
「ジョージア国の環境問題(英語版)」も参照同国は環境汚染等の深刻な汚染問題を抱えている一面がある。ジョージア国は他の旧ソ連構成国と同様、環境への影響をほとんど考慮せずに実施された重工業を強調する経済政策が元で、ソビエト時代よりも深刻な環境悪化に見舞われている[87]。
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、生産量と経済発展が低かったことから産業廃棄物は大幅に減少していたが現在、産業廃棄物処理施設が整えられていない為に、発生した廃棄物は適切な処理をせず自然環境下へその侭で廃棄されている。
また、1980年代にソ連構成国として機能していた当時のジョージア国では年間最大30,000トンの農薬が使用されてきた為、過剰なまでの農薬と肥料の使用は土壌の毒性を強めてしまう結果となった。
さらに土地の侵食により、かなりの量の農地が失われた他、管理が不十分な埋め立て地へ都市ごみが処分されたり 同国の山地に2.5トン以上の有害化学物質が今も埋められた侭となっているなど環境保全における姿勢が整っていない点から、国内各地からは「早く対策を立てて実施しなければ土壌の悪化がますます酷くなる」旨の意見ならび危険性を指摘する声が多数上がっている。
大気汚染は主要都市に見受けられ、特に巨大な製鉄所が存在しその他の金属加工ならび化学薬品の生産を進めているルスタヴィで問題となっている。交通も、大気汚染の大きな要因と一つとなっている他、クラ川と黒海は産業廃棄物でひどく汚染されている現状が続く。
加えて水質汚染と水処理不足が元で、ジョージア国においては消化器疾患の発生率が高いことが指摘されている。
なお、ジョージア国環境天然資源保護省(英語版)は、同国における農地の35%が劣化していると発表している。
地方行政区分
詳細は「ジョージア国の行政区画」を参照
首都トビリシ
中央政府の支配が及んでいない「アブハジア共和国」(緑色)と「南オセチア共和国」(紫色)行政区画は、2つの自治共和国(アブハジア、アチャラ)を含む11の地方(レギオニ)からなり、さらに66の地域(ライオニ)に分かれる[88]。国内には、北西部にアブハジア(首都:スフミ)、南西部にアジャリア(首都:バトゥミ)の2つの自治共和国があるが、アブハジアはジョージア政府の統制は及んでおらず、事実上、独立した状態となっている。
また、シダカルトリ地区とその周辺は歴史的に南オセチアといわれるオセット人多住地域である。ソビエト連邦に属したグルジア・ソビエト社会主義共和国時代にはシダカルトリ地区北半とその周辺を領域とする「南オセチア自治州」が置かれていたが、ソ連邦解体による独立後は消滅。1992年のオセチア紛争以降、オセット人が自治権を要求して中央政府非公認で再び「南オセチア自治州」を樹立した。同自治州が独立の意向を明確にした後は「南オセチア共和国」(首都:ツヒンヴァリ)と名乗っており、アブハジアと同様に一部の地域を除きジョージア政府の統制は及んでいない。
主要都市
詳細は「ジョージアの都市の一覧」を参照トビリシ - 首都 クタイシ スフミ - 港湾都市 バトゥミ - 港湾都市 ムツヘタ ボルジョミ テラヴィ ポティ - 港湾都市(貿易港、軍港) ガグラ - 観光都市
経済
詳細は「ジョージア国の経済」を参照IMFの統計によると、2013年のジョージアのGDPは161億ドルである。一人当たりのGDPは3,597ドルで、世界平均の約40%未満の水準にある。
ジョージア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類、茶やブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインやコニャック製造などの食品加工業。マンガンや銅の採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。
BTCパイプラインと南コーカサスガスパイプライン独立前後からの内戦などの混乱により経済は壊滅的な打撃を受け、国内総生産(GDP)は1994年には1991年の34.9%にまで低下したが、IMFと世界銀行の支援の元で市場経済の導入が進められ、1995年以来GDPは増加に転じ、一方でインフレを抑制し本質的な経済収益を得た。しかしジョージア経済は、徴税の失敗により大幅な財政赤字を経験し続けた。さらにエネルギー不足に苦しんだため、1998年に配電事業を民営化し、これによりエネルギー事情は確実な改善が見られた。政府は長期的な経済回復に対する望みを、ポティとバトゥミなどの重要な港湾を通る国際的な輸送回廊の開発にかけている。膨らむ貿易赤字、腐敗の問題や不安定な政治状況は、経済情勢を短期的に不透明にさせている。しかしながら、復活した投資は、2000年に、経済成長におそらく6%以内の拍車をかけたと思われる。
自国内で供給できるエネルギーはほとんどが水力発電のみで、天然ガスや石油を含むエネルギーの大部分はアゼルバイジャンから輸入する。
ジョージアはアゼルバイジャンにとって原油と天然ガスの重要な輸出ルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)および並走するサウス・コーカサスパイプラインを通って大量の原油がトルコ地中海沿岸に達し欧州へ輸出される。また、ジョージアへの原油供給パイプラインには、ほかにバクー・スプサパイプラインがあり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海から輸出する基地がある。
ジョージア政府は外国からの観光客誘致に力を入れている。2017年に同国を訪れた旅行者は約600万人と、10年間で6倍に増えた。キリスト教会堂など歴史的建築物の修復、94か国・地域を対象とした入国ビザ免除などが奏功している[89]。
交通
詳細は「ジョージア国の交通(英語版)」を参照
道路
詳細は「ジョージアの道路(英語版)」を参照
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鉄道
詳細は「ジョージアの鉄道」を参照
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航空
詳細は「ジョージア国の空港の一覧」を参照
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国民
詳細は「ジョージア国の人口統計(英語版)」を参照
民族構成(ジョージア)ジョージア人(グルジア人)
86.8%
アゼルバイジャン人
6.3%
アルメニア人
4.5%
ロシア人
0.7%
その他
1.7%
民族
ジョージア国周辺の言語・民族分布図。
カルトヴェリ語族の話者分布図。同国は多民族国家である。住民の多くはカルトヴェリ人(ジョージア人、正教徒)(86.8%)となっている[90]。その他アルメニア人、ロシア人、アゼルバイジャン人、オセット人、アブハズ人、ギリシャ人、ユダヤ人などがいる。
ギリシャ人には、もともとアナトリア半島の黒海沿岸地域に居住し、20世紀初頭のトルコ革命に伴う混乱時に隣国グルジアへ避難してきたポントス人などが含まれる。また、アジャリア自治共和国のアジャール人(英語版)など、イスラム教を信仰しているジョージア人も存在する。「グルジーム」と称される世界最古のユダヤ人は1970年代には10万人を数えたが、大半がイスラエルに移住し、現在では1 – 2万人程度まで減少している。
言語言語は公用語はカルトヴェリ語族のグルジア語(71%)で、次いでロシア語(9%)、アルメニア語(7%)、アゼルバイジャン語(6%)となっている。その他、アブハズ語、オセット語、グルジン語なども使われている。また、統計上では同じカルトヴェリ語族としてグルジア語話者に含まれることも多いスヴァン語、メグレル語、ラズ語も使われているなど、多言語国家となっている。
