カテゴリー: 思考法、関連
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Albert Mehrabian
アルバート・メラビアン
生誕 1939年
国籍 米国
研究分野 感情心理学
研究機関 カリフォルニア大学ロサンゼルス校
主な業績 メラビアンの法則
影響を
受けた人物 エリック・バーン
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示アルバート・メラビアン(Albert Mehrabian、1939年 – )はアメリカ合衆国の心理学者。姓はマレービアンやメレビアンなどと読まれることもある。アルメニア系アメリカ人で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)心理学名誉教授。
メラビアンは、言語によるメッセージと非言語メッセージを比較してどちらが重要か調査した結果を出版したことによって世間に知られるようになった。人間の感情やコミュニケーションに関する研究を行ってきたほか、投資の心理学や子供に与える名前の良し悪しなど一般の関心の高い事柄に関しても著書を出している。
彼が発見した、感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方は、世界中の人間関係についての研修やセミナーなどで誤解して引用され、「メラビアンの法則」、「7-38-55のルール(7%-38%-55% Rule)」と呼ばれていることも多い。
コミュニケーションの三つの要素
1971年の著書『Silent messages(邦題:非言語コミュニケーション)』における調査では、メラビアンは次のような結論を出した。まず、人と人とが直接顔を合わせるフェイス・トゥー・フェイス・コミュニケーションには基本的に三つの要素があることである。
・言語 ・声のトーン (聴覚) ・身体言語(ボディーランゲージ) (視覚)
そして、これら三つの要素は、メッセージに込められた意味・内容の伝達の際に占める割合が違う。彼によれば、これらの要素が矛盾した内容を送っている状況下において、言葉がメッセージ伝達に占める割合は7 %、声のトーンや口調は38 %、ボディーランゲージは55 %であった。
効果的で意義のあるコミュニケーションをするためには、これら三つのメッセージ要素が、メッセージの意味を正しく伝えるように互いに支えあう必要がある。つまり三つの要素は一致する必要がある。しかし要素間に不一致・矛盾が発生した場合は、メッセージの受け手は異なる回路から異なる伝言を受け取り、異なる情報を与えられるため、不快な思いをすることとなる。
次の例は、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションに不一致が生じた場合である。
言葉: 「君は悪くなんかないよ!」 態度: 目線を合わせない、浮かない表情をする、等
この場合、受け手はコミュニケーションにおいて優勢な要素のほうを受け入れる傾向がある。すなわちメラビアンに拠れば非言語コミュニケーション(38 + 55 %)のほうを、言ったとおりの言葉(7 %)よりも信用する。
ここで重要なことは、それぞれの研究において、メラビアンは感情や態度(すなわち、好意・反感)の伝達を扱う実験を行ったことである。つまり単に事実のみを伝えたり要望をしたりするコミュニケーションの場合には無関係である。加えて、メッセージの受け手が声の調子や身体言語といったものを過度に重視するのは、メッセージの送り手がどちらとも取れるメッセージを送った状況でのみ発生することである。非言語コミュニケーションの占める合計が93 %に及ぶのは、言っている言葉(言語)と、とっている口調や表情(視覚、聴覚)に矛盾が発生する場合のことである。
「交流分析#ゲームとその分析」も参照
メラビアンの法則の誤解
メラビアンの「7-38-55のルール(7%-38%-55% Rule)」は彼の研究結果より誇張されて一人歩きしている。中には、どのような内容のコミュニケーションや、どのような状況下でも、メッセージの意味は大半が非言語コミュニケーションによって伝達される、と主張する者もいる。
限定された状況下でのメラビアンの調査の結果をどのような状況にもあてはめる過度の一般化は、いわゆる「メラビアンの法則」をめぐる基本的な誤りである。メラビアン自身も自分のウェブページで、「好意の合計 = 言語による好意7% + 声による好意38% + 表情による好意55%」という等式は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションを扱う実験から生み出されたものであり、話者が好意や反感について語っていないときは、これらの等式はあてはまらないと言明している。[1]
脚注
^ "Silent Messages" -- A Wealth of Information About Nonverbal Communication (Body Language) (メラビアンの公式サイト)
参考文献
Question book-4.svg
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年1月)Mehrabian, A. (1971). Silent messages. Wadsworth, Belmont, California. Mehrabian, A. (1981). Silent messages: Implicit communication of emotions and attitudes (2nd ed.). Wadsworth, Belmont, California. Mehrabian, A. (1972). Nonverbal communication. Aldine-Atherton, Chicago, Illinois. アルバート・マレービアン著、西田司他共訳『非言語コミュニケーション』聖文社 1986年
外部リンク
http://www.kaaj.com/psych/ (メラビアンの公式サイト) 『反社会学講座』 第9回 ひきこもりのためのビジネスマナー講座:俗に解釈されたメラビアンの法則についての批判を含む
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アメリカ合衆国の心理学者コミュニケーション学者カリフォルニア大学ロサンゼルス校の教員アルメニア系アメリカ人1939年生存命人物 最終更新 2023年5月31日 (水) 12:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください 。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メラビアンの法則(メラビアンのほうそく)とは、矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかを判断するアルバート・メラビアンが行った実験についての俗流解釈である。
研究内容
「アルバート・メラビアン#コミュニケーションの三つの要素」も参照この研究は好意・反感などの態度や感情のコミュニケーションについてを扱う実験である。感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について、人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった。この割合から「7-38-55のルール」とも言われる。「言語情報=Verbal」「聴覚情報=Vocal」「視覚情報=Visual」の頭文字を取って「3Vの法則」ともいわれている。
俗流解釈
この内容が次第に一人歩きをし、この法則から「見た目が一番重要」あるいは「話の内容よりも喋り方のテクニックが重要」という結論が導き出され認知されている。就職活動の面接対策セミナー、営業セミナー、自己啓発書、話し方教室などでこの解釈がよく用いられる。ただしこの実験は「好意・反感などの態度や感情のコミュニケーション」において「メッセージの送り手がどちらとも取れるメッセージを送った」場合、「メッセージの受け手が声の調子や身体言語といったものを重視する」という事を言っているに過ぎない。よって単に事実のみを伝えたり要望をしたりするコミュニケーションの場合には触れておらず、コミュニケーション全般においてこの法則が適用されると言うような解釈はメラビアン本人が提唱したものとは異なるものである。 メラビアンの実験は「maybe」いう単語を様々な声質で録音して聞かせて、どのような印象を受けたかを測定したものである。研究自体は「視覚」「聴覚」「言語」で情報が与えられた際の受け止め方を測定するものだった。強い発音では、普通の発音よりも「そうかもしれない」と感じたことを立証したに過ぎない。
関連
日本では俗流解釈だけが一般に流布していたが、メラビアンの実験内容はまったく違うものであることを日本語で初めて紹介したのが、平野喜久著『天使と悪魔のビジネス用語辞典』(メルマガ版:2002年、書籍版:2004年 ISBN 4-88399-402-3、電子ブック版:2011年)である。「7-38-55のルール」「3Vの法則」という言葉は、それまで日本で使われていた形跡はなく、この著作中の「天使の辞典」部分で皮肉をこめて表現されたものが一般に広まった。 2005年に出版され100万部を超えるベストセラーとなった竹内一郎の著書『人は見た目が9割』[1]は「メラビアンの法則」の俗流解釈をベースに題名がつけられた。なお、メラビアンの研究で示されたのは視覚情報と聴覚情報を合わせて約9割という結果であり、視覚情報だけで9割を占めるわけではないが、竹内は「言語情報以外」を「見た目」と表現している。 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座[2]』収録の「ひきこもりのためのビジネスマナー講座[3]」では俗流解釈を一種の都市伝説だとして批判している。 コラムニストの尾藤克之は未だに使用されていることの理由として、コミュニケーションの重要性を説明するにあたり便利だと述べる。とくに、55%+38%+7%=100%なので数値の指標として使いやすい点があると指摘する。
脚注
^ 『人は見た目が9割』新潮社、2005年、18頁。ISBN 978-4106101373。 ^ イースト・プレス 2004年 ISBN 978-4872574609、文庫版は筑摩書房 2007年 ISBN 978-4480423566 ^ [1]
関連項目
非言語コミュニケーション バンドワゴン効果
外部リンク
【メラビアンの法則】天使と悪魔のビジネス用語辞典 ひきこもりのためのビジネスマナー講座 - スタンダード反社会学講座(パオロ・マッツァリーノのサイト) メラビアンの法則をいまだに信じてる人たち反社会学講座ブログ 梶原しげる:【116】メラビアンのうそ 〜「プレゼン詐欺」にご用心〜 | BizCOLLEGE <日経BPnet> 尾藤克之:いまだに使われるメラビアンの法則の不思議 アゴラ
執筆の途中です この項目は、心理学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ 心理学)。
執筆の途中です この項目は、社会科学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:社会科学)。
カテゴリ:オーラルコミュニケーション日本の俗語能力開発通俗心理学エポニム広く信じられた謬説 最終更新 2023年6月3日 (土) 15:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。 』
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「戦わずして勝つ」というより、むしろ「戦ったら負け」なのだと気づいた。
https://blog.tinect.jp/?p=82366

『職場で妙にうまく自分の意見を通す人がいる。最近この人から本当に大切な事を学んだので、今日はそれについて書こうかと思う。
人間というのは面白いもので、同じことをやっても好かれる人と嫌われる人がいる。
貴方も「言ってることは正しいかもしれないけど、それにしてもコイツ、酷い言い方するなぁ」と思った事が一度や二度はあるだろう。
俗に言うところの「口のきき方に気をつけろ」というこの現象の正体が自分は本当に長い間よくわからなかった。そもそも「口のきき方」って単語自体が、なんか曖昧で要領を得ない。
そういう事もあって、冒頭に出した自分の意見を上手に通し続ける人が不思議で仕方がなかった。
ぶっちゃけた事をいうと、彼はそこまで人間的に魅力があるようにはみえなかったし、何かカリスマがあるような人でもない。
決して口ベタではないが、上手くも無い。
しかし気がつくと周囲とは軋轢を作らずに事を推し進めるのである。いったいどんな秘技を使っているんだ?と淡々と観察し続けたところ、やっとその正体がみえた。それは争わないである。
喧嘩になるから、それは言っちゃ駄目だよ
争わないがポイントだと気がついたのは、ちょっとした事がキッカケだった。
職場にて仕事の為の仕事のような業務が発生しそうになっていた際、僕がつい
「そんな下らない仕事をやる意味ってあります?って言いいませんか?」
「それぐらいハッキリしたモノの言い方しないと、もう通じないでしょ?」
と口にした際、冒頭の彼がこう言ったのだ。
「ケンカになるから、それは言っちゃ駄目だよ」
その時は正直「もうケンカになってでも押し問答しないと駄目だろ。なにコイツ日和ってるんだ」と思っていたのだが、それからしばらくするとその雑務は消滅していた。
僕を含め、ほとんどの人が雑務が自然消滅していた事に全く気が付かないまま数ヶ月が経過していたのだが、ふと「そういえばあの雑務、どうしたんだろう」と思い出し、件の彼に聞いてみたところ
「僕がうまいことやっておきました」と言ってのけたのである。
これには正直、かなり痺れた。久しぶりにコイツはスゲェなと思った瞬間であった。
犬の腹見せのようなコミュニケーションは、意外と効く
それから彼の言葉遣いを逐一観察し続けてみると、ある特徴に気がついた。それは犬の腹見せである。
彼は困った事を頼まれたりすると「ふざけないでください!そんな事はできません!」というような強い威嚇を相手には絶対にしなかった。
代わりに、本当に困った顔をするのである。そして肯定も否定もせずに、話をどうにか保留するような形で座礁に押し上げるのだ。
すると相手が不憫に思うからなのか、その話が消えるか、あるいは折り合いが付きそうな妥協案へと徐々に落ち着いていくのである。
これをみて、僕は今まで嫌なことをされたら、キャンキャンと吠えて威嚇する犬みたいな事を相手方にやっていたんだなという事に気がついた。
何か嫌な事をぶつけられた時に強く拒否したら、相手も必要以上にムキになってしまう。しかし件の彼のように、困った顔をして腹を見せられると、相手も
「あ、やっちまったな」
と勝手に反省して、勝手にマイルドになっていくのである。
多くの人は売られたケンカを買ってしまう
戦わずして勝つのが至上である。
これは孫子の兵法だが、いま思うに僕はこの言葉の意味がわかっているようでよくわかっていなかったのだと思う。
戦わずに勝つとは、何もムキムキ・マッチョになって筋肉を提示する事でもなければ、罠を張り巡らせて相手を落とし穴に落とす事でもない。
相手からのケンカを買わず、相手にケンカをふっかけない。
これが多分、真のポイントなのである。
人の気持ちは非対称
世の中には数多の面倒くさい人間がいる。彼らは無自覚にクソ面倒くさい事をぶつけてくるが、いま思うと彼ら自身は恐らく相手にケンカを売りつけている自覚は無い。
この事は逆の事を考えてみればわかるのではないだろうか?例えば、貴方が「口のきき方に気をつけろ!」と言われたら、たぶん
「ん?癇に障っちゃったか?そういう意図は特になかったんだけど」
と、自分が相手を加害したという自覚はそこまで持たないのではないだろうか?
