江戸の藩の石高ランキング
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お取りつぶし」も含めると消滅した江戸時代の藩は500近い⁉─藩の基礎知識と大名統制幕藩体制─
https://www.rekishijin.com/24406


『2022.12.09
江戸幕府から領地の支配を認められたのが「大名」、大名を頂点とした組織、または領域が「藩」。一般的にはこのように認識されているかもしれない。だが、実はそんな単純ではない。「藩」を存続させるのは非常に困難であり、消滅してしまう藩も多数あったという。
■幕府が判物や朱印状を発給し「藩」は領有が認められる
家光までの武断政治の時代は、外様を改易して取り上げた領地を、譜代に抜擢した大名に与えるケースが多かった。件数は減ったものの、綱吉の頃まで続いた。
大名の所領・支配組織を指す「藩」という名称は、明治維新以降に普及した。江戸時代では、大名の所領はその姓名を冠して「○○家領」「○○領分」、支配組織も「○○家中」などと呼ばれるのが通例だった。
藩は単独で成り立つものではなく、幕府から所領の支配(領有)を認定されることで、領主が大名つまり藩主として君臨できるシステムになっていた。将軍の代替りごとに、その花押が据えられた領知判物(はんもつ)、あるいは朱印が据えられた領知朱印状(しゅいんじょう)が諸大名に発給されることで、領有が認定される仕組みである。
こうして、幕府と藩が共同して日本を統治する幕藩体制が誕生したが、その画期は領有権を担保する領知判物・朱印状が1万石以上の所領を持つ領主に一斉に発給された寛文4年(1664)に求められる。これを寛文印知(かんぶんいんち)といい、1万石以上の所領を持つ領主が大名つまり藩であると名実ともに認定され、藩による統治システムも確立されることになる。
江戸開府前、家康からみると大名の大半は外様大名であった。家康は関東に転封された際に250万石の大封を与えられたため、1万石以上の所領を持つ一門や家臣の数が42名にも及んだ。この時点で、親藩・譜代大名が40名余いたが、その数が飛躍的に増えたのは関ヶ原合戦に勝利し
た後である。
徳川家康は西軍に参加した外様大名から没収した所領を元手に、東軍に参加した大名への論功行賞を行った。半分以上の425万石が東軍参加の外様大名への加増に当てられ、3割弱の220万石をもって一門や家臣への加増分に当てた。80名以上の外様大名が改易された一方で、一門や家臣で親藩あるいは譜代大名に取り立てられた者も多かったが、譜代大名の数の方が圧倒的に多い。
3代将軍・徳川家光の代までは、幕府が大名を改易する事例は多かった。主に外様大名が対象だが、1万石未満の家臣を大名つまり譜代大名に取り立てる事例も少なくなかった。外様大名は減る一方だったが、譜代大名の数は増加傾向が続き、外様大名の数をはるかに上回っていく。
かたや大名側には、1万石以上の所領を割いて分家の大名を創設する動きがみられた。跡継ぎなしとの理由で改易(かいえき)処分が下るのを防ぐための自衛策だった。
その結果、大名の数は公称300、幕末には実数260名程に達するが、改易された家を含めると実質500近くがあったと考えていい。
赤穂藩の取りつぶし
赤穂藩は改易された藩の代表例である。浅野内匠頭(長矩)が江戸城松之廊下で高家・吉良上野介に対し刃傷事件を起こし切腹。お家は断絶した。(『忠雄義臣録第三』東京都立中央図書館蔵)
監修・文/安藤優一郎
(『歴史人』2023年1月号「江戸500藩変遷事典」より)』
第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下(※ 現、今上)記念講演
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen-h15az-mizuforum3th.html



『京都と地方を結ぶ水の道
-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-
<英文へ>
はじめに
今日は,今私たちがおります京都の町と水運との関係を主に,京都が都になった8世紀末から15世紀あたりまでを視野に入れてお話ししていこうと思います。
京都が都になる以前には,都は京都の南にあります奈良にありました(地図1)。奈良は大仏で有名な東大寺や世界遺産に指定された法隆寺があるところです。京都が平安京として都になったのは794年で,それ以降1868年の明治維新により東京に都がうつるまで,1000年余りのあいだ京都は日本の都でありました。
京都は内陸部の都市ですから,日本に於ける水運の要だったといえば,不思議に思われるかもしれません。まず,(地図1)により,京都の地理的な位置を,水運という観点から確認したいと思います。
京都の西には,隣接する大阪府から西に瀬戸内海が広がっています。瀬戸内海は,本州,四国,九州という日本列島を構成する島々に囲まれて,波も比較的穏やかで,製塩地,森林地帯,農産地をその後ろに控え,古来より物資流通の大動脈として機能してきました。
現在の京都には,大阪湾に注ぐ淀川の支流,桂川,鴨川,宇治川が流れています。つまり,瀬戸内海と京都とは,河川によって結びついております。
また,京都市の東には,滋賀県の中央部に日本一大きい琵琶湖という湖があります。琵琶湖は南北に約50キロメートルあり,琵琶湖の北端から日本海へは直線で約20キロメートルであります。琵琶湖の東には,古代から東日本へ通じる主要な街道が通っておりました。この点だけを見ていただいても,京都が西は淀川を通じて瀬戸内海へとつながり,西日本の各地と結びついており,東は琵琶湖を通じて日本海や東日本の地域へ,比較的アクセスしやすい地理的条件を備えていることが,お分かりいただけると思います。
ところで,今回の水フォーラムでは,琵琶湖の水運,淀川の水運も議題の一つとうかがっていますが,今までお話ししてきたことからも,京都という場所を考える上で,琵琶湖と淀川の水運が,大きな役割を果たしてきたことがご想像いただけるかと思います。
では,琵琶湖および淀川の水運についてもう少し細かく見ていきたいと思います。
琵琶湖の水運について
まず,琵琶湖についてですが,琵琶湖の面積は673.9平方キロメートルで,日本で一番大きい湖で,水上交通にも大きな役割を果たしてきました。
ここから,水運の話を進めるのにあたり,京都が都となった頃の物資の流通について少しお話しする必要があると思います。
1.国家貢納物の輸送と琵琶湖水運
京都が都になる以前,奈良が平城京として都であった時代から,中央の政府は,国家の維持や財源確保の目的で,国内の各地域から国家貢納物を徴収していました。国家貢納物の種類は,おおざっぱにいって(地図1),日本海側や西日本の地域からは米などの重い物資が多かったのに対し,東日本の太平洋側は絹や綿といった比較的軽い物資が多いのが特徴であります。これは,日本海や瀬戸内海が航海に適していたこと,さらに琵琶湖の水運が利用できたことがあげられますが,一方,東日本の太平洋側は波も荒く,航海に適さず,物資は陸上輸送されたためと言われています。都が京都にうつった後,10世紀初めに『延喜式』という法令集が編纂されましたが,そこには,その当時の国家貢納物の輸送の実態もよく記されております。ここには,都に集まってくる国家貢納物の内容や運賃,さらには輸送ルートまで,明確に記されています。
(地図2)をご覧下さい。『延喜式』によりますと,北陸地方の貢納物については,敦賀(現在の福井県敦賀市)へ海路輸送され,そこから琵琶湖の北岸の町である塩津へ陸送され,琵琶湖の水運を利用して大津へ運ばれ,後は陸路で京都へ運ばれました。ちなみに,塩津と大津の間は,航路にして約60キロあります。また,琵琶湖の北西に位置する現在の福井県西部に当たる若狭国からの貢納物については,陸路琵琶湖の西岸の勝野津(現在の高島町)と呼ばれる場所へ陸送され,そこから琵琶湖水運を利用して大津へ回漕されております。
また,東日本から運ばれる貢納物は,主として「東山道」という東日本から来る主要な街道を通りまして,琵琶湖の東の朝妻(現在の米原町)に集められ,そこから大津へ回漕されました。
このように見てきますと,琵琶湖においては大津が物資の集散地として重要な役割を果たしていたように見えます。ちなみに,大津は,平安京を造った桓武天皇の曾祖父にあたる天智天皇が大津京として,667年に都と定めたところで,672年に大津京が廃絶してからは古い港を意味する「古津」と地名を変えていましたが,京都が都となったことで大津がいわば京都の外港の役割を果たすことになり,再び大津と改称されました。
2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運
この『延喜式』という法令集が編纂された10世紀以降,それまでは国の土地であった場所を,有力な社寺や貴族が私的に領有するようになり,荘園制度が発展してきます。荘園制度のもとでは京都在住の貴族や有力社寺が,日本各地に領有している荘園から,財源としての年貢を徴収するようになりました。荘園年貢は,米が主体でしたが,ところによっては,塩,絹,綿,鉄等もあり,年に一回の割合で送られてきました。
ここにおいて,輸送物資は国家貢納物から荘園年貢へと転換いたします。
では次に,荘園年貢の輸送と琵琶湖水運の関わりについて紹介します(地図1)。
日本海側の越後,能登,加賀,越前(今でいう新潟県,石川県,福井県にあたります)からの荘園年貢は,海路敦賀または小浜へ輸送されまして(地図2をご覧下さい),今度は琵琶湖の北の塩津・海津・今津などの港に陸送され,琵琶湖を船で大津,坂本に着け,更に馬や車で京都に運んだと言われています。なお,当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。
例えば,京都の東寺が領有していました現在の小浜市にある若狭国太良荘からの年貢は米でしたが,太良荘から陸路を琵琶湖の北西の今津に送られた後,琵琶湖水運を利用して大津へ運ばれ,再び陸路で京都の東寺へ送られました。
また,比叡山にある延暦寺のお膝元坂本(現在は大津市内)は,延暦寺領の荘園年貢が集まる場所として賑わいました。延暦寺は8世紀末に開かれた天台宗の密教寺院ですが,全国に多くの荘園を持っていました。
このように琵琶湖の水運が活発になってきますと,航行する船から,関税を意味する関料を徴収する目的で,税関に当たる関所が作られるようになります。関所の多くは延暦寺が領有し,徴収された関料は延暦寺の建物の造営費に充てられました。ちなみに,15世紀には,延暦寺の領有する関所が琵琶湖の湖岸に11箇所存在したといわれており,徴収された関料は積み荷に対し,おおよそ100分の1が徴収されたといいます。
また,これも今は大津市内になっていますが(地図2),堅田と呼ばれる場所は,琵琶湖のもっとも狭くなっている場所に位置しておりまして,11世紀頃から船の渡し場となるなど,古代より交通の要所でありました。この堅田では,「堅田衆」と呼ばれて,琵琶湖を航行する船の安全を保証するみかえりに,警護料を徴収しているような人々も存在しました。それゆえに,「堅田衆」は琵琶湖の水上交通における大きな特権を持っていました。
ちなみに,ヨーロッパなどですと,周囲に水を廻らした中世の環濠都市が今でも残っておりますが,中世の堅田も,琵琶湖の水を引き込んだ環濠都市的な景観を有していたといわれております。
淀川の水運について
次に,淀川の水運についてお話しします。京都から目を西に向けますと,淀川は京都と瀬戸内海を結ぶ重要な役割を果たしております。
1.日本の河川の特色
淀川の話をする前に,ここで少し,水運との関係から日本の河川の特色について紹介します。
まず(表)をご覧下さい。これは,河状係数により,世界の川と日本の主要河川とを比較したものです。
河状係数というのは,河川の流量が最大になる時と最小になる時との比率を示す数値で,これにより,河川の流れが,どれくらい安定しているかが分かります。
係数が小さいほど年間を通しての流量が一定していることになります。
例えば,ケルン市で測定したライン川の河状係数は16,ロンドン郊外のテディントンで測定したテムズ川の河状係数は8。
それに対して,日本の河川は,年間の水量の変化が大きく,河状係数も高くなっています。
今日お話しする淀川についても大阪府の枚方市で測定した数値は104であります。
これにより,日本の河川がいかに年間の流量の変化が大きいかが分かりますが,このことは日本の河川には氾濫原としての河川敷があるのに対し,ヨーロッパの川などにはあまり見られないことなどにもあらわれております。
そして,この河川の水量の変化は,水運にも必ずしも良い条件ではないことがご想像いただけるかと思います。
2.国家貢納物の輸送と淀川
しかしながら,淀川は古来より航行可能な河川として,人あるいは物の流通に大きな役割を果たしておりました。
平安京の頃の淀川流域を示した(地図3)をご覧下さい。
まず,国家貢納物の輸送について,先程もご紹介しました『延喜式』によりますと,西日本の各地からは,瀬戸内海を航行し,淀川を遡りまして,現在の京都市伏見区にあります淀の付近で陸揚げされていました。この淀は現在の淀川の起点にあたり,桂川,琵琶湖を源流とする宇治川,そして木津川が合流する地点に位置しております。地図を御覧いただければお分かりのようにこの3つの川の合流点には,今はありませんが,巨椋池という大きな池がありました。淀はその中州にありまして,平安京の外港としての役割を果たしていました。中州からは通常,渡し船で行き来していたようです。
淀に集められた国家貢納物は,さらに陸路,馬や車などを利用して平安京にある大蔵省の倉に収められました。
淀に近い山崎も,淀と並んで物資の集積地となっておりました。琵琶湖の大津,淀川の淀・山崎が平安京の外港となっていたといえます。
この点に関して言いますと,当時,公定米価を定めるのにあたって,この大津・淀・山崎の米価が参照されていたといわれ,これらの場所は,米の集積地であるのみならず,都や国家の経済に直結する米の取引が行われる場でもありました。
3.荘園年貢輸送・旅と淀川水運
また,時代が下って荘園が発達してきますと,淀には荘園年貢が陸揚げされる重要な港となります。例えば,(地図1)瀬戸内海に浮かぶ弓削島という島には,京都の東寺が領有する塩を年貢に出す荘園がありましたが,年貢の塩は,瀬戸内海から淀川を遡り,淀で陸揚げされた後,東寺へ陸送されていました。また,淀には13世紀頃から塩と魚介のみを取り扱う卸売り市場ができ,ここでは,淀川を遡ってそれら商売用の塩や塩引きの魚介類を積んできた船を,強制的に着岸させていました。ちなみに,淀川の河口から淀まで船で遡るのには丸一日かかったといいます。
ここまでは淀川をさかのぼってくる年貢や商品についてお話しいたしましたが,淀川は人々の往来にも利用されました。(地図1)例えば,平安時代以降,紀伊半島の南に位置しています熊野や高野山が人々の巡礼の場所となります。この巡礼には,淀や山崎などから船で淀川を下って海に出て,海路を最寄りの港まで航行していました。当時の記録を見てみますと,淀川の水量が少ない時期には,浅瀬を掘り,水路に標識を立てたり,ことに航行が難しい場所では,葦を束ねたり小さい木を積んで,堰を作って川の流れを移すなどの工夫をしていたことが分かります。
船が航行する場合,下流に向かう場合は問題がありませんが,遡る場合は,人が集団で綱で船を引いたことが記録に残っています。中世のヨーロッパですと,川を航行する船は綱をつけて馬で引き,そのためのフットパスと呼ばれる道も川の両側に整備されていたようですが,日本の中世では,私の知る限り馬で川船を引いた例は見あたりません。
また,15世紀半ばに,淀川下流域を航行する帆かけ船を描いた指図があることから,淀川においては,風力も推進力として利用されていたことが分かります。
4.水路関と淀川
ところで,琵琶湖の水運のところでも述べましたが,淀川においても,交通量の増大に伴って川岸に関所が設置されていきます。
琵琶湖では,多くの関所が延暦寺の造営費を捻出する目的で作られたことはお話ししましたが,淀川では,京都に住む公家や奈良の寺社により,15世紀末には400近い関所が設けられていたといいます。淀川の長さは,河口まで約50キロともいわれていますので,その間に400の関所とは相当の数ではないでしょうか。ただし,全ての船が400近い関所に逐一立ち寄って関料を払ったとは考えにくく,船の積み荷などによって立ち寄るべき関所が決まっていたとも考えられております。
そうはいいましても,こういった関所の濫設は,当時の交通の大きな阻害要因となっていました。こういう動きに対して,時の政治権力を握っていた幕府は,関所の数を減らそうと努力をしましたし,また輸送業者の中には,関所に対して破壊行為を行うものもありました。しかし,関所が全て撤廃されるのには,16世紀末の豊臣秀吉の出現を待たなければなりませんでした。
結び
以上,琵琶湖,そして淀川の水運について,平安京ができる8世紀末から15世紀頃までの様子を概観してまいりました。京都という町が,東は琵琶湖を通じて,日本海地域や東日本と結びつき,西は淀川を通じて日本の西の地域と結びついていたことが,ある程度お分かりいただけたかと思います。
陸上交通が発達した現代では,湖上の交通,あるいは,河川の交通は,ともすれば忘れられがちなものとなっているかもしれません。しかし,水路は,物資や人を大量に,しかも安い運賃で運べる最良の手段だったものだと思います。また,私自身,イギリスのオックスフォード大学へ留学していた間に,テムズ川の船旅を何回か経験したことから,川に対する親しみを覚えております。川から眺める景色は,陸上からのそれとはまた違った広がりをもつ良いものです。日本でも,人々が水に親しみ,水上交通が改めて見直されることを願うとともに,日本に限らず,世界の川や湖がその美しさを今後とも保っていかれることを願って,私の話を終わらせていただきます。』
鎌倉時代に発展した海の道や街道の話
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/michi/index.html
























『目 次
鎌倉時代の主な港と街道 海上輸送 (国内の輸送・海外貿易) 陸上輸送 昔の道の断面図
関東にできた軍事道路 鎌倉時代に最も重要だった「東海道」 鎌倉時代の輸送手段 大切な道の役割
玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所
はじめに
鎌倉時代になると京都と鎌倉を結ぶ東海道の整備をはじめ,武士や商人の移動が多くなり道が発達しました.特に村の中で鋳物(いもの=鉄を作ること),や養蚕(ようさん=カイコを育てて絹を作ること),漆器(しっき=うるしぬりの生活用具),和紙など様々なものが生産されたり,海産物や畑の作物,加工食品が盛んに作られるようになると,人や物の移動が活発になり道路が発達しました.
また,鎌倉幕府は「いざ戦争」という時にそなえて鎌倉を中心に関東地方に広がる軍事道路「鎌倉街道」を造りました.
さらに,中国や朝鮮から織物や陶磁器,薬,お金をたくさん輸入したり,日本から刀や木材,漆器などを輸出する貿易が盛んになりました.鎌倉時代というと「物々交換(ぶつぶつこうかん)だったのかなあ・・」とか,「経済が発達してなかったんだろうなあ・・」と思われがちですが,実はそうではなかったということが最近の研究で分かってきました.
このページではそんな鎌倉時代の交通についてお話しします.
鎌倉時代の主な港と街道
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海上輸送
1.国内の輸送(ゆそう)
奈良に都が作られて,全国から「租・庸・調」(そ=主にお米・よう=布または米・ちょう=特産物,例えば海産物や織物などを税として納めること)を集めるために海運が発達しました.内陸地からは人が背おって川や海の船着き場に集められ,そこから舟に乗せて奈良の近くに陸あげされ,更に人や荷車に荷をのせて朝廷や貴族のところに運ばれました.
やがて京都に都が移されて平安時代になると,海運がいっそうさかんになりました.特に日本海側の国々から集められた税は,現在の福井県敦賀(つるが)や小浜(おばま)から陸の道を通って琵琶湖(びわこ)まで運ばれ,そこから舟にのせかえて大津まで運ばれました.大津で陸あげされた荷物は再び荷車につまれて京都へと運ばれたのです.また,そのころになると京都の特産品が諸国に運ばれることが多くなり,そこでも琵琶湖や日本海を利用した水上交通が大いに利用されました.
さらに,鎌倉時代になると産業も発達して日本のあちこちで作られたものが,京都だけではなく鎌倉を初めとする地方の都市や町にも運ばれるようになりました.また,鎌倉時代の中期から後期にかけて日本でも大型船が作られるようになって,それまで波が荒くて難しかった太平洋側の海上交通もしだいにさかんになっていきました.
大切だった「琵琶湖」のやくわり.
琵琶湖が日本最大の湖であることはみなさんも知っていますね・・・琵琶湖周辺の地図を見て分かることは,
1.京都の近くにあること
2.日本海に近いこと
です.
琵琶湖は陸地にある「海」と同じで,日本海と京都を結ぶたいせつな交通路でした.そのために古くから港(津=つ・浦=うら)が作られ,運送業がさかんでした.なかでも堅田衆(かただしゅう)は有名で,運送や護送(ごそう=舟や荷物を守ること)の中心的な存在でした.堅田衆は運送業者ですが、きちんとお金を払わないと「海賊」のようになったと言われています.
港の利用料は「津料」(つりょう)といいますが,運ばれる荷物の価値の1%程度だったといわれています.こうしたお金は港を管理していた寺社や豪族に払われました.もちろんそれ以外に運送料も必要ですね・・・・港をふくめて航路には縄張りがありました.これを「庭」(「にわ」とか「ば」と言う)といいました.つまり,それほど運送業者が多く,琵琶湖の輸送がさかんだったことを表しています.
ではここで,富山県の「じょうべのま」という荘園から運ばれた荷物が,どのように京都に運ばれたかをモデルとして説明しましょう.
「じょうべのま」の荘園で集められた税や商品は,海の近くに作られた運河の集積所(しゅうせきしょ=ものを集める場所)に集められました.そこには,庄所とよばれる役所がありました.(図中の「じょうべのま荘園」をクリックしてホームページを見てください).そこで荷物を調べて舟にのせて,日本海に船出します.海流の関係もありましたから京都へ行くときには海岸線に沿った航路を選んだはずです.舟はところどころで停まりながら「敦賀」を目指します.
