アメリカ人とは何かについて考える-歴史的流れと
展望・
著者 矢ケ?停十
雑誌名 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
巻 130
ページ 367-392
発行年 2011-11-01
URL http://hdl. handle, net/10291/17780
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明治大学法学部創立百三十周年記念論文集(二〇ーー ・ーー ・一)
【論説】
アメリカ人とは何かについて考える
——歴史的流れと展望——
矢ヶ崎 淳
目次
! はじめに
πアメリカへの移民の流入
π社会進化論と文化相対主義
W アメリカ人のアイデンティティ
Vおわりに
子
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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! はじめに
アメリカ合衆国は移民たちから成る国家である。ヨーロッパからの初期の入植者たちは先住民であるネイティブ・
アメリカンを駆逐し、「建国の父」を中心としてアメリカを作り上げていった。建国以来、問われている「アメリカと
(1)
は何か」という問題に答えることは非常に難しい。しかも、アメリカは絶えず変化し続けている。先進国では珍しく
増加を続けている国であるアメリカの人口は、二〇ー〇年の国勢調査で三億人を超えたことが判明した。多様化が進
みマイノリティ(少数派)人口が増加し続けており、二〇五〇年の国勢調査では非ヒスパニック系白人がマイノリティ
(2
になるだろうという指摘もある。
若い頃からわたしは、滞在、留学、旅行を繰り返しながらアメリカとつきあってきたが、良いところと悪いところの
両方を見た上でもアメリカはとても面白い国であると思う。従来の国家とは異なる過程を経て作られ、多様な人々を包
含しながら絶えず新しい実験を続けているように思われるアメリカは、わたしにとって大変興味深い研究対象である。
アメリカ独立戦争(一七七五—一七八三)は、近代史上最初の成功裏に終わった反植民地戦争であった。イギリス
からの独立を勝ち取ったアメリカ(東部ニニ州の植民地)は、その当時ヨーロッパにおいて国家であるための必要条
件と考えられていた要素、つまり実在する領土の境界線や歴史、共通の民族、宗教、民俗などを持たない新しい国家
を作り上げた。わたしたちは何かあるとすぐ日本とアメリカを比較するが、アメリカはいろいろな意味で世界の中で
も特殊な国である。
アメリカ人とは何かという問いに対して、アメリカ建国の父たちも抽象的、観念的にしか答える事ができなかった。
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——アメリカ人とは何かについて考える——
むしろ、 観念的である方が良かったのかもしれない。アメリカの広大な土地を開拓していくためには、多くの労働力
と資本が必要であり、それを移民に頼る以外に道はなかった。アメリカを発展させるためには移民の力が必要だった
のである。当時のアメリカ人にとって大事なことは、先祖がどこから来たかという具体的な事実よりも、彼らが何を
信じるかという理念、理想を共有することだった。アメリカ合衆国は、当時、ヨーロッパで広がりを見せていた啓蒙運
動 (ehe En 一 ighgnmea) の支持する価値の具現化された理想であったわけだが、独立運動に賛同したアメリカ人たち
はアメリカ建国の理念の素晴らしさに大いなる自信を持っていたので、それを移民たちと共有する事を恐れなかった。
アメリカ人の定義が観念的であったが故に、より多くの移民たちをアメリカ人として取り込んでいくことができたの
だろう。アメリカ合衆国国璽 (ehe Greae+seal of fhe us.eed seags) の裏面に書かれたラテン語Novus 〇rdo sec~OTUm
(すnew order of-he agesごが示すように、移民たちはアメリカとい、つ新天地で新しい時代の新しい秩序に自らの将来
を託して行く事が求められ、それが一番重要な点であったのである。
アメリカ人とは何かを理解するためには、アメリカを作り上げてきた人々である移民たちを、アメリカがどのよう
にして国家の構成員として取り込んできたかを知ることが必要になる。この小論では、その観点からわたしなりにア
メリカの歴史を振り返り、アメリカ人とは何かという壮大な問いについて、ささやかなとりくみではあるが、現在わ
たしが感じ、考えていることをまとめてみたいと思、つ。
π アメリカへの移民の流入
アメリカで最初に国勢調査(census)が行われたのは、独立後間もない一七九〇年で、その当時のアメリカの人口
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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は三、九二九、ニー四人であった。この初回のセンサスにおいては先祖の由来を尋ねる質問項目はなかったが、当時
のアメリカの民族構成は、最多はイングランド系で五三%、二番目に多いのがアフリカ系でー九%、残りの約三分の
一は、北アイルランド、ドイツ、スコットランド、オランダ、フランス等のヨーロッパからの移民たちとその子孫で
(3)
あった。イングランドから来たイギリス人たちが初期の移民の中心になっていたとはいえ、イギリス人であることが
アメリカ人であるための必要条件ではなかった。
流入の変遷
独立後の一七九〇年の最初の連邦議会において、帰化法(NamraKzaeion Ag) が制定され、「善良で道徳的な性格
(good moral characeer)」で自由身分の白人 (free whs-‘e persons) に、申請があれば市民権を与えることになった。社
会的逸脱者の性格を持たないことを証明するために、二年間の居住要件が定められた。アメリカ国内で誕生しなかっ
たアメリカ市民の子どもたちにも市民権は与えられたが、それは父親のみを通して可能とされた。その後、居住要件
は一七九五年に五年に引き上げられ、一七九八に一四年に延長されたこともあったが、一ハ〇二年に五年に戻された。
ー八五五年にアメリカ市民の外国人妻には自動的に市民権が付与され、一八七〇年に帰化の申請がアフリカ系の出自
を持つ人々にも開かれるなどいくつかの修正もあったが、一八〇二年の改訂版帰化法は現在も有効である。
アメリカへの移民はー九世紀に入ると急増する。ー九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、新たに大挙して流入して
きた新移民と位置づけられる東欧、南欧からの移民が、数の上で従来の旧移民といわれる西欧、北欧からの移民をし
のぐよ、つになるのである。ヨーロツパからの移民流入のピークといわれたー九〇七年には、西欧、北欧といった旧地
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——アメリカ人とは何かについて考える——
域からの移民の数と東欧、南欧といった新地域からの移民の数が一対四にまでなっていた。そうなる兆候が現れ始め
4j
た四半世紀前にはその割合は四対ーであり、二五年という短い間に新旧移民の流入数が逆転したのであった。
東欧、ロシアからの、イディッシュ語(アシュケナジム系ユダヤ人の話す言語)しかできない貧しいユダヤ人たち
が、繰り返されるポグロム(ユダヤ人大虐殺)から逃れようと、一八八〇年から第一次世界大戦の始まるー九一四年ま
でに、約二〇〇万人もアメリカに流入した。彼ら新移民は、同じユダヤ人でもそれ以前にアメリカに到着し、すでに
経済的基盤も整えて地位を築いていた旧移民である西欧出身のドイツ系ユダヤ人とは大きく異なり、英語も解さず貧
しかったため両者のあいだには軋礫が生じる。しかし、どの民族集団もその内部は決して一枚岩ではなかったが、お
(5)
互いに助け合いの組織を作り上げながらアメリカ社会の一部に組み込まれていった。
法律で定められたことは無かったが、アメリカの建国の理念は、アメリカ合衆国国璽の表面にラテン語で刻まれた
(6)
E pe-a.rsgmijn (Koue of many peoples oneness) が示すように、様々な移民たちを含む「多数から一つに」まとまつ て団結して行くことであったと言っても良いだろう。第四四代アメリカ合衆国大統領のオバマも、大統領に選出され る前の二〇〇四年の民主党大会基調演説や、つい最近の二〇ーー年五月一〇日テキサス州エルパソでの演説で、この -oue 0f many- onesのフレーズを使用している。 S?礫と不協和音 しかし、アメリカは建国当初から決して一枚岩の状態ではなかった。プロテスタントの白人が中心となって建国さ れたアメリカでは、イギリス本国からもたらされたともいえる反カトリツク感情が絶えず存在した。また、旧世界ほ 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 372 どでは無かったが、反ユダヤ主義 (aner-semMsm)も根強くあったし、アメリカ先住民であるインディアンたちへの差 (7) 別、国を二分する内戦(南北戦争)の原因にもつながる黒人奴»への差別の問題もあった。その他、建国の父の一人 (8) – であるベンジャミン・フランクリンも持っていたらしいが、第一次世界大戦中に燃え上がった反ドイツ感情、ー九世 紀後半からカリフォルニアでみられた中国人移民、その後日本人移民にも向けられた反黄色人種感情(黄禍論)など、 様々な不協和音があった。第二次世界大戦中には、敵国につながる者として裁判も無いままニー万もの無実の日系人 がすべて強制収容された。また、南北戦争終了後に南部で作られた白人至上主義者の過激な秘密結社であるクー ・ク ラックス・クランや、その他の類似の差別主義的な団体も存在する。二〇〇一年九月ーー日のアメリカ同時多発テロ 事件以後は、特にアラブ系の人々への差別感情が拡大している。 どの国、どの社会においても程度の差こそあれ見受けられる事だが、アメリカの歴史においても、よそもの(strangers) である移民や外国人を排斥する排外主義 (naehdsm) が存在してきた。外国とつながりのある「非アメリカ的な」国 内の少数派や、カトリツクや急進主義への反感である。それに加えて、建国以前から主流であったアングロ ・サクソ 9) ンの伝統が、一九世紀末から二〇世紀にかけて外来者恐怖症の流れを作って行く。特に、一九二〇年代はアメリカの 歴史の中でも、民族主義的 (fhe-riba二weneies) な偏狭で人種差別的な逆戻りの時代とされた。 そのようなアメリカ社会の中へ、それぞれ固有の歴史を持つ様々な民族集団からなる移民たちが流入したわけだが、 彼らは他の国における同民族の集団とはある意味異なっていた。例えば、ソビエト連邦、チェコスロバキア、ユーゴ (〇) スラビアなどといった国々は様々な民族集団の連合体であったが、アメリカ合衆国はそうではなかった。 373 アメリカ人とは何かについて考える—— 内なる外国 アメリカは、各民族集団にそれぞれの小さな祖国をアメリカ国内に作る事を認めなかったのである。つまり、本国 から離れてアメリカに暮らす各民族集団固有の、内なる外国とも言える文化的な飛び地 (culfural enclave)をアメリ カ国内に作らせなかったのだ。 アメリカ議会は、ー八一八年に、ニューヨークとフィラデルフィアといった東部の都市部にあるアイルランド系組 織から出されたイリノイの土地供与申請を却下した。アイルランド系移民は、西部に小さなアイルランド(Erm)を作 る事ができなかったのである。この却下処分は前例となり、他の民族集団からの同様の申請も認められる事はなかっ た。これを認めれば、アメリカは「外国人居留地の継ぎはぎ細工の国 (^patchwork of foreign se球一emenf%)」になっ (1) てしまうと議会は考えたからである。その結果、連邦国家であるアメリカ合衆国は、チェコスロバキアやユーゴスラ ビアなどのような諸民族の連合体になることはなかった。現在、これらの諸民族の連合体だった国家は崩壊して、国 家としての形をとどめていないことは、非常に示唆的であると思う。 フランスでは、つい最近、二〇ーー年四月ー一日からブルカ禁止法が施行されて物議をかもしている。二〇一〇年七 月一三日にフランス下院がこの法案を可決したその翌日に、アメリカ国務省は、宗教的信念に基づく衣服の着用を法 (2) 律で定めるべきではないという異例の非難を行なった。フランス国内の民族状況は、アメリカ国内のそれよりもヨー ロッパの他の国々と共通点が多いと思われるが、国内に内なる外国を作らせ、このような禁止法を作らなければなら ない状態にまでしてしまったことの方が問題であるように思う。 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 374 フランスのイスラム人口三五五万人に比べれば少ないかもしれないが、ー、五五万人のイスラム系住人を擁するイギ リスにおいても、特に二〇〇五年のロンドン同時爆破テロ事件以後、彼らが英国社会の中で混ざり合わずに孤立を深 (3) めるにつれて「イスラム恐怖症」が問題化してきている。「英国をイスラム国家に」という理念を持つイスラム過激派 聖職者組織までも国内に許容する寛容さを持つイギリスであるが、前労働党政権下で不法移民をも流入させてきた寛 大な移民政策も終わろうとしている。保守党政権のキャメロン首相は、二。 ーー年四月一四日に、これまでの寛容な 移民政策を転換し、EU諸国以外からの移民の受け入れに上限を設けて制限し、優秀な移民のみを歓迎する方針を発 表した。 移民受け入れの最大の要因は労働力不足であろうが、国内における民族関係と将来の国のあり方を熟慮し、議論し ておく必要があるだろう。ビジョンもなく、起こりうる問題への対策も考えずに、目先の利益だけを考えて安価な労 働力としての移民の流入を政策とすることには問題があろう。アメリカとヨーロッパの国々の前例から日本は多くを 学ぶべきである。 In社会進化論と文化相対主義 様々な地域からの移民で作られた国とはいえ、建国当初からアメリカの主流となる人々は白人でプロテスタントで あった。本人たちが自らをそう呼ぶことはないが、通常、彼ら以外の人々からWASP (whig Anglo’saxon proeeseane) と呼ばれるエリート集団である。言語は英語、英国志向で英国本位の文化パターンを維持するアングロ •サクソンの 伝統が、アメリカ社会の主流であり基本となっていた。 375 ——アメリカ人とは何かについて考える—— アングロ・サクソン優越主義 ー九世紀の終わりから二〇世紀の初頭にかけて強まった、アングロ・サクソンの人々とその文化を他よりも優れた ものとするアングロ ・サクソン優越主義 (Anglo’saxon superiority)を理論的に支えたのは、当時アメリカで流行し、 大きな影響力を持っていた社会進化論の思想であった。社会進化論はー九世紀のヨーロッパにおいていろいろな分野 に影響をあたえたが、「適者生存」というフレーズを最初に提唱し社会進化論の思想を広めたハーバート・スペンサー (4) は、母国イギリスよりもアメリカでの方が有名だったという。 社会進化論はタイラー、モーガンなどの人類学者にも大きな影響を与えた。しかし、社会も進化の過程を経るもの であり、最も進化した社会は当時の大英帝国であるとする思想は、かなり人種差別的であったと言える。進化論に影 響を受けた社会科学が学問分野として成立していくのが同時期であったため、人類を外見や形態的特徴から「科学的」 に分類し、序列化することが正当化されていったのだった。アメリカ人の祖先の集団の序列化は、大雑把に言えば、ア ングロ ・サクソンと北欧、西欧の北方系を頂点にして、その下に南欧、東欧系、その次に東洋系、そして黒人を最下 位に置くとい、つものであった。 もちろん、学問的なお墨付きを得る以前から、このよ、つな序列認識は存在していた。例えば、ベンジャミン・フラ ンクリンはー八世紀半ばに、何故、アメリカ合衆国は「アフリカから黒人たちを連れてくることでアメリカを黒くし なければならないのか?アメリカはすべての黒人や黄褐色人 (=Tawneysご(アジア人のこと)を排除することによつ (5) て、美しい白人や赤銅色人 (ーーRedu)(アメリカ先住民のこと)を増やすことができる機会が折角あるのに(筆者訳)」 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 376 と書いている。フランクリンはここではインディアンたちを肯定的に受け止めているように見えるが、「われわれの地 球を磨き(白人以外を排除すること)、アメリカから(インディアンが住んでいる)森を取り除くことによって、われ われの地球上の(白色になった)アメリカの存在する側面を、火星や金星の住人たちの目により明るく光り輝いてい るよ、つに見せる(Kscourmg our planer by clearing America, oi wbod«and so makingrt-hls Side of our Gio De reflect; a brighter Lighc-f-eo-he Eyes of Inhabs-‘anes in Mats or Venus-)(筆者訳)」とも書いているので、人種差別的であったこ とは間違いないだろう。身晶Mであるかもしれないがそれが人間の常だと断りながら、「白人」の意味を限定的に狭く とらえていたようであるフランクリンは、アメリカは浅黒い肌の色でない白人種であるアングロ・サクソン人のもの であるべきだとしている。フランクリンにとって、殆どのヨーロツパ人はサクソン人を除いて、スペイン人、イタリ ア人、フランス人、ロシア人、スウェーデン人なども浅黒い肌の色 (swarehy complexion) の人々だった。 差別的な移民法 このアングロ・サクソン優越主義の流れの延長線上に、偏狭で人種差別的な後戻りの時代である一九二〇年代があ り、一九二四年移民法 (Johnson,Reed Ace) がある。この移民法はアメリカへ流入してくる新参者を国籍別に分類し、 アジア人移民の入国を全面的に禁止し、東欧、南欧出身者にはわずかな、西欧、北欧からの移民にはより大きな、そ してイギリスと北アイルランドからの移民には一番大きな人数枠を割り当てるというものだった。差別的な序列に対 応して、アメリカへ入国する移民の数を定めようとしたのである。 それまでの大規模な移民の流入が止まり、その状態がしばらく続いた。その後、大恐慌や第二次世界大戦などを経 377 ——アメリカ人とは何かについて考える—— た後に成立したー九五二年移民国籍法 (Mccarran’waleer Ace)においても、出身国による割当人数枠はそのまま残さ れた。カトリツク教徒で生粋のアイルランド系の初めての大統領に選出された第三五代大統領ジョン・F •ケネディ がその廃止を約束していたが、ー九六三年に暗殺され果たすことができなかった。その後、彼の後継大統領ジョンソ ンがリバティ島の自由の女神像の下で署名し成立に至ったー九六五年移民国籍法 (Harrce 一ler Ag)によって、ー九 二四年以来続いた出身国別の移民人数割当(quoeas) は撤廃される。 第三六代大統領リンドン・ジョンソンは一九六五年一〇月三日にこの法案に署名する際、差別的な出身国別人数割 当は「人間を、その資質によって評価し、報いるというアメリカの民主主義の基本原則を犯していた。このシステム は、われわれが建国する以前でさえ、何千もの人々をこの国にもたらした信念に背くことになるので、非アメリカ的 (umAmerican) であった。(筆者訳)」「アメリカは再び本日、素晴らしい伝統に回帰する。無制限の移民の時代は過去 のものになった。しかし、アメリカに来る人々は、彼らの出身国に依拠してではなく (-ooe because of-he land from which -hey sprungご、 彼らが持っている資質を根拠として(ー『because 0f what; ehey are) 入国するのである。(筆者
17)
訳)」と述べている。
ジョンソンもこのスピーチの中で再確認しているが、初期の入植者たちがアメリカを開拓して行くときに大切だっ
たのは、彼らの出身国ではなくて、彼らが我慢強く、その身体が厳しい仕事に堪えられるほど頑健であるかどうか、必
要とあれば自由のために命をかけられるほど勇敢であるかどうか、ということだった。建国の理念もそこにあると言
える。建前とも言える理念と現実あるいは本音が歴史を通して錯綜しているのは、理念が理想であり、現実となるに
は崇高すぎたということなのかもしれない。
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ボアズと文化相対主義
