レファレンス平成18年7月号
日米防衛協力における3つの転機
1978年ガイドラインから「日米同盟の変革」までの道程
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999821_po_066607.pdf?contentNo=1




『福 田 毅
目 次
はじめに
I 転機とならなかった安保改定
π 第1の転機:1970年代——協力基盤の確立
!米国の国防政策
2日本の防衛政策
3日米間の防衛協力
4 在日米軍の再編と経費分担
DI第2の車広機:1990年代—日米安保の再定義
!米国の国防政策
2日本の防衛政策
3日米間の防衛協力
4 在日米軍の再編と経費分担
IV 第3の転機:2000年代——日米同盟の変革
!米国の国防政策
2日本の防衛政策
3日米間の防衛協力
4 在日米軍の再編と経費分担
V日米防衛協力の枠組みの比較
おわりに
はじめに
日米両国が2003 (平成15)年から本格的に開
始した日米同盟に関する交渉は、日本では一般
的に在日米軍再編交渉と呼ばれているが、米国
では「防衛政策見直し協議」(Defense Policy
Review Initiative / DPRI)と名付けられている0
米国側の名称は、日米交渉の主目的が、現代の
新たな戦略環境に対応するための日米同盟の強
化、即ち「日米同盟の変革」にあることを示唆
している⑴。
同盟の変革とは、自衛隊と米軍の
防衛協力と安全保障における日本の役割を拡大
することを意味し、在日米軍や自衛隊の再編も
その一環として行われている。
歴史的に見れば、今回の同盟変革は、日米の
防衛協力強化の流れの中の第3の転機と位置づ
けることができる(表1)。
防衛協力の拡大と
は、単に協力分野の拡大だけでなく、自衛隊の
役割の地理的な拡大(日本防衛から周辺事態、そ
して「世界の中の日米同盟」というスローガンの下
でのアジア太平洋を越えた地域への拡大)をも意
味している。
これは、物(基地)と人(米軍)の
交換という日米同盟の非対称性を克服するため
の道のりでもある⑵。
日米安保体制の発足当初は日米間の防衛協力
はほとんど皆無で、1960年の安保改定もその状
況を変えることはなかった。
第1の転機は、
1970年のニクソン・ドクトリンを契機とし、
⑴ 例えば、W・ファロン太平洋軍司令官も、米国は日本とFDPRIを通じた同盟の変革と再編交渉」を行っている
と議会で証言している。 Statement of Admiral William J. Fallon, U.S. Navy, Commander U.S. Pacific
Command before the Senate Armed Services Committee, 7 March, 2006, p.24.
http://www.pacom.mil/speeches/sst2006/DAR-FY07-Fallon%2003-07-06.pdf
⑵ 坂元一哉「日米同盟における「物と人との協力」「人と人との協力」」『外交フォーラム』205号,2005.8, pp.15-21.
レファレンス2006.7 143
表1 日米間の防衛協力と日本の役割の段階的発展
第1の転機(1970-80年代) 第2の転機(1990年代) 第3の転機(2000年代)
時代背景 ヴェトナム戦争の収束(一1973) デタントとその崩壊 米国の相対的国力の低下 日本経済の急速な成長 湾岸戦争•ソ連崩壊(1991) 第1次朝鮮半島危機(1993-94) 台湾海峡危機(1996) 日米貿易摩擦と「同盟漂流」 9.11テロ (2001) アフガニスタン攻撃(2001) 第2次朝鮮半島危機(2002-) イラク攻撃•占領(2003-)
米国の国防政策 2 %戦略から1%戦略への転換 ニクソン・ドクトリン(1970) 新太平洋ドクトリン(1975) 地域紛争対処の重視 国防費•前方展開兵力の削減 ナイ・イニシアティブ(1994 —) 東アジア戦略報告(1995) 米軍の変革と対テロ戦の遂行 前方展開態勢の見直し QDR (2001) 国家安全保障戦略(2002)
日本の防衛政策 防衛を考える会報告書(1975) 防衛計画の大綱(1976) 基盤的防衛カ構想、専守防衛 樋口レポート(1994) 防衛計画の大綱(1995) PKO協力法(1992) 荒木レポート(2004) 防衛計画の大綱(2004) 武力攻撃事態関連法(2003-04)
日米間の防衛協力 旧ガイドライン(1978) 新ガイドライン(1997) SCC合意文書(2005.10)
シーレーン防衛(1981) 有事共同対処計画策定(1981) 対米武器技術供与解禁(1983) 日米安保共同宣言(1996) ACSA 締結(1996,1999改定) ガイドライン関連法(1999-00) テロ特措法(2001) イラク特措法(2003)
米軍基地の再編 関東計画•在沖米軍基地再編・ 横須賀への空母配備等 SACO合意(在沖米軍基地の整理 統合、1996) 在日米軍と自衛隊の大規模な部隊 •基地の再編と連携強化
経費分担 米軍移転経費の負担(1973-77) 思いやり予算(1978-) SACO関連経費(1996-) グアム移転費を含む基地再編経費 の負担
(筆者作成)
1978年には日本有事の際の防衛協力の枠組みを
設定した「日米防衛協力のための指針」(旧ガイ
ドライン)が策定された。
第2の転機は、1994
年の「ナイ・イニシアティブ」(日米安保の見直し)
によって開始され、周辺事態への対処をも視野
に入れた1997年の新ガイドラインへと結実した。
現在行われている日米同盟の変革も、これらー
連の流れの延長線上に位置するものである。
これら3つの転機は、その背景や要因に相違
はあるものの、非常に似かよったプロセスで進
行している。
基本的には、まず米国が安全保障
戦略を修正し、それに日本が対応するという形
で日米双方の防衛政策が構築され、その後に日
米間の防衛協力の枠組みが設定される。
それと
ほぼ同時に、在日米軍の再編が進行する。
再編
の目的は、米軍の戦略変化への対応であると共
に、米軍基地に対する日本国民の不満を緩和し、
日米同盟が弱体化する要因を除去することにあ
る。
同盟の転機に必ず基地問題が議題に上るの
は、日米安保の中核的機能の1つが日本による
米軍への基地提供にあることを象徴していると
言えるだろう。
これら一連の動きは、日本によ
る米軍駐留経費の負担問題にも大きな影響を与
えることになる。
本稿の目的は、日米防衛協力の発展過程を振
り返ることで、現在の同盟変革を理解するため
の歴史的な見取り図を提示することにある。
以
下では、まず安保改定に触れた上で、3つの転
機の内容を概観し、最後に、それぞれの転機に
おける防衛協力の枠組みを比較する。
I 転機とならなかった安保改定
1951(昭和26)年に締結された日米安全保障
条約(旧安保条約)には、日本は米国への基地
提供義務を負うが、米国には日本防衛義務がな
いという片務性があった。
!960 (昭和35)年の
安保改定の主目的は、この片務性を解消し、日
米の関係をより対等に近づけることにあった。
安保改定交渉の結果、新安保条約には米国の日
本防衛義務が明記され、事前協議制(後述)も
導入された。
この点では、60年安保闘争という
多大な国内政治上のコストを伴ったものの、日
本政府は一定の成果を上げたと言えるだろう⑶。
⑶ 安保改定については、例えば次を参照。外岡秀俊ほか『日米同盟半世紀 安保と密約』朝日新聞社,2001,
144 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
しかし、坂元一哉•大阪大学教授の指摘する
ように、「多くの改善点にもかかわらず、新しい
条約も実質的には、日本がアメリカに基地を貸
して安全保障を確保するという旧条約の構造……
を変えるものではなかった」⑷。
激化する冷戦
や日米の国力の圧倒的な非対称性といった当時
の戦略環境を考慮すれば、米国にとって日米安
保の最大の存在理由が在日米軍基地にあったの
は当然であろう。
米国、特に軍部は、安保改定
によって米軍の基地使用権が制限されることを
懸念した⑸。
その結果、安保改定は、対等性を
求める日本に一定の配慮を払いつつも、基地提
供という安保の本質を変えることのないように
行われることとなる。
そのための仕組みが、日
米の対等性の象徴とされた事前協議制に関する
日米間の「密約」であったと言われる。
事前協議制とは、米国が在日米軍の配置«装
備の重要な変更を行う場合及び日本防衛以外の
ための戦闘作戦行動を日本の基地から行う場合、
事前に日本の同意を必要とするという制度であ
る⑹。
しかし、近年公開された米国の公文書や
政府関係者の証言に基づく研究によれば、日米
は、核搭載艦の寄港(通過)、朝鮮半島有事の
際の在日米軍の行動、いったん日本国外に「移
動」した在日米軍による戦闘作戦行動への従事
等を事前協議の対象外とすることで秘密裡に合
意したとされる(ただし日本政府は密約の存在を
否定している)⑺。
このような合意により、日米
は、安保改定後も米軍による基地使用権を最大
限確保しようとしたというのである。
もし事前協議制の意義を有名無実化しかねな
いこれらの密約が本当に存在するとすれば、そ
れは、当時の時代状況——米ソ熱戦勃発への恐
怖、日米の国力の非対称性、日本国民の反安保
感情等ーの要請によるものだったと解釈され
るべきであろう⑻。
当時の日米にとって防衛協
カや日本の役割拡大が現実的課題ではあり得な
かった点も、米国が基地の自由使用に執着する
一因であった。
米国は、日本の兵力は戦争の抑
止には貢献しているが、実際に戦争が勃発した
場合に米軍を支援する能力はないとみなしてい
た⑼。
防衛庁関係者の多くも、自衛隊の実力が
pp.89-221i坂元一哉『日米同盟の絆安保条約と相互性の模索』有斐閣,2000, pp.139-280 ;田中明彦『安全保障
戦後50年の模索』読売新聞社,1997, pp.161-193.
⑷坂元前掲注(3), p.214.
⑸ 軍の中には、安保改定を機に米軍の権利を拡大すべきだとの声まであった。マイケル・シャラー(市川洋一訳)
『日米関係とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』草思社,2004, pp.240-243.
⑹「条約第6条の実施に関する交換公文(1960.1.19)J外務省編『主要条約集平成18年版上』2006, pp.135-137.
なお、重要な配置の変更とは陸上部隊で1個師団程度、航空部隊で1個師団相当、海上部隊で1個機動部隊程度
を、重要な装備の変更とは核弾頭及び中•長距離ミサイルの配備とそれらの基地建設を指す。「外務省発表日米
安保条約上の事前協議について(1968.4.25)」鹿島平和研究所編『日本外交主要文書•年表第2巻』原書房,1984,
pp.784-785.
⑺ 坂元 前掲注(3), pp.252-266 ;我部政明『沖縄返還とは何だったのか日米戦後交渉史の中で』日本放送出版協
会,2000, pp.20-44 ;太田昌克『盟約の闇 核の傘と日米同盟』日本評論社,2004.
⑻ 現在では、時代状況の変化(冷戦終結や米水上艦への戦術核搭載中止等)により、日米が密約したとされる合
意内容の大半は、それほど必要のないものと化していると言える。
何よりも日米間の信頼関係は、!960-70年代
とは比較にならないほどに深まった。
危機における同盟国間の利害調和を確信できるならば、密約を結ぶ必要性
はほとんど無い。
佐藤栄作首相の密使として有事における沖縄への核再持ち込みに関する密約交渉にあたったこ
とを告白した若泉敬•京都産業大学教授も、次のように語っている。
「もしも本当に、米側が沖縄にふたたび核
を持ち込まなければならないというような、緊急かつ重大な非常事態が極東に発生したとすれば、それが日本独
自の安全と無関係などということはとうてい考えられない」。若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文芸春秋,
1994, p.345.
レファレンス2006.7 145
あまりにも小さいため、日米の共同行動などそ
もそも不可能であり、米軍が日本に駐留するだ
けで侵略の抑止には十分だと考えていた⑴)。
また、日本の平和主義的な国内世論の状況から
しても、日米間の防衛協力を公にするリスクは
大きかった01955 (昭和30)年から米軍と自衛隊
は日本有事の際の「共同統合緊急事態計画概要」
(CJOEP)を策定していたとされるが、これは
首相にも報告されない秘密の計画であった⑴)。
米軍側もこの計画を正式なものとはみなしてい
なかったようで、この計画について、当時の防
衛庁関係者は、米国防総省も直接関与しない
「幕僚レベルの研究会みたいなもの」であった
と語っている。幻。
π 第1の転機:1970年代
-協力基盤の確立
!米国の国防政策
1970年前後になると、米国の圧倒的な軍事的・
経済的優位性が失われつつあることが明白となっ
た。
1969年1月に成立したR・ニクソン政権に
とって、最大の課題は、泥沼化したヴェトナム
戦争を収束させ、硬直化した対ソ封じ込め政策
を修正し、米国の外交政策に柔軟性を取り戻す
ことであった。
そのためにニクソン政権は、
外交からイデオロギーの要素を排除し、米国の
力の限界を自覚し戦略目標を引き下げ、米欧日
中ソの5極からなる多極世界を構築しようとし
た(⑶。
この政策が「デタント戦略」と呼ばれ
ることからも分かるように、日本にとっては与
件でしかなかったデタントも、米国にとっては
意図的に追求すべき目標であった(14)。
その成
果が、1971年7月のニクソン訪中発表(第1次
ニクソン・ショック)と、1972年5月のソ連との
SALT I (第!次戦略兵器制限条約)締結である芯。
ニクソン政権の政策で日本の防衛政策に最も
大きな影響を与えたのは、米国の対外関与のあ
り方を定めた1970年のニクソン・ドクトリンで
あるその内容は、米国は条約上のコミッ
⑼ この見解は、J.F・ダレス国務長官が1957年6月のD・アイゼンハワー大統領宛覚書の中で表明したものである。
外岡ほか前掲注⑶,pp.173-177.
(10) 佐道明広『戦後日本の防衛と政治』吉川弘文館,2003, pp.288-289.
(11) この計画の存在は、自衛隊OBも認めている。また、1972年に米軍は、秘密の計画策定は漏洩した場合の政治
的リスクが高いとして、一旦は計画策定の中止を申し出ている。朝日新聞自衛隊50年取材班『自衛隊 知られざ
る変容』朝日新聞社,2005, pp.283-326 ;我部政明「日米同盟の原型役割分担の模索」『国際政治』135号,2004.
3, pp.50-54.
(12) 村田晃嗣「防衛政策の展開 ガイドラインの策定を中心に」『危機の日本外交70年代』(年報政治学1997)岩波
書店,1997, p.88.また、計画の内容も、「米軍の一方的な作戦計画に適合させるための有事調整の概要でしかな
く、実質は乏しかった」と言われる。外岡ほか 前掲注⑶,p.340.
(13) John Lewis Gaddis, Strategies of Containment: A Critical Appraisal of Postwar American National
Security Policy, Oxford: Oxford University Press, 1982, pp.276-288.
(14) ギャディスによれば、米国政府は、デタントを「ソ連の国力と影響力を封じ込める新たな一連の長い試み」だ
と見なしていた。 Ibid., p.289.
(15) 米中和解と米ソのデタントについては、次を参照。西川吉光『現代国際関係史H!』晃洋書房,2002, pp.25-42,
73-100 Jヘンリー ・α ・キッシンジャー(岡崎久彦監訳)『外交 下』日本経済新聞社,1996, pp.321-439.これら
の政策には、ソ連と中国をヴェトナムから切り離し、ヴェトナム戦争を「ヴェトナム化」することで米国の撤退
を容易にするという目的もあった。添谷芳秀「1970年代の米中関係と日本外交」『危機の日本外交70年代』(年報
政治学1997)岩波書店,1997, pp.8-11.