人の気持ちは大変に非対称なものだ。
自分が特段相手を褒めたつもりがなくても、勝手に相手が喜ぶ事もあるし、自分が相手を貶したつもりがなくても相手が勝手に凹んでいるという事は、本当によくある。
このように我々は時に鈍感マンをやり、時に繊細チンピラをやって、勝手に一人で踊り狂っていたりする生き物である。
多感だった中高生の時期の事なんかを思い出してもらうと、見悶える人も多いのではないだろうか?
喧嘩を買わないし、売らないが理想なのだが…
それからしばらくして大人になると、我々はどんどんタフになり、また相手にちょっとづつ気を使えるようになるからなのか、他人とそこまで喧嘩をしなくはなる。
喧嘩しない社会は実にスムーズである。心が穏やかになるし、仕事の速度も早い。
しかしそれでも私達は時に無自覚に争いの種を撒いてしまうし、撒かれてしまう。ツイッターなんかをみていると、よく争いの種をポロポロと撒き散らしている人気者がいるが、あれに群がる人は何ていうか無惨である。
火事と喧嘩は江戸の花というが…なんていうかみんな本当にゴシップニュースに飛び乗りたがるし、レイドバトルに参入したがる。
さきほど、喧嘩しない社会は心穏やかだと書いたが、こうしてみると私達は心穏やかになりたいという欲が確かに心の中にあるはずなのに、その一方でわざわざ喧嘩の種を買ってきて心をざわつかせたいという欲があるようにもみえる。
一体何で、私達は戦わずして勝つが一番だと知りつつ、戦って負けるをやってしまうのか?
馬鹿だからだと言えばそれまでではあるのだが、僕にその答えを与えてくれた人がいる。ルネ・ジラールである
人は誰かの欲望を模倣してしまう
ルネ・ジラールの欲望の模倣理論は”欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリア”という本を読んで初めてしった。
欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリアルーク バージス,川添 節子 早川書房 価格¥1,320(2023/06/27 08:09時点) 発売日2023/02/21 商品ランキング738位
欲望の模倣理論を一言でいえば、人は誰かが欲しがっているものを欲しくなるという理論である。
例えば進学校にいれば東大や医学部を皆が目指すから、自分もそういう場所に行きたくなってしまうし、ブランド物のバッグを持っている人が普通な環境にいれば、自分も自然にそういうものが欲しくなるといったようなロジックである。よくわからないけどメチャクチャにモテる男女の正体も、たぶんコレだ。
人間は己の中にゆっくりとだが濃いオリジナルな欲望と、ファストで誰かに惹きつけられがちな薄いタイプの欲望がある。
ルネ・ジラールの欲望の模倣理論は後者のファストなタイプの欲望を説明したものだが、この欲望の模倣理論から考えるに私達は血生臭い争いに勝ちたいという渇望を共通しているように僕には感じられるのである。
血祭りって、やっぱり超気持ちいい!
実際、少年漫画では能力者同士による激しい闘いが常に繰り広げられているし、少女漫画では意地悪の応酬を知恵や自身の美貌でもって打ち倒すシーンが何度も何度も描かれている。
それらをフィクションを通じて体験する事には、やはり何か筆舌に尽くしがたいものがある。ゾクゾクして気持ちがいい。
たぶん、私達は頭では「戦わずして勝つのが最高だ」とは理解できてはいるのだが、その一方で「悪い奴を血祭りにあげるのは超気持ちいい」と身体で深く理解しているのだ。
その捻れが争いのないスムーズな表社会を心地よく思う一方で、SNSやマスコミのニュースといった裏社会でゴリッゴリのバトルを繰り広げるというズレた行動原理に繋がっているのである。
血祭り欲求は、ちゃんと裏で消費する
個人的には、もうこの血祭り欲求自体はある程度は仕方がないものとして受け入れていくしかないように思う。
己の内側にも確かにあるし、他人という外側にも絶対にある。故に模倣の輪は止めようが無い。
やっぱり強い者同士の血みどろのバトルは心が湧くし、悪徳令嬢が性格の悪いライバルを蹴落とすのはスカッとする。
そういうものに感じる面白さは否定するような性質のものではないと思うし、フィクションを通じて消費できるというのなら、むしろ健全であろう。これはある種の自慰だと僕は思う。
しかしそれが実生活ともなると、話は別だ。職場で念能力バトルをやりたくなってしまったり、あるいは略奪愛をやりたくなってしまったりするのは、どう考えても「戦って負け」だ。
あるいは難しい政治の話を私生活フィールドに持ち込んで「世の中には世代間格差や男女差別があるんです!」と言ってしまうのは、まあ活動家ならまだしも市井の人々には虚無である。少なくとも幸福には程遠い何かであろう。
己の中にある血祭り欲求はキチンと認めてあげて、その上でそれは裏の中でちゃんと処理するべきなのだ。鮭の川登りのようにフィールドを遡上させていい事は一つもない。
表を裏に侵食させない
適材適所という言葉がある。これも本当に私達はわかったつもりになっているのだが、実際に適材を適所にキチンと置き続けられる人はほとんどいない。
マネジメントなんて言葉がある時点で、これが本当に高等技術である事が暗に示されている。
大切なのは、自身の幸福とゆっくりとだが濃い欲望の実現である。自分自身の怠惰な心に向き合って、時に愛でて時に鞭打って、理想の自分と現実の自分との間にあるものをどうやって埋めていくかというバトルにこそ、本当の戦争がある。
その戦いに勝つためにも、やっぱり下らない戦で戦ったら負けなのだ。戦うべき戦でキチンと戦い、戦うべきではない戦では鉾を収める。
戦わずして勝つなんてカッコいい事を素人が目指してはいけない。
戦ったらその時点で負けだというスタンスにこそ、私達は学ぶべきなのである。』
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愛と憎しみの現代史――そして資本主義だけが残った!?
http://gendainoriron.jp/vol.28/rostrum/miyazaki.php『『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(ブランコ・ミラノヴィッチ著)を読む
市民セクター政策機構理事 宮崎 徹
リベラル能力資本主義をめぐって
政治的資本主義とは?