前述したように、社会文化進化論の考え方は様々な文化の間に進化の度合いに基づく優劣があるとし、大英帝国の
白人の文化が他よりも優れているとみなした。この思想はー九世紀に一般的だったフィールドワークを行なわない安
楽椅子学派の人類学者たちに大きな影響を与えた。しかし、二〇世紀に入ると、アメリカでパパ・フランツと呼ばれ
アメリカ人類学の父と称されたフランツ・ボアズは、この立場に真つ向から反対した。社会進化論はその人種差別的
な考え方に加えて、実証性に乏しいこともあり説得力を欠いていたからである。
ボアズはその語を案出した訳ではなかったが、文化相対主義 (cultural relativism)という新しい概念を押し進めた。
単一の基準で人類の文化や社会をとらえるという進化論的な考え方を退け、ボアズは人類の文化を一つ (culture」単
数)ではなく、複数(cultures)であるとし、それぞれの文化はその文化の内側から理解すべきだとする立場を提唱
した。文化に優劣といった価値を付与して序列化することを否定したのである。この考えから人類学の調査の基本が
フィールドワークになっていく。
ボアズはー九世紀末にアメリカに移民してきたドイツ生まれのユダヤ人であった。アメリカ移住後は、自らをユダ
ヤ系アメリカ人ではなくドイツ系アメリカ人と位置づけるなど、ユダヤ人としてのアイデンティティに否定的な感情
を持っていた。人間の柔軟性を信じていたボアズは、ユダヤ人はアメリカでるつぼの中に消滅して行くだろうと期待
(8)
していた。しかし、同時に彼はそれぞれ個々の文化の完結性に敬意を示して、文化相対主義の立場もとったのである。
ボアズの提唱する文化相対主義の背後には、彼の背景であるユダヤ文化とユダヤ人集団に対する彼の誇りが感じられ
379
アメリカ人とは何かについて考える——
る。ユダヤ性への否定と誇りとい、つアンビバレントな感情が、ボアズの中に存在していたのだと思う。
ボアズのよ、つに移民からアメリカ人になっていった人々にとって、アイデンティティの問題は複雑なものだった。
アメリカ人という共通のアイデンティティのほかに、自らが所属する民族集団への帰属から生じるエスニック・アイ
デンティティが併存するかたちになっていたからである。両者の折り合いをど、つつけるか、自らをどのように位置づ
けるかは、民族集団によっても異なり、また個人によっても異なっていた。
M アメリカ人のアイデンティティ
どの国、どの社会に住む人間についても、個人の持つアイデンティティが一つということはあり得ないだろうが、ア
メリカ人の場合は特にそれが複雑だと言えるだろう。アメリカの社会学者ゴードンは、アメリカ人の多層化したアイ
デンティティについて、自己を核とすると、その周りに出身国、宗教、人種、国家(国籍)つまりアメリカ人としての
アイデンティティが取り巻いているとしている。あなたは何者かと問われれば、「アメリカ人だ」「白人/黒人/黄色
人種だ」「プロテスタント/カトリツク教徒/ユダヤ教徒だ」「ドイツ系/イタリア系/アイルランド系/イギリス系
(9)
などだ」という複数のアイデンティティが、答えとして必要になるのである。
アメリカ社会が移民をどのように取り込んで行くかとい、つ「哲学」について、ゴードンは三つの主要なイデオロギー
(〇)
的な立場があるとした。「アングロ化(アングロ・コンフォーミティ)(Ango—conform<)」「るつぼ (mewing pof)」
「文化多元主義 (cultural pluralism)」である。アングロ ・コンフォーミティ論は、移民祖先の文化を完全に捨てて主
流集団のアングロ ・サクソンの人々の文化を取り入れ、それに融合することを求める立場である。るつぼ理論は、ア
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ングロ・サクソンも含めた移民すべてがアメリカ社会の中で混ざり合い溶け合って、新しいアメリカ人のタイプを作
り上げるとする考え方だつた。文化多元主義は、移民たちがアメリカ市民となり、政治的、経済的にアメリカ社会に
統合されて行く際に、自分たちが祖国から持ち込んだコミュニティの生活と文化をかなり多くの部分で保持すること
(21)
を前提とする立場であった。
アングロ•コンフォ|ミティ
イギリスを母国としてアングロ・サクソン文化へ融合して行くことを理想とするアングロ・コンフォーミティ論の
背後には、前述したアングロ ・サクソン優越主義の考え方があったと言える。しかし、この概念自体は幅の広いもので
比較的穏健なアングロ ・コンフォーミティの立場が、アメリカの歴史を通して最も広く行き渡ったイデオロギーだっ
22)
た。つまり、移民とその子孫たちが標準的なアングロ ・サクソンの文化的パタ—ンを採用している限り、彼らに反感
や敵意を持たないという立場である。
移民たちは自ら進んで自分の意思でアングロ ・サクソン化することが望ましいとされた。第六代アメリカ合衆国大
統領となったジョン・クインシー・アダムズは、その前のモンロー大統領の下での国務長官時代に、ドイツ貴族から
の移民についての問い合わせ受けた。それに対するー八一八年の返信で、移民がアメリカで求められる性格に適応で
きないならばいつでも本国にお帰りいただいてよい、新天地アメリカで幸せを見つけたいのであればヨーロッパの皮
を脱ぎ捨てて(男爵の身分を捨て)アメリカ人になり、決して古い皮を再び着用しないと決心することが必要だと述
(3)
ベている。また、移民の子孫がアメリカに対して好感情を抱くようにするために、アメリカの考え方や行動様式につ
381
——アメリカ人とは何かについて考える——
いての教育に強調をおく必要があるとアダムズは考えていた。教育が多様な人々を同質化に向かわせるための鍵とな
り得ると考えたのである。
るつぼ理論 (メルティング•ポット)
アングロ ・コンフォーミティと競合する、より寛容で理想主義の含みを持つ同化についての考え方を支持する人々
がー八世紀から存在していた。クレヴクール(注1参照)もその一人であった。彼は「アメリカ人とは何か」について
自らの考えを述べた手紙の中で、移民たちは「アメリカという慈しみの母『AlmaMaerご に受け入れられてアメリ
力人になる。ここアメリカではあらゆる国から到着した個々人が溶け合ってひとつの新しい人間になり(すre mel-ed
s-eo a new race of men)、彼らの働きが、そして彼らの子孫たちがい つの日か大きな変化を世界にもたらすことになる (5) だろう(筆者R2)」と書いている。また、アメリカにいる人々は「イギリス人、スコットランド人、アイルランド人、フ ランス人、オランダ人、ドイツ人、スウェーデン人の混合したものであり、この無差別な血の混ざり合いの中から、今 日アメリカ人と呼ばれている人間が生まれたのである.From Chis promiscuous breed】ー haf race now called Americans (6) have〔原文のまま〕arisen.)(筆者訳)」とも述べている。ここに、るつぼの理論の基本的な考え方があると言えよう。
この理想的な考え方が、絶えずアメリカの中には存在した。移民に広く門戸を開く政策がー九世紀の末までとられ
たのも、このような理念が根強くアメリカの中に存在した証拠であろう。アメリカの歴史学者タ—ナーは、苦難に満
ちた西部フロンティア開拓が、アメリカ人にとっての複合された国民意識の形成を促したと考える。「移民たちは辺境
というるつぼの中でアメリカ化され、解放され、国籍の上でも性格の上でもイギリス人ではない、一つの混合された人
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間へと融合されてレ った(Ain -he cmclze 〇 二 he froaIerfhe imimgranfs were Americanized” liberated】 and fused igo
(7)
a mixed race】 English in neither nabionaliCy nor characgriseics.)(筆者訳)」と彼は書いている。これは明らかにるっ ぼ理論の考え方である。 メルティング・ポットという言葉は、エマーソンなどによっても使用されたが、この語を広めたのはイギリスのユダ ヤ系作家ザングウィルが書いた劇The Me賈P。二初演はー九〇八年)であった。最初はUhe Crucible (るつぼ)» という題名にするつもりだったというこの劇は、アメリカでヒットした。主人公はポグロムを逃れてアメリカに移住 したロシア系ユダヤ人作曲家で、アメリカという「神のるつぼ CCGOdwcnlcible二」の中であらゆる人種、宗教、出 (8) 身国の人々が溶け合い、神がアメリカ人を作るのだと主人公に語らせている。 しかし、アングロ・サクソン優位の社会においては、移民たちがるつぼの中で溶け合った結果、それらの文化がアン グロ・サクソン的なものに収斂していくという考え方につながり得る。ここで、るつぼ理論はアングロ•コンフォー ミティ(アングロ化)に容易に結びつくと言えよう。移民たちをアメリカという巨大なるつぼの中で、アングロ ・サ クソン化というかたちで同質化することが、アメリカ化することと同義になるのである。 フォードの英語学校 自動車会社フォードの設立者であるヘンリー・フォードは、高い評価を受けた貧しい少年たちのための職業学校 (Henry Ford Trade school)の他に、移民従業員のためにフォード英語学校を創設した。ー九一四年から一九二ニ年 まで存続したこの学校で、自社の移民従業員に英語と行動様式や価値観などアメリカ文化を教え、彼らをアメリカ化 383 ——アメリカ人とは何かについて考える—— しようとしたのである。その卒業式では、舞台上に設置されたエリス島に着いた汽船から祖国の衣服を着て降り立つ た移民たちが、出身国の書かれた札を持ち「フォード英語学校メルティング•ポット『Ford English Schoo- Melttng ps.ご」と書かれた巨大な大釜に入っていく。数分後、彼らはアメリカの衣服に身を包み、新しい機会に顔を輝かせて (29) アメリカ国旗を振りながら釜から出てくるのだった。卒業式におけるこの儀式により、移民従業員たちはフォード英 語学校のるつぼの中でアメリカ人に生まれかわっていったことを表現したのであった。 (30) ヘンリー・フォードは、自らを「自動車の製造者というよりは人間の製造者 (da manufacturer of men)」だと語っ
たというが、彼はアングロ ・サクソン的な人間を作り上げることを望んでいた。二〇世紀初頭にフォードが考え実践
しょうとしていたるつぼ理論は、一八世紀にクレヴクールが語っていた本来のオリジナルのるつぼの考え方とは大き
く異なっていたと言えよう。
しかし、一ハ世紀のるつぼの考え方を提唱した人々にとって、その後アメリカに大量に流入してくる過激なまでに
多様な移民たちの存在は、想定を超えたものであったのかもしれない。その当時、るつぼの中で溶け合うのは、ヨー
ロッパの中の比較的類似した人々だったと言えるだろう。その後、数を増す多様なマイノリティに対して、アングロ ・
コンフォーミティ的るつぼ理論を当てはめるのには問題があった。アジア系、ネイティブ・アメリカン、黒人のよう
な人種的マイノリティにとっては、外観特徴が非常に異なることから、身体的な観点からもアングロ ・サクソン化は
困難であった。また、ユダヤ教、カトリック、イスラム教など宗教を生活の中心に据えている人たちにとっては、信
仰を捨て去ることは容易なことではなかった。
二〇世紀に入ると、前述した文化相対主義の考え方が人類学の立場から提唱された。アングロ ・サクソン優越主義
の文化観ではなく、個々の文化をその内側から理解しようとする動きである。この時代の流れの中で、アングロ ・コ
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ンフォーミティは否定されて行く。また、メルティング・ポットの考え方にも限界があった。ここで、三つの考え方
の中で一番新しい立場である文化多元主義が台頭してくる。
文化多元主義
ユダヤ系アメリカ人哲学者であるカレンは、その概念をー九一五年にネーション誌 (Nas-.tm)に発表していたが、ー
(1)
九二四年に発表した本の中で初めて、「文化多元主義(cultural pluralism)」という言葉を使用した。移民たちは、前
述したように、法的には、内なる外国となる各民族の共同体を作ることを認められなかったが、実質上は、それぞれ
の民族集団がかたまって共同体を形成していた。移民たちは外的には変化したかもしれないが、内的にはそれぞれの
民族性を残したままであり、メルティング・ポツトは起こらなかったとカレンは考えた。文化多元主義の父とも言、え
るカレンは、るつぼではなく、調和のとれたオ—ケストラという比喩を用いてアメリカ社会をとらえよ、っとした。ー
九一六年に「〃超国家的 (erans-nauonal)”アメリカ」とい、つ立場を提唱したボーンも、カレン同様、メルティング•
(32)
ポツトを否定した。
一九六八年にはニカ国語教育法(Bengual Education Ag) が制定され、アメリカ史上初めて連邦政府がニカ国語に
よる教育を認めた。教育の平等をはかるため、英語を話せない移民の子どもたちに母国語でも教育を受けることを認
めたのである。それぞれの民族集団の言語を尊重するという考え方は素晴らしいが、別の見方をすれば、いつまでも英
語が上達しないため、低賃金で働かざるを得ない移民の集団の存在が固定化され、彼らが社会のはしごを上って行く
ことを阻止することにもつながり得る。安価な労働力を持続的に供給する手段にされてしまう可能性があるのである。
385
——アメリカ人とは何かについて考える——
文化多元主義には、個々の文化の尊重という側面の裏側に、社会の流動性を停滞させるという側面も併せ持つこと
を忘れてはならないと思う。連邦法によって定められたことはないが、善し悪しは別として、英語がアメリカの公用
語であると広く人々に信じられている。アメリカ社会の中で、経済的、政治的に地位を上昇させ文化的にも認識され
るためには、言語が決定的な要素となる。つまり英語を使えるかどうかが鍵となるのである。
草の根でアメリカをまとめるもの
アングロ・コンフォーミティはアングロ•サクソン優越主義的で問題があった。本来のるつぼ理論は理想的過ぎた
し、アングロ・コンフォーミティ的メルティング・ポットの考え方も差別的だけではなく根本的に無理があった。ー
番新しく、また好ましいと考えられた文化多元主義にも問題点があり、アメリカ人とは何かという問いに対して納得
できる答えを提供してくれない。
カレンはアメリカがそれぞれの民族が持つ文化の連合体への道を歩むことを望んでいたが、実際にはそうはならな
かった。そうならなかったのがアメリカという国のユニークさなのではないだろうか。多元主義を急進的に進めてそ
れぞれの民族が各々の文化を固持しすぎれば、アメリカはバラバラになってしまうだろう。しかし、 そうならないの
は、アメリカが持つ人々をひとつにまとめる求心力のよ、つなものが存在するからだとわたしは思う。
昔、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) に留学していた頃のことだが、住んでいたドミトリーの学生
のたまり場だったラウンジに一人の学生が飛び込んできて「わたしは今日アメリカ人になったI」と誇らしげに公言
したことがあった。彼女は一〇歳で両親とともに韓国から渡米し、その後アメリカ人になることを夢見てきたとのこ
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
386
とだった。周りのアメリカ人学生たちは、口々に「おめでとう!」と声をかけた。移民たちが自らの祖先の文化に誇
りを持ちつつも、アメリカ人になりたいと思わせる何かがアメリカにはあるのだろう。
また、学業を終えて帰国の日が近づいていたころのことである。住んでいたアパートへ修理に来たガス会社の人に
帰国することを話すと、何故アメリカに残らないのかと彼は大層驚いた。アメリカは誰にとっても素晴らしい所で、
みんなが住みたがる国なのだと彼は信じていた。
このような真摯で無邪気とも言えるアメリカ礼賛を草の根レベルで人々が持っていることで、アメリカという国は
まとまっていられるのだと思う。そこに、アメリカ人とは何か、アメリカとは何かを解く鍵があるのではないだろう
か。多元主義に基づく個々の民族の独自性の存在と同時に、様々に異なるアメリカ人を結びつける共通なものがある
のではないかとい、っことである。
アメリカの歴史学者ハイアムは、同化のモデルと多元主義のモデルを折衷して、より穏健的な「多元的統合(成目a 一 iss-.c
(3)
一 neegraEr.onご」という新しい立場を提唱している。これまでに提唱されてきたものの中では、このモデルが最も現実
を反映していると言えるかもしれない。
アメリカは、移民たちに自主的にアメリカの主流文化に同化するよ、っにしむけてきた。彼らは母国語を捨てるよう
に強いられることはなかったが、「郷に入っては郷に従え」を基本姿勢として、自ら英語を修得しアメリカ社会に溶け
込もうとしてきた。移民の二世代目である子どもは、外国生まれの一世代目の親よりも言語面のみならず、あらゆる
点でよりアメリカ的になった。このことは、旧世界で一般的だった子が親に従うという従来の親子関係の図式を覆す
ことに寄与したと言える。アメリカには常に新しい価値観が存在した。その新しい価値観と、古い慣習、考え方が生
み出す息苦しさからの解放、自由といったものが人々を惹き付けた一因であっただろう。また、その自由さが、ある
387
——アメリカ人とは何かについて考える——
いは自由なのだとい^’イメージが、アメリカをまとめる求心力の一つになっているのではないかと思う。
紙面の都合があるので別の機会に論じたいと思うが、アメリカにおける異民族•異人種間結婚の増加により人々が
生物学的に混ざり合い、その結果、人々のアイデンティティがさらに複雑化していることも忘れてはならない。前述
したように、ー九六五年の移民国籍法での出身国別人数割当廃止により差別的な要素が払拭され、アメリカ国内の多
様性はさらに進んだ。また、公民権運動以後はマイノリティに開かれた機会の向上のため、民族、人種の壁を超えて
人々が交流する場が飛躍的に増加した。それに加えて人々の平等意識が高まってきたことも、異民族・異人種間結婚
の増加の原因となっているだろう。
これはアメリカ社会で多元主義が市民権を得た結果とも言える。自らに自信を深めた人々の民族や人種の枠を超え
た人間同士の交流が増した結果、異民族•異人種間結婚が増えたからである。逆説的なことだが、民族集団の独自性
はそれに反比例して希薄化していくことになる。アメリカ社会の構成員の平等意識の高まりとそれがもたらす混ざり
合いの状態がさらに進展していくことが、多様化の進むアメリカ社会の中でアメリカ人を一つにまとめていくカとな
り得ると田5、つ。
前述したように、クレヴクールが「無差別な血の混ざり合い」の中からアメリカ人が生まれたと述べたことが、本
当の意味において今、起こりつつあるのではないだろうか。クレヴクールはその「混ざり合い」の中に黒人やアジア
人等の存在を含めていなかったと思われるが、今日のアメリカでは彼らも含めての混ざり合いが進みつつある。その
結果、アメリカ人の民族的、人種的な帰属が複雑になり、自らのエスニック・アイデンティティを一言では表現でき
ない人々が確実に増えている。そのことが、個々の人間あるいは民族がその独自性よりも共通部分に目を向けるとい
う傾向に拍車をかけることにつながってきているのではないかと思う。
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
388
V おわりに
アメリカ社会には、国家の成り立ちの性質上、歴史的に各民族集団が固有の文化を保持しようとする力学と、アメ
リカをひとつにまとめよ、っとする求心力という二つの相反するベクトルが絶えず存在した。その両者の間でバランス
をとることが必要になるが、そのバランスをどのようにとるかは、各民族集団によっても個人によっても異なる。こ
のバランスが全体としてうまく保たれているとき、アメリカ社会は最も輝き、力を発揮できるのではないだろうか。
このバランスの問題は、人間の地理的移動が活発化した現在、アメリカのように移民国家ではない国においても、程
度の差はあるかもしれないが重要な要素になってきている。イスラム教徒を例にとってみると、今日、世界各地の非
イスラム社会の中でのイスラム教徒集団の孤立化が問題になっている。二〇〇一年九月ーー日のアメリカ同時爆破テ
口事件以来、イスラム教過激主義者に対する反発が穏健なイスラム教徒にまで向けられるようになった。非イスラム
社会で生活するイスラム教徒たちは、自らのイスラム文化を保持しつつも、移民先の受け入れホストである非イスラ
ム社会への同化という、二つのベクトルの間でバランスをとる必要があるだろう。それに加えて、過激なイスラム原
