シリーズ「日本の仏教」第4回:権力と結びついた日本の密教

シリーズ「日本の仏教」
第4回:権力と結びついた日本の密教
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 ※ 今日は、こんな所で…。

『佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る

花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』

『8世紀末から9世紀初頭、中国から日本に密教がもたらされた。それ以降、天台宗と真言宗の二大密教が貴族社会の権力構造の下で対立しながら併存していくことになる。第4回は、日本の密教について解説する。』

『仏教全体を統合する思想体系の欠如

8世紀中頃(奈良時代)、日本は仏像、経典、修行のための組織であるサンガという三要素、すなわち仏法僧(ぶっぽうそう)を形式上導入することに成功し、正式な仏教国になった。しかしそれは、釈迦牟尼(しゃかむに)が創成した本来の仏教が日本に取り入れられたという意味ではない。大乗仏教で生み出された多くのブッダたちは、日本の在来の神々と同じような神秘的呪力(じゅりょく)を持った崇拝の対象であり、僧侶はそういったブッダたちの威力を引き出すための呪術儀礼執行者として重んじられていたのである。そこには、自己の煩悩を断ちきるために、サンガの中で修行に励む本来の僧侶の姿は見られない。

奈良の朝廷は、国家鎮護に効力を発揮する、仏教の呪術的な力を広く世にアピールするために、学問の場を設け、僧侶たちに仏教を学ばせた。そこでは、さまざまな仏教哲学や戒律などが6分野の宗派に分けてそれぞれ個別に教授され、それらの難解な教義を学ぶことが、僧侶としての特殊能力を保持する証しになると考えられたのである。6分野とは三論(さんろん)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律であり,後にこれらは「南都六宗」と総称されるようになった。

しかしそれらはあくまで国家が認定する資格取得カリキュラムのようなものであって,仏教全体を包括的に理解できるような総合的教育システムではなかった。この時期日本には,仏教全体を俯瞰(ふかん)し,その全体を一挙に把握できるような思想体系は存在していなかったのである。

法華経(ほけきょう)を頂点にあらゆる経典を階層化

このような状況が続く中、8世紀末から9世紀初頭、日本の首都が奈良から京都へと移ったちょうどその時期、仏教の核心を表す(と当時受け取られた)2種類の仏教思想が同時に中国から日本にもたらされた。1つは最澄(767〜822)が持ち帰った天台宗の教え、もう1つは空海(774〜835)が持ち帰った真言宗の教えである。この2種類の教えが、その後の日本仏教の基盤となる。

天台宗は中国で生まれた、当時最先端の宗派である。紀元後1世紀以来、インドから次々と中国にもたらされた多種多様な仏教思想を全て受け入れながら、それらの間に複雑な論理的関係性を設定して、広大な仏教世界を一括して理解しようとする宗派である。もちろんそういった多様な仏教思想は本来、インドで異なる時代に異なる人々が個別に生み出してきたものであるから、1つに統括すべきものではない。しかし天台宗はそれらを、さまざまな理論を駆使して1つにまとめようとするのである。そしてその頂点に『法華経』を置く。すなわち天台宗は、『法華経』を最上位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける作業によって生み出された中国独自の宗派なのである。

最澄によってこの宗派が本格的に紹介されると、日本の仏教界はこれを大いに歓迎した。今まで断片的にしか見えていなかった仏教が、1つの体系として理解できるようになったからである。

最高位の思想としての魅力

ところがその直後、空海によって真言宗の教えがもたらされた。これは天台宗のような異なる教えの集積ではなく、インドにおける仏教の変遷過程の最終段階として現れた、「密教」と呼ばれる単一の教えであった。「先に存在している思想を踏まえた上で、それを包含する、より上位の思想を案出する」という活動の繰り返しによって発展してきた仏教史の、最終段階として生み出された密教は、それまでのあらゆる仏教思想の頂点に立つべき、最高位の神秘力を持つ仏教だという自負を持っていた。

外部に救済者のいないこの世界で、自己の努力によって自己改革を目指した釈迦の教えは、その後の大乗仏教において次第に神秘性を帯びるようになり、最終段階の密教において、「宇宙的エネルギーとのつながりを自覚し、それと一体化することで仏陀になる」という、ほぼヒンズー教の教えと変わらないところにまで変貌したのである。この密教の奥義は、特定の限られた人にだけ伝授される神秘主義的な教えであり、宇宙エネルギーとの一体化の体験も、言葉で広く伝えることはできないとされた。

空海はそうした密教を、確固とした一つの体系として丸ごと日本に持ち帰ってきた。仏教を神秘的な呪術宗教として取り入れていた日本の仏教界にとって、空海の密教は最も深淵(しんえん)で効力のあるものであり、さまざまな教えを理論的につないで一体化して見せる天台宗よりも、強固で、揺るぎないものに見えた。最澄の弟子たちもそのことは十分理解していたので、自分たち天台宗の教義にも、最新の密教の教えを上乗せして、全体を密教的な色合いで覆っていったのである。

こうして日本には、異なる教えの集合体を密教的感覚で薄く覆った天台宗と、仏教史の最終段階としての密教をそのまま単一で伝える真言宗の、2つの異なる密教が並び立つことになったのである。

宗祖 総本山 教え

天台宗
最澄 比叡山延暦寺(京都市・滋賀県大津市) 法華経を最高位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける

真言宗
空海 高野山金剛峯寺(和歌山県) 仏教の変遷過程の最終段階。宇宙的エネルギーとのつながりを自覚
崇高な少数と一般大衆の二極構造

ここで注意しておかねばならないのは、この時代の日本人に「仏教思想は時代とともに変容してきた」という認識はなかったという点である。中国から伝えられる仏教経典は全てブッダの言葉であるから、その全てが正統なる仏教の教えであることは間違いないのだが、しかしそこには深浅の違いがあると日本人は考えた。「どれもブッダの言葉ではあるが、その中で本当にブッダがわれわれに言いたかったのはどれか」との問いに対して、天台宗は(密教的に解釈した)『法華経』であると言い、真言宗は『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』などの密教経典そのものであると言ったのである。「長い仏教史の最終段階で現れた、最も新しい思想が密教だ」などという歴史的視点がなかったことはくれぐれも留意しておく必要がある。

密教が持つ特徴の一つは「権威重視の傾向」である。誰もが根源的宇宙エネルギーとの一体化によってブッダになることができるとは言っても、その「根源的宇宙エネルギーとの一体化」は、特殊な資質を持つ者や、人並み外れた修行を積んだ者だけに許される特別な活動であった。それゆえ一般民衆は、その特別な人たちにお願いして、現世的な利益(りやく)を与えてもらわねばならない。密教によれば、この世には「生き仏」とも言うべき崇高な少数の人たち=宇宙エネルギーとの一体化を果たした修行者と、その崇高な人たちにお願いして幸福を与えてもらう一般民衆の2種類の人間がいるという、階層構造の上に成り立っているのである。この独特の構造は、宗教的身分制(カースト制)を認めるヒンズー教の影響を受けて成立したことからすると当然のことである。

その後に多様化する日本の仏教宗派も、皆多かれ少なかれ、密教の持つこうした特殊な様相の影響を受けていく。そのためどの宗派も、「特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)」と、「そういった人たちからの利益を期待して信奉する一般人」といった構造を含むようになった。第2次世界大戦中、日本の仏教諸派がこぞって天皇にブッダと同等の権威を認め、戦争遂行に協力した事実は、そういった仏教観が表現された典型的な例である。

貴族社会を支えた二大密教

8世紀以降、日本の仏教界は、天台宗と真言宗の2派を中心にして動いていく。どちらも権威性を重んじるという特性を持っていたので、当然ながら天皇を中心とした国家権力とのつながりに重点を置いた。言ってみれば、天台宗と真言宗が、天皇を引き込むための綱引きを続けたのである。その際,旧来の奈良仏教の多くは,京都に拠点を置く天台宗が奈良の仏教を軽視したことに反発して、真言宗側についた。

こうして日本の仏教は、天台宗と真言宗の二大密教が、天皇を中心とした貴族制社会の権力構造の下で対立しながら併存する状況になった。この段階の仏教の要点は以下のとおり。

律蔵にもとづいて運営されるサンガは存在せず、僧侶の生活を厳密に規定する規則は存在しなかった。これは現代に至るまで続いている特性である。
思想的には大乗仏教を継承しているが、特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)と、そうでない一般人との間に差別を認める、密教の構造が基本となっていた。
権力との結びつきを指向した。

300年間はこうした状況が続くが、その後、権力基盤が貴族から武士、あるいは一般民衆へと移り変わるのにつれて、この構造も次第に変化し、多様な仏教世界が生み出されていくことになる。それは次回以降に述べることにする。

バナー画像=空海の銅像(PIXTA) 』

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金峯山(※ きんぷせん)寺について

金峯山(※ きんぷせん)寺について
https://www.kinpusen.or.jp/about/

『吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。

白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。

役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。

以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えることとなりました。

明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともありましたが、篤い信仰に支えられ、仏寺に復興して、現在では金峯山修験本宗の総本山として全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。』

司教任命権で合意再延長 バチカンと中国、協調継続

司教任命権で合意再延長 バチカンと中国、協調継続
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB223AR0S2A021C2000000/

『【ローマ=共同】キリスト教カトリックの総本山バチカン(ローマ教皇庁)は22日、司教任命権を巡る中国との暫定合意を2年間延長すると発表した。国交のない両国は長年対立してきたが、2018年に暫定合意を結び歴史的和解を果たした。延長は20年に続き2度目。本合意への切り替えは見送ったが、引き続き協調することを決めた。

暫定合意の詳細な内容は明らかでないが、バチカン公式メディアなどによると暫定合意が発効して以降の4年間で、中国では双方の同意の下、6人の司教が新たに任命された。暫定合意を結ぶまで、中国は国内の司教を独自に任命し、司教任命権はバチカン元首のローマ教皇にあるとするバチカンと対立していた。

教皇フランシスコは早々に暫定合意延長の意向を示し、今年9月には改めて「中国に行く用意は常にある」と発言するなど歩み寄りの姿勢を鮮明にしていた。暫定合意は今月22日が期限だった。

バチカンは欧州で唯一、台湾と外交関係を持つが、近年は中国に接近。国交樹立となれば台湾との断交を迫られるのは必至で、台湾は警戒を強めている。』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2

『欲(よく、慾、希: ἐπιθυμία, 羅: cupio, 英: desire)とは、何かを欲しいと思う心[1]。欲望、欲求などともいう。

人間(ヒト)、動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。

仏教などでいう「欲」は、概ね生理的(本能的)なレベルのものを指しており、精神にとって心をよくしていくもの、愛情を育てるもの、抑制するべきものとして説かれている。 』

『欲求段階説

マズローの提唱する、欲求の階層をピラミッドで表現し原始的欲求に近づくほど底辺に書いた図。

アブラハム・マズローは「欲求階層論」を唱えた。

これは、人間は、ある欲求が満たされると、より高次の欲求を満たそうとする、とするものである。

人間の欲求は、「生理的欲求」「安全への欲求」「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」の、低次元から高次元までの、5つの階層をなしている、とし、低次元の欲求が満たされて初めて高次元の欲求へと移行する、とした。

また、生理的欲求や安全への欲求を「欠乏欲求」と呼び、自己実現を求める欲求は「成長欲求」と呼んだ。

欲求を低次なものと、より高次なものに分類した。いずれにせよ、欲求が満たされると脳内で「報酬系」が活動し快の感覚を感じる。不快を感じさせないようにする。
詳細は「自己実現理論」を参照

生理的・本能的な欲求

生物が生命を維持し子孫を残すために必要な欲求である。外界からの刺激や体内の状態に直接結びついた、短期的な欲求である。

主に身体内部の情報に基づいた欲求

呼吸:呼吸中枢が血中のO2濃度低下を感知すると、呼吸回数を変えたり気道を通じさせようとしたり、別の場所に移動したりしたくなるような欲求が生じる。

食欲:視床下部の血糖値センサーが血糖値低下を感知すると、個体に「空腹感」を感じさせ、摂食行動を促す。

飲水:視床下部の浸透圧センサーが、血清の濃度上昇を感知すると、個体に「口渇感」を感じさせ、飲水行動を促す。

排便・排尿:大腸や膀胱からの情報により、排泄したいという欲求が生じる。

睡眠欲

体温調整:体温調整中枢にて設定された温度と比較して、体温が上昇/下降した場合、涼しい/暖かい場所に移動したいと感じたり、汗をかかせたり、筋の振戦を起こさせたりして体温を調整する。

性欲:性的パートナーを見つけ、性行為を行いたいと感じる性的欲求。

主に身体の外部からの情報に基づいた欲求

逃避:不安や危機を感じた場合に逃げ出したいという欲求を生じる。

闘争:逆に、戦うことで生存しようとする欲求。

困難な状況になると、宗教に関わらず祈りや念仏等を唱えてしまう行為(「あーっ、神様、仏様、ご先祖様、キリスト様…」)等、対象がはっきりしていなくても、助けを求め、すがりたくなる感情を、生存への欲(生存欲)の一部としてとらえ、その中で、最も認知されず、研究されてもいない欲として、祈り欲という単語を提唱する人もいる。

心理・社会的な欲求

ヒトは群居性の動物であり、また高度な思考力を持つために、社会的に認められたい、知識を満足させたい、他者を満足させたい、というより高次な欲求がある。

また、欲求の内容は、後天的に身につくものであり、社会や文化の影響が大きいという特徴が見られる。

マレー(Murray)の質問紙検査・臨床心理検査・面接調査を行った調査によれば以下のような欲求が多くの人間に認められる。[2]

獲得:財物を得ようとする欲求。

保存:財物を収集し、修理し、補完する欲求。

秩序:整理整頓、系統化、片付けを行う欲求。

保持:財物を持ち続ける、貯蔵する、消費を最小化する欲求。

構成:組織化し、構築する欲求。

優越:優位に立つ欲求。達成と承認の合成。

達成:困難を効果的・効率的・速やかに成し遂げる欲求。

承認:賞賛されたい、尊敬を得たい、社会的に認められたい欲求。

顕示:自己演出・扇動を行う、はらはらさせる欲求。

保身:社会的な評判・自尊心を維持する欲求。

劣等感の回避:屈辱・嘲笑・非難を回避する欲求。

防衛:非難・軽視から自己を守る、また自己正当化を行う欲求。

反発:二度目の困難に対して再び努力し、克服・報復する欲求。

支配:他人を統率する欲求。

恭順:進んで他人(優越な人間)に積極的に従う欲求。

模倣:他人の行動やあり方を真似する欲求。

自律:他人の影響・支配に抵抗し、独立する欲求。

対立:他人と異なる行動・反対の行動をとる欲求。

攻撃:他人に対して軽視・嘲笑・傷害・攻撃する欲求。

屈従:罪悪の承服・自己卑下の欲求。

非難の回避:処罰・非難を恐れて法・規範に進んで従う欲求。

親和:他人と仲良くなる欲求。

拒絶:他人を差別・無視・排斥する欲求。

養護:他人を守り、助ける欲求。

救援:他人に同情を求め、依存する欲求。

遊戯:娯楽などで楽しみ、緊張を解す欲求。

求知:好奇心を満たす欲求。

解明:事柄を解釈・説明・講釈する欲求。

知識・名誉・地位等を得ることによる満足感や他者から認知されたいといった欲求、ストレス発散行為を欲する動き、より美味しいもの・より良いものを求める動き、見栄・所有欲等がある。

子供の養育は、生殖欲求の一種でもあるが、ヒトの場合は「思いやりのある子に育って欲しい」など、高次な欲求にも基づいている。

ただし人間の欲求は非常に複雑な相互作用が起こるために単純に上記の欲求に行動を還元することはできない。

生理的な欲求が満たされれば、高次な欲求の方が、行動や心の動きを決める上で重要となってくると考えられる。

適応機制

発生した欲求を解消するために起こす行動(適応機制,Adjustment Mechanism)は、下記のように分類することができる。

欲求と適応機制

葛藤

接近と接近 - ラーメンも食べたいけど、ハンバーグも食べたい。

回避と回避 - 塾にいくのは嫌だし、かといって家に帰っても親に叱られる。

接近と回避 - 試験に受かりたいけど、勉強はしたくない。

障壁

物理的障壁(天候・時間・距離など) 例 - 運動したいが、外が雨でできない。

社会的障壁(法律・評判・習慣など) 例 - バイクに乗りたいが、まだ16歳以上でないので免許が取得できない。

個人的障壁(能力・容姿・思想など) 例 - 試合に出たいが、それだけの能力がない。
経済的障壁(お金・物資など)     例 - ブランド品を買いたいが、お金がない。

