※雑報に、キケロのことばが紹介されていた。
https://st2019.site/?p=22679
『※雑報に、キケロのことばが紹介されていた。
国家は、その内側から裏切るつもりの言論を受け容れつつ生き残ることは難しい。
スパイはその国民と同じ顔、同じ服装、同じアクセントで活動する。仲間を装う狡猾なささやきが、政府中枢から末端有権者まで感化する。人々が誰しも心の中に有する卑劣さを梃子として操り、社会組織をその骨格から腐敗させてしまうのだ。
これと比べたら、暗殺者の劔は、ほとんど怖くない。』
※雑報に、キケロのことばが紹介されていた。
https://st2019.site/?p=22679
『※雑報に、キケロのことばが紹介されていた。
国家は、その内側から裏切るつもりの言論を受け容れつつ生き残ることは難しい。
スパイはその国民と同じ顔、同じ服装、同じアクセントで活動する。仲間を装う狡猾なささやきが、政府中枢から末端有権者まで感化する。人々が誰しも心の中に有する卑劣さを梃子として操り、社会組織をその骨格から腐敗させてしまうのだ。
これと比べたら、暗殺者の劔は、ほとんど怖くない。』
アメリカ大統領選挙にみる大阪都構想反対とトランプ再選の可能性の危険な共通点〜分断された民意の構造と文脈〜(再掲)
https://http476386114.com/2020/11/06/%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e5%a4%a7%e7%b5%b1%e9%a0%98%e9%81%b8%e6%8c%99%e3%81%ab%e3%81%bf%e3%82%8b%e5%a4%a7%e9%98%aa%e9%83%bd%e6%a7%8b%e6%83%b3%e5%8f%8d%e5%af%be%e3%81%a8%e3%83%88%e3%83%a9/
『11月 6, 2020
米国、関連, 国内、地方自治、関連, 世界情勢
https://comemo.nikkei.com/n/n2d10622d0b3a
※ これも、あまり言っている人は、いない話しだ…。
※ 語る機会も、あまり無いようなんで、下記の論とあまり関係はないだろうが、視点として提示しておく…。
※ それは、「制度」とか、「社会的システム」というものは、それが妥当する「限界」「限定された範囲」があるという話しだ…。
※「国民主権」とか、「民主主義」とかは、採用される「現実の制度」「現実のシステム」として、「多数決」という手法・制度が採用されることが多い…。
※ しかし、当然のことながら、この「多数決制度」「多数決原理」というものにも、それが妥当すべき「範囲」「限界」というものが、厳然としてある…。
※ それは、「「価値判断」の決定に、適用してはいけない。」という限界だ…。
※ ちょっと考えれば、容易く分かる話しだ…。
※ 世界には、「一神教」というものがある…。ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教…。この「一神教」の神様のうちで、「誰が、本当の・真実の神様か」なんてことが、「多数決」で決められるか?決めてもいい話しか?
※ じゃあ、逆に「多数決で、決めてもいい。」のは、どういう類いの事柄なんだ?
※ それは、ある目標・目的が集団に共有されている場合に、その目標・目的を「達成するための方法・手段」を決定する場合だ…。
※ 多数決で決めてもいいのは、本来は、「目的達成のための、具体的な方法・手段」についてだけ、なんだよ…。
※ だから、そもそも社会とやらが「分断」されて、社会全体が達成すべき目標・目的という「価値観・価値判断」が共有されていないならば、そこに行われている「多数決」は、意味をもたないことになる…。
※ いくら「多数決の結果だから。」と主張したところで、「手段・方法」の話しを超えて、前提たる「社会が達成すべき目標・目的」のところで、齟齬があるわけだから、多数を取れなかった一派は、到底納得できないわけだ…。
※ 問題は、構造とか、文脈とかにあるのでは無く、「多数決原理」が妥当する基盤・前提である「社会全体が達成すべき目標・目的」に、共有されているところが無い…、というところに「根本問題」があるわけだ…。』
多数決
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%95%B0%E6%B1%BA
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 宮川大河の漫画作品「多数欠」とは異なります。
多数決(たすうけつ、英語: majority decision)とは、ある集団において意思決定を図る際に、多数派の意見を採用する方法のこと。
概説
ある集団の意思決定をする。技術として、参加する単位の数を比較して多数の意思を 集団の意思とする。
多数決の前提条件
1 集団の利益になる意思決定。
損失になる意思決定も考えられるが、目的は集団の利益である
2 集団の範囲の明示、確定。
集団の一単位の権利として意思表示が数量化できる。
3 数量による比較と、公正な検証
たとえば、ビットコインはブロックチェーンの長さで、現在の状態が最大の情報量であることで正当だと証明している。
政治的な意思決定
ある集団の全ての構成員個々からの意見表明を元にして、その集団が採用する意思決定をするための手法である。一般的には単記非移譲式投票によって実施される。
より多くの人間が納得する結論を導き出すこと、特定の人物の決定に委ねないことから、民主制と深く関連したものであり、民主制の中では手続き的妥当性から採用されていることが多いが、論理的には民主制において必須なものではなく、全員が納得するまで議論し続ける形の民主制もあり得る。
また、どんな2人を選びだしても、十分細部まで比較すれば、同一の意思を共有することはない。
したがって、多数決には個々の意志の互譲や切り捨てが必ず伴う。
単純な多数決は衆愚政治へとつながる危険性をはらんでいる。
多数決はつねに少数意見の無視をともなう「多数派による専制」(トクヴィル)の側面があり「最大多数の最大幸福」(功利主義)がもたらす倫理上の負の側面をつねにはらむ。
多数決の正当性について、多数が必ずしも客観的に真実であり妥当なものを捉えられるものではない、とする批判がある一方で、少数説との比較において多くが相対的に良いと判断するものを選ぶことに最低限の正当性を認める発想がある。
日本においては、寺院などでも、多数決によって賛否を決める方法は古くからおこなわれていた。ただし、単純過半数で議論を決することはほとんどなく、目に見える程度の差が生じなければその案が採用されることはなかったという(「多分の理・多分の評定」)。
多数決の方法
多数決には次のような方法がある。
過半数
全体の半数より多い数をもって決するもので最も原則的な形態とされている方法[1][2]。過半数は出席議員数を2で除した値の整数部分に1を加えて得られた数である[3]。
特別多数
