イスラエル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB
※ ちょっと、あまりに長いので、興味のある人は、自分で読んで…。



























イスラエル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB
※ ちょっと、あまりに長いので、興味のある人は、自分で読んで…。



























パレスチナ問題ってなに? 1からわかる!イスラエルとパレスチナ(1)
https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/jiji/jiji97/











『2021年11月11日 (聞き手:白賀エチエンヌ・堤啓太)
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武力衝突、爆弾テロ、空爆、そして民間人の犠牲…そんなニュースがとても多い気がするイスラエルとパレスチナ。ちょっと遠い地域の出来事だけど、「この問題を知らずして、世界を知ることはできない」んだそうです。これからグローバルな世界でのビジネスを目指す大学生が、最低限知っておいた方がいい基礎知識について1から聞きました。
イスラエルとパレスチナって?
学生
堤
「イスラエルとパレスチナ」ということなんですが、すごく複雑というか、ややこしい話という印象があります。
自分自身もあやふやなことが多いので、初歩的なところからかみ砕いてお話をお聞きできればと思います。
僕も学者ではなく、一記者なので百科事典のように何でもわかるわけではないんですが(汗)。
鴨志田
デスク
ただ「この問題を知らずして、世界を知ることはできない」と思っています。
パレスチナ ガザ地区で取材する国際部 鴨志田デスク(2002年撮影)
鴨志田郷デスクは2000年から2004年までエルサレムに駐在し、イスラエル・パレスチナの和平交渉や、紛争の現場を取材。その後もこの問題を追い続けています。
全部を説明するのは難しいかもしれないけど、社会に出る大学生が知っておいてほしい内容について、できるだけかみ砕いて説明しますね。
学生
白賀
そもそも「パレスチナ」ってどこを指すのでしょうか。
昔から、地中海の一番、東の沿岸にある地域のことを「パレスチナ」と呼んでいました。
南にエジプト、東にヨルダンがあって、北にはシリアやレバノンがある場所です。
もともと、土地の名前なんですか?
そうです。このパレスチナの地にあるエルサレムには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれの聖地があります。宗教上とても重要な地域なんです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、3つの宗教の聖地、エルサレム
この地では、1948年にイスラエルというユダヤ人の国ができました。
その後は、この土地の中で〝将来、パレスチナ人の国家になりたい地域”(東エルサレム・ヨルダン川西岸・ガザ地区)を総じて、パレスチナと呼んでいます。
パレスチナは「国」ではなくて、「国になれていない地域」ということ?
そうです。イスラエル、パレスチナがそれぞれ国として共存するのが理想なんですが、イスラエルの建国を発端に対立しているのがパレスチナ問題です。
2つの悲劇
パレスチナ問題の根源は「2つの悲劇」にあるとも言われています。
1つは、ユダヤ人が2000年の長い歴史の中で世界に離散し、迫害を受けてきた悲劇です。
やっとの思いで悲願の国(=イスラエル)をつくり、それを死守していきたい、二度と自分たちが迫害されるような歴史に戻りたくない。
そんな、私たちには想像もつかないぐらいの強い思いをユダヤ人はもっています。
オンラインで取材しました
もう1つは、パレスチナの地に根を下ろしていた70万人が、イスラエルの建国で故郷を追われたという、パレスチナ人の悲劇です。
離散したユダヤ人が戻って国をつくったことで、今度はパレスチナ人が離散するんですね…
いまパレスチナ人が住んでいるのは、ヨルダン川西岸とガザ地区というところです。国にはなれないまま、イスラエルの占領下におかれているのが現状です。
周辺の国にも多くが難民として暮らしているんです。
具体的にどんな状況なんですか?
ガザ地区は、日本の種子島ほどの面積に約200万人が住んでいます。
空爆で建物が破壊されたパレスチナ ガザ地区(2021年5月)
NHKが撮影した独自映像とデータで伝える ガザ紛争2021 現地ではあのとき何が はこちらからご覧ください
200万人!?
ものすごく人口密度が高い。高い塀やフェンスで囲まれ、人やモノの厳しい封鎖が続いていることから「天井のない監獄」とも呼ばれています。
イスラエルと武力衝突があると、空爆を受けて亡くなる人もたくさんいるし、地域一帯が瓦礫になって、住宅や道路、水道などのインフラも破壊されます。
国連が学校や病院を運営したり、食料を無料で配ったりしているけど、我々が当たり前に思っているような最低限の生活さえできない状況です。
一方、ヨルダン川西岸は完全な自由はないものの、今はイスラエルから物資やお金が入り、許可があればイスラエル側に働きに出ることもできます。
ヨルダン川西岸の主要都市 ラマラ
最近では、ショッピングモールもあるんですよ。
ガザ地区とは、だいぶ様子が違いそうですね。
ただ、ヨルダン川西岸には入植地という問題があります。
入植地って何ですか?
パレスチナは、イスラエルの占領下にあると言いましたが、そこにユダヤ人が住み着いてイスラエルの土地として既成事実化したのが入植地です。
ヨルダン川西岸を中心に約130か所あり、40万人のユダヤ人入植者が住んでいるといわれています。
そんなにたくさん…
パレスチナ人の住宅やオリーブ畑をなぎ倒して土地を収用することもしばしばありました。
ひとたび居座ると、立ち退くことはありません。
ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地
パレスチナ問題は、局所的な場所で、2つの悲劇がぶつかり合っているように見えますが、実はイスラエルの背後にはアメリカが、パレスチナにはアラブ・イスラム世界がある。
世界の大きな対立の最前線みたいになってしまっていて、未だに解決が難しい状況が続いているんです。
問題のきっかけはイスラエル建国
そもそも、どうしてイスラエルは、この土地で建国されたんですか?
それを知るには、2000年前に歴史を遡る必要があります。
2000年!?
パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました。しかし、この国は2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。
このとき、ユダヤ人は、パレスチナを追い出されて世界に散り散りになります。これを「ディアスポラ」と言います。
2000年の迫害の歴史を経て…
その後パレスチナの土地の支配者は、歴史に応じて変わっていきますが、アラブ人、今で言うパレスチナ人が住み続けることになりました。
散り散りになったユダヤ人はどうなったんですか?
ヨーロッパや中東、アフリカで暮らすことになるんですね。
ただ、特にヨーロッパでは差別や迫害に苦しむことになります。
どうしてですか?
ユダヤ教の国で新しい教えを広めたのがイエス・キリストです。彼はユダヤ教の聖職者たちと対立し、十字架にかけられてしまいました。
だから、のちにヨーロッパでキリスト教が広がると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちとみなされ、差別や迫害の対象になってしまうんです。
そうなんですね。
ユダヤ人はそれぞれの土地で、普通の人がなかなか就かないような仕事に就かざるを得ませんでした。その代表例が金融業です。
中世ヨーロッパのキリスト教国の多くでは、お金を貸して利息をとることがいやしいこととされていたからです。
しかし、やがて金融業の需要が増すにつれ、その土地土地で富を握るようになります。
また、昔から自分たちの宗教を守るのに熱心で、子どもの教育にも力を入れてきました。
識字率が高く、知識階級の中でも影響力を持つようになります。
教育レベルが高くて、富を握っていて…というと、妬みもあるんでしょうか?
そうですね。いろいろなことが重なって、疫病などの災難が起きるとユダヤ人を迫害する、という歴史がずっと繰り返されてきた。
迫害が続く中、19世紀にユダヤ人たちの中で、かつて王国があったパレスチナの地に戻ろう、国をつくろうという運動が起こります。
これを「シオニズム運動」と言います。
でも、すでにパレスチナ人が住んでいますよね?簡単には戻れないような…
それが現実化してくるのが第1次世界大戦の時です。
イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持します」と約束して。
どうしてですか?
ユダヤ系の財閥、ロスチャイルドから資金援助を引き出そうという狙いです。
ユダヤ人の国をつくろうという動きを、利用したんですね…。
一方イギリスは、当時パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すため、アラブ人にも「オスマン帝国と戦えば、独立国家をつくろう」と約束します。
さらに盟友のフランスとは、この地域を山分けする密約も結んでいたんです。
相容れない約束ですね。
歴史上、悪名高い「三枚舌外交」と呼ばれるものです。
ユダヤ人にも、アラブ人にも国を認めると言って、その後の混乱を招く元凶になりました。
結局、オスマン帝国の領土は、イギリスとフランスが山分けすることになりました。
ユダヤ人は「だまされた」と思いつつ、パレスチナの地に移り住む動きを強めていきます。
そして、最後の決め手となったのが、ナチス・ドイツによるホロコーストです。
600万人のユダヤ人が殺害されました。
ユダヤ人というだけで、虐殺されたんですよね…
ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所
もう二度とユダヤ人が迫害されることはあってはならないと、悲願の国をつくる思いを強めていったんです。
ナチスの犠牲者になったユダヤ人への同情もあり、1947年には「パレスチナの地に国をつくらせてあげましょう」という国連決議が採択されました。
パレスチナ分割決議
1947年に国連総会が採択。パレスチナの地を、ユダヤ人とアラブ人の2国に分けたうえでエルサレムを国際管理下に置く。当時、この土地のユダヤ人が占める割合は、全人口の3分の1だったが、56%の土地が与えられることになった。
そして翌年には、ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言します。
2000年越しの思いでユダヤ人がつくった国が、イスラエルだったんですね。
でもパレスチナ側からすると、広大な土地を取られてしまう。反対はなかったんですか?
もちろん「勝手に国をつくられるのはおかしい」と反発しました。
建国の翌日(1948年5月15日)には周辺のアラブ諸国がイスラエルに攻め込みました。これが第1次中東戦争です。
イスラエルが「被害者」から「加害者」へ
イスラエルは、建国と同時だったので最初は苦戦したんですが、国連の分割決議で認められた土地は死守したんです。
その状態で国を少しずつつくっていくんですけど、パレスチナは相変わらず国にならない状態。
周辺のアラブ諸国は、イスラエルに対する憎しみを募らせながら緊張状態が続くわけですね。
中でも決定的だったのが、1967年の第3次中東戦争です。
第3次中東戦争でイスラエルは、パレスチナ人が住む場所とされてきた東エルサレムを含むヨルダン川西岸(ヨルダン領)とガザ地区(エジプト領)を占領して、国連の統治下にあったエルサレムの併合を一方的に宣言した。
イスラエルは、戦争前まで認められていた休戦ラインを越えて、国際法上、認められていないところまで占領したんです。
一線を越えてしまったということ?
そう。この時イスラエルは事実上「パレスチナ」と呼ばれていた土地のすべてを占領することになったんです。
パレスチナ人は住み続けていますが、イスラエルが占領政策を続けていくことになるんですね。
第3次中東戦争 進軍するイスラエル軍部隊
最初に話した入植地の建設も、これ以降加速します。
占領地での入植活動は、国際法に違反する行為です。
こうしたことから、それまで国際的には「被害者」とみられていたイスラエル、ユダヤ人が占領者となり、ある意味「加害者」としてみられるようになるんです。
結局25年間で4回も戦争が繰り返されるのですが、毎度イスラエルが軍事的に圧倒します
どうしてイスラエルは建国直後の状態で、アラブ諸国の連合軍に対抗できたのですか?
アメリカが武器の援助をしていたこともあるんですが、ユダヤ人の結束というか統率というか身を守ろうという執念というか…。
天才的な軍人が何人も現れて。のちのラビン首相とか、シャロン首相とかですね。
軍事的にものすごく優秀な人たちが、電撃作戦や奇襲作戦を駆使して数で勝るアラブの連合軍を撃退していくんですよね。
天才的な軍人が現れるのは、なぜなんですか。
そこをイスラエルには神の力が働いたと解釈する人もいます。
例えばエジプト軍がイスラエルに侵攻していた時に、イスラエル軍の戦車部隊を率いる指揮官だったのちのシャロン首相が、エジプト軍の補給路を断つんです。
それでエジプト軍が一気に総崩れになって、エルサレムを目前にして敗退しちゃうと。
ほかにも、いろいろ伝説的な展開がいくつかあって勝利を収めていくんですね。
こういったことも「土地を死守しなければならない」というナショナリズムをますます煽り立てることになっていくんです。
パレスチナの蜂起とテロ、世界に募る危機感
戦争に負け続けたアラブ側、パレスチナ側はその後どうなったんですか。
このままでは耐えられないと「インティファーダ」と呼ばれる住民の抵抗運動が広がっていきます。
住民がイスラエル軍に石を投げて抵抗するんですね。この運動がどんどん大きくなっていきました。
一方、パレスチナの外では、アラファト議長率いるPLO=パレスチナ解放機構という組織が各地でイスラエルに対する武装闘争を展開します。
パレスチナ・アラファト議長(当時)
ドイツのミュンヘンオリンピックで、イスラエル選手が襲われるテロもありました。
パレスチナの中でも外でも、反イスラエルの運動が起きてくると。
国際社会が、この問題を放置できない…という状況になっていきます。
そしてもう1つ、大きな動きがあります。1991年にイスラエルから遠く離れたイラクで起きた湾岸戦争です。
イラクがクウェートに侵攻したことがきっかけで起きた戦争ですね。
そう、それに対してアメリカを中心とした多国籍軍が当時のサダム・フセイン大統領をクウェートから追い出します。
フセイン氏は旗色が悪くなる中で「アラブの正義のためにパレスチナを解放する」と言い出して、はるか遠くのイスラエルにミサイルを数十発も発射したんです。
アラブ世界の同情を集めようとしたんですね。
突如、パレスチナ問題を持ち出した?
引きずり込んだというかね。
これをきっかけに国際社会から「パレスチナ問題を解決しないと何が起きるかわからない」と事態打開を求める声が高まります。
そして、その後の歴史的な合意=オスロ合意へと向かっていくことになるんです。
長く続いた対立を経て、共存への道を模索することになるイスラエルとパレスチナ。次回は双方が和平に向けて歩み出したオスロ合意から現在の状況に至るまでのいきさつを見ていきます。
編集:栗田真由子 撮影:田嶋瑞貴 』
※ 今日は、こんな所で…。
当翻訳は、法務省入国管理局による仮訳であり、正確には原文に当たってください。
また、今後当仮訳は精査の上、変更されることがあり得ることにご留意ください。
°
国別政策及び情報ノート インド:宗教的少数派
第2.0版2018年5月
https://www.moj.go.jp/isa/content/930003995.pdf
1
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
目次
分析……………………………………4
1•序論………………………………….4
1.1 申請の根拠……………………………..4
1.2 留意すべきポイント………………………….4
1.序論
1.1申請の根拠
1.1.1申請者がその宗教、又はダリット(Dalits:不可触民)の場合は特定の社会的集団
に属することを理由に国家若しくは非国家機関から迫害又は深刻な危害を加えられる恐怖。
1.2留意すべきポイント
1.2.1 本CPINは、主にキリスト教徒、イスラム教徒及びシク教徒の状況に焦点を当ててい
る(宗教的少数派を参照)が、ダリットとしても知られるスケジュールド•カースト
(Scheduled Castes)の状況に関する情報も提供している(スケジュールド•カースト(ダ
リット)を参照)。
1.2.2申請が却下される場合、その申請が2002年国籍、移民及び庇護法(Nationality,
Immigration and Asylum Act 2002)第94条に基づき「明らかに根拠のないもの」として
証明される可能性があるかどうかを検討しなければならない。これは、インドが同法に基づく指定国家としてリストに記載されているからである(証明を参照)。
2.問題の検討
2.1信憑性
2.1.I信憑性の評価に関する情報については、信憑性の評価及び難民地位の認定に関する
庇護指針を参照されたい。
2.1.2また、意思決定者は、庇護申請者が以前に英国査証又はその他の形態の在留許可を
申請しているかどうかを確認しなければならない。査証に一致する庇護申請は、庇護面接
を実施する前に調査しなければならない(査証の一致、英国査証申請者による庇護申請に
関する庇護指針を参照)。
2.1.3さらに、意思決定者は、言語分析テストを実施する必要性を検討しなければならな
い(言語分析に関する庇護指針を参照)。
2.2 特定の社会的集団(PSG : Particular Social Group)
2.2.1 ダリットは、国連難民条約における意味の範囲内での特定の社会的集団(PSG)を
4
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
形成する。なぜなら、ダリットは変えることのできない共通の特徴を有しており、また、
ダリットを取り巻く社会とは異なる集団として認識される独自のアイデンティティを有し
ているからである。
2.2.2 ダリットはPSGを形成するものの、これは、難民として認められるのに十分なもの
ではない。各事案で検討すべき問題は、特定の申請者がそのような集団に属していること
を理由に迫害を受けるという現実的なリスクに直面するかどうかということである。
2.2.3特定の社会的集団に関する詳細な指針については、信憑性の評価及び難民地位の認
定に関する庇護指針を参照されたい。
2.3リスク評価
2.3.1インドの総人口およそ13億人のうち、およそ2億人が宗教的少数派のメンバーである
他、およそ2億人がスケジュールド・カースト(ダリット)のメンバーである(人口を参照)〇
a.国家の取扱い
2.3.2インドは世俗的な共和国である。憲法及び他の連邦法は信教の自由を保護しており、
これは概ね政府によって尊重されている。法律は、イスラム教徒、シク教徒、キリスト教
徒、パールシー教徒(Parsis)及び仏教徒向けに「少数派コミュニティ」の地位を規定して
いる。法律は、政府がこれらの少数派の存在を保護し、その個々のアイデンティティを推
進するための条件の整備を促進すると定めている。また、諸州も宗教的少数派集団に少数
派の地位を与える権限を有している。グジャラート(Gujarat)州及びマハーラーシュトラ
(Maharashtra)州は、ジャイナ教(Jain)コミュニティとユダヤ教コミュニティをそれ
ぞれ認めてきているが、この点に関して。他に公認された集団はどの州にも存在しない。
このような集団は、公認されれば、複数の政府支援プログラムを利用することができるよ
うになる。しかしながら、一部の州の法律と政策は、ヒンドウ一教からの改宗に対して刑
罰を科す「改宗禁止」法の執行を含め、このような集団に対して制限的かつ差別的である
(法的背景及び改宗を参照)。
2.3.3 憲法はスケジュールド・カースト(ダリット)に対して積極的な行動(少数派優遇
措置)を取ることを認めているが、これはダリットがヒンドウー教徒、シク教徒又は仏教
徒の場合に限られる。ヒンドウー教徒ではないダリット、特にキリスト教徒やイスラム教
徒のダリットはヒンドウー教徒ダリット向けとして公式に確保された職や学校入学枠の対
象となる資格がないため、これらの集団は経済的及び社会的に見て著しく不利な立場に置
かれている。キリスト教徒やイスラム教徒が宗教的コミュニティのメンバーとしてアファ
5
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
ーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)を受ける資格を得ることができるかどう
かは、その社会的及び経済的地位を理由に「後進」諸階級のメンバーであるとみなされる
カゝどうカゝに力、カ、っている(スケジューノレド・カースト(ダリット)を参照)0
2.3.4政治家を含む官僚が公開講演を通じて宗教的少数派に対するコミュニティ間暴力を
扇動するという事件が発生している。また、キリスト教徒が逮捕、罰金、鞭打ち、強要、
収監、及び公共の場所で自らの信条を表現する行為に対する制限に直面しているという報
告が散発的に行われている。2008年にムンバイ(Mumbai)でテロ攻撃が発生して以来、
イスラム教徒はプロファイリング、罠および虚偽のテロ告発による勾留など、ますます警
察の標的とされるようになってきている。
2.3.5 宗教的少数派及びスケジュールド•カーストのメンバーは、一部の州において警察
の敵対行為や嫌がらせを含む差別を経験する可能性がある。しかしながら、一般に、その
性質や反復性から、このような人々が迫害又は深刻な危害を受けるという現実的なリスク
に直面するほど、この差別が十分に深刻であるとは考えにくい。
2.3.6各事案は、その事実関係に基づいて検討されなければならない。申請者がインドに
帰還した時点で迫害又は深刻な危害を加えられる危険があることを証明する責任は申請者
にある。
b.社会の取扱い
2.3.7 長年に亘って、キリスト教徒(オリッサ(Odisha)州[2007〜2008年])、イスラム
教徒(ウッタル・プラデーシュ(Uttar Pradesh)州[2013年]及びグジャラート州[2002年])
及びシク教徒(デリー(Delhi)連邦直轄地[1984年])などの宗教的少数派に対し大規模な
コミュニティ間暴力が散発的に勃発した。また、これより規模は小さくなるが、宗教的少
数派に対するヒンドウ一至上主義者(ヒンドウー •ナショナリスト)の虐待行為がウッタ
ル・プラデーシュ州、アーンドラ・プラデーシュ(Andhra Pradesh)州、ビハール(Bihar)
州、チャッティースガル(Chhattisgarh)州、グジャラート州、オリッサ州、カルナータ
力(Karnataka)州、マディヤ・プラデーシュ(Madhya Pradesh)州、マハーラーシュト
ラ州及びラージャスターン(Rajasthan)州で最も頻繁に発生する傾向がある。2016年と
2017年には、数百件のコミュニティ間暴力が記録された。しかしながら、宗教的少数派の
人口がおよそ2億人という状況を踏まえれば、事件数は人口規模に比して低いと言える。こ
れは、申請者が現実的なリスクを立証できる可能性は合理的に考えて高いとは言えないと
いうことを意味する(宗教的少数派一暴力及び差^!を参照)。
2.3.8キリスト教徒はインドの大半の地域において信教の自由を享受しており、その信条
6
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
を自由にかつ公然と表現することができている。しかしながら、キリスト教徒はヒンドウ
一至上主義者からの虐待(礼拝又は賛美に対する妨害、破壊行為、身体的暴力、脅迫及び
嫌がらせを含む)に直面している。これらの虐待行為は、ヒンドウ一教徒を強制的に改宗
させているキリスト教徒を非難して行われるのが通常である(ヒンドウ一至上主義、キリ
スト教徒一社会の取扱い及び改宗を参照)。
2.3.9イスラム教コミュニティのメンバーは、ヒンドウ一至上主義者による嫌がらせと攻
撃について報告している。ヒンドウー至上主義者は、イスラム教徒がテロリストであり、
パキスタンのためにスパイとして働き、ヒンドウ一教徒の女性を強制的に誘拐し、改宗さ
せ、結婚し、また、畜牛を屠殺することでヒンドウ一教徒を侮辱しているとして、イスラ
ム教徒を非難している(ヒンドウ一至上主義及びイスラム教徒一社会の取扱い及び改宗を
参照)0
2.3.10シク教徒に対するコミュニティ間暴力は、他の宗教的少数派に対するものほど頻繁
に発生していない。一部のシク教徒はヒンドウ一民族主義者から嫌がらせと圧力を受け、
その宗教的実践と信条を拒絶するよう迫られている(ヒンドウ一至上主義及びシク教徒一
社会の取扱いを参照)。
2.3.11 スケジュールド•カースト(ダリット)のメンバーは、たとえば社会的隔離、医療
や教育などのサービスを利用する際の困難さ、あるいは寺院参拝や結婚などの困難さなど、
広範に亘る差別に晒されている。ダリット•コミュニティに対する暴力の事件が報告され
ている他、スケジュールド・カーストのメンバーを使い、手作業で糞尿処理をさせる慣習
が依然 <として残っている(スケジュールド・カースト(ダリット)を参照)。
2.3.12異教徒間結婚をする者は、場合によってはその家族の不同意、社会的排斥又は家族
若しくはコミュニティからの暴力に晒される可能性がある。ヒンドウー教徒とイスラム教
徒の間の結婚はこれまで否定的な注目を集めてきており、一部の事例においては殺害を含
む報復的な暴力行為をもたらしている(異教徒間の結婚及び関係を参照)。
2.3.13宗教的少数派はインド全土に亘って住んでいるため、問題の規模に関する情報は漠
然としている。しかし、ヒンドウー至上主義者はインド総人口のごく 一部を占める小集団
にしか過ぎず、また、それ自体が多くの問題を抱えていることから、迫害を受ける十分な
恐れまでにはいたらないであろう。確かにコミュニティ間暴力は勃発するが、宗教的少数