「共産主義革命」の歴史的意義
深層底流としてのグローバリゼーション
資本主義システムの未来
より長期のタイムスパンのもとで
さらに議論をすすめよう
著者ブランコ・ミラノヴィッチは、世界銀行の主任エコノミストとして所得分配を中心にグローバリゼーションの影響を分析してきた。しばらく前に「エレファント・カーブ」で注目を集めたことはまだ記憶に新しいであろう。エレファント・カーブとは、全世界の所得分位別の動態を統計的に分析し、中国など新興経済諸国では中間層の所得が伸び、対照的に先進国中間層では低下していることを印象的に描き出したものである。これは全世界の所得が産業革命以来はじめて平等化に向かうという画期的な動きであった。しかし併せて、所得分位トップ1%の伸び率も高く、これが先進諸国内での格差拡大を生むというネガティブな側面も示している。このグラフの形状が象の鼻によく似ているので、この呼び名が付いた。
これに象徴される大変化を導いたのは、いうまでもなく経済活動のグローバル化=グローバリゼーションである。著者持ち前の格差や腐敗への問題関心を抱きつつ、グローバリゼーションのダイナミズムをシステムとしてトータルに分析してみようというのが本書である。グローバリゼーションについてはすでに多くの分析や研究があるが、その歴史的意義についての彼の見方は大胆明瞭で、刺激的だ。ただ、チャレンジングなだけに、にわかには首肯できないところも多いのだが。
タイトルからして挑発的である。『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(原題は CAPITALISM, ALONE)という。冒頭の節の見出しは「資本主義はただひとつの社会経済システムである」とある。いいかえれば、世界全体が同じ原理――営利を目的とし、法的に自由な賃金労働ならびに大半が民間のものである資本を用い、分散化されたシステムによって生産が調整される原理――に従って動いているのであり、これは歴史的に見ても先例のないことだと指摘している。
また、イデオロギー面でも「現代では金儲けがたんに尊敬を集めるどころか人々が生活するうえで最優先の目的であり、世界中のありとあらゆる階級の人間が納得するインセンティブ」であるという考えが「圧倒的優位を得ている」。つまり、個人とシステムの目的が合致することこそ、資本主義の遂げた大いなる成功なのだ。しかし、資本主義を無条件で支持する人たちがいうようにこの成功は資本主義の「自然性」から生じたのではない。そうした人たちが考える人間の内なる欲望――もっと取引をして、利益を得て、快適な暮らしを送りたいという欲望は決して自然的なものではなく、資本主義社会における社会化の産物なのだと注意を喚起してもいる。
それはともかく、資本主義による世界の支配は2つの異なるタイプの資本主義によって達成されたという理解を前提に著者の議論は展開していく。ひとつは、欧米で徐々に発展してきた「リベラルな能力主義的資本主義」であり、もうひとつは国家が主導する「政治的資本主義ないし権威主義的資本主義」である。前者の代表はアメリカ、後者の代表はもちろん中国である。
リベラル能力資本主義をめぐって
いわゆるリベラル能力資本主義については前号においてサンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か』を紹介・検討する中でかなり言及してきたので、ここではごく簡潔に要点を記すにとどめる。
とはいえ、ミラノヴィッチの定義を飛ばすことはできない。それは、モノとサービスがいかに生産され交換されるか(資本主義)、それらが個人間でいかに分配されるか(能力主義)、社会的移動性がどのくらい存在するか(リベラル)にかかわる特徴づけだ。
資本主義であるからには、まず肝心なのは総所得が2つの生産要素、すなわち資本の所有者と労働者の間でどのように分配されるかが問題である。20世紀以前の明瞭なデータはないようだが、第2次世界大戦以後は両者の比率はほぼ安定していたという。しかし、20世紀の終わり近くから資本シェアが上昇傾向をみせ始めた。この傾向はこれまでのところアメリカできわめて強いが、大半の先進諸国でも認められている。ピケティが明らかにしたように資本所得の伸びが労働所得の伸びを上回り続けているからだ。
さらに新しい動きとして、資本豊富な人はすでに金持ちであるだけでなく、労働所得からみても相対的に裕福であるという事実がある。たしかに、古典的資本主義では資本家は、通常は労働からたいした所得は得ていなかった。だから有閑階級ともいわれていた。彼らは金融業者、大会社のオーナーといった不労所得者が大半だったが、今日では所得トップ層は高給取りの会社幹部、ウェブデザイナー、医師、そのほか専門職のエリートが多い。彼らは相続によって、あるいは自分で働いて十分な金をためたおかげで金融資産を保有し、そこからも多くの所得を得ている。
つまり、所得分布の上位に高い労働所得を得る人がいて、さらに同じ人が高い資本所得も受け取る場合、不平等が深刻化する。「これはリベラル能力資本主義に特有の性質である」。これに加えて加えて同類婚の増加という社会現象もある。金持で高学歴の男性ほど、同じような女性と結婚する傾向を示すデータもある。社会規範が変化し、高学歴の女性が増え、働く女性が増えているからだ。さらに、ミラノヴィッチは憶測をたくましくし、「人びとの好みが変わり、男性と女性のどちらも自分と似た相手と結ばれるのを好むからかもしれない」と指摘している。同類婚が増えれば、不平等を拡大する結果となろう。
そして、富と、教育を介した「人的資本」の世代間継承がある。これに関してはサンデルがさんざん論じていた。この点では、先のリベラル資本主義の3要件の一つ、社会的移動性に問題が生じてきているのだ。最近のアメリカの調査によれば、子と親の所得順位の相関、所得そのものの相関、どちらも時間の経過とともに上昇している。すなわち、世代間の移動性の低下である。
しかし、一筋縄ではいかない側面もある。例えば、リベラル能力資本主義のもとでの上位階層の特徴のひとつは部外者に開かれていることである。どうにかして金持ちになった個人にその門戸を閉じてはいない。彼らを見下すこともない。むしろ「尊敬のまなざしで受け入れることだろう」。それによって、下位層のうち最高の人間を取り込めるし、機会は閉ざされていないというメッセージを世間に送れる。こうして最上位層の支配を筋の通ったものにみせることができる。実際には、そうしたケースはごくまれなことであろうが、近年のように技術進歩が速く、莫大な富をすぐ築ける場合、新参者への扉が大きく開かれているかのようにみえる(IT長者!)。大きなトレンドとして社会的移動性は低下しているけれども、こうした特徴もリベラル能力資本主義のイデオロギーの一端を支えているのであろう。
政治的資本主義とは?
もう一つのタイプとされる政治的資本主義、その代表である中国経済に関するミラノヴィッチの分析は鋭い。まず、中国が資本主義であることには疑いがないと断定している。なぜなら、生産の大半が民間所有の生産手段(資本、土地)を用いて行われ、労働者の大半が賃金労働者であり、生産や価格設定についての決断の大部分が分散化された形で成されている。これら資本主義の3要件をすべてみたしているのだ。実際、改革開放の1978年以前には工業生産では国営企業のシェアが100%に近かったが、それ以後は毎年減り続け、現在は20%をわずかに上回るにすぎない。農業では改革以前、生産の大半は人民公社によって行われていた。78年以降、さらに土地の民間への賃貸借契約を許した「責任制」が導入されて以来、ほぼすべての農業生産が民間で行われている。
世間では、中国は本当に資本主義なのかという根強い疑いが消えない。あるいは支配政党が共産党であることだけで経済システムを決めつける偏見に対してミラノヴィッチは多くの事実とデータを対峙させている。何より重要なのは、1990年代半ばにはすでに「小売業の93%、農産物の79%、生産材料の81%において価格は市場で決定されていた。今日では価格はますます高いパーセンテージをもって市場で決定されている」という事実である。
政治的資本主義の特徴は3つある。第1は、テクノクラート官僚が優れた技量を持って高い経済成長を実現することである。第2は、法の支配、縛りがないことである。それゆえテクノクラートの裁量権が大きく、能力の高い人材を据えれば、うまく経済を回すことができる。第3は、国益に基づき、必要とあれば民間部門を抑制できる自律性を持つ国家権力である。ここでも法に縛られていないことがポイントになる。当然のことながら、これは本質的に2つの矛盾を併せ持つと指摘される。1つは、テクノクラートと法の恣意的運用のあいだの矛盾である。テクノクラートであるエリートは本来ならば、ルールに従い、合理的なシステムの枠内で働くように教育されている。法の恣意的運用はこうした原則を損なうものだ。しかも絶えず高い経済成長を実現していないとその支配を納得させることができないという難しさもある。
2つめは、このシステムに固有の腐敗である。自由裁量を必要とするいかなるシステムも腐敗を抱えざるを得ない。ここではエリートは単なる官僚ではない。官僚の仕事とビジネスとを隔てる境界が曖昧であるからだ。個人がこの2つの役割を行ったり来たりするか、組織がある者をビジネスに、ある者は政治にと振り分けて代弁者とする。
ミラノヴィッチは、こうした組織は「マフィァ」とさほど違いはないといっている。エリートと組織が「政治屋兼起業家の一族を築き、それが政治的資本主義の屋台骨となり、何もかもがそこにしがみつく」。こうした一族が累積し、「政治的資本家階級」というべきものが生まれるのだという。
しかし、腐敗が手に負えなくなれば、システムは崩壊しかねない。つまり、一方では腐敗をともなう自由裁量とそれによる経済生活の向上、他方における許せる範囲への腐敗の抑制という不安定なバランスの上にある。
「共産主義革命」の歴史的意義
ところで、こうした政治的資本主義の起源、由来はどこにあるのか。ミラノヴィッチは、「中国のように植民地化された、あるいは事実上植民地化された社会で実行された共産主義革命の産物である場合が多い」と指摘する。そして、共産主義の、歴史的位置づけは、むしろそこにこそ見いだせるのだとする。つまり、共産主義とは、「発展の遅れた植民地社会で用いられる、封建制から資本主義への移行システムだった」と主張する。
たしかに、第3世界の課題は大きく2つあった。1つは支配的な生産関係を変えること。すなわち、地主を筆頭とする有力者の締め付けを排除することであった。もう1つは、外国の支配を覆すことであった。この2つの革命(経済発展をめざす社会革命と民族自決を目的とする政治革命)が一つに合わさったのが、第3世界の共産主義革命である。
社会革命と国民革命を同時に遂行することで、左派政党と共産主義政党は、「経済発展の障害となり、国民を分裂させていたあらゆるイデオロギーや習慣」を白紙に戻し、外国による支配を排除することができた。こうした革命は「長い目で見れば、自国の資本家階級の誕生にとっての必要条件となった」とまでいっている。そして、彼らがこれからも自国の経済を牽引していくだろうと見通す。この封建制から資本主義へのもうひとつの移行というべきプロセスはきわめて強力な国家の支配下で起きたのであり、この点で欧米諸国とは「根本的に違う」という。それゆえ、このタイプの資本主義は政治的ないし権威主義的傾向が強いのだ。
とりわけ中国においては形成期から国家が「無限の力」を持っていたのであり、それはどんな組織化された非国家的主体(聖職者、自由都市、ブルジョワジーなど)が誕生するずっと以前からのことだ。
この早熟な国家形成が「清朝から毛沢東時代の中国に至るまで、権力が別組織に集中していくのを阻止していた」。例えば、宋や清の時代に商人は金持ちになったが、政治的代表権を勝ち取り政権をうかがうことはなかったし、「階級」を形成することもなかった。
ヨーロッパのブルジョアジーとは違っていたのである。このことが現在の中国につながっているという。
すなわち、「共産党が支配する現政権とすでに形成された資本家階級との間の政治的権力の分配模様は、この過去のパターンをしのばせる」。政府はブルジョアジーの利害に協力的ではあるが、それは国家の目的に反しない場合に限られる。逆にいえば、ブルジョアジーが中国を支配することはないだろうということになる。