⑯ このドクトリンは、1969年7月にニクソン大統領がグアムにおける記者との懇談の場で表明し、1970年2月の
外交教書で正式に公表された。”Informal Remarks in Guam with Newsmen, July 25,1969″, Public Papers
146 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
トメントを引き続き遵守し、核保有国が同盟国
の自由を脅かす場合には同盟国を防衛するが、
その他の攻撃に対しては同盟国が第一義的防衛
責任を負うとするものであった”7)〇
このドク
トリンの主目的は、米国が核保有国の関与しな
い「アジア諸国の戦争に自動的に参戦すること
を排除」することにあった輩)。
それと同時に、
このドクトリンは、「米国の友好国に対して、
彼ら自身の防衛において、より責任ある取り組
み」を求め、中でも日本はアジアの平和的発展
により大きな責任を担うべき地位にあるとし
/ J 〇
米国が同盟国の役割拡大を求めた背景には、
米国の経済力低下があった。
財政赤字に苦しむ
米国は、1971年8月に金・ドル兌換停止を宣言
する(第2次ニクソン・ショック)〇
一方、米国
とは対照的に日本の経済発展は著しく、!960
(昭和35)年に約16兆円であったGDP (国内総生
産)は1970 (昭和45)年には約73兆円にまで膨ら
み、実質GDP成長率も1960年代には平均10.5
%、2度のオイル・ショックに見舞われた1970
年代でも平均5.2%を記録した例。
このため米
国は、日本に経済成長に見合った貢献拡大を求
めるようになったのである0
ニクソン政権以前の米国政府は、「2切戦略」
と呼ばれる国防戦略(西欧に対するソ連の侵攻、
アジア諸国に対する中国の侵攻、その他の小規模紛
争の全てに同時対処する能力を維持する戦略)を採
用していた。
しかし、ニクソン政権は、ソ連と
中国の同時侵攻の蓋然性は低いと判断し、「2
%戦略」を「1%戦略」(西欧あるいはアジアの
「どちらか」の防衛と小規模紛争への同時対処)に
下方修正した⑵)。
この戦略は、「米国の軍事政
策が中国を主要な脅威とみなしていないことを
中国に知らせるシグナル」でもあり⑵)、アジ
アからの兵力肖I」減を理論的に補強するものとなっ
た。
実際に米国は、地上戦闘部隊をアジアから
ほぼ全面的に撤退させ、有事には欧州に配備さ
れた兵力をアジアに動員する態勢の構築を目指
した(23)。
1970年から1972年にかけて米国がア
ジアから削減した兵力は、約46万人に上る(24)。
米国は、ニクソン・ドクトリンがアジアの友
好国に対するコミットメントの撤回を意味する
ものではないと強調したが、ヴェトナム敗戦と
相俟ってこのドクトリンが米国の信頼性にネカ、’
ティブな影響を与えたことは否めない。
ニクソ
ン退陣後に成立したG・フォード政権は、この
影響を打ち消すために、1975年12月に新太平洋
ドクトリンを発表した。
それは、米国の力が太
平洋の勢力均衡の基礎であり、米国はアジアの
of the Presidents of the United States: Richard Nixon, 1969, Washington DC, 1971,pp.278-279; “First
Annual Report to the Congress on United States Foreign Policy for the 1970’s, February 18,1970″,
Public Papers of the Presidents of the United States: Richard Nixon, 1970, Washington DC, 1971, pp.
116-190.
(17) Ibid., p.141.
(18) Henry Kissinger, White House Years, Boston: Little, Brown and Co., 1979, p.225.
(19) “First Annual Report”, supra note 16, pp.119, 140.
(20) 内閣府『年次経済財政報告平成17年度』2005, p.409.
(21) 実際のところ1960年代でも米国は「2 %戦略」で求められるレベルの兵力構築を達成しておらず、ニクソン大
統領も、これは「ドクトリンを実際の能力に一致させる」試みであると述べている。 “First Annual Report”,
supra note 16, p.177.
(22) Kissinger, supra note 18, p.221.
(23) Earl C. Ravenal, Large-Scale Foreign Policy Change: The Nixon Doctrine as History and Portent,
Berkeley: Institute of International Studies, University of California, 1989, pp.40-43.
(24) 川上高司『米軍の前方展開と日米同盟』同文舘出版,2004, pp.53-54.
レファレンス2006.7 147
同盟国の主権と独立を守ること等を確認するも
のであった。
中でも日本に関しては、日米関係
は米国のアジア関与の最大の成功例であり、
「日本とのパートナーシップが米国の戦略の柱
である」として高い期待が表明されている(25)。
米ソ間のデタントは、1975年11月のソ連に
よるアンゴラ内戦介入を契機として揺らぎ始め
る(26)。
1977年1月には人権外交とデタント推
進を掲げるJ・カーター政権が登場したが、そ
の路線は、1979年12月のソ連によるアフカ、、ニス
タン侵攻で根本的な転換を迫られた。
カーター
大統領は1980年1月の一般教書演説で、「米国
は、ペルシャ湾岸地域の支配力を増そうとする
外部勢力のいかなる試みも米国の死活的な国益
への挑戦とみなし、軍事力を含む必要とされる
あらゆる手段を用いてそのような挑戦を排除す
る」ことを宣言し(カーター ・ドクトリン)、
国防費増額やインド洋及び中東におけるプレゼ
ンス増強といった政策を次々に打ち出した(27)。
そして1981年1月には、ソ連を「悪の帝国」
とみなすR・レーガン政権が発足し、「新冷戦」が
開始された(28)。
米国は大幅な軍拡を開始し、同
盟国に対しても一層の防衛力強化を要請した例。
2日本の防衛政策
ニクソン・ドクトリンとデタントを背景とし
て、日本では自主防衛の機運が高まった。
1970
(昭和45)年1月に就任した中曽根康弘防衛庁長
官は、日本に対する差し迫った脅威は存在しな
いと考え、自主防衛•非核中級国家構想を訴え
た。
同長官は、自衛隊が独力で間接侵略を排除
する能力を構築し、対米依存を低下させ、日米
中ソの勢力均衡を保つことで平和を維持すべき
だと主張したのである⑶)。
自主防衛は中曽根
長官の持論であったが、ニクソン・ドクトリン
とデタントが同長官の構想に大きな影響を与え
たことも明らかである⑶)。
この中曽根構想は、当時策定中であった第4
次防衛力整備計画(4次防)に反映されること
となるが、総額約5.2兆円(3次防の2.2倍)とい
う原案が伝えられると、国内外からの批判をー
斉に浴びることとなった。
佐藤栄作首相は、軍
国主義復活という批判を恐れて、非核「中級」
国家ではなく非核「専守防衛」国家という言葉
を使うよう中曽根長官に命じた⑶)。
結局、中
曽根長官が4次防成立前の1971(昭和46)年5
月に長官を辞したことや、第2次ニクソン・ショッ
クが日本経済に与える悪影響が懸念されたこと
もあって、4次防は総額約4.6兆円と大幅に縮
小されて1972 (昭和47)年2月に成立した例。
当時の防衛政策策定において中心的な役割を
果たした人物の一人に、防衛庁の久保卓也防衛
(25) “Address at the University of Hawaii, December 7,1975”, Public Papers of the Presidents of the
United States: Gerald R. Ford, 1975, Washington DC, 1977, pp.1950-1955.
(26) 西川前掲注(15), pp.161-164.
(27) “State of the Union Address, January 23,1980”, Department of State Bulletin, 2035, February 1980,
p.Special-B ;西川 前掲注(15), pp.250-253.
(28) 実際にレーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と呼んだのは1983年3月の演説においてであるが、それ以前から
大統領はソ連に対する不信感を常々口にしていた。五十嵐武士編『アメリカ外交と21世紀の世界』昭和堂,2006,
pp.56-59 ;西川吉光『現代国際関係史!V』晃洋書房,2004, pp.8,47.
(29) 同上,pp.7-16 ;川上 前掲注(24), pp.62-68.
(30) 佐道 前掲注⑩,pp.225-229 ;大嶽秀夫『日本の防衛と国内政治』三一書房,1983, pp.40-44.
(31) 室山義正『日米安保体制下』有斐閣,1992, pp.307-325.
(32) 「非核専守防衛国家 政府表現の食違い統一」『毎日新聞』1971.3.16I夕刊;等雄一郎「専守防衛論議の現段階
憲法第9条、日米同盟、そして国際安全保障の間に揺れる原則」『レファレンス』664号,2006.5, p.27.
(33) 4次防策定過程については、佐道 前掲注(10), pp.239-252 ;大嶽 前掲注(30), pp.63-88 ;田中 前掲注⑶,pp.231-238.
148 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
局長(1970年11月〜1974年6月、1975年7月からは
防衛事務次官)がいる。
久保局長は、1971年に
自己の防衛構想を個人的な論文にまとめ、防衛
庁内の回覧に付した(いわゆる「KB個人論文」)。
久保局長も、日本が直面する直接的脅威は存在
しないと考えていた(34)。
しかし、ニクソン・
ドクトリンによって米国の兵力が大幅に削減さ
れることも想定されるため、日本は憲法の枠内
で「当然の責任に基づいて防衛努力をしなけれ
ば」ならず、それこそが「わが国の自主防衛の
推進」なのだと主張した(35)。
久保構想が独特であったのは、日本には直接
的な脅威がないのであるから、脅威対抗型の所
要防衛カ構想(中曽根長官や制服組が主張してい
たもので、日本が整備すべき防衛カの大きさを脅威
となり得る周辺国の軍事力の大きさに対抗する形で
導き出す考え方)を採用する必要はなく、周辺
国の軍事力とは無関係に「必要最小限」の能力
を維持するだけでよいとしたことにある。
だか
らこそ久保局長は、防衛費の上限を設定するこ
とを忌避していた所要防衛カ構想論者とは異な
り、防衛費の目安は「GNPのほぼ1%程度」
でよいと主張することができた(36)。
1974 (昭和49)年の論文において、久保局長
は、自らの構想を「基盤的防衛力構想」として
定式化した。
この論文によれば、所要防衛カ構
想に必要となる「防衛カは相当に大きいもので
あり……膨大な経費が予想され、実現性がない」。
また、日本の軍拡はアジア諸国の懸念を生む可
能性があるので、「防衛力について質量の面で、
ある種の枠を設定する必要が」あり、専守防衛
もそのような「枠」の1つとされる⑶)。
そこ
で達成すべき兵力の目標とされたのが「基盤的
防衛カ」であった。
それは、間接侵略等の小規
模侵略を独力排除し、大規模侵略に対しては、
米軍の来援が来るまで持ちこたえるに十分な
「平時における必要最小限の防衛カ」であり、
有事が発生した際に速やかに兵力を拡充するた
めの基盤となるものとされる盥)。
必要最小限
の基盤的防衛力が必要とされるのは、日本がカ
の真空となって他国の侵略を誘引し、国際関係
を不安定化するのを避けるためでもある⑶)。
このような考え方は、デタントという時代状
況とも適合し、次第に防衛庁内の大勢を占める
ようになっていった。
1974年12月に就任した坂
田道太防衛庁長官は、国民に開かれた防衛政策
が必要だと考え、「国民の平均的な健全なる意
識を持った人たち」の安全保障観を知るために
「防衛を考える会」を私的諮問機関として発足
させた(如。この会が1975 (昭和50)年9月に発
(34) 久保局長は、日本にとっての脅威は「敢えて考えるならば、周辺地域における紛争の波及、大陸棚や沖縄をめ
ぐる紛争程度」であり、「ポシブルな脅威は存在する」が「プロバブルな脅威はない」と述べる。久保卓也「防
衛カ整備の考え方(KB個人論文)」1971.2.20.(東京大学田中明彦研究室「戦後日本政治•国際関係データベース」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/index.html)
(35) 同上。
(36) 同上。
(37) 久保卓也「わが国の防衛構想と防衛力整備の考え方(1974.6)」『遺稿•追悼集久保卓也』久保卓也遺稿•追悼
集刊行会,1981, pp.79-80.
(38) 同上,pp.81-86.
(39) 同上,pp.75-76.ただし、当時防衛局防衛課に配属されていた宝珠山昇•元防衛施設庁長官は、基盤的防衛カ
構想の原型は既に1969 (昭和44)年の陸上自衛隊の長期整備計画構想の中で生まれていたもので、それを久保局
長がポスト4次防策定の過程で発展させたのだと指摘している。宝珠山昇「基盤的防衛カ構想産みの親」『日本
の風』!号,2005.3, p.14.
(40) 坂田道太『小さくても大きな役割』朝雲新聞社,1977, p.16.この会に参加したのは、高坂正克•京都大学教授、
牛場信彦•元駐米大使、佐伯喜一 •元防衛研修所所長等である。防衛を考える会については、次も参照。大嶽
前掲注(30), pp.127-130.
レファレンス2006.7 149
表した報告書も、基本的に基盤的防衛カ構想を
支持するものとなった⑷)。
そして1976 (昭和51)年10月には、基盤的防
衛カという言葉こそ用いていないものの、久保
構想をほぼ全面的に取り入れた防衛計画の大綱
(以下、「76大綱」とする)が閣議決定された俺)。
ポスト4次防の防衛力整備の基本方針を示すも
のとして策定された76大綱は、過去の防衛カ整
備によって目標とすべき防衛カはほぼ達成され
ているとした。
この大綱は「整備すべき防衛カ
の目標ないしは水準を明示することにより、防
衛力はどこまで拡充されるのかといった国民の
声に具体的に答え得る」ものだとの坂田長官の
談話からも分かるように彼)、76
大綱の目的は、
防衛カの拡充にではなく、その上限を設定する
ことにあった。
更に同年11月には、「当面」の
間は対GNP比1%を防衛費のめどとすること
が閣議決定された(44)。
戦後日本の防衛政策の基盤は、1960年代末に
表明された武器輸出3原則と非核3原則に加え、
1970年代の基盤的防衛カ、専守防衛、GNP比
1%等によって確立されたと言ってよいだろう。
これらは全て、日本の軍拡を懸念する国内外の
世論に対して、日本の防衛政策の抑制的側面を
強調するものであった山>。
軍事的観点から見
れば、基盤的防衛力構想には不可解な点——周
辺国の軍事力を考慮せずに一体どうやって「基
盤的」な防衛力を導きだすことができるのか
ーもあった即)。
同様に専守防衛にしても、そ
の意味するところは決して明確ではないゆ)。
しかし、これらの抑制的政策は国内からも国外
からも大きな支持を得たし、実際に日本の軍拡
に一定の歯止めをかける効果を果たした0
その
意味では、これらの政策は軍事的には単なるフィ
クションかもしれなかったが、政治的には極め
て有意義なフィクションであった(48)。
しかし、このような抑制的政策が可能であっ
たのは、有事における攻撃の役割を米軍に委ね
ていたからである。
また、基盤的防衛力構想は、
何よりもデタントの継続を前提としていた凶)。
(41) 報告書は、防衛費のGNP比1%以内を適当とし、日本に必要なのは「拒否能力」(日本に対する侵略がコスト
の高いものとなることを相手に認識させ、侵略を躊躇させるのに十分なカ)であるとした。防衛を考える会事務
局編『わが国の防衛を考える』朝雲新聞社,1975, pp.35-36, 42-43.
