カテゴリー: 精神活動
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シリーズ「日本の仏教」第8回:徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09408/※ 今日は、こんな所で…。
『 鎌倉時代に生まれた新仏教の各宗派は支援者を増やすために覇を競い合ったが、江戸時代になって権力が一元化すると、幕府の権力の下で統括されるようになる。檀家制度で民を管理し、租税徴収の一端を担う世俗的活動に組み込まれたことで 日本仏教は安定期を迎えた。
対立から安定の時代へ
現在の日本仏教には、異なる教義を主張する宗派が存在するが、ほとんどが12世紀から13世紀にかけての多様化の時期に出そろった。鎌倉時代に誕生したそれらの宗派は独自の支援者層を抱えており、その支援者たちのおかげで教団を維持することができたのである。この状況は、別の言い方をするなら、「仏教は人を苦しみから救ってくれる教えだ」といった認識が広く日本中に広まり、異なる階層の人たちが立場に応じて仏教の教義を選択し、信奉する時代が到来したのである。
このような仏教の民衆化を、単純に「仏教が日本に広まった」という点からみれば好ましいことではある。しかし、その広まった仏教が一本化された単一の仏教ではなく、異なる教義を主張する複数の教団の集合体であったという点に注目するなら、仏教教団の勢力争いが本格化した、とも言い得る。国家の形態が、貴族中心社会から武士、農民、商人などを含み込んだ複合的な権力構造社会へと変化するのに歩調を合わせて、仏教もまた異なる支援者層をバックに持つ、複合的競争社会へと変容したのである。
この時期の宗派間対立は、街中での教義論争から武装勢力同士の戦闘まで、さまざまなレベルで繰り広げられた。もちろん、個別に見れば徳の高い僧侶や、他教団に対して寛容な姿勢で接した僧侶もいたが、総体的には各宗派が覇を競う、対立の時代が続いたのである。
貴族、武士、商人、農民たちが入り乱れて覇権を争う戦乱の時代は16世紀まで続いたが、17世紀になるとようやく、徳川幕府という中央権力が日本全土を掌握し、戦乱も収まり、政治的に安定した時代となった。16世紀までの、権力が日本全土にわたって分散していた状況においては、それら複数の権力を後ろ盾とする仏教各宗派もまた、互いに勢力を競い合うライバル関係にあった。しかし江戸時代になって権力が一元化すると、すべての仏教宗派が幕府の権力の下で統括されるようになった。江戸時代は17世紀初頭から19世紀後半までのおよそ250年続いたが、この間、仏教世界は極めて安定した状況で維持されたのである。
政権維持のための統制機関
江戸時代の仏教の状況を概観する。江戸幕府には日本の仏教界を一本化しようとする意思はなく、複雑多岐にわたる仏教世界を、そのままの形で政権運営に利用しようと考えた。幕府の基本方針は以下のようにまとめることができる。
・どの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威を与えることで、仏教界の不満を抑え、幕府に従わせる。 ・日本全土に広く存在している無数の仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括する。 ・日本を侵略しようとしている西洋諸国の先遣隊である(と見なされていた)キリスト教を排除するための宗教的防波堤として仏教を利用する。
このような幕府の方針は、仏教界にとっても都合のよいものであったため、進んでこの方針に従った。その結果、江戸時代の仏教界は大きな争乱もなく、幕府の意向に沿った業務をおこないながら安定的に維持されていったのである。江戸時代に、幕府との関係の中で生まれ、現在でも続く仏教界の主要な制度を2つ挙げておく。
本山末寺制度
幕府の意向により、仏教各宗派内で寺院を格付けし、それに沿った指揮命令系統が設定された。現在の日本の各宗派内に見られる、本山を頂点とするピラミッド構造はこの時期に設定されたものである。これによって幕府による仏教統制が極めて容易になった。インドで釈迦(しゃか)が創始した本来の仏教においては、すべてのサンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)は平等な立場にあって、上下関係は設定されていない。しかし日本仏教の場合は、江戸時代の新制度によって、全ての寺院が厳密に格付けされるようになり、ひいては寺院に所属する僧侶の個人的な格付けにもつながり、仏教界の内部に新たな身分差別構造が定着していったのである。
檀家(だんか)制度
全ての国民が、家族単位で、いずれかの仏教寺院のメンバー(檀家)にならなければならない制度が制定され、これによって幕府は国民の動向を個々人のレベルでほぼ完全に把握、統制できるようになった。出生、死亡、結婚、旅行、移住などの個人情報が寺院に集約されることにより、幕府にとって仏教寺院は、政権維持のために必要不可欠な統制機関として重要視されたのである。この制度は家族単位で適用されたため、個々人の思惑で信奉する寺院を選択することができなくなり、代々、その家系が所属する寺院のメンバーになることが強制されることとなった。現在でも日本人同士で、「あなたの家は何宗ですか」「あなたが所属するのはどの寺院ですか」と聞くことが日常的によくあるが、これはこの制度が現代でも機能していることを表している。
幕府にとっての、この制度の重要な効用の1つは、キリスト教徒の探索と排除であった。全ての国民を特定の仏教寺院にひも付けることで、そこに所属しないキリスト教徒の居場所をなくそうとしたのである。しかしこの制度に従うふりをしながら、秘密裏に信仰生活を続けたキリスト教徒も多かった。平穏に見える江戸時代250年も、キリスト教徒にとっては、熾烈(しれつ)な宗教弾圧の時代だったのである。
幕府の統制下に置かれて日々のルーティーンをこなすことが業務となった日本仏教は、以前のような勢力拡大を志向する活力を失い、現状の中で穏やかに暮らすことを旨とするようになっていった。2500年前のインドで、強大な権力者の庇護(ひご)の下、釈迦の教団が平穏に維持されていた時代と幾分似た状況になったのである。ただし大きな違いは、江戸時代の日本仏教が平穏であったのは、幕府の政治体制に協力し、租税徴収の一端を担う世俗的活動に組み込まれたおかげだったという点である。
仏教の本質に迫る動きが活発化
一方、江戸時代になって世情が安定したことで、仏教を客観的、学問的に考察する風潮も高まり、仏教の本質を追究する動きが活発化した。いくつか例を挙げておく。
仏教文献学の発展膨大な量の仏教文献を厳密に読み、校訂し、研究する本格的な文献学として仏教学が発展し、学問僧が多くの優れた成果を残した。使われた資料は漢文に限定されており、インド語文献はほとんど用いられなかったが、それでも仏教を学問の対象として見る新しい視点が定着していった。
戒律復興運動の隆盛
真正なサンガが存在せず、サンガを運営するための法律である律蔵が効力を持たない日本仏教の特性を反省する動きが活発化し、特に真言宗を中心にして、釈迦時代の仏教への復興を目指す運動が盛り上がった。サンガ復興は実現しなかったが、「サンガのない仏教は不完全な仏教である」といった認識を持つ僧侶が、少ないながらも、日本にも現れるようになった。
大乗仏教経典の検証
仏教を信奉していない人たち、あるいは仏教の専横に反感を持つ人たちが仏教を批判的に研究するようになり、その結果として、「大乗仏教の経典に書かれていることは釈迦の教えではない」という説が初めて登場した。その代表的人物が富永仲基(とみなが・なかもと、1715〜46)である。富永は冷静に仏典を分析し、膨大な量の大乗経典が、釈迦ではなく後代の多くの人たちが長い時間をかけて制作したものであることを実証的に論証したのである。当然ながら富永の説は当時の仏教界から猛烈に批判されたが、明治時代になってからその業績が再評価され、現在では日本思想史上、屈指の発見とされている。
江戸時代を通じて安定的に維持されていた日本仏教界も、江戸時代が終わって明治期になると劇的な変動の嵐に巻き込まれることとなる。次回はその様子を紹介する。
バナー写真=江戸時代の檀家制度によって決められた宗派に属する寺で、葬式の際に遺族に法話を語る僧侶(PIXTA)