深層底流としてのグローバリゼーション
2つのタイプの資本主義の推進力となっている深層底流は現代的な経済活動のグローバル化=グローバリゼーションである。
本書では、ボールドウィンという人の「アンバンドリング」という概念を使って、グローバルなサプライ・チェーン(需要と供給を総合してバリュー・チェーンともいう)の現代的特徴からグローバリゼーションを説明している。要するに、経済活動が空間や時間の制約を克服してきていることである。
私なりにもっと簡潔に説明する。
すなわち、資本主義はいつでも世界的な展開をみるものだ。かつてはモノのやり取り、すなわち貿易によって各国経済は結びついていた。
ところが、現代では、それに加えてヒト、モノ、カネという経営資源そのものが国際的に移転するようになった。
つまり、貿易という単線の線路でつながっていた諸経済が、海外直接投資というもう一つのチャンネルでもつながり、いわば複線化した。
世界経済の結びつきは飛躍的に強まる。
ここに至って、言葉の本当の意味でグローバル・エコノミーが誕生しつつあるとみなせる。一物一価の市場原理が世界的規模で貫徹する。例えば、賃金は市場の需給調整によって国際的に平準化していく(先進国労働者の既得権は浸食される)。
このグローバリゼーションの波にもっともよく乗ってきたのがアジア経済である。自国の経済を先進国世界に組み込むことで技術的・制度的な段階をどんどん飛び越えて発展する(蛙飛び)パターンだ。ここで思い出すのは1970年代前後の南北問題に関する議論である。
そのとき幅をきかせた、いわゆる従属理論はこういっていた。
世界経済システムは中心と周辺から構成され、南の経済開発は結局「低開発の開発」に終わる。だから、このシステムからの離脱が必須だというものだった。
しかし、事実の経過をみると、世界経済が新しい発展段階に入るとき、企業はその技術を最適な立地で活用したがるのは当然だったのである。
従来、企業本社があった国家がむしろ、最新技術の周辺国への移転を阻止なければならなくなった。つまり、新技術を活用する者が受け取るイノベーションの果実は、これまでの中心から周辺へと分散しつつある。これが、富裕国の人間がいわゆるアウトソーシングに文句をいう理由である。
新しい技術のもたらす収益は、たしかに中心にいる起業家や資本家のものになるが、生産を委託された後進地域の労働者のものにもなるのだ。
つまり、従属理論パラダイムとは逆に、先進諸国とつながることでアジアは絶対的貧困から中所得国へと驚くべきスピードで移行できた。グローバル・サプライチェーンの一翼を担うことで発展の動力につながることができた。富裕国の後追いをして、徐々に付加価値の高い段階に移るのではなく、中国が現にそうであるように技術面でリーダー的立場に立つこともできる。
資本主義システムの未来
長くなってしまったが、資本主義の未来についての議論もみておこう。
まず、ウェーバーなどに言及しながら、改めて現在の資本主義には大切な2つの抑制(宗教と暗黙の社会契約)が欠けているという。「商業化社会」の繁栄には貪欲な精神が必要だが、それを牽制するものがなければならなかった。抑制という内部メカニズムが委縮するか消滅するか機能しなくなり、規制や法律といった外部からの制約のみに置き換わってしまったと指摘される。
そしてウルトラ商業化社会では「成功を判断する基準がお金になり」、階層を決める他の指標は消滅する。それはそれで良いことだが、「金持ちになることは栄誉あること」であり、違法なことをしてつかまらない限り、その栄誉を得るためにどんな手段を使おうとたいした問題ではないという考え方が広がる。
事ここに至って、こうした道徳的退廃を含め、もう資本主義は行き詰っているのではないか、変化を求めているのではないかという議論が広がっているのは事実である。
こうした見解に対し、ミラノヴィッチは、「超資本主義の代わりになりそうなものが何もない」という。
たしかに、すでに試した選択肢はどれもうまくいかなかったし、なかにはもっとひどいものもあった(社会主義計画経済)。
なんといっても「資本主義に組み込まれた競争的かつ物質欲的精神を捨て去れば、結局は所得が減り、貧困が拡大し、技術進歩が減速ないし逆転し、超資本主義がもたらす他の利点(今や生活に欠かせないモノやサービス)を失うこと」になるだけだ。
このように資本主義の覇権がゆるぎないものとなるにつれて、その成功のゆえに家庭生活や親密な関係にまで商品化が進む。これは長らく維持されてきた友情や家庭のきずなといった規範とは相容れないものだ。
これらの規範が「すべて利己心に取って代わられたことを大っぴらに認めることは容易でなかった」。そして、この「居心地の悪さが偽善のはびこる余地を広く生み出した」という。偽善は「半端な真実」(意図的に真相の一部しか明かさない説明)をいろいろと持ち出す。
彼の指摘のうち1つだけ挙げれば、「技術進歩に対する根拠のない不安」である。
そういう議論は人間のニーズは限られているという認識を前提にしている。
しかし実際には、歴史も示しているように新しい技術によってどんなニーズが生まれるかは知りようがないのだ。
地球の限界に関しても、さまざまな資源をどう使えるかについての知識そのものが現時点での技術水準を前提にしているからにすぎない。「技術が向上すれば、発見するあらゆるものの貯蔵量が増え、それをもっと効率的に利用できるようになる」とまでいっている。さらに皮肉をきかせて、「成長に限界があるとか、人間がロボットに置き換えられると考えて自分を怖がらせることが私たちは嫌いではない」。
それは「ひょっとしたら自分は世間知らずなどではなく、最悪のことを予想する立派な人間なのだと思えるからかもしれない」と。
より長期のタイムスパンのもとで
最後に、著者の専門である所得分析の視点からみた大局的な歴史的傾向についても一言触れておこう。
この間のアジア諸国の経済発展という傾向が続けば、その所得水準は欧米諸国に近づく。
この収束によって、世界は産業革命以前に存在した所得水準の相対的な均衡状態に戻るとみなされる(当時、中国とインドの所得は西欧のそれと似通っていた)。それは産業革命の影響がようやく相殺されつつあるということである。つまり、本稿の冒頭で触れたように産業革命以来のグローバルな所得不平等が初めて持続的に改善されているのが現在だ。このような全世界的な所得の上方への収束があれば、「歴史上はじめてグローバルな中間層の台頭」について語れるのではないかと期待している。ただ、サハラ以南のアフリカがこの収束に加わるかが懸念材料ではある。
この歴史的傾向は、繰り返すまでもなく資本主義のグローバル化がもたらしたものである。
その資本主義はこれからいかに進化していくのだろうか。
著者は、この点については抽象的に論じるにとどまる。一つの見通しは、「リベラル能力資本主義がもっと進化した段階、つまり民衆資本主義の段階に移行できるかどうかにかかっている」というものだ。
この民衆資本主義はやや唐突で、明確ではない。彼の説明では、資本の集中や富の集中がより少なく、所得の不平等がより縮小し、世代間の所得の移動性がより高いという特徴を持つという。ここで紹介する暇はないけれども、これに至る4つの基本政策を提起しているのだが、練度が低いように思える。
もう一つの見通しは、リベラル資本主義と政治的資本主義が収束するかどうかにかかわる。
リベラル資本主義が金権政治の様相を濃くしていけば、政治的資本主義に近づくだろうという見立てだ。
エリート層の温存が確保されるためには、自分たちが政治的領域を支配することが必要になるからである。
エリート層は政治的資本主義のテクノクラート的なツールを使うことで、自分たちがもっと効率的に社会を動かせると信じているかもしれない。そして、「民主義的なプロセスが意味のある変化につながるという希望を人々が失ったとき」、こうした方向への歯止めがなくなるだろう。著者は警告する。「政治的資本主義の目的は、人々の頭の中から政治を消し去ることにある。それが容易になるのは、国内の政治に人びとが幻滅し、無関心がいよいよ広がったときなのだ」と。
さらに議論をすすめよう
ミラノヴィッチの問題提起は刺激的であり、さらに議論すべき論点はたくさんある。しかし、紙幅が尽きたので、ここではまとめとして大まかな感想だけを記しておこう。
たしかに、現在の資本主義に代わるシステムはほかにないというのは冷厳な事実だ。このシステムに内在する諸悪を著者も多く指摘しているが、一方で、それが経済成長を推進し、近年のグローバリゼーションによって世界的な所得不平等が改善されつつある成果が公平に評価されなければならない。グローバリゼーションに光と影があることはいうまでもないが。
資本主義システムの本質的機能は市場メカニズムによって担われている。そして、大きな経済社会における資源配分は、市場メカニズムによるのがベストではないかもしれないが、ベターなのである。
しかし、経済人類学などの知見によれば、資源配分というものは歴史貫通的に交換、再分配、贈与(互酬)の3つの原理によって構成されてきた。時代によってどれが支配的なるかは異なるが、3つはどの時代にも併存している。
とすれば、交換=市場メカニズムがあまりにも肥大化するときには、他の2つの原理の拮抗が必要だろう。ミラノヴィッチは、資本主義の勢いから離れて暮らすといった暢気なことはいっていられないというが、果たしてそうか。彼のいう「民衆資本主義」を具体化するためには、3つの社会構成原理のバランスに十分配慮しなければならないのではないか。それはともかく、資本主義システムの現実を直視し、その功罪を公平に評価、分析することは、これからを考えるための前提である。ミラノヴィッチはその良い模範を示している。
みやざき・とおる
1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。』
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資本主義だけ残った
世界を制するシステムの未来
https://www.flierinc.com/summary/2768
『毬谷実宏
著者
ブランコ・ミラノヴィッチ(Branko Milanovic)
ルクセンブルク所得研究センター上級研究員、ニューヨーク市立大学大学院センター客員大学院教授。ベオグラード大学で博士号を取得後、世界銀行調査部の主任エコノミストを20年間務める。2003-05年にはカーネギー国際平和基金のシニア・アソシエイト。所得分配について、またグローバリゼーションの効果についての方法論的研究、実証的研究を、Economic Journal, Review of Economics and Statisticsなどに多数発表。邦訳書『大不平等』(2017)『不平等について』(2012、以上みすず書房)。本書の要点
要点 1 2つの異なる資本主義が世界を支配している。欧米で発展した「リベラル能力資本主義」と中国が主導する「政治的資本主義」である。 要点 2 不平等を拡大させる欧米型、腐敗をその前提に抱える中国型。それぞれに課題がある。 要点 3 裕福な国の市民であるがゆえに、貧困国出身者よりも相対的に享受できる「市民権プレミアム」は、労働の移動を示すグローバリゼーションの本質的要素だ。 要点 4 欠点はいろいろあっても、資本主義に代わる他のシステムはいまのところ存在しない。
要約
【必読ポイント!】 世界を支配した2つの異なる資本主義アメリカと中国が牽引するモデル
資本主義による世界の支配は2つの異なるタイプによって達成された。ひとつは過去200年かけて欧米で徐々に発展してきた「リベラルな能力主義的資本主義」。もうひとつは、アジアの台頭を後押しした、国家が主導する「政治的資本主義ないし権威主義的資本主義」である。この両者は、政治、経済だけでなく、規模は小さいが社会の領域でも異なっている。
西欧および北米と、アジアとの間の再均衡化によって、欧米の軍事的、政治的、経済的優越は終わりを迎えつつある。今日、この2つのタイプの資本主義は互いに競り合っているようだ。これらのモデルをそれぞれ牽引するのは、アメリカと中国である。特に注目するのは、この2つのシステムが生み出す社会的・経済的構造だ。
