チャレンジャー2は、3月末にウクライナに搬入される。
https://st2019.site/?p=20820
『2023-1-26記事「Britain plans to deliver Challenger 2 tanks by the end of March」。
英国防省の発表。チャレンジャー2は、3月末にウクライナに搬入される。
それまでは英国内で乗員の訓練が続けられる。』
チャレンジャー2は、3月末にウクライナに搬入される。
https://st2019.site/?p=20820
『2023-1-26記事「Britain plans to deliver Challenger 2 tanks by the end of March」。
英国防省の発表。チャレンジャー2は、3月末にウクライナに搬入される。
それまでは英国内で乗員の訓練が続けられる。』
西側製戦車がすくなくも105両は、夏までに渡されそうである。だが、それでじゅうぶんか?
https://st2019.site/?p=20820
『Lara Jakes and Thomas Gibbons-Neff 記者による2023-1-25記事「Western Tanks Are Coming to Ukraine, but Will They Be Enough?」。
ポルトガルはレオ2を4両、ノルウェーは8両、提供できると言っている。
西側製戦車がすくなくも105両は、夏までに渡されそうである。だが、それでじゅうぶんか?
ウクライナ軍は、すくなくも300両の西側戦車が必要だなどとふざけたことをぬかしている。
T-72に慣れているウクライナの戦車兵が、たんにレオ2を扱えるようにするだけなら4週間あれば足りる。
重厚長大兵器のウクライナ戦線への搬入は、鉄道を使うのが最も安全。重量物輸送用トレーラーは、露軍の目を惹いてしまうので、よくない。
※スウェーデンも手持ちのレオ2(名前は変えている)を供出するという。ながらく、スウェーデンは、引退させた「S戦車」を大量に有事用に隠し持っているのだ――と思ってきたが、どうやらそれはもはや存在しないのか…………。敵を直接照準せず、ドローンの目に弾着修正をさせる用法になるなら、「無砲塔」のコンセプトは、とても合理的だと思うのだが……。』
M1エイブラムズを米軍仕様のままで輸出または援助することは、主要な同盟国相手であってもできない。
https://st2019.site/?p=20820
『Joseph Trevithick 記者による2023-1-25記事「M1 Abrams Tanks In U.S. Inventory Have Armor Too Secret To Send To Ukraine」。
M1エイブラムズを米軍仕様のままで輸出または援助することは、主要な同盟国相手であってもできない。最大の難点は、装甲鈑の中に劣化ウラン(減損ウラン=depleted uranium=DU)が使われていることである。
この劣化ウラン装甲をサンドウィッチしていない、とくべつな、他国供与向け専用のM1バージョンを用意しなくてはならないのだ。
だから、M1がじっさいにウクライナに届けられる時期は、早くて今年の後半。おそらく来年じゃないかという。
DU装甲はM1A2型から標準だが、A1の一部にもレトロフィットでアップデート工事されている。
DU装甲は、その素材には特に秘密はないが、どのように加工して装甲化しているかはデザイン上の秘密。したがってこの装甲がついたバージョンを外国軍に渡すわけにはいかないのだ。
1988にさだめられた保秘指令では、もし戦場でM1の装甲の一部が破壊されて断面が見えるような状態になったら、すぐそこにカバーをかけ、誰かに撮影されないようにし、できれば臨時に何かを熔接して塞いで、戦車は回収しなければならぬとしていた。
豪州、エジプト、イラク、クウェート、モロッコ、サウジに輸出されているM1のバージョンには当然、DUは使われていない。代わりにセラミックが入っているはずである。それも勿論、秘密だが。
ストック品の砲塔からDUを外してセラミックに代える工事には600万ドル弱かかるんじゃないかという。最初のバッチの28両につき。
時間もカネもかかる話なので、米政府は、エジプトかサウジに要請して、そこにある、すでに非DU化されているM1を転送するんじゃないかという想像も可能だ。
エジプトは1360両ものM1A1をもっている。
サウジは370両以上。しかもサウジ軍は人手が足りないため、2016年時点で、170両はガレージに入れたまま、動かしてないという。
しかしどちらの政府も、もし手持ちのM1をウクライナに転送させることを認めれば、ロシアが怒る。それでも許可するのかという話になる。』
ウクライナ国防省発表。露軍は55発のミサイルを発射してきた。
https://st2019.site/?p=20820
『Mike Brest 記者による2023-1-26記事「Russia launches new salvo of missiles at Ukraine after tanks announcement」。
ウクライナ国防省発表。露軍は55発のミサイルを発射してきた。宇軍はそのうち47発を途中で撃ち落した。
47発のうち20発はキーウ近郊で撃墜している。
敵が狙った主たるターゲットは、あちこちにある変電所であった。
このミサイル空襲は、米独両国が戦車をウクライナに供与すると発表した翌日になされた。
※別報によると今回は地上で11人くらい死んだらしいが、WWII中の「V-1」とくらべても、異常に効率が悪そうだ。』
ウクライナへの最強戦車供与 玉突きで動く国際情勢
https://tanakaryusaku.jp/2023/01/00028286
※ もう一つ、注目しておくべきなのは、イスラエルの動きだ…。
※ 世界の注目が「一点に集中している時に」、いろいろ画策するのは、別にどっかの国に限った話しじゃない…。
『世界最強といわれる欧米の戦車がウクライナに大量に供与される。
欧州各国は「レオパルト2」を、米国は「M1エイブラムス」を供与する。最終的には150台に上るものと見られる。
泥濘期が終わる春以降は、戦闘員の訓練も済んでいるだろう。大戦車軍団がウクライナの大地に立ちはだかれば、ロシア軍にとって大きな脅威となる。