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佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る
花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』
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シリーズ「日本の仏教」第2回:大乗仏教の登場
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09402/
『 ブッダ没後500年、新しい教えを説く仏教が次々に登場し、シルクロードを経て中国に伝わった。こうした新型仏教は大乗仏教と呼ばれる。シリーズ「日本の仏教」の第2回では、ブッダの教えが中国に入ってきてどのように変容したのかを解説する。
約2500年前にインドでブッダ(釈迦牟尼=しゃかむに)が創設した仏教は、その後次第に勢力範囲を広げていった。特に紀元前3世紀に現れたマウルヤ王朝3代目のアショーカ王が仏教信者になったことで、仏教は飛躍的に拡大したのである。おそらくこの時期、仏教はインド全域からスリランカにまで広まったと思われる。
スリランカでは、この時に伝わった仏教がさまざまな障害を乗り越えて、ほぼそのままの形で現在にまで伝えられている。そしてそのスリランカを経由して、東南アジアにも同じ仏教が伝わって今に至っている。従って、現在のスリランカおよび東南アジアの仏教、いわゆる「テーラワーダ仏教」は、創設期の仏教に近い形態をそのまま残している。
誰でもブッダになれる大乗仏教
一方、釈迦牟尼が亡くなっておよそ500年後、インド本土(おそらくは北西インド)において、複数の、新しい教えを説く仏教が次々に登場した。新型の仏教は、インド周辺部からシルクロードを通って中国へと伝わった。この釈迦牟尼が説いた仏教とは異なるさまざまな新型仏教をまとめて、大乗仏教と呼ぶ。
大乗仏教の特性を簡単に説明しよう。釈迦牟尼が創設した仏教では、人は出家してサンガの一員となった上で、厳格な修行生活を続けることにより、「ブッダの弟子としての悟り」を開いて涅槃(ねはん)に入ることができる、と説く。その「ブッダの弟子として悟りを開いた人」のことを阿羅漢(あらかん)と言う。阿羅漢は、悟りを開いた点ではブッダ、すなわち釈迦牟尼と同レベルの立派な身分なのだが、ブッダほどの深い慈悲心と知恵深さはない。あくまでブッダの弟子としての聖人である。本来の仏教においては、われわれ凡人は、ブッダの教えに従って阿羅漢を目指すことが唯一最上の道なのである。つまり、われわれ自身がブッダになることはできないのである。
しかし大乗仏教では、この悟りへの道の構造が根本的に変更され、「誰もがブッダとなることを目指して修行することが可能であり、ブッダへの道は広く開かれている」と主張するようになる。言葉を変えれば、「誰でもこの世で最高の聖者になることができる」と言うのである。
釈迦牟尼は経の中で、「君たちは阿羅漢を目指せ」としか言っていない。「私のようなブッダになれ」などとは決して言わないし、「そのための方法がある」などとも言っていない。従って大乗仏教の創始者たちが「誰もがブッダとなることを目指しての修行は可能だ」と主張するためには、それまでの経とは別の新たな経を創作する必要があった。それらの新たな経に共通する前提は以下のようなものである。
「私(釈迦牟尼)は、出家して修行した者は阿羅漢になることができると別の経で言ったが、それはあくまで入門としての教えである。実はこの教えの背後には、より深い真理の体系があって、その体系を理解した上で修行する者は、阿羅漢ではなくブッダになることができるのである。では今から、その究極の真理体系を説き示すからよく聞きなさい」
大乗仏教の創始者たちは、このシチュエーションを基本フォーマットにして、それぞれが考える「究極の真理体系」を釈迦牟尼の言葉として文章化した。それらが般若経、法華経(ほけきょう)、浄土経典類、密教経典類などの大乗経典である。複数の人たちがそれぞれ個別に「究極の真理体系」を考案し、それをお経として広めたので、多数存在する大乗経典は、多種多様な思想の集積体になっているのである。
本来の仏教をより魅力的にアレンジ
中国には、その多種多様な大乗仏教の経典群と、そして釈迦牟尼の説いた古い仏教とがそろって「釈迦牟尼の教え」として入ってきた。紀元1、2世紀の頃である。
まったく違った思想を語る複数の教えが、釈迦牟尼の言葉として一挙に伝わってきたため、中国の知識人たちは当初混乱したが、やがて「伝えられた教えは全て釈迦牟尼の言葉なのだが、状況に応じて浅く説いたり、深く説いたりしたので違いが出たのだ」と考えるようになった。全ての経を釈迦牟尼の言葉としながらも、そこにレベル差を設定することで、経典ごとの内容の違いを論理的に説明しようとしたのである。そして、どの経のレベルが一番高いか、つまりどの経が究極の真理を説いているのかを見極めて、それを真の仏教として受け入れようとした。
しかし当然のことながら、どの経を究極の真理として選び取るかは、読み手の個人的な判断による。異なる判断を下す人は異なる経典を選び取り、それぞれに信奉者を増やしていけば、やがて異なる経典を信奉する異なる教団が複数並び立つことになる。これが仏教の「宗派」の起源である。
釈迦牟尼の説く仏教が伝える経典と、さまざまな大乗経典とを、「全てが釈迦牟尼の言葉だ」といった前提で読んだ当時の中国人は、ほとんどが大乗経典に引かれた。なぜなら大乗経典は、本来の仏教を土台とした上で、それをより魅力的な形に変更することで創作されたものであったからだ。しかもそこに含まれる神秘的要素が、当時の中国思想と合致していた。
こうして中国仏教は、大乗仏教一色となった。宗派は多数現れたが、どれも皆、大乗仏教の仏典をベースにするものばかりである。そして釈迦牟尼が創始した本来の仏教は片隅に追いやられ、「小乗仏教」という蔑称で呼ばれることになった。
明治以前は知られていなかった釈迦牟尼の仏教
紀元6世紀、日本は中国から仏教を導入した。従って大乗仏教を真の釈迦牟尼の教えだと考える仏教国になった。それ以来、およそ1500年にわたって、日本は大乗仏教国として仏教を保持してきたのである。
日本に釈迦牟尼が説いた初期仏教の存在が本格的に紹介されるようになったのは19世紀後半、明治時代になってからである。約300年間にわたる鎖国政策が終わり、世界の情報が一挙に流入してくる中で、大乗経典を用いない別形態の仏教がスリランカや東南アジアで信奉されていることが広く知られるようになった。しかもそこで用いられている経が、パーリ語という、極めて古いインド語で書かれている事実から、「大乗経典を用いないスリランカや東南アジアの仏教こそが本来の仏教であり、大乗経典は釈迦牟尼の言葉を伝えていない」との見解が、仏教学者を中心に提示されるようになった。
現在、学術的には大乗仏教は釈迦牟尼の説いた教えではないという見解が定説となっている。しかし仏教界では、「大乗仏教は釈迦牟尼の教えではないにしても、その思想を起源として発展した点で、正当な仏教である」といった解釈が定着している。
インドで釈迦牟尼によって生み出された仏教が、大乗仏教の発生によって一挙に多様化し、その多様化した仏教が中国を経由して日本に入ってきたところまで、第1回、第2回で語った。次回は、6世紀の日本に仏教が初めて入ってきた時の様子を紹介し、その後、日本仏教が世界に類を見ない、極めて特殊な形態を持つようになった理由を解説していく。
バナー画像=中国重慶市にある仏教石窟「大足石刻(だいそくせっこく)」の石仏。人里から離れた場所にあったため文化大革命時の破壊活動を免れ、9世紀から13世紀までの大乗仏教の石仏がそのままの姿で残されている。1999年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録(アフロ)
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佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る
花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』
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”クリムトはこんな画家”女性画だけでなく風景画も最高!