過半数よりもさらに多い特定の数をもって決する方法[1]。意思決定を著しく困難なものにするおそれがあることから議事の性質上特に慎重さを要するとされるものに例外的に採用される[2][3]。
比較多数
過半数に達しているか否かを問わずに相対的に多数であるものによって決する方法[1]。
比較多数の方法では少数者の意思によって決することになる場合を生じることがあるが、これは事実上少数支配を肯定する結果となることから一般的には採用されない[4][2]。
議会内の選挙において用いられることがある[3]。
なお、多数決の方法について、「相対多数」というときは比較多数を意味するが[3]、「絶対多数」というときは比較多数の対義語として過半数と特別多数の総称として用いられる場合[3]のほか、単に過半数を意味するものとして用いられる場合[1]もある。
多数決の正当化の仕方
正当性の契機
主権をもつすべての合議員が議論に参加し、結果として優勢な結論として得られたものを意思決定の正当性の契機ととられるもの。
主権の平等性
主権の至上性や平等性は比較を受け付けない。合議員が互いの主権を最大限尊重(尊敬)している場合、たった一票の反対であっても合意は成立しない(全会一致)が、急迫性のある議題については多数決によるにせよ、その合意の困難さに見合うだけの費用をもって少数派(多数派)との互譲が事後的に行われるはずである(緊急動議)。
経験論的見地
判例の蓄積により社会的に受け入れられつつある合意については、少数派の反論(少数説)を考慮しながらも当面の合意事項として公式な法として明文化することが可能である。
功利主義的見地
各主権者(主体)の効用を最大化させるための費用便益分析は可能であり、最適費用が算出可能な場合、合意には正当性がある(最小原理)。
空港騒音問題に際して、圧倒的多数派が防音対策や夜間発着禁止などの費用を負担する代わりに、少数派が日常での不便・不具合を忍従するといった場合。
難破船の食料不足を解決するために、最も弱った船員を殺傷して食料とする合意(ミニョネット号事件・ひかりごけ事件)。
宗教的な規律
多数決が宗教上の手続きによって定められているもの。寺院などで行われているもの。
陪審定理
政治思想とは無関係の理論体系である確率論を用いて、多数の一般国民による多数決は少数のエリートによる意思決定を越える信頼性を持つことを主張している。
紛争モデル
時代・地域を問わず最も普遍的な正当性を持つ意思決定の方法は、構成員同士による武力衝突である。
この意思決定方法は極めて普遍的な正当性を持ち、有史以来、異なる意思決定制度を用いる国家間にすら共通の合意形成を強制してきた。
多数決はこれを簡便化し低コストで模倣したものであり、武力衝突に準ずる普遍的な正当性を得ることが出来る。
例えばスイスのランツゲマインデでは、剣が、それを携帯している参加者の投票権を証明した[1]。
革命・内乱・暴動・クーデターなどの決定的な分断と暴力行為から主権を保護するための最適モデルとして投票行動の正当性が主張される。
全会一致の幻想
全会一致がつねに求められる場合、なんらかの抑圧により少数者の意見(利益)がないがしろにされている可能性がある。少数意見(利益)の実在を確認することによって合意の反証可能性が確保される。
多数決の問題点
少数意見の抑圧
評議員に平等の主権を前提とした場合、つねに少数意見(少数利益)が抑圧される危険性がある。「多数派による専制」。少数派の自治や多数派との盟約(コンパクト)などが利用される。
ちなみに、アメリカの発明家トーマス・エジソンは青年時代に押しボタン式の投票装置を発明し、議会において賛成票と反対票の数を瞬時に集計できる画期的な機械として売り込みを図ったが、そのような機械で少数意見を簡単に切り捨てることは民主政治の精神に反するとして、実際の議会では採用されなかった。
ヘルベルト・マルクーゼは、1965年に寛容の本質について論じた『抑圧的寛容』(Repressive Tolerance)において「多数派による専制」を容認する寛容を「消極的寛容」と批判し既存の多数決主義の半民主主義から脱却した真の民主主義を主張した。
衆人に訴える論証
多数を以てより優れた判断だと見なすことが、未来の予測を含む意思決定にとって正しいかどうか論証的にはわからない。1人の才能により価値が創造されることがあり、危機が回避されることがある。
イラク戦争の際、アメリカ連邦議会で武力行使に反対したのはバーバラ・リーただ一人であった。しかし、リーの判断は正しかったことが後に実証された[要出典]。
合議体の破綻
互いに譲り合えない基本的な利益についての互譲をもたらすには、非常に長い時間と粘り強い議論が必要となるが、急進派による性急な意思決定により決定的な分断が生じる可能性がある。「分裂した家(A house divided)」問題。
場の空気
社会心理学の見地から、他の主権者の意思を尊重する結果として、互譲の結果だれもが望まない結論に合意することがある(アビリーンのパラドックス)。
構成員の問題・パーテイション
当初から他の合議員の主権を尊重(尊敬)しない議員がいる場合、少数意見に多数派が支配される可能性がある。主権に階層が設定される場合(党派・パーテイション)最小勝利連合が成立する。
多数決の進化
二者択一
集団を構成する人員すべてが、二つの案の中から、他方よりふさわしい(もしくは自分に有利に働く)と思う方の案に投票し、最も多くの票を獲得した案をその集団の総意として決定するという方法。最も古典的な方法で、選択肢を別の方法で2つまで絞らなければならないことを除けば、多数決の理想である。[注釈 1]
単記非移譲式投票
集団を構成する人員すべてが、複数の案の中から最もふさわしい(もしくは自分に最も有利に働く)と思う案に投票し、最も多くの票を獲得した案をその集団の総意として決定するという方法。二者択一から選択肢の数の制限をなくした。
単記非移譲式投票
しかし選択肢が3つ以上になったため、戦略投票の影響や過半数の死票、投票の逆理等、二者択一にはない多数の問題を抱えることになった。これを補うため、二者択一でも決定が確実な票数である、投票者数の過半数に達した場合に限り、その案を採用するなどの措置が取られることがある。
より良い多数決の方法を求めて
選択肢が3つ以上の場合を考慮した、様々な多数決の方法が提案されている。詳細はen:Voting system。
Approval voting
他の方法とは逆に、戦略投票のある方が良い結果を出す。
単記移譲式投票
不採用が確定した選択肢に投じてしまった票に、まだ不採用が確定していない選択肢への再投票を行なわせる方法。最後には、採用される選択肢に全ての票が集まるため、多数決の全面的なやり直しを伴わずに全会一致が得られる。
シュルツ方式
コンドルセ方式の一種であり、IT業界で良く使われている投票手法。代表的なところでは、Wikipedia運営元のウィキメディア財団[5]や、オープンソース界隈 (Debian[6]、Ubuntu[7]等) がこの方式を使用している。新しい手法であるため政治方面ではまだあまり使われていないが、IT系政党である海賊党はこの方式を使用している。
多数派とは何か?
