J.K.ローリング『ハリー・ポッター』シリーズにおける死生観
一騎士道的価値観にみるハリーの「死」ー
130206川村茉由
http://katozemi.yokohama/wp-content/uploads/2017/02/67%EF%BD%9E105%E9%A0%81.pdf
※ 今日は、こんな所で…。
※ 『二つ 二つ の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。』…。
※ 『別に子細なし。』…。
※ しかし、『ヴォルデモートを完全に倒すには分霊箱をすべて破壊することが必要不可欠であり、つまりハリーは、分霊箱である自分が生き残るべき存在ではないということに気づく』…。
※ ここら辺は、DVDを視ているだけでは、分からんかったな…。
※ さらに、「エクスカリバー」は、アーサー王の差料(さしりょう)だったのか…。
※ 『第2次世界大戦で日本軍が行っていた、航空機ごと敵艦に追突するカミカゼ特攻 隊も、自爆テロの一種とみなすことができるかもしれない。』…。
※ こいつ、何言ってんだ…。
いつ、カミカゼ特攻が「民間人」を標的にした…。
察するに、「サムライ」「いくさにん」の子孫じゃ無いな…。
※ 『二つ 二つ の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。』…。
※ 『別に子細なし。』…。
※ 『図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武道なるべし。』…。
※ 『毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。』…。
※ 『毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時』ということが、できるのかどうなのかというだけの話しだ…。
『序章
J.K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズといえば、2001年から公開されたワーナ
ーブラザーズによる映画化作品が記憶に新しい。
映画最終作である2011年のディビッド・
イエーツ監督による『ハリー ・ポッターと死の秘宝PART2』は、全世界第8位の歴代興行
収入を記録する大ヒット作品となった。本論文で扱うJ.K・ローリングによる原作小説は、全7巻で構成され、1997年から10年間にわたってロンドンのブルームズベリー社から出
版された。ストーリーは、悪の魔法使いヴォルデモートによって両親を殺され、意地悪な叔母一家に育てられた孤児の少年ハリー・ポッターが、自分が魔法使いであることを知るところから始まる。
そしてホグワーツ魔法魔術学校に入学したハリーは、仲間たちととも
に宿敵ヴォルデモートに立ち向かっていく。
作者のJ.K・ ロ ーリングは、1965年にイギリス、グロスタシャー州のチッピング・ソドベリーに生まれた女性作家である。エクセター大学に進学して古典とフランス語を学んだ彼女は卒業後、ロンドンに拠点を置く人権擁護団体であるアムネスティ・インターナショナルなどでの仕事を経て、ポルトガルで英語教師の職を得る。
現地の男性と結婚した彼女は長女ジェシカを出産するが、すぐに離婚する。
イギリスに帰国した彼女が赤ん坊を連れて
生活保護を受けるほどの貧窮の中執筆した処女作が、シリーズ第1作目『ハリー・ポッターと賢者の石』であった。
『ハリー ・ポッター』シリーズの主軸は、やはりハリーと宿敵ヴォルテモートの戦いである。
その勝敗に強く影響を与えたのが、登場人物たちの死生観であると考える。
本シリー
ズには、全7巻を通していたるところに「死」というキーワードがちりばめられているよ
うに思われる。
両親の「死」という犠牲の上で生きる運命を背負わされる主人公ハリー、「死」
を恐れそれに抗ううちに人間らしさを失っていった宿敵ヴォルデモートというように登場人物たちはそれぞれに「死」に直面し、最終的には「死」とどう向き合って生きるかという点がハリーとヴォルデモートの明暗を分けたと言っても過言ではない。
「死」とは何か、
「生」とは何かという問題が本作品の中で最も重要なテーマとして提示されているのである。
それでは、本シリーズの中でよしとされる死生観、つまり「死」との向き合い方、「生」との向き合い方とは、いったいどのようなものであるのだろうか。
『ハリー・ポッター』シリーズを通して美徳として挙げられるのが勇気、自己犠牲、慈悲の心、弱者への気遣いなどであり、これらは騎士道の行動規範に通じるものである。
また、
それにふさわしい者だけが手にすることができる剣や騎士団という騎士道的なモチーフが
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物語の鍵を握っていることからも、作品と騎士道精神のつながりを否定することはできない。
本論文のテーマとなる死生観についても、そのつながりは確かなものであるといえる
だろう。
忠誠を誓ったものや守りたいもののために戦い、そのために「死」を受け入れる
騎士たちの姿勢は、『ハリー・ポッター』シリーズの中にも見受けられるものであり、両者には共通点が見られる。
そのことをふまえ、『ハリー・ポッター』シリーズにおける死生観
を論じるに際して、騎士道的価値観を基準としていく。
騎士道とは、中世ヨーロッパにおける騎士階級が従うべきとされた行動規範であるが、その詳しい定義については、第1章
第1節で述べることにする。
今回、騎士道を理解するためのひとつの基準として、トマス・
マロリー卿によって著されイギリス最初の出版業者ウィリアム・キャクストンによって著者の死後出版された『アーサー王の死』の中の騎士たちの「死」との向き合い方について考察していく。
現代の大ヒットファンタジー小説『ハリー・ポッター』シリーズと中世ヨー
ロッパに由来する騎士道精神のつながりを死生観という観点から探究することによって、現代にも騎士道精神の価値が生き続け、評価され続けているということを検証することによって、単なる娯楽作品ではない『ハリー・ポッター』シリーズの新たな価値を発見することが、本論文の目的である。
まず第1章では、騎士道精神や騎士道文学の歴史、アーサー王物語やその中でもトマス・
マロリーの『アーサー王の死』の成り立ち、マロリーの『アーサー王の死』において描かれる死生観について検証する。
第2章では、宿敵ヴォルデモート、そして主人公ハリー •ポ
ッターの「死」、作品中に登場する童話集『吟遊詩人ビードルの物語』という観点から『ハリー ・ポッター』シリーズにおける死生観に焦点を当てる。
最後に第3章では、両者の共通
点から『ハリー・ポッター』シリーズの中に込められた騎士道的死生観とその価値、またその問題点について考察することで、『ハリー ・ポッター』シリーズの中に騎士道精神が息づいていることから、本作品に新たな価値が発見できるということを結論づける。
一 68 一
1.騎士道精神とアーサー王物語
本章では、『ハリー・ポッター』シリーズを考察するための尺度として用いる騎士道精神とアーサー王物語、その中でも特にトマス・マロリーの『アーサー王の死』に関する歴史的
背景を参照しながら、それらの中に見られる死生観について考察する。
1一1.騎士道精神と騎士道文学
本節では、中世ヨーロッパにおける騎士の行動規範である騎士道精神と、それを文学作
品として描いた騎士道文学について述べる。文学者の草地伸圭によると、中世ヨーロッパとは一般的に10世紀から16世紀の間の時代を指し、「ゲルマン民族の大移動が終着し定住化が進み、キリスト教の定着に伴う封建社会の成立から始まり、王権が強化され絶対王政が成立し、封建制度が崩壊するまで」1のことを指す。
そうした歴史的背景の中で発達した
騎士道とは、『西洋中世史事典』によれば、「軍武に従事する貴族が守るべき世俗的徳性についての捷」2のことを指す。すなわち、馬に乗り鎧を着て敵と戦う騎士身分の行動規範なのである。
フランスの騎士道文学者のレオン・ゴーティエによって提唱された、騎士の行動
を支える十戒は次のようなものである。
- 不動の信仰と教会の教えへの服従。
- 教会擁護の気がまえ。
- 弱い者への敬意と憐れみ、また彼らを擁護する確固たる気がまえ。
4 .愛国心。
5.敵前からの退却の拒否。
6 .異教徒に対する休みなき、また慈悲なき戦い。
- 封主に対する厳格な服従。ただし、封主に対して負う義務が神に対する義務と
争わない限り。
- 真実と誓言に忠実であること。
9 .惜しみなく与えること。
10.悪の力に対抗して、いついかなる時も、どんな場所でも、正義を守ること。3
騎士道が発展の途を辿った中世はローマ教皇の権力、すなわち教皇権が最高潮の時代であったこともあり、中世における騎士たちは、キリスト教への忠誠を示すような項目も多く含むこれらの規範を目指すべき騎士の姿として戦ったのである。
では、騎士道とはどのように成立していったのだろうか。草地は、騎士の定義について、「いくつかの文献から読み取れる中世における騎士の定義とは、「重武装を装備して馬に乗
って戦う重装騎兵」」4であると述べている。
中世初期の1〇世紀、ヨーロッパではマジャー
!草地伸圭,p.243
2 ロイン,p.151
3 オーデン,pp.54-55
4 草地,p.243
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ル人やバイキングが勢力を広げ、キリスト教の聖地エルサレムが北上してきたイスラーム勢力に占領されるなど、ヨーロッパのキリスト教徒が戦うべき相手の多い時代だったといえる。
そんな中誕生したのが外敵と戦うことを職業とする騎士であった。このことについ
て草地は、「それまでは争いを否定していたキリスト教が、平和を求める戦いを神聖なもの
とみなした」5と述べている。
ゴーティエによる十戒に「不動の信仰と教会の教えへの服従」
などと並んで「異教徒に対する休みなき、また慈悲なき戦い」が含まれていることからも、
騎士道におけるキリスト教的価値観の影響の大きさと異教徒に対する排他的な姿勢が読み取れる。
やがて騎士は、高価な装備や馬を買い揃えることのできる経済的に豊かな人々に
しか務まらない特別な存在となったために、必然的に騎士の世襲化、騎士という階級の成立が進んだのである。
ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより行われ、聖地エルサレ
ム奪還を目指して騎士たちが遠征した第1回十字軍の成功をきっかけに、人々の騎士階級
への憧れは募っていった。実際の騎士階級は前述のゴーティエの十戒で謳われているような高潔な存在ではなく戦場での略奪や暴力は日常茶飯事だったが、人々が思い描いていた騎士への理想の姿はその後吟遊詩人によって騎士道文学として歌い継がれていくこととなる。
元々は荒れ果てた中世初期のヨーロッパの社会状況や外敵との戦いを余儀なくされて
誕生した騎士という階級、そして騎士道であったが、騎士道精神はその後実際の騎士とは切り離された、中世の人々の理想の騎士の姿として吟遊詩人たちによって語られていったのである。
次に、騎士道精神の発展から派生して生まれた騎士道文学について述べる。騎士道文学
とは、ちょうど騎士階級が世襲化され始め、また教皇権が過去最高に強かったインノケンティウス3世の時代とほぼ同じ時期、13世紀ごろに最も流行したとされる。キリスト教の
力が頂点にあった時代に、キリスト教から多大なる影響を受けて成立した騎士道文学も盛
んになったのである。前述のように当時のヨーロッパ、つまりキリスト教文化圏では、イ
スラーム勢力から聖地奪還をすることを目的として派遣された十字軍に注目が集まってい
た。十字軍は全部で8回にわたって派遣され、キリスト教の聖地を悪しき異教の手から守
るための戦いとして人々の注目を集めた。それに伴い、人々の騎士への憧れやその武勇伝
を歌った叙事詩の需要が高まったことが、騎士道文学が発展した背景である。騎士道文学
は、その名の通り騎士の武勲を語った文学作品であり、吟遊詩人によって歌われたものか
ら発展していった。そのような騎十道文学の機運が高まっている時代の中で、アーサー王
物語のような今ではイギリスの子供から大人まで誰もが知っている伝説が成立することと
なった。アメリカの作家で神話研究でも知られるトマス•ブルフィンチは、次のように述べている。
騎士道が世界の崇拝を集めてゐた時代、そして、その騎士道のあらゆる努力が異教
の敵に向けられてゐた時代に、文學がそれに刺戟され、騎士たちにとって不の張
り合となるやうな勇氣や敬虔の典型が、歴史だの傳統だのの間に熱心に求められた
5 同上,p.245
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ことは、不思議ではない。
アーサー王とシャールマーニュの二人は、この目的のた
めに選ばれた英雄であった。
アーサー王の取り柄は、彼が必ずしも常勝の戰士では
なかったけれども、常に勇敢な戰士であったといふ黑占である。6
このように、騎士道は異国の敵を打倒するための騎士の理想の姿として発展した。それら
の流行が文学の世界をも刺激し、吟遊詩人にとって人気の題材となっていた英雄譚が文学
作品としても地位を得たのである。
騎士道文学は十字軍などの中世当時の社会状況を受け、
発展するべくして発展し、民衆に広まるべくして広まったものの1つなのであろう。