派、異教徒間結婚をする者及びスケジュールド・カースト(ダリット)のメンバーは一般
に、差別や局所化された嫌がらせを時折受けるものの、その性質や反復性から、迫害又は
深刻な危害の原因になるほど十分に深刻な取扱いを受けるまでにはならない。
7
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
2.3.14しかしながら、意思決定者は、申請者を現実的なリスクに晒すような申請者固有の
特別な要因が存在するかどうかを検討しなければならない。ただし、各事案はその事実関
係に基づいて検討されなければならず、申請者がインドに帰還した時点で迫害又は深刻な
危害を加えられる危険があることを証明する責任は申請者にある。
2.3.15リスク評価に関する詳細な指針については、信憑性の評価及び難民地位の認定に関
する庇護指針を参照されたい。
2.4保護
2.4.1申請者の恐怖が国家による迫害及び/又は深刻な危害(これ自体が発生する可能性は
低い)にあり、当局の保護を受けることができない場合であっても、救済策がある。
2.4.2申請者の恐怖が非国家機関による迫害及び/又は深刻な危害にある場合、意思決定者
は国家が有効な保護を提供することができるかどうか評価しなければならない。
2.4.3 宗教的少数派及びスケジュールド・カースト(ダリット)のメンバーの権利を保護
し、コミュニティ間暴力に対処するために憲法の規定と法律が整備されている。こうした
法的保護が一般に執行されている一方、当局は一部の制限的な法律も施行している。しか
し、大半の場合、宗教的少数派又はダリットを攻撃する者を効率的かつ効果的に訴追して
いる(法執行及び補償及びスケジュールド・カースト(ダリット)を参照)。
2.4.4 少数派に関する国家委員会(National Commission for Minorities)、国家人権委員
会 (National Human Rights Commission) 及びマイ ノ リティ省 (Ministry of Minority
Affairs)は、宗教的差別の訴えを調査することができる。このような委員会は執行権限を
有していないものの、宗教的差別の訴えを調査し、その結果を法執行機関に提出して措置
を求める(政府の支援を参照)。
2.4.5インドでは刑事裁判制度が機能しているものの、警察の有効性と行動は州によって
異なる(国別政策及び情報:インドー背景(保護主体及び国内移住を含む)を参照)。警
察が宗教的少数派をコミュニティ間暴力から保護しなかった事例、又は攻撃に関して第三
者が提起した苦情を登録しなかった事例がある(法執行及び補償を参照)。
2.4.6しかしながら、国家は一般に宗教的少数派及びスケジュールド・カーストに対して
8
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
効果的な保護を提供する用意があり、また、提供することができる。しかしながら、各事
案はその事実関係に基づいて検討する必要がある。
2.4.7国家の保護を利用できるか否かを評価する際の詳細な指針については、信憑性の評
価及び難民地位の認定に関する庇護指針を参照されたい。
2.5 国内移住
2.5.1インドはおよそ13億人の人口を擁する広大な国であり、移動の自由は一般に制限さ
れていない(国別政策及び情報:インドー背景(保護主体及び国内移住を含む)を参照)〇
宗教的少数派コミュニティは国内全域で確認され、一部の州では多数派宗教を形成してい
る(人口を参照)。一般に各宗教集団は国内全土に亘り、隣り合わせで平和的に生活して
いる(宗教的少数派一暴力及び差別を参照)。
2.5.2 一般に、申請者が国内移住するのを見込むことは合理的であると考えられる。しか
し、各事案はその事実関係に基づいて検討すべきである。
2.5.3インドの国内移住に関する一般情報については、国別政策及び情報:インドー背景
(保護主体及び国内移住を含む)を参照し、申請者が女性の場合はインドージェンダーに
基づく危害/暴力に怯える女性を参照されたい。
2.5.4国内移住及び検討すべき要因に関する詳細な指針については、信憑性の評価及び難
民地位の認定に関する庇護指針を参照されたい。
2.6証明
2.6.1申請が却下される場合、その申請が2002年国籍、移民及び庇護法第94条に基づき「明
らかに根拠のないもの」として証明される可能性があるかどうかを検討しなければならな
い。これは、インドが同法に基づく指定国家としてリストに記載されているからである。
宗教的少数派のメンバーであることを理由に行われる申請は、「明らかに根拠のないもの」
として証明される可能性が高い。
2.6.2 証明に関する詳細指針については、「控訴手続きに関する指針:2002年国籍、移民
及び庇護法第94条に基づき、保護及び人権申請を(明らかに根拠のないものと)証明する
行為」を参照されたい。
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
国別情報
更新日:2018年4月16日
3•法的背景
3.1憲法
3.1.1インドは世俗的な国家であり、憲法は宗教を告白し、実践し、広める自由を規定し
ている。これは政府により概ね尊重されている。宗教を理由とする差別は、雇用に関する
ものを含め禁じられている。
3.1.2 米国国務省の「2016年国際的な宗教の自由に関する報告書」(US IRFレポート2016)
に記述されている通り、「憲法は、政府が宗教的少数派の存在を保護し、その個々のアイ
デンティティを推進するための条件の整備を促進すると規定している。」
3.2連邦法及び州法
3.2.1 連邦法及び州法は、「公共の秩序、倫理及び衛生」を条件として信教の自由を認め
ている。一部の州は改宗を制限した(改宗を参照)。
3.2.2 US IRFレポート2016は、次のように伝えている。
「連邦法は、政府に対し、コミュニティ間の緊張を招く宗教団体、テロリズム若しくは扇
動行為に関与する宗教団体、又は外国からの寄付を規定する法律に違反する宗教団体を禁
止する権限を与えている。
「連邦刑法は、宗教の団体やメンバーに害を及ぼす又は危害を加える行為を含め、『宗教
を理由として異なる集団の間に憎悪を播き立てる行為』及び『調和の維持を損なう行為』
を犯罪としている。また、刑法は、『その宗教又は宗教的信条を侮辱することにより、い
ずれかの階級の宗教的感情を否定することを目的とした意図的で悪意のある行為』を禁じ
ている。これらの規定のいずれかに違反した場合、3年以下の懲役刑若しくは罰金刑又はそ
の両方を科される。この犯罪が礼拝所で起きた場合、懲役期間は最長5年となる可能性があ
る(宗教的少数派一暴力及び差別を参照)。
3.2.3 US IRFレポート2016は、次のように記述している。
「連邦法は、6つの宗教団体ーイスラム教徒、シク教徒、キリスト教徒、パールシー教徒、
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
ジャイナ教徒及び仏教徒一に少数派コミュニティの地位を与えている。州政府は、特定の
地域において少数派となっている宗教団体に少数派の地位を与える権限を有しており、当
該州の法律に基づき対象となる宗教団体を少数派として指定している。グジャラート州政
府は[2016年]5月にジャイナ教コミュニティを宗教的少数派集団として法的に認め、[2016
年]6月にマハーラーシュトラ州政府はユダヤ教コミュニティを宗教的少数派集団として法
的に認めた。この地位により、両集団は複数の政府支援プログラムの対象となる資格が得
られる。
3.3畜牛屠殺禁止法
3.3.1インド憲法第48条は、畜牛の屠殺を禁じている。29州のうち、24州が畜牛屠殺を制
限又は禁止する法律を定めている。動物が雌牛、子牛、去勢された雄牛又は去勢されてい
ない雄牛かによって決まる刑罰は、州によって異なる。US IRFレポート2016に記述されて
いる通り、「..•懲役6か月〜2年及び/又は罰金1,000~10,000ルピー([US]$15~$151)の幅
がある。ラージャスターン州、パンジャーブ(Punjab)州、ハリャーナー(Haryana)州、
ヒマーチャル・プラデーシュ(Himachal Pradesh)州及びジャンムー ・カシミール(Jammu
and Kashmir)州は、畜牛屠殺者に2〜10年の懲役刑を科している。」
畜牛屠殺に関する制限及び禁止が宗教的少数派にどのような影響を及ぼすのかに関する詳
細な情報については、宗教的少数派一暴力及び差別及びイスラム教徒一社会の取扱いを参
照されたい。
3.4身分法
3.4.1 US IRFレポート2016は、次のように記述している。
「身分法は、結婚、離婚、養子縁組及び相続に関して、特定の宗教コミュニティのみに適
用される。政府は身分法の起草に関して身分法審議会に大きな自律性を与えている。身分
法審議会の委員は、コミュニティの指導者たちにより選出される。正式なプロセスは一切
存在せず、選出過程はコミュニティ間で異なる。ヒンドウ一教、キリスト教、パールシー
教及びイスラム教の身分法は法的に認められており、司法的に執行することができる。し
かしながら、これらの法律は国家及び州レベルの法的権限又は憲法規定に優先するもので
はない。身分法審議会が納得の行く解決策を提供できない場合、事案は民事裁判所に付託
される。
3.4.2シク教徒、ジャイナ教徒及び仏教徒は憲法の下でヒンドウー教徒とみなされる。国
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
際的な宗教の自由に関する米国委員会(USCIRF : US Commission on International
Religious Freedom)は、2016年の出来事を対象とする2017年年次報告書(USC1RFアニ
ユアルレポート2017)の中で、「この結果、これらの宗教のメンバーはヒンドウー身分法
(Hindu Personal Status Laws)の対象となり、他の少数派コミュニティが利用できる社
会サービス又は雇用及び教育選択権へのアクセスを拒絶されている。」と伝えている。
4•人口統計
4.1人口
4.1.1 インドの総人口は、2017年7月現在でおよそ13億人と推定されており、このうちお
よそ2億人が宗教的少数派集団のメンバーである。
4.1.2 US IRFレポート2016は、インドの2011年国勢調査によるとして、次のように伝え
ている。
「ヒンズー教徒は総人口の79.8パーセント、イスラム教徒は14.2パーセント、キリスト教徒
は2.3パーセント、シク教徒は1.7パーセントをそれぞれ構成している。合算しても人口の1
パ・—セントに満たない集団には、仏教徒、ジャイナ教徒、ゾロアスター教徒[Zoroastrians]
(パールシー教徒)、ユダヤ教徒及びバハーイー教徒(Bahais)が含まれる。民族省(Ministry
of Tribal Affairs)は政府統計において、歴史的にカースト制度の外側にあってしばしばア
二ミズムや土着の宗教的信条を実践する先住民集団であるスケジュールド•ダリットのメ
ンバー1億400万人以上をヒンズー教徒として正式に分類している。」
4.1.3同じ情報源は、「同じ政府推計値によると、ウッタル・プラデーシュ州、ビハール
州、マハーラーシュトラ州、西ベンガル(West Bengal)州、テランガーナ(Telangana)
州、カルナータカ州及びケーララ(Kerala)州には大規模なイスラム教徒少数派集団が存
在する。イスラム教徒はジャンムー ・カシミール州において人口の68.3パーセントを構成す
る。同州はイスラム教徒が人口の大半を構成する唯一の州である。イスラム教徒の85パー
セント強がスンニ派、残りの大半はシーア派である。」と追記している。
4.1.4 US IRFレポート2016は、「キリスト教徒人口は国内全域で確認されるが、北東部諸
州及びケーララ州、タミル•ナードウ(Tamil Nadu)州、ゴア(Goa)州などの南部諸州
により多く集中している。北東部に位置する小さな3州には、次の通り大規模なキリスト教
徒多数派が存在している。ナガランド(Nagaland)州(90パーセント)、ミゾラム(Mizoram)
州(87パーセント)、メーガーラヤ(Meghalaya)州(70パーセント)」と伝えている。
マイノリティ・ライツ・グループ・インターナショナル(MRG : Minority Rights Group
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
International)と社会・世俗主義研究センタ ー (CSSS : Center for Study of Society and
Secularism)の2017年6月付共同報告書は、実質ベースで見れば最大のキリスト教徒人口を
擁する州はケーララ州及びタミル・ナードウ州であるものの、ミゾラム、ナガランド、メ
ーガーラヤ、アルナーチャル・プラデーシュ(Arunachal Pradesh)の4州においてキリス
卜教徒は多数派を構成していると伝えている。
4.1.5 シク教徒はおよそ1,600万人であり、パンジャーブ州人口の54パーセントを構成して
いる。
4.1.6 2016年の出来事に関して報告した国際的な宗教の自由に関する米国委員会
(USCIRF)レポート2017は、「ダリットは公式に2億人以上と推定されている。」と伝えて
いる。マイノリティ問題に関する特別報告官の「カースト制に基づく差別に関する2016年
報告書」は、「この数値には、ヒンドウ一教以外の宗教へ改宗したダリット(イスラム教徒
ダリットなど)やヒンドウ一教以外の宗教コミュニティ(キリスト教コミュニティなど)
で生まれ育ったダリットが含まれていない。非公式な統計の推計値によると、インドにお
けるダリットの実際の数は遥かに多い。」と記述している(スケジュールド・カースト(ダ
リット)を参照)。
5,宗教的少数派
5.1 ヒンドウー至上主義
5.1.1 2016年の出来事を対象にしたUSCIRFアニュアルレポート2017は、次のように伝え
ている。
「ラシュトリア・スワヤムセヴァン・サンフ(RSS : Rashtriya Swayamsevak Sangh)、
サンフ・パリバ(Sangh Parivar)、世界ヒンドウー協会(VHP : Vishva Hindu Parishad)
といったヒンドウー至上主義者集団及びその共鳴者は、宗教的少数派コミュニティとヒン
ドウー教徒ダリットを標的とした威嚇、嫌がらせ及び暴力事件を多数起こした。これらの
人権侵害行為は、インド29州のうち10州で最も頻繁に行われ、かつ、最も深刻であった。
改宗、畜牛屠殺及び非政府機関(NG0)の外国資金調達を制限する連邦法及び州法、及び
シク教徒、仏教徒、ジャイナ教徒をヒンドウー教徒とみなす憲法規定が、これらの侵害行
為を可能にする状況を生み出す要因となった。ナレンドラ•モディ(Narendra Modi)首
相はコミュニティ間の寛容性と信教の自由の重要性を公然と口にする一方、与党メンバー
は信教の自由を侵害する行為に関与しているヒンドウ一至上主義者集団と繋がりがあり、
緊張関係を煽る目的で宗教的に対立させるような言語を使用し、信教の自由を制限するよ
うな追加法を制定するよう要求した。これらの問題は、長期に亘る問題となっている警察
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
及び司法の偏見や能力不足とともに、罪を犯しても処罰されないという傾向が広がる原因
を生み出してきている。宗教的少数派はこうした傾向にますます不安を募らせており、宗
教的動機に基づく犯罪が発生しても訴えるべき手段が一切ない。」
5.1.2 USCIRFTニュアルレポート2017は、次のように追記している。
「BJP [与党のインド人民党(Bharatiya Janata Party) ]、RSS、サンフ・パリバ及びVHP
は、インドをヒンドウ一至上主義及びヒンドウー価値に基づくヒンドウ一国家にしようと
するヒンドウトヴァ[Hindutva] (「ヒンドウー性」)の思想に賛同している。この思想を
忠実に守る複数の個人及び集団は、宗教的少数派に対して暴力、差別的行動及び宗教的動
機に基づく修辞表現を利用して恐怖の環境を作り上げ、非ヒンドウー教徒がインド国内で
は歓迎されていないと感じるようにすることで知られている。」
5.1.3 2017年2月付USCIRFレポートは、「インド全域にある多くの宗教コミュニティが
恐れていた通り、急進的なヒンドウー至上主義者運動が主導する脅迫、憎悪犯罪、社会的
ボイコット、礼拝所の冒流行為、襲撃及び強制改宗などの事件はBJP主導政権の下で劇的に
増加した。」と記述している。
5.2暴力及び差別
5.2.1 米国に拠点を置くシンクタンクのピュー研究センター(Pew Research Center)は、
世界各国における宗教への制約状況に関する2015年調査報告書で、宗教に関係する一部の
政府制約と社会的敵対感情が全体として最も高いレベルにある国の一っとしてインドを挙
げている。同報告書は、次のように記述している。
「しかしながら、これらの制約や敵対感情は必ずしもこれらの国々の宗教団体や市民に等
しく影響を及ぼすわけではないことに留意することが肝要である。これらの政策及び行動
により特定の集団又は個人が他者よりも頻繁に標的となる可能性がある。…特に、インド
のような大国においては、地域間で嫌がらせのレベルに重要な差異が見られることが多く、
これらの国々で生活する人々の大半は、おそらく嫌がらせを直接経験することはなかった
であろう。しかし、この分析は、地理的な分布状況、あるいは地理的な分布の欠如が、ど
のような形で特定の集団に及ぼす嫌がらせの影響度合いを強める可能性があるかをまさに
実証している。」
5.2.2 USCIRFTニュアルレポート2017は、宗教的な寛容と自由のレベルが2016年を通じ
て低下し続けたと記述している。同報告書によると、
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
「…インド政府は宗教的調和及びコミュニティ間調和を維持し、少数派コミュニティを虐
待から保護し、犯罪が起きた際には裁きを与えるために苦闘してきた。インドは、ウッタ
ル・プラデーシュ州(2013年)、オリツサ州(2007-2008年)、グジャラート州(2002年)
及びデリー(1984年)でそれぞれ起きた事件を含め、宗教的少数派に対する大規模なコミ
ユニティ間暴力の勃発を定期的に経験してきている。•.•これらの大規模なコミュニティ間
暴力や宗教的少数派に対するヒンドウー至上主義者の小規模な虐待行為は、インドの10州
ーウッタル・プラデーシュ州、アーンドラ・プラデーシュ州、ビハール州、チャッティー
スガル州、グジャラート州、オリッサ州、カルナータカ州、マディヤ・プラデーシュ州、
マハーラーシュトラ州及びラージャスターン州ーで最も頻繁に発生する傾向がある。これ
らio州のうち少なくとも一部の州では、宗教の自由に対する侵害行為が組織的、継続的に
かつ甚だしいレベルで行われており、インドをCPC [Country of Particular Concern :特に
懸念される国]の地位にまで押し上げているように窺える。」
5.2.3 同報告書は、次のように追記している。
「2016年には大規模なコミュニティ間暴力が起きなかったものの、インド政府の連邦内務
省(Union Ministry of Home Affairs)は2017年1月、2016年の最初の5か月間でコミュニ
ティ間暴力が278件発生したと報告した。2016年、政府の「少数派に関する国家委員会」は
このような事件に関して少数派から1,288件の苦情を受理した。これは、2015年の2,000件
から減少している。しかしながら、宗教的少数派、特にキリスト教徒とイスラム教徒は
USCIRFに対し、事件数は増加しているが、少数派はそれらを届け出ることを恐れており、
又は届け出ても意味がないと考えている、と報告した。」
5.2.4 USCIRFTニュアルレポート2017の中で引用されている通り、USCIRFコミッショ
ナーのテンジン・ドルジ(Tenzin Dorjee)は、インドにおける宗教の自由に関する追加発
言の中で、「全体として見れば、私はインドにおいて信条間の宗教的調和を観察し、経験
してきた。とは言うものの、インドは異教徒間紛争や政治を理由とするコミュニティ間暴
カの勃発を含め、宗教を取り巻く問題の多い状況に有効に対処しなければならない。私は
如何なる形態の暴力も容赦しないが、インドが多信条の姿勢を保ち、世界第2位の人口を擁
していることを踏まえれば、このような暴力が断続的に勃発することは理解できる。」
5.2.5 2017年6月付MRG/CSSS報告書は、宗教的少数派が特にコミュニティ間暴力の脅威
に晒されやすいと伝えている。同報告書は、「公式データにより、2016年のみで700件以上
ものコミュニティ間暴力が勃発し、86人が死亡、2,32I人が負傷したことが明らかになって
いる。しかしながら、事件の多くは報告されずに終わるため、実際の数値はこれよりも遥
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
かに多い可能性が高い。」と記述している。
5.2.6 2017年の政府統計によると、インド全域に亘って起きた822件の宗派間暴力で111
人が死亡した他、少なくとも2,384人が負傷した。アジアのカトリック系独立通信社である
UCAニュースが報じたところによると、これは過去3年間で最も高い数値である。同報道に
よると、宗派間事件はウッタル•プラデーシュ州で最も多く報道されており、宗教に基づ
く暴力事件が195件起き、44人が死亡、452人が負傷した。
5.2.7インドにおける宗教的少数派の法律に関して伝えた2017年2月付USCIRFレポート
によると、インドは1947年の独立以来、民主的、世俗的及び多元的な社会であったにもか
かわらず、近年においては、
「…宗教的少数派はその権利が損なわれていくのを目の当たりにしてきた。インド政府は、
連邦及び州レベルで、宗教的少数派の権利を保護するという憲法上での政府の誓約を無視
することが多い。少数派コミュニティの宗教の自由を侵害するために連邦法及び州法が利
用されている。しかしながら、法律についてはほとんど何も知られていない。宗教的少数
派に対する暴力、差別、強制改宗及び宗教的少数派を標的にした嫌がらせと威嚇の事案が
増加している環境は決してインドにおける新たな現象ではなく、インド国民会議(Congress
Party)政権やインド人民党(BJP)政権の下でも発生していた。」
5.2.8 また、USCIRFアニュアルレポート2017は、「また、宗教的少数派コミュニティの
報告によると、ヒンドウ一至上主義集団はヒンドウー教徒に対し、イスラム教徒若しくは
キリスト教徒が所有する事業をボイコットし、財産を貸与するのを拒絶し、雇用を拒絶す
るよう公然と促している。」と伝えている。
5.2.9 US IRFレポート2016は、次のように伝えている。
「宗教的動機に基づく殺害、襲撃、暴動、宗教を実践し、改宗を勧める権利に対する制限、
差別及び財産に対する攻撃などの事件が数百件報告されている。最も頻繁に標的とされた
集団は、イスラム教徒とキリスト教徒であった。畜牛保護集団(そのメンバーの多くは畜
牛を屠殺し、牛肉を食す行為は母性を表すヒンドウーの神々に対する攻撃であると信じて
いる)は、牛肉の消費者又は牛肉産業に従事する人々に対して殺害、鞭打ち、嫌がらせ、
威嚇を含む暴力的な攻撃をますます頻繁に行った。」
5.2.10 2017年2月付USCIRFレポートは、次のように記述している。
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
「インドにおける畜牛屠殺は、ヒンドウ一社会、イスラム社会及びダリット社会の間に緊
張関係をもたらす永続的な源となったままである。畜牛屠殺の禁止は、宗教的少数派の活
動家から「食物のファシズム」と形容されることが多い。牛肉はダリット、キリスト教徒、
イスラム教徒を含む様々な少数派コミュニティにとって必要不可欠な栄養源である。これ
らのコミュニティのメンバーは、畜牛輸送業界及び牛肉業界(食物消費のための屠殺、品
目の運搬、皮革製品の製造を含む)で働いている。イスラムの祝祭であるイード・アル=
アドハー (Eid-ul-Adha)で牛を含む動物を屠殺する儀式もまた、イスラムにおいて絶対必
要な慣行である。」
イスラム教徒一社会の姿勢も参照されたい。
6.キリスト教徒
6.1国家の取扱い
6.1.! 世界中のキリスト教徒を支援するアイルランドの独立慈善基金であるチャーチ・イ
ン・チェインズ(Church in Chains)は、ウラクタスOireachtas外
務・貿易・防衛に関する共同委員会(Joint Committee on Foreign Affairs and Trade and
Defence)向けとして、インドで2017年7月から12月にかけて発生したキリスト教徒に対す
る攻撃を説明した報告書を作成した。この報告書は、インド国内情報源及び国際情報源が
提供する公的に入手可能な報告書を分析し、編集されている。同報告書は、「インドでは、
キリスト教徒は州当局から逮捕、罰金、鞭打ち、収監、集会及び公的な場所での信条の表
現の禁止という形態での迫害に直面している。」と伝えている。
6.1.2 2017年上半期に発生した57件のキリスト教徒虐待事件をサンプルとして、チャー
チ•イン•チェインズは警察が強要し、暴力を加え、逮捕し、無実の罪で起訴し,礼拝や集
会を阻止したと伝えられている事案を文書化し、報告した。この報告書によると、警察は
キリスト教徒を攻撃した加害者を逮捕することは稀であった。しかしながら、同報告書は
警察がキリスト教徒に保護を与えた事例も引用している。
6.1.3 CPITは、本書を執筆している時点で、本ノートを編集する際に照会した情報源から、
国家がキリスト教徒をどのように扱ったかについての更なる情報を見出すことができなか
った—情報源の全リストについては参考文献を参照されたい。
6.2社会の取扱い
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
6.2.1 チャーチ・イン・チェインズの報告書は、次のように伝えている。
「キリスト教徒は、インド共和国の多くの地域で自由を享受しているが、一部の地域にお
