カテゴリー: 世界情勢
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2025年に世界を巻き込む戦争の足音
本社コメンテーター 秋田浩之 〜「日本の論点2025」から
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD188BV0Y4A011C2000000/『2024年11月3日 5:00 [会員限定記事]
北朝鮮・平壌国際空港で笑顔を見せる金正恩朝鮮労働党総書記(左)とロシアのプーチン大統領(6月)=AP
ロシアのウクライナ侵略により欧州は事実上、準戦時状態に入った。中東は全面戦争の危険がくすぶり、アジア太平洋でも朝鮮半島、東・南シナ海で緊張が高まる。これらの戦争や危機が生き物のように共振し、エスカレートする恐れがある。世界が第3次世界大戦に向かうシナリオも絵空事とは言い切れなくなってきた。ロシアがNATOを攻撃する日
歴史は繰り返さないが、韻を踏むといわれる。現代史を振り返ると、第1次、第2次両大戦とも、欧州で始まり、たちまちアジア太平洋に燃え広がっていった。このような歴史を踏まえ、米欧や日本の安全保障担当者らの間では、最悪の展開として、次のようなシナリオを警戒する見方が広がっている。ウクライナでの戦争が長期化し、ロシアと北大西洋条約機構(NATO)諸国の緊張も高止まりする。ロシアによる欧州への軍事挑発が強まり、やがてロシアとNATOが直接ぶつかり、欧州大戦に火がついてしまう。それに乗じるように、北朝鮮や中国がそれぞれ朝鮮半島、東・南シナ海で強硬な行動に走り、アジア太平洋も一層、波立っていく。併行して、中東で紛争が広がり、世界は同時戦争の瀬戸際に向かってしまう……。
まず欧州では、ロシアに占領されている国土の約2割をウクライナが奪い返せるめどはたっていない。このまま長期戦になれば、国力上、見通しはウクライナに不利だ。
トランプ前米大統領が2025年1月に大統領に復活すれば、ウクライナが領土の一部をあきらめ、ロシアと停戦する筋書きを推し進めるだろう。ウクライナに譲歩を強い、ロシアに優位な形での停戦が決まった場合、ロシアのプーチン大統領はさらに強気になり、米欧への軍事挑発を強める危険が高い。彼にとって、ウクライナを影響下に置くことは最終目標ではなく、一里塚にすぎないからだ。
ウクライナで優位に立った場合、プーチン政権が欧州にしかけるとみられるのが、全面戦争には至らないものの、NATOをかく乱し、弱体化させるハイブリッド作戦だ。ロシアに隣接するエストニアを5月に訪れた際、当時のマーティン・へレム国防軍司令官に尋ねると、考えられる例として次のようなシナリオを挙げた。
「ロシア軍がヘリ部隊などを使い、NATOメンバーであるバルト3国の一部などに数週間、奇襲攻撃をしかける。多くの民間人を殺し、インフラを破壊する。そのうえで、NATO軍が本格的に投入される前に撤退してしまう」
以上のような奇襲をしかけられた欧州諸国はNATOに対し、ただちに集団的自衛権を発動し、ロシアに宣戦布告するよう求める。だが、メンバー国の一部から慎重論が出て、NATOは身動きできず、結束が崩れる……。こんな事態をロシアが狙っているというわけだ。
ロシア、北朝鮮 なりふり構わぬ連帯
こうした欧州の緊迫した空気は、アジア太平洋にも波及し、安定を損ねている。北朝鮮はロシアの求めに応じ、すでに数百万発の砲弾に加えて、弾道ミサイルをロシア軍に供与した。北朝鮮の金正恩総書記がプーチン大統領に対し約束した兵派遣についても、北朝鮮軍部隊がウクライナに入ったとの報道がある。北朝鮮による対ロ支援は当然ながら、一方通行ではない。北朝鮮の動向に詳しい米国の元政府高官によれば、金正恩総書記はロシアに対し、新型ミサイルや衛星の技術に加えて、原子力潜水艦、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の開発にも協力を求めている可能性がある。
ロ朝は24年6月の首脳会談で、「包括的戦略パートナーシップ条約」を結んだ。他国から侵攻された場合には国連憲章51条と北朝鮮、ロシアの法に基づき、「遅滞なく」「すべての手段で」軍事援助を提供すると記されている。北朝鮮は自信を深め、さらに向こう見ずな行動に走りかねない。
欧州の準戦時、中国には「漁夫の利」
中国も傍観を決め込んでいるわけではない。工作機械やドローン、衛星画像といった軍民両用品をロシアに流し続けている。24年7月にワシントンで開かれたNATO首脳会議は中国について、ウクライナ侵略を続けるロシアの「決定的な支援者」と名指しで批判した。ここでも問題になるのは、中ロによる軍事協力がウクライナの苦境を深めるだけでなく、アジア太平洋にも深刻な火種をもたらしていることだ。第1に、ウクライナ侵略をつぶさに観察することで、中国は核兵器の価値の高さを学んだ。NATO諸国はウクライナに軍事支援を注ぎながらも、ウクライナに派兵するところまでは踏み込もうとしない。なぜなら、ロシアが核大国だからである。中国からみれば、「核攻撃の脅しは米国にも通用する」という自信を深めたに違いない。
第2に、中国軍とロシア軍は近年、アジアでの共同行動を増やしている。24年7、9両月に立て続けに共同演習をしたほか、中ロの空軍による日本周辺での共同パトロールも事実上、常態化しつつある。これらの共同演習やパトロールは、中国側が呼びかけた可能性が高い。中国軍としては台湾海峡や東・南シナ海でロシア軍との連携を見せつけ、日米をけん制する狙いがある。
冒頭でふれたように、中東の情勢も予断を許さない。敵対するイスラエルとイラン・親イラン勢力による応酬が続き、全面戦争を回避できるかどうかの綱渡りである。以上のような状況を考えると、残念ながら世界は同時戦争(第3次世界大戦)のリスクに直面していると言わざるを得ない。
この記事は「これからの日本の論点2025」から一部抜粋し、加筆・再構成しています。』
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アメリカ大統領選、両候補の戦略 マーケティング理論で分析
https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00012500Q4A011C2000000/








『2024年10月14日 5:00
米大統領選は11月5日の投開票まで3週間あまりとなった。民主党のハリス副大統領と共和党のトランプ前大統領はそれぞれどのような戦略で勝とうとしているのか。モノやサービスを売る企業のマーケティング理論の視点から、最終盤の選挙戦を読み解いてみた。
有権者は「顧客」票田は「市場」
マーケティング理論は企業が売り上げや利益を増やすために自社の商品やサービスをいかに販売するかを考える。競争環境を分析したうえで市場を選んだり、製品や価格、流通経路を決めて広告や宣伝を打ったりする一連の包括的な戦略を指す。
実際の企業経営の事例をもとに様々な理論が生まれてきた。市場(票田)を選んで顧客(有権者)に商品(自分)を売り込む選挙はビジネスと似ている。本場の米国では「政治マーケティング」と呼ぶ学問も発展し、選挙に応用する動きが広がる。
強みと弱み…4項目で整理
まず「SWOT分析」と呼ばれる枠組みを使い、両候補にとって有利となる市場を探ってみた。内部要因である強み(Strengths)と弱み(Weaknesses)、外部要因の機会(Opportunities)と脅威(Threats)の4項目を整理する。
ハリス氏の強みは米国社会の「多様性」を体現する出自にある。ジャマイカとインドそれぞれの出身の両親を持つ移民2世で、白人のトランプ氏と対極に位置する。
元検事の経歴とともに打ち出す「正義感」は、4つの刑事事件で起訴されたトランプ氏との対比で目立つ。
トランプ氏の強みはMAGA(Make America Great Again)の標語に代表される米国第一主義だ。メッセージが明確で強いブランド力がある。在任時に築いた「強いリーダーシップ」のイメージも、指導力が未知数とされるハリス氏と比べ優位に立てる。
次に外部要因に目を向ける。クリーンエネルギーの推進や人工妊娠中絶の権利擁護を唱えるハリス氏にとって、環境や人権への意識の高まりは機会といえる。化石燃料の開発拡大を訴えたり在任時に中絶規制を後押ししたりしたトランプ氏には脅威だ。
インフレはトランプ氏にとって敵失を突く機会となる。バイデン政権の支持率が下がった要因でもあり、副大統領のハリス氏を追及しやすい。ウクライナや中東の戦争など国際情勢の悪化も、自国を優先するトランプ氏の追い風になっている。
無党派を細分化、標的定める
自らの競争上の優位性を見極めたところで、市場のどこを狙うべきか考えるのがSTPの枠組みだ。市場細分化(Segmentation)、標的設定(Targeting)、ポジショニング(Positioning)の3段階でどこにビジネスチャンスがあるか見定める。
英レッドフィールド・アンド・ウィルトン・ストラテジーズなどが9月27日?10月2日に実施した世論調査によると、投票先を決めていない人の割合は勝敗を左右する激戦7州の全てで5%以下にとどまる。限られた人たちをいかに説得するかが目下の焦点だ。
有権者は支持政党別に民主、共和、無党派に分けられる。さらに支持の強さや立ち位置によってそれぞれ3分類すると9つに細分化できる。
ではどこをターゲットにすべきか。上智大の前嶋和弘教授(米国政治)は「激戦州の無党派層のうち民主寄り、共和寄りの有権者をハリス氏、トランプ氏がいかに取り込むかが焦点だ」とみる。
無党派と自称する人でも、どちらかの政党に親近感を持つことが多い。例えばハリス氏なら民主寄りの無党派の有権者に投票所に足を運んでもらうことが大事になる。相手の党に近い無党派を引き寄せるのは難しく、費用対効果は下がる。
同時に政党支持者のうち無党派との境にいる「弱い支持者」を取りこぼさないようしっかり活動する必要がある。
投票にどのくらい行くかどうかもターゲティングの切り口になる。埼玉大の平林紀子名誉教授(政治コミュニケーション)は「たまに投票に行く層が、資源を集中投入すべきターゲットだ」と説く。
無党派でもいつも投票に行く人は最終盤で既に投票先を決めている可能性が高い。いつも投票に行かない人は説得しても効果が乏しい。相対的に伸びしろの大きい「たまに投票に行く人」に限りある資金や時間を費やすのが効率的といえる。
嗜好に合わせ自分を売り込み
あとは自らをどう売り込むか。製品(Product)、価格(Price)、流通経路(Place)、プロモーション(Promotion)の「4P」を標的である有権者の嗜好に合わせる作業が必要になる。
製品は政治マーケティングの世界で主に政策を指す。ハリス氏は中間所得層を取り込むため所得減税や住宅の購入支援を前面に出す。激戦州に集まる製造業の従事者を取り込みたいトランプ氏は国内生産を手掛ける企業にのみ法人税率を引き下げると訴えている。
価格は政策の実現可能性やリスクの程度に置き換えられる。9月の米紙調査でどちらの候補が「安全な選択」か「リスクがある選択」かとの問いはほとんど差がなかった。
流通経路は候補者が政策や理念を有権者に届ける手法を指す。両陣営とも激戦州で集会を開いたり戸別訪問したりする「地上戦」に加え、テレビやSNSの広告で「空中戦」を繰り広げる。
プロモーションは自身の強みと機会を踏まえて売り込むほか、競合相手にもレッテルを貼る。
ハリス氏は自身を「未来」、トランプ氏を「過去」と位置づけ、社会をこれから良くするという前向きなメッセージを出す。トランプ氏はハリス氏を「急進左派」「共産主義者」と呼び、米国の価値観にそぐわない人物だと印象づけようとしている。
両陣営は選挙戦の終盤で製品である政策の軌道修正にも動いている。ハリス氏は厳しい移民政策を打ち出し、不法移民に不満を持つ世論に応える。トランプ氏は中絶問題で各州の判断を尊重すると明言し、無党派の女性に秋波を送る。
前嶋氏は「選挙の最終盤では自分の党に近い浮動票を獲得するため候補者の主張は玉虫色になりやすい」と指摘する。顧客の好みに合わせすぎると、自身の強みがぼやけてブランド力が落ちるリスクがあるのは企業のマーケティング戦略と同じといえる。
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「政治マーケティング」とは? 公共の利益に優先順位制作
児玉章吾、小林拓海、鎌田多恵子 』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
経済学賞
受賞対象 経済学への貢献
会場 ストックホルム
国 スウェーデン
主催 スウェーデン王立科学アカデミー
初回 1969年
最新回 2024年最新受賞者 ダロン・アセモグル
サイモン・ジョンソン(英語版)
ジェームズ・A・ロビンソン
公式サイト https://www.nobelprize.org/ノーベル経済学賞[1][2](ノーベルけいざいがくしょう)は、1968年にスウェーデン国立銀行が創立300周年祝賀の一環としてノーベル財団に働きかけたことで設立された、経済学の分野における学術賞のひとつである[3]。
「ノーベル経済学賞」は通称として広く用いられているが[注 1]、ノーベル財団は「同賞はノーベル賞ではない」として後述の正式名称を用いるか[注 2][6]、単に「経済学賞」(典: ekonomipris[7]、英: Prize in Economic Sciences[8])と呼ぶ。受賞者はスウェーデン王立科学アカデミーによって選考され、ノーベル財団によって認定される。授賞式などは他の部門と同じように行われている。
王立科学アカデミーは新しいノーベル賞として設立を承認したものの、アルフレッド・ノーベルの子孫およびノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーは賛成していない[2]。
概要
経済学の分野において最も権威ある学術賞のひとつである。経済学賞の授賞が始まったのは1969年のことである[9]。褒賞は、従来のノーベル賞授与の基準に準拠することで承認された[10]。スウェーデン国立銀行による規約は「この褒賞はアルフレッド・ノーベルの遺言に表明されたところの、経済学の分野で傑出した重要研究、これを達成した人物に毎年授与される」としている[10]。
経済学賞はアルフレッド・ノーベルの遺書には記載されておらず、ノーベル自身が設立したものではない[5][6]。そのため、賞金はノーベル基金ではなくスウェーデン国立銀行から拠出されている[6]。しかし、選考や授賞式などの諸行事は他の部門と合同で実施されている。選考は物理学賞および化学賞と同じくスウェーデン王立科学アカデミーが行っており、デザインは異なるものの同様にアルフレッド・ノーベルの肖像を刻んだメダルを授与しており、賞金額も同じである。
一般的に、ノーベル財団およびノーベル委員会のメンバーはこの賞に言及するとき「ノーベル」という部分を省いている[11]。ノーベル財団の公式ウェブサイトにおいて他の5部門が「ノーベル物理学賞」「ノーベル化学賞」などという具合に紹介されている一方で、最後の部門は「経済学賞」とだけ記されている[11]。対照的に、報道関係者間では微妙なニュアンスは無視され、「ノーベル経済学賞」という表現が定着している[11]。そのため、「メディアはノーベル賞と誤認して報じている」と批判する者もいる[12]。
なお、他の部門と同じく、一度に受賞可能な人数の上限は3人であり、また、共同受賞の場合は同じ受賞理由が適用される。
経済学賞のメダルの表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各部門共通だが、平和賞および経済学賞については図柄がやや異なる)が、裏面にはスウェーデン王立科学アカデミーのエンブレム(ノーススター)および「Sveriges Riksbank till Alfred Nobels Minne 1968」の文字がそれぞれ刻まれている[13]。
正式名称
前述のように経済学賞は厳密にはノーベル賞ではなく、スウェーデン国立銀行の働きかけで設立された、同行が賞金を拠出する学術賞である。そのことを反映して、賞の正式名称も、典: Sveriges riksbanks pris i ekonomisk vetenskap till Alfred Nobels minne[14] という長いものとなっている。英訳は2006年以降、英: The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel[3] とされている[注 3]。日本語の定訳はないが、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」[15][16]、「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」[17][18]などと訳されており、ほかに、Sveriges riksbankについて「スウェーデン中央銀行」[注 4]「スウェーデン銀行」[注 5]「スウェーデンリクスバンク」[注 6]、ekonomisk vetenskapについて「経済科学」[注 7]、Alfred Nobelについて「アルフレド・ノーベル」[注 6]と訳す事例もある。