理主義者たちに対して、アメリカを筆頭とした外部からの圧力ではなく、イスラム内部の穏健なイスラム教徒からの
内省的な提案が必要だと思う。民族意識の強い集団は外部からの声を聞く耳を持たないからである。
これを書きながら、恩師の故我妻洋先生のことを思い出していた。長期に及ぶアメリカ生活を終えて帰国なさった
先生は、わたしが先生と同じようにフルブライターとしてアメリカへ留学し、ph・D・を取得することを強く望んで下
さった。高等遊民のようだと先生に称された暢気なわたしの大学院生生活も一変し、怒濤のようなアメリカの大学院
389
——アメリカ人とは何かについて考える——
での留学生活が始まることになったが、幸いにも先生のご希望通りにできたことを嬉しく思う。留学への出発直前に、
先生は惜しくも亡くなられた。しかし、先生はわたしとアメリカの関係を語る上で忘れることのできない存在である。
ある時、UCLAの図書館には、自分よりも父である我妻榮先生の蔵書の方がまだ多いのだとぽつりとわたしにおっ
しやったことがあった。どこか偉大な父への尊敬の念が感じられた。法律の道へ進まれなかった我妻洋先生の弟子の
わたしが、今、法律を志す学生たちを教えていることに不思議な運命を感じる。先生がわたしの背中を押してくださっ
たよ、つに、わたしも法学部の学生たちが異文化への興味の扉を開けて自らの世界を広げ、世界へ羽ばくために尽力し
たいと思う。
善し悪しは別として英語はもはや世界言語となっており、それを使用することで自らの世界が飛躍的に拡大する。
わたしが若かった昔、スペインで出会ったクウエート人女性と夜を徹して語り合い、モロッコを一緒に旅したフラン
ス人女性と話し合えたのも、お互いの母国語ではない英語を使ってのことであった。学生たちには、言語を手段とし
て、究極的な目標をその背後にある文化の理解に置き、それを楽しめる所まで至って欲しいと思う。その先の判断は
各個人によって異なるだろうが、これまでの経験から、わたしは文化の違いを超えて様々な人々に共通する人間の本
性 (human naeure) の普遍性が存在するように感じている。
昨今は人間の地理的移動が激増し、地球上のあらゆる情報が瞬時に世界を駆け巡っている。共通の言語を介して交
流する機会も増え、数十年前に比べて様々な文化的背景を持つ人々の間の垣根が低くなり、人間としての共通部分が
強調されてきているように思う。そのような世界の流れに先んじて、アメリカは自らの社会の中で試行錯誤を繰り返
しながら様々な移民たちの間で折り合いをつけようとしてきた。アメリカの実験とも言えるようなこれまでの実践を
吟味しアメリカ人とは何かを考えることが、アメリカ人以外の我々にとっても有益であると思える日がいつか来るの
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
390
ではないだろうか。
注
(1) 一七六五年にフランスからアメリカへ農業経営者として移住したクレヴクールが一七八二年に書いた『アメリカ農夫からの
手紙』のニー通中の第三番目の手紙で、「アメリカ人とは何か」を論じたのが、この永遠なる問いかけの最初であると言われ
ている。彼はアメリカ独立戦争には反対であったが、アメリカ人とは、新しい原則、新しい考え、新しい意見に基づいて行動
する「新しい人間(a new man)」であると述べている。HHecsr sf・ John de crevecoeur1Lexers from an American
淨rms London: J.M, Denf^sons,1971】p?39168.)
(2) ー九七〇年には非ヒスパニック系白人が一億七〇〇〇万人で全人口の八三%を占めていたが、二〇一〇年の調査では、非ヒス
パニツク系白人が一億九七〇〇万人で全人口の六四%以下になった(実際は六三・七% 」筆者)。過去四〇年間でアメリカの人
口は一億六〇〇万人増加したが、その増加分の、つちの七四% (七八〇〇万人)はマイノリティ人口であるという。«ASMingwy
Population Grow%by Edward Glaeser) GHmp Professor of Economics Harvard unlversiey»The Nein szmey Aprilダ 22L (3) Interluniversiey consortium for POHrt-ical and Social Research】 Ann Arbor” Michigan (2009)によるデータ。 (4) Arthur Manp#From Immigration fo AccuPturatiionr m Making 4me’ZCR The Soci鬢 昌d CMSe 0fc+he Unifed suites»Liifher s・!jiie<一tkp ed こ Washington】 D-c:.Umfed Sfates slormaflon Agency】 Forum senes】 1987、pp・ 68—80. (5) 例えば、現在アメリカの大手銀行のひとつであるバンク・オブ・アメリカは元々の名称はバンク・オブ・イタリーであり、イ タリア系移民のための銀行としてー九〇四年にサンフランシスコに設立されたものである。 (6) sc+ewart G, CO5RrMildred Wiese cole) Mmorfsles and fhe American Promise: The conAicfof principlpnd practice. N.Y’ Harper 昔 Brothers】 publisher™1954>V160. (7) 一八六一年にロンドンで出版された、黒人女性ジェイコブスが書いた本を読むと当時の黒人のおかれた状況がよくわかる。 Harriet; Jacob? Incidents ぎ (he Life of p s~QA}e Girl ヽ VTHSS by HeTses】 N.Y•: Penguin Books) 2000, (8) ドイツ人は英語を解さず、排他的でかたまっていること (clannishness) にフランクリンは不信感を抱いていた。しかし、 彼は完全にドイツ人の入国を拒否した訳ではなく、より分散することとイギリス人と混ざり合うことを主張した。Maurice 391 ——アメリカ人とは何かについて考える—— R Davie” WoMd Immigration: With speeded RefeTencesfhe United SSLest N.Y•: The Macmillan company” 1949 (1936)“ p.36. (9) John Higham” strangers 多 (he Lpnd,: pasems of 4me3.ccm NaMssm 186011925. Mass’ Afheneum”1963】pp 3—1L Highamは歴史家でもNaMvismを定義する事は難しいとしている。 (10) Arthur Malm” op cirp.75, (11) Marcus Lee Hanse?The Irrvmigmnt in 4me3.ccm Hisfory。N.Y” Harper^Row) publisher5°194pp,132- (12) Newsweek日本版、二〇一〇、七月二八日、ジャン・レッシューの記事。 (13) 日野壽憲、「ロンドン同時爆破テロをめぐる英国イスラム事情」明海大学外国語学部論集、第一八集、二〇〇六参照。二〇〇 五年七月七日の自爆テロ犯がイスラム系英国人であった事が判明して以来、それまで人種差別主義者と呼ばれる事を恐れて黙っ ていた人々が、公然とイスラム住人の「不寛容」な姿勢を批判し始めたという。 (14) 一九世紀の最後の三〇年とーー〇世紀初頭のアメリカは進化論の国であったという。R・ホフスタタ—「アメリカの社会進化 思想」研究社、ー九七三。 (15) Benjamin FrankH?Obseruafums Concern3g the Increase OJ Peopling 0j countries】 復 c.(1751)»Bosfom priged ◎ Sold by s. Kneeland” Queen—screee”1755】pup (16) Op cic+・訳は筆者による。 (17J pressene Lyndon B・ Johnsorfs Remarks at fhe Signing of -he Immigrationwmp Liberty Island) New vbrKOcfober 3】 1965・ Lyndon Bames Johnson Library and Museum) Naxional Archives and Records Admsls賞%101I・ (18) Leonard B- GKCK=Types Dlsescc hrom Our Owru 3anz Boas on Jewisn IdenuEy and Assimilation ヽ^TnencaTl AnthTOPO~ogi^19823 84″ w- pp.545—565, (19) Mmon M, Gordon” 4 Ss0m&afs-7l in -Ames.ccm L 席e“ The Rede of Race»Religio? and Nafs-na~ 02.g号・ NY: Oxford university press】1964• pp.26127• (20) この語はゴードンではなく、コールによって案出されたものである。seewareG・ Cole and Mildred Wiese coyMmoriMes emd fhe American Promise: The Ctmfhcf of principle emd practice- NY” Harper &; Brothers publishers»19543 pp・ 1351140 • 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 392 (21) Gordon) op cirpp 84—159。 22) 〇P cirpp, 881890 (23) Lawrence w・ Levpe” The Opening 0f f he American MmABosgm Beacon press”19969p10 9, (24) op・ cirp•ーー0• (25) crevecoeur】 op・ elー・ p 43, (26) op, cirp.41. (27) Frederic Jackson Turner】77le 耳£??:$§•American Hisfory” N.Y•: Henry Hole and COJ 19203 p.23, (28) Gordon】 op・ cirpp 120-121• (29) David E” Nye】 Henrj/ Ford Algnortme IdeaHfiM N.Y.” Kgs.kae press)19792 p.71・フォードはアメリカの移民たちだ けではなく、世界中の人々の均質化(アングロ・サクソン化)をもメルティング・ポットの比喩の視野に入れていたようである。 (30) Jonathan schwarezLCHgry FbrdmMelfing por5oso FemsEei?edj Efhnic Grtrups m^e cit^Cwtt写 了 sf&esos孕 tmd POU3 Lexington” Heath Lexington Books»19719 pp・ 1911198・ (31) カレンはー九一五年に発表した論文を一九二四年出版の本に再録した。Horace M・Kalle?Cuぎre 3d Democracy§手e ur^ted, sfafes」The Group Psychology 0frt-he 4merzccm Peo5Zes) N.Y•: Bom and Llverlghr-1924. (32) Gordon” op, cirpp,140—144, (33) John Higham) Send These ~〇 Me” Jews ofheT Tmmzarasfs s Urban 4me»N.Y, Aeheneum-1.979
カテゴリー: 世界の地理、関連
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東南アジア諸国の民族構成
https://honkawa2.sakura.ne.jp/8130.html






『1.東南アジア諸国の民族構成
フィリピンはマレー系が90%を占めており、中国系(福建華人)、スペイン系との混血も多いという特徴がある。米CIAの各国統計集により作成した図の民族構成はマレー系をさらに細分化した分類である。マレー系のタガログ人が28.1%と最も多く、同系のセブアーノ人13.1%、イロカノ人9%と続く。
インドネシアも多くがマレー系であり、フィリピンと同様図の民族構成はさらにマレー系を細分した側面が大きい。ジャワ人が40.6%で最も多く、スンダ人15%、マドゥラ人3.3%がこれに次ぐ。
マレーシアはマレー人、中国人、インド人という3つの民族の混合国家といわれるが、マレー系が、マレー人50%、先住民を含めると6割以上となっている。インドネシアやフィリピンのようにマレー系は細分されていない。中国人は23.7%と約4分の1、インド人は7.1%である。
マレーシアから独立したシンガポールは中国人が76.8%と4分の3以上を占める。その他では、マレーシアと同様、マレー人とインド人が多い。
マレーシア、シンガポールの中国系住民には、英国植民地時代にスズ鉱山労働者・クーリーなどとして中国南部から連れて来られた賃金労働者の子孫が多いが、華僑として知られる商業者や政治難民出身者も少なくない。
スズ鉱山の労働者に中国系が多かったのはスズ鉱山開発では華僑資本が欧州資本に先行したからだと言われる。
インド系住民は、多くが、南インド出身者 (タミール人) であり、中国系労働者の導入を嫌った欧州系中心のゴム栽培プランテーションに投入されたエステート労働者の子孫である(注)。
商業都市国家として独立したシンガポールでは中国系住民が支配的であるが、インド系住民の割合は、マレーシアとシンガポールではともに1割弱と余り変わらない。
(注)「マレー半島では、1921年にゴムが栽培面積の6割以上を占め、ゴム生産の4分の3をヨーロッパ系のプランテーションが占めたが、その労働者の78%をインド人が占めた。
彼らはプランテーションが任命するカンガーニという移民仲介人によって徴集募集され、過酷な条件の下で働いたが、インドの民族運動の高揚のなかで抗議が高まり、1938年に廃止された。1898~1938年の間のカンガーニ制度による移民労働者は115.4万人であったという」(北原淳「東南アジア経済発展の歴史-小農社会の形成と崩壊-」(北原淳・西澤信善編『アジア経済論 (現代世界経済叢書)』ミネルヴァ書房、2004年))。
シンガポールでは1960年代に続発した人種暴動の反省に立って民族宥和政策を保持している。
「移民政策も民族のバランスを維持するように管理されている。中国人はインド人やマレー人より子どもが少ないため、これが北京語を話す中国本土からの移民流入にむすびついているが、シンガポール生まれの中国人にとっては癪の種である。というのもシンガポール生まれの旧世代中国人の共通方言は客家語だからである」(The Economist July 18th 2015, Special Report: Shingapre)。
マレー系の国以外では、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーでは、それぞれ、タイ人、ベトナム(越)人、クメール人、ラオ人、ビルマ人が過半数から9割程度を占めている。
東南アジア各地に中国人、中国系、華僑がおり、図の民族構成にも多くの国で顔を出している。
経済界や商業などで果たしている役割は人口比率より大きい。特に、マレーシア、シンガポール、タイでは中国人比率が大きく、商業都市国家としてマレーシアから分離したシンガポールは中国人の国といってよい。
中国人が計上されていないインドネシア、フィリピンでもかなりの中国系住民が存在している(Wikipediaによるとインドネシアの中国人は5%。各国の華僑人口は図録8590参照)。
2.東南アジア諸民族の解説
東南アジア諸民族 国名 民族名 解説
インドネシア ジャワ人 ・ジャワ島中・東部を本拠地とするインドネシア最大の民族・政府の島外移民政策によりスマトラ島ランボン州や南米スリナムなどにジャワ人社会を形成
・千年近いインド系諸王朝のもとでヒンズー・仏教を信仰していたがその後土着的
・インド的な要素を持ちながらイスラム教を信仰
スンダ人 ・ジャワ島西部のインドネシア第2の民族
・スンダ人もイスラム教徒だが多数を占めるジャワ人との対抗関係もあって厳格な信仰を守ろうとする傾向が強い
マドゥラ人 ・ジャワ島北東海岸に接するマドゥラ島及びジャワ島東端に住む
・ジャワ人との対比で個人の独立心が強く、熱情的なイスラムの信仰をもち、個人の武勇に高い価値が置かれ伝統的に血の復讐の慣習が行われてきたといわれる
・過去にはジャワの諸王やオランダ植民者にマドゥラ人の軍隊が重用された歴史をもつ
ミナンカバウ人 ・西スマトラを故地とするジャワ語系民族
・伝承ではアレクサンドロス大王の末裔という
・現存する世界最大の母系制社会を形成することで知られる
・強固なイスラム教とでありムランタウ(出稼ぎ。広義には知識、富、名声を求めての出村)の習慣によっても知られる
・現在はジャカルタをはじめインドネシアの諸都市に多く移り住んでおり、都市知識階層の一翼も担っている
ブギス人 ・スラウェシ(セレベス)島の南西半島に居住する
・東南アジア海域世界において、海賊、傭兵、商人として著名であり、オーストラリア北岸、ニューギニア、マレー半島など大陸部東南アジアの沿岸にその活動は及んでいるフィリピン タガログ人 ・ルソン島、ミンドロ島などに住みタガログ語を話すフィリピンの最大グループ
・マニラが政治経済文化の中心だったため国全体への影響力が強rくタガログ語を基礎としたピリピノ語が国語とされている
セブアーノ人 ・セブ島,ボホール島,ネグロス島東部,レイテ島西部などの中部ビサヤ地域に住むビサヤ族の最大グループ
ヒリガイノン・イロンゴ人 ・糖業の盛んな西部ビサヤ地域のとくにネグロス島西・北部,およびパナイ島東部に住むビサヤ族のグループ
・耕地面積に対して人口が稠密なため、東部ビサヤ地域やマニラ、ミンダナオ島、さらにはハワイやアメリカ本土に移住する者も多い
イロカノ人 ・ルソン島北部の西海岸のイロコス・ノルテ、イロコス・スール両州およびカガヤン河谷などに住むフィリピン第3の人口グループ
・性向が他の諸族に比して勤勉で忍耐強く、生活が質素で倹約家であるといわれ、マルコス大統領をはじめ、政府や軍の要職に就いている者が多い
ビコル人 ・ルソン島南東端にのびるビコル半島およびカタンドゥアネス島に住む(レガスビが中心都市)
・他の諸族に比較してカトリック教徒の比率が高く、運命を享受して郷里にとどまることを好み、他地域へ移住することが比較的少ないといわれるマレー半島 マレー人 ・マレー半島、東マレーシア、スマトラ東岸やその周辺に散在する小島群におもに居住する民族であり、オーストロネシア(マレー・ポリネシア)語族に属するマレー語を話す
・紀元前2500‐前1500年ごろ南中国の雲南あたりから南下してきたものといわれ、航海術に秀でてフィリピン群島やインドネシア諸島、アフリカのマダガスカル島にまで渡ったというタイ タイ人 ・タイ国に住み仏教を信じているタイ系民族の主要グループを指していることが多い
・タイ系民族はタイの他、インド・アッサム、ビルマ(シャン族など)、雲南(ヌア族)、ラオス(ラオ人)、ベトナム、中国(チワン族など)と広範囲に広がっている
ベトナム ベトナム人 ・漢字では越南人、周辺の少数民族からはキン(京)人(主要民族の意)と呼ばれる。安南人はフランス統治下での旧呼称。
・南下した越人が先住民と混交して形成されたベトナムの中心種族
・10世紀までの中国の直接支配の及ぼした影響大。信仰面では仏教,儒教,道教が移入。
タイー(Tay)人 ・ベトナムで2番目に多いタイ系の民族グループ
・中国やベトナムの王朝に反抗してきたタイ族の子孫であり、中国の影響下に置かれたのが、チワン族、ベトナムの影響下におかえたのが、タイー族といわれる
・かつて漢字を利用した、タイーノムという独自の文字を使用していた
ターイ(Thai)人 ・中部・北部高原地帯に住む黒タイ族、赤タイ族、白タイ族など
ムオン人 ・北部から中部にかけての山間地帯に散在する種族
・ムオン語はベトナム語とともにアウストロアジア語族に属すが今日のベトナム語が失った語頭の子音群を残しているなど歴史上の価値が大で両者を併せてベト・ムオン語と呼はれる。
モン人 ・オーストロアジア語族のモン・クメール語族に属する
・かつてインドシナ半島に諸王国(ドバーラバティ(タイ)、ハリプンジャヤ(タイ)、ペグー(ビルマ)など)