いては迫害に直面している。近年、ヒンドウトヴァ(ヒンドウ一至上主義)の興隆ととも
に宗教的不寛容の流れが強まってきている。ヒンドウトヴァの信奉者は「一つの国家、ー
つの宗教、一つの文化」というスローガンを用いており、キリスト教徒とイスラム教徒を
外国宗教の信奉者であるとみなしている。キリスト教徒に対するヒンドウトヴァ信奉者の
暴力には、キリスト教徒を死亡させる又はキリスト教徒に重傷を負わせるような教会建物
の焼き討ち、財産の損壊及び暴力的な攻撃が含まれている。侵入者は礼拝を中断させ、礼
拝者を殴打し、警察に電話してキリスト教徒を「改宗の強要」という無実の罪で逮捕させ
るのが一般的である。」
6.2.2 USCIRFアニュアルレポート2017によると、
「多くの宗派に亘るキリスト教コミュニティは、2016年に起きた嫌がらせや攻撃に係る多
数の事件を報告した。このような事件はBJPの支援を受けたヒンドウ一至上主義者集団によ
るものであるとキリスト教コミュニティはみなしている。2017年初め、NGOのオープン・
ドア(Open Doors)は、2016年1月から10月にかけてインドで週当たり10度、教会が全焼
し、牧師が殴打されたと推定した。この数は2015年に同NGOが報告した事件数の3倍に相
当する。
「これらの事件はしばしば、キリスト教徒が勧誘やヒンドウ一教の侮辱を通じて強制的に
ヒンドウ一教徒を改宗させているという疑い又は訴えに基づいて起きている。たとえば、
2016年3月、チャッティースガル州のペンテコステ派(Pentecostal)教会で礼拝していた
およそ60人のキリスト教徒がヒンドウー急進派から暴力的な攻撃を受けた。ヒンドウー急
進派はこれらキリスト教徒がヒンドウ一教徒を改宗させようとしていたと思い、この事態
となった。教会の財産は破壊され、教区メンバーは殴打され、教区の女性メンバーは裸に
された上、殴打された。2016年4月、ビハール州のペンテコステ派コミュニティは、ヒンド
ウー教徒を改宗させようとしたと疑われ、襲撃された。30人の教会礼拝者と複数の牧師が
殴打された。ある牧師は誘拐され、数時間に亘って拷問を受けた後に釈放されたと伝えら
れている。報道によると、このコミュニティは襲撃の調査を求める要請書を提出しなかっ
た。2016年7月、マディヤ・プラデーシュ州ガドラ(Gadra)村落でヒンドウー過激主義者
がヒンドウー教徒を改宗させようとしていたとされるペンテコステ派のRamlal Kori牧師
とその友人を誘拐した。牧師たちは森へ引きずり込まれ、棒で殴打された。事件が起きて
から8時間後に警察は木に繋がれている2人を発見した。当局は襲撃者を逮捕せず、州の改
宗禁止法に基づきこのキリスト教徒たちを勾留したが、後に釈放した。報道によると、こ
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
の牧師は襲撃の調査を求める要請書を提出しなかった。
6.2.3また、USCIRFTニュアルレポート2017は、「キリスト教徒は米国から派遣された
スパイであり、また、強制改宗を通じてヒンドウ一教を衰えさせ、インドをキリスト教国
にしようとする西欧帝国主義者であるとヒンドウ一至上主義者集団のメンバーは主張して
いる。」とも伝えている(改宗も参照)。
6.2.4 チャーチ・イン・チェインズの報告書は、2016年にインドキリスト教団体から441
件の事案が報告され、2017年の上半期には410件が報告されたと伝えている。しかしながら、
実際の事件数はこれより遥かに多いとチャーチ•イン・チェインズは考えている。同報告
書は、2017年上半期中に発生したキリスト教徒虐待事案の例として57件を記録している。
6.2.5 インド福音主義協会(EFI: Evangelical Fellowship of India)の報告によると、2017
年にはキリスト教徒に対する暴力事件が少なくとも351件発生した。しかし、大半の事案は
届け出られないまま終わっていると同協会は追記している。最も多くの事件数が記録され
ている州はタミル・ナードウ州(52件)、次いでウッタル・プラデーシュ州(50件)、チ
ャッティースガル州(43件)、マハーラーシュトラ州(38件)、マディヤ・プラデーシュ
州(36件)と続いている。記録されている事件の種類として、とりわけ、身体的暴力、脅
迫及び嫌がらせ、礼拝又は賛美の妨害、虚偽の告発及び破壊行為が挙げられる。同報告書
は、過少報告の理由として「・..被害者が恐怖に襲われていることあるいは特に北部諸州の
警察が単に目をつぶり、必須の犯罪被害証明書(First Information Report)の作成を拒否
することなどが挙げられる。[…]再分類されたデータは入手できず、村落や小さな町の刑
事裁判制度は法律の条項を日常的に無視し、又は法律の条項に違反している。」と伝えて
いる。
6.2.6 2017年6月付MRG/CSSS報告書は、「近年のキリスト教徒に対する暴力はチャッテ
イースガル州、マディヤ・プラデーシュ州、ウッタル・プラデーシュ州及びテランガーナ
州に集中していると伝えられている。キリスト教徒はこれらの全ての州において小規模な
少数派を形成している。」と記述している。
7.イスラム教徒
7.1国家の取扱い
7.1.1 USCIRFTニュアルレポート2017は、「ヒンドウー至上主義者集団と繋がりがある
ことで知られているBJPの党員は…イスラム人口の成長はヒンドウー教徒が多数派を占め
る状況を崩そうと試みていると主張することにより宗教間の緊張関係を煽っている。2016
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日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
年、ヨギ・アティティナート(Yogi Adityanath)やサクシ•マハラジ(Sakshi Maharaj)
など高位にあるBJP議員は、イスラム人口を制御する法律を制定するよう要請したと伝えら
れている。2016年4月、ヨギ・アディティナートはイスラム教徒に対し、インドを離れて「シ
ャリーア(Shariat) J法が実践されている国へ行くよう公然と促した。」と伝えている。
7.1.2 MRG/CSSS報告書は、次のように伝えている。
「イスラム過激派によるテロ攻撃、特に2008年にムンバイで襲撃事件が起きた後、イスラ
ム教徒はプロファイリング、罠及び違法活動防止法(UAPA : Unlawful Activities
Prevention Act)などのテロ禁止法を隠れ蓑とした虚偽のテロ告発による勾留など、ますま
す警察の標的とされるようになってきている。また、イスラム教徒は、特にジャンムー・
カシミール州において州当局による暴力の標的にもなっている。同州では、市民社会グル
ープが警察による組織的かつ広範な人権侵害行為(恣意的逮捕、拷問及び超法規的殺害を
含む)を記録してきた。インド・パキスタンの分離独立以来、インド国内のイスラム教徒
がコミュニティ暴動の最も深刻な形態に晒されてきたのはこのような広範な文脈を背景に
している。多くの場合、暴力は官僚の不作為(保護の欠如又は司法アクセスの欠如)によ
り又は共謀(たとえば、憎悪発言を通じたもの)によってさえも可能となり、積極的に行
われた。」
7.1.3 2017年8月、インド最高裁判所はトリプル・タラク(triple talaq) ーイスラム教徒
の男性は「タラク(離婚)」という言葉を3回唱えるだけで直ちに離婚することができると
いう慣行一は違憲であると判示した。この判決は、イスラム教徒女性の生活にプラスの影
響を及ぼすため、女性の権利グループから歓迎された。
7.1.4 2018年3月、国際的な人権NGOであるヒューマン•ライツ•ウォッチ(HRW: Human
Rights Watch)は、「複数のBJP上級幹部は、イスラム教徒の男性がインドをイスラム教
徒が多数派を占める国にするという陰謀の一環としてヒンドウ一教徒の女性を誘拐し、強
姦し、又は誘惑しているという根拠のない主張をして、イスラム教徒の男性に対する恐怖
心を煽ることにより、宗教的少数派に対する憎悪犯罪を繰り返し扇動していると伝えられ
ている。」と伝えている。
7.2社会の取扱い
7.2.1 MRG/CSSS報告書は、イスラム教徒がコミュニティ間暴力によって不釣り合いに影
響を受けていると示唆している。
20
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
7.2.2 USCIRFZニュアルレポート2017によると、
「過去1年間において、ヒンドウ一至上主義者(地元及び州のBJP[与党のインド人民党]党
員を含む)がイスラム教徒に対して嫌がらせと暴力的な攻撃を加えているという報告が多
数行われた。イスラム教コミュニティのメンバーは、虐待者たちがしばしばイスラム教徒
をテロリストであり、パキスタンのためにスパイ行為を働き、ヒンドウ一教徒の女性を強
制的に誘拐し、改宗させ、結婚し、また畜牛を屠殺することでヒンドウ一教徒を侮辱して
いるとして非難することが多いと報告している。イスラム教コミュニティのメンバーは、
社会と警察の偏見やRSS [ラシュトリア・スワヤムセヴァン・サンフ-ヒンドウー至上主義
者集団]による司法上の威嚇を理由に、このような虐待行為を届出ることは稀である。J
7.2.3 ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、2017年の出来事を対象とするワールド
レポート2018の中で、次のように伝えている。
「与党のBJPと関係があるヒンドウー過激派集団が少数派コミュニティ、特にイスラム教徒
を標的として行う暴徒襲撃は、イスラム教徒が牛肉のために畜牛を売買し又は屠殺したと
いう噂が流れる中、2017年を通じて継続された。警察は、襲撃者に対して法的措置を講ず
ることはせず、むしろ畜牛屠殺を禁じる法律に基づき被害者を相手として告訴することが
多かった。11月現在、2017年を通じてこのような襲撃が38件あり、10人が死亡している。
「[2017年]7月、ナレンドラ・モディ首相が最終的にそのような暴力を非難した後でも、BJP
の系統機関であるラシュトリア・スワヤムセヴァン・サンフ(RSS)は、『畜牛密輸とラブ・
ジハード(愛によるジハード)を制御する』ため、5,000人の『宗教兵士』を募集する計画
を発表した。いわゆるラブ・ジハードとは、ヒンドウー集団によるとイスラム教徒の男性
が企む陰謀のことで、ヒンドウ一教徒の女性と結婚し、その女性をイスラム教に改宗させ
るというものである。」(異教徒間の結婚及び関係ーヒンドウー教徒及びイスラム教徒を
参照)〇
7.2.4 世界最大の国際人権NGOであるアムネスティ・インターナショナル(Amnesty
International)は、「畜牛保護自警集団」による襲撃を受けて逮捕が行われたものの、有
罪判決については一切報告されていないと伝えている。同情報源は、「[2017年]9月、ラー
ジャスターン州警察は、酪農家で本人が死亡する前に容疑者の名前を挙げたPehlu Khanを
殺害した容疑者6人の疑いを晴らした。複数のBJP職員が襲撃を正当化するように見える陳
述を行った。最高裁判所は9月、州政府は畜牛保護自警集団の暴力の被害者に補償する義務
を負うと語った。」と伝えている。
21
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
7.2.5 BBCニュースは2017年7月、「イスラム教徒の男性たちが、大半はBJPが支配する
州で、牛肉を保存していたとして、また、ある事例では異教徒カップルの駆け落ちを手助
けしたとして、ヒンドウ一教徒の暴徒に殺害された。」と報じた。BBCインドの特派員が
歴史家のサンジャイ・スブラフマニャム(Sanjay Subrahmanyam)に話を聞いた。同氏は、
相次ぐ自警団の暴力を『散発的かつ非組織的』と形容し、これらの暴力が起きているのは、
一つの理由として『…政党及びラシュトリア・スワヤムセヴァン•サンフ(RSS)、バジ
ラング・ダル(Bajrang Dal)、ヴィシュワ・ヒンドウー ・パリシャドのような一連の過激
派ヒンドウー集団が存在しているからである。同種の集団が多くのイスラム社会にも存在
しており、このように行動している。』と語った。」と報じている。ナレンドラ・モディ
首相が畜牛保護の名の下に殺人を犯すことは「受け入れられない」と発言したにもかかわ
らず、そのわずか数時間後にイスラム教徒の男性が車で牛肉を運んだと非難した暴徒によ
り殺害されたと伝えられている。スブラフマニャムはBBCに対し、「『.••連邦政府と一部
の州政府はこれら[暴力行為]に目をつぶり又はこれらを可能にしている。もちろん、こうし
た行為は法のルールを直接弱体化させている。』と語った。」
7.2.6 MRG/CSSS報告書は、2016年1月から2017年4月にかけて発生した畜牛自警主義に
関係するコミュニティ間暴力の事件を数件引用している。同報告書は、大半の事案の場合、
加害者は処罰されずに終わる一方、被害者とその家族は畜牛屠殺禁止法に基づく訴訟に直
面することが多いと伝えている(畜牛屠殺禁止法を参照)。
7.2.7十分な住宅に関する国連特別報告官の2017年1月付報告書は、次のように伝えてい
る。
「住宅に関して見られるイスラム教徒への差別は、国内の様々な地域で様々な形態を取る。
たとえば、首都における民間の賃貸住宅の利用に関する調査により、イスラム教徒(及び
ダリッ]、)に対する差別は時折、住宅利用に対する障壁となり得ることが明らかになって
いる。民間の家主、不動産業者及び不動産ディーラーは、イスラム教徒である者に住宅を
賃貸することを拒否する又は不公正は条件を課すことが多い。特別報告官は、国内の一部
の地域において、イスラム教徒は近隣を離れ、他のイスラム教徒が住む場所(非公式な定
住地であることが多い)へ移動せざるを得ないように感じていると伝えられた。特別報告
官は、そのような定住地を視察したが、過密状態、衛生施設や電力の欠如、ゴミの収集が
行われない状況などにより生活環境は最悪であった。」
8.シク教徒
8.1国家の取扱い
8.1.1 USCIRFコミッショナーのテンジン・ドルジーは、USCIRFTニュアルレポート
22
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
2017で引用されている通り、インドにおける宗教の自由に関する追加発言の中で、「シク教
徒の宗教要件に関して、シク教徒は刈り込まれていない髪にターバンを着用してインド国
内を自由に移動することができる。また、インド憲法第25条は、シク教徒が宗教用具とし
てキルパン(kirpan)を携帯することを合法であるとみなしている。」と述べている。
8.1.2 US IRFレポート20161こよると、「法律は、シク教徒の婚姻登録を認めている。しか
しながら、身分法の下ではシク教徒に関して離婚条項はなく、シク教徒に係る他の身分関
係事項はヒンドウ一法の範疇に入る。宗教の如何を問わず、誰であっても法律に基づき民
事裁判所で離婚を求めることができる。」
8.2社会の取扱い
8.2.1 MRG/CSSS報告書は、シク教徒に対するコミュニティ間暴力の事件は他の宗教的総
宗派に対するものほど頻繁に起きていないと伝えている。
8.2.2 USCIRFアニュアルレポート2017は、次のように伝えている。
「ヒンドウー至上主義者はしばしばシク教徒に嫌がらせをし、シク教固有の宗教的実践(刈
り込まれていない髪のままでシク教徒衣装を着用し、キルパンなど必須宗教用具を携帯す
るなどーこれらの実践はインド憲法により保護された権利である)と信条を拒絶するよう
圧力をかけている。インド憲法第25条は、シク教徒をヒンドウー教徒とみなしている。こ
れにより、シク教徒について、ヒンドウ一教を拒絶し、インドの敵であるとヒンドウ一至
上主義者がみなす環境が生み出されている。ヒンドウー至上主義者がこのように捉えるの
は、一部のシク教徒がインド国内にシク教徒のための新たな国を樹立し、シク教を独立し
た信条として法的に完全認識させることを求めるカリスタン[Khalistan](シク教徒の国の
意)政治運動を支持しているからである。」
9.異教徒間の結婚及び関係
9.1法律
9.1.1 US IRFレポート2016は、次のように伝えている。
「連邦法は、[1954年特別婚姻法に基づき].異教徒カップルが改宗せずに結婚することを認
めている。異教徒カップルは、民事婚で結婚する全てのカップルと同様に、結婚する30日
前までに公告(住所、写真及び信仰している宗教に関する情報の提供を含む)を出し、パ
ブリック•コメントを求めなければならない。しかしながら、信仰する宗教以外の人と結
23
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
婚するヒンドウー教徒、仏教徒、シク教徒又はジャイナ教徒は、それぞれのコミュニティ
法に基づくその財産相続権を喪失する可能性がある。」
9.2普及状況
9.2.I カナダ移民•難民委員会(IRB : Immigration and Refugee Board)は、2012年 5
月に異教徒間結婚に関する報告書を公表した。同報告書は、次のように伝えている。
rPillai’s College of Arts, Commerce and Science, Navi Mumbai, P. K. Tripathy of Utkal
UniversityのKumudin Das と国際人 口 科学研究所(I1PS : International Institute for
Population Sciences)[ムンバイ]のK. C. Das及びT. K. Royとの共同研究(表題:「インド
における宗教間及びカースト間結婚のダイナミクス」、29州に住む42,183人を対象とした
2005-2006年全国家族保健調査から得たデータを利用)によると、インドの結婚のうち、
2.1パーセントが異教徒間で行われた…異教徒間結婚の比率が最も高かった州は、アルナー
チャル•プラデーシュ州(9.2パ— ント)、シッキム州(Sikkim) (8.1パ— ント)、
マニプル州(Manipur) (7.6パーセント)、パンジャーブ州(7.3パーセント)、メーガー
ラヤ州(6.7パーセント)であった。)
9.3社会の姿勢及び取扱い
IRBは外部情報源を引用し、「異教徒カップルが暴力に晒されるケースは一般的ではないが、
実際に起きる。大半の事案の場合、暴力の脅威は関わる家族に端を発すると考えられる。
家族外の個人が異教徒間結婚に関心を持ち、行動を起こすのは、特定の農村地域に限られ
る。」と伝えている。ある情報源は、「…高位のカーストに属するヒンドウ一教徒は、異
教徒間結婚に関して、低位のカーストに属するヒンドウー教徒に対するものよりも大きな
反対を経験する可能性が高い。」と伝えている。
9.3.1IRBは、次のように伝えている。
「学会情報筋は、インドにおける異教徒カップルの状況は、階級と地域により異なること
を示唆している…そのカップルが農村部か都市部にいるかに応じて差異がある…歴史学
の教授は、「都市部の中流階級という文脈内で起きる異教徒間結婚に関しては差別がそれ
ほどないと述べている…同教授は、その家族又は村落との間で問題を経験している農村部
の異教徒カップルは、『より寛容であり』、『より溶け込みやすい』都市部へ移動するこ
とが多いと語った…同様に、WSOの弁護士は、次のように説明した。
「『異教徒カップルの取扱いに関して農村部と都市部の間では明確な違いがある。都市部
24
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
の場合、異教徒間結婚が行われるのは決して珍しいことではないが、農村部においては遥
かに大きな論議を巻き起こすことになる…都市部の場合、異教徒カップルを特定すること
はより困難であろう。たとえ異教徒カップルが特定されたとしても、その2人が深刻な困難
に直面する可能性は低い。』
「これとは対照的に、ロイター通信社は[2011年]、異教徒間関係が農村部及び『インド都市
部で生活する教養のある裕福な家族』の両方で『タブー(禁忌)になっている』…と伝えて
いる。」
9.4ヒンドウー教徒及びキリスト教徒
9.4.1 2012年、トロント大学の歴史学教授がIRB調査総局に対し、「ヒンドウー教徒とキ
リスト教徒の間の結婚は、[たとえば、ヒンドウー教徒とイスラム教徒の間の結婚よりも]
問題が少なく、また、一般に異教徒と結婚するキリスト教徒は非難に直面する可能性があ
るものの、家族から暴力を受ける可能性はほとんどない。Jと語った。
9.4.2 英誌エコノミストは2017年9月、「ヒンドウ一教徒の女性を餌食にしているとして
非難されるのはイスラム教徒だけではない。今月初め、ケーララ州において28歳のヒンド
ウー教徒女性が3週間に亘り、意思に反して拘束され、虐待され、キリスト教徒である夫と
離婚するよう洗脳されたとして、ヨガセンターを相手に訴訟を提起した。彼女は、宣誓供
述書の中で、60人の女性が同様の環境でこのヨガセンターで拘束されていたと証言した。J
と幸艮じた。
9.5ヒンドウー教徒及びイスラム教徒
9.5.1IRBは2012年、ヒンドウー教徒とイスラム教徒の間の結婚は最大の反対に直面し、
また、女性がイスラム教徒である場合の結婚は、他の異教徒間結婚よりも「問題が多い」
と発言した学会情報筋の言葉を引用した。
9.5.2 BBCニュースは2018年3月、次のように報じている。
「ヒンドウー教徒とイスラム教徒の間の結婚は、長年に亘ってインドの保守的な家族内に
おける非難を招いていたが、このような異教徒間結婚に対してより深い、悪意のある動機
付けがなされるのは、近年の現象である。
「急進的なヒンドウー非主流派集団は一部の異教徒間結婚を「ラブ・ジハード」と形容し
てきた。ラブ・ジハードとは、『ヒンドウ一教徒の女性を誘惑してヒンドウ一教から改宗
25
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
させようとする陰謀』に参加するイスラム教徒の男性を非難するためにこの集団が用いる
用語である。」
9.5.3 2017年6月付MRG/CSSS報告書は、次のように記述している。
「…右翼集団は引き続きイスラム教徒を「民主主義の脅威」であると主張している..•これ
らの集団はインドのイスラム人口とインド国内で多数派を占めるヒンドウ一教の地位を弱
体化させようとする秘密工作をますます関連付けようとしてきている。こうした緊張関係
は改宗を巡る議論のみならず、同様に危機をはらんだ異教徒間結婚の問題の根底にあった。
ヒンドウ一至上主義者集団、特にRSSや世界ヒンドウー協会(VHP)は近年、これらの
集団が「ラブ・ジハード」と形容するものに対して対抗キャンペーンを展開し始めた…
「『ラブ•ジハード』に対抗するための『救出作戦』と銘打って、ヒンドウ一至上主義者
集団は強制的にカップルを離婚させるとともに右翼弁護士を配置してイスラム教徒の男性
とヒンドウ一教徒の女性の間の異教徒間結婚の事例を登録し、共有するようにしたと伝え
られている。これらの集団は強姦と誘拐に関する虚偽の非難をイスラム教徒の男性に浴び
せることを認め、警察や特定の政治家と強固な繋がりを保ちながら、法的及び政治的後援
者から恩恵を被ってきた。BJPの選挙運動は、2017年のウッタル・プラデーシュ州選挙期
間中、『ラブ•ジハード』を引き合いに出した。また、2017年3月、BJPの選挙勝利を受け
て、いわゆる「反ロメオ部隊」が警察により組織された。この選挙運動は、女性を嫌がら
せから守るというより広範な大義名分の下で展開される一方、『ラブ•ジハード』という
ストーリーに結び付けられた恐怖と懸念を生み出している…
「たとえば、2016年4月、イスラム教徒の男性と改宗した元ヒンドウ一教徒の女性が異教徒
間結婚をしようとし、結婚式場には2人を保護するため警備が手配されていたが、ヒンドウ
一過激主義者がこれを阻止しようとした。また、最近では、2017年5月、既婚のヒンドウー
教徒の女性とイスラム教徒の男性が駆け落ちしたというニュースを受けて、ウッタル・プ
ラデーシュ州サンバル地区(SambhalDistrict)内のNandrauli村落に住むイスラム教徒の
住宅が襲撃された。この事件は、同村落から多数のイスラム教徒が近隣地域へ集団移動す
るという事態を招いた。
「また、ヒンドウ一至上主義者は、彼らのコミュニティの外で結婚しようとするヒンドウ
一教徒の女性がいるという問題を認識した上で、イスラム教徒又はキリスト教徒と結婚す
るヒンドウ一教徒の男性を『保護』し、イスラム教又はキリスト教コミュニティの女性に
ヒンドウ一教徒の男性と結婚するよう奨励する運動であるFbahu lao, beti bachaoj (『イ
スラム教又はキリスト教コミュニティの少女をヒンドウー教徒家庭の義理の娘として迎え
26
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
よう、娘を救え』の意)を展開して対応した。」
9.5.4また、英誌エコノミストは2017年9月、いわゆる「ラブ•ジハード」に関して報道
し、次のように記述している。
「あるポピュリスト・ヒンドウ一組織のヘルプラインは、8,500人の少女を『ラブ・ジハー
ド』から『救出』したと主張している。「ヒンドウ一教徒の存在をかけた闘争(Struggle for
Hindu Existence)」と呼ばれるウェブサイトはイスラム教徒の若者がヒンドウ一教徒の少
女を邪悪の道へ誘惑するという刺激的なストーリーを果てしなく掲載している。警察は繰
り返し捜査を行っても、改宗を画策する組織的な計画に関する証拠を見出すことができな
いでいる。記者たちは、せいぜい興奮を播き立てるファンタジーとして、最悪でも選挙時
における意図的な干渉として、『ラブ•ジハード』の苦情を繰り返し暴露している。」
9.5.5 BBCニュースは2018年3月、最高裁判所は異教徒間結婚の『ラブ・ジハード』紛争
の中心にいるインド人女性に対し、これから夫と一緒に生活することができると判示した
と報じた。彼女がイスラム教徒の男性と結婚するためにヒンドウ一教からイスラム教へ改
宗した後、彼女は反ヒンドウ一教の陰謀の一環として洗脳されたと彼女の家族が訴え、裁
判が行われた結果、ケーララの高等裁判所によりこの結婚は無効とされた。この女性は同
