ウイグル

ウイグル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB

『ウイグル(ウイグル語: ئۇيغۇرلار, Уйғурлар, IPA: [ujɣurˈlɑr]; 簡: 维吾尔, 繁: 維吾爾, 拼音: Wéiwú’ěr, [wěɪǔɑ̀ɻ];[21][22] 英: Uyghurs, [ˈwiːɡʊərz][23])は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族[注 1]、及びその後裔と称する民族[24](あるいは現在の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族[25])を指す。

現在は中国の新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1,000万人[26]、テュルク諸語のウイグル語を話すムスリムである[27]。 』

『呼称

古代中国での呼称

中国史書では、袁紇[28][29]・烏護[30]・烏紇[30]・韋紇[31][32]・迴紇[33]・回紇[30][34]・迴鶻[33]・回鶻[30][34]などと表記されてきた。

突厥碑文による表記

やがてテュルク系遊牧民自身でも文字(突厥文字)を使って物事を記すようになると、Old turkic letter R1.pngOld turkic letter G1.pngOld turkic letter Y1.pngOld turkic letter O.png(Uyγur)[35]と表記した。

イルハン朝における表記

14世紀のイルハン朝ではアラビア文字で「اويغور (Ūyghūr)」と表記され、イルハン朝の政治家ラシードゥッディーンはその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とはテュルク語で「同盟」・「協力」の意であると記している[36]。

歴史

創生伝承

ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン『集史』(1314年編纂完成)がある。

特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セム、ハム、ヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。

テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。

ラシードゥッディーン『集史』ウイグル部族誌 (1314)

伝承:「ノアの子のアブルチャ・カン即ちヤフェトの子のディブ・バクイの子のカラ・カンの子のオグズ( اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam.)[37][38]は、唯一神(アッラー)のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けたが、彼はその親族の一部の援助を受けて打ち破り彼等の領地を併合した。

彼は大会を開き、親族・異姓の集団・戦士達を鎮撫し、共に戦った親族の人々に“ウイグル”の名を授けた」[37][38]

古代:「ウイグリスターン地方 (wilāyat-i Ūyghūristān) には2つの非常に大きな山があり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつの間にはカラコルム山 (kūh-i Qarāqūrum) が鎮座し、カアン(Qā'ān; オゴデイのこと)が建てられた都市はその山の名前にちなんで呼ばれている。その山のそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)と呼ばれている山がある。

その山々の一帯には10本の河(が流れている)場所と、9本の河(が流れている)場所がある。古い時代には、ウイグル諸部族の居住地は、これらの諸河川や山々や荒野 (ṣuḥrā-hā) にあった。

この10本の河にすむものたちがおり彼らはオン・ウイグル( اون اويغور Ūn Ūyghūr)と呼ばれ、9本の河にいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)と呼ばれている[注 2]。この10本の河はオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)[注 3]と呼ばれている。

それらの名前を以下に説明すると、اييشلك Aīīšlik(部族),اوتنكر Ūtinkar?(部族), بوقيز Būqīz(部族),اوزقندر Ūzqundur(部族),تولار Tūlār部,تاردار Tārdār(部族),ادر Adar(部族:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族),اوتيكان Ūtīkān(部族)である。3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部がいる。9本目の Qamlānjū の河沿いには オン部族( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本目の河畔に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部がある。その他名称不詳の部を含め122部がそれらの河に有った。数世代経ったがウイグル諸部族には決まった君長(pādshāhī wa sar-varī)が居らず、各部が武力争奪を始めると別の集団から長を立てていた。

後に各部が共同利益の為に会議を開き、全体に命令を発する1人の全権君主(pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分達の中から出すことを決議。全会一致で満場の意を受けて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)部から最も聡明なマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī)を選出、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号を授けた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)部から品質性格の良好な人物を選んでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号を授けた。彼等二人は全民族と諸部族の君主(pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等の一族(ūrūgh/uruq)が100年間統治した。」[39][40][41]

アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260)

「カラコルムから発するトグラ河とセレンガ川が合流するカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)に双樹があった。双樹の間の丘に天から光が降り注ぎ、日ごと丘は大きくなった。やがて丘陵が開き、天幕張りの5つの部屋が現れると各々に一人の子供が座っていた。5人の子供はこの土地の人々から王子と同じように尊敬され、長男はソンクル・テギン( سنقر تكين Sunqur Takīn/Sonqur Tegin)、次男はクトル・テギン( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin)、三男はブカク・テギン( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin)、四男はオル・テギン( اور تكين Ūr Takīn/Or Tegin)、五男はブク・テギン( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名された。ウイグル人は彼らが天より降臨したものと信じ、彼らの一人を君主に戴くことにした。そこで、末子のブク・テギンが美貌と才智に最も秀で、あらゆる言語と文字に通じていたので、ウイグル人は彼を推戴してカン( خان Khān)とし、大祭を催して玉座に就かせた」[41][42][43]

古代ウイグル史

高車の袁紇(ウイグル)部
詳細は「高車」を参照
五胡十六国時代の高車の位置

「高車(こうしゃ)」とは4~6世紀の中国北朝におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する[28][29]。その一部族である袁紇(ウイグル)部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。

390年、袁紇部は北魏の道武帝の北伐で大敗を喫し[注 4]、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、袁紇部を含む高車諸部族は北魏に服属して漠南へ移住させられた。

一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主(あるじ)に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。

鉄勒の回紇(ウイグル)部
詳細は「鉄勒」を参照
7世紀初めの東西突厥可汗国。

6世紀~7世紀、高車は鉄勒(てつろく)と呼ばれるようになり、袁紇(ウイグル)部も中国史書で烏護[30]・烏紇[30]・韋紇[31][32]などと記され、やがて迴紇[33]・回紇[30][34]と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に属し最大の構成民族であったが、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88,000、以東に11部・勝兵20,000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200,000)、その中でも回紇(ウイグル)部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀(せつえんだ)部と争った。

629年に部族長の吐迷度は薛延陀部を破り、鉄勒の盟主となった。646年には唐に帰順し、回紇部は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。

682年、東突厥が再興(第二突厥可汗国)すると回紇(ウイグル)部は再び屈従を余儀なくされたものの、734年に東突厥の毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が毒殺されると、バシュミル部、カルルク部らとともに東突厥へ度々攻撃を仕掛け、745年に回紇(ウイグル)部の可汗(カガン、君主)となった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐と組んで最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥可汗国を滅ぼした[44]。

回鶻(ウイグル)可汗国
詳細は「回鶻」を参照
8世紀後半の回鶻の位置。

744年、骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(744年 – 840年)。回鶻(ウイグル)可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。

以後、彼ら回鶻(ウイグル)の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承された。経済面では唐との絹馬貿易や東ローマ帝国とのシルクロード交易によって莫大な利益を上げた。

755年に唐で起きた安史の乱では、唐の要請により回鶻(ウイグル)軍が反乱を鎮め、763年に終結することができた。

唐が安史の乱の勃発により西域の経営から手を引くと[45]、回鶻(ウイグル)は西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げた。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的に回鶻(ウイグル)軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。トルファン盆地とタリム盆地北部が回鶻(ウイグル)の領国となった[46]。

なお懐信可汗(在位:795年 – 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。

840年、回鶻(ウイグル)可汗国は内乱とキルギス族の侵攻を受けて崩壊した[47]。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなり[47]、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝となり、甘粛に移った一派はのちの甘州ウイグル王国となり、[47]。東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)に移った一派は天山ウイグル王国となった[47]。

甘州ウイグル王国
詳細は「甘州ウイグル王国」を参照

滅亡したウイグル遺民の一部は河西(現在の甘粛省)に逃れて割拠し、甘州(張掖)を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成、1028年のタングートによる甘州陥落まで勢力を保った[48]。

天山ウイグル王国
10世紀後半の天山ウイグル王国。
詳細は「天山ウイグル王国」を参照

焉耆(カラシャール)や北庭(ビシュバリク)に割拠した集団が天山ウイグル国を建国すると、定住化して「ウイグル (Uyghur)」とか「トゥグズグズ (Tughuzghuz)」などと呼ばれた。彼らは遊牧していた時代からソグド人の影響を受けマニ教を信仰していたが、のちに仏教、ネストリウス派キリスト教なども信仰され、高昌漢文化などを形成した[47]。タリム盆地に先住していた住民はこうしてウイグル化・トルコ化されていった[47]。

10世紀以降、カシュガルなどのタリム盆地西部ではイスラーム教が普及したが、タリム盆地東部の天山ウイグル国では仏教が根強く、カラ・キタイ(西遼)やモンゴル帝国に服属している間は仏教が信仰された[47]。

13世紀、モンゴル高原でチンギス・カンのモンゴル帝国が勃興すると、1211年にウイグル王バルチュク・アルト・テギンは早い段階でモンゴル帝国に帰順したため、チンギス・カンに気に入られ、自らの「5番目の息子」として厚遇された[49]。バルチュクの子サランディ・テギンはオゴデイ・カアンの娘を娶り、駙馬(キュレゲン)となった[50]。

以後、モンゴル帝国でのウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞され、モンゴル王族に準じる地位を得る。

モンゴル帝国および元朝では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン (Ūyghristān)」と呼ばれた[51]。

やがてモンゴル帝国でクビライとカイドゥの内乱が起きると天山ウイグル王国はその抗争の地となり、君主のコチカル・テギンとネウリン・テギンの時代にウイグル王家はウイグリスタンを放棄せざるを得なくなり、甘粛の永昌路に移住したままその歴史を終える[52]。

モンゴル帝国以降

モンゴル帝国以降、天山ウイグルの国民(タリム盆地のオアシス都市の住民)はモンゴル国民となり、チャガタイ・ハン国、オイラト族(ジュンガル)と支配者が交代していくうちに、都市国家単位での緩い民族名称(カラシャール人、ホータン人、ヤルカンド人、カシュガル人など)しかもたなくなり、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度で、「ウイグル」という名称は忘れ去られていった[25][53]。
近現代ウイグル史

詳細は「東トルキスタン」を参照
「新疆」

現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、マーワラーアンナフルやタリム盆地のオアシス都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対してはムスリム、他所者に対してイェルリク(土地の者)と呼ぶ程度であった[25][53]。

モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て、18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「新しい領土」を意味する「新疆」と呼ばれた。その後ロシアが中央アジアに進出し、1881年にトルキスタンを併合すると、清朝は1884年にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて新疆省を設置した(1884-1955年)。

ウイグル(維吾爾)

1921年、ソ連トルキスタン地方のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を用い始めたことをうけて、親ソ派でタリム盆地・ジュンガル盆地・東トルキスタン(イリ地方)一帯に独立的な軍閥を形成した盛世才政権が、1934年に「ウイグル」という呼称と「維吾爾 (Wéiwú’ěr)」の漢字表記を定めた。この呼称は中華人民共和国にも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)[54]。

中華民国時代

1911年、辛亥革命が中国内地で発生する。新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴル旗人の広福(グワンフ)を臨時都督とする政府が樹立された[55]。

清の宣統帝が退位すると、ウルムチ知事であった楊増新が新疆省長・督軍となる[55]。雲南出身の楊増新は新疆を独立王国にしようとつとめた[55]。

他方、オスマン帝国は汎トルコ主義を中央ユーラシアに広めようとしており、トルコ人のアフメト・ケマルが新疆に派遣され、師範学校を設立し、この学校がカシュガルの民族主義運動の中核となった[56]。

盛世才による改名

当時ソ連共産党党員でもあった遼寧省出身の漢人である盛世才は、1933年に軍を率いてクーデターを起こすと新疆軍閥を率いて1944年まで独立した政権を築いた[57]。盛世才は従来の中華民国当局が用いていた「纏回(てんかい)」を廃止して「ウイグル」民族を「設定」する指示を受け入れ、1934年に省府議会で正式採用させ「維吾爾」という漢字表記も定めた[57]。

ハミ郡王家の反乱

楊増新が1928年に暗殺されると、金樹仁が新疆省長になる[58]。しかし金樹仁はメッカ巡礼などを禁止するなどムスリムへの弾圧政策を行い、さらに土着の小王国であったハミ郡王家を消滅させようとする(回土帰流問題)と、これに反発した住民たちは1931年に大規模な反乱を起こす[59]。ハミ郡王家軍は、回族の軍閥馬仲英に援助を求め、馬仲英軍はバルクルまで進出するが、新疆省政府軍が登場すると甘粛に撤退し、ハミ郡王家軍は山地へ撤退した[59]。

トルファンの反乱

ハミの反乱をうけて1932年にはトルファンのイスラム教諸民族の反乱が発生する[59]。反乱軍はトルファンを掌握するが、ロシア白軍の残党を含む盛世才の省政府軍に敗北する[59]。その後トルファンは馬仲英に占領された[59]。

東トルキスタン・イスラーム共和国
東トルキスタンイスラム共和国国旗

1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラが蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に東トルキスタン・イスラーム共和国を樹立した[60]。

なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢人と同様に排除され、トルコ系の住民が構成員とされた[60]。

馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、盛世才が実権を握った[60]。

盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する[60]。馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した[60]。

1941年には、アルタイ地区のカザフ遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、アルタイ民族革命臨時政府を樹立した[61]。1944年10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国が建国された[61]。

この第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した[61]。

翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した[61]。中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、三区革命と呼ばれる[62]。

中華人民共和国政府による新疆接収

接収のために中国共産党政府から新疆に派遣された代表団、1950年
詳細は「zh:三区革命」を参照
人民解放軍によるウイグル接収
詳細は「新疆侵攻」を参照

1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収のために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。

毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。

しかし、8月27日、北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、アブドゥルキリム・アバソフ(Abdulkerim Abbas)、イスハクベグ・モノノフ(Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフ(Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。

首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民党政府との関係を断ち共産党政府への帰順を表明した。

12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、統合された[63]。ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族やシベ族、回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍(英語版))を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル人のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。1950年、伊吾で国民党勢力の残存していた地域へ進軍してこれを制圧した(伊吾の戦い)。これによって新疆は中華人民共和国の帰属となった。