(42) 76大綱は次のように述べる。日本の防衛カは「わが国に対する侵略を未然に防止し、万一、侵略が行われた場
合にはこれを排除することを目的とするものであるが、一方、わが国がそのような態勢を堅持していることが、
わが国周辺の国際政治の安定の維持に貢献することともなって」おり、「平時において十分な警戒態勢をとり得
るとともに、限定的かつ小規模な侵略までの事態に有効に対処し得るものを目標とすることが最も適当」である。
「昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱について」朝雲新聞社編著『防衛ハンドブック平成18年版』朝雲新聞社,
2006, p.19.大綱の策定過程については、次を参照。佐道 前掲注(10), pp.259-285 ;田中 前掲注(3), pp.244-264.
(43) 「防衛計画の大綱の決定について(防衛庁長官談話要旨)」『防衛ハンドブック』前掲注(必,p.24.
(44) 「当面の防衛カ整備について(昭和51年11月5日閣議決定)」同上,p.56. GNP1%問題については、次を参照。
室山前掲注(31), pp.370-432.
(45) ただし、1970年代の防衛費は一貫してGNP比1%以下(1976年で0.9%)であったため、GNP比1%政策とは、
むしろ防衛費の増額目標とみなすべきだとの主張もある。同上pp.383-388.
(46) 当初から基盤的防衛カ構想には制服組の反発が強く、1970年代後半になってデタント崩壊が進行すると公然と
した批判が展開されることになる。中馬清福『再軍備の政治学』知識社,1985, pp.159-160 ;深澤映司「防衛計
画大綱見直し論議の軌跡」『立法と調査』144号,1988.3, pp.24-31.
(47) 専守防衛については、等前掲注(32), pp.19-38.
(48) 宝珠山・元防衛施設庁長官も、基盤的防衛力構想の内実は「小規模限定脅威対処の防衛論」であるが、「国民
が受容しやすいソフトな命名」をした結果「反対派の矛先を鈍らせ」ることができたと回想している。宝珠山
前掲注(39), p.14.
150 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
したがって、デタントが崩壊に向かうと、日本
は抑制的政策を維持しつつも、防衛力強化に向
けて舵を切ることになる。
平和・安全保障研究
所の渡邊昭夫・前理事長の指摘するように、
「基盤的防衛力構想を看板に掲げながら、かなり
のところまで、ソ連を念頭においた脅威対向型
の防衛力整備がその実態」となったのである(5〇)。
後述するP3-C対潜哨戒機の導入にしても、明
らかにソ連の潜水艦という特定の脅威を想定し
たものである。
そして、日米の防衛協力も、こ
のような状況の中で強化されていくことになる。
3日米間の防衛協力
沖縄返還合意を謳った1969 (昭和44)年11月
の佐藤・ニクソン共同声明の第4項には、「韓
国の安全は日本自身の安全にとって重要」であ
り、「台湾地域における平和と安全の維持も日
本の安全にとって極めて重要な要因」であると
明記されている⑸)。
この声明は、日本の周辺
で発生する事態が日本の安全に影響を与えるこ
とを明言した点において画期的なものであるが、
周辺地域安定のための日米協力や日本独自の貢
献の拡大を目的としたものではない。
その目的
は、在沖基地の自由使用権が失われることを懸
念する米軍部を説得するために、沖縄が返還さ
れたとしても、朝鮮半島及び台湾海峡有事の際
に日本が米軍による基地使用を許可するだろう
ことを明確化する点にあった⑸)。
また、中曽
根構想にしても久保構想にしても、対米協力の
必要性や日米の役割分担にも言及はしているが、
基本はやはり日本による自主防衛であった(53)。
では、なぜ1970年代中頃になって、日米の防
衛協力が急進展したのか。国際関係論に「同盟
政治における安全保障のディレンマ」という概
念がある0
簡単に言えば、ある国家と同盟を結
んだ国家にとっての恐怖(リスク)には、同盟
国に見捨てられる恐怖(abandonment)と同盟
国の戦争に巻き込まれる恐怖(entrapment)の
2つがあり、見捨てられるリスクを下げるため
に同盟国との関係を強化すれば、巻き込まれる
リスクが増大し、巻き込まれるリスクを下げる
ために同盟国から独立した政策を採れば、見捨
てられるリスクが増大するというディレンマに
国家は直面するというものである怖)。
例えば
(49) 防衛白書は、基盤的防衛力構想の前提として、米ソによる大規模戦争の回避努力、中ソ対立と米中和解の継続、
朝鮮半島の現状維持等を明記している。防衛庁『日本の防衛昭和51年版』1976, pp.42-43.
(50) 渡邊昭夫「日本はルビコンを渡ったのか?樋口レポート以後の日本の防衛政策を検討する」『国際安全保障』
31巻 3 号,2003.12, p.77.
(51) “Joint Statement Following Discussions with Prime Minister Sato of Japan, November 21,1969”,
Public Papers of the Presidents, 1969, supra note 16, p.954.
(52) 我部 前掲注(7), pp.136-138 ;シャラー 前掲注(5), pp.372-375.また、この佐藤・ニクソン会談を契機として、
朝鮮有事の際の在日米軍の行動を事前協議の対象外とする密約が破棄されたとの指摘もある。太田 前掲注⑺,
pp.279-286.事実、太田のインタビューに応じた米国の政府関係者は、密約の失効を認め、1990年代の朝鮮半島
危機の際に日米は初の事前協議を行う段取りを整えていたと答えている。
(53) 中曽根防衛庁長官の日米役割分担論の主目的は、日米の防衛協力強化ではなく、対米依存の低減にあった。
1970年3月に中曽根長官は、「従来のような漠然たる対米期待や無原則な依存の形から脱却し、任務分担を明確
にし、日米が実質的にも対等の立場に立つ必要がある」と語っている。佐道 前掲注⑩,p.234. 一方、久保防衛
局長は、侵略を抑止するためには平時における日米の連携強化が必要であるが、米軍の有事支援は幕僚研究とし
てはともかく「政治的問題としては実はあまり重要ではない」としている。久保卓也「日米安保条約を見直す
(1972.6)J 久保 前掲注(37), p.55.
(54) Glenn H. Snyder, “Alliance Theory: A Neorealist First Cut”, Journal of International Affairs, 44-1
(Spring 1990), pp.103-123; Glenn H. Snyder, “The Security Dilemma in Alliance Politics”, World Politics,
36-4 (July 1984), pp.461-495.
レファレンス2006.7 151
現在の日本に当てはめた場合、集団的自衛権の
問題が、まさにこのディレンマに相当するだろ
う。
集団的自衛権の行使容認に否定的な者は、
それを容認すれば、米国の戦争に巻き込まれる
危険が増すと主張するのに対して、肯定的な者
は、それを容認しなければ、米国に見捨てられ
る(日米同盟が危機に陥る)危険が増すと反論す
る。
そのような状況の中で、国家はどちらの方
針を選択すべきかディレンマに陥るのである0
土山實男•青山学院大学教授によれば、朝鮮
戦争やヴェトナム戦争の時代においては、日本
にとっては巻き込まれの恐怖が大きかったため、
日本は日米間の防衛協力に消極的であった0
ところが、ニクソン・ドクトリンやデタントを
契機として、見捨てられる恐怖の方が大きくな
り、その結果米国との協力に積極的になり、
それが旧ガイドラインやその後の日本による
シーレーン防衛表明等へとつながったというの
である(55)。
もう1つ指摘できることは、デタント期に形
成された日本の抑制的な防衛政策への国民の支
持が高く、それらを完全に放棄して軍拡を進め
ることが極めて困難であったという点である0
村田晃嗣•同志社大学教授は、基盤的防衛力構
想は「世論と予算という国内的配慮から防衛カ
を限定しようとしたことで、日米安保関係の重
要性」を増大させてしまい、結果として「対米
依存への誘因」となったと指摘する(56)。
確か
に日本はデタント崩壊後に一定の軍拡を行った
が、それは「基盤的防衛カ」の枠内で、しかも
日米の共同行動を前提として行われた。
日本の
軍拡に限界がある以上、日米間の防衛協力の強
化が必要となるのは、ある意味必然であった。
加えて、それまでの防衛力整備によって自衛
隊の能力改善が進み、米国との防衛協力が現実
的となった点も重要である。
1970年に来日した
M・レアード国防長官は「時代遅れの兵器をよ
くこれだけうまく使っているな」と驚いたと言
われるが⑸)、現実には、装備の近代化によっ
て自衛隊の能力は着実に増強されてきた(表2)。
米国に依存しない自主防衛は論外としても、米
国との共同作戦を現実的なものとする程度にま
では、日本の防衛力が成長していたのである。
一方、米国が採用したニクソン・ドクトリン
と「1%戦略」は、同盟国軍がより重要な役割
を担うようになることを前提としており(58)、
米国に日本との協力拡大を拒否する理由は無かっ
た。
事実、1970年代初頭から国防総省は、防衛
協力の拡大が無いままに在日米軍の削減が進む
ことに懸念を表明していたのめ。日本側では、
表2自衛隊の主要兵力の推移
1960 (昭和35)年 1970 (昭和45)年 1980 (昭和55)年
戦 車 853 (M4, M24, M32) 700 (61式戦車,M-4等) 830 (74式戦車等)
護衛艦 80 (総トン数約7万3,700) 40 (総トン数約7万4,000) 48 (総トン数約10万4,000)
潜水艦 2 (総トン数約2,600) 10 (総トン数約1万2,000) 14 (総トン数約2万4,000)
戦闘機 466 (F-86D/F) 480 (F-104J, F-86F) 372 (F-4EJ, F-l, F-104J 等)
輸送機 47 (C-46) 55 (C-46, YS-11, MU-2) 74 (C-l, YS-11, C-46)
対潜哨戒機 99 (P2V-7, PV2 等) 110 (P-2J, P2V-7 等) 126 (P-2J 等)
(出典)『防衛年鑑1961年版』防衛年鑑刊行会,1961, pp.235-237 J『防衛年鑑1971年版』防衛年鑑刊行会,1971, pp.259-260 :
防衛庁『日本の防衛』1980, pp.270-272 ; International Institute of Strategic Studies, The Military Balance 1980-
1981, pp.69-70.
(55) 土山實男『安全保障の国際政治学』有斐閣,2004, pp.312-314.
(56) 村田前掲注(12), p.85.
(57) 大河原良雄『オーラルヒストリー日米外交』ジャパン・タイムズ,2006, pp.207-208.
(58) Ravenal, supra note 23, pp.44-45.
152 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
1974 (昭和49)年に就任した丸山昂防衛局長が
中心となって、米国との交渉にあたった。
丸山
局長は、それまで日本の防衛計画に関して日米
間の調整がほとんど皆無であったことに疑問を
感じており、そのような認識は坂田防衛庁長官
も共有していた⑹)。
まず、1975 (昭和50)年8
月の三木・フォード首脳会談と坂田•シュレジ
ンジャー防衛首脳会談で、旧ガイドラインの策
定開始が合意された。
その後、日米安全保障協
議委員会(SCC)の下に防衛協力小委員会(SDC)
が新設され、SDCにおいて策定作業が進行す
る⑹)。
最終的に旧ガイドラインは、1978 (昭和
53)年11月の第17回SCCで了承された物。
旧ガイドラインの内容には第V章で触れるが、
ここではそれが日本有事に関する日米の役割分
担を明確化する一方で、日本有事以外の極東に
おける事態への対処は将来の検討課題として
「あらかじめ相互に研究を行う」とするのみで
あったことを指摘しておく。特に重要であった
のは、日本有事の日米共同作戦計画の作成が規
定されたことで、その目的は前述した共同統合
緊急事態計画概要(CJOEP)に政治的正当性を
付与することにあった⑹)。その結果、1981年
には、ソ連軍の北海道侵攻を想定した「作戦計
画5051Jが完成する四)。また、旧ガイドライ
ン策定以降、米軍と自衛隊の共同演習・訓練も
活発化した岡。
一方で、1970年代後半になると、日米の貿易
摩擦(対米貿易黒字の拡大)を背景として、米国、
特に議会で日本の安保「ただ乗り」論が激化す
る(66)〇
旧ガイドライン策定過程においても、
米国は、米軍を槍、自衛隊を盾とみなす日本の
姿勢に、それでは防衛協力にならないと不満を
漏らしていた⑹)。
米国は対ソ戦略の点から日
(59) 松村孝省•武田康裕「1978年日米防衛協力の指針の策定過程 米国の意図と影響」『国際安全保障』31巻4号,
pp.81-83.
(60) 坂田長官も、日本防衛にとって「日米安保条約が不可欠でありながら、有事の際の作戦協力についてこれまで
日米間において何ら話し合うこともなく、また、それにふさわしい機関もないということを」知り、「全く意外
であり驚きで」あったと述べている。坂田 前掲注剛,p.90.しかし、当時は事務次官となっていた久保を始め、
防衛庁や自衛隊の中には米国との防衛協力に消極的な声もあった。村田 前掲注(12), pp.89-90 J佐道 前掲注⑩,
pp.291-292.
(61) SCCとは、日米安保に基づく最高レベルの協議機関である。冷戦期のSCCの出席者は、日本側が外務大臣と
防衛庁長官、米国側が駐日大使と太平洋軍司令官(もしくは代理として在日米軍司令官)であったが、1990年に
日米は、米国側出席者を国務長官及び国防長官とすることで合意した。SDCとは、外務•防衛当局に制服組を加
えた局長級の協議機関である。
(62) “Guidelines for Japan-U.S. Defense Cooperation, November 27,1978”, Defense Agency, Defense of
Japan 1997, The Japan Times, 1997, pp.319-323 (邦訳は『防衛ハンドブック』前掲注也),pp.392-397),旧カ、’
イドライン策定過程については、村田 前掲注(12), pp.86-95 ;佐道 前掲注(10), pp.286-302 ;松村•武田 前掲注
(59), pp.86-94.
(63) CJOE Pに関する説明を受けた坂田長官は、「こんな大事なものが政治的に承認されていないとは、大変なこと
だ」と驚いたと言われる。朝日新聞取材班 前掲注(11), pp.291-292.
(64) 「日米安保共同作戦研究1-5J『朝日新聞』1996.9.2-9.6.
(65) 1978年には空自が、1981年には陸自が初の米軍との共同訓練を行い、従来から米軍との共同訓練を行っていた
海自も1980年に初めて多国間演習リムパックに参加した。1982年からは日米共同の指揮所演習も開始された。
日米共同演習の拡大については、松尾高志「激化する日米共同演習」『これからの日米安保』(法学セミナー増刊
38)日本評論社,1987, pp.196-213.
(66) シャラー 前掲注(5), p.441.
(67) 村田前掲注⑫,p.91.