敦賀では荷物を荷車に移しかえました.そこから塩津までは陸路を進みます.敦賀-塩津間は直線距離で30キロ程度ですから約一日の行程です.塩津で荷物は荷車から舟にのせかえられます.舟は荷車よりたくさん積めますから一定量がたまったら積み込んだのだでしょう.もちろん,津料(通行税)や運送料も払いました.舟は大量の荷物を少ない人数で運べますからとても便利な運搬(うんぱん)手段です.塩津から大津までは90キロの行程ですから,舟だと約半日の行程ですね.
大津に陸あげされた荷物はふたたび荷車にのかえせられて京都に運ばれました.大津-京都間はわずか10キロです.つまり3時間もあれば京都市中に荷物を運び込むことができるのです.
もちろん,京都からも美しい織物や刀剣,漆器(しっき=うるしぬりの木製品)や陶器(とうき=焼き物のうつわなど),加工食品などが諸国に運ばれていきました.日本海方面の荷物はとうぜん琵琶湖を使って運ばれていきました.大津から塩津への舟にはそうした荷物が積み込まれたのです.
どうですか?日本では古くから,思った以上に海運や水運が発達していたのです・・・次は外国との海運の話です.
※おまけの話.みなさんは「とろろ昆布」や「おぼろ昆布」を知っていますか?どちらも昆布を薄く削(そ)いだ加工品です.ところで昆布そのものの有名な生産地は北海道の日高や利尻ですが,その加工品は敦賀が本場なのです.それは,昆布そのもを京都に運ぶよりも加工して量を少なくした方が楽なのと,加工することによって利益を得ることができるからなのです.鎌倉時代すでにとろろ昆布は敦賀で作られていたのだそうです.
2.海外貿易
日本をとりまく海流には暖流と寒流があります.一つの国でこれだけ複雑に海流に囲まれているのは日本だけです.当時の人々はこの海流をうまく利用して人や物を運びました.外国との貿易で窓口になるのは北九州の博多です,宋(そう=中国)や高麗(こうらい=朝鮮)との貿易は博多を中継基地(ちゅうけいきち)として発達しました.しかし,青森県の十三湊(とさみなと)のように直接外国との貿易をする港もありました.
輸入品を積んだ船は対馬海流に乗って十三湊に運ばれました.反対に,十三湊から輸出品を積んだ船はリマン海流に乗って運ばれていきました.こうすれば早く楽に博多や高麗,あるいは宋に行くことができます.十三湊からはそれを裏付けるように宋や高麗の青磁(せいじ=緑色の固いやきもの)や白磁(はくじ)が出土しています.日本からは昆布(こんぶ)やシャケや木材,硫黄などが運ばれたことでしょう.
これが当時の貿易航路(国際航路)です(左).輸入品を積んだ船は大きな港につくと小さな船に商品をのせかえ,それぞれの港に送りました.陸揚げ(りくあげ)された品物は道を使って内陸の町に運ばれました.輸出の時はその逆ですね.
右は当時の中国の大型船(模型)です.鎌倉時代の後期になると日本でもこのような大型船が作られるようになり,その本物が韓国の木浦(もっぽ)沖から発見されました.日本のお寺が荷主(にぬし)の船で,国宝級の青磁や800万枚もの中国のお金がそのままの形で発見されました.そのことから1.お寺は今の商社のように貿易をしていた.2.すでに鎌倉時代は大量の貨幣(かへい=おかね)を必要とするほど経済が発展した.ことが分かります.
当時の十三湊(模型・左)どんな嵐でも十三湖(じゅうさんこ)に入ってしまえばもう安心. 十三湖は天然の良港です.(現在の十三湖・右)
当時この地方を治めていた安藤氏一族の館あとは夏草がおい茂っていました.(左) 遺跡から発見された中国の青磁.(右)
同じく青磁の腕(左)と中国のお金(右)
十三湊の発見はこれまでの常識をくつがえすものでした.今は津軽(つがる=青森県津軽地方)の一漁港ですが,今から700年前には国際貿易港としてとても繁栄していたことがわかったからです.出土した館の跡や遺物がそれを物語っています.
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陸上輸送
奈良時代に朝廷が日本全土を支配すると,「租・庸・調」(そ・よう・ちょう)という税を集めるためや軍隊を送るための「道路」を整備しました.当時の道は計画道路ですから,役所のある国府と国府のあいだや大きな村や町を直線で結びました.そして約16キロごとに「駅」を作りました.朝廷の命令や地方でおきた戦の情報を素早く伝えるために,駅には決められた数の馬が用意してありました.使者はその馬を乗りついでいったわけです.主な街道が海に近いところを通っているのは,島国でしかも山国の日本では多くの人が海の近くに住んでいて,大きな港や町が海辺に発達したからです.
鎌倉時代の主な街道は奈良・平安時代に造られた街道とほぼ同じルートです.しかし,この図には出ていませんが脇道が多く造られ村と村,港と村が新しい道路で結ばれていきました.
古代~中世の計画道路は,このように一直線に作られることが多かったようです.ですから高速道路を作ると不思議と古代や中世の大道が発見されます.当時も今も効率よく町を結ぶと同じようなルートになってしまうところが面白いですね.ところが室町時代や江戸時代になると道の幅は狭くなり,山や谷などの障害物をさけるように曲がって作られました.時代が新しくなれば何でも発達するというわけではないということです.
全国各地で発見されている古代~中世の道の断面図を紹介しましょう.全てがこの規格どおりではありませんが,これらの道は測量をし,設計図をひき,山を切りひらき谷を埋め,表面を何度もつき固めて作られています.この大がかりな土木工事を行ったご先祖様の素晴らしい知恵と努力が分かりますか?
重要な道は朝廷や幕府が計画したので,規格が決められていました.奈良・平安時代には今の高速道路にあたる「駅路」と一般国道にあたる「伝路」がありました.駅路は効率よく最短ルートをとおるのでほぼ直線.幅は約12メートル.路面を良くつき固め雨水を流すための側溝(そっこう)がありました.
一方「伝路」は郡衙(ぐんが=地方の役所)や国衙(こくが=朝廷の出張所)を結ぶためにあったもとからの道を利用したり,新しく作ったものがありました.ですから直線の所もあれば曲がる所もあるというわけです.幅は約6メートルでした.
鎌倉幕府は関東の武士が自分たちの利益を守るために,頼朝を中心にして作った「武士の政府」です.しかし,京都を中心とする朝廷の力は強く,いつ何時「大きな戦争」がおきるか分からないという不安定な状態でした.そこで,幕府は「いざ」というときに関東中の御家人をできるだけ早く集めるために,関東地方を縦断し鎌倉に至る軍事道路を3本作りました.これが鎌倉街道です.
関東にできた軍事道路
鎌倉時代に作られた有名な鎌倉街道は,たくさんの武士や食糧を短時間で鎌倉へ集めるための計画道路ですから直線的に作られた部分が多いと言われています.幅は約6メートルと伝路とほぼ同じ規格ですが,面白いのは丘陵部(きゅうりょうぶ=丘や小さな山)に入ると図のように両側が壁のようになる掘り割り道になることです.馬に乗った武士が進軍するところを見えないようにするためと言われています.この壁は平地の部分にも土を盛って土塁(どるい)として築かれた場所もありました.
時代が新しくなると,鎌倉街道は商品や人を運ぶ道路に変わっていきました,やがて鎌倉が関東の中心地でなくなると道は本来のルートから外れて,村と村を結んだり,山や丘にそって曲がりくねった道になっていきました.現在,多くの解説書に紹介されているのはそうした,後の時代の鎌倉街道が多いようです.本当の鎌倉街道は林の中にひっそりと眠っています.
「これが最初(ホント)の鎌倉街道
※これまで「道」は一般の遺跡と異なりあまり重要と思われていませんでした.そのために宅地や道路の造成で,ずいぶんこわされてしまいました.東京都町田市の野津田・小野路地区は本物の鎌倉街道がもっとも良い状態で残っている唯一の地域です.今後,この貴重な遺産をどう守るかが問われています.
多摩市で見つけた鎌倉街道.両側の壁は木や葉っぱでかくれています(左) 町田市の鎌倉街道.両側の壁が分かりますか?(右)
多摩市と町田市の境で見つけた鎌倉街道の断面.青い線ではさまれた土の層がつき固められています.
鎌倉街道は現在の群馬県・栃木県・埼玉県・東京都・神奈川県を縦につらぬいて鎌倉に集中しています.君の家の近くにもあるかもしれません.「これが最初(ホント)の鎌倉街道
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鎌倉時代に最も重要だった「東海道」
朝廷のある京都と武士の政権がある鎌倉を結ぶ東海道は当時最も大切な道として,幕府によって整備が進みました.それまで板東と呼ばれる「東国」と京都を結ぶメインルートは現在の中央自動車道とほぼ同じルートをとる「中山道」でした.幕府が道や駅を充実させため旅行者が増え「旅籠」(はたご)も整ってきました.今で言う旅館ですね.これが江戸時代の「東海道五十三次」の元になりました.幕府にとっての東海道は(1)京都の情報をいちはやく知るための道.(2)京都にある六波羅探題(ろくはらたんだい=西国を治める幕府の役所)に行き来する武士のための道.(3)いざというときに大軍隊を送る道.でした.記録によると京都と鎌倉間はふつうに歩いて16日かかりましたが,早馬では3日という記録が残っています.これは承久の乱の知らせで,朝廷が幕府を討てという命令書より一日早くついたおかげで,幕府は素早い行動がとれたと言われています.当時も今も「早くて正確な情報」が大切という証のような出来事でした.
しかし一般の庶民にとっては商品を運んだり,京都や奈良に住む荘園領主に税を払う道でした.特に鎌倉時代の後期になると経済が発達し東海道は経済の道としての役割が大きくなりました.しかしそれでも大きな川には橋が無く,山には山賊が出ることもあって危険な道でもあったのです.旅人が安心して往来できるようになったのは江戸時代になってからと言われています.
鎌倉時代の輸送手段
陸上交通で多く使われたのが馬でした.この絵では米俵をのせていますね.馬を使った専門の輸送業者を「馬借」(ばしゃく)と言います.米俵を運ぶ場合は通常一頭の馬に二俵を積みました。よく見ると馬借の子供が米のようなものを口に入れています。荷主が駄賃(だちん=馬の運搬料)を出し渋ると米を抜いたりしたそうですから、多分この絵は腹をすかした子に抜いた米を食べさせている場面でしょう・・・面白いですね・・
荷車は一度に大量に運ぶことができますが,でこぼこ道や坂道がぬかるんでいたりするとお手上げです.特に西日本ではこの絵のように牛に引かせることが多かったようです.このように車を使った輸送業者を「車貸」(しゃしゃく)といいます.この絵では五俵の俵を牛車に積んで運んでいますがよく見ると手前に米俵二俵を積んだ馬借も描かれています。興味深いのはどちらも少年がひいていることです。庶民の子供達は早くから親の仕事を手伝い、10歳くらいになれば一人前として家計を助けていました。
湖や沼,それにちょっとした川なら小舟でものを運ぶことが便利でした.
町作りやお寺作り,それに日本の大切な輸出品だった「木材」の多くはこのように「いかだ」を組んで運ばれました.
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大切な道の役割
いかがでしたか,道には人と物と情報を運ぶ大切な役割があるということが分かりましたか?どんな時代もどんな文化も道がなければ発展しません.人が住んでいると言うことはそこに必ず道ができるということです.私たちは現代のことも含めて,歴史を学ぶときに「道」の存在を忘れてはなりません.
ゲンボー先生はこのページを作りながら,鎌倉時代の航路と道路の関係が「まるで現代のフェリーとトラックのようだ・・」と感じました.古代の大道が現代の高速道路と同じルートを通ることや,海や川の道と陸の道がまるで人間の血管のようにうまくつながっていることにも感心しました.道に限ったことではありませんが,私たちは「昔」という言葉のひびきにとらわれずに,祖先の素晴らしい仕事を見失なわないように注意をはらう必要があると強く感じています.
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鎌倉時代の勉強をしよう 鎌倉時代の道を行く(小野路編) 鎌倉時代の道を行く(足柄古道編) これが最初(ホント)の鎌倉街道
制作・著作 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治 』
衆憲資第9 0号
「日本国憲法の制定過程」に関する資料
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf












































『 平成2 8年11月
衆議院憲法審査会事務局
この資料は、衆議院憲法審査会における調査の便宜に供するため、幹事会の協議決
定に基づいて、衆議院憲法審査会事務局において作成したものです。
この資料の作成に当たっては、調査テーマに関する諸事項のうち関心が高いと思わ:
れる事項について、衆議院憲法審査会事務局において入手可能な関連資料を幅広く収
集するとともに、主として憲法的視点からこれに関する国会答弁、主要学説等を整理:
したものですが、必ずしも網羅的なものとなっていないことにご留意ください。
目
次
__
I日本国憲法の制定過程の概観
第一段階
第二段階
第三段階
マッカーサー草案の提示まで………………
マッカーサー草案提示後〜日本国憲法の制定まで………
日本国憲法制定後………………….
1
5
9
__
π日本国憲法の制定過程に関する主な論点
日本国憲法の制定経過を問題視する主張について ………….
11
論点[
論点2
論点3
改正の限界論をめぐる議論との関係……………
憲法の自律性(いわゆる「押しつけ憲法論」)………..
ハーグ陸戦癇との関係………………..
12
14
15
__
π日本国憲法の制定過程に関するこれまでの議論
1 衆議院憲法調査会における議論………………. 17
2内閣の憲法調査会における議論……………….23
[資料編]
資料1
資料2
資料3
資料4
資料5
資料6
資料7
資料8
資料9
資料10
資料11
松本四原則!945 (昭和20)年12月8日……………
松本案(いわゆる「甲」案)1946 (昭和21)年1月 ……….
憲法改正要綱!946 (昭和21)年2月8日……………
マッカーサー三原則1946 (昭和21)年2月3日 ………..
総司令部案1946 (昭和21)年2月13日……………
三月二日案1946 (昭和21)年3月4日…………….
憲法改正草案要綱1946 (昭和21)年3月6日…………
憲法改正草案1946 (昭和21)年4月17日…………..
衆議院の修正箇所……………………….
貴族院の修正箇所………………………
吉田茂『回想十年』……………………..
26
27
28
30
31
33
39
43
45
48
49
日本国憲法制定経過年表(ポツダム宣言〜日本国憲法施行) ……….
52
«日本国憲法の制定過程»
(詳細は巻末の年表参照)
昭和2 0年8月14日
ポツダム宣言受諾
昭和21年10月17日 極東委員会「日本の新憲法の再検討に関する規定」(昭和2 2年3月2 7日公表)
昭和22年1月3日 マッカーサー書簡(施行後1~2年以内の国会による憲法改正の検討・国民投票容認)
•••憲法改正への国民の強い支持なし
昭和2 4年4月2 0日
外務委員会における吉田首相答弁
「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」
(参考)•吉田茂『回想十年』陶料11I
I日本国憲法の制定過程の概観1
日本国憲法の制定過程は大きく二つの段階に分けられる。
第一段階は、1945
(昭和20)年8月14日のポツダム宣言の受諾以降、1946年2月13日に総司
令部(マッカーサー最高司令官)からいわゆるマッカーサー草案を手渡される
までの経緯であり、この段階では、日本政府の独自の草案作成が進められた。
第二段階は、日本政府にとっては革命的とも言える変革を要求するマッカーサ
ー草案を受諾するかしないかという形で、総司令部との関係で制定過程が推移
していくそれ以降の経緯である。
また、憲法制定後の第三段階として、連合国軍側が日本政府に対し、憲法施
行後1、2年以内の憲法改正の検討を提案し、憲法改正の国民投票も容認する旨
を伝えたものの、日本国内においては憲法改正の検討は進まなかったという経
緯がある。
第一段階 マッカーサー草案の提示まで
1ポツダム宣言の受諾
1945年8月14日に受諾されたポツダム宣言は日本の降伏の条件を定めた
もので、さまざまな条項を含んでいたが、憲法制定との関係で問題となった
のは次の二つの条項であった。
【参考】ポツダム宣言
10項「••・日本国政府八日本国国民ノ間二於ケル民主主義的傾向ノ復活強化二対スルー
切ノ障碍ヲ除去スベシ 言論、宗教及思想ノ自由並二基本的人権ノ尊重八確立セ
ラルベシ」
12項「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由二表明セル意思二従ヒ平和的傾向
ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルル二於テハ連合国ノ占領軍八直二日本国ヨ
リ撤収セラルベシ」
このポツダム宣言との関連で深刻な問題となったのは、日本の「国体」(こ
こでは「天皇に主権が存することを根本原理とする国家体制」及び「天皇が
統治権を総攪するという国家体制」を指す。)が護持されるかどうかであった。
ポツダム宣言(12項)は、国民主権の原理を採用することを要求している
1芦部信喜著•高橋和之補訂『憲法(第6版)』(岩波書店、2015年)22-26頁、芦部信喜『憲法学I』(有
斐閣、1992年)167-170頁を基に作成。
1
と連合国軍総司令部は解していたが、日本政府は、ポツダム宣言は国民主権
主義の採用を必ずしも要求するものではなく、国体は護持できると考えてい
た。
したがってまた、ポツダム宣言には必ずしも明治憲法の改正の要求は含
まれておらず、明治憲法を改正しなくとも、運用によって宣言の趣旨に沿う
新しい政府をつくることは可能であると考えていた。
2松本委員会の調査
1945年10月9日、東久邇宮内閣に代わって幣原喜重郎内閣が誕生した。
幣原首相は、io月11日総司令部を訪問した際に、マッカーサー最高司令官か
ら明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆を受け、同月25日、国務大
臣松本蒸治を長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を発足させた。
松本国務大臣は、以下の四原則2に基づいて改正作業を進めた。
【参考】松本四原則
ア 天皇が統治権を総攪せられるという大原則には変更を加えない。
イ 議会の議決を要する事項を拡充し、天皇の大権事項を削減する。
ウ 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめるとともに、国務大臣は議
会に対して責任を負うものとする。
ェ 国民の権利・自由の保障を強化するとともに、その侵害に対する救済方法を完
全なものとする。
上記アの原則は、統治権の総攪者としての天皇の地位を温存しようとする
ものであり、「国体」護持の基本的立場がここに現れている。この四原則に基
づいて松本案が起草され、「憲法改正要綱」(後掲質料M参照)として1946年
2月8日に総司令部に提出された。
3 マッカーサー三原則
1946年2月1日、松本案3が正式発表前に毎日新聞にスクープされ、それ
によって松本案の概要を知った総司令部は、その保守的な内容に驚き、総司
令部の側で独自の憲法草案を作成することにした。
マッカーサーは2月3日、
ホイットニー民政局長に対し草案の中に次の三つの原則を入れるよう命じた。
2この四原則は、1945年12月8日の衆議院予算委員会において、松本国務大臣から私見として明らかに
された。
3なお、このときスクープされた案は、憲法問題調査委員会における試案作成の最初の段階において、宮
沢俊義委員がとりまとめた甲・乙両案のうちの甲案にほとんど一致するものであり、この新聞記事が出た
当時、憲法問題調査委員会で審議の対象となっていた案とは異なる案であったとされる(佐藤達夫『日本
国憲法成立史 第2巻』(有斐閣、1964年)655頁参照)。
2
【参考】マッカーサー三原則
ア天皇は、国家の元首の地位にある。
皇位の継承は、世襲である。
天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、
人民の基本的意思に対し責任を負う。
イ国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段と
しての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。
日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。
いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍
には決して与えられない。
ウ 日本の封建制度は、廃止される。
皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。
華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものでは
ない。
予算の型は、英国制度にならうこと。
ホイットニーは翌4日、ケーディス民政局次長等民政局員を招集し、マッ
カーサー三原則を伝え、総司令部案作成に取りかかった。
4 マッカーサー草案の提示
完成した総司令部案(いわゆるマッカーサー草案)は2月13日に日本政府
に手渡された。
この会談には、日本側から吉田茂外務大臣、松本蒸治国務大
臣等が出席したが、その席上、総司令部側から、松本委員会の提案は全面的
に承認すべからざるものであり、その代わりに、最高司令官は基本的な諸原
則を憲法草案として用意したので、この草案を最大限に考慮して憲法改正に
努力してほしい、という説明があった(総司令部案は、国民主権を明確にし、
天皇を「象徴」としていたほか、戦争の放棄を規定、貴族院の廃止及びー院
制の採用等を内容とするものであった。総司令部案の概要については、後掲
資料51参照)。
日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正
を強く進言されて大いに驚いた。
そして、その内容について検討した結果、
松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴された
ので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。
【参考】いわゆる「押しつけ憲法論」について
上述のとおり、マッカーサー草案が提示され、この草案を指針として日本国憲法が
