【速報】外務省局長が徴用工判決で韓国に抗議
https://www.47news.jp/10375532.html
『2024年01月11日 11時31分 共同通信
日本外務省は11日、韓国最高裁で日本製鉄に元徴用工への損害賠償を命じた判決が確定したことを受け、鯰博行アジア大洋州局長が在日本韓国大使館の次席公使に「極めて遺憾で断じて受け入れられない」と抗議したと発表した。』
【速報】外務省局長が徴用工判決で韓国に抗議
https://www.47news.jp/10375532.html
『2024年01月11日 11時31分 共同通信
日本外務省は11日、韓国最高裁で日本製鉄に元徴用工への損害賠償を命じた判決が確定したことを受け、鯰博行アジア大洋州局長が在日本韓国大使館の次席公使に「極めて遺憾で断じて受け入れられない」と抗議したと発表した。』
韓国最高裁、日本製鉄の賠償確定 日本側また敗訴
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM111SZ0R10C24A1000000/
『【ソウル=甲原潤之介】韓国大法院(最高裁)は11日、元徴用工の遺族らが日本製鉄に損害賠償を求めた訴訟で、日本企業側の上告を棄却した。日本製鉄に約1億ウォン(1100万円)の賠償を命じる判決が確定した。2023年12月以降、最高裁の判断が下るのは3回目で、いずれも日本側が敗訴している。
18年に日本企業に賠償を命じる判決が初めて確定して以降、日本企業側の責任を認める判決が続いている。
日本の外務省は11日、1965年の日韓請求権協定に「明らかに反するもので極めて遺憾であり、断じて受け入れられない」とする立場を表明した。鯰博行アジア大洋州局長が在日本韓国大使館の次席公使に抗議した。
韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は23年、韓国政府傘下の財団が判決金を代わりに支払う解決策を決めた。韓国内での解決を図るが、解決策に反対する原告もいて手続きは難航している。』
英郵便の冤罪、富士通批判が再燃 スナク氏「救済新法」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR10COA0Q4A110C2000000/
『2024年1月10日 22:04 (2024年1月11日 9:20更新)
【ロンドン=江渕智弘】英国の郵便局長らが現金を盗んだなどとして起訴された大規模な冤罪(えんざい)事件をめぐり、欠陥のある会計システムを納入した富士通への批判が再燃している。スナク首相は10日、巻き込まれた局長らを救済するため「新たな法律を導入する」と述べた。議員の間では富士通に賠償を求める声も上がる。
事件は1999年から2015年に起きた。窓口の現金が会計システム上の残高よりも少なくなり、700人以上の郵便局長らが横領や不正経理の罪に問われた。局長らは委託元の英ポストオフィスから補塡の要求を受けて借金したり、収監されたりした。
その後、富士通の会計システム「ホライゾン」の欠陥と判明したが、有罪判決が取り消されたのは90人あまりにとどまる。
今月初め、英ITVが事件を題材にしたドラマを放送し、再び関心が高まった。放送後、元局長らが無実の罪を着せられたと新たに名乗り出るケースも相次ぐ。
スナク氏は10日、議会下院で「英国史上最大の誤判の一つだ。地域社会のために懸命に働いていた人々が全く落ち度がないのに人生と名声を破壊された」と強調した。新法によって速やかに冤罪を晴らし、賠償を受けられるようにするという。
下院ビジネス貿易委員会は、富士通幹部らに16日に議会で証言するよう要請した。郵便局のシステムを担う英国子会社の富士通サービシーズは、1990年に富士通が買収した英ICLを母体とする企業だ。
英政府によると、元局長らには政府が賠償金を支払ってきた。議員の間では富士通に支払いを求める声が上がっている。
富士通は、事件後も英国防省などにシステムを納入している。事件が決着するまで英国の政府調達から締め出すべきだという意見もある。同社は10日、日本経済新聞に対し、「起きたことを明らかにするため調査に全面的に協力する」とコメントした。
【関連記事】英郵便局長550人が冤罪被害 「犯人」はバグだった
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浅川直輝
日経BP 編集委員
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ひとこと解説
英富士通サービシーズ(FSL)の前身である英ICLは、富士通が1990年に買収して子会社化し、1998年に100%子会社化、2022年に現在の社名に変更しています。同社は英郵便局との契約のもと、1996年からHorizonの開発を始めましたが、開発費が当初の数倍に膨れ上がるなどプロジェクトは難航、契約解除も取り沙汰されました。契約継続を巡る日英2国をまたがる折衝の実態が、2021年に始まった公聴会で明らかにされつつあり、それが同事案への英国民の関心をさらに高めています。
2024年1月11日 5:59 』
米国務長官、フーシに報復再警告 英国と無人機など撃墜
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN10E790Q4A110C2000000/
『【ワシントン=中村亮】ブリンケン米国務長官は10日、イエメンの親イラン武装組織フーシによる商船攻撃に関し「世界各国の利益に対する明確な脅威だ」と非難した。9日には英国軍と共同でフーシの無人機などを撃墜しており「攻撃が続けば報いがある」として報復を再警告した。
ブリンケン氏がバーレーンの首都マナマで記者団に語った。米国や日本、英国など13カ国は3日の共同声明でもフーシに報復する姿勢を示し、実行が焦点になる。
米中央軍によると、空母ドワイト・アイゼンハワーの艦載機や米英の艦船は9日、フーシの無人機18機とミサイル3発を紅海上空で撃墜した。フーシによる攻撃が止まらない。
ブリンケン氏は「我々は他国と同じようにイランに対し、フーシへの支援は停止すべきだと明確に繰り返し訴えてきた」と強調した。「紛争が激しくなるのはイランの利益ではない」とも話した。
イスラム組織ハマスが2023年10月にイスラエルを奇襲攻撃して激しい戦闘が始まってから、フーシが紅海で商船攻撃を活発にしている。海上物流が混乱するほど世界経済に打撃となるリスクが高まる。
米国は2023年12月、紅海を通る商船を守るために「航行の守護者作戦」を始めた。米海軍高官によると、24年1月初め時点で米国と英国、フランスの艦船5隻が紅海で活動し、ギリシャとデンマークも艦船を派遣する見通しだ。』
中独合作
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C
※ 今日は、こんな所で…。











『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中独合作のイメージ画
中独合作(ちゅうどくがっさく、中: 中德合作、独: Chinesisch-Deutsche Kooperation、英: Sino-German cooperation)とは、1910年代から1930年代にかけて、中華民国とドイツ国(ドイツ帝国→ヴァイマル共和政→ナチス・ドイツ)との間で交わされた一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。
日中戦争直前の中国で、産業と軍隊の近代化に役立ち、ドイツは工業化がされていない中国と交易で潤った。
1912年に中華民国が成立した直後の中国では、軍閥が跋扈し、列強の侵略に苛まれていたが、1928年の北伐の完遂により、一応ながらも国内統一がなされた。
しかし、その後満州事変などの日本(大日本帝国)の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされるようになった。
そのような背景において、軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の蜜月関係は最高潮に達した。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)がドイツを支配するとさらに関係が強化されたが[1]、日独防共協定が締結されると関係は極端に弱められ、親日の汪兆銘政権を正式な中国の政府として認めた1941年に終焉を迎えた。
中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果を発揮した。
中独合作前の中国とドイツの関係
初期の中国(清)‐ドイツ間の貿易は、シベリア経由の陸路を使っていたため、ロシア(ロシア帝国)政府により通過税がかけられていた。
そのため、しだいに海上航路を使うようになっていった。
初めて清を訪れたドイツ商船は、1750年代プロイセン王国のプロイセン王立アジア会社(Koniglich-Preusische Asiatische Compagnie)のものだという。
アロー戦争で結ばされた1858年の天津条約によって、プロイセンを含んだヨーロッパ各国と中国との貿易が活発化した。
北洋軍閥の軍事演習
19世紀後半、中国貿易の主導権はイギリスが握っていた。
そのため、プロイセン王国宰相のビスマルクは、イギリスに対抗できるような貿易機構を熱望した。
1885年、ビスマルクは、清への直行汽船に補助金を出す法案を議会通過させた。
同年、ビスマルクは清にドイツ第一銀行と産業調査団を送り込み、1890年にはドイツ・アジア銀行(徳華銀行(ドイツ語版))を設立する。
これらの努力により、中国の1896年の貿易量はイギリスに次いで第2位となった。
この頃のドイツは、中国に対してイギリスやフランスのように露骨な帝国主義的態度を取っていなかったので、清国政府はドイツとの協力関係を基にして近代化を進めようと考えた。
1880年代、ドイツのフルカン株式会社シュテッティン造船所は、後の日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦定遠、鎮遠を造船している。
また1880年代後半、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化に協力している。
日清戦争の敗北により、袁世凱はこれまでの洋務運動が間違っていたと考え、自強軍(Ziqiang J?n)、及び新建陸軍(X?njian Luj?n)建設のため、ドイツにさらなる支援を希望した。
さらに軍備だけでなく、産業や技術面での支援も希望した。
一方で、ドイツの対中国政策は1888年にヴィルヘルム2世が即位すると急変した。
ヴィルヘルム2世は帝国主義的な政策を推進し、例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に軍を出し、1898年に清朝に山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。
恐らく中独関係が最も冷え込んだのは1900年の義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺されたヴィルヘルム2世は怒って、遠征軍司令官に対して、反乱軍に対して「フン族の如く容赦ない攻撃を加えよ 」と命令した。(この事件を受けて、第一次世界大戦、第二次世界大戦のドイツ軍はしばしば「フン族」の蔑称で呼ばれた。[1])
この期間、ドイツは中国の法整備にも大きな影響を与えた。
清朝が終わる数年前、中国の革命家はドイツ民法を基にした[2]民法草案の作成を始めた。
ドイツ民法の骨子は、すでに日本でも採用されていた。この草案は、清朝崩壊前には施行されなかったが、1930年に中華民国民法として施行された。
それは現在の台湾民法に引き継がれ、中華人民共和国の現行法にも影響を与えた。1985年に作られた中華人民共和国民法の原則は、ドイツ民法に基づいている[3]。
ところが第一次世界大戦の前、中国とドイツの関係は一次的な停滞を見せた。
その理由として、1902年の日英同盟や、1907年の三国協商(イギリス、フランス、ロシア)により、ドイツが政治的に孤立したことが挙げられる。
ドイツはそれに対抗して、1907年にドイツ、中国、アメリカの協商を模索したが、実現しなかった[4]。
1912年、ドイツは中国の革命政府(中華民国)に600万マルク(en)の資金を提供し、中国に山東省での鉄道敷設を許可した。
第一次世界大戦開戦後、ドイツは中国の租借地が日本に渡らないよう膠州湾の返還を申し出たが、それが完了する前に日本は青島と膠州湾に攻撃を仕掛けた。ドイツは極東にまで手が回らず、これに対して何の動きも取れなかった。
1917年8月14日、中国はドイツに対して宣戦布告して漢口、天津のドイツ租借地を回復し、そのほかのドイツ租借地の返還を約束させた。
しかしながら、パリ講和会議での中国代表団の反対にもかかわらず、ヴェルサイユ条約によってこれらの土地は日本に割譲されることが決まった。(中国ではこれを連合国側の裏切りと取る人が多く、後の五四運動へときっかけの一つとなった。)
これらの動きにより、第一次世界大戦後の中国-ドイツ間貿易は大きな打撃を受け、1913年に300あったドイツ企業は、1919年には2にまで激減した[5]。
1920年代の中独合作
ヴェルサイユ条約後のドイツ軍事産業の動向
中独合作を進めたゼークト
ヴェルサイユ条約では、ドイツ軍は10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツの工業生産は大きく減少した。
しかしドイツは軍事先進国として多くの製造会社が一流の軍用品生産技術を持っていたため、「外国に売るため」という条約制限の抜け穴をついて合法的な理由で、海外に合弁会社を設立し、そこで兵器を生産し、ソ連やアルゼンチンなどに売却した。
このような海外移転案を出したのが、ワイマール共和国国軍(Reichswehr)兵務局長に就任していたハンス・フォン・ゼークトである。
ソ連とは1922年にラパッロ条約を締結し、翌1923年には秘密軍事協定を結び、ドイツはソ連の重工業や軍事教育を支援し、ソ連は武器製造などを分担する。
なお、ドイツ軍はほかにも、歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将がトルコで軍事指導を、ハンス・クントがボリビア軍を指導し、パラグアイとのチャコ戦争において指揮をとるなどしていた。
中国とドイツの接近
対独交渉の窓口となった朱家?