脳科学と欲 

科学的根拠については十分とは言えないものの、欲求を脳科学の見地から解明する研究も進められていて、低次な欲求ほど主に大脳辺縁系などの旧皮質の影響を受け、高次な欲求ほど主に前頭連合野などの新皮質の影響を受けやすいとされている。主な欲求を分類すると以下のようになる。

生理的欲求

安全安心の欲求

愛情や所属の欲求(集団欲・序列欲)

人から認められたいといった欲求

理想とする自分になりたいという自己実現の欲求

これらの多様な欲求を段階的・並行的に過不足なく(場合によっては適度な過不足状態を前提にしつつ)満たしていくことが心身の健康を維持する上では、大切である。

こういった欲求レベルには、個人差がありその基本的な欲求が強いほどそれに相応した理性的能力(大脳新皮質の前頭連合野など)も発達しやすい傾向があり、また向上心や進歩の原動力となりうるものでもある。

低次の欲求をコントロールしたりする理性に関わる前頭連合野は、最初は空っぽのハードウェアのようなものであり、しつけ・社会のルール・教育などの後天的な学習作用によって脳神経細胞(ニューロン)のネットワークを形成し理性的コントロール能力をつけていく。

また、より低次元な欲求が上手く満たされずに過剰な欲求不満状態(ストレス)となった場合に、前頭連合野における理性的コントロール能力を超えてしまい、神経症や犯罪・いじめ等の問題行動を引き起こしやすい状態となることも知られている。

哲学における欲望

「人間の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン、『精神分析の四基本概念』)
「他者が欲望するものを欲望する」(ルネ・ジラール、『欲望の現象学』)

社会と欲

社会的には、過剰な欲は犯罪の要因となることから制度を設けて制限を加えているが、経済活動の需要を喚起する必要から適度な欲を必要としている。

宗教において

仏教

比丘たちよ、この舟から水を汲み出せ。
汝が水を汲み出したならば、舟足軽やかに進むであろう。
このように貪欲と瞋恚とを断ったならば、汝は涅槃に達するだろう。
パーリ仏典, ダンマパダ, 369, Sri Lanka Tripitaka Project

海水は飲めば飲むほど喉が渇く。[3]

パーリ語において「欲」を意味する言葉には複数存在する[4]。

ローバ(lobha)、ラーガ(rāga) :貪 [4]
カーマ (Kāma) [4]
タンハー (Taṇhā) : トリシュナー [4]
ラティ (rati) [4]

仏教では、眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)の六根から欲を生ずるとする[5]。

また三界(無色界・色界・欲界)といい、このようなさまざまな欲へ執着している者が住む世界として欲界(よくかい)があり、現実世界の人間や天部の一部の神々などがこの欲界に含まれる存在であるとする。

仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものとして、諸悪の根源とは捉えないが、無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めており[3]、自制ではなく欲からの解放を求めている。

原始仏教では、出家者は少欲知足(しょうよくちそく)といい、わずかな物で満足することを基本とした [6]。南方に伝わった上座部仏教は、この少欲知足を基本とする[6]。

なお唯識仏教では、欲は別境(べつきょう、すべて心の状況に応じて起こすもの)で、そのはたらきに善・悪・無記(善と悪のどちらでもない)という3つの性(三性)を求めるとする。

善欲は精進して仏道を求める心であり、悪欲は貪(とん、むさぼり)として根本的に具わっている煩悩の1つとする。

しかし、大乗仏教の思想が発展すると、人間我・自我という欲に対し、如来我・仏性を得るという(つまり成仏すること)という大欲(たいよく)を持つことが重要視されるようになり、煩悩や欲があるからこそ菩提も生まれるという、煩悩即菩提という考えが形成された。したがって大乗仏教の中には欲そのものを全否定せず、一部肯定する考えもある。
少欲知足

「吾れ唯だ足ることを知る」(知足)

少欲之人無求無欲則無此患。 (中略) 有少欲者則有涅槃。是名少欲
(中略) 若欲脱諸苦惱。當觀知足。知足之法即是富樂安隱之處。

少欲の人は求むること無く、欲無ければ、すなわちこのうれい無し。 (中略) 少欲ある者はすなわち涅槃あり、これを少欲と名づく。
(中略) もし諸々の苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわち是れ富楽安穏の処なり。
—  大正新脩大蔵経, 涅槃部, 仏垂般涅槃略説教誡経[7] 

小欲(Appicchatā)はパーリ語で「ニーズが少ない」との意であり、転じて必要十分な量であることをさす[6]。知足(Santuṭṭhi)はパーリ語で「喜んでいる」との意であり、転じて満足から得られた喜びをさす[6]。』

アルメニア使徒教会

アルメニア使徒教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BD%BF%E5%BE%92%E6%95%99%E4%BC%9A

『アルメニア使徒教会(アルメニアしときょうかい、アルメニア語: Հայ Առաքելական Եկեղեցի, ラテン文字転写: Hay Aṙak’elakan Yekeghetsi, 英語: Armenian Apostolic Church)は、アルメニア、ならびに世界各地にあるアルメニア人コミュニティで信仰されているキリスト教・非カルケドン派正教会に分類される教会。約500万人の信者を擁する。「使徒教会」という名は、伝承に十二使徒がアルメニアにキリスト教を伝えたとあることに由来する。アルメニア正教会(Armenian Orthodox Church)、あるいは単にアルメニア教会とも呼ばれる。なお、東方典礼カトリック教会であるアルメニア典礼カトリック教会(英語版)とは別組織である。

アルメニア使徒教会の長はカトリコスと呼ばれ、現在では他教会の総主教に相当する。現在の全アルメニアのカトリコスはガレギン2世。エレバンの西郊のエチミアジンにカトリコス座・エチミアジン大聖堂(英語版)がある。次席のカトリコスとしてキリキアのカトリコス・アラム1世がいる。また、イスラエル・パレスチナを中心とした中東を管轄するアルメニア・エルサレム総主教庁、およびトルコ共和国内を管轄するアルメニア・コンスタンティノープル総主教庁(英語版)が、正教会(ギリシャ正教)の総主教庁と並立する形で存在する。 』

『歴史

ガルニ(Garni)にある初期アルメニア使徒教会の聖堂。

アルメニアにキリスト教がもたらされ、浸透した歴史は非常に古い。301年、アルメニア王国が世界に先駆けてキリスト教を初めて公認し、キリスト教を国教と定めている。これは313年のミラノ勅令よりもさらに10年以上前の出来事であった。伝承によれば、イエス・キリストの使徒タダイとバルトロマイ両人により、アルメニアに初めてキリスト教がもたらされたとされるが、現存するアルメニアのキリスト教に関する最古の記述は、それから200年後の2世紀以降からである。3世紀末から4世紀前半に活動した啓蒙者グレゴリオス(英語版)はアルメニア王ティリダテス3世に洗礼を授け、ヴァガルシャパト(現在のエチミアジン)に教会を建てた。これが現在のアルメニア使徒教会カトリコス座である。
イラン北西部西アーザルバーイジャーン州カラ・ケリーサ(Qara kelisa)にあるアルメニア使徒教会の聖タデウス修道院。

5世紀にはメスロプによりアルメニア語のためのアルファベット(アルメニア文字)が作られ、新約聖書と箴言の翻訳が行われた。また、ギリシア語とシリア語が混在していた典礼用語も整理され、ビザンティン典礼の影響下に典礼が整備された。教会組織が整備され、教会の長にカトリコスの名称が使われるようになったのもこの時代である(元来は世俗における「高位の財政事務官」の称号)。しかし当時のアルメニアは、地理的に東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアという2大勢力のちょうど緩衝地帯に位置していたため、両勢力の狭間の中、隣国からの分割を2度にわたり余儀なくされた。そして428年、王制の廃止とともに滅亡した。

国としての自立を失ったアルメニアであったが、その後もキリスト教信仰を拠り所として、ゾロアスター教を信奉するペルシア側の過酷なキリスト教弾圧に対してたびたび抵抗した。451年のカルケドン公会議の際も、アルメニアでは宗教弾圧に対するペルシア側への大規模な叛乱が発生しており、アルメニアは代表を公会議に出席させるだけの余力を持っていない状況であった。そして506年、アルメニア使徒教会の全主教を招集した会議が開催され、カルケドン信条を採択しないことが決定した。[1]これが、カトリック、東方正教会などとは別にアルメニア独自の教派として発展する契機となった。なお、この叛乱によりアルメニア人キリスト教徒は宗教的自由をペルシア側に認めさせることに成功している。

7世紀に入ると、新興勢力であるイスラム帝国が台頭し、サーサーン朝が滅亡する。これにより、アルメニアも一時その勢力下に置かれるが、次第に自立を強め、9世紀末には独立を達成する。一方、この頃東ローマ帝国からの度重なる宗教的統合の要求があったにもかかわらず、アルメニアは独自の宗派であるアルメニア使徒教会の信仰を貫いた。これにより、隣国東ローマ帝国とその国教である東方正教会からの離別は決定的となった。

11世紀末、アルメニアはセルジューク朝支配下に入り、このとき東アルメニアから小アジアのキリキアに多くのアルメニア人が移住した。このことはアルメニア人にとって故郷からの離散をもたらす一方、アルメニア使徒教会の勢力拡大にもつながった。また、この時期にアルメニア使徒教会のカトリコス座は1058年、戦乱を避ける目的でアルメニアからキリキアへ遷った。その後、アルメニア人のディアスポラであるキリキア・アルメニア王国が成立し、マムルーク朝に滅ぼされる1375年まで続いた。1441年にエチミアジンが回復された後も、キリキアのカトリコス座は残った。

17世紀に造営されたイランのサファヴィー朝の古都、エスファハーンのヴァーンク教会。
16世紀以降、アルメニアは当時の2大勢力であるイランのサファヴィー朝とオスマン帝国により東西に国の分割を余儀なくされ、再び国としての自立を失った。これにより、各地域のアルメニア使徒教会は、キリキアとエチミアジンの指導下に属することになった。キリキアは独立を主張するようになるが、エチミアジンはこの主張を現在も認めていない。後にサファヴィー朝に支配されたアルメニア東部は、帝政ロシア領に編入されていった。
当時、アルメニア人の多くはオスマン帝国等のイスラム教徒支配の下に服しており、キリスト教徒は隷属民たるズィンミーとされた。その結果、厳しい差別を受けたものの、近隣のイスラム教徒から物理的迫害を受けることはなく、それなりに平和な共存が実現していた。

しかしながら18世紀以降、欧米列強諸国のオスマン帝国、中東への進出や、オスマン帝国領内に住むキリスト教徒の民族運動が台頭するにつれ、同じキリスト教徒のアルメニア使徒教会信者に対する敵意も日増に強まることとなった。

この結果、次第にイスラム教徒からのアルメニア人に対する突発的な迫害が激しくなり、当時のオスマン帝国領東アナトリアで発生したアルメニア人虐殺によりその頂点を迎える。特に1915年から1917年には、一説には数十万から数百万人ものアルメニア人が犠牲となる凄惨なものとなり、イスラム教徒との共存とともに歩んできた当時のアルメニア人共同体は完全に崩壊した。

アルメニア使徒教会パリ大聖堂。パリ第8区

現在、信者はアルメニア共和国を中心として、トルコ、イラン、アゼルバイジャン、イラク、シリア、レバノン、パレスチナのほか、19世紀以降の移民が多く住むフランス、アメリカ合衆国等、世界各地にコミュニティーを形成している。特にエルサレムやイスファハーンなどにはアルメニア人地区があり、現在も古式を守り、各地に点在する教会はアルメニア人の精神的な拠り所として機能している。 』

『教義と典礼

ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白するが、カルケドン信条を告白しないことから、俗には単性論教会とされるが、アルメニア使徒教会自身は「単性論教会」を自称せず、そうみなされることを不当としている。

カルケドン公会議で否定されたエウテュケスの教説(本来の単性論)を、アルメニア使徒教会もまた異端として否定しているからである。

アルメニア使徒教会の主張では、カルケドン信条を否定するのは、文章上の定式化に難点があるからであり、そのキリスト理解はむしろエルサレムのキュリロスの「ひとつの位格、ふたつの性格」に沿ったものであるとする。

ただし二つの性格は不可分に一体となっているというのがその主張である。これを合性論(en:Miaphysitis)という(伝統的には合性論は単性論の変種として解釈されてきた)。
詳細は「合性論」を参照

カルケドン公会議(第四全地公会議)を承認しないことで分離した教会であるため、より中立的な呼び名・カテゴライズとして非カルケドン派正教会がある。そして、教義を同じくする非カルケドン派のコプト正教会・シリア正教会・エチオピア正教会などとはフル・コミュニオン(完全相互領聖)の関係にある。

典礼は、だいたいにおいてシリア正教会やコプト正教会と類似する。典礼言語には古典アルメニア語を用いる。典礼は、荘重で保守的である。イコンの使用や、形式的には東方正教会との類似点を有するが、聖歌にパイプオルガン等の伴奏楽器を用いる教会も存在する。

教会暦には、1923年以来グレゴリオ暦を使用している。唯一の例外として、エルサレムのアルメニア総主教区ではユリウス暦が使用されている[2]。

アルメニア使徒教会では、教会暦上の1月6日に、イエスの洗礼を記念する神現祭と同時にイエスの降誕を記念する降誕祭を行う[3]。 』

シリーズ「日本の仏教」第1回:目覚めた人ブッダの誕生

シリーズ「日本の仏教」第1回:目覚めた人ブッダの誕生
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09401/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ こういうものを読むと、親鸞の「絶対他力」、『親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。』(仏教用語で、何と言うのか、知らん)…。

 ※ 『如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する[50][51]。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない[52]。 』…、ということだそうだ…。

 ※ 全然違う「教え」のように、思われるな…。

 ※ ブッダが説いた「教え」とは、トレーニングによって「生の苦しみ」から「解脱」し、「悟り」を開く方法論と、「その方法論のマニュアル化(≒経典)」「そういうトレーニング集団の体制及び体制維持のノウハウ」だったように思われる…。

『 佐々木 閑 【Profile】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09401/#

仏教は2500年前にインドで生まれ、中国を経由して6世紀に日本に入ってきた。ただし日本では、創始者ブッダの唱えた初期仏教は広まらなかった。仏教の変容はいかにして起きたのか。「日本の仏教とは何か」を読み解くシリーズの第1回では、ブッダの教えとはどのようなものだったのかを紹介する。

瞑想(めいそう)によって苦しみから解脱

仏教は、約2500年前に歴史上の人物であるガウタマによって始められた。ガウタマは、現在のインドとネパールの国境地帯にあるカピラヴァストゥ王国の王子として生まれた。そのまま普通に成長すれば、国王になることのできる大変恵まれた環境の中にいた。しかし青年期になると、「生きることの苦しみ」を感じ取り、皇太子の身分を自分から投げ捨てて、たった1人で森の中に入り、宗教修行者となった。彼は次のように考えたのである。

この社会には、幸福な人もいれば不幸な人もいる。人の在り方はさまざまだが、全ての人が「老いと病気と死」に向かって生きねばならないといった点では、皆、平等に不幸である。人が生きることそのものが「苦しみ」なのだ。この根本的な苦しみは、財産や地位や身分によって消すことなどできない。その事実を知ってしまった者にとって、皇太子でいることなどなんの意味もない。生きることの苦しみから逃れて安らかな状態に至る道を探すことこそが、今の自分が進まなければならない唯一の道である。