騎士
道文学の中でも本論文で焦点を当てる「アーサー王物語」は、耳にしたことのない人は日
本人でもいないほどの非常に有名な作品である。次節では、そのような作品が生まれた中
世における、人々の「死」の捉え方に焦点を当てていく。
1-2.中世における「死」
前節で述べたように、中世は現代に比べてキリスト教の影響が強く、人々の信仰心も強
い時代であった。したがって、「死」という超自然、誰も見たことのない世界に関する思想
にもその信仰心の影響が色濃く表れていると考えられる。
中世にかけて発展した騎士道物
語の1つであるアーサー王物語を考察するにあたって、それが書かれた時代の人々の死生
観がどのようなものであったのかを探究していく。
中世の時代は、現代よりも「死」が身近なものであった。疫病の流行、十字軍をはじめ
とする戦争、斬首、溺殺、生き埋め、車裂きなどの恐ろしい手法をもってなされる処刑など、人々が「死」を目の当たりにする機会の多さは現代とは比べ物にならないだろう。
中世ヨーロッパで猛威を振るった疫病といえば、1348年から1440年にかけて数十年間流行したペストが真つ先に思い浮かぶ。しかしその他にも、コレラ、インフルエンザ、天然痘
など、様々な疫病が人命を奪った。
また、前節でも述べたように中世は戦争の時代でもあ
り、兵士として駆り出された人々の多くは、出征先で戦死もしくは病死した。
また、為政者は神やキリストの代理人として民を支配し、平和を維持するために必要とあらば悪人の
命を奪うことも躊躇わなかった。
そんな「死」と常に隣り合わせでキリスト教の影響力の
強かった中世時代を生きた人々に、「死」そのものや死後の世界について教授したのは、キリスト教であった。
中世英文学者の多ケ谷有子は、「中世の人々にとって、四終、つまり、
死、審判、天国、地獄、の教えは、絵空事でもお伽噺でもなかった」7と述べている。
現代
に生きる我々にとっては絵空事であり架空のものである死後の世界などに関する思想や伝
承は、彼らにとっては現実そのものであった。
したがって彼らの「死」に対する恐怖は肉
体を離れることを怖がるのみでなく、「死」の先にある地獄の苦しみそのものへの恐怖も含
まれているのである。
それでは、彼らにとっての「死」、そしてあるべき「生」とはどんな
ものだったのだろうか。
6ブルフィンチ,p.23
7多ケ谷,p.26
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前述のように、彼らの死生観に多大なる影響力を与えていたのは、キリスト教の存在で
あった。
キリスト教では、人は死後審判を受け、生前の行いによって善人は天国、悪人は
地獄へと向かうと考えられている。
天国とは、『キリスト教辞典』によれば、「神の愛と至
福直観から成る彼岸世界の超自然的幸福の場と状態、およびキリストが昇天した栄光の座」
8とされ、生前の行いがよかった者が行くことができる。
対して地獄とは、「聖書の中で現世
から遮断された別世界を表す語のうち、陰府<分離された場所>を意味し、神との交渉を
絶たれた孤独な魂が捨て置かれる嘆きの境遇を表す」9とされる。
仏教のそれと違うのは、
仏教のそれは六道の1つであり長い時間をそこで過ごすとしてもやがては脱出できるもの
であるのに対し、キリスト教の地獄は永遠の罰であるという点である。
「教義的にいえば、
中世時代では、悔俊をせずに大罪を犯したままの状態でこの世を去った魂が永遠の罰を受ける場所」10と捉えられていたのであり、永遠の罰であるからこそキリスト教文化圏の人々
は地獄を大いに恐れた。
旧約聖書の時代にまでさかのぼれば、死者は“sheol”という場所に向かうとされていた。
しかし、紀元前597年のバビロン捕囚を経て、死後の行き先は善人と悪人で異なるという
思想が生まれ、それが新約聖書やキリスト教にも受け継がれた。
死者の善悪を判断する審
判は、死後すぐに行われる私審判と世の終末に行われる公審判に分けられた。
終末は間も
なく訪れると考えられていた初代教会の時代、予想とは裏腹になかなか終末が訪れないこ
とに気づいた人々は、清められれば天国に行くことが可能になる程度の悪人のために、死
後、公審判で最終的な審判が下されるまでの間に自らの罪を軽減できる救いの場所として、
煉獄を作り出した。
『キリスト教辞典』によれば、煉獄とは「死者の小罪のある霊魂もしく
は罪の償いを果たさなかった霊魂が、天国に入る前に、現世で犯した罪に応じた罰を受け、
清められる場所」とされ、「生者はミサ、祈り、信心業などによって煉獄の魂の苦しみを和
らげたり、短くしたりすることができる」と言われる口。
この煉獄によって人々は死後の世
界に、生前に悔い改めをしていなくても魂が救われる可能性があるという救いを見出した。
死後の魂の浄化を信じたのである。煉獄という概念は1274年の第2回リョン公会議で正式
に教理化され、その出来事は、「最悪でも罪を悔いて死にさえすれば、煉獄で償いをすませ
てから天国に行くことができるという現実的な救済ルートを生み出した」・のである。
また中世の人々は、「死」と「眠り」を結びつけて考えた。
キリスト教以前の古代世界か
ら、「死」を「眠り」の兄弟とする思想は広く信じられ、例えば古代ギリシアの詩人である
ヘシオドスは、「死」と「眠り」は「夜」を母にもつ兄弟であるとした。
英語も含めた複数
の言語で、「死んだ」ことを「眠りについた」と娩曲的に表現することからも、「眠り」と
「死」が文化的に結び付けられていることが見て取れる。
このように、「死」を「眠り」と
して捉えるのは、「死」をもって死者の魂の機能がすべて終了するわけではないということ
8 大貫,p.779
9 大貫,p.466
1°多ケ谷,p.23
11大貫,p.1226
曹松田,p.224
死者は眠りについたというイメージは、死者はいつか目を覚ます、いっか
復活するという蘇りのイメージとなり、遺された者たちを慰めた。
歴史学者のノルベルト•
オーラーは、このことについて、「しばしの休息の後再び気力体力充実して目覚めることを
確信して日々眠りにつくように、ある一定の期間が過ぎるとよみがえりの日が来て、新たに永遠の生を授かると期待しながら」13人は死んでゆくと述べている。
この復活のポジティ
ブなイメージがイエス•キリストの復活のエピソードに影響を受けていることは明らかで
あろう。
「死」とは「生」の終わりではなく現世での暮らしにひと段落つけることを意味し
ているだけで、つまり「生命は奪われるのではなく、死へと変容される」14のである。
これまでに考察してきたことから、中世の人々は、死後の魂の浄化、「生」の終わりではない生命の通過点としての「死」を信仰していたことが分かる。
それらはキリスト教の価
値観からくる思想であり、次節で述べる「アーサー王物語」、特にマロリーの『アーサー王
の死』などの騎士道物語もまた、キリスト教の影響下で発展してきた作品であることは否定できない。
アーサー王の伝説自体はキリスト教に由来しないものであっても、騎士とい
う階級はキリスト教の聖地を守るための十字軍から派生したものであり、騎士の武勲を語るために生まれた物語として『アーサー王の死』がキリスト教的価値観を引き継いでいないとは考えにくい。
また、中世の時代に読み物として『アーサー王の死』を楽しんだ人々
の感性に合わせて物語が作られていると考えられることからも、『アーサー王の死』はキリ
スト教的価値観を騎士道的価値観の中に込めているということが言えるだろう。
1-3.アーサー王物語における死生観
本節では、トマス・マロリーの『アーサー王の死』において描かれる死生観について論
じていく。
『アーサー王の死』とは、「アーサー王物語」をまとめた書物の1つである。
ヨ一ロッパで生まれ現代まで読み継がれてきた「アーサー王物語」とは、アーサー王や円卓
の騎士にまつわる伝説や物語のことである。
特にイギリスでは、多くの人が子供の頃から
触れながら育った作品といえる。
ここでは、第1節で述べた騎士道文学の中でも、本論文
で特に取り上げる「アーサー王物語」について述べる。
まず「アーサー王物語」の成り立ちについて述べる。
イギリスの中世学者、伝承学者で
あるジョン•マシューズは、アーサー王物語の成り立ちについて、「アーサー王物語とは、6世紀のアーサーという指揮官を主軸に、古代神話に登場する、同名または似た名前の英雄
を組み入れた結果として生まれたものだというのが、ほぼ確実視されている」建と述べている。
アーサーという人物が実在したかどうかは現在明らかとされていないのも事実だが、
聖ギルダスの『ブリタニア衰亡記』などの歴史書によると、アーサーという名のブリトン人の指揮官が6世紀に実在したとされ、実際に指揮官としてサクソン人の侵攻からブリテ
ンを守るなどの活躍を見せていたようである。
彼の英雄譚が口伝で後世に伝えられていく
中で、イギリス各地に伝わる神話や伝説と融合し、膨らんでいった。その物語群は12世紀
13 オーラー,p.94
14 同上,p.94
15マシューズ,p.13
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に、ジェフリー・オブ・モンマスという人物によって『ブリテン列王史』という書物にまとめられた。
この書物の内容が吟遊詩人たちによって歌われ、ヨーロッパにおいて広く知
られる人気の騎士道物語としての地位を確立していったのである。
それに伴って「アーサ
一王物語」は一部のケルト神話のみならずヨーロッパ各地の英雄譚を吸収し、各地で英雄として語り継がれる存在であった騎士がアーサー王の臣下として「アーサー王物語」に登場するようになったのである。
アーサー王のモデルとなったとされる6世紀の指揮官アーサーは、ブリテン島でお互い
に対立し合っていた異民族たちを結束させてサクソン人との戦いに挑んだとされている。
文学者の草地は、アーサーが異民族を集結させて外的の侵略に抗ったという歴史的事実を象徴するのが円卓という概念であると述べており、実際の歴史的英雄譚はこのようにさまざまな形で物語の中に反映されていることが分かるだろう16。
長きにわたって語り継がれて
きたアーサー王の伝説だが、前節で述べた外敵の出現によって争いに積極的ではないキリスト教が教えや国を守るための戦いを容認したという背景も含めた需要から、その他の騎士道物語とともに発達し中世で人気を博したと言える。
加えて、神話的歴史の中のアーサ
ーが外敵を拒みながらも同じブリテン島の中の異民族と力を合わせて戦ったことを受け、12世紀以降に騎士道物語として発展した「アーサー王物語」はヨーロッパ全土の異国の英雄譚を柔軟に受け入れ、いわば多国籍的な文学作品に成長したのだろう。
その後、前述の
ように「アーサー王物語」はヨーロッパ全土で各地の英雄譚を吸収し、その結果ジェフリーの『ブリテン列王史』を基に各国の土着の物語が融合した1つの物語群を、15世紀末に
サー・トマス・マロリーが『アーサー王の死』として1冊の本にまとめ上げたのである。
『アーサー王の死』がマロリーによって著されたのは1469年のことであり、2016年の
現在からは正に550年ほど遡る。
『アーサー王の死』が著されてから現代に至るまでの文学
的なそれの立ち位置は、以下のとおりである。
その初版完成の時期は、イギリスではテユ
ーダ一朝の創始者ヘンリ7世の時代であり、ヘンリ7世の祖先はアーサー王であるという
話が王権によって王権維持のために広められた。
これが、「アーサー王物語」の人気が後押
しされた要因の1つとなる。
しかし、その人気は1634年の重版のあとは低迷していく。
デカルト17の思想の広まりもあり、目に見えない神や伝説よりも人間そのものの価値が向上し
たことも要因の1つとして挙げられる。
これに伴い、18世紀に入ると近代小説の人気が高
まる。
先が読めるお決まりのロマンス、理由のない運命的な出来事によって物語が展開す
るおとぎ話よりも、登場人物の微妙な性格の違いによって物語が発展していく近代小説の方が好まれたのであった。
その頃『アーサー王の死』は見向きもされなかったが、桂冠詩
人テニスンによる18世紀後半の詩集『国王牧歌』による人気の再燃を経て、19世紀後半のヴィクトリア朝時代には、皮肉なことにヴィクトリア朝的道徳観によって卑猥な場面を抜き取られるなどの改竄を繰り返されながら、再び日の目を見るようになる。
そのような改
竄版や本文校訂、有名なビアズリーによる挿絵版など様々な版が登場し、『アーサー王の死』
迪草地,pp.244-245
17フランスの哲学者。一切を方法的に疑った後、疑いえぬ確実な心理として「考える自己」
を見出した。
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含む「アーサー王物語」は現在に読み継がれてきた。
著者サー・トマス・マロリーは、1400年頃ウォリックシャーのニューボールド・シヴェ
ルに生まれた人物である。
彼は、従軍、結婚、育児など当時のごく普通の人生を歩んでい
たが、40歳を過ぎた頃から謀殺未遂、ゆすり、窃盗、強姦、強奪などの犯罪に手を染め、何度も投獄されていたようである。
彼は著作の中で自身について「牢獄の騎士」と記し、
1469年から1470年の間に獄中で『アーサー王の死』の一部あるいは全部を著したと言わ
れている。
それをマロリーが作品を書き上げた15年後の1485年に印刷•出版したのがマ