袁世凱の死後、中国を支配していた北京政府は崩壊し、政権を狙う軍閥同士で内戦が始まった。そのため、ドイツの兵器メーカーは、中国に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策した[6]。
広州の国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家?が1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。
中国が外交相手にドイツを望んだのは、ドイツが技術力を持っていたという以外にもいくつかの理由があった。
イギリスなどの国々は未だ帝国主義的であり、中国国内の反帝国主義運動の主対象となっていたが、これに対してドイツは第一次世界大戦で世界各地の植民地を失い最早帝国主義的政策の推進を諦めていたため、中国人に対する受けがよかった。
また、ソ連のように政治に介入し、共産主義者の勢力の伸張を図ろうとしなかったことも理由に挙げられる。
また、国民党の?介石は、ドイツが近年になって国内統一を果たしたことが、中国再統一の上で大いに参考になると考えていた。
このようなことから、中国はドイツが中国の国際的地位の向上を遂げる上で重要な役割を果たすと見なしていた[7]。
マックス・バウアー訪中と軍事顧問団の形成
軍事顧問として招かれたマックス・バウワー
1926年、朱家?はマックス・バウアーを招いて中国への投資の可能性について会談し、翌年広州を訪れたバウアーに?介石の軍事顧問になるよう依頼した。
1928年秋、バウアーはドイツに戻り、中国の工業化に協力できる企業と、南京で?介石の常任顧問を引き受ける人物を探した。
しかし、多くの企業は中国の政局が不安定であるため躊躇し、バウアーも1920年のカップ一揆に加わっていたと疑惑をもたれたことや、また、ドイツの中国への直接軍事協力はヴェルサイユ条約に抵触するとの懸念もあり、招致は困難であったが、約30人の将校とともに、マックス・バウアーは中国に戻り、軍事顧問団を形成した[2]。
これ以降、ドイツの最新兵器が中国にもたらされる。バウアーの国民政府への関与は、後の中独協力の基礎となる。
バウアーを団長とする軍事顧問団は、直ちに黄埔軍官学校の軍事教練に着手。
バウアーは国民革命軍を縮小して少数精鋭部隊へと再編成を行った。
翌1929年春には李宗仁らが?介石と対立した際には、軍事顧問団は、戦闘の指導を行った[3]。
この作戦指導中、バウアーは天然痘にかかり漢口で死去、上海に埋葬された[8]。
バウアー没後、ヘルマン・クリーベル中佐が顧問団長を継ぎ、1年五ヶ月間務めた。
1930年代の中独合作
1928年、ドイツの工場を視察する?作賓ら訪独団の一行
1928年、国民政府の?介石の北伐の完成により、中国の統一は一応達成された。
しかし中独関係は、世界恐慌の煽りとクリーベルが国民政府との対立から顧問団長を解任されるなどの齟齬が起きたことから1930年から1932年の間は停滞した[9]。
さらに、ドイツの産業界、貿易業、ワイマール共和国のドイツ国軍がめいめいに中国利権を獲得しようとしたため、中国における産業の開発は思うように進まなかった。
1931年、満州事変で日本が中国軍を一掃し、翌1932年1月3日 には満州を占領。同年1月28日 には第1次上海事変が勃発する。
このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。
その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、クリーベルの後任の顧問団長だったゲオルク・ヴェッツェル中将が自ら中国軍を指揮している[4]。
1933年にナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。
ワイマール政府は中国を含む極東に表立って干渉しないことを原則としていた。
しかし、ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。
その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された[10]。
ゼークトの軍事顧問団長就任とハプロ設立
1933年5月、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェル中将の招きで上海に赴き、経済・軍事に関して?介石の上級顧問となった。
ゼークトは早くも翌6月、経済・軍事推進計画の概説を?介石に提出した。
その中で、大規模で訓練が行き届かない現状の軍に替えて、小規模で、機動性に富み、装備が整った部隊を整える事を要求し、加えてゼークトは、軍隊は質によってその優劣が決まり、その質の差は将校の質から生じるゆえに、磐石な命令系統が軍隊の骨子を成す、という構想を説いた[11]。
ゼークトは、まず第一に、国民革命軍が?介石の号令の下に一様に訓練され統治される必要があり、組織をピラミッド型の中央集権構造に変える必要があるとした。
これを達成するため、政府が将校団を厳選した、ドイツの「Eliteheer(エリート部隊)」に相当する「模範旅団」を作って、各地の軍団の訓練を担当させれば良いと提案した[12]。
またゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも?介石に進言し[5]、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵愾心を養うことだ」とも提案した。
これをうけて?介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。
当時国際的に孤立しつつあったドイツからの支援により、他国からの軍事支援を受けることが難しくなったため、中国は国防産業の自給を進める必要があった。
産業構造を効率的にするためには、中国の組織を変えるだけではなく、中国内のドイツの各組織を統一化する必要があった。
1934年1月、中国内のドイツ産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立された[13]。
設立者は退役大尉で武器商人であったハンス・クラインである。
クラインはすでに1933年6月のゼークトが中国をはじめて訪れたときに同行していた。ハプロ設立の目的は、ドイツが国家として中国への干渉を深めている事に対しての外国からの抗議をかわすためでもあった。
同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任した[6]。ゼークトは1935年3月に病気で帰国するまでに以下のような軍事改革を行った。
今後三年間にドイツ製武器を装備した二十個師団の形成
教導総隊の創設
中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立
ハプロ・中国間物資交換条約
1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。
国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。
一方で、ドイツは、軍需資源を中国から確保できるようになったため、国際原料市場に依存する必要がなくなった。
ハプロとこの条約は、中国産業の推進だけではなく、軍制の再編成も促進した。
この重要な条約を結んだ後、ゼークトは中国軍事顧問の地位をアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンに譲り、1935年3月にドイツに帰国した。
帰国後、ゼークトは、ドイツは中国と協力すべきとヒトラーらナチス高官に進言、ヒトラーやドイツ国立銀行総裁で当時経済大臣であったシャハトらは賛同する。
中独協定と鉄道開発
1936年、中国の鉄道は、かつて孫文が思い描いていた10万マイル(16万キロメートル)とは程遠く、わずか1万マイルに過ぎなかった。
さらに、これらの鉄道の半分は満洲にあり、日本が支配していた。
中国の輸送の近代化が遅れていたのは、列強の都合によるところが大きい。
1920年、イギリス、フランス、アメリカ、日本の銀行による「新四強国際借款団」の取り決めにより、中国への資本投資には制限があった。
4カ国が中国に鉄道敷設のための資金を提供する場合には、他国の同意が必要と定められていた。
さらには、世界恐慌で各国とも国力が落ちていたため、欧米日の列国といえども広い中国大陸を網羅する鉄道を敷設するための資金提供そのものが困難となっていた。
1934年から1936年の間の中独協定は、中国の鉄道建設を大いに進めた。
華南地域と武漢地区を結ぶため広州と武昌を結ぶ粤漢線を完成させ、加えて浙江省杭州から湖南省株洲で粤漢線に接続する浙?線とそこから南昌へ伸びる支線を1937年までに全通させた。
これらの新線は揚子江南部の鉱山や工業地帯を華東・華南の中国沿岸と繋ぐことで中独両国の利害が一致したことから進められ、日中戦争でも軍事物資の運搬として使われた。
更に株洲から貴州省貴陽を経て昆明を結ぶ新線も着工されたが、日中戦争の激化や中独合作の途絶・国共内戦により全通したのは中華人民共和国成立後になってからである(現在は滬昆線として一体化して運用されている)。
軍事産業三ヵ年計画
ヒトラーのもとを訪問した孔祥熙
駐独中国大使として着任に際し、独外務省を訪問する陳介(1938年)
中独合作で最も重要なのは、1936年からの軍事産業三ヵ年計画である。
それは中国政府の国家資源委員会(en) とハプロ・ドイツ軍によって推進された。
この計画の目的は、短期的には日本に対抗できるだけの工業国となることであり、長期的には将来の中国産業を振興させることであった。
この計画は、タングステンとアンチモンの独占開発、湖北省、湖南省、四川省のような地方都市に中央製鉄所、機械工場、発電所、化学工場を建設することなどが骨子となっていた。
1934年の交換条約の取り決めにより、中国はドイツから技術提供を受け、ドイツには稀少原料を提供した。これらの取引は中国の対独貿易赤字となることが多かったが、1932年から1936年にかけてタングステンの価格が2倍に上昇したため、いくらかは緩和された[14]。
1936年にはヒトラーは中国に1億マルクの借款を与え、その借款で中国はドイツから武器を購入した[1]。また、10年間にわたり毎年1,000万マルク相当の鉱物資源がドイツに提供されることとなった[1]。
1936年1月、南京政府訪独団がドイツを訪れ、2000tのタングステンを提供している。
同年4月8日には、独中間で借款貿易協定がむすばれ、ドイツは中国政府に1億マルクの追加融資を行った。
推進者は国防省官房長のヴァルター・フォン・ライヒェナウ中将であった[7]。
ライヒェナウはクラインらと中国軍備拡張計画を練り、六個師団からなる十万の軍、将来的には30万にまで拡張する新たな軍事顧問団の創設を構想した。
ほか沿岸部防衛のため、四隻の高速魚雷艇の輸出(最終的には50隻まで提供)、揚子江防衛のための15㎝砲台と機雷封鎖設備を供給する計画であった[8]。