反露感情が強い国民とされるが、実際にはソ連時代に普及したロシア語は広範に使われており、独立以降のグルジア語統制への反発などから一部地域では異民族間の共通語として機能している。
宗教
詳細は「ジョージア国の宗教(英語版)」を参照宗教比率は、キリスト教グルジア(ジョージア)正教会に所属する正教徒が75%、イスラム教徒(ほとんどがスンナ派)が11%。
「ジョージア国における信教の自由(英語版)」も参照
婚姻婚姻は、改姓しない夫婦別姓、どちらかの配偶者の姓に統一する(夫婦同姓)、複合姓を用いる、のいずれの選択も可能である[91]。
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教育
詳細は「ジョージア国の教育(英語版、ロシア語版)」を参照教育制度は3-6-3制で、旧ソ連の10年制から12年制に移行した[92]。6歳から17〜18歳までは義務教育となっている。12学年のうち、1~3学年が初等教育、4~9学年が前期中等教育、10学年以降が後期中等教育にあたる[92]。高等教育を受けるためには10~12学年の修学が必要である[92]。1年生から第一外国語として英語の授業が行われ、5年生からは第二外国語の学習が始まる[92]。
なお、同国の教育は憲法に基づき無料であることを義務付けられている。
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「ジョージア国の大学一覧(英語版)」も参照
保健
詳細は「ジョージア国の保健」を参照
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「ジョージア国公衆衛生局(英語版)」も参照
医療
「ジョージア国の医療(英語版)」も参照
治安ジョージアは、アメリカの情報誌である『グローバル・ファイナンス(英語版)』が発表した「最も治安の良い国ランキング」によると、91位となっている[93]。
しかし、上述の南オセチア・アブハジア及びその周辺地域における領域問題の事情から同地域エリアではジョージア政府の統治が及んでおらず、不測の事態が発生する恐れが指摘されている。
最近では観光客を狙った犯罪が多発し易くなっており、物乞いする子供による窃盗[94]や声掛けによる強盗事件が発生している[95]ことからジョージアを訪れる外国人へ注意が呼び掛けられている。
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人権2005年に欧州民族的少数者保護枠組条約(英語版)(FCPNM)を批准している。これに対しNGOの公差国際財団(英語版)は、2008年に「FCPNMのいくつかの条項がジョージア国議会による完全な実施から免除されている」と指摘しており、具体的には「文化・教育・行政上の問題におけるマイノリティの言語での完全な表現に関する規定が侵害された」と主張している[96]。
「ジョージア国における人権(英語版)」も参照
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メディア
詳細は「ジョージア国のメディア(英語版)」および「ジョージア国の新聞一覧」を参照テレビ、雑誌、新聞は国営をはじめとする公企業と私企業の双方によって展開されている。憲法は言論の自由を保障している。ジョージアのメディアは市場経済圏への移行にともなう変化が進行している。主要紙は「レゾナンシ」や「ジョージアン・タイムズ」などであり、放送局は国営テレビ・ラジオや民営の「ルスタビ2」などがある[97]。通信社としてはインタープレスがある[97]。
長期にわたる政治問題と対立があるにもかかわらず、ジョージアのメディアには自由が残されており、南コーカサスの中でもっとも多様性がある[98]。一部では、国営放送への支配からの自由を求める闘争が継続的に行われている[99]。
国民の世帯の大部分はテレビを所有しており、多くは最低1つはラジオを持っている。多くのメディア企業は首都トビリシに本社を置いている。
「ジョージアにおける電気通信(英語版)」も参照
文化
詳細は「ジョージア国の文化(英語版)」を参照
食文化
詳細は「ジョージア料理」を参照
ワイン
詳細は「グルジアワイン」を参照
ジョージアのワイン工場葡萄の産地で、ワイン発祥の地の一つとされる[100]。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ(Khvanchkara)が有名である。スパークリングワインは、ツクリアラ(Cqriala)と呼ばれる。フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高い。
キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュの中でも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がジョージアに存在する。2006年以来、ロシア連邦はジョージアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止していた(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)が、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立にともない解除された。
文学
詳細は「グルジア文学(英語版)」を参照
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音楽
詳細は「ジョージア国の音楽(英語版)」を参照
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「グルジア舞踊(英語版)」も参照
芸術
詳細は「ジョージア国の芸術(英語版)」を参照
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「ジョージア国の美術館の一覧(英語版)」も参照
映画
詳細は「ジョージア国の映画(英語版)」を参照
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「ジョージア国の映画一覧(英語版)」も参照
建築
詳細は「ジョージア国の建築(英語版)」を参照
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世界遺産
詳細は「ジョージアの世界遺産」を参照ジョージア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
ムツヘタの歴史的建造物群 -(1994年) ゲラティ修道院 -(1994年、2017年縮減) 2017年まではバグラティ大聖堂も構成資産だった。 上スヴァネティ -(1996年)祝祭日
詳細は「ジョージアの祝日」を参照
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月7日 クリスマス グルジア(ジョージア)正教会のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。
3月3日 母性の日
3月8日 国際女性デー
4月9日 国民団結の日 1989年トビリシで反ソ暴動が発生した日
5月9日 戦勝記念日 独ソ戦でのドイツ降伏を記念。
5月12日 聖アンドレイの日 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にジョージアに伝えたとされる。
5月26日 独立記念日 1918年に独立宣言をした日
8月28日 生神女就寝祭 ユリウス暦8月15日
10月14日 スヴェティツホヴェリ教会の日
11月23日 聖ゲオルギオスの日 「啓蒙者」ゲオルギオスはジョージアの守護聖人。