https://fukutoraku.com/klimt-favorite-painter-17/













『”クリムトはこんな画家”と題し、クリムトの生涯と絵画をたどりました。
クリムト独特の金箔を使った絵には、装飾的な美しさが際立ちます。
それらの作品には人間の精神的な深みや感情も鋭く表現されています。
そんな画家が描いた風景画をご存知ですか?これも必見です!
目次 [非表示]
クリムトの生涯とその絵画とは! クリムトが活躍した場所と時代 クリムトが画家になるまで クリムトの絵画作品 黄金様式時代の作品 1900-1910(38歳〜48歳) 晩年の作品 1911-1918(49〜56歳) クリムトの風景画 最後に Youtubeにも投稿クリムトの生涯とその絵画とは!
グスタフ・クリムト 1862-1918
金箔を使った革新的表現で、一世を風靡したオーストリアの画家です。
没後100年を過ぎ、その唯一無二の世界観に改めて注目が集まっています。
クリムトは革新的ゆえの厳しい批判を意に介せず、今までの美術の世界を打破して、あくまでも自由に、自分がやりたいものや新しい描き方を追求した画家です。
そんな画家を知るために、まず画家が活躍した場所と時代から見ていきましょう。
クリムトが活躍した場所と時代クリムトは当時のオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれ、ウィーンで活躍した画家です。
ウィーンといえば「音楽の都」として有名です。18世紀末から19世紀初頭にかけて、モーツアルト、ベートベン、シューベルトが活躍した町です。
クリムトが生まれたのはもう少し後の19世紀末。
クリムトが生きた時代はハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の末期から第一次世界大戦の時代です。
その頃のウィーンは「世紀末ウィーン」と呼ばれ、史上稀に見る、文化の爛熟期でありました。
”クリムトはこんな画家”
オーストリアーハンガリー帝国当時のウィーンは、ロンドンやパリに次ぐヨーロッパ第三の都市でした。
町には環状道路(リングシュトラーセ)が建設され、市庁舎、帝国議会、大学、美術館、博物館、劇場などの多くの公共建築物が整備されました。さらに、ブルジョワ達のための豪華な建物が相次いで建設されていきました。
1973年にはウィーン万国博覧会が開催され、日本(明治政府)も初めて万国博覧会に参加しました。万博では、アフリカ、中国、日本の芸術も紹介されました。
この後、ウィーン芸術はそれらの芸術の影響を受けて更なる繁栄を遂げています。
一方で、このような文化の繁栄は「帝国が政治面で混乱・凋落し、人々の関心が文化面に向かった結果」とも言われています。
実は、このころの帝国はバブル崩壊に向かいつつある時期でした。
万博を契機に帝国が再浮上するのではという期待もあったのですが、開会早々に株価が暴落して恐慌におちいります。
「世紀末ウィーン」は、オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦(1914-1918)で崩壊する前の閃光のような輝きといえるでしょう。
そんな文化繁栄の真っ只中で、それを牽引した一人がクリムトでした。
クリムトが画家になるまで
1862年 ウイーン郊外の、ボヘミア出身の金細工職人の家に生まれました。
1873年(11歳)
ウィーン万博が開催され、ほとんど同時にバブル経済が破綻し、オーストリアは厳しい不況に見舞われます。
クリムト家でも「クリスマスの時でもパンさえろくになかった」という状況でした。(姉の回想)1876〜1883年(14〜21歳)
クリムトは創設間もない美術工芸学校に入学し、建築装飾などの職人を目指しました。
19歳の時には挿絵を依頼されるなど、徐々にですが確実に才能が認められつつありました。(20歳代)同じ工芸学校で学んだ弟のエルンスト、画家のマッチュの3人でアトリエを経営していました。
1890年(28歳)
ウイーンの美術史美術館の壁画装飾を手がけます。上の写真が「アテネの守護神」、下が「古代エジプトの女性」を描いたものです。
描写力の高さで、一躍世に知られることになりました。確かにどちらも素晴らしい出来です。
”クリムトはこんな画家”
「アテネ守護神」
”クリムトはこんな画家”
「古代エジプトの女王」1894(32歳)
政府からウイーン大学講堂に学問をテーマにした天井画の注文を受けます。クリムトは「医学」、「哲学」、「法学」を依頼されました。この注文に対し、クリムトは型破りな表現を提示しました。
例えば、「医学」では、「病的な人間たちと死を意味する頭蓋骨」で構成しました。それは、医学そのものを否定するかのような、死のイメージであったため、画壇から大きく批判されました。
このことは大きなスキャンダルとなり、順風満帆であったクリムトにとって人生を一変させる辛い経験になりました。
”クリムトはこんな画家”
天井画「医学」のための作品この時、クリムトは次のように語っています。
「検閲はたくさんだ。誰にも隷属するわけにはいかない。私は戦わなければならない」
反骨精神に燃えるクリムトは、その後も新しい画風を追求していくことになります。
1897年(35歳)
ウイーン分離派を結成し、クリムトが初代会長に就任します。”分離”とは芸術における伝統主義、権威主義、アカデミスム、マンネリズムからの分離、脱皮を意味しています。
分離派の拠点として建てられた「分離派館」には「時代にはその時代の芸術を 芸術には自由を」という言葉が金文字で刻まれています。
ちなみに分離派が結成されるまでウィーン美術会を牛耳っていたのはキュンストラー・ハウス(芸術の家)と呼ばれる組織で、クリムトも当初はそのメンバーでした。
分離派の誕生は、閉塞感が漂いつつある帝国において、時代の流れでもあったのでしょう。
クリムトの絵画作品
クリムトの作品の多くは、肖像画や神話的な作品です。それらに共通しているのは、女性が主役だと言うことです。
そしてクリムトが生涯に残した作品は220点あまりと言われています。そのうちの50点ほどが風景画です。
代表的な作品を取り上げます。
黄金様式時代の作品
1900-1910(38歳〜48歳)
金箔を多用した「黄金様式」はクリムトを象徴する表現様式です。工芸を学んだクリムトだからこそ生まれたのかもしれません。
クリムトがなぜこの表現に至ったのか、画家の真意を伝える資料はほとんど残っていません。
クリムトはこのように述べています。
「私のことが知りたいと思う人は、私の絵を丹念に注意深く見てほしい」
「私が何者で何を求めているのか、絵から知るように努めてほしい」
次の作品「接吻」は黄金様式の代表作です。
「接吻」1907-1908
”クリムトはこんな画家”
「接吻」花々が咲き乱れる断崖絶壁で恍惚の表情を浮かべる女性とキスをする男性を描いています。
この時代、愛というテーマは神話の一場面として描かれることが多く、人間の性愛を赤裸々に描くことはタブーとされていました。
自由に好きな相手を決めて結婚することが許されなかった時代であり、クリムト以前には愛し合う姿を描く絵は全くないのです。
そのため、当時の人々にとっては非常に衝撃的な作品であったと想像できます。
そんなクリムトは私生活でも、結婚をせずに型破りな生活を貫いていました。
アトリエには裸同然の女性を何人も待機させ、彼女たちとの間に少なくとも14人の子供をもうけたと言われています。
愛や性は隠すべきという保守的な世間に対して、反抗するように行動していました。
そんな彼だから生み出せた作品とも言えます。
この絵では、顔と手以外ほぼ全体に金箔が持ちいられています。それはどのような効果をもたらせているのでしょう。
金箔とクリムト
クリムトの絵の中で金箔はどのような効果をもたらしているのでしょうか。
また、どんな技法を用いているのでしょうか。
著名なお二人がクリムトの絵の金箔について解説されています。
女子美術大学教授・坂田勝亮さん
金というものは光輝くので、人の目を惹きつける効果がある。そのため光輝く二人が愛し合っている姿がより強く感じられる。