選考方法
経済学賞の選考は、物理学賞および化学賞と同様にスウェーデン王立科学アカデミーによって行われる[6](生理学・医学賞はカロリンスカ研究所、文学賞はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルウェー国会によって行われる)。選考にはおよそ1年の期間が費やされ、その過程は秘密とされている[6]。ノーベル財団によって認定されている。
選考に際しては、王立科学アカデミー内に設置されたアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞委員会(選考委員会)が毎年9月に翌年の候補者の推薦依頼状を推薦権所持者に送付し、候補者を集める。推薦権を所持するのは、王立科学アカデミー会員、選考委員会委員、過去の受賞者、北欧諸国の大学の経済学の教員、世界から選ばれた大学の経済学の教育研究組織の長、特別に選ばれた個人などであり、締切りは1月末である。
通常、受賞者の選考は次の順序で行われる。その年の初めに選考委員会は世界各国の第一級の学術研究機関から報告・推薦を集め、春までに最初の候補者リストを作成する[22]。そして夏の終わりまでに選考委員会委員、スウェーデンのその他の社会科学系の学術研究機関が候補者を絞り込む[22]。その後は発表日の午前10時から選考委員会委員が集まり、受賞候補者の業績についての説明を受け、候補者への投票を行う[22]。そして、選考委員会の提示した受賞者がそのまま王立科学アカデミーに承認される[22]。
選考委員会の選考は外部の専門家の助言とともに進められ、最大3人の受賞者を内定する。前述の通り、決定は王立科学アカデミーが行い、事前に告知した日に発表を行う。自然科学の3部門(物理学賞、化学賞、生理学・医学賞)は授賞分野を決めてから受賞者を絞り込むとされており、経済学賞も同様と見られる。
授賞式は毎年ノーベルの命日に当たる12月10日にストックホルム(平和賞はオスロ)で開催され、スウェーデン国王からノーベルの肖像が入ったメダルなどが手渡される。
選考基準
論文・業績
アサール・リンドベック(英語版)は、選考委員会が引用数に重きを置いているわけではないと注意する一方で、受賞者が引用数においても最上位にランクしていることを認めている。また、サンケイビズの記事では、「ノーベル賞では、論文の引用量の多さが選考に大きく影響する」とある[23]。
経済学者の祝迫得夫は「ノーベル経済学賞は、生涯の功労に対して時間が経ってから授ける色彩があり、過去に偉大な業績をあげた大家が受賞する傾向が強い」「ノーベル賞は、分野を切り開いた、便利なツールを開拓した学者が受賞する傾向がある」と述べている[24]。
経済学賞は、当該受賞者が全盛期を過ぎてから授与されるケースが多い[25]。経済学者のトーマス・カリアーは「ノーベル経済学賞は、新しい理論が発表されて何年も経過した後に授賞するケースが多く、そのような姿勢が非難されてきた。理論の評判・影響を判断するためには長い年月が必要だという理由はよく指摘される。理論が新しい研究を促し、経済学に新たな分野を創造し、現実の経済政策に影響を及ぼすようになってはじめてノーベル賞に値するとのことである」と指摘している[26]。
経済学者の伊藤隆敏は「ノーベル賞を授賞するには40歳くらいまでに、新しい分野を切り開くような核心的な業績を出さなければならない。歴史に残る論文を書いておかなければならない。努力、才能、巡り合いなどいろいろな偶然が重なってノーベル賞は生まれる。これはどうかという人が稀に受賞することもあるが、90%はこの人なら当然という人が貰っている。経済学は社会科学であって、自然科学ではないので完全な真理はありえないし、自然科学ですら完全な真理と考えられていたものが後で覆されることもある」と述べている[27]。
経済学者の松島斉は、日本人の受賞者が出ない理由について「日本は経済学を現実の政策に活用する姿勢に欠けている」と指摘している[23]。
非経済学者への授賞
経済学賞受賞者の中には、経済学の教育を受けていない者もいる[28]。経済学の隣接分野の学術研究者が受賞する場合があったが、1995年2月に、経済学賞の対象分野を社会科学と再定義することが正式に決定された。これによって、心理学、政治学、社会学など経済学と接する分野の学術研究者に賞が与えられる可能性がより大きくなった。同時に、それまではその全員が経済学者であった5人の審査員の内の2人を非経済学者とすることが規定された。
非経済学者の受賞者としては、計算機科学者ハーバート・サイモン(1978年)、数学者ジョン・ナッシュ(1994年)、哲学者アマルティア・セン(1998年)、心理学者ダニエル・カーネマン(2002年)、統計学者クライブ・グレンジャー(2003年)、政治学者エリノア・オストロム(2009年)などがおり、また、チャリング・クープマンス(1975年)やロバート・オーマン(2005年)など、他分野出身の経済学者の中にも受賞者は多数存在する。このように、様々な分野の者が受賞するため、受賞候補者は人文学、社会科学、理学、応用科学の種類を問わず存在する。
また、ノーベル賞に数学賞は存在しないが、経済学賞は数学者が受賞できる可能性の高い賞のひとつであり、実際にレオニート・カントロヴィチ(1975年)、ジョン・ナッシュ(1994年)などが受賞した。
経済学賞は、哲学、心理学、政治学、経営学、社会学、数学、統計学、計算機科学、物理学、生物学など様々な分野の学術研究者に与えられる可能性を有する賞となっている。
特徴
ジャーナリストの矢沢潔は以下の考えを示している。
経済学賞は西欧型の自由主義的民主主義(資本主義)の経済を唯一最上の経済システムとする前提に立っている[29]。
経済学賞はしばしば、ゲーム理論、実験経済学、行動経済学など一般社会が身近に感じにくい分野の研究に対しても贈られている[30]。
経済学賞受賞者の出身大学は、シカゴ大学、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、マサチューセッツ工科大学、イェール大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)、ストックホルム大学、オスロ大学、プリンストン大学、スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) など、少数の世界的エリート校に限られている[31]。受賞者の圧倒的多数が「新古典派」、あるいは「新ケインズ派」の学者であり、それ以外の学派の学者は少数である[29]。
バード大学研究員のトーマス・カリアーは以下の指摘をしている。
受賞者予測で人気の高い人物は、最終的に受賞するケースが多い[32]。
受賞者の多くは、合理的な行動に基づいた理論で評価されている[33]。
選考委員会は、受賞者の貢献をしばしば誇張して紹介する[34]。
経済学者の瀧澤弘和は「近年(2012年)のノーベル経済学賞を受賞した研究を一覧してみると、ゲーム理論に関連した研究の受賞比率が非常に高い」と指摘している[35]。塾講師の小泉祐一郎は、経済学賞がレオン・ワルラスが確立した一般均衡理論の研究者に多く受賞されていると述べている[36]。
コウルズ委員会は多くの経済学賞受賞者を輩出している[37]。
経済学者のマリル・ハートマッカーティは「経済学の発展に対するノーベル賞経済学者の貢献を理解することは、20世紀後半に生まれた経済思想の理解に繋がる。ただし、ノーベル賞経済学者だけが経済思想に貢献してきたというわけではなく、彼らの偉業が他の学者の功績と関係が無いということではない。経済システムをより深く理解するために、学者たちは日々奮闘しながら、無限に変化する状態を作り出すことに大きく貢献している。その構造の中心にいるのがノーベル賞経済学者なのである」と指摘している[38]。ハートマッカーティは「ノーベル賞経済学者は、一人ひとりがまったく新しい世界を切り開いたという意味で、知的で才能溢れ、鋭い感覚を持つ経済学者の頂点に立つ。彼らはそれぞれ自らの経験から情報を抽出し、新しい考え方や後進の好奇心を刺激する新しい焦点を提示した。彼らは先達の理論・研究を無にすることなく、人々が生活の中で直面する重大な問題に新たな光を当てるのだ。このことは、ノーベル賞経済学者たちが、人々の福祉について深く追求するという姿勢を広く共有しているという特徴を示す」と指摘している[39]。ハートマッカーティは「個人主義が利己的な行動に向かう傾向を抑制しながら、人間社会が個人の自由・イニシアチブの一定水準を確保する方法を探究すること。これがノーベル賞経済学者たちの目標である」と指摘している[40]。
受賞者の特徴
トーマス・カリアーによれば、経済学賞受賞者の大半は学術研究者であり、大学を生活の中心としており[41]、経済学賞受賞者のほとんどは有名人ではなく、ミルトン・フリードマン、ポール・クルーグマン、ポール・サミュエルソンのように専門的な学術書のほかに一般向けの著書を執筆している受賞者は例外的である[41]。受賞者の多くは、賞が発表される当日に名声が頂点となる[41]。
経済学者の根井雅弘は「経済学賞の受賞者の一覧を見れば、過去の受賞者の中には、一時代を画した優れた経済学者たちの名前が並んでいる」と指摘している[42]。
マリル・ハートマッカーティは「ノーベル賞経済学者の多くは、幼少期の貧困・経済的困難、戦争による破壊・組織的迫害の恐怖、戦後の不誠実な見通し・競争の激しい困難な社会という形で20世紀のトラウマを経験している。世界の崩壊の目撃者・その時代を生きた当事者として、彼らはその復興に参加せざるを得ないと悟り、真剣に答えを模索した。彼らが関心を寄せた社会のトラウマは、研究者の知に大きな課題を与え、確立された経済理論と実体経済の間に生じる矛盾に対処するべく『政治経済学』を生み出した」と指摘している[43]。
数学的アプローチ
トーマス・カリアーは「経済学は数学的な厳密さを重視する方向に進んでいたが、ノーベル経済学賞は確実にその傾向を強めた。数学的な表現で科学としての側面を強調すれば、選考委員会に好印象を与える」と指摘している[44]。
経済学者の中島厚志は、経済学賞の選考基準について「昔は、思想に近いところがあったが、データを見て理論を検証していくという理系に少しずつ近くなってきている」と指摘している[45]。
マリル・ハートマッカーティは「数学に対するノーベル賞経済学者たちの興味は、数学的なプロセスにあるのではなかった。むしろ、人々の行動方法、インセンティブ、人間を取り巻く状況の変化に対する感応性に関する情報のような、複雑・膨大な情報を整理し、簡便化するために数学を生かすことに関心を寄せたのである。彼らが科学に興味を持ったのは、自然現象の中にある因果関係を説明する法則に引き寄せられたからである。数学・自然科学に対する適正は、ノーベル賞経済学者に論理・確証の無い見解を識別する目を与えることになったと同時に、彼らの社会科学への興味を補完した。社会科学に科学的分析を使うことは、自然科学に用いるのと同じように不可欠なことだと彼らは考えた」と指摘している[46]。
カリアーは「ゲーム理論のパイオニアは、様々な分野への理論の応用が高く評価されているが、実際のほとんどは、ノーベル賞受賞者に相応しい高尚な数学的理論とは呼べない。ノーベル賞は与えられているが、『人類のための最大の貢献』とは言えないケースが多い」と指摘している[47]。カリアーは「ノーベル経済学賞は、経済学を自然科学の一種にすること、つまり経済学者は科学者と同じであると証明することにこだわっている。実際、特に新しい洞察を得たわけでもないのに、経済でよく知られた考え方・行動を数学モデルに置き換えただけで、ノーベル賞に選ばれた学者が多過ぎる」と指摘している[48]。
シカゴ学派
トーマス・カリアーは、1990年から1993年にかけてのノーベル賞受賞者がシカゴ学派であったとしている[49]。トーマス・カリアーは「最初の40年間、選考委員会はシカゴ学派を不当なまでに優遇してきた。シカゴ学派が提唱する自由市場が好まれたからであろう」と指摘している[50]。もちろん、ノーベル賞を受賞したすべてのミクロ経済学者がシカゴ学派に属するわけではなく、専門的に株式市場を研究したわけでもない[51]。
経済学者の猪木武徳は「ゲーリー・ベッカーが1992年度に経済学賞を受賞した際、彼の業績・学風は常に『保守的なシカゴ学派の旗頭』といった紋切型の言葉を用いて紹介されていた。確かにシカゴ学派は、政治学・社会学で幾人もの巨人を世に送り出し、経済学でも重要な人材・学説を生み出したが、経済学に限定してもシカゴ学派は決して均質な一枚岩を形づくってきたわけではない。実に様々な思想傾向・研究スタイルを持つ研究者を輩出してきた」と指摘している[52]。
偏向性
塾講師の小泉祐一郎は、ジョン・ケネス・ガルブレイスやレスター・C・サロー(英語版)といった経済学者が経済学賞を受賞できない理由は、彼らの著作がジャーナル・アカデミズム的ではなく「政治経済学的」だからであるとしている[53]。経済学者の石井信彦は、経済学賞は文学賞および平和賞と同様、政治的に偏向しており、「政治経済学的」であったり、主流派を無視したり反抗的であれば受賞できないことは実証されているとしている[53]。
ジョーン・ロビンソンは、14年間にわたって何度か候補に挙がったが、受賞することなく1983年にこの世を去った[54]。ロビンソンは、政治色が強過ぎるため、受賞を辞退する恐れがあったために、経済学賞受賞を逃したと一部で憶測された[54]。選考委員会委員長を務めたアサール・リンドベック(英語版)は「賞を辞退する恐れもあったし、脚光を浴びる機会に乗じて主流派経済学を批判する可能性も考えられたからである」と述べている[55]。
トーマス・カリアーは「偏見の強い選考委員会は、知名度・人気も抜群の20世紀の経済学者をもう一人(一人はジョーン・ロビンソン)、賞の対象から外してしまった。20世紀を代表する経済学者の一人ジョン・ケネス・ガルブレイスである。リベラル過ぎる、数学的でないなど理由はどうであれ、巨匠ガルブレイスの名が無いことは、受賞者名簿の不備を際立たせる一例である」と指摘している[56]。
根井雅弘は「経済学賞の受賞者たちが、極めて有能な学術研究者であることは間違いない。ただ、経済学賞が主流派経済学者に偏って授賞されており、『異端派』はほとんど排除されている」[57]「経済学賞の選考委員会は、左翼系の学者を排除していると憶測されている。もちろん、これには確固たる証拠はないが、実際の受賞者の顔ぶれを見ると憶測を招きかねない状況はあるのは確かである」[58]「相対立する理論が存在する場合、どちらか片方にだけ経済学賞を与えるのは誤解を招きやすい」[59]と述べている。また根井は「経済学賞を廃止すべきとは言わないが、もっと多様な経済思想に寛容な人選になったほうがよい」[60]「社会科学の一分野である限り、経済学は価値観・イデオロギーからまったく無縁とはなりえない」[61]と述べている。
経済学者の小島寛之は「ノーベル経済学賞は政治的であるとよく言われるが、そんなことを言い出したらノーベル平和賞のほうがずっと政治的である」と指摘している[62]。
選考委員会は当初グンナー・ミュルダール単独でに経済学賞を贈るつもりであったが、経済に対する政府の幅広い干渉を容認するミュルダールの立場とバランスをとるべきとの声に押されて、フリードリヒ・ハイエクとの共同受賞が決まったとされている[63]。ミルトン・フリードマンは「非常に特異な組み合わせであり、左派と右派である」と指摘している[64]。
アマルティア・センへの授賞
トーマス・カリアーは「アマルティア・センへの授賞については、センの人道的な理論なら、不祥事に巻き込まれる心配がなく、メダルの威信を取り戻すため(#LTCM破綻参照)、選考委員会はセンを選んだという憶測された背景がある」と述べている[65]。
『ウォールストリート・ジャーナル』ヨーロッパ版の編集員であるロバート・ポロックは、センのノーベル賞受賞について「左翼的見解を表明するばかりの人物」「なんでも『問題にする』ことが得意だが、多くの学生が影響されて博士論文のテーマにしている」と批判している[66]。
影響
社会への影響
トーマス・カリアーは「経済学賞受賞者のアイデアは、私たちの考え方に変化をもたらすばかりではなく、政府の政策に重大な影響を及ぼす可能性もある。賞の対象となった発想は知的資本の充実につながり、政治・社会に関する政策のヒントとなる」と指摘している[67]。カリアーは「イーベイのオークションや二酸化炭素排出権取引の仕組みにも、ノーベル賞の受賞理由となった理論は応用されている」と指摘している[68]。