リベラル能力資本主義とは
Nuthawut Somsuk/gettyimagesリベラル能力資本主義とは、「モノとサービスがいかに生産され交換されるか(資本主義)、それらが個人間でいかに分配されるか(能力主義)、社会的移動性がどれぐらい存在するか(リベラル)にかかわるもの」である。
資本主義では、資本の所有者と労働者で純所得がどのように分配されるかが重要となる。
19世紀の古典的資本主義や、社会民主主義的資本主義と比べると、リベラル能力資本主義は不平等を強化する特徴を示している。古典的資本主義では、資本家はほとんど資本から、労働者は労働からしか所得を得ていない。
一方リベラル能力資本主義では、「資本金持ち」は同時に高額な給料も稼ぐ「労働金持ち」であり、純所得に占める資本のシェアが高い。さらに、世代間の不平等の移転がより大きい可能性もある。
不平等拡大の仕組み
技術革新の発生による高スキル労働者の不足といった偶発的な要因ではなく、前述のようなシステム的な要素に注目していく必要がある。それは、脱工業化時代の労働組織の分散化、グローバルな労働供給の増加、教育等の平等化といった背景によって生じた。
ピケティが示した重要な公式、「r>g(資本収益率が経済成長率を上回ることを意味する)」を理解していれば、資本所得シェアの上昇がリベラル能力資本主義のシステム的特徴であることがわかる。このシステムのもとで資本家は、貯蓄をして利益を再投資するのである。
過去30年間のアメリカやイギリスといった国の不平等の水準を見てみると、資本所得は労働所得よりもはるかに不平等に分配されていることに気づく。
しかもその不平等は時と共に拡大している。資本所得が極度に集中し、もっぱら金持ちがそれを享受するのは、リベラル能力資本主義の構造的な特徴だ。
しかもこれが高い労働所得と結びついているため、資本への課税といった不平等を縮小させる経済政策の導入ははるかに難しくなる。
国家主導の経済改革・政治的資本主義
政治的資本主義を生んだ鄧小平
政治的目的による資本主義のマックス・ヴェーバーの定義は、「経済的利益を得るために政治的な力を使用すること」だ。やり手な官僚に経済成長を実現できる政策の実行を任せることが、その重要な特徴である。
1970年代の終わりから90年代の半ばにかけて中国の卓越した指導者だった鄧小平は、現在の政治資本主義、すなわち民間部門の活力と官僚による能率的支配、一党政治体制を結びつけた人物と言える。鄧小平の考える経済改革とは「事実から学ぶこと」であった。
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法の支配
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「法治国家」とは異なります。
ポータル 法学
法の支配(ほうのしはい、英語: rule of law)は、専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束するという英米法系の基本的原理である。法治主義とは異なる概念である。
「法の支配」とは、統治される物だけでなく統治する側もまた、より高次の法によって拘束されなければならないという考え方である[1]。大陸法的な法治主義とは異なり、法の支配では法律をもってしても犯しえない権利があり、これを自然法や憲法などが規定していると考える[1]。法の支配における「法」[注釈 1] とは、全法秩序のうち、「根本法」と「基本法」のことを指す[2]。 法の支配は、歴史的には、中世イギリスの「法の優位」の思想から生まれた英米法系の基本原理である[3]。 法の支配は、専断的な国家権力の支配、すなわち人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の権利ないし自由を保障することを目的とする立憲主義に基づく原理であり、自由主義、民主主義とも密接に結びついている[3]。 法の支配は、極めて歴史的な概念で、時代や国、論者により異なる様相を呈する多義的な概念である点に留意が必要である[3]。
歴史
古代
「法の支配」の原型は、古代ギリシアのプラトン[4] やアリストテレスの思想[注釈 2] を経て発展したローマ法やヘレニズム法学に求める見解や[5]、古き良き法に由来する中世のゲルマン法に求める見解もあり、一定しない。
市民の誰が支配するよりも、同一の原則である法が支配する方が適切だ。仮に特定の人々に最高権力を置く利点がある場合には、彼らは法の守護者および執行者としてのみ任命されるべきである。 — 政治学、アリストテレス、3.16 我々が自由であるために、我々は皆、法の奴隷でなければならない。(ラテン語: Omnes legum servi sumus ut liberi esse possumus) — キケロ、[6]
中世
「法の支配」が、明確な形としてあらわれたのが中世のイギリスにおいてであることには、ほぼ異論がない[7]。
ヘンリー・ブラクトンの「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある」という法諺が引用されるように少なくとも中世のイギリスに「法の優位」(Supremacy of Law) の思想は存在していたとされる[8]。中世のイギリスでは、国王さえ服従すべき高次の法(higher law)があると考えられ、これは「根本法」ないし「基本法」(Fundamental Law)と呼ばれ、この観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである[2]。そのため、法の支配は、立憲主義に基づく原理とされている[3]。
当時はボローニャ大学で、ローマ法の研究が進み、1240年にローマ法大全の『標準注釈』が編纂されると、 西欧諸国から留学生が集まるようになり、英国にもオクスフォード大学、ケンブリッジ大学が相次いで設立されるなどしてローマ法の理論が研究され、一部持ち込まれたという時代であるが、既に英国全土の共通法ともいえるコモン・ローの発展を見ていた英国では、大陸において発展した「一般法」(ユス・コムーネ、jus commune)を取り込む必要は乏しかった。
そのため、後にローマ法に由来する主権の概念とコモン・ローとの緊張関係が問題となったが、英国では、「法の主権」の概念の下、「法の優位」が説かれたことがあった。
しかし、その思想は、封建領主と領民との間の封建的身分が前提とされた関係理論に基づいていたのであって、マグナ・カルタにおいては、バロンの有する中世的特権の保護するために援用されたのである。
また、その思想は、被治者の権利・自由の保護を目的としていたわけではなく、道徳・古来の慣習法と密接に結びついた当時のキリスト教的な自然法論と親和性のあるものであったのである[2]。
以上に対し、被治者の権利・自由の保障を目的とする近代的な意味での「法の支配」は、中世以後徐々にコモン・ロー体系が確立していったイギリスにおいてマグナ・カルタ以来の法の歴史を踏まえ、中世的な「法の優位」の思想を確認する形で、16世紀から17世紀にかけて、法曹によって発展させられた[2]。
1606年、エドワード・コーク卿は、王権神授説によって「国王主権」を主張する時の国王ジェームズ1世に対し、ブラクトンの法諺を引用した上で、「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と諫めたとされる[9][注釈 3]。
ここでは、コモン・ロー裁判所裁判官の専門的法判断の王権に対する優位が説かれており、中世的特権の保護から、市民的自由の保護への足がかりが得られるきっかけを作られたといえる[10]。
1610年、コークによる医師ボナム事件の判決は、コモン・ローに反する制定法は無効と判示し、司法権の優位の思想を導くきっかけを作ったとされる[11]。
1610年、トマス・ヘドリィ(Thomas Hedley)の庶民院における長大な演説によってノルマン征服以前の古き国制(ancient constitution)の伝統を理由にコモン・ローの本質が明らかにされ、以後、議会ではヘドリィによって定式化されたコモンローの優位が繰り返し説かれることになった[注釈 4]。
ここでは、「庶民」(commoner)[注釈 5]が議会に政治的参加をすることによって制定される法律の王権に対する優位が説かれており、民主主義と法の支配が密接に結びつくきっかけが作られたのである。そのため、法の支配は、民主主義とも密接に関連する原理とされている[3]。
1688年、メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世(ウィレム3世)をイングランド王位に即位させた名誉革命が起こると、これを受けて1701年王位継承法で裁判官の身分保障が規定されることによって法の支配は現実の制度として確立したのである[12]。
アメリカ合衆国における法の支配
1787年、アレグサンダー・ハミルトンらによって成文憲法として起草されたのがアメリカ合衆国憲法であるが、これは「法の支配」を成文憲法によって実現しようとするものであった。
合衆国は、イギリスが立憲君主制をとるのと異なり、共和制を採用し、執政体としては、君主に代わり大統領を選挙によって選出するものとした上で間接民主制をとって立憲主義を採用したのである。
ここでいう共和制とは、人民主権の下、選出された代表者が権力を行使する政体のことである[13]。
1803年、マーベリー対マディソン事件をきっかけに米国で発祥した違憲立法審査権は、コークの医師ボナム事件の判決にヒントを得て、「法の支配」から発想された憲法原理の一つである。
解説
法の支配における法(Law)とは、不文法であるコモン・ローおよび国会が制定する個々の法律(a law、laws)を含めた全法秩序のうち、基本法(Fundamental laws)のことを指す。
基本法は、形式的意義の憲法(憲法典)と区別する意味で、実質的意義の憲法と呼ばれている[注釈 6]。
アメリカ合衆国、日本では、成文憲法典を制定されているので、基本法は原則として憲法典のことを指すが、それに限定されるわけではない[注釈 7]。
法の支配は、国会が権限を濫用して被治者の自由ないし権利を侵害することがあり得ることを前提とするものであって、権力に対し懐疑的で、立憲主義、権力分立と密接に結び付いている。
ただし、どのように権力を分離するのかはその国の歴史によって異なり、合衆国のように厳格に三権に分立するというものでは必ずしもなく、イギリスのように議会と裁判所を明確に分離しないというような国もある。詳細は英国法#歴史を参照。
法の支配は、名誉革命によって近代的憲法原理として確立したものであり、上掲のヘドリィの庶民院での演説によって明らかにされているように民主主義とも密接に結びついている。
ただし、イギリスのように立憲君主制とも、合衆国のように共和制とも結びつき得るものであり、その国の歴史によって異なる多義的な概念である。
ここでいう共和制とは、人民主権の下、選出された代表者が権力を行使する政体のことである[13]。
その目的は、人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の「権利ないし自由」を保障することである。法の支配は、戦後現代的変容を余儀なくされており、その多義性ゆえ議論は錯綜を極めている。
ダイシーと法の支配
法の支配を理論化したのは、ダイシーの『憲法序説』(英語版)であり、以後議会主権(Parliamentary Sovereignty)と法の支配がイギリス憲法の二大原理とされるようになった[14]。
ダイシーによれば、法の支配は以下の三つの内容をもつものとされる。
1、専断的権力の支配を排した、基本法の支配(人の支配の否定) 2、すべての人が法律と通常の裁判所に服すること(法の前の平等、特別裁判所の禁止)
3、具体的な紛争についての裁判所の判決の結果の集積が基本法の一般原則となること。(具体的権利性)