これら様々な多数決の方法は、必ずしも同じ結果にならない。従って多数決の方法を変えれば、それに応じて多数派も変わってしまう。
この事は、多数決の方法を選択できる立場に居る者は、どの選択肢が多数派になるかをある程度操作できる事を意味する。
投票理論家ドナルド・サーリは以下のように述べる。
「金をくれたら、次の重要な選挙の直前にあなたの組織に入ろう。誰に勝ってほしいかを教えてほしい。私は投票者たちの話を聞いて、どの候補者に人気があるかを判断する。それから全候補者を投票対象とした「民主的投票方法」を考案しよう。選挙では、あなたが希望したとおりの候補者が勝つだろう。」[8]
採用に必要な票数
通常は二者択一なので、
1/2 (50%) 以上、(下記と違い、一票でなく、%である)
半数 (1/2) + 一票
通常は、投票権のある人数は、偶数になるようにしてあり、引き分けになった時のみ、その投票を以て決着をつける権限が、議長に与えられている場合が多い(これは、国会・協会や学会等で議長席を巡って争いがおこる原因ではない。何故なら、議長は大抵の場合投票権のある人から選ばれ、議長の投票を含めても引き分けになる場合、議長は投票権を剥奪され行使できないからである。議長席の争いの原因は、議決に掛ける議案の順序で議決結果を左右できる投票の逆理のため。[2]を参照)。
で決着がつくことが多いが、上記のように(目で見える程度の差としての)
2/3 (66.66 ….. %)
か、それ以上(憲法改正や組合や組織の定款改正等の場合)を要求されることが多い。
また、特殊な場合には、
3/4 (75%)
か、それ以上が必要であると規定されている場合もあるが、
全会一致を必要とする場合もある。
しかし、全会一致は、特別な場合を除いて採用されなくなってきている。
歴史的な例: スパルタの成人式や、ある時代までのローマ教皇を決めたコンクラーヴェ。
採用に要求される票数が半数を超えると、二つの選択肢(「採用」か、「廃案」か)に同等な被投票権が与えられている場合、両者とも採用に必要な票数を取れない事が起きる。すると、コンクラーヴェの様に決定がなかなか行えず、その間、集団としての行動が麻痺する。これを防ぐため、「廃案」「前例踏襲」「君主に判断」「執行部に一任」「無作為」などの選択肢には特別な地位が与えられていることが多く、普通に提案された案を採用できない場合、これらが自動的に採用される。
憲法改正、有効投票数の2/3以上で採用…有効投票数の1/3超で「前例踏襲」が採用。
国際連盟、全会一致…一票以上で「無作為」を採用。
三つ以上の同等な被投票権を持つ選択肢から採用する場合、「死票」と同様に、多数決の方法によっては「採用に必要な票数」が無意味だったり定義できない場合がある。
優先順位付連記投票制…すべての票がひとつの選択肢に集まってしまう。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ メイの定理は、選択肢が2つのとき、いくつかの望ましい条件 (選択肢や投票者を平等にあつかうこと、選択肢にたいする支持の増加がマイナスの効果を与えないことなど) をみたす投票ルールは単純多数決しかないことを主張する。一方、アローの不可能性定理は3つ以上の選択肢があるときの集団的決定の困難性について述べた定理である。なぜ選択肢が3個未満と3個以上のときとで歴然とした差が出るのかをより一般的にしめしたのが中村の定理で、これは選択肢の数が「中村ナンバー」とよばれる整数未満であれば意思決定ルールはうまく選択を行え、その整数以上であればひとびとの選好によってはサイクル (投票のパラドックス) が起きることを示している。多数決の中村ナンバーは (投票者が4人のケースを除けば) 3であることから、中村の定理より、多数決は2個までの選択肢からならうまく選択を行えることが分かる。 過半数を超える支持 (全体の2/3など supermajority) を要求するルールでは中村ナンバーが3より大きくなることがあるが、そのようなルールはべつの条件を満たさないため、アローの定理が不可能とした望ましいルールには該当しない。
出典
^ a b c d 松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、457頁
^ a b c 樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法Ⅲ(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、117頁
^ a b c d e 参議院総務委員会調査室編 『議会用語事典』 学陽書房、2009年、274頁
^ 佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、731頁
^ 2008 Wikimedia Board Election results ウィキメディア財団
^ Debian 投票情報 Debian Project
^ Ubuntu IRC Council Position Canonical 2012年5月17日
^ 出典「選挙のパラドクス—なぜあの人が選ばれるのか?」(ウィリアム パウンドストーン (著)、篠儀直子(訳))236頁 。
関連項目
選挙
投票
表決数
少数決
多数代表
全会一致の幻想
衆愚政治
数の暴力
議事妨害
中村ナンバー
陪審定理
メイの定理
アローの不可能性定理
社会選択理論
安定多数
大枠の合意
決選投票
ボルダ得点
外部リンク
だれからも文句のでない投票方式
典拠管理データベース: 国立図書館 ウィキデータを編集
日本
カテゴリ: 投票理論民主主義意思決定
最終更新 2024年10月4日 (金) 06:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
「多数決は話し合いじゃない…!」新一年生の娘と母がぶち当たった「小学校の壁」
https://gendai.media/articles/-/141896?imp=0
※ 何事も、「その制度が妥当する、限界」というものがある…。
※ 「多数決」が妥当する場合にも、当然、「限界」というものはある…。
※ 「多数決」で決めてもいいものに、「手段・方法」が挙げられる…。
※ 構成員間において、達成すべき「価値・目的」が共有されていて、それを達成すべき「手段・方法」に意見・見解の一致が見られない場合には、「多数決」で決めてよい…。
※ 達成すべき「価値・目的」が共有されていない場合には、「多数決」で決めても、 その「決まったこと」には、「不満」が燻ぶり(くすぶり)続ける…。
※ ましてや、達成すべき「価値・目的」の方を「多数決で決める」なんてことは、本来ならば、「もっての外」の側面がある…。
※ まあ、世間じゃザラにやってることだがな…。




















『2024.11.28
子育て漫画:笑う母には福来る#83
著者
はなゆい
プロフィール
漫画家・イラストレーター