カリアーは「ノーベル財団は、優れた経済学者はどんな人物かという、重要なシグナルを発信している。そのシグナルは、大学院生が専門分野を選ぶ際、経済学者が研究テーマを選ぶ際に大きな影響を与える。また、政治指導者・一般国民は、ノーベル賞受賞者の見解を素直に聞く。その意味でもノーベル賞は重要である。ノーベル賞に伴う名声・権威を考慮すれば、選考委員会は重要なアイデアを一貫して認めなければならない」と指摘している[50]。
ジャーナリストの矢沢潔は「経済学賞に限らず自然科学の3賞も同じで、疑問や批判は理論・モデルという意義を、過剰或いは大げさに考え過ぎることから生じている」と述べている[69]。
社会の反応
1974年のリバタリアン、フリードリヒ・ハイエクへの受賞、1976年のマネタリスト、ミルトン・フリードマンの受賞は、それぞれオーストリア学派、マネタリズムに関する世界のメディアの報道が飛躍的に増大する契機となった。
ミルトン・フリードマンへの授賞
ミルトン・フリードマンが受賞すると、フリードマンとチリのピノチェト政権と密接な関係にあったことを問題視して、生理学・医学賞を受賞したジョージ・ワルド、化学賞および平和賞を受賞したライナス・ポーリング、生理学・医学賞を受賞したデヴィッド・ボルティモア、サルバドール・エドワード・ルリアらが受賞に反対した[70]。これに対して、フリードマンは、チリ政府の顧問を務めたことはないとしており、1975年にチリに6日間訪れたのを最後に「一切接触を断った」と述べた[71]。
フリードマンの受賞に抗議して、スウェーデンでは数千人規模のデモ行進が行われ、事態制圧に300人の警察官が動員された[71]。フリードマンは、授賞式の日に行われたストックホルムでの抗議デモに対し「ごろつき」だと非難し、「ナチズムの匂いが漂っており、鼻が腐りそうだ。言論の自由において、都合の悪い発言を抑えこむようなやり方は許されない」と述べた[72]。
ゲーム理論と戦争
2005年の経済学賞を発表した選考委員会は、ゲーム理論の冷戦への応用を評価したが、アラブ・イスラエル紛争については言及しなかった(1994年の受賞者の一人であるロバート・オーマンは、この紛争にゲーム理論を応用したことで有名であった)[73]。ここでゲーム理論は、イスラエルが中東紛争で勝つために応用された[74]。
ロバート・オーマンを批判する団体は1000人近い署名を集め、スウェーデン王立科学アカデミーにオーマンとトーマス・シェリングへの授賞を取り消すよう嘆願書を提出した[75]。
一方でオーマンのノーベル賞受賞は、イスラエルで大きな誇りとして歓迎された[28]。オーマンの同僚で数学者のタマラ・レフコート・ルビーは、イスラエルの数学教育の基準・評価を高めるよい機会だと喜び「子どもたちを励まし教育するためのチャンスである」と述べた[28]。
批判
「ノーベル賞を巡る論争#経済学賞」も参照
スウェーデン国立銀行との関係に関する批判
モスクワ発の辛辣なタブロイド紙として知られたThe eXile(英語版)は、本賞の設立経緯を問題視していた。まず、本賞が設立された1960年代において、スウェーデン国立銀行は経済改革の一環として市場の自由化を推進しようとしており、政治介入を防いで独立性を得ることに腐心していた。ノートルダム大学教授のフィリップ・ミロフスキによると、「この当時のスウェーデン中央銀行は民主的な説明責任から逃れようとしており、(中略)このため政治によらない何らかの科学的根拠を主張する必要が生じた」[76]。このため新古典派の市場効率性の理論が着目され、経済を政治の手から放して大企業の営利活動に委ねようとする動きが生じていた[76]。あるFRBの職員はこの様子を「スウェーデン国立銀行創立300周年にかこつけて、ノーベルに引っ掛けたマーケティング上の策略」(marketing ploy)と形容した[77]。選考委員長にはスウェーデンの右派経済学者でありシカゴ学派と繋がりのあるアサール・リンドベック(英語版)が任命され、以後30年に渡り続投した。賞が設立された当初の数年間は主流派や長老筋への授賞が続いたが、一旦賞の権威が確立されると、その後の受賞者は新古典派の右派に偏るようになり、それらの権威付けと科学的正当性を主張する根拠に利用されるようになった[76]。過去の受賞者のほとんどが、中央銀行の支持する新古典派の経済学者である[78]。
金融デリバティブの専門家であり思想家であるナシム・ニコラス・タレブは、市場の現実と合わない擬似科学のような理論に本賞が濫発されており、誤った理論への批判がノーベル賞という権威によって阻害される弊害が生じているとして、「我々がサブプライム危機やその後の展開から学んだ教訓は、(中略)『ノーベル賞』と称するあの馬鹿げた『アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞』の権威を剥奪しない限り、ビジネススクールで教えられることなく我々と共に死に絶えてしまう」と批判した[79]。
分野名に対する批判
正式名称中では、受賞分野はekonomi(Economics、「経済学」)ではなくekonomisk vetenskap(Economic Sciences、「経済科学」)とされているが、このことに関連して、ロバート・シラーは、「大衆の気持ちをつかみ、変人が皆の意見に一定の影響を持つとみられる分野」において、「評判の悪い類縁と区別をつけるため」に、「『科学』がつく傾向があるようだ」と述べている[80]。経済学賞の廃止を訴える未来学者ヘイゼル・ヘンダーソンは、「経済学は『科学』であるとこっそり正当化することで、経済学を政治的に中立なものに見せようとしているが、こうした一見『没価値的』な客観性と数学的厳密さで覆い隠す主張こそが、まさに経済学者に近寄りがたい雰囲気と世界各国の公共政策形成における主導的役割とを与えてきた」と批判する[81]。ヘンダーソンが取材した物理学者のハンス・ペーター・デュル (Hans-Peter Dürr)も、「経済学は粗悪な科学ですらなく、基本的な仮定の多くが正しくない」と述べている[81]。2004年には、スウェーデン王立科学アカデミーの会員を含むスウェーデン人科学者3名が、スウェーデンの国内紙ダーゲンス・ニュヘテルに公開書簡を掲載し、「経済学は自然科学と似ても似つかない」にもかかわらず、「傾向としては、この賞は自然科学の手法を模倣し、客観性があると主張する特殊なタイプの経済学に与えられてきた」と批判している[12][82]。
ノーベル賞関係者からの批判
2001年にはノーベルの兄弟の曾孫であるペーテル・ノーベル(英語版)ら4人のスウェーデンの人権派弁護士たちが、経済学賞の受賞者の大半が「西側の価値観の持ち主」とし、経済学賞は「人類に多大の貢献」をした人への授与というノーベルの遺訓にそぐわないと批判した[83][60][76][84]。ペーテル・ノーベルは、「スウェーデン中央銀行がやったことは謂わば商標権の侵害であり、ノーベル賞の許し難い盗用に当たる」「この経済学賞の三分の二はアメリカの経済学者に贈られ、中でも特にシカゴ学派に授与されたが、彼らは株式市場とオプション取引の投機家だ。これはアルフレッド・ノーベルが意図した人間生活の向上と生存には全く関係が無いばかりか、むしろ正反対だ」[81][85]。
1997年にはノーベル文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーが、ノーベル財団に対し、経済学賞の廃止を要請した[86][60]。スウェーデン財務相を経験し、後にスウェーデン国立銀行総裁を務めたシェル=オーロフ・フェルト(英語版)は、経済学賞の廃止を主張していた[87]。
2004年には、経済学賞の選考機関であるスウェーデン王立科学アカデミーの会員を含むスウェーデン人科学者3名が、スウェーデンの国内紙に公開書簡を掲載し、これまで受賞した大半の経済学者の業績はあまりに抽象的で現実世界とかけ離れ、完全に無意味であるとし、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞は、他の部門の価値を下げる。賞を残すなら対象をもっと広げるか、またはノーベルとは完全に切り離さねばならない」と主張した[82][88]。
本賞の受賞者からの批判
受賞者の中にも快く思わない者がいる。1974年に受賞したフリードリヒ・ハイエクは、授賞晩餐会でのスピーチにおいて、もし自分が相談されていたら経済学賞の設立には「断固反対しただろう」と述べて[87][89]、理由を次のように説明した。「ノーベル賞は個人に大きな権威を与えるが、これは経済学者には不適当だ。これが自然科学なら問題ない。なぜならその人の影響力が及ぶ範囲は同分野の専門家たちなので、もしそれが過大ならすぐ実力相応に改まるからだ。ところが、経済学者は政治家やジャーナリスト、官僚、公衆全般と言った非専門家の方にむしろ大きな影響を及ぼす」。このため只でさえ不当に持てはやされる場合があるところを、ノーベル賞という権威はいたずらに煽るというのである[89]。
同じく1974年に受賞したグンナー・ミュルダールは、もっと辛辣に、ハイエク(や後年のミルトン・フリードマン)のような反動主義者に授賞したという理由で、本賞を廃止すべきと考えていたという[87]。1969年に物理学賞を受賞したマレー・ゲルマンは「彼ら(経済学賞受賞者)と一緒に授賞式に並べというのか」と不満を漏らしたとされている[2]。
1989年に受賞したトリグヴェ・ホーヴェルモは、受賞後のロイターからの電話インタビューに対し「このような賞には感心しない」と答え、それ以上の会話を断った[90]。他のインタビューでは「(受賞は)光栄ではあるが、私はこの賞とは何の関わりもない」「この賞は現実世界の問題とは全く無関係だ」ともつけ加えた[91]。
ゲーリー・ベッカーは自身の研究が科学的・客観的である点を強調し、ノーベル賞を政治的に利用しようとする受賞者を批判し、他分野のノーベル賞受賞者についても「物理・化学といった分野でノーベル賞を受賞した連中ともずいぶん付き合ったが、みんな経済問題についてはうるさいだけで、ろくなものじゃなかった」と述べている[92]。
シカゴ学派のミルトン・フリードマンが1976年に本賞を受賞した時には、批判が噴出した。しかし、フリードマン自身も、ノーベル賞受賞式典で「受賞の発表が、受賞者を様々な分野すべてのにわか専門家に変えてしまった。まさにノーベル賞の全世界的名声のゆえである。脚光を浴びることは嬉しいことではあるが、一方で人間を堕落させる。ノーベル賞受賞者の専門外の領域に対して与えられる過度な脚光と、受賞者が身につけてしまう危険のある過度なエゴ、この両方に解毒剤が必要である。私自身は、解毒剤としてこの種の賞をもっと多く設立して競争させるべきと考える。しかし、これは容易ではない。今後も受賞者の腫れ上がった自尊心は、長きに渡って安全に存続するであろう」と本賞の悪影響を批判した[93]。フリードマンは「私はノーベル賞が、良いことであるのかどうかについては大いなる疑問を抱いている。ただし、そのような経済学賞についての疑問は、ノーベル物理学賞についても等しく当てはまる」と述べている[94]。
LTCM破綻
マイロン・ショールズ、ロバート・マートンという2人のノーベル賞受賞者を役員とし、その金融理論を実践するために設立させたLTCMは、一時期年率40%の利益を上げていたが、1998年のロシア経済危機を読み違え多額の損失を出し破綻した。マートンとショールズは、ノーベル賞受賞後1年足らずで、倒産劇で悪名を轟かせてしまった[95]。
経済学者の高増明、竹治康公らは、「ノーベル経済学賞を受賞した経済理論も現実には通用しないこともある。人々の予測形成を正しく説明できる経済理論は存在しないからである」と指摘している[96]。
小島寛之は「マートンとショールズは受賞の対象となった自らの金融工学の理論を実践し、大規模な投機を行った。しかし、ロシアで起きたデフォルトのあおりを受けて巨額の損失を出した。金融機関の破綻は社会的に大きな問題であり、それにノーベル賞受賞者が関わっていたというのは世界中に大きな衝撃を与えた。しかも、自らの金儲けに利用しての失敗である。それが契機となって経済学賞のあり方への批判が噴出したのであれば当然のことである。ノーベル賞から経済学賞をはずすべきという議論もその一端に違いない」と指摘している[97]。
受賞者
経済学賞の受賞者のほとんどを欧米の出身者が占め、その中でも特にアメリカの出身者が多い[98]。2010年までの受賞者数67名のうち、非欧米出身者はわずかに3名しかいない。その内2名はイスラエルとアメリカの二重国籍となっており、欧米諸国の国籍を持たない受賞者は、1998年のアマルティア・セン(インド)が最初であり、唯一の受賞者となっている。
黒人初の受賞者 – アーサー・ルイス(1979年、共同受賞、アメリカ国籍、セントルシア生まれ)
アジア初の受賞者[98] – アマルティア・セン(1998年、単独受賞、インド)
女性初の受賞者 – エリノア・オストロム(2009年、共同受賞、アメリカ)
1960年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
1969年 ラグナル・フリッシュ ノルウェー 経済過程の分析に対する動学的モデルの発展と応用[99]
ヤン・ティンバーゲン オランダの旗 オランダ
1970年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
1970年 ポール・サミュエルソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 静学的および動学的経済理論の発展に対する業績と、経済学における分析水準の向上に対する積極的貢献[100]
1971年 サイモン・クズネッツ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 経済および社会の成長に関する構造および過程を深く洞察するための経済成長に関する理論を実証的手法を用いて構築した功績[101]
1972年 ジョン・ヒックス イギリスの旗 イギリス 一般的経済均衡理論および厚生理論に対する先駆的貢献[102]
ケネス・アロー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
1973年 ワシリー・レオンチェフ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 投入産出分析の発展と、重要な経済問題に対する投入産出分析の応用[103]
1974年 グンナー・ミュルダール スウェーデン 貨幣理論および経済変動理論に関する先駆的業績と、経済現象・社会現象・組織現象の相互依存関係に関する鋭い分析[104]
フリードリヒ・ハイエク オーストリア
1975年 レオニート・カントロヴィチ ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 資源の最適配分に関する理論への貢献[105]
チャリング・クープマンス オランダの旗 オランダ
1976年 ミルトン・フリードマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 消費分析・金融史・金融理論の分野における業績と、安定化政策の複雑性の実証[106]
1977年 ベルティル・オリーン スウェーデン 国際貿易に関する理論および資本移動に関する理論を開拓した業績[107]
ジェイムズ・ミード イギリスの旗 イギリス
1978年 ハーバート・サイモン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 経済組織内部での意思決定プロセスにおける先駆的な研究[108]
1979年 セオドア・シュルツ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 発展途上国問題の考察を通じた経済発展に関する先駆的研究[109]
アーサー・ルイス イギリスの旗 イギリス
(セントルシアの旗 セントルシア)1980年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
1980年 ローレンス・クライン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 景気変動・経済政策を分析する上での経済的なモデル・手法の開発[110]
1981年 ジェームズ・トービン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 金融市場とその支出決定・雇用・生産物・価格との関連性の分析[111]
1982年 ジョージ・スティグラー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 産業構造や市場の役割・規制の原因と影響についての独創的な研究[112]
