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※ 今日は、こんなところで…。
※ 徳川慶喜公よりも、こっちの方に興味を持った…。
※ 世のなか、いろんな「障害」があるもんだな…。

『執筆者: Andrew Skodol
, MD, University of Arizona College of Medicine
最終査読/改訂年月 2018年 8月
プロフェッショナル版で 同じトピックをみる依存性パーソナリティ障害は、世話をしてもらいたいという広汎で過度の要求を特徴とし、服従的でまとわりつく行動を生じます。
依存性パーソナリティ障害の患者は自分で自分の面倒をみることができると考えておらず、服従することで他者に自分の世話をしてもらおうとします。 依存性パーソナリティ障害の診断は、世話をしてもらいたいという要求や、自分の世話をしなければならないことに対する恐れなどの、特定の症状に基づいて下されます。 自立への恐れを検討することに焦点を合わせた精神療法が役立つことがあります。
パーソナリティ障害(人格障害とも呼ばれます)とは、本人に重大な苦痛をもたらすか、日常生活に支障をきたしている思考、知覚、反応、対人関係のパターンが長期的かつ全般的にみられる人に対して用いられる用語です。
依存性パーソナリティ障害の患者は、世話をしてもらうことを求め、自分で自分の面倒をみることに強い不安を抱いています。自分の望む世話を手に入れるためには、進んで自立性や関心を手放します。このため患者は過度に依存的、服従的になります。
依存性パーソナリティ障害は米国の一般の人の1%未満でみられます。女性の方が多く診断されますが、男女で同じように生じることを示す研究もあります。
他の病気もしばしばみられます。患者には、しばしば以下のうち1つ以上の病気もみられます。
うつ病や気分変調症(持続性抑うつ障害)などの抑うつ障害 不安症 アルコール使用障害 別のパーソナリティ障害(境界性や演技性など)
原因
依存性パーソナリティ障害の原因に関する情報はあまりありません。関わっている可能性のある因子には以下のものがあります。
文化的因子 幼児期の否定的な体験 不安になりやすい先天的傾向 家族内で受け継がれる特性(服従性、自信のなさ、控えめな行動など)
症状
世話をされる必要性
依存性パーソナリティ障害の患者は自分で自分の面倒をみることができるとは考えていません。患者は服従することで他者に自分の世話をしてもらおうとします。
この障害のある人は、一般的に、通常の判断を行うにあたりふんだんな安心と助言を必要とします。患者はしばしば他者、しばしば一人の人に、自分の生活の多くの側面について責任を負ってもらいます。例えば、患者は配偶者に依存し、何を着て、どのような種類の仕事を探し、誰と付き合うべきかを教えてもらいます。
依存性パーソナリティ障害の人は、依存対象のごく少人数の人としか社会的に交流しない傾向があります。親密な関係が終わると、患者はすぐに代わりとなる人を見つけようとします。患者は世話をしてもらうのに必死であるため、代わりとなる人を選ぶにあたり、見境がない場合があります。
依存性パーソナリティ障害の患者は、理由がない場合でも、依存している相手に見捨てられることを過度に恐れています。
過度の服従性
依存性パーソナリティ障害の患者は、支持や承認を失うことを恐れるため、他者との意見の違いをなかなか口に出すことができません。他者の支援を失うリスクを冒すくらいなら間違っていることが分かっていることに同意することもあります。怒って当然の場合でも、患者は支援を失うことを恐れて友人や同僚に怒りを向けることがありません。
依存性パーソナリティ障害の患者は世話と支援を得るために多大な労力を払います。例えば、不快な課題をこなしたり、不当な要望の言いなりになったり、身体的、性的、または情緒的虐待に耐えたりすることさえあります。患者は自分で自分の面倒をみることができないと恐れるため、一人でいることに強い居心地の悪さを感じたり、恐れたりします。
自信のなさ依存性パーソナリティ障害の患者は自分が劣っていると考え、自分の能力を卑下する傾向があります。患者はあらゆる批判や否認を自分の能力のなさの証拠と受け取り、さらに自信を失います。
自立心のなさ
依存性パーソナリティ障害の患者は自分が一人では何もできないと確信しているため、新しい課題を始めたり、独立して働いたりすることに困難があります。患者は責任を負う必要のある課題を避けます。患者は、常に支援と安心を必要とする、能力のない存在として振る舞います。能力のある人が依存性パーソナリティ障害の患者を監督したり、承認したりして安心感をもっている場合、患者は十分に役割を果たすことができる傾向があります。しかし、見捨てられることを恐れてあまりに能力があるようにみられることを望みません。その結果、患者の経歴が損なわれることがあります。患者は自立して生活する技能を学ばないことが多いため、依存性を長続きさせます。
診断
具体的な診断基準に基づく医師による評価
パーソナリティ障害の診断は、通常は米国精神医学会が発行している精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-5)に基づいて下されます。
依存性パーソナリティ障害の診断を下すには、以下の5つ以上に示されるように、服従的でまとわりつく行動に至る、世話をしてもらいたいという持続的で過剰な要求が認められる必要があります。
他者からの過剰な量の助言や安心なしに日常的判断を下すことが困難である。 生活のほとんどの重要な側面について他者に責任を負ってもらう必要がある。 支援や承認を失うことを恐れることから、他者との意見の不一致をなかなか口にできない。 自分の判断力や能力に自信がないあまり(意欲や気力がないためではなく)、一人で計画を始めることに困難がある。 他者からの支援を得るために、進んで多大な労力を払う(例えば、不快な課題をこなす)。 自分の面倒を見ることができないことを恐れるあまり、一人でいるときに居心地悪く感じたり、無力感を感じたりする。 親密な関係が終わったときに、世話と支援をしてくれる人と新たな関係を築く差し迫った必要を感じる。 一人にされて自分の面倒をみることになる恐れにとりつかれている。