・11C以降タイ族、ビルマ族の攻略によって衰退カンボジア クメール人 ・アウストロアジア語族のモン・クメール語族に属するカンボジアの中心種族
・カンプチア人、クマエ人と自称
・9~15Cに古代クメール王国アンコール朝を形成ラオス ラオ人 ・タイの北部・東北部からラオスにかけて分布するタイ系の民族
・雲南から南下したユアン系ラオ族はタイのチエンマイを中心とするラーンナータイ王国をつくり、一方,メコン川に沿って東進した東ラオ族はカンボジアのビエンチャンなどに土侯国をつくりのちにランサン王国として統一されたミャンマー ビルマ人 ・自称バマーのモンゴロイド種族。シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属する言語を話しミャンマー人口の多くを占める。
・ヒマラヤ山脈北側の騎馬民族が9Cにイラワジ平野に進出し農耕民化し定着したといわれる
シャン人 ・インドのアッサム地方から上ミャンマーを経て中国雲南省にかけて分布するタイ系諸族の一種族
カレン人 ・ミャンマー南東部のカレン州を中心に分布する種族。チベット・ビルマ語派に属す。一部は低地ミャンマーやタイ西部にも住む。
・ビルマ英領時代キリスト教を信奉し植民地支配に協力的だったためビルマ人はカレン人に対し複雑な感情をもつ
ラカイン人 ・アラカン人ともいう。ビルマ人、シャン人、モン人と並ぶ4大仏教民族集団の1つ。チッタゴン(バングラデシュ)のマルマ人や北東インドのモグ人と系統を共にする。
・なお、ラカイン州(旧アラカン州)にはイスラム系先住民族としてロヒンギャ人が住んでおり、もともとはバングラデシュからアラカン王国の従者として渡来したともいわれ、仏教徒からの迫害でバングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国を跨っている(コラム参照)。
(資料)平凡社大百科事典など【コラム】シャン人(族)とシャン州(ミャンマー)
(アジア各地の納豆食を訪ね歩き、納豆地域の性格や納豆や日本納豆の起源を探った高野秀行「謎のアジア納豆」新潮社(2016年)から、以下に、納豆の本場のひとつであるシャン人(族)とシャン州(ミャンマー)についての記述を引用する。)
シャン族はミャンマー最大の少数民族である。その数ざっと500万、ミャンマー全人口の1割弱を占める。多くはタイと国境を接する東北部のシャン州に住んでいる。
自称は「タイ(Tai)」。タイ王国のタイ族(Thai)とは民族的に親戚筋に当たる。タイ族がシャン族のことを「タイ・ヤイ(大タイ)」、自分たちのことを「タイ・ノーイ(小タイ)」と呼ぶことからわかるように、本来シャン族は「自分たちより先に生れ偉大だ」という意味のはずなのだが、今となっては「山のタイ人」という、蔑視のニュアンスを含むように感じる。
タイ語とシャン語は日本の標準語と沖縄語くらいの違いがある。シャンというビルマ語や英語の呼び名も「シャム」が訛ったものだ。本来は彼らの自称を尊重し「タイ」と呼ぶべきだが、混乱をさけるため「シャン」と書くことにする。
ミャンマーは、主だった少数民族はほとんど全て第2次世界大戦後まもなく反政府ゲリラを結成し、民族独立運動を展開していた。ミャンマーが軍事政権の統治下におかれると、対立や戦争は激化した。シャンもその一つだ。おかげで、シャン州の人々は独立運動家、ゲリラ兵士、一般人を問わず、弾圧されて難民化したり、出稼ぎに来たりで、タイ北部に出てきていた。私が暮らした1990年代、その数は十万人を超えると言われ、タイ北部の中心であるチェンマイはシャン独立運動の一大拠点と化していたのだ。
センファー(チェンマイ大学で著者が友人となったシャン族の当時23歳の若者-引用者)と私は反政府運動の雑用係みたいなことをしていた。難民や避難民に支援物資を配るとか、独立運動のリーダーたちをバイクで運ぶとか、集会所の掃除とか。ここで私は民族、宗教、戦争、独裁、人権侵害、独立、難民、援助、麻薬、ジャーナリズムといった諸問題を実践でイロハから学ぶこととなった。学ばなかったのは食文化ぐらいだ。例えば納豆とか(p.18~19)。(中略)
日本人はシャンの家庭料理を口にする機会をかってはふんだんにもっていた。第2次世界大戦で日本軍がビルマを攻略し占領したとき、大きな拠点の一つがシャン州だったのだ。このとき日本軍の将兵はシャン料理を体験しなかったのだろうか。シャン料理を強く印象づけられる記録について、私は見聞きしたことがない(ビルマ関連の戦記200冊くらいに目を通した作家の古処誠二氏によると納豆に関する記述は思い当たらないという-引用者の要約)。
第2次世界大戦が終わると、シャン州は次々と動乱に巻き込まれ、外国人が立ち入れない場所になってしまった。
まず、中国で共産党軍に敗れた国民党軍が国境を越えてシャン州になだれ込んできた。彼らは武力で無理やり居座っただけでなく、軍事資金を稼ぐためにケシ栽培を行い、アヘンを作り始めた。一時は世界のアヘンの8割がシャン州及びその周辺で作られるという事態となった。世に言う「ゴールデントライアングル」はタイ・ラオス・ビルマ国境地帯ということになっていたが、実質上の中心はシャン州だったのだ。ちなみに「山のニューヨーク」ことチェントゥンは、当時「ゴールデントライアングルの首都」と呼ばれていた。そして最大の名物は味噌納豆ではなく生アヘンであった。
いっぽう、国民党軍とは無関係なところでも、戦争が頻発した。ビルマの軍事独裁政権に叛旗をひるがえしたシャン族や他の少数民族の反政府ゲリラが政府軍と激しく戦うようになった。麻薬組織とゲリラと軍事政権。この三者がくんずほぐれつの戦いを繰り広げるのだから世界屈指の暗黒地帯になってしまった(p.80~81)。
3.東南アジアの民族形成
ここで各民族についての理解を深めるため、東南アジアの民族形成の歴史のアウトラインにふれておくこととする。
東南アジアの民族分布は、大きく、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、シナ・チベット語族の3つの語族から構成され、後2者が東南アジア地域に南下して現在の民族分布に至っていると考えられている。
古代DNAを含めた遺伝子分析による最新研究によるとオーストロネシア語族は台湾の北方大陸地域に淵源し、オーストロアジア語族は中国南部、シナ・チベット語族は黄河流域に源を発すると考えられている(篠田謙一「人類の起源」中公新書、2022年)。
(1)オーストロネシア語族
マレー半島のマレー人、インドネシア、フィリピンの諸民族は、東南アジア古代人の生き残りともいわれるネグリト(小さな黒人の意味。タイ南部・半島マレーシアのセマン族、フィリピン群島のアエタ族など)の少人数集団を除くと、オーストロネシア語族(別名、マレー・ポリネシア語族)に分類される。この語族は、東南アジアの他、西はマダガスカル島、東は太平洋諸島、北は台湾の高山族(高砂族)と広範囲に海洋性の分布を有している。
東はイースター島から西はマダガスカル島にまで及ぶオーストロネシア語族のこうした分布は、他の民族分布同様、「移動説」と「残存説」の2通りの説明が可能である。
すなわち、移動説は、そうした分布はいずれかの中心からオーストロネシア語族が帯状に移動していった結果形成されたとする説明である。発祥地の想定としては、オーストロネシア語の系譜上台湾諸語が最も早く分岐したとされることから、中国南部や台湾におく考え方がある(大林太良「アウストロネシア語系諸族」平凡社大百科事典)。
また残存説は、以前は全域に分布していたが、北方民族の南下(の玉突き現象)により、アジア大陸を取り巻く帯状に、南下の影響を免れたオーストロネシア語族が残ったとする説明である。この考え方によれば、帯状の分布の中にある各民族の系譜は余り意味がないということになる。
この2つの説は両立が可能であり、実際、両方を組み合わせた説明が行われることが多い。例えば、鈴木秀夫「気候の変化が言葉をかえた―言語年代学によるアプローチ 」NHKブックス(1990年)では、「火」「弓」をあらわす言葉の共通性から、台湾からフィリピン、インドネシアにかけてのアジア周辺島しょ部に加え、大陸沿岸の中国少数民族トン族居住地域、かつてチャンパ国の存在した南ベトナム、またマレー半島を、気候の寒冷化(5000年前及び3500年前がメルクマール)にともなう北方民族の南下によって押し出された、またそれから免れたオーストロネシア語族の分布地域ととらえている。
(2)オーストロアジア語族
オーストロアジア語族には、ベトナム人、カンボジアの主要民族であるクメール人、タイ・ミャンマーなどに散在するモン人などが含まれる。クメール人とモン人は一括してモン・クメール語族と呼ばれることが多い。
オーストロアジア語族は、シナ・チベット語族が中国方面から南下する以前は、東南アジア半島部の主要民族であった。またインド方面においてもドラヴィダ人やアーリア人が制覇する以前は重要な民族であった(図録8245参照)。
東南アジアにおける食文化と民族史の関わり、および魚醤系うま味を開発したのがオーストロアジア系だったとする説については図録0214参照。
(3)シナ・チベット語族
歴史時代の東南アジア史においては、オーストロアジア語族に属するベトナム人が中国文化の影響を受けてベトナム南部を含め王権を確立し、同語族のクメール王朝がタイ・カンボジア地域に覇権を樹立するとともに、シナ・チベット語族に属するタイ人(シナ・タイ語族に下位分類される)、ビルマ人(チベット・ビルマ語族に下位分類される)が中国国境地帯から南下し東南アジア平地部に移住、政権樹立を行った。
こうした歴史を食文化の成立とからめて説明した叙述を以下に要約する。
(4)食文化から見た東南アジア民族史
東アジアから東南アジアにかけての地域は、醤油、魚醤、出汁などうま味成分を含んだ調味料を使用する点に特徴があり、世界の中で他地域にはない「うま味文化圏」が形成されている。石毛直道、ケネス・ラドル「魚醤とナレズシの研究―モンスーン・アジアの食事文化」(1990)は、魚醤やナレズシなど魚介類の発酵食品が、東アジアから東南アジアの島しょ部にまで広がっており、同地域の味噌・醤油といった大豆の発酵食品とともに、こうした「うま味文化圏」の成立根拠になっていることを明らかにしている。
この地域の中でも魚介類の発酵食品の種類が多く、食生活における重要性が高いのは、海面漁業への依存度がより高い東南アジアの島しょ部ではなく、むしろ淡水魚に特徴がある東南アジア大陸部である。
このことから、魚介類発酵食品の歴史的な成立過程を探るため、東南アジア大陸部の現在の民族分布に至る民族史を以下のように要領よく概説している。
「現在のベトナムの国土の北部には、新石器時代以来オーストロアジア系の言語を話すベトナム人(キン族)が居住していたものとかんがえられる。国土の南半はオーストロネシア系の言語に属するチャム族の土地であり、二世紀末には海上交易活動がさかんなチャンパ王国が建国された。南下するベトナム人(キン族)とのながい歴史的抗争のすえに、チャンパ王国が滅亡するのが十七世紀末のことである。
ベトナムの東側では、二世紀の扶南建国以来、オーストロアジア系の言語に属するクメール族が、現在のカンボジアのみならずタイのおおくの地域を版図としていたし、おなじくオーストロアジア系のモン族もタイに進出していた。雲南方面から南下するシナ=チベット語族のタイ・ラオ系諸族が、北タイのモン族の国を滅ぼすのが八世紀のことであり、十三世紀になると、中部タイがクメールの支配を脱して、タイ人の王国であるスコタイが建国される。
チベット高原東部から南下するシナ=チベット語族のビルマ系諸族が、それまでモン族の土地であったパガンに王朝を建てたのが十一世紀である。
したがって、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の南下以前の主要な民族分布は、アンナン山脈の東側はベトナム人とチャム族によって、西側はクメール族とモン族によって占められていたと考えてよい。」
そして、タイ系諸族やビルマ系諸族の出身地域では、漁業を行わない生活様式を伝統としている点、また発酵による魚類保存の発達が東南アジア大陸部の水田農業、あるいはアジアモンスーンの乾期・雨期交替にともなって河川本流と氾濫原との間を往復する魚類の生態と大きく関連している点から、次のように結論に達している。「東南アジア大陸部における発酵魚の文化のにない手は、インドシナ半島の先住民であるベトナム人・チャム族・クメール族・モン族のいずれかであり、タイ・ラオ系諸族とビルマ系諸族の侵入以前から、これらの食品がインドシナ半島で発達していたであろうという結論となる。」
そして、「東南アジアの基層文化を構成する文化要素のおおくは、大陸部から島嶼部へと伝播をとげたものであり、その逆はきわめてすくない。魚介類の発酵食品の伝播も、大陸部から出発して島嶼部にむかったものであろう。」とまとめている。
【コラム】ミャンマー西部ラカイン州の民族問題
以下、ミャンマー西部ラカイン州における複雑で深刻な民族問題についての新聞記事を2つ掲げる。
1.ミャンマー 少数民族に出産制限 スー・チー氏「人権反する」
(東京新聞2013年5月30日)【バンコク=寺岡秀樹】ミャンマー西部ラカイン州は、州内の一部地区に住むイスラム少数民族のロヒンギャ族に対し、一家族につき子どもを二人までに制限する規制を導入した。政府から「不法移民」扱いされているロヒンギャ族の人口増加を食い止めるのが狙い。最大野党、国民民主連盟(NLD)党首のアウン・サン・スー・チー氏は「人権に反する」と非難した。
AFP通信などによると、規制対象となるのは隣国バングラデシュに近く、ロヒンギャ族の人口が約95%を占める二地区。子どもの数が制限されるだけでなく、一般にイスラムが認める一夫多妻制も禁じられる。具体的な規制方法については不明。
昨年以降、ラカイン州をはじめミャンマー各地でロヒンギャ族と多数派の仏教徒の間で抗争が頻発し、多数の死傷者が出た。抗争を受けて政府が設立した調査委員会は四月に公表した報告書で「ロヒンギャ族の人口増加が原因の一つ」と指摘していた。州の報道官は二十六日、この報告書が規制導入の背景にあることを認めた。
こうした規制導入についてスー・チー氏は二十七日、「違法だ。人権にも反する」と批判。スー・チー氏は国民和解を訴える一方、これまでロヒンギャ族に関する発言は控えており、非難の声が上がっていた。
政府はロヒンギャ族をバングラデシュからの「不法移民」として国籍を与えず、移動の制限も加えており、世界の人権団体などが批判している。オバマ米大統領も、訪米したテイン・セイン大統領に少数民族紛争の解決を求めたばかりだった。
2.闇の正体:ミャンマー宗教暴動/6 汚職、民族問題を複雑化
(毎日新聞2013年10月31日)ミャンマー西部ラカイン州で昨年起きた暴動は、仏教徒女性へのレイプ殺人が発端となり、犯行はロヒンギャ族(ベンガル系イスラム教徒)のグループだと報じられた。だが「実際はカマン族だ」とのうわさを聞いた。
ラカイン文芸文化協会の女性会長ソーキンティン氏(66)によると、カマンは弓を射る者を意味する。中世期、ラカインの仏教王朝に仕えるため、アフガニスタンから来た傭兵(ようへい)の子孫だという。
カマン族は、ミャンマー政府が市民権(国籍)法で認定する135の自国民族の一つだが、ロヒンギャ族は除外されており、無国籍状態となっている。
だが、ロヒンギャ族は1948年に当時のビルマが英国から独立して以降、事実上「民族」扱いされていた。通常は市民権に付随する選挙権も与えられ、閣僚もいた。一時期はロヒンギャ語(ベンガル語の一方言)のラジオ番組もあった。
州検察庁トップでラカイン族のフラテイン検事正(56)は「当時の政権は人気取りのために(不法移民の)ベンガル人に選挙権を与えたのです。政治ゲームの結果、イスラム教徒の人口を増やしてしまった」と指摘する。
今の市民権法は旧軍政が82年に制定。これに伴う新たな国民登録証(身分証)の切り替えに際し、ロヒンギャ族への再発行を認めず「国民」から排除した。今は国連の要請もあり、ロヒンギャ族には「ホワイトカード」と称される一時滞在許可証が発給されるが、カードには「市民権の証しにあらず」のただし書きがある。
レイプ殺人の男たちがロヒンギャ族でないなら、それは何を意味するのか。検事正は「彼らはカマン族だ」と認めた上で「重要なのはイスラム教徒かどうかということです。カマン族は昔、仏教からイスラム教に(集団)改宗した裏切り者ですから」と語った。検事正によると、イスラム過激派でも誰でも、カマン族の2人から証言を得られれば、法的にはカマン族として市民権を取得できるという。つまりカネやコネ次第で融通が利くということだ。
文芸文化協会のソーキンティン氏によると、本来のカマン族の人口はわずか数千。だが、最大都市ヤンゴンのイスラム教徒のうち1万人はカマン族だと推計する。
元国会議員のアブタヘイ氏(49)は「ロヒンギャ族」を名乗るが「国会議員になるため、やむを得ずカマン族の市民権を得た」と明かす。ミャンマー有数の大企業の経営者に「ロヒンギャ族出身者」がいるが、取材には応じてもらえなかった。
ラカイン州最北端部で、父と弟が長く税関職員を務めた男性が匿名を条件に証言する。「軍政期、身分証の発給などほとんどの業務が賄賂絡みでした。窓口で受け取った賄賂は職員全員で職責に応じ配分します。歴代引き継がれたシステムです。公務員は薄給なので、賄賂なしには生活できませんから」
この国に根付いた汚職風土が民族・宗教対立の構図に絡みついている。【シットウェ春日孝之】
(2009年3月2日収録、7月3日インドの民族事情を図録8245へ移動、2011年10月24日マレーシア・シンガポールの民族構成の由縁コメント追加、2013年5月29日ミャンマーの民族地図・ラカイン人解説を追加、30日コラム追加、10月31日コラム引用記事追加、2015年7月27日The Economist:シンガポール事情追加、2015年10月30日インド人の(注)、11月9日ミャンマー民族地図更新、2016年7月13日【コラム】シャン人(族)とシャン州(ミャンマー)、2020年9月8日インドネシア更新、2023年2月20日篠田謙一「人類の起源」マップ)』
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クルド人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E4%BA%BA『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クルド人Kurd
Flag of Kurdistan.svg
クルド人の旗
Diyarbekir shepherd, Mardin Kurd, Aljazeera Kurd, 1873.jpg総人口
約4600万人
居住地域
トルコの旗 トルコ 約2480万人 [1]イランの旗 イラン 約480~660万人
イラクの旗 イラク 約400~600万人
シリアの旗 シリア 約90~280万人
ドイツの旗 ドイツ 約50~80万人
アフガニスタンの旗 アフガニスタン 約20万人
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン 約15万人
フランスの旗 フランス 約12万人
スウェーデンの旗 スウェーデン 約10万人
イスラエルの旗 イスラエル 約10万人
レバノンの旗 レバノン 約8万人
オランダの旗 オランダ 約7万人言語
クルド語、等
宗教
イスラム教スンナ派、アレヴィー派、ヤズィーディー、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教クルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東のクルディスタンに住むイラン系山岳民族。
概要
Question book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “クルド人” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年4月)
A group of Kurdish men with traditional clothing at Hawraman, Kurdistan.jpgユダヤ系クルド人の女性。1910年代
トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する。
人口は3,500万~4,800万人といわれている。
中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。
宗教はその大半がイスラム教に属する。
一方、宗派については、イスラム教のスンニ派(トルコのクルド人のあいだではスンナ派シャーフィー法学派が多数)、アレヴィー派の順に多く、ヤズィーディー(Yazidi)やアフレ・ハック(英語版)(ペルシア語:Ahl-e Haqq、あるいはヤルサン クルド語:Yarsan とも)なども存在し、他にも少数だがキリスト教(en:Kurdish Christians)、ユダヤ教(en:History of the Jews in Kurdistan)、ゾロアスター教に属しているクルド人もいる。