高等裁判所の判決に対して上訴し、あくまで自らの意思で行動したと主張した。最高裁判
所は結婚が有効であるとして元の状態に戻した(改宗も参照)。
9.5.6 2018年2月、BBCニュースは フェイスブックのページがヒンドウ一教徒の女性と関
係を持っていると言われているイスフム教徒の男性102人を標的にして暴力を加えるよう
呼び掛けたと報じた。削除されたこのページは、ヒンドウー教徒に対し、「リストに載っ
ている少年たちを追跡し、仕留める」よう呼び掛けた。
9.5.7 US IRFレポート2016は、「[2016年]9月20日、マハーラーシュトラ州ターネー(Thane)
警察はいとこのSufiya Mansuriとそのヒンドウー教徒の夫Vijay Yadavatを2人の自宅で殺
害した罪でイスラム教徒の男性Shafiq Shamsuddinを逮捕した。Shamsuddinは2人の異教
徒間結婚に反対していた。」と伝えている。
9.5.8また、BBCニュースは2018年2月、ヒンドウ一教徒の男性の殺害に関して報じた。
国内メディアはこの事件をこの男性がイスラム教徒の女性との関係を疑われたために起き
た「名誉殺人」であると形容した。
27
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
9.6ヒンズー教徒及びシク教徒
9.6.1IRBは、「トロント大学歴史学教授とカナダ世界シク協会(WSO : World Sikh
Organization)の弁護士は、シク教徒とヒンドウ一教徒の間の結婚はシク教徒とイスラム
教徒の間の結婚ほど強い反対を受けない可能性が高いという意見を表明した。」と伝えて
いる。
9.6.2 WSOの弁護士は、ヒンドウー教徒とシク教徒の間の結婚に関して、次のように言
葉を継いでいる。
「ヒンドウー教徒とシク教徒の間の結婚は、特に「カトリ(Khatri) Jの背景/カーストを
持つ都市部シク教徒の間では、珍しいことではない。カトリ家族の多くにはヒンドウ一教
徒とシク教徒の両方がいるため、異教徒間結婚は頻繁に起きる。このようなカップルは多
くの場合、差別に直面することがないと考えられ、その家族が結婚の手配の一部さえも担
う可能性がある。しかし、カップルがそれぞれの家族の希望とは関わりなく結婚を選択し
た場合、問題に直面する可能性がある。」
10•改宗
10.1法律
10.1.1 憲法は信教と良心の自由を認めているが、インドの宗教的少数派に関する法律につ
いての2017年2月付USCIRFレポートは、次のように伝えている。
「インドの29州のうち、7州ーグジャラート(2003年)、アルナーチャル•プラデーシュ(1978
年)、ラージャスターン(2006年)、マディヤ・プラデーシュ(1968年)、ヒマーチャル・
プラデーシュ(2006年)、オリッサ(1967年)及びチャッティースガル(1968年)一は一
般的に改宗禁止法と言われる宗教の自由法(Freedom of Religion Act)を採択した。これ
らの反改宗法は通常、カの行使、勧誘又は何らかの不正手段による改宗を禁じており、ま
た、このように改宗させようと活動する者を常助することも禁じている。」
10.1.2州の改宗禁止法に関して、US IRFレポート2016は上記7州のうち6州が同法を執行
しているが、アルナーチャル•プラデーシュ州には改宗禁止法の執行法がないと伝えてい
る。同レポートは、同法違反の罪に対して各州が定める刑罰について説明している。これ
によると、懲役3~4年の刑を科される可能性がある。
10.1.3 USCIRFTニュアルレポート2017は、次のように伝えている。
28
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
「非倫理的な改宗戦術に関して懸念があるため、これらの法律は一般に政府職員に対し、
ヒンドウ一教からの改宗の合法性を評価し、暴力、詐欺又は『誘導』を用いて他の宗教へ
改宗させる全ての者に対し罰金刑と懲役刑を科すよう義務付けている。法律は宗教的少数
派を強制改宗から保護するものとされているが、一方的であり、ヒンドウ一教への改宗で
はなく、ヒンドウ一教から他の宗教への改宗のみに関心がある。アミット・シャー(Amit
Shah) BJP総裁は、全国的な改宗禁止法の制定を提唱している。」
10.1.4他の法律も改宗者の権利に影響を及ぼした。この中には1954年特別婚姻法が含ま
れている。2017年2月付USCIRFレポートは、次のように伝えている。
「’..•非ヒンドウ一教(例:ユダヤ教、イスラム教、キリスト教)への改宗者に特定の権利
及び特権の付与を拒絶する条項が含まれている。たとえば、同法の下では、ヒンドウ一教
徒の子どもの父親又は母親がキリスト教又はイスラム教へ改宗した場合、その親は子ども
の親権を喪失する。1956年ヒンドウー教少数派•後見人法(Hindu Minority and
Guardianship Act)は、ヒンドウ一教からの改宗者が自身の子どもの後見人となる資格を
剥奪している。同様に、同法に基づき、キリスト教又はイスラム教に改宗するヒンドウー
教徒の妻は夫から扶養料を受け取る権利を喪失する。ヒンドウー教からの改宗は離婚の根
拠にさえなる可能性がある(異教徒間の結婚及び関係も参照)。
10.1.5 MRG/CSSS報告書は改宗に関して、実際面においてはr…ヒンドウ一教過激主義
者がヒンドウ一教から他の宗教、特にイスラム教やキリスト教に改宗するのを阻止又は防
止するためにこの法律を利用してきている…」と伝えている(キリスト教徒一社会の取扱
ビを参照)。
10.1.6 国連特別諮問資格を有するNGOの「人権主唱者(Advocates for Human Rights) J
は、インディアン・アメリカン・イスラム協議会(IAMC: Indian American Muslim Council)、
ジャミア教職員団結連盟(Jamia Teachers Solidarity Association)及びクイル基金(Quill
Foundation)と連携し、2017年5月のインドに関する普遍的•定期的レビュー向けに共同
で提出した報告書の中で、次のように伝えている。
「インド憲法は信教の自由を保護するとともに、教育機関や政府職においてスケジュール
ド・カースト向けの(留保)枠を定めている。しかしながら、政府はヒンドウ一教から改
宗したスケジュールド•カーストのメンバーにはこの留保枠を提供することを拒絶してい
る。2009年、前裁判長が主導する委員会は、非ヒンドウ一教徒のスケジュールド・カース
卜も留保枠の対象となる資格を与えるのが望ましいと勧告した。政府は最高裁判所におい
てこの勧告に反対した。2016年2月、インドの某大臣は非ヒンドウ一教徒のスケジュール
29
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
ド•カーストが留保枠の恩恵を受けることを認めれば、『改宗を奨励し、ヒンドウ一教を
弱体化させる』ことになるだろうと語った。」
10.2強制改宗
10.2.1 USCIRFTニュアルレポート2017によると、
「2014年、RSSはいわゆるガル•ヮプシ(Ghar Wapsi :帰郷)プログラムの一環として、
数千人のキリスト教徒及びイスラム教徒を『元の宗教に戻す』計画を発表し、それを実施
するために募金活動を開始した。その後、国内外からの非難を受けて、RSSはこの計画を延
期した。
「それにもかかわらず、[..]、規模は小さくなったが宗教的少数派を強制的に改宗させる活
動が2016年に報告された。また、2016年2月、RSSはインド全域に亘って駅に看板を掲げた
と伝えられている。この看板には、キリスト教徒はインドを離れるかヒンドウ一教に改宗
するかのいずれかを選択しなければならず、さもなければ2021年までに殺害されると書か
れてあった。
「さらに、ヒンドウ一至上主義者の『Bahu Lao, Beti BachaoJは、ヒンドウ一教徒の若者
が非ヒンドウ一教徒の少女と結婚し、改宗させる(これは暴力を行使して行われることが
多い)のを奨励しようとする運動であり、ラブ•ジハードとは、カずくでヒンドウー教徒
の女性と結婚する全てのイスラム教徒男性を表現する運動である。また、「Muslim-mukt
BharatJ (「Muslim-free India :イスラム教徒のいないインド」の意)はイスラム教徒に
インドを離れるよう要求している…
「キリスト教徒や他の宗教的少数派がヒンドウ一至上主義者により強制的に改宗させられ
る事例が2016年に報告されている。たとえば、2016年4月、チャッティースガル州で正体
不明の襲撃者2人(ヒンドウー過激主義者と考えられている)がペンテコステ派教会に乱入
し、牧師と妊娠中の妻を殴打した。また、襲撃者は牧師の子どもたちも襲った。さらに、
牧師家族がラーマ(Ram)神に捧げる賛歌であるrjai Sri Ram Jを歌わなかったことから、
ガソリンで一家と教会に火をつけようとした。また、2016年5月、同じくチャッティースガ
ル州で、カトディ(Katodi)村落に住むゴンディ(Gondi tribal)族のキリスト教徒家族6
人をヒンドウ一教徒の隣人が襲い、無理やりヒンドウ一教に改宗させようとして脅した後、
この家族は同村落から逃亡した。この家族の住宅は破壊された。」(異教徒間の結婚と関
係も参照)
30
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
10.2.2 MRG/CSSS報告書は、改宗に関して次のように伝えている。
「ダリット…は不正行為に抗議するため又は他の宗教により大きく受け入れてもらおう
とするための手段として時折、改宗を利用している。たとえば、2016年7月、タミル・ナー
ドウ州のダリット村民数百人が地元寺院へのアクセスをカースト・ヒンドウー教徒から拒
絶された後、イスラム教への改宗を計画したという報告があった。一部の右翼活動家はこ
の分断を積極的に扇動したとして地元のイスラム教徒を非難した。同様に2015年初め、ヴ
アールミーキ(Valmiki)コミュニティのメンバーは、地元寺院から締め出された後、イス
ラム教に改宗した。警察はこの動きに促され、『平和とコミュニティの調和を乱した』罪
で彼を逮捕したと伝えられている。強制改宗の訴えは、キリスト教徒を標的にして行われ
ることが極めて多く、また、訴えだけでなくキリスト教徒を狙った襲撃も伴うことがあっ
た。たとえば、2017年4月、ウッタル•プラデーシュ州警察は、極右青年組織ヒンドウー •
ュバ•バヒニ(HinduYuvaVahini)から強制改宗の疑いに関する報告書を受理した後、
直ちに教会で祈祷会が開催されるのを阻止した。」(スケジュールド•カースト(ダリッ
卜)も参照)。
11.スケジュールド・カースト(ダリット)
11.1 インドのカースト制度
11.1.1 BBCニュースは、3,000年以上の歴史があると言われているインドのカースト制度
について説明し、次のように伝えている。
「…ヒンドウ一教徒をそのカルマ(行為、業)とダルマ(宗教を意味するヒンドウ一語、
しかし、ここでは義務を意味する)に基づいて厳格な階級グループに分類している…カー
スト制度はヒンドウ一教徒を4つの主要な区分(上位階級順)一バラモン(Brahmins)、
クシャトリア(Kshatriyas)、ヴァイシャ(Vaishyas)、シュードラ(Shudras) 一に分
類している…主要なカースト(区分)はさらにおよそ3,000のカーストと25,000の下位カ
ーストに細分化されており、各カーストはその特定の職業に基づいている。このヒンドウ
ーカースト制度の外にアチュート(achhoots)、すなわち、ダリット又は不可触民がいる。J
11.1.2公式数値では、ダリットの人数が2億人を超えると推定されている。
11.1.3 高位カーストのメンバーはダリットが物理的に接触した物に一切触れてはならな
いという「不可触性」の慣行は、憲法の下で禁じられている。
11.1.4 また、BBCニュースは次のように伝えている。
31
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
「最近数十年に亘って普通教育が普及し、都市化が進んだ結果、特に様々なカーストが隣
り合わせで生活し、カースト間結婚がより一般的になってきている都市において、カース
卜の影響は幾分弱まっている。
「特定の南部諸州及び北部のビハール州では、社会改革運動の後で多くの人々がただーっ
の氏名を使用し始めた。このような変化が見られるにもかかわらず、カーストのアイデン
ティティは依然として強力であり、姓は大半の場合、属するカーストを示している。」
11.2法律
11.2.1 BBCニュースは、次のように伝えている。
「独立インド憲法は、歴史的な不公正を是正しようとして、カーストに基づく差別を禁じ
ており、歴史的に不利な立場に置かれた人々に均等な機会を提供している。当局は1950年、
政府職と教育機関の中にカースト階級の最下位に位置するスケジュールド・カーストと部
族向けに割当枠を設けることを発表した。1989年、割当枠が拡大され、伝統的な上位カー
ストと最下位カーストの間に位置する0BCs (Other Backward Classes :その他後進階級)
と呼ばれるグループも含めることになった。
11.2.2 US IRFレポート2016は、次のように伝えている。
「憲法は、スケジュールド・カースト[ダリット]又はスケジュールド•トライブ[アーディ
ヴァーシー(Adivasi)—インドの先住民族]コミュニティ向けのアファーマティブ・アクシ
ョン(積極的格差是正措置)の形態を認めている。また、法律はその後、社会面、教育面
で不利な立場に置かれているとみなされるグループ向けに「その他後進階級」を追加した。
憲法は、ヒンドウー教徒、シク教徒又は仏教徒である者のみがスケジュールド•カースト
のメンバーであるとみなされると規定していることから、キリスト教徒及びイスラム教徒
が宗教的少数派のメンバーとしてアファーマティブ・アクションの恩恵を受ける資格を得
るための唯一の手段は、その社会的及び経済的地位を理由に「後進」階級のメンバーであ
るとみなされるかどうかを判断してもらうことである。
11.2.3 国連人権理事会(HRC : Human Rights Council)の「普遍的•定期的レビュー:
インド」に関する作業部会の2017年7月付報告書は、「インドは…スケジュールド・カース
卜及びトライブ(部族)に属する人々への残虐行為に対してより厳格な刑罰を定めるよう
に法律を改正した。また、そのような集団が直面する可能性がある社会的排斥、剥奪及び
32
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
不利益の問題に対処するため、様々な政策措置が採択された。」
11.3暴力及び差別
11.3.1 米国国務省の2016年人権報告書(USSD HRレポート2016)は、次のように伝えて
いる。
「法律はダリットを保護しているものの、医療、教育、寺院参拝及び結婚などのサービス
にアクセスする際に暴力的かつ深刻な差別が行われているという報告が多数なされている。
ダリットの多くは栄養失調であった。借金返済のためのひも付き労働者の大半はダリット
であった。その権利を行使したダリットは、特に農村地域においてしばしば襲撃の被害者
となった。ダリットは高位カーストの地主のための働く農業労働者として、しばしば報酬
金なしで働いたと伝えられている。国連人種差別撤廃委員会の報告は、ダリットに対する
組織的虐待(超法規的殺害及びダリット女性に対する性的暴行を含む)を説明している。
ダリットに対して犯した罪は、当局が加害者を訴追しないため、又は被害者が報復を恐れ
て犯罪を届出ないため、処罰されずに終わることが多いと伝えられている。」
11.3.2 USCIRFの2017年2月付レポートは、「一般にダリットと呼ばれるスケジュール
ド・カースト又はトライブとして分類されたヒンドウー教徒は…ますます襲撃され、嫌が
らせを受けるようになっている。」と伝えている。フリーダム•ハウスは、2017年の出来
事を対象とするワールドレポート2018の中で、「ダリットの多くは土地の利用を拒絶され、
地主や警察から虐待を受けている。また、悲惨な状態で働いている。」と記述している。
USSD HRレポート2016は、「犯罪の全国統計は、ダリットの女性が他のカーストに所属す
る人々と比較し、不釣り合いな割合で被害者となっていることを示している。」と伝えて
いる。
11.3.3 2012年、IRBは、「高位カーストに属するヒンドウ一教徒は、異教徒間結婚に関し
て、低位カーストに属するヒンドウ一教徒よりも強い反対を受ける可能性が高い」と語っ
たトロント大学歴史学教授の発言を引用した(異教徒間の結婚及び関係も参照)。
11.3.4 USCIRFTニュアルレポート2017は、次のように伝えている。
「『高位カースト』に属する個人又は地元の政治的指導者(こうした人々はヒンドウ一至
上主義者集団のメンバーであることが多い)は、ヒンドウ一教徒ダリットが寺院に入るの
をしばしば禁止すると伝えられている。これは、ダリットの立入りにより寺院が『不浄に
なる』と考えているからである。また、昨年、ダリットは、カースト制度を支持すると主
33
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
張しダリットが職場や学校で『高位の』者と交流すべきではないと考えているヒンドウー
至上主義者から、ますます嫌がらせを受けるようになっていると報告した。さらに、非ヒ
ンドウー教徒、特にキリスト教徒やイスラム教徒のダリットは、ヒンドウ一教徒ダリット
が利用できる職場や学校の公式の割当枠の対象となる資格がないため、これらの集団は社
会的にも経済的にも極めて不利な立場に置かれている。」
11.3.5 USSD HRレポート2016によると、「NG 0はダリットに対して広範に亘り差別が
加えられている状況を報告した。この中には、公道の歩行の禁止、靴の着用の禁止、高位
カーストが住む近隣地区の蛇口を利用した飲用の禁止、一部の寺院祝祭への参加禁止、公
共プールでの水泳禁止、特定の火葬地の利用禁止などが含まれる。」ダリットの子どもた
ちもまた、学校で差別に直面した。
11.3.6 アムネスティ・インターナショナル(AI)レポート2017/2018は、次のように伝え
ている。
「[2017年]11月に公表された公式統計には、スケジュールド・カーストに対する犯罪が2016
年に4万件以上報告されたと記述されている。支配カーストのメンバーが公的及び社会的ス
ペースを利用したとして又はカースト逸脱が認識されたとしてダリットに暴行を加えた事
件が複数報告されている。
「[2017年]5月、ウッタル・プラデーシュ州サハーランプル(Saharanpur)でコミュニテ
ィ•メンバーの間に衝突が起きた後、支配カーストの男たちによりダリットの男性2人が殺
害された他、数人が負傷し、数十戸に及ぶダリットの家屋が燃やされた。8月、医科大学入
学のための全国統一試験の導入に反対する運動を続けていた17歳の女性ダリットが自殺を
遂げたことが引き金となって、タミル・ナードウ州で抗議行動が起きた。抗議参加者は、
この統一試験により、社会の隅に追いやられたような貧しい環境で育った学生は不利な立
場に置かれることになるだろうと語った。
「活動家によると、手作業による糞尿処理は禁止されているにもかかわらず、この作業員
として雇用されたダリットは、下水道を清掃中に2017年を通じて90人死亡した。死亡した
人々の多くは、政府機関により違法に雇用されていた。[2017年]8月、デリー州政府は、手
作業による糞尿処理作業員を雇用した人々は殺人の罪で起訴されるだろうと語った。」
11.3.t十分な住宅に関する国連特別報告官の2017年1月10日付報告書は、次のように伝え
ている。
34
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
「インドには、スケジュールド・カーストといわゆる「後進階級」の遺産が依然としてあ
る。スケジュールド・カーストとスケジュールド・トライブはインド総人口の22パーセン
卜を構成するが、貧困層の間で過剰に存在する。アファーマティブ・アクション・プログ
ラムと『留保枠』があるにもかかわらず、これらの集団は、住宅に関するものを含め、引
き続き社会的烙印と差別に晒されている。2011年国勢調査によると、スケジュールド・力
ーストとスケジュールド•トライブは、平均して、不十分な資材で建築された低品質の住
宅しか持っておらず、壁がレンガ又はコンクリートでできた住宅を持っているのはスケジ
ュールド・トライブの家庭のわずか22パーセントに過ぎない。また、野外トイレを利用で
きない状況に関する数値は、一般人口が抱えている状況よりも憂慮すべき事態であること
を不している。具体的には、スケジュ1ールド・カーストの66パーセント及びスケジュ・ール
ド・トライブの77パーセントが野外トイレを利用できない状態にある。
11.3.8 ヒューマン・ライツ・ウォッチは、2017年の出来事を対象とする2018年アニュア
ルレポートの中で、次のように伝えている。
「4月と5月にウッタル・プラデーシュ州でダリットと上位カースト社会との間でカースト
間衝突が起き、2人が死亡した。また、4月から7月にかけて、有毒ガスが発生する下水道内
に39人のダリットが閉じ込められ、死亡したと伝えられている。この事故により、『手作
業による糞尿処理』ー低カーストと考えられるコミュニティによる人糞処理一の慣行を禁
じる法律が執行されないため、この非人間的な慣行が依然として継続されていることが明
らかになった。」
12.保護及び救済
12.1政府の支援
12.1.1 US IRFレポート2016には、以下の通り記述されている。
「指定された5つの宗教的少数派の代表者が委員として入っている少数派に関する国家委
員会と国家人権委員会は、宗教的差別の訴えを調査する任務を負う。また、マイノリティ
省も調査を実施することができる。これらの機関は執行権限を有していないが、原告が提
出した刑法又は民法違反を訴える苦情書に基づき調査を開始し、その調査結果を法執行機
関に提出し、措置を求める。また、インド29州のうちの16州とデリー首都圏(National
Capital Territory of Delhi) n,宗教的差別の訴えも調査する州少数派委員会を設けている。
12.1.2インド政府は、普遍的•定期的レビューに関する国連人権理事会(HRC)作業部
会への2017年2月付報告書の中で、次のように記述している。
35
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
「政府は、コミュニティ間暴力の被害者支援への対応力を強化するため、コミュニティ間
暴力の被害者に対する補償金を30万ルピーから50万ルピーに増額した。この補償金は、裁
判所、特に最高裁判所が社会復帰パッケージに関して与える指示内容及びコミュニティ間
暴力の被害者支援に係るその他の対応内容に追加されるものである。インド政府は、コミ
ユニティ間暴力に対処するための標準運営手続き(Standard Operating Procedures)を定
める『コミュニティ間の調和に関するガイドライン(Communal Harmony Guidelines)』
を発行した。
12.2法執行及び補償
12.2.1インドの宗教的少数派に対する暴力及び差別に関するMRG/CSSSの報告書は、次
のように伝えている。
「全体として、憲法の条項と施行されている法律は宗教的少数派の権利を保護するための
枠組みを提供し、コミュニティ間暴力に対処している。しかしながら、政策と法律を通じ
て憲法条項を実施するのは限界があり、また、コミュニティ間暴力に関する法律の施行状
況も弱いままである。さらに、基本的権利、特に第15条の司法解釈が狭いこと、過度に広
範な法律又は十分な定義に欠ける法律、及び刑事裁判制度内における少数派への機関的偏
見など司法の一貫性に関する問題も存在している。」
12.2.2 USCIRFアニュアルレポート2017は、次のように伝えている。
「インドの裁判所は今もなお、ウッタル・プラデーシュ州(2013年)とグジャラート州(2002
年)で起きた大規模なヒンドウ一教一イスラム教コミュニティ間暴力、オリッサ州で起き
たヒンドウ一教ーキリスト教コミュニティ間暴力(2007-2008年)及びデリーで起きたヒ
ンドウ一教一シク教コミュニティ間暴力(1984年)に端を発する事件を裁く途上にある。
NGO,宗教的指導者及び人権活動家は、これらの捜査と判決には宗教的な偏見と腐敗が見
られると訴えている。また、宗教的少数派コミュニティは、特に地元の政治的、宗教的又
は社会的指導者が事件に関与している場合は証人が怯えて証言しないことが多いと主張し
ている。2016年6月に起きた別個の2つの事件では、グジャラート州の2つの裁判所が同州で
2002年に起きた暴力事件に関係する殺人その他の犯罪で48人に有罪判決を下した。イスラ
ム教コミュニティと人権活動家は、この有罪判決を称賛したが、他の数十人以上は釈放さ
れたと懸念を表明した。2016年2月、2013年にウツタル・プラデーシュ州ムザッファルナ
ガル(Muzaffarnagar)で起きた暴動事件に関して最初の主要な判決が下され、放火と殺人
の罪に問われた10人が証拠不足のために釈放された。2015年2月、インド政府は,1984年の
36
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
反シク教徒暴動中に起きた複数の事件を検証するため、新たな特別捜査チーム(SIT:
Special Investigation Team)を組成したが、SITはその捜査に関する報告書を公表もしな
ければ、新たな訴訟を提起することもなかったと伝えられている。」
12.2.3アムネスティ・インターナショナルは、「1984年に起きたシク教徒大虐殺に関係
するもので決着済みの事件を再調査するために設置された特別捜査チームは、241件の事件
を処理し、他の12件について訴訟を提起した。[2017年]8月、最高裁判所は,事件を結審す
る目的で決定事項を検証するために元裁判官2名から成る小委員会を設置した。」と伝えて
いる。
12.2.4 USCIRFTニュアルレポート2017は、上述した事件に端を発した事件を捜査し、判