ロリーと同時代のイギリス最初の印刷業者として知られるウィリアム・キャクストンであるが、1934年にイギリスのパブリックスクールであるウィンチェスター ・カレッジで、マ
ロリーのサイン入りの同作品の写本が発見されたことにより、マロリーによる『アーサー王の死』の原書にはキャクストンによる「キャクストン版」とウィンチェスターで発見された「ウィンチェスター版」の2種類が存在することとなった。
同作品の散文が秀逸であ
ることや、スペンサーやスコット、モリスなどのルネッサンス以降の英文学やワグナーのオペラなどに大きな影響を与えたことからも、「キャクストン版」の文学史における存在は絶大なものであったと言える。
『アーサー王の死』は騎士道物語であり、物語のプロットの中心となっているのはアー
サー王をはじめとする騎士たちの武勲である。その中で著されている避けて通ることができないテーマとして、騎士たちの「死」、そして「生」というものが挙げられる。
英文学者
の福江千帆は、トマス・マロリーの『アーサー王の死』の中で描かれる「生」と「死」について、「アーサー王の物語に登場する騎士たちの生き方が、もっとも顕著に表れるのは彼らが死す時だ」脇と述べている。
それぞれに課された試練や冒険の果てにある慰安に満ちた
天上世界へ至る点が人間の「死」であり、死す時にこそ彼らのそれまでの生き方が騎士という身分にふさわしかったかどうかを知るときなのである。
つまり福江によれば、『アーサ
一王の死』の中で登場人物がどのように「死」を迎えたか、どのように「生」を全うしたかということが、その人物がいかに騎士として理想的な人物であったかを表す指標となっているのである。
それでは理想的な騎士とはどのようなものであったのかという点について、騎士道研究
者のテレンス・マッカーシーは次のように述べている。
Knights are devoted to adventure, to seeking the events that fortune will bring. They put
themselves at the mercy of chance: their lives are dedicated to risk not prudent domesticity,
fbr their readiness to face the unknown means flaunting prudence. Their devotion to action is
so total that they appear at times willful and unreasonable. Naive too, since a knight gives
himself wholeheartedly and instantly to the cause.19
18福江千帆,p.95
19 McCarthy, p.l〇
-75 –
マッカーシーは、冒険や運命にその身を捧げ危険へと立ち向かう姿こそが、騎士の理想とする姿であると述べている。
そのために騎士が必要としたのが、「死」の克服であった。冒
険や運命のために自らの命を危険にさらすことになったとしても、それを受け入れ決して躊躇しないということが、騎士の美徳として騎士道物語の中の騎士たちによって体現されてきたのである。
また、福江は、騎士として「死」の恐怖を乗り越えることによって、つまり「死」への
恐怖という枷をはずすことによって、「生」の輝きを得ることができると考えられていたの
ではないかと述べている2〇。
「死」はたしかに悲劇ではあるけれども、それを受け入れるこ
とによって騎士たちは解放された「生」を生きることが可能になると考えられていたのである。
それが、騎士道の観点から見て理想的な「死」の受け入れ方、それによる「生」の
変化なのである。「死」を恐れながら生きるのではなく、「死」から解放された「生」を生きることがよしとされたのである。
また、作中では「死」は、「生」の終わりという悲劇ではなく、新世界への「船出」としても描かれている。
これには、マロリーによって物語が描かれた当時強大であったキリス
卜教の影響力が表れていると考えることができる。
神に祈りを捧げた者、つまり現世でよ
しとされていた祈りを捧げるという行為に身を捧げた者は死後楽園で永久の祝福を受ける
ことができるというキリスト教の思想と切っても切り離せないものなのである。
もちろん『アーサー王の死』の世界には、「船出」ではなく悲劇としての死も存在するが、
両者の違いは、自ら「死」を迎え入れているかどうかということである。悲劇としての「死」
は、作中で処刑として描かれるものや、戦いを放棄していたのにも拘わらずもたらされた
予期せぬ「死」のことを指すと考えられる。作品を読んだ中世の人々はこれらの「死」を、
神による罰だと考え、望ましくないものとした。福江は、アーサー王たちの「死」はこれ
とは異なり、天から与えられた道を歩んだ果てにあるものであるために神からの罰などで
はありえないと述べている21。彼らの「死」は現実の中世の人々が恐れていたような無慈悲
な疫病や処刑によるものではない、「罰ではない死」として提示されているのである。マロ
リーによる『アーサー王の死』の中でよしとされる「死」は、自ら両手を広げて受け入れ
た「死」、「死」を自らの冒険の結果として潔く招き入れる行為なのである。
これらのことから、トマス・マロリー『アーサー王の死』の中で騎士として理想的とされ
ている「死」の特徴として、試練や運命の達成のために「死」を受容しながら生きること、
「死」は終わりではなく新しい「船出」と捉えられていること、そして「死」の恐怖を受
け入れる姿勢が重要視されていることが挙げられる。それでは、『ハリー ・ポッター』シリ
ーズにおいて、「死」や「生」はどのように描かれているのだろうか。
次章では主人公ハリ
ー、宿敵ヴォルデモート、作中に登場する童話集『吟遊詩人ビードルの物語』という3つ
の観点から、『ハリー・ポッター』シリーズにおいて描かれる死生観を探究する。
2〇 福江,p.97
21福江,p.99
-76 –
2.『ハリー・ポッター』シリーズにおける死生観
序章でも述べたように、『ハリー・ポッター』シリーズの中には「死」や「生」というテーマがいたるところにちりばめられている。
登場人物たちはそれぞれに「死」や「生」と
向き合い、それらをどう受け入れるか、それとも受け入れずに抗うかという決断をしてい< 〇
また、作中に登場する童話集には、「死」との向き合い方、正しい「生」の生き方など
の教訓を読み取ることができる。
本章ではそういった登場人物たちや、童話集に見られる
死生観の描かれ方について考察していく。
2-1.ヴォルデモートからみる死生観
ヴォルデモートとは、主人公ハリー・ポッターの宿敵である闇の魔法使いの名である。
魔
法界で恐れられるあまり人々は彼の名前を口に出すことさえ恐れ、「例のあの人」、「名前を
言ってはいけないあの人」、「闇の帝王」など様々な呼称が存在する。
本節では、物語の中
でもひときわ特徴的な彼の死生観に焦点を当て、作中の死生観のあり方を探究していく。
『ハリー ・ポッター』シリーズの物語の発端は、彼が最強の闇の魔法使いとして名を馳
せていた頃に、赤ん坊だったハリーを殺そうとポッター家を襲撃したことである。
彼がそ
のような行動を起こしたきっかけは、自分を打ち倒す力を持った者が近づいているといった内容の予言を耳にしたことであった。彼はそれがハリー・ポッターという生まれたばかり
の男の子であると推測し、赤ん坊のうちにハリーを殺してしまおうとポッター家襲撃を実行したのである。
ところがハリーに向けられたヴォルデモートによる死の呪いは彼自身に
はね返ったためヴォルデモートは瀕死の重傷を負い、赤ん坊のハリーは生き残るという結果に終わった。
そうして成長したハリーとよみがえったヴォルデモートは、運命の宿敵と
して何度も戦っていくことになる。
まず、ヴォルデモートの生い立ちと、そこから読み取ることができる彼の死生観につい
て考察する。
ヴォルデモートは、元々はトム・マールヴォロ •リドルという名の男の子であ
った。
トム・リドルという彼の本名は彼の父親と同一であるため、ここからはヴォルデモ
ートとなる以前の彼をトム・リドル・ジュニア、彼の父をトム・リドル・シニアと呼ぶ。
彼の母で魔女のメローピー・ゴーントは、主人公ハリーたちが通うホグワーツ魔法魔術学校の創設に関わった1人であるサラザール・スリザリンの末裔であった。
スリザリンは純血
主義の魔法使いとして知られるが、ここで言う純血主義とは、魔法力のない人間であるマグルを蔑視し、家系にマグルの血が混じっていないことを誇りに思う魔法使いの思想を指す。
メローピーは純血主義の父親マールヴォロ ・ゴーントと兄モーフィンとともに暮らして
いたが、近所に住むマグルのトム•リドル・シニアに恋をする。
次の引用には、娘メローピ
ーが汚らわしいマグルの男に恋をしていると知ったときの、父ゴーントの怒りょうが表れている。
「本当か?」
ゴーントは恐ろしい声でそう言うと、怯えている娘にー、二歩詰め寄った。
「おれの娘が-サラザール・スリザリンの純血の末裔が 穢れた泥の血のマグ
-77 –
ルに焦がれているのか?」[……]
「このいやらしいスクイブめ!血を裏切る汚らわしいやつめ!」
ゴーントは吠え哮り、抑制がきかなくなって娘の首を両手で絞める。22 23 24
ゴーントは怒りのあまり、「スクイブ」という魔法族に生まれながら魔法力に劣る人間を蔑
む呼び方で娘を罵っている。
ここまでマグルを毛嫌いしている家庭で育ったメ ローピーが
堂々とマグルであるトム・リドル•シニアへの恋心を示すことができるはずもなく、彼女
は彼に魔法をかけて自分に恋をしているように思わせ、駆け落ちに持ち込んだ。
メローピ
一はやがて男の子を身ごもるが、愛するトムを魔法で素案従させることに罪悪感を抱いて彼にかけた魔法を解くと、トムはメローピーの元を去ってしまう。
魔法で作り出した2人の
関係には愛はなかったのである。
魔法を用いても愛を作り出すことはできないという言及
は作中を通してされているため、このような価値観は物語において重要な要素であると捉えることができる。
1人取り残されたメローピーは、貧困の中出産を待った。彼女は大晦日の夜に孤児院で
男の子を出産すると、その子にトム・マールヴォロ •リドルと名前をつけ、亡くなった。
第6巻『ハリー ・ポッターと謎のプリンス』において、この頃のメローピーについてハリー
の師であるダンブルドアは、メ ローピーが愛する夫に捨てられた悲しみから気力を失い、
生まれてくる息子のために生き延びようとしなかったと語っている。
メローピーは、自身
の子供のために傷ついた自分を奮い立たせようとする勇気を持ち合わせておらず、自ら死を選んだのである。
ここで生まれてくる息子が後のヴォルデモート卿、トム・マールヴォロ ・リドルであるが、
この生い立ちが後の彼の信条に大きく影響を与えたと考えることができる。
次の引用は、
孤児院で育ったりドル少年のもとをダンブルドアが訪れ、少年が魔法使いであることを伝えホグワーツへの入学を勧めた場面のものである。
「僕の父さんは魔法使いだったの?その人もトム・リドルだったって、みんなが教え
てくれた」
「残念ながら、私は知らない」ダンブルドアは穏やかな声で答える。
「母さんは魔法が使えたはずがない。使えたら、死ななかったはずだ」
ダンブルドアにというよりはむしろ自分に向かって、リドルが言った。23
この引用から読み取れるように、トム・リドル•ジュニアは母の死と魔法力の有無を結び
つけて考えており、魔法力がない者とは生きる能力のない弱い者であると解釈するようになったと考えられる。
「人間の恥ずべき弱みである『死』に屈した女」混として母親を軽蔑
するようになったリドル少年は、次に自分の父方のルーツにたどり着く。
父親が汚らわし
22 j.k・ローリング『ハリー•ポッターと謎のプリンス』n,p.3i
23 J.K・ ロ ーリング『ハリー ・ポッターと謎のプリンス』π, p.133
24 同上,p.278
-78 一
いマグルで、高貴な血筋の魔女であった母親を見捨てて死に追いやったという事実が判明すると、彼は父親を見つけ出して殺害した。
ダンブルドアはトム•リドル•ジュニアの行
動について、「自分にふさわしくないリドルの家系の最後の人々をこのようにして抹殺する
と同時に、自分を望むことがなかった父親に復讐した」25のだと推測している。
これらのこ
とから彼は、魔法力があるにも拘らず自分のために生きようとせずに亡くなった母親の存在を受けて、極端に死を拒み生に執着するようになった。
そして母親を死に追いやり自分
を見捨てたマグルの父親の存在を受けて、自分も魔女とマグルのハーフでありながらマグルを憎むようになっていったということが分かるだろう。
父であるトム・リドル•シニアが汚らわしいマグルであると悟ったときから、彼は父から
受け継いだリドルという名前を捨て、ヴォルデモート卿と名乗り始める。
そして自らを「死」
に屈しない存在へと高めるために、分霊箱を作ることを決めるのである。
分霊箱とは、魂
の一部を隠す入れ物を指す。
下記の引用は、ホグワーツ在学中のリドル少年、後のヴォル
デモート卿が、スラグホーン教授に分霊箱について質問している場面である。
リドルは「死」
に屈しない存在になるための手段を模索した結果、自身の魂を殺人によって分断して分霊箱を作るという闇の魔術にたどり着く。
そして彼は結果的に7つの分霊箱を作ることを目