こうして森の中に入ったガウタマは、森の中にいた瞑想の達人たちの下で最高の瞑想技術を学んだ後、単身での修行生活に入った。始めは肉体に苦痛を与え、それに耐えることで超人的パワーを手に入れて、人生の苦しみを除去しようとした。しかし修行を6年間続けても目的は達成できなかった。そこでガウタマは苦行を止めて、修行方法を瞑想だけに絞り込んだ。この方法によって、ついに彼は菩提樹(ぼだいじゅ)の根元で悟りを開くことができたのである。この時から彼は、「ブッダ」すなわち、「目覚めた人」と呼ばれることになった。彼は古代インドの一種族である釈迦(しゃか)族に属していたので、「釈迦牟尼(むに)」とも「釈尊」とも称される。

修行マニュアルで「煩悩」を克服

ブッダの悟りとは一体どのようなものだったのか。人の心の劇的な変容を他者が完全に理解することなど不可能であるから、それを正確にここで記すことはできない。それでも、ブッダの教えの内容を伝えている多くの経典によって、その概要を知ることはできる。

ブッダは、自分が感じている「生きる苦しみ」を取り除くことができるのは自分だけだと考えた。外部世界に、苦しみを消し去ってくれるような超人的存在はいないと確信したのである。瞑想の力を使って心の内側を精密に観察し、苦しみの根源がどこにあるかを見つけた。そして、ありもしない「自我」を想定し、その、自我に合わせて都合よく世界を見ていこうとする自己中心の世界観、それこそがわれわれに苦しみをもたらす根本原因だと見抜いた。この、私たちが本能的に持っている、誤った自我意識から生ずる、心のさまざまな悪い作用をまとめて「煩悩」と呼ぶ。

自己観察によって苦しみの根源を見極めたブッダは、それらの煩悩を絶ち切って、苦しみの海から自分自身を救い出すための実践方法を考案した。「仏道修行」と呼ばれる、仏教特有の精神的トレーニング方法である。仏道修行は2つの要素から成っている。1つは、ブッダが説いた修行マニュアルである「経」を学び、正しく理解すること。もう1つは、経によって学んだ修行方法を、先輩修行者のアドバイスを受けながら実践していくことである。

全く新しい教えであった仏教は、当時の人たちの心を魅了し、その周りには多くの弟子が集まった。ブッダは彼らに分け隔てなく、自分が体験で習得した修行方法を伝えた。80歳でブッダが亡くなった後も、その方法は弟子たちによって引き継がれ、2500年たった今も、多くの仏教国で実践されている。ブッダのリーダーシップの下に、彼を慕って集まり、その教えに従って修行の道を進む弟子たち。この修行者たちの集団が、仏教の中核を支えてきた。

優れた組織設計によって教団を維持

ブッダの教えが2500年にもわたって途切れることなく維持されてきた一番の理由は、ブッダが仏教という宗教を「組織」として設計したことにある。ブッダは自分の教えに共感して集まった弟子たちを、「サンガ」と呼ばれる1つの組織にまとめ、「律蔵」と称する厳密な法律によって運営させたのである。ブッダの死後も、弟子たちは律蔵を大切に守り、それに基づいて、サンガを「完全な法治主義による自治組織」として維持していった。

仏教がサンガを基盤にして成り立っていることには以下のような利点がある。

  1. 師弟関係の継続

サンガ内に、律蔵に基づく明確な師弟関係を設定することで、ブッダの教え、すなわち「経」を、師から弟子へと世代を超えて正確に伝えていくことが可能である。また、仏道修行の実践方法も、師から弟子へと、対面で確実に伝えていくことができる。サンガは極めて合理的な教育組織なのである。

  1. 相互扶助による生活保障

サンガ内に、法律に基づく相互扶助の制度を設定することで、師弟関係がそのまま、生活の相互扶助関係にもなる。これによって、世俗の暮らしを離れた修行者たちにも、病気、けが、老化などに対する生活保証が与えられる。サンガは信頼できる相互扶助組織でもある。

  1. 布施による組織の維持

修行者たちがサンガ=法治組織を形成し、律蔵に基づいた清廉な暮らしをしていることを世間に示すことで、サンガに対する世俗社会の尊敬を維持することができる。「仏教の修行者は、律蔵の規則を守って暮らす立派な人たちだ」との通念が流布し、サンガに布施をしようする人たちが大勢現れ、彼らの喜捨によってサンガは維持されてきたのである。

  1. 外部権力からの独立性

サンガが独自の法律を持つ組織として機能することにより、ある程度の自治権を獲得することができる。外部権力の影響を阻止して、修行のための静かな環境を維持するためには重要な要件である。サンガは、外部権力から独立した自治組織でもある。

これら4つの特性が、2500年間完璧に保持されてきたわけではない。長い歴史の流れの中で、こういった特性に反する出来事も数多く起こった。しかしそれでも、基本的理念として1〜4が始めから設定されていたことの意義は大きい。たとえサンガが社会情勢に左右されて迷走したとしても、戻るべき理念が定まっていれば、容易に正しい形態へと軌道修正できるからである。

ブッダの時代の特性とは異なる日本仏教

最初期の仏教の特性は、次の2点に集約できる。

1つ目は、活動の目的と修行方法である。仏教の目的は、外部に一切の救済者を想定することなく、自力で自分自身を観察し、分析し、そして自己改良していくことにある。そのための方法は、瞑想による日々のトレーニングである。

2つ目は、悟りへと至る道を完成させるための場として設定されたサンガの存在である。修行者たちが、一般社会に完全依存しながら修行に専念することを目的として制度設計されたサンガは、律蔵=法律によって合理的に運営されているのである。

これら2点は、仏教を他の宗教から際立たせる特性であるが、日本仏教ではその両方がかなり希薄になっており、「ほぼ消滅している」と言ってもおかしくない。ここに日本仏教を理解するための重要なポイントがある。最初期の仏教が持っていた、仏教特有の要素を手放した日本仏教は、代わりにどのような特性を持つようになったのか。このシリーズでは、中国を経由して日本に入ってきた仏教がいかに民衆に受け入れられ、時に権力と結びつき、時に弾圧を受けながら、日本独自の発展を遂げていったのかを読み解いていく。

バナー画像=インドのサールナート・ムルガンダ・クティ寺院にあるブッダの生涯を描いた壁画(アフロ)』

歎異抄

歎異抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 歎異抄が、親鸞の著作物で無いことは、知らんかった…。

 ※ てっきり、親鸞作だと、勘違いしていた…。

『この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年9月)』

『『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。『歎異鈔』とも。 』

『作者について

作者については現在では唯円著作説を定説とされているが、他説として如信説・覚如説もある。本項は唯円の作によるものとして記述する。

如信説については、香月院深励が提唱。論拠は、覚如がまとめたとされる『口伝抄』などの書物に、親鸞より如信に口伝が行われ、更に覚如がそれを授けられたとあることによる。

唯円説については、主に妙音院了祥が提唱。論拠は、唯円の名が作中に出て、会話の表現があることや、本文の記述からして、親鸞在世中の弟子であること、東国門徒(関東の浄土真宗信者)であることなどによる。 』

『沿革

成立の背景

本書の内容は、「善鸞事件」の後に作者が親鸞より直接聞いた話による。

善鸞事件

建長8年(1256年)5月、親鸞が実子である善鸞を勘当・破門した事件である。

事件から遡ること約20年の嘉禎2年(1236年)頃、親鸞が東国から京に帰った後の東国では様々な異義が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒が動揺するようになる。そのことに対し親鸞は、息子の善鸞を事態の収拾に送った。

しかし善鸞は、異端を説く者を説得しようと試みるも説得に応じなかったため、自分は親鸞より真に往生する道を伝授されたと称し、第十八願は「しぼめる花」であるとし、自らの教えが正しいと説いた。

善鸞が異端を説いていることを知った親鸞は、自分が秘事を伝授した事はないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り破門した。

その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行であった。

親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは、異なる教義を説く者が後を絶たなかった。唯円は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。

これに、唯円が覚如に親鸞の教えを教授したこと、覚如によると思われる『口伝抄』に『歎異抄』と類似した文が含まれることなどから、本書は覚如の要請によって書かれたのではないか、とされている。

編集された時期については、親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられている。

再発見

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: “歎異抄” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年8月)

本書は、成立から約200年の間ほとんど知られて来なかった。

しかし室町時代に蓮如が注目し書写。(今日、蓮如本が最古の写本である。)

江戸時代初期に東本願寺の学僧、圓智が『歎異抄私記』を著し、その後、香月院深励や妙音院了祥などの学僧によって研究が進められ、深励の『歎異鈔講林記』・了祥の『歎異鈔聞記』などの注釈書が書かれた。

近世以前に、確認できる写本が16本あり、その他の諸文献に記載されているものを合わせると28本あったとされる。

また、江戸時代には、板本5種が刊行された。

その後、明治時代になり、清澤満之らによって再度、評価され、近代の宗教学研究の手法で研究され、世間に周知されるようになった。

構成

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: “歎異抄” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年9月)

この短い書は以下のような構成からなる。

真名序

第一条から第十条まで - 親鸞の言葉

別序 - 第十一条以降の序文

第十一条から第十八条まで - 唯円の異義批判

後序

流罪にまつわる記録

十条において、親鸞の言葉は唯円による歎異の論拠へと進化している。

真名序

真名序は、この文が書かれることになった目的・由来が書かれている。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎」くのである。

そもそも関東の教団は善鸞の事件もあり、異義が発生しやすい土壌であった。親鸞の入滅によりますますその動きが加速した。主な異義としては以下があった。

どんな悪を犯しても助ける弥陀の本願だからと、少しも悪を恐れない者では往生できないとする異義。

経典を学ばない者では弥陀の浄土へ往生できないとする異義。

そこで、親鸞が唯円に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが本書であるとする。

また、この「先師ノ口傳」の「先師」を親鸞ではなく法然と捉える説もある。そこでは嘆きの主体は唯円ではなく、親鸞となる。

第一条 – 第十条

第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が書かれている。

第一条では、「阿弥陀仏のすべての人々を救うという本願により、浄土に生まれさせて貰うために念仏をしようと思いたった時から阿弥陀仏の絶対に見捨てないとの利益に預かることができる。阿弥陀仏の本願は老少・善悪の人は関係なく、ただ信心(阿弥陀仏の本願に対し微塵の疑いもなくなった心)が要であると考えるべきである。なぜならば(阿弥陀仏の本願は)罪深く煩悩が盛んな人々を助けるためのものだからである。本願を信じる者には念仏以外の善は不要である。念仏に勝る善などないからである。またどんな悪も恐れることはない。阿弥陀仏の本願を妨げる悪などないからである。」と説かれている。

第二条は、善鸞などの異説について関東から上洛して親鸞に直接尋ねに来た同行・僧侶達への親鸞の回答を長文で記している。

明確な答えを期待していたであろう彼らに対し親鸞は「はるばる関東から命がけで京都にまでやってきたのは明確な回答がほしいからだろうがそれは間違いである。答えは奈良や比叡山にまします立派な学僧たちに聞いたらいいだろう。この親鸞がやっていることは『(罪悪深重の我々衆生が助かる道は)ただ念仏して弥陀の本願に救い取られる以外にない』という法然上人の教えに従って念仏している以外に何もない。

たとえ法然上人にだまされていて、念仏をして地獄に落ちたとしても何の後悔もない。もし、私がそれまでの念仏以外の修行を続けていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もあろうが、どんな修行も中途半端にしかできない私はどのみち地獄が定められた住み家だからである。

もし弥陀の本願は真実ならば、それ一つを教えている釈尊の説法も、善導の解釈も、法然の言葉も嘘であるはずがない。

だからそのことをそのまま伝えているこの親鸞の言うことも、そらごととは言えないのではなかろうか – 愚かな私の信心は、このようなものある。この上は念仏を信じるも捨てるも各々の勝手である」と、一見突き放すように答えている。

この親鸞の回答は「念仏称えたら地獄か極楽か、私は全く知らない」と文字通り言っているのではなく、同様に「弥陀の本願まことにおわしまさば…」という一節も「もし本願がまことであるとするならば」という仮定ではなく「弥陀の本願よりも確かなものはこの世にない」という親鸞の信心を言い表したものであると言う説がある。

第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は現在でもよく引用されている。

「善人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや悪人が往生できないわけがない。しかし世間の人は『悪人でさえも極楽往生できるのだから、ましてや善人が往生できないわけがない』では?と常に言う。

これは一応道理に聞こえるが、他力本願のおこころに背いている。」と説いている。

「自力で善を成そうとする人は阿弥陀仏を信じてお任せしようとする心(他力を頼む心)が欠けているから阿弥陀仏の本願の主対象ではなくなっている。でもそんな心を改めて、心から他力を頼めば本当の浄土に生まれることができる。」としている。

「煩悩まみれの我々はどんな修行をしたところで迷いの世界から抜け出ることはできない。そんな我々を哀れんで起こされた阿弥陀仏の本願の主目的は、悪人が成仏できるようにするためであるから、阿弥陀仏を信じてすべてをお任せできる悪人こそ、最も往生できる人である。」と説いている。

ここで言う「善人」「悪人」などの詳細は、悪人正機を参照のこと。

第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれている。

聖道仏教の慈悲とは人間の頭で考える慈悲であり、それでいくら人々を救おうとしても限界がある。だから生きているうちに早く他力の信心を得て浄土に行って仏となり、仏の力によって人々を弥陀の浄土へと導くことこそが真の慈悲=浄土の慈悲である、と説かれている。

第五条では、「親鸞は一度も父母のために念仏したことがない」として、追善供養を否定している。

念仏は自分の善ではないからである。そんな形ばかりの追善供養をするより、生きているうちに早く他力の信心を得なさい。そうすれば浄土で仏となって自由自在に多くの縁者の救済ができるようになるのだから、と説いている。

第六条では、この親鸞には弟子など一人もいない。

表面上は親鸞の下で仏法を聞き念仏を称えるようになったように見えるかもしれないが、これも本当は全く弥陀のお力によるものである。

だから「この人達は俺の裁量で仏法聞くようになったのだ」などと考えるのは極めて極めて傲慢不遜であり、決してあってはならぬことだ。

だから人と人との複雑な因縁に拠って別の師の下で聞法し念仏を称えるようになった人は浄土へは行けないなどとは決して言うべきではない、と説かれている。

第七条では、ひとたび他力の信心を得た者=念仏者にとっては、悪魔・外道、図らずも造ってしまう悪業など、如何なるものも極楽往生の妨げにはならないと説かれている。

第八条では、他力の信心を得た者の称える念仏は自力(自分の計らい)で行うものではないので、行でも善でもないと説かれている。

第九条は、「念仏を称えても経文にあるような躍り上がるような喜びの心が起こらず、少しでも早く極楽浄土に行きたいという気持ちにならないのは何故でしょうか」という唯円の疑問に対しての生々しい問答を長文で記している。

恐らく破門をも覚悟で素直な質問をした唯円に対し、親鸞は「この親鸞も同じ疑問を持っていたが、唯円も同じ気持ちだったのだな。」と答えている。

そして「よく考えてみると躍り上がるほど喜ぶべきことを喜べないからこそますます極楽往生は間違いないと思える。」としている。

その理由を「喜ぶべきことを喜べないのは煩悩の仕業であり、阿弥陀仏はそんな煩悩で一杯の衆生を救うために本願を建てられた。こんな我々のための本願であると知らされるとますます頼もしく思える。」と答えている。

次に、早く極楽に行きたくないどころか、少しでも病気になると「死んでしまうのでは」と不安になるのも煩悩の仕業とし、「長い間輪廻を繰り返して滞在してきたこの苦悩に満ちた世界だが、それでも故郷のような愛着があり、行ったことがない極楽には早く行きたい気持ちも起こらない。これらも煩悩が盛んだからである。」

「阿弥陀仏は早く極楽往生したくないという我々を特に哀れに思っておられる。だからこそ阿弥陀仏の願いは益々頼もしく、極楽往生は間違いないと思われる。もし躍り上がるような喜びの心が起こり、極楽浄土に早く行きたいという気持が起こるなら、自分には煩悩がないのかと疑問に思ってしまうだろう」と説いている。

第十条は、他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできない、一切の人智の計らいを超越したものである、と説かれている。