作成されたことについて、現行憲法は「押しつけられた」非自主的な憲法であるとの
見解がある。
3
なお、「総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2月26日に活動を開始するこ
とが予定されていた極東委員会(連合国11力国4の代表者から成る日本占領統治の最
高機関)の一部に天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛
り込んだ改正案を既成事実化しておくことが必要かつ望ましい、と考えたからだと言
われる。
もっとも、草案の起草は1週間という短期間に行われたが、総司令部では、
昭和20年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており5 6、アメリカ
政府との間で意見の交換も行われていた」との指摘(芦部信喜著•高橋和之補訂『憲
法(第6版)』(岩波書店、2015年)25頁)もある。
4
極東委員会は当初、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国、インド、オランダ、カナダ、オース
トラリア、ニュージーランド及びフィリピンの11力国により構成されていた(1949年11月以降、ビル
マ<現ミャンマー>とパキスタンが参加)(西修『日本国憲法の誕生』(河出書房新社、2012年)42頁)。
5
1945年12月6日の段階で、総司令部内において『日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート』
が作成されている。
このレポートは、帝国憲法体制に関する様々な問題点を摘出し、①憲法を改正する必
要があること、②提案される憲法改正案については、総司令部の同意を必要とすること、③憲法改正には、
信教の自由や言論の自由等の諸権利、三権分立の徹底、地方自治の承認などの諸規定が設けられるべきこ
と、を提案していたとされる(西・前掲注4、22頁参照)。
6
また、総司令部は、高野岩三郎大原社会問題研究所所長らを中心とした憲法研究会が1945年12月26
日に発表した「憲法草案要綱」に注目していたとされる。
同案は、総司令部によって各章ごとに分析され、
国民主権が認められていることや出生、身分、性、人種及び国籍による差別待遇が禁止されていることな
どが「著しく自由主義的な規定」と評価され、また、「この草案中に盛り込まれている諸事項は、民主主
義的で賛成できるものである」と評価されたとされる(西・前掲注4、20-21頁参照)。
4
第二段階
マッカーサー草案提示後〜日本国憲法の制定まで
1 憲法改正草案要綱•憲法改正草案
総司令部案に基づく日本案の起草作業は、それを日本語に翻訳するという
かたちで、まず3月2日案にまとめられた。その主要な特色は、内容を整理
するとともに、表現を改めることによって、できるかぎり日本側の主張を生
かそうと試みたところにある(3月2日案の要点及び総司令部案との相違点の
詳細については、後掲資料6|参照)。
【参考】3月2日案の主な特色(総司令部案との主な相違)
① 前文を省略
② 天皇の地位に関する「人民ノ主権的意思(sovereign will)Jを「日本国民至高ノ総
意」と改めた(主権が天皇から国民に移るという革命的な変革を条文上明記する
ことを回避する趣旨)
③ 天皇の国事行為について、内閣の「補弼及協賛(advice and consent) Jを「補弼」
に変更
④ 2月13日会談で松本国務大臣が「一番驚いた」条文である「土地及一切ノ天然資
源ノ究極的所有権八人民ノ集団的代表トシテノ国家二帰属ス」を削除
⑤ 一院制を二院制に変更
⑥ 国会召集不能の場合における応急措置に関する「閣令」規定の追加
(芦部信喜『憲法学I』(有斐閣、1992年)167-168頁)
3月2日案は、同月4日に総司令部に提出されたが、総司令部から早急に確
定案を決定したいという意向が示され、同日から5日にかけて徹夜の折衝が
行われた7。これは3月2日案を英訳し、英文に整えたものをさらに正確に内
容を伝えるような日本語に再び翻訳するという作業で、全条項にわたり詳細
な検討が行われた。
3月6日、全条項について合意に達した結果が「憲法改正草案要綱」として
決定され、国民に公表された(草案要綱の主な内容と総司令部との審議の状
況について、後掲圏料7]参照)。
与総司令部案がほぼ完全に復活
n 了承
n「輔弼賛同」に修正
を削除n了承
【参考】上記「【参考】3月2日案の主な特色」に関する総司令部との交渉結果
① 前文を省略
② 「至高ノ総意」
③ 「補弼」
④ 「土地ノ国家帰属」
7この作業の大部分は、佐藤達夫法制局第一部長(当時)が一人で当たったとされる。
5
⑤ 一院制を二院制に変更 ・了承(ただし、参議院の組織に関する提案は拒否)
⑥ 国会召集不能の場合における応急措置に関する「閣令」規定の追加・削除
草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、参議院の緊急集会制の新
設など若干の点に修正が加えられた(その他、草案要綱から改められた主な
内容については、質料8]参照)。それと並行して要綱を成文化する作業が進め
られ、4月17日、我が国で初めてのひらがな口語体の条文が作成され、それ
が枢密院8への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。
2帝国議会の審議
内閣草案の公表に先立つ4月10日、はじめて女性の選挙権を認めた普通選
挙制による総選挙が行われ91〇、5月22日に第一次吉田内閣が成立した。
枢
密院で可決された内閣草案は、明治憲法?3条の定める手続に従い、6月20
日、新しく構成された第90回帝国議会の衆議院に、「帝国憲法改正案」とし
て勅書をもって提出された。衆議院は、原案に若干の修正を加えたのち、8月
24日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付した。(衆議院の修正箇
所につき、|資料91参照)
81888 (明治21)年の枢密院官制によって設置され、1947 (昭和22)年日本国憲法が施行されるまで存
続した天皇の最高諮問機関(芦部•前掲注1『憲法学I』169頁)。
9
総選挙に先立ち、1945年12月15日、婦人参政権を認める「改正衆議院議員選挙法」が成立。同月I8
日に衆議院が解散されている。
これについて、佐藤達夫『日本国憲法成立史 第1巻』(有斐閣、1962年)
394頁には、以下のような記述がある。
「いわゆる翼賛議員によって構成されていた衆議院を解散し、こ
れを更新すること、その前提として選挙法を改正することは、すでに東久邇宮内閣からの宿題であったが、
幣原内閣も成立早々その必要を認め、…1〇月!1日の臨時閣議において、選挙権•被選挙権の年齢引き下
げ、婦人参政権の付与、大選挙区制の採用などを含む選挙法の大改正に着手すること、そして、臨時議会
を12月初旬に召集してこの改正案を付議し、その通過をまって衆議院の解散を行うことを決定したので
あった。これ(選挙法改正案)は、11月26日召集された第89臨時議会に提出され、そこで成立した。
••・かくして衆議院は、予定どおり12月18日に解散された。」10
この総選挙は国民が憲法改正問題(3月6日に公表された「憲法改正草案要綱」)に関する国民の意思
を表明する機会であると期待されていたのであったが、この総選挙が現実にこのような期待にこたえるも
のであったかどうかに関しては、「当時、国民の第一の関心は当面の生活問題であり(「憲法よりメシだ」
ということばが、当時、いわば流行語として唱えられていた)、少なくとも総選挙の題目としては、憲法
改正問題は大きく取り上げられてはいなかった」とされる。
この総選挙における選挙公報においてどの程度に憲法改正問題が取り上げられていたかについて、内閣
の憲法調査会が行った調査の結果は以下のとおりである(この調査は、一定の抽出基準により北海道第1
区、福島県、茨城県、静岡県、大阪府第1区、広島県、愛媛県及び福岡県第1区の立候補者のうち、選
挙公報の現存する535人の公報所載の政見について調査したもの)。
1 憲法改正草案要綱に触れているもの…17.4%(内訳:イ「要綱」支持12.3%、ロ「要綱」反対1.0%、
ハ 支持・反対の明らかでないもの4.1%)
2憲法改正草案要綱に触れていないもの…82.6% (内訳:イ 要綱に触れていないが、憲法改正には触
れているもの16.1%、口要綱にも憲法改正にも触れていないもの66.5%)
佐藤達夫著•佐藤功補訂『日本国憲法成立史第3巻』(有斐閣、1994年)361-362頁。
6
【参考】衆議院における主要な修正点
衆議院における修正の主なものとしては、①国民主権の表現の明確化(総司令部か
らの要求により修正したもの)、②9条の文言の修正(この修正によって、この規定は
自衛のための軍隊の設置を必ずしも否認するものでないという解釈のひとつのよりど
ころが設けられたともいわれる)、③国民たる要件を法律で定める規定と納税の義務の
規定を新設、④生存権の規定、勤労の義務の規定、国家賠償の規定、刑事補償の規定
を設けたこと等がある。
(宮澤俊義著•芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社、1981年)14-15頁)参照
【参考】1946年8月24日 衆議院における採決(修正可決) ※記名採決
賛成 反対
日本自由党(131名) 穂積七郎君(新政会)
日本進歩党(99名) 細迫兼光君(無所属倶楽部)
日本社会党(89名) 日本共産党(6名)
協同民主党(40名)
新政会(36名)
無所属倶楽部(24名)
無所属(2名)
貴族院の審議は8月26日に始まり、ここでも若干の修正が施され、10月6
日これも圧倒的多数をもって可決された。(貴族院の修正箇所につき、|資料10
参照)
【参考】貴族院における主な修正点
貴族院における修正の主なものは、①公務員の選挙につき、成年者による普通選挙
を保障する規定、②国務大臣は文民でなければならないとする規定を設けたこと等が
挙げられる。①及び②は、いずれも総司令部からの要望による修正であったとされる。
(宮澤俊義著•芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』(日本評論社、1981年)5頁)
【参考】1946年10月6日 貴族院における採決(修正可決)
起立採決のため、賛成者•反対者の具体的な氏名•会派は不明であるが、反対は、
反対演説をした佐々木惣一君(無所属倶楽部)、澤田牛暦君(同和会)のほか、1、2
冬に止まるものであったといわれている11。
(『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』憲法調査会報告書付属文書二号(1964年)552頁)
11
なお、当時の貴族院には、研究会(141名)、公正会(64名)、交友倶楽部(42名)、同成会(34名)、
火曜会(32名)、同和会(29名)、無所属倶楽部(22名)の各会派と無所属議員8名が存在した。衆議
院・参議院編『議会制度百年史院内会派編貴族院参議院の部』(1990年)201-214参照。
7
翌10月7日、衆議院がその修正に同意し、帝国議会の審議が完了した。
【参考】1946年10月7日 衆議院における貴族院回付案の採決
起立採決のため、賛成者•反対者の具体的な氏名•会派は不明であるが、反対は5
名おり、報道によれば、「反対の5名は4人の共産党議員と、細迫兼光議員(無所属倶
楽部)」であったと伝えられている耳
(『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』憲法調査会報告書付属文書二号(1964年)552
頁、佐藤達夫著•佐藤功補訂『日本国憲法成立史 第4巻』(有斐閣、1994年)983頁)
改正案は、枢密院の審議を経て、10月29日天皇の裁可があり、11月3日
「日本国憲法」として公布された。日本国憲法は、1947年5月3日から施行
された。
12
なお、当時の衆議院には、日本自由党(148名)、日本進歩党(110名)、日本社会党(96名)、協同民
主党(45名)、国民党(33名)、無所属倶楽部(23名)、日本共産党(6名)の各会派と無所属議員5名
が存在した。衆議院・参議院編『議会制度百年史院内会派編衆議院の部』(1990年)521-534頁参照。
8
第三段階 日本国憲法制定後
1 極東委員会決定とマッカーサー書簡
帝国憲法改正案は1946年10月7日に議会を通過したが、極東委員会の内
部では、日本におけるこの手続がポツダム宣言等の意図した日本国民の自由
な意思の表明に当たるかどうかを疑う声があった13。
そこで、日本国憲法公布
直前の1946年10月17日、極東委員会は、新憲法が真に日本国民が自由に
表明した意思によってなされたものであることを確認するため、日本国民に
対してその再検討の機会を与えるべきである旨を決定した(「日本の新憲法の
再検討に関する規定」)。
そして、1947年1月3日、マッカーサーは、吉田首
相宛の書簡にて憲法施行後1、2年以内の憲法改正の検討を提案し、憲法改正
の国民投票も容認する旨を伝えた改吉田首相は、「内容を子細に心に留めま
した」と返信した崩。なお、3月27日、極東委員会の決定が、日本国民に向
け公表された。
2日本国内における憲法改正の検討の動き
しかし、憲法施行直前に吉田内閣は退陣し、後継の片山内閣•芦田内閣時
代においても国会における憲法改正の検討は進まなかった16。
結局、憲法改正
への世論の強い支持がないことを主な理由として、国会における憲法改正の
検討は立ち消えとなり、1949年4月20日、衆議院外務委員会において、「政
府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません。」と吉田首
相が答弁するに至った直。
なお、そもそも吉田首相は、憲法改正は、国民の総
意が盛り上がって改正の方向に結集したときに初めて乗り出すべきものと考
えていたとされている双。
13憲法調査会『憲法制定の経過に関する小委員会報告書』(憲法調査会報告書付属文書第2号、1964年7
月)589頁。
なお、このような疑義が生じた背景と「日本の新憲法の再検討に関する規定」が決定されるに至った経
緯について、西・前掲注4、85頁は、①極東委員会は新憲法が連合国総司令部主導で作られていくことを
苦々しく思っていたこと、②かといって、内容に細かく干渉すれば、「日本国民の自由に表明せる意思の
表明」(ポツダム宣言)を尊重しないと批判されること、③そこで、極東委員会としては、現段階ではや
むを得ないものの、憲法施行後、1年以上2年以内に再び審査することを決定したこと、と分析している。
14袖井林二郎編訳『吉田茂=マッカーサー往復書簡集[1945—1951]』(法政大学出版局、2000年)166-167
頁。
15袖井•前掲注14、!67-168頁。
16西修『日本国憲法成立過程の研究』(成文堂、2004年)199-200頁。
17西•前掲注16、200頁。
18吉田茂『回想十年4』(中央公論社、1998年)215頁(後掲慣料11I参照)。
9
【参考】日本の新憲法の再検討に関する規定(極東委員会政策決定1946年10月17日)
1 公布の後相当の期間をへて、極東委員会の検討と政策決定の結果、加えられた変
更又は加えられるかもしれない変更とともに、現行の憲法の法的な継承者となる新
憲法は、次項にかかげるところによって、国会と極東委員会とによる再審査をうけ
るものとする。
2日本国民が、新憲法の施行の後、その運用の経験にてらして、それを再検討する
機会をもっために、かつ、極東委員会が、この憲法はポツダム宣言その他の管理に
関する文書の条項を充たしていることを確認するために、本委員会は、政策事項と
して、憲法施行後1年以上2年以内に、新憲法に関する事態が国会によって再審査
されねばならないことを決定する。極東委員会もまた、この同じ期間内に憲法の再
審査を行う。ただし、このことは、委員会が常に継続して権限をもっていることを
損うものではない。極東委員会は、日本国憲法が日本国民の自由な意思を表明する
ものであるかどうかを決定するにあたって、国民投票、又は憲法に関する日本人の
意見を確かめるための他の適当な手続をとることを要求できる。
(出典:「帝国憲法改正諸案及び関係文書(=)ー連合国側関係文書一」(憲資•総第11
号1957年12月)憲法調査会事務局)
10
π日本国憲法の制定過程に関する主な論点
現行憲法は、ポツダム宣言に基づく GHQの占領統治下において、GHQのイ
ニシアティブにより原案が作成され、日本政府の手で整序された後、明治憲法
の改正手続を用いて制定された。このような特殊な制定経過については、以下
のようにその経過を問題視する主張もなされている。
【制定経過を問題視する主張について巧
論点 制定経過を問題視する主張 左に対する主な主張
〇改正限界説 •国民主権主義を採用した現行憲 法は、改正の限界を越えている ので無効である(天皇主権や天 皇が統治権を総攪するという 「国体」の変革を改正によって 行うことはできない。)。 〇8月革命説(改正限界説) -1945年8月14日に日本がポツダ ム宣言を受諾したことで、「日本 の最終の政治形態」は「日本国民 の自由に表明せる意思により決 定」されることになった。これは、 国民の憲法制定権力を認めたこ とであり、明治憲法の基本原理で ある天皇主権を放棄したことを 意味する。つまり、ポツダム宣言 の受諾により、主権の所在が変更 し、法学的意味での「革命」が行 われたのである。 〇改正無限界説 •明治憲法の改正には限界はない。
論点1 改正の 限界
〇占領下における憲法改正(いわゆ る「押しつけ憲法論」) • GHQによる憲法改正の指示、 GHQ案の提示、議会審議中の 強要等の事実により、現憲法成 立過程全般]こおレ、て ノ[、 ヨ なう幽 制がなされている。 •占領期間中という国家の統治意 〇連合国側の関与に対する解釈 •ポツダム宣言という一種の休戦条 約上の権利に基づいて、連合国側 が一定の限度で、一定の憲法の制 定に関与することは、必ずしも内 政不干渉の原則ないし憲法の自律 ¢生の原則に反しないと食最される。 〇自由意思の存在 •完全な普通選挙により憲法改正案 審議のための特別議会が国民に より直接選挙され、審議の自由に 対する法的な拘束のない状況下 で審議・可決された等の事情があ る。 〇国民への定着 •日本国憲法施行以来、憲法の基本 原理が国民の間に定着してきて
論点2
いわゆる 押しつけ 憲法論 思の自由がない状態では、国家 の根本法たる憲法の改正はあ りえない。
19野中俊彦•中村睦男•高橋和之・高見勝利『憲法I (第5版)』(有斐閣、2012年)60-65頁、芦部・
前掲注1『憲法』27-32頁、小山常実『「日本国憲法」無効論』(草思社、2002年)120-121頁、相原良一
『憲法正統論』(展転社、1996年)51-54頁。
11
論点 制定経過を問題視する主張 左に対する主な主張
いるとレ、う社会的事実が広く認 められる。
論点3| 国際法 違反 〇ハーグ陸戦法規違反 •ハーグ陸戦法規43条が「国の 権力が事実上占領者の手に移 りたる上は、占領者は、絶対的 の支障なき限り、占領地の現行 法律を尊重して、成るべく公共 の秩序及び生活を回復確保す るため施し得べき一切の手段 を尽くすべし」と規定する占領 地の現行法尊重の原則に違反 する。 〇ハーグ陸戦法規に違反しない •ハーグ陸戦法規43条は、交戦中 の占領軍にのみ適用されるeわが 国の場合は交戦後の占領であり、 原則としてその適用を受けない。 •仮に適用されるにしても、ポツダ ム宣言・降伏文書という休戦協定 が成立しているので、「特別法は 一般法を破る」という原則に従 い、休戦条約(特別法)が陸戦条 約(一般法)よりも優先的に適用 される0
論点1|改正の限界論をめぐる議論との関係2〇
日本国憲法制定の性質をめぐり、とりわけ問題となったのは、憲法の「制定」
と憲法の「改正」とは、本来、その性質を異にするものであるにもかかわらず、
新憲法案が、明治憲法の定める要件21に従って、明治憲法の改正案として議会で
議決され「日本国憲法」として公布されたことである。それは、明治憲法「改
正」の体裁をとりながらも、内容的には、国民主権原理に立脚する全く新しい
憲法の「制定」であった。
憲法改正に一定の限界があるとする見解からは、憲法の基本原理を改正する
ことは憲法の根本的支柱を取り除くことになってしまうので、それは一種の自
殺行為であると考えられ、明治憲法に関しても、学説上、天皇主権や天皇が統
治権を総攪するという「国体」の変革は法的には不可能であると考えられてい
た。このことから、国民主権主義を採用した現行憲法は、改正の限界を越えて
いるので無効であるとの主張がある。
一方で、こうした主張に対しては、以下のような立場から、その制定過程の
有効性を説明する見解がある。
20野中ら•前掲注19、60-61頁、芦部•前掲注1『憲法』29-32頁。
21大日本帝国憲法第73条将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会
ノ議二付スヘシ
2 此ノ場合二於テ両議院八各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出
席議員三分ノニ以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
12
①改正限界説の立場から、制定経過を説明する見解(八月革命説)
上記と同じく改正限界説に立った上で、国民主権を基本原理とする日本国
憲法が明治憲法73条の改正手続で成立したという理論上の矛盾を説明する学
説として、宮澤俊義の八月革命説を挙げることができる。
【参考】八月革命説
ア 明治憲法73条の改正規定によって、明治憲法の基本原理である天皇主権主義
と真向から対立する国民主権主義を定めることは、たしかに法的には不可能であ
る。
イ しかし、ポツダム宣言は国民主権主義をとることを要求しているので、ポツダ
ム宣言を受諾した段階で、明治憲法の天皇主権は否定されるとともに国民主権が
成立し、日本の政治体制の根本原理となったと解さなければならない。つまり、
ポツダム宣言の受諾によって法的に一種の革命があったとみることができる。
ウ もっとも、この革命によって明治憲法が廃止されたわけではない。その根本建
前が変わった結果として、憲法の条文はそのままでも、その意味は、新しい建前
に抵触する限り重要な変革をこうむったと解さなければならない。たとえば、明
治憲法73条については、議員も改正の発案権を有するようになったこと、議会
の修正権には制限はなくなったこと、天皇の裁可と貴族院の議決は実質的な拘束
力を失ったこと、国体を変えることは許されないという制限は消滅したこと、を
認めなければならない。
工 したがって、日本国憲法は、実質的には、明治憲法の改正としてではなく、新