田中は親米ではない。パレスチナ紛争の拙リポートを見ていただければお分かりいただけるようにコテコテの反米である。
かといって親露派の御仁たちのように「ロシアは負けない。ロシアが勝つんだ」とも言わない。
はっきり言えるのは、ウクライナ戦線でロシア軍の衰退が明らかになれば、他の地域で軍事力の均衡が崩れるということだ。
ロシア軍。平和維持部隊として進駐してきたはずだったが。=2020年、ナゴルノ・カラバフ 撮影:田中龍作=
具体的に言えば、アゼルバイジャンとアルメニアの双方が領有を主張して衝突が絶えないナゴルノ・カラバフである。
2020年のナゴルノ・カラバフ戦争で仲裁に入ったロシアが、平和維持部隊と軍を駐留させていた。
ところが、昨年12月、片一方の紛争当事国であるアゼルバイジャンが、ナゴルノ・カラバフを軍事封鎖してしまったのである。封鎖は今も続き住民12万人が人道危機にさらされている。
ロシア軍がウクライナ戦線で苦戦しているところに付け込んだのが、アゼルバイジャンだった。後ろ盾はトルコである。
軍事封鎖に先立って、アゼルバイジャンはアルメニア本土を砲撃した。ロシアの出方を窺ったのである。
アルメニアとロシアは軍事同盟を結んでいる。にもかかわらずロシアは動かなかった。いや動けなかった。面目丸つぶれである。ロシアはウクライナ戦線で手一杯なのだ。
ナゴルノ・カラバフ出身のジャーナリストは「ウクライナでロシアが負ければヨーロッパ諸国は喜ぶだろうが、アルツァフ(=ナゴルノ・カラバフ)ではアゼルバイジャンによる虐殺が起きる」と悲壮な表情で語った。
世界は玉突きのようにして動く。米国の陰謀論で動いているのではない。
ラチン回廊に配備されたロシア軍のロケットランチャーは、張り子の虎となってしまった。=2020年、ナゴルノ・カラバフ 撮影:田中龍作=
~終わり~
田中龍作の取材活動支援基金 』
ナポレオンの命運を左右した「情報」とは
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29218
※ 今日は、こんな所で…。
『ナポレオン・ボナパルトは、その軍事的才覚によって19世紀初頭のヨーロッパを席巻して巨大な帝国を築き上げ、一介の軍人から皇帝に上りつめた。その手法は、「国民皆兵制度」による国民軍の創設や、砲兵・兵站の重視など枚挙にいとまがないが、意外なことにナポレオンは戦場において情報を重視しなかったとされる。
その理由は、戦場の情報が司令官の元に届くのに時間がかかったことや、多くの報告は斥候が自分の目で確認したものではなく、伝聞情報を基にしており信頼性が低かったことにある。また、ほとんどの場合、司令官に情報が届く頃には情勢が変化しており、使い物にならなかった。
ただし彼は、情報そのものには価値を見出しており、自らの参謀本部に情報部門を設置したり、英国で発行される新聞を熱心に読んでいたとされる。当時、英国内では検閲制度が廃止され、新聞各社は自由に記事を書くことができ、その情報の信頼性がフランスのものより高かったためである。
抜擢された大臣が皇帝さえも監視下に
ナポレオンを情報面から支えた人物としては、警察大臣を務めたジョゼフ・フーシェが有名だろう。当時、フランスでは革命に起因する密告がはびこっており、フーシェの秘密警察はその延長に確立されたのである。
フーシェは大臣に抜擢されると、あっという間にフランス国内に情報網を築き上げ、政治家の書簡や外交文書を秘密裏に開封して中を読み解くことで、国内の反ナポレオン派や外国スパイ、さらには上司のナポレオンまでをも監視下に置いていた。ナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌは放蕩三昧の生活であり、金銭目的でナポレオンの私生活の情報をフーシェに売っていたようである。
フーシェは毎日、ナポレオンに情報報告を行うほどその能力を高く評価されていたが、決して信頼はされなかった。ナポレオンは「私のベッドをのぞくような大臣はうんざりだ」と不平を漏らしつつも、フーシェの首を切れなかったようである。
そのためナポレオンは、個人的に12人の情報提供者を別に雇って情報を得ていた。フーシェが国内で逮捕した政治犯は数千人にもなるとされ、フランス国内だけではなく、ウィーン、アムステルダム、ハンブルクにも拠点を設置し、海外の動向にも目を光らせていた。
ハンブルクにおいては、スパイ網を築きつつあった英国人、ジョージ・ランボルド卿の邸宅に忍び込んで、スパイのリストを奪い、ランボルドの身柄も押さえることで、英国の陰謀を未然に防いでいる。
海外からナポレオンに貴重な情報を届けていたのは、カール・シュルマイスターである。ドイツ生まれのシュルマイスターは、仏独ハンガリー語に堪能であったので、オーストリア軍のカール・マック将軍にスパイとして採用されている。しかし、オーストリア軍はシュルマイスターの情報を重視しなかったため、密かにフランス軍に接触し、ナポレオンの副官であったアン・ジャン・マリエ・サヴァリ将軍のスパイとして活動した。
サヴァリはフーシェの後任として警察大臣を務めた人物である。シュルマイスターはオーストリア軍の情報をナポレオン軍に伝える一方、偽情報をオーストリア軍に伝えることで、1805年10月のウルムの戦いでのフランス軍の勝利に貢献した。そしてその貢献を認められ、シュルマイスターは対外情報の責任者に抜擢されるほど重用された。』
『勝敗を決した重要情報の扱い
他方、強大なナポレオン軍に対峙していたのが英国やプロイセン、ロシアといった国々である。中でも英軍はインテリジェンスを武器の一つとして活用することで、劣勢を補おうとした。
英軍司令官、初代ウェリントン公爵は、ナポレオンと同い年で、第二外国語がフランス語という共通点があり(ナポレオンの母語はイタリア語)、ナポレオンのライバルの一人に数えられる。ただし、ウェリントンはインドにおける9年もの戦争経験から、戦場での情報の重要性を認識していた点がナポレオンと異なる。
ウェリントンの配下の卓越した暗号解読官であったジョージ・スコウベル将軍は、ナポレオンの兄でスペイン王のジョゼフ・ボナパルトの暗号書簡を解読し、仏軍はスペインでゲリラ戦に専念するため、英軍に対する兵力を減らす旨の情報を得ていた。そこでウェリントンは、スペイン・ポルトガル軍とともに十分な兵力を準備し、13年6月のビトリアの戦いで、仏軍を打ち破ることに成功している。
