追い込まれるミャンマー軍政、独裁者が秘める野心と保身
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK210HE0R20C24A4000000/
『ミャンマーの1年で最も暑い4月中旬は、旧正月(ティンジャン)を祝う水掛けが風物詩だ。そんなお祭りムードに文字通り水を差したのが、新年を迎えるのを待たずに始まった徴兵である。
国軍は8日、新たな徴兵制に基づき各地で実施した軍事訓練について「参加者全員が志願兵だった」と強調した。真偽はさておき、今後の徴兵を逃れようと国外脱出を図る若者は後を絶たない。2021年2月1日のクーデター以降、軍事政権の圧政…
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『2021年2月1日のクーデター以降、軍事政権の圧政に耐えつつ日常生活を営んできたミャンマー社会に動揺が広がっている。
軍政は2月10日に突如として「国民兵役法」を施行した。旧軍政末期の10年に制定したものの、その後の民政移管で棚上げにされていた。当面の対象は18〜35歳の一般男性。同国内に600万人強おり、毎月5千人、年6万人規模を招集するという。
施行の引き金は強権支配の綻びだ。23年10月以降、少数民族や民主派の反軍勢力に地方拠点を次々と奪われ、国軍の本拠である首都ネピドーでも軍幹部を狙ったドローン攻撃が相次ぐ。兵士の士気は低下し、投降や逃亡が続出している。
ミャンマー国軍の通常兵力は35万人規模とされてきた。米国平和研究所のイェミョーヘイン客員研究員によれば、実際は政変の起きた21年初めの段階でも約15万人、23年末には13万人以下に減少したという。目減りした職業軍人を素人で補うつもりなら、相当な弥縫(びほう)策といえる。
クーデターから3年がすぎても、国軍に対する市民の憎しみが薄れることはない(24年2月1日、バンコクの国連事務所前)=ロイター
「いや、戦力にしようとは国軍も思っていないだろう」と政策研究大学院大の工藤年博教授は言う。国軍内にはただでさえ「スイカ兵士」と呼ばれる存在がいる。着ているのは緑色の迷彩服だが、中身は赤をシンボルカラーとするアウンサンスーチー氏の国民民主連盟(NLD)の支持者、という意味だ。徴兵した若者もそうなる可能性が高い。工藤氏は「後ろから撃たれるかもしれず、危なくて武器を持たせられない。徴兵制は一般市民に国防の重要性や愛国心をたたき込むのが狙いではないか」とみる。
3月27日の国軍記念日に演説したミンアウンフライン総司令官は「徴兵制は国家の平和と安定のために必要だ」と強調した。平和と安定を脅かしている元凶は、スーチー氏の文民政権を力ずくで倒し、人権団体の集計でこれまで4900人もの市民を殺害してきた司令官自身のはずだ。独善的で倒錯した考えに、彼を駆り立てるものは何か。
ミンアウンフライン氏は公務員の息子として南部で生まれた。ヤンゴン芸術工科大で法律を学んでいた1970年代初め、周囲では民主化運動が起きていたが、参加しなかった。国軍士官学校を志願し、3度目の正直で74年にようやく入学を許された。
士官候補としては平凡な存在だったようだが、堅実に昇進を果たす。2007年の僧侶中心の反軍政デモ「サフラン革命」の鎮圧や、08年の東部シャン州の少数民族勢力の掃討で武功をあげ、11年の民政移管時に総司令官に上り詰めた。
頻繁に外遊に出かけ、SNSを使って積極的に情報発信するさまは「開明的」との評を得た。ところが17年のイスラム系少数民族ロヒンギャの迫害問題で強硬派の顔をのぞかせる。スーチー氏との関係も冷え込んだ。20年11月の総選挙で国軍系政党がNLDに惨敗すると、選挙不正があったとスーチー氏を糾弾し、強権発動に踏み切った。
現在は在任14年目の国軍総司令官と、軍政をつかさどる「国家行政評議会」の議長を兼ねる。同様な絶対権力者は、ミャンマー現代史で過去に2人いた。
1人は英植民地からの独立後の文民政権を1962年のクーデターで転覆し、26年間も軍政を敷いたネウィン将軍だ。スーチー氏の父・アウンサン将軍が独立運動のため率いた「30人の志士」の一員で、ある種のカリスマ性をまとって個人独裁を貫いた。
もう1人はそのネウィン政権を88年の「自家クーデター」で引きずり下ろし、看板を掛け替えた軍政を92年以降、20年間にわたり率いたタンシュエ上級大将である。地方の郵便局員から国軍に入り、野戦将校として地道に昇進を重ね、ついには総司令官と国家元首を兼ねた。個人独裁のネウィンと違い、組織としての軍部独裁の頂点に君臨したという意味で、いまのミンアウンフライン氏も同じタイプの独裁者といえる。