レファレンス2006.7 153
本に対して特にシーレーン防衛への貢献を求め、
旧ガイドラインにも、日米が「周辺海域と海上
父通路(sea lines of communication)の防停]”の
ための海上作戦を共同で遂行」し、日本が「周
辺海域における対潜水艦作戦と船舶の保護のた
めの作戦……を主体となって遂行する」ことが
明記された(68)。
この方針に従い日本は1977 (昭
和52)年12月にP3-C対潜哨戒機とF-15戦闘機
の導入を決定するが、それ以後も米国からの防
衛費増額要求は止まらなかった的。
1981年1月にレーガン政権が成立すると、
米国からの圧力は更に強くなる。
同年5月に訪
米した鈴木善幸首相は1,000海里シーレーンの
防衛を日本が行うと表明し、1982年7月には
P-3CとF-15の取得数拡大(それぞれ45機から75
機、100機から155機)が決定された(7〇)。
1983年
にはシーレーン防衛に関する日米共同作戦計画
の策定が開始され、この計画は1986年に完成す
る(小。また、鈴木・レーガン会談の共同声明
では、初めて日米が「同盟関係」にあることが
明記され、これ以後、「日米同盟」という用語
が公式の場でも多用されるようになった德)。
1982 (昭和57)年11月に中曽根内閣が発足す
ると、対米武器技術供与解禁(武器輸出3原則の
適用除外化)、シーレーン防衛強化(宗谷、津軽、
対馬の3海峡封鎖)、日本の不沈空母化(ソ連の
バックファイア爆撃機の侵入阻止)といった政策
が次々に打ち出され、日米の防衛協力は飛躍的
に強化されたで)。
これらの政策は、日本が自
主的に米国の対ソ戦略の中で自国が果たすべき
役割を表明したという点において、「米国によ
る日本の防衛」という従来の日米安保の枠組み
から脱却する画期的なものであったとされる(’公。
4 在日米軍の再編と経費分担
在日米軍の大規模な再編が初めて行われたの
は、1957年から1960年にかけてであった(表3)。
これは、1957年6月の岸・アイゼンハワー会談
で合意された在日米地上部隊の撤退に伴うもの
である港)。続いて1968年から1970年代末にか
(68) シーレーン防衛という概念の理解について日米間に相違があったことは、多々指摘されている。日本が主に民
間物資の輸送路(航路帯)の防衛を考えていたのに対し、米国は海上兵站線の防衛や海洋防衛のための面の支配
を考え、海域防衛の日米分担まで検討していた。シーレーン防衛については、中馬 前掲注(46), pp.108-124 J呉
明上「日米防衛協力におけるシーレーン防衛「政策」の形成!-2J『法学論叢』146巻1号,1999.10, pp.40-62,147
巻 6 号,2000.9, pp.42-60.
(69) 1978年には、米国議会が日本に防衛費増額を求める決議を可決し、1979年には、H.ブラウン国防長官も日本の
防衛費の増額幅は「まったく不十分」だと発言した。シャラー 前掲注⑸,pp.442-443. 1980年12月の日米防衛首
脳会談では、ブラウン国防長官が9.7%増という数字をあげて防衛費の増額を迫った。田中前掲注(3), pp.288-289.
(70) 更に1985年には、P3-Cが100機に、F-15が187機に拡大された。「P3-C及びF-15の整備関係」『防衛ハンドブッ
ク』前掲注(必,p.145.
(71) 日米はこの計画を更に発展させ、1995年には「作戦計画5053Jを策定した。この計画のシナリオは、中東有事
を巡って米国と旧ソ連が対立し、事態が旧ソ連軍による在日米軍基地やシーレーンへの攻撃に発展するというも
のである。「日米安保 共同作戦研究」『朝日新聞』1996.9.2.
(72) “Joint Communique, May 8,1981”, Department of State Bulletin, 2051, June 1981, p.2.その後、同盟
関係に軍事的意味が含まれるか否かをめぐる政府見解の混乱が政治問題となり、事態は伊東正義外相の辞任にま
で発展した。ただし、前年に訪米した大平正芳首相も日本は米国の同盟国であると発言しており、問題は同盟と
いう言葉よりも、政府内の見解不一致にあった。大河原良雄駐米大使(当時)も、同盟関係という言葉を共同声
明に入れたことに「特別な問題意識はなかった」と語っている。外岡ほか 前掲注⑶,pp.359-364 I大河原 前
掲注(57), pp.334-336.
(73) 田中 前掲注⑶,pp.293-300 ;外岡ほか 前掲注(3), pp.377-388.
(74) 室山前掲注(31), pp.475-476.
154 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
表3 米軍基地(米軍専用施設)面積の推移(単位:ha)⑴
1952年 1955年 1960年 1965年 1968年 1972年
面 積 135,264 129,636 33,520 30,682 30,301 19,699
減少面積 — 5,628 96,116 2,838 381 10,602
1973年 1975年 1980年 1985年 1990年 1995年 2000年 2006年
面 積 44,641 36,226 33,537 33,129 32,470 31,558 31,352 31,221
減少面積 — 8,415 2,689 408 659 912 206 131
注⑴1972年以前は日本本土のみ、1973年以降は沖縄を含む。
(出典)防衛施設庁『衆議院予算委員会要求資料(民主党•日本共産党)平成18年2月』pp.14-15に基づき筆者が作成。
けて、第2回目の再編が行われた。
この背景に
は、米軍基地の存在に対する日本側の不満の増
大があった。
1968 (昭和43)年には、原子力空
母エンタープライズの佐世保寄港や九州大学へ
の米軍機墜落事故に対する反対闘争が激化し、
与党の中からも米軍の有事駐留論を唱える者が
現れるようになった。
このような中、同年末に
日米は、在日米軍の再編交渉を開始した国。
この交渉の結果、!973 (昭和48)年1月の第
14回SCC (日米安全保障協議委員会)で、関東計
画(関東地方の米軍基地を横田基地に集約する計画)
と在沖米軍の再編(那覇空軍基地の全面返還と航
空機の嘉手納移駐、住宅統合等)が合意された(77)。
これらの計画に基づき返還された主要な基地は、
本土では、キャンプ千歳(北海道)、水戸射爆撃
場(茨城)、立川飛行場(東京)、ジョンソン
飛行場(埼玉)、北富士演習場(山梨)等、沖縄
では、ボローポイント射撃場、屋嘉訓練場、
知念補給地区、嘉手納弾薬等(一部返還含む)で
ある德)。在日米軍の兵力(沖縄を含む)は、1955
年に189,853人だったものが、1960年83,43Y人、
1968年83,069人、1972年61,74Y人、1975年50,297
人、1980年53,115人と推移している物。
当時の基地再編交渉は、幾つかの点で2003年
に開始された再編交渉と酷似している。
まず、
米国はニクソン・ドクトリンに基づき、米軍を
削減するだけでなく、同盟国の役割拡大や米軍
のプレゼンスの合理化をも達成しようとした。
1970 (昭和45)年12月の第12回SCCの発表には、
米軍基地の整理統合は、米軍の「作戦能力を効
率化し、かつ、現存する資源の最大限の利用を
可能ならしめる目的」で行われるのであり、在
日米軍の能力を減少させることはないと明記さ
れている(8〇)。
基地再編交渉にあたった在日米
軍司令官も、日本政府に対して、基地の地元の
要求よりも軍事戦略全体の視点からのアプロー
チ が重要だと 訴えた 血)。 2003年以降の米軍再
編交渉でも、米国側は同趣旨の発言をしている(82)。
(75) この経緯については、外岡ほか 前掲注⑶,pp.182-191.
(76) 佐道前掲注⑩,pp.211-214.
(77) 「日米安全保障協議委員会第14回会合について」外務省『わが外交の近況昭和48年版』1973, pp.527-533 :
「日米安保協議委開く横田基地集約で合意」『朝日新聞』1973.1.24.沖縄に関しては、第15回及び第16回のSCC
(1974年1月及び1976年7月)においても、大規模な基地の整理統合が合意された(3次の合意の返還面積合計は
4,671ha)〇しかし、2002年の時点でも、返還が合意された基地のうち1,551haがまだ返還されていない。沖縄県
基地対策室編『沖縄の米軍基地 平成15年3月』2003, pp.83-85.
(78) 防衛施設庁『衆議院予算委員会要求資料(民主党•日本共産党)平成18年2月』pp.17-25, 28-31.
(79) 我部政明『日米安保を考え直す』講談社,2002, pp.184-187.
(80) 「日米安全保障協議委員会第12回会合について」外務省『わが外交の近況昭和46年版』1971, pp.421-423.
(81) 我部前掲注(11), p.5〇.また太平洋軍司令官は、1972年の国務省宛電報の中で、日本の支援を受けるために米
軍基地を再編し、日本に対潜哨戒や防空で米軍の補完的な役割を担わせる必要があると述べている。同上,p.44.
レファレンス2006.7 155
1970年代の米軍プレゼンス合理化(強化)の象
徴は1972年に決定された空母ミッドウェーの横
須賀母港化であったが、2005年には原子力空母
の横須賀母港化が決定されている。
もちろん、日本にとっては、地元の負担軽減
が重大な問題であった。
特に沖縄における基地
削減は、占領期との相違を目に見える形で示す
ためにも不可欠であった。
米国にしても、基地
問題が日米関係を弱体化し、沖縄返還後の有事
における基地使用問題や日本の自発的貢献拡大
に悪影響を与えてしまうような事態は避けたかっ
たであろう。
この時期の米軍基地の整理統合に
は日米同盟を円滑にマネージメントしていくた
めの手段という側面もあったのであり、結果と
して、後の旧ガイドライン策定に向けた環境整
備の役割を果たしたとも言える。
中曽根防衛庁長官は元来有事駐留論者であっ
たが、長官就任後は自説を取り下げ、基地の共
同使用拡大を求める姿勢を明確にした。
中曽根
長官の狙いは、米軍基地を返還後も自衛隊の管
理下に置き、有事における米軍の使用を担保す
ることで、基地返還と部隊削減を容易にしょう
というものであった。
これには米国も好意的で、
国務省も「共同使用の構想は、米軍基地の存在
に反対する政治的圧力を軽減させる面を」持つ
とみなしていた。
ただし国務省は、この構想の
主目的は「在日米軍と自衛隊の両方が最大限に
作戦運用上の柔軟性を確保する」ことだとし、
「米軍が基本的に自由に作戦運用を実施できる」
ように「現在必要性が低くても、有事などに価
値を持つ基地の再使用の調整を」すべきだと主
張している(83)。
事実、この時期に返還された
北富士演習場やキャンプ千歳は、現在でも日米
の共同使用基地として使用されている。
また、日本の基地周辺自治体が、日米間の再
編交渉に振り回される場面も多々あった0
例え
ば1970年の第12回SCCでは、その時点での整
理統合計画が発表されたが、それは横須賀配備
の海軍の大規模縮小と佐世保への移転、厚木飛
行場の自衛隊への移管といった計画を含んでい
た。
多数の基地従業員を抱える周辺自治体では
失業への懸念が広がったが、結局これらの計画
は撤回され、逆に横須賀•厚木はミッドウェー
配備等で強化されることになる(84)。
また、返
還される米軍基地を自衛隊が使用することに対
しては、地元の反発も強かった俺)。
日米間の経費分担の点でまず問題となったの
は、沖縄返還に要する経費であった。
1970年前
後ではまだ日本の防衛力整備も途上で、日米安
保の庇護下で防衛費を最小限に抑えつつ経済発
展を続ける日本に対して、財政赤字に苦しむ米
国の要求がまず金銭面に向かうのはある意味必
然であった。
1972年の沖縄返還協定では、日本
が米国に3億2千万ドルを支払うことが合意さ
れたが、ここでも日米間に密約 日本政府が
返還経費やその枠外から、沖縄返還協定第4条
に米国が支払うものと明記されている沖縄への
補償費(土地の原状回復費等)や、本土を含む米
軍基地の施設改善費を負担するという密約-
が存在した可能性が指摘されている例。
費用分担に関する日米地位協定の規定は若干
曖昧で、同協定第24条は、施設提供に伴う経費
(82) 例えば、米国側の交渉担当者であるR• ローレス国防副次官の次のインタビュー記事を参照。「米軍再編 地元配
慮優先に不満」『朝日新聞』2006.3.17.
(83) 中曽根防衛庁長官の基地共同使用構想と、それに対する国務省の評価については、次を参照。長尾秀美『日本
要塞化のシナリオ』!t燈社,2004, pp.53-58.
(84) 同上,pp.106-118 ;「日米安全保障協議委員会第12回会合について」前掲注(80), pp.422-423.
(85) 「返還合意の四米軍施設跡地は平和利用を都方針」『朝日新聞』!973.1.24 ;「自衛隊居座りへ返還の府中・水
戸射爆場も」『朝日新聞』1973.1.20.
(86) 我部 前掲注⑺,pp.166-206.また、沖縄返還をめぐっては、有事における核の再持ち込みの事前承認という
密約の存在も指摘されている。同上,pp.132-164 ;若泉 前掲注⑻,特に第11-17章;太田 前掲注⑺,pp.151-195.
156 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
を日本が負担し、それ以外の米軍維持費を米国
が負担すると定めるのみである。
従来から日本
政府は、米軍の移転に伴う施設の新規提供は日
本政府の負担としていたが、1971年6月の日米
外相会談では第24条をより「リベラル」に解釈
することが合意され⑻)、実際に1973年の第14
回SCC合意には普天間、三沢、岩国の施設改
善費の日本負担が盛り込まれた(88)。
普天間と
三沢は米軍機の移駐に伴うものであるが、既に
提供されている施設内での改善であり、岩国は
移転とは無関係な老朽施設の改善である。
国会
では野党がこのような経緯を地位協定の拡大解
釈と激しく批判したが、政府は、負担は地位協
定の範囲内だと主張した(89)。
これらの経費負
担は1977年まで続き、これが上記の沖縄返還密
約の施設改善費に相当すると考えられている。
この経費負担が終了した翌年の1978年に、日
本は、円高に苦しむ米国を助けるためとして正
式に駐留経費負担の拡大を開始した。
1977年以
前でも負担していた施設借料や周辺対策費以外
の負担分は、「思いやり予算」とも呼ばれる。
当初は基地従業員労務費の一部負担から始まっ
た思いやり予算は、後に施設整備費、光熱水料、
訓練移転費等にまで拡大していく。
m 第2の転機:1990年代
日米安保の再定義
!米国の国防政策
1991年の湾岸戦争とソ連の崩壊は、冷戦の終
焉を象徴すると同時に、冷戦の終焉が国際環境
に与える衝撃の大きさを物語るものであった。
東西間の対立がほぼ完全に消失したことによっ
て、冷戦期は機能不全に陥っていた国連安保理
の活性化が期待され、湾岸戦争はその最初のテ
スト・ケースとみなされた。
その一方で、第3
世界に対する米ソ両国の統制力が低下した結果、
バルカン半島やアフリカ等において地域紛争や
民族紛争が頻発するようになった。
冷戦が終結すると、西側諸国は「平和の配当」
を求めて軍縮を開始した。
米国のG•ブッシュ
政権も、大国間の戦争を前提とした国防戦略を
放棄し、地域紛争への対処を主眼とした「地域
防衛戦略」と「基盤戦力」構想への転換を図っ
た(9〇)。
それと連動して、前方展開兵力も大規
模に削減された。
1990年から1995年の間に、在
独米軍は244,200人から86,600人に、在韓米軍
は44,200人から36,450人にまで縮小された。
1990年には14,700人が駐留していたフィリピン
からも、米軍は1992年までに完全撤退した⑼)。
1993年1月に成立したW・クリントン政権に
とって最大の課題は、内政であり財政・貿易赤
字の解消であった。
同年9月に公表された「ボ
トム・アップ・レビュー」(BUR)は、イラク
と北朝鮮を想定した2つの同時発生する大規模
地域紛争(2 MRC)に勝利することを戦略目標
として掲げたが、目標とされる兵力規模は基盤
戦力構想よりも引き下げられている他。
また、
米国は1993年10月のソマリアでの失敗以降、地
域紛争への介入、特に犠牲者の出る危険の高い
(87) 我部前掲注⑺,p.202.
(88) 「日米安全保障協議委員会第14回会合について」前掲注(77), pp.527-533.