その後、天下分け目の「ワーテルローの戦い」の直前にも、ウェリントンの部下がナポレオンの戦争計画について知らせてきた。その情報は15年6月18日にナポレオン軍が英蘭軍を攻撃するというものであった。この戦闘は、英蘭軍とプロイセン軍が戦場で合流できるかが勝敗の鍵であり、ウェリントンはプロイセン軍の参戦を確定させてから、仏軍に挑むことになる。
他方、ナポレオンは戦いの当日、末弟のジェローム・ボナパルトから、プロイセン軍がワーテルローに接近中との情報を得ていたが、プロイセン軍の到着にはあと2日かかるとして、この重要情報を退けたのである。
戦端が開かれると予定通り、プロイセン軍はその日の夕刻までには参戦を果たし、英蘭軍とプロイセン軍に挟撃された形の仏軍は崩壊した。
さらにナポレオン戦争で、巨万の富を築いたのが、英国の銀行家であったネイサン・ロスチャイルドである。ロスチャイルドは欧州大陸中にビジネスのための情報網を開拓しており、そこに生じたのがワーテルローの戦いであった。ロンドンの金融市場もこの戦いに注目しており、英国が勝てば英国債を買い、負ければ売りとの観測であった。
この時、ロンドンにいたロスチャイルドは、ドーバー海峡を隔てた数百㌔メートル先の戦場の情報を得ており、英国政府よりも早く英軍の勝利を知ったという。
しかしここでロスチャイルドは、英国債を猛烈な勢いで売りこんだのである。ロスチャイルドの一挙一動を見守っていた市場関係者は、彼の売りを見て英国が敗北したと判断し、市場の英国債は暴落するも、ロスチャイルドは価格が底をついたのを見計らい、今度は猛烈な買いに転じ巨万の富を得ることとなった。これは「ネイサンの逆売り」として知られている。』
【医療コラム】パンデミック(世界的大流行)の歴史
https://kawakita.or.jp/aisafetynet/airoken/news/column/

『みなさん、こんにちは。施設長の佐藤です。
全世界が新型コロナウイルスのパンデミックの元におかれて2年間が経過しました。人類は紀元前の昔からさまざまな感染症と戦ってきました。最古のパンデミックの記録は、紀元前430年のギリシャの感染症です。疾患名は不明ですが、死者数7万~10万人といわれています。感染症のパンデミックは歴史を変えるほどの影響を及ぼしてきました。
天平の日本では、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死し、橘諸兄への政権交代が起きました。社会復興策として「墾田永年私財法」が施行され、土地の私有が認められるようになりました。
14世紀、ヨーロッパではペストが大流行し全人口の4分の1から3分の1が死亡しました。教会をはじめとする封建的な権威の失墜、労働力の急激な減少、人材の払底が起こり、労働者の地位の向上、農奴解放がもたらされました。限界を迎えていた中世ヨーロッパ世界の社会構造の変化を加速させ、近世への変革の一因になったと考えられています。
以下に、パンデミック(世界的大流行)の歴史を示します。
【挿絵】死の舞踊(ヴォルゲムート 1493年)
天然痘
紀元前 エジプトのミイラに天然痘の痕跡がみられる。
6世紀 日本で天然痘が流行、以後、周期的に流行。
735年~737年 天平の疫病大流行では藤原四兄弟が相次いで病死。社会復興策として、土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行。
15世紀 コロンブスの新大陸上陸。アメリカ大陸で大流行。50年で人口が8,000万人から1,000万人に減少。
1980年 WHOが天然痘の世界根絶宣言。人類が根絶した唯一の感染症。
ペスト
540年頃 ヨーロッパの中心都市ビザンチウム・コンスタンチノープルで流行。最大で1日1万人の死者が出たといわれている。
14世紀 ヨーロッパで「黒死病」と呼ばれるペスト大流行。ヨーロッパだけで全人口の4分の1~3分の1にあたる2千500万人が死亡。
コレラ
19~20世紀 地域を変えながら7回の大流行。
幕末から明治 日本ではコロリと死ぬからコロリと呼ばれた。
1961年 インドネシアのセレベス島に端を発した第7次世界大流行は、現在も世界中に広がっていて、終息する気配がない。
新型インフルエンザ
1918年 スペインかぜが大流行。世界で4,000万人以上が死亡したと推定。 (当時の世界人口18億人)
1957年 アジアかぜの大流行。世界で200万人以上の死亡と推定。
1968年 香港かぜの大流行。世界で100万人以上の死亡と推定。
2009年 新型インフルエンザ(A/H1N1)の大流行。世界の214カ国・地域で感染を確認、1万8,449人の死亡者(WHO、2010年8月1日時点)。
新興感染症
1981年 エイズ(後天性免疫不全症候群:HIV)
過去20年間で6,500万人が感染、2,500万人が死亡。
1996年 プリオン病
イギリスでクロイツフェルト・ヤコブ病と狂牛病との関連性が指摘。
1997年 高病原性鳥インフルエンザ
人での高病原性鳥インフルエンザA(H5N1)発症者397人、死亡者249人(2009年1月20日時点) 。
2002年 SARS(重症急性呼吸器症候群) 9ヶ月で患者数8,093人、774人が死亡。
【パンデミック死者数】
1位
1347-1351年 ペスト・黒死病 2億人
2位
1520年 天然痘 5,600万人
3位
1918年-1919年 スペインかぜ 4,000万人-5,000万人
4位
541年-542年 ペスト・東ローマ帝国 3,000万人-5,000万人
5位
1981年-現在 エイズ 2,500万人-3,500万人
6位
1855年 ペスト・19世紀中国とインド 1,200万人
7位
165年-180年 ペスト・ローマ帝国の疫病 500万人
8位
1600年 ペスト・17世紀の大疫病 300万人
9位
1957年-1958年 アジアかぜ 110万人-200万人
執筆者プロフィール
あい介護老人保健施設 施設長 佐藤 清貴(さとう・きよたか)
医学博士
・日本内科学会認定内科医
・日本循環器学会認定循環器専門医
・日本医師会認定産業医
・日本総合健診医学会 日本人間ドック学会認定 人間ドック専門医
・日本人間ドック学会認定 人間ドック健診情報管理指導士
・日本老年病学会老人保健施設認定医 』






『ルーマニアの経済では、東ヨーロッパ、バルカン半島の北に位置するルーマニアの各産業の状況、貿易について触れる。