たに成立した国民主権主義に基づいて、国民が制定した民定憲法である-ただ、
73条による改正という手続をとることによって明治憲法との間に形式的な継続
性をもたせることは、実際上は便宜で適当であった。
②改正無限界説の立場からの制定過程の説明
また、憲法改正に法的限界はありえないとする見解によれば、「日本国憲法
は、明治憲法?3条の改正手続に基づいて、天皇の勅命で改正の発議がなされ、
帝国議会の議決、更には、枢密顧問の諮詢を経た改正案を、天皇が裁可して
公布するという形式を踏んで成立したのであるから、それは、明治憲法の全
部改正であって、新憲法の制定ではない」とされる22。
22この立場に立てば、日本国憲法は「欽定憲法であって、民定憲法ではない」ということになる(野中ら・
前掲注19、61頁参照)。
13
論点2|憲法の自律性23 (いわゆる「押しつけ憲法論」)
一国の憲法はその国の国民の自由意思に基づいて制定されなければならない。
この原則に反して、ある国の憲法制定に他国が強圧的に介入する場合には、内
政不干渉の原則、憲法の自主性、自律性の原則違反の問題が生じる。
こうした観点から、GHQの関与のもとで制定された日本国憲法は「押しつけ
られた」非自主的な憲法であるとして問題視する主張もある。
これに対しては、総司令部からの強制的要素はあったとしても、以下のよう
な諸点を考慮すると、憲法自律性の原則は、法的には損なわれていなかったと
解するのが妥当であるとの見解がある。
ア国際法的な観点
•ポツダム宣言は、不完全ながらも、連合国と日本の双方を拘束する一種の休戦条約の
性橙を有するものであると解されること
•この休戦条約は、内容的には、国民主権の採用、基本的人権の確立など、明治憲法の
改正の要求を含むものと角牟されること
・条約上の権利に基づいて、一定の限度で、一国の憲法の制定に関与することは、必ず
しも内政不干渉の原則ないし憲法の自律性の原則に反するものではない。
イ国内法的な観点
•当時公表された在野の知識人による憲法草案や世論調査から判断すると、マッカーサ
_草案発表前後の時期には、かなり多くの国民が日本国憲法の価値体系に近い憲法意
識をもっていたと言えること、そして、政府も帝国議会における審議の段階では、マ
ッカーサー草案の基本線を積極的に支持していたこと
•完全な普通選挙により憲法改正案を審議するための特別議会が国民によって直接選挙
され、審議の自由に対する法的な拘束のない状況の下で草案が審議され可決されたこ
と
•極東委員会からの指示で、憲法施行1年後2年以内に改正の要否につき検討する機会
を与えられながら、政府はまったく改正の要なしという態度をとったこと
•日本国憲法が施行されて以来、憲法の基本原理が国民の間に定着してきているという
社会的事実が広く認められること
号これらの諸点を総合して考えると、日本国憲法の制定は、不十分ながらも自律性の原
則に反しないと解することができるのではないか。
(芦部信喜著•高橋和之補訂『憲法(第6版)』(岩波書店、2015年)27-29頁)
23芦部•前掲注1『憲法』27-29頁参照。
14
【参考】「押しつけ憲法論」は、内在的に一貫した議論として成り立ちえないとの指摘
•••日本国憲法制定の経緯から、現憲法は総司令部によって押しっけられたものであるか
ら無効である、あるいは新たに「自主憲法」を制定する必要があると主張されることがある。
憲法改正草案要綱が示された後の選挙で選出された衆議院議員を含む帝国議会で十分
な審議を経て制定された憲法を、押しつけられたと言いうるか否か疑わしいが、たとえそ
れが押しつけであるとしても、国民に押しつけられたという意味では、大日本帝国憲法も
天皇(あるいはその名において行動した政府)によって押しつけられた欽定憲法であるこ
とに注意する必要がある。現在は国民主権であるから天皇主権下の時代とは異なるという
反論は意味をなさない。国民主権原理自体も、連合国によって押しっけられたものだから
である。押しつけられたもののうち、国民主権原理のみは所与の前提として受け入れ、そ
れに基づいて憲法を排撃しようとする議論は、あまりにも都合のよすぎる議論であろう。
首尾一貫させるために国民主権をも押しつけられたものとして排撃するならば、天皇主権
へ回帰することとなり、結局天皇による憲法の押しつけを免れ得ないことになる。押しっ
け憲法論は、そもそも内在的に一貫した議論として成り立ちえない。
(長谷部恭男『憲法(第6版)』(新世社、2014年)48-49頁)
論点3|ハーグ陸戦法規との関係24
他国を占領した者は「占領地ノ現行法規ヲ尊重」すべきことを要求している
1907年のハーグ陸戦法規(陸戦ノ法規慣例二関スル規則)との関係で、日本国
憲法の制定は占領地の現行法尊重という国際法上の原則に反するのではないか
との議論もある。
【参考】陸戦ノ法規慣例二関スル規則
第43条 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限
り、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため施
し得べき一切の手段を尽くすべし。
これに対しては、「規則43条」は、交戦中の占領軍にのみ適用されるところ、
わが国の場合は交戦後の占領であり、原則としてその適用を受けず、ハーグ陸
戦法規には違反しないとする見解があり、政府見解もこの立場に立っている。
仮に適用されるにしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立して
いるので、「特別法は一般法を破る」という原則に従い、休戦条約(特別法)が
陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることになる。
24筒井若水『国際法辞典』(有斐閣、1998年)336-33?頁、国際法学会編『国際関係法辞典(第2版)』
(三省堂、2005年)872頁、野中ら•前掲注19、6065頁、芦部•前掲注1『憲法』27-32頁、相原・
前掲注19、51-54頁。
15
【参考】第!02回国会答弁第46号「衆議院議員森清君提出日本国憲法制定に関する質問
主意書に対する答弁書」(昭和60年9月27日)
陸戦ノ法規慣例二関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中
他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が
国の占領のような場合について定めたものではないと解される。
16
in日本国憲法の制定過程に関するこれまでの議論
1衆議院憲法調査会における議論
衆議院憲法調査会における議論では、日本国憲法の制定過程に対する「GHQ
の関与は事実であるが、その点ばかりを強調すべきではない」とする意見が
多く述べられた。これに対して、「押しつけ」と捉えて問題視する意見もあっ
た。
【参考】衆議院憲法調査会報告書(平成17年4月)(抜粋)
第1節あらまし
第1款 日本国憲法の制定経緯
日本国憲法制定の意義について、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義等の諸原
則を定めた点を高く評価する意見が述べられた。これに対し、日本国憲法の制定は、
日本の伝統•文化等を軽視ないし否定した側面があるのではないか等とする意見も述
べられた。
日本国憲法の制定経緯については、GHQ民政局が作成した草案を日本側に提示し、
それを基に日本国憲法の草案を起草するよう指示したことを端緒とする、日本国憲法
の制定に対する一連のGHQの関与等について議論が行われた。この点については、
日本国憲法の制定に対する一連のGHQの関与を「押しつけ」と捉えて問題視する意
見もあったが、その点ばかりを強調すべきではないとする意見が多く述べられた。
その他、日本国憲法の各項目の制定経緯等についても議論が行われた。
第2節 日本国憲法の制定経緯
日本国憲法の制定経緯に関しては、全体的な視点から、日本国憲法制定の意義、ま
た、個別的な視点から、日本国憲法の制定過程におけるGHQの関与、ポツダム宣言
の受諾と日本国憲法の制定との関係等について議論が行われた。
また、憲法の各項目の制定経緯に関しても、多くの意見が述べられた。
第1制定経緯についての評価
日本国憲法の制定経緯に対する評価に関しては、日本国憲法制定の意義、日本国
憲法の制定過程におけるGHQの関与、ポツダム宣言の受諾と日本国憲法の制定と
の関係、日本国憲法の制定とハーグ陸戦法規との関係等について議論が行われた。
1日本国憲法制定の意義
日本国憲法制定の意義については、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義
等の諸原則を定めた点を高く評価する意見が述べられた。一方、日本国憲法の
制定は、日本の伝統•文化等を軽視ないし否定した側面があるのではないか等
とする意見も述べられた。
17
ア日本国憲法制定の意義を高く評価する意見
この立場は、実体験や検証等を通じて、日本国憲法の制定によってもたら
された新たな理念は、国民から多くの共感と支持を得たものであったとする
もので、次のような意見が述べられた。
a日本国憲法の制定は、おそらくほとんどの国民から肯定的に受け取られた。
それは、①戦争の終結によってもたらされた解放感の中にあって、平和が非
常な喜びであったこと、②主権が国民にはなかった状況から、これからは主
権者として自分たちが生きていくことになったこと、また、③国権に搦め捕
られていた状況から、基本的人権の尊重に焦点が当てられることになったこ
とについて、普遍の原理という以上に、感動が伴っていたからである。
b 日本国憲法の制定が、国民、特に、多くの女性から大きな歓迎をもって迎
えられたということは間違いない。大日本帝国憲法の下では、法律的な地位
を認められないままであった女性たちが、この憲法によって、少なくとも法
律的には男性と同等の地位を獲得し、その後、徐々に新しい立法によって、
現実の生活も良くなってきたのが事実である。
c 多くの国民が、辛い戦争の歴史を歩んだ経験から、日本国憲法に対する肯
定感を持ったことは紛れもない事実であり、そのことは、歴史過程としても
大切にすべきである。
d 国民が日本国憲法を受け容れたのは、憲法の諸原理が明治の自由民権運動
以来の圧制と闘ってきた民衆が求めていたものと一致したこと、また、戦争
によって払った大きな犠牲を経て不戦という言葉をお互いに確認したことに
よる。
e 日本国憲法のいわゆる三大原則、主権在民、平和主義及び基本的人権とい
うものは、民主主義国家、また、平和主義国家を築く上において、大きな功
績をもたらしてきた。
f 日本国憲法に盛り込まれた内容は、戦争の違法化、国民主権、基本的人権
等、いずれも正当な世界史の発展過程の中から生まれてきたものである。
イ日本国憲法の制定がもたらした問題点を指摘する意見
この立場は、日本国憲法の制定は、我が国の伝統・文化等を軽視し、また、
外交政策等に悪影響を及ぼしているのではないか等とするもので、次のよう
な意見が述べられた。
a 今の憲法の中に、日本が長年の歴史の間に積み重ねてきた貴重なものをな
くす要素があるのではないか。国民主権、基本的人権、国際主義、平和主義
等といっても、これらは西洋民主主義の概念である。
b 日本国憲法は、明らかに、占領国側が我が国を二度と再び立ち上がらせな
いよう、そして、でき得るならば、未来永劫友好的な属国として位置付けよ
うとの目的で押しつけてきたものである。
c 日本国憲法の原案起草に当たり、米国から大きな発案があったことは事実
であり、極めて貴重な文言を明記してくれたことに対しては、感謝すべきで
ある。しかし、その一方では、米国の呪縛が強すぎ、日本人自身の独立した
18
気概が削がれている。独自の国家戦略を持たずに、米国からの評価だけを得
たいといったことがままあるのではないか。それを払拭しない限り、この国
の自立的な外交も、また、経済もあり得ない。
2日本国憲法の制定過程におけるGHQの関与
日本国憲法の制定に当たり、GHQ民政局がマッカーサー元帥によって示され
た三原則(マッカーサー ・ノート)を基礎に作成した草案を日本側に提示し、
それを基に日本国憲法の原案を起草するよう指示したことをはじめ、戦前の経
歴等から好ましくないと判断した人物を公職より除去したこと(公職追放)、出
版物等の事前検閲(プレス・コード)により、憲法の制定にGHQが関与したこ
とを伏せたこと等一連のGHQの関与は事実ではあるが、その点ばかりを強調す
べきではないとする意見が多く述べられた。
これに対して、「押しつけ」と捉えて問題視する意見もあった。
アGHQが関与した事実ばかりを強調すべきではないとする意見
この立場は、日本国憲法の制定過程において、GHQが関与したことは事実
ではあるが、制定当時の国内外の動き等をも視野に入れて考察することが必
要である等とするもので、次のような意見が述べられた。
a日本国憲法の制定過程を見る視座として、「押しつけ」があったかなかった
かという局所の部分を見るのではなく、当時の日本国内の動きやGHQの動き
といったものの相対の関係から判断していくことが必要なのではないか。
b 占領時の憲法制定である以上、制限された主権の下での制定であることは
当然である。押しつけ憲法論は、当時の松本国務大臣の個人的な経験を根拠
としたものと思われ、憲法制定の全体像を必ずしも認識したものではない。
憲法制定時においても、また、講和条約後の主権回復時においても、国民の
圧倒的支持を日本国憲法が受けてきたことは明確であり、その意味で、日本
国憲法は、制定のときから国民憲法であった。
c日本国憲法は、帝国憲法改正案として帝国議会における審議を経て制定さ
れており、手続的には、我々が作ったものだと言うことができる。GHQから
憲法草案が提示された経緯が「押しつけ」という議論につながっているが、
それが改憲の理由になるということは全くない。
d日本国憲法の素案をGHQが準備したのは間違いないが、それが政府の原案
となり、議会において議論されるなかで、9条1項に「正義と秩序を基調とす
る国際平和を誠実に希求し」という字句が新たに盛り込まれたこと、25条と
して生存権の規定が挿入されたこと、また、政府の原案作成段階においても、
当初の一院制の提案を二院制に変更したこと等、憲法の重要な部分について、
意義深い議論が行われたと認識する。
e 大日本帝国憲法制定前に立志社や交詢社等が起草した私擬憲法草案には、
現代にも通用するような人権規定が充実しており驚かされる。戦後、民間の
憲法研究会が起草した憲法草案は、こうした私擬憲法草案の一つである植木
枝盛の草案を参考にしたと言われており、これがGHQの憲法草案に取り入れ
られたことによって、実質的にその当時の日本の状況が酌み取られていると
19
も言われている。こうした点にかんがみれば、主体的な市民意識というもの
は、私擬憲法草案が出された時代から日本国憲法に至るまで、脈々と受け継
がれてきている。
f日本国憲法にはGHQの占領政策が色濃く反映した部分があり、9条や前文
は、その典型である。
しかし、当時の我が国は、戦争に負け、これからどう
復興するかが中心であって、国際関係にはあまり直接に関与しない状況だっ
た。また、GHQとしても、我が国を徹底的に非武装化していくことを考えて
いたので、ある意味では、日本の国の状況とGHQとの考え方が一致し、矛盾
することなく日本国憲法が制定されたと理解する。
g 押しつけ憲法論やそれを理由として自主憲法制定を主張する者は、現に
我々が享受している国民主権、基本的人権、平和主義といった制度的な保障
と、大日本帝国憲法下の天皇大権、治安維持法や大政翼賛会を許容した抑圧
体制、法定手続を無視した司法官憲、政治的な権利を保障されずに家制度に
縛り付けられた女性等といった国家体制と、どちらが人間の存在と活動にと
って望ましいと考えているのか、答えてもらいたい。
h GHQからの圧力は、当時の権力者に対してなされたものであって、主権者
となった国民に対してなされたものではない。
i 沖縄では、1972年に本土復帰を果たす以前の1965年に、当時の琉球立法
院の全会一致による決議によって、5月3日を住民の祝日とした経緯がある。
その意味において、沖縄にとって憲法は、県民の総意で自ら積極的に選んだ
ものである。
なお、上記の意見のほか、GHQによる日本国憲法の制定過程への関与には、
「押しつけ」と受け取られる行為があったかもしれないが、①日本国憲法は
既に国民の間に定着していること、②過去のことよりも将来のことを見据え
た議論をすべきであると考えること等の理由から、その点にこだわり続ける
べきではないとする意見も述べられた。
イGHQの関与を「押しつけ」と捉えて問題視する意見
この立場は、日本国憲法の制定過程においてGHQが関与したことを「押し
つけ」と捉えて、その問題点を指摘するもので、次のような意見が述べられ
た。
a 日本国憲法の成立過程をみれば、これはまさに進駐軍の命令により、無理
やり与えられた憲法の草稿であったと言わざるを得ない。
b 日本国憲法は、マッカーサー ・ノートに基づいて占領軍が作成したものを
帝国議会が議決したものである。衆議院議員の総選挙に際しては、立候補す
るに当たっても資格審査が行われた。また、主権は、連合国最高司令官に従
属すると決められており、事前検閲制度の下では、憲法の謳う言論の自由も
表現の自由もなく、占領政策に対する批判も許されなかった。
c 制定過程をみると、日本国憲法は日米の合作であるとの見方もあるようで
あるが、やはり、日本国民の民意に基づいて制定されたとは思い難いところ
がある。
d 日本国憲法については、国民の間に定着していること等を理由に肯定的に
20
捉える意見があるが、法治国家としてのけじめを考えた場合、その出自に関
しては、非常に大きな問題ないし瑕疵があったと認めざるを得ない。
3ポツダム宣言の受諾と日本国憲法の制定との関係
この点については、ポツダム宣言の受諾により大日本帝国憲法の改正、すな
わち、日本国憲法の制定は避けられないのものとなったとする意見と、同宣言
の受諾から直ちに日本国憲法の制定が導き出されたわけではないとする意見が
述べられた。
ア ポツダム宣言の受諾は日本国憲法の制定を不可避のものとしたとする意見
この意見は、ポツダム宣言の受諾は、軍隊の解体、民主主義の復活強化に
対する障害の除去、基本的人権の確立等を国際的義務として受け容れたこと
を意味しており、日本国憲法の制定は、その国際的な約束を履行する過程に
すぎなかった等とするものである。
イポツダム宣言の受諾から直ちに日本国憲法の制定が導き出されたわけでは
ないとする意見
この意見は、ポツダム宣言受諾から日本国憲法の制定を導き出すことはで
きない、すなわち、①ポツダム宣言の受諾が国民主権の要求を含むものであ
ったか否かは、当時からも疑義があり、また、たとえその要求を含むもので
あったとしても、受諾と同時に国内法上の根本変革が生じたと見るには無理
があるとし、さらには、②ポツダム宣言受諾に当たっての日本政府からの申
入れに対する米国国務長官からの回答(バーンズ回答)では、日本の最終的
な政治形態は、日本国民の自由に表明する意思によりなされるとされていた
ことから、GHQの主導で制定された日本国憲法の正統性は、ポツダム宣言か
ら導き出すことはできない等とするものである。
4 日本国憲法の制定とハーグ陸戦法規との関係
日本国憲法の制定過程におけるGHQの一連の行為は、占領者による占領地の
現行法令の尊重を定めるハーグ陸戦法規に違反したものであったか否かについ
て議論が行われ、当該行為は、同条約違反ではないとする意見と、同条約違反
であるとする意見とが述べられた。
アハーグ陸戦法規違反ではないとする意見
この意見は、ハーグ陸戦法規は、戦争中の占領地域に適用されるものであ
って、日本国憲法の制定時には、既にポツダム宣言が受諾され、また、降伏
文書が調印されており、したがって、ハーグ陸戦法規は適用されない等とす
るものである。
イハーグ陸戦法規違反であるとする意見
この意見は、日本国憲法がGHQの主導によって制定されたことは、主権
国家が自らの政治的、経済的又は文化的システムについて、他国の干渉を受
けることなく自由に選択できる不可譲の権利を保持するという伝統的国際法
であって、憲法の自律性を確認したハーグ陸戦法規に違反するものであった
等とするものである。
21
5日本国憲法の制定と大日本帝国憲法との関係
日本国憲法が大日本帝国憲法73条に規定する憲法改正手続に基づいて制定さ
れたことに関し、両憲法の法的連続性の有無等について、次のような意見が述
べられた。
a 日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法の改正というより、新憲法が制定さ
れたと考えるのが妥当である。
b 前文が、憲法の定める平和主義や民主主義の原則に反する一切の憲法、法
令及び詔勅を排除すると謳っていることから、日本国憲法は、大日本帝国憲
法を否定して生まれたものであると言ってよい。
c日本国憲法の制定が大日本帝国憲法73条に規定する改正手続によりなが
ら、主権の所在が天皇から国民へ移行した点を捉え、憲法改正の限界を超え
ているのではないかという議論があるが、改正手続を遵守している限り、憲
法改正に限界はない。
d 日本国憲法は、形式上、法理上、手続上、欽定憲法であって、次の改正が
なされて初めて民定憲法となる。
e 昭和20年の八月革命によって、大日本帝国憲法と日本国憲法との間には、
断絶がある。
f ポツダム宣言の受諾後、占領下において、大日本帝国憲法が正常に機能し
ていたとは考えられない。それにもかかわらず、日本国憲法は、大日本帝国
憲法の改正手続を用いて制定されており、この点、説明の根拠が薄弱である。
6日本国憲法の効力
この点については、たとえ日本国憲法の制定経緯を問題視したとしても、無
効とは判断し得ないとして、次のような意見が述べられた。
a 我が国がGHQ草案を受け容れたのは、一種の強迫による意思表示のような
ものであるが、その後、何度も総選挙を経ることによって、国民による法定
追認のような形で瑕疵が治癒された。
b 日本国憲法がGHQによって「押しつけ」られたものであったかどうかにか
かわらず、主権を回復してからの情勢の変化に応じて憲法改正がなされるべ
きであったが、それをしなかったことは、一種の追認と言わざるを得ない。
22
2内閣の憲法調査会における議論
内閣に設置された憲法調査会による「憲法制定の経過に関する小委員会報
告書(昭和39年7月)」においては、その制定経緯について以下のような総
括的考察がなされている。
【参考】憲法制定の経過に関する小委員会報告書(602-603頁)(抜粋)
••・以上述べてきたように、この憲法の制定経過は特殊、異常なものであったが、
その事実はきわめて複雑である。それが押しつけられ、強制せられたものであるか
どうか、すなわち、それが日本国民の自由な意思に基づくものであったかどうかの