スポーツ
ジョージア対ルーマニア(ラグビーワールドカップ)
詳細は「ジョージア国のスポーツ」を参照ジョージア国内ではサッカー、バスケットボール、ラグビーユニオン、レスリング、柔道、重量挙げが最も人気のあるスポーツ競技である。ジョージアの身体教育は歴史的で有名であり、古代イベリアのトレーニング技法を見たローマ人たちがジョージア人の肉体的素質に強く関心を惹かれたことが知られている[101]。
19世紀時代に有名であったほかのスポーツとしては、馬を用いた球技ポロや、ジョージアの伝統的球技レロ(グルジア語版)があった。これらの競技者は、次第にラグビーユニオン競技へと移行していった。
サッカー
ジョージアの英雄、カハ・カラーゼ
詳細は「ジョージアにおけるサッカー」および「サッカージョージア代表」を参照サッカー人気は世界標準であり、FIFAワールドカップの時期には老若男女がサッカー談義に花を咲かせ、何もなくても子どもたちは街角でサッカーに興じる光景をよく見かける。ソヴィエト連邦時代もジョージアを含むコーカサス地域はサッカーの盛んな土地柄として知られており、首都・トビリシに所在するFCディナモ・トビリシは実績、名声ともにジョージアを代表する伝統的なサッカーのクラブチームである。
2001年から約10年間セリエAのACミランで活躍したサッカー選手のカハ・カラーゼは、2012年に引退したが長らくジョージアの若者たちの憧れの的であった。カラーゼは引退後に政治家へと転身している。
「ジョージアサッカー連盟」および「ウマグレシ・リーガ」も参照
レスリングレスリングは、ジョージアにおいて歴史的に重要なスポーツの地位にあり続けている。歴史家の中には、グレコローマン・レスリング(グルジア語版)には多くのジョージア的要素が組み込まれていると考える人もいる[102]。ジョージアでは、多くのレスリング・スタイルが普及しており、もっとも普及したスタイルのひとつとしてはカヘティ・スタイルが挙げられる。今日ではあまり行われていないスタイルも、過去には数多く存在していた。たとえばジョージア北東部のヘヴスレティ(グルジア語版)地方には、異なる3種類のレスリング・スタイルが存在している。
モータースポーツコーカサス地方で最初かつ唯一のサーキット競技は、ジョージアにて行われており、ルスタヴィ国際レース場(グルジア語版)は1978年に竣工した。その後、2,000万ドルの費用をかけて改築し[103]、2012年に再オープンしている。サーキットはFIA分類でグレード2の要件を満たし、現在はレジェンド・カー・レーシング(英語版)シリーズと、フォーミュラ・アルファ(英語版)大会を開催している[104]。
バスケットボールバスケットボールもまた、ジョージアにおいて著名なスポーツのひとつであった。オタル・コルキア(ロシア語版)、ミハイル・コルキア(ロシア語版)、ズラブ・サカンデリゼ(ロシア語版)、レヴァン・モセシュヴィリ(ロシア語版)といった旧ソビエト連邦代表(ロシア語版)の著名な選手らがジョージアに所属した。ジョージアのBCディナモ・トビリシ(ロシア語版)は、1962年にヨーロッパ最高峰リーグFIBA欧州チャンピオンズカップで優勝した。
これまでに5人のNBA選手を輩出しており、ウラジミール・ステパニア(英語版)、ジェイク・サカリディス、ニコロス・ツキティシュビリ、トルニケ・シェンゲリア(グルジア語版)、そしてゴールデンステート・ウォリアーズ所属のザザ・パチュリア。その他の著名なバスケットボール選手としては、ユーロリーグで2度の優勝を果たしたギオルギ・シェルマディニ(グルジア語版)や、ユーロリーグ所属のマヌチャル・マルコイシュヴィリ(グルジア語版)、ヴィクトル・サニキゼがいる。また、バスケットボール男子代表は2011年以降、3大会連続で欧州選手権の予選を突破している。
著名な出身者
詳細は「ジョージア人の一覧」を参照 』 -
アメリカ合衆国憲法修正第2条
https://ja.sourcknowledge.com/second-amendment-united-states-constitution
『起源と歴史の前例
第2改正の起源は古代ローマ時代とフィレンツェ時代にさかのぼることができますが、イギリスの起源は、エリザベス1世女王がすべての階級の個人が法律で防衛することを義務付けられた国民民兵を設立した16世紀後半に発展しました。レルム。
エリザベスが国民民兵を樹立しようとする試みは惨めに失敗したが、民兵のイデオロギーは18世紀半ばまでの政治ツールとして使用された。
民兵の設立と支配に関する政治的な議論は、イギリス内戦(1642–51)と栄光革命(1688–89)の両方に貢献した要因でした。
ヘラーとマクドナルドでの最高裁判所の判決にもかかわらず、憲法改正の歴史家の多くは、家庭内での自衛のために憲法修正第2条が個人の「武器を保持し、耐える」権利を保護していると裁判所に反対しました。
実際、2世紀以上にわたって、修正2条は州民兵に参加することによって個人の自由を守る権利のみを保証することについて、裁判官と学者の間でコンセンサスがありました。
しかし、20世紀後半までに、修正の「自衛」解釈がかなりの少数の裁判官によって採用されました。自衛の見解は、アメリカの大衆、特に一貫して銃規制に反対する人々の大部分によって当然のように受け取られているように思われた。
イングランドでは、栄光の革命に続いて、憲法修正第2号の前任者が1689年に英国の権利章典で第7条の下に成文化され、「プロテスタントである対象は、自分たちの条件に適した防御のための武器を持ち、法律による。」人、家、または財産を守る権利として誤解されることが多いため、「武器を持つ」ことにより、資格のあるプロテスタントを民兵として武装させることにより、議会が暴君の王冠に対する自治権を行使できることが保証されました。
米国憲法の規定者たちは、間違いなく、第2修正条項を起草するときに「武器を持っている」という英国の許可を念頭に置いていました。
「十分に規制された民兵」の憲法上の重要性は、17世紀後半からアメリカ革命までの英語とアメリカの歴史でよく文書化されています。
それは同国の最初の憲法である連合規約(1781)に含まれており、1787年にフィラデルフィアで新しい米国憲法を起草した憲法条約でさえ言及されていました。
「十分に規制された民兵」の目的を達成するための手段—国の防衛を提供し、連邦の専制政治をチェックするための十分に訓練された規律のある力を提供し、剣の力を均等に分配することによって憲法上のバランスをもたらす人々、州、そして連邦政府。』
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コーカサスの歴史 [17] ポントス草原の人々
https://kyjworld.web.fc2.com/ukkazaki.htm※ 到底、「一筋縄では、いかない。」歴史のようだ…。
※ テキストを読むのは、ツラいんで、画像だけを眺めておくほうが良さそうだ…。
※ と思ったが、読み始めたら、面白くて最後まで読んでしまった…。
※ また、長々と時間を食ったよ…。
























『(8) コサックと北コーカサス
(9-3) ウクライナ・コサック
ポーランド・リトアニア共和国周辺の南部草原のチェルカシ人(後にカザキと呼ばれた)への最初の言及は15世紀。
カザキは始め、南キエフと東ポドリアに住み、後にドニエプルまたはザポロジュと呼ばれ始め、セヴリュキ・カザキ、シーチ(下流)、
登録(都市)、オホチコモンニエ、ナドヴォルニエとスロボダ・カザキと区別された。1663年以降、チェルカシ人の一部は共和国忠誠を拒否し、ロシア皇帝に奉仕し、ビザンティン伝統で小ロシア・カザキと呼ばれ始めた。これは後にロシア帝国でドニエプル左岸に住むカザキの公式名称として使用された。
しかし、広義には、革命前はすべてのドニエプル・カザキが小ロシア・カザキと呼ばれた。