小学校に通う6歳の娘と幼稚園に通う4歳の息子を育てながら、笑いと感動を描いた子育て漫画をブログやインスタグラム(@yuihanada7)で発信している漫画家・イラストレーターのはなゆいさん。日々子育てをしながら、思わず笑ってしまったことや子どもたちから学んだことなどを漫画にしています。
今回は、2024年4月に小学1年生になった長女の学校でのお話です。幼稚園にしても小学校にしても中学校にしても、教育における方針や取り組み、規模などは学校によってさまざま。それに対して良い・悪いと思う価値観も人それぞれです。そんな教育の場において、はなゆいさん親子が初めて経験することとなった葛藤について綴っていただきました。』
『小学校に通う6歳の娘と幼稚園に通う4歳の息子を育てながら、笑いと感動を描いた子育て漫画をブログやインスタグラム(@yuihanada7)で発信している漫画家・イラストレーターのはなゆいさん。日々子育てをしながら、思わず笑ってしまったことや子どもたちから学んだことなどを漫画にしています。
今回は、2024年4月に小学1年生になった長女の学校でのお話です。幼稚園にしても小学校にしても中学校にしても、教育における方針や取り組み、規模などは学校によってさまざま。それに対して良い・悪いと思う価値観も人それぞれです。そんな教育の場において、はなゆいさん親子が初めて経験することとなった葛藤について綴っていただきました。
はなゆいさんの「子育て実話漫画」一覧はこちら▶︎
幼稚園と小学校のギャップが大きかった
みなさん、こんにちは。小学生と幼稚園児を子育て中のはなゆいです。今回は、長女のまる子が迎えた「小学校の壁」についてお届けします。
当然といえば当然ですが、幼稚園と小学校では、学ぶ内容や生活、団体行動など、違いがあります。ただ、入学当初のまる子にとっては、そのギャップが大きかったようで「小学校の壁」にぶち当たってしまいました。
なぜギャップを大きく感じたかと申しますと、お世話になった幼稚園は規模が小さく、そのため個々の意見をそれぞれに受け止めてくれたから、というのがあります(現在通っている小学校の対応が悪い、という意図は皆無です)。
自由にのびのび育ってきたまる子が、座学や決まりごとの多い小学校で問題なくやっていけるのだろうか? そんな不安は、実は入学前から私は持っていました。
しかし入学すると、娘は意外にもたくましく、周りとうまくやれるようになっていった……かのように見えました。しかし、学校行事での行動をめぐり「幼稚園と小学校の違い」を思い知らされる出来事に遭遇。
「個」を尊重してくれる幼稚園で生活してきたまる子。「集団での活動」が多い小学校。そのギャップに対して、いかに折り合いをつけていくか、今回は親子の葛藤の話です。』
『娘の納得できない気持ちは母も分かるけれど…
まる子が通っていた幼稚園では、運動会での競技内容や遠足の行き先、遊戯の内容だけでなく、自分たちのクラス名までも、園児たちの話し合いにより、決められていました。
また、一人ひとりの声を重く受け止めるので、一つのことを決めるのに何日もかけることが当然に行われていました(保育者がサポートに入ることはありますが、先導することはNGでした)。
例えば、リレーの順番を決めるときに、出たい順番がダブった子が2人いた場合。話し合いをしますが、それでもお互いに納得できなかった場合にどうするかというと、「どう決着をつけるか」がまた話し合われます。
ジャンケンなど勝負を5つやって決着をつけよう、などのアイデアが生まれ、それを実行します。そんなプロセスを経た結果であれば、負けた方も納得できる、そんな流れが日常でした。
そのほかのことでも同様で、懐の深い幼稚園だったと思います。
なので、小学校の遠足での遊びを決める会議で、多数決で物事が決められていくことに、まる子が納得できない気持ちが痛いほど分かりました。ただし、今後もこうした状況は頻出することでしょう。
だからこそ、「多数決で決めると悲しい思いをする人がいる」と感じた今の気持ちをこれからも忘れないでいてほしいと切に思った出来事だったのでした。
正直、母である私にはこの葛藤の解決策がわからず……ですが後日、この問題を解決することに。その詳細についてはまたお伝えします。』
選挙の予想が大外れしたエリートが「愚民」をバカにしているという「悲惨すぎる現実」
https://gendai.media/articles/-/142149
※ (一部抜粋。)
『2024年は、「知性ある人々」にとって不幸な一年だったようだ。「愚かな人々」が社会で存在感を増したためである。
さかのぼること7月7日、東京都知事選挙が行われたが、結果が望み通りではなかったらしい人々の中にはSNSで次のように嘆く者がいた。
反知性の愚民化ってのは、本当に下品だけど、いい作戦なんでしょ。相手は賢いよ。
今回愚民ではない市民と街で会えた。これは蓮舫さんのおかげだよ。
愚民をつい馬鹿にしちゃう我々のクセ、これはもっと深く研究し、改善しなくちゃ。(※1)
事情はよくわからないが、たぶん投稿者が推す候補が「愚民」たちに支持される候補に負けてしまったのだろう。』
『11月5日には米国の大統領選挙が行われた。接戦になると言われていたが、結果は共和党のドナルド・トランプが予想外の勝利を収めた。その最中、ある映画評論家はなぜか、不意にSNSにこんな投稿をする。
残酷な事実:アメリカの赤い州(共和党が強い州)は州民の大卒率が全米平均の大卒率43.1%より低く、平均より大卒者が多い州は青い州(民主党が強い)になる。大卒率が全米平均くらいの州は共和党と民主党が拮抗する「接戦州」になる。(※2)』
『さらには11月17日には兵庫県で県知事選が行われ、パワハラの疑いなどで告発され県議会が不信任を議決し、失職していた前知事の斎藤元彦が二度目の当選を果たした。これもやはり予想外の結果だったが、SNSの影響が大きかったとも指摘されている。そしてやはりこの結果にがっかりしたらしい元官僚は、SNSでこう嘆いた。
「バ○は死ななきゃ治らない」とは言わない。学べば治る。賢くなれる。斉藤を当選させた兵庫県民も。(※3)』
『今日、「愚民」たちにイラつくエリートはかれらに限らない。世界中で、愚かで下品な「愚民」たちを軽蔑するエリートと、その「上から目線」に反発する大衆の分断が起こっている。それは、エリートに批判的な英国の論客、オーウェン・ジョーンズの言葉を借りるなら「文化戦争」である(※4)。
ただジョーンズは同時に、インテリにこうアドバイスしている。「英国で左派に将来があるなら、労働者階級の人々の生活やコミュニティとの文化的、政治的な断絶に向かい合わなければならない」。
日本にとっても他人事ではない。とくにインテリ層によって構成される左派は、過去にも「愚民」たちとの付き合いに失敗してきたからだ。』
『そのような現象を記録した人間の一人に、戦中から戦後にかけて東京都八王子市の農村に暮らしたきだみのる(1895~1975年)を挙げていいだろう。きだは開成中学・慶應大学を経てパリの現ソルボンヌ大学で学んだエリートだが、農村を観察し、貴重な資料を多く残している。
きだの元には戦後、東京から農村の観察や教化を試みる左翼の大学生や大学教員が訪れることがあった。だがきだは彼らの農民への姿勢に反発を覚える。「そこには農民に対する侮辱のようなものを感じた。家に金があるため進学した者が大学で先生やオルグの口や舌を通じて覚えたことを、農民にくり返して農民を啓蒙し導く。……失敗するのは明らかだよ」。