問題についても、事情はけっして単純ではない。
すなわち、日本政府が戦争放棄条項をはじめ、総司令部の交付したマッカーサー
草案の主要点をそのまま受け入れたのは、天皇制を維持せんとするただその一点の
ためであったとする当時の幣原内閣の閣僚のほとんど全部の見方も十分首肯され
ることではあるし、また、この憲法の制定手続は明治憲法の定める改正の手続きに
よったのではあるが、はたしてその規定が合法的、合理的に適用されたと見るべき
かどうかに疑問をいだき、そしてそこから現憲法は無効であるとする見解、したが
ってこの憲法はまさしく占領軍の手による強制であったという見方も、強く主張さ
れた。
さらにまた、ポツダム宣言を受諾したのは、敗戦の結果に基づく冷厳な強制であ
ったことは明らかであるから、その延長としての憲法改正も、強制以外の何物でも
ないとする主張があると同時に、一方ではポツダム宣言を日本政府が受諾したの
は、敗戦国日本の意思に基づくものであったことはこれも事実であるから、その延
長として憲法草案が総司令部から交付されたのも、それは当時の事情としては、や
むをえないものであり、それを単純に全部が全部押しつけられ、強制されたと解す
べきではなく、そのような論法からいえば、ポツダム宣言の受諾、さらにさかのぼ
っては日本の敗戦そのものが否定されなければならないのではないかという主張
もなされたのである。ただし、意見のだいたい一致を見たところを総合すれば、次
のとおりである。
すなわち、原案が英文で日本政府に交付されたという否定しえない事実、さらに
たとえ日本の意思で受諾されたとはいえ、手足を縛られたに等しいポツダム宣言受
諾に引き続く占領下においてこの憲法が制定されたということは、明らかなのであ
るから、この面に関する限り、それを押しつけられ、強制されたものであるとする
ことも十分正当であるというべきである。特に、日本側の受諾の相当大きな原因が、
天皇制維持のためであったことも争えない事実である。ただ、それならば、それは
全部が全部押しつけられ、強制されたといい切ることができるかといえば、当時の
広範な国際環境ないし日本国内における世論なども十分分析、評価する必要もあ
り、さらに制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれた
うえで、制定された憲法であるということも否定することはできないであろう。要
するにそれらの点は、この報告書の全編を通じて、事実を事実として判読されるこ
とを期待する以外にない。
23
[資料編]
25
«1 松本四原則 1 945 (昭和2〇)年12月8日»
資料1松本四原則 1 9 4 5 (昭和2 0)年12月8日
松本蒸治国務大臣が衆議院予算委員会において、憲法問題調査委員会の調
査の動向及びその主要論点を述べたもので、政府側が憲法改正問題について
具体的に述べた最初のものである。
! 天皇が統治権を総攪するという原則には変更を加えない。
2議会の権限を拡大し、その結果として大権事項を制限する。
3 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめ、国務大臣は議会に対
して責任を負うものとする。
4 人民の自由•権利の保護を強化し、その侵害に対する救済を完全なものと
する。
26
«2 松本案(いわゆる「甲」案) 1 946 (昭和21)年1月»
資料2 松本案(1、わ!嶋仰」案)1946 (昭和21)年[月
松本国務大臣が明治憲法に部分的改正を加えて作成した「憲法改正私案」
を要綱化したもの
※松本国務大臣が憲法問題調査委員会の議論を参考にして起草した憲法改正私案を骨子と
して、宮沢俊義委員(東大教授)が要綱化したものが、後に甲案と呼ばれ、これがさらに
松本国務大臣により加筆されて総司令部に提出される「憲法改正要綱」となる。
甲案とは別に、憲法問題調査委員会の小委員会は、総会に現れた各種の意見を広く取り
入れた改正案を起草し、これが後に乙案と呼ばれた。
甲・乙両案とも明治憲法に部分的に改正を加えるものであったが、取り上げた改正点は
乙案のほうが多く、また乙案では、条文によっては数個の代案があった。
<甲案の主な項目>
! 明治憲法第3条「天皇八神聖ニシテ侵スへカラス」を「天皇八至尊ニシテ
侵スへカラス」と改める。
2 軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の
対象とする。
3 衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行うことはできないこととする。
4 緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
5 宣戦、講和及び一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。
6 日本臣民は、すべて法律によらずして自由及び権利を侵されないものとす
る。
7 貴族院を参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する。
8 法律案について衆議院の優越性を認め、衆議院で引き続き三回その総員三
分の二以上の多数で可決して参議院に移した法律案は、参議院の議決の有無を
問わず、帝国議会の協賛を経たものとする。
9 参議院は予算の増額修正ができないこととする。
io衆議院で国務各大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合
を除くのほかその職にとどまることができないものとする。
11 憲法改正について議員の発議権を認める。
27
«3 憲法改正要綱 1 946 (昭和21)年2月8日»
資料3憲法改正要綱 19 4 6 (昭和21)年2月8日
松本案に若干の加筆改訂を加え、総司令部に提出したもの
※ 松本国務大臣の「憲法改正私案」を骨子として宮沢委員が要綱化したものが後に甲案と呼
ばれたが、これにさらに松本国務大臣が加筆し、総司令部に提出したものが、この「憲法
改正要綱」である。
<主な内容>
1改正の根本精神
ポツダム宣言第10項(民主主義、宗教及び思想の自由、基本的人権の
尊重)の目的を達しうるもの
2天皇制
⑴ 天皇の大権を制限し、重要事項はすべて帝国議会の協賛を要するとし、
国務は国務大臣の輔弼をもってのみ行いうる。
(2)国務大臣は帝国議会に責任を負う。
3 国民の権利及び自由
(1)あらゆる権利、自由は法律によらなければ制限されない旨の一般規定を
設ける。
⑵行政裁判所を廃止し、行政事件の訴訟も通常の裁判所の管轄に属せしめ
る。
⑶ 独立命令の規定、信教の自由の規定を改正し、非常大権の規定を廃止す
る。
⑷ 華族制度、軍人の特例等、国民間の不平等を認めるがごとき規定を改正・
廃止する。
4帝国議会
貴族院を参議院と改め、皇室、華族を排除し、衆議院に対し第二次的な
権限を有するにすぎないものとする。
28
«3 憲法改正要綱 1946 (昭和21)年2月8日»
5枢密院
枢密院は存置するが、帝国議会の権限の強化及び帝国議会常置委員の設
置に伴って、従来の枢密院の国務に対する権限は排除され、政治上無責任の
ものとする。
6 軍
(1) 「陸海軍」を「軍」と改める。
(2) 軍の統帥は内閣の輔弼をもってのみ行われる。
⑶ 軍の編制及び常備兵額は法律をもって定める。
7 その他
⑴皇室経費について、議会の協賛を要せざる経費を内廷の経費に限る。
(2)憲法改正の発議権を帝国議会の議員にも認める。
⑶従来、憲法及び皇室典範の変更は摂政を置く間禁止されていたのを解除
する。
29
«4 マッカーサー三原則 1946 (昭和21)年2月3日»
資料4 マッカーサー三原則1946 (昭和21)年2月3日
マッカーサーが総司令部民政局に対して総司令部案の作成を命じた際、案
の中に入れるよう示した三点である。
1天皇は、国家の元首の地位にある。
皇位の継承は、世襲である。
天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところに
より、人民の基本的意思に対し責任を負う。
2 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手
段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放
棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想に
ゆだねる。
いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本
軍には決して与えられない。
3 日本の封建制度は、廃止される。
皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。
華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むもの
ではない。
予算の型は、英国制度にならうこと。
30
«5 総司令部案 1 946 (昭和21)年2月13日»
資料5 総司令部案 19 4 6 (昭和21)年2月13日
総司令部は、日本側が提出した憲法改正要綱を全面的に拒否し、総司令部
案を日本側に交付し、これに基づく改正案の作成を求めた。
<主な内容>
1国民主権と天皇について
主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社交的
な君主とする。
2戦争放棄について
マッカーサー三原則における「自己の安全を保持するための手段として
の戦争」をも放棄する旨の規定が削除された。
3 国民の権利及び義務について
⑴現行憲法の基本的人権がほぼ網羅されていた。
⑵社会権について詳細な規定を設ける考えもあったが、一般的な規定が置
かれた。
4 国会について
⑴ 貴族院は廃止し、一院制とする。
(2)憲法解釈上の問題に関しては最[Wj裁判所に絶対的な審査権を与える。
5 内閣について
内閣総理大臣は国務大臣の任免権が与えられるが、内閣は全体として議
会に責任を負い、不信任決議がなされた時は、辞職するか、議会を解散する。
6裁判所について
(1)議会に三分の二の議決で憲法上の問題の判決を再審査する権限を認める。
⑵執行府からの独立を保持するため、最高裁判所に完全な規則制定権を与
える。
? 財政について
(1)歳出は収納しうる歳入を超過してはならない。
31
«5 総司令部案 1 946 (昭和21)年2月13日»
(2)予測しない臨時支出をまかなう予備金を認める。
⑶宗教的活動、公の支配に属さない教育及び慈善事業に対する補助金を禁
止する。
8 地方自治について
首長、地方議員の直接選挙制は認めるが、日本は小さすぎるので、州権
というようなものはどんな形のものも認められないとされた。
9 憲法改正手続について
反動勢力による改悪を阻止するため、10年間改正を認めないとするこ
とが検討されたが、できる限り日本人は自己の政治制度を発展させる権利
を与えられるべきものとされ、そのような規定は見送られた。
32
«6 三月二日案 1 946 (昭和21)年3月4日»
資料6 三月二日案 19 4 6 (昭和21)年3月4日
総司令部案に基づき日本側が起草し、3月4日に総司令部に提出したもの
<三月二日案の要点及び総司令部案との相違点>
前文
三月二日案には前文はなく、総司令部案の前文はすべて削除された。総司
令部案の前文は国民が憲法を制定するとしているが、明治憲法によれば憲法
改正は天皇の発議、裁可によって成立することとなっているためである。
第1章天皇
⑴ 総司令部案第1条のsovereign will of the Peopleを「日本国民至高ノ
総意」とした。直訳すれば「主権意思」となるが、当時の国体擁護の気分か
ら、あまり人民主権を露骨に出すことは望ましくなかったためである。
⑵ 総司令部案第1条の「他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」を削除した。国
民至高の総意に基づく旨を定めている以上、他のえん源に基づくものでない
ことは論理上当然なためである。
r総司令部案 i
«第1条皇帝八国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼八其ノ地位ヲ!
:人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス :
«三月二日案 :
!第1条天皇八日本国民至高ノ総意二基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章i
:乞輝但ワ堡有ふ i ⑶ 総言令商案第2条の「国会ノ制定スル皇室典範」は単に「皇室五範」と 改めた。これに対応して、補則中に、その発議権を天皇に留保する規定が設 けられた。 :総司令部案 :第2条 皇位ノ継承八世襲ニシテ国会ノ制定スル皇室典範二依ルヘシ :三月二日案 :第2条 皇位八皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ之ヲ継承ス。 !第106条 皇室典範ノ改正八天皇第三条ノ規定二従ヒ議案ヲ国会二提出シ法 i 律案卜同一ノ規定二依リ其ノ議決ヲ経ベシ。 i_(UTE^)
(4)総司令部案第3条及び第6条のadvice and’consent”(「輔弼及協賛」)に
当たる部分を単に「輔弼」とした。協賛の語は議会の場合に限って用いてお
り、輔弼が憲法上の要件である以上、これを掲げれば十分なためである。
33
«6 三月二日案 1 946 (昭和21)年3月4日»
1総司令部案 :
:第3条 国事二関スル皇帝ノー切ノ行為ニハ内閣ノ輔弼及協賛ヲ要ス… :
: (以下略) :
!第6条 皇帝八内閣ノ輔弼及協賛二依りテノミ行動シ…(以下略) :
:三月二日案 :
:第3条 天皇ノ国事二関スルー切ノ行為八内閣ノ輔弼二依ルコトヲ要ス。…:
: (以下略) :
i第7条 天皇八内閣ノ輔弼二依り国民ノ為二左ノ国務ヲ行フ。 i
[ (以下略) i
⑸ 三月二日案第7条第5号は「国務大臣、大使及法律ノ定ムル所ニ依ル其
ノ他ノ官吏ノ任免」とし、第6号の恩赦とともに「認証」(attest)を削除
した。認証というのは公証人のようであり、おかしいためである。
!総司令部案
!第6条第5号 国務大臣、大使及其ノ他ノ国家ノ官吏ニシテ法律ノ規定二依り
! 其ノ任命又八嘱託及辞職又八免職力此ノ方法二テ公証セラルへキモノノ任命
« 又八嘱託及辞職又八免職ヲ公証ス
«第6条第6号 大赦、恩赦、減刑、執行猶予及復権ヲ公証ス
:三月二日案
i第7条第5号 国務大臣、大使及法律ノ定ムル所ニ依ル其ノ他ノ官吏ノ任免
i第7条第6号 大赦、特赦、減刑、刑ノ執行ノ停止及復権
第2章戦争の廃止
総司令部案第8条と三月二日案第9条はほぼ同じである。
!総司令部案 :
«第8条 国民ノー主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス他ノ国民トノ紛争解決ノ手段!
: トシテノ武カノ威嚇又八使用八永久二之ヲ廃棄ス :
: 陸軍、海軍、空軍又八其ノ他ノ戦力八決シテ許諾セラルルコト無カルヘク又:
: 交戦状態ノ権利八決シテ国家二授与セラルルコト無カルヘシ !
:三月二日案 :
:第9条 戦争ヲ国権ノ発動卜認メ武カノ威嚇又八行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ解«
! 決ノ具トスルコトハ永久二之ヲ廃止ス。 !
i 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持及国ノ交戦権八之ヲ認メズ。 i
第3章臣民権利義務
この章については、総司令部案に対し相当大幅な調整が加えられている。
⑴ 総司令部案の第2 0条ないし第2 2条(集会の自由・言論その他表現の
自由・通信の秘密、結社・運動•住居選定の自由、「学究上」の自由・職業
選択の自由など)及び第2 4条(義務教育•児童酷使•公共衛生•「社会的
安寧」•労働条件など)の規定を分解整理した。
⑵ 総司令部案第12条の封建制度の廃止に関する部分は不必要であるとし
34
«6 三月二日案 1946 (昭和21)年3月4日»
て削除した。
!総司令部案 :
:第12条 日本国ノ封建制度八終止スヘシー切ノ日本人八其ノ人類タルコトニ«
: 依り個人トシテ尊敬セラルへシー般ノ福祉ノ限度内二於テ生命、自由及幸福探!
i 求二対スル其ノ権利ハー切ノ法律及一切ノ政治的行為ノ至上考慮タルヘシ i
«三月二日案 :
i第12条 凡テノ国民八個人トシテ尊重セラルベク、其ノ生命、自由及幸福ノ追!
! 求二対スル権利八公共ノ福祉二抵触セザル限立法其ノ他諸般ノ国政ノ上二於!
« テ最大ノ考慮ヲ払ハルベシ。 ;
⑶ 言論・出版の自由、検閲の禁止、通信の秘密等については、極端な風俗
壊乱のものについて危ぐがあったため、主としてワイマール憲法の形を参考
にして法律の留保を設けた。
[総司令部案 i
«第2〇条 集会、言論及定期刊行物並二其ノ他一切ノ表現形式ノ自由ヲ保障ス検«
! 閲ハ之ヲ禁シ通信手段ノ秘密八之ヲ侵ス可カラス i
i第21条 結社、運動及住居選定ノ自由ハー般ノ福祉卜抵触セサル範囲内二於テ!
: 何人二モ之ヲ保障ス :
: (以下略) :
«三月二日案 :
!第2 0条 凡テノ国民八安寧秩序ヲ妨ゲザル限二於テ言論、著作、出版、集会及:
: 結社ノ自由ヲ有ス。 !
! 検閲八法律ノ特ニ定ムル場合ノ外之ヲ行フコトヲ得ズ。 !
i第21条 凡テノ国民八信書其ノ他ノ通信ノ秘密ヲ侵サルルコトナシ。公共ノ安j
L ー ー ー 一豊狀序N保一特昆セー宣些塁えセ処^:う産建く一象ームル近三伎ル・ i
(4)総司令部案第2 3条の家族に関する部分を削除した。総司令部案の「善
カレ悪シカレ」の文言は日本の法文に合わず、また、この文章は事実の叙述
で特別の法的意味はうかがわれないためである。
!総司令部案 :
!第23条 家族八人類社会ノ基底ニシテ其ノ伝統八善カレ悪シカレ国民二滲透ス!
« 婚姻八男女両性ノ法律上及社会上ノ争フ可カラサル平等ノ上二存シ両親ノ強要!
i ノ代リ二相互同意ノ上二基礎ツケラレ且男性支配ノ代リ二協力ニ依り維持セラi
i ルヘシ此等ノ原則二反スル諸法律ハ廃止セラレ配偶ノ選択、財産権、相続、住i
i 所ノ選定、離婚並二婚姻及家族二関スル其ノ他ノ事項ヲ個人ノ威厳及両性ノ本!
; 質的平等二立脚スル他ノ法律ヲ以テ之二代フへシ !
:三月二日案 :
!第3 7条 婚姻八男女相互ノ合意二基キテノミ成立シ、且夫婦ガ同等ノ権利ヲ有!
: スルコトヲ基本トシ相互ノ協力ニ依リ維持セラルベキモノトス。 :
⑸ 総司令部案第2 8条の「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権八人民ノ
集団的代表者トシテノ国家二帰属ス」の部分を削除し、なお、同案第2 7条
ないし第2 9条(財産権の保障)は、大幅に改訂して第3 5条及び第3 6条
の2ヶ条とした。
35
«6 三月二日案 1 946 (昭和21)年3月4日»
⑹刑事手続に関する諸規定については、総司令部案の保釈金及び異常刑に
関する規定、反対訊問その他証人及び弁護人の獲得に関する規定などを削除
するとともに、全体を簡潔な形にした。
第4章国会
⑴ 総司令部案の一院制に対し、二院制とした。
!総司令部案 ]
i第41条 国会八三百人ヨリ少カラス五百人ヲ超エサル選挙セラレタル議員ヨ!
« リ成ル単一ノ院ヲ以テ構成ス :
«三月二日案 :
!第40条 国会ハ衆議院及参議院ノ両院ヲ以テ成立ス。 !
⑵ 参議院の構成については、地域別、職能別に選挙された議員、内閣が任
命する議員により組織されるとした。内閣任命の議員を認めたのは、適当な
被選挙資格を定めることや適当な選挙母体を発見することができない職能
の代表者をも網羅するためである。
;三月二日案 :
!第45条 参議院八地域別又八職能別二依り選挙セラレタル議員及内閣ガ両議;
: 院ノ議員ヨリ成ル委員会ノ決議二依り任命スル議員ヲ以テ組織ス。 !
: (以下略) :
⑶ 参議院議員の任期は6年とし、3年毎の半数改選とした(第4 6条)。
⑷ 両院の関係では、衆議院の優越を認めた。
«三月二日案 :
: 第6〇条第3項 衆議院二於テ引続キ三回可決シテ参議院二移シタル法律案:
! ハ衆議院二於テ之二関スル最初ノ議事ヲ開キタル日ヨリニ年ヲ経過シタル!
! トキハ参議院ノ議決アルト否トヲ問ハズ法律トシテ成立ス。 !
: 第61条予算八前二衆議院二提出スベシ。 !
! 参議院二於テ衆議院卜異リタル議決ヲ為シタル場合二於テ、法律ノ定ムル!
i 所二依リ両議院ノ協議会ヲ開クモ仙意見一致セザルトキハ衆議院ノ決議ヲ!
! 以テ国会ノ決議トス。 !
: (条約の場合についてもこれを準用している。) :
第5章内閣
(1)内閣総理大臣指名の規定を国会の章から本章に移し、予算の場合と同様、
衆議院の優越を規定した(第6 9条)。
⑵内閣不信任決議の場合に関する規定を国会の章から移し、その規定も若
干改めた(第71条)。
⑶ 国会の召集不能の場合における応急措置に関し「閣令」の規定を設けた。
総司令部案には、これに相当する規定はないが、国会の閉会中に緊急の事態
が生じた場合、何か便法を設けておく必要があるとして、昔の緊急勅令を多
36
«6 三月二日案 1 946 (昭和21)年3月4日»
少民主化したような形のものにしようとこの条文を入れたのである。
:三月二日案
:第76条 衆議院ノ解散其ノ他ノ事由二因り国会ヲ召集スルコト能ハザル場合
: 二於テ公共ノ安全ヲ保持スル為特二緊急ノ必要アルトキハ、内閣八事後二於
! テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシテ法律又八予算二代ルベキ閣令ヲ制定ス
! ルコトヲ得。
第6章司法
⑴裁判官の身分について総司令部案では、心身の故障の場合にも公の弾劾
によらなければ罷免できないことになるので、罷免理由に補正を加えた。
:三月二日案 «
i第8 7条 前三条二掲グル場合ノ外、裁判官八刑法ノ宣告、弾劾裁判所ノ判決又i
« 八懲戒事犯若ハ心身耗弱ヲ理由トスル裁判所ノ罷免判決二依ルニ非ザレバ罷!
免セラルルコトナシ。
; 弾劾二関スル事項八法律ヲ以テ之ヲ定ム。 :
⑵ 裁判官の報酬について、懲戒処分等の場合にはこれを減額しうることを
規定した(第8 8条)。
⑶ 最高裁判所規則の内容たるべき事項につき、総司令部案第6 9条第1項
を整理して「訴訟手続ノ細目、裁判所内部ノ規律其ノ他司法事務処理二必要
ナル諸規則ヲ定ムルコトヲ得。」とし(第9 0条)、検事に関する総司令部案
の第6 9条第2項は削除した。
第7章会計
総司令部案を簡約にし、明治憲法の形に近いものとした。
⑴総司令部案第8 0条において、予算に対する国会の修正権につき増額修
正、新項目の追加にまで及んで詳細に定められているのに対し、三月二日案
では明治憲法流に「国ノ歳出歳入八毎年予算ヲ以テ国会ノ協賛ヲ経ベシ。」
とした。
…………………………….