指し、蛇、日記などの7つの容器に自身の魂のかけらを封じ込めることに成功する。7つもの分霊箱を作れば、他人は彼を簡単には殺すことができなくなる。常人よりも死に難いのは確かであるが、作品の中では、分断された魂の状態は決していいものではないということが示されている。
「……トム、それを望む者はめったにおるまい。めったにはな。死のほうが望まし
いだろう」
しかし、リドルはいまや欲望をむき出しにしていた。渇望を隠し切れず、貪欲な表
情になっている。
「どうやって魂を分断するのですか?」[……]
「魂は完全な一体であるはずだということを理解しなければならない。分断するの
は暴力行為であり、自然に逆らう」26
スラグホーンは、魂の分割をしてまで「生」にしがみつくよりは「死のほうが望ましい」と発言している。
「魂は完全な一体」でなければならないにも拘らず、それを殺人という邪
悪な行為で引き裂くというタブーを犯したヴォルデモートの末路が、次に示す引用に表れている。
死の呪いが自身にはね返り、分霊箱のおかげで死には至らなかったものの生死の
境をさまよって苦しんだときのことを語る彼の言葉である。
「[……]痛みを超えた痛み、朋輩よ、これほどの苦しみとは思わなかった。俺様は肉
25 同上,p.284
26 J.K・ ロ ーリング『ハリー •ポッターと謎のプリンス』m, pp.128-129
-79 –
体から引き裂かれ、霊魂にも満たない、ゴーストの端くれにも劣るものになった…
••・しかし、俺様はまだ生きていた。それをなんと呼ぶか、俺様にもわからぬ……」27
先の引用の中のスラグホーンの言葉からも、魂を分割することとは、死の方が望ましいと言われるほどの邪悪な魔法であることがわかる。
そのような魔法を使ってまでも、ヴォル
デモートは頑なに「死」を拒み、「生」に執着したのである。
「死」によって母を失い、「死」
こそが人間の一番の弱み、そして絶対に屈してはいけない敵だと見なすようになったヴォルデモートにとっての「死」の克服とは、文字通り死なない存在、生き続ける存在となることだったと解釈できる。
ヴォルデモートが「死」を受け入れる勇気を持つことができな
かったということが、物語の展開にどのような影響をもたらしたのか、主人公ハリーの死生観と対比しながら、次節でも引き続き考察していく。
2 — 2 .ハリー・ポッターからみる死生観
前節で確認したように、ヴォルデモートは分霊箱を作って自身の魂を7つにも分断する
という邪悪な魔法を行使し、何があっても死なない存在を目指すことで「死」を克服しょうとした。主人公でありヴォルデモートと敵対するハリーも「死」を克服しようとしたことには間違いないが、2人の違いはどこにあったのだろうか。
「死」を恐れ、頑なに「生」
に執着したヴォルデモートに対し、ハリーはどのように「死」や「生」を見つめたのだろうか。
ハリーと宿敵ヴォルデモートにはいくつもの共通点が見受けられるが、その中でも特に
重要であると思われるのが、両者ともに孤児であるという点である。
前節でも述べたとお
り、ヴォルデモートの母は愛する相手に魔法をかけて心を操っていたため、真実の愛で結ばれていない2人は魔法が解けたときに別れてしまう。
妊娠していた彼女は孤児院でヴォ
ルデモートを生むとすぐに亡くなり、ヴォルデモートは両親を知らずに孤児院で育った。
一方でハリーは、赤ん坊のころにヴォルデモートに両親を殺され、同じく親の顔を知らずに育つ。
両者とも両親を知らずに育っているが、それぞれの母親と自身のつながりが、両
者の違いを生み出したのではないだろうか。
ヴォルデモートの母メローピーは、自分を必
要とする息子がいるにも拘らず愛する人に捨てられたショックから死を選んだ。
ヴォルデ
モートは母の愛を感じることができなかったのである。
ではハリーの場合はどうだろうか。
ハリーの母、リリ—ポッターは、赤ん坊であるハリーを守ろうとし、ヴォルデモートの
手にかかって死んだ。
親が子を守るという一見当たり前のように思える行動だが、息子を
愛する気持ちからの自己犠牲という彼女の行動は、後にハリーを守る力になっていった。
そのことについて、ダンブルドアは次のようにハリーに諭した。
きみの母上は、きみを守るために死んだ。ヴォルデモートに理解できないことがあ
るとすれば、それは愛じや。きみの母上の愛情が、その愛の印を君に残していくほ
27 J.K・ ロ ーリング『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』HI, p.252
-80 –
ど強いものだったことに、彼は気づかなかった。
傷跡のことではないぞ。目に見え
る印ではない・•••••それほどまでに深く愛を注いだということが、たとえ愛したその
人がいなくなっても、永久に愛されたものを守る力になるのじや。28 29 30
ハリーは、両親の死は彼への愛情からくるものだったということ、そしてその愛が彼を守
る強いカとなることを知る。実際に第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』でヴォルデモー
卜に加担してハリーに襲いかかってきたクイレル教授のような「憎しみや欲望、野望に満
ちた者、ヴォルデモートと魂を分け合うような者」29は、ハリーを守る母リリーの愛の力ゆえに、ハリーに手出しができなかった。
また、このような物理的な意味だけでなく、精神
的な意味でもハリーは愛の力によって守られている。
次の引用は、第6巻『ハリー ・ポッタ
一と謎のプリンス』におけるダンブルドアのハリーに対する個人授業の一場面である。
「きみがこのことを理解するのが肝心なのじや!」
[……]
「[……]きみは一度たりとも闇の魔術に誘惑されたことがない。けっして、一瞬たり
とも、ヴォルデモートの従者になりたいという願望を、露ほども見せたことがな
い! J
「当然です!」ハリーは憤る。「あいつは僕の父さんと母さんを殺した!」
「つまり、きみは、愛する力によって護られておるのじや!」3〇
母リリーがハリーに与えた守りだけでなく、両親が自分のために犠牲になったという経験そのものがハリーを闇の魔術の誘惑から守る精神的な盾となっている。
ヴォルデモートに
は母親の自分に対する愛を感じた経験がないゆえに、母親の死を弱さと結びつけ、彼女のように「死」に屈しまいとした。
一方でハリーは、母リリーの犠牲は自分を守るための尊
いものであると理解しているために、「死」とは必ずしも拒むべきものではなく、「死」に
向かう姿勢が重要であることに気づいていくのではないだろうか。
先の引用に続く場面で
は、ハリーがダンブルドアとの激しい議論を経て「死」の受け入れ方を悟っていることが分かるー文がある。
ハリーはやっと、ダンブルドアが自分に言わんとしていることがわかった。
死に直
面する戦いの場に引きずり込まれるか、頭を高く上げてその場に歩み入るかのちが
いなのだ。
その二つの道の間には、選択の余地はほとんどないという人も、おそら
くいるだろう。
しかし、ダンブルドアは知っている——僕も知っている。そう思う
と、誇らしさが一気に込み上げてくる。そして、僕の両親も知っていた——その二
28 J.K・ ロ ーリング『ハリ—ポッター <と賢者の石』II, p.231
29 同上,p.231
30 J.K. ロ ーリング『ハリー •ポッターと謎のプリンス』m, p.150
一 81一
つの間は、天と地ほどにちがうのだということを。31
つまり、ヴォルデモートは「死」に直面することそのものを避けるために分霊箱を作るという手段を講じたのに対し、ハリーや彼の両親は「死」に直面することから逃げず、場合によってはそれを快く受け入れる勇気を持っていた。
その点が両者の最大の相違点だとい
うことが述べられているのである。
そして最終巻『ハリー ・ポッターと死の秘宝』の中で、実際にハリーの「死」を受け入れ
る勇気が試される。
ホグワーツでの最終決戦のさなかハリーは、自分がヴォルデモートも
予期せず作ってしまった7つ目の分霊箱であることを知る。
赤ん坊のハリーがいるポッタ
一家をヴォルデモートが襲撃したあの夜、自らによる死の呪いがはね返って砕けたヴォルデモートの魂のかけらの1つが、近くにいた生きた魂、つまりハリーの魂に付着していた
のである。
ヴォルデモートを完全に倒すには分霊箱をすべて破壊することが必要不可欠で
あり、つまりハリーは、分霊箱である自分が生き残るべき存在ではないということに気づ<〇
恐怖が、床に横たわるハリーを波のように襲い、体の中で葬送の太鼓が打ち鳴らさ
れる。死ぬのは苦しいだろうか?何度も死ぬような目にあい、そのたびに逃れては
きたものの、ハリーは死そのものについて真正面から考えたことはない。
どんなと
きでも、死への恐れより生きる意志のほうがずっと強かった。しかし、いまはもう
逃げようとは思わない。ヴォルデモートから逃れようとは思わない。すべてが終わ
った。ハリーにはそれがわかっている。残されているのはただ一つ。死ぬことだけ。
32
この引用からは、ハリーは自分が「死」を受け入れるべき時機が来たことを冷静に受け入
れていることが分かる。ハリーは、「死」の恐怖やそれに伴う心臓の音などを強く感じなが
らも、ヴォルデモートのように「死」から逃げようとせずに冷静に受け入れているのであ
る。ヴォルデモートの息の根を止めるという使命のために、自分の命をなげうつことを躊
躇してはいない。自分の使命に向き合って孤独に死にに行く勇気が、ハリーには備わって
いたのである。そしてハリーは、ヴォルデモートの待つ森へと向かう。これまでハリーの
ために死んでいった仲間たちや友人たちを想い、心の支えにしながら、ヴォルデモートの
死の呪文を受ける。
ヴォルデモートの呪文に倒れたハリーは、真つ白な空間で目を覚ます。そこは生死の境
目のような場所であると考えられ、第6巻で落命したダンブルドアがハリーの前に現れる。
ダンブルドアは両手を広げて、「死」に立ち向かったハリーを「勇敢な男」と賞賛する。 * *
31J.K・ローリング『ハリー ・ポッターと謎のプリンス』HI,p.153
32 J.K・ ロ ーリング『ハリー ・ポッターと死の秘宝』HI, p.276
一 82 一
「でも……」ハリーは反射的に、稲妻形の傷痕に手を持っていくが、そこに傷痕は
なかった。「でも、僕は死んだはずだ——僕は防がなかった!あいつに殺されるつも
りだった!」
「それじやよ」ダンブルドアが言う。「それが、たぶん、大きなちがいをもたらすこ
とになったのじや」33 34
ダンブルドアは、ハリーが「死」を迎え入れ、その運命を受け入れたことが、ヴォルデモ
ートとの違いを生んだとハリーに説く。第4巻『ハリー•ポッターと炎のゴブレット』でヴ
ォルデモートとハリーが対決したシーンについても、ダンブルドアは次のように述べてい
る。
あの夜、ハリーよ、あの者のほうが、きみよりももっと恐れていたのじや。きみは
死ぬかもしれぬということを受け入れ、むしろ積極的に受け入れた。ヴォルデモー
卜卿には決してできぬことじや。きみの勇気が勝った。34
ハリーには、「死」という運命に立ち向かうための勇気が備わっており、それはヴォルデモ
ートには見られないものであるということが分かる。「死」を頑なに拒否し、魂を分割する
という間違った方法で自らを不死の存在にしようとしたヴォルデモートに対し、ハリーは
「死」を、受け入れるべきものとして捉えた。「頭を高く上げてその場に歩み入」ったので
ある。一度「死」を受け入れたハリーが現世に戻ってくることが可能になったのは、一度
死ぬことで自身の中にあるヴォルデモートの魂のかけらを消滅させ、その上で未だ生きて
いるヴォルデモートの中に流れる自身の血によって現世とのつながりが保たれていたから
である。もし仮にヴォルデモートがハリーより先に「死」を受け入れていれば逆のことが
起こったと考えられることからも、「死」を受け入れる勇気を持ち一旦は自らの「死」を受
け入れたからこそ、ヴォルデモートに勝つことが可能になったと考えることができるだろ
う。一方でヴォルデモートは、「人間の恥ずべき弱み」に屈しないために自分の魂を分割ま
でしたにも拘らず、つまり、誰よりも「死」を拒否する姿勢が強く見られるにも拘らず、
皮肉にもその「死」を拒否する強い想いが要因となってハリーに敗北したと考えることが
できる。
前節から考察してきたヴォルデモートの死生観とハリーの死生観を比較すると、両者の
「死」の捉え方に大きな相違が見られることが分かる。ヴォルデモートは、魔法力を持つ
ていたにも拘らず「生」を諦めて死んだ自身の母親に関する経験から、死ぬことは弱さを
意味するとし、「死」を絶対的に拒否している。対するハリーは、両親が自分のために「死」
を選んだことを知っており、そのような選択をした両親を尊敬してさえいる。そのような
両親への尊敬の想いから、彼は「死」を人間の弱点であるとは考えず、そのために最終的
33 同上,p.299
34 J.K・ ロ ーリング『ハリー ・ポッターと死の秘宝』m, p.304
-83 一
には自身の「死」を受け入れることができたのである。
そして、前述のように、「死」を受
け入れることができるか否かに、両者の明暗を分ける要素があった。
「死」を拒否する者が
負け、それを受け入れることができる者が勝つという物語の結末からは、物語に暗喩された「死」の正しい見つめ方を読み取ることができる。
2-3.『吟遊詩人ビードルの物語』からみる死生観
