アフリカ史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8F%B2
※ ざっと読んだだけだが、「水系」を中心に、「地理的条件」を解析していくという視点は、目新しかった…。
※ 大きく分けて、「ナイル川水界」「ニジェール川水界」「コンゴ川水界」と3つある。
※ 「愛が無くても、人は生きられるが、水が無くては、生きられる人はいない…。」 ということ(civ6より)だからな…。
※ ここでは、「ニジェール川水界」を中心に、紹介する。
『西アフリカ史
ニジェール川水界
ニジェール川
ノク文化の土偶
ノク文化の溶鉱炉
ベニン王国の象牙製仮面
ニジェール川はギニアにある山地から流れ出てニジェール盆地で大きく湾曲してギニア湾へ注ぐ。
金の産地があり、肥沃な大地は古くから遠距離交易が行われ、巨大な王国が勃興した地域となった。
この地域では紀元前3000年から2000年の間に植物の栽培が行われるようになったと見られており、ヤムイモやアブラヤシ、コーヒーなどが作られていた。
それらの栽培や農業の生産が開始されることによって住民の定住が可能となった[注釈 17]。
紀元前5世紀から2世紀にかけて、ナイジェリアの中央部にあるジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。
タルガ(Taruga)とサムン・ドゥキヤ(Sumun Dukiya)の調査で、ノク時代のものである居住層が確認され、放射性炭素年代測定によって年代が確定した。
ノク文化の集落遺跡は、山頂のような場所で確認されることが多く、地表面のあちらこちらに長さ数百m以上に及ぶ花崗岩などを用いた集落を防御するための囲壁と思われる遺構が確認されている。このような遺構はノク文化においてすでに大規模な協同作業が行われていたことを示している。
また、タルガやサムン・ドゥキヤのノク文化の居住層からは、土偶や土器のほかにノク人が鉄の生産を行っていたことを示す溶鉱炉跡の遺構が検出された。
炉は、農具や矢と槍先に着ける刃物、尖頭器、腕輪も製作していたと思われる。
このことは、農作業によって必須となる鉄製道具を製作する職人たちが力を持つようになったことを示し、ノク文化の諸遺跡のほかには、ニジェールのド・デミなどで鉄の利用が確認されている。
少なくとも紀元前5世紀には西アフリカでは鉄製道具を使用していたことがわかっており、アフリカ全体でも鉄生産が始まった他地域と並行するか最古の時期に属することが判明している。
また、ノクのテラコッタは、後のイフェやベニンの青銅彫刻、イフェに並行してナイジェリア国内のギニア湾岸に興ったエシエの石彫、中南部アフリカのバンツー文化の彫刻にまで影響を与えたと考えられ、考古学や美術史で注目されている。
9世紀頃になると、ナイジェリア南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥにおいて青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた。
10世紀〜15世紀頃には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーンの塑像で知られるエシエ文化が栄えた。
密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。
チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。
この王家は19世紀まで続いた。
この地域における最古の王国とされるのが8世紀のアラビアの史料に既にその存在が記されているガーナ王国で、地理学者アル・ヤクービーによって「ガーナという黄金の国の王は強力で、彼の権力の元に多くの王が属している」と述べている。
ガーナ王国の首都はモーリタニアとマリの国境付近と考えられており、そのクンビ=サレー(英語版)遺跡の規模からは1万人から2万人の住民が居住していたと思われる。
ガーナ王国は交易を通してイスラム教の影響を強く受けるようになり、11世紀末にはほぼ王国全土に浸透したとされる。
13世紀中盤に入るとマリ王国がマンディンカ族によって作られた。
こちらも早い段階からイスラム教を受け入れており、伝統的に王はアル・ムスルマーニと呼称されていた。
1353年にこの地を訪れたイブン・バットゥータはマリ王国の様子について「王は絹布がしかれ、黄金の鳥が象られた日除けが設置された宮殿の中庭で謁見する。王の後には300人の武装した奴隷達が傅き、玉座に着くと太鼓や角笛が鳴り響く」などと記述されている。
マリ王国は16世紀末にトゥアレグなどの北方民族の侵略を受け、17世紀ごろには滅亡していった。
ソンガイ王国は、ニジェール川東岸に漁猟や牧畜などで生計をたてていたソンガイ族が11世紀後半に建国したもので、長らくマリ王国の支配下にあった。
15世紀前半のスンニ・マダウの時代にマリ帝国の首都ニアニを攻撃して大勝利をおさめ、24の奴隷部族を奪った。
1464年にソンニ・アリ(スンニ・アリー)の治世と次代のアスキア・ムハンマド1世の治世に一気に勢力を拡大させ、西スーダンのほぼ全域を支配する空前の版図を築いた。
その都市のひとつトンブクトゥーには北アフリカから多くの宗教指導者や学者が招かれ、学問の都市として名が知られるようになっている。
しかし、16世紀にはいって岩塩鉱山の採掘権を巡りモロッコとの紛争が長引いて、16世紀末、王位継承争いで国土があれはて、鉄砲隊をもつ精強なモロッコ軍に直接攻撃を受けて滅亡した。
これらの3国はその版図の広さから、しばしば「帝国」と冠され、呼称される場合もある。
ニジェール川中流域では、10世紀ごろから城壁に囲まれた都市を中心とした小国家が複数成立し、ハウサ諸王国と呼ばれた。
初期はそれぞれソンガイ王国の支配下にあったが、ソンガイ王国滅亡後はそれぞれが独自に活動をはじめることになる。
一方、14世紀にナイジェリア南部に興ったベニン王国は、交易のみならず、15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化し、18世紀になるまで繁栄を誇った。
イフェの彫刻とともに青銅製や象牙製の彫刻の雄品で知られ、後にヨーロッパに紹介されると、20世紀美術に多大な影響を与えることになり、美術史上も非常に注目されている地域である。』