[総司令部案 :
!第8〇条 国会ハ予算ノ項目ヲ不承認、減額、増額若八却下シ又八新タナル項目!
ヲ追加スルコトヲ得
: 国会ハ如何ナル会計年度二於テモ借入金額ヲ含ム同年度ノ予想歳入ヲ超過:
! スル金銭ヲ支出スへカラス !
;三月二日案 :
!第9 4条 国ノ歳出歳入八毎年予算ヲ以テ国会ノ協賛ヲ経ベシ。 !
⑵ 総司令部案第8 2条の皇室財産の国庫帰属に関する部分を削除した。
37
«6 三月二日案 1 946 (昭和21)年3月4日»
[総司令部案 [
«第82条 世襲財産ヲ除クノ外皇室ノー切ノ財産八国民二帰属スヘシー切ノ皇!
: 室財産ヨリスル収入八国庫二納入スヘシ而シテ法律ノ規定スル皇室ノ手当及:
: 費用八国会二依り年次予算二於テ支弁セラルヘシ !
«三月二日案 :
:第96条 皇室経費二関スル予算八国ノ予算ノー部トス。世襲財産ヲ除ク皇室財:
: 産二付生ズル収支亦同ジ。 !
第8章地方自治
⑴総則的規定として「地方公共団体ノ組織及運営二関スル規定八地方自治
ノ本旨二基キ法律ヲ以テ之ヲ定ム。」を新たに付加した(第101条)。
⑵ 府県市町村という表現を改めて「地方公共団体」とした。
第9章補則
(1)総司令部案の「第9章 改正」と「第10章 至上法」を合わせて「補
貝山とした。
⑵ 皇室典範の改正発議権を天皇に留保する第10 6条を新設した。皇室典
範は皇室の自治法規であり、直接国民が皇位継承のやり方などについて発議
することは行き過ぎであると考えられたからである。
その他
総司令部案の「第11章承認」の規定は削除された。憲法改正は明治憲
法の存在を否定しない限り、明治憲法第7 3条の規定によってのみなされる
べきなので、総司令部案第9 2条は明治憲法第7 3条の規定と抵触するから
である。 ……………………………
;総司令部案 :
! 第11章承認 ・
:第92条 此ノ憲法八国会力出席議員三分ノニノ氏名点呼二依り之ヲ承認シタ:
: ル時二於テ確立スヘシ :
: 国会ノ承認ヲ得タルトキハ皇帝八此ノ憲法力国民ノ至上法トシテ確立セラ:
! レタル旨ヲ人民ノ名二於テ直二宣布スヘシ !
38
«7 憲法改正草案要綱 1 946 (昭和21)年3月6日»
資料7憲法改正草案要綱 1946 (昭和21)年3月6日
三月二日案を基に日本側と総司令部側が逐条審議を行い、3月6日に内閣
から発表されたもの
<草案要綱の主な内容と総司令部との審議の状況>
前文、第1章、第2章について総司令部側は、特に厳格に総司令部案によ
るべきとした。
前文
総司令部案がほぼ完全に復活した。
第1章天皇
(1) 三月二日案第1条の「天皇八……日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス。J
とある「保有」は、maintainであって、今までの姿をそのまま維持する意
味であり、天皇の地位を根本的に変える趣旨に反するとして、「保有」の語
は削除された。
(2) 皇室典範は、総司令部案のとおり、国会の議決を経るものに変更された。
三月二日案で加えた皇室典範についての天皇の発議権に関する補則の規定
も削除された。
⑶ 三月二日案第3条及び第7条においてadvice and consentに当たる訳を
「輔弼」とした点が問題とされ、FconsentJの訳として総司令部側は「承認」
の語を主張したが、日本側は内閣が天皇に「承認」を与えるというのは不適
切と考え、日本側から提案した「輔弼賛同」となった。
(4)三月二日案において削除した「認証」の語が復活した(第7の5、第7
の6)。
第2章戦争放棄
三月二日案は、総司令部案と多少違っているが、別段異議は出なかった。
第3章 国民の権利及び義務
総司令部側は日本側の案が総司令部案と著しく相違しているとして、不満
を表明した。
⑴ 三月二日案において検閲通信の秘密などの条項に付されていた法律の留
保に関する規定は、濫用のおそれありとして拒否された(第19)。
39
«7 憲法改正草案要綱 1 946 (昭和21)年3月6日»
⑵ 刑事手続に関する反対訊問、その他証人及び弁護人の獲得に関する規定
を削除するなど、三月二日案において簡略化していた部分も、従来の悪例を
閉ざす必要があるとして、総司令部案に復せしめられた(第3 3)〇
⑶ 「土地及一切ノ天然資源……」の条文は、総司令部側もその削除に同意
するなど、日本側の意見が取り入れられた点も少なくない(第2 7)。
第4章国会
(1)参議院の組織に関する日本側の案は拒否され、両院とも全国民を代表す
る選挙された議員によって組織するものとされた。
[三月二日案 ]
«第45条 参議院八地域別又八職能別二依り選挙セラレタル議員及内閣ガ両議!
« 院ノ議員ヨリ成ル委員会ノ決議二依り任命スル議員ヲ以テ組織ス。 !
:(以下略) :
!憲法改正草案要綱 !
!第38 両議院八国民二依り選挙セラレ全国民ヲ代表スル議員ヲ以テ之ヲ組織!
: スルコト :
: (以下略) :
⑵法律案に対する衆議院の優越性について総司令部側から、衆議院の三分
の二以上の再可決とする代案が提出され、日本側はこれに応じた。これにつ
いては、同年1月に発表されていた自由党案の中に同種の規定があった。
«三月二日案 :
!第60条第3項 衆議院二於テ引続キ三回可決シテ参議院二移シタル法律案ハ«
: 衆議院二於テ之二関スル最初ノ議事ヲ開キタル日ヨリニ年ヲ経過シタルトキ:
: ハ参議院ノ議決アルト否トヲ問ハズ法律トシテ成立ス。 !
«憲法改正草案要綱 i
«第5 4 (略) :
i 衆議院二於テ可決シ参議院二於テ否決シタル法律案ハ衆議院二於テ出席議i
i 員三分ノニ以上ノ多数ヲ以テ再度可決スルトキハ法律トシテ成立スルモノト!
! スルコト !
:(以下略) :
第5章内閣
⑴三月二日案の国会閉会中における緊急措置に関する規定(閣令の制定:
三月二日案第7 6条)は、総司令部側の反対が強硬であり削除された。
(2)命令に罰則を委任しうる道を設けておきたいとの日本側の希望により、
第6 9の6ただし書に「特二当該法律ノ委任アル場合ヲ除クノ外」を加えた。
40
«7 憲法改正草案要綱 1 946 (昭和21)年3月6日»
第6章司法
⑴総司令部案、三月二日案では基本的人権に関する事件以外の事件におい
て国会の再審を認めたが、日本側は三権分立の見地から最終審はあらゆる場
合最高裁判所ということで徹底すべきとし、再審の規定は、削除された。
«三月二日案 :
!第81条第2項 前項二掲グルモノヲ除キ、法令又八行政行為ガ此ノ憲法二違反:
: スルヤ否ヤノ争訟二付最高裁判所ノ為シタル判決二対シテハ国会八再審ヲ為:
! スコトヲ得。此ノ場合二於テ両議院八各々其ノ総員三分ノニ以上ノ多数ヲ得ルi
: 二非ザレバ最高裁判所ノ判決ヲ破棄スルコトヲ得ズ。 i
!憲法改正草案要綱 i
i 第7 7 最高裁判所八最終裁判所トシー切ノ法律、命令、規則又八処分ノ憲法!
« 二適合スルヤ否ヲ決定スルノ権限ヲ有スルコト !
第7章会計
⑴ 三月二日案は、総司令部案第7 6条の「租税ヲ徴シ、金銭ヲ借入レ、資
金ヲ使用シ並二硬貨及通貨ヲ発行シ及其ノ価格ヲ規整スル権限ハ国会ヲ通
シテ行使セラルヘシ」を、租税の賦課等はいずれもあとの条文にあるので、
重複を避けるため入れなかったが、総司令部側は財政一般について国会の議
決に基づくべきことを定める基本規定である趣旨を明らかにしたいとし、全
文を改めて要綱第7 9、現行第8 3条のような形にした。
!憲法改正草案要綱 !
!第79 国ノ財政ヲ処理スルノ権限ノ行使八国会ノ議決二基クコトヲ要スルコ«
: 卜 」
⑵ 総司令部案第7 9条及び第8 0条は、予算の内容を詳しく規定し、また、
その増額修正権をも規定したものであったが、要綱第8 2、現行第8 6条の
形の妥協案をもって代えることとなった。
!憲法改正草案要綱 i
!第82 内閣八毎会計年度ノ予算ヲ調製シ国会二提出シテ其ノ審議及協賛ヲ受:
! クベキコト !
⑶ 総司令部案第8 2条の皇室財産の国庫帰属に関する部分は、三月二日案
では削除されていたが、ほとんど同じ形の規定が復活した。
!憲法改正草案要綱 i
«第84 世襲財産ヲ除クノ外皇室ノ財産八凡テ国二属ス皇室財産ヨリ生ズル収«
! 益八凡テ国庫ノ収入トシ法律ノ定ムル皇室経費ノ支出ハ予算二由り国会ノ協i
: 賛ヲ経ベキコト :
第8章地方自治
三月二日案第10 2条第2項は「地方公共団体ノ長及其ノ議会ノ議員八法
律ノ定ムル所二依り当該地方公共団体ノ住民二於テ之ヲ選挙スベシ。」として
41
«7 憲法改正草案要綱 1 946 (昭和21)年3月6日»
いたのに対し、総司令部側から団体の長以外の法律で定める吏員を加えると
ともに、それらの選挙について「直接二」を加えよとの要請があり、改めた
(第 8 9)〇
第9章改正
日本側から総司令部案第8 9条第2項の「人民ノ名二於テ皇帝之ヲ公布ス
ヘシ」について、要綱第7に合わせて「国民ノ為二……」としてはどうかと
提案したが、総司令部側は「国民ノ名二於テ」とすべきと主張し、結局その
ようになった(第9 2)〇
第10章最高法規
第3章から削除した総司令部案第10条をここに移した(第9 4)〇
42
«8 憲法改正草案 1 946 (昭和21)年4月17日»
資料8 憲法改正草案 19 4 6 (昭和21)年4月17日
総司令部側と交渉のうえ草案要綱を補正し、これを法文化したもの
<草案の作成にあたり要綱から改められた主な内容>
1 口語体とした。
政府部内に新憲法を形式の上でも民主化することが適当であるとする意
見が支配的となり、法制史上画期的なひらがな口語体の条文が作られた。
2 「輔弼賛同」の語を口語体にするにあたり、やさしい言葉に書き換え「補
佐と同意」とした(第3条、第7条)。
※ この部分については草案発表の翌日、総司令部側から天皇と内閣との関係は、内閣
が上位であり天皇がその下位に立つものであるから、「同意」という語は不適切であ
るとの指摘があり、結局、「助言と承認」に改められた。
3 外務省の申し入れにより、草案第7条中に大使の全権委任状及び信任状
についての認証並びに批准書及び法律の定めるその他の外交文書の認証が
加えられた(第7条第5号、第8号)。
4 衆議院解散中における立法等の応急措置について、参議院の緊急集会の
制度を設けた。
;憲法改正草案 :
!第5 0条第2項 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但;
! し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることが;
! できる。 i
!第5 0条第3項 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであ;
i って、次の国会開会の後+日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力i
! を失ふ。 !
5 両院の議事は公開とし、秘密会が禁止されていたが、新たに秘密会の例
外を設けた。
!憲法改正草案 :
!第5 3条両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数«
; で議決したときは、秘密会を開くことができる。 !
: (以下略) :
6 衆議院の優越性に関する規定中、予算に関し、参議院が衆議院の議決後、
一定期間を経た後にも議決を行わない場合、衆議院の議決をもって国会の議
決とみなす規定が欠けているので追加した(第5 6条第2項)。
7 国政調査権に基づく要求に応じない者を議院みずから処罰しうる規定を
削除した(第5 8条)。
43
«8 憲法改正草案 1 946 (昭和21)年4月17日»
◎ この憲法改正草案が、昭和21年5月2 4日の閣議において所要の字句修
正等がなされた後、帝国憲法改正案として、同年6月2 0日、衆議院に提出
されるに至った。
44
«9衆議院の修正箇所»
資料9衆議院の修正箇所
19 4 6 (昭和21)年8月2 4日、帝国憲法改正案は衆議院で修正議決
された。
<衆議院による主な修正項目>
前文及び第1章
総司令部側の強い意向により、前文及び第1条を修正し、主権在民を明文
化した。
«帝国憲法改正案 :
!第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、!
: 日本国民の至高の総意に基く。 !
:衆議院修正 :
i第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、i
« 主権の存する日本国民の総意に基く。 !
第2章戦争放棄
原案第9条の表現は、日本がやむをえず戦争を放棄するような感じを与え、
自主性に乏しいという意見が強かったため、修正案懇談のための小委員会に
おいて、芦田均小委員長から試案が提出され、小委員長において案文を調整
し、修正案が決せられた。
この第9条の修正については、総司令部側からはなんらの異議もなかった。
鳶国憲法改正案 i
i第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国とのi
: 間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。 i
: 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを!
! 認めない。 !
衆議院修正 !
:第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発«
! 動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段とし«
! ては、永久にこれを放棄する。 !
i 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国のj
〔一…至戦権!ま」ー[れ在塁的一生k________________i
※内閣憲系調卷会にるける芦田氏の第9条穆正に関する発言要旨
……第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という辞句を挿入すること
により、原案では無条件に戦力を保有しないとあったものが、一定の条件の下
に武力を持たないことになる。日本は無条件に武力を捨てるのではない。……
これに対し、政府は貴族院の審議、枢密院の審議を通じ、原案と趣旨において差
45
«9衆議院の修正箇所»
異はないものと説明している。
第3章 国民の権利義務
国民の要件(現行第10条)、いわゆる国家賠償(現行第17条)、納税の
義務(現行第3 0条)、刑事補償(現行第4 0条)に関する規定の新設、勤労
の義務(現行第2 7条)の挿入については、各派一致した見解に基づくもの
であった。現行第2 5条の健康で文化的な最低生活の保障に関する規定の追
加及び勤労の義務の規定における「休息」の挿入は、社会党委員の強い主張
によるものである。
第4章国会
選挙及び被選挙資格に関する現行第4 4条の規定のただし書に「教育、財
産又は収入」を追加する修正は、総司令部側からの申し入れである。
第5章内閣
内閣総理大臣は国会議員の中から指名することとし(現行第6 7条)、また、
国務大臣の過半数は国会議員の中から選ばれなければならないものとし、そ
の選任についての国会の承認を削除したこと(現行第6 8条)は、総司令部
側の要請であるが、審議の過程でも同方向の意見が出ており、別段の反対は
なかった。
[帝国憲法改正案 ]
!第6 4条 内閣総理大臣は、国会の承認により、国務大臣を任命する。この承認に;
: ついては、前条第2項の規定(注:衆議院の優越)を準用する。 !
: (以下略) :
;衆議院修正 !
:第6 8条 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員i
! の中から選ばれなければならない。 !
i__(以™ ]
総司令部側から上記の要請と同時に、「内閣総理大臣及び国務大臣はシビリ
アンでなければならない。」という条項を加えることの要請がなされたが、第
9条との関係上、不合理であることを総司令部側に説明し、その了解を得た。
第7章財政
皇室財産の国庫帰属に関する規定(現行第8 8条)は、世襲財産を存置し
ながら、その収入はすべて国庫に帰属することは不合理であるとし、「世襲財
産以外の皇室財産は、すべて国に属する。法律の定める皇室の支出は、……」
とする案を小委員会でまとめたが、総司令部側からは、むしろ「すべて皇室
財産は、国に属する。」とすべきとの提案があり、やむをえずそのように決し
46
«9衆議院の修正箇所»
た。
!帝国憲法改正案 :
:第8 4条 世襲財産以外の皇室の財産は、すべて国に属する。皇室財産から生ずる:
: 収益は、すべて国庫の収入とし、法律の定める皇室の支出は、予算に計上して国!
! 会の議決を経なければならない。 !
«衆議院修正 i
i第8 8条すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上してi
« 国会の議決を経なければならない。 ;
第10章最高法規
憲法のほかこれに基づく法律及び条約までも最高法規としていた点につい
ては、委員会、総司令部側ともに不合理であるとして、削除された。国際法
規尊重に関する規定の追加は日本側の発意である(現行第9 8条)。
第11章補則
現存華族に関する経過規定が削除されたが、これは各派一致の意見に基づ
<ものであった。 47 «10貴族院の修正箇所» 資料10貴族院の修正箇所 1 9 4 6 (昭和21)年10月6日、帝国憲法改正案は貴族院で修正議決 され、10月7日、回付案が衆議院で同意された。 <貴族院による主な修正項目>
1前文の字句について若干の修正をした。
2 第15条に、公務員の選挙について成年者による普通選挙を保障する規定
を追加した。
3 第5 9条に、法律案の場合についての両院協議会の規定を追加した。
4 第6 6条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない旨
の規定を追加した。
前文の字句の修正と両院協議会の規定の追加は貴族院側の発意であり、普通
選挙の保障と文民条項は総司令部側の要請である。
文民条項は衆議院の段階でいったん取り止めになったが、極東委員会からの
強い要請であったため、総司令部側も乗り気ではなかったが、結局修正するこ
ととなった。
48
«11 吉田茂『回想十年』»
資料11|吉田茂『回想十年』
(略)
(出典:吉田茂著『回想十年4』(中央公論社、1998年)pp. 212-216)
49
日本国憲法制定経過年表
憲法改正問題の起源
憲 法 改 正 問 題 の 展 開
日本国憲法制定経過年表(ポツダム宣言 〜 日本国憲法施行)
S20 (1945) 7 2 6 •連合国、ポツダム宣言を発表(7.28鈴木首相、ポツダム宣言黙
8 6 殺を表明) •広島に原子爆弾投下(8.8ソ連、対日宣戦布告8.9長崎に原爆
8 1 4 投下) •御前会議、ポツダム宣言の受諾を決定(翌日、終戦の詔勅を放
8 1 5 送) •マッカーサー元帥、連合国最高司令官に就任 •鈴木内閣総辞職
8 1 7 •稔彦王(東久邇宮)内閣成立(8.16大命降下)
8 1 8 ・トルーマン米国大統領、スターリンのソ連軍による北海道北部
8 2 0 の管理要請を拒否 •トルーマン米国大統領、対日政策の策定のため設置された国 務・陸軍•海軍3省調整委員会(SWNCC)の採択した「日本 の敗北後における本土占領軍の国家的構成」を承認 •英国政府、米国務省に対し、米・英・ソ・中・濠5か国代表に
8 2 6 よる対日管理理事会の設置を提案(8.21米国政府、極東諮問 委員会付託条項を英・ソ・中3か国政府に送付。また、同委員 会に前記5か国のほか、連合国加盟6か国政府の招請を提議) •外務省に終戦連絡中央事務局設置
8 2 8 •東久邇宮首相、国体護持と一億総懺悔を声明
8 2 9 •連合国総司令部[GHQ]、横浜に設置(9.15東京に移動) •米国政府、SWNC C作成の「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ封日
8 3 0 方針」をマ元帥に通達 .マ元帥、厚木飛行場に到着
こ の 頃 •法制局、内々に憲法問題の研究に着手
9 1 •第88回帝国議会召集(9.4開院式 会期2日間、9.5まで)
9 2 •日本、降伏文書調印(無条件降伏が法的に確定)
9 3 • GHQ、一般命令第1号(日本陸海軍の解体指令) •貴族院調査会第二部会、漉澤信一•外務省条約局長から戦闘停
9 6 止より講和に至るまでの諸事項についての説明を聴取(9.8第 一部会、津島壽一大蔵大臣から戦後財政経済対策について説明 聴取、9.17第四部会、吉本重章・陸軍省軍務課長から在外軍 隊及び邦人の現状について説明聴取) •米国政府、「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元
9 9 帥への通達」を発出 ・マ元帥、間接統治•自由主義助長等の日本管理方式について声
9 1 0 明 •GHQ、言論及び新聞の自由に関する覚書交付(9.21GHQ批判
9 1 1 を禁止する「プレス・コード」を指令) •GHQ、戦争犯罪人容疑者の逮捕を指令
9 1 3 •大本営廃止
9 1 8 •東久邇宮首相、外国人記者団と会見し、憲法改正など内政面に
9 2 0 関する改革について現時点ではGHQ指令の完遂に全力を挙げ ており、検討する余裕なしと表明 •法制局、内部文書「終戦と憲法」にて、憲法改正の問題点を列 記 •Fポツダム宣言』ノ受諾二伴ヒ発スル命令二関スル件(緊急勅
令)公布
52
日本国憲法制定経過年表
法
改
正
問
題
の
展
開
9.2 2 ・GHQ、合衆国政府の「降伏後二於ケル初期ノ封日方針」に基
づく基本指令を交付
韓国人の持つ「日本は未開の国だったのにたまたま運よく西洋の文物を輸入して成功した」という史観、ソウル大教授に否定されてしまう: 楽韓Web
https://rakukan.net/article/503691298.html
※ この人たちは、「マニュファクチュア」という発展段階を知らない…。
※ 下手すると、そういう経済概念が「あること」すら、知らない…。
※ まあ、そういうことを「知っている」からと言って、「腹はふくれない」が…。
『2024年06月18日
「未開の島国」日本、運良く「雷の出世」して朝鮮を追い抜いたのか?(毎日経済・朝鮮語)
「日本は歴史的に韓半島から先進文物を伝授された。 そのような未開だった島国が明治維新で運良く変身に成功し、にわかに出世して強国となった。 この時、日本に遅れをとった朝鮮は近代化の敷居を越えることができず、その後国権まで奪われる恥辱を経験した。
私たちがよく知っている歴史です。 ところで、当時の朝鮮は本当に惜しくも日本に遅れをとっただけで、日本の成功はただ偶然に手に入れた幸運に過ぎなかったのでしょうか。
ソウル大学歴史学部のパク・フン教授は、日本の実体をきちんと知ってこそ、きちんと彼らを相手にすることができ、そのためには日本の歴史、特に明治維新を探る必要があると強調します。 韓国がいくつかの国力指標で日本を圧倒するほど成長しただけに、今はもう少し冷静で客観的に過去を眺めなければならないということです。
実際、日本による被害と敵愾心が韓国以上の中国でさえ、歴史教科書に日本の犯罪よりもはるかに大きな比重を置いて明治維新を扱っています。 明治維新の前夜と言われる江戸期前後、日本と朝鮮はどのような状況で、またどのようなことがあったのでしょうか。 パク·フン教授に聞きました。 以下は一問一答。
Q.明治維新以前の日本の経済、軍事力水準はどうでしたか?