箔画作家・野口琢郎さん
箔の使い方が日本の昔からの表現に近い。 金箔は貼り方によって、その輝きに差をつけることができる。 金箔は平面のまま貼ると光が当たった時、最も強く輝く、細かくすれば、その輝きは弱まる。(粉末にした金箔を散らす砂子技法) 人物の付近が強く光輝くように押してあり、背景は砂子技法を用いて反射の弱い処理をしている。結果として遠近感を表現できている。 抱き合ってキスをする二人を強調するために金の表現を変えているのだろう。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」1913-14
豊田市美術館所蔵
”クリムトはこんな画家”
「オイゲニア・プリマヴェージの肖像」真っ直ぐに前を向いた女性の眼差し、血管が透ける手首。女性は西洋の伝統的なドレスから解放され斬新な服に身を包んでいます。
描かれているのは新興のブルジョワ・銀行家の妻です。
近代化の進むウィーンで王侯貴族に代わって台頭したブルジョワ達。
彼らは伝統的な文化に対抗する、新進の芸術家たちを支援しました。
新しい時代の新しい表現を作り出すクリムトの元には、ブルジョワたちから妻の肖像画の依頼が多数寄せられました。
こうして、クリムトは斬新なドレスで着飾った女性達を次々と描きました。
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」-1907
”クリムトはこんな画家”
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I」頬を赤らめた女性、顔と毛首以外は全て金の衣装に覆い隠されてます。
ドレスには日本やエジプトから発想を得たと言われる文様などが描かれており、テキスタイルの図案的なものと人体の具象がミックスしています。
工芸をアートに昇華させた作品とも言えます。
この絵の中で生身は顔と手だけです。美しい金の甲冑で体を固めたようにも見え、一層肌の部分が艶かしく感じます。
当時のウイーンの批評家はこの絵をみて、
「この絵は「ブロッホ」というよりは「ブレッヒ」だ」と言ったそうです。
ブロッホは身体、ブレッヒはブリキだそうです。
ひどいことを言うものです。😀
クリムトとファッションデザイン
クリムトは自身でドレスのデザインもしていました。クリムトのデザインは時代の先駆けと言えるものでした。
当時、上流階級の女性の多くはウエストを極端に絞め、胸とヒップを強調するドレスを着用していました。
そんな時代にクリムトは、窮屈なドレスから女性を解放させ、個性を自由に発揮できる服を考案しました。
クリムトのファッションデザインを語るとき、恋人であったエミーリエ・フレーゲという女性の存在を欠かすことはできません。
彼女は、ブティックを経営する、当時としては珍しい女性実業家であり、時代の先端をゆく、ファッションデザイナーでもありました。
「ドイツ芸術と装飾」1907年1月号に彼女と共にクリムトがデザインしたドレス10点が掲載されています。
そのデザインは体の線を強調した従来のものとは一線をかくし、体型を覆い隠すようなゆったりとしたものでした。
晩年の作品
1911-1918(49〜56歳)クリムトは晩年にこんな言葉を遺しています。
「若い人たちは、もはや私を理解していない」
「彼らは別の方向に進んでいる」
「彼らがそもそも私を評価しているかどうかもわからない」
その頃のヨーロッパでは、すでに抽象絵画が生まれており、ピカソ、カンディンスキー、マルクなどが注目を集めていました。
クリムトは、「時代から取り残されるようになったのでは?」と思い悩むようになっていました。
そんなクリムトは50歳に差し掛かる頃から、金箔に変わる新たな表現を模索し始めます。
「死と性」1915 晩年の傑作個人的にはこちらの方が好きです。
”クリムトはこんな画家”
「生と死」花畑のような空間で、幼児から老年に至る人間が群れになってまどろむ。
そこに近づくのは十字架の衣服を纏った死神。
背景にはこれまでにない暗い色が使われています。
実は、この絵の背景は元々は金色で描かれていました。しかし、クリムトが塗り替えたのです。
周りが金ですと寒色で描かれた「死」の方が強いコントラストを持って現れます。そのため、暖色で描かれた生よりも死の方が主役になります。
クリムトは周りを黒い色にすることで生の方を引き立てました。
また、クリムトは生だけを表現するのでなく死を傍に置いています。そのことで、生と死との強い対比が生まれ、生がより強調されています。
実際の背景の色は、黒というよりもダークブルーです。果てしない宇宙空間のようなイメージを出しています。
クリムトが背景の色を変えたのは1915年、まさに第一次世界大戦(1914-1918)の最中です。
その頃のウィーンは、ブルジョワが台頭した華やかな時代から、混沌とした死と隣り合わせの時代へ移っていました。
クリムトはそんな時だからこそ、生きる尊さ描こうとしたのかもしれません。
クリムトの風景画以上のように、クリムトは人物画で有名ですが、彼の作品のうちの約4分の1を風景画が占めていることに驚かされます。
ウイーン分離派を結成した頃にすでに風景画を描き始めており、晩年に至るまで描き続けました。
多くの人物画がブルジョアからの受注制作であったのに対し、風景画はクリムトの自発的な制作です。
批評家にいじめられ、疲れていたクリムトにとって、風景画は憩いや安らぎの場、そしてエネルギーチャージの場でもあったようです。自然に向かっている時のクリムトは、一番穏やかに絵に没頭できたのではないでしょうか。
私は風景画を見た時、クリムトの人間性がわかったような気がしました。また、先の装飾的な絵をより理解できるようになりました。
クリムトの風景画にはこんな特徴があります。
動物や人物がいっさい登場しない。神秘的な雰囲気をたたえた風景が多い。 画面が風景画でよく使われる横長でなく正方形である。横への広がりはないが、対象を空間に閉じ込めることで、見る人が自分だけの空間を見ているような感覚を与えている。 その頃に流行り始めた点描などの技法を積極的に取り入れている。
いくつか私のお気に入りの絵を載せています。どれも自由な感性で描かれた素晴らしい作品です。
アッター湖と風景画
クリムトは1900年から1916年までの夏を、恋人エミーリエ・フレーゲと共にアッター湖畔で過ごし、風景画を制作しました。
アッター湖は、ウィーンの西方200kmほどの位置にあり、南北に20km、東西に4kmと細長く、水が大変綺麗な湖です。
「アッター湖にて」1900
”クリムトはこんな画家”
「アッター湖にて」風景画ではこの作品が最も好きです。
水面を大きくとった、大胆な構図が素晴らしいです。水面の色も、黄色、緑、赤紫を巧みに配置しています。
淡い色彩の中に、小さい島が唯一暗い色で強調されて幻想的です。
安らぎと不安感が同時に感じられる絵ですね。
「白樺の林」1903
”クリムトはこんな画家”
「白樺の林」この絵は秋の落ち葉の風景。白樺は落葉樹なので秋なら葉っぱが落ちているはずです。
しかし、白樺の葉は青々としていますし、右下には青い花が咲いています。
落ち葉のオレンジと木の葉っぱの青緑は反対色、またオレンジは暖色なので落ち葉が強調されて見えます。
まるで、すっくと立つ木々が人で、落ち葉が衣装のようにも感じられます。
「アッター湖畔のウンターアッハの斜面」1916
”クリムトはこんな画家”
「アッター湖畔のウンターアッハの斜面」森の木々がモザイク画のように描かれています。点描のようにも見えます。
最晩年の作品だけあって、子供が描いたような自由な表現になっています。
人生を達観した美しさがあります。
「アッター湖畔ウンターアッハ教会」
”クリムトはこんな画家”
「アッター湖畔ウンターアッハ教会」これも素敵ですね。部屋に飾りたい作品です。
個々の木々や建物には立体感が乏しいですが、それらの重なりで遠近を表現しています。
いわゆる、浮世絵のような表現を取り入れています。
現実ではなく、夢の世界にいるように感じませんか!