*チェルカシ人は現在の北コーカサスのアディゲ人(の祖先)を指すことが多いが、一方で、ドニエプル川中流に都市チェルカスがあり、その周辺に住んだウクライナ・コサックを指すこともある。
*セヴリュキ:セヴェリャーネの子孫。15-17世紀資料で言及。セヴェルシナ(セヴェリア、ドニエプル左岸支流地域)に住んだ。
ロシアの資料での最初の公式言及は16世紀、特にノガイ公子ユスフのイワン雷帝への手紙に遡り、1550年の手紙では、ロシアと交易する人々を襲う、泥棒について言及。
コサックの起源で唯一信頼できる主張は、コサックが種々の民族グループの接触地帯で生じたことである。*ウクライナという言葉の最古の言及は1187年に遡る。以降、この言葉はルスの種々の公国の要塞国境地帯に採用された。
1569年、以前のルスの南西の土地がポーランド王に従属すると、東ポドリアからザポロジアの地域は非公式にウクライナの名を得た。
(9-3-1) ザポロジュ・コサック
起源
黒海の北の草原にはクマン、ペチェネグとハザールのような遊牧民族が住んでいた。
後のコサック資料はハザール起源を主張するが、コサックの民族発生でのこれら部族の役割は議論になっている。
抑圧や犯罪追求から逃れるためにキエフ・ルスの耕地からこれら荒野に逃げた人々もまたいた。
彼らの生活様式はおおよそ現在コサックと呼ばれる人々と同じであった。
彼らは主に狩猟と漁業と馬と食料を求めてのアジア部族襲撃で生きた。
16世紀にウクライナ人貴族ドミトロ・ヴィシュネヴェツキがこれら異なるグループを強固な軍事組織に統一した。
ザポロジュ・コサックは種々の社会・民族起源を持つが、主にポーランド人貴族支配下の生活より、荒野での危険な自由を好む農奴からなっていた。しかし、都市住民、下級貴族とクリミア・タタールさえコサック軍団の一部となった。
彼らはまた東方正教を信仰として受け入れ、その儀式と祈祷を採用した。
遊牧民仮説では、コサックの祖先はスキタイ、サルマタイ、ハザール、ポロヴィッツ(クマン)、シルカシア(アディゲ)、タタールとその他である。18世紀のコサック年代記はハザール起源を提案する。
しかし公式歴史学では遊牧民仮説は拒絶される。
ポーランド・リトアニア共和国内で
16世紀に、共和国の南方拡大で、ザポロジュ・コサックは共和国によってほとんど従臣と見なされた。
登録コサック(1572-)は1699年まで共和国軍の一部であった。
16世紀末頃、共和国とオスマン帝国の関係は、ますますのコサックの攻撃で緊迫した。
16世紀後半から、コサックはオスマン領を襲撃し始めたが、共和国は独立的コサックを支配できなかった。しかし彼らは名目的には共和国の従臣で襲撃に責任があった。逆にオスマン支配下に住むタタールが共和国の、主に人がまばらに住むウクライナ南東地域で襲撃に乗り出した。
コサックはオスマン帝国心臓部の豊かな商人港都市を襲撃し、そこはドニエプル川河口から船で、丁度2日離れていた。1615と1625年までにコサックはコンスタンティノプルの郊外の地域を破壊し、スルタンのムラド4世を宮殿に逃げさせた。
オスマン帝国と共和国は互いにコサックとタタールを抑制することを要求したが、両者に実行力はほとんどなかった。
コサックはポーランド人に強制され、船を焼き、襲撃を止めることに同意。しかし、船はすぐに再建され、コサックの生活様式は襲撃と略奪を賛美した。
この頃、ハプスブルク家はときどきコサック襲撃者を国境でのオスマンの圧迫を軽減するために利用した。
コサックとタタールの互いの襲撃と報復の繰り返しで共和国南東国境は低強度紛争地域となり、共和国とオスマンの戦争が拡大、モルダヴィア・マグナト戦争からツェツォラの戦い(1620年)と1633-1634年の戦争に至った。
共和国の農奴制から逃げるウクライナ農民でコサックは増加。
シュラフタのザポロジュ・コサックを農奴に戻す試みでコサックの共和国への忠誠が弱まった。
共和国をポーランド人・リトアニア人・ウクライナ人の共和国にする計画はコサックに不人気で、ほとんど進まなかった。更に東方正教会への強い忠誠のコサックは、カトリック支配の共和国へ敵対した。
共和国の正教会抑圧で、コサックは強い反カトリックとなり、これは反ポーランド人と同義であった。
コサックの忠誠の衰退と、シュラフタの横暴で、17世紀にコサックは数度、共和国に反乱。
コサックのコサック登録拡大要求の王の拒否で最大で最も成功した反乱 、フメルニツキ反乱が促進され、これは1648年に始まった。
この反乱でヘトマン国が形成された。
この反乱やロシアやスウェーデンとの戦争などの大洪水と呼ばれる危機的な出来事が続き、共和国は非常に弱体化し、100年後の分解への過程が始まる。
ザポロジュ軍団は自己の軍事・領域的支配地域を持った。士官は軍評議会で選出された。部隊の指導者は公式的ではないがヘトマンと呼ばれた。
ザポロジュ軍団はヘトマン国と密接に結びついていたが、それ自身の統治と秩序を持っていた。
軍事行動のために軍団のコサックはキシュに組織化された。キシュはシーチの統治の中央組織であった。
キシュはシーチ・ラーダ(黒ラーダ)で選ばれた。黒ラーダは全コサックの評議会であった。
平時には、コサックは仕事に従事し、家族と住んだ。
ロシアとの提携
1654年のペレヤスラフ条約後、ウクライナはロシア保護下の従属国となったが、かなりの間、相当の自治を享受した。(皇帝陛下のザポロジュ軍団と呼ばれ始める。)
1657年のボフダン・フメルニツキの死後、後継者のイヴァン・ヴィホフスキーはロシアの干渉の増加で、ポーランドに向き始めた。
1658年のハディアチュ協定では、ザポロジュ・コサックの参加で3民族共和国の試みへの復帰が試みられた。
しかし、これはカトリックとの連合を拒否するコサック兵士によって拒否された。
怒った、コサックは共和国のヴィホフスキーの仲間を処刑し、ヴィホフスキーはなんとか死を免れた。
ザポロジュはヘトマン国からほとんど分離した政府を維持した。かれらはコシュ(キシュ)・オタマンとして知られる指導者を選出。
この時期、ヘトマン国とザポロジュのコサックの間の摩擦が増大。
コサックは特権と自治を失うのを恐れ、皇帝に対する幾度かの反乱に関係した。
1709年、コスト・ホルディイエンコ率いるザポロジュ軍団はロシアに対し、ヘトマンのイヴァン・マゼパに加わった。
マゼパは以前はピョートル大帝の密接な友人であったが、後にピョートル大帝に対し、スウェーデンのカール12世と提携。
ポルタヴァの戦いの勝利後、ピョートルは報復にシーチ破壊を命じた。
1709年のマゼパのベッサラビアでの死で、ピリク・オルリクが後継者に選ばれた。
彼はヘトマンの権威を制限し、ザポロジュの特権を維持、社会的平等化とウクライナとロシアの分離政策を取り始めた。彼はスウェーデンのカール12世の支援でロシアに対し、クリミア・タタールとオスマンと提携したが、戦いに敗れ、亡命。
ザポロジュはオスマンの保護でドニエプル下流にオレシュキ・シーチを新しく築いた。
しかし一部のザポロジュ・コサックはモスクワの保護に復帰したが、指導者コスト・ホルディイエンコは反ロシアで、彼の1733年の死まで、歩み寄りは不可能であった。ロシア帝国内で
時とともにコサックとロシアの摩擦は緩和され、特権はコサックの自治との交換であった。
反マゼパ派はヘトマンにイヴァン・スコロパドツキを選出。彼はロシアとの衝突を避け、ヘトマン国内にロシア連隊駐留を認めた。
1734年、ロシアはオスマン・トルコとの戦いを準備し、ザポロジュ・コサックとルブニ協定を結んだ。
キエフ駐留のロシア軍指揮下に入ることと交換に、ザポロジュ・コサックはすべての以前の土地、特権を再確保。
新しいシーチ(ノヴァ・シーチ)が築かれた。
ロシアのザポロジアの内部問題干渉を心配しながら、コサックはポーランドとロシアの農奴制から逃げたウクライナ農民とその土地に住み始めた。
1762年までに33700コサックと150000農民がザポロジアに住んだ。