クルド人のキリスト教徒の起源は元々アルメニア人かアッシリア人だとされており、クルド人の大半は中世にイスラム教を採用したが、イスラム教が広まった後も、クルド人の中にはキリスト教に改宗し、キリスト教に改宗したクルド人の多くは東方教会に属したとされている。
近年でも一部のイスラム教徒のクルド人がキリスト教に改宗した者もいる。
ゾロアスター教は2016年にゾロアスター教公式の火の寺院がイラク北部のクルド人自治地域のスレイマニヤに建てられ、多くのクルド人がゾロアスター教に戻ってきた。
クルド人のユダヤ教徒の大半がイスラエルに住んでいるが、イラク北部のクルド人自治地域にも400から730のクルド人ユダヤ教徒の家族がいるとされている。
クルド人は異なる宗教と信条を支持しており、伝統的にクルド人は世俗主義で慣行に自由を持っているとされている。
言語的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する。
主な生業は牧畜で、この地のほかの民族と同じく遊牧民として生活する者が多かったが、近年トルコ等を中心に都市へ流入し、都市生活を送る割合も相当数存在する。
アイユーブ朝の始祖サラーフッディーン(サラディン)はクルド人の出自と見られている。
クルド人女性(en:Kurdish women)は、20世紀と21世紀にクルド人社会で進歩的な重要な役割を果たし、女性の自由や解放、権利と平等に力を入れ改善を勝ち取った。また北部及び東部シリア自治行政区(ロジャヴァ)のクルド人民防衛隊には女性の防衛部隊があり、ISILとの戦いで戦果を挙げている。
歴史
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出典検索?: “クルド人” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年4月)詳細は「クルド人の歴史(英語版)」を参照
クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。
第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスとロシアによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。
1922年から1924年まではクルディスタン王国(英語版)が存在した。
1946年、現在のイラン北西部に、クルディスタン共和国(英: Republic of Kurdistan、1月22日 – 12月15日)が、ソヴィエト連邦の後押しによって一時的に樹立された。
20世紀後半になると文化的な圧力の元で政治勢力が誕生し、大きな人口を抱えるトルコやイラクでは分離独立を求め、長年居地元政府との間で武力闘争を展開するといった様々な軋轢を抱えている。近年では、各国の枠組みの中でより広範な自治権獲得を目指したり、当事者間による共存のための対話を模索する動きもある。一方でこれらの地域を離れ、欧米などへの移民となるケースも増加している。
各国での居住状況
トルコ
詳細は「北クルディスタン」および「トルコのクルド人(英語版)」を参照
クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千~1,500万人が居住する。
ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。
定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kurtleri、クルド語: Kurden Anatoliya Navin)と呼ばれている。
また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブール、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した[2]。
今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブールであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している[3]。
オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり[要出典]、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年にトルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。
イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。
しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。
ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合や欧州評議会、欧州人権裁判所から非難されている[要出典]。
2006年5月24日、イスタンブールのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。
2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20~30議席前後を獲得した。
2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。
この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。
14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した[4]。
17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にもかかわらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした[5]。
2015年6月の総選挙では、エルドアン大統領系与党政党が過半数をとれず258議席にとどまった[6][7]。
一方、クルド系の国民民主主義党(HDP)が世俗派のトルコ市民、リベラル派、左派からも支持を得て全体の10%以上の79議席を獲得した[8]。
イラク
イラク、ザーホーのクルド人。1910年代
詳細は「クルディスタン地域」、「イラクのクルド人(英語版)」、「第一次クルド・イラク戦争(英語版)」、および「第二次クルド・イラク戦争(英語版)」を参照
イラクはトルコに次いでクルド人が多く居住しており、北部をクルディスタン地域としている。サッダーム・フセイン大統領により、少数民族クルド人は長らく迫害を受けてきた。クルド文化を否定するためクルド人は外部からの移住者と教育、クルドの遺跡発掘、調査を禁じた。
特に、イラン・イラク戦争では、敵国に荷担したという疑いから、クルド人に対して化学兵器で攻撃したとして、国際的な非難を浴びた(ハラブジャ事件)。
一方で、ベルゼンジ部族といったクルド独立闘争を行っていたムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)が属するバルザーニ部族と対立していた部族は政権に協力した[9]。
2003年からのイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると、クルド人は米軍駐留を歓迎した。
その後、更なる独立権限を持った自治政府設立を占領当局に呼びかけているが、当局は自国内にクルド人を抱えるトルコに遠慮して実現の見通しは立っていない。
2005年、イラク移行政府では、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニを大統領に選出し、副大統領には、シーア派などから選出したことで、国内の民族バランスが図られた。とはいえ、クルドは政権内で少数派であることには変わりない。クルド人初のイラク大統領として、クルドの運命をどの様に導くのか未知数である。また2017年9月25日には国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施されている。イラクのクルド人地区については、クルディスタン地域も参照のこと。
イラク国内でのクルド人は家族が宗教に反する行為を行った場合に激しく虐待行為を行い殺害まで至っているとして、国際連合(国連)が懸念の声を上げている。
2007年4月7日にはイラク北部地域でムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したとして、17歳の少女が家族らによってリンチを受け虐殺されている映像がインターネット上に公開され、問題となった(名誉の殺人#批判を参照)。
シリア
2019年10月時点での国内相関図
詳細は「ロジャヴァ」および「シリアのクルド人(英語版)」を参照北部に少数が在住。2011年から続くシリア内戦の長期化によってアサド政権の影響力が低下し、ロジャヴァ(西クルディスタン地域)を中心に活動するクルド人民防衛隊(YPG)を含めた各武装勢力の活動が活発化している。
2013年よりロジャヴァは事実上のクルド人独立地域になっているが、YPGがアサド政権打倒を目指す反体制派に与せず中立的な立場を維持する戦略を採ったため、シリア政府もアルカイーダ系反政府勢力やIS(イスラム国)との戦闘を優先し、事実上黙認している状態である。
2014年以降はシリア北東部でIS(イスラム国)が急速に支配地域を拡大したことにより、コバニ(アイン・アル=アラブ)では反乱勢力(自由シリア軍)と、カーミシュリーやハサカなどではシリア軍(アサド政権)との共闘が見られている[10]。
2015年以降はアメリカや英仏独を後ろ盾とするシリア民主軍に参加するも、シリア内戦最大の激戦となったアレッポの戦い (2012-)では欧米が支援する反体制派ではなくアサド政権側に協力するなど、欧米とアサド政権(及びその後ろ盾であるロシア)双方との関係維持を目指す独自の動きを見せていたが、2017年後半から2018年前半にかけてイスラム国の崩壊やアサド政権によるダマスカス近郊及び南部地域の反体制派制圧などが相次ぎ、主要な戦闘地域がイドリブを中心としたシリア北部に移るとクルド人を巡る状況にも大きな変化が訪れた。
クルド人勢力の影響力拡大を嫌うトルコがシリアに対する本格的な越境攻撃を繰り返す一方、クルド人の後ろ盾であった欧米はトルコの軍事行動を黙認。
2018年末にはトランプ大統領がアメリカのシリアからの撤退を示唆するに至り、YPGはアサド政権に軍事支援を要請。国土の南西部で反体制派制圧を成功させ戦力に余力が出来ていたアサド政権もYPGの要請に応え援軍の派遣を決定した事でクルド人勢力とアサド政権が急速に接近しつつあり、それに伴いロシアを仲介してYPGが制圧した反体制派支配地域のアサド政権への移譲とその見返りにPYDによるロジャヴァの自治承認を求める交渉が進められている。
2019年8月にはシリア北部に安全地帯を設けることを目指すとアメリカとトルコが合意。しかし10月6日、アメリカ政府はYPGを標的にしたトルコによる越境軍事作戦について関与しないと声明。YPGを支援するためシリアに駐留していたアメリカ軍は撤退を開始した[11]。10月9日、トルコ軍は国境を超えシリアに侵攻し、クルド人に対する軍事攻撃を開始した[12]。
クルド民主統一党 (Partiya Yekitiya Demokrat、PYD) クルド人民防衛隊 (Yekineyen Parastina Gel、YPG) クルド人民防衛隊(Women's Protection Units)YPJ) シリア民主軍 (Syrian Democratic Forces、SDF)
イラン
詳細は「東クルディスタン」および「イランのクルド人(英語版)」を参照
ジョージア
詳細は「ジョージアのクルド人(英語版)」を参照
「en:Aslan Usoyan」および「en:Kurdish?Turkish conflict」も参照
レバノン
詳細は「レバノンのクルド人(英語版)」を参照
アルメニア
詳細は「アルメニアのクルド人(英語版)」を参照
アゼルバイジャン
詳細は「アゼルバイジャンのクルド人」を参照
ロシア
詳細は「ロシアのクルド人(英語版)」を参照スウェーデン
難民として多くのクルド人を受け入れた。知識人層が多かったためスウェーデン社会への順応力が高かった。約10万人おり人口の1%ほど。クルド語の教育も受けられクルド系の議員も生まれている。アンデション政権発足の際にはイラン出身のクルド系で元ゲリラのアミネ・カカバベがキャスティングボートを担った[13]。
日本
詳細は「在日クルド人及び蕨市」を参照遺伝子
クルド人のY-DNAは、Jが40%、R1bが16.8%、Iが16.8、R1aが11.6%、E1b1bが7.4%、Gが4.2%である[14]。
参考文献
クルディスタン#脚注・出典・参考文献も参照
朝日新聞社『クルドの肖像―もうひとつのイラク戦争』彩流社、2003年、ISBN 978-4882028598 イスマイル・ベシクチ『クルディスタン=多国間植民地』柘植書房、1994年、ISBN 978-4806803508 S.C.ペレティエ『クルド民族―中東問題の動因』亜紀書房、1991年、ISBN 978-4750591018 勝又郁子『クルド・国なき民族のいま』新評論、2001年、ISBN 978-4794805393 川上洋一『クルド人もうひとつの中東問題』集英社、2002年、ISBN 978-4087201499 クルド人難民二家族を支援する会『難民を追いつめる国―クルド難民座り込みが訴えたもの』緑風出版、2005年、ISBN 978-4846105112 小島剛一『トルコのもう一つの顔』中央公論社、1991年、ISBN 978-4121010094 鈴木崇生『今日も病院に銃弾の雨が降る―クルディスタンはちゃめちゃ医療奮闘記』亜紀書房、1999年、ISBN 978-4750599151 高崎通浩『民族対立の世界地図 アジア/中東篇』中央公論新社、2002年、ISBN 978-4121500427 高橋和夫『アメリカのイラク戦略―中東情勢とクルド問題』角川書店、2003年、ISBN 978-4047041264 中川喜与志『レイラ・ザーナ―クルド人女性国会議員の闘い』新泉社、2005年、ISBN 978-4787705006 中川喜与志『クルド人とクルディスタン―拒絶される民族』南方新社、2001年、ISBN 978-4931376595 中島由佳利『新月の夜が明けるとき―北クルディスタンの人びと』新泉社、2003年、ISBN 978-4787703125 ヒネル・サレーム『父さんの銃』白水社、2007年、ISBN 978-4560027639 松浦範子『クルディスタンを訪ねて―トルコに暮らす国なき民』新泉社、2003年、ISBN 978-4787703002 渡辺悟『クルド、イラク、窮屈な日々―戦争を必要とする人びと』現代書館、2005年、ISBN 978-4768469019
脚注
[脚注の使い方]
^ http://www.milliyet.com.tr/2007/03/22/guncel/agun.html ^ Christopher Houston, "Creating a Diaspora within a Country: Kurds in Turkey", in Encyclopedia of Diasporas, Part II, ISBN 978-0-306-48321-9, pp. 403-404. ^ Bekir A??rd?r, Kurtlerin nufusu 11 milyonda ?stanbul"da 2 milyon Kurt ya??yor,Radical, 21 Aral?k 2008. ^ 2009年12月12日、毎日新聞 ^ しんぶん赤旗 2009年12月19日(土曜日) ^ http://www.nikkei.com/article/DGXMZO87857230Z00C15A6000000/ ^ http://www.asahi.com/articles/ASH681PPKH68UHBI001.html ^ http://www.nikkei.com/article/DGXMZO87727800V00C15A6000000/ ^ “「サダムが処刑され、復讐がかなった」フセインに弾圧されたクルド人が今恐れるのはトルコ軍”. 東京新聞. 2023年4月2日閲覧。 ^ シリアのPKK系PYD、反政府派と共同戦線 ^ “米軍、シリア北部の撤退開始 クルド人を切り捨てる形に”. 朝日新聞. (2019年10月8日) 2019年10月11日閲覧。 ^ “トルコ軍、対クルド作戦でシリア侵攻 民間人に死者”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年10月10日) 2019年10月11日閲覧。 ^ “スウェーデンのクルド人動揺 NATO加盟申請で”. ウォール・ストリート・ジャーナル. 2023年4月2日閲覧。 ^ Nebel A, Filon D, Brinkmann B, Majumder PP, Faerman M, Oppenheim A (November 2001). "The Y chromosome pool of Jews as part of the genetic landscape of the Middle East". American Journal of Human Genetics. 69 (5): 1095?1112. doi:10.1086/324070. PMC 1274378. PMID 11573163。
関連項目
キルクーク油田 クルディスタン労働者党 (PKK) - トルコ クルド自由民主議会(フランス語版) (KADEK) - トルコ クルディスタン民主党 (KDP) - イラク ペシュメルガ・・・陸海空軍 アサイシ・・・治安軍 パラスティン(英語版)・・・諜報部 ヤズディ教 剣の舞 安彦良和「クルドの星(トルコ語版)」 船戸与一「砂のクロニクル」 アララト山 - クルドのシンボルとされる高峰 マハバード共和国 ネブローズ - 新年の祭りで3月21日に世界各地で開かれる。 en:Early Kurdish nationalism
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、クルド人に関連するカテゴリがあります。クルド人問題 - 日本国際問題研究所 一般社団法人日本クルド友好協会 Links to different Kurdish political sites - 立場が異なるクルド政治サイトのリンク集(英語) Kurdistan Maps - GlobalSecurity.org 表話編歴
イラン系民族
典拠管理 ウィキデータを編集
カテゴリ:クルド人中東の民族イラン系諸族イスラエルの民族レバノンの民族ヨルダンの民族 最終更新 2023年6月5日 (月) 02:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
』
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世界の食文化(主要作物の分布と原産地からの伝播)
https://honkawa2.sakura.ne.jp/0430.html

『世界の主要作物である小麦、大麦、コメ、トウモロコシ、ソルガム(モロコシ)、ミレット(トウジンビエ・キビ等)、いも類のうち収穫面積の最も大きなものを図示した。
国や地域によって主たる作物は、様々であるが、それぞれ由来を有している。
(麦類)
ヨーロッパや北アフリカ・西南アジア、またヨーロッパ人の植民を起源とする北米カナダ、南米アルゼンチン、チリ、オセアニアのオーストリアなどでは小麦が主たる作物となっている。これらはおおむねパン食を主とする地域である。
パン食を主とする地域でも米国は、輸出向けを飼料用トウモロコシを中心に世界のトウモロコシの作付の4割、輸出量の6~7割を占めているため、収穫面積も他の作物より多くなっている。
また同じくパン食地域であるが、北欧諸国やスペインでは飼料用に用いられる大麦が一番面積の大きい作物となっている。
麦はイネ科の冬作物一般を指す言葉であるが、冬らしい冬のない熱帯地域では栽培されない。麦作地帯である欧米語地域では、小麦、大麦、ライ麦といった言葉はあるが、麦という言葉はない。
(トウモロコシ)
トウモロコシは原産地(メキシコ、中米)を含む中南米諸国で面積一位の作物となっているほか、東欧南部、アフリカ東南部でも主たる作物となっている。
中南米以外の地域には、新大陸の発見以降、その高いカロリー価値から新たに導入されたものである(表示選択の伝播図参照)。