鋭いきだは、インテリたちの農民に対する態度が単なる蔑視にとどまらず、もう少し複雑であることも見抜いていた。「農民……という言葉が出ると途端に同情的、感傷的、嘆息的になって『農民(或いはニコヨン)』はええですなあ」『労働が激しくてほんとにお気の毒ですよ』『全く相すまんですよ』と口先でいうくせがある」(ニコヨンとは日雇い労働者のこと)。今風に書くと、「上から目線」ということになるだろうか。
そしてきだは言い放つ。「インテリが農民に救いを与えられる、そんな筈はない。その考えは身の程知らずだ」(※5)。』
『きだに限らず、ある世代までのエリートたちには、知的な格差の認識とエリートとしての自覚が明確にあり、それを隠さなかったし、ときに知的な格差が社会を突き動かすことも理解されていた。たとえば戦後を代表する知識人である政治思想史学者・丸山眞男(1914~1996年)が、1947年に東京大学で行った講演で、「インテリ層と国民一般との知識的乖離」が日本でのファシズム成立に大きな役割を果たしたと強調したことはよく知られている(※7)。』
『ただし注意すべきは、こういったかつての知識人たちのエリートとしての自覚は安っぽい「上から目線」ではなく、ある種のノブレス・オブリージュというか、社会と大衆への強い責任感に支えられている点だ。だから彼らの批判の矛先は「愚民」たちよりも、むしろ自らを含むインテリ層に対して向けられる。
たとえば、インテリの自覚と責任から逃れようとする者に手厳しい丸山は私的なノートでこうつぶやく。「インテリの『大衆』にたいする負い目の感情とないまぜになったものわかりのよさは、私にむかつくような嫌悪感を与える」。
さらに、東大紛争の年にはこうも書いた。「中年男が、――もっとひどい場合には白髪男が――助平面で『反抗する若者たち』にすりよって……いる光景ほど、日本のインテリの『知性』なるものの底の浅さをあらためて証明したものはなかろう」(※8)。
そして丸山はこう結論する。大衆が情報に流される現代で知的エリートであることの意味とは、決して特権ではない。そうではなく「大衆への奉仕ですよ」(※9)。』
『現在の高学歴エリートたちに、「大衆への奉仕」の意識はあるだろうか。むしろ「大衆への蔑視」のほうが先に立ってはいないか。』
『こうして知的格差の存在は忘れられ、同時にエリートからエリートとしての自覚と責任感、大衆への奉仕の意識も消えた。残ったのは中途半端な「上から目線」だけである。』
『だがしかし、知的な格差は今も明らかに存在している。その一面に過ぎない学歴の格差だけを見ても、実は日本人の3割ほどしかいない(四年制)大卒層とマジョリティである非大卒層にはさまざまな格差があることがわかっている。社会学者の吉川徹は、そんな日本社会を「学歴分断社会」と呼び、「大卒層と非大卒層には、就いている職種や産業……賃金において明らかな格差があります。さらに、ものの考え方や行動様式も異な」ると書いている(※11)。
これほど知的に分断された日本社会で、知的に不調な層を「愚民」で片づけていいものだろうか。あるいはそもそも、彼らは本当に「愚民」なのか? ひょっとして、おかしいのは「愚民」ではなく高学歴エリートのほうではないか? 「愚民」たちとの「ものの考え方や行動様式」の違いに耐えられていないだけだったりはしないか。
もし「愚民」でないなら、そんな反省をする程度の知性はあっていいだろう。そして分断を煽るだけの「上から目線」を乗り越えるために欠かせないのは、日本社会が忘れた知的な格差を見つめなおすことである。幸い、材料はたくさん残されている。』
淮南子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『淮南子』(呉音: えなんじ、漢音: わいなんし、中国語: 淮南子; 拼音: Huáinánzǐ; ウェード式: Huai-nan Tzu)は、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 – 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。
日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。
10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。
道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。
注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
構成
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
淮南子
巻一 原道訓
巻二 俶真訓
「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」[1]は『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった[2]。)
巻三 天文訓
巻四 墬形訓 (地形訓とも。「墬」は「地」に同じ、「墜」や「堕」とは別字)
古代の地理観を記す。36の異国の記載(海外三十六国)には伝説的な内容が含まれる。
巻五 時則訓
巻六 覧冥訓
巻七 精神訓
巻八 本経訓
巻九 主術訓
巻十 繆称訓
巻十一 斉俗訓
巻十二 道応訓
巻十三 氾論訓
巻十四 詮言訓
巻十五 兵略訓
巻十六 説山訓
巻十七 説林訓
巻十八 人間訓
巻十九 脩務訓
巻二十 泰族訓
巻二十一 要略
訳注書
楠山春樹『淮南子 上』明治書院〈新釈漢文大系 54〉、1979年8月。ISBN 4-625-57054-9。
楠山春樹『淮南子 中』明治書院〈新釈漢文大系 55〉、1982年7月。ISBN 4-625-57055-7。
楠山春樹『淮南子 下』明治書院〈新釈漢文大系 62〉、1988年6月。ISBN 4-625-57062-X。
『淮南子』楠山春樹訳著(本田千恵子編)、明治書院〈新書漢文大系 34〉、2007年5月。ISBN 978-4-625-66403-8。新書での抜粋版。
『淮南子 説苑』戸川芳郎・木山英雄ほか訳、平凡社〈中国古典文学大系 6〉、1974年12月。ISBN 4-582-31206-3。現代語訳のみ
池田知久訳著『訳注 淮南子』(講談社学術文庫、2012年)。部分訳。文庫は増訂版。
電子書籍版『訳注『淮南子』増補改訂版』は、「人間万事 塞翁が馬」を収録、新解説を追加。
旧版は『淮南子 知の百科』(講談社〈中国の古典〉、1989年)
『淮南子 : 現代語訳』(小野機太郎 訳 支那哲学叢書刊行会〈支那哲学叢書 ; 第10〉 1924年 国立国会図書館デジタルコレクション)
脚注
^ 訓読は楠山(1979) p.85の楠山春樹のものによる。
^ 『日本書紀』坂本太郎ほか、岩波書店〈日本古典文学大系67〉、1967年3月31日、543頁。ISBN 4-00-060067-2。訓読も本書による。