18世紀末期までに多くのコサック幹部階級がロシア貴族に組み込まれたが、多くのコサック兵士は農民の地位に落ちた。
彼らは自由を維持することができ、ロシアとポーランドの逃亡農奴に避難場所を与えた。
これにはロシア人コサックのプガチョフ支持者も含む。その結果、1775年まで、ヘトマン国とポーランド支配ウクライナからのザポロジアへの逃亡農奴の数は10万に登った。
1774年のキュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国がロシアに併合され、南方国境防衛の必要性は存在しなくなった。
ノヴォロシアへの植民が始まり、植民地の一つ、新セルビアはザポロジュ・シーチの丁度隣であった。
コサックとの土地所有をめぐる摩擦は増大し、しばしば暴力に至った。
ザポロジュ軍団の終焉(1775)
1775年5月、エカチェリーナ2世の宮廷評議会でシーチ解散決定が採用された。将軍ピョートル・テケリがシーチの占領、解散を命令じられた。命令はグリゴリ・ポテムキンに与えられた。
陰謀により5千が包囲から逃げ、ダニューブ・デルタに行き、そこで新しいダニューブ・シーチをオスマン保護下で築いた。
残った1万1千コサックには何もできなかった。
その後
ダニューブ・シーチは翌年、オスマンの支援を受けることとなる。
1784年、ポテムキンは忠誠ザポロジュ軍団を形成し、南ブグとドニエステルの間に住ませた。
彼らの露土戦争(1787-1789)での奉仕に対し報酬として、クバンの土地が与えられ1792年に移住。
1828年、ニコライ1世に許されて、ダニューブ・シーチのコサックはベルディアンスクとマリウポルの間の北アゾフ沿岸に移住し、アゾフ・コサック軍団を形成。
最終的に1862年、クバンに移住し、クバン・コサックと融合。
(9-3-2) コサック・ヘトマン国 1648-1764
中央ウクライナ地域に1648-1764年(一部資料では1782年まで)に存在。
1648-1657年の反乱の時にザポロジュ軍団ヘトマンのボフダン・フメルニツキが形成。1569年、ポーランドとリトアニアのルブリン連合で南のリトアニア支配ルテニアのヴォイヴォド領はポーランド・リトアニア共和国に与えられた。一方で拡大するロシアは南方のキエフ・ロシア土地を確保しようとしていた。
またカトリック拡大主義の圧迫が1596年のブレスト連合で頂点に達し、これはローマ法皇のもと、現在のウクライナ、ポーランドとベラルーシの東方正教会の自治を維持しようとするものであったがこれは問題があった。
コサックは共和国とオスマンの和平協定で海賊行為を阻止されて非常に憤っていた。
コサックは既に1637-1638年の反乱に失敗していた。
ボフダンはコサックの歩兵はポーランドの騎兵に対抗できないと考え、大胆にもクリミア・タタールの騎兵を利用することを考えた。フメルニツキーはなんとかコサックとタタールの長い相互敵意を打ち破ることができた。
1648年1月、フメルニツキは400-500のコサックでザポロジア・シーチを占領し、クリスマスには勝利してキエフに入った。
(*登録軍団の忠実ザポロジュ軍団の将校ボフダン・フメルニツキーが下流ザポロジュ軍団とザポロジアの登録コサック駐留軍の支援で共和国へ反乱を起こした。)クリミア・ハンのイスラム3世ギレイの支援でポーランドの反撃も阻止できた。
1649年、ズボリフ協定が結ばれたが、コサックの予想より若干あてがはずれていた。
1653年のクリミア・タタールの裏切りで、フメルニツキはポーランドに対し、もはやオスマンを頼れず、ロシアの支援を求めた。
1654年、ペレヤスラフ条約でロシア保護下で自治を獲得。これで1654-1667年のロシア・ポーランド戦争が引き起こされた。
1657-1687年の時期はヘトマン国の歴史で荒廃として知られ、国中での絶え間ない内戦で刻印される。
1657年、ボフダン・フメルニツキーが死亡し、16才の息子のユリが後継者に選ばれたが、彼は父のような指導性を欠いていた。
代わりにイヴァン・ヴィホフスキーがスタルシナ(幹部)評議会によってえらばれ、これが部隊と軍団に不満を生じさせた。
選出が再度行われ、ヴィホフスキーが再選され、モスクワも承認。
親ロシアのザポロジュのコシュ(キシュ)・オトマン(アタマン)のヤキフ・バラバシュの反乱を鎮圧し、ヴィホフスキーはモスクワと断絶したと考え、ポーランドとの交渉を決心、1658年、ハディアチュ協定でウクライナはポーランド・リトアニア共和国での第3番目の自治要素となるはずであったが実行されず、ヴィホフスキーは不評で、ヘトマン職を捨て、ポーランドに逃亡、ユリ・フメツキーが再任された。
1659年の第2ペレヤスラフ協議でヘトマン国の独立が更に制限された。(ユリとの合意)
1667年、ヘトマン国の代表が参加せずに決められたアンドルソヴォ条約でポーランドとロシアの国境が確立し、ヘトマン国はドニエプルに沿って、2分割され、ザポロジュ・シーチはロシアとポーランドの共同統治(1667-1686)となった。
左岸ウクライナはロシアの下である程度の自治を享受し、右岸ウクライナは共和国に留まり、一時、1672-1699年にオスマン帝国が占領。
短期間ペドロ・ドロシェンコは両岸のヘトマンとなった。
左岸のヘトマンのデミアン・ムノホフリシュニの裏切りと、ポーランドの攻勢でドロシェンコはオスマンと提携し、オスマンは彼にウクライナを与えた。
1683年のウィーンでの戦いの敗北後、ポーランドは1690年までにキエフを除いて右岸を取り戻し、共和国のヴォイヴォダ(領主)たちの支配下に置き、一方、全ヘトマン国の統治は1699-1704年の間に廃止された。
荒廃の時期はイヴァン・マゼパのヘトマン選出(1687-1708)で終わり、彼はヘトマン国を統一させた。
ロシアとスウェーデンの大北方戦争でマゼパはピュートル1世と提携し、コサックの重い損失とロシアの干渉を引き起こした。
皇帝がポーランドに対するウクライナ防衛を拒否し、マゼパとザポロジュ・コサックの一部は1708年、スウェーデンと提携。
ポルタヴァの戦い(1709年)でロシアが勝利し、マゼパの独立の目標は終焉。
全地域はキエフ・グベルニヤに併合され、コサックの自治は著しく制限された。
ロシアはマゼパの提携者と疑われるものすべてを追放し、これは1708-1709年のレベディンの処刑で頂点に達した。1764年、エカチェリーナ2世が公式にヘトマン制廃止、1764-1781年にヘトマン国は小ロシア・グベルニヤに編入され、1781年、ヘトマン国の最後の残った統治制度は廃止された。
*ヘトマン国
ヘトマン国は始めポドニエプル(ドニエプル沿い)、プリドニエステル(ドニエステル沿い)、セヴェルシナ(北の土地)とザポロジアを覆っていた。
下流ザポロジア軍団のコシュ・アタマンのバラバシュとプシュカルの反乱(親ポーランドのザポロジア軍団のヘトマンのイヴァン・ヴィホフスキーへの左岸ウクライナの反乱、1657-1658)後、ヘトマンへの不満が高まり、ザポロジュ・シーチはヘトマンに公式的にしか従わないようになった。
ロシアと共和国の1686年の永久和平後、ポーランド支配下の右岸ウクライナは解体。
以降、ヘトマン国は左岸、キエフとその周辺だけを言及。しかし、1760年代までに、ヘトマン制度の勢力はエディサン・オルダ(ハン・ウクライナ:ドニエステルとドニエプル下流間)にも存在、これはピョートル・イヴァネンコ(クリミア・ハン国の支援でマゼパと戦った)がオスマン帝国から受け取り、クリミア・ハンの保護下にあった。
1654年、ヘトマン国はロシア保護下に入った。ヘトマン地域は多くの政治的特権を持っていたが、1663年以降、小ロシア令によって統治した。
ヘトマンのマゼパの大北方戦争でのスウェーデンのカール12世の支援後、ヘトマンの影響力は大幅に減少。