(89) 費用負担が地位協定の範囲内である理由は、普天間と三沢については、米軍の移転が日本の要望によるもので
あるから、岩国については、施設が使用に耐えないほど老朽化しており、使用可能な施設を提供することは日本
の義務であるからだと政府は答弁した。『第71回国会 衆議院予算委員会議録』第6号,昭和48年2月5 0, pp.9-
12 !同第8号,昭和48年2月?日,pp.7-11!同第11号,昭和48年2月12日,pp.23-26.
(90) 川上 前掲注(24), pp.84-86 J上野英嗣「米国の国防政策の動向地域防衛戦略からアスピン構想へ」『新防衛論
集』21巻1号,1993.6, pp.31-56.
(91) International Institute for Strategic Studies, The Military Balance 1995/96, pp.30-31; The Military
Balance 1990-1991, pp.25-26.
レファレンス2006.7 157
地上部隊の投入には消極的となった(93)。
その
結果として、米軍は精密誘導兵器による空爆に
依存するようになる。
この戦術を支えたのが軍
事技術の飛躍的進歩であった。
クリントン政権
は国防費を大幅に削減する一方で、先端技術を
軍事に導入するRMA (軍事における革命)を推
進し、それを既に軍の「変革[(transformation)
と名付けていた叫)。
アジアにおいては、第1次朝鮮半島危機が発
生した。
北朝鮮は、1993年3月にNPT (核不拡
散条約)脱退を宣言し、同年5月には弾道ミサ
イル・ノドンの発射実験を行い、翌1994年6月
にはIAEA (国際原子力機関)脱退をも宣言した。
高まる緊張の中、米国も軍事攻撃の検討に着手
したが、IAEA脱退宣言直後のカーター元大統
領訪朝で北朝鮮が核開発計画凍結に同意し、
1994年10月には米朝枠組み合意が結ばれ、危機
は収束した知)。
一方、台湾海峡では、1995-
96年に危機が生じた。
これは、中国が1995年
6月の李登輝総統訪米に反発し、1996年3月に
予定されていた初の台湾総統直接選挙に圧力を
かけようと、台湾近海へのミサイル発射を含む
数度の軍事演習を行ったことに端を発する。
米国は当初静観していたが、繰り返される演習
に対抗して東シナ海に空母2隻を展開させた。
最終的に、中国が演習を、米国が空母の台湾海
峡通過を中止することで、台湾海峡危機は終結
した佛)。
第1期クリントン政権における日米関係の主
題は貿易摩擦であり、日米同盟はほとんど顧み
られることも無く、この状況は「同盟漂流」と
も形容された。
1994年9月に就任したJ・ナイ
国防次官補は、この事態に懸念を抱き、日米同
盟の重要性を再確認するための「ナイ・イニシ
アティブ」を開始した。
その第1弾である1995
年2月の「東アジア戦略報告」(ナイ・レポート)
は、日米関係を「米国の太平洋安全保障政策及
びグローバルな戦略目標の基盤」と位置づけ、
「在日米軍は日本の防衛及び日本周辺における
米国の権益の防衛だけでなく、極東全域の平和
と安全の維持にコミットし、かつ備えるもの」
であると表明した⑼)。
また、ナイ•レポート
には、米国の前方展開兵力削減に対する同盟国
の懸念を緩和するために、東アジアの兵力約10
万人態勢を維持することも明示された例。
2日本の防衛政策
日本においても、冷戦終結後の世界に対応す
(92) Les Aspin, Secretary of Defense, The Bottom-Up Review: Forces for A New Era, September 1,1993.
BURは、基盤戦力構想の1995年度で約162万人という目標兵力を、1999年度で約140万人に引き下げた。上野英
嗣「米クリントン政権の国防計画」『国防』42巻12号,1993.12, pp.42-59.
(93) ユーゴの民族紛争やソマリア及びハイチの内戦への対応等をめぐる、クリントン政権の外交政策の混迷につい
ては、次を参照。 David Halberstam, War in A Time of Peace: Bush, Clinton, and the Generals {Touch-
stone 配.),New York: Simon & Schuster, 2002.(デービッド・ハルバースタム(小倉慶郎ほか訳)『静かなる
戦争』PHP研究所,2003)
(94) Department of Defense, Report of the Quadrennial Defense Review, May 1997, sec.7.
(95) 第1次朝鮮半島危機については、春原剛『米朝対立 核危機の十年』日本経済新聞社,2004, pp.84-213 ;ケネ
ス・キノネス(伊豆見元ほか監訳)『北朝鮮米国務省担当官の交渉秘録』中央公論新社,2000 ;ドン・オーバードー
ファー(菱木一美訳)『二つのコリア国際政治の中の朝鮮半島』共同通信社,1998, pp.294-430.米国が検討した
軍事オプションについては、春原『米朝対立』pp.130-131, 153-155.
(96) 台湾海峡危機については、平松茂雄『台湾問題中国と米国の軍事的確執』勁草書房,2005, pp.149-204 ;船橋
洋一『同盟漂流』岩波書店,1997, pp.385-439.
(97) Department of Defense, United States Security Strategy for the East Asia-Pacific Region, February
1995, pp.10,25.ナイ・レポートについては、次も参照。船橋 前掲注(96), pp.276-295.
(98) United States Security Strategy for the East Asia-Pacific Region, supra note 97, p.2.
158 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
るための防衛政策の見直しが進んでいた。
日本
にとって湾岸戦争は、日本の国際貢献のあり方
を考える契機となった。
湾岸戦争以後、国際環
境の安定化のために日本も人的貢献をすべきだ
との声が国内でも高まり、1992年には国連平和
維持活動(PKO)協力法(平成4年法律第79号)
が成立した。
この背景には、湾岸戦争での経済
的貢献が国際的にそれほど評価されなかったこ
とに対するショックに加え、冷戦構造が崩壊し
日本の取り得る外交政策のオプションが拡大し
たことや、日本の国力と世論が成熟し、国民が
経済大国としての責任を自覚するようになった
こと等があったと指摘できるだろう0
1994 (平成6)年2月、細川護熙首相は私的
諮問機関として「防衛問題懇談会」を設置し、
1976 (昭和51)年の防衛計画の大綱を見直す指
針を答申するよう諮問した。
座長の名を取って
「樋口レポート」とも呼ばれる懇談会の報告書
は、1994年8月に村山富一首相に提出された例。
樋口レポートは、冷戦後の日本の安全保障政
策の方向性を決定付けた極めて重要な文書であ
る。
1970年代の「防衛を考える会」とは異なり、
防衛問題懇談会が防衛庁長官ではなく首相の諮
問機関であったことも、レポートの影響力を高
める大きな要因となった。
また、レポート作成
で中核的な役割を果たした渡邊昭夫氏は、懇談
会が「私的」諮問機関であったため、省庁から
の情報提供は受けたもののレポートの内容は懇
談会が自由に書くことができたと語っている⑴°)。
このような性格の報告書が政府の政策に大きな
影響を与えるというのは、日本においては数少
ない事例であろう。
渡遷氏によれば、樋口レポートの特徴は、全
般的な安全保障戦略の観点から日本に必要な防
衛力を導き出している点にある。
例えば米国で
は、大統領が「国家安全保障戦略」を策定し、
それに基づき国防総省が「国家防衛戦略」を、
統合参謀本部が「国家軍事戦略」を策定する。
しかし、日本の場合、防衛計画の大綱は防衛カ
整備の指針(国家軍事戦略)という色彩が強く、
国家安全保障戦略に該当する公式文書は存在し
ない。
そこで懇談会は、まず国際情勢を分析し
日本の戦略目標を定めた上で、それに必要とな
る防衛力を導きだすというアプローチを採用し
たという(101)。
当時の日本は、冷戦終結により
対外行動のオプションの幅は広がったものの、
未だ明確な行動指針を策定できていなかった。
樋口レポートの最大の貢献は、その指針を明確
化したことにあると言えるだろう。
樋口レポートが提示する国際情勢認識は、米
国のそれとほぼ同様で、冷戦後の脅威は「不透
明で不確実な状況」における「予想し難い危険」
であるとし、地域紛争や大量破壊兵器•弾道ミ
サイル拡散の脅威を例示する。
また、「アジア・
太平洋ではソ連の崩壊は、安全保障環境の劇的
な変化を意味しなかった」とし、朝鮮半島や台
湾海峡情勢の不安定性にも言及する⑴2)。
このような認識に基づき、樋口レポートは日
本の戦略目標を設定する。
その特徴は、日本の
安全確保の手段として、日米間の協力と並んで
「多角的な安全保障協力」(国連PKOへの貢献、
軍備管理、地域的安保対話等)を柱に据えたこと
にある。
多角的安保協力で最も重視されている
のは国連への貢献で、それは「日本の国際的地
(99)防衛問題懇談会『日本の安全保障と防衛カのあり方21世紀へ向けての展望』!994.8.懇談会の座長は樋口廣太
郎・アサヒビール会長で、その他に渡遷昭夫•青山学院大学教授、西廣整輝•元防衛事務次官、佐久間一 ・元統
幕議長等がメンバーとして参加した。
剛)渡邊昭夫氏への筆者によるインタビュー(2006.4.14)。
G01)同上。同氏は、レポートは3部構成をとっているが、第1部及び第2部が「国家安全保障戦略」と「国家防衛
戦略」に、第3部が「国家軍事戦略」に相当するものだと指摘した。
仙2)防衛問題懇談会前掲注(99), pp.2-6.
レファレンス2006.7 159
位,にふさわしい役割」であると同時に「国益上
もきわめて重要」だとされる(皿)。
一方、日米
安保は「日本自身の防衛のための不可欠の要素」
であると共に「アジア・太平洋地域全体の安全
保障」にも貢献するものと位置づけられ、日米
間の防衛協力の強化が提言されている(1〇4)〇
この2つの手段を併置した意図は、国際環境の変
化に合わせて国際協力を前面に出す一方で、日
米安保を日本防衛と地域安定の基盤と位置づけ
ることで、冷戦後の日米安保不要論に反論する
ことにあったと渡遷氏は語っている⑴5)。
日本が整備すべき防衛力について、樋口レポー
卜は、軍事技術の近代化、若年人口の減少、財
政的制約を踏まえた上で、「基盤的防衛カの概
念を生かしつつ、新たな戦略環境に適応させる
のに必要な修正を加える」ことが必要だとする。
この修正とは、情報収集能力の強化や装備の
ハイテク化を意味し、コンパクトではあるが
機動力と即応性に優れた部隊への改編が意図さ
れている(106)。
懇談会の場では、基盤的防衛カ
という言葉を存続させるべきかについて深い議
論があったわけではなく、名称よりも実際の能
力を戦略環境に適応させることに重点が置かれ
たという(107)。
それが可能であったのも、基盤
的防衛カという概念に若干の曖昧性があるから
であろう。
以上の方針に基づき、樋口レポートは各種の
具体的提言を行っている(表4)。
秋山昌廣・
元防衛事務次官が評するように、それらは「今
でこそ、既定の路線となっているのでそれほど
驚かないが、当時としてはかなり思い切った提
言であった」(1〇8)。
事実、提言の多くは既に実現
するか現在検討課題に上っているものであり、
樋口レポートが冷戦後の防衛政策形成において
果たした重要性を裏付けている。
日米防衛協力
についても、新ガイドラインを先取りするよう
な提言がなされている。
周辺事態という用語こ
そ用いられていないが、第1次朝鮮半島危機の
経験もあり、懇談会メンバーの念頭には、明ら
かに周辺事態への日米共同対処があった(109)。
また、樋口レポートは、米国の対日政策にも
大きな影響を与えた。
レポートの構成が、まず
多角的安全保障協力に触れた後に日米安保に言
及するようになっていたため、それを知った米
国の一部の論者が、日米安保軽視の表れではな
いかとの懸念を表明したのである。
知日派とし
て知られ、当時は国防総省顧問を務めていた
M・グリーンと、国家戦略研究所(INSS)研究員
であったP・クロ ーニンは、「これら[日本の]
新しい役割と任務がどのように……[日米安保
と]調和するのかをより明確にしなければ、こ
のレポートは日米の安全保障協力を傷つけるこ
とになりかねない」([]内は引用者)と樋口レ
ポートを批判し、それを回避するために日米同
盟の「再定義」を提唱した⑴°)。
しかし、彼ら
の批判は、日米同盟を重視しない米国政府に危
機感を持たせ、日米同盟強化へと舵を切らせる
ための方策でもあった。樋口レポートが日米同
(103)同上,pp.13-16.
噸同上,pp.16-18.
仙5)秋山昌廣『日米の戦略対話が始まった』亜紀書房,2002, pp.45-46.
G06)防衛問題懇談会前掲注(99), pp.18-24.
GOT)渡遷昭夫氏への筆者によるインタビュー(2006.4.14)。一方で同氏は、「冷戦が終わり、ソ連の脅威が消滅して
見ると、1970年代の日本の防衛政策当局者が考案した基盤的防衛力構想がより適合的な環境が生まれたのは、歴
史の皮肉である」とも述べている。渡邊 前掲注(50), p.77.
仙8)秋山前掲注噸,p.42.
仰9)渡邊昭夫氏への筆者によるインタビュー(2006.4.14)。
(110) Patrick M. Cronin and Michael J. Green, Redefining the U.S.-Japan Alliance: Tokyo’s National
Defense Program, Washington DC: NDU Press, 1994 (McNair Paper 31), p.l〇.
160 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
表4 「樋口レポート」(1994年)における主要な提言と実現状況
提言内容 実現状況
多角的安全 保障協力 PKO活動の本来任務化(自衛隊法改正) 2006年自衛隊法改正法案提出(審議中)
PKF本隊業務を凍結解除(PKO協力法改正) 2001年凍結解除
PKO活動に従事する他国への装備品供与 未着手
日米安保 米国との作戦や装備面でのインターオペラビリティ の確立、政策協議の充実、種々の事態を想定した部 隊運用計画の共同立案や共同訓練 1997年新ガイドラインと2005年SCC合意の下で進 行中
相互物品役務提供協定(ACSA)締結 1996年締結(1999年、2004年改正)
米軍基地の整理統合、日米基地共同使用の円滑化 1996年SACO合意、2005年SCC合意
防衛カ整備 偵察衛星の活用 1998年導入閣議決定、2003年初打ち上げ
統合運用の強化 2006年統合幕僚監部発足
隊員数の削減(27万4,000人から24万人に)、戦闘機 の削減、対潜水艦戦から対水上戦への転換、戦車等 の重装備の削減と軽量ハイテク装備の導入 1995年防衛大綱及び2004年防衛大綱で段階的に規模 縮小、2004年特殊作戦群新設、2007年中央即応集団 新設予定
陸上自衛隊の師団構成改編と配置の見直し 1995年防衛大綱で12個師団2個混成団態勢から8個 師団6個旅団態勢に移行を決定
迅速対応可能な新たな予備自衛官制度の導入 1998年即応予備自衛官制導入
空中給油機の導入 2000年導入決定、2006年度配備予定
ミサイル防衛システムの導入 2003年導入決定
先進諸国との装備の共同研究•開発・生産 未着手(ミサイル防衛では米国と共同開発)
(出典)防衛問題懇談会『日本の安全保障と防衛カのあり方』1994等に基づき筆者が作成。
盟を重視しているのは明白で、米国の知日派も
それを知りつつ、あえて過剰反応した側面があ
る0
グリーンも、「我々はショックによって米
側を日米関係に注意を向けさせた。……我々は
樋口レポートをある種「ガイアツ」として利用
した」のだと語っている⑴1)。
樋口レポートの考え方は、1995 (平成7)年
11月に決定された防衛計画の大綱(以下、「95
大綱」とする)に大きく反映されることとなっ
た(112)〇
ただし、ナイ・イニシアティブの開始
に伴い、95大綱は米国側の意見も取り込みつつ
策定されたため、より直接的に日米同盟の重要
性に言及している。
95大綱は、日米間の協力は
日本防衛や周辺地域の安定だけでなく、多国間
安保対話や国連PKOといった「国際社会の平
和と安定への我が国の積極的な取組に資するも
の」とする。
これは、前述した米国からの批判
に対する回答となっている0
なお、95大綱は樋
ロレポートとほぼ同様の国際情勢認識を採用し
ているが、台湾海峡問題への言及は避けている。
日本の防衛力については、95大綱はまず、専
守防衛、文民統制、非核三原則といった従来の
基本方針を維持すると明記した。
基盤的防衛カ
構想についても「今後ともこれを基本的に踏襲」
するとしているが、科学技術の進歩、若年人口
の減少、厳しい財政状況等を考慮して部隊の
「合理化・効率化・コンパクト化」を行うとす
る。
これは、規模の点では自衛隊を縮小するが、
ハイテク装備の導入や兵力構成の効率化により、
PKO活動や災害対処も含めた「多様な事態に
対して有効に対応し得る防衛カ」を構築しよう
とするものである0
95大綱でもう1つ重要であったのは、日本政
府として初めて公式に、周辺事態における「日
米安全保障体制の円滑かつ効果的な運用」に言
及したことである⑴3)。
これが1997年の新ガイ
¢11)秋山前掲注噸p.53.