1983年 ジェラール・ドブルー フランスの旗 フランス 一般均衡理論の徹底的な改良と経済理論に新たな分析手法を組み込んだこと[113]
1984年 リチャード・ストーン イギリスの旗 イギリス 国民勘定のシステムの発展に対する基本的な貢献と実証的な経済分析の基礎の多大な改良[114]
1985年 フランコ・モディリアーニ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
(イタリアの旗 イタリア) 貯蓄と金融市場の先駆的な分析[115]
1986年 ジェームズ・M・ブキャナン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 公共選択の理論に於ける契約・憲法面での基礎を築いたこと[116]
1987年 ロバート・ソロー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 経済成長理論への貢献[117]
1988年 モーリス・アレ フランスの旗 フランス 市場と資源の効率的な利用に関する理論の先駆的な貢献[118]
1989年 トリグヴェ・ホーヴェルモ ノルウェー 計量経済学の確率基礎理論の解明と同時発生的経済構造の分析[119]
1990年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
1990年 ハリー・マーコウィッツ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 資産形成の安全性を高めるための一般理論形成[120]
マートン・ミラー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ウィリアム・シャープ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
1991年 ロナルド・コース アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 制度上の構造と経済機能に於ける取引コストと財産権の発見と明確化[121]
1992年 ゲーリー・ベッカー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 非市場に於ける行動を含めた広範にわたる人間の行動と相互作用へのミクロ経済学分析の応用[122]
1993年 ロバート・フォーゲル アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 経済理論と計量的手法によって経済史の研究を一新したこと[123]
ダグラス・ノース アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
1994年 ラインハルト・ゼルテン ドイツの旗 ドイツ 非協力ゲームにおける均衡分析に関する理論の開拓[124]
ジョン・ナッシュ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジョン・ハーサニ ハンガリー
1995年 ロバート・ルーカス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 合理的期待仮説の理論を発展、応用し、1970年代以降の財政・金融政策などマクロ経済理論に大きな影響を与えた事[125]
1996年 ジェームズ・マーリーズ イギリスの旗 イギリス 「情報の非対称性のもとでの経済的誘因の理論」に対する貢献[126]
ウィリアム・ヴィックリー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
(カナダの旗 カナダ)
1997年 ロバート・マートン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 「金融派生商品(デリバティブ)価格決定の新手法(a new method to determine the value of derivatives)」に対して、オプション評価モデルであるブラック-ショールズ方程式の開発と理論的証明[127]
マイロン・ショールズ カナダの旗 カナダ
1998年 アマルティア・セン インドの旗 インド 所得分配の不平等にかかわる理論や、貧困と飢餓に関する研究についての貢献[128]
1999年 ロバート・マンデル カナダの旗 カナダ さまざまな通貨体制における金融・財政政策(「マンデル・フレミング・モデル」)と、「最適通貨圏」についての分析[129]
2000年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
2000年 ジェームズ・ヘックマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミクロ計量経済学において、個人と家計の消費行動を統計的に分析する理論と手法の構築[130]
ダニエル・マクファデン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2001年 ジョージ・アカロフ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 情報の非対称性を伴った市場分析[131]
マイケル・スペンス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジョセフ・E・スティグリッツ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2002年 ダニエル・カーネマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
(イスラエルの旗 イスラエル) 行動経済学と実験経済学という新研究分野の開拓への貢献[132]
バーノン・スミス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2003年 ロバート・エングル アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 時系列分析手法の確立[133]
クライヴ・グレンジャー イギリスの旗 イギリス
2004年 フィン・キドランド ノルウェー 動学的マクロ経済学への貢献
:経済政策における動学的不整合性の指摘と、リアルビジネスサイクル理論の開拓[134]
エドワード・プレスコット アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2005年 ロバート・オーマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イスラエルの旗 イスラエル ゲーム理論の分析を通じて対立と協力の理解を深めた功績[135]
トーマス・シェリング アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2006年 エドムンド・フェルプス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マクロ経済政策における異時点間のトレードオフに関する分析[136]
2007年 レオニード・ハーヴィッツ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
(ロシアの旗 ロシア) メカニズムデザインの理論の基礎を確立した功績[137]
エリック・マスキン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロジャー・マイヤーソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2008年 ポール・クルーグマン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 貿易のパターンと経済活動の立地に関する分析の功績[138]
2009年 エリノア・オストロム アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 経済的なガヴァナンスに関する分析[139]
オリヴァー・ウィリアムソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2010年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
2010年 ピーター・ダイアモンド アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 労働経済におけるサーチ理論に関する功績[140]
デール・モーテンセン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
クリストファー・ピサリデス イギリスの旗 イギリス
(キプロスの旗 キプロス)
2011年 トーマス・サージェント アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 マクロ経済の原因と結果をめぐる実証的な研究に関する功績[141]
クリストファー・シムズ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2012年 アルヴィン・ロス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 安定配分理論と市場設計の実践に関する功績[142]
ロイド・シャープレー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2013年 ユージン・ファーマ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 資産価格の実証分析に関する功績[143]
ラース・ハンセン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ロバート・シラー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2014年 ジャン・ティロール フランスの旗 フランス 市場の力と規制の分析に関する功績[144]
2015年 アンガス・ディートン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス 消費、貧困、福祉の分析に関する功績[145]
2016年 オリバー・ハート イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 契約理論に関する功績[146]
ベント・ホルムストローム フィンランド
2017年 リチャード・セイラー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 行動経済学に関する功績[147]
2018年 ウィリアム・ノードハウス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 気候変動を長期的マクロ経済分析に統合した功績
ポール・ローマー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 技術革新を長期的マクロ経済分析に統合した功績
2019年 アビジット・V・バナジー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
(インドの旗 インド出身) 世界の貧困を改善するための実験的アプローチに関する功績
エスター・デュフロ フランスの旗 フランス
マイケル・クレーマー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2020年代
年 受賞者名 国籍(出身国) 受賞理由
2020年 ポール・ミルグロム アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オークション理論の改良と新しいオークション形式の発明
ロバート・バトラー・ウィルソン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2021年 デヴィッド・カード カナダの旗 カナダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 労働経済学への実証的貢献
ヨシュア・アングリスト アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イスラエルの旗 イスラエル 因果関係の分析への方法論的貢献
グイド・インベンス オランダの旗 オランダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2022年 ベン・バーナンキ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 銀行と金融危機の研究に関する功績
ダグラス・W・ダイアモンド アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フィリップ・ディビッグ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
2023年 クラウディア・ゴールディン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 労働市場における女性の成果の研究に関する功績[148]
2024年 ダロン・アセモグル トルコの旗 トルコ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 制度の形成過程と経済的繁栄への影響の研究に関する功績
サイモン・ジョンソン(英語版) イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ジェームズ・A・ロビンソン イギリスの旗 イギリス
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ 他の通称には「ノーベル記念経済学賞」[1]、「ノーベル経済科学賞」[4]など。
^ 正式なノーベル賞とは言えないとされ、ノーベル賞のウェブサイトでもそのように記されている[5]。
^ 2005年以前の賞名英訳についてはen:Nobel Memorial Prize in Economic Sciences#Alternative namesを参照。
^ 「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン中央銀行賞」[19]
^ 「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン銀行経済学賞」[20]
^ a b 「アルフレド・ノーベル記念スウェーデンリクスバンク経済学賞」[12]
^ 「アルフレッド・ノーベルを記念するスウェーデン国立銀行による経済科学賞」[21]
出典
^ a b 田代秀敏 「追悼:ゲーム理論の天才、ジョン・ナッシュ氏死去」 週刊エコノミスト 2015年6月16日
^ a b c 矢沢サイエンスオフィス 2010, p. 5.
^ a b “The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel”. 2016年5月5日閲覧。
^ 豊田敬「不平等解析:ローレンツ順序」『経営志林』第47巻第4号、法政大学経営学会、2011年1月、33-40頁、doi:10.15002/00009557、hdl:10114/8782、ISSN 02870975、NAID 120005400068。
^ a b Not a Nobel Prize, “Nomination and Selection of Laureates in Economic Sciences”, Nobelprize.org, (2013) 2014年2月24日閲覧。
^ a b c d e “「ノーベル経済学賞」は「ノーベル賞」ではない!?”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞. 2020年4月15日閲覧。
^ “Ekonomipriset 2016 – Pressmeddelande – Nobelprize.org”. 2016年10月15日閲覧。
^ “Nobelprize.org”. 2016年10月15日閲覧。
^ 日本経済新聞社 2001, p. 142.