ルーマニアは東ヨーロッパ、バルカン半島の北東に位置し、黒海の西岸に面する。
1989年のルーマニア革命以降、ルーマニア経済は抑制されているものの高いインフレーションの影響下にあり、生活水準の低下が続いている。2000年から2002年にかけ、GDP成長率は1.6%、5.3%、4.3%であり、失業率も2002年時点で10%に収まっている。しかしながら、同時期の消費者物価上昇率は、45.3%、34.5%、22.5%と高い。2004年にはようやく10%を下回ったと考えられている。
ルーマニアの伝統的な産業は農業であり、現在でも就労人口では農業の比重が高い。しかしながら、第二次世界大戦後、ソビエト型の計画経済によって重工業を中心に全工業部門の基盤を固めたため、GDPから判断すると工業国とも言える。鉱物資源は石油、石炭、天然ガスを中心に豊かである。
ルーマニアの貿易依存度は輸出入とも30%を超えており、貿易に強く依存している(なお、日本国の貿易依存度はいずれも10%前後である)。ルーマニア革命以前はドイツやソビエト連邦、旧ソビエト圏との結びつきが強かったが、その後、ロシアや東欧諸国よりもEC(1993年以降はEU)諸国との経済関係を重視している。
農業
ルーマニアは温帯に位置し、ケッペンの気候区分によると東部が温暖湿潤気候 (Cfa)、西部が西岸海洋性気候 (Cfb)、北部が亜寒帯湿潤気候 (Dfb) に属する。季節風や地方風は存在せず、東部の土壌はウクライナ黒土地帯と同等(チェルノーゼム)である。このため、小麦栽培を中心とした混合農業に適する。ブドウの栽培にも適しており、国土全体がブドウの北限界線よりも南にある。
ルーマニアは第一次産業人口が2001年時点で42.3%と高く、農業国である。穀物(小麦)の自給率も100%を上回り、輸出国である。2002年時点の小麦生産量は438万トン(以下、FAOのFAO Production Yeabook 2002による)。国土の中央部以外で冬小麦とトウモロコシ(850万トン)を生産している。国土の中央部はカルパティア山脈、ビホル山脈が占めるため、穀物生産には向かない。
生産シェアが高い作物はヒマワリ(99万トン、世界シェア7位、4.2%)である。
1990年時点は、トウモロコシ、ヒマワリ、キャベツ、亜麻、羊毛などの世界シェアがいずれも上位10位に入っていた。10年間で第一次産業人口が10ポイント以上も上昇するなど、経済構造が農業優位に変化しているにもかかわらず、世界の経済成長に追いついていないため、いずれもシェアが低下した。
黒海に面しているものの漁業は振るわない。1990年時点で13万トンだった漁獲高は、2002年時点では7000トン以下にまで減少した。
鉱業
モレニ油田(1920年代) ルーマニア中南部ドゥンボヴィツァ県に位置する最初の油田
ルーマニアは、石油産出国であり、石油採掘の歴史も深い。早くも1691年にモレニ油田で最初の原油の採掘が始まった。ピテシュティ、プロイェシュティなど油田に近い都市沿いに石油パイプラインも敷設されている。パイプラインはカルパチア山脈が東西方向へ通る部分(トランシルバニア山脈)とドナウ川の中間を東西に延び、鉄門から黒海沿岸の貿易都市コンスタンツァに至る。支線はウクライナにも接続されている。しかしながら、2002年時点では産出量が600万トンに留まり、国内需要をまかないきれず、石油輸入国となっている。
天然ガスは世界産出量の5%に相当する。石炭の埋蔵量は多いが亜炭、褐炭中心であり、品質は低い。それでも世界産出量の10位前後に相当する。石炭は、主に火力発電に利用されている。
他の鉱物資源としては、北西部マラムレシュ県県都バイア・マーレ近郊の亜鉛、鉛、中西部フネドアラ県県都デヴァ近郊の金、銀、鉄である。デヴァの鉱山は古代のダキア人も採掘していた由緒ある鉱山である。岩塩は、モルドヴァ地方北部とトランシルヴァニア南部のムレシュ川沿いで年間200万トン程度採掘されている。他に少量ながら銅、ウランも産する。
工業
ルーマニアはもともと農業国であったが、1950年代からソビエト型の計画経済のもと、重工業を中心に工業基盤を建設してきた。ルーマニア政府の方針として輸入を極端に制限したため、規模としては、食品工業、繊維業が中心であるものの、他の工業基盤も成立している。最も進んだ工業は、絹織物工業であり、2002年時点の世界シェアが5位と高く、生産量は2534万m2に達する。以下に、都市単位で盛んな工業を挙げる。
ブラショヴ - 自動車工業、化学工業
クルージュ=ナポカ - 製薬業、繊維業、窯業
コンスタンツァ - 造船業(ルーマニア第一の輸出港)
ティミショアラ - 化学工業、靴製造業、電気製品
ブカレスト - 首都、工業の中心都市。機械工業、石油化学工業、繊維業、電子機器、セメント製造
ヤシ - 家具製造業、製薬業、鉄鋼業、繊維工業
コンスタンツァとヤシを除く都市は、いずれも計画経済時に工業化が進んだ。しかしながら、ルーマニア工業は農業と同じく、世界の経済成長に遅れをとってしまった。1990年時点では、ワイン、毛糸、絹織物、毛織物、塩酸、リン酸、ソーダ灰がいずれも世界シェア上位10位に含まれていたが、絹織物以外はいずれも脱落している。絹織物もシェア2位から5位に落ちている。
貿易
コンスタンツァ港(ルーマニア語版、英語版)
ルーマニアの貿易拠点として最も重要な港湾である
チャウシェスク時代は国策として貿易黒字を義務付けていたため、貿易収支は健全だったが、産業構造や国内経済に悪い影響を与えてきた。その後、輸入が伸びてゆき、貿易黒字は次第に減ってきている。1990年の主な輸出品は石油を除く化石燃料、金属、機械類、輸入は石油、金属、機械類であり、貿易相手国は輸出入ともソ連が首位にあった。この時点では重工業中心の経済体制をそのまま反映した内容だった。
ルーマニアの貿易依存度は1990年からの10年間で輸出が15ポイント、輸入が5ポイントも増えてきた。2002年現在では輸入179億ドルに対し、輸出139億ドルであり、貿易赤字国である。
色と面積で示したルーマニアの輸出品目
2002年時点の貿易の内容を見ると、軽工業の伸びが著しい。2002年時点の主な輸出品は、衣類 (23.4%)、電気機械 (9.7%)、鉄鋼 (7.4%)。輸出先はイタリア、ドイツ、フランスの順である。主な輸入品は繊維と織物 (13.3%)、機械類 (11.5%)、電気機械 (11.1%)。輸入先はイタリア、ドイツ、ロシアである。ソ連(ロシア)の比重が下がり、EC(EU)中心に変化している。