この後、民族名称はウイグル族(維吾爾族)と公式に定められ、現在に至っている。

中国政府は1950年ごろ、新疆ウイグル自治区に漢族を中心とする新疆生産建設兵団を大量に入植させた。

その後、入植当初人口7パーセントだった漢族が1991年には40パーセントになった。

新疆ウイグル自治区の設置
詳細は「新疆ウイグル自治区」を参照
中華人民共和国国旗

1955年には中華人民共和国で2番目の自治区新疆ウイグル自治区が設置された。

1990年代

1990年にはウイグル人住民のデモに対して武装警察が発砲し、15名(数十名とも)が射殺されるバリン郷事件(英語版)がおきている[64]。

1991年にはウイグル人作家トルグン・アルマスの著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であることを理由に発禁処分となり、著者も軟禁状態に置かれた[65]。

バリン郷事件以降、反政府とみられるテロ事件も相次いでいる。1997年にも大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出したグルジャ事件が発生している。

1996年、中国人民政治協商会議全国委員を務める実業家のラビア・カーディルが政治協商会議で漢族によるウイグル人抑圧を非難する演説を行うが公安当局の間で問題となりラビアは1997年に全ての公的役職から解任された。

ラビアの夫で作家のシディク・ハジ・ロウジが行った書籍 (John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945) のウイグル語訳[66]が当局より問題視されたといわれるが、シディク・ハジ・ロウジは1996年に米国に亡命した。

1999年8月13日、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを国家機密漏洩罪で逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。

1997年のグルジャ事件以降はアフガニスタンやパキスタンに逃れたウイグル族もいたが、アメリカのアフガニスタン侵攻の際に米軍による拘束やパキスタン政府の引き渡しによってキューバのグアンタナモ湾収容キャンプに収監された[67]。

また1999年1月より漢族の作家王力雄が新疆の民族問題に関する著作執筆のため、新疆ウイグル自治区で資料収集を開始すると、同年1月29日に新疆自治区国家安全庁(上級機関の国家安全部は旧ソ連のKGBに相当する諜報機関)に国家機密窃取の容疑で拘束(法手続きを踏んだ正式な逮捕ではない)され、42日後に解放された。

その経緯を『新疆追記』にまとめ、インターネット上で公表した[68]。王力雄はその後、ウイグル問題に関する調査をもとに2007年10月『我的西域、你的東土』(邦題:私の西域、君の東トルキスタン)を台湾で出版した[69]。

2000年代

テロ組織指定

2003年12月、中国政府はウイグル人を主な構成員とするトルキスタン・イスラム運動(ETIM)、東トルキスタン解放組織(ETLO)、世界ウイグル青年代表大会及び東トルキスタン情報センターの4つの組織をテロ組織として認定し、これらの組織の幹部等11名をテロリストとして認定したと発表した[70]。

上海協力機構

中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、1996年には上海ファイブ、2001年には上海協力機構を設立し、国内のイスラーム原理主義勢力の伸張を警戒するロシアや中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。

また、2001年9月11日の米国での同時多発テロ事件以降、中国政府はブッシュ政権の唱える「対テロ戦争」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。

公教育における漢語使用の義務化

2003年には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、漢語の使用が中国政府によって義務付けられた。

2005年、ライス米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、2005年3月14日に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。ラビアは米国に亡命し、のち世界ウイグル会議議長に選出され、2006年にはノーベル平和賞候補にもなった。

2008年3月には、新疆南部のホータン市で、600名を超える当局への抗議デモが発生した[71]。

2009年ウイグル騒乱
詳細は「2009年ウイグル騒乱」を参照

2009年6月には、広東省韶関市の玩具工場で漢族従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出し[72][73]、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と武装警察が、ウルムチ市内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した(2009年ウイグル騒乱[74])。

2010年代

2013年10月、「トルキスタン・イスラム党」を名乗る団体が天安門に車両で突入するテロが発生した。また、これにより日本人にも負傷者が発生した。「トルキスタン・イスラム党」を名乗る団体は今後、人民大会堂を含む中国国内の複数の場所でも襲撃活動を行うと宣言したとされている[75]。

2014年のウルムチ駅爆発事件以降、当局は「テロとの戦い」(厳厲打撃暴力恐怖活動専項行動、厳打高圧)を掲げ、厳格な管理統制の構築に乗り出した[76]。様々なハイテクを用いられていることが特徴であり[77]、「世界でも類のない警察国家」[78]「完全監視社会の実験場」[79]が築かれているとの欧米メディアや人権団体による批判も起こっている[80]。

2015年8月17日と18日、タイの首都バンコクで死者20名、負傷者125名(うち日本人1名)を出す連続爆破テロ事件が起こった。

タイ政府は、事件の1カ月前、亡命を目指していたウイグル人109人を中国に強制送還していた為、これに対する報復テロではないかとの見方が広がっている[81]。

また、エジプトなどでウイグル自治区出身の留学生らが現地の治安当局に拘束されるケースが増加しているとされ、一部が中国へ強制送還されているとの報道がある[82]。

2019年9月23日、国連総会に合わせてアメリカ国内で開催された宗教弾圧に関する会合では、マイク・ペンス副大統領やジョン・J・サリバン国務副長官らが、中国政府がウイグル人への弾圧を行っているとして批判した[83]。これに対して中国側は乱暴な内政干渉だとしてアメリカ側の姿勢に強く反発した[84]。

2020年7月、アメリカはウイグルにおける人権侵害を理由として陳全国ら中国政府高官数人の査証発給制限とアメリカ国内の資産凍結措置を発表した[85]。これに対し、中国側はマルコ・ルビオ上院議員らへ、同様の制裁を加える対抗措置を発表した[86]。また、アフリカ連合と中国はアメリカや西側諸国が人権を利用して中国や他の発展途上国を攻撃していると批判した[87]。

2021年10月、国連において欧米を中心とした43カ国が中国の新疆ウイグル自治区の人権状況に懸念を示す共同声明を発表したが、発展途上国を中心とした63カ国が人権問題を口実とした内政干渉に反対するとして中国を擁護する共同声明を発表した[88]。

2021年、アメリカ、カナダ、オランダ、イギリス、リトアニアが新疆ウイグル自治区で大量虐殺が行われていると認定した[89][90][91][92]。
「ウイグル人大量虐殺」も参照

2021年5月、国連のバチェレ人権高等弁務官が新疆ウイグル自治区を2日間視察し、中国の貧困撲滅や男女平等への取り組みを評価した一方で、死刑廃止や新疆ウイグル自治区におけるテロ対策の見直しを求めた[93]。

中国の自治地方
自治区

新疆ウイグル自治区

民族郷

常徳市鼎城区
    許家橋回族ウイグル族郷
桃源県
    青林回族ウイグル族郷
    楓樹ウイグル族回族郷
漢寿県
    毛家灘回族ウイグル族郷

言語

詳細は「ウイグル語」を参照

現代のウイグル人は、テュルク諸語の南東語群(チャガタイ語群)に属すウイグル語を話す。タリム盆地は様々な民族の交流地であったため、紀元前からすでにモンゴロイドとコーカソイドの混血が始まっていた。

歴史的にタリム盆地の民族は東イラン語やトカラ語を話し、古インドやイランの人種に属す人々を元として幾波にも渡って北のトルコ民族や東の漢民族の支配を受けた。11世紀まではソグド語やトカラ語を使い続けた。

現在のようにテュルク系の言語を話すようになったのは、9世紀から12世紀にタリム盆地東部を支配した天山ウイグル王国、タリム盆地西部を支配したカラハン朝においてである。こうした過程は「テュルク化」といわれる。

古代ウイグル語と現代ウイグル語

回紇部および回鶻可汗国時代までは、突厥と同じ古代テュルク(突厥)語を話していたと思われる[94]が、天山ウイグル王国時代(9世紀 – 16世紀頃)になると、その言語はウイグル文字で表記される古代ウイグル語となる。

現代ウイグル語は古代ウイグル語の後裔ではなく、同じチュルク語族に属すものの、下位の系統が異なる。

文字
詳細は「ウイグル文字」を参照
「ウイグル語#文字」も参照

文化
文学

カラハン朝の詩人ユースフ・ハーッス・ハージブの『クタドグ・ビリク』(1069年)が最初のテュルク語文学とされる。以後、11世紀にマフムッド・カッシュガリがおり、13世紀にはアフマット・ユグナキ、14世紀にはユスーフ・サッカキ、15世紀にはルットフィが現れた。17-18世紀のウイグル古典文学の代表に、ヒルキティ、ゼリリ、ノビティがいる。

現代ではトルグン・アルマスの著作『ウイグル人』があるが、ウイグル民族主義であり分離主義者であるとして中国政府から発禁処分を受けた。また漢民族の作家王力雄による『私の西域、君の東トルキスタン』(2007[注 5])もある。
音楽

アラブ人・テュルク人・ペルシア人にみられる音楽の様式、マカームの楽曲体系の一つであるムカムが無形文化遺産として知られる。
料理
詳細は「ウイグル料理」および「清真料理」を参照

主食はナンが多い。

主食はナンが多い。
ラグマン

ラグマン
米料理のポロ。祭日に食される。

米料理のポロ。祭日に食される。

宗教
仏教
「ウイグル=コネクション」

森安孝夫は、14世紀以降のモンゴル時代に敦煌などの河西地方にいたウイグル人仏教徒集団は、元は東部天山地方のウイグル王国から移住したとし、また、ウイグル人仏教徒は、東部天山・河西から華北・江南に及ぶネットワーク「ウイグル=コネクション」を展開したとした[95][96][97][98]。

チベット仏教

松井太はこの「ウイグル=コネクション」ではチベット仏教に帰依したウイグル人仏教徒が特に大きな役割を果たしたとしている[98]。

スンナ派イスラム教
イスラム教宗派の分布図
黄緑:スンナ派
緑:シーア派

ウイグル族のイスラム教徒の多くはスンニ派であるが、同じスンニ派の回族のイフワーン派やサラフィー主義系のサラフィーヤ派(英語版)とは長らく対立してきた[99][100][101]。
民族・定義

人種・遺伝子

現在のウイグル人はモンゴロイドとコーカソイドの混血であり、Y染色体ハプログループもハプログループR (Y染色体)、ハプログループJ (Y染色体)、ハプログループO2 (Y染色体)、ハプログループC2 (Y染色体)など多様なタイプがみられる[102]。

テュルク系民族
「テュルク系民族」も参照
テュルク系民族の分布。

ウイグル語はテュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、回鶻、カルルク、バスミル、沙陀族などを一括りにした呼称」と定義される[103]。

歴史学者の森安孝夫の話によれば、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであった[103]としている。唐代末期にモンゴリア〜アルタイ地域を本拠としていた回鶻(ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や天山山脈一帯からタリム盆地へ移動する[103]。

それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者[104]がテュルク語化[105]した。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者[104]の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である[103]。

こうした言語からの民族の定義ではなく、近代的民族概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない[103]。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化したタリム盆地周辺のトルコ(テュルク)人や、カラハン朝下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地であるオアシス都市ごとに自己認識していた(「トルファン人」、「クチャ人」、「カシュガル人」、「サマルカンド人」、「ブハラ人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「ムスリム」、異邦人に対しては「イェルリク(土地の者)」と自己を呼称していた[25][53]。

20世紀に入って、ロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。

トルキスタンでも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、1881年のイリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは東トルキスタンの政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される(後述[53])。

森安の話によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として、「新ウイグル」は「古ウイグル」とは異なるとしている[25]。

この呼称は中華民国統治下の新疆省にも知られるようになり、1934年、盛世才政権は従来当局が用いていた「纏回(てんかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている[54]。
ウイグルの呼称の復活

西トルキスタンには、1881年の露清イリ条約の締結の際にロシア領に移住したイリ地方を始めとする新疆北西部出身者が多数いた。

また、ジュンガル時代に入植された農耕民の末裔であるタランチ集団は清朝への反乱(ヤクブ・ベクの乱など)に加担していたため、イリ地方が清朝へ返還されると、清朝政府の報復処罰を恐れ、多くのタランチはロシア領のセミレチエ州などに移住している[53]。

日露戦争において、それまで国際的には小国とみなされていた日本がロシア帝国に勝利すると、それに触発されて1908年には青年トルコ人革命が起きる。

青年トルコ人革命以降、汎テュルク主義がトュルク系民族に大々的に流行し、そうしたテュルク主義に影響を受けていたナザル・ホジャ(Na§ar khv±ja ‘Abd al-TMamad)というタランチ集団の記者が1913年にアルトゥシャフルを「私たちの祖先の祖国であり文明的なウイグルの祖先たちの舞台であり、イスラーム戦士たちが前世紀に強大なテュルクのハーン国を樹立した場所」と表現している[53]。またナザル・ホジャは1914年からは「Uyghur Balasï(ウイグルの子)」という署名をするようになっており、ムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されていた[53]。

1913年11月の雑誌『シューラー』での記事では「テュルク文学はウイグル(ユグル、ウグル; 漢語でホイフ)方言で始められた。オルホン碑文はより以前に書かれたが、真の意味で言うと、テュルク文学はウイグル語で始められた」とする論評が掲載されている[53]。
アルマ・アタ会議

1921年、カザフスタンのアルマアタ(アルマトイ)[注 6][53]において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者のセルゲイ・マローフ(Сергей Ефимович Малов)が「ウイグル」という民族名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した[53]。

このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団やカシュガル人、トゥルファン人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた[53]。

この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた[53]。

なお、マローフは中国甘粛地方のサリグ・ウイグルの研究者でもあった[53]。サリグ・ウイグルは16世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒のことを指す[53]。

日本との関係

ウイグル地域に日本人がはいったのは、1880年の大日本帝国のロシア駐在公使の西徳二郎がはじめてとされる[107][108]。

1902年から1908年および1910年にかけては大谷探検隊が入った[108][109]。

1905年には上海亜同文書院二期生の波多野養作、林出賢次郎、桜井好幸が入っている[108][109]。

1906年には参謀本部将校の日野強と上原多市が入った[108][109]。このうち上原多市の現地での活動については不明な部分が多いが、中国側資料[110]によれば、1907年にイリで陸軍武備速成学堂を設立した際に、軍事教官として日本人の「原尚志」を任命したという記録があり、これが上原ではないかと推定されており、イリ地方で1912年まで6年間活動していたともいわれる[108]。