本節では、作中に登場する童話集、『吟遊詩人ビードルの物語』について考察し、物語の
鍵を握るこの童話集における死生観、また、第1節で考察した分霊箱に関連し、人間の克
服することのできない弱みとの理想的な向き合い方の描かれ方を探求する。
最終巻『ハリ
一・ポッターと死の秘宝』において重要な役割を果たすのが、『吟遊詩人ビードルの物語』
である。
『吟遊詩人ビードルの物語』とは、魔法界に伝わる童話集であり、魔法界のほとん
どの子供はこの中のおとぎ話を聞いて育っている。
これは『ハリー・ポッター』シリーズの
番外編のような形で実際に2008年に出版されているが、その中で作者J.K・ ロ ーリングは吟
遊詩人ビードルについて語っている。
そこでは、ビードルは15世紀のヨークシャー生まれ
の魔法使いであるとされる。35
その生涯は謎に包まれているが、童話集の中の「物語が作者
の考え方をそのまま反映しているとすれば、ビードルはマグルのことを、悪ではなく無知なものとみなしていたようで、そんなマグルにむしろ好意を抱いていた」36とJ.K• ロ ーリン
グは記している。
一方でビードルは、「闇の魔術には不信感を持ち、そのような行きすぎた
魔法行為は、残忍さ、無関心、または傲慢さによる能力の濫用といった、過度にマグル的特徴に根ざしている」37という。
J.K・ローリングによれば、『ハリー・ポッター』シリーズに登場する魔法使いの中で最もビ
ードルに近い思想を持っているのが、ホグワーツの校長でありハリーを導く師でもあるアルバス・ダンブルドアである38。
ダンブルドアがこの童話集を形見としてハリーの友人であ
るハーマイオニー・グレンジャーに遺し、その内容が最終巻でのヴォルデモートとの対決に大いに役に立ったことからも、この童話集の内容から『ハリー •ポッター』シリーズにお
いてよしとされる思想、特に「死」や「生」についての思想を考察することができると考えられる。
5つ収められた童話の中から、シリーズの本筋にも共通する「死」についての思
想が表象されているものとして「三人兄弟の物語」、「毛だらけ心臓の魔法戦士」の2つを
取り上げ、その中に見える死生観について検証する。
まずは、「三人兄弟の物語」について考察していく。
この物語は、シリーズ最終巻のタイ
トルにもなっている「死の秘宝」の探究と非常に関わりが深い。
簡単にあらすじを説明す
る。なお、この童話の中では「死」という概念が擬人化されているため、登場人物としての「死」を『死』、「死」という概念そのものを示す際は「死」と記す。
昔、三人の兄弟が『死』に出会う。『死』は狡猾で、三人を自分のものにしよう、つまり
35 J.K・ ロ ーリング『吟遊詩人ビードルの物語』,p.14
36 同上,pp.14-15
37 同上,p.15
38 同上,p.15
-84 –
死なせようと考え、三人に贈り物をやろうと持ちかける。
戦闘好きな一番上の兄は、『死』
の克服者にふさわしいこの世で最強の杖を欲しがり、『死』はニワトコの木の枝から1本の
杖を作って彼に与える。
傲慢な二番目の兄は『死』をよりはずかしめてやろうと、人々を
『死』から呼び戻す力を要求し、死者を呼び戻す力を持つ石を与えられる。
兄弟の中で最
も謙虚で賢く、『死』を信用していなかった一番下の弟は、『死』に跡をつけられずに先に
進むことができるものを要求する。
『死』はしぶしぶ、自分の持ち物である『透明マント』
を一番下の弟に与える。
『死』と別れた三人は、それぞれ目的地へと向かった。
一番上の兄
は、『ニワトコの杖』で殺人を犯し、大声で人々に自分の杖を自慢する。その結果、彼は杖
を狙う人物に襲われ、命を落とす。
二番目の兄は、『蘇りの石』を使って、今は亡き愛する
女性を呼び出す。
しかし、死者である彼女は現世になじめず、二番目の兄はかなわぬ思慕
に苦しみ自ら命を絶った。
三番目の弟は、長年『死』に見つかることはなかった。そして
高齢になったときに『透明マント』を脱ぎ、息子に与えた。
彼は、『死』を古い友人として
迎え、喜んで『死』とともにこの世を去っていくのである。
この物語の中では、「死」とどう向き合うべきかという問題が提起されている。
ダンブル
ドアによるこの物語の解説では、「三人は一度は辛くも「死」の手を逃れはしたものの、そ
れとてせいぜい、次に死に出会う機会をできるだけ先延ばしにすることでしかない」39のだ
ということが述べられている。
一番上の兄は最強の『ニワトコの杖』を欲しがったが、そ
れは最強の杖であると同時に、権力や強さを求める者たちの争い事をひきつける厄介なものであることも、一番上の兄の顛末から想像できる。
一番上の兄は、戦いに負けないとい
うことによって自らを『死』から守ろうとしたが、争い事をひきつける杖を用いて勝ち続けるというその手段は、永遠に戦い続けるということに他ならない。
解説の言葉を借りれ
ば、それは永遠に「次に死に出会う機会を先延ばしにし」続けているにすぎず、「死」はい
っか誰にでも訪れるものであるという概念の欠落が、一番上の兄の敗因であったと言うことができる。
二番目の兄は『蘇りの石』を欲したが、死者である愛する女性を呼び戻し、この世にな
じむことのできない彼女を目にすることで、皮肉にも本当の意味での死者の復活などありえないということに気づく。
「生」と「死」は往復可能なものではなく、つまり「生」から
「死」への移動はあってもその逆はありえないのである。
欧米の墓石には“R.I.P.”と刻まれ
ていることが多いが、これは英語の”Rest in Peace”、またはラテン語の”Requiescat in
Pace”の頭文字であり、「安らかに眠れ」という意味である。
このことからもキリスト教文
化圏では、死者は生きている者の都合で呼び覚まされてよい存在ではなく、「死」を迎えた者は安らかに眠ってほしいという思想がその根底にあることは明らかである。
残された者
は死者の「死」を受け入れ、死者の眠りを見守るべきなのである。
一番上の兄は間違った
方法で自らの「死」を拒否しようとしたが、『蘇りの石』を使用した二番目の兄は、他人の
「死」を拒否しようとしたという点で過ちを犯したのであろう。
そのような兄2人に対して一番下の弟は、最初に『死』に出会った時から、いっかは『死』
39 同上,p.137
-85 一
を受け入れなければならないということを承知していた点が兄たちとは異なり、それが勝因となった。
死してこの世を離れることは悲しいことではあるが、それを当たり前のこと
と認める勇気があったことが、この一番下の弟の特徴であると言うことができる。
「生」に
おいていずれ来る「死」は拒むべきものではないということに気づいていたのである。
「死」
を拒否しなかった一番下の弟だからこそ、最後は自分のタイミングで『死』を友人として迎え入れることができたのであろう。
童話の中で一番下の弟が『透明マント』を要求した
際、『死』はしぶしぶ彼に『マント』を与えた。
『マント』を使って『死』から隠れるとい
う行為は、兄たちのような「死」を拒否し認めない姿勢とは異なる。
一番下の弟は、つま
り「死」を受け入れた「生」を表していると考えることができるのだ。
彼を自分の手中に
収めたい『死』の、『マント』はできれば渡したくないという逡巡の様子からも、弟の選択
した道は『死』による支配からの脱却を意味するということが読み取れる。
兄たちのよう
に「死」を拒否しているうちは「死」の恐怖の支配から逃れられないということも、この物語から読み取れる教訓の1つなのである。
つまり、三人兄弟は全員が最終的に「死」を
迎えることに相違はないが、はじめの段階でいっかは「死」を受け入れざるを得ないということを知っていた一番下の弟だけが、最も望ましい形で「死」を迎えることが可能になったのである。
この物語に関連して、死の秘宝の存在がある。
最終巻『ハリー •ポッターと死の秘宝』
において、『ニワトコの杖』、『蘇りの石』、『透明マント』の3つの品を集めることに成功し
た者は、「死を制する者」となれるという伝説が登場するのである。
ハリーは最終的に、3
つの秘宝を所有することに成功する。『ニワトコの杖』は、図らずしてハリーのものとなり、
『蘇りの石』は、ダンブルドアがハリーに形見として遺した物品の中に隠されていた。『透
明マント』は第1巻でハリーが父ジェームズから受け継いだため、元々ハリーに帰属する
ものである。
つまり、ハリーがヴォルデモートに殺される覚悟を決めた時、ハリーは3つ
の秘宝を所有している。そこで、ハリーが「死を制する者」となったことが暗喩されているのである。
最終巻の中では秘宝の効力を肯定するような描写やエピソードは登場せず、
「死」の克服は「死」を受け入れる勇気によってのみされるということはこれまでに述べてきたとおりであるが、「死」の直前のハリーが秘宝を全て所有していることは偶然とは言えない。
3つの秘宝の所有と「死」を受け入れる勇気を持っていたことによって、二重の
意味でハリーが「死」の克服者であることが暗喩されていると解釈することができるだろう。
次に、「毛だらけ心臓の魔法戦士」という童話について考察する。
あらすじは次の通りで
ある。
昔、人間の弱みである恋になど落ちまいと闇の魔術を使った魔法戦士がいた。
恋心
を感じない彼は、そんな自分の無関心さと賢明さを誇ったが、恋を知らない彼を嘲笑する召使の話を耳にしてプライドが傷つけられ、結婚を決意する。
魔法戦士は、魔法族の血筋
で裕福な絶世の美女を妻としようと決意し、条件どおりの乙女を見つけ出した。
彼はさっ
そく乙女を口説き始めたが、乙女は彼の甘い言葉の裏の冷たいものを感じ取り、「あなた様
は、お口がお上手です。あなた様に心がおありになるのでしたら、お心をひきましたこと
-86 一
をうれしく思うことができますのに!」4〇と言った。
すると魔法戦士は、乙女を彼の城の地
下牢に案内した。そこには、脈打つ魔法戦士の心臓が、クリスタルの箱に安置されていた。
昔彼が行った闇の魔術とは、恋心を封じるために、心臓を身体から抜き取る行為だったの
である。長い間身体から切り離されていた心臓は、美しいものや心地よいものに触れる感
覚を忘れ、縮んで長く黒い毛で覆われていた。それを見た乙女は恐ろしくなり、魔法戦士
に心臓を胸に戻させた。乙女は「さあ、あなた様はこれで癒されました。本当の愛とは何
かがおわかりになるでしょう!」41と言って魔法戦士を抱きしめた。彼女の香りや息遣い、
感触に衝撃を受けた彼の心臓は、長い間身体と切り離されていたために分別を失っていた。
人々が2人を探して地下牢に下りてきてみると、乙女は胸を切り開かれて息絶えていた。
そばには気のふれた魔法戦士がおり、乙女のなめらかな心臓を自分の毛の生えた心臓と取り換えようとしていた。
しかし獰猛な彼の心臓は胸を離れようとはせず、彼は「自分の心
臓に支配されてなるものか」42と自分の心臓に短剣を突き刺し、息絶えた。
童話集の中の解説では、J.K・ローリングはダンブルドアのロを借りて、「この物語の若い
魔法戦士は、恋に落ちることが自分の快適さと安全を損なうと決めつけ」、「すなわち、恋
は屈辱であり、弱みであり、個人の感情的•物質的エネルギーの浪費だと考えた」43と述べ
ている。
魔法戦士から見れば何とも無駄で滑稽なその弱みを封じるために、彼は身体と心
臓という「分かつべきではないものを分割した」44のである。
この点において、魔法戦士が
用いた闇の魔術は、第1節で述べた「分霊箱」と類似する。
ハリーの宿敵ヴォルデモート
が用いた「分霊箱」とは、魂を2つ以上に分割することによって自らを「死」から遠ざけ
る魔法である。
魔法戦士は恋心を人間の弱みと考えたがヴォルデモートは「死」を人間の
弱みと考え、魔法戦士は身体と心臓を、ヴォルデモートは魂を分割したのである。
魔法戦
士は、自らを「人間を超える者」にしようとした結果、自らを「非人間的な存在」に貶めることとなったのである。45
獣に成り下がった彼は、「もはや自分には手の届かぬ存在にな
ってしまったもの——人間の心——を取り戻そうとする無駄なあがきの中で死」46んでいく。
人間らしさを失っていく様は、ヴォルデモートにも共通して見られる特徴であった。
魂を
7つにも分割したヴォルデモートは、鼻孔だけの鼻を持ち、縦に切り込みを入れたような
瞳孔の目を持つ、いわば「獣」になったのである。
第6巻『ハリー ・ポッターと謎のプリ
ンス』でも言われているように、魂を分割してまで「生」に執着するよりは「死」の方が望ましく、「獣」として人間らしさを失って生きていくことはもはや人間の「生」ではない
というのが、J.K・ ロ ーリングの見解なのではないだろうか。
そして、闇の魔術を使用して「人
間を超える者」になろうとする行為は、人間として生きることからリタイアすることを意
40 J.K・ ロ ーリング『吟遊詩人ビードルの物語』,p.71
41同上,p.73
42 同上,p.76
43 同上,p.81
44 同上,p.81
45 J.K・ ロ ーリング『吟遊詩人ビードルの物語』,p.82
46 同上,p.82
-87 –
味すると解釈できる。
そこから人間らしさを取り戻す行為は並大抵の行為ではないという
教訓を、この物語は示しているのだろう。
ここまでで述べてきたように、「三人兄弟の物語」では「死」から永遠に逃げることはできないという教訓、「毛だらけ心臓の魔法戦士」では恋心を人間の弱みとした魔法戦士の行
動の否定、人間らしさを守り抜くことの肯定が教訓として述べられている。
つまり、ビー