A:江戸時代日本で経済的に大きな変動が起こります。全国時代以降、17世紀を貫通しながら途方もなく成長をします。朝鮮もある程度成長するが、この時、日本の成長率があまりにも高いので格差が広がります。当時はGDPの概念がなかったので正確にはわかりませんが、経済規模で少なくとも2~3倍ほど格差があったようです。 (中略)
Q.今、なぜ私たちが明治維新を見なければならないのか。
A:最近、一線の学校で国史だけ教えて、以前よりも世界史を教えていません。 世界史の中でも特に日本史は日本が憎いから習いません。
ところが、私たちが憎めば憎むほど、また競争心を感じれば感じるほど相手をより多く知らなければなりません。 明治維新は現在、日本を創った出発点であり、彼らが最も大きな革新を遂げた時期です。 そのため、その時、彼らにどのようにそれが可能だったのか、また、なぜ私たちはそうできなかったのかについてです。 大きな変化と危機が迫った時、どのように反応し克服するのか、その知恵を参考にするという点でもそうです。
(引用ここまで)
ソウル大学のパク・フン教授がちょっと面白い話をしているのでピックアップしてみましょうか。
引用部分冒頭のイタリックにした部分。
これ、韓国人が基本的に認識している19世紀後半から20世紀にかけての歴史です。根本的な歴史観、とでもいうべきかな。
「日本は大した国でもなかった。常に朝鮮からの優れた文化を伝授されていた」
「たまたま明治維新で西洋の文物を輸入することに成功して、朝鮮半島に手を伸ばした」
「韓国はたまたま西洋の文物の輸入が遅れたので征服されてしまった」
ざっくりとこんな歴史観が根本に持っています。
記事中でも「我々がよく知る歴史です」とありますね。
で、自分たちの歴史についてはあまり知らない……というか、李氏朝鮮についてはなにも知っていないレベルです。
「李氏朝鮮はまともに貨幣経済もなかった」って話にやたら反発するのですよね。
実際、イザベラ・バードの朝鮮紀行(19世紀末)とか見ても「日本の影響が入ってきているところでは銀が流通している」レベルです。
どちらかというと、「あえて貨幣経済を発展させなかった」のが李氏朝鮮。
当時の王朝が本気で「いやしい商業など、はびこらせてはいけない」ってやって、経済発展を抑えこんだのですから。
その政策自体の評価はともかく、「政策は成功した」のは間違いありません。
そんなていどの歴史認識が横行している中ではパク・フン教授は比較的まともなことを言っていますが、それでも「そうかぁ?」ってなる部分は少なくないですね。
特に引用している部分の江戸時代と李氏朝鮮の経済規模の差が2〜3倍で収まるかどうか、だいぶ疑問。人口もだいぶ違いますしね。
10倍以上あってもなんの驚きもない。
ただまあ、「2〜3倍くらいの差である」としておかないと「土着倭寇!」として糾弾されてしまうのでしょうね。
パク・フン教授が出てきて日本の解説をしているシリーズ、もうちょっと続いてて面白い部分があるのであと1回くらいピックアップすると思います。
Twitterで更新情報をお伝えしています。フォローはこちらから→Follow @rakukan_vortex 』
有職読み
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%81%B7%E8%AA%AD%E3%81%BF
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漢字
書体
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甲骨文 金文 篆書
古文 隷書 楷書
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字様書 石経
康熙字典体(旧字体)
新字体 新字形
国字標準字体 常用字字形表
漢文教育用基礎漢字
通用規範漢字表
国字問題
当用・常用漢字
同音の漢字による書きかえ
繁体字(正体字) – 簡体字
漢字廃止・復活
漢字文化圏
中・日・朝・越・台・琉・新
派生文字
国字 方言字 則天文字
仮名 古壮字 字喃 女書
契丹文字 女真文字 西夏文字
→字音
有職読み(ゆうそくよみ)は、漢字で書かれた語を伝統的かつ特別な読み方で読むこと[1][2]。故実読み(こじつよみ)、名目(みょうもく)[3]、名目読み[4]、読み癖とも呼ばれる[2][5]。
1980年以降、しばしば人名を音読みする慣習のみを示す俗語として用いられ、2006年にウィキペディア日本語版に立項されたことでこの誤用が広まった[6]。
概要
「有職読み」という用語の調査を行った三浦直人によれば、「有職読み」という語の初出は1893年5月発行の『史学普及雑誌』9号であり[7]、神祇官を「カンツカサ」、太政官を「オホヒマツリコトノツカサ」と読むようなものであるとした上で、このように読むのは「間ぬるき話なれば」、「ジンギクワン」「ダイジヤウクワン」と読むべきとしている[8]。
1945年までの使用例8件はすべて「読み癖」「故実読み」と同一視したものであり、1980年代までも同様である[1]。
山田俊雄は「故実読み」を「一般の字音・字訓の慣用によって推理すると、かえって誤読となるような、伝統的な読み方をすること」であると解説している[9]。
ただし、歌人など一部の人名が伝統的に音読みされることもこの例の中に含まれる[1]。
山田は「故実読み」も「読み癖」も「かなり新らしい用語」であるとしており、有職読みも明治以降の言葉であると見られている[7]。
有職読みの例
神祇官→「かんつかさ」[8]
太政官→「おほひまつりことのつかさ」[8]
定考→「コウジョウ」[注 1]
笏→「シャク」[2]
礼記→「ライキ」[2]
文選→「モンゼン」[2]
女王禄→「オウロク」[2]
掃部→「カモン」[2]
即位→「ショクイ」[2]
このほか、夏目漱石は吾輩は猫である(九)で登場人物(迷亭の伯父)の科白を使い杉原という人名を「すい原」、目見ずを「ミミズ(蚯蚓-キュウイン)」、仰向きにかえるを「カイル(蝦蟇-ガマ)」、透垣(スキガキ)を「すい垣(がき)[10]」、茎立(クキタチ)を「くく立(たち)」[11]と読むことを、名目読み(ミョウモク-ヨミ)だと述べさせている。
人名に使われる有職読み
俊頼(源俊頼)(としより)→ 「シュンライ」[1]
俊成(藤原俊成)(としなり)→ 「シュンゼイ」[1]
定家(藤原定家)(さだいえ)→ 「テイカ」[1]
家隆(藤原家隆)(いえたか)→ 「カリュウ」[12]
式子内親王(のりこナイシンノウ) → 「ショクシナイシンノウ」[注 2]
天智天皇 →「テンヂテンノウ」 [13]
「人名の音読み」の意の誤用
誤用の始まり
高島俊男によると、戦前には名前の音読みは一般的な慣習であり、例えば滝川事件の瀧川幸辰については「タキガワ コウシン」以外の読みを戦前では聞いたことがなかったという[14]。
角田文衛は1980年の著書『日本の女性名』の中で、「歌学の世界で特定の歌人が」音読みされることを「歌人らが用いる符丁のような有職読みの典型」として紹介した[1][15]。
角田は別の著書において人名ではない「後宮」を「ゴク」と読む「有職読み」を紹介しており、人名音読を「読み癖」であると解説している[16]。
すなわち、歌人の人名音読は「有職読み」=「故実読み」に含まれる一例として、角田が挙げているものに過ぎない[17]。
しかし、この角田の記述を誤読した高梨公之と佐川章が人名音読自体を「有職読み」であると紹介している[13]。
三浦直人の調査によれば、2005年以前に書籍において「人名音読みが有職読みである」という記述を行ったのは高梨と佐川の二人のみであるとしている[13]。
ただしインターネット上にはいくつか記述があったとされる[18]。
誤用の展開
2006年1月21日、ウィキペディア日本語版において「有職読み」が人名音読の慣習を扱う記事として立項された[13]。
これ以後、書籍などにおいても、有職読みの語が人名音読の意として誤用されることが急増し、学術論文や新聞、クイズゲーム等にもこの誤用が用いられた[19]。
辞典においては大辞泉が「中世の歌学で、歌人の名を音で読むこと」「近代にそれをまねて有名人の名を音読すること」であるとして掲載している[注 3]。
また、この誤用が広まる中で、「音読みで読むのは偉人に対して用いられる慣習」、「音読みで読むのは知識人の嗜み」、「音読みで読むのは平安時代より続く伝統である」という誤った解説も付けられている[5]。
実際には江戸時代以降、政治家を音読みで呼びつつ揶揄することはしばしば行われている[21]。
徳川慶喜は、反対勢力や旧旗本によって蔑称として「ケイキ」と呼ばれた例もある[22]。
また音読みは正確な読みを知らない場合の手段であるが、井黒弥太郎が榎本武揚について「学のない世間はブヨーと親しんで呼んだ」と記述するように、それのみでは学のない者として「識者ノ笑」となるものであった[23]。
脚注
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注釈
^ 「ジョウコウ」の読みが「上皇」と通じるため[1][2]。
^ 『清水宗川聞書』では、内親王は音読みで読むのが「読み癖」であるとしている[9]。
^ 三浦直人が小学館の担当者に出典を尋ねたところ、角田文衛の『日本の女性名』が出典であると回答されたが、角田の書籍には近代についての記述はない[20]。
出典
^ a b c d e f g h 三浦直人 2017, p. 24.
^ a b c d e f g h i 大辞林 第三版、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『故実読み』 - コトバンク
^ 小学館デジタル大辞泉「名目(みょう-もく)」[1]
^ 精選版日本国語大辞典「名目読(みょうもく-よみ)」[2]
^ a b 三浦直人 2017, p. 23.
^ 三浦直人 2017, p. 21-22.
^ a b 三浦直人 2017, p. 35.
^ a b c 三浦直人 2017, p. 23-24.
^ a b 三浦直人 2017, p. 27.
^ 漱石による。なお一般には「すいがい」と読み慣わすことが多い。「すいかい」とも読む。「すいがき」(小学館デジタル大辞泉)[3]、「すいがい」「すいかい」(精選版日本国語大辞典)[4]
^ 精選版日本語大辞典「茎立(くく-たち)」[5]
^ 三浦直人 2017, p. 28.
^ a b c d 三浦直人 2017, p. 25.
^ 高島俊男「お言葉ですが…」(文春文庫)より
^ 角田文衞『日本の女性名 歴史的展望』(上)(教育社歴史新書30、1980年)、173頁。
^ 三浦直人 2017, p. 24-25.
^ 三浦直人 2017, p. 23-25.
^ 三浦直人 2017, p. 33.
^ 三浦直人 2017, pp. 26、36-37.
^ 三浦直人 2017, p. 38, 注40.
^ 三浦直人 2017, p. 30-31.
^ 三浦直人 2017, p. 31.
^ 三浦直人 2017, p. 32-33.
参考文献
三浦直人「伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず : 人名史研究における術語の吟味」『漢字文化研究』第7巻、2017年、21-41頁。(2019年5月26日閲覧) - 漢検漢字文化研究奨励賞 佳作。
初出:三浦直人「伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず:人名史研究における術語の吟味」『文学研究論集』45, pp. 207-226, 明治大学大学院, 2016年9月。
関連項目
人名#命名法と読み
修姓
有職
有職故実
熟字訓/当て字
カテゴリ:
日本語の人名日本の漢字日本のインターネットスラング広く信じられた謬説ウィキペディアのデマ
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式子内親王
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
式子内親王
(1883年(明治16年)新撰百人一首より)
続柄 後白河天皇第三皇女
称号 萱斎院、大炊御門斎院
身位 内親王、准三宮
出生 久安5年(1149年)[* 1]
死去 建仁元年1月25日(1201年3月1日)[* 2](享年53)
父親 後白河天皇
母親 藤原成子
役職 賀茂斎院
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ポータル 文学
式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう)[* 3]、久安5年(1149年)[* 1] – 建仁元年1月25日(1201年3月1日)[* 2])は、日本の皇族。賀茂斎院。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法[1]。
経歴
平治元年(1159年)10月25日、内親王宣下を受け斎院に卜定。以後およそ10年間、嘉応元年(1169年)7月26日に病により退下[2][* 4]するまで賀茂神社に奉仕した。
退下後は母の実家高倉三条第[3]、その後父・後白河院の法住寺殿内(萱御所[4])を経て、遅くとも元暦2年(1185年)正月までに[5]、叔母・八条院暲子内親王のもとに身を寄せた[* 5]。
同年7月から8月にかけて、元暦大地震とその余震で都の混乱が続く中も、八条院におり[6]、准三宮宣下[7]を受けている。八条院での生活は、少なくとも文治6年(1190年)正月[8]までは続いた。
後に、[* 6]八条院とその猶子の姫宮(以仁王王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされた[* 7]。
白河押小路殿に移り、父・後白河院の同意を得られないまま出家[* 8]した。
建久3年(1192年)、後白河院崩御により大炊御門殿ほかを遺領として譲られた[* 9]が、大炊御門殿は九条兼実に事実上横領され、建久七年の政変による兼実失脚までは居住することができなかった。
建久8年(1197年)には蔵人大夫・橘兼仲夫婦の託宣事件[* 10]に連座し洛外追放が検討されたが[* 11]、実際に処分は行われなかった。
正治元年(1199年)5月頃から身体の不調が見られ[9]、年末にかけてやや重くなる[10]。
正治2年(1200年)後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、藤原定家に見せている[11]。
その後ほどなく病状が悪化[* 12]、東宮・守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする案あるも病のため実現せず、建仁元年(1201年)1月25日[12]薨去。享年53。
歌人として、歌合や定数歌などによる歌壇活動の記録が極めて少なく、現存する作品も400首に満たないが、その3分の1以上が『千載和歌集』以降の勅撰集に入集している。
逸話
能『定家』舞台写真、櫻間弓川(金太郎)
藤原定家との関係
藤原俊成の子・定家は治承5年(1181年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ[3]、以後折々に内親王のもとへ伺候した。
内親王家で姉の竜寿の小間使いである家司のような仕事を行っていた。
定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については1年後の命日[12]まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。
これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。
後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた内容を語った話として、
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし
— 『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四
この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだと記している[13](しかし、新古今和歌集撰者名注記によると定家はこの歌は評価はしておらず、撰者名にはない)。
こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』などの文芸作品を生じた。
また、そのバリエーションとして、醜い容貌の定家からの求愛を内親王が冷たくあしらった[14]、相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた[15]、あるいは定家の父・俊成も彼らの仲を知って憂慮していた[16][17]等々、いくつもの説が派生したが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。
15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」[15][18]とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵[19]の西北にある。しかし、後白河天皇より相続した白河常光院からは遙かに離れており、根拠はない。
恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり[3]」「御弾箏の事ありと云々[4]」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘[20]もある。ただし、云々とは伝聞を示す言葉であり、直接の感想ではない。
法然との関係
法然が、「聖如房」あるいは「正如房」と呼ばれる高貴な身分の尼の臨終に際して、長文の手紙を送ったことが知られていたが、この尼が式子内親王である[* 13]とする説[21][22]が現れ、そこから内親王の出家の際の導師が法然であった可能性、さらには内親王の密かな思慕の対象であったという推測[23]も行われている。
伝式子内親王墓(京都市上京区般舟院陵山域内)の石仏群と石塔(中央奥)
歌壇における評価
『新古今和歌集』に大量入集するなど、この時代の代表的女流歌人と見なされていたと考えられる。
歌合等の歌壇行事への参加がほとんど記録されていない式子内親王が、このような地位を得た理由として、藤原俊成に師事していたこと[* 14]、その子・定家とも交流があったことにより、この時代の主流に直接触れ得る立場だったことが挙げられる。
後鳥羽院は、近き世の殊勝なる歌人として九条良経・慈円と共に彼女を挙げ、「斎院は殊にもみもみ[* 15]とあるやうに詠まれき[24]」などと賞賛している。
近現代の評価
式子内親王の歌に対する評価が、技巧的 – 自然観照的、あるいは定家的 – 西行的等と、両極端に分かれる傾向[25]が指摘されると共に、その抒情性は、和泉式部的な激情から玉葉風雅的な「すみきった抒情」に純化される中間に位置する[25]との意見がある。
また、本歌取りの手法に着目して、主知的な宮内卿と情緒的な俊成卿女の中間、やや宮内卿よりに位置する[26]という分析もある。
また、古歌からの本歌取りのみならず、『和漢朗詠集』等の漢詩に題材を得た歌も少なくない[26]。
生活や振舞に制約の多い中、作品のほとんどが百首歌という創作環境において、虚構の世界に没入[27]していく姿勢が、こうした特徴の背景にある。
別府観海寺温泉の伝承
大分県別府市観海寺には、式子内親王が同地で葬られたとの口承がある。
橘兼仲の託宣事件に連座して都を追われた内親王は、領主・大友能直の内室風早禅尼が中興した尼寺観海寺において、尼宮承如法として晩年を過ごし、没後同地で荼毘に付されたとする。
同地に建つ現観海禅寺には式子内親王の墓[28]、その西南の山中には、風早禅尼が内親王を荼毘にふした塚と称する遺跡もあり、観光コース[29]にも取り入れられている。
記録上、京都での病死が確実視される式子内親王が、別府で晩年を過ごしたことは、史実としてはあり得ないが、託宣事件の処理に関連して、内親王や他の関係者の追放先として同地が検討の対象となった可能性を指摘する見解[23]もある。
この他、広島県尾道市の光明坊にも、「如念」と称した式子内親王のものと伝わる五輪塔がある[30]。
作品
勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表
記 歌数
千載和歌集 式子内親王
前斎院式子内親王 8
1 新古今和歌集 式子内親王 49 新勅撰和歌集 式子内親王 14
続後撰和歌集 式子内親王 15 続古今和歌集 式子内親王 9 続拾遺和歌集 式子内親王 5
新後撰和歌集 式子内親王 4 玉葉和歌集 式子内親王 16 続千載和歌集 式子内親王 2
続後拾遺和歌集 式子内親王 5 風雅和歌集 式子内親王 14 新千載和歌集 式子内親王 3
新拾遺和歌集 式子内親王 3 新後拾遺和歌集 式子内親王 4 新続古今和歌集 式子内親王 4
定数歌・歌合
名称 時期 作者名表記 備考
正治初度百首 1200年(正治2年) 前斎院 式子内親王
私撰集等
三百六十番歌合(1200年(正治2年))
「前斎院 式子内親王」名で39首
私家集
式子内親王の家集の諸本は、三種の百首歌を後人がまとめたものがベースとなっている。
A:『千載和歌集』以降[31][* 16]、B百首奥書以前(1187年以降、1194年以前)。建久期の初め頃[* 17]と推定されている。師である俊成の影響、先行する和歌や漢詩文からの摂取が見られる[32]。100首が現存[31]。
B:「建久五年五月二日」の奥書を持つ。表現や詞に新奇さを求め、定家に代表される新風への傾斜が見られる[32]。101首が現存[31]。
C:1200年(正治2年)のいわゆる『正治百首』に出詠されたもの。過去に摂取した諸要素の消化、本歌取への習熟が見られる[32]。99首が現存[31]。
諸本
『式子内親王御哥』[33]
筑波大学中央図書館蔵本。『式子内親王集』の原型と思われ、三種の百首歌で構成。書写時の欠脱も多く、219首が現存。
『式子内親王集』(別名 『式子内親王御家集』『萱斎院集』『前斎院御百首』)