こうした大日本帝国軍部による情報収集活動はロシアの動向に関するものであったとされる[108]。

関岡英之によれば、大日本帝国陸軍は、満州、モンゴル、ウイグル、チベットやイスラム教勢力などを支援することによって、ソ連や中国共産党などの共産主義勢力を包囲する戦略として「防共回廊」政策があったと指摘している[111]。大日本回教協会を創設した林銑十郎や、板垣征四郎らが推進したといわれる[111]。関東軍は満州を中心に、土肥原賢二らのハルビン特務機関がシベリアでの諜報活動、板垣征四郎少将率いる奉天特務機関が華北分治工作、松室孝良ら承徳特務機関が内蒙工作を展開するという三正面作戦を構えたとされ、このうち松室孝良は1934年2月に「満州国隣接地方占領地統治案」を起案し、そのなかで満州、モンゴル、イスラム、チベットの環状連盟を提唱した[111]。大日本帝国時代の諜報員に、西川一三がおり、1945年に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行した。戦後、インドを経て帰国した。

ほかに木村肥佐夫も同様に諜報員としてチベットに入った。西川、木村にチベット入りを指示したのは東條英機であった[111]。

戦後、日本は1972年9月29日日中共同声明、及び1978年8月12日日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。その際、中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮する外交方針をとったため、台湾を独立した国家とはみないことを約束するとともに、チベット問題やウイグル問題などを含め、中華人民共和国の「国内問題」について公式には積極的な態度をとるにいたっていない。

しかし2000年代以降、激化するチベットやウイグルの動乱などを受けて、ウイグルにおける人権侵害の問題などを民間の活動が活発化し、2008年(平成20年)6月、在日ウイグル人と日本人支援者によって日本ウイグル協会が設立され、世界ウイグル会議の傘下団体として活動を行っている。

2009年ウイグル騒乱直後の2009年7月にラビア・カーディルが二度目の来日を果たしたが、中国外交部の武大偉副部長は宮本雄二駐中国大使を呼び、「日本政府が即刻、カーディルの日本での反中国的な分裂活動を制止することを求める」と述べ中国政府の強い不満を表明した[112]。中国政府は、カーディルが騒乱の黒幕だと断定している[112]。

2012年4月23日、日本ウイグル国会議員連盟が自民党本部で結成され[113][114]、日本の外務省、安倍晋三、黄文雄、三原じゅん子[115]、山谷えり子、古屋圭司、衛藤晟一、新藤義孝らが参加している[114]。顧問は安倍晋三、中曽根弘文、鴻池祥肇らが務めるなど、日本の国会議員でもウイグル問題を取り扱うようになっている。また同日、地方議会でも東京都庁で日本ウイグル地方議員連盟が発足した[114]。

歴代指導者

清末民初

新疆都督

袁大化

中華民国時代

楊増新(1912年、新疆都督。1928年、南京国民政府から新疆省長に任命)
金樹仁
盛世才(1933年 - 1944年)

東トルキスタン・イスラーム共和国大統領

ホージャ・ニヤーズ(1933年 - 1934年)

東トルキスタン共和国主席

アリー・ハーン・トラ(イリハン・トレ)(1944年 - 1947年)

新疆省連合政権主席

張治中(1947年 - 1948年)
マスード・サブリ(1948年)

イリ政権

アフメトジャン・カスィミ(1948年 - 1949年)

映画

佐野伸寿監督『ウイグルから来た少年』2008年[116]。新疆ウイグル自治区からカザフスタンのアルマトイに亡命したウイグル人の少年などを描いた。

ギャラリー

ホータンにて。

ホータンにて。
ホータンにて。

ホータンにて。
ホータンにて。

ホータンにて。
メリカワト遺跡にて。

メリカワト遺跡にて。
メリカワト遺跡にて。

メリカワト遺跡にて。
タクラマカン砂漠にて。

タクラマカン砂漠にて。』

突厥

突厥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E5%8E%A5

『突厥(拼音: Tūjué、漢字の日本語読み:「とっけつ」あるいは「とっくつ[1]」)、あるいはテュルク(古テュルク語: 𐱅𐰇𐰼𐰛【Türük】テュルク[2]、𐱅𐰇𐰼𐰰【Türük】[3]、トルコ語: Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。

もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族[4]。

柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事した[5]が、552年に柔然から独立すると部族連合である突厥可汗国(日本語読み:とっけつかかんこく。突厥帝国とも)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。

582年には、内紛によって東西に分裂した。』

『名称

この民族自身は自分たちのことを、あくまでテュルクと呼んだ。

「テュルク」という名称の意義については「強力な(もの)」とする説[6]が有力であるが、異論もある[7]。

中国語の表記

まず注意しなければならないが、テュルクは漢字を使っていなかった。テュルクから見れば漢字は異国の文字にすぎない。ただテュルクについて書いて残されている歴史書が中国語だった関係で、中国語の文献の表記「突厥」が日本語では採用されてきた歴史がある、というだけのことである。中国史書が表記に使う「突厥」という漢字表記については、これまで“Türk(テュルク)”にモンゴル語複数語尾である-üd(-üt)が付いた形“Türküt(テュルキュト)”の漢字音写であるとする説[8]が有力であった。しかし、近年になり突厥という語は単純に「Türk テュルク」という音そのものを写した漢字であるという説[9]が支持されるようになってきたTemplate:Snf。つまり突厥という漢字表記はテュルクという音の漢字音写にすぎない。

中国人による(通俗的な)漢字の意味解釈としては、『周書』異域伝・『隋書』北狄伝では、「彼らが住んでいた金山(アルタイ山脈)の形が兜鍪の形に似ていたことから、彼らの言葉で“兜鍪”を意味する“突厥”を部族名とした。」と書かれていた。
起源
学術的見解

突厥の起源は西丁零に遡ると考えられ、その原住地はイェニセイ川上流域にあったとされる。この地は鉄鉱石が豊富であり、のちに突厥が「鍛奴(鍛鉄奴隷)」と呼ばれるほど製鉄技術に優れていたことを裏付ける。彼等は匈奴支配時期に製鉄技術を学び、3世紀には鉄器の使用が普及していた。やがて阿史那氏の突厥部は南のアルタイ山脈を越え、トルファン西北のボグダ山,天山山脈に移り住むと、その鍛鉄技術をもって急速に発展し、テュルク系諸族の中での最強部族となった[10]。
伝説

中国の史書にはいくつかの伝説が記載されている。

『周書』

「 突厥人は匈奴の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。別の部落を成した。後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。10歲の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は高昌国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。阿史那はその一つである。子孫は繁栄し、次第に数百家となった。数世代を経ると、各々洞窟を出て茹茹(柔然)に臣従した。彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工となる。金山の形が兜鍪に似ており、俗に兜鍪を突厥と言うため、それを号とした。或いは云う。突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。その部落大人(たいじん:部族長)は阿謗歩といい、兄弟が17人いた。阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ[11]。その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族を寒露から助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。訥都六には10人の妻がいて、全ての子は皆母方の一族の姓を名乗った、阿史那は愛妻の子である。訥都六設が死ぬと、10人の母は子の中から一人を選んで立てるべく、大樹の下に集り、木へ最も高く飛べた者を立てると誓った。阿史那の子は幼かったが最も高く跳んだので、諸子から長に推戴され、阿賢設と号した。 [12] 」

『隋書』

「 突厥の先祖は平涼の雑胡で[13]、姓は阿史那氏。後魏(北魏)の太武帝が沮渠氏を滅ぼしたため、阿史那は五百家をもって茹茹(柔然)に走り、代々金山に住んで鉄工に従事した。その金山の形状が兜鍪のようであり、俗に兜鍪を突厥と呼ぶため、突厥を号とした。或いは云う、その先祖は西海の北に国があったが、隣国に滅ぼされ、老若男女尽く殺された。一児のみは殺すのに忍びず、足の筋と腕を切断して大沢の中に棄てた。一頭の牝狼がいて、毎日そこで肉を与え、この男児に食べさせたので、死なずに済んだ。その後、男児は狼と交わりを遂げ、狼は身篭った。隣国の人間は再び人に命じて男児を殺させると、その側に雌狼が居た。派遣された者は殺そうとしたが、雌狼は神によって、忽然として海東へ至り、山上に止まった。その山は高昌の西北に在り、下ると洞穴があった。雌狼が中に入ると、方200余里の草の茂る平坦地に出た。その後、雌狼は10の男子を生み、その中の一姓が阿史那氏で、最も賢く、君長となった、故に牙門には狼頭の飾りを設け、本源を忘れていないことを示す。[14] 」
歴史

以下の記述はテュルクから見ると異民族の者たちが書いた『周書』・『隋書』・『旧唐書』・『新唐書』によるもの。
モンゴルの歴史
モンゴルの歴史
モンゴル高原
獫狁 葷粥 山戎
戎狄
月氏 匈奴 東胡
南匈奴
丁零 鮮卑
高車 柔然
鉄勒 突厥
東突厥
回鶻
黠戛斯 達靼 契丹
ナイマン ケレイト 大遼
(乃蛮) (客烈亦) モンゴル
モンゴル帝国
大元(嶺北行省)
北元・オイラト
大清(ハルハ)
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
勃興

訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。彼には2人の子がおり、長男は土門(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter Q.svg Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter M.svgOld Turkic letter O.svgOld Turkic letter B1.svg – Bumïn qaγan – ブミン・カガン)、次男は室點蜜(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter I.svgOld Turkic letter M.svgOld Turkic letter T2.svgOld Turkic letter S2.svgOld Turkic letter I.svg – Istemïi Qaγan – イステミ・カガン)といった。吐務が死ぬと土門が後を継いだ。5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、西魏や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。

西魏の大統12年(546年)、北の鉄勒が柔然を攻撃してきたため、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。土門はこれに乗じて柔然に求婚した。しかし、柔然可汗の阿那瓌(在位:520年 – 552年)は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。大統17年(551年)6月、土門は西魏の長楽公主を娶って妻とした。この年、西魏の文帝が崩御したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。廃帝元年(552年)1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那瓌の叔父である鄧叔子を立てて可汗とした。土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。

最盛期

北周・北斉・陳・後梁と突厥

伊利可汗が亡くなると、子の乙息記可汗(在位:552年 – 553年)が継いだが、まもなく亡くなったため、その弟である木汗可汗(ムカン・カガン、在位:553年 – 572年)が後を継いだ。木汗可汗は即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、柔然の残部は北斉に亡命した、北斉は突厥を征討した、突厥が敗れる。木汗可汗はさらに西の嚈噠(挹怛、エフタル)を破り、東の契丹を敗走させ、北の契骨(キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。これにより突厥の版図は、東が遼海(渤海?)以西、西が西海(アラル海)に至り、南は沙漠(ゴビ砂漠)以北、北は北海(バイカル湖)に至る大帝国となった。次に木汗可汗は西魏に鄧叔子の誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、鄧叔子を青門外で殺した。中国の北朝と好を結ぶようになり、互いに姻戚関係となる。初めは北周と北斉の両方から求婚されていたが、木汗可汗は北周を選び、保定3年(563年)から保定4年(564年)にかけての北斉討伐に参加した。この戦いでは何の成果も上がらなかったが、その後も突厥と北周の関係は良好であった。

しかし、次の他鉢可汗(在位:572年 – 581年)の時代になると、577年に滅んだ北斉の残党と組むようになり、たびたび北周の北辺を侵すようになった。北周は何度か突厥と交渉し、大象2年(580年)になってようやく北斉の残党である高紹義を連行することに成功した。
内戦と東西分裂

詳細は「突厥内戦(英語版)」を参照

581年、他鉢可汗が病死し、子の菴羅が即位したが、木汗可汗の子の大邏便が心服せず、制御できなかったので、大可汗位を爾伏可汗(ニワル・カガン)であった摂図に譲った。国人たちも「四可汗(乙息記可汗・木汗可汗・他鉢可汗・褥但可汗)の子の中では摂図が最も賢い」とし、摂図は正式に即位して沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)と号し、都斤山(鬱督軍山、ウテュケン山)を都とした。摂図(以後は沙鉢略可汗)は大邏便が今まで官位をもったことがないということだったので、阿波可汗(アパ・カガン)という称号を与えた。2月、北周の静帝が楊堅に禅譲し、隋が建国されると、北斉の営州刺史だった高保寧が北方民族と結託して反乱を起こしたので、沙鉢略可汗はこれと合流し、臨渝鎮を攻め落とした。その後も反乱軍は隋軍に勝利し、隋の北辺を侵した。

開皇2年(582年)冬、隋の文帝楊堅は河間王楊弘・上柱国の豆盧勣・竇栄定・左僕射の高熲・右僕射の虞慶則を元帥とし、長城を出て反撃に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗・貪汗可汗らを率いて迎撃するが、敗走し、飢えと疫病に悩まされ、あえなく撤退した。沙鉢略可汗は阿波可汗の気性が荒いのを危惧し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲撃し、阿波可汗の母を殺した。これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗(タルドゥ・カガン)のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが離反し、阿波可汗に附いた(これが西突厥となる)。

沙鉢略可汗は西の達頭可汗に悩まされ、東の契丹を畏れたので、隋に救援を求め、白道川内に移り住むことを許された。その後、沙鉢略可汗は晋王楊広より補給をもらい、これにより阿波可汗を攻撃して捕えることができた。

開皇7年(587年)1月、沙鉢略可汗は子を遣わして朝貢した。この年、沙鉢略可汗の牙帳が火事になったため、沙鉢略可汗は火傷を負った。その数カ月後、沙鉢略可汗は死去した。遺言により弟の処羅侯が立つが、甥の雍虞閭に譲ろうとして、両者譲り合いをした結果、結局遺言どおり、処羅侯が葉護可汗(ヤブグ・カガン)として即位し、雍虞閭は葉護(ヤブグ:大臣)となった。しかし、即位後まもなくの第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)で葉護可汗が流れ矢にあたって死去した。

国人たちは雍虞閭を立てて都藍可汗(在位:587年 – 599年)とした。都藍可汗は早速遣使を送って隋に朝貢した。開皇12年(592年)大義公主は西突厥の泥利可汗と謀反を起こしたので、都藍可汗は大義公主を斬首した。一方、都藍可汗は達頭可汗と敵対し、たびたび征伐し合ったので、文帝はこれを和解させ、双方は兵を引いた。
隋による離間策