ドルの思想においては、人間は「死」を拒否せず受け入れるべきであり、それを拒んだ結果人間らしさを失うことは取り返しのつかない愚行であるとされる。
この2つの物語には、
『ハリー ・ポッター』シリーズ本編にもつながる「死」や「生」に関わる要素が込められている。
J.K・ローリングによるこの童話集の前書きにあるように、この童話集を著した吟遊
詩人ビードルはダンブルドアと似通った思想を持っている。
ダンブルドアは最後までハリ
ーを教え導く存在であり、J.K・ ロ ーリングの思想の代弁者とも解釈できることからも、この
童話集から読み取れることは本編の死生観の検証に役立つものであると言える。
これまで、ヴォルデモート、ハリー・ポッター、『吟遊詩人ビードルの物語』という3つ
の観点から『ハリー•ポッター』シリーズにおいて描かれる死生観について考察を行ってきた。
それらの考察から明らかになった『ハリー・ポッター』シリーズにおいてよしとされる
死生観の共通点として、「死」を受け入れるか否かという「死」に対する姿勢が挙げられる。
ヴォルデモートは「死」を絶対的に拒否し、ハリーはそれに対して「死」を受け入れる勇気を持っていたことが、2人の明暗を分けた。
『吟遊詩人ビードルの物語』から取り上げた
2つの童話では、「死」をいつかは受け入れるべきものとして捉えることの尊さと、人間の
弱みを克服するために人間らしさを失うことの愚かさを読み取ることができた。3つに共
通して、「死」をいつかは受け入れなければならないものと認めることが望ましい「死」の
克服方法であり、これを拒否することは人間らしさの放棄を意味するという、シリーズを
通しての死生観が明らかになった。
次章では、『ハリー•ポッター』シリーズと、前章で考
察した騎士道的死生観を照らし合わせ、両者における死生観の共通点を探究する。
-88 一
3.『ハリー・ポッター』シリーズの中の騎士道的死生観
本章では、前章までで考察した騎士道精神や騎士道文学における「死」、『ハリー•ポッ
ター』シリーズにおける「死」の描かれ方などをふまえ、『ハリー・ポッター』シリーズにおける「死」と騎士道的価値観との関連性について考察していく。前章で挙げたマロ
リーの『アーサー王の死』における騎士の「死」の特徴、試練の達成としての「死」、「船出」としての「死」という観点から、『ハリー・ポッター』シリーズにおける「死」の騎士道性を探求していく。
3-1.試練の達成としての「死」
トマス・マロリーの『アーサー王の死』における「死」と、『ハリー•ポッター』シリー
ズにおける「死」の特徴的な共通点として、試練の達成としての「死」が挙げられる。
『アーサー王の死』においてはアーサー王が、『ハリー・ポッター』シリーズにおいてはハリーが、試練の達成としての「死」を遂げるのである。
まず、アーサー王の例から見ていこう。
アーサー王の「死」の原因となるのが、モードレッドという名の騎士である。
彼は、
アーサー王の実の息子であった。
アーサー王はかってロット王の妃である美しい婦人に
激しい恋心を抱いてしまい、彼女が自分の姉であるということに気づかず床を共にして
男の子を生ませるという近親相姦の罪を犯してしまった。
そのときに生まれた男の子が
モードレッドであり、その男の子に関して、魔術師のマーリンは次のような予言をアー
サー王に告げる。
あなたさまは最近、神のお怒りをかうようなことをなさったのです。というのは
あなたの姉君と床を共にして、姉君のお腹に子を宿させましたが、その子がのち
に、あなたとあなたの王国のすべての騎士を破滅させるのです。47
マーリンはさらに、「アーサー王とその領土を滅ぼす者は、五月一日に生まれた者である」
48とアーサーに告げる。
そのためアーサー王は、五月に生まれた子供をすべて集め、集め
た子供たちを全員船に乗せて海に流した。
その中には当然モードレッドも含まれていた
が、彼だけは船が大破した際にも命を落とさず、岸に打ち上げられて善良な男に14歳ま
で育てられ、その後アーサー王の臣下となっていたのであった。
数年後、アーサー王は、妻グイネヴィアと関係を持った罪で臣下であるラーンスロッ
卜卿に戦いを挑み、海外へ遠征した。
彼が留守のその間に、摂政を務めていたモードレ
ッドは謀反を起こす。
その知らせを聞いたアーサー王は、帰国してモードレッドと刃を
交えるのである。
アーサー王とモードレッドの2人は、最後の一騎打ちの中でお互いに
致命傷を与え、モードレッドは即死し、アーサー王も程なくして命を落とし、貴婦人た
47マロリー『アーサー王の死』I , p.77
48 同上,p.95
-89 一
ちと共に湖へと「船出」するのである。アーサー王の「船出」については、次節で詳し
く述べる。
アーサー王は、マーリンの予言で息子と戦って自らが命を落とすことを知っているに
も拘らず、戦いを避けようとはせずにその運命を甘んじて受け入れる。
その運命のため
に命を惜しむことなく戦いに挑んでいると解釈することができる。
このことは何年も前
から知らされていたアーサー王の運命、近親相姦の罪を犯したことに端を発する彼の使
命であり、彼はそれを全うすることによってもたらされる「死」の存在を知りながら拒
むことがなかった。
さらに、アーサー王は「死」の直前、自身の剣「エクスカリバー」
を「湖の貴婦人」に返却する。
この剣「エクスカリバー」は、福江によると「彼の王権
の存続、つまりアーサーが王位に在り続ける権利」49の象徴であり、その剣を湖に返した後に死に行くアーサーは、自分の現世での王としての統治の使命、近親相姦の罪を購う
という人としての使命を全うして「死」に向かっていることが読み取れるのである。
一方で、『ハリー ・ポッター』シリーズにおける主人公ハリーの「死」はどのように描
かれているのだろうか。
第1章でも述べたように、シリーズ最終巻『ハリー ・ポッターと
死の秘宝』の最後に、ハリーは自分が死すべき運命にあることを知る。
自分が宿敵ヴォ
ルデモートの魂のかけらを意図せずして預けられていることを知り、自分が生きている
限りはヴォルデモートも生き続けることになるために、ヴォルデモートによって命を奪
われなければならないということを悟るのである。
それまでにダンブルドアによって与えられたハリーの使命は、ヴォルデモートの魂が
隠された6つの分霊箱を探し出して破壊し、ヴォルデモートの生命の絆、不死の要因を
なくしてヴォルデモートを死なせることであった。
しかし、前述のようにハリー自身が
ヴォルデモートが予期せず作った7つ目の分霊箱であり、つまりヴォルデモートを死す
べき存在へと戻すためにはハリーが自分の命を投げ出すことが必要不可欠であるという
ことが明らかになる。
ハリー自身が「死」を選ぶことで使命が全うされるということを
知ったとき、ハリーはそれを拒まないのであった。
ヴォルデモートの死の呪いに倒れたハリーは、1年前に死んだハリーの師、ダンブル
ドアの待つ真つ白な空間で目覚める。ダンブルドアは「死」を受け入れ逃げなかった八
リーを「勇敢な男」50と賞賛し、ハリーの使命の達成を喜ぶ。
「生」と「死」の狭間にあ
ると思われる真つ白な空間で目覚めたハリーの額には、赤ん坊のころヴォルデモートに
よる死の呪いを受けてできた稲妻形の傷がない。
これは、ハリーがヴォルデモートとの
因縁の対決に立ち向かい、その運命を受け入れたことによるある種の「解放」を表して
いるのではないだろうか。
このように、ハリーもアーサー王と同じく、自らの現世での使命を達成し、自分が死
すべきことで達成される使命にも勇気を持って立ち向かっていく姿勢が見て取れる。
加えて両者とも、「死」を迎えたときにアーサー王は剣「エクスカリバー」、ハリーは稲妻
49 福江,p.81
5〇 J.K・ ロ ーリング『ハリー ・ポッターと死の秘宝』HI, p.298
一 90 –
形の傷跡という、現世で背負ってきた自分の逃げられない運命を象徴するもの、いわば
十字架を失ったことによって、現世での辛い試練や運命から解放されたことが示されて
いるのではないだろうか。
十字架とは、元々はキリストが民衆の罪を背負って磔刑に処
されたときにキリストが拘束された十字に組み合わされた木のことを指し、転じて罪の
象徴とされる。
アーサー王はエクスカリバー、つまり王権という責任の十字架、ハリー
は最恐の闇の魔法使いヴォルデモートとの対決を運命付けることとなった額の稲妻形の
傷という十字架を背負い、最終的に試練を達成して「生」を全うしたということが、十
字架の有無、すなわち剣の返却や傷の消滅によって暗喩されているのではないだろうか。
つまり、アーサー王とハリーの両者は、試練の達成としての「死」に成功しているとい
うことができる。
3-2.「船出」としての「死」
前章で述べたように、J.K. ロ ーリングによる『ハリー ・ポッター』シリーズとトマス・マ□
リーによる『アーサー王の死』の中で描かれる「死」の在り方の共通点として、必ずしも
「生」の終わりと同義ではない「死」というものも挙げられる。
つまり、「死」の先にはさ
らに進むべき道が伸びているのだとする考え方である。
『アーサー王の死』では、アーサー王は死に際して実際に文字通り「死」という「船出」
を迎えたことが描かれている。前節で述べたようにアーサーは、近親相姦でもうけた息子
モードレッドとの戦いの末瀕死の重傷を負い、死の直前に水の中に自らの剣「エクスカリ
バー」を投げ込む。
すると、水際のアーサー王とそばについているべディヴィア卿の元に
一隻の船が向かってくるのであった。船には黒い頭巾をかぶったたくさんの美しい貴婦人
が乗っており、アーサー王を迎え入れる。
「さあ、あの船に私を乗せてくれ」と王は言った。
ベディヴィア卿がしずかにその船に乗せると、三人の王妃がひどく嘆きながら王を
横たわらせ、そのうちの一人がアーサー王の頭を抱きしめた。
その王妃は言った。「ああ、愛する弟よ、なぜこんなに長く待たせたのですか?あ
あ、この頭の傷はもうすっかり冷たくなっているわ」。
そして皆は岸を離れて漕ぎ出し、ベディヴィア卿は王と貴婦人たちが自分から離
れていくのがわかった。
それでベディヴィア卿はこう叫んだ。「ああ、わがアーサー王よ、わたしから離れ
て行かれるのですか?わたし一人を、敵の中に置き去りにするなんて、わたしはい
ったいどうなるんでしょうか?」
「元気を出してくれ」と王は言った。「そしてうまくやってほしいのだ。私にはもう
頼りになるような力はない。私はこの傷を治すため、アヴァロンの島に行くのだ。
私のことを聞かなくなったなら、私の魂のために祈ってほしい」。51
51トマス・マロリー『アーサー王の死』v, pp.237-238
一 91一
アーサーは岸に残ったべディヴィア卿にこのように告げ、貴婦人たちとともに船で旅立つ
ていった。
翌朝、ベディヴィア卿は森の中で礼拝堂と隠者の庵を発見し、そこに埋葬され
ているアーサー王を発見するのである。
そして、アーサー王の死後、人々は「アーサー王
は死んだのではない、主イエスの御心によって違うところに連れて行かれたのだ」52と信じた。
この部分は語り手が作者マロリーとして語っている部分であり、また中世ではおとぎ
話や神話が史実と同じように扱われていたという背景があることから、現実に中世の時代
を生きていた人々も、アーサー王のアヴァロンからの帰還を信じていたのだろうと推測できる。
引用の中でアーサー王が向かうとされている「アヴァロン」とは、ブリテン島にあると
される伝説の島で、美しいリンゴで名高い楽園であったとされる場所である。
アーサー王
のようにこの世での試練を見事に達成して「生」を終えた者が楽園に向かうという思想は、
人は死後に最後の審判によって裁かれ、善人は天国で永久に幸福に暮らし、悪人は地獄に
落ちて苦しむというキリスト教の思想とつながりは深いと考えられる。
本作を含む騎士道
物語が発展した背景に同時代のキリスト教の絶大な影響力も関係していることからも、そのことが言えるだろう。
一般的に、人間の「死」は『アーサー王の死』の中に限らず「生」の終わりとして捉え
られることがほとんどであるが、アーサー王のそれはまるでまだ続きのある旅の途中であるかのように描かれ、「生」の終わりというイメージは感じられない。
アーサー王は死後も
主イエスによって連れて行かれた別のどこかで、戦いで負った傷を癒しながら暮らしているとされているのであり、人々によって「いつの日にかまた帰って来る」53とすら信じられている。
それどころか、マロリーは「王はこの世での生を、別の世界のものに変えた」54の
であると述べている。
つまり作中ではアーサー王の死は、「生」の終わりとしての「死」で
はなく、むしろ新しい「生」の始まりとして描かれているのである。
「エクスカリバー」と
いう剣を水の中に投げ入れ、貴婦人とともに旅立っていくといった描写がなされたアーサ一王の「死」は、名実ともに新しい世界への「船出」という認識がされたのであろう。
それでは、『ハリー •ポッター』シリーズに描かれる「船出」としての「死」とは、どのようなものだろうか。
人間の「死」というものがどう捉えられるべきかという問題につい
て、ホグワーツのダンブルドア校長は次のように述べている。
きみのように若い者にはわからんじやろうが、ニコラスとペレネレにとって、死と
は長い一日の終わりに眠りにつくようなものなのじや。
結局、きちんと整理された
心を持つ者にとっては、死は次の大いなる冒険にすぎないのじや。
よいか、『石』はそんなにすばらしいものではないのじゃ。
欲しいだけのお金と命だなんぞ!