7月には三ヵ年計画を開始、クルップとシーメンス[9]による中央鋼鉄廟・兵器工場、化学メーカーIGファルベンによる爆薬研究所、ダイムラー・ベンツによる国有自動車会社などの建設をすすめた[10]。
これにより、1931年には中国の貿易額において対ドイツが米日英に次いで5%を占めていたのに対して、1936年には17%を占めるようになり、英国を抜いて日本に並び、3位となった[10]。
ファルケンハウゼンの対日戦術
1935年1月、ファルケンハウゼンは、中国国防基本方針と題する対日戦略案を?介石に提出する。
そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることをファルケンハウゼンは提案した[11]。
また同年10月1日には、漢口と上海にある租界地の日本軍を奇襲し、主導権を握ることを進言している。
ファルケンハウゼンは中国にとっての第一の敵を日本、第二を共産党ととらえていたのである。
しかし、?介石や何応欽らは当初、第一の敵を共産党とみなしていたため、ファルケンハウゼンの進言に反対した。
しかし1936年4月1日にファルケンハウゼンは「欧州で第二次大戦が開始し、英米の手が塞がらないうちに、対日戦争を踏み切るべきだ」とさらに進言した<[12]。
かつてゼークトの立てた計画はドイツの軍事理論に基づいており、国民革命軍を十分な装備と訓練を受けた60個師団へと縮小させることを要求していた。
しかし、軍のどの部門を廃止かが問題となっていた。
黄埔軍官学校で訓練された将校達は、各地の元軍閥の将校より優れており、?介石の政治的優位を支えるのに役立った[15]。
国民革命軍の内、8個師団はドイツ式に訓練されて主力となった。
この改革は、?介石が盧溝橋事件後に日本に対する徹底抗戦に踏み切る決断の要因のひとつとなった可能性がある。
しかし、国民革命軍はまだ強化途中であり日本軍に対抗できるほどの力を持っていなかった。
?介石は、幕僚とファルケンハウゼンの反対にもかかわらず、1937年の上海戦に全兵力の3分の1を投入し、貴重な戦力を失った。
ファルケンハウゼンは?介石に対し、消耗戦に持ち込んで日本軍を疲弊させることを提案した。
それは、黄河の防衛線を守ること、ただし当面の間は黄河北部を攻撃しないこと、そのために山東省を含む中国北部を放棄すること、撤退を急がないことなどから成っていた。
さらに、鉱業地帯、海岸、河川に陣地を構築し、ゲリラ作戦を取ることを勧めた。
そうすれば、日本が徐々に消耗していくだろうと説明した。ゲリラ戦は、第二次国共合作で提携した共産党の得意技であった。
ファルケンハウゼンは、中国の国民革命軍が日本軍に抵抗できるだけの装備を確保するのは当面は難しいだろうと予想していた。
中国の産業は近代化を始めたばかりであり、ドイツ国防軍並の装備をするには時間がかかると考えていた。
そのためファルケンハウゼンは、浸透戦術を取り、小型兵器を装備した機動部隊の設立が必要だと論じた。
ドイツによる中国国民党軍の軍備再編
ドイツの軍事援助は、人材育成と組織整備だけでなく、軍需物資提供に及んでいた。
ゼークトの分析によると、中国式兵器の8割は近代戦で使えない代物だった。
中独合作の一環として、揚子江沿いにある既存の兵器廠を発展させていく方針が盛り込まれていた。
例えば、漢陽兵工廠(en) は、1935年から1936年にかけて最新設備に作りかえられた。この工廠で、二四式機関銃、8cm迫撃砲の他、マウザー製Kar98k小銃をモデルとして、?介石の名前を取った中正式歩兵銃が作られた。
中正式歩兵銃と漢陽88式歩兵銃は、国民革命軍全軍に配布され、有力な火器として使用された[16]。
また別の工場では、ガスマスクの製造と、最終的には中止されたものの、マスタードガスの製造プラントの建設が計画された。
1938年5月、湖南省に20mm、37mmおよび75mm砲の生産工場が作られた。1936年後半、南京近郊に双眼鏡、狙撃銃用の照準器等の光学部品工場が作られた。
国民革命軍が購入したハインケル111A。全部で11機購入され、その後中国航空(中国語版)で民用に供用された
このほかにも、MG34、各種口径の山砲、装甲偵察車Sd Kfz 222などの工場が作られた。
軍事研究所もいくつか作られた。兵工廠研究所、イーゲー・ファルベン社指導で作られた化学研究所などである。
これらの多くはドイツで教育を受けた中国人技術者により運営された。
一方、1935年から1936年にかけて、中国はドイツにM35型シュタールヘルム31万5千個と、Gewehr 88小銃、Gewehr 98小銃、モーゼルC96型拳銃多数を注文した。さらに、少量ではあるが、ヘンシェルHs 123や、ユンカース、ハインケル、フォッケウルフの航空機を購入し、一部は中国国内で組み立てている。さらに、ラインメタル、クルップから3.7 cm PaK 36や15cm sFH 18などの榴弾砲、対戦車砲、山砲、さらにはI号戦車などの装甲戦闘車両を購入した。
これらの近代化は直後の日中戦争で効果を発揮し、殊にドイツの支援で上海一帯に構築された陣地の攻略などで日本軍は予想以上の犠牲を払うこととなった。
国民政府は多くの主要都市の占領を許したものの、国民革命軍自体の士気の維持を保つことには成功した。一方で、日本軍は国民政府が遷都した重慶を無差別爆撃はしたものの、地上部隊による攻撃は終戦に至るまで出来なかった。
日独防共協定
1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた[13]。
日スペイン防共や日ルーマニア防共協定と共に日独防共協定が締結されても、中国とドイツの関係は変わらず、ファルケンハウゼンが第二次上海事変で国民革命軍を指揮した。
ヒトラーが、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだのは1940年10月の日独伊三国軍事同盟を待たなければならなかった。[17]。
ただし、中華民国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約が締結されると、ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。
ドイツは在華大使トラウトマンを介して、中華民国と日本の和平交渉を仲介しようとしたが、1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。
1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。
その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中華民国への軍需物資の輸出が禁止された。
さらに同5月には日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。
南京国民政府の汪兆銘とドイツのハインリヒ・ゲオルク・スターマー特命全権大使の会合(1941年)
ドイツが親交国を中華民国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。
自国に主だった工業が無い中国との交易に比べれば、大国であり工業が盛んな日本と満洲国から得られる経済効果ははるかに小さかったためである。
また、中華民国在住のドイツ人のほとんどは、国民政府を支持した。
例えば、漢口のドイツ人は現地の赤十字に対し、中国人と他の外国人からの合計以上の寄付を行っていた。
ドイツの軍事顧問達は、国民政府に同情的だった。ファルケンハウゼンは、1938年6月末日に退去を命じられていたが、?介石に対して、「日本に味方することだけはない」と断言した。その一方で、ナチス党の幹部達は、日本を「中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤」と位置づけていた。
実際にも、ドイツが日本と手を組んだことは、経済的には必ずしも成功とは言えなかった。
日本が北中国及び満洲国の権益を独占したため、中華民国におけるドイツの権益は他国並みにまで落ち込んだ[18]。
1938年中ごろ、これらの経済問題が未解決なまま、ヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、1936年に締結された日独防共協定が事実上無効となった。
ソ連は満州国の物資をドイツに送るのにシベリア鉄道の利用を認めたが、当初からその量は少なく、ソ連、ドイツ、日本の交流が浅いためにさらに減少することになった。1941年、ドイツがソ連に宣戦布告すると、ドイツとアジアの経済交流は完全に無くなった[19]
中華民国とドイツの交流再開は1941年までは模索されていた。
しかし、ドイツが1940年のバトル・オブ・ブリテンでイギリスを攻めあぐねているうちに、ヒトラーの興味を奪ってしまった[20]。
ドイツはその年の終わりに日独伊三国軍事同盟を締結した。
それを受けてドイツは1941年7月、重慶に移っていた国民政府と手を切り、南京の親日政権である汪兆銘政権を中国の公式政府として承認した。
同年12月の大東亜戦争の勃発を契機にして、蒋介石政府は連合国の一員として12月9日にドイツに宣戦布告した。
後世への影響
ドイツ軍装の?緯国
1930年代の中独合作は、孫文が理想とした「中国の国際化」において最も成功したものだった。
その関係は短期間で終わったが、国民党政府が国共内戦に敗れて台湾に撤退した後に交流が再開した。
戦後、台湾が急速な産業発展を遂げたのは、1936年からの三ヵ年計画のひとつの成果ともいえる。
中華民国の政府高官や大臣の多くがドイツで教育を受け、その他にも学者や?介石の息子(のち養子であることが判明したが当時は実子とされていた)?緯国のような軍当局の高位者の多くがドイツで学んでいた。
中華民国は西ドイツと正式な国交がなかったものの(分裂した中華人民共和国は東ドイツとのみ国交があった[14])、1963年に設立された明徳小組(中国語版)(ドイツ語: Ming-teh-Gruppe)と呼ばれるドイツ連邦軍のオスカー・ムンツェル(ドイツ語版)少将率いる軍事顧問団が1975年に解散されるまで存在し、?緯国がその連絡役を務めた[15][16]。
注釈
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^ 同書., page 9.
^ 同書., page 61.
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^ 阿羅健一 2008, p. 47.
^ ハーバード大学のウィリアム・カービー教授は、シーメンス社がオランダの複数の会社を通じて中国へ武器を売っていたと指摘している。William C. Kirby,Germany and Republican China,Stanford University Press (1984)ほか。読売新聞「20世紀取材班・20世紀欧州大戦」中公文庫も参照
^ a b 阿羅健一 2008.