最後に1918年 クリムトは新たな表現を模索する中、急に病に倒れて55歳でこの世をさります。
まさに人生を生ききったと言う感じですね。ご本人(周りも?)は大変だったかもしれませんが、羨ましい人生です。
この文章をまとめるにあたって、NHKの日曜美術館と千足伸行さんの著書を参考にさせていただきました。
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感想(0件)最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
他にも、お気に入りの画家達をご紹介していますので、覗いてみてください。
きっと、魅力を再認識されるはずです。
私のおすすめの風景画家
ここからホーム画面にも!
Youtubeにも投稿「風景画の旅」と言うテーマで、国内外の風景と自作絵画を動画にしてご紹介しています。
こちらもお立ち寄りください。お気に入りのモティーフが見つかるかも!
グランFチャンネル 』
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「扇を持つ婦人」136億円で落札 クリムト最後の傑作―英
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023062800187&g=int
『【ロンドン時事】オーストリアのウィーン分離派を代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918年)の最晩年の作品「扇を持つ婦人」が27日、ロンドンで競売商サザビーズのオークションに掛けられ、7400万ポンド(約135億9000万円)で落札された。英BBC放送によると、欧州の競売での美術品としては、彫刻家アルベルト・ジャコメッティの「歩く男I」の6500万ポンドを抜いて最高額という。
クリムトの絵に黒い液体 環境活動家の名画襲撃続く―オーストリア
「扇を持つ婦人」はクリムトの死後、アトリエのイーゼルに置かれているのが発見され、最後の傑作とされる。中央に胸元を扇子で覆いながら遠くを見つめる若い女性が、背景には鳳凰やハスの花などが描かれている。 』
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みじか夜や芦間(あしま)流るゝ蟹の泡 ― 蕪村
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09629/
※ 『一見、無常観に満ちた『方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし」(河は絶えることなく流れ続け、しかも水は同じ水ではない。よどみに浮かぶ水の泡も、生まれては消え、消えては生まれて、いつまでも留まるためしはない)を連想させます。けれども、蕪村の「泡」は「水の泡」ではなく、「蟹の泡」。はかなく消える無常感ではなく、水辺の小さな生き物の気配を感じさせる、いわば生命の証しとなっているのです。』
※ 『しかもこの句は「百人一首」の歌を下敷きにして作られています。「難波潟みじかき芦のふしのまも逢(あ)はでこの世をすぐしてよとや」(難波潟の芦の節と節の間のようなほんの短い間でも、あなたに会わずに世を過ごせというのでしょうか)という平安時代の女性家人・伊勢の歌と、「みじか・芦・よ(世と夜)」の言葉、そして「あは」の2音が重なっています。歌の一番肝心な言葉「逢はで」の「あは」を「泡」に変えて蟹の泡にしてしまったのです。
これぞ俳諧の機知! 蕪村はこのように一句の中に詩情と機知の両方を盛り込む句作が得意でした。夏の美しい夜明けを詠んだ「みじか夜や」の句には、こんなユーモアが隠れているのです。』…。
※ スゲーな…。
※ そういう「文学的な素養」が備わってないと、味わい尽くせぬものなのか…。
※ 今日は、こんな所で…。
『 俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第30回の季題は「短夜(みじかよ)」。
みじか夜や芦間(あしま)流るゝ蟹の泡 蕪村 (1771年ころの作か、『蕪村句集』所収)
夏至が近づくにつれてどんどん夜の時間が短くなっていきます。明けやすい夏の夜を「短夜」といいます。この句は「夏の夜が白々と明け始めるころ、川岸に茂る芦の間から蟹(かに)の吐く白い泡が流れてきた」という意味です。
一見、無常観に満ちた『方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし」(河は絶えることなく流れ続け、しかも水は同じ水ではない。よどみに浮かぶ水の泡も、生まれては消え、消えては生まれて、いつまでも留まるためしはない)を連想させます。けれども、蕪村の「泡」は「水の泡」ではなく、「蟹の泡」。はかなく消える無常感ではなく、水辺の小さな生き物の気配を感じさせる、いわば生命の証しとなっているのです。
しかもこの句は「百人一首」の歌を下敷きにして作られています。「難波潟みじかき芦のふしのまも逢(あ)はでこの世をすぐしてよとや」(難波潟の芦の節と節の間のようなほんの短い間でも、あなたに会わずに世を過ごせというのでしょうか)という平安時代の女性家人・伊勢の歌と、「みじか・芦・よ(世と夜)」の言葉、そして「あは」の2音が重なっています。歌の一番肝心な言葉「逢はで」の「あは」を「泡」に変えて蟹の泡にしてしまったのです。
これぞ俳諧の機知! 蕪村はこのように一句の中に詩情と機知の両方を盛り込む句作が得意でした。夏の美しい夜明けを詠んだ「みじか夜や」の句には、こんなユーモアが隠れているのです。
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俳句 蕪村
深沢 了子FUKASAWA Noriko経歴・執筆一覧を見る
聖心女子大学現代教養学部教授。蕪村を中心とした俳諧を研究。1965年横浜市生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。鶴見大学助教授、聖心女子大学准教授を経て現職。著書に『近世中期の上方俳壇』(和泉書院、2001年)。深沢眞二氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Albert Mehrabian
アルバート・メラビアン
生誕 1939年
国籍 米国
研究分野 感情心理学
研究機関 カリフォルニア大学ロサンゼルス校
主な業績 メラビアンの法則
影響を
受けた人物 エリック・バーン
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示アルバート・メラビアン(Albert Mehrabian、1939年 – )はアメリカ合衆国の心理学者。姓はマレービアンやメレビアンなどと読まれることもある。アルメニア系アメリカ人で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)心理学名誉教授。
メラビアンは、言語によるメッセージと非言語メッセージを比較してどちらが重要か調査した結果を出版したことによって世間に知られるようになった。人間の感情やコミュニケーションに関する研究を行ってきたほか、投資の心理学や子供に与える名前の良し悪しなど一般の関心の高い事柄に関しても著書を出している。
彼が発見した、感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方は、世界中の人間関係についての研修やセミナーなどで誤解して引用され、「メラビアンの法則」、「7-38-55のルール(7%-38%-55% Rule)」と呼ばれていることも多い。
コミュニケーションの三つの要素
1971年の著書『Silent messages(邦題:非言語コミュニケーション)』における調査では、メラビアンは次のような結論を出した。まず、人と人とが直接顔を合わせるフェイス・トゥー・フェイス・コミュニケーションには基本的に三つの要素があることである。
・言語 ・声のトーン (聴覚) ・身体言語(ボディーランゲージ) (視覚)
そして、これら三つの要素は、メッセージに込められた意味・内容の伝達の際に占める割合が違う。彼によれば、これらの要素が矛盾した内容を送っている状況下において、言葉がメッセージ伝達に占める割合は7 %、声のトーンや口調は38 %、ボディーランゲージは55 %であった。