¢12) 「平成8年度以降に係わる防衛計画の大綱について」防衛庁『日本の防衛防衛白書平成17年版』2005, pp.357-
- 大綱の策定過程と内容については、秋山 前掲注(R pp.62-77, 90-169.
レファレンス2006.7 161
ドラインに向けた第1歩であった。
3日米間の防衛協力
旧ガイドラインの下でも周辺事態における日
米共同対処の研究は行われたが、当時の日本の
考えでは、周辺事態に対処するのは自衛隊の任
務ではなく、日本側で研究を主管していたのも
外務省であった⑴公。
米国は、日本に被害が及
ばない極東有事や、朝鮮半島有事が日本に波及
する事態における計画策定を1980年代に提案し
たが、計画が自衛隊による対米支援にまで踏み
込むことを恐れた外務省が難色を示し、研究は
すぐに中断されたと言われる(115)〇
しかし、第1次朝鮮半島危機により、日米両
国は、周辺事態対処の枠組みの必要性を痛感す
ることになる。
危機当時、日米政府間あるいは
自衛隊内では、日本がどこまで対米支援を行い
得るかが極秘に検討された。
しかし、法律の未
整備のため米軍の支援要求に応えられないケー
スも多く、「そんなことしかできないのか」と
米側が怒り出す場面もあったと言われる⑴6)。
台湾海峡危機への対応は、日本の関与しない米
国の単独行動であった。
しかし、それが故に、
日米間で政策協議はほとんど行われず、日本政
府は米国から情報が提供されないことに強い不
満と不安を覚えた。
その一方で、米国の日米同
盟強化派は、台湾海峡危機を同盟強化のための
梃子として活用しようとしたとされる⑴の。
これらを背景として、1996年4月の橋本・ク
リントン首脳会談において、ナイ・イニシアティ
ブの第2弾となる日米安保共同宣言が公表され
た⑴勿。
同宣言は、日米同盟が「冷戦期におい
て、アジア太平洋地域の平和と安全の確保に貢
献した」ことを高く評価する。
そして、日米は、
冷戦後においても「日米同盟が持つ重要な価値
を再確認」し、旧ガイドラインを見直し、周辺
事態への日米共同対処に関する研究を開始する
ことを宣言した。
新ガイドラインは、1997年9月に完成する。
詳細は第V章で触れるが、もちろん最も重要で
あったのは、周辺事態への対処方針が書き込ま
れたことである⑴カ。
続いて日本では、新ガイ
ドラインに基づく措置を実施するための根拠法
として、1999年に周辺事態法(平成11年法律第60
号)が、2000年に船舶検査法(平成12年法律第145
号)が整備された。
また、日米は既に1996年に
ACSA (物品役務相互提供協定)を締結していた
が、それは平時における共同訓練、PKO活動、
国際救援活動のみを対象とするものであったの
で、1999年に周辺事態も対象に含めるための改
正が行われた。
4 在日米軍の再編と経費分担
このように日米の安全保障関係の再構築が進
行する中、1995 (平成7)年9月に沖縄で3名
の海兵隊員による少女暴行事件が発生し、沖縄
米軍基地問題が政治的な大問題に発展した。
ナイ・イニシアティブを円滑に進めるためにも、
¢13)内閣法制局は、当初この文言を新大綱に入れることに難色を示していた。同上,pp.70-71.
014)村田 前掲注⑫,pp.89, 92.
偵)「日米安保 共同作戦研究!-5J『朝日新聞』1996.9.2-9.6.なお、朝鮮半島有事に関して米軍が提案した計画案
は、「作戦計画5052Jと呼ばれる。
Q16)外岡ほか前掲注⑶,pp.466-475.
側船橋前掲注(96), pp.422-439.
(118) “Japan-U.S. Joint Declaration on Security: Alliance for the 21st Century”, Defense Agency, Defense
of Japan 2005, Inter Group, 2005, pp.490-493 (日本語仮訳は、「日米安全保障共同宣言21世紀に向けての同
盟(仮訳)」『防衛白書平成17年版』前掲注他),pp.376-378).
(119) “Guidelines for Japan-U.S. Defense Cooperation, September 23,1997”, Ibid., pp.493-500 (日本語仮訳は、
「日米防衛協力のための指針」同上,pp.378-382).
162 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
日米両国政府は、沖縄問題で一定の成果をあげ
なければならなかった。
その思いは、「SAC〇
はガイドラインのためのダウンペイメント(頭
金)のようなものだ」というW・ペリー国防長官
の言葉にも表れている⑴〇)。
1995年11月にはペリー国防長官が来日し、
「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)が
設置された。
しかし、同日に発表された日米防
衛首脳会談の共同発表では、日本に約4万7千
人の米軍兵力を維持することが明記されてい
る(⑵)。
即ち、この協議は当初から米軍削減を
選択肢から除外し、基地返還の対象も沖縄に限
定していたのである(後)。
その意味ではこの米
軍再編は限定的なものに過ぎず、日米間の協力
強化という視点もほとんどなかった0
1996年12月のSACO最終報告では、普天間
基地の全面返還を含む11施設5,075haの米軍基
地返還等が決定された。
この返還面積は、!972
年の本土復帰以降に返還された沖縄米軍基地の
総面積にほぼ匹敵する。
しかし、計画の大部分
は既存施設の沖縄県内移転を条件としていたた
め、地元の意向が集約できず、SACO合意の
大半は、現時点(2006年6月)でもまだ実施さ
れていない(応)。
特に普天間返還については、
移設場所、受け入れ条件、建設工法等をめぐる
混乱が続き、結局は2003年から始まる米軍再編
の中で計画が見直されることとなる。
経費負担
の面では、日本政府はSAC0合意を実現する
ために、従来の駐留経費負担とは別枠のSACO
関連経費を創設し、それ以外にも大規模な沖縄
振興策を実施した。
IV 第3の転機:2000年代
——日米同盟の変革
!米国の国防政策
2001年1月に成立したG.W・ブッシュ政権は、
米国への脅威を国際テロや「ならず者国家」と
見据え、それに対処するために米軍の態勢を全
面的に刷新しようとしている。
そのための方策
が、同年9月のQDR (4年ごとの国防見直し)
で表明された「米軍の変革」と「前方展開態勢
の見直し」である<也)。
端的に言えば、変革と
は予測困難な非対称的脅威に対処するために、
先端技術の導入等により米軍の即応展開能力を
増強し、更に戦術及び戦略(戦い方)も非対称
的脅威に適したものへと変更しようとする試み
である。
一方、態勢見直しは、ドイツや韓国へ
の大規模な地上兵力の配備を削減すると同時に、
紛争地に隣接する地域に小規模な拠点を確保し、
紛争地へと迅速に兵力を投射できる態勢を構築
しようとするものである。
加えて、態勢見直し
は、米軍の再配置のみならず、同盟国の役割拡
大や、共同訓練等を通じた同盟国軍の変革の支
援等も目標としている。
ただし、ブッシュ政権
の政策は決して革新的なものではない。
クリン
トン政権期においても非対称的な脅威への懸念
は指摘されていたし、軍の変革(RMA)も打ち
出されていた。
ブッシュ政権下で変革と再編が
急速に進展したのは、それらが9.11テロ後の戦
略環境に見事に適合したからである。
9.11テロに衝撃を受けた米国は、2002年9月
伽)船橋前掲注(96), p.88.
似1)「基地縮小、保証得られず」『東京新聞』1995.11.1J夕刊;秋山 前掲注仙5), p.84.
¢22)報道によれば、日本政府は当初、在沖米軍の本土移駐を検討していたとされるが、この構想が実現することは
無かった0「沖縄米軍一部有事駐留に」『毎日新聞』1995.11.2.
(123) SAC〇合意の詳細と計画遅延の理由については、福田毅「沖縄米軍基地の返還SACO合意の実施状況を中心
に」『レファレンス』633号,2003.10, pp.3-31.
(124) Department of Defense, Quadrennial Defense Review Report, September 30, 2001, ch.VI-V.米軍変革
と態勢見直しについては、福田毅「アメリカ軍の変革と再編 ポスト9.11の世界における戦争の合理化」渋谷博
史・渡瀬義男編『アメリカの連邦財政』日本経済評論社,2006, pp.199-250.
レファレンス2006.7 163
の国家安全保障戦略において先制攻撃戦略(ブッ
シュ・ドクトリン)を公表した(125)。第1期ブッ
シュ政権の政策は、しばしば同盟国からも単独
行動主義だとの批判を受け、2003年3月に開始
したイラク戦争は、米欧同盟内に深刻な亀裂を
もたらした(126)。しかし、その後のイラク占領
で苦境に立たされた米国は、徐々に多国間主義
へとシフトしつつある。2006年2月に公表され
た第2期ブッシュ政権のQDRでは、同盟国と
の協力の重要性が繰り返し強調されている⑴7)。
2日本の防衛政策
9.11テロ以降、日本は、米国の対テロ戦争を
支援するため、2001年11月にはテロ特措法(平
成13年法律第113号)を、2003年8月にはイラク
特措法(平成15年法律第137号)を整備し、自衛
隊をインド洋及びイラクに派遣した。
湾岸戦争
や第1次朝鮮半島危機のケースと比較すれば、
日本の迅速かつ積極的な対応は特筆すべきもの
である。
米国のある論者は、9.11テロやイラク
が日本にとって直接的な差し迫った脅威ではな
かったにもかかわらず日本の対応が迅速であっ
た理由として、北朝鮮の脅威増大が日米同盟の
重要性を高めたこと、湾岸戦争以降の日本が自
国の貢献に対する外国(特に米国)からの期待
を自発的に先取りするようになったこと(「内
面化された外圧」)、支持率の高い小泉純一郎首
相が強いリーダーシップを発揮できたこと等を
指摘している喚。
両特措法が整備されたのは、国連PK〇では
ないインド洋及びイラクにおける自衛隊の活動
を実施するために、新しい根拠法が必要となっ
たからである。
イラク派遣時に政府が掲げた
「世界の中の日米同盟」というスローガンが象
徴しているように、これらの活動は日米安保条
約に基づかない対米支援、即ち日米双方の国益
に沿った国際的平和支援活動(PSO)の分野に
おける対米協力として行われた。
いわば日米同
盟のグローバル化である。
このような活動は前
例のないものであるが、両特措法は、従来の国
連支援との整合性にも配慮しつつ対米支援に正
当性を付与するために、活動の根拠として国連
安保理決議を明記している。
これによって、日
米同盟の無際限な地理的拡大に一定の歯止めが
かけられていると見ることもできる。
これらに加え、2001年12月にはPKO協力法
が改正され、PKF本隊業務の凍結が解除され
た。
2003年から2004年にかけては、積み残しの
課題であった日本有事に対処するための武力攻
撃事態法(平成15年法律第79号)や国民保護法
(平成16年法律第112号)等が整備された。
これに
は、日本有事において活動する米軍を支援する
ためのACSA改正や米軍行動関連措置法(平成
16年法律第113号)も含まれる。
更に、2003年12
月には、ミサイル防衛システムの導入が正式に
決定された。
一方、95大綱から約10年が経過し、日本も冷
戦後の防衛政策を見直す時期に差し掛かってい
(125) White House, The National Security Strategy of the United States of America, September 2002, pp.15-16.
(126) 米欧間の亀裂については、例えば次を参照。 Sergio Fabbrini ed., The United States Contested: American
Unilateralism and European Discontent, London: Routledge, 2006; Philip H. Gordon and Jeremy
Shapiro, Allies at War: America, Europe, and the Crisis over Iraq, New York: McGraw-Hill, 2004.
(127) Department of Defense, Quadrennial Defense Review Report, February 6, 2006 ;福田毅「QDR2006と
2007年国防予算案「長い戦争」のための国防計画」『調査と情報-ISSUE BRIEF —』512号,2006.2, pp.3-5.
(128) Daniel M. Kliman, Japans Security Strategy in the Post-9/11 World: Embracing a New Realpolitik,
Westport: Praeger, 2006.クリマンは、特に自衛隊のインド洋派遣のケースでは「内面化された外圧」(inter-
nalized gaiatsu)の要因が強く働き、それは自衛隊派遣理由に関する政府の若干ネガティブな論理(自衛隊派遣
が日本の国益に寄与するというものではなく、貢献しなければ国際社会から孤立するという論理)に表れていた
と指摘している。Ibid., pp.75-82.