別序

親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあるとする。

第十一条 – 第十八条

第十一条以降は、異義を1つ1つ採り上げ、それについて逐一異義である理由を述べている。

経典を読まず学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視するものだと論じている。

また、どんな悪人でも助ける本願だからといってわざと好んで悪を作ることは、解毒剤があるからと好んで毒を食するようなもので邪執だと破った上で、悪は往生の障りではないことが説かれている。

後序

後序は、それまでの文章とは間を置いて執筆されている。

親鸞が法然から直接教え受けていた頃、「善信(親鸞)が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えた。

それに対し法然は、「源空(法然)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えた。

唯円は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き本書を記したと述べている。

流罪にまつわる記録

承元の法難に関する記録が述べられている。親鸞が「愚禿親鸞」と署名するようになった謂れが書かれている。

写本

写本としては、蓮如本・端の坊永正本などがある。2015年現在、原本は発見されていない。

蓮如本と永正本とには、助詞などの違いが見られるが、全体の内容として大きな違いは無い。最も原型的な古写本と考えられる蓮如本・永正本はともに「附録」と「蓮如の跋文」を備えているが、後代のものには、これらを欠く写本も存在する。[1]

上述のごとく、蓮如本と永正本には、蓮如の署名と次のような奥書が付されている。

右斯聖教者為当流大事聖教也 (右、かくの聖教は、当流大事の聖教と為すなり)
於無宿善機無左右不可許之者也 (宿善の機無きにおいては、左右無く[2]之を許すべからざるものなり)

 釈蓮如 御判

すなわち、本書は「当流大事の聖教」ではあるけれど、「宿善の機無き」者(仏縁の浅い、仏法をよく理解していない人達)にはいたずらに見せるべきではない、と蓮如は記している。

古来「カミソリ聖教」とも呼ばれてきたように、阿弥陀仏の本願に救われた人には汲めども尽くせぬ妙味があるが、初心者が読むと大変な誤解を招く恐れがあるのがこの歎異抄である。

このため長らく秘本とされ世に広く知られることはなかったとする向きもあるが、実際には江戸時代にも『歎異抄』は、真宗聖典の一部に編入されており、秘本の扱いではない。
明治に入ってから清澤満之・近角常観らによって再評価されるまで注目されなかった。また蓮如が著した『御文』(『御文章』)において、『歎異抄』の内容の引用が随所に見られる。

親鸞思想との相違点

歎異抄は書名が示すように、当時の真宗門徒たちの間で広がっていた様々な異説を正し、師である親鸞の教えを忠実に伝えようという意図の下で著されたものである。

しかしながら、親鸞の著作から知られる思想と、歎異抄のそれとの相違を指摘する学者も多い[3]。たとえば仏教学者の末木文美士は、唯円の思想はある種の造悪無碍の立場を取っているとし[4]、これは親鸞の立場とは異なるとする。

唯円は歎異抄において、阿弥陀仏の本願を盾に悪行をおこなう者に対して、忠告は行なっているが、彼らの往生は否定せず、かれらも確実に浄土に往生できるとする。

しかしながら、親鸞は書簡にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べている[5]。 』

お坊さんも悩んでいた 寺の掲示板に何を書く?国葬の日に

お坊さんも悩んでいた 寺の掲示板に何を書く?国葬の日に
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220927/k10013839121000.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

『寺の掲示版が話題です。

「大丈夫。」

「仏の顔は何度でも」

「コロナよりも怖いのは人間だった」

心にスッと入り込み、じわっとくることばの数々。世相を反映することばも目立ちます。
では国葬の日に何を書くのか?

掲示板の中の寺の人たちも頭を悩ませていました。
(ネットワーク報道部 高杉北斗 鈴木彩里 名古屋局 三野啓介)

心にしみることば

寺の掲示板はネットでも話題です。

さまざまなことばを自由に書いて広く教えを伝える場とされ、「掲示伝道」と言われています。よく考えられた「じわっ」と来るものが多く、話題になるのです。

「大丈夫。」

新型コロナが広がった2年前から太く大きく書かれたこの文字を掲げているのは東京・八王子市にある延立寺。

読み取り方は人それぞれですが、コロナ禍の不安の中でも、前に進もうよと背中を押しているようにも感じます。

社会の動きをとらえて

そう、「仏教伝道協会」によると掲示板は明治時代にはあり、かつてはお経の一節や当時の天皇が詠んだとされることばなどを掲げるのが主流だったとされています。しかし最近は世相や社会の動きをとらえてことばを選ぶケースも結構あるのです。

エリザベス女王が亡くなった際に、女王が話したことばを掲げたのは東京・台東区の金嶺寺です。

「行動と熟考。そのあいだで上手くバランスを取らなくてはいけません」

住職を務める末廣正栄さんは、このことばが仏教の教えにも通じると思って選んだそうです。

住職 末廣正栄さん

仏教には対立する立場を離れ、どちらにも偏らない中道という考え方があります。対立や戦争がやまない時代、女王のことばがバランスを大事にする教えに通じると思えたんです。
国葬の日、掲示板は

そして、安倍元総理大臣の戦後2回目となる国葬が行われたきょう(27日)。

ふだん、世相をとらえたさまざまなことばを考える寺がどんなことばを掲載するのか。

熊本県湯前町にある明導寺は悩みました。

この寺が毎月2回、掲載することばの中には「輝け!お寺の掲示板大賞」(公益財団法人 仏教伝道協会主催)で賞をとったこともあり、ハッとさせられるものがあります。

自分の煩悩を見つめ直してほしいと、主催者が2020年の大賞に選んだのが明導寺の「コロナよりも怖いのは人間だった」。

ほかにも「真似をするときにはその形ではなくその心を真似するのがよい(渋沢栄一のことば)」などその時々に大事だと思ったことばを掲げています。

住職の藤岡教顕さんは国葬が行われるきょう、皆が共感できる新たなことばがないか、何か張り出せないか考えましたが、悩んだ末、掲載をやめたといいます。

国葬をめぐって賛否が分かれる中では、慎重にならざるを得なかったということです。

藤岡さん自身が、銃撃の事件の日に安倍元総理大臣の地元の山口県にいて、ショックを隠せない人の姿を見たことも理由のひとつといいます。

明導寺住職 藤岡教顕さん

住職 藤岡教顕さん

賛成の人も反対の人も、立場にかかわらず納得できることばを書きたいと思いました。

お経の中にもそうしたことばがないかと、探したのですが、なかなか難しいと感じて、今回は見送りました。

きょう何か掲載できることばはないか、考えを巡らせたものの、そのことばが見つからず新たな掲載をやめた寺は他にもありました。

毎日更新する寺は?

考えに考え抜いて、ことばを紡ぎ出した寺もあります。

広島市の中心部にある超覚寺。毎朝、新しいことばを張り出しているのは住職の和田隆恩さんです。

コロナ禍で、人と接する機会や直接、説法をする場も減る中、みずからの発信を増やそうと2年前の4月から週1回だった掲示板の更新を、増やしました。

「仏の顔は何度でも」

仏の顔も3度まで、ということわざがありますが、“仏の慈悲深さは限りない”との思いで書いたそうです。

和田さんはプロ野球・広島カープのファンで、今シーズンの交流戦で最下位となった時には「カープファンでいることは荒行です」とか、長く続くコロナ禍での生活についても「ウイルス止めるマスクでも、愚痴と文句は止められぬ」とウイットに富んだことばを載せていました。

さらに8月6日の原爆の日には「核兵器がある限り、人間は絶滅危惧種です」

筆が…進まない…

日々のできごとに関連したことばを書くことも多い和田さん。

世の中の流れを踏まえながら、新しいことばを張り出すことで、込められた思いが伝わりやすいと感じています。

国葬に関連したことばも書こうと筆を執りましたが、思うように進みません。世論も分かれています。

どんなことばを伝えればいいのか、考えあぐねました。

超覚寺住職 和田隆恩さん

住職 和田隆恩さん

いつも日曜日にまとめて1週間分書くのですが、今回、初めは国葬に触れないでいたんです。

考えたことばは

毎日、新しいことばを張り出してきた和田さん。

きのう(26日)、改めて筆を執り悩みながらしたためました。

「必要なものはもうあったのに。不要なものを欲してしまう」

ことし1月に父を亡くし、家族葬を執り行った際、思い出を語り合い、知ることのできなかった父の一面に触れ心が温かくなり、気持ちも穏やかになったそうです。

本来の葬儀はそうしたものだと改めて感じました。

その経験も踏まえ和田さんは賛否の立場ではなく、ひとりの宗教家として考えたことが掲示板のことばになったといいます。

住職 和田隆恩さん

一宗教家として、葬儀で必要なもの、それは故人を静かに温かく見送ることができることだと思っています。でもそうした状況になっていないように感じ、抱えている複雑な思いをことばにしたんです。

書けなかった人、考えあぐねて書いた人、掲示板の中の人たちもさまざまな思いが交差する1日でした。』

ウクライナに対する戦争で死んだロシア兵は、すべての罪を清められる…。

ウクライナに対する戦争で死んだロシア兵は、すべての罪を清められる…。
https://st2019.site/?p=20329

『ロイターの2022-9-26記事「Orthodox Church leader says Russian soldiers dying in Ukraine will be cleansed of sin」。

   ロシア正教会のいちばん偉い人「Patriarch Kirill」(75)いわく。
 ウクライナに対する戦争で死んだロシア兵は、すべての罪を清められる、と。

 すなわち、戦死するということは、他のすべての人のために自身を犠牲にするという行為なので、その行為によって生前の罪は水に流されるのである。

 かたやローマ・カトリックのフランシス教皇いわく。神は戦争を支持していない、と。』

バチカン、今月初めに訪中 司教任命で暫定合意を再延長へ

バチカン、今月初めに訪中 司教任命で暫定合意を再延長へ=報道
https://www.epochtimes.jp/2022/09/117703.html

『米ボイス・オブ・アメリカ(VOA)14日付によると、キリスト教カトリックの総本山バチカン(ローマ教皇庁)の国務長官であるピエトロ・パロリン枢機卿はこのほど、バチカン代表団が今月初め中国訪問をしたと明らかにし、司教任命権を巡る中国との暫定合意を再延長する方針を示した。

バチカンと中国は2018年、中国の司教任命に関して教皇が最終的に任命することなどで暫定合意した。20年に双方は暫定合意を2年延長することを決定した。ただ、暫定合意の具体的な内容は公表されていない。

(※ 無料は、ここまで。)』

[FT]ウクライナ正教会、侵攻祝福のロシア正教会から独立

[FT]ウクライナ正教会、侵攻祝福のロシア正教会から独立
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB044690U2A700C2000000/

 ※ ちーとも、「オーソドックス(正統)」じゃなくなって来たな…。

 ※ まあ、「カトリック(普遍)」から「プロテスタント(抗議する人)」が生まれたわけだから、「オーソドックス(正統)」からも何かが生まれるんだろう…。

 ※ 対義語で、「ヘテロドックス(異端)」というものがあるが…。

 ※ お互いを「異端であーる。」と罵り(ののしり)合うのだけは、願い下げだ…。

『ウクライナ正教会の高位聖職者であるロンジン府主教が6月上旬、ロシア正教会トップのキリル総主教を批判した日曜礼拝での説教は手加減がなかった。
イースターの祭事を執り行うウクライナ正教会の高位聖職者=Sipa via AP Images

ロンジン府主教はかつて礼拝のたびに、自身の教会の親組織であるロシア正教会のトップのため、祝福の祈りをささげていた。

ところが今では、「人々が命を落とし、血が流れていること、我々の修道院や教会を爆撃していること、虐殺を祝福したこと」を巡り、プーチン・ロシア大統領によるウクライナ侵攻を支持するキリル総主教を痛烈に批判している。

「すべての母親の涙、新たに掘られた墓のために、あなたは主なる神に答えなければならない」とロンジン府主教は述べた。「あなたはウクライナ正教の世界全体を傷つけ、我々に痛みをもたらした。正当化しようとしてはならない」

キリル総主教に対する激しい批判は、ウクライナ最大の宗教組織の一つで戦争前はロシア文化の牙城だったウクライナ正教会における激変ぶりを示している。大部分がロシア語を話す司祭と教区民が今ではロシアを拒絶し、ロシア政府が「兄弟国」の一部と主張する人々の間でさえウクライナの新たなアイデンティティーが根を下ろしている。

キリル総主教はロシア軍のために新たに建てられた大聖堂でプーチン氏の軍事作戦への熱烈な支持を表明した。この戦争への支持で、ウクライナ正教会に対するロシアの支配が失われた。ウクライナ正教会に所属する1万2000の教区は、親教会であるロシア正教会の教区の約3分の1に相当する。
「独立は唯一の選択肢」

ウクライナ正教会は5月、トップのオヌフリイ府主教の下、臨時会議でモスクワ総主教庁からの独立を宣言し、独立は教区民が要求したことだと強調した。

教会広報担当のクリメント府主教は「キリル総主教が何も言わなかったら話は別だった。だが、総主教は毎週のように、教会へ通う人を含むウクライナ社会にとって受け入れがたいことを言っていた」と語った。「人々が教会を訪れ、彼の名前を聞くと、祈りの妨げになった」と話す。

戦争を受け、教会内で最も熱心なロシア支持者さえ忠誠心を見直さざるをえなくなった。ロシア系ウクライナ人のオリガルヒ(新興財閥)で、2020年にウクライナ正教会から助祭に任命されたバディム・ノビンスキ氏は何年も前から、プーチン氏が14年にクリミア半島を併合した後でさえ、ウクライナに対してロシアとの関係を修復するよう呼びかけてきた。だが、今ではロシアの「侵略」を非難し、キリル総主教が厄介者になったと認める。

「我々は罪人ではなく罪を非難しなければならない」とノビンスキ氏は語る。それでも「総主教が戦争について何も語らず、状況をありのままに伝えなかったことは非常に悪い。総主教がやったことすべてがここで起きている事態と相まって、我々の不利益になっている」と指摘する。

米フォーダム大学でキリスト教正教研究を専門とするセルゲイ・チャプニン上級研究員によると、ウクライナ正教会内の親ロシア派は今も強い力を持つ。数人の主教はロシア正教会との関係を断絶することに異議を唱えた。ロシアの支援を受けた分離独立派の支配下にあるドネツクは決定に従うことを拒んだ。クリミア半島の司祭らはキリル総主教の管轄下に入った。

それでも「モスクワ総主教の教えの下では、未来がなかった。教会は消滅するしかなかった」とチャプニン氏は話す。「独立は教会を救うためにオヌフリイ府主教が下せた唯一の決定だった」という。

ウクライナでは14年以降、正教会に対する政治的な圧力が強まっていた。その当時、一部の司祭はクリミア併合とロシア国境に近い東部ドンバス地方での戦闘を黙認していたようだった。

ウクライナ政府は教会を国家安全保障上のリスクと呼び、18年にはモスクワ総主教庁の管轄外に新たな「ウクライナ正教会(OCU)」を創設するよう要求した。これが過去500年以上で最大の正教会分裂につながった。

オヌフリイ府主教の教会は今もウクライナ最大の正教会で、教区数は新しいライバル教会OCUの約2倍に上る。だが、戦争が始まると、ウクライナ当局者の間でロシアが破壊工作に教会を利用するとの懸念が強まった。

ウクライナの治安部隊は、ロシア正教会の聖地で黄金のドームが輝くキーウ(キエフ)・ペチェールシク大修道院を何度も強制捜索した。
互いに相手を「異端」扱い

ウクライナのトカチェンコ文化相はキリル総主教との関係を絶つ教会の決定を称賛した。トカチェンコ氏は「人々はウクライナ正教会の司祭が戦争と誰が敵かについてより明確なメッセージを打ち出すのを待っている。これはもはや宗教の問題ではない。非常に政治的な問題だ」と語った。

だが、オヌフリイ府主教のウクライナ正教会と新しいライバル教会の和解を期待できるのは遠い先で、双方の教会の多くの人が相手側を異端と見なしている。

戦争が始まって以来、400以上の教区がOCUへくら替えし、なかには怒る教区民から移行を強要された教区もあった。首都キーウ郊外のファスティフでは、数人の司祭が暴徒を先導して地元の教会に乱入し、モスクワから支持されている修道院長を襲った。