また、症状は成人期早期までに始まっている必要があります。
治療
認知行動療法 精神力動的精神療法
依存性パーソナリティ障害の一般的治療は、すべてのパーソナリティ障害に対するものと同じです。
自立への恐れと自己主張することの困難さを検討することに焦点を当てた精神力動的精神療法と認知行動療法が、依存性パーソナリティ障害患者に役立つことがあります。
薬が有用であるかどうかは不明です。ときに、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)などの抗うつ薬が抑うつと不安の治療に使用されることがあります。』
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精神科医が語る、徳川慶喜の“逃亡癖”と依存性パーソナリティ障害…長州征伐、大坂城逃亡
https://biz-journal.jp/2022/01/post_274365.html※ 徳川慶喜公は、「依存性パーソナリティ障害」の気味があったのでは…、という診たてだ…。
※ 興味がある人は、リンクで飛んで、見てくれ…。

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ストラテジーペイジの2022-1-20記事
https://st2019.site/?p=18392『フィリピン海軍は韓国に3200トンのコルヴェット×2隻を発注。単価は2億2700万ドル。引渡しは2026年予定。全長116m。
韓国製の艦対艦ミサイルはレンジ160km。
韓国製の対潜短魚雷は径320ミリでレンジ19km。
艦隊空ミサイルのミストラルは、レンジ6kmである。韓国からは2019年に1隻の中古のコルヴェットが比島に寄贈されている。1200トンのポハン級。もう1隻の寄贈予定もある。
米国は退役した3200トンのハミルトン級のコーストガード船を3隻、フィリピンに寄贈している。
76ミリ砲は装備したままで。』 -
Tucker Chase and Matthew Hanes 記者による2022-1-19記事「There’s a Race for Arctic-Capable Drones Going On, and the United States is Losing」
https://st2019.site/?p=18392『ロシアの新兵器開発局は2019において、北極圏上空を連続4日間飛翔させつづけるUAVを作った。
これは衛星航法には依存せず、「GIRSAM」という〔陸上アンテナ網の?〕ナビシステムを使うという。MQ-9A リーパー をはじめとする米国の無人機は、この真似はできない。北緯78度以北になると、GPS電波を満足に得られないからだ。
北極圏は広いので、船や車両で移動していたのではどうにもならず、露軍に対抗することもできない。北極圏では空中輸送と空中偵察が、勝利の鍵となるのだ。』
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SBSグループ 鎌田正彦社長インタビュー(上) 裸一貫から年商4000億円
2021年2月1日
https://weekly-net.co.jp/news/113422/
『留学資金をためるために上京した青年が、「稼げる」を理由に入社したのが、佐川急便だった。半年で辞めるつもりが、物流の面白さに気づき、気が付けば8年を費やしていた。佐川を辞めた鎌田正彦氏は昭和62年12月、東京都江東区に軽貨物事業を手掛ける関東即配を立ち上げる。
将来に大きな夢を描き、その目標にまい進したという同社は平成15年、ジャスダックに念願の上場を果たした後、M&Aで次々と物流子会社をグループ化、企業規模を拡大していく。同18年にSBSホールディングスに商号を変更すると、同24年に東証二部、翌年には東証一部へ上場を果たし盤石の基盤を固め、同30年にリコーロジスティクスを、そして昨年11月には東芝ロジスティクスのグループ化に成功した。名もない吹けば飛ぶような軽貨物会社が、約30年で年商4000億企業へと変貌を遂げた。成長のキーを「上場とM&A」と指摘する鎌田氏は、次なる目標である「ロジの日本一、年商1兆円」へ向け、アクセルを踏み込む。
宮崎県で生まれ育った鎌田氏は、地元の高校を卒業すると、同級生が大学へ進学するのを横目に、違う道を進もうと進学をやめ上京する。
当時、母親の妹がスイスにある国連に勤めていた関係で、スイスへの留学を志す。「貿易商になろうと思っていた」と鎌田氏は振り返るが、まずはその留学資金を貯めるため、働く場所探しからスタートした。
新聞広告で佐川急便の求人を見つけた同氏は、「初任給が37万円、3か月後には月給53万円との文字が魅力的で、ここなら半年で留学資金が貯められる」と思い、佐川急便へ入社する。19歳の時だ。
留学資金を貯める半年間のはずだったが、いざ働いてみると、「過酷な現場ではあったが、同時に物流の仕事の楽しみも分かってきた」と、気持ちに変化が生まれ、上司の慰留もあり結局、留学を諦め、同社に残り、気が付けば8年が経っていた。
貿易商として起業を考えていたという同氏は、8年を経て、物流での起業を描くようになっていた。昭和62年、佐川を辞めた同氏は、軽貨物事業を手掛ける関東即配を設立する。
佐川時代に培った営業力とノウハウで、仕事を増やしていくが、協力会社探しに手間取った。佐川という冠を捨てた同氏に、同業他社も冷ややかで、しばらく協力を得られない逆風が続いた。
「こんなことで負けてたまるか」。28歳になった同氏は、その逆風をばねにし、仕事に没頭した。「あの時の逆風が、仕事へのモチベーションになり、今もそれが源流にある」と、同氏は振り返っている。
5年後、逆風を乗り越えた同社は年商25億円を計上していた。会社として成り立ってきたと感じた鎌田氏は、同社の将来像について考えるとともに、目標を立てた。創業10年で年商100億円、同20年で1000億円、そして同30年で2000億円を目指そうと。
20年で1000億円という目標は、当時25億円程度の売り上げの会社がなかなか描けない目標である。しかし、鎌田氏には目算があった。