^ a b ウィリアム・ブレイト & ロジャー・W. スペンサー 1988, p. 7.
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マリル・ハートマッカーティ 著、田中浩子 訳『ノーベル賞経済学者に学ぶ現代経済思想』日経BP社、2002年。ISBN 978-4822242763。
矢沢サイエンスオフィス『21世紀の知を読みとく ノーベル賞の科学 【経済学賞編】』技術評論社、2010年。ISBN 978-4774141763。
関連項目
ジョン・ベイツ・クラーク賞
グンナー・ミュルダール – スウェーデンの経済学者、政治家。経済学賞の設立を積極的に後押しした。自身も1974年に経済学賞を受賞した。
外部リンク
ノーベル財団の公式サイト (英語)
表話編歴
ノーベル賞
表話編歴
ノーベル賞 ノーベル経済学賞 (2001年-2025年)
カテゴリ: ノーベル賞スウェーデンの賞経済学の賞スウェーデン王立科学アカデミー呼称問題人名を冠した賞ノーベル経済学賞
最終更新 2024年10月14日 (月) 10:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』 -
ノーベル経済学賞に米MITのアセモグル教授ら3氏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD1414B0U4A011C2000000/『2024年10月14日 18:54 (2024年10月14日 19:14更新)
2024年のノーベル経済学賞に決まった3氏(TT News Agency・AP)
スウェーデン王立科学アカデミーは14日、2024年のノーベル経済学賞を米マサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アセモグル教授、サイモン・ジョンソン教授と米シカゴ大学のジェイムズ・ロビンソン教授に授与すると発表した。授賞理由は「社会制度が国家間の繁栄の違いに与える影響の研究」。
冷戦期の東西ドイツや北朝鮮と韓国のように、もともと同じ国家であっても導入した社会制度の違いによって経済成長に大きな差が出ることがある。アセモグル氏ら3氏は、欧州諸国がアフリカなどの植民地で実施した政策の違いが、これらの国々の経済発展に与えた影響について分析した。
アセモグル氏はトルコ出身。05年にはノーベル経済学賞の登竜門とされる米国経済学会のジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞している。近年は人工知能(AI)に対する懐疑的な発言でも注目されている。ロビンソン氏との共著「国家はなぜ衰退するのか」(邦訳13年)やジョンソン氏との共著「技術革新と不平等の1000年史」(同23年)など、一般向けの書籍も執筆している。
賞金の1100万クローナ(約1億6千万円)は3氏で分け合う。授賞式は12月10日にスウェーデンのストックホルムで開く。
【関連記事】
・民主主義や自由への攻撃、構造的な問題 アセモグル氏
・技術革新と不平等の1000年史(上・下) ダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソン著
・自由の命運(上・下) D・アセモグル、J・A・ロビンソン著』国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源
https://http476386114.com/2023/11/13/%e5%9b%bd%e5%ae%b6%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e8%a1%b0%e9%80%80%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%e3%80%80%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e3%83%bb%e7%b9%81%e6%a0%84%e3%83%bb%e8%b2%a7%e5%9b%b0%e3%81%ae%e8%b5%b7/ -
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルフレッド・ノーベル
Alfred Nobel生誕 Alfred Bernhard Nobel
1833年10月21日
スウェーデンの旗 スウェーデン・ストックホルム
死没 1896年12月10日(63歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国・サンレーモ
墓地 北緯59度21分24.52秒 東経18度1分9.43秒
国籍 スウェーデンの旗 スウェーデン
研究分野 化学者、実業家
主な業績 ダイナマイト、ノーベル賞
署名補足
墓地はストックホルム、Norra begravningsplatsen
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン語: Alfred Bernhard Nobel ˈǎlfrɛd nʊˈbɛlː, 1833年10月21日 – 1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。
ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。
遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。ディナミット・ノーベル(英語版)やアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)。
生涯
スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家のイマヌエル・ノーベル(英語版) (1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた[1]。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった[1][2]。父方の先祖にスウェーデンの科学者オラウス・ルドベック (1630–1702) がいる[3]。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。
事業に失敗した父は1837年、単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた[4]。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった[1]。学校に通っていたのはストックホルムでの1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった[2]。
ノーベルのデスマスク
化学の家庭教師として雇われたのは化学者ニコライ・ジーニン(英語版)である。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している(アスカニオ・ソブレロは彼の生徒の一人)。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家ジョン・エリクソンに師事している。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許だった[2][5][1]。クリミア戦争 (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は1859年に再び破産する[1]。父は工場を次男のルドヴィッグ・ノーベル(英語版) (1831–1888) に任せ、アルフレッドと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。アルフレッドは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。アルフレッド本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことである(テオフィル=ジュール・ペルーズの下で共に学んだアスカニオ・ソブレロが発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した[1]。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。
1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡[2]。アルフレッド本人も怪我を負う。この事故に関してはアルフレッド本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した[2]。また合成者のアスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero) に対し充分な対価を支払った。1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追及はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はアルフレッドにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。
1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする[1]。1875年、ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイトを発明。1887年にはコルダイトの元になったバリスタイト(英語版)の特許を取得している[1]。
1878年、兄ルドヴィッグとロベルト(英語版)と共に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社(英語版)を設立。この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。
1884年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。また同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。
1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。アルフレッドは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。
1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。
1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く[1]。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、アルフレッドはストックホルムのNorra begravningsplatsen(北の墓地)に埋葬されている。
私生活
ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた[2]。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある[1]。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。最初の相手はロシアの娘アレクサンドラだが、彼のプロポーズを拒絶した。1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にアルトゥール・フォン・ズットナー(ドイツ語版)という婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。
ノーベルが晩年に使用していたスウェーデンのマナー・ハウス。ボフォース社が所有
また同じく1876年、当時20歳のゾフィー・ヘス(Sofie Hess)と出会い、交流が始まる[2]。ゾフィーとの関係は18年間続き[2]、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。ゾフィーはこの子供の父親と結婚。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功したためすべてが残っており、またノーベル財団により1955年から公開もされている。ゾフィーはこの手紙の売却で巨万の富を得ている。正式な高等教育を受けていないが、ノーベルは母語であるスウェーデン語に加えて、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語が堪能だった。また少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンとシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、それらのほとんどは晩年に破棄された。最晩年に書き上げた戯曲「ネメシス」という作品はベアトリーチェ・チェンチを主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。残っていたものをベースとして2003年、スウェーデンで2言語版(スウェーデン語とエスペラント)が出版され、その後スロベニア語やフランス語に翻訳された[6]。2010年にはロシアで新たな2言語版(ロシア語とエスペラント)が出版されている。
発明
詳細は「ダイナマイト」および「ゼリグナイト」を参照
ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel’s Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイト(英語版)も発明している。
遺産とノーベル賞
アルフレッド・ノーベルの遺言書(1895年11月27日署名)
詳細は「ノーベル賞」を参照
1888年4月12日、カンヌを訪れていた兄ルドヴィッグが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり[1]、見出しには「死の商人、死す」とあった[1]。さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれていた[7]。ノーベルにとってダイナマイトが戦争で使われることは想定内であり、むしろ破壊力の大きな兵器は戦争抑止力として働くと予想していたが、実際には高性能爆薬の普及により戦争の激化を招いたことで世間的には「死の商人」というイメージが広まっていた[8]。これらのことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという[9][1][10]。1895年11月27日、財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てている。これは当時の為替レートで168万7837ポンドに相当する[注釈 1][11][12][13]。ノーベルの莫大な遺産の相続をめぐって、兄弟やその子達が当然のようにトラブルを起こしたために指名された相続執行人は苦労した。ノーベル本人は1890年に起こした訴訟の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたために遺書の内容には矛盾点が多く、このことも相続執行人を悩ませた。
遺言で賞を授与するとされた分野のうち最初の3つは物理学、化学、医学または生理学だった。4つめは「理想的な方向性の (in an ideal direction)」文学とされ、5つ目は軍縮や平和推進に貢献した個人や団体に贈るとされている。数学分野の賞は含まれていなかった[14](アーベル賞も参照)。ノーベル本人はこの賞に名はつけていないが、現在この賞は「ノーベル賞」と呼ばれている。
文学賞については “in an ideal direction”(スウェーデン語では i idealisk riktning)の解釈が問題となった。これについてスウェーデン・アカデミーは “ideal” を「理想主義的」(idealistic、idealistisk)と解釈したため、ヘンリック・イプセンやレフ・トルストイらが受賞できない結果となった。その後解釈は修正され、理想主義的ではないダリオ・フォやジョゼ・サラマーゴといった作家も受賞するようになった。
ノーベルは遺言状の内容について生前誰にも相談しなかったため、物理学賞や化学賞についても選考方針に解釈の余地があった。遺言状には、物理学における発明・発見、化学における発見・改良に賞を与えると記されていた。つまり工学的貢献も念頭にあったと見られるが、科学と工学の区別については何も記されていなかった。ノーベルが選考者に指定した組織は科学寄りだったため、それらの賞は工学者や発明家ではなく科学者に与えられるようになった。
2001年、ノーベルの兄弟のひ孫 Peter Nobel (b. 1931) がスウェーデン国立銀行に対して「アルフレッド・ノーベルを記念」した経済学者への賞を上述の5部門とは区別するよう依頼した。このことに現れているように、ノーベル経済学賞を「ノーベル賞」に含めるか否かについては議論がある[15]。
その他
現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っている。特にドイツのダイナミット・ノーベル社は、対戦車兵器パンツァーファウスト3やケースレスライフルH&K G11用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っている。日本の菓子製造会社で大阪市生野区に本社があるノーベル製菓はノーベルの名を冠しているが、ノーベル本人とは全くの無関係である。1949年に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した際にノーベルの登録商標を取得、1959年に社名をノーベル製菓に変更しているためで、ノーベル製菓の初代社長が湯川秀樹と交友関係であったことから単にノーベル賞に因んだ社名を付けただけである。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ SEK:GBPの為替レートは18.5:1だった。
出典
^ a b c d e f g h i j k l m Britannica, Alfred Nobel
^ a b c d e f g h Encyclopedia of Modern Europe: Europe 1789-1914: Encyclopedia of the Age of Industry and Empire, “Alfred Nobel”, 2006 Thomson Gale.
^ Schück, Henrik, Ragnar Sohlman, Anders Österling, Carl Gustaf Bernhard, the Nobel Foundation, and Wilhelm Odelberg, eds. Nobel: The Man and His Prizes. 1950. 3rd ed. Coordinating Ed., Wilhelm Odelberg. New York: American Elsevier Publishing Company, Inc., 1972, p. 14. ISBN 0-444-00117-4 (10). ISBN 978-0-444-00117-7 (13). (Originally published in Swedish as Nobelprisen 50 år: forskare, diktare, fredskämpar.)
^ “The Man Who Made It Happen — Alfred Nobel”. 3833. 2012年5月3日閲覧。
^ Carlisle, Rodney (2004). Scientific American Inventions and Discoveries, p. 256. John Wiley & Songs, Inc., New Jersey. ISBN 0-471-24410-4.
^ Alfred Nobel (2008). Némésis: tragédie en quatre actes. Belles lettres. ISBN 978-2-251-44342-3 2011年8月19日閲覧。
^ Golden, Frederic (16 October 2000). “The Worst And The Brightest”. Time
^ 『当った予言、外れた予言』ジョン・マローン著 文春文庫 ISBN 4167308967
^ フランス通信社 死の商人から平和の象徴へ、「ノーベル賞」創設秘話 * 2010年10月04日 17:19 発信地:ストックホルム/スウェーデン
^ The History Channel, Modern Marvels, episode 038 (originally aired 21 June 1999)
^ Lobell, Håkan (2010). Historical Monetary and Financial Statistics for Sweden Exchange rates,prices, and wages,1277–2008. S V E R I G E S R I K S B A N K. p. 291. ISBN 978-91-7092-124-7
^ Abrams, Irwin (2001). The Nobel Peace Prize and the Laureates. Watson Publishing International. p. 7. ISBN 0-88135-388-4
^ Fant, Kenne (Ruuth, Marianne, transl.) (1991). Alfred Nobel: a biography. New York: Arcade Publishing ISBN 1-55970-328-8, p. 327
^ “No Nobel Prize for Math”. snopes.com. 2009年11月20日閲覧。
^ “Alfred Nobels familie tar avstand fra økonomiprisen”
参考文献
Nobel, Alfred Bernhard in the 1911 Encyclopædia Britannica
Schück, H, and Sohlman, R., (1929). The Life of Alfred Nobel. London: William Heineman Ltd.
Alfred Nobel US Patent No 78,317, dated 26 May 1868
Evlanoff, M. and Fluor, M. Alfred Nobel – The Loneliest Millionaire. Los Angeles, Ward Ritchie Press, 1969.
Sohlman, R. The Legacy of Alfred Nobel, transl. Schubert E. London: The Bodley Head, 1983 (Swedish original, Ett Testamente, published in 1950).
Jorpes, J.E. Alfred Nobel. British Medical Journal, Jan.3, 1959, 1(5113): 1–6.
Sri Kantha, S. Alfred Nobel’s unusual creativity; an analysis. Medical Hypotheses, April 1999; 53(4): 338–344.
Sri Kantha, S. Could nitroglycerine poisoning be the cause of Alfred Nobel’s anginal pains and premature death? Medical Hypotheses, 1997; 49: 303–306.
ディスカバリーチャンネル「ミッションX ダイナマイトの発明」
関連項目
石油タンカー
インペリアル・ケミカル・インダストリーズ
外部リンクウィキメディア・コモンズには、アルフレッド・ノーベルに関連するカテゴリがあります。
Alfred Nobel – Man behind the Prizes
Biography of Alfred Nobel
Nobelprize.org
“The Nobels in Baku” in Azerbaijan International, Vol 10.2 (Summer 2002), 56–59.