ただし、ダイシー流の法の支配に対しては、ダイシー自身の政治思想や当時のイギリスの政治状況、例えば、コレクティビズム(集産主義)という概念を作り出し批判するのは、自身の政治信条であるホイッグを擁護する点にあるのではないか、フランスでは行政行為に司法審査が及ばないと誤解したことに端を発する行政法に対する不寛容、法の支配の第3番目の内容は国会主権を否定するに等しいなどジェニングズ(英語版)による体系だった批判がなされているが、ダイシー流の法の支配は現在でもイギリスの公法学界において多大な影響力を有している[15]。
また、国会主権と法の支配との関係については、ハートVSロン・フラー論争を代表に議論がなされているが[16]、ダイシー流の法の支配は、国会を上訴権のない裁判所ととらえることなどにより国会主権が多数者支配を是認するものとはとらえず、コモン・ローの伝統的理解にむしろ忠実なものであるとの理解がイギリスの公法学界では通説とされている[17]。
法の支配と法治主義
大陸法系においては、ローマ法が普及するに伴い「法の支配(Rule of Law)」は衰退し、19世紀後半にドイツのルドルフ・フォン・グナイストが理論的に発展させた「法治主義」(rule by laws、独:Rechtsstaat)が浸透していった[18]。
法治主義は、法律によって権力を制限しようとする点で一見「法の支配」と同じにみえるが、法治主義は、手続として正当に成立した法律であれば、その内容の適正を問わない。
したがって、「法の支配」が民主主義と結びついて発展した原理であるのと異なり、法治主義はどのような政治体制とも結びつき得る原理である。このような意味での法治主義を後に述べる実質的法治主義と対比する意味で「形式的法治主義」と呼ぶこともある[3]。他方、「法の支配」の下においては、たとえ「法律(立法)」の手続を経てなされるとしても、法律の内容は適正でなければならず、権利・自由の保障こそ本質的であるとする点に法治主義との差がある。
このような違いが歴史的に生じたのは、イギリスにおいては、法とは、「古き国制」に由来する人の意思を超えたものであって、人の手によって創造され得るものでなく、発見するものであると伝統的に考えられてきたことが背景にあるとされている[19]。
もっとも、現在では、ドイツでは、法律の内容の適正が要求される「実質的法治主義」の考え方が主流となっているが、反対に、イギリスでは、アンドレ・マルモーが代表する「古き良き法と法の支配は異なる」とする論調のように、多義的な概念である法の支配に政治哲学的な価値を持ち込むこと自体を批判し、法の支配と(形式的)法治主義を同視する見解が多い。
日本での展開
日本の法体系は、長らく慣習法を基調としてきたが、近代化の推進の為、明治憲法は、プロイセン・ドイツ法に準拠することとなり[注釈 8]、以後、法体系は大陸法系を基調として、明治憲法下でも(形式的)法治主義(法律による行政の原則)は認められてきた。
その後、アメリカ法に影響を受けた日本国憲法が制定されると、日本国憲法が法の支配を採用しているものなのかが問題となったが、制定法主義をとり、判例法主義をとるものではないという前提がある以上、ダイシー流の法の支配は採用されていないという点には異論はなく、結局は多義的な法の支配の内容をどのように解するかによってその結論が導かれると解されるようになった。
現在の日本の憲法学においては、「法の支配」の内容は以下の4つとされている[3]。
1、人権の保障 : 憲法は人権の保障を目的とする。 2、憲法の最高法規性 : 法律・政令・省令・条例・規則など各種法規範の中で、憲法は最高の位置を占めるものであり、それに反する全ての法規範は効力を持たない。 3、司法権重視 : 法の支配においては、立法権・行政権などの国家権力に対する抑制手段として、裁判所は極めて重要な役割を果たす。 4、適正手続の保障 : 法内容の適正のみならず、手続きの公正さもまた要求される。この法の適正手続、即ちデュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law)の保障は英米法の基本概念の一つでもある。
日本国憲法は、権利の保障は第3章で、憲法の最高法規性は第10章で、司法権重視は76条・81条で、適正手続の保障は31条で、それぞれ定めているので、「法の支配」を満足していると見なされている[3]。
これに対しては、日本国憲法施行の当初から、GHQによる検閲や農地改革等により権利の保障は大きく歪められ、また、最高裁の下す違憲判決の少なさから、日本において「法の支配」は十分に機能していないとする見解もある[要出典]。
このように、現在の日本の公法学において、「法の支配」という概念が広く受容されるようになったが、そのため戦前とられていた法治主義との関係が問題とされるようになった。
現在の日本の憲法学では、ドイツと同様に実質的法治主義と法の支配を統一的に理解する見解が多数であるが[20]、以下に述べるとおり両者を厳格に区別し、法の支配に一定の積極的な意義を見出す論者もいる。
佐藤幸治は、伝統的な「法の支配」における「法」という観念が自律的で自然発生的なルールという意味合いを有していることを指摘して、日本の「法律」という観念との違いに言及し[21]、法の支配を採用して、行政裁判所を廃止した日本国憲法下においても、公定力といった旧憲法下での行政法理論が生き続ける日本の公法解釈のあり方に疑問を呈するだけでなく[22]、(実質的)法治主義は行政による事前抑制に親和的であるのに対し、法の支配は司法による事後抑制に親和的で、国民の司法への積極的な参加とこれを支える多くの法曹の存在が必要であるという積極的な意義がある点に違いがあるとする[23]。
これに対して、阪本昌成は、法の観念については、佐藤と同じく自生的秩序であるとして法の支配と法治主義を厳格に区別しつつも、法の支配を主権者も法律さえも拘束するメタ・ルールであるととらえ、佐藤とは正反対に、国民に一定の行為を要求するものではありえず、むしろ法の形式に着目し、それが一般的・抽象的でなければならず、その内容も没価値的・中立的なものであることを要求するものであるとして、法の支配に政治哲学的な価値を持ち込むことに反対する。英国の公法学界の通説と結論を同じくするが、阪本の学説は、スコットランドの古典的自由主義の渓流を継ぐものなので、当然のことといえる。
国連・持続可能な開発目標2030アジェンダ国連の2030年までに達成すべき目標として掲げる持続可能な開発目標(SDGs)のターゲット16.3において、法の支配を国家及び国際的なレベルで促進し、すべての人々に司法への平等なアクセスを提供することを謳っている。[24]
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ lawは、ラテン系のフランス語起源の単語の多い英語には珍しく、イングランドを支配したヴァイキングのデーン人の用いた古ノルド語の「置かれた物」という言葉が語源。それが掟(オキテ)、法という意味となった。イングランド東部にはデーン(北海帝国)支配時代の慣習法などの残ったデーンロー地方がある。 ^ 政治学の項参照。 ^ コーク卿の『英国法提要』・『判例集』は、現在でも法の支配に関する不朽のテキストとされ、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法釈義』は、このコークの法思想を19世紀に継ぐべく書かれた、英国法の体系的なコメンタリーである。イギリスの植民地であったアメリカにおいては、不文法(非成文法)である英国法を知る手段は限定されたものであった中で、『英国法提要』・『イギリス法釈義』はアメリカの法曹に広く読まれるテキストとなり、アメリカ法に強い影響を与えることになる。 ^ 「古き国制」の思想は、古くはジョン・フォーテスキューが主たる論者であり、後にエドマンド・バークの「時効の憲法」(prescriptive Constitution)の思想に引き継がれていくが、バークの時代は法の支配の衰退期とされている。 ^ 庶民といっても、騎士(Knights)と一定の資産を有する「市民」(Burgesses)のことを指す。 ^ 憲法典のないイギリス法の訳語としては、端的に「統治構造」と訳すべきとの者もいる。 ^ 成文憲法典を持つ国では、最高法規である憲法に違背した制定法は無効とされ、裁判所が合憲性を判断する違憲審査制がとられているが、成文憲法典のないイギリスでは当然のことながら違憲審査制はない。成文憲法典のある国での違憲審査制の下では、合憲性判定の基準となる「憲法」は憲法典に限られ、基本法である実質的意義の憲法全てが含まれるわけではないとするのが通説である。 ^ 明治十四年の政変の項を参照。
出典
^ a b 宇野p58 ^ a b c d 芦部信喜『憲法(新版補訂版)』岩波書店、5頁 ^ a b c d e f g h 芦部信喜『憲法(新版補訂版)』岩波書店、14頁 ^ プラトン著・森進一、池田美恵、加来彰俊訳『法律(上)』(岩波文庫)255頁 ^ 佐藤幸治『憲法(第3版)』77頁、阪本昌成『憲法理論Ⅰ』59頁 ^ Wormuth, Francis. The Origins of Modern Constitutionalism, page 28 (1949). ^ 佐藤幸治『憲法(第3版)』77頁 ^ 上掲『現代イギリス法辞典』54頁 ^ 上掲『現代イギリス法辞典』71頁 ^ 上掲『現代イギリス法辞典』142頁 ^ 別冊ジュリスト『英米判例百選(3版)』(有斐閣)90頁 ^ 上掲『現代イギリス法辞典』8頁 ^ a b アメリカ大使館資料室「アメリカ早わかり」『米国の中央政府、州政府、地方政府の概要』 (PDF) ^ 上掲『現代イギリス法辞典』51~65、127頁 ^ 上掲『現代イギリス法辞典』55頁 ^ 上掲「現代イギリス法辞典」75頁 ^ 上掲『現代イギリス法辞典』66頁 ^ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ』59頁 ^ 上掲樋口・129頁 ^ 芦部『憲法(第3版)』岩波書店、15頁など ^ 佐藤幸治『憲法(第3版)』81頁 ^ 佐藤幸治、田中成明『現代法の焦点』有斐閣リブレ、1987年 ^ 第154回国会「参議院憲法調査会」第2号 ^ “「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採択する国連サミット”. 外務省. 2016年11月30日閲覧。
参考文献
伊藤正己『法の支配』有斐閣、1954年 伊藤正己『英米法における法の支配』日本評論社、1950年 伊藤正己・木下毅『アメリカ法入門(第4版)』日本評論社、2008年(初版は1961年) 田中和夫『英米法概説〔再訂版〕』有斐閣、1981年 佐藤幸治『憲法(第3版)』青林書院、1995年 樋口陽一『比較憲法(第3版)』青林書院、1992年 阪本昌成『憲法理論Ⅰ』(成文堂)、1993年 戒能通厚編『現代イギリス法辞典』(新世社)、2003年 宇野重規『西洋政治思想史』有斐閣、2013年。ISBN 978-4-641-22001-0。
関連項目
立憲主義 法治国家 国際法律家委員会 欧州評議会 法の支配ミッション デュー・プロセス・オブ・ロー
外部リンク
堀内健志「法の支配論と法律による行政の原理」『人文社会論叢-社会科学編-14号』75頁 アーカイブ 2006年3月4日 - ウェイバックマシン PDF
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豊健活人生のために大切なこと;春山昇華: solution型の脳 & communication型の脳
https://haruyama-shoka.blogspot.com/2023/06/solution-communication.html『olution型の脳エリア
communication型の脳エリア
誰でも脳は、この2個のファンクションを持っている
時と場合によって、この割合は変化する
誰を相手にするかによっても、この割合は変化する
時間と共に、経験を重ねるごとに、この割合は変化する
個人によって、この割合は異なる、個体による相違はすべての生き物に存在する
男性脳、女性脳という言い方は、シンプル過ぎて間違いだ