小ロシア・コレーギア(府)のステパン・ヴェリヤミノフとの際限ない抗争と、彼がセイム(評議会)承認の得られなかったヘトマンのパヴェル・プロボトクを罰したことで、1726年、コレーギアは閉鎖され、ヘトマンが復活、1727年、ダニエル・アポストル(1727-1734)が新しいヘトマンに選ばれた。
ピョートル2世とアンア・ヨアノヴナの時代にヘトマンの権利は非常に拡大、トルコに住むコサックの復帰が許され、イヴァン・ビレツキがベーラヤ・ツェルコフ(ビラ・ツェルクヴァ)に軍と来てロシアに忠誠を誓った。
しかし、1764年、ヘトマン制度は廃止された。
()内は現国名(赤線:現国境) 1600年頃のクリミア・ハン国とオスマン領(赤)<参考> 忠誠ザポロジュ軍団(1783-1792))
1775年に解散したザポロジュ・コサック軍団から形成。
1775年、ザポロジュ・シーチは破壊され、ザポロジュ・コサック軍団は廃止され、シーチの支配する土地は新ロシア・グベルニアに併合。
多くのコサックはまずクリミア・ハン国、ついでトルコへ行き、ダニューブ・デルタに住んだ。
オスマン・スルタンは5千の軍団を供給することを条件に彼らがザドナウ・シーチ(1775-1828)を築くのを許可。
1785年、コサックのかなりの部分がオーストリアのバナト地域に移住(バナト・コサック)。
しかし、多くのザポロジュ・コサック(約1万2千)が依然、ロシア帝国市民であった。
同時に、以前のコサックのスタルシナ(隊長)は貴族の地位を与えられ、下位の者も軍隊に加わることを許された。
しかし、一部のスタルシナはエカチェリーナ2世から許されなかった。新ロシアはトルコの脅威にあり、総督の公子グリゴリ・ポテムキンはコサックに好意的であった。
1768-1774年の露土戦争には多くの以前のザポロジュ・コサックがロシア側で戦った。
1783年、公子のポテムキンはロシアに留まったコサックから忠誠ザポロジュ・コサックのコシュを創設し、これらが志願者とともにスヴォロフのもと、クリミア反乱を平定。
1787年、ポテムキンはエカチェリーナ2世にザポロジュ軍復興を請うた。彼はすでに南ロシアに軍隊とクバン・国境線を築いていた。彼はコサックを集め忠誠コサック軍団が形成された。忠誠ザポロジュ・コサック軍団は1787-1792年の露土戦争に参加。
1790年の戦功により軍団は黒海コサック軍団と改名し、ブフとドニエステルの間の土地を(中心都市スロボジア)与えられた。
これは1792年、クバンに移動。
<参考> ザポロジア・シーチ
シーチの6期区分
シーチの出現(1552ー1583)
小ポーランドのキエフ・ヴォイヴォダ領(1583-1657)
共和国の一部としての独立の戦い(1657-1686) 共和国、クリミア・ハン国、オスマン・トルコに対して
コサック一体性(ヘトマン国)のための戦い(1686-1709) クリミア・ハン国、オスマン・トルコ、ロシア帝国に対して
(*クリミア・ハン国に逃げ、オレシュコフ・シーチ形成、ハン国からの差別で1734年帰郷、ノヴァ・シーチ形成(1711-1734))
自治取り消しによるロシア政府との膠着状態とシーチ崩壊(1734-1775)
ダニューブ・シーチ形成から帰郷(1775-1828)ザポロジア・シーチ
1 ホルティツィア・シーチ(1552-1558) オスマン・クリミア軍によって崩壊
2 トマコフ・シーチ(1563-1593) 1591-1593年のコシンスキー反乱で、ポーランドにそそのかされたタタールによって崩壊
3 バザヴルク・シーチ(1593-1630?または1638) オストリャニン(1637-1638)の共和国への反乱で破れ崩壊
4 ニキティンスク・シーチ(1628?または1638-1652) タタールの攻撃で放棄
5 チェルトムリク・シーチ(1652-1709) スウェーデン側について、ピュートル1世の攻撃で崩壊
6 カメンカ・シーチ(1709-1711、1728-1734) 1711年、ピュートル1世が破壊、1728年、再び戻るが1734年、ノヴァ・シーチへ
7 オレシュコフ・シーチ(1711-1728又は1734) クリミア・ハン領、クリミア・ハンの要求で去る
8 ノヴァ・シーチ(1734-1775) アンナ・イヴァノヴナ女帝の恩赦でロシア市民権を得て移り、国から給与を受けるシーチ所在地
ヘトマン国(1649-1654);背景は現ウクライナ
ヘトマン国とロシア支配下のザポロジュ・コサック地域(1751年)
<参考> ザポロジア、左岸ウクライナ、右岸ウクライナ、荒野、小ロシアの変遷
*ザポロジア
正式名は下ザポロジア軍団の自由な土地、そのほか荒野、ノヴォロシヤなど。
ザポロジアは”急流の向こう”の意味、ザはザカフカージェ、ザバイカルのザと同じで”向こう:beyond”の意味。
1667年、アンドルソヴォ休戦でモスコヴィとポーランド王国の共同統治、1686年の相互和平条約でロシア宗主権下。
下流ザポリジアは古シーチ(スタラ・シーチ)を中心としていた。
(*17世紀後半にザポロジアは下流ザポロジュ軍団の領土と呼ばれた。内紛でヘトマンはザポロジア・シーチの支配を失った。)
1709年、ピュートル1世が古シーチを破壊させ、ザポロジュ・コサックはオレンシュク(ドニエプル河口)に逃げた。
(オレンシュクは1711-1728年、クリミア・ハン国保護下でザポロジュ軍団の首都。)
1734年、ロシアはコサックに新シーチ(古シーチの少し下流)を基地にザポロジュ軍団の自由な土地再建を許可。
1775年、シーチは破壊され、地域は新ロシア(1764年形成)に編入。
*左(東)岸ウクライナ 1663- 露語
この言葉は1663年、イヴァン・ブリウホヴェツキのパヴロ・テテリヤへの対抗ヘトマン選出で出現。
ブリウホヴェツキはロシア影響下の左岸ウクライナの最初の知られるヘトマン。
17世紀中期までこの地域はポーランド・リトアニア共和国に属し、1654年のペレヤスラフ条約以降、南部(タウリダ)とともにロシア支配下となり、コサック・ヘトマン国としてある程度の自治を共有したが、ザポロジュ・シーチの破壊で18世紀中に徐々に彼らは去っていった。
1654-1667年のロシア・ポーランド戦争でコサック陣営が分裂、両岸でヘトマンが選出された。
1663年、イヴァン・ブリウホヴェツキが左岸ウクライナの、1665年、パヴロ・テテリヤが右岸ウクライナのヘトマンとなる。
1667年のアンドルソヴォ休戦でドニエプルに沿ってのウクライナの分裂状況は法的に確定、左岸ウクライナは自治を維持して公式的にロシア帝国領となる。
1708年、ヘトマンのイヴァン・マゼパの裏切りで左岸ウクライナの自治は制限され、キエフ・グベルニヤの一部となる。
1722-1734年と1764年以降、左岸ウクライナは小ロシア・コレーギヤが統治。
1781年以降、チェルニゴフ、ノヴドロド・セヴェルスクとキエフ・ナメストニチェストヴォに分割。
1796年、左岸ウクライナ地域は小ロシア・グベルニヤとなる。
*右(西)岸ウクライナ 1663-1793
荒廃(1659-1686、内紛)で左岸から分離。左岸連隊はユリ・フメルニツキを認めるのを拒否。
西は歴史的地域のヴォルヒニアとポドリアに、南西はモルダヴィア、南はイェディサンとザポロジア、東は左岸ウクライナ、北はポレシアと境する。
1667年、アンドルソヴォ休戦で左岸ウクライナはキエフとともにロシア編入、右岸は18世紀末のポーランド分割まで、共和国に留まった。
1669年、ヘトマンのペトロ・ドロシェンコは右岸ウクライナをオスマンの一部とするのを許す。
1672年のブチャチュ和平で3分割、ポドリアはトルコ、ブラツラフシナと南キエフは右岸ヘトマンでトルコ従臣のドロシェンコ、残りの右岸ウクライナはポーランド。
1683年、トルコ支配右岸ウクライナ廃止。
1699年、カロリッツ条約でトルコのポドリアは共和国に戻る。
1752年、ノヴォセルビア(ザポロジアの北西)、1764年、ノヴォロシア・グベルニヤ(ザポロジアの北)成立。