だが、古い方の正教会は新しいOCUが望んでいるように聖地の支配権を明け渡すことには消極的だ。こうした聖地には、最も重要な聖遺物が祀(まつ)られていて真の正教会を名乗る古い方の教会の主張を裏付けるウクライナの修道院が含まれている。

前出のノビンスキ氏はOCUについて「彼らはどこから修道士を連れてくるつもりなのか。ギリシャか。向こうに行きたいと思った人はすでに移った。彼らには修道士もいなければ修道院もない。これは彼らが教会と呼ぶ組織が劣っていることを示す明らかな証拠だ」と語った。

OCUはキーウ・ペチェールシク大修道院内の聖堂の一つで礼拝を行うことを認めるよう政府に働きかけている。今のところ、ウクライナ正教会は施設を共有することを拒んでいる。

クリメント府主教は「彼らは祈りをささげるために大修道院を必要としているわけではない。トロフィーとして必要としている。ウクライナ正教会の何千人もの信者にとって大切で聖なるあらゆるものを見せびらかせることができるからだ」と語った。

しかし、18年に創設されたOCUに所属するトカチェンコ文化相は、国の結束の名の下に、このアイデアにお墨付きを与えた。

「衝突して分裂し続けることは困難だ。国にとって選択肢にならない」とトカチェンコ氏は語る。「これが文明的な解決策であることを説得するには恐らく一定の努力が必要になるが、ウクライナ社会が多くの期待を寄せているので、双方が対話しないわけにはいかない」

By Max Seddon

(2022年7月3日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.』

救済

救済
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E6%B8%88

 ※ 仏教の「解脱(げだつ)」が、「輪廻の輪」から脱することだとは、知らんかったよ…。

『救済(きゅうさい、英語: salvation)は、ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。様々な宗教で極めて重要な概念であり、救済を強調する宗教は救済宗教とも呼ばれ、「救済宗教」で通常「救済」という場合は、現世の存在のありようそのものが、生及び死を越えた存在領域にあって、何らかの形で決定的に改善されることを表すのが一般である。
救済の型の分類

救済される場所による分類:来世救済型 対 現世救済型
救済される対象による分類:個人救済型 対 集団救済型
救済される方法による分類:自力救済型 対 他力救済型

救済の型には、生者や死者や魂などが天国や極楽や理想郷などの「あの世」に行く「来世救済型」と、神や仏や菩薩や救世主や理想郷などが「この世」に現れる「現世救済型」がある。また、個人単位で救済される「個人救済型」と、宗教的共同体や民族や国家や人類全体など集団単位で救済される「集団救済型」がある。また、信仰や苦行や禁欲や悟りや善行による「自力救済型」(≒「因果説型」)と、神や仏や菩薩や救世主などの恩恵や慈悲による「他力救済型」がある。

太陽と月が一つになった「金星神=光明神」のシンボル 「オーリオール(アウレオラ/アウラ)」。

キリスト教で用いられるプロビデンスの目。この「目」は、本来、「太陽」(丸)と「月」(三日月もしくはアーモンド型)のシンボルを合成したものであり、「金星(神)」を意味する。「太陽(神)」+「月(神)」→「金星(神)」。
キリスト教における救済

キリスト教神学においては特に「救済論」(soteriology)の中心概念である。キリスト教は典型的な救済宗教で、キリスト教における救済とは、キリストの十字架による贖いの功績に基づいて与えられる恵みにより、信仰による罪の咎と束縛からの解放、そして死後にあって、超越的な存在世界にあって神の恩顧を得、永遠のいのちに与ることである。永遠のいのちは、時として、生物的ないのちとは種類を異にする、この世にあって持つことのできる霊的ないのちとも解釈できる。

ローマ・カトリック教会においては、罪は犯したが償える可能性の残っている者は煉獄に送られるとされる。

また、未来において世界が終末を迎えたとき、神が人々を裁くという最後の審判の観念もある。その時混乱の極みにある世界にイエスが救世主として再臨し、王座に就くとされる。死者達は墓の中から起き上がり(伝統的に火葬しなかったのはこの時甦る体がないといけない為)、生者と共に裁きを受ける。信仰に忠実だった者は天国へ、罪人は地獄 (キリスト教)へ、世界はイエスが再臨する前に一度終わるが、この時人々は救済され、新しい世の始まる希望がある。(千年王国)

グノーシス主義における救済

グノーシス主義における救済とは、反宇宙的二元論の世界観より明らかなように、悪であり暗黒の偽の神が支配する「この世」を離れ、肉体の束縛を脱し、霊として、永遠の世界(プレーローマ)に帰還することを意味する。グノーシス主義では悪が肉体を形作るものの、善もまた人の体に光の欠片(魂)を埋めたという神話もある。信者は死ぬとき真の神なる父を自覚し、プレーローマへ帰ろうとするが、悪(アルコーン達)の妨げる重囲を突破しなければならない。この過程は全体から見れば、光の欠片の回収でもある。

仏教における救済

仏教における救済とは、個人が悟りを得て、輪廻から外れ(解脱)、苦しみの多い(本質的に苦である)この世に二度と生まれてこない(転生しない)ことである。

つまり仏教における救済とは、「輪廻転生」という、仏教がバラモン教から引き継いだ、世界の仕組みに関する「概念」(世界観)をそもそもの前提としている。

そして「輪廻転生」は、「転生」という概念を前提としている。そして「転生」は、「霊魂的な「何か」(バラモン教では「アートマン」、仏教では「因果」)の存在」という概念を前提としている。

しかしバラモン教や仏教では、そうした「転生」が輪(環)のように永続する(輪廻する)ことで、「転生」そのものは「救済」ではなく「苦」と化しており、転生の輪(環)=輪廻から外れることを「救済」とするという、さらにひねくれた(発達した)構造となっている。

(通俗的には)悟りを啓いた者を「ブッダ」と呼び(伝統的には「仏陀」は歴史的人物としての釈迦を指す)、人間は誰でも(可能性としては)「ブッダ」になることが出来るとされる。

本来、仏教は、個人が悟りを得ることで輪廻から外れようとする、「個人救済」「自力救済」の営みから始まったものだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。

また阿弥陀信仰や観音信仰や弥勒信仰や地蔵信仰など、仏や菩薩により救済される「他力救済」もあるが、本来の仏教の「自力救済」の論理からはありえず、西方の異教(ゾロアスター教・ミトラ教・ネストリウス派キリスト教・マニ教など)に由来する、仏教の皮を被った救世主待望思想の面が強い。

なお、弥勒菩薩は56億7000万年後に降臨するとされると通常言われているが、初期経典の記述からは5億7600万年が正しい。これは現在弥勒が転生し修行中の兜率天での天寿を計算で出したものである。

平安時代には釈迦入滅後末法の世が到来するという不安に戦乱も重なり、終末の後の救済を求める人心を反映してか浄土教が浸透していった。

こうした(本来の仏教の論理ではありえない)仏教の「他力救済」の面が、日本におけるキリスト教の受容に繋がっていることは否めない。

儒教における救済

儒教は、日本では儒学とも呼ばれ、一種の道徳律や政治論のようにとらえられているが、儒教は形而上的世界観をその道徳や政治の土台に置く、立派な宗教である。

儒教における救済には、個人的な側面と全体的な側面がある。

個人的な側面としては、一族の先祖をまつる祭祀儀礼がある。古代中国の世界観では、人間(の気)は天地より授かった魂魄(こんぱく)より成り(魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した)、死後、魂(こん)と魄(はく、ぱく)に分かれ、魂は上昇して天に、魄は下降して地に、行く(戻る)とされる(魄は遺体や骨とともに地に留まる・潜るゆえに、魄を保管するために土葬が行われる)。そして魂と魄を祭祀儀礼により再び結び付けるとき、人間は復活・再生する(=救済される)とされる。そしてこの復活・再生のための祭祀儀礼は、子孫でないと行うことができないとされる。儒教においては、子孫がいなければ祭祀儀礼を行うことができず、先祖や自分が復活・再生することができないのである。儒教において、自分を救ってくれるのは、神や仏などの超越的存在ではなく、子孫なのである。故に儒教道徳においては、子が親より先に死ぬことは、祭祀を行う者がいなくなる意味でも、親や先祖に対する不孝なのであり、家(家系)を守り、子孫の血を絶やさぬことが、非常に重視される。儒教の創始者である孔子自身が、母親が祭祀儀礼(葬儀屋)を生業とする、生まれであった。

全体的側面としては、儒教(特に孔子)は、尭・舜という古代の聖王による、仁義や忠孝を重視した王道・徳治政治を理想としており、儒教の政治的・宗教的目的は、乱れた世を正し、聖王の治をこの世に再現する(聖王の治に回帰する)ことにある。こうして儒教は先祖を祀る祭祀儀礼を中核に道徳を整備し、徳化(教化)により連続的に、儒教道徳を修めた個人を始めとして、家や国や天下(全世界)が形成されることによって、平和(儒教道徳に基づく儒教的秩序による世界統一)が達成され、徳治が行われ、人民が幸福に暮らせるようになることで、全体が救済されるとするのである。また、天下が平和になれば、家系も戦乱などで途絶えることがなく、子孫によって祭祀儀礼が行われることによって、先祖や自分の救済も保障されるという、循環・補完の論理があるわけである。

故に儒教は個人救済型宗教であると同時に集団救済型宗教でもある。

また、他の宗教がそうであるように、儒教にも終末論がある。即ち、為政者(君主・皇帝)が(儒教道徳に基づく)徳を失い暴君となり、暴虐暴政を働くようになると、人民は苦しみ、世は乱れ、怪異や天変地異が起こるようになる。これが儒教における世界の終末である。すると、天(古代中国の世界観における超越的至高存在)は徳のある者を新たな為政者候補に選び(天命が革まる)、反乱が起こり、反乱軍は暴君を打倒し滅ぼして、反乱者が新たな為政者(君主・皇帝)となって新王朝を打ち立ることで、世は、平和と秩序を取り戻し、怪異や天変地異も治まり、新たに生まれ変わるのである。これ(終末論)は儒教におけるもう一つの救済論でもある。しかし、この新たな為政者(の子孫)も、やがて堕落し、暴君と為りて、新たな為政者が立つのである。このように儒教における歴史観(世界観)とは、「世界の堕落と再生」が永遠に繰り返される、「循環史観」なのである。
救済事業

救済を行う事業。国際連合パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)のパレスチナ難民救済事業などがよく知られている。種類としては貧民救済事業、孤児救済事業、失業救済事業、各種被害者救済事業などがある。
おもな例

難民への救済事業
護王神社 - 孤児救済事業
油須原線 - 政府が失業救済事業として
ユース・ウィズ・ア・ミッション
ハンセン氏病救済事業
救済土木事業
新梅田食道街 - 旧国鉄退職者に対する救済事業として* 学生セツルメント - 大学生による貧民救済事業として始まった
森永ヒ素ミルク中毒事件被害者救済事業
公害被害者救済事業
救世軍難民支援事業(戦時難民救済事業等)
連合国救済復興機関救済事業
千葉県 習志野開拓や下志津開墾など
暴力追放青森県民会議暴力団員による不法行為の被害者に対する救済事業
レスト・デュ・クール("Restaurants du coeur") - 貧困者救済事業
弓張岳#軍用道路と高角砲台の建設野外コンサートホールに改修 - 炭鉱閉鎖が相次いだ昭和40年代初期に失業者救済事業の一つとして
大阪市営地下鉄建設工事 - 失業者救済事業としての一面が
ドイツ強制的同一化 冬季救済事業(de)
ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス(ファミリーハウス)- 宿泊施設での救済事業

関連人物

施乾
井上友一 - 感化救済事業や地方改良運動などを推進
ハンナ・リデル - 日本におけるハンセン氏病救済事業で知られる
光田健輔 - ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだ
綱脇龍妙 - ハンセン病患者救済事業の先覚者
フィニーズ・ヴァローラム
高木仙右衛門 - 伝道士として赤痢患者の救護や孤児救済事業に尽力
トマス・ハマーベリ - 中近東和平多国間協議での難民救済事業の仕事にも関係
朱慶瀾
許世英
和気清麻呂
アンソニー・カリア
石井十次
鈴木正三 - 明治になって失業した武士の救済事業として考案された撃剣興行を主催人道
タマラ・ド・レンピッカ - 戦争救済事業にも参加
大高善兵衛(社会教育家) - 1820-1893.農民・農民救済事業に貢献した。家々を回って嬰児教育をし、捨て子を多数養育した[1]。 』

図録▽ヨーロッパ各国及びフランスのイスラム系住民数

図録▽ヨーロッパ各国及びフランスのイスラム系住民数
https://honkawa2.sakura.ne.jp/9030.html

『フランスでは公立学校でのイスラム教徒のスカーフ着用禁止(ユダヤ教の帽子やカトリックの十字架も禁止。2004年)、イスラム系を中心とした若者の暴動(2005年)やイスラム系住民との軋轢が生じている。また、2015年1月には、イスラム預言者の風刺画を掲載した週刊紙シャルリエブド編集部への銃撃やユダヤ人スーパー立てこもりを行ったイスラム過激派による連続テロ事件が発生した。これについては、フランスや欧米文化圏で「反イスラム」ではなく「表現の自由の擁護」を目指した「私はシャルリ」デモが大きく巻き起こった。

 ここでは、EU諸国のイスラム系住民(イスラム人口)と、少し古い数字であるが、フランスにおけるイスラム系住民の内訳についての図録を掲げた(山内昌之「民族問題入門」による)。

 西欧では、ドイツ、フランス、英国、イタリアにイスラム系住民(イスラム人口)が多いが、これらは旧植民地からの移民が多いためである。この4カ国では人口比で3.7~7.5%となっており、多かった時期の日本の在日韓国・朝鮮人を60万人とすると人口比0.5%であるので、これらの国のイスラム系住民の存在感は、日本における在日韓国・朝鮮人の存在感を大きく上回っていると見られる。

フランス:マグレブ系移民
(マグレブは北アフリカ西部地域を指す)
ドイツ:トルコ系移民
英国:南アジア系移民

 フランスについては、少し古いデータであるが、第2の図で、出身地別のイスラム系住民のグラフを掲げた。チュニジア以西のマグレブ諸国、特にアルジェリア、モロッコからのイスラム系移民が多いことがうかがわれる。

 下にヨーロッパ主要国の国民の対イスラム感情をあらわした意識調査の結果を掲載した。反イスラム感情が強いのはギリシャ、イタリア、ポーランド、ハンガリーなどであり、フランスは、英国、ドイツと並んでイスラムに寛容であることがうかがえる。フランスにおける2015年1月のイスラム過激派テロの後の調査にもかかわらずである。もっとも移民の生徒はフランスでは学校でいごごちが特に悪いようであり(図録3942g)、フランス文化にある普遍主義が災いしている可能性もある。

 なお、いずれの国でも右派の反イスラム感情が強いことが分るが、フランスについて左派と右派とで反イスラムの割合の違いが特に大きい訳ではない。また、参考までに同じ調査のユダヤ人観データも掲げておいたが、ヨーロッパでは反ユダヤの感情より反イスラムの感情の方が大きいことが分る(2014年7~8月のイスラエルのパレスチナ攻撃後でも状況は変わっていない)。これに理不尽な気持ちをイスラム系住民が抱いていたからイスラム過激派がユダヤ人スーパーを襲ったのかも知れない(図録9038参照)。』

『北欧諸国ではイスラム系住民は少ないが、比率的には、最近増えている。

 東欧諸国のイスラム系住民も大いが、これはオスマン帝国時代の遺産である。EU外なので図には出ていないが、ピュー・リサーチ・センターのThe Future Global Muslim Population Projections for 2010-2030によれば、アルバニア260万人(人口比82.1%)、コソボ210万人(同91.7%)、ボスニア・ヘルツェゴビナ156万人(41.6%)が多い。図では、ブルガリア、ギリシアなど東欧のイスラム人口がこれに当る。アルバニアはアルバニア人、アラブ人、クルド人がイスラム系民族として住んでいる。

 なお、世界各国のイスラム人口については、図録9034、「欧米主要国の国籍別外国人労働者数」については、図録3835を参照。

 ここで、イスラム系住民住民数を掲げたEU諸国は、20カ国であり、図の左から、ドイツ、フランス、英国、イタリア、オランダ、スペイン、ベルギー、オーストリア、アイルランド、ポルトガル、ルクセンブルク、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ブルガリア、ギリシャ、キプロス、ルーマニア、スロベニア、クロアチアである。