The Nobel Prize in Postage Stamps
『ノーベル』 – コトバンク
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平和賞授賞理由全文 「核のタブー」確立に貢献と評価
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB11CUX0R11C24A0000000/『2024年10月11日 21:10
ノーベル平和賞の受賞が被団協に決まり、記者会見場で涙ぐむ長崎原爆被災者協議会の田中重光会長(11日午後8時12分、長崎市)=共同
ノーベル賞委員会が11日発表した平和賞授賞理由の全文は次の通り。ノルウェーのノーベル賞委員会は2024年のノーベル平和賞を日本の団体「日本被団協」に授与することを決めた。ヒバクシャ(被爆者)としても知られる広島、長崎の原爆生存者による草の根運動であり、核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が二度と使われてはならないことを目撃証言を通じて示してきたことが授賞理由だ。
1945年8月の原爆投下を受けて世界的な運動が巻き起こり、そのメンバーらは核兵器の使用がもたらす人道上の破滅的な結果について認識を高めるため、たゆまぬ努力を続けてきた。次第に核兵器使用は道徳的に許されないと烙印(らくいん)を押す力強い国際的な規範が醸成された。この規範は「核のタブー」として知られるようになった。
広島、長崎(の原爆被害)を生き抜いた被爆者の証言は、こうしたより大きな文脈において唯一無二のものである。
これらの歴史の証人たちは個人の体験談から、自らの経験に基づく教育キャンペーンをつくり出し、核兵器の拡散と使用に対する緊急の警告を発することにより、世界中で核兵器に対する幅広い反対運動を生み出し、定着させることに貢献してきた。被爆者はわれわれが言葉で言い表せないことを表し、考えられないことを考え、核兵器によってもたらされる理解し難い痛みと苦しみを何とか理解する助けとなっている。
ノーベル賞委員会は約80年間戦争で核兵器が使われていないという、励みとなる一つの事実を認めたい。日本被団協と被爆者の代表らによる並外れた努力は、核のタブーの確立に大きく貢献してきた。それゆえ、今日、核兵器使用に対するこのタブーが圧力にさらされていることは憂慮すべきことだ。
核兵器保有国は兵器の近代化と改良を進めている。新たな国々が、核兵器を手に入れようと準備を進めているように見える。そして、進行中の戦争で核兵器を使用するという脅迫も行われている。人類の歴史で今こそ、核兵器とは何かを思い起こす価値がある。それは世界がかつて経験した最も破壊的な兵器だ。
米国の2発の原爆によって、広島と長崎の推定12万の市民が殺害されてから来年で80年を迎える。それに匹敵する数の人々がその後の数カ月、数年間にやけどや放射線障害で死亡した。現代の核兵器ははるかに大きな破壊力を持っている。それらの核兵器は数百万もの人々を殺害可能で、気候にも破滅的な影響を与える。核戦争はわれわれの文明を破壊しかねない。
広島と長崎の地獄を生き延びた人々の運命は長きにわたり隠され、無視されてきた。56年、地域の被爆者団体と、太平洋で行われた核実験の被害者が日本原水爆被害者団体協議会を結成した。日本語での略称は日本被団協。日本で最も大きく、影響力のある被爆者団体となった。
アルフレド・ノーベルのビジョンの核心は、献身的な人々が変化をもたらすことができるという信念だった。ノーベル賞委員会は今年の平和賞を日本被団協に授与することで、肉体的苦しみやつらい記憶を、平和への希望や取り組みを育むことに生かす選択をした全ての被爆者に敬意を表したい。
日本被団協は何千件もの目撃証言を提供し、決議や公式なアピールを発表し、国連やさまざまな平和会議に毎年代表団を派遣して、核軍縮の差し迫った必要性を世界に訴えてきた。
いつか歴史の目撃者としての被爆者はわれわれの前からいなくなる。しかし、記憶を守る強い文化と継続的な関与により、日本の新たな世代は被爆者の経験とメッセージを引き継いでいる。彼らは世界中の人々を鼓舞し、教育している。そうすることで彼らは、人類の平和な未来の前提条件である核のタブーを維持することに貢献している。
24年の平和賞を日本被団協に授与する決定は、アルフレド・ノーベルの遺志にしっかりと根ざしている。今年の賞は、委員会がこれまでに核軍縮や軍備管理で授与してきた平和賞のそうそうたるリストに加わるものだ。
24年の平和賞はアルフレド・ノーベルの、人類にとって最大の利益をもたらす努力を表彰するという願いにかなったものだ。
オスロ、2024年10月11日
(共同)
【関連記事】
・ノーベル平和賞に日本被団協 「核なき世界実現へ努力」
・核兵器の脅威訴え続けた70年 被爆実相に光当てる平和賞
・被爆地「世界情勢に警鐘」 日本被団協にノーベル平和賞
・日本被団協とはどんな団体? 56年に長崎で結成 』 -
ノーベル平和賞に日本被団協 「核なき世界実現へ努力」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB07B700X01C24A0000000/『2024年10月11日 18:04 (2024年10月11日 23:14更新)
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鶴岡路人さん他3名の投稿
鶴岡路人村上芽福井健策【ロンドン=湯前宗太郎】ノルウェーのノーベル賞委員会は11日、2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与すると発表した。日本被団協は広島と長崎の被爆者の全国組織で、原爆投下の11年後の1956年に結成された。核兵器の非人道性を訴える草の根運動が評価された。
【関連記事】日本被団協とはどんな団体? 56年に長崎で結成
日本の平和賞受賞は1974年の佐藤栄作元首相以来、50年ぶり。佐藤元首相は非核三原則の宣言や核拡散防止条約(NPT)に署名したことなどが評価された。
ノーベル賞委員会のフリードネス委員長は日本被団協への授賞理由として「核兵器のない世界を実現するための努力」と「核兵器が二度と使われてはならないことを目撃証言を通じて示してきたこと」を挙げた。
日本被団協は約70年にわたり、核兵器の廃絶を世界に訴えてきた。被爆体験の証言や原爆の写真展の開催など世界各地で地道な活動を継続。核兵器の開発や保有などを法的に禁止する核兵器禁止条約の交渉では、日本被団協が中心となり約300万人分の署名を集めて採択を後押しした。
被団協のノーベル平和賞受賞が決まり、取材に応じる被爆者の川野浩一さん(11日午後、長崎市)=共同
核兵器禁止条約は2021年1月に発効した。フリードネス氏は、被爆者の地道な努力によって核兵器の使用は道徳的に許されないとする「核のタブー」という国際規範が醸成されたと指摘した。「全ての被爆者に敬意を表したい」と語った。
授賞発表を受け、日本被団協の箕牧智之代表委員は「引き続き核兵器廃絶、恒久平和の実現を世界の皆さんに訴えていきたい」と話した。「廃絶に一段と弾みがついた。口で訴えるだけでなく、大きな賞を頂くことで発言力も一段と上がる」とも強調した。
09年には「核兵器なき世界」を掲げた米国のオバマ元大統領も平和賞を受賞した。ノーベル賞委員会は17年にも非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に平和賞を授与するなど核廃絶・核軍縮の運動を後押ししてきた。
ただ、22年2月のロシアのウクライナ侵略以降、ロシアは核の威嚇を繰り返している。中国は核戦力を強化し、北朝鮮も核開発の手を緩めていない。足元では事実上の核保有国であるイスラエルと核開発を継続するイランとの対立が深刻化する。
核軍縮を目指す国際的な取り組みも停滞している。22年8月には15年に続き、NPT再検討会議が最終文書を採択できずに決裂した。
フリードネス氏は「核兵器使用に対するタブーが圧力にさらされていることは憂慮すべきことだ」と警鐘を鳴らした。
授賞式は12月10日にオスロで開く。賞金は1100万スウェーデンクローナ(約1億6000万円)。24年の平和賞候補には197人と89団体の推薦があった。
2024年ノーベル平和賞は日本被団協の受賞が決まった=ノーベル平和賞の公式X(旧ツイッター)の投稿から
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※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。鶴岡路人のアバター
鶴岡路人
慶應義塾大学総合政策学部 准教授
コメントメニュー分析・考察 まずは日本被団協のノーベル平和賞の受賞、おめでとうございます。核軍縮・核廃絶の機運が世界で停滞するなかで、特に意義がある。ただ、この記事でも一部触れられているように、ノーベル委員会が強調する授与理由が注目される。核兵器使用時の惨状を見せつけることで、「核使用のタブー化(nuclear taboo)」という国際的規範の成立に貢献した、この規範の土台が揺らぐなかで、いまそれを強調する必要があるという論理だ。核廃絶や核軍縮とは若干違う観点であることは興味深い。その意味でノーベル委員会は現実主義的で、核兵器を「なくす」よりも「使わせない」ことがより喫緊の課題だという見方が示されたといえる。
2024年10月11日 19:08
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188村上芽のアバター
村上芽
日本総合研究所創発戦略センター チーフスペシャリスト
コメントメニューひとこと解説 平和賞の候補には、公的な機関や政治家、民間では教育機関なども含め、かなり多様な団体や個人があがります。その中で、1956年の設立から現在に続く被団協の活動に、今年という年にスポットライトが当たったこと、ノーベル賞委員会もやるなあ、とまず感じました。一方、被団協の活動をよく知っている人がどれだけいるか、自分も含め、これを機会に増えるであろう報道を通じて学び直す義務があると感じました。
2024年10月11日 18:46
いいね
208福井健策のアバター
福井健策
骨董通り法律事務所 代表パートナー/弁護士
コメントメニュー分析・考察 今夏は、とても久しぶりに長崎の原爆資料館を訪れました。さまざまな国の人々が、熱心に展示に見入っていました。
各地の戦争が拡大を続け、そこで指導者たちによって核の使用や原発への攻撃が当たり前のように脅しの手段にされた年。この出口も希望もない核のチキンレースが加速した年に、68年間、営々と核兵器の悲惨さを世界で訴え続けた被団協の皆さんが受賞されたこと。皆さんが仰るとおり、これはゴールではなく、スタートですね。
心から、おめでとうございます。
2024年10月11日 19:14 (2024年10月11日 21:31更新)
いいね
133小玉祥司のアバター
小玉祥司
日本経済新聞社 編集委員
コメントメニュー別の視点 ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用条件の変更を提案して核兵器の使用を示唆し、イスラエルの閣僚が核兵器使用に言及する今だからこそ、被団協へのノーベル平和賞は意義がある授与だと思います。50年前の佐藤栄作首相への平和賞が非核三原則が対象だったことと併せて、日本の立ち位置を考える機会になるのではないでしょうか。
2024年10月11日 19:09 』 -
『Copilotの回答:
回答を生成しています…
Copilot が送信しました:
韓国では、ノーベル賞受賞者を待ち望んで設置された「空の台座」がいくつかあります。
例えば、浦項工科大学校のキャンパス中央広場には、ノーベル賞受賞者が出た際に胸像を置くための空の台座があります 1 2。ハン・ガン氏がノーベル文学賞を受賞したことで、これらの台座に彼の胸像が設置される可能性が高いです。これにより、韓国のノーベル賞に対する期待と努力が実を結んだことが象徴されるでしょう。
このニュースは韓国にとって非常に誇らしい出来事ですね!他に気になることがあれば教えてください。』
https://news.livedoor.com/article/detail/7031742/
https://gendai.media/articles/-/84939?page=4
※ しかし、「工科大学」だとすれば、「文学部」なんかは、設置されて無いと思われる…。
※ 本当に、彼女の「銅像」を、設置することになるのか…。
※ そして、キャンパス中央広場を通る「工科大学生達」は、「学術精神」を「鼓舞される」ことになるのか…。
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光州事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “光州事件” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL (2023年5月)曖昧さ回避 「光州学生事件」とは異なります。
光州事件
光州事件の中心地となった全羅南道旧道庁(朝鮮語版)前広場。
目的 クーデターへの抗議
発生現場 大韓民国の旗 韓国全羅南道光州市(現:光州広域市)
期間 1980年5月18日-5月27日
死者 154人ないし198人(軍発表数字)[1]
負傷者 3028人
光州事件
各種表記
ハングル: ????
5(?)・18(??) ??????