1768年、農民の農奴制への不満、コサックや農民の反貴族、反ポーランドの雰囲気のなかでハイダマカ(ウクライナ・コサックの準軍事組織)による反乱コリイヴシナが起き、ウマンの大虐殺(ポーランド人、ユダヤ人、ローマ・カトリックと東方正教会
聖職者に対し)が生じる。1793年、ポーランドの第2回分割で右岸ウクライナはロシアが併合し、小ロシアの一部となる。
*荒野
16-18世紀にポーランド・リトアニアの文書で使用された。
黒海とアゾフ海の北、現在の東と南ウクライナと西ロシアのポントス草原。
ウクライナ歴史家によると、15世紀にザポロジュ・コサックがドニエステルとヴォルガ中流の間に植民したときに
この言葉が出現。この地域は長い間、スキタイ、アラン、フン、ブルガル、ペチェネグ、キプチャクなどの種々の遊牧民が疎らに住んだ。
モンゴルのキエフ・ルス侵攻(1237-1242)後、こ地域は青水の戦い(1362)まで、黄金オルダが支配。
青水の戦いでアルギスダスが勝利し、リトアニア大公国のものとなったが、1399年のヴォルスクラ川の戦いでヴィタウタスが黄金オルダのテムル・クトゥルグに敗れた。
1441年、荒野の西部エディサンがクリミア・ハン国支配下に入った。これは16世紀からオスマン・トルコに支配された。
荒野は部分的にザポロジュ・コサックが住んだ。
これは、ポーランド人のキエフのカトリック司教が彼らがノガイ・オルダを撃退させることを期待した。
クリミアとノガイの長い間の奴隷狩りのための襲撃(1468-1769)と、クリミア・タタール、ノガイ・オルダ対リトアニアとモスクワの大公国の戦いのために、この地域はザポロジュ・コサックが起きる前は非常に荒廃し、人口は希薄化した。
17世紀までに、荒野の東部は逃亡農民と農奴が住み、彼らはコサック集団の核となった。
フメルニツキーの反乱(1648-1657)の間に、北部はドニエプル流域からのコサックが住み、スロボダ・ウクライナとして知られるようになった。
露土戦争のあと、1780年代にロシア帝国に編入。
右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、ザポロジア、スロボダ・ウクライナ、荒野
小ロシアの変遷と新ロシア(ノヴォロシア)
*小ロシアの変遷
14世紀はビザンティンの教会統治地域名
16世紀はポーランドとリトアニアのロシア人の土地(キエフ主教座管区)
17世紀にヘトマン国に小ロシア意識形成
1654年のペレヤスラフ条約以降、ロシアは大ロシアと小ロシアと称し、小ロシアは自治を有した
1662年、小ロシア省(統治単位)が形成され、1667年の分割で左岸ウクライナが小ロシア
1764年、小ロシア・グベルニア形成
19世紀はロシアの全南西地域新セルビア(ノヴォ・セルビア、1752-1764)、主に今のキロヴォフラード州
ノヴォロシア・グベルニヤ(1764-1783、1796-1802) 灰色点線は1750年のザポロジア、年はロシアの獲得。ポーランド分割
ウクライナSSR(1922-1954)の領域拡大 1939年のモロトフ・リッベントロップ協定(黄)と第二次大戦の結果
ピンク破線:ウクライナ人民共和国(1917-1921)
緑破線:西ウクライナ人民共和国(1918-1919)ウクライナの歴史的地名
白ロシア(ル-シ、ベーラヤ・ルーシ)、黒ロシア(チョールナヤ・ルーシ)、赤ロシア(チェルヴォーナ・ルーシ)
*色で呼ぶのは、一説にはモンゴルの影響ザポロジュ・コサックの流れ(1)
(9-3-3) ダニューブ(ザドナウ)・シーチ
18世紀末までにザポロジアの戦闘能力は著しく減少、特にキュチュク・カイナルジ条約とロシアのクリミア併合後、軍団が国境を警備する必要性が取り除かれたため。
同時にザポロジアの他の敵、ポーランド・リトアニア共和国もまた弱体化し、分割の瀬戸際にあった。これは軍事的にザポロジュ・シーチがますます余計になったことを意味するが、同時に、彼らの存在はロシア帝国当局と摩擦を引き起こした。ロシアはコサックが住む新しく獲得した土地に植民を望んだ。
コサックの数多くのセルビア植民地攻撃とコサックのイェメリアン・プガチェフへの支援提供で、ロシア女帝エカチェリーナ2世は将軍ピョートル・テケリに面倒なシーチ破壊の命令を出した。
テケリの作戦は1775年に無血で実行され、コサックは抵抗しなかった。この際、陰謀で、約5千のコサックがオスマン領の南ブフ川方面に逃げた。
これらのコサックにロシア農奴制から逃げた多くのウクライナ農民が加わり、当時、オスマン帝国領のダニューブ川左岸(ブジャク)にオスマン帝国に許され、住んだ。
1778年までに1万2千の男子を数え、トルコのスルタンはコサック軍団として使用しようと、彼らをドニエステル下流のクチュンガリの土地(現代トランスニストリア)を割り当て、彼らはそこでオスマン帝国に忠誠を誓った。
しかし、露土戦争(1787-1792)の勃発でコサックは分裂。一部はロシアに戻り、1775年にロシアに留まることを選んだ
コサックから形成された、新しい忠誠ザポロジュ軍団(後に黒海コサック軍団)に参加。
露土戦争(1806-1812)後、ベッサラビアはロシア領となり、ダニューブ・コサックは割り当てられた土地を喪失。トルコの敗北後、一部のコサックはトルコ軍とダニューブ川を渡って撤退、そこでスルタンはダニューブ・デルタのカテルレッツ居住地にシーチを築くことを許可。そこはネクラソフ・コサックとリポヴァン人のすでに存在する居住地の丁度、隣であった。
2つのグループの間で、土地と漁業権を巡って摩擦が増加。1794年、ネクラソフはカテルレッツを攻撃し、破壊。
以降トルコ当局はダニューブ・ザポロジュを更にダニューブをさかのぼったブライロフ島に再移動させた。
新しい場所は漁獲が少なく、500のコサックグループがロシアに戻った。
1800年のオスマン・パズヴァントグルの新しいスルタンのセリム3世へのバルカン半島での反乱で、パズヴァントグルはネクラソフに対し、ダニューブ下流のすべての土地を約束。これに対しダニューブ・ザポロジュは復讐のためスルタンに味方。
内戦で両者は大きな損失を出したが、結局、反乱は鎮圧され、ザポロジアはブライロフ・ナズィルで報いられ、1803年にはカテルレッツ帰還が許された。
ネクラソフはイズミル指揮官ペフレヴァノグルの支援でシーチを再度攻撃、略奪した。
残ったザポロジュはブライロフ(現代ルーマニアのブライラ)に逃げた。新しい露土戦争(1806-1812)はダニューブ・コサックに更なる分裂を引き起こした。
ロシアがダニューブを制圧し、コシュ・オタマンのトロフィム・ガイバドゥラとイヴァン・グバはロシアに忠誠を誓った。
彼らはブドジャク地域への定住を許され、アレクサンドル1世の命令で、1807年、下流ダニューブ・ブドジャク軍団を形成。
軍団の拠点のキリヤとガラツに農奴が逃亡することで、ウクライナとモルドヴァの土地所有者が苦情を言い、5ケ月しか軍団は続かなかった。当時軍団は1387男子を数えた。そのうち約500がクバンに移動。
多くのネクラソフは許されて、ロシアに移動。
1812年のブカレスト条約でブドジャクはロシア領となった。
旧敵は依然強固で、ザポロジュ・ダニューブは再度、敵を攻撃、1813年、カテルレッツを奪い戻した。
ザポロジはネクラソフの首都上ドゥナヴェツ(現在ルーマニア)を1814年、占領。そこにかれらは最後のシーチを築いた。
多くのネクラソフ・コサックは後にアナトリアに移住、残ったものはダニューブ・コサックでリポヴァン人と古儀式派と融合。
ギリシャ独立戦争ではダニューブ・コサックはトルコを支援。
この時期、ダニューブ・シーチはその頂点に達し1万から1万5千男子を数えた。
1828-1829年の露土戦争でダニューブ・コサックは親ロシア派と親トルコ派に分裂。
1828年、コシュのオシプ・グラドキはダニューブを渡り、ニコラス1世に忠誠を誓った。
彼らは許され、新しい特別ザポロジュ軍団を形成。
グラドキに従うことを拒否したダニューブ・コサックには悲惨な運命がまっていた。シーチはイェニチェリによって破壊された。