効果的で意義のあるコミュニケーションをするためには、これら三つのメッセージ要素が、メッセージの意味を正しく伝えるように互いに支えあう必要がある。つまり三つの要素は一致する必要がある。しかし要素間に不一致・矛盾が発生した場合は、メッセージの受け手は異なる回路から異なる伝言を受け取り、異なる情報を与えられるため、不快な思いをすることとなる。
次の例は、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションに不一致が生じた場合である。
言葉: 「君は悪くなんかないよ!」 態度: 目線を合わせない、浮かない表情をする、等
この場合、受け手はコミュニケーションにおいて優勢な要素のほうを受け入れる傾向がある。すなわちメラビアンに拠れば非言語コミュニケーション(38 + 55 %)のほうを、言ったとおりの言葉(7 %)よりも信用する。
ここで重要なことは、それぞれの研究において、メラビアンは感情や態度(すなわち、好意・反感)の伝達を扱う実験を行ったことである。つまり単に事実のみを伝えたり要望をしたりするコミュニケーションの場合には無関係である。加えて、メッセージの受け手が声の調子や身体言語といったものを過度に重視するのは、メッセージの送り手がどちらとも取れるメッセージを送った状況でのみ発生することである。非言語コミュニケーションの占める合計が93 %に及ぶのは、言っている言葉(言語)と、とっている口調や表情(視覚、聴覚)に矛盾が発生する場合のことである。
「交流分析#ゲームとその分析」も参照
メラビアンの法則の誤解
メラビアンの「7-38-55のルール(7%-38%-55% Rule)」は彼の研究結果より誇張されて一人歩きしている。中には、どのような内容のコミュニケーションや、どのような状況下でも、メッセージの意味は大半が非言語コミュニケーションによって伝達される、と主張する者もいる。
限定された状況下でのメラビアンの調査の結果をどのような状況にもあてはめる過度の一般化は、いわゆる「メラビアンの法則」をめぐる基本的な誤りである。メラビアン自身も自分のウェブページで、「好意の合計 = 言語による好意7% + 声による好意38% + 表情による好意55%」という等式は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションを扱う実験から生み出されたものであり、話者が好意や反感について語っていないときは、これらの等式はあてはまらないと言明している。[1]
脚注
^ "Silent Messages" -- A Wealth of Information About Nonverbal Communication (Body Language) (メラビアンの公式サイト)
参考文献
Question book-4.svg
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年1月)Mehrabian, A. (1971). Silent messages. Wadsworth, Belmont, California. Mehrabian, A. (1981). Silent messages: Implicit communication of emotions and attitudes (2nd ed.). Wadsworth, Belmont, California. Mehrabian, A. (1972). Nonverbal communication. Aldine-Atherton, Chicago, Illinois. アルバート・マレービアン著、西田司他共訳『非言語コミュニケーション』聖文社 1986年
外部リンク
http://www.kaaj.com/psych/ (メラビアンの公式サイト) 『反社会学講座』 第9回 ひきこもりのためのビジネスマナー講座:俗に解釈されたメラビアンの法則についての批判を含む
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その他
Faceted Application of Subject Terminology RERO(スイス) 1 SUDOC(フランス) 1カテゴリ:
アメリカ合衆国の心理学者コミュニケーション学者カリフォルニア大学ロサンゼルス校の教員アルメニア系アメリカ人1939年生存命人物 最終更新 2023年5月31日 (水) 12:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください 。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メラビアンの法則(メラビアンのほうそく)とは、矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかを判断するアルバート・メラビアンが行った実験についての俗流解釈である。
研究内容
「アルバート・メラビアン#コミュニケーションの三つの要素」も参照この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。
俗流解釈
この内容が次第に一人歩きをし、この法則から「見た目が一番重要」あるいは「話の内容よりも喋り方のテクニックが重要」という結論が導き出され認知されている。就職活動の面接対策セミナー、営業セミナー、自己啓発書、話し方教室などでこの解釈がよく用いられる。ただしこの実験は「好意・反感などの態度や感情のコミュニケーション」において「メッセージの送り手がどちらとも取れるメッセージを送った」場合、「メッセージの受け手が声の調子や身体言語といったものを重視する」という事を言っているに過ぎない。よって単に事実のみを伝えたり要望をしたりするコミュニケーションの場合には触れておらず、コミュニケーション全般においてこの法則が適用されると言うような解釈はメラビアン本人が提唱したものとは異なるものである。 メラビアンの実験は「maybe」いう単語を様々な声質で録音して聞かせて、どのような印象を受けたかを測定したものである。研究自体は「視覚」「聴覚」「言語」で情報が与えられた際の受け止め方を測定するものだった。強い発音では、普通の発音よりも「そうかもしれない」と感じたことを立証したに過ぎない。
関連
日本では俗流解釈だけが一般に流布していたが、メラビアンの実験内容はまったく違うものであることを日本語で初めて紹介したのが、平野喜久著『天使と悪魔のビジネス用語辞典』(メルマガ版:2002年、書籍版:2004年 ISBN 4-88399-402-3、電子ブック版:2011年)である。「7-38-55のルール」「3Vの法則」という言葉は、それまで日本で使われていた形跡はなく、この著作中の「天使の辞典」部分で皮肉をこめて表現されたものが一般に広まった。 2005年に出版され100万部を超えるベストセラーとなった竹内一郎の著書『人は見た目が9割』[1]は「メラビアンの法則」の俗流解釈をベースに題名がつけられた。なお、メラビアンの研究で示されたのは視覚情報と聴覚情報を合わせて約9割という結果であり、視覚情報だけで9割を占めるわけではないが、竹内は「言語情報以外」を「見た目」と表現している。 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座[2]』収録の「ひきこもりのためのビジネスマナー講座[3]」では俗流解釈を一種の都市伝説だとして批判している。 コラムニストの尾藤克之は未だに使用されていることの理由として、コミュニケーションの重要性を説明するにあたり便利だと述べる。とくに、55%+38%+7%=100%なので数値の指標として使いやすい点があると指摘する。
脚注
^ 『人は見た目が9割』新潮社、2005年、18頁。ISBN 978-4106101373。 ^ イースト・プレス 2004年 ISBN 978-4872574609、文庫版は筑摩書房 2007年 ISBN 978-4480423566 ^ [1]
関連項目
非言語コミュニケーション バンドワゴン効果
外部リンク
【メラビアンの法則】天使と悪魔のビジネス用語辞典 ひきこもりのためのビジネスマナー講座 - スタンダード反社会学講座(パオロ・マッツァリーノのサイト) メラビアンの法則をいまだに信じてる人たち反社会学講座ブログ 梶原しげる:【116】メラビアンのうそ 〜「プレゼン詐欺」にご用心〜 | BizCOLLEGE <日経BPnet> 尾藤克之:いまだに使われるメラビアンの法則の不思議 アゴラ