ネウィン㊧は26年、タンシュエ氏は20年も最高権力者の地位を保持した
タンシュエ氏が熱心に推し進めたのは、軍の経済利権の確立だった。ミャンマー・エコノミック・ホールディングス(UMEHL)、ミャンマー・エコノミック・コーポレーション(MEC)という2つの国軍系企業グループを設立し、経済成長の果実が軍と将兵に還流する仕組みを整備した。
それが軌道に乗ったところで着手したのが民政移管だ。「軍政は国民のためによくない」。日本財団の笹川陽平会長は2003年5月、森喜朗元首相をタンシュエ氏に引き合わせた際、独裁者が問わず語りに漏らしたひと言が印象に残るという。「言行不一致ではないか」といぶかったが、軍政が憲法起草や総選挙の実施といった「民主化への7段階のロードマップ」を公表したのは直後の8月だった。
08年に14万人の犠牲者が出た「サイクロン・ナルギス」の被災のさなか、国民投票を強行して採択した憲法は、国会議員の4分の1を非民選の軍人議員枠と規定した。4分の3超の賛成が必要な改憲を封じ、国軍の政治関与を恒久化するためだった。そして3度目の自宅軟禁中だったスーチー氏とNLDを排除して10年に総選挙を実施し、軍政の受け皿政党の圧勝を演出した。
軍政首相からの横滑りだったものの、テインセイン元大統領㊨は国民の信望を集めた(14年、東アジア首脳会議で当時のオバマ米大統領と)=ロイター
当初はタンシュエ氏自身が大統領に就任するとの観測が強かったが、蓋を開ければその座は軍政ナンバー4の首相だったテインセイン氏に、国軍司令官も3軍統合参謀長だったミンアウンフライン氏に禅譲し、表舞台から姿を消した。
あっけないほど潔い引退劇は、当時すでに77歳という高齢が一番の理由だったか。あるいは民政移管を果たせば、引退後の自身や一族の身の安全が保証され、また経済成長も誘発して自分の懐具合がさらによくなるとの計算も働いたはずだ。
まだ大統領就任の観測が取り沙汰されていたころ、タンシュエ氏の描く国家像についてミャンマー人の識者に尋ねたことがある。「あいつの頭にあるのは利権だけだ」との答えが返ってきた。ただ、たとえ独裁者の晩年の保身のためであったとしても、彼が道筋をつけた民政移管がその後のテインセイン政権の民主化・経済改革を呼び込み、ミャンマーを「アジア最後の経済フロンティア」に押し上げたのは確かだ。
クーデターでそれを台無しにしたミンアウンフライン氏の思惑は何だったのか。「自分が大統領になりたかったから」という見方を、政変当時、NLDに所属していたティンウィン岐阜女子大南アジア研究センター特別研究員の証言が裏付ける。
政変直前、総司令官はスーチー氏と2度話し、自分を大統領に据えるよう迫った。スーチー氏の返答は「副大統領なら別に構わない」だった。失望した総司令官は大統領選出のための国会招集の当日、スーチー氏の身柄を拘束し、力ずくで全権を奪った。
「ミンアウンフラインが切望したのは文民大統領。国民に恐れられたネウィンやタンシュエではなく、敬愛されたテインセインになりたかった」。ティンウィン氏は「そんな理想と、国民に嫌われる現実の落差を、彼は受け入れられない」と分析する。
ミャンマー国軍は反軍勢力との辺境地での戦いで劣勢が伝えられている(21年3月の国軍記念日パレード)=ロイター
振り返れば、ミンアウンフライン氏は政変後初のテレビ演説で「いまの統治体制は過去の軍政とは性質が異なる」と言い切った。あの発言は、自分はネウィンやタンシュエ氏のような圧政者ではない、という意味だったのか。だがその後の武力弾圧の残忍さは先人たちと大差がない。あえて違いを挙げるなら、反軍勢力に押し込まれ、局地的とはいえかつてない軍事的苦境に立たされていることだろうか。
望まなかったタンシュエ氏のような存在に、結局はなってしまったミンアウンフライン氏。政情悪化にもかかわらず、いまも「自由で公正な再選挙の実施」に固執するのは、なお「文民大統領」への野心を捨てていない証左か。それとも引退後の保身をにらんだ布石か。7月で68歳になる独裁者の胸中を推し量るのは難しい。
=随時掲載
高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。上級論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』