(2007年2月13日収録、2015年1月26・27日更新、2016年7月14日対イスラム感情調査更新、2022年3月7日対イスラム感情調査更新)』

図録▽世界のイスラム人口

図録▽世界のイスラム人口
https://honkawa2.sakura.ne.jp/9034.html

『米国ワシントンに本部を置く非営利機関ピュー・リサーチ・センターのPew Research Center’s Forum on Religion & Public Lifeにおいて世界各国のイスラム(ムスリム、イスラム教徒)の人口の推計が公表されているので、これをグラフ及び地図(イスラム人口規模とイスラム人口比率)にあらわした。

 同センターは2011年1月に新たにイスラム人口の将来予測を行うとともにイスラム人口の2010年推計も発表している。これは2015年1月のフランスにおけるイスラム過激派の連続テロ、及びイスラム国による日本人2人の殺害予告・身代金要求の後にさかんに引用されるようになった。私もここで掲げた2009年推計を更新しようかと考えたが、2010年推計ではシーア派人口の数字がないし、1年でそう大きな変化はないとして、そのまま2009年推計を掲載し続けることとした。

 世界全体のイスラム人口は15.7億人と人口全体の4分の1弱の22.9%を占めているとされる。

 地域別には、イスラム教がはじまってまず広がった中東・北アフリカでは、3.2億人とイスラム人口全体の20.1%を占めるにすぎず、最も多いのは、アジア・太平洋地域の9.7億人であり、61.9%と6割を超えている。

 この2地域に次いでサハラ以南アフリカが2.4億人、15.3%と多く、ヨーロッパと南北アメリカは合計しても4,300万人、2.7%と少ない。

 国別に見ると、最大のイスラム国はインドネシアであり、2億人のイスラム人口を抱えている。

 インドネシアに続いて、パキスタンの1.7億人、インドの1.6億人、バングラデシュの1.45億人がイスラム人口を多く抱えている。

 これら諸国に次いで、イラン、トルコ、エジプト、ナイジェリアが7千万人台のイスラム人口を有するイスラム国である。

 英エコノミスト誌もこの推計を取り上げているが(October 10th 2009)、同誌がいうように、ヨーロッパの中でイスラム人口が最も多いのは、フランスでもドイツでもなく、ロシアであり、1,600万人のイスラム教徒を抱えている。ソビエト連邦崩壊により中央アジアのウズベキスタンなどのイスラム国が分離した後も国内に多くのイスラム教徒を抱え(人口比12%)、チェチェン問題などの火種となっている。

 EU各国のイスラム人口(2010年推計)やフランスのイスラム系住民については図録9030参照。そこで掲げたヨーロッパ人の対イスラム感情についての意識調査結果を右に再掲しておく。

 中国も人口比は2%とロシア以上に小さいが、絶対数ではロシア以上の2,200万人のイスラム教徒を抱えている。

 日本はアジア・太平洋のその他地域に含まれるが、イスラム人口は18万3千人と推計されている。

 イスラム教徒の中のシーア派については、世界全体で1.54~2億人がおり、イスラム人口全体の10~13%となっている。国別には、イラン、イラクに人口規模、人口比ともに多くが分布しているほか、規模的にはパキスタン、インドにもかなりのシーア派人口が存在している。

 比率的には中東・北アフリカ地域の多くの国で80%を越えているほか、その周辺やインドネシア、マレーシアなどでもイスラムの影響力が強いことがうかがわれる。インドやロシアなどでも10%以上と国内における影響力が無視し得ない程度であることがわかる。

 イスラム国でもイスラム法の社会適用については国別に温度差が大きいことは図録9036参照。

 世界の宗教分布については、Pewレポートでも一部資料として使用されている世界価値観調査の結果をグラフにした図録9460を参照。

 なお、棒グラフでイスラム人口を取り上げた国は、41カ国、具体的には、インドネシア、パキスタン、インド、バングラデシュ、イラン、トルコ、アフガニスタン、ウズベキスタン、中国、マレーシア、エジプト、アルジェリア、モロッコ、イラク、スーダン、サウジアラビア、イエメン、シリア、チュニジア、リビア、ヨルダン、ナイジェリア、エチオピア、ニジェール、タンザニア、マリ、セネガル、ブルキナファソ、ソマリア、ギニア、コートジボワール、ロシア、ドイツ、フランス、アルバニア、コソボ、英国、ボスニア・ヘルツェゴビナである。

(2009年11月12日収録、2012年6月26日イスラム人口比率マップ追加、2015年1月22日2010年推計に更新しない理由をコメント)』

マリウポリ:占領者は、墓のピーター教会の図書館からすべての本、特にユニークな本を燃やしました

マリウポリ:占領者は、墓のピーター教会の図書館からすべての本、特にユニークな本を燃やしました
https://www.pravda.com.ua/rus/news/2022/06/26/7354689/

 ※ これ、宗派的には、どっちも「オーソドックス(正教)」だぞ…。

 ※ ある意味、宗派内の「権力争い」だな…。

 ※ 現代においても、「焚書坑儒」があるとはな…。「墓のとり壊し」も、検討されているらしい…。

 ※ pravdaとは、「プラウダ」で、『プラウダとはロシア語で「真実・正義」の意である。』そうだ…。

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

占領者は、マリウポリにあるウクライナ正教会ペトロモヒーラ教会の図書館からすべての本を燃やしました。

アナスタシアカラトゥール— 2022年6月26日日曜日02:00
67916
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写真:mistomariupol.com.ua

出典:マリウポリ市長の顧問Petr Andryushchenko

文字通り:「ピーター・ザ・グレイブのUOCの神殿では、マリウポリのロシア正教会の司祭たちの助言と支援を受けて、ボランティアや慈善家によって集められた大規模な図書館全体が押収され、中庭で焼かれました。寺。”

詳細:ライブラリにはウクライナ語版のいくつかのユニークなコピーが含まれていたことに注意してください。これらは現在、永久に失われています。

ピーターモヒラ教会は町民の支援を受けて建てられ、最大のペトリキウカの絵が含まれているとしてウクライナの記録簿に含まれています。

前に来たもの:

ロシア人は警備員を伴って、モスクワ総主教区の代表団を街に連れてきました。ロシア正教会は、教会を再開し、ロシア軍のために祈るように協力者に指示しました。

Andryushchenkoによると、現在、侵略者は、ロシア正教会の規範に従って、墓のピーター教会を取り壊すか、それを再フォーマットするかを決定しています。

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マリウポリ
占領者はマリウポリをザポリージャに向けて出発することを部分的に許可されました-市長の顧問
マリウポリ:協力者は教会を再開し、ロシア軍のために祈るように指示されました
マリウポリの喪失にもかかわらず、ウクライナの冶金産業は回復している-研究
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ドイツの宗教

ドイツの宗教
https://www.trans-euro.jp/TAex/2020/05/05/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99/

※ wikiをちょっと見たが、曲折はあったが、現在の宗派は「カトリック」ということのようだ(『2014年より、第95代のライナー・ヴェルキ(Rainer Maria Woelki)枢機卿が在任中。』とのこと)

※ ちょっと分かりにくいが、赤系統が「プロテスタント」で、紫系統が「カトリック」だと思う…。

※ 斜め線状、横線状は、「混在地域」なんだろう…。

※ こうして見ると、ドイツは、カトリック国(フランス、ポーランド)に「挟まれている」国なんだな…。

『外国の文化と触れ合うことで、その国に根付いている宗教、宗教観と自ずと向き合うことになります。ドイツは地理的にも政治的にもヨーロッパの中心となっていますが、ドイツの宗教は今日どのような在り方をしているのでしょうか。

ドイツで最も大きいケルンの大聖堂
キリスト教徒は人口の約半数以上

ドイツで最も多く信仰されている宗教はキリスト教ですが、人口の28%がカトリック、26~27%がプロテスタント(その多くはドイツ福音主義教会/ Evangelische Kirche in Deutschlandである)を信仰しており、人口全体の53.2%がキリスト教を占めています。

※ しかも、その「プロテスタント」も、「エヴァンジェリスト」であるようだ…。

キリスト教の二大宗派の他には、オーソドックスといわれる正教会(1.9-2.1%)、既成の教会組織に属さない自由教会など合わせると、およそ57%の約4700万人の人々がキリスト教に属していることになります。(2018年現在)ドイツは、宗教改革の主導者であるマルティン・ルターの出身でもあることから、ヨーロッパのその他の地域に比べてプロテスタントの比率も多く、主に北ドイツで信仰されているのが特徴です。

※ 「オーソドックス(正教徒)」も、2%くらいはいるようだ…。

またイスラム教も2015年時点の統計では5.7%前後を占めており470万人ほどの信者を抱え、そのほかにはユダヤ教や、その他の新興宗教、外来の宗教である仏教などが1%以下に数えられています。

無宗教、そして深刻な教会離れ

しかしこの統計の数値からは、無宗教(konfessionslos)の人口が37%にも及ぶということも明らかになっています。「神への信仰」に関するドイツの週刊誌シュピーゲルのアンケート調査(2019)によると、ドイツ国内では神を信じている人は2019 年現在で55%、2005年に比べて11%も減っており、東ドイツに至ってはわずか26%という結果で、こちらも2005年に比べて10パーセントの減少となっています。

カトリックおいていえば、2015年には、復帰者も含めて、9千人以上の信者が増えた半面、計18万2千人近くの人々が信仰から離脱したとのことです。このような宗教離れ、教会離れはドイツに限らず、現代的な現象といえますが、この傾向の一因には、教会税の徴収が大きいともいわれています。

教会税(Kirchensteuer)というのは、自身の信仰する宗教を役所に正式に申告している場合に課税され、州により額は異なりますが、所得税の8~9%とのことです。そう、ドイツでは役所への提出書類に宗教を書く欄があるので、宗教に対する確固たる姿勢を意識しているということでもあります。また、国が教会に代わって税金徴収するのは不思議なように思えますが、これは「コンコルダード」(Staatskirchenvertrag)という国家と宗教団体の間で締結されているパートナーシップによって遂行されています。ちょっと日本では想像しにくいですね。

このような税金の負担と信仰を秤にかけて人々は信仰から離れていくのでしょうか。昨今では使用されない教会も増えており、これらを博物館、コンサートホール、カフェやレストランとして再利用しているところもあるのだとか。

このような伝統宗教からの離脱の他方では、増大した移民たちの宗教への理解もドイツでは問題となっているようです。また仏教などの外来の宗教もマイノリティながら興味を持つ人々が多いそうです。多様化していく宗教の在り方はどのように国と文化を変えていくのでしょうね。』

儒教

儒教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99

 ※ やれやれ、やっと読んだよ…。

 ※ 随分時間を食われた…。

 ※ しかし、「一度は自分の中で、概略をつかんでおこう。」と思っていた…。

 ※ 東アジア(及びアジア)の国家の問題、国家制度の問題を考える上で、不可欠の「論点」だからな…(最後の方で、リー・クアンユーの言説も出てくる)。

 ※ ベトナムが、「儒教文化圏の国家」とは、知らんかったよ…。

『儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。

紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。

その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教(中国語版)ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。』

『概要

定義

中国やその周辺の東アジア諸国で信仰・研究されていた宗教、または学問。

一般に孔子が創始者と目されるが、古代から伝わる神話や制度、習俗などの集合体である。孔子以後は経書の解釈を行う学問、または社会規範や習俗として行われた。
 
略史

アニミズムやシャーマニズムを背景に成立し、東周・春秋時代に魯の孔子やその後の儒者によって自覚された。

主な教義として、堯舜・文武周公の古の聖賢の政治を理想として[1]「周礼」を復活させることや、家族や君臣の秩序を守ることなどが挙げられる(#教義・学説を見よ)。

孔子やその弟子たちの教団は儒家と呼ばれ、諸子百家の一つに数えられる。

また、儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生などと呼ぶ[注釈 1]。

孟子は徳によって天下を治め(王道政治)、武力による覇道を批判し、禅譲と放伐により歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。

時の為政者に法家、老荘思想や道教などが信仰されたこともあり、儒教は弾圧されることもあったが、前漢になると保護され、新・後漢で国教とされた。

唐代には仏教が広く信仰され、再び影を潜めた。

宋代には朱子学が起こり、より哲学的な宋明理学体系が生み出された。

朱子学は政治と密接な関係を持ち、「修己治人」(有徳者が為政者となる)や「修身・斉家・治国・平天下」(自分・家・地方を治め得る人物が天下を握る)「経世済民」(世を治め人々を救う)といった教えがあり、科挙受験のために必要不可欠となった。』

『教典

詳細は「経書」を参照

五経

儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)である。
春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、五経になったといわれる。

『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を造()す」という記述がある。

孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった[2]。

漢の武帝のとき、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。

霊帝のとき、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立てた。

このとき作られた熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。

経 伝 記 注疏
易経 周易正義
尚書 尚書孔安伝 尚書正義
詩経 毛詩 毛詩正義
楽経
儀礼 礼記 儀礼注疏、礼記注疏
周礼 周礼注疏
春秋 春秋公羊伝 春秋公羊伝注疏
春秋左氏伝 春秋左氏伝注疏
春秋穀梁伝 春秋穀梁伝注疏
論語 論語注疏
孝経 孝経注疏
孟子 孟子注疏
爾雅 爾雅注疏
四書

朱熹

宋代に朱熹が『礼記』のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。

「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。これを道統説という。

朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く[3]』

『教義・学説

儒教は、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。


人を思い遣る事。白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。
「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。


利欲に囚われず、すべきことをすること。


仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。


ただ学問に励むだけでなく道徳的認識判断力であることともされている[4]。智は『論語』では知と表記され意味としては聡明、明智などの意味がある[5]。


言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

この他にも、忠義、孝、悌という教えもある[6]。

人性論
天人の辨
義利の辨

名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論 』

『制度・習慣

礼儀

子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」

周礼は五礼て、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。

吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。
賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する[7]。

五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。

周礼 解説 名系
吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊
凶礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、士虞礼
賓礼 外交(邦国に親しむ) 士相見礼、燕礼、公食大夫礼、覲礼
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大儺
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 飲食之礼、婚冠之礼、賓射之礼、饗燕之礼、脤膰之礼、賀慶之礼

冠服制度

『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある[8]。

孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。

また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている[9][出典無効]。

易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」[10] とある。

乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。

では天地とは何色であるのだろうか。

『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。

つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。

ゆえに、祭礼用の衣装である冕服(袞衣)の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。

また、『書経』には虞皇の衣服についても書かれている。日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。

この冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑化していく。

衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。

『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。

孔子廟

詳細は「孔子廟」および「日本の儒教#関連史蹟」を参照

中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。

中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟・孔廟・夫子廟ともいう(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名)。

中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。

日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。

湯島聖堂が、その代表である。』

 ※ 湯島の聖堂も、「孔子廟」の一つか…。

『歴史(古代・中世)

起源

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」[11] として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした[12]。

孔子とその時代

詳細は「孔子」を参照

顔回

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。

当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。

周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[13]。

そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに以下の四科に分けられている。

徳行 - 顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓
言語 - 宰我・子貢
政事 - 冉有・子路
文学(学問) - 子游・子夏

その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。

その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。

『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

焚書坑儒

性悪説を唱えた荀子。その思想は法家の韓非子や同じく法家で秦の丞相である李斯に批判的に継承された

秦は商鞅の変法によって伝統で氏族社会を解体し、韓非子に代表される法家思想によって中華統一の基盤を整備した[14]。

始皇帝が六国を滅ぼし中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。

ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。

また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。

国教化

董仲舒

陳勝・呉広の乱後、項羽を倒して中華を再統一した劉邦は、漢(前漢)を建国した。

そして地域差のある氏族制解体に対応するため、郡国制を採用し、黄老思想(黄老刑名の学)によって民力の休息を図った。

この政策は文帝・景帝にも引き継がれた[14]。

道家系の黄老思想が流行る中で、叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。

武帝のとき、漢は匈奴から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。

班固『漢書』によれば儒者・董仲舒は五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けたという(ただし、『史記』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてという説もある)。