参考文献
金谷治『淮南子の思想 老荘的世界』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年2月。ISBN 4-06-159014-6。 – 難解な淮南子の入門書。劉安の生平のみならず、時代背景にも詳しい。
関連項目
老子
荘子
道教
八紘一宇
塞翁が馬
外部リンク
淮南子(中文)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
VIAF
国立図書館
ドイツ イスラエル アメリカ
スタブアイコン
この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。
カテゴリ: 紀元前2世紀の中国語書籍秦漢の書籍前漢道教
最終更新 2024年9月12日 (木) 12:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
一葉落ちて天下の秋を知るの意味と語源や得られる教訓
https://tokainokenso.com/2024/09/09/4337/
『2024年9月9日 / 最終更新日時 : 2024年9月9日 tokainokenzo
【ことわざ解説】一葉落ちて天下の秋を知るの意味と語源や得られる教訓
目次
はじめに
一葉落ちて天下の秋を知るの意味
一葉落ちて天下の秋を知るの語源
一葉落ちて天下の秋を知るの実生活での例
一葉落ちて天下の秋を知るから学ぶべき教訓
まとめ
はじめに
「一葉(※ ひとは)落ちて天下の秋を知る」ということわざは、一つの小さな変化や兆しから、大きな変化を予測できるという意味を持つ表現です。季節が秋に移り変わることを、木の葉一枚が落ちることで知るように、わずかな変化がやがて来る大きな出来事を暗示しているという教訓を含んでいます。本記事では、このことわざの意味や語源、現代生活における具体例を通して、どのような教訓を得られるのかを解説していきます。
一葉落ちて天下の秋を知るの意味
「一葉落ちて天下の秋を知る」とは、一つの小さな出来事や兆候から、やがて起こる大きな変化を予測するという意味です。秋が近づくと、最初に一枚の葉が木から落ちることがあります。この一葉が落ちることは、やがて本格的な秋が訪れることを示しています。このことわざは、日常生活やビジネスにおいても、小さなサインに気づき、先を見通す力が重要であることを教えてくれます。
一葉落ちて天下の秋を知るの語源
このことわざの語源は、中国の古典に由来します。『淮南子(えなんじ)』という書物に登場し、秋が近づくことを一枚の葉が落ちることで感じ取るというエピソードから生まれました。「天下の秋」という表現は、単に季節の移り変わりを指すのではなく、広い範囲にわたる変化や、時代の大きな転換を示唆しています。このように、歴史的な視点からも、一つの小さな兆しがやがて大きな変化を予兆することを指摘しているのです。
一葉落ちて天下の秋を知るの実生活での例
現代社会においても、このことわざの意味は非常に有効です。たとえば、ビジネスの分野では、顧客からのわずかな不満や問い合わせが、後々大きな問題に発展する可能性を示すサインであることがあります。また、テクノロジー業界でも、ある小さな技術革新やトレンドがやがて市場全体に大きな影響を及ぼすケースは少なくありません。一つの変化や異変を見逃さずに、先を見通すことが、成功や問題回避のカギとなることを教えてくれます。
一葉落ちて天下の秋を知るから学ぶべき教訓
このことわざから学ぶべき教訓は、小さな兆しや変化に敏感であることの重要性です。私たちは日常生活の中で、何気ない変化や出来事を見逃してしまいがちですが、実際にはそれらが将来の大きな出来事の前触れであることも少なくありません。たとえば、健康面でも、体調のわずかな異変が後に大きな病気を引き起こすことがあります。日々の小さなサインに気づき、適切に対処することが、より良い未来を築くための鍵となります。
まとめ
「一葉落ちて天下の秋を知る」ということわざは、一つの小さな出来事から大きな変化を予測する力を養うことの重要性を教えてくれます。人生やビジネスにおいて、わずかな変化を見逃さず、先を見通すことが成功への道を開くことになります。日々の変化に敏感であることが、やがて訪れる大きな変化や挑戦に対処するための準備となるのです。 』
外国人とのビジネスマナー 握手のタブー6つの注意点
https://jamoi.jp/webmagazine/2019/01/3765/
『2019/01/18
LINEで送る
みなさん、こんにちは。
トップマナーOJTインストラクター 石井 由美子です。
握手は外国人にとって、「これから仕事をする相手がどんな人物なのか」という第一印象を決める大切なマナーです。前回は、スマートな握手のポイントをお伝えしました。
>>外国人とのビジネスマナー 世界に通用する握手6つのポイント
けれども、習慣や文化をよく知っておかないと、無意識に相手に悪い印象を与えてしまうこともあります。
日本人がやりがちな 「ぺこぺこお辞儀握手」「死んだ魚のような握手」など、あらかじめ握手のタブーについても知っておきましょう。
知っておきたい握手のタブー 6つの「やってはいけない」
1.死んだ魚の握手 Dead Fish Handshake
相手の手の平の中に自分の手をゆだねるような、ふにゃっとした力ない握手のことを“Dead Fish Handshake”と言います。気持ちが悪いと嫌われるだけでなく、仕事に対する意欲や自信もないように受け取られかねません。手を握る力の強さが自信と親しみを伝えるのです。
2.両手での握手や、時間の長い握手
過剰で、なれなれしく見えます。話しながら小刻みに手を上下に振り続けていると、長い握手になりがちです。握手は3~4秒ほどの時間にしましょう。
3.お辞儀をしながらの握手
日本ではよく見かけますが、握手をするときはお辞儀はしません。お辞儀をすると、目をそらしてしまうことになるからです。
握手でもっとも大切なことのひとつがアイコンタクト。お辞儀をすると、相手はずっとあなたの頭頂を見ることになります。にこやかなアイコンタクトをキープするために、お辞儀はやめましょう。
4.手袋をしたままの握手
寒い季節、外で握手をすることもあるでしょうが、基本的に手袋は脱ぐのがマナー。ただし、礼装の場合、女性は手袋を外さなくても良いとされています。
5.くしゃみや咳をするときに口を覆った手で握手をする
これは、不潔で嫌な印象を与えてしまいます。くしゃみや咳をするときは、ハンカチで口を覆うようにしましょう。
6.握手のあとに手を服で拭う
笑い話のようですが、案外やってしまいがち。相手の手が汗ばんでいたりすると、無意識に拭ってしまいがちですが、気を付けましょう。
Hand shake
日本人は、女性も男性も、意識していないと、「死んだ魚の握手」をしがちですが、わたしの夫は「力強い握手」をしようとして、わたしの英会話の先生のイギリス人男性の手を思いっきり握りしめ、「おお!」と悲鳴をあげさせたことがあります。「次は握手のレッスンね!」と言われました。あなたの旦那様や、上司は大丈夫でしょうか?