164 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
た。
9.11テロ、第2次朝鮮半島危機(2002年10
月に発覚した北朝鮮の核開発計画)、北朝鮮にょ
る拉致問題、中国の軍事力増強と海洋進出等は、
樋口レポートが「不透明で不確実な状況」にお
ける「予想し難い危険」と形容したものの輪郭
を明瞭化する出来事であった。その意味でも、
樋口レポートの先見性は高かったと言え、今回
必要とされた見直しは樋口レポートの路線に沿
いつつ、顕在化した脅威に対してより具体的な
方策を講じることであった。
まず、政府は2004 (平成16)年4月、首相の
私的諮問機関「安全保障と防衛カに関する懇談
会」を立ち上げた⑴9)。
同年10月に提出された
報告書(荒木レポート)は、冒頭で9.11テロを例
示しつつ、「非国家主体からの脅威を正面から
考慮しない安全保障政策は成り立たない」と明
記し、対テロ戦を遂行する米国と歩調を合わせ
ている。
加えて、日本への脅威として、北朝鮮
の核開発、武装工作船の侵入、台湾海峡の不安
定性等を具体的に指摘している(剛)。
荒木レポートは、日本防衛と「国際的安全保
障環境の改善」の2つを戦略目標の柱と位置づ
けている0
多角的安保協力に代えて国際環境改
善という言葉を用いたのは、それが日本の安全
に直結する主体的活動だとのニュアンスを持た
せるためである0
また、多角的安保協力が国連
PKOを中心とする概念であったのに対し、
国際環境改善は、国連PKOではない国際的平
和支援活動、大量破壊兵器等の拡散阻止活動、
人間の安全保障等をも視野に入れている。
日米
同盟については、それが周辺地域の安定にも貢
献していることを強調して、「地域の諸国にとつ
て公共財的な側面がある」と主張し、更に、日
米間の協力は国際環境改善のための取り組みに
おいても重要であり、そのような協力を円滑化
するためにガイドラインを再改定すべきだと提
言する(⑶)。
95大綱でも日米協力は国連PKO
にも資するものとされていたが、実際に日米が
PKOで協力する場面はほとんどなかった0
国際環境改善における日米協力が現実的となった
のは、自衛隊の役割がインド洋やイラクのよう
に国連PKOではない活動(対米支援)にまで拡
大したからであり、荒木レポートはこの状況を
積極的に評価しているのである。
防衛カ整備の点では、「基盤的防衛カ構想の
有効な部分は継承しつつ」も、国家からの脅威
のみを対象とする基盤的防衛カでは非国家主体
からの脅威には対処できないため、双方からの
脅威に対応可能なように修正を加えた「多機能
弾力的防衛カ」を整備すべきだとされる。
とは
いえ、「基盤的防衛力の考えを見直すというこ
とは、それ以前の脅威対向型の所要防衛カの考
え方に戻るということではない」と断り書きさ
れていることからも分かるように、日本の防衛
力整備の抑制的性格を強調するという基盤的防
衛カ構想の本質は不変のままである⑴2)。
荒木レポートが具体的に提言するのは、島[^
部への攻撃やゲリラ・特殊部隊•武装工作船等
の侵入への対処能力の増強、ミサイル防衛シス
テムの構築、特殊作戦能力や大量破壊兵器防護
能力の向上等である。
北朝鮮の核・ミサイル開
発を受けて一時期話題となった敵ミサイル基地
への攻撃能力(トマホーク巡航ミサイル等)の獲
得に関しては、慎重に検証し周辺諸国の反応も
含め「総合的に判断」すべきとしている<胞)。
加えて、自衛隊のインド洋やイラクへの派遣を
帽 懇談会の座長は荒木浩•東京電力顧問で、委員として田中明彦•東京大学教授、五百旗頭真•神戸大学教授、
佐藤謙・元防衛事務次官、西本徹也•元統幕議長等が参加した。
G30)安全保障と防衛カに関する懇談会『「安全保障と防衛カに関する懇談会」報告書未来への安全保障•防衛カビ
ジョン』2004.10, pp.3-4.
(131) 同上,pp.9-10, 18-19.
(132) 同上,pp.6,12.
G33)同上,pp.23-24, 27-28.敵ミサイル基地攻撃に関する論議については、等 前掲注(32), pp.20-22, 31-32.
レファレンス2006.7 165
踏まえて、自衛隊海外派遣のための一般恒久法
を整備し、平和支援活動における治安維持任務
への自衛隊の参加と武器使用要件の緩和を検討
することも提唱されている(興)。
2004 (平成16)年12月には、新しい防衛計画
の大綱(以下、「04大綱」とする)が決定されたQ35)。
04大綱も、荒木レポートと同様に、日本防衛と
共に国際環境改善を日本の目標に掲げ、後者の
ための日米協力の重要性を指摘する。
95大綱で
は見送られた中国への言及に関しても、04大綱
は、中国の軍事力近代化や海洋進出に「今後も
注目していく必要がある」と明記した。
防衛カ
の改善点も荒木レポートとほぼ同内容で、量を
削減し質を高め、部隊配備の比重を北から南西
にシフトすることを基調としている⑴6)。
若干荒木レポートと言葉遣いの点でニュアン
スが異なるのは、04大綱が多機能弾力的防衛カ
を「即応性、機動性、柔軟性及び多目的性を備
え、軍事技術水準の動向を踏まえた高度の技術
カと情報能力に支えられた」防衛カと表現して
いる点で、これは、米軍変革との理念共有をよ
り明確に打ち出したものと解釈できる。
3日米間の防衛協力
ブッシュ政権成立以前から、米国内には日米
間の防衛協力拡大を求める声があった。
その代
表は、2000年10月の「アーミテージ・レポート」
であろう(137)。
このレポートに関しては、日本
に集団的自衛権の行使解禁を勧めている点に関
心が集中したが、その後の米軍再編交渉の原則
を既に明示していた点でも注目すべきである。
まずレポートは、日米の高官たちが日米同盟に
関心を持ち続けなかった結果、1990年代の日米
同盟再定義は「共通目的の明確な定義を伴わな
い散漫な対話」を産み出したに過ぎなかったと
批判する。
そして、新ガイドラインが出発点に
過ぎないことを強調し、日米の共同訓練及び基
地共同使用の増大と、国際テロ等の新しい脅威
への共同対処方針の策定を訴えた。
一方で、先
端技術を活用して能力を維持しつつ在日米軍の
兵力を削減し、日本の負担を減らすべきだとも
主弓長した(憐>。
第3の転機において、防衛協力の更なる拡大
が必要になった主な要因は2つある。
第1は、
米軍の変革に伴うものである。
米軍の変革は、
情報通信の分野における先端技術の活用を重視
している。
しかし、C3I(指揮・統制•通信・情
報)は軍の行動の基盤であり、同盟国と共同行
動をとる場合にはC 3 Iにおけるインターオペ
ラビリティ(相互運用性)や情報の共有が不可
欠である。
また、先端技術の導入は米軍の作戦
行動を複雑化•高度化する傾向にあるが、当然、
湖 安全保障と防衛カに関する懇談会 前掲注¢30), p.2O.
蠅)「平成17年度以降に係る防衛計画の大綱について平成16年12月10BJ『防衛白書平成17年版』前掲注M), pp.353-
- 防衛庁内の大綱見直し作業である「防衛力の在り方検討会議」は、既に2001(平成13)年9月に立ち上げら
れていた。しかし、アフガニスタン・イラク情勢への対応や、武力攻撃事態関連法の整備といった優先課題が山
積していたため、内部検討はなかなか進拶しなかったと思われる。
(136) 具体的には、04大綱では、95大綱と比べ戦車及び火砲(主要特科装備)がそれぞれ900両/門から600両/門に、
護衛艦が50隻から47隻に、海自航空機(哨戒機等)が170機から150機に、空自航空機が400機から350機に削減さ
れる一方で、テロや平和支援活動に即応可能な中央即応集団の新設、空中給油機能やミサイル防衛システムの整
備等が盛り込まれた。
(137) このレポートを作成した超党派の研究グループには、G.W・ブッシュ政権で政府入りすることになるR・アーミ
テージ、P・ウォルフォウィッツ、M・グリーンや、クリントン政権で対日政策を担当したJ.ナイやK•キャンベル
等が参加した。
(138) Richard L. Armitage et. al., The United States and Japan: Advancing Toward a Mature Partnership
(INSS Special Report), Washington DC: NDU Press, October 11,2000, pp.2-4.
166 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
米軍と共同行動を取る国の軍隊も、それに対応
できる方が望ましい。
その結果、平時から同盟
国間で共通の作戦概念を構築し、装備の規格を
統一し、情報を共有し、共同訓練を行うことの
必要性が高まったのである。
加えて、瞬時の情
勢判断を必要とするミサイル防衛システムの導
入を日本が決定したことも、米軍との情報共有
強化を促した。
この点で、04大綱が米国と軍変
革の理念を共有する姿勢を示したのは重要なこ
とであった。
第2の要因は、新しい脅威の出現である。
北朝鮮の核•弾道ミサイル開発や中国の軍拡への
対応に加え、世界的な対テロ戦で米国と協力す
るには、従来とは異なる防衛協力の枠組みが必
要となる。
日米同盟のグローバル化により、自
衛隊と米軍は、今やインド洋、イラク、大量破
壊兵器等の拡散阻止行動等で協力している。
これまで米軍との協力関係がさほど強くなかった
陸上自衛隊も、イラクでの活動を通じて米軍と
の関係を緊密化している⑴の。
このような状況
から、周辺事態に重点を置いていた新ガイドラ
インの枠組みを補強する必要が生じたのである。
2002年12月のSCC共同声明は、「日米の役割
と任務、双方の兵力及び兵力構成、地域的挑戦
やグローバルな挑戦への対処における日米協力、
..在日米軍施設•区域に由来する諸問題の解
決進展」等を議題とする日米協議を強化すると
発表した”如)。
この協議は2003年1月から本格
化し、2005年2月には、北朝鮮の核開発問題や
台湾海峡問題の平和的解決、国際平和協力活動
における日米協力、テロの根絶等を日米の共通
戦略目標と位置づけるSCC共同声明が発表さ
れた。
更にこの声明は、在日米軍再編の目的は
日米同盟と防衛協力の強化にあり、「地元の負
担軽減をしつつも在日米軍の抑止力と能力は維
持する」ことを確認した<也)。
そして、2005年10月のSCCでは、「日米同盟:
未来のための変革と再編」と題する文書(以下、
「SCC文書」とする)が公表された<性)。
この間
において、防衛協力強化に関する日米交渉の詳
細がメディアに取り上げられることは、ほとん
ど無かった。
推測に過ぎないが、米軍再編交渉
が難航したのに比して、協力強化では日米が共
に積極的で、早い段階から一定の合意が確立さ
れていたからかもしれない。
SCC文書は2部構成となっており、前半部
は防衛協力の強化を、後半部は在日米軍の再編
を取り扱っている。
以下では、まず米軍再編の
概要を紹介した上で、第V章において、SCC
文書の防衛協力の内容を新旧ガイドラインと対
比しつつ検討する。
4 在日米軍の再編と経費分担
今回の在日米軍再編は、米軍の世界的な前方
展開態勢見直しの一環として行われている。
米国は態勢見直しと同時に、同盟国との協力強化
(特にインターオペラビリティの確立や情報の共有)
をも達成しょうとしている。
在日米軍再編の主
側)アーミテージ・レポートの共同執筆者である「プリスタップ国家戦略研究所(INSS)研究員も、「より対等な
同盟相手となるため過去4年間に日本がとったステップは……日米の絆を強めるのに貢献した」と評価している。
James J. Przystup, U.S. Japan Relations: Progress Toward a Mature Partnership, Washington DC:
NDU Press, June 2005 (INSS Occasional Paper, 2005/2), p.5.
(140) “Joint Statement: U.S.-Japan Security Consultative Committee”, December 16, 2002.
http://www.state.gOv/r/pa/prs/ps/2002/16007.htm (2000年以降の SCC 関連文書の邦訳は、外務省ホーム
ペーシ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/index.html に掲戦されている)
¢41) “Joint Statement of the U.S.-Japan Security Consultative Committee”, February 19, 2005.
(142) Security Consultative Committee Document, U.S.-Japan Alliance: Transformation and Realignment
for the Future, October 29, 2005. http://www.state.gov/documents/organization/55886.pdf
レファレンス2006.7 167
目的もまさにその点にあり、SCC文書は、日
米両国の能力(抑止力)強化、司令部間の連携
向上、インターオペラビリティの向上等を再編
の指針とすることを明記した。
SCC文書で示
された再編案は、2006年5月のSCCにおいて、
「再編実施のための日米のロードマップ」(以下、
「ロードマップ」とする)として正式に承認され
た(143)。
ロードマップの特徴は、在日米軍を再
編するのみならず、自衛隊をも再編することで、
かってないほどに自衛隊と米軍の連携を強化し
ようとしている点にある。
そのための具体的措置が、米軍と自衛隊の司
令部併置、情報共有の促進、共同使用基地と共
同訓練の拡大である。
例えば、横田基地では、
在日米空軍司令部と航空自衛隊の航空総隊司令
部の併置が、キャンプ座間では、在日米陸軍司
令部と陸上自衛隊の中央即応集団司令部の併置
が計画されている0
横田には日米の統合作戦調
整センターも新設され、日米は、このセンター
を通じて、防空やミサイル防衛に関する情報を
共有することになる。
また、嘉手納、三沢、岩
国の米軍機による訓練の国内分散移転の目的の
1つも、日米共同訓練の拡大にある。
第1の転機における再編でも、米軍基地を自
衛隊が引き継ぎ、日米の共同使用基地とするこ
とが行われたが、その主目的は有事における米
軍の再展開を担保することにあった。
ところが、
今回の再編における共同使用拡大は、それとは
目的を異にしている。
米国の戦略から類推すれ
ば、米国は、日米が常時一体となって情報を共
有し部隊を運用することを求めているのだろう。
だとすれば、日米共同使用基地のあり方を質的
に転換することが必要になるかもしれない。
例えば、日本の施設を米軍が一時的に利用するこ
とができると定めた日米地位協定第2条第4項
bに関する政府解釈は、基本的に「年間何日以
内というように日数を限定して」、「1年のうち
半数以上」とならない範囲で施設を米軍に貸し
出すというものであり(144)、日米が常時行動を
共にするようなケースを想定していない。
一方、沖縄の負担軽減に関しては、SACO
合意の普天間移設計画の見直し、司令部を中心
とした在沖海兵隊約8,000名のグアム移転、嘉
手納以南の基地(キャンプ桑江、牧港補給地区、
那覇港湾施設、キャンプ瑞慶覧等)の返還等が合
意された。
交渉を通じて、日米両国は地元の負
担軽減も追求してきた。
しかし、その前提は
「抑止カの維持」であり、結果として、在沖海
兵隊戦闘部隊の大幅削減は選択肢から除外され
た。
司令部を中心とする国外移転は、負担の軽
減と抑止力の維持を両立させるための選択であっ
たと言えるだろう族)。
ロードマップには、グアム移転費総額102.7
億ドル(約1兆1,900億円)のうち日本が約60.9億
ドル(約59%)を負担することが明記されてい
る。
国内移転に要する費用は、従来通り日本政
府がその大半を負担する。
国内移転分の費用は
未確定であるが、グアム移転費を含む日本の負
担総額は2〜3兆円に上るだろうとの報道もあ
る<面)。
政府答弁によれば、1970年代の関東計
(143) United States-Japan Roadmap for Realignment Implementation, May 1,2006.
ロー ドマップの
詳細については、次を参照。福田毅「在日米軍と自衛隊の再編計画 再編実施のための日米のロードマップの概
要と論点」『調査と情報— ISSUE BRIEF —』541号,2006.5.29.
伽)『第65回国会衆議院予算委員会議録』第17号,昭和46年2月27B, p.26.
備)ただし、ハワイの海兵隊司令部での勤務経験もあるR.エルドリッヂ•大阪大学助教授は、司令部の移転は、在
沖海兵隊の能力を大きく損ない、日米同盟の抑止力低下をもたらすだろうと批判している。ロバート•D ・エル
ドリッヂ「どこにも行かないロードマップ」『中央公論』121巻7号,2006.7, pp.117-120.
峨)例えば、「米軍再編経費1兆1000億円に下方修正」『沖縄タイムス』2006.5.29 ;「米軍再編日本負担総額3兆
円国防副次官見通し」『朝日新聞』2006.4.26.