武帝のときに儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相の公孫弘のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された[15]。

また、五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。

宣帝のときには経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。

前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。

こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した[15]。
前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新の王莽も後漢の光武帝も盛んに利用した。

一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。

古文学と今文学

前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写され『今文経』と言われる。

これに対し、孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキスト、『古文経』が発見された。

前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようと、今文経学と学派争いを引き起こした。

平帝のときには『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。

後漢では、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけた。

章帝のとき、今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用された。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対し、六経全てを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。
賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。

その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。

馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学では古文学説の弱点を研究して反駁した。

李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。

何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。

『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けた。

何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代・晋代

魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。

王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。

西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。

玄学

この時代老荘思想と『易』に基づく玄学が隆盛した。

玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。

呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。

西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。

東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。

この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代・南学と北学

南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、南朝梁の武帝のときには五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。

南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。

あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。

この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。

ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。

南朝梁の費甝の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。

北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。

その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。

北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉炫が出た。

隋代

北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝のとき、劉焯・劉炫の二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。

劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。

在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代

唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。

隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。

さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。

永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。

『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。

韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。

李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。

その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。
彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。

彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

また、唐代は儒教・仏教・道教の三つが鼎立していることから、三教鼎立時代とも呼ばれており、劉禹錫(772年-842年)は仏教・儒教の教養を併せ持った詩僧との交流が深かったことや、当時の朝廷では道教が優遇政策がとられていた

が、玄宗は道教の『老子』仏教の『金剛般若経』儒教の『孝経』の注釈書を著するなどをしたことから、この三教鼎立時代は人的にも思想的にも実り多い交流が行われていた時代であったと言える[16]。』

『歴史(近世)

宋代

宋ははじめ唐の継承を目指し、儒学でも注疏の学が行われた。

聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。

南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

また、宋代では『周礼』が過去の王朝と比較しても知識人たちの関心を惹いた。宋初三先生の一人の石介は『周礼』を大義名分を解く『春秋』とともに「万世の大典」とした。また『周礼』は科挙制度の改善にも利用された。唐宋八大家の一人であった欧陽脩は『周礼』の「教民、興学、命士の法」に対して深い共感を持った[17]。

道統論

しかし、宋の天下が安定した仁宗のときになると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。

漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。

例えば、古文家の柳開は「孔子 – 孟子 – 荀子 – 揚雄 – 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。

ここに孟子の再評価の動きが起こった。

宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。
王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。

人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。

漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

新学

神宗のときになると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。

その代表が王安石の新学である。

王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。

これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。

王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。

新学に異議を唱えたものに程顥・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。

12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

天論

この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。

それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。

その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。
程頤の理・程顥の天理は後の朱熹に影響を与えた。

このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。

邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。

また張載は「太虚即気」説を唱え、気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。

この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。

こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋時代

宋代は北方を金代に占領され、南渡することになった。

この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。

南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。

程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。

謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。

新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

朱熹

孝宗のときには、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。

洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。

彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子の胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。

宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。

そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。

経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。

さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。

『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。

朱熹の弟子には、黄榦・輔広・邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。

同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。

また、朱熹は経書を用いて科挙制度を批判した人物としても知られていることから教育分野にたいして積極的に取り組んでいた人物であるといえる。

朱熹は科挙をただ暗記するだけの学問であると批判した。

というのも当時の科挙は『五経正義』という唐代に成立した国の注釈書を暗記することが科挙の対策であったためである。

朱熹は学問には過程があるとして、「日常的しつけ」から「理論および社会的行動」へという過程をさだめさらにそのためのテキストもさだめた。

その内容は8歳で学ぶ段階では『小学』を15歳以降は『四書』と『五経』を定めた[18]。

道学

陸九淵の学は明代の王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。

この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。

寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相の趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。

その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。

朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。

理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。

真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗のときには『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。

元代

従来、金代では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。

元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。

元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。

許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。

南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。

許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。

元代、科挙で一大改革が起こった。

漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。

これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。

また、金代(1115年-1234年)に成立した全真教においては、儒教道教仏教の一致を唱えており、儒教的な徳目をも取り込んでいった。このような宗教が広まることで庶民の間にもその宗教は広まっていく[19]。

明代

明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。

劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。

宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。

永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。

この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。

『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。

明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。

薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。

呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。

胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。

婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。

陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。

王陽明

明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。

朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。

「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。

そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。

道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。

王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。

この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。

道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。

王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。

さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。

彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。

理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。

王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。

弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。

以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。

さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。

東林学派

社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。

彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。

彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。

その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。

朱元璋の六諭

明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。

朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。

明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。

一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。

朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。

王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。

明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。

清代

明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。

明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。

その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。

彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。

一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。

「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。

顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。

こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。

このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。

考証学

清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。

毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。
閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。

胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。

彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。

乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。

その年号から乾嘉の学と呼ばれる。

顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州府を中心とする呉派、徽州府出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。

彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。

特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。

一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。

道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。

彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。

その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。 』

『歴史(近現代)

洋務運動

アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。
洋務派官僚の曽国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。

張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。

孔教運動

康有為

変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。

康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かし、清朝から危険視されて『孔子改制考』は発禁処分を受けた。

変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折の一因となる。

しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。

彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突し、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。

その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失った。

康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国・アメリカで活動した。この他に賛同した著名人として厳復がいる。

現代

新文化運動

1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。

雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。

一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。

清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。

顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。

さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。

新儒家
    熊十力
    梁漱溟
    牟宗三
    唐君毅
    杜維明

中華人民共和国時代

マルクス主義的無神論を掲げる中華人民共和国が成立すると、「儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされた。

特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。

多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。

なお毛沢東は『三国志』を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

再評価と「儒教社会主義」

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。

孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を孔子学院と名付け世界展開を進めている。

また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。

文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。

国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている[20]。

ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会主義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている[21]。』

『東アジア周辺諸国の儒教

朝鮮

詳細は「朝鮮の儒教」を参照

朝鮮の儒学者

朝鮮は本家中国以上に儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。

それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。

李氏朝鮮の統治階層であった両班は自らを儒教の継承人と見做し、儒教の浸透に深く関わった。

李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

ベトナム

19世紀末の科挙の風景

漢王朝(北属期)の時代に儒教が伝播したが、当地から著名な儒家を輩出することはなかった。

10世紀に李朝が成立すると儒教制度が本格的に導入され、政治領域をはじめ教育、学術、文芸、文化風俗などにおける影響力が強くなった。

しかしながら、仏教や道教と比較して絶対的優位とはならなかった。

15世紀に後黎朝が成立すると、仏教・道教に対する儒教の優位性が確立され社会の各階層に浸透した。

これに伴いベトナムは東南アジア的な性質を徐々に失い、中国文化圏としての色彩を強めるに至った[22]。

18世紀から19世紀にかけては儒教の影響が最も強くなった。

17世紀から19世紀にかけて馮克寛・黎貴惇・呉時任・阮文超・嗣徳帝などの著名な儒家を輩出した。

琉球

「Category:琉球の儒教」を参照
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日本における儒教

「日本の儒教」を参照

日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道や仏教に比べても、宗教として意識されることは少ない(次節を参照)。

ただし、年賀状のような儀礼がほぼ「儒教文化圏」に限られるように、自覚されない文化的行為の中に儒教的な考え方(価値観・社会規範などの広義の宗教)が東アジア共通のものとして基底的にあると考えられる。

儒学の伝来

日本に儒教が伝来したのは、5世紀の五経博士によってである。

朱子学は漢籍に紛れて輸入され、僧侶に学ばれた(五山文学)。

藤原惺窩と林羅山は仏教から朱子学に転じ、徳川幕府に仕えた。

近世の代表的な朱子学者として、谷時中・南村梅軒・野中兼山・新井白石・室鳩巣・雨森芳洲などがいる。

新井白石や荻生徂徠は政治にも深く関与した。

朱子学は寛政異学の禁により官学化された。

朱子学は庶民にも広く学ばれ、大坂では町人により懐徳堂が開かれた。

朱子学批判

山崎闇斎や貝原益軒は朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。

中江藤樹は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。

弟子の熊沢蕃山は農本思想を説いた。

山鹿素行は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。

伊藤仁斎は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。

荻生徂徠は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。

徂徠の弟子には文人の服部南郭や、『経済録』の太宰春台がおり、後世には本居宣長や、海保青陵らの経世家に影響を与えていった。

懐徳堂では中井竹山らが朱子学を教えたが、中井履軒など朱子学に疑念を呈するものや、富永仲基や山片蟠桃など、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。

幕末の儒学

昌平坂学問所の佐藤一斎は朱子学のほかに陽明学を修め、渡辺崋山・佐久間象山・横井小楠ら幕藩体制秩序の破壊を試みた弟子を輩出した。

陽明学者の大塩平八郎は、大塩平八郎の乱を起こして、幕府に挑戦した。

尊王思想は古学派にも萌芽が見られ、本居宣長・平田篤胤・頼山陽・蒲生君平・高山彦九郎・林子平らによって展開されていった。

朱舜水を招いて朱子学を研究していた水戸徳川家では、『大日本史』編纂の過程から水戸学が形成され、藤田東湖・藤田幽谷らが尊王思想を展開した。

会沢正志斎は『新論』で尊皇攘夷思想を体系化し、幕末の志士に伝えていった。

吉田松陰はその一人であり、孟子・水戸学・陽明学を松下村塾で教え、弟子からは高杉晋作ら倒幕の志士が現れた。

近代の儒学

明治維新の志士たちは水戸学や陽明学を信奉していたから、明治以後にも研究が行われた。

井上哲次郎は朱子学、陽明学、古学を研究した。

漢学者の元田永孚は教育勅語を起草したが、天皇の教えという形を取りながら、実質的には儒教道徳を説いた。

天皇制国家と国家神道が作られてからも、政府中枢に漢学者がおり、たとえば安岡正篤は終戦の詔勅に関与した。

民間右翼の中に儒学を元に尊王思想を説くものもあった。

村岡典嗣や津田左右吉や和辻哲郎らは日本の儒教を研究した。

戦後の儒学

戦後は、江戸時代に近代化に反対した人々の思想という位置づけがなされ[23]、丸山真男らによって批判的に研究されたほか[24]、マルクスの「アジア的停滞性論」も広く受け入れられた[25]。

そのため、歴史的な存在として儒教が学ばれたり、ビジネスマンの処世術・教養として『論語』が読まれるに留まる。』

『儒教に関する研究と論点

東アジアの近代化と儒教

宗教社会学者のマックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で西欧の近代化の原因はプロテスタンティズムにあるとしたが、その他の地域でも同様の研究を行っている。

アジアについては、『儒教と道教』で「儒教は合理主義的だったが、プロテスタンティズムのような厳格さを持たなかったため、東アジアは近代化しなかった」という趣旨のことを述べている。

また、マルクス主義では、「アジア的生産様式」によって中国では「アジア的停滞」が引き起こされ、近代化は起こらなかったなかったという。

カール・ウィットフォーゲルは、それが「アジア的専制」を産み出したという。

一方で、1990年代以降、中国の改革解放の成功やアジア四小竜の台頭を迎えると、リー・クアンユーや李登輝などは儒教が近代化の原因だと述べた[26]。

儒教は宗教か

儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。

現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。

現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的[27] だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。

加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている[28]。

しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事も可能なのである。

儒教が宗教かが法廷で問われた例として至聖廟を巡る裁判があり、日本の最高裁は至聖廟を宗教的施設との判断を示した[29]。

「zh:儒教 (宗教)」も参照
文献

概説書

加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書、増補版2015年 ISBN 978-4121909893
加地伸行 『沈黙の宗教-儒教』 筑摩書房〈ちくまライブラリー〉/ 改訂版・ちくま学芸文庫、2011年
串田久治 『儒教の知恵-矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 978-4121016850
鈴木利定 『儒教哲学の研究』 明治書院 ISBN 9784625483028
T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 青土社 ISBN 9784791752980
狩野直禎編 『図解雑学 論語』ナツメ社、2001年、ISBN 4816330461
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、2007年、ISBN 9784625684036
土田健次郎編 『21世紀に儒教を問う』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225
永冨青地編 『儒教 その可能性』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145

伝記

白川静 『孔子伝』 中公文庫、1991年 ISBN 4122041600
諸橋轍次 『如是我聞 孔子伝』(上下)、大修館書店、1990年
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 978-4061589353
武内義雄 『論語之研究』 岩波書店、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊
津田左右吉 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊
宮崎市定 『論語の新しい読み方』 礪波護編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227

五経

易経
    今井宇三郎 『易経』 全3巻:明治書院〈新釈漢文大系〉
    (上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146
    本田済 『易』 新版:朝日選書〈中国古典選〉、1997年 ISBN 9784022590107
    高田眞治・後藤基巳 『易経』 岩波文庫
    (上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129
書経
    加藤常賢 『書経 (上)』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570254
    小野沢精一 『書経 (下)』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570261
    池田末利 『尚書 』 集英社〈全釈漢文大系〉
詩経
    石川忠久 『詩経』 全3巻:明治書院〈新釈漢文大系〉。他に新書漢文大系(抄訳版)がある。
    (上)ISBN 9784625571107、(中)ISBN 9784625571114、(下)ISBN 9784625673009
    白川静 『詩経国風』 平凡社東洋文庫、ISBN 9784582805185
    白川静 『詩経雅頌』 平凡社東洋文庫 全2巻、(1) ISBN 9784582806359 、(2) ISBN 9784582806366
礼記
    竹内照夫 『礼記』全3巻:明治書院〈新釈漢文大系〉
    (上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292
    市原亨吉など 『礼記』全3巻:集英社〈全釈漢文大系〉
    『礼記』 「漢文大系」冨山房、初版1913年。改訂版1984年
    桂湖村 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:早稲田大学出版部、初版1914年
    安井小太郎 『礼記』 「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年
    下見隆雄 『礼記』 明徳出版社〈中国古典新書〉、初版1973年
春秋
    春秋左氏伝
        鎌田正 『春秋左氏伝』全4巻、明治書院〈新釈漢文大系〉
         (1) ISBN 9784625570308 、(2) ISBN 9784625570315 、(3) ISBN 9784625570322、(4) ISBN 9784625570339
        竹内照夫 『春秋左氏伝』全3巻、集英社〈全釈漢文大系〉
        小倉芳彦 『春秋左氏伝』全3巻、岩波文庫
         (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638
    春秋公羊伝
        林羅山訓点 菜根出版(復刻)
        『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝(日原利国訳) 筑摩書房、1970年
            日原利国著 『春秋公羊伝の研究』 創文社〈東洋学叢書〉、1978年
    春秋穀梁伝
        野間文史著 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』 研文出版〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011

四書

大学
    宇野哲人 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940
    金谷治 『大学 中庸』 岩波文庫 2004年 ISBN 4003322215
    赤塚忠 『大学・中庸』 明治書院〈新釈漢文大系〉 1998年 ISBN 4625570026
中庸
    島田虔次 『大学・中庸』 朝日新聞社〈中国古典選〉、1967年 / 朝日文庫(上下)、1978年
    宇野哲人 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959
    俣野太郎 『大学・中庸』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1968年
論語
    吉田賢抗 『論語』 明治書院〈新釈漢文大系 1〉、初版1960年、ISBN 4625570018。新書漢文大系(抄訳版)がある
    吉川幸次郎 『論語』 各(上下) 新版:朝日選書〈中国古典選〉、1996年 / 改訂版・角川ソフィア文庫、2020年
    金谷治 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 400-3320212。ワイド版2001年
    宮崎市定 『現代語訳 論語』 岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
    貝塚茂樹 『論語』 中公文庫、改版2020年、ISBN 4122068487
    加地伸行 『論語』 講談社学術文庫、2004年、増訂版2009年
孟子
    小林勝人 『孟子』 岩波文庫(上下) ISBN 978-4003320419&ISBN 978-4003320426
    貝塚茂樹 『孟子』 中公クラシックス。抄訳版
    内野熊一郎・加藤道理 『孟子』、明治書院〈新釈漢文大系〉。新書漢文大系(抄訳版)がある。
    宇野精一 『孟子』 集英社〈全釈漢文大系〉/ 講談社学術文庫、2019年