おおかたの人間が何よりもまずこの二つを選んでしまうじやろう……困ったことに、どう
52 同上,p.241
53 同上,p.241
54 同上,p.241
- 92 –
いうわけか人間は、自らにとって最悪のものを欲しがるくせがあるようじや55
引用冒頭のニコラスとペレネレとは、第1巻『ハリー •ポッターと賢者の石』において、
人を不老不死とする力を持つ賢者の石を作り出したニコラス・フラメルとその妻である。
ダンブルドアは、「死」とは「生」の終わりではなく、次なる冒険の始まりにすぎないと解釈していることが分かる。
「きちんと整理された心を持つ者」にとっては「死」は恐れるに
足らないものであるということ、そのような「きちんと整理された心を持つ者」になることこそが望ましいとしている。
そして、そのような望ましい心構えの者にとっての「死」
とは、新しい世界への出発に他ならないのである。
『ハリー ・ポッター』シリーズの中で新しい世界への出発、すなわち「船出」としての
「死」が表れている箇所が、他にもある。
それは最終巻『ハリー •ポッターと死の秘宝』
に見られる、主人公ハリーの「死」においてである。
繰り返しになるが、ハリーはホグワ
ーツにおける最終決戦で、自分が死ぬことが宿敵ヴォルデモートを打倒することにつながると知り、自らヴォルデモートに殺されるために出向いてゆく。
そこでヴォルデモートの
死の呪いを受けて倒れたハリーは、「生」と「死」の狭間とも解釈できる真つ白い空間で目を覚ます。
そこには1年前に亡くなったはずの恩師アルバス・ダンブルドアと、ハリーの
中に生きていた宿敵ヴォルデモートの魂のかけらがいた。
その場所での対話で、ハリーは
ダンブルドアに質問をする。
「きみは、ここがどこだと思うかね?」
ダンブルドアに聞かれるまで、ハリーにはわかっていなかった。しかし、いまは
すぐに答えられることに気づく。
「なんだか」ハリーは考えながら答える。
「キングズ•クロス駅みたいだ。でも、ずっときれいだしだれもいないし、それに、
僕の見るかぎりでは、汽車が一台もない」
「キングズ・クロス駅!」ダンブルドアは、遠慮なく くすくす笑った。「なんとまあ、
そうかね?」
「じゃあ、先生はどこだと思われるんですか?」
ハリーは少しむきになって聞いた。
「ハリーよ、わしにはさっぱりわからぬ。これは、いわば、きみの晴れ舞台じゃ」56
ハリーは、今いる真つ白な空間がどこであるかと聞かれ、キングズ•クロス駅のようだと
答えている。
キングズ•クロス駅とはロンドンに実際に存在する鉄道の駅だが、作中では
毎年9月1日にその9と3/4番線から、新学期に向かう生徒たちを乗せたホグワーツへの列
車が発車するという設定になっている。
11歳になるまで自分が魔法使いだとも強大な闇の
55 J.K・ ロ ーリング『ハリー •ポッターと賢者の石』U, p.228
56 J.K・ ロ ーリング『ハリー •ポッターと死の秘宝』IH, pp.306-307
一 93 一
魔法使いと因縁の対決をする宿命にあるとも露ほども知らずに育ったハリーにとって、キングズ・クロス駅は魔法使いとしてのスタート地点であり、冒険が始まった場所と解釈できるのではないだろうか。
ヴォルデモートの呪文を受けて、自身にとって冒険の始まりの
場所であるキングズ・クロス駅にいるということは、「死」とは新しい冒険の始まりであり、
どこか知らない場所に旅立つことのできる分岐点であるということを表しているのではないだろうか。
「僕は、帰らなければならないのですね?」
「きみ次第じゃ」
「選べるのですか?」
「おお、そうじやとも」ダンブルドアがハリーにほほえみかける。
「ここはキングズ・
クロス駅だと言うのじやろう?もしきみが帰らぬと決めた場合には、たぶん……そ
うじやな……乗車できるじやろう」
「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」
「先へ」ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。57
ハリーは、ヴォルデモートの死の呪いを受けて「生」と「死」の境目に来ているが、「生」
の世界に帰ろうと思えば帰ることができると聞かされる。
逆に帰らないと決めた場合、つ
まりこのまま「死」を選ぶと決めた場合には、汽車に「乗車」し、「先へ」進むこともでき
るという。
このことから、この場面でも「死」は文字通り「先」、新しい世界への出発と捉
えられていると言うことができる。
アーサー王のような船を使った水路の旅ではないが、
新しい世界への旅立ちという側面からは、「船出」と言い表すことができるのである。
これまでに見てきたように、『アーサー王の死』でも『ハリー ・ポッター』シリーズでも、
死者は何らかの形で旅立ちとして「死」を経験し、別の世界へと旅立ってゆく様子が読み取れる。
現世の生身の身体を離れた魂は、『アーサー王の死』で言うアヴァロンに相当する
ような楽園のような場所へと運ばれてゆくと解釈されているのだろう。
一方で、両方の作
品において、死して現世を離れた人々の魂が旅立ってしまった後も現世に残された人々に影響を与え続ける死者の存在も表象されている。
マロリーの『アーサー王の死』においてその例として挙げられるのは、死してなおアー
サー王の夢の中に現れてアーサー王を助けようとするガーウェインの存在だろう。
ガーウ
エインは、命を落としてもなお、アーサー王のモードレッドとの戦いにおいてアーサー王に助言しようとアーサー王の前に現れるのである。
こんな状態だった王に、また幻が浮かんできた。
ガーウェイン卿が美しい婦人を
たくさん従えて王の前に現れたので、王はこう話しかけた。
「もう死んでしまったと
思っていたのに、よく来てくれたな、姉上の息子よ。このようにそなたに生きて会
57 同上,p.323
-94 –
えるなんて、全能の神イエスさまの思し召しなのか。[……]j
「王よ」ガーウェイン卿は言った。「[……]わたしはすべて正義のために戦ったので
した。それでこの方々ゆえに戦ったのだからと、神はこれらの人々の熱心な祈りを
聞き届けられ、これらの婦人たちがわたしを、次のように警告するようにと、わた
しが来ることをお許しくださったのです。[……]
ですから全能の神イエスさまの王へ
のご慈悲と広いお心により、また王と戦死することになる多くの善良な兵士を哀れ
んで、神は特別のご慈悲を垂れさせたまい、わたしを王の許に遣わしたのです。[•••
…]j 58
ガーウェイン卿はこのように、死してもなお君主アーサー王に助言するため、幻となって現れる。
死者であるガーウェイン卿が、遺されたアーサー王に影響を与えている例である。
一方で『ハリー ・ポッター』シリーズでも、そのような例が見られる。
主人公ハリーは、
最終巻『ハリー •ポッターと死の秘宝』で自らの死する運命を受け入れなければならないという状況に直面した際、「蘇りの石」という死者を現世に呼び戻すことができる道具を使用して死した仲間たちに助けを求める。
ハリーが幼い頃に亡くなったハリーの両親、ジェ
ームズとリリーを含めた死者たちが、「死」という残酷な運命に立ち向かうハリーを勇気づける。
「あなたは、とても勇敢だったわ」
ハリーは、声が出なかった。リリーの顔を見ているだけで幸せだった。その場に
たたずんで、いつまでもその顔を見ていたかった。それだけで満足だった。
「おまえはもうほとんどやり遂げた」ジェームズが言う。「もうすぐだ……父さんた
ちは鼻が高いよ」
「苦しいの?」子供っぽい質問が、思わず口を衝いて出ていた。
「死ぬことが?いいや」シリウスが答えた。「眠りにつくよりすばやく、簡単だ」
[……]
森の中心から吹いてくると思われる冷たい風が、ハリーの額にかかる髪をかき揚
げる。この人たちのほうから、ハリーに行けとは言わない。ハリーは知っている。
決めるのは、ハリーでなければならない。
「一緒にいてくれる?」
「最後の最後まで」* 59
ハリーは残されたハリーのことを想う死者たちに励まされ、「死」という運命を受け入れる
勇気を奮い立たせることができたのである。
ここで描かれる死者は物理的に現世に手出し
することはできないが、残された人、つまり死者にとっては遺してきた愛する人に寄り添
58マロリー『アーサー王の死』V, pp.227-228
59 J.K・ ロ ーリング『ハリー •ポッターと死の秘宝』HI, pp.287-288
■ 95 ■
うことで現世に影響を与えることが可能になるのである。
2016年11月に公開された『ハ
リー ・ポッター』シリーズのスピンオフ映画、『ファンタスティツク・ビーストと魔法使い
の旅』でも、死刑囚の愛する故人に関する記憶を利用して死刑囚に「死」を受容させる死
刑制度が描かれている。
そのような手段で死刑囚に「死」を受け入れさせることは、死刑
そのものを正当化する都合のいい口実であり卑劣であるが、共通した世界観を持つ前作『ハ
リー ・ポッター』シリーズと共通する、死者の力を借りた「死」の受容や愛する人の存在
や記憶の影響の大きさを裏付ける描写として解釈することができるだろう。
このように両方の作品で共通して描かれる死者の魂は、「死」を迎えることで消滅するの
ではなく、「死」を新しい冒険の始まり、新しい世界への「船出」として捉えているという
ことが分かる。
しかし、魂の「船出」によって生きている者と死した者が分断されてしま
うのではなく、生きている者の死した者への想いがあれば、生きている者の心の支えとな
って現世に影響を及ぼすことも可能であるという点が『アーサー王の死』と『ハリー ・ポ
ッター』シリーズにおける「死」の先にあるものの捉え方として共通している点であると
言える。
死した者からの手助けというモチーフはファンタジー的なものであり現実世界で
期待できるものではないが、遺された者があくまで主体的に死した者を思えば、彼らのカを借りるという形式で自らを救うことができるという教訓も込められている。
「死」を「生」の終わりと見なさない点は、前章で述べたキリストの復活のイメージと
も重ねることができる。
死後もいつか戻ってくる死者というイメージは、アヴァロンから
の帰還が信じられているアーサー王や死の呪いに倒れたあとに復活したハリー以外にも、C.S・ルイスの『ナルニア国物語』のアスランの復活などイギリスで人気を博した文学作品に浸透しているものであると言うこともできるだろう。そのような思想や文学作品は、読者に英雄の復活という希望を与えるものであり、そのようなモチーフや思想は、死者にとつての死後の世界の真実を示すものではなく、生きている者にとっての希望に満ちた死後の世界を示すものであると解釈できる。
3 — 3 .「死」の克服 一中世から現代へー
本章第1節、第2節では、トマス・マロリー『アーサー王の死』とJ.K・ ロ ーリング『ハリ
—ポッター』シリーズにおける「死」の描かれ方において共通する点を、試練の達成によ
る縛られた「生」からの開放、また新しい世界への「船出」という観点から考察してきた。
本節では、これまでに挙げた『アーサー王の死』と『ハリー•ポッター』シリーズに見られ
る共通点をふまえ、中世において隆盛を極めた騎士道精神の現代社会における意義や問題点などに着目し、現代に生きる騎士道精神の価値を探求する。
まず試練の達成に関しては、アーサー王とハリーを例に挙げ、それぞれが現世で生きて
背負った罪や試練、すなわち十字架をなくすことで、試練を追いかけることや罪から開放
されたより質の高い「生」を生きることが可能になるという点について考察した。
また、「船
出」に関しては、両作品で「死」は新しい世界への「船出」として捉えられることから、
第2章で挙げた中世における「眠り」としての「死」と同様に、「生」の終わりとしてでは
なく魂の通過点としての「死」という捉え方が肯定されている点について考察した。
これ
一 96 一
らの点や、『ハリー・ポッター』シリーズの作中には騎士団や剣など騎士を考窮とさせるモ
チーフが多く登場することからも、『ハリー・ポッター』シリーズの中に騎士道精神的価値
観が息づいていることは否定できない。
『アーサー王の死』がマロリーによって描かれた
1469年と2016年の現在の間の550年ほどのタイムラグがあるにも拘らず、両作品の間に
つながりが見られ、現代に描かれた『ハリー・ポッター』シリーズが世界中でこれほどまで
に人気を博しているということもまた、共通する価値観である騎士道の価値を裏付けるものであるだろう。
しかし第2章で述べたように、中世に生きた人々と現代に生きる我々のもつ「死」に対
する意識には、無視することのできない大きな相違点があることは確かである。
共通する
点があるのは確かであるが、戦うことを生業としていた騎士に求められた「死」に対する
価値観をそのまま我々にあてがうことには、大きな危険が潜んでいると考えられるだろう。
騎士たちのように、試練の達成のため、大儀のために「死」を甘んじて受け入れることを
肯定することは、ともすれば現代の自爆テロを肯定していると捉えられることも考えられ
る。
自爆テロとは、その名のとおりテロリストが自らの命も巻き添えにしたテロ行為を指
し、有名なものでは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の中で起きたテロの1
つで、航空機がテロリストの操縦によりニューヨークの世界貿易センタービルに衝突し、テロリストも含めた乗客全員が死亡したものがある。
第2次世界大戦で日本軍が行ってい
た、航空機ごと敵艦に追突するカミカゼ特攻隊も、自爆テロの一種とみなすことができるかもしれない。
これらの自爆テロにおいては、自らの思想の正しさや、戦争に勝っためと
いう大義名分のために1人の命を犠牲にする、戦争のロジックがはたらいている。
そのよ
うな「死」を尊いものとして崇める行為と、『アーサー王の死』や『ハリー・ポッター』シ
リーズでよしとされている騎士道的「死」とは、果たして同じものだろうか。
ここで注目すべきなのは、それぞれの「死」の動機となる部分である。前述のように、
自爆テロにおけるテロリストは、自らの属するグループの思想を広めるという大義名分の
ために命をなげうつ。
これは、新約聖書の中で人民の安全のためにイエスの落命を仕方の
ないものと考えた大司祭の名前から、「カイアファの原理」と呼ぶことができると、ドイツ
の神学者Nikolaus Wandingerは述べている。
1人の命よりもその大義名分や助かる命の数量
の大きさの方に価値があると考え、1人1人の命の重さを軽視しているのである。
それに対して『ハリー・ポッター』シリーズにおける騎士道的「死」は、その原理によつてなされるものではない。
そのことを検証するための具体例として、シリーズ第6巻『ハ
リー・ポッターと謎のプリンス』におけるダンブルドア校長の「死」について考察する。
ダ
ンブルドアは、作中で最も偉大な魔法使いと言われるほど人徳のある人物で、シリーズを通して主人公ハリーを導く存在であった。ダンブルドアは第6巻で、ヴォルデモートの僕
でありダンブルドアの密偵でもあるスネイプの手によって命を落とす。
それは、スネイプ
とダンブルドアの間であらかじめ計画されていたことであった。
ヴォルデモートにダンブ
ルドアを殺すように命じられたハリーの同級生ドラコ•マルフォイの、失敗したら殺される
という恐怖や苦悩を巻全体において目の当たりにしてきた読者は、そのようなダンブルドアの「死」に、気の毒なマルフォイ少年のため、もしくはヴォルデモートへの勝利のため
Wandingerはそれについて、”Dumbledore is willing to be
the one man dying in order to minimize the danger of being killed for others’*°、 つまりダンブノレド
アは殺人の数量を最小限に抑えるために、自分1人の命を犠牲にしたと述べているが本当
にそうだろうか。
ダンブルドアは、殺害される1年ほど前、ヴォルデモートによる呪いで、1年以内に命
を落とすであろうことが判明する。ここからダンブルドアの「死」は、いずれにしても不
可避であったことが分かる。
加えてダンブルドアは、マルフォイ少年がヴォルデモートか
ら、自分を殺すよう命じられたことを知る。ここで避けることのできない「死」に直面したダンブルドアは、この機に乗じて自らの死に方を選んだと解釈することができる。
ヴォ
ルデモートの呪いや彼の下僕によって殺害されることは、前章で引用した作中の言葉を用
いれば「死に直面する戦いの場に引きずり込まれる」ことを意味する。またマルフォイ少
年に自分を殺させることは、まだ殺人を犯したことのない少年の無垢な魂を穢すことにな
ると作中で言及される。スネイプとの間で計画された「死」であれば、スネイプに殺され
る前にダンブルドア本人がその「死」を受け入れているため、「頭を高く上げてその場に歩
み入る」「死」が実現することとなる。ダンブルドアの「死」は、他人のためではなく、彼
自身のための「死」と解釈できるのである。
最終巻におけるハリーの「死」も同様に、ハリー自身のための「死」であると言うこと
ができる。
あの場で一度命を落とすことによってハリーの魂を浄化するための「死」であ
ったのである。真実を知ったハリーは、一度はダンブルドアがその事実を知りながら隠していたことに衝撃を受けるが、その考えこそが「カイアファの原理」である。この疑いを抱いているときのハリーは、その「死」が自分のためにどう作用するかを考えず、打倒ヴォルデモートという大義名分のために自分は犠牲にならなくてはいけないのだと考える。
しかしそうではなく、ハリーは「死」を受け入れることで穢れのない魂を取り戻すことができるのである。
そのことに気づいたハリーは、自らのためにすすんで「死」に向かって
歩いていく。
これらのダンブルドアとハリーの「死」の例から、『ハリ—ポッター』シリ
ーズにおける騎士道的「死」においては、「死」とは当事者のためのものであるという解釈が可能であることが分かる。
「カイアファの原理」的な命の軽視においては、大義名分というものの背景に複数の人
間の存在がある。
その複数の人間のために1人が死ぬことは、グループからすれば大した
犠牲ではないという意識が、自爆テロを引き起こすと言える。つまり自爆テロとは、テロの実行者の気持ちがどうであれ、人間で構成されるグループが、その中の1人を犠牲とし
て切るというグループの問題ということができるだろう。
騎士道的「死」が当事者だけの
問題であるのに対し、自爆テロ的「死」がグループの問題である違いは、戦いは一騎打ちが主流であった騎士の世界と団体戦が主流である現代の戦争の相違、すなわち中世的戦争観と近代的戦争観の相違であると解釈することができる。