決を下す構造がもたらす効果は「..•特に州及び地方レベルで見られる限界のある能力、時
代遅れの司法制度、一貫性のない利用、政治的腐敗及び宗教的偏見により損なわれている。J
と伝えている。US IRFレポート2016は、「宗教的少数派コミュニティによると、連邦政府
はしばしば暴力事件に対して声高に非難するが、地元の政治的指導者は非難しないことが
多いため、被害者や宗教的少数派コミュニティは脆弱であると感じている。」と記述して
いる。
12.2.5 US IRFレポート2016には、「テランガーナ州及びアーンドラ・プラデーシュ州の
少数派|こ関ヨ る委貝会 (Commission for Minorities for Telangana and Andhra Pradesh
States) Jはキリスト教徒及びイスラム教徒コミュニティの財産(墓地を含む)が違法に占
有されているという苦情を受理したと記述されている。同レポートは「事件に関するデー
タを収集したが、執行権限を欠く同委員会は、政府職員の大半が宗教的少数派の申し立て
る苦情に対処していないと語った。」と伝えている。
12.2.6 2018年1月、右翼のヒンドウー教徒集団がイスラム教徒支配者とヒンドウー教徒の
女王との関係を描いたボリウッド映画の封切りに抗議した後、警察は数十人を逮捕した。
最高裁判所が映画の禁止を拒否したため、複数の州は映画が上映される劇場の警察警備を
強化した。
12.2.7 2018年3月21日、ヒューマン•ライツ•ウォッチ(HRW)は、次のように伝えて
いる。
「インドの裁判所は昨日、イスラム教徒のAlimuddin Ansariを撲殺したとして11人に終身
刑を言い渡した。殺人者たちは被害者が牛肉の商売をしていると考えていた。有罪判決を
37
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
受けた者の中には、ヒンドウ一至上主義者である与党のインド人民党(BJP)の地元指導者
が含まれていた。ヒンドウ一教徒の多くは、牛を神聖なものであると考えており、過去4年
間に亘って牛肉の取引と消費に反対する自警集団の暴力的な運動が展開され、インド全域
で少なくとも29人(大半がイスラム教徒)が死亡する結果を招いた。いわゆる不可触民で
あるダリットも、動物の死骸や皮革を扱うことから、標的にされた。インド東部のジャー
ルカンド(Jharkhand)州に所在する裁判所は、BJPが2014年5月に政権の座に就いた後に
自称「畜牛保護者」による襲撃が急増して以来初の有罪判決を下した。」
イスラム教徒一社会の取扱い及びスケジュールド•カースト(ダリット)も参照。
38
日本語訳は、法務省入国管理局による仮訳である。
調査対象事項
「調査対象事項(ToR : Terms of Reference)とは、CPINが対象にしようとする事項に関
する大まかな概要である。ToRは国別情報のセクションの基礎となる。英国内務省の国別政
策及び情報チーム(Country Policy and Information Team)は主題に応じて複数の標準化
されたToRを使用しているが、関係する国に合わせて調整も加えている。
この特定のCPINに関しては、原案を作成する前に、関係があるものとして以下のテーマが
特定され、これらの項目について調査が実施された。
•法的背景
〇憲法及び国内法
•人口統計
〇人口
•宗教的少数派
〇 ヒンドウ一至上主義(ヒンドウー•ナショナリズム)
〇暴力及び差別
•国家の取扱い
〇キリスト教徒
〇イスラム教徒
〇シク教徒
•社会の取扱い
〇キリスト教徒
〇イスラム教徒
〇シク教徒
•改宗
•異教徒間結婚
モロッコ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3


















『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、国について説明しています。映画については「モロッコ (映画)」をご覧ください。
モロッコ王国
??????? ? ??????(ベルベル語)
??????? ????????(アラビア語)
モロッコの国旗 モロッコの国章
(国旗) (国章)
国の標語:????? ?????? ??????(アラビア語)
????, ????, ??????(ベルベル語派)
(神、国、王)1
国歌:?????? ?????? ???????(アラビア語)
???? ?????? ? ??????(ベルベル語派)
国王万歳
1:08
モロッコの位置
公用語 アラビア語[1]、ベルベル語[1]
首都 ラバト
最大の都市 カサブランカ
政府
国王 ムハンマド6世
首相(英語版) アジズ・アハヌッシュ
面積
総計 446,550km2(57位)[2]3
水面積率 0.1%
人口
総計(2020年) 3691万1000[3]人(40位)
人口密度 82.7[3]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2018年) 1兆1084億6300万[4]モロッコ・ディルハム
GDP(MER)
合計(2018年) 1180億9600万[4]ドル(58位)
1人あたり 3353.1[4]ドル
GDP(PPP)
合計(2018年) 2790億4200万[4]ドル(55位)
1人あたり 7922.828[4]ドル
独立 フランスから
1956年3月2日
通貨 モロッコ・ディルハム(MAD)
時間帯 UTC+1 (DST:なし)
ISO 3166-1 MA / MAR
ccTLD .ma
国際電話番号 212
1 この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。
2 モロッコ本土のみのデータ。
3 710,850 km2には、モロッコが主張する西サハラ全体が含まれる[5]。
モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: ??????? ?????????、ベルベル語: ??????? ? ??????)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。
南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。
モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(西サハラの法的地位(英語版)を参照)。実効支配下を含めた面積は約604,107 km2(うち[6]、西サハラ部分が190,100 km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査[7])。
地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。
モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。
国名
正式名称はアラビア語で、??????? ????????(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、??????(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。
公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc。
公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco。
日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など[8]。
アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。
「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。
アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。
トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。
歴史
詳細は「モロッコの歴史」を参照
アル=アンダルスのイスラーム化
先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。
一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人(英語版)のマウレタニア王国が栄えた。
紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。
マウレタニアの領域。
ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。
マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。
アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。
788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。
また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。
しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。
権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。
ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。
18世紀まで
ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク。
ラス・ナーバス・デ・トローサの戦いの絵図。
1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。
第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナースィルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。
ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。
マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。
セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。
マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。
ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。
サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。
この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。
さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。
1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。
フランス資本の定着まで
続くスライマーン(英語版)は、鎖国政策を採った。
しかし、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。
1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い(英語版)で敗れた。
1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。
1873年、新たなスルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(英語版)が即位した。
ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。
1904年の英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。
なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。
さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。
1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、仏西条約(英語版)で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。
フランス領モロッコ初代総督、ウベール・リヨテの写真。
フランス領モロッコの初代総督には、ウベール・リヨテ(フランス語版)将軍が就任した。
将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。
1913年にドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。
1919年に北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。
1920年にアブド・アルカリームが、スペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。
アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。
1930年代から独立運動が盛んになった。
1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル(英語版)将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。
スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。
第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。
モロッコは1956年にフランスから独立した。
スペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。
翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。
1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。
外資と君主と実効支配
ハサン2世。親西側政策の下モロッコを統治した。
「北アフリカ総合会社」も参照
1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。
翌1962年に憲法(英語版)が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。
ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。
1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。
1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。
1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。
一方で、内政は安定しなかった。
例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった[9]。
さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル(英語版)将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。
これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍とエリート幹部(英語版)の排除を行った(Years of Lead)。
1958年のシントラ協定でタルファヤを、1969年のフェズ協定でシディイフニを回復した後、モロッコはスペインが支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。
1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。
そして同年のマドリッド協定でサキアアルハムラとウエドエダハブ地域を獲得した[10]。
1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。
激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。
1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている[11]。
1992年に憲法が改正された。
1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。
同年から直接投資受入額が急伸した。
2002年にペレヒル島危機(英語版)が起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。
2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。
ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。
モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。
世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した[注釈 1][12]。
2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。
2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した[13][14]。
2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした[15]。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された[16]。
2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた[17]。
2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した[18]。
政治
詳細は「モロッコの政治(英語版)」を参照
国家体制は国王を元首とする、立憲君主制を採っている。現国王として在位しているのはアラウィー朝のムハンマド6世である。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。
2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。2011年7月の憲法改正により、国王の権限縮小と首相の権限強化が為された[19]。
「モロッコの君主一覧」および「モロッコの首相一覧(英語版)」も参照
議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である[20]。2007年に行われた下院選では、保守系のイスティクラル党(独立党とも)が52議席を獲得して第1党、イスラーム主義の公正発展党が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟(英語版)は大きく議席を減らし、38議席になった。
2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった[21][22]。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。
「モロッコの政党」および「モロッコ議会」も参照
合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にも、モロッコ・アフガンやAQIMなどの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。
軍事
詳細は「モロッコ王立軍」を参照
モロッコには18ヶ月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメから構成される。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。 2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて、軍の派遣は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。
なお、赤道ギニアなど数か国に、元首の警護や軍事教練などを目的として、少数の将兵を派遣している。
地方行政区分
モロッコの行政区画
詳細は「モロッコの行政区画」を参照
モロッコの行政区分は、12の地方と、51の第2級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。
主要都市
詳細は「モロッコの都市の一覧」を参照
2021年時点で、人口100万人を超えていた都市が2つ存在する。一方で、2020年時点でも、都市人口率は63.5パーセントと低い[23]。
カサブランカ - モロッコ最大の都市で、2021年時点での人口は、314万人である[24]。映画でも名を知られている。加工貿易のための特区が設けられている。さらに、金融業のための特区も設けられている。
ケニトラ - 2021年の時点での人口は、36.7万人である[24]。加工貿易のための特区が設けられている。
エルジャディダ - 2021年の時点での人口は、14.8万人である[24]。
マラケシュ - 2021年の時点での人口は、83.9万人である[24]。観光業が盛んである。かつては都が置かれ、モロッコの国名も、この都市名に由来する。
フェズ - 2021年の時点での人口は、96.5万人である[24]。かつてはモロッコの首都であった。迷宮のような市街地が有名。
タンジール - 2021年の時点での人口は、68.8万人である[24]。ジブラルタル海峡に面しており、スペインと近い。加工貿易のための特区が設けられている。
ラバト - モロッコの首都である。2021年時点の人口は、166万人である[24]。ブー・レグレ川(英語版)の河口は、ここに有る。
テトゥワン - 2021年の時点での人口は、32.6万人である[24]。地中海に面する。
アガディール - 2021年の時点での人口は、69.8万人である[24]。大西洋に面し、漁業も行われる。
クーリブガ(英語版) - 2021年の時点での人口は、16.8万人である[24]。リン鉱石の採掘で知られ、港町のカサブランカとは鉄道で結ばれている。
ウジタ - 2021年の時点での人口は、40.5万人である[24]。アルジェリアとの国境付近の町で、アルジェリアの首都のアルジェ方面への鉄道も通る。鉛や亜鉛の主要な鉱山も存在する。
地理
モロッコの衛星画像。
アトラス山脈。
北部のリーフ地方。
南部のサハラ沙漠の砂丘。
詳細は「モロッコの地理(英語版)」を参照
モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300 km、南北1000 kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いた歪んだ長方形に見える。モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸のセウタとメリリャは、スペイン本国の飛地である。南西側で陸続きの西サハラを実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。なお、西サハラはかつてスペインの植民地(スペイン領サハラ)だった。
モロッコには大きな山脈が4つある。
リーフ地方(エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。最高地点は約2400 mである。
南方の3つの山脈はアトラス山脈に属する。アトラス山脈自体はチュニジア北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000 km以上にわたって延びる。アトラス山脈は複数の山脈が平行に走る褶曲山脈である。モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンティアトラス山脈)と呼ばれる。アンティアトラス山脈の南斜面が終わる付近に国境がある。アトラス山脈の平均標高は3000 mを超え、国土のほぼ中央にそびえる標高4165 mのツブカル山(トゥブカル山)が国内最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。カサブランカなどのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。
ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う[注釈 2]。
スペイン=モロッコ間は、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に当たる。
アフリカプレートが年間0.6 cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。
アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため地球上では比較的、地震の発生が多い地域である。