そのキーとなるのがM&Aである。同氏は、「急に出てきた会社が何千億円の売上げになるには、M&Aしかない、当時からそう考えていた」というが、この時すでに同氏の頭の中には、M&A戦略があった。
しかし、まだ設立して5年で、年商25億円という売り上げでは知名度もなく、M&Aをやろうにも誰にも見向きもされない。そんな会社で果たしてM&Aができるのか。
実際、当時自動車メーカーの物流子会社の売却話があり、その情報は鎌田氏の耳へも届いた。M&A戦略を描く同社にとって千載一遇のチャンスでもある。すぐにコンペに参加したという同社。相手は、物流大手といわれる総合物流会社。同社は鎌田氏1人でプレゼンを行うが、相手は10人もの人間がやってきて組織的にプレゼンをする。軍配は火を見るより明らかだった。中小企業では決して真似はできない。資本力の差をまざまざと見せつけられたという。
「M&Aを成功させるには、もっと力をつけなければいけない。会社の規模を大きくしないといけない」ということを同氏は学んだ。しかし、一方で、「年商数百億円の売り上げの会社を数十億円で買えるということが新鮮に感じられるとともに、そこに大いなる可能性も感じた」という。
加えて、「メーカー系の物流会社は今後、親会社と切り離されて売られていく時代が来るということを確信した」ときでもあった。
(続く)』鎌田正彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%BD%A6 -
※ 雑用に見舞われまくっているんで、今日はお休みする…。
※ スマンな…。
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Ruchir Sharma
https://en.wikipedia.org/wiki/Ruchir_Sharma

『(※ 翻訳は、Google翻訳)
Ruchir Sharmaは、インドの投資家兼ファンドマネージャーであり、世界の経済と政治について幅広く執筆しています。世界中の新聞や雑誌の長年のコラムニストであるシャルマは、成功した国の10のルール(WWノートン&カンパニー、2020年3月)、国の興亡:危機後の世界における変化の力(ノートン)の著者です。 / Allen Lane、2016年6月)およびBreakout Nations(Norton / Allen Lane、2012年4月)。
ルチルシャルマ
RuchirSharma.jpg
生まれ
ウェリントン、 タミルナードゥ州、インド
母校
デリー公立学校、RKプラム、シュリラム商工大学
職業
投資家、ファンドマネージャー
雇用者
モルガンスタンレー[1]で知られている
ブレイクアウトネーションズ:次の経済的奇跡を追求して
Webサイト
www .ruchirsharma .comシャルマは、モルガンスタンレーインベストメントマネジメントの新興市場投資家です 』
『キャリア編集
シャルマはインタビュアーに、幼少期をムンバイ、デリー、シンガポールで過ごしたと語った。
彼はニューデリーのシュリラム商科大学で学部課程を修了し、その後証券商社に加わり、1991年にFor Exというコラムを立ち上げました。
最初はオブザーバー、後にはインドのエコノミックタイムズでした。
彼の著作は、1996年にムンバイオフィスに彼を雇ったモルガンスタンレーの注目を集めました。2002年に彼はニューヨークオフィスに移り、現在も彼の拠点となっています。[2]
2003年、彼はモルガンスタンレーインベストメントマネジメントの新興市場チームの共同責任者になりました。 2006年に彼はチームの責任者になりました。[3]2016年、彼はMSIMのチーフグローバルストラテジストとして追加の役割を果たしました。2021年11月、彼は2022年1月31日に会社を辞めると発表された。[4]
』『 経済および金融市場の見解
賞編集2012年、SharmaはForeignPolicy誌で世界のトップ思想家の1人に選ばれました。[29] 2013年6月、OutlookはSharmaを世界で最も賢いインド人25人の1人に指名しました。[30] Breakout Nationsは、インドでNo.1のベストセラーとしてデビューし、Sharma the TataLiteratureLiveを獲得しました。2012年の最初の本賞。[31] ブレイクアウトネイションズはウォールストリートジャーナルのハードカバービジネスのベストセラーリストを作成し、外交政策によって「2012年に読むべき21冊の本」の1つに選ばれました。[32] 2015年、シャルマはブルームバーグマーケッツから、世界で最も影響力のある50人の1人に選ばれました。[33] 2016年、「The Rise and Fall of Nations」は、ニューヨークタイムズのベストセラーリストに2週間掲載されました。
私生活編集
常に旅行者が家にいると感じる場所を尋ねられたシャルマは、インタビュアーに「私は世界中から来ましたが、インドは家にいます」と語っています。インド南部のタミルナードゥ州のニルギリス地区にあるウェリントンで生まれた[34]シャルマは、デリー、ボンベイ、シンガポールで教育を受け、ニューヨークに20年近く住んでいます。
シャルマはインタビュアーに彼の情熱は政治、映画、そして全力疾走であると語った。[35] 1998年以来、彼はインドの総選挙と主要な州議会選挙に続いて、バックグラウンドでトップのインドの政治家にインタビューした後、ロードトリップで約20人のトップインドのジャーナリストのグループを率いてきました。[36]
シャルマは、旅行中かどうかにかかわらず、週に6日スプリンターとしてトレーニングしようとしていると言います。2011年、彼はカリフォルニア州サクラメントで開催された35歳以上のアスリートのための国際大会であるワールドマスターズでインドを代表する100メートルと4 x100のリレーイベントに出場しました。彼は独身でニューヨーク市に住んでいます。 。[2] [37]
書かれた本編集