168 レファレンス2006. 7
日米防衛協力における3つの転機
画における日本の負担が450億円、1978 (昭和53)
年から2005 (平成17)年までの思いやり予算が
総額4兆7,100億円、1996 (平成8)年から2005
年までのSACO関連経費が1,950億円である即)。
通貨価値の変動があるので単純には比較できな
いが、今回の米軍再編に伴う日本の経費負担が
過去の負担に比しても巨額なものとなる可能性
は号!い0
米国政府関係者は、日本の防衛費の対GDP
比は例外的に低く、「米国は日本の防衛に責任
を負うが、日本は米国の防衛に責任がない」の
であるから、日本による移転費用の大幅負担は
当然だとの認識を示している(思)。
日本の役割
拡大が進みつつある現在においても、米国は、
冷戦期と同様に、日米同盟の非対称性を日本に
よる財政負担の根拠としているのである。
V 日米防衛協力の枠組みの比較
1978年の旧ガイドラインと1997年の新ガイド
ラインの最大の相違は、後者において周辺事態
対処の枠組みが整備されたことである(表5)。
注意すべきは、旧ガイドラインでは「極東にお
ける事態」とされていたものが、新ガイドライン
では「日本周辺地域における事態」と変化した
ことである0
安保条約における極東という用語
は、厳密な地理的範囲を持つ概念ではない(149)。
同様に、周辺事態も地理的な概念ではなく、事
態の性質(日本の安全に影響を及ぼすか否か)に
よって定義されるものとされる。
しかし、1996
年の日米安保共同宣言が「アジア太平洋地域」
の安定を日米安保の目的と位置づけていること
表5 新旧ガイドラインの比較
旧ガイドライン 新ガイドライン
平時 2国間協力 日本有事の共同防衛計画の研究 共同演習•訓練 情報の作成•交換 日本有事の共同防衛計画策定 周辺事態の相互協力計画策定 共同演習•訓練、情報共有と政策協議 包括メカニズム•調整メカニズムの設置
国際環境安定のた めの多国間協力 記載なし 地域的安全保障対話、防衛交流、軍備管理•軍縮、国連PKO、人 道的国際救援活動における日米協力
日本 有事 日本独力対処 限定小規模侵略 ゲリラ・コマンドー攻撃等の不正規型攻撃
日米共同対処 <役割分担> 自衛隊=日本の領域及び周辺海 空域における防勢作戦 米軍=自衛隊支援、自衛隊の能 力を補完するための作戦 <日米の調整> 調整センターの設置 く兵站活動> 補給・輸送•装備品の整備にお ける協力、施設の提供 <役割分担> 同左 <日米の調整> 調整メカニズム・調整センターの運用 <兵站支援活動> 補給・輸送•装備品の整備•医療活動における協力、施設の提供 <弾道ミサイル攻撃への対処> 米軍による情報提供と打撃力の使用検討
周辺(極東)事態 情勢に応じた随時協議 極東における事態対処のための 計画の研究 調整メカニズム・調整センターの運用 <日米各々の主体的活動> 避難民救援、捜索•救難、非戦闘員救出、経済制裁の実効性確保 (船舶検査) <日本による対米支援> 自衛隊施設及び民間空港•港湾の提供、後方地域支援(補給、輸 送、装備品の整備、医療活動、米軍施設等の警備等)
(出典)旧ガイドライン及び新ガイドラインの内容に基づき、筆者が作成。
傾)『第164回国会参議院外交防衛委員会会議録』第5号,平成18年3月28B, p.30.
¢148) 「米 想定外の75億ドル要求」『朝日新聞』2006.3.16.
(149)政府答弁によれば、極東とは「大体においてフィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及
び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれる」とされる。『第34回国会 衆議院日米安全保障条約等特別委員
会議録』第4号,昭和35年2月26B, p.9.
レファレンス2006.7 169
を想起すれば、周辺事態とは極東よりも広大な
アジア太平洋地域を視野に入れたものと解され
るべきだろう。
新ガイドラインは、平時からの協力枠組みも
強化している。
例えば、旧ガイドラインにおけ
る情報の「交換」が情報の「共有」に変わり、
新たに包括メカニズムと調整メカニズムの設置
が合意された。
包括メカニズムとは、日米両国
政府の関係諸機関が日米共同作戦を検討するた
めの機関であり、閣僚級のSCC、外務・防衛
局長級のSDC (防衛協力小委員会)、制服組が共
同作戦計画を立案するBPC (共同計画検討委員
会)、外務・防衛以外の省庁も参加する関係諸
省庁局長級会議によって構成される。
調整メカ
二ズムとは、外務・防衛・制服組の局長級によ
る日米政策委員会を中心とするもので、自衛隊
と米軍の行動の調整を主な機能とする(15〇)。
調整メカニズムには、自衛隊と米軍の間での連絡
将校の相互派遣や、必要なハードウェアとソフ
トウェアを備えた調整センターも含まれる0
有事及び周辺事態における米軍と自衛隊の作戦行
動は、このセンターを通じて調整されることに
なる。
更に、新ガイドラインは、平時における
日米の協力を、「より安定した国際的な安全保
障環境の構築」のための活動(国連PKOや人道
支援活動等)にまで拡大している。
2005年のSCC文書は、新ガイドラインの枠
組みを補強・拡大するものとなっている。
SCC
文書は、日米防衛協力の対象分野として、第1
に日本有事と周辺事態対処を、第2に「国際的
な安全保障環境の改善」のための取り組みをあ
げる。
後者は荒木レポート及び04大綱の用語を
採用したもので、当然、国連PKO以外の平和
支援活動や大量破壊兵器等の拡散阻止行動も含
まれている。
また、日本有事・周辺事態におい
ては、日本が米軍に対して「事態の進展に応じ
て切れ目のない支援を提供する」こととされて
いる。
これは、新ガイドライン成立以降に日本
が周辺事態法制及び武力攻撃事態法制を整備し
たことを踏まえた文言で、日本に対して、両法
制を効果的に連携させ、対米支援を途切れなく
円滑に遂行するよう要請するものである。
SCC文書は、重視すべき協力活動15項目を
列挙している。
目新しい活動としては、拡散阻
止活動、テロ対処、大量破壊兵器による攻撃へ
の対応等がある。
また、その中には「他国が平
和維持を遂行するための能力構築」という活動
も含まれている。
その意味するところは定かで
はないが、PKOを想定した多国間演習の開催
や、第3国への軍事的支援等が含まれるのかも
しれない0
この点では、近年の米国が、「パー
トナーの能力改善の支援」として、パートナー
諸国の治安維持能力の構築支援(例えばイラク
治安部隊に対する教育訓練支援)を重視している
ことも想起すべきだろう(⑸)。
更に、無人航空
機による情報・監視・偵察(ISR)活動や、高
速輸送艦を用いた輸送支援のように、自衛隊に
新たな装備調達を促すような項目もある。
更にsee文書は、平時における協力態勢を
強化するための措置として、包括・調整メカ二
ズムの実効性向上、国家戦略から部隊戦術まで
のあらゆるレベルにおける情報共有の強化、イ
ンターオペラビリティの向上等を例示している。
また、自衛隊と米軍による「共通の運用画面」
と弾道ミサイル情報の共有や、日米共同使用基
地と共同訓練の拡充等も提言されており、これ
らが実現すれば自衛隊と米軍の運用の一体化は
更に促進されることとなるだろう。
前述したよ
うに、このような方針は在日米軍再編にも大き
く反映されている。
以上のように、SCC文書は新ガイドライン
の内容を大幅に補強するものとなっている。
SCC文書の特徴は、平時からの防衛協力の深
化・拡充に重点を置いていることにある。SCC
剛)『防衛白書平成17年版』前掲注/), pp.133-134.
¢51) Quadrennial Defense Review Report, 2006, supra note 127, pp.17, 23.
170 レファレンス2006.7
日米防衛協力における3つの転機
文書における日米の協力活動は平時・周辺事態・
日本有事に分類されておらず、その多くは全て
の事態に跨がるものである。
新ガイドラインで
は、平時における協力のうち実際に部隊の運用
を伴うものは、共同演習、国連PKO、人道支
援活動等に限定されていた。
これが拡散阻止活
動やテロ対処等にまで拡大すれば、日米が部隊
運用レベルで協力する場面は格段に増加するだ
ろう。
SCC文書に問題点があるとすれば、恐らく
それは、重視すべき協力項目が羅列されている
だけで、新旧ガイドラインのような体系性に乏
しく、具体的な防衛協力のシナリオが分かりに
くいことであろう。
例えば、自衛隊による高速
輸送艦を用いた輸送支援にしても、日本有事や
周辺事態においてグアムに駐留する海兵隊を日
本周辺に展開させるケース、在沖海兵隊を紛争
地周辺に輸送するケース、あるいは平時におい
て在沖海兵隊が日本本土で演習を行うために移
動するケース等といった多種多様な場面を想定
することができる。
したがって、今後、SCC
文書の合意内容を反映させるためのガイドライ
ン再改定、あるいは、日米共同作戦計画の再構
築が必要になる可能性もあるだろう。
おわりに
坂元一哉•大阪大学教授は、1960年の改定に
よって「安保条約は……相互性の明確化という
意味ではより対等な条約に変化したが」、日米
双方が新条約に満足してしまったため、「そこ
からさらに対等な相互防衛条約に発展するのが
かえって難しくなったかもしれない」と語って
いる(⑸)。
日米防衛協力と日本の役割の拡大と
は、安保条約を改定せずに日米の協力関係の実
質をより対等なものへ変質させる取り組みでも
ある0
日米同盟や日本の役割を拡大していく上で問
題となるのは、やはり憲法9条や安保条約を含
む防衛法制であり、とりわけ武力の行使や集団
的自衛権に関する政府解釈であろう。
これらの
大半は冷戦期に確立されたものであり、冷戦後
に日本の役割が拡大した結果、実際の自衛隊の
活動との間の乖離が目立つようになった。
現在
の自衛隊の活動は、政府が冷戦期の法制度と冷
戦後の自衛隊の活動の整合性を保っために築き
上げた概念——例えば、戦闘地域とは区別され
る「後方地域」や、集団的自衛権の行使に該当
するか否かを判断する1つの基準となる「武力
行使との一体化」といった概念 の積み重ね
に基づいている<協)。
政府自身、これらの積み
重ねが「非常に精密なガラス細工のような」も
のであることを認めている<刷)。
皮肉なことに、この状況は、自衛隊の役割拡
大に賛成する者と反対する者双方の不満を高め
ている。
例えば、自民党と共産党の議員は、
「ガラス細工」の法解釈が部隊運用の現実にそ
く、、わないのではないかと指摘する点で一致して
いる<応)。
このような「ガラス細工」を維持し
たまま日米の防衛協力を拡大していくことに対
嘲坂元前掲注⑶,p.183.
喝)防衛に関するこれまでの国会論議と政府の諸見解をまとめたものとしては、次の資料が有益である。前田哲男・
飯島滋明『国会審議から防衛論を読み解く』三省堂,2003.
側)『第156回国会参議院武力攻撃事態対処特別委員会会議録』第4号,平成15年5月22B, p.3.
仙5)例えば、自民党で国防部会長も務めた岩屋毅衆議院議員は、湾岸戦争当時の国会議論を通じて「ガラス細工の
ようにつくり上げてきた我が国の安全保障に関する議論のもろさ」を感じたとし、その思いは今でも消えていな
いと国会で発言している。『第154回国会衆議院武力攻撃事態への対処に関する特別委員会議録』第6号,平成14
年5月16日,p.21.一方、共産党の赤嶺政賢衆議院議員は、次のように政府を批判する。「戦闘地域で行動してい
る外国の艦船と情報を共有していて、一体これが集団的自衛権であるかないかという議論をしているのは日本だ
けだと思います。憲法九条あるがゆえに、その憲法九条の枠内でガラス細工のような議論を組み立てていく、そ
レファレンス2006. 7 171
しては、不安を覚える者も多いであろう。
実力
の行使を伴う自衛隊の活動の重大性を考慮すれ
ば、それが「ガラス細工」よりももっと堅牢な
基盤に基づく方が望ましいのは言うまでもない。
かってマキャベリは、「やむを得ない場合の
ほか、自分より優勢な者と同盟することは避け
なくてはならぬ」と警告を発した(興)。
中小国
にとって大国との同盟は、それによって得る利
益も大きいが、大国への従属という避けがたい
リスクを伴う。
米国との協力拡大に対しても、
それが日米同盟の歯止め無き拡大へとつながり、
米国の戦争に日本が巻き込まれるリスクを高め
るのではないかとの批判もある<戚)。
しかし、
一方で、自衛隊の役割拡大は、日本の米国に対
する発言権を増大させる可能性もある。
もちろ
ん、米国にとって在日米軍基地はかけがえのな
い財産であり、日本は基地の提供を対米交渉カ
の源泉としてより意識的に活用することもでき
る”就。
防衛協力の拡大を批判するにしても擁
護するにしても、まず初めに、米国との同盟に
よってもたらされるコストとベネフィットのバ
ランスを冷静に判断する必要があるだろう。
日米の協力拡大でもう1つ問題となるのは、
それが周辺諸国に与える影響である。
周辺諸国
は、自衛隊の活動拡大に対して懸念を有するか
もしれない<就)。
前述したように、荒木レポー
卜は日米同盟を周辺諸国にとっての公共財に喩
えている。
しかし、日米同盟が真の国際公共財
となるためには、単に日米がそれを主張するだ
けでなく、地域の安定に対する日米同盟の貢献
を周辺諸国が認知する必要がある。
日米の協力
拡大が台湾海峡問題になんらかの影響を与える
ことを危惧している中国にしても、まだ独力で
海洋の安定を維持する能力(特に中東までのシー
レーンを防衛する能力) は保有していないため、
この点で日米同盟に依存しているとの指摘もあ
る(16〇)。
その意味でも、日米は周辺諸国に対し
て、日米同盟が日本の防衛のみならずアジア太
平洋地域の安定にも貢献するものであることを、
積極的に訴える必要があるだろう。
近年の日米防衛協力拡大の背景に、北朝鮮や
中国の存在があるのは事実である。
しかし、
日米の戦略目標は暴発の抑止と情勢の現状維持
であり、決して攻撃的なものではない。
もし
周辺諸国が日米同盟の有用性を認めるならば、
日米の協力拡大は国際公共財としての機能を
強化するものとして歓迎される可能性もあるだ
ろう。
もちろん、そのためには、日米両国が、
自衛隊及び在日米軍による地域安定のための活
動を実際に積み重ねていくことが必要である。
(ふくだ たけし 外交防衛課)
ういう結果出てきたのが今の政府の集団的自衛権の話であって、そういうのは世界では通用しない」。『第155回
国会衆議院安全保障委員会議録』第7号,平成14年12月5日,pp.16-17.
056)マキアヴェッリ(黒田正利訳)『君主論』岩波書店,1959, p.142.
G57)例えば、半田滋「憲法と米軍再編の実態」『潮』564号,2006.2, pp.210-215.
G58)豊下栖彦•関西学院大学教授は、旧日米安保締結交渉において、日本が交渉開始当初から米国に対して米軍駐
留を要請してしまったことを、「重要なバーゲニングのカードをみずから放棄するにひとしいもの」だったと批
判している。豊下栖彦『安保条約の成立』岩波書店,1996, p.46.
仙9)事実、2005年2月の日米共通戦略目標が台湾海峡問題や中国の軍事分野における透明性に言及したことに対し
て、中国外交部報道官は「中国政府と人民は断固反対する」と批判し、ある論者は「米日の防衛協力強化は依然
として中国を防衛目標としている」と指摘している。『旬刊 中国内外動向』917号,2005.2, p.C17.
¢60) Benjamin Schreer, “Toward Normalization of Japan’s Security and Defense Policy”, SWP Comments,
2005/1 (January, 2005), p.4. http://www.swp-berlin.org/en/produkte/swp_aktuell_detaiLphp7idn4071
172 レファレンス2006.7