記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、リスボン大地震と同時期の1755年11月19日に発生した地震や1757年4月15日の地震では、いずれも死者が3000人に達した。
1960年2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。
主要河川は、地中海に流れ込むムルーヤ川(英語版)、大西洋に流れ込むスース川(アラビア語版、英語版)、テンシフィット川(アラビア語版)など10本程度ある。ジス川(アラビア語版、英語版)とレリス川は、サハラ沙漠に向かって流れ降る。ドラア川もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合にはサハラを横断して大西洋に注ぐ場合がある。エジプト、スーダンを縦断するナイル川を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。さらに、山脈による充分な高低差も存在する。これらの理由で、降水量が比較的少ないのにも拘らず、総発電量の約6パーセントを水力発電でまかなってきた。
気候
年間を通じて、大西洋上に海洋性熱帯気団が居座っており、常に北東の向きの風が卓越している[注釈 3]。2023年の時点で、既にモロッコの総発電量の約7%25が風力発電で占められていた理由の1つが、ここにある。
モロッコ沿岸を北から南の方向へと、寒流のカナリア海流が流れる。さらに、モロッコの内陸部に連なるアトラス山脈が、海からの湿気を遮るために、山脈を境界として気候が変わる。
ケッペンの気候区分によると、アトラス山脈より北は地中海性気候 (Cs) に一部ステップ気候 (Bs)が混じる。基本的に夏に乾燥する気候である。アトラス山脈やリフ山脈の標高の高い場所では、冬季に積雪が見られる。アトラス山脈の南斜面はそのままサハラ沙漠につながっており、北部がギール砂漠、南部がドラー砂漠と細分される。気候区分は、砂漠気候 (BW)である。
モロッコ最大の都市であるカサブランカの気候は、1月の気温が12.4 ℃、7月が22.3 ℃で、年間降水量は379.7 mmである。冬季の降水量は100 (mm/月)に達するのに対し、夏季には1 mmを下回る。首都ラバトの気候もカサブランカとほぼ同じである。
植生
「モロッコの植物相(英語版)」を参照
大西洋沿岸、地中海岸と内陸部のオアシスを除き、植生はほとんど見られない。森林を形成しているのはコルクガシであり、特に大西洋岸に目立つ。アトラス山脈の北側斜面は、常緑樹林が広がる。植生は、オーク、セイヨウスギ、マツである。アトラス山中からさらに南のステップには、ナツメや低木などが疎らに見られる。ただし、栽培樹木であるオリーブは自然の樹木の分布に当てはまらず、国土全体に植えられている。固有種としてアカテツ科のアルガンノキ(Argania Spinosa)が知られ、アルガンオイルを採取する[注釈 4]。ただし、アルガンノキの分布域は狭く、スース川流域に限られる。
国土の北部を中心に、約12パーセントを森林が占める。また国土の18パーセントを農耕地が占め、農耕地の5パーセントは灌漑によって維持されている。一方で、アトラス山脈の南側は、沙漠地帯が目立つ。
経済
詳細は「モロッコの経済(英語版)」を参照
カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の世界都市である。
IMFの統計によると、2015年のモロッコの国内総生産(GDP)は、約1031億ドルである。国民1人当たりのGDPは3079ドルと、アフリカ諸国では比較的高い水準にあり、アジアなどの新興国に匹敵するレベルである。アフリカでは経済基盤も発達している方だとされる。
モロッコの主要な貿易相手国としては、地理的に近い先進国のフランスとスペインが挙げられる[27]。モロッコ自身は先進工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。かつて宗主国だったフランスだけでなく、欧米諸国の企業が、自動車や鉄道・航空機部品などの工場を増やしている。これはモロッコがアフリカでは政情・治安が安定していると判断され、インフラストラクチャーが整備されており、50以上の国・地域と自由貿易協定(FTA)を締結していて輸出がし易いという背景がある[28]。その他ヨーロッパ連合諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。
なお、カサブランカやタンジールやケニトラには、加工貿易用のフリーゾーンが設けられている。カサブランカには金融フリーゾーン(カサブランカ・ファイナンス・シティ)もある。モロッコ以外のアフリカ諸国へ進出する外国企業への税制面の優遇措置も導入し、アフリカ・ビジネスの拠点(ハブ)になりつつある[29]。
また、モロッコは羊毛の生産や[30]、同じく繊維材料のサイザルアサの栽培でも知られ[30]、繊維製品や衣料製品といった軽工業などの工業生産も見られる[31]。また、皮革製品の製造も行われている[31]。
さらに、生産量世界第6位のオリーブ栽培などの農業が経済に貢献している。
これらに加えて、大西洋岸は漁場として優れており、魚介類の輸出もモロッコにとっては主要な産業である[32]。
観光資源も豊かで、観光収入は22億ドルに達する。
鉱業・電力
「モロッコの鉱業(英語版)」を参照
エネルギー資源に関しては、原油と天然ガスが少し産出する程度で[注釈 5]、産油国とまでは言えない程度である。一方で、鉱業の分野では、合金として幅広い用途を有するコバルト[30]、また亜鉛も産出するものの[30]、それよりも亜鉛などの工業的な精製の際に不純物を取り除くためなどに用いるストロンチウム[30]、さらに肥料などの原料として知られるリン鉱石の採掘が盛んである[30][注釈 6]。また、鉛も比較的有力な鉱産資源である。これ以外にも、ニッケル、鉄、銅、銀、金の採掘も行われている[30]。
モロッコの鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によって鉱脈が形成されたと考えられている。例えば、かつてはマラケシュの東で、マンガンの採掘も行われていた。また例えば、ウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。
なお、リンはカサブランカの南東の内陸部で採れる。
農業などに利用できない砂漠では、再生可能エネルギーによる発電を拡大している。太陽光発電所や太陽熱発電所、風力発電所が相次ぎ建設されており、スペイン企業による風力発電機の生産も2017年に始まった。エネルギー消費に占める再生可能エネルギーの比率(20%強)を2030年に52%へ高めることを計画している[33]。
農業
「モロッコの農業(英語版)」を参照
アトラス山脈よりも北側の大西洋沿岸地域や地中海沿岸地域では、ある程度の降水量が見込めるため天水に頼った農業が可能である。農業従事者は429万人(2005年)である。国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位のオリーブ(50万トン、世界シェア3.5%)、第9位のサイザルアサ(2200トン)が目立つ。世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。主要穀物の栽培量は乾燥に強いコムギ(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、オオムギ(110万トン)である。
中南部ケアラ・ムグーナ(「バラの谷」)で栽培されているローズウォーター用のバラなど花卉農業も行われている[34]。
畜産業はヒツジ(1703万頭)、ニワトリ(1億4000万羽)を主とする。
工業
モロッコは世界的に見て硫酸の製造の盛んな地域であり、2004年の製造量は、950万トンであった[30]。
さらに、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。また、ルノーが2つの自動車工場を、ボンバルディアが航空機部品工場を運営している他、PSA・プジョーシトロエンやボーイングなども現地生産計画を進めている[28]。
貿易
「モロッコの貿易(英語版)」を参照
モロッコの輸出額は238億ドル。品目は、 機械類 (15.9%) 、 衣類 (14.4%) 、化学肥料 (8.8%)、野菜・果実 (7.9%)、魚介類 (7.6%) である。(2011年) ここで言う電気機械とは、電気ケーブルを意味している。リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド 。(2014年)
モロッコの輸入額は116億ドル。品目は、原油 (12.0%)、繊維 (11.9%)、電気機械 (11.7%)。主な相手国はスペイン、フランス、中国、アメリカ合衆国、イギリスである。(2014年)
参考までに、モロッコにとって主要な貿易相手国ではないものの、日本との貿易では、輸出がタコ(61.1%)、モンゴウイカ (7.3%)、衣類 (5.1%)の順で、リン鉱石も5位に入る。輸入は、乗用車 (32.4%)、トラック (28.6%)、タイヤ (5.6%)である。
観光業
「モロッコの観光地(英語版)」を参照
フェズ、カサブランカ、マラケシュといった都市部の旧市街地から、アイット=ベン=ハドゥなど集落レベルの各種居住エリアにある世界遺産、サハラ沙漠やトドゥラ峡谷といった自然が観光資源として利用されている[35]。また、古い邸宅を利用したリヤドと呼ばれる「モロッコ独特の宿泊施設」も知られている[36]。
モロッコ政府としても観光立国を掲げ、人材や観光地の育成に注力している[37]。2015年の観光客数は在外モロッコ人の割合が増加傾向にあるが、約1018万人を数えた[37]。
交通
詳細は「モロッコの交通」を参照
国際関係
詳細は「モロッコの国際関係(英語版)」を参照
西サハラを放棄したモーリタニアとは異なり、西サハラを併合したいモロッコと、それを承認しない国際社会の利害対立は有る。 隣国で言えば、西サハラの支援をするアルジェリアとは対立してきた。
一方で、特に地理的に近いスペインやフランスとの関係は深く、貿易の上で重要な地位を占める。
またイスラム教以外を禁止してはいないものの、イスラム教を国教としており、イスラム教圏、特にアラブ諸国との関係も密接である。
アルジェリアとの関係
詳細は「アルジェリアとモロッコの関係(英語版)」を参照
隣国のアルジェリアとは互いに反政府勢力を支援しているとして、長年緊張関係が続いてきた[18]。2021年8月にアルジェリア政府は国内で発生した山火事に、モロッコが関与していると発表した[18]。2021年8月24日にアルジェリアは、モロッコとの国交断絶を宣言した[18]。
日本との関係
詳細は「日本とモロッコの関係」を参照
在留日本人数 - 350名(2018年10月,在留邦人統計)[38]
在日モロッコ人数 - 637名(2019年06月,在留外国人統計)[38]
国民
詳細は「モロッコの人口統計(英語版)」を参照
1961年から2003年までのモロッコの人口増加グラフ。
モロッコの民族分布地図(1973)。
2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、一夫多妻制についても厳しい基準が要求されるようになった。ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教をフェミニズム的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張するファーティマ・メルニーシーの名が挙げられる。新家族法制定で、女性は結婚時に夫に複数の妻(イスラム教徒の男は4人まで妻を持てる)を持たないよう求めることができ、女性から離婚を請求することができ、家庭における夫婦の責任が同等となり、女性は自分自身で結婚を決めることができるようになった[39]。
1999年にマイクロクレジット法が成立し、政府やNGO団体の協力により受益者が増えている。
民族
歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。
2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際は両者の混血が進んでいる。
また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり(リーフ共和国)、モロッコ政府としては、あくまでも両者はモロッコ人であるという考え方の元で、敢えて民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。
モロッコのアラブ人には、イベリア半島でのレコンキスタや17世紀のモリスコ追放によってアンダルシアから移住した者もおり、彼等の中には現在でもスペイン風の姓を持つ者もいる。
ユダヤ人はモロッコ各地の旧市街に存在するメラーと呼ばれる地区に古くから居住していたが、イスラエル建国以来イスラエルやカナダなどへの移住により減少傾向が続いており、1990年時点で1万人以下である。その他にもブラックアフリカに起源を持つ黒人などのマイノリティも存在する。
言語
「モロッコの言語(英語版)」を参照
アラビア語とベルベル語が公用語である[1]。国民の大半は学校教育で正則アラビア語を学習しつつも、日常生活ではモロッコ特有のアラビア語モロッコ方言を話しているため、他のアラビア語圏の住人とは意思の疎通が困難である。
なお、山岳地帯では、タマジグトと総称されるベルベル語が話され、これらは大別してタシュリヒート語(モワイヤン、オートアトラス地域)、タスーシッツ語(アガディール地方、アンチアトラス地域)、タアリフィート語(リーフ山脈地域)に分かれている。また、ベルベル人は、国内のアラブ人からはシルハと呼ばれるのに対し、ベルベル人自身は自分達をイマジゲン(自由な人の意)と呼ぶ。ベルベル語が話されないアラブ人家庭に生まれ育つと、ベルベル語は全く理解できない事が多い。これはアラビア語とベルベル語とが、全く異なった言語のためである。
また、かつてモロッコはフランスの保護領であったためにフランス語も比較的有力であり、さらに現在でもモロッコにとっては貿易相手としてフランスが重要なため、第二言語としてフランス語が教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用するなど準公用語的地位にある。公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれる。商品や案内表記などは、アラビア語とフランス語が併記されている場合が多い。
一方で、タンジェのようなモロッコの北端部の都市はスペインの影響が強く、スペイン語もよく通じる。
宗教
「モロッコの宗教(英語版)」を参照
1961年にイスラム教が国教と定められ、イスラム教スンニ派が99パーセントを占める。しかしながら、キリスト教とユダヤ教も禁止されてはいない。
教育
「モロッコの教育(英語版)」を参照
7歳から13歳までの7年間の初等教育期間が、義務教育期間と定められているものの、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供が、未だに学校に出席していない。教育はアラビア語やフランス語で行われる。2004年の調査によれば、15歳以上の国民の識字率は52.3%(男性65.7%、女性39.6%)である[40]。このようにモロッコ全体で見れば非識字率は約50%程度だが、農村部の女子に至っては非識字率が90%近くにまで達する。
主な高等教育機関としては、アル・カラウィーン大学(859年)やムハンマド5世大学(英語版)(1957年)などが挙げられる。
保健
詳細は「モロッコの保健(英語版)」を参照
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医療
医療機関の質は悪くないが、医療サービスの質はあまり良いとは言えない。[41]
性転換手術
世界中の少なからぬ国において、モロッコという国名から「性転換」手術をイメージする人々が、特に1970年産まれ以前の世代では少なからず存在している[要出典]。
これは男性から女性への性転換手術、現在で言う性別適合手術の技法が、モロッコのマラケシュに在住していたフランス人医師ジョルジュ・ビュルーにより開発された事に起因する。ビュルーが手法を確立した1950年代後半以降、フランスの有名なキャバレー「カルーゼル」に所属していた多くの「性転換ダンサー」がビュルーの手術を受けたため有名になり、一時期は世界中から「女性に生まれ変わりたい」という願望を抱く男性が大量にマラケシュのビュルーの所へと押し寄せた。
日本もその例外ではなく、1960年代に3回にわたって行われた「カルーゼル」のダンサー(いわゆる「ブルーボーイ」)の日本公演が、この性転換手術の存在が知られる1つのきっかけとなり、その後、有名な例では、芸能タレントのカルーセル麻紀や、俳優の光岡優などが、モロッコに渡航しビュルーの執刀による手術を受けた。特に日本においては1973年以降のカルーセル麻紀に関する各種報道の影響で「性転換手術」=「モロッコ」のイメージが広まり、その影響は長らく残った[注釈 7]。
なお、ビュルーは1987年に死亡し、今日では性転換を希望する人は手術してくれる病院・医師の数が豊富なタイ王国で受けるのが主流となっている。
妊娠中絶
モロッコで妊娠中絶は、法的に認可されていない。ウィミン・オン・ウェーブ(オランダの医師が1999年に設立した団体)が、モロッコで望まぬ妊娠をしている女性を船に乗せて、公海上で中絶手術をする目的で2012年にモロッコに入港しようとしたが、モロッコ海軍に阻止されて追い返された[42]。同船の医師は、モロッコでは違法に実施される危険な中絶処置のために、年間90人のモロッコ人女性の命が失われているとし、安全に中絶処置が実施される必要性を訴えた[42]。
文化
詳細は「モロッコの文化(英語版)」を参照
食文化
アガディール中央市場のスパイス。
詳細は「モロッコ料理」を参照
モロッコで主食としている作物は、コムギである地域が目立つ[43]。ただし、地域によって特色も見られる。例えば、モロッコは漁業が重要な産業の1つであり[32]、海岸部では魚介類を利用した料理が見られる[44]。また、乾燥地帯の多い土地柄で、水が貴重な地域も有り、水を節約すべく蒸し煮を行うためのタジン鍋を多用する[43]。モロッコでは牧畜も行われており、モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、モロッコ産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。特に沙漠地域では、食肉をタジン鍋で調理した料理を食べる頻度が比較的高い[43]。
主なモロッコ料理としてはクスクス、タジン、ハリーラなどが挙げられる。
ただし、数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果として、モロッコの料理は多様である。モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放されたモリスコがもたらしたアラブ・アンダルシア料理、トルコ人によってもたらされたトルコ料理、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、ユダヤ料理の影響も同等である。
なお、香辛料はモロッコ料理に広く使われる。香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニのサフラン、メクネスのオリーブとミント[注釈 8]、フェスのオレンジとレモンなどの多くの材料はモロッコ産である。
文学
『大旅行記』の著者イブン・バットゥータ。
詳細は「アラビア語文学」および「モロッコ文学(英語版)」を参照
モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。アル=アンダルスで発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、同時に書店を設立し、これが後世の者に「史上初の書籍市」とも評された。ムワッヒド朝のカリフであったアブー・ヤアクーブは、本の収集をこの上なく好んだ。彼は偉大な図書館を設立し、その図書館は最終的にカスバとなり、公立図書館となった。中世においてタンジェ出身のイブン・バットゥータはアフリカ、アジア、 ヨーロッパに巡る大旅行の体験を述べた紀行文学『大旅行記』(『三大陸周遊記』、1355年)を著した。
近代モロッコ文学は1930年代に始まった。モロッコがフランスとスペインの保護領だった事は、モロッコの知識人に他のアラブ文学やヨーロッパとの自由な接触の享受による、文学作品の交換と執筆の余地を残した。
1950年代から1960年代にかけて、モロッコにはポール・ボウルズ、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・S・バロウズのような作家が滞在して作品を仕上げていった。モロッコ文学はモハメド・ザフザフ(英語版)、モハメド・チョークリ(英語版)のようなアラビア語作家や、ドリス・シュライビ(英語版)、タハール・ベン=ジェルーンのようなフランス語作家によって発達した。現代の文学においては、モロッコ出身のフランス語文学者としてムハンマド・ハイル=エディン(英語版)、モハメド・シュクリ、ライラ・アブーゼイド(英語版)、アブデルケビル・ハティビ(英語版)、そして1987年に『聖なる夜(フランス語版)』でゴンクール賞を獲得したタハール・ベン=ジェルーンなどが挙げられる。また、アラビア語モロッコ方言やアマジーグでなされる口承文学は、モロッコの文化にとって不可欠の存在である。
音楽
詳細は「モロッコの音楽」を参照
モロッコ音楽は、アラブ起源の楽曲が支配的である。ただし、その他にもベルベル人のアッヒドゥース(英語版)やアフワーシュ、黒人のグナワ(英語版)(「ギニア」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、ヌーバ(英語版)と呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。
世界遺産
詳細は「モロッコの世界遺産」および「モロッコの建築」を参照
モロッコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件存在する。
フェス旧市街 - (1981年)
フェス旧市街 - (1981年)
マラケシ旧市街 - (1985年)
マラケシ旧市街 - (1985年)
アイット=ベン=ハドゥの集落 - (1987年)
アイット=ベン=ハドゥの集落 - (1987年)
古都メクネス - (1996年)
古都メクネス - (1996年)
ヴォルビリスの古代遺跡 - (1997年)
ヴォルビリスの古代遺跡 - (1997年)
テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン) - (1997年)
テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン) - (1997年)
エッサウィラのメディナ(旧名モガドール) - (2001年)
エッサウィラのメディナ(旧名モガドール) - (2001年)
マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市 - (2004年)
マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市 - (2004年)
祝祭日
詳細は「モロッコの祝日(英語版)」を参照
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スポーツ
詳細は「モロッコのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのモロッコ選手団」も参照
サッカー
詳細は「モロッコのサッカー(英語版)」を参照
「王立モロッコサッカー連盟」も参照
モロッコ国内でも、他のアフリカ諸国同様サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツであり、1956年にサッカーリーグのボトラが創設されている。王立モロッコサッカー連盟(FRMF)によって構成されるサッカーモロッコ代表は、FIFAワールドカップには6度出場しており2022年大会ではアフリカ勢初のベスト4に進出した[45]。アフリカネイションズカップでは、1976年大会で初優勝を果たしている。
近年ではFIFAクラブワールドカップの2013年大会・2014年大会・2022年大会がモロッコで開催されており、開催国枠で出場したラジャ・カサブランカが2013年大会で準優勝に輝いている。ビッグクラブに在籍したモロッコ人選手としては、メディ・ベナティア、ハキム・ツィエク、ヌサイル・マズラウィ、アクラフ・ハキミが存在する[46]。
テニス
男子テニスは、1986年に当時の国王ハサン2世の名を冠したモロッコ初のATPツアー大会、ハサン2世グランプリが開催されるようになってから、次第に同国でもテニスが盛り上がりを見せるようになった。1990年代に入るとユーネス・エル・アイナウイ、カリム・アラミ、ヒチャム・アラジという3人の男子選手が同時期に現れ、同国初の国際的なプロテニス選手として大活躍した。
1961年に参戦したデビスカップでも当初は長らく弱小国であったが、上記3人の活躍と共に次第に強くなっていき、彼らが全盛期を迎えた1990年代後半から2000年代前半には、最上位カテゴリのワールドグループに通算で5回の出場を果たし、テニス強豪国の一角を占めるまでになった。ただ3人の引退に伴う2000年代後半以降は低迷したものの、2010年代にシングルスランキングで100番台に乗せてきた、レダ・エル・アムラニのような若手も現れ始めている。
女子テニスにおいても、2001年からラーラ・メリヤム王女の名を冠したWTAツアー大会、SARラ・プリンセス・ラーラ・メリヤム・グランプリを開催している。しかし、その一方で国内女子選手の育成は殆ど進んでおらず、2011年時点ではグランドスラム出場や、ツアーレベルに到達した女子選手は1人として現れておらず、世界レベルとは未だ隔たりがある。