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^ 王慶偉 (May 15, 2013 2013). “?介石 曾聘德軍顧問訓練國軍” (中国語). 世界新聞網-北美華人社區新聞. 美國史丹福: 北美世界日報. 2014年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月1日閲覧。
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参考文献
Germany and Republican China by William Kirby, Stanford University Press, 1984. (ISBN 0-8047-1209-3)
A Military History of Modern China, 1924?1949 by F. F. Liu, Princeton University Press, 1956.
阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ : 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ : 秘史発掘』小学館、2008年。ISBN 9784093878142。 NCID BA89619815。全国書誌番号:21523378。
田嶋信雄『ナチズム極東戦略―日独防共協定を巡る諜報戦』講談社選書メチエ,1997年
林思雲・北村稔『日中戦争-戦争を望んだ中国 望まなかった日本』PHP研究所、2008年
G・クレープス「在華ドイツ軍事顧問団と日中戦争」『日中戦争の諸相』軍事史学会編、錦正社、1997年
ヴァルター・ゲルリッツ『ドイツ参謀本部興亡史』上下巻、学研M文庫、2000年
田嶋信雄『ナチス・ドイツと中国国民政府 1933-1937』東京大学出版会、2013年
関連項目
日中戦争
中国の歴史
中華民国の歴史
中国国民党
中華民国国軍
国民革命軍
北伐
en:Sino-German Relations 中独関係(英語)
軍閥時代 中華民国時代の軍閥
黄埔軍官学校 国民政府による士官学校
国民革命軍ドイツ訓練師団
ジョン・ラーベ
外部リンク
(英語) German Military Mission to China 1928?1938
Photos of Hitler together with Chinese delegates before end of cooperation
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20世紀の軍事同盟中華民国の国際関係 (1912-1949)ドイツ国の国際関係中独関係
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ドイツの歴史
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ドイツの歴史
ドイツの国章
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国 ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦 南部諸国
ドイツ国(帝政)
ドイツ国(ヴァイマル共和政)
ドイツ国(ナチス・ドイツ)
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ) ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国
ドイツの歴史(ドイツのれきし)では、ドイツの歴史を述べる。
先史時代
旧石器時代にはネアンデルタール人、後にクロマニョン人(ハプログループI2a (Y染色体)[1])が居住した。
新石器時代にはハプログループG2a (Y染色体)によって農耕がもたらされたと考えられる[2][3]。
青銅器時代になると、ビーカー文化等が起こり、インド・ヨーロッパ語族に属すゲルマン祖語を話す人々が到達したと考えられる。彼らは現在のドイツ人の多数派を占めるハプログループR1b (Y染色体)に属していた[4]。
古代
「ゲルマニア」および「ゲルマン人」を参照
ドイツの歴史における古代は、先史時代から、ゲルマン民族の大移動が始まるまでの長期におよぶ。
現在のドイツ南部では、およそ紀元前1300年から紀元前200年にかけて、ケルト人とイリュリア人の前期鉄器文化であるハルシュタット文化(紀元前1300年から紀元前400年)が栄え、のちに西部では地中海地方の文化的影響をより強く受けたケルト人のラ・テーヌ文化(紀元前500年から紀元前200年)に発展していた。
ラ・テーヌ文化と同時期、ドイツ北部地域には鉄器文化のヤストルフ文化が形成され、紀元前5世紀ごろよりゲルマン語派が発生した。
一方その東方ではイリュリア人と(さらに東方のチェルノレス文化の)元スラヴ人の混交により前期鉄器文化のポメラニア文化が発生し、これはのちによりスラヴ的なプシェヴォルスク文化に発展した。
しかし、紀元前3世紀頃からゲルマン語派の人々はその範囲を少しずつを拡大し始め、北はスカンジナヴィア半島南部、東はバルト海南岸のポメラニア地方の細い地域を伝ってヴィスワ川河口域に達した。
西や南では紀元前後の頃にはライン川・ドナウ川流域で古代ローマ世界と接触するようになった。
ローマ帝国とゲルマニアの戦いは、キンブリ・テウトニ戦争(紀元前113年-紀元前101年)、ガリア戦争(紀元前58年-紀元前51年)、トイトブルク森の戦い(9年)、マルコマンニ戦争(162年-180年)が知られている。
その後、しばらくはライン川とドナウ川がローマ帝国とゲルマニアの境界線となっていた。357年、クノドマル王率いるアレマンニ族がローマ帝国領ガリアのアルゲントラトゥム(現ストラスブール)に侵攻したが、撃退された(アルゲントラトゥムの戦い)。
4世紀後半にゲルマン民族の大移動が始まると、ゲルマン語派か否かに関わらず「ゲルマン人」と総称された諸部族(大衆語がゲルマン語派の部族のほか、ブルグント人のような、大衆語がケルト語派と思われる部族や、ヴァンダル人のような、大衆語がスラヴ語派と思われる部族、の3種類がいた)が南ヨーロッパでそれぞれの部族国家を築き上げた。
451年、アッティラ率いるフン族がガリアに侵攻した(カタラウヌムの戦い)。被害を受けて勢力が弱まった西ローマ帝国は、フランク族(ゲルマン人の部族)の侵入を許すことになった。
中世
西ローマ帝国が崩壊し、その後にフランク王国が成立すると、ドイツ西部地域は徐々に中世封建社会へと移行していった。
ドイツ東部地域ではプラハ文化が栄えたオボトリート族などスラヴ語派の強力な諸部族が勢力を拡大し、ドイツ中部のエルベ川に到達するとその西岸にまで版図を広げ、このあとの中世前期からフランク王国と真っ向から対峙することになる。
フランク王国
-843年:詳細は「フランク王国」を参照。
カロリング朝フランク王国の勢力拡大
4世紀後半より、ゲルマン人がライン川・ドナウ川を越えて本格的な移住を進め、旧ローマ帝国の領内にゲルマン人諸国家が成立した。
その中で、5世紀末のガリアに登場したクロヴィスは、481年にフランク族を統一しフランク王国を建国、メロビング王朝を興した。
フランク王国は、ローマ・カトリックを受容してラテン系住民からの支持を集めるなど、徐々に勢力を拡大させていった。
ゴート戦争(535年?554年)。 751年に至り、臣下であった小ピピン(ピピン3世)が教皇の支持を得て王位につき、カロリング王朝が興る。
ピピン3世の子カール大帝は、ザクセン人(現在のドイツ北西部)を平定し、バイエルン(現在のドイツ南部)にも勢力を伸ばして西ヨーロッパ世界の政治的統一を推進しつつ、東方から侵入してきたアジア系遊牧民のアヴァールを撃退するなどの活躍をみせ、800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって古代における皇帝の理念的継承者となった。
このことは、東ローマ帝国に対する西ローマ帝国の再興を意味した。
また、カール大帝はアーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招いて古典古代のラテン語文化を復興させ(カロリング・ルネサンス)、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を加えた独自のヨーロッパ世界を築き上げた。
東フランク王国
843年-962年:詳細は「東フランク王国」を参照。
ヴェルダン条約とメルセン条約
次代の王ルートヴィヒ1世(敬虔王)の死(840年)後、843年にヴェルダン条約が結ばれフランク王国は3人の息子に分割された。
これにより、東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国(イタリア王国)が成立した。
その後、870年のメルセン条約によって中フランク王国の一部が東西フランク王国に再分割され、領土において現在のドイツ、フランス、イタリアの原形が成立した。ただし、今日のようなドイツ人意識はまだ形成されていない。
911年のカロリング朝断絶後、東フランク王国(ドイツ王国)は選挙王制へと移行し、10世紀初頭にザクセン朝が成立した。
初代のハインリヒ1世は、北方でノルマン人を撃退、東方でマジャール人を撃退した西スラヴ人諸部族の西への進出を食い止めることに尽力し、ザクセン朝フランク王国の土台を築いた。
当時、西フランク王国の王権は極めて弱体で、イタリア王国も事実上崩壊へと向かっており、東フランク王が事実上西欧世界の盟主となっていった。
2代目のオットー1世(大帝)は、引き続き侵入する外民族の討伐で活躍し、とりわけマジャール人を955年にレヒフェルトの戦いで撃退した。その一方でまた、イタリア遠征を敢行して教皇位をめぐる混乱を収拾させた。
神聖ローマ帝国
962年-1806年:詳細は「神聖ローマ帝国」を参照。
「神聖ローマ帝国」の成立
これらの活躍を受けて、962年にローマ教皇ヨハネス12世がオットーにローマ皇帝の冠を授けた。いわゆる「オットーの戴冠」であり、これにより「神聖ローマ帝国」が成立したとされる(実際に「神聖ローマ帝国」という表現が史料上で現れるのは13世紀半ばである)。
こうして、戴冠を受けた東フランク王オットー1世は、西ヨーロッパ世界における盟主としてその威光を高めた。
また、このことによって教皇と皇帝という聖俗両権の頂点を中心とした楕円的な権力構造が西ヨーロッパ世界に形成された。
しかし、この段階でも現在のドイツという感覚は希薄であり、歴代の東フランク王(かつ、教皇から戴冠された皇帝)は、ドイツ支配にとどまらずキリスト教理念に基づく普遍的な帝国の樹立を目指していた。
そして、教会組織を通じた帝国統治を図ったため(帝国教会政策)、帝国内における皇帝権力は徐々に強化されていった。
この過程でオットー3世は東の国境地帯を悩ます西スラヴ人諸部族に対応するため、彼らの背後にある強力な西スラヴ人国家ポーランドのボレスワフ1世と同盟を結び、1000年にはポーランドを公式訪問してグニェズノ大聖堂の参拝およびボレスワフ1世との首脳会談を行い、その際ボレスワフ1世に対し神聖ローマ帝国の貴族の称号を授けている。
現代では、当時の歴代皇帝がイタリア遠征を繰り返したためドイツの分裂が進んだという見解もみられる。
これは、19世紀に入ってナショナリズムが高揚する中で(ドイツ人という民族意識が民衆に共有される時代において)、ドイツの民族的統一を主張する勢力が主に展開したものである。
まだナショナリズムが形成されていない中世においては、逆にイタリア政策を通じて皇帝権が正統化され、ドイツ内の諸侯に威光を示し帝国統治が円滑に進むこともあった。
叙任権闘争
ザリエル朝の歴代皇帝も帝国教会政策を行い、皇帝権の強化を推し進めていった。
一方で皇帝と結びついた教会組織も、土地の寄進などを通じて徐々に勢力を拡大させた。
こうした中、教会組織が世俗権力の統制下におかれることを批判し、教会の純化を図る改革運動が、フランスのクリュニー修道院などで高まった。
歴代皇帝は真摯にキリスト教世界の指導者として振る舞い、実際には聖職叙任もおおむね適切なものであった。
しかし、教会への影響力強化を図った教皇グレゴリウス7世は、世俗権力による聖職叙任自体を聖職売買とみなし、聖職叙任権を手中に収めようとしたのである。
その点で、叙任権闘争は単なる宗教問題にとどまらず、いわば皇帝が育てた果実を教皇が摘み取ろうとした権力闘争としての性格も有した。
カノッサの屈辱
叙任権闘争の趨勢を決める上で重要な役割を果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった。
皇帝権強化による自らの権力低下を懸念した諸侯は、皇帝を牽制するためローマ教皇の支持に回った。
こうして皇帝の地位が脅かされたハインリヒ4世は、教皇に対する謝罪を余儀なくされる(カノッサの屈辱)。
さらに十字軍運動も開始され、第1回十字軍の軍勢が聖地を奪ってエルサレム王国を建国し、ローマ教皇の威光がますます高まった。
こうした中、ハインリヒ4世の息子で次帝のハインリヒ5世が、ローマ教皇とヴォルムス協約を結び、叙任権闘争はひとまず終結した。
この協約で皇帝は叙任権は失ったものの、教会財産を封じる権利は確保された。
そのため、世俗君主としての皇帝権は、ほとんど揺らいでいない。しかしながら、長期に渡る教皇との対立によって、理念としての皇帝権が深く傷つけられたのであった。
こうして皇帝権は弱体化していき、皇帝の統制が緩む中で各地の領邦君主が自らの所領支配の強化に専念しはじめた。のちの領邦国家体制の萌芽はこの頃に見いだされる。
ホーエンシュタウフェン朝と十字軍
ドイツ諸都市の発展と東方植民
詳細は「北方十字軍」、「東方植民」、「バルト・ドイツ人」、および「ハンザ同盟」を参照