日本との貿易では、貿易収支のバランスが取れている。日本への主な輸出品は衣類 (43.7%)、スキー靴 (11.3%)、肥料 (3.9%)、日本からの主な輸入品はクレーン (24.4%)、電気回路用品 (8.9%)、電気計測機器 (6.9%) である。 』










『目次
ページ先頭
古代・ダキア人・ローマ化・異民族支配
中世
東方問題の中での近代化と独立
「大ルーマニア」の成立と社会主義政権の成立
チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命
ルーマニア革命
革命以後
参考文献
脚注
関連項目
ルーマニアの歴史
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出典検索?: “ルーマニアの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年5月)
ルーマニアの歴史
Coat of arms of Romania.svg
この記事はシリーズの一部です。
ククテニ文化 (5500 BC-2750 BC)
ダキア
ダキア戦争 (101-106)
ダキア属州 (106-c.270)
ワラキア公国 (13C末-1856)
モルダヴィア公国 (1359-1856)
トランシルヴァニア公国 (1571-1711)
ワラキア蜂起 (1821)
ルーマニア公国 (1859-1881)
ルーマニア王国 (1881-1947)
ルーマニア社会主義共和国 (1947-1989)
ルーマニア革命 (1989)
ルーマニア (1989-現在)
ルーマニア ポータル
表 · 話 · 編
ルーマニアの歴史を以下に記述する。ルーマニア(Romania)は「ローマ人の国」を意味するその国名からわかるように、バルカン半島におけるラテン人が形成した国である。だが、周辺のスラブ人と同様に正教会をはじめとするビザンティン文化を受け入れたことや、オスマン帝国、ハプスブルク帝国の影響下に置かれ、長らく独自の民族国家が樹立できなかったのもルーマニアの歴史の一つの側面と言える。また冷戦時期の大統領ニコラエ・チャウシェスクによる共産独裁体制と、1989年に起こった一連のルーマニア革命でも知られる。
古代・ダキア人・ローマ化・異民族支配
帝政ローマ期のダキア一帯
バルカン半島の東北部のこの地には、旧石器時代には人の定住した痕跡があり、石器や祭祀に使用されたであろうと思われる人形などが発掘されている。紀元前2000年頃に、トラキア人から派生したダキア人が住み始め、紀元前514年のペルシア戦争では、ペルシア王ダレイオス1世と戦い、その勇敢さをヘロドトスが記録している。紀元前60年頃には、ダキア人は統一国家を成立させた。2世紀の始めには、ローマ帝国のトラヤヌス帝が、101年から102年と、105年から106年の2度に渡るダキア戦争に於いてダキア王デケバルスを下し、ドナウ川以北でローマ帝国の唯一の属州となる属州ダキアが置かれた。
ローマの属州になるとローマ人の植民地化が進められ、ダキア人はローマ人と混血しローマ化が進み、これが今のルーマニア人の直接の祖先となる。さらに、キリスト教がこの地域にもたらされることになり、2世紀から3世紀にはキリスト教が普及する。ルーマニアでは聖アンドレがダキアにキリスト教を伝えたとされている。
271年、ローマ帝国はダキアを放棄すると共にゲルマン系の西ゴート族に移譲、西ゴート族支配下となる。378年からはフン族の西進によって西ゴート族かイベリア半島へと移り、その後のフン族の四散によってスラヴ系民族の移住が進み、更にブルガール人が1000年ごろまで支配した。このように異民族が侵入・支配が続くものの、ローマ人(ラテン民族)の特色は残った。
中世
ヴラド・ツェペシュ。
詳細は「中世におけるルーマニア(英語版)」を参照
10世紀には、各地に小国がいくつか成立し始め、ワラキア、トランシルバニア、モルダヴィア3カ国に収斂されていく。
そして、1054年の大シスマの時には、ルーマニアの3カ国は東方教会に組み込まれていくことになる。
そして、このうちトランシルバニアは、早くからカトリックを奉じるハンガリー王国の支配下に入り、さらに、1310年にはアンジュー家、次いでハプスブルク家の支配を受けた。
この地域がルーマニアに復帰するのは20世紀初頭の1918年である。
残るワラキア、モルダヴィアは、13世紀にはタタール人に征服された。
14世紀にはタタール人を退け、ワラキア公国とモルダヴィア公国が成立。
しかし、周辺からハンガリー王国、ポーランド王国、オスマン帝国などの脅威にさらされ、1415年にはワラキア公国がオスマン帝国の宗主下に入った。
なお、ワラキアでは吸血鬼や串刺し公と悪評されたヴラド・ツェペシュが、オスマン帝国と度々戦っている。彼は少なくとも現代のルーマニア人からは、オスマン帝国の侵略から守った英雄として捉えられている。一方モルダヴィア公国は、からくもオスマン帝国の支配から免れ、シュテファン大公の時代[1]にはオスマン帝国を破ることもあったものの、16世紀には自治を条件にオスマン帝国の支配下におかれることになった。
東方問題の中での近代化と独立
1859年から2010年までのルーマニアの国境の変遷
1699年のカルロヴィッツ条約以降、この地域はオーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けることになった。1821年、ギリシャ独立戦争の嚆矢としてトゥドル・ウラジミレスクによってワラキア蜂起が勃発したが、これはオスマン帝国によって鎮圧された。
19世紀にはロシアが占領したが、オスマン帝国の宗主下でワラキア、モルダヴィアの連合公国が成立。1859年にアレクサンドル・ヨアン・クザが両公国の公となり、1861年にルーマニア公国へと統合された。しかし保守貴族が反発しクザは退位させられた。1866年には新憲法が起章され、ドイツのホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家からカロル1世が迎えられた。カロル1世は国内の近代化を推進し、1877年の露土戦争に参戦。この年の5月9日に独立を宣言、オスマン帝国と独立戦争を展開、翌年のサン・ステファノ条約とベルリン協定で列強の承認をうけた。1881年には、カロル1世は国王に即位し、ルーマニア王国が樹立された。