フェドカップの同国代表も、大会参戦開始は1966年と中東諸国の中でも最も早かったが、この年の出場後の1995年に再び参加するまで、30年近く国際舞台の場に出なかった。その後も断続的な参加を続けた程度に過ぎず、2010年時点までの通算参加年数はわずか9年に留まっている。
陸上競技
陸上競技のうち男子中距離走と長距離走は、同じアフリカ大陸のエチオピアやケニアと並んで世界屈指の強さを誇る。概してオリンピックや世界陸上においては、800 mと1500 mで世界一を輩出した事例が多い。さらに1980年代の男子中長距離界を席巻したサイド・アウィータとヒシャム・エルゲルージは、とりわけ日本の陸上競技ファンや関係者の中で有名であり、エルゲルージの出した1500 mと1マイル、2000 mの世界記録は未だに破られていない。
格闘技
モロッコの著名な格闘家では、K-1とIT’S SHOWTIMEの元ヘビー級王者であるバダ・ハリがおり、かつてK-1世界ヘビー級王者戴冠後に「モロッコは世界的に自慢できる物が無い国なんだ。だから俺がK-1世界王者として活躍する事によって、世界中の人々に “モロッコ?ハリの母国だよね” と言ってもらえるようにしたい。”世界王者” という部分が重要なんだ」と語った。
著名な出身者
詳細は「Category:モロッコの人物」および「モロッコ人の一覧(英語版)」を参照
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ EUによる国際経済に占める「優先的地位」は、欧州近隣政策における行動計画の成果に基いて、EU側が付与する。モロッコに付与されたそれは、FTA締結から一段踏み込み、財・サービス・資本の完全な自由移動と専門職の自由移動の実現や、モロッコの国内法がEU法の総体(アキ・コミュノテール)を受容させる事などを、目標としている。
^ 最も狭い部分では幅14 kmしかない。
^ いわゆる「北東貿易風」と呼ばれる風である。
^ モロッコの固有種のアルガンノキから採取するアルガンオイルは、モロッカンオイル、つまり「モロッコの油」といった意味の別名でも知られる。
^ 原油の採掘量は1万トンと極めてわずかである。一方で、天然ガスは比較的多く産出する。
^ 特に、リン鉱石は、採掘量は世界第2位ながら、埋蔵量世界1位と言われている。なお、リン酸肥料だけではなく、モロッコでは窒素肥料の製造も行っている。
^ 例えばフィクションでは、1998年にディレクTVで放映されたアニメ『BURN-UP EXCESS』第8話で、登場した誘拐犯(オカマバーの元店長と元従業員)が身代金の使い道の1つとして「モロッコに行って性転換」することを挙げた。
^ ミントに関しては、アッツァイと呼ばれるミント緑茶に、大量の砂糖を加えて飲む習慣が見られる。
出典
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^ フェルダウス投資担当閣外相によるコメント。『日経産業新聞』2018年5月29日(環境・素材・エネルギー面)掲載、モロッコ「再生エネ52%に」。
^ 【旅】ケラア・ムグーナ(モロッコ)砂漠の中の「バラの谷」香り芳潤 美容にも一役『読売新聞』夕刊2018年5月16日。
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^ “モロッコがアフリカ勢史上初のW杯ベスト4進出!ポルトガルの猛攻耐えきり、歴史的偉業を達成”. Goal.com (2022年12月11日). 2022年12月12日閲覧。
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参考文献
川田順造『マグレブ紀行』中央公論社、東京〈中公新書246〉、1971年1月。
私市正年、佐藤健太郎(編著)『モロッコを知るための65章』明石書店、東京〈エリア・スタディーズ〉、2007年4月。ISBN 978-4-7503-2519-4。
佐藤次高(編)『西アジア史I──アラブ』山川出版社、東京〈新版世界各国史8〉、2002年3月。ISBN 4634413809。
福井英一郎(編)『アフリカI』朝倉書店、東京〈世界地理9〉、2002年9月。ISBN 4-254-16539-0。
宮治一雄『アフリカ現代史V』(2000年4月第2版)山川出版社、東京〈世界現代史17〉。ISBN 4-634-42170-4。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、モロッコに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
ウィキボヤージュには、モロッコ(英語)に関する旅行情報があります。
Portal:アフリカ
ポータル アフリカ
モロッコ関係記事の一覧
モロッコの都市の一覧
大モロッコ
外部リンク
モロッコ王国政府 (アラビア語)(フランス語)(スペイン語)(英語)
在日モロッコ大使館 (日本語)(英語)
日本外務省 - モロッコ (日本語)
在モロッコ日本国大使館 (日本語)(アラビア語)(フランス語)
JCCME - モロッコ
ウィキトラベル旅行ガイド - モロッコ
モロッコに関連する地理データ - オープンストリートマップ
モロッコのウィキメディア地図 (英語)
地図 - Google マップ
表話編歴
アフリカの国と地域
表話編歴
イスラム協力機構加盟国
表話編歴
フランコフォニー国際機関 フランコフォニー国際機関
表話編歴
アラブ・マグレブ連合
表話編歴
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国の主要な非NATO同盟国(MNNA)または自由連合盟約(COFA)締結国
座標: 北緯34度02分 西経6度51分
典拠管理 ウィキデータを編集
カテゴリ:
モロッコアフリカの国現存する君主国フランコフォニー加盟国国際連合加盟国アフリカ連合加盟国イスラム協力機構加盟国
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』
※ なんと、インドネシアの島嶼群も、これの一環か…。


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アルプス・ヒマラヤ造山帯
アルプス・ヒマラヤ造山帯(アルプス・ヒマラヤぞうざんたい、英: Alpine-Himalayan orogenic belt)は、地球の造山帯のひとつ。南アルプス造山帯と呼ばれることもある。アルプス山脈からヒマラヤ山脈を通り、インドシナ半島まで東西に延びている。現在も活発に活動している造山帯・地震帯。
造山帯の形成と特徴
中生代後期から新生代前期にかけて活発に活動し形成されたと考えられている新期造山帯。
アフリカ大陸とユーラシア大陸の衝突はアルプス造山運動、インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突はヒマラヤ造山運動とそれぞれ呼ばれている。
同時期にこのほか、アラビア楯状地もユーラシア大陸に衝突した。
いずれの造山運動においても、プレートが激しく衝突して一部は破砕し、隆起して褶曲山脈が形成された。
いずれの衝突地域においても、北側が隆起して山脈や高原となり、南側がやや沈降して平原や浅い海となっている。
ペルシャ湾やアラビア半島北東部(イラク~オマーン)は、ザグロス山脈の隆起に伴って緩やかに沈降して、低地や海となった地域である。
インドのヒンドスタン平原は、ヒマラヤ山脈の隆起に対してそのままの形を保ち、相対的に低地となった地域である。
アルプス・ヒマラヤ造山帯は環太平洋火山帯とともに、世界の2大造山帯ともいわれている。
環太平洋火山帯は火山を伴った活動が見られるのに対して、アルプス・ヒマラヤ造山帯は火山が少なく褶曲が多いのが特徴である。
イタリア南部や西アジアには、ヴェスヴィオ山、エトナ山、エルブルス山、アララト山、ダマーヴァンド山といった火山が点在しているが、活動が活発な火山は少ない。
範囲
アフリカ大陸北部、ヨーロッパ南部から西アジア、中央アジア南部、南アジア北部、東南アジア西部にまで続く。スマトラ島沖のスンダ海溝付近がちょうど環太平洋造山帯との境界に当たる。
アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する地形は以下のとおり。
アトラス山脈
ピレネー山脈・イベリア半島
アルプス山脈・イタリア半島
バルカン半島
カルパティア山脈・トランシルヴァニアアルプス山脈
ディナルアルプス山脈
ピンドス山脈
エーゲ海諸島
地中海諸島
バレアレス諸島
コルス・サルデーニャ
シチリア・マルタ
キプロス
アナトリア半島
ポントス山脈
トロス山脈
クリミア半島
カフカース山脈
ザグロス山脈
イラン高原
アルボルズ山脈
ヒンドゥークシュ山脈
パミール高原
カラコルム山脈
ヒマラヤ山脈
チベット高原
崑崙山脈
横断山脈
パトカイ山脈・アラカン山脈
シャン高原・ドーナ山脈
マレー半島
ココ諸島・アンダマン諸島・ニコバル諸島
関連項目
造山運動 - 古期造山帯 - 新期造山帯
環太平洋火山帯
大アドリア大陸 - 古大陸。その沈み込みも本造山帯形成に影響したと考えられる。
表話編歴
プレートテクトニクス
カテゴリ:
プレートテクトニクス地域別の地形
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』



『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
座標: 北緯39.815278度 東経46.751944度
曖昧さ回避 この項目では、アゼルバイジャン共和国の地域について説明しています。1991年に独立宣言を行った国家「ナゴルノ・カラバフ共和国」については「アルツァフ共和国」をご覧ください。
ナゴルノ・カラバフ自治州(1923年 – 1991年)の領域(クリーム色)
「アルツァフ共和国」(クリーム色)、及びアルツァフ共和国が領有権を主張していたアゼルバイジャン共和国実効支配地域(オレンジ色)の領域(1994年 – 2020年)
2020年以降の「アルツァフ共和国」(NKR)の領域(クリーム色)。桃色は2020年ナゴルノ・カラバフ紛争におけるアゼルバイジャン共和国の占領地、斜線部は停戦協定でNKRからアゼルバイジャン共和国へ返還された地域。
ナゴルノ・カラバフ(アルメニア語: Լեռնային Ղարաբաղ, ラテン文字転写: Leṙnayin Ġarabaġ, アゼルバイジャン語: داغليق قاراباغ, ラテン文字転写: Dağlıq Qarabağ, ロシア語: Нагорный Карабах, ラテン文字転写: Nagorniy Karabakh)は、アゼルバイジャン共和国の西部にある地域(ナゴルノ・カラバフ自治州[1])である。
名称について
「カラバフ(英語版)」という名は地域中部の山岳地帯に当たり、「黒い庭」を意味するアゼルバイジャン語をロシア語で表した言葉である。
「ナゴルノ・カラバフ」という呼称は、カラバフ地方の東部山岳地方に対してロシア語でナゴールヌィ・カラバフ(Нагорный Карабах, 高地カラバフ)と名付けられたことが元になっており、「山地の黒い庭」を意味する[1]。現地のアルメニア語やアゼルバイジャン語には基づいていない。
また、アルメニア人が使う呼称としてアルツァフ(アルメニア語: Արցախ)があるが、これはかつてナゴルノ・カラバフを治めていた紀元前に存在したアルメニア王国のアルツァフ州(英語版)や10世紀に建国されたアルツァフ王国に由来する。アルツァフ自体の語源は、アルメニア王アルタクシアス1世に由来する[2]。
概要
ソビエト連邦崩壊後は国際的にはアゼルバイジャン共和国の一部とされているが、アルメニア人が多く居住しており、隣国アルメニアとアゼルバイジャンの対立の火種となっている。
ナゴルノ・カラバフ紛争最中の1991年9月2日[1]に「アルツァフ共和国」(別称「ナゴルノ・カラバフ共和国」)としてアゼルバイジャンからの独立を宣言したが、国際連合加盟国から国家の承認は得られていない。
アブハジア、南オセチア、沿ドニエストル共和国以外に独立を承認している国はなく、しかもいずれも一部・未承認国家であるため、あくまで事実上独立した地域である。承認を受けた3か国とは「民主主義と民族の権利のための共同体」を結成している。
地理
面積は約4,400平方キロメートル[3]で、中心都市はステパナケルト[1][4]。アルメニア高原の東端に位置し、3,000メートル級の山地に囲まれ、標高1,000 – 2,000メートルの高地にある。クラ川やアラクス川の流域を見下ろす地である。森林に恵まれ、高地には高山性植物が群生している。人口は約14万7000人で、その9割以上がアルメニア人系である[1]。
歴史
ナゴルノ・カラバフを含むカラバフは、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台となっており、ロシア帝国崩壊後に両民族がアルメニア第一共和国とアゼルバイジャン民主共和国を建国すると遂には軍事衝突(アルメニア・アゼルバイジャン戦争(英語版))にまで発展した。
その後、両者は労農赤軍(ソ連軍)の圧力によって1920年末までに共産化し、ソ連の構成体であるアルメニア社会主義ソビエト共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国になった。
だが、アルメニアがソ連の構成体となる時にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がナゴルノ・カラバフとシュニク地方をアゼルバイジャンに割譲することを提案すると、追放されたアルメニア革命連盟が反ボリシェヴィキ運動を激化させ、1921年4月26日にはナゴルノ・カラバフを含むアルメニア南部において山岳アルメニア共和国の独立を宣言したが、赤軍との熾烈な戦闘の末に同年7月13日に消滅した。
帰属が確定したのは共産化の翌年である1921年7月4日のことで、現地のボリシェヴィキによる国境画定交渉によってナゴルノ・カラバフはアルメニア領とされた。
しかしアゼルバイジャン側は猛反発し、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属として決定が覆されてしまった。
こうしてアゼルバイジャン領となったナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられることとなり、1923年7月7日に当時のソ連邦共産党書記長であったヨシフ・スターリンがアゼルバイジャンに帰属する自治州であることを確定させ[1]、アゼルバイジャン内の自治州としてナゴルノ・カラバフ自治州が設置された。
民族を混在させることでソ連内の火種であった民族主義を弱体化させる狙いがあったとみられるが、結果的に民族主義は解体できなかった。
自治州成立後もアルメニア人はソ連の政局が変わる度にアルメニアへの編入を求めた。
1985年にミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任してペレストロイカなどの自由化政策が開始されるとアルメニアへの編入運動は一層大きくなった。
1988年以降[1]、アルメニアとアゼルバイジャンは衝突し始めた。
ソ連崩壊後に民族主義は再燃し[5]、ナゴルノ・カラバフ自治州はアルメニアへの合流を求めてアルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)として1991年9月2日に独立宣言を発し、1990年代のナゴルノ・カラバフ戦争にまで発展した。
この戦争で約3万人が死亡、推定100万人が避難した。
1994年の停戦後、アルメニア側が、北部と東部の一部を除くナゴルノ・カラバフの大半と、アルメニアとの間に挟まれた地域(ラチン回廊など)を含む周辺は、ナゴルノ・カラバフ外の東側の一部を含めて実効支配するに至った。
その後も膠着状態は続き、軍事衝突(2014年アルメニア-アゼルバイジャン紛争(英語版)、 2016年ナゴルノ・カラバフ紛争(英語版) -4日間戦争(英語: Four-Day War)とも、2020年7月アルメニア-アゼルバイジャン紛争(英語版))も断続的に発生していたが、2020年の大規模な衝突でアルメニア側は実効支配地域を多く失った。
2020年紛争で領土を大きく減らしたものの、その後も独立状態を保っている。
この地域の近隣には、アゼルバイジャン側のカスピ海からジョージアに向けた石油と天然ガスを輸出するパイプラインがあり、2020年ナゴルノ・カラバフ紛争に至る対立・衝突は世界経済にも影響を与えた[6][7]。
アゼルバイジャンは人種的に近いトルコの支援を受ける一方、アルメニアはロシアの軍事基地を後ろ盾に持つ。
そして、トルコとアゼルバイジャンがイスラム教国、ロシアとアルメニアがキリスト教国であることも事態を複雑化させている[7]。
脚注
[脚注の使い方]
出典
^ a b c d e f g 「自治州紛争1週間 アゼルバイジャン攻勢 アルメニア領にも飛び火」「スターリンの線引き争いの種 住民9割超、アルメニア系」『読売新聞』、2020年10月5日、朝刊、国際面の記事・地図参照。
^ Lang 1988, p. x
^ 『ナゴルノ・カラバフ』 - コトバンク
^ 「ナゴルノカラバフ紛争1カ月/止まらぬ戦闘 見えぬ解決/停戦合意 三たび破棄」『毎日新聞』、2020年10月31日、朝刊、国際面の記事及び添付地図。
^ 田中宇. “解けないスターリンの呪い:ナゴルノカラバフ紛争”. 2023年3月13日閲覧。
^ “Armenia and Azerbaijan fight over disputed Nagorno-Karabakh”. BBC 2020年9月28日閲覧。
^ a b 『日本経済新聞』、2020年9月30日、朝刊、10面。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、アルツァフに関連するカテゴリがあります。
「ナゴルノ・カラバフ:国家のようで国家でない地域」(Hinako Hosokawa),Global NewsView/2017年7月
参考資料
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Lang, David M (1988). The Armenians: a People in Exile. London: Unwin Hyman. ISBN 978-0-04-956010-9
Ali; Ekinciel (1 August 2015). Karabakh Diary (1 ed.). Russia: Sage. ISBN 9786059932196
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ナゴルノ・カラバフ
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ナイジェリア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2
※ 一部を抜粋して、紹介する。


『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』













この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年8月)』
『ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく、英語: Federal Republic of Nigeria)、通称ナイジェリアは、アフリカ大陸西南部に位置する連邦制共和国。首都はアブジャ。西にベナン、北をニジェール、北東がチャド、東はカメルーンとそれぞれ国境を接し、南はギニア湾に面し大西洋に通ずる。
概要
ナイジェリアは西アフリカに存在する国家である。人口は2022年現在で2億1,140万人[3]で世界第7位であり、アフリカ州最大の規模でもある。さらに民主的な世俗国家であることが憲法上で規定されている[4]。イギリス連邦加盟国の1国でもある。行政区分は、36の州および首都アブジャ市を擁する連邦首都地区からなる。
ナイジェリアの地には過去数千年間に多数の王国や部族国家が存在してきた。現在のナイジェリア連邦共和国の源流は、19世紀以来の英国による植民地支配と、1914年の南部ナイジェリア保護領(英語版)と北部ナイジェリア保護領の合併にもとめられる。英国は行政システムと法制度を設置した上で伝統的な首長制を通じた間接統治を行った。ナイジェリアは1960年に正式に独立し、1967年から1970年にかけて内戦に陥った。以来、選挙に基づく民主政権と軍事独裁政権が交互に続いたが、1999年に安定した民主政権が成立し、2011年の大統領選挙は同国では初めて比較的自由かつ公平に行われた選挙であるとされる[5]。
若年人口(英語版)は世界でも非常に多い[6][7]。同国は多民族国家とみなされており、500を超えるエスニック・グループを擁する。そのうち3大エスニック・グループがハウサ人、イボ人、ヨルバ人である。同国のエスニック・グループが用いる言語は500を超え、文化の違いも多岐にわたり、それにより互いに区別される[8][9]。ナイジェリア連邦共和国の公用語は英語である。宗教はおおまかに南部のキリスト教と北部のイスラム教に二分される。少数はナイジェリア土着の宗教を信奉しており、たとえばイボ人やヨルバ人の伝統宗教などがこれにあたる。
ナイジェリアは人口と経済規模から「アフリカの巨人」と称されることが多い[10]。2015年時点でナイジェリアの経済規模は世界第20位であり、名目GDPは5,000億ドル、購買力平価は1兆ドルをそれぞれ上回る。2014年には南アフリカを抜きアフリカ最大の経済大国となった[11][12]。また、GDPに対する国債の割合は2013年で11パーセントに過ぎず、2012年にくらべても8ポイント低い[13][14]。
ナイジェリアは世界銀行からエマージング・マーケットとみなされているほか[15]、アフリカ大陸における地域大国[14][16][17]、国際政治におけるミドルパワー[18][19][20][21]、世界規模でのエマージング・パワー(英語版)ともみなされている[22][23][24]。ナイジェリアは、広く第2のBRICsと目されるMINT(英語版)の1か国であり、世界最大クラスの経済大国になると考えられているネクスト11にも含まれる。ナイジェリアは英連邦創設当初からの加盟国であるほか、アフリカ連合、OPEC、国際連合といった国際機関のメンバーでもある。
2014年に西アフリカでエボラ出血熱が流行した際には、この伝染病はナイジェリア以外の3つの国では猛威を振るったが、ナイジェリアでは各国に先駆けて効果的に封じ込めと除去が行われた。また同国独自の保菌容疑者の追跡法は有効性を買われ、のちに各国で用いられることになった。たとえばアメリカでエボラ出血熱の感染が確認された際にもこの方法が採用されている[25][26][27]。 』
『歴史
16世紀のベニン王国の象牙のマスク
詳細は「ナイジェリアの歴史(英語版)」を参照
紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。
9世紀ごろ、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴う王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。
この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。
10世紀 – 15世紀ごろ、国土の南西部には、青銅製などの優れた彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。
これらの大胆なフォルムの彫刻はのちに19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。
14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。
密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。
チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。
また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビールで改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国、フラニ帝国)を建国した。
植民地時代
1897年のベニンシティ
詳細は「イギリス保護領ナイジェリア(英語版)」を参照
ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点としたときから始まった。
17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。
19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。
1884年にはオイルリバーズ保護領(英語: Oil Rivers Protectorate)が成立した。
1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。
19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされ、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護領)。en:Anglo-Aro War(1901年 – 1902年)。
1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。
1901年、王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領と南部ナイジェリア保護領(英語版)の2つの保護領に再編成され、1914年に英領ナイジェリア植民地(英語版)(1914年 – 1954年)に統合された。
自治領
留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 – 1960年)となった。
1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始した。