ゲルマン民族の大移動後、ドイツ人の居住地はエルベ川の西方に限定されていたが、封建制度が安定した12世紀から15世紀にかけて東方のスラブ人居住地への植民(東方植民)が活発に行われた。
12世紀始めにはブランデンブルク辺境伯がおかれ、13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸を征服した。
この両者は1618年に合併してブランデンブルク=プロイセンとなった。
同じ頃、商人と手工業者による中世都市がドイツ各地に築かれ、アーヘン、ケルンなど有力都市は皇帝から特許状をもらい帝国都市となった。
13世紀には北ドイツの有力都市は相互の利益と防衛のためハンザ同盟を結成し、リューベックを盟主に最盛期には100を越える都市が参加した。
領邦国家体制の形成
詳細は「大空位時代」および「金印勅書」を参照
近世
宗教改革
ライプツィヒ論争
宗教改革の中心人物であるマルティン・ルター
ルターはヴァルトブルク城の一室で新約聖書を翻訳した。
詳細は「宗教改革」を参照
1517年、教会による贖宥状(免罪符)の販売に対して、ヴィッテンベルク大学神学部教授のマルティン・ルターが、95ヶ条の論題を示して批判を行った。
まだ、この段階ではローマ教皇やカトリック教会そのものの批判にまでは至ることはなかったが、このルターの言動は大きな共感を持って受け入れられたため、ドイツ内に大きな波紋を生みだすことになった。
事態の沈静化を図ったカトリック側は、論客ヨハン・エックをライプツィヒに送り、1519年にルターと討論させた。この場においてルターは、さらに踏み込んで教皇、カトリックに対する批判を示すことになった。
一方、当時はハプスブルク家が婚姻政策を通じてヨーロッパに広大な所領を有し、神聖ローマ皇帝位を世襲化させ、カトリック理念のもとで一元的なヨーロッパ支配を試みていた。
こうした矢先に起こったルターの行動は、一元的な帝国支配を揺るがせる大きな障害となった。
1521年、ルターはヴォルムス帝国議会において自説の撤回を求められたが、これを拒んで帝国追放刑を受けた。
この際、反ハプスブルク、反教皇の立場をとる有力諸侯ザクセン公フリードリヒがルターをかくまったため、ルターは彼の所領内にあるヴァルトブルク城で、新約聖書のドイツ語訳に着手することになった。
既にルター以前より聖書のドイツ語訳は試みられていたが、彼の翻訳した聖書が定本となって、当時発達しつつあった印刷技術にも支えられて各地に流通していった。
このことは、中世カトリック世界の権威的言語であったラテン語にかわり、各国の言語に聖書が翻訳される潮流を加速させることになり、文化的な一元性が解体され、各国の「国語」が形成される端緒となるものでもあった。
三十年戦争
ヴェストファーレン条約後のドイツ地方
詳細は「三十年戦争」を参照
三十年戦争が終わると、ドイツ地方各地には諸侯が分立し、自由都市や小国が独立国としての権威を獲得した。
近代
ナポレオン戦争とナショナリズムの覚醒
[icon]
この節の加筆が望まれています。
ウィーン体制
1814年-1870年:詳細は「ウィーン体制」を参照。
ベルリン三月革命
1848年から1849年にかけてフランクフルト・アム・マインで開催されたフランクフルト国民議会
ナポレオン・ボナパルトの敗北後、オーストリア帝国の宰相であるクレメンス・メッテルニヒの主導でウィーン会議が開催され、ウィーン体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序が形成された。
それにより、ドイツではプロイセンがラインラントなどを獲得した他、ライン同盟の廃止とオーストリアを盟主とするドイツ連邦の結成が為された。
ウィーン体制下のドイツでは保守的な政治体制が続き、19世紀のヨーロッパを席巻した民族主義、自由主義の波及が食い止められていた。
しかし、ドイツ関税同盟の成立等により、ドイツでも産業革命が急速に進展し、ブルジョワ階層が台頭するようになった。
そして、経済活動の拡大を望むブルジョワやドイツ人の一体化を求める知識人達により、1848年革命が実行されることとなる。
1857年、プロイセン王国などの有力諸邦とオーストリア=ハンガリー帝国は、全参加国の銀本位制を恒久とするために造幣契約を締結した。
ドイツ帝国
ドイツ帝国の国旗(1867年?1919年)。
1871年-1918年:詳細は「ドイツ帝国」、「ドイツ統一」を参照。
ビスマルク政権
皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式。
鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク。
アドルフ・ヒトラーとは異なり、現代のドイツにおいても偉大な政治家として挙げられている。
オットー・フォン・ビスマルク政権のドイツは、対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能していた。
その一方でイギリスとの親善外交、三帝同盟や三国同盟、再保障条約などで対仏包囲網を形成し、フランスに対する強い牽制を行った。
これにより、同盟による戦争の予防が完成し、これをビスマルク体制と呼ぶ。しかしこの体制下では軍拡が行われやすくなり、これが第一次世界大戦の遠因にもなった。
内政においては皇帝ヴィルヘルム1世の下、宰相であるビスマルクに強大な権限が与えられており、半ば独裁的な政治が行われ、立法府である議会はほぼ形骸化した。
また、この時期には中央政府に敵対する政治的勢力の排除も顕著に見られた。社会主義思想も厳しく取り締まられ、1878年には社会主義者鎮圧法が制定された。南ドイツを中心に勢力が残っていたカトリック系の宗教勢力も一掃された。
ヴィルヘルム2世の世界政策
対外拡張政策を推し進めたヴィルヘルム2世
1918年、ドイツ革命で退位した帝政ドイツ最後の皇帝
ヴィルヘルム1世が死去し、続くフリードリヒ3世が早逝すると、若年のヴィルヘルム2世が即位した。
このときも宰相は継続してビスマルクがつとめたが、対外政策で意見が合わず、1890年ビスマルクは事実上更迭された。
ビスマルク更迭後、ヴィルヘルム2世は皇帝専制政治を行い、内政においてはビスマルクの政策を否定し、1890年に社会主義者鎮圧法を廃止した。
そして、かねてより目指していたドイツの世界政策に乗り出す。
中心となったのは植民地再分配であった。
そのために海軍力の増強を目指し、結果イギリスとの建艦競争に陥り、対英関係を悪化させた。
また、帝政ロシアとの再保障条約を解消し、ロシアとフランスの接近を許したことにより、露仏同盟形成の原因を作った。
アジア進出も視野に入れ、イギリスの3C政策に対抗し、3B政策を展開。これにより、イギリスとの関係をますます悪化させ、英仏協商・英露協商の形成の遠因を作った。
これらの政策により、ビスマルク体制は完全に崩壊し、対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変化していった。
第一次世界大戦
詳細は「第一次世界大戦」を参照
1914年6月28日のサラエボ事件を機にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦した際、ロシア帝国がセルビアを支援したため、同年8月1日に、同盟を理由にドイツ国はロシア帝国に対して宣戦した。
その後、フランス、イギリス、日本なども連合国としてドイツをはじめとした中央同盟国へ参戦し、第一次世界大戦へと拡大した。
開戦当初、短期決戦型のシュリーフェン・プランを計画していたが、タンネンベルクの戦い、マルヌ会戦では予想をはるかに上回る兵力と時間を費やした。
シュリーフェン・プランによる進軍図
1917年、ドイツは北海と地中海において無制限潜水艦戦を実行。
これまで中立の立場を取っていたアメリカ合衆国も、公海の自由への侵害に怒り、4月にドイツに宣戦した。
7月には、議会内の講和を図る勢力が台頭したが、これを制えたドイツ最高軍司令部(OHL)が事実上の軍事独裁体制を確立した。
「ドイツ革命」も参照
1918年になると戦局は悪化の一途を辿り、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリーの同盟諸国が相次いで降伏。
11月のキール軍港での水兵の反乱を引き金にして、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を発表、オランダに亡命した。1918年11月11日に、コンピエーニュの休戦協定により、第一次世界大戦は休戦した。
ヴァイマル共和政
戦後周辺国へ割譲されたドイツ本国の領土
カップ一揆
1919年-1932年:
詳細は「ヴァイマル共和政」を参照
帝政最後の宰相、バーデン公子マックスはドイツ社会民主党のフリードリヒ・エーベルトに首相位を委ねた。
ドイツ社会民主党などの政党は人民委員会会議 (ドイツ)(ドイツ語版)を形成したが、スパルタクス団等を中心とする左派は、さらなる革命の進展を求めていた。
1919年初頭、スパルタクス団蜂起によって左派が壊滅すると、ヴァイマル共和国軍と強調したヴァイマル連合(ドイツ語版)(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)が政権を握り、7月末には当時世界で最も民主主義的とされたヴァイマル憲法を制定した。
君主制から共和制へと移行したドイツ最初の首相エーベルトが大統領となり、ドイツの統治に従事することとなった。
一方でパリ講和会議によって策定されたヴェルサイユ条約によって、敗戦国ドイツは植民地と領土の一部の割譲、莫大な賠償金の支払い、軍備の制限を負わされた。
国内の経済や社会情勢に対する不満から、カップ一揆や共産党の蜂起(ドイツ語版)、シレジア蜂起などの混乱が相次いだ。
賠償金総額が1320億マルク(※ 現在の価値で、200兆円という説がある)に確定されると、履行政策をとっていた政府は捻出に苦しみ、支払いの延期を要求した。
フランスとベルギーはこれを許容せず、1923年1月11日のルール占領を招いた。
ルール占領による産業の停滞と紙幣増刷による支援は、壊滅的なハイパーインフレーションをもたらした。
政局も混乱し、en:Klaip?da Revoltやミュンヘン一揆やドイツ共産党の地方政府掌握が起こった。
しかしグスタフ・シュトレーゼマンの活動と、フランスの行動を英米が非難するようになったこともあり(クライペダ・コンヴェンション(英語版))、賠償金支払いは緩和された(ドーズ案)。ヒャルマル・シャハト主導のレンテンマルク発行によってインフレも沈静化され、ドイツ経済は相対的な安定期を迎えた。
シュトレーゼマンは連合国との協調政策をとり、ロカルノ条約を締結、国際連盟に加盟するなどドイツの世界的地位は向上しつつあった。
しかし1928年頃から経済が悪化し始め、1930年の世界恐慌によってドイツ経済が潰滅的な打撃を被ると、政界も混乱するようになった。
議会に信を置かないパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、自らの任命を権力の源泉とする大統領内閣を組織させ、大統領令による政治を行って議会をなかば無視するようになった。
一方で人種主義を唱えるアドルフ・ヒトラーを指導者とする国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭してきた。
ナチス・ドイツ
ナチス・ドイツの国旗。
ナチス政権時代(1933年-1945年)では、現在のドイツ国旗である黒赤黄の三色旗は「反動的」であるとして掲揚が禁止された。
アドルフ・ヒトラー
1933年-1945年:
詳細は「ナチ党の権力掌握」および「ナチス・ドイツ」を参照
1933年1月、アドルフ・ヒトラーは首相に任命され、政権を獲得した。
ヒトラーおよびナチ党は国会議事堂放火事件を理由とする大統領令によって、政敵を拘束する権力を手に入れた。
3月には全権委任法を制定し、国会の権力は失われ、政府は超憲法的な権力を手に入れた。
さらに国内の政党を次々に解散させ、ナチ党による一党独裁体制を確立した。
1934年7月の長いナイフの夜によって党内の最大勢力であった突撃隊の幹部を粛清した。
8月にヒンデンブルク大統領が死ぬと、ヒトラーは首相に大統領の職を合一させ、さらに大統領の権力を個人である自分に委譲させた。
この措置は民族投票(ドイツ語版)によって賛同を得、これ以降ヒトラーの地位は日本語で総統と呼ばれる。
詳細は「ナチス・ドイツの経済」、「ナチス・ドイツの軍事」、および「ナチスの人種政策(英語版)」を参照
一方で、前政権から引き継いだ雇用増加政策や、アウトバーンなどの公共事業、そして軍備拡張などによって、ドイツの失業者は急速に減少し、1935年には完全雇用が達成された。
経済は好況を迎えつつあったが、ヒトラーはさらなる軍備拡張と自給自足経済の確立を求め、反対したシャハトを放逐した。
1936年からは四カ年計画が開始され、自給体制の強化を図ったが、経済の過熱と国家債務の膨張をひきおこしつつあった。
またヒトラーは軍との協調関係を保ち、軍備の拡大を推進した。
1935年にはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄して徴兵制を導入し、軍はドイツ国防軍に改組された。
フランスやソビエト連邦はこの膨張政策を警戒したものの、イギリスは英独海軍協定を締結して宥和政策をとった。
1936年には、非武装地帯となっていたラインラントに進駐を開始した(ラインラント進駐)。
一方で、「非アーリア人」の公職追放や、ユダヤ人を法的に定義してその公民権を剥奪する(ニュルンベルク法)といった人種政策を推し進めた。
1936年には国家の威信を賭けた二つのオリンピック(ガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピック、ベルリンオリンピック)が行われた。