開皇17年(597年)、沙鉢略可汗の子の染干は突利可汗と号して、勝手に隋と関係をもったことから、大可汗である都藍可汗は激怒し、隋と国交を断絶し、たびたび辺境を侵すようになった。開皇19年(599年)、隋は漢王の楊諒を元帥として都藍可汗を撃たせた。都藍可汗は達頭可汗と手を組んで、突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。突利可汗は長孫晟と隋に逃げ込んだ。6月、高熲・楊素は達頭可汗を撃ち、これを大破した。文帝は突利可汗を拝して意利珍豆啓民可汗(在位:587年 – 609年)とし、義成公主を娶らせた。なおも都藍可汗が啓民可汗を攻撃し、隋の辺境を侵すので、越国公楊素・行軍総管の韓僧寿・太平公史万歳・大将軍の姚辯の軍勢は都藍可汗を攻撃した。この年の12月、都藍可汗が部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗となって啓民可汗と対立した。しかし、隋と組んだ啓民可汗の方が常に優位となった。

仁寿元年(601年)、それまで啓民可汗に付属していた鉄勒の斛薛(こくせつ)部などの諸部が叛いたので、文帝は詔で楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いて北征させた。歩迦可汗はふたたび啓民可汗を攻めたが敗北し、吐谷渾に奔走した。

東突厥

7世紀初めの東西突厥可汗国。
詳細は「東突厥」を参照

啓民可汗の代では毎年数回は隋に朝貢していたが、子の始畢可汗(在位:609年 – 619年)の代になると、隋朝の衰えに乗じて中国に侵入するようになり、朝貢を行わなくなった。大業13年(617年)5月、唐公の李淵より援軍の要請があったため、始畢可汗は2千騎の援軍を派遣して隋朝打倒に協力し、その翌年(618年)、隋が滅んで唐が建国された。初め、始畢可汗は唐に使者を送って入朝させたが、武徳2年(619年)になって梁師都や劉武周とともに中国侵入を謀った。しかし、始畢可汗はその年に亡くなってしまう。

頡利可汗(在位:620年 – 630年)の代になると、東突厥は頻繁に中国へ侵入し、略奪を行った。唐はそのたびに東突厥を撃退するが、その勢いがおさまらず手を焼いていた。しかし、貞観元年(627年)の薛延陀部を始めとする鉄勒諸部が東突厥に叛いたことに始まって、東突厥に臣従していた諸民族が次々と離反すると、貞観3年(629年)、唐の太宗は大規模な東突厥討伐を行い、小可汗の突利可汗(テリス・カガン)らを投降させる。その翌年(630年)には大可汗の頡利可汗が捕えられ、東突厥は一時滅んで唐の羈縻支配下に入る。

永淳元年(682年)、阿史那骨咄禄がイルティリシュ・カガン(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter S2.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter T2.svgOld Turkic letter L2.svgOld Turkic letter I.svg – İltiriš-qaγan)と号して唐の羈縻支配を脱し、独立を果たす(突厥第二可汗国)。阿史那骨咄禄は武則天政権の唐にたびたび侵入・略奪を行い、中国を苦しめた。そんな中、唐朝は武則天の帝位簒奪によって一時的に滅ぼされ、周が建てられる(690年)。

ファイル:Kul Tigin.jpg
東突厥のキュル・テギン

阿史那骨咄禄が亡くなり、弟の阿史那默啜(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter P.svgOld Turkic letter Q.svg – Qapγan-qaγan – カプガン・カガン)の代になると、初めのうちは周朝に入朝したものの、次第に傲慢になり、遂には周朝を滅ぼして唐朝を復活させようと中国侵攻を謀った。これに対し武則天は唐の廬陵王を皇太子とすることで、東突厥の中国侵攻を思いとどまらせた。その後の神龍元年(705年)、武則天が廬陵王に譲位して唐は復活を果たす。晩年の阿史那默啜は西方攻略に忙殺され、鉄勒討伐中に戦死する。阿史那骨咄禄の子である默棘連は阿史那默啜の一族を殺して毘伽可汗(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter A.svgOld Turkic letter G2.svgOld Turkic letter L2.svgOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter B2.svg – Bilgä Qaγan – ビルゲ・カガン、在位:716年 – 734年)となり、闕特勤(古テュルク語: Old Turkic letter N2.svgOld Turkic letter G2.svgOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter T2.svg Old Turkic letter L2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter K.svg – Kül Tigin – キュル・テギン)や暾欲谷(英語版)(古テュルク語: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 – Tonyuquq – トニュクク(英語版)、阿史徳元珍)とともに、安定した国づくりを行い、唐とも友好的な外交を行った。

毘伽可汗の死後は東突厥内部で争いが頻発し、短命な可汗が交代するようになる。そして、この衰えに乗じた回紇(ウイグル)・葛邏禄(カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)の3部族によって東突厥の可汗が殺され、東突厥は滅んだ。

西突厥

詳細は「西突厥」を参照

西突厥は統葉護可汗(在位:619年頃 – 628年)のもとで最盛期を築いた。統葉護可汗の死後は内部分裂を繰り返し、2可汗並立の時代が続いた。太宗の崩御に乗じて阿史那賀魯が一時的に勢いを盛り返すが、高宗の討伐軍に敗れ、阿史那賀魯が捕えられると、西突厥も唐の羈縻支配下に入る。

羈縻政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった阿史那弥射・阿史那歩真の2人によって西突厥諸部が統括され、その両家が代々可汗位を襲名し、唐の反乱鎮圧などに参加した。

長寿年間(692年 – 694年)に弥射家の興昔亡可汗が途絶え、741年頃には、歩真家である十姓可汗の阿史那昕が突騎施(テュルギシュ)の莫賀達干(バガ・タルカン)に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。以後、突騎施部は黄姓と黒姓に分かれて互いに争うようになった。

大暦年間(766年 – 779年)の後は、葛邏禄(カルルク)族が盛んになり、黄姓と黒姓の突騎施二姓は葛邏禄に臣従し、その他は回鶻(ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。

文化・習俗

碑文(6世紀-8世紀ころ)に残されていたテュルクの姿、衣服

テュルク(突厥)は匈奴や柔然などと同様、遊牧民であるので、氊帳(穹廬)に住み、水草を追って移動し、牧畜と狩猟を生業とした。老人を賤しみ、壮健な者を貴び、戦で死ぬのを重きとし、病で死ぬのを恥とした。食事は肉を主食に酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、葡萄酒は作らず馬乳酒を作って飲む。可汗は金銀の食器と黄金の家具を使用。また、今までの遊牧国家同様、婚姻において、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟の妻となるレビラト婚の形式をとる。刑法は、謀反を起こした場合、殺人及び姦人の婦、馬を盗んだ場合は皆死罪となる。葬儀は死者をまず帳に留めて、近親の男女と羊馬を殺して帳前に陳列し、これを祭り、弔問者は7回顔に傷をつけて血と涙を流した後、死者を馬具や副葬品と一緒に火葬する。毎年諸貴人を率いて先祖が生まれたとされる洞窟を祭り、五月中旬には川の畔に人を集めて、多くの羊馬を殺して天神を祭った。鬼神を敬い、巫覡を信じた[15]。
突厥は、東は中国、西は東ローマ帝国・ペルシャと、中央アジアのシルクロードを利用して東西交易を活発に行い、さまざまな文化を取り入れた。

言語・文字

テュルク語とソグド語

テュルク(突厥)の言語はその名の通りテュルク語であったが、それは支配民族であるテュルク系の遊牧民のみが使用しており、可汗国全体の公用語としてはソグド語が使われていた。それは当時、ソグド人がシルクロード交易において優越的な立場にあり、中央アジアから中国に至るまでの地域でソグド語が広く使用されていたためである[16]。

突厥文字、ソグド文字、ブラーフミー文字
突厥文字の例

突厥は5世紀に突厥文字という独自の文字を持った民族である。そのことは1889年以後にモンゴル高原で発見された数々の突厥碑文によって世に知られることとなった。(東アジアにおいて漢民族以外で独自文字を持った中では比較的時期が早い)しかし、初めのうち(第一可汗国期)の公用語ではソグド文字やブラーフミー文字を使用していた[17]。

突厥碑文
『ビルゲ・カガン碑文』のレプリカ(アンカラのガズィ大学)。
詳細は「突厥碑文」を参照

突厥は北方遊牧騎馬民族としては極めて早い段階で文字記録を残した。それが「ホルホン碑文」などに代表される突厥碑文である。初めはソグド文字/ソグド語で記した碑文であったが、第二可汗国時代になって自分たちの文字(突厥文字)を用いて、自らの言語(テュルク語)を記すようになる。これによって当時のテュルク語による多くの民族名や地名を知ることができる[18]。

突厥(第一可汗国)時代の碑文

『ブグト碑文』…第4代の他鉢可汗(タトパル・カガン、在位:572年 - 581年)の時代に建てられたもの。ソグド文字/ソグド語(裏面はブラーフミー文字/サンスクリット語)で記された。

第二可汗国時代の碑文

『オンギン碑文』…突厥文字/テュルク語で記された。
『イフ・ホショト碑文』(キュリ・チョル碑文)…突厥文字/テュルク語で記された。
『チョイレン銘文』…突厥文字/テュルク語で記された。
『バイン・ツォクト碑文』(トニュクク(英語版)碑文)…突厥文字/テュルク語で記された(裏面は漢字/漢語)。
『ホショ・ツァイダム碑文』(ビルゲ・カガン碑文、キュル・テギン碑文)…突厥文字/テュルク語で記された(裏面は漢字/漢語)。

宗教

歴代の遊牧国家同様、突厥もシャーマニズムを信仰していた。しかし、他鉢可汗(タトパルカガン、在位:572年 – 581年)の時代に彼が仏教に帰依したということが中国史書、突厥碑文の両方に記されている。

経済

貨幣(679年以降)

戦争業と牧畜業を主として製鉄業や農業・手工業も行っており、突厥人は皆武芸を修練し戦争に参加したとある。多くの奴隷を抱える奴隷制社会でもあり、供給源は犯罪者・戦争捕虜・略奪による拉致などで、征服部族は奴隷的使役に就かされた。奴隷や隷属部族は農業や手工業のほか牧畜業や戦争にも使用されたが、苦役を課された隷属部族の反乱が絶えなかった。

政治体制

突厥の君主はカガン(Qaγan。中国語表記:可汗)と言い(柔然と同様であり)皇帝にあたる。皇后にあたるのはカガトゥン(Qaγatun。中国語表記:可賀敦)という。また、親族が名乗るテギン(Tägin。中国語表記:特勤)があり、その下には以下の順の官職がある。

(以下、この民族自身の原語を尊重し、異民族の言葉である中国語の表記は(ただの漢字音写。この場合、漢字に意味は無いので)後ろに添えるにとどめる)

ヤブグ(Yabγu、葉護)…可汗国の西部(タルドゥシュ:Tarduš)を統括する高官。阿史那氏の中から任命される。
シャド(Šad、設)…可汗国の東部(テリス:Tölis)を統括する高官。阿史那氏の中から任命される。東突厥の始畢可汗以降は小可汗の代わりとして機能した。
チュル(Čur、啜)
イルキン(Irkin、俟斤)…被支配部族の部族長(匐、ベグ:bäg)に与えられる称号。
イルテベル(Iltäbär、頡利発あるいは俟利発)…被支配部族でも有力部族の部族長ベグ(bäg、匐)に与えられる称号。
トゥドゥン(Tudun、吐屯)…中央から派遣され、被支配諸族の監視・徴税をおこなう官職[19]。
アパ(Apa、阿波)
タルカン(Tarqan、達干)
閻洪達
ブイルク(Buïruq、梅録)…官職の一つ。ミュラーによれば「指揮官」の意。護雅夫は「命令する」を意味する動詞buyurの名詞形で、もともと「命ずるもの」の意であるとした[20]。

などおよそ28の官職がある。これらの官職は代々世襲によって受け継がれ、父兄が死ぬと子弟が後を継いだ。また、権限の範囲がはっきりとせず、定員も無かったとされる。

首都はウテュケン山(Ütükän yïš、鬱督軍山)に置かれ、牙帳は東側を入口とし、日の出を敬った。

[21]
君主 カガン

大可汗…国家(イル:ël)の最高権力者であり、即位の際は国の有力者たちの協議によって、テュルクの中心氏族である阿史那氏の中から選ばれる。基本は父子相続だが、木汗可汗(在位:553年 - 572年)以降、兄弟相続の傾向にあり、協議の決定は先代の遺言や、母親の尊卑に左右される。

小可汗…大可汗によって選ばれ、基本的には東西に1人ずつ置かれる。

即位

可汗が即位するとき、その近侍重臣らは新たに即位する者をフェルトで担ぎ、太陽のまわる方向に9回まわし、1回ごとに臣下が拝礼する。拝礼し終わると、新可汗を馬に乗せ、絹の布切れで気絶寸前まで首を絞める。ゆるめたら「おまえは何年可汗になっていれるか?」と問う。新可汗は意識が乱れていて年数を明確に考えることができない。臣下らはその答えた年数で可汗の在位年を計るのである[22]。

歴代君主

突厥部

訥都六設(大児)…伊質泥師都の子
阿賢設…訥都六設の子
大葉護(吐務)…訥都六設の孫
伊利可汗(土門)…大葉護の長子

突厥可汗国

伊利可汗(イリグ・カガン、土門、ブミン・カガン)(552年 - 553年)…柔然から独立し突厥可汗国を開く。
乙息記可汗(科羅、逸可汗) (553年)…伊利可汗の子(『隋書』では弟)
木汗可汗(ムカン・カガン、俟斤、燕都)(553年 - 572年)…乙息記可汗の弟。柔然を滅ぼし、中央アジアのエフタルを攻略して最盛期を築く。
他鉢可汗(タトパル・カガン)(572年 - 581年)…木汗可汗の弟
阿史那菴羅(581年)…他鉢可汗の子
沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン、摂図)(581年 - 587年)…乙息記可汗の子
    阿波可汗(大邏便)(581年 - 587年)…木汗可汗の子
葉護可汗(ヤブグ・カガン、処羅侯)(587年)…摂図の弟
頡伽施多那都藍可汗(雍虞閭)(587年 - 599年)…摂図の子