文化によって違う握手 相手の国や文化を尊重して
握手はグローバルなマナー。基本は同じでも、国や文化によって少しずつ違うことがあります。特にイスラム教の人々は、女性の体に触れることはタブーです。女性同士なら問題ありませんが、相手に合わせましょう。
ほかにも、
1.アジア系の握手はソフトな握手が多いと言われます。
2.アメリカ人は男女問わず、握手を率直に求めてくることが多いと言われます。
3.イギリス人は握手の後も適度な距離感を置きたいと言われます。
もともと握手は、これから始まる人間関係をスムーズにさせるものです。
文化や国の違いばかりでなく、人それぞれ個性もあるので、相手を尊重し、恥をかかせないように合わせることもマナーです。
アメリカ人男性の英会話の先生と握手をしたときのエピソードをご紹介しましょう。
彼は、レッスンの前後に必ず自分から握手を求めてきました。
「女性からではないの?」と思うこともありましたが、その引き込まれるような笑顔、率直な態度は、「またこの人に会いたい」と思わせるものがありました。
また、タブーとされる握手と同時のお辞儀が素敵に見える、こんなこともありました。
アメリカのオバマ前大統領が訪日し、天皇陛下と挨拶を交わしたとき、握手と同時に深々とお辞儀をしました。オバマ前大統領は、日本人にとってのお辞儀の大切さを知っていて、敬意を示すために、あえてそうしたのだと言われています。
わたしも日本人として、オバマ前大統領の気遣いに感動しました。「思いやりの心を行動で表すのがマナー」「型を知ってこその型破り」が素敵ですね。
image global
相手の文化を知って表現することは、それだけで敬意や熱意を伝えるものです。
「相手と良い関係を築きたい」という気持ちを、笑顔とアイコンタクト、自信と熱意を伝える握手で表現しましょう。
心地よい人間関係を築くヒントをお届けする「Manner Up Magazine(マナーアップマガジン)」
思いやりの心を行動で表すためのアイデアが詰まったウェブマガジンです。お役に立てれば幸いです。
このマナーについては、#ソーシャルマナー #インバウンドコーチⓇ #英語接遇ベーシック
日本マナーOJTインストラクター協会
トップマナーOJT インストラクター 石井 由美子
講師 石井 由美子 blog
』
日本人だけ?非礼?「両手握手はみっともない」
https://voice.php.co.jp/detail/2786?p=1
『2016年02月01日 公開
2016年11月11日 更新
シェア
LINEで送る
linkedin
勢古 浩爾(エッセイスト)
言葉だけでへりくだる
テレビを観ていて感じるもう一つの違和感がある。「させていただく」という言い方が頻繁に使われるようになったことである。「聞かせていただく」「読ませていただく」「伺わさせていただく」など。これは、むやみにへりくだる語法である。「わたしみたいな程度の低い人間は、本来ならそんなことをするのは畏れ多いことなのですが、まことに失礼なことながら、そのようにさせていただきます」といったところか。
両手握手と同じように、このへりくだりの語法が、いつごろ、どこから広まった言い方かはわからないが、出所はやはり芸能界あたりではないかと推測される。時期的には、フェイスブック(2004年開始)やツイッター(2006年開始)の普及と同時期のような印象がある。要するに、せいぜいこの10年ほど、顕著になったのはここ4、5年のことではないか。「わたしたちは生きているのではない。生かされているのだ」といった謙虚な意識の広がりも関係ありそうだが。
少しでも偉そうな言動をするとネットで叩かれるようになった。「炎上」という言葉もごく普通に使われるようになり、SNSなどのネットの影響力は無視できないほど大きくなった。人気商売の芸能人やスポーツ選手がネットでの反応を気にするのはやむをえない。自分の言動が「尊大」と受け取られないかと戦々恐々とした結果、形だけでへりくだる「両手握手」作法と、言葉だけでへりくだる「させていただく」語法が出現したのではないか。もともと芸能界には「お客さまは神様です」の土壌がある。行き届いた思いやりある行為は「神対応」として称えられ、素っ気ないぶっきらぼうな行為は「塩対応」として酷評されるのも、その流れなのか。いつの間にか、沢尻エリカまで丸くなってしまった。「尊大・傲慢」と見られないようにという意識は一般にも広がり、誰もが「萎縮」しているようにみえる。
「両手握手」や「させていただく」が広がるよりも前に、わたしは、どうも本(とくに評論分野)の文体に「です・ます調」が増えてきたなと感じていた。売れている本に多いようだなと思い、この傾向は現在も続いている。べつに「である・だ調」は偉そうだという風潮が広がっていた記憶はない。しかし「です・ます調」は、読者に媚びたり阿るというわけではあるまいが、明らかにへりくだっている。そのほうが読者に受け入れられやすい(すなわち、売れる)と考えた著者たちの一方的な自粛なのか。
以前なら、世間に自分の考えや書評を発表できるのは、おおむね専門家に限られていた。しかしいまでは誰もがブログやSNSで、いとも手軽に自分の考えや意見を表明することができる。誰でも簡単にブックレビューで本の批評をすることができる。このことが「です・ます調」の採用に関係があるのかないのかわからないが、いまや本の書き手にとって批判の紙つぶて(ネットつぶて)は四方八方から飛んでくるのである。上司は部下を叱れない。企業も料理店も警察も低姿勢である。著者たちが、「わたしは偉くもなんともありません。少しでも読んでいただく人の参考になればうれしい」と低姿勢になってもなんら不思議ではない。ただし、文字面だけのへりくだりだけどね。
昔は「出る杭は打たれる」といわれた。実力もないのに(あっても)はねっかえるな、という日本社会の戒めである。それが「出すぎた杭は打たれない」といわれるようになり、誰もが認めざるをえない圧倒的な実力をもつ人間になることが称賛された(「出すぎた杭は引き抜かれる」ともいわれたが)。が、いまでは「出る」前に自粛する。「出る」つもりは満々なのに、言葉や形の上だけで、「出るつもりは毛頭ありません」とへりくだる。企業は消費者からクレームが来ないように保険をかける。「これは個人の感想です。効能ではありません」と。テレビの解説者もまた、責任問題にならないようにけっして断定することはない。素人でもいえる、「かもしれません」ばかりを連発する。
こっちがこんなに下手に出ているのに、あるいはフラットな応対をしているのに、それでもこちらを見下すようなエラソーな人間に対しては、その態度をとがめる言葉がある。「上から目線」がそれであり、これは「尊大・傲慢」な言い方を検閲する言葉である。ただしこの言葉も、ネット上での匿名発言なら「人間のクズ」だの「クソ」だのと容赦なく罵倒するところを、面と向かっていう言葉として婉曲的な表現に和らげられている(いまでは「上からだな」と省略されたりする。そのあとに「1回、謝っておこうか」と続く)。