外交政策においては、伝統的に協力関係(中独合作)であった中国と国益の似通う(のちに軍事同盟を締結する)日本のどちらと友好関係をとるか、政権内で駆け引きが続いていた。
しかし1936年には、ソビエト連邦を仮想敵とする日独防共協定を締結し、日本重視の政策に転換しつつあった。
1938年には満州国を正式に承認し、中国に派遣していたドイツ軍事顧問団を召還した。
1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。
9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求した。
チェコスロバキアと英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。
この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。
しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した。
オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド回廊およびダンツィヒ自由市であった。
ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。これは世界中を驚愕させた。
第二次世界大戦
大戦末期に開発されたロケット戦闘機バッフェムBa349aナッター
詳細は「第二次世界大戦下のドイツ」および「ホロコースト」を参照
ヒトラーは16カ条にわたる要求をポーランドに提示した。
ポーランドがこれを無視すると、独ソ不可侵条約締結から7日後の1939年9月1日に、ドイツ軍はポーランドへ侵攻した。
ヒトラーは「イギリスとフランスは参戦しないだろう」と判断していたが、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が勃発した。
しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いて全く生じなかった。
ポーランド軍はドイツ軍の攻勢により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。
1940年春には、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。
ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。
ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。
一方で貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線、バルカン半島戦線に部隊を派遣。
バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカではイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。
イギリスを除く西ヨーロッパのほぼ全ての地域を征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。
英本土上陸は中止に追い込まれた。
ヒトラーは対ソ戦の準備を開始させた。
「独ソ戦」も参照
1941年6月22日、ドイツは突如不可侵条約を破棄しソビエト連邦に侵攻する(バルバロッサ作戦)。
ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の衰弱の影響もあり、ドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。[5]
しかし、冬将軍の訪れと補給難、ソ連軍の粘り強い抵抗により撤退した。
独ソ戦はこう着状態となり、ヒトラーが当初目論んだ1941年内の打倒ソ連は失敗に終わっただけでなく、ドイツ軍は消耗しつつあった。
大日本帝国海軍によるアメリカ合衆国ハワイへの真珠湾攻撃の3日後、これを天佑と見たヒトラーは対米宣戦布告を行った[6]。
1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻。
ドイツ軍は得意の電撃戦でスターリングラードまで進出した。
しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。
翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は、東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。
一旦は戦線を持ち直したものの、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。
クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島に連合国軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合国軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、イタリア戦線が開始された。
1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸(ノルマンディー上陸作戦)し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされた。
同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。
7月にはヒトラー暗殺計画(ワルキューレ作戦)が実行されたが失敗に終わった。
東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニア・ブルガリア・フィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。
各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗した。
1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。
東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。
4月になるとソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、その最中の4月30日に、ヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺した。[7]
ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が大統領となり、暫定政府(フレンスブルク政府)を率いることとなった。
5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終了した。5月8日、ドイツ軍は正式に連合国に対して無条件降伏した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#ドイツの降伏)。
東西分断ドイツ
1945年以降、ドイツの分割占領
1945年-1989年
詳細は「連合軍軍政期 (ドイツ)」および「ドイツの歴史 (1945年?1990年)(英語版)」を参照
第二次世界大戦後、ヤルタ協定などの取り決めによってドイツの処分が行われた。
ポーランドを再建設するに当たって、ドイツ領東部をポーランド領とし、オーデル・ナイセ線を暫定的な国境とすることにされた。
また飛び地となっていた東プロイセン地方はポーランドとソビエト連邦が分割した。
このため、かつてのポーランド分割以来、長く領有していた東部地域と、ドイツ帝国統一の立役者であるプロイセンを完全に失った。
これら喪失領土や、占領地にいたドイツ人はその地の政府に追放され、難民として残った国土に流れ込んだ(ドイツ人追放)。
ドイツには中央政府が存在しないとされ(ベルリン宣言)、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国によって分割占領され、更に首都ベルリン市内も4ヶ国で分割された。
しかしアメリカおよび西側諸国とソ連がイデオロギーや勢力圏をめぐって対立を深め、やがて「冷戦」と呼ばれる対立状態になると、ドイツの占領統治にも大きな影響を与えた。
1948年、米英仏占領地域(トライゾーン)が独自に通貨改革を行うと、対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断(ベルリン封鎖)。
アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解いたが、両者の溝は埋まることはなかった。
建設中のベルリンの壁
詳細は「西ドイツ」および「ドイツ民主共和国」を参照
1949年5月24日、米英仏占領地域に自由主義・資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が成立し(主権回復は1955年5月)、これを受けて10月7日には、ソ連占領地区に共産主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツ国家と民族は東西に分断された。
当初、西ドイツ首相のコンラート・アデナウアーは、「一つの国民、一つの国家」というハルシュタイン原則に従って外交政策を展開したため、東西ドイツ両政府間の関係は緊迫した常態が続き、1961年にはベルリンの壁が建設された。
しかし、1970年代になると、西ドイツ首相のヴィリー・ブラントが提唱した「一つの国民、二つの国家」という東方政策が定着し、東西ドイツ両体制の認定を前提とした西ドイツ国民の自由往来と経済交流が実現した。
これにより、東西ドイツ両国は関係を正常化させ、同時に国際連合へと加盟することに成功した。
現代
ドイツ再統一
1990年のドイツ統一
1990年-:詳細は「ドイツ再統一」を参照。
冷戦が終結に向かい、1989年の東欧革命によって東ドイツも変容し、1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊した。そして、1990年10月3日には東ドイツが自壊し、東ドイツ地域の諸州がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入される形で再統一が達成された。
冷戦後から21世紀
欧州連合(EU)の中心的メンバーを担う。
第8代首相メルケル氏
統一後の最大の懸案は、旧東ドイツ地域の北大西洋条約機構(NATO)加盟であったが、ソ連が譲歩する形でこれも認められた。
そして、1991年12月25日には、冷戦の盟主国の一つであるソビエト連邦が崩壊し、その大部分がロシア連邦となった。
1992年にはマーストリヒト条約が発効して欧州連合(EU)が発足、ドイツは欧州の中核国として存在感を増すこととなった。
一方で、統一後の東西の経済的地域格差や環境問題、ネオナチの台頭など問題も山積している。
対外的には欧州の国家間の結束を強固にすることに努力し、コソボ紛争にはNATO加盟国の義務として第二次世界大戦後初めて参戦、隣国フランスと関係を強め、独仏合同旅団・欧州合同軍の設置やNATOとEUの東方拡大を歓迎した。
対米関係では、2001年9月11日発生のアメリカ同時多発テロに対しては、テロとの戦いを支持してアフガン侵攻に参戦したが、2003年のイラク戦争にはフランスやロシアとともに反対し、両国の間は急速に冷え込んだ。
2005年11月22日に史上初の女性の連邦首相に就任したドイツキリスト教民主同盟(CDU)のアンゲラ・メルケルが長期政権を担い、2017年ドイツ連邦議会選挙を経て首相4期目に入り、難民問題などさまざまな課題に直面している。2017年には、同性結婚が合法化された。[8]
参考文献
[icon]
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脚注
[脚注の使い方]
^ Eppie R. Jones, Gloria Gonzalez-Fortes, Sarah Connell, Veronika Siska, Anders Eriksson, Rui Martiniano, Russell L. McLaughlin, Marcos Gallego Llorente, Lara M. Cassidy, Cristina Gamba, Tengiz Meshveliani, Ofer Bar-Yosef, Werner Muller, Anna Belfer-Cohen, Zinovi Matskevich, Nino Jakeli, Thomas F. G. Higham, Mathias Currat, David Lordkipanidze, Michael Hofreiter et al.(2015) Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians Nature Communications 6, Article number: 8912 doi:10.1038/ncomms9912
^ Eupedia1
^ Eupedia2
^ Eupedia
^ “ヒトラーはなぜソ連と戦争を始めてしまったのか?”. 2020年12月27日閲覧。
^ ヨースト・デュルファー (2010). “ドイツと三国軍事同盟”. 平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書.