東突厥

啓民可汗(染干)(587年 - 609年)…沙鉢略可汗の子、都藍可汗の弟
始畢可汗(咄吉世)(609年 - 619年)…啓民可汗の長男、隋に攻め入り朝貢を停止する。
処羅可汗(俟利弗設)(619年 - 620年)…啓民可汗の次男
頡利可汗(イリグ・カガン、咄苾)(620年 - 630年)…啓民可汗の三男、唐に降伏し、東突厥は一時滅ぶ。
    突利可汗(テリス・カガン、什鉢苾)(620年 - 631年)…始畢可汗の子

羈縻(きび)政策下

乙弥泥孰俟利苾可汗(思摩)(639年 - 644年)…頡利可汗の族人
乙注車鼻可汗(斛勃)(? - 650年)…突厥別部
阿史那泥孰匐(679年 - 680年)
阿史那伏念(680年 - 681年)…頡利可汗の従兄の子

突厥第二可汗国

阿史那骨咄禄(クトゥルグ、イルティリシュ・カガン)(682年 - 690年頃)…頡利可汗の疏属、唐から独立して東突厥を再興させる。
阿史那默啜(カプガン・カガン)(690年頃 - 716年殺)…骨咄禄の弟
毘伽可汗(ビルゲ・カガン、默棘連)(716年 - 734年殺)…骨咄禄の子
伊然可汗(イネル・カガン)(734年)…毘伽可汗の子
登利可汗(テングリ・カガン)(734年 - 741年殺)…伊然可汗の弟
骨咄葉護(クトゥ・ヤブグ)(741年 - 742年殺)
    頡跌伊施可汗(イルティリシュ・カガン)(742年 - 744年殺)…抜悉蜜部の長
烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)(742年頃 - 744年殺)…判闕特勤の子
白眉可汗(鶻隴匐)(744年 - 745年殺)…烏蘇米施可汗の弟

(745年、ウイグルによって東突厥滅ぶ)
西面可汗

室點密可汗(室点蜜、瑟帝米、イステミ、シルジブロス、ディザブロス)(562年 - 576年)…大葉護の子、伊利可汗の弟
達頭可汗(玷厥、歩迦可汗、タルドゥシュ・カガン)(576年 - 603年)…室点蜜の子

西突厥

阿波可汗(大邏便、アパ・カガン)(581年 - 587年)…木汗可汗の子
泥利可汗(ニリ・カガン)(587年) …鞅素特勤の子、木汗可汗の孫
泥撅処羅可汗(達漫、曷薩那可汗)(587年 - 611年)…泥利可汗の子
射匱可汗 (612年頃 - 619年)…達頭可汗の孫、泥撅処羅可汗の叔父
統葉護可汗 (トン・ヤブグ・カガン)(619年 - 628年)…射匱可汗の弟
莫賀咄侯屈利俟毗可汗 (628年 - 630年)…統葉護可汗の伯父
肆葉護可汗(咥力特勤)(628年 - 632年)…統葉護可汗の子
咄陸可汗(泥孰莫賀設、大渡可汗、奚利邲、テュルク・カガン)(632年 - 634年)…族人により擁立される
沙鉢羅咥利失可汗(同娥設、イシュバラ・テリシュ・カガン)(634年 - 639年)…咄陸可汗の弟
    乙毗咄陸可汗(欲谷設、イルビ・テュルク・カガン)(638年 - 653年)
乙屈利失乙毗可汗(莫賀咄乙毗可汗)(639年 - 640年)…沙鉢羅咥利失可汗の子
乙毗沙鉢羅葉護可汗(薄布特勤、畢賀咄葉護、イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)(640年 - 641年)…咥利失可汗の弟(伽那設)の子
乙毗射匱可汗(641年 - 651年)…莫賀咄乙毗可汗の子
沙鉢羅可汗(阿史那賀魯、イシュバラ・カガン)(651年 - 657年)…曳歩利設射匱特勤の子

羈縻(きび)政策下

弥射家 弩失華部 崑陵都護府下

興昔亡可汗(阿史那弥射)(657年 - 662年)…室點密可汗の五代の孫
興昔亡可汗(阿史那元慶)(685年 - 692年・693年)…弥射の子、左豹韜
阿史那献(657年 - 662年)…元慶の子

歩真家 咄陸部 濛池都護府下

継往絶可汗(阿史那歩真)(657年 - 666年・667年)…弥射の族兄
継往絶可汗(阿史那斛瑟羅、唐に従属後は竭忠事主可汗)(686年 - 690年)…歩真の子
十姓可汗(阿史那懐道)(704年 - ?)…斛瑟羅の子
十姓可汗(阿史那昕)(740年 - 742年)…懐道の子(阿史那氏断絶)

突騎施の政権

酋長(部族長)、可汗

烏質勒(懐徳郡王)(? - 706年)…斛瑟羅の配下(莫賀達干)
娑葛(金河郡王、十四姓可汗、帰化可汗)(706年 - 709年、可汗位:708年 - 709年)…烏質勒の子
蘇禄(忠順可汗)(709年 - 738年、可汗位:716年 - 738年)…娑葛の配下
    吐火仙可汗(骨啜)(可汗位:738年 - 739年)…蘇禄の子
    爾微特勒(可汗位:738年 - 739年)…黒姓可汗
莫賀達干(738年 - 744年、可汗位:740年 - 744年)
伊里底蜜施骨咄禄毘伽(十姓可汗)(突騎施可汗:742年 - ?、十姓可汗:744年 - ?)…黒姓出身
移撥(十姓可汗)(可汗位:749年 - ?)
登里伊羅蜜施(可汗位:753年 - ?)…黒姓可汗
阿多裴羅(可汗位:? - ?)…黒姓可汗

テュルク評議会

テュルク評議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF%E8%A9%95%E8%AD%B0%E4%BC%9A

『テュルク評議会(テュルクひょうぎかい、英語: Turkic Council、アゼルバイジャン語: Türk Şurası、カザフ語: Түркі кеңесі、キルギス語: Түрк кеңеш、トルコ語: Türk Keneşi、正式名称: テュルク語諸国協力評議会、英語: Cooperation Council of Turkic-Speaking States、略称:CCTS、トルコ語: Türk Dili Konuşan Ülkeler İşbirliği Konseyi)は、テュルク諸語を公用語とする国家により構成される国際組織である。

2021年11月12日の第8回首脳会議でテュルク諸国機構(テュルクしょこくきこう、英語: Organization of Turkic States、トルコ語: Türk Devletleri Teşkilatı)への改組を決定した[4]。 』

『歴史

1992年以降、テュルク語諸国家サミットがテュルク語諸国家の間で開催されていた。

2009年10月3日、このサミットに参加していた国の内4つがナヒチェヴァンで設立協定に合意した。

2019年5月24日、テュルク評議会の提唱者であるカザフスタンの元大統領ヌルスルタン・ナザルバエフを加盟国の満場一致で名誉総裁に選出した[5]。

2021年11月12日の第8回首脳会議ではトルクメニスタンがオブザーバーとして参加すると共に[6]、テュルク諸国機構への改組を決定した[7]。
メンバー
現在
国 人口( 2018 ) 面積(km 2 ) GDP(名目)2019 [8] 一人当たりGDP(名目)2019 [9]
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン 9,949,537 86,600 48 十億ドル 4,794ドル
カザフスタンの旗 カザフスタン 18,319,618 2,724,900 180 十億ドル 9,731ドル
キルギスの旗 キルギス 6,304,030 199,900 8.5 十億ドル 1,309ドル
トルコの旗 トルコ 82,340,088 783,562 754.5 十億ドル 9,042ドル
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン 32,476,244 447,400 58 十億ドル 1,725ドル
テュルク評議会 144,074,862 4,242,362 1049億ドル 8,966ドル
オブザーバー
国 人口( 2018 ) 面積(km 2 ) GDP(名目) 一人当たりGDP

(名目)(2019) [10]
 ハンガリー[11] 9,707,499 90,030 161 十億ドル 16,475ドル
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン[12] 5,850,901 491,210 40 十億ドル 6,966ドル
将来的にオブザーバーとなり得る
国 人口( 2018 ) 面積(km 2 ) GDP(名目) 一人当たりGDP

(名目)(2019) [13]
 ウクライナ[14] 44,246,156 603,628 161ドル 十億 3,659ドル

アフガニスタン・イスラム共和国の旗 アフガニスタン - 2021年5月にオブザーバーとして参加の意向を示すも、同年8月にターリバーンによって政府が瓦解した[15]。

組織

テュルク評議会は3つの本部を持つ。事務総局はトルコのイスタンブールに、テュルク語アカデミーは1992年に設立され、カザフスタンのヌルスルタンにある (以前はアルマトイにあったが、1997年の遷都に伴いアカデミーも新首都へと移転した) テュルク語国家議会はアゼルバイジャンのバクーに1998年に設立された。事務総局以外の二つの組織はテュルク評議会に組み入れられている。

テュルク評議会は以下の組織により構成されている。

事務総局 (イスタンブール)
    大統領評議会 (イスタンブール)
    外務大臣評議会 (イスタンブール)
    事務次官委員会 (イスタンブール)
    賢者委員会 (イスタンブール)
    議会(英語版) (TURKPA; バクー)
    テュルク語評議会アカデミー (ヌルスルタン)
    テュルク文化国際機関 (TÜRKSOY; アンカラ)

参加国の大統領は2年に1度、定められたテュルク語国家内の場所において首脳会合を行う。官僚や宗教学者による会合は定期的に行われる。』

チュルク(テュルク)諸国機構!?
https://syakaitteomosiroi.blogspot.com/2022/11/blog-post_12.html

トルコ、中央アジアで存在感 ロシアの影響力低下にらみ

トルコ、中央アジアで存在感 ロシアの影響力低下にらみ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR2403Q0U2A121C2000000/

『【イスタンブール=木寺もも子】トルコが言語・文化の近い中央アジア地域で存在感を高めている。同国が主導する「チュルク諸国機構」は地域機構として初めて11月中旬に開いたウズベキスタンでの首脳会議で、加盟国の共同事業の原資とする基金の設置や、貿易拡大に向けた手続きの簡素化などで合意した。

トルコを除く加盟4カ国(カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、アゼルバイジャン)はいずれも旧ソ連の一部だったが、ウクライナ侵攻後にロシアの影響力が低下している。

首脳会議で設立を決めた基金は「初の主要な共同金融機関」と定義された。規模は明らかにされていないが、物流網などの分野で主に中小企業を支援する。トルコのエルドアン大統領は域内の不法移民や難民対策を念頭に「共通の安全保障の概念づくりを目指したい」と述べ、機構の機能強化に意欲を示した。

首脳会議では、トルコだけが国家承認する「北キプロス・トルコ共和国」にオブザーバー資格を与えると決めた。

中央アジアにはソ連崩壊後もロシアが経済、軍事の両面で協力してきた。石油や天然ガスといった資源に恵まれ、食料生産も盛んなカザフのような国もある。だが、2月にウクライナ侵攻を始めたロシアはこの地域への対応がおろそかになった。

「力の空白」を埋めるように、広域経済圏構想「一帯一路」を掲げる中国が進出を強める。トルコもこの地域で利益を得ようとする。

チュルク諸国機構はかつて「チュルク評議会」という名称の緩やかな協力枠組みだったが、2021年の首脳会議で地域機構として再出発すると決めた。』

徴兵制度

徴兵制度
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E5%88%B6%E5%BA%A6#%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

 ※ 中国関係のみ、紹介する。

『中華人民共和国

義務兵と志願兵を並立させた制度を採用している。

中国人民解放軍は、選抜徴兵制の下で徴集兵・志願兵ともに定員が大きく削減されたが、貧困層にとって有力な就職先であり志願兵希望者が多い。

毎年、志願兵の定員以上の志願者が応募している。

一方で徴兵制度自体は廃止すると国防上弊害があるので徴兵制度も並立して存在している。

人民解放軍は、志願兵を主要としそれに少数の徴集兵が組合されている。

毎年採用される新兵の枠は志願兵(下士官)も徴集兵(義務兵)も両者ともに定員が決められている。

志願兵応募者や軍から奨励された者の中から選抜されて現役志願兵に採用される。これに漏れた者は徴兵制度に委ねられる。

本人の意思に係わらず、徴集年齢にある者は基本的に兵役機関に出向き、徴兵制度により徴集される際に、現役徴集兵となるか予備役兵となるかは、年齢・能力・適性により判断される。

軍からの徴集を受けず上限年齢の22歳又は24歳を過ぎた者も最終的に35歳までに民兵組織への参加することを義務付けられている。

なお現役徴収兵として満期に達したものでも個人の意思により新たに志願兵として軍務に就く道がひらけている。

中華人民共和国では、徴集兵と志願兵とでは身分が異なる。賃金体系、待遇、兵役期間、階級制度が大きく異なり、志願兵の方がより良い条件となっている。

中華人民共和国では、毎年の現役徴集の人数、基準と時期は、国務院と中央軍事委の命令で定められる。

各省、自治区、直轄市は、国務院と中央軍事委の徴兵命令に基づき、当該地域の徴兵業務を手配する。

平時の徴集は年1回行われる。兵役法によると、毎年12月31日までに満18歳に達した男子は徴集されて現役に服さなければならない。

徴集されなかった者は、22歳までは徴集可能とされる。必要に応じ、女子も徴集できる。
毎年12月31日までに満18歳に達する男子は、9月30日までに兵役登録をしなければならない。条件に適合する徴集対象公民は、県、自治県、市、市管轄の区の兵役機関の許可を経て、徴集されて現役に服する。

徴集すべき公民が一家の生計を維持する唯一の労働力か全日制学校に就学中の学生であるときは、徴集猶予できる。勾留されて捜査、起訴、裁判中か懲役、拘留、監視の判決を受けて服役中の公民は、徴集しない。

民兵は生産から離脱しない大衆武装組織で、中華人民共和国の武力の重要な一部で、中国人民解放軍の助手と予備力である。

民兵組織は普通民兵組織と基幹民兵組織に分かれる。

基幹民兵組織には民兵応急分隊、歩兵分隊、専門技術分隊及び専門分野分隊が設けられている。

現在[いつ?]、全国の基幹民兵は1000万に上る。

基幹民兵は18〜22歳の間に30〜40日の軍事訓練に参加し、うち専門技術兵の期間は必要に応じて延長される。

民兵の軍事訓練任務は中央軍事委の承認を受け、総参謀部が下部に伝える。民兵の軍事訓練は主に県クラス行政区内の民兵軍事訓練基地で集中的に行われ、一部の省、市には専門技術兵訓練センターや人民武装学校が設けられている。