すなわち、コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)により、種子がスペインにもたらされた後、またたく間にヨーロッパ諸国に広まり、その後、フランス、イタリア、トルコ、西北アフリカに伝わった。アジアへは16世紀半ばから始まり、中国、日本にはポルトガル、あるいはアフリカからチベット経由で伝播、またフィリピン、インドネシアにはスペインより伝えられ、それが東南アジアに広まったという。
アフリカへは戻り奴隷船が、東欧南部バルカン地方へは18世紀にトルコ人がトウモロコシを持ち込んだとも言われる。
(コメ)
コメは西南アジアを除くアジア諸国で主食としての地位を保っている。
中国の北部やインドの西部では小麦やトウモロコシが主となっているが、国全体の平均ではコメが過半という結果となっている(中国とインドの地域別の主要作物マップを図録0431に掲げたので参照)。
この他、アフリカ西南端、マダガスカル、中南米の一部などでもコメが最大の国がある。
人口密度の高い国が多く、世界人口の半分近くがコメを主食としている。
作物のイネと言えば、日本のジャポニカ米やアジアのインディカ米などのアジアイネ(O. sativa)を普通指すが、この他、アフリカ大陸西部のニジェール川周辺で栽培されているアフリカイネ・グラベリマ (O. glaberrima)がある。西アフリカは後にインド、中国へと伝わった雑穀農耕文化のおおもとの起源地であり、アフリカイネも湿生の雑穀としてアジアイネとは独自に栽培植物化されたものとされる(中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書、1966)。なおアフリカでも現代ではアジアイネが導入され、半数近くにのぼっており、陸稲と浮き稲は在来種、水田はアジア種が多くなっているという(中尾佐助「農業起源をたずねる旅―ニジェールからナイルへ 」岩波同時代ライブラリー1969)。
同じアフリカでも西アフリカのコメと違ってマダガスカルのコメはアジアから伝わった稲作によるものである(マダガスカルは民族自体がアジアの流れである。図録8130参照)。
コメ地帯の国に低地居住が多い点については図録9060参照。
(ソルガム、ミレット-末尾参考写真参照)
西はアフリカから東はアラビア半島にかけ、サハラ砂漠、アラビア砂漠の南側の諸国は、ソルガム(モロコシ)やミレット(トウジンビエ)といった非常に短い栽培期間で収穫が可能なため乾燥にも強い雑穀が最大の地域となっている。ゴマやササゲ、スイカ、ひょうたん、オクラなどとともにアフリカを起源地としインド、中国へと広がる雑穀農耕文化圏の代表作物とされる(中尾佐助1966)。
中国、日本など元から雑穀がさかんだった地域では、それぞれの植物が別名で呼ばれていたが、麦作地帯では、milletという総称名詞にfoxtail、common、finger、pearl、barnyardといった形容詞をつけて区別する(順にアワ、キビ、シコクビエ、トウジンビエ、ヒエの意味となる)。これは日本で麦に小、大、燕をつけて麦類を区別するのと同じである。
(いも類)
いも類はパプアニューギニアや南洋諸島など、もともと在来民族が主食としていた地域や、アフリカ中部、キューバなどで最大面積となっている(キューバではコメもほぼ同等面積)。
東北地方のいも煮会は、かつて日本が焼畑農耕によるいも類栽培を主としていた時代の名残であると考えられるが、起源地の南方地域ではなおいも類栽培が中心となっている訳である(図録7722、図録7756参照)。
いも類のうち、キャッサバやジャガイモはとうもろこしと同じように中南米原産の作物であり、コロンブスの米大陸発見以降、世界に広がった(表示選択の伝播図参照)
アフリカの熱帯雨林はヤムベルトという根菜農耕文化のエリアが成立しており(東南アジアから伝わったとも)、奴隷貿易を通じてブラジルから伝来したマニオク(キャッサバ、タピオカ原料)を加えてイモとバナナの食文化が根強い。
ヤムベルトと重なる西アフリカの海岸部はアーボリカルチャー、ないしミックスト・プランテーションの地域であり、アブラヤシ、カポック、バナナなどの果樹園に地表作物や蔓性作物としてヤムイモ、ウリなどを植えた立体的な土地利用で高い生産力を誇り、人口密度も高いという(中尾佐助「現代文明ふたつの源流―照葉樹林文化・硬葉樹林文化」朝日選書、1978年)。
(2004年10月25日収録、10月31日コメント拡充、2008年5月26日更新、6月2日コメのコメント・中国作物地図追加、6月11日ミレットの訳をキビというよりトウジンビエに変更、その他加筆、2009年7月8日中国の地域別主要作物地図をインドの地域別主要作物地図と一緒にして新たに設けた図録0431に移動、2010年3月12日コメント追加、2012年6月26日穀物写真追加、2022年1月28日主要作物伝播図追加、コメント補訂)』
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世界各国の主たる作物
https://honkawa2.sakura.ne.jp/0430.html

『世界の主要作物である小麦、大麦、コメ、トウモロコシ、ソルガム(モロコシ)、ミレット(トウジンビエ・キビ等)、いも類のうち収穫面積の最も大きなものを図示した。
国や地域によって主たる作物は、様々であるが、それぞれ由来を有している。
(麦類)
ヨーロッパや北アフリカ・西南アジア、またヨーロッパ人の植民を起源とする北米カナダ、南米アルゼンチン、チリ、オセアニアのオーストリアなどでは小麦が主たる作物となっている。これらはおおむねパン食を主とする地域である。
パン食を主とする地域でも米国は、輸出向けを飼料用トウモロコシを中心に世界のトウモロコシの作付の4割、輸出量の6~7割を占めているため、収穫面積も他の作物より多くなっている。
また同じくパン食地域であるが、北欧諸国やスペインでは飼料用に用いられる大麦が一番面積の大きい作物となっている。
麦はイネ科の冬作物一般を指す言葉であるが、冬らしい冬のない熱帯地域では栽培されない。麦作地帯である欧米語地域では、小麦、大麦、ライ麦といった言葉はあるが、麦という言葉はない。
(トウモロコシ)
トウモロコシは原産地(メキシコ、中米)を含む中南米諸国で面積一位の作物となっているほか、東欧南部、アフリカ東南部でも主たる作物となっている。
中南米以外の地域には、新大陸の発見以降、その高いカロリー価値から新たに導入されたものである(表示選択の伝播図参照)。
すなわち、コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)により、種子がスペインにもたらされた後、またたく間にヨーロッパ諸国に広まり、その後、フランス、イタリア、トルコ、西北アフリカに伝わった。アジアへは16世紀半ばから始まり、中国、日本にはポルトガル、あるいはアフリカからチベット経由で伝播、またフィリピン、インドネシアにはスペインより伝えられ、それが東南アジアに広まったという。
アフリカへは戻り奴隷船が、東欧南部バルカン地方へは18世紀にトルコ人がトウモロコシを持ち込んだとも言われる。
(コメ)
コメは西南アジアを除くアジア諸国で主食としての地位を保っている。
中国の北部やインドの西部では小麦やトウモロコシが主となっているが、国全体の平均ではコメが過半という結果となっている(中国とインドの地域別の主要作物マップを図録0431に掲げたので参照)。
この他、アフリカ西南端、マダガスカル、中南米の一部などでもコメが最大の国がある。
人口密度の高い国が多く、世界人口の半分近くがコメを主食としている。
作物のイネと言えば、日本のジャポニカ米やアジアのインディカ米などのアジアイネ(O. sativa)を普通指すが、この他、アフリカ大陸西部のニジェール川周辺で栽培されているアフリカイネ・グラベリマ (O. glaberrima)がある。西アフリカは後にインド、中国へと伝わった雑穀農耕文化のおおもとの起源地であり、アフリカイネも湿生の雑穀としてアジアイネとは独自に栽培植物化されたものとされる(中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書、1966)。なおアフリカでも現代ではアジアイネが導入され、半数近くにのぼっており、陸稲と浮き稲は在来種、水田はアジア種が多くなっているという(中尾佐助「農業起源をたずねる旅―ニジェールからナイルへ 」岩波同時代ライブラリー1969)。
同じアフリカでも西アフリカのコメと違ってマダガスカルのコメはアジアから伝わった稲作によるものである(マダガスカルは民族自体がアジアの流れである。図録8130参照)。
コメ地帯の国に低地居住が多い点については図録9060参照。
(ソルガム、ミレット-末尾参考写真参照)
西はアフリカから東はアラビア半島にかけ、サハラ砂漠、アラビア砂漠の南側の諸国は、ソルガム(モロコシ)やミレット(トウジンビエ)といった非常に短い栽培期間で収穫が可能なため乾燥にも強い雑穀が最大の地域となっている。ゴマやササゲ、スイカ、ひょうたん、オクラなどとともにアフリカを起源地としインド、中国へと広がる雑穀農耕文化圏の代表作物とされる(中尾佐助1966)。
中国、日本など元から雑穀がさかんだった地域では、それぞれの植物が別名で呼ばれていたが、麦作地帯では、milletという総称名詞にfoxtail、common、finger、pearl、barnyardといった形容詞をつけて区別する(順にアワ、キビ、シコクビエ、トウジンビエ、ヒエの意味となる)。これは日本で麦に小、大、燕をつけて麦類を区別するのと同じである。
(いも類)
いも類はパプアニューギニアや南洋諸島など、もともと在来民族が主食としていた地域や、アフリカ中部、キューバなどで最大面積となっている(キューバではコメもほぼ同等面積)。
東北地方のいも煮会は、かつて日本が焼畑農耕によるいも類栽培を主としていた時代の名残であると考えられるが、起源地の南方地域ではなおいも類栽培が中心となっている訳である(図録7722、図録7756参照)。
いも類のうち、キャッサバやジャガイモはとうもろこしと同じように中南米原産の作物であり、コロンブスの米大陸発見以降、世界に広がった(表示選択の伝播図参照)
アフリカの熱帯雨林はヤムベルトという根菜農耕文化のエリアが成立しており(東南アジアから伝わったとも)、奴隷貿易を通じてブラジルから伝来したマニオク(キャッサバ、タピオカ原料)を加えてイモとバナナの食文化が根強い。
ヤムベルトと重なる西アフリカの海岸部はアーボリカルチャー、ないしミックスト・プランテーションの地域であり、アブラヤシ、カポック、バナナなどの果樹園に地表作物や蔓性作物としてヤムイモ、ウリなどを植えた立体的な土地利用で高い生産力を誇り、人口密度も高いという(中尾佐助「現代文明ふたつの源流―照葉樹林文化・硬葉樹林文化」朝日選書、1978年)。
(2004年10月25日収録、10月31日コメント拡充、2008年5月26日更新、6月2日コメのコメント・中国作物地図追加、6月11日ミレットの訳をキビというよりトウジンビエに変更、その他加筆、2009年7月8日中国の地域別主要作物地図をインドの地域別主要作物地図と一緒にして新たに設けた図録0431に移動、2010年3月12日コメント追加、2012年6月26日穀物写真追加、2022年1月28日主要作物伝播図追加、コメント補訂)』
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バレアレス諸島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B9%E8%AB%B8%E5%B3%B6

アルボラン島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E5%B3%B6
カナリア諸島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%AB%B8%E5%B3%B6

セウタ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%BF
メリリャ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%A3

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[研究ノート]
ブラマプトラ川の水資源をめぐる中国とインド
対立と協調の考察
天野健作
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/61/2/61_55/_pdf

『はじめに
本稿の目的は、アジアの大国に位置付けられる中国とインドの間を流れる国際河川のブ
ラマプトラ川(中国側・雅魯蔵布江=ヤルツァンポ川)Dを事例研究の対象にし、両国間で生
じている対立と協調を分析することである。近年の両国関係を概観すると、上流国の中国が自国の領土側でダム開発や河川の分水計
画を進めており、中国の情報開示への消極的対応も相俟って、インドが中国に対し明確な
抗議の意思を示している。注視すべき点は、両国の人口は世界人口の37%を占めるが、水
資源は両国で世界の10.8%しかないという遍在性に加えて、1人当たりの水資源利用可能
量が両国ともに急激に落ち込んでいることである。両国間の緊張関係の悪化の度合いが、
水資源に向けた渇望度合いと結び付き、今後、急速に高まることが予測される。ブラマプトラ川をめぐる水政治学(hydro-politics)の観点からの研究は、中国がこの河川
での開発を公式に認めたのが2010年4月であることからして、これからさらに進展して
いくものと思われる。先行研究の中には、両国の対立を強調する記事を掲載するメディア
と同様に、プラマプトラ川の水資源争いが、単なる外交上の対立から軍事的な対応を引き
起こす可能性を示唆する論考も見られる(Christopher, 2013; Malhotra-Arora, 2012など)。こうし
た水資源をめぐる軍事衝突の可能性をいわゆる「水戦争」(water war)という語句で位置付
けるために、これまでの研究では必ずしも両国がどのようにブラマプトラ川の水資源をめ
ぐって外交交渉を繰り広げてきたか、時系列的に明確に分析されていなかった。むしろ、
水戦争という括りの中で理解されているがために、両国間の協調関係を意図的に回避して
いるかのように見える。本稿では両国の協調関係に考察を加えるとともに、この協調は限
定的であることにも言及する。またブラマプトラ川の開発の実態もこれまで明瞭ではなかった。本稿では中国の実際の
ダム開発会社の情報で開発の全体像をとらえることに努めている。そして、河川開発の経
緯と中国の対外的な主張とをリンクさせると、中国が情報を秘匿する意図を持っていたこ
とが浮き彫りになる。本稿では、ブラマプトラ川をめぐる両国関係の年表を作成した上で、
中国のこうした外交的戦略も考察の対象にしている。考察の材料としては、中国政府やイ
ンド政府の公式情報はもとより、国際機関のデータに依拠しながら、中国やインド、周辺
55
国からのメディア報道やNGOの情報を用いて事実を収集した。それらの事実検証と背景
分析をもとにして、水資源をめぐる両国関係を捉えることが本稿の主眼である。I ブラマプトラ川での開発
ブラマプトラ(ヤルツァンポ)川の源流はヒマラヤ山脈の北側で、中国領チベット自治区
にあるチベット高原南部を東に進んだ後に急カーブ(大屈曲部)して南下し、インドとバ
ングラデシュを貫流してガンジス川に合流し、ベンガル湾に注ぐ国際河川である。全長は
2,880 kmになり、標高4,000 m級の世界で一番高い位置にある川としても知られる。イン
ドの潜在的な水資源量の30%を占め、インドで水力発電所として開発可能な水力エネル
ギーの中で未開発のもののうち、40% (6万6千MW)がブラマプトラ川にあると推測され
ている(Singhetal.,2004: 2)〇1.中国とインドの水不足の概略
まず、中国とインドが水資源をめぐって争う大前提として、両国の水不足の現状につい
て略述する。国連食糧農業機関(FAO)によると、中国は世界で5番目の水資源量を持つが、
1人当たりの水資源利用可能量は2009年時点で、年間2,079 m3であり、世界平均の年間
図1 ブラマプトラ川の地図(筆者作成、口はダムの位置)
56
アジア研究 Vol.61,No. 2, June 2015
6,225 n?を大きく下回る。2033年には人口が15億人に増加することが予測されており、
年間!,890 m3に落ち込むとみられている(FAO, 2012a)。インドも同様で、1997年に1人当
たりの水資源利用可能量が!,910 m3だったのが、2011年に1,519 m3へと急激に落ち込んで
いる(FAO,2012b)〇国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)は2009年4月に提示した報告書の中で、ア
ジアにおける深刻な水不足が社会の安定にとって新たな脅威と位置づけ、このため資源競
争が高まり、頻繁に紛争が起こると予測している。特に1990年代だけでも、中国は水資
源に関わり12万件の国内紛争があり、インドもまた同様で水を共有する州間での紛争が
起こり、2004年秋にはラジャスタン州西部にある「インディラ・ガンジー運河」の水資源
をめぐって4人が死亡し、30人以上が負傷した事例があったと報告されている(UN
ESCAP, 2009: 62-64)。2.南水北調計画の概要
中国の水資源は、北と南で偏在が著しい。長江を中心とする南側では国全体の水資源量
の80.4%を占め、人口は53.5%であるが、一方で黄河を中心とする北側では19.6%の水資
源量で人口 46.5%をまかなう。1人当たりの水資源利用可能量を見ると、北側は年間
779 m3で、南側(3,629 m5)の4分の1程度しかない(Xie, 2009: 9-11)〇「南水北調計画」はこの水資源の偏在を解消するものとして構想された。これは南側に
ある河川にダムを建設し、南側の河川の水を北側の河川へと運河を用いて分水する計画で
ある。計画では3つのルート(東、中央、西)を使い、年間44.8 km3の水を南から北に移送
する。長年にわたる研究や議論を経て、国務院が2002年に計画を承認した後、東ルート
から工事が始まり、2050年に全線完成見込みである(FAO,2012a)。規模や水量などの面で、
これほど大規模な水移送計画は歴史的に見ても初めてである。南水北調計画の西ルートの構想の中に、ヤルツァンポ川の大屈曲部に巨大ダムを建設
し、数百kmに及ぶ運河を経て、長江や黄河へと分水する計画がある。2005年に公刊され
た李伶の『西蔵之水救中国』に基づくものである。この本の基礎となっているのは1980
年代末に国務院水利部の郭開研究員が提案した「大西線南水北調工程」方案で、2002年に
政治協商会議から江沢民国家主席に提出された(三浦、2007: 22-28)。水利部が支援した李
伶の本は広く行き渡り、民政部門や軍事部門に受け入れられている。特に人民解放軍の関
係者から案が出ていることの意義が大きい。すなわち、水をヤルツァンポ川から黄河まで
分水するためには、険しい山々を通るトンネルを掘る必要があり、その際に爆破兵器を持
つ軍の力が最も効果的だからである(Chellaney.2011:135)〇さらに歴史を遡っていくと日本人の関与がうかがえる。三菱総研の創設者、中島正樹が
1977年に5千億ドルに及ぶ「世界公共投資基金」の構想を発表し、国際機関に提出した。中島は世界的な公共投資の対象として8つのプロジェクトを提唱し、そのうちの1つに「世
界で1番大きな水力発電ができるのはここではないか」と指摘し、ヤルツァンポ川上流の
ブラマプトラ川の水資源をめぐる中国とインド
57
水力発電に言及した。中島は「中国とインドの間で適当な分配ができれば、双方にとって
非常にプラスになる」とも強調した(中島、1978, 1979: 36~41,1-36)。3.ブラマプトラ川の開発実態
ャルツァンポ(ブラマプトラ)川での中国による開発は不透明な部分がある。それは後
述するように中国が情報開示に積極的ではなく、むしろ国家主権を盾に開発を秘密裏に
進めようとしたからである。チベットの環境問題を訴え続けている国際NGOのTesi
Environmental Awareness Movementは2010年5月、中国が進めるヤルツァンポ川での水力
利用計画についてのレポートを発表した。中国の開発実態を明らかにした最初のレポート
であり、レポートによれば上流域にすでに10カ所のダムが完成しており、3カ所が工事中、
15カ所に検討中の計画があるという(Tesi Environmental Awareness Movement, 2010)oただこの
レポートにおいても、その情報源が明確ではなく、中国側の公示情報に依拠する必要がある。中国国営のダム開発企業、中国水電工程顧問はヤルツァンポ川でのダム開発を「コアビ
ジネス」として、そのホームページにおいて開発案件を地図に明示している(http://www.