「大ルーマニア」の成立と社会主義政権の成立
詳細は「第二次世界大戦下のルーマニア」を参照
1941年のルーマニア
第一次世界大戦では1916年8月27日に連合国側で参戦した。ルーマニア軍はトランシルヴァニア地方の併合を目指してオーストリアに進撃したものの、旧態依然とした体質と敵ドイツ軍のエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン、アウグスト・フォン・マッケンゼンらの奮戦により、開戦からたった3ヶ月後の1916年12月6日に首都ブカレストを陥落させられた。休戦後の1918年12月1日には、ブコヴィナ、トランシルバニア、ドブロジャ、ベッサラビアを獲得し、大ルーマニアを実現させた[2]。
第二次世界大戦では、独ソ不可侵条約を受けてホルティ政権下のハンガリーがトランシルバニアに進駐。
また、スターリンのソ連もルーマニアに侵入し、ベッサラビアとブコヴィナを占領した。
このような領土喪失に無為だった国王カロル2世に国民の不満は高まり、王政廃止の原因となる。
その後、ルーマニアはファシズム団体鉄衛団が政権獲得後枢軸国について戦ったが、ソ連軍侵攻により、1944年に政変が起こり連合国につき(1944年のルーマニア革命)、ナチス・ドイツと戦端を開いた。
戦後、ベッサラビアとブコヴィナをソ連に奪われ、ソ連軍の圧力の下、1947年の12月30日に人民政府が成立。王政は廃止され、ルーマニア人民共和国となった。
チャウシェスク独裁体制とルーマニア革命
1968年8月。プラハ侵攻に抗議するルーマニアのチャウシェスク大統領。東側でのルーマニアの特異性が現れた場面であった。
1965年にはチャウシェスクが指導者の地位につき、国号をルーマニア社会主義共和国へ変更。
1974年には大統領に就任し、独裁体制をしいた。
その間、アメリカ合衆国、西ヨーロッパ、中華人民共和国と外交関係を交わし、「東欧の異端児」と呼ばれるようになった。
急速で過度に重工業化を目指し、西側からの技術の導入や機械の輸入で債務を膨張させた。
対外債務は飢餓輸出の結果完済したものの、「国民の館」と称する豪奢な宮殿を造営するなどの奢侈にはしったため、ルーマニアの経済は疲弊していった。
ルーマニアには石油が埋蔵されていて資源面で優位なことが、東西冷戦、中ソ対立においても、独自の立場の維持を可能にした。しかし、これはルーマニアをチャウシェスクの独裁国家に変質させる要因にもなった。
1977年3月4日、ブカレストの北方約100kmを震源とするマグニチュード7.0から7.5の地震が発生。多数の建物が倒壊して死傷者が出た。ブカレスト市内でも少なくとも十カ所のビルが倒壊したことを駐ルーマニアのアメリカ大使館員が報告している[3]。同年3月9日、ルーマニア共産党政治執行委員会は、同日時点で死者が1357人、重軽傷者10396人、被災家屋2万戸超に達していることを明らかにしている[4]。
ルーマニア革命
ソ連にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカをはじめ、1989年にはベルリンの壁の崩壊に連なる、東欧の民主化の波はルーマニアにも波及した。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなど、東欧諸国が無血で民主化を成し遂げる中、チャウシェスク大統領は権力の保持を企図したため、暴動が発生。ルーマニアだけは、流血の革命[5]による民主化となった(1989年のルーマニア革命)。
1989年12月16日に、ルーマニア西部の都市ティミショアラでの牧師強制連行事件に対し、市民は抗議運動を起こし、当局はこれを鎮圧に乗り出したが、死者の発生が抗議運動に過熱化させる結果を招いた。
国民のチャウシェスク独裁の不満は一挙に噴出し、暴動は首都ブカレストを含むルーマニア全域に広がった。12月22日にはチャウシェスクは全土に戒厳令をしき、国軍による混乱鎮圧に着手する。
しかし、国軍は大統領の命令を拒否し国民に合流。彼らと治安部隊との武力衝突が、首都を含む各地で繰り広げられた。ブカレストでは、市民が共和国広場に押し寄せ、更に共産党本部、放送局を占拠。もはやこれまでと、チャウシェスクは夫人とともにヘリコプターで脱出を試みるが失敗、身柄を拘束されてしまう。
これを受けて、暫定政権として救国戦線評議会が結成され、数日で実権を掌握。事実上の政府となった。同評議会は議長に、イオン・イリエスクを選出。12月25日には、チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺刑となった。その様子は映像で世界中に配信され、「ベルリンの壁の崩壊」の場面と並び、東欧民主化を国際社会に見せ付けることになった。
革命以後
1992年の救国戦線評議会の党大会では、内部抗争の結果分裂し、同年9月には大統領選、上下院選挙が行われイリエスクが大統領に就任。その後、民主化はされたが、高失業率や経済成長の停滞で前途は多難なものとなり、今も旧東欧圏では遅れをとっている。また、トランシルヴァニア地方の少数民族であるハンガリー系住民との民族問題を抱えている。2007年、ルーマニアは欧州連合(EU)に加盟した。
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この節の加筆が望まれています。
アンドレイ・オツェテァ著 鈴木四郎・鈴木学訳 『ルーマニア史1』恒文社、1977年。
アンドレイ・オツェテァ著 鈴木四郎・鈴木学訳 『ルーマニア史2』恒文社、1977年。
ジョルジュ・カステラン著 萩原直訳 『ルーマニア史』白水社、1993年。ISBN 4-560-05747-8。
六鹿茂夫編著 『ルーマニアを知るための60章』明石書店、2007年。ISBN 978-4-7503-2634-4。
』














『本項では、ルーマニアの地理について解説する。