民兵業務は、国務院、中央軍事委が指導する。

省軍区(衛戍区、警備区)、軍分区(警備区)及び県、自治県、市、市管轄の区の人民武装部は当該地域の民兵業務を担当する。

郷、民族郷、鎮、居住区の人民武装部は当該地域の民兵業務を担当する。

企業が国の関係規定に基づいて設置した人民武装部は、職場の民兵業務を担当する。人民武装部を設置していない企業は、専任者を決めて民兵業務処理にあたる。

大学、高校の国防教育は、教室での授業と軍事訓練を合わせることになっている。

大学生は男女を問わず、在学中に学内で行われる基礎的軍事訓練を受けなければならない。

全軍学生軍事訓練工作弁公室は教育省と共同で全国生徒学生軍事訓練計画を策定した。2003年は、大学1100校と高校1万1500校が生徒・学生の軍事訓練を実施し、800万人が訓練を受けた(出典:2004年中国の国防)。』

中華人民共和国兵役法

中華人民共和国兵役法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%85%B5%E5%BD%B9%E6%B3%95

『中華人民共和国兵役法(ちゅうかじんみんきょうわこくへいえきほう)は、兵役に関する中華人民共和国の法律。』

『概要

中華人民共和国の建国以前より兵役に関する暗黙ルールがあったが建国に伴い明文化の必要性に迫られめに建国後の1953年3月に中央軍事委員会兵役法委員会を設立し、明文化に着手した。1955年7月第一期全人代にて9章58条からなる兵役法を可決させた[1]。

この法により定期的徴兵・退役による軍の安定強化を保ち、民兵制度を整備し毛沢東用兵思想の一つである人海戦術戦を実施できる体制を整え持続した。

質の低い兵でも大量動員する事で戦術的優位を保つ「人海戦術」は、火器爆薬の進化、航空機・輸送船・車両の性能向上による兵站補給能力の向上などの技術の進歩によって陳腐化し、戦術的優位性を失っていく。

毛沢東から鄧小平に指導者が入れ替わった後の1979年中央軍事委から兵役法修正を提言。
80年8月兵役法修正指導 小組及び弁公室を設立し、修正に着手。

84年5月に第二版として12章65条からなる兵役法が全人代にて可決、同年10月に施行された。

義務兵役制から義務兵役制と志願制を併用し、民兵とそれまでの予備役制度を融合させた。

長らく中国軍事の基幹法として機能してきたが、1990年代に入りハイテク兵器時代に突入すると、兵役を規定した兵役法だけでは対応できなくなり、1997年国防法を成立させ国防の基幹法の地位を譲った。

兵役法自体も1998年ハイテク化を視野にいれ改正した。

この改正で徴兵期間を短縮し、人員を削減する[2]反面、削減した人員分の予算をハイテク化への予算に振り分けるなどそれまでの路線を大幅に切り替えたものである。

これらに連動する形で、人民解放軍現役士兵(下士官・兵)服役条例を改訂(1999年)、中央省庁も統廃合を行い「国家国防科技工業局」に集約設立するなどしつつも、国家動員法を成立させ有事の際の大量動員を担保した。

1998年12月29日改正の兵役法により、志願兵が優遇されるようになり、制度としては選抜徴兵制度は一応残ってはいるものの、貧困にあえぐ農村部を中心に志願者が必要人数枠を埋める応募があるため実質志願制に移行しつつある。

また、下士官を優遇するよう改訂するとともに、下士官階級を4階級から6階級に改め、やる気のあるものが昇進しやすくする構成でもって軍を活性化すると共に、軍の専門化を推し進めている。

条文
ウィキメディア・コモンズには、中華人民共和国兵役法に関連するメディアがあります。
[icon]
この節の加筆が望まれています。

脚注

^ 「中華人民共和国兵役法」が公布、施行された。 | 1955-07-30 | Time-AZ
^ 中国人民解放軍50万人兵力削減と軍近代化の動向

関連項目

国防法
国防動員法
国家国防動員委員会
国防教育法
徴兵制度(中国) 』

国防動員法(※ 中国の)

国防動員法(※ 中国の)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%8B%95%E5%93%A1%E6%B3%95

『国防動員法(こくぼうどういんほう、簡体字: 国防动员法)は、2010年から施行された中華人民共和国の法律。 』

『概要

1994年に設置された国家国防動員委員会によって2005年に提出され、2010年2月26日に開かれた中華人民共和国第十一届全国人民代表大会常務委員会第十三次会議で決定、2010年7月1日から施行された。

経緯

1994年の委員会設置から国防動員法の成立までの間に、新たな国防基本法となる国防法(1997)が施行され、同年人民防空法も施行、1998年には兵役法が改正され、2000年に現役将校法を修正した。また、2001年には国防教育法が新たに成立、2003年には中国人民解放軍政治工作条例を修正し他国への世論戦などを規定した。

2008年には行政部局を統廃合し国家国防科技工業局を設立し宇宙航空部門と国有企業の監督を集約させた。2009年は中国の特許法となる専利法を改正し、有事の際には登録された特許の無承諾での徴用が可能となっている。これらの法令群の一斉改正の言わば集大成として、国防動員法が制定された。なお、法案提出機関でもある国防動員委員会が、同法によって権限を規定され、具体的な動員令の実務調整に当たる。

内容

同法は主に以下の内容を含んでいる。

中国国内で有事が発生した際に、全国人民代表大会常務委員会の決定の下、動員令が発令される

国防義務の対象者は、18歳から60歳の男性と18歳から55歳の女性[1]

国務院、中央軍事委員会が動員工作を指導する

個人や組織が持つ物資や生産設備は必要に応じて徴用される

有事の際は、交通、金融、マスコミ、医療機関は必要に応じて政府や軍が管理する。また、中国国内に進出している外資系企業もその対象となる

国防の義務を履行せず、また拒否する者は、罰金または、刑事責任に問われることもある

関連項目

国防法
中華人民共和国国家情報法
国家国防動員委員会
国家辺海防委員会
少年軍事学校

参考文献

田代秀敏『中国「国防動員法」:その脅威と戦略と』明成社、2011年。
岡村志嘉子「海外法律情報 中国 国防動員法案の審議始まる」『ジュリスト』第1379号、2009年6月。
宮尾恵美「中国国防動員法の制定」 - ウェイバックマシン(2013年6月10日アーカイブ分)(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』第246号、2010年12月)

関連項目

在日中国人 - 外国(日本)に居住する中国人にも適用され、有事の際には命令を下される[2]。』

中国、予備役を迅速動員 待遇改善で人員確保へ新法草案

中国、予備役を迅速動員 待遇改善で人員確保へ新法草案
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM108SU0Q2A111C2000000/

『2022年11月28日 20:03

【北京=羽田野主】中国の習近平(シー・ジンピン)指導部は軍の予備役の待遇などを規定した「予備役人員法」の草案を公開した。国の動員令の発動後、予備役は一定時間内に指定地点に到達することを求め、違反した場合の罰則も盛った。法律で待遇を保障することも明記し、人員確保にもつなげる。

習氏は10月の共産党大会での活動報告に「国防動員と予備役部隊の建設を強める」と明記した。同時に台湾の統一について「武力使用の放棄を決して約束しない」とも述べ、武力統一も辞さない姿勢を強調した。

仮に台湾に侵攻する場合、中国は短期決戦を念頭に置いているとされるが、ロシアによるウクライナ侵攻のように長期化する可能性もある。今回の法案は仮に軍事作戦が長期化しても兵員不足に陥らないように予備役を充実させる狙いがあるとみられる。

法案は現行の「予備役軍官法」を衣替えした新法となり、軍の指導機関である中央軍事委員会がまとめた。10月下旬に開いた全国人民代表大会(全人代=国会に相当)常務委員会で初回の審議を終えた。11月29日までの意見公募を経て、さらに審議を重ねる。

予備役は「習近平の強軍思想」を徹底し、必要に応じていつでも戦争に参加し、祖国の防衛にあたるように定めた。共産党への忠誠も義務付けた。

法案は予備役を退役軍人や専門技術を持つ人材から選抜すると規定した。予備役には党の政治教育や軍事訓練などの参加を定めた。予備役の所属する会社や団体には、予備役が招集に応じたことで解雇したり昇進を遅らせたりすることを禁じた。

地方政府の関連部署は予備役の選抜や補充を巡る情報を軍に報告するように求めた。動員時には交通機関が予備役を優先的に輸送することも盛り込んだ。いずれも有事に迅速に予備役を動員することが狙いとみられる。

一方、給料や手当、医療面での優遇など待遇保障も盛った。予備役の待遇向上を法律でも後押しすることで、予備役を集めやすくする狙いだ。

中国では志願兵を中心に不足分を徴兵する仕組みをとるが、最近は高学歴の若者は公務員や民間企業に流れる。「一人っ子政策」をとってきた中国では親も万一の事態を恐れて子息を軍に入隊させたがらない傾向がある。

ウクライナに侵攻したロシアは9月、兵士不足を解消するために予備役を対象に30万人を追加動員した。これにより中国では予備役がさらに敬遠されるとの懸念が出ていた。』

〔資本主義というものに対する理解〕(再掲)

〔資本主義というものに対する理解〕(再掲)
https://http476386114.com/2020/07/07/%e7%bf%92%e8%bf%91%e5%b9%b3%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e9%a6%99%e6%b8%af%e5%9b%bd%e5%ae%b6%e5%ae%89%e5%85%a8%e7%b6%ad%e6%8c%81%e6%b3%95%e3%82%92%e6%80%a5%e3%81%84%e3%81%a0%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f/ 

『「資本主義」ということが言われているので、オレの理解を語っておく…。

 「資本主義」とは、「資本自由主義」ということで、「生産手段」「利益を産出するもの」である「資本」の、自由な活動を「国家として」「法秩序」として「認める」ものだと、考える。平たく言えば、「自由に利益を獲得すること」を認める、「獲得した利益を、自分のものにする(私有する)こと」を、国家として、法秩序として認めるという制度だ、と考える。

 その前提として、人間の生存・生活にとって、「私有財産(自分のものである財産)」は、必要欠くべからざるものだ…、という認識がある…。

 そのさらに前提として、そういう「私有財産」は、「人間としての尊厳」には、必要欠くべからざるものだ…、という認識が横たわっている、と考える。

 しかし、現実社会においては、こういう「自由」を制度として肯定すると、「格差」が拡大してしまう…。「自由競争」の名の下に、「利益を獲得していく」能力に差異がある以上、それに長けている者とそうでない者の差異が生じてしまうからだ…。

 その「弊害」「問題点」を鋭く抉り出したのが、カール・マルクスの「資本論」なんだろう(全部を読んではいない)…。

 「人間としての尊厳」に資するものだったはずの制度が、結局は「人間としての尊厳」を破壊してしまうことになるという、大矛盾だ…。

 さりとて、この「私有財産」を否定して、「共産革命」なるものを起こして、資本家・大地主を打倒し、彼らからその「私有財産」を実力で奪取したところで、次の問題が生じる…。

その「財産」を、どう「管理」していくのか、「誰が」管理していくのか、という問題だ…。

「国有財産」「公有財産」「共有財産」と呼称を変えたところで、「どのように・誰が管理していくのか」という問題は、消えて無くなるわけじゃない…。

 「財産」というものが、「人間の生存」にとって必要不可欠であるということは、消えて無くならないし、数が限られている以上、それの争奪戦、あるいは、「その管理権」の争奪戦は、消えて無くなるものじゃない…。

 人は、永遠にそういうことを、争っていく存在なんだろう…。』

〔「英米法」というものの話し…。〕(再掲)

〔「英米法」というものの話し…。〕(再掲)
https://http476386114.com/2021/01/11/%e3%80%94%e3%80%8c%e8%8b%b1%e7%b1%b3%e6%b3%95%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ae%e8%a9%b1%e3%81%97%e3%80%82%e3%80%95/

『 概要

英米法ないし英米法系とは、イングランド法やニューヨーク州法といった特定の法秩序ないし法体系に着目した概念ではなく、ヨーロッパ大陸諸国の法体系である大陸法系と対比した場合の、複数の国の法体系の共通性ないし類似性に着目して総称した類概念である。
ゲルマン法に由来する中世的慣習法として成立した判例法たるコモン・ローがイングランド法の基礎として発展したことから、イングランド法を基礎とする英米法を指して「コモン・ロー」(common law)とも呼ばれる。

英米法は、イギリスの支配下にあった地域の多くにおいて採用されており、アメリカ合衆国の法体系(アメリカに買収されるまではフランスやスペインが旧宗主国であった関係で大陸法の影響が強いルイジアナ州を除く)もその1つであることから、「英米法」(Anglo-American law)と呼ばれる。もっとも、アメリカ合衆国は比較的早期(18世紀後期)にイギリスから分離したため、他の英米法地域と比べて多くの独自性を有する。』

『 特色

大陸法系は、ローマ法・カノン法の全面的継受を受けたことから、私法の重要な部分が法律(特に法典)の条文によって規定されるのに対し、英米法系は、中世の英国において、ゲルマン法の一支流であるアングロ・サクソン法を背景として成立した慣習法であり、判例が第一次的法源とされ、司法的である点に基本的な相違点があるとされている。

そこから英米法系は、大陸法系と異なる次のような具体的な特色を有するものとされるが、それは、1066年のウィリアム征服王による封建制の確立から始まる英国の歴史に基づく極めて偶有性の高いものであり、英国法の歴史であるとともに、コモン・ローの歴史そのものでもある。詳細は、それぞれ英国法#英国法の歴史、コモン・ロー#歴史を参照。

大陸法系がローマ法・カノン法の継受による法の断絶を経験しているのに対し、英米法系はゲルマン的な中世慣習との歴史的継続性を有していることである。

英米法系は、マグナカルタのような中世の伝統との連続性のある法の支配を基本理念とするのに対し、大陸系の公法では、法の断絶によって法の支配が衰退し、法治主義がとられるようになったことである。

英米法系は、コモン・ローとエクイティからなる法の二元性をとるのに対し、大陸法系はそのような区別を知らないことである。

英米法系の裁判が中世からの伝統のある陪審制をとるのに対し、大陸法系では、法の断絶を経験したことによって陪審制は衰退し、素人が裁判官と一緒に審理に参加する参審制をとられるようになったことである。