漢字: 光州事件
5(五)・18(一八) 光州民衆抗争
発音: クァンジュ サゴン
オ イルパル クァンジュ ミンジュン ハンジェン
日本語読み: こうしゅうじけん
ご いちはち こうしゅう みんしゅう こうそう
RR式: Gwangju sageon
O ilpal Gwangju minjung hangjaeng
MR式: Kwangju sag?n
O ilp’al Kwangju minjung hangjaeng
英語: May18 Kwangju(Gwangju) Uprising
テンプレートを表示光州事件[2][注釈 1](こうしゅうじけん、クァンジュじけん)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現:光州広域市)を中心に起きた市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起である[1][2]。
第二次大戦後の1948年建国以降発生した「済州島四・三事件」や「保導連盟事件」と同様に、韓国軍が自国民を大量虐殺した事件の一つであり、軍による一斉射撃などで一般市民に多数の死者を出した[1][2]。この光州事件では市民側の目的である民主化達成と軍事政権を倒すことはできなかったが、7年後、1987年に軍事政権側が「6・29民主化宣言」を出し、言論の自由と大統領の直接選挙を認めた[1]。
前史
1979年、朴正熙大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていた。しかし、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴正煕に引き立てられた中堅幹部勢力「ハナフェ(ハナ会・一心会)」との対立が表面化した。
1979年12月12日、ハナフェの中心人物である保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を朴正煕暗殺事件の共犯容疑で逮捕し、ハナフェを中心とした「新軍部」が軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。
朴正煕の後任の大統領となった崔圭夏は大統領代行就任直後より早期の憲法改正と民主化を約していたが、就任直後で軍部を掌握できなかったためにこれを黙認せざるを得なかった。
粛軍クーデター後も全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥率いる新軍部の主導の下、1980年5月17日に全国に戒厳令が布告され(5・17非常戒厳令拡大措置)、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した[1]。
金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。
また、デモ鎮圧の急先鋒に立つ特殊戦司令部空挺部隊も、韓国軍創設以来有数のエリート部隊として誇れたが、昨年戒厳令発動以来ほぼ毎日過酷な「忠正訓練」(暴動鎮圧を特化する訓練項目)を課せられた上で暴動対処などの名目であちこちにこき使われ、しかもそのような苦労事自体も「まるで全斗煥の私的親衛隊のように動いていた」としてよく揶揄されたため、いわゆる現場と上層部の板挟みになっていた兵士たちの鬱憤がほぼ限界に達していた。
概要
5月18日、光州市では戒厳令に抗議する学生や市民によるデモが起き、デモを鎮圧すべく投入された軍の空挺部隊が大学を封鎖すると、封鎖に抗議した学生と空挺部隊の衝突が自然発生的に起きた。
軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、鎮圧棒による暴力や一斉射撃などの残虐行為を繰り返し行い、射殺された市民が多数出た[4]ため、デモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡大した。
また、翌19日にはデモの主体もそれまでの学生から激昂した市民に変わっていき、21日には市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦したほか、郷土予備軍の武器庫を奪取して武装してこれに対抗し、軍との銃撃戦で少なくとも54人が死亡したほか、500人以上が負傷した[1]末に全羅南道道庁を占領し、戒厳軍を一時的に市外に後退させたが、戒厳軍は光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
韓国政府は抵抗する光州市民を「スパイに扇動された暴徒」であるとした[5]。韓国メディアは光州で暴動が起きていることを報じた[6]。
海外メディアは、ニューヨーク・タイムズのヘンリー・スコット・ストークス東京支局長を始めとして、金大中は「処刑されるべきではない」との社説を掲げ「民主化運動の闘士」であるとの後押しを行った[7]。
また、ドイツ公共放送(ARD)東京在住特派員であった西ドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーター[8]が事件を報道した。
地元の有力者などで構成された市民収拾対策委員会は戒厳軍側と交渉するも妥結に至らなかった。
市民たちは武器を手に入れると韓国軍を相手に銃撃戦を行い、全羅南道道庁を占領した[6]。
指導部は闘争派と協商派に分かれて分裂した。
5月26日、市民軍は記者会見でアメリカが介入すれば流血事態は阻止できると主張するとともに、同志は死ぬ準備が出来ていると発表した[9]。
結局、一部闘争派を残して自主武装解除を行い、この情報から市民に占拠された全羅南道庁に対する鎮圧命令が下った。
5月27日、市民軍の先頭に立って武器倉庫を攻撃したユン・サンウォン[9]らが射殺されたが、韓国軍・警察隊も死傷者を出しながら鎮圧作戦は終了した。
最終的な犠牲者の数について、軍側は144人が死亡したと発表したが(1980年5月31日戒厳軍司令官発表)、実際の死者数はその何倍にも上ると市民側は主張している[1]。
光州市に投入された総兵力数は2万5千人に上った[6]。
1980年9月17日、金大中に死刑判決が下された[10]。
当時、事件は「北朝鮮の扇動による暴動」とされたが、粘り強い真相究明の動きの結果、1997年に国の記念日となり、2001年には事件関係者を民主化有功者とする法律が制定[11]。
韓国の近代史でもっとも大きな事件の一つ、かつ韓国における民主主義の分岐点となった1987年6月の6月民主抗争の原動力となった[11][6]。
2004年1月29日、内乱陰謀で死刑判決が下された金大中に対し無罪が宣告された(後述)[12]。
2010年代以降の動き
2015年8月、金大中を当時支持していた元ニューヨークタイムズ東京支局長のストークスは、産経新聞の取材に対し、「光州事件は金大中が起こした自作自演の『暴動』」「大統領になることを狙って暴動を仕掛けた」と述べた[13]。
2010年代においても韓国では当時の韓国政府と同様に北朝鮮の関与があったとする複数の報道がなされ、それに対する非難の声も多く上がった(後述)。
しかし、2017年1月に機密解除されたアメリカ中央情報局(CIA)の機密文書では北朝鮮の関与を否定するなど、事件の原因について対立する説がなされている[14][5][15]。
2017年8月、ドイツ公共放送連盟東京特派員のユルゲン・ヒンツペーターらをモデルにして事件を描いた韓国映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』が公開。大ヒットを記録し、同年に最も多く観られた韓国映画となった[16]。
2021年5月27日、朝日新聞は、同紙の大阪本社写真部員と社会部員の2名の記者が事件当時、光州で撮影したカラー写真を含む写真フィルムが大量に見つかったと報じた[17]。
後の民主化への影響
5.18民衆抗争追慕塔
5.18記念公園に立つ祈念碑
当時の韓国国内では、全斗煥が司令官を務める保安司令部がマスコミなどの情報も全て統制していたため、光州事件の実態について国民に説明される事はなかった。
しかし光州市民らによって徐々にその悲惨な実態が明るみに出るにつれ、反独裁民主化運動の理念的基礎となっていった。
この時期の民主化運動世代は光州世代とも呼ばれ、彼らの活動にも大きな影響を及ぼしている。
この流れは、大統領直接選挙制を求めた大規模な民主化運動である六月抗争(1987年)に繋がっている。
また全斗煥や盧泰愚など、運動を弾圧した新軍部勢力の中心人物の多くが慶尚道出身であったため、全羅道における反慶尚道感情が強化され、民主化後の韓国政治を左右する地域対立を悪化させる一因となったことを指摘する声もある[18]。
事件中、韓国軍の作戦統制権を持っていた在韓米軍のジョン・A・ウィッカム司令官が韓国軍部隊の光州投入を承認し、アメリカ政府も秩序維持を理由にこれを黙認したため、アメリカへの批判が起こり、韓国人の対米観が大きく見直されることとなった[19]。
盧泰愚大統領の時代には、事件当時の鎮圧軍司令官たちを追及する聴聞会が開かれた。また「光州民主化運動関連者補償等に関する法律」が制定され、犠牲者・負傷者に対する補償金が支給された。
金泳三大統領は就任後に、光州事件を「五・一八民主化運動」と規定する談話を発表し、各種記念事業の実施を宣言した。
1995年には韓国国会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」(五・一八特別法)及び「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件及び軍事反乱などに対する公訴時効を停止した。
1997年4月、大法院はこの特別法を根拠として、全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領に実刑判決及び追徴金を宣告した(同年12月に金大中大統領の特別赦免により釈放)。
金泳三、金大中、盧武鉉とつづく文民政権で、光州は民主化運動の国家的聖地となった。
現在、光州市内には5・18記念墓地、5・18記念公園など民主化運動を記念する施設や記念碑等が、市内のあちこちに点在している。しかし李明博は大統領就任直後に行なわれた2008年度の記念式典こそ出席したものの、2009年以降の慰霊祭には出席していない[20]。
2004年1月29日、ソウル高等法院刑事3部で開かれた宣告公判にて裁判部は1980年に内乱陰謀で死刑判決が下された金大中に対し無罪を宣告した[12]。
裁判部は「被告人の内乱陰謀事件は、全斗煥などの憲政秩序破壊犯行を阻止したり、反対したことで、憲法の存立と憲政秩序を守護するための正当な行為だとするものであるため、再審継続部分は刑法第20条によって、無罪を宣告する」ことを明らかにした。
判決を受け、金大中は裁判部の迅速かつ公正な対応に感謝を述べると共に、5・17非常戒厳令拡大措置について「新軍部の反民主的な行動でした」とし「新軍部に反旗をした(私の)行動に対して無罪を決定してくれた事は、国民と歴史が勝利するという事を改めて悟るようにしてくれた」「自由な司法部と独立した司法部が健在しなければならず、このような間違った裁判がわが国で二度と起こらないようにしてくれることを願う」とする旨のコメントを述べた[12]。
2017年5月18日、自身も光州事件経験者である文在寅大統領は、5.18民主化運動37周年記念式における演説で、
「文在寅政府は光州民主化運動の延長線上に立っています。」
「新政府は5.18民主化運動とろうそく革命の精神を仰ぎ、この地の民主主義を完全に復元します。光州の英霊たちが心安らかに休めるよう成熟した民主主義の花を咲かせます。」
「光州精神を憲法に継承する真の民主共和国時代を開きます。」「5.18精神を憲法前文に含める改憲を完了できるようこの場を借りて国会の協力と国民の皆様の同意を丁重に要請します。」と述べた。
また、大統領選挙活動中、憲法前文に光州事件の民主化運動の精神を盛り込むことを公約していた[21][22][23]。
2020年5月17日、「ソウル駅回軍」に参加したため、5月18日当日に清涼里警察署に収監されていた文在寅大統領は光州文化放送のインタビューで、「当時の学生会長団の決定を非難する考えは全くないが、ソウルの大学生たちが民主化を要求する大々的な集会を行うことで、軍が投入される口実を提供したが、決定的な時に退却する決定を下したことにより、光州市民は本当に孤立して戒厳軍に立ち向かうことになった」と、いまだに大きな罪悪感を抱いていることを述べた[24]。
なお、当時に「ソウル駅回軍」に参加し、のちに政治家になったのは文大統領以外に、柳時敏(当時はソウル大学総学生会代議員議長)や沈在哲(当時はソウル大総学生会長)などがいる[25]。
事件の経過
1979年
10月26日、朴正煕大統領が金載圭中央情報部長に暗殺される(朴正煕暗殺事件)。
10月27日、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就く。済州島を除く全国に非常戒厳令を宣布。
12月6日、崔圭夏国務総理が統一主体国民会議の代議員選挙により第10代大統領に選出。
12月12日、全斗煥保安司令官が本部長を務める戒厳司令部合同捜査本部が、戒厳司令官である鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕。
また、全斗煥を中心とした軍内秘密結社「ハナフェ」のメンバーが指揮する部隊が、陸軍特殊戦司令部、陸軍本部及び国防部を襲撃し、国防部長官の盧載鉉を拘束する。
盧長官は全斗煥の圧力に屈して鄭総長の逮捕を決裁し、軍部に疎かった崔圭夏大統領が事態を収拾するためこれを裁可したことで、全斗煥とハナフェを中心とした「新軍部」が韓国軍全軍を掌握する(粛軍クーデター)。
1980年
4月14日、全斗煥が保安司令官在職のまま中央情報部長を兼任。
4月中旬、労働者と学生の民主化要求デモが激しさを増す。
5月14日、ソウルで5万の学生が戒厳令の解除と早期改憲を求めてデモ。
5月15日、10万の学生がソウル駅前に集結するが市民の呼応が少なく、学生指導部は当局に学生の意思が伝わったとして大学に戻る決定を行う(ソウル駅回軍)。
5月16日、光州市で5万の学生・市民が参加し「民族民主化聖会のためのたいまつ大会」(民主大聖会)が行われる。
5月17日、戒厳司令部が非常戒厳令を済州島を含む全国に拡大(5・17非常戒厳令拡大措置)。
5月18日、戒厳司令部が金大中、文益煥、金鍾泌、李厚洛など26人を騒擾の背後操縦や不正蓄財の嫌疑で逮捕し、金泳三を自宅軟禁した。政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲、大学の休校などを盛り込んだ戒厳布告を発表。
同日未明、光州市の全南大学と朝鮮大学に陸軍第七空挺旅団の三三大隊と三五大隊が配置される。
朝、全南大学の校門前でこの空挺部隊と学生が衝突。排除された学生は光州駅前で体勢を立て直して錦南路をデモ行進し、機動隊と衝突。午後、空挺部隊が市内各所に投入され学生を鎮圧。400人以上の学生が連行され、80人が負傷。
5月19日、陸軍第十一空挺旅団が急派される。デモの主体は市民に変わり、角材、鉄パイプ、火炎瓶などを使用して対抗。
5月20日、群集は20万人以上に膨れ上がり、対峙した軍・警察は3万人、(戒厳軍の声明を伝えていた)MBC光州文化放送の社屋がデモ隊によって放火された。バスやタクシーを倒してバリケードを築くなど、陸軍部隊との市街戦の様相を呈した。
5月21日、市民は亜細亜自動車(現・起亜自動車光州工場)や、軍需関係工場、予備軍の武器庫を襲撃して、装甲車などの車両や銃器やTNT爆薬なども奪取し、全羅南道庁を占拠した。
光州での惨状を知らせるため、市外に向かうデモ隊の一部が、その途中にあった光州刑務所の戒厳軍から刑務所奪取だと誤認され、銃撃をうけた。
軍は一時撤退した後、光州市と外部の鉄道、道路及び通信回線を遮断した。
5月22日、陸軍部隊が光州市の包囲を完了。