執筆の途中です この項目は、心理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ 心理学)。
執筆の途中です この項目は、社会科学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:社会科学)。
カテゴリ:オーラルコミュニケーション日本の俗語能力開発通俗心理学エポニム広く信じられた謬説 最終更新 2023年6月3日 (土) 15:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 』
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成績トップの営業担当者たちが実践する、心理学に基づく36のメソッド
https://biz-journal.jp/2023/06/post_353910.html『営業で成果を上げるために必要なことは、人間の心を理解することだ。なぜなら、人は心でモノを買うからだ。心理的に「買いたい」「買わせて欲しい」と思わせることができる一流の営業マンになるにはどうしたらいいのか。
『サイコロジーセールス 最強の営業心理学』(大谷侑暉著、フォレスト出版刊)という本がある。この本では、営業マンに営業を教えるセールスコンサルタントであり、セールスYouTuberである大谷侑暉氏が、顧客心理や人間が一般的に持つ心理傾向、認知バイアスなどを知り、それら心理法則を営業に落とし込み、科学的に成約率を上げる営業方法を解説。ラポール獲得、ヒアリング、プレゼンテーション、クロージングという営業プロセスに合わせた36の心理法則と技術を紹介する。
人間心理における原理原則であり、営業における絶対的な以下の6つの営業の基本法則というものがある。
1.返報性の原理 何かを与えられると「お返ししなければならない」と感じる心理傾向。 2.コミットメントと一貫性の原理 自分が決めたことや約束を貫き通そうとする心理傾向。 3.社会的証明 多数派の意見に従ってしまう心理傾向。 4.権威効果 専門家の意見は正しい、従いたいと感じる心理傾向。 5.希少性の原理 ある対象に制限がかかると価値を高く見積もってしまう心理傾向。 6.メラビンの法則 話し手が聞き手に与える影響を3つに分け数値化した心理モデル。
自分が実際にモノを購入するとき、6つの心理のどれかに当てはまっていることもあるはずだ。たとえば、権威効果はどのように営業に使うのか。白衣を着た医者や弁護士バッジを胸につけた弁護士の疑いの目を向けることは少ないはず。なぜ専門家の前では盲目的になってしまうのか。それは脳のリソース(意思力)を節約する手助けとなるからだ。
普段この脳のリソースを使って思考や理解、決断などを行なっている。ただ、このリソースは1日の中で使用できる量が決まっている。脳はそのリソースを節約するように進化してきた。なので、権威効果が働くことで、脳のリソースを使わなくてよくなり、それによって本当に必要なところにリソースを割くことができるようになる。
営業でこの権威効果を活用するには、「肩書き」「モノ」「服装」を意識することだ。肩書は、自分の職業や実績のこと。モノは、メガネ、スーツのバッジ、万年筆、高級バッグなどが権威効果を感じさせられるアイテムとなる。そして、服装はスーツにこだわること。いいスーツを着こなすこと。普段から身につけるアイテムにこだわり、身だしなみを整えることで、権威効果が活用できるようになるのだ。
営業が苦手、売れないと悩んでいる人は、まず、人の心を理解することだ。現代的な最先端の営業やマーケティングの世界の潮流としても、心理を理解することが今一番大切と言われている。本書から心理学を使った営業方法を学び、実践してみてはどうだろう。(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。
新刊JP
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「戦わずして勝つ」というより、むしろ「戦ったら負け」なのだと気づいた。
https://blog.tinect.jp/?p=82366

『職場で妙にうまく自分の意見を通す人がいる。最近この人から本当に大切な事を学んだので、今日はそれについて書こうかと思う。
人間というのは面白いもので、同じことをやっても好かれる人と嫌われる人がいる。
貴方も「言ってることは正しいかもしれないけど、それにしてもコイツ、酷い言い方するなぁ」と思った事が一度や二度はあるだろう。
俗に言うところの「口のきき方に気をつけろ」というこの現象の正体が自分は本当に長い間よくわからなかった。そもそも「口のきき方」って単語自体が、なんか曖昧で要領を得ない。
そういう事もあって、冒頭に出した自分の意見を上手に通し続ける人が不思議で仕方がなかった。
ぶっちゃけた事をいうと、彼はそこまで人間的に魅力があるようにはみえなかったし、何かカリスマがあるような人でもない。
決して口ベタではないが、上手くも無い。
しかし気がつくと周囲とは軋轢を作らずに事を推し進めるのである。いったいどんな秘技を使っているんだ?と淡々と観察し続けたところ、やっとその正体がみえた。それは争わないである。
喧嘩になるから、それは言っちゃ駄目だよ
争わないがポイントだと気がついたのは、ちょっとした事がキッカケだった。
職場にて仕事の為の仕事のような業務が発生しそうになっていた際、僕がつい
「そんな下らない仕事をやる意味ってあります?って言いいませんか?」
「それぐらいハッキリしたモノの言い方しないと、もう通じないでしょ?」
と口にした際、冒頭の彼がこう言ったのだ。
「ケンカになるから、それは言っちゃ駄目だよ」
その時は正直「もうケンカになってでも押し問答しないと駄目だろ。なにコイツ日和ってるんだ」と思っていたのだが、それからしばらくするとその雑務は消滅していた。
僕を含め、ほとんどの人が雑務が自然消滅していた事に全く気が付かないまま数ヶ月が経過していたのだが、ふと「そういえばあの雑務、どうしたんだろう」と思い出し、件の彼に聞いてみたところ
「僕がうまいことやっておきました」と言ってのけたのである。
これには正直、かなり痺れた。久しぶりにコイツはスゲェなと思った瞬間であった。
犬の腹見せのようなコミュニケーションは、意外と効く
それから彼の言葉遣いを逐一観察し続けてみると、ある特徴に気がついた。それは犬の腹見せである。
彼は困った事を頼まれたりすると「ふざけないでください!そんな事はできません!」というような強い威嚇を相手には絶対にしなかった。
代わりに、本当に困った顔をするのである。そして肯定も否定もせずに、話をどうにか保留するような形で座礁に押し上げるのだ。
すると相手が不憫に思うからなのか、その話が消えるか、あるいは折り合いが付きそうな妥協案へと徐々に落ち着いていくのである。
これをみて、僕は今まで嫌なことをされたら、キャンキャンと吠えて威嚇する犬みたいな事を相手方にやっていたんだなという事に気がついた。
何か嫌な事をぶつけられた時に強く拒否したら、相手も必要以上にムキになってしまう。しかし件の彼のように、困った顔をして腹を見せられると、相手も
「あ、やっちまったな」
と勝手に反省して、勝手にマイルドになっていくのである。
多くの人は売られたケンカを買ってしまう
戦わずして勝つのが至上である。
これは孫子の兵法だが、いま思うに僕はこの言葉の意味がわかっているようでよくわかっていなかったのだと思う。
戦わずに勝つとは、何もムキムキ・マッチョになって筋肉を提示する事でもなければ、罠を張り巡らせて相手を落とし穴に落とす事でもない。
相手からのケンカを買わず、相手にケンカをふっかけない。
これが多分、真のポイントなのである。
人の気持ちは非対称
世の中には数多の面倒くさい人間がいる。彼らは無自覚にクソ面倒くさい事をぶつけてくるが、いま思うと彼ら自身は恐らく相手にケンカを売りつけている自覚は無い。
この事は逆の事を考えてみればわかるのではないだろうか?例えば、貴方が「口のきき方に気をつけろ!」と言われたら、たぶん
「ん?癇に障っちゃったか?そういう意図は特になかったんだけど」
と、自分が相手を加害したという自覚はそこまで持たないのではないだろうか?