英米法系の司法制度が法曹一元制をとるのに対し、大陸法系はキャリア裁判官によるキャリアシステムをとることである。

英米法系の法体系では、訴訟中心主義をとり、実体法は手続法の隙間からにじみ出てきたという性格が強いのに対し、大陸法系が実体法を中心とした理論的な体系となっていることである。

英米法系は、大陸法系における総則規定や抽象的な法律行為概念等の理論を嫌い、日常的な人間の経験を重視することである。

英米法系の私法は、中世の身分社会の影響から現実の社会の中の個人と全体との関係を重視する「関係理論」をとるのに対し、大陸法系が個人の意思から出発する「意思理論」をとることである。

英米法系の刑法は、中世の身分社会の影響から現実の社会の中の個人と全体との関係を重視し、社会に与えた客観的な結果や影響を問題にするのに対し、大陸法系が個人の意思から出発し、その行為の目的や反倫理性を問題とすることである。

英米法系は、犯罪も民事上の不法行為も共に国王の平和(King’s peace)に対する罪にあたるとされて、刑事法と民事法の区分が曖昧でむしろ公法を中心に発達したのに対し、大陸法では、公法と私法が理論上区別され、個人の対等な関係を基本とする私法を中心に発達してきたことである。』

中国、外国弁護士参加に反発 香港の司法に介入へ

中国、外国弁護士参加に反発 香港の司法に介入へ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM2841V0Y2A121C2000000/

『【香港=木原雄士】香港の李家超(ジョン・リー)行政長官は28日、中国に香港国家安全維持法(国安法)の解釈を要請すると表明した。国安法裁判に外国弁護士の参加を認めた香港終審法院(最高裁)の判断を見直す可能性が大きい。中国が国安法裁判に介入するのは初めて。香港の司法制度の独立性が一段と後退する。

終審法院は28日、2021年に廃刊した香港紙・蘋果日報(アップル・デイリー)創業者、黎智英(ジミー・ライ)氏の裁判で、英国弁護士ティモシー・オーウェン氏の参加を認める決定を下した。黎氏が「外国勢力との結託」を問われた事件で、司法当局や親中派はオーウェン氏の参加に反対していた。

李氏は中国の国会に相当する全国人民代表大会(全人代)常務委員会に外国弁護士参加の可否をめぐる法解釈を要請すると説明した。「香港には外国弁護士が利益相反を起こさずに守秘義務を守り、外国政府からの圧力に屈しないための有効な手段がない」と述べ、国安法裁判から外国弁護士を排除すべきだとの考えをにじませた。

香港は「一国二制度」のもと、コモンローと呼ばれる法体系を採用する。外国籍の裁判官が存在するほか、英国などコモンローの地域に拠点を置く外国弁護士も裁判所の許可があれば公判に参加できる。

司法当局は国安法がコモンローとは異なる法体系だと主張。親中派は外国人の参加によって「国家機密漏洩などの問題が生じる恐れがある」と訴えた。中国政府系メディアも黎氏を中国本土で裁判にかける可能性を示唆し、外国弁護士の参加を強くけん制していた。

李氏は28日の記者会見で「外国勢力との結託は海外で起きやすく、気づきにくい」などと主張。「外国は香港問題に干渉し続けている」と語り、外国弁護士の排除を正当化した。

中国は19年の大規模な民主化デモを受け、香港立法会(議会)を通さない異例の手法で国安法を制定した。同法の規定によれば、同法の解釈権は全人代常務委が持つ。ただ、終審法院の司法判断を簡単に覆せば、司法制度の信頼性に傷が付きかねない。

中国本土と異なる香港の司法制度は外資系企業を呼び込む際の重要な要素になっていた。トラブルが起きても、透明なプロセスで裁判が期待できるためだ。国安法のもとで中国が香港の司法制度に介入する懸念が現実になった。』

[FT]広がるゼロコロナ抗議、習氏の「無謬神話」試練に

[FT]広がるゼロコロナ抗議、習氏の「無謬神話」試練に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2920N0Z21C22A1000000/

『2011年、中国の国家副主席だった習近平(シー・ジンピン)氏は米国のバイデン副大統領(当時)との会談で、北アフリカと中東をかき乱す「アラブの春」が起きたのは、地域の指導者が自国民とのつながりを失ったためだと語った。

習近平国家主席の看板政策であるゼロコロナ政策に反発が強まっている=ロイター

それから10年あまりたち、習氏が中国共産党と軍のトップとして3期目を確保してから6週間足らずで、国家主席は中東の指導者の過ちを繰り返すかたちで、窮地に立たされている。

反対運動弾圧か、ゼロコロナ規制緩和か

習氏は政権の「ゼロコロナ」政策に対して週末に勃発した全国的な抗議活動を厳しく取り締まり、さらに大きな国民の反発を買うリスクを冒すのだろうか。あるいは折れて、新型コロナウィルス対策の規制を緩和するのか。そうすれば、この冬に数十万人、下手をすれば数百万人もの高齢者の命を奪う可能性のある「出口の(感染急増の)波」を放つことになりかねない。

習氏は頻繁に、存亡にかかわる重大な課題への対処に関して、中国の党主導政治システムが、米国など民主主義統治体制にあるライバル国と比較して、優位にあると豪語してきた。後者のシナリオが現実になると、そんな自負が吹き飛ぶことになる。

28日朝、地方の政府当局が市民からの圧力に屈する兆候が見られた。3年前にパンデミック(感染症大流行)が始まった中国中部の武漢市の住民2人がフィナンシャル・タイムズ(FT)に対し、集合住宅の封鎖措置が深夜に解除され始めたと語った。

「以前は感染者が皆無でも、リスクの高い地区を訪れた人が一人でもいると、集合住宅は閉鎖されていた」とある住民は話す。北京の一部地域でも、住宅地を封鎖しているフェンスが撤去され始めた。SNS(交流サイト)上では「ベルリンの壁」といったふざけた落書きがされた囲いの写真が出回っている。

習氏は12年、共産党内の演説で上級幹部に向かって、ベルリンの壁が崩壊した2年後にソ連共産党が崩れ去ったのは、立ち上がって党を救うだけの「男気がある」人物が1人もいなかったからだと語った。

このため多くの人は今、毛沢東以来最も強力な中国の指導者としての地位を築き、10月の第20回共産党大会ですでに弱っていたライバルも排除した習氏が、自身の成功の象徴である看板政策を戦わずして手放すことに懐疑的だ。

英ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)中国研究所のスティーブ・ツァン所長は「習氏は無謬(むびゅう)神話を維持する必要がある」と話す。「強権的な指導者や独裁者が挑戦を受ければ、通常は本能的に抑圧で応じる。習氏が例外だとは思えない」

27日、北京で新型コロナの規制に抗議して白い紙を持つ人々=ロイター

主要な国営メディアは先週末の抗議活動があったことを認めず、「人命を最優先する」ゼロコロナ政策を貫く共産党の決意が「揺らぐことはない」と主張した。

さまざまな抗議活動の首謀者とされ、「黒い手」と呼ばれる人物に対する厳しい扱いは、共産党の権威に対する直接的な挑戦への伝統的な対応と一貫している。また封鎖されていた集合住宅から週末に住民が解放されたという報道が1件あれば、警察が暴力的に対応したという報道が1件あるように見受けられる。

習氏は19年、香港の民主主義を要求する数百万人のデモ隊の抗議活動に直面した時、強硬な「香港国家安全維持法」で対応した。数十人の活動家が逮捕され、最終的には民主化運動を抑え込んだ。1989年に中国各地で学生が主導したデモや、10年後の宗教団体・法輪功によるデモなど、中国での同様の抗議はいずれも暴力的に封じ込められた。

集会で「退陣」を求める声も

一部の集会では、デモ隊が公然と習氏や共産党の「退陣」を求める声を上げたり、10月の党大会の直前に、たった1人の反体制派が国家主席の退陣を求める横断幕を高架橋に掲げて有名になった「橋の抗議」の文言を引用したりした。

SNS上では、習氏の亡父で毛沢東時代の共産党幹部だった習仲勲氏が国民の声に耳を傾ける必要性を説いた言葉を引用した投稿が、検閲による削除が追い付く間もなく拡散した。習氏をあからさまに醜く描いた絵も一気に拡散した。

経済面での苦境が怒りの火に油を注いでいる。シンガポール国立大学の中国専門家のランス・ゴア氏は「人々はあまりにも長く自宅に閉じ込められて、店を開けることもできず、借金を抱えている」と話す。

中国南西部の重慶市から広まった動画では、男性が雄弁かつ激しい言葉で、ニンジンの値段などについて語り、隣人の関心を引いている。後に、「重慶の超人」のニックネームがついたこの男性は、ニンジンの値段が4倍以上に値上がりしたなどと訴えている。

「自由はなく、あるのは貧困。これこそ我々が今日いるところだ」と言うと、観衆から拍手が湧く。その後、警察が男性を連行しようとすると、隣人たちが救い出した。

見失われた民意

「(中国の指導者は)『党大会の成功』に固執するあまり、度重なるロックダウン(都市封鎖)で人々がどれほど強い不満を抱えているか、民意を見失ってしまった」。韓国ソウルの延世大学で中国研究を専門とするジョン・デラリー教授はこう指摘する。

「次に何が起きたとしても、これは習氏のゼロコロナ政策に対する強烈な非難だ。街頭デモと大学構内での批判演説が発生するに至るとは、前代未聞だ」

だが、公然と習氏を批判する大衆が思い通りにゼロコロナの規制を崩すことに成功したとしても、それは中国の国家主席にとっての政治的な惨事であるだけでなく、公衆衛生上の災禍に発展する恐れがある。

在中国欧州連合(EU)商工会議所のイエルク・ブトケ会頭は「今、封鎖を解除すれば破滅的な事態になる」と予想する。

2020年1月にパンデミックが始まって以来、1度も中国を出ていないブトケ氏は、政府はむしろ「中国が来年往来を再開できるよう強力なワクチン接種対策」に取り組むべきだと訴える。

未獲得の自然免疫

中国はパンデミックの最初の2年間に感染の波を食い止めることに成功したが、それは国民がコロナに対する自然免疫を獲得していないことを意味する。高齢者の間でワクチン接種が進んでいないことが、問題を一段と悪化させる。

中国と米国の科学者らは最近、抑制策なしで変異型ウイルス「オミクロン型」の感染拡大が起きれば、集中治療室に対する需要が供給(収容能力)の15.6倍に達し、160万人近い死者が出ると推測する。

「彼らがコロナに対応してきた方法は完全に中央集権化されており、それも中央政府だけでなく習氏自身によって管理されている」とゴア氏は語る。

「地方政府による(ゼロコロナ政策緩和の)実験の余地が全くない。経済再開に向けて大きな問題になる」

By Tom Mitchell in Singapore and Edward White in Seoul

(2022年11月29日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.

【関連記事】

・中国ゼロコロナ、緩和策が市民に届かず 主要都市で抗議
・[FT]ゼロコロナ政策への怒り、中国を揺るがす抗議活動
・中国ゼロコロナに異例の抗議、北京・武漢など複数都市で
・中国のゼロコロナ抗議、上海や北京でも 経済低迷に不満

多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

吉田徹のアバター
吉田徹
同志社大学政策学部 教授
コメントメニュー

ひとこと解説

党大会を経て盤石の体制を敷いたかにみえた習近平だが、人々の生活の不満がここまで広がるとは想定外だっただろう。

一般的に、権威主義体制は政策の無謬性とその成果が正当性の最大の源泉なので、政策を変更する誘因が働かない。それゆえに、脆弱なシステムであるといえる。

他方で、中国の場合は「天命」、すなわち統治者は人民の要求を満たすことができなければその権利は行使できないという思想が広く行き渡っている。

経済の減速も加わり、権威主義の持つ正当性と「天命」の要請との間で生じるジレンマは、習近平体制にとってのアキレス腱になりかねない。

2022年11月29日 18:40

今村卓のアバター
今村卓
丸紅 執行役員 経済研究所長
コメントメニュー

分析・考察

経済発展と国民の安全という中国共産党の統治の正当性がトレードオフになりかねない事態に陥り、誰よりも習近平氏が最大の危機感を抱いていると思います。

反対運動は国民の経済発展の失速への懸念と強烈な不満の反映であり、弾圧で片付けられるとは習氏も思っていないでしょう。かといって規制を緩和すれば脆弱な医療体制の下で多数の死者が出て、国民の安全を保てません。

しかも習氏への権力集中を遂げたために、国民の不満も習氏に集中して向かいそうです。
西側の民主主義を効率の悪いシステムと評価していた習氏は今、効率的で強靭にできたと思っていた自身の統治体制の矛盾と脆弱さを認識し始めているのではと思います。

2022年11月29日 19:02 』

https://nkis.nikkei.com/pub_click/174/nwTJUWd6S-GBJIkHgS9Ub_5o1oapZbTu0J9aNSZ_McqtMFWSY1OAERP7WEPBWXTCeEcV0EL9KqW5QaFJSOyAOpS_2naRWd16Q3cjIfbaI9LOJxh89QEG-sZEI__6P2UsvZfbVhd13WBXH6mxUzNCKEfUJpJfRbGbHBjIFSVxkqVOMWC01zUgJjQhxUQbhUNgTRispwKYX-nz1MEvHKFdmOkl-5i2sWPjqWSQT95XYDUboptwcMVSL5W6MmPq2J0ZfHXEQXTb-6VWHtmWaONEW1egVLnpbDKXeS_8fqWLW8h-UiQFwlPhfFcv95HxpQztDOi5SEqkyAhJIEzxKJDwYf7OK9_VaoU4SaCg971ZDFvJeFTBzw8_xO-iM1YOE_GdB69ww7rEsIL0fpDaEOVzF2tJjcJY5hhlCbbXIbetEXgSVOGZnTmucDqGeGyUfaGhMIAT2tAl1Ds0fsVniN1J0LlLiPO7vHjKgHsVvzfFbFvtSEDwWhcrpH0Yf6Wf//117478/145693/https://school.nikkei.co.jp/special/lissn/?&n_cid=nbsx_ds_ban_non_non_2clsn_2

米艦船が南沙諸島で活動 中国軍が非難、米軍反論

米艦船が南沙諸島で活動 中国軍が非難、米軍反論
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB29CBY0Z21C22A1000000/