「市民収拾対策委員会」が組織され、軍との交渉を開始したが、抗争隊指導部は軍との妥協に反対し、光州市民側にも「事態収拾派」と「抗戦派」の意見の対立が現れ始める。市民に、更なる抗争を恐れた離脱者が出始める。
5月23日、5万名の市民大会開催。
5月24日、数万名の第2次市民大会、雨の中で開催。
5月25日、5万名の第三次市民大会開催。「光州民主民衆抗争指導部」が抗戦派を中心に結成され、「金大中の釈放」「戒厳令撤廃」を要求し、最後まで戦うことを決議。
5月26日、陸軍部隊が戦車で市内に侵入開始。
5月27日、数千名の部隊が戦車とともに市中心部に進出して、市内全域を制圧。抗争派を中心に、市民に多数の死傷者が出る。
5月28日、何人もの市民が逮捕・拘留される。
9月17日、普通軍法会議にて金大中に、内乱予備罪・陰謀罪・反共法違反・国家一級保安法違反を理由とする死刑判決が言い渡された[26](後に無期懲役に減刑)。
死亡者と負傷者
当初の政府の発表では、死亡者数は170人(民間人144人・軍人22人・警察官4人)、負傷者数は380名であった。(1980年5月31日・戒厳司令部発表)
5.18記念財団で支給した補償金の内訳を示す。
分類 申請者数 取下げ者 棄却数 認定数 支給額
(百万ウォン) 備考
(重複人員)
合計 7,716 130 2,526 5,060 229,732 (698)
死亡 240 16 70 154 17,042
行方不明 409 18 317 70 9,048
負傷 5,019 50 1,761 3,028 172,775 (12)
その他 2,052 48 378 1,628 30,867 (686)
出典「518記念財団ホームページ」より
※重複支給者698人を除く場合、実際認定人数は 4,362人韓国における名称の変遷
事件当時、国軍は、光州暴動 (????) と呼称し、その後、政府・与党側は、光州事態 (????)、光州事件 (????)、野党側は、光州抗爭 (????)、光州民衆抗爭 (??????)、光州義擧 (????) などと呼称した[27]。
1988年以降、光州民主化運動 (???????) という名称が定着した[28]。
1988年、盧泰愚が大統領に当選した後に設置した民主和合推進委員会は「光州事態」を民主化運動として再定義し、(5.18)光州民主化運動と呼び改めることを提案した[29][30][31]。
そして1995年、金泳三政権で「5.18民主化運動に関する特別法」(ko) が成立して公文書でも広く使われるようになり、現在に至っている[32]。
光州民主化運動という表現に拒否感を持つ一部の極右層では、今日でも光州事態と呼ばれる場合があるが、左右問わず排除される傾向にある。[要出典]
韓国国内では「5.18光州民主化運動」や「5.18」と表現される場合もある。
北朝鮮における名称
北朝鮮では、光州事件を軍事ファッショ集団の圧政に反対する人民抗争であるとの観点から「光州人民蜂起」(??????)と呼ばれる[33][34]。
朝鮮の声放送では「光州大虐殺[35]」という呼称も用いられている。
事件発端についての議論
1988年、韓国国会で開かれた聴聞会では、5月21日13時に道庁前で行われた群衆への発砲を誰が命令したのかが大きな争点となった。[要出典]
全斗煥や、当時鎮圧部隊である空挺部隊を麾下に置いていた特殊戦司令部の司令官を務めていた鄭鎬容などはこれを否認しており、発砲が軍上層部の事前承認によるのか、現場の指揮官の判断によるのかは、未だ明らかとなっていない。[要出典]
18日から19日に行われた戒厳軍の無差別鎮圧が、デモ群集だけでなく女性や労弱者を含む市民を対象にしていたことも究明の余地を残している。[要出典]
事件の犠牲者数についても、政府発表と諸団体の主張に隔たりが存在している。[要出典]
なお後述の通り、現在光州事件に対して、歪曲、捏造したり、虚偽事実の流布は、処罰の対象となっている。北朝鮮関与説
事件の発端となったデモが純粋な市民運動でなく、北朝鮮やそのシンパが起こしたものであると主張する意見が時々提起されるが、主張の根拠が弱く、2020年代基準では右派政党からも排斥されている。
北朝鮮関与説を主張する論客は池萬元だが、彼が5.18に投入された北朝鮮軍だと主張する写真の中の人物(いわゆる北朝鮮光水)が今も韓国にまだ生きているからだ。
光州で北朝鮮軍だと主張した写真の中の人物たちは大多数が当時光州市民であり、作戦後に北朝鮮に復帰した人々の写真だと主張した人物の中では北朝鮮を嫌悪し、脱北した脱北者たちも多数混ざっている。
この中には脱北した黄長燁も含まれている。
北朝鮮最高位層だった挨拶が当時光州に来たという主張をしているのだ。
その他主張するリストを見ると写真だけを見ても他人であることが分かり、1980年当時4歳の子供だった脱北者、北朝鮮収容所に閉じ込められ、拷問されていた脱北者までリストに入っている。
このように無理な主張をしてみると、脱北者団体までも2019年池萬元を名誉毀損で裁判所に告訴した。[36]
2006年に朝鮮日報は、大隊規模の北朝鮮軍が潜入して光州事件の戦闘に参加していたとする北朝鮮の元軍人の証言[37]を報じた。
これに対し、光州事件の関連団体は、元軍人らの証言や証拠に対して反論[38]した。
元韓国陸軍大佐の池萬元は自著で、光州事件は金大中が起こした内乱事件であるとした1980年の判決に同意した上で、事件について金大中が起こしたもので北朝鮮特殊部隊の工作だったと主張。
2008年に市民団体から名誉棄損で訴えられたが、2012年12月、韓国最高裁判所は「5・18民主化運動はすでに法的・歴史的評価が確立されているため、池の著作によって5・18民主化運動やその功労者・参加者に対する社会的評価が根本的に変わる可能性があるとは考え難いという点などに照らせば、著作物が5・18民主化運動の功労者など個々人の名誉を毀損するに至ったとは見られない」として池を無罪とした1審と2審の判決を支持する判決を下し、池の無罪が確定した[39][40][41]。
櫻井よしこは、この裁判により光州事件が北朝鮮特殊部隊の工作だったという主張は正しいと認められた、としている[41]が、判決は池の主張を事実と認定したものではない[42]。
さらに、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』主人公のモデルとして知られる金砂福(キム・サボク)など、5・18民主化運動に参加した市民は北朝鮮の特殊部隊だと名指しして名誉を毀損したことについての別の裁判では、韓国最高裁判所第3部(主審ノ・ジョンヒ大法官)が2023年1月、池に対する懲役2年の実刑判決を確定している[43]。
また、池は事件で殺害された市民の70%は韓国軍が使用していたM16自動小銃ではない銃弾によるものであることから、北朝鮮の特殊部隊に殺害されたものであるとしている[41]が、1995年に国防部が行った事件の再調査では、カービン銃による死者が多いとした1980年の調査は誤りで、犠牲者の大部分は韓国軍のM16ライフルであるとの調査結果を発表しており、主張には矛盾が生じている[44]。
2013年5月9日、ソウル中央地方法院(朝鮮語版)は、金大中前大統領が北朝鮮の金日成主席と組んで特殊部隊を送ったとの文を書いた池萬元に対して、死者名誉棄損の罪で有罪を宣告した。そして「脱北者の手記は出所や証言者が不明瞭で内容が検証されなかったばかりか、金大中と金日成の共謀についての具体的な記述も無く、客観的な根拠もない」と判断した[45]。判決を不服とする池萬元は即日上告するとともに北朝鮮の関与した都市ゲリラ作戦であったとした文章をネットに掲載した[45]。
光州事件当時、現場取材しようとしたことが原因で解職[46]された保守系ジャーナリストの趙甲済は、事件当時の取材と状況判断を基に事件を「反共民主化運動」と評価[47]。
その上で一部の右派系から提起された北朝鮮人民軍の介入説に真っ向から反論し、これらの主張に同調する事は左派を利する事になるとの主張をしている[48]。
そして1980年の事件直後に行われた戒厳司令部発表、1985年の国防部再調査、1988年の国会聴聞会、1995年~97年の5.18裁判、2012年に国家情報院が行った非公開調査でも北朝鮮が、大隊規模で入ったとの証拠や状況は一度も発見されていないこと。事件におけるデモ隊は反政府的ではあっても親北朝鮮ではなく、「金日成は誤判するな」というスローガンが常にあがっていたことも指摘している[49]。
2013年5月、脱北者の元朝鮮人民軍特殊部隊将校イム・チョンヨン[注釈 2]は、韓国のTV朝鮮とチャンネルAの番組にて、600人の北朝鮮ゲリラとともに事件に介入したと主張した[50][51]。
これに対して、ハンギョレ、中央日報はねつ造であるとの立場を取った[52][51]。
民主党は、番組内容の審議を要求し、法的対応も検討するとした[53]。
その後、TV朝鮮とチャンネルAは、放送内容が事件関係者・光州市民・視聴者の心情を傷つけたとして、相次いで謝罪放送をおこなった[54][55]。
保守系ジャーナリストである趙甲済も「偶発的に起こった光州事態をチャンスと見て緊急に400人あまりの兵力を動員し、船舶で木浦(モクポ)近隣の海岸まで浸透する作戦を実施できると思いますか?」と介入について反論する文章を自身のホームページに掲載した[56]。
また北朝鮮軍出身の複数の脱北者からも、北朝鮮軍介入説については「注目を集めたい脱北者が伝えた荒唐無稽な話だ」「注目を集めたい一部の関係者が誤った発言をして、光州市民達に傷を与えた」と否定する発言をしており、北朝鮮軍出身亡命者の中でも介入説は確立された見解とはされていない[57]
1980年5月の光州事件前後に作成され、2017年1月に機密解除されたCIAの機密文書では、「北朝鮮は韓国の政治不安を口実にしたいかなる軍事行動も取っていない」
「金日成は韓国にとって脅威となる北朝鮮の行動が全斗煥を助ける結果になる事を知っている。北朝鮮は韓国の事態に介入しないだろう」と北朝鮮による介入説を明確に否定しており、5・18記念財団のキム・ヤンレ常任理事は「保守団体が主張している5・18北朝鮮介入説を完全に反論できる内容」と文書の意味を強調した[15]。
2019年2月には、国会で「5・18真相究明」という名の公聴会において、保守系野党である自由韓国党の国会議員が、光州事件を「暴動」と規定し、犠牲者を「従北左派が作った怪物」と発言し、遺族団体、市民団体のみならず、与野党国会議員からも批判を受け、謝罪して党懲戒を受ける。
文在寅政権の与党である共に民主党は、光州事件に対して、否定・中傷・歪曲・捏造したり、虚偽事実を流布した者に対して、7年以下の懲役か7000万ウォン以下の罰金に処する「5・18歴史歪曲処罰法」を今国会で制定することを明らかにした。同法案は、先の国会でも発議されたが、廃案になっていた[58]。
韓国の国会は、12月9日、野党が反発するなか「5・18歴史歪曲処罰法」を与党単独で強行採決して成立させた[59]。
光州事件を題材にした作品
ストーリーに光州事件を取り入れた作品としては、以下のようなものがある。
映画
『五月 夢の国』[60]?! ?? ??(1989年)製作集団チャンサンコッメ作品、チャン・コンヒョン製作
『つぼみ』(1996年)
『ペパーミント・キャンディー』(1999年)
『なつかしの庭』(2007年)
『光州5・18』(2007年)監督:キム・ジフン 出演:アン・ソンギ、キム・サンギョン、イ・ヨウォン、イ・ジュンギ
『スカウト』(原題:『????』、2007年、日本未公開)
『星から来た男』(2008年)
『遠くの空』(2010年)
『26年』(2012年)
『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)
『あなたのための行進曲』(2018年、日本未公開)テレビドラマ
『砂時計』(1995年)
『第4共和国』(1995年)
『第5共和国』(2005年)
『五月の青春』(2021年)小説・漫画
漫画『プルンギル -青の道-』(江戸川啓視原作、クォン・カヤ作画、2002年~2003年)
小説『ダーク』(桐野夏生、2002年~2006年)
小説『少年が来る』(韓江、2016年)音楽
民衆歌謡『あなたのための行進曲』(白基玩作詞、キム・ジョンニュル作曲、1981年)
『光州1980年5月』(高橋悠治作曲、スライド映像を伴うピアノ曲、1980年)
『光州よ、永遠に』(尹伊桑作曲、犠牲者追悼の交響詩、1981年)
『光州市街戦』(LIZARD、1980年)
『光州City』(白竜、1981年)
『Ma City』(BTS(防弾少年団)「???? pt.2」 (花様年華 pt.2)収録、2015年)[61]脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 日本では光州事件と呼ばれている。[3] 韓国では5・18光州民主化運動、光州民衆抗争などとよばれることが多い[2]。
^ 中央日報は断定的に書いているがハンギョレは「という」を付している。
出典
^ a b c d e f g 2022年1月29日放送、NHK アナザーストーリーズ「その時、市民は軍と闘った?韓国の夜明け 光州事件?」
^ a b c d 伊藤亜人+大村益夫+高崎宗司+武田幸男+吉田光男+梶村秀樹 [監修]『韓国 朝鮮を知る事典』、平凡社、ISBN 978-4-582-12647-1、126頁。
^ 1980年の光州民主化運動 KBS World Radio 2015-06-09
^ 「軍の一斉射撃は100分近く続くこともあった」2022年1月29日放送、NHK アナザーストーリーズ「その時、市民は軍と闘った?韓国の夜明け 光州事件?」
^ a b 総合編成チャンネル 相次ぐ「5・18北が介入」なる報道は「全斗煥の主張の繰返し」 ハンギョレ 2013.05.18
^ a b c d 1980年の光州民主化運動 KBS World Radio 2015-06-09
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参考資料
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T・K生と「世界」編集部 『軍政と受難 ―第四・韓国からの通信―』、岩波書店、1980年、185-230頁「再び暗闇へ」。
関連項目
粛軍クーデター
全斗煥 – クーデターで事実上政権を掌握し、軍事政権を率いた。
金大中 – 民主化要求リーダー、全斗煥の軍事政権により逮捕され、これが光州事件の引き金となった。
第五共和国
金大中事件
5.18記念公園
映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」 – 光州事件時の実話を基に描いた2017年公開の韓国映画
外部リンク
518記念財団(朝鮮語)
5・18民主化運動(光州事件)(光州広域市公式サイト、日本語)
『光州事件』 – コトバンク
メディア
5.18 ???? KBS9? ?? ??? ???5.18 40?? ???? ???? – YouTube
5.18 ??? ? KBS 9? ?? “???? ?? ????” I 5.18 40?? ???? ???? – YouTube
“??? ?? ?????” NHK? ??? 5.18? ??? ?? ?? I 5.18 40?? ???? ???? – YouTube
SOUTH KOREA: KWANGJU: POLICE CLASH WITH ACTIVISTS – AP Archive – YouTube
韓国・光州事件 戒厳軍が市民を鎮圧 – NHK放送史
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最終更新 2024年10月10日 (木) 15:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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