自爆テロという現代の「死」や「生」との関わりが深い問題を例にとって考察したが、
60 Wandinger.
一 98 一
やはりその考察の中で生まれる解釈の違いやそれが内包する危険性は、中世と現代の時代
的ギャップから生み出されていると考えられる。
騎士は戦うことが仕事であったが、その
価値観を現代にあてがおうとするときに現代の戦争をひきあいに出すことは、先ほど考察
したように危険性を孕む。
『アーサー王の死』を印刷、出版したウィリアム•キャクストン
は、まえがきで次のように述べている。
そして私がその写本について印刷した目的は、騎士道の華やかな技や当時の騎士
たちが手本とした有徳な行動に関する物語をお読みになり、学ばれるようにという
ことである。
[……]
この書物には心楽しい物語も沢山あるし、道徳的な有徳な騎士道的な事績もある。
またあるものは、いわば高貴な騎士道、礼儀、慈悲、友愛、勇気、愛情、友情、
そしてまた臆病、殺人、憎悪など、徳と罪である。
どうか善を見習い悪を遠ざけて下され。そうすれば必ずや皆様は、よい評判と名
声を手に入れるはずである。61
このまえがきからは、キャクストンがマロリーの著したこの書物に、教育的効果を期待し
たことが読み取れる。この書物を読むことで善を見習い、悪を遠ざけてほしいとキャクス
トンは述べている。この書物にこめられた騎士道的教訓には、本論文で扱ってきた「死」
や「生」に関するものに限らず現代でも変わらぬ普遍的なものが多く含まれている。
その
ことから、騎士道の価値観は現代につながる価値の高いものであることが明らかになった。
また、本論文での騎士道精神に関する『ハリ ポッター』シリーズの分析を通して、世
界中で大ヒットを記録した児童文学作品としての『ハリー ・ポッター』シリーズの他に、読
者に「死」について考える機会を与える作品としての『ハリー ・ポッター』シリーズという
作品の新たな側面も発見することができた。
『ハリー ・ポッター』シリーズは、児童文学作
品という枠に留まらない、多義的な作品であると言うことができる。
61マロリー『アーサー王の死』I ,pp.12-13
一 99 一
終章
本論文では映画、原作ともに世界中で愛されているJ.K・ ロ ーリングの『ハリー ・ポッター』
シリーズにおける死生観について、騎士道文学であるトマス・マロリーの『アーサー王の死』
を参考に騎士道的価値観から考察を行った。
第1章では騎士道精神とはどういうものか、その中に描かれる「死」や「生」にはどの
ような特徴が見られるかという点を考察した。まず騎士道精神と騎士道文学とは、どのよ
うなものかをその歴史から考察した。騎士道とは騎士階級の行動規範を指し、中世ヨーロ
ッパにおける十字軍など外敵との戦いが必要とされた時代に、騎士という身分が階級の1
っとして成立したということがわかった。そしてキリスト教文化圏の思想を守るために戦
いに出向く騎士の姿は人々の憧れの対象となり、彼らの武勲をたたえるために吟遊詩人た
ちによって歌われるようになったのが、騎士道文学であった。それらはやがて騎士たちの
真実を伝えるものというよりは、騎士たちの理想の姿を語り継ぐものとして伝わっていっ
た。次にそのような騎士階級の人々や騎士道文学を楽しんだ中世の人々にとって、「死」と
はどのように捉えられていたのかを考察した。中世はキリスト教の教理として、煉獄とい
う概念が正式に生まれた時代であった。煉獄とは死後地獄に入る前に滞在して罪の責め苦
を負うことで、永遠の罰である地獄に行く前に罪を浄化することができる救いの場である。
人々は、魂の浄化という概念を信じたのである。また人々は、「死」と「眠り」を非常に近
いものと考えた。永遠の別れのように感じられる「死」を「眠り」と捉えることは、死者
の復活を想起させるポジティブなイメージであり、また復活する死者、戻ってくる死者と
いうイメージは、本論文で扱うアーサー王や現代のファンタジー作品であるc.s•ルイスの
『ナルニア国物語』にまで登場する、人々に希望を与える文学的イメージとしても表象さ
れていると言うことができる。
そして次に本論文で考察するアーサー王物語、トマス・マロリーの『アーサー王物語』の
歴史と、その中に表象される「死」や「生」について考察した。アーサー王物語とはイギ
リスに古くから伝わるアーサー王という人物にまつわる伝説であり、アーサー王のモデル
となったのは6世紀のアーサーというブリトン人の指揮官であるとされる。彼の武勲はや
がて神話化され、中世までにヨーロッパ各地の英雄の武勲を吸収した。それらは、前述の
ように十字軍などによる騎士への憧れの高揚によって騎士道物語となり、15世紀になると
トマス・マロリーによって『アーサー王の死』として書物化され、ウィリアム・キャクスト
ンによって印刷、出版されたのであった。それらの中には、アーサー王をはじめ、ラーン
スロット卿やガーウェイン卿など騎士たちの武勇伝や聖杯探求伝説など、さまざまなエピ
ソードが含まれている。登場人物たちはそれぞれに騎士としてあるべき姿を胸に冒険に立
ち向かっていくが、それぞれの登場人物が騎士としてふさわしい人物であるかどうかを見
極める1つの指標となるのが、それぞれの騎士の「死」の瞬間であるといえる。彼らが「死」
の恐怖を断ち切ることで「生」の輝きを開放できているかどうかが、彼らが「死」を克服
できているかを見極める際の争点となるということを読み取ることができた。
第2章では『ハリー ・ポッター』シリーズにおいて、「死」や「生」の問題がどのように
描かれているのかを、宿敵ヴォルデモート、主人公ハリ—ポッター、そして物語に登場す
-100 –
る童話集『吟遊詩人ビードルの物語』という3つの観点から考察した。まず宿敵ヴォルデ
モートは、両親からの愛を感じることができずに独り孤児院で育ち、母はかって父に捨て
られたショツクで息子1人を遺して死んでいったという真実を少年時代に知ることになる。
そのような生い立ちから、幼きヴォルデモートは、母が屈することになった「死」こそ人
間の恥ずべき弱み、克服すべき点であり、「死」に屈するのは弱者であると考えるようにな
った。その結果彼は自らの「死」を避けるために自らの魂を7つに分裂させて不死の存在
を目指すという闇の魔術を用い、自らを人間らしさを失った獣へと貶めたことが、最終的
な彼の敗因となった。「死」を、やがて訪れる避けることのできない受け入れるべきもので
あると認めることができなかったことが、彼の敗因となったのである。対して主人公ハリ
一は、宿敵ヴォルデモートと同じく両親を早くに亡くし、親の顔を知らずに育つ。しかし
彼は、両親が自分のために命を落としたということ、つまり自分が愛されていたことを知
っていたという点が、ヴォルデモートとの違いを生み出した。ヴォルデモートが「死」に
よって母を亡くしたことから「死」にネガティブな感情を持つことになったのに対し、ハ
リーは母が自分を守るために「死」を受け入れたことから、「死」は必ずしも否定的に捉え
られるものではないと考えることができたのである。
そして童話集『吟遊詩人ビードルの物語』における死生観の考察では、「三人兄弟の物語」
と「毛だらけ心臓の魔法戦士」という2つの童話を取り上げた。
「三人兄弟の物語」では、
一番上の兄や二番目の兄のように腕力などで「死」を先延ばしにするのではなく、一番下
の弟のように「死」からは逃れられないと認めることで、「死」に屈さずに「死」を迎えら
れるということが読み取れた。
また「毛だらけ心臓の魔法戦士」においては、肉体と心臓
という分かつべきではないものを闇の魔術によって切り分けた魔法戦士が描かれた。彼の
闇の魔術は、シリーズ本編の中でヴォルデモートが用いた分霊箱と類似しており、「死」と
いう拒否すべきではないものを拒否するために自分を傷つけることの愚かしさを読み取る
ことができる。
これらの3つの観点から『ハリー ・ポッター』シリーズにおける死生観をま
とめると、「死」は拒否すべきものではなく、それを受け入れる勇気を持つことが美徳であ
るということが描かれていることが明らかになった。
第3章ではJ.K・ ロ ーリング『ハリー・ポッター』シリーズとトマス・マロリーの『アーサ
一王の死』の両作品における死生観において、共通点として挙げることができる点につい
て考察した。
まず試練の達成としての「死」を肯定していることが共通点として挙げられ
る。両作品にはどちらも、それまで「死」を迎える覚悟で試練の達成を追い求めていると
いう姿勢が見られた。
試練の達成のために自発的に「死」を選ぶという点を賛美している
のではなく、「死」を恐れずに試練に立ち向かうという試練に対する姿勢がよしとされてい
るのである。
次に、「船出」としての「死」という「死」の捉え方に共通点を見出した。ど
ちらの作品も、「死」は「生」の終わりではなく次の世界の入り口であり、新たなる冒険へ
の出発という解釈がなされていた。『アーサー王の死』ではアーサー王は文字通り死に際し
て「船出」をしている様子が描かれる上、『ハリー ・ポッター』シリーズでも「生」と「死」
の境目である場所は列車の駅を思い起こさせるものであった。これらのことから、『アーサ
一王の死』と『ハリ—ポッター』シリーズにおける「死」や「生」の捉え方に共通点があ
-101-
ることは、否定できないものであるという結論に達した。
『アーサー王の死』をはじめとする騎士の武勲を含む伝説、騎士道物語は、描かれた時
代と現代の間には無視することのできないタイムラグがある。しかし、この間の600年余
りの期間読み継がれてきた作品の価値観が現代にも生き、『ハリー•ポッター』シリーズに
見られるような世紀の大ヒットとなっていることは、我々は騎士道精神の価値観を時代錯
誤なものと見るべきではないことの証拠ともなると考えられる。加えて、『ハリー・ポッタ
ー』シリーズにおける騎士道的死生観について考察したことによって、「死」について読者
に考えさせる役割を持つという『ハリー•ポッター』シリーズの別の側面が明らかになった。
医療技術が未発達で人々の信仰心が強かった中世ほどではないにしても、「死」とは今日で
も人間と切り離すことのできない問題である。それどころか、テロや尊厳死など、人がど
う「死」と向き合うかという問いと直結する問題が今日には数多く存在する。『ハリー・ポ
ッター』シリーズは、そのような現代社会を生きる人々が「死」との関係性のあり方を模
索するのに、非常に役立つ作品であると言うことができるだろう。
-102 –
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