238,397k㎡の面積をもつルーマニアは、ヨーロッパで12番目に大きい国である。黒海沿岸の東南ヨーロッパにあり、北極と赤道の中間点にあるほか、ヨーロッパ最西端である大西洋岸と最東端のウラル山脈からも等距離である。国境の延長は3,195kmに及び、東をモルドバとウクライナ、南をブルガリア、西をセルビアとハンガリーに接する。また、南東部には、245kmにわたって、大西洋へとつながる黒海の海岸線がある。
歴史
ルーマニアには、現在こそ行政区画に反映されていないものの、伝統的にいくつかの地方に分割される。
ルーマニアの地形、行政区分を示した地図。グレーの文字は歴史的な地域名(Țara Româneascăはワラキアを指す)
ドブロジャは、東端にある地域で、北上するドナウ川から黒海沿岸まで延びている。
モルダヴィアは、東カルパティア山脈から、モルドバとウクライナの国境にあるプルト川にかけて広がっている。
ワラキアは、トランシルヴァニアアルプス山脈の南からブルガリアの国境にかけて広がり、オルト川より西側はオルテニア、東側はムンテニアに細分される。ムンテニアとドブロジャの間にはドナウ川が流れる。
中西部はトランシルヴァニアとして知られ、弧状に広がるカルパティア山脈によって、北西部のマラムレシュ地方と隔てられる。西側でハンガリーと接するクリシュナ地方、ハンガリーやセルビアと接する南西部のバナト地方といったカルパティア山脈西側の地域では、ハンガリー人、ドイツ人、セルビア人など少数派の民族が最も集中している。
現在のルーマニアの国境線は、比較的最近になって定まったものである。第一次世界大戦が勃発した際、ルーマニアの領土はワラキア、モルダヴィア、ドブロジャのみであった。これらの地域は古王国(レガット)と呼ばれ、19世紀中頃にオスマン帝国が崩壊したことによって領土となった。第一次世界大戦が終わると、ルーマニアはトランシルヴァニアやバナトを獲得する。第二次世界大戦中には再び領土の一部が失われるが、戦後回復している。これらの地域の統合により、東ヨーロッパのルーマニア語を話す人々のうち85%が領内に収まったが、同時に多くのハンガリー人居住地域が含まれることになった。ハンガリーもルーマニアもこうした領土を自国のものだと認識していたため、領土問題は定期的に表面化した。また、ソ連とルーマニアの国境の歴史的妥当性についても議論の的となってきた。ルーマニア語話者の多いブコヴィナやベッサラビアは、第二次世界大戦終結後からソ連が崩壊するまでソ連領となっており、その後は領土を受け継いだウクライナやモルドバの一部となっている。この問題は解決に至っていないが、1989年以降のルーマニアは領有権を主張していない。
ルーマニアは現在、41の県と特別な権限をもつブカレスト市に分割されている。詳細は「ルーマニアの県」を参照されたい。
地形
ルーマニアの自然地形[1]
カルパティア山脈を示した地図
ルーマニアと近隣諸国の地質図
ファガラシュ山脈はルーマニアで最も標高が高い
ルーマニアの自然地形は、山地(23%)、平地(39%)、丘陵(35%)に大別される。カルパティア山脈では標高2,500mを超える高地が広がる一方、ドナウ・デルタでは海抜数メートルの低地が広がるなど、国土は変化に富んでいる[1]。
カルパティア山脈は、国土の中央部を弧状に1,000km以上にわたって延びており、面積は71,000k㎡にも及ぶ。標高は低級・中級の山々が連なり、幅は100kmもない。縦横の峡谷によって山脈は細かく分断されており、いくつかの主要な河川もここから流れ出ている。谷が多いことと、標高2,256mまで峠道が延びていることから、カルパティア山脈は他のヨーロッパの山脈と比べると、障壁が少ないといえる。また、浸食が進んでいることも特徴で、こうした場所では比較的標高の高い場所に台地が広がり、1,200mを超えるような場所にも集落が存在する。
ルーマニア国内のカルパティア山脈は、東カルパティア山脈、南カルパティア山脈(トランシルヴァニアアルプス山脈)、西ルーマニアカルパティア山脈の3つに分けられ、それぞれ特徴をもっている。東カルパティア山脈は、北西から南東にかけて延びており、平行に並ぶ3つの尾根で構成される。西端は死火山地帯で、多くの円錐状の地形や噴火口跡が残されている。山脈内には盆地が多く、そのうち最大規模の盆地内にはブラショヴがある。盆地は重要な鉱業・産業の中心で、農業も盛んな地域となっている。また、森林が多いのも特徴で、国内の32%ほどを占めているほか、金や銀などの鉱床も存在し、湧き出るミネラルウォーターは数多くの健康リゾートで利用されている。
標高2,216mのブチェジ山脈にあるスフィンクス形の岩。高さは8m、幅は12mある
南カルパティア山脈には、モルドベアヌ山(2,544m)やネゴイウ山(2,535m)の高山があり、150以上の氷河湖が存在する。広い草地や森林が広がっているが、大きな盆地や鉱山資源は少ない。標高の高い地域では、雨や風によって岩が浸食され、スフィンクスや老女に見える岩が知られている。また、この地域には、ローマ時代に山脈越えの道がつくられ、現在でも跡が残っている。数多くの峠や、オルト川、ジウ川、ドナウ川によって形成された谷が存在し、そこを道路や鉄道が横断している。
西ルーマニアカルパティア山脈は、3つの山脈のなかでは最も標高が低く、多くの低地によって分断されている。この山脈は、通行が容易く、防御もしやすいことから、かつてより「門」としての機能を果たしている。最も有名な例は、ドナウ川の「鉄門」である。人口が最も集中している山脈でもあり、北端に位置するアプセニ山脈には、標高の最も高い集落がみられる。
カルパティア山脈の描く弧の内部には、波状に平地と低い丘が連続するトランシルヴァニア高原があり、国内最大の台地となっている。ここは一大穀倉地帯であるのと同時に、メタンガスや塩の産地ともなっている。カルパティア山脈の南側から東側にかけては、外カルパティアと呼ばれる地域が広がっており、標高396mから1,006mまで起伏が多い。また、これらの高地の西側には、やや標高の低い西部丘陵地帯が存在する。ルーマニアの起伏地形はさらに外側にも広がり、外カルパティアの南にはゲティック台地、東部の外カルパティアとプルト川の間にはモルダヴィア台地、南東部のドナウ川と黒海の間にはドブロジャ台地が存在する。外カルパティアと各台地の間は定住に適しており、果実、ブドウの栽培、農業が行われているほか、褐炭や天然ガスが大量に埋蔵している。