独立・第一共和政
詳細は「ナイジェリア第一共和国(英語版)」および「ナイジェリア・シャリーア紛争(英語版)」を参照
1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として完全独立を果たす。
独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。
それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。
しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。
第一次軍政
ビアフラ共和国の領域。ビアフラ戦争では100万人以上の死傷者が出た
詳細は「ビアフラ戦争」を参照
この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。
1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺され、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は、1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国の独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。
1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムルタラ・ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。
1976年にムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定した。
第二共和政
詳細は「ナイジェリア第二共和国(英語版)」を参照
1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。
第二次軍政
1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。
1985年に再度クーデターが起き、イブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。
第三共和政
詳細は「ナイジェリア第三共和国(英語版)」を参照
1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。
1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。
第三次軍政
その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。
サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。
彼はアフリカ随一の地域大国らしく振る舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。
これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待した者もいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ1人だけであった。
しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。
第四共和政
第5代・12代大統領オルシェグン・オバサンジョ
詳細は「ナイジェリア第四共和国(英語版)」を参照
かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で大統領に当選。2003年の選挙でも再選した。
しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。
2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決された。
2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。
2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。
2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。
2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。
2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。
2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。
グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年に再び大統領選挙が実施された。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しか
し、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設等への襲撃が発生し、多数の死者や避難民が生じた[30]。2015年3月の大統領選挙でジョナサンを破り、ブハリ大統領が誕生。 』
『軍事
詳細は「ナイジェリア軍」を参照
サハラ砂漠以南のブラックアフリカの中では南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍などの活躍に期待が寄せられている。 』
『地理
ナイジェリアの地図
詳細は「ナイジェリアの地理(英語版)」を参照
ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。
西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。
同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。
最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419メートルである。
国土は多様で、南部は年間約2,000ミリの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。
カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。
北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。
北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 – 1,500ミリのサバナが広がっている。 』
『地方行政区分
詳細は「ナイジェリアの州」を参照
ナイジェリアの州
ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州(state)と連邦首都地区(Federal Capital Territory)によって構成される。
州はさらに774の地方行政区域に分割されている。
独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。
1.アビア州 (Abia)
2.アダマワ州 (Adamawa)
3.アクワ・イボム州(Akwa Ibom)
4.アナンブラ州(Anambra)
5.バウチ州 (Bauchi)
6.バイエルサ州 (Bayelsa)
7.ベヌエ州 (Benue)
8.ボルノ州(Borno)
9.クロスリバー州 (Cross River)
10.デルタ州 (Delta)
11.エボニ州(Ebonyi)
12.エド州(Edo)
13.エキティ州 (Ekiti)
14.エヌグ州 (Enugu)
15.ゴンベ州 (Gombe)
16.イモ州(Imo)
17.ジガワ州 (Jigawa)
18.カドゥナ州 (Kaduna)
19.カノ州 (Kano)
20.カツィナ州 (Katsina)
21.ケビ州 (Kebbi)
22.コギ州 (Kogi)
23.クワラ州(Kwara)
24.ラゴス州 (Lagos)
25.ナサラワ州 (Nassarawa)
26.ナイジャ州 (Niger)
27.オグン州 (Ogun)
28.オンド州 (Ondo)
29.オシュン州 (Osun)
30.オヨ州 (Oyo)
31.プラトー州 (Plateau)
32.リヴァーズ州 (Rivers)
33.ソコト州 (Sokoto)
34.タラバ州 (Taraba)
35.ヨベ州 (Yobe)
36.ザムファラ州 (Zamfara)
37.連邦首都地区 (Federal Capital Territory)
主要都市
詳細は「ナイジェリアの都市の一覧」を参照
主要な都市はアブジャ(首都)、ラゴス、イバダン、ベニンシティ、カノ、ポートハーコート、カドゥナ、アバ、マイドゥグリ、イロリンがある。 』
『経済
ラゴスはナイジェリア最大の経済都市であり、世界有数のメガシティである
詳細は「ナイジェリアの経済(英語版)」を参照
ナイジェリアはアフリカ屈指の経済大国であり、アフリカ経済の4分の1を占める規模を持つ[36]。
ナイジェリア統計局の発表によると、2013年のナイジェリアのGDPは約5,100億ドルであり[37]、日本の大阪府に兵庫県を加えたのとほぼ同じ経済規模である[38]。
1人あたりのGDPは3,082ドルで、世界平均のおよそ30パーセントの水準である[39]。
サハラ以南アフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトとともにNEXT11にも数えられており、世界7位という人口の多さも相まってアフリカ最大の規模である。このGDPの規模は世界24位であり、G20のすぐ下に付けている[36]。
色と面積で示したナイジェリアの輸出品目
石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国である。
かつては石油・ガス産業がGDPの4割を占めるなど、原油収入に依存した経済構造であったが、2013年現在ではGDPの14.4パーセントへと低下しており、経済の多角化が進んでいる。
石油以外の産業としては、流通・小売などのサービス業がGDPの17.5パーセントを、金融・不動産業が14.6パーセントを占めており、また2008年時点ではGDPの3パーセント未満であったIT産業や製造業も、2013年にはそれぞれ12.2パーセントと6.8パーセントへ拡大を続けている。
しかしながら、徴税機構の不備から、今日でも政府の歳入の7 – 8割を石油産業に依存した状態にある。[40]
多角化の一方、国民の半分は農林水産業に従事しており、中でも主食であるキャッサバやヤムイモの生産量は世界一である。
また輸出作物としては、カカオや天然ゴム、ゴマの栽培が盛んである。[41]トウモロコシの生産も行われているが収量はヘクタールあたり2トンと著しく低い[42]。
国内の市場そのものは大きいが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。
それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループのひとつであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブスの長者番付にランクインした[43]。 』
『国民
ナイジェリア、カメルーン、ベナンの民族分布
詳細は「ナイジェリアの人口統計(英語版)」を参照
民族
ナイジェリアはアフリカ最大級の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の5分の1から4分の1がナイジェリアに居住する。
250以上の民族・部族が居住しており、北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29パーセント、南西部のヨルバ人が21パーセント、南東部のイボ人が18パーセント。
以下、イジョ人 10パーセント、カヌリ人(英語版) 4パーセント、イビビオ人(英語版) 3.5パーセント、ティブ人 2.5パーセント、ほかにエド人(英語版)、エビラ人(英語版)、ヌペ人(英語版)、グバギ人(英語版)、イツェキリ人(英語版)、ジュクン人(英語版)、ウルホボ人(英語版)、イガラ人、イドマ人(英語版)、コフィヤル人(英語版)、オゴニ、アンガス人らがいる。
民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。
分子生物学の見地から見た民族の起源
最近の研究(Haber et al. 2019)から、ハプログループDのもっとも古くに分岐した系統(D2系統)が、ナイジェリア人の3サンプルから見つかった。
この系統は、ハプログループEの持たないSNPを、D1-M174と7つ共有している。
このことから、ハプログループDはアフリカですでに誕生していたと推定されている[44]。D2は、西アジア(サウジアラビア、シリア)でも見つかっている[45]。
言語
「ナイジェリアの言語(英語版)」を参照
ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。
議会や官庁でおもに使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であるが、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用が認められている(ナイジェリア連邦共和国憲法・第55条)。
初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用しており、言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている[46][47]。
婚姻
伝統的には結婚時に女性が改姓するが、法的にはどのような姓に改姓することも(しないことも)可能で、改姓しない夫婦別姓や複合姓も近年増えている[48][49]。
宗教
「ナイジェリアの宗教(英語版)」を参照
おもに北部ではイスラム教が、南部ではキリスト教が信仰され、そのほか土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている[50]。
北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんどいなかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する[51]。北部のマイドゥグリは、イスラム過激派組織「ボコ・ハラム」結成の地である。
「ナイジェリアのイスラム教(英語版)」および「ナイジェリアのシャリーア(英語版)」も参照
独立後、キリスト教とイスラム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。
1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。
さらに、1987年のカドゥナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。
また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドゥナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。
2002年は25パーセント以上がキリスト教であるカドゥナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた[52]。
2010年3月にはベロムでイスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。
2010年7月にかけての数か月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1,500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある[53]。
アメリカの国務省は、2020年12月、世界で最も信教の自由が侵害されている国の一覧を公表した。
その一覧の中で、ナイジェリアは「特に懸念のある国」に分類された。
国際キリスト教人権監視機構(英語版)の報告によれば、「ナイジェリアでは2000年以降、5~7万人のキリスト教徒が殺害されており、キリスト教徒にとって地球上で最も過酷な場所の一つ」としている。
その後、2021年11月に、国務省が更新した国の一覧では、ナイジェリアは「特に懸念のある国」から外れた。
しかし、人権団体やキリスト教団体は、ナイジェリアの状況に改善は見られないとして、アメリカの決定を批判している[54]。
「ナイジェリアにおける宗教的暴力(英語版)」も参照
教育
「ナイジェリアの教育(英語版)」を参照
学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60 – 70パーセントと低い。
2018年の15歳以上の人口の識字率は約62パーセント(男性:71.3パーセント、女性:52.7パーセント)であると見積もられている[55]。
おもな高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。
保健
「ナイジェリアの保健(英語版)」を参照
衛生状態が宜しくない現状が続いている。ナイジェリアでは、人口の約4分の1に当たる約4600万人が屋外排泄を余儀なくされている。政府は2019年より、屋外での排便の撲滅キャンペーンを宣言し、公共の場へのトイレ設置を進めている[56]。
医療
「ナイジェリアの医療(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。 』
シベリアのブリヤート地区。そこを流れるホロドナヤ河が…。
https://st2019.site/?p=21402
『Ellie Cook 記者による2023-8-20記事「Russian Dam Bursts Washing Away Railroad――Economy To Lose ‘Billions’」。

シベリアのブリヤート地区。そこを流れるホロドナヤ河が洪水氾濫。
バイカル湖より北東のBAM(バイカル~アムール)鉄道の線路が流されたという。』
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二聖モスク
守護者
خَادِمُ ٱلْحَرَمَيْنِ ٱلشَّرِيفَيْنِ
Khādim al-Ḥaramayn aš-Šarīfayn (アラビア語)
詳細
敬称 CTHM, 陛下
初代 サラーフッディーン(サラディン)
宮殿 リヤドの王宮、現在はヤマーマ宮殿
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二聖モスクの守護者(略称CTHM; アラビア語: خَادِمُ ٱلْحَرَمَيْنِ ٱلشَّرِيفَيْنِ、Khādim al-Ḥaramayn aš-Šarīfayn )、二つの高貴な聖域のしもべまたは二つの聖なる都市の守護者は、アイユーブ朝、エジプトのマムルーク朝、オスマン帝国の君主など、多くのイスラム教国の支配者が使用してきた王の称号である。
現代では、サウジアラビアの国王が保持している。この称号は事実上のカリフを意味する場合もある[1]が、主にはイスラム教で最も神聖なふたつのモスクを守護する義務を直接的に示している。
つまり、メッカのマスジド・ハラーム(アラビア語: اَلْمَسْجِدُ ٱلْحَرَامُ)とメディナの預言者のモスク(アラビア語: اَلْمَسْجِدُ ٱلنَّبَوِيُّ)のことであり[2]、どちらもアラビア半島のヒジャーズ地方にある[3]。
歴史
この称号を最初に使用した人物は、アイユーブ朝のサラーフッディーン(サラディン)であったと考えられている[4]。
1517年にマムルーク朝を破ってメッカとメディナを掌握した後、オスマン帝国のスルタンのセリム1世もその称号を採用した。スルタン自身は「両聖地の支配者」(アラビア語: حَاكِمُ الْحَرَمَيْن)よりも、「両聖地のしもべ」(アラビア語: خَادِمُ الْحَرَمَيْن)と名乗ることを好んだ[5] [6] [7]。この称号は、最後のメフメト6世 (在1918年〜1922年)まで、その後のすべてのオスマンのスルタンに使用された。
サウジアラビアでこれを最初に名乗った国王はファイサル王(在1964年~1975年)だった。
彼の後継者であるハーリド王は名乗らなかったが[4]、後継者であるファハド王は使用し、それまでの用語である「陛下His Majesty」をこれに置き換えた[8]。
現在の王であるサルマーン王も2015年1月23日に彼の異母兄であるアブドゥッラー王が亡くなった後に同じ称号を得た[2]。
関連項目
アミール・アル・ムーミニーン(「信徒たちの長」の意。アラビア語: أَمِير الْمُؤْمِنِين)
宗教都市
エルサレム・イスラム・ワクフ(英語版)
脚注
^ Wood, Paul (2005年8月1日). “Life and legacy of King Fahd”. BBC News 2011年4月6日閲覧。
^ a b “Custodian of the Two Holy Mosques King Abdullah bin Abdulaziz”. The Saudi Embassy in Tokyo, Japan. 2011年1月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月6日閲覧。
^ Merriam-Webster's Geographical Dictionary. (2001). p. 479. ISBN 0 87779 546 0 2013年3月17日閲覧。
^ a b Fakkar (2015年1月27日). “Story behind the king’s title”. en:Arab News. 2016年6月27日閲覧。
^ Freidun Emecen, Selim I, TDV İslam Ansiklopedisi, Vol.36, p.413-414. (トルコ語)
^ İlber Ortaylı, "Yavuz Sultan Selim", ミッリイェト (トルコ語)
^ İlber Ortaylı, "Surre alayı Topkapı Sarayı’ndan geçiyor", ミッリイェト, 20 April 2008 (トルコ語)
^ “Fahad played pivotal role in development”. en:Gulf Daily News. (2005年8月2日) 2013年2月2日閲覧。
カテゴリ:
サウジアラビアのイスラム教オスマン帝国の政府元首君主号イスラム教の称号・役職
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サヘル王国 Sahelian Kingdoms
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『序章
サヘル王国_main
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サヘル王国は、8 世紀から 19 世紀にかけてサヘルのサハラ以南の草原地帯を中心とした一連の中央集権的な王国または帝国でした。
州の富は砂漠を横切る交易路の管理によってもたらされました。
彼らの力は、大帝国を中央制御下に置くのに十分な速さを持ったラクダや馬などの大きな群れを持つ動物から来ており、そのような種類の戦いにも役立ちました。 。
これらの帝国はどちらもかなり分散化されており、加盟都市は大きな自治権を持っていました。
森林では騎馬戦士はほとんど役に立たず、馬もラクダもこの地域の病気に耐えられず、そのためサヘル諸国がボノとヨルバの森林地帯に南進することが制限されていた。
経済
大きな都市と重要な都市を持つ連合王国と帝国がありました。
人口が多く、分散しており、組織化が不十分な地域。人々は農民、牧場主、狩猟者、漁師、そして工芸品(金属加工、織物、陶器)でした。
彼らは川に沿って湖を渡り、短距離と長距離を交易し、独自の通貨を使用しました。
サヘル王国の歴史
この地域で最初に台頭した大国はガーナ帝国でした。 cで設立されました。
8世紀、現在のセネガルとモーリタニアを中心としたこの地域は、ウォロフ商人による群れ動物導入の恩恵を受けた最初の地域でした。
ガーナは約 750 年から 1078 年までこの地域を統治しました。
当時のこの地域の小国家には、西のタクルル、南のマリのマリンケ王国、東のガオを中心とするソンガイ族が含まれていました。
ガーナがアルモラヴィの侵略に直面して崩壊すると、ソッソ王国をはじめとする一連の短命の王国が続いた。
1235 年以降、マリ帝国が台頭してこの地域を支配し、最南端のボノ州と交易しました。
現在のニジェールとマリの西、ニジェール川沿いに位置し、1350年代に最盛期を迎えましたが、1400年までに多くの家臣の支配を失いました。
これらの国家の中で最も強力だったのはソンガイ帝国で、1460 年代のソンニ アリ王の時代から急速に拡大しました。
1500年までに、カメルーンからアフリカ史上最大の国家であるマグレブ諸国にまで上り詰めた。
サーディ王朝のモロッコ侵攻の結果、1591年にその領土はデンディ県のみに縮小された。
帝国は 1901 年にフランスがアスキアの最後の者を追放したときに崩壊しました。
はるか東のチャド湖畔にあるカネム・ボルヌ県は、9 世紀にカネムとして設立され、現在は中央サヘル地域でより重要な位置を占めています。
西側では、緩やかに統一されたハウサ族の都市国家が支配するようになった。
これら 2 つの状態は不安定に共存していましたが、非常に安定していました。
1810年、ソコト・カリフ制が台頭してハウサを征服し、より中央集権的な国家を創設した。そしてカネム・ボルヌは存在し続けるだろう。』