ニコライ1世は1828年、ダニューブ・コサック軍団を形成。これには1775年、ロシアに逃げたザポロジュの子孫が含まれ、更に、忠誠なネクラソフとバルカン人の多くの志願者も含まれた。
1832年、グラドキはアゾフ海北岸に仲間を連れていき、そこでアゾフ・コサック・軍団が形成された。
<参考> トルコのコサック
ドン・コサックのグループがピョートル大帝の改革に反対し、ブラヴィンの反乱(1707-1708)に参加。
その敗北後、1737年から、ネクラソフ・コサクックとして知られる彼らの一部が以前住んでいたクバン地域からオスマン帝国に避難。
1740年、一部のグループは黒海沿岸のコンスタンツァ(現ルーマニア)周辺に住み、他のグループは北西アナトリアのベイシェヒル湖沿岸に住んだ。
1883年、ルーマニアのグループは最初ベイシェヒル湖のマダ島に、ついで中央アナトリアのアクシェヒル湖沿岸に住んだ。
一方、ザポロジュ軍団の解体とザポロジュ・シーチの破壊で5千のコサックがトルコ支配のダニューブ・デルタの逃亡し、そこに、スルタンは彼らがダニューブ・シーチを形成することを許した。
ネクラソフとの数度の血なまぐさい衝突の後に、彼らのほとんどはロシアに戻るか、マニアスに再移動し、ギリシャ独立戦争で彼らはトルコ支援を支援、ダニューブ・シーチは1828年に終焉。一部はロシアに戻り、一方、他は中央トルコに移動し、強制労働に
従事。<参考> ダニューブ・コサック軍団
1828年に露土戦争(1828-1829)前に、ニコライ1世の命令でベッサラビアと特にブジャクに住んでいるザポロジュ・コサックの子孫から形成されたウクライナ人コサック軍団。
下ダニューブ・ブジャク軍団という名のウクライナ人コサック軍団がそこで、1807年に形成されたが、すぐに解散されていた。
軍団はネクラソフ・コサックとルーマニア人、セルブ人とブルガリア人のようなバルカン人の志願者も含んでいた。
露土戦争後、軍団はベッサラビアとヘルソン・グベルニア国境の警護を任せられ、オデッサ、イズマイル、アッケルマンを前哨基地とした。
1853-1856年の露土戦争でダニューブ・コサックはトルコ軍のダニューブ渡河を阻止。
1856年のパリ条約でロシアはブジャクの一部を譲渡し、軍団はオデッサに撤退し、1856年にノヴォロシア・コサック軍団と改名。しかしやがて平和な時代の到来で、1868年、解散。
(*ドナウ・コサック軍団
1828年にザドナウ・シーチのコサックから形成されドナウ川下流域に1868年まで存在。
1775年、ザポロジュ・シーチの崩壊でザポロジュ・コサックの一部はドナウ川岸に移住、新しいシーチを形成。
1803年、ドナウ河口を渡り、ロシア人逃亡者、教会分離派を追い払う。
種々の地域からの逃亡者を集め、シーチは1万に達する。
1806年、露土戦争開始でドナウ・コサックはロシア側に参加。戦後、一部は黒海コサック軍団に参加、一部はセルビア人、ギリシャ人、アルバニア人志願者とベッサラビアに留まる。
1828年の露土戦争ではドナウ・コサックはロシア軍に参加。戦後、軍団はブジャク草原を与えられる。
ザポロジュ・コサックの流れ(2)
(9-3-4) スロボダ・コサック
ウクライナのロシアとの北東国境付近、ドン右岸とドネツ両岸の歴史的スロボダ・ウクライナに17-18世紀に位置したコサックで主に5連隊からなる。
チェルカス(ドニエプル両岸)からのスロボダ・ウクライナへの移動は、ザポロジュ・コサックとポーランド・リトアニア共和国との衝突、ザポロジュ・コサックの内紛と外国軍(タタールとトルコ)との関係による。
この荒野への移動の第一波はボグダン・フメルニツキーの反乱(1648-1657)のベレステチュコの戦い(1651)での敗北による。
第二はフメルニツキー死後のザポロジュ(ドニエプル)コサックの内戦(荒廃、1659-1687)による。
1672-1681年の露土戦争でのチギリン遠征(1674-1678)、1680-1700年の露土戦争のクリミア遠征(1687、1689)、
アゾフ遠征(1695-1696)、ペルシャ遠征(1722-1723)など多くの遠征に参加。大北方戦争(1700-1721)やそのほかの当時多くの遠征に参加。
スロボダ・コサックはロシアの南東国境をカルムイク、クリミアとノガイ・タタールから守っただけでなく、泥棒コサック(ドンとザポロジュ)からも守った。
ピュートル1世のときに権利の一部が奪われた。1718年、ロシア将軍指揮下に入った。
1765年、エカチェリーナ2世のときにコサック軍は正規軍となる。スロボダ・ウクライナ・グベルニアが形成される。
(9-3-5) ネクラソフ・コサック
ネクラソフ・コサックはドン・コサックに由来、1707-1708年のブラヴィン反乱で敗れ、1708年、イグナト・ネクラソフに率いられクバンに逃げた。
当時、クリミア・ハン国がクバンを支配。後に他のドンからの逃亡者と逃亡ロシア農奴が参加。
ネクラソフ・コサックは古儀式派で正教ロシア当局に迫害された。
最初、ネクラソフ・コサックは大ラバ川右岸、その河口近くに住み、後にネクラソフを含む多くはタマン半島に移住。
ネクラソフ・コサックはドン地域を含む近くのロシアの土地を襲撃し続け、ロシア軍は反撃した。
その結果、1737年まで南ロシアから多くの逃亡者がクバンへ逃亡し、多数がネクラソフ・コサックに参加。
1737年頃、ネクラソフ・コサックは絶えた。ネクラソフ共同体が解体し始めてすぐ後に、オスマン帝国へ移住した。
*トルコのコサック
1740-1778年にトルコのスルタンの許可で、ネクラソフはオスマン領のダニューブに移動。ダニューブではドブルジャに住んだ。
1775年のザポロジュ・シーチの敗北で、同じ場所にコサックが出現。両者で衝突が起き、多くのネクラソフは更に南に移動。
ダニューブ川とティサ川、ドブルジャ
ザポロジア、右岸ウクライナ、左岸ウクライナ、スロボダ・ウクライナ
<参考> ポドリアとブジャク
ポドリア・エヤレト 1672-1699
1672年、オスマン軍がカムヤネツィを占領。ブチャチュ条約でオスマン支配が確認され、新しいエヤレトの中心となる。
ポーランド国会で条約が否認され、戦争が再開(1672-1676年のポーランド・オスマン戦争)。
ポーランドの遠征は不成功で、ジュラヴノ条約でポドリアはオスマン領に留まった。
1683年にまたポーランド・オスマン戦争(1699年まで)が勃発、1699年のカルロヴィッツ条約でポーランドがポドリアを取り戻す。
1793年のポーランド分割で西部はハプスブルク、東部はロシアへ渡る。
シリストラ・エヤレト
1593年、シリストラ・エヤレトはオズィのベイレルベイリクとして形成され、1599年頃拡大、エヤレトとなり、 ドブルジャ、
ブジャク、エディサンを含む。小ノガイから生じたエディサン・オルダは1728年からドニエプル、南ブグとドニエステルの下流の間の草原を占領していた。
1768-1774年の露土戦争で、オルダは1770年、ロシア帝国の保護権を認めてクバンに移住。
1774年、キュチュク・カイナルジ条約で南ブグとドニエプルの間のエディサン東部はロシア併合。
クリミア・ハン国はオスマンから独立。
1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合。
露土戦争(1806-1812)の結果、1812年、エディサンとブジャク(南ベッサラビア)はロシアに渡される。(ブカレスト条約)
1853-1856年のクリミア戦争の結果、パリ条約でベッサラビア南部はモルダヴィア公国へ返還。
1878年、ベッサラビア南部は再びロシアへ。(ベルリン条約)
参考 →露土戦争
ポドリアとシリストラ・エヤレト
キュチュク・カイナルジ条約(1774年)
ピンク:ロシア、緑:トルコ、黄と緑斜線はクリミア・ハン国(独立、事実上ロシア従属)、ピンクと緑斜線はロシアが獲得、ブカレスト条約 』






