カルパティア山脈の高地の両側、南部と西部には平地が広がっている。このうち南部の低ドナウ平野は、オルト川によって東西に二分される。東側はワラキア平原、西側はオルテニア平原(西部平原)である。これらの平地は肥沃なチェルノーゼム土壌となっており、ルーマニア最大の農業地帯である。広範囲にわたって灌漑が行われ、ドナウ川の氾濫原にある湿地帯では、堤防建設と排水を実施してさらなる耕作地を生み出している。
ドブロジャの北端にあるドナウ・デルタは、ルーマニアで最も標高の低い地域である。デルタは沼地、葦の浮島、砂地で構成され、3,000km近くを流れてきたドナウ川は、ここで3本に分流して黒海に注ぐ。ドナウ・デルタは、ルーマニアの漁業の中心地で、葦は繊維として用いられる。また、渡り鳥など希少動物や植物が生息しており、自然保護区に指定されている。
「ルーマニアの保護地域(英語版)」も参照
水理
トランシルヴァニアのトゥルダ峡谷を流れるハシュダテ川
河川
ドナウ川は、バジアシュの南西でルーマニアに入り、流路全体の約40%にあたる1,075kmにわたって国内を流れる。ほとんどがルーマニア南端の国境となっており、この川を境にセルビアやブルガリアと接する。ルーマニア国内の河川のほぼすべてが直接または間接的なドナウ川の支流であり、ドナウ川の総流量の40%近くがルーマニアで合流する。代表的な支流として、ムレシュ川、オルト川、プルト川、シレト川、ヤロミツァ川、ソメシュ川、アルジェシュ川が挙げられる。オルト川は、ルーマニア国内のみで完結する河川としては最長で、615kmある。
ルーマニアの河川の多くは、カルパティア山脈から東、西、南に流れている。川の水は降水と雪解け水によって成り立っているため、流量の変化が激しく、時折洪水も発生する。ルーマニア東部ではシレト川、プルト川、西部ではハンガリー領内のティサ川をそれぞれ経由した後、ドナウ川に注ぐのに対し、南部では直接ドナウ川に流れ込む。
ドナウ川はルーマニアでは重要な役割を担っており、交通だけでなく、水力発電にも用いられる。ヨーロッパ最大の水力発電所は、カルパティア山脈を通過するドナウ川が形成する峡谷、鉄門に存在する。また、国内外問わず貨物輸送の経路としても用いられている。河口付近のドナウ・デルタは水深が浅いため、船が航行できるのはブライラの港までとなっている。ドナウ川の利用に関する大きな課題は、国内の主要な産業地域から離れており、内陸交通の場として十分に活かしきれないことである。また、湿地帯や洪水の時期には航行できなくなることもある。
湖沼
ルーマニアには3,500を超える湖が存在する。最大のものは、511k㎡の面積をもつラジム湖である。
気候
ケッペンの気候区分でみるルーマニアの地図
ルーマニアはヨーロッパ大陸の南東部に位置しており、温暖な気候と大陸性気候の境目にある。気候条件は地形によって影響を受けている。カルパティア山脈は、大西洋からの気団の障害となるため、西部や中部では、冬は暖かく、降雨の多い海洋性気候の影響が限定されている。同時に北側にある広大なウクライナの平原から来る、非常に寒く雨の少ない大陸性気候の影響も和らげている。最南東部では、地中海の影響で暖かく、海洋性の気候がみられる。年間平均気温は南部で11℃、北部で8℃である。首都ブカレストでは、1月の最低気温が-29℃、7月の最高気温が29℃となり、平均気温は1月が-3℃、7月が23℃である。全国的に降水はあるが、西部から東部へ、山地から平野部へ行くにつれ少なくなる。一部の山岳地帯では、毎年1,010mmを超える降水量があり、年間平均はトランシルヴァニア中部で635mm、モルダヴィアのヤシで521mmであるのに対し、黒海沿岸のコンスタンツァでは381mmまで減少する。
季節ごとの特徴として、冬は寒く曇りがちで、頻繁に雪や霧となる。夏は晴れることが多いが、にわか雨や雷雨も多発する。冬は一般的に11月から3月までで、春は短くすぐに夏に入る。夏は5月から8月まで続き、秋は9月から11月と長い。1月の平均気温は1.1℃、7月の平均気温は20.6℃である。史上最高気温は、1951年8月10日に南東部で観測された44.5℃、最低気温は1942年1月24日に中部で観測された-38.5℃である。
位置
ヨーロッパ南東部に位置し、黒海、ドナウ川を国境とする。中央部にはカルパティア山脈が横切る。バルカン半島、モルドバ、ウクライナ間の交通の通過点となっている。
大まかな位置座標
北緯46度00分 東経25度00分
ルーマニアの極地
北端(北緯48度15分 東経26度42分): ホロディシュテア - ボトシャニ県の村、ウクライナとの国境
南端(北緯43度37分 東経25度23分): ジムニチャ - テレオルマン県の町、ブルガリアとの国境
西端(北緯46度07分 東経20度15分): ベバ・ベケ - ティミシュ県の村、ハンガリー、セルビアとの国境
東端(北緯45度09分 東経29度41分): スリナ - トゥルチャ県の町、ドナウ・デルタ内
面積
全体: 238,391平方キロメートル (92,043 sq mi)
陸地: 231,231平方キロメートル (89,279 sq mi)
水地: 7,160平方キロメートル (2,760 sq mi)
国境
総延長: 3,149.9km
各国境の長さ: ブルガリア(631km)、ハンガリー (448km)、モルドバ (681km)、セルビア (546km)、ウクライナ (649km)
海岸線・領海
総延長: 245km
国境問題: ズミイヌイ島
排他的経済水域: 面積23,627k㎡
地勢
トゥルダ岩塩坑
最高・最低地点
最低地点: 黒海 (0m)
最高地点: モルドベアヌ山 (2,544m)
天然資源
石油(埋蔵量は減少傾向)、木材、天然ガス、石炭、鉄鋼、塩、耕作地、水力発電
土地利用(1993年推計)
耕作可能地: 41%
永続的な農地: 3%
永続的な牧草地: 21%
森林: 29%
その他: 6%
灌漑地域(1993年推計)
31,020km
自然災害
地震は南部、南西部に多い。地形や気候が要因で土砂災害も発生する。
環境
主な環境問題
土壌浸食、南部の産業排水による水質・大気汚染、ドナウ・デルタの湿地汚染
国際的な合意領域
大気汚染、南極条約、生物多様性、気候変動、砂漠化、絶滅危惧種、環境改変、有害廃棄物、海洋法、核実験禁止、オゾン層保全、船舶による汚染、湿地
署名しているが批准に至っていない領域
残留性有機汚染物質、環境保護に関する南極条約議定書、京都議定書(気候変動)』