hydrochina, com. cn/zgsd/images/ziyuan_b .gif, 2014年8月10日確認)。中でも注目すべきは、インド
側が主張する国境線からわずか約30km北にある墨脱ダムである(図1参照)。墨脱ダムは、
3,800万kWの発電力を持つことが予定され、現在世界一といわれる長江の三峡ダム(2,250
万kw)をはるかに越える。このダムが完成すれば下流への影響は著しいことは容易に想
像できる。ヤルツァンポ川での最初のダムは、インド側が主張する国境線から約200 km北に位置
する蔵木ダム(51万kW、図1参照)で、79億元(12億米ドル)をかけて2009年に工事に着
手し、2015 年に完成予定である(Hussain, 2013: 7-8; China Daily, 2010)。さらに、国務院が2013年1月に公表した「エネルギー発展第12次5か年計画」(2011-2015)
では、蔵木ダムに近い3つのダム(加査、街需、大古=図1参照)をヤルツァンポ川に建設予
定であることを明らかにした(国務院、2013)〇これらのダムは25km圏内に立て続けに建
設するもので、大古の出力は64万kW、加査は32万kWだが、街需はまだ公表されていない。
アメリカン大学の調査によると、ヤルツァンポ川での分水計画が成功すれば、黄河へ年
間2,000億π?の水が供給され、水流のおよそ60%が急激に減っていくことが予測されて
いる(Hodum,2007)〇π インドの抗議と中国の対応
1.インドの抗議の経緯
インドの中国に対する抗議の理由には、上流でのダム開発や分水に伴う流量の変化で自
国の漁業や生態系へ影響が出ることや、肥沃な土壌が中国側のダムに滞留することから農
58
アジア研究 Vol.61,No. 2, June 2015
業への影響がある。それ以上に、インドの北方に位置するヒマラヤ山脈への開発に著しい
懸念があった。歴史を遡ると、こうしたインドの懸念は1947年、ジャワハルラール・ネ
ルー首相の次の演説に最初に現れている(Nehru, 1950:155)〇「インドの地図を広げ、河川や鉱物など資源を有するヒマラヤ山脈を見るときに、そこ
には広大な力が集中していることが分かる。今は開発されていないが、将来はその可能性
があり、もしそうなれば、急速にインドの全体像が変わってしまうことになるだろう」中国によるヤルツァンポ川の分水計画自体に対する批判が国際的に最初に現れたのは、
1996年3月のアメリカの科学雑誌Scientific Americanである。開発への直接的批判ではない
が、ヤルツァンポ川での分水が通常の工法では不可能なため、核爆発によって20 kmにわ
たる山脈を掘削する際に、「包括的核実験禁止条約」に抵触するかが問題点として提起さ
れた。この論文では、土木工事に用いられる核の平和的利用は条約の「抜け道」ではある
ものの、結局は軍事目的に情報が流用される点を指摘し、多くの制約が必要と結論付けた
(Horgan, 1996:14-16)〇このころからインド側でも中国によるヤルツァンポ川の分水計画が噂になり始め、イン
ドのメディアが2000年代初頭に警告を続けたため、政治的議論に発展した(Holslag, 2011:
22)。具体的な中国への抗議活動の証拠として用いられたのは、人工衛星により開発状況
を示した映像であり、その衛星画像でもこの時点では、中国は開発計画を実行していることを認めなかった。流れが変わったのは、2009年12月にデンマークのコペンハーゲンで
開かれた気候変動をめぐる国際交渉であり、同じ発展途上国グループに含まれる中国とイ
ンドが「前例のない協力」を見せたことで、両国間の協力の機運が盛り上がったとされる
(The Times of India, 2010)o中国が公式にヤルツァンポ川での開発を認めたのは、2010年4月のことである。インド
のソマナハリ•マライア・クリシュナ外相が中国を訪問した際に、中国の楊潔饒外相が蔵
木ダムの建設を認めた。その年の9月には、インド防衛問題分析研究所が「インドの水安
全保障:外的動向」というレポートを発表している。この中で、中国のダム開発状況に触
れ、「国際的な関心を呼び起こすべきだ」と提言し、抗議活動を活発化させた(Institute for
Defense Studies and Analyses, 2010: 51)o実際にインドの懸念が被害として顕在化したのは、2012年2月27日、インド北東部に
あるアルナチャル・プラデーシュ州の東シアン県で、ブラマプトラ川の水が急に干上がつ
たことである。州政府の水資源部局が中国による上流でのダム開発によってもたらされた
ものかどうか調査を命じ、同日には、ビハール州知事がヤルツァンポ川の中国の開発に懸
念を示す手紙をインド首相に提出している(The Economic Times, 2012a; The Hindu, 2013a)o川
の干上がりは直ちに中国のダム開発による影響とは断定できないものの、インド側で不信が増幅していることが明確になった事例である。中国が2013年1月に新たにヤルツァンポ川で3つのダムをつくる計画を承認すると、同
年3月、南アフリカで開かれたBRICSサミットの開催中に、マンモハン•シン首相が初め
ブラマプトラ川の水資源をめぐる中国とインド
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て中国の習近平国家主席と会談し、ヤルツァンポ川での中国の開発に対して、インド側で
も中国で進行中の開発行為を評価できるような「共同機構の創設」を提案した(Press
Information Bureau Government of India Prime Minister5$ Office, 2013)〇しかしその1カ月後、中国側
は「既存のメカニズムで十分だ」と返答し、交渉は実を結ばなかった(The Hindu, 2013b)。
インドの不信感の増幅は2013年4月、中国が下流国に影響はないと主張する「流れ込
み式」(run-of-the-river)のダムへの開発動向を監視するよう、省庁間専門家グループが求め
たことにも現れている(The Hindu, 2013c)。流れ込み式ダムは、確かに貯留式ダムと違い水
量を変えるものではないが、下流へと流れる肥沃な土壌の量を変える。ブラマプトラ川は
58万kn?という世界でも有数の流域を有するだけでなく、そこに住む人々の生計の大半が
農業で成り立っていることに留意する必要がある(Gupta,2010)。表1ブラマプトラ川をめぐる関連年表
1977 年 1996年6月 1999年6月 2000年6月 2002 年 4月 2003年1月 日本人がブラマプトラ川の開発構想を発表 アメリカの科学雑誌Scje〃ガ?c,me”如〃に河川の開発計画への批判論文が掲載 江沢民国家主席が「西部大開発」を宣言 ブラマプトラ川で洪水が発生し、インドに多大な被害が出る 中国国務院が南水北調計画を承認し、東ルートで工事開始 中国が洪水期での水文データをインドに提供する「了解覚書」に署名 中国水保全•水力発電計画研究所がヤルツァンポ川での水力発電が可能かどうか事前調 査実施
2005 年 1月 2006年11月 水文データ提供の了解覚書を更新(第1回目) 李伶『西蔵之水救中国』が発刊。ヤルツァンポ川の分水計画を明示 中国の胡錦濤国家主席がインドを訪問。インドのシン首相との間で「専門家委員会」の 創設に合意
2007年9月 2008年1月 第1回専門家委員会の会合開催。水文データの交換について協議 シン首相が北京へ訪問、ヤルツァンポ川の開発について問題提起するものの、中国側は 否定
6月 9月 2009年4月 2010年4月 水文データ提供の了解覚書を更新(第2回目) 第2回専門家委員会の会合開催。毎年開催することに合意 第3回専門家委員会の会合開催。雨季での水文データの提供について互いの立場を確認 インドのクリシュナ外相が中国を訪問した際に、中国政府が初めてダム建設を認めた 第4回専門家委員会の会合開催。水文データの提供の履行計画について合意
11月 2011年4月 2012年1月 中国とインドの外務当局が二国間交渉。張志軍外務副大臣が「分水計画はない」と強調 第5回専門家委員会の会合開催 第6回専門家委員会の会合開催。社会経済の発展にとって国際河川が重要であることを 互いに認識
2月 2013年1月 2月 ブラマプトラ川の一部地域が干上がる 中国国務院がヤルツァンポ川でさらに3つのダムをつくる計画を承認 中国とインドの非公式会議で、中国は「新しいダムは下流国に影響を与えるものではな い」と明言
3月 5月 BRICSサミットで、シン首相が習近平国家主席に共同機構の創設を提案 第7回専門家委員会の会合開催。了解覚書の草案について合意 中国の李克強首相がインドを訪問、相互信頼の強化を確認
10月 中国とインドが新しい了解覚書に署名(第3回目)。水文データ交換期間を拡大(出所)中国、インド両政府の公式情報や各種報道より筆者作成
60
アジア研究 Vol.61,No. 2, June 20152.中国の対応一戦略的沈黙と問題の矮小化
インド側の抗議に対する中国の受け止めについては、2点指摘しておきたい。
1点目に、
中国はヤルツァンポ(ブラマプトラ)川のダム開発の計画を2010年まで否定していたこと
である。その理由を検討すると、「戦略的沈黙」を保つことで、既成事実を積み重ね現状
の変化を固定しようとする意図がうかがえる。このため、以下では水資源に関わる政府高
官の言葉や水政策に影響を持つ学者らの言動を引用し考察する。2点目は、中国による問
題の矮小化である。ダム開発を公式に認めた後も、中国は下流国の影響を十分考慮し、ダ
ムで水量をコントロールすることで洪水や早•魅を軽減できるため、下流国にも利益がある
と主張し、自国の開発を正当化していることである。まず1点目であるが、当時の水利部長であった汪恕誠は2006年10月、香港大学で講演
を行った(Reuters, 2006) 〇 2006年は上述したようにヤルツァンポ川の分水計画がインドで
政治的議論に発展していたころで、汪は「チベット高原からの分水は、実現不可能だ」と
述べ、インド側の懸念を払拭させようと努めた。しかしその一方で、南水北調計画など水
行政において権限を持つ中国黄河水利委員会主任の李国英は2006年8月1日付の米紙
International Herald Tribuneのインタビューに、ヤルツァンポ川を含むチベット高原から黄
河への分水計画について、「北西部の経済的社会的発展があるレベルに達するとき、この
計画は着手されるだろう」と述べた。同紙ではそのほか、中国科学院の水文学者、劉昌明
が「(南水北調計画の)西ルートは、抽象的な計画ではなく、現実化するだろう」と計画の
着手を示唆している(International Herald Tribune, 2006)。特に、ダム開発計画はすでにその数
年前から実際に存在しており、地方政府は2007年頃から地域住民の立ち退きを命じてい
る(Malhotra-Arora, 2012:144-151)。次に2点目であるが、中国は2010年4月にダム建設を一旦認めると、その後の下流国へ
の影響の打ち消しは連射砲のようだった。中国国営のダム開発会社で、実際にヤルツァンポ川でダム開発を進める中国華能集団の
幹部は2010年11月19日付の中国英字紙China Dailyのインタビューで、「ダム計画におい
て環境保護を十分に考慮しており、下流地域への水量は変わらない」と強調している。し
かし、北京の「公共環境研究所」によると、環境影響評価レポートは一般にはアクセスで
きないとされており、実際の影響は不明である(ChinaDaily,2010)〇同時期にインドと中国の外交当局が二国間交渉を行い、中国外務副大臣の張志軍が「河
川を分水する計画はなく、下流地域の住民の水の利用や福祉に影響を与えない」と述べた
(Global Times, 2010)〇インド側が水文データの追加的な情報提供を求めると、中国外務省報
道官の洪罷は「国境をわたる水資源の開発に関しては責任ある態度を示しており、下流国
の利益には十分配慮している」と要請を事実上拒否している(The Economic Times, 2011)。その後も、中国側は度重なるインドの懸念に対して同様の主張を繰り返した。例えば、
中国水利部副部長の矯勇は2011年10月12日の北京での記者会見で、「技術的な難点や環
ブラマプトラ川の水資源をめぐる中国とインド
61
境への潜在的な影響があり、中国政府としてはヤルツァンポ川から分水する計画は持ち合
わせていない」と語った。これには伏線があり、同年4月、北京市で両国の専門家委員会
が開かれ、その席上で河川の水を華北地域に分水する計画が示され、インド側の反発を
招いていた。このため、インド紙The Times 〇了Indiaは、矯の発言は「インドを安心させた」
と伝えている(The Times of India, 2011)。しかしながら、中国の専門家の間では、河川の分
水計画は公然の秘密であった。中国科学院の学者、王光謙はヤルツァンポ川から新疆ウィ
グル地区の北西へ分水する計画があることを認めている。その理由は、黄河だけでなく長
江についても増加する水需要に耐え切れず水量が目立って減少していることにあり、南水
北調計画の次の一手として位置付けている(2point6billion.com, 2011)〇2012年2月にブラマプトラ川の一部地域が干上がったことに対しては、報道官の洪罷が
同年3月、「下流国の利益を十分に配慮し、公正と衡平の政策を実行している」と強調し
た上で、「ヤルツァンポ川での中国の開発レベルは低く、河川の水資源の利用率は1%に満
たない」と過小評価している。同様に「蔵木ダムの水力は抑制的であり、貯蔵能力を持た
ないため、下流国の水量を変えることはない」とも述べている(Foreign Ministry Spokesperson
Hong Lei!s Regular Press Conference, 2012)o 2013年に新たに3つのダムを建設することが明らか
になった際にも、報道官の華春臺は「ダムの建設の影響を十分に考慮している。国際河川
において、インドとのコミュニケーションと協力を維持している」と述べた(Foreign
Ministry Spokesperson Hua Chunying’s Regular Press Conference, 2013) oしかしここではもはや、洪
のように水資源の利用率に言及することはなく、開発の規模に触れることを避けて、将来の開発の余地を示唆するに至った。m中国とインドの限定的協調関係
1.協調関係の経緯
水資源の分配を法的に規律するためには条約や協定が必要であるが、中国とインドの間
に国際河川に関する法的合意は一切存在していない。ただ以下に見るように法的拘束力の
ない政治的文書を作成し協調関係を拡大してきた。
インド側ではモンスーンの影響で、もともとブラマプトラ川では洪水が1950年代から
毎年のように頻繁に起こっていた(Dhemaji District, 2014) 〇特に2000年6月に生じた洪水で
は、アルナチャル•プラデーシュ州の5つの県とアッサム州の一部に被害が及び、少なく
とも30人以上が死亡し、5万人が住居をなくしたと伝えられている(Yan, 2012)。このため
インドはこうした破壊的な洪水の責任は中国側にあると非難し、洪水を未然に予測するた
めの上流域の水文データを求めてきた。
インド水資源省によると、中国とインドがブラマプトラ川において初めて「了解覚書」
(Memorandum of Understanding)の形で合意したのは、2002年4月である。最初の覚書では、
62
アジア研究 Vol.61,No. 2, June 2015
中国からインドにブラマプトラ川の洪水期の期間中(6月1日から10月15日まで)、奴各沙、
羊村、奴下の3カ所の水文データ(水位、流出量、降水量)を提供することが記載されている。このデータはインド側で洪水予測をするために使われたが、覚書は5年間で失効する規定
になっていた。そこで、両国は2008年6月、さらに5年間の期限で新しい了解覚書に署名
し、ブラマプトラ川の2つの支流についても洪水期のデータを追加し提供することになっ
た (Ministry of Water Resources, Government of India, 2014) 〇中国の胡錦濤国家主席が2006年11月、インドを訪問した際には、シン首相と共同声明
を発表した。両国は「専門家委員会」を設立し、委員会の中でブラマプトラ川の洪水期の
水文データの提供や緊急措置などについて相互に議論し、協力し合うことを約束したこと
は大きな進展となった。ただその場においても、胡は「インドに影響のある分水計画はな