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solution型の脳エリアは、課題を解決、目標を達成する、それを目的とする
communication型の脳エリアは、レーダーのように常時活動し、何がどうなっているかを把握理解するのを目的とする
solution型の脳機能は、課題・目標の解決・達成に集中する。その時、それ以外の事は眼中から消える
communication型の脳機能は、広範囲を常時観察し理解しようとする。何かに集中せず、広く浅く活動を続ける
solution型の脳機能は、課題が解決されたり目標を達成すると、別の課題や目標を求め始め、終わったことからは興味がなくなる。
communication型の脳機能は、淡々と長期間にわたって広範囲を観察し理解しようと努力する。終わりと言うモノがない。
solution型の脳もcommunication型の脳も、承認欲求を持っている
solution型の脳は、処理した実績を評価してもらうことで満足する
communication型の脳は、今やっていることを認識してもらい、認識し続けてもらうことで満足する
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株式投資の基本動作は、淡々と継続する定点観測だ
communication型の脳エリアの仕事だ
初心者は、面倒だ、そんなことをやっても速攻で儲けが出ないし、やらなくても損も出ない、チェレンジ精神が沸かない、などという理由で三日坊主で辞めてしまう
communication型の脳エリアの仕事能力が欠如しているのだ
やらないのではない、できないのだ、能力が無いのだ
中上級者は定点観測を継続する訓練を自分に課して、その能力を習得しているので継続的な基本動作ができる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
判断はできても実行しない、そう思ったけど実行しなかった、多々あることだ
人間は、判断したことを実行するか否かを、別の心が決める
その別の心の能力を実行力と言う
solution型の脳エリアの仕事だ
初心者は、そうじゃなかったらどうしよう、やらなくても損得が速攻で明確にでるかは不明確だ、今やらなくても良い、などという理由で実行しない
solution型の脳エリアの仕事能力が欠如しているのだ
やらないのではない、能力が欠如しているからできないのだ
中上級者は判断したことを実行する訓練を自分に課して、その能力を習得しているので実行できる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
投資の基本動作は、知らない事や疑問を調べて徐々に知見を増やしていくこと、知識と経験のビッグデータを構築していく事だ
solution型の脳エリアの仕事だ、しかも放置しない意思が必要だ
知らない事や疑問の処理は、短時間でもしくは一日で終わらせる必要はない、数日から数か月にわたって時間のできた時に少しずつ、ジグソーパズルのピースをはめ込んでいくように完成させればよい
初心者は忘れたり飽きたりして、知らない事や疑問の処理を投げ出して未完成のままに放置してしまう
solution型の脳エリアの仕事能力が欠如しているのだ、とくに放置しない意思能力が欠如している
やらないのではない、能力が欠如しているからできないのだ
中上級者は定点観測を放置しない訓練を自分に課して、その能力を習得しているので時間をかけてでもやり遂げることができる
投稿者 春山昇華 時刻: 21:16 メールで送信BlogThis!Twitter で共有するFacebook で共有するPinterest に』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社会主義 > 共産主義 > マルクス主義 > マルクス・レーニン主義
政治シリーズ記事からの派生
共産主義
Red star
概念
側面
潮流
国際組織
人物
関連項目
Portal:政治学表話編歴
マルクス・レーニン主義(マルクス・レーニンしゅぎ)は、マルクス主義の一つの潮流であり、ボリシェヴィズム、ロシア・マルクス主義の中心でもある。
ロシア革命を成功させたボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンの死後に権力を握ったヨシフ・スターリンが1924年4月のスベルドロフスク大学で行った講演《レーニン主義の基礎について》で提唱された、「レーニンが カール・マルクスを正しく承継した」と強調するために作られた用語である。
コミンテルンを通じて、世界中に拡散された。レーニン主義・ボリシェヴィキズム・共産主義・スターリニズムとも呼ばれる[1][2][3]。
現在存続している中で、マルクス・レーニン主義を憲法で掲げている社会主義国家。残存する社会主義を唱える国家の中でも、北朝鮮は中ソ対立の中で金日成の独裁を正当化する、黄長燁が考案した主体思想を1967年から「マルクス・レーニン主義をより発展させた」と主張、自国の「唯一思想」として唱えている。1972年12月から憲法にも盛り込まれた[4][5]。
Marx-Leninにちなみ、MLとも略される。
理論
現在も存続しているマルクス・レーニン主義の国家
かつて存在したマルクス・レーニン主義の国家
世界認識、経済学、社会主義論マルクス主義を参照。
帝国主義論
資本主義は、資源と労働力と市場の確保のため、植民地争奪戦争を必然化するとする。戦略論
プロレタリア独裁
革命後、全ての生産手段が社会化される共産主義に至るまでの時期には、反革命勢力となるブルジョワジーが残存しており、革命勢力であるプロレタリアートは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならないとする。後にスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するにあたり、レーニンにおいては共産主義に至る前段階であったプロレタリアート独裁期を社会主義であるとした。 レーニンにとって「独裁」とは、「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されることのない権力」のことであった。(実際にはエスエル、メンシェビキその他の政党は、ソビエト体制下でもソビエトに参加していた。ところが反革命のテロ活動を行ったとして、レーニンはこれらの政党を禁止した。)そのため、レーニン直属のチェーカーなどの抑圧機関が無制限に国民の粛清を行った。チェーカーは1922年にGPUと改名して、スターリン時代も国民の大粛清を行った。これにより、元貴族や資産家、クラークばかりでなく、体制に反対した市民などが「人民の敵」として無制限に処刑され、他の共産圏でも踏襲された。
永続革命論
一国でプロレタリアートの政権が成立しても、目標を実現したことにはならず、目標は全世界で共産主義社会を実現することにあるとする世界革命論を発展させ、一国でのプロレタリアートの政権の成立はそれだけでは社会主義社会への移行には不十分で、特に後進国の場合、プロレタリアートの政権の維持そのもののために、他国での連続した革命が必須であり、それを可能にするためには最初からプロレタリアートが革命をリードする必要があり、また既に権力の奪取が成功した国では止むことのない改革が必要であるとした。レーニンは当初、二段階革命論を主張し、永続革命論を主張するトロツキーと対立していたが、帝政の崩壊後永続革命論の立場に転じ四月テーゼを発表した。一国社会主義を標榜するスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するときに永続革命論を否定したので、ソビエトでは継承発展されず、トロツキーの思想の系譜につながる人々やアントニオ・グラムシなど西欧のマルクス主義者が継承し、形を変えながらも発展させた。
帝国主義戦争の内乱への転化(革命的祖国敗北主義)
自国が帝国主義戦争を起こすに至ったら、労働者は自国の戦争での勝利のために闘うのではなく、戦争に乗じて階級闘争を激化させ現体制を打倒するために闘うべきだとした。レーニンはこのようにして第一次世界大戦時に革命を成功させ、ロシアを戦争から離脱させた。
前衛党論
レーニンは自らの党組織論をおおむね『何をなすべきか』(1902年)において記している。これは労働組合主義を「経済主義」と呼んで批判する論争的な著作である。
レーニンは革命の可能性について自然発生性よりも目的意識性を重視した。そのうえで革命への目的意識は外部からプロレタリアートに注入できるとも考え、革命理論はプロレタリアートの外側から知識人が持ち込むものと考えた(この点まではカール・カウツキーと一致している)。加えて、それゆえに実際の党組織と労働者組織は峻別されるべきだと考えた。これらの運動論・党組織論は次のように実践された。
職業革命家により構成される党
ドイツ社会民主党を範とするメンシェヴィキは、大衆に開かれた党を主張した。メンシェビキを率いるマルトフは、党の指導のもと、個人的に党活動に参加すべきであると考えていた。 しかし、「党員は党組織の一部を担う」べきだと主張しつづけていたレーニンは、大衆に開かれた党を官憲に開かれた党であるとした。そのうえで言論の自由のないロシアでは、革命党は職業革命家の党にならざるを得ないとした。のちに、これらの党専従活動家・党官僚がノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級と化してしまうという皮肉が現出した。
民主集中制
もともとは「分派結成の自由」も含めた異論の表明は保障するが、少数は多数の「決定」に従わなければならない、とする組織原則。
ボルシェビキは、17年革命以前は分派結成の自由を保障していた。革命後の内戦・帝国列強のロシア侵入に対する戦争の中で「指導部の指導力」を強める必要から、ロシア共産党は1921年に一時的な措置として「分派の結成」を禁止した。
スターリンは、レーニンの死後、「党は討論クラブではない」として、「分派の禁止」を「民主集中制の原則」にまで高めた。
以後、第二次大戦後も各国共産党は、「分派を禁止する一枚岩の組織原則としての民主集中制」を保持し続けた。それは党内討論よりも指導部による方針の上意下達を優先する、各国の共産党を例外なく蝕んだ「組織内官僚主義」の組織論的根拠となったと言えよう。(民主集中制の組織原則は党の方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党の実践を通じて検証するという組織原則である。民主集中制の組織原則を乱暴に破壊したのはスターリンであるとされる。スターリンはレーニン死後、指導部の90%余りの幹部を粛清して独裁体制をつくりあげた。)
一国一前衛党論
レーニンは第三インターナショナル(コミンテルン)結成に際して、「支部承認」を求める組織に「社会民主主義からの訣別の証」として「(国名)共産党・共産主義インターナショナル支部」と名乗ることを義務付けた。
また、一国で複数の共産主義組織の加入申請があった場合はどれか一つ、もしくは組織の統一をさせたうえで支部承認した。しかし、初期のコミンテルンは「一国一支部」を原則としながらも、「コミンテルン支部以外の共産主義組織」を「イコール敵対者」と定義していたわけではない。
ドイツ共産党(KPD)から分裂したドイツ共産主義労働者党(KAPD)も、コミンテルンのシンパ支部として受け入れられた。このコミンテルンの原則を「統一した党は革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする「一国一前衛党論」として「原則」にまで高めたのはスターリンである。その結果、スターリン指導下のコミンテルンによる「一国一前衛党論」は、各国支部以外の共産主義組織に対して「反革命トロツキスト」(それは必ずしもトロツキー派の組織ではなくてもレッテルを貼って攻撃した)などと激しく攻撃する「セクト主義」の論理として機能していくことになる。