植民地的根性丸出し
この言葉が流行り始めたのも「両手握手」「させていただく」「です・ます調」と同じころではないかと思う。初めてこの言葉を聞いたときは、なんとまたばかな言葉かと思った。なにより、言葉自体が幼稚で薄汚い。ところが、この言い方はいまではもう完全に市民権を得たようである。とある店で、50半ばの嫌な顔のおっさんが、同年配の男相手に、この言葉を使っているのを見たときは、あんたは中学生かと驚いた。傍で話を聞いていると、そのおっさんは劣等感に屈折した奇矯なプライドの持ち主のようで、話の端々に暴力をちらつかせ、一言でいうと、ろくでもない男だった。
「両手握手」や「させていただく」などの「へりくだる」姿勢の他方で、テレビや本では「へりくだる日本」どころか、日本人の「おもてなし」や「やさしさ」の自慢、日本の技術力の高さの誇示、「クールジャパン」の押し付けなど、「自画自賛の日本」の主張が頻繁である。欧米に対する日本のテレビマスコミの劣等感は昔からである。以前は「世界のミフネ(三船敏郎)」といい、いまでも「世界のキタノ(北野武)」や「世界のオザワ(小沢征爾)」などといいたがる。何が「世界の」だ。知ってか知らずか、いまだにマスコミはこのような植民地的根性丸出しの言い方をやめようとしない。
ノーベル賞を日本人が受賞するのはうれしいことだが、報道量はいささか常軌を逸している。2014年度のノーベル賞取材に世界から集まった取材陣は150人ほどだったが、そのうち100人が日本の取材陣だったという。前からおかしいと思っていたんだ。欧米でも自国の受賞者が出ると、テレビで臨時ニュースが流れ新聞の第一面で報じられるものなのか、と。以前は世界主要国の首脳たちが集まる会合の記念撮影で、テレビでは、わが国の首相がどの位置に立つのかが取りざたされたものである。「またはじっこかよ」と嘆き、「今回はついに中央近くに立ったぞ」と安堵したりしていたのだ。
わたしたちが国としても個人としても、上から下まで求めているのは、じつは、自分のエゴ(プライド)を満足させてくれる他国・他人からの尊敬である。それも「尊敬」は鈍重らしく、現在では「リスペクト」という言葉のほうが通りがいい。「両手握手」は形だけのへりくだり、「させていただく」は言葉だけのへりくだり、「です・ます調」は文字面だけのへりくだりにすぎない。日本人の優秀さの露骨な自画自賛は、ただのうぬぼれである。いずれも自分や自国が、他人や他国からどのように見られているかが気になってたまらず、いい人間いい国として認めてもらいたいという意識の表れである。
わたしも、日本人は全体としては優秀であると考える。秩序を守り、向上心があり、勤勉だ、というのはほんとうだと思う。親切で控えめで気配りができる。繊細な感覚をもち、暴力的ではない。しかしこれらの美点も裏を返せば、おとなしく従順で大勢順応ということになる。同調強制型で非寛容でこすっからくて付和雷同的で、そのくせ幼稚な形式主義でもある。個人であれ国家であれ、プライド(自尊心)をもつことは必要である。けれどプライドはこれ見よがしに相手に押し付けるものではない。静かに内にもつものである。なんだろう、日本代表チームのあの「サムライジャパン」だの「なでしこジャパン」といった形式的な愛称の蔓延は。「ポセイドン」「火の鳥」「龍神」「フェアリー」「マーメイド」などなど20近くもあり、選手たちが「わたしたち(おれたち)にもあんなのがほしい」と訴えるそうである。ゆるキャラブームなど、もうわけがわからない。
お姫様のつもりか
と、長々と書いてはきたが、以上は当たるも八卦当たらぬも八卦のような、かなり無理やりな辻褄合わせである。日本社会に潜む一現象の意味を明らかにしてみました、というつもりはさらさらない(と、わたしもへりくだる)。というのも、「上から目線」という言葉だけは一般に広まったといっていいが、「両手握手」作法も、「させていただく」語法も、わたしが思っているほど一般には広まっていないのではないか、という気がするからである。異常なほどテレビを観ているわたしが、テレビに映る人気商売の公的な人物たちがやっていることに違和感をもち、そのことだけで、それがあたかも社会全般で見られる現象であるかのような錯覚に陥っただけの話かもしれないと思わないでもない。
もともとは、単純である。「生まれてきてくれてありがとう」とか、「感動をありがとう」とか、「元気をもらいました」とか、「応援よろしくお願いします」とか、「ガンバー」とか、「メッチャ」とか、「ヤンチャ」といった言葉がじつに聞き苦しいというのと同じで、両手で包むあの握手の仕方はいかにも見苦しい、片手でやれよ、といいたいだけである。わたしはいい意味で古い人間だから、いまだにこのような言い方や行為になじむことができない。なじむつもりもない。
握手をしながら、頭を下げるのはみっともない。あれはやめましょう。もっとも、外国人にも握手をしながらつられて頭を下げる人が散見されるようになっているが、それはかれらの思いやりである。日本人だけが思いやりに長けているわけではない。握手をするとき、これは女の人に多いのだが、手を差し出すだけでまったく力を入れない人がいる。握り返すのは下品とでも思っているのだろうか。それとも、お姫様のつもりなのか。こちらとしては、何かの生肉を握っているようで気持ちが悪い。軽く握り返しましょう。』
〔お知らせ〕
※ これまで、大体、月~土には、毎日投稿上げてきた。
※ しかし、これからは、そうもいかない状況になってきた…。
※ というのも、親父もお袋もあの世行きとなって、その「住居」(建物と土地)の処分問題が発生した…。
※ この際だから、自分の居宅の改修(老後に備えて、バリアフリー化、手すりの設置など)もやろうと考えている…。
※ それで、不定期に「業者さんとの打ち合わせ」の予定が入ったりすることになった…。
※ 何より、これまでどおりのネットワーク、パソコン環境が、保持できるかすら怪しくなった…。
※ 今現在は、一応、ファイバー引いて、光回線環境にある…。
※ それも、一旦は、回線撤去して、再敷設するような感じになりそうだ…。
※ そうすると、「回線契約」も、「再契約」ということになるのか…。
※ そうなった場合、プロバイダー契約は、どうなるのか…。
※ また、現在使用中のパソコンも、一旦バラシて、運搬・移動するような感じになりそうだ…。
※ 無事に、「元通り」組み立てられるのか、この老眼のマナコでは、ちょっと自信がない…。
※ そういうことで、今年いっぱいは、「不定期に」投稿上げるような感じになりそうだ…。
※ いちいち、「お知らせ」しないで、「お休み」することも、多くなると思うので、ご了承願います…。