人の気持ちは大変に非対称なものだ。
自分が特段相手を褒めたつもりがなくても、勝手に相手が喜ぶ事もあるし、自分が相手を貶したつもりがなくても相手が勝手に凹んでいるという事は、本当によくある。
このように我々は時に鈍感マンをやり、時に繊細チンピラをやって、勝手に一人で踊り狂っていたりする生き物である。
多感だった中高生の時期の事なんかを思い出してもらうと、見悶える人も多いのではないだろうか?
喧嘩を買わないし、売らないが理想なのだが…
それからしばらくして大人になると、我々はどんどんタフになり、また相手にちょっとづつ気を使えるようになるからなのか、他人とそこまで喧嘩をしなくはなる。
喧嘩しない社会は実にスムーズである。心が穏やかになるし、仕事の速度も早い。
しかしそれでも私達は時に無自覚に争いの種を撒いてしまうし、撒かれてしまう。ツイッターなんかをみていると、よく争いの種をポロポロと撒き散らしている人気者がいるが、あれに群がる人は何ていうか無惨である。
火事と喧嘩は江戸の花というが…なんていうかみんな本当にゴシップニュースに飛び乗りたがるし、レイドバトルに参入したがる。
さきほど、喧嘩しない社会は心穏やかだと書いたが、こうしてみると私達は心穏やかになりたいという欲が確かに心の中にあるはずなのに、その一方でわざわざ喧嘩の種を買ってきて心をざわつかせたいという欲があるようにもみえる。
一体何で、私達は戦わずして勝つが一番だと知りつつ、戦って負けるをやってしまうのか?
馬鹿だからだと言えばそれまでではあるのだが、僕にその答えを与えてくれた人がいる。ルネ・ジラールである
人は誰かの欲望を模倣してしまう
ルネ・ジラールの欲望の模倣理論は”欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリア”という本を読んで初めてしった。
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欲望の模倣理論を一言でいえば、人は誰かが欲しがっているものを欲しくなるという理論である。
例えば進学校にいれば東大や医学部を皆が目指すから、自分もそういう場所に行きたくなってしまうし、ブランド物のバッグを持っている人が普通な環境にいれば、自分も自然にそういうものが欲しくなるといったようなロジックである。よくわからないけどメチャクチャにモテる男女の正体も、たぶんコレだ。
人間は己の中にゆっくりとだが濃いオリジナルな欲望と、ファストで誰かに惹きつけられがちな薄いタイプの欲望がある。
ルネ・ジラールの欲望の模倣理論は後者のファストなタイプの欲望を説明したものだが、この欲望の模倣理論から考えるに私達は血生臭い争いに勝ちたいという渇望を共通しているように僕には感じられるのである。
血祭りって、やっぱり超気持ちいい!
実際、少年漫画では能力者同士による激しい闘いが常に繰り広げられているし、少女漫画では意地悪の応酬を知恵や自身の美貌でもって打ち倒すシーンが何度も何度も描かれている。
それらをフィクションを通じて体験する事には、やはり何か筆舌に尽くしがたいものがある。ゾクゾクして気持ちがいい。
たぶん、私達は頭では「戦わずして勝つのが最高だ」とは理解できてはいるのだが、その一方で「悪い奴を血祭りにあげるのは超気持ちいい」と身体で深く理解しているのだ。
その捻れが争いのないスムーズな表社会を心地よく思う一方で、SNSやマスコミのニュースといった裏社会でゴリッゴリのバトルを繰り広げるというズレた行動原理に繋がっているのである。
血祭り欲求は、ちゃんと裏で消費する
個人的には、もうこの血祭り欲求自体はある程度は仕方がないものとして受け入れていくしかないように思う。
己の内側にも確かにあるし、他人という外側にも絶対にある。故に模倣の輪は止めようが無い。
やっぱり強い者同士の血みどろのバトルは心が湧くし、悪徳令嬢が性格の悪いライバルを蹴落とすのはスカッとする。
そういうものに感じる面白さは否定するような性質のものではないと思うし、フィクションを通じて消費できるというのなら、むしろ健全であろう。これはある種の自慰だと僕は思う。
しかしそれが実生活ともなると、話は別だ。職場で念能力バトルをやりたくなってしまったり、あるいは略奪愛をやりたくなってしまったりするのは、どう考えても「戦って負け」だ。
あるいは難しい政治の話を私生活フィールドに持ち込んで「世の中には世代間格差や男女差別があるんです!」と言ってしまうのは、まあ活動家ならまだしも市井の人々には虚無である。少なくとも幸福には程遠い何かであろう。
己の中にある血祭り欲求はキチンと認めてあげて、その上でそれは裏の中でちゃんと処理するべきなのだ。鮭の川登りのようにフィールドを遡上させていい事は一つもない。
表を裏に侵食させない
適材適所という言葉がある。これも本当に私達はわかったつもりになっているのだが、実際に適材を適所にキチンと置き続けられる人はほとんどいない。
マネジメントなんて言葉がある時点で、これが本当に高等技術である事が暗に示されている。
大切なのは、自身の幸福とゆっくりとだが濃い欲望の実現である。自分自身の怠惰な心に向き合って、時に愛でて時に鞭打って、理想の自分と現実の自分との間にあるものをどうやって埋めていくかというバトルにこそ、本当の戦争がある。
その戦いに勝つためにも、やっぱり下らない戦で戦ったら負けなのだ。戦うべき戦でキチンと戦い、戦うべきではない戦では鉾を収める。
戦わずして勝つなんてカッコいい事を素人が目指してはいけない。
戦ったらその時点で負けだというスタンスにこそ、私達は学ぶべきなのである。』


