^ “第5回 ヒトラーが最後の日々を過ごした地下壕 ドイツ・ベルリン”. ナショナルジオグラフィック. 2020年12月27日閲覧。
^ “ドイツ連邦議会、同性婚の合法化を可決”. BBC. 2020年12月27日閲覧。
関連項目
ベルリンの歴史
ソビエト・西ドイツ武力不行使条約
エリゼ条約
オスタルギー
表話編歴
ドイツの旗 ドイツ関連の主要項目
表話編歴
ヨーロッパの歴史
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ドイツドイツの歴史
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ドイツの地理
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事ではドイツの地理(ドイツのちり)について記述する。
ドイツの位置
ドイツの全体図
概観
ドイツ(ドイツ語:Deutschland、英語:Germany)は中央ヨーロッパに位置し[1]、アルプス山脈から北ヨーロッパ平原を横断し、北海(ドイツ語:Nordsee)及びバルト海(ドイツ語:Ostsee)沿岸まで及ぶ国である。
ロシアに次いでヨーロッパで2番目に人口が多く、面積は第7位である。総面積357,021km2のうち、349,223 km2が陸であり、7,798 km2が水面(河川・湖沼など)である。
南部は、ドイツ最高地点のツークシュピッツェ山(2962m)を含むアルプス山脈が走り、標高が高い。
中部は樹木に覆われた高原で、北部は北海やバルト海に面した低地が広がり、最低地点ノイエンドルフ・ザクセンバンデ、-3.54m)がある。
ドイツにはライン川、ドナウ川、エルベ川といった主要河川が流れる[2]。
ヨーロッパの中心的な位置にあることから、ドイツはヨーロッパの9か国と国境を接し、これはロシアを除けば最多である。
ドイツと接する国々
北:デンマーク
東:ポーランド、チェコ
南:オーストリア、スイス
西:フランス、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ
ドイツ統一の日は毎年10月3日に祝われる。
1990年以後のドイツ連邦共和国(ドイツ語:Bundesrepublik Deutschland、英語:Federal Republic of Germany)の領域は、冷戦時代の西ドイツより30.3%大きく、かつてのヴァイマル共和国より23.8%、ドイツ帝国より33.9%小さくなっている。
地形
ドイツの地形図
ドイツ北部の沼地
北ドイツ
「北ドイツ平野」も参照
北方の3州(メクレンブルク=フォアポンメルン州・ニーダーザクセン州・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)は北ヨーロッパ平原に位置し、平坦な地形上をエルベ川、エムス川、ヴェーザー川、オーデル川などの河川が北流する。
フリースラント(フリジア)の海岸沿いのオランダとの国境付近には、湿地と沼沢地が分布し、北西部のメクレンブルク地方は砂質で、最終氷期に形成された氷河湖が数多く見られる。
中央ドイツ
中央ドイツは粗く、分布傾向のつかみがたい丘や山々が特徴的である。
この山々には太古の時代の火山活動によって形成されたものが含まれる。
ライン川の谷(ライン地溝帯)はこの地域の西側部分を切り取る。
中央の高原はザール地方から東へ広がっており、その東端はチェコとの国境を成すエルツ山脈につながっている。
高原地方は、ライン川西岸のアイフェル、フンスリュック(Hunsruck)、プフェルツァーヴァルト(英:Palatine Forest、独:Pfalzerwald)を含み、フランクフルトの北方にあるタウヌス丘陵(Taunus)、フォーゲルスベルク山地、レーン山地(Rhon Mountains)、そしてテューリンガー・ヴァルトが該当する。
ベルリンの南、ドイツ中東部は北部の低地によく似た地域であり、砂質の土壌と河川が作る湿地が展開する。例えば、シュプレーヴァルト(Spreewald)地域が挙げられる。
南ドイツ
南ドイツの地形は、さまざまな規模の丘や山脈で説明できる。例えば、2つの連続した山脈であるシュヴェービッシェ・アルプ(Swabian Alb)とフレンキッシェ・アルプ[3](Franconian Alb)、そしてバイエリッシャー・ヴァルト(バイエルンの森、Bavarian Forest)がバイエルン州とチェコの境界に沿っている。
南の国境にそびえるアルプス山脈はドイツの最高峰ではあるが、ドイツ国内ではスイスやオーストリアと比べれば、アルプス山脈らしい姿をしていないと言える。アルプス山脈はバイエルン州のシュヴァーベン地方の南東部やオーバーバイエルン地域に当たる。
ライン川は、フランスと南西の国境を成すシュヴァルツヴァルト(黒森)の東斜面でドナウ川上流から分岐する。
気候
バイエルン州から見るアルプスの風景
ドイツの気候は冷涼、曇りがち、湿潤な冬と夏を特徴とする、緯度の割りには温和な海洋性気候であり、時折暖かなフェーンが吹き下ろす。
ケッペンの気候区分では大半が西岸海洋性気候(Cfb)に属し[1]、多湿な西風が卓越する。
北西部及び北部は特に海洋性気候の特徴が顕著に現れ、1年を通して降水がある。
冬季は寒いものの、それほど厳しい冷え込みとはならない。夏季は比較的涼しい。
東部では明らかな大陸性気候の特色を示す。
冬季は長期に渡って寒さが厳しく氷点下の日々が続き、-20度以下まで下がることもある。一方、夏季は暑くなる。この地方ではまた、長く乾燥した期間がしばしば記録される。
中部及び南部は海洋性気候と大陸性気候の遷移帯であり、全体的な気象状況による。
冬季は寒冷で、夏季は冷涼という傾向が認められるが、夏季は熱波の影響で最高気温が30℃に達する日が数日続くこともあり、ドイツで最も暑い地域である。
この地域では最高気温が30℃を記録することがたびたびあり、最低気温が20℃を下回らないこともある[4][5]。一方、冬季は寒気の影響で、最低気温が-15度以下まで下がることもある。
ドイツ国内における、最高気温の極値は、Kummersbruck、カールスルーエ、フライブルクで観測された40.2 °C(1983年7月27日/2003年8月13日)、最低気温の極値はアルプスに近い標高1601mの高地にあるバイエルン州フンテンゼー(Funtensee)で観測された-45.9 °C(2001年12月14日)である。
土地利用
ボーデン湖
ドイツの総面積は357,021km2である。そのうち4,750 km2は灌漑地(かんがいち)、7,798 km2は水面である。
ドイツの湖の面積第1位はボーデン湖(総面積536km2、うち岸辺の62%がドイツに属するが、湖自体に国境は定まっていない[6])、第2位はミューリッツ湖(117 km2)、第3位はキーム湖(80 km2)である。
ドイツの土地利用別面積で最大のものは耕地(33%)であり、森林(31%)がそれに次ぐ。恒久的な牧草地は15%を占める。
海岸線長・国境線長
ドイツの海岸線の長さは2,389kmであり、国境線の長さは3,621kmである。
国別の共有国境線長(北から時計回りに)
国 国境線長(km)
デンマーク 68
ポーランドの旗 ポーランド 456
チェコ 646
オーストリア 784
スイスの旗 スイス 334
フランスの旗 フランス 451
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク 138
ベルギーの旗 ベルギー 167
オランダの旗 オランダ 577
オーストリアとの国境付近には、ユングホルツ(Jungholz)という小さなオーストリアの飛び地がある。
ドイツとの国境に近いベルギー国内には5つのドイツの飛び地があるが、これはドイツのフェンバーン(フェン鉄道、Vennbahn railway)がドイツ領内からベルギー領内へ入り込んでいることによるものである。
洞窟
カルスト地形が見られる地域の岩場では数多くの洞窟が形成されている。ヨーロッパ最大の文化洞窟はバルフェ(Balve)にある。
川
ドイツの主要河川
詳細は「ドイツの河川の一覧」を参照
ドイツには3本の主要河川がある。
ライン川:ドイツ国内の河川延長は865km(主な支流のネッカー川、マイン川、モーゼル川を含む)。
エルベ川:ドイツ国内の河川延長は727km(北海に注ぐ)。
ドナウ川:ドイツ国内の河川延長は687km。
他の重要な河川としては南西部のイーザル川と北部のヴェーザー川が挙げられる。
海洋
以下はドイツ政府の主張である。
大陸棚:水深200m又は開発できる水深。
排他的経済水域(EEZ):海岸から200海里まで。実際のEEZは周辺国との協定による。
領海:沿岸から12海里まで。
天然資源
地下資源
鉄鉱石、石炭、カリウム、褐炭、ウラン、銅、天然ガス、ニッケル
その他
塩、木材、可耕地、水
環境
現在の諸問題
石炭を燃やしたことによる排気の実害性及び産業活動が与える環境への影響
酸性雨:亜硫酸ガスの排出に起因し森林に被害を与える。
バルト海の汚染:未処理の下水と旧東ドイツの河川から流入する工場排水に起因する。
危険な廃棄物の処理:ゲアハルト・シュレーダー政権下で、ドイツ政府は原子力を発電のために利用することを取り止める方針を表明した。政府はヨーロッパ連合(EU)で、「EUの植物相、動物相及び動物の生息地の自然保護地域を確定する」と宣言し、その実行のために動いている。
ドイツの最後の氷河は失われかけている。[7]
国際合意のうち批准したもの
南極条約, 生物多様性条約, 気候変動枠組条約, 京都議定書, ワシントン条約, バーゼル条約, ロンドン海洋投棄条約, 部分的核実験禁止条約, モントリオール議定書, マルポール条約, ラムサール条約, Air Pollution, Air Pollution-Nitrogen oxide, Air Pollution-Sulphur 85, Air Pollution-Sulphur 94, Air Pollution-Volatile Organic Compounds, Antarctic-Environmental Protocol, Desertification, Environmental Modification, Law of the Sea, Tropical Timber 83, Tropical Timber 94, Whaling
調印済だが未批准のもの
Air Pollution-Persistent Organic Pollutants
自然災害