コミンテルンに対抗して1938年に結成されたレフ・トロツキーの第四インターナショナルも「一国一支部の承認」を原則としているが、自派以外の共産主義組織の存在を認める「複数主義」の立場をとっている。
関連項目
民主集中制/プロレタリア独裁/職業革命家/暴力革命/武力闘争/永続革命論 共産主義/共産党 社会主義/社会党 社会主義国/東側諸国 マルクス主義/レーニン主義 スターリン主義(スターリニズム) - 「マルクス・レーニン主義」との用語はスターリンが使い出した。 トロツキズム - スターリン主義を批判するトロツキーのマルクス主義思想。 ソ連型社会主義/ソビエト連邦共産党 中国共産党 日本共産党 - 1976年の綱領改訂で「マルクス・レーニン主義」の呼称を「科学的社会主義」と変更。 朝鮮労働党-主体思想 ベトナム共産党 キューバ共産党 人民共和国 』
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合衆国法典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E6%B3%95%E5%85%B8※ なるほど、8章が「8: 外国人及び国籍 (Aliens and Nationality)」、42章が「42: 公衆衛生及び社会福祉 ( The Public Health and Welfare)」とあるな…。
※ あくまでも、連邦議会の議決を要せず、「行政府(≒大統領)」に権限を授与する根拠法典なんだろう…。
※ 新型コロナが猛威を振るっていた時期は、「42章公衆衛生」優先で外国からの移入を大きく制限できる根拠になっていたが、その必要性が減少してきたんで、通常モードの「8章」の適用体制に移行した…、という話しのようだな…。
※ 『米国の制定法 (Statute) は、法令速報、会期別法令集、主題別法令集の3パターンで出版されるが、合衆国法典は、合衆国政府印刷局 (U.S. Government Printing Office) が発行する連邦法律についての公式の主題別法令集である。
最初に合衆国法典が発行されたのは1926年であるが、1874年に1873年12月1日までの法律を収録した第1回改訂版、1878年に第2回改訂版が発行され、全てのパブリック・ロー(”public law”。特定の個人や団体、地域のみを対象としない法律)と効力のある連邦法律を74編に分類・配列して発行された公式主題別判例集の「Revised Statutes」を整理改良したものである。
合衆国法典に注釈を付けた非公式の主題別法令集がWEST社やLawyers Coop社ら民間業者から発行されているが、こちらは司法長官の意見、行政規則、各種2次資料、立法史についてのリファレンスが付けられていて便利であることから、一般の法学学習者や法曹が利用している。
一般に合衆国法典は、法律そのものではなく、法律の一応の証拠としての価値しかないとされており、厳密には会期別法令集(”United States Statues at Large”)を参照しなければならないとされている。』という辺りも、オレ的には興味深い…。
※ なにしろ、「アングロサクソンの法体系」なんで、判例法(不文法)・慣習法中心の法体系だ…。
※ そういう中から、「パブリック・ロー(”public law”。特定の個人や団体、地域のみを対象としない法律)と効力のある連邦法律」を拾い集めて、検索し易くしたものなんだろう…。
※ 「一般に合衆国法典は、法律そのものではなく、法律の一応の証拠としての価値しかないとされており、厳密には会期別法令集(”United States Statues at Large”)を参照しなければならないとされている。」と、ワザワザ断っているしな…。
※ 「アングロサクソンの法体系」では、「成文法」よりも、「慣習法」「判例法」の方が優位であることがよくある…。
※ なんでもかんでも「法典」に書かれている…、というわけじゃ無いんだ…。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィキペディア 合衆国法典へのリンクを貼るためのテンプレートに付いてはTemplate:合衆国法典を参照
アメリカ合衆国法典
Code of Laws of the United States of America Great Seal of the U.S.
National coat of arms
編集者 Office of the Law Revision Counsel
出版社 合衆国政府印刷局
OCLC 2368380
文章 アメリカ合衆国法典
Code of Laws of the United States of America – Wikisource
合衆国法典
著者 Office of the Law Revision Counsel
言語 英語
形態 法典、米国連邦政府による著作物
公式サイト http://uscode.house.gov/
コード OCLC 2368380
[ Wikidata-logo-en.svg ウィキデータ項目を編集 ]
テンプレートを表示合衆国法典(がっしゅうこくほうてん、United States Code, U.S.C.)は、アメリカ合衆国の連邦法律のうち一般的かつ恒久的なものを主題別に集めた公式法令集。
概要
米国の制定法 (Statute) は、法令速報、会期別法令集、主題別法令集の3パターンで出版されるが、合衆国法典は、合衆国政府印刷局 (U.S. Government Printing Office) が発行する連邦法律についての公式の主題別法令集である。
最初に合衆国法典が発行されたのは1926年であるが、1874年に1873年12月1日までの法律を収録した第1回改訂版、1878年に第2回改訂版が発行され、全てのパブリック・ロー(”public law”。特定の個人や団体、地域のみを対象としない法律)と効力のある連邦法律を74編に分類・配列して発行された公式主題別判例集の「Revised Statutes」を整理改良したものである。
合衆国法典に注釈を付けた非公式の主題別法令集がWEST社やLawyers Coop社ら民間業者から発行されているが、こちらは司法長官の意見、行政規則、各種2次資料、立法史についてのリファレンスが付けられていて便利であることから、一般の法学学習者や法曹が利用している。
一般に合衆国法典は、法律そのものではなく、法律の一応の証拠としての価値しかないとされており、厳密には会期別法令集(”United States Statues at Large”)を参照しなければならないとされている。
このような不便を解消するため、合衆国法典そのものを法律とすることが推進されている。これは”positive law codification”[注 1][1]と呼ばれており、現在27[2]の編がこれに該当している[3]。
法典の構成
合衆国法典は連邦議会で成立した連邦法律を主題別に分類し、検索を容易にしたものである。個々の法律はまず分野別に分類される。この分類は編 (title) と呼ばれ、1から番号が付されている。たとえば、倒産に関する法律は第11編に、著作権に関する法律は第17編に、公衆衛生と社会福祉に関する法律は第42編に分類される。第34編「海軍」は第10編「軍隊」に統合されたため、現在用いられていない。複数の分野に当たる法律は、複数の編に重複して分類されることがある。
編の下に章 (chapter) や条 (section) がある。個々の法律を合衆国法典で表す場合、通常「X編 U.S.C. Y条」の形式をとる。例えば、障害を持つアメリカ人法第1条は第42編(公衆衛生と社会福祉)第126章(障害者機会均等)第12101条に収録されているので「合衆国法典第42編第12101条 42 U.S.C. § 12101」、同法第401条は第47編(電信)第5章(有線・無線通信)第225条に収録されているので「合衆国法典第47編第225条 47 U.S.C. § 225」と表される。
編 (title)
1: 総則 (General Provisions)
2: 議会 (The Congress)
3: 大統領 (The President)
4: 旗・紋章、ワシントンDC、州 (Flag and Seal, Seat of Government, and the States)
5: 政府組織及び職員 (Government Organization and Employees)
6: 保証証券 (Surety Bonds), 国内治安 (Domestic Security):保証証券編については、1947年廃止。
7: 農業 (Agriculture)
8: 外国人及び国籍 (Aliens and Nationality)
9: 仲裁 (Arbitration)
10: 軍隊 (Armed Forces)
11: 破産 (Bankruptcy)
12: 銀行及び銀行業 (Banks and Banking)
13: 国勢調査 (Census)
14: 沿岸警備隊 (Coast Guard)
15: 商業及び貿易 (Commerce and Trade)
16: 保全 (Conservation)
17: 著作権 (Copyrights)
18: 犯罪及び刑事手続き (Crimes and Criminal Procedure)
19: 関税 (Customs Duties)
20: 教育 (Education)
21: 食品及び薬品 (Food and Drugs)
22: 国外関係及び通商 (Foreign Relations and Intercourse)
23: ハイウェイ (Highways)
24: 病院及び精神病院 (Hospitals and Asylums)
25: インディアン (Indians)
26: 内国歳入 (Internal Revenue Code)
27: 酒類 (Intoxicating Liquors)
28: 司法及び司法手続き (Judiciary and Judicial Procedure)
29: 労務 (Labor)
30: 鉱物資源及び鉱業 (Mineral Lands and Mining)
31: 資金及び財政 (Money and Finance)
32: 州兵 (National Guard)
33: 可航水域 (Navigation and Navigable Waters)
34: 海軍 (Navy):1956年廃止。10編に統合
35: 特許 (Patents)
36: 愛国的団体及び式典 (Patriotic Societies and Observances)
37: 武官組織の給与及び手当 (Pay and Allowances of the Uniformed Services)
38: 退役軍人給付 (Veterans’ Benefits)
39: 郵便 (Postal Service)
40: 国有建築・資産・作品 (Public Buildings, Properties, and Works)
41: 公共契約 (Public Contracts)
42: 公衆衛生及び社会福祉 ( The Public Health and Welfare)
43: 公有地 (Public Lands)
44: 政府刊行物及び公文書 (Public Printing and Documents)
45: 鉄道 (Railroads)
46: 船舶 (Shipping)
47: 電信 (Telecommunications)
48: 領土及び島嶼領域 (Territories and Insular Possessions)
49: 交通 (Transportation)
50: 戦争及び国防 (War and National Defense)
51: 国家及び商業宇宙計画 (National and Commercial Space Programs)
52: 投票及び選挙 (Voting and Elections) 54: 国立公園サービス及び関連計画 (National Park Service and Related Programs) 』



