ブレイクアウトネーションズ(2012) 国家の興亡:危機後の世界における変化の力(2016年) 道路上の民主主義(2019) 成功する国の10のルール(2020)』
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※ 雑用に見舞われ、パワー使い過ぎて疲れた…。
※ 今日は、早じまいとする…。
明るい年を迎えたい 厄除けと招福の日本絵画
「美の十選」まとめ読み 跡見学園女子大学教授 矢島新
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD2453W0U1A221C2000000/『今年も新型コロナウイルスに振り回された一年でした。来年こそは自由に行動できる明るい世になるよう願いを込めて、跡見学園女子大学の矢島新教授(日本美術史)が、日本の絵画の中から厄除(よ)けと招福に関わる作品を選んで紹介します。
2021年のうちに厄を落として、新しい年に福を呼び込みましょう。
皆さま、良いお年をお迎えください。
長沢芦雪「一笑図」(同志社大学文化情報学部蔵)









・厄除けと招福の日本絵画(1) 葛飾北斎「朱描鍾馗図」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD150S80V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(2) 白隠慧鶴「大黒天鼠師槌子図」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD151150V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(3) 歌川国芳「鎮西八郎為朝」「疱瘡神」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD151CB0V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(4) 歌川国貞「金のなる木繁栄ノ図」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD151L90V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(5) 歌川芳綱「疱瘡紅摺絵」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD151PN0V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(6) 歌川芳藤「福助の有卦絵」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD151XN0V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(7) 「疫癘神 加藤清正の手形」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD1522T0V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(8) 石崎融思「福禄封侯図」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD152AU0V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(9) 「大津絵 鬼鼠柊図」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD152MM0V11C21A1000000 ・厄除けと招福の日本絵画(10) 長沢芦雪「一笑図」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD152RX0V11C21A1000000
【おすすめの「美の十選」】
・日本の内と外 巨大文明の傍らに咲いた美術 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD168S20W1A211C2000000 ・時代を切り開いた日本ガラス工芸の先駆者たち https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD029WA0S1A201C2000000 ・装身具や金細工 古代のゴールドの謎を追う https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD126K70S1A111C2000000 ・銅像から切手まで 「犬と日本人」の関係たどる https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD047ED0U1A101C2000000 』
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バングラデシュ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%B7%E3%83%A5※ 今日は、こんなところで…。



『歴史
詳細は「バングラデシュの歴史」を参照
近代まで
ダッカ市内のラルバグ城(17世紀)
現在バングラデシュと呼ばれるベンガル地方東部には、古くから文明が発達した。紀元前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで数々の王朝の属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるが、これには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。
8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。
12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝に取って代わられた。