洪水がドイツでは特徴的である。具体的には
2002年のヨーロッパにおける洪水(2002 European floods参照)などの激しい降水による洪水
1962年の北海における洪水(North Sea flood of 1962参照)などの高潮による洪水
1362年のグローテ・マンドレンケ(大量溺死の意、Grote Mandrenke参照)や1634年のブルチャルディ洪水(Burchardi flood参照)などの現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の西海岸の海岸線を変化させた歴史的洪水
などがある。
人口
2008年現在の人口は8253万4千人[8] で、ヨーロッパではロシアに次ぐ規模である[9]。
2006年の年齢別人口構成は、年少人口が14.1%、生産人口が66.6%、老年人口が19.2%となっている[8]。2004年の国際連合の統計[10] によると男女比は男性が48.9%、女性が51.1%と、日本とほぼ同じである[11]。
民族
2004年のデータではゲルマン民族を主とするドイツ人が91.5%を占め、トルコ系住民が2.4%でそれに次ぐ。
このほか、少数民族としてデンマーク人・ロマ・フリース人(フリジア人)・ソルブ人などから構成される。[8][12]
在ドイツ日本人は2007年現在32,755人おり、そのうち6,732人が永住者である[13]。
ドイツのトルコ人
ドイツの民族集団(エスニック集団)の中で最も多いのがトルコ人である。
彼らは西ドイツの高度経済成長期(1960年代)に、第二次世界大戦で失われた男性労働力を補うためにドイツとトルコの間で結ばれた雇用協定(1961年)に基づいて流入したのが始まりである。
1971年の統計では65万人に達し、西ドイツの経済成長に貢献したが、1973年の石油危機(オイルショック)により労働者としての外国人の募集は停止した。
しかし、労働者として渡ったトルコ人男性が家族や親戚をドイツに呼び寄せたために1973年以降もトルコ人人口は増え続け、2003年末の統計によると1,877,661人のトルコ人が外国人としてドイツで暮らしている。
長らくドイツでは血統主義を採っていたため、トルコ人のドイツ国籍取得は難しかったが、2000年に国籍法が改正[14] され、2003年には約5,6000人がドイツで市民権を獲得している。
それでも多くのトルコ人が市民権を取得しないのは、彼らがトルコ人としての強いアイデンティティを保持しているからである。
トルコ人の主な就業先は製造業やサービス業、石炭採掘などである。また、ベルリン市内のフリードリヒスハイン=クロイツベルク区(旧クロイツベルク区)はトルコ人集住地区として知られ、トルコ人向けの商店などもある。
その他の特筆事項
国土の端点
ここではドイツの最果ての地について記述する。
最北端:リスト(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、北緯55度03分00秒 東経8度24分00秒
最南端:オーベルストドルフ(バイエルン州、北緯47度16分12.39秒 東経10度10分41.95秒)
最西端:ゼルフカント(ノルトライン=ヴェストファーレン州、北緯51度1分00秒 東経5度53分00秒)
最東端:ナイセアウエ(ザクセン州、北緯51度16分00秒 東経15度2分00秒
*ドイツ最北端の町リストはジルト島にある。ドイツ本土における最北端はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州アーヴェントフト(北緯54度54分00秒 東経8度49分00秒)となる。
ドイツ連邦の国土の端は、ドイツの歌の第1節に登場していた。今日この歌はドイツの国歌となり、国土の端に関する歌詞は第3節に移動した。この歌に登場する国土の端は作詞された1841年時点では正しかったが、もはや今日では不正確である。その国土の端とは以下の河川である。
マース川 - フランス、ベルギー、オランダを横断し、当時ドイツ連邦に加盟していたリンブルク公国(現在のオランダ・リンブルフ州)との境界をなしていた。
ネマン川(ドイツ語名:メーメル川) - ベラルーシとリトアニアを流れる川であるが、かつては東プロイセンの境界の一部をなしていた。
アディジェ川(ドイツ語名:エッチュ川) - ボルツァーノ自治県 (当時はオーストリア領で、第一次世界大戦後にハプスブルク帝国からイタリアに移った)に端を発する川。
小ベルト海峡 - バルト海にあり、当時ドイツとデンマークの境界であった。現在ではデンマークに属する。
標高
最低点:ノイエンドルフ・ザクセンバンデ(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、海面下3.53m、北緯53度57分45秒 東経9度20分00秒)
最高点:ツークシュピッツェ(バイエルン州、2962m、北緯47度25分00秒 東経10度59分00秒)
関連項目
ヨーロッパ
ドイツ
ドイツの地方行政区分
参考文献
Peter Haggett『ドイツ・オーストリア・スイス』図説大百科 世界の地理12、東廉 訳、朝倉書店、1996年9月25日、1729ページ、ISBN 4-254-16682-6
山下清海『エスニック・ワールド 世界と日本のエスニック社会』明石書店、2008年4月20日、257ページ、ISBN 978-4-7503-2758-7
『データブック・オブ・ザ・ワールド2009年版』二宮書店、平成21年1月15日、479ページ、ISBN 978-4-8176-0333-3
脚注
[脚注の使い方]
^ a b 『データブックオブ・ザ・ワールド 2009年版』、2009、358ページ
^ Germany Archived 2006年9月30日, at the Wayback Machine.、CIA Factbook、2006年11月14日、2006年11月29日閲覧。
^ おおよそバーデン=ヴュルテンベルク州の南西、シュトゥットガルトの南にあるドナウ川水源まで達し、シュヴァーベン地方のミッテルフランケンを横断し、マイン川の谷に至る。
^ German Climate(英語)、"Handbuch Deutschland"、2006年11月30日閲覧。
^ German Climate and Weather(英語)、"World Travels"、2006年11月30日閲覧。
^ なお、対岸の国はスイスである。
^ “アーカイブされたコピー”. 2007年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月14日閲覧。(リンク切れ)
^ a b c 二宮書店、2009、359
^ Haggett、1996、1594ページ
^ UN Demographic Yearbook 2005
^ 二宮書店、2009、42ページ
^ 山下、2008、117 - 122ページ
^ 二宮書店、2009、360ページ
^ これにはドイツの失業率上昇に伴う外国人排斥傾向が若者の間で強まったことが背景にある。外国人の人権に配慮するため国籍法の規制が緩和されたのである。
ドイツの実情:地理データ
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生放送中に武装集団乱入 エクアドル、銃突き付け
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB101T90Q4A110C2000000/
『【サンパウロ=共同】南米エクアドルの西部グアヤキルのテレビ局に9日、覆面をかぶるなどした武装集団が侵入、生放送中のスタジオで男性らに銃を突き付けたり爆発物を示したりするなどした。警察は数時間後に10人以上を逮捕し制圧した。負傷者はいない。内外のメディアが報じた。
武装集団が侵入したのは「TCテレビシオン」。職員は「助けて。私たちを殺そうとしている」とソーシャルメディアなどで助けを求めた。エクアドルは麻薬犯罪組織の抗争により極度に治安が悪化。8日には60日間の非常事態を宣言していた。
ノボア大統領は9日、全土が犯罪組織との戦闘状態にあると認定し、軍に組織の壊滅を命じる大統領令を発出。22の犯罪組織をテロ組織に認定した。9日はテレビ局侵入以外にも各地で非常事態への抗議とみられる警官の拉致や爆発が相次いだ。
8月には大統領選の有力候補者が選挙運動中に銃殺された。』
金正恩氏「韓国は主敵、戦争躊躇せず」 兵器生産拡大へ
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM1009C0Q4A110C2000000/
『【ソウル=甲原潤之介】北朝鮮の朝鮮中央通信は10日、金正恩(キム・ジョンウン)総書記が8〜9日に軍需工場を視察したと報じた。韓国を「我々の主敵」と断定し、兵器生産の拡大を指示した。「我々の主権と安全を脅かそうとするなら躊躇(ちゅうちょ)なく完全に焦土化する」と述べた。
金正恩氏は重要ミサイル部隊への新型兵器の配備計画が実行されていることに満足を示し「不断の生産能力の拡大を推し進めなければならない」と強調した。
自衛のための国防力と核戦争の抑止力を強化すると宣言した。「圧倒的な力による大事変を一方的に決行することはないが、戦争を避ける考えも全くない」と語った。
韓国軍によると、北朝鮮は5〜7日に3日連続で南北の境界線付近で砲弾射撃をするなど韓国に敵対する姿勢を強めている。韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は軍事力で対抗する方針で、南北の軍事的緊張が高まる可能性がある。』
米CSIS、南シナ海のサンゴ礁「中国埋め立てで被害深刻」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB093ZU0Z00C24A1000000/
『米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)で南東アジアを担当するグレゴリー・ポーリング上級研究員は9日、中国が南シナ海の埋め立てなどで「少なくとも2万エーカー(約80平方キロメートル)にわたるサンゴ礁を破壊した」との分析を公表した。海の生態系も急速に失われていると指摘し、保護区の設置が急務だと訴えた。
都内の米国大使館で日本経済新聞などの取材に応じた。南シナ海を巡っては、フィリピンなど周辺国…
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