い」と言明したため、分水に関する実質的な協議は始まらなかった(Malhotra-Arora, 2012:
152) 〇専門家委員会の会合は毎年開催されており、水文データの提供が実際にどのように
履行されているか、監視の役割を果たしてきた。了解覚書の実質的な審議機関ともなって
おり、着実に両国政府の信頼関係を積み上げている。2013年10月には、中国の李克強首相がインドを訪れ、了解覚書をさらに5年間延長し
2018年までのデータ提供に合意した。この覚書では、インドが求めていた水文データ提供
期間が拡充され、始期が6月1日から5月15日に変更されたほか、以下の3点で合意した
ことが注目に値する(Ministry of External Affairs, 2013b)o① 両国は、国際河川と関連する自然資源がすべての流域国の社会的・経済的発展にとつ
て計り知れない価値を持つ資産であることを認識したこと
② 両国は、国際河川における協力を進めることで、相互の信頼とコミュニケーションを
高め、戦略的•協力パートナーシップを強化することに合意したこと
③ 両国は、既存の専門家委員会を通じて、協力を強化することに合意したこと
この協調の拡充の背景には、中国がインドを経済・貿易面でも安全保障面でも重要な二
国間関係とみなしたことがある。すなわち、2013年に了解覚書を延長したのと同時に、「国
境防衛協力協定」に調印したことがその証左である。協定では、国境地域の実効支配線付
近で警戒活動を行う場合、相手側に対する追跡活動を行わないことや、相手国の動きに疑
念を持った場合に説明を求めるとの規定がある(Ministry of External Affairs, 2013a)o中国とイ
ンドとの経済依存関係の拡充では、両国の貿易総額は2000年に10億ドルだったが、2010
年には600億ドルと、60倍になっており、2015年には1000億ドルとも予測されているこ
とが挙げられる(HindustanTimes,2011)〇2.協調の限界
協調拡充の様相は見せているものの、水文データの情報提供は洪水期だけに収まってお
り、インドは了解覚書を結んだ当初から、下流地域にとって日照りを予測できる渇水期も
含めた河川の全データの提供のほか、すべての国際河川で了解覚書を適用できるように求
ブラマプトラ川の水資源をめぐる中国とインド
63
めてきた(Chellaney, 2011:134)〇さらに、水文データは当初は無料で提供されていたが、後
に中国がインドに対し高額な料金を支払うように求めたことも、一概に純粋な「協力」と
呼べない側面がある。特に1962年の中印国境紛争以来、両国の長年の懸案事項である国境が定まっていない
ことが協調拡充の大きな障害となっている。インドは中国によるチベットの併合(1951年)
を認めたものの、チベットとインドの国境を定めていた約4,000 kmにわたるヒマラヤの境
界については争いが生じていた。特に、水資源が豊富であり、5万7,000 MWもの水力発
電の潜在的能力があると見積もられているアルナチャル・プラデーシュ州については
(Government of Arunacha! Pradesh, 2008),インドが1987年にこの地域に州を設けて以来、中国
がチベットの一部として自らの領有権を主張し、抗議が活発化した。2009年にシン首相が
同州を訪れた際に、中国外務省は「強い不満」を表明し、インド側に中国との健全な関係
を阻害しないように要求するとの声明文を発表した(Ministry of Foreign Affairs of the People’s
Republic of China, 2009) oアメリカ国防総省は2010年、中国人民解放軍がこの地域沿いに、核兵器が搭載可能な
中距離弾頭ミサイル(CSS-3)を配備しており、不測の事態に対応するための空挺部隊の配
備計画も持っていると指摘した。さらに人民解放軍の国境沿いの防衛活動を補強するため
に道路などインフラ整備にも着手していると分析した(US Department of Defense, 2010: 17-
38)。そもそもインドがチベットの併合を認めたことを「失敗」と評価する論考もあり
(Chellaney, 2011:185)、もし併合を認めていなければチベットは独立国家として存在し、中
国との間でブラマプトラ川をめぐる資源争いは生じていなかったとも仮定できる。このた
め、水文データの提供以上に、領土問題が孕む水の分配にまで合意に至ることは現状では難しい。すでに両国の間では、アルナチャル・プラデーシュ州の水資源をめぐる国際的緊張が生
じている。2009年、アジア開発銀行(ADB)が同州の開発計画に融資しようとしたことに
対し、中国が同州は「係争地域」であることを理由に融資に抗議した(The Indian Express,
2009b)〇これは中国が国際機関を通じて両国の水資源問題を提起した初めての事例である。
この計画はそもそも、同州での洪水や土壌浸食を防ぐためのものとして総額29億ドル
の提案がされていたが、その中に6,000万ドルの水利開発が盛り込まれていたことが問題
となった(ADB, 2008) 〇 2009年6月に行われた加盟国による投票では圧倒的多数で融資が
認められたが、中国の抗議により、同年9月の再投票により否決された(The Indian Express,
2009a) 〇この時、アルナチャル・プラデーシュ州の知事が、インド政府はこの地域にさら
なる軍隊と戦闘機を送るべきだと主張し、同時期に、中国の兵士 2300人が挑発的な国境
警備をしていると記録されている(US Department of Defense, 2010:17)〇
このような事例だけを取り上げれば、両国の「水戦争」は現実味を帯びているともいえ
る。翌年の2010年には上述したように、中国がヤルツァンポ川での開発を初めて認める
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アジア研究 Vol.61,No. 2, June 2015
に至り、両国間の緊張は増すことになるが、その後も専門家委員会は継続して開催されて
おり、交渉の積み重ねが緊張を緩和するなど功を奏している。おわりに——今後の展開と課題
ブラマプトラ川の水資源をめぐっては、アジアの二大国である中国とインドとの衝突要
因ともなり得るが、本稿はそれを回避するための要因の分析も行った。すなわち、現存す
る専門家委員会や水文データの提供制度を拡充することで、現状としては脆弱ではあるも
のの、紛争を回避するメカニズムの芽は出ており、徐々に育っている。専門家委員会は毎
年開催されており、専門家を中心に実質的には両政府が運営しながら、了解覚書の更新の
時期には外交交渉の場として機能していることからしても、一定の評価は両国政府から受
けている。安全保障の構築や強化は、信頼を醸成する装置が不可欠であり、対立を緩和す
る意味でも、この委員会や制度のさらなる発展が、問題解決の糸口につながる。
ただ、課題を挙げるなら、水資源をめぐる対立や紛争を解決するために用いられる国際
基準や国際法が確立していないことである。中国としては、絶対的領域主権を主張すれば、
そもそも下流国の影響を考慮する法的義務はないはずであり、下流国と協定を結ぶインセ
ンティブもなく一方的行為が干渉されるいわれもない。現状としては、国際河川を規律す
る「国際水路の非航行的利用に関する条約」(1997年に国連で採択)が存在し、2014年8月
にようやく発効したが、中国はそもそも条約採択に反対票を投じており、インドは条約採
択を棄権している。条約の中には、流域国との間で水資源の衡平な配分を求める条文もあ
るが、どこまで国際慣習法として確立しているかは疑問で、両国間の対立に適用できるか
はさらなる考察が必要であろう。
さらに、本稿ではブラマプトラ川のもうー^の当事国であるバングラデシュとの関係に
ついて詳しく触れる紙幅はなかった。中国が下流国と一切条約や協定を結んでいない一方
で、インドはバングラデシュとの間ではガンジス川の水利権をめぐって協定を結んでい
る。今後は、バングラデシュとの間で中国とインドがどのような対応を見せるか。特に、
バングラデシュとの間では逆に上流国になるインドの「中流国」としての振る舞いがどう
なっていくかも今後の課題である。
結論として言えることは、ヤルツァンポ(ブラマプトラ)川での開発の着手は、中国とし
ては潜在的な外交カードともなったことである。すなわち、これまで未開発の地域であっ
たヤルツァンポ川の水資源が一転して顕在化し、開発が意図的ではないにせよ、インドに
対して「脅威」の意味を与えたことで、中国は下流国の水資源をコントロールする「見え
ない武器」を手に入れたのも同然である。
非伝統的な安全保障観に立てば、武力行使を伴わなくても、水資源の支配権を握ること
で地域の平和や安定を阻害する要因にもなる。特にアジア地域では人口増加とともに経済
ブラマプトラ川の水資源をめぐる中国とインド
65
成長も著しく、水が単なる「資源」という以上に、安全保障を脅かす存在になっている。
アジアにおいては、中国とインドとを包含する安全保障の構造的フレームワークがないこ
とが大きい。これは、インドが民主主義国であり、中国は共産党独裁国家であるという政
治体制の違いも一因であろう。
こうした意味で、リアリズムの観点から国際関係を俯瞰するならば、中国と対峙し、も
う一方の世界の大国であるアメリカとの関係にも考察を加えなければならない。民主主義
を標榜するアメリカが中国への牽制を図る上で、どのようにこの地域へ関与していくかも
今後、留意すべきだろう。(注)
1)本稿では全般的な名称として「ブラマプトラ川」を用いるが、中国国内に言及する際には「ヤルツァ
ンポ川」の名称も併用する。(参考文献)
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(あまの•けんさく 東京大学大学院新領域創成科学研究科amano0327@gmail.com)
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2015年1月9日第2稿受領
2015年2月9日 査読を経て掲載決定
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アジア研究 Vol.61,No. 2, June 2015 』 -
ブラマプトラ河
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%A9%E5%B7%9D

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出典検索?: “ブラマプトラ川” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年2月)ヤルンツァンポ川
ブラマプトラ川
ジョムナ川
Brahmaputrarivermap.png
ヤルンツァンポ川 – ブラマプトラ川 – ジョムナ川
水系 ガンジス川水系
延長 2900 km
水源 ヒマラヤ山脈・ガンディセ山脈
河口・合流先 ガンジス川
流域 中華人民共和国の旗 中国 チベット
インドの旗 インド
ブータンの旗 ブータン
バングラデシュの旗 バングラデシュ
テンプレートを表示ブラマプトラ川(ブラマプトラがわ、英:Brahmaputra River, ヒンディー語:ब्रह्मपुत्र Bramhaputra, ベンガル語:ব্রহ্মপুত্র Brohmoputro)は、チベットに発しバングラデシュでガンジス川と合流し、ベンガル湾へ注ぐ河川である。チベットではヤルンツァンポ川(表記によってはヤル・ツアンポー川とも。チベット語:ཡར་ལུང་གཙང་པོ་ Yar-lung gTsang-po, 中国語:雅魯藏布江)、バングラデシュではジョムナ川(英:Jamuna River, ベンガル語:যমুনা Jomuna)と呼ばれている。
語源
ブラマプトラは「ブラフマーの息子(プトラ)」の意味。
流域
全長2,900km。源流はヒマラヤ山脈の北側で、マーナサローワル湖から流れでてチベット高原南部を東進した後ヒマラヤ山脈東端をかすめ南下、インドのアッサム州を西へ向け横断、ガンジスに合流する。その合流点では世界最大の広大な三角洲を形成している。中流から下流域にかけて堆積平野が広がり、主に農業が営まれる。雨季にはしばしば氾濫し、氾濫のためにできた沼沢地や池が残る。
自然環境
流域にはインドサイの生息地であるインドのカジランガ国立公園があり、ユネスコの世界遺産に登録されている。
探検史
「:en:Yarlung Tsangpo Grand Canyon」も参照チベット地域を流れるツアンポー川はチベットを横断した後ナムチャバルワ(7,782m)とギャラペリ(英語版)(7,294m)の間の峡谷部で大きく南に流れを旋回させる(ツアンポー川の大屈曲部)。この川がヒマラヤの山中に姿を消した後、どこに流れるかは長らく謎であった。
当時のアッサムの測量責任者であったヘンリー・ジョン・ハーマン(英: Henry John Harman)はネム・シン(Nem Singh)とキントゥプ(英語版)に峡谷を探検させた。1884年キントゥプはペマコチュン(Pemako Chung)まで到達後、ツアンポー川がアッサムに流れこむことを証明するために印をつけた500本の丸太を川に流したが、ハーマンは病気のためインドを去っており、流された丸太を発見し証明することはできなかった。
キントゥプの報告書には45mの大滝があるとの記述があったが、キントゥプは文字が書けず、口話での報告を書類にまとめる際に誤って解釈されたものだった。
ツアンポー渓谷の標高とアッサムの標高との比較からすればこの間に1000m以上も標高を落としており滝があっても不思議はないと思われた。ここからツアンポー峡谷の大滝の伝説が生まれた。
1913年 フレデリック・M・ベイリー(英語版)の探検によりツアンポー川がアッサムに流れ込みブラマプトラ川となることを証明した。
1924年 フランク・キングドン=ウォード(英語版)(英: Frank Kingdon-Ward)[1]、コーダー卿(英語版)[2]が峡谷の無人地帯を突破しふたつの滝を発見。峡谷の残りの空白部は5マイルであると報告した。空白地帯の上流部に虹の滝、下流部にプラマプトラの滝を報告。
1993年 イアン・ベイカー(英: Ian Baker)がキングドン=ウォード以来となる無人地帯の踏破に成功した。同年ブリーシヤーズが空白地帯上流部の虹の滝からすぐ先に新たに幻の滝を発見。
2002年 角幡唯介が未踏査部を探検。新たに未知の滝と巨大洞穴を発見した[3]。
水利権をめぐる争い
2013年、上流側の中国ではダムを3基設置することを発表。これに対して下流のインド側メディアは、流量の減少といった懸念を表明している[4]。 』
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朝鮮半島の川ってなぜS字を描いてゆっくりと流れますか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13138664648『朝鮮半島は本州ほどの面積しかなく、山地でも大台ケ原ほどの高さの山がほとんどなのですよね(特に南)。
日本の川は直線で急勾配でまるで滝のようだと言われますよね。』
『ベストアンサー
tibさん2014/11/26 0:02
朝鮮半島は地質的に古く大陸の安定陸塊の一部で山脈も風化、浸食され低く緩やかです、日本海側ほど高度が高いですがそれでも低い山地です
日本列島は造山運動が続いていて新しく急峻で狭いです
日本の川は山から海に向かい急こう配を下りますので急流で川の全長も短いです日本で一番長い信濃川でも延長367kmで流域面積11,900km²しかありません
日本の本州と同じほどの朝鮮半島の河川を見ると朝鮮半島の長い川上位5つみても
1 鴨緑江(両江道三池淵郡白頭山~平安北道薪島郡)全長803km、流km²
2 豆満江(両江道三池淵郡白頭山~咸鏡北道羅先市)全長547.8km、流域面積32,920.0km²
3 洛東江(江原道(南)太白市咸白山~釜山市)全長523.2km、流域面積23,370.0km²
4 漢 江(江原道(南)太白市大徳山~開城市・京畿道金浦市)全長502.8km、流域面積34,395.7km²
5 大同江(平安南道大興郡狼林山~南浦市・黄海南道殷栗郡)全長450.3km、流域面積20,247.0km²このように日本の川に比べ長くゆっくり流れています
日本海側ほど高度が高い朝鮮半島
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/jiri_005.htm 』