13世紀にイスラム教化が始まった[注釈 1]。13世紀にはイスラム教のベンガル・スルターン朝の下で、商工業の中心地へと発展した。
その後、ベンガルは南アジアで最も豊かで最も強い国になった。
16世紀にはムガル帝国の下で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。この頃に、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。
16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている[11]。
イギリス領時代
1907年当時の東ベンガル
15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリスの東インド会社により植民地化された。
この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド亜大陸全域に拡大した(英領インド)。
このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。
ベンガルの東部・西部から綿織物や米の輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された[12]。
東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。
やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。
これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を企図。1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、英領東ベンガルおよびアッサム(英語版)が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部のアッサム州、メガラヤ州、アルナーチャル・プラデーシュ州に相当)。
1906年にはダッカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。
当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。
1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。
1940年のムスリム連盟ラホール大会で、ベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万?300万人の死者を出した[13]。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。
インド領東ベンガル
ダッカ市内のベンガル語運動(1952年)
そのような中でインドは1947年に英領から独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル(英語版)(1947年 – 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。
パキスタン領東パキスタン
詳細は「東パキスタン」を参照
両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。
しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。
このような違いはあちこちで摩擦を起こした。
まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。
この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。
同年12月の選挙において人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、翌年の1971年3月にはパキスタン軍が軍事介入して東パキスタン首脳部を拘束した。
これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタンと内乱になった(バングラデシュ独立戦争)。
西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。
独立、ムジブル・ラフマン政権
詳細は「チッタゴン丘陵地帯紛争(英語版)」を参照
独立後はアワミ連盟のシェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。
インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。
このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(英語版) (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニー(英語版)とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。
内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年にクーデターが起き、ムジブル・ラフマンが殺害される。
ジアウル・ラフマン政権
その後、軍部からジアウル・ラフマン少将が大統領となった。1979年以降、バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。
エルシャド政権
1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャド中将が再び軍事政権を樹立した。
1988年には、チッタゴン丘陵地帯のコルノフリ川(英語版)上流のカプタイ・ダムに国内唯一の水力発電所(230MW)を建設して10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がビルマ(現ミャンマー)へ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。
エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣した。
民主化
1991年3月の総選挙で、中道右派勢力バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。
1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。
5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いた後、1992年に休戦。1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。
1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。
この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される[14]。
1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイク・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。
2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。
軍政・民政復帰
2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。
2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。
暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。
2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。[1]
2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイク・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した [2]。
2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。
2014年に行われた第10次総選挙では、BNP率いる野党18連合がボイコットするまま総選挙が実施され,与党アワミ連盟が圧勝した[15]。 』
『国際関係
詳細は「バングラデシュの国際関係(英語版)」および「バングラデシュの外交政策(英語版)」を参照
南部の一部を除き大部分の国境を接するインドとは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だった。
元々、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。バングラデシュ民族主義党はやや反インド的な姿勢をとり、逆にアメリカ合衆国や中国との友好関係を重視する傾向がある。
「真珠の首飾り戦略」および「一帯一路」も参照
バングラデシュは多くの難民を受け入れ、また送り出す国である。
東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。
さらに、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。
また、バングラデシュは隣接するミャンマーからムスリムのロヒンギャ難民を多く受け入れている。
バングラデシュは貧困国であるため、世界各国から多額の経済援助を受け取っている。
日本は最大の援助国の一つであるが、近年は援助額がやや減少気味である。
他に、アジア開発銀行やアメリカ、イギリス、世界銀行、ヨーロッパ連合などからの援助が多い。
「日本とバングラデシュの関係」も参照 』
『経済
ダッカはバングラデシュ経済の中枢で、世界有数のメガシティである。
詳細は「バングラデシュの経済(英語版)」を参照世界銀行によると、2019年のバングラデシュのGDPは2,099億ドルであり、一人当たりのGDPは1,855ドル[23]。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている[24]。2016年時点で人口の24.3%が貧困線以下である[25]。
同国はガンジス川の氾濫により涵養された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの侵略も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では貧困国の一つに数えられる。
バングラデシュは内外問わずに援助を受けているにもかかわらず、過剰な人口や政治汚職などによって未だに貧困を脱しきることが出来ないでいる。
バングラデシュの発展を阻害しているものとしては、多発するサイクロンやそれに伴う氾濫などの地理的・気候的要因、能率の悪い国営企業、不適切に運営されている港などインフラの人的要因、第一次産業のみでは賄い切れない増加する労働人口などの人口要因、能率の悪いエネルギー利用法や十分に行き渡っていない電力供給などの資源的要因、加えて政治的な内部争いや汚職などの政治的要因、国内で頻繁に行われているゼネラルストライキの一種であるハルタル(ホルタル)が挙げられる。
しかし近年は後述の通り繊維産業の台頭により2005年~2015年にかけては年平均6.2%と高い経済成長率を記録している[26]。また膨大な労働人口と安い労働コスト(英語版)が評価され、NEXT11にも数えられている。
通貨
通貨単位はタカ。レートは1米ドル=83.28タカ(2018年2月7日時点)。
農業
水田
人口の42.7%は農業に従事し[25]、国民の7割以上が農村に住む。主要農産品はコメおよびジュート(コウマ・シマツナソ)、茶である。
コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。国連食糧農業機関(FAO)によると穀物自給率は90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。
バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。
気候的に二期作や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。
しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。
それによって、二期作や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した[27]。
これがバングラデシュにおける「緑の革命」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。
ジュートは農産品として最も重要な輸出品であるが、1980年代以降化学繊維に押され重要性は下がってきている。
ジュートに次ぐ輸出農産品の紅茶は主に、紅茶の名産地として知られるインドのアッサム州に隣接する北部シレット地方において栽培されている。
19世紀には藍の世界最大の産地であったが、化学染料の発明と普及により生産は激減した。
繊維工業バングラデシュの服飾工場
繊維工業の発展は、経済成長によって繊維生産が不振になり始めた韓国や香港からの投資をきっかけに、1970年代に起こり始めた。
近年では中国の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、繊維製品等の軽工業製品の輸出は増大している。
これにより、ようやく軽工業が発展し経済発展を果たしている。
現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。チャイナ+1の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われており、バングラデシュ経済を担う一大産業となっている。
重工業
軽工業だけでなく、重工業も発展しつつある。日本の本田技研工業がオートバイ工場を建設したほか[28]、廃船の解体から造船業が成長している[29]。
鉱業
バングラデシュは鉱物資源に恵まれないが、人件費が安いことからチッタゴンには世界最大の船舶解体場があり、国内で使用される鉄の60%はここからのリサイクル品で賄うことができる[30]。
唯一ともいえる地下資源が天然ガスで、1908年に発見される。
その後英国統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。
政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17のガス田を開発した。
1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。2008年時点で12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。
ガス田はジョムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は、発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている[31]。
労働力
雇用は貧しく、失業率はネパールとほぼ同じで、40%を超えるほどである。
産業別の労働人口比率は、2016年のデータで農業が42.7%、サービス業が36.9%、鉱工業が20.5%であり、近年の急速な繊維産業の成長により工業化が進む現在においても、未だ本質的には農業国である[25]。
しかし、貧富の差や農地面積に比して人口が多すぎるため、農地だけで充分な生計を立てられる世帯は4割程度に過ぎず、残りの6割は小作農や日雇い労働者として生計を立てている。
近年ではグラミン銀行などが進めるマイクロ・クレジットの拡大や経済成長によって貧困層の一部に生活向上の兆しがあるものの、貧困は未だ深刻な問題となっている。
人件費が安いことから船舶の解体や処分場など3Kの仕事を先進国から引き受けている。労働人口は(2017年)6,664万人である[25]。
労働力輸出
バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。
これを多少なりとも埋めるのが、外国へ出稼ぎに行った労働者たちの送金収入である。1997年には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先はイスラム教国が多く、最大の出稼ぎ先はサウジアラビアで出稼ぎ労働者の3分の2を占め、クウェートやアラブ首長国連邦など他のペルシア湾岸産油国にも多く労働者が向かっている。東では、マレーシアやシンガポールに多い。日本にも約1万5千人の在日バングラデシュ人が存在する[32]。
NGO
ダッカなど都市部ではNGO、農村部ではグラミン銀行による貧困層への比較的低金利の融資を行なう事業(マイクロクレジット)が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。
2006年にはグラミン銀行と創設者で総帥のムハマド・ユヌスは「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由にノーベル平和賞を受賞し、バングラデシュ初のノーベル賞受賞者となった。
また、2008年にはインターネット網が農村、学校等にまで広げられ、大々的にこれを祝った。
NGO が多く存在する中でも筆頭がBRAC(Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会、通称ブラック)である。BRACは1972年設立、全ての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。』
(※ その他省略)