関連古典

周礼
儀礼
    池田末利編訳、全5巻:東海大学出版会〈東海古典叢書〉
爾雅
孝経
    加地伸行 『孝経』 講談社学術文庫、2007年
    栗原圭介 『孝経』 明治書院〈新釈漢文大系〉、ISBN 9784625570353
荀子
    金谷治 『荀子』 岩波文庫(上下)、ISBN 9784003320815&ISBN 9784003320822
    藤井専英 『荀子』 全2巻:明治書院〈新釈漢文大系〉。ほかに新書漢文大系(抄訳版)がある。
    金谷治・佐川修 『荀子』 全2巻:集英社〈全釈漢文大系〉
大戴礼記
    栗原圭介 『大戴礼記』 明治書院〈新釈漢文大系〉、ISBN 9784625571138

史書

史記
    孔子世家
    仲尼弟子列伝
    孟子荀卿列伝
    儒林列伝
漢書
    董仲舒伝
    儒林伝
孔子家語
    宇野精一訳 『孔子家語』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。
    藤原正訳 『孔子家語』 岩波文庫 ISBN 9784003320228

論語集解

渡邉義浩主編『全譯 論語集解』汲古書院 上・下 2020年

朱子学

朱子 『論語集註』
    笠間書院 ISBN 978-4305001559。真田但馬・吹野安編
    簡野道明編、明治書院 ISBN 978-4625733017、新版2003年
    『論語集注』土田健次郎訳注、平凡社東洋文庫 全4巻
『近思録』
    湯浅幸孫訳著、新版・たちばな出版(選書版)
     (上)ISBN 978-4886926036、(中)ISBN 978-4886926043 、(下)ISBN 978-4886926050
    市川安司訳著 『近思録』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 978-4625570377
『「朱子語類」抄』 三浦國雄訳注、講談社学術文庫 ISBN 9784061598959
島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書 ISBN 9784004120285

陽明学

王陽明 『伝習録』 溝口雄三訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820

朝鮮の儒教と儒学

    史料に朝鮮王朝での五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」がある。

日本の儒学

荻生徂徠 『論語徴』 小川環樹訳註、全2巻:平凡社東洋文庫 ISBN 9784582805758&ISBN 9784582805765
伊藤仁斎 『論語古義』
    子安宣邦著『論語古義』子安宣邦『仁斎論語 『論語古義』現代語訳と評釈』ぺりかん社 上・下
    『日本の名著13 伊藤仁斎』貝塚茂樹責任編集、中央公論社 1977年、新版・中公バックス 1983年。現代語訳のみ 』

ロシアは「ファシズム」なのか?

ロシアは「ファシズム」なのか?
現在のヨーロッパやロシアの状況を表わす用語は「反リベラリズム」
【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/303403

『アメリカやヨーロッパの右派・保守派にとって、プーチンは「退廃的なアメリカ・リベラリズムと多文化主義を退け、イスラム過激主義と激しく戦い、キリスト教の価値を守り、西側の「政治的正しさ(PC)」を批判し、グローバル・エリートが普通の人々に対する悪事を企んでいるという思想を支持する、白人世界の指針」だとされてきたのだ。

 だがこれは、プーチン(クレムリン)が欧米社会に大きな影響力を行使してきたということではない。欧米の右派もロシアも、「政治的には、ヨーロッパ統合よりも国民国家と強い指導者を優先する。地政学的には、大西洋をまたぐ多国間組織に否定的な姿勢を示し、「諸国家のヨーロッパ」を擁護する。経済的には、グローバリゼーションよりも保護主義を好み、文化的には移民を拒み、昔ながらの国民的アイデンティティと、いわゆる伝統的価値の保護を求める」という反リベラリズムを共有しているのだ。』…。

『こうしてラリュエルは、「ロシアは(西欧の)社会変革者として行動しているのではなく、むしろ、ヨーロッパとアメリカ社会の疑念と変質のエコーチェンバーなのである」と述べる。

ロシアを「ファシズム」と批判する者は、ロシアを「見知らぬ他者」として、「自由で民主的」な西欧社会と比較する。これは典型的な「俺たち/奴ら」の二分論だが、この構図はリベラルな西欧社会を正当化するのに都合がよかった。逆にいえば、だからこそ「リベラルなエリート主義」を嫌悪する勢力は、「反リベラリズム」としてのロシアに接近したのだ。』…。

『だが、西欧とロシアはまったく異なる社会ではなく、むしろ「ロシアは西側の連続体」だとラリュエルはいう。「ソ連ないしポスト・ソヴィエト期のロシアは、様々なかたちで西側の鏡として機能している」のだ。

 ロシア革命以降の1世紀、ロシアは「社会主義、全体主義、民主主義、新自由主義、そして現在は反リベラリズム」の実験によって、西側全体の発展、行き過ぎ、過ち、失敗を増幅してきた。ロシアは例外ではなく、今日ロシアで起こっていることは、「異なる規模で西側でも観察されるより広いグローバルな潮流」に深く結び付いている。』…。

 ※ ロシアの「内面」に降りて行って、いろいろ「理解しよう」と試みているようだ…。

 ※ しかし、「それで、何?そういう内面の分析が、何の役に立つ?」という話しだ…。
 
 ※ ヒトは、内面でいろいろ考えたり、思ったりして生きて行く…。

 ※ そういう「内面」を、探っていたりしても「キリが無い」…。

 ※ 社会秩序を保っていくためには、そういう「内面」は「さておいて」、外部に表れている「行為」だけを、「取り扱う」ことにしたんだ…。

 ※ それが、「近代」というものだ…。

 ※ いくら内部で「高邁な思想」に耽っている御仁でも、高速道路200キロで爆走されたりしたんじゃ、堪ったものじゃない…。等しく、免停にでもしないとな…。そういう話しだろ?

シーア派の中東での分布

【地図と解説】シーア派の中東での分布
http://ikeuchisatoshi.com/i-1135/

 ※ パキスタンのイスラムは、スンニ派だったよな…、と思って分布を調べた…。

『(2014年6月18日作成者 池内 恵 カテゴリー 地図で見る中東情勢, 『シーア派とスンニ派』)

「地図で見る中東情勢」の第4回。

イランによるイラクへの介入が、予想通りというか予想よりもさらに早く進んでいます。

また、米国がイラクをめぐってイランと同盟しかねない勢いというのも、あくまでも「理論的にはそういう可能性も」と話していたのですが、すでに現実味にあふれたものになっています。

イランのイラクへの影響力という際に常に挙げられるのが、シーア派のつながりです。

この地図は、中東諸国でシーア派が多数派の国、規模の大きな少数派を形成している国を緑色と濃い緑色で示してあります。
Lines in the sand_Shia from Iran to Syria
出典:Global Times

シーア派はイスラーム世界全体では少数派ですが、それは人口の多い東南アジアやインドがほとんどスンナ派であるというせいもあります。中東ではスンナとシーア派の人口は全体ではかなり拮抗しており、シーア派は一部の国では多数派になっています。

過半数となっているイランとイラクのほかに、レバノンでは過半数ではありませんが最大の宗派になっています。シリアではアラウィ―派をシーア派とみなして加えれば15-20%。あまり知られていませんが、イエメンでも北部にシーア派の一派ザイド派がいます。そしてアラブの湾岸諸国でもクウェートではかなりの大きな少数派、バハレーンでは人口では多数派だが王家・支配階級はスンナ派。

しかしこの地図だと国単位で一色に塗ってあるので、国の中での地域ごとの宗派の分布がわかりませんね。

次の地図を見てみると、もっと詳細な分布がわかります。

Shiite_simple.jpg
出典:NPR, Vali Nasr, The Shia Revival

パキスタンにもいるんですね。ただしシーア派の中でもイスマーイール派などで、イランの12イマーム派とは宗派が違います。

もっと詳細な、宗派分布の地図は下記のものです。クリックするとより広域が表示されます。

Sectarian-Divide.png
出典:Financial Times

サウジアラビアについて、アラビア半島中央部のネジュド地方、つまりサウジアラビアの王家・支配部族の本拠地についてはワッハーブ派で緑に塗られていて、それに対してエジプトやヨルダンに近い紅海沿岸のヒジャーズ地方は「普通の」スンナ派でパープルグレーに塗り分けられています。このことも今後の展開によっては意味を持ってくるかもしれません。

さて、このような中東一円でのシーア派の広がりの中でイラクの宗派・民族構成を詳細に見てみると、こんな感じです。クルド人はスンナ派ですが、アラブ人と言語・民族を異にする別のエスニシティを形成しています。シーア派はアラブ人でスンナ派と同じですが、宗派の違いから異なるエスニシティ意識を強めているのが現状です。

Iraq_ISIS_WP_Izady Columbia U
出典:ニューヨーク・タイムズ

人があまり住んでいないところは白っぽくしてあるところもいいですね。アンバール県をISISの支配領域としてべたっと塗ると、見た印象は広大な領域を支配しているように見えますが、可住・可耕面積はほとんどありません。

ISISの侵攻は北部から中部にかけてのスンナ派が多数を占める地帯では一気に進んだことがわかります。しかしバグダード以南に浸透するのはかなり難しそうです。またその際は激しい戦闘になり流血の惨事となるでしょう。

ただしイラクのシーア派とスンナ派は共存していた時期も長いので、常に宗派が違えば争うわけでもありません。国内・国際的な政治情勢の中でエスニシティの構成要素は変わり、帰属意識は強まったり弱まったり融合したりします。ですので、宗派紛争は必然ではないのです。近い将来は紛争が不可避にも見えますが・・・

そもそも、これらの地図で模式的に示されるほど画然と宗派ごとに分かれて住んでいるわけではありません。

次の地図では、複数のエスニシティ(宗派+民族)が混住しているエリアを斜め線で示してくれています。

Iraq_Sect_ratio.jpg
出典:ワシントン・ポスト

さらにこんな地図もありました。シーア派、スンナ派、クルド人の多数を占める地域の間に混住地帯を色分けしています。さらに、特定の都市や地域に少数ながら存在するトルクメン人、キリスト教アッシリア教徒(ネストリウス派)やカルデア派、ゾロアスター教系でイスラーム教やキリスト教が混淆したヤズィーディー教徒などの居住する都市を表示しています。これらの少数派も明確なエスニシティ意識を持っており、戦乱期にはしばしば迫害を受けます。

欧米の市民社会はキリスト教のルーツに近い由緒正しい中東のキリスト教少数教派の迫害には敏感に反応しますし、トルクメン人はチュルク系の同系民族としてトルコが庇護する姿勢を見せています。これらの少数派を巻き込む内戦は、必然的に外国勢力を巻き込む国際的なものとなります。

Iraq_Sect_Ethno_ratio.jpg
出典:globalsecurity.org

特に危惧されるのはバグダード近辺などの大都市で宗派が複雑に入り組んで混住しているエリアです。

信頼性は私は判定できませんが、下の最後の地図は、バグダードの2005年と2007年のスンナ派とシーア派の居住区を色分けしたこのような地図があります。細かく入り組んでおり、しかも2006年から2007年に多発した宗派間の紛争の影響もあり、住民が移動している様子が示されています。赤い点は10以上が死んだ爆破の生じた地点です。
Baghdad_quarters_sectarian.jpg
出典:Vox, BBC

このような場所で宗派コミュニティ間での暴力の応酬が広がったり、エスニック・クレンジング的な強制退去などが行われたりすると内戦の激化が生じます。また、シリアで起こったように、街区ごとに武装集団が浸透して支配地域を広げていくような、虫食い状の陣取り合戦が展開されると、内戦は長期化し、都市は荒廃を極めるでしょう。

そのようなことにならないようにイラク内外の諸勢力がなんとかしてくれればいいのですが。』

『笑ゥせぇるすまん』が描いた「不愉快な真実」とひとびとが求める「公正世界信念」

『笑ゥせぇるすまん』が描いた「不愉快な真実」とひとびとが求める「公正世界信念」
【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/302362

 ※ 『因果応報は「善行は正当に評価され、悪行は報いを受ける」ことで、これも「公正さ」の重要な要素です。仏教(正しくはヒンドゥー教)の輪廻とは、いちどの人生で因果応報が達成されない矛盾を解消するために、時間軸を過去と未来に引き延ばしたものです。』…。

 ※ なーる、鋭い視点だ…。

 ※ 逆に、キリスト教なんかの「一神教」における、「終末思想」は、この世の不公正を、あの世で「正してくれる」という、「救済思想」というわけだ…。

 ※ ニーチェなんかは、そこを突いて、「神は、死んだ!」「あの世での救済に、問題を先送りするのでは無く、今現在のこの世を”力強く”生きることを、考えるべきだ!」と獅子吼したというわけだ…。

 ※ 『なぜここまでして「公正さ」にこだわるかというと、「不公正な世界」がものすごく不安だからです。悪がはびこり、どれほど正しい行ないをしても裏切られるだけなら、そんな社会は苦しくて誰も生きていくことはできないでしょう。――これは社会心理学で「公正世界信念」と呼ばれます。』…。

 ※ なるほど…。そして、その「公正世界信念」「公正世界神話」が崩れると、社会は、一気に「不安定化」する…、というわけだな…。

『漫画家の藤子不二雄A(本名・安孫子素雄)さんが88歳でお亡くなりになりました。

『笑ゥせぇるすまん』(当時は『黒ィせぇるすまん』)を知ったのは高校生のときで、クラスの友人が持っていたものを読んで衝撃を受けました。登場人物はサラリーマン、学生、老人などさまざまですが、共通するのは小さなこころの「きず」を抱えていることで、それを喪黒福造がグロテスクなまでに拡大し、(ほとんどの場合)破滅へと追い込まれていきます。

 10代の頃は理解できませんでしたが、いまなら「どんなに幸福に見えても、ひとはみな転落の縁を歩いている」という「不愉快」な事実が、このダークなキャラクターが長く愛された理由であることがわかります。「人間はこんなにこわれやすいんだよ」というメッセージに、逆に安心感を覚えた読者も多かったでしょう。

 もうひとつ、初期の作品を読み返して気づいたのは、その巧妙な設定です。

 わたしたちは無意識のうちに、世界は「公正」であるべきだと思っています。「悪は滅び、最後には正義(善)が勝つ」ことは、神話・宗教からハリウッド映画まですべての物語の本質で、もちろんマンガも例外ではありません。

 因果応報は「善行は正当に評価され、悪行は報いを受ける」ことで、これも「公正さ」の重要な要素です。仏教(正しくはヒンドゥー教)の輪廻とは、いちどの人生で因果応報が達成されない矛盾を解消するために、時間軸を過去と未来に引き延ばしたものです。

 なぜここまでして「公正さ」にこだわるかというと、「不公正な世界」がものすごく不安だからです。悪がはびこり、どれほど正しい行ないをしても裏切られるだけなら、そんな社会は苦しくて誰も生きていくことはできないでしょう。――これは社会心理学で「公正世界信念」と呼ばれます。

『笑ゥせぇるすまん』のなかにも、因果応報の話はたくさんあります。競馬で一発当てて借金を返そうとしたり、売れはじめた役者が水商売の女と縁を切ろうとしたり、そんな弱さを喪黒福造は見逃しません。

 しかしより印象に残るのは、こうした因果応報では説明できない物語です。

 最初期の「ともだち屋」では、内気で人見知りのため彼女はもちろん友だちさえないない22歳の独身サラリーマンが、喪黒福造に絶世の美女の写真を見せられ、彼女とつき合えるかもしれないという希望に胸をふくらませます。「化けた男」では、29歳の妻子のいる真面目なサラリーマンが、通勤電車で読む週刊誌の記事でちょっとした非日常(アバンチュール)を空想し、息抜きにしています。

 どちらも本人になんの非もありませんが、それでも喪黒福造の「いたずら」によって闇へと堕ちてしまいます。「人生は不条理で、世界は公正につくられているわけではない」のです。

 誰もが夢を求めていた1960年代に、マンガでこの「真実」を描いたのは途方もない慧眼でした。ご冥福をお祈りいたします。

『週刊プレイボーイ』2022年4月18日発売号に掲載

橘 玲(たちばな あきら)
橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は、『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』 (小学館新書)。

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