三種の百首歌に加え、『新続古今和歌集』成立以降に、勅撰集にあって百首歌のなかに見られない作61首[* 18]が追補されたもの。追補された歌の異同や書写時の欠脱・錯簡等により、第一類、第二類、第三類a、第三類b、第四類に分類される[33]。
以上、家集に見られる歌は、計361首(実際の諸本所収の歌数は欠脱により少なくなっている)だが、この他に式子内親王の作とされる歌が39首[* 19]あり、総計400首の作品が残されていることになる。
百人一首
89番
百首歌中に忍恋を 式子内親王
玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする
— 『新古今和歌集』 巻第十一 恋歌一
伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという[16]。
実際にはこの歌は題詠であって、内親王自身の気持ちを詠ったものではないとされる。
脚注
注釈
^ a b 京大本『兵範記』(『人車記』)断簡に含まれていた嘉応元年七月廿四日の式子内親王斎院退下条の裏書に「□斎王 高倉三位腹 御年廿一」と記載されているのが発見された(上横手、井上(参考文献))。また。これにより『定家小本』嘉応元年七月廿四日条にある「賀茂斎内親王式子依御悩退出」の注記「廿一」が年齢を示すものと判明した(兼築(参考文献))。
^ a b 『明月記』建仁二年正月廿五日条に「午の時許りに束帯して大炊御門の旧院に参ず。今日御正日なり」とある。
^ 内親王の名を「ショクシ」と訓むのは歌道の故実読みであって、藤原俊成を「シュンゼイ」、藤原定家を「テイカ」と訓むのと同様の呼び名である。「シキシ」も同様。むろん本人や近親者たちが内親王を「ショクシ」と呼んだわけではない。この名の正式な読みかたは今もって不明であるが、角田文衛の説により「ノリコ」とするのが通説となった。
^ 退下の要因としては、他に父後白河院の出家との関連が指摘される(村井(参考文献))。
^ 背景として、源平の争乱期において、八条院が有力な権門勢家から独立したアジールとして機能していたこと(五味文彦 『藤原定家の時代』 1991年7月 岩波書店)、及び父後白河院と八条院との良好な関係が指摘されている(村井(参考文献))。
^ 時期は確定できないが、『愚昧記』により八条院にいることが確認できる1190年(文治6年)正月3日以後、後白河院崩御(1192年(建久3年)3月13日)以前と考えられている(村井(参考文献))。
^ 故斎院御八条殿之間、依思御付属事、奉咒詛此姫宮並女院、彼御悪念為女院御病之由、種々雑人狂言、依之斎院漸無御同宿(『明月記』建仁二年八月廿二日条)
^ 於押小路殿御出家之間、故院猶以此事御不請(同書)。
^ 吉田経房が式子内親王の後見になっている(『玉葉』)。
^ 後白河院の霊が託宣をしたと偽り、夫婦共に流罪となった。
^ 前の齋院式子内親王 後白川院皇女 この事に同意するの間、洛中に坐すべからざるの由、沙汰有りと雖も、議有って止められをはんぬ(『皇帝紀抄』 建久八年三月)
^ 乳房が腫れ足が浮腫む等の症状が記録されていることから、乳癌と推定されている(坂東(参考文献))。
^ 法然自筆の手紙では「シヤウ如ハウ」と書かれており(金子彰、他編 「式子内親王宛法然書状 語彙総索引稿」 『日本文學』 101,123-151 2005年3月15日 東京女子大学)、内親王の法名「承如法」と適合する。
^ 俊成の『古来風躰抄』は内親王に奉った作品であるという説が一般的である
^ 後鳥羽院がこの語を使うのは、彼女と源俊頼の二人に対してであり、「人はえ詠みおほせぬやうなる姿」と形容される独創性と技巧を備えたスタイルを指しているようだ。
^ 『新古今和歌集』の詞書で斎院時代の作とされる歌を含んでいることから、百首成立を斎院在任中に遡らせる主張(国島章江 「式子内親王集-形態と成立について」 『国語と国文学』 1960年7月号)もある。
^ 夏部冒頭にある、喪服を着替える歌の解釈として、1171年没の妹休子内親王を想定する説(馬場あき子 『式子内親王』 1969年)があったが、『千載和歌集』の後という条件から、1192年没の父後白河院を想定する説(武田史子 「『式子内親王集』の研究 : 特に百首歌の成立時期について」 『国文白百合』 8,16-20 1977年3月 白百合女子大学)も提唱されている。
^ 合計73首、内他作者3首、百首歌との重複9首を除き、61首(山崎(参考文献))。
^ 勅撰集(家集への補入の漏れ)5首、三百六十番歌合17首、私撰集6首、五社百首中の歌11首(山崎(参考文献))。
出典
^ 『賀茂斎院記』 群書類従 補任部 巻四十四
^ 『皇帝紀抄』
^ a b c 『明月記』治承五年正月三日条
^ a b 『明月記』治承五年九月廿七日条
^ 『吉記』元暦二年正月三日条
^ 『吉記』元暦二年七月十二日条
^ 『山槐記』元暦二年八月十日条
^ 『愚昧記』文治六年正月三日条
^ 『明月記』正治元年五月一日条, 四日条, 十二日条
^ 『明月記』正治元年十二月四日条
^ 『明月記』正治二年九月五日条
^ a b 『明月記』建仁二年正月廿五日条
^ 『後深草院御記』
^ 『謡曲拾葉抄』
^ a b 『源氏大綱』真木柱
^ a b 『渓雲問答』『百人一首夕話』
^ 『大通俗一騎夜行』巻二 「文の手に葉を飾る幽霊」
^ 『応仁記』巻三
^ “京都上京さんぽ”. 般舟院陵. 上京歴史探訪館. 2011年12月20日閲覧。
^ 今村(参考文献)
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^ 岸信宏 「聖如房に就いて」 『仏教文化研究』 第五巻
^ a b 石丸(参考文献)
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参考文献
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武井和人 「筑波大学中央図書館蔵『式子内親王御歌』釈文・校勘記」 『研究と資料』 66,1-15 2011年12月26日 研究と資料の会
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奥野陽子 「式子内親王の歌 : 「むなしき空」をめぐって」 『叙説』1979, 57-67 1979年10月1日 奈良女子大学
奥野陽子 「式子内親王の歌 : 「煙もさびし」と「つれなくぞ見む」」 『叙説』1980, 51-71 1980年10月1日 奈良女子大学
奥野陽子 「夕立・夏の日・ひぐらしの声 : 式子内親王の歌」 『光華女子短期大学研究紀要』 27, 51-70 1989年12月10日 京都光華女子大学
奥野陽子 「式子内親王の歌 : 心を観る心」 『光華女子短期大学研究紀要』 32, 55-76 1994年12月10日 京都光華女子大学
奥野陽子 「式子内親王と歌枕 : 「宇津の山」と「玉の井」について」 『光華女子短期大学研究紀要』 38, 1-19 2000年12月10日 京都光華女子大学
今村みゑ子 「定家と式子内親王-『明月記』を中心に-」 『文学』 6巻4号 pp.73-83 1995年 岩波書店
今村みゑ子 「『明月記』(治承四五年)を読む(解説「定家と式子内親王の恋」)」 『明月記研究』 5号 pp.50-53 2000年 明月記研究会編
三好千春 「准母論からみる式子内親王―後鳥羽院制下における不婚内親王の存在形態―」 『女性史学』19
井上宗雄 「私説・記録と和歌研究」 『明月記研究』 6号 2001年11月 明月記研究会
『人車記』 上横手雅敬解説 陽明叢書 1987年4月 思文閣出版
上横手雅敬 「式子内親王をめぐる呪詛と託宣」 『古代文化』 56-1 2004年
村井俊司 「八条院に於ける式子内親王」 『中京大学教養論叢』 38(1), 174-158 1997年6月11日 中京大学
村井俊司 「式子内親王周辺の人々 : 序論・後白河院」 『中京大学教養論叢』 40(4), 830-818 2000年4月25日 中京大学
兼築信行 「式子内親王の生年と『定家小本』」 『和歌文学研究彙報』 3 1994年7月
錦仁 「<中世和歌>式子と定家―謡曲『定家』の成立異説」 『國文學』 41(12) 77-83 1996年10月 學燈社
馬場あき子 『式子内親王』 ちくま学芸文庫 1992年8月 筑摩書房 ISBN 978-4480080127
石丸晶子 『式子内親王伝―面影びとは法然』 朝日文庫 1994年11月 朝日新聞社 ISBN 978-4022610171
平井啓子 『式子内親王』 コレクション日本歌人選 2011年5月6日 笠間書院 ISBN 978-4305706102
沓掛良彦 『式子内親王私抄―清冽・ほのかな美の世界』 2011年11月20日 ミネルヴァ書房 ISBN 978-4-623-06050-4
坂東定矩 『歴史人物お脈拝見―著名人も悩んだ病気のあれこれ』 1991年8月 ぎょうせい ISBN 978-4324027875
関連項目
ウィキクォートに式子内親王に関する引用句集があります。
藤原定家
新古今和歌集
表話編歴
内親王(飛鳥時代 – 江戸時代)
表話編歴
小倉百人一首
表話編歴
斎院(第31代:1159年 – 1169年)
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カテゴリ:
式子内親王日本の内親王後白河天皇の子女平安時代の女性皇族鎌倉時代の女性皇族12世紀日本の女性皇族13世紀日本の女性皇族斎院12世紀の聖職者日本の女性歌人平安時代の歌人鎌倉時代の歌人小倉百人一首の歌人12世紀の歌人13世紀の歌人12世紀日本の女性著作家13世紀日本の女性著作家平安時代の僧鎌倉時代の僧12世紀日本の尼僧13世紀日本の尼僧乳癌で亡くなった人物1149年生1201年没
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蒙古襲来750年(4):海底の元の軍船が物語る「弘安の役」、長崎・鷹島沖は「海のタイムカプセル」
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c13704/

















『 長崎・佐賀両県にまたがる伊万里湾に鷹島(たかしま)という小さな島がある。この付近の海底から、ここ15年近くにわたり、蒙古襲来の跡である元の軍船など遺物が数多く見つかっている。2回目の侵攻「弘安の役」当時のモノだ。海底遺物が物語る戦いのありさまとは──。
東路軍と江南軍の合流失敗
「文永の役」(1274=文永11=年)から7年後。皇帝フビライ・ハンの号令の下、元軍は再び日本に襲いかかってきた。1281(弘安4)年のことで、「弘安の役」と呼ばれる。
前回の侵攻で日本を攻めきれなかった元は、戦力強化に向け2方面から船団を進軍させてきた。一つは、元の属国である朝鮮半島の高麗から出発した「東路」軍。もう一つは、元が滅ぼした中国大陸の旧南宋から来た「江南」軍だった。両軍は壱岐(いき)に集結後、九州に上陸し要衝の大宰府を攻めるという青写真を描いていたようだ。
東路軍と江南軍のルート
ところが、東路軍が同年5月3日に出発したのに対し、江南軍は1カ月半遅れの6月18日に出発するなど、統率が取れていなかった。東路軍が6月上旬には博多湾に到着しても江南軍は本国を出発さえしておらず、なかなか姿を現わさなかった。両軍が合流していれば、博多湾は「文永の役」当時の5倍近い4400隻の軍船で埋め尽くされたはずと言われる。そうなれば、日本は耐えられただろうか。
実際は遅れを取った江南軍は博多湾に行き着くことはなく、伊万里湾にようやくたどり着いた後、台風に遭って消息を絶ったと言われている。
海底を棒で突いて回る
それから8世紀近い時を経て、沈没した元軍の船がようやく見つかった。
元軍の船が見つかった鷹島神崎港沖を望む(筆者撮影)
伊万里湾口に位置する鷹島の神崎(こうざき)港では、かねて漁師の網につぼや武具など、元軍の遺物らしき物が引っ掛かることがあった。さらに1994~95年の港の改修工事で大量の遺物が出てきたことから、元軍の船発見に向けた機運が高まり、2005年から本格的な海底考古学調査が始まった。
(左上)鷹島神崎港で潮干狩り中の人が見つけた「管軍総把印」。モンゴル文字が刻まれ、中隊長クラスの将校の物とみられる(右上)朱塗りのくし。船上生活の跡がうかがえる
(下)元軍兵は銅製の帯金具のついたベルトを締め、刀をつり下げていた=いずれも長崎県松浦市立埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
(左上)鷹島神崎港で潮干狩り中の人が見つけた「管軍総把印」。モンゴル文字が刻まれ、中隊長クラスの将校の物とみられる(右上)朱塗りのくし。船上生活の跡がうかがえる(下)元軍兵は銅製の帯金具のついたベルトを締め、刀をつり下げていた=いずれも長崎県松浦市立埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
しかし、一口に「元軍の船発見」と言っても決して容易なことではなかった。
「海底には累々と船が沈んでいるのかなと想定していたけれども、いくら探しても見つかりませんでした。海水に露出した木製の船はフナクイムシに食い尽くされていたのです」。こう語るのは、長年、鷹島沖の海底発掘調査に関わってきた國學院大學研究開発推進機構の池田榮史(よしふみ)教授だ。
國學院大學の池田榮史教授(筆者撮影)
海流の関係などで泥の中に埋もれた船であれば、腐食を免れて残っているかもしれない──。池田氏(当時は琉球大学教授)を中心とする調査チームは、そう考え直して音波探査機を使い、05年から数年がかりで海底地図や断層図を作成。不自然な堆積物の反応がある場所を百数十カ所発見した。
そこから先は完全に人海戦術である。池田教授はダイバーと共に海に潜り、そうした怪しい場所を一つずつ鉄の棒で突いて回った。「貝殻だと『ジャリジャリ』ですが、陶磁器など硬い物に当たると『カツン』という音がし、木材の場合は『ズブッ』という手応えがあります」
当時、琉球大学教授だった池田榮史氏(現國學院大學教授)の鷹島海底遺跡の発掘調査の様子(松浦市教育委員会提供)
「やっぱりあったんだ」
調査開始から5年後の2010年、池田教授らはついに船の一部と見られる木材を発見。かなり形が崩れてはいたが、翌11年に「船」と確認した。全長が推定27メートルの1号船だ。「本当に船はあるのかなと疑心暗鬼になりながら、6年間やってきたので、『ああ、やっぱりあったんだ。よかった』というのが正直なところです」と振り返る。
鷹島1号沈没船俯瞰(ふかん)図(松浦市教育委員会提供)
15年には2号船(全長は推定20メートル)を発見。23年には3隻目らしき木材が見つかり、現在、確認中だ。1、2号船はいずれも船底がV字または丸みを帯びた形をして、船室を仕切る隔壁があることから、「江南軍の船」と確認された。大きさの違いは用途の違いとみられる。周辺から見つかった遺物も旧南宋製の陶磁器が多かった。
元の軍船推定復元CG(松浦市教育委員会提供)
「陸上だと歴史的遺物の多くはバクテリアや酸素で腐食してしまうが、海底では泥の中に埋もれてさえいれば、当時のいろいろな遺物がそのままパッケージされて残ります」と話す池田教授。鷹島沖の海底遺跡(2012年に国指定史跡)を「海のタイムカプセル」と呼び、さらなる歴史の解明に挑んでいる。
船体から切り離された「いかり」
JR筑肥線の唐津駅から山間部を縫いながらバスに揺られて1時間。入野というバス停で乗り換えて、さらに全長1キロ以上ものつり橋を渡っていくと、佐賀県から長崎県へと越境。人口1700人の鷹島にたどり着く。高台に松浦市立埋蔵文化財センターがあった。目の前には伊万里湾が広がっている。
センター内を案内してくれた同市教育委員会の内野義(ただし)文化財課長は「海底からは元軍の船だけではなく、いかりの一部もいくつか見つかっています」と話しながら、約1メートルの棒状のいかり石を指し示した。元軍の船のいかりは木材をV字型に組み、重りとなる2個のいかり石をくくり付けた構造。
最も大きな石で重さが1個170キロを超える。「木の部分はフナクイムシの食害に遭ってなくなり、いかり石だけが海底に残っていることも多いんです。石はこれまでに36本見つかっています」
2022年に引き揚げられた1石型木製いかり。通常と異なり、いかり石は1本だった(松浦市教育委員会提供)
2本1組のうち1本のいかり石=松浦市立埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
だが、1994年の港改修工事では、海底の泥中から奇跡的に腐食を免れた4本のV字型木製いかりが並んで発見されていた。4本はいずれも先端が南を向いた形で見つかっているが、船の痕跡は見当たらなかったという。
池田教授は「台風などすさまじい力でいかりは南から北へ引きずられた末に、船から切り離された」とみている。
1994年に見つかった4本のいかりは南側を向いていた=松浦市立埋蔵文化財センターで(筆者撮影)
いかりを失った船は北へ流されたのだろう。例えば、1、2号船はいずれも伊万里湾の北部(鷹島南岸から200メートル前後の近海)で見つかっている。湾内に集結した江南軍は約3500隻と言われ、「密集した状態で北側へ流れていく中で、もまれてガツンガツンとぶつかり、被害が大きくなったのでは」と池田教授。海底ではバラバラになった船の部材が数多く発見されており、一部は鷹島の海岸にまで打ち寄せられている。
鷹島は、北に開いた伊万里湾の湾口を半ばふさぐような位置にあるので、「防波堤」の役割を果たし、湾内は通常穏やかだ。しかし、地元の人によれば、台風が対馬沖を通り抜けるコースを取ると、反時計回りの暴風が隙間から湾内に入り込んできて、南から北へ激しく吹き上げることがあるという。湾内は当時、まさにそういう状態にあったと推測される。
伊万里湾を襲った台風と鷹島
掃討戦
船は暴風で沈んだことが考古学的にも裏付けられた。では、江南軍兵士たちはどうなったのだろうか。史料によると、その多くは溺死したとみられるが、一部は着の身着のままで鷹島や松浦市の御厨(みくりや)など湾内各地に漂着したという。
池田教授は「史料には、指揮官たちは被害が少なくまだ使える船に乗って、自分たちだけ戻ってしまったとあります。残された部下たちはほとんど武器も持たないまま上陸し、追ってきた幕府軍による掃討戦になすすべもありませんでした(※1)」と解説する。
幕府軍による元軍掃討戦、『蒙古襲来絵詞(模本)』より(九州大学附属図書館所蔵)
鷹島には、その戦いを物語るような血生ぐさい地名がいくつも残っている。埋蔵文化財センターの木山智明さんが教えてくれた。「島の北部に鎌倉幕府軍の本陣が置かれました。その西側に位置する阿翁浦(あおうら)で最も激しい戦いが繰り広げられたと言われています」
高台から見下ろした阿翁浦港の周辺は、静かな漁村のたたずまいだ。ところが、その風情にそぐわないような「首崎」「血浦」「胴代(どうしろ)」「地獄谷」といった凄惨な戦いを想起させる地名が、港の周辺にたくさん残っている。当時、港は血で真っ赤に染まったのだろうか。
幕府の本陣が置かれた龍面(りゅうめん)庵(筆者撮影)
高台から阿翁浦港を望む(筆者撮影)
幕府軍優勢とはいえ、日本側にも被害は及んでいる。島民や歴戦の英雄も命を失っており、島内には数々の石碑や墓が点在している。
兵衛次郎(ひょうえじろう)の墓。兵衛次郎は元軍に襲われた対馬から、急を告げるため大宰府に飛んだ後、鷹島に転戦し戦死した(筆者撮影)
高麗の東路軍は退散
一方、博多湾入りしたものの、江南軍に待ちぼうけを食らわされた東路軍はその後、どうなったのか。博多湾沿岸には防塁が張り巡らされていたため、上陸できず、湾入り口に突き出た志賀島(しかのしま)を拠点としたようだ。幕府軍はたびたび夜襲をかけるなどして、東路軍と戦闘を繰り広げた。「長期間いると船は痛み、兵士も病になる」(池田教授)ため、東路軍はいったん補給地の壱岐への移動を余儀なくされた。
その後、東路軍は江南軍からの連絡を受け、長崎の平戸沖でようやく合流したものの、伊万里湾で江南軍とともに台風に襲われ壊滅した──。これが定説ではある。
これに対し、池田教授は「『高麗史』という史料には、東路軍の8割方は生還したとあります。一部は連絡を取るため、伊万里湾に向かったが、多くは壱岐から北上して高麗へ帰国したのではないでしょうか」と推測する。伊万里湾からは高麗の遺物がごくわずかしか出てこないこととも符合する。江南軍が台風によって壊滅的な損害を受けたという情報が東路軍にも伝わり、「戦を放棄したのでしょう」
東路軍と江南軍の行方
最強の騎馬軍団を擁するモンゴル帝国はわずか数十年で、ユーラシア大陸いっぱいに版図を広げた。だが、海戦の経験はなく、日本と戦うには属国の高麗や旧南宋に兵力の多くや軍船建造を委ねるしかなかった。宗主国・元のために戦わざるを得なかった高麗兵、旧南宋兵の士気は必ずしも高くはなかったのではないか。元は陸の上では無敵であっても、海を渡るのは不得手であり、台風という不可抗力もあって、おそらく初めてと言えるほどの大敗北を喫した。
そして、再び日本を襲うことはなかった。(第5回=最終回=に続く)
●道案内
鷹島:JR筑肥線・唐津駅からバスで約1.5時間。島内には、伊万里湾で発掘された元軍の遺物を保存・展示した松浦市立埋蔵文化財センターがあるほか、随所に「弘安の役」をしのばせる石碑や墓標がある。
バナー写真:鷹島2号沈没船俯瞰(ふかん)図(琉球大学、松浦市教育委員会、撮影・編集:町村剛)
(※1) ^ 伊万里湾で難破した元軍には旧南宋人や蒙古人のほか、博多湾から合流した一部の高麗人もいた。池田教授が史料を基に語ったところによると、かつての友好国・旧南宋の兵士は助命されて博多に送られ、使役されたものの、「文永の役」で戦った蒙古人と高麗人は斬首されたという。
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元寇 弘安の役 モンゴル帝国 大宰府 伊万里湾 博多湾
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精選版 日本国語大辞典 「血祭坊主」の意味・読み・例文・類語
ちまつり‐ぼうず ‥バウズ【血祭坊主】
〘名〙 江戸時代、将軍の行列に薙刀(なぎなた)などを持って付き従った同朋(どうぼう)の異称。血祭り。〔俚言集覧(1797頃)〕
[補注]将軍の行列に不慮の争闘が起こったとき、まずこの同朋を斬って血祭りに供したところからの名という。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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