『【広州、ワシントン=共同】中国軍で南シナ海を管轄する南部戦区の報道官は29日、米海軍のイージス艦チャンセラーズビルが南沙(英語名スプラトリー)諸島の近隣海域に「中国政府の許可を得ず不法に入った」と非難する談話を発表した。米海軍第7艦隊(神奈川県横須賀市)は「合法的な海洋活動」と反論する声明を出した。

中国側の談話は「米軍の行為は中国の主権と安全を侵害している」と指摘し、中国軍が追跡監視活動を行ったとした。

第7艦隊は声明で、中国が南シナ海で過剰で違法な海洋権益を主張していると指摘。チャンセラーズビルは国際法に従って「航行の自由作戦」を実施したと主張した。』

カナダ大手銀、HSBCの事業買収 1.4兆円で

カナダ大手銀、HSBCの事業買収 1.4兆円で
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN29DF90Z21C22A1000000/

『【ニューヨーク=斉藤雄太】カナダ大手銀行のロイヤル・バンク・オブ・カナダ(RBC)は29日、英金融大手HSBCホールディングスのカナダの銀行事業を135億カナダドル(約1兆3800億円)で買収すると発表した。事業を運営する「HSBCカナダ」の全株式を現金で取得する。2023年後半までの買収完了をめざす。

HSBCカナダは個人や法人向けに商業銀行サービスを提供し、貿易金融や富裕層向け事業などに強みを持つ。9月末時点で1340億カナダドルの資産と約130の支店、4200人の常勤従業員を抱える。RBCのデーブ・マッケイ最高経営責任者(CEO)は声明で「我々が最もよく知る市場で事業の補完と顧客基盤を拡大する機会を得られる」と買収の意義を語った。

HSBCはカナダでの市場シェアの相対的な低さやてこ入れのための投資余力の乏しさを撤退の理由に挙げた。事業売却により中核的な自己資本比率の改善を見込むほか、余剰資本を配当や自社株買いで株主に還元することを検討する。』

米共和党候補「トランプ離れ」で混沌 24年大統領選

米共和党候補「トランプ離れ」で混沌 24年大統領選
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN290CN0Z21C22A1000000/

『米中間選挙で共和党が大勝を逸した「戦犯」となったトランプ前大統領。いち早く2024年次期大統領選へ出馬を表明したものの、求心力は陰った。共和党はこのまま「トランプ離れ」に向かうのか。党内予備選に候補が乱立すればトランプ氏は有利となるだけに、出直しは難路が続く。

「トランプ氏は間違っている。謝罪すべきだ」。ペンス前副大統領は28日、米ニュースネーションの番組に出演し、白人至上主義者ニック・フエンテス氏と会食したトランプ氏を非難した。アーカンソー州のハッチンソン知事も27日、米CNNに「過激派に力を与えてはいけない」と語った。2人は共和党から24年大統領選への出馬を模索する。

8日投開票の中間選挙で共和党は野党有利の経験則を生かせず、連邦議会下院の多数派を僅差で奪取したものの、上院の支配を握ることに失敗した。敗因は20年大統領選の敗北を否定し、勝利以外の選挙結果を拒む過激なトランプ主義への嫌悪感だ。

共和党の候補を決める予備選では強硬保守層が支持するトランプ系候補が強さを発揮した。逆に本選では穏健な保守層や無党派層が離れ、ネバダ、アリゾナ、ペンシルベニアなど上院選激戦州でトランプ系候補が敗北。ジョージア州は12月6日の決選投票にもつれ込んだ。

予兆はあった。「まだ2年ある。これから考える」(21歳の大学生)。中間選挙直前のペンシルベニア州。トランプ氏の支持者集会で24年大統領選の対応を尋ねて回ると「トランプ氏に投票するとは決めていない」と話す有権者が思いのほか目立った。

メディア王、ルパート・マードック氏傘下の米保守系メディアは「反トランプ」にカジを切る。ウォール・ストリート・ジャーナルはトランプ氏を「共和党の最大の敗者」と断じ、大衆紙ニューヨーク・ポストはトランプ氏が大統領選出馬を表明した翌16日、1面に「フロリダ男が発表、記事は26ページに」と1行だけ載せた。

「前を向く指導者が必要」(ポンペオ前国務長官)、「真剣に検討する」(ヘイリー元国連大使)。ペンス氏らに加え、トランプ政権時の主要メンバーも相次いで24年大統領選への出馬に意欲を示している。

最も勢いがあるのはフロリダ州のデサンティス知事だ。24年の対応を明言していないにもかかわらず、トランプ氏はあだ名を付けてこき下ろし、最強の敵として意識する。

米ハーバード大学政治研究センターなどの16~17日の調査によると、いま共和党予備選があればトランプ氏を支持するとの回答は46%、デサンティス氏は28%。10月の前回調査からトランプ氏は9ポイント低下し、デサンティス氏は11ポイント上昇した。トランプ氏の娘イバンカ氏は父の選挙戦に関与しないと明言した。

もっとも、トランプ氏を落ち目とみて党内予備選が乱戦になれば、トランプ氏が有利となる。いまも岩盤のようなトランプ信奉者を抱えるからだ。

米プロレス団体の殿堂入りもしているトランプ氏は大勢が一斉に戦うバトルロイヤルを好む。執拗な悪口で敵を攻撃し、信奉者もそれをショーのように楽しむ。デサンティス氏はまだその洗礼を浴びていない。「副大統領候補との連合の組み方で構図は一変する」(共和党関係者)ものの、予備選をトランプ氏が勝ち抜き、24年本選で再び共和党が勝ちを逃す悪夢再来のシナリオは消えない。

トランプ氏は白人至上主義者のフエンテス氏を「知らなかった」と釈明した。今世紀半ばに米国の人口の半数を割り込む白人層の「主流派からの転落への恐れ」を「保守」への支持に仕立て直すのがトランプ氏の選挙戦術だった。トランプ離れを探る共和党は、トランプ流に代わる保守結集の戦略をまだ描けていない。

(ワシントン支局長 大越匡洋)

【関連記事】

・米ジョージア州、上院決選投票まで1週間 議会運営左右
・トランプ氏元側近、相次ぎ離反 24年大統領選で不支持
・マスク氏、米大統領選挙でトランプ氏ライバルの支持表明

米中Round Trip https://regist.nikkei.com/ds/setup/briefing.do?me=B001&n_cid=DSREA_roundtrip 

米中間選挙2022 https://www.nikkei.com/special/us-election?n_cid=DSREA_2022usmidterm 

多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

渡部恒雄のアバター
渡部恒雄
笹川平和財団 上席研究員
コメントメニュー

ひとこと解説

トランプ前大統領が精細を欠いているとはいえ、2024年の大統領選挙に出馬表明したことは、大統領選挙を目指す多くの共和党の政治家にとって脅威だと認識されているはずです。トランプの岩盤支持層をどう取り込むのかというのが課題です。2016年のように、ライバルにニックネームをつけて、トランプ支持者とともにエンターテイメント感覚で、相手を徹底的にこき下ろす手法が知られている以上、ライバルたちがどのような対抗手段を取るのかが共和党の予備選の注目ポイントでしょう。もしトランプ大統領が予備選で勝ち残らなければ、バイデン大統領の存在意義も薄くなり、民主党も乱戦となる予兆があります。
2022年11月30日 8:39 』

https://nkis.nikkei.com/pub_click/174/DM79WPQfQuwfl2kW92BqhplHbw9YBJAT3nYsEoILVdGs3ME541dEcXodhTKICaHup1AGm_oTWhyQG1F3jYvdcAMIrqClcCHIaY3ApQx-xLZqI042C_AcX-zV6rVBwGxCo3nuAwBgGenDIpoov_3a-1jfJA4cdusbFfs2nrZ5s26x6V0oF7aZvMjj4jNdYrotLlTOmJkGsbkLuc6xN_rfmTW4gka-X9dpk67WjL19I9pSFU7jOyYDTM0z-InZD–eSaLiaNFAfzL7QIHhanrCTDX1V7CoXxzOj177W9smjugyZJMt2Uttxa06Zaq9LcT-xvE60nce_MYTLzRMFLXuPIKK1G1m_8bpBu-UrGyzI-RPnUwrlt5pxFkefWiwM7Ywn5gB5rchRZ-J7zmCTkmP9ozW0hyBtFru6ThUxJi9EQ3DDEjLSB0ZOBphzgEmrVEjcx4cZTH7wt9bVXK7x-rbhNSBPYLyP3TMJLEW-4vLaGzut68nv3Mf1IYdud//117478/145692/https://school.nikkei.co.jp/special/lissn/?&n_cid=nbsx_ds_ban_non_non_2clsn_1

バイデン氏、ウクライナ追加予算要請 共和「使途精査」

バイデン氏、ウクライナ追加予算要請 共和「使途精査」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN29E200Z21C22A1000000/

 ※ 中間選挙の「共和党の影響力増大」が、じんわり出てきた形だな…。

 ※ 「政争の具」にすることだけは、止めてもらいたい…。

『【ワシントン=坂口幸裕】バイデン米大統領は29日、ホワイトハウスで連邦議会上下両院の与野党指導者と会談した。年明けから野党・共和党が下院で多数派となるのをにらみ、年内にウクライナ支援や感染症対策などに充てる追加予算を承認するよう求めた。下院共和幹部は使途を精査する必要性を強調した。

米ホワイトハウスは15日、ウクライナ支援や新型コロナウイルス対策を柱とする計477億ドル(約6兆6000億円)の追加予算を議会に承認するよう要請した。ウクライナ向けに武器供与を中心に377億ドルを盛り込んだ。

バイデン氏は与党・民主党のシューマー上院院内総務とペロシ下院議長、共和のマコネル上院院内総務とマッカーシー下院院内総務を招き「クリスマスまでにどの法案を処理するか話し合うようお願いした」と表明した。ウクライナやコロナなどを挙げ「重要な問題への予算措置に協力してほしい」と語った。

8日の中間選挙で共和が4年ぶりに下院で過半数を奪還し、2023年1月からは民主が多数派を維持した上院と多数派が異なる「ねじれ議会」になる。共和からは対ウクライナへの支援縮小論が出ており、バイデン政権は議会の構成が変わって追加予算の計上が難しくなる前の承認を急ぐ。

マッカーシー氏はバイデン氏らと会談後、記者団にウクライナ支援について「白紙の小切手は切らない」と改めて表明した。これまで同支援を決めた際に野党から意見を聞く機会を設けなかったと指摘し「予算が正しく使われているか確認したい。(バイデン政権には)説明責任がある」と訴えた。

共和内で巨額支援の継続に慎重な意見が出るのは、物価高などで生活が厳しくなる米国内の不満を映す。新議会で下院議長に就く公算が大きいマッカーシー氏は下院で共和が主導権を握れば「状況は一変する」と警告した。

ホワイトハウスのジャンピエール大統領報道官は29日、バイデン氏と与野党指導者との会談後、記者団に共和との意見の違いを認めつつ「率直で生産的な話し合いができた」と強調した。「ウクライナに必要な支援を提供できるように、速やかに予算を可決するよう議会に求め続ける」と語った。

【関連記事】NATO、ウクライナへの支援拡充 軍事・非軍事両面で 』

ロシアが世界遺産委の議長国辞任 ユネスコ、任期途中で

ロシアが世界遺産委の議長国辞任 ユネスコ、任期途中で
https://www.47news.jp/world/8630486.html

『2022年11月29日 共同通信

国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で議長国を務めていたロシアが、任期途中で議長を辞任するとユネスコ側に通告したことが29日、分かった。

世界遺産の登録可否を審査する世界遺産委は、今年6月にロシアを議長国として同国中部のカザンで開催する予定だったが、ウクライナ侵攻を受け無期限中止となっていた。

 ロシアでの会合で、日本の世界遺産候補が審査される予定はなかった。政府は2024年以降の登録を目指し「佐渡島の金山」(新潟)の推薦手続きを進めている。

 武井俊輔外務副大臣が29日の衆院文部科学委員会で明らかにした。』

英、中国との「黄金時代」終了

英、中国との「黄金時代」終了 スナク首相、初の外交政策演説
https://www.47news.jp/world/8628231.html

『2022年11月29日 共同通信

【ロンドン共同】スナク英首相は28日、就任後初の外交政策に関する演説を行った。中国が自由や人権の尊重といった英国の価値観や利益に挑戦し、権威主義の強化に伴いその挑戦がより深刻になっていると批判。経済や気候変動対策などで連携が必要な一方、人権よりも「チャイナマネー」を重視した実利主義で中国に接近した「黄金時代」は終わったと述べた。

 中国の経済成長を背景に、英国はキャメロン元政権下で中国との経済関係強化を推進した。スナク氏は演説で「貿易が社会、政治改革につながるという考えは、もはやない」と指摘。中国に対し新たな外交アプローチを取る必要があると強調した。』

外国人労働者の死亡「400人」 カタールW杯組織委局長

外国人労働者の死亡「400人」 カタールW杯組織委局長
https://www.47news.jp/world/8631093.html

『【ドーハ共同】サッカー・ワールドカップ(W杯)カタール大会組織委員会のサワディ事務局長は29日までに、W杯開催に向けた国内の全ての事業で死亡した外国人労働者らは、推定400~500人だと英テレビ局のインタビューで語った。

 競技場建設など、W杯に直接関連する事業に携わってカタールに滞在していた外国人労働者の死者は計40人で、うち37人の死亡は仕事とは関係がないとした。

 英ガーディアン紙は昨年、カタールが開催権を獲得した2010年からの10年間で、労働者6500人以上が死亡したと報道。欧米の人権団体などがカタールへの批判を強めている。』

来年3月に第2回民主サミット ウクライナ情勢、気候変動で結束へ

来年3月に第2回民主サミット ウクライナ情勢、気候変動で結束へ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022113000251&g=int

『【ワシントン時事】米国、コスタリカ、オランダ、韓国、ザンビアは29日共同声明を出し、第2回「民主主義サミット」を2023年3月29、30両日にオンライン形式で開催すると発表した。ロシアによるウクライナ侵攻や気候変動、技術革新など差し迫った課題に対応するため、民主主義国の結束を誇示する。

 各国首脳らの全体会合が開かれた後、それぞれの国で政府や市民社会の代表者らが集って民主主義の活性化などについて意見交換する。参加国は明らかになっていない。 』